たわしの読書メモ・・ブログ670[廣松ノート(6)]
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(4)
W 自然界の歴史的物象化
「マルクス主義の自然観といえば「所詮は十九世紀の自然科学的世界像をmutatis mutandis[適当な変更を加えて]追認したものにすぎない」という暗黙の了解が人口に膾炙(「かいしゃ」のルビ)されているように見受けられる。斯くの如き既成観念が拡張した経緯には自称・他称の“マルク主義者”たちの論者が与っていることも否めない。某々国の官許マルクス主義教程ないしその義疏(「ぎしょ」のルビ)のごときは、戯画に堕した“弁証法”=プロクルステスのベッドに截りあわせてはあるが、内実的には古典物理学的自然像の一変種という印象を賦(「あた」のルビ)えたとしても、蓋し無理からぬものがある。/翻って惟えば、しかし、マルクス・エンゲルスの場合、ヘーゲルの弁証法的な自然哲学との関係は姑(「しばら」のルビ)く措(「お」のルビ)くとしても、前世紀の中葉、まさにドイツの読書界を風靡(「ふうび」のルビ)したいわゆる俗流唯物論(これこそ自然科学的唯物論の一典型)との厳しい対決(註)を通して理論的構築がおこなわれている。この一事に鑑みても、マルクス・エンゲルスが自然科学的世界像を安直に追認したとは考え難い筈である。現に彼らは、近代哲学的了解の超克、新しい哲学的世界観の模索を公然と標榜したフォイエルバッハの提言を承けており、思想形成史上の経緯からいっても科学主義的Objektivismusの世界像(およびこれと双対をなす人間主義的Subjektivismus)の地平を先駆的に踰越(「ゆえつ」のルビ)すべき問題状況下におかれていた。著者が顕揚したい所以もこの案件に懸っているのであるが、マルクス・エンゲルスの原像に就こうとするかぎり、いわゆる科学的実在論の構図を誣(「し」のルビ)いる既成観念は、この際、抜本的に革めらるべきであると考える。/本稿の限られた紙幅内ではマルクス主義的自然観の体系的構成を図ることは抑々(「そもそも」のルビ)期しがたいが、とりあえずマルクス・エンゲルスの自然了解の基本的構制を摘録しつつ、一考を煩らわすべく捨石を投じておきたいと念う。」206-7P
(註) 「俗流唯物論との厳しい対決」――「俗流唯物論Vulgärmaterialismusというとき、人はカール・フォークト、ヤコブ・モレスコット、ルードヴィッヒ・ビュヒナーたちを思い泛かべ、「膀胱が尿を……するごとく、脳髄が思想を分泌する」という迷文句を連想することであろう。しかし、この悪名高きナンセンスは、一部無責任な哲学者、評論家による歪曲であって、本人たち自身は次のように書いていた。」208Pとドイツ語文が引用され、それにコメントしつつ「(マルクスが)カール・フォークトと論戦を交えていること、および、エンゲルスは遺稿『自然弁証法』の執筆に着手した動機の一つが俗流唯物論との対決という問題意識に存したということ、この事実を想起しておけば足ると思う。マルクス・エンゲルスは、俗流唯物論を孫引的知識で侮辱したのではなく、その所説内容と真摯に対決している。」209P
一 ヘーゲル左派内論争から自然と人間の二分法批判
「マルクスは、学位論文『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異』(一八四一年)からも知られるように、自然の問題に並々ならぬ関心を懐いていた。エンゲルスも亦、修学時代このかた、或る意味ではマルクス以上に、自然科学に興味を寄せていた。/ここでは、しかし、両人の軌跡を初期から跡づけることは割愛して、両人の最初の共著『聖家族』(一八四五年)の次の一文に留目するところから始めよう。」209P
『聖家族』からの引用「ヘーゲル哲学のうちには三つの要素がある。第一にスピノザの実体、第二にフィヒテの自己意識、第三に両者の……ヘーゲル式の統一物、絶対精神である。第一の要素は人間から切り離して形而上学的に改作された自然であり、第二のものは自然から切り離して形而上学的に改作された精神であり、第三のものは、これら両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間、現実の人類である」209P
「マルクス・エンゲルスは、自らの哲学的営為と立場を位置づけるべく、ヘーゲル左派の展開過程、すなわち、D・シュトラウス、B・バウアー、L・フォイエルバッハという展開において、ヘーゲルにおける自然と精神との「形而上学的に改作された統一」が一旦解体された新たな統一へともたらされた次第を述べる。」209P
『聖家族』からの引用「シュトラウスはスピノザの立場から、バウアーはフィヒテの立場から、ヘーゲルをそれぞれ神学の領分で首尾一貫して展開した。……フォイエルバッハが現われるに及んで、彼は形而上学的な絶対精神を“自然という基礎のうえに立つ現実的人間”に解消することによって、はじめてヘーゲルをヘーゲルの立場に立って完成し、批判した」・・・・・・「唯心論と唯物論の旧来の対立が、全面的に戦いつくされ、フォイエルバッハによって最終的に克服された」209-10P
「この時点のマルクス・エンゲルスは、フォイエルバッハをこのように位置づけ、その立場を執ろうとしていたかぎりで、「観念論とも唯物論とも異っており、しかも同時に、両者を統一する真理」(マルクス『経哲手稿』一八四四)、「観念論と実在論との対立を止揚する立場」(エンゲルス『カーライル論』一八四四)を標榜していた。翌年になると、しかし、彼らはいちはやくフォイエルバッハを超克する見地に達し、固有の唯物論を構築するに至るが、その差異にも、人間と自然との即自対自的な統一というモチーフは維持されている。」210P
マルクス・エンゲルスからの十八世紀の唯物論、哲学における二分法的対置の引用の文を承けて「ヘーゲル左派の場合、このモチーフは、物質と精神、自然と人間との二元論的截断の構図を前提とする“近代知の地平”を超克しようという自覚的な志向に支えられており、睥睨(へいげい)すべからざるものを秘めているように思う。」210-1P
「今世紀に入って、近代哲学の地平そのものが批判的に討究されるようになった砌(「みぎり」のルビ)、「我と汝」「我と其」との統一的把握を問題にするマルティン・ブーバーや「共同世界(「ミットヴェルト」のルビ)」「環境世界(「ウムヴェルト」のルビ)」「人間」の統一的編制を問題にするカール・レーヴィットが、フォイエルバッハの先駆的業績を高く評価したのは決して謂われなしとしないのであって、フォイエルバッハの「我−汝」論は「従来の哲学一般の止揚」という課題意識に裏打ちされていた。」211P
「「近世哲学の感性はヘーゲル哲学である。それ故――とフォイエルバッハは言う――新しい哲学の歴史的必然性と正当性は主としてヘーゲル批判に結びつく」。フォイエルバッハは「デカルト哲学の端初、すなわち感性と物質の捨象が、近世思弁哲学の端初である」ことを摑むと同時に、その完成態としてヘーゲル哲学を位置づけ、この近世哲学のそのものの超克というモチーフをいちはやく抱懐していたのである。この点では、バウアーも同様であった。」(文献提示略)211P
「マルクス・エンゲルスは、自然と人間との真の統一という課題意識をヘーゲル左派の先輩、フォイエルバッハやバウアーから継承しつつ、固有の理論形成によってそれに応え、新しい自然観・人間観、ひいては新しい世界観の地平を拓く所以となった。われわれはそのラフ・スケッチを第二の共著『ドイツ・イデオロギー』(一八四五〜四六年)のうちに読む。」211-2P
『ドイツ・イデオロギー』からのフォイエルバッハ批判の文を承けて「ここで立言されているのは、決して単に、いわゆる自然界といえども人間の営為によって変様された所産だということではない、「歴史においてはどの段階にあっても、或る物質的な成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。これは各世代に先行世代から伝授されるものであるが、このものはなるほど一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもするということ、こうして人間が環況を作るのと同様、環況が人間を作るわけである」ということ、人間存在の斯くの如き「歴史的」な在り方に視座を据えて、マルクス・エンゲルスは世界を把え返す。」212-3P
「この“歴史・内・存在”というべき在り方にあっては、自然的与件に対する人間の関係は、第一次的には、対象的認識というテオレーティッシュ(theoretisch:理論的)な関係ではなく、物質的生活の関心に根差したプラグマティッシュ(実用的な)・プラグティッシュ(実践的)な関与であり、そこではまた、汝をはじめ他者との関係は、第一次的には他我としての認知といったスタティックなAnerkennung(認知)ではなく、物質的生活の場での分業的協働という役割的に編制されたペルソナ的な関係である。――この対自然的かつ間個体的な関係行為Verhalten-Verhältnisは、即自的には動物においてすら存立するにしても、「動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係としては存在しない」「動物は対自的には何ものとも“関係”せず、そもそも関係しない」のであって、当の対自然的間主体的な関係が対自的に存在するのは人間においてのみである。――唯物史観が、「上部構造」としていわゆる精神文化的次元を視野に配視しつつも、さしあたり、物質的な生産と交通の場面に基礎的視座を構えるというのは、人間の対自然的かつ間主体的な関係の基底を如上の視角で観ずることの謂いにほかならない。」213P
「マルクス・エンゲルスは、この視座に構えを執ることによって、先行哲学においては初めから抽象態で論件とされていた対自然的関係ならびに間(「かん」のルビ)人間的関係を現実的・具体的(con-cret=共に・互いに、konkret(具体的な)=zusammengewachsen)な相で見据え、人間と自然とを二元的に截断することなく、まさしくGliederung動態的な編制の構造に即して把え返す次第なのである。(註)」213-4P
「爰において、デカルトこのかたの物質と精神との二元的分離、自然と人間との二元的截断を止揚しつつ、世界編制の分肢的一契機としてあらためて対象化されうるかぎりでの環境世界的umweltlichな「自然」について、存在論的にも認識論的にも、新しい了解の地平が開かれ、“新しい自然観”の構築が提示されうることになった。」214P
(註) 「本文中で一端を引用したマルクス・エンゲルスの章句からしても彼らが世界・内。存在を極めて具体的な相で把えようとしていること、そして生産活動という場での実践的なBezug (関連づけ)に存在論的な意義を措いていることが彰らかであると念う。」214P
二 “自然の歴史化”と“歴史の自然化” ――生産に留意するマルクス・エンゲルスの自然観
「マルクスおよびエンゲルスの自然像を問題にする前に、“自然の歴史化”そしてまた“歴史の自然化”という了解の姿勢を一瞥しておかねばならない。」215P
「現実の感性的自然界は「産業と社会状態の産物であり、……しかもそれが歴史的な生産物であるという意味で、諸世代の全系列の活動の成果(「レズルタート」のルビ)なのである。……この活動、次々と進展する感性的な労働と創造(「シャッフェン」のルビ)、この生産こそが現に実存している全感性界の基礎(「グルントラーゲ」のルビ)なのである。……しかも、この際、外的自然の先在性(「プリオリテート」のルビ)は残るし、史上はじめて登場した最初の人間には当て嵌まらない。がしかし、こういう区別だては、人間と自然とを区々別々のものとして考察するかぎりででしか意味をなさす、人間の歴史に先行するこの自然なるものは、……最近誕生したばかりの二、三のオーストラリア沖珊瑚礁島の上ならいざしらず、もはやどこにも存在しない代物である。」215Pこれを「“一時的筆の走り”(註)」215Pとして批判するむきがあるけれど、この『ドイツ・イデオロギー』の中の有名な提題が「マルクス主義の論理構制にとって重大な意義を担っていること」215Pを指摘しています。そのことは後期のエンゲルスの文を引用して、それと繋がっている旨を書いています。
「茲で、人はハイデッガー『ヒューマニズム書簡』の或る条りを連想するかもしれない。「唯物論の本質は、一切が物質にすぎないという主張にあるのではなく、むしろ一切の存在者が労働の素材Materialとして現われるという形而上学的な規定にある」云々。――初期のマルクスは、慥かに『経済学・哲学手稿』のなかで「自然すなわち感性的外界は、労働がそこにおいて実現される素材Stoffである」という言い方をしているが、しかし、この時点でも「自然は人間の非有機的身体der unorganische Leio des Menschenである」と彼は考えており、「対象的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工こそが、人間が意識的な類的存在としての実を示すことである。……動物は自分自身を生産するだけであるが、人間は全自然を再生産する」と論じている。マルクスにあっては、自然は主体にとって外在的な単なる労働の素材ではない。彼は、初期においてすら、人間と自然との統一性を、人間の非有機的身体としての自然という即自対自的an und für sichな相で問題にしているのであって、ハイデッガーの理解は所詮失当である。」217P (文献の提示は略)
「われわれは、「自然」といえども歴史的現実態においては既に“人為”であるという前掲の提題や、自然を以って人間の非有機的身体と規定する発想(因みに、マルクスは後年の『経済学批判要綱』においても、労働の非有機的主体ないし非有機的諸条件としての自然を云々している)、これが自然界なるものを地表的規模でしか勘案していないかどうかは後段に委ね、マルクス・エンゲルスとしては、まずは「自然界」を人類の歴史的生活との即自対自的な統一の相で把えようとしているということ、このGrundverfassung(基本的な構え・構制)を如上からあらためて念頭に納めねばなるまい。この際、謂うところの統一の媒介環が前項でみておいた通り、かの物質的生活の生産の場、対自然的。間主体的な実践的協働の場にほかならない。」217-8P
「是に徹するとき、即自的に存在する自然物そのもの、物自体に関わる“悪名高き”エンゲルスの提題をも諒解することができる。彼は、ヘーゲルによるカントの「物自体」に呈する批判を顧慮したうえで、――周知の通り、それは「あらゆる対他的存在からの抽象(=あらゆる対他的存在の捨象)」eine Abstraktion von Für-anders-seinという成句に象徴される。エンゲルスとしても、カントの「物自体」がhomo noumenon(本体的人間)に関わることを承知していたが、さしあたっては自然物に関して――次のように立論する。/「この見解を反駁するうえで決定的に重要なことは、観念論の立場から可能なかぎりでは、すでにヘーゲルが立言している。フォイエルバッハがこれにつけくわえた唯物論的な論点は、深遠というよりむしろ才気に富んだものである」。「こういう哲学的妄想に対する最も適切な反駁は、実践、すなわち、実験と産業とである。われわれが或る自然的現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させることができれば、カントの不可認識的な“物自体”はおしまいである。動植物の体内でつくられるもろもろの化学的物質(例えば色素アリザリン)は、有機化学がそれをつくり出すようになるまでは、そういう“物自体”であった。有機化学がそれをつくり出すようになって、この“物自体”はDing für unsになった」云々。/この議論がカントの物自体に対する認識論的批判としてどこまで妥当するか、これには異見の余地がありうるであろうし、人工的に創出できるようになればDing für sichがDing für unsに転ずるという論点は、エンゲルス自身、認識論的にはこれで完結すると考えていたわけではあるまい。彼は「物質そのものals solchesというのは純粋な思惟の創造物であり、純粋な抽象である。……物質そのものは感性的に実存するものではない。自然科学が単元的物質そのものを探求すべく志すとき……自然科学の企図していることは、サクランボやリンゴの代りに、果物そのもの……を見出そうと努めるのと同断である」と考えており、彼としては、このように「物質そのもの」は実存せずと言い、あくまでDing für unsに定位しようとする。この際、「われわれにとっての事物」というのは、しかし、単なる「認識された事物」という次元においてではなく、人間の歴史的実践(基底的にはほかの「生産活動」)によって開示されたDa-nnd Soseinの謂いであつて、開示というのは、しかも、即物的な対象的創出ないし変成そのことの謂いではなく、an und für sich werden=bei sich seinの現成である。」218-9P
「この故に、歴史的に現成した自然というのは“地表的な環境世界に局限されるのではないか”との疑念は卻けられるのであって、人間が間主体的な協働的対象的活動zusammenwirkende gegenständliche Tätigkeitにおいて“内・存在”する「自然」は、それが歴史的に開示されるかぎり、いわゆる大宇宙的な規模に及びうる次第である。(拙著『世界の共同主観的存在構造』第一部第三章、参照)。」219-20P
「マルクス・エンゲルスは、いわゆる社会的・文化的な形象が物象化versachlichenされて現前するかぎりで、自然の歴史化と併せて歴史の自然化をも問題にしていくのであるが、総じてこの世界はハイデッガー流のZuhandenseinでこそなかれ、歴史的に被媒介的な共同的生世界Mit-lebensweltである。マルクス・エンゲルスは、原基的には、このような相で「自然」を観ずる。」220P
(註)「“一時的筆の走り”」との東ドイツのザイデルの批判は、ロシアマルクス主義批判において実は重要な意味をもっていると廣松さんは押さえつつ、「われわれはザイデルの所論に批判点を保留するものですが、本稿での拙論が決して突飛な解釈ではないこと――“ロシア・マルクス主義”のフィルターを返上してマルクス・エンゲルスの文典を忠実に繙読するかぎり、それは当然浮かび上がるゲシュタルトであること――これを傍証する一具として、敢て長文を東独の論稿から援用した次第である。」221Pとまとめています。
三 エンゲルスの(弁証法的)自然像
「マルクス・エンゲルスは、彼らの自然像を体系的な形では書き遺していない。エンゲルスは“自然弁証法”の体系的講述を期して二十年歳月を費やしたのであったが、それは遂に完成されるところがなかった。とはいえ、われわれは、彼らの“覚書”や遺稿をもとにして、一応の点画を描くことはできるし、彼らの趣意を汲みつつ継承的に展開することもあながち不可能ではない。」222P
「この際、主要な文典となるのは、一八七六年から翌年にかけて執筆された連載論文『反デューリング』の自然哲学関係の諸章、および、一八七三年から一八八六年の十余年間にわたって書き綴られた遺稿『自然弁証法』である。ところで、前者は合本の形でエンゲルスの生前に版を重ねたとはいえ、「この書物は論争の書であるから、論的が訂正できないときには、私のほうでも何一つ訂正しないことが義務」である(第二版への序文)という信義から、当該の諸章は改訂されていない。しかし、そこに盛られている有名な「弁証法の三法則」をはじめ幾つかの重要な提題について、エンゲルス本人の考えには或る種の変化が生じた形跡がある。この故に、この論争の書の諸命題を以ってエンゲルスの最終的な思想と速断することは許されない。茲で、クローズアップされるのが遺稿『自然弁証法』のうち『反デューリング』以後に執筆された部分である。ところが、この遺稿は元来一連のものではなく、旧層と新層とのあいだには、構案はもとより思想的準位にも著しい相違が認められる。遺憾なことには、しかし、スターリン時代に編輯し直された形を踏襲している現代版は、手稿における新旧層の別を無視するかたちで、覚書の部分を強引に再構成し、“体系化”する方式を採っており、文献学的にみて甚だプロブレマーティッシュである。という次第で、周到に論考するためには、遺稿『自然弁証法』のテキスト・クリティークが先決要求になる。幸い、そのための基礎資料は既に与えられており、遠からず我が邦で“原状恢復版”が作成される筈であるが、ここではGrundverfassung(基本的な構え・構制)を辺縁から截り出しておけば足るであろう。」222-3P
「エンゲルスは――この点ではマルクスも勿論同様であるが――一言でいえば、機械論的な唯物論の自然像に対して「弁証法的」な自然観を対置する。素材的知識内容に関するかぎり、彼らが十九世紀中葉の自然科学の埓を出なかったことは言うまでもないが、エンゲルスとしては自然諸科学の展相のうちに「機械論から弁証法へ」の傾動を読み取る。すなわち、自然諸科学そのものが研究の深化に迫られて、機械論的な概念構成を止揚しつつ、弁証法を即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)に受け容れる方向に動いていることを看取・指摘する。彼はこのような文脈で自然科学の知見にあらわれた自然の弁証法的構造を例証的に取出してみせる。が、われわれとしては、まずは「機械論的 対 弁証法的」という対比の視軸のうちに彼の自然像の基本的構制を索(「もと」のルビ)めることができる。」223P
「機械論的な自然観を批判し、弁証法を対置するにあたって、エンゲルスがヘーゲルの先蹤を承けていることは言を俟たない。しかし、事はヘーゲルの自然哲学を唯物論的に転倒すれば済むという底のものではない。十九世紀の後半ともなれば、ヘーゲル哲学体系のうちでもとりわけ“弱い環”とみなされていた自然哲学は素材的にも旧すぎたし、他面ではまた、俗流的唯物論者たちがヘーゲル弁証法そのものに向けていた批判にも応接する必要があった。エンゲルスにとっては、自然科学的唯物論を借りてヘーゲルの観念論を批判し、ヘーゲルの弁証法を借りて自然科学の機械論を批判する、といつた操作で済むべくもなかった。彼としては、当時の自然諸科学を内在的に研究しつつ、自然科学が即自的に前提している哲学的世界観と概念構成とを批判し、そこことを通じて、独自の科学論的体系を構築する作業、ひいては独自の自然像を体系的に描出する作業を自らに課した所以である。この体系化の事業は、未完に終ったというよりも、むしろ、挫折を余儀なくされたのであったが、自然諸科学の機械論的な世界了解にたいする批判の視角と論点はかなり鮮明な形で書き遺されている。」223-4P
「エンゲルスは、機械論をもその一部とする如き非弁証法的な思考方法を、ヘーゲルの語法を踏んで「形而上学的」と指称するのであるが、彼は例えば次のように書く。」224Pとして機械論切り出しの部分の批判を掲載して、廣松さんはコメントします。「エンゲルスは、経験論的実証主義にも批判を向けるがさしあたっての問題は「自然科学がイギリス経験論から受け継いだそれ特有の偏狭な思考方法」「十七世紀、十八世紀の形而上学――イギリスではベーコンとロック、ドイツではヴォルフ」この「形而上学的」な世界観思惟様式の排却に懸る。」225P(文献の提示は略)として、その「形而上学」批判のエンゲルスの論攷――二項対立的図式、否定か肯定かの単純化、因果論的なとらえ方などなどの批判を――を引用しています。
「ここにおいて弁証法が対置される次第であるが、右に引用した範囲だけでも、エンゲルス自身の存在観が間接に泛かぶ筈である。彼は、万象を共時論的には相互浸透の相で、通時論的には生成流転の相で観ずる。これは、もとより、古代的な自然観への単純な復帰ではありえな。彼としては、近代科学流の存在観、すなわち、実体的に固定化された諸事物という不易的な諸成素の機械論的な複合として自然界を把える観方を批判しているのであって、彼によれば、自然界は「諸事物の複合ではなく諸過程の複合」なのであり、自然は「在るのではなく成るのである」。」225-6P(文献の提示は略)
「「近代の理論的自然科学に狭隘な形而上学的な性格を与えたのは、排中的な両極的対立、固定化された区劃、固定的な類別」といった概念構成である。「こういった対立や区別は、しかし、相対的な妥当性しかもたず、むしろ、そういった対立や区別がもっていると考えられている不動性や絶対的妥当性は、われわれの反省によってはじめて自然のなかにもちこまれたものなのだという認識、この認識こそ弁証法的自然観の核心をなすものなのである」――この一文にもみられるようにエンゲルスは決して単純な模写説を採っているのではなく、彼としては科学が客観的対象の実相の模写的概念化であるところの概念構成は、その実「われわれ認識する側の反省によって自然のうちにもちこまれたもの」であることを指摘し、弁証法的な存在了解を代置していく。」226P(文献の提示は略)
「爰に提示されるエンゲルスの自然像は、空間・時間・物質を絶対的な存在として自存化させることになく、運動的物質ないし物質的運動という統一態を以って原基(「アルケー」のルビ)的存在者とみなし、原因−結果という連鎖の構図に代えて、相互作用というカテゴリーを基幹に据え、決定論的な法則観を卻けて、新しい法則概念に依って展相を把え返していることをはじめ――もはや祖述の紙幅を欠くので、拙著『マルクス主義の地平』『マルクス主義の理路』の当該個所を参看ねがえれば幸甚であるが、――、トルソーではあれ、陸離たるものがある。」226-7P
「筆者は、固(「もと」のルビ)より、マルクス・エンゲルスの所説を無批判的・無条件的に拳々服膺(「けんけんふくよう」のルビ)するものではない。況んや、相対性理論や量子力学がもたらしたごとき今世紀の知見をエンゲルスが先取していたなどと強弁する意趣はない。しかし、彼が近代科学的自然像に対置した弁証法的自然観の構制は、近代科学的概念構制の隘路(「あいろ」のルビ)が露(「あら」のルビ)わになっている今日、その全容を補全的に再構成してみるに値すると思う。」227P
「この作業は、しかし、“協働的に歴史化された自然、そして間主観的に自然化された歴史”という了解の存在論的・認識論的な討究と併せて、然るべき別稿に委ね、ここではとりあえず、“俗流マルクス主義的”既成観念の震盪(「しんとう」のルビ)を試みつつ論件の所在を確認したところで“緒論”というよりもVorbemerkungen(緒言)の筆を納めねばならない。」227P
X マルクスにおける哲学
この論攷は、元々講演として行われた原稿を元にしていて、「節」も「項」も小見出しもついていません。蛇足として批判されることを承知で、「学習ノート」と開き直って、段落毎に斜体太文字で小見出しを付けます。
第一段落――講演の内容―序 230-1P
「本日は「マルクスにとって“哲学”とは何であったか」というタイトルで卑見を申し述べることになっておりますが、勿論、「哲学」の定義が問題なのではありません。マルクス主義の思想的な構えそのものを謂うなればメタ・レベルにおいて自覚的に把え返すこと、これが課題であります。」230P
「私は以前から、マルクス主義は元来、近代イデオロギーの地平を超えるものであることを力説し、その見地からいわゆるロシア・マルクス主義流の“科学的マルクス主義”を批判すると同時に、いわゆる西欧マルクス主義流の“人間主義的マルクス主義”も批判して参りました。けだし、科学主義的なObjektivismus (客観主義)も、人間主義的なSubjektivismus (主観主義)も、まさに近代イデオロギーの地平に立つものであり、subjektivismusとobjektivismusとは近代哲学の地平における相補的な両極形態に他ならないからであります。」230P
「マルクス本来の思想的原理という次元にになれば、今日の歴史段階においては、まだ、そう簡単に、“旧くなった”とか、“乗り越えの対象になった”とか、安直に言えるような状況にはないと思うのであります。」231P
「前置きが長くなりましたけれども、本日は私がこのように了解する所以のものを、マルクスの思想的構えが直截に顕れている筈の、彼の“哲学”の次元に即して、申し述べてみたいと念います。/マルクス哲学の構え、と申しますと、気の早い人びとは、弁証法とか、唯物論とかいって、それで済ませようとするかもしれません。だか、本日の話は、Grundverfassung (基本的な構え・構制) と申しましょうか、もっと根底的な構えであります。」231P
第二段落――哲学と経済学双方の止揚 232-4P
「哲学者のなかには、アリストテレスとか、ヘーゲルとか、或いは亦フッサールとかのようにそもそも哲学とはなんぞやということを主題的に論じている人もありますが、マルクスの場合、残念ながら、哲学とは何かということについて正面から論じておりません。しかし、マルクスの文献をお読みになっている諸君は、ここで『ヘーゲル法哲学批判序説』における有名な言葉を連想されることでありましょう。/「人間解放の頭脳Kopfは哲学であり、人間解放の心臓Herzはプロレタリアートである」という言葉がそれであります。マルクスは、この言葉に続けて、「哲学はプロレタリアートを止揚(アウフヘーベン)することなくしては自己を実現することができず、プロレタリアートは哲学を実現することなくしては自己をアウフヘーベンすることができない」と書いております。/これを以ってみれば、マルクスは哲学の自己実現とプロレタリアートの自己止揚とが相即一致すると考えていたことが判ります。この言い方だけではいかにも抽象的でありますけれども、この結論に先立つ個所で、マルクスは次のような議論を展開している。それは一方における実践派、つまり哲学などには背をむけて、もっぱら「哲学の否定」Negation Philosophieを主張する一派、そしてもう一方における哲学派、つまり、現状に対する哲学的批判をもっぱらとする流派、これら両派に対する両刀批判であります。これら両派に対するマルクスの批判は、まず前者に関して申せば、哲学を否定しようとしても、「哲学を実現することなくしては哲学をアウフヘーベンすることはできない」ということであり、後者に関して言えばね哲学を実現しようとしても「哲学をアウフヘーベンすることなくしては哲学を実現できない」ということであります。当時におけるマルクスの考えでは、哲学の実現と哲学のアウフヘーベンとを相即的に遂行しなければならないということ、これが主張されているわけであります。」232-3P
「諸君のなかには、マルクスがこの『序説』のなかで、哲学をアウフヘーベンしなければならないと主張していることに格別の注意を払われるむきもあろうかと思います。そして、マルクスはやがて、“哲学者であることをアウフヘーベンして経済学者となった”ということを強調されるむきもあると思います(笑)。だが果たして、単純に“経済学者”になってしまったのか?・・・・・・マルクスが経済学大系と銘打たず、あくまで経済学批判を標榜したという事実、これは銘記に値します。そして、実は、この「批判」という概念が、マルクスの哲学を理解するうえでも、そしてとりわけ、彼の思想的構えを理解するうえで、重要な概念なのであります。」233-4P
第三段落――「批判」という概念とヘーゲル(左派)の哲学の乗り超え 234-7P
「ここで、諸君のうちには、あらためて『ヘーゲル法哲学批判序説』のなかの有名な文章を想い出されるのではないでしょうか?/「批判の武器は武器の批判にとつて代わることはできない。物質的なゲヴァルトは物質的なゲヴァルトによって打倒されなければならない(そうだ! という声)。だが、しかし、理論も、それが大衆をつかむや否や、物質的なゲヴァルトになる」というマルクスの文章がそれであります。」234P
「「批判」という概念、これは初期以来、マルクスにとって重要な概念の一つであり、実を申せば、これは初期マルクスに限らず、ヘーゲル学派における重要な概念にほかなりません。マルクスはこの「批判」という概念に固有の内実を与えることにおいて固有の思想的な構えを確立したのだ、と申すことすら許されるほどであります。それでは、「批判」ということにマルクスが与えた固有の内実は何であるのか、そのことが彼の“哲学上”の立場にどのような特性を賦与する所以となっているか、そして、さらに、そのことが彼の「経済学批判」とどう関連するか? それをみるためにはマルクスがヘーゲル哲学、ひいてはヘーゲル左派の哲学をどう乗り超えたのか、その経緯を顧みておかねばなりません。」234-5P・・・弁証法のキー概念としての「批判」
「「批判」ということを、哲学上の重要な概念として持ち出したのは申すまでもなく『純粋理性批判』をはじめとするカントの三批判書でありますけれど、ヘーゲルにおいても「批判」ということは重要な概念として継承されております。そのことは、ヘーゲルが直接に指導して出していたヘーゲル学派の機関誌の名前がJahrbücher für wissenschaftliche Kritik.『学問的批判のための年誌』というタイトルになっていたという一事からもお判りいただけると念います。勿論、同じく「批判」といっても、カントとヘーゲルでは意味内容がすでに代わっておりますし、ヘーゲル左派のブルーノ・バウアー一派などともなればいよいよ、意味内容が変わって参ります。が、マルクスがそれをどう受けとめて、どう錬え直したかをみる前に、まずは「哲学」なるものがヘーゲルその人においてどう自己規定されていたか、この先決問題から先にみて行きましょう。」235P
「ヘーゲルは、幾つかの視角から「哲学」を規定しておりますが、ここでは三つだけにしぼって申します。/第一には、哲学は本当は哲学Philosophieではあってはならず、Wissenschaftでなければならないということです。Philo+sophieaというのは御存知の通り、ギリシャ語で「知」を「愛」する「愛知」という意味であるわけで、ヘーゲルに言わせれば、知を愛するだけでは駄目だ、知を体系的に確立しなければならない。Wissenschaft (つまり体系知)でなければならない、というわけであります。Wissenschaftという言葉は、ラテン語のscientiaに相当するゲルマン系の言葉ですが、スキエンティアというのは、近代におけるサイエンスとはニュアンスが違って、内容的にみれば神学的な体系だったわけでして、ヘーゲルのいうヴィッセンシャフトも、単なる体系的な知識ではなく、やはり神学と通底いたします。/第二には、そこで、哲学は内容・対象からいえば宗教と同じものであり、つまり、絶対者=神を対象とすることです。但し、ヘーゲルによれば、宗教が表象というかたちで神を捉えるのに対して、哲学は概念において絶対者を把握するという点で相違します。要言すれば、哲学は宗教と同じ内容を概念という形式で把握したものである、とヘーゲルは規定します。/第三に、哲学大系は――絶対者の自己啓示・自己展開を追認したものでありますからして――、本質的にいって、未来は包摂しえません。ヘーゲルがミネルヴァの梟、つまり、事の成行きを一切見届けてからようやく飛び立つミネルヴァの梟に哲学をなぞらえた所以でもあります。/この第三の点は、あとの話と多いに関係しますので、ヘーゲル自身の言葉を多少とも引用しておきましょう。――「哲学の課題は、現にあるところのものを概念的に把握することにある。……哲学はその時代を思想というかたちで把えたものである。哲学が現在の世界を超え出たつもりになるとすれば、それは個人が自分の時代を飛び超えようと夢想するのと同様に愚かである。」「世界がどうあるべきかを教えることに関してなお一言つけくわえておけば、哲学はどのみち、それを教えるには、到来するのがいつもおそすぎる。哲学は、世界についての思想である以上、現実がその形成過程を完了し、おのれを仕上げ終えた後になってはじめて出現する、云々。」ヘーゲルは、このように申しているのでありまして、要するに、哲学は未来を先取りすることができず、世界が如何にあるべきかを教えることはできない、と言うのであります。」235-7P
第四段落――ヘーゲル左派のヘーゲル批判 237-40P
「このようなヘーゲルの哲学観(哲学というものについてのヘーゲルの見方)に対して、ヘーゲル左派の連中がどのような不満をいだき、どのような方向で批判していったかは、大凡お察しがつくことと思います。・・・・・・マルクスの謂う哲学のアウフヘーベンと関連するかぎりで、二つの事項をここで挙げておきます。/第一に挙げておきたいのは、これはヘーゲル左派のうち、チェシコフスキーやモーゼス・ヘスが主張したことなのですが、実践の哲学、行為の哲学を標榜する動きが登場したということであります。・・・・・・彼らに言わせれば、テオーリアの立場からプラクシス、実践の立場に移行することによってそれが可能だというのであります。・・・・・・彼らは「実践」ということで、一種の社会主義的な実践を考えているのでありまして、・・・・・・彼らは一方では哲学そのもののアウフヘーベンを云々しておりながら、他方では実践に関わるヴィッセンシャフトとして実践の哲学、行為の哲学ということを云々するという聊か奇妙な事態に陥った次第であります。/既にお気付きのことと思いますが、マルクスは哲学そのもののアウフヘーベンという彼らのモチーフを受けつぎながら、彼らの陥っていた一種のジレンマめいたものを打開しようと図ります。・・・・・・/第二に挙げておきたい事項。それは、ヘーゲルが“哲学と宗教とは内容的には同じものだ”と考えていたことに関係するのですが、これに対してフォイエルバッハやブルーノ・バウアーは、彼らの宗教批判と同時相即的にヘーゲル哲学を批判する所以となりました。ヘーゲルにおいては、哲学とは絶対精神=神の自己展開を観望的に記述したものとされておりましたところ、神とはそのじつ人間である、絶対精神とはじつは人間の自己意識にほかならない、という具合にフォイエルバッハやバウアーは把え返しました。そこでバウアーの場合で申せば、ヘーゲルが絶対精神の自己展開過程ということで提示してみせたものは人間の自己意識の歴史的な自己実現過程にほかならない、ということになります。そしてこの自己意識の自己実現ということが、バウアーの謂う「批判」という概念と密接不可分なのであります。/バウアーの「批判的批判」という概念が換骨奪胎されてマルクスの「批判」という概念に行きつくという事情がありますので、ここで若干のコメントを挿んでおきましょう。/ブルーノ・バウアーは、ヘーゲル哲学をフィヒテ哲学に近い線で改釈した、という言い方がしばしばなされますが、それというのもヘーゲルの謂う絶対精神を自己意識ということで把え返し、この自己意識の実践的な自己定立ということで押し通そうするからでありましょう。ところで、自己意識の展開といっても、一切が自覚的な過程というわけではない。ヘーゲル式にいえば即自的な展開過程もあり、それが或る種の局面で対自的・自覚的な過程になるわけであります。が、基本的にいって、この歴史的な進展を促進するもの、それがバウアーのいう「批判」なのであります。存在論的な次元でいえば、バウアーの場合、「批判」とは自己意識の歴史的な自己実現、自己展開の動力をなすものにほかなりません。そして、批判が批判である所以のものは、それが自覚的・意識的な営みであることに存するわけでして、バウアーによれば、自己意識の運動たる批判においては、考察する主観の側と考察される側とかそこにおいて一体的に統一される。主観と客観との統一という課題、これがバウアーにおいては「批判」という在り方で実現されることになっている。しかも、この批判は、即自的な事態の対自的な把え返しであり、しかも、その自覚的把え返しというのは即自的な事態の単なる追認ではなく、批判的な再措定でありますから、認識批判の構造に即してみれば一種のイデオロギー批判に通じるような批判的分析でもあります。では、――このような「批判」ということと、実践ということをバウアーはどう結びつけたのか? バウアーの有名な言葉に「純正理論のテロリズム」Terrorismus der wahren Theorieという言葉がありますけれど、彼はこの点ではいかにも観念論的なところがありまして、哲学的批判こそが優れて実践的であるという見地を保持します。/マルクスとしてはヘーゲル左派の先輩連中がヘーゲル御大の哲学を内在的に乗り超えようとして提出した二つの路線、すなわち、一方におけるヘス式の「行為の哲学」、他方におけるバウアー式の「批判の哲学」これら二つの路線をさしあたりヘーゲル法哲学の内在的批判ということを軸にして一種独特の仕方でアウフヘーベンしつつ、固有の構えを設定したのであります。」234-40P
第五段落――「批判」ということのとらえ返し 240-3P
「このように、ヘーゲル左派の内部に生じた二つの路線ということを紹介しますと、諸君はおそらく、マルクスがあの『ヘーゲル法哲学批判序説』でおこなっている両刀批判、すなわち、一方における哲学におけるネガチオン、哲学のアウフヘーベンを主張する実践派、そして他方における哲学の実現、哲学のフエアヴィルクリッヒュングを主張する批判派、これらの二つの流派に対する両刀批判を、ここでもう一度想い出されることと思います。・・・「もう少し幅広い範囲を念頭においたもの」・・・しかし、マルクスがヘーゲル左派内部における二つの流派のことを考慮に入れていることはまずもって慥かでありますし、彼の両刀批判がヘーゲル左派内部の二派に対して尤もストレートに妥当することは間違いありません。」240-1P
「先にみておきましたように、マルクスとしては、「批判の武器は武器の批判にとって代わることはできない、物質的なゲヴァルトは物質的なゲヴァルトによって打倒されねばならない。だかしかし、理論もそれを大衆をつかむや否や、物質的な力(「ゲヴァルト」のルビ)になる」と言います。彼はプロレタリアートの革命的実践と、哲学における理論的批判とを相互媒介的に結びつけることによって、哲学のアウフヘーベンという一方の要求と、哲学の実現という他方の要求とをしかるべく統一したのでした。尤も、当時におけるマルクスのこの言い方で問題が最終的に解決したのかどうか、そう簡単には言い切れません。少なくとも、理論的に整備すべき点や、具体化すべき点が残っていたことは明らかであります。」241P
「翻って考えますに、マルクスは学位論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』のなかで、ブルーノ・バウアーの強い影響のもとに次のように書いておりました。/「哲学の実践はそれ自身理論的である。ここの実存をその本質において、あれこれの特殊な現実を理念において量ること、これが批判である。」マルクスとしては『ライン新聞』時代においても、少なくとも初期にあっては、やはり、こういうバウアーに近い立場から、「経験の審判に惑わされることなく……事物の現存在に対して、内部理念の本質という尺度を当てがう」という仕方で「批判」を展開しておりました。」241P
「批判の基準たるべき理念は、現状の単なる追認によって得られるものではなく、現状から相対的に独立なものではならないにしても、しかし、現状から全く超絶したものではあるべくもありません。その点では、ヘーゲルが、哲学はその時代を超えることはできないと言い、哲学が世界に対してかくあるべしと教えうるには哲学の到来はいつも遅すぎる、と言っているのは非常に重い言葉であります。世界はかく在るべしと叫んだところで実際的な効力がないというのではなく、かくあるべしという理想・理念ないしはまた当為なるものが、ヘーゲルに言わせれば既に現実の追認という埓を出ないというのであります。勿論現実の追認といっても、経験的現実をそのまま追認したものではない。理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、というかぎりで、現実的=即理性的ということになりましょうか。」242P
「マルクスとしては、しかし、『ライン新聞』の時代までは、大体このヘーゲルの線で了解していた様子がみられますけれども、もはやそういう抽象的な言い方で済ませるわけにはいかない場面に立たされているに至りました。ここにおいて、批判の基準たる理念がどこから得られるのか。そのようにして得られる理念をどのようにして権利づけることができるのか、これを具体的に定立することが、今や要求されるに至っております。」242-3P
第六段落――「批判」のなかみとしての共産主義運動へのアナガージュ 243-6P
「マルクスとしては、この大きな問題を、歴史の現実的な趨勢ということに定位して解決する方向に向かいます。このさい、歴史の発展方向なるものを、ヘーゲルのように「自由」という理念の実現過程と把える域に止まったとしたら、せいぜい一種の“理念史観”にしかならなかったでありましょう。また、彼がもし“批判的批判”が歴史の動力だと考える域に止まったとしたら、歴史の原理を自己意識に観念論的な史観に陥ったことでありましょう。がしかし、マルクスは歴史の現実的な展開の動力、歴史の法則性を、そういうヘーゲル学派的な枠組みを超えて、別の方向に見出すに到りました。」243P
「『ドイツ・イデオロギー』のなかで、マルクスは「共産主義というのは、創りだされるべき一つの状態ではない、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、現実的な運動、現在の状態をアウフヘーベンする現実的な運動である」と書き、「共産党宣言」のなかで次のように書いております。/「共産主義者は、理論的には、プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を理解している点で、残りのプロレタリア大衆よりも(意識・経験のうえでは)先んじている。」がしかし、実践の場では「共産主義者は特別の原理を掲げて、プロレタリア運動をその型にはめようとするものではない、云々」。――ここには、あくまで、現実のプロレタリア運動にアンガージュしようという姿勢が貫かれていることが容易に認められると思います。」243-4P
「只今『ドイツ・イデオロギー』および『共産党宣言』から引用した命題に関しては、その当時からマルクスとエンゲルスのあいだに聊か見解の相違があったと目されますし、それは措くとしましても、その後マルクスが共産主義社会論・共産主義運動論さらには共産主義運動の組織論を確立していくにつれて、これらの命題がもはやそのままの形では維持されなくなる。そういう意味で、これはマルクスの最終的な考えであるとは言えません。」244P
「マルクスは、ヘーゲル左派の内部に生じた、哲学のアウフヘーベンを志向する実践派と、哲学の実現を志向する批判派との二つの流派が、ヘーゲルのそれを乗り超えようとして提起した“哲学観”ないし“哲学論”を批判的に受け留めながら、さしずめ、共産主義運動というプロレタリアートの実践的批判=批判的実践に定位して、哲学の止揚的実現=実現的止揚という構えを基礎づけたと申せます。/この言い方は、しかし、第三者的にみての話であって、マルクス本人が『ヘーゲル法哲学批判序説』以後の時点でこのことをどこまで強く意識していたかは審らかでありません。哲学のアウフヘーベンというマルクスのモチーフは、『ヘーゲル法哲学批判序説』の一年後に出た『聖家族』などに即してみるとき、もっと射程の大きいものであったと思われます。」245P
「彼らはあくまでヘーゲル学派なのでありますから、ヘーゲルの積極面は受け継ごうと努力している。この点では、マルクスも同様であります。/では、マルクスは、ヘーゲル哲学のどのような点を積極的に継承しようとしたのか、そして、その批判的継承が固有の新しい次元を拓き得た所以のものは奈辺に存するのか?」245-6P
第七段落――ヘーゲルの継承とその批判の切り拓いたもの 246-9P
「ヘーゲルは、マルクスが『聖家族』のなかで指摘しておりますように、スピノザ流の実体主義とフィヒテ流の主体主義とを一種独特の仕方で統一したと申せます。」246P
「若き日のヘーゲルは、いちはやく「デカルト哲学は、わが北西ヨーロッパの近代文化のうちに現われた普遍的で包括的な二元論を哲学の形式で表現したものであった」と述べ、このデカルト流の近代的二元論のアウフヘーベンということを追求しました。・・・・・そして彼の絶対的観念論というグロテスクな形においてではありますけれども、彼自身の言葉でいえば、「独断論的な観念論」と「唯物論的な独断論」との両方をアウフヘーベンしたつもりだったのであります。」246P
「ヘーゲル学派の論者たちは、まず例外なく、ヘーゲル哲学のこのモチーフ、とりわけ主観性と客観性との二元的対立のアウフヘーベンというモチーフを継承します。若き日のマルクスも勿論その例外ではありませんでした。ヘスの行為の哲学もしかりであり、バウアーの批判の哲学も、「批判とは考察される対象と考察する主観との統一である」という先に紹介した言葉からも明らかなように、まさしくこのモチーフを継承しております。/問題は、しかし、主観と客観との統一ということをいくら叫んでも、それが哲学という理論のかたちにとどまるかぎり、所詮は主観性の枠内での主客統一という域を出ないというところにあります。そこで、実践・行為ということが持出され、実践の場における主観性と客観性との統一ということが提起されました。これは確かに注目に値する議論です。だが、一口に「実践」と言い「行為」と言っても、そこにはいろいろな次元が存在します。では、主観と客観、人間と自然、これを真に統一するような実践とはいかなる次元での実践であるのか? この問題設定に対するマルクス・エンゲルスの回答、それが「生産活動」とりわけ、物質的生産という活動、――今や単なる革命運動という政治的実践より根底的な――この次元での実践という命題になるわけであります。」246-7P
「ところで、しかし、生産という場面における主観と客観、主体と客体との統一、人間と自然との統一、と言っても、人がもし、一方における主体としての人間、他方における客体としての自然なるものを、実体主義的な発想で二元的に措定したままにとどまるとしたら、生産の場における“統一”と称しても、それはたかだか両極に立つ二つの実体の相互作用的な接合という域に止まってしまうでありましょう。両者の真の弁証法的統一が成立するためには、一方における人間、他方における自然、これら両者のそれぞれに関する存在論的な了解を抜本的に改める必要があります。そこでは、主体と外部的な環境という発想ではなく、それの分節において主体という項と環境という項とが第二次的に形成されるような力動的な場を措定することが要件になります。」247-8P
「今日われわれはこのような力動的な場、そこにおける主体と環境との第二次的な分節というとき、直ちに生態系(エコシステム)を連想し、生態学(エコロジー)を想い泛かべます。因みに、エコロギーという言葉がヘッケルによって創られたのは、『資本論』が出版された前後の時点でありまして、マルクス・エンゲルスが唯物史観を確立した当時にはまだエコロギーという言葉は存在しませんでした。ですから、マルクス・エンゲルスはエコローギッシュという言葉を、言葉としては使うべくもなかったのでありますが、彼らが極めてエコローギッシュな発想をしていることは、今日では周知のところであります。」248P
「ところで、人間生態系の場合、植物生態系や一般の動物生態系の場合と違って、主体と環境との相互関係の在り方に或る著しい特質が認められます。それは、シンボリックにいえば、道具という仲介手段を用いて、目的意識的に、環境に対する働きかけがおこなわれる点にあります。そして、この対象的活動たる生産活動は、協働Zusammenwirkungとして営まれ、そのことにおいて生産関係が社会的に編制されます。/こういうエコロギッシュな編制、しかも人間に特徴的なエコロギーの結節環ともいうべき「生産活動」の在り方に定位すること、そこに唯物史観の視座が存するのであり、この視座に定位して主体と客体との統一性、人間と自然との実践的な統一性が把え返されていること、ここにマルクス“哲学”の大きな特質があるともうせるでありましょう。」248-9P
第八段落――哲学の死滅か、将来の哲学の新しい構成か 249-54P
「私は只今、マルクスの“哲学”と申しました。だが、マルクスは哲学のアウフヘーベンを志したのであって、哲学としての哲学を樹てようとしたわけではなかった筈ではないのか? 慥かにそうであります。が、単に哲学の止揚とか、理論から実践へとか言っただけでは、原理上の構えとしても、事柄がそれで済んでしまうわけではありません。/ここにおいて「批判」という概念があらためて問題になります。それは経済学のアウフヘーベン
を図ったマルクスが理論の領域では、「経済学批判」の体系を構築しようとしたこととも通底いたします。」249P一八五八年のラッサール宛の手紙の引用を挿んで、
「マルクスは、経済学という理論の分野において、体系の叙述であると同時に体系の批判であるようなkritische Darstellungを志向しております。その批判的叙述は、具体的な事象を網羅的に記述するものではなく、カテゴリー、つまり、基本的諸概念の批判的叙述であります。/では、カテゴリー批判というときの「批判」とはどのように意味での批判なのであるか? カテゴリーの使用とカテゴリーの批判との結合ということは、ヘーゲル弁証法においてもモチーフの一つになっている事柄でありますから、余り簡単に言ってのけるわけには参りませんけれど、即自的な事態の対自的な把え返しというモメントが絡むことまではまず間違いありますまい。」249-50P
「マルクスは『資本論』のなかで、ブルジョア階級のカテゴリーについて、それは「商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産関係に対して社会的に妥当する、それ故に客観的な思想形態である」旨を述べております。現行の歴史的文化的な体制下において「社会的に妥当する」gesellschaftlich gültige「それ故に客観的な」also objekttive思想形態、これの批判的叙述kritische Darstellungが問題であります。――「社会的に妥当する、それ故に客観的な」思想形態ということは、当該の社会に内在的な視座においてはまさに真理とされるものfür esには真理とされているものにほかなりませんし、これを体系的に叙述することが一要件をなしますけれども、しかし、それを単に追認するに止まってはならない。それは「歴史的に規定された」一定の生産関係に対してのみ妥当するものであっ、無条件な永遠の真理ではない。当事意識にとって(für esに)真理とされているもの、われわれにとって(für unsに)は決して端的な真理ではない。さりとて、学知の立場における「われわれ」としては、当事主体たちにとって真理とされているものを単に真ならざるものとして斥けるだけでは済みません。われわれとしては、それがごくナチュラルな、必当然的な真理とされている存立構造を解明してみせ、即自的な「真理存在」の被媒介的な存立構造を究明してみせねばなりません。そのためには、即自的に真理とされているものをその基礎カテゴリーから体系的に叙述しつつ、且つ、併せて、それの「批判」――一種のイデオロギー論的批判というかたちでの“認識批判”、認識論的・存在論的批判――をこれまた体系的に遂行してゆくことが要件となります。――因みに、『資本論』からの先の引用は、有名な「商品の物神的性格とその秘密」の節からの援用なのでありますが、当座の論脈で申せば、後期マルクスの「批判」とはさしあたり、即自的な事態の被媒介的存立構造を分析し、それの歴史的・社会的な相対性とその由って来たるところをfür unsに解決しつつ、体制内的な当事意識にとっての即自的な“客観的”事態を認識批判論的に、剴切には、イデオロギー批判論的に対自化することの謂いとなりましょう。」250-1P・・・弁証法的途行き
「私としては、しかし、マルクスがいわゆる哲学的体系を著作の形で書こうとしなかったことを承知のうえで、なおかつ、マルクスの哲学的体系を云々することができると思います。エンゲルスが、哲学の将来の消滅を予言しているのにも、但し書きというか、条件がついているのでありまして、彼は「近代の唯物論は本質的に弁証法であって、もはや諸科学の上に立つ哲学を必要としない。それぞれの個別科学に対して、事物および事物に関する知識の全体的聯関のなかで、各自が占める地位を確然と理解するようにという要求が提出されるやいなや、全体的な聯関を扱う特別な学問は不要になる。そのときには、これまでの哲学のなかで独立に存続するのは、思考とその諸法則に関する学問――形式論理学と弁証法である。その他のものは、すべて、自然と歴史に関する実証的な学問に解消してしまう。」云々。(『反デューリング』)という言い方をしているのであります。現状では、しかし、諸科学がそこまでいっていないかぎりで、エンゲルスですら哲学という「特別な学問」がまだ必要と認めるでありましょう。只今の引用では「全体的聯関」という一点が強調されておりますけれど、認識批判論的な処理――ヘーゲルがカテゴリーの「使用」と「批判」とを弁証法的に結合したのと同趣の手続――ということが併せて問題のわけでして、エンゲルスとしては将来、諸科学自身が即自的な“客観的”“真理存在”の叙述だけでなく、当該の批判的手続を体系に内在するようになるものと予見しつつ、先のように書いた筈であります。となれば、将来的には、哲学と諸科学の相対が別々に並存するのではなく、再び統一されて、謂うなれば諸科学の総体が一種の哲学的体系になる。但し、直接的に対象知に関わるのではない「思考とその諸法則に関する学」――これは単なる形式的論理の域にとどまるのではなく、認識論的な次元をも構造的契機とする弁証法を含む――はなお対象知的体系とは別に「独立」の部門をなすであろう。このような含意になっているものと解されます。」252-3P・・・エンゲルスからの引用文について、廣松さんは、そもそも一体化してとらえることへの疑念も押さえていますが、「マルクス・エンゲルス」という表記が気になっています。熊野さんがこの著の文庫本の解説の中で、「マルクス/廣松物象化論」という表現をしていることも参考になります。「『ドイツ・イデオロギー』におけるエンゲルスの主導説もあり、経済学においてもマルクスよりも先行的に入っていったということが定説化していっていますが、後期におけるここでも引用されている「哲学の死」の宣言やエンゲルスの弁証法の法則的とらえ返し、これはエンゲルス自体の責任か、ロシア・マルクス主義のドグマ的とらえ返しか、があるにせよ、エンゲルスの「ヘーゲルへの先祖返り」というようなことのとらえ返しが必要になっています。たとえば、後期エンゲルスは「物象化」という概念をどうとらえていたのか、物象化論からすると、「哲学の死」の宣言はできなかったのではないかとわたしには思えるのです。哲学は神の死を宣言しました、だが、まだ宗教はなくなっていない、なのに、エンゲルスは哲学の死を宣言しました。また、弁証法を法則としてしかも、法則の図式化のなかで、法則を物象化しているようにとらえられるとき、「エンゲルスに物象化論はあるのか?」という疑念が湧いてきます。勿論、哲学や「物象化論」が「上に立つ」などということではなく、「通底する」とのとらえ返しなのですが。因みに、法則とは、真理とは、絶対的真理=神を否定する立場からは、共同主観的な客観的妥当性であり、武谷技術論の「客観的法則性の意識的適用」ということに準えれば、仮説としての法則ということを立てて、上向法的に展開して行き、その妥当性が有効かどうかを自己吟味していく、ときにはその法則自体をもアウフヘーベンしていく、そういう所での法則性だと言いえるのではと考えています。
「マルクスにとっての哲学は、「思考とその一般的法則の学」はひとまずさておき、対象知的体系に関していえば、彼が「経済学批判」において構想した構案と構制、すなわち、即自的に“客観的”な事態の「体系的叙述であると同時にその叙述を通じておこなうジステームの批判」、これを推及して考えることができるのではないでしょうか。/この“哲学”はマルクスの経済学が普通の意味での経済学ではなく、「経済学批判」であるのと同趣的に、普通の意味での哲学ではなく「哲学批判」――即自的な世界像の批判、既成的世界観のイデオロギー論的批判と弁証法的に統合された体系的批判、批判的体系――という性格をもつ所以となりましょう。それは、日常的・現実的意識の批判、そして歴史的・社会的に相対的なこの意識の地平内での“体系知”たる既成的諸学の「批判」、そのような体系的批判=批判の体系として存立する筈のものであります。」253-4P
第九段落――「批判的叙述=叙述的批判」が「体系的」である必要性 254-7P
「これはマルクスに限りませんが、人間的世界の部分的改良を目指すのではなく、総体的な変革を志向する場合、そしてその総体的変革の諸条件・諸方策、そして変革後のヴィジョン、これを学理的に闡明(せんめい)する場合には、局部的な研究ではだめなのであって、まさに人間的世界の相対をシステマティックに研究誌体系的に把握することが必要となります。マルクスの場合は、現にそうなのでありまして、あまつさえ、当の変革が単なる社会体制の変革という域にとどまらず、そのための一条件としても、またそれに伴うであろう一帰結としても、世界観の総体的変化と不可分である以上は、体系性、体系的統一が当然必要となる所以なのであります。」254P
「私は、先に、ヘーゲルやヘーゲル学派からマルクスが継承したモチーフとして、主観性と客観性との統一、人間と自然との統一、ということを云々し、それがマルクスにおいては――バウアー的な「批判的批判」の場においてではなく、またその批判的主体=人類的自己意識をプロレタリアートに置換するという一時期の中間的階梯での構案に止まることなく――生産の場面、しかも人間的生態学的な鍵鑰たる「生産」の場面に定位するという仕方で結実したことを申し述べ、唯物史観のこの基本的視座のもつ“哲学”上の意義を示唆しておきました。」255P
「因みに申せば、ヘーゲルの「絶対精神」ないしバウアーの「自己意識」をプロレタリアートないしその階級意識ということで置換し、そこでフィヒテ・ヘーゲル的な疎外論・外化論のロジックで、当の「大主体」の自己外化と自己獲得を説くにとどまるとすれば、そしてバウアーが「批判」ということで主観性と客観性との実践的統一を説いた構図に滞留するとすれば、この疎外論の構制はまだ唯物史観以前的と評されねばなりますまい。ルカーチは、疎外論と物象化論との離接不全ということにも禍されて、そして彼がマルクスの労働論や対象的活動論の射程を若きヘーゲルのそれ(しかも彼ルカーチが一面的に矮小化した限りでのヘーゲルのそれ)に“還元”する位相でしか把えることができなかったために、突き放した言い方をすれば、ルカーチはマルクス主義をバウアー派的な準位に押し込めてしまっております。」255P・・・ルカーチ「階級意識史観」批判
「ヘーゲルは単に愛知たるフィロゾフィーではなく、体系知たるヴィッセンシャフトでなけれればならないことを説きました。その体系知が、彼ヘーゲルの場合、宗教ないし神学的な体系と内容的には重なることを先刻申しておきました。」256P
「ユークリッド幾何学と神学とか、古典力学(ニュートン物理学)とか、この種のものも体系性を誇るにせよ、それは所詮、世界の総体を把えたものではなく、部分的な体系知にすぎない。その点、総体的な体系志向というものは、なるほど神学に強くみられたと申せます。」256-7P
「人々が、しかし、体系性と神学を連想するのは、おそらく、歴史的な偶有的事情のほかに、体系性の要求と理論の絶対性の要求とを二重写しにするという事情も介してのことと思われます。この点で申せば、マルクス主義の場合、いな、さしあたりマルクス思想の場合、体系性は決して絶対性と二重写しにはされておりません。けだし、マルクス思想は、唯物史観からして、まさに理論の歴史的相対性を自覚している所以であります。」256P
「マルクスが、歴史的相対性の自覚のもとでもなお体系的叙述、批判的叙述の体系性を志向するのは、――アンシクロペディスト(百科全書派)等の場合とは「体系」ということの構制が異なるにせよ――世界の総体的変革、現実界ならびに思想界の総体的な変革を課題とするからにほかなりません。」257P
第十段落――唯物史観の押さえ 257-9P
「ところで、唯物史観が基本的な視座を据える「生産」という人間生態系の鍵鑰に即するとき、生産関係の変革、これが枢軸をなすことはあらためて詳論するまでもありますまい。世界の総体的把握は、この視軸に定位しておこなわれます。そして、「生産」という「実践」、そこに視座を据えた人間と自然の統一、主観性と客観性、個別性と普遍性、自由と必然、等々、等々の統一的把握、これは世界観の全体に関わるものであって、近代思想におけるが如き「歴史」「社会」という――「自然界」に対する――単なる半球に関わるものではないのであります。そして、この史観の開示するHistorisppheは、まさに実践の哲学、行為の哲学、つまり、ヘーゲル左派のチェシコフスキーやモーゼス・ヘスが不充分な形で構想したところのものをアクチュアルに止揚・体現する所以のものともなっております。この意味で、唯物史観は、決して自然弁証法とやらと並ぶ史的唯物論なる“半球”ではありませんし、「実践的唯物論」は応用篇の実践哲学といったものではありません。」257-8P
「かように「唯物史観こそがマルクス哲学の基軸である」旨を申しますと、人びとのなかには「それはおかしい」「マルクス哲学は、第一に唯物弁証法=弁証法的唯物論であって、それを自然界に応用・伸長することで自然弁証法が成立し、また、それ(弁証法的唯物論)を歴史界に応用・伸長することで史的唯物論が成立するのだ云々」、このように指摘されるむきもうろうかと思います。/私としては、このような通念が、第二インターのカウツキーあたりから成立し、それがプレハーノフやレーニンによってロシア・マルクス主義の教義体系に持込まれた事情を“理解”しないではありませんし、教科書風に整理するさいにそのような図式に押し込むことの一定の“有効性”や“便利さ”を認めないわけでもありませんけれど、原理的にいえば、それはマルクスにとって哲学とは何であったかをおよそ理解せぬ謬見であると断ぜざるを得ません。この間の事情につきましては『マルクス主義の理路』(勁草書房から、本年[一九八〇年]の夏に新版を出しました)のなかで、或いはまた共著『現代哲学を考える』(有斐閣刊)のなかで、詳しく論じておきましたので、ここでは繰り返さないことに致します。」258P・・・?弁証法を法則としてとらえることの批判
「本当は、ここで、唯物史観とエコロジーの関係について、エコロジーが即自的にとっている論理構制を、構造主義やルーマン的な機能主義との種差(ディフェレンティア)をも明らかにしつつ、弁証法的な存在観(単なる論理ではない)と反照させる作業を試みたいところでありますが、これは別の機会に譲ることに致しまして、残された時間であと一つだけ必須の論点にふれておきたいと念います。」258-9P
第十一段落――理論−実践の哲学としてのマルクス理論
「哲学が哲学であるかぎり、哲学の実践的実現による実践的自己止揚と言っても、それは所詮、哲学の内部では完結しないではないか、諸君はこの旨を指摘されることでありましょう。これは初期のマルクスがプロレタリアートに托した課題でもありました。当の構制は、後期のマルクスにおいても、より一層具体化された相で維持されていると私は考えます。がしかし、経済学というか『資本論』の範囲に関してさえ、人々は、理論はザインを究明することはできても、そこから論理必然的に革命の必然性を説くことはできないし、いわんや、革命的実践のゾレンを論証することはできない旨を述べ立てます。・・・・・「理論」と「実践」とは、こういった次元を超えた場面で結合されてしかるべきです。そして、その配備をマルクスは少なくとも半ばは意識的に立てていたように観ぜられます。」259P
「私は、この春に出しました『弁証法の論理――弁証法における体系構成法――』という本(青土社刊)のなかで、für es, für unsのfür uns構制から更に歩を進めて、本源的に対話の論理たる弁証法にあっては、“著者”と“読者”との対話的構制ということを自覚的に勘案した体系構成法に定位すべきことを論じておきました。」259P
「マルクスの理論体系と実践的“呼掛”との関係、著者たるマルクスと読者たる人々、これら叙述体系の“外に”立つ両者が叙述体系を介してどう関わるか、対話(呼掛と呼応)の構制がマルクスの体系構成法(叙述内容ではない)においていかなる配慮をもって処置されているか、この間の事情にふれる前梯としてであります。」260P
「マルクスの場合、そして、これは誰しもそれ以上を叙述そのことにおいては期すことができない道理なのですが、存在命題から当為命題を形式論理的に導出・論定することはできませんし、理論的認識(それが当為命題を含む実践学的な命題であっても)におけるesとwirとの一致、さらには、著者と読者との見解的一致が成立したとしても、そこから論理的に当為的実践が導かれるわけではありません。/人々が、もし、理論体系、叙述された文章内容を自存化させ、それが自己完結的に、その内部で、いわゆる“革命の必然性の論証”をおこなうことができ、一定の当為を論理必然的に論証・導出できると考えるとすれば、それは「著述」というものに対する一種の「物神崇拝」フェティシズムに陥っていることの一表白であります。」260-1P・・・法則ということのとらえ返しにも通じること
「理論体系、思想の体系的叙述は、その著述内容の“外部”に立つ「著者」と「読者」との媒介体であって――これがしばしば著者にとって所期のResultat (成果)をもたらすところから、その媒介性の構制を忘れて、人々はとかく著述を「物神化」する所以にもなりますが、自己完結的に、論証的“納得”や況んや当為的実践を“論理的に導来”するものではありません。」261P
「私どもは、叙述そのことの物神化を斥けつつ、著者と読者とのアクチュアルな関わり方(それには「叙示」の“知解”、「陳述」への肯・否定的な“態度決定”、「呼掛」への“応接”といった契機が表現論の意味構造の場面で既に存立するのですが、ここでは立入りません)、これを自覚的体系構成法に“繰り込む”かたちで勘案する次第でありますけれども、所期の実践は“陳述的呼掛”に対する読者の側の“決意的応答”に俟ってはじめて起動します。理論的体系の叙述は、それ自身が総じて“一つの”呼掛でありまして――なるほど、叙述(理解)の展開過程が不断に著者と読者とのあいだの呼掛・応答という構制になっているにしても、著者に対して一つの総体的応答がアクチュアルに返って来るのは、読者が“理解”の域を超えて現実的に反応する場面でのことでありますから、著者という人物と読者という人物とのあいだの“対話”的相関が(論述の逐次的“知解”という場面での“対話的進行”の域を超えて)顕現するのは、一つの著述を或る種の仕方で受け留めて反応することにおいてのみ(著述を介した著者と読者とのこういうアクチュアルな“対話”的関わりにおいてのみ)、所期の実践が読者において発現する次第になります。」261-2P
「このさい、マルクス式に言えば「存在が意識を決定する」「存在が無意識をすら決定するのであって、一定の読者における応答の在り方を予料することができます。」262P
「マルクスにとっての哲学とは、それが批判的叙述=叙述的批判という一つの理論的体系であるかぎりではなるほど現行的世界の「同時に批判でもあるごとき体系的叙述」、世界の被媒介的存在構造の対自的ベグライフェン(把握)でありますけれども、これがそれ自身として“読者”への“呼掛”であり、それがしかるべき社会的存在者たるプロレタリアートの階級的実践を蓋然的に興発することにおいて「実践の哲学」たりうるのであり、当の実践というアクチュアルな“批判”において自己止揚=自己実現するもの、斯様な構制になっていると申せましょう。」262-3P
2024年10月02日
2024年09月16日
廣松渉『物象化論の構図』(3)
たわしの読書メモ・・ブログ669[廣松ノート(6)]
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(3)
V 歴史的世界の物象化論
「ここに「歴史的世界」というのは――自然界との区別における“歴史界”とか、今日の“世界情勢”とかいった――世界の或る特定の部分ないしは局面の謂いではありません。事柄としては、端的に「世界」と呼びかえても一向に差支えないのでありまして、「歴史的」という限定は、この世界をどのようなものとして了解するか、もっぱらこの了解の仕方に関わるものであります。/世界をどのようなものとして了解するか、――より剴切にいえば、旧来の世界了解をどうあらため、どうとらえなおすか――これこそが、亦、以下の議論を支える問題意識にも他なりません。」156P
「尤も、私がどのような問題をどのような視角で論考しようとしているのか、これを表象していただく手掛りとして、その限りで、ハイデッガーを“出し”にして申せば、いわゆる近世(近代)的な世界了解の地平――Subjekt-Objekt-Schema[「主観−客観」図式]というよりもSubjektivismusとObjektivismusとのWechselspiel [シーソーゲーム]を必然的に生ぜしめるごとき「近代的世界了解の地平」――そのものをいかに超克するか、これが現代哲学の根本課題をなすことは肯んぜられてしかるべきだと考えます。だが、ハイデッガーは、果たして彼の提起した当の課題を真に解決しうべき方向性を確立しえているか、私としては疑問なきをえません。『存在と時間』以来の「世界・内・存在」というGrundverfassung [基本的な構え]、彼の課題意識とも吻合しえるこのGrundverfassung [基本的構制]の内実そのもののうちに、彼の隘路が胚胎しているように思います。」156-7P
「世界を原初的にZuhandensein[用在]という在り方において把え、人間存在を「本質的に共同存在(「ミットザイン」のルビ)」として把えるハイデッガーのVerfassung [構制]は、近代的世界像の地平に対して、慥かに異質であり、それを超克する構えになっている。とはいえ、彼のZuhandenheitの把えかた、Mitdasein [共同現存在]の把え方が一面的であること、私に云わせればここに問題があります。/私は、先にも申した通り、ハイデッガー哲学に対する主題的な批判を企てる心算も、また彼の批判的継承を試みる心算はありませんが、彼の「世界・内・存在」の規定内容に対しては、その“楕円の二焦点”ともいうべき如上二つの契機に関して、恰度、彼がデカルト的(世界)存在論に差向けたのと同様、真の在り方、真の了解仕方の「変様」としてそれらを定位してみせる必要がある、と考えます。そのためにも、しかし、それでは私どもとしては世界をどのように了解するのか、これを積極的に提示する必要を生ずる所以でありまして、以下の試みは就中この関心に懸ります。」157-8P
「このような問題意識をもって顧みますとき、私としましては“後期”のマルクス・エンゲルスが拓いた新しい世界観を看過することができません。いわゆる正統派的解釈ではマルクス・エンゲルスの拓いた地平が再び覆われて了い十八世紀の唯物論と逕庭(けいてい:隔たり)のないものに見立てられておりますが、――そして「マルクス主義を今日の時代における乗り越え不可能な哲学と見做す」に至ったサルトルでさえ、必ずしもそれを分明に把えていないように見受けられますが――私のみるところでは、マルクス・エンゲルスは或る歴史的な僥倖にも恵まれつつ、“近代的”世界観の地平を超克しうべき視座を設定し、それをいわば覚え書きのかたちで遺しております。」158Pこれについては『地平』と『存在構造』に所収した二つの論文を示しています。
「“覚え書き”と申しましたが、私はその第一に『資本論』を数えます。夙に指摘されております通り、『資本論』は普通の意味での単なる“経済学の書物”ではなく、それ自体ひとつの世界観を告知する“哲学書”であります。マルクス自ら語るところによれば、『資本論』は彼の到達した新しい世界観・歴史観をLeitfaden (導きの糸) にして書かれたものであり、私どもはこれから逆推して彼の到達した世界観なるものの再構成を企図することができます。マルクスは、随所で彼の世界観の根幹にかかわる発言を断片的におこないながらも、彼の世界観そのものに関わる纏まった講述を遺しておりません。が、『資本論』からの逆推によって、かれが各所で記している一見“奇矯”な章句をも整合的に理解できるように思います。」158-9P
「私は、まず、『資本論』で分析されている「商品世界」Werenweltの存在構造について自己了解の素描をおこない、これを念頭におきながら、次ぎに「歴史的に生起する世界」の現実を眺め返すという議論の方式を採ることに致します。」159P
一 商品世界の存在構造
(この節の問題設定)「『資本論』が対象としているWerenwelt[商品世界]は、慥かに歴史的世界の一つのPhase [位相]たるにすぎません。しかし、ここには歴史的世界一般の存在構造が直截に顕れているように看ぜられます。それは、まずは「商品世界」の存在構造について、マルクスの視角を追認しながら一瞥しておき、――ハイデッガーのZuhandenseinは一面的であると先に申した所以のものについても間接に立言しつつ――後論のための視座を設定することに致したいと思います。」159-60P
(A) 商品世界の二重性
「商品世界、すなわちhomo oeconomicusとでも呼ぶうべき関心の仕方において在る人びとの視界に拓ける世界は、さしあたり、“用在” Zuhandenseinの一総体として現前します。」160P
「商品は、さしあたり、その諸属性によって人間の何らかの諸欲望を充たすところの外的対象である」。この有用性が、「その物を使用価値Gebrauchswertたらしめる」。だが、この有用物、すなわち、単なる物体ならざる商品体Werenkörperは、決して“物材(「フォルハンデンザイン」のルビ)”に有用性という“アスペクト(Aspekt容貌)”が押しつけられ、“即自的に物在化する世界素材が(主観的に彩られた)ものであるかのように理解されてはならない”。マルクスによれば「商品体そのものが使用価値」なのであります。」160P
「使用価値としての商品においては、もっぱらそれの有用性が問題なのであって、それが“物在”としていかなるものであるか、それが物理・化学的にいかなるものであるかということは、それ自体としては問題でありません。・・・・・・これら“物在”としての在り方が問題になるのは、それがペンの“使い”易さ、ペンの道具としての有用性に関わる限りのことにすぎません。精確にいえば、材質、質料、形状、等々が、ここでは“物在”的性質としてではなく、それ自身、有用性の契機として、その限りでのみ、問題になるのであります。」160-1P
「使用価値としての商品に関する限り、etwas um zu……(……のための或るもの)として“適在性(「ベヴァントニス」のルビ)”をもち、“道具全体性”Zeugganzheitのうちにある、等々、私どもは、ハイデッガーの所謂Zuhandenheitによって、事態をカヴァーすることができます。/しかし、ハイデッガーのZuhandenheitでカヴァーできるのは、商品が使用価値たる限りにとどまります。しかるに、商品は単なる使用価値ではなく、商品としての商品にとって、使用価値は、さしづめ「交換価値の質料的担い手」たるにすぎません。」161P
「商品世界においては、すべての商品は、単なる使用価値としてでなく、必ず一定の交換価値(これの貨幣的表現が「価格」)をもったものとして現われます。」161P
「価格をもつということは、先廻りして申せば、商品が使用価値とは全然別の在り方をしていることを意味します。私どもは、とりあえず、三つのことを確認することができます。/第一に、すべての商品が価格の単位で度量されるような、或る共通な質に還元されていること。・・・・・・/第二に、価格(交換価値)は使用価値をもつもののみがもつということ、もし端的に使用価値=有用性がなければ、誰しもそのものを交換(購買)しません。使用価値をもつもののみが交換価値をもつことができ、この意味で「使用価値が交換価値の質料的担い手である」ということができます。/第三に、しかし、交換価値と使用価値とは決定的に異質であること。使用価値としては異質な諸商品が共通や質に還元されるという先の論点は措くとしても、もし使用価値として全く同じものであれば、人びとはそれらを交換することはない筈であります。」161-2P
「ここにいう「価値」=「商品価値」は、もとより、いわゆる価値哲学にいうところの“価値”一般をカヴァーしうるものではありません。しかし、それが哲学にいう“価値”と“存在領域”や存在性格を同じうするかもしれないということ、しかも、この価値ためや、ハイデッガーのZuhandenseinという把捉においては――無差別的に包摂されてしまうことによって――その独自的な対象性が看過され、よってもって、“対象的世界”の実相をverkennen[看過・誤認]せしめる一因になっているかもしれないということ、この点まではあらかじめお含み願えると思います。/商品世界は、ともあれ、使用価値としての対象性と価値としての対象性との、二重の相貌のもとにerscheinenする[現象する]ということ、とりあえず確認しておきたいのはこの二重性であります。」162-3P
(B) 価値理論の問題性
(この項の問題設定) 「商品の価値とは一体何であるのか? 前項で措定した限りでは、それがいかなる存在性格のものであるか、まだ決定されておりません。そもそも、商品価値の存在をめぐっては――というよりも寧ろ、めぐっても――周知の通り、主観価値説=価値唯名論(「ノミナリズム」のルビ)と価値実在論(「レアリズム」のルビ)との対立があり、果たして価値成るものが“客観的”に実在するのか、これからして未決問題であります。」163P
「主観価値説=価値唯名論によれば、「価値なるもの」は客観的には実在せず、私念されたものにすぎません。従って、「価値に」関するWas-Frage [「とは何ぞや」という問い]は、元来、意味をなさず、その都度の価格を経験的に確認し、価格変動を規定する諸要因と法則を究明すれば足る、とされます。」163P
「ここでは――此説に対する批判は保留して――次の一事を確認しておきたいと思います。それは、主観価値説では、共同主観的に一致しておこなわれる価値判断、そこにおいて“私念”される価値対象性は、たかだか“物在”としての商品体に“投射”された(主観的な彩り)にすぎず、此説においては、まさしく近世的発想における「第二性質」に類するものとして価値が考えられている、ということであります。」163-4P
「他方、価値実在論は、その最も素朴な形態においては、価値を或る種の自然物がもつ一つの属性、いわば物体そのものがもつ「第一性質」の一つとして考えたと申せます。しかし、このようなブリミティヴな価値論は、需要・供給関係による価格変動といった経験的事実を前にして、やがては価値の本質を他に求めるよう余儀なくされます。/価値実在論は、ともあれ、使用価値物としては全く異質な諸商品が共通にもつところの或る「質」、商品の自然的性質とは別なetwas、これの客観的実在性を主張する限り、しかも、もしそれを伝統的な地平で主張するとすれば、ギリシャ哲学以来の、そしてかの「普遍論争」において喧しく論争された当の問題に、必然的に逢着することになります。」164P
「価値唯名論と価値実在論との対立は、単なる経済理論のうえでの対立ではなく、まさしく哲学的な世界観のうえでの争いにほかなりません。けだし「価値とは何か」という問題の真の解決が、新しい哲学的地平の開示と相即する所以でもあります。/この解決――そしてマルクス価値論の真諦――を見定めるためには、労働価値説の原点ともいうべき場面にまで一たん立帰り、歴史的な或る経緯を再確認しておくのが結局は捷径であるように思われます。」164P
「労働価値説は、想起するまでもなく、元来は、価値唯名論と価値実在論との対立を止揚すべく登場したものではありません。歴史的にみれば、労働価値説は、当の対立が生ずる以前に――素朴な価値実在論に対する批判を通じて――成立したというのが事実であります。」164P
「古典的労働価値説は、労働こそが富の唯一の源泉である、という大提題を定立しました。しかし、このことから短絡的に、労働=価値実体という命題を導いたわけではありません。二種の商品が交換される正常な比率、これの説明が労働価値説の直接的な契機であったということができます。」164P
「こうして――「市場価格」の成立といった高次の問題点を俟つまでもなく――、論理的には複雑な計算を必要としますが、ともあれ、想定された純粋な条件下においては、人びとは、結局のところどれだけの労働時間を要するか、これを基準にして生産物の交換をおこなう“筈”である、と考えられます。」166P
「この究竟的な場面では、価値の実体ということは必ずしも問題でなく、所要労働時間は交換の比率を決定する機能的な意味しかもちません。現に、所要時間という労働の対象化といっても、かつてたしかに十時間の労働を対象化した製品であったにせよ、生産性が向上し、現在ではそれを五時間で再生産できるようになったとすれば、その十時間の製品は現在では五労働時間の生産物として交換されるのであって、投下された労働量をそれ自体が実体化されるわけではありません。/ところが、製品の価値には原料や道具の磨損部分の価値が“含まれて”おり、原料の価値が製品に“移行”します。この計算に際しては“移行”するサブスタンシャル(実体的substancial)な“価値”が論理的に前提されます。また、富の社会的配分、つまり使用価値物の分配ならざる価値取得の社会的配分という“事実”は、配分さるべきサブスタンシャルな或るものの存在を前提します。何はさておいても、労働生産物の蓄積によって社会的富が増大していくという“事実”は、――労働によって“自然界の一分子だに増大するわけではない”のですから――自然物とは別な或るものが蓄積され、増大していくのだという発想を促します。」166P
「このような経緯から「価値」をhypostasteren[実体化]する傾動がおのずと生じます。学史に即して申せば、重金主義的・重商主義的な金=貨幣の物神崇拝に対して、富の真の内実は労働であることと、対象化された労働であることを反定立する過程で、労働の実体化、労働価値の実体化がおこなわれるようになった、という次第であります。/ここでは、投下労働価値説と支配労働価値説との関係、その他、学史上の問題点には立入りませんが、銘記しておきたいのは、労働価値説は、元来、交換の比率を説明する機能的提題であったということ、しかるに、上記のごとき、“経験的事実”に逼られて、労働価値が実体化されるようになったのだということ、この二点であります。」167P
(C) 商品価値の対象性
「マルクスは、周知の通り、古典派経済学の労働価値説を批判的に継承するわけでありますが、彼はさしあたり――あくまでさしあたり――労働を実体化して考える発想を一歩おし進める方向で「価値」の内実を規定します。」167P
「人間の労働が対象化され、生産物中において実体化される、と申しましても、人びとが現実におこなう労働は、建築労働、紡織労働、製鉄労働、等々、等々、具体的な有用労働であって、人びとは、抽象的一般的な「労働なるもの」をおこなうわけではありません。しかるに、これらの具体的な有用労働は、それによって、生産物の有用性、「使用価値」を創出されるところの労働であり、この意味において、具体的有用労働は対象化されて使用価値になるということができます。しかしながら、この限りでの労働は、商品の価値――先にみた通りこれは使用価値とは端的に異質です――とは「何のかかわりもない」のであって、古典派経済学の労働価値概念、そしてまた労働概念は、そのまま踏襲するわけには参りません。」167-8P
「そこで、マルクスとしては、商品の二要因、つまり、使用価値と価値との二重性に対応させて、労働の二重性を区別します。すなわち、彼は「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」とを区別します。そして、具体的有用労働の対象化されたものが使用価値であり、抽象的人間労働の対象化されたものが価値であることを主張します。」168P
「「抽象的労働」という規定を単なる論理的抽象と考えるならば、つまり、現実の人間労働から具体的な諸規定を捨象した残渣だと考えるならば、そのような抽象的人間労働をたとえ容認したとしても、その対象化されたものはたかだか“抽象的一般的使用価値”たりうるにすぎまい、――それはとうてい価値たりうべくもない――ということになりましょう。/マルクスのいう抽象的人間労働は、しかし、そのような論理的な抽象ではありません。それは「日々おこなわれている抽象」であること、――ハイデッガーのいうdas Manが現実の人間から論理的捨象によって取出された抽象人der Menschではないのと同様――商品生産が汎通的な社会においては、労働者たちがいわばdas Manないしはdas Arbeiterと化している現実的な事態に照応するものであること、ポジティヴな規定は次項にゆずらねばなりません」168-9P
「「価値」は抽象的労働の凝結という規定とはさしあたり無関係に、――マルクスも自から「謎めいた性格」(der rätselhafte Charakter)という云い方をしておりますが――特異な存在性格を呈します。/価値は慥かに、一種の“客観的実在性”をもって私どもに迫ってきます。・・・・・・価値は、このように人びとの意識を規制するだけでなく、行為をも規制する“客観的な対象性”として現前します。」169-70P
「商品がもつrealitas (現実性)としての諸規定性はことごとく使用価値に関わるものであり、マルクスによれば、使用価値としての商品には「自然物の一原子だに入り込み」ません。マルクスが「抽象的人間労働」という概念を立てた所以であり、また「幽霊的な対象性」gespenstinge Gegenständlichkeitと彼が云う所以でもありますが、価値は自然物的実在物的な対象性ではなくirreal (非現実的)なetwasであります。」170P
「かくして、「価値」は厳然たる“客観的”な対象性でありながら、しかもrealitasとしての実在物ではない、さりとて「価値」が形而上学的な実在ではないことも絮言を要しません。「価値」は畢竟するに、哲学者たちが“意味の第三帝国”とか“価値領域”とか呼ぶところのもの、ヘルマン・ロッツェのGeltung[妥当]などと存在性格を同じうするわけであります。」170P
「マルクスとしては、このような「価値」という商品世界の相面――Zuhandenseinという把捉では尽くしえぬ商品世界のirrealな対象性――Geltungを、ひとまず「抽象的人間労働」のObjektion- Objektivation [客観化−客観的対象化]という規定で積極的におさえておくのであります。」170-1P
(D) 商品存在の物神性
「商品は「一見したところ平々凡々たるものにみえ」ますが、一面では使用価値という感性的な対象性として、他面では、しかも同時に、価値という超感性的な対象性として、つまり、レアールで且つイレアールなein sinnlich übersinnliches Ding [感性的で且つ超感性的な事物]として定在するのであって、マルクスが書いております通り、「分析してみると、商品は形而上学的な詭計にみち神学的な意地悪さでいっぱいの甚だ厄介なしろものであることが判り」ます。」171P
「商品世界の存在構造を把えるためには、この「商品の物神的性格とその秘密」Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis――それは同時に「抽象的人間労働」、そして、その「凝結」としての「価値」というマルクスのテーゼの謎にも通ずるのですが――これを解かねばなりません。」171P
マルクスの自問自答「労働生産物が商品という形態をとるや否や生ずる……この謎めいた性格はとこから生ずるのか?……商品形態においては、人間労働の相等性が労働生産物の相等な価値対象性という物象的な形態をとり、人間的労働力の支出の時間的継続による度量が労働生産物の価値の大きさという形態をとり、……生産者たちの諸関係が労働生産物の社会的関係という形態をとる。」「商品という形態の謎にみちた在り方は単に次の点てにある。すなわち、商品形態は、人びとの目に、彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの事物が自然物として具えている社会的属性として反映させ、従ってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係を彼らの外部にある対象物の社会的関係として映ぜしめるという点にある。」「この倒錯視Quidproquoによって、労働生産物が――感性的でしかも超感性的な、乃至は社会的な、事物――商品になるのである。……ここで、人びとの目に物と物との関係という現相的な形態をとって現われるのは、人びと自身の一定の社会的関係たるにほかならない。……商品世界では、人間の手の生産物が、固有の生命を付与され、相互間に、そしてまた人間とのあいだに、関係を結びあう自立的な継承であるかのように仮現するのである。」171-2P
「社会的諸規定を捨象した労働過程そのものは、決して価値形成的ではありません。マルクスによれば「労働生産物は、それらの交換の内部においてはじめて――使用対象性から分離された、社会的に相等な――価値対象性をうけとる」のであります。「抽象的人間労働の凝縮」という言い方そのものが、実は「人間自身の一定の社会的関係が仮現的物性の形態をとって現われる」商品世界における、汎通的な物神性に即した表現にほかならなかったのであります。」172-3P
「それでは、抽象的人間労働の対象化・物象化というのは、従ってまた「価値対象性」は、単なる仮象にすぎないのでありましょうか? 『資本論』におけるマルクスは――と申すより『経済学批判要綱』以降のマルクスは――労働の対象化を論ずるに当って、もはやヘーゲル学派的な意味での対象化、外化、疎外の論理は採りません。人間労働の物質化、実体化、凝固といった一連の表現は、この限りではもはや、いわば比喩的な意味しかもちません。具体的有用労働の「対象化」という表現に関してさえ、マルクスは、実際には「物材の形態を変化せしめるだけにすぎない」旨をわざわざ断っており、況や抽象的労働の凝結という表現においておやであります。価値対象性は、色など、いわゆる第二性質の「投射」とのアナロギーさえ許しません。現にマルクスは「物が視神経に与える光彩の印象は、なるほど、視神経そのものの主観的刺戟としては現われないで、眼の外部にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、外部対象と眼という……物と物との位置関係である……しかるに商品形態は……物的な関係とは絶対的に無縁である。それは人びととそのものの一定の社会的な関係にほかならない」ことを強調し、「価値は個々人の労働相互間の関係にほかならず、或る特殊社会的な労働形態の対象的表現にほかならない」ことを力説しております。価値は、主体・客体の直接的な関係によって創出される物的な形成体ではなく、また主観から客観へと“投射”された第二性質のごときものでもなく、実は「一つの社会的関係」「社会的な形成体(「ゲビルデ」のルビ)」なのであります。疎外論的“主・客の論理”と“物象化”の論理とが決定的に異るという所以でもありますが、「価値」とは、こうして人びとの或る即自的な社会的協働が物象化されてetwas Objektives[客観的な或るもの]として仮現的に現象したものにすぎません。」173-4P
「マルクスは、しかし、「価値のうちに唯もっぱら社会的形態のみを、社会形態の実体なき仮象のみを看るところの復活せる重商主義」を批判します。もしもマルクスがrealitas としてのrealitas 以外には実在性を認めないような実証主義的経験論者であったならば、彼はベイリ等の唯名論者に足をさらわれたかもしれません。」174P
「「商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産関係に対して社会的に妥当する、それ故に客観的な思想形態(gesellschaftlich gültige,also objective Gedankenform)である」こと、マルクスは、商品世界的な視座をとる限りで、社会的にgültigなそれ故にobjectiveなGedankenformとして「価値」のBestand[存立]を積極的に承認するのであります。」175P
「「価値」は、決して、人間から端的に独立して存在する“意味の第三帝国”ではなく、“本質直観”においてとらえられる自存的な対象性ではありません。マルクスは「価値」をそのような自存的な対象であるかのように錯視する「物神崇拝(「フェティシスムス」のルビ)」を卻けます。が、同時に、それを単なる仮象に貶しめてしまう見方をも両刀的に卻けるのであります。In-der-Warenweltlich商品世界内的には「私的諸労働の諸生産物の交換関係において、それらの生産のために必要な労働時間が……恰度、重力の法則などのように……規制的な自然法則として自己を貫徹する」のであって、かの労働価値説の原テーゼにいう必要労働時間の機能的関係が実体化して現象すること、マルクスはここに現実的な基礎をおいて、その限りで「抽象的人間的労働の凝結」というテーゼを措定するという所以であります。/歴史的・社会的な一定諸条件のもとにおいて、人びとの共同主観的(「ツザンメンズブエクティーフ」のルビ)な協働関係が、存在被拘束的に物象化(「フェアザッハリッヒェン」のルビ)されてintersubjektiv [間主観的]に共同主観的(「ゲマインズブエクティーフ」のルビ)に現象する場合、価値の存立がその典型ですが、その“物象化”の秘密を対自的に把えつつも、その存立性をフェノメナルに認める了解の構え、――唯名論と実念論との伝統的な対立平面とは次元を異にする視座――マルクスはこのような立場に立って商品世界の存在構造を把握するのであります。」175-6P
(E) 商品世界の四肢性
前項までの復習とこの項の課題「商品世界は、さしあたり、物象的な世界として現われますが、物象的な形態において、ないしは、物象と物象との関係として現象するところのものは、その実、人びとの協働的活動とその諸関係であること、前項までの行論を通じて、私どもはインブリシットには既にこのことをみてきました。ここでは、商品世界の総体的な聯関の基底的構造を――後論への手掛りというか伏線として必要な限りで――明示的にしておきたいと思います。」176P
「まず「使用価値」という契機ですが、私どもは、先には、これが自然的な対象性であるかのように論じました。しかしながら、正しくは、この使用価値からしてそもそも社会的歴史的な形象であることを看過できません。」176P
「労働の主体は、彼が商品を生産する場合、つまり自家消費ではなく交換の目的で生産する場合、いわばdas Manにとって有用な商品を、自然的・物理的にも、文化社会的にもzweckmäßig( [合目的的・目的にかなった])になるような仕方で労働することによって生産します。」177P
「商品世界においては、人びとは同格な商品所有者として登場しますが、商品交換は遡れば労働と労働の交換であって、商品世界における人びとは“社会的に必要な労働を遂行することの可能になる者”という建前で現われることになります。すなわち「抽象的人間労働」をおこないうる者として、その主体として、いわばdas Manとして現われます。具体的な現実的な人間が互いにdas Manとしてentgegenkommen [出会い・対向]します。/このような二重化された「人格と人格との関係が、物象と物象との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されて」現われたもの、それが価値関係にほかなりません。」178P
「商品世界においては「どの生産物も象形文字化され」ます。人びとはこのBefragtes (論題)においてGefragtes「価値」を問題にし、労働をerfragen (問いただ)します。まさしくマルクスの云う通り「諸使用対象の価値としての規定性は、言語と同様な、社会的産物」ということができます。」178P
「労働生産物が価値物として存立するのは、労働の主体がdas Manとしてgelten (妥当)することにおいてであり、使用価値物が価値物として、有用労働の主体が抽象労働の主体として、まさしく言語的交通と同じ二重の二肢構造(都合、四肢的な存在構造)で存立するわけであります。」178P
「この間の事情が最も直截に現われるのが一般的等価価値形態たる貨幣(註あり)の成立している場面であり、マルクスの彼の有名な価値形態論において、使用価値物が価値物として,具体的人格が抽象的人格として、二重の二肢性において関わり合うところの、相対的価値形態と等価価値形態との弁証法的な聯関構造、私どものいう四肢的構造聯関を具体的に描出し分析していることは周知の通りであります。わけても、一般的等価価値形態、貨幣としての貨幣の成立過程と存立構造に関するマルクスの所説は、言語的交通の存立構造と直接にアナロガス(類比的)な論点を含んでおり、労働力市場の成立を俟った資本の総過程の分析、市場価格が成立している場面での構造に定位するとき、歴史的世界の構造を具象的に看取することができます。」179P
次節へのつなぎ「ここでは、しかし、時間の関係もあり、後論への基本的な手掛りと視点は上述の範囲内でも最低限確保しえたものと考えますので、「商品世界」に即しての議論はとりあえず以上にとどめ、いうところの歴史的世界に視野を拡げたいと思います。」179P
二 歴史的世界の存在構造
(この節の問題設定)「世界というとき、私どもは、とかく、広大無辺な大宇宙を表象し、この大自然界の一隅たる地球の表面に拡がる人間的世界をvorhanden (現存的・物的)に考えがちであります。超越的視点からみれば、なるほど、このような世界像を描くことが可能かもしれません。しかし、私どもの日常生活において如実に展(「ひ」のルビ)らける世界はおよそ相貌が異ります。/以下ではいわばフェノメナリスティックな視座に立って世界が私どもに現われる相を直視し、商品世界の機制を援用しながら、そこに見出される基底的な構造聯関をみてみたいと思います。」180P
(a) 情報的世界の二重性
「情報によって伝達される世界は、眼前に展らけている“現実”の世界と殆んど同様に、私どもの意識、いな心理・生理的な機構に直接的な影響を及ぼし、しかるべき反応を誘発します。この限りで、情報的世界はいわゆる“物的な世界”と同様な実在性をもつということができます。」181P
「ところで、情報的世界とは何であるか? 情報的世界に関わるとはいかなる構造的事実であるのか? これはベカント[熟知]ではあっても到底エアカント[学理的に認識済み]ではありません。/先ず、直接的に与えられているのは、文字、言語音声、画像、身振り、といった“感性的形象”であり、しかもそれに限られております。これらの“感性的与件”が単なるals solches(そのもの)として意識されるだけでは、しかし、情報的世界は拓けないのであって、この与件がetwas Mehr (所与以上の或るもの),etwas Anderes (所与以外の或るもの)として意識されることにおいてのみ、はじめて情報的世界が現前することになります。」181-2P
「情報的世界とは、受信者がいうなればもう一つの眼で見た“物的な”世界にほかなりません。」182P
「畢竟するに、情報的世界が与えられるとはいえ、それは受信者にレアールな形象として与えられているわけではないのであります。受信者にレアールに与えられるのは“記号”だけであって、情報内容は、いわばイレアールな仕方で、イレアールな形象として与えられるにすぎません。/この点で、情報社会の拓けかたは、使用価値(典型的には物的貨幣体)において価値が体現され、使用価値物価値物としてgeltenするのと類比的である――レアールな記号的形象がイレアールな情報としてgeltenする――と申すことができましょう。」182-3P
「受信者が記号を“理解”できるのは、伝達者と受信者とが当該記号体系(ラング)の「ラング主体」ともいうべきものになっていること、そして“記号”がマルクス価値論の言葉を転用すれば、一般的言語活動の「凝結体」Gallerteともいうべきものを体現していること、このことを俟ってであります。抽象的一般的労働の主体ではありませんが、商品世界における人間と類比的に、いわば抽象的一般的記号活動の主体として、受信者がこのような「者」として在る限りにおいてのみ、はじめて情報社会が存立するわけであります。」183P
「情報的世界は、レアールな記号形象がイレアールな情報内容としてgeltenすること、しかも、レアールな受信者がイレアールなラング主体として在る限りにおいてのみ現与のものとして拓けるという二重の二肢性、つまり四肢的な構造聯関において存在すること、私どもはとりあえずこれを銘記できるかと思います。」183P
(b) 意味理論の問題性
(この項の問題設定)「情報内容、すなわち伝達される「意味」がレアールなGebilde[形象・形成態]として与えられるわけではないとすれば、一体いかなる仕方でそれが与えられると言えるのか? また、それはいかなる存在性格のものであるか? この問題について考えておきたいと思います。」184P
「事態を直截にみるために、先ずはいわゆる概念語、例えば<樹>という記号で意味され、伝達されるところのものに即して考えてみますと、それは、松、杉、檜、等々、多くの外延によっていわば代入されることのできる函数的性格をもち、しかも、個々の外延が特個的であるのに対してそれ自身はこれらのいずれでもあるところの本質的同一性を表明することにおいて普遍的性格をもち、さらには、それらによって指示される現実の樹木は生長し枯死するという生成流転の相にあるのにひきかえ、それ自身は成長も枯死もせず自己同一性を保つという不易的性格をもつ――という具合に、そのものそれ自身をとり出して存在性格を問うとき、或る種の学派がいう意味での「超時空的存在性格」をもっております。」184P
「「超時空的存在性格」=イデアールなetwasということを容認して考えますと、情報・伝達という問題を――「意識箱論」的な不当モデルを卻けつつ――一応は説明できることを否めません。私は、先に、伝達者と受信者とが、いわば同じ眼で同じ“客観的事象”を観るという云い方をしましたが、両者が同じものを(ここでは概念的意味というよも同じSachverhalt[事態]というイデアールなものを)一者は現場で、他者は記号において「本質直観」するのだ、と主張すれば、たしかに一応の説明になります。伝達が伝達として成立するためには、伝達者と受信者とが同じ対象同じSachverhaltを“志向的に”意識するのでなければならないという要求がみたされますし、情報的世界はレアールには与えられないが、イデアールには与えられるということになります。」184-5P
「私どもは、マルクスに倣って「物象化」の秘密に対自的でなければならないと思います。」185P
「「イデアールなWesen[本質]とWesensschau[本質直観]の秘密は奈辺にあるのか? ここでも、とりあえず“概念語”に即して云えば、私は次のように考えます。私どもは、とかく、同一の語彙で表わされる対象群は同一の性質をもつ、――同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表わされる(結果) ――と考えがちであり、当のdas Identische [同一なもの]を純粋に確定しようとするところから、かのイレアールなetwasを要請せざるをえない結果に陥りますが、これはまさしく、同一の価値をもつが故にそれらどうしが交換されるというのと同様な「物象化」的な転倒だと申さざるをえません。意味の同一性、かのイデアールなdas Identische は思念されたものにすぎない。とは申せ、「同一の語彙で呼ばれるものどもは同一の本質的性質をもつ筈だ」という信憑、このbelief [信憑・思い込み]の基礎にある共同主観性を看過できません。言語活動においては、対象を何と命名するかは原理的には何らの必然性をもたぬにせよ、ともかく諸個人の間で歴史的社会的に共同主観的な一致がみられ、この共同主観性が由因となって、例えば「トマトは果物でない」「メロンは果物である」と言うとき、その内実は人びとがそう呼ぶか呼ばぬかの差異にすぎないのに(?)、客観そのもの自体のもつ本質的な属性が相異なるかのように思念されます。けだし、@「個人的なものは主観的である」という命題が変換されて「個人的でないものは客観的である」とされ、これがA「客観的なものは共同主観的であるという“経験”と相俟つことによって「共同主観的ものは客観的である」というシェーマがいつのまにか成立しているため――このシェーマにもとづいて、人びとが斉しく同一の語で表現するという共同主観性から「そこには“同一な或る客観的なもの”が存在する筈だ」と思念されるに至るのではないかと思われます。」185-6P
「イデアールな存在性格を有する「意味なるもの」が自体的に存在するという思念は、言語的交通(交換)の機能的関係が物象化して現われる、このような転倒にもとづくにせよ、「意味」はあながちnichts [無]なのではなく、純粋数学の対象などと同じく、その「存在」権を一応は認められてしかるべきだと思います。「意味」や純粋数学の対象は思念vermeinenされた「存在」たるにすぎないとはいえ、このVermeinung [思念]は人びとが共同主観的に自己形成をとげ、いわば同型化している限りでのみ存立するものであり、このVermeinung を現に抱いているかどうかに応じて意識事態が根本的に変様することを否めません。しかもこのintersubjektive Vermeinung [共同主観的な思念]の志向対象はrealitasとしてはnichtsであっても、当のVermeinung そのものはnichtsならざるrealitasであります。」186-7P
「この限りで、私どもはintersubjektives Zusanmenwirken [間主体的協働]の物象化、この「物象化の秘密」を対自化し、共同主観的思念の対象を自存視するFetischismus (物神崇拝)を戒めつつ、マルクス価値論の故知に倣って、イデアールな対象性、ないしはSachverhalt [命題的事態]、もしそう云いたければSatz an sich [命題自体]がbestehen [存立]するかのように、そしてそれが共同主観的にvernehmen [受納・認知]されるかのように処遇したいと思います。」187P
(c) 社会的行為の対象性
「私どもは、日常的生活において、その都度の対人的環境場面にふさわしい仕方で振舞うように“社会的”に規制されており、大むねそれに従って行動しております。」187P
「人間の社会的行動の一切がいうなれば演技としておこなわれていると申すことができましょう。(私がこのように立言することにおいてbesorgen [配慮] とかfürsorgen [顧慮]とかいった規定ではIn-der-Welt-sein [世界・内・存在]としての如実の相を把えきれぬことを申立てたいのであること、これをお含みいただけるものと思います。後にふれます通り、私に言わせれば、「ダス・マン」としての在り方はもとより、「実存」としての在り方ですらすでに扮技の一形態にほかなりません。) 」188P
「この人生劇場においても、舞台(幕・場)があり、大道具・小道具があり、筋書があります。この劇場では、演出家や作者が居ないというよりも、彼ら自身、俳優として登場します。そして、舞台も、道具も、筋書も、演技者が多少は手を加えることができるにせよ、大むね既成のものであり、役柄ですら、自分で撰んだというよりも、振り当てられたものという趣きが強いと申せましょう。いうなれば既成の舞台・道具・筋書にもとづいて、ほぼ決まった型で演技するよう強制されるのであります。/私どもは、この“人生劇場”を手掛りにしていわゆる広義の社会、つまり、学校とか会社とかいった“小社会”はもとより、家族や国家なども包摂する広義の社会の何たるかについて、またその存在構造について、アプローチすることができるように思います。」188-9P
「先ず、舞台(幕・場)や大道具小道具になぞらえるところのものでありますが、人はとかく、“自然的環境”を第一に考えることかと思われます。しかし、“自然”と申しましても、そもそもZuhandenseinたる限りでの自然であることを忘れてはなりませんし、私どもに現実に拓ける“自然的環境”は、田畑という森林といっても文化化(「クルティヴィーレン」のルビ)された自然、いうなれば加工された“自然”であることを認めないわけには参りません。・・・・・・いわゆる“自然的環境”としての舞台や道具は、俳優本人にとっては既存の物的な与件であるにしても、人間の社会的協働的活動の対象化され物象化されたものであると申せます。」189P
「ところで“舞台・道具・筋書”には、狭義の社会的環境、社会的形象が存在することも看過できません。わけても“制度”と呼ばれるものは、例えば代議制度や司法裁判制度がなければ選挙や裁判という“劇”の上演もありえないわけで、“自然的環境”以上に舞台として重要な地位を占めております。“制度”は、しかも、一見したところ諸個人から独立に、いわば自体的に存在するように映じます。少なくとも、それが諸個人の行為に対していわば“外的拘束力”をもつことは確かであります。そしてこの点では、いわゆる社会習慣や道徳のごとき一定の固定化をとげた社会形象は、いずれも同様に“外的拘束力”をもちます。しかるに、これらの社会的形象は、元来、人びとの行為(思考を含めて)の様式がステロタイプかされたものであること、人間的活動の対他対自的な在り方が膠着sichfestsetzenし物象化したものであること、人間のmanières d’agir,de penser et de sentir (行動・思惟・感受の様式)のréification[物化]であること、これは容易に看取することができます。翻って考えますに、いわゆる「制度」も、これまて、人間活動の様式、演技の様式が固定化し、物象化されたものであると見做せます。――このようにみて参りますと、社会的形象、社会的環境と呼ばれているところのものも、個々人に対しては与件として既在しますが、先行する他人たち(過去における自分自身を含めて)の行動様式の物象化、この即自的な協働のVerhalten[関係行為]の物象化によって成立し存立しているものであることが判ります。」189-90P
「社会――文化化された自然をも含めて――環境的世界が、先行する他人の行為とその様式が物象化されたものであること、これが人びとの演技に対する舞台や道具という与件になること、しかもそれが筋書をほぼ規制し、かつまた外的拘束的な“客観的”規制力として或る“型”の扮技を“強制”すること、私どもは以上、経済法則、とりわけ“価値法則”とのアナロゴンをなすこのような対象的側面をみてきましたが、各人の行為は、彼がその型の役を扮技することにおいて、――なるほど彼の個性の故に多少の変様をもたらしつつも――社会形象・社会的“自然的”環境世界の物象化過程の一齣として機能すること、この側面をも同時に認めなければなりません。人びとは在る役柄を演ずることにおいて、与件を新たな社会的形象として変様的に再生産するわけであります。」190-1P
「扮技云々という先の表現は近世的個我主義に妥協した云い方だったのであって、人間には実体的本質はなく、まさに「社会的関係の総体」と申さねばなりません。とはいえ、人びとが時折、役柄との分裂、扮技としての扮技ということを意識するという事実に根拠がある限りで、そしてIch als Ichという意識が現に私念されるという限りで、誰かとしての役を演ずる私、I as someone else本来的な自己以外の或る者としての私、という云い方が一応許されると思います。(この「自己」の問題については宇都宮芳明氏の『役割と自己』――哲学会編『現代哲学の課題』所収――参照)。ここにいう「誰か」やstatus and roleについては、それが階級といった次元においてあるものと、と当番といった機能的な規定性においてもあるもの等々、細かく区別する必要があります。が、さしあたって一般的な構造に即して申せば、ともあれ、人びとは、誰かとしての誰かとして。与件を変様的・再生産的に物象化していく、この四肢的に構造化されたダイナミズムにおいて謂うところの社会Welt[世間]が存立すること、私どもはこれを確言できると思います。」191-2P
(d) 自然的世界の歴史性
これまでの展開とこの項の問題設定「自然的環境世界と呼ばれるものが必ずしも自然als solche(そのもの)ではないこと、それがZuhandensein (用在)として現われるというだけでなく、いわば加工され“歴史化された自然”になっていることについて上述しましたが、しかし、人間活動の物象化による変様が直接的に及ぶのは地球の表面に限られており、いわゆる大宇宙や地球内部の自然のごときは文字通りの自然であることを認めなければならないのではないか? これをすら“歴史化された自然”と考えることができるのか? 私どものいう「歴史的世界」の外延を明らかにするためにもこの問題にふれておきたいと考えます。」192P
「結論から先に申せば、感性的与件、というよりもフェノメナリスティックに開らける“自然的世界”は別の機会に(上述の論文「世界の共同主観的存在構造」)に主題的に論じておいてことですが、即自的に歴史的・社会的に共同主観化されているというのが私の考えであります。いわゆる知覚的形象からして、既に、いうなれば記号化しており、歴史的・社会的に共同主観化されたetwas Mehr (所与以上の或るもの)として意識されます。/マルクス流に申せば「人間的な感性は直接にあるがままで、対象的にあるがままで人間的感性、人間的な対象性であるのではない」「他の人間の感覚や精神が私自身のものとなっており……社会的な諸器官が形成されている」のであり、人びとはこの社会的な感覚器官で自然を見るのであって、いわゆる高等な認識能力はもとより「感情や感覚にいたるまでイデオロギー化している」のであります。」192-3P
言語・文化圏の違いによって聞こえ方さえ違ってくるという例と、マルクスの「社会の感官」の話の引用を受けて「フェノメナルな自然と区別されたVorhandensein [物在]としての自然にいたっては、それこそ歴史社会的な教育を通じて伝達され共同主観化された“情報的世界”の一斑であり、かのイデアールな「意味」の“受肉せる”体系であること、これが物象化的転倒によって真実在としての自然そのものとされ、現実のフェノメナルな世界がそれの現象、甚だしきに至っては仮象だとされて了うのである」194P
「私どもに如実に展らける自然的世界、これが単なるals solcheな所与ではなく、即自的に、そしてfür unsには、いわば記号(象徴)化され、歴史的・社会的に共同主観化されていること、このことは私どもが即自的に「社会化された眼」「社会化された心」で以って自然に対するということと相補的であります。ここでもまた、件(「くだん」のルビ)の「誰かとしての或る者として、何かとしての所与に、対する」という四肢的構造が認められます。/翻って申せば、いわゆる「科学的実在としての自然」Vorhandensein としての自然という与えられ方も、「誰かとして」の在り方の特別な様態、いわば「マン」化した在り方に照応するものであって、右に謂う四肢的構造聯関の一変様にほかなりません。」194P
「尚、歴史法則との関係で附言しておけばvorhandenseiend自然法則なるものは、実際には、かのイデアールな「意味」体系の一斑なのであって“なまの自然”そのものの法則ではありませんし、イデアールな自然法則の必然性は、それを定式化する数学的定式のもつ論理的必然性――遡っては、その大もとにひそむ神学的必然性ないしはその名残り――であって、黒板上の三角形の内角の和が正確には二直角にならぬのと同様、現実の自然界は古典的な「必然性」に服すべくもありません。自然必然性なるものが現実的自称聯関を理想化(「イデアリジーレン」のルビ)して措定されたものであり、それ自身を取り出して絶対化するときフィクションにすぎなくなること、しかるにこれがしはしば物象化されて絶対的法則とされてしまうこと、私どもはこの「秘密」を対自化することによって、自然法則と歴史法則とを原的に区別するの愚を自ら戒めることができます。一歩下った次元では、私どもも、自然法則と歴史法則とを区別すべきでありましょうが、自然と歴史を二元化するような、従ってまた、自然法則と歴史法則とを絶対的に区別するようなドクサ[臆見]は、先にみた自然の在り方に即して私どもの卻けるところであります。」194-5P・・・法則の物象化・絶対化ということに関しては、後期エンゲルスが陥った弁証法の法則的図式化・絶対化を押さえることが必要。
(e) 歴史的世界の四肢性
これまでの押さえ「以上の行論を通じて、謂うところの「世界」が殆んどことごとく“情報化”された世界であること、いわゆる“眼前の知覚的世界”といえどもその一斑は人びとの“扮技的”対象的活動の“物象化”であり、さなきだにいわば“記号化”され、歴史的・社会的に共同主観化された相で世界が現われることを見て参りました。」195P
(この項の問題設定)「マルクス・エンゲルスは「われわれは唯一つの学[体系知] (「ヴィッセンシャフト」のルビ)、すなわち歴史の学しか知らない。歴史は、自然の歴史と人間の歴史とに区分して、二つの側面から考察されうるが、しかし、人間が現存する限り、自然の歴史と人間の歴史とは相互に制約し合うのであって、これら両側面を分離(「トレンネン」のルビ)することはできない」と説き、先に引用した通り、これを敷衍するかたちで「歴史化された自然」を云為しております。慥かに、私どもが内存在する世界は、総じて歴史的に拓かれた世界であることを追認することができます。/この「歴史的世界」の在り方を、私としては先にみておいた「商品世界」に比定しながら論ずるという便法をとりましたが、この類比を可能ならしめる存在根拠は、商品世界が歴史的世界の一齣であるということに存する筈であります。今や、商品世界に関する論点をも射程に収め、世界が歴史的世界として存立しうる所以の基底的な構造を再確認しつつ「歴史の哲学」の基盤を対自化しておきたいと念います。」195-6P
「再度確認するまでもなく私どもが存在するUmwelt[環境的世界]が“情報化”された世界だということは、決して、私どもがいわば観念の楼閣を築きそのなかに住まっているということを意味するわけではありません。情報的世界なるものは、なるほどvorhanded(物的)に空間中に存在するわけではありませんし、この意味ではイレアールですが、私どもとしては「世界」なるものについての観方の変項を要求しつつ、いわゆる広大無辺な空間的大宇宙なるものが実は情報的世界の一様態なのだと主張するのであって、この次元では、情報的世界はイレアールだという妥協的な云い方はもはや撤回の必要があるかもしれません。情報的世界は、この次元では、まさしくwirklich(実在的)な世界であります。」196-7P
「この次元でみるとき「物理的」過去の事象も現在的gegenwärtigであり、物理的にはもはや消滅した過去の文化的遺産も、そしてまた予見される未来ですら、現在的であると云うことができます。さらにはまた、マルクスのいう「下部構造」と「上部構造」との区別もサブスタンシャル(実体のある・現実的)な区別ではありえません。“既在”するにせよ、社会的文化的構造成体は、人びとの対象的活動、一定のroleの“扮技”として存立するところのintersubjektiv (間主観的)な、乃至は、むしろzusammensubjektiv(相互主観的)な営みの物象化であり、かの四肢的構造聯関のダイナミックな過程的総体、如実に存在するのは、原基的にはこの一全体であります。(註、生物体としての身体の維持で喰うということの下部構造との関係)」197P
構造成体の物象化に関するマルクス・エンゲルスの文を受けて「「歴史の哲学」がディアクロニック(通時的)な法則定立的な体系を構築しうるとすれば、それはこのintersubjektives Zusammenwirken (間主観的な協働)の物象化に拠ってであります。」197-8P
「この歴史的物象化を支える共時的(「サンクロニック」のルビ)な基本的構造について――ここでは抽象的一般的な立言にとどめざるをえませんが――次のような論点を取出せると思います。/人びとの対象的活動は、さしあたり一つの“自然現象”として、既存の自然的聯関に或る変位をもたらしますが、この“自然現象”は即自的に道具的有意義性をもつだけでなく、社会的有意義性をもたらします。・・・・・この“変様”は、しかも観照的な視点に現われる変様ではなく、実的な変様であることが認められます。要言すれば、人びとの対象的活動は、単に道具的有意義性の聯関に変位をもたらすものとして単なる道具的有意義性をもつだけでなく、同時に社会的有意義性をもつものとして、――使用価値の生産が同時に価値の生産と相即する商品世界の対象的二重性はこれの一様態にすぎないのですが――二肢的二重性において存立します。」198-9P
「対象的活動の“主体的”側面についても、さしあたり生理・物理的な“自然現象”と見做されうる当の活動が、本源的に社会的規定性を帯びます。・・・・・・恰度、具体的有用労働の主体が抽象的人間労働の主体として社会的にgeltenするのと類比的な構造においても二重化して現われます。そして、このpart-taking(役割分掌)の物象化がかの対象的二要因となって二重の有意義性を担うものにほかなりません。」199-200P
「こうして、人びとはその都度すでに(「インマー・ショーン」のルビ)、歴史的社会的に存在被拘束的(seinsverbunden)な仕方で、誰かとしての役柄を演じつつ、与件を etwas Mehrとしてzusammenwirkendに物象化的に措定することにおいて、共時・通時的な、かの動力学的な過程的聯関を再生産しつつ歴史的世界を存立せしめます。歴史的世界においては、即自的なZuhandenseinが対自的には同時的にMit-gehalten-sein (共同保有存在) として、persönlich (人格的)な対象的活動がent- persönlichな物象化的協働として、二重の二肢性において現われますが、この際、Mit-gehalten-seinはいわゆる“主体的なものの客体化”としてではなく、zusammensubjektivな関わり合い(「ベツィーウング」のルビ)の物象化的現前として――より剴切に云えばMit-gehalten-seinがzuhandendに現前するのは人びとが存在拘束的な協働関係に参与part-takingしていることにおいて――存立します。」200P
この章のまとめ「以上、「商品世界」に関するマルクスの視角を手掛りにしながら、「歴史的世界」の在り方を問題にして参りましたが、私としては世界の展らけ方に定位していわゆる近代的世界了解をその一変様として位置づけることができるのではないか、と考えます。ここでは、しかし、――この作業に立進むためには、一方では、認識論的発想の図式と緊密な関係をもつ近代的世界像について予めしかるべき分析を施す必要があり、他方ではまた「歴史的世界」についてもかのpart-taking(役割扮技), zusammenwirken(協働)をin-seinの如実の様相に即して予め把えておく必要があります」201Pで、ここで、ハイデッガーの用在論を中心に小さなポイントで展開していって、最後にまとめています。「要言すれば、ハイデッガーの世界了解は、――近代的世界了解の図式をその一変様として止揚する構えになっているにせよ――歴史的世界の一様態、四肢的構造成体の二肢しか含まぬ平面で截った一射映に限られている、私としては、彼の「存在」の哲学に対する疑念を保留しても、なおかつ、こう申さざるをえません。」202-3P
「このような“妄言”に私なりの論拠を与えるためにも、status and role、舞台、道具、筋書、行動の文法、扮技、等々、比喩的な言葉で語ったところのものを直示的タームで綴り直し、しかもその具体的な在り方と聯関構造を主題的に論考する「歴史の哲学」を自らに課しつつ、拙い報告をひとまず結ばせて頂きます。」203P
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(3)
V 歴史的世界の物象化論
「ここに「歴史的世界」というのは――自然界との区別における“歴史界”とか、今日の“世界情勢”とかいった――世界の或る特定の部分ないしは局面の謂いではありません。事柄としては、端的に「世界」と呼びかえても一向に差支えないのでありまして、「歴史的」という限定は、この世界をどのようなものとして了解するか、もっぱらこの了解の仕方に関わるものであります。/世界をどのようなものとして了解するか、――より剴切にいえば、旧来の世界了解をどうあらため、どうとらえなおすか――これこそが、亦、以下の議論を支える問題意識にも他なりません。」156P
「尤も、私がどのような問題をどのような視角で論考しようとしているのか、これを表象していただく手掛りとして、その限りで、ハイデッガーを“出し”にして申せば、いわゆる近世(近代)的な世界了解の地平――Subjekt-Objekt-Schema[「主観−客観」図式]というよりもSubjektivismusとObjektivismusとのWechselspiel [シーソーゲーム]を必然的に生ぜしめるごとき「近代的世界了解の地平」――そのものをいかに超克するか、これが現代哲学の根本課題をなすことは肯んぜられてしかるべきだと考えます。だが、ハイデッガーは、果たして彼の提起した当の課題を真に解決しうべき方向性を確立しえているか、私としては疑問なきをえません。『存在と時間』以来の「世界・内・存在」というGrundverfassung [基本的な構え]、彼の課題意識とも吻合しえるこのGrundverfassung [基本的構制]の内実そのもののうちに、彼の隘路が胚胎しているように思います。」156-7P
「世界を原初的にZuhandensein[用在]という在り方において把え、人間存在を「本質的に共同存在(「ミットザイン」のルビ)」として把えるハイデッガーのVerfassung [構制]は、近代的世界像の地平に対して、慥かに異質であり、それを超克する構えになっている。とはいえ、彼のZuhandenheitの把えかた、Mitdasein [共同現存在]の把え方が一面的であること、私に云わせればここに問題があります。/私は、先にも申した通り、ハイデッガー哲学に対する主題的な批判を企てる心算も、また彼の批判的継承を試みる心算はありませんが、彼の「世界・内・存在」の規定内容に対しては、その“楕円の二焦点”ともいうべき如上二つの契機に関して、恰度、彼がデカルト的(世界)存在論に差向けたのと同様、真の在り方、真の了解仕方の「変様」としてそれらを定位してみせる必要がある、と考えます。そのためにも、しかし、それでは私どもとしては世界をどのように了解するのか、これを積極的に提示する必要を生ずる所以でありまして、以下の試みは就中この関心に懸ります。」157-8P
「このような問題意識をもって顧みますとき、私としましては“後期”のマルクス・エンゲルスが拓いた新しい世界観を看過することができません。いわゆる正統派的解釈ではマルクス・エンゲルスの拓いた地平が再び覆われて了い十八世紀の唯物論と逕庭(けいてい:隔たり)のないものに見立てられておりますが、――そして「マルクス主義を今日の時代における乗り越え不可能な哲学と見做す」に至ったサルトルでさえ、必ずしもそれを分明に把えていないように見受けられますが――私のみるところでは、マルクス・エンゲルスは或る歴史的な僥倖にも恵まれつつ、“近代的”世界観の地平を超克しうべき視座を設定し、それをいわば覚え書きのかたちで遺しております。」158Pこれについては『地平』と『存在構造』に所収した二つの論文を示しています。
「“覚え書き”と申しましたが、私はその第一に『資本論』を数えます。夙に指摘されております通り、『資本論』は普通の意味での単なる“経済学の書物”ではなく、それ自体ひとつの世界観を告知する“哲学書”であります。マルクス自ら語るところによれば、『資本論』は彼の到達した新しい世界観・歴史観をLeitfaden (導きの糸) にして書かれたものであり、私どもはこれから逆推して彼の到達した世界観なるものの再構成を企図することができます。マルクスは、随所で彼の世界観の根幹にかかわる発言を断片的におこないながらも、彼の世界観そのものに関わる纏まった講述を遺しておりません。が、『資本論』からの逆推によって、かれが各所で記している一見“奇矯”な章句をも整合的に理解できるように思います。」158-9P
「私は、まず、『資本論』で分析されている「商品世界」Werenweltの存在構造について自己了解の素描をおこない、これを念頭におきながら、次ぎに「歴史的に生起する世界」の現実を眺め返すという議論の方式を採ることに致します。」159P
一 商品世界の存在構造
(この節の問題設定)「『資本論』が対象としているWerenwelt[商品世界]は、慥かに歴史的世界の一つのPhase [位相]たるにすぎません。しかし、ここには歴史的世界一般の存在構造が直截に顕れているように看ぜられます。それは、まずは「商品世界」の存在構造について、マルクスの視角を追認しながら一瞥しておき、――ハイデッガーのZuhandenseinは一面的であると先に申した所以のものについても間接に立言しつつ――後論のための視座を設定することに致したいと思います。」159-60P
(A) 商品世界の二重性
「商品世界、すなわちhomo oeconomicusとでも呼ぶうべき関心の仕方において在る人びとの視界に拓ける世界は、さしあたり、“用在” Zuhandenseinの一総体として現前します。」160P
「商品は、さしあたり、その諸属性によって人間の何らかの諸欲望を充たすところの外的対象である」。この有用性が、「その物を使用価値Gebrauchswertたらしめる」。だが、この有用物、すなわち、単なる物体ならざる商品体Werenkörperは、決して“物材(「フォルハンデンザイン」のルビ)”に有用性という“アスペクト(Aspekt容貌)”が押しつけられ、“即自的に物在化する世界素材が(主観的に彩られた)ものであるかのように理解されてはならない”。マルクスによれば「商品体そのものが使用価値」なのであります。」160P
「使用価値としての商品においては、もっぱらそれの有用性が問題なのであって、それが“物在”としていかなるものであるか、それが物理・化学的にいかなるものであるかということは、それ自体としては問題でありません。・・・・・・これら“物在”としての在り方が問題になるのは、それがペンの“使い”易さ、ペンの道具としての有用性に関わる限りのことにすぎません。精確にいえば、材質、質料、形状、等々が、ここでは“物在”的性質としてではなく、それ自身、有用性の契機として、その限りでのみ、問題になるのであります。」160-1P
「使用価値としての商品に関する限り、etwas um zu……(……のための或るもの)として“適在性(「ベヴァントニス」のルビ)”をもち、“道具全体性”Zeugganzheitのうちにある、等々、私どもは、ハイデッガーの所謂Zuhandenheitによって、事態をカヴァーすることができます。/しかし、ハイデッガーのZuhandenheitでカヴァーできるのは、商品が使用価値たる限りにとどまります。しかるに、商品は単なる使用価値ではなく、商品としての商品にとって、使用価値は、さしづめ「交換価値の質料的担い手」たるにすぎません。」161P
「商品世界においては、すべての商品は、単なる使用価値としてでなく、必ず一定の交換価値(これの貨幣的表現が「価格」)をもったものとして現われます。」161P
「価格をもつということは、先廻りして申せば、商品が使用価値とは全然別の在り方をしていることを意味します。私どもは、とりあえず、三つのことを確認することができます。/第一に、すべての商品が価格の単位で度量されるような、或る共通な質に還元されていること。・・・・・・/第二に、価格(交換価値)は使用価値をもつもののみがもつということ、もし端的に使用価値=有用性がなければ、誰しもそのものを交換(購買)しません。使用価値をもつもののみが交換価値をもつことができ、この意味で「使用価値が交換価値の質料的担い手である」ということができます。/第三に、しかし、交換価値と使用価値とは決定的に異質であること。使用価値としては異質な諸商品が共通や質に還元されるという先の論点は措くとしても、もし使用価値として全く同じものであれば、人びとはそれらを交換することはない筈であります。」161-2P
「ここにいう「価値」=「商品価値」は、もとより、いわゆる価値哲学にいうところの“価値”一般をカヴァーしうるものではありません。しかし、それが哲学にいう“価値”と“存在領域”や存在性格を同じうするかもしれないということ、しかも、この価値ためや、ハイデッガーのZuhandenseinという把捉においては――無差別的に包摂されてしまうことによって――その独自的な対象性が看過され、よってもって、“対象的世界”の実相をverkennen[看過・誤認]せしめる一因になっているかもしれないということ、この点まではあらかじめお含み願えると思います。/商品世界は、ともあれ、使用価値としての対象性と価値としての対象性との、二重の相貌のもとにerscheinenする[現象する]ということ、とりあえず確認しておきたいのはこの二重性であります。」162-3P
(B) 価値理論の問題性
(この項の問題設定) 「商品の価値とは一体何であるのか? 前項で措定した限りでは、それがいかなる存在性格のものであるか、まだ決定されておりません。そもそも、商品価値の存在をめぐっては――というよりも寧ろ、めぐっても――周知の通り、主観価値説=価値唯名論(「ノミナリズム」のルビ)と価値実在論(「レアリズム」のルビ)との対立があり、果たして価値成るものが“客観的”に実在するのか、これからして未決問題であります。」163P
「主観価値説=価値唯名論によれば、「価値なるもの」は客観的には実在せず、私念されたものにすぎません。従って、「価値に」関するWas-Frage [「とは何ぞや」という問い]は、元来、意味をなさず、その都度の価格を経験的に確認し、価格変動を規定する諸要因と法則を究明すれば足る、とされます。」163P
「ここでは――此説に対する批判は保留して――次の一事を確認しておきたいと思います。それは、主観価値説では、共同主観的に一致しておこなわれる価値判断、そこにおいて“私念”される価値対象性は、たかだか“物在”としての商品体に“投射”された(主観的な彩り)にすぎず、此説においては、まさしく近世的発想における「第二性質」に類するものとして価値が考えられている、ということであります。」163-4P
「他方、価値実在論は、その最も素朴な形態においては、価値を或る種の自然物がもつ一つの属性、いわば物体そのものがもつ「第一性質」の一つとして考えたと申せます。しかし、このようなブリミティヴな価値論は、需要・供給関係による価格変動といった経験的事実を前にして、やがては価値の本質を他に求めるよう余儀なくされます。/価値実在論は、ともあれ、使用価値物としては全く異質な諸商品が共通にもつところの或る「質」、商品の自然的性質とは別なetwas、これの客観的実在性を主張する限り、しかも、もしそれを伝統的な地平で主張するとすれば、ギリシャ哲学以来の、そしてかの「普遍論争」において喧しく論争された当の問題に、必然的に逢着することになります。」164P
「価値唯名論と価値実在論との対立は、単なる経済理論のうえでの対立ではなく、まさしく哲学的な世界観のうえでの争いにほかなりません。けだし「価値とは何か」という問題の真の解決が、新しい哲学的地平の開示と相即する所以でもあります。/この解決――そしてマルクス価値論の真諦――を見定めるためには、労働価値説の原点ともいうべき場面にまで一たん立帰り、歴史的な或る経緯を再確認しておくのが結局は捷径であるように思われます。」164P
「労働価値説は、想起するまでもなく、元来は、価値唯名論と価値実在論との対立を止揚すべく登場したものではありません。歴史的にみれば、労働価値説は、当の対立が生ずる以前に――素朴な価値実在論に対する批判を通じて――成立したというのが事実であります。」164P
「古典的労働価値説は、労働こそが富の唯一の源泉である、という大提題を定立しました。しかし、このことから短絡的に、労働=価値実体という命題を導いたわけではありません。二種の商品が交換される正常な比率、これの説明が労働価値説の直接的な契機であったということができます。」164P
「こうして――「市場価格」の成立といった高次の問題点を俟つまでもなく――、論理的には複雑な計算を必要としますが、ともあれ、想定された純粋な条件下においては、人びとは、結局のところどれだけの労働時間を要するか、これを基準にして生産物の交換をおこなう“筈”である、と考えられます。」166P
「この究竟的な場面では、価値の実体ということは必ずしも問題でなく、所要労働時間は交換の比率を決定する機能的な意味しかもちません。現に、所要時間という労働の対象化といっても、かつてたしかに十時間の労働を対象化した製品であったにせよ、生産性が向上し、現在ではそれを五時間で再生産できるようになったとすれば、その十時間の製品は現在では五労働時間の生産物として交換されるのであって、投下された労働量をそれ自体が実体化されるわけではありません。/ところが、製品の価値には原料や道具の磨損部分の価値が“含まれて”おり、原料の価値が製品に“移行”します。この計算に際しては“移行”するサブスタンシャル(実体的substancial)な“価値”が論理的に前提されます。また、富の社会的配分、つまり使用価値物の分配ならざる価値取得の社会的配分という“事実”は、配分さるべきサブスタンシャルな或るものの存在を前提します。何はさておいても、労働生産物の蓄積によって社会的富が増大していくという“事実”は、――労働によって“自然界の一分子だに増大するわけではない”のですから――自然物とは別な或るものが蓄積され、増大していくのだという発想を促します。」166P
「このような経緯から「価値」をhypostasteren[実体化]する傾動がおのずと生じます。学史に即して申せば、重金主義的・重商主義的な金=貨幣の物神崇拝に対して、富の真の内実は労働であることと、対象化された労働であることを反定立する過程で、労働の実体化、労働価値の実体化がおこなわれるようになった、という次第であります。/ここでは、投下労働価値説と支配労働価値説との関係、その他、学史上の問題点には立入りませんが、銘記しておきたいのは、労働価値説は、元来、交換の比率を説明する機能的提題であったということ、しかるに、上記のごとき、“経験的事実”に逼られて、労働価値が実体化されるようになったのだということ、この二点であります。」167P
(C) 商品価値の対象性
「マルクスは、周知の通り、古典派経済学の労働価値説を批判的に継承するわけでありますが、彼はさしあたり――あくまでさしあたり――労働を実体化して考える発想を一歩おし進める方向で「価値」の内実を規定します。」167P
「人間の労働が対象化され、生産物中において実体化される、と申しましても、人びとが現実におこなう労働は、建築労働、紡織労働、製鉄労働、等々、等々、具体的な有用労働であって、人びとは、抽象的一般的な「労働なるもの」をおこなうわけではありません。しかるに、これらの具体的な有用労働は、それによって、生産物の有用性、「使用価値」を創出されるところの労働であり、この意味において、具体的有用労働は対象化されて使用価値になるということができます。しかしながら、この限りでの労働は、商品の価値――先にみた通りこれは使用価値とは端的に異質です――とは「何のかかわりもない」のであって、古典派経済学の労働価値概念、そしてまた労働概念は、そのまま踏襲するわけには参りません。」167-8P
「そこで、マルクスとしては、商品の二要因、つまり、使用価値と価値との二重性に対応させて、労働の二重性を区別します。すなわち、彼は「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」とを区別します。そして、具体的有用労働の対象化されたものが使用価値であり、抽象的人間労働の対象化されたものが価値であることを主張します。」168P
「「抽象的労働」という規定を単なる論理的抽象と考えるならば、つまり、現実の人間労働から具体的な諸規定を捨象した残渣だと考えるならば、そのような抽象的人間労働をたとえ容認したとしても、その対象化されたものはたかだか“抽象的一般的使用価値”たりうるにすぎまい、――それはとうてい価値たりうべくもない――ということになりましょう。/マルクスのいう抽象的人間労働は、しかし、そのような論理的な抽象ではありません。それは「日々おこなわれている抽象」であること、――ハイデッガーのいうdas Manが現実の人間から論理的捨象によって取出された抽象人der Menschではないのと同様――商品生産が汎通的な社会においては、労働者たちがいわばdas Manないしはdas Arbeiterと化している現実的な事態に照応するものであること、ポジティヴな規定は次項にゆずらねばなりません」168-9P
「「価値」は抽象的労働の凝結という規定とはさしあたり無関係に、――マルクスも自から「謎めいた性格」(der rätselhafte Charakter)という云い方をしておりますが――特異な存在性格を呈します。/価値は慥かに、一種の“客観的実在性”をもって私どもに迫ってきます。・・・・・・価値は、このように人びとの意識を規制するだけでなく、行為をも規制する“客観的な対象性”として現前します。」169-70P
「商品がもつrealitas (現実性)としての諸規定性はことごとく使用価値に関わるものであり、マルクスによれば、使用価値としての商品には「自然物の一原子だに入り込み」ません。マルクスが「抽象的人間労働」という概念を立てた所以であり、また「幽霊的な対象性」gespenstinge Gegenständlichkeitと彼が云う所以でもありますが、価値は自然物的実在物的な対象性ではなくirreal (非現実的)なetwasであります。」170P
「かくして、「価値」は厳然たる“客観的”な対象性でありながら、しかもrealitasとしての実在物ではない、さりとて「価値」が形而上学的な実在ではないことも絮言を要しません。「価値」は畢竟するに、哲学者たちが“意味の第三帝国”とか“価値領域”とか呼ぶところのもの、ヘルマン・ロッツェのGeltung[妥当]などと存在性格を同じうするわけであります。」170P
「マルクスとしては、このような「価値」という商品世界の相面――Zuhandenseinという把捉では尽くしえぬ商品世界のirrealな対象性――Geltungを、ひとまず「抽象的人間労働」のObjektion- Objektivation [客観化−客観的対象化]という規定で積極的におさえておくのであります。」170-1P
(D) 商品存在の物神性
「商品は「一見したところ平々凡々たるものにみえ」ますが、一面では使用価値という感性的な対象性として、他面では、しかも同時に、価値という超感性的な対象性として、つまり、レアールで且つイレアールなein sinnlich übersinnliches Ding [感性的で且つ超感性的な事物]として定在するのであって、マルクスが書いております通り、「分析してみると、商品は形而上学的な詭計にみち神学的な意地悪さでいっぱいの甚だ厄介なしろものであることが判り」ます。」171P
「商品世界の存在構造を把えるためには、この「商品の物神的性格とその秘密」Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis――それは同時に「抽象的人間労働」、そして、その「凝結」としての「価値」というマルクスのテーゼの謎にも通ずるのですが――これを解かねばなりません。」171P
マルクスの自問自答「労働生産物が商品という形態をとるや否や生ずる……この謎めいた性格はとこから生ずるのか?……商品形態においては、人間労働の相等性が労働生産物の相等な価値対象性という物象的な形態をとり、人間的労働力の支出の時間的継続による度量が労働生産物の価値の大きさという形態をとり、……生産者たちの諸関係が労働生産物の社会的関係という形態をとる。」「商品という形態の謎にみちた在り方は単に次の点てにある。すなわち、商品形態は、人びとの目に、彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの事物が自然物として具えている社会的属性として反映させ、従ってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係を彼らの外部にある対象物の社会的関係として映ぜしめるという点にある。」「この倒錯視Quidproquoによって、労働生産物が――感性的でしかも超感性的な、乃至は社会的な、事物――商品になるのである。……ここで、人びとの目に物と物との関係という現相的な形態をとって現われるのは、人びと自身の一定の社会的関係たるにほかならない。……商品世界では、人間の手の生産物が、固有の生命を付与され、相互間に、そしてまた人間とのあいだに、関係を結びあう自立的な継承であるかのように仮現するのである。」171-2P
「社会的諸規定を捨象した労働過程そのものは、決して価値形成的ではありません。マルクスによれば「労働生産物は、それらの交換の内部においてはじめて――使用対象性から分離された、社会的に相等な――価値対象性をうけとる」のであります。「抽象的人間労働の凝縮」という言い方そのものが、実は「人間自身の一定の社会的関係が仮現的物性の形態をとって現われる」商品世界における、汎通的な物神性に即した表現にほかならなかったのであります。」172-3P
「それでは、抽象的人間労働の対象化・物象化というのは、従ってまた「価値対象性」は、単なる仮象にすぎないのでありましょうか? 『資本論』におけるマルクスは――と申すより『経済学批判要綱』以降のマルクスは――労働の対象化を論ずるに当って、もはやヘーゲル学派的な意味での対象化、外化、疎外の論理は採りません。人間労働の物質化、実体化、凝固といった一連の表現は、この限りではもはや、いわば比喩的な意味しかもちません。具体的有用労働の「対象化」という表現に関してさえ、マルクスは、実際には「物材の形態を変化せしめるだけにすぎない」旨をわざわざ断っており、況や抽象的労働の凝結という表現においておやであります。価値対象性は、色など、いわゆる第二性質の「投射」とのアナロギーさえ許しません。現にマルクスは「物が視神経に与える光彩の印象は、なるほど、視神経そのものの主観的刺戟としては現われないで、眼の外部にある物の対象的な形態として現われる。しかし、視覚の場合には、外部対象と眼という……物と物との位置関係である……しかるに商品形態は……物的な関係とは絶対的に無縁である。それは人びととそのものの一定の社会的な関係にほかならない」ことを強調し、「価値は個々人の労働相互間の関係にほかならず、或る特殊社会的な労働形態の対象的表現にほかならない」ことを力説しております。価値は、主体・客体の直接的な関係によって創出される物的な形成体ではなく、また主観から客観へと“投射”された第二性質のごときものでもなく、実は「一つの社会的関係」「社会的な形成体(「ゲビルデ」のルビ)」なのであります。疎外論的“主・客の論理”と“物象化”の論理とが決定的に異るという所以でもありますが、「価値」とは、こうして人びとの或る即自的な社会的協働が物象化されてetwas Objektives[客観的な或るもの]として仮現的に現象したものにすぎません。」173-4P
「マルクスは、しかし、「価値のうちに唯もっぱら社会的形態のみを、社会形態の実体なき仮象のみを看るところの復活せる重商主義」を批判します。もしもマルクスがrealitas としてのrealitas 以外には実在性を認めないような実証主義的経験論者であったならば、彼はベイリ等の唯名論者に足をさらわれたかもしれません。」174P
「「商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産関係に対して社会的に妥当する、それ故に客観的な思想形態(gesellschaftlich gültige,also objective Gedankenform)である」こと、マルクスは、商品世界的な視座をとる限りで、社会的にgültigなそれ故にobjectiveなGedankenformとして「価値」のBestand[存立]を積極的に承認するのであります。」175P
「「価値」は、決して、人間から端的に独立して存在する“意味の第三帝国”ではなく、“本質直観”においてとらえられる自存的な対象性ではありません。マルクスは「価値」をそのような自存的な対象であるかのように錯視する「物神崇拝(「フェティシスムス」のルビ)」を卻けます。が、同時に、それを単なる仮象に貶しめてしまう見方をも両刀的に卻けるのであります。In-der-Warenweltlich商品世界内的には「私的諸労働の諸生産物の交換関係において、それらの生産のために必要な労働時間が……恰度、重力の法則などのように……規制的な自然法則として自己を貫徹する」のであって、かの労働価値説の原テーゼにいう必要労働時間の機能的関係が実体化して現象すること、マルクスはここに現実的な基礎をおいて、その限りで「抽象的人間的労働の凝結」というテーゼを措定するという所以であります。/歴史的・社会的な一定諸条件のもとにおいて、人びとの共同主観的(「ツザンメンズブエクティーフ」のルビ)な協働関係が、存在被拘束的に物象化(「フェアザッハリッヒェン」のルビ)されてintersubjektiv [間主観的]に共同主観的(「ゲマインズブエクティーフ」のルビ)に現象する場合、価値の存立がその典型ですが、その“物象化”の秘密を対自的に把えつつも、その存立性をフェノメナルに認める了解の構え、――唯名論と実念論との伝統的な対立平面とは次元を異にする視座――マルクスはこのような立場に立って商品世界の存在構造を把握するのであります。」175-6P
(E) 商品世界の四肢性
前項までの復習とこの項の課題「商品世界は、さしあたり、物象的な世界として現われますが、物象的な形態において、ないしは、物象と物象との関係として現象するところのものは、その実、人びとの協働的活動とその諸関係であること、前項までの行論を通じて、私どもはインブリシットには既にこのことをみてきました。ここでは、商品世界の総体的な聯関の基底的構造を――後論への手掛りというか伏線として必要な限りで――明示的にしておきたいと思います。」176P
「まず「使用価値」という契機ですが、私どもは、先には、これが自然的な対象性であるかのように論じました。しかしながら、正しくは、この使用価値からしてそもそも社会的歴史的な形象であることを看過できません。」176P
「労働の主体は、彼が商品を生産する場合、つまり自家消費ではなく交換の目的で生産する場合、いわばdas Manにとって有用な商品を、自然的・物理的にも、文化社会的にもzweckmäßig( [合目的的・目的にかなった])になるような仕方で労働することによって生産します。」177P
「商品世界においては、人びとは同格な商品所有者として登場しますが、商品交換は遡れば労働と労働の交換であって、商品世界における人びとは“社会的に必要な労働を遂行することの可能になる者”という建前で現われることになります。すなわち「抽象的人間労働」をおこないうる者として、その主体として、いわばdas Manとして現われます。具体的な現実的な人間が互いにdas Manとしてentgegenkommen [出会い・対向]します。/このような二重化された「人格と人格との関係が、物象と物象との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されて」現われたもの、それが価値関係にほかなりません。」178P
「商品世界においては「どの生産物も象形文字化され」ます。人びとはこのBefragtes (論題)においてGefragtes「価値」を問題にし、労働をerfragen (問いただ)します。まさしくマルクスの云う通り「諸使用対象の価値としての規定性は、言語と同様な、社会的産物」ということができます。」178P
「労働生産物が価値物として存立するのは、労働の主体がdas Manとしてgelten (妥当)することにおいてであり、使用価値物が価値物として、有用労働の主体が抽象労働の主体として、まさしく言語的交通と同じ二重の二肢構造(都合、四肢的な存在構造)で存立するわけであります。」178P
「この間の事情が最も直截に現われるのが一般的等価価値形態たる貨幣(註あり)の成立している場面であり、マルクスの彼の有名な価値形態論において、使用価値物が価値物として,具体的人格が抽象的人格として、二重の二肢性において関わり合うところの、相対的価値形態と等価価値形態との弁証法的な聯関構造、私どものいう四肢的構造聯関を具体的に描出し分析していることは周知の通りであります。わけても、一般的等価価値形態、貨幣としての貨幣の成立過程と存立構造に関するマルクスの所説は、言語的交通の存立構造と直接にアナロガス(類比的)な論点を含んでおり、労働力市場の成立を俟った資本の総過程の分析、市場価格が成立している場面での構造に定位するとき、歴史的世界の構造を具象的に看取することができます。」179P
次節へのつなぎ「ここでは、しかし、時間の関係もあり、後論への基本的な手掛りと視点は上述の範囲内でも最低限確保しえたものと考えますので、「商品世界」に即しての議論はとりあえず以上にとどめ、いうところの歴史的世界に視野を拡げたいと思います。」179P
二 歴史的世界の存在構造
(この節の問題設定)「世界というとき、私どもは、とかく、広大無辺な大宇宙を表象し、この大自然界の一隅たる地球の表面に拡がる人間的世界をvorhanden (現存的・物的)に考えがちであります。超越的視点からみれば、なるほど、このような世界像を描くことが可能かもしれません。しかし、私どもの日常生活において如実に展(「ひ」のルビ)らける世界はおよそ相貌が異ります。/以下ではいわばフェノメナリスティックな視座に立って世界が私どもに現われる相を直視し、商品世界の機制を援用しながら、そこに見出される基底的な構造聯関をみてみたいと思います。」180P
(a) 情報的世界の二重性
「情報によって伝達される世界は、眼前に展らけている“現実”の世界と殆んど同様に、私どもの意識、いな心理・生理的な機構に直接的な影響を及ぼし、しかるべき反応を誘発します。この限りで、情報的世界はいわゆる“物的な世界”と同様な実在性をもつということができます。」181P
「ところで、情報的世界とは何であるか? 情報的世界に関わるとはいかなる構造的事実であるのか? これはベカント[熟知]ではあっても到底エアカント[学理的に認識済み]ではありません。/先ず、直接的に与えられているのは、文字、言語音声、画像、身振り、といった“感性的形象”であり、しかもそれに限られております。これらの“感性的与件”が単なるals solches(そのもの)として意識されるだけでは、しかし、情報的世界は拓けないのであって、この与件がetwas Mehr (所与以上の或るもの),etwas Anderes (所与以外の或るもの)として意識されることにおいてのみ、はじめて情報的世界が現前することになります。」181-2P
「情報的世界とは、受信者がいうなればもう一つの眼で見た“物的な”世界にほかなりません。」182P
「畢竟するに、情報的世界が与えられるとはいえ、それは受信者にレアールな形象として与えられているわけではないのであります。受信者にレアールに与えられるのは“記号”だけであって、情報内容は、いわばイレアールな仕方で、イレアールな形象として与えられるにすぎません。/この点で、情報社会の拓けかたは、使用価値(典型的には物的貨幣体)において価値が体現され、使用価値物価値物としてgeltenするのと類比的である――レアールな記号的形象がイレアールな情報としてgeltenする――と申すことができましょう。」182-3P
「受信者が記号を“理解”できるのは、伝達者と受信者とが当該記号体系(ラング)の「ラング主体」ともいうべきものになっていること、そして“記号”がマルクス価値論の言葉を転用すれば、一般的言語活動の「凝結体」Gallerteともいうべきものを体現していること、このことを俟ってであります。抽象的一般的労働の主体ではありませんが、商品世界における人間と類比的に、いわば抽象的一般的記号活動の主体として、受信者がこのような「者」として在る限りにおいてのみ、はじめて情報社会が存立するわけであります。」183P
「情報的世界は、レアールな記号形象がイレアールな情報内容としてgeltenすること、しかも、レアールな受信者がイレアールなラング主体として在る限りにおいてのみ現与のものとして拓けるという二重の二肢性、つまり四肢的な構造聯関において存在すること、私どもはとりあえずこれを銘記できるかと思います。」183P
(b) 意味理論の問題性
(この項の問題設定)「情報内容、すなわち伝達される「意味」がレアールなGebilde[形象・形成態]として与えられるわけではないとすれば、一体いかなる仕方でそれが与えられると言えるのか? また、それはいかなる存在性格のものであるか? この問題について考えておきたいと思います。」184P
「事態を直截にみるために、先ずはいわゆる概念語、例えば<樹>という記号で意味され、伝達されるところのものに即して考えてみますと、それは、松、杉、檜、等々、多くの外延によっていわば代入されることのできる函数的性格をもち、しかも、個々の外延が特個的であるのに対してそれ自身はこれらのいずれでもあるところの本質的同一性を表明することにおいて普遍的性格をもち、さらには、それらによって指示される現実の樹木は生長し枯死するという生成流転の相にあるのにひきかえ、それ自身は成長も枯死もせず自己同一性を保つという不易的性格をもつ――という具合に、そのものそれ自身をとり出して存在性格を問うとき、或る種の学派がいう意味での「超時空的存在性格」をもっております。」184P
「「超時空的存在性格」=イデアールなetwasということを容認して考えますと、情報・伝達という問題を――「意識箱論」的な不当モデルを卻けつつ――一応は説明できることを否めません。私は、先に、伝達者と受信者とが、いわば同じ眼で同じ“客観的事象”を観るという云い方をしましたが、両者が同じものを(ここでは概念的意味というよも同じSachverhalt[事態]というイデアールなものを)一者は現場で、他者は記号において「本質直観」するのだ、と主張すれば、たしかに一応の説明になります。伝達が伝達として成立するためには、伝達者と受信者とが同じ対象同じSachverhaltを“志向的に”意識するのでなければならないという要求がみたされますし、情報的世界はレアールには与えられないが、イデアールには与えられるということになります。」184-5P
「私どもは、マルクスに倣って「物象化」の秘密に対自的でなければならないと思います。」185P
「「イデアールなWesen[本質]とWesensschau[本質直観]の秘密は奈辺にあるのか? ここでも、とりあえず“概念語”に即して云えば、私は次のように考えます。私どもは、とかく、同一の語彙で表わされる対象群は同一の性質をもつ、――同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表わされる(結果) ――と考えがちであり、当のdas Identische [同一なもの]を純粋に確定しようとするところから、かのイレアールなetwasを要請せざるをえない結果に陥りますが、これはまさしく、同一の価値をもつが故にそれらどうしが交換されるというのと同様な「物象化」的な転倒だと申さざるをえません。意味の同一性、かのイデアールなdas Identische は思念されたものにすぎない。とは申せ、「同一の語彙で呼ばれるものどもは同一の本質的性質をもつ筈だ」という信憑、このbelief [信憑・思い込み]の基礎にある共同主観性を看過できません。言語活動においては、対象を何と命名するかは原理的には何らの必然性をもたぬにせよ、ともかく諸個人の間で歴史的社会的に共同主観的な一致がみられ、この共同主観性が由因となって、例えば「トマトは果物でない」「メロンは果物である」と言うとき、その内実は人びとがそう呼ぶか呼ばぬかの差異にすぎないのに(?)、客観そのもの自体のもつ本質的な属性が相異なるかのように思念されます。けだし、@「個人的なものは主観的である」という命題が変換されて「個人的でないものは客観的である」とされ、これがA「客観的なものは共同主観的であるという“経験”と相俟つことによって「共同主観的ものは客観的である」というシェーマがいつのまにか成立しているため――このシェーマにもとづいて、人びとが斉しく同一の語で表現するという共同主観性から「そこには“同一な或る客観的なもの”が存在する筈だ」と思念されるに至るのではないかと思われます。」185-6P
「イデアールな存在性格を有する「意味なるもの」が自体的に存在するという思念は、言語的交通(交換)の機能的関係が物象化して現われる、このような転倒にもとづくにせよ、「意味」はあながちnichts [無]なのではなく、純粋数学の対象などと同じく、その「存在」権を一応は認められてしかるべきだと思います。「意味」や純粋数学の対象は思念vermeinenされた「存在」たるにすぎないとはいえ、このVermeinung [思念]は人びとが共同主観的に自己形成をとげ、いわば同型化している限りでのみ存立するものであり、このVermeinung を現に抱いているかどうかに応じて意識事態が根本的に変様することを否めません。しかもこのintersubjektive Vermeinung [共同主観的な思念]の志向対象はrealitasとしてはnichtsであっても、当のVermeinung そのものはnichtsならざるrealitasであります。」186-7P
「この限りで、私どもはintersubjektives Zusanmenwirken [間主体的協働]の物象化、この「物象化の秘密」を対自化し、共同主観的思念の対象を自存視するFetischismus (物神崇拝)を戒めつつ、マルクス価値論の故知に倣って、イデアールな対象性、ないしはSachverhalt [命題的事態]、もしそう云いたければSatz an sich [命題自体]がbestehen [存立]するかのように、そしてそれが共同主観的にvernehmen [受納・認知]されるかのように処遇したいと思います。」187P
(c) 社会的行為の対象性
「私どもは、日常的生活において、その都度の対人的環境場面にふさわしい仕方で振舞うように“社会的”に規制されており、大むねそれに従って行動しております。」187P
「人間の社会的行動の一切がいうなれば演技としておこなわれていると申すことができましょう。(私がこのように立言することにおいてbesorgen [配慮] とかfürsorgen [顧慮]とかいった規定ではIn-der-Welt-sein [世界・内・存在]としての如実の相を把えきれぬことを申立てたいのであること、これをお含みいただけるものと思います。後にふれます通り、私に言わせれば、「ダス・マン」としての在り方はもとより、「実存」としての在り方ですらすでに扮技の一形態にほかなりません。) 」188P
「この人生劇場においても、舞台(幕・場)があり、大道具・小道具があり、筋書があります。この劇場では、演出家や作者が居ないというよりも、彼ら自身、俳優として登場します。そして、舞台も、道具も、筋書も、演技者が多少は手を加えることができるにせよ、大むね既成のものであり、役柄ですら、自分で撰んだというよりも、振り当てられたものという趣きが強いと申せましょう。いうなれば既成の舞台・道具・筋書にもとづいて、ほぼ決まった型で演技するよう強制されるのであります。/私どもは、この“人生劇場”を手掛りにしていわゆる広義の社会、つまり、学校とか会社とかいった“小社会”はもとより、家族や国家なども包摂する広義の社会の何たるかについて、またその存在構造について、アプローチすることができるように思います。」188-9P
「先ず、舞台(幕・場)や大道具小道具になぞらえるところのものでありますが、人はとかく、“自然的環境”を第一に考えることかと思われます。しかし、“自然”と申しましても、そもそもZuhandenseinたる限りでの自然であることを忘れてはなりませんし、私どもに現実に拓ける“自然的環境”は、田畑という森林といっても文化化(「クルティヴィーレン」のルビ)された自然、いうなれば加工された“自然”であることを認めないわけには参りません。・・・・・・いわゆる“自然的環境”としての舞台や道具は、俳優本人にとっては既存の物的な与件であるにしても、人間の社会的協働的活動の対象化され物象化されたものであると申せます。」189P
「ところで“舞台・道具・筋書”には、狭義の社会的環境、社会的形象が存在することも看過できません。わけても“制度”と呼ばれるものは、例えば代議制度や司法裁判制度がなければ選挙や裁判という“劇”の上演もありえないわけで、“自然的環境”以上に舞台として重要な地位を占めております。“制度”は、しかも、一見したところ諸個人から独立に、いわば自体的に存在するように映じます。少なくとも、それが諸個人の行為に対していわば“外的拘束力”をもつことは確かであります。そしてこの点では、いわゆる社会習慣や道徳のごとき一定の固定化をとげた社会形象は、いずれも同様に“外的拘束力”をもちます。しかるに、これらの社会的形象は、元来、人びとの行為(思考を含めて)の様式がステロタイプかされたものであること、人間的活動の対他対自的な在り方が膠着sichfestsetzenし物象化したものであること、人間のmanières d’agir,de penser et de sentir (行動・思惟・感受の様式)のréification[物化]であること、これは容易に看取することができます。翻って考えますに、いわゆる「制度」も、これまて、人間活動の様式、演技の様式が固定化し、物象化されたものであると見做せます。――このようにみて参りますと、社会的形象、社会的環境と呼ばれているところのものも、個々人に対しては与件として既在しますが、先行する他人たち(過去における自分自身を含めて)の行動様式の物象化、この即自的な協働のVerhalten[関係行為]の物象化によって成立し存立しているものであることが判ります。」189-90P
「社会――文化化された自然をも含めて――環境的世界が、先行する他人の行為とその様式が物象化されたものであること、これが人びとの演技に対する舞台や道具という与件になること、しかもそれが筋書をほぼ規制し、かつまた外的拘束的な“客観的”規制力として或る“型”の扮技を“強制”すること、私どもは以上、経済法則、とりわけ“価値法則”とのアナロゴンをなすこのような対象的側面をみてきましたが、各人の行為は、彼がその型の役を扮技することにおいて、――なるほど彼の個性の故に多少の変様をもたらしつつも――社会形象・社会的“自然的”環境世界の物象化過程の一齣として機能すること、この側面をも同時に認めなければなりません。人びとは在る役柄を演ずることにおいて、与件を新たな社会的形象として変様的に再生産するわけであります。」190-1P
「扮技云々という先の表現は近世的個我主義に妥協した云い方だったのであって、人間には実体的本質はなく、まさに「社会的関係の総体」と申さねばなりません。とはいえ、人びとが時折、役柄との分裂、扮技としての扮技ということを意識するという事実に根拠がある限りで、そしてIch als Ichという意識が現に私念されるという限りで、誰かとしての役を演ずる私、I as someone else本来的な自己以外の或る者としての私、という云い方が一応許されると思います。(この「自己」の問題については宇都宮芳明氏の『役割と自己』――哲学会編『現代哲学の課題』所収――参照)。ここにいう「誰か」やstatus and roleについては、それが階級といった次元においてあるものと、と当番といった機能的な規定性においてもあるもの等々、細かく区別する必要があります。が、さしあたって一般的な構造に即して申せば、ともあれ、人びとは、誰かとしての誰かとして。与件を変様的・再生産的に物象化していく、この四肢的に構造化されたダイナミズムにおいて謂うところの社会Welt[世間]が存立すること、私どもはこれを確言できると思います。」191-2P
(d) 自然的世界の歴史性
これまでの展開とこの項の問題設定「自然的環境世界と呼ばれるものが必ずしも自然als solche(そのもの)ではないこと、それがZuhandensein (用在)として現われるというだけでなく、いわば加工され“歴史化された自然”になっていることについて上述しましたが、しかし、人間活動の物象化による変様が直接的に及ぶのは地球の表面に限られており、いわゆる大宇宙や地球内部の自然のごときは文字通りの自然であることを認めなければならないのではないか? これをすら“歴史化された自然”と考えることができるのか? 私どものいう「歴史的世界」の外延を明らかにするためにもこの問題にふれておきたいと考えます。」192P
「結論から先に申せば、感性的与件、というよりもフェノメナリスティックに開らける“自然的世界”は別の機会に(上述の論文「世界の共同主観的存在構造」)に主題的に論じておいてことですが、即自的に歴史的・社会的に共同主観化されているというのが私の考えであります。いわゆる知覚的形象からして、既に、いうなれば記号化しており、歴史的・社会的に共同主観化されたetwas Mehr (所与以上の或るもの)として意識されます。/マルクス流に申せば「人間的な感性は直接にあるがままで、対象的にあるがままで人間的感性、人間的な対象性であるのではない」「他の人間の感覚や精神が私自身のものとなっており……社会的な諸器官が形成されている」のであり、人びとはこの社会的な感覚器官で自然を見るのであって、いわゆる高等な認識能力はもとより「感情や感覚にいたるまでイデオロギー化している」のであります。」192-3P
言語・文化圏の違いによって聞こえ方さえ違ってくるという例と、マルクスの「社会の感官」の話の引用を受けて「フェノメナルな自然と区別されたVorhandensein [物在]としての自然にいたっては、それこそ歴史社会的な教育を通じて伝達され共同主観化された“情報的世界”の一斑であり、かのイデアールな「意味」の“受肉せる”体系であること、これが物象化的転倒によって真実在としての自然そのものとされ、現実のフェノメナルな世界がそれの現象、甚だしきに至っては仮象だとされて了うのである」194P
「私どもに如実に展らける自然的世界、これが単なるals solcheな所与ではなく、即自的に、そしてfür unsには、いわば記号(象徴)化され、歴史的・社会的に共同主観化されていること、このことは私どもが即自的に「社会化された眼」「社会化された心」で以って自然に対するということと相補的であります。ここでもまた、件(「くだん」のルビ)の「誰かとしての或る者として、何かとしての所与に、対する」という四肢的構造が認められます。/翻って申せば、いわゆる「科学的実在としての自然」Vorhandensein としての自然という与えられ方も、「誰かとして」の在り方の特別な様態、いわば「マン」化した在り方に照応するものであって、右に謂う四肢的構造聯関の一変様にほかなりません。」194P
「尚、歴史法則との関係で附言しておけばvorhandenseiend自然法則なるものは、実際には、かのイデアールな「意味」体系の一斑なのであって“なまの自然”そのものの法則ではありませんし、イデアールな自然法則の必然性は、それを定式化する数学的定式のもつ論理的必然性――遡っては、その大もとにひそむ神学的必然性ないしはその名残り――であって、黒板上の三角形の内角の和が正確には二直角にならぬのと同様、現実の自然界は古典的な「必然性」に服すべくもありません。自然必然性なるものが現実的自称聯関を理想化(「イデアリジーレン」のルビ)して措定されたものであり、それ自身を取り出して絶対化するときフィクションにすぎなくなること、しかるにこれがしはしば物象化されて絶対的法則とされてしまうこと、私どもはこの「秘密」を対自化することによって、自然法則と歴史法則とを原的に区別するの愚を自ら戒めることができます。一歩下った次元では、私どもも、自然法則と歴史法則とを区別すべきでありましょうが、自然と歴史を二元化するような、従ってまた、自然法則と歴史法則とを絶対的に区別するようなドクサ[臆見]は、先にみた自然の在り方に即して私どもの卻けるところであります。」194-5P・・・法則の物象化・絶対化ということに関しては、後期エンゲルスが陥った弁証法の法則的図式化・絶対化を押さえることが必要。
(e) 歴史的世界の四肢性
これまでの押さえ「以上の行論を通じて、謂うところの「世界」が殆んどことごとく“情報化”された世界であること、いわゆる“眼前の知覚的世界”といえどもその一斑は人びとの“扮技的”対象的活動の“物象化”であり、さなきだにいわば“記号化”され、歴史的・社会的に共同主観化された相で世界が現われることを見て参りました。」195P
(この項の問題設定)「マルクス・エンゲルスは「われわれは唯一つの学[体系知] (「ヴィッセンシャフト」のルビ)、すなわち歴史の学しか知らない。歴史は、自然の歴史と人間の歴史とに区分して、二つの側面から考察されうるが、しかし、人間が現存する限り、自然の歴史と人間の歴史とは相互に制約し合うのであって、これら両側面を分離(「トレンネン」のルビ)することはできない」と説き、先に引用した通り、これを敷衍するかたちで「歴史化された自然」を云為しております。慥かに、私どもが内存在する世界は、総じて歴史的に拓かれた世界であることを追認することができます。/この「歴史的世界」の在り方を、私としては先にみておいた「商品世界」に比定しながら論ずるという便法をとりましたが、この類比を可能ならしめる存在根拠は、商品世界が歴史的世界の一齣であるということに存する筈であります。今や、商品世界に関する論点をも射程に収め、世界が歴史的世界として存立しうる所以の基底的な構造を再確認しつつ「歴史の哲学」の基盤を対自化しておきたいと念います。」195-6P
「再度確認するまでもなく私どもが存在するUmwelt[環境的世界]が“情報化”された世界だということは、決して、私どもがいわば観念の楼閣を築きそのなかに住まっているということを意味するわけではありません。情報的世界なるものは、なるほどvorhanded(物的)に空間中に存在するわけではありませんし、この意味ではイレアールですが、私どもとしては「世界」なるものについての観方の変項を要求しつつ、いわゆる広大無辺な空間的大宇宙なるものが実は情報的世界の一様態なのだと主張するのであって、この次元では、情報的世界はイレアールだという妥協的な云い方はもはや撤回の必要があるかもしれません。情報的世界は、この次元では、まさしくwirklich(実在的)な世界であります。」196-7P
「この次元でみるとき「物理的」過去の事象も現在的gegenwärtigであり、物理的にはもはや消滅した過去の文化的遺産も、そしてまた予見される未来ですら、現在的であると云うことができます。さらにはまた、マルクスのいう「下部構造」と「上部構造」との区別もサブスタンシャル(実体のある・現実的)な区別ではありえません。“既在”するにせよ、社会的文化的構造成体は、人びとの対象的活動、一定のroleの“扮技”として存立するところのintersubjektiv (間主観的)な、乃至は、むしろzusammensubjektiv(相互主観的)な営みの物象化であり、かの四肢的構造聯関のダイナミックな過程的総体、如実に存在するのは、原基的にはこの一全体であります。(註、生物体としての身体の維持で喰うということの下部構造との関係)」197P
構造成体の物象化に関するマルクス・エンゲルスの文を受けて「「歴史の哲学」がディアクロニック(通時的)な法則定立的な体系を構築しうるとすれば、それはこのintersubjektives Zusammenwirken (間主観的な協働)の物象化に拠ってであります。」197-8P
「この歴史的物象化を支える共時的(「サンクロニック」のルビ)な基本的構造について――ここでは抽象的一般的な立言にとどめざるをえませんが――次のような論点を取出せると思います。/人びとの対象的活動は、さしあたり一つの“自然現象”として、既存の自然的聯関に或る変位をもたらしますが、この“自然現象”は即自的に道具的有意義性をもつだけでなく、社会的有意義性をもたらします。・・・・・この“変様”は、しかも観照的な視点に現われる変様ではなく、実的な変様であることが認められます。要言すれば、人びとの対象的活動は、単に道具的有意義性の聯関に変位をもたらすものとして単なる道具的有意義性をもつだけでなく、同時に社会的有意義性をもつものとして、――使用価値の生産が同時に価値の生産と相即する商品世界の対象的二重性はこれの一様態にすぎないのですが――二肢的二重性において存立します。」198-9P
「対象的活動の“主体的”側面についても、さしあたり生理・物理的な“自然現象”と見做されうる当の活動が、本源的に社会的規定性を帯びます。・・・・・・恰度、具体的有用労働の主体が抽象的人間労働の主体として社会的にgeltenするのと類比的な構造においても二重化して現われます。そして、このpart-taking(役割分掌)の物象化がかの対象的二要因となって二重の有意義性を担うものにほかなりません。」199-200P
「こうして、人びとはその都度すでに(「インマー・ショーン」のルビ)、歴史的社会的に存在被拘束的(seinsverbunden)な仕方で、誰かとしての役柄を演じつつ、与件を etwas Mehrとしてzusammenwirkendに物象化的に措定することにおいて、共時・通時的な、かの動力学的な過程的聯関を再生産しつつ歴史的世界を存立せしめます。歴史的世界においては、即自的なZuhandenseinが対自的には同時的にMit-gehalten-sein (共同保有存在) として、persönlich (人格的)な対象的活動がent- persönlichな物象化的協働として、二重の二肢性において現われますが、この際、Mit-gehalten-seinはいわゆる“主体的なものの客体化”としてではなく、zusammensubjektivな関わり合い(「ベツィーウング」のルビ)の物象化的現前として――より剴切に云えばMit-gehalten-seinがzuhandendに現前するのは人びとが存在拘束的な協働関係に参与part-takingしていることにおいて――存立します。」200P
この章のまとめ「以上、「商品世界」に関するマルクスの視角を手掛りにしながら、「歴史的世界」の在り方を問題にして参りましたが、私としては世界の展らけ方に定位していわゆる近代的世界了解をその一変様として位置づけることができるのではないか、と考えます。ここでは、しかし、――この作業に立進むためには、一方では、認識論的発想の図式と緊密な関係をもつ近代的世界像について予めしかるべき分析を施す必要があり、他方ではまた「歴史的世界」についてもかのpart-taking(役割扮技), zusammenwirken(協働)をin-seinの如実の様相に即して予め把えておく必要があります」201Pで、ここで、ハイデッガーの用在論を中心に小さなポイントで展開していって、最後にまとめています。「要言すれば、ハイデッガーの世界了解は、――近代的世界了解の図式をその一変様として止揚する構えになっているにせよ――歴史的世界の一様態、四肢的構造成体の二肢しか含まぬ平面で截った一射映に限られている、私としては、彼の「存在」の哲学に対する疑念を保留しても、なおかつ、こう申さざるをえません。」202-3P
「このような“妄言”に私なりの論拠を与えるためにも、status and role、舞台、道具、筋書、行動の文法、扮技、等々、比喩的な言葉で語ったところのものを直示的タームで綴り直し、しかもその具体的な在り方と聯関構造を主題的に論考する「歴史の哲学」を自らに課しつつ、拙い報告をひとまず結ばせて頂きます。」203P
2024年09月01日
廣松渉『物象化論の構図』(2)
たわしの読書メモ・・ブログ668[廣松ノート(6)]
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(2)
U 物象化論の構制と射程
(これまでの筆者の作業とやり残していること)「筆者は、年来――マルクス・エンゲルスが初期におけるヘーゲル学派の“疎外論の論理”を内在的に超克しつつ確立した――「物象化論の構制」こそ、マルクス主義の社会理論・歴史理論・文化理論の革(「あた」のルビ)らしいパラダイムを劃するものである旨を立言してきた。/省みるに、しかし、筆者はまだ、マルクス・エンゲルスの思想形成期における「疎外論から物象化論の論理への推転」を詳密に跡づける作業を完遂しておらず、また、マルクス・エンゲルスの社会論・歴史論・文化論・革命論を物象化論の視座から体系的に講述する課題も成就していない。既刊の拙著はこれらの案件に応える途上にあり、筆者にとって懸案が遺されたままになっている。」94P
(この章の問題設定)「本稿は、固よりこの懸案に真正面から応えようとするものではなく、その一前梯としてとりあえず物象化論の構制と射程を顕揚しておこうと図るものである。/尚、本稿は「唯物史観の宣揚の為に[本書前章の原型をなす旧稿]」の“続稿”としての性格を併せ持つものではあるが、疎外論の止揚過程を形成史的に追跡する作業には茲では立入らない。また、本稿においては、経済理論や国家理論など、各論的な方面に詳しく立ち入ることは割愛して、社会観・歴史観の謂うなれば“哲学的次元”および“体系論の構図”に主題を集中したいと念う。」94P
第一節 社会的関係の物象化と文化形象の存在性格
(この節の問題設定)「本節では、行論の便宜上、社会的=歴史的現象の物象化的存立をまずは共時的・構造的な射映相で照射しつつ、物象化論が社会的存在論の新地平を拓いている所以のものを追認し、併せて、物象化論が社会形象(「ゲビルデ」のルビ)論、文化価値論プロパーの新紀元を先駆的に拓いていることを確認しておこう。」95P
[一]「物象化」という概念の内包的含意の明晰化の作業
(この項の問題設定)「物象化論の構制と射程を対自化するためには「物象化」という概念の内包的含意を、一定限次善に明晰化しておくことが前提的要件をなす。それゆえ、本稿では、この暫定的な作業から始めることにしたい。」95P
「マルクス・エンゲルスは「物象化」という概念を、定義風には式述しておらず、また、この概念を必ずしも頻用していない。とはいえ、“後期”における彼らの文典中にみられる一連の用法を鑑みるとき、人と人との社会的関係(この関係には事物的継起も媒介的・被媒介的に介在している)が、“物と物との関係”ないし“物の具えている性質”ないしはまた“自立的な物象”の相で現象する事態、かかる事態が物象化という詞で指称されていることまでは容易に認められる。このことに徴して、われわれは概念規定以前的な暫定的表象として、人と人との関係が物的な関係・性質・成態(「ゲビルデ」のルビ)の相で現象する事態、これをひとまず物象化現象と呼ぶことができよう。/爰に「人と人の関係」というさい、決して素裸の人間的関係ではなく、そこには当然事物的契機も介在すること、また、人というのは事物的肉体の謂いではなく、いわゆる“意識をそなえ”しかも“行動する” 能知能動的な“主体”であること、従って、人と人との単なる認知的・意識的関係ではなく、実践的な関係が問題であること、このことが銘記されねばならない。」95-6P・・・これでは「パーソン論」になってしまう。ここは関係の結節としての「主体」としての「ひと」、ひとは存在するだけで働きかける「主体」たりえることを押さえることが必要。このことを廣松さんの「実践的な関係」の中身として突き出すこと。
「今問題の物象化現象は、観察者的第三者にとってだけ現出する事態なのではなく、当事者たち自身にとっても日常的に現出する事態である。人と人との関係が、人と人との関係とはおよそ異貌の、物的な関係・性質・成態の相で現識されるこの事態は、学理的反省の見地からみれば慥かに錯視・錯認には違いないのだが、しかし、決して偶然的・恣意的な妄想的幻覚といったものではない。それは、所与の条件のもとでは、しかるべくして生ずる錯視であり、人々の日常的意識が“必然的”に陥る錯認であると言っても過言ではない。」96P
「物象化という概念を、人と人との関係の物象化に局定することなく、事物どうしの反照的規定関係の物性化や実体化にまで拡充しては如何? 筆者自身としては敢てこの拡充を企てる者であり、マルクス・エンゲルスの発想法や存在観に牴触しないと考える。だがしかし、「物象化」という詞の用法ということで言えば、マルクス・エンゲルスは外延をそこまでは拡張していないのが文献上の事実である。このかぎりで、マルクス・エンゲルスの所説に即する本稿においては、物象化という概念を、人と人との間主体的な社会的関係の物象化、しかも、第一次的には、それが当事主体たちの直接的意識に現前する相に限定して用いることにしたい。 (このように限定する場合と筆者流に拡充する場合とでは「レアール・イデアール」成態の処理や物象の性格規定に若干の差異が生ずるが[本書二七〇頁参照]、ここではこの件に立入るには及ばないであろう)。/われわれはこうして、マルクス・エンゲルスの用語法に則りつつ、「人と人との関係」(間主体的な実践的社会関係)という限定のもとに「関係の物象化」という構制とその射程を論究しようと図る次第である。」96-7P・・・マルクスの物象化論の拡充深化としての廣松物象化論
「後期のマルクスは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」のかの有名な一句を象徴的標語として言えば、「人間の本質」を「社会的諸関係の一総体」として把え返したうえで立論しているのであって、「人格の物象化」と謂われるさいの「人格」は近代哲学流の人間観に謂う“実体的人格”ではなくして、それ自身すでに反照的関係規定態である。それゆえ、後期の文典に謂う「人格の物象化」なる事態は、本質規定に遡って言えば、却って(関係規定態の物象化)にほかならない。なるほど、このさい、人間的本質(「ヴェーゼン」のルビ)の自己外化という初期の構図とのあいだに形式的構図上の継承性を見ることはできる。疎外論と物象化論とは顚から無縁なのではなく、後者は前者をまさに弁証法的に止揚することにおいて成立したものなのであるから、そこに継承的連関性があるのは当然である。構図的にはまさに上述の継承性が認められる。がしかし、同じく人間的ヴェーゼンと言っても、それをヘーゲル学派流の主体的実体相で了解するのと、結節的関係相で了解するのとでは、存在論的地平を異にする。後者にあっては、人格的主体を関係主義的に換骨奪胎することにおいて、前者が止揚されている次第なのである。因みに、「物象の人格化[擬人的自立化]」が謂われているさいの「物象」も“物象一般”ではなく、商品・貨幣・資本・利潤・地代……といった特殊な物象的定在であり、これら特殊な物象が、単なる物品・単なる金属片・単なる機械類……等々、単なる自然的物在以上の或るものである所以の規定性は、これまた反照的関係態において措定されている。ここでも、また本質的規定に遡れば、関係規定態の“人格化”にほかならないのである。――」98P
[二]関係の物象化の概念的規定
(この項の問題設定)「それでは、関係が物象化するとは如何なる事態の謂いであるか? 具体相は後論において漸次みていくことにして、ここではさしあたり概念的に規定しておこう。」99P
「関係の物象化と言っても、関係なるものが物象的存在体へと文字通りに生成転化する謂いではないこと、このことは今あらためて断るまでもあるまい。物象「化」、この「化成」は、当事者の日常的意識において直接的に現識される過程ではなく、さしあたっては、学知的反省の見地において省察的に認定されることがらである。当事者の日常的意識においては物的な関係・物性・成態の相で現前するところのものが、学理的反省の見地からみれば、人と人との関係の屈折した映現、仮現的現象であること、実在的に存在するのはひとまずこの共時的・構造的事態までである。ここにあっては、学知的反省の見地からみるかぎり、真実態であるところの関係規定態が、当事者の直接的意識に対しては、物象的な相に変貌・変化して現前している、という機制が認められる。この物象的な相貌への変容の機制に徴して、学知的反省の見地から物象化を云為する所以なのである。――人はここにおける「真実態−仮現相」の構制を「本質−現象」という構制で把えることもできよう。だが、ここに謂う「本質(Wesen=真実在)」と「現象」との関係は、通常の「本質−現象」論で思念されているごとき「本体−見掛」関係とは存在論的含意を異にする。「本質」は“本体的実体”ではなく、また、“模像と同型的に対応する原像”といった自存体ではなく、現象とはおよそ似ても似つかぬ「関係規定態」である。このことに留意を要する――この意味における「物象化」の事態にあっては、学知的な反省の見地からみるかぎり、当事者に対して客観的・対象的な相で厳存する物象は仮象たるにすぎず、そのまま実在するものではない。とはいえ、学知的反省の見地からみてさえ、当の仮象は決して単なる恣意的妄想ではなく、一定の実在的関係態に存在根拠をもつものである。そして、当事者たち自身にとっては、当の“物象”は単に現存的に覚知されるだけでなく、まさしく“現存する物象”的存在として、彼らの実践的行動を現実的に規制する。学知的観察者の見地からは如何に認定されようとも、当事主体たる本人たちにとっては“物象”はあくまで客観的・対象的に現存する物象なのであり、この“物象”が彼らの日常的生活実践を直截に規制する。」99-100P
「人と人との関係の物象化した存在態は、日常的意識にとってはいかにも、客観的・対象的な相貌で現前するとはいえ、多少とも省察してみれば、特異な存在性格を帯びていることに気が付く、物象化せる存在態は、単離的な相で日常的に意識されることは稀であって、通常は、自然物に附帯した相で、現与の対象的存在が“単なる自然物”以上の或るものである所以の<或るもの>の相で覚識される。この<或るもの>の存在性格を規定するに当たっては、物象化された存立態の一典型である「価値」についてマルクスの指摘するのを聴くのが好便である。――「商品の価値対象性には自然的質料は一原子だに入り込んでいない」。価値は物理的・物質的な物的実体ではないのは勿論のこと、物的属性ですらあるべくもない。商品の自然的諸属性はもっぱら使用価値に関わるものであって、価値自体は「商品の幾何学的とか物理学的とか化学的とかいった、自然的な属性ではありえない」。マルクスはこのことを指摘し、価値は「超自然的な属性(Übernatürliche Eigenschaft)」であると言う。彼は、短慮な論者、「粗笨な唯物論者」が唯物論者ともあろうものがと言って驚嘆するのを憚ることなく、敢て、価値を「幽霊のような対象性(gespenstige Gegenständlichkeit)」とすら呼んでいる。商品の価値は、価値なるものを自存化せしめて、それの存在性格を究明するとき、「超自然的」な或るもの、「超感性的」な或るものと言わざるをえない。それは、このような相で即自的に物象化されているのである。そこで、マルクスとしては、使用価値と価値という“二要因”から“成る”商品を「一つの感性的・超感性的な事物(ein sinnlich übersinnliches Ding)」とさえ表現する。――マルクスは、「価値」以外の物象化存立態に関して、存在性格を主題的に論究した文典を遺していない。が、しかし、いわゆる文化的価値一般、つまり価値哲学に謂う真・善・美・聖といった(経済的価なそれは「自然的質料の一原子をも含まず」「幾何学的、物理学的、化学的、生理学的……といった自然的属性」とはおよそ別異な或るもの、さしあたり「超自然的・超感性的」な或るものとしか言いようがないこと、このことは容易に認められよう。・・・文化的価値・財(Güter)に関する論攷・・・こうして、商品・商品価値に即したマルクスの指摘は、さしあたり、文化財・文化価値プロバーに関して妥当する。マルクスの指摘が妥当するのは、しかし、“哲学的価値”一般の領界には止まらない。制度・規範・権力、等々、いわゆる社会的形象(「ゲビルデ」のルビ)一般が、これらはその都度レアールな与件に“担われ”て「感性的・超感性的なもの」の相で定在するとはいう、敢て“それ自身”を抽離的に自存化せしめて存在性格を究明するとき、これまた「超感性的・超自然的な或るもの」の相を呈する。」101P・・・「財」は、今日的に「コモン」として突きだされていることに通じるので留意
「人と人との実践的な間主体的関係が物象化された存立態、つまり、いわゆる文化的・社会的(「ゲビルデ」のルビ) (Gebilde=形成態)は、総じて、感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在しつつも、“それ自身”の存在性格を規定してみれば、さしあたり、“超感性的・超自然的或るもの”と呼ばるべき相貌を呈する。――この特異な存在性格は、マルクスの時代以後、哲学者たちが「妥当(「ゲルテン」のルビ)」とか「イデアールな存立(「ベシュタント」のルビ)」とかいう概念で指称しようと試みているものにほかなるまい。尤も、彼らは物象化の機制に想到せず、そのためもあって「形而上学的存在」との離接に成功しているとは到底認め難いのであるが。――マルクスの場合、「超感性的・超自然的或るもの」“それ自身”が実在するという形而上学的主張を事とするわけでなく、当事者たちの日常的な意識に対してそのような相貌で“客観的・対象的に”現前するところの特異な“物象”は、実は一定の間主体的諸関係の屈折した映現であることを指摘し、この「謎的な性格(der rätselhafte Charakter)」の「秘密」(Geheimnis)を物象化の機制に即して解明してみせ、以って伝統的な「実念論 対 唯名論」の対立地平を超克する。・・・・・・――翻って、ド・プロスを承けてマルクスの謂うFetisch (「物神」という慣用訳の襲用には吝かではないが、この訳語はいかにもミスリーディングであるので、必要に応じて「呪物」という訳語をも混用する)が、“超感性的”な存在で、しかも、人々の意識と行動をば“超自然的”に規制する存在という含意であるとすれば、マルクス流に規定した物象化的存立態は直ちにフェティッシュな性格をもつ所以となり、物象化論と広義のフェティシズム論とは緊合することになる。(この点、筆者流に拡張した物象化論においては、いわゆる「感性的・自然的な定在」の部面まで「物象化の機制」をみるところからしてもフェティシズム論は物象化論の下位的一部門になる)。」102-3P・・・「物神」という訳語は確かにFetischの訳語としてはミスリーディングなのですが、「物象化の絶対化」という意味では、むしろ発展・深化した訳語になっています。
[三]「社会」なるものの押さえ
(この項の問題設定)「ここでは直截に一総体としてのいわゆる「社会」なるものに視線を向けてみよう。顧みるまでもなく、学説史上、社会なる固有の存在体が実在するという「社会実在論」と、社会なる固有の存在体の実在性を認めず、実在するのは諸個人の複合体だけであるとする「社会唯名論」とが対立してきた。マルクスの物象化論は、社会存在論上におけるいわゆる“社会”主義と“個人”主義との二極的対立の地平に対して、如何様に応接するのか?」103P
マルクスの文を承けて「彼(マルクス)は「社会」を固有の“実体”的存在であるかのように見る発想を厳しく卻けている。――マルクスは社会契約論を典型とするごとき「社会唯名論(「ノミナリズム」のルビ)」と社会有機体論を典型とするごとき「社会実在論(「レアリズム」のルビ)」との双方とも卻けるのである。視角を変えて言えば、彼は「個人=実体」論と「社会=実体」論との双方を卻けていると言ってもよい。彼は第三の見地を定立する。がしかし、そのさい、彼は「唯名論」と「実在論」に対して同一平面内で第三の見方を提出するのではない。彼は、この二元的対立の地平そのものを超克するのである。」104P
「「社会とは諸個人が相互にかかわり合っている諸関連Beziehungen、諸関係Verhältnisseの総体である」とマルクスは規定する。・・・・・・謂うところの「諸関連−諸関係」は、その真実相でそのまま現象するのではなく、物象化された相で現象し、諸個人に対して外在的・自立的な固有の存在体であるかのような相貌を呈する。この物象化された相、しかも、フェティッシュな相を追認するところから“社会=実在”論が形成される。この「社会=実体」論は原理的・本質的には成程物象化的錯認ではあるが、これは単なる妄想ではないのであって、無視して済ますわけにはいかない。・・・・・・「社会」という一総体の物象化という次元になれば、学理的省察や歴史的観望の場面で甫めて問題になることであるにしても、社会的諸形象の物象化的映現ということは日常的事実であり、現に人々はこの物象化された“環境世界”に内存在しつつ日常的活動を営み、そのことによって不断に物象化的現実を再生産しているのであるから、識者たちが仮に“方法論的個人主義”とやらの視座に立って“理解社会学”的に諸個人の行為を究明しようと図る場合ですら、当事主体の意識と行動を律する人間的“環境世界”という物象化されたシステムをまずは配視する必要がある。・・・・・・という次第で、「社会=実在」観を宛然“追認”するかの如き手法で、物象化されて現前する社会関係・社会構造の分析的定位を試行することが要件となる。」104-5P
「こうして、「人間=社会」観の原理的=本質的次元においては「諸関連・諸関係」の存在論的第一次性に即していわゆる人間社会を規定し“個人=実体”主義と“社会=実体”主義とを諸関係の二極的物象化に応ずる錯認として位置づけつつ、“個人”主義と“社会”主義との二元的対立地平をマルクスは超克するのであるが、この本質論的規定に終始することなく、マルクスとしてはひとまず社会的関係の物象化された構造的成体の分析的定位に向かう。」105-6P
「人々の社会的諸関連・諸関係と一口に言っても、それは多岐多様であり、そこには階層的・次元的な区別性も認められる。また、諸関係の物象化といっても、多階的であり、それらは立体的に交錯している。それゆえ、社会科学的研究にさいしては、物象化された全体としての社会構造を分析しつつ、普遍的構造と特殊的構造、基底的成層と副次的な成層とを見定めるところから始めなければならない。因みにまた、如実の関係態においては弁証法的「交互作用」(Wechselwirkung)というカテゴリーが専ら妥当するとしても、物象化された存在態においては悟性的な「因果性」(Kausalität)という物象化されたカテゴリーが“妥当”し、事象的な諸契機のあいだに「原因−結果」という悟性的規定作用関係も“見出”される。――マルクス・エンゲルスは、前稿「唯物史観の宣揚の為に」において経緯を見ておいたように、人間存在の基底的な関係を物質的生活の生産の場における“人間生態学的関係”の場面に見極める。「生産において、人々は自然に対してばかりでなく、相互にも働きかける。人間は一定の様式で協働し、活動を互いに交換することによってのみ生産する。生産するためには、人間は一定の相互関連・相互関係に入り込み、この社会的関連・社会的関係の中においてのみ、自然に対する働きかけ、つまり生産がおこなわれる」ことに徴して、マルクス・エンゲルスはこの場面での関係、すなわち「生産関係」を以って人々の社会的諸関係の基底であると把える。この基底的な関係である生産関係が物象化されたもの、それが物象化された社会の全体的構造における「土台」(いわゆる“下部構造”)をなしており、この「土台」のうえに、人々の政治的・宗教的……その他、間主体的・共同主観的な諸関係の物象化された諸々の成態、つまり、政治的上部構造や諸々の社会的意識形象が上架された相で現前する。そして、この物象化された全体的構造成体にあっては、経済的下部構造が起動的部位の相で現象する。――いわゆる“唯物史観の公式”その他から知られるように、マルクスは大略このように構造化された相で社会的成体をひとまず構造的に把捉してみせる。」106-7P・・・「因果論」は函数的関係体の線形方程式的な関係において、また変数が一つとしてとらえられるときには成立しても(これが「悟性的」とか言われるこの中身)、多次元方程式において、変数が複数のとき、また錯分子的構造においては成立しえなくなります。
「この共時的・構造的定位は・・・・・・あくまで、暫定的定式であって、マルクスは真実相を具象的に究明して行こうとはかる。が、そのためにも、当の共時的・構造的成体をその通時的・動態的形成相に即して把握する必要がある。――この作業を周到に試みるさいには、経済的・習俗的・政治的・精神文化的……諸形象の物象化を各々の分野に分け入って具体的に研究することが当然の課題となる。」107P
次節へのつなぎ「本稿では、しかし、構造的一全体としての「社会」の次元に止目しつつ、この「社会」の歴史的な遷移という物象化相に即して、当の構制の一般的構図を対自化する域で次善とせざるをえない。このかぎりで、今や「歴史」の存立性に視軸を転ずることにしよう。」107P
第二節 歴史的動態の法則性と当事主体の有意行動
(この節の問題設定)「本節では「歴史」が固有の存在性をもつ相で物象化される所以の通時的・動態的な遷移に即して、人々の間主体性・協働的な営為の存在構制の一斑を見る段である。ここにおいては、一方における「歴史の法則性」と他方における「主体の意志行為」が問題であり、両者の関係が論件になる。」108P
[一]歴史の法則性の有無と決定論批判
(この項の問題設定)「近代知の地平においては「歴史にそもそも法則性が有るのか無いのか」ということからして大問題になる。」108P
「エンゲルスは「フランス唯物論から自然科学に移入されたところの、そして、偶然性を[従って亦「自由」を]単に否定することによって片づけてしまおうとするところの決定論」を断乎として卻け、この「科学的決定論」を揶揄して次のように書いている。」109Pとして、エンゲルスの文を引用し、それを承けて「エンゲルスは、このように、決定論を断乎として卻け、且つは同時にまた非決定論をも卻けているのである。彼は「非決定論」対「決定論」の対立にとって前提をなす「偶然性」「必然性」に関する「従来の観念ではもはや用をなさない」ことを自覚し、ヘーゲルの先蹤(せんしょう)を批判的に継承しつつ、「偶然的なものが必然的であり、必然的なものが偶然的であるということが如何に可能であるか」を規定し返し、以って、決定論 対 非決定論の対立する地平そのものを超克しようと試みる。・・・・・・われわれの当面の目論見からすれば、マルクス・エンゲルスの世界観・歴史観が、「決定論」ではないこと(さりとてまた「非決定論」でもないこと)、このことを前提的に確認しておけば足る。」110P・・・ここは、マルクス・エンゲルスの長文の引用はカットしているので意味不明になっています。ただし、全部引用しても、そもそも意味が取れません。マルクス・エンゲルスの物象化論に関する論攷なので、廣松さん自身の論攷には踏み込んでいません。これは「跋文」でも出て来るとは思えますが、廣松さんは、これに関してはロッツェ−カッシーラーから援用した「確率函数的連関態」というところで、決定論と非決定論の二元論的対立の構図を解いています。
「偖、マルクス主義の世界観・歴史観が決定論ではないということは、しかし、世界や歴史の法則性を否認する所以とならない。成程、近代知の悟性的な概念装置では、決定論の否認は直ちに法則性の否認に通ずるであろう。だが、マルクス・エンゲルスは「必然性」「偶然性」「自由」といった諸カテゴリーを弁証法的に規定し返すのと相即的に「法則性」の概念をも再措定しているのであり、そこで新しい法則観のもとに歴史の法則性を定立するのである。ここにおいてを鍵鑰(けんやく)をなすのがあらためて「物象化」の機制にほかならない。」111P・・・法則とは、真理論での絶対的真理=神を否定したところと同様、共同主観的客観的妥当性の謂いであり、かつその「妥当性」は弁証法的にアウフヘーベンされていくものとしてある、ということなのだと押さええます。
[二]歴史の合法則的な進展を物象化論に拠ってとらえる
(この項の問題設定)「歴史の合法則的な進展が如何にして成立するのか? これは決定論・非決定論という抽象的な問題次元とは別途に解答さるべき歴史哲学上の根本問題であろう。マルクス・エンゲルスは、この根本問題に対して、まさしく物象化論に拠って答える。」111P
「「自発的意志行為」「歴史的法則性」という両概念をリジット(rigid厳密)にとるかラフにとるかは相岐れるにしても、いずれにせよ、諸個人の行為が如何にして歴史の法則的進展を現成せしめるか、というプロブレマティック(問題構制)が歴史理論にはどこまでも付き纏う。/エンゲルスの所説を聴こう。」112Pとして、エンゲルスから長文の引用を挿み、
「ここに謂う「起動因」、それは諸個人に対して“外部拘束的”に介在する物象化された「社会的力」にほかならない。――マルクスを援用して言えば、「運動の全体が社会的過程として現われれば現われるだけ、過程の総体は、いよいよ自然生的に生ずる客観的関連として現われる。しかも意識した諸個人の相互作用から出てくるものであるにもかかわらず、それは彼らの意識の中にもなく、全体として彼ら個々人に従属せしめられることもない、客観的な関連として現われる。諸個人自身の相互的合力が、彼らの上に立つ、よそよそしい社会的力を彼らに対して生み出す」。/このマルクスの謂う「よそよそしい社会的fremde gesellschaftliche Macht」、エンゲルスの謂う「起動因」は、種々の媒介的・被媒介的な定在形態をとりうるとはいえ、究竟的には「生産力」と呼ぶことができる。だが、このさい、われわれは「生産力」という概念を俗流的に表象してはならない。マルクス・エンゲルスが謂う「生産力」は――なるほど彼らも、この言葉を古典派経済学やリストの語法を襲用して、“通念的”に使用している場合もありはするが――唯物史観の原理的な一カテゴリーとしては、ブルジョア経済に謂う所の“技術的生産力”のごときとは存在論的次元を異にする。生産の場における間主体的な協働の動態的連関(これを共時的な編制相・関係相で把えたものが「生産関係」であり)、それをポテンツの相で把え返したものが「生産力」なのである。」113-4P・・・「生産力」の定義
「偖、爰で『ドイツ・イデオロギー』の有名な条りを引いて言えば、「社会的力、die soziale Macht、すなわち、幾重にも屈折された生産力、d.h.die vervielfachte Produktionskraft」は「諸個人の協働Zusammenwirkenによって生成entstehenする」ものにほかならない。とはいえ、この「社会的力、すなわち、幾重にも屈折された生産力は……協働それ自身が、自由意志的でなく、自然生的naturwüchsigである」かぎりで、「当の諸個人たちに対して、もはや彼ら自身の力の統合されたものとしてではなく、彼らの外部に自存するよそよそしい強力(「ゲヴァルト」のルビ)として現象する。……彼らはもはやこの力を支配することができないどころか、逆に、この力のほうが固有の、人々の意思や動向から独立な、それどころか人々の意思や動向を主宰する、一連の展相と発展段階を閲歴する」所以となる。/「社会的活動のこういう自己膠着、われわれ自身の産物がわれわれを制御する物象的な強力になるこの凝固こそ、……従来の歴史的発展における主要契機の一つである。」まさしく、この物象化の機制によって歴史の法則的進展が現成するのである。」114-5P
「省みるに、多数諸個人の営為の「合成力」とその物象化という機制によって歴史の法則性を“説明”する、以上みてきた機制においては、法則性存立の機制が謂うなれば“熱力学的”になっている。より卑俗に言えば、それは“河流”において、個々の水の分子は四方八方に“自由”バラバラな運動をしつつも、全体の“合成運動”としては一定の流れを形成する構制とアナロジカルになっているとも言える。――この類比的機制は、しかし、あくまで構図に限ってのことであって、歴史の法則性が何故また如何にして成立するかの現実的説明は決して如上で果たされているわけではない。“河流の法則性”は“重力”と“河床の形状”という河水の分子にとって外在的な実在的要因によって決まる。(なるほど“河床の形状”は水の分子の運動によって変様するもしれないが、少なくとも“重力”は“外在的”であり、この重力という“外在力”が全分子に斉一に影響する“駆動力”をなしている)。しかるに、「歴史」においては、全成員を斉一に駆動する“外在力”が真実に存在するわけではない。――それでは、歴史における“合成力”の“方角”と“大きさ”は何によって如何に規定されるのであるか? 今や、この“合成力”の成立機制、物象化的構制の成立機序そのものへと問い進まねばならない。」115P
[三]“合成力”の成立機制、物象化的構制の成立機序そのもの
(この項の問題設定)「歴史的なヴェクトル“合成”の“方角”と“大きさ”を決定する成分的要因として、人は諸階級の“動向”と“力量”を挙げるかもしれない。確かに、歴史的な説明や予測の或る準位において、この“要因”に留目することが現実的であり、学理的にもこの“要因”に即した研究が必要とされる。だが、“各階級”の“動向と力量”ということ自身、原理的に遡って分析すれば、既に“合成されたヴェクトル”であり、“物象化された所産”である。それゆえ、“社会哲学的”“歴史哲学的”な史観の次元においては、この準位で自足するわけにはいかず、より基底的な場面に遡って考察しなければならない。――そこで、「生産力」や「生産関係」という準位が問題になる。この準位での研究は“階級闘争史観”の単なる定礎ではなく、歴史の動態的把握と観望においてアクチュアリティ(現実性)をもつし、必要な討究準位であることは確かである。だが、人がもし「生産力なるもの」と「生産関係なるもの」という二つのものが在って、両者の直接的な関係によって歴史の動向と法則が決定されるかのように表象するとすれば、原理的にはこれまた、“合成力”と“物象化”を前梯とした一準位に属する。――われわれとしては、“単位的諸社会” (それが“地域的諸国家”であれ“民族”であれ、“地縁的共同体”であれ、はたまた、それ自身多階的な“血縁的共同体”であれ)の相互的な力動的関係の準位、諸階級間の対立的関係の準位、生産力・生産関係の準位、等、これら各準位での具体的研究が必要であること、それが史学的研究においてアクチュアリティをもつこと、このことを積極的に承認・表明したうえで、しかし、ここではより一層基底的・原理的な場面にまで方法論的に溯向することが論件となる。/われわれは、茲で、諸個人の実践的営為という場面に溯って、歴史的法則性の物象化的成立の機制を論考する段である。」115-6P
「尚、あらためて再確認するまでもなく、唯物史観においては、歴史的法則は超越的に既存して諸個人の営為を直接的に統御するごときのものではない。――或る種の法則観においては、例えば、物体の抛物的落下運動に関して、“抛物運動の法則”なるものが万古不易に既存していて、その都度の物体運動が当の法則に“支配される”とか“服する”とかいう具合に表象される。ここにあっては、“法則”は、既設の路線(「レール」のルビ)というよりも、さながらミサイルの航行を誘導するビームのように、運動体に影響を及ぼして、運動体を一定の航路に無理矢理“服せしめる”規定の或るものの相で思念されていると言えよう。唯物史観は、一定の未来社会像、将来にかけての歴史の展開相を“予見”するとはいえ、決してこのような、基底的法則による運命的支配を思念するわけではない。――唯物史観における歴史の法則性とは、謂うなれば,諸個人の営為の物象化された“合成力”の軌跡にも譬え得べく、一定の所与的条件のもとでは蓋然的に帰結して行く“航跡”的な形象(「ゲビルデ」のルビ)である。われわれとしては、このゆえに、歴史の法則が如何にして諸個人の営為を服属せしめるかという物象化された視角において論ずるのではなく、諸個人の営為のヴェクトル的合成の蓋然的“方向”が如何にして帰結するかを究明する途に就いたのであった。」117-8P
「偖、人間諸個人は動物であるかぎり、Leben(生命)の直接的・間接的な再生産の継行を蓋然的に傾動づけられているが、この生活的実践は所与の諸条件によって規制される。エンゲルスは言う。「人間史全般の第一の前提は、いうまでもなく、生身の人間諸個人の生存である。それゆえ、第一に確定さるべき構成要件は、これら諸個人の身体組織、ならびにそれによって与えられるところの、彼らと爾余の自然との関係である」。しかし、「われわれは、ここでは、勿論、人間そのものの肉体的特質についても、また、人間が眼前に見出す自然的諸条件、地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係についても、立ち入ることはできない」。――だが、原理的な確認としていえば「歴史記述なるものは、すべて、この自然史的基礎ならびにそれが歴史の行程中において人間の営為によってこうむるそれの変様から出発しなければならない」。/この視座に立って省察するとき、「歴史においてどの段階にあっても、一定の物質的成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。これは各世代に先行の諸世代から伝授されたものであるが、この生産諸力および環境の一総和は、一面ではなるほど新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもする。こうして、人間が環境を作る、のと同様、環境が人間を作る」。/ここにおいて、敢て抽象的・図式的にひとまず一言しておけば、まさに人間生態学的なサクセッションが現成するのであり、一種の生態学的遷移としての歴史的法則性が帰結する。」118-9P
「人間生態系は、対環境関係ならびに種内関係、つまりマルクスの謂う「対自然ならびに諸個人相互間の関係」の在り方によって規定されているとはいえ、人間生態系にあっては、主体たる諸個人は目的意識的に行為する意識的な存在であり、彼ら主体の行動は意識的な有意的活動として営まれる。嚮に引いた一文中でエンゲルスも明言している通り、「歴史においては、意識された意図、意慾された目標なくしては何ごとも生起しない」。しかも、この有意的実践は単なる慾求の直接的発動ではない。それは、対象化された環況的条件によって“実在的”“事実的”に制約されるばかりでなく、物象化された間主観的関係・共同主観的形象によって“観念的”“規範的”にも拘束される。しかるに、実在的環境条件による制約ということまでは生態学的通則であるとしても、規範的拘束という契機は(人間に排他的に特有とまでは言えないが、勝義には)人間生態学における種差的な一大特質である。そして、この規範的拘束性は、ザイン・ミュッセン(必然存在)ならざる所謂ゾレン(当為)の領界に属することがらである。」119-20P
「われわれは、爰に、人間生態学的な協働的営為の“合成力”の趨向を論ずるにあたっては、規範的当為性、この意識的拘束性を勘案する必要に当面する。・・・・・・われわれは「規範的拘束」という概念を極めて広義に用いる。意識的拘束といっても、明瞭な自覚を伴うことなき、“前意識的自己拘束”まで含めたいと思う。人間行動の規制のうち、実在的・事実的ザイン・ミュッセンの制約以外のもの、違反することが実在的・事実的には可能であるにもかかわらず、所謂“社会的圧力”のために通常は随順させられてしまうごとき慣習(「ノモス」のルビ)的拘束(フェア・ウンスには“内面化されたサンクショナルな規制に則った自己拘束”)の全般を「規範的拘束」に算入する。・・・・・・」120P
「扨、人々の行動は、いかに“自由意志的”“自発的”であるといっても、“舞台的環境”や“道具的条件”によって“実在的・事実的”に制約され方位づけられているうえに、このように制約されてはいてもまだしも事実的・実在的には広大な可能性をもった行動範域の内部で、行動の種類や様式が“規範的”に拘束されている。その結果、所与の“舞台的・道具的条件”下における人々の行動というものは、微視的にみればいかにも多岐多様であれ、巨視的にみれば極めて限定された大枠内に概ね納ってしまうのであり、故に“合成力”の“方位”が劃定される所以となる。――われわれは、以上の行文においては、「事実的制約条件」と「規範的拘束条件」とを二元的に峻別するかの流儀で綴ってきたが、しかし、実を言えば、両者は二元論的に峻別さるべきものではない。“舞台的環境”といっても、そのうちのいわゆる“自然”的契機ですら先行諸世代の活動によって“変様された自然”であるし、舞台には他人たちも登場するのであって、既成の対象的存在相で現前するとはいえ、“舞台的環境”とは、そのじつ、「対自然的かつ間人間的な機能的諸関係」の物象化されたものにほかならない。そして現実問題としては、この舞台的環境そのものが既にそれ自身“規範的拘束力”をも帯びている。“道具的条件”がこれまた同断であることは絮言するまでもあるまい。“規範的条件”も、先行世代の活動を通じて形成され、サンクショナルな間主体的関係の場で“再生産”される共同主観的形象にほかならず、これまた諸個人にとって、外部に自存しつつ拘束力を及ぼす或るものの相で物象化されて覚識される。そして、規範的に拘束された行動が舞台的条件の変様的再生産の一要因になるかぎりでは、また、舞台的条件が規範の在り方を制約するかぎりでは、両者は相互媒介的である。が、物象化された相に即して言うかぎり、“舞台的・道具的”な実在的・事実的条件が基底であり、“規範的”な観念的・価値的条件は第二次的形成態として位置づけられる。――」121-2P・・・「史的唯物論」の規定性の範式
「今や、読者は、嚮に引用した一連の文章において、マルクス・エンゲルスが歴史的法則性の成立する機序を論述している構制は、右に解説装置として持ち込んだ“舞台的・道具的な制約条件”と“規範的な拘束条件”とによる説明の構制になっていたことを想起・追認されるであろう。/敢て再確認すれば、マルクス・エンゲルスは、「歴史においてはどの段階にあっても、一定の物質的成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。この生産諸力および環境の一総和は、一面ではなるほど新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもする」と言う。これは、われわれの解説装置でいえば、「歴史的に創造されて」その都度の世代にとって既存する“環境・道具的条件”という物象化された実在的制約条件のサクセッションを説いたものにほかならない。だが、これだけでは、世代の生態学的遷移の実在的・事実的制約性の構図が必要条件として示されただけであって、各世代の諸個人の営為の在り方がまだ積極的には規定されていない。/そこで、マルクス・エンゲルスは、この実在的条件を前提としつつ、「社会的力、すなわち、幾重にも屈折された生産力」が――この力は「諸個人の協働によって生成する」ものであるにもかかわらず――「諸個人に対して、彼らの外部に自存するよそよそしい強力として現象する」こと、「この力のほうが諸個人の意思や動向を主宰dirigierenする」こと、この論点を導入する。この立言は、物象化された「社会的力」に視軸を向けた形のものになっているが、われわれの説明装置でいえば「規範的拘束」を説いたものにほかならない。」122-3P
「こうして、歴史における諸個人の有意行動は、“舞台的環境・道具的条件”によって方位づけられ、あまつさえ、“規範的な拘束”によってその方位が限定される結果、“合成力”の“方位”と“展相”が劃定される次第となる。――尤も、先に断った通り、“舞台的環境・道具的条件”そのものが実は既に“規範的拘束聖”をも帯びているのであり、ここでの二段的立論は方法論的区分たるにすぎない。――謂う所の“規範的な拘束”は、物象化された相では諸個人の外部に自存する「社会的な力」が各人を「統御dirigierenする」かのように“観察”されるが、そして、このかぎりでは河流の分子に対する重力の影響と類比的な構制にみえるが、しかし、真実には決してそうではない。重力は実際に外在して各分子に直接的な物理的作用を及ぼすのに対して、「社会的力」は諸個人の外部に自存するわけでも、直接的な物理作用を及ぼすわけでもない。現実に存在するのは、意識的存在たる諸個人が、物象化的錯認にもとづきつつも、自己拘束するという事態である。この事実に鑑みるとき、歴史においては、観察者的視座に対して歴史が物象化された進展を呈するだけでなく、(当事諸主体自身が“舞台的・道具的・規範的”条件を物象化した相で覚知しつつ自己拘束的に行動することにおいて現実の歴史が進展するのであるから)、当事諸主体にとっての物象化という事態が歴史的進展の構成的一契機をなしていることになる。」123P
「われわれは、今や、次のことを追認することができる。マルクス・エンゲルスは、一面においては、歴史の合法則性を否認する非決定論の見解に対して、(つまり、人間は自由意志の主体であるが故に歴史には法則など存在しえない、とする見解に対して)、人間は一応“自由意志的主体”であるにもかかわらず物象化の機制によって歴史の法則性が成立する旨を説いた。が、これは事の一面であって、彼らは、他面においては、より積極的に、人間諸個人が物象化された所与の条件下で(フェア・ウンスには錯認的ないしはまた前意識的であるにせよ)、ともかく自己拘束的に“有意”的行動をおこなうが故に歴史の現実的進展が合法則的に現成する旨を説いているのである。――なるほど、マルクス・エンゲルスの遺された文典においては、法則性の摘出と定式、当の法則性が物象化の所産であることの指摘がおこなわれているのに比べて、人々の営為が物象化された法則性を“生産・再生産”する過程の具体的な分析がおこなわれている例は多くない。これの具体的遂行はわれわれ後人に遺された課題であると言ってよい。だが、マルクス自身、所与の或る事態が物象化の所産であり倒錯視であることの指摘は比較的容易であること、当の物象化が何故いかにして生ずるかの解明こそが困難であるが重要であること、この旨を言明している。彼マルクスが、具体的な作業は仕遺したとしても、物象化されたしかじかの条件下における人々のかくかくの有意的行為の故に……という説明の構制を立てていたことまでは確かだと思われる。」123-4P
次の節へのつなぎの文「以上、本節におけるわれわれの行論は、人々の協働が「自然生的」「即自的」であることを前提条件にしている。協働が「対自的」におこなわれる場面では如何? この問題に応えるためにも、物象化という事態に対する価値評価、遡っては、物象化という事態がマルクスにとってもつ方法論的意義、これの検討から議論を興し直さねばならない。」124-5P
第三節 物象化批判の体系的方法と価値評価の視座
(この節の問題設定)「物象化論は、マルクスにとって、唯単に彼の社会観や歴史観の構制を劃するといった域のものではなく、――いわんや、経済現象や政治現象の説明原理の域にとどまるものでなく――、彼の学問論や方法論にまで射程の及ぶものであり、翻っては彼の革命論をも基礎づける底(「てい」のルビ)のものである。」125P
[一]「体系の叙述であると同時に体系の批判」
(この項の問題設定)「マルクスの学問体系の特質は、さしあたり、ラッサール宛の一書簡に謂う「体系の叙述であると同時に叙述による体系の批判である」ごとき構制に見ることができよう。オブジェクト・レヴェルにおける所与的対象的事態の体系的叙述が、同時相即的に、この体系のメタ・レヴェルにおける批判、であるがごとき構制、マルクスはこのような構制をもった学問体系を志向したものと解される。われわれは、現に『資本論』のうちに、物象化された事態の体系的叙述が同時相即的に物象化された体系的事態の批判である実例を見る。」125P
「顧みるに、ヘーゲル流の体系においては、歴史と論理性とが合致する構図になっており、そのことに負うて、歴史的進展の追認的な体系的叙述と、先行階梯に対する逐次的超克・批判とが、同時相即的におこなわれる配備になっていた。これはそれなりに“体系的叙述=体系的批判”の構制になっている。――マルクスの上向法的展開がヘーゲル弁証法を批判的に継承したものであるかぎり、この配備が止揚的に受継がれている面があることは確かであるが、しかし、マルクスは『経済学批判』序説における明言からも知られるように、歴史性と論理性とを重ねてしまうヘーゲル流の了解を厳しく卻ける。後期のマルクスは、疎外・回復の螺旋的な自己進展を静観(「ツーゼーエン」のルビ)するというヘーゲル流の姿勢をもはや採ることはできない。今やヘーゲルのそれを止揚した新しい弁証法的体系構成法が要件となるに至っている。」125-6P・・・廣松さんのヘーゲルの三位一体的展開批判の存在論(歴史性)と論理学の一体化批判、認識論は? 認識論と存在論(歴史性)も同様では?
「マルクスが体系的に叙述・批判する対象的事態は、片やシステム内在的=没批判的な当事者たちの意識(および、この体制内的視座を超出できないかぎりでの体制内的“学知”)と、片やシステム外在的=批判的学知、これら両者にとってその都度異貌である。システム内在的な当事者(および、体制内的“学知”)にとって、物的な関係・性質・成態(「ゲビルデ」のルビ)の相で現前・現象しているところのものが、システム外在的な視座に立つマルクス的学知にとっては、人的な関係(物的な契機の介在をも俟った人と人との関係)として察知される。体制内在的意識に対して現前する対象的物象が、マルクス的学知においては物象化された関係態として現識される。――ここにおいて、物象化された対象的事態についてのマルクス的学知による叙述は、これが物象化された仮現相であることの批判的認定を相即的に伴う所以となる。勿論、行文の一行一行が“叙述=批判”としておこなわれるには及ばない。物象的に映現するフェア・エスな事態の分析的記述をまずおこなったうえで、“謎解き”の流儀でフェア・ウンスな批判的認定をステップ・バイ・ステップにおこなうという論述法が採られうる。現に『資本論』ではこの手法が採られている。」126-7P
「惟えば、フェア・エス(当事意識にとって)とフェア・ウンス(学知にとって)という構制はヘーゲルが『精神現象学』において導入したものであった。だが、彼の場合、学知は当事者意識が次々に自ら経験を積んでゆく行程を静観する建前になっており、読者も著者たるヘーゲルと一書に観覧する仕組になっていた。学知は当事意識の到達準位を第三者的な概念で認定しはするが、それはさしあたり当事意識の自覚とは無関係なこととされていた。フェア・ウンスということは、ヘーゲルにあっては、学知が静観者という建前になっているかぎり、体系的叙述・批判の進展にとって何ら積極的な役割を演じない。裏返していえば、著者ヘーゲルの体現する学知が積極的な舞台廻しをしない建前であったが故に、当事意識が自ら向上して行かねばならず、この継時的(歴史的)向上に併せて論理が進行するという構制が採られざるをえなかった。」127P
「マルクスの場合、これに対して著者マルクスの体現する学知が積極的に舞台廻しをする。学知は静観者ではなく、体系的叙述者であり体系的批判者である。彼はもはや当事意識の自律的向上を俟つ必要はない。従って、歴史的進展をそのまま追認する必要はない。彼は、体系的叙述の論理的要求に応じて、叙述の順序を選ぶことができる。(歴史性と論理性とが部分的に合致するか否かは「事情いかんによる」とはいえ、マルクスの上向法的展開にあっても、大枠的な構図としては、なるほど、当事意識が順次に向上していく形に類するものになっている。が、この“擬似発生論的”図式は、あくまで著者のヘゲモニーによる体系的・論理的な展開に応ずるものであって、当事意識の自己運動の追認ではない。――マルクスの場合、物象化された事態の“自己運動”の追認という歴史性は問題になっても、当事意識の自己運動の歴史的追跡というヘーゲル流の“建前”は免れている)。マルクスの叙述=批判の体系的進展においては、読者もまた、単なる共観者ではなく、マルクスの舞台廻しに応じて、その都度の準位で著者マルクスと「ヴィア(「われわれ」のルビ)」を形成させられる。――マルクスの弁証法においては、ヘーゲルが導入しながらも積極的に生かしえなかったエス・ヴィアという構制、それに「著者と読者」という契機が方法論的に良く生かされる配備になっている。これは物象化論が甫めて可能にならしめたものとまでは言えないにしても、物象化の体系的叙述=体系的批判という構制と相即的に確立された体系構成法であることが銘記されてしかるべきであろう。」127-8P
次項へのつなぎの文「ところで、物象化理論とも相即するマルクスのこの新しい体系構成法にあっては、新しい“問題”が生じる。ヘーゲルのように静観するだけという建前であれば「没価値的(wertfrei)」と強弁しうる。しかるに「著者」が学知を“僭称”的に“体現”しつつ、システム外在的な視座から叙述・批判をおこなうマルクス流の体系においては、著者のイデオローギッシュな価値観や評価的態度が赤裸々に持込まれる所以とならないか? あまつさえ、「著者」が、歴史的な継起性ならざる論理的体系性の要求に応ずると称して、叙述すべき対象的事態をかなり“自由”に選択できるにおいてをやである。さらに言えば、マルクスの体系構成法では、「著者」が、当事主体と銘打たれた“人形”を演出しつつ、「読者」をも“幻惑的に”操る仕掛けになってはいないか?/このありうべき疑義に対してマルクスはどう答えるのか。所詮体系とは結局はそういうイデオローギッシュな仕組たることを免れない、と言って居直るのか、事はそれほど簡単ではない。今や、この問題をも視野に入れつつ、物象化論における価値観の問題やイデオロギー批判の問題を配視することにしょう。」128-9P
[二]マルクスの新しい体系法の「アポリア」(アンチノミー)の止揚
(この項の問題設定)「物象化論が、日常的当事意識ばかりでなく、体制内的“学知”にとって真実相と思念されている物象がそのまま真実相ではないことを指摘する際、しかも体制外在的な批判的視座に立って当の指摘をおこなう際、体制内的なそれとは別様の価値観に基いているのであろうか? それとも物象化的錯認の指摘や物象化的機制の説明は“没価値的”な「事実判断」であって、そこには、別段「価値判断(Wertung=価値評価)」は含まれていないのであろうか?/或る種の論者たちは、疎外論は価値評価と一体をなしているのに対して、物象化論は“没価値的”であるかのようにみなして、疎外論では現状告発と革命的蹶起のゾレンを容易に導けるが、物象化論では革命のモチヴェイションが成立しない、と言って、物象化論に不満の口吻(こうふん)を漏らす。なるほど、疎外論者たちにあっては、与件を疎外態として規定すれば、直ちに、それは“悪しきもの”“本来性を回復すべき”ものであることが“分析判断的”に含意されているのかもしれない。それにひきかえ、物象化という把握は、慥かにそのままでは善悪の価値評価や“自己止揚さるべきもの”という当為性を“分析判断的”には含まない。だが、このようなことは体系的叙述=体系的批判としての物象化論的体系が全く没価値的であることを意味しはしない。却ってそれが極めてイデオローギッシュたり得ることは前項末の藉問が示した通りである。」129-30P
「偖、物象化論が、システム内在的な当事意識や体制内視座の“学知”的意識にとって“客観的”に現前し、彼らにとって“普遍的に妥当”している“事態”や“命題”を物象化的錯認であるとして把え返すとき、物象化論者は、体制内的意識は一種の錯誤に陥っているのだと主張し、自分こそ事柄の真実相を認識しているのだと確信している。物象化論者の見地からは、物象化された相をそのまま真実相であると思念している体制内意識は「虚偽(Falschheit)」に陥っている意識、つまり、「虚偽意識(ein falsches Bewußtsein)」であることになる。ここには、早速、「真理性−虚偽性」という「価値」評価が介在していると言わねばならない。」130P
「物象化の体系的叙述=体系的批判にあっては、「真理性−虚偽性」とその「基準」の問題も自覚的に体系にビルト・インされている。体制外在的な批判といっても、それは決して超越的批判ではない。ヘーゲルの故知を想起するまでもなく、弁証法はカント的“批判”を階梯化しつつ体系内にビルト・インすることを志向するものであり、真偽性の基準をも体系にひとまず内在化させるものである。なるほど、ヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法はそのまま同じではない。マルクスの場合、「絶対知」の高みに合一するのではなく、最終的には、「人間は真理すなわち彼の思惟の現実性と力、此岸性を実践において確証しなければならない。実践から分断された思惟の現実性・不現実性をめぐる争いは、純然たるスコラ問題だ」といって真実性・虚偽性の確証は「実践」の場に移される。とはいえ、これは最終的にはの話であって、理論体系の内部で真偽問題が一切棚上げされる謂いでは決してありえない。理論体系の埓を超え出た実践の場での確証という構制に見合う形で、マルクスは理論体系の内部にビルト・インしている。真偽価値以外の「善悪」「正邪」といった価値問題についても同趣である。」130-1P
「真偽性の問題からみていこう。物象化的錯認はマルクス的学知にとってフェア・ウンスにはあくまで錯認である。だが、直接的当事者はもとよりシステム内的視座を超出できない人々、つまり、現体制下における圧倒的多数者にとっては、それこそが現実=真実に映ずる。学知がもしいきなりそれは錯認にすぎないと指摘したとしても、水掛論になるくらいが落ちであろう。体制内的意識にとって殆んど必然的な物象化的錯認は、他者に一寸指摘されただけで誤謬に気付くような生易しい偶有的なものではない。体制内的なパラダイムからすれば、それは却って真理であるとさえ言える。今問題にしている次元における物象化的錯認は、同一パラダイム内部での個別的な錯認とは次元を凡(「およ」のルビ)そ異にしており、一総体としてのパラダイムそのものに関わる底(「てい」のルビ)のものである。」131P・・・ 当事意識ということを廣松さんは、否定的脈絡でとらえているのですが、反差別論では、「当事者研究」ということで、被差別の当事者性というところでの、むしろ、差別をとらえ得る可能性が高いという突きだしもされています。このあたりは、廣松さん自身が物事をとらえることができるかどうかは、立場性の問題が大きいということをどこかで書いていることにも通じます。勿論廣松さんは、学知意識でも体制内学知の批判をしていることもあります。このことはマルクスの「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」と提起していることに対して、そのことを踏み外したレーニンが外部注入論などを突きだし、革命的インテリゲンチャの革命にしたところでねじ曲げられた「革命」の総括が今問われています。また、フェア・エスとフェア・ウンスの弁証法というとき、これらのことも押さえた上での論考が必要になるのでないかと思います。蛇足的に書き加えれば、わたしが、『弁証法の論理』の読書メモに書いたフェア・エスとフェア・ウンスの取り違えも、このことの整理の仕切れなさから生じた、赤面するような取り違えだったのです。
地動説と天動説の間のパラダイム転換に関する話、謬見にもいろいろな段階・性質があるとの話を挿み、「これと類比的に、体制内在的な物象化された視座に照応するパラダイム内部においても、その埓内で既に謬見であるごとき偶有的な錯誤が多々存在するのであり、“必当然的”な物象化的錯認はかかる偶有的錯認とは区別する必要がある。/マルクスは、この問題をどう捌いているか? 『資本論』における物神性の節で、彼は物象化された一群の形態を挙げ、それらの定在形態が物象化的倒錯(Quidproquo)であることを究明してみせた後で、次のように述べている。「このような諸形態こそがまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしている。それらの諸形態こそ、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての、社会的に妥当する、故に、客観的なgesellschaftlich gültige,also,objektive思想形態なのである」・・・・・・マルクスは、確かに、或る条件つきであるが、物象化された諸形態の“真理性”を認めているのである。「この歴史的に規定された生産様式」に内在的な視座では、という条件つきで、彼はそれら諸形態の“真理性”を認めているのである。これは、先のアナロゴンで言えば「大地平面論」のごときと区別した「大地不動論」に類する知見のシステム内在的な“真理性”の追認に相当するであろう。が、この“真理”はシステム外在的な見地からは決して「真理」ではない。それは何を如何に錯視したものであるか、これの究明が必要であり、現にマルクスはその究明をおこなっている。ところで、しかし、この究明的知見はまだ「社会的に妥当する、客観性」を獲得してはいない。ここで、もし、「社会的妥当性・客観性」ということが、“真理性”の基準とされるのであれば、その限りでは、却って、物象化された形態のほうが“真理”とされざるをえない。そして、究明的知見のほうは、たかだか少数者の、ことによってはマルクス一人の“思念”にすぎないことになる。マルクスの体系構成法に即して言えば、目下の場面では、まだ、現にそのように遇される。彼は、この場面では、システム外在的な自己の基準や知見を一意的に真正のものとして強弁しはしない。マルクスの叙述的批判=批判的叙述は、理論体系の内部では、さしあたりこのように自己相対化されている。けだし、批判の基準そのものも弁証法的に階梯を追って自己吟味され、高次化されるべき所以である。」132-4P
「茲で、さしあたり、前項末に生じた“没価値性”云々の問題に中間的に答えておけば、マルクスは決して没価値性を標榜するわけではないが、右に見たように、批判的基準そのものを自己相対化しており、しかも、システム内的“真理性”から超越的に乖離しないよう慎重に討究の歩を進めるのであって、決して恣意的なイデオローギッシュな論断を事とするわけではない。――このことは真偽という価値性だけでなく、善・悪とか正・不正とかいった価値性に関しても同様である。『ゴータ綱領批判』のなかで、マルクスは「ブルジョアは、今日の分配が“公正”だと主張してはいないか? 事実、それは生産様式の基礎のうえでは[この条件に注意されたい――引用者]、唯一の“公正”な分配ではないのか? 経済的関係が法(Recht=正義)の諸概念によって機制されるのか、それとも反対に、法[正義]関係が経済から発生するのではないのか?」と反問し、「公正」「正義」の価値基準をさしあたりシステム内在的な妥当性に置いている。マルクスはいきなり、体制外的な価値基準を恣意的に持出すようなことはしない。」134-5P
「マルクスの体系的叙述=体系的批判は、勿論、以上の構制では尽きない。今や、次のステップを見よう。/以上の行文では、体制内在的な視座、体制に照応的なパラダイムの内部では、真偽の判定、善悪や正邪の判定が一意的に確定する筈であるという暗黙の前提になっていた。しかし、この前提は正しくない。ヘーゲルは一切の概念、一切の判断が二律背反(「アンチノミー」のルビ)に陥るという“洞見”から矛盾律を相対化し、弁証法を選取したのであった。マルクスが物象化の叙述・批判の対象とする社会的・歴史的現象の領界においては、階級的対立性が現存することによって、体制内的当事者たち自身の知見に二律背反が現出する。二律背反とは、言うまでもなく、共通のパラダイム的諸前提に立脚しておりながら、真偽(善悪・正邪)が一義的に決定できず、SハPナリという肯定命題とSハPナラズという否定命題との両方が真理性を主張して相譲らない論理的事態の謂いである。/システム内在的な当事者たち自身のあいだで二律背反的対立が現出した場面では、もはや体制内的“真理”基準(善悪や正邪の基準)をそのまま追認して判定することは不可能である。けだし、「社会的に妥当する、故に客観的な」“基準”を共有しつつ両陣営が対立しておりながら、その基準に照らしたのでは決着が(論理上)つかないからこそアンチノミーたる所以である。」135P
「マルクスは、この場面でどう応待するか? 『資本論』第一巻第八章「労働日」論における余りにも有名な条りを想起しよう。彼は資本家と労働者とが労働日をめぐって対立する双方の命題を論述し、双方が「労働力」を商品として共通に了解し、双方が「商品価値」を労働価値説流に了解し……という共通の前提に立脚しつつ、いずれも自己の主張の“真理性”“正当性”を立論しうることを示したうえで、次のように言う。「だから、ここでは一つの二律背反(「アンチノミー」が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品価値の法則によって保証されている権利(Recht=正義)対権利の対立である。同等な権利と権利のあいだでは暴力(「ゲヴァルト」のルビ)がことを決する)。――」135-6P・・・これは歴史問題・事実問題としての定式で、反差別論からすると、暴力で決すること自体を否定する関係を作っていくという命題が導かれ、そこを梃子にして未来社会を作っていくこと。
臆断的対話のやりとりを受けて「これらはいずれも短慮の見である。なるほど、ここでは労働者の側も「労働力=商品」という規定や「労働価値説」を前提的に認めているかぎりでアンチノミーに陥っている。・・・・・・マルクスはなるほど別の基準をもってはいる。が、それは対立している両当事者に共有さるべくもない。当事者一方たる労働者がマルクスの基準を受け入れたとすれば、それは彼が旧来の基準そのものを止揚し、旧来の主張をも止揚することを意味するので、もはやアンチノミーにこそ捲き込まれないが、今や基準対基準の対立になり、そこにはさしあたり共通の大基準は存在しないから、やはりゲヴァルトで決するほかない。しかも、このさい、労働者が体制内的基準を止揚して、体制外的基準を自己のものとしているからには、彼はもはや「資本家対労働者」という体制内的同位対立次元での“労働者”的階級性以上の見地に立っており、彼は生身の人物としては依然「労働者」であるにしても、彼の“階級性”“党派性”は「資本家対労働者」の同位対立的なイデオロギー準位を超えた高次の党派性になっている筈である。」136-7P・・・大基準を「ゲヴァルトで決しない」ということ、その中身を反差別ということに置くことによって、アンチノミーは解決しえるのでは? 反差別ということは必ずしも体制外的基準でもないのです。「資本家対労働者」の構図だけでは、高次の“階級性”“党派性”にはならないのでは、そこでキーになるのは、反差別ということであり、マルチチュードやサヴァルタンという概念が出てきた意味もとらえられます。
「マルクスは、まさに、かかるアンチノミーとその止揚という構制を彼の体系に自覚的に繰り込む。彼は『資本論』の最終章を階級闘争で締め括る計画であったということが考証されているが、彼の物象化論は、言うまでもなく、システム内在的基準をそのまま追認するものではなく、この基準の埓内でアンチノミーが必然化することの論定で“理論体系”としての理論体系は一段落となる。/このアンチノミーを解消するためには、理論的には、両論が共通の前提としているパラダイムそのものを止揚して、新しいパラダイムを確立することが要件である。この新しいパラダイムこそ、体制内的にはまだ「社会的妥当性・客観性」(“真理性”)を認証されておらず、さしあたり“思念”として遇されるのほかなかった当のものである。この“思念”が“真理”としての実を示すためには、「社会的妥当性」を実践的に獲得しなければならない。それは、目下はまだ自己が体制外在的である所以の、現在のそれとは別の社会体制を実現することにおいてのみ“内在的”真理となる。この故に、マルクス流の体系構成法にあっては、理論内在的にも現体制の実践的止揚、新体制の実現が課題となるわけである。」137-8P
「ところで、二律背反的事態の止揚は、まさに「ゲヴァルト」、理論外的な実践的決着に俟たねばならない。それは誰によって遂行されるのか? 言うも愚ながら、超越的第三者によってではない。それはさしあたり二律背反の一方の当事者によって担われる。彼らは二律背反の前提を理論的・思想的に止揚する域に達すれば、もはや体制内的階級性の準位を超えた存在になる。とはいえ、現体制内にあってそれが大衆的に一挙かつ同時完現することは実際問題として困難である。大衆はさしあたり二律背反の一方の当事者の域で、真偽・善悪・正邪等々の価値に関して体制内的基準に立脚しつつ、現状を告発し、“真の”正価値の“実現”を志向する。マルクス的学知は、それが二律背反の一極であるかぎり、理論的にそれをそのまま追認することはしない。がしかし、この二律背反的階級闘争やその次元でのイデオロギー闘争をも「実践」の場面でしかるべく配備する。「真理性、すなわち思惟の現実性と力、此岸性は実践において確証されねばならない」以上、つまり単なる理論体系の埓内では真理の此岸性は確証されない以上、マルクスの全体系は実践を俟って甫めて完結する。体系的叙述=体系的批判としての物象化論の理論体系は、論理的にはアンチノミーを、歴史的には物象化された相で“自己運動”する体制内矛盾の激成を、見定め、この帰結的事態を意識的・事実的な興発的・舞台的条件として、当事主体たちが体制そのものを止揚する運動へと向かう「蠢き」の“物象化的”また“拘束的”な必然性を確認したところで、実践論・革命論へと開く。それは“絶対知論”で自己完結的に閉じるのではなく、まさに、「実践」へと開かれた理論体系をなすのである。」138-9P・・・この「ゲヴァルト」論は短絡的になっているのではととらえ返しています。マルクスの武装蜂起−プロ独による社会主義の建設から国家の死滅という途は、まさに、この二律背反や唯物史観による生産関係の変革の困難さというところから、政治権力の掌握による上からの革命というところから来ているのではないかと、ここのところの論攷から読み取れるのですが、途はいろいろ設定されます。再開する「社会変革への途」で書いてみようと思っています。
[三]マルクス物象化論の実践論的射程の観望
(この項の問題設定)「今や、物象化論の実践論的射程を観望すべき段である。そのこを通じて、われわれは、未来社会における歴史の法則性という問題についても考究しうるであろう。」139P
「物象化は、フェア・ウンスには錯認であるといっても、現体制下の「対自的かつ間人間的な現実的諸関係」に存在根拠をもつものであって、かの“大地不動・太陽廻天”の錯認とも類比的に、当該システムに内在するかぎり“必然的・現実的”であり、認識を改める(誤謬を理論的に矯正する)といった単なる意識活動によって克服されるものではない。物象化を克服するためには、それの存在根拠をなしている現実的諸関係を現実に変革することが必須の要件である。旧来の現実的諸関係を解体しないかぎり、物象化現象が不断に生産・再生産される。――例えば“貨幣の力”という物象化された“社会的力”は、貨幣という物在を廃棄しただけでは形を変えて(例えば「労働貨幣」)存続すること必須であって、商品経済という社会編制そのものを止揚しなければ解消できない。また、“国家権力”という物象化された力は、無政府主義者が企図するように、それ自体を物のように廃止することは不可能であって、当の物象化を成立せしめる社会的関係(それだけでなく、現実的に、例えば、軍事的・官僚機構の中央集権的強化や国家の共同幻想性を培う愛国心教育等々)を基底的な生産の場で抜本的に再編することなしには廃止できない。――−資本主義的生産関係に存在根拠をもつ物象化、物象化された相で現出する二律背反的諸矛盾、ここから更に生ずる諸々のコンフリクト(軋轢)、これは資本主義的生産関係そのものを止揚することによって甫めて克服することができる。マルクス・エンゲルスは、このことを単に指摘するのではなく、資本主義的生産関係に代わるべき新しい社会編制をも提示してみせる。それもユートピアとして唱えるのではなく、資本主義の、翻っては人類史の物象化された趨向がその現実条件を現実に準備していることの学理的究明にもとづいて、代案というよりもむしろ歴史的未来像として提示する。言うまでもなく、それが共産主義社会である。」139-40P・・・意識活動自体で克服できることとできないことがあり、貨幣の物象化をとらえて指摘しても、現実に貨幣を使っているところで、指摘をするだけでは無効になる。「旧来の現実的諸関係を現実的に変革」することを、廣松さんは武装蜂起−政権掌握による政治革命という将来の、将来へ向けた行動というイメージになっているのではないでしょうか? 現実的に別の形での行動提起が必要になるという話。これについても、別稿で提起します。
「現行の物象化とその諸矛盾を克服・解消する所以の新しい関係態たる共産主義的未来社会は、恣意的な構想物ではなく、まさしく物象化された人類史的進展が法則的に帰向するものである点で、単なるユートピア的見取図とは厳に区別される。だが、「人類史の法則的自己運動とその帰結」というのは物象化された表象であって、真実には歴史なるものが自己運動をするわけではない。真実には人々の実践が歴史を形成するのであり、共産主義的未来社会なるものは人々の実践によって創出される。」140P
「真に反体制的思想を確立するためにはパラダイム・チェンジを要するのであって、それは極めて困難なことである。実際、真に反体制的な思想で理論武装しうる者は、さしあたっては極少数の“先覚者”だけにとどまる。彼らが大衆を思想的・運動的に同士として獲得していくことは現に甚だ困難である。」141P・・・レーニン主義的前衛論←反差別、反戦という具体的なところからの被差別者の当事者意識からの出発、自然発生性への廃棄に陥らない、弁証法的にアウフヘーベンしていく自然発生性への依拠
「マルクス・エンゲルスは、大衆運動それ自身もまた、さしあたり物象化された相で進展することをまずは対自化する。/・・・マルクス・エンゲルスからの引用文・・・/このような即自的な大衆運動では、真に革命的な思想性は望めないのではないか? それでも「理性の狡智」よろしく共産主義革命が成就されるというのか? それは措くとしても、前衛的先進的部分は運動にどう介入するのか? マルクス・エンゲルスは、やがて、物象化されて進展する大衆運動に対する前衛的組織のアンガージュマン(engagument(仏)参画)を積極的に構想するようになる。そこでひとまず定式化されたのが「永続革命」の戦略戦術であり、最大綱領の前梯的ステップたる最小限綱領の段階的向上の方式である。」142P
「革命論に関しては論ずべきことが多々残されているが、紙幅も尽きたので、最後に、未来社会における歴史の法則性の問題について簡単に誌すことで一区切りとしたい。/歴史の法則性が物象化的に成立するのは、諸個人の「協働」が「自然生的」「即自的」であることに因ってであった。とすれば、未来において人々の協働が対自的におこなわれるような社会体制が確立されれば、歴史には法則性が無くなってしまうのか? 未来社会においても、人々の協働が隅々まで対自的におこなわれることは期しがたいし、日常的意識にとっては或る種の物象化が存続することであろう。言語的意味の物象化、社会習慣的規制力の物象化、道徳的規範の物象化、等々、この種の物象化現象は、緩和された形態においてではあれ、やはり生ずるのではないかと想われる。また人間が生態学的制約性を免れることもないし、一定の規範的拘束性に服することも(規範の内容こそ一新されていようが)やはり存続するはずである。人間の行動は未来においても決して全くの自由放縦ではありえず、一定の自然的・社会的諸条件によって制約・拘束される。但し、あの「合成力」の方向は、もはや、階級的・階層的な特殊的利害関心に方位づけられた多様なヴェクトルの合成として結果的に成立するのではなく、人々の目的意識的な協働において初めから目差されていた方向の実現になるであろう。このかぎりにおいて、人々は、生態学的その他の制約条件下にありながらも、そのことを計算に入れたうえでの目的意識的協働によって、目的意識的に「歴史を創る」ようになる。その軌跡を歴史の法則的進展と呼べば呼べるであろうが、しかし、これはもはや所謂“必然的法則”ではない。エンゲルス式に言えば、人類は「必然の王国」を脱して「自由の王国」を実現するのである。」143-4P
最後にこの章のまとめ的文、「ここにおいては――物象化の機制そのものは存続し、或る種の物象化が新たに生ずるとしても――「人類の前史」において汎通的であったごとき桎梏的な物象化はもはや止揚されるものと予科される。」145P・・・廣松さんは物象化の止揚=革命論として展開しています。
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(2)
U 物象化論の構制と射程
(これまでの筆者の作業とやり残していること)「筆者は、年来――マルクス・エンゲルスが初期におけるヘーゲル学派の“疎外論の論理”を内在的に超克しつつ確立した――「物象化論の構制」こそ、マルクス主義の社会理論・歴史理論・文化理論の革(「あた」のルビ)らしいパラダイムを劃するものである旨を立言してきた。/省みるに、しかし、筆者はまだ、マルクス・エンゲルスの思想形成期における「疎外論から物象化論の論理への推転」を詳密に跡づける作業を完遂しておらず、また、マルクス・エンゲルスの社会論・歴史論・文化論・革命論を物象化論の視座から体系的に講述する課題も成就していない。既刊の拙著はこれらの案件に応える途上にあり、筆者にとって懸案が遺されたままになっている。」94P
(この章の問題設定)「本稿は、固よりこの懸案に真正面から応えようとするものではなく、その一前梯としてとりあえず物象化論の構制と射程を顕揚しておこうと図るものである。/尚、本稿は「唯物史観の宣揚の為に[本書前章の原型をなす旧稿]」の“続稿”としての性格を併せ持つものではあるが、疎外論の止揚過程を形成史的に追跡する作業には茲では立入らない。また、本稿においては、経済理論や国家理論など、各論的な方面に詳しく立ち入ることは割愛して、社会観・歴史観の謂うなれば“哲学的次元”および“体系論の構図”に主題を集中したいと念う。」94P
第一節 社会的関係の物象化と文化形象の存在性格
(この節の問題設定)「本節では、行論の便宜上、社会的=歴史的現象の物象化的存立をまずは共時的・構造的な射映相で照射しつつ、物象化論が社会的存在論の新地平を拓いている所以のものを追認し、併せて、物象化論が社会形象(「ゲビルデ」のルビ)論、文化価値論プロパーの新紀元を先駆的に拓いていることを確認しておこう。」95P
[一]「物象化」という概念の内包的含意の明晰化の作業
(この項の問題設定)「物象化論の構制と射程を対自化するためには「物象化」という概念の内包的含意を、一定限次善に明晰化しておくことが前提的要件をなす。それゆえ、本稿では、この暫定的な作業から始めることにしたい。」95P
「マルクス・エンゲルスは「物象化」という概念を、定義風には式述しておらず、また、この概念を必ずしも頻用していない。とはいえ、“後期”における彼らの文典中にみられる一連の用法を鑑みるとき、人と人との社会的関係(この関係には事物的継起も媒介的・被媒介的に介在している)が、“物と物との関係”ないし“物の具えている性質”ないしはまた“自立的な物象”の相で現象する事態、かかる事態が物象化という詞で指称されていることまでは容易に認められる。このことに徴して、われわれは概念規定以前的な暫定的表象として、人と人との関係が物的な関係・性質・成態(「ゲビルデ」のルビ)の相で現象する事態、これをひとまず物象化現象と呼ぶことができよう。/爰に「人と人の関係」というさい、決して素裸の人間的関係ではなく、そこには当然事物的契機も介在すること、また、人というのは事物的肉体の謂いではなく、いわゆる“意識をそなえ”しかも“行動する” 能知能動的な“主体”であること、従って、人と人との単なる認知的・意識的関係ではなく、実践的な関係が問題であること、このことが銘記されねばならない。」95-6P・・・これでは「パーソン論」になってしまう。ここは関係の結節としての「主体」としての「ひと」、ひとは存在するだけで働きかける「主体」たりえることを押さえることが必要。このことを廣松さんの「実践的な関係」の中身として突き出すこと。
「今問題の物象化現象は、観察者的第三者にとってだけ現出する事態なのではなく、当事者たち自身にとっても日常的に現出する事態である。人と人との関係が、人と人との関係とはおよそ異貌の、物的な関係・性質・成態の相で現識されるこの事態は、学理的反省の見地からみれば慥かに錯視・錯認には違いないのだが、しかし、決して偶然的・恣意的な妄想的幻覚といったものではない。それは、所与の条件のもとでは、しかるべくして生ずる錯視であり、人々の日常的意識が“必然的”に陥る錯認であると言っても過言ではない。」96P
「物象化という概念を、人と人との関係の物象化に局定することなく、事物どうしの反照的規定関係の物性化や実体化にまで拡充しては如何? 筆者自身としては敢てこの拡充を企てる者であり、マルクス・エンゲルスの発想法や存在観に牴触しないと考える。だがしかし、「物象化」という詞の用法ということで言えば、マルクス・エンゲルスは外延をそこまでは拡張していないのが文献上の事実である。このかぎりで、マルクス・エンゲルスの所説に即する本稿においては、物象化という概念を、人と人との間主体的な社会的関係の物象化、しかも、第一次的には、それが当事主体たちの直接的意識に現前する相に限定して用いることにしたい。 (このように限定する場合と筆者流に拡充する場合とでは「レアール・イデアール」成態の処理や物象の性格規定に若干の差異が生ずるが[本書二七〇頁参照]、ここではこの件に立入るには及ばないであろう)。/われわれはこうして、マルクス・エンゲルスの用語法に則りつつ、「人と人との関係」(間主体的な実践的社会関係)という限定のもとに「関係の物象化」という構制とその射程を論究しようと図る次第である。」96-7P・・・マルクスの物象化論の拡充深化としての廣松物象化論
「後期のマルクスは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」のかの有名な一句を象徴的標語として言えば、「人間の本質」を「社会的諸関係の一総体」として把え返したうえで立論しているのであって、「人格の物象化」と謂われるさいの「人格」は近代哲学流の人間観に謂う“実体的人格”ではなくして、それ自身すでに反照的関係規定態である。それゆえ、後期の文典に謂う「人格の物象化」なる事態は、本質規定に遡って言えば、却って(関係規定態の物象化)にほかならない。なるほど、このさい、人間的本質(「ヴェーゼン」のルビ)の自己外化という初期の構図とのあいだに形式的構図上の継承性を見ることはできる。疎外論と物象化論とは顚から無縁なのではなく、後者は前者をまさに弁証法的に止揚することにおいて成立したものなのであるから、そこに継承的連関性があるのは当然である。構図的にはまさに上述の継承性が認められる。がしかし、同じく人間的ヴェーゼンと言っても、それをヘーゲル学派流の主体的実体相で了解するのと、結節的関係相で了解するのとでは、存在論的地平を異にする。後者にあっては、人格的主体を関係主義的に換骨奪胎することにおいて、前者が止揚されている次第なのである。因みに、「物象の人格化[擬人的自立化]」が謂われているさいの「物象」も“物象一般”ではなく、商品・貨幣・資本・利潤・地代……といった特殊な物象的定在であり、これら特殊な物象が、単なる物品・単なる金属片・単なる機械類……等々、単なる自然的物在以上の或るものである所以の規定性は、これまた反照的関係態において措定されている。ここでも、また本質的規定に遡れば、関係規定態の“人格化”にほかならないのである。――」98P
[二]関係の物象化の概念的規定
(この項の問題設定)「それでは、関係が物象化するとは如何なる事態の謂いであるか? 具体相は後論において漸次みていくことにして、ここではさしあたり概念的に規定しておこう。」99P
「関係の物象化と言っても、関係なるものが物象的存在体へと文字通りに生成転化する謂いではないこと、このことは今あらためて断るまでもあるまい。物象「化」、この「化成」は、当事者の日常的意識において直接的に現識される過程ではなく、さしあたっては、学知的反省の見地において省察的に認定されることがらである。当事者の日常的意識においては物的な関係・物性・成態の相で現前するところのものが、学理的反省の見地からみれば、人と人との関係の屈折した映現、仮現的現象であること、実在的に存在するのはひとまずこの共時的・構造的事態までである。ここにあっては、学知的反省の見地からみるかぎり、真実態であるところの関係規定態が、当事者の直接的意識に対しては、物象的な相に変貌・変化して現前している、という機制が認められる。この物象的な相貌への変容の機制に徴して、学知的反省の見地から物象化を云為する所以なのである。――人はここにおける「真実態−仮現相」の構制を「本質−現象」という構制で把えることもできよう。だが、ここに謂う「本質(Wesen=真実在)」と「現象」との関係は、通常の「本質−現象」論で思念されているごとき「本体−見掛」関係とは存在論的含意を異にする。「本質」は“本体的実体”ではなく、また、“模像と同型的に対応する原像”といった自存体ではなく、現象とはおよそ似ても似つかぬ「関係規定態」である。このことに留意を要する――この意味における「物象化」の事態にあっては、学知的な反省の見地からみるかぎり、当事者に対して客観的・対象的な相で厳存する物象は仮象たるにすぎず、そのまま実在するものではない。とはいえ、学知的反省の見地からみてさえ、当の仮象は決して単なる恣意的妄想ではなく、一定の実在的関係態に存在根拠をもつものである。そして、当事者たち自身にとっては、当の“物象”は単に現存的に覚知されるだけでなく、まさしく“現存する物象”的存在として、彼らの実践的行動を現実的に規制する。学知的観察者の見地からは如何に認定されようとも、当事主体たる本人たちにとっては“物象”はあくまで客観的・対象的に現存する物象なのであり、この“物象”が彼らの日常的生活実践を直截に規制する。」99-100P
「人と人との関係の物象化した存在態は、日常的意識にとってはいかにも、客観的・対象的な相貌で現前するとはいえ、多少とも省察してみれば、特異な存在性格を帯びていることに気が付く、物象化せる存在態は、単離的な相で日常的に意識されることは稀であって、通常は、自然物に附帯した相で、現与の対象的存在が“単なる自然物”以上の或るものである所以の<或るもの>の相で覚識される。この<或るもの>の存在性格を規定するに当たっては、物象化された存立態の一典型である「価値」についてマルクスの指摘するのを聴くのが好便である。――「商品の価値対象性には自然的質料は一原子だに入り込んでいない」。価値は物理的・物質的な物的実体ではないのは勿論のこと、物的属性ですらあるべくもない。商品の自然的諸属性はもっぱら使用価値に関わるものであって、価値自体は「商品の幾何学的とか物理学的とか化学的とかいった、自然的な属性ではありえない」。マルクスはこのことを指摘し、価値は「超自然的な属性(Übernatürliche Eigenschaft)」であると言う。彼は、短慮な論者、「粗笨な唯物論者」が唯物論者ともあろうものがと言って驚嘆するのを憚ることなく、敢て、価値を「幽霊のような対象性(gespenstige Gegenständlichkeit)」とすら呼んでいる。商品の価値は、価値なるものを自存化せしめて、それの存在性格を究明するとき、「超自然的」な或るもの、「超感性的」な或るものと言わざるをえない。それは、このような相で即自的に物象化されているのである。そこで、マルクスとしては、使用価値と価値という“二要因”から“成る”商品を「一つの感性的・超感性的な事物(ein sinnlich übersinnliches Ding)」とさえ表現する。――マルクスは、「価値」以外の物象化存立態に関して、存在性格を主題的に論究した文典を遺していない。が、しかし、いわゆる文化的価値一般、つまり価値哲学に謂う真・善・美・聖といった(経済的価なそれは「自然的質料の一原子をも含まず」「幾何学的、物理学的、化学的、生理学的……といった自然的属性」とはおよそ別異な或るもの、さしあたり「超自然的・超感性的」な或るものとしか言いようがないこと、このことは容易に認められよう。・・・文化的価値・財(Güter)に関する論攷・・・こうして、商品・商品価値に即したマルクスの指摘は、さしあたり、文化財・文化価値プロバーに関して妥当する。マルクスの指摘が妥当するのは、しかし、“哲学的価値”一般の領界には止まらない。制度・規範・権力、等々、いわゆる社会的形象(「ゲビルデ」のルビ)一般が、これらはその都度レアールな与件に“担われ”て「感性的・超感性的なもの」の相で定在するとはいう、敢て“それ自身”を抽離的に自存化せしめて存在性格を究明するとき、これまた「超感性的・超自然的な或るもの」の相を呈する。」101P・・・「財」は、今日的に「コモン」として突きだされていることに通じるので留意
「人と人との実践的な間主体的関係が物象化された存立態、つまり、いわゆる文化的・社会的(「ゲビルデ」のルビ) (Gebilde=形成態)は、総じて、感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在しつつも、“それ自身”の存在性格を規定してみれば、さしあたり、“超感性的・超自然的或るもの”と呼ばるべき相貌を呈する。――この特異な存在性格は、マルクスの時代以後、哲学者たちが「妥当(「ゲルテン」のルビ)」とか「イデアールな存立(「ベシュタント」のルビ)」とかいう概念で指称しようと試みているものにほかなるまい。尤も、彼らは物象化の機制に想到せず、そのためもあって「形而上学的存在」との離接に成功しているとは到底認め難いのであるが。――マルクスの場合、「超感性的・超自然的或るもの」“それ自身”が実在するという形而上学的主張を事とするわけでなく、当事者たちの日常的な意識に対してそのような相貌で“客観的・対象的に”現前するところの特異な“物象”は、実は一定の間主体的諸関係の屈折した映現であることを指摘し、この「謎的な性格(der rätselhafte Charakter)」の「秘密」(Geheimnis)を物象化の機制に即して解明してみせ、以って伝統的な「実念論 対 唯名論」の対立地平を超克する。・・・・・・――翻って、ド・プロスを承けてマルクスの謂うFetisch (「物神」という慣用訳の襲用には吝かではないが、この訳語はいかにもミスリーディングであるので、必要に応じて「呪物」という訳語をも混用する)が、“超感性的”な存在で、しかも、人々の意識と行動をば“超自然的”に規制する存在という含意であるとすれば、マルクス流に規定した物象化的存立態は直ちにフェティッシュな性格をもつ所以となり、物象化論と広義のフェティシズム論とは緊合することになる。(この点、筆者流に拡張した物象化論においては、いわゆる「感性的・自然的な定在」の部面まで「物象化の機制」をみるところからしてもフェティシズム論は物象化論の下位的一部門になる)。」102-3P・・・「物神」という訳語は確かにFetischの訳語としてはミスリーディングなのですが、「物象化の絶対化」という意味では、むしろ発展・深化した訳語になっています。
[三]「社会」なるものの押さえ
(この項の問題設定)「ここでは直截に一総体としてのいわゆる「社会」なるものに視線を向けてみよう。顧みるまでもなく、学説史上、社会なる固有の存在体が実在するという「社会実在論」と、社会なる固有の存在体の実在性を認めず、実在するのは諸個人の複合体だけであるとする「社会唯名論」とが対立してきた。マルクスの物象化論は、社会存在論上におけるいわゆる“社会”主義と“個人”主義との二極的対立の地平に対して、如何様に応接するのか?」103P
マルクスの文を承けて「彼(マルクス)は「社会」を固有の“実体”的存在であるかのように見る発想を厳しく卻けている。――マルクスは社会契約論を典型とするごとき「社会唯名論(「ノミナリズム」のルビ)」と社会有機体論を典型とするごとき「社会実在論(「レアリズム」のルビ)」との双方とも卻けるのである。視角を変えて言えば、彼は「個人=実体」論と「社会=実体」論との双方を卻けていると言ってもよい。彼は第三の見地を定立する。がしかし、そのさい、彼は「唯名論」と「実在論」に対して同一平面内で第三の見方を提出するのではない。彼は、この二元的対立の地平そのものを超克するのである。」104P
「「社会とは諸個人が相互にかかわり合っている諸関連Beziehungen、諸関係Verhältnisseの総体である」とマルクスは規定する。・・・・・・謂うところの「諸関連−諸関係」は、その真実相でそのまま現象するのではなく、物象化された相で現象し、諸個人に対して外在的・自立的な固有の存在体であるかのような相貌を呈する。この物象化された相、しかも、フェティッシュな相を追認するところから“社会=実在”論が形成される。この「社会=実体」論は原理的・本質的には成程物象化的錯認ではあるが、これは単なる妄想ではないのであって、無視して済ますわけにはいかない。・・・・・・「社会」という一総体の物象化という次元になれば、学理的省察や歴史的観望の場面で甫めて問題になることであるにしても、社会的諸形象の物象化的映現ということは日常的事実であり、現に人々はこの物象化された“環境世界”に内存在しつつ日常的活動を営み、そのことによって不断に物象化的現実を再生産しているのであるから、識者たちが仮に“方法論的個人主義”とやらの視座に立って“理解社会学”的に諸個人の行為を究明しようと図る場合ですら、当事主体の意識と行動を律する人間的“環境世界”という物象化されたシステムをまずは配視する必要がある。・・・・・・という次第で、「社会=実在」観を宛然“追認”するかの如き手法で、物象化されて現前する社会関係・社会構造の分析的定位を試行することが要件となる。」104-5P
「こうして、「人間=社会」観の原理的=本質的次元においては「諸関連・諸関係」の存在論的第一次性に即していわゆる人間社会を規定し“個人=実体”主義と“社会=実体”主義とを諸関係の二極的物象化に応ずる錯認として位置づけつつ、“個人”主義と“社会”主義との二元的対立地平をマルクスは超克するのであるが、この本質論的規定に終始することなく、マルクスとしてはひとまず社会的関係の物象化された構造的成体の分析的定位に向かう。」105-6P
「人々の社会的諸関連・諸関係と一口に言っても、それは多岐多様であり、そこには階層的・次元的な区別性も認められる。また、諸関係の物象化といっても、多階的であり、それらは立体的に交錯している。それゆえ、社会科学的研究にさいしては、物象化された全体としての社会構造を分析しつつ、普遍的構造と特殊的構造、基底的成層と副次的な成層とを見定めるところから始めなければならない。因みにまた、如実の関係態においては弁証法的「交互作用」(Wechselwirkung)というカテゴリーが専ら妥当するとしても、物象化された存在態においては悟性的な「因果性」(Kausalität)という物象化されたカテゴリーが“妥当”し、事象的な諸契機のあいだに「原因−結果」という悟性的規定作用関係も“見出”される。――マルクス・エンゲルスは、前稿「唯物史観の宣揚の為に」において経緯を見ておいたように、人間存在の基底的な関係を物質的生活の生産の場における“人間生態学的関係”の場面に見極める。「生産において、人々は自然に対してばかりでなく、相互にも働きかける。人間は一定の様式で協働し、活動を互いに交換することによってのみ生産する。生産するためには、人間は一定の相互関連・相互関係に入り込み、この社会的関連・社会的関係の中においてのみ、自然に対する働きかけ、つまり生産がおこなわれる」ことに徴して、マルクス・エンゲルスはこの場面での関係、すなわち「生産関係」を以って人々の社会的諸関係の基底であると把える。この基底的な関係である生産関係が物象化されたもの、それが物象化された社会の全体的構造における「土台」(いわゆる“下部構造”)をなしており、この「土台」のうえに、人々の政治的・宗教的……その他、間主体的・共同主観的な諸関係の物象化された諸々の成態、つまり、政治的上部構造や諸々の社会的意識形象が上架された相で現前する。そして、この物象化された全体的構造成体にあっては、経済的下部構造が起動的部位の相で現象する。――いわゆる“唯物史観の公式”その他から知られるように、マルクスは大略このように構造化された相で社会的成体をひとまず構造的に把捉してみせる。」106-7P・・・「因果論」は函数的関係体の線形方程式的な関係において、また変数が一つとしてとらえられるときには成立しても(これが「悟性的」とか言われるこの中身)、多次元方程式において、変数が複数のとき、また錯分子的構造においては成立しえなくなります。
「この共時的・構造的定位は・・・・・・あくまで、暫定的定式であって、マルクスは真実相を具象的に究明して行こうとはかる。が、そのためにも、当の共時的・構造的成体をその通時的・動態的形成相に即して把握する必要がある。――この作業を周到に試みるさいには、経済的・習俗的・政治的・精神文化的……諸形象の物象化を各々の分野に分け入って具体的に研究することが当然の課題となる。」107P
次節へのつなぎ「本稿では、しかし、構造的一全体としての「社会」の次元に止目しつつ、この「社会」の歴史的な遷移という物象化相に即して、当の構制の一般的構図を対自化する域で次善とせざるをえない。このかぎりで、今や「歴史」の存立性に視軸を転ずることにしよう。」107P
第二節 歴史的動態の法則性と当事主体の有意行動
(この節の問題設定)「本節では「歴史」が固有の存在性をもつ相で物象化される所以の通時的・動態的な遷移に即して、人々の間主体性・協働的な営為の存在構制の一斑を見る段である。ここにおいては、一方における「歴史の法則性」と他方における「主体の意志行為」が問題であり、両者の関係が論件になる。」108P
[一]歴史の法則性の有無と決定論批判
(この項の問題設定)「近代知の地平においては「歴史にそもそも法則性が有るのか無いのか」ということからして大問題になる。」108P
「エンゲルスは「フランス唯物論から自然科学に移入されたところの、そして、偶然性を[従って亦「自由」を]単に否定することによって片づけてしまおうとするところの決定論」を断乎として卻け、この「科学的決定論」を揶揄して次のように書いている。」109Pとして、エンゲルスの文を引用し、それを承けて「エンゲルスは、このように、決定論を断乎として卻け、且つは同時にまた非決定論をも卻けているのである。彼は「非決定論」対「決定論」の対立にとって前提をなす「偶然性」「必然性」に関する「従来の観念ではもはや用をなさない」ことを自覚し、ヘーゲルの先蹤(せんしょう)を批判的に継承しつつ、「偶然的なものが必然的であり、必然的なものが偶然的であるということが如何に可能であるか」を規定し返し、以って、決定論 対 非決定論の対立する地平そのものを超克しようと試みる。・・・・・・われわれの当面の目論見からすれば、マルクス・エンゲルスの世界観・歴史観が、「決定論」ではないこと(さりとてまた「非決定論」でもないこと)、このことを前提的に確認しておけば足る。」110P・・・ここは、マルクス・エンゲルスの長文の引用はカットしているので意味不明になっています。ただし、全部引用しても、そもそも意味が取れません。マルクス・エンゲルスの物象化論に関する論攷なので、廣松さん自身の論攷には踏み込んでいません。これは「跋文」でも出て来るとは思えますが、廣松さんは、これに関してはロッツェ−カッシーラーから援用した「確率函数的連関態」というところで、決定論と非決定論の二元論的対立の構図を解いています。
「偖、マルクス主義の世界観・歴史観が決定論ではないということは、しかし、世界や歴史の法則性を否認する所以とならない。成程、近代知の悟性的な概念装置では、決定論の否認は直ちに法則性の否認に通ずるであろう。だが、マルクス・エンゲルスは「必然性」「偶然性」「自由」といった諸カテゴリーを弁証法的に規定し返すのと相即的に「法則性」の概念をも再措定しているのであり、そこで新しい法則観のもとに歴史の法則性を定立するのである。ここにおいてを鍵鑰(けんやく)をなすのがあらためて「物象化」の機制にほかならない。」111P・・・法則とは、真理論での絶対的真理=神を否定したところと同様、共同主観的客観的妥当性の謂いであり、かつその「妥当性」は弁証法的にアウフヘーベンされていくものとしてある、ということなのだと押さええます。
[二]歴史の合法則的な進展を物象化論に拠ってとらえる
(この項の問題設定)「歴史の合法則的な進展が如何にして成立するのか? これは決定論・非決定論という抽象的な問題次元とは別途に解答さるべき歴史哲学上の根本問題であろう。マルクス・エンゲルスは、この根本問題に対して、まさしく物象化論に拠って答える。」111P
「「自発的意志行為」「歴史的法則性」という両概念をリジット(rigid厳密)にとるかラフにとるかは相岐れるにしても、いずれにせよ、諸個人の行為が如何にして歴史の法則的進展を現成せしめるか、というプロブレマティック(問題構制)が歴史理論にはどこまでも付き纏う。/エンゲルスの所説を聴こう。」112Pとして、エンゲルスから長文の引用を挿み、
「ここに謂う「起動因」、それは諸個人に対して“外部拘束的”に介在する物象化された「社会的力」にほかならない。――マルクスを援用して言えば、「運動の全体が社会的過程として現われれば現われるだけ、過程の総体は、いよいよ自然生的に生ずる客観的関連として現われる。しかも意識した諸個人の相互作用から出てくるものであるにもかかわらず、それは彼らの意識の中にもなく、全体として彼ら個々人に従属せしめられることもない、客観的な関連として現われる。諸個人自身の相互的合力が、彼らの上に立つ、よそよそしい社会的力を彼らに対して生み出す」。/このマルクスの謂う「よそよそしい社会的fremde gesellschaftliche Macht」、エンゲルスの謂う「起動因」は、種々の媒介的・被媒介的な定在形態をとりうるとはいえ、究竟的には「生産力」と呼ぶことができる。だが、このさい、われわれは「生産力」という概念を俗流的に表象してはならない。マルクス・エンゲルスが謂う「生産力」は――なるほど彼らも、この言葉を古典派経済学やリストの語法を襲用して、“通念的”に使用している場合もありはするが――唯物史観の原理的な一カテゴリーとしては、ブルジョア経済に謂う所の“技術的生産力”のごときとは存在論的次元を異にする。生産の場における間主体的な協働の動態的連関(これを共時的な編制相・関係相で把えたものが「生産関係」であり)、それをポテンツの相で把え返したものが「生産力」なのである。」113-4P・・・「生産力」の定義
「偖、爰で『ドイツ・イデオロギー』の有名な条りを引いて言えば、「社会的力、die soziale Macht、すなわち、幾重にも屈折された生産力、d.h.die vervielfachte Produktionskraft」は「諸個人の協働Zusammenwirkenによって生成entstehenする」ものにほかならない。とはいえ、この「社会的力、すなわち、幾重にも屈折された生産力は……協働それ自身が、自由意志的でなく、自然生的naturwüchsigである」かぎりで、「当の諸個人たちに対して、もはや彼ら自身の力の統合されたものとしてではなく、彼らの外部に自存するよそよそしい強力(「ゲヴァルト」のルビ)として現象する。……彼らはもはやこの力を支配することができないどころか、逆に、この力のほうが固有の、人々の意思や動向から独立な、それどころか人々の意思や動向を主宰する、一連の展相と発展段階を閲歴する」所以となる。/「社会的活動のこういう自己膠着、われわれ自身の産物がわれわれを制御する物象的な強力になるこの凝固こそ、……従来の歴史的発展における主要契機の一つである。」まさしく、この物象化の機制によって歴史の法則的進展が現成するのである。」114-5P
「省みるに、多数諸個人の営為の「合成力」とその物象化という機制によって歴史の法則性を“説明”する、以上みてきた機制においては、法則性存立の機制が謂うなれば“熱力学的”になっている。より卑俗に言えば、それは“河流”において、個々の水の分子は四方八方に“自由”バラバラな運動をしつつも、全体の“合成運動”としては一定の流れを形成する構制とアナロジカルになっているとも言える。――この類比的機制は、しかし、あくまで構図に限ってのことであって、歴史の法則性が何故また如何にして成立するかの現実的説明は決して如上で果たされているわけではない。“河流の法則性”は“重力”と“河床の形状”という河水の分子にとって外在的な実在的要因によって決まる。(なるほど“河床の形状”は水の分子の運動によって変様するもしれないが、少なくとも“重力”は“外在的”であり、この重力という“外在力”が全分子に斉一に影響する“駆動力”をなしている)。しかるに、「歴史」においては、全成員を斉一に駆動する“外在力”が真実に存在するわけではない。――それでは、歴史における“合成力”の“方角”と“大きさ”は何によって如何に規定されるのであるか? 今や、この“合成力”の成立機制、物象化的構制の成立機序そのものへと問い進まねばならない。」115P
[三]“合成力”の成立機制、物象化的構制の成立機序そのもの
(この項の問題設定)「歴史的なヴェクトル“合成”の“方角”と“大きさ”を決定する成分的要因として、人は諸階級の“動向”と“力量”を挙げるかもしれない。確かに、歴史的な説明や予測の或る準位において、この“要因”に留目することが現実的であり、学理的にもこの“要因”に即した研究が必要とされる。だが、“各階級”の“動向と力量”ということ自身、原理的に遡って分析すれば、既に“合成されたヴェクトル”であり、“物象化された所産”である。それゆえ、“社会哲学的”“歴史哲学的”な史観の次元においては、この準位で自足するわけにはいかず、より基底的な場面に遡って考察しなければならない。――そこで、「生産力」や「生産関係」という準位が問題になる。この準位での研究は“階級闘争史観”の単なる定礎ではなく、歴史の動態的把握と観望においてアクチュアリティ(現実性)をもつし、必要な討究準位であることは確かである。だが、人がもし「生産力なるもの」と「生産関係なるもの」という二つのものが在って、両者の直接的な関係によって歴史の動向と法則が決定されるかのように表象するとすれば、原理的にはこれまた、“合成力”と“物象化”を前梯とした一準位に属する。――われわれとしては、“単位的諸社会” (それが“地域的諸国家”であれ“民族”であれ、“地縁的共同体”であれ、はたまた、それ自身多階的な“血縁的共同体”であれ)の相互的な力動的関係の準位、諸階級間の対立的関係の準位、生産力・生産関係の準位、等、これら各準位での具体的研究が必要であること、それが史学的研究においてアクチュアリティをもつこと、このことを積極的に承認・表明したうえで、しかし、ここではより一層基底的・原理的な場面にまで方法論的に溯向することが論件となる。/われわれは、茲で、諸個人の実践的営為という場面に溯って、歴史的法則性の物象化的成立の機制を論考する段である。」115-6P
「尚、あらためて再確認するまでもなく、唯物史観においては、歴史的法則は超越的に既存して諸個人の営為を直接的に統御するごときのものではない。――或る種の法則観においては、例えば、物体の抛物的落下運動に関して、“抛物運動の法則”なるものが万古不易に既存していて、その都度の物体運動が当の法則に“支配される”とか“服する”とかいう具合に表象される。ここにあっては、“法則”は、既設の路線(「レール」のルビ)というよりも、さながらミサイルの航行を誘導するビームのように、運動体に影響を及ぼして、運動体を一定の航路に無理矢理“服せしめる”規定の或るものの相で思念されていると言えよう。唯物史観は、一定の未来社会像、将来にかけての歴史の展開相を“予見”するとはいえ、決してこのような、基底的法則による運命的支配を思念するわけではない。――唯物史観における歴史の法則性とは、謂うなれば,諸個人の営為の物象化された“合成力”の軌跡にも譬え得べく、一定の所与的条件のもとでは蓋然的に帰結して行く“航跡”的な形象(「ゲビルデ」のルビ)である。われわれとしては、このゆえに、歴史の法則が如何にして諸個人の営為を服属せしめるかという物象化された視角において論ずるのではなく、諸個人の営為のヴェクトル的合成の蓋然的“方向”が如何にして帰結するかを究明する途に就いたのであった。」117-8P
「偖、人間諸個人は動物であるかぎり、Leben(生命)の直接的・間接的な再生産の継行を蓋然的に傾動づけられているが、この生活的実践は所与の諸条件によって規制される。エンゲルスは言う。「人間史全般の第一の前提は、いうまでもなく、生身の人間諸個人の生存である。それゆえ、第一に確定さるべき構成要件は、これら諸個人の身体組織、ならびにそれによって与えられるところの、彼らと爾余の自然との関係である」。しかし、「われわれは、ここでは、勿論、人間そのものの肉体的特質についても、また、人間が眼前に見出す自然的諸条件、地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係についても、立ち入ることはできない」。――だが、原理的な確認としていえば「歴史記述なるものは、すべて、この自然史的基礎ならびにそれが歴史の行程中において人間の営為によってこうむるそれの変様から出発しなければならない」。/この視座に立って省察するとき、「歴史においてどの段階にあっても、一定の物質的成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。これは各世代に先行の諸世代から伝授されたものであるが、この生産諸力および環境の一総和は、一面ではなるほど新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもする。こうして、人間が環境を作る、のと同様、環境が人間を作る」。/ここにおいて、敢て抽象的・図式的にひとまず一言しておけば、まさに人間生態学的なサクセッションが現成するのであり、一種の生態学的遷移としての歴史的法則性が帰結する。」118-9P
「人間生態系は、対環境関係ならびに種内関係、つまりマルクスの謂う「対自然ならびに諸個人相互間の関係」の在り方によって規定されているとはいえ、人間生態系にあっては、主体たる諸個人は目的意識的に行為する意識的な存在であり、彼ら主体の行動は意識的な有意的活動として営まれる。嚮に引いた一文中でエンゲルスも明言している通り、「歴史においては、意識された意図、意慾された目標なくしては何ごとも生起しない」。しかも、この有意的実践は単なる慾求の直接的発動ではない。それは、対象化された環況的条件によって“実在的”“事実的”に制約されるばかりでなく、物象化された間主観的関係・共同主観的形象によって“観念的”“規範的”にも拘束される。しかるに、実在的環境条件による制約ということまでは生態学的通則であるとしても、規範的拘束という契機は(人間に排他的に特有とまでは言えないが、勝義には)人間生態学における種差的な一大特質である。そして、この規範的拘束性は、ザイン・ミュッセン(必然存在)ならざる所謂ゾレン(当為)の領界に属することがらである。」119-20P
「われわれは、爰に、人間生態学的な協働的営為の“合成力”の趨向を論ずるにあたっては、規範的当為性、この意識的拘束性を勘案する必要に当面する。・・・・・・われわれは「規範的拘束」という概念を極めて広義に用いる。意識的拘束といっても、明瞭な自覚を伴うことなき、“前意識的自己拘束”まで含めたいと思う。人間行動の規制のうち、実在的・事実的ザイン・ミュッセンの制約以外のもの、違反することが実在的・事実的には可能であるにもかかわらず、所謂“社会的圧力”のために通常は随順させられてしまうごとき慣習(「ノモス」のルビ)的拘束(フェア・ウンスには“内面化されたサンクショナルな規制に則った自己拘束”)の全般を「規範的拘束」に算入する。・・・・・・」120P
「扨、人々の行動は、いかに“自由意志的”“自発的”であるといっても、“舞台的環境”や“道具的条件”によって“実在的・事実的”に制約され方位づけられているうえに、このように制約されてはいてもまだしも事実的・実在的には広大な可能性をもった行動範域の内部で、行動の種類や様式が“規範的”に拘束されている。その結果、所与の“舞台的・道具的条件”下における人々の行動というものは、微視的にみればいかにも多岐多様であれ、巨視的にみれば極めて限定された大枠内に概ね納ってしまうのであり、故に“合成力”の“方位”が劃定される所以となる。――われわれは、以上の行文においては、「事実的制約条件」と「規範的拘束条件」とを二元的に峻別するかの流儀で綴ってきたが、しかし、実を言えば、両者は二元論的に峻別さるべきものではない。“舞台的環境”といっても、そのうちのいわゆる“自然”的契機ですら先行諸世代の活動によって“変様された自然”であるし、舞台には他人たちも登場するのであって、既成の対象的存在相で現前するとはいえ、“舞台的環境”とは、そのじつ、「対自然的かつ間人間的な機能的諸関係」の物象化されたものにほかならない。そして現実問題としては、この舞台的環境そのものが既にそれ自身“規範的拘束力”をも帯びている。“道具的条件”がこれまた同断であることは絮言するまでもあるまい。“規範的条件”も、先行世代の活動を通じて形成され、サンクショナルな間主体的関係の場で“再生産”される共同主観的形象にほかならず、これまた諸個人にとって、外部に自存しつつ拘束力を及ぼす或るものの相で物象化されて覚識される。そして、規範的に拘束された行動が舞台的条件の変様的再生産の一要因になるかぎりでは、また、舞台的条件が規範の在り方を制約するかぎりでは、両者は相互媒介的である。が、物象化された相に即して言うかぎり、“舞台的・道具的”な実在的・事実的条件が基底であり、“規範的”な観念的・価値的条件は第二次的形成態として位置づけられる。――」121-2P・・・「史的唯物論」の規定性の範式
「今や、読者は、嚮に引用した一連の文章において、マルクス・エンゲルスが歴史的法則性の成立する機序を論述している構制は、右に解説装置として持ち込んだ“舞台的・道具的な制約条件”と“規範的な拘束条件”とによる説明の構制になっていたことを想起・追認されるであろう。/敢て再確認すれば、マルクス・エンゲルスは、「歴史においてはどの段階にあっても、一定の物質的成果、生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに個人相互間の一関係が見出される。この生産諸力および環境の一総和は、一面ではなるほど新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、或る特殊な性格を賦与しもする」と言う。これは、われわれの解説装置でいえば、「歴史的に創造されて」その都度の世代にとって既存する“環境・道具的条件”という物象化された実在的制約条件のサクセッションを説いたものにほかならない。だが、これだけでは、世代の生態学的遷移の実在的・事実的制約性の構図が必要条件として示されただけであって、各世代の諸個人の営為の在り方がまだ積極的には規定されていない。/そこで、マルクス・エンゲルスは、この実在的条件を前提としつつ、「社会的力、すなわち、幾重にも屈折された生産力」が――この力は「諸個人の協働によって生成する」ものであるにもかかわらず――「諸個人に対して、彼らの外部に自存するよそよそしい強力として現象する」こと、「この力のほうが諸個人の意思や動向を主宰dirigierenする」こと、この論点を導入する。この立言は、物象化された「社会的力」に視軸を向けた形のものになっているが、われわれの説明装置でいえば「規範的拘束」を説いたものにほかならない。」122-3P
「こうして、歴史における諸個人の有意行動は、“舞台的環境・道具的条件”によって方位づけられ、あまつさえ、“規範的な拘束”によってその方位が限定される結果、“合成力”の“方位”と“展相”が劃定される次第となる。――尤も、先に断った通り、“舞台的環境・道具的条件”そのものが実は既に“規範的拘束聖”をも帯びているのであり、ここでの二段的立論は方法論的区分たるにすぎない。――謂う所の“規範的な拘束”は、物象化された相では諸個人の外部に自存する「社会的な力」が各人を「統御dirigierenする」かのように“観察”されるが、そして、このかぎりでは河流の分子に対する重力の影響と類比的な構制にみえるが、しかし、真実には決してそうではない。重力は実際に外在して各分子に直接的な物理的作用を及ぼすのに対して、「社会的力」は諸個人の外部に自存するわけでも、直接的な物理作用を及ぼすわけでもない。現実に存在するのは、意識的存在たる諸個人が、物象化的錯認にもとづきつつも、自己拘束するという事態である。この事実に鑑みるとき、歴史においては、観察者的視座に対して歴史が物象化された進展を呈するだけでなく、(当事諸主体自身が“舞台的・道具的・規範的”条件を物象化した相で覚知しつつ自己拘束的に行動することにおいて現実の歴史が進展するのであるから)、当事諸主体にとっての物象化という事態が歴史的進展の構成的一契機をなしていることになる。」123P
「われわれは、今や、次のことを追認することができる。マルクス・エンゲルスは、一面においては、歴史の合法則性を否認する非決定論の見解に対して、(つまり、人間は自由意志の主体であるが故に歴史には法則など存在しえない、とする見解に対して)、人間は一応“自由意志的主体”であるにもかかわらず物象化の機制によって歴史の法則性が成立する旨を説いた。が、これは事の一面であって、彼らは、他面においては、より積極的に、人間諸個人が物象化された所与の条件下で(フェア・ウンスには錯認的ないしはまた前意識的であるにせよ)、ともかく自己拘束的に“有意”的行動をおこなうが故に歴史の現実的進展が合法則的に現成する旨を説いているのである。――なるほど、マルクス・エンゲルスの遺された文典においては、法則性の摘出と定式、当の法則性が物象化の所産であることの指摘がおこなわれているのに比べて、人々の営為が物象化された法則性を“生産・再生産”する過程の具体的な分析がおこなわれている例は多くない。これの具体的遂行はわれわれ後人に遺された課題であると言ってよい。だが、マルクス自身、所与の或る事態が物象化の所産であり倒錯視であることの指摘は比較的容易であること、当の物象化が何故いかにして生ずるかの解明こそが困難であるが重要であること、この旨を言明している。彼マルクスが、具体的な作業は仕遺したとしても、物象化されたしかじかの条件下における人々のかくかくの有意的行為の故に……という説明の構制を立てていたことまでは確かだと思われる。」123-4P
次の節へのつなぎの文「以上、本節におけるわれわれの行論は、人々の協働が「自然生的」「即自的」であることを前提条件にしている。協働が「対自的」におこなわれる場面では如何? この問題に応えるためにも、物象化という事態に対する価値評価、遡っては、物象化という事態がマルクスにとってもつ方法論的意義、これの検討から議論を興し直さねばならない。」124-5P
第三節 物象化批判の体系的方法と価値評価の視座
(この節の問題設定)「物象化論は、マルクスにとって、唯単に彼の社会観や歴史観の構制を劃するといった域のものではなく、――いわんや、経済現象や政治現象の説明原理の域にとどまるものでなく――、彼の学問論や方法論にまで射程の及ぶものであり、翻っては彼の革命論をも基礎づける底(「てい」のルビ)のものである。」125P
[一]「体系の叙述であると同時に体系の批判」
(この項の問題設定)「マルクスの学問体系の特質は、さしあたり、ラッサール宛の一書簡に謂う「体系の叙述であると同時に叙述による体系の批判である」ごとき構制に見ることができよう。オブジェクト・レヴェルにおける所与的対象的事態の体系的叙述が、同時相即的に、この体系のメタ・レヴェルにおける批判、であるがごとき構制、マルクスはこのような構制をもった学問体系を志向したものと解される。われわれは、現に『資本論』のうちに、物象化された事態の体系的叙述が同時相即的に物象化された体系的事態の批判である実例を見る。」125P
「顧みるに、ヘーゲル流の体系においては、歴史と論理性とが合致する構図になっており、そのことに負うて、歴史的進展の追認的な体系的叙述と、先行階梯に対する逐次的超克・批判とが、同時相即的におこなわれる配備になっていた。これはそれなりに“体系的叙述=体系的批判”の構制になっている。――マルクスの上向法的展開がヘーゲル弁証法を批判的に継承したものであるかぎり、この配備が止揚的に受継がれている面があることは確かであるが、しかし、マルクスは『経済学批判』序説における明言からも知られるように、歴史性と論理性とを重ねてしまうヘーゲル流の了解を厳しく卻ける。後期のマルクスは、疎外・回復の螺旋的な自己進展を静観(「ツーゼーエン」のルビ)するというヘーゲル流の姿勢をもはや採ることはできない。今やヘーゲルのそれを止揚した新しい弁証法的体系構成法が要件となるに至っている。」125-6P・・・廣松さんのヘーゲルの三位一体的展開批判の存在論(歴史性)と論理学の一体化批判、認識論は? 認識論と存在論(歴史性)も同様では?
「マルクスが体系的に叙述・批判する対象的事態は、片やシステム内在的=没批判的な当事者たちの意識(および、この体制内的視座を超出できないかぎりでの体制内的“学知”)と、片やシステム外在的=批判的学知、これら両者にとってその都度異貌である。システム内在的な当事者(および、体制内的“学知”)にとって、物的な関係・性質・成態(「ゲビルデ」のルビ)の相で現前・現象しているところのものが、システム外在的な視座に立つマルクス的学知にとっては、人的な関係(物的な契機の介在をも俟った人と人との関係)として察知される。体制内在的意識に対して現前する対象的物象が、マルクス的学知においては物象化された関係態として現識される。――ここにおいて、物象化された対象的事態についてのマルクス的学知による叙述は、これが物象化された仮現相であることの批判的認定を相即的に伴う所以となる。勿論、行文の一行一行が“叙述=批判”としておこなわれるには及ばない。物象的に映現するフェア・エスな事態の分析的記述をまずおこなったうえで、“謎解き”の流儀でフェア・ウンスな批判的認定をステップ・バイ・ステップにおこなうという論述法が採られうる。現に『資本論』ではこの手法が採られている。」126-7P
「惟えば、フェア・エス(当事意識にとって)とフェア・ウンス(学知にとって)という構制はヘーゲルが『精神現象学』において導入したものであった。だが、彼の場合、学知は当事者意識が次々に自ら経験を積んでゆく行程を静観する建前になっており、読者も著者たるヘーゲルと一書に観覧する仕組になっていた。学知は当事意識の到達準位を第三者的な概念で認定しはするが、それはさしあたり当事意識の自覚とは無関係なこととされていた。フェア・ウンスということは、ヘーゲルにあっては、学知が静観者という建前になっているかぎり、体系的叙述・批判の進展にとって何ら積極的な役割を演じない。裏返していえば、著者ヘーゲルの体現する学知が積極的な舞台廻しをしない建前であったが故に、当事意識が自ら向上して行かねばならず、この継時的(歴史的)向上に併せて論理が進行するという構制が採られざるをえなかった。」127P
「マルクスの場合、これに対して著者マルクスの体現する学知が積極的に舞台廻しをする。学知は静観者ではなく、体系的叙述者であり体系的批判者である。彼はもはや当事意識の自律的向上を俟つ必要はない。従って、歴史的進展をそのまま追認する必要はない。彼は、体系的叙述の論理的要求に応じて、叙述の順序を選ぶことができる。(歴史性と論理性とが部分的に合致するか否かは「事情いかんによる」とはいえ、マルクスの上向法的展開にあっても、大枠的な構図としては、なるほど、当事意識が順次に向上していく形に類するものになっている。が、この“擬似発生論的”図式は、あくまで著者のヘゲモニーによる体系的・論理的な展開に応ずるものであって、当事意識の自己運動の追認ではない。――マルクスの場合、物象化された事態の“自己運動”の追認という歴史性は問題になっても、当事意識の自己運動の歴史的追跡というヘーゲル流の“建前”は免れている)。マルクスの叙述=批判の体系的進展においては、読者もまた、単なる共観者ではなく、マルクスの舞台廻しに応じて、その都度の準位で著者マルクスと「ヴィア(「われわれ」のルビ)」を形成させられる。――マルクスの弁証法においては、ヘーゲルが導入しながらも積極的に生かしえなかったエス・ヴィアという構制、それに「著者と読者」という契機が方法論的に良く生かされる配備になっている。これは物象化論が甫めて可能にならしめたものとまでは言えないにしても、物象化の体系的叙述=体系的批判という構制と相即的に確立された体系構成法であることが銘記されてしかるべきであろう。」127-8P
次項へのつなぎの文「ところで、物象化理論とも相即するマルクスのこの新しい体系構成法にあっては、新しい“問題”が生じる。ヘーゲルのように静観するだけという建前であれば「没価値的(wertfrei)」と強弁しうる。しかるに「著者」が学知を“僭称”的に“体現”しつつ、システム外在的な視座から叙述・批判をおこなうマルクス流の体系においては、著者のイデオローギッシュな価値観や評価的態度が赤裸々に持込まれる所以とならないか? あまつさえ、「著者」が、歴史的な継起性ならざる論理的体系性の要求に応ずると称して、叙述すべき対象的事態をかなり“自由”に選択できるにおいてをやである。さらに言えば、マルクスの体系構成法では、「著者」が、当事主体と銘打たれた“人形”を演出しつつ、「読者」をも“幻惑的に”操る仕掛けになってはいないか?/このありうべき疑義に対してマルクスはどう答えるのか。所詮体系とは結局はそういうイデオローギッシュな仕組たることを免れない、と言って居直るのか、事はそれほど簡単ではない。今や、この問題をも視野に入れつつ、物象化論における価値観の問題やイデオロギー批判の問題を配視することにしょう。」128-9P
[二]マルクスの新しい体系法の「アポリア」(アンチノミー)の止揚
(この項の問題設定)「物象化論が、日常的当事意識ばかりでなく、体制内的“学知”にとって真実相と思念されている物象がそのまま真実相ではないことを指摘する際、しかも体制外在的な批判的視座に立って当の指摘をおこなう際、体制内的なそれとは別様の価値観に基いているのであろうか? それとも物象化的錯認の指摘や物象化的機制の説明は“没価値的”な「事実判断」であって、そこには、別段「価値判断(Wertung=価値評価)」は含まれていないのであろうか?/或る種の論者たちは、疎外論は価値評価と一体をなしているのに対して、物象化論は“没価値的”であるかのようにみなして、疎外論では現状告発と革命的蹶起のゾレンを容易に導けるが、物象化論では革命のモチヴェイションが成立しない、と言って、物象化論に不満の口吻(こうふん)を漏らす。なるほど、疎外論者たちにあっては、与件を疎外態として規定すれば、直ちに、それは“悪しきもの”“本来性を回復すべき”ものであることが“分析判断的”に含意されているのかもしれない。それにひきかえ、物象化という把握は、慥かにそのままでは善悪の価値評価や“自己止揚さるべきもの”という当為性を“分析判断的”には含まない。だが、このようなことは体系的叙述=体系的批判としての物象化論的体系が全く没価値的であることを意味しはしない。却ってそれが極めてイデオローギッシュたり得ることは前項末の藉問が示した通りである。」129-30P
「偖、物象化論が、システム内在的な当事意識や体制内視座の“学知”的意識にとって“客観的”に現前し、彼らにとって“普遍的に妥当”している“事態”や“命題”を物象化的錯認であるとして把え返すとき、物象化論者は、体制内的意識は一種の錯誤に陥っているのだと主張し、自分こそ事柄の真実相を認識しているのだと確信している。物象化論者の見地からは、物象化された相をそのまま真実相であると思念している体制内意識は「虚偽(Falschheit)」に陥っている意識、つまり、「虚偽意識(ein falsches Bewußtsein)」であることになる。ここには、早速、「真理性−虚偽性」という「価値」評価が介在していると言わねばならない。」130P
「物象化の体系的叙述=体系的批判にあっては、「真理性−虚偽性」とその「基準」の問題も自覚的に体系にビルト・インされている。体制外在的な批判といっても、それは決して超越的批判ではない。ヘーゲルの故知を想起するまでもなく、弁証法はカント的“批判”を階梯化しつつ体系内にビルト・インすることを志向するものであり、真偽性の基準をも体系にひとまず内在化させるものである。なるほど、ヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法はそのまま同じではない。マルクスの場合、「絶対知」の高みに合一するのではなく、最終的には、「人間は真理すなわち彼の思惟の現実性と力、此岸性を実践において確証しなければならない。実践から分断された思惟の現実性・不現実性をめぐる争いは、純然たるスコラ問題だ」といって真実性・虚偽性の確証は「実践」の場に移される。とはいえ、これは最終的にはの話であって、理論体系の内部で真偽問題が一切棚上げされる謂いでは決してありえない。理論体系の埓を超え出た実践の場での確証という構制に見合う形で、マルクスは理論体系の内部にビルト・インしている。真偽価値以外の「善悪」「正邪」といった価値問題についても同趣である。」130-1P
「真偽性の問題からみていこう。物象化的錯認はマルクス的学知にとってフェア・ウンスにはあくまで錯認である。だが、直接的当事者はもとよりシステム内的視座を超出できない人々、つまり、現体制下における圧倒的多数者にとっては、それこそが現実=真実に映ずる。学知がもしいきなりそれは錯認にすぎないと指摘したとしても、水掛論になるくらいが落ちであろう。体制内的意識にとって殆んど必然的な物象化的錯認は、他者に一寸指摘されただけで誤謬に気付くような生易しい偶有的なものではない。体制内的なパラダイムからすれば、それは却って真理であるとさえ言える。今問題にしている次元における物象化的錯認は、同一パラダイム内部での個別的な錯認とは次元を凡(「およ」のルビ)そ異にしており、一総体としてのパラダイムそのものに関わる底(「てい」のルビ)のものである。」131P・・・ 当事意識ということを廣松さんは、否定的脈絡でとらえているのですが、反差別論では、「当事者研究」ということで、被差別の当事者性というところでの、むしろ、差別をとらえ得る可能性が高いという突きだしもされています。このあたりは、廣松さん自身が物事をとらえることができるかどうかは、立場性の問題が大きいということをどこかで書いていることにも通じます。勿論廣松さんは、学知意識でも体制内学知の批判をしていることもあります。このことはマルクスの「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」と提起していることに対して、そのことを踏み外したレーニンが外部注入論などを突きだし、革命的インテリゲンチャの革命にしたところでねじ曲げられた「革命」の総括が今問われています。また、フェア・エスとフェア・ウンスの弁証法というとき、これらのことも押さえた上での論考が必要になるのでないかと思います。蛇足的に書き加えれば、わたしが、『弁証法の論理』の読書メモに書いたフェア・エスとフェア・ウンスの取り違えも、このことの整理の仕切れなさから生じた、赤面するような取り違えだったのです。
地動説と天動説の間のパラダイム転換に関する話、謬見にもいろいろな段階・性質があるとの話を挿み、「これと類比的に、体制内在的な物象化された視座に照応するパラダイム内部においても、その埓内で既に謬見であるごとき偶有的な錯誤が多々存在するのであり、“必当然的”な物象化的錯認はかかる偶有的錯認とは区別する必要がある。/マルクスは、この問題をどう捌いているか? 『資本論』における物神性の節で、彼は物象化された一群の形態を挙げ、それらの定在形態が物象化的倒錯(Quidproquo)であることを究明してみせた後で、次のように述べている。「このような諸形態こそがまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしている。それらの諸形態こそ、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての、社会的に妥当する、故に、客観的なgesellschaftlich gültige,also,objektive思想形態なのである」・・・・・・マルクスは、確かに、或る条件つきであるが、物象化された諸形態の“真理性”を認めているのである。「この歴史的に規定された生産様式」に内在的な視座では、という条件つきで、彼はそれら諸形態の“真理性”を認めているのである。これは、先のアナロゴンで言えば「大地平面論」のごときと区別した「大地不動論」に類する知見のシステム内在的な“真理性”の追認に相当するであろう。が、この“真理”はシステム外在的な見地からは決して「真理」ではない。それは何を如何に錯視したものであるか、これの究明が必要であり、現にマルクスはその究明をおこなっている。ところで、しかし、この究明的知見はまだ「社会的に妥当する、客観性」を獲得してはいない。ここで、もし、「社会的妥当性・客観性」ということが、“真理性”の基準とされるのであれば、その限りでは、却って、物象化された形態のほうが“真理”とされざるをえない。そして、究明的知見のほうは、たかだか少数者の、ことによってはマルクス一人の“思念”にすぎないことになる。マルクスの体系構成法に即して言えば、目下の場面では、まだ、現にそのように遇される。彼は、この場面では、システム外在的な自己の基準や知見を一意的に真正のものとして強弁しはしない。マルクスの叙述的批判=批判的叙述は、理論体系の内部では、さしあたりこのように自己相対化されている。けだし、批判の基準そのものも弁証法的に階梯を追って自己吟味され、高次化されるべき所以である。」132-4P
「茲で、さしあたり、前項末に生じた“没価値性”云々の問題に中間的に答えておけば、マルクスは決して没価値性を標榜するわけではないが、右に見たように、批判的基準そのものを自己相対化しており、しかも、システム内的“真理性”から超越的に乖離しないよう慎重に討究の歩を進めるのであって、決して恣意的なイデオローギッシュな論断を事とするわけではない。――このことは真偽という価値性だけでなく、善・悪とか正・不正とかいった価値性に関しても同様である。『ゴータ綱領批判』のなかで、マルクスは「ブルジョアは、今日の分配が“公正”だと主張してはいないか? 事実、それは生産様式の基礎のうえでは[この条件に注意されたい――引用者]、唯一の“公正”な分配ではないのか? 経済的関係が法(Recht=正義)の諸概念によって機制されるのか、それとも反対に、法[正義]関係が経済から発生するのではないのか?」と反問し、「公正」「正義」の価値基準をさしあたりシステム内在的な妥当性に置いている。マルクスはいきなり、体制外的な価値基準を恣意的に持出すようなことはしない。」134-5P
「マルクスの体系的叙述=体系的批判は、勿論、以上の構制では尽きない。今や、次のステップを見よう。/以上の行文では、体制内在的な視座、体制に照応的なパラダイムの内部では、真偽の判定、善悪や正邪の判定が一意的に確定する筈であるという暗黙の前提になっていた。しかし、この前提は正しくない。ヘーゲルは一切の概念、一切の判断が二律背反(「アンチノミー」のルビ)に陥るという“洞見”から矛盾律を相対化し、弁証法を選取したのであった。マルクスが物象化の叙述・批判の対象とする社会的・歴史的現象の領界においては、階級的対立性が現存することによって、体制内的当事者たち自身の知見に二律背反が現出する。二律背反とは、言うまでもなく、共通のパラダイム的諸前提に立脚しておりながら、真偽(善悪・正邪)が一義的に決定できず、SハPナリという肯定命題とSハPナラズという否定命題との両方が真理性を主張して相譲らない論理的事態の謂いである。/システム内在的な当事者たち自身のあいだで二律背反的対立が現出した場面では、もはや体制内的“真理”基準(善悪や正邪の基準)をそのまま追認して判定することは不可能である。けだし、「社会的に妥当する、故に客観的な」“基準”を共有しつつ両陣営が対立しておりながら、その基準に照らしたのでは決着が(論理上)つかないからこそアンチノミーたる所以である。」135P
「マルクスは、この場面でどう応待するか? 『資本論』第一巻第八章「労働日」論における余りにも有名な条りを想起しよう。彼は資本家と労働者とが労働日をめぐって対立する双方の命題を論述し、双方が「労働力」を商品として共通に了解し、双方が「商品価値」を労働価値説流に了解し……という共通の前提に立脚しつつ、いずれも自己の主張の“真理性”“正当性”を立論しうることを示したうえで、次のように言う。「だから、ここでは一つの二律背反(「アンチノミー」が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品価値の法則によって保証されている権利(Recht=正義)対権利の対立である。同等な権利と権利のあいだでは暴力(「ゲヴァルト」のルビ)がことを決する)。――」135-6P・・・これは歴史問題・事実問題としての定式で、反差別論からすると、暴力で決すること自体を否定する関係を作っていくという命題が導かれ、そこを梃子にして未来社会を作っていくこと。
臆断的対話のやりとりを受けて「これらはいずれも短慮の見である。なるほど、ここでは労働者の側も「労働力=商品」という規定や「労働価値説」を前提的に認めているかぎりでアンチノミーに陥っている。・・・・・・マルクスはなるほど別の基準をもってはいる。が、それは対立している両当事者に共有さるべくもない。当事者一方たる労働者がマルクスの基準を受け入れたとすれば、それは彼が旧来の基準そのものを止揚し、旧来の主張をも止揚することを意味するので、もはやアンチノミーにこそ捲き込まれないが、今や基準対基準の対立になり、そこにはさしあたり共通の大基準は存在しないから、やはりゲヴァルトで決するほかない。しかも、このさい、労働者が体制内的基準を止揚して、体制外的基準を自己のものとしているからには、彼はもはや「資本家対労働者」という体制内的同位対立次元での“労働者”的階級性以上の見地に立っており、彼は生身の人物としては依然「労働者」であるにしても、彼の“階級性”“党派性”は「資本家対労働者」の同位対立的なイデオロギー準位を超えた高次の党派性になっている筈である。」136-7P・・・大基準を「ゲヴァルトで決しない」ということ、その中身を反差別ということに置くことによって、アンチノミーは解決しえるのでは? 反差別ということは必ずしも体制外的基準でもないのです。「資本家対労働者」の構図だけでは、高次の“階級性”“党派性”にはならないのでは、そこでキーになるのは、反差別ということであり、マルチチュードやサヴァルタンという概念が出てきた意味もとらえられます。
「マルクスは、まさに、かかるアンチノミーとその止揚という構制を彼の体系に自覚的に繰り込む。彼は『資本論』の最終章を階級闘争で締め括る計画であったということが考証されているが、彼の物象化論は、言うまでもなく、システム内在的基準をそのまま追認するものではなく、この基準の埓内でアンチノミーが必然化することの論定で“理論体系”としての理論体系は一段落となる。/このアンチノミーを解消するためには、理論的には、両論が共通の前提としているパラダイムそのものを止揚して、新しいパラダイムを確立することが要件である。この新しいパラダイムこそ、体制内的にはまだ「社会的妥当性・客観性」(“真理性”)を認証されておらず、さしあたり“思念”として遇されるのほかなかった当のものである。この“思念”が“真理”としての実を示すためには、「社会的妥当性」を実践的に獲得しなければならない。それは、目下はまだ自己が体制外在的である所以の、現在のそれとは別の社会体制を実現することにおいてのみ“内在的”真理となる。この故に、マルクス流の体系構成法にあっては、理論内在的にも現体制の実践的止揚、新体制の実現が課題となるわけである。」137-8P
「ところで、二律背反的事態の止揚は、まさに「ゲヴァルト」、理論外的な実践的決着に俟たねばならない。それは誰によって遂行されるのか? 言うも愚ながら、超越的第三者によってではない。それはさしあたり二律背反の一方の当事者によって担われる。彼らは二律背反の前提を理論的・思想的に止揚する域に達すれば、もはや体制内的階級性の準位を超えた存在になる。とはいえ、現体制内にあってそれが大衆的に一挙かつ同時完現することは実際問題として困難である。大衆はさしあたり二律背反の一方の当事者の域で、真偽・善悪・正邪等々の価値に関して体制内的基準に立脚しつつ、現状を告発し、“真の”正価値の“実現”を志向する。マルクス的学知は、それが二律背反の一極であるかぎり、理論的にそれをそのまま追認することはしない。がしかし、この二律背反的階級闘争やその次元でのイデオロギー闘争をも「実践」の場面でしかるべく配備する。「真理性、すなわち思惟の現実性と力、此岸性は実践において確証されねばならない」以上、つまり単なる理論体系の埓内では真理の此岸性は確証されない以上、マルクスの全体系は実践を俟って甫めて完結する。体系的叙述=体系的批判としての物象化論の理論体系は、論理的にはアンチノミーを、歴史的には物象化された相で“自己運動”する体制内矛盾の激成を、見定め、この帰結的事態を意識的・事実的な興発的・舞台的条件として、当事主体たちが体制そのものを止揚する運動へと向かう「蠢き」の“物象化的”また“拘束的”な必然性を確認したところで、実践論・革命論へと開く。それは“絶対知論”で自己完結的に閉じるのではなく、まさに、「実践」へと開かれた理論体系をなすのである。」138-9P・・・この「ゲヴァルト」論は短絡的になっているのではととらえ返しています。マルクスの武装蜂起−プロ独による社会主義の建設から国家の死滅という途は、まさに、この二律背反や唯物史観による生産関係の変革の困難さというところから、政治権力の掌握による上からの革命というところから来ているのではないかと、ここのところの論攷から読み取れるのですが、途はいろいろ設定されます。再開する「社会変革への途」で書いてみようと思っています。
[三]マルクス物象化論の実践論的射程の観望
(この項の問題設定)「今や、物象化論の実践論的射程を観望すべき段である。そのこを通じて、われわれは、未来社会における歴史の法則性という問題についても考究しうるであろう。」139P
「物象化は、フェア・ウンスには錯認であるといっても、現体制下の「対自的かつ間人間的な現実的諸関係」に存在根拠をもつものであって、かの“大地不動・太陽廻天”の錯認とも類比的に、当該システムに内在するかぎり“必然的・現実的”であり、認識を改める(誤謬を理論的に矯正する)といった単なる意識活動によって克服されるものではない。物象化を克服するためには、それの存在根拠をなしている現実的諸関係を現実に変革することが必須の要件である。旧来の現実的諸関係を解体しないかぎり、物象化現象が不断に生産・再生産される。――例えば“貨幣の力”という物象化された“社会的力”は、貨幣という物在を廃棄しただけでは形を変えて(例えば「労働貨幣」)存続すること必須であって、商品経済という社会編制そのものを止揚しなければ解消できない。また、“国家権力”という物象化された力は、無政府主義者が企図するように、それ自体を物のように廃止することは不可能であって、当の物象化を成立せしめる社会的関係(それだけでなく、現実的に、例えば、軍事的・官僚機構の中央集権的強化や国家の共同幻想性を培う愛国心教育等々)を基底的な生産の場で抜本的に再編することなしには廃止できない。――−資本主義的生産関係に存在根拠をもつ物象化、物象化された相で現出する二律背反的諸矛盾、ここから更に生ずる諸々のコンフリクト(軋轢)、これは資本主義的生産関係そのものを止揚することによって甫めて克服することができる。マルクス・エンゲルスは、このことを単に指摘するのではなく、資本主義的生産関係に代わるべき新しい社会編制をも提示してみせる。それもユートピアとして唱えるのではなく、資本主義の、翻っては人類史の物象化された趨向がその現実条件を現実に準備していることの学理的究明にもとづいて、代案というよりもむしろ歴史的未来像として提示する。言うまでもなく、それが共産主義社会である。」139-40P・・・意識活動自体で克服できることとできないことがあり、貨幣の物象化をとらえて指摘しても、現実に貨幣を使っているところで、指摘をするだけでは無効になる。「旧来の現実的諸関係を現実的に変革」することを、廣松さんは武装蜂起−政権掌握による政治革命という将来の、将来へ向けた行動というイメージになっているのではないでしょうか? 現実的に別の形での行動提起が必要になるという話。これについても、別稿で提起します。
「現行の物象化とその諸矛盾を克服・解消する所以の新しい関係態たる共産主義的未来社会は、恣意的な構想物ではなく、まさしく物象化された人類史的進展が法則的に帰向するものである点で、単なるユートピア的見取図とは厳に区別される。だが、「人類史の法則的自己運動とその帰結」というのは物象化された表象であって、真実には歴史なるものが自己運動をするわけではない。真実には人々の実践が歴史を形成するのであり、共産主義的未来社会なるものは人々の実践によって創出される。」140P
「真に反体制的思想を確立するためにはパラダイム・チェンジを要するのであって、それは極めて困難なことである。実際、真に反体制的な思想で理論武装しうる者は、さしあたっては極少数の“先覚者”だけにとどまる。彼らが大衆を思想的・運動的に同士として獲得していくことは現に甚だ困難である。」141P・・・レーニン主義的前衛論←反差別、反戦という具体的なところからの被差別者の当事者意識からの出発、自然発生性への廃棄に陥らない、弁証法的にアウフヘーベンしていく自然発生性への依拠
「マルクス・エンゲルスは、大衆運動それ自身もまた、さしあたり物象化された相で進展することをまずは対自化する。/・・・マルクス・エンゲルスからの引用文・・・/このような即自的な大衆運動では、真に革命的な思想性は望めないのではないか? それでも「理性の狡智」よろしく共産主義革命が成就されるというのか? それは措くとしても、前衛的先進的部分は運動にどう介入するのか? マルクス・エンゲルスは、やがて、物象化されて進展する大衆運動に対する前衛的組織のアンガージュマン(engagument(仏)参画)を積極的に構想するようになる。そこでひとまず定式化されたのが「永続革命」の戦略戦術であり、最大綱領の前梯的ステップたる最小限綱領の段階的向上の方式である。」142P
「革命論に関しては論ずべきことが多々残されているが、紙幅も尽きたので、最後に、未来社会における歴史の法則性の問題について簡単に誌すことで一区切りとしたい。/歴史の法則性が物象化的に成立するのは、諸個人の「協働」が「自然生的」「即自的」であることに因ってであった。とすれば、未来において人々の協働が対自的におこなわれるような社会体制が確立されれば、歴史には法則性が無くなってしまうのか? 未来社会においても、人々の協働が隅々まで対自的におこなわれることは期しがたいし、日常的意識にとっては或る種の物象化が存続することであろう。言語的意味の物象化、社会習慣的規制力の物象化、道徳的規範の物象化、等々、この種の物象化現象は、緩和された形態においてではあれ、やはり生ずるのではないかと想われる。また人間が生態学的制約性を免れることもないし、一定の規範的拘束性に服することも(規範の内容こそ一新されていようが)やはり存続するはずである。人間の行動は未来においても決して全くの自由放縦ではありえず、一定の自然的・社会的諸条件によって制約・拘束される。但し、あの「合成力」の方向は、もはや、階級的・階層的な特殊的利害関心に方位づけられた多様なヴェクトルの合成として結果的に成立するのではなく、人々の目的意識的な協働において初めから目差されていた方向の実現になるであろう。このかぎりにおいて、人々は、生態学的その他の制約条件下にありながらも、そのことを計算に入れたうえでの目的意識的協働によって、目的意識的に「歴史を創る」ようになる。その軌跡を歴史の法則的進展と呼べば呼べるであろうが、しかし、これはもはや所謂“必然的法則”ではない。エンゲルス式に言えば、人類は「必然の王国」を脱して「自由の王国」を実現するのである。」143-4P
最後にこの章のまとめ的文、「ここにおいては――物象化の機制そのものは存続し、或る種の物象化が新たに生ずるとしても――「人類の前史」において汎通的であったごとき桎梏的な物象化はもはや止揚されるものと予科される。」145P・・・廣松さんは物象化の止揚=革命論として展開しています。
2024年08月16日
廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(1)
たわしの読書メモ・・ブログ667[廣松ノート(6)]
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(1)
いよいよ、『物象化論の構図』に入ります。再読としてざっと読み上げ、『著作集』の高橋洋児さんの「解説」、文庫版の熊野純彦さん「解説」まで読んで、本著に戻ってもう一度読み直しながらメモ取りに入ります。
冒頭に「いよいよ」と書いたのは、わたしが廣松理論の学習に入っていったのは、反差別という処で総括と理論形成を進めようとしていたときに、「物象化」概念にあたり、これがわたしの反差別論のキー概念になるというところで、廣松さんの著作の読み込みに入っていった経緯があるからです。だから、この『物象化論の構図』と出会ったときには、まさに、これをベースにして反差別論を展開できるとの思いがありました。わたしが本を出版した後に、『情況』誌に載せて貰った「廣松渉物象化論の反障害論-『反障害原論』の隠されたサブタイトル」にそのあたりのことについて書いています。
hiromatubusho.pdf (taica.info)
廣松さんのこの著は、書き下ろし論文でなく、すでに掲載した論文に、「跋文」を書き加えた論文集になっています。尤も、廣松さんの単行本は、既に掲載した論文を集めたものが何冊もあります。その中でも、当初から体系的に書き始めたことを、あちこちの雑誌に掲載していて、それを集めて、それなりに体系的な一冊の本になっている(とわたしが押さえる)ものと、最初から一つずつ纏まった文になっているものを寄せ集めた(とわたしが押さえる)ものとがあります。前者の典型的な例が『世界の共同主観的存在構造』で、後者の典型的例が『事的世界観への前哨』です。『事的世界観への前哨』は、『著作集』で、バラバラにされて掲載されていることにも、それは見てとれます。この『物象化論の構図』は『著作集』でバラバラにされていず、『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』にまとめて掲載されていますが、「パッチワークの看を呈しており」IPと、多少廣松さん自身のいつもの「謙遜」的文でもあるのですが、著者がそれなりにそういう思いも持っていたことを書いていることにもそれは現れています。それは、「V 歴史的世界の物象化論/一 商品世界の存在構造」とのつながりでしょうか? 宇野経済学批判関係の論文が一緒に掲載されています。
さて、わたしの問題意識からすると、この論文集は、高橋さんの解説にあるところの、「廣松哲学における物象化の位置」という内容になっているのですが、そこで廣松さん自身が物象化論としていろいろなところで展開しているところで抜け落ちていることがあります。それは、わたしの中で、「物象化」という概念は「異化」という概念とリンクしたのですが、その異化ということがこの本の中で出てきません。それは、マルクスの物象化論と廣松物象化論の違いという問題にも通じる事です。高橋さんは「マルクス=廣松物象化論」という表記はしていますが、「=」ということに本文で?マークを付けています。文庫本の解説者の熊野さんは「マルクス/廣松物象化論」という表記をしています。それを深化というか、発展期展開というか、はみ出しているとか、いろいろなとらえ方があるにせよ、「=」でない内容は、廣松さんが、ゲシュタルト心理学の「図として浮かび上がる」という異化ということをとらえ返し、ソシュール言語論をもとらえ返したところで、命名判断的異化=物象化をとらえ返したところから、物象化論を展開している側面があるのです。そのことがこの本の中で抜け落ちています。言語論的なところのとらえ返しが「言語的意味の物象化」143Pと、出てはいますが、「異化」の問題としての言及はありません。「異化」ということが反差別論にとって特に重要な概念になるのです。そのことは、「跋文」のサブタイトル「理論的拡張」としての、わたしの廣松物象論の援用としての反差別論的物象化論のとらえ返しの作業としての展開になるのです。
わたしにとって、物象化論批判の中身は、繰り返して展開される実体主義批判と異化という次元までとらえ返した物象化の批判なのです。
まず、目次です。この著への解説も付け加えています。
目 次
序 文
T 唯物史観の宣揚のために
第一節 古典哲学の弁証法的止揚
第二節 人間主義の超克と新地平
第三節 疎外論の止揚と物象化論
U 物象化論の構制と射程
第一節 社会的関係の物象化と文化形象の存在性格
第二節 歴史的動態の法則性と当事主体の有意行動
第三節 物象化批判の体系的方法と価値評価の視座
V 歴史的世界の物象化論
一 商品世界の存在構造
(A) 商品世界の二重性
(B) 価値理論の問題性
(C) 商品価値の対象性
(D) 商品存在の物神性
(E) 商品世界の四肢性
二 歴史的世界の存在構造
(a) 情報的世界の二重性
(b) 意味理論の問題性
(c) 社会的行為の対象性
(d) 自然的世界の歴史性
(e) 歴史的世界の四肢性
W 自然界の歴史的物象化
X マルクスにおける哲学
跋文−物象化理論の拡張
索 引
この著は『廣松渉著作集』所収文と文庫版があり、そこに解説があります。
「解説 高橋洋児」(『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』岩波書店1996所収)
一 廣松哲学における物象化論の位置
二 一般理論としての物象化理論
三 マルクス=廣松物象化論の特質
四 物象化論と弁証法および唯物史観との内的連関
五 物象化論の意義
「解説 マルクス/廣松の物象化論――途切れた意志の<かなた>へ―― 熊野純彦」
(廣松渉『物象化論の構図』岩波書店(岩波現代文庫)2001所収)
さて、この著には、「序文」があり別編輯本で「解説」が二つ付いています。ですから、先に、「序文」やその「解説」の読書メモを書き始めればいいのですが、これまで、ほとんど切り抜きだけになってきていることの反省から、それは本著を読んだ後の作業にして、わたしなりの学習の積み重ねとしての展開・深化していくメモ取り作業として、もう既に解説を読んでいることを取り入れていますが、この著のアウトラインを示してみます。
まず、「T 唯物史観の宣揚のために」ですが、これは、廣松理論の入門書の『唯物史観の原像』の押さえ直し的章です。この流れは、廣松さんの「マルクス主義三部作」(『成立過程』『地平』『理路』)や、『青年マルクス論』、『エンゲルス論』、井上忠さんとの共著の『マルクスの思想圏』、また一連の青年ヘーゲル派研究などの初期マルクス研究とリンクすることで、『事的世界観への前哨』の時にやったように、「第二次以降の学習の時に、改めて読み直し、読書メモを書きます」とすることかもしれません。ですが、それでは第二次学習以降に入れたとしても、その作業自体がスイッチ・バック的作業になっていきます。こんなことを書いているのですが、そもそも第一次学習自体が、『存在と意味』にまで終わった時点で、もう1回読み直して、メモを取り直す作業が必要になっています。そもそも基礎学習が出来ていないことも勉強し直しながら、学習を進めていくと、100年どころの作業ではないスパーンの学習になります。更に、わたしのやっているのは実践のための理論で、とてもやりきれません。そんな思いの中で、この章は、必要最小限のメモとりに徹したいと思っています。ちなみに此の章で新しいところは、廣松さんが「疎外論から物象化論」というところで、疎外論批判しているところから、「疎外論自体の意義をとらえ直す必要がある」という提起をしているところをメモりたいと思っています。
次ぎに「U 物象化論の構制と射程」がこの著の核心的部分です。しっかりとメモり対話もしたいと思います。この章の最後は、物象化の止揚=共産主義論・革命論の様相ももっています。『新左翼運動の射程』や『現代革命論への模索』に通じるような論攷になっています。
さらに「V 歴史的世界の物象化論」「W 自然界の歴史的物象化」ですが、マルクス・レーニン主義、すなわち官許マルクス主義とか、ロシアマルクス主義とか言われる教科書では、Vは史的唯物論、Wは自然弁証法とか分類されるところですが、廣松さんは、「われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史(「ゲシヒテ」のルビ)の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区別されうる。両側面は、しかし、切り離すことはできない。」3P「自然観と歴史観とはもはや両半球的に併立すべくもないのであって、「歴史化された自然」の一総体を射程に入れる唯物史観が、世界観そのものと相覆う」71Pという押さえで、Vの中の「二 歴史的世界の存在構造/(d)自然的世界の歴史性」という項が出てきます。勿論、「二つの側面から考察され」る作業が必要になりますので、「W 自然界の歴史的物象化」というところからの押さえも展開しています。なお、Vの「一 商品世界の存在構造」は『資本論の哲学』や共編著『資本論を物象化論を視軸にして読む』と繋がる論攷で、『視軸』は共編著ですが、ここでの論攷は、一人での「物象化論を視軸にして」的な展開になっています。そしてまたこの著に納められている宇野経済学批判など、『資本論』に関する論考を第二次ノート作りとしてやる予定、これも後回しとしたいところですが、Tの扱いと同じで、簡潔にまとめてメモりたいと思っています。「二 歴史的世界の存在構造」は第二主要論文とも言いえることしっかりメモります。「X マルクスにおける哲学」はエンゲルスの有名な「哲学は死んだ、残るは形式論理学と弁証法だけである」という提言に対して、マルクス哲学を対置しています。このあたりは「廣松哲学」と言われ得ることを提示した廣松さんの意図を押さえ直す重要な作業です。
最後に「跋文−物象化理論の拡張」は、『存在と意味』の第二巻以降の実践論や文化論につながる論考で、この著が出たのは『存在と意味』第一巻が出された後で、第二巻の前、まさに廣松理論の広袤ということを感じさせます。ちなみに高橋さんが解説で、「事的世界観 物象化論 唯物史観」の三つの絡み合っている理論ということを書いていますが、これは『著作集第二巻 弁証法の論理』の解説で、「リゾーム状」という概念で突き出していることにも繋がっています。廣松さんの名を冠した「廣松○○論」といわれるオリジナリティーもった理論は「事的世界観」「物象化論」「唯物史観」「共同主観性論」「四肢構造論」「弁証法の論理」などとあり、それは併列的にならべられることでもなく、関係性の総体としての網状の関係態なり、函数的連関態とか、函数内函数とか、錯分子構造とかいうところのとらえ返しも含めて、押さえ直す必要を感じています。若干この著を読みながら、少しはそのことを考えますが、むしろそのことは、一切の途はそのことに通じるの感があった、主著『存在と意味』の学習で、押さえる作業に入ります。勿論、未完の著で、その先どのような構想だったのかの推論も交えたとらえ返しになるのかも知れません。
なお、T、Uにはかなりの量の註が付いています。初期マルクス研究には貴重な資料になっていますが、これは初期マルクス研究の一連の書の学習、しかも、第二次学習ではなく、第三次学習の際に廻さざるをえません。そこまで、行けない公算が強いのですが。
さて、切り抜きに沿ったメモ取りに入ります。これからは斜体文字がわたしの文です。ここで、断っておきますが、この論攷は、マルクス・エンゲルスの物象化論を押さえた上で、廣松さん自身の「物象化論」の展開に入っています。従って、マルクス・エンゲルスの文の引用が多くなっています。これを逐一載せていくと本一冊丸写しになります。ですから、長文で引用したところは省いて、廣松さんのコメントを中心に切り抜きメモをとっています。で、だいたい意味がとれるのですが、取れないところは、この著自体に当たってもらうことをお願いするしかありません。わかりにくいところを更にわかりにくくしているとは思いますが、よろしくお願いします。
序 文
まず冒頭、この書の発刊の主旨を展開しています。「「物象化論の構制」ということは、著者にとって、マルクスの後期思想を理解するうえでの重大な鍵鑰(「けんやく」のルビ)を成すものであり、また著者自身の構想する社会哲学・歴史哲学・文化哲学の方法論的基底を成すものでもある。この間の事情については、この十有余年、折々に表明しながらも、「物象化論の論理構制」そのものを主題的に論じることは永らく躊躇(「ちゅうちょ」のルビ)してきた。それというのも、一つには、『資本論』全三巻を包括するマルクスの「政治経済(学)批判」体系を物象化論の構制に則して貫通的に解釈する作業に若干の隘路(「あいろ」のルビ)を残していたためでもあるが、主要には、もう一つ、著者なりの実践哲学、わけても役割行動の編制における権力的規制の論件において、必要にしてかつ充分な方法論的配備を見極(「みきわ」のルビ)め難かったためである。しかるに、ここ一両年の間に、前者については、共著者に専門家の吉田憲夫氏を得て、旧著『資本論の哲学』の改訂・増補ひいては「マルクス政治経済(学)批判」体系の全体を視野に入れた解釈的再構成に目途が立つに至った。また、後者についても『存在と意味』第二巻「実践的世界の存在構造」の草案が漸次調(「ととの」のルビ)うにつれて、ほぼ成心(「せいしん」のルビ)が固まるに及んだ。茲に、「物象化論の構制と射程」を主題的内容とする本書を世に問い、識者の𠮟正を仰ぐ所以である。」DP
各論文の構制について説明していく文があります。これについては、すでに蛇足的になっていることを畏れつつも復習的なコメントを書いているので、切り抜きメモをそのまま掲載します。対比して間違ったところがあれば指摘願えると有り難いと思っています。「第T論文「唯物史観の宣揚の為に」は、史的唯物論に関する俗流的な理解を卻(「しりぞ」のルビ)けつつ、唯物史観の世界観的視座とその構制を顕揚するものであるが、本書のコンテクストにおいては、特に“前期マルクス”におけるいわゆる「疎外論」と“後期マルクス”における「物象化論」との連続的不連続=不連続的連続性を論考しつつ、マルクスの物象化論に関するイントロダクションの機能を演ずべきものとなっている。尚、この論稿の第三節「疎外論の止揚と物象化論」は新規に書き加えたものであり、この追補にともなって、先行の第一、第二節の本文および註(註は章末に一括)にも修訂の手を加えた。」E-FP
「第U論文「物象化論の構制と射程」は、元来は第T論文における未完の“第三節”を独立の形で起稿し直したものという性格をもつが、成立の事情は措いて本書のコンテクストでいうかぎり、本書の基幹部をなすものである。」FP
「第V論文「歴史的世界の物象化論」は、今を去る十五年前、一九六八年の晩秋に執筆した学会特別講演の草稿(学会誌に事前に掲載、構制は一九六九年の一月)であり、『資本論』における「商品世界」論の構制を「歴史的世界」全般の物象化的存立構造に推及する構案を述べたものである。この旧稿は、著者にとつて、マルクス商品世界論の解釈を初めて発表し、同時に亦、「役割論的構制」を初めて公言したものとして記念すべきものであるが、論文集に収録することはこれまで自制してきた。その理由は、撤回したい論点が含まれていたからではなく、その後、この論文の第二節を敷衍(「ふえん」のルビ)展開するかたちで「言語的世界の存在構造」および「歴史的世界の協働的存立構造」を発表し(いずれも、拙著『世界の共同主観的存在構造』勁草書房刊に所収)、また、この論文における批判点を主題的に展開した「ハイデッガーと物象化的錯視」を公表し(拙著『事的世界観への前哨』勁草書房刊に再録)、さらにはこの論文の第一節を支える『資本論』読解を独立の一書『資本論の哲学』(現代評論社刊)として上梓するというように、この論文=学会講演における原型的発言を種々の方面にわたって主題的に展開しつつ、別の形で交換することにしたからである。・・・・・・・。この旧稿は、いかにもラフ・スケッチでありながら、いな、原型的なラフ・スケッチであるがゆえに、本書のコンテクストにおいては、稜線を際立たせるのに好便であるように思える。・・・・・・著者として最大の不満はマルクスの「価値形態論」への関説を一切割愛していしまっている点である。成程、「価値形態論」における人間関係は、“単純商品生産モデル”にしか十全には妥当しない。このことを慮(「おもんばか」のルビ)って価値形態論への関説を割愛したむきもある。とはいえ、この欠が議論を抽象的な域に押止める一因になっていることは否めないし、経済学の専門家諸氏は「このような議論ではとうてい『資本論』全三巻を物象化論の構制とやらで首尾一貫して解読することは覚束(「おぼつか」のルビ)ない」という印象を懐(「いだ」のルビ)かれることであろう。慥(「たし」のルビ)かに、本稿に限らず、本書の全体が『資本論』全三巻を通じる物象化論を顕揚するうえで、大きな落丁を残している。この落丁を埋めるためには、しかし、いわゆる「転形問題」その他、『資本論』に則した具象的な立論が必須であり、優に主題的な一書を必要とする。この故に、本書では敢て中途半端な関説を差控えた次第なのである。とりあえず、「価値形態論」と「物神性論」については、基幹の別著『資本論の哲学』(因みにこの旧著は増補改訂のうえ、明春、勁草書房により新版を上梓する予定でもある)によって本書の欠を補って頂ければ幸いである。」F-HP
「第W論文「自然界の歴史的物象化」は、これまた学会誌に執筆した旧稿の再録であり、・・・・・・・この短論文集は、著者にとって、マルクス・エンゲルスの自然概念について主題的に論じた唯一の論稿でもあり、昨今では稀覯(「きこう」のルビ)の由、照会にあずかること再々であるので、敢て論点の重複も辞せず、“場違いの附録”として収録する途を選んだ、寛恕を乞いたいと念う。」H-IP
「第X論文「マルクスおける哲学」は、「寺子屋」主宰の講演会の記録で在り、物象化論を直接的な主題とするものではないが、第U論文に謂う「体系的叙述=体系的批判」の構制、および、実践の場における「哲学の実現的止揚=止揚的実現」という論件に関わり、総じて亦、本書に盛ったモチーフを(或る特殊な視角からではあるが)総括する一面を有(「も」のルビ)っているので、これまた“附録”として収めた。前口上の一部と附記を省いた以外は、ほぼ忠実な再録である。」IP
「跋文「物象化論の拡張は、マルクス・エンゲルスの物象化論を著者がどのような方向でどのような配備のもとに形象・展開止揚と庶幾(「しょき」のルビ)しているか、著者なりの意想と構案を、略述したものである。形式上は、「跋文(「あとがき」のルビ)」であるとはいえ、この長文の新稿は第U論文と並ぶ本署の中枢部とも目され得よう。」IP
T 唯物史観の宣揚のために
(この章の問題設定)「唯物史観ないし史的唯物論といえば、教科書のたぐいでは、屢々レーニンの言葉を踏んで、「弁証法的唯物論を社会・歴史の領域に適用し拡張したもの」とされている。そこでは、世界を「自然」界と「歴史」界という両つの半球に区分する近代哲学流の構図が立てられており、当の両半球に対応する「自然弁証法」ならびに「史的唯物論」という二大部門に対して「弁証法的唯物論」という“第一哲学”が先行するかのごとき構制がみられる。・・・・・・・。倖い、我が邦のマルクス研究者たちにおいては、戦前における三木清などの先蹤は措くとしても、戦後早くから田中吉六氏による弁証法的唯物論に対する唯物史観の時間的先行説が定着しており、「適用・拡張」ということを字句通りに受け取るむきは尠ない。だが、われわれとしては、体系の構制からしても、果たして唯物史観は弁証法的唯物論なる“第一哲学”を「適用・拡張」してものであるか、このことの問い返しを通路として、唯物史観の世界観的な構制を顕揚しなければならない。」2-3P
(『ド・イデ』から引用)「われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史(「ゲシヒテ」のルビ)の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区別されうる。両側面は、しかし、切り離すことはできない。人間が生存するかぎり、自然の歴史と社会の歴史とは相互に制約しあう、自然の歴史、いわゆる自然科学には、われわれはここで関説しない。人間の歴史については、しかし、立ち入っておくべきであろう。というのも、イデオロギーというものは、元に還してみれば、その殆んどすべてが、人間の歴史を歪曲して把握したものか、人間の歴史を全く抽象化してものか、そのいずれかに帰着するからであって、云々。」3P・・・歴史の物象化と抽象化
「ここにみられる「歴史」という概念の広袤(「こうぼう」のルビ)に留目されたい。それは「自然の歴史」と「社会の歴史」とを「両つの側面(「ザイテ」のルビ)」とする単一的・統一的な「歴史」である。しかも、そのさいに、「自然の歴史」というのは、宇宙進化史とか地球進化史とかいった次元での自然界の歴史ではなく、「自然の歴史(「ゲシヒテ」のルビ)」=「いわゆる自然科学」とされている。――マルクス・エンゲルスは、自然界と人間界(自然界と歴史界)とを両断する近代哲学流の存在了解をそもそも採っていないのである。」3-4P
「唯物史観(唯物論的な「歴史」把握)というさいの「歴史」が、ここにみるように、格別な意味での「自然の歴史」と「社会の歴史」とを包括する「歴史」であるとすれば、そして、唯物史観(maerialistische Auffssung der Geschichte)が「われわれは唯一の学、歴史の学しか知らない」と言われるさいの単一的・統一的な「歴史の体系知」にほかならないとすれは、唯物史観は、断じて、自然界と並ぶ歴史界という半球に関わる通常の歴史観ではなく、総体的な世界観である、と言わねばなるまい。」4P
「唯物史観はマルクス主義理論体系の単なる一部門ではないこと、それはマルクス主義的世界観の構制そのものであること、予備的留意事項としてこの旨を臆言しておく。」4P
第一節 古典哲学の弁証法的止揚
(この節の問題設定)「ドイツ古典哲学の絶頂に位するヘーゲル哲学の内在的「止揚」を成就したもの、それがマルクス主義であるというわけである。/われわれ第三者の眼からみても、この自負には十全の謂われが認めらうる。マルクス・エンゲルスは、近代哲学の棹尾を飾るヘーゲル哲学を止揚することにおいて、近代哲学の地平そのものを踰越している、茲に開かれた革らしい世界観的地平に照応するものが唯物史観にほかならない。」5P
[一]ヘーゲルの「主観−客観」図式の超克の試みとマルクス・エンゲルスの止揚
(この項の問題設定)「今日、人々が、近代(歴史的段階としての資本主義時代)の哲学的・世界観的地平の超克を論ずるにあたっては、いわゆる「主観−客観」図式の克服をメルクマールにするのが常套になっているが、われわれとしても、旧来通り、これを弁別的徴標にすることができる。/ドイツ古典哲学、わけてもヘーゲルの哲学は、或る意味では「主観−客観」図式に立脚した哲学の極北である。とはいえ、或る意味では、フィヒテやシェリングの哲学からして既にそうであるが、ヘーゲルの哲学は、よしんば「主−客」図式の埓内においてであるにせよ、「主観−客観」の二元的対立性の克服を志向するものであった。――マルクス・エンゲルスが「主体−客体」図式を克服しえたについては、ヘーゲルの前車の轍を見据えたことが大いに与(「あずか」のルビ)っている。」6P
ヘーゲルのデビュー論文ともいうべき『フィヒテとシェリングとの哲学体系』からの引用があり、それについての著者のコメント「ヘーゲルは、このような諒解のうえに立って、主観と客観との対立性、ひいては、主観主義と客観主義、「独断的観念論」と「独断的実在論」の対立性を“克服”した地歩、絶対精神を実体=主体とする「絶対的観念論」の立場を固めたのであった。――ヘーゲルの絶対的観念論は、第三者的にみれば所詮は観念論であるにしても、主観と客観との二元的対立性、“観念論と実在論との対立性”を“止揚”したものと自任されている。」7P
この稿のまとめとしての、マルクス・エンゲルスのヘーゲル哲学の止揚「マルクス・エンゲルスは、少なくとも彼らの思想形成過程においては、主観性と客観性、精神と物質との二極的対立性のみならず、個別と普遍、実存と本質、形相と質料、有限と無限、自由と必然、等々の対立性、さらにはまた、観念論と実在論との対立性を克服しようとするヘーゲルのモチーフを継承した。そして、軈がて、ヘーゲルがそれを成就しえなかった所以のものを彼らは洞見しうるに至り、新しい視座に立ってそれの達成を図るに及んだのであった。マルクス・エンゲルスが、唯物史観と相即する革らしい世界観的地平を拓いたのは、ヘーゲル的モチーフの継承的展開の線上においてである。尤も、この過程はリニア[単線的]なものではなく多分に屈折しており、飛躍もみられる。/本稿は唯物史観の成立過程を手段的に追跡する者ではないが、唯物史観の視座と構制を対自化する一具として、ヘーゲル哲学が如何にして止揚されたかに留目しつつ、形成過程の幾つかの象面をも配視することにしよう。」7-8P
[二]マルクス・エンゲルスのヘーゲルと青年ヘーゲル派の止揚の試行
マルクス・エンゲルス『聖家族』からの引用を受けて「一八四四年秋というこの時点では、マルクスはフォイエルバッハを絶讃する準位にあり、ヘーゲル哲学をフォイエルバッハの線で揚棄しようと志していた。」9P
「このさい留目したいのは、当時のマルクスが、フォイエルバッハを称揚しながらも、フォイエルバッハの謂う「唯物論」の立場を標榜することなく、敢てフォイエルバッハのうちに「唯心論と唯物論との対立の克服」を強引に読み込み、そのような立場を執ろうとしていることである。マルクスもエンゲルスも、ヘーゲル学徒として当初のうち観念論の立場を採っていたことは言うまでもないが、彼らはフォイエルバッハの唯物論によって強烈なインパクトを受けるに至っても直ちに唯物論の立場を受容することなく、一八四三年から一八四四年にかけて、飽くまで「観念論と唯物論との対立を止揚する見地」を模索したのであった。」9-10P
『経哲手稿』からの引用を受けて、この稿のまとめ的文「マルクス・エンゲルスは、やがて、唯物論の立場を採るようになり、唯心論 対 唯物論、観念論 対 実在論の対立性の止揚ということを言表しなくなるが、しかし、彼らはかつて自らその一面性を指弾した“唯物論”を選取したわけではない。唯物史観は唯物論的な史観には違いないにせよ、ここでの唯物論は単純素朴な“唯物論”ではなく、観念論 対 実在論、唯心論 対 唯物論の止揚的統一を志向していたかつてのモチーフを含意したものであり、そこでは、主観性と客観性、精神と自然、……の真の統一というかつてのモチーフ(この意想そのものはドイツ・ロマンティークこのかたのものと言うこともできる)が維持されている。」10-1P
[三]「絶対精神の真実態」とされる「人間」に定位したマルクス・エンゲルスの一八四四年時点の構案
(この項の問題設定)「『経哲手稿』や『聖家族』の時点におけるマルクスは、フォイエルバッハを亀鑑としつつヘーゲル哲学の内在的止揚を図ろうとしていたとはいえ、フォイエルバッハ哲学の枠内に跼蹐(「きょくせき」のルビ)していたわけではなく、固有の思想を見せている。そこには後年の萌芽も多々みられる。が、当座の論件として止目したいのは、ヘーゲルにおける「絶対精神」を「人間」というその「真実態」で対置し、以て、自然と精神との如実の統一を措定しようとする構案である。」11P
「当時のマルクスは、実体=主体の自己疎外と自己獲得というヘーゲルの構図そのものは「発見された」「歴史的運動の表現」であるとして積極的に評価する。しかし、ヘーゲルが当の「実体=主体」を「絶対精神」としているところに致命的な難をみる。」11-2P
「ヘーゲルにあっては「主語と述語とが接待的に顚倒した関係」に陥ってしまっている。/当時のマルクスによれば、ヘーゲルの謂う「絶対精神」とは形而上学的に改作された「人間」にほかならず、ヘーゲルの謂う絶対精神の自己疎外と自己獲得とは人間の「労働」における自己疎外と自己獲得の過程、その「歴史的過程」が形而上学的に改作され、思弁的に鏡映されたものにほかならない。」12P
「『経哲手稿』におけるマルクスは“労働の存在論”ともいうべきものを展開しているだけでなく、既に一定の経済学的な具象性をもった議論をおこなっているし、後論との関係で引いておけば、次のように立論してもいる。「産業は、自然の人間に対する現実的な歴史関係である。……産業が人間の本質諸力の露呈として把えられるとき、自然の人間的本質ないし人間の自然的本質も理解される。……産業を通じて生成する自然が人間学的自然である。云々」。」13P
この節のまとめ的文「こうして、一八四四年時点のマルクスにおいては、自然と精神、客観性と主観性……の対立をヘーゲル流の形而上学的な絶対精神ではなく、「人間」という実体=主体に定位して、しかも、人間労働という現実的な歴史過程に定位して“止揚統一”する構案が立てられた。/だが、このような構制によって果たして「主観−客観(主体−客体)」図式が克服された所以になるであろうか? なるほど、主−客の対立性の統一性は図られている。がしかし、ヘーゲル流のいわゆる“主体−客体の弁証法”の構図、実体=主体の客体化と再主体化の構図が維持されているかぎり、それは依然「主−客」図式の埓内にあるのではないか? 然りと言わざるをえない。/現にマルクスは、翌年にいちはやく、この四四年時点における一時的な構案を自己止揚する。人間労働の歴史的過程に視座を据える着眼をはじめ彼は諸多の論点を保持しつつも、ヘーゲル学派流の実体=主体の自己疎外と自己獲得という構制、ひいては「主観−客観」図式そのものを彼は超克するに及ぶ。そのことに俟って、マルクスは近代哲学一般の地平を踰越し、革らしい世界観の地平を拓く、それが「唯物史観」の拠って立つ地平にもほかならない。」15P・・・唯物史観の宣揚
第二節 人間主義の超克と新地平
(この節の問題設定)「マルクスが四四年時点の一時的構案を止揚して新地平を拓くに当っては、内発的な熟成と併せて或る外的な衝撃も与っている。外的な機縁というのは、折しも激烈になったヘーゲル左派内部の“内ゲバ”的論争、わけても、マックス・シュティルナーが『唯一者とその所有』で打ち出したヘーゲル左派総体に対する衝撃的な内部批判である。/爰では、ヘーゲル左派内部の論争を跡づけたり、シュティルナー・ショックを詳しく分析したりする作業は課題外であるが、“論争”の一斑をも配視しつつ、マルクス・エンゲルスが論争の渦中をくぐりぬけることを介して、いかにヘーゲル左派の準位、なかんずく「人間」主義の準位を超克し、そのことによっていかなる新境地を拓くに至ったか、その次第に眼を向けることにしよう。」15P
「今日われわれの眼からみれば、彼らが当時すでにフォイエルバッハの埓を越えていることを認めうるにせよ、当時の彼らがフォイエルバッハ式の「人間(類的存在としての人間)」主義の大枠内に位置すると目されるかぎり、亜流扱いをされたのも謂われなしとしない。・・・・・・だが、彼らの思想的成長は、もはや「人間」主義への安住を許さなかった。かれらはフォイエルバッハ的な「人間」主義への共賛を自己批判的に乗り越えることを要した。とはいえ、それは論難者たちへの単純な屈服ではない。彼らは「人間」主義を超克すると同時に論難者たちの準位をも超克し、総じて、ヘーゲル左派イデオロギーの拠って立つパラダイムをトータルに超脱しつつ、新しい地平に立ったのである。」16P
[一]シュティルナー
「シュティルナーは、実存的唯一者(そのようなものとしての「自我」)を本質的類人間(「人間なるもの」)に対置する。――――『唯一者とその所有』は二部構成になっており、第一部が「人間」論、第二部が「自我」論と題されているのであるが、第一部はフォイエルバッハはとその亜流の「人間」主義に対する批判へと議論が集約される。――シュティルナーは、キリスト教的な「神」、ヘーゲル式にいえば「絶対精神」が、ヘーゲル左派の展開過程において、それの真実態は「人間」である(シュトラウス)、それの真実態は「人類の自己意識」である(B・バウアー)、それの真実態は「人間なるもの」である(フォイエルバッハ)、というように“「神」とはそのじつ「人間」である”として把え返された先蹤を念頭に置いている。」17-8P
「茲で、シュティルナーは次のように指弾する。フォイエルバッハの徒は、人間こそ至高の存在であると宣言し、人間を原理に据えると唱しているが、その「人間」は実存的な現実的人間ではなく本質存在としての「人間なるもの」であり、「神=人間」といみじくも明言されている通り、「人間」とは「神」の別名にすぎない。「神としての神」への拝跪は卻けられるに至ったにせよ、実存的諸個人たる生身の人間は依然として「人間なるもの」(=“神の真実態”!)に拝跪する構制になっている。今や、「人間なるもの」を至高の存在とみなし、類的本質としての「人間」を実体=主体とするフォイエルバッハ流の構制そのものを止揚しなければならない。/シュティルナーに言わせれば、「人間なるもの」は「神」と同様、「理念(「イデー」のルビ) (観念)」たるにすぎない。そのようなものは実在しない。実在するのは実存的な諸個我のみである。」18-9P
「シュティルナーは、昨今では、キェルケゴールと並べて「実存主義」の開祖に数えられるが、彼は抽象的に実存主義を唱えたのでも、また、宗教哲学の領域内で議論を展開したのでもなかった。・・・・・・爰に「世界史を以て『人間なるもの』の歴史」だとみなす構制の歴史観を厳しく批判しつつ、彼固有の歴史観を対置する。/ここでは、しかし、シュティルナーの歴史観にまで立入るには及ぶまい。彼はアダム・スミスの独訳なども試みた人物だが、この時点における彼の歴史理論は社会科学的な具象性には欠ける。――われわれとしては、フォイエルバッハとその“亜流”の「人間」主義に対する彼の強烈な批判を機縁にして、マルクス・エンゲルスがどのような新境地を拓いたか、その顛末を見届ければ足るであろう。」19P
[二]シュティルナーに対するマルクス・エンゲルスの対応
(エンゲルスのマルクス宛の書簡)「シュティルナーは、フォイエルバッハの『人間』、少なくともキリスト教の本質における『人間』を卻ける点では正しい。……『人間』は、経験的な人間に基盤をもたないかぎり、幽霊だ。ようするに、僕らの思想、わけても、僕らのいう“人間”を新なるものとして主張しようとするかぎり、僕らは経験論・唯物論から出発しなければならない。僕らは普遍を個から導出しなければならないのであって、それ自身から、乃至は、ヘーゲル流に宙空(「ルフト」のルビ)から導出してはならない」20P
「シュティルナーに対するマルクスの批判・反批判が主題的に成分化されるのは、一年以上もあとに執筆された『ドイツ・イデオロギー』の第三章「聖マックス」においてである。が、「人間」主義に対するシュティルナーの批判を受け留めて、この一年有余のあいだに、マルクスは多分に屈折した心理・思想的過程を経たものと忖度(「そんたく」のルビ)される。」20P
「シュティルナーは、実存と本質とを峻別し、本質存在としての「人間なるもの」は自存する実在ではなく、たかだか「理念(観念)」にすぎないと言う。」21P
「フォイエルバッハやマルクスが、類的存在・類的本質としての「人間」を云々するさいに、個的存在・固定実存としての人間と密接に関連させて把握していたことは、彼らが「感性的・具体的」な現実に定位しようと志していた以上、当然といえば当然である。この当然事は措くとしても、実存と本質との統一的把握ということはヘーゲル哲学において既に大きな課題であった・・・・・・シュティルナーがマルクスを名指しで批判した命題「私は一つの現実的な類的存在に[“人間解放”によって]ならなければならない」というテーゼも、実存と本質との自覚的統一というモチーフから発したものなのである。」21P
「フォイエルバッハは人間が「神」(人間の本質の疎外態)を自己の内に取り戻した場合、疎外から自己回復した在り方の場面で“実存と本質とが合一する”という構図を立てる。マルクスは、単なる宗教的疎外の解消という域を超えて、『ヘーゲル国法論批判』の四三年時点では一種独特の「民主制」国家に、『ユダヤ人問題』では「人間解放」に、『経哲手稿』では「共産主義」社会に、人間の疎外からの自己回復、そこにおける実存と本質との即且対自的な合致を託したのであった。フォイエルバッハにおいてもマルクスにおいても、実存と本質との真の合一ということは人間存在の常態ではなく、即且対自態において実現することとされていた。」22P
「それでは、即且対自態を実現する以前の局面、疎外状態にある局面では、一方の実存と他方の本質とがバラバラに分離・並存しているのか? 勿論、否である。ヘーゲル学派の存在了解によれば、実存的個別者と本質的普遍者とは決して各々が独立自存するものではない。実存的個別者は必ず本質的普遍者を“宿す”という在り方で、本質的普遍者は必ず実存的個別者に“宿る”という在り方で、その都度つねに個別と普遍とを統合した在り方で現存在する。このさい“宿す”ものと“宿る”ものとが二分化的区別性の相にあるかぎりで両者は如実に合一しているわけではないが(上述の通り、如実の合一は即且対自態に限られる)、しかし、実存的個別と本質的普遍とはそれなりの仕方で恒に統合されてはいるのである。」22-3P
「絶対的精神の自己疎外と自己回復の総過程とか、人間の自己疎外と自己回復の歴史的総過程とか、実体=主体の弁証法的大循行の構制に止目するとき、そこで一貫した実体=主体としての自己同一性を担うのは、どうしても個別体としての実存的個別者の契機ではなく、普遍体としての本質的普遍者の契機である、と言わざるをえぬ市場に直面する。/シュティルナーが衝くのはまさにこの大循行の構制に即してである。」23P
「およそ人類史としての歴史が論件となるとき、個々人という次元での歴史的営為の主体と「人間」という次元での歴史主体との二義性がいつも問題になり、両者の関係づけが課題になる。/爰で、人がもし、「人間」などという主体は単なる論理的仮構であって、歴史の主体は実存的諸個人だけであるという唯名論的な見地を採るとすれば、それはそれで一つの立場であろう。・・・・・・現に、シュティルナーはこの見地に立って「人間」を卻ける。」24P
「だが、少なくとも『経哲手稿』時点までのマルクスは、彼がまだヘーゲル左派の大枠内にあった以上は、当然といえば当然であるが、個々人には解消できない次元での「人間」を立てる構制を採っていた。それも消極的な残渣というわけではない。当時のマルクスは、前節で見ておいたように、ヘーゲルが大循行の「実体=主体」とする「絶対精神」をその“真実態”たる「人間」で“置換”し、「人間」の自己疎外と自己回復の大循行過程として人類史を把握(「ベグライフェン」のルビ)しようという雄大な構想を積極的に懐いていた。そのかぎり、歴史的主体として、個的実存とは区別される類的本質存在としての「人間」が、論理構制上、積極的に措定されていたことになる。シュティルナーは、無論、未発表の『経哲手稿』を知るべくもなかった。(彼がもしこの手稿を繙読してそこに盛られている構想を知ったならば、雀躍して絶好の標的にしたことであろう!)が、彼は『独仏年誌』に既発表のマルクスの論文のうちに今問題の構制を読み取って批判の刃を向けたのであった。」24-5P
「シュティルナーが批判するのは、まさしくこのような構制において一貫した「実体=主体」として措定される「歴史の主体」としての「人間」なるものである。彼は、この構制では“ルードヴィッヒは死すとも王は死せず”と同じ仕掛になっていると嘲笑する。彼シュティルナーは、重複を厭わずに引用すれば、「“人間なるものは死せず!”というわけだ。……」・・・・・・」26P
「彼(マルクス)が『経哲手稿』の時点で採っていたヘーゲル学派の論理構制を対自化してみるとき、シュティルナーによる批判が遺憾ながら突き刺さってくることが判る。」26P
「ここに、マルクスは、フォイエルバッハ的な「人間」主義に共賛していた自己の思想的準位に反省を加え、「人間の歴史」ということ、わけても「歴史の主体」ということを抜本的に再検討し、新しい視座と構制にもとづいて理論の再構築を遂行する運びとなった。――われわれはその達成を翌る一八四五年を転機とする一連の文典によって確認することができる。」26-7P
[三]マルクス・エンゲルスの拓いた新地平
(この項の問題設定)「マルクスは、シュティルナーによる「人間」主義への批判に接する直前の時点で、ブルーノ・バウアー一派との論戦を契機にして、みずから内発的に、実体=主体の自己外化と自己獲得というヘーゲル学派式大循行の論理構制の孕む難点を半ば自覚するようになっていた。このことは、ヘーゲル学派の「思弁的構成の秘密」を告発した『聖家族』の有名な章句を分析してみれば容易に認められる。が、疎外論の論理構制に関わるこの件は次節に譲ることにして、ここでは「人間」の問題、本質と実存の問題に即しつつ、マルクス・エンゲルスの拓いた新地平を観望しておこう。」27P
1 マルクスのフォイエルバッハとシュティルナー批判――実体主義そのものの批判
マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』六などの引用の後に「マルクスの『テーゼ』がシュティルナーの触発とどうどう関わるかは審らかでない。が、ヘスがフォイエルバッハにおける“人間”の二義性を指弾したのがシュティルナーの触発を介してであることはまず確かである。」28-9P
「シュティルナーに言わせれば、実在するのは実存的個体のみであって、本質的存在としての「人間」なるものは実在しない。両者を、混淆したり、二重写しにしたりしてはならない。しかるに、フォイエルバッハの徒は、類的存在としての人間ということで、実存的個体と本質的普遍とを二重写しにしてしまっている!」29P
「マルクスとしては、シュティルナーの指摘に一半の妥当性を認めつつも、総じては彼シュティルナーの拠って立つ存在観のパラダイムそのものを卻けて、新地平を拓く。」29-30P
「惟えば、ヨーロッパにおける存在観の歴史においては、二種類の「実体」が考えられてきた。実存個別者たる第一実体、および、本質的普遍者たる第二実体、がそれである。「人間なるもの」とか「果物なるもの」とかいうような本質的普遍者(第二実体)が個物とは別途に実在するという考え方(つまり、「普遍論争」における「実念論」の立場)は、近代においてこそ不評であり、妄言とみなされかねないが、中世においてはこれが主流派であったことを想起されたい。――ヘーゲル学派は、上述の通り、第二実体が独立自存するとは考えないが、しかし、第二実体は第一実体に“宿る”という仕方で両実体を“統合”的に把えた。/ところで、第二実体が第一実体に“宿る”、視角を変えて言い換えれば、第一実体が第二実体を“宿す”という了解は、シュティルナーに指摘されるまでもなく、成程問題である。」30P
「マルクスは、第二実体という在り方での人間的本質を卻けるだけでなく、個々人が第一実体という在り方で自存するというシュティルナー的存在観をも同時に卻けるのである。マルクスの考えでは、“宿る−宿す”という想念は慥かに誤りではあるが、そこには或る真実態が歪んだ形で投影されている。」31P
「シュティルナーの実存観からすれば、第一実体としての実存的個体は、一切の述語的本質規定から超絶して、それ自体でかけがえのない個体としての自己同一性をもっていることになる。しかしながら、マルクスに言わせれば、何々という“述語的”規定性をことごとく剥奪されても自存すると称される実存的第一実体なるものは実在せず、一切の本質的規定性をもたぬ実存なるものはそれこそ空疎な抽象体であり「無」なるにすぎない。(尤もシュティルナーは、サルトルに先駆けて、「無」と自己規定しそれに居直っているのであるが)。いわゆる“本質的”規定性をはなれて実存的第一実体が自存するわけではない。」31P
「ヘーゲルはあの「実体=主体」論にかぎらず、実体主義的な存在観を慥かに払拭しきれてはいない。が、しかし、彼は具体的な場面では関係主義的な知見を示しており、“関係態こそが第一次的存在であって、諸関係の結節を自存化したものがいわゆる第一実体、諸関係規定の総体を自存化したものがいわゆる第二実体、にほからない”という観方の間近かにまで達していた。」32P
「『ドイツ・イデオロギー』での主題的なシュティルナー批判を先取していえば、シュティルナーはフォイエルバッハの“人間”が孕んでいた二重的規定、すなわち、本質と実存という両契機のうち、後者の契機だけを真実在として自存化しているのにすぎないのであって、彼シュティルナーの謂う「唯一者」「実存的個人」は「抽象的で孤立化せる[つまり一切の社会的関係を捨象された]人間的個人」たるにほかならない。シュティルナーは「彼の分析する抽象的個人が一定の社会的形態に属することをみない。」という次第で、フォイエルバッハの二重的規定に対する批判のうちに、論理的には、シュティルナーに対する批判も既に含意されている。」33P
「本質が実存に“宿る”という範式は妥当しないにせよ、そこには諸関係の総体と諸関係の結節との統合性という事態が、屈折したかたちで、とにもかくにも投影されていた。そこには、普遍者は個別者を離れて自存しないという了解と同時に、本質(正しくは諸関係規定の一総体)を離れて実存が独立自存するわけではないという正当な了解が屈折して秘められていた。今や、諸関係の実態に即しつつ、実体主義そのものを超克することが要件である。――類的本質に定位したフォイエルバッハ流の「人間」主義だけでなく、個的実存に定位するシュティルナー流の人間主義をも併せて、“人間”を実体=主体とする「人間主義」一般が超克されねばならないのである。」33-4P
2 マルクス・エンゲルスの「歴史」の場に即しての積極的提題
「マルクス・エンゲルスは「人間主義」の超克を抽象的・一般的な存在論の次元で遂行したのではなく、まさしく「歴史」に定位しつつ具体性を以って遂行した。――われわれとしても、今や、「歴史」の場に即して、彼らの積極的な提題を見ることにしよう。」34P
「シュティルナーへの反批判をも主題的一契機とし、ヘーゲル左派イデオロギー総体の批判的超克を宣する『ドイツ・イデオロギー』において、マルクス・エンゲルスは、歴史的諸関係に“内存在”している人々、「人々の対自然ならびに相互的諸関係」に視軸を据えて議論を再構築している。――『テーゼ』においては「社会的諸関係の総体」という一般的な言い方にとどめられていたが、今や、謂うところの諸関係が「生産諸関係」を基軸にして構造的に規定し返される。/人間諸個人が「何であるか(Was=本質)ということは、彼らの生産に帰一する。すなわち、彼らが何を如何に生産するかということに帰一するのである」。というのも、「諸個人が如何なる仕方で自分の生(Leben)を発現するか、その仕方に応じて彼らの存在がきまる。」わけであるが、「諸個人が自分の生を発現する一定の方式」、それが「生産の様式」にほかならない所以である。」34-5P
『ドイツ・イデオロギー』からの引用文を受けて、「読者のうちには、唯物史観の視座と出発点を表明した右の一文に、昨今流行のエコロジーの構えと相通ずるものを看取されるむきさえあることであろう。ヘッケルが「生態学(「エコロギー」のルビ)」という詞を新造し、「動物の、有機的環境ならびに無機的環境に対する関係の学」と定義したのは、これより二十余年も以後のことであるが、マルクス・エンゲルスがいちはやく“人間生態学”的な視角で「歴史」を把握していたことは銘記されてよい。」35-6P
「生態学が、当事主体と環境条件とを統一的な「系(「システム」のルビ)」として把握するさい、それは決して単に生物にとっての環境を顧慮するという点に主眼があるのではない。かのサクセッションの理論などにおいて顕揚されるように当事生体群の営為が環境条件を改造していくこと、そしてこの改造的変様が生体群の在り方を逆規定すること、この相互規定的なダイナミックな関連に主眼がある。マルクス・エンゲルスは、まさにこの点を押さえることにおいて、所謂「地理的決定論」や「風土史観」のたぐいの(俗流的な“唯物”論的史観!)と相岐れ、対象的活動としての「実践」の立場を生態学的な場面において定礎する。」36-7P
「マルクス・エンゲルスが「歴史」を観ずるにあたり、人間主体と自然的環境との生態学的な相互規定態を表象していたこと、このことまでは確かであり、これは銘記に値する。」37P
「われわれは、マルクス・エンゲルスが、世界に“内・存在”する“人間”の在り方をさしあたり生態学的な「対自然ならびに諸個人相互間の関係」の次元で押さえていること、そして、「生産関係」という唯物史観の基幹的カテゴリーもこの基礎場面に定位されていること、このことを対自化しうれば足る。」37P
「「生産」ということは、「人間(「ヒト」のルビ) −自然」の生態学的な動態的関連(『資本論』での表現を茲に藉りていえば「人間と自然との物質代謝(「シュトッフ・ヴェクセル」のルビ)」)の機軸であって、物質的生産の場という結節環における人間生態系的な編制関係、それが「生産関係」にほかならないのである。」37-8P
「かつてのマルクスは、「精神と自然との統一」=人間、という範式で観じ、かの二元的な対立性の統一を「人間」に求める構図を採っていたが、『ドイツ・イデオロギー』とそれ以降では、「人間と自然との統一性」の過程的現場を「産業」に看る。今や、主観性と客観性……等々の二元的対立性を実践的に止揚・統一する場が「産業」に定置される。」38P
3 「産業」に規定される用在的・生態学的自然
「人が、もし、産業の場における人間と自然との統一というさいの「自然」を、単なる物理的自然、ハイデッガー式にいえば、「物在」(Vorhandensein)としての自然物の相で受け取るならば、その場合には成程、地球表面の片々たる一部分しかカヴァーしないことになろう。だが自然は、第一次的にはハイデッガーの謂う「用在」(Zuhandensein)の相で現前する。例えば、太陽は、物理・化学的客体という以前に、四界を明るく照らし、草木を育くみ、身体を暖ためる……ものとして、月は夜道を照らす……ものとして、というように、第一次的自然は生の実践的関心に応ずる相で現前する。/マルクス・エンゲルスは、「物在」とか「用在」とかいう詞は勿論もちいていない。だが、彼らは、フォイエルバッハが「自然」を「科学流の観方」での自然、「物理学者や化学者の眼にしか開示されない」相での自然に即して――まさに「物在」の相で!――立てていることを厳しく批判している。」39P
「唯物史観の視座を確立したマルクス・エンゲルスは、このように、「自然」なるものをまずは「用在」の相で、剴切にいえば、人間生態系(これは動植物の生態系一般とは種差的に大いに異なっており、生産活動という積極的な要因によって編制構造が規定され、産業を編制機軸にしている)の内在的契機をなしている相で、従って、人間の営為によって「変様され」「歴史化された自然」の相で、観取しているのである。/人間と自然との産業の場における統一という言い方をすると、さながら、人間というものと自然というものとがまずあって、事後的に両者が結合されるのであるかのように響くが、生態系的な関係の第一次性こそが真諦である。自然は産業の場で歴史的・現実的・実践的に自然と媒介されてはじめて現に在る人間として存在しているのが実態である。」40P
「個々人なるものが自存して関係態に入り込むのではなく、個々人の定在(「ダー・ザイン」のルビ)も相在(「ゾー・ザイン」のルビ)も当の歴史的諸関係によって規定されているのであり、剴切には、定在・相在する個々人は当の諸関係の“結節”にほかならない。(関係の結節というと、人々はとかく、関係なるものを本質化して表象し、“結節”が個性なき均質粒子であるかのように思い做してしまう。だが、関係の結節は一つ一つユニークであり、まさに個性的である。人々が実存的な実体的個体に内属する個性として思念しているところのものは、決して個体それ自体に内在するものではなく、まさに関係的“結節”のユニークネスが実体的属性として“物性化”的に錯視されたものにすぎない。)」41P
『ドイツ・イデオロギー』からの引用を受けて「マルクス・エンゲルスは、「精神」「意識」を、内なる実体とか機能とかと観ずるのではなく、本源的に「関係」として了解している。しかも、人々の“対自然的かつ相互的な”対自化された関係として、剰え、今日風にいえば、「言語的交通を以ってその現実態」とするごとき「間主観性」においてのみ現成するものとして了解している。/唯物史観においては、人間はいわゆる精神的・意識的な契機をも含めて「歴史的世界」に内・存在する関係態として了解されているのである。/こうして、今や、本質としての人間のみならず、実存としての人間も、対自然的かつ相互的な生態系的・第一次的関係性に即して規定し返される。独自の歴史存在論とも相即するこの新しい人間存在論の地平において、「本質」主義的であれ「実存」主義的であれ、「人間」を実体的主体とする「人間主義」一般が端的に止揚され、革らしい世界観が展かれるに至った。」42-3P
この節のまとめ的文です。「人間主義の超克にもとづくこの新しい世界観は、存在論的に抽象化していえば、実体の第一次性というヨーロッパ伝統の存在観に代えて“関係の第一次性”という存在了解を押し出したものとfür unsに規定されうるにせよ、まずは「人間」存在をめぐる省察を介して「歴史」の場に定位されている。それは、われわれが本節を通じてみてきたように、生産の場を機軸にして編制されている生態学的な「対自然的・間(「かん」のルビ)人間的」関係態、この「歴史的世界」への内・存在に定位して人間存在を規定する。」43P
「マルクスは、われわれの見てきた通り、“実存主義の元祖”の一人たるシュティルナー批判を機縁にして、フォイエルバッハ流の「本質としての人間」主義と同時に、「実存主義」(「実存としての人間」主義)をもいちはやく超克するに至っていた次第なのである!――/省みるに、マルクス・エンゲルスはハイデッガーとは課題意識や問題関心を異にしており、マルクス・エンゲルスのそれはハイデッガーの「世界」「内存在」「交渉連関」とは位相と次元を異にし、はるかに具体的で且つアクチュアルではあるが、唯物史観の世界観的新地平が“歴史・内・存在”ともいうべき構え(Grundverfassung)に定位して展らかれているということ、このことまでは揚言することができよう。」44P
第三節 疎外論の止揚と物象化論
前節からのつなぎとして「われわれは前節において、マルクス・エンゲルスの人間の「本質」と「実存」をめぐる問題を介して「人間主義」を超克しつつ新しい境地を拓いたこと。――それは、存在論一般の次元で抽象化していえば、ヨーロッパに伝統的な「実体主義」的存在観から「関係主義」的存在観への転換への転換に通ずること――さしあたりこのことの一端を瞥見した」45P
(この節の問題設定)「今や一歩進めて、マルクス・エンゲルスが、「実体=主体」の自己外化と自己獲得という「疎外論」の構制を自己批判的に止揚する旋回と相即的に、近代哲学流の「主−客」図式の拠って立つ地平そのものを決定的に超克しつつ、社会・歴史理論の新しいパラダイムを提出するに至った経緯、このことを「物象化論」の定位を兼ねて追認しておく段取りである。」45P
[一]疎外・回復という図式の止揚
『聖家族』からの引用を押さえて、「マルクスは、このように一八四四年の晩秋頃には、本質的普遍者それ自体を自己運動の「実体=主体」とする構制の難点に気がついていた。」47P
「『ドイツ・イデオロギー』のマルクス・エンゲルスは、今や端的に、人類史を自己疎外と自己回復の過程として把える観方そのものを卻けるだけでなく、この構制のイデオロギッシュな錯認の由って来たるところをも批判的に剔抉(「てっけつ」のルビ)してみせる。」49P
「論者たちが、(a)という歴史的状態から(b)という歴史状態への変化を“社会科学的”に説明できるようになり、また、(b)から(c)への変化を“社会科学的な法則性”に即して説述できるようになると、――なるほど、そこでも、依然、(a)→(b)→(c)を疎外と回復という範式で“哲学者たちに判り易いように”標記することは一応可能だとしても、そこでは、もはや、自己疎外に因って(a)から(b)に成るとか、自己回復に因って(b)から(c)に成るとかいうような、“起動的な説明原理”としての意義が「疎外」「回復」という概念装置から失われるに至っており――。疎外・回復という概念装置は、もはや“起動的な説明原理”としては無用になる。ここでは、(a)から(b)への歴史的変化、および、(b)から(c)への歴史的変化が、諸個人の具体的な歴史的営為の“合成力”に即して説明されるのであり、疎外とか回復いうことが“起動的な説明概念”としては効(「はたら」のルビ)かない以上、説明原理はあくまで,諸個人の具体的な営為の“合成”に即して物象化される“社会科学的な法則性”に置かれる所以であって、よしんば(a)→(b)→(c)という歴史的変遷に疎外・回復の範式的構図を当て嵌めたとしても、ここでは、もはや疎外論が元来もっていた意義と機能が失われるに至っている次第である。」54P
「現状を“疎外態”(b)なりとして規定したところで、それは(a)の高次的回復としての“本来態”(c)の必然性を説く装置としては、元来、妥当性を欠くものにすぎなかったことが対自化される。/マルクスは、一八四五〜四六年の時点に、まさしくこのことを対自化するに至ったのであり、そのことが「物象化論」の確立とも交錯している次第なのである。」55P
[二]“小循行”過程の構制としての意義の吟味−物象化理論の構成
(この項の問題設定)「われわれは前項において、疎外論が人類史的な大循行の内在的説明原理としては妥当しえない所以を論定したのであったが、疎外論が個別的な社会的営為における“小循行”過程の構制として妥当性を有(「も」のルビ)たないかどうかには事実上ふれるところがなかった。本項では、この宿題の解消をも図りつつ、物象化論の構制にも漸次ふれて行こう。」55-6P
「唯物史観は、人類史なるものを抽象的に一括して観ずるのではなく、具象的な分節的編制に即して把握する。そこで、「社会的構成体」とか「生産関係」とか「単位的経済体」(ein ökonomisches Ganze)とかが措定され、このような編成態の共時的・通時的な構造や動態が“社会科学的”に論究される運びとなる。」56P
「ところで、いわゆる社会的現象を研究対象とする学知は、当の対象の存在性をめぐって、二極的な立場の分裂に悩まされがちである。それは、社会存在論的にいえば、社会唯名論(「ノミナリズム」のルビ)と社会実在論(「レアリズム」のルビ)との対立である。前者の立場では、実在するのは諸個人とその行動だけであって、社会という固有の実在が存在するわけではないとされ、後者の立場では、社会というものは諸個人とその行為の代数和には還元できない固有の存在性をもち、個々人はむしろ独立自存しえない分肢的存在にすぎないとされる。(前者が典型的に現われているのが近代の社会契約論であり、後者の典型が古代以来の社会有機体論である。が、両者は位相と次元を変えて、いわゆる方法論的個人主義といわゆる方法論的社会主義との対立となって今日にまで及んでいる)。マルクス・エンゲルスは、社会有機体説が復活していた思想史的局面のさなかで思想形成を遂げたこともあって、社会存在論をめぐるこの対立に関して、しかるべくして態度決定を迫られたのであった。」56-7P
「マルクス・エンゲルスが、ヘーゲル学徒として、社会実在論的見地から出発したことは言うまでもない。がしかし、彼らはいわゆるヘーゲル式の社会有機体観からは割合いと早く脱却した。それでは、彼らは社会唯名論の立場に移行したのか? 否である。後年の『経済学批判』序説からも知られるように、マルクスは「人間は文字通りの意味で社会的動物である。……社会のなかでだけ自己を個別化できる動物である」という了解の構えを崩していない。では、社会という固有の実体的存在が第一次的に実在するのか? 勿論、否である。彼マルクスに言わせれば、「社会は諸個人から成り立っているわけではない」が、「社会は諸個人の諸関連・諸関係の一総和」なのである。――我々は前節において“人間”(本書、欠落・誤植箇所。文庫版で確認)、つまり、社会唯名論者が実体視する諸個人が、「その本質においては社会的関係性の総体」として、関係の第一次性という存在了解のもとに把え返されたことを見ておいたが、右の引用が端的に示しているように、マルクスにおいては、社会実在論者が実体視する社会なるものの側もまた「諸関連・諸関係の一総和」として、関係の第一次性に即して把え返される。」56-7P
「唯物史観においては、こうして、一方の社会唯名論(「個人」主義)が自存的実体とみなす「個人」も、他方の社会実在論(「社会」主義)が自存的実体とみなす「社会」も、倶(「とも」のルビ)に、自存的な実体ではなくして、両つの次元における「諸関係の一総体」であると把え返し、この存在観にもとづいて、社会唯名論と社会実在論との二極的対立性を止揚する。/このさい、しかし、「諸関係」なるものが独立自存するわけでは無論ありえない。それは分肢的な諸個人を“項”とする諸関係なのであり、実在するのは諸個人を“項”とする関係態である。但し、当の諸関係は、当事諸個人の意識には彼ら自身の相互的諸関係としては意識されないのが普通であり、日常的意識においては、それはむしろ諸個人から独立自存する客体的な対象の相で、ないしは対象的属性や対象物どうしの関係の相で映現する。けだし、「社会」なるものの一全体が固有の実体であるかのように錯視されうる所以でもあるが、ここに、諸々の社会的形象(「ゲビルデ」のルビ)が対象的に自存視されることになる。しかも、これらの社会的形象は、外在性の相で認識されるという域を超えて、諸個人の営為に対して拘束性をもつ相で、諸個人の行動を実践的に規制しさえもする。」57-8P・・・「社会モデル」の押さえに使えるところ
「唯物史観の視座では、諸関係が当事主体の日常性にとって物象的に“自立化”するという一方の事実、および、この物象化された形象が、学知的反省によって把えられる真実態においては、あくまで関係態であるという他方の事実、これら両面を把捉することが要件である。――前者は「学理的見地からみれば錯認にすぎない」といっただけで済ませるわけにはいかない。というのも、当事主体たちは当の物象化的錯認の相に規制されつつ行動するのであり、社会的・歴史的な行為の現実的遂行、従って、歴史の歴史としての進展は、当事者たちの日常性における“物象化的錯認”を謂わば積極的な構造的契機としているからである。」58P
「諸関係の総和としての社会をつねに主体として表象していなければならないという言明は、しかし、つねに社会を主語にして論じなければならないという謂いではありえない。個々人を主語的当体として論ずる場合でも、それら個々人が窮局的な実体的主体なのではなく、賜与関係の結節として存在していること、真の主体的当体は関係態であること、このことを表象していなければならないという注意的言明と思われる。」59P
「個体の行動と呼ばれるものは、当の個体の絶対的に自律的・内発的な活動なのではなく、彼を“項”的結節とする諸関係(対自然的・間(「かん」のルビ)人間的諸関係)の“網”の動態が彼“結節環”において発現したものである。」60P
「実態においては、その個体的主体は自己完結的・自存的な起動的主体なのではなく、その個体に一定限の能動的主体性があるにしても、真の能作的主体は社会的関係態の一総体にほかならないことが省察される。」60P
「物象化論の構制はこの事の省察に立脚するものであって、それは疎外論が拠って立つ「主体−客体」図式を止揚し、いわゆる主体的なものの客体化ではなく、関係態の物象化であることを対自化する。但し、関係の物象化というのは、関係なるものが自己運動的に物象に転化する謂いではない。社会的に諸関係(これは単なる“主体的なもの”ではないこと、主−客図式に妥協した言い方をすれば、これはすでにして“主体的かつ客体的”な定在であることに留意されたい!) に内存在する個人の日常的意識にとって、彼を“一項”とする対自然的・間人間的な当の諸関係が、そのような如実の関係態としては覚識されず、物象の相で映現することの謂いである。(「物象化」そのことの定義については本書二六七頁参照)。」60-1P・・・疎外論が「主体−客体」図式から来ていることの押さえ
この項のまとめ的文「爰においては、いわゆる社会唯名論と社会実在論とが二極的な形態で自存的実体と錯認する「個人」も「社会」も倶に関係の第一次性に即して把え返されていることと相即的に、個人も社会も自己運動する起動的主体と認められない道理であって、“大循行”であれ、“小循行”であれ、原理的な次元では、実体的主体の自己疎外・自己獲得という論理構制、遡っては、疎外論の拠って立つ「主体−客体」図式そのものが、その真実態に即して対自的に止揚されるに至っている。」61P
[三]若干の予註的議論を挿み、次章への橋渡し
前項の整理「疎外論の物象化論による止揚ということは、物象化論が“物象化されざる状態・物象化された状態・物象化を克服した状態”の歴史的・段階的継起という主張を直截に含意するものと受取られてはならない。物象化論は、なるほど、或る種の物象化現象に関しては、それの未在・現成・解消を歴史的事実の問題として立言する。がしかし、物象化論は疎外論の歴史的三段階構図をそのまま踏襲するものではない。このことは本書[一]項において上述してところに鑑みればここであらためて絮言するには及ばないであろう。――物象化のあれこれの形態は特定の歴史段階に固有であるにしても、物象化という機制は歴史貫通的であり、そのことに俟って、単なる諸個人の営為の代数和には還元できない歴史としての歴史も成立しうるのである。」61-2P
(この項の問題設定)「われわれは、ここで、物象化論の構制とそれに即した歴史的法則性の存立機制についての主題的な討究へと立進む前に、通俗的な“物象化”論とマルクス的な「物象化」論との相異性を顕揚しつつ、遡っては、疎外論と物象化論との連続性・不連続性の問題など、若干の予註的議論を挿み、そのうえで、本稿に一応の区切りをつけ、旁々次“章”[本書、第U章「物象化論の構制と射程」]における主題的な討究への橋渡しを期したいと念う。」62P
「偖、「物化」(Verdinglichhung)とか「物象化」(Versachlichung)とかいう概念は、――今ここでは、シェリングのBe-dingungや初期ヘーゲルのdas-zum-Dinge-Machenといった用語法との概念史的な脈絡といった問題には一切立ち入らずに話を運びたいのだが――ルカーチによって顕揚されるまで、マルクス主義者たちのあいだでは忘失されてきた看があった。これらの用語は、むしろ、新カント学派のハインリッヒ・リッケルトやマックス・ウェーバー、それにまた、ゲオルグ・ジンメルやエルシスト・カッシーラーなどにおける用例を通じて、折々に眼を惹くようになっていた。」62P
「筆者としては、論者たちの固有の用語法に節介する存念は毛頭ないが、少なくとも、後期マルクスの物象化概念は初期マルクスの(ヘーゲル学派的なそれの大枠内にあった)疎外概念とは――概念形成史上の事実過程ではもちろん連続的な経緯がありはするが――、明確に区別さるべきものと了解しており、論者たちにおいて「疎外」と「物象化」とが大同小異とされる所以のものは、論者たちにおける(「疎外」概念がヘーゲル学派的な論理構制を殆んど慮外に措いている概もさることながら) “物象化”概念が依然として「主体−客体」図式の埓内で“主体的なものの客体的定在化”という構図で措定されているところにあると思う。」63P・・・ここのところ重要! 物象化論は、青年ヘーゲル派内論争と近代哲学の「主体−客体」図式の総括をかけた議論の中で生まれてきた概念です。エンゲルスがマルクス主義の第一解説者として「哲学の死」を宣言して、マルクス思想のヘーゲルへの先祖返り的踏み外しに入っていったのは、物象化論の意味を押さええなかったからではないでしょうか?
「惟うに、人々が“物化”ないし“物象化”ということを語るさい、――旧著においても誌したことであるが――普通に次のごとき三層が主として表象されているように見受けられる。/(1) 人間そのものの“物”化――たとえば、人間が奴隷(商品)として売買されるとか、単なる機械の付属品になってしまっているとかいうような状態。ここでは、人間(さしあたり他人)の在り方が「人格」としてではなく、事物と同類のものに映じ、事物と同様なものとして扱われる状態なっているという意味で「人間が物的なものになってしまっている」と看ぜられる。/(2) 人間の行動の“物”化――たとえば、駅の構内での人の流れや満員電車のなかでの人々の在り方など、群衆化された人々の動きが個々の成員の意思では左右できなくなっているような事態の謂いであり、これは或る理屈を経て、行動様式の習慣的な固定化にも通ずる。ここでは、本来人間の行動であるところのものが、個々の自分ではコントロールできない惰性態になっており、主体的意思行為に対して“自存的抵抗性”をもつようになっているという意味で「人間の行動が物的な存在になってしまっている」とされる。/ (3) 人間の力能の“物”化――たとえば、彫刻とか絵画とかいった芸術的作品や、俗流投下労働価値説的に考えられた商品価値など、ここでは、元来は人間主体に内在していた精神的・肉体的力能が、謂わば対外に流出して物的な外在的存在になって凝結するとでもいった意味あいで「人間の力能が物的存在になっている」と表象される。/これら“常識的な”物象化=物化の想念においては、主体(人間)と客体(事物)という二元的区分の図式が前提にあって、「主体的なものが物的なものに転化する」という発想で“物化”が表象されている。すなわち、(1)では、実体的主体たる人間存在が商品とか機会の附属物とかいった物的な存在に転化、(2)では、人間の主体的行動が惰性態という物的存在に転化、 (3)では、人間の主体的力能が物的に対象化され,物的な存在に転化しているという具合に考えられているわけであって、文字通りの現実的な転成ではないにしても、概念上は「主体的なもの」が「物的なもの」に「転化」していると把えられていると言えよう。」63-5P
「後期マルクスの謂う「物象化」は、主体的なものがストレートに物的な客体的存在へと転成するといった「主体−客体」図式に立脚した発想ではなく(もしやそうであるならば,成程、物象化とは「疎外の一形態」ということになろうが)、それはわれわれ流の言葉でいえば、「関係の第一次性」という存在了解に定位しつつ、フェア・エスとフェア・ウンスという構制に俟つ規定態である。」65P
「嚮の(1)(2)(3)との対比上、敢て卑俗な指摘から始めれば、マルクスの謂う物象化は人間と人間との間(「かん」のルビ)主体的な関係が“物の性質”であるかのように錯認されたり(例えば,貨幣のもつ購買力という“性質”)、人間と人間の間主体な社会的、関係が“物と物との関係”であるかのように倒錯視される現象(例えば、商品の価値関係や、多少趣きと次元を異にするが、「需要」と「供給」との関係で物価が決まるというような現象)などの謂いである。このさい、人間と人間との間主体的な関係といっても、それはもちろん、いわゆる対象的存在から引離された人間どうしだけの裸の関係ではなく、況んや、性的・反省的な認知関係ではなく、対象的活動における動力学的な関わり合いであり、機能的相互聯関であって、「対自然的かつ間人間的な動態的関係」である。」65-6P
「人々の間主体的な対象関与的活動の或る総体的な連関態が、当事者的日常意識には(そして、また、システム内在的な準位にとどまっているかぎりでの体制内的“学知”にとっても)、あたかも物どうしの関係ないしは物の性質ひいては物的対象性であるかのように映現するということ、このフェア・ウンスな事態、それがマルクスの謂う「物象化」なのである。」66P・・・マルクスの「物象化」の定義
「こうして、近代哲学流の構図内で表象された“主体的なものの物的な存在への転化”、つまり、いわゆる「疎外論」の構図と類同的な俗流的“物化”という想念そのものが、実は間主体的な対象関与的連関態の屈折した仮現に幻惑されたものとして、対自的・批判的に剔抉さるべきもの、そして、時に応じてはその物神性(「フェティシスムス」のルビ) の秘密を究明さるべき一与件たるにほかならない。マルクスは新しい存在観、革しい世界観の地平を拓きつつ、この“秘密”をも解明しうべき論理を構築したのであった。」67P
「蛇足たることを憚らずに記せば、筆者は、初期マルクスの「疎外論」と後期マルクスの「物象化論」とのその拠って立つ地平の準位を異にするものとして段階的に区別し、「疎外」という概念と「物象化」という概念とを峻別する者ではあるが、しかし、形成史的過程における両者の関連性を無視する者ではない。この論脈において、筆者は最初期の拙稿「マルクス主義と自己疎外論」(一九六三年発表――拙著『マルクス主義の成立過程』に収録)このかた初期マルクスの疎外論をも極めて高く評価してきた。『経哲手稿』にみられるごとき疎外論とそれに立脚した壮大な体系的意思の階梯を抜きにしては、後期の体系はおそらく、事実の問題として、成立しえなかったであろうと思われる。」67-8P・・・思想形成過程としては押さえる必要があるにせよ、パラダイム転換というところでは、まさに「蛇足」になっています。
「後期の物象化論へと推転しうる構図だけは、すでに『経哲手稿』においてもすでに存立した、ということもあながち不可能ではないのである。」68Pと廣松さんは書いていて、「形成史的にみれば、疎外論の地平から物象化論の地平への飛躍、これがまさしく唯物史観の視座の設定と相即する。――この唯物史観は、しかも、狭義のいわゆる“歴史”観ではないこと、それは、単にまた「同時に社会観でもある」といっただけでは尽くせないこと、それは、或る意味ではマルクス主義の世界観そのものであるということ、このことは本稿の頭初において先取(註)的に立言しておいた通りである。」69P・・・唯物史観と物象化論の関係の押さえ
『ドイツ・イデオロギー』におけるフォイエルバッハの自然観の論攷に関する文の引用を受けて、「この「歴史化された自然」、そして物象化的に「自然化された歴史」という思想は、これまた先に第一節で一瞥した『聖家族』の或る条りにおいて、「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」ならびに「自然から切り離して形而上学的に改作された精神」を両面的に批判しつつ、これら両者の一方をそれぞれの原理とする一面的な立場を弁証法的に止揚する見地を標榜するという形で、萌芽が兆していた。それが今や『ドイツ・イデオロギー』においては、「対自然的かつ間(「かん」のルビ) 人間的な諸関係」の生態系的(「エコシステーム」のルビ) 編制の基軸を「生産」という実践の場に見据えつつ、実現への途に就く。」70P
「かかる視座に立つ以上――第二次的な下位分類としてならば話が別になるが――原理的な場面では、自然観と歴史観とはもはや両半球的に併立すべくもないのであって、「歴史化された自然」の一総体を射程に入れる唯史観が、世界観そのものと相覆う所以が納得されよう。」71P
「省みるに、近代哲学・近代諸科学、遡っては、近代的世界観は、いわゆるデカルト流の近代的パラダイムの地平の埓内にあって、諸々の二元的対立性のWechselspiel[隆替劇]に捲き込まれてきた。この近代的地平を超克しようとする試みが,或いは“ロマン主義的反動”という形で、或いは能動的実体の自己疎外的二極分裂の自己回復的再統一という構制に拠るヘーゲル主義的な企図という形で、十九世紀早々に開始されたのであったが、それの成就には程遠かった。しかるに、マルクス・エンゲルスは、近代的世界観のヒュポケイメノンをなす「人間」の本質的規定の把え返しを介して存在観プロパーの新地平を拓き、「歴史化された自然」「自然化された歴史」を依って以って成立せしめる所以の「対自然的かつ間人間的動態的関連態」の編制基軸たる「生産」関係に定位しつつ、新しい世界観、「自然史と社会史とを統合する単一的体系知(「ヴィセンシャフト」のルビ) 」のGrundverfassung(憲法)たる唯物史観を確立し、そのことに俟って、物質と精神、客観と主観、本質と実存、……自然と人間、……等々の二元的対立性の地平を超克する地歩を固めたのであった。」71P
「マルクス・エンゲルスの拓いた唯物史観の地平は、まさに、近代的世界観のそれを止揚する現代的世界観の新地平であって、われわれとしては、革らしいパラダイムを開示する劃時代的なAuffassung(見解)として「唯物史観」を宣揚する次第であるが、この唯物史観が「われわれにとっての自然」(Natur für uns)、「歴史化された自然」の存立構制、ならびにまた、社会的・歴史的・文化的諸形象、つまりは「自然化された歴史」の存立構制、これら統一的に把握しうる所以の構制、それこそかが「物象化論の構制」にほかならない。」71-2P
「われわれとしては、爰に、「唯物史観の宣揚」に具象性を保証しえんがためにも、ヘーゲル学派流の「疎外論」の内在的止揚を通じて確立された「物象化論の構制」を主題化し、それの「射程」をも眺望することを次の段取りとする。」72P
(註) この「取」には「あなかんむり」が付いています。『弁証法の論理』の目次でも出てきた漢字ですが、打ち込めません。指摘に止めます。
・廣松渉『物象化論の構図』岩波書店1983(1)
いよいよ、『物象化論の構図』に入ります。再読としてざっと読み上げ、『著作集』の高橋洋児さんの「解説」、文庫版の熊野純彦さん「解説」まで読んで、本著に戻ってもう一度読み直しながらメモ取りに入ります。
冒頭に「いよいよ」と書いたのは、わたしが廣松理論の学習に入っていったのは、反差別という処で総括と理論形成を進めようとしていたときに、「物象化」概念にあたり、これがわたしの反差別論のキー概念になるというところで、廣松さんの著作の読み込みに入っていった経緯があるからです。だから、この『物象化論の構図』と出会ったときには、まさに、これをベースにして反差別論を展開できるとの思いがありました。わたしが本を出版した後に、『情況』誌に載せて貰った「廣松渉物象化論の反障害論-『反障害原論』の隠されたサブタイトル」にそのあたりのことについて書いています。
hiromatubusho.pdf (taica.info)
廣松さんのこの著は、書き下ろし論文でなく、すでに掲載した論文に、「跋文」を書き加えた論文集になっています。尤も、廣松さんの単行本は、既に掲載した論文を集めたものが何冊もあります。その中でも、当初から体系的に書き始めたことを、あちこちの雑誌に掲載していて、それを集めて、それなりに体系的な一冊の本になっている(とわたしが押さえる)ものと、最初から一つずつ纏まった文になっているものを寄せ集めた(とわたしが押さえる)ものとがあります。前者の典型的な例が『世界の共同主観的存在構造』で、後者の典型的例が『事的世界観への前哨』です。『事的世界観への前哨』は、『著作集』で、バラバラにされて掲載されていることにも、それは見てとれます。この『物象化論の構図』は『著作集』でバラバラにされていず、『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』にまとめて掲載されていますが、「パッチワークの看を呈しており」IPと、多少廣松さん自身のいつもの「謙遜」的文でもあるのですが、著者がそれなりにそういう思いも持っていたことを書いていることにもそれは現れています。それは、「V 歴史的世界の物象化論/一 商品世界の存在構造」とのつながりでしょうか? 宇野経済学批判関係の論文が一緒に掲載されています。
さて、わたしの問題意識からすると、この論文集は、高橋さんの解説にあるところの、「廣松哲学における物象化の位置」という内容になっているのですが、そこで廣松さん自身が物象化論としていろいろなところで展開しているところで抜け落ちていることがあります。それは、わたしの中で、「物象化」という概念は「異化」という概念とリンクしたのですが、その異化ということがこの本の中で出てきません。それは、マルクスの物象化論と廣松物象化論の違いという問題にも通じる事です。高橋さんは「マルクス=廣松物象化論」という表記はしていますが、「=」ということに本文で?マークを付けています。文庫本の解説者の熊野さんは「マルクス/廣松物象化論」という表記をしています。それを深化というか、発展期展開というか、はみ出しているとか、いろいろなとらえ方があるにせよ、「=」でない内容は、廣松さんが、ゲシュタルト心理学の「図として浮かび上がる」という異化ということをとらえ返し、ソシュール言語論をもとらえ返したところで、命名判断的異化=物象化をとらえ返したところから、物象化論を展開している側面があるのです。そのことがこの本の中で抜け落ちています。言語論的なところのとらえ返しが「言語的意味の物象化」143Pと、出てはいますが、「異化」の問題としての言及はありません。「異化」ということが反差別論にとって特に重要な概念になるのです。そのことは、「跋文」のサブタイトル「理論的拡張」としての、わたしの廣松物象論の援用としての反差別論的物象化論のとらえ返しの作業としての展開になるのです。
わたしにとって、物象化論批判の中身は、繰り返して展開される実体主義批判と異化という次元までとらえ返した物象化の批判なのです。
まず、目次です。この著への解説も付け加えています。
目 次
序 文
T 唯物史観の宣揚のために
第一節 古典哲学の弁証法的止揚
第二節 人間主義の超克と新地平
第三節 疎外論の止揚と物象化論
U 物象化論の構制と射程
第一節 社会的関係の物象化と文化形象の存在性格
第二節 歴史的動態の法則性と当事主体の有意行動
第三節 物象化批判の体系的方法と価値評価の視座
V 歴史的世界の物象化論
一 商品世界の存在構造
(A) 商品世界の二重性
(B) 価値理論の問題性
(C) 商品価値の対象性
(D) 商品存在の物神性
(E) 商品世界の四肢性
二 歴史的世界の存在構造
(a) 情報的世界の二重性
(b) 意味理論の問題性
(c) 社会的行為の対象性
(d) 自然的世界の歴史性
(e) 歴史的世界の四肢性
W 自然界の歴史的物象化
X マルクスにおける哲学
跋文−物象化理論の拡張
索 引
この著は『廣松渉著作集』所収文と文庫版があり、そこに解説があります。
「解説 高橋洋児」(『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』岩波書店1996所収)
一 廣松哲学における物象化論の位置
二 一般理論としての物象化理論
三 マルクス=廣松物象化論の特質
四 物象化論と弁証法および唯物史観との内的連関
五 物象化論の意義
「解説 マルクス/廣松の物象化論――途切れた意志の<かなた>へ―― 熊野純彦」
(廣松渉『物象化論の構図』岩波書店(岩波現代文庫)2001所収)
さて、この著には、「序文」があり別編輯本で「解説」が二つ付いています。ですから、先に、「序文」やその「解説」の読書メモを書き始めればいいのですが、これまで、ほとんど切り抜きだけになってきていることの反省から、それは本著を読んだ後の作業にして、わたしなりの学習の積み重ねとしての展開・深化していくメモ取り作業として、もう既に解説を読んでいることを取り入れていますが、この著のアウトラインを示してみます。
まず、「T 唯物史観の宣揚のために」ですが、これは、廣松理論の入門書の『唯物史観の原像』の押さえ直し的章です。この流れは、廣松さんの「マルクス主義三部作」(『成立過程』『地平』『理路』)や、『青年マルクス論』、『エンゲルス論』、井上忠さんとの共著の『マルクスの思想圏』、また一連の青年ヘーゲル派研究などの初期マルクス研究とリンクすることで、『事的世界観への前哨』の時にやったように、「第二次以降の学習の時に、改めて読み直し、読書メモを書きます」とすることかもしれません。ですが、それでは第二次学習以降に入れたとしても、その作業自体がスイッチ・バック的作業になっていきます。こんなことを書いているのですが、そもそも第一次学習自体が、『存在と意味』にまで終わった時点で、もう1回読み直して、メモを取り直す作業が必要になっています。そもそも基礎学習が出来ていないことも勉強し直しながら、学習を進めていくと、100年どころの作業ではないスパーンの学習になります。更に、わたしのやっているのは実践のための理論で、とてもやりきれません。そんな思いの中で、この章は、必要最小限のメモとりに徹したいと思っています。ちなみに此の章で新しいところは、廣松さんが「疎外論から物象化論」というところで、疎外論批判しているところから、「疎外論自体の意義をとらえ直す必要がある」という提起をしているところをメモりたいと思っています。
次ぎに「U 物象化論の構制と射程」がこの著の核心的部分です。しっかりとメモり対話もしたいと思います。この章の最後は、物象化の止揚=共産主義論・革命論の様相ももっています。『新左翼運動の射程』や『現代革命論への模索』に通じるような論攷になっています。
さらに「V 歴史的世界の物象化論」「W 自然界の歴史的物象化」ですが、マルクス・レーニン主義、すなわち官許マルクス主義とか、ロシアマルクス主義とか言われる教科書では、Vは史的唯物論、Wは自然弁証法とか分類されるところですが、廣松さんは、「われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史(「ゲシヒテ」のルビ)の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区別されうる。両側面は、しかし、切り離すことはできない。」3P「自然観と歴史観とはもはや両半球的に併立すべくもないのであって、「歴史化された自然」の一総体を射程に入れる唯物史観が、世界観そのものと相覆う」71Pという押さえで、Vの中の「二 歴史的世界の存在構造/(d)自然的世界の歴史性」という項が出てきます。勿論、「二つの側面から考察され」る作業が必要になりますので、「W 自然界の歴史的物象化」というところからの押さえも展開しています。なお、Vの「一 商品世界の存在構造」は『資本論の哲学』や共編著『資本論を物象化論を視軸にして読む』と繋がる論攷で、『視軸』は共編著ですが、ここでの論攷は、一人での「物象化論を視軸にして」的な展開になっています。そしてまたこの著に納められている宇野経済学批判など、『資本論』に関する論考を第二次ノート作りとしてやる予定、これも後回しとしたいところですが、Tの扱いと同じで、簡潔にまとめてメモりたいと思っています。「二 歴史的世界の存在構造」は第二主要論文とも言いえることしっかりメモります。「X マルクスにおける哲学」はエンゲルスの有名な「哲学は死んだ、残るは形式論理学と弁証法だけである」という提言に対して、マルクス哲学を対置しています。このあたりは「廣松哲学」と言われ得ることを提示した廣松さんの意図を押さえ直す重要な作業です。
最後に「跋文−物象化理論の拡張」は、『存在と意味』の第二巻以降の実践論や文化論につながる論考で、この著が出たのは『存在と意味』第一巻が出された後で、第二巻の前、まさに廣松理論の広袤ということを感じさせます。ちなみに高橋さんが解説で、「事的世界観 物象化論 唯物史観」の三つの絡み合っている理論ということを書いていますが、これは『著作集第二巻 弁証法の論理』の解説で、「リゾーム状」という概念で突き出していることにも繋がっています。廣松さんの名を冠した「廣松○○論」といわれるオリジナリティーもった理論は「事的世界観」「物象化論」「唯物史観」「共同主観性論」「四肢構造論」「弁証法の論理」などとあり、それは併列的にならべられることでもなく、関係性の総体としての網状の関係態なり、函数的連関態とか、函数内函数とか、錯分子構造とかいうところのとらえ返しも含めて、押さえ直す必要を感じています。若干この著を読みながら、少しはそのことを考えますが、むしろそのことは、一切の途はそのことに通じるの感があった、主著『存在と意味』の学習で、押さえる作業に入ります。勿論、未完の著で、その先どのような構想だったのかの推論も交えたとらえ返しになるのかも知れません。
なお、T、Uにはかなりの量の註が付いています。初期マルクス研究には貴重な資料になっていますが、これは初期マルクス研究の一連の書の学習、しかも、第二次学習ではなく、第三次学習の際に廻さざるをえません。そこまで、行けない公算が強いのですが。
さて、切り抜きに沿ったメモ取りに入ります。これからは斜体文字がわたしの文です。ここで、断っておきますが、この論攷は、マルクス・エンゲルスの物象化論を押さえた上で、廣松さん自身の「物象化論」の展開に入っています。従って、マルクス・エンゲルスの文の引用が多くなっています。これを逐一載せていくと本一冊丸写しになります。ですから、長文で引用したところは省いて、廣松さんのコメントを中心に切り抜きメモをとっています。で、だいたい意味がとれるのですが、取れないところは、この著自体に当たってもらうことをお願いするしかありません。わかりにくいところを更にわかりにくくしているとは思いますが、よろしくお願いします。
序 文
まず冒頭、この書の発刊の主旨を展開しています。「「物象化論の構制」ということは、著者にとって、マルクスの後期思想を理解するうえでの重大な鍵鑰(「けんやく」のルビ)を成すものであり、また著者自身の構想する社会哲学・歴史哲学・文化哲学の方法論的基底を成すものでもある。この間の事情については、この十有余年、折々に表明しながらも、「物象化論の論理構制」そのものを主題的に論じることは永らく躊躇(「ちゅうちょ」のルビ)してきた。それというのも、一つには、『資本論』全三巻を包括するマルクスの「政治経済(学)批判」体系を物象化論の構制に則して貫通的に解釈する作業に若干の隘路(「あいろ」のルビ)を残していたためでもあるが、主要には、もう一つ、著者なりの実践哲学、わけても役割行動の編制における権力的規制の論件において、必要にしてかつ充分な方法論的配備を見極(「みきわ」のルビ)め難かったためである。しかるに、ここ一両年の間に、前者については、共著者に専門家の吉田憲夫氏を得て、旧著『資本論の哲学』の改訂・増補ひいては「マルクス政治経済(学)批判」体系の全体を視野に入れた解釈的再構成に目途が立つに至った。また、後者についても『存在と意味』第二巻「実践的世界の存在構造」の草案が漸次調(「ととの」のルビ)うにつれて、ほぼ成心(「せいしん」のルビ)が固まるに及んだ。茲に、「物象化論の構制と射程」を主題的内容とする本書を世に問い、識者の𠮟正を仰ぐ所以である。」DP
各論文の構制について説明していく文があります。これについては、すでに蛇足的になっていることを畏れつつも復習的なコメントを書いているので、切り抜きメモをそのまま掲載します。対比して間違ったところがあれば指摘願えると有り難いと思っています。「第T論文「唯物史観の宣揚の為に」は、史的唯物論に関する俗流的な理解を卻(「しりぞ」のルビ)けつつ、唯物史観の世界観的視座とその構制を顕揚するものであるが、本書のコンテクストにおいては、特に“前期マルクス”におけるいわゆる「疎外論」と“後期マルクス”における「物象化論」との連続的不連続=不連続的連続性を論考しつつ、マルクスの物象化論に関するイントロダクションの機能を演ずべきものとなっている。尚、この論稿の第三節「疎外論の止揚と物象化論」は新規に書き加えたものであり、この追補にともなって、先行の第一、第二節の本文および註(註は章末に一括)にも修訂の手を加えた。」E-FP
「第U論文「物象化論の構制と射程」は、元来は第T論文における未完の“第三節”を独立の形で起稿し直したものという性格をもつが、成立の事情は措いて本書のコンテクストでいうかぎり、本書の基幹部をなすものである。」FP
「第V論文「歴史的世界の物象化論」は、今を去る十五年前、一九六八年の晩秋に執筆した学会特別講演の草稿(学会誌に事前に掲載、構制は一九六九年の一月)であり、『資本論』における「商品世界」論の構制を「歴史的世界」全般の物象化的存立構造に推及する構案を述べたものである。この旧稿は、著者にとつて、マルクス商品世界論の解釈を初めて発表し、同時に亦、「役割論的構制」を初めて公言したものとして記念すべきものであるが、論文集に収録することはこれまで自制してきた。その理由は、撤回したい論点が含まれていたからではなく、その後、この論文の第二節を敷衍(「ふえん」のルビ)展開するかたちで「言語的世界の存在構造」および「歴史的世界の協働的存立構造」を発表し(いずれも、拙著『世界の共同主観的存在構造』勁草書房刊に所収)、また、この論文における批判点を主題的に展開した「ハイデッガーと物象化的錯視」を公表し(拙著『事的世界観への前哨』勁草書房刊に再録)、さらにはこの論文の第一節を支える『資本論』読解を独立の一書『資本論の哲学』(現代評論社刊)として上梓するというように、この論文=学会講演における原型的発言を種々の方面にわたって主題的に展開しつつ、別の形で交換することにしたからである。・・・・・・・。この旧稿は、いかにもラフ・スケッチでありながら、いな、原型的なラフ・スケッチであるがゆえに、本書のコンテクストにおいては、稜線を際立たせるのに好便であるように思える。・・・・・・著者として最大の不満はマルクスの「価値形態論」への関説を一切割愛していしまっている点である。成程、「価値形態論」における人間関係は、“単純商品生産モデル”にしか十全には妥当しない。このことを慮(「おもんばか」のルビ)って価値形態論への関説を割愛したむきもある。とはいえ、この欠が議論を抽象的な域に押止める一因になっていることは否めないし、経済学の専門家諸氏は「このような議論ではとうてい『資本論』全三巻を物象化論の構制とやらで首尾一貫して解読することは覚束(「おぼつか」のルビ)ない」という印象を懐(「いだ」のルビ)かれることであろう。慥(「たし」のルビ)かに、本稿に限らず、本書の全体が『資本論』全三巻を通じる物象化論を顕揚するうえで、大きな落丁を残している。この落丁を埋めるためには、しかし、いわゆる「転形問題」その他、『資本論』に則した具象的な立論が必須であり、優に主題的な一書を必要とする。この故に、本書では敢て中途半端な関説を差控えた次第なのである。とりあえず、「価値形態論」と「物神性論」については、基幹の別著『資本論の哲学』(因みにこの旧著は増補改訂のうえ、明春、勁草書房により新版を上梓する予定でもある)によって本書の欠を補って頂ければ幸いである。」F-HP
「第W論文「自然界の歴史的物象化」は、これまた学会誌に執筆した旧稿の再録であり、・・・・・・・この短論文集は、著者にとって、マルクス・エンゲルスの自然概念について主題的に論じた唯一の論稿でもあり、昨今では稀覯(「きこう」のルビ)の由、照会にあずかること再々であるので、敢て論点の重複も辞せず、“場違いの附録”として収録する途を選んだ、寛恕を乞いたいと念う。」H-IP
「第X論文「マルクスおける哲学」は、「寺子屋」主宰の講演会の記録で在り、物象化論を直接的な主題とするものではないが、第U論文に謂う「体系的叙述=体系的批判」の構制、および、実践の場における「哲学の実現的止揚=止揚的実現」という論件に関わり、総じて亦、本書に盛ったモチーフを(或る特殊な視角からではあるが)総括する一面を有(「も」のルビ)っているので、これまた“附録”として収めた。前口上の一部と附記を省いた以外は、ほぼ忠実な再録である。」IP
「跋文「物象化論の拡張は、マルクス・エンゲルスの物象化論を著者がどのような方向でどのような配備のもとに形象・展開止揚と庶幾(「しょき」のルビ)しているか、著者なりの意想と構案を、略述したものである。形式上は、「跋文(「あとがき」のルビ)」であるとはいえ、この長文の新稿は第U論文と並ぶ本署の中枢部とも目され得よう。」IP
T 唯物史観の宣揚のために
(この章の問題設定)「唯物史観ないし史的唯物論といえば、教科書のたぐいでは、屢々レーニンの言葉を踏んで、「弁証法的唯物論を社会・歴史の領域に適用し拡張したもの」とされている。そこでは、世界を「自然」界と「歴史」界という両つの半球に区分する近代哲学流の構図が立てられており、当の両半球に対応する「自然弁証法」ならびに「史的唯物論」という二大部門に対して「弁証法的唯物論」という“第一哲学”が先行するかのごとき構制がみられる。・・・・・・・。倖い、我が邦のマルクス研究者たちにおいては、戦前における三木清などの先蹤は措くとしても、戦後早くから田中吉六氏による弁証法的唯物論に対する唯物史観の時間的先行説が定着しており、「適用・拡張」ということを字句通りに受け取るむきは尠ない。だが、われわれとしては、体系の構制からしても、果たして唯物史観は弁証法的唯物論なる“第一哲学”を「適用・拡張」してものであるか、このことの問い返しを通路として、唯物史観の世界観的な構制を顕揚しなければならない。」2-3P
(『ド・イデ』から引用)「われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史(「ゲシヒテ」のルビ)の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区別されうる。両側面は、しかし、切り離すことはできない。人間が生存するかぎり、自然の歴史と社会の歴史とは相互に制約しあう、自然の歴史、いわゆる自然科学には、われわれはここで関説しない。人間の歴史については、しかし、立ち入っておくべきであろう。というのも、イデオロギーというものは、元に還してみれば、その殆んどすべてが、人間の歴史を歪曲して把握したものか、人間の歴史を全く抽象化してものか、そのいずれかに帰着するからであって、云々。」3P・・・歴史の物象化と抽象化
「ここにみられる「歴史」という概念の広袤(「こうぼう」のルビ)に留目されたい。それは「自然の歴史」と「社会の歴史」とを「両つの側面(「ザイテ」のルビ)」とする単一的・統一的な「歴史」である。しかも、そのさいに、「自然の歴史」というのは、宇宙進化史とか地球進化史とかいった次元での自然界の歴史ではなく、「自然の歴史(「ゲシヒテ」のルビ)」=「いわゆる自然科学」とされている。――マルクス・エンゲルスは、自然界と人間界(自然界と歴史界)とを両断する近代哲学流の存在了解をそもそも採っていないのである。」3-4P
「唯物史観(唯物論的な「歴史」把握)というさいの「歴史」が、ここにみるように、格別な意味での「自然の歴史」と「社会の歴史」とを包括する「歴史」であるとすれば、そして、唯物史観(maerialistische Auffssung der Geschichte)が「われわれは唯一の学、歴史の学しか知らない」と言われるさいの単一的・統一的な「歴史の体系知」にほかならないとすれは、唯物史観は、断じて、自然界と並ぶ歴史界という半球に関わる通常の歴史観ではなく、総体的な世界観である、と言わねばなるまい。」4P
「唯物史観はマルクス主義理論体系の単なる一部門ではないこと、それはマルクス主義的世界観の構制そのものであること、予備的留意事項としてこの旨を臆言しておく。」4P
第一節 古典哲学の弁証法的止揚
(この節の問題設定)「ドイツ古典哲学の絶頂に位するヘーゲル哲学の内在的「止揚」を成就したもの、それがマルクス主義であるというわけである。/われわれ第三者の眼からみても、この自負には十全の謂われが認めらうる。マルクス・エンゲルスは、近代哲学の棹尾を飾るヘーゲル哲学を止揚することにおいて、近代哲学の地平そのものを踰越している、茲に開かれた革らしい世界観的地平に照応するものが唯物史観にほかならない。」5P
[一]ヘーゲルの「主観−客観」図式の超克の試みとマルクス・エンゲルスの止揚
(この項の問題設定)「今日、人々が、近代(歴史的段階としての資本主義時代)の哲学的・世界観的地平の超克を論ずるにあたっては、いわゆる「主観−客観」図式の克服をメルクマールにするのが常套になっているが、われわれとしても、旧来通り、これを弁別的徴標にすることができる。/ドイツ古典哲学、わけてもヘーゲルの哲学は、或る意味では「主観−客観」図式に立脚した哲学の極北である。とはいえ、或る意味では、フィヒテやシェリングの哲学からして既にそうであるが、ヘーゲルの哲学は、よしんば「主−客」図式の埓内においてであるにせよ、「主観−客観」の二元的対立性の克服を志向するものであった。――マルクス・エンゲルスが「主体−客体」図式を克服しえたについては、ヘーゲルの前車の轍を見据えたことが大いに与(「あずか」のルビ)っている。」6P
ヘーゲルのデビュー論文ともいうべき『フィヒテとシェリングとの哲学体系』からの引用があり、それについての著者のコメント「ヘーゲルは、このような諒解のうえに立って、主観と客観との対立性、ひいては、主観主義と客観主義、「独断的観念論」と「独断的実在論」の対立性を“克服”した地歩、絶対精神を実体=主体とする「絶対的観念論」の立場を固めたのであった。――ヘーゲルの絶対的観念論は、第三者的にみれば所詮は観念論であるにしても、主観と客観との二元的対立性、“観念論と実在論との対立性”を“止揚”したものと自任されている。」7P
この稿のまとめとしての、マルクス・エンゲルスのヘーゲル哲学の止揚「マルクス・エンゲルスは、少なくとも彼らの思想形成過程においては、主観性と客観性、精神と物質との二極的対立性のみならず、個別と普遍、実存と本質、形相と質料、有限と無限、自由と必然、等々の対立性、さらにはまた、観念論と実在論との対立性を克服しようとするヘーゲルのモチーフを継承した。そして、軈がて、ヘーゲルがそれを成就しえなかった所以のものを彼らは洞見しうるに至り、新しい視座に立ってそれの達成を図るに及んだのであった。マルクス・エンゲルスが、唯物史観と相即する革らしい世界観的地平を拓いたのは、ヘーゲル的モチーフの継承的展開の線上においてである。尤も、この過程はリニア[単線的]なものではなく多分に屈折しており、飛躍もみられる。/本稿は唯物史観の成立過程を手段的に追跡する者ではないが、唯物史観の視座と構制を対自化する一具として、ヘーゲル哲学が如何にして止揚されたかに留目しつつ、形成過程の幾つかの象面をも配視することにしよう。」7-8P
[二]マルクス・エンゲルスのヘーゲルと青年ヘーゲル派の止揚の試行
マルクス・エンゲルス『聖家族』からの引用を受けて「一八四四年秋というこの時点では、マルクスはフォイエルバッハを絶讃する準位にあり、ヘーゲル哲学をフォイエルバッハの線で揚棄しようと志していた。」9P
「このさい留目したいのは、当時のマルクスが、フォイエルバッハを称揚しながらも、フォイエルバッハの謂う「唯物論」の立場を標榜することなく、敢てフォイエルバッハのうちに「唯心論と唯物論との対立の克服」を強引に読み込み、そのような立場を執ろうとしていることである。マルクスもエンゲルスも、ヘーゲル学徒として当初のうち観念論の立場を採っていたことは言うまでもないが、彼らはフォイエルバッハの唯物論によって強烈なインパクトを受けるに至っても直ちに唯物論の立場を受容することなく、一八四三年から一八四四年にかけて、飽くまで「観念論と唯物論との対立を止揚する見地」を模索したのであった。」9-10P
『経哲手稿』からの引用を受けて、この稿のまとめ的文「マルクス・エンゲルスは、やがて、唯物論の立場を採るようになり、唯心論 対 唯物論、観念論 対 実在論の対立性の止揚ということを言表しなくなるが、しかし、彼らはかつて自らその一面性を指弾した“唯物論”を選取したわけではない。唯物史観は唯物論的な史観には違いないにせよ、ここでの唯物論は単純素朴な“唯物論”ではなく、観念論 対 実在論、唯心論 対 唯物論の止揚的統一を志向していたかつてのモチーフを含意したものであり、そこでは、主観性と客観性、精神と自然、……の真の統一というかつてのモチーフ(この意想そのものはドイツ・ロマンティークこのかたのものと言うこともできる)が維持されている。」10-1P
[三]「絶対精神の真実態」とされる「人間」に定位したマルクス・エンゲルスの一八四四年時点の構案
(この項の問題設定)「『経哲手稿』や『聖家族』の時点におけるマルクスは、フォイエルバッハを亀鑑としつつヘーゲル哲学の内在的止揚を図ろうとしていたとはいえ、フォイエルバッハ哲学の枠内に跼蹐(「きょくせき」のルビ)していたわけではなく、固有の思想を見せている。そこには後年の萌芽も多々みられる。が、当座の論件として止目したいのは、ヘーゲルにおける「絶対精神」を「人間」というその「真実態」で対置し、以て、自然と精神との如実の統一を措定しようとする構案である。」11P
「当時のマルクスは、実体=主体の自己疎外と自己獲得というヘーゲルの構図そのものは「発見された」「歴史的運動の表現」であるとして積極的に評価する。しかし、ヘーゲルが当の「実体=主体」を「絶対精神」としているところに致命的な難をみる。」11-2P
「ヘーゲルにあっては「主語と述語とが接待的に顚倒した関係」に陥ってしまっている。/当時のマルクスによれば、ヘーゲルの謂う「絶対精神」とは形而上学的に改作された「人間」にほかならず、ヘーゲルの謂う絶対精神の自己疎外と自己獲得とは人間の「労働」における自己疎外と自己獲得の過程、その「歴史的過程」が形而上学的に改作され、思弁的に鏡映されたものにほかならない。」12P
「『経哲手稿』におけるマルクスは“労働の存在論”ともいうべきものを展開しているだけでなく、既に一定の経済学的な具象性をもった議論をおこなっているし、後論との関係で引いておけば、次のように立論してもいる。「産業は、自然の人間に対する現実的な歴史関係である。……産業が人間の本質諸力の露呈として把えられるとき、自然の人間的本質ないし人間の自然的本質も理解される。……産業を通じて生成する自然が人間学的自然である。云々」。」13P
この節のまとめ的文「こうして、一八四四年時点のマルクスにおいては、自然と精神、客観性と主観性……の対立をヘーゲル流の形而上学的な絶対精神ではなく、「人間」という実体=主体に定位して、しかも、人間労働という現実的な歴史過程に定位して“止揚統一”する構案が立てられた。/だが、このような構制によって果たして「主観−客観(主体−客体)」図式が克服された所以になるであろうか? なるほど、主−客の対立性の統一性は図られている。がしかし、ヘーゲル流のいわゆる“主体−客体の弁証法”の構図、実体=主体の客体化と再主体化の構図が維持されているかぎり、それは依然「主−客」図式の埓内にあるのではないか? 然りと言わざるをえない。/現にマルクスは、翌年にいちはやく、この四四年時点における一時的な構案を自己止揚する。人間労働の歴史的過程に視座を据える着眼をはじめ彼は諸多の論点を保持しつつも、ヘーゲル学派流の実体=主体の自己疎外と自己獲得という構制、ひいては「主観−客観」図式そのものを彼は超克するに及ぶ。そのことに俟って、マルクスは近代哲学一般の地平を踰越し、革らしい世界観の地平を拓く、それが「唯物史観」の拠って立つ地平にもほかならない。」15P・・・唯物史観の宣揚
第二節 人間主義の超克と新地平
(この節の問題設定)「マルクスが四四年時点の一時的構案を止揚して新地平を拓くに当っては、内発的な熟成と併せて或る外的な衝撃も与っている。外的な機縁というのは、折しも激烈になったヘーゲル左派内部の“内ゲバ”的論争、わけても、マックス・シュティルナーが『唯一者とその所有』で打ち出したヘーゲル左派総体に対する衝撃的な内部批判である。/爰では、ヘーゲル左派内部の論争を跡づけたり、シュティルナー・ショックを詳しく分析したりする作業は課題外であるが、“論争”の一斑をも配視しつつ、マルクス・エンゲルスが論争の渦中をくぐりぬけることを介して、いかにヘーゲル左派の準位、なかんずく「人間」主義の準位を超克し、そのことによっていかなる新境地を拓くに至ったか、その次第に眼を向けることにしよう。」15P
「今日われわれの眼からみれば、彼らが当時すでにフォイエルバッハの埓を越えていることを認めうるにせよ、当時の彼らがフォイエルバッハ式の「人間(類的存在としての人間)」主義の大枠内に位置すると目されるかぎり、亜流扱いをされたのも謂われなしとしない。・・・・・・だが、彼らの思想的成長は、もはや「人間」主義への安住を許さなかった。かれらはフォイエルバッハ的な「人間」主義への共賛を自己批判的に乗り越えることを要した。とはいえ、それは論難者たちへの単純な屈服ではない。彼らは「人間」主義を超克すると同時に論難者たちの準位をも超克し、総じて、ヘーゲル左派イデオロギーの拠って立つパラダイムをトータルに超脱しつつ、新しい地平に立ったのである。」16P
[一]シュティルナー
「シュティルナーは、実存的唯一者(そのようなものとしての「自我」)を本質的類人間(「人間なるもの」)に対置する。――――『唯一者とその所有』は二部構成になっており、第一部が「人間」論、第二部が「自我」論と題されているのであるが、第一部はフォイエルバッハはとその亜流の「人間」主義に対する批判へと議論が集約される。――シュティルナーは、キリスト教的な「神」、ヘーゲル式にいえば「絶対精神」が、ヘーゲル左派の展開過程において、それの真実態は「人間」である(シュトラウス)、それの真実態は「人類の自己意識」である(B・バウアー)、それの真実態は「人間なるもの」である(フォイエルバッハ)、というように“「神」とはそのじつ「人間」である”として把え返された先蹤を念頭に置いている。」17-8P
「茲で、シュティルナーは次のように指弾する。フォイエルバッハの徒は、人間こそ至高の存在であると宣言し、人間を原理に据えると唱しているが、その「人間」は実存的な現実的人間ではなく本質存在としての「人間なるもの」であり、「神=人間」といみじくも明言されている通り、「人間」とは「神」の別名にすぎない。「神としての神」への拝跪は卻けられるに至ったにせよ、実存的諸個人たる生身の人間は依然として「人間なるもの」(=“神の真実態”!)に拝跪する構制になっている。今や、「人間なるもの」を至高の存在とみなし、類的本質としての「人間」を実体=主体とするフォイエルバッハ流の構制そのものを止揚しなければならない。/シュティルナーに言わせれば、「人間なるもの」は「神」と同様、「理念(「イデー」のルビ) (観念)」たるにすぎない。そのようなものは実在しない。実在するのは実存的な諸個我のみである。」18-9P
「シュティルナーは、昨今では、キェルケゴールと並べて「実存主義」の開祖に数えられるが、彼は抽象的に実存主義を唱えたのでも、また、宗教哲学の領域内で議論を展開したのでもなかった。・・・・・・爰に「世界史を以て『人間なるもの』の歴史」だとみなす構制の歴史観を厳しく批判しつつ、彼固有の歴史観を対置する。/ここでは、しかし、シュティルナーの歴史観にまで立入るには及ぶまい。彼はアダム・スミスの独訳なども試みた人物だが、この時点における彼の歴史理論は社会科学的な具象性には欠ける。――われわれとしては、フォイエルバッハとその“亜流”の「人間」主義に対する彼の強烈な批判を機縁にして、マルクス・エンゲルスがどのような新境地を拓いたか、その顛末を見届ければ足るであろう。」19P
[二]シュティルナーに対するマルクス・エンゲルスの対応
(エンゲルスのマルクス宛の書簡)「シュティルナーは、フォイエルバッハの『人間』、少なくともキリスト教の本質における『人間』を卻ける点では正しい。……『人間』は、経験的な人間に基盤をもたないかぎり、幽霊だ。ようするに、僕らの思想、わけても、僕らのいう“人間”を新なるものとして主張しようとするかぎり、僕らは経験論・唯物論から出発しなければならない。僕らは普遍を個から導出しなければならないのであって、それ自身から、乃至は、ヘーゲル流に宙空(「ルフト」のルビ)から導出してはならない」20P
「シュティルナーに対するマルクスの批判・反批判が主題的に成分化されるのは、一年以上もあとに執筆された『ドイツ・イデオロギー』の第三章「聖マックス」においてである。が、「人間」主義に対するシュティルナーの批判を受け留めて、この一年有余のあいだに、マルクスは多分に屈折した心理・思想的過程を経たものと忖度(「そんたく」のルビ)される。」20P
「シュティルナーは、実存と本質とを峻別し、本質存在としての「人間なるもの」は自存する実在ではなく、たかだか「理念(観念)」にすぎないと言う。」21P
「フォイエルバッハやマルクスが、類的存在・類的本質としての「人間」を云々するさいに、個的存在・固定実存としての人間と密接に関連させて把握していたことは、彼らが「感性的・具体的」な現実に定位しようと志していた以上、当然といえば当然である。この当然事は措くとしても、実存と本質との統一的把握ということはヘーゲル哲学において既に大きな課題であった・・・・・・シュティルナーがマルクスを名指しで批判した命題「私は一つの現実的な類的存在に[“人間解放”によって]ならなければならない」というテーゼも、実存と本質との自覚的統一というモチーフから発したものなのである。」21P
「フォイエルバッハは人間が「神」(人間の本質の疎外態)を自己の内に取り戻した場合、疎外から自己回復した在り方の場面で“実存と本質とが合一する”という構図を立てる。マルクスは、単なる宗教的疎外の解消という域を超えて、『ヘーゲル国法論批判』の四三年時点では一種独特の「民主制」国家に、『ユダヤ人問題』では「人間解放」に、『経哲手稿』では「共産主義」社会に、人間の疎外からの自己回復、そこにおける実存と本質との即且対自的な合致を託したのであった。フォイエルバッハにおいてもマルクスにおいても、実存と本質との真の合一ということは人間存在の常態ではなく、即且対自態において実現することとされていた。」22P
「それでは、即且対自態を実現する以前の局面、疎外状態にある局面では、一方の実存と他方の本質とがバラバラに分離・並存しているのか? 勿論、否である。ヘーゲル学派の存在了解によれば、実存的個別者と本質的普遍者とは決して各々が独立自存するものではない。実存的個別者は必ず本質的普遍者を“宿す”という在り方で、本質的普遍者は必ず実存的個別者に“宿る”という在り方で、その都度つねに個別と普遍とを統合した在り方で現存在する。このさい“宿す”ものと“宿る”ものとが二分化的区別性の相にあるかぎりで両者は如実に合一しているわけではないが(上述の通り、如実の合一は即且対自態に限られる)、しかし、実存的個別と本質的普遍とはそれなりの仕方で恒に統合されてはいるのである。」22-3P
「絶対的精神の自己疎外と自己回復の総過程とか、人間の自己疎外と自己回復の歴史的総過程とか、実体=主体の弁証法的大循行の構制に止目するとき、そこで一貫した実体=主体としての自己同一性を担うのは、どうしても個別体としての実存的個別者の契機ではなく、普遍体としての本質的普遍者の契機である、と言わざるをえぬ市場に直面する。/シュティルナーが衝くのはまさにこの大循行の構制に即してである。」23P
「およそ人類史としての歴史が論件となるとき、個々人という次元での歴史的営為の主体と「人間」という次元での歴史主体との二義性がいつも問題になり、両者の関係づけが課題になる。/爰で、人がもし、「人間」などという主体は単なる論理的仮構であって、歴史の主体は実存的諸個人だけであるという唯名論的な見地を採るとすれば、それはそれで一つの立場であろう。・・・・・・現に、シュティルナーはこの見地に立って「人間」を卻ける。」24P
「だが、少なくとも『経哲手稿』時点までのマルクスは、彼がまだヘーゲル左派の大枠内にあった以上は、当然といえば当然であるが、個々人には解消できない次元での「人間」を立てる構制を採っていた。それも消極的な残渣というわけではない。当時のマルクスは、前節で見ておいたように、ヘーゲルが大循行の「実体=主体」とする「絶対精神」をその“真実態”たる「人間」で“置換”し、「人間」の自己疎外と自己回復の大循行過程として人類史を把握(「ベグライフェン」のルビ)しようという雄大な構想を積極的に懐いていた。そのかぎり、歴史的主体として、個的実存とは区別される類的本質存在としての「人間」が、論理構制上、積極的に措定されていたことになる。シュティルナーは、無論、未発表の『経哲手稿』を知るべくもなかった。(彼がもしこの手稿を繙読してそこに盛られている構想を知ったならば、雀躍して絶好の標的にしたことであろう!)が、彼は『独仏年誌』に既発表のマルクスの論文のうちに今問題の構制を読み取って批判の刃を向けたのであった。」24-5P
「シュティルナーが批判するのは、まさしくこのような構制において一貫した「実体=主体」として措定される「歴史の主体」としての「人間」なるものである。彼は、この構制では“ルードヴィッヒは死すとも王は死せず”と同じ仕掛になっていると嘲笑する。彼シュティルナーは、重複を厭わずに引用すれば、「“人間なるものは死せず!”というわけだ。……」・・・・・・」26P
「彼(マルクス)が『経哲手稿』の時点で採っていたヘーゲル学派の論理構制を対自化してみるとき、シュティルナーによる批判が遺憾ながら突き刺さってくることが判る。」26P
「ここに、マルクスは、フォイエルバッハ的な「人間」主義に共賛していた自己の思想的準位に反省を加え、「人間の歴史」ということ、わけても「歴史の主体」ということを抜本的に再検討し、新しい視座と構制にもとづいて理論の再構築を遂行する運びとなった。――われわれはその達成を翌る一八四五年を転機とする一連の文典によって確認することができる。」26-7P
[三]マルクス・エンゲルスの拓いた新地平
(この項の問題設定)「マルクスは、シュティルナーによる「人間」主義への批判に接する直前の時点で、ブルーノ・バウアー一派との論戦を契機にして、みずから内発的に、実体=主体の自己外化と自己獲得というヘーゲル学派式大循行の論理構制の孕む難点を半ば自覚するようになっていた。このことは、ヘーゲル学派の「思弁的構成の秘密」を告発した『聖家族』の有名な章句を分析してみれば容易に認められる。が、疎外論の論理構制に関わるこの件は次節に譲ることにして、ここでは「人間」の問題、本質と実存の問題に即しつつ、マルクス・エンゲルスの拓いた新地平を観望しておこう。」27P
1 マルクスのフォイエルバッハとシュティルナー批判――実体主義そのものの批判
マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』六などの引用の後に「マルクスの『テーゼ』がシュティルナーの触発とどうどう関わるかは審らかでない。が、ヘスがフォイエルバッハにおける“人間”の二義性を指弾したのがシュティルナーの触発を介してであることはまず確かである。」28-9P
「シュティルナーに言わせれば、実在するのは実存的個体のみであって、本質的存在としての「人間」なるものは実在しない。両者を、混淆したり、二重写しにしたりしてはならない。しかるに、フォイエルバッハの徒は、類的存在としての人間ということで、実存的個体と本質的普遍とを二重写しにしてしまっている!」29P
「マルクスとしては、シュティルナーの指摘に一半の妥当性を認めつつも、総じては彼シュティルナーの拠って立つ存在観のパラダイムそのものを卻けて、新地平を拓く。」29-30P
「惟えば、ヨーロッパにおける存在観の歴史においては、二種類の「実体」が考えられてきた。実存個別者たる第一実体、および、本質的普遍者たる第二実体、がそれである。「人間なるもの」とか「果物なるもの」とかいうような本質的普遍者(第二実体)が個物とは別途に実在するという考え方(つまり、「普遍論争」における「実念論」の立場)は、近代においてこそ不評であり、妄言とみなされかねないが、中世においてはこれが主流派であったことを想起されたい。――ヘーゲル学派は、上述の通り、第二実体が独立自存するとは考えないが、しかし、第二実体は第一実体に“宿る”という仕方で両実体を“統合”的に把えた。/ところで、第二実体が第一実体に“宿る”、視角を変えて言い換えれば、第一実体が第二実体を“宿す”という了解は、シュティルナーに指摘されるまでもなく、成程問題である。」30P
「マルクスは、第二実体という在り方での人間的本質を卻けるだけでなく、個々人が第一実体という在り方で自存するというシュティルナー的存在観をも同時に卻けるのである。マルクスの考えでは、“宿る−宿す”という想念は慥かに誤りではあるが、そこには或る真実態が歪んだ形で投影されている。」31P
「シュティルナーの実存観からすれば、第一実体としての実存的個体は、一切の述語的本質規定から超絶して、それ自体でかけがえのない個体としての自己同一性をもっていることになる。しかしながら、マルクスに言わせれば、何々という“述語的”規定性をことごとく剥奪されても自存すると称される実存的第一実体なるものは実在せず、一切の本質的規定性をもたぬ実存なるものはそれこそ空疎な抽象体であり「無」なるにすぎない。(尤もシュティルナーは、サルトルに先駆けて、「無」と自己規定しそれに居直っているのであるが)。いわゆる“本質的”規定性をはなれて実存的第一実体が自存するわけではない。」31P
「ヘーゲルはあの「実体=主体」論にかぎらず、実体主義的な存在観を慥かに払拭しきれてはいない。が、しかし、彼は具体的な場面では関係主義的な知見を示しており、“関係態こそが第一次的存在であって、諸関係の結節を自存化したものがいわゆる第一実体、諸関係規定の総体を自存化したものがいわゆる第二実体、にほからない”という観方の間近かにまで達していた。」32P
「『ドイツ・イデオロギー』での主題的なシュティルナー批判を先取していえば、シュティルナーはフォイエルバッハの“人間”が孕んでいた二重的規定、すなわち、本質と実存という両契機のうち、後者の契機だけを真実在として自存化しているのにすぎないのであって、彼シュティルナーの謂う「唯一者」「実存的個人」は「抽象的で孤立化せる[つまり一切の社会的関係を捨象された]人間的個人」たるにほかならない。シュティルナーは「彼の分析する抽象的個人が一定の社会的形態に属することをみない。」という次第で、フォイエルバッハの二重的規定に対する批判のうちに、論理的には、シュティルナーに対する批判も既に含意されている。」33P
「本質が実存に“宿る”という範式は妥当しないにせよ、そこには諸関係の総体と諸関係の結節との統合性という事態が、屈折したかたちで、とにもかくにも投影されていた。そこには、普遍者は個別者を離れて自存しないという了解と同時に、本質(正しくは諸関係規定の一総体)を離れて実存が独立自存するわけではないという正当な了解が屈折して秘められていた。今や、諸関係の実態に即しつつ、実体主義そのものを超克することが要件である。――類的本質に定位したフォイエルバッハ流の「人間」主義だけでなく、個的実存に定位するシュティルナー流の人間主義をも併せて、“人間”を実体=主体とする「人間主義」一般が超克されねばならないのである。」33-4P
2 マルクス・エンゲルスの「歴史」の場に即しての積極的提題
「マルクス・エンゲルスは「人間主義」の超克を抽象的・一般的な存在論の次元で遂行したのではなく、まさしく「歴史」に定位しつつ具体性を以って遂行した。――われわれとしても、今や、「歴史」の場に即して、彼らの積極的な提題を見ることにしよう。」34P
「シュティルナーへの反批判をも主題的一契機とし、ヘーゲル左派イデオロギー総体の批判的超克を宣する『ドイツ・イデオロギー』において、マルクス・エンゲルスは、歴史的諸関係に“内存在”している人々、「人々の対自然ならびに相互的諸関係」に視軸を据えて議論を再構築している。――『テーゼ』においては「社会的諸関係の総体」という一般的な言い方にとどめられていたが、今や、謂うところの諸関係が「生産諸関係」を基軸にして構造的に規定し返される。/人間諸個人が「何であるか(Was=本質)ということは、彼らの生産に帰一する。すなわち、彼らが何を如何に生産するかということに帰一するのである」。というのも、「諸個人が如何なる仕方で自分の生(Leben)を発現するか、その仕方に応じて彼らの存在がきまる。」わけであるが、「諸個人が自分の生を発現する一定の方式」、それが「生産の様式」にほかならない所以である。」34-5P
『ドイツ・イデオロギー』からの引用文を受けて、「読者のうちには、唯物史観の視座と出発点を表明した右の一文に、昨今流行のエコロジーの構えと相通ずるものを看取されるむきさえあることであろう。ヘッケルが「生態学(「エコロギー」のルビ)」という詞を新造し、「動物の、有機的環境ならびに無機的環境に対する関係の学」と定義したのは、これより二十余年も以後のことであるが、マルクス・エンゲルスがいちはやく“人間生態学”的な視角で「歴史」を把握していたことは銘記されてよい。」35-6P
「生態学が、当事主体と環境条件とを統一的な「系(「システム」のルビ)」として把握するさい、それは決して単に生物にとっての環境を顧慮するという点に主眼があるのではない。かのサクセッションの理論などにおいて顕揚されるように当事生体群の営為が環境条件を改造していくこと、そしてこの改造的変様が生体群の在り方を逆規定すること、この相互規定的なダイナミックな関連に主眼がある。マルクス・エンゲルスは、まさにこの点を押さえることにおいて、所謂「地理的決定論」や「風土史観」のたぐいの(俗流的な“唯物”論的史観!)と相岐れ、対象的活動としての「実践」の立場を生態学的な場面において定礎する。」36-7P
「マルクス・エンゲルスが「歴史」を観ずるにあたり、人間主体と自然的環境との生態学的な相互規定態を表象していたこと、このことまでは確かであり、これは銘記に値する。」37P
「われわれは、マルクス・エンゲルスが、世界に“内・存在”する“人間”の在り方をさしあたり生態学的な「対自然ならびに諸個人相互間の関係」の次元で押さえていること、そして、「生産関係」という唯物史観の基幹的カテゴリーもこの基礎場面に定位されていること、このことを対自化しうれば足る。」37P
「「生産」ということは、「人間(「ヒト」のルビ) −自然」の生態学的な動態的関連(『資本論』での表現を茲に藉りていえば「人間と自然との物質代謝(「シュトッフ・ヴェクセル」のルビ)」)の機軸であって、物質的生産の場という結節環における人間生態系的な編制関係、それが「生産関係」にほかならないのである。」37-8P
「かつてのマルクスは、「精神と自然との統一」=人間、という範式で観じ、かの二元的な対立性の統一を「人間」に求める構図を採っていたが、『ドイツ・イデオロギー』とそれ以降では、「人間と自然との統一性」の過程的現場を「産業」に看る。今や、主観性と客観性……等々の二元的対立性を実践的に止揚・統一する場が「産業」に定置される。」38P
3 「産業」に規定される用在的・生態学的自然
「人が、もし、産業の場における人間と自然との統一というさいの「自然」を、単なる物理的自然、ハイデッガー式にいえば、「物在」(Vorhandensein)としての自然物の相で受け取るならば、その場合には成程、地球表面の片々たる一部分しかカヴァーしないことになろう。だが自然は、第一次的にはハイデッガーの謂う「用在」(Zuhandensein)の相で現前する。例えば、太陽は、物理・化学的客体という以前に、四界を明るく照らし、草木を育くみ、身体を暖ためる……ものとして、月は夜道を照らす……ものとして、というように、第一次的自然は生の実践的関心に応ずる相で現前する。/マルクス・エンゲルスは、「物在」とか「用在」とかいう詞は勿論もちいていない。だが、彼らは、フォイエルバッハが「自然」を「科学流の観方」での自然、「物理学者や化学者の眼にしか開示されない」相での自然に即して――まさに「物在」の相で!――立てていることを厳しく批判している。」39P
「唯物史観の視座を確立したマルクス・エンゲルスは、このように、「自然」なるものをまずは「用在」の相で、剴切にいえば、人間生態系(これは動植物の生態系一般とは種差的に大いに異なっており、生産活動という積極的な要因によって編制構造が規定され、産業を編制機軸にしている)の内在的契機をなしている相で、従って、人間の営為によって「変様され」「歴史化された自然」の相で、観取しているのである。/人間と自然との産業の場における統一という言い方をすると、さながら、人間というものと自然というものとがまずあって、事後的に両者が結合されるのであるかのように響くが、生態系的な関係の第一次性こそが真諦である。自然は産業の場で歴史的・現実的・実践的に自然と媒介されてはじめて現に在る人間として存在しているのが実態である。」40P
「個々人なるものが自存して関係態に入り込むのではなく、個々人の定在(「ダー・ザイン」のルビ)も相在(「ゾー・ザイン」のルビ)も当の歴史的諸関係によって規定されているのであり、剴切には、定在・相在する個々人は当の諸関係の“結節”にほかならない。(関係の結節というと、人々はとかく、関係なるものを本質化して表象し、“結節”が個性なき均質粒子であるかのように思い做してしまう。だが、関係の結節は一つ一つユニークであり、まさに個性的である。人々が実存的な実体的個体に内属する個性として思念しているところのものは、決して個体それ自体に内在するものではなく、まさに関係的“結節”のユニークネスが実体的属性として“物性化”的に錯視されたものにすぎない。)」41P
『ドイツ・イデオロギー』からの引用を受けて「マルクス・エンゲルスは、「精神」「意識」を、内なる実体とか機能とかと観ずるのではなく、本源的に「関係」として了解している。しかも、人々の“対自然的かつ相互的な”対自化された関係として、剰え、今日風にいえば、「言語的交通を以ってその現実態」とするごとき「間主観性」においてのみ現成するものとして了解している。/唯物史観においては、人間はいわゆる精神的・意識的な契機をも含めて「歴史的世界」に内・存在する関係態として了解されているのである。/こうして、今や、本質としての人間のみならず、実存としての人間も、対自然的かつ相互的な生態系的・第一次的関係性に即して規定し返される。独自の歴史存在論とも相即するこの新しい人間存在論の地平において、「本質」主義的であれ「実存」主義的であれ、「人間」を実体的主体とする「人間主義」一般が端的に止揚され、革らしい世界観が展かれるに至った。」42-3P
この節のまとめ的文です。「人間主義の超克にもとづくこの新しい世界観は、存在論的に抽象化していえば、実体の第一次性というヨーロッパ伝統の存在観に代えて“関係の第一次性”という存在了解を押し出したものとfür unsに規定されうるにせよ、まずは「人間」存在をめぐる省察を介して「歴史」の場に定位されている。それは、われわれが本節を通じてみてきたように、生産の場を機軸にして編制されている生態学的な「対自然的・間(「かん」のルビ)人間的」関係態、この「歴史的世界」への内・存在に定位して人間存在を規定する。」43P
「マルクスは、われわれの見てきた通り、“実存主義の元祖”の一人たるシュティルナー批判を機縁にして、フォイエルバッハ流の「本質としての人間」主義と同時に、「実存主義」(「実存としての人間」主義)をもいちはやく超克するに至っていた次第なのである!――/省みるに、マルクス・エンゲルスはハイデッガーとは課題意識や問題関心を異にしており、マルクス・エンゲルスのそれはハイデッガーの「世界」「内存在」「交渉連関」とは位相と次元を異にし、はるかに具体的で且つアクチュアルではあるが、唯物史観の世界観的新地平が“歴史・内・存在”ともいうべき構え(Grundverfassung)に定位して展らかれているということ、このことまでは揚言することができよう。」44P
第三節 疎外論の止揚と物象化論
前節からのつなぎとして「われわれは前節において、マルクス・エンゲルスの人間の「本質」と「実存」をめぐる問題を介して「人間主義」を超克しつつ新しい境地を拓いたこと。――それは、存在論一般の次元で抽象化していえば、ヨーロッパに伝統的な「実体主義」的存在観から「関係主義」的存在観への転換への転換に通ずること――さしあたりこのことの一端を瞥見した」45P
(この節の問題設定)「今や一歩進めて、マルクス・エンゲルスが、「実体=主体」の自己外化と自己獲得という「疎外論」の構制を自己批判的に止揚する旋回と相即的に、近代哲学流の「主−客」図式の拠って立つ地平そのものを決定的に超克しつつ、社会・歴史理論の新しいパラダイムを提出するに至った経緯、このことを「物象化論」の定位を兼ねて追認しておく段取りである。」45P
[一]疎外・回復という図式の止揚
『聖家族』からの引用を押さえて、「マルクスは、このように一八四四年の晩秋頃には、本質的普遍者それ自体を自己運動の「実体=主体」とする構制の難点に気がついていた。」47P
「『ドイツ・イデオロギー』のマルクス・エンゲルスは、今や端的に、人類史を自己疎外と自己回復の過程として把える観方そのものを卻けるだけでなく、この構制のイデオロギッシュな錯認の由って来たるところをも批判的に剔抉(「てっけつ」のルビ)してみせる。」49P
「論者たちが、(a)という歴史的状態から(b)という歴史状態への変化を“社会科学的”に説明できるようになり、また、(b)から(c)への変化を“社会科学的な法則性”に即して説述できるようになると、――なるほど、そこでも、依然、(a)→(b)→(c)を疎外と回復という範式で“哲学者たちに判り易いように”標記することは一応可能だとしても、そこでは、もはや、自己疎外に因って(a)から(b)に成るとか、自己回復に因って(b)から(c)に成るとかいうような、“起動的な説明原理”としての意義が「疎外」「回復」という概念装置から失われるに至っており――。疎外・回復という概念装置は、もはや“起動的な説明原理”としては無用になる。ここでは、(a)から(b)への歴史的変化、および、(b)から(c)への歴史的変化が、諸個人の具体的な歴史的営為の“合成力”に即して説明されるのであり、疎外とか回復いうことが“起動的な説明概念”としては効(「はたら」のルビ)かない以上、説明原理はあくまで,諸個人の具体的な営為の“合成”に即して物象化される“社会科学的な法則性”に置かれる所以であって、よしんば(a)→(b)→(c)という歴史的変遷に疎外・回復の範式的構図を当て嵌めたとしても、ここでは、もはや疎外論が元来もっていた意義と機能が失われるに至っている次第である。」54P
「現状を“疎外態”(b)なりとして規定したところで、それは(a)の高次的回復としての“本来態”(c)の必然性を説く装置としては、元来、妥当性を欠くものにすぎなかったことが対自化される。/マルクスは、一八四五〜四六年の時点に、まさしくこのことを対自化するに至ったのであり、そのことが「物象化論」の確立とも交錯している次第なのである。」55P
[二]“小循行”過程の構制としての意義の吟味−物象化理論の構成
(この項の問題設定)「われわれは前項において、疎外論が人類史的な大循行の内在的説明原理としては妥当しえない所以を論定したのであったが、疎外論が個別的な社会的営為における“小循行”過程の構制として妥当性を有(「も」のルビ)たないかどうかには事実上ふれるところがなかった。本項では、この宿題の解消をも図りつつ、物象化論の構制にも漸次ふれて行こう。」55-6P
「唯物史観は、人類史なるものを抽象的に一括して観ずるのではなく、具象的な分節的編制に即して把握する。そこで、「社会的構成体」とか「生産関係」とか「単位的経済体」(ein ökonomisches Ganze)とかが措定され、このような編成態の共時的・通時的な構造や動態が“社会科学的”に論究される運びとなる。」56P
「ところで、いわゆる社会的現象を研究対象とする学知は、当の対象の存在性をめぐって、二極的な立場の分裂に悩まされがちである。それは、社会存在論的にいえば、社会唯名論(「ノミナリズム」のルビ)と社会実在論(「レアリズム」のルビ)との対立である。前者の立場では、実在するのは諸個人とその行動だけであって、社会という固有の実在が存在するわけではないとされ、後者の立場では、社会というものは諸個人とその行為の代数和には還元できない固有の存在性をもち、個々人はむしろ独立自存しえない分肢的存在にすぎないとされる。(前者が典型的に現われているのが近代の社会契約論であり、後者の典型が古代以来の社会有機体論である。が、両者は位相と次元を変えて、いわゆる方法論的個人主義といわゆる方法論的社会主義との対立となって今日にまで及んでいる)。マルクス・エンゲルスは、社会有機体説が復活していた思想史的局面のさなかで思想形成を遂げたこともあって、社会存在論をめぐるこの対立に関して、しかるべくして態度決定を迫られたのであった。」56-7P
「マルクス・エンゲルスが、ヘーゲル学徒として、社会実在論的見地から出発したことは言うまでもない。がしかし、彼らはいわゆるヘーゲル式の社会有機体観からは割合いと早く脱却した。それでは、彼らは社会唯名論の立場に移行したのか? 否である。後年の『経済学批判』序説からも知られるように、マルクスは「人間は文字通りの意味で社会的動物である。……社会のなかでだけ自己を個別化できる動物である」という了解の構えを崩していない。では、社会という固有の実体的存在が第一次的に実在するのか? 勿論、否である。彼マルクスに言わせれば、「社会は諸個人から成り立っているわけではない」が、「社会は諸個人の諸関連・諸関係の一総和」なのである。――我々は前節において“人間”(本書、欠落・誤植箇所。文庫版で確認)、つまり、社会唯名論者が実体視する諸個人が、「その本質においては社会的関係性の総体」として、関係の第一次性という存在了解のもとに把え返されたことを見ておいたが、右の引用が端的に示しているように、マルクスにおいては、社会実在論者が実体視する社会なるものの側もまた「諸関連・諸関係の一総和」として、関係の第一次性に即して把え返される。」56-7P
「唯物史観においては、こうして、一方の社会唯名論(「個人」主義)が自存的実体とみなす「個人」も、他方の社会実在論(「社会」主義)が自存的実体とみなす「社会」も、倶(「とも」のルビ)に、自存的な実体ではなくして、両つの次元における「諸関係の一総体」であると把え返し、この存在観にもとづいて、社会唯名論と社会実在論との二極的対立性を止揚する。/このさい、しかし、「諸関係」なるものが独立自存するわけでは無論ありえない。それは分肢的な諸個人を“項”とする諸関係なのであり、実在するのは諸個人を“項”とする関係態である。但し、当の諸関係は、当事諸個人の意識には彼ら自身の相互的諸関係としては意識されないのが普通であり、日常的意識においては、それはむしろ諸個人から独立自存する客体的な対象の相で、ないしは対象的属性や対象物どうしの関係の相で映現する。けだし、「社会」なるものの一全体が固有の実体であるかのように錯視されうる所以でもあるが、ここに、諸々の社会的形象(「ゲビルデ」のルビ)が対象的に自存視されることになる。しかも、これらの社会的形象は、外在性の相で認識されるという域を超えて、諸個人の営為に対して拘束性をもつ相で、諸個人の行動を実践的に規制しさえもする。」57-8P・・・「社会モデル」の押さえに使えるところ
「唯物史観の視座では、諸関係が当事主体の日常性にとって物象的に“自立化”するという一方の事実、および、この物象化された形象が、学知的反省によって把えられる真実態においては、あくまで関係態であるという他方の事実、これら両面を把捉することが要件である。――前者は「学理的見地からみれば錯認にすぎない」といっただけで済ませるわけにはいかない。というのも、当事主体たちは当の物象化的錯認の相に規制されつつ行動するのであり、社会的・歴史的な行為の現実的遂行、従って、歴史の歴史としての進展は、当事者たちの日常性における“物象化的錯認”を謂わば積極的な構造的契機としているからである。」58P
「諸関係の総和としての社会をつねに主体として表象していなければならないという言明は、しかし、つねに社会を主語にして論じなければならないという謂いではありえない。個々人を主語的当体として論ずる場合でも、それら個々人が窮局的な実体的主体なのではなく、賜与関係の結節として存在していること、真の主体的当体は関係態であること、このことを表象していなければならないという注意的言明と思われる。」59P
「個体の行動と呼ばれるものは、当の個体の絶対的に自律的・内発的な活動なのではなく、彼を“項”的結節とする諸関係(対自然的・間(「かん」のルビ)人間的諸関係)の“網”の動態が彼“結節環”において発現したものである。」60P
「実態においては、その個体的主体は自己完結的・自存的な起動的主体なのではなく、その個体に一定限の能動的主体性があるにしても、真の能作的主体は社会的関係態の一総体にほかならないことが省察される。」60P
「物象化論の構制はこの事の省察に立脚するものであって、それは疎外論が拠って立つ「主体−客体」図式を止揚し、いわゆる主体的なものの客体化ではなく、関係態の物象化であることを対自化する。但し、関係の物象化というのは、関係なるものが自己運動的に物象に転化する謂いではない。社会的に諸関係(これは単なる“主体的なもの”ではないこと、主−客図式に妥協した言い方をすれば、これはすでにして“主体的かつ客体的”な定在であることに留意されたい!) に内存在する個人の日常的意識にとって、彼を“一項”とする対自然的・間人間的な当の諸関係が、そのような如実の関係態としては覚識されず、物象の相で映現することの謂いである。(「物象化」そのことの定義については本書二六七頁参照)。」60-1P・・・疎外論が「主体−客体」図式から来ていることの押さえ
この項のまとめ的文「爰においては、いわゆる社会唯名論と社会実在論とが二極的な形態で自存的実体と錯認する「個人」も「社会」も倶に関係の第一次性に即して把え返されていることと相即的に、個人も社会も自己運動する起動的主体と認められない道理であって、“大循行”であれ、“小循行”であれ、原理的な次元では、実体的主体の自己疎外・自己獲得という論理構制、遡っては、疎外論の拠って立つ「主体−客体」図式そのものが、その真実態に即して対自的に止揚されるに至っている。」61P
[三]若干の予註的議論を挿み、次章への橋渡し
前項の整理「疎外論の物象化論による止揚ということは、物象化論が“物象化されざる状態・物象化された状態・物象化を克服した状態”の歴史的・段階的継起という主張を直截に含意するものと受取られてはならない。物象化論は、なるほど、或る種の物象化現象に関しては、それの未在・現成・解消を歴史的事実の問題として立言する。がしかし、物象化論は疎外論の歴史的三段階構図をそのまま踏襲するものではない。このことは本書[一]項において上述してところに鑑みればここであらためて絮言するには及ばないであろう。――物象化のあれこれの形態は特定の歴史段階に固有であるにしても、物象化という機制は歴史貫通的であり、そのことに俟って、単なる諸個人の営為の代数和には還元できない歴史としての歴史も成立しうるのである。」61-2P
(この項の問題設定)「われわれは、ここで、物象化論の構制とそれに即した歴史的法則性の存立機制についての主題的な討究へと立進む前に、通俗的な“物象化”論とマルクス的な「物象化」論との相異性を顕揚しつつ、遡っては、疎外論と物象化論との連続性・不連続性の問題など、若干の予註的議論を挿み、そのうえで、本稿に一応の区切りをつけ、旁々次“章”[本書、第U章「物象化論の構制と射程」]における主題的な討究への橋渡しを期したいと念う。」62P
「偖、「物化」(Verdinglichhung)とか「物象化」(Versachlichung)とかいう概念は、――今ここでは、シェリングのBe-dingungや初期ヘーゲルのdas-zum-Dinge-Machenといった用語法との概念史的な脈絡といった問題には一切立ち入らずに話を運びたいのだが――ルカーチによって顕揚されるまで、マルクス主義者たちのあいだでは忘失されてきた看があった。これらの用語は、むしろ、新カント学派のハインリッヒ・リッケルトやマックス・ウェーバー、それにまた、ゲオルグ・ジンメルやエルシスト・カッシーラーなどにおける用例を通じて、折々に眼を惹くようになっていた。」62P
「筆者としては、論者たちの固有の用語法に節介する存念は毛頭ないが、少なくとも、後期マルクスの物象化概念は初期マルクスの(ヘーゲル学派的なそれの大枠内にあった)疎外概念とは――概念形成史上の事実過程ではもちろん連続的な経緯がありはするが――、明確に区別さるべきものと了解しており、論者たちにおいて「疎外」と「物象化」とが大同小異とされる所以のものは、論者たちにおける(「疎外」概念がヘーゲル学派的な論理構制を殆んど慮外に措いている概もさることながら) “物象化”概念が依然として「主体−客体」図式の埓内で“主体的なものの客体的定在化”という構図で措定されているところにあると思う。」63P・・・ここのところ重要! 物象化論は、青年ヘーゲル派内論争と近代哲学の「主体−客体」図式の総括をかけた議論の中で生まれてきた概念です。エンゲルスがマルクス主義の第一解説者として「哲学の死」を宣言して、マルクス思想のヘーゲルへの先祖返り的踏み外しに入っていったのは、物象化論の意味を押さええなかったからではないでしょうか?
「惟うに、人々が“物化”ないし“物象化”ということを語るさい、――旧著においても誌したことであるが――普通に次のごとき三層が主として表象されているように見受けられる。/(1) 人間そのものの“物”化――たとえば、人間が奴隷(商品)として売買されるとか、単なる機械の付属品になってしまっているとかいうような状態。ここでは、人間(さしあたり他人)の在り方が「人格」としてではなく、事物と同類のものに映じ、事物と同様なものとして扱われる状態なっているという意味で「人間が物的なものになってしまっている」と看ぜられる。/(2) 人間の行動の“物”化――たとえば、駅の構内での人の流れや満員電車のなかでの人々の在り方など、群衆化された人々の動きが個々の成員の意思では左右できなくなっているような事態の謂いであり、これは或る理屈を経て、行動様式の習慣的な固定化にも通ずる。ここでは、本来人間の行動であるところのものが、個々の自分ではコントロールできない惰性態になっており、主体的意思行為に対して“自存的抵抗性”をもつようになっているという意味で「人間の行動が物的な存在になってしまっている」とされる。/ (3) 人間の力能の“物”化――たとえば、彫刻とか絵画とかいった芸術的作品や、俗流投下労働価値説的に考えられた商品価値など、ここでは、元来は人間主体に内在していた精神的・肉体的力能が、謂わば対外に流出して物的な外在的存在になって凝結するとでもいった意味あいで「人間の力能が物的存在になっている」と表象される。/これら“常識的な”物象化=物化の想念においては、主体(人間)と客体(事物)という二元的区分の図式が前提にあって、「主体的なものが物的なものに転化する」という発想で“物化”が表象されている。すなわち、(1)では、実体的主体たる人間存在が商品とか機会の附属物とかいった物的な存在に転化、(2)では、人間の主体的行動が惰性態という物的存在に転化、 (3)では、人間の主体的力能が物的に対象化され,物的な存在に転化しているという具合に考えられているわけであって、文字通りの現実的な転成ではないにしても、概念上は「主体的なもの」が「物的なもの」に「転化」していると把えられていると言えよう。」63-5P
「後期マルクスの謂う「物象化」は、主体的なものがストレートに物的な客体的存在へと転成するといった「主体−客体」図式に立脚した発想ではなく(もしやそうであるならば,成程、物象化とは「疎外の一形態」ということになろうが)、それはわれわれ流の言葉でいえば、「関係の第一次性」という存在了解に定位しつつ、フェア・エスとフェア・ウンスという構制に俟つ規定態である。」65P
「嚮の(1)(2)(3)との対比上、敢て卑俗な指摘から始めれば、マルクスの謂う物象化は人間と人間との間(「かん」のルビ)主体的な関係が“物の性質”であるかのように錯認されたり(例えば,貨幣のもつ購買力という“性質”)、人間と人間の間主体な社会的、関係が“物と物との関係”であるかのように倒錯視される現象(例えば、商品の価値関係や、多少趣きと次元を異にするが、「需要」と「供給」との関係で物価が決まるというような現象)などの謂いである。このさい、人間と人間との間主体的な関係といっても、それはもちろん、いわゆる対象的存在から引離された人間どうしだけの裸の関係ではなく、況んや、性的・反省的な認知関係ではなく、対象的活動における動力学的な関わり合いであり、機能的相互聯関であって、「対自然的かつ間人間的な動態的関係」である。」65-6P
「人々の間主体的な対象関与的活動の或る総体的な連関態が、当事者的日常意識には(そして、また、システム内在的な準位にとどまっているかぎりでの体制内的“学知”にとっても)、あたかも物どうしの関係ないしは物の性質ひいては物的対象性であるかのように映現するということ、このフェア・ウンスな事態、それがマルクスの謂う「物象化」なのである。」66P・・・マルクスの「物象化」の定義
「こうして、近代哲学流の構図内で表象された“主体的なものの物的な存在への転化”、つまり、いわゆる「疎外論」の構図と類同的な俗流的“物化”という想念そのものが、実は間主体的な対象関与的連関態の屈折した仮現に幻惑されたものとして、対自的・批判的に剔抉さるべきもの、そして、時に応じてはその物神性(「フェティシスムス」のルビ) の秘密を究明さるべき一与件たるにほかならない。マルクスは新しい存在観、革しい世界観の地平を拓きつつ、この“秘密”をも解明しうべき論理を構築したのであった。」67P
「蛇足たることを憚らずに記せば、筆者は、初期マルクスの「疎外論」と後期マルクスの「物象化論」とのその拠って立つ地平の準位を異にするものとして段階的に区別し、「疎外」という概念と「物象化」という概念とを峻別する者ではあるが、しかし、形成史的過程における両者の関連性を無視する者ではない。この論脈において、筆者は最初期の拙稿「マルクス主義と自己疎外論」(一九六三年発表――拙著『マルクス主義の成立過程』に収録)このかた初期マルクスの疎外論をも極めて高く評価してきた。『経哲手稿』にみられるごとき疎外論とそれに立脚した壮大な体系的意思の階梯を抜きにしては、後期の体系はおそらく、事実の問題として、成立しえなかったであろうと思われる。」67-8P・・・思想形成過程としては押さえる必要があるにせよ、パラダイム転換というところでは、まさに「蛇足」になっています。
「後期の物象化論へと推転しうる構図だけは、すでに『経哲手稿』においてもすでに存立した、ということもあながち不可能ではないのである。」68Pと廣松さんは書いていて、「形成史的にみれば、疎外論の地平から物象化論の地平への飛躍、これがまさしく唯物史観の視座の設定と相即する。――この唯物史観は、しかも、狭義のいわゆる“歴史”観ではないこと、それは、単にまた「同時に社会観でもある」といっただけでは尽くせないこと、それは、或る意味ではマルクス主義の世界観そのものであるということ、このことは本稿の頭初において先取(註)的に立言しておいた通りである。」69P・・・唯物史観と物象化論の関係の押さえ
『ドイツ・イデオロギー』におけるフォイエルバッハの自然観の論攷に関する文の引用を受けて、「この「歴史化された自然」、そして物象化的に「自然化された歴史」という思想は、これまた先に第一節で一瞥した『聖家族』の或る条りにおいて、「人間から切り離して形而上学的に改作された自然」ならびに「自然から切り離して形而上学的に改作された精神」を両面的に批判しつつ、これら両者の一方をそれぞれの原理とする一面的な立場を弁証法的に止揚する見地を標榜するという形で、萌芽が兆していた。それが今や『ドイツ・イデオロギー』においては、「対自然的かつ間(「かん」のルビ) 人間的な諸関係」の生態系的(「エコシステーム」のルビ) 編制の基軸を「生産」という実践の場に見据えつつ、実現への途に就く。」70P
「かかる視座に立つ以上――第二次的な下位分類としてならば話が別になるが――原理的な場面では、自然観と歴史観とはもはや両半球的に併立すべくもないのであって、「歴史化された自然」の一総体を射程に入れる唯史観が、世界観そのものと相覆う所以が納得されよう。」71P
「省みるに、近代哲学・近代諸科学、遡っては、近代的世界観は、いわゆるデカルト流の近代的パラダイムの地平の埓内にあって、諸々の二元的対立性のWechselspiel[隆替劇]に捲き込まれてきた。この近代的地平を超克しようとする試みが,或いは“ロマン主義的反動”という形で、或いは能動的実体の自己疎外的二極分裂の自己回復的再統一という構制に拠るヘーゲル主義的な企図という形で、十九世紀早々に開始されたのであったが、それの成就には程遠かった。しかるに、マルクス・エンゲルスは、近代的世界観のヒュポケイメノンをなす「人間」の本質的規定の把え返しを介して存在観プロパーの新地平を拓き、「歴史化された自然」「自然化された歴史」を依って以って成立せしめる所以の「対自然的かつ間人間的動態的関連態」の編制基軸たる「生産」関係に定位しつつ、新しい世界観、「自然史と社会史とを統合する単一的体系知(「ヴィセンシャフト」のルビ) 」のGrundverfassung(憲法)たる唯物史観を確立し、そのことに俟って、物質と精神、客観と主観、本質と実存、……自然と人間、……等々の二元的対立性の地平を超克する地歩を固めたのであった。」71P
「マルクス・エンゲルスの拓いた唯物史観の地平は、まさに、近代的世界観のそれを止揚する現代的世界観の新地平であって、われわれとしては、革らしいパラダイムを開示する劃時代的なAuffassung(見解)として「唯物史観」を宣揚する次第であるが、この唯物史観が「われわれにとっての自然」(Natur für uns)、「歴史化された自然」の存立構制、ならびにまた、社会的・歴史的・文化的諸形象、つまりは「自然化された歴史」の存立構制、これら統一的に把握しうる所以の構制、それこそかが「物象化論の構制」にほかならない。」71-2P
「われわれとしては、爰に、「唯物史観の宣揚」に具象性を保証しえんがためにも、ヘーゲル学派流の「疎外論」の内在的止揚を通じて確立された「物象化論の構制」を主題化し、それの「射程」をも眺望することを次の段取りとする。」72P
(註) この「取」には「あなかんむり」が付いています。『弁証法の論理』の目次でも出てきた漢字ですが、打ち込めません。指摘に止めます。
2024年08月02日
白井聡『未完のレーニン <力>の思想を読む』
たわしの読書メモ・・ブログ666
・白井聡『未完のレーニン <力>の思想を読む』講談社(講談社学術文庫)2021
白井聡さんの本二冊目。この本が最初単行本として出された2007年頃、わたしはまだレーニンをちゃんとした対話もなしに忌避していました。ですから、そのタイトルの本が出されたのは眼にしていましたが、読もうとしなかったのです。尤も、マルクスの流れの本としては、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義論』を最初に読み、そして当初から反差別論をやっていて、その関係で、民族自決権を巡るレーニンの論攷も読んでいました。
さて、ソ連邦の崩壊の後、マルクス葬送の流れが世界を覆っていくなかで、ロシア革命の評価、そしてマルクス・レーニン主義と言われること、それは結局レーニン主義の問題なのですが、そのことの対象化が必要になってきて、わたしもやっとレーニンにまともに向き合うことになります。その頃には、この本の存在を忘れていたのですが、最近、デモクラシータイムス他で白井さんを見るようになり、また、以前取り上げた白井さんの本(たわしの読書メモ・・ブログ662/・白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社(講談社現代新書) 2021)が出てそれを読む中で、この本の存在を思い出したのです。
さて、スターリン主義を批判するひとたちならば、その「一国社会主義建設路線」における国家論や組織論を批判することの中で、その国家論や組織論批判がレーニンにまで遡り、「レーニンがマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を読んでいず、その中で書かれている「国家=共同幻想」規定を知らなかった」というところから、レーニンの国家論は国家権力=官僚的・軍事的統治機構論一辺倒になっているという批判が出ています。わたしは、レーニンの対象化の中で、実はレーニンは確かに『ドイツ・イデオロギー』を読んでいないにしても、マルクスの書簡の中で国家=共同幻想規定が出ているのを読んでいて、しかもそれをメモ的に引用していることを知りました。だから、レーニンは知らなかったのではなく、自分の論形成の中で切り捨てたのです。
さて、この本のなかで、レーニンの国家論について論及しているのに、「国家=共同幻想」規定について何のコメントも出て来ません。そもそも、ロシア革命をマルクスの理論を現実の歴史の中で実現したレーニンという評価になっていて、ロシア革命の負の側面について何もふれていません。
そもそも、マルクスの思想の発展的現実的継承者というレーニンのとらえ方は間違っているとわたしは押さえています。マルクスは、「労働者の解放は労働者自身の事業である」と突き出しています。それをレーニンは、革命的インテリゲンチャが主導して労働者を外部注入的に突き動かす事業にしてしまったのです。確かに、少なくともレーニンが想定した革命の連動性が起きなかったという敗北の要因があったにせよ、マルクスが想定したプロ独ということさえ成立し得なかったのです。それは、「革命的」インテリゲンチャのボリシェヴィキ独裁=「共産党」独裁になってしまったのです。なぜ、マルクスがプロ独を想定したのかというと、プロレタリアートが権力をにぎることによって、階級が消滅していくという構図を描いたからですが、プチブルが権力を握ったのでは、階級は消滅せず、国家の死滅へは向かわず、国家独占資本主義になってしまいます。そして、後に「ノーメンクラトゥーラ」(註)と呼ばれる官僚制支配にすり替わって行きます。これはマルクスの唯物史観からする革命の主体の押さえからすると、そもそもレーニンの革命論は主意主義的なのです。レーニンは、革命の防衛のために過渡的に新経済政策としての国家資本主義を容認しましたが、それをスターリンは「一国社会主義建設路線」にしてしまいました。結局ロシア革命は、国家資本主義を生み出しただけになったのです。今日、現在の中国共産党も含めて、マルクスの唯物史観を踏み外す、経済は資本主義、政治は社会主義を自称するという国家資本主義体制に陥っています
もうひとつ、マルクスには「出来合いの国家機構を使うことはできない」というテーゼがありました。それをレーニンは秘密警察を作ることによって踏み外しています。そもそも、レーニンの組織論、運動論は、中央集権制であり、他党派解体戦略を持っていました。そもそもロシアの革命はソヴィエトという形で労農独裁を突き出しましたが、結局農民を代表する党との関係をきちんと作り得ませんでした。最初から、利用するけれど後には切り捨てるという戦略だったのです。民族(自決権)問題においても然りです。その理論自体が、何よりも革命の実現・防衛を優先的に立てることによって、お題目にすぎないことに成ってしまっています。後に、レーニンがスターリンの民族問題に対する対応で、原則を踏み外していると批判し、死の間際にスターリン排除を企みますが、スターリンからするとレーニンの中央集権制に基づく現実主義を自分が遂行しているという意識性しかなかったのです。スターリンは、マルクス・レーニン主義という形で、思想をドグマ化し、文献の改竄までやり歴史修正主義の途に突き進みましたが、そもそもはレーニンのマルクス思想からの踏み外しに端を発しているのです。そもそも、マルクスの思想自体の検証も必要になっているのだと想います。今日、マルクス・エンゲルス全集の編集作業という形で、マルクスのとらえ返しが進んでいます。そこから、教条化した「マルクス主義」自体を止揚する中で、マルクスの思想をとらえ返す作業も進んでいくことなのだと想います。
さて、この本の中で、宗教的観点から、レーニンの思想やマルクスの思想をとらえ返す作業をしているのですが、そもそも、マルクス/エンゲルスが青年ヘーゲル派から宗教批判をも含んで離脱していった経過を白井さんはどうとらえるのでしょうか? そもそもマルクスをくぐったひとたちが、「マルクス主義は宗教だ」とか言って転向していく事態をとらえるとき、宗教的観点から、レーニンやマルクスの思想をとらえ返そうという試み自体がわたしには理解しがたいことです。そもそも、これはマルクスの思想のもうひとつの押さえからする、物象化批判という観点が白井さんには出てこないということがあります。宗教とは自然の不可解さ・不可思議さの物象化としての神の存立というところからする、最大の物象化、文字通り物神化(物象化の絶対化)なのです。
もうひとつの物象化の問題があります。それは白井さんが、レーニンの<力>の思想をフロイトとリンクさせて読み解こうとしていることです。フロイトのエディプスコンプレックスなりリピドーなり、エスとかいう押さえは、マルクスが「社会的関係を自然的関係と読み違える」と指摘した、まさに物象化なのではないのでしょうか? それは家父長制という社会的関係から規定されて出て来る人間の抑圧とその下での欲望を、ヒトという種のもつ性的欲動とすり替えることなのではないか、それこそ物象化なのではないかと、わたしには思えるのです。そもそも哺乳類やヒトに近い類人猿に、母親を性的対象にするために雄による子殺しが起きるという事例は出されていますが、エディプスコンプレックスとかあるのでしょうか? わたしフロイトは早々に棄てたので、どうしても分からないのです。
なぜか、白井さんには物象化という話・概念が全く出てこないのです。
さて、国家論を語るときに必要な「国家=共同幻想」論が出てこないだけでなく、そもそも、資本(企業)と労働者の関係が出て来ません。何も、支配は国家による力による支配だけでなく、利益誘導という形の圧力や、被支配者側の自己選択による支配の構造への組み込まれがあります。連合の労使協調路線や、マルクス葬送の流れの中で学者のひとたちが、マルクスの踏み絵を踏んで、教員・研究職を得ていくということも出ています。そもそも文系と言われる教員自体の職がなくなっていく、非常勤になっていく構図があります。森永卓郎さんというマクロ経済学を自称する学者が、昔は経済学に近経とマル経という二大潮流があったのに、マル経は消えてしまったとテレビで語っています。そもそも、マルクスを語るものはテレビから消えてしまったのです。そのことを最も感じているのは、白井さん自身ではないかとも想っています。
さて、そもそもこの本にはレーニン批判が何も書かれていないのですが、マルクス思想の流れでのレーニン批判の議論を書いておきます。社会主義革命ということを棄てたひとたちからのレーニン批判はさて置きますが、一応革命という意志を持ち続けた同時代のひとで、レーニンを批判した主要なひとでトロツキーとローザ・ルクセンブルクが有名です。トロツキーはレーニンの外部注入論や中央集権制を批判していました。で、ボリシェヴィキには入らず、メンシェビキで動きつつ、メンシェビキの革命の意志の稀薄さというところで離れて独自のグループを形成していたのですが、レーニンが1917年2月革命を受けて、ロシアに戻ってきた直後に出した4月テーゼが、トロツキー自身の主張と共鳴していたので、レーニンに接近していきます。そして、共同歩調をとっていき、レーニンが「トロツキーがいなかったら、ロシア革命は起こせなかった」と評価する共同行動でした。このあたりは、わたしはレーニンの組織論批判をしていたトロツキーが何故レーニンに合流したのかは、ロシアの専制支配と後発性の資本主義の形成の中で、ロシアで、今革命を起こすには、レーニンの路線で行くしかないと思ったのだとわたしは押さえています。アメリカの社会主義的ジャーナリストのジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』の中で、リードがレーニンにインタビューしてレーニンが「民主主義的な方法でやっていたのでは革命を起こすに100年かかってしまう」と答えたという記述があります。確か、トロツキーも、『ロシア革命史』でそのことを書いていたと記憶しているのですが、トロツキーには、レーニンのボリシェヴィキズムにどこまで共鳴し得ていたのか、違和がのこっていたのではないかとわたしは押さえています。だからこそ、レーニンがスターリン排除でトロツキーを動かそうとしたのに、トロツキーは遅れをとり、スターリンとの党内闘争に敗北していく結果を生み出します。
さて、もう一人のローザ・ルクセンブルク、彼女はマルクスの「労働者階級の解放の事業は労働者自身の事業である」という規定に忠実な、まさにマルクスの思想の継承者で、レーニンの組織論はマルクスの思想の踏み外しとローザは押さえ、わたしも共鳴しています。ただ、現実的にどうするのかというところで、そして「組織論」的に充分に押さきれていませんでした。それはマルクスも同じで、それを実践的に示した一つがレーニンでした。
さて、ローザの「自然発生性の依拠」とそれへの批判としてのレーニンの「自然発生性への拝跪」批判の論争があります。それは原則主義と現実主義の弁証法とも言いえることになっています。レーニンのローザは「ロシア革命論」などでレーニン批判していたのを自己批判したという言があるのですが、真偽はよく分からないのですが、文献などを当たっていくと、ローザが自分の周辺のひとがロシア革命批判しているのに対し、死の直前にドイツ革命の敗北的情況を予期し、ロシア革命の一応の勝利とドイツの敗北という対比の中で、ロシア革命への批判を控えるという心境になっていたのだとわたしは押さえています。そもそも、ローザはかなり長い拘留生活の中で体調を崩し、いきなり、ロシア革命の余波を受けたドイツでの武装蜂起的な周りの意識性・動向に接し、余りきちんと情況を押さえられない中でもそこで勝利し得る情況ではないことを感じつつも、それを抑えきれず、そんななかでの、ロシア革命評価への逡巡が起きていたのでないかと推測しています。そんな中で、ローザは命を絶たれ、それ以降のとらえ返しの作業も出来なくなったのですが、ローザのロシア革命への危惧はまさに的中していきます。そして、今だから言えるという話になってしまうのですが、「100年かかる」と言った百年後からとらえると、ロシア革命は社会主義革命として定立しえないどころか、プロ独もなしえなかった、国家独占資本主義の体制が、名目はだけは社会主義の防衛ということで、言論統制を行い、まさに労働者への搾取も含んだ全体主義国家になってしまっていた、それが今日のプーチンファシズムと言われるような情況にまで影を落としているということで、今日「ロシア革命」の歴史は、今後の共産主義―社会主義的な社会変革を目指す運動への桎梏以外の何ものでもないことになってしまっています。それを反転させるには、ロシア革命のとらえ返しが必要になっているのだとわたしは押さえています。
さて、今日、マルクスの思想を受け継ぐグループが継続している限りで、スターリン主義批判をきちんとなしえていないグループも含めて、マルクス・レーニン主義というスターリン主義を総括できない、それがよって立つレーニン主義にとらわれているのだと、マルクス・レーニン主義と今日言われていることの止揚が必要なのだとわたしは押さえています。
今日的ポストコロニアリズムの中で、グロバーゼーションが行き渡った時代に、ロシアの専制支配、「帝国主義」的時代の暴力支配の情況下で、武装蜂起――国家権力の奪取――プロ独という路線がマルクス、ローザも含めて出されていたという流れと時代的な変化とそれでも、なおかつ、戦争やファシズム的なことがなくせない中で、どう新しい時代の革命への途を出していけるのかの問題があります。言えるのはローザの出していた、継続的本源的蓄積論を押さえたところで、革命の主体がプロレタリアートということではなく、そのことを含んで、ネグリ/ハートが出したマルチチュード概念や、グラムシやG.C. スピヴァクからくるサヴァルタンという概念と繋がる、総ての被差別者による運動と革命ということになるのだろうと押さえています。
今日、マルクスをくぐったひとたちの多くが、マルクス葬送の流れの中でマルクスの「踏み絵」を踏んでいく情況があります。ですが、サルトルやデリダの「マルクスの思想は現代社会で乗り越え不可能な思想」という提言があるように、マルクスを押さえないと情況分析もきちなしえなくなっていく学の崩壊情況の中で、マルクスの思想に依拠して、論考をなさんとするこの著者の姿勢は稀有な存在で、わたしも期待を寄せていて、そしてそのマルクスの思想のとらえ返しの作業の軸にレーニンの思想のとらえかえしがあるということを押さえてのこのレーニン論、極めて貴重な資料になっています。そこでのわたしサイドの提起もなしえました。対話を進めるなかで、更なる深化をと願っています。
さて、ちゃんと切り抜きメモを残すところ、再読してもう少し対話の深化を図りたいとの思いの中で、とりあえず項目だけ備忘録的に残して置きます。
「ラディカル」17P
「純粋資本主義」18P
革命の連続性と断続性29P
「現実主義」と「夢想家」30P
「自然発生性の影響に屈した結果」と「「客観性の中においてある」ということ65P
「革命の必然性」と「意図性」の弁証法67P・・・拝跪と依拠の弁証法
「革命の必然性から現実性へ」という「コペルニクス的転回」69P?
労働者として参加するのではなく、革命的意識性をもった革命的インテリゲンチャとして参加する86P・・・という踏み外し、プロ独の否定
レーニンとフロイトの共通性とは偶像崇拝の禁止105P
「神経症」とリピドーと昇華106-7P
保守主義者としてのフロイト110P
ペシミストのフロイトとオプティミストのレーニン117P
二つの不安、「優位に立つ他者」への不安とエス・超自我への不安125P
マルクス主義の一神教化133P
トラウマの起源を労働力の商品化134P物象化論なき心理主義
マルクス主義の一神教への練り上げ136P・・・?ヘーゲルへの舞い戻り
異様なテキスト140P
革命の現実性というところで一元論的にとらえ返す141P
共同幻想論の欠落した暴力装置としての国家の支配160P
武装した力による支配164P
出来合いの国家機構を使えない168P
自然発生性への拝跪批判187P
労働者の団結の困難性189P
労働力商品という財産190P・・・?
悪しき仮象――国家権力による資本家の支配への依拠195P
労農ソヴィエトが縊死されていたのは、軍事的官僚的統治機構が存在しているところにおいて196P――新たな統治機構が存在してきた
「特殊な力」から「普遍的力」への転化206P
徹頭徹尾一元論的208P
言葉がモノとしてあらわれる233P
グラムシのマルクス・レーニン主義への収束254P
内部矛盾への遡行から外部へ274P
レーニンは異端ではなく、正統派の冒険278P・・・?論破により潰す
未来の現在への侵入285P――国分
記述することによる明らかになる現実 働きかけるテキスト286P――国分
アナーキストは具体的中身での批判
(註)
ノーメンクラトゥーラ(ロシア語: номенклату?ра)とは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉[1]。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級・特権的な党幹部や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた[2]。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」[3]とも呼ばれる。ノーメンクラツーラとも表記される[2]。(「ウィキペディア」から)
・白井聡『未完のレーニン <力>の思想を読む』講談社(講談社学術文庫)2021
白井聡さんの本二冊目。この本が最初単行本として出された2007年頃、わたしはまだレーニンをちゃんとした対話もなしに忌避していました。ですから、そのタイトルの本が出されたのは眼にしていましたが、読もうとしなかったのです。尤も、マルクスの流れの本としては、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義論』を最初に読み、そして当初から反差別論をやっていて、その関係で、民族自決権を巡るレーニンの論攷も読んでいました。
さて、ソ連邦の崩壊の後、マルクス葬送の流れが世界を覆っていくなかで、ロシア革命の評価、そしてマルクス・レーニン主義と言われること、それは結局レーニン主義の問題なのですが、そのことの対象化が必要になってきて、わたしもやっとレーニンにまともに向き合うことになります。その頃には、この本の存在を忘れていたのですが、最近、デモクラシータイムス他で白井さんを見るようになり、また、以前取り上げた白井さんの本(たわしの読書メモ・・ブログ662/・白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社(講談社現代新書) 2021)が出てそれを読む中で、この本の存在を思い出したのです。
さて、スターリン主義を批判するひとたちならば、その「一国社会主義建設路線」における国家論や組織論を批判することの中で、その国家論や組織論批判がレーニンにまで遡り、「レーニンがマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を読んでいず、その中で書かれている「国家=共同幻想」規定を知らなかった」というところから、レーニンの国家論は国家権力=官僚的・軍事的統治機構論一辺倒になっているという批判が出ています。わたしは、レーニンの対象化の中で、実はレーニンは確かに『ドイツ・イデオロギー』を読んでいないにしても、マルクスの書簡の中で国家=共同幻想規定が出ているのを読んでいて、しかもそれをメモ的に引用していることを知りました。だから、レーニンは知らなかったのではなく、自分の論形成の中で切り捨てたのです。
さて、この本のなかで、レーニンの国家論について論及しているのに、「国家=共同幻想」規定について何のコメントも出て来ません。そもそも、ロシア革命をマルクスの理論を現実の歴史の中で実現したレーニンという評価になっていて、ロシア革命の負の側面について何もふれていません。
そもそも、マルクスの思想の発展的現実的継承者というレーニンのとらえ方は間違っているとわたしは押さえています。マルクスは、「労働者の解放は労働者自身の事業である」と突き出しています。それをレーニンは、革命的インテリゲンチャが主導して労働者を外部注入的に突き動かす事業にしてしまったのです。確かに、少なくともレーニンが想定した革命の連動性が起きなかったという敗北の要因があったにせよ、マルクスが想定したプロ独ということさえ成立し得なかったのです。それは、「革命的」インテリゲンチャのボリシェヴィキ独裁=「共産党」独裁になってしまったのです。なぜ、マルクスがプロ独を想定したのかというと、プロレタリアートが権力をにぎることによって、階級が消滅していくという構図を描いたからですが、プチブルが権力を握ったのでは、階級は消滅せず、国家の死滅へは向かわず、国家独占資本主義になってしまいます。そして、後に「ノーメンクラトゥーラ」(註)と呼ばれる官僚制支配にすり替わって行きます。これはマルクスの唯物史観からする革命の主体の押さえからすると、そもそもレーニンの革命論は主意主義的なのです。レーニンは、革命の防衛のために過渡的に新経済政策としての国家資本主義を容認しましたが、それをスターリンは「一国社会主義建設路線」にしてしまいました。結局ロシア革命は、国家資本主義を生み出しただけになったのです。今日、現在の中国共産党も含めて、マルクスの唯物史観を踏み外す、経済は資本主義、政治は社会主義を自称するという国家資本主義体制に陥っています
もうひとつ、マルクスには「出来合いの国家機構を使うことはできない」というテーゼがありました。それをレーニンは秘密警察を作ることによって踏み外しています。そもそも、レーニンの組織論、運動論は、中央集権制であり、他党派解体戦略を持っていました。そもそもロシアの革命はソヴィエトという形で労農独裁を突き出しましたが、結局農民を代表する党との関係をきちんと作り得ませんでした。最初から、利用するけれど後には切り捨てるという戦略だったのです。民族(自決権)問題においても然りです。その理論自体が、何よりも革命の実現・防衛を優先的に立てることによって、お題目にすぎないことに成ってしまっています。後に、レーニンがスターリンの民族問題に対する対応で、原則を踏み外していると批判し、死の間際にスターリン排除を企みますが、スターリンからするとレーニンの中央集権制に基づく現実主義を自分が遂行しているという意識性しかなかったのです。スターリンは、マルクス・レーニン主義という形で、思想をドグマ化し、文献の改竄までやり歴史修正主義の途に突き進みましたが、そもそもはレーニンのマルクス思想からの踏み外しに端を発しているのです。そもそも、マルクスの思想自体の検証も必要になっているのだと想います。今日、マルクス・エンゲルス全集の編集作業という形で、マルクスのとらえ返しが進んでいます。そこから、教条化した「マルクス主義」自体を止揚する中で、マルクスの思想をとらえ返す作業も進んでいくことなのだと想います。
さて、この本の中で、宗教的観点から、レーニンの思想やマルクスの思想をとらえ返す作業をしているのですが、そもそも、マルクス/エンゲルスが青年ヘーゲル派から宗教批判をも含んで離脱していった経過を白井さんはどうとらえるのでしょうか? そもそもマルクスをくぐったひとたちが、「マルクス主義は宗教だ」とか言って転向していく事態をとらえるとき、宗教的観点から、レーニンやマルクスの思想をとらえ返そうという試み自体がわたしには理解しがたいことです。そもそも、これはマルクスの思想のもうひとつの押さえからする、物象化批判という観点が白井さんには出てこないということがあります。宗教とは自然の不可解さ・不可思議さの物象化としての神の存立というところからする、最大の物象化、文字通り物神化(物象化の絶対化)なのです。
もうひとつの物象化の問題があります。それは白井さんが、レーニンの<力>の思想をフロイトとリンクさせて読み解こうとしていることです。フロイトのエディプスコンプレックスなりリピドーなり、エスとかいう押さえは、マルクスが「社会的関係を自然的関係と読み違える」と指摘した、まさに物象化なのではないのでしょうか? それは家父長制という社会的関係から規定されて出て来る人間の抑圧とその下での欲望を、ヒトという種のもつ性的欲動とすり替えることなのではないか、それこそ物象化なのではないかと、わたしには思えるのです。そもそも哺乳類やヒトに近い類人猿に、母親を性的対象にするために雄による子殺しが起きるという事例は出されていますが、エディプスコンプレックスとかあるのでしょうか? わたしフロイトは早々に棄てたので、どうしても分からないのです。
なぜか、白井さんには物象化という話・概念が全く出てこないのです。
さて、国家論を語るときに必要な「国家=共同幻想」論が出てこないだけでなく、そもそも、資本(企業)と労働者の関係が出て来ません。何も、支配は国家による力による支配だけでなく、利益誘導という形の圧力や、被支配者側の自己選択による支配の構造への組み込まれがあります。連合の労使協調路線や、マルクス葬送の流れの中で学者のひとたちが、マルクスの踏み絵を踏んで、教員・研究職を得ていくということも出ています。そもそも文系と言われる教員自体の職がなくなっていく、非常勤になっていく構図があります。森永卓郎さんというマクロ経済学を自称する学者が、昔は経済学に近経とマル経という二大潮流があったのに、マル経は消えてしまったとテレビで語っています。そもそも、マルクスを語るものはテレビから消えてしまったのです。そのことを最も感じているのは、白井さん自身ではないかとも想っています。
さて、そもそもこの本にはレーニン批判が何も書かれていないのですが、マルクス思想の流れでのレーニン批判の議論を書いておきます。社会主義革命ということを棄てたひとたちからのレーニン批判はさて置きますが、一応革命という意志を持ち続けた同時代のひとで、レーニンを批判した主要なひとでトロツキーとローザ・ルクセンブルクが有名です。トロツキーはレーニンの外部注入論や中央集権制を批判していました。で、ボリシェヴィキには入らず、メンシェビキで動きつつ、メンシェビキの革命の意志の稀薄さというところで離れて独自のグループを形成していたのですが、レーニンが1917年2月革命を受けて、ロシアに戻ってきた直後に出した4月テーゼが、トロツキー自身の主張と共鳴していたので、レーニンに接近していきます。そして、共同歩調をとっていき、レーニンが「トロツキーがいなかったら、ロシア革命は起こせなかった」と評価する共同行動でした。このあたりは、わたしはレーニンの組織論批判をしていたトロツキーが何故レーニンに合流したのかは、ロシアの専制支配と後発性の資本主義の形成の中で、ロシアで、今革命を起こすには、レーニンの路線で行くしかないと思ったのだとわたしは押さえています。アメリカの社会主義的ジャーナリストのジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』の中で、リードがレーニンにインタビューしてレーニンが「民主主義的な方法でやっていたのでは革命を起こすに100年かかってしまう」と答えたという記述があります。確か、トロツキーも、『ロシア革命史』でそのことを書いていたと記憶しているのですが、トロツキーには、レーニンのボリシェヴィキズムにどこまで共鳴し得ていたのか、違和がのこっていたのではないかとわたしは押さえています。だからこそ、レーニンがスターリン排除でトロツキーを動かそうとしたのに、トロツキーは遅れをとり、スターリンとの党内闘争に敗北していく結果を生み出します。
さて、もう一人のローザ・ルクセンブルク、彼女はマルクスの「労働者階級の解放の事業は労働者自身の事業である」という規定に忠実な、まさにマルクスの思想の継承者で、レーニンの組織論はマルクスの思想の踏み外しとローザは押さえ、わたしも共鳴しています。ただ、現実的にどうするのかというところで、そして「組織論」的に充分に押さきれていませんでした。それはマルクスも同じで、それを実践的に示した一つがレーニンでした。
さて、ローザの「自然発生性の依拠」とそれへの批判としてのレーニンの「自然発生性への拝跪」批判の論争があります。それは原則主義と現実主義の弁証法とも言いえることになっています。レーニンのローザは「ロシア革命論」などでレーニン批判していたのを自己批判したという言があるのですが、真偽はよく分からないのですが、文献などを当たっていくと、ローザが自分の周辺のひとがロシア革命批判しているのに対し、死の直前にドイツ革命の敗北的情況を予期し、ロシア革命の一応の勝利とドイツの敗北という対比の中で、ロシア革命への批判を控えるという心境になっていたのだとわたしは押さえています。そもそも、ローザはかなり長い拘留生活の中で体調を崩し、いきなり、ロシア革命の余波を受けたドイツでの武装蜂起的な周りの意識性・動向に接し、余りきちんと情況を押さえられない中でもそこで勝利し得る情況ではないことを感じつつも、それを抑えきれず、そんななかでの、ロシア革命評価への逡巡が起きていたのでないかと推測しています。そんな中で、ローザは命を絶たれ、それ以降のとらえ返しの作業も出来なくなったのですが、ローザのロシア革命への危惧はまさに的中していきます。そして、今だから言えるという話になってしまうのですが、「100年かかる」と言った百年後からとらえると、ロシア革命は社会主義革命として定立しえないどころか、プロ独もなしえなかった、国家独占資本主義の体制が、名目はだけは社会主義の防衛ということで、言論統制を行い、まさに労働者への搾取も含んだ全体主義国家になってしまっていた、それが今日のプーチンファシズムと言われるような情況にまで影を落としているということで、今日「ロシア革命」の歴史は、今後の共産主義―社会主義的な社会変革を目指す運動への桎梏以外の何ものでもないことになってしまっています。それを反転させるには、ロシア革命のとらえ返しが必要になっているのだとわたしは押さえています。
さて、今日、マルクスの思想を受け継ぐグループが継続している限りで、スターリン主義批判をきちんとなしえていないグループも含めて、マルクス・レーニン主義というスターリン主義を総括できない、それがよって立つレーニン主義にとらわれているのだと、マルクス・レーニン主義と今日言われていることの止揚が必要なのだとわたしは押さえています。
今日的ポストコロニアリズムの中で、グロバーゼーションが行き渡った時代に、ロシアの専制支配、「帝国主義」的時代の暴力支配の情況下で、武装蜂起――国家権力の奪取――プロ独という路線がマルクス、ローザも含めて出されていたという流れと時代的な変化とそれでも、なおかつ、戦争やファシズム的なことがなくせない中で、どう新しい時代の革命への途を出していけるのかの問題があります。言えるのはローザの出していた、継続的本源的蓄積論を押さえたところで、革命の主体がプロレタリアートということではなく、そのことを含んで、ネグリ/ハートが出したマルチチュード概念や、グラムシやG.C. スピヴァクからくるサヴァルタンという概念と繋がる、総ての被差別者による運動と革命ということになるのだろうと押さえています。
今日、マルクスをくぐったひとたちの多くが、マルクス葬送の流れの中でマルクスの「踏み絵」を踏んでいく情況があります。ですが、サルトルやデリダの「マルクスの思想は現代社会で乗り越え不可能な思想」という提言があるように、マルクスを押さえないと情況分析もきちなしえなくなっていく学の崩壊情況の中で、マルクスの思想に依拠して、論考をなさんとするこの著者の姿勢は稀有な存在で、わたしも期待を寄せていて、そしてそのマルクスの思想のとらえ返しの作業の軸にレーニンの思想のとらえかえしがあるということを押さえてのこのレーニン論、極めて貴重な資料になっています。そこでのわたしサイドの提起もなしえました。対話を進めるなかで、更なる深化をと願っています。
さて、ちゃんと切り抜きメモを残すところ、再読してもう少し対話の深化を図りたいとの思いの中で、とりあえず項目だけ備忘録的に残して置きます。
「ラディカル」17P
「純粋資本主義」18P
革命の連続性と断続性29P
「現実主義」と「夢想家」30P
「自然発生性の影響に屈した結果」と「「客観性の中においてある」ということ65P
「革命の必然性」と「意図性」の弁証法67P・・・拝跪と依拠の弁証法
「革命の必然性から現実性へ」という「コペルニクス的転回」69P?
労働者として参加するのではなく、革命的意識性をもった革命的インテリゲンチャとして参加する86P・・・という踏み外し、プロ独の否定
レーニンとフロイトの共通性とは偶像崇拝の禁止105P
「神経症」とリピドーと昇華106-7P
保守主義者としてのフロイト110P
ペシミストのフロイトとオプティミストのレーニン117P
二つの不安、「優位に立つ他者」への不安とエス・超自我への不安125P
マルクス主義の一神教化133P
トラウマの起源を労働力の商品化134P物象化論なき心理主義
マルクス主義の一神教への練り上げ136P・・・?ヘーゲルへの舞い戻り
異様なテキスト140P
革命の現実性というところで一元論的にとらえ返す141P
共同幻想論の欠落した暴力装置としての国家の支配160P
武装した力による支配164P
出来合いの国家機構を使えない168P
自然発生性への拝跪批判187P
労働者の団結の困難性189P
労働力商品という財産190P・・・?
悪しき仮象――国家権力による資本家の支配への依拠195P
労農ソヴィエトが縊死されていたのは、軍事的官僚的統治機構が存在しているところにおいて196P――新たな統治機構が存在してきた
「特殊な力」から「普遍的力」への転化206P
徹頭徹尾一元論的208P
言葉がモノとしてあらわれる233P
グラムシのマルクス・レーニン主義への収束254P
内部矛盾への遡行から外部へ274P
レーニンは異端ではなく、正統派の冒険278P・・・?論破により潰す
未来の現在への侵入285P――国分
記述することによる明らかになる現実 働きかけるテキスト286P――国分
アナーキストは具体的中身での批判
(註)
ノーメンクラトゥーラ(ロシア語: номенклату?ра)とは、ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉[1]。また転じて、共産党単独支配国家におけるエリート層・支配階級・特権的な党幹部や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた[2]。後者の場合は「赤い貴族」、「ダーチャ族」[3]とも呼ばれる。ノーメンクラツーラとも表記される[2]。(「ウィキペディア」から)
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(9)
たわしの読書メモ・・ブログ665[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(9)
「解説」 高橋洋児(『廣松渉著作集 第二巻「弁証法の論理」』岩波書店1996所載)
T(『弁証法の論理』)
この『著作集第二巻』の解説は二人で担当しています。『弁証法の論理』は、高橋洋児さん担当です(わたしの次の[廣松ノート(6)]は『物象化論の構図』で、その『著作集』の「解説」も高橋さんが担当しているようです)。この解説の中で、廣松さんとマルクスの関係について解説していて、廣松さんが「マルクス護教」と批判されている旨を解説しています。「継承的展開に徹している」という主旨の批判ですが、高橋さんは、高橋さんと廣松さんの関係で謂えば「批判的継承」ということなのだと思います。尤も、廣松さんはマルクスをかなりはみ出しているので、「継承的展開に徹している」と言い切れるのか、わたしは疑問に思っています。
さて、早速切り抜きメモに入り、その中でその「解説」と対話していきます。わたしの対話はいつものように斜文字です。なお、著者が挙げている頁数は『著作集』の頁数です。
一 弁証法の刷新を目指して
「廣松哲学にとって弁証法は、学理展開の真理性を担保するための「体系構成法」としてのみならず、その内実において四肢構造論や物象化論としても不可分一体の連関にあるというほどに枢要な一大論目をなしている。もとより廣松の弁証法論議はこの『弁証法の論理』一作で自己完結しているわけではない。物象化論その他の論目についても言い得ることだが、関連した論及が他の諸著作にもリゾーム状に広がる形で多々行われている。そうした論及が同じ言述内容の繰り返しであることもあるとはいえ、他の角度から、ないしは少なくとも別の言い回しでアプローチされている場合も多いので、個々の論目の全体像を十全に把握するためには、やはりそれらをも通覧して相互に関連づけることが必要である。このことは読者にも多かれ少なかれ労苦と難儀を強いずにはおかないが、諸論及間の突き合わせ行うことによって理解がいっそう深まることは言うまでもない。著者による「○○を参看願いたい」というたぐいの参照指示を一つの手がかりに、読者みずからが自家用の相互参照表を作成してみられるのも、そのための一具となろう。/論及がリゾーム状の広がりをもつのは、著作Aで主題的に取り扱われた論目に関して取り扱いきれなかった残余部分が著作BなりCなりで拾遺・補全されているという関連にあるから、ではない。むしろそれは、弁証法や物象化論や四肢構造論などなどの諸論目が相互に浸透し食い込み合いつつ、「有機的連関」をなして一全体を形作っているという、廣松哲学の入り組んだ構造そのものから来ることである。」523-4P・・・「リゾーム状」という概念は、ドゥルーズ/ガタリから来ている概念の様です。構造主義やポスト構造主義(当人たちはそう規定されることをむしろ否定しているのですが)との対話は「本質主義」「二項対立図式」批判や「ディファランス」概念、「脱構築」概念など使えることが多く、この概念も、「差別の構造のとらえ返し」ということで使えるのではと想ったりしています。ここで、解説者が提起している「表を作る」学習法も、極めて参考になります。ただ、全体像を先につかむ必要があり、それは二巡以降の学習になるのではと思ったりしています。わたしも記号の使い方というところで表(たわしの読書メモ・・ブログ651[廣松ノート(4)]/・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(5)掲載)を作ってみたのですが、まだ不全観を抱いたままになっています。
「主著『存在と意味』は、この入り組んだ構造の最終的な整序と、整序された廣松哲学の基本構造の体系的提示を企てているので、入り組んだ構造の内部編制を体系的に知るうえで一つの拠り所にはなる。しかし当面の主題である「弁証法」ひとつ取ってみても、主著における弁証法の展開は『弁証法の論理』を蝉の抜け殻として無用にしてしまうほどに本格的な、そのエッセンスを具現したものとはとうてい言えない。後述するように、むしろそこでは弁証法の影はまことに薄い。廣松哲学にとって『存在と意味』の持つ意義はどのようなものか。廣松当人にとって持つ意義(並外れた野心と強腕の持ち主が体系構築を企てるのは自然の成り行きだが)とのズレという点も含めて、これは一個の検討課題となるであろう。/ところで、「弁証法」というとき何よりも重要なのは、あれこれと弁証法論議を行うことでなく、ザッヘに即して、すなわちそのつど特定の考察対象や題材に即して実地に弁証法の力を発揮してみせることであろう。弁証法は、それを用いて何かを作る道具のようなものとして、出来合いのものとして既存しているのではない。・・・・・・そのつど特定の考察対象や題材に即したディスクールを繰り広げる中で、したがって当の考察対象や題材に固有の諸概念・諸用語を諸結節とするディスクールの形をとって当の弁証法そのものがその具体的姿を現してくる、というのが弁証法にふさわしい在り方であろう。」524-5P
「マルクスの『資本論』には、マルクスの言によれば(第二版後記)、ヘーゲル弁証法とは異なるマルクス独自の弁証法が用いられているが、「弁証法」という語が表に出てくるのは、マルクスが生前刊行し得た第一部の本文中ではわずか二箇所にすぎない。このように、弁証法が言葉として出るのではなしにディスクールや思考過程そのものの中に埋め込まれていて、これと融合一体化しているところでは、時に「弁証法の論理」の読み取りが困難な場合がある。この点については廣松も、「『資本論』は、論理のスケルトンを提示したものでなく生動的な体系になっておりますので、そこから「上向法」の構制を剖見するためには、しかるべき手続と相応の予備的知識を要件とします」(本巻一二〇頁)と指摘している。とはいえ、要は弁証法を実地に用いることによって「生動的」ならしめ、叙述展開や思考の実を挙げることである。弁証法という言葉を多用したところで、ザッヘへの解明は少しも前進しない。/ところが廣松は『弁証法の論理』において多大な弁証法論議を行っている。むろんこの場合も、論及は他の諸著作へとリゾーム状に広がってゆく。なぜこれほどまでの弁証法論議に精力を傾注しなければならなかったのであろうか。そしてこの場合の弁証法論議は、右に見たネガティヴな色調を帯びた弁証法論議と同列のものであろうか。/廣松は弁証法を議論する場面でも、字義どおりの哲学者として振る舞う。単なる哲学研究者として弁証法論議を行っているのではない。廣松は、廣松独自の学理展開の方法を、つまりは関係主義的存在観と相即する弁証法体系構成法を樹立しようとしているのである。弁証補論議と存在観論議との不可分一体性は、「弁証法は、単なる論理学ではなく、存在論および認識論と三位一体的な統一態をなすものである。」(「序」)という構えに表れているし、あるいは「弁証法的な存在観」(「万物を流転の相で観じ、不易的実体というものの存在を認めない弁証法的な存在観」(本巻三〇七頁))という、ちょっと珍しい言い方に象徴的に示されている。この樹立作業はしかし並大抵のものではない。むろんその作業は古代ギリシャ以来のさまざまな弁証法に関する批判的考察を踏まえたものでなければならないから、その意味で哲学者・廣松は、当然のことながら哲学史家ないし哲学研究者でもあるという契機を包蔵している。・・・・・・」526-7P・・・「三位一体性」にはわたしは疑義を呈しています。宿題Aとして本文中に書き、それなりに書きつつ持ち越しています。
二 ヘーゲル弁証法の批判と廣松弁証法の独自性
「『弁証法の論理』で取り上げられる弁証法家は、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、マルクスの四人であり、主要な批判的考察対象となるのは、いうまでもなくヘーゲルである。」527P・・・但し、弁証法だけでなく、形式論理学をとりあげ、それとの対質の中で、アウフヘーベンするところで弁証法の中に取り込もうということも廣松さんは模索しています。
「・・・・・・廣松にとって、少なくとも「フォイエルバッハ・テーゼ」以降の、したがってもちろん『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクス(・エンゲルス)の思想的理論的空間は、「批判」の対象となることなどあり得ない絶対的不可侵の聖域なのである。・・・・・・」527-8Pこの後、宇野学派からの「マルクス護教」という批判などが書かれているのですが、高橋さん自身も、「しかし事実として、廣松はこの『弁証法の論理』において、マルクス弁証法に少なくとも明示的には見られなかった「著者」・「読者」の対話構制という新たな概念装置を導入し・・・・・・」528Pと書き、また別の脈絡での、「因みに、下向の途というのはロッツェのいうErsetzenの手続を通じていうなれば“原始函数”をfür unsに確定していく途行きであり、上向の途というのはラプラスやハイゼンベルグの“宇宙方程式”にも譬えうべき当の“原始函数”をシスマティックに充当・具象化していく途行きに準らえるのも一策かもしれません」(一一九頁)」530Pと引用しているところからしても、廣松さんの著作をそれなりに読んでいるならば、カントの先験的認識論を、現象学派の間主観性――共同主観性論とリンクさせて転換させていることや、哲学や量子力学など総ての分野で起きているパラダイム転換論を展開していること、役割理論を軸に据えようとすることなど、マルクスを遙かにはみ出して、論攷を進め・深化させているのに、何故に「マルクス護教」というまさに誹謗中傷の類いのレッテル貼りがなされるのか、理解出来ません。誤解のないように書いておきますが、わたしも「廣松主義者」と揶揄されたことがあるのですが、すでに「マルクス主義」という突き出しに対して、反差別論をやっている立場から、ひとの名を冠した「○○主義」という言葉は教条主義を生み出すし、権威主義を生み出すとして、ドグマチックなことを批判する以外には使わないとしています。そして、勿論、いろいろ疑問点などなしに本を読むことはあり得ないし、対話を求めていますが、大きな影響を受けているという意味で、そしてその思想を批判ということも含めて引き継いで行こうという所では、マルクス派、廣松派ということを突き出すことはして行こうとしています。
さて,話を「解説」に戻します。高橋さんが『弁証法の論理』の途行きを全体的に押さえようとしているところがあります。「・・・・・・全十二信のうち、ごく大雑把にいって(1)第一信の前半ではプラトンとアリストテレスの弁証法に対する批判的検討が、次いで (2) 第一信後半から第五信まではヘーゲル弁証法に内在した批判的継承のための議論が、そして (3)第六信以下、第十一信までは、廣松弁証法を構築するための、さらに深めた議論が「原始函数」を第一のキーワードにして行われている。廣松色が強まる分、実体主義的存在観の排却を主眼とするトーンも強まってくる。(4)第十二信は全体のまとめと目される。」529-30P
さて、ここで「内容面についてポイントとなる事項をいくつか手短に記しておく。」として8点挙げています。かなり長い文になっているのですが、導入的なところだけ切り抜きメモを残します。「@学知の体系的展開を行う際に「端初」(アルケー)をいかに設定するかということがプラトンやアリストテレスにとって大問題だった。この問題はヘーゲルにも、そしてヘーゲル経由でマルクスにも(『資本論』冒頭における「端初」をいかに設定するかという問題として)引き継がれるが、・・・・・・大事なのは「出発点の設定」ではなく「展開の論理」であり、そこに弁証法の意義もある。」530-1P「Aそこで、次ぎに廣松はヘーゲル弁証法の詳細な吟味検討作業に歩を進めることになる。・・・・・・ある意味では、マルクス弁証法(と廣松が考えるところのもの)に軸足を置いている分、ヘーゲル批判が厳しくなっているとも言える。」531P「B廣松弁証法にとって、いちばんのキーワードをなすのは「対話構制」であろう。ヘーゲル弁証法に対する批判も、主要に対話構制の有無ないしその出来栄えという観点から行われる。」531P「Cその際、廣松弁証法にあっては、対話構制が二重構造をなしていること、これが最も独自な点であろう。」532P
「D右のBに関連して、廣松は,概念の自己運動を「われわれ」はただ観望する(zusehen)のみ、というヘーゲルの構えが「建前」でしかないこと、「実際」には傍観するだけの展開になっていないことを繰り返し指弾する。」532P「Eさらに、廣松哲学にとって死活に関わる四肢構造論に関して、これを巷間「ヘーゲルのヴァリアントにすぎない」(八二頁)と見る向きもあるだけに、両者の違いが明確にされなければならない。・・・・・・(廣松さんの引用)「対自的な二肢的二重性、両契機合わせて都合「四肢的な構造」ということは彼(ヘーゲル)の原基的な構造としては押さえられておりません。・・・」」532P「F廣松はヘーゲル弁証法を取り上げる際に、なぜ『精神現象学』を重視して『大論理学』については事のついでに関説するという程度の取扱いしかしなかったのであろうか。・・・・・・『資本論』と関連づけて『精神現象学』討究したマルクス経済学者は一人もいない、と極論すれば、(それを取り上げた)廣松との認識格差がより鮮明になるであろう。」532-3P「G廣松は「マルクスの弁証法」についてしはしば言及しており、通奏低音のごとく廣松の弁証法論議を背後で支えていることは確かであるが、その全体像がまとまった形で示されているわけではなく、いわばそのガイストとも言うべきものがおりにふれて出されているにとどまる。・・・・・・「継承的に展開」したものが廣松弁証法ということになるのであろうか。」533P
三 廣松哲学における弁証法の位置
「『弁証法の論理』を全巻を通じて廣松は繰り返し実体主義批判を行い、関係主義の顕揚を図っている。そのことは端的に、一つには、上記「「意識」の原基的構造」に関して「当事意識の本源的間主観性」(『論理』八六頁)を強調している点に、いま一つには廣松がアルケーの位置に据える「原始函数」が「単純」「普遍」「抽象的」という性格規定を与えられている点に表れていると言えよう。これらの点も含めて、右に述べてきたことからだけでも、廣松哲学において弁証法と関係主義的存在観ないし物象化論と四肢的構造論とが密接な連関、いわば耳鼻咽喉連関をなしていることは明らかであるが、ここでの問題は、むしろ、廣松独自の弁証法がいかに「生動」化されているかということである。言い換えると、「弁証法論議のための弁証法論議」の域をどこまで越え得ているかという点である。言うまでもなく、『弁証法の論理』をはじめ、リゾーム状の広がった論及が行われている関係諸著作においても、廣松弁証法をそのつどのザッヘに即して実地に示してみせた叙述は多々看られる。しかし「体系構成法」という点ではどうか。この点について廣松自身『存在と意味』第一巻の序文で次のように述べている。/「尤も、本書の場合、一貫した構想のもとに各巻・篇・章・節の論述を有機的に配位しているという意味では“体系的”であるにせよ、著者が別著『弁証法の論理』で謂う「弁証法的体系構成法」を必ずしも執っていない」。その理由について廣松は、こう弁明する。「弁証法的な体系的叙述を周到に図ることは本書を余りにも厖大化するものと憚られることもあり、また、読者の違和感を可能な限り防遏(「あつ」のルビ)する論述法を採ることが当面の上策かと想われることもあって、語の狭義における弁証法的展開手法によることは断念した次第である」。」534P・・・わたしはこのあたりは、形式論理学をアウフヘーベン的に自らの弁証法取り込んでいく作業がそれこそ膨大な作業になるところ、むしろパラダイム転換したところを強調しつつ、みずからの弁証法を展開していく途を選んだだと想います。廣松さんは、「哲学の意味は、体系構成というよりもパラダイム転換にある」という主旨のことを書いていたことに通じるのではないかと想います。「想う」で検証が必要なことですが。
廣松さんの追補する文の更なる引用があります。「「但し、本書の大枠構図は弁証法的になっている心算であり、或る階梯での断案が後続の階梯で“止揚”されて行くことに留意ねがいたい。また、或る知見が「学知的反省にとっての(für uns)もの」であるか、それとも「当事意識にとっての(für es)もの」であるか、本書では逐一銘記する煩は避けているが、文脈からそれと判るように設(「しつら」のルビ)えてある。この点にも留意いただきたいと念う」。」534P
「弁証法的体系構成法を「認識的世界」なり「実践的世界」なりのザッヘに即して実地に展開することの困難さを、廣松当人とともにあらためて想わずにはいられない。廣松は、主著の刊行に先立って『弁証法の論理』は「固有の存在意義を有する」と述べていたが、主著の刊行後も依然としてそうであると言わざる得ない。廣松の豊富な遺産を相続する者たちとしては、どのようなしかたで、「継承的展開」を図ってゆけばよいのであろうか。」535P
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(9)
「解説」 高橋洋児(『廣松渉著作集 第二巻「弁証法の論理」』岩波書店1996所載)
T(『弁証法の論理』)
この『著作集第二巻』の解説は二人で担当しています。『弁証法の論理』は、高橋洋児さん担当です(わたしの次の[廣松ノート(6)]は『物象化論の構図』で、その『著作集』の「解説」も高橋さんが担当しているようです)。この解説の中で、廣松さんとマルクスの関係について解説していて、廣松さんが「マルクス護教」と批判されている旨を解説しています。「継承的展開に徹している」という主旨の批判ですが、高橋さんは、高橋さんと廣松さんの関係で謂えば「批判的継承」ということなのだと思います。尤も、廣松さんはマルクスをかなりはみ出しているので、「継承的展開に徹している」と言い切れるのか、わたしは疑問に思っています。
さて、早速切り抜きメモに入り、その中でその「解説」と対話していきます。わたしの対話はいつものように斜文字です。なお、著者が挙げている頁数は『著作集』の頁数です。
一 弁証法の刷新を目指して
「廣松哲学にとって弁証法は、学理展開の真理性を担保するための「体系構成法」としてのみならず、その内実において四肢構造論や物象化論としても不可分一体の連関にあるというほどに枢要な一大論目をなしている。もとより廣松の弁証法論議はこの『弁証法の論理』一作で自己完結しているわけではない。物象化論その他の論目についても言い得ることだが、関連した論及が他の諸著作にもリゾーム状に広がる形で多々行われている。そうした論及が同じ言述内容の繰り返しであることもあるとはいえ、他の角度から、ないしは少なくとも別の言い回しでアプローチされている場合も多いので、個々の論目の全体像を十全に把握するためには、やはりそれらをも通覧して相互に関連づけることが必要である。このことは読者にも多かれ少なかれ労苦と難儀を強いずにはおかないが、諸論及間の突き合わせ行うことによって理解がいっそう深まることは言うまでもない。著者による「○○を参看願いたい」というたぐいの参照指示を一つの手がかりに、読者みずからが自家用の相互参照表を作成してみられるのも、そのための一具となろう。/論及がリゾーム状の広がりをもつのは、著作Aで主題的に取り扱われた論目に関して取り扱いきれなかった残余部分が著作BなりCなりで拾遺・補全されているという関連にあるから、ではない。むしろそれは、弁証法や物象化論や四肢構造論などなどの諸論目が相互に浸透し食い込み合いつつ、「有機的連関」をなして一全体を形作っているという、廣松哲学の入り組んだ構造そのものから来ることである。」523-4P・・・「リゾーム状」という概念は、ドゥルーズ/ガタリから来ている概念の様です。構造主義やポスト構造主義(当人たちはそう規定されることをむしろ否定しているのですが)との対話は「本質主義」「二項対立図式」批判や「ディファランス」概念、「脱構築」概念など使えることが多く、この概念も、「差別の構造のとらえ返し」ということで使えるのではと想ったりしています。ここで、解説者が提起している「表を作る」学習法も、極めて参考になります。ただ、全体像を先につかむ必要があり、それは二巡以降の学習になるのではと思ったりしています。わたしも記号の使い方というところで表(たわしの読書メモ・・ブログ651[廣松ノート(4)]/・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(5)掲載)を作ってみたのですが、まだ不全観を抱いたままになっています。
「主著『存在と意味』は、この入り組んだ構造の最終的な整序と、整序された廣松哲学の基本構造の体系的提示を企てているので、入り組んだ構造の内部編制を体系的に知るうえで一つの拠り所にはなる。しかし当面の主題である「弁証法」ひとつ取ってみても、主著における弁証法の展開は『弁証法の論理』を蝉の抜け殻として無用にしてしまうほどに本格的な、そのエッセンスを具現したものとはとうてい言えない。後述するように、むしろそこでは弁証法の影はまことに薄い。廣松哲学にとって『存在と意味』の持つ意義はどのようなものか。廣松当人にとって持つ意義(並外れた野心と強腕の持ち主が体系構築を企てるのは自然の成り行きだが)とのズレという点も含めて、これは一個の検討課題となるであろう。/ところで、「弁証法」というとき何よりも重要なのは、あれこれと弁証法論議を行うことでなく、ザッヘに即して、すなわちそのつど特定の考察対象や題材に即して実地に弁証法の力を発揮してみせることであろう。弁証法は、それを用いて何かを作る道具のようなものとして、出来合いのものとして既存しているのではない。・・・・・・そのつど特定の考察対象や題材に即したディスクールを繰り広げる中で、したがって当の考察対象や題材に固有の諸概念・諸用語を諸結節とするディスクールの形をとって当の弁証法そのものがその具体的姿を現してくる、というのが弁証法にふさわしい在り方であろう。」524-5P
「マルクスの『資本論』には、マルクスの言によれば(第二版後記)、ヘーゲル弁証法とは異なるマルクス独自の弁証法が用いられているが、「弁証法」という語が表に出てくるのは、マルクスが生前刊行し得た第一部の本文中ではわずか二箇所にすぎない。このように、弁証法が言葉として出るのではなしにディスクールや思考過程そのものの中に埋め込まれていて、これと融合一体化しているところでは、時に「弁証法の論理」の読み取りが困難な場合がある。この点については廣松も、「『資本論』は、論理のスケルトンを提示したものでなく生動的な体系になっておりますので、そこから「上向法」の構制を剖見するためには、しかるべき手続と相応の予備的知識を要件とします」(本巻一二〇頁)と指摘している。とはいえ、要は弁証法を実地に用いることによって「生動的」ならしめ、叙述展開や思考の実を挙げることである。弁証法という言葉を多用したところで、ザッヘへの解明は少しも前進しない。/ところが廣松は『弁証法の論理』において多大な弁証法論議を行っている。むろんこの場合も、論及は他の諸著作へとリゾーム状に広がってゆく。なぜこれほどまでの弁証法論議に精力を傾注しなければならなかったのであろうか。そしてこの場合の弁証法論議は、右に見たネガティヴな色調を帯びた弁証法論議と同列のものであろうか。/廣松は弁証法を議論する場面でも、字義どおりの哲学者として振る舞う。単なる哲学研究者として弁証法論議を行っているのではない。廣松は、廣松独自の学理展開の方法を、つまりは関係主義的存在観と相即する弁証法体系構成法を樹立しようとしているのである。弁証補論議と存在観論議との不可分一体性は、「弁証法は、単なる論理学ではなく、存在論および認識論と三位一体的な統一態をなすものである。」(「序」)という構えに表れているし、あるいは「弁証法的な存在観」(「万物を流転の相で観じ、不易的実体というものの存在を認めない弁証法的な存在観」(本巻三〇七頁))という、ちょっと珍しい言い方に象徴的に示されている。この樹立作業はしかし並大抵のものではない。むろんその作業は古代ギリシャ以来のさまざまな弁証法に関する批判的考察を踏まえたものでなければならないから、その意味で哲学者・廣松は、当然のことながら哲学史家ないし哲学研究者でもあるという契機を包蔵している。・・・・・・」526-7P・・・「三位一体性」にはわたしは疑義を呈しています。宿題Aとして本文中に書き、それなりに書きつつ持ち越しています。
二 ヘーゲル弁証法の批判と廣松弁証法の独自性
「『弁証法の論理』で取り上げられる弁証法家は、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、マルクスの四人であり、主要な批判的考察対象となるのは、いうまでもなくヘーゲルである。」527P・・・但し、弁証法だけでなく、形式論理学をとりあげ、それとの対質の中で、アウフヘーベンするところで弁証法の中に取り込もうということも廣松さんは模索しています。
「・・・・・・廣松にとって、少なくとも「フォイエルバッハ・テーゼ」以降の、したがってもちろん『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクス(・エンゲルス)の思想的理論的空間は、「批判」の対象となることなどあり得ない絶対的不可侵の聖域なのである。・・・・・・」527-8Pこの後、宇野学派からの「マルクス護教」という批判などが書かれているのですが、高橋さん自身も、「しかし事実として、廣松はこの『弁証法の論理』において、マルクス弁証法に少なくとも明示的には見られなかった「著者」・「読者」の対話構制という新たな概念装置を導入し・・・・・・」528Pと書き、また別の脈絡での、「因みに、下向の途というのはロッツェのいうErsetzenの手続を通じていうなれば“原始函数”をfür unsに確定していく途行きであり、上向の途というのはラプラスやハイゼンベルグの“宇宙方程式”にも譬えうべき当の“原始函数”をシスマティックに充当・具象化していく途行きに準らえるのも一策かもしれません」(一一九頁)」530Pと引用しているところからしても、廣松さんの著作をそれなりに読んでいるならば、カントの先験的認識論を、現象学派の間主観性――共同主観性論とリンクさせて転換させていることや、哲学や量子力学など総ての分野で起きているパラダイム転換論を展開していること、役割理論を軸に据えようとすることなど、マルクスを遙かにはみ出して、論攷を進め・深化させているのに、何故に「マルクス護教」というまさに誹謗中傷の類いのレッテル貼りがなされるのか、理解出来ません。誤解のないように書いておきますが、わたしも「廣松主義者」と揶揄されたことがあるのですが、すでに「マルクス主義」という突き出しに対して、反差別論をやっている立場から、ひとの名を冠した「○○主義」という言葉は教条主義を生み出すし、権威主義を生み出すとして、ドグマチックなことを批判する以外には使わないとしています。そして、勿論、いろいろ疑問点などなしに本を読むことはあり得ないし、対話を求めていますが、大きな影響を受けているという意味で、そしてその思想を批判ということも含めて引き継いで行こうという所では、マルクス派、廣松派ということを突き出すことはして行こうとしています。
さて,話を「解説」に戻します。高橋さんが『弁証法の論理』の途行きを全体的に押さえようとしているところがあります。「・・・・・・全十二信のうち、ごく大雑把にいって(1)第一信の前半ではプラトンとアリストテレスの弁証法に対する批判的検討が、次いで (2) 第一信後半から第五信まではヘーゲル弁証法に内在した批判的継承のための議論が、そして (3)第六信以下、第十一信までは、廣松弁証法を構築するための、さらに深めた議論が「原始函数」を第一のキーワードにして行われている。廣松色が強まる分、実体主義的存在観の排却を主眼とするトーンも強まってくる。(4)第十二信は全体のまとめと目される。」529-30P
さて、ここで「内容面についてポイントとなる事項をいくつか手短に記しておく。」として8点挙げています。かなり長い文になっているのですが、導入的なところだけ切り抜きメモを残します。「@学知の体系的展開を行う際に「端初」(アルケー)をいかに設定するかということがプラトンやアリストテレスにとって大問題だった。この問題はヘーゲルにも、そしてヘーゲル経由でマルクスにも(『資本論』冒頭における「端初」をいかに設定するかという問題として)引き継がれるが、・・・・・・大事なのは「出発点の設定」ではなく「展開の論理」であり、そこに弁証法の意義もある。」530-1P「Aそこで、次ぎに廣松はヘーゲル弁証法の詳細な吟味検討作業に歩を進めることになる。・・・・・・ある意味では、マルクス弁証法(と廣松が考えるところのもの)に軸足を置いている分、ヘーゲル批判が厳しくなっているとも言える。」531P「B廣松弁証法にとって、いちばんのキーワードをなすのは「対話構制」であろう。ヘーゲル弁証法に対する批判も、主要に対話構制の有無ないしその出来栄えという観点から行われる。」531P「Cその際、廣松弁証法にあっては、対話構制が二重構造をなしていること、これが最も独自な点であろう。」532P
「D右のBに関連して、廣松は,概念の自己運動を「われわれ」はただ観望する(zusehen)のみ、というヘーゲルの構えが「建前」でしかないこと、「実際」には傍観するだけの展開になっていないことを繰り返し指弾する。」532P「Eさらに、廣松哲学にとって死活に関わる四肢構造論に関して、これを巷間「ヘーゲルのヴァリアントにすぎない」(八二頁)と見る向きもあるだけに、両者の違いが明確にされなければならない。・・・・・・(廣松さんの引用)「対自的な二肢的二重性、両契機合わせて都合「四肢的な構造」ということは彼(ヘーゲル)の原基的な構造としては押さえられておりません。・・・」」532P「F廣松はヘーゲル弁証法を取り上げる際に、なぜ『精神現象学』を重視して『大論理学』については事のついでに関説するという程度の取扱いしかしなかったのであろうか。・・・・・・『資本論』と関連づけて『精神現象学』討究したマルクス経済学者は一人もいない、と極論すれば、(それを取り上げた)廣松との認識格差がより鮮明になるであろう。」532-3P「G廣松は「マルクスの弁証法」についてしはしば言及しており、通奏低音のごとく廣松の弁証法論議を背後で支えていることは確かであるが、その全体像がまとまった形で示されているわけではなく、いわばそのガイストとも言うべきものがおりにふれて出されているにとどまる。・・・・・・「継承的に展開」したものが廣松弁証法ということになるのであろうか。」533P
三 廣松哲学における弁証法の位置
「『弁証法の論理』を全巻を通じて廣松は繰り返し実体主義批判を行い、関係主義の顕揚を図っている。そのことは端的に、一つには、上記「「意識」の原基的構造」に関して「当事意識の本源的間主観性」(『論理』八六頁)を強調している点に、いま一つには廣松がアルケーの位置に据える「原始函数」が「単純」「普遍」「抽象的」という性格規定を与えられている点に表れていると言えよう。これらの点も含めて、右に述べてきたことからだけでも、廣松哲学において弁証法と関係主義的存在観ないし物象化論と四肢的構造論とが密接な連関、いわば耳鼻咽喉連関をなしていることは明らかであるが、ここでの問題は、むしろ、廣松独自の弁証法がいかに「生動」化されているかということである。言い換えると、「弁証法論議のための弁証法論議」の域をどこまで越え得ているかという点である。言うまでもなく、『弁証法の論理』をはじめ、リゾーム状の広がった論及が行われている関係諸著作においても、廣松弁証法をそのつどのザッヘに即して実地に示してみせた叙述は多々看られる。しかし「体系構成法」という点ではどうか。この点について廣松自身『存在と意味』第一巻の序文で次のように述べている。/「尤も、本書の場合、一貫した構想のもとに各巻・篇・章・節の論述を有機的に配位しているという意味では“体系的”であるにせよ、著者が別著『弁証法の論理』で謂う「弁証法的体系構成法」を必ずしも執っていない」。その理由について廣松は、こう弁明する。「弁証法的な体系的叙述を周到に図ることは本書を余りにも厖大化するものと憚られることもあり、また、読者の違和感を可能な限り防遏(「あつ」のルビ)する論述法を採ることが当面の上策かと想われることもあって、語の狭義における弁証法的展開手法によることは断念した次第である」。」534P・・・わたしはこのあたりは、形式論理学をアウフヘーベン的に自らの弁証法取り込んでいく作業がそれこそ膨大な作業になるところ、むしろパラダイム転換したところを強調しつつ、みずからの弁証法を展開していく途を選んだだと想います。廣松さんは、「哲学の意味は、体系構成というよりもパラダイム転換にある」という主旨のことを書いていたことに通じるのではないかと想います。「想う」で検証が必要なことですが。
廣松さんの追補する文の更なる引用があります。「「但し、本書の大枠構図は弁証法的になっている心算であり、或る階梯での断案が後続の階梯で“止揚”されて行くことに留意ねがいたい。また、或る知見が「学知的反省にとっての(für uns)もの」であるか、それとも「当事意識にとっての(für es)もの」であるか、本書では逐一銘記する煩は避けているが、文脈からそれと判るように設(「しつら」のルビ)えてある。この点にも留意いただきたいと念う」。」534P
「弁証法的体系構成法を「認識的世界」なり「実践的世界」なりのザッヘに即して実地に展開することの困難さを、廣松当人とともにあらためて想わずにはいられない。廣松は、主著の刊行に先立って『弁証法の論理』は「固有の存在意義を有する」と述べていたが、主著の刊行後も依然としてそうであると言わざる得ない。廣松の豊富な遺産を相続する者たちとしては、どのようなしかたで、「継承的展開」を図ってゆけばよいのであろうか。」535P
2024年07月17日
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(8)
たわしの読書メモ・・ブログ664[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(8)
第十二信「叙述体系」と著者・読者
(この便・章の問題設定)「この書翰はヘーゲルやマルクスの体系構成法を解説するものではない旨を最初からお断りしておりましたものの、迂生のひそやかな心積りでは、マルクスが『資本論』でとっていると思われる「上向法」について多少なりとも立ち入る予定でおりました。」368Pとしつつも、「別稿を期した方が良さそうです。」368Pとして、「もう少し積極的に言えば、学兄が『マルクス主義の理路』第一部および『資本論の哲学』を本翰と読み併せてくださる際には、迂生の想い描くマルクスの体系構成法の輪郭が浮かび上がることかと信じます。」369Pとしています。実際には『資本論』の体系構成法についても導入的に触れています(「二 著者と読者との「協働」的概念把握」)。
さて、もう少し先送りにする課題を出しています。「尚、弁証法における「運動論」「因果論」の処理に関する件ですが、この問題を「存在様相」論と絡めて討究する心意をいつぞや申し述べておきましたけれど、これは暫く留保したいと念います。と申すのは、最近ふとした機会に雨宮民雄氏(東大文学部哲学科助手)が恐らく画期的と呼んでよい時間論・空間論・運動論の構築を懐いておられることを知りましたので、雨宮理論を本格的に検討したうえで、卑見を固め直したいと考えてのことです。(雨宮民雄「アキレスと亀――運動論の再構築のために」『現代思想』一九七九年十一月号)。迂生の理解するかぎり、氏の時間論や運動論は拙著『事的世界観への前哨』所収の「時間論のためのメモランダ」その他における暫定的な着手の撤回を要求する態のものと迄は思えませんし、第九便で「変化の当体」にふれた所論を廃滅するものとも思いませんけれど、迂生としては氏の新理論を勘案したうえでなければ軽挙に過ぎると憚る次第です。時間・空間・運動については、当然『存在と意味』のなかでもふれますが、雨宮理論が一通り発表された時点で、主題的な一文を以って答えることにしましょう。」369P
一 体系にとっての「端初」とエンドクサ
(ここまでの便とのリンクと、この節の問題設定)「爰ではひとまず、第六便までに申し述べた一連の事項を念頭に置いて頂くと便利です。「上昇」「下降」の問題、「端初」の設定と「展開」の論理、併せて、ヘーゲルにおけるfür esとfür unsの構制、さらには、ヘーゲルが事実上“仕掛け”ている著者と読者との、いな“読者”と裡なる“対話”の機制など……」370P
第一段落――学理体系は“読者”の“共犯的”理解を俟って甫めて存立すること
「学理的体系というものは仮令(「たとえ」のルビ)創唱者が発表したとしても、誰からも理解されないとすれば存在しないも同然ですし、学理体系は“読者”の“共犯的”理解を俟って甫(「はじ」のルビ)めて存立します。この意味において、学理は“著者”と“読者”との協働によって成立するという言い方さえ可能なほどです。ところが、旧来の体系構成法にあっては、理論体系が発表されさえすれば、まるで哺乳ビンで流し込むかのように“読者”に受け留められるかのごとき暗黙の想定になっている看があります。なるほどロギケー(Logiker論理学者)と区別されるレトリケー(Rhetoriker修辞学者)がギリシャ以来あり、印度では為他比量の論理が発達したにしても、体系的展開の方法論そのもののうちに“著者”と“読者”との対話構制を自覚的・方法的に組み込むという配備はなかったのではないでしょうか。このような配慮は、たかだか、説教や教授の技術に関わるものとしてしか扱われてこなかったように見受けます。迂生としては、しかし、単なる文章作法上の技術的配慮という域を超えて――この域ならば、なるほど体系的叙述で多かれ少なかれそのことを勘案しなかったものは却(「かえ」のルビ)って無かったと申すべきでしょう――著者と読者との“対話的構制”を体系構成法そのものに方法論的に組み込んでしかるべきであると考えます。」370-1P
体系構成法の“権利”上の限界性の対自化「この提言はとかく技術的な次元のこととして受取られるのではないかと不安です。が、迂生が申しているのは、「端初」の設定や「展開」の論理そのことの実態を直視しつつ、体系構成法の“権利”上の限界性を対自化する次元の話です。もしも、絶対的端初があり、また、絶対的論理があるとすれば、託宣の流儀で叙べれば済むかもしれません。(往時の著者たちは慥かに託宣の流儀で述べました)。だが、しかし、原理にせよ論理にせよ、それが歴史的・社会的・文化的に相対的であり、たかだかエンドクサ(広汎に承認されている思念)にすぎないとすれば、端初の設定にしろ論理の展開にしろ(単なる技術上ではなく事柄の本質上) “著者”と“読者”との“共犯的”な暫定的営為でしかあり得ない道理です。――勿論、著者と読者との対話的構制を方法論的に組み込むということは、パラダイムの歴史的・文化的な相対性の自覚というメタ・レベルでの省察ではなく、現に止往するパラダイム的地平の内部での配備に懸かります――。」371P
エンドクサからの弁証法的展開「学理的体系は、しかしエンドクサを単に追認するものではありませんし、そもそもエンドクサなるものが単純に追認するような形で転ってはおりません。苟くも創造的な理説であるからには、エンドクサを準拠枠(frame of reference)にせざるをえないという基底的な構図を免れることこそ、不可能だとしても、既成の諸々のエンドクサをも批判的に卻けつつ新しい見解を押し出す(geltend machen)のであり、“著者”としては世間的意識にとって(für es)既成的な“知”を批判することにおいて“読者”の当初的な“知”とも対質する所以となります。」371P
「著者と読者」との対話的構制ということと「für esとfür uns」という構制とのリンク「爰において「著者と読者」との対話的構制ということと「für esとfür uns」という構制とがリンクすることになります。「読者」と「世間的当事意識」とが重なるのは、厳密に言えば当初的局面だけだとも申せますが、実際問題としては“知”の主題的方向ごとに“討究の初期的各位相ではその都度両者がほぼ重なる”と言うこともできましょう。「読者」は或る時には「当事意識」(es)と重なり、或る時には「著者」と偕(「とも」のルビ)に「われわれ」(wir)を形成しつつ、esの“知”を批判的に止揚します。精確に言えば、「読者」は「著者」との“対話”を通じて「エス」の準位を自己止揚しつつ、「著者」とのあいだに「われわれ」を形成するわけですが、この過程の進行を通じて「われわれ」の“知”的準位が高まって行き、最終的に「著者」の体系知と合一するに及びます。」371-2P
ヘーゲルの観望と対話の両面性「抽象的・図式的議論から、そろそろ具象的な議論に移る運びですが、以上の図式的な立論に縁って、学兄はヘーゲルが右に申し述べた構制の或る部面を彼一流の仕方で、「神秘化」(マルクスが批判して言う意味でのMystifikation,mystifizieren)しつつも、巧みに活用している次第を想起されたことと念います。――ヘーゲルは、なるほど「著者」「読者」ということを明示的には持出しませんし、彼の謂う「われわれ」(wir)にも多義的なところがあります(そのひとつが「観望」なる概念です)。しかし、『精神現象学』の場合、彼は「われわれ」と称する“学知”その実は“著者”の体系知の最終的な高みを神的な“絶対知”と僭称しつつ、「当事意識」(es)を順次的な「経験」を通じてそこへと高める手続を採るわけですが、それは「読者」をesのドクサの準位から当のドクサの内在的な批判を通じて「著者」のエピステーメーの準位へと“共犯”的に高める仕組みにほかなりません。――尤も、第三便で指摘しておきましたようにヘーゲルは『精神現象学』においてすら「われわれ」(wir)には「観望」(zusehen) (註)しかさせない建前をとっており、従って彼の建前からすれば、対話的な構制は積極的には存立しないことになっております。だが第三便で申した通り、ヘーゲルの立論を「読む」者は、或る時には当事主体の立場に身を置き、或る時には著者たるヘーゲルの立場に(われわれということで捲き添えにされて)身を置きます。ヘーゲル自身は、当事主体と積極的に対質しませんし、自分の見解を強引に押し付けることはしませんが、「読者」は当事主体の立場と著者(ないし「われわれ」)の立場とを対話させます。例えば、「これは個別である」という一者の主張と「これは普遍である」という他者の主張との“内なる対話”的対質です。読者は、この内なる弁証法的対話を通じて、自ら“向上”します。それも、著者ヘーゲルの論述に納得するかぎり、当事主体の寄りの見解から「れれわれ」寄りの見解へと進みます。「われわれ」は決して一気に高尚な反措定はしませんから、一歩一歩、引き上げられていくことになります。当事主体寄りの見解から「われわれ」の別見を勘案した見地へ向上が達成された新しい準位、それが次のステップでの当事意識の次元とされ、そこであらためて「われわれ」の反措定を機縁とする“内なる対話”が読者の“内”で進行する。『精神現象学』では大略このような仕掛けになっている、と申せましょう。「読者」の“内なる対話”においては、対象的二契機と能知的二契機とが、読者の内的営為において四肢的な構造連関におかれるわけです。こうして、読者は自分の内部で四肢的構造の論理機制を“自演”させられ、この自演的向上を「当事意識」の向上的展開の観眺と見做してしまう次第です。」372-3P
(註)この読書メモをとるに当たって、最初のメモで、いくつかの宿題を課していました。その一つ(宿題@)が、わたしかがfür esとfür unsをひっくり返してとらえ返してしまっていた、という笑い草のような話です。そのことをここで中間的にとらえ返しておきます。ヘーゲルのエンドクサ的観望としてfür unsと、廣松さんのfür unsを区別していなかったところで起きていた錯誤だったのですが、ヘーゲルのエンドクサたる観望としてのfür unsをテーゼとして押さえ、被差別者の当事者性としてのfür esをアンチテーゼとして押さえ、廣松さんのいう第三者的・学的für unsのジーンテーゼへ至る、ヘーゲルの正・反・合に習いつつも、ヘーゲルの限界性をアウフヘーベンしつつ、新たな正・反・合、テーゼ・アンチテーゼ・ジーンテーゼの弁証法的な展開をとらえ返して、わたし自身の反差別論の中で、展開していく必要があると考えている次第です。これは中間総括的な話で、以降の廣松さんの文を押さえる作業をしていきます。
この項のまとめと次ぎ項への誘い「我々の場合、ヘーゲルのように読者を狡智的に操るのではなく、当の構制を自覚的に方法論化しつつ、それを繰り込んで体系構成法を樹てねばならない道理ですが、まずは「端初」の設定の場面から考えて行きましょう。」373P
第二段落――「端初」の設定の問題
(この項の問題設定)「学理的展開においては「端初(「アルケー」のルビ)」(原理・原基)をどう設定するかが第一の大問題であることはあらためて喋々するまでもありません。端初の設定は、学問体系の個別的分野においても勿論真摯に図らるべき方法論上の課題をなしますけれど、「哲学」(第一哲学)の場合にはことのほか深刻な課題をなします。――この間の事情については、プラトンの弁証法とアリストテレスの論証法、さらにはヘーゲルの端初論などに即して、第一便で見ておいた通りです。」373-4P
アリストテレスの「推論」の四種「アリストテレスは、彼の謂う広義の「推論」(シュロギスモス)を四種に分けていることを第一便で紹介しておきました。/第一に「論証」、つまり、「真実なる最初のことどもから出発しておこなわれる推論、ないしは、真実なる最初のことどもから認識の端初がつかまれるような前提を起点とする推論」。/第二に「弁証法的推理」、つまり、「一般に承認されている意見」(エンドクサ) から出発しておこなわれる推論。/第三に「争論的推論」、つまり、「エンドクサのようにみえて実はそうではないもの」から出発しておこなわれる推論。/第四に「誤謬推論」、つまり「幾何学やそれと同類の諸学においてよく起こる」ことだが、「その学問に固有ではあるが真実ではない想定」から出発する推論。/これら四者の相違は、出発点の立て方、端初命題の認識論上の権利に応ずるものです。第四の「パラロギスモス」を「誤謬推論」と訳するのは誤解を招くもとですが、慣用訳に従いましょう。これは普通の意味での“誤てる推理”ではなく、認識論上の権利づけを欠く“個別的諸学に固有の”“公理的前提”から出発する推論であることに留意ねがいます。」374P
アリストテレスの端初論「ところで、アリストテレスは、「論証的推論」(アポデイクシス)の出発点となる「真実なる最初のことどもというのは、他のものの故に[間接的・媒介的]ではなく、それをみずからの故に[直接的・自証的に]信憑されることどもの謂いである。けだし、学知の原理(「アポケー」のルビ)においては、何故にということをそれ以上探究すべきではなく、原理はみずからにおいて信憑されるものでなければならない所以である」と言っています。/実際問題としては、しかし、直接的に自明な絶対的原理「それ自らの故に信憑されることども」を直截に把えることは人間わざでは出来ません。そこで、彼の師たるプラトンは「上昇」(エクバシス)の途と「下降」(カタバシス)の途とを区別し、まずはヒュポテシス(仮説)から出発する上昇の途によってアニュポテトン(仮説ではない)たる善のイデアに到達しておき、この絶対的アルケーから下降するという方法を立てた次第でした。――アリストテレスとしても、藪から棒の議論では駄目であることを承知していたかぎりでは、あの第二の弁証法的推理による“上昇”を考慮しております。「原理というものはすべてのうちで第一[最初・根本]のものであるから、当面の学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、個々のものに関するエンドクサからそれを究明しなければならない。このことは弁証法に特有な、乃至は少なくとも固有な仕事である。弁証法は吟味検討に適しており、それゆえ、あらゆる方法的学問の諸原理へと近づく道を保持している」と彼が『トピカ』のなかで書いていることは、これまた第一便で紹介しておいた通りです。」374-5P
エンドクサとしての端初論「それでは、「弁証法的推理」(ディアレクティコス・シュロギスモス)の出発点となる「一般に承認されている意見ένδόξα」とはいかなるものであるのか? アリストテレスは「すべての人々に、または大多数の人々に、ないしは知者[学者]たちに、そして知者という場合、すべての、または大多数の、もしくは最も知名で評判の知者たちに認められていることどもの謂い」であるとコメントしております。だが、このような「エンドクサ」が実際には第三の「争論的推論」の出発点になる「エンドクサのようにみえて実はそうでないもの」にすぎない惧れをどのようにして免れ得るでしょうか。そういうエンドクサに比べれば、まだしも、第四の「誤謬推理」の出発点をなす「諸学に固有の原理」のほうが信用できるとは言えないでしょうか。アリストテレスとしては、第三・第四の場合には、エンドクサすらないことは一般に承認されているという了解に立っていたものと思われます。その点、第二の「弁証法的推理」は<エンドクサであると思念されているエンドクサ>からの出発ということになりましょう。」375-6P
「学兄は、それでは所詮ドクサにすぎないと言われるかもしれません。考えてみれば、しかし、絶対的な原理にまで「上昇」できるとすれば、出発点は単なる「ドクサ」(臆見)であろうと「エンドクサ」であろうと、あまり気にしなくてもよい筈です。問題の焦点はむしろ、果たして「上昇」の途によって絶対的な原理にまで到達することがそもそも可能かどうかという点です。そして、この件については、ヘーゲルの『精神現象学』における“上昇”の弁証法の論理構制の検討をおこなったさい、善のイデアとか絶対知とかいう“アニュポテトン”に到り着くと言う方法論的な保証がないことを指摘しておきました。」376P
マルクスの方法論「爰でマルクスの方法論が想起されます。マルクスは“上昇”と“下降”の両途(彼の用語法では「下向」と「上向」の両途)を一応区別しつつも、“上昇”の途を学理的な体系構成法からは除外して、もっぱら“下降”的な叙述体系を自覚的に採ります。――第四便での紹介と指摘を想い起こして頂けると便利ですが、マルクスのように、理論の歴史的・社会的・文化的な相対性を自覚する者にとっては、絶対的出発点(下降のための絶対的「端初」) などありえません。或る時代の或る文化圏の人々が“絶対的な原理”だと思念する提題がたとえあったとしても、それは所詮エンドクサ以上のものではありません。勿論、そういうエンドクサたる“原理”から“下降”することは可能です。そして、現に、マルクスとしてはまさにそういう“下降”(彼の謂う「上向」)を試みます。が、しかし、この「上向」はエンドクサからの出発であるかぎり、認識論上の権利においては上昇の途と峻別されるものではあり得ません。/こうして、学理的展開はいずれにせよエンドクサを起点にせざるをえない以上、――そこには、一応、より抽象的一般的な“原理”へ遡行する方法と、より具象的特殊的な“定在”に降下する方法との区別はありえますけれど――“絶対的な原理”への“上昇”と称する方法論的過程は学の体系にとって、必須的・内在的な契機ではなく、たかだか予備的な手続になります。勿論、この過程が全く不用だとか、価値が低いとかいうのではなく、学理的体系(叙述体系)にとっては“埒外”という意味です。マルクスは、このゆえに、「下向の途」(“上昇”の途)を学の方法から“括り出し”てしまい、体系構成法としては「上向」法だけを残します。」376-7P
ヘーゲルの弁証法的途行きの試行「惟えば、アリストテレスが“下降”の途、つまりアポデイクティケーこそが真の方法であるとしたさいには、絶対的アルケーを定立できるという了解のもとに、そのアルケーから出発すれば足ると考えてのことだったのかもしれませんが、ヘーゲルの場合すでに微妙です。彼はなるほど、一旦は学の体系第一部と銘打った『現象学』で“上昇”法を試みました。しかし、後年の体系では、論理学を体系の第一部としつつ、「有」からの“下降”法だけを体系的方法とするに到ります。彼が「円環運動」を云々するさい、折線状の上昇・下降ではすまないことをいちはやく自覚していたと忖度されます。そして、いずれにせよ、絶対的な端初へと上昇しようとする前記の試みも絶対的な始元から下降しようとする後期の試みも、ヘーゲルでは方法論的に成功していないことは確かであり、マルクスが固有の仕方で「上向」(“下降”)法を採ることにしたのはヘーゲルの轍からしても肯綮にあたります」377P
「われわれ」の結論「われわれとしても、体系構成法としては、高々エンドクサたるものからの“上向”法を採るしか道がなさそうに思えます。」378P
第三段落――マルクスの上向法は、“上昇法”と“下降法”との“綜合”
(この項の問題設定)「エンドクサを出発点にするといっても、謂うところのエンドクサは必ずしも一義既定的ではありません。そのうえ、エンドクサから出発する途行きは、“上昇”であっても「上向」ではないのではないかとの疑義も出そうです。――迂生は、これまで、マルクスの「上向」「下向」をプラトンの“下降”“上昇”と構図的に対応づける流儀で綴って参りましたが、それは学説史の背景や論脈を顕揚する一具にすぎず、方法論的な内容に立入ってみれば、マルクスの「上向法」は決してアニュポテトンからの“下降”法と同列ではありません。マルクスの「上向」が、アリストテレス流のアポディクシスと異なることは無論のこと、ヘーゲル流の“下降”とも大いに異なることを銘記する必要があります。迂生のみるところ、マルクスの弁証法とヘーゲルの弁証法との径庭は、後者が観念的に「逆立ち」しているとか「歴史性と論理性とを不当に一致させている」とか、この種の事柄に関わるだけでなく、よしんばそこから派生するものだとしても、種々の場面で存立します。尤も、ここはこの件そのものを詳論すべき場所ではありませんので、とりあえず、マルクスの「上向法」は、或る意味では“上昇法”と“下降法”とを一種独特の仕方で“綜合”する配備になっている旨を示唆的に申しておきたいと念います(註)。この旨を誌せば「エンドクサ」からの“上向”という言い方の奇矯さが幾分かは薄らぐのではないでしょうか。」378P
(註)これも宿題にしていた課題です(宿題A)。ヘーゲルの三位一体的展開ということはそのまま受け入れがたいことではないかとは押さええます。さて、マルクスや廣松さんがどこまで、この「三位一体」といことを突き出していたのかというと、下降と上向がはっきり分けられるわけではないというところで、認識論=存在論という「近似値的一体性」をとらえてはいたとは言いえるのではないかとは押さええます。勿論ヘーゲル的な絶対精神の自己展開としての弁証法を否定したところの話で、確かに、三つの論・課題はからみあってはいますが、独立した実体でもないわけなのですから、「三位一体性」という表現は妥当ではないとは言いえます。が、論理学も含めた「三位一体性」とは言えないところでの、「綜合」という概念で押さえていくことではないかと考えています。これも中間総括的な話で、以降の廣松さんの文を押さえる作業をしていきます。
著者自身の展開としての原始函数態としての措定「上向法的な体系構成の「端初」は、われわれの場合、第六便で申しましたように、比喩的に言えば、一種の“原始函数”的な「抽象的・普遍的」単純態のかたちで措定されます。茲に“函数的”と記すのは、われわれの謂う“抽象的普遍態”は伝統的な抽象態(捨象の残渣)とは了解を異にし、ロッチェ・カッシーラー流の函数的「補完(「エルゼッシェン」のルビ)」の所産として、多くの“変項”を有(「も」のルビ)つ“函数概念的・関係概念的”な普遍態であることに応ずるものです。(「原始函数」という標記は、数学上のテクニカルタームと二重写しにされる惧れはよもやあるまいと思いますけれど、素より、それを微分しさえすれば現与の函数態が導来されるといった単純な仕掛けを考えているわけではありません)。」379P
「端初」の設定をめぐる問題性「ところで、学理的展開の「端初」が抽象的・普遍的な単純態であるということは、必ずしも公理的な単純命題を直截に体系的な形で提示するところから始めることの謂いではありません。もしも、学理的体系がエンドクサをそのまま追認的に体系化する態(「てい」のルビ)のものであれば、まさにエンドクサの公理的体系化の手法で理論体系を構築することも可能なことでしょう。但し、これは、エンドクサなるものが内部的に矛盾撞着を孕んでいないことを前提条件にします。現実には、しかし、エンドクサを分析・検討してみると、部分的な系ならばともかく、総体的な系としては、恐らく矛盾律を孕んでいるのが常態の筈です。従って、普遍的・総体的な世界観的体系の場合、上記の前提条件はおよそ非現実的であると言わざるを得ず、当の手法は期しがたい所以となります。が、仮りに、そのようなエンドクサの追認的体が現実にありうると認めたとしても(因みに、部分的な系としてならば、歴史上の事実問題として、それの存立を認めることができるように思いますけれど)、苟くも創造的な哲学体系の場合、エンドクサのうち尠なくとも或る種のものを卻けて新しい原理を持込もうと図るのですから、既成のエンドクサをそのまま追認する流儀で公理的に体系化することは論外です。――とすれば、「著者」(新しい体系の創唱者)は、自己固有の原理、つまり、エンドクサに牴触する新原理を端的に押し出すのほかはないということでしょうか? 或る意味ではそうだと申せます。そして、それが“公理的”提題の体系的提示というかたちをとることも一概には卻けられません。・・・・・・とはいえ、体系的構成法の論理からいえば、原理が原理として理解(実質上の「提示」)されるその局面から体系的展開が始まるのであって、それに先行する論述は所詮“前梯”にすぎないのですから、前梯的叙述なしに済ませ得ればそれに越したことはない道理です。「端初」の設定をめぐるこのような情況のもとにあって、われわれとしてはどのような途を拓くことができるのでしょうか?」379-80P
端初の設定の相対性「念のため再確認しておくかたちになりますが、「端初」は――著者自身の思索においてはしかるべき根拠と手続にもとづいて設定されるものであるとはいえ、――体系内部の論理構造からいえば、論理上端的に「最初のもの」であり、先行する根拠(前提)によって媒介されていないという意味で「直接態」です。それは、論理上の脈絡でいえば、“無根拠”なものにすぎません。このかぎりで、論理的には、何を以って端初とすべきかは規定できません。裏返していえば、何から始めようと論理的には禁圧される謂われはなく、端初の設定は自由自在です。但し、以上はあくまで論理上の“無媒介性”“無根拠性”に即した話であって、著者自身の企図からすれば「端初」の設定はそこから展開される全体系によって規制されております。だが、体系の全体性による規制というだけならば、ヘーゲルが企図した「円環」構造は措くとしても、或る種の公理的体系において現にみられるように、端初を設定する仕方は一義的とまで言えません。ここで、「読者」という予期される“共犯者”の在り方が勘案されます。が、このモメントを勘案しても猶「端初」をどう設定するかは一義必然的ではありません。――こうして「端初」の設定は諸々の制約条件によって実際的には規制されるとはいえ、所詮は相対的です。このことは「第一哲学」的な体系だけでなく、それに基づく分科的諸部門についても妥当します。」380-1P
まとめと次項へのつなぎ「以上、「上向法」的な体系構成といえば兎角“一義必然的”な端初の設定を含意するかのごとき臆見が根強い事情に鑑み、「端初」の設定が所詮は相対的であることを態々(「わざわざ」のルビ)再確認しつつ、併せて、配慮すべき幾つかの点を示唆的に申し述べて参りましたが、今やわれわれなりの構案を積極的に開陳する段取りです。」381P
二 著者と読者との「協働」的概念把握
(この節の問題設定)「ここでは、ひとまず、世界観の基幹的構制に関わる“第一哲学”の次元での「端初」設定をめぐって考えておきたいと念います。」381P
第一段落――哲学の「世界」の「総体的」「把握」 381-4P
(この項の問題設定)「哲学は「世界」の「総体的」「把握」を志向するものであると屢々自称します。この言い方は恐らく、個別的分野の研究者たちには笑止千万な科白(「せりふ」のルビ)ないし傲慢不遜の言辞に聞こえることでしょう。しかし、それは「総体」的「把握」ということの含意に関する誤解に起因する面が多分にありそうです。哲学者のなかには慥かに、傲慢な体系家もないわけではありませんが、総体的把握と称するさいの志向内実は必ずしもそう不遜なものではなく、むしろ謙抑であるようにも見受けます。」381-2P
日常的に経験するこの世界「「世界」を「把握」すると一口に言っても、そのさい「世界」という言葉でいかなるものを指称しているか、「把握」という言葉でいかなることを了解しているか、その内実は区々に岐れます。ここでは既存の“第一哲学”を学説史風に辿ることはおろか概論風に整理する遑もありませんし、その必要もありますまい。われわれ自身にとっての課題を劃定する方便として若干配視すれば足ります。――哲学者たちのうちには「世界」というとき、われわれが日常的経験する世界とは別の形而上学的世界を意味するむきもありますけれど、迂生としては「世界なるものをさしあたり日常的に経験するこの世界の謂いとします。ところで、哲学的な「世界把握」というとき、或る種の哲学者たちは、世界とは何か(本質)を規定することだと考えております。この見地では、世界の日常的現相はそのままの真実態・真実在ではなく、その内奥ないし背後に真実在が存在しているという了解のもとに、その真実在とやらを認識することが哲学的「把握」だとされます。この見地と両立不能というわけではありませんが、別の或る哲学者たちは世界が如何様に現存するかを規定することが「世界把握」だと考えます。この立場では、対象的世界が如何なる“実質的成分”から形成されているかかの究明もさることながら、むしろそれら“実在”の在り方を規定している「法則」性の究明が志向されます。これらの哲学者たちは、世界の日常的な経験的現相をそのまま追認的に記述することでは満足せず(これに自足しようとする哲学的立場もあるのですが)、日常的世界現相を在らしめている“原理”を把握しようと企画する者と言えます。迂生としても、日常的な世界現相の単なる追認的記述では自足せず、「現与の世界現相が如何にして可能であるか」を把握しようと志向する姿勢のかぎりでは、論者たちと共通するところがあります。しかしながら、「現与の世界現相が如何にして存在するか、如何にして存在可能であるか」の究明は、歴史的媒介性、構造的媒介性、等々、多角的なアプローチが可能であり、伝統的な仕方での“本質存在”“実質存在”“法則規定”の探究は所詮一面的にすぎると迂生は思います。「世界現相の現実は如何にして存在可能であるか」、その被媒介的な存立機制の把握は全面的・綜合的に遂行されてしかるべき筈です。ヨーロッパ哲学における伝統的な“世界把握”は、単に一面的という点に難があるのではなく、世界の被媒介的な存立性を説明すべく、世界を斯く在らしめている「もの」(これが“本質”と呼ばれようと、“実質”と呼ばれようと、“法則”と呼ばれようと、その他、呼び名が何であれ)「自存的存在者」を“原理的な存在”と想定してしまっているところに難点があります。このような実体主義的存在了解は、相互媒介的・相互反照的な関係規定の結節項を即自的な存在と錯認することに由来するものであって、われわれの体系においては、当の伝統的・日常的な物象化的錯認そのものをも(それが如何なる機制で成立するかを解明しつつ)系統的に止揚して行く課題を裡(うち)に含む次第となります。」382-3P
まとめと次項へのつなぎ「われわれ自身にとっての“第一哲学”の課題は、こうして「日常的な経験世界の現相は如何にして存在可能であるか」、この「世界」の被媒介的な存立機制を把握すること、――抽象的一般的に記せば、斯様に規定することができましょう。/この課題に応じて、われわれの「端初」の設定の仕方も規制されます。それは、内容的には「下向」的研究を通じて「現相世界の被媒介的存立機制」を対自的に整型化した「抽象的・普遍的な単純態」としてのあの「原始函数」の措定にほかなりませんが、今やこの課題は、この「端初」を「読者」に理解されうるかたちでどのように提示するかです。」383-4P
第二段落――「フェノメナルな世界」のとらえ返し 384-8P
(この項の問題設定)「われわれは、形而上学的な超絶的世界について論述しようと企てるのではなく、日常的・経験的な世界について叙述するのですから、「読者」とのあいだに初めから接点をもち得るものと期待できます。・・・・・・人々は、各自の体験や教養に応じて既成観念に滲透された相での世界像を抱懐しておりますので、経験的なこの「世界」なるものが実は多義的です。そこで、斯々然々(「かくがくしかじか」のルビ)として規定的に了解する既成観念上の“規定性”を悉(「ことごと」のルビ)く排却して世界現相を如実に視凝(「みつ」のルビ)めよと要求したとしても、現実問題としては、既成観念を悉皆(「しっかい」のルビ)排却してしまうことなど出来ない相談というものです。このことを承知したうえでもなおかつ、われわれとしては既成のドクサによる“規定的措定”を可及的に排却した相で主題たる「世界」を読者と共有したいと庶幾する以上、「読者」に対して既成の規定的定立を可及的に「括弧に入れる」(einklammern)ように求めざるを得ません。それは、所謂フェノメナルな世界現相を如実に諦視するようにという要請に帰向します。判り易くというよりもむしろ比喩的に言えば、それは、既成観念と自覚される一切の規定的措定を排却しつつ、童児の眼に映ずるであろうごとき相での此の「世界」を表象して慾しいという要請です。(このさい庶幾される“存立定立”の“括弧づけ”は定在(「ダーザイン」のルビ)定立だけでなく相在(「ソーザイン」のルビ)定立にも関わります)。このようにして表象される相での世界、つまり、向くの童心に映ずるであろうがままの「フェノメナルな世界」現相なるものは所詮フィクションめいたものにすぎないのかもしれません。それは、エンドクサを悉皆排却したものでありえないどころか、むしろ、ミニマルなエンドクサを“純粋に”具現したものと言うべきでしょう。が、われわれの出発点にとっては、、この最小限(「ミニマル」のルビ)の“純粋”なエンドクサで以ってとりあえず間に合います。」384-5P
フェノメナルな世界「「フェノメナルな世界が現前する」(現相世界が有(「あ」のルビ)る)というエンドクサ――フェノメナルな世界が即自的に分節態の並存相を呈するかぎりでは、「フェノメナの聚合(「しゅうごう」のルビ)が有る」というエンドクサ――、これがわれわれにとっては出発点になります。/このように誌しますと、学兄は、それでは「フェノメノン」乃至「フェノメノンが有る」ということが夫子の謂う体系的展開の「端初(原理)」なのか? と反問されるかもしれません。が、迂生の考えでは、右に述べたかぎりでの「フェノメノン」乃至「フェノメノンの存在」ということがそのまま直ちに「端初」(原理)なのではありません。/尤も、或る意味ではフェノメノンが端初には違いないのですが、誤解を防ぐためには、フェノメノンがそのまま原理なのではない、という答え方が優ります。この間の事情については若干のコメントが要りそうです。」385P
承前「まず、或る意味ではフェノメノンが端初であるには違いないという容認の側からコメントします。」385Pマルクスの『資本論』からの援用です。「マルクスは『資本論』本文の劈頭「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は“巨大な商品集成”として現われ、個々の商品がその富の原基形態として現われる。われわれの研究は、だから、商品分析を以って始まる」と書いていること、これは御記憶の通りです。経済学的対象という特殊な領域に関わる分科的体系の端初と第一哲学プロパーの端初とを安直に類比するのは危険ですが、われわれの場合、マルクスの表現になぞらえて書けば「フェノメナルな世界は“巨大なフェノメナの集成”として現われ、個々のフェノメノンの分析を以って始まる」ということになります。ここにおいて、マルクスの謂う「商品」が「端初」だと言えるとすれば、それに類する意味でわれわれも「フェノメノン」が「端初」だと言うことができます。――只今「とすれば」という条件をつけたのは、先の引用文で指称されている「商品」がそのままで「端初=原理」だと言い切れるか、少なくとも二要因の規定でベグライフェンされた相での商品を俟たねばまだ「原理」とは言えないのではないか、このような問題の余地が残るからです。(因みに、『資本論』では次のパラグラフから早速に二要因の規定がおこなわれますが、『経済学批判』では「一見、ブルジョア的富は巨大な商品集成として現われ、個々の商品がその富の原基定位として現われる。各商品は、しかし、使用価値および交換価値という二重の視点のもとに自己を示す」という書き方になっており、二要因の規定までが冒頭パラグラフに明記されております)。――ついでに申しておきますと、マルクスが『資本論』の第一パラグラフで謂う「富が巨大な商品集成として」「個々の商品がその原基形態として現われる」(『経済学批判』では「一見……現われる」)というのは、まさに“商品世界”の現相についてのエンドクサ(しかも、この領界におけるミニマルなエンドクサ)に照応するものと言えましょう。このかぎりでは、マルクスも『資本論』体系の冒頭ではエンドクサにおける現相に定位して「主題」を提示していると言えましょう。」386P
前述の提言の中身と同調「われわれにとって、或る意味では「エンドクサ」たる「フェノメノン」が「端初」だということができる旨を上述した含みの一斑をいまや御理解いただけたものと念います。」387P
ここで「ところで、もう一つ注釈をつける形になりますが」として「嚮に「エンドクサからの“上向”」という一見奇矯な言い方をし、マルクスの場合、或る意味では「“上昇”と“下降”とが一種独特の仕方で“綜合”されている」と申しておいたことに関連して、此処でありうべき疑義に答えておきましょう。」387Pと前述した内容を掘り下げる展開を持ち出しています。
ヘーゲルとマルクスの端初の違いをめぐる論攷です。「われわれの場合、「フェノメノン」というエンドクサを出発点にすることは「下向」の途になりはしない、という疑義を生じ得ます。人は、フェノメナルな世界というのは、ヘーゲルでいえば『精神現象学』における最初の部位、つまり、“上昇” (“下向”)の端初に類するものではないか、と考えるかもしれません。フェノメナルな世界は、マルクスが「上向」の起点に据える「抽象的・普遍的な単純態」とは違い、却って“具体的”なものではないのか? 答は勿論「否」です。このさい、マルクスの謂う「具体的」の意味を誤解しないことが肝要だと思います。日常用語では“感性的経験に直接的に現われるもの”を以って“具体的”と呼ぶことがありますけれど、マルクスの用語法では違います。もしそうなら「商品−貨幣−資本」と上向するさいの「商品」のほうが、直接には摑みがたい「資本」よりも「具体的」ということになってしまうでしょう。マルクスは「規定性」の多寡で「具体的−抽象的」を概念的に区別している次第なのです。――とすれば、われわれが出発点で定位する「フェノメノン」は、よしんば感性的経験に即応するとしても、既成観念上の規定性を可及的に排却した相で現前するのですから、決して「具体的」ではなく、まさに「抽象的」ということになります。学兄としては、この点までは認めたうえでもなおかつ、「フェノメナルな世界」はヘーゲルの『現象学』での“上昇”の起点に類すると言われるかもしれません。慥かに、感性的・経験的という点に止目すれば、そのような見方もありえます。しかし、マルクスがフェノメナルに現前する商品を出発点にしつつ、或る意味では“上昇法”と“下降法”とを“綜合”しているという前掲の論点が生きる所以でもありますが、「フェノメノン」は規定性に関してミニマルな(従って、抽象的・普遍的で単純な)エンドクサなのであり、sinnliche Gewissheit(感性的確信)やWahrnehmung(知覚=真理把捉)といったドクサとは次元を異にします。ヘーゲルの“上昇”の途の起点になる「感性的確信」は、感覚知こそが具体的・個別的で真実であるという私念(「ドクサ」のルビ)であるのにひきかえ、われわれの謂う「フェノメノン」は上述の通り、諸々のドクサを可及的に排却し、真理性の要求に関わる「存在定立」を悉く「括弧に入れ」た「抽象的・普遍的な単純態」なのです。」387-8P
第三段落――「端初」の設定について 388-95P
「「フェノメノン」は、こうして「抽象的・普遍的な単純態」であり、「上向」の「端初」に据えられうるとしても、それが単にミニマルなエンドクサたるかぎりで、あの“函数的普遍”態としての“原始函数”ではありません。先に「フェノメノン」がそのまま「端初=原理」であるとは言えない旨を記した所以でもあります。――このことが、また『資本論』第一パラグラフの「商品」をそのまま「端初」とみなせるとすればという条件付で嚮に云々した折、「少なくとも二要因の概念規定を俟ってはじめて」真の「端初」設定になるのではないか、という問題にふれた際の含意にも関わることは申し添えるまでもありますまい――。「端初」の設定は、或る意味では、“原始函数”の提示を以って甫(「はじ」のルビ)めて実質上おこなわれるとも申せます。が、“原始函数”とやらをいきなり定式化されても「読者」には全く理解出来ないという場合も一般論としては考えられます。ここにおいて“原始函数”をどのようにして提示するか、工夫を要する次第です。」388-9P
「フェノメノン」と「原始函数」との関係「われわれの場合、もとより、「端初」として、あの「フェノメノン」と「原始函数」との二つが別々にあるわけではありません。われわれの謂う“原始函数”は「世界」の現定在・現相在の被媒介的存立機制を「下向」的研究を通じて対自的に把握しつつ“補完的・函数概念化的”な手続を通じて措定した最も抽象的・普遍的な函数的成態(関係概念・構造概念)であり、これの汎通的な妥当性に負うてそれは「フェノメノン」の「存立構造」にも妥当します。それゆえ、「フェノメノン」の存立構造を分析的に対自化することにおいて“原始函数”を覚識することができます。」389P真鍋研究のシュミレーションモデル?
更なる反問設定――複雑な具体相を「再生産」できるか?「無用のコメントかもしれませんが、ミニマムのエンドクサたる「フェノメノン」の存構造を対自的に把握した“原始函数”を「端初=原理」にしたのでは、極めて複雑な世界の具体相を「上向」的に「再生産」(マルクスの謂うein geistig(精神的) Konkretes(具象)のReproduktion)することは覚束ないのではないか、というありうべき危惧を鎮めておきます。――“原始函数”はまさに複雑きわまりない世界の定在・相在の具体的な存立構造を「下向」的研究を通じて“抽象化”した所産であり、それは、しかも、伝統的な抽象=捨象の残渣なのではなく、ロッツェ・カッシーラーの所謂「函数化的補完」の成果(Resultat)なのですから、具体相へと到る上向的展開のポテンシャリティーを保有しております。それがさしあたり「フェノメノン」という抽象態に即して分析的に対自化されうるのは、“原始函数”が「世界=函数的成態」の最も抽象的で普遍的な形であるということと相即する普遍妥当性に拠ってです。「原始函数」は「フェノメノン」にしか妥当しないのではなく、汎通的に妥当と申せば趣意が通ずるでしょうか。」389-90P
「原始函数」に関する論攷の深化「偖、普遍妥当性をもつ当の「原始函数」――は、単に「フェノメノン」においても対自的覚識され得るという域を超えて、実は「フェノメノン」に即してこそ最も直截に把捉され易いという事情にあります。けだし、「フェノメノン」は諸多の規定性が排却(括弧づけ)された抽象的単純態であるため、“函数成態”の側での抽象的単純態と即応させ易いからです。――いつぞや「有機醸成型」の系列体系に関して、そこでの抽象的・普遍的な単純態を最も良く具現している現実の存在体ということになれば、原始的単細胞生物にそれを求めることができる旨を申し述べたことがありましたけれど――「フェノメノン」は「原始函数」を直截に具現した現実の存在体であるという言い方も許されると思います。」390P
「著者」と「読者」の協働による措定「われわれの謂う「原始函数」が、こうして、ミニマルなエンドクサたる「フェノメノン」において体現されており、従って「フェノメノン」の存立構造を分析的に対自化することによって顕揚されるとしても、この対自的把握(「ベグライフェン」のルビ)を「読者」に促し、そのことによって単に熟知的(bekannt)なフェノメノンを概念的に認識された(erkannt)「フェノメノン」たらしめるのは言うまでもなく「著者」の提示的表現と「読者」の“共犯的”理解との協働においてはじめて「原始函数」態で概念的に把握された「フェノメノン」としての「端初」が措定される次第です。」390P
マルクスの『資本論』における実践としての「商品」の端初設定――四肢構造論的展開「学兄は、ここで、マルクスの場合を、想起されることでしょう。彼は「読者」の眼にフェノメナルに「現われる」「商品」、このエンドクサにおける「商品」を「分析」してみせ、まずは「使用価値」および「価値」という二要因を概念的に規定し、単なるエンドクサにおいて熟知(「ベカント」のルビ)な商品を概念的に認識された(「エルカント」のルビ)「商品」として提示(読者における対自化)します。が、迂生のみるところ、「端初」たる「商品」の規定的提示は、対象的二要因の指摘をおこなった(「第一節」の範囲)だけではまだ終りません。学兄は、『資本論』首章第二節での「労働の二重性論」は、商品とは別の「労働」という主題についての議論だったと理解されるでしょうか? マルクスの論述は、一見したところ、第一節では商品における対象的二要因を論じ、第二節では商品において対象化されている主体的“二要因”を論じているかのように見えます。事実、第二節でいちはやく、主体的“二要因”と対象的二要因とが対応関係におかれております。しかし、首章を最後まで、つまり、第三・第四節まで読んでいきますと、第一・第二節、わけても第二節での論述が暫定的なものであり、首章全体の有機的叙述によって「端初」たる「商品」の概念的把握がようやく一応の完成をみる形になっていることが判ります。(このさい、マルクスの論述が教科書風の明快な形に整理されているかどうかは別問題です。『資本論』の成立史、再版における改訂などを追体験してみるとき、何分にも事柄そのものが難題であるうえに、読者の理解を慮らねばならず、マルクス本人としても論述に難渋しており、明快な叙述への仕上げを期待するのは望蜀(ぼうしょく)というものでしょう)。そもそも「商品」なるものは、日常的な思念(「ドクサ」のルビ)においては単なる物的存在、対象的存在として意識されますけれど、マルクスのベグライフェンする「商品」は決して単なる対象的存在ではありません。成程、第一節の範囲では、それは二要因を具えた対象的定在の相でとりあえず規定されております。がしかし、エンゲルスが『経済学批判』の書評のなかで誌して言葉を援用していえば、「経済学は商品を以って端初とする。……生産物が商品であるのは、しかし、人と人とのあいだの関係……がそれに結びついている限りにおいてである。……経済学は物を取り扱うのではなくして、人と人のあいだの諸関係……を取り扱うのである。尤も、この諸関係はつねに物と結びついており、物として現象する」というのがマルクスの了解であり、「商品」なるものを単に対象的二要因を具えた事物という相で受け留めるに止まるならば、それはマルクスが『経済学批判要綱』このかた厳しく批判しているたぐいの「物神崇拝」(フェティシスムス)すなわち「社会的諸連関を事物に内在的な規定性とみなして事物に所属させ、そうすることによって事物を神秘化してしまう物神崇拝」にみずから陥る所以となりましょう。――マルクスが第三節で説いているところを併せて理解するとき、第二節での「労働の二重性」は“商品世界”の人間関係の反照規定たる“主体的二重性”に照応するものであり、「物として現象する」「商品」は「人と人とのあいだの諸関係」をも「事物に所属」させた相で現前するものにほかなりません。そして、商品の対象的「二要因」も、事物そのものに内属する規定因という相で一応現われるとはいえ、主体との関係、間(「かん」のルビ)主観的な関係との反照規定であるのが実態であり、敢て言えば、それは上述の“主体的二重性”ともリンクします。このかぎりでは「商品」という関係規定態は、対象的“二重性”と主体的“二重性”との二重の二肢態、つまるところ、四肢的契機から成る関係規定態であると言うこともできると思います。マルクスとしては、第三節における間主観的関係の反照規定の開示、第四節における物象化の秘密の剔抉を俟って、「商品」という「端初」(原基的存在)を都合“四肢的”契機の関係的規定態として“提示”しているわけで、考えよう次第では、首章全体が「端初」としての「商品」の概念的把握提示に当てられているとみることも許される所以です。」391-3P
「四肢的構造」の定式化としての“原始函数”という「端初」「われわれの場合、『資本論』の顰(しか)みに倣うには及びませんけれど、「フェノメノン」の存立構造の分析的対自化を通じて、それは四肢的構造成態として提示されます。――われわれの謂う「四肢的契機」とそれらの「構造的連関」の内実については、『世界の共同主観的存在構造』このかた色々な機会に申し述べて参りましたので、ここでの復唱は割愛しましょう。――謂う所の「四肢的構造」を尤も抽象的普遍的な位階で定式化したものがわれわれの“原始函数”にほかなりません。そして「四肢的構造」の規定性において概念的に把握された「フェノメノン」(四肢的構造成態として概念的に措定されたフェノメノン)、それが即且対自的(アン・ウント・フェア・ジッヒ)な「端初」を成します。」393P
“原始函数”的規定性において能媒介性を有つ「端初」「嚮に、或る意味では「ミニマルなエンドクサ」たる「フェノメノン」が「端初」であると申したのは即自的な端初(始元) (ファング)の謂いであり、当のエンドクサが必ずしも端初ではないと申したのは、即且対自的な端初(原理) (アルケー)ではないことの謂いであったこと、今やこのことを御諒解いただけたと念います。即自的な直接性におけるフェノメノンが“原始函数”的構造性において被媒介性を対自化され、「四肢的構造成態としてのフェノメノン」という相で即且対自的に統一されたもの――そして“原始函数”的規定性において能媒介性を有つもの――、これがわれわれの体系構成における「端初」たるべきものです。」393P
「われわれ」の途行きによる認識の向上「即自的な“端初”たるフェノメノンが「読者」においてそれの被媒介的な存立構造を対自化されるのは、ミニマルなエンドクサの当事(「エス」のルビ)意識態勢を「著者」が分析してみせることに負うてですが、当初的局面にあっては「読者」の意識態勢はミニマルなエンドクサの「当事的意識」一般と重なっておりますので、「著者」による「エス」の分析を「読者」が“共犯的に”理解するかぎり、それはとりもなおさず「読者」の自己分析的対自化にほかなりません。――当の事態は「エス」に関する「著者」と「読者」との協働的分析という視角で把え返せば、「エス」に対する「われわれ」の認定だと言うこともできます。但しこのさいの「われわれ」は、当面の叙説準位での“著者”と「読者」とが形成するものであって、直ちに最終的な“絶対的”学知としての「われわれ」ではありません。「われわれ」そのものが累進的に形成され向上して行く構成になります。」393-4P
分科的諸部門における「同趣」の措定「以上では“第一哲学”の次元における「端初」の設定をめぐって申し述べましたが、――行論中マルクスの『資本論』を引き合いに出すことが許され得ると迂生が考えた所以でもありますけれども――、迂生としては、分科的諸部門においても構制上は同趣的だと考えます。成程、“同趣”という言い方は軽率かもしれません。分科的諸部門の体系構成は、第一哲学によって(従って、第一哲学の端初によって)先立たれているのですから、分科的諸部門の“端初”は“上位”の学理体系から帰結的に“導かれる”と言わるべき所以です。体系が完成している暁には慥かにその通りです。しかし、当面、或る領域的体系がひとまず志向される場合には、そこでの「領域的アルケー」の設定の仕方については、当該の主題的領域を学理的分科領域として劃定せしめるかぎりでのエンドクサのミニマムを即自的な端初としつつ、当該領域に汎通的に妥当する普遍的函数態で以ってそれを概念的に措定し返すという手続が採られるべきであること、この含みで、“同趣性”を嚮に申した次第でした。」395P
まとめと次節へのつなぎ「原基的に言えば、しかしながら、慥かに、個別的な分科領域での先行的な体系化は全体的体系の構成の途次における“下向”的手続の一環に位置するのであり、弁証法的体系構成法一般を問題にする次元においては“領域的原理”をも「上向法」的に“導来”するのでなければなりません。今や、この件をも含めて、「端初」からの体系的「展開」の機制について論攷すべき次序を迎えている次第です。」395P「上向」と「下向」の相互作用的弁証法
三 叙述体系の真理必然性と論理必然性
第一段落――これまでの便での論攷とのリンク 395-9P
(この項の問題設定)「体系的「展開」の論理、われわれの場合で言えば“原始函数”の“充当的展開”の論理構制について、構図的には既に第五・第六便で申し述べておきまた。そして「下向」と「上向」との双方を念頭におきつつ、第七・第八便で“原始函数”の“整型ならびに充当”の判断論上の構制を問題にし、さらには「変化の当体」および「存在様相」という論件をも射程に入れながら、第九・第十便で体系的展開上の述定要件を勘案していたつもりです。本来ならば、これを承けて、弁証法における「運動論」とその「様相」規定、ひいては「法則論」を開陳しつつ、それを第十一便で述べた「論理的(規則的・当為的)必然性」の問題とリンクさせる仕事に立入るのが順序ということになります。これは迂生の場合、「命題的事態」と「事象的事件」との関係という重要な論件に通じるものであり、回避を許されぬ課題です。ところが、本簡の前置きの部分で申しました通り、この課題の前件となる「時間論」「空間論」「運動論」ひいては「法則論」の根幹に関わる問題について、雨宮民雄氏の画期的と想われる新理論が目下のところ未発表の状態で既在するという過渡期にありますので困憊(こんぱい)を禁じ得ません。けだし、前記の重要案件について卑見を書き綴る予定を一時宿題に廻し、この連続書簡を忽卒(こっそつ)に一旦“閉じる”ことにした所以でもあります。斯様な“ハプニング”もあって、体系的展開の論理構制を詳説することは姑(しばら)く差控え、さしあたり、既述の諸論点を統轄しつつ、前便から持ち越した論件に応えるという域で当座の責めを塞ぐことで次善といたしたいと念います。」395-6P
ヘーゲルの止揚としての「原始函数」態「偖、第五便で紹介しておきました通り、ヘーゲルは「論理学」の「有論・本質論・概念論」に応じて「移行・照映・発展」という一往別々の展開機制を挙げるかたちをとってはおりますけれども、「発展」の論理において前二者を“綜合”する配備を示します。ヘーゲルの謂う「発展」の論理構制は、歴史性と論理性とを“統一”した一種の「有機的成型」になっており、マルクスが厳しく批判する難点を免れません(註)。とはいえ、かの偉大な弁証法的体系家が“錯認”に陥りつつも、ともかくもそこで樹てている「発展」の構制、「有機醸成型」の構制には「成素複合型」の普通の構制とは異質な、依って以って彼の「具体的普遍」を支える積極的な構案が孕まれております。われわれとしては、彼の誤てる存在論的了解を棄却しつつ、その積極的な構案を受け留めるかたちで、「原始函数」の“充当的展開”の構制を立てた次第でした。」396P
(註) 前述した宿題Aの「三位一体的展開」ということのとらえ返しの第二弾――少なくとも「歴史性と論理学」の一体性は、著者ははっきりと批判・否定しています。わたしはそもそも、「三位一体」というとらえ方自体が実体主義であり、このあたりは「相作論」的なところでとらえ返す必要性もあるのではと、とりあえず考えています。
「函数的措定」としての「上向法」の端初「“原始函数”の“充当”、降っては、“函数的措定態”の“充当的展開”の判断的機制は、構図的には、第七・第八便で述べたかたちをとります。が、アクチュアルには、これまた「著者」と「読者」との協働的営為に俟つものであり、それは、しかも、決して単なる「分析判断」として進行するものではなく、「綜合判断」でもあります。――成程、“原始函数”が“函数的普遍”であり、「下向」の成果であるかぎりで、「著者」にとっては展開は「分析判断」的ですが、「読者」にとっては――“総合判断”的な新知見の現成として覚識され、それを論理的脈絡に即して反省することにおいてはじめて「分析判断的」な関連性が対自化されるに及びます。但し、右に「的」と記した所以でもありますけれど、“著者の側にとっては分析”“読者の側にとっては綜合”という具合に悟性的に振り分けてしまったのでは実状に合いません。“充当”はそれが「充当」であるかぎり、「分析的且つ綜合的」です――。(このあたり、統計学的手法による、函数的連関態の変数探しのシュミレーションモデルに通じる事かと考えていました)。「端初」の場面において、フェノメナルな世界現相の原基的な規定性が「四肢的構造成態」「四肢的契機の相互媒介的な関係の統一態」という相で対自化されること、これが即ち、視角をかえて“原始函数”の側に定位して言えば、“原始函数”そのものの第一次的な充当にほかならないわけでして、この「充当」が「分析的で且つ綜合的」であることは見易いところです。判断的措定「SハPナリ」(今、議論を簡略化するために「超(「メタ」のルビ)文法的主辞−賓辞」関係をもこの標記に含めます)は、第八便で詳しく論考しておきました通り、「Sハ(○○という契機に即して)Pナリ」という構制になっており、これを更に分析していえば、「○○という規定性を依って存立せしめる所以の対他的反照関係において、S(の○○という規定性)ハ“函数”Pの“特定値”デアル」ことの認知という構制になっております。もう少し簡略に表現すれば、「Sハ(○○という規定性の相で内自化される対他的関係性に即して)Pナリ」という構制になります。判断的措定は、このような構制になっている以上、よしんばフェノメナルに見出される規定性を分析的に覚識しているつもりでも、しかじかという特定の述語(他の述語ならざる当の述語規定)で賓述する規定性において対他的反照という契機(つまり、主語そのものから「分析判断的」に引き出すことのできない契機、この意味でカントの謂う「綜合判断」的モメント)が介在し、この故に「綜合的」であることを免れない次第です。」396-7P
“原始函数”の“充当的展開”としての上向「われわれの場合、“函数”の“充当”というのは、判断の機制に即してその実態を言えば即自的なフェノメナルな与件についてしかるべき述語(これは事柄の本性上“函数的概念態”)を以って述定することにおいて、与件を述語=“函数”の“特定値”として認定するという機制に応ずるものにほかなりません。――“原始函数”の“充当的展開”という言い方にはミスリーディングのところがありますけれども、右に記した機制からもお判りいただけるように、われわれの体系構成にあっては、アルケーたる“原始函数”とやらがヘーゲル式の主体=実体として自己展開するわけでは毛頭ありません。ヘーゲルの謂う「発展」のように「観望」では済まない所以でもあります。このことそれ自身については今更コメントは不要だと思います。が、次の点だけは銘記しておくべきかもしれません。それは、ヘーゲルの場合、アルケーたる絶対者がいつも一貫した“主語”でありつづけ、述語的措定はその都度すべて当の“主語” (基体=主体)に関する「定義」だという建前になっているのに対して(因みに、この建前のもとに主体=実体の自己定立的展開と称するところから“歴史性と論理性の悪しき統一” (宿題A)の構制や「自己展開の観望」という構制が帰結するわけですが)、われわれの体系構成にあっては“原始函数”がいつも主語に立つわけではないということです。なるほど、体系の全体が “原始函数”の“充当態”であるという意味でなら、アルケーたる“原始函数”が一貫した“主語” (主題=当体)であるという形式的な議論が成り立ち得ます。しかし、われわれの謂う“原始函数”は幾つかの“項”から成る“函数”態だとはいえ、“項”は定項でないどころかそれ自身“函数” (剴切には“函数の函数” (錯分子構造、函数内函数))なのであり、局面局面で“項”の“充当”がおこなわれるわけです。しかも“原始函数”の“項”が直接主題的に充当されるのは原初的局面でのことであり、展開の途上では“原始項”という“函数”を形成する諸項(さらには、この項という函数を形成する諸項)が主題的に充当されます。上述の通り“項”への充当は、大きな視野でみれば“原始函数”の項の充当、遡っては“原始函数”の充当に違いありませんけれど、その都度の直接的主題は大仰に原始函数と言うには及びますまい。このさい、併せて申しておけば「抽象化的−具体化的」「下向分析的−上向綜合的」ということは(「上向法」「下向法」という大局的な次元でいえば「上向法」を採るマルクスに倣うのがわれわれの態度ですが)、大筋としての「上向」的展開の途次で適宜に活用することが許されるものと思います。マルクスの上向法においても恐らくそれが許容されている筈です。その場合、原理的に言えば、「上向」的展開の途次で用いられる「抽象的」「下向分析的」な手法や論述は、体系構成的展開そのものには内属せぬ“傍白的説明”と呼ばるべきかもしれません。このことは認めるに吝かでない心算です。しかし、いずれにしても弁証法における体系的展開は、形式論理的な演繹的推理の“一本道”ではないのですから、“傍白的斜坑”が“網(「もう」のルビ)様化”したとしてもそのこと自体をあながちに厭う謂われはありません。(「有機醸成型」の体系構制に射影して言えば“進化系統樹式”になると言えるにしても、われわれの場合、諸枝節の“生態学的相関規定”を要します)。勿論、論理的循環に陥ったり、不必要な重複を来たしたりすることのないように留意すべきですし、体系的均整美ということも勘案されてしかるべきでしょう。そのかぎりでは斉一な「上向」が望ましいにしても、“函数態”の“諸項”を同時並行的に歩調を合わせて上向的に規定して行こうとするのは、至難であるばかりか、徒為な労苦を負わせかねません。要は、「具体的普遍」を可及的円滑に対自化して行く配備に懸っており、論理的に許容されるかぎり、形式性に拘泥する必要はないと考える次第です。」397-9P
第二段落――「判断的措定」の“真理性”と「推理的連鎖」の“必然性” 399-402P
(この項の問題設定)「上向法的な展開は、形式性そのことに拘泥する必要はないにしても、論理的“必然性”の要求を伴います。では、弁証法的体系構成における論理的“必然性”の要求、および、真理性の要求に如何にして方法論的に応えるのであるか? 前便から持ち越したこの問題に答えつつ、議論の具体化を図ることにしたいと念います。/順序として、まず「判断的措定」の“真理性”、「推理的連鎖」の“必然性”の問題を考えることにしましょう。」399-400P
下向を含み込んだ上向法的展開「われわれの謂う「展開」は、“原始函数”の“充当”からして既にそうですが、“函数態”の逐次的“充当”という機制で遂行されるとは申しましても、実際の手続としては、上述しました通り、それは与件的主辞対象を当該の函数態たる所知規定性に応ずる賓辞で述定するという「判断的措定」によっておこなわれます。(ここでの「判断的措定」を「換位」するとき“函数の充当”というかたちになる次第です)。この判断的措定によって、即自的な規定性が対自化され、概念的規定態へと転成します。(人は、このさいにみられる機制は、むしろ「下向」になるのではないかと言うかもしれません。迂生としては、或る意味ではそれを認めることもできます。但し、最も没規定的なフェノメノンからスタートするのであること、また、「判断措定」は一般論として「超文法的」な主辞−賓辞関係の次元でみれば、やはり“没規定的”[正しくは“規定以前的”])なxがx als(a)という相に「具体化」されるのであること、この故に、原理的な機制に即して言えば飽くまで「上向」的です。成程、この言い方では、「下向」といえども、「超文法的」な次元にまで遡ればその都度常(「つね」のルビ)に「上向的」だと言い倣しただけではないか、と反問されるかもしれません。或る意味では慥かにその通りであり、嚮に「下向分析的−上向綜合的」の相補性を云々し、両契機の一種独特の“綜合”を云々した際には、実はこのことをも念頭に置いていた次第なのです。しかしながら、基本路線としては、最も没規定的なフェノメノンを「端初」的与件として出発しつつ、「上向的」措定によって成立した規定態を次のステップでの主辞与件として次々と“綜合判断”的に具象化していくのですから、やはり「上向的」構制になっていると認められざるを得ないはずです)。」400-1P
「判断措定」の“真理性”の保証「われわれの場合、上述のごとき“充当的展開”の構制からして、その都度における「判断措定」の“真理性”の保証が愈々重要な条件になる次第でして、そこで判断的措定の真理性の認証がどのような機制で現におこなわれるのかということが茲で問題になります。/日常的思念においては、「SハPナリ」という判断的措定の真理性は<SはPである>という事態が“現に”“客観的事実”であるかどうかで決まるものと考えられています。人々の日常的思念で<SはPである>とい客観的事実が厳存するかぎり、「SハPナリ」と判断をくだすべき(そして「SハPナラズ」と判断すべからざる)当為(「ゾレン」のルビ)的必然も存立するとされます。このさい、人々は「SハPナリ」という判断は主観の側に属する表象結合であると考え、<SはPである>という事実は客観的に自存するものであるとみなし、これら両者の「照応的合致の確認」という構図で真理性の問題を考えているわけです。これは「表象と事物との一致」という伝統的な真理観にもかなった想念であり、この想念を支える錯認の構造に鑑みるとき、それが根強い既成観念をなしていることも決して謂われなしとしません。がしかし、判断的措定態というのは、果たして、各人の“心”とやらの内部に在る“表象結合”なのでしょうか? 第八便で指摘しておきましたように、判断的成態を以って単なる“表象結合”とみなす思念そのことが実情に適っておりません。」401P
「判断措定」の“真理性”に関する哲学者たちの論考「哲学者たちは、そこで、カントの時代このかた、日常的・伝統的な判断観を卻けるようになり、それに応じてまた真理観をも漸次的に更新するに至りました。学史上の経緯などは一切省いて、構図だけを申せば、「SハPナリ」という判断は、超文法的な次元に遡って分析すれば「与件コレはSナリ」「SなるコレはPなり」という機制になっていること、この判断構造に留目しつつ、論者たちは、判断とは客観的な与件(コレと指称される所与)に超文法的賓辞で表われさる“表象”ないし“概念” (という“主観の側に本来属するもの”)を“投入”hineinlegenすることだと、と主張します。迂生としては、原理的な立場性においては、この判断観をも卻けます。(結合説・投入説の批判)――因みに、ヘーゲルも『小論理学』のなかで、次のように書いてこの判断観を批判しております。「判断というと、人々はまず、主語と述語という二つの項の独立を考え、……述語は主語の外部に、われわれの頭の内部にある普遍的な規定であって、両者を私が結合することによって判断が成立すると考えている。しかし、“ナリ”という繋辞が主語について述語を言い表わすことによって、外面的・主観的な包摂作用はふたたび否定され、判断は対象そのものの規定ととられるのである。」「判断は、主語が即自的にそれであったところの述語規定性を対自的にするのであって、述語と主語と外面的結合関係におくのではない」云々。迂生としては、ヘーゲルのこの言い方にも満足できません。“ナリ”という繋辞が……という議論では事態の構造が説明されていないからです――。」401-2P
第三段落――判断的成態や命題的事態の構造をとらえ返す 402-4P
(この項の問題設定)「迂生としては「主観−客観」の二元的対立性を初めから前提してしまうことなきフェノメナルな事態に定位しつつ、判断的措定における意味構造に即して判断的成態や命題的事態の構造を把え返す態度をとりますので、“投入”説の立場とは前提的了解の場面で既に相岐れます。しかしながら、『事的世界観への前哨』所収の「カントと先験的認識論の遺構」で論じておきましたように、“裸の客観的事実”が眼前に転っているかのような謬見を卻け、客観的事態と称されるものが既にいわゆる“主観”の側によっても媒介的・反照的に規定されているという事情を表明する方便としては(“先験的主観形式”なるものを「共同主観的に形成される意味形象」として把え返したうえでの話ですけれど)一往のところ“投入説”に仮託して議論を進めることもできます。――迂生自身が「判断的成態」や「命題的事象」(対象的事態)なるものについて、正規にはどういう構制で考えているかに関しては拙著『世界の共同主観的存在構造』所収の「判断の認識論的基礎構造」および『もの・こと・ことば』所収の「意味の存立と認識成態」を看て頂くことにして、ここでは暫く右に謂う“便法”を採ることで次善といたします。」402-3P
共同主観性論「慮れば、人々は、判断的認識に先立って、<SはPである>乃至<SはPでない>という対象的事態・客観的事実が独立自存しているものと思念しております。慥かに、対象的事態は、各個人におけるその都度の判断的措定にとって既存の相で意識されます。対象的事実は、個別的主観が“勝手に”思い抱く単なる“表象”とは別異の存立性をもっていること、それは慥かだと申せます。がしかし、<SはPである> <SはPでない>という対象的事態なるものは「能知」の側と全く独立に自存する“裸の与件”ではなく、既にして判断的措定によって媒介されて存立するものです。それを自存的な存在とみなす一種の物象化的錯認であると言わねばなりません。この物象化を前提にするかぎりにおいてのみ、個々人の判断的措定と対象的事態との合致ということを以って真理性を云々する議論も成立します。しかし、物象化した相で映現する原事態に即して言えば、それは共同主観的に向妥当する「所与−所知」成態であって、判断的措定の真理性とは、実態においては、当の判断の共同主観的対妥当性(旧来の認識論、なかんずく、カント学派の用語法でいえば、「意識一般=認識的主観」に対する対妥当性)にほかなりません。(この点については前掲の拙著でも一応ふれてはおりますが、井上忠氏編『哲学』弘文堂刊、所載の拙論中「第三節、存立説から妥当説へ」を参照ねがえると御理解を得易いかと思います。われわれの立場では謂う所の「認識論的主観」なるものが歴史的・社会的に相対的であること、われわれの立場では「先験的主観性」とは共同主観性にほかならないこと、このことは申し添えるまでもありますまい)。」403-4P
共犯性「是を以ってみれば、「上向」法的展開を支える判断的措定の真理性は、「読者」が「著者」の提題を承けて“共犯的”に「認識論的主観にとっての対妥当性」の相で当該命題をBeurteilen (判断)することに懸っております。」404P
まとめ「爰において、「われわれ」が真理性の要求の衝迫に由って当為必然的に措定する判断は、既成的事態なるものの模写的追認ではなくして、まさしく「対象構成的」であり、前便に謂う「判断的措定と対象的相在との相互媒介性」がそこに存立する次第なのです。」404P
第四段落――弁証法の形式論理学のアウフヘーベン的取り込み 404-8P
(この項の問題設定)「上向法的展開おける推理連鎖は、右に述べた構制での“真理必然性”の要求という一種の当為必然性のもとに成立するものであり、公理演繹法の流儀での単なる“論理必然性”に由るものではありません。とは申せ、弁証法といえども「矛盾律」その他のいわゆる 形式論理上の「規則」を顚から無視するものでなく、それをアウフヘーベンしたかたちにおいて“取り込んで”いることは前便で申し述べた通りです。このかぎりで、一種の“論理的・規則的”な必然性、推理的連鎖の“正当性”をめぐる問題が弁証法の場合にも一応は存立します。」404P
矛盾律のアウフヘーベン的取り込み「弁証法的体系における論理的展開にあっては、形式的な論理規則なるものを絶対的な規範としてあらかじめ前提することなく、原理的にはあくまで、その都度の判断的措定の真理性を規矩(きく)とする態度に徹しますので、事柄に迫られるかぎり、矛盾律の“干犯”をも辞しません。正確に言い換えれば、矛盾律が厳密には妥当し得ないことを“真理性”に基づいて指摘します。――いつぞや申しました通り、矛盾律の厳密な妥当性ということは、不変不易で自存的な存在界(少なくともそのような“世界要素”)の現存を前提するわけですが、例えば数学的世界などのごときイデアールな存立界(つまり、それ自身としては実在しない想定的所知界)は別として、現実世界は「万物流転」の相にあり、しかも「反照的関係規定態」である以上、現実界に関しては矛盾律の存在論的前提条件がそもそも充たされません。矛盾律が前提する“対象的同一性”は原理的な次元で言うかぎり、一種の暫定的・便宜的な(悟性的手続上の)劃定にすぎない所以です――。弁証法的論理においては、矛盾律の原理的妥当性を認めない以上は、例えば「帰謬法」(背理法)のごとき手続も原理的次元では用いることができません。原理的には、定立の側と反定立の側とをそれぞれ真理性に即して検討する必要のある道理です。そして、立入って検討するとき、当初の悟性的劃定そのことの限界性が対自化され、当初の推定・反措定の単位そのものがアウフヘーベンされます。」404-5P
「対話」の成立条件として論理的“規則”「茲で論題にしておかねばならないのは、「著者」と「読者」との「対話的構制」をわれわれが云々する以上は、「対話」の成立条件として論理的“規則(「ルール」のルビ)”が“前提”されざるをえないという事情に関連する次元においてです。/フェノメナルな即自的端初に定位しつつ著者と読者との対話が開始されるその場面において既に一定の“規則(「ルール」のルビ)”が存立していなければそもそも対話が成立しえないことは前便で申した通りです。「著者」と「読者」とが「言語(「ラング」のルビ)」を共有していなければならないことをはじめ、前便で挙げた最小限の要件が、体系的展開の当初的場面から要求されます。学知的反省の見地からいえば、そのかぎりで、一定の“論理的”規範・規則が前梯になっていることを否めません。それでは、当の論理的規則を体系構成法上どのように位置づけるのか? これが当面する問題の焦点になります。」405-6P
言語的前提とその他の規定すること「偖、論述が宙に発せられた単なる言葉に終わることなく「論述」として実効性をもつためには「読者」の理解に俟たねばならず、従って、論述は体系以前的なものですら「著者と読者とが一定の言語的規則を“共有”していること」を要件とします。この「論述上の条件」からして、およそ体系的叙述なるものは、必ず一定の言語的規則を前梯にするのであり、われわれの場合も勿論、その範に漏れません。しかし、唯今大仰な言い方をした事柄の内実は、実際問題としては「言語(「ラング」のルビ)」を前提するという当然事に尽きると言って突き放すこともできましょう。それにもかかわらず、敢て仰山な言い方をしたのは、勿論魂胆があってのことです。――言語的規則、つまり、意味論的・語用論的な規則のうちに、一定の論理的規則が即自的に含まれております。従って「言語」を前提するということは一定の“論理的規則”を前提にしてしまっていることを意味します。そこでもし、「人工言語」で叙述するとすれば、その「人工言語」はそれを規定する自然言語を更に前提するわけで、そのさいの前提は多段的になります。尤も、内容的にはその場合のほうが前提事項が少ないというのが実情かもしれません。が、その場合には、自覚的に規定された規則を前提にすることになりますので、出発点において既に「より多く」の自覚的規定性を立てる仕儀になります。このゆえに、自覚的な規定性を可及的に排却してフェノメナルな場面から出発しようというわれわれの志向にとっては、「人工言語」ではなく、「自然言語」の使用から出発するのでなければ馴染みません。」406-7P
更なる問いと答え−真理性の対自的とらえ返し「我々の場合、こうして「自然言語」を与件的前提とし、そのかぎりで、そこに即自的に“含まれて”いる一定の論理的“規則”を前梯的に受容する所以となります。そうなると「端初」はフェノメノンだけではないことになるのでしょうか? 答は、こうです。既成の「自然言語」を用いざるをえないというかぎり、メタ・レベルで省察すれば、われわれは体系的展開の当初から一定の論理的規則を“前提”していることになるが、しかし、それはメタ・レベルの省察に属することであって、体系そのものの内部に最初から“体系内規則”として配位されているわけではない云々。そして、謂う所の言語内在的な論理的規則のうちにいわゆる矛盾律などが含まれているとしても、それは“暫定的”な規範的ルールであって、上述の“真理性”の規矩に基づいて,当のルールそのものがやがて検討され、対自的に規整される運びとなります。」407P
サンクションの中で形成される共同主観性「弁証法的な体系構制においては「展開」を認証する“最終審廷”は、推論の形式的規則ではなくして、判断的措定の場における上述の当為的必然性の覚識に置かれると申せば趣意を簡潔に表明できるかもしれません。ここに謂う“真理性”の要求の衝迫のもとでの判断的措定の当為(不許不(「ゾレン」のルビ))的必然性の覚識、これが肯定的・否定的な判断にさいしての態度決定を規制するものにほかならないのですが、この当為的必然性はもはや“規則(「ルール」のルビ)”を自覚的準縄としての必然性ではありません。それは発生論的な機制に即して言えば、間主体的な実践的交通の場でサンクションを通じて形成される一種の“深層催眠的な”機序(註)であり、この歴史的・社会的・文化的相対性の埓内で個々の認識主観が所謂「認識論的主観」へと間主観的=共同主観的に自己形成を遂げて行く過程と相即的に成立するものです。この件に立入ることは、しかし、実践哲学的な「価値」次元の主題化を要求しますので、(『世界の共同主観的存在構造』所収の「デュルケーム倫理学説の批判的継承」および「歴史的世界の協働的存立構造」の参看を願うことにして)ここでは“臆言”のかたちに止めます。」407-8P
(註) これは、わたしの「吃音者」としての当事者性の問題での、「二次性の(高次化した)吃音」として(わたしはそれ以前に吃音的話行為を常態化していく過程において、サンクションが機能していると押さえているのですが)、深層心理的な「どもるまいとしてどもる」という行為に剴切に当て嵌まります。なぜ、そのようなことをするのか、というところで、吃音自体を「障害」としてとらえるこの社会の「常識」があるのですが、これこそがまさにサンクションを押さええない物象化だとわたしはとらえています。
第五段落――最後のまとめ 408P
「「著者」と「読者」との対話的構制による体系構成の展開相を範式化するにあたっては、主題的与件がフェノメナルに“表象”的次元で現前する場合と主題的与件そのものが既に「概念」化されている場合との位相差に応じて方法論的に配慮さるべき事項の勘案をも要しますし、弁証法における体系構成法を周到に論攷するさいには当然関説すべき論件が猶いくつも残っておりますが、それに立入るためには、因果論的法則性や運動論的存在様相の定式、「命題的事態」と「事象的事件」との関係づけ、等々、――嚮にお断りしたような事情から姑く“宿題”に廻した(註)――これら一連の論件が先決問題になりますので、ここでは取敢えず、「端初」の設定ならびに「展開」の論理の基幹的構制について卑見を一通り綴ったところで、ひとまず擱筆することに致します。」408P
(註) この「“宿題”」は、雨宮民雄論文に関して「論攷中」ということで棚上げしたことを指していると思われます。395-6Pこれがその後どうなったか、とりわけ、『存在と意味』に出てこないか、宿題Cとして自らに課します。ちなみに、宿題@Aに関しては、一応中間的意見として書きました。Bの「ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とのあいだにパラダイム転換はあるのか?」ということは、引き続いている課題として検証していきます。――(追記)ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とのあいだにパラダイム転換はあるのか?」という問いに関しては、廣松さんは『存在と意味』の中でパラダイム転換を主張しています。
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(8)
第十二信「叙述体系」と著者・読者
(この便・章の問題設定)「この書翰はヘーゲルやマルクスの体系構成法を解説するものではない旨を最初からお断りしておりましたものの、迂生のひそやかな心積りでは、マルクスが『資本論』でとっていると思われる「上向法」について多少なりとも立ち入る予定でおりました。」368Pとしつつも、「別稿を期した方が良さそうです。」368Pとして、「もう少し積極的に言えば、学兄が『マルクス主義の理路』第一部および『資本論の哲学』を本翰と読み併せてくださる際には、迂生の想い描くマルクスの体系構成法の輪郭が浮かび上がることかと信じます。」369Pとしています。実際には『資本論』の体系構成法についても導入的に触れています(「二 著者と読者との「協働」的概念把握」)。
さて、もう少し先送りにする課題を出しています。「尚、弁証法における「運動論」「因果論」の処理に関する件ですが、この問題を「存在様相」論と絡めて討究する心意をいつぞや申し述べておきましたけれど、これは暫く留保したいと念います。と申すのは、最近ふとした機会に雨宮民雄氏(東大文学部哲学科助手)が恐らく画期的と呼んでよい時間論・空間論・運動論の構築を懐いておられることを知りましたので、雨宮理論を本格的に検討したうえで、卑見を固め直したいと考えてのことです。(雨宮民雄「アキレスと亀――運動論の再構築のために」『現代思想』一九七九年十一月号)。迂生の理解するかぎり、氏の時間論や運動論は拙著『事的世界観への前哨』所収の「時間論のためのメモランダ」その他における暫定的な着手の撤回を要求する態のものと迄は思えませんし、第九便で「変化の当体」にふれた所論を廃滅するものとも思いませんけれど、迂生としては氏の新理論を勘案したうえでなければ軽挙に過ぎると憚る次第です。時間・空間・運動については、当然『存在と意味』のなかでもふれますが、雨宮理論が一通り発表された時点で、主題的な一文を以って答えることにしましょう。」369P
一 体系にとっての「端初」とエンドクサ
(ここまでの便とのリンクと、この節の問題設定)「爰ではひとまず、第六便までに申し述べた一連の事項を念頭に置いて頂くと便利です。「上昇」「下降」の問題、「端初」の設定と「展開」の論理、併せて、ヘーゲルにおけるfür esとfür unsの構制、さらには、ヘーゲルが事実上“仕掛け”ている著者と読者との、いな“読者”と裡なる“対話”の機制など……」370P
第一段落――学理体系は“読者”の“共犯的”理解を俟って甫めて存立すること
「学理的体系というものは仮令(「たとえ」のルビ)創唱者が発表したとしても、誰からも理解されないとすれば存在しないも同然ですし、学理体系は“読者”の“共犯的”理解を俟って甫(「はじ」のルビ)めて存立します。この意味において、学理は“著者”と“読者”との協働によって成立するという言い方さえ可能なほどです。ところが、旧来の体系構成法にあっては、理論体系が発表されさえすれば、まるで哺乳ビンで流し込むかのように“読者”に受け留められるかのごとき暗黙の想定になっている看があります。なるほどロギケー(Logiker論理学者)と区別されるレトリケー(Rhetoriker修辞学者)がギリシャ以来あり、印度では為他比量の論理が発達したにしても、体系的展開の方法論そのもののうちに“著者”と“読者”との対話構制を自覚的・方法的に組み込むという配備はなかったのではないでしょうか。このような配慮は、たかだか、説教や教授の技術に関わるものとしてしか扱われてこなかったように見受けます。迂生としては、しかし、単なる文章作法上の技術的配慮という域を超えて――この域ならば、なるほど体系的叙述で多かれ少なかれそのことを勘案しなかったものは却(「かえ」のルビ)って無かったと申すべきでしょう――著者と読者との“対話的構制”を体系構成法そのものに方法論的に組み込んでしかるべきであると考えます。」370-1P
体系構成法の“権利”上の限界性の対自化「この提言はとかく技術的な次元のこととして受取られるのではないかと不安です。が、迂生が申しているのは、「端初」の設定や「展開」の論理そのことの実態を直視しつつ、体系構成法の“権利”上の限界性を対自化する次元の話です。もしも、絶対的端初があり、また、絶対的論理があるとすれば、託宣の流儀で叙べれば済むかもしれません。(往時の著者たちは慥かに託宣の流儀で述べました)。だが、しかし、原理にせよ論理にせよ、それが歴史的・社会的・文化的に相対的であり、たかだかエンドクサ(広汎に承認されている思念)にすぎないとすれば、端初の設定にしろ論理の展開にしろ(単なる技術上ではなく事柄の本質上) “著者”と“読者”との“共犯的”な暫定的営為でしかあり得ない道理です。――勿論、著者と読者との対話的構制を方法論的に組み込むということは、パラダイムの歴史的・文化的な相対性の自覚というメタ・レベルでの省察ではなく、現に止往するパラダイム的地平の内部での配備に懸かります――。」371P
エンドクサからの弁証法的展開「学理的体系は、しかしエンドクサを単に追認するものではありませんし、そもそもエンドクサなるものが単純に追認するような形で転ってはおりません。苟くも創造的な理説であるからには、エンドクサを準拠枠(frame of reference)にせざるをえないという基底的な構図を免れることこそ、不可能だとしても、既成の諸々のエンドクサをも批判的に卻けつつ新しい見解を押し出す(geltend machen)のであり、“著者”としては世間的意識にとって(für es)既成的な“知”を批判することにおいて“読者”の当初的な“知”とも対質する所以となります。」371P
「著者と読者」との対話的構制ということと「für esとfür uns」という構制とのリンク「爰において「著者と読者」との対話的構制ということと「für esとfür uns」という構制とがリンクすることになります。「読者」と「世間的当事意識」とが重なるのは、厳密に言えば当初的局面だけだとも申せますが、実際問題としては“知”の主題的方向ごとに“討究の初期的各位相ではその都度両者がほぼ重なる”と言うこともできましょう。「読者」は或る時には「当事意識」(es)と重なり、或る時には「著者」と偕(「とも」のルビ)に「われわれ」(wir)を形成しつつ、esの“知”を批判的に止揚します。精確に言えば、「読者」は「著者」との“対話”を通じて「エス」の準位を自己止揚しつつ、「著者」とのあいだに「われわれ」を形成するわけですが、この過程の進行を通じて「われわれ」の“知”的準位が高まって行き、最終的に「著者」の体系知と合一するに及びます。」371-2P
ヘーゲルの観望と対話の両面性「抽象的・図式的議論から、そろそろ具象的な議論に移る運びですが、以上の図式的な立論に縁って、学兄はヘーゲルが右に申し述べた構制の或る部面を彼一流の仕方で、「神秘化」(マルクスが批判して言う意味でのMystifikation,mystifizieren)しつつも、巧みに活用している次第を想起されたことと念います。――ヘーゲルは、なるほど「著者」「読者」ということを明示的には持出しませんし、彼の謂う「われわれ」(wir)にも多義的なところがあります(そのひとつが「観望」なる概念です)。しかし、『精神現象学』の場合、彼は「われわれ」と称する“学知”その実は“著者”の体系知の最終的な高みを神的な“絶対知”と僭称しつつ、「当事意識」(es)を順次的な「経験」を通じてそこへと高める手続を採るわけですが、それは「読者」をesのドクサの準位から当のドクサの内在的な批判を通じて「著者」のエピステーメーの準位へと“共犯”的に高める仕組みにほかなりません。――尤も、第三便で指摘しておきましたようにヘーゲルは『精神現象学』においてすら「われわれ」(wir)には「観望」(zusehen) (註)しかさせない建前をとっており、従って彼の建前からすれば、対話的な構制は積極的には存立しないことになっております。だが第三便で申した通り、ヘーゲルの立論を「読む」者は、或る時には当事主体の立場に身を置き、或る時には著者たるヘーゲルの立場に(われわれということで捲き添えにされて)身を置きます。ヘーゲル自身は、当事主体と積極的に対質しませんし、自分の見解を強引に押し付けることはしませんが、「読者」は当事主体の立場と著者(ないし「われわれ」)の立場とを対話させます。例えば、「これは個別である」という一者の主張と「これは普遍である」という他者の主張との“内なる対話”的対質です。読者は、この内なる弁証法的対話を通じて、自ら“向上”します。それも、著者ヘーゲルの論述に納得するかぎり、当事主体の寄りの見解から「れれわれ」寄りの見解へと進みます。「われわれ」は決して一気に高尚な反措定はしませんから、一歩一歩、引き上げられていくことになります。当事主体寄りの見解から「われわれ」の別見を勘案した見地へ向上が達成された新しい準位、それが次のステップでの当事意識の次元とされ、そこであらためて「われわれ」の反措定を機縁とする“内なる対話”が読者の“内”で進行する。『精神現象学』では大略このような仕掛けになっている、と申せましょう。「読者」の“内なる対話”においては、対象的二契機と能知的二契機とが、読者の内的営為において四肢的な構造連関におかれるわけです。こうして、読者は自分の内部で四肢的構造の論理機制を“自演”させられ、この自演的向上を「当事意識」の向上的展開の観眺と見做してしまう次第です。」372-3P
(註)この読書メモをとるに当たって、最初のメモで、いくつかの宿題を課していました。その一つ(宿題@)が、わたしかがfür esとfür unsをひっくり返してとらえ返してしまっていた、という笑い草のような話です。そのことをここで中間的にとらえ返しておきます。ヘーゲルのエンドクサ的観望としてfür unsと、廣松さんのfür unsを区別していなかったところで起きていた錯誤だったのですが、ヘーゲルのエンドクサたる観望としてのfür unsをテーゼとして押さえ、被差別者の当事者性としてのfür esをアンチテーゼとして押さえ、廣松さんのいう第三者的・学的für unsのジーンテーゼへ至る、ヘーゲルの正・反・合に習いつつも、ヘーゲルの限界性をアウフヘーベンしつつ、新たな正・反・合、テーゼ・アンチテーゼ・ジーンテーゼの弁証法的な展開をとらえ返して、わたし自身の反差別論の中で、展開していく必要があると考えている次第です。これは中間総括的な話で、以降の廣松さんの文を押さえる作業をしていきます。
この項のまとめと次ぎ項への誘い「我々の場合、ヘーゲルのように読者を狡智的に操るのではなく、当の構制を自覚的に方法論化しつつ、それを繰り込んで体系構成法を樹てねばならない道理ですが、まずは「端初」の設定の場面から考えて行きましょう。」373P
第二段落――「端初」の設定の問題
(この項の問題設定)「学理的展開においては「端初(「アルケー」のルビ)」(原理・原基)をどう設定するかが第一の大問題であることはあらためて喋々するまでもありません。端初の設定は、学問体系の個別的分野においても勿論真摯に図らるべき方法論上の課題をなしますけれど、「哲学」(第一哲学)の場合にはことのほか深刻な課題をなします。――この間の事情については、プラトンの弁証法とアリストテレスの論証法、さらにはヘーゲルの端初論などに即して、第一便で見ておいた通りです。」373-4P
アリストテレスの「推論」の四種「アリストテレスは、彼の謂う広義の「推論」(シュロギスモス)を四種に分けていることを第一便で紹介しておきました。/第一に「論証」、つまり、「真実なる最初のことどもから出発しておこなわれる推論、ないしは、真実なる最初のことどもから認識の端初がつかまれるような前提を起点とする推論」。/第二に「弁証法的推理」、つまり、「一般に承認されている意見」(エンドクサ) から出発しておこなわれる推論。/第三に「争論的推論」、つまり、「エンドクサのようにみえて実はそうではないもの」から出発しておこなわれる推論。/第四に「誤謬推論」、つまり「幾何学やそれと同類の諸学においてよく起こる」ことだが、「その学問に固有ではあるが真実ではない想定」から出発する推論。/これら四者の相違は、出発点の立て方、端初命題の認識論上の権利に応ずるものです。第四の「パラロギスモス」を「誤謬推論」と訳するのは誤解を招くもとですが、慣用訳に従いましょう。これは普通の意味での“誤てる推理”ではなく、認識論上の権利づけを欠く“個別的諸学に固有の”“公理的前提”から出発する推論であることに留意ねがいます。」374P
アリストテレスの端初論「ところで、アリストテレスは、「論証的推論」(アポデイクシス)の出発点となる「真実なる最初のことどもというのは、他のものの故に[間接的・媒介的]ではなく、それをみずからの故に[直接的・自証的に]信憑されることどもの謂いである。けだし、学知の原理(「アポケー」のルビ)においては、何故にということをそれ以上探究すべきではなく、原理はみずからにおいて信憑されるものでなければならない所以である」と言っています。/実際問題としては、しかし、直接的に自明な絶対的原理「それ自らの故に信憑されることども」を直截に把えることは人間わざでは出来ません。そこで、彼の師たるプラトンは「上昇」(エクバシス)の途と「下降」(カタバシス)の途とを区別し、まずはヒュポテシス(仮説)から出発する上昇の途によってアニュポテトン(仮説ではない)たる善のイデアに到達しておき、この絶対的アルケーから下降するという方法を立てた次第でした。――アリストテレスとしても、藪から棒の議論では駄目であることを承知していたかぎりでは、あの第二の弁証法的推理による“上昇”を考慮しております。「原理というものはすべてのうちで第一[最初・根本]のものであるから、当面の学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、個々のものに関するエンドクサからそれを究明しなければならない。このことは弁証法に特有な、乃至は少なくとも固有な仕事である。弁証法は吟味検討に適しており、それゆえ、あらゆる方法的学問の諸原理へと近づく道を保持している」と彼が『トピカ』のなかで書いていることは、これまた第一便で紹介しておいた通りです。」374-5P
エンドクサとしての端初論「それでは、「弁証法的推理」(ディアレクティコス・シュロギスモス)の出発点となる「一般に承認されている意見ένδόξα」とはいかなるものであるのか? アリストテレスは「すべての人々に、または大多数の人々に、ないしは知者[学者]たちに、そして知者という場合、すべての、または大多数の、もしくは最も知名で評判の知者たちに認められていることどもの謂い」であるとコメントしております。だが、このような「エンドクサ」が実際には第三の「争論的推論」の出発点になる「エンドクサのようにみえて実はそうでないもの」にすぎない惧れをどのようにして免れ得るでしょうか。そういうエンドクサに比べれば、まだしも、第四の「誤謬推理」の出発点をなす「諸学に固有の原理」のほうが信用できるとは言えないでしょうか。アリストテレスとしては、第三・第四の場合には、エンドクサすらないことは一般に承認されているという了解に立っていたものと思われます。その点、第二の「弁証法的推理」は<エンドクサであると思念されているエンドクサ>からの出発ということになりましょう。」375-6P
「学兄は、それでは所詮ドクサにすぎないと言われるかもしれません。考えてみれば、しかし、絶対的な原理にまで「上昇」できるとすれば、出発点は単なる「ドクサ」(臆見)であろうと「エンドクサ」であろうと、あまり気にしなくてもよい筈です。問題の焦点はむしろ、果たして「上昇」の途によって絶対的な原理にまで到達することがそもそも可能かどうかという点です。そして、この件については、ヘーゲルの『精神現象学』における“上昇”の弁証法の論理構制の検討をおこなったさい、善のイデアとか絶対知とかいう“アニュポテトン”に到り着くと言う方法論的な保証がないことを指摘しておきました。」376P
マルクスの方法論「爰でマルクスの方法論が想起されます。マルクスは“上昇”と“下降”の両途(彼の用語法では「下向」と「上向」の両途)を一応区別しつつも、“上昇”の途を学理的な体系構成法からは除外して、もっぱら“下降”的な叙述体系を自覚的に採ります。――第四便での紹介と指摘を想い起こして頂けると便利ですが、マルクスのように、理論の歴史的・社会的・文化的な相対性を自覚する者にとっては、絶対的出発点(下降のための絶対的「端初」) などありえません。或る時代の或る文化圏の人々が“絶対的な原理”だと思念する提題がたとえあったとしても、それは所詮エンドクサ以上のものではありません。勿論、そういうエンドクサたる“原理”から“下降”することは可能です。そして、現に、マルクスとしてはまさにそういう“下降”(彼の謂う「上向」)を試みます。が、しかし、この「上向」はエンドクサからの出発であるかぎり、認識論上の権利においては上昇の途と峻別されるものではあり得ません。/こうして、学理的展開はいずれにせよエンドクサを起点にせざるをえない以上、――そこには、一応、より抽象的一般的な“原理”へ遡行する方法と、より具象的特殊的な“定在”に降下する方法との区別はありえますけれど――“絶対的な原理”への“上昇”と称する方法論的過程は学の体系にとって、必須的・内在的な契機ではなく、たかだか予備的な手続になります。勿論、この過程が全く不用だとか、価値が低いとかいうのではなく、学理的体系(叙述体系)にとっては“埒外”という意味です。マルクスは、このゆえに、「下向の途」(“上昇”の途)を学の方法から“括り出し”てしまい、体系構成法としては「上向」法だけを残します。」376-7P
ヘーゲルの弁証法的途行きの試行「惟えば、アリストテレスが“下降”の途、つまりアポデイクティケーこそが真の方法であるとしたさいには、絶対的アルケーを定立できるという了解のもとに、そのアルケーから出発すれば足ると考えてのことだったのかもしれませんが、ヘーゲルの場合すでに微妙です。彼はなるほど、一旦は学の体系第一部と銘打った『現象学』で“上昇”法を試みました。しかし、後年の体系では、論理学を体系の第一部としつつ、「有」からの“下降”法だけを体系的方法とするに到ります。彼が「円環運動」を云々するさい、折線状の上昇・下降ではすまないことをいちはやく自覚していたと忖度されます。そして、いずれにせよ、絶対的な端初へと上昇しようとする前記の試みも絶対的な始元から下降しようとする後期の試みも、ヘーゲルでは方法論的に成功していないことは確かであり、マルクスが固有の仕方で「上向」(“下降”)法を採ることにしたのはヘーゲルの轍からしても肯綮にあたります」377P
「われわれ」の結論「われわれとしても、体系構成法としては、高々エンドクサたるものからの“上向”法を採るしか道がなさそうに思えます。」378P
第三段落――マルクスの上向法は、“上昇法”と“下降法”との“綜合”
(この項の問題設定)「エンドクサを出発点にするといっても、謂うところのエンドクサは必ずしも一義既定的ではありません。そのうえ、エンドクサから出発する途行きは、“上昇”であっても「上向」ではないのではないかとの疑義も出そうです。――迂生は、これまで、マルクスの「上向」「下向」をプラトンの“下降”“上昇”と構図的に対応づける流儀で綴って参りましたが、それは学説史の背景や論脈を顕揚する一具にすぎず、方法論的な内容に立入ってみれば、マルクスの「上向法」は決してアニュポテトンからの“下降”法と同列ではありません。マルクスの「上向」が、アリストテレス流のアポディクシスと異なることは無論のこと、ヘーゲル流の“下降”とも大いに異なることを銘記する必要があります。迂生のみるところ、マルクスの弁証法とヘーゲルの弁証法との径庭は、後者が観念的に「逆立ち」しているとか「歴史性と論理性とを不当に一致させている」とか、この種の事柄に関わるだけでなく、よしんばそこから派生するものだとしても、種々の場面で存立します。尤も、ここはこの件そのものを詳論すべき場所ではありませんので、とりあえず、マルクスの「上向法」は、或る意味では“上昇法”と“下降法”とを一種独特の仕方で“綜合”する配備になっている旨を示唆的に申しておきたいと念います(註)。この旨を誌せば「エンドクサ」からの“上向”という言い方の奇矯さが幾分かは薄らぐのではないでしょうか。」378P
(註)これも宿題にしていた課題です(宿題A)。ヘーゲルの三位一体的展開ということはそのまま受け入れがたいことではないかとは押さええます。さて、マルクスや廣松さんがどこまで、この「三位一体」といことを突き出していたのかというと、下降と上向がはっきり分けられるわけではないというところで、認識論=存在論という「近似値的一体性」をとらえてはいたとは言いえるのではないかとは押さええます。勿論ヘーゲル的な絶対精神の自己展開としての弁証法を否定したところの話で、確かに、三つの論・課題はからみあってはいますが、独立した実体でもないわけなのですから、「三位一体性」という表現は妥当ではないとは言いえます。が、論理学も含めた「三位一体性」とは言えないところでの、「綜合」という概念で押さえていくことではないかと考えています。これも中間総括的な話で、以降の廣松さんの文を押さえる作業をしていきます。
著者自身の展開としての原始函数態としての措定「上向法的な体系構成の「端初」は、われわれの場合、第六便で申しましたように、比喩的に言えば、一種の“原始函数”的な「抽象的・普遍的」単純態のかたちで措定されます。茲に“函数的”と記すのは、われわれの謂う“抽象的普遍態”は伝統的な抽象態(捨象の残渣)とは了解を異にし、ロッチェ・カッシーラー流の函数的「補完(「エルゼッシェン」のルビ)」の所産として、多くの“変項”を有(「も」のルビ)つ“函数概念的・関係概念的”な普遍態であることに応ずるものです。(「原始函数」という標記は、数学上のテクニカルタームと二重写しにされる惧れはよもやあるまいと思いますけれど、素より、それを微分しさえすれば現与の函数態が導来されるといった単純な仕掛けを考えているわけではありません)。」379P
「端初」の設定をめぐる問題性「ところで、学理的展開の「端初」が抽象的・普遍的な単純態であるということは、必ずしも公理的な単純命題を直截に体系的な形で提示するところから始めることの謂いではありません。もしも、学理的体系がエンドクサをそのまま追認的に体系化する態(「てい」のルビ)のものであれば、まさにエンドクサの公理的体系化の手法で理論体系を構築することも可能なことでしょう。但し、これは、エンドクサなるものが内部的に矛盾撞着を孕んでいないことを前提条件にします。現実には、しかし、エンドクサを分析・検討してみると、部分的な系ならばともかく、総体的な系としては、恐らく矛盾律を孕んでいるのが常態の筈です。従って、普遍的・総体的な世界観的体系の場合、上記の前提条件はおよそ非現実的であると言わざるを得ず、当の手法は期しがたい所以となります。が、仮りに、そのようなエンドクサの追認的体が現実にありうると認めたとしても(因みに、部分的な系としてならば、歴史上の事実問題として、それの存立を認めることができるように思いますけれど)、苟くも創造的な哲学体系の場合、エンドクサのうち尠なくとも或る種のものを卻けて新しい原理を持込もうと図るのですから、既成のエンドクサをそのまま追認する流儀で公理的に体系化することは論外です。――とすれば、「著者」(新しい体系の創唱者)は、自己固有の原理、つまり、エンドクサに牴触する新原理を端的に押し出すのほかはないということでしょうか? 或る意味ではそうだと申せます。そして、それが“公理的”提題の体系的提示というかたちをとることも一概には卻けられません。・・・・・・とはいえ、体系的構成法の論理からいえば、原理が原理として理解(実質上の「提示」)されるその局面から体系的展開が始まるのであって、それに先行する論述は所詮“前梯”にすぎないのですから、前梯的叙述なしに済ませ得ればそれに越したことはない道理です。「端初」の設定をめぐるこのような情況のもとにあって、われわれとしてはどのような途を拓くことができるのでしょうか?」379-80P
端初の設定の相対性「念のため再確認しておくかたちになりますが、「端初」は――著者自身の思索においてはしかるべき根拠と手続にもとづいて設定されるものであるとはいえ、――体系内部の論理構造からいえば、論理上端的に「最初のもの」であり、先行する根拠(前提)によって媒介されていないという意味で「直接態」です。それは、論理上の脈絡でいえば、“無根拠”なものにすぎません。このかぎりで、論理的には、何を以って端初とすべきかは規定できません。裏返していえば、何から始めようと論理的には禁圧される謂われはなく、端初の設定は自由自在です。但し、以上はあくまで論理上の“無媒介性”“無根拠性”に即した話であって、著者自身の企図からすれば「端初」の設定はそこから展開される全体系によって規制されております。だが、体系の全体性による規制というだけならば、ヘーゲルが企図した「円環」構造は措くとしても、或る種の公理的体系において現にみられるように、端初を設定する仕方は一義的とまで言えません。ここで、「読者」という予期される“共犯者”の在り方が勘案されます。が、このモメントを勘案しても猶「端初」をどう設定するかは一義必然的ではありません。――こうして「端初」の設定は諸々の制約条件によって実際的には規制されるとはいえ、所詮は相対的です。このことは「第一哲学」的な体系だけでなく、それに基づく分科的諸部門についても妥当します。」380-1P
まとめと次項へのつなぎ「以上、「上向法」的な体系構成といえば兎角“一義必然的”な端初の設定を含意するかのごとき臆見が根強い事情に鑑み、「端初」の設定が所詮は相対的であることを態々(「わざわざ」のルビ)再確認しつつ、併せて、配慮すべき幾つかの点を示唆的に申し述べて参りましたが、今やわれわれなりの構案を積極的に開陳する段取りです。」381P
二 著者と読者との「協働」的概念把握
(この節の問題設定)「ここでは、ひとまず、世界観の基幹的構制に関わる“第一哲学”の次元での「端初」設定をめぐって考えておきたいと念います。」381P
第一段落――哲学の「世界」の「総体的」「把握」 381-4P
(この項の問題設定)「哲学は「世界」の「総体的」「把握」を志向するものであると屢々自称します。この言い方は恐らく、個別的分野の研究者たちには笑止千万な科白(「せりふ」のルビ)ないし傲慢不遜の言辞に聞こえることでしょう。しかし、それは「総体」的「把握」ということの含意に関する誤解に起因する面が多分にありそうです。哲学者のなかには慥かに、傲慢な体系家もないわけではありませんが、総体的把握と称するさいの志向内実は必ずしもそう不遜なものではなく、むしろ謙抑であるようにも見受けます。」381-2P
日常的に経験するこの世界「「世界」を「把握」すると一口に言っても、そのさい「世界」という言葉でいかなるものを指称しているか、「把握」という言葉でいかなることを了解しているか、その内実は区々に岐れます。ここでは既存の“第一哲学”を学説史風に辿ることはおろか概論風に整理する遑もありませんし、その必要もありますまい。われわれ自身にとっての課題を劃定する方便として若干配視すれば足ります。――哲学者たちのうちには「世界」というとき、われわれが日常的経験する世界とは別の形而上学的世界を意味するむきもありますけれど、迂生としては「世界なるものをさしあたり日常的に経験するこの世界の謂いとします。ところで、哲学的な「世界把握」というとき、或る種の哲学者たちは、世界とは何か(本質)を規定することだと考えております。この見地では、世界の日常的現相はそのままの真実態・真実在ではなく、その内奥ないし背後に真実在が存在しているという了解のもとに、その真実在とやらを認識することが哲学的「把握」だとされます。この見地と両立不能というわけではありませんが、別の或る哲学者たちは世界が如何様に現存するかを規定することが「世界把握」だと考えます。この立場では、対象的世界が如何なる“実質的成分”から形成されているかかの究明もさることながら、むしろそれら“実在”の在り方を規定している「法則」性の究明が志向されます。これらの哲学者たちは、世界の日常的な経験的現相をそのまま追認的に記述することでは満足せず(これに自足しようとする哲学的立場もあるのですが)、日常的世界現相を在らしめている“原理”を把握しようと企画する者と言えます。迂生としても、日常的な世界現相の単なる追認的記述では自足せず、「現与の世界現相が如何にして可能であるか」を把握しようと志向する姿勢のかぎりでは、論者たちと共通するところがあります。しかしながら、「現与の世界現相が如何にして存在するか、如何にして存在可能であるか」の究明は、歴史的媒介性、構造的媒介性、等々、多角的なアプローチが可能であり、伝統的な仕方での“本質存在”“実質存在”“法則規定”の探究は所詮一面的にすぎると迂生は思います。「世界現相の現実は如何にして存在可能であるか」、その被媒介的な存立機制の把握は全面的・綜合的に遂行されてしかるべき筈です。ヨーロッパ哲学における伝統的な“世界把握”は、単に一面的という点に難があるのではなく、世界の被媒介的な存立性を説明すべく、世界を斯く在らしめている「もの」(これが“本質”と呼ばれようと、“実質”と呼ばれようと、“法則”と呼ばれようと、その他、呼び名が何であれ)「自存的存在者」を“原理的な存在”と想定してしまっているところに難点があります。このような実体主義的存在了解は、相互媒介的・相互反照的な関係規定の結節項を即自的な存在と錯認することに由来するものであって、われわれの体系においては、当の伝統的・日常的な物象化的錯認そのものをも(それが如何なる機制で成立するかを解明しつつ)系統的に止揚して行く課題を裡(うち)に含む次第となります。」382-3P
まとめと次項へのつなぎ「われわれ自身にとっての“第一哲学”の課題は、こうして「日常的な経験世界の現相は如何にして存在可能であるか」、この「世界」の被媒介的な存立機制を把握すること、――抽象的一般的に記せば、斯様に規定することができましょう。/この課題に応じて、われわれの「端初」の設定の仕方も規制されます。それは、内容的には「下向」的研究を通じて「現相世界の被媒介的存立機制」を対自的に整型化した「抽象的・普遍的な単純態」としてのあの「原始函数」の措定にほかなりませんが、今やこの課題は、この「端初」を「読者」に理解されうるかたちでどのように提示するかです。」383-4P
第二段落――「フェノメナルな世界」のとらえ返し 384-8P
(この項の問題設定)「われわれは、形而上学的な超絶的世界について論述しようと企てるのではなく、日常的・経験的な世界について叙述するのですから、「読者」とのあいだに初めから接点をもち得るものと期待できます。・・・・・・人々は、各自の体験や教養に応じて既成観念に滲透された相での世界像を抱懐しておりますので、経験的なこの「世界」なるものが実は多義的です。そこで、斯々然々(「かくがくしかじか」のルビ)として規定的に了解する既成観念上の“規定性”を悉(「ことごと」のルビ)く排却して世界現相を如実に視凝(「みつ」のルビ)めよと要求したとしても、現実問題としては、既成観念を悉皆(「しっかい」のルビ)排却してしまうことなど出来ない相談というものです。このことを承知したうえでもなおかつ、われわれとしては既成のドクサによる“規定的措定”を可及的に排却した相で主題たる「世界」を読者と共有したいと庶幾する以上、「読者」に対して既成の規定的定立を可及的に「括弧に入れる」(einklammern)ように求めざるを得ません。それは、所謂フェノメナルな世界現相を如実に諦視するようにという要請に帰向します。判り易くというよりもむしろ比喩的に言えば、それは、既成観念と自覚される一切の規定的措定を排却しつつ、童児の眼に映ずるであろうごとき相での此の「世界」を表象して慾しいという要請です。(このさい庶幾される“存立定立”の“括弧づけ”は定在(「ダーザイン」のルビ)定立だけでなく相在(「ソーザイン」のルビ)定立にも関わります)。このようにして表象される相での世界、つまり、向くの童心に映ずるであろうがままの「フェノメナルな世界」現相なるものは所詮フィクションめいたものにすぎないのかもしれません。それは、エンドクサを悉皆排却したものでありえないどころか、むしろ、ミニマルなエンドクサを“純粋に”具現したものと言うべきでしょう。が、われわれの出発点にとっては、、この最小限(「ミニマル」のルビ)の“純粋”なエンドクサで以ってとりあえず間に合います。」384-5P
フェノメナルな世界「「フェノメナルな世界が現前する」(現相世界が有(「あ」のルビ)る)というエンドクサ――フェノメナルな世界が即自的に分節態の並存相を呈するかぎりでは、「フェノメナの聚合(「しゅうごう」のルビ)が有る」というエンドクサ――、これがわれわれにとっては出発点になります。/このように誌しますと、学兄は、それでは「フェノメノン」乃至「フェノメノンが有る」ということが夫子の謂う体系的展開の「端初(原理)」なのか? と反問されるかもしれません。が、迂生の考えでは、右に述べたかぎりでの「フェノメノン」乃至「フェノメノンの存在」ということがそのまま直ちに「端初」(原理)なのではありません。/尤も、或る意味ではフェノメノンが端初には違いないのですが、誤解を防ぐためには、フェノメノンがそのまま原理なのではない、という答え方が優ります。この間の事情については若干のコメントが要りそうです。」385P
承前「まず、或る意味ではフェノメノンが端初であるには違いないという容認の側からコメントします。」385Pマルクスの『資本論』からの援用です。「マルクスは『資本論』本文の劈頭「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は“巨大な商品集成”として現われ、個々の商品がその富の原基形態として現われる。われわれの研究は、だから、商品分析を以って始まる」と書いていること、これは御記憶の通りです。経済学的対象という特殊な領域に関わる分科的体系の端初と第一哲学プロパーの端初とを安直に類比するのは危険ですが、われわれの場合、マルクスの表現になぞらえて書けば「フェノメナルな世界は“巨大なフェノメナの集成”として現われ、個々のフェノメノンの分析を以って始まる」ということになります。ここにおいて、マルクスの謂う「商品」が「端初」だと言えるとすれば、それに類する意味でわれわれも「フェノメノン」が「端初」だと言うことができます。――只今「とすれば」という条件をつけたのは、先の引用文で指称されている「商品」がそのままで「端初=原理」だと言い切れるか、少なくとも二要因の規定でベグライフェンされた相での商品を俟たねばまだ「原理」とは言えないのではないか、このような問題の余地が残るからです。(因みに、『資本論』では次のパラグラフから早速に二要因の規定がおこなわれますが、『経済学批判』では「一見、ブルジョア的富は巨大な商品集成として現われ、個々の商品がその富の原基定位として現われる。各商品は、しかし、使用価値および交換価値という二重の視点のもとに自己を示す」という書き方になっており、二要因の規定までが冒頭パラグラフに明記されております)。――ついでに申しておきますと、マルクスが『資本論』の第一パラグラフで謂う「富が巨大な商品集成として」「個々の商品がその原基形態として現われる」(『経済学批判』では「一見……現われる」)というのは、まさに“商品世界”の現相についてのエンドクサ(しかも、この領界におけるミニマルなエンドクサ)に照応するものと言えましょう。このかぎりでは、マルクスも『資本論』体系の冒頭ではエンドクサにおける現相に定位して「主題」を提示していると言えましょう。」386P
前述の提言の中身と同調「われわれにとって、或る意味では「エンドクサ」たる「フェノメノン」が「端初」だということができる旨を上述した含みの一斑をいまや御理解いただけたものと念います。」387P
ここで「ところで、もう一つ注釈をつける形になりますが」として「嚮に「エンドクサからの“上向”」という一見奇矯な言い方をし、マルクスの場合、或る意味では「“上昇”と“下降”とが一種独特の仕方で“綜合”されている」と申しておいたことに関連して、此処でありうべき疑義に答えておきましょう。」387Pと前述した内容を掘り下げる展開を持ち出しています。
ヘーゲルとマルクスの端初の違いをめぐる論攷です。「われわれの場合、「フェノメノン」というエンドクサを出発点にすることは「下向」の途になりはしない、という疑義を生じ得ます。人は、フェノメナルな世界というのは、ヘーゲルでいえば『精神現象学』における最初の部位、つまり、“上昇” (“下向”)の端初に類するものではないか、と考えるかもしれません。フェノメナルな世界は、マルクスが「上向」の起点に据える「抽象的・普遍的な単純態」とは違い、却って“具体的”なものではないのか? 答は勿論「否」です。このさい、マルクスの謂う「具体的」の意味を誤解しないことが肝要だと思います。日常用語では“感性的経験に直接的に現われるもの”を以って“具体的”と呼ぶことがありますけれど、マルクスの用語法では違います。もしそうなら「商品−貨幣−資本」と上向するさいの「商品」のほうが、直接には摑みがたい「資本」よりも「具体的」ということになってしまうでしょう。マルクスは「規定性」の多寡で「具体的−抽象的」を概念的に区別している次第なのです。――とすれば、われわれが出発点で定位する「フェノメノン」は、よしんば感性的経験に即応するとしても、既成観念上の規定性を可及的に排却した相で現前するのですから、決して「具体的」ではなく、まさに「抽象的」ということになります。学兄としては、この点までは認めたうえでもなおかつ、「フェノメナルな世界」はヘーゲルの『現象学』での“上昇”の起点に類すると言われるかもしれません。慥かに、感性的・経験的という点に止目すれば、そのような見方もありえます。しかし、マルクスがフェノメナルに現前する商品を出発点にしつつ、或る意味では“上昇法”と“下降法”とを“綜合”しているという前掲の論点が生きる所以でもありますが、「フェノメノン」は規定性に関してミニマルな(従って、抽象的・普遍的で単純な)エンドクサなのであり、sinnliche Gewissheit(感性的確信)やWahrnehmung(知覚=真理把捉)といったドクサとは次元を異にします。ヘーゲルの“上昇”の途の起点になる「感性的確信」は、感覚知こそが具体的・個別的で真実であるという私念(「ドクサ」のルビ)であるのにひきかえ、われわれの謂う「フェノメノン」は上述の通り、諸々のドクサを可及的に排却し、真理性の要求に関わる「存在定立」を悉く「括弧に入れ」た「抽象的・普遍的な単純態」なのです。」387-8P
第三段落――「端初」の設定について 388-95P
「「フェノメノン」は、こうして「抽象的・普遍的な単純態」であり、「上向」の「端初」に据えられうるとしても、それが単にミニマルなエンドクサたるかぎりで、あの“函数的普遍”態としての“原始函数”ではありません。先に「フェノメノン」がそのまま「端初=原理」であるとは言えない旨を記した所以でもあります。――このことが、また『資本論』第一パラグラフの「商品」をそのまま「端初」とみなせるとすればという条件付で嚮に云々した折、「少なくとも二要因の概念規定を俟ってはじめて」真の「端初」設定になるのではないか、という問題にふれた際の含意にも関わることは申し添えるまでもありますまい――。「端初」の設定は、或る意味では、“原始函数”の提示を以って甫(「はじ」のルビ)めて実質上おこなわれるとも申せます。が、“原始函数”とやらをいきなり定式化されても「読者」には全く理解出来ないという場合も一般論としては考えられます。ここにおいて“原始函数”をどのようにして提示するか、工夫を要する次第です。」388-9P
「フェノメノン」と「原始函数」との関係「われわれの場合、もとより、「端初」として、あの「フェノメノン」と「原始函数」との二つが別々にあるわけではありません。われわれの謂う“原始函数”は「世界」の現定在・現相在の被媒介的存立機制を「下向」的研究を通じて対自的に把握しつつ“補完的・函数概念化的”な手続を通じて措定した最も抽象的・普遍的な函数的成態(関係概念・構造概念)であり、これの汎通的な妥当性に負うてそれは「フェノメノン」の「存立構造」にも妥当します。それゆえ、「フェノメノン」の存立構造を分析的に対自化することにおいて“原始函数”を覚識することができます。」389P真鍋研究のシュミレーションモデル?
更なる反問設定――複雑な具体相を「再生産」できるか?「無用のコメントかもしれませんが、ミニマムのエンドクサたる「フェノメノン」の存構造を対自的に把握した“原始函数”を「端初=原理」にしたのでは、極めて複雑な世界の具体相を「上向」的に「再生産」(マルクスの謂うein geistig(精神的) Konkretes(具象)のReproduktion)することは覚束ないのではないか、というありうべき危惧を鎮めておきます。――“原始函数”はまさに複雑きわまりない世界の定在・相在の具体的な存立構造を「下向」的研究を通じて“抽象化”した所産であり、それは、しかも、伝統的な抽象=捨象の残渣なのではなく、ロッツェ・カッシーラーの所謂「函数化的補完」の成果(Resultat)なのですから、具体相へと到る上向的展開のポテンシャリティーを保有しております。それがさしあたり「フェノメノン」という抽象態に即して分析的に対自化されうるのは、“原始函数”が「世界=函数的成態」の最も抽象的で普遍的な形であるということと相即する普遍妥当性に拠ってです。「原始函数」は「フェノメノン」にしか妥当しないのではなく、汎通的に妥当と申せば趣意が通ずるでしょうか。」389-90P
「原始函数」に関する論攷の深化「偖、普遍妥当性をもつ当の「原始函数」――は、単に「フェノメノン」においても対自的覚識され得るという域を超えて、実は「フェノメノン」に即してこそ最も直截に把捉され易いという事情にあります。けだし、「フェノメノン」は諸多の規定性が排却(括弧づけ)された抽象的単純態であるため、“函数成態”の側での抽象的単純態と即応させ易いからです。――いつぞや「有機醸成型」の系列体系に関して、そこでの抽象的・普遍的な単純態を最も良く具現している現実の存在体ということになれば、原始的単細胞生物にそれを求めることができる旨を申し述べたことがありましたけれど――「フェノメノン」は「原始函数」を直截に具現した現実の存在体であるという言い方も許されると思います。」390P
「著者」と「読者」の協働による措定「われわれの謂う「原始函数」が、こうして、ミニマルなエンドクサたる「フェノメノン」において体現されており、従って「フェノメノン」の存立構造を分析的に対自化することによって顕揚されるとしても、この対自的把握(「ベグライフェン」のルビ)を「読者」に促し、そのことによって単に熟知的(bekannt)なフェノメノンを概念的に認識された(erkannt)「フェノメノン」たらしめるのは言うまでもなく「著者」の提示的表現と「読者」の“共犯的”理解との協働においてはじめて「原始函数」態で概念的に把握された「フェノメノン」としての「端初」が措定される次第です。」390P
マルクスの『資本論』における実践としての「商品」の端初設定――四肢構造論的展開「学兄は、ここで、マルクスの場合を、想起されることでしょう。彼は「読者」の眼にフェノメナルに「現われる」「商品」、このエンドクサにおける「商品」を「分析」してみせ、まずは「使用価値」および「価値」という二要因を概念的に規定し、単なるエンドクサにおいて熟知(「ベカント」のルビ)な商品を概念的に認識された(「エルカント」のルビ)「商品」として提示(読者における対自化)します。が、迂生のみるところ、「端初」たる「商品」の規定的提示は、対象的二要因の指摘をおこなった(「第一節」の範囲)だけではまだ終りません。学兄は、『資本論』首章第二節での「労働の二重性論」は、商品とは別の「労働」という主題についての議論だったと理解されるでしょうか? マルクスの論述は、一見したところ、第一節では商品における対象的二要因を論じ、第二節では商品において対象化されている主体的“二要因”を論じているかのように見えます。事実、第二節でいちはやく、主体的“二要因”と対象的二要因とが対応関係におかれております。しかし、首章を最後まで、つまり、第三・第四節まで読んでいきますと、第一・第二節、わけても第二節での論述が暫定的なものであり、首章全体の有機的叙述によって「端初」たる「商品」の概念的把握がようやく一応の完成をみる形になっていることが判ります。(このさい、マルクスの論述が教科書風の明快な形に整理されているかどうかは別問題です。『資本論』の成立史、再版における改訂などを追体験してみるとき、何分にも事柄そのものが難題であるうえに、読者の理解を慮らねばならず、マルクス本人としても論述に難渋しており、明快な叙述への仕上げを期待するのは望蜀(ぼうしょく)というものでしょう)。そもそも「商品」なるものは、日常的な思念(「ドクサ」のルビ)においては単なる物的存在、対象的存在として意識されますけれど、マルクスのベグライフェンする「商品」は決して単なる対象的存在ではありません。成程、第一節の範囲では、それは二要因を具えた対象的定在の相でとりあえず規定されております。がしかし、エンゲルスが『経済学批判』の書評のなかで誌して言葉を援用していえば、「経済学は商品を以って端初とする。……生産物が商品であるのは、しかし、人と人とのあいだの関係……がそれに結びついている限りにおいてである。……経済学は物を取り扱うのではなくして、人と人のあいだの諸関係……を取り扱うのである。尤も、この諸関係はつねに物と結びついており、物として現象する」というのがマルクスの了解であり、「商品」なるものを単に対象的二要因を具えた事物という相で受け留めるに止まるならば、それはマルクスが『経済学批判要綱』このかた厳しく批判しているたぐいの「物神崇拝」(フェティシスムス)すなわち「社会的諸連関を事物に内在的な規定性とみなして事物に所属させ、そうすることによって事物を神秘化してしまう物神崇拝」にみずから陥る所以となりましょう。――マルクスが第三節で説いているところを併せて理解するとき、第二節での「労働の二重性」は“商品世界”の人間関係の反照規定たる“主体的二重性”に照応するものであり、「物として現象する」「商品」は「人と人とのあいだの諸関係」をも「事物に所属」させた相で現前するものにほかなりません。そして、商品の対象的「二要因」も、事物そのものに内属する規定因という相で一応現われるとはいえ、主体との関係、間(「かん」のルビ)主観的な関係との反照規定であるのが実態であり、敢て言えば、それは上述の“主体的二重性”ともリンクします。このかぎりでは「商品」という関係規定態は、対象的“二重性”と主体的“二重性”との二重の二肢態、つまるところ、四肢的契機から成る関係規定態であると言うこともできると思います。マルクスとしては、第三節における間主観的関係の反照規定の開示、第四節における物象化の秘密の剔抉を俟って、「商品」という「端初」(原基的存在)を都合“四肢的”契機の関係的規定態として“提示”しているわけで、考えよう次第では、首章全体が「端初」としての「商品」の概念的把握提示に当てられているとみることも許される所以です。」391-3P
「四肢的構造」の定式化としての“原始函数”という「端初」「われわれの場合、『資本論』の顰(しか)みに倣うには及びませんけれど、「フェノメノン」の存立構造の分析的対自化を通じて、それは四肢的構造成態として提示されます。――われわれの謂う「四肢的契機」とそれらの「構造的連関」の内実については、『世界の共同主観的存在構造』このかた色々な機会に申し述べて参りましたので、ここでの復唱は割愛しましょう。――謂う所の「四肢的構造」を尤も抽象的普遍的な位階で定式化したものがわれわれの“原始函数”にほかなりません。そして「四肢的構造」の規定性において概念的に把握された「フェノメノン」(四肢的構造成態として概念的に措定されたフェノメノン)、それが即且対自的(アン・ウント・フェア・ジッヒ)な「端初」を成します。」393P
“原始函数”的規定性において能媒介性を有つ「端初」「嚮に、或る意味では「ミニマルなエンドクサ」たる「フェノメノン」が「端初」であると申したのは即自的な端初(始元) (ファング)の謂いであり、当のエンドクサが必ずしも端初ではないと申したのは、即且対自的な端初(原理) (アルケー)ではないことの謂いであったこと、今やこのことを御諒解いただけたと念います。即自的な直接性におけるフェノメノンが“原始函数”的構造性において被媒介性を対自化され、「四肢的構造成態としてのフェノメノン」という相で即且対自的に統一されたもの――そして“原始函数”的規定性において能媒介性を有つもの――、これがわれわれの体系構成における「端初」たるべきものです。」393P
「われわれ」の途行きによる認識の向上「即自的な“端初”たるフェノメノンが「読者」においてそれの被媒介的な存立構造を対自化されるのは、ミニマルなエンドクサの当事(「エス」のルビ)意識態勢を「著者」が分析してみせることに負うてですが、当初的局面にあっては「読者」の意識態勢はミニマルなエンドクサの「当事的意識」一般と重なっておりますので、「著者」による「エス」の分析を「読者」が“共犯的に”理解するかぎり、それはとりもなおさず「読者」の自己分析的対自化にほかなりません。――当の事態は「エス」に関する「著者」と「読者」との協働的分析という視角で把え返せば、「エス」に対する「われわれ」の認定だと言うこともできます。但しこのさいの「われわれ」は、当面の叙説準位での“著者”と「読者」とが形成するものであって、直ちに最終的な“絶対的”学知としての「われわれ」ではありません。「われわれ」そのものが累進的に形成され向上して行く構成になります。」393-4P
分科的諸部門における「同趣」の措定「以上では“第一哲学”の次元における「端初」の設定をめぐって申し述べましたが、――行論中マルクスの『資本論』を引き合いに出すことが許され得ると迂生が考えた所以でもありますけれども――、迂生としては、分科的諸部門においても構制上は同趣的だと考えます。成程、“同趣”という言い方は軽率かもしれません。分科的諸部門の体系構成は、第一哲学によって(従って、第一哲学の端初によって)先立たれているのですから、分科的諸部門の“端初”は“上位”の学理体系から帰結的に“導かれる”と言わるべき所以です。体系が完成している暁には慥かにその通りです。しかし、当面、或る領域的体系がひとまず志向される場合には、そこでの「領域的アルケー」の設定の仕方については、当該の主題的領域を学理的分科領域として劃定せしめるかぎりでのエンドクサのミニマムを即自的な端初としつつ、当該領域に汎通的に妥当する普遍的函数態で以ってそれを概念的に措定し返すという手続が採られるべきであること、この含みで、“同趣性”を嚮に申した次第でした。」395P
まとめと次節へのつなぎ「原基的に言えば、しかしながら、慥かに、個別的な分科領域での先行的な体系化は全体的体系の構成の途次における“下向”的手続の一環に位置するのであり、弁証法的体系構成法一般を問題にする次元においては“領域的原理”をも「上向法」的に“導来”するのでなければなりません。今や、この件をも含めて、「端初」からの体系的「展開」の機制について論攷すべき次序を迎えている次第です。」395P「上向」と「下向」の相互作用的弁証法
三 叙述体系の真理必然性と論理必然性
第一段落――これまでの便での論攷とのリンク 395-9P
(この項の問題設定)「体系的「展開」の論理、われわれの場合で言えば“原始函数”の“充当的展開”の論理構制について、構図的には既に第五・第六便で申し述べておきまた。そして「下向」と「上向」との双方を念頭におきつつ、第七・第八便で“原始函数”の“整型ならびに充当”の判断論上の構制を問題にし、さらには「変化の当体」および「存在様相」という論件をも射程に入れながら、第九・第十便で体系的展開上の述定要件を勘案していたつもりです。本来ならば、これを承けて、弁証法における「運動論」とその「様相」規定、ひいては「法則論」を開陳しつつ、それを第十一便で述べた「論理的(規則的・当為的)必然性」の問題とリンクさせる仕事に立入るのが順序ということになります。これは迂生の場合、「命題的事態」と「事象的事件」との関係という重要な論件に通じるものであり、回避を許されぬ課題です。ところが、本簡の前置きの部分で申しました通り、この課題の前件となる「時間論」「空間論」「運動論」ひいては「法則論」の根幹に関わる問題について、雨宮民雄氏の画期的と想われる新理論が目下のところ未発表の状態で既在するという過渡期にありますので困憊(こんぱい)を禁じ得ません。けだし、前記の重要案件について卑見を書き綴る予定を一時宿題に廻し、この連続書簡を忽卒(こっそつ)に一旦“閉じる”ことにした所以でもあります。斯様な“ハプニング”もあって、体系的展開の論理構制を詳説することは姑(しばら)く差控え、さしあたり、既述の諸論点を統轄しつつ、前便から持ち越した論件に応えるという域で当座の責めを塞ぐことで次善といたしたいと念います。」395-6P
ヘーゲルの止揚としての「原始函数」態「偖、第五便で紹介しておきました通り、ヘーゲルは「論理学」の「有論・本質論・概念論」に応じて「移行・照映・発展」という一往別々の展開機制を挙げるかたちをとってはおりますけれども、「発展」の論理において前二者を“綜合”する配備を示します。ヘーゲルの謂う「発展」の論理構制は、歴史性と論理性とを“統一”した一種の「有機的成型」になっており、マルクスが厳しく批判する難点を免れません(註)。とはいえ、かの偉大な弁証法的体系家が“錯認”に陥りつつも、ともかくもそこで樹てている「発展」の構制、「有機醸成型」の構制には「成素複合型」の普通の構制とは異質な、依って以って彼の「具体的普遍」を支える積極的な構案が孕まれております。われわれとしては、彼の誤てる存在論的了解を棄却しつつ、その積極的な構案を受け留めるかたちで、「原始函数」の“充当的展開”の構制を立てた次第でした。」396P
(註) 前述した宿題Aの「三位一体的展開」ということのとらえ返しの第二弾――少なくとも「歴史性と論理学」の一体性は、著者ははっきりと批判・否定しています。わたしはそもそも、「三位一体」というとらえ方自体が実体主義であり、このあたりは「相作論」的なところでとらえ返す必要性もあるのではと、とりあえず考えています。
「函数的措定」としての「上向法」の端初「“原始函数”の“充当”、降っては、“函数的措定態”の“充当的展開”の判断的機制は、構図的には、第七・第八便で述べたかたちをとります。が、アクチュアルには、これまた「著者」と「読者」との協働的営為に俟つものであり、それは、しかも、決して単なる「分析判断」として進行するものではなく、「綜合判断」でもあります。――成程、“原始函数”が“函数的普遍”であり、「下向」の成果であるかぎりで、「著者」にとっては展開は「分析判断」的ですが、「読者」にとっては――“総合判断”的な新知見の現成として覚識され、それを論理的脈絡に即して反省することにおいてはじめて「分析判断的」な関連性が対自化されるに及びます。但し、右に「的」と記した所以でもありますけれど、“著者の側にとっては分析”“読者の側にとっては綜合”という具合に悟性的に振り分けてしまったのでは実状に合いません。“充当”はそれが「充当」であるかぎり、「分析的且つ綜合的」です――。(このあたり、統計学的手法による、函数的連関態の変数探しのシュミレーションモデルに通じる事かと考えていました)。「端初」の場面において、フェノメナルな世界現相の原基的な規定性が「四肢的構造成態」「四肢的契機の相互媒介的な関係の統一態」という相で対自化されること、これが即ち、視角をかえて“原始函数”の側に定位して言えば、“原始函数”そのものの第一次的な充当にほかならないわけでして、この「充当」が「分析的で且つ綜合的」であることは見易いところです。判断的措定「SハPナリ」(今、議論を簡略化するために「超(「メタ」のルビ)文法的主辞−賓辞」関係をもこの標記に含めます)は、第八便で詳しく論考しておきました通り、「Sハ(○○という契機に即して)Pナリ」という構制になっており、これを更に分析していえば、「○○という規定性を依って存立せしめる所以の対他的反照関係において、S(の○○という規定性)ハ“函数”Pの“特定値”デアル」ことの認知という構制になっております。もう少し簡略に表現すれば、「Sハ(○○という規定性の相で内自化される対他的関係性に即して)Pナリ」という構制になります。判断的措定は、このような構制になっている以上、よしんばフェノメナルに見出される規定性を分析的に覚識しているつもりでも、しかじかという特定の述語(他の述語ならざる当の述語規定)で賓述する規定性において対他的反照という契機(つまり、主語そのものから「分析判断的」に引き出すことのできない契機、この意味でカントの謂う「綜合判断」的モメント)が介在し、この故に「綜合的」であることを免れない次第です。」396-7P
“原始函数”の“充当的展開”としての上向「われわれの場合、“函数”の“充当”というのは、判断の機制に即してその実態を言えば即自的なフェノメナルな与件についてしかるべき述語(これは事柄の本性上“函数的概念態”)を以って述定することにおいて、与件を述語=“函数”の“特定値”として認定するという機制に応ずるものにほかなりません。――“原始函数”の“充当的展開”という言い方にはミスリーディングのところがありますけれども、右に記した機制からもお判りいただけるように、われわれの体系構成にあっては、アルケーたる“原始函数”とやらがヘーゲル式の主体=実体として自己展開するわけでは毛頭ありません。ヘーゲルの謂う「発展」のように「観望」では済まない所以でもあります。このことそれ自身については今更コメントは不要だと思います。が、次の点だけは銘記しておくべきかもしれません。それは、ヘーゲルの場合、アルケーたる絶対者がいつも一貫した“主語”でありつづけ、述語的措定はその都度すべて当の“主語” (基体=主体)に関する「定義」だという建前になっているのに対して(因みに、この建前のもとに主体=実体の自己定立的展開と称するところから“歴史性と論理性の悪しき統一” (宿題A)の構制や「自己展開の観望」という構制が帰結するわけですが)、われわれの体系構成にあっては“原始函数”がいつも主語に立つわけではないということです。なるほど、体系の全体が “原始函数”の“充当態”であるという意味でなら、アルケーたる“原始函数”が一貫した“主語” (主題=当体)であるという形式的な議論が成り立ち得ます。しかし、われわれの謂う“原始函数”は幾つかの“項”から成る“函数”態だとはいえ、“項”は定項でないどころかそれ自身“函数” (剴切には“函数の函数” (錯分子構造、函数内函数))なのであり、局面局面で“項”の“充当”がおこなわれるわけです。しかも“原始函数”の“項”が直接主題的に充当されるのは原初的局面でのことであり、展開の途上では“原始項”という“函数”を形成する諸項(さらには、この項という函数を形成する諸項)が主題的に充当されます。上述の通り“項”への充当は、大きな視野でみれば“原始函数”の項の充当、遡っては“原始函数”の充当に違いありませんけれど、その都度の直接的主題は大仰に原始函数と言うには及びますまい。このさい、併せて申しておけば「抽象化的−具体化的」「下向分析的−上向綜合的」ということは(「上向法」「下向法」という大局的な次元でいえば「上向法」を採るマルクスに倣うのがわれわれの態度ですが)、大筋としての「上向」的展開の途次で適宜に活用することが許されるものと思います。マルクスの上向法においても恐らくそれが許容されている筈です。その場合、原理的に言えば、「上向」的展開の途次で用いられる「抽象的」「下向分析的」な手法や論述は、体系構成的展開そのものには内属せぬ“傍白的説明”と呼ばるべきかもしれません。このことは認めるに吝かでない心算です。しかし、いずれにしても弁証法における体系的展開は、形式論理的な演繹的推理の“一本道”ではないのですから、“傍白的斜坑”が“網(「もう」のルビ)様化”したとしてもそのこと自体をあながちに厭う謂われはありません。(「有機醸成型」の体系構制に射影して言えば“進化系統樹式”になると言えるにしても、われわれの場合、諸枝節の“生態学的相関規定”を要します)。勿論、論理的循環に陥ったり、不必要な重複を来たしたりすることのないように留意すべきですし、体系的均整美ということも勘案されてしかるべきでしょう。そのかぎりでは斉一な「上向」が望ましいにしても、“函数態”の“諸項”を同時並行的に歩調を合わせて上向的に規定して行こうとするのは、至難であるばかりか、徒為な労苦を負わせかねません。要は、「具体的普遍」を可及的円滑に対自化して行く配備に懸っており、論理的に許容されるかぎり、形式性に拘泥する必要はないと考える次第です。」397-9P
第二段落――「判断的措定」の“真理性”と「推理的連鎖」の“必然性” 399-402P
(この項の問題設定)「上向法的な展開は、形式性そのことに拘泥する必要はないにしても、論理的“必然性”の要求を伴います。では、弁証法的体系構成における論理的“必然性”の要求、および、真理性の要求に如何にして方法論的に応えるのであるか? 前便から持ち越したこの問題に答えつつ、議論の具体化を図ることにしたいと念います。/順序として、まず「判断的措定」の“真理性”、「推理的連鎖」の“必然性”の問題を考えることにしましょう。」399-400P
下向を含み込んだ上向法的展開「われわれの謂う「展開」は、“原始函数”の“充当”からして既にそうですが、“函数態”の逐次的“充当”という機制で遂行されるとは申しましても、実際の手続としては、上述しました通り、それは与件的主辞対象を当該の函数態たる所知規定性に応ずる賓辞で述定するという「判断的措定」によっておこなわれます。(ここでの「判断的措定」を「換位」するとき“函数の充当”というかたちになる次第です)。この判断的措定によって、即自的な規定性が対自化され、概念的規定態へと転成します。(人は、このさいにみられる機制は、むしろ「下向」になるのではないかと言うかもしれません。迂生としては、或る意味ではそれを認めることもできます。但し、最も没規定的なフェノメノンからスタートするのであること、また、「判断措定」は一般論として「超文法的」な主辞−賓辞関係の次元でみれば、やはり“没規定的”[正しくは“規定以前的”])なxがx als(a)という相に「具体化」されるのであること、この故に、原理的な機制に即して言えば飽くまで「上向」的です。成程、この言い方では、「下向」といえども、「超文法的」な次元にまで遡ればその都度常(「つね」のルビ)に「上向的」だと言い倣しただけではないか、と反問されるかもしれません。或る意味では慥かにその通りであり、嚮に「下向分析的−上向綜合的」の相補性を云々し、両契機の一種独特の“綜合”を云々した際には、実はこのことをも念頭に置いていた次第なのです。しかしながら、基本路線としては、最も没規定的なフェノメノンを「端初」的与件として出発しつつ、「上向的」措定によって成立した規定態を次のステップでの主辞与件として次々と“綜合判断”的に具象化していくのですから、やはり「上向的」構制になっていると認められざるを得ないはずです)。」400-1P
「判断措定」の“真理性”の保証「われわれの場合、上述のごとき“充当的展開”の構制からして、その都度における「判断措定」の“真理性”の保証が愈々重要な条件になる次第でして、そこで判断的措定の真理性の認証がどのような機制で現におこなわれるのかということが茲で問題になります。/日常的思念においては、「SハPナリ」という判断的措定の真理性は<SはPである>という事態が“現に”“客観的事実”であるかどうかで決まるものと考えられています。人々の日常的思念で<SはPである>とい客観的事実が厳存するかぎり、「SハPナリ」と判断をくだすべき(そして「SハPナラズ」と判断すべからざる)当為(「ゾレン」のルビ)的必然も存立するとされます。このさい、人々は「SハPナリ」という判断は主観の側に属する表象結合であると考え、<SはPである>という事実は客観的に自存するものであるとみなし、これら両者の「照応的合致の確認」という構図で真理性の問題を考えているわけです。これは「表象と事物との一致」という伝統的な真理観にもかなった想念であり、この想念を支える錯認の構造に鑑みるとき、それが根強い既成観念をなしていることも決して謂われなしとしません。がしかし、判断的措定態というのは、果たして、各人の“心”とやらの内部に在る“表象結合”なのでしょうか? 第八便で指摘しておきましたように、判断的成態を以って単なる“表象結合”とみなす思念そのことが実情に適っておりません。」401P
「判断措定」の“真理性”に関する哲学者たちの論考「哲学者たちは、そこで、カントの時代このかた、日常的・伝統的な判断観を卻けるようになり、それに応じてまた真理観をも漸次的に更新するに至りました。学史上の経緯などは一切省いて、構図だけを申せば、「SハPナリ」という判断は、超文法的な次元に遡って分析すれば「与件コレはSナリ」「SなるコレはPなり」という機制になっていること、この判断構造に留目しつつ、論者たちは、判断とは客観的な与件(コレと指称される所与)に超文法的賓辞で表われさる“表象”ないし“概念” (という“主観の側に本来属するもの”)を“投入”hineinlegenすることだと、と主張します。迂生としては、原理的な立場性においては、この判断観をも卻けます。(結合説・投入説の批判)――因みに、ヘーゲルも『小論理学』のなかで、次のように書いてこの判断観を批判しております。「判断というと、人々はまず、主語と述語という二つの項の独立を考え、……述語は主語の外部に、われわれの頭の内部にある普遍的な規定であって、両者を私が結合することによって判断が成立すると考えている。しかし、“ナリ”という繋辞が主語について述語を言い表わすことによって、外面的・主観的な包摂作用はふたたび否定され、判断は対象そのものの規定ととられるのである。」「判断は、主語が即自的にそれであったところの述語規定性を対自的にするのであって、述語と主語と外面的結合関係におくのではない」云々。迂生としては、ヘーゲルのこの言い方にも満足できません。“ナリ”という繋辞が……という議論では事態の構造が説明されていないからです――。」401-2P
第三段落――判断的成態や命題的事態の構造をとらえ返す 402-4P
(この項の問題設定)「迂生としては「主観−客観」の二元的対立性を初めから前提してしまうことなきフェノメナルな事態に定位しつつ、判断的措定における意味構造に即して判断的成態や命題的事態の構造を把え返す態度をとりますので、“投入”説の立場とは前提的了解の場面で既に相岐れます。しかしながら、『事的世界観への前哨』所収の「カントと先験的認識論の遺構」で論じておきましたように、“裸の客観的事実”が眼前に転っているかのような謬見を卻け、客観的事態と称されるものが既にいわゆる“主観”の側によっても媒介的・反照的に規定されているという事情を表明する方便としては(“先験的主観形式”なるものを「共同主観的に形成される意味形象」として把え返したうえでの話ですけれど)一往のところ“投入説”に仮託して議論を進めることもできます。――迂生自身が「判断的成態」や「命題的事象」(対象的事態)なるものについて、正規にはどういう構制で考えているかに関しては拙著『世界の共同主観的存在構造』所収の「判断の認識論的基礎構造」および『もの・こと・ことば』所収の「意味の存立と認識成態」を看て頂くことにして、ここでは暫く右に謂う“便法”を採ることで次善といたします。」402-3P
共同主観性論「慮れば、人々は、判断的認識に先立って、<SはPである>乃至<SはPでない>という対象的事態・客観的事実が独立自存しているものと思念しております。慥かに、対象的事態は、各個人におけるその都度の判断的措定にとって既存の相で意識されます。対象的事実は、個別的主観が“勝手に”思い抱く単なる“表象”とは別異の存立性をもっていること、それは慥かだと申せます。がしかし、<SはPである> <SはPでない>という対象的事態なるものは「能知」の側と全く独立に自存する“裸の与件”ではなく、既にして判断的措定によって媒介されて存立するものです。それを自存的な存在とみなす一種の物象化的錯認であると言わねばなりません。この物象化を前提にするかぎりにおいてのみ、個々人の判断的措定と対象的事態との合致ということを以って真理性を云々する議論も成立します。しかし、物象化した相で映現する原事態に即して言えば、それは共同主観的に向妥当する「所与−所知」成態であって、判断的措定の真理性とは、実態においては、当の判断の共同主観的対妥当性(旧来の認識論、なかんずく、カント学派の用語法でいえば、「意識一般=認識的主観」に対する対妥当性)にほかなりません。(この点については前掲の拙著でも一応ふれてはおりますが、井上忠氏編『哲学』弘文堂刊、所載の拙論中「第三節、存立説から妥当説へ」を参照ねがえると御理解を得易いかと思います。われわれの立場では謂う所の「認識論的主観」なるものが歴史的・社会的に相対的であること、われわれの立場では「先験的主観性」とは共同主観性にほかならないこと、このことは申し添えるまでもありますまい)。」403-4P
共犯性「是を以ってみれば、「上向」法的展開を支える判断的措定の真理性は、「読者」が「著者」の提題を承けて“共犯的”に「認識論的主観にとっての対妥当性」の相で当該命題をBeurteilen (判断)することに懸っております。」404P
まとめ「爰において、「われわれ」が真理性の要求の衝迫に由って当為必然的に措定する判断は、既成的事態なるものの模写的追認ではなくして、まさしく「対象構成的」であり、前便に謂う「判断的措定と対象的相在との相互媒介性」がそこに存立する次第なのです。」404P
第四段落――弁証法の形式論理学のアウフヘーベン的取り込み 404-8P
(この項の問題設定)「上向法的展開おける推理連鎖は、右に述べた構制での“真理必然性”の要求という一種の当為必然性のもとに成立するものであり、公理演繹法の流儀での単なる“論理必然性”に由るものではありません。とは申せ、弁証法といえども「矛盾律」その他のいわゆる 形式論理上の「規則」を顚から無視するものでなく、それをアウフヘーベンしたかたちにおいて“取り込んで”いることは前便で申し述べた通りです。このかぎりで、一種の“論理的・規則的”な必然性、推理的連鎖の“正当性”をめぐる問題が弁証法の場合にも一応は存立します。」404P
矛盾律のアウフヘーベン的取り込み「弁証法的体系における論理的展開にあっては、形式的な論理規則なるものを絶対的な規範としてあらかじめ前提することなく、原理的にはあくまで、その都度の判断的措定の真理性を規矩(きく)とする態度に徹しますので、事柄に迫られるかぎり、矛盾律の“干犯”をも辞しません。正確に言い換えれば、矛盾律が厳密には妥当し得ないことを“真理性”に基づいて指摘します。――いつぞや申しました通り、矛盾律の厳密な妥当性ということは、不変不易で自存的な存在界(少なくともそのような“世界要素”)の現存を前提するわけですが、例えば数学的世界などのごときイデアールな存立界(つまり、それ自身としては実在しない想定的所知界)は別として、現実世界は「万物流転」の相にあり、しかも「反照的関係規定態」である以上、現実界に関しては矛盾律の存在論的前提条件がそもそも充たされません。矛盾律が前提する“対象的同一性”は原理的な次元で言うかぎり、一種の暫定的・便宜的な(悟性的手続上の)劃定にすぎない所以です――。弁証法的論理においては、矛盾律の原理的妥当性を認めない以上は、例えば「帰謬法」(背理法)のごとき手続も原理的次元では用いることができません。原理的には、定立の側と反定立の側とをそれぞれ真理性に即して検討する必要のある道理です。そして、立入って検討するとき、当初の悟性的劃定そのことの限界性が対自化され、当初の推定・反措定の単位そのものがアウフヘーベンされます。」404-5P
「対話」の成立条件として論理的“規則”「茲で論題にしておかねばならないのは、「著者」と「読者」との「対話的構制」をわれわれが云々する以上は、「対話」の成立条件として論理的“規則(「ルール」のルビ)”が“前提”されざるをえないという事情に関連する次元においてです。/フェノメナルな即自的端初に定位しつつ著者と読者との対話が開始されるその場面において既に一定の“規則(「ルール」のルビ)”が存立していなければそもそも対話が成立しえないことは前便で申した通りです。「著者」と「読者」とが「言語(「ラング」のルビ)」を共有していなければならないことをはじめ、前便で挙げた最小限の要件が、体系的展開の当初的場面から要求されます。学知的反省の見地からいえば、そのかぎりで、一定の“論理的”規範・規則が前梯になっていることを否めません。それでは、当の論理的規則を体系構成法上どのように位置づけるのか? これが当面する問題の焦点になります。」405-6P
言語的前提とその他の規定すること「偖、論述が宙に発せられた単なる言葉に終わることなく「論述」として実効性をもつためには「読者」の理解に俟たねばならず、従って、論述は体系以前的なものですら「著者と読者とが一定の言語的規則を“共有”していること」を要件とします。この「論述上の条件」からして、およそ体系的叙述なるものは、必ず一定の言語的規則を前梯にするのであり、われわれの場合も勿論、その範に漏れません。しかし、唯今大仰な言い方をした事柄の内実は、実際問題としては「言語(「ラング」のルビ)」を前提するという当然事に尽きると言って突き放すこともできましょう。それにもかかわらず、敢て仰山な言い方をしたのは、勿論魂胆があってのことです。――言語的規則、つまり、意味論的・語用論的な規則のうちに、一定の論理的規則が即自的に含まれております。従って「言語」を前提するということは一定の“論理的規則”を前提にしてしまっていることを意味します。そこでもし、「人工言語」で叙述するとすれば、その「人工言語」はそれを規定する自然言語を更に前提するわけで、そのさいの前提は多段的になります。尤も、内容的にはその場合のほうが前提事項が少ないというのが実情かもしれません。が、その場合には、自覚的に規定された規則を前提にすることになりますので、出発点において既に「より多く」の自覚的規定性を立てる仕儀になります。このゆえに、自覚的な規定性を可及的に排却してフェノメナルな場面から出発しようというわれわれの志向にとっては、「人工言語」ではなく、「自然言語」の使用から出発するのでなければ馴染みません。」406-7P
更なる問いと答え−真理性の対自的とらえ返し「我々の場合、こうして「自然言語」を与件的前提とし、そのかぎりで、そこに即自的に“含まれて”いる一定の論理的“規則”を前梯的に受容する所以となります。そうなると「端初」はフェノメノンだけではないことになるのでしょうか? 答は、こうです。既成の「自然言語」を用いざるをえないというかぎり、メタ・レベルで省察すれば、われわれは体系的展開の当初から一定の論理的規則を“前提”していることになるが、しかし、それはメタ・レベルの省察に属することであって、体系そのものの内部に最初から“体系内規則”として配位されているわけではない云々。そして、謂う所の言語内在的な論理的規則のうちにいわゆる矛盾律などが含まれているとしても、それは“暫定的”な規範的ルールであって、上述の“真理性”の規矩に基づいて,当のルールそのものがやがて検討され、対自的に規整される運びとなります。」407P
サンクションの中で形成される共同主観性「弁証法的な体系構制においては「展開」を認証する“最終審廷”は、推論の形式的規則ではなくして、判断的措定の場における上述の当為的必然性の覚識に置かれると申せば趣意を簡潔に表明できるかもしれません。ここに謂う“真理性”の要求の衝迫のもとでの判断的措定の当為(不許不(「ゾレン」のルビ))的必然性の覚識、これが肯定的・否定的な判断にさいしての態度決定を規制するものにほかならないのですが、この当為的必然性はもはや“規則(「ルール」のルビ)”を自覚的準縄としての必然性ではありません。それは発生論的な機制に即して言えば、間主体的な実践的交通の場でサンクションを通じて形成される一種の“深層催眠的な”機序(註)であり、この歴史的・社会的・文化的相対性の埓内で個々の認識主観が所謂「認識論的主観」へと間主観的=共同主観的に自己形成を遂げて行く過程と相即的に成立するものです。この件に立入ることは、しかし、実践哲学的な「価値」次元の主題化を要求しますので、(『世界の共同主観的存在構造』所収の「デュルケーム倫理学説の批判的継承」および「歴史的世界の協働的存立構造」の参看を願うことにして)ここでは“臆言”のかたちに止めます。」407-8P
(註) これは、わたしの「吃音者」としての当事者性の問題での、「二次性の(高次化した)吃音」として(わたしはそれ以前に吃音的話行為を常態化していく過程において、サンクションが機能していると押さえているのですが)、深層心理的な「どもるまいとしてどもる」という行為に剴切に当て嵌まります。なぜ、そのようなことをするのか、というところで、吃音自体を「障害」としてとらえるこの社会の「常識」があるのですが、これこそがまさにサンクションを押さええない物象化だとわたしはとらえています。
第五段落――最後のまとめ 408P
「「著者」と「読者」との対話的構制による体系構成の展開相を範式化するにあたっては、主題的与件がフェノメナルに“表象”的次元で現前する場合と主題的与件そのものが既に「概念」化されている場合との位相差に応じて方法論的に配慮さるべき事項の勘案をも要しますし、弁証法における体系構成法を周到に論攷するさいには当然関説すべき論件が猶いくつも残っておりますが、それに立入るためには、因果論的法則性や運動論的存在様相の定式、「命題的事態」と「事象的事件」との関係づけ、等々、――嚮にお断りしたような事情から姑く“宿題”に廻した(註)――これら一連の論件が先決問題になりますので、ここでは取敢えず、「端初」の設定ならびに「展開」の論理の基幹的構制について卑見を一通り綴ったところで、ひとまず擱筆することに致します。」408P
(註) この「“宿題”」は、雨宮民雄論文に関して「論攷中」ということで棚上げしたことを指していると思われます。395-6Pこれがその後どうなったか、とりわけ、『存在と意味』に出てこないか、宿題Cとして自らに課します。ちなみに、宿題@Aに関しては、一応中間的意見として書きました。Bの「ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とのあいだにパラダイム転換はあるのか?」ということは、引き続いている課題として検証していきます。――(追記)ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とのあいだにパラダイム転換はあるのか?」という問いに関しては、廣松さんは『存在と意味』の中でパラダイム転換を主張しています。
2024年07月02日
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(7)
たわしの読書メモ・・ブログ663[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(7)
第十一信「対論」の論理と推理連鎖
前便の復習的文「前便では「存在様相」の問題と「判断における「肯定・否定」という問題とを扱い、判断の場面での「当為(「ゾレン」のルビ)的必然性」「それに対する反対の禁止」という覚識に定位して、両者をひとまずリンクさせておきました。/いつぞや、肯定判断・否定判断を、単なる「同轄」措定・「異別」措定とは次元的に区別する必要がある(このことは、異化ということの後に同一性があるという廣松さんの言ってきたことと、そして、単なる異化ということと、判断としての判断を区別する必要があるというで、ここのところは、わたしが、記号論的に「 」{ }“ ”と使い分けをしようとしていたことに通じるのではないかと想ったりもしています。)旨を綴った所以でもありますが、肯定・否定ということは、元来は「主語−述語」の関係づけに直接的に関わるものではなく、間(「かん」のルビ)主観的な「対他者−対自己」の場面を扱ってはじめて成立します。すなわち、前便で申し述べましたように、施詞措定態(「(コレハ)A」ひいては「SハP」)が対他者的に帰属する相で提言される「陳述的措定」に対して、同意・不同意の態度決定を表明する場面で元来は成立するものです(対自化は人称化とともに)。但し、やがては、対他者的に帰属するというさいの当の「他者」が<世人(「ヒト」のルビ)>の相に脱人称化され、非人称化される傾動があり、“内なる対話”たる思考においては、間主観性とか対他者的妥当性とかの覚識が薄弱化し得ます。また、肯定的承認否定的拒斥の態度決定という間主観的な関係規定が「叙示態」(主語=述語成態)に“内自化”されることによって、第二次的に、「肯定系の述定的措定態」(SハPデアル)、「否定形の述定的措定態」(SハPデナイ)が成立しうる次序となります。――肯定的述定態と否定的述定態とは、常に同位同格的だと考える必要はありません。現に或る種の肯定は否定の否定を介してはじめて成立します。しかしながら、原基的な位階では、迂生としては両者を同格的に扱いたいと念います。単なる「命名的結合」「施詞措定」といった次元ばかりでなく、「同轄」や「異別」といった次元が前梯となりますために、この間の整序に立入ると話がかなり厄介になりますけれど、当座の論的としては次の一事を諒解ねがえれば間に合います。それは「デアル」「「デナイ」という述定(「叙示態の陳述」ではなく「叙示態」つまり「主語−述語」成態を成立せしめる“述語づけ”)の位階と存立機制に関わる事項なのですが、「述定」は単なる所知「として」把握するという「区別性と同一性との統一」ではなく、それの上に立つものです。所与をそれ以上の所知として把握するという機制は知覚や表象の次元から汎通的に存立しますし、それを基盤にして命名的措定も成立します。また、再認的次元での「同立」「異立」や較認的次元での「同轄」「異別」も“同一性”“区別性”を所知的第二契機とする構図で判断以前的に成立します。(そして、日常的場面では、知覚判断が云々されたり、同轄や異別も、言語表現上は判断的述定と同形になることから、無造作に判断に算入されたりします。実際問題として、間主観的な関係性の“内自化”が直接的には見出しにくいケースもそこにあります。こういう事情に見合って、日常的には、とりわけ肯定形の述定は単なる命名的結合と混同されがちであり、迂生自身、これまでの論述の途次では、そういう日常的思念に追従する流儀で誌して参りました。が、ここあたりで一旦は厳密に規定しておく必要がありそうです)。勝義における「デアル」「デナイ」という肯定的・否定的述定は、しかし、単なる「として」把握の二肢的関係ではではなく、当の二肢関係態が「誰」かに対して帰属する(人称化による四肢構造態の形成)ことを含みとしつつ、対自的な妥当性の承認・拒斥の表出なのであり、それが叙示的に“内自化”されるかぎりで、述語の主語に対する向妥当性・非妥当性の表出なのです。」330-2P
欠した課題と、今後の課題「右の申し条は、抽象的で独白めいた印象を与えたのではないかと惧れますが、その欠は行文を通じて是正していく心算です。とりあえず、「デアル」の位階と存立機制が前々からブラック・ボックスに納められままになっていた事情に鑑み、前便に謂う「陳述」の「述定」への“内自化”云々の機制と関連づけて、蓋(「ふた」のルビ)をあけたものと御諒解ねがいます。」332P
一 論理的「根本定律」の事実性と規範性
第一段落――「推理」−判断の推論的連鎖 332-5P
(この項の問題設定)「今や、単なる判断の次元を超えて、論理学に謂う「推理」、すなわち判断の推論的連鎖を射程に入れて討究すべき場面を迎えております。――われわれの場合には、なるほど、伝統的・形式的な論理学のように「概念論」「判断論」「推理論」を峻別するには及びません。「超(「メタ」のルビ)文法的主辞・賓辞」論を持ち出すまでもなく、意味構造からいえば、概念はすでに賓述に俟つものであり、判断はすでに一種の直接的推理の構制になっているとも申せます。しかし、推論的連鎖の在り方に流目するとき、固有の問題圏が存立することは確かであり、前便で到達した場面はこの視圏に絡入しているのが実態です。/ここでは「推論的連鎖」の存立構制を問題にしておきたいのですが、お断(「ことわ」のルビ)りするまでもなく、これを周到に展開するとなれば論理学の体系を提示する必要があるばかりか、認識論の次元、更には「哲学的メタ論理学」ともいうべきものを叙説することが要件になりますので、当座の議論としては“戦略的拠点”とも謂うべき幾つかの論件に絞ることに致します。」332-3P
言語を抜きにして(勝義の)推論的判断連鎖は存立しないこと(言語論的−弁証法的展開)「偖、推論的判断連鎖は、実際問題として、言語を抜きにして存立しません。成る程、言語以前的な場面においても、広義の“推論”ならば或る程度まで進捗することでしょう。しかし、単なる「同轄」や「異別」といった次元を超えた勝義の判断とその連鎖ということになれば、言語を俟ってはじめて成立します。但し、言語といっても、必ずしも発話されるに及ばず、いわゆる「内語」のかたちでも差支えありません。とは申せ、「内語的活動」なるものは、発生論的経緯からいっても、そもそも「外語」的活動の内化されたものであり、稍々強引に言い切ってしまえば、「思考(“内なる対話”)とはまさに間(「かん」のルビ)主観的な対話・対論が“内面化”されたものという構制になっております。――どうでもよいことに拘(「こだ」のルビ)わっているような印象を与えるかと惧れますが、「思考」を基(「もと」のルビ)とみなすか、「対話」を基とみなすかで、「論理」というものについての了解の仕方が決定的に相岐れます。「弁証法」(ディアレクティケー=対話術)の場合、プラトンが「思考」を以って「内なる対話」と呼んだ故知などを引合いに出すまでもなく、「対話」の方を原基的とみなすのであり、論理は原基的に「対話の論理」なのです。もちろん対話といっても、具体的な他者との具体的な会話の謂いとは限りません。対話的に協働しながら討究を深めていくという典型的な場合だけでなく、さしあたり相手の主張を静聴するとか、説得しようとして一方的に展開するような場合を含み得ます。また、世人(「ヒト」のルビ)に愬(「うった」のルビ)えるとか、世人の意見に異を唱えるとか、不特定の非人称的“相手”との“対話”もあり得ます。このさい注意すべきことは、「思考の論理」と「対話の論理」とが別々にあるわけではないという点です。学兄は、この言い方に対して疑義を呈せられるでしょうか? 一昔前までは、「人間は言語があろうとなかろうと思考を展開していくことができる」という意見があり、「言語で表現するかどうかは思考にとってどうでもよいことだ」という意見が優勢でした。現に、ヘーゲルも、フンボルトと同時代人であるにもかかわらず、思考にとって言語が決定的に重要な契機だということを十全に洞察していたとは言い切れません。(この点で「意識の現実態は言語である」ことを明確に説いたマルクス・エンゲルスと径庭があります)。しかし、今日では、言語は既成の思考を表現する外的な手段ではなく、少なくとも「内語」というかたちで、「思考の成立条件」「思考の構成的契機」をなすものだという認識が定見になっていると申せましょう。尤も、内語的規則と外語的規則とは完璧に合致するとは言えませんし、沈思黙考する場面では意味的契機がもっぱら現識されて記号的系はほとんど意識にのぼらないことも確かです。しかし、その意味的契機の分節の仕方、意識され方からして“言語拘束的” “言語被媒介的”なことは斉しく認められると思います――。こうして、いわゆる「思考の論理」なるものも内面化された「対話の論理」なのであり、「論理」とはまずは対話的構制に即して規定さるべきものです。」333-4P
対話が成立しうる前提条件「では、対話が成立しうるためには何が必要でしょうか? 平俗にいって「言葉が通じる」ことが最低限度必要なことは言を俟ちません。それでは、言語が通じるとは如何なる謂いであり、そのためには如何なる条件が要(「い」のルビ)るでしょうか。言語的記号(能記)を介して意味的所知(所記)が間主体的に“共有化”されること、そのためには「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されていることが要件になります。「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されているとは、当該「能記」体系の意味論的(「セマンティクス」のルビ)・構文論的(「シンタクティクス」のルビ)・実用論的(「プラグマティクス」のルビ)な“規則”が各々“身についている”謂いであり、視角を変えていえば、当事者たちが当該ラングの“ラング主体”とでも呼ぶべき相に自己形成を遂げている謂いにほかなりません。――これは基礎的条件にすぎないとは言え、論理構制からいえば、ここで既に、論理学者たちの謂う概念的記号の知悉(ちしつ)と整序、形成規則ならびに解釈規則の運用的習熟が含意されております。(もちろん日常的言語のシステムや規則には曖昧なところがあり、そのこと自身“対話”的な討究を通じて自覚化されていく次第ですが、ここで“記号使用”の“規約”を人工的に設定することによって、数学的言語(「ラング」のルビ)体系、記号論理学的言語(「ラング」のルビ)体系を形成することも可能であり、それを“共有”することも可能です)。」334-5P
更なる問いかけと次項へのつなぎ「学兄は、ここで、謂うところの記号的体系の分類的整序とか構文的規則の確立とかいう場面で、「内なる論理」が心理的法則として作動しているのではないか、そのような“内なる論理”・“内なる法則”の一斑として「同一律」「矛盾律」「排中律」などが既在するのではないか、この旨を問われるかもしれません。これは慥かに大問題です。この問題は、論理上の基本則と呼ばれる矛盾律などが、対話の場面ではじめて存立する規範的法則なのか、それとも心理的過程をも支配している事実的法則なのか、という大問題です。が、この大問題に答えるためにも、まずは対話の構制をもう少し追っておきましょう。」335P
第二段落――対話の構成 335-7P
(この項の問題設定)「「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されているとしても、それだけではまだ如実に「話が通じる」というわけにはいきません。(それは、人々が「言語」を言語学者的、文法家的に認識していない所為(「せい」のルビ)なのかいえば、無論そうではありません。人々が、ラングの内的編成や内的規則をまだ充分に自覚していないことは確かであり、この点で数学や記号論理学の場合と違いますが、しかし、明確に認識していなくても“実践”上“身について”いれば差支えありません)。対話が対話として成立するためには、パロール的な次元での言語活動がしかるべき条件を充たす必要があります。ここに謂う「条件」、すなわちラング的次元では一概に規定できない具体的条件には諸々の契機がその都度具体的に存在します。が、少なくとも、両者が“同一の主題”について、それぞれ“述定的に陳述”することが要件です。別々の主題について勝手に各々喋っているのでは対話になりませんし、一方が全くの判断停止の状態を続ける(例えば、純然たる質問の連続)のでは対話になりません。――勿論、現実の場面では、質問というかたちをとりながら実質的には意見を表明する場合がありますし、さしあたっては質問なり態度保留であっても次のステップでの“述定的陳述”が予期されるかぎり。それも対話の過程的局面として算入されます。問題は、意見が一致するにせよ一致しないにせよ、所与の提題に関する肯否の態度決定(肯定的ないし否定的な判断的態度決定)が両当事者において少なくとも一回はおこなわれるのでなければ「対話」とは言えないということです。」335-6P
ここで、著者は対話が成立しうる条件を、押さえる作業をしています。「ところで、或る提題について賛成したかとおもえばすぐ反対するといったことが起これば、すなわち、「SハPデアル」と主張しながら、且つ、「SハPデナイ」と主張すれば、一体どうなるでしょう。勿論、同じく「SハP」といっても、条件が別様になれば、判断的態度決定が別様になるのは当然ですが、今の場合、「同じSについて、同じ関係のもとで、同時に、Pが向妥当し且つ向妥当しない」と一方が主張したものとします。これは、まさに矛盾律に牴触するケースにほかなりません。もし、このような場合が出来(「しゅったい」のルビ)すれば、相手側は御当人が混乱していると思う以前に「S」なり「P」なりが二義的に(別々の意味で)言われているのだと想像することでしょうが、その二義的な意味を具体的に覚知することができず、意味不明(つまり相手の主張を理解できない)の廉で、肯定的に承認することも否定的に拒斥することもできないでしょう。また、御本人が混乱しているのだと洞見した場合(つまり、御本人としては「S」も「P」も一義的な心算だということが判った場合)にも、否定的な態度決定をおこなうというよりはむしろ、相手を窘(たしな)めて、肯・否いずれかに陳述し直すことを求めることでしょう。いずれにしても、相手が矛盾した発言をおこなう場合(無論、自己批判的に前言を撤回して前とは別の主張をおこなう場合は矛盾ではありませんので今のケースには含まれません)には聞手の側では、判断的態度決定をおこないませんので、「対話」の要件を充たしません。――これを以ってみれば、「同じSについて、同じ関係において、同時に、同じPが向妥当し且つ向妥当しない」という「矛盾」的主張をおこなわないということが「対話」が成立するための“ルール”的条件をなすことが判ります。」336-7P
「矛盾律」をとらえ返す――次項へのつなぎの文「こう申しますと、早速に反問されそうです。弁証法論者ともあろう者が、「矛盾律」を承認するのか? それにまた、右の立論には論点の飛躍と摩替(「すりかえ」のルビ)がある。相手の矛盾した発言を窘めるのは、まさに相手が矛盾を犯しているという廉で自分の側では否定的な態度決定したうえでのことだ。相手の矛盾に気が付けば、直ちに否定的拒斥の判断的態度決定が成立する、云々。このように指摘されそうです。これは、先刻から持ち越した「矛盾律は事実法則なのか規範法則なのか?」という大問題とも関係します。この件をも絡めて暫定的にお答えしておきましょう。」337P
第三段落――矛盾律をとらえ返す−弁証法は矛盾律の妥当性を否認する 337-42P
(この項の問題設定)「「弁証法」と「矛盾律」との関係をめぐってはいろいろ議論の多いところです。或る種の論者たちは、弁証法に謂う矛盾は、形式論理の謂う“厳密な意味での矛盾”ではない旨を云々し、弁証法といえども論理的展開にさいしては矛盾律に則っている旨を指摘します。しかし、いつぞやも申し述べましたように、アリストテレス流の矛盾律、すなわち「「同じものが、同じ関係のもとで、同時に、同じ属し且つ属さないということはあり得ない」という定律における「同一体」「同一関係」「同一時刻」なるものの存在的領界を問い返してみますと、矛盾律の“厳密な”妥当性は一種独特の存在論を前提にすることなしには成立しないことが判ります。それは一口に言ってしまえば、不変不易な、自己同一性を維持する格別な存在体(形而上学的“実在”であれ、数学的“対象”であれ)が少なくとも世界の“成素”として存在することを前提にしつつ、そのような“存在体”に関してのみ“厳密に”妥当するという構制になっております。しかるに、万物を流転の相で観じ、不易的実体なるものを認めない弁証法的な存在観のもとにあっては、矛盾律のそういう“厳密な”妥当性は存立しうべきもありません。原理的にいえば、この理由から、弁証法は矛盾律の端的な妥当性を否認します。」337-8P
弁証法的途行きの過程としての矛盾律「このことは、しかし、弁証法が「矛盾律」を顚(「てん」のルビ)から無視してしまう謂いにはなりません(このことは自己決定権の問題にも似ている)。弁証法はいかに世界を生成変化・相互浸透の相で観ずるといっても、一挙に“神的な知的直観”で対象を把えきれるものではないからこそ、順次的にステップを追う方法論的アプローチを試みる次第でして、対象界の肢節を一旦“固定的”な相で“劃定”しつつ討究する悟性的手続を――悟性論理のように当の固定化相をそのまま“真実在”の如実相だと錯認する存在観を自覚的に卻けたうえで――暫定的には踏まえます。それは、しかも、単なる予備門といったものではなく、そういう暫定的な措定を止揚しながら進んで行くところに弁証法的な展開が存立するのです。悟性論理と理性論理が別々にあるのではなく弁証法的な理性論理は、システムとしての語性論理をそのまま包摂するものでこそなけれ、悟性論理流の手続をまさにアウフヘーベンしたジステマティークになっております。このかぎりで、「同じものが、同じ関係で、同時に、同じものに……」というさいの“同一性”が存在論的に厳密な同一性でこそないにせよ、悟性的な劃定の当該場面で“同一”と把握されている準位では、一応“矛盾律”に則って討究を試みます。――そしてそのことを通じて、悟性的な“同一化的劃定”そのものが実態を把えきれていないことに由来して生ずる二律背反(「アンチノミー」のルビ)的な“矛盾”を対自化することによって、当の暫定的な劃定・措定を止揚するわけです。迂生が先に“矛盾律”を承認するかのように申したのは、このような悟性的劃定の次元に即してのことなのです。」338-9P
規範的ルールとしての矛盾律「ところで、この悟性的準位における“矛盾律”というのは、事実的法則なのか規範的法則なのか? 人は、それと知らずして、矛盾した発言を為出かすことが現にあるのですから、矛盾律は心理的事実法則ではなさそうです。矛盾律は、さしあたり「同じS、同じ、同じ関係、同時、同じP」という劃定の準位が維持されるかぎり、「SハPデアル」という肯定的述定陳述と「SハPデナイ」という否定的述定陳述と共立的に主張してはならない(主張しないことにしよう)という規範ルールだと申せましょう。(相手が矛盾した発言をしたとき窘めるのは、ルール違反に対する譴責(けんせき)なのであって、相手の主張に対する否定的拒斥の態度ではない道理です)。」339P
ここから、更なる問いかけによる、とらえ返しの深化に入ります。ここのところは、「弁証法は(事実)法則ではない」というとらえ返しで有効な議論になるのでしょうが、そのあたりは、別のところから出てくることだとも思いますので、メモを省きます。
「こうして、矛盾律は、第一次的にはあくまで、対話の成立条件として人々が従う規範的な規則です。しかし、人々は、別段、対話の成立を可能ならしめようと意図して「矛盾律」なるものを「約定」するわけではないではないか。それはおのずと成立したものであり、その意味で事実的存在ではないか。また、規範に随順していると第三者的に認められる場合でも、本人は自覚的・意思的に則っているとは限らないではないか。こう反問されるかもしれません。まさにその通りです。このような次元での「規範的法則」と「事実的存在」との関係については、別著『世界の共同主観的存在構造』所収の「デュルケーム倫理学説の批判的継承のために」で扱っておきましたので参照ねがえれば幸甚です。迂生としては、規範・不許不(「ゾレン」のルビ)・価値を事実・不可不(「ミュッセン」のルビ)・存在と二元的に分断する立場は厳しく斥け、ヘーゲル・マルクスに随順する次第です。この段、御諒承願います。」341P
ここで書き落としていて、ここでは書けないことを誌しています。「詳しく論攷する場合にはここで同一律や排中律についても討究すべきところです。・・・・・・悟性的劃定における或る準位での“同一性”を仮設する場面では、同一律・矛盾律・排中律を同位的に扱えることは形式論理に徹して容易に御理解いただけるところですから、ここでは省きます。・・・・・さらにはまた悟性的劃定における暫定的な措定がどのような機制でアウフヘーベンされるかについては、第五便で概述しておきましたので、この場で復唱するには及びますまい。」341-2P
まとめと次節へ繋げる文です。「茲では、とりあえず、論理学の根本定律とされる「矛盾律」が第一次的には「対話」の成立要件として形成される規範的規則であることを追認したところで、判断の推論的連鎖に視線を向けたいと念います。その場面を介して、右に持ち越した一群の問題にもある程度は答えることができるものと庶幾します。」342P
二 所謂「因果的必然性」と当為的必然性
「推論における判断的連鎖は、いわゆる「直接的推理」と「間接的推理」とに分かれ、伝統的な論理学の流儀でいえば、前者は「対当関係」によるものと「変形置換」によるものとに下位分類され、後者は「演繹的」「帰納的」「類比的」に分類されます。さらにいえば、演繹的推理は「定言的」「仮言的」「選言的」のほかに、これらを組み合わせた「半仮言的」「両刀論的」、さらにはまた「帯証式」「連鎖式」などを含みます。/ここでは、しかし、これらに逐一立入る煩は避け、ますはさしあたり、「直接的推理」に即しながら、推理的連鎖の必然性を見ておきたいと思います。――「間接的推理」については、そのあとで、稍々別の視角から問題にする予定です――。」342P
第一段落――論理必然性ということ 342-5P
(この項の問題設定)「推論的連鎖が必然的に認められる場合、その必然性は「理由−帰結」の論理的必然性であって、それは「原因−結果」の因果的な必然性とは一応別種の必然性です。」342P
著者は必然性に関する論攷を進めます。「では、論理的必然性とは何か? これが真理性とは直接に合致しないことに御留意願います。例えば「SハPデアル」ナラバ「Sハ非Pデナイ」ことは矛盾律からして論理的に必然ですが、これは事実上同義反復(「トートロジー」のルビ)にすぎず、「SハPデアル」ないし「Sハ非Pデナイ」の真偽は未定です。視角を変えていえば、判断の推理的連鎖は当該判断の真偽にかかわりなく必然的にあり得るわけです。論理的必然性とは、論理的規則に徴して、それに反対する主張をおこなうことは規則(「ルール」のルビ)違反になる(従って、規則上禁止されている)こと、規則に随順するかぎり、それを承服せざるを得ないことの謂いです。それは、まさに当為(不許不(「ゾレン」のルビ))的必然性であって、事実(不可不(「ミュッセン」のルビ))的必然性ではありません。説明的に言い換えれば、それは、「そうあらざるを得ないmüssen」、「それと反対の行為をすることが事実的に不可能」なのではなく、「そうすべきであるsollen」「それと反対の行為をすることが規範(「ノルム」のルビ)上許されない」という意味での必然性なのです。(「規範上許される」がこの次元での「可能性」であり、「規範上許されない」が「不可能性」であることは申し添えるまでもありません)。」343P
さらに著者は話を進めます。「ところで、論理的規則は、規則(「ルール」のルビ)なのですから、いろいろな約定の仕方があり得ます。原理的にいえば、規則はどう定めても良いと申せます。矛盾を孕(「はら」のルビ)んだ規則であっても理屈上は差支えありません。 (・・・ゲーデルの「不完全性の定理」への論及・・・)実際問題としては、しかし、種々の事情から、規則の定め方はおのずと限定されます。論理的規則の場合、煎じ詰めていけば、結局のところ対話という“ゲーム”が成立しうるように劃定されます。とはいえ、この劃定には一定の幅がありますし、どの線に落ちつくかは、歴史的・社会的な諸条件(もちろん対“自然”的関係も影響します)によって規制されるとしか言いようがありません。その点では、社会的習慣一般の範に漏れません。――という次第で、論理的規範そのものがもし一義必然的に定まるのであれば、まだしも「論理必然性」(規則による必然性)が“絶対性”を帯びることでしょうが、遺憾ながら、それは「習慣」程度の“権威”しかもたないのです! 特殊専門的な「人工言語」規則を作ったとしても、それは所詮、原理的にみれば「便宜的約束(「コンヴェンション」のルビ)」にすぎません。かつて絶対的と思われていたユークリッド幾何学の公理系と、非ユークリッド幾何学登場後の了解の変化とを念い合わせて下さい。」344P
次節へのつなぎの文です。「・・・・・・ここでは、しかし、歴史の因果的決定性という大問題に立ち入ったり、規範の歴史的相対性という論件に踏み込んだりする遑はありません。端的に「因果必然性」なるものの実態に眼を向けることで一気に決着を図りたいと念います。」345P
第二段落――「因果的必然性」 345-50P
「「因果的必然性」は事実的必然性の一種だと考えられており、その点で、当為的必然性の一種である論理的必然性とは別種のものだと普通には考えられております。しかも、このさい注意すべきことは、因果必然性は因果連鎖(関係)の必然性であって、先件と後件それぞれの事実必然性とは次元を異にするという点です。いま、Aという事件の生起とBという事件の生起が、それぞれ否みがたい事実として現存するとします。これら二つの事件が“事実必然的”であるとしても、そのことはAB連鎖(関係)の必然性を直ちに含意しません。AとBとが継起したとしてもやはりそうです。古典的な例でいえば、昼に夜が継起したとしても、それが恒(「つね」のルビ)に継起するとしても、先件「昼」が後件「夜」の原因だとは言いませんし、そこに因果関係があるとは言いません。例外なく必ず継起するとまでは認められても、これは必要条件たるにすぎず、それだけでは因果関係とはみなされません。それでは、当の恒常的継起が因果関係と認められるに必須なプラス・アルファは何でしょうか? それは先件が後件を「惹(「ひ」のルビ)き起こす」こと、それも偶々(「たまたま」のルビ)そうするのではなく、法則的・必然的に惹き起こすことです。――原因という言葉が、ギリシャ語で「彼(「あいつ」のルビ)の所為(「せい」のルビ)だ」「彼に責任がある」というさいの“責任”の謂いであることを持ち出すまでもなく、因果の観念には擬人的なイメージがつきまといます。(このことはカール・ピアソンが古典的名著『科学の文法』で夙に指摘しているところです)。先件に後件がひとりでに継起するのではなく、先件が能動的・起動的なエージェントとして後件を「惹き起こす」という了解にはまさに擬人法的な発想がみられます。しかも、この「惹き起こす」能動的な営為は恣意(「しい」のルビ)的・偶然的であってはならず法則的・必然的でなければならないとされております。ところで「法則」といえば、日本語では「法律」とは別語ですけれど、ヨーロッパ語では「法律」と同語です。惟えば、日本語でも、やはり「法」であり「則」であるわけです。自然界の法則とはもともと「律法」(神の定めた掟(「おきて」のルビ))の謂いにほかなりません。法則的・必然的に惹起(「じゃっき」のルビ)するとは、規範的な規則(法律(「おきて」のルビ))に随って・そうせざるをえず(そうしないことを許されず=不許不(「ゾレン」のルビ))に惹き起こすというイメージでしょう。ここでは、規範的規則に随順するという当為的必然性の構制が「原因」なる能動的エージェントの営為に擬人法的に推及されている次第です。こうして、因果的必然性とは、当為(「ゾレン」のルビ)的必然性を自然界の事象的生起の在り方に投入したものにほかなりません。」345-6Pまさに物象化の逆の裏返しの事象化で、ここから逆に物象化も生じてきます。
著者はさらに論考を進めます。「右の立論は、しかし、「原因」とか「因果的必然」とかの観念が形成されたさいの経緯(「いきさつ」のルビ)や含意には適っているにしても、科学的な因果関係はそういう擬人法を払拭した客観的事象関係を表わすはずではないのか? このありうべき疑念に答えるには、科学辞典を援用するのが捷径(しょうけい)かと思います。――因果概念は近代科学における中枢的な概念でしたし、それゆえ、哲学の世界では、ヒュームやカントの議論にみられるように早くから論件になっておりましたが、昨今では科学基礎論・科学哲学の方面でもこの因果概念の“身分”が弁(「わきま」のルビ)えられるようになっております。」346-7Pいうまでもなく、その世界観はパラダイム転換に曝されています。
ここで、「科学辞典」からの引用として『伊東俊太郎氏編『現代科学思想事典』の黒崎宏氏の文からの引用として「一般には、或る事象の原因として何を数えるかは、問題の状況および当事者の問題意識に依存するのであり、その際、本来数えあげるべき事象をすべて数えあげることはしないのである。このことは、原因、結果、そして因果関係とは、一般には、事象の系列を見る一つの形式にほかならない、ということを物語っている。これらの概念は理論物理学の中には現われてこない。それは実用的な概念であり、理論的な概念ではないのである。」(下線は廣松さん)347Pこの因果論は、日本政府のお抱え御用「科学者」が政府の負担をできるだけ少なくしようという意図において、「因果関係はない」とか「因果関係は立証されていない」という「論理」として現れています。
先の文への廣松さんの補足・詳説「科学的理論としては、事象の状態の継時的変化相を時間を変数とする函数の形で記述するだけです。(ここに表現される必然性については後述します)。「原因−結果」は理論的な概念ではなく、「事象の系列を観る実用的な一つの形式」にすぎません。そして、この「実用的な概念」「形式」の構制は、煎じ詰めれば、上述の如き「擬人法的」な合規則的惹起の構制になっている次第です。」348P
ここから反問的問いかけへの応答による論究を煮詰める作業です。「だが、と学兄は反論されるかもしれません。(第一の反論)規範的な当為必然性(不許不)は、それに違反する行為も事実上は可能であるのに対して、因果的な事実必然性(不可不)はそれから逸脱することが事実的に不可能であり、その相違に鑑みれば、後者は前者を“投入”したものとは思えない。(第二の反論)そして、現に、「原因」「結果」という日常的観念の曖昧さを卻けつつ、科学においてはまさに変化相を数式的に記述することで当の「事実必然性」(不可不(「ミュッセン」のルビ))を表現しているのである、云々。」348P
(第一の反論への著者の応答)「規範的な規則は、事実的な法則とは“異なって”、それから逸脱することが現にある、というのが通念であることは認めます。とくに近代社会では、規範は約束事・暫定的な取決めにすぎないという意識が強く、その一方、自然法則は決定論的な一義必然性を以って貫徹する者と思念されております。しかしながら、古代や中世までは、規範とは神法的な絶対性をもつものと信じ込まれていました。なるほど、それでもなおかつ逸脱・違反は現におこなわれていたわけで、だからこそ、“神罪”的な矯正が“生じる”ものと考えられた次第です。その点では、自然界の事象の径行についても、同断でした。前近代的な宿命論的世界観といっても、そこでの必然(この詞自身「運命(「さだめ」のルビ)」の謂い)は帰納が決まりきっているだけで、途中の経過は一義的に決定されているとは観じません。ですから、古代的な観念では、規範的必然性と自然的必然性との様態が同趣であり、しかるべき相で“投入”がおこなわれた次第です。ところが、近代になりますと、自然界の事象は、帰結だけが既定的なのではなく、途中の経過(途中の因果連鎖)が機械論的な一義必然の相で進行するものと観ぜられるようになり、ここにおいて規範的必然性と自然的・因果的必然性とが別種のものとみなされるようになりました。ここでは、神的主宰者が逐一干渉することもなく、有意的エージェントが自覚的に規範に服することもない代りに、謂うなれば「法則」そのものが事象的変化を一義的にコントロールするものと了解されます。そしてこの「法則的」支配の「必然性」を表現するものがあの物理的運動方程式にほかならないとされるわけです。こうして――近代的な因果観は、前近代的な原初的なそれとは異なって、当為的必然や規範的行為の単純な“投入”ではないことを認めるにやぶさかではありませんが、この近代的な因果的・法則的必然性の機制をみるためにも、――今や、第二の問題点の検討に移る段取りです。」348-9P
(第二の反論への著者の応答)「数式的に表現される運動方程式、これが表現する変化的継時相の必然的連鎖、ここでの「必然性」とは何でしょうか? それはさしあたり数学的必然性です。運動方程式中の時間の値に応じて函数の値が一義的に決まります。その決まり方は一義必然的です。だが、この数学的必然性は数学上の公理や計算規則に則った論理的必然性にほかなりません。しかるに、この数学的論理必然性が一種の規則(「ルール」のルビ)からする必然性、当為的必然性であることは論理的必然性の機制について上述したところから明らかな通りです。――『現代科学思想事典』から先に引用した言葉と関連づけていえば、数式的に表現される因果的な法則的必然性は「事象の系列を見る一つの形式」「実用的な概念」なのであり、ここではストレートに有意的なエージェントの規範的行為を投入するわけではありませんが、その代わりに継起関係を数学的な表現形式での「論理的必然性」という規則(「ルール」のルビ)的当為的な必然性の構制で以ってそれを自然界に投入したものにほかなりません。」349-50P
さらなる論究とまとめ、次項へのつなぎの文です。「学兄としては、しかし、“投入”されるのは「形式」だけであって、「実質」的な必然的関係は自然界そのものに存在する筈だ、と考えられるでしょうか。「実用上の概念」「形式」は擬人法であれ何であれ、ともかくその「形式」でもって把握される実質的な関係性が客観的に存在する筈だ。その“実質的”な“客観的”関係性こそが問題なのだ、云々。これは「存在様相」を云為するわれわれの立場においては、慥かに重要な問題点であり、前便以来の脈絡から申しましても、検討に値すべき論件です。それゆえ、この問題に関説しつつ、前便との関連性を対自化したうえで、話の本線である推理的連鎖に主題を戻すことにしましょう。」350P
第三段落――「客観的実在世界そのものが因果的・法則的必然に服しているという思念」について 350-4P
(この項の問題設定、導入部)「客観的実在世界そのものが因果的・法則的に必然に服していくという思念――論理的な判断の推理的連鎖といえども窮極的には客観的な事実必然性を追認的に辿り猶したものにすぎないという思念――には実に鞏固(「きょうこ」のルビ)なものがあります。が、問題は、その「客観的実在」「客観的な事実的法則必然性」なるものの実態です。人々は、どういう概念形式を“投入”するかにかかわりなく、客観自体が法則的な必然性に服していると思念します。しかし、果たして、人間は、何らかの形式をも“投入”することなくして、端的に客体そのものを認識できるでしょうか。あれこれの特定形式を放棄することは勿論可能です。がしかし、その都度、何らかの形式を“投入”するという構造を免れ得るものでしょうか。これは認識論上の大問題です。が、今日では余程素朴な「模写論」者でもないかぎり“裸”の実在を何らの概念形式をも“投入”することなく認識できると主張するものはありますまい。なるほど、いくら括弧つきで“投入”と書いても、「投入」という発想には異論が出るかもしれませんが、“裸”の対象をそのまま認識できるとは、認識論上の立場としては模写説を採る人々でさえ、多くはもはや主張しない筈です。「形式」の“投入”と言わず、色メガネの比喩を持ち出しても構(「かま」のルビ)いません。(但し、ここに比喩的に謂う“色メガネ”は狭義のイデオロギー的なそれだけには限りません。いわゆる存在被拘束性・文化的拘束性一般に応ずるものです)。――この種の認識論上の問題については、当該の拙著『もの・こと・ことば』(勁草書房刊)を参照ねがうことにして、ここではとりあえず、端的に「形式」ぬきの“裸”の対象認識は不可能ということまではお認めいただいたものとして話を進めます。」350-1P
「形式」に関する、さらなる論攷の進展です。「さて、認識上の「形式」にはさまざまなものがあり、さまざまな次元に相岐れますが、少なくとも近代的な自然観においては、対象界の法則的変化、法則的事象連鎖を把える「形式」として、最も基本的・基底的なものが「因果律」にほかならないと申せます。最も、近時では、函数的記述にとどめて因果的説明はおこなわないというのが科学理論の格率(「マクシーメ」のルビ)になっておりますが……。学兄としては、このような事情を踏まえた上で、因果的説明にせよ、運動方程式という函数的記述にせよ、その「形式」面は規則(「ルール」のルビ)的な規範的必然性に依拠するにしても、この「形式」で把える「実質」そのものが事実必然性・事実的法則に服している筈だと、主張されるのかもしれません。そうでなければ、月ロケットが命中したり、機械が計算通りに作動したりするわけがないではないか、云々。自然そのものに法則性があるからこそ、例えばメンデレーエフの周期律が“予言的”に的中しえたのではないか、云々。これは慥かに誰しもが懐きやすい思念です。――しかしながら、月ロケットは、天動説の概念で把えても、地動説の概念で把えても、無事命中するように設営できます。他の法則性といわれるものも同断です。学兄は、そこで一歩を進めて、まさに「形式的記述」のありかたは色々でありうるが、それらが等価になるのはまさに“同一の”客観的法則性が事実的に存在するからだ、と主張されることでしょう。だが、例えばメンデレーエフが当時まだ埋まっていなかった周期律表の空所にしかじかの原素を想定した場合ですらそれは既に一定の「概念形式」に俟っております。人々は、なるほど、一切の概念形式からフリーな客観的対象性自体なるものを想定したがりますが、それはカント的な物自体(Ding an sich)になってしまいます。天動説であれ地動説であれ第三の説であれ、ともかく対象の法則性を認識するときには、必ず何らかの概念的枠組みに依ってしまうのです。突き放した言い方をすれば「“裸”の“客観的”法則性そのもの」というのが既にそのような概念「形式」で把握したものになってしまっております。そのかぎりでなら、学兄のいわれる“客観的法則性そのもの”を認めるに吝(「やぶさ」のルビ)かでありません。」351-2P
「主観−客観」というとらえ方「このような言い方をしますと、学兄は、迂生が一切を主観的なものに還元してしまうのではないかと危惧されるでしょうか? 迂生としては決してそういう観念的な主張をしているのではありません。例えば、色や音をとってみても、これらは決して単に主観的なものでなく、“客観的規定性”に応ずるものの筈です。勿論、一昔前の人々が考えたように、それは純粋に客観的な“裸”の実在性ではありません。が、同時に、純粋に主観的なものでもありません。人は、主観的なものと客観的なものという二元性の対立図式を前提にするところから“主観的な色”に対応する“客観的色性”とでもいったものを想定しますが、客観的“色性”自体が存在するわけではなく、強いて論者たちの構図に妥協して言えば、“主観=客観”的な“色”があるだけだと申すべきでしょう。」352-3P
著者の量子力学的観点からのとらえ返し「ところで、嚮には、運動方程式が数学的に必然的な方式で定式化されることをそれこそ形式的に申し述べるに止めました。が、内容面を勘案していえば、古典力学の場合には、運動方程式が一義的に決まるかたちになっていたのに対して、量子力学においては、そのような一義的な必然性は存立しません。量子力学の立てる運動方程式といえども、それが数学的規則(「ルール」のルビ)に随って定式されるかぎりでは、数学的・論理的に必然的です。但し、時間値を決めても状態関数が一義的に決まらないという意味では一義必然的ではありません。話を簡単にするため、確率変項を含むということにしましょう。/現代物理学の了解では、先ほど学兄に譲って認めた意味での“客観的法則性そのもの”が“確率変項”を含むのであり、大枠的には劃定されているのですが、状態的諸契機の在り方は、一義的に確定されておらず、まさに“必然性と偶然性との統一態”とでも言うべき相になっております。このことは前便で縷々(「るる」のルビ)申し述べた通りです。」353P
まとめと次節へのつなぎの文です。「翻って考えますに、規則(「ルール」のルビ)に則った規範的行為の在り方、当為的必然性に適った在り方と一口に申しましても、そこには規則(「ルール」のルビ)違反にならない劃定域の埓内で、実はいろいろな可能的な在り方が存立するわけです。(ですから、現代物理学の法則観が特異なのではなく、古典力学時代の近代式の因果的法則観、近代流の機械論的な必然観のほうが狭義で、例外的であったとも申せる次第です)。このことは、論理学的な規則的必然性についても言えます。今やこのことをも念頭に納めて、推論的連鎖の必然性という本題に立ち帰ることにしましょう。」353-4P
既に書いていますが、因果論の話は、せいぜい20世紀までの論理学で、そんなものを政府御用達の「科学者」が、使い続けているということ自体が、似而非科学性を示しているとしか、わたしには思えないのです。
三 推理連鎖の論理的機能と真偽の価値
(この節の問題設定)「先刻は、推論的連鎖の論理的規則からする必然性にすぎないという一面だけを申しましたが、判断や推論は、真理性の要求からする当為的な必然性にも則るものの筈ではないでしょうか? 真なる推理とは事実的連鎖の事実的必然性を追認するものだという考え方もありえます。順を追って検討していきたいと念いますが、そもそも推論的連鎖、そこにおける理由命題と結論命題との関係を把え返すところから始める必要がありそうです。」354P
第一段落――推論的連鎖、そこにおける理由命題と結論命題との関係を把え返す 354-6P
命題の提示「普通には――とりあえず「直接推理」を念頭におきながら申しますと、――或る判断(理由命題)から別の判断(結論命題)が「出て来る」とか「導き出される」とかいう具合に考えられております。「出て来る」とは良くぞ言ったものだと思いますけれど、その実態はどうなっているでしょう。/(イ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「全Sハ非Pナラズ」/ (ロ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「或SハPナリ」/ (ハ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「或Sハ非Pナラズ」/これらは、普通、伝統的な論理学では、(イ)は大反対対当による直接推理、 (ロ)は大小対当による直接推理、 (ハ)は矛盾対当による直接推理と呼ばれます(このうち(イ)は換質による直接推理とも言えます)。その際、矛盾律および編有編無律(Dictum de omni et nullo)が推論のための原理として既存のものと考えられている次第ですが、(イ) (ロ)を公理((イ)が矛盾律(ロ)が編有編無律の一半)と考え、 (ハ)を(イ) (ロ)から導かれる定理だとみなす途もありえます。ここでは、しかし、伝統的な考えの線で、既存の両律に則った直接推理だということにして考えることにしましょう。」354-5P
命題の解説「(イ) (ロ) (ハ)は「ならば」とか「故に」とかでさも推理らしく連結されておりますが、(イ) は論理的には同義反復(「トートロジー」のルビ)であって、結論命題は内容上なんら新しいことを言っているわけではありません。但し、明識的な知識としては、前提命題と同時に結論命題を意識していなかったかぎりで、そのかぎりでは“新知識”の獲得と言うことが一応できます。(ロ) (ハ)についても、大同小異です。――このような構制に鑑みれば、論理上は既に前提命題に含まれていたものが「出て来た」だけで、新生したわけではありません。しかし、潜んでいたものが「出て来た」ことで見えるようになったわけで、一応の進展は認められます。先に「出て来る」とは良く言ったものだと誌した所以です。――ところで、論理的規則との関係でいえば、(イ) (ロ) (ハ)のそれぞれの前件からそれぞれの後件を主張することが許容される(ルール違反にならない)ということであって、「対話」の当事者がそう主張しなければならないという積極的な必然性はありません。が、「対話者」が前件を承認(暫定的承認でも可)するかぎり、後件をも承認せざるを得ない(後件だけを否認したのではルール違反になる)という意味での消極的必然性はあります。そして、この対話的機制において、そのかぎりで、前件と後件とのあいだに「ならば」「故に」という“必然性” (当為的必然性)が存立しております。」355P
著者の正当性−真理性の論証「論理的規則に則って前件から後件を「導出する」ことが“許容”され、当事者が前件を承認するかぎり後件を否認することは“禁止”されているという“必然性”があるとしても、それは推論(結論)の「真理性」とは直接の関係はありません。合規則的な推論は「正当性」(Richtigkeit)をもつだけで「真理性」(Wahrheit)をもちませんし、また、規則違反の推論は「不当」(unrichtig)であっても直ちに「虚偽」(falsch)ではありません。(数学的「真理」と呼ばれるものは、一般には、数学の論理的規則に徴しての「正当」な命題にすぎないところを、強引に「正当」=「真理」としているだけです。応用数学的命題はまた別の話になりますが、純粋数学が敢て「正当性」と「真理性」を重ねうる所以のものは、数学は対象を合規則的な命題に応じてその都度イデアールに“構制”“創出”し、そのイデアールな対象との合致性を循環的に主張することにおいてです)。」355-6P
まとめと次節へのつなぎ「論理学の形式的な手続の埓内では、いずれにせよ、真理・虚偽を全面的に“導出”“排却”することはおろか、弁別することさえ極く限られた部面でしか期すことができません。とはいえ、一定の存在論的・認識論的領界のもとに、対象と概念とを或る仕方でリンクさせることによって、或る程度まで、形式的な手法で真偽を弁別できるよう論理学は工夫します。そのことによって、論理学という“形式”的学問が一定の“有用性”をもちうることになります。」356P
第二段落――「正・否」と「真・偽」とのリンケージの一端をみる 356-62P
(この項の問題設定)「さて、そこで“対象”との関係性の面を視野に収めて、「正・否」と「真・偽」とのリンケージの一端をみることにしましょう。(尤も、爰で“対象”というのは必ずしも事物の謂いではなく、記号や規則との区別上便宜的にこう呼ぶもので、むしろ“意味”と記したほうがよいかもしれません)。」356P
トートロジーということの持つ意味「学兄は、迂生が先に、直接的推理(イ) (ロ) (ハ)の例に即して、命題(1) 「全SハPナリ」から、命題 (2) 「全Sハ非Pナラズ」、 (3) 「或SハPナリ」、(4) 「或Sハ非Pナラズ」が“導出”されることに関説したさい、既に一種の論点“先取”を“犯して”いたことにお気付きかとも畏れます。迂生は、命題(1)と命題(2)とは「論理的には同義反復(「トートロジー」のルビ)であって、(1)と(2)との推理的連結によって論理的には別段新しい内容が生起するわけではない」旨を云々しました。しかしながら、(1)と(2)とがトートロジーであると認定するためにはむ、命題(1)と命題(2)との意味内容が同一であることを認定できねばなりません。矛盾律という規則(「ルール」のルビ)からは、(1)と(2)とを同時的に主張することが許容されるということ、もし人が(1)を承認するならば((2)を同時に承認するのでなければルール違反になるので) (2)を否認することは禁止されるということ、ここまでしか言えません。(1)と(2)とが同義反復だという立論は、実は、単に矛盾律に則っただけでは成り立たないのです。――論理的推論は、記号的表現形態こそ変形されるにせよ、意味内容上トートロジーの継起だという言い方がよくされますが、そのさいには、既に、トートロジカルとされる二つの“記号”の表わす意味内容の同一性の判定が前梯になっているわけです。」356-7P
“記号”と“意味内容”との関係「では、“記号”と“意味内容”との関係はどうなっているのか? これは「構文論」ゃ「語用論」とも関係しますけれど、当面の論脈では主として「意味論」の次元での問題です。そのさい、なかんずく「判断」(命題)の意味論的構造ということが主要問題になります。――この件について、卑見を積極的に申し述べるとなると、レアール・イデアールな共同主観的四肢構造という議論、意味の三契機の議論、述定的意味のイデアール・イレアールな存在性格の指摘に立ち入らねばなりませんが、ここでは省きます。この持論については『世界の共同主観的存在構造』および『もの・こと・ことば』の参看を願うことにして、当座のところ、伝統的思念をもっぱら問題にしておきましょう――。第七・第八便で申し述べましたように、伝統的思念では、判断における「主語−述語」関係を存在における「実体−属性」関係に対応させて考えます。」357P
すでに提起した内容とのリンク「第七便を想起して頂くと便利なのですが、今、例えば「犬ハ動物ナリ」という例で申しますと、この判断は(α) 主語記号の指示する犬という実体(「もの」のルビ)が述語記号の指示する実体(「もの」のルビ)の範囲(外延・集合)に包摂されていることの表明(「実体−実体」の包摂関係)、(β)主語記号の指示する犬という実体が述語記号の表明する動物という性質を所有することの表明(「実体−属性」所有関係)、(γ)主語記号の表現する規定性(内包・概念内容)のうちに述語記号の表現する規定性が含有されていることの表明(「属性−属性」含有関係)、これら三様の見方で把えられます。(否定判断の場合は、(α) 不包摂、(β)非所有、(γ)無含有とされます)。が、これらは相互に還元可能だと考えられており、主流的には(α)のかたち(外延論理)で処理されます。――迂生自身としてはこれらをアウフヘーベンするかたちで「函数的成態」の相で把え返すこと、この間の次第については第八便で詳しく論じておきました――(α) (β) (γ)が相互に還元可能だということを含みとしつつ、以下しばらく、伝統的思念を仮りに認めるかたちをとって、(α)に即して議論を運びましょう。この思念にあっては、諸実体が「類−種−個」のヒエラルヒーを成している(ないしは「グループ−サブグループ−個体」の分類体系を成している) という存在観が前提になっていることもいつぞや申し述べた通りです。」357-8P
伝統的思念での仮の論究「判断の「真理性」「虚偽性」は、判断における「主語−述語」関係が存在界の実情に合致しているか否かによって判別されるというのが伝統的思念です。このかぎりでは、殊更に論理的規則など無用です。他方、推論の「正当性」「不当性」は、上述の通り、真偽とは全く無関係にもっぱら合規則性・反規則性で決まりますので、そのかぎりでは、“論理的規則そのもの”にとって真・偽は問題外です。とは申せ、真偽の判っている前提からしかじかの合規則的(ないし反規則性)な推論をおこなうとき、そこに帰結する命題の真偽がそれだけで(つまり、あらためて存在との一致・不一致を確かめる必要なしに)判定できるとすれば、実用上“役に立ち”ます。また、或る命題の真偽が直接的に判定しがたい場合、それをトートロジカルな命題に規則的に変形してみることによって、真偽判定が容易になるとすけば、やはり“便利”です。このたぐいの“実用性”を実際“論理規則”にもたせることが可能であり、現にそのような論理規則が体系化されている次第です。――しかし、権利上の問題として、論理そのものは真偽を決定する資格をもたず、真偽を判定し易くするための補助手段にすぎませんし、また、事実上の問題としても、真偽の既定的な前提命題から合規則的に推論したからといって、それだけで真偽を判定できるケースは限られた範囲にとどまります。あまつさえ、論理的推論過程は無茶苦茶でも、結論それ自身は「真」の場合もある、といった次第で、『論理』などというものは世間一般で思われているほど“権威” のある代物では所詮ありえません。「論理」体系というものは、こうして、いずれにせよ大したものではありえませんけれど、しかし、例えば、既に真偽の判っている命題を変形規則(これは現識上は“新知識”の“獲得”たりうることは上述したところです)に則ってトートロジカルな別形に変形させ、それの真偽をそれだけで判定することが“可能”という一事に徴しても存外と有用ですし、知識を体系的に整理し、学理的命題体系を整備するうえでは、割合いと有効です。その一端をみつつ、且つ同時に、“トートロジカルな変形” と称されるものの陥穽をみる含みで、間接推理における判断連鎖の一端を一瞥しておきましょう。」358-9P
ここで、間接推理のバルバラの例としての展開に入ります。「間接推理の典型は何といっても「演繹的推理」であり、その代表的なものが「定言的三段論法」です。これは「各」と「式」で分類され、実質的には十九の「格式」に整理されますけれど、実際に使用されるのは第一格第一式(Barbara)と第一格第二式(Celarent)の二つだけだと申しても過言でないほどです。バルバラの例として、お馴(「なじみ」のルビ)のソクラテスに登場ねがいましょう。/[大前提]全ての人ハ死スベキモノナリ/[小前提]ソクラテスハ人ナリ/[結論]故に、ソクラテスハ死ス/これは、真であることが既知の「全MハPナリ」から、これまた真であることが既知の「全SハMナリ」を介して、「全SハPナリ」という真なる結論を論理必然的に推論するものと称されます。(このさいの“真理性”は先の(α)[外延論理]でいえば、Mの外延がPの外延に含まれ、Sの外延がMの外延に含まれることから、Sの外延がPに含まれているという存在上の事実関係との対比によって“保証”されるわけです)。――ここで注意しておきたいのは、結論命題に対して、当の大前提を立てることは何らの必然性もないことです。極言すれば、大前提はアト・ランダムです。なるほど、推理者は、導きたい結論を最初から意識していることでしょう。そのことから由来する限定性がおのずとあります。だが、「全てのギリシャ人ハ死スベキモノナリ」「全ての哲学者ハ死スベキモノナリ」「全ての動物ハ死スベキモノナリ」……等々、その限定性の枠内でも、無数の大前提が可能です。また、大前提との関係だけで言うかぎり、小前提も何らの必然性がありません。小前提の述語Mが大前提の主語と同じMでなければならないこと、このことが「第一格」の規則(「ルール」のルビ)上要求されます。しかし、小前提の主語Sは、大前提との関係だけでみるかぎり、他に無数のものが許されます。尤も、結論命題が最初から意識されているかぎり、小前提の主語Sは一義必然的と認めるべきかもしれません。この点は認めましょう。が、そうなると、推理者当人は「ソクラテスは死す」という命題を意識しつつ、(一)その真理性は知らないのでしょうか? それとも、(二)その結論の真理性をも既に知っているのでしょうか? 前者(一)であれば「推論」であり、後者(二)であれば「論証」ということになります。」359-60P
まず(一)から論じていきます。「偖、バルバラ(第一格第一式の三段論法(「シュロギスモス」のルビ))が建前通り(一)の推理だとすれば、推理者は「ソクラテスという人が死すべきものである」ことの真理性を知らないのですから、大前提たる「全ての人ハ死スベキモノナリ」(の真理性)を主張できません。となれば、当の“推理”は不当な推理です。(ついでながら、彼がもし、「全ての人ハ死スベキモノナリ」(の真理性)を知っているのなら、何も今更わざわざ推論をおこなって「ソクラテスは……」を導いてみる謂われはありません。無駄な話です)。――このさいには、嚮に一応認めた「心理上は“新知識”の獲得たりうる」ということさえも成り立ちません。というのは、結論命題の形(全SハPナリ)は最初から意識しているのであり、それに基づいて、小前提(全SハMナリ)の主語Sが決まり、その「全SハMナリ」の真理性を知ったうえで、大前提(全MハPナリ)の主語Mが選ばれた次第なのですから。大前提が立てられる際には「MデアルトコロノSハPナリ」が意識されており、もはや、「全MハPナリ」という大前提の定立は無駄だと申すべきでしょう。こうして、バルバラは、推理としては、不当である以前に無駄な論法です。」361P
ここで(二)に移ります。「ところで、バルバラがもし、建前に反して(二)の「論証」だとすればどうでしょうか? その場合には、一応正当です。論証者本人は結論および前提の真理性を先刻承知のうえで、他人(結論命題にあたるものの真理性を知らない相手)に対して論証してみせるわけで、相手が大前提を認めさえすれば、あとは理詰めというものです。しかし、それは相手が大前提を承認すればの話であって、実際にはどうでしょうか。相手は「ソクラテスは死ぬ」という命題を承認していない(断乎たる否認の場合もあれば懐疑的な場合もある)からこそ論証的に説得しようというわけです。一体「ソクラテスは死ぬ」という命題を承認しないその相手が「全ての人ハ死ヌ」という大前提を承認するでしょうか? 無駄な相談というものです。――こうして「論証」としても有効ではありません。論証者の側では何ら知識が増進せず、相手の側も顚から受け付けない。御苦労様デシタ。」361-2P
バルバラ、ひいては「定言三段論法」のまとめの文です。「定言三段論法という演繹的推理の典型、しかもその代表格たる「第一格」は(バルバラ以外の「式」も同趣になるわけで) (一)推論としても、(二)論証としても、実効性がない次第です。せいぜい、狎合(「なれあ」のルビ)いの“論証”でしかあり得ません。――狎合いにせよ、「論証」ということであれば、最初に「提題」(証明さるべき結論命題)を置き、証明的理由はあとから述べるのが「型」というものでしょう。」362P
次節へのつなぎの文です。「学兄は、ここで、印度の論理学(「正理」や仏教哲学での「因明」)を想起されるかもしれません。「因明」はそのような「型式」での「論証論理」(為他比重=他人を説得するための考量)になっていると言えそうです。その一端をごく簡単に覗いてみることにします。」362P
第三段落――印度の論理学(「正理」や仏教哲学での「因明」) 362-7P
バルバラとの対応での「因明」の押さえ「一口に「因明(「いんみょう」のルビ)」といっても、古因明と新因明とでは、同列に論ずるわけにはいきませんが、古因明から一瞥するのが便利かと思います。――印度の論理学は非常に精緻(せいち)に仕上げられていて、アリストテレスの論理学に優に比肩すると言われます。現代論理学の立場からは、勿論、若干の不備を指摘されざるをえませんけれども、その現代論理学なるものがヨーロッパ的な既成観念を前提にしたうえで因明にさしむける批判をそのまま鵜呑みにすることは却って危険な趣きもあります。が、ここでは、無論、そういう次元まで立入ることは差控え、バルバラに“対応する”推論、いな「論証」にかぎって問題にしておきます。古因明の五分作法(五文法)では、
[宗(「しゅう」のルビ)]鳥ハ死ス 提題(結 論)
[因]生アルガ故に 理由(小前提)
[喩]たとへバ虫等ノ如シ 事例(大前提)
[合]虫ハ生アリ、而(「しこうし」のルビ)テ死ス
鳥モ亦(「また」のルビ)生ヲ有スルガ故に死ス 綜合
[結]この故に知るを得、鳥ハ死スと 断案(結 論)
このような構制になっております。」362-3P
故因明とバルバラの違い「古因明の場合、見落としてならないのは、「全ての人ハ死ス」とは明言しない点です。せいぜい「或る人々ハ誰々のように死ヌ」としか言いません。この点で「ソクラテスは死ぬ」を承認しない相手に「全ての人ハ死ス」という大前提を呑ませようとするバルバラ式の“論証”とはわけが違います。これは、事例を挙げていくといっても、帰納法的推理でもありません。むしろ、若干の例にもとづいた類比推理(類推(「アナロギア」のルビ))と言ったほうがよいでしょう。」363P
古因明の不完全性「このように、古因明は、論理構制から言えば一種の類推にすぎず、相手に「サモアリナン」と思わせることはできても(従って、断案を共有化することはできても)、論理的必然性はもちません。要言すれば、“説得”の手続としては有効であるにせよ、論理的必然性がないという点で“論理的”には不完全です。」363P
新因明の「是正」の試み「そこで、新因明では――いま「異喩」の側に立入ったり。況んや「因の三和説」とか「九句因説」とかに議論を伸ばすことは一切割愛して、唯の一事に限って申すにとどめますが、――「喩」を全称判断の形にすることで、この“不完全性”を是正します。/[宗]鳥ハ死ス。/(鳥は)[因]生アルガ故ニ。/[喩]全テノ生アルモノハ死ス。たとへバ虫等ノ如シ。/この形になれば「喩依」(実例、「たとへバ虫等ノ如シ」)は“論理上”不必要とも言え、あのバルバラと順序こそ変わっておりますけれど(つまり、結論・小前提・大前提の順になっておりますけれど)、内容的には、まさにバルバラと同じだと言えます。――この言い方は、西洋論理を基準にした立論であり、「喩依」「喩依」が残されている所以のもの、もっと深い意味があることも考えられます。が、しかし、ここではその件は棚上げにして、新因明の三支作法の場合、バルバラに即して上述した西洋の形式論理と同趣の“戻理(「れいり」のルビ)”を免れていない旨を臆言しておきましょう。」363-4P
「学兄は、事は一体どうなっているのだと訝(「いぶか」のルビ)しがられるかもしれません。第一便や第六便などでいわゆる「帰納法」的手続が「洞見(「アインジヒト」のルビ)」による直感的“飛躍”に俟たざるを得ないことを指摘しておいた論議を想起していただくまでもなく、帰納的推理を恃(「たの」のルビ)むわけにもまいりませんし、演繹的推理が亦その「代表格」に即して以上みてきたように戻理を免れない始末です。――演繹的推理の全般をまだ検討していないので独断的な言い方になりますけれど、結論的に言えば、演繹的推理全般についてほぼ同断なのです――。それでは、残るところ「類推」で満足するしかないとでも言うのでしょうか。類推は、しかし、所詮は不完全推理でしかありません。」364P
形式論理の不完全性と有効性「惟えば、形式論理が発見的論理でも、十全な説得的論理でもないことは、或る意味では判り切ったことだとも申せます。だがしかし、それにもかかわらず、論理学(その一部として「数学」が含まれる)は結構“権威”もあり、“実用性”もあることが広く認められているではないか。それにはそれ相当の理由がある筈ではないか。確かにその通りです。命題の真理性は論理的規則そのものだけでは規定できないことですし、いずれにせよ過大な期待は禁物ですけれど、それでもやはり、学問的な叙述体系、体系的構成にとって「論理」が極めて重要なことは否めません。」364-5P
総体的構案からのこの論攷の位置づけ「このことは、次箋での行文を通じて審(「つまび」のルビ)らかにする予定ですが、本簡でのネガティヴな截り方からも、“仕掛け”はお察し頂けるかと念います。上向法的展開のアルケー(端初・原理)となる基礎的命題の“真理性” が“承認”されているとすれば、論理的規則に則って、そこから一群の「真なる」諸命題を体系的に「導出」することが、その埓内で可能です。――かつてユークリッド幾何学の公理的・端初的諸命題が“真理”として“承認”されていた折、そこから“真理”と思念される命題群がどのように“導出”され体系化されたか、或いはまた、ニュートン力学の原理的諸命題が“真理”として“承認”されていた折、どのような体系化が実現されたか、これを慮(「おもん」のルビ)みて下さい。――論理必然的に導出された命題事態がイデアールな存立性を認められうるものとし、そのイデアールな形象が、因果律に即して上述した意味での「形式」として“投入”され、それが日常的思念に謂う“客観的法則そのもの”を“構成”するとすれば(現に「数学」の物理学への“応用”“適用”と謂われるものはこの構制に俟つものなのですが)、当の論理必然的な命題事態は、当該アルケーによって劃される領域的対象界に対して、対象の「相在(「ソーザイン」のルビ)」を規定する構成的契機として機能するのであり、存在論的・認識論的な意義をもつ所以となります。」365P
「本簡では、「正当」と区別される「真理」を伝統的思念に妥協して、さしあたり、「対象との一致」という通俗的な規定にとどめましたけれど、実は、その「対象」なるものが「判断」を超絶して自存的なのではなく、判断的措定と対象の相在とが相互媒介的なのです。――学兄は、推論以前に、そもそも個別的「判断」なるものがしばしば必然性の意識を伴うことに先刻お気付きのことと思います。この「判断措定の必然性の覚識」のうちには、推理上のルールから由来する規範的必然性の場合もありえますが、さしあたりそういうルールとは“無関係”の場合が確かにあるように思えます。或る提題が、真なるが故に否認するわけにはいかない(承認を拒否することは許されない)、真なるが故に承認せざるを得ない。乃至は、或る提題が、偽なるが故に承認するわけにはいかない(拒斥せざるを得ない)。そういう“真理性の事実的要求”からする“必然性”の覚識という思念が確かに存在します。――これはこれでまた、一種の規範的・当為的な必然性ですが、しかし、それは“規則(「ルール」のルビ)”からする必然性とは区別を要します。そして、この“真偽的必然性”の覚識は“論理的必然性”の覚識より優位であり、矛盾律などの干犯をも敢て促すことがあります。では、このような「判断」的態度決定における“心理的必然性”の覚識とは何であるのか? “事実的必然性”の覚識とも不可分なこの判断的“必然性”に遡って検討する必要が残されております。上述した「判断的措定」と「対象的相在」との「相互媒介性」という論件はこの次元で扱わるべきものにほかなりません。――この件には、次箋で立ち入る予定です。」365-6P
「形式論理」から弁証法的論理への転換、著者の弁証法の規定「尚、嚮には「論理」というものが体系構成にとってもつ意味を示唆するのに、ユークリッド幾何学やニュートン的古典力学を持出しましたため、「論理」なるものが宛(「あた」のルビ)かも「形式論理」の謂いであるかのごとき印象を与えたかと惧れますが、「弁証法的論理」こそが当然われわれの体系的構成法にとって要訣になります。実はただいま申した「判断的措定と対象的相在との相互媒介性」に定位した論理展開、それが弁証法にほかならないわけでして、「真理性」と「正当性」との有機的な結合はまさに弁証法を俟ってはじめて成就される次第なのです。」
次章・次箋へのつなぎ文「次箋では、この間の事情について主題的に論じつつ、「下向過程と上向過程」、「当事主体とわれわれ」、「著者と読者」といった一連の問題圏の統握を期したいと念います。」367P弁証法の途行き
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(7)
第十一信「対論」の論理と推理連鎖
前便の復習的文「前便では「存在様相」の問題と「判断における「肯定・否定」という問題とを扱い、判断の場面での「当為(「ゾレン」のルビ)的必然性」「それに対する反対の禁止」という覚識に定位して、両者をひとまずリンクさせておきました。/いつぞや、肯定判断・否定判断を、単なる「同轄」措定・「異別」措定とは次元的に区別する必要がある(このことは、異化ということの後に同一性があるという廣松さんの言ってきたことと、そして、単なる異化ということと、判断としての判断を区別する必要があるというで、ここのところは、わたしが、記号論的に「 」{ }“ ”と使い分けをしようとしていたことに通じるのではないかと想ったりもしています。)旨を綴った所以でもありますが、肯定・否定ということは、元来は「主語−述語」の関係づけに直接的に関わるものではなく、間(「かん」のルビ)主観的な「対他者−対自己」の場面を扱ってはじめて成立します。すなわち、前便で申し述べましたように、施詞措定態(「(コレハ)A」ひいては「SハP」)が対他者的に帰属する相で提言される「陳述的措定」に対して、同意・不同意の態度決定を表明する場面で元来は成立するものです(対自化は人称化とともに)。但し、やがては、対他者的に帰属するというさいの当の「他者」が<世人(「ヒト」のルビ)>の相に脱人称化され、非人称化される傾動があり、“内なる対話”たる思考においては、間主観性とか対他者的妥当性とかの覚識が薄弱化し得ます。また、肯定的承認否定的拒斥の態度決定という間主観的な関係規定が「叙示態」(主語=述語成態)に“内自化”されることによって、第二次的に、「肯定系の述定的措定態」(SハPデアル)、「否定形の述定的措定態」(SハPデナイ)が成立しうる次序となります。――肯定的述定態と否定的述定態とは、常に同位同格的だと考える必要はありません。現に或る種の肯定は否定の否定を介してはじめて成立します。しかしながら、原基的な位階では、迂生としては両者を同格的に扱いたいと念います。単なる「命名的結合」「施詞措定」といった次元ばかりでなく、「同轄」や「異別」といった次元が前梯となりますために、この間の整序に立入ると話がかなり厄介になりますけれど、当座の論的としては次の一事を諒解ねがえれば間に合います。それは「デアル」「「デナイ」という述定(「叙示態の陳述」ではなく「叙示態」つまり「主語−述語」成態を成立せしめる“述語づけ”)の位階と存立機制に関わる事項なのですが、「述定」は単なる所知「として」把握するという「区別性と同一性との統一」ではなく、それの上に立つものです。所与をそれ以上の所知として把握するという機制は知覚や表象の次元から汎通的に存立しますし、それを基盤にして命名的措定も成立します。また、再認的次元での「同立」「異立」や較認的次元での「同轄」「異別」も“同一性”“区別性”を所知的第二契機とする構図で判断以前的に成立します。(そして、日常的場面では、知覚判断が云々されたり、同轄や異別も、言語表現上は判断的述定と同形になることから、無造作に判断に算入されたりします。実際問題として、間主観的な関係性の“内自化”が直接的には見出しにくいケースもそこにあります。こういう事情に見合って、日常的には、とりわけ肯定形の述定は単なる命名的結合と混同されがちであり、迂生自身、これまでの論述の途次では、そういう日常的思念に追従する流儀で誌して参りました。が、ここあたりで一旦は厳密に規定しておく必要がありそうです)。勝義における「デアル」「デナイ」という肯定的・否定的述定は、しかし、単なる「として」把握の二肢的関係ではではなく、当の二肢関係態が「誰」かに対して帰属する(人称化による四肢構造態の形成)ことを含みとしつつ、対自的な妥当性の承認・拒斥の表出なのであり、それが叙示的に“内自化”されるかぎりで、述語の主語に対する向妥当性・非妥当性の表出なのです。」330-2P
欠した課題と、今後の課題「右の申し条は、抽象的で独白めいた印象を与えたのではないかと惧れますが、その欠は行文を通じて是正していく心算です。とりあえず、「デアル」の位階と存立機制が前々からブラック・ボックスに納められままになっていた事情に鑑み、前便に謂う「陳述」の「述定」への“内自化”云々の機制と関連づけて、蓋(「ふた」のルビ)をあけたものと御諒解ねがいます。」332P
一 論理的「根本定律」の事実性と規範性
第一段落――「推理」−判断の推論的連鎖 332-5P
(この項の問題設定)「今や、単なる判断の次元を超えて、論理学に謂う「推理」、すなわち判断の推論的連鎖を射程に入れて討究すべき場面を迎えております。――われわれの場合には、なるほど、伝統的・形式的な論理学のように「概念論」「判断論」「推理論」を峻別するには及びません。「超(「メタ」のルビ)文法的主辞・賓辞」論を持ち出すまでもなく、意味構造からいえば、概念はすでに賓述に俟つものであり、判断はすでに一種の直接的推理の構制になっているとも申せます。しかし、推論的連鎖の在り方に流目するとき、固有の問題圏が存立することは確かであり、前便で到達した場面はこの視圏に絡入しているのが実態です。/ここでは「推論的連鎖」の存立構制を問題にしておきたいのですが、お断(「ことわ」のルビ)りするまでもなく、これを周到に展開するとなれば論理学の体系を提示する必要があるばかりか、認識論の次元、更には「哲学的メタ論理学」ともいうべきものを叙説することが要件になりますので、当座の議論としては“戦略的拠点”とも謂うべき幾つかの論件に絞ることに致します。」332-3P
言語を抜きにして(勝義の)推論的判断連鎖は存立しないこと(言語論的−弁証法的展開)「偖、推論的判断連鎖は、実際問題として、言語を抜きにして存立しません。成る程、言語以前的な場面においても、広義の“推論”ならば或る程度まで進捗することでしょう。しかし、単なる「同轄」や「異別」といった次元を超えた勝義の判断とその連鎖ということになれば、言語を俟ってはじめて成立します。但し、言語といっても、必ずしも発話されるに及ばず、いわゆる「内語」のかたちでも差支えありません。とは申せ、「内語的活動」なるものは、発生論的経緯からいっても、そもそも「外語」的活動の内化されたものであり、稍々強引に言い切ってしまえば、「思考(“内なる対話”)とはまさに間(「かん」のルビ)主観的な対話・対論が“内面化”されたものという構制になっております。――どうでもよいことに拘(「こだ」のルビ)わっているような印象を与えるかと惧れますが、「思考」を基(「もと」のルビ)とみなすか、「対話」を基とみなすかで、「論理」というものについての了解の仕方が決定的に相岐れます。「弁証法」(ディアレクティケー=対話術)の場合、プラトンが「思考」を以って「内なる対話」と呼んだ故知などを引合いに出すまでもなく、「対話」の方を原基的とみなすのであり、論理は原基的に「対話の論理」なのです。もちろん対話といっても、具体的な他者との具体的な会話の謂いとは限りません。対話的に協働しながら討究を深めていくという典型的な場合だけでなく、さしあたり相手の主張を静聴するとか、説得しようとして一方的に展開するような場合を含み得ます。また、世人(「ヒト」のルビ)に愬(「うった」のルビ)えるとか、世人の意見に異を唱えるとか、不特定の非人称的“相手”との“対話”もあり得ます。このさい注意すべきことは、「思考の論理」と「対話の論理」とが別々にあるわけではないという点です。学兄は、この言い方に対して疑義を呈せられるでしょうか? 一昔前までは、「人間は言語があろうとなかろうと思考を展開していくことができる」という意見があり、「言語で表現するかどうかは思考にとってどうでもよいことだ」という意見が優勢でした。現に、ヘーゲルも、フンボルトと同時代人であるにもかかわらず、思考にとって言語が決定的に重要な契機だということを十全に洞察していたとは言い切れません。(この点で「意識の現実態は言語である」ことを明確に説いたマルクス・エンゲルスと径庭があります)。しかし、今日では、言語は既成の思考を表現する外的な手段ではなく、少なくとも「内語」というかたちで、「思考の成立条件」「思考の構成的契機」をなすものだという認識が定見になっていると申せましょう。尤も、内語的規則と外語的規則とは完璧に合致するとは言えませんし、沈思黙考する場面では意味的契機がもっぱら現識されて記号的系はほとんど意識にのぼらないことも確かです。しかし、その意味的契機の分節の仕方、意識され方からして“言語拘束的” “言語被媒介的”なことは斉しく認められると思います――。こうして、いわゆる「思考の論理」なるものも内面化された「対話の論理」なのであり、「論理」とはまずは対話的構制に即して規定さるべきものです。」333-4P
対話が成立しうる前提条件「では、対話が成立しうるためには何が必要でしょうか? 平俗にいって「言葉が通じる」ことが最低限度必要なことは言を俟ちません。それでは、言語が通じるとは如何なる謂いであり、そのためには如何なる条件が要(「い」のルビ)るでしょうか。言語的記号(能記)を介して意味的所知(所記)が間主体的に“共有化”されること、そのためには「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されていることが要件になります。「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されているとは、当該「能記」体系の意味論的(「セマンティクス」のルビ)・構文論的(「シンタクティクス」のルビ)・実用論的(「プラグマティクス」のルビ)な“規則”が各々“身についている”謂いであり、視角を変えていえば、当事者たちが当該ラングの“ラング主体”とでも呼ぶべき相に自己形成を遂げている謂いにほかなりません。――これは基礎的条件にすぎないとは言え、論理構制からいえば、ここで既に、論理学者たちの謂う概念的記号の知悉(ちしつ)と整序、形成規則ならびに解釈規則の運用的習熟が含意されております。(もちろん日常的言語のシステムや規則には曖昧なところがあり、そのこと自身“対話”的な討究を通じて自覚化されていく次第ですが、ここで“記号使用”の“規約”を人工的に設定することによって、数学的言語(「ラング」のルビ)体系、記号論理学的言語(「ラング」のルビ)体系を形成することも可能であり、それを“共有”することも可能です)。」334-5P
更なる問いかけと次項へのつなぎ「学兄は、ここで、謂うところの記号的体系の分類的整序とか構文的規則の確立とかいう場面で、「内なる論理」が心理的法則として作動しているのではないか、そのような“内なる論理”・“内なる法則”の一斑として「同一律」「矛盾律」「排中律」などが既在するのではないか、この旨を問われるかもしれません。これは慥かに大問題です。この問題は、論理上の基本則と呼ばれる矛盾律などが、対話の場面ではじめて存立する規範的法則なのか、それとも心理的過程をも支配している事実的法則なのか、という大問題です。が、この大問題に答えるためにも、まずは対話の構制をもう少し追っておきましょう。」335P
第二段落――対話の構成 335-7P
(この項の問題設定)「「言語(「ラング」のルビ)」が“共有”されているとしても、それだけではまだ如実に「話が通じる」というわけにはいきません。(それは、人々が「言語」を言語学者的、文法家的に認識していない所為(「せい」のルビ)なのかいえば、無論そうではありません。人々が、ラングの内的編成や内的規則をまだ充分に自覚していないことは確かであり、この点で数学や記号論理学の場合と違いますが、しかし、明確に認識していなくても“実践”上“身について”いれば差支えありません)。対話が対話として成立するためには、パロール的な次元での言語活動がしかるべき条件を充たす必要があります。ここに謂う「条件」、すなわちラング的次元では一概に規定できない具体的条件には諸々の契機がその都度具体的に存在します。が、少なくとも、両者が“同一の主題”について、それぞれ“述定的に陳述”することが要件です。別々の主題について勝手に各々喋っているのでは対話になりませんし、一方が全くの判断停止の状態を続ける(例えば、純然たる質問の連続)のでは対話になりません。――勿論、現実の場面では、質問というかたちをとりながら実質的には意見を表明する場合がありますし、さしあたっては質問なり態度保留であっても次のステップでの“述定的陳述”が予期されるかぎり。それも対話の過程的局面として算入されます。問題は、意見が一致するにせよ一致しないにせよ、所与の提題に関する肯否の態度決定(肯定的ないし否定的な判断的態度決定)が両当事者において少なくとも一回はおこなわれるのでなければ「対話」とは言えないということです。」335-6P
ここで、著者は対話が成立しうる条件を、押さえる作業をしています。「ところで、或る提題について賛成したかとおもえばすぐ反対するといったことが起これば、すなわち、「SハPデアル」と主張しながら、且つ、「SハPデナイ」と主張すれば、一体どうなるでしょう。勿論、同じく「SハP」といっても、条件が別様になれば、判断的態度決定が別様になるのは当然ですが、今の場合、「同じSについて、同じ関係のもとで、同時に、Pが向妥当し且つ向妥当しない」と一方が主張したものとします。これは、まさに矛盾律に牴触するケースにほかなりません。もし、このような場合が出来(「しゅったい」のルビ)すれば、相手側は御当人が混乱していると思う以前に「S」なり「P」なりが二義的に(別々の意味で)言われているのだと想像することでしょうが、その二義的な意味を具体的に覚知することができず、意味不明(つまり相手の主張を理解できない)の廉で、肯定的に承認することも否定的に拒斥することもできないでしょう。また、御本人が混乱しているのだと洞見した場合(つまり、御本人としては「S」も「P」も一義的な心算だということが判った場合)にも、否定的な態度決定をおこなうというよりはむしろ、相手を窘(たしな)めて、肯・否いずれかに陳述し直すことを求めることでしょう。いずれにしても、相手が矛盾した発言をおこなう場合(無論、自己批判的に前言を撤回して前とは別の主張をおこなう場合は矛盾ではありませんので今のケースには含まれません)には聞手の側では、判断的態度決定をおこないませんので、「対話」の要件を充たしません。――これを以ってみれば、「同じSについて、同じ関係において、同時に、同じPが向妥当し且つ向妥当しない」という「矛盾」的主張をおこなわないということが「対話」が成立するための“ルール”的条件をなすことが判ります。」336-7P
「矛盾律」をとらえ返す――次項へのつなぎの文「こう申しますと、早速に反問されそうです。弁証法論者ともあろう者が、「矛盾律」を承認するのか? それにまた、右の立論には論点の飛躍と摩替(「すりかえ」のルビ)がある。相手の矛盾した発言を窘めるのは、まさに相手が矛盾を犯しているという廉で自分の側では否定的な態度決定したうえでのことだ。相手の矛盾に気が付けば、直ちに否定的拒斥の判断的態度決定が成立する、云々。このように指摘されそうです。これは、先刻から持ち越した「矛盾律は事実法則なのか規範法則なのか?」という大問題とも関係します。この件をも絡めて暫定的にお答えしておきましょう。」337P
第三段落――矛盾律をとらえ返す−弁証法は矛盾律の妥当性を否認する 337-42P
(この項の問題設定)「「弁証法」と「矛盾律」との関係をめぐってはいろいろ議論の多いところです。或る種の論者たちは、弁証法に謂う矛盾は、形式論理の謂う“厳密な意味での矛盾”ではない旨を云々し、弁証法といえども論理的展開にさいしては矛盾律に則っている旨を指摘します。しかし、いつぞやも申し述べましたように、アリストテレス流の矛盾律、すなわち「「同じものが、同じ関係のもとで、同時に、同じ属し且つ属さないということはあり得ない」という定律における「同一体」「同一関係」「同一時刻」なるものの存在的領界を問い返してみますと、矛盾律の“厳密な”妥当性は一種独特の存在論を前提にすることなしには成立しないことが判ります。それは一口に言ってしまえば、不変不易な、自己同一性を維持する格別な存在体(形而上学的“実在”であれ、数学的“対象”であれ)が少なくとも世界の“成素”として存在することを前提にしつつ、そのような“存在体”に関してのみ“厳密に”妥当するという構制になっております。しかるに、万物を流転の相で観じ、不易的実体なるものを認めない弁証法的な存在観のもとにあっては、矛盾律のそういう“厳密な”妥当性は存立しうべきもありません。原理的にいえば、この理由から、弁証法は矛盾律の端的な妥当性を否認します。」337-8P
弁証法的途行きの過程としての矛盾律「このことは、しかし、弁証法が「矛盾律」を顚(「てん」のルビ)から無視してしまう謂いにはなりません(このことは自己決定権の問題にも似ている)。弁証法はいかに世界を生成変化・相互浸透の相で観ずるといっても、一挙に“神的な知的直観”で対象を把えきれるものではないからこそ、順次的にステップを追う方法論的アプローチを試みる次第でして、対象界の肢節を一旦“固定的”な相で“劃定”しつつ討究する悟性的手続を――悟性論理のように当の固定化相をそのまま“真実在”の如実相だと錯認する存在観を自覚的に卻けたうえで――暫定的には踏まえます。それは、しかも、単なる予備門といったものではなく、そういう暫定的な措定を止揚しながら進んで行くところに弁証法的な展開が存立するのです。悟性論理と理性論理が別々にあるのではなく弁証法的な理性論理は、システムとしての語性論理をそのまま包摂するものでこそなけれ、悟性論理流の手続をまさにアウフヘーベンしたジステマティークになっております。このかぎりで、「同じものが、同じ関係で、同時に、同じものに……」というさいの“同一性”が存在論的に厳密な同一性でこそないにせよ、悟性的な劃定の当該場面で“同一”と把握されている準位では、一応“矛盾律”に則って討究を試みます。――そしてそのことを通じて、悟性的な“同一化的劃定”そのものが実態を把えきれていないことに由来して生ずる二律背反(「アンチノミー」のルビ)的な“矛盾”を対自化することによって、当の暫定的な劃定・措定を止揚するわけです。迂生が先に“矛盾律”を承認するかのように申したのは、このような悟性的劃定の次元に即してのことなのです。」338-9P
規範的ルールとしての矛盾律「ところで、この悟性的準位における“矛盾律”というのは、事実的法則なのか規範的法則なのか? 人は、それと知らずして、矛盾した発言を為出かすことが現にあるのですから、矛盾律は心理的事実法則ではなさそうです。矛盾律は、さしあたり「同じS、同じ、同じ関係、同時、同じP」という劃定の準位が維持されるかぎり、「SハPデアル」という肯定的述定陳述と「SハPデナイ」という否定的述定陳述と共立的に主張してはならない(主張しないことにしよう)という規範ルールだと申せましょう。(相手が矛盾した発言をしたとき窘めるのは、ルール違反に対する譴責(けんせき)なのであって、相手の主張に対する否定的拒斥の態度ではない道理です)。」339P
ここから、更なる問いかけによる、とらえ返しの深化に入ります。ここのところは、「弁証法は(事実)法則ではない」というとらえ返しで有効な議論になるのでしょうが、そのあたりは、別のところから出てくることだとも思いますので、メモを省きます。
「こうして、矛盾律は、第一次的にはあくまで、対話の成立条件として人々が従う規範的な規則です。しかし、人々は、別段、対話の成立を可能ならしめようと意図して「矛盾律」なるものを「約定」するわけではないではないか。それはおのずと成立したものであり、その意味で事実的存在ではないか。また、規範に随順していると第三者的に認められる場合でも、本人は自覚的・意思的に則っているとは限らないではないか。こう反問されるかもしれません。まさにその通りです。このような次元での「規範的法則」と「事実的存在」との関係については、別著『世界の共同主観的存在構造』所収の「デュルケーム倫理学説の批判的継承のために」で扱っておきましたので参照ねがえれば幸甚です。迂生としては、規範・不許不(「ゾレン」のルビ)・価値を事実・不可不(「ミュッセン」のルビ)・存在と二元的に分断する立場は厳しく斥け、ヘーゲル・マルクスに随順する次第です。この段、御諒承願います。」341P
ここで書き落としていて、ここでは書けないことを誌しています。「詳しく論攷する場合にはここで同一律や排中律についても討究すべきところです。・・・・・・悟性的劃定における或る準位での“同一性”を仮設する場面では、同一律・矛盾律・排中律を同位的に扱えることは形式論理に徹して容易に御理解いただけるところですから、ここでは省きます。・・・・・さらにはまた悟性的劃定における暫定的な措定がどのような機制でアウフヘーベンされるかについては、第五便で概述しておきましたので、この場で復唱するには及びますまい。」341-2P
まとめと次節へ繋げる文です。「茲では、とりあえず、論理学の根本定律とされる「矛盾律」が第一次的には「対話」の成立要件として形成される規範的規則であることを追認したところで、判断の推論的連鎖に視線を向けたいと念います。その場面を介して、右に持ち越した一群の問題にもある程度は答えることができるものと庶幾します。」342P
二 所謂「因果的必然性」と当為的必然性
「推論における判断的連鎖は、いわゆる「直接的推理」と「間接的推理」とに分かれ、伝統的な論理学の流儀でいえば、前者は「対当関係」によるものと「変形置換」によるものとに下位分類され、後者は「演繹的」「帰納的」「類比的」に分類されます。さらにいえば、演繹的推理は「定言的」「仮言的」「選言的」のほかに、これらを組み合わせた「半仮言的」「両刀論的」、さらにはまた「帯証式」「連鎖式」などを含みます。/ここでは、しかし、これらに逐一立入る煩は避け、ますはさしあたり、「直接的推理」に即しながら、推理的連鎖の必然性を見ておきたいと思います。――「間接的推理」については、そのあとで、稍々別の視角から問題にする予定です――。」342P
第一段落――論理必然性ということ 342-5P
(この項の問題設定)「推論的連鎖が必然的に認められる場合、その必然性は「理由−帰結」の論理的必然性であって、それは「原因−結果」の因果的な必然性とは一応別種の必然性です。」342P
著者は必然性に関する論攷を進めます。「では、論理的必然性とは何か? これが真理性とは直接に合致しないことに御留意願います。例えば「SハPデアル」ナラバ「Sハ非Pデナイ」ことは矛盾律からして論理的に必然ですが、これは事実上同義反復(「トートロジー」のルビ)にすぎず、「SハPデアル」ないし「Sハ非Pデナイ」の真偽は未定です。視角を変えていえば、判断の推理的連鎖は当該判断の真偽にかかわりなく必然的にあり得るわけです。論理的必然性とは、論理的規則に徴して、それに反対する主張をおこなうことは規則(「ルール」のルビ)違反になる(従って、規則上禁止されている)こと、規則に随順するかぎり、それを承服せざるを得ないことの謂いです。それは、まさに当為(不許不(「ゾレン」のルビ))的必然性であって、事実(不可不(「ミュッセン」のルビ))的必然性ではありません。説明的に言い換えれば、それは、「そうあらざるを得ないmüssen」、「それと反対の行為をすることが事実的に不可能」なのではなく、「そうすべきであるsollen」「それと反対の行為をすることが規範(「ノルム」のルビ)上許されない」という意味での必然性なのです。(「規範上許される」がこの次元での「可能性」であり、「規範上許されない」が「不可能性」であることは申し添えるまでもありません)。」343P
さらに著者は話を進めます。「ところで、論理的規則は、規則(「ルール」のルビ)なのですから、いろいろな約定の仕方があり得ます。原理的にいえば、規則はどう定めても良いと申せます。矛盾を孕(「はら」のルビ)んだ規則であっても理屈上は差支えありません。 (・・・ゲーデルの「不完全性の定理」への論及・・・)実際問題としては、しかし、種々の事情から、規則の定め方はおのずと限定されます。論理的規則の場合、煎じ詰めていけば、結局のところ対話という“ゲーム”が成立しうるように劃定されます。とはいえ、この劃定には一定の幅がありますし、どの線に落ちつくかは、歴史的・社会的な諸条件(もちろん対“自然”的関係も影響します)によって規制されるとしか言いようがありません。その点では、社会的習慣一般の範に漏れません。――という次第で、論理的規範そのものがもし一義必然的に定まるのであれば、まだしも「論理必然性」(規則による必然性)が“絶対性”を帯びることでしょうが、遺憾ながら、それは「習慣」程度の“権威”しかもたないのです! 特殊専門的な「人工言語」規則を作ったとしても、それは所詮、原理的にみれば「便宜的約束(「コンヴェンション」のルビ)」にすぎません。かつて絶対的と思われていたユークリッド幾何学の公理系と、非ユークリッド幾何学登場後の了解の変化とを念い合わせて下さい。」344P
次節へのつなぎの文です。「・・・・・・ここでは、しかし、歴史の因果的決定性という大問題に立ち入ったり、規範の歴史的相対性という論件に踏み込んだりする遑はありません。端的に「因果必然性」なるものの実態に眼を向けることで一気に決着を図りたいと念います。」345P
第二段落――「因果的必然性」 345-50P
「「因果的必然性」は事実的必然性の一種だと考えられており、その点で、当為的必然性の一種である論理的必然性とは別種のものだと普通には考えられております。しかも、このさい注意すべきことは、因果必然性は因果連鎖(関係)の必然性であって、先件と後件それぞれの事実必然性とは次元を異にするという点です。いま、Aという事件の生起とBという事件の生起が、それぞれ否みがたい事実として現存するとします。これら二つの事件が“事実必然的”であるとしても、そのことはAB連鎖(関係)の必然性を直ちに含意しません。AとBとが継起したとしてもやはりそうです。古典的な例でいえば、昼に夜が継起したとしても、それが恒(「つね」のルビ)に継起するとしても、先件「昼」が後件「夜」の原因だとは言いませんし、そこに因果関係があるとは言いません。例外なく必ず継起するとまでは認められても、これは必要条件たるにすぎず、それだけでは因果関係とはみなされません。それでは、当の恒常的継起が因果関係と認められるに必須なプラス・アルファは何でしょうか? それは先件が後件を「惹(「ひ」のルビ)き起こす」こと、それも偶々(「たまたま」のルビ)そうするのではなく、法則的・必然的に惹き起こすことです。――原因という言葉が、ギリシャ語で「彼(「あいつ」のルビ)の所為(「せい」のルビ)だ」「彼に責任がある」というさいの“責任”の謂いであることを持ち出すまでもなく、因果の観念には擬人的なイメージがつきまといます。(このことはカール・ピアソンが古典的名著『科学の文法』で夙に指摘しているところです)。先件に後件がひとりでに継起するのではなく、先件が能動的・起動的なエージェントとして後件を「惹き起こす」という了解にはまさに擬人法的な発想がみられます。しかも、この「惹き起こす」能動的な営為は恣意(「しい」のルビ)的・偶然的であってはならず法則的・必然的でなければならないとされております。ところで「法則」といえば、日本語では「法律」とは別語ですけれど、ヨーロッパ語では「法律」と同語です。惟えば、日本語でも、やはり「法」であり「則」であるわけです。自然界の法則とはもともと「律法」(神の定めた掟(「おきて」のルビ))の謂いにほかなりません。法則的・必然的に惹起(「じゃっき」のルビ)するとは、規範的な規則(法律(「おきて」のルビ))に随って・そうせざるをえず(そうしないことを許されず=不許不(「ゾレン」のルビ))に惹き起こすというイメージでしょう。ここでは、規範的規則に随順するという当為的必然性の構制が「原因」なる能動的エージェントの営為に擬人法的に推及されている次第です。こうして、因果的必然性とは、当為(「ゾレン」のルビ)的必然性を自然界の事象的生起の在り方に投入したものにほかなりません。」345-6Pまさに物象化の逆の裏返しの事象化で、ここから逆に物象化も生じてきます。
著者はさらに論考を進めます。「右の立論は、しかし、「原因」とか「因果的必然」とかの観念が形成されたさいの経緯(「いきさつ」のルビ)や含意には適っているにしても、科学的な因果関係はそういう擬人法を払拭した客観的事象関係を表わすはずではないのか? このありうべき疑念に答えるには、科学辞典を援用するのが捷径(しょうけい)かと思います。――因果概念は近代科学における中枢的な概念でしたし、それゆえ、哲学の世界では、ヒュームやカントの議論にみられるように早くから論件になっておりましたが、昨今では科学基礎論・科学哲学の方面でもこの因果概念の“身分”が弁(「わきま」のルビ)えられるようになっております。」346-7Pいうまでもなく、その世界観はパラダイム転換に曝されています。
ここで、「科学辞典」からの引用として『伊東俊太郎氏編『現代科学思想事典』の黒崎宏氏の文からの引用として「一般には、或る事象の原因として何を数えるかは、問題の状況および当事者の問題意識に依存するのであり、その際、本来数えあげるべき事象をすべて数えあげることはしないのである。このことは、原因、結果、そして因果関係とは、一般には、事象の系列を見る一つの形式にほかならない、ということを物語っている。これらの概念は理論物理学の中には現われてこない。それは実用的な概念であり、理論的な概念ではないのである。」(下線は廣松さん)347Pこの因果論は、日本政府のお抱え御用「科学者」が政府の負担をできるだけ少なくしようという意図において、「因果関係はない」とか「因果関係は立証されていない」という「論理」として現れています。
先の文への廣松さんの補足・詳説「科学的理論としては、事象の状態の継時的変化相を時間を変数とする函数の形で記述するだけです。(ここに表現される必然性については後述します)。「原因−結果」は理論的な概念ではなく、「事象の系列を観る実用的な一つの形式」にすぎません。そして、この「実用的な概念」「形式」の構制は、煎じ詰めれば、上述の如き「擬人法的」な合規則的惹起の構制になっている次第です。」348P
ここから反問的問いかけへの応答による論究を煮詰める作業です。「だが、と学兄は反論されるかもしれません。(第一の反論)規範的な当為必然性(不許不)は、それに違反する行為も事実上は可能であるのに対して、因果的な事実必然性(不可不)はそれから逸脱することが事実的に不可能であり、その相違に鑑みれば、後者は前者を“投入”したものとは思えない。(第二の反論)そして、現に、「原因」「結果」という日常的観念の曖昧さを卻けつつ、科学においてはまさに変化相を数式的に記述することで当の「事実必然性」(不可不(「ミュッセン」のルビ))を表現しているのである、云々。」348P
(第一の反論への著者の応答)「規範的な規則は、事実的な法則とは“異なって”、それから逸脱することが現にある、というのが通念であることは認めます。とくに近代社会では、規範は約束事・暫定的な取決めにすぎないという意識が強く、その一方、自然法則は決定論的な一義必然性を以って貫徹する者と思念されております。しかしながら、古代や中世までは、規範とは神法的な絶対性をもつものと信じ込まれていました。なるほど、それでもなおかつ逸脱・違反は現におこなわれていたわけで、だからこそ、“神罪”的な矯正が“生じる”ものと考えられた次第です。その点では、自然界の事象の径行についても、同断でした。前近代的な宿命論的世界観といっても、そこでの必然(この詞自身「運命(「さだめ」のルビ)」の謂い)は帰納が決まりきっているだけで、途中の経過は一義的に決定されているとは観じません。ですから、古代的な観念では、規範的必然性と自然的必然性との様態が同趣であり、しかるべき相で“投入”がおこなわれた次第です。ところが、近代になりますと、自然界の事象は、帰結だけが既定的なのではなく、途中の経過(途中の因果連鎖)が機械論的な一義必然の相で進行するものと観ぜられるようになり、ここにおいて規範的必然性と自然的・因果的必然性とが別種のものとみなされるようになりました。ここでは、神的主宰者が逐一干渉することもなく、有意的エージェントが自覚的に規範に服することもない代りに、謂うなれば「法則」そのものが事象的変化を一義的にコントロールするものと了解されます。そしてこの「法則的」支配の「必然性」を表現するものがあの物理的運動方程式にほかならないとされるわけです。こうして――近代的な因果観は、前近代的な原初的なそれとは異なって、当為的必然や規範的行為の単純な“投入”ではないことを認めるにやぶさかではありませんが、この近代的な因果的・法則的必然性の機制をみるためにも、――今や、第二の問題点の検討に移る段取りです。」348-9P
(第二の反論への著者の応答)「数式的に表現される運動方程式、これが表現する変化的継時相の必然的連鎖、ここでの「必然性」とは何でしょうか? それはさしあたり数学的必然性です。運動方程式中の時間の値に応じて函数の値が一義的に決まります。その決まり方は一義必然的です。だが、この数学的必然性は数学上の公理や計算規則に則った論理的必然性にほかなりません。しかるに、この数学的論理必然性が一種の規則(「ルール」のルビ)からする必然性、当為的必然性であることは論理的必然性の機制について上述したところから明らかな通りです。――『現代科学思想事典』から先に引用した言葉と関連づけていえば、数式的に表現される因果的な法則的必然性は「事象の系列を見る一つの形式」「実用的な概念」なのであり、ここではストレートに有意的なエージェントの規範的行為を投入するわけではありませんが、その代わりに継起関係を数学的な表現形式での「論理的必然性」という規則(「ルール」のルビ)的当為的な必然性の構制で以ってそれを自然界に投入したものにほかなりません。」349-50P
さらなる論究とまとめ、次項へのつなぎの文です。「学兄としては、しかし、“投入”されるのは「形式」だけであって、「実質」的な必然的関係は自然界そのものに存在する筈だ、と考えられるでしょうか。「実用上の概念」「形式」は擬人法であれ何であれ、ともかくその「形式」でもって把握される実質的な関係性が客観的に存在する筈だ。その“実質的”な“客観的”関係性こそが問題なのだ、云々。これは「存在様相」を云為するわれわれの立場においては、慥かに重要な問題点であり、前便以来の脈絡から申しましても、検討に値すべき論件です。それゆえ、この問題に関説しつつ、前便との関連性を対自化したうえで、話の本線である推理的連鎖に主題を戻すことにしましょう。」350P
第三段落――「客観的実在世界そのものが因果的・法則的必然に服しているという思念」について 350-4P
(この項の問題設定、導入部)「客観的実在世界そのものが因果的・法則的に必然に服していくという思念――論理的な判断の推理的連鎖といえども窮極的には客観的な事実必然性を追認的に辿り猶したものにすぎないという思念――には実に鞏固(「きょうこ」のルビ)なものがあります。が、問題は、その「客観的実在」「客観的な事実的法則必然性」なるものの実態です。人々は、どういう概念形式を“投入”するかにかかわりなく、客観自体が法則的な必然性に服していると思念します。しかし、果たして、人間は、何らかの形式をも“投入”することなくして、端的に客体そのものを認識できるでしょうか。あれこれの特定形式を放棄することは勿論可能です。がしかし、その都度、何らかの形式を“投入”するという構造を免れ得るものでしょうか。これは認識論上の大問題です。が、今日では余程素朴な「模写論」者でもないかぎり“裸”の実在を何らの概念形式をも“投入”することなく認識できると主張するものはありますまい。なるほど、いくら括弧つきで“投入”と書いても、「投入」という発想には異論が出るかもしれませんが、“裸”の対象をそのまま認識できるとは、認識論上の立場としては模写説を採る人々でさえ、多くはもはや主張しない筈です。「形式」の“投入”と言わず、色メガネの比喩を持ち出しても構(「かま」のルビ)いません。(但し、ここに比喩的に謂う“色メガネ”は狭義のイデオロギー的なそれだけには限りません。いわゆる存在被拘束性・文化的拘束性一般に応ずるものです)。――この種の認識論上の問題については、当該の拙著『もの・こと・ことば』(勁草書房刊)を参照ねがうことにして、ここではとりあえず、端的に「形式」ぬきの“裸”の対象認識は不可能ということまではお認めいただいたものとして話を進めます。」350-1P
「形式」に関する、さらなる論攷の進展です。「さて、認識上の「形式」にはさまざまなものがあり、さまざまな次元に相岐れますが、少なくとも近代的な自然観においては、対象界の法則的変化、法則的事象連鎖を把える「形式」として、最も基本的・基底的なものが「因果律」にほかならないと申せます。最も、近時では、函数的記述にとどめて因果的説明はおこなわないというのが科学理論の格率(「マクシーメ」のルビ)になっておりますが……。学兄としては、このような事情を踏まえた上で、因果的説明にせよ、運動方程式という函数的記述にせよ、その「形式」面は規則(「ルール」のルビ)的な規範的必然性に依拠するにしても、この「形式」で把える「実質」そのものが事実必然性・事実的法則に服している筈だと、主張されるのかもしれません。そうでなければ、月ロケットが命中したり、機械が計算通りに作動したりするわけがないではないか、云々。自然そのものに法則性があるからこそ、例えばメンデレーエフの周期律が“予言的”に的中しえたのではないか、云々。これは慥かに誰しもが懐きやすい思念です。――しかしながら、月ロケットは、天動説の概念で把えても、地動説の概念で把えても、無事命中するように設営できます。他の法則性といわれるものも同断です。学兄は、そこで一歩を進めて、まさに「形式的記述」のありかたは色々でありうるが、それらが等価になるのはまさに“同一の”客観的法則性が事実的に存在するからだ、と主張されることでしょう。だが、例えばメンデレーエフが当時まだ埋まっていなかった周期律表の空所にしかじかの原素を想定した場合ですらそれは既に一定の「概念形式」に俟っております。人々は、なるほど、一切の概念形式からフリーな客観的対象性自体なるものを想定したがりますが、それはカント的な物自体(Ding an sich)になってしまいます。天動説であれ地動説であれ第三の説であれ、ともかく対象の法則性を認識するときには、必ず何らかの概念的枠組みに依ってしまうのです。突き放した言い方をすれば「“裸”の“客観的”法則性そのもの」というのが既にそのような概念「形式」で把握したものになってしまっております。そのかぎりでなら、学兄のいわれる“客観的法則性そのもの”を認めるに吝(「やぶさ」のルビ)かでありません。」351-2P
「主観−客観」というとらえ方「このような言い方をしますと、学兄は、迂生が一切を主観的なものに還元してしまうのではないかと危惧されるでしょうか? 迂生としては決してそういう観念的な主張をしているのではありません。例えば、色や音をとってみても、これらは決して単に主観的なものでなく、“客観的規定性”に応ずるものの筈です。勿論、一昔前の人々が考えたように、それは純粋に客観的な“裸”の実在性ではありません。が、同時に、純粋に主観的なものでもありません。人は、主観的なものと客観的なものという二元性の対立図式を前提にするところから“主観的な色”に対応する“客観的色性”とでもいったものを想定しますが、客観的“色性”自体が存在するわけではなく、強いて論者たちの構図に妥協して言えば、“主観=客観”的な“色”があるだけだと申すべきでしょう。」352-3P
著者の量子力学的観点からのとらえ返し「ところで、嚮には、運動方程式が数学的に必然的な方式で定式化されることをそれこそ形式的に申し述べるに止めました。が、内容面を勘案していえば、古典力学の場合には、運動方程式が一義的に決まるかたちになっていたのに対して、量子力学においては、そのような一義的な必然性は存立しません。量子力学の立てる運動方程式といえども、それが数学的規則(「ルール」のルビ)に随って定式されるかぎりでは、数学的・論理的に必然的です。但し、時間値を決めても状態関数が一義的に決まらないという意味では一義必然的ではありません。話を簡単にするため、確率変項を含むということにしましょう。/現代物理学の了解では、先ほど学兄に譲って認めた意味での“客観的法則性そのもの”が“確率変項”を含むのであり、大枠的には劃定されているのですが、状態的諸契機の在り方は、一義的に確定されておらず、まさに“必然性と偶然性との統一態”とでも言うべき相になっております。このことは前便で縷々(「るる」のルビ)申し述べた通りです。」353P
まとめと次節へのつなぎの文です。「翻って考えますに、規則(「ルール」のルビ)に則った規範的行為の在り方、当為的必然性に適った在り方と一口に申しましても、そこには規則(「ルール」のルビ)違反にならない劃定域の埓内で、実はいろいろな可能的な在り方が存立するわけです。(ですから、現代物理学の法則観が特異なのではなく、古典力学時代の近代式の因果的法則観、近代流の機械論的な必然観のほうが狭義で、例外的であったとも申せる次第です)。このことは、論理学的な規則的必然性についても言えます。今やこのことをも念頭に納めて、推論的連鎖の必然性という本題に立ち帰ることにしましょう。」353-4P
既に書いていますが、因果論の話は、せいぜい20世紀までの論理学で、そんなものを政府御用達の「科学者」が、使い続けているということ自体が、似而非科学性を示しているとしか、わたしには思えないのです。
三 推理連鎖の論理的機能と真偽の価値
(この節の問題設定)「先刻は、推論的連鎖の論理的規則からする必然性にすぎないという一面だけを申しましたが、判断や推論は、真理性の要求からする当為的な必然性にも則るものの筈ではないでしょうか? 真なる推理とは事実的連鎖の事実的必然性を追認するものだという考え方もありえます。順を追って検討していきたいと念いますが、そもそも推論的連鎖、そこにおける理由命題と結論命題との関係を把え返すところから始める必要がありそうです。」354P
第一段落――推論的連鎖、そこにおける理由命題と結論命題との関係を把え返す 354-6P
命題の提示「普通には――とりあえず「直接推理」を念頭におきながら申しますと、――或る判断(理由命題)から別の判断(結論命題)が「出て来る」とか「導き出される」とかいう具合に考えられております。「出て来る」とは良くぞ言ったものだと思いますけれど、その実態はどうなっているでしょう。/(イ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「全Sハ非Pナラズ」/ (ロ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「或SハPナリ」/ (ハ) 「全SハPナリ」ならば(故に) 「或Sハ非Pナラズ」/これらは、普通、伝統的な論理学では、(イ)は大反対対当による直接推理、 (ロ)は大小対当による直接推理、 (ハ)は矛盾対当による直接推理と呼ばれます(このうち(イ)は換質による直接推理とも言えます)。その際、矛盾律および編有編無律(Dictum de omni et nullo)が推論のための原理として既存のものと考えられている次第ですが、(イ) (ロ)を公理((イ)が矛盾律(ロ)が編有編無律の一半)と考え、 (ハ)を(イ) (ロ)から導かれる定理だとみなす途もありえます。ここでは、しかし、伝統的な考えの線で、既存の両律に則った直接推理だということにして考えることにしましょう。」354-5P
命題の解説「(イ) (ロ) (ハ)は「ならば」とか「故に」とかでさも推理らしく連結されておりますが、(イ) は論理的には同義反復(「トートロジー」のルビ)であって、結論命題は内容上なんら新しいことを言っているわけではありません。但し、明識的な知識としては、前提命題と同時に結論命題を意識していなかったかぎりで、そのかぎりでは“新知識”の獲得と言うことが一応できます。(ロ) (ハ)についても、大同小異です。――このような構制に鑑みれば、論理上は既に前提命題に含まれていたものが「出て来た」だけで、新生したわけではありません。しかし、潜んでいたものが「出て来た」ことで見えるようになったわけで、一応の進展は認められます。先に「出て来る」とは良く言ったものだと誌した所以です。――ところで、論理的規則との関係でいえば、(イ) (ロ) (ハ)のそれぞれの前件からそれぞれの後件を主張することが許容される(ルール違反にならない)ということであって、「対話」の当事者がそう主張しなければならないという積極的な必然性はありません。が、「対話者」が前件を承認(暫定的承認でも可)するかぎり、後件をも承認せざるを得ない(後件だけを否認したのではルール違反になる)という意味での消極的必然性はあります。そして、この対話的機制において、そのかぎりで、前件と後件とのあいだに「ならば」「故に」という“必然性” (当為的必然性)が存立しております。」355P
著者の正当性−真理性の論証「論理的規則に則って前件から後件を「導出する」ことが“許容”され、当事者が前件を承認するかぎり後件を否認することは“禁止”されているという“必然性”があるとしても、それは推論(結論)の「真理性」とは直接の関係はありません。合規則的な推論は「正当性」(Richtigkeit)をもつだけで「真理性」(Wahrheit)をもちませんし、また、規則違反の推論は「不当」(unrichtig)であっても直ちに「虚偽」(falsch)ではありません。(数学的「真理」と呼ばれるものは、一般には、数学の論理的規則に徴しての「正当」な命題にすぎないところを、強引に「正当」=「真理」としているだけです。応用数学的命題はまた別の話になりますが、純粋数学が敢て「正当性」と「真理性」を重ねうる所以のものは、数学は対象を合規則的な命題に応じてその都度イデアールに“構制”“創出”し、そのイデアールな対象との合致性を循環的に主張することにおいてです)。」355-6P
まとめと次節へのつなぎ「論理学の形式的な手続の埓内では、いずれにせよ、真理・虚偽を全面的に“導出”“排却”することはおろか、弁別することさえ極く限られた部面でしか期すことができません。とはいえ、一定の存在論的・認識論的領界のもとに、対象と概念とを或る仕方でリンクさせることによって、或る程度まで、形式的な手法で真偽を弁別できるよう論理学は工夫します。そのことによって、論理学という“形式”的学問が一定の“有用性”をもちうることになります。」356P
第二段落――「正・否」と「真・偽」とのリンケージの一端をみる 356-62P
(この項の問題設定)「さて、そこで“対象”との関係性の面を視野に収めて、「正・否」と「真・偽」とのリンケージの一端をみることにしましょう。(尤も、爰で“対象”というのは必ずしも事物の謂いではなく、記号や規則との区別上便宜的にこう呼ぶもので、むしろ“意味”と記したほうがよいかもしれません)。」356P
トートロジーということの持つ意味「学兄は、迂生が先に、直接的推理(イ) (ロ) (ハ)の例に即して、命題(1) 「全SハPナリ」から、命題 (2) 「全Sハ非Pナラズ」、 (3) 「或SハPナリ」、(4) 「或Sハ非Pナラズ」が“導出”されることに関説したさい、既に一種の論点“先取”を“犯して”いたことにお気付きかとも畏れます。迂生は、命題(1)と命題(2)とは「論理的には同義反復(「トートロジー」のルビ)であって、(1)と(2)との推理的連結によって論理的には別段新しい内容が生起するわけではない」旨を云々しました。しかしながら、(1)と(2)とがトートロジーであると認定するためにはむ、命題(1)と命題(2)との意味内容が同一であることを認定できねばなりません。矛盾律という規則(「ルール」のルビ)からは、(1)と(2)とを同時的に主張することが許容されるということ、もし人が(1)を承認するならば((2)を同時に承認するのでなければルール違反になるので) (2)を否認することは禁止されるということ、ここまでしか言えません。(1)と(2)とが同義反復だという立論は、実は、単に矛盾律に則っただけでは成り立たないのです。――論理的推論は、記号的表現形態こそ変形されるにせよ、意味内容上トートロジーの継起だという言い方がよくされますが、そのさいには、既に、トートロジカルとされる二つの“記号”の表わす意味内容の同一性の判定が前梯になっているわけです。」356-7P
“記号”と“意味内容”との関係「では、“記号”と“意味内容”との関係はどうなっているのか? これは「構文論」ゃ「語用論」とも関係しますけれど、当面の論脈では主として「意味論」の次元での問題です。そのさい、なかんずく「判断」(命題)の意味論的構造ということが主要問題になります。――この件について、卑見を積極的に申し述べるとなると、レアール・イデアールな共同主観的四肢構造という議論、意味の三契機の議論、述定的意味のイデアール・イレアールな存在性格の指摘に立ち入らねばなりませんが、ここでは省きます。この持論については『世界の共同主観的存在構造』および『もの・こと・ことば』の参看を願うことにして、当座のところ、伝統的思念をもっぱら問題にしておきましょう――。第七・第八便で申し述べましたように、伝統的思念では、判断における「主語−述語」関係を存在における「実体−属性」関係に対応させて考えます。」357P
すでに提起した内容とのリンク「第七便を想起して頂くと便利なのですが、今、例えば「犬ハ動物ナリ」という例で申しますと、この判断は(α) 主語記号の指示する犬という実体(「もの」のルビ)が述語記号の指示する実体(「もの」のルビ)の範囲(外延・集合)に包摂されていることの表明(「実体−実体」の包摂関係)、(β)主語記号の指示する犬という実体が述語記号の表明する動物という性質を所有することの表明(「実体−属性」所有関係)、(γ)主語記号の表現する規定性(内包・概念内容)のうちに述語記号の表現する規定性が含有されていることの表明(「属性−属性」含有関係)、これら三様の見方で把えられます。(否定判断の場合は、(α) 不包摂、(β)非所有、(γ)無含有とされます)。が、これらは相互に還元可能だと考えられており、主流的には(α)のかたち(外延論理)で処理されます。――迂生自身としてはこれらをアウフヘーベンするかたちで「函数的成態」の相で把え返すこと、この間の次第については第八便で詳しく論じておきました――(α) (β) (γ)が相互に還元可能だということを含みとしつつ、以下しばらく、伝統的思念を仮りに認めるかたちをとって、(α)に即して議論を運びましょう。この思念にあっては、諸実体が「類−種−個」のヒエラルヒーを成している(ないしは「グループ−サブグループ−個体」の分類体系を成している) という存在観が前提になっていることもいつぞや申し述べた通りです。」357-8P
伝統的思念での仮の論究「判断の「真理性」「虚偽性」は、判断における「主語−述語」関係が存在界の実情に合致しているか否かによって判別されるというのが伝統的思念です。このかぎりでは、殊更に論理的規則など無用です。他方、推論の「正当性」「不当性」は、上述の通り、真偽とは全く無関係にもっぱら合規則性・反規則性で決まりますので、そのかぎりでは、“論理的規則そのもの”にとって真・偽は問題外です。とは申せ、真偽の判っている前提からしかじかの合規則的(ないし反規則性)な推論をおこなうとき、そこに帰結する命題の真偽がそれだけで(つまり、あらためて存在との一致・不一致を確かめる必要なしに)判定できるとすれば、実用上“役に立ち”ます。また、或る命題の真偽が直接的に判定しがたい場合、それをトートロジカルな命題に規則的に変形してみることによって、真偽判定が容易になるとすけば、やはり“便利”です。このたぐいの“実用性”を実際“論理規則”にもたせることが可能であり、現にそのような論理規則が体系化されている次第です。――しかし、権利上の問題として、論理そのものは真偽を決定する資格をもたず、真偽を判定し易くするための補助手段にすぎませんし、また、事実上の問題としても、真偽の既定的な前提命題から合規則的に推論したからといって、それだけで真偽を判定できるケースは限られた範囲にとどまります。あまつさえ、論理的推論過程は無茶苦茶でも、結論それ自身は「真」の場合もある、といった次第で、『論理』などというものは世間一般で思われているほど“権威” のある代物では所詮ありえません。「論理」体系というものは、こうして、いずれにせよ大したものではありえませんけれど、しかし、例えば、既に真偽の判っている命題を変形規則(これは現識上は“新知識”の“獲得”たりうることは上述したところです)に則ってトートロジカルな別形に変形させ、それの真偽をそれだけで判定することが“可能”という一事に徴しても存外と有用ですし、知識を体系的に整理し、学理的命題体系を整備するうえでは、割合いと有効です。その一端をみつつ、且つ同時に、“トートロジカルな変形” と称されるものの陥穽をみる含みで、間接推理における判断連鎖の一端を一瞥しておきましょう。」358-9P
ここで、間接推理のバルバラの例としての展開に入ります。「間接推理の典型は何といっても「演繹的推理」であり、その代表的なものが「定言的三段論法」です。これは「各」と「式」で分類され、実質的には十九の「格式」に整理されますけれど、実際に使用されるのは第一格第一式(Barbara)と第一格第二式(Celarent)の二つだけだと申しても過言でないほどです。バルバラの例として、お馴(「なじみ」のルビ)のソクラテスに登場ねがいましょう。/[大前提]全ての人ハ死スベキモノナリ/[小前提]ソクラテスハ人ナリ/[結論]故に、ソクラテスハ死ス/これは、真であることが既知の「全MハPナリ」から、これまた真であることが既知の「全SハMナリ」を介して、「全SハPナリ」という真なる結論を論理必然的に推論するものと称されます。(このさいの“真理性”は先の(α)[外延論理]でいえば、Mの外延がPの外延に含まれ、Sの外延がMの外延に含まれることから、Sの外延がPに含まれているという存在上の事実関係との対比によって“保証”されるわけです)。――ここで注意しておきたいのは、結論命題に対して、当の大前提を立てることは何らの必然性もないことです。極言すれば、大前提はアト・ランダムです。なるほど、推理者は、導きたい結論を最初から意識していることでしょう。そのことから由来する限定性がおのずとあります。だが、「全てのギリシャ人ハ死スベキモノナリ」「全ての哲学者ハ死スベキモノナリ」「全ての動物ハ死スベキモノナリ」……等々、その限定性の枠内でも、無数の大前提が可能です。また、大前提との関係だけで言うかぎり、小前提も何らの必然性がありません。小前提の述語Mが大前提の主語と同じMでなければならないこと、このことが「第一格」の規則(「ルール」のルビ)上要求されます。しかし、小前提の主語Sは、大前提との関係だけでみるかぎり、他に無数のものが許されます。尤も、結論命題が最初から意識されているかぎり、小前提の主語Sは一義必然的と認めるべきかもしれません。この点は認めましょう。が、そうなると、推理者当人は「ソクラテスは死す」という命題を意識しつつ、(一)その真理性は知らないのでしょうか? それとも、(二)その結論の真理性をも既に知っているのでしょうか? 前者(一)であれば「推論」であり、後者(二)であれば「論証」ということになります。」359-60P
まず(一)から論じていきます。「偖、バルバラ(第一格第一式の三段論法(「シュロギスモス」のルビ))が建前通り(一)の推理だとすれば、推理者は「ソクラテスという人が死すべきものである」ことの真理性を知らないのですから、大前提たる「全ての人ハ死スベキモノナリ」(の真理性)を主張できません。となれば、当の“推理”は不当な推理です。(ついでながら、彼がもし、「全ての人ハ死スベキモノナリ」(の真理性)を知っているのなら、何も今更わざわざ推論をおこなって「ソクラテスは……」を導いてみる謂われはありません。無駄な話です)。――このさいには、嚮に一応認めた「心理上は“新知識”の獲得たりうる」ということさえも成り立ちません。というのは、結論命題の形(全SハPナリ)は最初から意識しているのであり、それに基づいて、小前提(全SハMナリ)の主語Sが決まり、その「全SハMナリ」の真理性を知ったうえで、大前提(全MハPナリ)の主語Mが選ばれた次第なのですから。大前提が立てられる際には「MデアルトコロノSハPナリ」が意識されており、もはや、「全MハPナリ」という大前提の定立は無駄だと申すべきでしょう。こうして、バルバラは、推理としては、不当である以前に無駄な論法です。」361P
ここで(二)に移ります。「ところで、バルバラがもし、建前に反して(二)の「論証」だとすればどうでしょうか? その場合には、一応正当です。論証者本人は結論および前提の真理性を先刻承知のうえで、他人(結論命題にあたるものの真理性を知らない相手)に対して論証してみせるわけで、相手が大前提を認めさえすれば、あとは理詰めというものです。しかし、それは相手が大前提を承認すればの話であって、実際にはどうでしょうか。相手は「ソクラテスは死ぬ」という命題を承認していない(断乎たる否認の場合もあれば懐疑的な場合もある)からこそ論証的に説得しようというわけです。一体「ソクラテスは死ぬ」という命題を承認しないその相手が「全ての人ハ死ヌ」という大前提を承認するでしょうか? 無駄な相談というものです。――こうして「論証」としても有効ではありません。論証者の側では何ら知識が増進せず、相手の側も顚から受け付けない。御苦労様デシタ。」361-2P
バルバラ、ひいては「定言三段論法」のまとめの文です。「定言三段論法という演繹的推理の典型、しかもその代表格たる「第一格」は(バルバラ以外の「式」も同趣になるわけで) (一)推論としても、(二)論証としても、実効性がない次第です。せいぜい、狎合(「なれあ」のルビ)いの“論証”でしかあり得ません。――狎合いにせよ、「論証」ということであれば、最初に「提題」(証明さるべき結論命題)を置き、証明的理由はあとから述べるのが「型」というものでしょう。」362P
次節へのつなぎの文です。「学兄は、ここで、印度の論理学(「正理」や仏教哲学での「因明」)を想起されるかもしれません。「因明」はそのような「型式」での「論証論理」(為他比重=他人を説得するための考量)になっていると言えそうです。その一端をごく簡単に覗いてみることにします。」362P
第三段落――印度の論理学(「正理」や仏教哲学での「因明」) 362-7P
バルバラとの対応での「因明」の押さえ「一口に「因明(「いんみょう」のルビ)」といっても、古因明と新因明とでは、同列に論ずるわけにはいきませんが、古因明から一瞥するのが便利かと思います。――印度の論理学は非常に精緻(せいち)に仕上げられていて、アリストテレスの論理学に優に比肩すると言われます。現代論理学の立場からは、勿論、若干の不備を指摘されざるをえませんけれども、その現代論理学なるものがヨーロッパ的な既成観念を前提にしたうえで因明にさしむける批判をそのまま鵜呑みにすることは却って危険な趣きもあります。が、ここでは、無論、そういう次元まで立入ることは差控え、バルバラに“対応する”推論、いな「論証」にかぎって問題にしておきます。古因明の五分作法(五文法)では、
[宗(「しゅう」のルビ)]鳥ハ死ス 提題(結 論)
[因]生アルガ故に 理由(小前提)
[喩]たとへバ虫等ノ如シ 事例(大前提)
[合]虫ハ生アリ、而(「しこうし」のルビ)テ死ス
鳥モ亦(「また」のルビ)生ヲ有スルガ故に死ス 綜合
[結]この故に知るを得、鳥ハ死スと 断案(結 論)
このような構制になっております。」362-3P
故因明とバルバラの違い「古因明の場合、見落としてならないのは、「全ての人ハ死ス」とは明言しない点です。せいぜい「或る人々ハ誰々のように死ヌ」としか言いません。この点で「ソクラテスは死ぬ」を承認しない相手に「全ての人ハ死ス」という大前提を呑ませようとするバルバラ式の“論証”とはわけが違います。これは、事例を挙げていくといっても、帰納法的推理でもありません。むしろ、若干の例にもとづいた類比推理(類推(「アナロギア」のルビ))と言ったほうがよいでしょう。」363P
古因明の不完全性「このように、古因明は、論理構制から言えば一種の類推にすぎず、相手に「サモアリナン」と思わせることはできても(従って、断案を共有化することはできても)、論理的必然性はもちません。要言すれば、“説得”の手続としては有効であるにせよ、論理的必然性がないという点で“論理的”には不完全です。」363P
新因明の「是正」の試み「そこで、新因明では――いま「異喩」の側に立入ったり。況んや「因の三和説」とか「九句因説」とかに議論を伸ばすことは一切割愛して、唯の一事に限って申すにとどめますが、――「喩」を全称判断の形にすることで、この“不完全性”を是正します。/[宗]鳥ハ死ス。/(鳥は)[因]生アルガ故ニ。/[喩]全テノ生アルモノハ死ス。たとへバ虫等ノ如シ。/この形になれば「喩依」(実例、「たとへバ虫等ノ如シ」)は“論理上”不必要とも言え、あのバルバラと順序こそ変わっておりますけれど(つまり、結論・小前提・大前提の順になっておりますけれど)、内容的には、まさにバルバラと同じだと言えます。――この言い方は、西洋論理を基準にした立論であり、「喩依」「喩依」が残されている所以のもの、もっと深い意味があることも考えられます。が、しかし、ここではその件は棚上げにして、新因明の三支作法の場合、バルバラに即して上述した西洋の形式論理と同趣の“戻理(「れいり」のルビ)”を免れていない旨を臆言しておきましょう。」363-4P
「学兄は、事は一体どうなっているのだと訝(「いぶか」のルビ)しがられるかもしれません。第一便や第六便などでいわゆる「帰納法」的手続が「洞見(「アインジヒト」のルビ)」による直感的“飛躍”に俟たざるを得ないことを指摘しておいた論議を想起していただくまでもなく、帰納的推理を恃(「たの」のルビ)むわけにもまいりませんし、演繹的推理が亦その「代表格」に即して以上みてきたように戻理を免れない始末です。――演繹的推理の全般をまだ検討していないので独断的な言い方になりますけれど、結論的に言えば、演繹的推理全般についてほぼ同断なのです――。それでは、残るところ「類推」で満足するしかないとでも言うのでしょうか。類推は、しかし、所詮は不完全推理でしかありません。」364P
形式論理の不完全性と有効性「惟えば、形式論理が発見的論理でも、十全な説得的論理でもないことは、或る意味では判り切ったことだとも申せます。だがしかし、それにもかかわらず、論理学(その一部として「数学」が含まれる)は結構“権威”もあり、“実用性”もあることが広く認められているではないか。それにはそれ相当の理由がある筈ではないか。確かにその通りです。命題の真理性は論理的規則そのものだけでは規定できないことですし、いずれにせよ過大な期待は禁物ですけれど、それでもやはり、学問的な叙述体系、体系的構成にとって「論理」が極めて重要なことは否めません。」364-5P
総体的構案からのこの論攷の位置づけ「このことは、次箋での行文を通じて審(「つまび」のルビ)らかにする予定ですが、本簡でのネガティヴな截り方からも、“仕掛け”はお察し頂けるかと念います。上向法的展開のアルケー(端初・原理)となる基礎的命題の“真理性” が“承認”されているとすれば、論理的規則に則って、そこから一群の「真なる」諸命題を体系的に「導出」することが、その埓内で可能です。――かつてユークリッド幾何学の公理的・端初的諸命題が“真理”として“承認”されていた折、そこから“真理”と思念される命題群がどのように“導出”され体系化されたか、或いはまた、ニュートン力学の原理的諸命題が“真理”として“承認”されていた折、どのような体系化が実現されたか、これを慮(「おもん」のルビ)みて下さい。――論理必然的に導出された命題事態がイデアールな存立性を認められうるものとし、そのイデアールな形象が、因果律に即して上述した意味での「形式」として“投入”され、それが日常的思念に謂う“客観的法則そのもの”を“構成”するとすれば(現に「数学」の物理学への“応用”“適用”と謂われるものはこの構制に俟つものなのですが)、当の論理必然的な命題事態は、当該アルケーによって劃される領域的対象界に対して、対象の「相在(「ソーザイン」のルビ)」を規定する構成的契機として機能するのであり、存在論的・認識論的な意義をもつ所以となります。」365P
「本簡では、「正当」と区別される「真理」を伝統的思念に妥協して、さしあたり、「対象との一致」という通俗的な規定にとどめましたけれど、実は、その「対象」なるものが「判断」を超絶して自存的なのではなく、判断的措定と対象の相在とが相互媒介的なのです。――学兄は、推論以前に、そもそも個別的「判断」なるものがしばしば必然性の意識を伴うことに先刻お気付きのことと思います。この「判断措定の必然性の覚識」のうちには、推理上のルールから由来する規範的必然性の場合もありえますが、さしあたりそういうルールとは“無関係”の場合が確かにあるように思えます。或る提題が、真なるが故に否認するわけにはいかない(承認を拒否することは許されない)、真なるが故に承認せざるを得ない。乃至は、或る提題が、偽なるが故に承認するわけにはいかない(拒斥せざるを得ない)。そういう“真理性の事実的要求”からする“必然性”の覚識という思念が確かに存在します。――これはこれでまた、一種の規範的・当為的な必然性ですが、しかし、それは“規則(「ルール」のルビ)”からする必然性とは区別を要します。そして、この“真偽的必然性”の覚識は“論理的必然性”の覚識より優位であり、矛盾律などの干犯をも敢て促すことがあります。では、このような「判断」的態度決定における“心理的必然性”の覚識とは何であるのか? “事実的必然性”の覚識とも不可分なこの判断的“必然性”に遡って検討する必要が残されております。上述した「判断的措定」と「対象的相在」との「相互媒介性」という論件はこの次元で扱わるべきものにほかなりません。――この件には、次箋で立ち入る予定です。」365-6P
「形式論理」から弁証法的論理への転換、著者の弁証法の規定「尚、嚮には「論理」というものが体系構成にとってもつ意味を示唆するのに、ユークリッド幾何学やニュートン的古典力学を持出しましたため、「論理」なるものが宛(「あた」のルビ)かも「形式論理」の謂いであるかのごとき印象を与えたかと惧れますが、「弁証法的論理」こそが当然われわれの体系的構成法にとって要訣になります。実はただいま申した「判断的措定と対象的相在との相互媒介性」に定位した論理展開、それが弁証法にほかならないわけでして、「真理性」と「正当性」との有機的な結合はまさに弁証法を俟ってはじめて成就される次第なのです。」
次章・次箋へのつなぎ文「次箋では、この間の事情について主題的に論じつつ、「下向過程と上向過程」、「当事主体とわれわれ」、「著者と読者」といった一連の問題圏の統握を期したいと念います。」367P弁証法の途行き
TBS「報道特集」――特集「“ギロチン”から27年「宝の海」は」
たわしの映像鑑賞メモ077
・TBS「報道特集」――特集「“ギロチン”から27年「宝の海」は」2024.6.15 17:30〜18:50
諫早湾の干拓事業で、湾を締め切り農地にするという事業があったのです。その締め切りの映像が、1997年仕切りの鉄板を連動的に落とす様子がまさにギロチンが落ちていく様で、ぞっとしたのを憶えています。で、その事業で干拓したところで、調整池を作りそこから一方的に排水するだけということで、赤潮が発生するなどで、「宝の海」といわれた有明海でのノリの養殖ができなくなり、タイラギ貝がとれなくなる、魚などもとれなくなるなど、海がまさに死ぬような事態になり、漁民が調査開門を求めて訴訟を起こし、調査開門する判決が民主党政権時代になって出て、民主党政権は控訴せず判決が確定したのですが、自民党政権に戻って判決に従わず開門調査をせず、逆に、別に裁判を起こし、「非開門」の判決が出て、2023年に最高裁の判決が出たとして、それを統一見解とする流れを国が作ったのです。
何かむちゃくちゃの話なのです。堤防を壊せと言っているのではなく、とりあえず調査開門をしろと要求しているのに、それにも従いません。そもそも、この計画は米の増産計画で作られた計画が、米の減反政策になったのに、自民党政府は@海の異変と汐留堤防の「因果関係はない」(註)として、A防災とB地元の理解が得られないから開門調査をしないと言っています。
@そもそもこの放送の中で自然科学者が色んなことを言っています。調整池からの排水の害や潮の流れなどを押さえた赤潮の発生のしくみなど学者の説明なども出ていました。Aまた防災などで汐留堤防をつくるなどと言っているところは全国にひとつもない、これは失政事業だという話をしている学者もいました。Bでは、そもそも営農者自体も農地を借りるときに裁判の原告になるように契約書を交わしているのです。そもそも「地元での話し合いによる解決」などとしつつ、「開門をしない、という前提での話し合い」という意味不明のことを言っているのです。
この番組では取り上げていませんが、そもそも公共事業は一度決めたら、大手ゼネコンのための事業になり、いろいろ理由を変更して強行し、しかも「地元」での分断・対立の構造を作るのです。そして、失政を覆い隠すために、「調査」という科学的・論理的なことさえ無視して、押さえつけようとする。今、まさに政治献金が問題になっていますが、企業・団体献金を贈賄・収賄として禁止しなければ、このようなことが繰り返されるのです。
(註) そもそも、「因果関係がない」というのはもはや非科学的論理になっているのだとわたしは繰り返し主張しています。わたしは政府サイドから「科学的」ということばが出て来るときに身震いしてしまいます。フクシマ原発事故が起きる前に、「原発が危ないというのは非科学的だ」と言っていた推進派のひとがいましたが、原発事故をおこしておいて、その汚染水を海上放出するとして、それに「非科学的」だと反批判する、その厚顔さに驚愕せざるをえません。それと同じで、諫干などという非科学的計画を作り、押し通して、幾多の科学者の意見も無視して、よくも厚かましく「地元で話し合い」をと言えるものです。
(追記)
これは特集Aでした。@は鹿児島県警の本部長が内部警察官の不祥事への隠蔽工作していたことを通報した内部告発者を逮捕するというとんでもない事件の報道です。しかも内部通報者の保護とは真逆に、通報したジャーナリスト団体へのガサ入れまでしています。今の政治は腐っているという思いで繋がっています。
・TBS「報道特集」――特集「“ギロチン”から27年「宝の海」は」2024.6.15 17:30〜18:50
諫早湾の干拓事業で、湾を締め切り農地にするという事業があったのです。その締め切りの映像が、1997年仕切りの鉄板を連動的に落とす様子がまさにギロチンが落ちていく様で、ぞっとしたのを憶えています。で、その事業で干拓したところで、調整池を作りそこから一方的に排水するだけということで、赤潮が発生するなどで、「宝の海」といわれた有明海でのノリの養殖ができなくなり、タイラギ貝がとれなくなる、魚などもとれなくなるなど、海がまさに死ぬような事態になり、漁民が調査開門を求めて訴訟を起こし、調査開門する判決が民主党政権時代になって出て、民主党政権は控訴せず判決が確定したのですが、自民党政権に戻って判決に従わず開門調査をせず、逆に、別に裁判を起こし、「非開門」の判決が出て、2023年に最高裁の判決が出たとして、それを統一見解とする流れを国が作ったのです。
何かむちゃくちゃの話なのです。堤防を壊せと言っているのではなく、とりあえず調査開門をしろと要求しているのに、それにも従いません。そもそも、この計画は米の増産計画で作られた計画が、米の減反政策になったのに、自民党政府は@海の異変と汐留堤防の「因果関係はない」(註)として、A防災とB地元の理解が得られないから開門調査をしないと言っています。
@そもそもこの放送の中で自然科学者が色んなことを言っています。調整池からの排水の害や潮の流れなどを押さえた赤潮の発生のしくみなど学者の説明なども出ていました。Aまた防災などで汐留堤防をつくるなどと言っているところは全国にひとつもない、これは失政事業だという話をしている学者もいました。Bでは、そもそも営農者自体も農地を借りるときに裁判の原告になるように契約書を交わしているのです。そもそも「地元での話し合いによる解決」などとしつつ、「開門をしない、という前提での話し合い」という意味不明のことを言っているのです。
この番組では取り上げていませんが、そもそも公共事業は一度決めたら、大手ゼネコンのための事業になり、いろいろ理由を変更して強行し、しかも「地元」での分断・対立の構造を作るのです。そして、失政を覆い隠すために、「調査」という科学的・論理的なことさえ無視して、押さえつけようとする。今、まさに政治献金が問題になっていますが、企業・団体献金を贈賄・収賄として禁止しなければ、このようなことが繰り返されるのです。
(註) そもそも、「因果関係がない」というのはもはや非科学的論理になっているのだとわたしは繰り返し主張しています。わたしは政府サイドから「科学的」ということばが出て来るときに身震いしてしまいます。フクシマ原発事故が起きる前に、「原発が危ないというのは非科学的だ」と言っていた推進派のひとがいましたが、原発事故をおこしておいて、その汚染水を海上放出するとして、それに「非科学的」だと反批判する、その厚顔さに驚愕せざるをえません。それと同じで、諫干などという非科学的計画を作り、押し通して、幾多の科学者の意見も無視して、よくも厚かましく「地元で話し合い」をと言えるものです。
(追記)
これは特集Aでした。@は鹿児島県警の本部長が内部警察官の不祥事への隠蔽工作していたことを通報した内部告発者を逮捕するというとんでもない事件の報道です。しかも内部通報者の保護とは真逆に、通報したジャーナリスト団体へのガサ入れまでしています。今の政治は腐っているという思いで繋がっています。
2024年06月16日
白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』
たわしの読書メモ・・ブログ662
・白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社(講談社現代新書) 2021
白井聡さんは、一九九〇年を前後して起きたソ連邦の崩壊と世界的なマルクス葬送の流れの中で、若手の学者で、数少ないマルクス派の思想を追い続けているひとです。最近は、大手マスコミがマスコミとしての機能の主要課題である「権力」への批判という役割を果たさない中で、いくつかのインターネット情報番組のサイトが作られ、その一つの「デモクラシータイムズ」というサイトで、コメンテーターとして発言するのを見ています。彼の文は、「変革のための総合誌」と名打った『情況』という雑誌に掲載された文で見ていて、その雑誌の編集長だった故大下さんの追悼集会、わたしはその彼が社長の「世界書院」という出版社から本をだしてもらった関係で参加していたのですが、その追悼集会の講演の演者のひとりが、大下さんが若手のマルクス学者のひとりとして期待していた白井さんで、その講演を聴きました。基本的に共鳴していたのですが、彼の最初の単行本が『未完のレーニン』という本で、わたしはそもそもレーニンに懐疑的でした。今日的にとらえ返すと、わたしの基調には反差別ということがあり、レーニン的な<力>の思想に違和があったのだと思います。そもそも、最初に読んだマルクス関係の本は、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義論』でした。ですが、すぐに三浦つとむさんの『レーニンから疑え』を読んだこともあり、そして、運動的に全共闘運動の流れの中に身を投じ、その中で、社会の矛盾の構造ということをとらえ、根本的な社会変革の必要性をとらえたところで、非レーニン主義的な党派、ローザ・ルクセンブルグの思想に共鳴する党派へ参画していくことになります。しかし、その党派も、党派闘争の中で、レーニン主義的な党建設論に飲み込まれていきます。同時にレーニンの組織論は、反差別的に受け入れがたく、そもそも新左翼総体が飲み込まれていったマルクス・レーニン主義自体が、反差別と言うことを据えられない思想だったところで、まだ、そのことをきちんととらえられなかったところで、わたしはいったん挫折しました。その挫折の中から、反差別ということを基調にした社会変革の運動の再建という指向性をつかんで、そこで論と運動の展開を模索しています。
さて、話をこの本というか、白井さんの話に引き戻します。白井さんの『未完のレーニン』はまだ読めていません。そもそも、わたしは、レーニンを最初に読みつつも、まだレーニンの本を、反差別論関係での民族問題関係の本を読んだだけでいました。しかも、民族自決権ということに関しては、マルクス・レーニン主義の定式、「レーニンが正しく、ローザは間違っていた」、ということに乗っていました。最近になって、ローザを読み、レーニンの著作にもあたって、やっとレーニン主義批判を改めてやっていける地平に就いています。で、白井さんの『未完のレーニン』も対象化できる地平に就いたのだと、この読書メモの本を読んで、『未完のレーニン』を買い求めました。あとで読書メモを残します。
さて、余りにも長い前書きというか、脱線的個人的思いを書き綴ってしまいました。
この本に話を戻します。この本は、マルクスの思想の紹介と『資本論』入門の書として位置づけられます。そして、資本主義のとりわけ現代資本主義の矛盾、とりわけ「実質的包摂」というところへ、労働者が資本に飲み込まれていく構図を描いています。
さて、そもそも『資本論』の読み方にはいろいろ出てきています。著者は「実質的包摂」で、フォディズムやトヨタイズム批判に踏み込んでいて、ブラック企業に何故飲み込まれるのかというようなところの新自由主義的なところでの現代資本主義論の批判を展開しています。ただ、宇野理論を参考文献に挙げていて、宇野経済学批判の現在的なとらえ方などは対象化していないようです。わたしは、廣松さんの『資本論の哲学』や編・共著の『資本論を物象化論を視軸にして読む』というところで、物象化というところで『資本論』をとらえ返そうとしています。今、[廣松ノート]を取っているのですが、それらの著作からの白井さんとの『資本論』の読み方に関する対話を試みたいところですが、まだその再読には遠く至らず、というか、そこまで行けそうにありません。
白井さんの本を読んでいると冒頭の「はじめに」から、マルクスの思想の影響を受けているひとたちがペシミズムに囚われていて、出口がとらえられなくなっていることを感じていました。わたしは、「社会変革への途」で、マルクス・レーニン主義批判というところからの総括と反差別論から、社会変革の運動を立て直そうと提起しようとしています。ローザ・ルクセンブルクの継続的本源的蓄積論というところで、反差別ということを、社会変革の基調に据える必要を感じ、さらに、資本主義社会の差別の構造の収束点に、「労働力」という物象化とそこでの「価値づけ」があるところで、そのことを資本主義社会の止揚の機軸としてとらえる必要を感じています。
で、とりあえず、この本で参考になったところの切り抜きメモを出しておきます。切り抜きメモというよりも、この本の中で出てくるキー概念の抜き出しです。
イデオロギー23P
自らのロジックで崩壊する30-31P
プレタリアとは誰か32P・・・マルチチュード、サヴァルタン
プロ独33P・・・ロシア革命はプロ独さえ確立できず、ボリシェヴィキ独裁でしかなかった
生産力至上主義批判39-41P@ソ連邦の崩壊A欲望の再生産-ボードリヤール消費社会の分析B環境破壊
揺れ42P
元素50P・・・?
資本主義の規定54P
民営化というすべての商品化63P
マルクスの労働価値説68P・・・?
実体主義69P・・・?
魔力72P
柄谷 ボップス『リヴァイアサン』の社会契約説72-3P
「リヴァイアサン」76P
「リヴァイアサン」と貨幣77P
疎外論のモチーフ→物象化論79P・・・?
労働価値説の継承80P・・・?
資本の他者性96P
フォーディズム テーラーシステム トヨティズム(「カイゼン」)109-10P
毒まんじゅう――社畜112P
居酒屋甲子園116P
本文最後のまとめの文120P
逃げ出すことさえできない124P
最初の方に書いたように、多分、白井さんとの対話は最初の単行本『未完のレーニン』だと推測しています。ですから、それを読んでから、本格的な対話を試みたいと思います。
・白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社(講談社現代新書) 2021
白井聡さんは、一九九〇年を前後して起きたソ連邦の崩壊と世界的なマルクス葬送の流れの中で、若手の学者で、数少ないマルクス派の思想を追い続けているひとです。最近は、大手マスコミがマスコミとしての機能の主要課題である「権力」への批判という役割を果たさない中で、いくつかのインターネット情報番組のサイトが作られ、その一つの「デモクラシータイムズ」というサイトで、コメンテーターとして発言するのを見ています。彼の文は、「変革のための総合誌」と名打った『情況』という雑誌に掲載された文で見ていて、その雑誌の編集長だった故大下さんの追悼集会、わたしはその彼が社長の「世界書院」という出版社から本をだしてもらった関係で参加していたのですが、その追悼集会の講演の演者のひとりが、大下さんが若手のマルクス学者のひとりとして期待していた白井さんで、その講演を聴きました。基本的に共鳴していたのですが、彼の最初の単行本が『未完のレーニン』という本で、わたしはそもそもレーニンに懐疑的でした。今日的にとらえ返すと、わたしの基調には反差別ということがあり、レーニン的な<力>の思想に違和があったのだと思います。そもそも、最初に読んだマルクス関係の本は、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義論』でした。ですが、すぐに三浦つとむさんの『レーニンから疑え』を読んだこともあり、そして、運動的に全共闘運動の流れの中に身を投じ、その中で、社会の矛盾の構造ということをとらえ、根本的な社会変革の必要性をとらえたところで、非レーニン主義的な党派、ローザ・ルクセンブルグの思想に共鳴する党派へ参画していくことになります。しかし、その党派も、党派闘争の中で、レーニン主義的な党建設論に飲み込まれていきます。同時にレーニンの組織論は、反差別的に受け入れがたく、そもそも新左翼総体が飲み込まれていったマルクス・レーニン主義自体が、反差別と言うことを据えられない思想だったところで、まだ、そのことをきちんととらえられなかったところで、わたしはいったん挫折しました。その挫折の中から、反差別ということを基調にした社会変革の運動の再建という指向性をつかんで、そこで論と運動の展開を模索しています。
さて、話をこの本というか、白井さんの話に引き戻します。白井さんの『未完のレーニン』はまだ読めていません。そもそも、わたしは、レーニンを最初に読みつつも、まだレーニンの本を、反差別論関係での民族問題関係の本を読んだだけでいました。しかも、民族自決権ということに関しては、マルクス・レーニン主義の定式、「レーニンが正しく、ローザは間違っていた」、ということに乗っていました。最近になって、ローザを読み、レーニンの著作にもあたって、やっとレーニン主義批判を改めてやっていける地平に就いています。で、白井さんの『未完のレーニン』も対象化できる地平に就いたのだと、この読書メモの本を読んで、『未完のレーニン』を買い求めました。あとで読書メモを残します。
さて、余りにも長い前書きというか、脱線的個人的思いを書き綴ってしまいました。
この本に話を戻します。この本は、マルクスの思想の紹介と『資本論』入門の書として位置づけられます。そして、資本主義のとりわけ現代資本主義の矛盾、とりわけ「実質的包摂」というところへ、労働者が資本に飲み込まれていく構図を描いています。
さて、そもそも『資本論』の読み方にはいろいろ出てきています。著者は「実質的包摂」で、フォディズムやトヨタイズム批判に踏み込んでいて、ブラック企業に何故飲み込まれるのかというようなところの新自由主義的なところでの現代資本主義論の批判を展開しています。ただ、宇野理論を参考文献に挙げていて、宇野経済学批判の現在的なとらえ方などは対象化していないようです。わたしは、廣松さんの『資本論の哲学』や編・共著の『資本論を物象化論を視軸にして読む』というところで、物象化というところで『資本論』をとらえ返そうとしています。今、[廣松ノート]を取っているのですが、それらの著作からの白井さんとの『資本論』の読み方に関する対話を試みたいところですが、まだその再読には遠く至らず、というか、そこまで行けそうにありません。
白井さんの本を読んでいると冒頭の「はじめに」から、マルクスの思想の影響を受けているひとたちがペシミズムに囚われていて、出口がとらえられなくなっていることを感じていました。わたしは、「社会変革への途」で、マルクス・レーニン主義批判というところからの総括と反差別論から、社会変革の運動を立て直そうと提起しようとしています。ローザ・ルクセンブルクの継続的本源的蓄積論というところで、反差別ということを、社会変革の基調に据える必要を感じ、さらに、資本主義社会の差別の構造の収束点に、「労働力」という物象化とそこでの「価値づけ」があるところで、そのことを資本主義社会の止揚の機軸としてとらえる必要を感じています。
で、とりあえず、この本で参考になったところの切り抜きメモを出しておきます。切り抜きメモというよりも、この本の中で出てくるキー概念の抜き出しです。
イデオロギー23P
自らのロジックで崩壊する30-31P
プレタリアとは誰か32P・・・マルチチュード、サヴァルタン
プロ独33P・・・ロシア革命はプロ独さえ確立できず、ボリシェヴィキ独裁でしかなかった
生産力至上主義批判39-41P@ソ連邦の崩壊A欲望の再生産-ボードリヤール消費社会の分析B環境破壊
揺れ42P
元素50P・・・?
資本主義の規定54P
民営化というすべての商品化63P
マルクスの労働価値説68P・・・?
実体主義69P・・・?
魔力72P
柄谷 ボップス『リヴァイアサン』の社会契約説72-3P
「リヴァイアサン」76P
「リヴァイアサン」と貨幣77P
疎外論のモチーフ→物象化論79P・・・?
労働価値説の継承80P・・・?
資本の他者性96P
フォーディズム テーラーシステム トヨティズム(「カイゼン」)109-10P
毒まんじゅう――社畜112P
居酒屋甲子園116P
本文最後のまとめの文120P
逃げ出すことさえできない124P
最初の方に書いたように、多分、白井さんとの対話は最初の単行本『未完のレーニン』だと推測しています。ですから、それを読んでから、本格的な対話を試みたいと思います。
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(6)
たわしの読書メモ・・ブログ661[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(6)
第十信「肯定・否定」と存在様相
(前便のまとめ)「前便では、弁証法にいわゆる「運動」のプロブレマティックを念頭に納めつつ、「変化」当体なるものをめぐって討究を試み、謂うところの“実体的自己同一性”の“最後の拠点”を衝いておきました。前便での立言は、既成観念の排却という消極的な作業に終始するものではなく、「関係の第一次性」という存在了解のもとで「変化の当体」を措定し直す積極的構案に通ずるものだった心算ですし、亦、「変化」という概念に「可能態から現実態への転成」という構図をあらためて持ち込む所以となりました。」295P
(この章・便の問題設定)「爰において、われわれの論考は、弁証法的運動における存在様相という問題と絡み、いわゆる「因果論的連鎖」の問題をも配視すべき局面を迎えた次第です。/本箋では、弁証法における「体系構成法」が主題である以上、様相論や変化論に詳しく立ち入ることは差し控えますけれども、「展開の論理」を定式化するにあたって是非とも必要と考えられる範囲内で、多少とも存在様相に関説しておきたいと念います。/尚、二兎を追うのは如何(「いかが」のルビ)かと憚りつつも、後論への直接的な前梯となることでもあり、前々便で一端に触れかけた「判断の質」、つまり「肯定と否定」という論件をこのさい絡めることに致します。」295-6P
一 「存在様相」をめぐる問題論的構制
第一段落――存在様相と認識様相の統一&カントの判断主観の様相論(とその「先験性」)206-8P
「われわれは日常、「可能性」とか「必然性」とか、様相概念を聊か安易に使いすぎているのではないでしょうか。そのため、弁証法における法則概念の特質が見落とされる憾みもあります。弁証法論者が「偶然性と必然性の統一」を説こうとするのに対して、世間ではとかく妄言とみなしますが、それも「存在様相」というものに関する安直な既成観念の所為(「せい」のルビ)ではないかと思うのです。」296P
「中世哲学では、「認識様相」と「存在様相」とが分断されておらず、様相といえば第一次的には存在様相を意味したものです。/近代哲学においても、存在様相ということが常に全面的に否認されているとは言い切れません。現にヘーゲルは、認識様相と存在様相とを再統一したと申せます。しかも、彼の場合、「様相は絶対者そのものの、自己反省的な表出(Manifestation)である」という仕方で把えられており、いわゆる“認識様相”とはおよそ次元を異にします。/われわれは、無論、中世哲学やヘーゲルの絶対的観念哲学を服膺(ふくよう)する者ではありません。しかしながら、前便での「可能態−現実態」の議論を想起していただければ、「様相」を単なる認識様相としてではなく、存在論的な次元で取扱う必要があること、それも単なる存在様相としてではなく、認識論的な次元との統一性のもとに処遇すべきこと、この点まではとりあえず御諒解ねがえると思います。」296-7Pそこで、「事柄が厄介ですので、まずは「認識様相」ということが問題になる場面を顧慮するところから始めましょう。」297Pとして、カントの「様相論」を取り上げます。
「カントは有名な「範疇表」の第四綱に「様相」を置き、(1)「可能性−不可能性」、(2)「現在性−非存在」、(3)「必然性−偶然性」を配位しております。彼の「範疇表」は御存知の通り、「形而上的演繹」によって「判断表」から導出されたもので、判断表における第四綱たる「様相」は、(1)「蓋然的problmatischな判断」、(2)「実然的assertorischな判断、(3)「必然的apodiktischな判断」とされております。――カントによれば、様相の範疇は、判断様相における思惟機能を概念化したものにほかならないわけですが、「判断の様相は全く特別な判断機能であり、それは判断の内容に何ら寄与するところがなく、ただ繋辞の価値にのみ関わる」ものです。/もう少し具体的に敷衍(ふえん)しておきますと、(1) S may be Pという蓋然的判断でも、(2)S is Pという実然的判断でも、(3) S must be Pという必然的判断でも、判断内容、つまり主辞−賓辞の関係態である「SハPデアル」コトは共通・同一であるとカントは考えます。しかし、(1) S is possibly (probably) Pという蓋然的判断をくだすのと、(2) S is assenrtively Pという実然的判断をくだすのと、(3) S is necessarity Pという必然的判断をくだすのとでは、繋辞「デアル」(is)の価値が違うというわけです。こうして、カントの場合、「様相」とはさしあたり、「SハPデアル」という判断内容に関する判断主観の確信の度合いに応ずるものと申せます。」297-8Pそこから、この項のまとめに入ります。
「このように、「様相」とは、「繋辞の価値に関わるもの」、判断主観の確信度の表明にすぎないとみなすこの考え方は、図式的にいえば、まさしく近代における様相観の常套に属します。――但し、カントの先験的観念論にあっては、謂うところの「判断主観」は先験的主観(超越論的主観)であって、範疇という先験的な純粋悟性概念は、成程「物自体」にこそ及びませんが、現象界を構成する先験的な形式なのであり、視角を変えて言い換えれば、「様相」は「現象界」たるかぎりでの対象界における“存在様相”として厳存する所以となります。カントの場合、彼一流の先験的構制主義によって、先験的な認識様相と経験的存在様相とが、合致する仕掛けになっているわけです。そして、この認識と存在との一致が、ヘーゲルの絶対的観念論にあっても、批判的に継承されている次第なのです。」298P
第二段落――近代知において、何故“認識様相”というかたちで、主観の側に帰属されるのか? 298-301P
「認識様相と存在様相との一致を論究する前梯として、ここで追認しておきたい事項があります。それは、近代知の“主流”においては、「様相」が何故“認識様相”というかたちで、主観の側に帰属されるのか、その由縁」298Pを問います。この項の問題設定です。
「近代的存在観では、存在を端的に非存在から区別します。そして、真に存在するのは現実的存在だけであると了解します。そこでは「可能態」的存在というものは認められません。物理的な「絶対時間」の発想が象徴的に体現しているように、そこでは、過去の世界や未来の世界でさえ、苟くもそれが存在する以上は、いかにも現実的存在なのです。それは、原子論的・機械論的な世界像とも照応します。ここでは、究極的な存在として思念される諸原子は、不生・不滅であり、それ自身としては不変な実体ですから、場所的な変化や組み合わせの変化はあり得ても、実体的存在としては現実態の相で恒存します。・・・・・・一箇同一の原子が同時に種々の結合態を形成しうるという意味での「可能性」が認められているわけではありません。古典物理学的な自然像にあっては、原子はその都度の在り方を一義的に決定されているのであり、それ以外の在り方は不可能なのですから、まさに定義上、在り方が必然的です。/近代の原子論的・機械論的な存在観においては、万象が因果必然的な法則に服しているものとみなされますので、「偶然」の存在する余地がありません。“偶然”なるものは、認識の不充分性の故に見掛上そう仮現するだけで、客観的には偶然性は存在せず、一切は必然であるものと了解されます。・・・・・・現実に生起するものは因果必然的に生ずるのであって断じて偶然に生起するわけではない、という決定論的な世界像のもとでは、いかに「可能態的存在から現実態的な存在への転成」と称しても、前便で照会したあのメガラ派の指摘を俟つまでもなく、論者たちの謂う“可能的存在”は真の可能態とは呼びえません。――勿論、近代の機械論的な思念といえども、事柄に迫られて、「可能態−現実態」という存在了解を裏口から導入せざるを得ない局面に屢々(るる)逢着します。しかし、機械論的・原子論的な世界像の論理構制からいえば、客観的実在世界は現実的必然態=必然的現実態に局定され、それ以外の様態は客観的には存在しえないのが道理であって、現にそれ以外のものはたかだか主観的な認識の領界に帰属せしめられているわけです。“客観的な可能性”といえども、論者たちの場合、客観的には端的に未在であり、さしあたっては単に“認識のうちにある”にすぎません。偶然性にいたっては、もっぱら認識の不十分性の所為とされ、客観的には不在とされる始末です。/成程、近代知のすべてが原子論・機械論の存在観を執るわけではなく、客観的な存在様相を云々する理説が現に存在するわけですが、右に稍々一面的な強調を試みたのも、とりわけ、近代自然科学流の自然像、ひいては世界像を意識してのことです。近代自然科学にあっては、因果必然論的な存在観が執られており、且つ、認識論的には模写説の構案が採られておりますので、――客観的には必然的現実態=現実的必然態しか存在せず、それが模写説に認識すると見做される以上――、模写さるべき客観的な事態は「SハPデアルコト」(S is realy P)であって、たかだか認識の主観的確度に応じてのみ様相的な区別が設けられるという了解、これが帰結する次第です。」298-300P
「学兄は、近代知においても「現実性」および「必然性」という存在様相が認められている旨を指摘されるかもしれません。そのことは一応認めることもできます。しかし、「絶対時間」の表象や「法則的必然観」の了解に象徴されるように、過去や未来までが現実的必然態=必然的現実態の図式に包摂されてしまうところでは――すなわち、客観的な「可能性」や「偶然性」が顚から認められないところでは――客観的な存在様相ということは事実上没概念にすぎません。」300-1P
ここで前便からのリンク、「前便で綴りました現代物理学の存在観とも通ずる「可能態−現実態」のプロブレマティック、ひいては、偶然性と必然性との統一的把握に定位する弁証法の運動論や様相論、これが近代知の地平に対して占める特異な地歩について、右の立言から反照的に御理解いただきたいのです。客観的な存在様相を立論し、しかも、可能性・不可能性・現実性・非現実性・必然性・偶然性、これらのあいだの相互的転化を云々する弁証法の様相論は、とかく戯言(「たわごと」のルビ)のように受け取られがちですが、それはなかんずく近代流の既成観念に禍されたものと申さざるを得ません。」301P
第三段落――様相なるものの分類的整序 301-3P
「さて、様相なるものが分類的整序からして大問題です。普通には、「可能−不可能」「現実−非現実」「必然−偶然」というペアにして扱われます。そこでは、これら三つのペアはどういう関係に立つのでしょうか? いや、それ以前に問題があります。それは、これらのペアは相互否定的な関係になっているかどうかという問題です。/まず、「必然性−偶然性」をとりあげてみましょう。普通には、“必然的”と“偶然的”を対置して扱いますけれども、前者の否定がそのまま後者だと言えるでしょうか? 初等英語を想い出してください。It must be true.という必然性の判断の否定形は、It can not be true. (本当のはずがない)であって、この場合にはmust notという否定形は使えません。must notというかたちは「○○してはいけない」という禁止の表現になり、「○○に違いない」という意味でのmustの否定形はcan notというかたちをとるわけですね。この語法は決して単なる文法上の偶然的な規約ではないと思います。「必然(must)」の否定形が「不可能(can not)」になるのは、アリストテレス以来の必然性の定義、つまり、「それの反対が不可能であること」に照応します。この論脈では「必然−不可能」――が対立することになりますが、さりとて、逆向きに、可能性に偶然性が対置されるわけではありません。或るコンテクストでは明らかに「可能性と不可能性」「必然性と偶然性」が対立しながら、それとは別に「必然性と不可能性」とが対立する(それでいて、「偶然性と可能性」とが対立するわけではない)という次第で、「様相」の否定的背反関係は一種独特です。――こういう奇妙な関係は、様相以外の普通の概念の場合には起こりません。この一事をとっても、様相概念の特異性が察せられると思います――。」301-2P
「この特異な否定関係の由って来たるところを知るためにも、あの三つのペア相互間の関係に眼を向ける必要があります。」302Pとして
「主観的な認識様相における確信度に即して言えば「可能性−現実性−必然性」という順序で――つまり、蓋然的判断−実然的判断−必然的判断という順序で――強くなって行きます。視角を変えていえば右の順序で対象的な事態の領域が狭くなって行きます。しかるに、「不可能性−非現実性−偶然性」という反面の側は、否定的確信の度がこの順で弱まって行きますが、対象的事態領域の広狭関係(包含関係)を一義的に言うことはできません。何故そうなるのかを考える前に、先決問題が爰にあります。それは、主観的な判断様相では必然性のほうが現実性よりも強いとしても、客観的な存在様相では現実性のほうが必然性よりも強いのではないか、という問題です。必然的であっても、現実的に実在するとは限らないのではないか? 論理必然性の場合は確かにその通りです。そのかぎりでは、必然的であっても非現実的なものと、必然的であり且つ現実的なものとが岐れることになり、現実性のほうが必然性よりも狭い(強い)概念だという理屈になります。しかし、必然的ということを存在上の必然性の意味にとれば、現実的なもののうちには、偶然的なもの(所謂「事実必然性」)と必然的なもの(所謂「本質必然性」)との双方が属することになり、このさいには、必然性のほうが現実性より狭い(強い)という認定になります。尤も、客観的に必然的でありながら未だ現実化していないこともあり得ると言って、現実性のほうをあくまで狭くとる立場も許されます。がしかし、それは現実性ということを感性的な現前性に即して規定する場合の話であって、例えば「理性的なものは現実的である」と唱するヘーゲルなどの場合には妥当しません。けだし、その場合には「現実性」という概念規定が別様になるからです。因みに、客観的な必然性、存在上の必然性を云為する以上は、現実的でないものには必然性を認めない(たかだか認識上・予料上の“必然性”しか認めない)とするほうが、ナチュラルではないでしょうか。」302-3P
第四段落――上述の三つのペアを悟性論理の流儀で整序する 303-6P
(この項の問題設定) 「今仮りに、このような含みでの“客観的”な“存在様相”に定位して、上述の三つのペアを悟性論理の流儀で整序してみましょう。」303P
「およそ考えられるかぎりの“世界”は、可能的領界と不可能的領界とにまず二分されます。そして、可能的領界は、可能であるが非現実の領界とに二分されます。裏返していえば、現実的領界と非現実的領界とが合して可能的領界を形成することになります。そして、その現実性の領界を、偶然的に現実的な領界と必然的に現実的な領界に分けることができます。その場合には、裏返していえば、必然的領界と偶然的領界とが合して現実的領界を形成することになるわけです。/右の区分を視覚的に形象化して言えば、例えば一枚の紙を二つの部分に区切って、一方を不可能性の領域とし、残りの可能性の領域を更に二分して、その一半非現実の領域とし、その残りの現実性の領域をこれまた二分して、その一半を偶然性の領域とし、残りを必然性の領域とする。このような方式になっております。」303-4P
「このような方式での区分整序では、非現実性の領域に不可能性は含まれないことになり、他方で、現実性の領域と可能性の領域の一半が重なってしまいます。そこで、非現実的という概念で不可能性の領域もカヴァーさせ、併せて亦、可能性と現実性が重ならないようにする方式が提唱されることもあります。この方式を採れば、世界が現実界と非現実界とにまず二分され、その非現実界が更に可能界と不可能界とに両分されることになります。これは慥かに一つの行き方です。そして、更に、次のような処理も許されます。先の方式では、現実界の一部と必然界とが重なりましたが、今や現実界外部(且つ非現実界の外部)に必然界を括り出して、偶然界と現実界とをそっくりそのまま重ねてしまうという処置がそれです。(成程、非現実界をも偶然界に含めることが禁ぜられるわけではありませんけれど、尠なくとも不可能界に関しては偶然界に含めるわけにはいきますまい)。」304P
「存在様相の整序区分には、こうして幾つかの方式がありえますが、以下では暫く、第一の方式を採ることにしたいと念います。そのかぎりで、可能界が非現実界と現実界とに分かれ、現実界が偶然界と必然界とに分かれることになります。言い換えれば、可能界の一部として現実界が含まれ、その現実界の一部として必然界が含まれる、というわけです。」304P
「この悟性的区分においては、可能性にプラス・アルファが加わることで必然性になり、その現実性にプラス・アルファが加わることで必然性になる、という了解の構図になっていると申せます。それでは、非現実性や偶然性の場合はどうか? ここでもやはり、可能性や現実性に何かが付け加わるというのでしょうか? どうやら、そうではなさそうです。・・・・・・それなら、可能性と非現実性とは全く同じ概念なのかといえば、そうではなくて、現実性との相関的な対比において非現実性という概念が存立する、という考え方になっているようです。――これはそれなりに筋の通った考え方ですから、批難するには及ばないと思いますし、われわれとしても、或る種の場面では、この悟性的区分に仮託して論考する場合がありえます。」305P
「ところで、悟性的な立場では、「様相」というものを、このように領域的範疇として区分しますけれど、しかし、いかに悟性的な立場といえども、領域的境界を絶対的に固定化してしまうわけではありません。――これは、弁証法にいわゆる相互的転化とはおよそ次元を異にしますが、悟性論理でさえ、必ずしも領域を固定化するわけではないこと、固定化されるのは概念内容(内包的規定)の側にとどまること、このことは銘記を要します――。所与の一定条件下ではおよそ不可能な或る事態が、別の条件が出現した場面では可能になりえますし、逆に可能な事態が将来的には不可能になることもありえます。現実性と非現実性についても同趣です。」305P
まとめと次項の課題提起に入ります。「爰で、しかし、偶然性と必然性の領界となると、様子が変わります。なるほど、前二者と同趣に扱える部面もあるかもしれません。だか、この問題を問い詰めると、悟性論理では一応のところ「存在様相」とその「領域的区分」を云々しておりながら、実際には「偶然性」ということを存在様相としては認めていないことが露呈します。悟性論理にあっては、偶然性の領界とは認識上のものにすぎない所以です。――今はこの点を深追いして、悟性論理では「可能態」もまた存在様相としては容認されていないことをあらためて指摘するには及びません。これを潮に、悟性的な領域区分を去って、弁証法における様相問題の処理に論議を移して行きたいと念います。」305-6P
第五段落――弁証法における様相問題 306-9P
(この項の問題設定) 「弁証法的存在観においては「様相」は領域的範疇ではありません。悟性的な処置に仮託して“領域”的に扱う場合もありえますが、それは弁証法にとって決して本来的な取扱いではないということ、このことを議論の前梯として誌しておきます。」306P
「偖、前便との脈絡からいっても、偶然性と必然性との弁証法的統一という場面から議論を始めるのが便利です。前便での、量子的不確定、ないし、熱力学的揺動の立論を想起していただきたいのですが……。旧来の決定論的な法則観・存在観のもとでは、世界の客観的な在り方は一義必然的であるものと了解され、偶然性とは“必然性の未知”、認識の不十分性・不確定性にすぎないものと見做されてきました。しかるに、量子力学における不確定性原理を持出すまでもなく、自然的過程が一義的に決定されていないという意味での客観的「偶然性」は、まさに自然界そのものの構造的契機なのです。(この「客観的偶然性」の問題については、拙著『事的世界観への前哨』第二部および『科学の危機と認識論』を参照ねがいます)。但し、同時に、この偶然性=非決定性は、得手勝手な放縦ではなく、一定の限界性の埓内に劃定されております。全くの一義的必然でもなければ、全くの放縦的偶然でもなく、まさに確率函数的な両者の統一態、これが自然的現実過程の実態なのです。――なるほど、概念としての必然性、概念としての偶然性は、悟性概念の流儀で決定することができます。そして、数学的必然性のごとき、論理的な一義的必然性を立てることもできます。しかし、現実の対象的存在界の事象について、偶然か必然かという悟性論理の二者択一を執るわけにはいきません。そもそも、必然性や偶然性という概念からして、現実の存在様式の二つの射映をイデアリジーレンすることによって立てられたものであって、必然体や偶然体がレアールに自存するわけではない所以です。」306-7P
「必然性および偶然性ということは、現実的な事象の在り方の二契機であり、その意味で、現実事象の存在様相はさしあたり「必然性と偶然性との統一」として規定されます。」307Pここで「二契機の統一」というところで、最初に読んだ当時、反差別論で「絶対的排除」と「相対的排除」という二契機にリンクしていました。
「前便で想定した意味での「可能態」「現実態」は、いずれも「必然性と偶然性との確率函数的統一態」という構制を呈します。但し、両者のあいだには当然“種差”があるわけで、前者では変項が変項のままであるのに対して、後者では特定値で充当されているという相違があります。そして、この相違は、当体運動の状相的予料(この確率函数の的措定にはいわゆるRückschluß (機能的推理)の場合をも含みます)と、「観測」による現認(波束の収縮)という諸認識論的場面での次元的差異に相応するのです。――こう申しますと、まさにその故こそ、現実態は必然態にほかならないという意見が登場しそうです。「観測」された「現実態」にあっては“波束”が収束して“確定的”な値が現認されるのですから、もはや不確定性・偶然性の余地はなく一義必然的・確然的である云々。この意見には聴くべきものがあることを認めるに吝かではありません。この選で定義する途もありえます。がしかし、観測的現認において変項の値が確定されたとはいっても、量子学的な「不確定性原理」の次元でいえば依然として原理的に不確定性が残っております。また、この現認された状態が、次のステップの観測に対しては一つの可能態なのであり、その脈絡ではあらためて「必然性と偶然性との確率函数的統一態」にほかなりません。これらの点に徴すれば、現実態を以ってそのまま必然態としてしまうのは考えものでしょう。たしかに、可能態と現実態という当座の対比の場面では、或る種の項をとりだしてみれば、変項的不確定が“一義的”な値に“確定”される以上、後者が確然的であるわけですが、しかし、確定的になるのは変項のうちのたかだか若干のものの値であって、総体としてみた場合には必ずしもそうは言えない道理です。或る一定の措定場面に即するとき、可能態と現実態とでは、後者を必然態と呼びたくなる事情があることは否めないにしても、通時的な函数的措定態の機制は一貫しているのですから、原理上は、現実態といえどもやはり「必然性と偶然性との統一態」と呼ばるべき所以です。」307-8P
「可能態の相であれ現実態の相であれ、こうして、事象の存在様相は――右に 量子力学的な場面に定位するかたちで申し述べたことは原理的にはマクロの世界にも妥当すること、このことは前便で丹治論文を援用してミクロとマクロの両断が許されないことを示したところからも御諒解いただけると念うのですが――「必然性と偶然性との確率函数的統一態」であり、視角を変えて言い換えれば、「必然性」と「偶然性」という存在様相は事象的存在様相の弁証法的二契機ということになります。(弁証法的存在観においては――様相はもともと領域的範疇ではないという事情は措くとしても――右の了解からして、必然性という様相は現実性プラス・アルファではありえません)。」308-9P
「弁証法における「様相論」は、迂生のみるところでは、「必然性と偶然性との統一態」としての事象的定位を「可能態」と「現実態」という区別的相関・動態的転化の相で把握する右で立言した構制、これを基軸にして定式化することができます。――因みに、「必然性と偶然性との統一的定在」、ならびに、それの「可能態と現実態」というとき、「非現実性」という様相の不在を見咎められるかもしれませんが、ヘーゲルにあっても「非現実性」は基本的な様相には算入されていないのです――。弁証法の存在論的・認識論的な存在概念の射程を御諒解いただくには、しかし、あらかじめ視界を拡げておく必要がありそうです。」309P
二 「肯定」・「否定」と間主観的妥当性
第一段落――「様相」−認識論的=存在論的規定態 309-11P
「われわれの場合、「様相」というものを判断における単なる主観的な確信度とは考えません。それでは、「存在様相」とは物自体が具えている一種の性質なのでしょうか? そうではありません。存在様相とはいっても、物自体の規定性ではなく、認識論的=存在論的規定態であって、認識から端的に独立なものではありません。この間の事情を明らかにしつつ、様相の何たるかを見定めるには、認識論的な場面を射程に入れる必要があります。」309P
ここから各様相のとらえ返しに入ります。「まず可能性と不可能性という概念の内容から考えて行きましょう。先には「凡そ考えられるかぎりの“世界”は、可能的領界と不可能的領界とにまず二分され……」というところから話を始めましたが、この言い方そのものにどこか可笑(「おか」のルビ)しいところがあるのにお気づきだと思います、「考えられる」つまり「考えることが可能な」世界の一半が「不可能界」とされているのですから……。普通には、しかし、ともあれ「思惟不可能」=不可能界、「思惟可能」=可能界、という仕方で定義されます。可能とは思惟可能な領界、不可能とは思惟不可能な領界というわけです。ここでは、思惟不可能と現に思惟している(それゆえ、思惟可能な!)領界を不可能界と呼んでいることになり、一見矛盾します。だがしかし、このさい「思惟可能」「思惟不可能」という場合の「思惟」が実は二義的なのです。思惟可能というときの思惟は心理的な意識事実の謂いであり、思惟不可能というのは心理的には現に可能でありつつも論理的に不可能の謂いで、この場合の「思惟」は論理的な価値を含意します。/それでは、論理的に思惟不可能とはどういうことなのか? 普通の悟性的立場では、矛盾律を絶対化しますので、矛盾律に牴触する場合を論理的に不可能(思惟不可能)と規定します。心理的事実としては、そういう思惟も可能ですが、いや、現に遂行されるのですが、論理的にはそれは不可能と謂うわけです。――弁証法の場合、矛盾律を絶対化しませんので、この流儀でそのまま「可能」「不可能」を規定するわけにはいきません。が、もう暫く、悟性論理の線で議論を進めておきましょう――。矛盾律に牴触する=不可能、矛盾律に牴触しない=可能、というこの規定においては、可能・不可能は事実問題ではなく、そう思惟して差支えない(may 宜しい=許容)、そう思惟してはいけない(must notべからず=禁止)という当為(「ゾレン」のルビ)的な価値問題になっている次第です。/茲で顧みますと、先刻は初等英文法を持ち出して、「必然」(must)の否定形はcan not(筈がない)であって、禁止(must not)でない旨を云々しましたけれど、意外なところでcan not=must notになっていることを思い知らされます。」309-11P
「翻って「必然性」について考えましょう。これまた「思惟必然」というのが悟性的立場での規定です。別様に思惟することも心理的には現に不可能ではないのですが、論理的には、つまり、矛盾律を守るかぎり、それの反対を思惟することは不可能(実はmust not)という謂いです。尤も、論者たちは、この意味での「思惟必然」と客観的必然とをどこかで重ね合わせて、単なる「思惟上の必然」という以上の「存在上の必然」を立てるのですが、しかし、「必然性」という概念を概念として規定する場面では「それの反対を思惟することが矛盾律に則るかぎり許されない」ということに定位します。」311P
「現実性についていえば、結局のところ、感性的経験による認証という事実問題に定位して規定されるのが普通です。」311P
「こうして、「現実性−非現実性」はひとまず措くかぎり「様相」というのは判断における主観的な確信度(つまり、心理的事実次元での確信度)に応ずることが眼目ではなく、判断の論理的価値に懸かるのが実情です。そして、この論理的価値は、所与の事態に関する判断の禁止・当為に依準します。このさい、当為的必然性と禁止的不可能性が基軸になることは見易いところです。」311P
第二段落――判断における「肯定・否定」の問題性 311-4P
(この項の問題設定)「われわれは、いまや、「様相」概念を討究する論脈における「当為的必然性」と「禁止的不可能性」という問題に逢着した次第でして、これが判断における「否定・肯定」の問題性と不可分であることは絮言するまでもありますまい。」311P
「「肯定」「否定」の論究は何分にも大問題ですが、茲で前々便での所論を想い出して頂けると、行論が幾分かは容易になると思います。――前々便では「判断」というものを主語表象と述語表象との結合や分離とみなす俗見を卻け、また、単なる「同轄判断」や「異別判断」と「肯定判断」「否定判断」とは次元が異なる旨を誌しておきました。そして、「命名的結合態」の現前化はそれ自身ではまだ命名判断ですらなく、この「施詞措定」の対自己的帰属性が覚識され、且つ、当の命名的措定の対他者的妥当性・非妥当性が覚識化されるとき、この条件を充たしてはじめて「判断」になることを述べ、@「施詞措定」という命名的結合それ自身は、肯定・否定にまだニュートラルな前件であること、A当該「施詞措定」の対自己的かつ対他者的な妥当性が覚識されるときが「肯定」であること、B「施詞措定」の対他者的帰属性が意識されつつも対自己的非妥当性(拒斥)が覚識されるときが「否定」であること――或る他者(ダス・マン的な相でのヒトをも含む)による施詞的な提題に対する不承認的拒斥が「否定」――このことまで綴っておきました。」312P
「判断における「肯定」「否定」ということは、単なる「同轄」や「異別」とは事件を異にし、対他者的・対自己的な妥当性の場面で成立するものであって、「コレハSナリ」ひいては「SハPナリ」という施詞措定態に対する間主観的な承認・拒斥の場で成立するものであるということ、前々便でのこの立言を受け継ぐかたちで議論を進めることにいたします。」312P
「さて、ここでは、学史的回顧を試みる余裕はありませんが、肯定判断・否定判断をめぐる問題性の一端をあらかじめ確認しておいたほうが行論上便利かと思います。/学兄は「肯定判断」と「否定判断」とは同格だとお考えでしょうか、それとも、後者は派生的なものにすぎないとお考えでしょうか? 日本語の表現では「SハPである」と「SハPでない」とが――「である」「でない」という――同位・同格的な形で対立することもあり、日本人の日常的感覚では、肯定判断と否定判断とが同格に扱われているように見受けます。ところが、ヨーロッパ語では、否定形は「肯定・プラス否定辞」のかたちになることもあって、ヨーロッパ人の意識では、学者たちの場合をも含めて、とかく利用者は同格ではないものとされがちのようです。彼我の相違が「イエス」「ノー」の使い方の違いともなって現われるわけです。――判断論ともなれば、勿論、ヨーロッパの学者でも、肯否の同格説を採るものもあり、そこで、まずは「肯定」と「否定」とが同位・同格か否かが係争になります。」312-3P
「発生論的にみるとき――単なる「同轄判断」や「異別判断」とは区別される――本格的な肯定判断・否定判断の場合、肯定判断のほうが先行的に形成されるというのが実情かもしれません。しかし、このことは必ずしも同格性を否定する所以になりません。迂生としては肯定判断と否定判断とを論理上は同格に扱う立場を採りたいと念います。但し、言語的に表現すれば「判断」と同じ文章表現になるので話が厄介ですが、前々便で申した「命名的結合態」「施詞措定態」たる「コレハSナリ」「SハPナリ」という判断与件についていえば、これは原基的には“肯定”であると考えます。――「原基的には」という断り書きをつけるのは、派生的には“否定”形の「コレハSナラズ」「SハPナラズ」という「施詞措定態」も成立しうるからですが、暫くのあいだ原基的な場面に定位して議論を進めます――。」313P
「判断にさいしては、主語と述語とを“結合”“分離”する営為が眼目なのではなく、――前々便でも申しました通り、そして詳しくは拙著『世界の共同主観的存在構造』所収の「判断の認識論的基礎構造」で論じております通り、――それはたかだか前段的な過程なのであって、判断として判断措定においては“判断与件”たる「施詞措定態」(「SハP」)に対して、肯定的承認または否定的拒斥がおこなわれます。ここにおいて、肯定判断または否定判断が相岐れるのであって、判断与件たる施詞措定態は、原基的には「SハP(デアル)」という“肯定”形でありつつも、それはまだ積極的な真の「肯定」判断ではなく、賛否に関してまだニュートラルです。」313-4P
「われわれとしては、こうして、ニュートラルな「施詞措定態」なる判断与件を認めて、この与件に対する肯定的承認または否定的拒斥という同位的対立性の分出を云々する次第ですが、この構図における二段階的契機の各々について敷衍しながら議論を運ぶことにしましょう。」314Pと次の項に入ります。
第三段落――肯定的承認・否定的拒斥を“判断作用”の側から見る 314-7P
(この項の問題設定)「順序を紊(「みだ」のルビ)すかのようですが、まずは、肯定的承認・否定的拒斥という所謂“判断作用”の側から見ておきます。」314P
「われわれは、判断論上のいわゆる「態度決定説」の立場をそのまま採る者ではありませんけれども、肯定・否定が一種の態度決定を含むことはたしかです。――或る種の論者は、判断における承認・拒斥の“心的作用”ないし“態度”という能作を極めて広い意味にとり、この能作そのものは動物における判断以前的な“態度決定”とも共通だとみなします。つまり、動物ですら、好感的に受容したり、嫌悪的に拒絶反応を示したりしますが、それと共通な能作だと謂うのです。判断における肯定的承認・否定的 拒斥の能作が、好感・嫌悪や愛・憎の能作と共通かどうか、一種独特の能作ではないか、これを心理学的な次元で分析してみてもあまり意味があるとは思えません。という以前に、嫌悪しつつも肯定し、好感しつつも否定するといった場合が現にあるのですから、 肯定・否定ということを単なる心情的・情意的な能作とみなせるかどうか、いささか疑問なしとしません。判断にさいしての心理的な過程において、一定の情意的な意識作用や意識状態が見出せることは確かだとしても、そして、多くの場合、肯定と好感、否定と嫌悪が照応するとしても、それ判断にとって本質的な契機でもないとも考えられます。しかしともあれ、判断にさいして、一種の決意的な態度決定がおこなわれるということまでは内省的に認められます。」314-5P
「判断におけるこの決意的な態度決定は、厭々(「いやいや」のルビ)ながら肯定したり、悦(「よろこ」のルビ)んで否定したり、という場合があることに徴すれば、単純な愛好や嫌悪とは次元を異にするはずです。それでは、判断的決意、ないし、判断的決定感情は、それ自身としては肯定の場合も否定の場合も同質であって、判断成態における「主語−述語」関係が肯定形であるか否定形であるかに応じて全体としての判断の質(肯定・否定)が岐れるにすぎないのでしょうか? それとも、判断的決意という能作、ないし、判断的決意感情そのものに肯定的な質のものと否定的な質のものとの、異質性があるのでしょうか? 判断作用の能作そのものは肯定の場合も否定の場合も同質であるのか、それとも、判断の能作そのものが肯定の場合と否定の場合とでは異質であるのか、というこの二者択一に答えるためには、先決問題が要求されます。/ここでの先決問題というのは――あの「施詞措定態」をとりあえず“肯定”形の原基形態で扱っている当座の論脈から一時的に脱線することを余儀なくさせるのですが――、判断の「肯定」・「否定」という“質”をどの部面で規定するのかという問題です。これは日本人の日常意識とヨーロッパ人の日常意識とでは、奇妙に相岐れかねません。話を簡単にするために、例に即しましょう。」315Pとして
「「@「鯨ハ魚デナイカ?」と問われて、「マサニシカリ! 鯨は魚でない」と答えるさいに、この判断は肯定(マサニシカリ)なのか、それとも否定(魚ではない)なのか。/A 「人は動物デナイノカ?」「イナ! 人は動物である」、これは否定(イナ)なのか、それとも肯定(動物である)なのか。/B「鯨ハ魚デアルカ?」「イナ! 鯨は魚でない」。/C「人ハ動物デアルカ?」「シカリ! 人は動物である」。」316Pという例で、ヨーロッパ語と日本語の「イエス・ノー」の使い方の違いを展開したところで、「ヨーロッパの理論では、判断における態度決定というとき、判断与件に対する(ないし、所与の主語・述語結合関係に対する)態度とみなしがちであり、他者の主張への賛否の態度決定という間主観的な事情を看過しがちです。それにともなって、“能作”の質をも、対他者的関係に即して規定するのではなく、もっぱら心的作用の内在的性質とみなす傾向にとらわれております。――その点、われわれ日本人としては、判断における肯定的承認・否定的 拒斥 という“態度決定”を、まずはナチュラルに、間主観的な対他者的「同意・不同意」に即して想定できる次第です。」317P
この項の最後のまとめと次へ繋げる文です。「われわれは、ここに、判断の肯定・否定という“質”的区別を――所与の「「施詞的措定態」に関する対他者的・対自己的な間主観的妥当性の覚識の場面に定位しつつ――、さしあたり、判断与件をめぐる「シカリ!」「イナ!」の同意・不同意に基づける所以となりますが、以上の行文では、まだ、同意・不同意という態度決定上の質規定と判断成態内部の肯定形・否定形の対立措定との関係にふれておりませんし、また、日本語とヨーロッパ語との表層的差異の根底にある同一構造を剔抉(てっけつ)してもおりません。今や、この未決問題を処遇するためにも、先に登録しておいたもう一つの論件に移る段取りです。それは右の行論中、前提をなしている「施詞措定態」の間主観的所与性とその内実にほかなりません。」317P
第四段落――「施詞的措定態」の間主観的所与性とその内実 317-20P
「判断において、承認ないし拒斥の直接的対象になる「施詞措定態」と謂うのは、原初的には、知覚的与件と言語的(音声)記号とを命名的に“結合”した成態であって、原基的なそれは、標記的には「(コレハ)A」という形になります。(このさい、Aは、品詞的には名詞とはかぎらず、形容詞や動詞でもあり得ますが、以下では特に必要のない限り名詞的に標記しましょう)。この命名的結合態は、発生論的には、当人が創造的・自発的に形成するのではなく、他人によって提示的に与えられます。なるほど、歴史上の発生的場面や新規的命名の場面にかぎらず、日常的にもやがて当人自身が“内発的に”当の命名的結合を遂行する場面が形成されますけれど、ここではひとまず幼児期的体験の場で御諒解いただけると便利です。」317-8P
「偖、所与の命名判断は、発話者自身にとっては単なる命名・指称ではなく、既にして判断の表明である場合もありえますが、幼児的聴取者たる当人にとっては、さしあたり、与件(コレ)と名称との“結合”態の域を出ません。・・・・・・当該の命名的結合態は、しかも、原初的には、特定の誰彼に帰属するというより、むしろ、人称的帰属“以前”の相で、いわば“非”人称的・“前”人称的な相で覚識されます。つまり、「コレハA」という命名的結合態は、発話者たる相手に帰属するとも、聴取者たる自分に帰属するとも明識されることなく、謂うなれば与件的な事態として覚識されるに止まっております。」318P
「このような命名的結合態の覚識が即自的な知覚的分節体制の分化や綜合を促しつつ進捗していき、多角的分節態の各々(まだ全てとは申しません)が謂わば“名称”(形容詞や動詞の場合をも含む)を“貼付”されたかのごとき状相になります。尤も“貼付”という比喩は不適当かもしれません。知覚的与件と言語的音声形象とが重なって見えるわけではありませんので……。要は、知覚的与件と言語形象との“条件反射的結合”なのですが、ともあれ、この態勢が、本人自身はまだ発語できない場面でも、既に相当程度まで確立するように見受けます。すなわち、自分では話せないけれども、聞いては判る状態、発語できる語彙(「ごい」のルビ)は貧困でも、理解できる語彙はかなり豊富という状態がいちはやく成立します。そしてやがて、所与の知覚的与件に対してみずから命名的発話をおこなうこと、および、所与の言語的形象を機縁にしてそれ以上の或る一定(所定)の対象を志向することが、殆んど“自動的”に“生起”するようになります。」318-9P
「この態勢が或る程度まで形成され始めた局面を迎えますと、誰かが与件a(Aと呼ばれるべき対象)を指して「コレハB」と呼称すると、それと対立的に「コレハA」という命名的結合態が意識される場合を生じます。また、自分で(誤って) aを「コレハB」と呼称して、誰かから「コレハA」という反対定立を受け、こうして、「コレハA」と「コレハB」という両つの命名的結合態が併立的に覚識されるという事態を体験します。――この対立的区別の場で、命名的結合態の人称的帰属性が「対他者」「対自己」的に覚識されるようになります。」319P
「先には、「施詞措定態」「命名的結合態」は原初的には“前”人称帰属的である旨を特記しましたが、その原初的場面でも、「A」という音声の音源的発話者は覚知されております。その意味で、音声「A」そのものは、初めから他者帰属的と言うこともできますが、しかし、その場面での“他者”は――他の論脈では単なる音源以上の存在として既に意識されているにしても――当座の論脈では単なる“音源”であり、いわば“場所”的に定位されているにすぎず、そのかぎりでは音を発する物体と選ぶところがありません。その場面では「コレハA」という覚識的事態そのものはまだ他者に帰属されるわけでなく、前人称的です。/いまや、しかし、与件aを指しながら「(コレハ)B」と他者が発話し、「(コレハ)A」と自己が発話するという「異」状な事態、ないしはまた、自己が「(コレハ)B」と発話し、他者が「(コレハ)A」と発話するという「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的「区別」相が覚識されます。/ここにおいて、もはや単なる音声「A」「B」の音源的帰属の域を超えて、「コレハA」「コレハB」という併立的に覚識される二つの命名的結合態が「彼−此」的な対向的区別性の相で「他者」と「自己」とに帰属されるに及びます。こうして、対他者的に帰属する命名的結合態と対自己的に帰属する命名的結合態との分立性において「命名的結合態」の「人称的帰属」化が成立する次第です。」320P
次節の課題の提示です。「今や、以上の行文でしつらえた論材を踏まえることによって、「判断」の肯定性・否定性の存立実態を見据えうる段取りです。」320P
三 「判断措定」の命題成態への内自化
第一段落――「肯定的承認・否定的拒斥」の存立機制 320-4P
(この項の問題設定)「爰では、懸案の「肯定的承認・否定的拒斥」の存立機制が直接的な主題になりますが、議論の見通しをよくする含みで、若干の先廻りをして、あらかじめ路線を限定するところから始めます。」320P
「命名的結合態の対他者的・対自己的な帰属化が反復的に覚識される過程を通じて、単なるゲシュタルト的次元での「再認的同一」や「較認的同一」の感知という以上の「同一性」が意識されるようになり名辞(呼称)の統一性が媒介環になって、本質的同一性意識が形成されたりもします。また、知覚的与件aとも音声的形象「A」とも区別され、それ以上の或るもの etwas Mehrとして覚識されるところの「述定的意味」が形成されるようになり、「コレハA」という立言が単なる“命名的結合”という以上の「述定的結合」の意義を帯びるようになります。それにともなって、「コレハSデアル」ひいては「S(タルコレ)ハPデアル」という施詞措定態が「陳述的事態」の次元へと高まります。」320-1P
(言語の機能と措定態)「周到に論じる差異には「判断成態」の内実に関わる右のごとき諸点に立入り言語の「指示・述定・表出・喚起」という諸機能との相互媒介性を論考する必要があるのですが(この件については『もの・こと・ことば』所収の「意味の存立と認識成態」を参看ねがえれば幸甚です)、ここでは判断における「肯定」「否定」ということが主題ですので、論述を敢て飛躍させて本筋を追いたいと念います。謂うところの「施詞措定態」は単なる命名的結合態の域に止まるものではないこと、「SハPデアル」という措定態が「指示・述定」の機能を契機とする「陳述的措定態」の次元に高まっている場面もあること、このことを先取するかたちで議論を進めます。」321P
(“脱”人称化)「このさい、先廻りしたついでに、帰属者の側についても先廻りをして若干申しておきますと、施詞的措定態は、フェア・ウンスには、その都度すでに誰かに帰属するとしても、当事主体において(フェア・エスに)そのことが不断に意識されているわけではありません。自他の対立性において人称的帰属性がいったん意識されたとしても、あらためて“脱”人称化が生じえます。但し、これは発生論的に初期の“前”人称的な状況への単純な復帰ではなく、帰属される“人称的”主体の“脱”個性化の過程に負うものです。「このSハP」といった次元にせよ、“同じ” 施詞措定が、さまざまな機会に、いろいろな人々によって、誰彼の別なく斉しく発話・提示される体験を通じて、それが誰彼の別なき「ヒト」に帰属されるようになります。このダス・マンともいうべきヒト、つまり、特定の老人でも若人でも、男性でも女性でもない――それでいて、誰ででもありうる“函数的な” ――ヒトは、後述の通り、或る種のコンテクストではイデアリジーレンされて当該言語の「言語主体一般」、ひいては、「判断主観一般」とでもいった相で覚識されるに至ります。が、しかし、当座の場面では、不定人称的なヒトという漠然たるetwerになり、「ヒトは『SハPデアル』と言う」といっても、「ヒトは……言う」の部分が意識から脱落し易く、「SハPデアル」という施詞措定態だけが“脱”人称的に現前することになる次第です。成人における判断的態度決定の直接的与件となるのは、多くの場合、このようにして脱人称化された施詞措定態にほかならないのですが、ここでひとまず「人称的帰属化」が明識される場面に遡ることにします。」321-2P
(人称的帰属化)「偖、嚮に、「コレハA」「コレハB」という二つの施詞措定態が他者と自己とに、「彼−此」的な区別相で帰属化される状況を誌しましたが、この対他・対自の対立性と異和感は、それ自身ではまだ「不同意」の意識ではなく、況んや、そのままで判断的否定なのではありません。・・・幼児の体験・・・対他者的に帰属する「コレハB」に対して、「コレハA」という措定態を対自己的に帰属せしめつつ、異和感を以って「コレハB」という提題に拒絶的反応を呈すること、それが「不同意」であり、このような構造的態勢の契機となっている「コレハB」という提題に対する拒絶的反応、それが「否定」的拒斥の原初的ケースだと思います。ここには、フェア・ウンスに分析していえば、与件aをBと呼ぶ他者の立言を矯正的に置換して「コレハA」と呼ぶべきことの意識が見出せます。そのかぎりで、「コレハB」という提題に対する否定的拒斥は、「コレハBデナクAダ」というnot……butの意味構造を即自的に含意していると言えます。/このようにして、所与の提題に対する自分の側からの否定的拒斥が対自的に意識されるようになりますと、自分の命名的措定「コレハB」に対して他者が「コレハA」と発話する場面においては、他者の側でも自分の側の提題に対して否定的拒斥をおこなっていることを了解できるようになります。ここにおいて「否定」意識(否定的陳述的態)が対他者的・対自己的に帰属されるに及びます。」322-3P
(同感・判断的同意)「ところで、他者も「コレハA」と発言し、自分も「コレハA」と発話(内語にとどまっても可)する場合、二つの命名的措定態は必ずしも他者と自己とに明確な形で人称的に帰属しない傾向があり、また、その二つの措定態が(特に自分の側は内語にとどまった場合)二つの措定態併立というよりも、むしろ融一的な相でしか明識されない傾向があります。特に、当の命名的結合が鞏固に既成化し、ルーティーン化している場合には、それが顕著にみられます。――自他ともに、「コレハA」と呼称するようなルーティーンな場合であっても、フェア・ウンスには判断的同意がおこなわれていると呼べるケースもありますし、そのことは当人自身も反省的に対自化できるのですが、しかしともあれ、肯定的承認ということが当事主体にとって自覚的に明識化されるのは、原初的には稍々屈折した場面においてだと考えられます――。或る与件についてそれを何と呼称するのだったか忘れてしまいなかなか想い出せない(ないしは逆に、或る音声記号は憶えているのだが、それがどのような対象を指すのか想い出せない)といった場面において、他者が「コレハAダ」(ないしは「Aトハコレダ」)と発話するのを効いて「ソウダ!」と同感(想起的共鳴)の意識を覚識されるようなケース、それが所与の「施詞措定態」に対する「同意」「承認的肯定」の原初的形態ではないかと思われます。――自分なりの一応の思念を懐いておりながらも、自信がない場面で、他者による立言によって「我が意を得る」ようなケース。これも機制上は同意の面をもちますが、しかし、これは遙かに高次の階梯に属します。――そのほか、例えば、眼前に二人の人物がいて、その一人が与件aを指して「コレハB」と発話したのに対して、もう一人が「コレハAダ」と発言するような場面で、後者に帰属する「コレハAダ」という措定態に「同感」(共鳴)するようなケースも、判断的同意の原初的な次元に属すると考えられます。」323-4P
(この説のまとめ)「さしあたり、この程度の次元にとどまるにせよ、施詞措定態の対他者的・対自己的な共同的帰属性――「彼−此」的区別の上に立つ同一性――が覚識される域に達し、所与の提題に対する肯定的承認が対自化されるようになりますと、自他の措定的発話が合致する場合、自分の側での「陳述的措定」を他者の側でも肯定的に承認しているものと了解(対他者的に帰属化)できる階梯を迎えます。こうして、先述の「否定」的陳述態と並んで、「肯定」的意識(肯定的陳述態)が対自己的・対他者的に帰属される所以となります。」324P
第二段落―「指示―述定の措定態」(叙示態)の「内自化」される機制 325-8P
(前節の押さえ)「甚だ粗略ながらも右に誌したような経緯を介して、肯定的ならびに否定的な陳述的表出が対他者的・対自己的にまずは帰属されるものと迂生は考えます。」325P
(この項の問題設定)「ところで、この陳述的(表出)次元での肯定性・否定性という間主観的な関係場での態度の執り方が、いわば即自化されて、「指示−述定の措定態」(叙示態)の内部的契機の相で「内自化」される機制がはたらきます。」325P
「この間の事情を先に挙げた“例”に立ち戻って考えてみましょう。二人の人物が眼前にいて、一方が「コレハB」と言い、他方が「コレハA」と言うのを聞いて、自分としては後者に共鳴する場面では、前者の「コレハBデアル」に提題について「不同意」「拒斥的否定」の態度をとり、後者の「コレハAデアル」という提題に対して「同意」「承認的肯定」の態度をとるわけですが、ここで、今や「否定」の態度に応じる言語的表現が成立しているものとします。(・・・・・・少なくとも発生論的にはあくまで即自的な“肯定形”のほうが原基的だと思います。けだし、先般来「施詞措定態」「命名的結合」の原基的形態として“肯定形”を立てた所以です)。そこで、後者が、「否、コレハBデナイ」と発話し、自分もそれに共鳴したとしますと、「コレハBデナイコト」へのこの肯定的賛同は「コレハ非Bデアル」ことへの肯定的賛同と同値になります。こうして、他者に帰属する「コレハB」デナイへの肯定的同意は、「コレハBデナイ」デアルへの肯定的同意、つまり「コレハ非B」デアルへの同意と同値になることから、「Bデナイ」が言語表現上「非B(デアル)」で置換されうることになり、現にそれが遂行されます。そして、この「非」「不」という元来的には否定的陳述に照応した言語表現が、「非常に」「不満」「ウーマン」(wo-man=not man=マンに非ず(ママ・・・差別の指摘が必要))といった例を多々挙げることが出来るように、日常的な意識では否定性の覚識を喪失させ、その点では“肯定的”表現と選ぶところがなくなる始末です。これに照応するかのように、「コレハ非B(デアル)」と同値の「コレハBデナイ」という措定態が、「コレハBデアル」という“肯定形”のそれと同位的な「施詞措定態」(叙示態)の相で現前するようになります。こうして、元来は陳述的表出の次元に属した肯定性・否定性が「叙示態」の内部における肯定的述定・否定的述定の対立的形式として(承認ないし拒斥という強烈な態度決定性の意識を希薄化せしめつつ)“内自的契機”に繰り込まれる次第です。」325-6Pここで注意しなければならないのは、異化−同一化の問題と肯定−否定の問題をごっちゃにとらえることで、異化ということを否定としてとらえる錯認から、ここでの論議から肯定が否定よりも先行するということを、同一化が異化よりも先行するようにとらえてしまうと、それは錯認です。
「今や、このようにして、「施詞措定態」には“肯定形”のものも“否定形”のものも在ることになり、先に“肯定形”のそれに即して述べたのと同趣的に“否定形”の施詞措定態「コレハ非A」「コレハAデナイ」に関して「マサニシカリ! コレハAデナイ」という肯定的同意の場合、および、「断ジテイナ! コレハAデアル」という否定的不同意の場合が相岐れうる次序となります。」326P
「併せて亦、施詞的措定態の帰属者が「不定人称化」(ヒト化)を被り、措定態の人称的帰属性の覚識が薄弱化していく傾動を生ずることは上述しておいた通りです。そのため、判断的態度決定(承認・拒斥)の直接的与件たる「施詞措定態」は――“肯定形”のものであれ“否定形”のものであれ――“脱”人称化されて、自存的な存立態であるかのように錯認されたり、その反動として、それがとりあえず自己の意識内部に帰属化されることにおいて、判断与件たる「施詞措定態」が単なる“表象結合態”にすぎないかのように錯認されたり、これら両極的な謬見の機縁を与えます。/ここでは、しかし、これらの謬見の批判に立ち入る意趣はありません。唯、“脱”人称化された相での「施詞措定態」、つまり、即自的には「不定人称者帰属」の相での「叙示態」が、マイノングの言う「仮定」(Annahme)に相当するものであること、そして、これを基礎にして、「疑問」「推測」「仮想」などが「判断」と分立するということ、この点を傍白しておきたいと思います。」326-7P
「この場を藉りて、ついでに一言しておけば、肯定・否定をめぐるヨーロッパ語と日本語での表層的な“相違”は、行文からすでに察知していただいたことかと念いますが、深層的な構造に即すれば、なんら本質的な差異ではありません。いずれにおいても、原基的には陳述的表出に関する同意・不同意によって肯定・否定が岐れるのであり、ただ、述定的な場面にそれを“内自化”する局面で彼我のあいだに差異が生ずるにすぎません。」327P
「ところで、判断としての判断においては、――形式的には同様に“肯定”“否定”の陳述的表出を含む「疑問」「推測」「仮想」などとは異なって――肯定ないし否定は、積極的な同意ないし不同意の態度決定であるだけでなく、真理性の要求を伴い、いわゆる「判断的必然性」の覚識を伴います。そして、この判断必然性は、述定の部面では「そうあらざるをえない」(そうでしかありえない)というmüssenつまり、存在上の必然性、ないしは、論理的一義性(排他的必然性)の契機を孕むものとしても、肯定的承認・否定的 拒斥 の部面での必然性は「当為(「ゾレン」のルビ)的必然性」であり、「それに対する反対の禁止」の覚識に支えられております。」327-8P
第三段落――肯定・否定と「様相」がリンクする場面 328-9P
「今や、こうして、われわれはあらためて、肯定・否定と「様相」がリンクする場面に連れ戻されている次第です。しかも、ここでは「陳述的措定」(態度決定)の部面での当為的必然性だけでなく、「述定的措定」(述語づけ)の部面での必然性も絡んでおり、後者は更に「事実上の必然性」(これの一部として「因果必然性」も含まれる)と並んで「論理上の必然性」(これは「規範的拘束性」の一部に属する)を孕んでいるわけですが、これら両部面での必然性が密接な相互媒介相にあることは先にその一端をみておいた“内自化”の機制からも彰らかです。――右にはとりあえず「必然性」という様相だけに即して申しましたが、実を言えば、判断的態度決定には肯定的承認・否定的拒斥と並んで「エポケー」の場合があり、肯定とも否定とも一義的に決することなく、しかも両主張を可能的に許容する態度がありうるわけで、ここの「可能性」という様相も介在します。そして、これが “内自化”されて「述定的措定」の様相を規定する所以となり、「叙示態」(判断的態度決定の直接的与件)そのものが様相的規定を帯びた相で現前する事態を生じます。爰において「疑問」「推測」「仮想」の基になるObjektiv(マイノングが謂う意味での)が様相的に相岐れうることになります。――この機制に鑑みるとき、「叙示態」に“内自化”された様相規定は“客観的な”存在様相として現われ、陳述的判断措定の場での様相が“主観的な”認識様相として覚識される次第ですが、判断の「真理性」「客観妥当性」が認められる場面を俟つまでもなく、謂うところの「存在様相」と「認識様相」とが存在論的・認識論的な既定的場面でリンクすることは、これまた、われわれにとっては既に彰らかなところです。」328-9P
(これからの課題)「われわれとしては、この間の次第を解明しつつ、「様相」を認識論的・存在論的に定礎する課題を負う次第ですが、この作業は、いわゆる「因果的必然性」「論理的必然性」「当為的必然性」の内面的な相互媒介関係を視軸に据えて展開するのが好便のように思います。/次箋では、それゆえ、判断必然的な推論的連鎖による学的展開の機制という論脈に繰り込んで、本箋で対自化した構案に応えて行く心算です。」329P
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(6)
第十信「肯定・否定」と存在様相
(前便のまとめ)「前便では、弁証法にいわゆる「運動」のプロブレマティックを念頭に納めつつ、「変化」当体なるものをめぐって討究を試み、謂うところの“実体的自己同一性”の“最後の拠点”を衝いておきました。前便での立言は、既成観念の排却という消極的な作業に終始するものではなく、「関係の第一次性」という存在了解のもとで「変化の当体」を措定し直す積極的構案に通ずるものだった心算ですし、亦、「変化」という概念に「可能態から現実態への転成」という構図をあらためて持ち込む所以となりました。」295P
(この章・便の問題設定)「爰において、われわれの論考は、弁証法的運動における存在様相という問題と絡み、いわゆる「因果論的連鎖」の問題をも配視すべき局面を迎えた次第です。/本箋では、弁証法における「体系構成法」が主題である以上、様相論や変化論に詳しく立ち入ることは差し控えますけれども、「展開の論理」を定式化するにあたって是非とも必要と考えられる範囲内で、多少とも存在様相に関説しておきたいと念います。/尚、二兎を追うのは如何(「いかが」のルビ)かと憚りつつも、後論への直接的な前梯となることでもあり、前々便で一端に触れかけた「判断の質」、つまり「肯定と否定」という論件をこのさい絡めることに致します。」295-6P
一 「存在様相」をめぐる問題論的構制
第一段落――存在様相と認識様相の統一&カントの判断主観の様相論(とその「先験性」)206-8P
「われわれは日常、「可能性」とか「必然性」とか、様相概念を聊か安易に使いすぎているのではないでしょうか。そのため、弁証法における法則概念の特質が見落とされる憾みもあります。弁証法論者が「偶然性と必然性の統一」を説こうとするのに対して、世間ではとかく妄言とみなしますが、それも「存在様相」というものに関する安直な既成観念の所為(「せい」のルビ)ではないかと思うのです。」296P
「中世哲学では、「認識様相」と「存在様相」とが分断されておらず、様相といえば第一次的には存在様相を意味したものです。/近代哲学においても、存在様相ということが常に全面的に否認されているとは言い切れません。現にヘーゲルは、認識様相と存在様相とを再統一したと申せます。しかも、彼の場合、「様相は絶対者そのものの、自己反省的な表出(Manifestation)である」という仕方で把えられており、いわゆる“認識様相”とはおよそ次元を異にします。/われわれは、無論、中世哲学やヘーゲルの絶対的観念哲学を服膺(ふくよう)する者ではありません。しかしながら、前便での「可能態−現実態」の議論を想起していただければ、「様相」を単なる認識様相としてではなく、存在論的な次元で取扱う必要があること、それも単なる存在様相としてではなく、認識論的な次元との統一性のもとに処遇すべきこと、この点まではとりあえず御諒解ねがえると思います。」296-7Pそこで、「事柄が厄介ですので、まずは「認識様相」ということが問題になる場面を顧慮するところから始めましょう。」297Pとして、カントの「様相論」を取り上げます。
「カントは有名な「範疇表」の第四綱に「様相」を置き、(1)「可能性−不可能性」、(2)「現在性−非存在」、(3)「必然性−偶然性」を配位しております。彼の「範疇表」は御存知の通り、「形而上的演繹」によって「判断表」から導出されたもので、判断表における第四綱たる「様相」は、(1)「蓋然的problmatischな判断」、(2)「実然的assertorischな判断、(3)「必然的apodiktischな判断」とされております。――カントによれば、様相の範疇は、判断様相における思惟機能を概念化したものにほかならないわけですが、「判断の様相は全く特別な判断機能であり、それは判断の内容に何ら寄与するところがなく、ただ繋辞の価値にのみ関わる」ものです。/もう少し具体的に敷衍(ふえん)しておきますと、(1) S may be Pという蓋然的判断でも、(2)S is Pという実然的判断でも、(3) S must be Pという必然的判断でも、判断内容、つまり主辞−賓辞の関係態である「SハPデアル」コトは共通・同一であるとカントは考えます。しかし、(1) S is possibly (probably) Pという蓋然的判断をくだすのと、(2) S is assenrtively Pという実然的判断をくだすのと、(3) S is necessarity Pという必然的判断をくだすのとでは、繋辞「デアル」(is)の価値が違うというわけです。こうして、カントの場合、「様相」とはさしあたり、「SハPデアル」という判断内容に関する判断主観の確信の度合いに応ずるものと申せます。」297-8Pそこから、この項のまとめに入ります。
「このように、「様相」とは、「繋辞の価値に関わるもの」、判断主観の確信度の表明にすぎないとみなすこの考え方は、図式的にいえば、まさしく近代における様相観の常套に属します。――但し、カントの先験的観念論にあっては、謂うところの「判断主観」は先験的主観(超越論的主観)であって、範疇という先験的な純粋悟性概念は、成程「物自体」にこそ及びませんが、現象界を構成する先験的な形式なのであり、視角を変えて言い換えれば、「様相」は「現象界」たるかぎりでの対象界における“存在様相”として厳存する所以となります。カントの場合、彼一流の先験的構制主義によって、先験的な認識様相と経験的存在様相とが、合致する仕掛けになっているわけです。そして、この認識と存在との一致が、ヘーゲルの絶対的観念論にあっても、批判的に継承されている次第なのです。」298P
第二段落――近代知において、何故“認識様相”というかたちで、主観の側に帰属されるのか? 298-301P
「認識様相と存在様相との一致を論究する前梯として、ここで追認しておきたい事項があります。それは、近代知の“主流”においては、「様相」が何故“認識様相”というかたちで、主観の側に帰属されるのか、その由縁」298Pを問います。この項の問題設定です。
「近代的存在観では、存在を端的に非存在から区別します。そして、真に存在するのは現実的存在だけであると了解します。そこでは「可能態」的存在というものは認められません。物理的な「絶対時間」の発想が象徴的に体現しているように、そこでは、過去の世界や未来の世界でさえ、苟くもそれが存在する以上は、いかにも現実的存在なのです。それは、原子論的・機械論的な世界像とも照応します。ここでは、究極的な存在として思念される諸原子は、不生・不滅であり、それ自身としては不変な実体ですから、場所的な変化や組み合わせの変化はあり得ても、実体的存在としては現実態の相で恒存します。・・・・・・一箇同一の原子が同時に種々の結合態を形成しうるという意味での「可能性」が認められているわけではありません。古典物理学的な自然像にあっては、原子はその都度の在り方を一義的に決定されているのであり、それ以外の在り方は不可能なのですから、まさに定義上、在り方が必然的です。/近代の原子論的・機械論的な存在観においては、万象が因果必然的な法則に服しているものとみなされますので、「偶然」の存在する余地がありません。“偶然”なるものは、認識の不充分性の故に見掛上そう仮現するだけで、客観的には偶然性は存在せず、一切は必然であるものと了解されます。・・・・・・現実に生起するものは因果必然的に生ずるのであって断じて偶然に生起するわけではない、という決定論的な世界像のもとでは、いかに「可能態的存在から現実態的な存在への転成」と称しても、前便で照会したあのメガラ派の指摘を俟つまでもなく、論者たちの謂う“可能的存在”は真の可能態とは呼びえません。――勿論、近代の機械論的な思念といえども、事柄に迫られて、「可能態−現実態」という存在了解を裏口から導入せざるを得ない局面に屢々(るる)逢着します。しかし、機械論的・原子論的な世界像の論理構制からいえば、客観的実在世界は現実的必然態=必然的現実態に局定され、それ以外の様態は客観的には存在しえないのが道理であって、現にそれ以外のものはたかだか主観的な認識の領界に帰属せしめられているわけです。“客観的な可能性”といえども、論者たちの場合、客観的には端的に未在であり、さしあたっては単に“認識のうちにある”にすぎません。偶然性にいたっては、もっぱら認識の不十分性の所為とされ、客観的には不在とされる始末です。/成程、近代知のすべてが原子論・機械論の存在観を執るわけではなく、客観的な存在様相を云々する理説が現に存在するわけですが、右に稍々一面的な強調を試みたのも、とりわけ、近代自然科学流の自然像、ひいては世界像を意識してのことです。近代自然科学にあっては、因果必然論的な存在観が執られており、且つ、認識論的には模写説の構案が採られておりますので、――客観的には必然的現実態=現実的必然態しか存在せず、それが模写説に認識すると見做される以上――、模写さるべき客観的な事態は「SハPデアルコト」(S is realy P)であって、たかだか認識の主観的確度に応じてのみ様相的な区別が設けられるという了解、これが帰結する次第です。」298-300P
「学兄は、近代知においても「現実性」および「必然性」という存在様相が認められている旨を指摘されるかもしれません。そのことは一応認めることもできます。しかし、「絶対時間」の表象や「法則的必然観」の了解に象徴されるように、過去や未来までが現実的必然態=必然的現実態の図式に包摂されてしまうところでは――すなわち、客観的な「可能性」や「偶然性」が顚から認められないところでは――客観的な存在様相ということは事実上没概念にすぎません。」300-1P
ここで前便からのリンク、「前便で綴りました現代物理学の存在観とも通ずる「可能態−現実態」のプロブレマティック、ひいては、偶然性と必然性との統一的把握に定位する弁証法の運動論や様相論、これが近代知の地平に対して占める特異な地歩について、右の立言から反照的に御理解いただきたいのです。客観的な存在様相を立論し、しかも、可能性・不可能性・現実性・非現実性・必然性・偶然性、これらのあいだの相互的転化を云々する弁証法の様相論は、とかく戯言(「たわごと」のルビ)のように受け取られがちですが、それはなかんずく近代流の既成観念に禍されたものと申さざるを得ません。」301P
第三段落――様相なるものの分類的整序 301-3P
「さて、様相なるものが分類的整序からして大問題です。普通には、「可能−不可能」「現実−非現実」「必然−偶然」というペアにして扱われます。そこでは、これら三つのペアはどういう関係に立つのでしょうか? いや、それ以前に問題があります。それは、これらのペアは相互否定的な関係になっているかどうかという問題です。/まず、「必然性−偶然性」をとりあげてみましょう。普通には、“必然的”と“偶然的”を対置して扱いますけれども、前者の否定がそのまま後者だと言えるでしょうか? 初等英語を想い出してください。It must be true.という必然性の判断の否定形は、It can not be true. (本当のはずがない)であって、この場合にはmust notという否定形は使えません。must notというかたちは「○○してはいけない」という禁止の表現になり、「○○に違いない」という意味でのmustの否定形はcan notというかたちをとるわけですね。この語法は決して単なる文法上の偶然的な規約ではないと思います。「必然(must)」の否定形が「不可能(can not)」になるのは、アリストテレス以来の必然性の定義、つまり、「それの反対が不可能であること」に照応します。この論脈では「必然−不可能」――が対立することになりますが、さりとて、逆向きに、可能性に偶然性が対置されるわけではありません。或るコンテクストでは明らかに「可能性と不可能性」「必然性と偶然性」が対立しながら、それとは別に「必然性と不可能性」とが対立する(それでいて、「偶然性と可能性」とが対立するわけではない)という次第で、「様相」の否定的背反関係は一種独特です。――こういう奇妙な関係は、様相以外の普通の概念の場合には起こりません。この一事をとっても、様相概念の特異性が察せられると思います――。」301-2P
「この特異な否定関係の由って来たるところを知るためにも、あの三つのペア相互間の関係に眼を向ける必要があります。」302Pとして
「主観的な認識様相における確信度に即して言えば「可能性−現実性−必然性」という順序で――つまり、蓋然的判断−実然的判断−必然的判断という順序で――強くなって行きます。視角を変えていえば右の順序で対象的な事態の領域が狭くなって行きます。しかるに、「不可能性−非現実性−偶然性」という反面の側は、否定的確信の度がこの順で弱まって行きますが、対象的事態領域の広狭関係(包含関係)を一義的に言うことはできません。何故そうなるのかを考える前に、先決問題が爰にあります。それは、主観的な判断様相では必然性のほうが現実性よりも強いとしても、客観的な存在様相では現実性のほうが必然性よりも強いのではないか、という問題です。必然的であっても、現実的に実在するとは限らないのではないか? 論理必然性の場合は確かにその通りです。そのかぎりでは、必然的であっても非現実的なものと、必然的であり且つ現実的なものとが岐れることになり、現実性のほうが必然性よりも狭い(強い)概念だという理屈になります。しかし、必然的ということを存在上の必然性の意味にとれば、現実的なもののうちには、偶然的なもの(所謂「事実必然性」)と必然的なもの(所謂「本質必然性」)との双方が属することになり、このさいには、必然性のほうが現実性より狭い(強い)という認定になります。尤も、客観的に必然的でありながら未だ現実化していないこともあり得ると言って、現実性のほうをあくまで狭くとる立場も許されます。がしかし、それは現実性ということを感性的な現前性に即して規定する場合の話であって、例えば「理性的なものは現実的である」と唱するヘーゲルなどの場合には妥当しません。けだし、その場合には「現実性」という概念規定が別様になるからです。因みに、客観的な必然性、存在上の必然性を云為する以上は、現実的でないものには必然性を認めない(たかだか認識上・予料上の“必然性”しか認めない)とするほうが、ナチュラルではないでしょうか。」302-3P
第四段落――上述の三つのペアを悟性論理の流儀で整序する 303-6P
(この項の問題設定) 「今仮りに、このような含みでの“客観的”な“存在様相”に定位して、上述の三つのペアを悟性論理の流儀で整序してみましょう。」303P
「およそ考えられるかぎりの“世界”は、可能的領界と不可能的領界とにまず二分されます。そして、可能的領界は、可能であるが非現実の領界とに二分されます。裏返していえば、現実的領界と非現実的領界とが合して可能的領界を形成することになります。そして、その現実性の領界を、偶然的に現実的な領界と必然的に現実的な領界に分けることができます。その場合には、裏返していえば、必然的領界と偶然的領界とが合して現実的領界を形成することになるわけです。/右の区分を視覚的に形象化して言えば、例えば一枚の紙を二つの部分に区切って、一方を不可能性の領域とし、残りの可能性の領域を更に二分して、その一半非現実の領域とし、その残りの現実性の領域をこれまた二分して、その一半を偶然性の領域とし、残りを必然性の領域とする。このような方式になっております。」303-4P
「このような方式での区分整序では、非現実性の領域に不可能性は含まれないことになり、他方で、現実性の領域と可能性の領域の一半が重なってしまいます。そこで、非現実的という概念で不可能性の領域もカヴァーさせ、併せて亦、可能性と現実性が重ならないようにする方式が提唱されることもあります。この方式を採れば、世界が現実界と非現実界とにまず二分され、その非現実界が更に可能界と不可能界とに両分されることになります。これは慥かに一つの行き方です。そして、更に、次のような処理も許されます。先の方式では、現実界の一部と必然界とが重なりましたが、今や現実界外部(且つ非現実界の外部)に必然界を括り出して、偶然界と現実界とをそっくりそのまま重ねてしまうという処置がそれです。(成程、非現実界をも偶然界に含めることが禁ぜられるわけではありませんけれど、尠なくとも不可能界に関しては偶然界に含めるわけにはいきますまい)。」304P
「存在様相の整序区分には、こうして幾つかの方式がありえますが、以下では暫く、第一の方式を採ることにしたいと念います。そのかぎりで、可能界が非現実界と現実界とに分かれ、現実界が偶然界と必然界とに分かれることになります。言い換えれば、可能界の一部として現実界が含まれ、その現実界の一部として必然界が含まれる、というわけです。」304P
「この悟性的区分においては、可能性にプラス・アルファが加わることで必然性になり、その現実性にプラス・アルファが加わることで必然性になる、という了解の構図になっていると申せます。それでは、非現実性や偶然性の場合はどうか? ここでもやはり、可能性や現実性に何かが付け加わるというのでしょうか? どうやら、そうではなさそうです。・・・・・・それなら、可能性と非現実性とは全く同じ概念なのかといえば、そうではなくて、現実性との相関的な対比において非現実性という概念が存立する、という考え方になっているようです。――これはそれなりに筋の通った考え方ですから、批難するには及ばないと思いますし、われわれとしても、或る種の場面では、この悟性的区分に仮託して論考する場合がありえます。」305P
「ところで、悟性的な立場では、「様相」というものを、このように領域的範疇として区分しますけれど、しかし、いかに悟性的な立場といえども、領域的境界を絶対的に固定化してしまうわけではありません。――これは、弁証法にいわゆる相互的転化とはおよそ次元を異にしますが、悟性論理でさえ、必ずしも領域を固定化するわけではないこと、固定化されるのは概念内容(内包的規定)の側にとどまること、このことは銘記を要します――。所与の一定条件下ではおよそ不可能な或る事態が、別の条件が出現した場面では可能になりえますし、逆に可能な事態が将来的には不可能になることもありえます。現実性と非現実性についても同趣です。」305P
まとめと次項の課題提起に入ります。「爰で、しかし、偶然性と必然性の領界となると、様子が変わります。なるほど、前二者と同趣に扱える部面もあるかもしれません。だか、この問題を問い詰めると、悟性論理では一応のところ「存在様相」とその「領域的区分」を云々しておりながら、実際には「偶然性」ということを存在様相としては認めていないことが露呈します。悟性論理にあっては、偶然性の領界とは認識上のものにすぎない所以です。――今はこの点を深追いして、悟性論理では「可能態」もまた存在様相としては容認されていないことをあらためて指摘するには及びません。これを潮に、悟性的な領域区分を去って、弁証法における様相問題の処理に論議を移して行きたいと念います。」305-6P
第五段落――弁証法における様相問題 306-9P
(この項の問題設定) 「弁証法的存在観においては「様相」は領域的範疇ではありません。悟性的な処置に仮託して“領域”的に扱う場合もありえますが、それは弁証法にとって決して本来的な取扱いではないということ、このことを議論の前梯として誌しておきます。」306P
「偖、前便との脈絡からいっても、偶然性と必然性との弁証法的統一という場面から議論を始めるのが便利です。前便での、量子的不確定、ないし、熱力学的揺動の立論を想起していただきたいのですが……。旧来の決定論的な法則観・存在観のもとでは、世界の客観的な在り方は一義必然的であるものと了解され、偶然性とは“必然性の未知”、認識の不十分性・不確定性にすぎないものと見做されてきました。しかるに、量子力学における不確定性原理を持出すまでもなく、自然的過程が一義的に決定されていないという意味での客観的「偶然性」は、まさに自然界そのものの構造的契機なのです。(この「客観的偶然性」の問題については、拙著『事的世界観への前哨』第二部および『科学の危機と認識論』を参照ねがいます)。但し、同時に、この偶然性=非決定性は、得手勝手な放縦ではなく、一定の限界性の埓内に劃定されております。全くの一義的必然でもなければ、全くの放縦的偶然でもなく、まさに確率函数的な両者の統一態、これが自然的現実過程の実態なのです。――なるほど、概念としての必然性、概念としての偶然性は、悟性概念の流儀で決定することができます。そして、数学的必然性のごとき、論理的な一義的必然性を立てることもできます。しかし、現実の対象的存在界の事象について、偶然か必然かという悟性論理の二者択一を執るわけにはいきません。そもそも、必然性や偶然性という概念からして、現実の存在様式の二つの射映をイデアリジーレンすることによって立てられたものであって、必然体や偶然体がレアールに自存するわけではない所以です。」306-7P
「必然性および偶然性ということは、現実的な事象の在り方の二契機であり、その意味で、現実事象の存在様相はさしあたり「必然性と偶然性との統一」として規定されます。」307Pここで「二契機の統一」というところで、最初に読んだ当時、反差別論で「絶対的排除」と「相対的排除」という二契機にリンクしていました。
「前便で想定した意味での「可能態」「現実態」は、いずれも「必然性と偶然性との確率函数的統一態」という構制を呈します。但し、両者のあいだには当然“種差”があるわけで、前者では変項が変項のままであるのに対して、後者では特定値で充当されているという相違があります。そして、この相違は、当体運動の状相的予料(この確率函数の的措定にはいわゆるRückschluß (機能的推理)の場合をも含みます)と、「観測」による現認(波束の収縮)という諸認識論的場面での次元的差異に相応するのです。――こう申しますと、まさにその故こそ、現実態は必然態にほかならないという意見が登場しそうです。「観測」された「現実態」にあっては“波束”が収束して“確定的”な値が現認されるのですから、もはや不確定性・偶然性の余地はなく一義必然的・確然的である云々。この意見には聴くべきものがあることを認めるに吝かではありません。この選で定義する途もありえます。がしかし、観測的現認において変項の値が確定されたとはいっても、量子学的な「不確定性原理」の次元でいえば依然として原理的に不確定性が残っております。また、この現認された状態が、次のステップの観測に対しては一つの可能態なのであり、その脈絡ではあらためて「必然性と偶然性との確率函数的統一態」にほかなりません。これらの点に徴すれば、現実態を以ってそのまま必然態としてしまうのは考えものでしょう。たしかに、可能態と現実態という当座の対比の場面では、或る種の項をとりだしてみれば、変項的不確定が“一義的”な値に“確定”される以上、後者が確然的であるわけですが、しかし、確定的になるのは変項のうちのたかだか若干のものの値であって、総体としてみた場合には必ずしもそうは言えない道理です。或る一定の措定場面に即するとき、可能態と現実態とでは、後者を必然態と呼びたくなる事情があることは否めないにしても、通時的な函数的措定態の機制は一貫しているのですから、原理上は、現実態といえどもやはり「必然性と偶然性との統一態」と呼ばるべき所以です。」307-8P
「可能態の相であれ現実態の相であれ、こうして、事象の存在様相は――右に 量子力学的な場面に定位するかたちで申し述べたことは原理的にはマクロの世界にも妥当すること、このことは前便で丹治論文を援用してミクロとマクロの両断が許されないことを示したところからも御諒解いただけると念うのですが――「必然性と偶然性との確率函数的統一態」であり、視角を変えて言い換えれば、「必然性」と「偶然性」という存在様相は事象的存在様相の弁証法的二契機ということになります。(弁証法的存在観においては――様相はもともと領域的範疇ではないという事情は措くとしても――右の了解からして、必然性という様相は現実性プラス・アルファではありえません)。」308-9P
「弁証法における「様相論」は、迂生のみるところでは、「必然性と偶然性との統一態」としての事象的定位を「可能態」と「現実態」という区別的相関・動態的転化の相で把握する右で立言した構制、これを基軸にして定式化することができます。――因みに、「必然性と偶然性との統一的定在」、ならびに、それの「可能態と現実態」というとき、「非現実性」という様相の不在を見咎められるかもしれませんが、ヘーゲルにあっても「非現実性」は基本的な様相には算入されていないのです――。弁証法の存在論的・認識論的な存在概念の射程を御諒解いただくには、しかし、あらかじめ視界を拡げておく必要がありそうです。」309P
二 「肯定」・「否定」と間主観的妥当性
第一段落――「様相」−認識論的=存在論的規定態 309-11P
「われわれの場合、「様相」というものを判断における単なる主観的な確信度とは考えません。それでは、「存在様相」とは物自体が具えている一種の性質なのでしょうか? そうではありません。存在様相とはいっても、物自体の規定性ではなく、認識論的=存在論的規定態であって、認識から端的に独立なものではありません。この間の事情を明らかにしつつ、様相の何たるかを見定めるには、認識論的な場面を射程に入れる必要があります。」309P
ここから各様相のとらえ返しに入ります。「まず可能性と不可能性という概念の内容から考えて行きましょう。先には「凡そ考えられるかぎりの“世界”は、可能的領界と不可能的領界とにまず二分され……」というところから話を始めましたが、この言い方そのものにどこか可笑(「おか」のルビ)しいところがあるのにお気づきだと思います、「考えられる」つまり「考えることが可能な」世界の一半が「不可能界」とされているのですから……。普通には、しかし、ともあれ「思惟不可能」=不可能界、「思惟可能」=可能界、という仕方で定義されます。可能とは思惟可能な領界、不可能とは思惟不可能な領界というわけです。ここでは、思惟不可能と現に思惟している(それゆえ、思惟可能な!)領界を不可能界と呼んでいることになり、一見矛盾します。だがしかし、このさい「思惟可能」「思惟不可能」という場合の「思惟」が実は二義的なのです。思惟可能というときの思惟は心理的な意識事実の謂いであり、思惟不可能というのは心理的には現に可能でありつつも論理的に不可能の謂いで、この場合の「思惟」は論理的な価値を含意します。/それでは、論理的に思惟不可能とはどういうことなのか? 普通の悟性的立場では、矛盾律を絶対化しますので、矛盾律に牴触する場合を論理的に不可能(思惟不可能)と規定します。心理的事実としては、そういう思惟も可能ですが、いや、現に遂行されるのですが、論理的にはそれは不可能と謂うわけです。――弁証法の場合、矛盾律を絶対化しませんので、この流儀でそのまま「可能」「不可能」を規定するわけにはいきません。が、もう暫く、悟性論理の線で議論を進めておきましょう――。矛盾律に牴触する=不可能、矛盾律に牴触しない=可能、というこの規定においては、可能・不可能は事実問題ではなく、そう思惟して差支えない(may 宜しい=許容)、そう思惟してはいけない(must notべからず=禁止)という当為(「ゾレン」のルビ)的な価値問題になっている次第です。/茲で顧みますと、先刻は初等英文法を持ち出して、「必然」(must)の否定形はcan not(筈がない)であって、禁止(must not)でない旨を云々しましたけれど、意外なところでcan not=must notになっていることを思い知らされます。」309-11P
「翻って「必然性」について考えましょう。これまた「思惟必然」というのが悟性的立場での規定です。別様に思惟することも心理的には現に不可能ではないのですが、論理的には、つまり、矛盾律を守るかぎり、それの反対を思惟することは不可能(実はmust not)という謂いです。尤も、論者たちは、この意味での「思惟必然」と客観的必然とをどこかで重ね合わせて、単なる「思惟上の必然」という以上の「存在上の必然」を立てるのですが、しかし、「必然性」という概念を概念として規定する場面では「それの反対を思惟することが矛盾律に則るかぎり許されない」ということに定位します。」311P
「現実性についていえば、結局のところ、感性的経験による認証という事実問題に定位して規定されるのが普通です。」311P
「こうして、「現実性−非現実性」はひとまず措くかぎり「様相」というのは判断における主観的な確信度(つまり、心理的事実次元での確信度)に応ずることが眼目ではなく、判断の論理的価値に懸かるのが実情です。そして、この論理的価値は、所与の事態に関する判断の禁止・当為に依準します。このさい、当為的必然性と禁止的不可能性が基軸になることは見易いところです。」311P
第二段落――判断における「肯定・否定」の問題性 311-4P
(この項の問題設定)「われわれは、いまや、「様相」概念を討究する論脈における「当為的必然性」と「禁止的不可能性」という問題に逢着した次第でして、これが判断における「否定・肯定」の問題性と不可分であることは絮言するまでもありますまい。」311P
「「肯定」「否定」の論究は何分にも大問題ですが、茲で前々便での所論を想い出して頂けると、行論が幾分かは容易になると思います。――前々便では「判断」というものを主語表象と述語表象との結合や分離とみなす俗見を卻け、また、単なる「同轄判断」や「異別判断」と「肯定判断」「否定判断」とは次元が異なる旨を誌しておきました。そして、「命名的結合態」の現前化はそれ自身ではまだ命名判断ですらなく、この「施詞措定」の対自己的帰属性が覚識され、且つ、当の命名的措定の対他者的妥当性・非妥当性が覚識化されるとき、この条件を充たしてはじめて「判断」になることを述べ、@「施詞措定」という命名的結合それ自身は、肯定・否定にまだニュートラルな前件であること、A当該「施詞措定」の対自己的かつ対他者的な妥当性が覚識されるときが「肯定」であること、B「施詞措定」の対他者的帰属性が意識されつつも対自己的非妥当性(拒斥)が覚識されるときが「否定」であること――或る他者(ダス・マン的な相でのヒトをも含む)による施詞的な提題に対する不承認的拒斥が「否定」――このことまで綴っておきました。」312P
「判断における「肯定」「否定」ということは、単なる「同轄」や「異別」とは事件を異にし、対他者的・対自己的な妥当性の場面で成立するものであって、「コレハSナリ」ひいては「SハPナリ」という施詞措定態に対する間主観的な承認・拒斥の場で成立するものであるということ、前々便でのこの立言を受け継ぐかたちで議論を進めることにいたします。」312P
「さて、ここでは、学史的回顧を試みる余裕はありませんが、肯定判断・否定判断をめぐる問題性の一端をあらかじめ確認しておいたほうが行論上便利かと思います。/学兄は「肯定判断」と「否定判断」とは同格だとお考えでしょうか、それとも、後者は派生的なものにすぎないとお考えでしょうか? 日本語の表現では「SハPである」と「SハPでない」とが――「である」「でない」という――同位・同格的な形で対立することもあり、日本人の日常的感覚では、肯定判断と否定判断とが同格に扱われているように見受けます。ところが、ヨーロッパ語では、否定形は「肯定・プラス否定辞」のかたちになることもあって、ヨーロッパ人の意識では、学者たちの場合をも含めて、とかく利用者は同格ではないものとされがちのようです。彼我の相違が「イエス」「ノー」の使い方の違いともなって現われるわけです。――判断論ともなれば、勿論、ヨーロッパの学者でも、肯否の同格説を採るものもあり、そこで、まずは「肯定」と「否定」とが同位・同格か否かが係争になります。」312-3P
「発生論的にみるとき――単なる「同轄判断」や「異別判断」とは区別される――本格的な肯定判断・否定判断の場合、肯定判断のほうが先行的に形成されるというのが実情かもしれません。しかし、このことは必ずしも同格性を否定する所以になりません。迂生としては肯定判断と否定判断とを論理上は同格に扱う立場を採りたいと念います。但し、言語的に表現すれば「判断」と同じ文章表現になるので話が厄介ですが、前々便で申した「命名的結合態」「施詞措定態」たる「コレハSナリ」「SハPナリ」という判断与件についていえば、これは原基的には“肯定”であると考えます。――「原基的には」という断り書きをつけるのは、派生的には“否定”形の「コレハSナラズ」「SハPナラズ」という「施詞措定態」も成立しうるからですが、暫くのあいだ原基的な場面に定位して議論を進めます――。」313P
「判断にさいしては、主語と述語とを“結合”“分離”する営為が眼目なのではなく、――前々便でも申しました通り、そして詳しくは拙著『世界の共同主観的存在構造』所収の「判断の認識論的基礎構造」で論じております通り、――それはたかだか前段的な過程なのであって、判断として判断措定においては“判断与件”たる「施詞措定態」(「SハP」)に対して、肯定的承認または否定的拒斥がおこなわれます。ここにおいて、肯定判断または否定判断が相岐れるのであって、判断与件たる施詞措定態は、原基的には「SハP(デアル)」という“肯定”形でありつつも、それはまだ積極的な真の「肯定」判断ではなく、賛否に関してまだニュートラルです。」313-4P
「われわれとしては、こうして、ニュートラルな「施詞措定態」なる判断与件を認めて、この与件に対する肯定的承認または否定的拒斥という同位的対立性の分出を云々する次第ですが、この構図における二段階的契機の各々について敷衍しながら議論を運ぶことにしましょう。」314Pと次の項に入ります。
第三段落――肯定的承認・否定的拒斥を“判断作用”の側から見る 314-7P
(この項の問題設定)「順序を紊(「みだ」のルビ)すかのようですが、まずは、肯定的承認・否定的拒斥という所謂“判断作用”の側から見ておきます。」314P
「われわれは、判断論上のいわゆる「態度決定説」の立場をそのまま採る者ではありませんけれども、肯定・否定が一種の態度決定を含むことはたしかです。――或る種の論者は、判断における承認・拒斥の“心的作用”ないし“態度”という能作を極めて広い意味にとり、この能作そのものは動物における判断以前的な“態度決定”とも共通だとみなします。つまり、動物ですら、好感的に受容したり、嫌悪的に拒絶反応を示したりしますが、それと共通な能作だと謂うのです。判断における肯定的承認・否定的 拒斥の能作が、好感・嫌悪や愛・憎の能作と共通かどうか、一種独特の能作ではないか、これを心理学的な次元で分析してみてもあまり意味があるとは思えません。という以前に、嫌悪しつつも肯定し、好感しつつも否定するといった場合が現にあるのですから、 肯定・否定ということを単なる心情的・情意的な能作とみなせるかどうか、いささか疑問なしとしません。判断にさいしての心理的な過程において、一定の情意的な意識作用や意識状態が見出せることは確かだとしても、そして、多くの場合、肯定と好感、否定と嫌悪が照応するとしても、それ判断にとって本質的な契機でもないとも考えられます。しかしともあれ、判断にさいして、一種の決意的な態度決定がおこなわれるということまでは内省的に認められます。」314-5P
「判断におけるこの決意的な態度決定は、厭々(「いやいや」のルビ)ながら肯定したり、悦(「よろこ」のルビ)んで否定したり、という場合があることに徴すれば、単純な愛好や嫌悪とは次元を異にするはずです。それでは、判断的決意、ないし、判断的決定感情は、それ自身としては肯定の場合も否定の場合も同質であって、判断成態における「主語−述語」関係が肯定形であるか否定形であるかに応じて全体としての判断の質(肯定・否定)が岐れるにすぎないのでしょうか? それとも、判断的決意という能作、ないし、判断的決意感情そのものに肯定的な質のものと否定的な質のものとの、異質性があるのでしょうか? 判断作用の能作そのものは肯定の場合も否定の場合も同質であるのか、それとも、判断の能作そのものが肯定の場合と否定の場合とでは異質であるのか、というこの二者択一に答えるためには、先決問題が要求されます。/ここでの先決問題というのは――あの「施詞措定態」をとりあえず“肯定”形の原基形態で扱っている当座の論脈から一時的に脱線することを余儀なくさせるのですが――、判断の「肯定」・「否定」という“質”をどの部面で規定するのかという問題です。これは日本人の日常意識とヨーロッパ人の日常意識とでは、奇妙に相岐れかねません。話を簡単にするために、例に即しましょう。」315Pとして
「「@「鯨ハ魚デナイカ?」と問われて、「マサニシカリ! 鯨は魚でない」と答えるさいに、この判断は肯定(マサニシカリ)なのか、それとも否定(魚ではない)なのか。/A 「人は動物デナイノカ?」「イナ! 人は動物である」、これは否定(イナ)なのか、それとも肯定(動物である)なのか。/B「鯨ハ魚デアルカ?」「イナ! 鯨は魚でない」。/C「人ハ動物デアルカ?」「シカリ! 人は動物である」。」316Pという例で、ヨーロッパ語と日本語の「イエス・ノー」の使い方の違いを展開したところで、「ヨーロッパの理論では、判断における態度決定というとき、判断与件に対する(ないし、所与の主語・述語結合関係に対する)態度とみなしがちであり、他者の主張への賛否の態度決定という間主観的な事情を看過しがちです。それにともなって、“能作”の質をも、対他者的関係に即して規定するのではなく、もっぱら心的作用の内在的性質とみなす傾向にとらわれております。――その点、われわれ日本人としては、判断における肯定的承認・否定的 拒斥 という“態度決定”を、まずはナチュラルに、間主観的な対他者的「同意・不同意」に即して想定できる次第です。」317P
この項の最後のまとめと次へ繋げる文です。「われわれは、ここに、判断の肯定・否定という“質”的区別を――所与の「「施詞的措定態」に関する対他者的・対自己的な間主観的妥当性の覚識の場面に定位しつつ――、さしあたり、判断与件をめぐる「シカリ!」「イナ!」の同意・不同意に基づける所以となりますが、以上の行文では、まだ、同意・不同意という態度決定上の質規定と判断成態内部の肯定形・否定形の対立措定との関係にふれておりませんし、また、日本語とヨーロッパ語との表層的差異の根底にある同一構造を剔抉(てっけつ)してもおりません。今や、この未決問題を処遇するためにも、先に登録しておいたもう一つの論件に移る段取りです。それは右の行論中、前提をなしている「施詞措定態」の間主観的所与性とその内実にほかなりません。」317P
第四段落――「施詞的措定態」の間主観的所与性とその内実 317-20P
「判断において、承認ないし拒斥の直接的対象になる「施詞措定態」と謂うのは、原初的には、知覚的与件と言語的(音声)記号とを命名的に“結合”した成態であって、原基的なそれは、標記的には「(コレハ)A」という形になります。(このさい、Aは、品詞的には名詞とはかぎらず、形容詞や動詞でもあり得ますが、以下では特に必要のない限り名詞的に標記しましょう)。この命名的結合態は、発生論的には、当人が創造的・自発的に形成するのではなく、他人によって提示的に与えられます。なるほど、歴史上の発生的場面や新規的命名の場面にかぎらず、日常的にもやがて当人自身が“内発的に”当の命名的結合を遂行する場面が形成されますけれど、ここではひとまず幼児期的体験の場で御諒解いただけると便利です。」317-8P
「偖、所与の命名判断は、発話者自身にとっては単なる命名・指称ではなく、既にして判断の表明である場合もありえますが、幼児的聴取者たる当人にとっては、さしあたり、与件(コレ)と名称との“結合”態の域を出ません。・・・・・・当該の命名的結合態は、しかも、原初的には、特定の誰彼に帰属するというより、むしろ、人称的帰属“以前”の相で、いわば“非”人称的・“前”人称的な相で覚識されます。つまり、「コレハA」という命名的結合態は、発話者たる相手に帰属するとも、聴取者たる自分に帰属するとも明識されることなく、謂うなれば与件的な事態として覚識されるに止まっております。」318P
「このような命名的結合態の覚識が即自的な知覚的分節体制の分化や綜合を促しつつ進捗していき、多角的分節態の各々(まだ全てとは申しません)が謂わば“名称”(形容詞や動詞の場合をも含む)を“貼付”されたかのごとき状相になります。尤も“貼付”という比喩は不適当かもしれません。知覚的与件と言語的音声形象とが重なって見えるわけではありませんので……。要は、知覚的与件と言語形象との“条件反射的結合”なのですが、ともあれ、この態勢が、本人自身はまだ発語できない場面でも、既に相当程度まで確立するように見受けます。すなわち、自分では話せないけれども、聞いては判る状態、発語できる語彙(「ごい」のルビ)は貧困でも、理解できる語彙はかなり豊富という状態がいちはやく成立します。そしてやがて、所与の知覚的与件に対してみずから命名的発話をおこなうこと、および、所与の言語的形象を機縁にしてそれ以上の或る一定(所定)の対象を志向することが、殆んど“自動的”に“生起”するようになります。」318-9P
「この態勢が或る程度まで形成され始めた局面を迎えますと、誰かが与件a(Aと呼ばれるべき対象)を指して「コレハB」と呼称すると、それと対立的に「コレハA」という命名的結合態が意識される場合を生じます。また、自分で(誤って) aを「コレハB」と呼称して、誰かから「コレハA」という反対定立を受け、こうして、「コレハA」と「コレハB」という両つの命名的結合態が併立的に覚識されるという事態を体験します。――この対立的区別の場で、命名的結合態の人称的帰属性が「対他者」「対自己」的に覚識されるようになります。」319P
「先には、「施詞措定態」「命名的結合態」は原初的には“前”人称帰属的である旨を特記しましたが、その原初的場面でも、「A」という音声の音源的発話者は覚知されております。その意味で、音声「A」そのものは、初めから他者帰属的と言うこともできますが、しかし、その場面での“他者”は――他の論脈では単なる音源以上の存在として既に意識されているにしても――当座の論脈では単なる“音源”であり、いわば“場所”的に定位されているにすぎず、そのかぎりでは音を発する物体と選ぶところがありません。その場面では「コレハA」という覚識的事態そのものはまだ他者に帰属されるわけでなく、前人称的です。/いまや、しかし、与件aを指しながら「(コレハ)B」と他者が発話し、「(コレハ)A」と自己が発話するという「異」状な事態、ないしはまた、自己が「(コレハ)B」と発話し、他者が「(コレハ)A」と発話するという「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的「区別」相が覚識されます。/ここにおいて、もはや単なる音声「A」「B」の音源的帰属の域を超えて、「コレハA」「コレハB」という併立的に覚識される二つの命名的結合態が「彼−此」的な対向的区別性の相で「他者」と「自己」とに帰属されるに及びます。こうして、対他者的に帰属する命名的結合態と対自己的に帰属する命名的結合態との分立性において「命名的結合態」の「人称的帰属」化が成立する次第です。」320P
次節の課題の提示です。「今や、以上の行文でしつらえた論材を踏まえることによって、「判断」の肯定性・否定性の存立実態を見据えうる段取りです。」320P
三 「判断措定」の命題成態への内自化
第一段落――「肯定的承認・否定的拒斥」の存立機制 320-4P
(この項の問題設定)「爰では、懸案の「肯定的承認・否定的拒斥」の存立機制が直接的な主題になりますが、議論の見通しをよくする含みで、若干の先廻りをして、あらかじめ路線を限定するところから始めます。」320P
「命名的結合態の対他者的・対自己的な帰属化が反復的に覚識される過程を通じて、単なるゲシュタルト的次元での「再認的同一」や「較認的同一」の感知という以上の「同一性」が意識されるようになり名辞(呼称)の統一性が媒介環になって、本質的同一性意識が形成されたりもします。また、知覚的与件aとも音声的形象「A」とも区別され、それ以上の或るもの etwas Mehrとして覚識されるところの「述定的意味」が形成されるようになり、「コレハA」という立言が単なる“命名的結合”という以上の「述定的結合」の意義を帯びるようになります。それにともなって、「コレハSデアル」ひいては「S(タルコレ)ハPデアル」という施詞措定態が「陳述的事態」の次元へと高まります。」320-1P
(言語の機能と措定態)「周到に論じる差異には「判断成態」の内実に関わる右のごとき諸点に立入り言語の「指示・述定・表出・喚起」という諸機能との相互媒介性を論考する必要があるのですが(この件については『もの・こと・ことば』所収の「意味の存立と認識成態」を参看ねがえれば幸甚です)、ここでは判断における「肯定」「否定」ということが主題ですので、論述を敢て飛躍させて本筋を追いたいと念います。謂うところの「施詞措定態」は単なる命名的結合態の域に止まるものではないこと、「SハPデアル」という措定態が「指示・述定」の機能を契機とする「陳述的措定態」の次元に高まっている場面もあること、このことを先取するかたちで議論を進めます。」321P
(“脱”人称化)「このさい、先廻りしたついでに、帰属者の側についても先廻りをして若干申しておきますと、施詞的措定態は、フェア・ウンスには、その都度すでに誰かに帰属するとしても、当事主体において(フェア・エスに)そのことが不断に意識されているわけではありません。自他の対立性において人称的帰属性がいったん意識されたとしても、あらためて“脱”人称化が生じえます。但し、これは発生論的に初期の“前”人称的な状況への単純な復帰ではなく、帰属される“人称的”主体の“脱”個性化の過程に負うものです。「このSハP」といった次元にせよ、“同じ” 施詞措定が、さまざまな機会に、いろいろな人々によって、誰彼の別なく斉しく発話・提示される体験を通じて、それが誰彼の別なき「ヒト」に帰属されるようになります。このダス・マンともいうべきヒト、つまり、特定の老人でも若人でも、男性でも女性でもない――それでいて、誰ででもありうる“函数的な” ――ヒトは、後述の通り、或る種のコンテクストではイデアリジーレンされて当該言語の「言語主体一般」、ひいては、「判断主観一般」とでもいった相で覚識されるに至ります。が、しかし、当座の場面では、不定人称的なヒトという漠然たるetwerになり、「ヒトは『SハPデアル』と言う」といっても、「ヒトは……言う」の部分が意識から脱落し易く、「SハPデアル」という施詞措定態だけが“脱”人称的に現前することになる次第です。成人における判断的態度決定の直接的与件となるのは、多くの場合、このようにして脱人称化された施詞措定態にほかならないのですが、ここでひとまず「人称的帰属化」が明識される場面に遡ることにします。」321-2P
(人称的帰属化)「偖、嚮に、「コレハA」「コレハB」という二つの施詞措定態が他者と自己とに、「彼−此」的な区別相で帰属化される状況を誌しましたが、この対他・対自の対立性と異和感は、それ自身ではまだ「不同意」の意識ではなく、況んや、そのままで判断的否定なのではありません。・・・幼児の体験・・・対他者的に帰属する「コレハB」に対して、「コレハA」という措定態を対自己的に帰属せしめつつ、異和感を以って「コレハB」という提題に拒絶的反応を呈すること、それが「不同意」であり、このような構造的態勢の契機となっている「コレハB」という提題に対する拒絶的反応、それが「否定」的拒斥の原初的ケースだと思います。ここには、フェア・ウンスに分析していえば、与件aをBと呼ぶ他者の立言を矯正的に置換して「コレハA」と呼ぶべきことの意識が見出せます。そのかぎりで、「コレハB」という提題に対する否定的拒斥は、「コレハBデナクAダ」というnot……butの意味構造を即自的に含意していると言えます。/このようにして、所与の提題に対する自分の側からの否定的拒斥が対自的に意識されるようになりますと、自分の命名的措定「コレハB」に対して他者が「コレハA」と発話する場面においては、他者の側でも自分の側の提題に対して否定的拒斥をおこなっていることを了解できるようになります。ここにおいて「否定」意識(否定的陳述的態)が対他者的・対自己的に帰属されるに及びます。」322-3P
(同感・判断的同意)「ところで、他者も「コレハA」と発言し、自分も「コレハA」と発話(内語にとどまっても可)する場合、二つの命名的措定態は必ずしも他者と自己とに明確な形で人称的に帰属しない傾向があり、また、その二つの措定態が(特に自分の側は内語にとどまった場合)二つの措定態併立というよりも、むしろ融一的な相でしか明識されない傾向があります。特に、当の命名的結合が鞏固に既成化し、ルーティーン化している場合には、それが顕著にみられます。――自他ともに、「コレハA」と呼称するようなルーティーンな場合であっても、フェア・ウンスには判断的同意がおこなわれていると呼べるケースもありますし、そのことは当人自身も反省的に対自化できるのですが、しかしともあれ、肯定的承認ということが当事主体にとって自覚的に明識化されるのは、原初的には稍々屈折した場面においてだと考えられます――。或る与件についてそれを何と呼称するのだったか忘れてしまいなかなか想い出せない(ないしは逆に、或る音声記号は憶えているのだが、それがどのような対象を指すのか想い出せない)といった場面において、他者が「コレハAダ」(ないしは「Aトハコレダ」)と発話するのを効いて「ソウダ!」と同感(想起的共鳴)の意識を覚識されるようなケース、それが所与の「施詞措定態」に対する「同意」「承認的肯定」の原初的形態ではないかと思われます。――自分なりの一応の思念を懐いておりながらも、自信がない場面で、他者による立言によって「我が意を得る」ようなケース。これも機制上は同意の面をもちますが、しかし、これは遙かに高次の階梯に属します。――そのほか、例えば、眼前に二人の人物がいて、その一人が与件aを指して「コレハB」と発話したのに対して、もう一人が「コレハAダ」と発言するような場面で、後者に帰属する「コレハAダ」という措定態に「同感」(共鳴)するようなケースも、判断的同意の原初的な次元に属すると考えられます。」323-4P
(この説のまとめ)「さしあたり、この程度の次元にとどまるにせよ、施詞措定態の対他者的・対自己的な共同的帰属性――「彼−此」的区別の上に立つ同一性――が覚識される域に達し、所与の提題に対する肯定的承認が対自化されるようになりますと、自他の措定的発話が合致する場合、自分の側での「陳述的措定」を他者の側でも肯定的に承認しているものと了解(対他者的に帰属化)できる階梯を迎えます。こうして、先述の「否定」的陳述態と並んで、「肯定」的意識(肯定的陳述態)が対自己的・対他者的に帰属される所以となります。」324P
第二段落―「指示―述定の措定態」(叙示態)の「内自化」される機制 325-8P
(前節の押さえ)「甚だ粗略ながらも右に誌したような経緯を介して、肯定的ならびに否定的な陳述的表出が対他者的・対自己的にまずは帰属されるものと迂生は考えます。」325P
(この項の問題設定)「ところで、この陳述的(表出)次元での肯定性・否定性という間主観的な関係場での態度の執り方が、いわば即自化されて、「指示−述定の措定態」(叙示態)の内部的契機の相で「内自化」される機制がはたらきます。」325P
「この間の事情を先に挙げた“例”に立ち戻って考えてみましょう。二人の人物が眼前にいて、一方が「コレハB」と言い、他方が「コレハA」と言うのを聞いて、自分としては後者に共鳴する場面では、前者の「コレハBデアル」に提題について「不同意」「拒斥的否定」の態度をとり、後者の「コレハAデアル」という提題に対して「同意」「承認的肯定」の態度をとるわけですが、ここで、今や「否定」の態度に応じる言語的表現が成立しているものとします。(・・・・・・少なくとも発生論的にはあくまで即自的な“肯定形”のほうが原基的だと思います。けだし、先般来「施詞措定態」「命名的結合」の原基的形態として“肯定形”を立てた所以です)。そこで、後者が、「否、コレハBデナイ」と発話し、自分もそれに共鳴したとしますと、「コレハBデナイコト」へのこの肯定的賛同は「コレハ非Bデアル」ことへの肯定的賛同と同値になります。こうして、他者に帰属する「コレハB」デナイへの肯定的同意は、「コレハBデナイ」デアルへの肯定的同意、つまり「コレハ非B」デアルへの同意と同値になることから、「Bデナイ」が言語表現上「非B(デアル)」で置換されうることになり、現にそれが遂行されます。そして、この「非」「不」という元来的には否定的陳述に照応した言語表現が、「非常に」「不満」「ウーマン」(wo-man=not man=マンに非ず(ママ・・・差別の指摘が必要))といった例を多々挙げることが出来るように、日常的な意識では否定性の覚識を喪失させ、その点では“肯定的”表現と選ぶところがなくなる始末です。これに照応するかのように、「コレハ非B(デアル)」と同値の「コレハBデナイ」という措定態が、「コレハBデアル」という“肯定形”のそれと同位的な「施詞措定態」(叙示態)の相で現前するようになります。こうして、元来は陳述的表出の次元に属した肯定性・否定性が「叙示態」の内部における肯定的述定・否定的述定の対立的形式として(承認ないし拒斥という強烈な態度決定性の意識を希薄化せしめつつ)“内自的契機”に繰り込まれる次第です。」325-6Pここで注意しなければならないのは、異化−同一化の問題と肯定−否定の問題をごっちゃにとらえることで、異化ということを否定としてとらえる錯認から、ここでの論議から肯定が否定よりも先行するということを、同一化が異化よりも先行するようにとらえてしまうと、それは錯認です。
「今や、このようにして、「施詞措定態」には“肯定形”のものも“否定形”のものも在ることになり、先に“肯定形”のそれに即して述べたのと同趣的に“否定形”の施詞措定態「コレハ非A」「コレハAデナイ」に関して「マサニシカリ! コレハAデナイ」という肯定的同意の場合、および、「断ジテイナ! コレハAデアル」という否定的不同意の場合が相岐れうる次序となります。」326P
「併せて亦、施詞的措定態の帰属者が「不定人称化」(ヒト化)を被り、措定態の人称的帰属性の覚識が薄弱化していく傾動を生ずることは上述しておいた通りです。そのため、判断的態度決定(承認・拒斥)の直接的与件たる「施詞措定態」は――“肯定形”のものであれ“否定形”のものであれ――“脱”人称化されて、自存的な存立態であるかのように錯認されたり、その反動として、それがとりあえず自己の意識内部に帰属化されることにおいて、判断与件たる「施詞措定態」が単なる“表象結合態”にすぎないかのように錯認されたり、これら両極的な謬見の機縁を与えます。/ここでは、しかし、これらの謬見の批判に立ち入る意趣はありません。唯、“脱”人称化された相での「施詞措定態」、つまり、即自的には「不定人称者帰属」の相での「叙示態」が、マイノングの言う「仮定」(Annahme)に相当するものであること、そして、これを基礎にして、「疑問」「推測」「仮想」などが「判断」と分立するということ、この点を傍白しておきたいと思います。」326-7P
「この場を藉りて、ついでに一言しておけば、肯定・否定をめぐるヨーロッパ語と日本語での表層的な“相違”は、行文からすでに察知していただいたことかと念いますが、深層的な構造に即すれば、なんら本質的な差異ではありません。いずれにおいても、原基的には陳述的表出に関する同意・不同意によって肯定・否定が岐れるのであり、ただ、述定的な場面にそれを“内自化”する局面で彼我のあいだに差異が生ずるにすぎません。」327P
「ところで、判断としての判断においては、――形式的には同様に“肯定”“否定”の陳述的表出を含む「疑問」「推測」「仮想」などとは異なって――肯定ないし否定は、積極的な同意ないし不同意の態度決定であるだけでなく、真理性の要求を伴い、いわゆる「判断的必然性」の覚識を伴います。そして、この判断必然性は、述定の部面では「そうあらざるをえない」(そうでしかありえない)というmüssenつまり、存在上の必然性、ないしは、論理的一義性(排他的必然性)の契機を孕むものとしても、肯定的承認・否定的 拒斥 の部面での必然性は「当為(「ゾレン」のルビ)的必然性」であり、「それに対する反対の禁止」の覚識に支えられております。」327-8P
第三段落――肯定・否定と「様相」がリンクする場面 328-9P
「今や、こうして、われわれはあらためて、肯定・否定と「様相」がリンクする場面に連れ戻されている次第です。しかも、ここでは「陳述的措定」(態度決定)の部面での当為的必然性だけでなく、「述定的措定」(述語づけ)の部面での必然性も絡んでおり、後者は更に「事実上の必然性」(これの一部として「因果必然性」も含まれる)と並んで「論理上の必然性」(これは「規範的拘束性」の一部に属する)を孕んでいるわけですが、これら両部面での必然性が密接な相互媒介相にあることは先にその一端をみておいた“内自化”の機制からも彰らかです。――右にはとりあえず「必然性」という様相だけに即して申しましたが、実を言えば、判断的態度決定には肯定的承認・否定的拒斥と並んで「エポケー」の場合があり、肯定とも否定とも一義的に決することなく、しかも両主張を可能的に許容する態度がありうるわけで、ここの「可能性」という様相も介在します。そして、これが “内自化”されて「述定的措定」の様相を規定する所以となり、「叙示態」(判断的態度決定の直接的与件)そのものが様相的規定を帯びた相で現前する事態を生じます。爰において「疑問」「推測」「仮想」の基になるObjektiv(マイノングが謂う意味での)が様相的に相岐れうることになります。――この機制に鑑みるとき、「叙示態」に“内自化”された様相規定は“客観的な”存在様相として現われ、陳述的判断措定の場での様相が“主観的な”認識様相として覚識される次第ですが、判断の「真理性」「客観妥当性」が認められる場面を俟つまでもなく、謂うところの「存在様相」と「認識様相」とが存在論的・認識論的な既定的場面でリンクすることは、これまた、われわれにとっては既に彰らかなところです。」328-9P
(これからの課題)「われわれとしては、この間の次第を解明しつつ、「様相」を認識論的・存在論的に定礎する課題を負う次第ですが、この作業は、いわゆる「因果的必然性」「論理的必然性」「当為的必然性」の内面的な相互媒介関係を視軸に据えて展開するのが好便のように思います。/次箋では、それゆえ、判断必然的な推論的連鎖による学的展開の機制という論脈に繰り込んで、本箋で対自化した構案に応えて行く心算です。」329P
2024年06月01日
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(5)
たわしの読書メモ・・ブログ660[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(5)
第九信「変化」の記述と当体措定
(前便のまとめ)「前便では、「判断」ないしは「命題」における「主辞−賓辞」の対象的存在関係を問題にし、伝統的な「実体−属性」の論理とリンクさせておきました。」253P
(本便の課題)「本箋では、前便での作業の結果として対自的に課せられる所以となった「函数的連関態の当体的自己同一性」の“権利づけ”の問題、ひいては、弁証法における「変化の当体」の問題に立ち入ってみる段取りです/実体主義的発想のもとでは「自己同一的」な「当体」の存在ということが先取的に“確保”される論理構制になっておりますが、実体主義的存在観を卻ける場合、「当体」の措定とそれの“自己同一性”を如何にして保証し、如何なる限りでその権利を認めるかこれが別途の論脈から課題として顕在化して参ります。この問題は「個体」なるものの存在論的・認識論的な定位とも関連することになります。――嘗って中世には、そして実は近代でも、「普遍」たる「類」や「種」の存在性が大問題であり、いわゆる「普遍論争」が囂(「かまび」のルビ)すしく展開されましたが、昨今では、却って「個体」の存在性が大問題になり、いわば「個体論争」が持上がっているとも申せます。がしかし、爰では謂う所の「個体論争」の紹介には立入るに及ばないと思います。と申すのも、アングロ・サクソン系のところで出来(「しゅったい」のルビ)している当の論争は、「存在様相」といった次元をようやく勘案するようになっておりますものの、時空的座標系と存在体とをはじめから分立させ、能知的主観と所知的対象とを素朴に分断するといった旧套的な構図の埓をいくばくも出ない準位に止っておりますので、所詮は余り生産的ではないと考えてのことです。」253-4P
一 実体的個体の物理的「没自己同一性」
第五便から引き継ぐ課題としてのまとめ「御記憶いただいているものと念いますが、第五便で「変化」をめぐるプロブレマティックに関説した折に次のようなことを誌しておきました。/弁証法は「変化の論理」であるのに対して、形式論理、従って亦、演繹的体系では変化ということを説けない旨を云々するむきがありますけれども、その差異、もし人が、形式論理学では要素的概念や要素的関係を一義固定的に規定するということから、そのことを理由にして直ちに「変化を記述できない」だと決めつけているのだとしたら、それは却って笑止な短見と言わざるを得ません。成素そのものは普遍であっても、それを組み合わせた成態は変化しうるのであり、それなりの仕方で対象的変化を式述することができます。それどころか、事象の変化につれて「概念のほうも変わってしまったのでは却って変化を記述できない」という逆捩(「さかねじ」のルビ)さえ覚悟しなければなりますまい。/「変化の記述」なるものは、実際問題としては、各時点・各時点の状態(そのかぎりでは“静止的”な図柄)を描写するわけで、描写用の概念が一義確定的であることは妨げにならない。ただ、前の状態と変化後の状態とでは別々の概念を使って描写するだけのことで、要素的概念に対応する要素的与件が変化する場合といえども、与件に応じて使用する概念を取り替えれば宜しい。」254-5P
第一段落――「変化の当体−“実体”」のアポリア 255-6P
「普通には、右のように認められていると思います。がしかし、これが“変化の記述”と認められるにさいしては、或ることが暗黙の前提になっていることを見逃せません。それは、描写されている幾つかの状態、すなわち、別々の概念を用いながら記述されている諸状景が、一箇同一の或るもの(それが変化するところの当体)の継時的な諸状態だという前提的了解です。さもなければ、それらの諸記述は、別々のものに関する描写になってしまい、「変化の」記述とは認められない道理です。自己同一的な当体、つまり、記述の主題的対象(主語で指示される対象)たる或る同一なものが、或る時には状態A、別の時には状態Bにあると言うとき、ここに謂う「変化の当体」たる或るものは一体何でしょう?/伝統的な思念では、この「変化の当体」という論脈からも「実体」なるものが要請された次第でした。この思念の論脈では、当の自己同一的持続体、それが「実体」にほかならないとされます。論者たちは「実体が存在しなければ、そもそも変化ということが成立し得ない」と主張します。われわれに言わせれば、しかし、この論脈で要請される“実体”なるものは、さしあたり「変化」という概念を論理的に成立せしめるための必要条件にすぎず、そのようなものが実在するのか、存在するとしてもどのような存在者であるのか、この件はまだポジティヴには未決定です。それが「属性」を担う「基体」としての実体と同定(「アイデンティファイ」のルビ)されるのが歴史的に通例であったとしても、そこには必ずしも一義的な必然性があるわけではありません。「変化の当体」なるものは、勿論、いわゆる実体主義を卻ける見地においても、しかるべく措定することが可能です。」255-6P
「ところで、「変化の当体」は、実質的にそれが何であれ、変化の当体である以上は「同じもの」でなければなりませんが、且つ同時に、それが変化したのである以上は、もはや「おなじでないもの」でなければなりません。当の或るものが「同じであり且つ同じでない」という矛盾、これは「変化の当体」という概念、従ってまた「変化」という概念が必然的に孕む矛盾です。この矛盾を姑息(「こそく」のルビ) (ママ)に逃れようとして、「同じでない」だけを残したのでは、別々のものの状景の記述ではありえても、変化とは言えなくなってしまいますし、逆に、「同じである」だけを残しても無変化になってしまいます。けだし、「変化」とか「運動」とかいうことがら自身が「矛盾」構造を呈すると言われる所以です。――形式論理学における「矛盾律」を墨守するかぎり、「変化」を概念的に把握(「ベグラィフェン」のルビ)することができないと言われるのは、このことに即しての話なのです――。」256P
第二段落――“恒同的実体”の三様的とらえ方 256-60P
「「変化」という過程的事象の呈するこの論理的矛盾構造を解消しようとして、事象を“実相”と“仮相”とに両断し、当体の「同じである」と「同じでない」とを、それぞれに配位しようという試みがしかるべくして歴史に登場しました。これは詮(「つ」のルビ)まるところ、変化していうことを“仮相”とみなし、“実相”界は無変化であり、恒常的に同一であると主張する結果になります。――実相界と仮相界というほど厳しく分断しないまでも、実有的な存在上と偶有的存在という仕方で、種別的ないし程度的な区別を設けることで以て、実有的な存在上の無変化と偶有的存在上の変化とを両立させようとする試みも登場しました。「実体=無変化」、「属性=変化」というポピュラーな実体主義的発想がこれに属します。/いずれにしても、しかし、たとえ仮現的とみなすにせよ、「変化」という事象を一応は認めるかぎり、「同じであり且つ同じでない」の二契機、つまり、恒同的なものと変易的なものとを区別して、これらの両契機ないし両成素の複合性に拠って「変化」を説明することが図られる次序となります。」256-7P
「思想史的に顧みれば、「形相」と「質料」の二契機が想起されます。これら両契機は、同位・同格的に扱われる場合も、一方が優位に置かれる場合もありますが、変化する事象を以てこれら二契機(ないし二成素)から成るものとみなし、一方の契機を恒同者、他方を変易者とすることによって「同じであり且つ同じでないという「変化」の存立を説明が図られる次第です。そこで、/(1) 「質料(「ヒュレー」のルビ)」を以て恒同的実体とし、形態的性状が変易するとみなす立場、/ (2) 「形相 (「エイドス」のルビ) 」を以て恒同的実体とし、素材的内実が変易するとみなす立場、/さしあたり、この二つが分立することになります。」257P・・・・・・/ (3) 「原子(「アトモン」のルビ)」を以て恒同実体とし、布置的配列が変易するとみなす立場。――原子論による変化の説明は、(1)と相通ずるむきがあることは慥かだとしても、しかし、「布置配列」はそのまま形相ではありませんし、また「原子」はそれ自身質料と形相を統一した存在体であって決してそのまま質料には照応しません。これは、はっきりと第三の立場、変化に関する第三の説明方式として挙示すべきものと思います。」258P
「ところで、(1) (2)の実体主義は昨今ではもはや論外として卻けることが許されると念いますので、主としては (3)を問題にすれば足るでしょう。実体主義的な立場での“変化の説明”は、近代ではもっぱら(3)に拠っており、爰では同じ諸原子が配列を変ずることが「変化」だとされます。/偖、それでは「原子(「アトモン」のルビ)」つまり「究極的な物質的成素」とは何かと問えば、今日では素粒子ということになりましょう。ところが、現代物理学に謂う「素粒子」はもはや恒常的・不易的で自己同一な持続体として「実体」性をもちません。素粒子は、なるほど、一個、二個と数えることができますし、種別の弁別も可能です。(伝統的な思念では、「数えることができる」「種別を判定できる」ということは、当のものが「実体」的に存在することの認識根拠だとされるむきがありました)。しかるにです。素粒子には実体的な自己同一性がないのです。この件については前々便でも一寸ふれておきましたが、素粒子には「場」の状態にほかならないということを想起ねがいます。――」258P・・・ここで電光掲示板の例が持ち出されます。「時空的に変化しつつある「場の状態」」ということ・・・「こうして、現代物理学のアトモンたる素粒子は実体性をもちません。電光ニュース板上の文字や光点を何個と数えることができ、文字を種別できるのと類比的に、素粒子はあれとこれとを区別し、種別的に弁別することは可能であるにもかかわらず、実体的なセルフアイデンティティをもたないのです。つまり、前掲(3)の仕方でのアトムたりえない次第です。」259P
ここでさらに著者自身が自ら反問を出して来ます。「電光「場」という“質料”があり、それの状態相という“形相” (尤も、単なる空間的布置ではなく、時間的変動を絡めた“時空的状相”)があり、これら両契機の存立を俟って、素粒子、および、その運動(移動的変化)が成立しているのではないのか?――この反問の発想は、「質料的にも形相的にも自己同一な或るもの」(つまり「原子」)が在って、それが空間内を時間的に移動していくというまさにアトミズムの想定に還帰しております――。この反問への回答を期しつつ、素粒子というものはそういう存在体ではない旨を説明するためには、素粒子が「自己同一性をもたない」という事態について稍々立入って問題にしておく必要がありそうです。」259-60Pと次の段落(項)の課題を出して話に踏み入っていきます。
第三段落――「素粒子は自己同一性をもたない」ということ 260-3P
「学兄は、「復(「また」のルビ)あの話か」といって辟易されるかもしれません。しかし、前々便でお約束した丹治信春氏の画期的な論文を紹介する前梯という含みもあって、「素粒子は自己同一性(「セルフアイデンティティー」のルビ) をもたない」ということに関する、朝永振一郎氏の説明を祖述するところから始めます。」260Pとして、(『量子力学的世界像』弘文堂刊、三八〜三九頁)からの引用です。
「「素粒子は一つ二つと数えることができるという点では、通常の粒子に似ている。実際に我々は、素粒子を一つ二つと数える方法をもっている。・・・・・・素粒子はその一つ一つが自己同一性をもっていないという点で通常の粒子とは異なったものである。簡単のために、米粒が二つあったとしよう。この時、……一方の米粒に、例えば一郎という名前をつけ、他方の粒に次郎という名前をつけて、それらを互いに区別することができる。……双生児の名前を人が時々間違えるように、どちらが一郎でどちらが次郎であったか、わからなくなることもあるであろう。しかし、そういうことがあったにしろ、それは見る人に区別がわからないだけであって、実際には、一郎はやはり一郎であり、次郎はやはり次郎である。……こうして、通常の粒子は一つ一つが自己同一性をもっている。ところで、今二個の光子(「ツオトン」のルビ) をとってみる。この時には事情が異る。即ち我々には二つの光子の一方が一郎であり、他方が次郎であるというふうな区別をすることは、そもそも出来ないのである。……同じ種類の素粒子は……その区別を考えることが原理的に出来ないのである。難しくいうと、素粒子の一つ一つは自己同一性をもっていないのである。」」260-1Pと引用し、著者の論攷に戻ります。
「では、一体なぜ「米粒」といった巨視的(「マクロ」のルビ) な存在と「素粒子」といった微視的(「ミクロ」のルビ) な存在のあいだで、このような相違が生ずるのか? 朝永氏は、この件の説明に関する物理学者の常套(「じょうとう」のルビ) に訴えて、まずは「量子統計」上の事実を持出されます。・・・・・ここであらかじめ「統計」ということが当座の論趣にとってももつ意味を銘記しておきましょう。」261Pということで、「統計」的話に踏み込んでいきます。
「二個の米粒、二枚の銅貨は、肉眼ではもとより、物理・化学的に精密に測定しても区別がつかぬほど酷似している場合があります。しかし、そのような場合でも、両者の各々が別々の固体として自己同一性をもっていることを挙示するためのギリギリの方法が考えられます。それが、結局のところ、「統計」的な挙措と相即します。・・・として、銅貨をなげて裏表が出る確率の話に入ります。・・・現実には銅貨のケースでは、確率が1/4、1/2、1/4、になっていることが確かめられるわけで、認識上は、“表裏一枚ずつ”という“同じ”場合が、実在上は“一郎が表で次郎が裏”と“次郎が表で一郎が裏”という別々の場合から成っていることが察知される所以となります。こうして、直接的な比較弁別は不可能なケースでも、各銅貨がそれぞれ個体的自己同一性(同類の他者との個体的区別性)を“客観的には”持っていることが“挙証”されます。/話が大層くどくなりましたが、「統計」などという聊か胡散臭い代物が、個体的自己同一性の存在を挙示するためのギリギリの手続きとして、さながら“救いの神”なのです。」261-2P
で、素粒子の場合の話です。「最早お察しの通り、素粒子の場合には、統計的に調べてみますと、米粒や銅貨のケースとは“違って”、先の例に比定していえば、確率が1/3、1/3、1/3になっております! 従って、素粒子は、存在上も客観的に「自己同一性をもたない」ことが論決されます。」262-3P
で、まとめ「このような次第で、「素粒子」は、マクロな米粒など、われわれが普通に“個体”と呼んでいるものとは“違って”自己同一性をもたないということ、朝永氏はまずこの旨を説いておられます。」263P
「朝永氏は、そこで第二弾として、素粒子が自己同一性をもたないという奇妙なことがなぜ存立するのか、このことを素粒子の本性に即して説明されるのですが、この点にはあとで立ち帰ることにして、ここでは丹治論文を紹介しておくのが順路です。」263Pと次の項の紹介です。
第四段落――丹治信春論文の論究(第七便を受けて) 263-70P
「気鋭の科学哲学者、丹治信春氏は「科学基礎論学会」の機関誌(『科学基礎論研究』第十三巻第三号)に昨年[一九七八年]発表した論文「米粒の自己同一性――古典統計と量子統計――のなかで、米粒でさえも実は自己同一性をもつとは言えないことを論証してみせました。/拙論の土俵に引込んで申せば、丹治氏の論考によって、いまやあの統計というギリギリの手続、あの“救いの神” に訴えて「事物の実体的自己同一性」を“挙示”することがもはや不可能になり、「関係の第一次性」という存在観に対して“実体主義”の論陣が敷いていた「最後の防御線」が巨視的世界(「マクロ・スコビッタ・ワールド」のルビ) においてすら破綻した次第なのです。」263P
「さて、丹治氏は「自己同一性」という概念そのものが多少曖昧であることに鑑み、自己同一性ないし個体性ということが問題になる場面を三つに劃定することから始めます。/(@)時間を度外視して、または一時刻を指定して、現実に存在する一つの個体の個体性、もしくは二つの個体の区別性を問題とする場面。(A)時間における、個体の持続的同一性。(B)一つの個体についての様々の可能な状況を考えた場合の、それら可能的諸状況を通じての個体的同一性。」263-4P
「右の(@)の場面では、素粒子といえども、あれとこれとを区別して、一つ二つと数えることができる以上、個体性・自己同一性をもつと言うことが許されますし、この意味でなら、素粒子と米粒とのあいだに本質的な相違があるとは言えません。そこで、素粒子には自己同一性がないと言われるのは、(A)または(B)の意味においてであること、このことを確認したうえで、氏は次ぎのように論を起こします。」264Pというところで、丹治氏の朝永氏の米粒での「自己同一性」へ批判の論考が出てきます。それは、次の例示で纏めています。
「「例えば、二つの箱(A・B)にでたらめに二個の米粒を投げ込む実験をすれば、Aの中に二個入る場合、AとBとに一個ずつ入る場合、Bの中に二個入る場合の数の比は1対2対1になる」。ところが『これに相当した、より複雑な事柄』の示すところによれば、光子の場合、右に対応した三つの場合の頻度の比は、1対1対1になる」。この差異が生ずるのは、先刻周知の通り、米粒の場合には、箱ABに一個ずつ入っていても、どちらの米粒どちらの箱に入っているのかの個性的相違があり、「四つの等確率の場合がある」のに対して、「素粒子では『1がAで2がB』と『1がBで2がA』とは同じ一つの事態であり、したがって等確率な場合の数が三つしかない」ためである。物理学者たちはこのように説明する。「しかし、この説明には――丹治氏のいう――誤りがある。その誤りというのは、素粒子について自己同一性を否定する際の誤りではなく、逆に米粒について自己同一性を肯定する際の誤りなのである」。」265P
「丹治氏は、こう断案を下したうえで、右の提題の論証に進みます。あの1/4、1/2、1/4、という確率分布を論拠にして「米粒には自己同一性がある」と主張することはできない旨を氏は示します。/これまで誰一人考えてもみなかったことなのですが、丹治氏は「米粒には自己同一性はない」という仮定を置いて処理しても、「実験による統計的結果と矛盾しない」ことを証明してみせたのです。学兄は「そんな馬鹿(ママ)な! その仮定条件のもとでは1/3、1/3、1/3という確率分布になり、実験的統計結果に合わない」と仰言(「おっしゃ」のルビ)るかもしれません。だが、「自己同一性がなければ1/3、1/3、1/3になる」という帰結は、或る特殊な仮定条件をもう一つ加えた場合に限って生ずるのであり、その特殊な仮定条件たるやおよそ無理な代物なのです。この無理な仮定を置けば、問題そのものが事実上ナンセンスになってしまいます。しかも、このナンセンスめいたケースでさえ、事柄の本質からすれば、決して単なる例外的例外ではなく、通則に適っているのです。――少々先廻りしたようです。この特殊的仮定条件を置いた異例なケースはあと廻しにして、まずは通じよう的なケースを見ておきましょう。」265-6Pとして、丹治氏の指摘を見ていきます。
「丹治氏は、証明の前提として、上述の「米粒には自己同一性がない」という仮説的想定(前提1)のほか、前提2として、同じく箱AまたはBの中に落ちるといっても「米粒の落ち方には、千差万別、非常に多くのヴァリエーションがある」。前提3「それらのヴァリエーションの数は、AとBで同数であり、それぞれN(前提2によりNは1よりはるかに大)である」。前提4「前提1、前提3により、n個の米粒を同時に投げたときの全体としての落ち方は、二N個の中からn個の落ち方を指定することによって完全に決まるが、それらの落ち方の確率はすべて等しいものとする」。」266Pとして、「さて、これらの前提から、二個の米粒を投げるときの様々の確率を計算する」次序ですが、「二個の米粒が『全く同じ落ち方』をする可能性について、『量子力学的効果』をも勘案」すべき茲では「二つの場合を区別する必要があります。/第一には、完璧に同じ落ち方をする可能性を排除する場合で、このさいには「パウリの禁句」の成立する「フェルミ型の統計」に従うことになります。第二には、当の可能性を容認する場合で、このさいには「ボーズ型の統計」に従うことになります。」266-7Pとした上で、「丹治氏としては、「<二つの米粒が、全く同じ様式で落ちる>という可能性を、『物質不可入性の原理』によって排除すべきか、それともそのような事態が『トンネル効果』的に起こり得ると考えるべきか、ということに関する断定は保留して、ともかく両方の場合を計算してみせます。」267Pと計算式を記載しています。ここで、この著は縦書きなのですが、横書きの計算式で、<1.フェルミ統計にしたがう場合>と<2.ボーズ統計にしたがう場合>の二つの計算式が出てきます。そして、そこから丹治氏の論攷が展開されます。
「「御覧のように、米粒に「自己同一性がない」と仮定しても、――落ち方の可能性が千差万別だというナチュラルな想定のもとでは――米粒の通常の統計的ふるまい(あの1/4、1/2、1/4)と何ら矛盾を生じないのです!」/(著者廣松さんの内容をつかんだ挿入文)ここで翻って、元来「自己同一性のない」素粒子の場合を考えてみましょう。「素粒子についても――と丹治氏は言います――非常に多くの状態に二個の素粒子が分配されるとき、それら多くの状態の半分をAグループ、残りの半分をBグループとするならば、素粒子が二個ともAグループに属する状態になる場合、一個がAグループで他の一個がBグループとなる場合、二個ともBグループになる場合の確率は、[これまた前掲の諸式で計算されるのであるから]、それぞれ1/3、1/3、1/3ではなく、1/4、1/2、1/4となりなるはずである。米粒の実験に対応する素粒子の場合の事情とは、このようなものでなければならないのであるのである」。」268-9P
(小さなポイントでの廣松文)「丹治氏は、念のため「自己同一性」を認めた場合にはどうなるかの計算も呈示します。この場合には、先の「組み合せ」を「順列」で置き換えればよいわけで、フェルミ型では前掲の諸式と結果的に全く同様、近似的に1/4、1/2、1/4になり、ボーズ型では正確に1/4、1/2、1/4になります。フェルミ型では“近似的”にしかならない理由は、そこでは「パウリの禁則」によって、二個の米粒が「全く同じ落ち方」で落ちる可能性が排除されていることにもっぱら懸かっております。」269P
「「以上の結果は――丹治氏は結論部で表明します――『量子統計は極限的には古典統計になる』という一般的な事情の一例にすぎないかもしれない。しかし、少なくとも明らかになったことは、米粒の統計的にふるまい(コインのトスでも同様)から米粒に『自己同一性』があるかないかを言うことはできない、ということである。今まで見てきた通り、『自己同一性』があってもなくても、ほとんど同等な統計的ふるまいをするのである」。そもそも「素粒子が『没自己同一的』なのに、それの複合体である米粒には『自己統一性がある』と考える方がむしろ不合理であろう」云々。」269-70P
二 遷移の当体と「可能態」・「現実態」
(前の節を承けて)「弁証法の体系構成法とは無関係な傍道に脱線したとお思いでしょうか? 迂生としては決してそうではない心算です。尤も、丹治論文は非常に特殊な学会誌は発表されたものであり、参照を求めただけでは繙読されず、惜(「あ」のルビ)たら埋もれる惧れもありますので、稍々紙幅を割(「さ」のルビ)きすぎたきらいはあります。・・・・・・・。」270P
第一段落――「変化の当体」−事物が「自己同一性をもたない」所以の存在論上の構制270-4P
(この項の問題設定)「ところで、弁証法的存在観の根幹に関わる運動・変化という概念は、嚮に確認した通り、「それが変化」するところのそれ――、アリストテレス式にいえば「それでありつづけるところのそれ」――つまり、自己同一的な当体の存立を要求します。しかるに、只今、丹治氏を援用して見たように、巨視的世界においてすら事物が自己同一性をもつとは言えないとすれば、「変化の当体」ひいては「変化ということ」が成立しえなくなるのではないか? この疑義に答えるためにも、「自己同一性」ということそのものを規定し返す必要があります。この作業を進めるためには、事物が「自己同一性をもたない」所以の存在論上の構制を検討してみるのが捷径だと考えます。――折角ですから、丹治氏の議論とも接点をもたせるかたちで立論しましょう。」270-1P
「問題のポイントを再確認しますと、人々は通常、二つの事物は性質的には全く同じであっても、この物をこの物たらしめる所以の、あの物をあの物たらしめる所以の、それぞれ個性をもった存在であると思念しております。そして、性質が全く同じであるにもかかわらず、この物とあの物とを個体的に区別せしめる所以の、それぞれの当体をなすものが、両者の“実体”であると人々は考えます。このさい、性質上の同一性というのは、認識能力の粗雑さの故の弁別不能という消極的・主観的な“同一性”ではなく、客観的な「同一性」の謂いになっております。――この思念においては、両(「ふた」のルビ)つの事物が客観的にいって、「性質上=同一」「実体上=別異」という了解になっているわけですが、そのような二つの事物が別々な時点に出現したとすれば、神様の眼にはいざ知らず、苟くも人間にとっては、それが同一実体の再現であるのか、別々の実体の出現であるのか、これを判別することは原理的に不可能です。ところが、両者がもし、同時に並存するとすれば、事態が多少変わります。両者のうち、すくなくとも一方を持続的に認識していた場合には、区別がつくはずです。同時に出現した場合はどうか? さしあたり、彼(「あ」のルビ)−此(「これ」のルビ)という区別しかつきません――。」271P
「惟うに、しかし、性質が全く同じならば、実体的にも全く同じだと認めざるを得ないのではないか? 「性質=同質」かつ「実体=別異」というけれど、実体が別々という以上、“実体的性質(?)”が違うのではないか。もしそうならば、「性質=同一」という前件が崩れる。そこで、“実体的性質(?)”まで同じならば、両者は文字通り同一体になりはしないか。いや彼(「あれ」のルビ)−此(「これ」のルビ)の区別が厳存する、と人々は主張します。では、「あれ」「これ」の区別とは何か? 占めている空間的場所の違いであるのか? もしそうなら、それは一種の“性質的”差異になる。だが、この点は暫く措いて、単なる位置の相違にすぎないのならば、両者の位置を入れ換えれば、一郎が次郎に、次郎が一郎に変身してしまうのか? 人々は、そうは認めない。場所を入れ換えても、実体が変身してしまうのはないのであって、一郎はあくまで実体的に一郎であり、次郎はあくまで実体的に次郎である云々。こうして、“実体”とかいう得体(「えたい」のルビ)の知れぬものがあって、それが個体的同一性、対他的区別性の存在根拠だとされている次第です。そして人々はそういう個体的実体性の存在する根拠として、客観的に性質が全く同一な二枚の銅貨とか、二個の米粒だとかの「統計的ふるまい」を持ち出すのが常でした。彼らにとって、これがギリギリの“救いの神”だった次第です。――この「統計的ふるまい」の議論では、二個の当体は、単に主観的・認識上ではなく、客観的性質が同一とされていることに留意ねがいます。さもなければ「ふるまい」に片寄りが生じて、あのような統計的分布にはならないことでしょう――。」271-2P
そこで、「人々がこれまで頼ってきた“救いの神”が恃めないことを丹治氏が暴露した捷径わけですが、学者たちは従来どこで錯覚に陥っていたのでしょう。そして、どこで計算の仕方(式の立て方)を誤っていたのでしょう?」272Pという問題を立てます。
「話は簡単です。人々は従来、銅貨でいえば表が出たか裏が出たか、米粒でいえばA箱に入ったかB箱に入ったか、その結果だけを問題にし、そのような結果に到る途中の運動状態が千差万別でありうることを無視してきました。現実仮定としては、落ち方が多肢多様であることを十分承知しながらも、結果が同じならば同じ事象ということにして処理していたわけです。“同一視”、事柄に即していえば極めて特殊なこの仮定的条件のもとにおいて――これが先に「特殊な仮定的条件をもう一つ加えるかぎりで云々」と誌しておいた当のものにほかならないのですが――あの1/4、1/2、1/4という確率分布を説明しようとするとき、「一郎がAで次郎がB」と「次郎がAで一郎がB」の場合との区別が要件になるのです。丹治氏は、同じくAに入るといっても可能な「落ち方」が千差万別だということから、前提2で「Nは1よりはるかに大きい」としましたが、従来の人々は、Nが1であるという仮定、つまり、Aに入る落ち方は唯の一通りしかないという仮定を無意識のうちに設けていたわけです。・・・・・・・。」272-3P
「ここで、学兄は、“同じ”ものが「同一の」条件で投ぜられるのであるから、落ち方は一通り(つまりN=1)だと想定するほうが却ってナチュラルではないか、と反問されるでしょうか? しかし、もしそういう同一態を考えるなら、表が出るか裏が出るか、Aに入るかBに入るか、初期状態によって一義必然的に決定されていることになり、そもそもあのような確率分布ということが問題外になってしまうと思います。――このさい、全く同じ初期状態から出発しながら、結果が岐れるのは、まさに、“実体”のなせるわざだと言うとすれば、余りにもナンセンスです。/それでは、同じ初期状態といっても、一義必然的でなく、N》1になるのは、実際には、初期条件の“同じ”が微妙に差異を孕んでおり、厳密にいえば「同じでない」所為(「せい」のルビ)なのでしょうか? 実際問題としてはそうかもしれません。しかし、謂う所の「微妙な差異」なるものが、サイコロの重心のズレといった固定的な差異、つまり、確率分布を不均等にしてしまうような差異であっては、当面の論趣から外(「はず」のルビ)れます。ここにいう「微妙な差異」は、いきなり量子力学次元での「不確定性」でこそなけれ、いわゆる「ゆらぎ」のカテゴリーに入るものでなければならず、初期状態の同一性とは「ゆらぎを伴う同一性」でなければならないと思います。」273-4P・・・たとえば銅貨の性質が全く「同じ」などという設定自体の問題、重さも色もミクロ的には「微妙に」違っている筈なのです。
第二段落――弁証法的飛躍の問題と函数的変項の充当 274-82P。
「弁証法に謂う運動・変化は、あらためて申すまでもなく、いわゆる連続的な運動だけではなしに、「弁証法的飛躍」と呼ばれる不連続な変化をも射程に収めるものです。ですから「持続的同一者」としての変化の当体は、いわゆる「量より質への転化」といった不連続的・飛躍的な変化の当体である場合をも包摂し得ねばなりません。こういう変化とその当体は伝統的な実体主義的存在観のもとではおよそ扱い得ないものであり、これを権利づけるためには幾つかのポイントで実体主義を内在的に止揚しておく必要がある所以です。/ここまで話せば「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」の増幅が動態的平衡系の「破綻−再編」という仕方で、弁証法的飛躍を現出せしめうることを連想して頂けると念います。がしかし、単にこのことを論材にしたかったのであれば直截に熱学的な平衡の場面に題材を求めた筈です。敢て、素粒子だ米粒だという論件にかかずらわったのは、もう少し別の思惑をも秘めていたからにほかなりません。――伏線の一端を手繰りながら本線に繋げることにしましょう。」274-5P
「前に、朝永氏を援用するに先立つ場面で、変化ということに関するアトミズムの説明方式に関説しておきました。また、先刻、相同的な二つの物体の空間的位置の入れ換えという問題に一寸論及しました。此処では、ひとまず、この論件に立ち戻ります。/扨、性質的には全く同じ物体は「位置を入れ換えても、それぞれ実体的自己同一性を保持する」という伝統的な思念では、まず、「空間的位置」ということが「性質」から除外されていることを見咎めざるをえません。ここでは、空間なるものは実体や性質とはレアールな関係ない「空無」であり、単なる座標系にすぎないものとして扱われております。空間と物体との斯用な分断が原子論的な発想と相即するものであること――因みに、地・水・火・風といった「元素」をアルケーとする存在観では、空間と質量が不可分であり、これら「元素」はいずれも「空間的質量・質量的空間」とでも呼ぶべきものになっております――そして、この原子論と相即的な「空間」と「質量」との分離のもとでは“実質になんら何ら変化をきたすことなく空間的場所だけを替えることができる”と想定されていること、しかるに「場の量子論」においては「場」は一種の「質量的空間」であり、位置だけを入れ換えることは原理的に不可能であること、この件は拙著『事的世界観への前哨』第二部第一章および第三章で評論しておいた通りです。ここでは、それゆえ、この論件そのものに立ち入ることは省きますが、われわれとしては「空間的位置」をも「性質」のうちに算入してしかるべきです。そのときには、前々便でも一寸 ふれましたように、二つの“性質的に相同”な物体の位置を入れ換える(精確には、同じ位置に置く)と、今や性質的に全く同じになります。ところが、人々は、従来、それでもなおかつ、一郎は一郎であり、次郎に変身するわけではないということ、つまり、実体的自己同一性を強弁しておりました。しかるに、今や、彼等の“救いの神”がなくなったのですから、位置を含めてすべての性質が同じものは全くの同一者であるとせねばなりません。――ここでは、“性質”とは関係規定の内自化されたものであり、性質を担う基本的実体なる格別なものが存在するわけではないから、従来、“性質を具えた物”という相で思念されていたところのものは、実は関係規定の“結節”にすぎない云々という持論を蒸し返そうというのでありません。今や、問題はその先です――。こうして、今や、全く相同な“二つ”の事物(正しくは「一つ」の事物)は、「パウリの禁則」に従っていると言うことも、「トンネル効果」で重なっていると言うこともできます。/こうなりますと、二枚の銅貨、ないし、二個の米粒を「同じ初期状態で投げるというとき、それはまはや二つのものではなく、「一つ」のものということになり、その「一つ」のものが「同じ初期状態」から出発しながらあのような確率分布で結果し得るということになるわけで、当体はまさに量子力学に言う「確率波」的な存在になります。それは全く同じ“一つの”ものでありながら、同じ初期条件から出発した運動の結果が決定論的な一義性をもたない。とはいえ、得手勝手にランダムな運動・結果を生ずるのではなく、一定の確率函数で表現される大枠内で運動する「同じ当体」「同じ状態」でありながら、いわば「ゆらぎ」を伴っている存在、このような相で表象される次第です。」276P
「この非決定論的な運動・変化の当体、――これはあの“性質を具えた実体”ではなくして、“関係の結節態”として「函数的連関態」をなすわけですが――、この当体、むしろ「状態」が「可能態(「デュナミス」のルビ)」「現実態(「エネルゲイア」のルビ)」という概念と結びつくことにお気付きだと思います。視点を換えていえば、われわれにとって「運動」「変化」ということが、ないしは、その当体なるものが「可能態」「現実態」という存在様相(「モダリテート」のルビ)とリンクする次第なのです。/このさい、われわれとしては、同じく「可能性」といっても、二つの次元を一応分けて考える必要があります。弁証法に所謂「量的変化」と「質的変化」とに関連づけて申せば、第一に「量的変化」つまり「同じ質を保持するという意味での同一性の埓内での変化」であって、ここでは「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」という可能的変化とそれの現実化された相での積分が問題になります。第二には「質的変化」の次元であって、ここでは「揺動」の増幅が動態的平衡のマクロな破綻と再編をもたらす可能性が問題になります。――そして、これらの構制が、弁証法における運動・変化の「必然性と偶然性」という問題ともつながります。」277P
「「様相」という論件は、しかし、何分にも大問題ですので、ここで一気に立入るわけにはいきません。後日、機会を設けて主題的に扱ってみることにします。が、当座の論趣にとって必要な限りで、可能態(「デュナミス」のルビ)と現実態(「エネルゲイア」のルビ)の問題の一斑にだけ簡単にふれておきましょう。/「可能態(「ポテンティア」のルビ)」とか「現実態(「アクトウス」のルビ)」とかを云々し、「潜勢的(「ポテンシャル」のルビ)な態勢」とか「顕勢的(「アクチュアル」のルビ)態勢」とかを持ち出しますと、学兄は何かしら旧い形而上学への逆戻りになりそうな懸念(「けねん」のルビ)を懐かれるかもしれません。慥かに、概念そのものとしては、これらはアリストテレス・スコラの形而上学における重要な概念でした。しかし、われわれの場合、これらの概念を改鋳すること勿論です。――ヘーゲルが「即自態(「アン・ジッヒ」のルビ)」「対自態 (「フェア・ジッヒ」のルビ) 」というさい、いつもというわけではありませんけれど、或る種の論脈では、「可能態(「デュナミス」のルビ)」「現実態(「エネルゲイア」のルビ)」の含みを持たせていることは、更めて想起を求めるまでもありますまい。ヘーゲルの弁証法は彼流に復活させたデュミナス・エネルゲイアを抜きにしては存立し得ません。いつぞや、ヘーゲル『論理学』の展開の構図に関して、有論では「移行」、本質論では「照映」、概念論では「発展」という建前になっていることを紹介しましたさいに、「発展」についてはまさに可能態から現実態への生物の成長になぞらえてヘーゲル自身が説明しているのを見ておきました。因みに、「概念論」では「機械的関係」や「化学的関係」なども扱われているのであり、可能態・現実態という概念は決して単に“生物態的”な存在者だけに適用されているわけではありません。マルクスの場合にもやはり、デュミナス・エネルゲイアという概念が重要であることは、夙に花崎皋平氏の指摘がある通りです。――爰では、学兄の懸念を鎮めようという魂胆からではありませんが、ヘーゲルやマルクスの語法を解説する流儀においてではなく、まずは思い切って平俗に述べておきます。」277-8P
「伝統的な形而上学との関連性は措くとして、普通、「檞の実(「どんぐり」のルビ)」は「檞(「かし」のルビ)の木」の可能態であるという言い方――一般に、「種子」や「受精卵」は成体植物や成体動物の可能態であるという言い方――がされますし、仔は成獣の、蕾は花の可能態であるという言い方がされます。・・・・・・ところが、可能態であるされるAが現実態とされるBにナルことが必然的・規定的だとすれば、これは古代ギリシャのメガラ派以来の議論ですけれど、Aに可能性を云々することは実際上無意味になってしまい、Aは規定的・現実的にBであったいう仕儀に陥りかねません。そこで、団栗は檞の木になるとは決まっておらず、腐って“土”に成る可能性、鳥に喰われて“糞”に成る可能性、人に拾われて“数珠玉”に成る可能性……もあると認め、“土”の可能態……、“糞”の可能態……、ということにすれば、金塊が金貨の、米が酒の可能態というのと同趣になってしまいます。先には、AがBに成る、その「成る」が必然的でしたが、今度は、偶然的で、(事によっては「成ることもあり得る」という意味での)可能的にすぎないことになります。この単なる可能性という意味に定義しても悪いとは申しませんが、この場合には可能態Aが現実態Bに成ったといっても、そもそも不可能態が現実態に転成するわけではなく、現実態に成るのは可能態に決まりきっておりますから、「可能態Aが」という言い方、つまり、AをことさらBの「可能態」と呼ぶことが実際には無意味になってしまいます。――という次第で、「可能態−現実態」という概念が有効にはたらくためには、右に述べた両極の謂わば“中間”で定義される必要があります。」278-9P
「偖、AがBに成るというさいのBをどう限定するかが鍵になりそうです。今仮に団栗が「檞の木」に成ることは既定的だと想定しても、現実的に存在するに至った檞の木の定在は必ずしも一義的ではありません。それは楠(「くす」のルビ)や橅(「ぶな」のルビ)といった別種(別の概念)のものに成るわけではなく、「檞」という限定の範囲には納まりますが、枝ぶりとか幹の大きさとかは多種多様であり得ます。――ここで、前々便でしたか、カッシーラーの「函数概念」やヘーゲルの「具体的普遍」にふれた論議を憶(「おも」のルビ)い出して頂けると幸いです。伝統的な実体主義的概念理論では、概念(内包)は実体的本質に照応するものと思念されておりましたので、固定的・一義的という建前でした。なるほど、その概念に下属する外延群には一定の多様性が認められましたが、概念(内包)そのものは固定的・硬直的でした。その点、「具体的普遍」に照応する「函数的概念」の場合には、BならBという概念、それは一定の“函数”としての限定性をもつ「一つの概念」でありながら、“変項”がさまざまな値をとりうるものであり、実体主義的本質概念のような硬直性を免れております。この「函数的概念」ということを用いて規定しましょう。――Aは必ず函数Bの特定値(の相で現実態)に成る。が、どの特定値をとるかは不確定的・未定的である。そのようなAをBの可能態と呼び、現実化された特定値のBをAの現実態と呼ぶ。このような大筋で「可能態−現実態」を定義してはどうでしょう。本当はもっと精密な書き方をしなければならないのですが、ここでは趣意さえ通じれば当座の間に合います。」279-80P
「右のように規定するさい、Bは「団栗に対する檞」というような狭い限定ではありません。選択肢が確定してさえいれば、あのお染馴の銅貨を投げた折の「表・裏」の状態ごときであっても差支えありません。Aの側についていえば、これまた函数的に表現されうるにしても、或る「同一の初期状態」がそのままBに対する可能態として措定されるということが味噌です。」280P
「このような「可能態−現実態」の定立は、一昔前までは、つまり、古典物理学的な決定論的世界像が支配的であった時代には、存在論的にみて全くのナンセンスだと見做されたことでしょう。最も好意的な場合でさえ、それはたかだか日常用の“粗雑な認識”に応ずる便宜上の概念装置としか認められなかったと思います。というのも、決定論的な因果必然観のもとでは、初期条件が同一であれば結果も一義的に決まっていることになり、あのメガラ派の指摘と同趣の論理で、可能態が可能態でなく、謂わば必然態になってしまうからです。しかるに、今や、量子力学における不確定性原理によって、降っては亦、動態的平衡系を扱う場合には「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」を完全に消去することが不可能なことによって、「同一の初期状態」から、一定の限界枠内においてであるが「非一義的な帰結状態」が現成するわけで、これに応ずる概念装置が要求されます。われわれの立てる「可能態−現実態」は、まさにこの要求に応えるものであり、しかも、弁証法的な運動論・変化論の論理構制に応ずるものにほかなりません。」280-1P
「茲はまだ「弁証法」における「運動様相論」に立入る個所ではありません。が、とりあえず、只今の立論を踏まえて、先刻から持越した“設問”に答えておきます。――「素粒子は場の状態にほかならない」と謂うさい、「場」という“質料”があり、状態相という“形相”があって、謂わばこの「質料−形相」成体が素粒子なのではないか? 視角を変えて言い換えれば、素粒子とは“質料”的に同質で且つ“形相”的に同形であることを維持しつつ(まさに「原子(「アトム」のルビ)」として)空間内を移動する存在体なのではないか? これが持ち越した問題です。さて、「原子(「アトモン」のルビ)」なるものは、たしかに、「質料的にも形相的にも自己同一性を維持しつつ」、「空間内を移動する」存在体として規定されます。皮相に考えると、「素粒子」もその範に漏れないかのように思えます。しかし、「場」の量子論にあっては、「場」は、原子論が必要条件とするごとき「空虚な空間」、つまり、没質料的な、単なる「場所的空間」ではなく、一種の「質料的空間=空間的質料」です。この点でまず、原子論(「アトミズム」のルビ)とは相容れない存在論に立脚しております。そのうえ、素粒子の場合、なるほど「質料・形相」の両契機から成ると言われうるにせよ、原子が謂わば一定の“質料塊”を閉じ込めたかたちで、その“塊”ごと動くのに対して、素粒子の“質料”は謂わば進行につれて入れ換わります。しかも、この“入れ換わり”は、竹輪を水中で縦に動かす時のように均質な質料(「マテリー」のルビ)が流入・流出しつつ、どの瞬間にも同質の“水”で中空部が充たされているといった相ではありません。「場」はいくら「質料的空間」だといっても、水のように現勢態で既在するのではなく、右の譬えでいえば、竹輪の中に入り、“形相”と“結合”した態勢になるかぎりで「可能態から現実態へと転成」するのであり、その前後には「可能態」たるにとどまっております。「場」は、量子化されている現勢態=現実態の“個所”以外では「可能態」という様相で“存在”するにすぎないのです。この点で、まさに“現実態での質料” (という非アリストテレス的な“質料”)ブラス“形相”の形成体として自己同一性を保持する「原子」と、「素粒子」とはおよそ相違する次第です。」281-2P
「ここに、一方の「原子」と他方の「素粒子」(つまり「場の状態」を量子化したもの)との異同について述べた所から「関係の第一次性」という非実体主義的な存在観のもとに、実体的な自己同一性をもたない「関係の結節態」を「運動・変化の当体」として措定する構制を賢察いただけると念います。次には、この件について若干エクスプリシットに申し述べてみましょう。」282Pというまとめと、次節の予告です。
三 変化の諸相と「函数態的当体」の措定
第一段落――「変化」という概念の時代的変遷と原子論的世界観への転化 282-7P
「運動とか変化とかいうとき、近代では何は措いても、典型的には「場所的移動」の相で表象するのが普通だと思います。しかし、例えば、古代ギリシャでは、運動(「キネス」のルビ)の典型は生物の成長でした。少なくとも地上的世界での変化に関するかぎり、中世ヨーロッパにせよ、東洋においてにせよ、生物の成長ないし生誕・死亡が変化の典型だとみなされていたのではないかと思います。近代では一体なぜ空間内的移動という力学的・機械的な運動が典型とみなされるようになったのか? それには社会生活上のありかた、対自然関係のありかたが、従前とは大きく変わったという歴史的な事情があると思いますが、存在観の論理的構制に即していえば、原子論的な発想の構図(古代ギリシャでは、およそ傍系の思想にすぎなかったこの観方)が支配的になったことに負うものと言えましょう。勿論、変化ということが、直ちに「原子」の次元に還元して理解されるというわけではありません。だが、物体の変形はそれを構成している諸部分の配列的布置の変化として理解されますし、生成・消滅にしても、真の有化・無化ではなく、或る原子的構成分の結合態の成立と解体として理解されます。生物の成長ですら、それを構成する結合部分体の増加や布置的変化ということに還元されます。そして、一切の変化は詮じ詰めていけば、原子の運動ということで了解される次第ですが、「原子」なるや、それ自身としては不生・不滅、不変質・不変形であり、位置を変えることしかできません。畢竟するに、原子論的存在観のもとでは、論理構制上、変化と言うことは終局的には原子の空間的移動でしかあり得ないわけです。が、反面からいえば、この「移動」ということで一切の変化の“説明”が一応はつきます。」282-3P
「弁証法の場合――現代物理学においては“アトム”たる「素粒子」が、いわゆる原子論的な存在観・変化観を許すごとき往時の実体的原子ではないという先刻確認した事情を持出すまでもなく、それ以前に、――そもそも実体主義的な存在観を卻けるのですから、原子論の流儀で、つまり、嚮(258P)に挙げた(3)の仕方で「変化」という事象を説くわけにはいきません。それでは、弁証法は「変化」および「変化の当体」をどのように規定し、どのように説明するのか? いまや、この問題に直截に答えることを要求される段取りです。」283-4P
「「変化」と一口に言っても、多肢多様ですから、幾つかの類型に予め分類しておくのが順序です。――ここでは、まだ「様相」の区別には立ち入ることなく、謂わば外面的な分け方に止めます。/第一に「生滅的変化」、第二に「変様的変化」、第三に「移動的変化」、われわれは、これら三つの類型に分けて、「変化」を整理することができるはずです。尤も、タイプとしては斉しく「生滅」「変様」「移動」と言えても、「能知−所知」の媒介関係を対自化しつつfür esとfür unsとの次元的差異を絡めて論考する場面と、対象的に自存化された相で論考する場合との区別を要します。が、ここでは、ひとまず「事象的変化」を対象的な相貌で扱うことにし、それに応ずるかたちで、時間および空間をも対象化された既成態の相で前提することにします。/さて、右の条件付きの範囲内で、三者の各々について若干の分析的コメントを加えながら議論を進めたいと念いますが、行論の便宜上、順序を入れ換えて、「移動」「変様」「生滅」の順で誌すことにします。」284P
「(第三の)「移動」的変化というとき、人々の通常的な思念では、当体それ自身は自己同一的な性状を維持したまま、時間の経過につれて、単に空間的位置だけを変ずるという在り方で表象されます。ここでは、当体は自己完結的でしかも不易であり、対他的関係は時・空間的な座標的関係という抽象的でしかも非作用的なものにすぎない、と見做されます。――この“見做し”は、或る種の問題場面では、便宜的な措置として恰当な場合もあり、しかも、この原子論的というより力学的な運動にあっては、「当体が移動的に変化する」という事態を空間内の座標的位置が継時的に可能態から現実態に転成する(空無的な空間的場所が“充実態”に転成する)という言い方に“翻訳”して「位置が継時的に変化する」という事態に定式化することができます――。現実的には、しかし、時間・空間的な絶対的座標軸なるものが自存するわけでなく、移動とは四囲の具体的な定在との実在的関係なのであり、当体が場所だけを変ずるのではなく、実際には、当体を一契機とする四囲の関係態が布置的に変化するわけです。それゆえ、当の移動的変化なるものを真実態に即して十全に把える必要があります。そのさいにはむ、当体はもはや剛直的な不易態ではなく、それ自身変易相を呈する筈であり、次の「変様的変化」の一斑になります。284-5P
「(第二の)「変様」的変化の場合――空間的位置の変位が関心される「移動」の場合とは異なって――当体自身の性状的変化が問題にされます。ここでは「性状」(外面的それだけでなく、内部的な性質をも含み、また、量的規定性をも含む)こそ変化するが、当体をその当体たらしめる“実体”は自己同一性を維持するものと想定されます。――この場合、通常的思念では、“性状を具えた実体”が自己完結的な閉鎖系の相で表象され、対他的関係は空間的位置関係すら当面は捨象される扱いになります。この、「閉鎖系」としての取り扱いが或る種の問題場面で好便なことは慥かであり、そこでは継時的なその都度の状態相を当の系という埓内での“可能態から現実態への転成”として定式化することができます。そのさい性状を形成する諸契機のうちには、恒常的(定項的)なものも変易的(変項的)なものもあり、“変項的”なもののうちには、さらに、時間の連続関数をなすものも不連続関数をなすものもあり得ます。そして、その或るものは、生成・消滅を表わすこともあります。――原理的には、しかし、完璧に自己閉鎖的な系が在るとすれば、それは宇宙全体であり、たかだかその“部分”たる当体=“系”は、対他的な作用連関にある筈です。従って、真実な当体としての系は、当初には“外的”とみなしていた諸存在を組み込んで措定され直す必要を生じます。また、当体は“実体”的に自己同一性とみなされたにせよ、そのような自存的実体が実在するわけでなく、それは実は“諸性状” (正しくは関係的諸規定)の結節的総体にすぎません。当体としての通時的“自己同一性”“持続性”を存立せしめるものは、“定項”的構成分でなく、対他的な「彼−此」的区別における「これ」として、当の通時的変化系が一箇同一の(ein-und-dasselbe)関数態(時間変項を含む)として措定されるかぎりでのEin-heitにほかなりません。ここでは、今や「性状は変化するが、“実体そのもの”は恒存する」という思念が棄却されるとき、次の「生成・消滅」に帰趨する場合を生じ得ます。」285-6P
「(第一の)「生滅」的変化は、性状のうちのあれこれが出現・消失するという域を超えて“実体”そのものに関わるのが道理であり、――先の限定条件下での当面の論考準位では――それは空間的世界との関係の端的な“有化・無化”に照応する筈です。しかし、人々はとかく、実体そのものの生滅としてではなく、“実体”の或る結合体の成立・解体という相でそれを理解します。そして、これは“実体的結合体”なのであって、単なる“性状的結合態”ではないが故に、それの生滅的変化は単なる性状的変化(変様)とは決定的に異なるものだと主張します。われわれに言わしめれば、しかし、所詮は両者とも、対他的な反照における相互的関係の結節態にほかならず、実体主義的な思念の相での“決定的な相違”とやらはありません。だが、性状的変様の場合には、“有化・無化”といっても、たかだかあれこれの“項”的規定性のそれであったのに対して、生滅的変化の場合には、当体として措定される“函数的”統一態の総体にかかわる点で相違します。但し、消滅を例にとっていえば、それは諸項が斉一に恒数的に零化したという相で表象することを必ずしも許しません。というのは、“項”は元来対他的反照規定なのであり、自閉的な系の内部においてこそ斉一的な零化を云々できるにしても、それは対他的な関係性においては必ずしも端的な「無化」を意味しないからです。それは、事によっては、依然、“零函数”という相で“有る”と考えねばならない場合もあり得るわけです。(それは剛直的な持続態f(t)=const.の特殊ケースということもできましょう)。実際問題としては、生滅は従前の仕方で或る“自閉的”系を措定することを破綻せしめるごとき関係態の“変様”に帰一し、この激変がいわゆる「量より質への転化」、つまり、弁証法的飛躍の一斑に照応するはずです。」286-7P
第二段落――「変化の当体」という理論と「函数的連関態」 287-93P
「以上の行文のなかで、「変化の当体」なるものをわれわれとしてはどのような仕方で措定するかについても、インプリシットには述べたことにもなります。尤も、当面のところは前掲の限定条件に拘束されており、存在論上・認識論上の原理的な次元からみれば、いずれにせよまだ暫定的ですけれど……。当座は、しかし、この埓内であと一歩だけ議論を進め、必要な幾つか顕揚することで次善とせざるをえません。」287P
「われわれは、「地(「グルント」のルビ)」から、「図(「ツイグール」のルビ)」として顕出する事象をゲシュタルトとして対象化し、時に応じて、諸「図」の綜合的把握や「図」の“錯図化”をおこないつつ、試行的にそれを「一つの」系として主題化します。これは、当事意識にとっては、必ずしも十全な省察的手続ではなく、むしろ、即自的に進捗するフェノメナルな分節的総合であり、そこでは、当の“系”はおのずとゲシュタルト的に閉じるのが通則です。この事態を反省的に自己分析してみれば、対他的規定性が内自有化され、ゲシュタルトとしての“系”が即自有化されていること――そして、それが“属性を具えた実体”という相で思念されがちであること――が対自化されます。そして、この対自化にもとづいて、われわれは当の“関係態”たる“系”を“函数的連関態”として定立します。このようにして“函数的連関態”として把え返され、時によっては、額面通りのゲシュタルト函数」の形で定式化され、この所知性において「として」把握されるゲシュタルトが、移動であれ生滅であれ、継時的な変化相で覚知されるとき、当の「ゲシュタルト的所与−函数的連関態的所知」をわれわれは「変化の当体」として措定する次第です。」287-8P
「この際――右には大雑把な構図的枠組みを性急に誌しましたので、若干のコメントが必要と思うのですが――、「或るものを一箇同一のものとして措定する(Etwas als Ein-und-Dasselbe setzen)」という当体的措定は、別段、格別な認識作用ではありません。例えば、メロディーなどの所謂“時間性ゲシュタルト”を「一つのこの」(dies-ein)ゲシュタルトの相で「図」として覚知するとか、或る与件を「再認的に同定」するとか、反省的に対自化すれば、それはこのような基礎的な知覚的場面においてすでに存在しております。尤も、メロディー的覚知であれ、追跡的な持続的覚知であれ、知覚的に“間断(「けんだん」のルビ)” (Verbrechung)のない場合と、それのある「再認」の場合とは慥かに区別がないわけではありません。が、前者の持続的ケースですら、一定の時間閾を超えて、先行的部分が“記憶”的把持になっている場合には、「記憶的既在―知覚的現在」が「区別的統轄」の相にあり、「再認」のケースと同趣の機制になっていることが反省的には認められると思います。また、「再認」それ自身は「変化の当体」の積極的な措定ではありませんが、しかし、対象的知覚が即自的には一般にそうである範にもれず、一定の“予期的ディスポジション(disposition配置)”を伴っており、この点においても、時間的ゲシュタルトと同趣の構制がみられるわけです。そして、この“予期的ディスポジション”つまり、「知覚的現在−予期的将来」という構制が、「変化の当体」が「変化の当体」として知覚的な次元で措定されるにあたっての主要な契機になっていると思われます。そして、同じ構制が、直接的な知覚次元を超える所謂“概念思考的”な次元での「変化の当体」の措定にもスライドされているように見受けます。――ところで、知覚的であれ概念的であれ、「変化の当体」が措定されるさいに、「記憶的既在−知覚的現在」ないし「知覚的現在−予期的将来」という構制が見出されるといっても、この「区別的統轄」の両項的契機は同位的ではありません。そこでは、あくまで「知覚的現在」こそが主導的・優位的であり、反省的には、その都度、「一箇同一性」は「現在」の地歩でおこなわれます。」289Pここで、「反転図形」を援用して「A」「B」「C」の三様な見え方の話を展開しています。
「ところで、この「Aとして覚知されることもあり得、Bとして覚知されることもあり得る」ところの「一箇同一の当体」――つまり、Aという現実態をとることもBという現実態をとることも可能な或るもの――この“可能態”的散在は、Aという“値”をとることもBという“値”をとることも可能な“函数”的存在として表象されます。このことが、「反転」の場合に限られないこと、変化的諸状態をその都度の“値”とする“函数”の相で「変化の当体」を定式化できること、この点は先述のところから既に御諒解いただけていると念います。因みに、「変化」は、先に見ておきました通り、“単なる”場所的移動であっても、空間的状態の変様的変化にバラフレイズすることができ、また、生滅的変化であっても、実体主義の排却に伴って、結局は“関係的結節態”の変様的変化に帰趨します。」290-1P
「爰において、一般論として「変化の当体」は、継時的に現出する状態の諸契機を諸変項の“値”とする“函数”の形で定式化できるということ、――このこと自体は諸科学が普通におこなっていることですし、今更強調するつもりはありませんが、――そして、その“函数”的に措定される“関係的結節態”を「可能態」的存在、その都度の特定の“値”における当の関係態を「現実態」的存在として定位できるということ、さらに申せば、当の“函数”が「時間的変項」を含みつつ、且つ、一種の“確率変項”を含むとき、決定論に陥らない仕方で「法則的変化」を式述できるということ(ここではまだ、そこにおける「必然性と偶然性との“弁証法的統一”」には立入れませんけれど……)、しかも、その函数は所謂カタストロフィーを包摂しうるごとき不連続函数たることを妨げられないこと、ここに拠ってわれわれは所謂「弁証法的飛躍」をも式述できること、とりあえず以上の諸点までは彰らかです。迂生として強調したいのは、数式的処理ということではなく、実体主義のもとでは“実体”そのものには関わらない謂わば外面的現象ないし単なる量的規定性の次元でしか“函数的連関態”が存在論上の位置をもたなかったのに対して、われわれの場合、あえて言えば“質的な”函数的連関態を定位しつつ、存在様相(「モダリテート」のルビ)の次元をも配位するという構案です。」291P
著者の更なる反問的問いかけが続きます。「それは、「一箇同一の当体」として「変化の当体」を立てることの権利問題です。この件は、しかし、先に反転図形における「同一の当体」を立論した構制で事実上尽きます。「実体主義」の立場では「実体」を一義的に確定することが要求されますが、「自己同一的」な実体が存在しないという存在観のもとでは、「全体」という“実体”の余地こそあれ、そもそも「当体」として措定されるものは、その「自同性」「箇体性」に関して“自然権”を保有すべくもありません。――この意味において、関係主義的な存在観のもとにおいては「当体」の「一個性」「同一性」、実体主義的な意味での「持続性」という権利をめぐる問題(quid juris)は勝義では存在しえないのです。勝義においては、この面での所謂「権利問題」そのものが止揚される所以です。本箋で「自己同一性」に深入りしたのも、その間の事情を御理解いただくための一具だった心算です。――当体的“同一性”の措定ないし一箇同一の“当体”の措定ということは、「事実問題」としてはしかるべき根拠と手続に俟つものであっても、存在論上・認識論上の原理的な次元で言うかぎり、所詮は“便宜的な措定”にすぎません。勿論、“原理的次元で言えば便宜的”な措定とは申しても、「類種的同一性」(いわゆる“本質”的同一性)と当体的同一性(いわゆる“実体”的同一性)との差異などを規定する必要があります。が、この件については、拙著「事の現相学への序奏」(『理想』一九七六年十一月号所載[拙著『もの・こと・ことば』に収録])の参看をお願いして、ここでは唯、いわゆる「当体」の措定は、反省的現在における「彼−此」性の区別の地平での「個体」的「一者」の措定である旨を誌すに止めます。――尚、「反省的現在」を云々し「現在的地歩」の「優位」を云々しますさい、「現在」なるものを固定的に考えられては困ります。予期が次々に現在化し、しかも、予期がはずれる場合もあるわけで、その都度の「現在」的反省における統握がポイントです。(この点については、量子力学における「観測の問題」にも関説した『事的世界観への前哨』第二部第三章を参照して頂けると幸いです)。」292-3P
第三段落――残された問題−「原因」という概念、etc. 293-4P
「「当体」の措定および「変化相」の式述がおこなわれ得るとしても、しかし、運動・変化という概念規定にとって、それだけでは不充分です。「運動・変化」ということは、当事的意識自身においてすら、単なる現相的追認や予料の域を超えて、――変化の「原因」と呼ぶべきものの問題契機が対自化されずにおきません。/この「原因」という概念は、それ自身きわめて大きな問題性を孕んでいるだけでなく、「必然性」や「偶然性」という変化の様相(「モダリテート」のルビ)、さらには「可能性」や「現実性」という存在の様相とも密接不可分であり、これについて論考するためには、そもそも、茲でのような対象的に既在化された相での“時間”ではなく、本来的な「時間性」ということにまで遡って討究する必要があります。それゆえ、この大問題に関しては、「様相」の問題や、弁証法的運動における所謂「飛躍」の問題(これについては「転形」問題も含め考えているつもりです)なども絡めて、別便に譲りたいと念います。」293P
「事情が許せば、せめてここで、同じく「当体的変化」といっても、いわゆる「内発的」な運動と「外発的」運動――最終的には両者は帰一するにせよ――これの差異について述べ、夫々の応じた「当体」措定の在り方にコメントを附しておきたいと思わぬでもありません。また、生態系(「エコシステム」のルビ)をモデル化しつつ、「種内的−種間的」な重層的な動態的連関に即応した当体措定の構案に関説したい気もします。しかし、この件ですら、多少とも議論を深め始めれば直ちに上記の大問題とも絡んでしまいますので、この点をも含めて問題を持ち越すことにしましょう。」293-4P
「最後に、一寸心残りの論件について申し添えます。それは前便で「Sハ○○性に関してPナリ」と「Sノ○○性ハPナリ」とは、決してそのまま同一ではなく、或る意味では確然たる相違があるにもかかわらず――「Sハ(○○という契機に物性化される対他的反照関係に即して)Pナリ」という構制における「主題的当体S」の措定そのことの認識論的構制に遡れば――、所詮は同趣的な措定であると誌しておいたことに関係する事柄なのですが、本箋ではこの論点をイラストレイトする流儀で「変化の当体」が説明されていないことです。・・・・・・」294P
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(5)
第九信「変化」の記述と当体措定
(前便のまとめ)「前便では、「判断」ないしは「命題」における「主辞−賓辞」の対象的存在関係を問題にし、伝統的な「実体−属性」の論理とリンクさせておきました。」253P
(本便の課題)「本箋では、前便での作業の結果として対自的に課せられる所以となった「函数的連関態の当体的自己同一性」の“権利づけ”の問題、ひいては、弁証法における「変化の当体」の問題に立ち入ってみる段取りです/実体主義的発想のもとでは「自己同一的」な「当体」の存在ということが先取的に“確保”される論理構制になっておりますが、実体主義的存在観を卻ける場合、「当体」の措定とそれの“自己同一性”を如何にして保証し、如何なる限りでその権利を認めるかこれが別途の論脈から課題として顕在化して参ります。この問題は「個体」なるものの存在論的・認識論的な定位とも関連することになります。――嘗って中世には、そして実は近代でも、「普遍」たる「類」や「種」の存在性が大問題であり、いわゆる「普遍論争」が囂(「かまび」のルビ)すしく展開されましたが、昨今では、却って「個体」の存在性が大問題になり、いわば「個体論争」が持上がっているとも申せます。がしかし、爰では謂う所の「個体論争」の紹介には立入るに及ばないと思います。と申すのも、アングロ・サクソン系のところで出来(「しゅったい」のルビ)している当の論争は、「存在様相」といった次元をようやく勘案するようになっておりますものの、時空的座標系と存在体とをはじめから分立させ、能知的主観と所知的対象とを素朴に分断するといった旧套的な構図の埓をいくばくも出ない準位に止っておりますので、所詮は余り生産的ではないと考えてのことです。」253-4P
一 実体的個体の物理的「没自己同一性」
第五便から引き継ぐ課題としてのまとめ「御記憶いただいているものと念いますが、第五便で「変化」をめぐるプロブレマティックに関説した折に次のようなことを誌しておきました。/弁証法は「変化の論理」であるのに対して、形式論理、従って亦、演繹的体系では変化ということを説けない旨を云々するむきがありますけれども、その差異、もし人が、形式論理学では要素的概念や要素的関係を一義固定的に規定するということから、そのことを理由にして直ちに「変化を記述できない」だと決めつけているのだとしたら、それは却って笑止な短見と言わざるを得ません。成素そのものは普遍であっても、それを組み合わせた成態は変化しうるのであり、それなりの仕方で対象的変化を式述することができます。それどころか、事象の変化につれて「概念のほうも変わってしまったのでは却って変化を記述できない」という逆捩(「さかねじ」のルビ)さえ覚悟しなければなりますまい。/「変化の記述」なるものは、実際問題としては、各時点・各時点の状態(そのかぎりでは“静止的”な図柄)を描写するわけで、描写用の概念が一義確定的であることは妨げにならない。ただ、前の状態と変化後の状態とでは別々の概念を使って描写するだけのことで、要素的概念に対応する要素的与件が変化する場合といえども、与件に応じて使用する概念を取り替えれば宜しい。」254-5P
第一段落――「変化の当体−“実体”」のアポリア 255-6P
「普通には、右のように認められていると思います。がしかし、これが“変化の記述”と認められるにさいしては、或ることが暗黙の前提になっていることを見逃せません。それは、描写されている幾つかの状態、すなわち、別々の概念を用いながら記述されている諸状景が、一箇同一の或るもの(それが変化するところの当体)の継時的な諸状態だという前提的了解です。さもなければ、それらの諸記述は、別々のものに関する描写になってしまい、「変化の」記述とは認められない道理です。自己同一的な当体、つまり、記述の主題的対象(主語で指示される対象)たる或る同一なものが、或る時には状態A、別の時には状態Bにあると言うとき、ここに謂う「変化の当体」たる或るものは一体何でしょう?/伝統的な思念では、この「変化の当体」という論脈からも「実体」なるものが要請された次第でした。この思念の論脈では、当の自己同一的持続体、それが「実体」にほかならないとされます。論者たちは「実体が存在しなければ、そもそも変化ということが成立し得ない」と主張します。われわれに言わせれば、しかし、この論脈で要請される“実体”なるものは、さしあたり「変化」という概念を論理的に成立せしめるための必要条件にすぎず、そのようなものが実在するのか、存在するとしてもどのような存在者であるのか、この件はまだポジティヴには未決定です。それが「属性」を担う「基体」としての実体と同定(「アイデンティファイ」のルビ)されるのが歴史的に通例であったとしても、そこには必ずしも一義的な必然性があるわけではありません。「変化の当体」なるものは、勿論、いわゆる実体主義を卻ける見地においても、しかるべく措定することが可能です。」255-6P
「ところで、「変化の当体」は、実質的にそれが何であれ、変化の当体である以上は「同じもの」でなければなりませんが、且つ同時に、それが変化したのである以上は、もはや「おなじでないもの」でなければなりません。当の或るものが「同じであり且つ同じでない」という矛盾、これは「変化の当体」という概念、従ってまた「変化」という概念が必然的に孕む矛盾です。この矛盾を姑息(「こそく」のルビ) (ママ)に逃れようとして、「同じでない」だけを残したのでは、別々のものの状景の記述ではありえても、変化とは言えなくなってしまいますし、逆に、「同じである」だけを残しても無変化になってしまいます。けだし、「変化」とか「運動」とかいうことがら自身が「矛盾」構造を呈すると言われる所以です。――形式論理学における「矛盾律」を墨守するかぎり、「変化」を概念的に把握(「ベグラィフェン」のルビ)することができないと言われるのは、このことに即しての話なのです――。」256P
第二段落――“恒同的実体”の三様的とらえ方 256-60P
「「変化」という過程的事象の呈するこの論理的矛盾構造を解消しようとして、事象を“実相”と“仮相”とに両断し、当体の「同じである」と「同じでない」とを、それぞれに配位しようという試みがしかるべくして歴史に登場しました。これは詮(「つ」のルビ)まるところ、変化していうことを“仮相”とみなし、“実相”界は無変化であり、恒常的に同一であると主張する結果になります。――実相界と仮相界というほど厳しく分断しないまでも、実有的な存在上と偶有的存在という仕方で、種別的ないし程度的な区別を設けることで以て、実有的な存在上の無変化と偶有的存在上の変化とを両立させようとする試みも登場しました。「実体=無変化」、「属性=変化」というポピュラーな実体主義的発想がこれに属します。/いずれにしても、しかし、たとえ仮現的とみなすにせよ、「変化」という事象を一応は認めるかぎり、「同じであり且つ同じでない」の二契機、つまり、恒同的なものと変易的なものとを区別して、これらの両契機ないし両成素の複合性に拠って「変化」を説明することが図られる次序となります。」256-7P
「思想史的に顧みれば、「形相」と「質料」の二契機が想起されます。これら両契機は、同位・同格的に扱われる場合も、一方が優位に置かれる場合もありますが、変化する事象を以てこれら二契機(ないし二成素)から成るものとみなし、一方の契機を恒同者、他方を変易者とすることによって「同じであり且つ同じでないという「変化」の存立を説明が図られる次第です。そこで、/(1) 「質料(「ヒュレー」のルビ)」を以て恒同的実体とし、形態的性状が変易するとみなす立場、/ (2) 「形相 (「エイドス」のルビ) 」を以て恒同的実体とし、素材的内実が変易するとみなす立場、/さしあたり、この二つが分立することになります。」257P・・・・・・/ (3) 「原子(「アトモン」のルビ)」を以て恒同実体とし、布置的配列が変易するとみなす立場。――原子論による変化の説明は、(1)と相通ずるむきがあることは慥かだとしても、しかし、「布置配列」はそのまま形相ではありませんし、また「原子」はそれ自身質料と形相を統一した存在体であって決してそのまま質料には照応しません。これは、はっきりと第三の立場、変化に関する第三の説明方式として挙示すべきものと思います。」258P
「ところで、(1) (2)の実体主義は昨今ではもはや論外として卻けることが許されると念いますので、主としては (3)を問題にすれば足るでしょう。実体主義的な立場での“変化の説明”は、近代ではもっぱら(3)に拠っており、爰では同じ諸原子が配列を変ずることが「変化」だとされます。/偖、それでは「原子(「アトモン」のルビ)」つまり「究極的な物質的成素」とは何かと問えば、今日では素粒子ということになりましょう。ところが、現代物理学に謂う「素粒子」はもはや恒常的・不易的で自己同一な持続体として「実体」性をもちません。素粒子は、なるほど、一個、二個と数えることができますし、種別の弁別も可能です。(伝統的な思念では、「数えることができる」「種別を判定できる」ということは、当のものが「実体」的に存在することの認識根拠だとされるむきがありました)。しかるにです。素粒子には実体的な自己同一性がないのです。この件については前々便でも一寸ふれておきましたが、素粒子には「場」の状態にほかならないということを想起ねがいます。――」258P・・・ここで電光掲示板の例が持ち出されます。「時空的に変化しつつある「場の状態」」ということ・・・「こうして、現代物理学のアトモンたる素粒子は実体性をもちません。電光ニュース板上の文字や光点を何個と数えることができ、文字を種別できるのと類比的に、素粒子はあれとこれとを区別し、種別的に弁別することは可能であるにもかかわらず、実体的なセルフアイデンティティをもたないのです。つまり、前掲(3)の仕方でのアトムたりえない次第です。」259P
ここでさらに著者自身が自ら反問を出して来ます。「電光「場」という“質料”があり、それの状態相という“形相” (尤も、単なる空間的布置ではなく、時間的変動を絡めた“時空的状相”)があり、これら両契機の存立を俟って、素粒子、および、その運動(移動的変化)が成立しているのではないのか?――この反問の発想は、「質料的にも形相的にも自己同一な或るもの」(つまり「原子」)が在って、それが空間内を時間的に移動していくというまさにアトミズムの想定に還帰しております――。この反問への回答を期しつつ、素粒子というものはそういう存在体ではない旨を説明するためには、素粒子が「自己同一性をもたない」という事態について稍々立入って問題にしておく必要がありそうです。」259-60Pと次の段落(項)の課題を出して話に踏み入っていきます。
第三段落――「素粒子は自己同一性をもたない」ということ 260-3P
「学兄は、「復(「また」のルビ)あの話か」といって辟易されるかもしれません。しかし、前々便でお約束した丹治信春氏の画期的な論文を紹介する前梯という含みもあって、「素粒子は自己同一性(「セルフアイデンティティー」のルビ) をもたない」ということに関する、朝永振一郎氏の説明を祖述するところから始めます。」260Pとして、(『量子力学的世界像』弘文堂刊、三八〜三九頁)からの引用です。
「「素粒子は一つ二つと数えることができるという点では、通常の粒子に似ている。実際に我々は、素粒子を一つ二つと数える方法をもっている。・・・・・・素粒子はその一つ一つが自己同一性をもっていないという点で通常の粒子とは異なったものである。簡単のために、米粒が二つあったとしよう。この時、……一方の米粒に、例えば一郎という名前をつけ、他方の粒に次郎という名前をつけて、それらを互いに区別することができる。……双生児の名前を人が時々間違えるように、どちらが一郎でどちらが次郎であったか、わからなくなることもあるであろう。しかし、そういうことがあったにしろ、それは見る人に区別がわからないだけであって、実際には、一郎はやはり一郎であり、次郎はやはり次郎である。……こうして、通常の粒子は一つ一つが自己同一性をもっている。ところで、今二個の光子(「ツオトン」のルビ) をとってみる。この時には事情が異る。即ち我々には二つの光子の一方が一郎であり、他方が次郎であるというふうな区別をすることは、そもそも出来ないのである。……同じ種類の素粒子は……その区別を考えることが原理的に出来ないのである。難しくいうと、素粒子の一つ一つは自己同一性をもっていないのである。」」260-1Pと引用し、著者の論攷に戻ります。
「では、一体なぜ「米粒」といった巨視的(「マクロ」のルビ) な存在と「素粒子」といった微視的(「ミクロ」のルビ) な存在のあいだで、このような相違が生ずるのか? 朝永氏は、この件の説明に関する物理学者の常套(「じょうとう」のルビ) に訴えて、まずは「量子統計」上の事実を持出されます。・・・・・ここであらかじめ「統計」ということが当座の論趣にとってももつ意味を銘記しておきましょう。」261Pということで、「統計」的話に踏み込んでいきます。
「二個の米粒、二枚の銅貨は、肉眼ではもとより、物理・化学的に精密に測定しても区別がつかぬほど酷似している場合があります。しかし、そのような場合でも、両者の各々が別々の固体として自己同一性をもっていることを挙示するためのギリギリの方法が考えられます。それが、結局のところ、「統計」的な挙措と相即します。・・・として、銅貨をなげて裏表が出る確率の話に入ります。・・・現実には銅貨のケースでは、確率が1/4、1/2、1/4、になっていることが確かめられるわけで、認識上は、“表裏一枚ずつ”という“同じ”場合が、実在上は“一郎が表で次郎が裏”と“次郎が表で一郎が裏”という別々の場合から成っていることが察知される所以となります。こうして、直接的な比較弁別は不可能なケースでも、各銅貨がそれぞれ個体的自己同一性(同類の他者との個体的区別性)を“客観的には”持っていることが“挙証”されます。/話が大層くどくなりましたが、「統計」などという聊か胡散臭い代物が、個体的自己同一性の存在を挙示するためのギリギリの手続きとして、さながら“救いの神”なのです。」261-2P
で、素粒子の場合の話です。「最早お察しの通り、素粒子の場合には、統計的に調べてみますと、米粒や銅貨のケースとは“違って”、先の例に比定していえば、確率が1/3、1/3、1/3になっております! 従って、素粒子は、存在上も客観的に「自己同一性をもたない」ことが論決されます。」262-3P
で、まとめ「このような次第で、「素粒子」は、マクロな米粒など、われわれが普通に“個体”と呼んでいるものとは“違って”自己同一性をもたないということ、朝永氏はまずこの旨を説いておられます。」263P
「朝永氏は、そこで第二弾として、素粒子が自己同一性をもたないという奇妙なことがなぜ存立するのか、このことを素粒子の本性に即して説明されるのですが、この点にはあとで立ち帰ることにして、ここでは丹治論文を紹介しておくのが順路です。」263Pと次の項の紹介です。
第四段落――丹治信春論文の論究(第七便を受けて) 263-70P
「気鋭の科学哲学者、丹治信春氏は「科学基礎論学会」の機関誌(『科学基礎論研究』第十三巻第三号)に昨年[一九七八年]発表した論文「米粒の自己同一性――古典統計と量子統計――のなかで、米粒でさえも実は自己同一性をもつとは言えないことを論証してみせました。/拙論の土俵に引込んで申せば、丹治氏の論考によって、いまやあの統計というギリギリの手続、あの“救いの神” に訴えて「事物の実体的自己同一性」を“挙示”することがもはや不可能になり、「関係の第一次性」という存在観に対して“実体主義”の論陣が敷いていた「最後の防御線」が巨視的世界(「マクロ・スコビッタ・ワールド」のルビ) においてすら破綻した次第なのです。」263P
「さて、丹治氏は「自己同一性」という概念そのものが多少曖昧であることに鑑み、自己同一性ないし個体性ということが問題になる場面を三つに劃定することから始めます。/(@)時間を度外視して、または一時刻を指定して、現実に存在する一つの個体の個体性、もしくは二つの個体の区別性を問題とする場面。(A)時間における、個体の持続的同一性。(B)一つの個体についての様々の可能な状況を考えた場合の、それら可能的諸状況を通じての個体的同一性。」263-4P
「右の(@)の場面では、素粒子といえども、あれとこれとを区別して、一つ二つと数えることができる以上、個体性・自己同一性をもつと言うことが許されますし、この意味でなら、素粒子と米粒とのあいだに本質的な相違があるとは言えません。そこで、素粒子には自己同一性がないと言われるのは、(A)または(B)の意味においてであること、このことを確認したうえで、氏は次ぎのように論を起こします。」264Pというところで、丹治氏の朝永氏の米粒での「自己同一性」へ批判の論考が出てきます。それは、次の例示で纏めています。
「「例えば、二つの箱(A・B)にでたらめに二個の米粒を投げ込む実験をすれば、Aの中に二個入る場合、AとBとに一個ずつ入る場合、Bの中に二個入る場合の数の比は1対2対1になる」。ところが『これに相当した、より複雑な事柄』の示すところによれば、光子の場合、右に対応した三つの場合の頻度の比は、1対1対1になる」。この差異が生ずるのは、先刻周知の通り、米粒の場合には、箱ABに一個ずつ入っていても、どちらの米粒どちらの箱に入っているのかの個性的相違があり、「四つの等確率の場合がある」のに対して、「素粒子では『1がAで2がB』と『1がBで2がA』とは同じ一つの事態であり、したがって等確率な場合の数が三つしかない」ためである。物理学者たちはこのように説明する。「しかし、この説明には――丹治氏のいう――誤りがある。その誤りというのは、素粒子について自己同一性を否定する際の誤りではなく、逆に米粒について自己同一性を肯定する際の誤りなのである」。」265P
「丹治氏は、こう断案を下したうえで、右の提題の論証に進みます。あの1/4、1/2、1/4、という確率分布を論拠にして「米粒には自己同一性がある」と主張することはできない旨を氏は示します。/これまで誰一人考えてもみなかったことなのですが、丹治氏は「米粒には自己同一性はない」という仮定を置いて処理しても、「実験による統計的結果と矛盾しない」ことを証明してみせたのです。学兄は「そんな馬鹿(ママ)な! その仮定条件のもとでは1/3、1/3、1/3という確率分布になり、実験的統計結果に合わない」と仰言(「おっしゃ」のルビ)るかもしれません。だが、「自己同一性がなければ1/3、1/3、1/3になる」という帰結は、或る特殊な仮定条件をもう一つ加えた場合に限って生ずるのであり、その特殊な仮定条件たるやおよそ無理な代物なのです。この無理な仮定を置けば、問題そのものが事実上ナンセンスになってしまいます。しかも、このナンセンスめいたケースでさえ、事柄の本質からすれば、決して単なる例外的例外ではなく、通則に適っているのです。――少々先廻りしたようです。この特殊的仮定条件を置いた異例なケースはあと廻しにして、まずは通じよう的なケースを見ておきましょう。」265-6Pとして、丹治氏の指摘を見ていきます。
「丹治氏は、証明の前提として、上述の「米粒には自己同一性がない」という仮説的想定(前提1)のほか、前提2として、同じく箱AまたはBの中に落ちるといっても「米粒の落ち方には、千差万別、非常に多くのヴァリエーションがある」。前提3「それらのヴァリエーションの数は、AとBで同数であり、それぞれN(前提2によりNは1よりはるかに大)である」。前提4「前提1、前提3により、n個の米粒を同時に投げたときの全体としての落ち方は、二N個の中からn個の落ち方を指定することによって完全に決まるが、それらの落ち方の確率はすべて等しいものとする」。」266Pとして、「さて、これらの前提から、二個の米粒を投げるときの様々の確率を計算する」次序ですが、「二個の米粒が『全く同じ落ち方』をする可能性について、『量子力学的効果』をも勘案」すべき茲では「二つの場合を区別する必要があります。/第一には、完璧に同じ落ち方をする可能性を排除する場合で、このさいには「パウリの禁句」の成立する「フェルミ型の統計」に従うことになります。第二には、当の可能性を容認する場合で、このさいには「ボーズ型の統計」に従うことになります。」266-7Pとした上で、「丹治氏としては、「<二つの米粒が、全く同じ様式で落ちる>という可能性を、『物質不可入性の原理』によって排除すべきか、それともそのような事態が『トンネル効果』的に起こり得ると考えるべきか、ということに関する断定は保留して、ともかく両方の場合を計算してみせます。」267Pと計算式を記載しています。ここで、この著は縦書きなのですが、横書きの計算式で、<1.フェルミ統計にしたがう場合>と<2.ボーズ統計にしたがう場合>の二つの計算式が出てきます。そして、そこから丹治氏の論攷が展開されます。
「「御覧のように、米粒に「自己同一性がない」と仮定しても、――落ち方の可能性が千差万別だというナチュラルな想定のもとでは――米粒の通常の統計的ふるまい(あの1/4、1/2、1/4)と何ら矛盾を生じないのです!」/(著者廣松さんの内容をつかんだ挿入文)ここで翻って、元来「自己同一性のない」素粒子の場合を考えてみましょう。「素粒子についても――と丹治氏は言います――非常に多くの状態に二個の素粒子が分配されるとき、それら多くの状態の半分をAグループ、残りの半分をBグループとするならば、素粒子が二個ともAグループに属する状態になる場合、一個がAグループで他の一個がBグループとなる場合、二個ともBグループになる場合の確率は、[これまた前掲の諸式で計算されるのであるから]、それぞれ1/3、1/3、1/3ではなく、1/4、1/2、1/4となりなるはずである。米粒の実験に対応する素粒子の場合の事情とは、このようなものでなければならないのであるのである」。」268-9P
(小さなポイントでの廣松文)「丹治氏は、念のため「自己同一性」を認めた場合にはどうなるかの計算も呈示します。この場合には、先の「組み合せ」を「順列」で置き換えればよいわけで、フェルミ型では前掲の諸式と結果的に全く同様、近似的に1/4、1/2、1/4になり、ボーズ型では正確に1/4、1/2、1/4になります。フェルミ型では“近似的”にしかならない理由は、そこでは「パウリの禁則」によって、二個の米粒が「全く同じ落ち方」で落ちる可能性が排除されていることにもっぱら懸かっております。」269P
「「以上の結果は――丹治氏は結論部で表明します――『量子統計は極限的には古典統計になる』という一般的な事情の一例にすぎないかもしれない。しかし、少なくとも明らかになったことは、米粒の統計的にふるまい(コインのトスでも同様)から米粒に『自己同一性』があるかないかを言うことはできない、ということである。今まで見てきた通り、『自己同一性』があってもなくても、ほとんど同等な統計的ふるまいをするのである」。そもそも「素粒子が『没自己同一的』なのに、それの複合体である米粒には『自己統一性がある』と考える方がむしろ不合理であろう」云々。」269-70P
二 遷移の当体と「可能態」・「現実態」
(前の節を承けて)「弁証法の体系構成法とは無関係な傍道に脱線したとお思いでしょうか? 迂生としては決してそうではない心算です。尤も、丹治論文は非常に特殊な学会誌は発表されたものであり、参照を求めただけでは繙読されず、惜(「あ」のルビ)たら埋もれる惧れもありますので、稍々紙幅を割(「さ」のルビ)きすぎたきらいはあります。・・・・・・・。」270P
第一段落――「変化の当体」−事物が「自己同一性をもたない」所以の存在論上の構制270-4P
(この項の問題設定)「ところで、弁証法的存在観の根幹に関わる運動・変化という概念は、嚮に確認した通り、「それが変化」するところのそれ――、アリストテレス式にいえば「それでありつづけるところのそれ」――つまり、自己同一的な当体の存立を要求します。しかるに、只今、丹治氏を援用して見たように、巨視的世界においてすら事物が自己同一性をもつとは言えないとすれば、「変化の当体」ひいては「変化ということ」が成立しえなくなるのではないか? この疑義に答えるためにも、「自己同一性」ということそのものを規定し返す必要があります。この作業を進めるためには、事物が「自己同一性をもたない」所以の存在論上の構制を検討してみるのが捷径だと考えます。――折角ですから、丹治氏の議論とも接点をもたせるかたちで立論しましょう。」270-1P
「問題のポイントを再確認しますと、人々は通常、二つの事物は性質的には全く同じであっても、この物をこの物たらしめる所以の、あの物をあの物たらしめる所以の、それぞれ個性をもった存在であると思念しております。そして、性質が全く同じであるにもかかわらず、この物とあの物とを個体的に区別せしめる所以の、それぞれの当体をなすものが、両者の“実体”であると人々は考えます。このさい、性質上の同一性というのは、認識能力の粗雑さの故の弁別不能という消極的・主観的な“同一性”ではなく、客観的な「同一性」の謂いになっております。――この思念においては、両(「ふた」のルビ)つの事物が客観的にいって、「性質上=同一」「実体上=別異」という了解になっているわけですが、そのような二つの事物が別々な時点に出現したとすれば、神様の眼にはいざ知らず、苟くも人間にとっては、それが同一実体の再現であるのか、別々の実体の出現であるのか、これを判別することは原理的に不可能です。ところが、両者がもし、同時に並存するとすれば、事態が多少変わります。両者のうち、すくなくとも一方を持続的に認識していた場合には、区別がつくはずです。同時に出現した場合はどうか? さしあたり、彼(「あ」のルビ)−此(「これ」のルビ)という区別しかつきません――。」271P
「惟うに、しかし、性質が全く同じならば、実体的にも全く同じだと認めざるを得ないのではないか? 「性質=同質」かつ「実体=別異」というけれど、実体が別々という以上、“実体的性質(?)”が違うのではないか。もしそうならば、「性質=同一」という前件が崩れる。そこで、“実体的性質(?)”まで同じならば、両者は文字通り同一体になりはしないか。いや彼(「あれ」のルビ)−此(「これ」のルビ)の区別が厳存する、と人々は主張します。では、「あれ」「これ」の区別とは何か? 占めている空間的場所の違いであるのか? もしそうなら、それは一種の“性質的”差異になる。だが、この点は暫く措いて、単なる位置の相違にすぎないのならば、両者の位置を入れ換えれば、一郎が次郎に、次郎が一郎に変身してしまうのか? 人々は、そうは認めない。場所を入れ換えても、実体が変身してしまうのはないのであって、一郎はあくまで実体的に一郎であり、次郎はあくまで実体的に次郎である云々。こうして、“実体”とかいう得体(「えたい」のルビ)の知れぬものがあって、それが個体的同一性、対他的区別性の存在根拠だとされている次第です。そして人々はそういう個体的実体性の存在する根拠として、客観的に性質が全く同一な二枚の銅貨とか、二個の米粒だとかの「統計的ふるまい」を持ち出すのが常でした。彼らにとって、これがギリギリの“救いの神”だった次第です。――この「統計的ふるまい」の議論では、二個の当体は、単に主観的・認識上ではなく、客観的性質が同一とされていることに留意ねがいます。さもなければ「ふるまい」に片寄りが生じて、あのような統計的分布にはならないことでしょう――。」271-2P
そこで、「人々がこれまで頼ってきた“救いの神”が恃めないことを丹治氏が暴露した捷径わけですが、学者たちは従来どこで錯覚に陥っていたのでしょう。そして、どこで計算の仕方(式の立て方)を誤っていたのでしょう?」272Pという問題を立てます。
「話は簡単です。人々は従来、銅貨でいえば表が出たか裏が出たか、米粒でいえばA箱に入ったかB箱に入ったか、その結果だけを問題にし、そのような結果に到る途中の運動状態が千差万別でありうることを無視してきました。現実仮定としては、落ち方が多肢多様であることを十分承知しながらも、結果が同じならば同じ事象ということにして処理していたわけです。“同一視”、事柄に即していえば極めて特殊なこの仮定的条件のもとにおいて――これが先に「特殊な仮定的条件をもう一つ加えるかぎりで云々」と誌しておいた当のものにほかならないのですが――あの1/4、1/2、1/4という確率分布を説明しようとするとき、「一郎がAで次郎がB」と「次郎がAで一郎がB」の場合との区別が要件になるのです。丹治氏は、同じくAに入るといっても可能な「落ち方」が千差万別だということから、前提2で「Nは1よりはるかに大きい」としましたが、従来の人々は、Nが1であるという仮定、つまり、Aに入る落ち方は唯の一通りしかないという仮定を無意識のうちに設けていたわけです。・・・・・・・。」272-3P
「ここで、学兄は、“同じ”ものが「同一の」条件で投ぜられるのであるから、落ち方は一通り(つまりN=1)だと想定するほうが却ってナチュラルではないか、と反問されるでしょうか? しかし、もしそういう同一態を考えるなら、表が出るか裏が出るか、Aに入るかBに入るか、初期状態によって一義必然的に決定されていることになり、そもそもあのような確率分布ということが問題外になってしまうと思います。――このさい、全く同じ初期状態から出発しながら、結果が岐れるのは、まさに、“実体”のなせるわざだと言うとすれば、余りにもナンセンスです。/それでは、同じ初期状態といっても、一義必然的でなく、N》1になるのは、実際には、初期条件の“同じ”が微妙に差異を孕んでおり、厳密にいえば「同じでない」所為(「せい」のルビ)なのでしょうか? 実際問題としてはそうかもしれません。しかし、謂う所の「微妙な差異」なるものが、サイコロの重心のズレといった固定的な差異、つまり、確率分布を不均等にしてしまうような差異であっては、当面の論趣から外(「はず」のルビ)れます。ここにいう「微妙な差異」は、いきなり量子力学次元での「不確定性」でこそなけれ、いわゆる「ゆらぎ」のカテゴリーに入るものでなければならず、初期状態の同一性とは「ゆらぎを伴う同一性」でなければならないと思います。」273-4P・・・たとえば銅貨の性質が全く「同じ」などという設定自体の問題、重さも色もミクロ的には「微妙に」違っている筈なのです。
第二段落――弁証法的飛躍の問題と函数的変項の充当 274-82P。
「弁証法に謂う運動・変化は、あらためて申すまでもなく、いわゆる連続的な運動だけではなしに、「弁証法的飛躍」と呼ばれる不連続な変化をも射程に収めるものです。ですから「持続的同一者」としての変化の当体は、いわゆる「量より質への転化」といった不連続的・飛躍的な変化の当体である場合をも包摂し得ねばなりません。こういう変化とその当体は伝統的な実体主義的存在観のもとではおよそ扱い得ないものであり、これを権利づけるためには幾つかのポイントで実体主義を内在的に止揚しておく必要がある所以です。/ここまで話せば「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」の増幅が動態的平衡系の「破綻−再編」という仕方で、弁証法的飛躍を現出せしめうることを連想して頂けると念います。がしかし、単にこのことを論材にしたかったのであれば直截に熱学的な平衡の場面に題材を求めた筈です。敢て、素粒子だ米粒だという論件にかかずらわったのは、もう少し別の思惑をも秘めていたからにほかなりません。――伏線の一端を手繰りながら本線に繋げることにしましょう。」274-5P
「前に、朝永氏を援用するに先立つ場面で、変化ということに関するアトミズムの説明方式に関説しておきました。また、先刻、相同的な二つの物体の空間的位置の入れ換えという問題に一寸論及しました。此処では、ひとまず、この論件に立ち戻ります。/扨、性質的には全く同じ物体は「位置を入れ換えても、それぞれ実体的自己同一性を保持する」という伝統的な思念では、まず、「空間的位置」ということが「性質」から除外されていることを見咎めざるをえません。ここでは、空間なるものは実体や性質とはレアールな関係ない「空無」であり、単なる座標系にすぎないものとして扱われております。空間と物体との斯用な分断が原子論的な発想と相即するものであること――因みに、地・水・火・風といった「元素」をアルケーとする存在観では、空間と質量が不可分であり、これら「元素」はいずれも「空間的質量・質量的空間」とでも呼ぶべきものになっております――そして、この原子論と相即的な「空間」と「質量」との分離のもとでは“実質になんら何ら変化をきたすことなく空間的場所だけを替えることができる”と想定されていること、しかるに「場の量子論」においては「場」は一種の「質量的空間」であり、位置だけを入れ換えることは原理的に不可能であること、この件は拙著『事的世界観への前哨』第二部第一章および第三章で評論しておいた通りです。ここでは、それゆえ、この論件そのものに立ち入ることは省きますが、われわれとしては「空間的位置」をも「性質」のうちに算入してしかるべきです。そのときには、前々便でも一寸 ふれましたように、二つの“性質的に相同”な物体の位置を入れ換える(精確には、同じ位置に置く)と、今や性質的に全く同じになります。ところが、人々は、従来、それでもなおかつ、一郎は一郎であり、次郎に変身するわけではないということ、つまり、実体的自己同一性を強弁しておりました。しかるに、今や、彼等の“救いの神”がなくなったのですから、位置を含めてすべての性質が同じものは全くの同一者であるとせねばなりません。――ここでは、“性質”とは関係規定の内自化されたものであり、性質を担う基本的実体なる格別なものが存在するわけではないから、従来、“性質を具えた物”という相で思念されていたところのものは、実は関係規定の“結節”にすぎない云々という持論を蒸し返そうというのでありません。今や、問題はその先です――。こうして、今や、全く相同な“二つ”の事物(正しくは「一つ」の事物)は、「パウリの禁則」に従っていると言うことも、「トンネル効果」で重なっていると言うこともできます。/こうなりますと、二枚の銅貨、ないし、二個の米粒を「同じ初期状態で投げるというとき、それはまはや二つのものではなく、「一つ」のものということになり、その「一つ」のものが「同じ初期状態」から出発しながらあのような確率分布で結果し得るということになるわけで、当体はまさに量子力学に言う「確率波」的な存在になります。それは全く同じ“一つの”ものでありながら、同じ初期条件から出発した運動の結果が決定論的な一義性をもたない。とはいえ、得手勝手にランダムな運動・結果を生ずるのではなく、一定の確率函数で表現される大枠内で運動する「同じ当体」「同じ状態」でありながら、いわば「ゆらぎ」を伴っている存在、このような相で表象される次第です。」276P
「この非決定論的な運動・変化の当体、――これはあの“性質を具えた実体”ではなくして、“関係の結節態”として「函数的連関態」をなすわけですが――、この当体、むしろ「状態」が「可能態(「デュナミス」のルビ)」「現実態(「エネルゲイア」のルビ)」という概念と結びつくことにお気付きだと思います。視点を換えていえば、われわれにとって「運動」「変化」ということが、ないしは、その当体なるものが「可能態」「現実態」という存在様相(「モダリテート」のルビ)とリンクする次第なのです。/このさい、われわれとしては、同じく「可能性」といっても、二つの次元を一応分けて考える必要があります。弁証法に所謂「量的変化」と「質的変化」とに関連づけて申せば、第一に「量的変化」つまり「同じ質を保持するという意味での同一性の埓内での変化」であって、ここでは「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」という可能的変化とそれの現実化された相での積分が問題になります。第二には「質的変化」の次元であって、ここでは「揺動」の増幅が動態的平衡のマクロな破綻と再編をもたらす可能性が問題になります。――そして、これらの構制が、弁証法における運動・変化の「必然性と偶然性」という問題ともつながります。」277P
「「様相」という論件は、しかし、何分にも大問題ですので、ここで一気に立入るわけにはいきません。後日、機会を設けて主題的に扱ってみることにします。が、当座の論趣にとって必要な限りで、可能態(「デュナミス」のルビ)と現実態(「エネルゲイア」のルビ)の問題の一斑にだけ簡単にふれておきましょう。/「可能態(「ポテンティア」のルビ)」とか「現実態(「アクトウス」のルビ)」とかを云々し、「潜勢的(「ポテンシャル」のルビ)な態勢」とか「顕勢的(「アクチュアル」のルビ)態勢」とかを持ち出しますと、学兄は何かしら旧い形而上学への逆戻りになりそうな懸念(「けねん」のルビ)を懐かれるかもしれません。慥かに、概念そのものとしては、これらはアリストテレス・スコラの形而上学における重要な概念でした。しかし、われわれの場合、これらの概念を改鋳すること勿論です。――ヘーゲルが「即自態(「アン・ジッヒ」のルビ)」「対自態 (「フェア・ジッヒ」のルビ) 」というさい、いつもというわけではありませんけれど、或る種の論脈では、「可能態(「デュナミス」のルビ)」「現実態(「エネルゲイア」のルビ)」の含みを持たせていることは、更めて想起を求めるまでもありますまい。ヘーゲルの弁証法は彼流に復活させたデュミナス・エネルゲイアを抜きにしては存立し得ません。いつぞや、ヘーゲル『論理学』の展開の構図に関して、有論では「移行」、本質論では「照映」、概念論では「発展」という建前になっていることを紹介しましたさいに、「発展」についてはまさに可能態から現実態への生物の成長になぞらえてヘーゲル自身が説明しているのを見ておきました。因みに、「概念論」では「機械的関係」や「化学的関係」なども扱われているのであり、可能態・現実態という概念は決して単に“生物態的”な存在者だけに適用されているわけではありません。マルクスの場合にもやはり、デュミナス・エネルゲイアという概念が重要であることは、夙に花崎皋平氏の指摘がある通りです。――爰では、学兄の懸念を鎮めようという魂胆からではありませんが、ヘーゲルやマルクスの語法を解説する流儀においてではなく、まずは思い切って平俗に述べておきます。」277-8P
「伝統的な形而上学との関連性は措くとして、普通、「檞の実(「どんぐり」のルビ)」は「檞(「かし」のルビ)の木」の可能態であるという言い方――一般に、「種子」や「受精卵」は成体植物や成体動物の可能態であるという言い方――がされますし、仔は成獣の、蕾は花の可能態であるという言い方がされます。・・・・・・ところが、可能態であるされるAが現実態とされるBにナルことが必然的・規定的だとすれば、これは古代ギリシャのメガラ派以来の議論ですけれど、Aに可能性を云々することは実際上無意味になってしまい、Aは規定的・現実的にBであったいう仕儀に陥りかねません。そこで、団栗は檞の木になるとは決まっておらず、腐って“土”に成る可能性、鳥に喰われて“糞”に成る可能性、人に拾われて“数珠玉”に成る可能性……もあると認め、“土”の可能態……、“糞”の可能態……、ということにすれば、金塊が金貨の、米が酒の可能態というのと同趣になってしまいます。先には、AがBに成る、その「成る」が必然的でしたが、今度は、偶然的で、(事によっては「成ることもあり得る」という意味での)可能的にすぎないことになります。この単なる可能性という意味に定義しても悪いとは申しませんが、この場合には可能態Aが現実態Bに成ったといっても、そもそも不可能態が現実態に転成するわけではなく、現実態に成るのは可能態に決まりきっておりますから、「可能態Aが」という言い方、つまり、AをことさらBの「可能態」と呼ぶことが実際には無意味になってしまいます。――という次第で、「可能態−現実態」という概念が有効にはたらくためには、右に述べた両極の謂わば“中間”で定義される必要があります。」278-9P
「偖、AがBに成るというさいのBをどう限定するかが鍵になりそうです。今仮に団栗が「檞の木」に成ることは既定的だと想定しても、現実的に存在するに至った檞の木の定在は必ずしも一義的ではありません。それは楠(「くす」のルビ)や橅(「ぶな」のルビ)といった別種(別の概念)のものに成るわけではなく、「檞」という限定の範囲には納まりますが、枝ぶりとか幹の大きさとかは多種多様であり得ます。――ここで、前々便でしたか、カッシーラーの「函数概念」やヘーゲルの「具体的普遍」にふれた論議を憶(「おも」のルビ)い出して頂けると幸いです。伝統的な実体主義的概念理論では、概念(内包)は実体的本質に照応するものと思念されておりましたので、固定的・一義的という建前でした。なるほど、その概念に下属する外延群には一定の多様性が認められましたが、概念(内包)そのものは固定的・硬直的でした。その点、「具体的普遍」に照応する「函数的概念」の場合には、BならBという概念、それは一定の“函数”としての限定性をもつ「一つの概念」でありながら、“変項”がさまざまな値をとりうるものであり、実体主義的本質概念のような硬直性を免れております。この「函数的概念」ということを用いて規定しましょう。――Aは必ず函数Bの特定値(の相で現実態)に成る。が、どの特定値をとるかは不確定的・未定的である。そのようなAをBの可能態と呼び、現実化された特定値のBをAの現実態と呼ぶ。このような大筋で「可能態−現実態」を定義してはどうでしょう。本当はもっと精密な書き方をしなければならないのですが、ここでは趣意さえ通じれば当座の間に合います。」279-80P
「右のように規定するさい、Bは「団栗に対する檞」というような狭い限定ではありません。選択肢が確定してさえいれば、あのお染馴の銅貨を投げた折の「表・裏」の状態ごときであっても差支えありません。Aの側についていえば、これまた函数的に表現されうるにしても、或る「同一の初期状態」がそのままBに対する可能態として措定されるということが味噌です。」280P
「このような「可能態−現実態」の定立は、一昔前までは、つまり、古典物理学的な決定論的世界像が支配的であった時代には、存在論的にみて全くのナンセンスだと見做されたことでしょう。最も好意的な場合でさえ、それはたかだか日常用の“粗雑な認識”に応ずる便宜上の概念装置としか認められなかったと思います。というのも、決定論的な因果必然観のもとでは、初期条件が同一であれば結果も一義的に決まっていることになり、あのメガラ派の指摘と同趣の論理で、可能態が可能態でなく、謂わば必然態になってしまうからです。しかるに、今や、量子力学における不確定性原理によって、降っては亦、動態的平衡系を扱う場合には「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」を完全に消去することが不可能なことによって、「同一の初期状態」から、一定の限界枠内においてであるが「非一義的な帰結状態」が現成するわけで、これに応ずる概念装置が要求されます。われわれの立てる「可能態−現実態」は、まさにこの要求に応えるものであり、しかも、弁証法的な運動論・変化論の論理構制に応ずるものにほかなりません。」280-1P
「茲はまだ「弁証法」における「運動様相論」に立入る個所ではありません。が、とりあえず、只今の立論を踏まえて、先刻から持越した“設問”に答えておきます。――「素粒子は場の状態にほかならない」と謂うさい、「場」という“質料”があり、状態相という“形相”があって、謂わばこの「質料−形相」成体が素粒子なのではないか? 視角を変えて言い換えれば、素粒子とは“質料”的に同質で且つ“形相”的に同形であることを維持しつつ(まさに「原子(「アトム」のルビ)」として)空間内を移動する存在体なのではないか? これが持ち越した問題です。さて、「原子(「アトモン」のルビ)」なるものは、たしかに、「質料的にも形相的にも自己同一性を維持しつつ」、「空間内を移動する」存在体として規定されます。皮相に考えると、「素粒子」もその範に漏れないかのように思えます。しかし、「場」の量子論にあっては、「場」は、原子論が必要条件とするごとき「空虚な空間」、つまり、没質料的な、単なる「場所的空間」ではなく、一種の「質料的空間=空間的質料」です。この点でまず、原子論(「アトミズム」のルビ)とは相容れない存在論に立脚しております。そのうえ、素粒子の場合、なるほど「質料・形相」の両契機から成ると言われうるにせよ、原子が謂わば一定の“質料塊”を閉じ込めたかたちで、その“塊”ごと動くのに対して、素粒子の“質料”は謂わば進行につれて入れ換わります。しかも、この“入れ換わり”は、竹輪を水中で縦に動かす時のように均質な質料(「マテリー」のルビ)が流入・流出しつつ、どの瞬間にも同質の“水”で中空部が充たされているといった相ではありません。「場」はいくら「質料的空間」だといっても、水のように現勢態で既在するのではなく、右の譬えでいえば、竹輪の中に入り、“形相”と“結合”した態勢になるかぎりで「可能態から現実態へと転成」するのであり、その前後には「可能態」たるにとどまっております。「場」は、量子化されている現勢態=現実態の“個所”以外では「可能態」という様相で“存在”するにすぎないのです。この点で、まさに“現実態での質料” (という非アリストテレス的な“質料”)ブラス“形相”の形成体として自己同一性を保持する「原子」と、「素粒子」とはおよそ相違する次第です。」281-2P
「ここに、一方の「原子」と他方の「素粒子」(つまり「場の状態」を量子化したもの)との異同について述べた所から「関係の第一次性」という非実体主義的な存在観のもとに、実体的な自己同一性をもたない「関係の結節態」を「運動・変化の当体」として措定する構制を賢察いただけると念います。次には、この件について若干エクスプリシットに申し述べてみましょう。」282Pというまとめと、次節の予告です。
三 変化の諸相と「函数態的当体」の措定
第一段落――「変化」という概念の時代的変遷と原子論的世界観への転化 282-7P
「運動とか変化とかいうとき、近代では何は措いても、典型的には「場所的移動」の相で表象するのが普通だと思います。しかし、例えば、古代ギリシャでは、運動(「キネス」のルビ)の典型は生物の成長でした。少なくとも地上的世界での変化に関するかぎり、中世ヨーロッパにせよ、東洋においてにせよ、生物の成長ないし生誕・死亡が変化の典型だとみなされていたのではないかと思います。近代では一体なぜ空間内的移動という力学的・機械的な運動が典型とみなされるようになったのか? それには社会生活上のありかた、対自然関係のありかたが、従前とは大きく変わったという歴史的な事情があると思いますが、存在観の論理的構制に即していえば、原子論的な発想の構図(古代ギリシャでは、およそ傍系の思想にすぎなかったこの観方)が支配的になったことに負うものと言えましょう。勿論、変化ということが、直ちに「原子」の次元に還元して理解されるというわけではありません。だが、物体の変形はそれを構成している諸部分の配列的布置の変化として理解されますし、生成・消滅にしても、真の有化・無化ではなく、或る原子的構成分の結合態の成立と解体として理解されます。生物の成長ですら、それを構成する結合部分体の増加や布置的変化ということに還元されます。そして、一切の変化は詮じ詰めていけば、原子の運動ということで了解される次第ですが、「原子」なるや、それ自身としては不生・不滅、不変質・不変形であり、位置を変えることしかできません。畢竟するに、原子論的存在観のもとでは、論理構制上、変化と言うことは終局的には原子の空間的移動でしかあり得ないわけです。が、反面からいえば、この「移動」ということで一切の変化の“説明”が一応はつきます。」282-3P
「弁証法の場合――現代物理学においては“アトム”たる「素粒子」が、いわゆる原子論的な存在観・変化観を許すごとき往時の実体的原子ではないという先刻確認した事情を持出すまでもなく、それ以前に、――そもそも実体主義的な存在観を卻けるのですから、原子論の流儀で、つまり、嚮(258P)に挙げた(3)の仕方で「変化」という事象を説くわけにはいきません。それでは、弁証法は「変化」および「変化の当体」をどのように規定し、どのように説明するのか? いまや、この問題に直截に答えることを要求される段取りです。」283-4P
「「変化」と一口に言っても、多肢多様ですから、幾つかの類型に予め分類しておくのが順序です。――ここでは、まだ「様相」の区別には立ち入ることなく、謂わば外面的な分け方に止めます。/第一に「生滅的変化」、第二に「変様的変化」、第三に「移動的変化」、われわれは、これら三つの類型に分けて、「変化」を整理することができるはずです。尤も、タイプとしては斉しく「生滅」「変様」「移動」と言えても、「能知−所知」の媒介関係を対自化しつつfür esとfür unsとの次元的差異を絡めて論考する場面と、対象的に自存化された相で論考する場合との区別を要します。が、ここでは、ひとまず「事象的変化」を対象的な相貌で扱うことにし、それに応ずるかたちで、時間および空間をも対象化された既成態の相で前提することにします。/さて、右の条件付きの範囲内で、三者の各々について若干の分析的コメントを加えながら議論を進めたいと念いますが、行論の便宜上、順序を入れ換えて、「移動」「変様」「生滅」の順で誌すことにします。」284P
「(第三の)「移動」的変化というとき、人々の通常的な思念では、当体それ自身は自己同一的な性状を維持したまま、時間の経過につれて、単に空間的位置だけを変ずるという在り方で表象されます。ここでは、当体は自己完結的でしかも不易であり、対他的関係は時・空間的な座標的関係という抽象的でしかも非作用的なものにすぎない、と見做されます。――この“見做し”は、或る種の問題場面では、便宜的な措置として恰当な場合もあり、しかも、この原子論的というより力学的な運動にあっては、「当体が移動的に変化する」という事態を空間内の座標的位置が継時的に可能態から現実態に転成する(空無的な空間的場所が“充実態”に転成する)という言い方に“翻訳”して「位置が継時的に変化する」という事態に定式化することができます――。現実的には、しかし、時間・空間的な絶対的座標軸なるものが自存するわけでなく、移動とは四囲の具体的な定在との実在的関係なのであり、当体が場所だけを変ずるのではなく、実際には、当体を一契機とする四囲の関係態が布置的に変化するわけです。それゆえ、当の移動的変化なるものを真実態に即して十全に把える必要があります。そのさいにはむ、当体はもはや剛直的な不易態ではなく、それ自身変易相を呈する筈であり、次の「変様的変化」の一斑になります。284-5P
「(第二の)「変様」的変化の場合――空間的位置の変位が関心される「移動」の場合とは異なって――当体自身の性状的変化が問題にされます。ここでは「性状」(外面的それだけでなく、内部的な性質をも含み、また、量的規定性をも含む)こそ変化するが、当体をその当体たらしめる“実体”は自己同一性を維持するものと想定されます。――この場合、通常的思念では、“性状を具えた実体”が自己完結的な閉鎖系の相で表象され、対他的関係は空間的位置関係すら当面は捨象される扱いになります。この、「閉鎖系」としての取り扱いが或る種の問題場面で好便なことは慥かであり、そこでは継時的なその都度の状態相を当の系という埓内での“可能態から現実態への転成”として定式化することができます。そのさい性状を形成する諸契機のうちには、恒常的(定項的)なものも変易的(変項的)なものもあり、“変項的”なもののうちには、さらに、時間の連続関数をなすものも不連続関数をなすものもあり得ます。そして、その或るものは、生成・消滅を表わすこともあります。――原理的には、しかし、完璧に自己閉鎖的な系が在るとすれば、それは宇宙全体であり、たかだかその“部分”たる当体=“系”は、対他的な作用連関にある筈です。従って、真実な当体としての系は、当初には“外的”とみなしていた諸存在を組み込んで措定され直す必要を生じます。また、当体は“実体”的に自己同一性とみなされたにせよ、そのような自存的実体が実在するわけでなく、それは実は“諸性状” (正しくは関係的諸規定)の結節的総体にすぎません。当体としての通時的“自己同一性”“持続性”を存立せしめるものは、“定項”的構成分でなく、対他的な「彼−此」的区別における「これ」として、当の通時的変化系が一箇同一の(ein-und-dasselbe)関数態(時間変項を含む)として措定されるかぎりでのEin-heitにほかなりません。ここでは、今や「性状は変化するが、“実体そのもの”は恒存する」という思念が棄却されるとき、次の「生成・消滅」に帰趨する場合を生じ得ます。」285-6P
「(第一の)「生滅」的変化は、性状のうちのあれこれが出現・消失するという域を超えて“実体”そのものに関わるのが道理であり、――先の限定条件下での当面の論考準位では――それは空間的世界との関係の端的な“有化・無化”に照応する筈です。しかし、人々はとかく、実体そのものの生滅としてではなく、“実体”の或る結合体の成立・解体という相でそれを理解します。そして、これは“実体的結合体”なのであって、単なる“性状的結合態”ではないが故に、それの生滅的変化は単なる性状的変化(変様)とは決定的に異なるものだと主張します。われわれに言わしめれば、しかし、所詮は両者とも、対他的な反照における相互的関係の結節態にほかならず、実体主義的な思念の相での“決定的な相違”とやらはありません。だが、性状的変様の場合には、“有化・無化”といっても、たかだかあれこれの“項”的規定性のそれであったのに対して、生滅的変化の場合には、当体として措定される“函数的”統一態の総体にかかわる点で相違します。但し、消滅を例にとっていえば、それは諸項が斉一に恒数的に零化したという相で表象することを必ずしも許しません。というのは、“項”は元来対他的反照規定なのであり、自閉的な系の内部においてこそ斉一的な零化を云々できるにしても、それは対他的な関係性においては必ずしも端的な「無化」を意味しないからです。それは、事によっては、依然、“零函数”という相で“有る”と考えねばならない場合もあり得るわけです。(それは剛直的な持続態f(t)=const.の特殊ケースということもできましょう)。実際問題としては、生滅は従前の仕方で或る“自閉的”系を措定することを破綻せしめるごとき関係態の“変様”に帰一し、この激変がいわゆる「量より質への転化」、つまり、弁証法的飛躍の一斑に照応するはずです。」286-7P
第二段落――「変化の当体」という理論と「函数的連関態」 287-93P
「以上の行文のなかで、「変化の当体」なるものをわれわれとしてはどのような仕方で措定するかについても、インプリシットには述べたことにもなります。尤も、当面のところは前掲の限定条件に拘束されており、存在論上・認識論上の原理的な次元からみれば、いずれにせよまだ暫定的ですけれど……。当座は、しかし、この埓内であと一歩だけ議論を進め、必要な幾つか顕揚することで次善とせざるをえません。」287P
「われわれは、「地(「グルント」のルビ)」から、「図(「ツイグール」のルビ)」として顕出する事象をゲシュタルトとして対象化し、時に応じて、諸「図」の綜合的把握や「図」の“錯図化”をおこないつつ、試行的にそれを「一つの」系として主題化します。これは、当事意識にとっては、必ずしも十全な省察的手続ではなく、むしろ、即自的に進捗するフェノメナルな分節的総合であり、そこでは、当の“系”はおのずとゲシュタルト的に閉じるのが通則です。この事態を反省的に自己分析してみれば、対他的規定性が内自有化され、ゲシュタルトとしての“系”が即自有化されていること――そして、それが“属性を具えた実体”という相で思念されがちであること――が対自化されます。そして、この対自化にもとづいて、われわれは当の“関係態”たる“系”を“函数的連関態”として定立します。このようにして“函数的連関態”として把え返され、時によっては、額面通りのゲシュタルト函数」の形で定式化され、この所知性において「として」把握されるゲシュタルトが、移動であれ生滅であれ、継時的な変化相で覚知されるとき、当の「ゲシュタルト的所与−函数的連関態的所知」をわれわれは「変化の当体」として措定する次第です。」287-8P
「この際――右には大雑把な構図的枠組みを性急に誌しましたので、若干のコメントが必要と思うのですが――、「或るものを一箇同一のものとして措定する(Etwas als Ein-und-Dasselbe setzen)」という当体的措定は、別段、格別な認識作用ではありません。例えば、メロディーなどの所謂“時間性ゲシュタルト”を「一つのこの」(dies-ein)ゲシュタルトの相で「図」として覚知するとか、或る与件を「再認的に同定」するとか、反省的に対自化すれば、それはこのような基礎的な知覚的場面においてすでに存在しております。尤も、メロディー的覚知であれ、追跡的な持続的覚知であれ、知覚的に“間断(「けんだん」のルビ)” (Verbrechung)のない場合と、それのある「再認」の場合とは慥かに区別がないわけではありません。が、前者の持続的ケースですら、一定の時間閾を超えて、先行的部分が“記憶”的把持になっている場合には、「記憶的既在―知覚的現在」が「区別的統轄」の相にあり、「再認」のケースと同趣の機制になっていることが反省的には認められると思います。また、「再認」それ自身は「変化の当体」の積極的な措定ではありませんが、しかし、対象的知覚が即自的には一般にそうである範にもれず、一定の“予期的ディスポジション(disposition配置)”を伴っており、この点においても、時間的ゲシュタルトと同趣の構制がみられるわけです。そして、この“予期的ディスポジション”つまり、「知覚的現在−予期的将来」という構制が、「変化の当体」が「変化の当体」として知覚的な次元で措定されるにあたっての主要な契機になっていると思われます。そして、同じ構制が、直接的な知覚次元を超える所謂“概念思考的”な次元での「変化の当体」の措定にもスライドされているように見受けます。――ところで、知覚的であれ概念的であれ、「変化の当体」が措定されるさいに、「記憶的既在−知覚的現在」ないし「知覚的現在−予期的将来」という構制が見出されるといっても、この「区別的統轄」の両項的契機は同位的ではありません。そこでは、あくまで「知覚的現在」こそが主導的・優位的であり、反省的には、その都度、「一箇同一性」は「現在」の地歩でおこなわれます。」289Pここで、「反転図形」を援用して「A」「B」「C」の三様な見え方の話を展開しています。
「ところで、この「Aとして覚知されることもあり得、Bとして覚知されることもあり得る」ところの「一箇同一の当体」――つまり、Aという現実態をとることもBという現実態をとることも可能な或るもの――この“可能態”的散在は、Aという“値”をとることもBという“値”をとることも可能な“函数”的存在として表象されます。このことが、「反転」の場合に限られないこと、変化的諸状態をその都度の“値”とする“函数”の相で「変化の当体」を定式化できること、この点は先述のところから既に御諒解いただけていると念います。因みに、「変化」は、先に見ておきました通り、“単なる”場所的移動であっても、空間的状態の変様的変化にバラフレイズすることができ、また、生滅的変化であっても、実体主義の排却に伴って、結局は“関係的結節態”の変様的変化に帰趨します。」290-1P
「爰において、一般論として「変化の当体」は、継時的に現出する状態の諸契機を諸変項の“値”とする“函数”の形で定式化できるということ、――このこと自体は諸科学が普通におこなっていることですし、今更強調するつもりはありませんが、――そして、その“函数”的に措定される“関係的結節態”を「可能態」的存在、その都度の特定の“値”における当の関係態を「現実態」的存在として定位できるということ、さらに申せば、当の“函数”が「時間的変項」を含みつつ、且つ、一種の“確率変項”を含むとき、決定論に陥らない仕方で「法則的変化」を式述できるということ(ここではまだ、そこにおける「必然性と偶然性との“弁証法的統一”」には立入れませんけれど……)、しかも、その函数は所謂カタストロフィーを包摂しうるごとき不連続函数たることを妨げられないこと、ここに拠ってわれわれは所謂「弁証法的飛躍」をも式述できること、とりあえず以上の諸点までは彰らかです。迂生として強調したいのは、数式的処理ということではなく、実体主義のもとでは“実体”そのものには関わらない謂わば外面的現象ないし単なる量的規定性の次元でしか“函数的連関態”が存在論上の位置をもたなかったのに対して、われわれの場合、あえて言えば“質的な”函数的連関態を定位しつつ、存在様相(「モダリテート」のルビ)の次元をも配位するという構案です。」291P
著者の更なる反問的問いかけが続きます。「それは、「一箇同一の当体」として「変化の当体」を立てることの権利問題です。この件は、しかし、先に反転図形における「同一の当体」を立論した構制で事実上尽きます。「実体主義」の立場では「実体」を一義的に確定することが要求されますが、「自己同一的」な実体が存在しないという存在観のもとでは、「全体」という“実体”の余地こそあれ、そもそも「当体」として措定されるものは、その「自同性」「箇体性」に関して“自然権”を保有すべくもありません。――この意味において、関係主義的な存在観のもとにおいては「当体」の「一個性」「同一性」、実体主義的な意味での「持続性」という権利をめぐる問題(quid juris)は勝義では存在しえないのです。勝義においては、この面での所謂「権利問題」そのものが止揚される所以です。本箋で「自己同一性」に深入りしたのも、その間の事情を御理解いただくための一具だった心算です。――当体的“同一性”の措定ないし一箇同一の“当体”の措定ということは、「事実問題」としてはしかるべき根拠と手続に俟つものであっても、存在論上・認識論上の原理的な次元で言うかぎり、所詮は“便宜的な措定”にすぎません。勿論、“原理的次元で言えば便宜的”な措定とは申しても、「類種的同一性」(いわゆる“本質”的同一性)と当体的同一性(いわゆる“実体”的同一性)との差異などを規定する必要があります。が、この件については、拙著「事の現相学への序奏」(『理想』一九七六年十一月号所載[拙著『もの・こと・ことば』に収録])の参看をお願いして、ここでは唯、いわゆる「当体」の措定は、反省的現在における「彼−此」性の区別の地平での「個体」的「一者」の措定である旨を誌すに止めます。――尚、「反省的現在」を云々し「現在的地歩」の「優位」を云々しますさい、「現在」なるものを固定的に考えられては困ります。予期が次々に現在化し、しかも、予期がはずれる場合もあるわけで、その都度の「現在」的反省における統握がポイントです。(この点については、量子力学における「観測の問題」にも関説した『事的世界観への前哨』第二部第三章を参照して頂けると幸いです)。」292-3P
第三段落――残された問題−「原因」という概念、etc. 293-4P
「「当体」の措定および「変化相」の式述がおこなわれ得るとしても、しかし、運動・変化という概念規定にとって、それだけでは不充分です。「運動・変化」ということは、当事的意識自身においてすら、単なる現相的追認や予料の域を超えて、――変化の「原因」と呼ぶべきものの問題契機が対自化されずにおきません。/この「原因」という概念は、それ自身きわめて大きな問題性を孕んでいるだけでなく、「必然性」や「偶然性」という変化の様相(「モダリテート」のルビ)、さらには「可能性」や「現実性」という存在の様相とも密接不可分であり、これについて論考するためには、そもそも、茲でのような対象的に既在化された相での“時間”ではなく、本来的な「時間性」ということにまで遡って討究する必要があります。それゆえ、この大問題に関しては、「様相」の問題や、弁証法的運動における所謂「飛躍」の問題(これについては「転形」問題も含め考えているつもりです)なども絡めて、別便に譲りたいと念います。」293P
「事情が許せば、せめてここで、同じく「当体的変化」といっても、いわゆる「内発的」な運動と「外発的」運動――最終的には両者は帰一するにせよ――これの差異について述べ、夫々の応じた「当体」措定の在り方にコメントを附しておきたいと思わぬでもありません。また、生態系(「エコシステム」のルビ)をモデル化しつつ、「種内的−種間的」な重層的な動態的連関に即応した当体措定の構案に関説したい気もします。しかし、この件ですら、多少とも議論を深め始めれば直ちに上記の大問題とも絡んでしまいますので、この点をも含めて問題を持ち越すことにしましょう。」293-4P
「最後に、一寸心残りの論件について申し添えます。それは前便で「Sハ○○性に関してPナリ」と「Sノ○○性ハPナリ」とは、決してそのまま同一ではなく、或る意味では確然たる相違があるにもかかわらず――「Sハ(○○という契機に物性化される対他的反照関係に即して)Pナリ」という構制における「主題的当体S」の措定そのことの認識論的構制に遡れば――、所詮は同趣的な措定であると誌しておいたことに関係する事柄なのですが、本箋ではこの論点をイラストレイトする流儀で「変化の当体」が説明されていないことです。・・・・・・」294P
小林美穂子『家なき人のとなりで見る社会』
たわしの読書メモ・・ブログ659
・小林美穂子『家なき人のとなりで見る社会』岩波書店 2023
デモクラシータイムスで著者が出ていて紹介されていた本です。日本の貧困情況、それは経済の問題にとどまらない、貧困ということを解決する政治の「貧困」情況、とりわけ生活保護の問題をとりあげた本です。この本の著者は、小さいときの外国暮らしから、日本的政治や文化への違和を感じていたひとです。そういう中で、「つくろい東京ファンド」という反貧困運動に身を投じています。そして、丁度コロナ禍の活動としてもあったところで、その中の苦闘も書いています。
実は、わたしはひとの命と生活というところで、現実的に何かしなければというところの意義は押さえつつも、反貧困の運動は行政の補完的な役割も担わされているのではという思いがあったのですが、この本を読んでいて、そんな疑問は払拭されました。行政は、生活保護を受ける法的資格があるひとがどんどん落ち込んでいくこと、そして死にいたることさえ、死ぬに任せるというスタンスなのです。もちろん、憲法には基本的人権が掲げられていて、法治国家の体裁があるのでそれを繕おうとするのですが、まさに「放置」国家なのです。この国の生活保護の法的受給資格基準からする受給率は二割くらいに落とし籠められています。それは、「世間体」という名の日本的文化や、お上意識などから来ていることもあるのですが、著者はとりわけ大きな問題として扶養照会の問題を取り上げています。そして、最後の章で外国人難民が置かれている情況、日本政府の難民認定率の極少化、収容施設での虐待、仮放免制度というひどい制度や生活保護も適用されないなど、まさに「政治の貧困」を描いています。制度を何とかしなくてはという運動を進めつつの、現実的救済活動も担っているのです。
さて、この本を読んでいて、とりわけ共鳴したことがあります。わたしは反差別論をやっていて、反差別の位置づけということを考えていました。これほど共鳴する文をみたことがありません。それは、自分の差別性をとことんとらえよという意識をもっていること(註)、他者のとりわけ被差別他者の立場から物事を見ようという観点があること(これに関しては、自らが難民となって他国に逃れるという、まさに日本に来ている難民のひとたちをひっくり返したようなネガフィルム的フィクションを書いています143-150P)、そして他者の痛みを共苦として怒りをもってとらえていることがあるのです。みずからの生き苦しさをとらえ返し、そこから自分との根っこでつながる問題として、反貧困運動に身を投じ、自分が相対しているひとたちに逆に支えられているのだという観点も突き出しています。反差別の基本的姿勢をきっちりとつかんでいるひとです。
文章もわかりやすく、そして鋭い感性でものごとをとらえ返し、怒りや悲しみや、時には悦びも共有化しつつ、書いている文は、まさに珠玉のドキュメントです。というところで、お薦め本です。
もう少し内容をつかんでもらうために、目次をあげておきます。
目 次
はじめに――日本は「美しい豊かな国」ではなかったの!?
第1章 2021年コロナ禍日記
1 全力疾走の2020年、そのまま走り続ける2021年のあゝ無情
2 神奈川区の水際――申請書持参の女性に「申請の意思なし」の衝撃
3 カフェ1年ぶりに再開――コロナ前と変わったこと、変わらなかったこと
4 公助さん、出番です! 官民が協働したフードパントリーの報告@中野
5 差別、優生思想に居場所はない!――DaiGoへの批判は集団リンチなのか
6 中野区生活保護課の庁外移転計画と差別について
第2章 不毛の極み「扶養照会」問題
1 百害あって一利なし、生活保護申請に伴う無駄作業「扶養照会」の弊害
2 命を守るため、扶養照会の無効化を
3 朗報! 扶養照会は止められる!
4 運用改善後も相次ぐ相談。照会したがる福祉事務所の言い分を検証する
5 透明な存在――ネットカフェ15年の男性から見た社会
第3章 まだ続くのかコロナ禍日記
1 カップラーメン炎上が語るもの、パッシングにかき消された本意
2 生活保護打ち切り取り消し裁判――祖父は意を決して“熊本県”と対峙!
3 「中高年シングル女性の生活状況実態調査」報告書から聞こえる悲鳴
4 震災支援ネットワーク埼玉で起きた性暴力、その対応がダメなわけ
第4章 共存共生を目指して――生活困窮する外国人
1 帰りたくても帰れない「仮放免者の生き地獄」
2 僕が生きられる場所を探して
3 難民・移民フェスで見た夢
4 差別・排外主義に抗う市民たちが見せる希望
おわりに――粗末に扱っていい命?
とくに感銘した文を切り抜いておきます。
「差別というものは、している側がどう思うかは重要ではない、されている側がどう思うかだ。どう思わされているかだ。/わたしたちは誰一人として差別とは無縁ではありえない。どんなに取り除こうと頑張っても、偏見や差別心は私たちの心の中に澱(「おり」のルビ)のように沈んでいて、油断したり、心が荒れれば舞い上がり、浮かび上がる。「澱」をずっと沈めておくためには、まずは私たちが差別心を持っているということを知ることからだと思うのだ。痛い作業ではあるが、そこからしか前進はない。」52P
(他団体のセクハラ事件に関するコメントから)「個人も、団体も、アップデートし続けるためには、自分に都合の悪いことから逃げてはいけない。僭越ながら、そして自戒を込めてそう思う。」132P
(BBCの記者の離日に際しての記事)「出生率が低下しているのに移民受け入れを拒否する国がどうなるのか知りたいなら、まずは日本を見てみるといい」165P
「命は平等」「同じ命」「命は地球より重い」/そんなことばが「理想」であり「たてまえ」でしかないことを、私は生活困窮者支援の現場にいて、イヤというほど知っている。外国人に限らず、この国には、粗末に扱っていいいと思われている人たちがいる。」168P
「常に言っていることだが、支援は一方向ではない。「支援者」などと偉そうな立場の私たちは、実はいろんな形で利用者や相談者に助けてもらってもいる。人は存在するだけで双方向に作用するものだからだ。」172P
「粗末に扱っていいと思われる人がいなくなり、建前でなく誰の「命」も「人権」も尊重されるようになったとき、この社会は強者にとっても生きやすい豊かな場所になる。そんな社会で、私は深呼吸したいと願っている。」173P
そんな社会は強者も弱者もない社会でしょう。わたしは「障害者運動」関わって来ましたが、そのスローガンに「障害者が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会である」があります。何か暗い話を中心にとりあけでいるのですが、この本の中には、光を感じさせる話も出て来ます。ぜひ、読んでみて下さい。
(註)
その対極的な話として、この本の中で取り上げられている、生活保護者パッシングをした片山さつき議員が、「人権など架空の話だ」というような話をしているのをテレビで見たことがあります。確かに、「人権」という概念は、キリスト教文化圏の天賦人権思想から来ていて架空の話なのです。しかも、帝国主義的支配が、資本とキリスト教と「人権」概念の輸出でなされていて、時には「人権」を掲げ最大の人権侵害である戦争をしかけている事態さえ起きています。ただ、そもそも福祉や人権ということは、国家という共同幻想を成り立たせ、「法と秩序」を成立させるために必要な概念として生み出されたのです。だから、それらを否定することは、無制限な殺し合いの社会になることを意味します。右派の議員の好きなことば「自己責任」で武装し、ボディガードを雇うそんな社会に生きたいのでしょうか?
また、杉田水脈議員は、数々の差別発言を繰り返しつつ、「私には差別意識はない」と開き直っています。そもそも差別ということが何たることか理解していないのです。差別で傷ついているひとがいるから、告発されているのです。それが理解出来ない議員は、議員でいる資格などないのです。そもそも差別発言をしている右派議員は直接的に審判をうけることなく、自民党の比例の優先枠で当選してきているので、自民党自体をぶっ潰さないと、落とせない仕組みになっています。そこまで追いこんでいくしかないのです。
・小林美穂子『家なき人のとなりで見る社会』岩波書店 2023
デモクラシータイムスで著者が出ていて紹介されていた本です。日本の貧困情況、それは経済の問題にとどまらない、貧困ということを解決する政治の「貧困」情況、とりわけ生活保護の問題をとりあげた本です。この本の著者は、小さいときの外国暮らしから、日本的政治や文化への違和を感じていたひとです。そういう中で、「つくろい東京ファンド」という反貧困運動に身を投じています。そして、丁度コロナ禍の活動としてもあったところで、その中の苦闘も書いています。
実は、わたしはひとの命と生活というところで、現実的に何かしなければというところの意義は押さえつつも、反貧困の運動は行政の補完的な役割も担わされているのではという思いがあったのですが、この本を読んでいて、そんな疑問は払拭されました。行政は、生活保護を受ける法的資格があるひとがどんどん落ち込んでいくこと、そして死にいたることさえ、死ぬに任せるというスタンスなのです。もちろん、憲法には基本的人権が掲げられていて、法治国家の体裁があるのでそれを繕おうとするのですが、まさに「放置」国家なのです。この国の生活保護の法的受給資格基準からする受給率は二割くらいに落とし籠められています。それは、「世間体」という名の日本的文化や、お上意識などから来ていることもあるのですが、著者はとりわけ大きな問題として扶養照会の問題を取り上げています。そして、最後の章で外国人難民が置かれている情況、日本政府の難民認定率の極少化、収容施設での虐待、仮放免制度というひどい制度や生活保護も適用されないなど、まさに「政治の貧困」を描いています。制度を何とかしなくてはという運動を進めつつの、現実的救済活動も担っているのです。
さて、この本を読んでいて、とりわけ共鳴したことがあります。わたしは反差別論をやっていて、反差別の位置づけということを考えていました。これほど共鳴する文をみたことがありません。それは、自分の差別性をとことんとらえよという意識をもっていること(註)、他者のとりわけ被差別他者の立場から物事を見ようという観点があること(これに関しては、自らが難民となって他国に逃れるという、まさに日本に来ている難民のひとたちをひっくり返したようなネガフィルム的フィクションを書いています143-150P)、そして他者の痛みを共苦として怒りをもってとらえていることがあるのです。みずからの生き苦しさをとらえ返し、そこから自分との根っこでつながる問題として、反貧困運動に身を投じ、自分が相対しているひとたちに逆に支えられているのだという観点も突き出しています。反差別の基本的姿勢をきっちりとつかんでいるひとです。
文章もわかりやすく、そして鋭い感性でものごとをとらえ返し、怒りや悲しみや、時には悦びも共有化しつつ、書いている文は、まさに珠玉のドキュメントです。というところで、お薦め本です。
もう少し内容をつかんでもらうために、目次をあげておきます。
目 次
はじめに――日本は「美しい豊かな国」ではなかったの!?
第1章 2021年コロナ禍日記
1 全力疾走の2020年、そのまま走り続ける2021年のあゝ無情
2 神奈川区の水際――申請書持参の女性に「申請の意思なし」の衝撃
3 カフェ1年ぶりに再開――コロナ前と変わったこと、変わらなかったこと
4 公助さん、出番です! 官民が協働したフードパントリーの報告@中野
5 差別、優生思想に居場所はない!――DaiGoへの批判は集団リンチなのか
6 中野区生活保護課の庁外移転計画と差別について
第2章 不毛の極み「扶養照会」問題
1 百害あって一利なし、生活保護申請に伴う無駄作業「扶養照会」の弊害
2 命を守るため、扶養照会の無効化を
3 朗報! 扶養照会は止められる!
4 運用改善後も相次ぐ相談。照会したがる福祉事務所の言い分を検証する
5 透明な存在――ネットカフェ15年の男性から見た社会
第3章 まだ続くのかコロナ禍日記
1 カップラーメン炎上が語るもの、パッシングにかき消された本意
2 生活保護打ち切り取り消し裁判――祖父は意を決して“熊本県”と対峙!
3 「中高年シングル女性の生活状況実態調査」報告書から聞こえる悲鳴
4 震災支援ネットワーク埼玉で起きた性暴力、その対応がダメなわけ
第4章 共存共生を目指して――生活困窮する外国人
1 帰りたくても帰れない「仮放免者の生き地獄」
2 僕が生きられる場所を探して
3 難民・移民フェスで見た夢
4 差別・排外主義に抗う市民たちが見せる希望
おわりに――粗末に扱っていい命?
とくに感銘した文を切り抜いておきます。
「差別というものは、している側がどう思うかは重要ではない、されている側がどう思うかだ。どう思わされているかだ。/わたしたちは誰一人として差別とは無縁ではありえない。どんなに取り除こうと頑張っても、偏見や差別心は私たちの心の中に澱(「おり」のルビ)のように沈んでいて、油断したり、心が荒れれば舞い上がり、浮かび上がる。「澱」をずっと沈めておくためには、まずは私たちが差別心を持っているということを知ることからだと思うのだ。痛い作業ではあるが、そこからしか前進はない。」52P
(他団体のセクハラ事件に関するコメントから)「個人も、団体も、アップデートし続けるためには、自分に都合の悪いことから逃げてはいけない。僭越ながら、そして自戒を込めてそう思う。」132P
(BBCの記者の離日に際しての記事)「出生率が低下しているのに移民受け入れを拒否する国がどうなるのか知りたいなら、まずは日本を見てみるといい」165P
「命は平等」「同じ命」「命は地球より重い」/そんなことばが「理想」であり「たてまえ」でしかないことを、私は生活困窮者支援の現場にいて、イヤというほど知っている。外国人に限らず、この国には、粗末に扱っていいいと思われている人たちがいる。」168P
「常に言っていることだが、支援は一方向ではない。「支援者」などと偉そうな立場の私たちは、実はいろんな形で利用者や相談者に助けてもらってもいる。人は存在するだけで双方向に作用するものだからだ。」172P
「粗末に扱っていいと思われる人がいなくなり、建前でなく誰の「命」も「人権」も尊重されるようになったとき、この社会は強者にとっても生きやすい豊かな場所になる。そんな社会で、私は深呼吸したいと願っている。」173P
そんな社会は強者も弱者もない社会でしょう。わたしは「障害者運動」関わって来ましたが、そのスローガンに「障害者が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会である」があります。何か暗い話を中心にとりあけでいるのですが、この本の中には、光を感じさせる話も出て来ます。ぜひ、読んでみて下さい。
(註)
その対極的な話として、この本の中で取り上げられている、生活保護者パッシングをした片山さつき議員が、「人権など架空の話だ」というような話をしているのをテレビで見たことがあります。確かに、「人権」という概念は、キリスト教文化圏の天賦人権思想から来ていて架空の話なのです。しかも、帝国主義的支配が、資本とキリスト教と「人権」概念の輸出でなされていて、時には「人権」を掲げ最大の人権侵害である戦争をしかけている事態さえ起きています。ただ、そもそも福祉や人権ということは、国家という共同幻想を成り立たせ、「法と秩序」を成立させるために必要な概念として生み出されたのです。だから、それらを否定することは、無制限な殺し合いの社会になることを意味します。右派の議員の好きなことば「自己責任」で武装し、ボディガードを雇うそんな社会に生きたいのでしょうか?
また、杉田水脈議員は、数々の差別発言を繰り返しつつ、「私には差別意識はない」と開き直っています。そもそも差別ということが何たることか理解していないのです。差別で傷ついているひとがいるから、告発されているのです。それが理解出来ない議員は、議員でいる資格などないのです。そもそも差別発言をしている右派議員は直接的に審判をうけることなく、自民党の比例の優先枠で当選してきているので、自民党自体をぶっ潰さないと、落とせない仕組みになっています。そこまで追いこんでいくしかないのです。
2024年05月14日
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(4)
たわしの読書メモ・・ブログ658[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(4)
第七信「判断」の機制と関係規定
(前便までの押さえ)「体系的分類のヒエラルヒーの検討を通じて「函数充当型」の論理構制を定位しておきました。――分類の三大基本型である「類種的分類」「成素的分類」「系譜的分類」は、系列原理を異にしつつも、構成を突き詰めて行くと、結局のところ、前々便に誌した「成素複合型」と「有機醸成型」とに帰趨すること、しかるにこれら両型がアルケーに立てる「抽象的」「普遍的」な「単純態」は仮令実体主義的に思念されていようとも実質的にはロッツェ・カッシーラーの謂う函数化的補完に俟つものであること、そのことに応じて亦、「類種的統合体系」「成素的合成体系」「系譜的整序体系」における系統的展開の構成はいずれも“函数的充当”の論理構制に包摂されうること、この意味において、旧来の体系的分類法や体系的整序法はすべて“函数的充当”型の展開法へと揚棄されうること」190P
(この便・章の課題)「“函数”“充当”的という半ば比喩的な表現の内実を方法論的に対自化するにあたっては、いわゆる「命題」ないし「判断」の構造を把え返す必要があり、<主語−述語>構造を分析し、それを“函数”的指定の脈絡に配位することが要件になります。これが、すなわち、前便から持ち越した案件にもほかなりません。――本便では、この遺された懸案に応えるところから始め、関係規定の階型性という問題にまで射程を伸ばして行きたいと念います。」190-1P
一 主語的対象に関する実体主義の排却
第一段落――判断の相貌のブラック・ボックス化と主辞・賓辞を検討すること 291P
(この項の問題設定)「認識において「判断」がいわば分子的単位であること、そして、判断の推理的連鎖によって思考が進展していくこと、・・・・・・学理的体系は、「命題」(つまり「判断」を言語的に表現したもの)の体系として存立します。ところが、ほかならぬ当の「判断」ないし、「命題」なるものは、いざ分析し始めると甚だ厄介です。/「SはPである」というときの「である」とは何か、省察された経験がおありでしょうか? 「がある」ということは大難題ですが、「である」ということもそれに劣らず大層な難問です。「通信である」は単なるイコールではありません。尤も、仮りに単なる“等値”であるとしても、そのさいの相等性・同一性ということが、これまた「ある」に勝るとも劣らず大難題です。という次第で、判断は「繋辞」(である)からして大問題なのですが、存在論・認識論の根幹にかかわるこの件は後便までしばらくブラック・ボックスに封じておきまして、ここでは「主辞」(主語)および賓辞(述語)をひとまず検討してみたいと思います。」191P
第二段落――判断における「主語−述語」構造に関する実体主義的な発想の把え返し 192-3P
(この項の問題設定)「判断における「主語−述語」構造に関する伝統的な思念は、実体主義的な発想と密接に結びついております。前便でも触れましたように、主語−述語関係についての伝統的な考えは一応二つの形に岐れます。「犬は動物である」という例で申しますと、この判断は、(イ)主語の指示する犬という実体(「もの」のルビ)が述語の指示する動物という実体(「もの」のルビ)の範囲(外延・集合)に所属することの表明、(ロ)主語の指示する犬という実体が述語の表現する動物という性質を所有することの表明である、とされます。このことは「或る動物は犬である」という形の判断についてもそのまま“妥当”します。ところで「犬は動物である」という形の場合には、(ハ)主語の表現する規定性(内包)のうちに述語の表現する規定性が所属することの表明ということもできます。こうして、伝統的思念では、「主語−述語」関係は、(イ)「実体−実体」関係、(ロ)実体−属性関係、(ハ)「属性−属性」関係に照応するものと見做されます。が、いずれにせよ、それは、対象界が「属性を具えた実体」のヒエラルヒーを形成しているという存在観と相即するものにほかなりません。そして、そのさい「実体」も「属性」もそれぞれ成素複合型の相で了解されており、概してそういう複合的属性を具えた実体が「類−種−個」のヒエラルヒーを形成しているという構図が立てられていると申せます。」と押さえ、しかし「この存在了解が一種の物象化的錯認に基づくものであることは、今更くわしく究明するまでもないと思います。「SがPである」という判断は、主語概念と述語概念との関係、つまり、単なる概念(の内包)どうしの関係と考えられる場面もありますが、苟もそれが客観的妥当性をもった判断と見做されるかぎり、対象界の構造と照応するものと思念されます。そのさいには、「コノモノハSデアル、ソノSはPである」ないし「或ルモノガSデアル、ソノSはPである」という形で対象的与件を勘案する所以となります。このように考えれば、文法上の主語Sは「コノモノ(或ルモノ=x)ハSデアル」という原基的な判断の“述語”であり、真の“主語”は「コノモノ」ないし「或ルモノ=x」だということになります。このさい「Sデアル」という措定と「Pである」という措定とが同格的に扱われうるか、それとも前者は“先言措定”ということで別格に扱われてしかるべきか、ここには問題が残りますけれども、構造的にはともあれ、文法上の主辞の設定は既に「超文法的」(meta-gramatisch)な判断的措定に照応します。翻って、超文法的主辞たる「コノモノ」ないし「或ルモノ=x」とは、文法的主辞Sの指示対象にほかなりません。それでは、この「或ルモノ」とはいかなる存在でしょうか? 論者たちは恐らく、この「或ルモノ」とは主概念Sの内包的規定たる諸属性を具えた実体である、と答えます。論者たちの考えでは、属性を具えた実体(「コノモノ」)が表象的ないし知覚的にまず与えられ、それについて「Sデアル」という判断がおこなわれることになります。「コノモノ」が意識に現前するとき、既に同時にそれの諸属性も意識されているのであるが、そのうちの特定の属性を明識化するかたちで「Sである」とか「Pである」とかの判断的措定がおこなわれるのである云々。論者たちによれば、「コノモノ」はそれ自身で一定の属性を具えた実体として現前するというわけです。しかながら、この想念は、しかにしかるべき理由があるとはいえ、やはり物象化的錯認であって、われわれとしては追随できません。――ヘーゲルもこの錯認の排却から始めます。」192-3P
第三段落――「主語−述語」構造の伝統的思念のヘーゲルの排却と著者の物象化的錯認の廃却
(この項の問題設定)「議論の手順として「主語−述語」構造に関する伝統的思念をヘーゲルがどのように排却しているかを一瞥し、そのあとで迂生なりの仕方で当の思念における物象化的錯認を卻けることにいたします。」193P
「ヘーゲルは、『ハイデルベルグ・エンチクロペディー』の第三五節で、「学の立場に立つためには、哲学的認識にみられる主題的で有限的な方式が孕んでいる諸前提を放棄することが是非とも必要である」と言って、次のように書いています。/(小さなポイント)「放棄すべき前提というのは、第一に、対立的に措定される局限される局限された悟性規定一般が固定的に妥当するという前提、第二に、所与の、先行的に表象されている既成の基体があって、この基体が右にいう思想規定[悟性規定]が自分に適合しているかどうかを判定する基準をなすという前提、第三に、認識とは、そういう既成の固定的な述語を何らかの所与の基体[主語対象]に関連づけることにすぎないという前提、第四に、認識する主観と、これとは一体ならざる客観とが対立していて、これら両者……の各々が自立的に、それ自身で、固定的で且つ真なるものであるという前提である。学の立場に立つためにはこれらの前提を放棄することが必要である」。」194Pと著者はヘーゲルを押さえ、それを自ら押さえ直します。「・・・・・・・放棄さるべき第一の前提は、あれかこれかという仕方で固定的に区劃された述語的規定性、悟性概念的規定性の排却に関わり、第二のものは、まさにあの「属性を具えた実体」として表象される相での主語対象、第三のものは、この「或ルモノ」とあの悟性的述語規定との関連づけとして了解される判断観の排斥、第四のものは、認識主観と認識客観との分断の非を説いたものと言えましょう。」194P
そこから著者はさらに「爰で特に問題にしておきたいのは、超文法的主辞「或ルモノ」(つまり、文法的主辞Sの対象的与件)および、それがそれ自身で具えていると思念されている属性の実状についてです。判断の主語的対象たる或るものは、常識的準位でいえば、諸々の性質を具えた「もの」の相で、知覚的になり表象的になり、既成態として現前するのが普通です。がしかし、この知覚的ないし表象的主語対象の現識は、客観的対象自体の実状をそのまま模写したものと言えるでしょうか。狭義の判断に先立つ「知覚」や「表象」の場面で既に一緒の根源的な判断がおこなわれているのではないか、これが問題の焦点です。・・・・・・いまここで申したいのは、いわゆる性質が主観的なものだということではありません。色や音といえども、決して純然たる主観的なものではなく、むしろ<主観・客観的>=<客観的・主観的>なものと言うべきだと思いますが、ここで申したいのはそのことでもありません。肝要なのは、実体的或るものがそれ自身で具えてあるかのように映現する性質が、例えば色の場合、光線や背景など、他のものとの関係性において存立するものであって、決して内自的に具わっている性質ではないという点です。性質とは対他的な規定性が物性的に帰属されたものにほかなりせん。」194-5Pとして、この項のまとめに入ります。「いわゆる「性質」が関係規定の反照的結節であることは、今日ではヘーゲルの立場を援用するまでもなく、分析哲学の系統などでも割と広く認められております。がしかし、性質を宙に浮かせまいとすれば、それが帰属させられるところの基体が要請されるのではないか、視角を変えて言い換えれば、対他的に関係する当体が必須ではないのか? この藉問に対して「性質の凝結態を考えれば済む」「性質の附着する格別な基体は不要だ」と言った丈で真の回答になるでしょうか? ここには大層誤解を招き易い論点が絡んでおり、それがまた“函数”的整型の在り方にも関係してきますので、稍々立ち入って申しておきます。」195-6Pとして、次項に移ります。
第四段落――項を実体的に考えるには及ばないこと 196-8P
(この項の問題設定)「実体主義的発想での「基体」は不要であるとはいえ、しかしアクチュアルな性質の「凝固態」といったたけではす済みません。アクチュアルな性質なるものは関係規定が物性化された映現であり、「性質どうしの凝結態」の追認に終始することは物象化的錯認にみずから陥る所以になります。ここで鍵となるのは、対他的に関係する項の内実です。普通には、関係する「項」をはじめから実体化して考えがちですけれども、項は決して実体的に考えられるには及びません。」196Pと押さえ、色彩の例を出して、「そこで、今問題の色彩の成立条件をなしている対象的規定性を「規定性A」と呼ぶことにしましょう。嗅覚や味覚や触覚に映現する諸性質に関しても、同様の措置をとることにします。こうして、今や、対象は「規定性ABCD……」(剴切にはaibjckdl……)を“具えて”いることになります。そこでは規定性を担う基体が果たして必須でしょうか? また規定性を“具える”とは一体どのような事態の謂いでしょうか? 形を変えて、こう藉問したほうが端的で良いかもしれません。規定性ABCD……は実体的な基体に附帯しているのか、それともそれらどうしで(基体なしに)凝結態を成しているのか? この藉問に答える前廷として、われわれは、「基体があって、それに固有の性質なるものが附着している」といった因習的描像そのものを卻けてかかる必要があります。/行論の便宜上、先ほどは「規定性A」なるものがあって恰かも対象そのものに具わっているかのような言い方をしました。それは、色彩という“性質”が単なる主観的幻影ではないこと、つまり、いわゆる主体の側と客体の側とを分けて考える発想に妥協して言うかぎり、客体の側の性状にも根差すものであること、諸種の色彩的差異は単なる主観的区分ではなく対象的規定性の差異に根差していること、このことを銘記せんがためでした。しかし、一歩踏み込んで申せば、「規定性A」は、色彩との類似性を云々できないどころではなく、それ自体としていかなるものであるのかも端的には不可知です。光線その他との機能的な関係態においてはじめて「規定性A」なのであり、この機能的関係を離れて、それ自身でいかなるものであるかは、不可知というより没概念的です。それは、譬えていえば、磁石における南北極の機能的関係を離れて北極性それ自体を云々しようとしたり、電磁現象という機能的関係から磁気を単離しようとしたり試みるようなものと申せましょう。現実に存在するのは機能的関係態であり、関係項が独立自存するわけではありません。伝統的な発想法では、第一次的に“項”が在って、それらの項が第二次的に関係を結ぶかのように考えがちですが、実際には、しかし、まさに函数的な関係性においてはじめて項が存立性を得る次第なのです。」196-7Pと展開し、この項の附言的なまとめに入ります。
「爰で顧みれば「規定性A」「規定性B」……は関係態の「項」をいわば内自化したものとなっております。これらの項が直接的に凝結するわけでも、或る基体に附着するわけでもないこと、このことは最早絮言を須いない筈です。」として、次項の課題を出しています。「では、規定性ABCD……を具えた「或る単一なもの」という想念が如何にして存立し、それがまた如何にして「主語対象」として設定されるのでしょうか?」197-8P
第五段落――「或る単一なもの」という想念が如何にして存立し、それがまた如何にして「主語対象」として設定されるのか? 198-200P
(この項の問題設定)「人々は、一箇同一の実体があって、それが様々な状態相や関係相にあるものと思念しておりますが、問題はそのさいの「実体」です。如実に実在するのは、立停っている相での牛、歩行の相での牛、水を飲んでいる相での牛……というように、その都度の状態相・関係相における定在です。人々は、しかし、それらの状態や関係の相で在り得る或る同一のものを考えようとします。では、その一箇同一者とは何か?・・・・・・一箇同一の或ルモノというのは、成分といったものではなく、むしろ函数f(x) ――他変数函数f(x,y,z……) ――に比定されるような関係態であり、変項が様々な「値」をとるのに応じて様々な状態相を呈しつつも当の同じ函数とするかぎりでの同一態である、ように思えます。“成分”と称される骨・肉・皮……にせよ、色・香・形……にせよ、普遍不動の自己同一者ではなく、それらが同一のものと称されるさいには既に一種の函数的同一者、すなわち、値を変ずることが可能な、それでいて「ソレ」でありつづける或るものとして了解されているのではないでしょうか。もちろん、人々は、日常的意識において「函数的同一者」などということを自覚するわけではありません。心理学的にいえば、それはたかだか「ゲシュタルト的同一性」にすぎません。がしかし、われわれの見地からいえば、「ゲシュタルト」なるものが、そもそも一種の「函数的同一態」にほかならないわけです。」と話を進めます。そして「ゲシュタルト的分節態は、心理学的な次元で定式化しようとすれば、さしあたり、色・音・香り……大きさ・形……といった感性的知覚を“項”とする“函数”的な関係態のかたちで標記する所以になると思います。そこでは、色・音・香り……や、大きさ・形……などの“項”が「図」として「地」から顕出しているかぎりで、あたかも自足的な内自的規定性であるかのように映現します。しかし、「図」は「地」との示差的区別性に俟つという一事からいっても、それが関係規定の反照的結節であることは銘記するまでもありません。」と展開し、さらに話を進めます。「ここで問題にしておきたいのは、その先の話であり、ゲシュタルトという“函数”の諸“項”がそれ自身、“函数”であるということ、従って、ゲシュタルトは、“函数の函数”であるという事情です。――先に、色・香・……形……に関連して「規定性A」「規定性B」……「規定性D」……を云々しておきました。規定性ABCD……というのは、それ自身では感性的知覚に泛かぶものではなく、感性的知覚の可能的諸条件の或る契機であり、感性的知覚に映現するゲシュタルトの被媒介的成立条件をなす関係態の項として、フェア・ウンスに措定されるものでした。それは、能知の側と所知の側とを便宜上分けるかたちで論考する文脈で立てられるものであるとはいえ、いわゆるセンシビリア(sensivilia知覚的)ですらなく、ひとえに色彩・音韻……等々が、それぞれの準位と相互関係の場で、示差的な区別と分節を呈しうる所以の深層的関係態の項でしかありません。がしかし、例えば、色彩は、規定性Aと光線や視覚機構、等々の諸契機の機能的・函数的な連関態による被媒介的な存立態であるという具合に、ゲシュタルトという函数態の諸項それ自身が深層的な諸項の函数的成態として定位される次第です。」198-200Pと押さえ、この項の、そしてこの節のまとめに入ります。
「われわれがもし、「所与(x)を所知(a)として覚知する」という構制を以って、直ちに「根源的な判断措定」とみなすとすれば、主語対象のゲシュタルト的覚知は――前言語的に既に――右に謂う深層的な関係態たる所与(x)をゲシュタルトSを賓辞的にPとして措定する判断の超文法的主語たる「コノモノ」は規定性ABCD……を契機とする関係態だということになります。しかしながら、右に「もし……とすれば」と仮言的に誌した所以でもありますが、迂生としては狭義の「判断的措定」という用語をもっと限定した意味で用いたいと念います。――とはいえ、概念のうえでは、右にみましたように、深層的関係態を超文法的な主語とみなすことも可能な道理です。」200-1Pとし、次節に移ります。
二 「主語−述語」構造と函数的連関態
まず最初に、前節の課題を引き継ぎ、この節の課題を呈示しています。「以上ではまだ「超文法的主語」をめぐって論件の一端にふれた域に止まりますが、迂生が何を言おうとしているのか、既に御省察のことかと畏れます。が、敢て「述語」の側をも視野に収めつつ「主語―述語」構造と「函数的関係態」との構造的連関性を問題にしておきたいと思います。」201P、ここで「既に御省察のことかと畏れます」とあるのは、まさに繰り返してしつこいくらいに、論理厳密性で展開してきた、実体主義の廃却と函数的連関態としての突き出しを示しているとわたしは押さえています。廣松さんの論考は難しいとされていますが、実にしつこいくらいに論理厳密性を追求しているので、それを例示とともに押さえていくと、判り易くなっていきます。このわたしの切り抜きメモは、その「例示」の繰り返しの「しつこさ」を省いているので、よく伝わりません。是非原文に当たってください。
第一段落――「主語―述語」構造と「函数的関係態」との構造的連関性 201-4P
「「判断」の最もブリミティヴなかたちは、いわゆる「命名判断」(Benennungsurteil=呼称判断)であると考えられます。尤も命名判断と一口に括っても、「コレはポチである」というような個体的命名判断と「コレは犬である」というような種族的命名判断とを分けて論ずべきかもしれません。しかし、いずれにせよ、指称される「コレ」は、心理学的な次元でいうかぎり、「図」(Figur)として顕出しているゲシュタルト的な分節態です。・・・・・・ひらたく言ってしまえば。命名しようとしまいと、所知的ゲシュタルトは“同じ”ということです。命名判断は「分析的」か「綜合的」かと問うことは、判断の性格づけの次元では意味をなしません。・・・・・・それでは、命名判断はゲシュタルト的覚知と全く同一の意識事態なのであるか? そうではありません。対象像そのものは変様しないにしても、意識事態全体をとってみれば相違がみられます。それは、当の対象的分節態たる「コノモノ」が他者たちによってポチと呼ばれるという意識(他者たちに対して「ポチ」としてgelten(妥当)するという意識)、ないし、それが「ポチではない」という否定的判断の場合でいえば、「コレはポチである」ということが他者に対して妥当しないという意識です。この<対−他者−妥当>性の覚識は、ゲシュタルト的に分節した「図」たる「コノモノ」の覚知に、謂わば“累加”されるとはいえ、対象像そのものを内容的に変化させるわけではない。というのが当座の論点です。」とし、さらに「こうして、命名判断は、覚知されている既成の対象像「コノモノ」に、これまた、既成の「標徴」を謂わば“貼付”し、この呼称の対他者的妥当性を覚識する次第ですが、この標徴的「能記」に対応する「所記」については猶若干の検討を要します。行文の都合上、これまで、命名的指称の対象がゲシュタルト的分節態であることを云々してきましたが、実をいえば、「それが「ゲシュタルト」であるというのはフェア・ウンスな了解であって、当事主体にとってはそれはさしあたり個体的に分節した「図」として顕現するにとどまります。・・・・・・「ポチ」と呼ばれる対象は、姿勢や光線の具合によって、また成長によって、変様しますが、それにもかかわらず同じ「標徴」で標記されるのであり、このかぎりで、命名的に指称される「所記」は“函数的同一態”とみなすこともできます。一般には、「ポチ」というような「固有名」の指称する対象は個体的実体であるかのように思念されておりますけれど、右のかぎりでは、同一個体として覚知され、同一個体として再認され、依って以って固有名で指称されるところの命名判断の対象はたかだかゲシュタルト的な“函数的同一態”にすぎないとも言える所以です。・・・・・・「コレはポチである」と命名的に判断する場合、「コノモノ」と謂うのは、射映的に現前する所与を指示しているのではないでしょうか? 当事主体の反省以前的な意識においては、まさにその通りだと思います。がしかし、事柄はこれでは尽きません。反省的意識においては、ないしfür unsには、当の与件は単なる射映そのものとしてではなく、或るゲシュタルト的“函数態”の変項が特定の“値”をとったf(x1,y1,……)という相で対自化されます。という次第で「所記」なるものを単層化してしまうことなく、いくつかの契機に分けて考えていく必要があります。――迂生が従来「意味論」の論脈で「被示的意味」「被指的意味」「被表的意味」といって区別してきたものにそれは対応します。当事意識が直接的に覚知する特個的射映が「被示的意味」であり、固有名ですら既にそれを表現する“函数概念的”規定性が「被表的意味」であり、苟も呼称を意識したり、遡っては再認的に覚識したりする場面で指向されている“函数的同一態” ――これは「被表的意味」が「被示的意味」において謂わば“肉化”したものと譬えることもできますが――それが「被指的意味」にほかなりません。「所記」は、これら三契機の構造的成態として存立します。」201-4P
第二段落――個体的命名判断と種属的命名判断 204-7P
「命名判断のうち、いわゆる個体的命名判断に即して以上申し述べたことが、種属的命名判断の場合にも推及できます。もちろん種属的命名の場合、新しい契機が勘案されるべきことは申し添えるまでもありませんが、迂生の立場は普通“種属的”名辞に特有と思念されている諸契機が固有名の場面でも既に存立していることを挙示する所以になっておりますので、この一事からしても拙論の方向は大凡賢察いただけることかと念います。/普通の考えでは、個体的命名は唯一的な存在である「個体的・実体的な存在」を指称するのに対して、種属的命名は「普遍的・本質的な存在」を指称する、乃至は、当の普遍本質的な規定性を具有する一群の定在を指称するものと了解されております。個体的命名と種属的命名を区別することの了解、したがってまた、個体的実体性と普遍的本質性とを区別するこの了解は、無論、顚から斥けるわけには参りません。それは、再認的同一性との区別とも関係しますし、実体主義的存在観の“現場”でもあります。」204Pと押さえ、さらに「偖、個体的命名の場合、当事者の直接的な意識においては、射映的な特個的対象が指称的対象をなすものと私念されており、実体主義的な見地からは、ゲシュタルト的移調性の相で覚知される当の“対象自体” ――客観的属性を具有する客体的実体――が指称的対象をなすものと主張されます。それにひきかえ、種属的命名の場合、当事者の直接的意識において、当の「標徴」が幾つかの対象に“貼付”されうることが了解されているにしても、ウルトラ客体主義の見地からは各々の標徴は或る特定の対象的な本質自体――客観的属性を具有する客体的本質――に照応するものだと主張されます。このウルトラな実体主義では、ソクラテスとかプラトンとかいう個別的実体のほかに、<人間>とか<生物>とかいう本質的実体がそれぞれ各一個“存在する”ことになります。そして、命名はその一個の実体を指称するとされますので、ここでは個体的命名と種属的命名の区別は立ちません。相違はただ、当該の“実体”が普通の個物であるか、それとも、一種独特の形而上学的個物であるかの区別に帰着します。」204-5Pここで、数学における「1」を巡る論攷に入ります。
そして「話を本筋に戻して、本質的実体なるものは実在せず、本質的規定性を共有する諸実体が実在するだけだと考え直してみますと、個体的命名は対象的実体が唯一個、種族的命名は対象的実体が複数個という点で区別できそうです。この場合、命名的標徴は、或る性質をもっていることを述定するのではなく、或る性質をもっているものを指称するのだと考えられます。」206Pとし、「まずは個体的命名と種属的命名とに共通する論理構制を指摘」206Pするとして「種属的同一性が認められる所以の共通の本質的規定性が「種属的」名辞の「被表的意味」に照応するわけですが、この意味形象が“函数的成態”であることは改めて言うまでもありません。種属的命名判断は、所与を当該の“函数態”の項が特定の“値”をとった定在とみなすかたちで存立する点で、先にみておいた個体的命名判断の場合とfür unsには同断であること、「被指的意味」の存立構成が同趣であること、このことも容易に看取していただけると思います。被指的意味が“肉化”され、対象的な相で指向されるかぎりで、この物象化された“函数的同一態”が、実体的同一体、本質的同一体という相で思念されるわけです。――反省的な立場では、実体的対象が唯一的であるか、複数的であるかという区別が重視されますけれど、小さな子供などでは両種の命名が峻別されてはいないように見受けます。この事実に関して、人々は「子供は固有名と一般名とを混同しているだけだ」と言うかもしれません。がしかし、それは単なる「能記」に関わる問題ではなく、ゲシュタルト的同一態の覚知という構制での共通性という事情に起因するところが大なのではないでしょうか? 個体的に実体として同一なのか、極似してはいるが別々の個体的実体なのか、これの弁別は容易ではありません。・・・・・・そして、おそらく「ゲシュタルト的同一態の覚知という同じ構制」のゆえに、種属的同一性を支える或るもの(本質) が、個体的同一性を支える或るもの(実体)と類同視され、そのことから「類」や「種」といった“普遍”“本質”の実体化(いわゆる「第二実体」)が生ずるのではないかと想います。」206-7Pとまとめています。
第三段落――後論に必要な論点の提出 207-10P
「ところで、「コレは犬である」「コレは白い」「コレは動く」等々が「述定判断」として遂行される場合、ここでの要件は能記的標徴を対象に“貼付”することではなく、もっぱら意味的措定が眼目になりますが、意味論上の構制はやはり命名判断の場合と同様です。述定的判断においては、述定詞の表現する規定性を主語的与件において覚知すること、視角を変えて言い換えれば、主語的与件において覚知される規定態を「被表的意味」たる“函数態”の変項が特定の“値”で定在するケースとして認知すること、そしてこの認知の<対− 他者− 妥当>性を覚識すること、けだしこれが基幹的な構制だからです。」207-8P
「命名判断であれ、述定判断であれ、“同一の与件”に関して(a) 「コレは犬である」、(b) 「コレは哺乳動物である」、(c) コレは動物である」、(d)「 コレは飼い犬である」、(e)「コレは大きい」、(f)「コレは黒い」、(g)「コレは走っている」等々、一定の判断が下すことができますし、現に下されます。・・・・・・判断の当事意識がつねに分類的対比の意識を明晰にもっているとは申しません。通常は、直覚的に判断を下してしまい。そこには、比較とか対比とかはもとより、分析の意識すら見出せないと申すべきでしょうし、極言すれば、対象の具えている諸々の規定性がどこまで明識されているかさえ疑問です。しかし、哺乳動物という規定は同位的な他種の動物、動物という規定は植物、生物という規定は無生物……という具合の同位的他者との反照的区別性において規定性を明識化され、そのことにおいてはじめて哺乳動物……生物……存在……というたぐいの述定を生ずるように思えます。前揭の (d) (e) (f)についても同断です。その点、 (g)や「コレは死んだ」というたぐいの判断は、対比的な他者をもたないように考えられるかもしれませんが、それは“他者”なるものを別の実体ないし別の実体の性質に限定するからのことで、実体的には同一の対象であっても、別様の状相との対比的反照のもとに措定されている点では、やはり同趣の構制だと申せます。・・・・・・われわれの日常生活において、われわれは「物」的に分節した世界像に当面していること、――この「物」的分節の基幹的な諸単位は歴史的・社会的・文化的に相対的――であるとはいえ、われわれの場合、「犬」とか「机」とか「ペン」とか「リンゴ」とか「バラ」とか指称される次元での、日常的準位での諸個体が基幹的な単位になっていること、――そして、この基幹的な「物」的分節準位では、諸々の「物体」的分節体が同位的な胞族をなしており、従って「犬」はは動物学的分類での準位でのように「猫」とか「狼」とか「虎」とかと同位的な胞族を形成しているわけではないということ、このような事情に因るものと思います。このため、分類的対比の覚識が弱くなりますけれども、「犬」とか「机」とかいう次元での措定は、諸「事物」という同位的分節体との示差的区別という対比的反照に支えられているのであり、ここでもまた同じ構制が指摘できるわけです。/只今指摘した対他的反照規定というのは、いつぞや紹介しましたヘーゲルの謂う「反照規定」とは随分次元が違いますけれど、根底的にいえば同じ洞見に帰趨する筈です。」208-210P
第四段落――“同一の”「コレ」という主語対象の側の対他的反照規定から個体的実体主義批判に踏み込む 210-3P
「第一種の論者たちは次のように論じます。「コレは云々である」という形の判断において主語「コレ」は端的に実体的対象を指示しているのではなく、例えば「コレは黒い」という場合に見易いように、真の主語は「コノモノの色」なのであり、「主語−述語」関係とは「主語」の内包と「述語」の内包との関係なのである云々。論者たちによれば「コレは犬である」といった場合、黒に対する「色」というような主語の内包的規定は日常的語法では明示しがたいけれども、強いて言えば「コノモノの○○性は犬である」という構制になっているわけです。・・・・・・こうして、論者たちの見地では、同じく「コレ」という言葉が主語に立つ一連の判断において、真の主語は「コノモノの○○性」なのであり、この真の主語は述語に応じて異なるという答になります。つまり、言葉のうえでは斉しく「コレは……」という形になろうとも、真の主語(「コレ」の表わす対象)は同じものではないというのが論者たちの回答です。但し、この“真の主語”たる「コノモノの○○性」が共通に含んでいる「コノモノ」、すなわち○○性の基体が一貫して同じ実体であるかどうか、これは別途に検討さるべき問題として残ります。が、これを検討する前に別種の見解をみておきましょう。/第二種の論者たちは次のように主張します。「コレは云々である」という形の判断において、主語「コレ」は一定の規定性を具えた対象をその都度指示している。例えば、「コレは動物である」という場合、真の主語は、犬というような動物的規定性を具えたコノモノなのであり、「主語−述語」関係は、「主語」の外延と「述語」の外延との関係なのである云々。論者たちによれば、「コレは黒い」という場合も、「しかじかの規定性を具えたコノモノは黒い物である」という構制になっているわけです。・・・・・・論者たちの見地では、同じく「コレ」という言葉で指称されるにしても、どの規定性が明識され、どのようなものとして覚知されるかはその都度相違するのであるから、そのかぎりでは、「コレ」は同じものではないという答が導かれます。但し、どの次元での○○性が明識されるかの差異はあれ、諸々の規定性を具えた基体「コノモノ」が同一実体であるかどうか、これは別問題です。」211-2Pと押さえて、この項のまとめに入ります。「こうして、第一種の「内包主義」論者も第二種の「外延主義」論者も、さしあたり「コレは云々である」という一連の判断における“真の主語”は同じものではない、と回答しますけれど、しかし、謂う所の“真の主語”の更に奥なる実体として、諸々の規定性を担う「コノモノ」という同一の基体を想定したがります。今や、この場面での「コノモノ」と「○○性」との関係を検討してみねばなりません。――右に挙げた第二種の論者たちの場合、主語は「コレ」という言語的表現になっていても、主語的対象は「○○性を具えたコノモノ」を意味すると主張するのですから、論者たちの謂う「コレ」は既に「S」の次元に属します。省みれば、「コノモノハSデアル、ソノSはPである」という構制を呈する超文法的主語「コノモノ」ないし、「或ルモノ=x」が本来の論件だったわけですが、今から検討しようという「○○性」を担う「コノモノ」こそまさに当の「超文法的主語」にほかなりません。」212-3P
三 所謂「個体的特性」と関係態の結節
第一段落――実体主義的存在観か関係主義的存在観か 213-6P
前節最後の項を受けて「論決さるべきポイントは、以上の行論を通じて、既にほぼ収斂しております。「○○性を具えた此の同じコノモノ」という仕方で「実体−属性」の図式で考えるか、それとも、「○○という“変項”をもった単一の“函数”態という仕方で「函数−変項」の図式で考えるか、この二者択一は、実体主義的な存在観を採るか、それとも、関係主義的な存在観を採るか、この択一を意味しますので、存在論的には深刻な対立です(この対立の中には二つの世界観の間のパラダイム転換ということが存在しています)。「コノモノハSデアル」という超文法的賓述は、前者の立場では属性を具えた実体の覚知であるとされますが、後者の立場では――与件を、或る“函数的関係態”の“変項”が“特定”の“値”で“充当”されている定在として覚知すること、つまり、約言すれば――“函数態”の“充当”的措定であるとされます。この対立は、存在論の次元では極めて深刻であるとはいえ、しかし、判断論としての判断論の場面で、判断という事態を謂わば“技術的”に処理する局面では、それほど深刻には顕在化しません。実体主義的な物象化的錯認に陥っていても、判断なるものについての“技術的処理”の場面では必ずしも齟齬をきたさない所以です(哲学・認識論の次元ではそうでも、現実的矛盾の問題としては齟齬は大ありです)。そのうえ、近年では、大抵の論者たちが、いわゆる「性質」は関係規定に還元できることを認めるに至っており、また「性質」はいかに特個的と称されるものでも一種の普遍者であることを認め、さらには「性質」を表わす概念は一種の函数的構制を呈することを認めるに及んでおります。となると、もはや本質的な対立は事実上存在しなくなっているのではないか、と疑われかねません。が、しかし、やはり世界観的な次元での根本的対立があることは確かですし、それが「矛盾律」の扱いといった論理学の根底的な場面に影響しております(現実の矛盾という実践的場面においても然りです)。それは、形式論理に固執するか、弁証法的論理を採るか、この態度決定を劃する所以ともなります。」213-4Pとして、さらに「論理学者たちの多くが今日では「性質」については函数概念的関係主義を採るようになっておりながら、彼らは何故「実体」を残そうとするのか? 因習的な実体主義のパラダイムに囚われているだけと評さるべきむきもありますが、「集合」とか「クラス」とかの扱いなどの場面で実体主義を容易に払拭しがたい事情があることも汲まねばなりません。がしかし、ギリギリ追い詰めていくと、彼らが実体主義に固執する理由は「不可識別者同一の原理」――ライプニッツのそれというより卑俗に理解したかたちでの――を怖れることに懸かっていると申せます。」214Pと展開し、最後の纏めに入ります、というより更なる問題点の提出による、次項へ繋げる提起です。「われわれのように超文法的賓述を“函数態”の充当的措定として−考えるとき、対象が“実体的”に唯一個しか存在しない場合であれ、同種の“実体”が複数個存在する場合であれ、同じ構制になります。そこで、今、同種の二個のもの、αとβの個体的区別がどのようにして可能なのか? 卑俗にいえば、性質のうえでは全く同じ二つのものの個体的区別がどのようにして成り立つのか、これが問題点です。常識的にいえば、例えば2枚の十円硬貨のように瓜二つでも、つまり、性質のうえでは全く同じでも、両者は別々の個体だとみなされます。性質が全く同じであれば、認識のうえではとうてい区別がつきませんが、しかし、“客観的”にはやはり銅貨αと銅貨βとは別々であり、それは自己同一性(セルフアイデンティティ)をもっている筈ではないでしょうか? こうして「性質」的には全く同じでも個体として別々である所以の根拠、個体それぞれの自己同一性の根拠として、「個体的実体」ということが考えられる次第です。論者たちは誇らしげに言います。“函数的同一態”なるものは、たかだか「性質」をカヴァーしうるだけで、実体そのものは埒外にある云々。この実体があるからこそ、個体的区別も存在しうるのであり、また、この実体があってはじめて対他的関係、従ってまた性質というものも存在しうるのである云々。」214-5P
第二段落――「場所を変えても自己同一性を維持する」ということが成り立たないこと
――関係の第一次性からのとらえ返し 215-8P
「消極的な批判から始めますと、論者たちは一切の性質(いわゆる「実質」をも含めて)は関係規定だと認めておきながら、関係の当体=性質の基体たる実体をたてるのですから、この実体それ自身は「無性質」ということにならざるを得ません。果たして、そういう無性質なものが存在するのでしょうか。たとえ存在するとしても、それ端的に不可知の筈です。けだし、「知る」とは「性質」を知ることなのですから。こうして、論者たちのいう実体は仮に存在するとしても、不可知であり、カント流の「物自体」というより、むしろアリストテレスの「第一質料」みたいなものであり、現実的には効きません。・・・・・積極的な批判に転じます。先に二枚の銅貨に即して云々しましたが、二つのものの“性質”的区別のギリギリの極限が場所的区別だと考えられます。爾他の諸性質が全く同じでも、在り場所が違えばこの一点で“性質”的に違うと言えます。そこでαが占めている場所にβを置けば、もはやαとβとは性質的に全く同じになってしまいます。(現実的な問題としては「物体の不可入性」とやらで、同時に同じ場所をαとβが占めることは不可能かもしれませんが、思考実験上それを許容しましょう)。それにもかかわらず、αとβは別々の個体的実体である、と論者たちは主張します。これは慥かに常識にかなった議論です。が、しかし、それはまさに実体主義的発想を論理的に前提にするかぎりでの話にすぎません。論者たちは「実体は関係を規定しはするが関係によって規定的影響を受けないセルフアイデンティカルな不易体である」という先行的了解の立場に立ち、いまの場合、それの特殊ケースとして「実体は場所(位置関係)を変えてもそのことに影響されない」という前提で立論しております。だが、「場所を変えても実体的には不変」という思い込みが問題です。・・・・・・関係性を超絶してセルフアイデンティカルに自存する実体などというものはそもそも存在しないというのが卑見なのですから。でも、ここは百歩を譲りましょう。われわれは日常、空間と物体とを分離し、物体と空間のあいだには実在的な影響関係はないものと見做しております。だから、銅貨の“例”が効きます。二枚の銅貨は、実際には、性質のうえで決して同じではありません。ですから、場所が同じでも相違します。しかるに、先の思考実験では、まず場所しか違わないと想定し、つぎには、その場所さえ違わないと想定して実体的相違を論じました。この第一段の想定は維持しましょう。果たして、そのときでも、第二段が認められるでしょうか。今日の物理学では認められません。一般相対性理論からすれば、空間と質料は相互的に影響し合うのですから、厳密にいえば、場所だけを変えるというわけにはいきません。質料も変わってしまいます。それゆえ、論者たちが主張するようなセルフアイデンティティは保持されないことになります。もちろん、日常的な経験の次元では、場所の変化と物体の変化とは無関係なみに扱います。しかし、今はギリギリの場面での思考実験であること、しかもここでの「場所」(位置関係)というのは関係規定ということのギリギリの最小限であることを銘記して頂きたいのです。・・・・・・「場所」(位置関係)という最も“弱い”関係からしてこうなのでして、「関係を規定しはするが関係によって規定的影響は受けることなく自己同一性を保持する実体」という論者たちの前提的了解が成立しない次第なのです。」ここで、この項のまとめに入ります。「それでは個体的区別はどのようにして保証されるかを反問されるかもしれません。答は単純です。まさに関係性の相違に基づいて個体的区別が存立します。いわゆる“自己同一的”個体なるものは、函数的連関態ないしその“項”を“同一”の当体として措定することにおいて第二次的に立てられるにすぎません。――今や「自己同一的な実体の第一次性」という伝統的な思念を覆して「関係の第一次性」の立場に立ちつつ、いわゆる“自己同一者”としての“当体”が措定される論理構制を積極的に究明し、さらには、そのようにして把え返される「主語」対象性を“函数的連関態”に配位しつつ、旧来の「実体−属性」(「主語−述語」)の論理を「函数−変項」論理とリンクさせる作業を具体的に進めることが課題となります。この具体的な作業は、しかし、次箋(次章)に譲りましして、ここではその前廷ともなる若干の事項を、本箋の行文中インプリシットに既述したことの対自化に即して(第三段落に)誌すことに致します。」215-8P
第三段落――全称的判断と特称的判断、函数態総体の物象化 218-21P
「本便では、以上、超文法的(meta-gramatisch)というよりも前文法的(vor- gramatisch)賓述の次元に定位して論じて参りましたが、判断としての判断成態の構制が「SはPである」という形に即して討究さるべきことは更めて申すまでもありません。」218Pという前提的な確認をし、「御承知の通り、判断論においては「判断の量」ということで、全称判断と特称判断とを区別します。それは、主語Sの外延すべてについての述語Pの(肯定的または否定的な)賓述がおこなわれる場合と、Sの外延の一部についてだけPの賓述がおこなわれる場合の区別です。ところで、全称判断「人は死すべきものなり」において、主語「人」の外延とは何でしょうか? ソクラテス、プラトン、といった諸個人を列挙したその全体でしょうか。それとも、<人>という第二実体なのでしょうか。今日では「第二実体」を積極的に認める論者は多くありませんが、それでも先に数学上の「1」について誌したところからも、“第一実体”だけで済ませるかどうか、そう簡単には済ませないことがお判り頂けると念います。例えば、英語でallが冠せられる場合とtheが冠せられる場合とでは、意味論的な区別がありはしないか、この面から考えても、「第二実体」式の発想を無礙に斥けただけでは済まない筈です。しかも、われわれの場合、「第二実体」はおろか「第一実体」をも最終的には認めない立場をとっておりますので、この問題について独自の処理を要求されることになります。」219Pとして、話を進めます。「われわれの見地から言えば、先述の「被示的意味」の物象化的実体化によっていわゆる「第一実体」が立てられ、「被指的意味」――これは被示的意味を“肉化”のトポスとします――の自存化、遡っていえば「被表的意味」の物象化的実体化によっていわゆる「第二実体」が立てられるのであり、実体主義の流儀で自存視することはいずれにせよ物象化的錯認です。しかし、この錯認の秘密を対自化しつつ、敢て物象化された相に定位して整序することが方便としては許されうる場面もあります。そのかぎりで、われわれとしては概念の「外延」(Umfang)を“第一実体” (正しくは「被示的意味」)の次元でのそれと“第二実体” (正しくは「被指的意味」)の次元でのそれと謂わば二本建てで考える手続をとります。このことに依って、いわゆる「類−種−個」のヒエラルヒーは、一つには「タクソン」(分類)の整序体系として系列化されます。そして、これらの整序体系が「ラング」的次元での内包的「意味」体系として間(「かん」のルビ)主観的に既成化しているとすれば、それがいわゆる「分析判断的推理」の進展、著者と読者との“対話”の進展にとって、好便な手掛りを供する筈です。」219-20Pと展開し、まとめに入ります。「尚、内包の側に関連して最後に一言申し添えますと、f(x,y,z……)という“函数態”の“項”的契機――ゲシュタルトの場面でいえば“錯図”の分肢的“図” ――が主語的に“主題化”され、それに伴って当初の“函数的関係”が“内自化”され、それが“属性”的に思念されるという仕方で「実体−属性」「主語−述語」の編成を生ずる場合もあります。裏返して言えば、つまり、“函数態”の総体が主語的に主題化され、その“項”が述語的に顕揚されるという仕方での「主語−述語」構造化だけとは限りません。しかし、いずれの仕方においてであれ、この“変容”に伴って実体論的構図が泛ぶ次第ですが、当の“実体”をあらためて関係態として把え返すことにおいて――これは一般には当初の関係態の相への単純な復帰ではなく、新しい相での関係態の現識化をもたらしますので――認識の進展がもたらされます。この件についても、後便で詳しく論究する予定でおりますが、とりあえずのところ、関係態把捉の階型的累進の機制を示唆し、併せて、迂生の謂う“函数充当型”の論理展開なるものは数学流ないし記号論理学流の数式的変形ではなく、むしろ当事意識における物象化的実体化にもとづく、「実体−属性」「主語−述語」的構図化――著者と読者との“対話”を介してのそれの止揚、つまり関係態の対自化、そのような過程の累進として存立することを示唆しておきたいと存じ、敢えて独白めいた付言を試みた仔細です。」220-1P
実体主義的な観点からの可能性のあるあらゆる論攷を設定して反論していく緻密さは、「しつこい」と言えるほどなのですが、その途行きが余りにも膨大すぎて追い切れていません。
第八信「主辞−賓辞」と函数成態
(前便のまとめ)「前便では「判断」の「主語−述語」構造を“超文法”な次元に即して――と申しても、エミール・ラスクの謂うmeta-gramatisch(超文法的)とは異相であることに徴すれば、――むしろ「前文法的」(vor- gramatisch)な次元に即して討究しておきました。」222P
(本便の課題)「本箋では、前便での作業の継続として、旧来の「実体−属性」(「主語−述語」)の論理を「函数−変項」の論理とリンクさせること、これが課題となります。尚、周到に論議するさいには、ヘーゲルの「物性」(Dingheit)論について顧慮するのが順当ですが、判断的措定や推論的進展を主題とする爰では、拙速をも憚らず先を急ぎます。/ところで、「主語−述語」関係を「函数−変項」関係に配位し直す旨を云々しますと、学兄はいわゆる記号論理学の手法を連想されるかもしれません。迂生としては、しかし、当面「記号論理学」(symbolic logic)のことは余り意識しておりません。記号学では「命題函数」(plopositional function)が云々されるとは申せ、「主語−述語」関係を依然「実体−属性」という存在観の大枠内で謂わば技術的な処理として数学風に標記するという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ないからです。尤も、悟性論理の次元、わけても伝統的な数学と相即する領界では「数理論理学」(mathematical logic)の手法がそれなりに有効であることは確かですし、弁証法的な体系構成法においても或る種の運用場面ではそれをも参酌することが有効かもしれません。しかしながら、記号論理学に所を得させるためにも、まずは「実体−属性」関係に定位する伝統的な思念をわれわれの見地から把え返しておくことが先決要求です。」222-3P
一 主語的与件と述語的規定との関係相
第一段落――「主語−述語」関係の三様 223-4P
「前便でも一言しておきました通り、判断ないし命題における「主語−述語」関係は、伝統的思念の相では、(イ) 「実体−実体」関係、 (ロ) 「実体−属性」関係、 (ハ) 「属性−属性」関係、以上三通りに分けて一応考えることができます。――「SハPナリ」という判断(例えば「犬ハ動物ナリ」)について、(イ)では、主語の指示する犬という実体が述語Pの指示する動物という実体の範囲(外延・集合)に所属することの表明であるとされます。(この見地では「雪ハ白イ」のごときも「「雪ハ白色のものナリ」という仕方で、述語Pはその都度実体的指示詞として扱われます)。(ロ)では、主語Sの指示する実体(犬や雪)が述語Pの表現する属性(動物性や白色性)を所有することの表明とされ、(ハ)では、主語の表現する規定性が(内包・属性)が述語の表現する規定性を含有することの表明とされます。(伝統的な論理学では(ハ)は余り立論されません。というのも、普通の文法的な次元では「或ル動物ハ犬ナリ」というような形の特称判断の場合、「或ル動物」なるものを主語の指示する対象的実体とみなせば(イ) (ロ)はそのまま妥当しますけれども、 (ハ)は稍々無理を伴うからでしょう。しかしながら、超文法的な 「主語−述語」論の次元では、(ハ)も特に困難は生じません。尚「「SハPナラズ」という形の否定判断について、前記の「所属」「所有」「含有」の関係が「非所属」「非所有」「非含有」の関係に変わるだけで、やはり(イ) (ロ) (ハ)が主張されます) 。/右の(イ) (ロ) (ハ)は、伝統的思念においても相互に還元可能だと考えられております。われわれとしても(イ)(ロ)を順次 (ハ)にいったん還元したうえで議論を進めたいと念います。/まず、(イ)において「SハPナリ」とは、Sが端的にPと同一の謂いではなく、SがPに所属することの表明とされるさい、考えてみれば、実体S(犬、雪)が実体P(動物、白イもの)に所属するのは、実体Sが属性P(動物性、白色性)を所有するかぎりにおいての筈です。こうして、(イ)の「実体−実体」所属関係にとって、(ロ)の「実体−属性」関係が基礎になっております。/そこで、(ロ)の「実体−属性」関係ですが、このさい「実体Sは諸々の属性を具えているがそのうちの一つとしてPという属性を所有する」という了解になっていると言えましょう。とすれば、SがPを所有するという事態はSの所有する属性のうちにPという属性が含有されているという事態と相即します。この限り、(ロ)の「実体−属性」所有関係は、(ハ)の「属性−属性」含有関係と相即する次第です。/こうして、今や(イ) (ロ)を(ハ)に還元して考えることが許される次第ですが、「Sの所有される属性のうちに属性Pが含有されている」という事態、換言すれば「Sの規定性が属性Pを含有する」という事態、これをもう少し立ち入って検討しておく必要がありそうです。」223-4Pと次項につなげます。
第二段落――「Sの規定属性を含有する」という自体の詳説・三つの考え方 224-8P
「Sの所有する属性Pという属性(ハ)に謂う「属性−属性」含有関係は、これまた三通りに分けて考えることができます。」224-5Pとして「第一の考え方では、Sの所有する諸々の属性の“集合”のうちに、Pという属性もその“元”として含まれている、という具合に処理しようとします。例えば、雪(主語S)は、「冷たい」「結晶性」「白い」……といった一群の属性を具えており、そのうちの一つとして「白い」(述語P)が含まれている、というわけです。――これは、先に「実体−実体」の所属関係として考えた(イ)の構図を、要素的性質どうしの場面に適用した形になっており、まさに実体主義的発想の典型的なものと言うべきでしょう――。この考え方で、・・・・・・具合の悪い点が出て来ます。というのは、実体たるというのは、実体たる犬の所有する属性の“集合”に「脊椎動物性」「哺乳動物性」「「動物性」ひいては「生物性」「存在性」といった一群の性質が謂わば同位的な“元”として属することになってしまうからです。そこで第二の見方が登場します。」225P題目ごとの展開が進みます。
「第二の考え方では、Sの所有する或る属性が下位的に所属する、という具合に処理しようとします。一般論として、SがPという属性を所有するかぎり、その都度SはPの上位概念にあたる属性を所有すると言い張ることができます。・・・・・・Sの属性とPの属性とは同位的な“集合”を形成するのではなく、Sの属性がPという属性を下属せしめるのだ、と論者たちは主張します。・・・・・・ここでは、Sの具えている属性とPという属性とは「普遍−特殊」の関係になり、視角を換えて言い換えれば、PはSの“変項”の特定の“値”だという了解になっております。この立場は形のうえでは一応成立ちます。がしかし、判断における如実の事態に徹するとき無理を免れません。・・・・・・・判断の現場で考えてみましょう。雪ハ白イと判断するさい、雪の色彩性なるものが泛かんで、その普遍者(“変項”)が白色という特殊者( “値” )で充当されるわけではありません。この点は、論者たちも認める筈です。もともと論者たちは、論理的関係を問題にしているのであって、別段、心理的事実を云々しているわけではありませんから、この事実の承認は論者たちにとって何ら自殺にはなりません。問題の焦点は、さしあたり、Sの所有する属性の如実相です。雪ハ白イというようなルーティーン化した事例、ことさら判断らしい判断を下さずに済む事例で考えると紛らわしいかもしれませんが、「コノ花ハ赤イ」というのは、論者式にいえば「コノ花ノ色ハ赤イ」ということにほかなりません。しかし「コノ花ノ色」というのは、一般者としての色のことではなく、現に見えている特定の色彩です。言葉で表現するかぎりでは、色という普遍詞を利用して「コノ色」としか言いようがありませんけれども、それは非常に限定された色であり、特殊な赤色です。「コノ花ノコノ色(コノ鮮紅色)」は、述語Pの表現する、「赤」よりも特殊です。Sの具えている属性とPの表現する属性との関係は、論者たちとの主張とは逆に、前者のほうが特殊者なのです。このことに想到し、「普遍−特殊」の下属関係を論者たちと逆転するとき、第三の考え方が成立している所以となります。」225-7P「第三」に入ります。
「第三の考え方では、Sの所有する規定性がPの表現する普遍者的(“変項”的)規定性の特定“値”として認定されること、それがかの(ハ)に謂う「属性−属性」関係の実態であると主張します。この考え方を採るとき、SハPナリという判断的措定は――今暫く「対他的妥当性」の契機は括弧に入れて、「主語対象性と述語的規定性との意味関係」に話を限りますが――主語Sの指示する対象において見出される規定性(例えばAa+b)を述語Pの表現する函数的成態が特定の値で充当された定在(Aa+b)として覚知することを内実とします。尤も「Aa+b 」をf(x)=Ax+bの変項が特定の値(a)をとっている特殊態として認知すると言っても、f(a)=Aa+bと別にf(x)=Ax+bという一般者が表象されるというわけではありません。リアルに表象されるのは、通常、Aa+bに限られると言うべきでしょう。このかぎりでは「普通−特殊」なのかという対立、つまり、上記の「第二の考え方」とこの「第三の考え方」との対立は、いずれにせよ心理的事実次元のことでありません。がしかし、Sの対象的規定性(コノ特定の赤色)とPの表現する規定性(赤色という部類)との関係を反省的に二肢化して考える場面では、前者(Aa+b) より後者(Ax+b)のほうが普遍的と認められます。この間の事情は「或る動物は犬である」といった事例についても、それが「或るコノ動物は犬である」というアクチュアルな判断場面であれば容易に看取していただけると思います。また、「僕が永年探していたのはコノ本だ」といった事例でも「コノ本だ」というのが指示ではなく賓述であるかぎり、その範に漏れません。/迂生としては、右に謂う「第三の考え方」を換骨奪胎する流儀で事を処理する所存です。とは申せ、以上の議論では、アクチュアルな判断現場と称したものと、概念体系が既成化している場面――これとてやはり一種のアクチュアルな場面に違いありませんし、学理的判断・命題の体系は概してこの領界に納まります――との位相差が明示的ではないこと、そのうえ、所詮はまだ「実体−属性」という構図の埓内に止まっていること、この種の問題点が残されておりますので、一直線に作業を進めるというわけには参りません。順次に論点を詰めて行くことにしましょう。」227-8P
第三段落――前項への反問による詳述―錯図的構造 228-31P
「迂生が判断における「主辞−賓辞」関係を前掲(ハ)の「属性−属性」関係にいったん還元し、そのうちでも所謂「第三の考え方」を採り「特殊−普遍」の関係として了解する構図に手掛りを求めようとしているのを見咎めて、次のように反問されるかもしれません。主語Sと述語Pとの関係について(ハ)の「属性−属性」説を採るとき、「第一、第二の考え方」ならばまだしも、「第三の考え方」では“真の主語”は“Sのもつ諸性質のうちの或る特定の性質”になってしまい、もはやSを主語とすること自体が不当になりはしないか? つまり「花が赤い」といっても、真の主語は、「コノ花ノコノ色」の謂いになり、それゆえ「花」を主語Sとして扱うのは失当というべきではないのか? 或る種の場面では、たしかに、SハPナリという判断の実態はSノ○○性ハPナリの謂いだと認め、主語は「Sノ○○性」である旨を承認せざるを得ないことがあります。しかしながら、一般には、依然としてSが主語なのです。そこで、まずはSを主語として認めつづけることの正当性が問題の焦点になります。/主語対象Sのもつ諸性質のうち特定の性質が述語的規定Pの特定値として認定されるに“すぎない”にもかかわらず、その特定性質だけではなく、総体としての対象Sが主語として認められうるのは如何にしてであるか? この問題に応えていくためには、まずはアクチュアルな現場、それも“前文法的”な「コレハSナリ、ソノSハPナリ」という場面に即するのが便利かと思います。既成の概念Sと既成の概念Pとのルーティーンな関係の場面とは異なって、ここではSで呼称される与件「コレ」がさしあたり心理学者の謂う「図」の次元で現前します。いま「コレハ布(「きれ」のルビ)デアル、コノ布は碁盤縞(「じま」のルビ)ダ」という認知の場面に即して考えてみましょう。眼前の「コレ」(布)が「図」(Figur)として知覚されているとき、周辺の他のものは一般的に「地」(Grund)の相で背景をなし、もっぱら当の「図」が意識の志向的対象となっております。勿論、「コノ布」と「アノ布」とが対比的に図化されているような場合もあり得ますし、「地」といっても「準図」的な相で意識されている場合があり得ます。が、爰ではまず「布」が知覚的に「図」化している場合を想定します。・・・・・・所与の「コレ」(布)はさしあたり単一態としての「図」の相で「地」から顕出しております。が、この「図」の“契機”が明識されますと、その場合には当の契機が“図化”され、元の「図」は「碁盤縞」という分節構造の相で“錯図” (つまり、図の中に更に図がある複合図)に現成します。そして、この錯図化と相即的に「コノ布ハ碁盤縞デアル」という覚知が生じるわけです。所与の布は「碁盤縞の布」という相に錯図化(分節化)されて意識されるようになっても、一般には当の「図」(布)としての覚識を維持します。というよりも、この統一態勢が維持されているかぎりで“錯図”なのであり、もし当初の「図」が瓦壊して、もっぱら縞模様だけが「図」として意識されるようになっているとすれば、今や「布」は図ではなくして「地」になってしまっていると申すべきでしょう。実際、当初の図の部分的契機だけが図化されて、元の図が崩壊してしまう場合が生じ得ます。そのような場合には、「コレハ布デアル、コノ布ハ碁盤縞ダ」(つまり(Sの)○○性が“真の主語”)とならなくなります。が、ここでは所与の「コレ」が錯図的に分節化しつつも、図としての統一態勢を維持するケースに止目しましょう。この場合には、所与の「コレ」(「図」)がSと指称され、当の図の錯図的分肢が“函数”Pの“特定値”として認知される次第です。茲では、Sで指称される「図」が錯図的に分節化(して明識)されつつも、当の単一の「図」(錯図)として相変らず「地」から顕出しているという事実、この事実が「SハPナリ」という賓述、つまり「S」を主語に立てたままの賓述を“正当化”する所以となります。」228-30Pと押さえ、更に、論攷を進めます。
「しかし、爰で次のように指摘されるかもしれません。図Sが錯図化しても元の統一性を維持するということは、分肢的図(図中の錯“図”)が「Sの契機」であると言うことを正当化するにしても、それはあくまで「Sの」という所属性であって、主語は「Sの○○という契機」でなければなるまい云々。――迂生としても、実は、原理的な次元では、「Sハ○○という契機ではPデアル」という言い方と、「Sノ○○という契機ハPデアル」という言い方とを峻別するつもりはないのです。と申すのも「主語」なるものについて実体主義的には発想しませんので、Pという賓述の主題(被述定的被提示態)がSでさえあれば「Sハ」か「Sノ」かは決定的な相違とは考えないからです。」230Pとしたところで、次のように話をまとめ、次節の課題を提示します。
「という次第で、「SハPナリ」という述定は、「Sハその○○という契機に即してPナリ」――「Sハそれの○○という規定性において“函数”Pの“特定値”ナリ」――の謂いになります。ところで、右の行文では「S」とその契機たる「○○」との関係を“錯図”の総体と“分肢的図”になぞらえるかたちで議論を進めましたが、両者の関係を正確に規定する必要があります。これは伝統的な思念における“主語的実体” (つまり「属性を具えた実体」)とそれに所属する“属性”との関係を正規に把え返す作業に帰趨します。」231P
二 主語・述語規定の「対他的」反照関係
第一段落――「○○という契機」の在り方−「対他的関連性」ということ 231-4P
(前節のまとめ)「伝統的な思念のもとにおける“主語的実体”とそれに所属する“属性”なるものとの真実態、ならびに、両者の関係の真実態について、行文を通じて既に或る程度までは誌して参りました。が、しかし、「錯図」とその「分肢」という半ば比喩的な言い方では、まだ肝心な構制が逸せられたままです。」231P
(この項の課題)「実情を見極める順路として、まずは「Sハ○○という契機に即してPナリ」という構図における「○○という契機」の在り方から見ていきましょう。」231P
「嚮に「S」とその規定との関係を「錯図」とその“分肢的図”との関係になぞらえたのがミスリーディングなのですが、両者の関係は決して「全体」と「部分」との関係ではありません。伝統的な思念では、実体とそれに附着している性質といったかたちで表象しますけれど、規定性が附着的に所有されているわけでもないということ、これまた明らかです。日常的に「Sノ性質」というさい、Sなるものがまさに実体主義的に自己完結的な存在体とみなされ、このものに性質が附属しているかのように表象されがちですが、いつぞやも誌しました通り、“性質”なるものは “対他的関係規定”を“内自化”して表象したものにほかなりません。「彼女ハ人妻ダ」(ママ)「象ハ大キイ」「犬ハ走ル」というさい「人妻」(ママ)は自己完結的な実体ではなく対他的関係規定の結節化されたものであり、「大きさ」は対他的比較規定の固有化されたものであり、「走行」も対他的布置変化関係の内自化されたものであり――という具合に、名詞的であれ形容詞的であれ動詞的であれ、およそ述詞が表現する規定性は対他的関係規定性を即自的に結節化したものになっております。・・・・・・一昔前まではどうだったか存じませんが、今日では「性質」とはすべて「関係規定」に還元されうるという提題は哲学者たちの常識に属します。かつてスピノザは「すべての規定は否定である」(omnis determinatio est negatio)と言いましたが、「すべての規定は関係である」(omnis determination est relatio)と申すことができます。/爰で強調したいのは所謂「性質」なるものはすべて関係規定であるということそれ自体ではありません。「Sハ(○○という契機に即してPナリ)という賓述において、「○○という契機に即して」という関心の場面で「対他的関連性Beziehung etwas Anderes」が構造的な要因になっているということ、銘記したいのはこのことです。「SハPナリ」という判断は、もっぱらSとPとだけの二項的関係のように思われがちですけれども、実は「○○という契機に即して」という構制の場で、第三の因子の介在に依っているということを申しておきたいのです。「○○に即して」という場で、他者(これは他人の謂いではありません)への反照的関連づけがおこなわれると言っても、当の他者(etwas Anderes)が第三項というかたちで明識されると強弁するつもりはありません。一般には、「○○という契機」がSに内属する性質という相で(物性化されて)表象されてますので、当の性質的契機に即するといっても、SとPとの二項だけで済んでしまいます。・・・・・・このかぎりでは、「○○に即してPナリ」という賓述は当事意識にとって(für es)前記のAa+bとf(a)=Aa+bの関係に納まります。しかし、学知的省察の見地から(für uns)いえば、Aa+bなる規定性がSにおいて性質という相で物性化されるその機序の場で、Sという“錯図”の当体性を崩さぬ仕方で対他的関係性が反照されているのであり、この対他的反照が「Sノ○○性」という規定の存立を支えております。そして、この対他的反照関係は、当事意識においても、往々“準図”的な相で意識されることがあり、時には明確な“図”の相で対自化されることもあります。」232-4Pまとめに入ります。
「Sハ(○○という契機に即して)Pナリ」という判断は、こうして、少なくとも学知的省察の見地からは、○○という内自的に物性化された規定性を依って以って存立せしめる所以の対他的反照関係において、S(ノ○○という規定性)は“函数”Pの“特定値”であることの認知を内実とします。」234P
第二段落――SとPの関係そのことについての論究 234-8P
(この項の問題設定) 「只今誌しました「対他的反照関係」「或る他者への関係づけ」という契機は、学理的体系構成の場面で格別に重要な契機として追認されるものですが、今度はしばらくSとPとの関係そのことについて論攷しておきたいと思います。/先刻来、Sの規定性とPとの関係を“錯図”と“分肢”の関係になぞらえたり、別の論脈ではAa+bとf(a)=Aa+bとの関係になぞらえたりして参りましたが、これではもちろん事態を尽くせません。“図”が錯図的に分節化した相で明識され、Aa+bがAa+bとして明識されるのであれば、そこでは「Pナリ」という賓述は無用ではないかとの疑義すら生じ得ます。/議論の間口を拡げ過ぎる惧れもありますが、茲ではSとPとの関係について学説史上の係争問題をも念頭におきながら、右のありうべき疑義にも応えることに致します。」234P
「「主語S」と「述語P」との関係は、先には実体と属性という整理の視角から扱いましたけれども、認識論的論理学においては、むしろ「主概念S」と「賓概念P」との概念どうしの関係として討究されるのが普通です。この場合、両概念が実体に対応すると考えられているのか、それとも、属性に対応すると考えられているのかを問い返せば、上記の(イ) (ロ) (ハ)に帰着するにしても、当座の論件としては別様になります。論者たちは、主賓両概念と言っても、実質的には「表象」の次元で考えているのが普通であり、それゆえ、論者たちの議論は、「主語表象」と「述語表象」という二つの“心像”の関係の分析なりがちです。」234-5Pとして、ここで、「結合説」と「分離説」の討究に入ります。
「伝統的な議論は、この次元では「結合説」と「分離説」との対立という相で展開してきました。結合説は、判断とは主語表象と述語表象とを結合して一つの複合的な結合表象を形成することだと主張します。分離説は、判断とは主語表象を分割してその特定の部分表象を顕化することだと主張します。・・・・・・これら両説は、SとPとの関係がルーティーン化している場面で係争しようというのではなく、原初的な場面での判断に関して対立する次第でして、一方が「綜合的」「結合的」と主張するのに対して他方は「分析的」「分割的」と主張するわけです。」235P
「これら両説は、判断における主賓両概念とその間の関係を所詮は心像的表象の次元で考えており、認識心理学の準位ですら採らるべくもありません。――判断の本質を表象の結合・分離ではなく、肯定・否定と決意的態度決定に求める立場からの批判もありますが、迂生が今ここで結合・分離の両説とも問題外だと申すのは、概念は表象とは存在性格を異にするという事実にもとづいてのことです――。がしかし、表象説への批判は後廻しにして、以下しばらくのあいだ、これら両説に藉口しながら議論を進めてみましょう。/「SハPナリ」という形の肯定判断の場合、原初的な場面での心理的機制について“図”の“錯図”化とその分節肢の顕化を云々する分割説が妥当するようにも思えます。しかし、例えば「水ハH2Oナリ」といった判断の場合どうでしょうか。結合論者たちは、Sたる「水」の表象には「H2O」という表象は含まれていない旨を指摘し、原初的にはSの外部からPが導入的に結合される旨を強調します。一般に、学問上の新発見的認識はもとよりのこと、経験的知識の拡充がおこなわれるのは、主語Sに従来“未知”だった“新しい”契機が累加されるという仕方においてではないでしょうか。たしかに、一応は“累加”と言うことができます。がしかし、それは主語Sに関する既成の知識に即しての話です。外部から導入して累加するという言い方は、半ばルーティーン化している場面に即したものになっており、発見的なアクチュアルな現場での議論からは離れているように思えます。発見的認識の現場では、S(例えば「水」)が、従前では気付かれなかった新しい規定性(例えばH2O)を分肢的な錯“図”として分節化した相で現前するのではないでしょうか。現場的な議論では、どうやら「分離説」「分割説」のほうかに分がありそうです。――勿論、この新しい状相での分節化がおこるのは、Sの自然発生的な分裂の結果ではなく、対他的反照の媒介に俟つものであり、時によっては“外部から”“仮設的に”Pという述定操作を導入してみた結果かもしれません。しかし、Pが外部的に“貼付”されるのではなく、Sが当体的統一性を維持しつつ“分節化”し、それがPとアイデンティファイされるという構造は動かないのではないでしょうか――。尤も、迂生が此説を積極的に採ろうとする者ではないことは上述の通りですし、ヘルダーリン・ヘーゲルの「原始−分割」(Ur-teilen)説を援用するにしても、「図」と「地」との分出的区別の場合と「図」の“錯図”化的な分節の場面とを慎重に配視する必要があると思います。」235-7Pさらに、別の否定判断の問題を提起します。
「とりあえずは、しかし、Sとその規定性という場面に関して分割性に仮託して話を進めたいのですが、ここでもう一つ断り書きを添えながら論件を登録しておかねばなりません。「SはPなり」という肯定判断の原初的な現場では先に見た通りだとしても、「SハPナラズ」という形の否定判断の場合、PがSにとって外的である以上、分割説ではどうもしっくりいきそうにありません。その点、結合説はPをSの外部から導入するという構制では好便ですが、しかし、否定的結合という在り方は表象結合とは所詮次元が違いそうです。という次第で、爰でしばらく仮託しようと念う構制では否定的判断を扱えません。翻って考えれば、しかし“現場”に即した議論を試みようという今の場合、幸いにも否定判断は括弧に収めておくことができます。――学兄は、アクチュアルな現場でも不断に否定判断が下されると仰言るでしょうか。或る意味では迂生もそのことを認めます。だが、「異別判断」と「否定判断」とが混淆されてはなりません。・・・・・・・両者は従来の論理学において、そしてヘーゲルにおいてすら、混淆されるむきがありました。「異別判断」と「否定判断」との異同については、後で立帰るべく課題を登録しておき、ここでとりあえず言い切っておけば、“現場”で不断に当面するのは「異別判断」であって「否定判断」ではありません。勿論、否定判断も絶無ではありません。それは、現実的な見解の対立・論戦はひとまずおくとして、「P1かな? P1デハナイ」「P2かな? いやP2デモナイ」といった仕方で、仮設的・自問自答に賓述してみてそれを否定する場面で生じます。では、仮設的賓述およびそれの否定とは如何なることか、これが新たな問題になりますし、そもそも“現場”では一般に狭義の否定判断はおこなわれないとすれば、狭義の肯定判断もおこなわれないと言うべきではないのか? そこでは「異別判断」と同位的な「同轄判断」がおこなわれると言うべきではないのか? このことも後に論定すべき案件としてここでは登録するにとどめ、議論を先に進めてみることをお恕し願います。」237-8P
第三段落――S(ノ○○という規定性)とPとの関係 238-40P
(この項の問題設定)「随分と右顧左眄するかたちで、問題を登録する仕儀になりましたが、話を本線にもどしまして、あの「分割説」に仮託する流儀でS(ノ○○という規定性)とPとの関係を見定めておきましょう。」238P
「Sにおいて対他的関係規定が反照的に内自有化されている或る分肢的規定性、この規定性(Aa+b)がP(f(x))の特定相として覚知され、Pという詞で(いわゆる「内語」にとどまっていても可)命名的に呼称されるとき、この事態は当該の規定性(Aa+b)の単なる知覚よりも遙かに「より以上」の態勢です。なるほど、当事判断主体のリアルな意識過程としては、当該の錯図的“分肢”に留目し、それをPという詞で命名的に呼称するという域をいくばくも出ないのが普通でしょう。彼はAa+bのほかにf(x)=Ax+bなる関係態を明識的に表象するわけではありません。がしかし、前便で「命名判断」について誌したところを想起していただけると好便なのですが、与件をほかならぬPという詞で呼称するとうこと――QとかRとかでなくPで呼称するということ――は、与件をQRetc.ならざるPという規定態の特定相、つまりf(a)=Aa+bとして認知していることを意味します。このさい、f(b)とかf(c)とかが対比的に泛かぶわけではありませんけれども、しかし、QとかRとか呼ばれる規定性との区別性、そして、P1と呼ばれる範域の規定性との同一性が即自的にせよ意識されている筈であり、この対他的区別と同一の意識契機において、ここでもやはり「他者への関連づけ」(Beziehung auf Anderes)という構制が見出されます。この「他者」および「対他関係性」は、先に「Sハ○○という契機に即して」という脈絡で問題にしたそれとは別でして、先にみたそれは「○○という規定性」そのものの内自的物性化を支える関係規定であったのに対して、今ここにいうそれはPというf(x)を対他的区別性において劃定しつつその範域内での類同性を支える関係規定です。」238-9P
「Pという賓述は、さしあたりPという詞での命名判断的呼称の域にある場合ですら、所与の規定性(Aa+b)の単なる知覚(“無名的”知覚)とは決定的に異なります。これが言語というものの重大な意義の一斑にほかならないわけですけれど、詞で呼称・表現されるということは“内語”の次元でとどまって発声されない場面でも既に、当の詞の「被表的意味」である“函数的成態”とその“充当”という意味構制を存立せしめます。/ところで、与件がそれとして覚知されるところの「被表的意味」――「概念」の内包(Inhalt)と呼ばれるものはその一種です――、視角を変えて言い換えれば、与件がそれの特定値的定在とみなされるところのそれ、つまり、かの“函数的成態”は、それを自存化させた相で考えるとき、レアールな形象ではなく、イデアールな形象(ein ideales Gebilde)としての存在性格を呈します。(この問題に関しては拙著『世界の共同主観的存在構造』第一部を参看いただければ幸甚です)。」239P
「先に、結合説および分離説は、主賓両概念を所詮は「表象」(心像)の次元で考えていることを指弾し、この難点の故にわれわれとしてはそれを採ることができない旨を記しておきましたが、今やその含みの一つを御諒解いただけると念います。概念は、主語概念であれ、“実体”概念であれ“属性”概念であれ、前便でカッシーラーを援用しながらみておきました通り、実際には一種の「函数概念」としての性格をもっております。そして、函数概念たるかぎり、それはレアールな心理的表象たりうべくもなく、哲学者たちの所謂イデアールな存立態と言わざるを得ません。しかるに、結合説も分離説も「概念」なるものをレアールな「表象」の相で思念し、それにもとづいて立論するという錯誤に陥っております。けだし、概念のイデアリテートを対自化ずみのわれわれとしては、両説を共々に排却する態度をとる所以です。」239-40P
まとめの文です。「翻って省みれば、しかし、われわれ自身、「分離説」に仮託する流儀で議論を進めてきたむきがあり、その点では前便での「前文法的賓述」の議論にもやはりその憾があります。今やその是正を要する次第ですが、もう暫く仮託を続けるかたちをとって、先ほど登録しておいた幾つかの問題とも絡め、しかるべき局面で矯正することにしたいと念います。」240P
三 判断成態と「函数―変項」の内的構制
第一段落――「知覚現前的判断」と「概念思考的判断」 240-5P
(この項の問題設定)「同じく「判断」と呼ばれるものでも、例えば、眼の前の具象的な対象を観察しながら「コノ犬ハ雄デアル」と認定するような場合と、俗に謂う“単なる思考の場面”で「犬ハ動物ナリ」と述定するような場合とでは同列に論じ去るわけにはいきません。嚮に「アクチュアルな場面」と「ルーティーン化した場面」といって一応区別を設け、とりあえず前者に即したのはそのためでしたが、学理的な理論体系ではむしろ後者が大きなウェイトを占めることですし、両者の異同というか位相差を確認しておく必要があります。この問題は、前便で「コレハSナリ(コノSハPナリ)」という前文法的・超文法的な主賓関係と「SハPナリ」という文法的な主賓関係とについて、本質的な構造は同じであっても差異の面を看過できない旨を誌し、持ち越した案件にもほかなりません。」240-1Pとして、持ち越していた「アクチュアルな場面」と「ルーティーン化した場面」への論攷に踏み入るとしています。
そして「超文法的な構造に即すれば「犬は動物ナリ」という判断でも、やはり、或る与件が犬デアルこと、その与件が○○に即してPデアルことの設定になっており、このような基礎的構造では「コノ犬ハ雄ナリ」といった知覚的にアクチュアルな判断とも同型です。しかし、両者のあいだに差異があることは覆えません。それでは、奈辺に相違があるのでしょうか? ――標記を簡単にうるために「知覚現場的判断」「概念思考的判断」と呼び分けることにしたいのですが、茲では、両者の異同についてその一斑をみながら、旧来の判断論が陥りがちであった或る陥穽の指摘から始めます。」241Pとして中身に踏み込んでいきます。
「「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」とを比較するとき、誰しもまず気がつくことは、前者はその都度の与件「コノモノ」に関する単称判断であるのにひきかえ、後者は概して全称判断であることでしょう。知覚現場では単称的とはいっても、或る視覚からみれば主語的対象が複数と言える場合も勿論あり得ます。しかし、それは単称判断の並列か、または、複数的与件の一総体ないし関係性という単一の志向的対象に関するものであって、判断主語の本質的在り方に徴すれば「単称的」である筈です。それにひきかえ、「概念思考的判断」の場合、何故に全称や特称が可能なのか、これの説明はあと廻しにしますが、論理学でしばしばおこなわれているような、単称を全称に含めて同列に扱う安直な手続は問題だということを銘記しておきます。これは前便のなかで、「同じく判断の“量”といっても主概念の被示的意味の次元と被指的意味の次元とを区別しつつ処理する必要がある」旨を誌しておいた論点に関わります。が、この問題は姑く措いて別の側面にいったん目を向けておきましょう。」241-2Pとして「アクチュアルな知覚現場的判断の場合、Sノ○○という契機が――必ずしも対他的関係性が明識されることはないにしても、少なくとも或る内自的規定性の相で――対自化されることなしにはPという賓述が遂行されません。なるほど、Sという詞とPという詞との意味的相属関係が明識な場合、コレハSナリという前文法的賓述おこなわれただけで、○○性の対自化を伴わずPという賓述がおこなわれる場合もあり得ます。がしかし、その際には「SハPナリ」が「概念思考的判断」になってしまっておりますので、知覚現場的判断における○○性の対自化という先の立論は崩れません。その点、ルーティーン化している概念思考的判断の場合には、○○性の対自化が一般には生じないというまさにその理由から、「S−P」関係は単純な二項関係だと思念され、そこにおける対他的な反照という構造的機制が看過される所以となります。」242Pとして、主辞対象像の安定性の問題にふれつつ、「当座の論としては、この部面は閉却してもよい」としたところで次の論攷に入ります。
「知覚的な現場でPナリと賓述するさい、現前する○○という主語対象の規定性について、それの対他的異別性や対他的類同性の較認がおこなわれ、それを機縁としてP(QやRならざるP)という施詞的定立が生じます。しかるに、ルーティーン化している場面では、一定の前意識的なコンテクストによる反照的規定を受けているにせよ、「犬ハ動物ダ」「象ハ大キイ」という具合に、Sが直截的にまずPと述定される感があり、対他的反照が意識される場合にも、Sの○○性ゃPの対他的校合性が意識されるというよりも、むしろ既成化している概念のヒエラルヒー体系(類−種的な整序系列)と照合される趣きがあります。――ここに謂う「概念のヒエラルヒー」なるものは、発生論的には「SハPナリ」という間主観的に承認される判断の積み重ねを通じてはじめて成立したものにほかなりませんが、ルーティーン化している場面での当事判断意識においては、却って逆に、当の概念系列体系(これはしばしば対象的実在の客観的なヒエラルヒーであるかのように思念されます)のほうが「SハPナリ」という判断の準拠枠として意識される始末なのです――。現場的判断では「SハPナリ」とは上位概念と下位概念との(乃至はそれに対応する実在どうしの)直接的な二項関係の模写的追認だと思念されるに及びます。」243P
「論理学における判断論は、概して、判断が――諸々の概念のあいだの意味的相属の関係がラング的に既成化していることを俟って――ルーティーン化している次元に定位して論考しますため、往々にして判断のアクチュアルな構造を見失う仕儀に陥っております。その間の消息は、右に幾つか摘記した範囲からも御賢察いただけることかと思います。/概念および相続関係がラング的に既成化されるにさいして、パロール的な次元では逸せない対他的反照の具体的な脈絡が“捨象”され、もっぱら二項的な直接的関係の思念を使嗾する次第ですが、しかし、ラング的な次元でも立ち入って省察してみれば、決して対他的な反照が完全に消去されているわけではありません。・・・・・・この対他的関係づけ、ないしそれの内自化された当該の規定性の何たるかは、概念Aと概念Bとを主述関係に置くさいの“一種のサブ文法的規則”として当然の了解事項になっていると言えます。そもそも、諸概念とその相属関係のラング的既成態化というのは、このような配備を含み込んではじめて成立しております。・・・・・・「○○に関して」がルーティーンに欠落する場合、それは消極的な意味での欠如ではなく、「飲む・打つ・買う(ママ)」における目的語の欠落などとの同趣の“積極的な欠如”、つまり“零記号的なポジティヴな余白”なのではないでしょうか。――これはパロール次元の場合、「○○に関して」が自明なかぎり殊更言表しないのと同じ論理構制であり、この機制に淵源するものと思われます――。しかるに、論者たちは、ラング的に既成化した次元に定位するさい、“サブ文法的な規則”や“零記号的余白”というポジティヴなモメントを閉却して、もっぱら表層的に発語される詞辞体系だけに眼を奪われますので、ルーティーン化が最も進んでいる「概念思考的判断」を単純な二項関係だと錯覚してしまいます。」244-5Pとまとめます。この「“積極的な欠如”、つまり“零記号的なポジティヴな余白”」というのは、例えば「買う」という事が顰蹙を買う、反差別論的に批判されるというところで、「余白」や「欠如」にすることではないでしょうか? そして次項の課題を出しています。
「「ラング的に既成化した次元における」「表層的な発語の詞辞体系」に眩惑されてアクチュアルな認識構造を看過する論理学者や、いわゆる「言語分析学派」の前車の轍を踏まぬためにも、知覚現場的判断にもう一度目を向け直しておきましょう。」245P
第二段落――持ち越した「否定判断」への論攷 245-9P
(この項の問題設定)「先には「否定的判断」の処理を持ち越しましたので、この問題の一端をも射程に入れたいと思います。「異別判断」と「否定判断」、「異別判断」と「同轄判断」、「否定判断」と「肯定判断」等々、嚮に登録していた問題もここで絡める段取りです。」245P
「問題の所在を再確認するところから始めますと、「結合説」であれ、「分離説」であれ、判断を「表象」どうしの結合・分離という次元で説明しようという理論では、否定判断を処理できないことを上述しましたが、実をいえば、「表象説」では判断における「肯定」ということの存立構造も説くことができないのです。この間の事情を確認するためには、「判断ということが言語なしに成立しうるか?」と藉問して見るのが便利かもしれません。この設問にどう答えるかは「判断」の定義次第だとも言えます。がしかし、まさに「判断」の定義的限定がここでの先決要求をなしております。」245-6Pとして、
「今日では「言語はたかだかのところ判断が成就したのちにそれを表現するための外的な手段にすぎない」とみなすたぐいの論者はおそらく居ないと思います。しかし、言語以前的な判断、言語なしの判断も一応存在するのではないか? 動物ですら一種の判断をおこなっていると言えるのではないか?」246Pと問いかけ、著者はそれに答えて、「迂生としては狭義の判断を言語介在的なものに限る立場を採ります。但し、単なる「異−別」であっても、言語的に表現しようとすれば、「aとbは異なる」→「aハbデナイ」という否定判断になること、また、単なる「同−轄」であっても、言語的に表現しようとすれば「aとbは同じだ」→「aハbデアル」という肯定判断になること、――そして学説上、従来の判断論ではこれらが歴(「れっき」のルビ) とした判断とみなされてきたこと――この事情に鑑み、「異別判断」「同轄判断」なるものを“広義の判断”に属するものと認めることにします。(但し、これは所与xを所知(a)として覚知するという単なる知覚の構制よりは位階が高いものであることに留意ねがいます)。」246P
「「言語」の介在する狭義の「判断」にはどのような特質が加わるのか? 「コレハSナリ」「SハPナリ」と述定する場合、SやPという言語音声(内語たる音韻表象にとどまっても可)が登場しますが、この記号的音声形象は、“表象説”――「結合説」であれ「分離説」であれ――の謂う「概念的表象内容」の埒外にありますけれども、この記号的形象という契機が実は重大な役割を演じます。嚮には、対象Sの○○性という契機(つまりそれに即してPと賓述される所記的与件)を「分割説」の流儀に仮託して云々しましたが、しかし、それは「所記的与件P」の話であって「能記的音声P」の話ではありませんでした。音声“錯図”Sの外部から導入して、一種独特の仕方で結合されるものです。(なるほど、既成態化している場面では、音声Pが“錯図”Sの“分肢”になっているかのように意識され得ますけれど、子供が言語を習得していく過程などを引合い出すまでもなく、原初的にはあくまで音声PはSにとって外的です)。但し、Pが外部導入的に結合されると言っても、この“結合”は「結合説」の謂う「結合」とは別種です。尤も、所与の“図”と音声Pとのこの“結合”の在り方は一種独特とは申しても、言語現象に排他的に特有とまでは言えません。それは、例えば、雪の上の趾を見て兎を意識するとか、裏山から聞こえる声をウグイスの囀りとして了解するとか、窓をよぎった影を燕として覚知するとか、このような前言語的な場面で既に作動している機制と同趣と言うべきでしょう。(大脳生理学的には、それは「条件反射」の機制基礎をもつものとされますが“図”→音声、および音声→“図”の双方的な条件づけであることの銘記を要します)。当事主体の意識における“図”と“音声記号”との関係は、同轄的ではなく、反省的にはむしろ異別的ですが、さしあたり「命名的結合」としか言いようがありません。が、ともあれ、言語が介在することにおいて、所与対象と言語記号との「命名的結合」態が意識に現成します。」246-7P
「この「命名的結合態」の現前化は、それ自身ではまだ命名判断ですらなく、この「施詞措定」の対自己的帰属性が覚識され、且つ、当の命名的措定の対他者的妥当性が覚識化されるとき、この条件を充たしてはじめて「判断」になります。――ここに謂う「対他者的妥当性」ということは、認識論的主観をめぐる論考を俟たねば十全には説けません。とりあえずは拙著『世界の共同主観的存在構造』第二部第二章の参看を願い、爰ではむしろ外面的な事項を追録するにとどめます――。・・・・・・爰では、@「施詞措定」という命名的結合それ自身は、肯定・否定に対してまだニュートラルな前件であること、A当該「施詞措定」の対自己的かつ対他者的な帰属的妥当性が覚識されるときが「肯定」であること、B「施詞措定」の対他者的帰属性が意識されつつも対自己的非妥当性(拒斥)が覚識されるときが「否定」であること――或る他者(das Man的な相でのヒトをも含む)による施詞的な提題に対する不承認的拒斥が「否定」――、この事まで誌すに止めます。」247-8P
「肯定および否定ということは「同轄」や「異別」とは次元を異にし、間主観的な承認・拒斥の場で存立するものであるということ、爰で銘記したいのはこの点です。尤も、間主観性ということはいわゆる他者認識という大問題に絡みますし、対自己的にせよ対他者的にせよ、「帰属」とか「対妥当性」とかは原理的に説明を要する論件であり、あまつさえ「非人称的帰属」とか「認識論的主観」とかいう論件を導入してマイノング流の「仮定」とか、さらには「真・偽」の問題とかを論じる課題がまだ残されております。これはまさに認識の「対話的構造」と相即する問題ですから、順次に詰めていくのほかないことを御諒解願いたいのですが、以上の臆言からも、迂生が先に知覚現場的判断では否定判断はさしあたり括弧にいれておけると申した含みだけはお判りいただけたのではないかと念います。知覚現場的判断において、異別判断は不断に生じること、また、論戦的対立における否定的判断も生じうること、さらには「P1かな? いやそうではない。P2かな? いやそうではない」という仕方での否定も生じうること、このことを認めたうえで、しかし、アクチュアルな現場では肯定判断は存立しても、大宗においては否定判断は暫く括弧に収めておけると申したのは、そこでは勝義の対他者関係での否定ということが余り深刻化しないことに徴してのことだったのです。しかし、茲から振り返れば、「括弧づけ可能」云々は、何ら積極的な立論ではなく、それに藉口して「異別判断」と「否定判断」との相違をはじめ一連の論件を“登録” するためのレトリカルな挿入にすぎなかったことも追認していただけると思います。」248-9P
第三段落――伝統的な「実体−属性」の構制を「函数−変項」の構制とリンクさせる
249-52P
(この項の問題設定)「論点が多岐にわたりましたが、今や以上で配視してきた諸契機を踏まえて、伝統的な「実体−属性」の構制を「函数−変項」の構制とリンクさせる作業に一応の締め括りをつけましょう。」249P
「「コレハSナリ」「SハPナリ」という命名的結合・施詞措定は、ほかならぬ当の述詞が選取的に賓述されたというそのことにおいて、その述詞の「被表的意味」たるかの一般者(先刻来の最もプリミティヴな例示的標記を継続すればf(x)=Ax+b)を即自的に導入した所以となります。(Pによる述定は単に音声形象を外部的に導入するのではなく、その都度すでに即自的にはイデアールな被表的意味を導入する所以となること、この点を分離説に対して銘記しておきましょう)。「Sハ(Aa+bという現示的規定に即して)Pナリ」と措定されたとはいえ、Pナリという賓述はAa+bというその特定の“値”にかぎらず、Ac+b, Ad+b等々、f(x)=Ax+bの別個の“特定値” であっても差支えないことを含意しており、現にAa+bがAc+bに変化したとしても、依然として「SハPナリ」という述定が維持されます。Pナル○○性は、その都度特定の“値”をとるにしても、こうして実はAx+bという函数的な変化“項”にほかなりません。ところで「S」は(××性に即して)Q、(△△性に即して)Rというように、伝統的思念ではそれに附帯する“属性”とされる他の性質に関しても賓述されるのであり、それゆえ、P(Ax+b)のほかに、Q(Bx),R(x)という変項的“性質”も具えていると申せます。」249-50P
「実体と性質という構図に妥協していうとき、こうして、Sはとりあえず諸々の“変項”的性質を具えていることになります。Sは“錯図”的な単一態・統一態を成している次第ですが、このことに応じて変項的諸性質は函数的統一態(「函数の函数」)を形成している筈です。さてそこで、存在するのはこの「函数的連関態」だけなのか、それともこの“性質”が“附着”する“実体”がそれとは別にあるのか、これが問題になります。ところで、いわゆる“実質”もここでは“性質”のうちに算入しているのですから、“実体”があるとしても、それは無性質か、少なくともそれの性質が原理上“不可知”であるようなものでなければなりません。このような“無性質の実体”ないし“不可知な実体”の要請は無用である旨を前便で論断しておきました。伝統的な思念において、“性質を具えた実体”と称されてきたものは、その実、上述の「函数的連関態」にほかならず、また“属性”と称されてきたものはそれの「変項」にほかならない所以です。慥かに、その都度の対象Sは、不特定値の函数ではなく、特定値で充当された相で現存しますけれども、それが絶対的な不変不易体ではなく、一定の変化を呈しても依然「ソレハSデアル」と賓述されうるかぎり、“錯図”的対象Sはまさに、「函数的成態」「函数的連関態」と呼ばれてしかるべきです。」250Pさらに進み、最終的なまとめに入ります。
「右の言い方では、しかし、伝統的な思念における「諸属性を具えた実体」を“函数態”に、そして「属性」を“変項”にスライドさせた域をいくばくも出ず、これにとどまったのでは「記号論理学」式に標記替えとさして選ぶところがなくなってしまいます。われわれの場合、“内自化された性質”をそのまま追認するのではなく、このような物性化を支える対他的な反照関係を正視し、これを「函数的連関態」に繰り込むことが要件であり、――このことを対自化する含みで、「Sハ(○○という契機に物性化される対他的関係性に即して)Pナリ」という構制を顕揚し、併せてまた、Pの対他的反照関係をあれほど強調しておいた次第でした――爰ではまだ途半ばです。しかし、ここから、一歩先へ議論を進めるためには、以上では“錯図的”な単一態的統一性の維持に仮託してきたSの当体的自己同一性を正規に権利づけることが先決要求になります。けだし、実体Sがあってそれが対他的に外面的な関係をもつのではなく、謂う所の「対他的関係」はSの存立にとって“内在的”であり、これを積極的に繰り込まなければ、上記の主語対象性=「函数的連関態」なるものの実相を規定できない所以です。」251Pと押さえ、そこから次便へ繋げる論攷を展開します。
「この論件が次箋でのテーマになりますが、この際、併せて次のことを書き留めておきたいと思います。――謂うところの「函数的連関態」F(x)はそれ自身の存在性格を問えば所謂Geltung(妥当性)としてのイデアールな存在性格を呈するということ、しかるに、現実に存在するのはそれが特定の値で充当されたF(a), F(b)等々の在り方においてであること、この間の事情を存在論的・認識論的に定式化していくうえでの概念装置として迂生としては「形相−質料」というカテゴリーを援用すること、ところで、前便以来の「超文法的主辞」なるものは実はここに謂う「質料」と関係し、実体主義的な発想のもとでは究極的な場面で上記の“不可知な実体”とこの質料とがリンクするということがそれです。因みに「コレハSナリ」というさいの「コレ」は、“図”であってさえ既に一種の函数的成態であるとすれば、当の「コレ」(“図”)をそれとして覚知する“超文法的賓述”対する“超文法的主辞”、つまり、ラスク式にいえば「裸の質料」が問題にならざるを得ない所以となります。という次第で、「実体−属性」の構制を前記の仕方で「函数−変項」の構制とリンクさせる場合、まだ重大な“未決問題”“先決問題”が残されているわけです。/爰に謂う“未決問題”は、“錯図”の単一的統一性への仮託をもはや許されぬ存在論的準位で「函数的連関態」Sの自己統一性と当体的自己同一性ということを――「裸の質料」というとき“実体的”核を端的に卻ける地平に立った「関係主義」的存在観において――如何にして権利づけるのか、という形で定式化することもできましょう。これが、弁証法における「変化」の「当体」という論件と重なることは喋々するまでもありますまい。/次箋では、この案件を扱い、さらには、間主観的な認識の「対話的」構造、そこで問題となる「肯定判断」「否定判断」の存立機制の検討に向かうことにしたいと念います。」251-2P
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(4)
第七信「判断」の機制と関係規定
(前便までの押さえ)「体系的分類のヒエラルヒーの検討を通じて「函数充当型」の論理構制を定位しておきました。――分類の三大基本型である「類種的分類」「成素的分類」「系譜的分類」は、系列原理を異にしつつも、構成を突き詰めて行くと、結局のところ、前々便に誌した「成素複合型」と「有機醸成型」とに帰趨すること、しかるにこれら両型がアルケーに立てる「抽象的」「普遍的」な「単純態」は仮令実体主義的に思念されていようとも実質的にはロッツェ・カッシーラーの謂う函数化的補完に俟つものであること、そのことに応じて亦、「類種的統合体系」「成素的合成体系」「系譜的整序体系」における系統的展開の構成はいずれも“函数的充当”の論理構制に包摂されうること、この意味において、旧来の体系的分類法や体系的整序法はすべて“函数的充当”型の展開法へと揚棄されうること」190P
(この便・章の課題)「“函数”“充当”的という半ば比喩的な表現の内実を方法論的に対自化するにあたっては、いわゆる「命題」ないし「判断」の構造を把え返す必要があり、<主語−述語>構造を分析し、それを“函数”的指定の脈絡に配位することが要件になります。これが、すなわち、前便から持ち越した案件にもほかなりません。――本便では、この遺された懸案に応えるところから始め、関係規定の階型性という問題にまで射程を伸ばして行きたいと念います。」190-1P
一 主語的対象に関する実体主義の排却
第一段落――判断の相貌のブラック・ボックス化と主辞・賓辞を検討すること 291P
(この項の問題設定)「認識において「判断」がいわば分子的単位であること、そして、判断の推理的連鎖によって思考が進展していくこと、・・・・・・学理的体系は、「命題」(つまり「判断」を言語的に表現したもの)の体系として存立します。ところが、ほかならぬ当の「判断」ないし、「命題」なるものは、いざ分析し始めると甚だ厄介です。/「SはPである」というときの「である」とは何か、省察された経験がおありでしょうか? 「がある」ということは大難題ですが、「である」ということもそれに劣らず大層な難問です。「通信である」は単なるイコールではありません。尤も、仮りに単なる“等値”であるとしても、そのさいの相等性・同一性ということが、これまた「ある」に勝るとも劣らず大難題です。という次第で、判断は「繋辞」(である)からして大問題なのですが、存在論・認識論の根幹にかかわるこの件は後便までしばらくブラック・ボックスに封じておきまして、ここでは「主辞」(主語)および賓辞(述語)をひとまず検討してみたいと思います。」191P
第二段落――判断における「主語−述語」構造に関する実体主義的な発想の把え返し 192-3P
(この項の問題設定)「判断における「主語−述語」構造に関する伝統的な思念は、実体主義的な発想と密接に結びついております。前便でも触れましたように、主語−述語関係についての伝統的な考えは一応二つの形に岐れます。「犬は動物である」という例で申しますと、この判断は、(イ)主語の指示する犬という実体(「もの」のルビ)が述語の指示する動物という実体(「もの」のルビ)の範囲(外延・集合)に所属することの表明、(ロ)主語の指示する犬という実体が述語の表現する動物という性質を所有することの表明である、とされます。このことは「或る動物は犬である」という形の判断についてもそのまま“妥当”します。ところで「犬は動物である」という形の場合には、(ハ)主語の表現する規定性(内包)のうちに述語の表現する規定性が所属することの表明ということもできます。こうして、伝統的思念では、「主語−述語」関係は、(イ)「実体−実体」関係、(ロ)実体−属性関係、(ハ)「属性−属性」関係に照応するものと見做されます。が、いずれにせよ、それは、対象界が「属性を具えた実体」のヒエラルヒーを形成しているという存在観と相即するものにほかなりません。そして、そのさい「実体」も「属性」もそれぞれ成素複合型の相で了解されており、概してそういう複合的属性を具えた実体が「類−種−個」のヒエラルヒーを形成しているという構図が立てられていると申せます。」と押さえ、しかし「この存在了解が一種の物象化的錯認に基づくものであることは、今更くわしく究明するまでもないと思います。「SがPである」という判断は、主語概念と述語概念との関係、つまり、単なる概念(の内包)どうしの関係と考えられる場面もありますが、苟もそれが客観的妥当性をもった判断と見做されるかぎり、対象界の構造と照応するものと思念されます。そのさいには、「コノモノハSデアル、ソノSはPである」ないし「或ルモノガSデアル、ソノSはPである」という形で対象的与件を勘案する所以となります。このように考えれば、文法上の主語Sは「コノモノ(或ルモノ=x)ハSデアル」という原基的な判断の“述語”であり、真の“主語”は「コノモノ」ないし「或ルモノ=x」だということになります。このさい「Sデアル」という措定と「Pである」という措定とが同格的に扱われうるか、それとも前者は“先言措定”ということで別格に扱われてしかるべきか、ここには問題が残りますけれども、構造的にはともあれ、文法上の主辞の設定は既に「超文法的」(meta-gramatisch)な判断的措定に照応します。翻って、超文法的主辞たる「コノモノ」ないし「或ルモノ=x」とは、文法的主辞Sの指示対象にほかなりません。それでは、この「或ルモノ」とはいかなる存在でしょうか? 論者たちは恐らく、この「或ルモノ」とは主概念Sの内包的規定たる諸属性を具えた実体である、と答えます。論者たちの考えでは、属性を具えた実体(「コノモノ」)が表象的ないし知覚的にまず与えられ、それについて「Sデアル」という判断がおこなわれることになります。「コノモノ」が意識に現前するとき、既に同時にそれの諸属性も意識されているのであるが、そのうちの特定の属性を明識化するかたちで「Sである」とか「Pである」とかの判断的措定がおこなわれるのである云々。論者たちによれば、「コノモノ」はそれ自身で一定の属性を具えた実体として現前するというわけです。しかながら、この想念は、しかにしかるべき理由があるとはいえ、やはり物象化的錯認であって、われわれとしては追随できません。――ヘーゲルもこの錯認の排却から始めます。」192-3P
第三段落――「主語−述語」構造の伝統的思念のヘーゲルの排却と著者の物象化的錯認の廃却
(この項の問題設定)「議論の手順として「主語−述語」構造に関する伝統的思念をヘーゲルがどのように排却しているかを一瞥し、そのあとで迂生なりの仕方で当の思念における物象化的錯認を卻けることにいたします。」193P
「ヘーゲルは、『ハイデルベルグ・エンチクロペディー』の第三五節で、「学の立場に立つためには、哲学的認識にみられる主題的で有限的な方式が孕んでいる諸前提を放棄することが是非とも必要である」と言って、次のように書いています。/(小さなポイント)「放棄すべき前提というのは、第一に、対立的に措定される局限される局限された悟性規定一般が固定的に妥当するという前提、第二に、所与の、先行的に表象されている既成の基体があって、この基体が右にいう思想規定[悟性規定]が自分に適合しているかどうかを判定する基準をなすという前提、第三に、認識とは、そういう既成の固定的な述語を何らかの所与の基体[主語対象]に関連づけることにすぎないという前提、第四に、認識する主観と、これとは一体ならざる客観とが対立していて、これら両者……の各々が自立的に、それ自身で、固定的で且つ真なるものであるという前提である。学の立場に立つためにはこれらの前提を放棄することが必要である」。」194Pと著者はヘーゲルを押さえ、それを自ら押さえ直します。「・・・・・・・放棄さるべき第一の前提は、あれかこれかという仕方で固定的に区劃された述語的規定性、悟性概念的規定性の排却に関わり、第二のものは、まさにあの「属性を具えた実体」として表象される相での主語対象、第三のものは、この「或ルモノ」とあの悟性的述語規定との関連づけとして了解される判断観の排斥、第四のものは、認識主観と認識客観との分断の非を説いたものと言えましょう。」194P
そこから著者はさらに「爰で特に問題にしておきたいのは、超文法的主辞「或ルモノ」(つまり、文法的主辞Sの対象的与件)および、それがそれ自身で具えていると思念されている属性の実状についてです。判断の主語的対象たる或るものは、常識的準位でいえば、諸々の性質を具えた「もの」の相で、知覚的になり表象的になり、既成態として現前するのが普通です。がしかし、この知覚的ないし表象的主語対象の現識は、客観的対象自体の実状をそのまま模写したものと言えるでしょうか。狭義の判断に先立つ「知覚」や「表象」の場面で既に一緒の根源的な判断がおこなわれているのではないか、これが問題の焦点です。・・・・・・いまここで申したいのは、いわゆる性質が主観的なものだということではありません。色や音といえども、決して純然たる主観的なものではなく、むしろ<主観・客観的>=<客観的・主観的>なものと言うべきだと思いますが、ここで申したいのはそのことでもありません。肝要なのは、実体的或るものがそれ自身で具えてあるかのように映現する性質が、例えば色の場合、光線や背景など、他のものとの関係性において存立するものであって、決して内自的に具わっている性質ではないという点です。性質とは対他的な規定性が物性的に帰属されたものにほかなりせん。」194-5Pとして、この項のまとめに入ります。「いわゆる「性質」が関係規定の反照的結節であることは、今日ではヘーゲルの立場を援用するまでもなく、分析哲学の系統などでも割と広く認められております。がしかし、性質を宙に浮かせまいとすれば、それが帰属させられるところの基体が要請されるのではないか、視角を変えて言い換えれば、対他的に関係する当体が必須ではないのか? この藉問に対して「性質の凝結態を考えれば済む」「性質の附着する格別な基体は不要だ」と言った丈で真の回答になるでしょうか? ここには大層誤解を招き易い論点が絡んでおり、それがまた“函数”的整型の在り方にも関係してきますので、稍々立ち入って申しておきます。」195-6Pとして、次項に移ります。
第四段落――項を実体的に考えるには及ばないこと 196-8P
(この項の問題設定)「実体主義的発想での「基体」は不要であるとはいえ、しかしアクチュアルな性質の「凝固態」といったたけではす済みません。アクチュアルな性質なるものは関係規定が物性化された映現であり、「性質どうしの凝結態」の追認に終始することは物象化的錯認にみずから陥る所以になります。ここで鍵となるのは、対他的に関係する項の内実です。普通には、関係する「項」をはじめから実体化して考えがちですけれども、項は決して実体的に考えられるには及びません。」196Pと押さえ、色彩の例を出して、「そこで、今問題の色彩の成立条件をなしている対象的規定性を「規定性A」と呼ぶことにしましょう。嗅覚や味覚や触覚に映現する諸性質に関しても、同様の措置をとることにします。こうして、今や、対象は「規定性ABCD……」(剴切にはaibjckdl……)を“具えて”いることになります。そこでは規定性を担う基体が果たして必須でしょうか? また規定性を“具える”とは一体どのような事態の謂いでしょうか? 形を変えて、こう藉問したほうが端的で良いかもしれません。規定性ABCD……は実体的な基体に附帯しているのか、それともそれらどうしで(基体なしに)凝結態を成しているのか? この藉問に答える前廷として、われわれは、「基体があって、それに固有の性質なるものが附着している」といった因習的描像そのものを卻けてかかる必要があります。/行論の便宜上、先ほどは「規定性A」なるものがあって恰かも対象そのものに具わっているかのような言い方をしました。それは、色彩という“性質”が単なる主観的幻影ではないこと、つまり、いわゆる主体の側と客体の側とを分けて考える発想に妥協して言うかぎり、客体の側の性状にも根差すものであること、諸種の色彩的差異は単なる主観的区分ではなく対象的規定性の差異に根差していること、このことを銘記せんがためでした。しかし、一歩踏み込んで申せば、「規定性A」は、色彩との類似性を云々できないどころではなく、それ自体としていかなるものであるのかも端的には不可知です。光線その他との機能的な関係態においてはじめて「規定性A」なのであり、この機能的関係を離れて、それ自身でいかなるものであるかは、不可知というより没概念的です。それは、譬えていえば、磁石における南北極の機能的関係を離れて北極性それ自体を云々しようとしたり、電磁現象という機能的関係から磁気を単離しようとしたり試みるようなものと申せましょう。現実に存在するのは機能的関係態であり、関係項が独立自存するわけではありません。伝統的な発想法では、第一次的に“項”が在って、それらの項が第二次的に関係を結ぶかのように考えがちですが、実際には、しかし、まさに函数的な関係性においてはじめて項が存立性を得る次第なのです。」196-7Pと展開し、この項の附言的なまとめに入ります。
「爰で顧みれば「規定性A」「規定性B」……は関係態の「項」をいわば内自化したものとなっております。これらの項が直接的に凝結するわけでも、或る基体に附着するわけでもないこと、このことは最早絮言を須いない筈です。」として、次項の課題を出しています。「では、規定性ABCD……を具えた「或る単一なもの」という想念が如何にして存立し、それがまた如何にして「主語対象」として設定されるのでしょうか?」197-8P
第五段落――「或る単一なもの」という想念が如何にして存立し、それがまた如何にして「主語対象」として設定されるのか? 198-200P
(この項の問題設定)「人々は、一箇同一の実体があって、それが様々な状態相や関係相にあるものと思念しておりますが、問題はそのさいの「実体」です。如実に実在するのは、立停っている相での牛、歩行の相での牛、水を飲んでいる相での牛……というように、その都度の状態相・関係相における定在です。人々は、しかし、それらの状態や関係の相で在り得る或る同一のものを考えようとします。では、その一箇同一者とは何か?・・・・・・一箇同一の或ルモノというのは、成分といったものではなく、むしろ函数f(x) ――他変数函数f(x,y,z……) ――に比定されるような関係態であり、変項が様々な「値」をとるのに応じて様々な状態相を呈しつつも当の同じ函数とするかぎりでの同一態である、ように思えます。“成分”と称される骨・肉・皮……にせよ、色・香・形……にせよ、普遍不動の自己同一者ではなく、それらが同一のものと称されるさいには既に一種の函数的同一者、すなわち、値を変ずることが可能な、それでいて「ソレ」でありつづける或るものとして了解されているのではないでしょうか。もちろん、人々は、日常的意識において「函数的同一者」などということを自覚するわけではありません。心理学的にいえば、それはたかだか「ゲシュタルト的同一性」にすぎません。がしかし、われわれの見地からいえば、「ゲシュタルト」なるものが、そもそも一種の「函数的同一態」にほかならないわけです。」と話を進めます。そして「ゲシュタルト的分節態は、心理学的な次元で定式化しようとすれば、さしあたり、色・音・香り……大きさ・形……といった感性的知覚を“項”とする“函数”的な関係態のかたちで標記する所以になると思います。そこでは、色・音・香り……や、大きさ・形……などの“項”が「図」として「地」から顕出しているかぎりで、あたかも自足的な内自的規定性であるかのように映現します。しかし、「図」は「地」との示差的区別性に俟つという一事からいっても、それが関係規定の反照的結節であることは銘記するまでもありません。」と展開し、さらに話を進めます。「ここで問題にしておきたいのは、その先の話であり、ゲシュタルトという“函数”の諸“項”がそれ自身、“函数”であるということ、従って、ゲシュタルトは、“函数の函数”であるという事情です。――先に、色・香・……形……に関連して「規定性A」「規定性B」……「規定性D」……を云々しておきました。規定性ABCD……というのは、それ自身では感性的知覚に泛かぶものではなく、感性的知覚の可能的諸条件の或る契機であり、感性的知覚に映現するゲシュタルトの被媒介的成立条件をなす関係態の項として、フェア・ウンスに措定されるものでした。それは、能知の側と所知の側とを便宜上分けるかたちで論考する文脈で立てられるものであるとはいえ、いわゆるセンシビリア(sensivilia知覚的)ですらなく、ひとえに色彩・音韻……等々が、それぞれの準位と相互関係の場で、示差的な区別と分節を呈しうる所以の深層的関係態の項でしかありません。がしかし、例えば、色彩は、規定性Aと光線や視覚機構、等々の諸契機の機能的・函数的な連関態による被媒介的な存立態であるという具合に、ゲシュタルトという函数態の諸項それ自身が深層的な諸項の函数的成態として定位される次第です。」198-200Pと押さえ、この項の、そしてこの節のまとめに入ります。
「われわれがもし、「所与(x)を所知(a)として覚知する」という構制を以って、直ちに「根源的な判断措定」とみなすとすれば、主語対象のゲシュタルト的覚知は――前言語的に既に――右に謂う深層的な関係態たる所与(x)をゲシュタルトSを賓辞的にPとして措定する判断の超文法的主語たる「コノモノ」は規定性ABCD……を契機とする関係態だということになります。しかしながら、右に「もし……とすれば」と仮言的に誌した所以でもありますが、迂生としては狭義の「判断的措定」という用語をもっと限定した意味で用いたいと念います。――とはいえ、概念のうえでは、右にみましたように、深層的関係態を超文法的な主語とみなすことも可能な道理です。」200-1Pとし、次節に移ります。
二 「主語−述語」構造と函数的連関態
まず最初に、前節の課題を引き継ぎ、この節の課題を呈示しています。「以上ではまだ「超文法的主語」をめぐって論件の一端にふれた域に止まりますが、迂生が何を言おうとしているのか、既に御省察のことかと畏れます。が、敢て「述語」の側をも視野に収めつつ「主語―述語」構造と「函数的関係態」との構造的連関性を問題にしておきたいと思います。」201P、ここで「既に御省察のことかと畏れます」とあるのは、まさに繰り返してしつこいくらいに、論理厳密性で展開してきた、実体主義の廃却と函数的連関態としての突き出しを示しているとわたしは押さえています。廣松さんの論考は難しいとされていますが、実にしつこいくらいに論理厳密性を追求しているので、それを例示とともに押さえていくと、判り易くなっていきます。このわたしの切り抜きメモは、その「例示」の繰り返しの「しつこさ」を省いているので、よく伝わりません。是非原文に当たってください。
第一段落――「主語―述語」構造と「函数的関係態」との構造的連関性 201-4P
「「判断」の最もブリミティヴなかたちは、いわゆる「命名判断」(Benennungsurteil=呼称判断)であると考えられます。尤も命名判断と一口に括っても、「コレはポチである」というような個体的命名判断と「コレは犬である」というような種族的命名判断とを分けて論ずべきかもしれません。しかし、いずれにせよ、指称される「コレ」は、心理学的な次元でいうかぎり、「図」(Figur)として顕出しているゲシュタルト的な分節態です。・・・・・・ひらたく言ってしまえば。命名しようとしまいと、所知的ゲシュタルトは“同じ”ということです。命名判断は「分析的」か「綜合的」かと問うことは、判断の性格づけの次元では意味をなしません。・・・・・・それでは、命名判断はゲシュタルト的覚知と全く同一の意識事態なのであるか? そうではありません。対象像そのものは変様しないにしても、意識事態全体をとってみれば相違がみられます。それは、当の対象的分節態たる「コノモノ」が他者たちによってポチと呼ばれるという意識(他者たちに対して「ポチ」としてgelten(妥当)するという意識)、ないし、それが「ポチではない」という否定的判断の場合でいえば、「コレはポチである」ということが他者に対して妥当しないという意識です。この<対−他者−妥当>性の覚識は、ゲシュタルト的に分節した「図」たる「コノモノ」の覚知に、謂わば“累加”されるとはいえ、対象像そのものを内容的に変化させるわけではない。というのが当座の論点です。」とし、さらに「こうして、命名判断は、覚知されている既成の対象像「コノモノ」に、これまた、既成の「標徴」を謂わば“貼付”し、この呼称の対他者的妥当性を覚識する次第ですが、この標徴的「能記」に対応する「所記」については猶若干の検討を要します。行文の都合上、これまで、命名的指称の対象がゲシュタルト的分節態であることを云々してきましたが、実をいえば、「それが「ゲシュタルト」であるというのはフェア・ウンスな了解であって、当事主体にとってはそれはさしあたり個体的に分節した「図」として顕現するにとどまります。・・・・・・「ポチ」と呼ばれる対象は、姿勢や光線の具合によって、また成長によって、変様しますが、それにもかかわらず同じ「標徴」で標記されるのであり、このかぎりで、命名的に指称される「所記」は“函数的同一態”とみなすこともできます。一般には、「ポチ」というような「固有名」の指称する対象は個体的実体であるかのように思念されておりますけれど、右のかぎりでは、同一個体として覚知され、同一個体として再認され、依って以って固有名で指称されるところの命名判断の対象はたかだかゲシュタルト的な“函数的同一態”にすぎないとも言える所以です。・・・・・・「コレはポチである」と命名的に判断する場合、「コノモノ」と謂うのは、射映的に現前する所与を指示しているのではないでしょうか? 当事主体の反省以前的な意識においては、まさにその通りだと思います。がしかし、事柄はこれでは尽きません。反省的意識においては、ないしfür unsには、当の与件は単なる射映そのものとしてではなく、或るゲシュタルト的“函数態”の変項が特定の“値”をとったf(x1,y1,……)という相で対自化されます。という次第で「所記」なるものを単層化してしまうことなく、いくつかの契機に分けて考えていく必要があります。――迂生が従来「意味論」の論脈で「被示的意味」「被指的意味」「被表的意味」といって区別してきたものにそれは対応します。当事意識が直接的に覚知する特個的射映が「被示的意味」であり、固有名ですら既にそれを表現する“函数概念的”規定性が「被表的意味」であり、苟も呼称を意識したり、遡っては再認的に覚識したりする場面で指向されている“函数的同一態” ――これは「被表的意味」が「被示的意味」において謂わば“肉化”したものと譬えることもできますが――それが「被指的意味」にほかなりません。「所記」は、これら三契機の構造的成態として存立します。」201-4P
第二段落――個体的命名判断と種属的命名判断 204-7P
「命名判断のうち、いわゆる個体的命名判断に即して以上申し述べたことが、種属的命名判断の場合にも推及できます。もちろん種属的命名の場合、新しい契機が勘案されるべきことは申し添えるまでもありませんが、迂生の立場は普通“種属的”名辞に特有と思念されている諸契機が固有名の場面でも既に存立していることを挙示する所以になっておりますので、この一事からしても拙論の方向は大凡賢察いただけることかと念います。/普通の考えでは、個体的命名は唯一的な存在である「個体的・実体的な存在」を指称するのに対して、種属的命名は「普遍的・本質的な存在」を指称する、乃至は、当の普遍本質的な規定性を具有する一群の定在を指称するものと了解されております。個体的命名と種属的命名を区別することの了解、したがってまた、個体的実体性と普遍的本質性とを区別するこの了解は、無論、顚から斥けるわけには参りません。それは、再認的同一性との区別とも関係しますし、実体主義的存在観の“現場”でもあります。」204Pと押さえ、さらに「偖、個体的命名の場合、当事者の直接的な意識においては、射映的な特個的対象が指称的対象をなすものと私念されており、実体主義的な見地からは、ゲシュタルト的移調性の相で覚知される当の“対象自体” ――客観的属性を具有する客体的実体――が指称的対象をなすものと主張されます。それにひきかえ、種属的命名の場合、当事者の直接的意識において、当の「標徴」が幾つかの対象に“貼付”されうることが了解されているにしても、ウルトラ客体主義の見地からは各々の標徴は或る特定の対象的な本質自体――客観的属性を具有する客体的本質――に照応するものだと主張されます。このウルトラな実体主義では、ソクラテスとかプラトンとかいう個別的実体のほかに、<人間>とか<生物>とかいう本質的実体がそれぞれ各一個“存在する”ことになります。そして、命名はその一個の実体を指称するとされますので、ここでは個体的命名と種属的命名の区別は立ちません。相違はただ、当該の“実体”が普通の個物であるか、それとも、一種独特の形而上学的個物であるかの区別に帰着します。」204-5Pここで、数学における「1」を巡る論攷に入ります。
そして「話を本筋に戻して、本質的実体なるものは実在せず、本質的規定性を共有する諸実体が実在するだけだと考え直してみますと、個体的命名は対象的実体が唯一個、種族的命名は対象的実体が複数個という点で区別できそうです。この場合、命名的標徴は、或る性質をもっていることを述定するのではなく、或る性質をもっているものを指称するのだと考えられます。」206Pとし、「まずは個体的命名と種属的命名とに共通する論理構制を指摘」206Pするとして「種属的同一性が認められる所以の共通の本質的規定性が「種属的」名辞の「被表的意味」に照応するわけですが、この意味形象が“函数的成態”であることは改めて言うまでもありません。種属的命名判断は、所与を当該の“函数態”の項が特定の“値”をとった定在とみなすかたちで存立する点で、先にみておいた個体的命名判断の場合とfür unsには同断であること、「被指的意味」の存立構成が同趣であること、このことも容易に看取していただけると思います。被指的意味が“肉化”され、対象的な相で指向されるかぎりで、この物象化された“函数的同一態”が、実体的同一体、本質的同一体という相で思念されるわけです。――反省的な立場では、実体的対象が唯一的であるか、複数的であるかという区別が重視されますけれど、小さな子供などでは両種の命名が峻別されてはいないように見受けます。この事実に関して、人々は「子供は固有名と一般名とを混同しているだけだ」と言うかもしれません。がしかし、それは単なる「能記」に関わる問題ではなく、ゲシュタルト的同一態の覚知という構制での共通性という事情に起因するところが大なのではないでしょうか? 個体的に実体として同一なのか、極似してはいるが別々の個体的実体なのか、これの弁別は容易ではありません。・・・・・・そして、おそらく「ゲシュタルト的同一態の覚知という同じ構制」のゆえに、種属的同一性を支える或るもの(本質) が、個体的同一性を支える或るもの(実体)と類同視され、そのことから「類」や「種」といった“普遍”“本質”の実体化(いわゆる「第二実体」)が生ずるのではないかと想います。」206-7Pとまとめています。
第三段落――後論に必要な論点の提出 207-10P
「ところで、「コレは犬である」「コレは白い」「コレは動く」等々が「述定判断」として遂行される場合、ここでの要件は能記的標徴を対象に“貼付”することではなく、もっぱら意味的措定が眼目になりますが、意味論上の構制はやはり命名判断の場合と同様です。述定的判断においては、述定詞の表現する規定性を主語的与件において覚知すること、視角を変えて言い換えれば、主語的与件において覚知される規定態を「被表的意味」たる“函数態”の変項が特定の“値”で定在するケースとして認知すること、そしてこの認知の<対− 他者− 妥当>性を覚識すること、けだしこれが基幹的な構制だからです。」207-8P
「命名判断であれ、述定判断であれ、“同一の与件”に関して(a) 「コレは犬である」、(b) 「コレは哺乳動物である」、(c) コレは動物である」、(d)「 コレは飼い犬である」、(e)「コレは大きい」、(f)「コレは黒い」、(g)「コレは走っている」等々、一定の判断が下すことができますし、現に下されます。・・・・・・判断の当事意識がつねに分類的対比の意識を明晰にもっているとは申しません。通常は、直覚的に判断を下してしまい。そこには、比較とか対比とかはもとより、分析の意識すら見出せないと申すべきでしょうし、極言すれば、対象の具えている諸々の規定性がどこまで明識されているかさえ疑問です。しかし、哺乳動物という規定は同位的な他種の動物、動物という規定は植物、生物という規定は無生物……という具合の同位的他者との反照的区別性において規定性を明識化され、そのことにおいてはじめて哺乳動物……生物……存在……というたぐいの述定を生ずるように思えます。前揭の (d) (e) (f)についても同断です。その点、 (g)や「コレは死んだ」というたぐいの判断は、対比的な他者をもたないように考えられるかもしれませんが、それは“他者”なるものを別の実体ないし別の実体の性質に限定するからのことで、実体的には同一の対象であっても、別様の状相との対比的反照のもとに措定されている点では、やはり同趣の構制だと申せます。・・・・・・われわれの日常生活において、われわれは「物」的に分節した世界像に当面していること、――この「物」的分節の基幹的な諸単位は歴史的・社会的・文化的に相対的――であるとはいえ、われわれの場合、「犬」とか「机」とか「ペン」とか「リンゴ」とか「バラ」とか指称される次元での、日常的準位での諸個体が基幹的な単位になっていること、――そして、この基幹的な「物」的分節準位では、諸々の「物体」的分節体が同位的な胞族をなしており、従って「犬」はは動物学的分類での準位でのように「猫」とか「狼」とか「虎」とかと同位的な胞族を形成しているわけではないということ、このような事情に因るものと思います。このため、分類的対比の覚識が弱くなりますけれども、「犬」とか「机」とかいう次元での措定は、諸「事物」という同位的分節体との示差的区別という対比的反照に支えられているのであり、ここでもまた同じ構制が指摘できるわけです。/只今指摘した対他的反照規定というのは、いつぞや紹介しましたヘーゲルの謂う「反照規定」とは随分次元が違いますけれど、根底的にいえば同じ洞見に帰趨する筈です。」208-210P
第四段落――“同一の”「コレ」という主語対象の側の対他的反照規定から個体的実体主義批判に踏み込む 210-3P
「第一種の論者たちは次のように論じます。「コレは云々である」という形の判断において主語「コレ」は端的に実体的対象を指示しているのではなく、例えば「コレは黒い」という場合に見易いように、真の主語は「コノモノの色」なのであり、「主語−述語」関係とは「主語」の内包と「述語」の内包との関係なのである云々。論者たちによれば「コレは犬である」といった場合、黒に対する「色」というような主語の内包的規定は日常的語法では明示しがたいけれども、強いて言えば「コノモノの○○性は犬である」という構制になっているわけです。・・・・・・こうして、論者たちの見地では、同じく「コレ」という言葉が主語に立つ一連の判断において、真の主語は「コノモノの○○性」なのであり、この真の主語は述語に応じて異なるという答になります。つまり、言葉のうえでは斉しく「コレは……」という形になろうとも、真の主語(「コレ」の表わす対象)は同じものではないというのが論者たちの回答です。但し、この“真の主語”たる「コノモノの○○性」が共通に含んでいる「コノモノ」、すなわち○○性の基体が一貫して同じ実体であるかどうか、これは別途に検討さるべき問題として残ります。が、これを検討する前に別種の見解をみておきましょう。/第二種の論者たちは次のように主張します。「コレは云々である」という形の判断において、主語「コレ」は一定の規定性を具えた対象をその都度指示している。例えば、「コレは動物である」という場合、真の主語は、犬というような動物的規定性を具えたコノモノなのであり、「主語−述語」関係は、「主語」の外延と「述語」の外延との関係なのである云々。論者たちによれば、「コレは黒い」という場合も、「しかじかの規定性を具えたコノモノは黒い物である」という構制になっているわけです。・・・・・・論者たちの見地では、同じく「コレ」という言葉で指称されるにしても、どの規定性が明識され、どのようなものとして覚知されるかはその都度相違するのであるから、そのかぎりでは、「コレ」は同じものではないという答が導かれます。但し、どの次元での○○性が明識されるかの差異はあれ、諸々の規定性を具えた基体「コノモノ」が同一実体であるかどうか、これは別問題です。」211-2Pと押さえて、この項のまとめに入ります。「こうして、第一種の「内包主義」論者も第二種の「外延主義」論者も、さしあたり「コレは云々である」という一連の判断における“真の主語”は同じものではない、と回答しますけれど、しかし、謂う所の“真の主語”の更に奥なる実体として、諸々の規定性を担う「コノモノ」という同一の基体を想定したがります。今や、この場面での「コノモノ」と「○○性」との関係を検討してみねばなりません。――右に挙げた第二種の論者たちの場合、主語は「コレ」という言語的表現になっていても、主語的対象は「○○性を具えたコノモノ」を意味すると主張するのですから、論者たちの謂う「コレ」は既に「S」の次元に属します。省みれば、「コノモノハSデアル、ソノSはPである」という構制を呈する超文法的主語「コノモノ」ないし、「或ルモノ=x」が本来の論件だったわけですが、今から検討しようという「○○性」を担う「コノモノ」こそまさに当の「超文法的主語」にほかなりません。」212-3P
三 所謂「個体的特性」と関係態の結節
第一段落――実体主義的存在観か関係主義的存在観か 213-6P
前節最後の項を受けて「論決さるべきポイントは、以上の行論を通じて、既にほぼ収斂しております。「○○性を具えた此の同じコノモノ」という仕方で「実体−属性」の図式で考えるか、それとも、「○○という“変項”をもった単一の“函数”態という仕方で「函数−変項」の図式で考えるか、この二者択一は、実体主義的な存在観を採るか、それとも、関係主義的な存在観を採るか、この択一を意味しますので、存在論的には深刻な対立です(この対立の中には二つの世界観の間のパラダイム転換ということが存在しています)。「コノモノハSデアル」という超文法的賓述は、前者の立場では属性を具えた実体の覚知であるとされますが、後者の立場では――与件を、或る“函数的関係態”の“変項”が“特定”の“値”で“充当”されている定在として覚知すること、つまり、約言すれば――“函数態”の“充当”的措定であるとされます。この対立は、存在論の次元では極めて深刻であるとはいえ、しかし、判断論としての判断論の場面で、判断という事態を謂わば“技術的”に処理する局面では、それほど深刻には顕在化しません。実体主義的な物象化的錯認に陥っていても、判断なるものについての“技術的処理”の場面では必ずしも齟齬をきたさない所以です(哲学・認識論の次元ではそうでも、現実的矛盾の問題としては齟齬は大ありです)。そのうえ、近年では、大抵の論者たちが、いわゆる「性質」は関係規定に還元できることを認めるに至っており、また「性質」はいかに特個的と称されるものでも一種の普遍者であることを認め、さらには「性質」を表わす概念は一種の函数的構制を呈することを認めるに及んでおります。となると、もはや本質的な対立は事実上存在しなくなっているのではないか、と疑われかねません。が、しかし、やはり世界観的な次元での根本的対立があることは確かですし、それが「矛盾律」の扱いといった論理学の根底的な場面に影響しております(現実の矛盾という実践的場面においても然りです)。それは、形式論理に固執するか、弁証法的論理を採るか、この態度決定を劃する所以ともなります。」213-4Pとして、さらに「論理学者たちの多くが今日では「性質」については函数概念的関係主義を採るようになっておりながら、彼らは何故「実体」を残そうとするのか? 因習的な実体主義のパラダイムに囚われているだけと評さるべきむきもありますが、「集合」とか「クラス」とかの扱いなどの場面で実体主義を容易に払拭しがたい事情があることも汲まねばなりません。がしかし、ギリギリ追い詰めていくと、彼らが実体主義に固執する理由は「不可識別者同一の原理」――ライプニッツのそれというより卑俗に理解したかたちでの――を怖れることに懸かっていると申せます。」214Pと展開し、最後の纏めに入ります、というより更なる問題点の提出による、次項へ繋げる提起です。「われわれのように超文法的賓述を“函数態”の充当的措定として−考えるとき、対象が“実体的”に唯一個しか存在しない場合であれ、同種の“実体”が複数個存在する場合であれ、同じ構制になります。そこで、今、同種の二個のもの、αとβの個体的区別がどのようにして可能なのか? 卑俗にいえば、性質のうえでは全く同じ二つのものの個体的区別がどのようにして成り立つのか、これが問題点です。常識的にいえば、例えば2枚の十円硬貨のように瓜二つでも、つまり、性質のうえでは全く同じでも、両者は別々の個体だとみなされます。性質が全く同じであれば、認識のうえではとうてい区別がつきませんが、しかし、“客観的”にはやはり銅貨αと銅貨βとは別々であり、それは自己同一性(セルフアイデンティティ)をもっている筈ではないでしょうか? こうして「性質」的には全く同じでも個体として別々である所以の根拠、個体それぞれの自己同一性の根拠として、「個体的実体」ということが考えられる次第です。論者たちは誇らしげに言います。“函数的同一態”なるものは、たかだか「性質」をカヴァーしうるだけで、実体そのものは埒外にある云々。この実体があるからこそ、個体的区別も存在しうるのであり、また、この実体があってはじめて対他的関係、従ってまた性質というものも存在しうるのである云々。」214-5P
第二段落――「場所を変えても自己同一性を維持する」ということが成り立たないこと
――関係の第一次性からのとらえ返し 215-8P
「消極的な批判から始めますと、論者たちは一切の性質(いわゆる「実質」をも含めて)は関係規定だと認めておきながら、関係の当体=性質の基体たる実体をたてるのですから、この実体それ自身は「無性質」ということにならざるを得ません。果たして、そういう無性質なものが存在するのでしょうか。たとえ存在するとしても、それ端的に不可知の筈です。けだし、「知る」とは「性質」を知ることなのですから。こうして、論者たちのいう実体は仮に存在するとしても、不可知であり、カント流の「物自体」というより、むしろアリストテレスの「第一質料」みたいなものであり、現実的には効きません。・・・・・積極的な批判に転じます。先に二枚の銅貨に即して云々しましたが、二つのものの“性質”的区別のギリギリの極限が場所的区別だと考えられます。爾他の諸性質が全く同じでも、在り場所が違えばこの一点で“性質”的に違うと言えます。そこでαが占めている場所にβを置けば、もはやαとβとは性質的に全く同じになってしまいます。(現実的な問題としては「物体の不可入性」とやらで、同時に同じ場所をαとβが占めることは不可能かもしれませんが、思考実験上それを許容しましょう)。それにもかかわらず、αとβは別々の個体的実体である、と論者たちは主張します。これは慥かに常識にかなった議論です。が、しかし、それはまさに実体主義的発想を論理的に前提にするかぎりでの話にすぎません。論者たちは「実体は関係を規定しはするが関係によって規定的影響を受けないセルフアイデンティカルな不易体である」という先行的了解の立場に立ち、いまの場合、それの特殊ケースとして「実体は場所(位置関係)を変えてもそのことに影響されない」という前提で立論しております。だが、「場所を変えても実体的には不変」という思い込みが問題です。・・・・・・関係性を超絶してセルフアイデンティカルに自存する実体などというものはそもそも存在しないというのが卑見なのですから。でも、ここは百歩を譲りましょう。われわれは日常、空間と物体とを分離し、物体と空間のあいだには実在的な影響関係はないものと見做しております。だから、銅貨の“例”が効きます。二枚の銅貨は、実際には、性質のうえで決して同じではありません。ですから、場所が同じでも相違します。しかるに、先の思考実験では、まず場所しか違わないと想定し、つぎには、その場所さえ違わないと想定して実体的相違を論じました。この第一段の想定は維持しましょう。果たして、そのときでも、第二段が認められるでしょうか。今日の物理学では認められません。一般相対性理論からすれば、空間と質料は相互的に影響し合うのですから、厳密にいえば、場所だけを変えるというわけにはいきません。質料も変わってしまいます。それゆえ、論者たちが主張するようなセルフアイデンティティは保持されないことになります。もちろん、日常的な経験の次元では、場所の変化と物体の変化とは無関係なみに扱います。しかし、今はギリギリの場面での思考実験であること、しかもここでの「場所」(位置関係)というのは関係規定ということのギリギリの最小限であることを銘記して頂きたいのです。・・・・・・「場所」(位置関係)という最も“弱い”関係からしてこうなのでして、「関係を規定しはするが関係によって規定的影響は受けることなく自己同一性を保持する実体」という論者たちの前提的了解が成立しない次第なのです。」ここで、この項のまとめに入ります。「それでは個体的区別はどのようにして保証されるかを反問されるかもしれません。答は単純です。まさに関係性の相違に基づいて個体的区別が存立します。いわゆる“自己同一的”個体なるものは、函数的連関態ないしその“項”を“同一”の当体として措定することにおいて第二次的に立てられるにすぎません。――今や「自己同一的な実体の第一次性」という伝統的な思念を覆して「関係の第一次性」の立場に立ちつつ、いわゆる“自己同一者”としての“当体”が措定される論理構制を積極的に究明し、さらには、そのようにして把え返される「主語」対象性を“函数的連関態”に配位しつつ、旧来の「実体−属性」(「主語−述語」)の論理を「函数−変項」論理とリンクさせる作業を具体的に進めることが課題となります。この具体的な作業は、しかし、次箋(次章)に譲りましして、ここではその前廷ともなる若干の事項を、本箋の行文中インプリシットに既述したことの対自化に即して(第三段落に)誌すことに致します。」215-8P
第三段落――全称的判断と特称的判断、函数態総体の物象化 218-21P
「本便では、以上、超文法的(meta-gramatisch)というよりも前文法的(vor- gramatisch)賓述の次元に定位して論じて参りましたが、判断としての判断成態の構制が「SはPである」という形に即して討究さるべきことは更めて申すまでもありません。」218Pという前提的な確認をし、「御承知の通り、判断論においては「判断の量」ということで、全称判断と特称判断とを区別します。それは、主語Sの外延すべてについての述語Pの(肯定的または否定的な)賓述がおこなわれる場合と、Sの外延の一部についてだけPの賓述がおこなわれる場合の区別です。ところで、全称判断「人は死すべきものなり」において、主語「人」の外延とは何でしょうか? ソクラテス、プラトン、といった諸個人を列挙したその全体でしょうか。それとも、<人>という第二実体なのでしょうか。今日では「第二実体」を積極的に認める論者は多くありませんが、それでも先に数学上の「1」について誌したところからも、“第一実体”だけで済ませるかどうか、そう簡単には済ませないことがお判り頂けると念います。例えば、英語でallが冠せられる場合とtheが冠せられる場合とでは、意味論的な区別がありはしないか、この面から考えても、「第二実体」式の発想を無礙に斥けただけでは済まない筈です。しかも、われわれの場合、「第二実体」はおろか「第一実体」をも最終的には認めない立場をとっておりますので、この問題について独自の処理を要求されることになります。」219Pとして、話を進めます。「われわれの見地から言えば、先述の「被示的意味」の物象化的実体化によっていわゆる「第一実体」が立てられ、「被指的意味」――これは被示的意味を“肉化”のトポスとします――の自存化、遡っていえば「被表的意味」の物象化的実体化によっていわゆる「第二実体」が立てられるのであり、実体主義の流儀で自存視することはいずれにせよ物象化的錯認です。しかし、この錯認の秘密を対自化しつつ、敢て物象化された相に定位して整序することが方便としては許されうる場面もあります。そのかぎりで、われわれとしては概念の「外延」(Umfang)を“第一実体” (正しくは「被示的意味」)の次元でのそれと“第二実体” (正しくは「被指的意味」)の次元でのそれと謂わば二本建てで考える手続をとります。このことに依って、いわゆる「類−種−個」のヒエラルヒーは、一つには「タクソン」(分類)の整序体系として系列化されます。そして、これらの整序体系が「ラング」的次元での内包的「意味」体系として間(「かん」のルビ)主観的に既成化しているとすれば、それがいわゆる「分析判断的推理」の進展、著者と読者との“対話”の進展にとって、好便な手掛りを供する筈です。」219-20Pと展開し、まとめに入ります。「尚、内包の側に関連して最後に一言申し添えますと、f(x,y,z……)という“函数態”の“項”的契機――ゲシュタルトの場面でいえば“錯図”の分肢的“図” ――が主語的に“主題化”され、それに伴って当初の“函数的関係”が“内自化”され、それが“属性”的に思念されるという仕方で「実体−属性」「主語−述語」の編成を生ずる場合もあります。裏返して言えば、つまり、“函数態”の総体が主語的に主題化され、その“項”が述語的に顕揚されるという仕方での「主語−述語」構造化だけとは限りません。しかし、いずれの仕方においてであれ、この“変容”に伴って実体論的構図が泛ぶ次第ですが、当の“実体”をあらためて関係態として把え返すことにおいて――これは一般には当初の関係態の相への単純な復帰ではなく、新しい相での関係態の現識化をもたらしますので――認識の進展がもたらされます。この件についても、後便で詳しく論究する予定でおりますが、とりあえずのところ、関係態把捉の階型的累進の機制を示唆し、併せて、迂生の謂う“函数充当型”の論理展開なるものは数学流ないし記号論理学流の数式的変形ではなく、むしろ当事意識における物象化的実体化にもとづく、「実体−属性」「主語−述語」的構図化――著者と読者との“対話”を介してのそれの止揚、つまり関係態の対自化、そのような過程の累進として存立することを示唆しておきたいと存じ、敢えて独白めいた付言を試みた仔細です。」220-1P
実体主義的な観点からの可能性のあるあらゆる論攷を設定して反論していく緻密さは、「しつこい」と言えるほどなのですが、その途行きが余りにも膨大すぎて追い切れていません。
第八信「主辞−賓辞」と函数成態
(前便のまとめ)「前便では「判断」の「主語−述語」構造を“超文法”な次元に即して――と申しても、エミール・ラスクの謂うmeta-gramatisch(超文法的)とは異相であることに徴すれば、――むしろ「前文法的」(vor- gramatisch)な次元に即して討究しておきました。」222P
(本便の課題)「本箋では、前便での作業の継続として、旧来の「実体−属性」(「主語−述語」)の論理を「函数−変項」の論理とリンクさせること、これが課題となります。尚、周到に論議するさいには、ヘーゲルの「物性」(Dingheit)論について顧慮するのが順当ですが、判断的措定や推論的進展を主題とする爰では、拙速をも憚らず先を急ぎます。/ところで、「主語−述語」関係を「函数−変項」関係に配位し直す旨を云々しますと、学兄はいわゆる記号論理学の手法を連想されるかもしれません。迂生としては、しかし、当面「記号論理学」(symbolic logic)のことは余り意識しておりません。記号学では「命題函数」(plopositional function)が云々されるとは申せ、「主語−述語」関係を依然「実体−属性」という存在観の大枠内で謂わば技術的な処理として数学風に標記するという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ないからです。尤も、悟性論理の次元、わけても伝統的な数学と相即する領界では「数理論理学」(mathematical logic)の手法がそれなりに有効であることは確かですし、弁証法的な体系構成法においても或る種の運用場面ではそれをも参酌することが有効かもしれません。しかしながら、記号論理学に所を得させるためにも、まずは「実体−属性」関係に定位する伝統的な思念をわれわれの見地から把え返しておくことが先決要求です。」222-3P
一 主語的与件と述語的規定との関係相
第一段落――「主語−述語」関係の三様 223-4P
「前便でも一言しておきました通り、判断ないし命題における「主語−述語」関係は、伝統的思念の相では、(イ) 「実体−実体」関係、 (ロ) 「実体−属性」関係、 (ハ) 「属性−属性」関係、以上三通りに分けて一応考えることができます。――「SハPナリ」という判断(例えば「犬ハ動物ナリ」)について、(イ)では、主語の指示する犬という実体が述語Pの指示する動物という実体の範囲(外延・集合)に所属することの表明であるとされます。(この見地では「雪ハ白イ」のごときも「「雪ハ白色のものナリ」という仕方で、述語Pはその都度実体的指示詞として扱われます)。(ロ)では、主語Sの指示する実体(犬や雪)が述語Pの表現する属性(動物性や白色性)を所有することの表明とされ、(ハ)では、主語の表現する規定性が(内包・属性)が述語の表現する規定性を含有することの表明とされます。(伝統的な論理学では(ハ)は余り立論されません。というのも、普通の文法的な次元では「或ル動物ハ犬ナリ」というような形の特称判断の場合、「或ル動物」なるものを主語の指示する対象的実体とみなせば(イ) (ロ)はそのまま妥当しますけれども、 (ハ)は稍々無理を伴うからでしょう。しかしながら、超文法的な 「主語−述語」論の次元では、(ハ)も特に困難は生じません。尚「「SハPナラズ」という形の否定判断について、前記の「所属」「所有」「含有」の関係が「非所属」「非所有」「非含有」の関係に変わるだけで、やはり(イ) (ロ) (ハ)が主張されます) 。/右の(イ) (ロ) (ハ)は、伝統的思念においても相互に還元可能だと考えられております。われわれとしても(イ)(ロ)を順次 (ハ)にいったん還元したうえで議論を進めたいと念います。/まず、(イ)において「SハPナリ」とは、Sが端的にPと同一の謂いではなく、SがPに所属することの表明とされるさい、考えてみれば、実体S(犬、雪)が実体P(動物、白イもの)に所属するのは、実体Sが属性P(動物性、白色性)を所有するかぎりにおいての筈です。こうして、(イ)の「実体−実体」所属関係にとって、(ロ)の「実体−属性」関係が基礎になっております。/そこで、(ロ)の「実体−属性」関係ですが、このさい「実体Sは諸々の属性を具えているがそのうちの一つとしてPという属性を所有する」という了解になっていると言えましょう。とすれば、SがPを所有するという事態はSの所有する属性のうちにPという属性が含有されているという事態と相即します。この限り、(ロ)の「実体−属性」所有関係は、(ハ)の「属性−属性」含有関係と相即する次第です。/こうして、今や(イ) (ロ)を(ハ)に還元して考えることが許される次第ですが、「Sの所有される属性のうちに属性Pが含有されている」という事態、換言すれば「Sの規定性が属性Pを含有する」という事態、これをもう少し立ち入って検討しておく必要がありそうです。」223-4Pと次項につなげます。
第二段落――「Sの規定属性を含有する」という自体の詳説・三つの考え方 224-8P
「Sの所有する属性Pという属性(ハ)に謂う「属性−属性」含有関係は、これまた三通りに分けて考えることができます。」224-5Pとして「第一の考え方では、Sの所有する諸々の属性の“集合”のうちに、Pという属性もその“元”として含まれている、という具合に処理しようとします。例えば、雪(主語S)は、「冷たい」「結晶性」「白い」……といった一群の属性を具えており、そのうちの一つとして「白い」(述語P)が含まれている、というわけです。――これは、先に「実体−実体」の所属関係として考えた(イ)の構図を、要素的性質どうしの場面に適用した形になっており、まさに実体主義的発想の典型的なものと言うべきでしょう――。この考え方で、・・・・・・具合の悪い点が出て来ます。というのは、実体たるというのは、実体たる犬の所有する属性の“集合”に「脊椎動物性」「哺乳動物性」「「動物性」ひいては「生物性」「存在性」といった一群の性質が謂わば同位的な“元”として属することになってしまうからです。そこで第二の見方が登場します。」225P題目ごとの展開が進みます。
「第二の考え方では、Sの所有する或る属性が下位的に所属する、という具合に処理しようとします。一般論として、SがPという属性を所有するかぎり、その都度SはPの上位概念にあたる属性を所有すると言い張ることができます。・・・・・・Sの属性とPの属性とは同位的な“集合”を形成するのではなく、Sの属性がPという属性を下属せしめるのだ、と論者たちは主張します。・・・・・・ここでは、Sの具えている属性とPという属性とは「普遍−特殊」の関係になり、視角を換えて言い換えれば、PはSの“変項”の特定の“値”だという了解になっております。この立場は形のうえでは一応成立ちます。がしかし、判断における如実の事態に徹するとき無理を免れません。・・・・・・・判断の現場で考えてみましょう。雪ハ白イと判断するさい、雪の色彩性なるものが泛かんで、その普遍者(“変項”)が白色という特殊者( “値” )で充当されるわけではありません。この点は、論者たちも認める筈です。もともと論者たちは、論理的関係を問題にしているのであって、別段、心理的事実を云々しているわけではありませんから、この事実の承認は論者たちにとって何ら自殺にはなりません。問題の焦点は、さしあたり、Sの所有する属性の如実相です。雪ハ白イというようなルーティーン化した事例、ことさら判断らしい判断を下さずに済む事例で考えると紛らわしいかもしれませんが、「コノ花ハ赤イ」というのは、論者式にいえば「コノ花ノ色ハ赤イ」ということにほかなりません。しかし「コノ花ノ色」というのは、一般者としての色のことではなく、現に見えている特定の色彩です。言葉で表現するかぎりでは、色という普遍詞を利用して「コノ色」としか言いようがありませんけれども、それは非常に限定された色であり、特殊な赤色です。「コノ花ノコノ色(コノ鮮紅色)」は、述語Pの表現する、「赤」よりも特殊です。Sの具えている属性とPの表現する属性との関係は、論者たちとの主張とは逆に、前者のほうが特殊者なのです。このことに想到し、「普遍−特殊」の下属関係を論者たちと逆転するとき、第三の考え方が成立している所以となります。」225-7P「第三」に入ります。
「第三の考え方では、Sの所有する規定性がPの表現する普遍者的(“変項”的)規定性の特定“値”として認定されること、それがかの(ハ)に謂う「属性−属性」関係の実態であると主張します。この考え方を採るとき、SハPナリという判断的措定は――今暫く「対他的妥当性」の契機は括弧に入れて、「主語対象性と述語的規定性との意味関係」に話を限りますが――主語Sの指示する対象において見出される規定性(例えばAa+b)を述語Pの表現する函数的成態が特定の値で充当された定在(Aa+b)として覚知することを内実とします。尤も「Aa+b 」をf(x)=Ax+bの変項が特定の値(a)をとっている特殊態として認知すると言っても、f(a)=Aa+bと別にf(x)=Ax+bという一般者が表象されるというわけではありません。リアルに表象されるのは、通常、Aa+bに限られると言うべきでしょう。このかぎりでは「普通−特殊」なのかという対立、つまり、上記の「第二の考え方」とこの「第三の考え方」との対立は、いずれにせよ心理的事実次元のことでありません。がしかし、Sの対象的規定性(コノ特定の赤色)とPの表現する規定性(赤色という部類)との関係を反省的に二肢化して考える場面では、前者(Aa+b) より後者(Ax+b)のほうが普遍的と認められます。この間の事情は「或る動物は犬である」といった事例についても、それが「或るコノ動物は犬である」というアクチュアルな判断場面であれば容易に看取していただけると思います。また、「僕が永年探していたのはコノ本だ」といった事例でも「コノ本だ」というのが指示ではなく賓述であるかぎり、その範に漏れません。/迂生としては、右に謂う「第三の考え方」を換骨奪胎する流儀で事を処理する所存です。とは申せ、以上の議論では、アクチュアルな判断現場と称したものと、概念体系が既成化している場面――これとてやはり一種のアクチュアルな場面に違いありませんし、学理的判断・命題の体系は概してこの領界に納まります――との位相差が明示的ではないこと、そのうえ、所詮はまだ「実体−属性」という構図の埓内に止まっていること、この種の問題点が残されておりますので、一直線に作業を進めるというわけには参りません。順次に論点を詰めて行くことにしましょう。」227-8P
第三段落――前項への反問による詳述―錯図的構造 228-31P
「迂生が判断における「主辞−賓辞」関係を前掲(ハ)の「属性−属性」関係にいったん還元し、そのうちでも所謂「第三の考え方」を採り「特殊−普遍」の関係として了解する構図に手掛りを求めようとしているのを見咎めて、次のように反問されるかもしれません。主語Sと述語Pとの関係について(ハ)の「属性−属性」説を採るとき、「第一、第二の考え方」ならばまだしも、「第三の考え方」では“真の主語”は“Sのもつ諸性質のうちの或る特定の性質”になってしまい、もはやSを主語とすること自体が不当になりはしないか? つまり「花が赤い」といっても、真の主語は、「コノ花ノコノ色」の謂いになり、それゆえ「花」を主語Sとして扱うのは失当というべきではないのか? 或る種の場面では、たしかに、SハPナリという判断の実態はSノ○○性ハPナリの謂いだと認め、主語は「Sノ○○性」である旨を承認せざるを得ないことがあります。しかしながら、一般には、依然としてSが主語なのです。そこで、まずはSを主語として認めつづけることの正当性が問題の焦点になります。/主語対象Sのもつ諸性質のうち特定の性質が述語的規定Pの特定値として認定されるに“すぎない”にもかかわらず、その特定性質だけではなく、総体としての対象Sが主語として認められうるのは如何にしてであるか? この問題に応えていくためには、まずはアクチュアルな現場、それも“前文法的”な「コレハSナリ、ソノSハPナリ」という場面に即するのが便利かと思います。既成の概念Sと既成の概念Pとのルーティーンな関係の場面とは異なって、ここではSで呼称される与件「コレ」がさしあたり心理学者の謂う「図」の次元で現前します。いま「コレハ布(「きれ」のルビ)デアル、コノ布は碁盤縞(「じま」のルビ)ダ」という認知の場面に即して考えてみましょう。眼前の「コレ」(布)が「図」(Figur)として知覚されているとき、周辺の他のものは一般的に「地」(Grund)の相で背景をなし、もっぱら当の「図」が意識の志向的対象となっております。勿論、「コノ布」と「アノ布」とが対比的に図化されているような場合もあり得ますし、「地」といっても「準図」的な相で意識されている場合があり得ます。が、爰ではまず「布」が知覚的に「図」化している場合を想定します。・・・・・・所与の「コレ」(布)はさしあたり単一態としての「図」の相で「地」から顕出しております。が、この「図」の“契機”が明識されますと、その場合には当の契機が“図化”され、元の「図」は「碁盤縞」という分節構造の相で“錯図” (つまり、図の中に更に図がある複合図)に現成します。そして、この錯図化と相即的に「コノ布ハ碁盤縞デアル」という覚知が生じるわけです。所与の布は「碁盤縞の布」という相に錯図化(分節化)されて意識されるようになっても、一般には当の「図」(布)としての覚識を維持します。というよりも、この統一態勢が維持されているかぎりで“錯図”なのであり、もし当初の「図」が瓦壊して、もっぱら縞模様だけが「図」として意識されるようになっているとすれば、今や「布」は図ではなくして「地」になってしまっていると申すべきでしょう。実際、当初の図の部分的契機だけが図化されて、元の図が崩壊してしまう場合が生じ得ます。そのような場合には、「コレハ布デアル、コノ布ハ碁盤縞ダ」(つまり(Sの)○○性が“真の主語”)とならなくなります。が、ここでは所与の「コレ」が錯図的に分節化しつつも、図としての統一態勢を維持するケースに止目しましょう。この場合には、所与の「コレ」(「図」)がSと指称され、当の図の錯図的分肢が“函数”Pの“特定値”として認知される次第です。茲では、Sで指称される「図」が錯図的に分節化(して明識)されつつも、当の単一の「図」(錯図)として相変らず「地」から顕出しているという事実、この事実が「SハPナリ」という賓述、つまり「S」を主語に立てたままの賓述を“正当化”する所以となります。」228-30Pと押さえ、更に、論攷を進めます。
「しかし、爰で次のように指摘されるかもしれません。図Sが錯図化しても元の統一性を維持するということは、分肢的図(図中の錯“図”)が「Sの契機」であると言うことを正当化するにしても、それはあくまで「Sの」という所属性であって、主語は「Sの○○という契機」でなければなるまい云々。――迂生としても、実は、原理的な次元では、「Sハ○○という契機ではPデアル」という言い方と、「Sノ○○という契機ハPデアル」という言い方とを峻別するつもりはないのです。と申すのも「主語」なるものについて実体主義的には発想しませんので、Pという賓述の主題(被述定的被提示態)がSでさえあれば「Sハ」か「Sノ」かは決定的な相違とは考えないからです。」230Pとしたところで、次のように話をまとめ、次節の課題を提示します。
「という次第で、「SハPナリ」という述定は、「Sハその○○という契機に即してPナリ」――「Sハそれの○○という規定性において“函数”Pの“特定値”ナリ」――の謂いになります。ところで、右の行文では「S」とその契機たる「○○」との関係を“錯図”の総体と“分肢的図”になぞらえるかたちで議論を進めましたが、両者の関係を正確に規定する必要があります。これは伝統的な思念における“主語的実体” (つまり「属性を具えた実体」)とそれに所属する“属性”との関係を正規に把え返す作業に帰趨します。」231P
二 主語・述語規定の「対他的」反照関係
第一段落――「○○という契機」の在り方−「対他的関連性」ということ 231-4P
(前節のまとめ)「伝統的な思念のもとにおける“主語的実体”とそれに所属する“属性”なるものとの真実態、ならびに、両者の関係の真実態について、行文を通じて既に或る程度までは誌して参りました。が、しかし、「錯図」とその「分肢」という半ば比喩的な言い方では、まだ肝心な構制が逸せられたままです。」231P
(この項の課題)「実情を見極める順路として、まずは「Sハ○○という契機に即してPナリ」という構図における「○○という契機」の在り方から見ていきましょう。」231P
「嚮に「S」とその規定との関係を「錯図」とその“分肢的図”との関係になぞらえたのがミスリーディングなのですが、両者の関係は決して「全体」と「部分」との関係ではありません。伝統的な思念では、実体とそれに附着している性質といったかたちで表象しますけれど、規定性が附着的に所有されているわけでもないということ、これまた明らかです。日常的に「Sノ性質」というさい、Sなるものがまさに実体主義的に自己完結的な存在体とみなされ、このものに性質が附属しているかのように表象されがちですが、いつぞやも誌しました通り、“性質”なるものは “対他的関係規定”を“内自化”して表象したものにほかなりません。「彼女ハ人妻ダ」(ママ)「象ハ大キイ」「犬ハ走ル」というさい「人妻」(ママ)は自己完結的な実体ではなく対他的関係規定の結節化されたものであり、「大きさ」は対他的比較規定の固有化されたものであり、「走行」も対他的布置変化関係の内自化されたものであり――という具合に、名詞的であれ形容詞的であれ動詞的であれ、およそ述詞が表現する規定性は対他的関係規定性を即自的に結節化したものになっております。・・・・・・一昔前まではどうだったか存じませんが、今日では「性質」とはすべて「関係規定」に還元されうるという提題は哲学者たちの常識に属します。かつてスピノザは「すべての規定は否定である」(omnis determinatio est negatio)と言いましたが、「すべての規定は関係である」(omnis determination est relatio)と申すことができます。/爰で強調したいのは所謂「性質」なるものはすべて関係規定であるということそれ自体ではありません。「Sハ(○○という契機に即してPナリ)という賓述において、「○○という契機に即して」という関心の場面で「対他的関連性Beziehung etwas Anderes」が構造的な要因になっているということ、銘記したいのはこのことです。「SハPナリ」という判断は、もっぱらSとPとだけの二項的関係のように思われがちですけれども、実は「○○という契機に即して」という構制の場で、第三の因子の介在に依っているということを申しておきたいのです。「○○に即して」という場で、他者(これは他人の謂いではありません)への反照的関連づけがおこなわれると言っても、当の他者(etwas Anderes)が第三項というかたちで明識されると強弁するつもりはありません。一般には、「○○という契機」がSに内属する性質という相で(物性化されて)表象されてますので、当の性質的契機に即するといっても、SとPとの二項だけで済んでしまいます。・・・・・・このかぎりでは、「○○に即してPナリ」という賓述は当事意識にとって(für es)前記のAa+bとf(a)=Aa+bの関係に納まります。しかし、学知的省察の見地から(für uns)いえば、Aa+bなる規定性がSにおいて性質という相で物性化されるその機序の場で、Sという“錯図”の当体性を崩さぬ仕方で対他的関係性が反照されているのであり、この対他的反照が「Sノ○○性」という規定の存立を支えております。そして、この対他的反照関係は、当事意識においても、往々“準図”的な相で意識されることがあり、時には明確な“図”の相で対自化されることもあります。」232-4Pまとめに入ります。
「Sハ(○○という契機に即して)Pナリ」という判断は、こうして、少なくとも学知的省察の見地からは、○○という内自的に物性化された規定性を依って以って存立せしめる所以の対他的反照関係において、S(ノ○○という規定性)は“函数”Pの“特定値”であることの認知を内実とします。」234P
第二段落――SとPの関係そのことについての論究 234-8P
(この項の問題設定) 「只今誌しました「対他的反照関係」「或る他者への関係づけ」という契機は、学理的体系構成の場面で格別に重要な契機として追認されるものですが、今度はしばらくSとPとの関係そのことについて論攷しておきたいと思います。/先刻来、Sの規定性とPとの関係を“錯図”と“分肢”の関係になぞらえたり、別の論脈ではAa+bとf(a)=Aa+bとの関係になぞらえたりして参りましたが、これではもちろん事態を尽くせません。“図”が錯図的に分節化した相で明識され、Aa+bがAa+bとして明識されるのであれば、そこでは「Pナリ」という賓述は無用ではないかとの疑義すら生じ得ます。/議論の間口を拡げ過ぎる惧れもありますが、茲ではSとPとの関係について学説史上の係争問題をも念頭におきながら、右のありうべき疑義にも応えることに致します。」234P
「「主語S」と「述語P」との関係は、先には実体と属性という整理の視角から扱いましたけれども、認識論的論理学においては、むしろ「主概念S」と「賓概念P」との概念どうしの関係として討究されるのが普通です。この場合、両概念が実体に対応すると考えられているのか、それとも、属性に対応すると考えられているのかを問い返せば、上記の(イ) (ロ) (ハ)に帰着するにしても、当座の論件としては別様になります。論者たちは、主賓両概念と言っても、実質的には「表象」の次元で考えているのが普通であり、それゆえ、論者たちの議論は、「主語表象」と「述語表象」という二つの“心像”の関係の分析なりがちです。」234-5Pとして、ここで、「結合説」と「分離説」の討究に入ります。
「伝統的な議論は、この次元では「結合説」と「分離説」との対立という相で展開してきました。結合説は、判断とは主語表象と述語表象とを結合して一つの複合的な結合表象を形成することだと主張します。分離説は、判断とは主語表象を分割してその特定の部分表象を顕化することだと主張します。・・・・・・これら両説は、SとPとの関係がルーティーン化している場面で係争しようというのではなく、原初的な場面での判断に関して対立する次第でして、一方が「綜合的」「結合的」と主張するのに対して他方は「分析的」「分割的」と主張するわけです。」235P
「これら両説は、判断における主賓両概念とその間の関係を所詮は心像的表象の次元で考えており、認識心理学の準位ですら採らるべくもありません。――判断の本質を表象の結合・分離ではなく、肯定・否定と決意的態度決定に求める立場からの批判もありますが、迂生が今ここで結合・分離の両説とも問題外だと申すのは、概念は表象とは存在性格を異にするという事実にもとづいてのことです――。がしかし、表象説への批判は後廻しにして、以下しばらくのあいだ、これら両説に藉口しながら議論を進めてみましょう。/「SハPナリ」という形の肯定判断の場合、原初的な場面での心理的機制について“図”の“錯図”化とその分節肢の顕化を云々する分割説が妥当するようにも思えます。しかし、例えば「水ハH2Oナリ」といった判断の場合どうでしょうか。結合論者たちは、Sたる「水」の表象には「H2O」という表象は含まれていない旨を指摘し、原初的にはSの外部からPが導入的に結合される旨を強調します。一般に、学問上の新発見的認識はもとよりのこと、経験的知識の拡充がおこなわれるのは、主語Sに従来“未知”だった“新しい”契機が累加されるという仕方においてではないでしょうか。たしかに、一応は“累加”と言うことができます。がしかし、それは主語Sに関する既成の知識に即しての話です。外部から導入して累加するという言い方は、半ばルーティーン化している場面に即したものになっており、発見的なアクチュアルな現場での議論からは離れているように思えます。発見的認識の現場では、S(例えば「水」)が、従前では気付かれなかった新しい規定性(例えばH2O)を分肢的な錯“図”として分節化した相で現前するのではないでしょうか。現場的な議論では、どうやら「分離説」「分割説」のほうかに分がありそうです。――勿論、この新しい状相での分節化がおこるのは、Sの自然発生的な分裂の結果ではなく、対他的反照の媒介に俟つものであり、時によっては“外部から”“仮設的に”Pという述定操作を導入してみた結果かもしれません。しかし、Pが外部的に“貼付”されるのではなく、Sが当体的統一性を維持しつつ“分節化”し、それがPとアイデンティファイされるという構造は動かないのではないでしょうか――。尤も、迂生が此説を積極的に採ろうとする者ではないことは上述の通りですし、ヘルダーリン・ヘーゲルの「原始−分割」(Ur-teilen)説を援用するにしても、「図」と「地」との分出的区別の場合と「図」の“錯図”化的な分節の場面とを慎重に配視する必要があると思います。」235-7Pさらに、別の否定判断の問題を提起します。
「とりあえずは、しかし、Sとその規定性という場面に関して分割性に仮託して話を進めたいのですが、ここでもう一つ断り書きを添えながら論件を登録しておかねばなりません。「SはPなり」という肯定判断の原初的な現場では先に見た通りだとしても、「SハPナラズ」という形の否定判断の場合、PがSにとって外的である以上、分割説ではどうもしっくりいきそうにありません。その点、結合説はPをSの外部から導入するという構制では好便ですが、しかし、否定的結合という在り方は表象結合とは所詮次元が違いそうです。という次第で、爰でしばらく仮託しようと念う構制では否定的判断を扱えません。翻って考えれば、しかし“現場”に即した議論を試みようという今の場合、幸いにも否定判断は括弧に収めておくことができます。――学兄は、アクチュアルな現場でも不断に否定判断が下されると仰言るでしょうか。或る意味では迂生もそのことを認めます。だが、「異別判断」と「否定判断」とが混淆されてはなりません。・・・・・・・両者は従来の論理学において、そしてヘーゲルにおいてすら、混淆されるむきがありました。「異別判断」と「否定判断」との異同については、後で立帰るべく課題を登録しておき、ここでとりあえず言い切っておけば、“現場”で不断に当面するのは「異別判断」であって「否定判断」ではありません。勿論、否定判断も絶無ではありません。それは、現実的な見解の対立・論戦はひとまずおくとして、「P1かな? P1デハナイ」「P2かな? いやP2デモナイ」といった仕方で、仮設的・自問自答に賓述してみてそれを否定する場面で生じます。では、仮設的賓述およびそれの否定とは如何なることか、これが新たな問題になりますし、そもそも“現場”では一般に狭義の否定判断はおこなわれないとすれば、狭義の肯定判断もおこなわれないと言うべきではないのか? そこでは「異別判断」と同位的な「同轄判断」がおこなわれると言うべきではないのか? このことも後に論定すべき案件としてここでは登録するにとどめ、議論を先に進めてみることをお恕し願います。」237-8P
第三段落――S(ノ○○という規定性)とPとの関係 238-40P
(この項の問題設定)「随分と右顧左眄するかたちで、問題を登録する仕儀になりましたが、話を本線にもどしまして、あの「分割説」に仮託する流儀でS(ノ○○という規定性)とPとの関係を見定めておきましょう。」238P
「Sにおいて対他的関係規定が反照的に内自有化されている或る分肢的規定性、この規定性(Aa+b)がP(f(x))の特定相として覚知され、Pという詞で(いわゆる「内語」にとどまっていても可)命名的に呼称されるとき、この事態は当該の規定性(Aa+b)の単なる知覚よりも遙かに「より以上」の態勢です。なるほど、当事判断主体のリアルな意識過程としては、当該の錯図的“分肢”に留目し、それをPという詞で命名的に呼称するという域をいくばくも出ないのが普通でしょう。彼はAa+bのほかにf(x)=Ax+bなる関係態を明識的に表象するわけではありません。がしかし、前便で「命名判断」について誌したところを想起していただけると好便なのですが、与件をほかならぬPという詞で呼称するとうこと――QとかRとかでなくPで呼称するということ――は、与件をQRetc.ならざるPという規定態の特定相、つまりf(a)=Aa+bとして認知していることを意味します。このさい、f(b)とかf(c)とかが対比的に泛かぶわけではありませんけれども、しかし、QとかRとか呼ばれる規定性との区別性、そして、P1と呼ばれる範域の規定性との同一性が即自的にせよ意識されている筈であり、この対他的区別と同一の意識契機において、ここでもやはり「他者への関連づけ」(Beziehung auf Anderes)という構制が見出されます。この「他者」および「対他関係性」は、先に「Sハ○○という契機に即して」という脈絡で問題にしたそれとは別でして、先にみたそれは「○○という規定性」そのものの内自的物性化を支える関係規定であったのに対して、今ここにいうそれはPというf(x)を対他的区別性において劃定しつつその範域内での類同性を支える関係規定です。」238-9P
「Pという賓述は、さしあたりPという詞での命名判断的呼称の域にある場合ですら、所与の規定性(Aa+b)の単なる知覚(“無名的”知覚)とは決定的に異なります。これが言語というものの重大な意義の一斑にほかならないわけですけれど、詞で呼称・表現されるということは“内語”の次元でとどまって発声されない場面でも既に、当の詞の「被表的意味」である“函数的成態”とその“充当”という意味構制を存立せしめます。/ところで、与件がそれとして覚知されるところの「被表的意味」――「概念」の内包(Inhalt)と呼ばれるものはその一種です――、視角を変えて言い換えれば、与件がそれの特定値的定在とみなされるところのそれ、つまり、かの“函数的成態”は、それを自存化させた相で考えるとき、レアールな形象ではなく、イデアールな形象(ein ideales Gebilde)としての存在性格を呈します。(この問題に関しては拙著『世界の共同主観的存在構造』第一部を参看いただければ幸甚です)。」239P
「先に、結合説および分離説は、主賓両概念を所詮は「表象」(心像)の次元で考えていることを指弾し、この難点の故にわれわれとしてはそれを採ることができない旨を記しておきましたが、今やその含みの一つを御諒解いただけると念います。概念は、主語概念であれ、“実体”概念であれ“属性”概念であれ、前便でカッシーラーを援用しながらみておきました通り、実際には一種の「函数概念」としての性格をもっております。そして、函数概念たるかぎり、それはレアールな心理的表象たりうべくもなく、哲学者たちの所謂イデアールな存立態と言わざるを得ません。しかるに、結合説も分離説も「概念」なるものをレアールな「表象」の相で思念し、それにもとづいて立論するという錯誤に陥っております。けだし、概念のイデアリテートを対自化ずみのわれわれとしては、両説を共々に排却する態度をとる所以です。」239-40P
まとめの文です。「翻って省みれば、しかし、われわれ自身、「分離説」に仮託する流儀で議論を進めてきたむきがあり、その点では前便での「前文法的賓述」の議論にもやはりその憾があります。今やその是正を要する次第ですが、もう暫く仮託を続けるかたちをとって、先ほど登録しておいた幾つかの問題とも絡め、しかるべき局面で矯正することにしたいと念います。」240P
三 判断成態と「函数―変項」の内的構制
第一段落――「知覚現前的判断」と「概念思考的判断」 240-5P
(この項の問題設定)「同じく「判断」と呼ばれるものでも、例えば、眼の前の具象的な対象を観察しながら「コノ犬ハ雄デアル」と認定するような場合と、俗に謂う“単なる思考の場面”で「犬ハ動物ナリ」と述定するような場合とでは同列に論じ去るわけにはいきません。嚮に「アクチュアルな場面」と「ルーティーン化した場面」といって一応区別を設け、とりあえず前者に即したのはそのためでしたが、学理的な理論体系ではむしろ後者が大きなウェイトを占めることですし、両者の異同というか位相差を確認しておく必要があります。この問題は、前便で「コレハSナリ(コノSハPナリ)」という前文法的・超文法的な主賓関係と「SハPナリ」という文法的な主賓関係とについて、本質的な構造は同じであっても差異の面を看過できない旨を誌し、持ち越した案件にもほかなりません。」240-1Pとして、持ち越していた「アクチュアルな場面」と「ルーティーン化した場面」への論攷に踏み入るとしています。
そして「超文法的な構造に即すれば「犬は動物ナリ」という判断でも、やはり、或る与件が犬デアルこと、その与件が○○に即してPデアルことの設定になっており、このような基礎的構造では「コノ犬ハ雄ナリ」といった知覚的にアクチュアルな判断とも同型です。しかし、両者のあいだに差異があることは覆えません。それでは、奈辺に相違があるのでしょうか? ――標記を簡単にうるために「知覚現場的判断」「概念思考的判断」と呼び分けることにしたいのですが、茲では、両者の異同についてその一斑をみながら、旧来の判断論が陥りがちであった或る陥穽の指摘から始めます。」241Pとして中身に踏み込んでいきます。
「「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」とを比較するとき、誰しもまず気がつくことは、前者はその都度の与件「コノモノ」に関する単称判断であるのにひきかえ、後者は概して全称判断であることでしょう。知覚現場では単称的とはいっても、或る視覚からみれば主語的対象が複数と言える場合も勿論あり得ます。しかし、それは単称判断の並列か、または、複数的与件の一総体ないし関係性という単一の志向的対象に関するものであって、判断主語の本質的在り方に徴すれば「単称的」である筈です。それにひきかえ、「概念思考的判断」の場合、何故に全称や特称が可能なのか、これの説明はあと廻しにしますが、論理学でしばしばおこなわれているような、単称を全称に含めて同列に扱う安直な手続は問題だということを銘記しておきます。これは前便のなかで、「同じく判断の“量”といっても主概念の被示的意味の次元と被指的意味の次元とを区別しつつ処理する必要がある」旨を誌しておいた論点に関わります。が、この問題は姑く措いて別の側面にいったん目を向けておきましょう。」241-2Pとして「アクチュアルな知覚現場的判断の場合、Sノ○○という契機が――必ずしも対他的関係性が明識されることはないにしても、少なくとも或る内自的規定性の相で――対自化されることなしにはPという賓述が遂行されません。なるほど、Sという詞とPという詞との意味的相属関係が明識な場合、コレハSナリという前文法的賓述おこなわれただけで、○○性の対自化を伴わずPという賓述がおこなわれる場合もあり得ます。がしかし、その際には「SハPナリ」が「概念思考的判断」になってしまっておりますので、知覚現場的判断における○○性の対自化という先の立論は崩れません。その点、ルーティーン化している概念思考的判断の場合には、○○性の対自化が一般には生じないというまさにその理由から、「S−P」関係は単純な二項関係だと思念され、そこにおける対他的な反照という構造的機制が看過される所以となります。」242Pとして、主辞対象像の安定性の問題にふれつつ、「当座の論としては、この部面は閉却してもよい」としたところで次の論攷に入ります。
「知覚的な現場でPナリと賓述するさい、現前する○○という主語対象の規定性について、それの対他的異別性や対他的類同性の較認がおこなわれ、それを機縁としてP(QやRならざるP)という施詞的定立が生じます。しかるに、ルーティーン化している場面では、一定の前意識的なコンテクストによる反照的規定を受けているにせよ、「犬ハ動物ダ」「象ハ大キイ」という具合に、Sが直截的にまずPと述定される感があり、対他的反照が意識される場合にも、Sの○○性ゃPの対他的校合性が意識されるというよりも、むしろ既成化している概念のヒエラルヒー体系(類−種的な整序系列)と照合される趣きがあります。――ここに謂う「概念のヒエラルヒー」なるものは、発生論的には「SハPナリ」という間主観的に承認される判断の積み重ねを通じてはじめて成立したものにほかなりませんが、ルーティーン化している場面での当事判断意識においては、却って逆に、当の概念系列体系(これはしばしば対象的実在の客観的なヒエラルヒーであるかのように思念されます)のほうが「SハPナリ」という判断の準拠枠として意識される始末なのです――。現場的判断では「SハPナリ」とは上位概念と下位概念との(乃至はそれに対応する実在どうしの)直接的な二項関係の模写的追認だと思念されるに及びます。」243P
「論理学における判断論は、概して、判断が――諸々の概念のあいだの意味的相属の関係がラング的に既成化していることを俟って――ルーティーン化している次元に定位して論考しますため、往々にして判断のアクチュアルな構造を見失う仕儀に陥っております。その間の消息は、右に幾つか摘記した範囲からも御賢察いただけることかと思います。/概念および相続関係がラング的に既成化されるにさいして、パロール的な次元では逸せない対他的反照の具体的な脈絡が“捨象”され、もっぱら二項的な直接的関係の思念を使嗾する次第ですが、しかし、ラング的な次元でも立ち入って省察してみれば、決して対他的な反照が完全に消去されているわけではありません。・・・・・・この対他的関係づけ、ないしそれの内自化された当該の規定性の何たるかは、概念Aと概念Bとを主述関係に置くさいの“一種のサブ文法的規則”として当然の了解事項になっていると言えます。そもそも、諸概念とその相属関係のラング的既成態化というのは、このような配備を含み込んではじめて成立しております。・・・・・・「○○に関して」がルーティーンに欠落する場合、それは消極的な意味での欠如ではなく、「飲む・打つ・買う(ママ)」における目的語の欠落などとの同趣の“積極的な欠如”、つまり“零記号的なポジティヴな余白”なのではないでしょうか。――これはパロール次元の場合、「○○に関して」が自明なかぎり殊更言表しないのと同じ論理構制であり、この機制に淵源するものと思われます――。しかるに、論者たちは、ラング的に既成化した次元に定位するさい、“サブ文法的な規則”や“零記号的余白”というポジティヴなモメントを閉却して、もっぱら表層的に発語される詞辞体系だけに眼を奪われますので、ルーティーン化が最も進んでいる「概念思考的判断」を単純な二項関係だと錯覚してしまいます。」244-5Pとまとめます。この「“積極的な欠如”、つまり“零記号的なポジティヴな余白”」というのは、例えば「買う」という事が顰蹙を買う、反差別論的に批判されるというところで、「余白」や「欠如」にすることではないでしょうか? そして次項の課題を出しています。
「「ラング的に既成化した次元における」「表層的な発語の詞辞体系」に眩惑されてアクチュアルな認識構造を看過する論理学者や、いわゆる「言語分析学派」の前車の轍を踏まぬためにも、知覚現場的判断にもう一度目を向け直しておきましょう。」245P
第二段落――持ち越した「否定判断」への論攷 245-9P
(この項の問題設定)「先には「否定的判断」の処理を持ち越しましたので、この問題の一端をも射程に入れたいと思います。「異別判断」と「否定判断」、「異別判断」と「同轄判断」、「否定判断」と「肯定判断」等々、嚮に登録していた問題もここで絡める段取りです。」245P
「問題の所在を再確認するところから始めますと、「結合説」であれ、「分離説」であれ、判断を「表象」どうしの結合・分離という次元で説明しようという理論では、否定判断を処理できないことを上述しましたが、実をいえば、「表象説」では判断における「肯定」ということの存立構造も説くことができないのです。この間の事情を確認するためには、「判断ということが言語なしに成立しうるか?」と藉問して見るのが便利かもしれません。この設問にどう答えるかは「判断」の定義次第だとも言えます。がしかし、まさに「判断」の定義的限定がここでの先決要求をなしております。」245-6Pとして、
「今日では「言語はたかだかのところ判断が成就したのちにそれを表現するための外的な手段にすぎない」とみなすたぐいの論者はおそらく居ないと思います。しかし、言語以前的な判断、言語なしの判断も一応存在するのではないか? 動物ですら一種の判断をおこなっていると言えるのではないか?」246Pと問いかけ、著者はそれに答えて、「迂生としては狭義の判断を言語介在的なものに限る立場を採ります。但し、単なる「異−別」であっても、言語的に表現しようとすれば、「aとbは異なる」→「aハbデナイ」という否定判断になること、また、単なる「同−轄」であっても、言語的に表現しようとすれば「aとbは同じだ」→「aハbデアル」という肯定判断になること、――そして学説上、従来の判断論ではこれらが歴(「れっき」のルビ) とした判断とみなされてきたこと――この事情に鑑み、「異別判断」「同轄判断」なるものを“広義の判断”に属するものと認めることにします。(但し、これは所与xを所知(a)として覚知するという単なる知覚の構制よりは位階が高いものであることに留意ねがいます)。」246P
「「言語」の介在する狭義の「判断」にはどのような特質が加わるのか? 「コレハSナリ」「SハPナリ」と述定する場合、SやPという言語音声(内語たる音韻表象にとどまっても可)が登場しますが、この記号的音声形象は、“表象説”――「結合説」であれ「分離説」であれ――の謂う「概念的表象内容」の埒外にありますけれども、この記号的形象という契機が実は重大な役割を演じます。嚮には、対象Sの○○性という契機(つまりそれに即してPと賓述される所記的与件)を「分割説」の流儀に仮託して云々しましたが、しかし、それは「所記的与件P」の話であって「能記的音声P」の話ではありませんでした。音声“錯図”Sの外部から導入して、一種独特の仕方で結合されるものです。(なるほど、既成態化している場面では、音声Pが“錯図”Sの“分肢”になっているかのように意識され得ますけれど、子供が言語を習得していく過程などを引合い出すまでもなく、原初的にはあくまで音声PはSにとって外的です)。但し、Pが外部導入的に結合されると言っても、この“結合”は「結合説」の謂う「結合」とは別種です。尤も、所与の“図”と音声Pとのこの“結合”の在り方は一種独特とは申しても、言語現象に排他的に特有とまでは言えません。それは、例えば、雪の上の趾を見て兎を意識するとか、裏山から聞こえる声をウグイスの囀りとして了解するとか、窓をよぎった影を燕として覚知するとか、このような前言語的な場面で既に作動している機制と同趣と言うべきでしょう。(大脳生理学的には、それは「条件反射」の機制基礎をもつものとされますが“図”→音声、および音声→“図”の双方的な条件づけであることの銘記を要します)。当事主体の意識における“図”と“音声記号”との関係は、同轄的ではなく、反省的にはむしろ異別的ですが、さしあたり「命名的結合」としか言いようがありません。が、ともあれ、言語が介在することにおいて、所与対象と言語記号との「命名的結合」態が意識に現成します。」246-7P
「この「命名的結合態」の現前化は、それ自身ではまだ命名判断ですらなく、この「施詞措定」の対自己的帰属性が覚識され、且つ、当の命名的措定の対他者的妥当性が覚識化されるとき、この条件を充たしてはじめて「判断」になります。――ここに謂う「対他者的妥当性」ということは、認識論的主観をめぐる論考を俟たねば十全には説けません。とりあえずは拙著『世界の共同主観的存在構造』第二部第二章の参看を願い、爰ではむしろ外面的な事項を追録するにとどめます――。・・・・・・爰では、@「施詞措定」という命名的結合それ自身は、肯定・否定に対してまだニュートラルな前件であること、A当該「施詞措定」の対自己的かつ対他者的な帰属的妥当性が覚識されるときが「肯定」であること、B「施詞措定」の対他者的帰属性が意識されつつも対自己的非妥当性(拒斥)が覚識されるときが「否定」であること――或る他者(das Man的な相でのヒトをも含む)による施詞的な提題に対する不承認的拒斥が「否定」――、この事まで誌すに止めます。」247-8P
「肯定および否定ということは「同轄」や「異別」とは次元を異にし、間主観的な承認・拒斥の場で存立するものであるということ、爰で銘記したいのはこの点です。尤も、間主観性ということはいわゆる他者認識という大問題に絡みますし、対自己的にせよ対他者的にせよ、「帰属」とか「対妥当性」とかは原理的に説明を要する論件であり、あまつさえ「非人称的帰属」とか「認識論的主観」とかいう論件を導入してマイノング流の「仮定」とか、さらには「真・偽」の問題とかを論じる課題がまだ残されております。これはまさに認識の「対話的構造」と相即する問題ですから、順次に詰めていくのほかないことを御諒解願いたいのですが、以上の臆言からも、迂生が先に知覚現場的判断では否定判断はさしあたり括弧にいれておけると申した含みだけはお判りいただけたのではないかと念います。知覚現場的判断において、異別判断は不断に生じること、また、論戦的対立における否定的判断も生じうること、さらには「P1かな? いやそうではない。P2かな? いやそうではない」という仕方での否定も生じうること、このことを認めたうえで、しかし、アクチュアルな現場では肯定判断は存立しても、大宗においては否定判断は暫く括弧に収めておけると申したのは、そこでは勝義の対他者関係での否定ということが余り深刻化しないことに徴してのことだったのです。しかし、茲から振り返れば、「括弧づけ可能」云々は、何ら積極的な立論ではなく、それに藉口して「異別判断」と「否定判断」との相違をはじめ一連の論件を“登録” するためのレトリカルな挿入にすぎなかったことも追認していただけると思います。」248-9P
第三段落――伝統的な「実体−属性」の構制を「函数−変項」の構制とリンクさせる
249-52P
(この項の問題設定)「論点が多岐にわたりましたが、今や以上で配視してきた諸契機を踏まえて、伝統的な「実体−属性」の構制を「函数−変項」の構制とリンクさせる作業に一応の締め括りをつけましょう。」249P
「「コレハSナリ」「SハPナリ」という命名的結合・施詞措定は、ほかならぬ当の述詞が選取的に賓述されたというそのことにおいて、その述詞の「被表的意味」たるかの一般者(先刻来の最もプリミティヴな例示的標記を継続すればf(x)=Ax+b)を即自的に導入した所以となります。(Pによる述定は単に音声形象を外部的に導入するのではなく、その都度すでに即自的にはイデアールな被表的意味を導入する所以となること、この点を分離説に対して銘記しておきましょう)。「Sハ(Aa+bという現示的規定に即して)Pナリ」と措定されたとはいえ、Pナリという賓述はAa+bというその特定の“値”にかぎらず、Ac+b, Ad+b等々、f(x)=Ax+bの別個の“特定値” であっても差支えないことを含意しており、現にAa+bがAc+bに変化したとしても、依然として「SハPナリ」という述定が維持されます。Pナル○○性は、その都度特定の“値”をとるにしても、こうして実はAx+bという函数的な変化“項”にほかなりません。ところで「S」は(××性に即して)Q、(△△性に即して)Rというように、伝統的思念ではそれに附帯する“属性”とされる他の性質に関しても賓述されるのであり、それゆえ、P(Ax+b)のほかに、Q(Bx),R(x)という変項的“性質”も具えていると申せます。」249-50P
「実体と性質という構図に妥協していうとき、こうして、Sはとりあえず諸々の“変項”的性質を具えていることになります。Sは“錯図”的な単一態・統一態を成している次第ですが、このことに応じて変項的諸性質は函数的統一態(「函数の函数」)を形成している筈です。さてそこで、存在するのはこの「函数的連関態」だけなのか、それともこの“性質”が“附着”する“実体”がそれとは別にあるのか、これが問題になります。ところで、いわゆる“実質”もここでは“性質”のうちに算入しているのですから、“実体”があるとしても、それは無性質か、少なくともそれの性質が原理上“不可知”であるようなものでなければなりません。このような“無性質の実体”ないし“不可知な実体”の要請は無用である旨を前便で論断しておきました。伝統的な思念において、“性質を具えた実体”と称されてきたものは、その実、上述の「函数的連関態」にほかならず、また“属性”と称されてきたものはそれの「変項」にほかならない所以です。慥かに、その都度の対象Sは、不特定値の函数ではなく、特定値で充当された相で現存しますけれども、それが絶対的な不変不易体ではなく、一定の変化を呈しても依然「ソレハSデアル」と賓述されうるかぎり、“錯図”的対象Sはまさに、「函数的成態」「函数的連関態」と呼ばれてしかるべきです。」250Pさらに進み、最終的なまとめに入ります。
「右の言い方では、しかし、伝統的な思念における「諸属性を具えた実体」を“函数態”に、そして「属性」を“変項”にスライドさせた域をいくばくも出ず、これにとどまったのでは「記号論理学」式に標記替えとさして選ぶところがなくなってしまいます。われわれの場合、“内自化された性質”をそのまま追認するのではなく、このような物性化を支える対他的な反照関係を正視し、これを「函数的連関態」に繰り込むことが要件であり、――このことを対自化する含みで、「Sハ(○○という契機に物性化される対他的関係性に即して)Pナリ」という構制を顕揚し、併せてまた、Pの対他的反照関係をあれほど強調しておいた次第でした――爰ではまだ途半ばです。しかし、ここから、一歩先へ議論を進めるためには、以上では“錯図的”な単一態的統一性の維持に仮託してきたSの当体的自己同一性を正規に権利づけることが先決要求になります。けだし、実体Sがあってそれが対他的に外面的な関係をもつのではなく、謂う所の「対他的関係」はSの存立にとって“内在的”であり、これを積極的に繰り込まなければ、上記の主語対象性=「函数的連関態」なるものの実相を規定できない所以です。」251Pと押さえ、そこから次便へ繋げる論攷を展開します。
「この論件が次箋でのテーマになりますが、この際、併せて次のことを書き留めておきたいと思います。――謂うところの「函数的連関態」F(x)はそれ自身の存在性格を問えば所謂Geltung(妥当性)としてのイデアールな存在性格を呈するということ、しかるに、現実に存在するのはそれが特定の値で充当されたF(a), F(b)等々の在り方においてであること、この間の事情を存在論的・認識論的に定式化していくうえでの概念装置として迂生としては「形相−質料」というカテゴリーを援用すること、ところで、前便以来の「超文法的主辞」なるものは実はここに謂う「質料」と関係し、実体主義的な発想のもとでは究極的な場面で上記の“不可知な実体”とこの質料とがリンクするということがそれです。因みに「コレハSナリ」というさいの「コレ」は、“図”であってさえ既に一種の函数的成態であるとすれば、当の「コレ」(“図”)をそれとして覚知する“超文法的賓述”対する“超文法的主辞”、つまり、ラスク式にいえば「裸の質料」が問題にならざるを得ない所以となります。という次第で、「実体−属性」の構制を前記の仕方で「函数−変項」の構制とリンクさせる場合、まだ重大な“未決問題”“先決問題”が残されているわけです。/爰に謂う“未決問題”は、“錯図”の単一的統一性への仮託をもはや許されぬ存在論的準位で「函数的連関態」Sの自己統一性と当体的自己同一性ということを――「裸の質料」というとき“実体的”核を端的に卻ける地平に立った「関係主義」的存在観において――如何にして権利づけるのか、という形で定式化することもできましょう。これが、弁証法における「変化」の「当体」という論件と重なることは喋々するまでもありますまい。/次箋では、この案件を扱い、さらには、間主観的な認識の「対話的」構造、そこで問題となる「肯定判断」「否定判断」の存立機制の検討に向かうことにしたいと念います。」251-2P
2024年05月01日
青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』
たわしの読書メモ・・ブログ657
・青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』文藝春秋2023
青木さんの本は3冊目。インタビューをとり、それを元に記事をまとめていくという手法に忠実に、また権力への監視というマスコミの役割を果たしていく、そして、被害者に寄り添い、その悲しみ怒りと共振した記事はまさにジャーナリズムの精神そのものを体現しているのではないかと思えます。この本は、原発問題の全体像や核心的なことを押さえ、判り易い入門書的にも使えます。原発問題の入門書的なことで一冊を敢えてあげるとしたら、この本になるのではとも思っています。そして、マスコミが権力への監視ということで、その役割を担えなくなっている現実にあがらって苦闘している情況になっています。大手マスコミを退社してフリーになっていく記者が増えていて、その情況もこの本から読み取れます。この本の出版は、全国紙の社員を退社することになるかもしれないことを覚悟して、それでも、そのマスコミをなんとかしようという思いをもって、その会社名を書かないことで出されています。ここにも危機が現れています。
最初に目次をあげておきます。
目次
はじめに
第1章 「復興」の現状は
不帰の人/除染後も鳴るアラーム/イノシシに荒らされた家屋/2時46分で止まったままの掛け時計/「放射能を浴びてきたんだから寄ってくるな」/「災害公営住宅」に移住者?/50%が浪江町に戻らないと決意/14歳の中学生が自死
第2章 原子力専門家の疑問
原発は「期待が大きいが、不確実性も大きい」/「20代、30代だけでも免震棟にあげろ」/4号機核燃料1535本が危機に/吉田所長「我々のイメージは東日本壊滅」/なぜ4号機のプール内に水があったのか?/公開が遅れたSPEEDIの予測データ/がんの労災認定はわずか11人/事故直後でも原子力に固執
第3章 原発はなぜ始まったか
正力松太郎vs.湯川秀樹/事故を引き起こした要因/「過酷事故は起こらない」前提で安全軽視/日本最大の事故で2人が死亡/機能しなかったオフサイトセンター
第4章 原子力ムラの人々
原子力ムラの“村長” /政治家に渡る「原発マネー」/元福島県知事「原発の地域振興で潤うのは一世代だけ」/原発産業がなくなれば事故以上の災難?/原発は「安価」は本当か?/「原発反対がゼネコンを潤す」/規制側を取り込む電力会社/電力業界の虜/学会の内部告発規定に圧力/学者は研究資金のために原発擁護/朝日が道を切り拓いた原子力PR広告/原発に対する朝日の姿勢は「イエス・バット」/「東電の諒解のない写真」と記者が記者を妨害
第5章 原発と核兵器
脱原発と核抑止力/保有するプルトニウムは原爆の6000発分/世界の科学者たちが核廃絶を議論/岸田氏の言葉に落胆/石破氏「原発は安全じゃないが、ゼロにする答えが出ない」/戦争のターゲットになった原発
第6章 作られる新たな「安全神話」
利用される「鉄腕アトム」/広告か記事か明記されていないコラム/「世界で最も厳しい水準」という神話/基準地震動を低く見積もりたがる電力会社/見直されなかった計算式/裁判長「原発は私の家より地震に弱い」/避難計画の整備不足/避難計画は誰も審査しない/集中立地問題は無視/「どこがいつ割れるか予測できない」
第7章 原発ゼロで生きる方法
福島第一原発事故で脱原発を決めたドイツとイタリア/日本で脱原発ができない理由/「原発立地振興法案」をめぐる攻防/原発回帰した岸田首相/「原発推進の姿勢はまったく間違いだった」/小泉元首相「安全、コストが安い、クリーンエネルギー、ぜんぶ嘘」/政府の最大の責務を放棄
おわりに
情報的なことで、切り抜きメモを残すのですが、色んな情報が籠められているのですが、反原発の活動に関わっていて、おおまか知り得ていることがあり、そのことはさて置いて、わたしの知り得ていなかったことに集中してメモを残します。
政府(経産省資源エネルギー電力・ガス事業部原子力政策課)の考え、Sプラス3E――で原発は必要、「Sはセーフティ(安全性)、3Eはエナジーセキュリティ(安定供給)、エコノミックエフィシェンシー(経済効率性)、エンバイロメント(環境適合)」121P・・・原発には、いずれもない。
原子力ムラの「科学をねじ曲げようという勢力」の手法――「学者を取り込み、自分たちが通したい説を「科学的」と呼び、自分たちが通したくない説はどんなにデータの裏付けがある論文があっても、「世界的には定説になっていない」と取り入れない。原子力ムラで多く聞く手法だった。」」132P・・・この本の中で、事故直後に原子力ムラの学者たちが「想定外」と言っていたことが、ちゃんと想定されていた大嘘であることが明らかにされています。
(元原子力委員会の官僚の言)「・・・・・・政府の委員会が、電力会社側の勢力に実質的に支配されてしまっている」/事務局が電力会社から出向者を受け入れる慣習や、電力会社など推進派だけを集めた非公開の会合でヒアリングを重ねるやり方は以前からあった。」、(元原子力委員会の官僚の言)「規制の虜ならぬ、電力業界の虜」136P・・・泥棒に鍵を預ける手法
(島崎さんの)「(これまでとは)別の計算式で地震予測することが必要だ。大飯原発の揺れの想定が過小評価されている。」という提言が取り入れられなかったこと。・・・能登半島地震も然り
「裁判官「原発は私の家より地震に弱い」」211P
「避難計画は誰も審査しない」221P・・・今回の能登沖地震で孤立集落など出ているのを見ると、避難計画などないに等しい
フィンランドの強固な岩盤のオンカイロ最終処分場で「シミ」が見つかりまだ起動していないこと270P
もっとメモをとるところ、先に書きましように、入門的なところはわたしにとって既存の知識でメモにしていません。この本は、入門的なことで大切な本、ぜひ手に取って読んで見てください。
・青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』文藝春秋2023
青木さんの本は3冊目。インタビューをとり、それを元に記事をまとめていくという手法に忠実に、また権力への監視というマスコミの役割を果たしていく、そして、被害者に寄り添い、その悲しみ怒りと共振した記事はまさにジャーナリズムの精神そのものを体現しているのではないかと思えます。この本は、原発問題の全体像や核心的なことを押さえ、判り易い入門書的にも使えます。原発問題の入門書的なことで一冊を敢えてあげるとしたら、この本になるのではとも思っています。そして、マスコミが権力への監視ということで、その役割を担えなくなっている現実にあがらって苦闘している情況になっています。大手マスコミを退社してフリーになっていく記者が増えていて、その情況もこの本から読み取れます。この本の出版は、全国紙の社員を退社することになるかもしれないことを覚悟して、それでも、そのマスコミをなんとかしようという思いをもって、その会社名を書かないことで出されています。ここにも危機が現れています。
最初に目次をあげておきます。
目次
はじめに
第1章 「復興」の現状は
不帰の人/除染後も鳴るアラーム/イノシシに荒らされた家屋/2時46分で止まったままの掛け時計/「放射能を浴びてきたんだから寄ってくるな」/「災害公営住宅」に移住者?/50%が浪江町に戻らないと決意/14歳の中学生が自死
第2章 原子力専門家の疑問
原発は「期待が大きいが、不確実性も大きい」/「20代、30代だけでも免震棟にあげろ」/4号機核燃料1535本が危機に/吉田所長「我々のイメージは東日本壊滅」/なぜ4号機のプール内に水があったのか?/公開が遅れたSPEEDIの予測データ/がんの労災認定はわずか11人/事故直後でも原子力に固執
第3章 原発はなぜ始まったか
正力松太郎vs.湯川秀樹/事故を引き起こした要因/「過酷事故は起こらない」前提で安全軽視/日本最大の事故で2人が死亡/機能しなかったオフサイトセンター
第4章 原子力ムラの人々
原子力ムラの“村長” /政治家に渡る「原発マネー」/元福島県知事「原発の地域振興で潤うのは一世代だけ」/原発産業がなくなれば事故以上の災難?/原発は「安価」は本当か?/「原発反対がゼネコンを潤す」/規制側を取り込む電力会社/電力業界の虜/学会の内部告発規定に圧力/学者は研究資金のために原発擁護/朝日が道を切り拓いた原子力PR広告/原発に対する朝日の姿勢は「イエス・バット」/「東電の諒解のない写真」と記者が記者を妨害
第5章 原発と核兵器
脱原発と核抑止力/保有するプルトニウムは原爆の6000発分/世界の科学者たちが核廃絶を議論/岸田氏の言葉に落胆/石破氏「原発は安全じゃないが、ゼロにする答えが出ない」/戦争のターゲットになった原発
第6章 作られる新たな「安全神話」
利用される「鉄腕アトム」/広告か記事か明記されていないコラム/「世界で最も厳しい水準」という神話/基準地震動を低く見積もりたがる電力会社/見直されなかった計算式/裁判長「原発は私の家より地震に弱い」/避難計画の整備不足/避難計画は誰も審査しない/集中立地問題は無視/「どこがいつ割れるか予測できない」
第7章 原発ゼロで生きる方法
福島第一原発事故で脱原発を決めたドイツとイタリア/日本で脱原発ができない理由/「原発立地振興法案」をめぐる攻防/原発回帰した岸田首相/「原発推進の姿勢はまったく間違いだった」/小泉元首相「安全、コストが安い、クリーンエネルギー、ぜんぶ嘘」/政府の最大の責務を放棄
おわりに
情報的なことで、切り抜きメモを残すのですが、色んな情報が籠められているのですが、反原発の活動に関わっていて、おおまか知り得ていることがあり、そのことはさて置いて、わたしの知り得ていなかったことに集中してメモを残します。
政府(経産省資源エネルギー電力・ガス事業部原子力政策課)の考え、Sプラス3E――で原発は必要、「Sはセーフティ(安全性)、3Eはエナジーセキュリティ(安定供給)、エコノミックエフィシェンシー(経済効率性)、エンバイロメント(環境適合)」121P・・・原発には、いずれもない。
原子力ムラの「科学をねじ曲げようという勢力」の手法――「学者を取り込み、自分たちが通したい説を「科学的」と呼び、自分たちが通したくない説はどんなにデータの裏付けがある論文があっても、「世界的には定説になっていない」と取り入れない。原子力ムラで多く聞く手法だった。」」132P・・・この本の中で、事故直後に原子力ムラの学者たちが「想定外」と言っていたことが、ちゃんと想定されていた大嘘であることが明らかにされています。
(元原子力委員会の官僚の言)「・・・・・・政府の委員会が、電力会社側の勢力に実質的に支配されてしまっている」/事務局が電力会社から出向者を受け入れる慣習や、電力会社など推進派だけを集めた非公開の会合でヒアリングを重ねるやり方は以前からあった。」、(元原子力委員会の官僚の言)「規制の虜ならぬ、電力業界の虜」136P・・・泥棒に鍵を預ける手法
(島崎さんの)「(これまでとは)別の計算式で地震予測することが必要だ。大飯原発の揺れの想定が過小評価されている。」という提言が取り入れられなかったこと。・・・能登半島地震も然り
「裁判官「原発は私の家より地震に弱い」」211P
「避難計画は誰も審査しない」221P・・・今回の能登沖地震で孤立集落など出ているのを見ると、避難計画などないに等しい
フィンランドの強固な岩盤のオンカイロ最終処分場で「シミ」が見つかりまだ起動していないこと270P
もっとメモをとるところ、先に書きましように、入門的なところはわたしにとって既存の知識でメモにしていません。この本は、入門的なことで大切な本、ぜひ手に取って読んで見てください。
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(3)
たわしの読書メモ・・ブログ656[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(3)
第五信「方法論的展開相」の構図
(前便のまとめ)「前便ではヘーゲル哲学におけるいわゆる「円環構造」の問題にふれた上で、『論理学』に即してその下降的展開の構制を縦観し、マルクスの批判と代案にも言及しておきました。」126P
(この便(章)の問題設定) 「本箋は、抑々、ヘーゲルやマルクスの祖述を宗とするものではなく、弁証法的体系構成法の対自的把え返しを当座の目標にしております」とのことで、「此の課題に応えるための前廷をしつらえ、そのことを介して、前便で示唆的に申し述べた論件の一斑を埋めておきます。ヘーゲルやマルクスの弁証法的体系とその構成原理を把えるうえでも、これが結局は捷径になるものと庶幾する所以です。」126-7Pとして、以前論じたとして、『マルクス主義の理路』に所収された「『上向法』の方法論的地平」を参考文献に挙げています。
一 ヘーゲル弁証法の「三階梯」的進展
第一段落――ヘーゲルの概念の自己展開と観望の矛盾 127-30P
「前便でみましたように、尠なくともヘーゲル論理学の場合、下降的展開の一貫した論理らしきものは寧ろ存在しないとすら言うこともできます。爰では、しかし、二つの事柄を区別してかかる必要があります。一つには、ヘーゲルの自称する「進展」の論理が必ずしも建前通りには運ばないという消極的事実、もう一つには、展開の論理とか称して固定的な図式を押し付けるようなことはしないという積極面です。――前便では消極面の指摘に急すぎた憾みが遺りますので、ひとまず積極面に目を向け、そこにおのずと生ずる構図を問題にするところから始めたいと念います。」127-8Pとしてヘーゲル『法の哲学』からの引用が来ます。「方法とは、学においては概念が自己自身から自己を展開していく仕方であり、それはもっぱら概念の諸規定の内在的な進展と産出である。……普遍的なものの特殊化した諸々の在り方を解消していくばかりか産出してもいく、こういう、概念の運動原理を私は弁証法と呼ぶ。……われわれの概念され自身がどのように自己を規定していくかを単に観望しようとしているのであり、われわれの私念や思惟を附加しないように自制する・・・・・・・。」128Pそして、著者による押さえは「ヘーゲルは「概念」の自己運動を観望するという建前に徹します。つまり、認識主観の側が勝手に論理操作をおこなうことを厳しく避けようとします。このかぎりでは、格別な展開の方法とか体系構築の論理とか、このようなものは入り込む余地がありません。体系的展開に一貫した論理がみられるとしたら、それはひとえに「概念の自己運動」がそのような合法則性を呈することに負うものです。」128Pと、著者はヘーゲルの観望の意義を突き出しています。そして、「「概念の自己運動、これは「概念」なるものを自立的な主体=実体に仕立て上げる悪しき形而上学に基づくものであること、この点は先便でみたマルクスの批判的指摘が抉(えぐ)る通りです。ヘーゲルが自己運動の主体とみなす「概念」、それは普通の意味での概念ではなく「理念」であり、結局は「絶対的理念」にほかなりません。そのかぎりでは、「神学的な絶対者の自己運動の観望」、この一事に尽きます。だが、認識主観は文字通りに観望するだけなのでしょうか? まったく受動的に、単に眺めるだけなのでしょうか? 然り且つ否です。」128Pと押さえます。そしてヘーゲル『小論理学』を引用した上で、「自己運動する概念=理念と、観望的に認識する主観、これら両者は決して単なる対立相にあるわけではありません。省みれば、上昇の途において、認識主観と絶対的理念との合一は確認ずみです。両者が合一するかぎりでは、絶対的概念の自己運動と認識主観の能動的営為とは別物ではありません。しかし、両者が哲学的思惟とその対象という相で分極化するかぎり、認識主観の営為が疎外されて概念の自己運動として映現し、認識主観はもっぱら対象的概念の自己運動を受動的に観望する配備になる次第です。」129Pと展開し、「彼は、能知と所知との絶対的合一態から如何にして両契機の対立性が生ずるのか、これを精確に説くことができず、絶対的理念の自己疎外という神学的表象に逃げ込んでおります。そのため、「観望」ということと、能動的な営為との関係づけも積極的には解けない仕儀に陥ります。因みに、「観望」ということは、『精神現象学』では、当事意識と哲学値(フェア・ウンスというさいのヴィア)との関係で言われておりましたのが、今や認識主観の在り方の一般的意図にされております。これではいよいよ「エス」と「ヴィア」とのダイナミックな論理構制が採れなくなる所以です。遡って問題にすれば、上昇の途で折角に絶対知・主客統一に達したのに、何を今更「受動的観望」をしなければならないのか。自己定立の自覚的把持でよいのではないか、こういう疑問も生じます。それも、一に懸って、上昇の極点および下降への推移に無理があるからです。」とヘーゲルとの対話・批判を推し進め、「がしかし、さしあたっては好意的に譲って議論を進めましょう――。」129-30Pと次項につなげます。
第二段落――ヘーゲルの「概念ないし真理」における三つの契機・側面 130-3P
「概念の自己運動の在り方ですが、ヘーゲルによればそこに一定の合法則性が見出されます。それが、弁証法的な展開の論理ということになります。」130P筆者は、この弁証法的な展開の論理をヘーゲルから読み解こうとしています。
「ヘーゲルは「あらゆる論理的に実的もの(jedes Logisch-Reelle)」すなわち「概念ないし真理」一般に三つの契機、三つの側面をもつことを指摘します。(α)抽象的側面(β)弁証法的側面(γ)思弁的側面が当の三契機ですが、これらは(α)悟性的側面 (β) 否定理性的側面(γ)肯定理性的側面とも呼び換えられます。」とし、「このかぎりでは「弁証法的」というのは第二の「否定理性的(negative-vernünftig)な側面」に照応しますけれど、それは狭義での語法にすぎず、ここでの用語法を一般化してしまうと間違います。」130Pと注意を促しています。そこで、ヘーゲルの『小論理学』からのこの三つの側面を押さえます。その三つ「(α) 悟性としての思惟は、固定的な規定性と、この規定性の他の規定性に対する区別性とに立ちどまっており、こういう制限された抽象的なものをそれだけで存立し存在するものとみなしている。」「(β)弁証法的モメントは、そういう有限な諸規定の特有な自己止揚であり、それと対立的に措置される規定への移行である。」「(γ)思弁的なものないし肯定理性的なものは対立的措定の相にある両規定の統一を把捉する。すなわち対立的規定の解消と移行のうちに含まれている肯定的なものを把捉する。/弁証法は肯定的な成果をもつ。それというのもそれというのも、弁証法は規定された内容をもつからである。すなわち、弁証法の成果は、空虚な抽象的無ではなくして特定の諸規定の否定……だからである。この理性的なものは、それゆえ、思惟されたものであり、抽象的なものであるとはいっても、同時に具体的なものでもある。というのは、それは単純な形式的な統一態ではなく、区別された諸規定の統一態だからである」130-2Pここまでヘーゲルの引用をして、著者の展開「ヘーゲルによれば、あらゆる概念的措定態は、このように、悟性的階梯・否定理性的階梯・肯定理性的階梯という順を追って深化します。これがいわゆる“正・反・合”であり、“否定の否定”にもほかなりません。」132Pとして、そこで反問を設定します。「ヘーゲルは、あらゆる概念が「三つの側面」「三つの契機」をもつ旨を論じていた筈のところ、いつの間にか三つのステップの話に変わっているのは論点の摩り替えではないのか? 三つのステップというのがもし移動であるならば、慥かに話が違ってきます。がしかし、主題的与件は一貫して同じものであり、そのかぎりでは“同じもの”の持続、従って、第二段階においても第一段階の規定性が“保持”されていること、このことが逸せられると第二段が「単独に切離して受け取られ」懐疑論になってしまいます。」132Pとして、「階梯的に進展するとはいっても、“同じもの”についての規定の深化だということ、これが一つのポイントです。」132Pと押さえ、そして、「勿論、あの三階梯が三階梯であり、三側面である所以の“同じもの”の持続というかぎりでは、何らかの意味で自己同一性を維持する対象=当体の定在を想定せざるをえません。だかしかし、これは謂わばメタ・レベルにおいて措定される同一性であって、当座の文脈における“対象”の相在は“認識”と相即的に変化するわけです。ヘーゲルが「概念」そのものの「自己運動」とその「観望」というシェーマで論ずるのは、この間の事情に応ずるものと申せるでしょう。勿論、そこにはまた、絶対的理念という主体=実体の自己疎外と自己獲得の運動という存在論的了解が籠められていることは付言するまでもありませんし、その論脈でいうかぎり、あの三階梯を以って“認識”の側の進行の在り方だと申してはヘーゲルに叱られます。ヘーゲル本人としては「正・反・合」、つまり定立・反立・綜合というシェーマを唱えないという事実――これはフィヒテの場合を念頭におきつつ第三者が定式化したものであってヘーゲルの自称ではありません――、このことも恐らく右の事情と関係があると思えます。しかしながら、われわれ第三者としては、ヘーゲルのそういう含みを理解したうえで、彼の謂う「概念の自己運動」の実態を“認識”の進展ということに定位して把え返すことが一応許されると思います。」133Pとして、次項に移ります。
第三段落――ヘーゲルの「概念」の自己運動の物象化された表象 134-5P
「ヘーゲルの謂う「概念の自己運動」、「論理的に実的なものの三階梯的進行」は、実際には、学理的“認識”の進展が物象化されて表象されたものであり、そのかぎりでは、認識の合規則的な展開相に応ずるものと言うことができます。」134Pと、この項の課題を突き出し、「認識は、与件的対象を“一つの”或るものとして措定せざるを得ず、そのかぎりで、他との区別における規定態を“画定”する作業から着手します。この“或るもの”は、たとえ“このもの(das Diese)”という特個性において措定されたとしても、――あの感性的確知論を想起するまでもなく――すでに或る普遍的な規定たることを免れません。況んや一般には、悟性的な概念規定として、それは一定の普遍的な規定の賦与です。このことによって、対象的与件が、単なる感性的与件以上の或る概念的規定態として画定されます。/悟性はとかくこの意味での概念的に普遍・不易的な措定態の次元にとどまろうとしがちであり、この抽象的な普遍の固定化――なかんずく、他物との固定的な区画、および、この固定的な規定性の自己同一的な不易化――にもとづいて、その地平内で思索を進めようとします。・・・・・・ヘーゲルとしては、勿論、悟性的段階に固執する弊を卻けますけれども、悟性的規定を第一の暫定的規定としてしかるべく位置づけます。」134Pとして、更に、著者は対話を進めます。「では、この悟性規定の準位から、認識は何故また如何にして、合規則的に次のステップに進んでいくのか? このさい、次のステップというのが高次の準位であることが一つの論点です。同じ準位内での進行であれば、分析的精緻化とか、比較校合による整序とか、さらには、同一律の埓内での悟性的推理とか、こういう機制によって進捗が生じえます。が、いま問題にしている、悟性的な次元そのものを超える進展です。/考えてみれば、しかし、悟性的規定の準位に甘んじてしまう認識がむしろ“常態”といえるほどですから、この準位からの踰越が何故また如何にして合規則的・必然的に生ずるのかという設問は、非常な大問題です。」135Pとして、この段落のまとめに入ります。「ヘーゲルは、さしあたっては只管(「ひたすら」のルビ)「弁証法的モメントは、そういう有限な諸規定[悟性的規定]の特有な自己止揚であり、それと対立的に措定される規定への移行である」と言い切ります。対立的措定態への移行といっても、しかし、先の悟性的規定態が廃棄されてしまうわけではありません。ここに、矛盾命題が並立する所以となります。認識は、そこで途方にくれてしまうのではなく、「対立的措定の相にある両規定の統一を把捉し、対立的規定の解消と移行のうちに含まれている肯定的なものを把捉する」に至る、と彼は主張します。先にみておいた通り、こうして「反・合」の過程が進捗するというわけです。」と展開し、「このさいのポイントになるのが、弁証法的否定は、懐疑論流の否定とは異なって「特定の諸規定の否定」「限定された無」を内実・成果とするという論点であることは、あらためて想起をもとめるまでもありません」135Pと付言しています。このあたり、著者のヘーゲル弁証法の「正・反・合」的展開の途行きを生かし得るというところでのヘーゲルとの対話を展開したものとなっているのではないかと、とらえ返しています。
二 弁証法的否定の論理構制上の“仕組”
第一段落――この節の問題設定
「茲で、件の大問題、つまり、悟性的規定の準位からの超出とその合規則的な必然性という問題を考えてみる次序です。――もしこれが説けねば「反・合」の過程的進展は保証されず、たかだか悟性論理の埓内での“進行”の準位を踰越できない仕儀に陥ってしまいます。」136Pと押さえ、「第三者的に整理するとき、ヘーゲルにおける弁証法的否定は、次のような幾つかの型に岐れると思います。」136Pとして、「最初に挙げておきたいのは、絶対的全称判断の自己破壊とでも呼べる型です。悟性的概念というものは、あれかこれかという排中関係を満足させる仕方で規定されております。そうでない“概念”は、曖昧な概念として、似而非とはいわぬまでも、不完全な概念として卻けられます。そして、或る概念とそれの矛盾概念とは、同一主語について絶対に両立しないものと悟性は了解します。」136Pとし、さらに対話を進め、「ヘーゲルは、それと自覚することなく、この論理的機制によって、悟性的規定をば自己破壊に導き、それの矛盾概念(正確には、それの矛盾概念を述語とする命題)への移行、ひいては両措定の止揚を随所でおこなっております。尤も、論理学に登場するカテゴリーはすべて神の述語であり、従って、そこでの全命題が「神の定義」とみなされうると称しながらも、そのヘーゲル自身が、例えば、「定有」は神の述語ではないと言って、前言を翻している所以ですが、実地の議論としては、常に必ず絶対者が主語に立っているというわけではありません。ですから、絶対的全称判断の自己破壊という道具立てで全局面を律することは不可能です。/そこで、ヘーゲルとしては、悟性的規定のもう少し具体的な在り方に即して、それの弁証法的な自己否定を導こうとします。この次元で問題になるのが、あの「移行」「照映」「発展」という進展の三方式なのです。実際には、有論・本質論・概念論でこれらの方式が順次採られるという具合には必ずしもなっておらず、事態に応じて適宜にこれらのうちいずれかが採られているというのが実情です。因みに、論理学に限らず、ヘーゲルの哲学体系の全般で、これらの方式のうちいずれかによって(場面次第では併用によって)弁証法的否定が導かれている、と申しても大過ないと思います。言い換えれば、これらの三方式はヘーゲルが具体的な論件の場面で遂行する弁証法的否定の汎通的な型になっているわけです。事態に応じて三つの方式が岐れると申すさいの「事態」の在り方ですが、これを順に述べてみます。」137-8Pと次の段落に入ります。
第二段落――第一の「移行」の場合 138-9P
「悟性は与件を或る概念的規定態で把えますが、当の与件が変化相を呈する場合があります。・・・・・・変化がいわゆる量的変化の域にとどまっていれば、悟性的概念そのものを取り換えるに及びませんが、いわゆる質的変化に直面した場合には、概念的規定の変更を迫られます。“生けるものはあくまでも生けるものである、「生けるもの」という概念はあくまで「死せるもの」という概念とは区別される”ということが真実だとしても、いやむしろそれが真実なるが故に、事態に質的な変化が生じた場合には、以前の悟性的規定、従前の概念的措定を固持するわけには参りません。爰に、悟性的規定の自己否定が余儀なくされます。・・・・・・だが、このさい、認識主観は受動的に、事態の変化に応じて認識を改めているわけで、この受動的な在り方を、ヘーゲルとしては「概念の自己運動の観望」と称する次第なのです。概念の「自己運動」というのはいかにも錯誤ですけれど、事態的には大差ないのではないでしょうか。・・・・・・いやしくも「変化」を「変化」として規定しようとするかぎり、単なる適用概念の取換えではなく、矛盾的措定を遂行せざるを得ません。という次第で、対象的変化、少なくとも質的変化を把握しようとするかぎり、悟性的規定の自己否定とヘーゲルの称する事態が必然的になります。「移行」という方式は――ヘーゲル自身は稍々強引に拡張しておりますけれども――こういう対象的変化の場合に応ずるものと言うことができましょう。」138-9Pとこの段をまとめます。
第三段落――第二の「照映」と第三の「発展」の場合 140-4P
「第二の「照映」の場合、悟性は、概念というものはそれ自身の内在的規定性、いわゆる概念的内容(Inhalt=内包)のゆえに当の概念なのである了解しており、概念が各々自己完結的な内自的(「イン・ジッヒ」のルビ)規定を具えているが故に他の概念との区別も成立し、また概念の秩序体系も成立しうるのだと考えております。これが概念の固定的区画化と相即するものにもほかなりません。ところで、概念の規定的内容(内包)は、反省してみれば、決して、自己完結的・自立的ではなく、当世風にいえば、「示差」的な区別という対他的な反照関係においてのみ存在します。“Aであるが故に非Aではない”のではなく、むしろ“Aではあるのは非Aではないが故”なのです。精確にいえば、Aとか非Aとかいうものがまず在って区別関係に立つのではなく、原始的な区別関係の両項として甫めてAと非Aとが相補的に成立するというのが実態です。示差的区別の関係というのは対他的反照関係のうちに最もブリミティヴで抽象的な次元であって、対他的反照関係は具体的であり、積極的な相互規定的関係相を呈します。対象的規定の実状を把えようとすれば、悟性が内自有(In-sich-sein)と思念して自存視しているところのものを対他的関係の反照規定として把え返す必要があります。ヘーゲルとしては「反照」(Reflexion)ないしは「照映」(Scheinnen)ということを基本的には「本質論」の段階で論じておりますけれども、事実上は、すでに「有論」の段階でも概念規定の対他的反照に定位して悟性的思念の自己否定を導きます。尤も、悟性の内自有的措定を反照的関係規定として把え返す営為は、メタ・レベルに立ってみれば常に一種の弁証法的否定の構造になりますけれども、直接的な現相では必ずしも弁証法的矛盾の形を呈するとはかぎりません。その点、「固有の他者」との反照関係に立つ「両極性」の場合にも事態が明瞭になります。」140Pとして、ここから磁石を例にした論攷が続きます。そして「つまり、極というものが自存し、且つ、北極という規定が内自的に自存するという思念を改め、真実に、“当体化”の扱いが許されるのは両極の関係態であり、北極というのは南極との実在的な(単なる概念規定上の相補性ではない)反照的関係規定であるということを対自化するかぎりの話ですが……。」142Pと押さえます。差異論的展開は、わたしの反差別論にとって、極めて重要なところです。
さて、ここから「第三の「発展」の場合」143Pに入ります。その前に、まず前節の押さえとして、「第一の「移行」では、悟性が謂わば思いがけず対象的変化に襲われて当初の概念措定の自己否定を余儀なくされ、第二の「照映」では、別段対象的事態が変化を示すわけではないが、悟性が当初の措定態の反照的被媒介性を謂わば自発的に把え返すことによって進展が生ずる次第ですが、第三の「発展」は或る意味では前二者の綜合と言うこともできます。このさい、対象の変化に直面するとか、悟性が自発的に把え返すとか申しても、“悟性”とはそのじつ「読者」の暫定的な意識態であり、「著者」たるヘーゲルの舞台廻し使嗾によって「読者」の措定が進展するのが実態であること、このことは附言するまでもありません。」143Pと押さえています。で、ここから、第三の「発展」の本題の話、「「発展」の機構ですが、これはヘーゲルが生物の成長の観望になぞらえていることからも判りますように、対象的変化は、しかし、「移行」の次元における、わけても質的な変化の場合のように、悟性にとって謂わば思いがけない変化の出現ではなく、即自的にあらかじめ了解されている変化の対自的な現前です。例えば、種子は、現実態(顕勢態、対自態)としてあくまで種子であって成樹ではありません。がしかし、可能態(潜勢態、即自態)としては既に“樹木”であると言えます。種子という措定態において、悟性はそれを種子という規定性で把えるとはいえ、変化が現出するまでもなく、それが可能的には樹木であることを知っております。ここでは、悟性は種子を共時的な対他的諸関係の相でのみ把えるのではなく、可能的樹木とも即自的に照映させているわけです。そして、種子の変化がこの可能態を現実態転化せしめるのに応じて、即自的な樹木としての概念規定を対自的に措定していきます。このものは、種子であって現実的には樹木ではない、がしかし、種子でありながら可能的には樹木である。そのかぎりで、種子でありながら非種子(樹木)である。この矛盾的規定が対自的に単解され、現実態の次元でで、当初の悟性的規定が否定されて発展が生ずる次第です。」143-4Pとして、次の節へのつなぎの文がきます。「形式的にいえば、これで尽きますが、しかし、「発展」は、いかに観望と称されるにせよ、ヘーゲルが「主観的論理学」たる「概念論」(内容的には、判断論や推理論)で論じておりますことからも、認識としての認識の進展の在り方が具体的に絡んでおります。今や、この間の次第を見るためにも、論件を拡充する必要があります。」144P
三 成素複合型と有機醸成型の体系構制
最初に断り書きが入っています。「体系構成法というよりも、さしあたり、方法論的展開という次元で考えるさい、誰しも真先に想い浮かべるのが、いわゆる「演繹的体系」だろうと思います。これが謂う所の「形式論理」を導きの糸にすることは更めて申すまでもありません。/爰では、形式論理学と弁証法との比較的討究という巨きな作業に取り組む段ではありません。」144-5Pとし、第一段落の項へ入ります。
第一段落――形式論理学における「変化」の存在論 145-9P
「形式論理学は、もっぱら、概念や命題どうしの“論理的関係”を問題にすること、そのさい、概念や基礎的命題は“意味論的”に一義画定的なものとして前提的に了解されていること、そして、論理的な“変形の導出”といっても所詮はこれら“形式的”諸要素の“算術的複合”にすぎないということです。・・・・・・形式的論理に則った演繹的展開では、成素そのものは不易的で、ただ、成素の組合わせ方が変わるだけだと申せます。それに対して、ヘーゲル流の弁証法的体系では、嚮に見ましたように、論理の進展と相即的に、概念(従ってまた命題)の規定性そのものすら、“進化”します。」145Pと押さえ、「形式論理と弁証法との最大の相違は、論理的“要素”の次元に在るのではなく、実は論理的“関係”の次元に在る」145Pとして「ここでは、さしあたり、右の述べた“成素”の扱い方の差異に藉口して或る一事だけ記すにとどめます。――それは「変化」をめぐるプロブレマティックです。俗に、弁証法は「変化の論理」であるのに対して、形式論理、従って亦、演繹的体系では変化ということが説けない旨が云々されます。しかし、形式論理では変化が説けないということの意味を精確に把える必要があります。もし人が形式論理学では概念を一義固定的に規定するということを理由にして、そこから直ちに「変化を記述できない」と決めつけるとしたら、それは全く笑止の沙汰というものでしょう。・・・・・・成素というものは不変であっても、それを組み合わせた成態は変化しうるのですから、対象的変化に即応することができます。構図的にいえば、原子論がそれなりの仕方で変化事象を把握・説明できるのと同趣になります。」145-6Pと押さえます。
そこから「描写されている幾つかの状態、すなわち、別々の概念で記述されている諸状景が、一箇同一の或るもの(それが変化するところの当体)の継時的諸状態だということです。さもなければ、それらの諸記述は、別々のものの状景記述であっても、変化の記述とは認められない筈です。自同的な当体、主語で指示される同一の対象が、或る時には状態A、別の時には状態Bにある。これは異時、つまり、同時ではない二つの時点におけることですから、矛盾律を犯すものではないと言われます。・・・・・・ともかく、それは変化の当体である以上「同じもの」でなければなりませんが、且つ同時に、それが変化した以上、もはや「同じでない」ものでなければなりません。当の或るものが「同じであり且つ同じでない」という矛盾、これは「変化の当体」という概念、従ってまた「変化」という概念が必然的に孕む矛盾です。この矛盾を免れようとして、「同じでない」だけを残したのでは、別々の状景の記述であっても、変化とはいえなくなってしまいます。「同じである」だけを残しても無変化になります。けだし、「変化」ということがら自身が「矛盾」構造を呈する、と言われる所以です。形式論理の根本定律たる「矛盾律」を墨守するかぎり、「変化」を概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)することができないと言われるのは、このような事情にもとづいてのことです。駄目押しすれば、論者たちは、形式論理に則りつつ変化事象を記述しているつもりでも、苟くも変化ということを認めようとする場面で、実は形式論理の根本定律を犯してしまっていることになります。」146-7Pと押さえ、「こうして、形式論理に則ったのでは、「変化」ということを原理的な次元では把握(「ベグライフェン」のルビ)できない仕儀に陥ります。」147Pとし、「ここで、ヘーゲルの「移行」論を想起」147Pすることを求め、「ヘーゲルの「移行」論をそっくりそのまま「変化」把捉の構案に貶める必要はありませんけれども、形式論理に則ったのではたかだかその都度の状景の記述しかできず、諸状態の統一的把捉は別途の処理に委ねられざるをえないところ、ヘーゲルは最初から変化の総体的把握に応ずる構制を採っていること、まずはこの点を追認しておきたかった次第です。」148Pと展開しています。そこで「論者たち自身は、実在するのは持続体の諸状態だけだと言い、「象は鼻が長い」式に、本当の主語は“象の鼻”である(「象」ではない)から、論理矛盾にはならないと言い張ります。論者たちによれば「象」を主語化する認識にのみ矛盾が帰属するわけです。がしかし、このような次元での“認識”の物象化、そこにおいてはじめて、抑々“実在的矛盾”“実在的変化”なるものが存立するのであって、これを思惟の側に帰して単なる主観的なものと称するとすれば、一切の概念的規定が単なる主観的なものになってしまいます。論者たちは、実在的矛盾だけを卻けたつもりでも、実は、一切の実在的規定を主観的な表象とみなし、そのかぎりでトリビアル(trivial採るに足らない)に実在的を消去しているにすぎません。このトリビアリズムを脱しようとするとき、論者たちは、諸状態の記述と、それらの統一的把握(変化という措定)とを“階型的”に区別しつつ、実在的変化なるものを状態的記述とは別次元で立てざるをえない所以です」149Pと附言してます。
第二段落――形式論理学と弁証法――成素的構成と関係論的構成 149-153P
「演繹的であると否とを問わず、形式論理というか悟性論理に則って体系的記述を試みる場合、成素的概念そのものは固定的な相で規定され、機械論的要素主義の流儀で成素の加算的複合が企てられ、そのことによる構成的記述が図られます。この方式は、或る種の分野で、一定の限度内では、有効であることを否めません。有機的統一体を分析的に記述する場合ですら、宛かもブロック的な構築物に見立てつつ、成素的諸部分への解離と再構成的な複合の手続を採ることが、初歩的なアプローチとしては有効な場面もあります。」149-50Pとして、しかし、「記述される対象的定在が、レンガや積木のような自在的なブロックではなく、有機体の分肢のように、“相互浸透”的な存在であるとすれば、積木細工の方式では対象的事態を十全には記述できない道理です。悟性は、区画的に切り取った対象的相在を自己完結的に自存するものとして扱い、それが他のものといかなる関係に置かれようとそれ自身の内的規定は影響を受けないかのように処理します。形式論理やいわゆる演繹的体系は、このような措置によってはじめて可能になっております。ところが「照映」に関説して先刻申し述べましたように、悟性の措定する“ブロック”は実は反照的規定の結節にすぎず、“相互浸透”の相に在ります。従って、機械的・加算的に複合されるのではなく、有機的・化合的に綜合されるのではなければ、実態に照応すべくもありません。/形式論理に則った演繹的な体系は、このゆえに――余程特殊な射映、ないし、機械論的な“模型”に関しては妥当するにしても――対象的世界の真実態を“復元”的に描出することは不可能です。「照映」ないし「反照規定」に関するヘーゲルの所説は、決して十分ではないにせよ、ともかくにも、悟体的措定では対象的実態には合わないこと、内自有化された悟性的規定の自己否定的進行による真実態の把え返しが必須であること、このことを体系的展開の方法論的場面に組み込んでいるのは流石(「さすが」のルビ)だと思います。」150Pと、著者は、ヘーゲルを無礙に切り捨てるのではなく、その途行き・方法論の意義をとらえ返そうとしています。そこで、「茲で対蹠的なのは、論理とか方法論とかの次元というよりも、成素複合型の世界像と有機複合型の世界像との対立という世界観の次元ですから、今は深入りを控えますけれども、右の論点と関連するかぎりで、「分析」「綜合」という問題に一言ふれ、それを媒介にしてあの「発展」に話題をつなげることにします。」150-1Pと展開していきます。「普通には、分析といえば成素への解離が表象され、綜合とは成素の複合であるかのように了解されており、そこでは成素的複合型の世界像が暗黙の前提になっているように見受けます。有機複合型の世界像を抱懐する場合には、しかし、もはや分析・綜合ということはそのような単純な逆過程としては遇せないことになります。」151Pと押さえ、「ここでは、カント流の「分析判断」と「綜合判断」を手掛かりにしましょう。概念どうしの含意関係を命題どうしの含意関係にまで拡張して、「分析推理」と「綜合的推理」を云々することも許されるかと思います。」151Pとカントとヘーゲルとを類比して、「カントの道具立てでは「分析」と「綜合」との区別が明確につけがたいということも事実です。この問題を捌(さば)くためにも、für esとfür unsという構制が要件になります――。カントは成素複合型存の在了解をもっていることも相即的に「判断」とは原基的には綜合判断の構造をもつものと考えましたが、ヘーゲルは有機複統合型の存在観とも相即的に「判断」(Urteilen)とは原基的には「原始―分割」(Ur-teilen)であると考えます。判断はfür esには「綜合的」であっても、für unsには「分析的」である所以です。当事意識にとって判断の分析性が対自化されるとき、それは事態が即自的にはそれであったところのことの対自化を意味します。ここでの即自態から対自態への転化は、必ずしも直ちに可能態から現実態への発展的転化とは重なりませんが、論理的進展の一形態であることは確かです。」151-2Pとカントの批判主義を意識したヘーゲルの「思惟形式自身が自分を吟味し、自分自身に即して自分の限界を規定し自分の欠陥を指示しなければならない。後に弁証法として特別に考察する思惟活動はこれにほかならない」152Pという『エンチクロペディー』の引用で、この段落をまとめています。そして「では、このような自己吟味=批判との自己吟味=批判と合一した(そして、「分析的」で且つ「綜合的」な)体系構成がどのように存立するのか、愈々(いよいよ)この問題を主題にしていく段取りです。」153Pと次の項・段落の課題を出しています。
第三段落――自己吟味=批判と合一した体系構成の存立構造 153-7P
「体系的な論述を企てる場合、錯綜した具体的なものから出発するのではなく、「端初」にはいずれにしても単純な原理を据えて、そこから展開することが望まれます。対象的世界がもし機械的複合相を呈するのであれば、基本的な成素と、成素間の関係の基本的な様式を析出し、これらの単純な構成要素(「ストイゲイオ」のルビ)を原理にして体系的構築を試みることが許されるでしょう。体系構成法は、通常、この方式を採っております。しかし、対象的世界が機械的複合相を呈しておらず、謂わば有機的統体相を呈しているのが実態だとすれば、成素複合型の方式を採るわけにはいきません。」153Pとして、「別様の体系構成法が現に存在」153Pするとして「われわれは、そのような方式の一つとして「有機醸成型」とでも呼べる体系構成法を挙示することができます。」153Pと突き出します。
そこから、「ヘーゲルは「発展」の例というより比喩として、「胚」からの成長を持ち出しておりましたが、茲では卵黄という“均質”な“単純”なものから、それが分化・成長して雛鳥へと発展していく構図を念頭におくと便利かもしれません。/この「有機的構成型」の体系構成法は、それが単なる発生論ではなくして、体系構成法であるかぎり、発生や進化という歴史的・時間的変化そのことが問題なのではなく、具象的な「現実世界」を「単純な原始的な存在」から分化・発展した定在として定位・整序する構制が眼目です。」154Pとして「爰では、現存する複雑な定在諸規定は、いずれも端初の原基的な存在のうちに即自的に、(可能態(「デュナミス」のルビ)の相で)既在していた契機の現実態化(realisation)として了解することが出来ます。そのかぎりで、原基(「アルケー」のルビ) (=端初=原理)の原始的自己分化=自己展開による“判断的”定位は、既在の即自態の対自態への現成(可能態の現実態(「エネルゲイア」のルビ)への転化)にすぎず、この意味では、「分析的」ということになります。がしかし、“述語的”諸規定の既在とはいっても、それは対自的ではなく、可能態たるにとどまり、現実態の相では展開的定位を俟って甫めて出現するのですから、この事態に即すれば「綜合的」ということになります。――以上は、“主体=実体たる概念”の“自己運動”に仮託した言い方ですが、認識する主観に即していえば、原基の可能的諸規定を知悉(ちしつ)している「われわれ」(wir)ないし「著者」にとっては「分析的」、「現実態」しか識らない「当事意識」(es)ないし「読者」にとっては「綜合的」ということになります。・・・・・・ヘーゲルの体系が、主体=実体たるアルケーの自己分割的自己定立、そのことによる即自(可能)態から対自(現実)態への順次的・体系的な転成、このような分析的=綜合的な展開という構制をとっていること、このことはあらためて喋々するまでもありません。」154-5Pとし、この後生物学的な次元でのとらえ返しをしています。そして「ところで「有機醸成型」の体系構成法は、アクセントはあくまで「体系構制」にあるとしても、所詮は「発生論」の一種であり、方法論上の限界性を免れません。ヘーゲル本人は、多分にその間の事情を自覚しており、歴史性と論理性とは必ずしも一致するわけではないことを断っております。がしかし、マルクスが厳しく批判します通り、ヘーゲルの場合は結局のところ歴史性と論理性が合致する発生論型の構制になっていることを否めません。」155-6Pここのところ、ヘーゲルの三位一体性へのマルクスの批判になっていると改めてわたしは押さえています。著者のヘーゲルのとらえ返しはさらに続きます。「「概念の自己運動の観望」という彼の建前は発生論的構制と不可分であり、このことは、剰え彼の場合は「神学的」モチーフからも余儀なくされます。ヘーゲルは、彼の体系構成法では歴史性と論理性との合致が要請されざるをえないこと、この点に難があることを一定自覚しながらも、当の難点を克服した方法論ひいては体系構成法を確立できなかったと申すべきでしょう。・・・・・・「有機醸成型」の理説は、発生論的たるかぎり、端初の「単純な」原始的存在の自己分化が何故また如何にして生起するのか、この点の説明に難渋します。ヘーゲルは絶対者の自己疎外ということで“説明”しましたが、これでは到底説明になりません。一般論として、原始的存在の自己分化の必然性と具体相は、当の原基的存在の即自的規定性(可能態としての規定性)のうちに孕まれて筈です。だが、可能態の相で即自的に“既在”するというのは一体どのような事態の謂いでしょうか? 微少な形で潜んでいるということであればまだしも話が判りますが、それではおそらく実状に合いません。可能態の相での既在性ということが理解可能な仕方で規定されなければ、此説は悪しき形而上学に堕しかねません。」156Pとし、ここから著者は次便・次章で本格的に入るのですが、いよいよ自らの「原始函数」という論攷を展開していくことになります。「迂生としては、「有機醸成型」の構制の積極面を生かしつつ、それを発生論から解放する配備として「原始函数型」のアルケーとその開展という方式を考えてみたいと思うのです。・・・・・・函数は、その変項がさまざまな“値”をとることができ、諸項がしかるべき“値”をとるのに応じて、種々様々な定在形態を体現します。“原始的存在”(正しくは現実世界)を函数的関係態として定式化するとき、変項がまだ特定の値をとっていない場面では、それは変項の可能的な諸値に応ずる様々な可能的定在諸形態を即自的に表現します。そして変項が特定の値によって現実的に充当されるのに応じて様々な現実的定在形態を体現していきます。この配置によって、発生論から解放しつつ、先にみておいた「有機醸成型」の構制のメリットを継承しうることまではご理解いただけると念います。/問題は、しかし、“宇宙方程式”にもなぞらえ得べき「原始函数」をどのようにして確定するのか、そのさい、あの「反照規定」がどのようにして函数化されるのか、遡っては、どのような世界像と相即させられるのか、そもそも函数的定式化とは認識論的にみていかなる事柄であるのか、この種の事項です。――そして、ここで、あの「端初」の設定という問題、マルクス式にいえば「下向」のプロセスがあらためてクローズ・アップされる所以となります。/御記憶いただいていると信じますが、第一便で「帰納」という手続の孕むアポリアに稍々立ち入り、前便ではその打開策をヘルマン・ロッツェの謂うErsatz(補完166P)と関連づけて示唆的に申し述べておきました。「原始函数」(これは可能態としては複雑でも、端初においては現実態としては単純であり、しかも函数的普遍としての性格を具えております)と設定するプロセス、これはマルクスが「下向」に関して言う通り、それ自身としては学の体系的方法には属しませんけれども、やはり一定の学問的手続を踏むものであり、「闇からのピストル」ではありません。この場面では、帰納的分析法とか、公理設定法とか、従来のさまざまな方式が勘案されてしかるべきです。そして“原始函数”からの「上向」的開展の「論理」それも、存在論・認識論と三位一体的に統一された――従ってまた「批判」と階型的に統合された――論理が要件になります。」156-7Pここで、「三位一体性」の主張になっているのですが・・・・・・。
第六信「原始函数」の整型と充当
この便・章は、新カント派のロッチェやカッシラーとの対話の中で著者独特の、展開になっています。函数的連関態論の核心的な展開です。
まずは、前便の押さえから、「前便では、ヘーゲルにおける概念的措定の“進展”の論理を悟性的論理との異同に即しながら把え返し、成素複合型の体系構成法と有機醸成型の体系構成法とを対比的に考え、さらには“原始函数”の充当的展開とでも呼べるタイプの構案を申し述べました。/成素複合型の悟性論理では学的対象の実態を把えきれないこと、さりとてヘーゲルのように論理性と歴史性を二重写しにする流儀にも無理が伴うこと、そこで有機醸成型のメリットを保持しつつ発生論的難点を除去する配備として“函数充当型”の体系構成法がありうること、この間の事情を綴った次第でした。」159P二重写し批判というよりも、三位一体性批判として展開していくことではないかと思うのですが、このことは最初からわたしの課題としていることですが、まだ曖昧になったままです。
本便・章の課題として「本簡では、マルクスの下向・上向法をも念頭におきつつ、遡っては「端初」の設定をめぐっていつぞや問題にしていた次元も絡めて、議論を具体化して行きたいと念います。」159P
一 所謂「分類」および「抽象」の実相
第一段落――端初の設定の問題――分節化的統轄化 160-6P
「学理的体系というものは、複雑で具体的な対象的世界の実状を方法論的(「メトディシュ」のルビ)に“再構成”してみせる配備になっているということ、この点までは一般的に認められると思います。方法的な“再構成”にさいして、単純なものから複雑なものへ、ないしは、抽象的なものから具体的なものへ、この方向が採られることも通則であると申せます。そして、この進行が、「原理」からの“説明的推理”と称される事態ともしばしば重なります。/爰で、“再構成”の起点におかれる――「単純なもの」=原理の性格、および、再構成的進展の性格、これら二つの契機が問題にならざるを得ません。前者が体系的展開の「端初」の問題を形成します。」160P
原基の設定というところでの論攷に入ります。「整序された体系というとき、・・・・・・誰しも真っ先に連想するのが、(イ)生物の分類体系、(ロ)化学の元素体系、(ハ)親族の血統体系、などではないかと思います。このほか、(ニ)数論での数の体系、(ホ)有機体の器官体系、(ヘ)機械装置の連動体系、(ト)軍隊や官僚機構などの組織体系を思い泛かべる向きもあることでしょう。同じく体系と言っても、(ホ) (ヘ) (ト)のたぐいは秩序立った組織的統合性というところにアクセントがあり、(イ) (ロ) (ハ)は分類的体系性ということがポイントになるわけですけれど、迂生としては、やはり、これらを一連のものとして扱いたい気がします。「分節化的統轄化」とでもいいましょうか、分化と統合という相反するヴェクトルの緊張を孕みつつ体系づけられていることに徴してのことです。尤も、(イ) (ロ) (ハ)では分節性が目立ち易いのに対して(ホ) (ヘ) (ト)では統轄性が目立ち易いという比重の相違は否めませんが、両契機とも逸せないはずです。」162Pと押さえ、「ここでは、しかし、まずは(イ) (ロ) (ハ)の三つの類型に即して議論をすすめてみたい」162Pとして、「「分類」ということは、それ自身すでに、学理的体系の一部と認められるか、そうでないとしても、学理的体系への第一歩として認められていると言えましょう。しかるに、普通に分類と呼ばれるものは、(イ)のタイプ、すなわち「類種的分類」、(ロ)のタイプの「成素的分類」、(ハ)のタイプの「系譜的分類」、この三者で尽くせるのではないでしょうか。但し、これらの三者は、全く同位同格というわけではなく、(イ)を支える手続が基礎になっているとも申せます。/複数の諸個体を比較・校合して、幾つかの種に纏め、これらの種を比較・校合していくつかの類に纏めという仕方でヒエラルヒーを形成していく手続、これによって「類種的分類」がおこなわれる次第ですが、比較・校合とはさしあたり、「類似性」と「相異性」の較認にほかなりません。同一性と区別性という原理的次元は暫く措いて申せば、与件群を共通的な規定性と別異的な規定性に即して弁別し、取纏めて行く。伝統的思念では、この手続における「共通規定」の抽出、裏返していえば「特異規定」の捨象、これが「抽象」(abstraction=捨象)と呼ばれます。――先には、分類においてはいずれのタイプであれ、「(イ)を支える手続が基礎になっている」という言い方をいたしましたが、それは結局のところ「共通規定」の銘記と「特異規定」の閉却という手続、この意味での「抽象」が基礎的な手続をなしているという謂いになります――。」161-2Pと展開し、さらに「単なる共通規定の抽出では不可であり、共通でしかも本質的な規定性の抽出を要するということ、しかるに、所与の規定性が抽出さるべき本質的な規定であるか、捨象さるべき非本質的な規定であるかの判断基準は、詮ずるところ所求の当該概念を置いては存しないこと、この故に、先取・循環に陥る次第です。――単なる共通規定ということに徹すればどうかという御意見もありうるかもしれません。が、そこまで後退しても事態は一向に改善されません。と申すのは、厳密に共通な規定など存在しないのが実情であり、一定の基準を持ち込んで異同(共通か否か)を弁別するというとのが実際の手続でして、このさいの基準設定の場で先取・循環が生ずるからです――。このような事情もあって、アプリオリズムが提唱されることもいつぞや申した通りです。それでは「抽象」と呼ばれる手続の実態はどうなっているのか? これを検討してみることが「原始函数」の措定という議論とも直接につらなっていきます。そのかぎりで、まずはこの論件から片付けていきましょう」162-3Pと次段落・項に入ります。
第二段落――「抽象」と呼ばれる手続きの実態 163-6P
「「抽象」と呼ばれる手続を純粋に論理必然的な手続であるかのように考えると、いずれにしても悖理を免れません。抽象とは、共通でかつ本質的な規定性の抽象であると称しても、それはむしろ結果に即した言い方であって、そのような過程的手続が自覚的に進行するとは必ずしも言い切れません。専門家がよほど特殊な問題場面で自覚的に遂行する抽象の作業は暫く別として、日常的に言語の使用が即自的に“抽象”を規定します。一群の対象が<人々>によって同一の詞(「ことば」のルビ)で呼称されているという共同主観的な事実、このことから同一の詞で呼称される対象群にはしかるべき本質的同一性が存在するかのような思念が生じます。人々が、或る与件を或る特定の詞で呼称することにはしかるべき事由があることは確かですし、そこに或る“本質的同一性”の意識が介在することも謂われなしとしません。がしかし、論理的に整理してみれば、そこには必ずしも本質必然的な一義的照応性は認められないのが実情です。・・・・・・或る詞で呼称される対象群の画定は、学理的に反省してみれば、多分に恣意的であるにもかかわらず、人々は当該の対象群を同一種として扱いつつ“分類”をおこない、それをしかるべき“抽象”の結果であるかのように思念する次第なのです。尤も、或る与件を或る特定の詞で呼んで別の詞で呼ばないという弁別的な言語使用にさいして、十分明確な認識でこそなけれ、一定の種的同一規定性の認識が根底にあるのではないか、さもなければ安定した言語使用とその共同主観的な一致が成立しうべくもないのではないか。この問題次元に答えるためにはわれわれの対象認知がパターン化の構造を伴うということを論ずる必要が出てきます。そして、アプリオリズムの提出したプロブレマティックも、実は、このパターン認識ということに即して解決されます。がしかし、当座の議論としては、日常的な“分類”の進行とその安定は、パターン化された認識の分節とそれと相即的な言語使用の共同主観性に基礎づけられているものであって、――因みに、言語使用のありかたが対象認識の分節化の相在を逆に規定し返すことにもなる次第なのですが――、必ずしも自覚的な比較校合による「抽象」の所産ではないということ、とりあえず、この点まで申しておけば宜しいかと思います。」163-4Pと展開しています。
ここで、「ところで、先に棚上げしておいた学理的・反省的な抽象とそれにもとづく分類の場合、これは通常、日常的に既成化している分類の補修(ないしは、そのようにして成立した既成の学理的な分類に関する更なる補修)というかたちでおこなわれる次第でして、そこでは既成の分節態に見出される徴表をベースにしつつ、自覚的な作業が進捗します。そのさいには徴表体系の“洗い直し”がおこなわれるわけで、おそらく、“典型的”な徴表内容に定位した理想化(「イデアリジーレン」のルビ)の所産が基準にされるかたちになります。ここでの認識過程は、論理的には一種の飛躍を含み、“洞察”(Einsicht=洞見)による範型の設定=仮設が契機になる筈です。そこから、「本質直観」といった議論が生じたりもしますが、それは決して特異な認識機能ではなく、認識が一般に呈する構造の機制、つまり、所与を或るものとして覚知するという機制における意味的所知の一斑にほかなりません。――この「意味的所知」は、比較その他の過程に機縁づけられているにしても、論理必然的な分析の所産ではなく、直覚的な洞見であり、また、意味的所知がそれ自身として明晰判明な表象のかたちで泛かぶわけでもありませんが、対他的な区別と統轄の相で意識されます。――自覚的に整序された徴表の体系とそれに照応する対象群の統轄、この分節的統合系において、それぞれ一定の徴表のもとに統轄されている対象群を、それらの徴表の共通規定を新たな徴表としつつ一括する過程が生起するとき、当の「共通規定」=「新たな徴表」の措定を「抽象」と呼ぶ、という具合に人々は思念しております。」164-5P、と展開しています。なお、「意味的所知」ということは、『存在と意味』では、「所識」になっている旨、前のノートからの持ち越し事項です。
更なる展開、この項のまとめ的文です。「同種・他種の他者との“分類”的比較を抜きにして(或る個体だけを単独に注視しつつ)そのような過程が進捗するということは、実際にはありえないと思います。分類としての分類でこそなけれ、類同化種別化という対他的な比較の過程を場にして、そこではじめて「抽象」が進捗すると思うのです。――日常的には、しかも、当の類同・種別の整序系がすでに言語的使用と相即的に既成態となっております。・・・・・・――。ところで、自覚的な抽象ないし分類の場面で、或る規定性が徴表として明識され、この徴表を共有する対象群が統轄される場合、その過程で徴表そのものが変更されるケースもありえますが、ともかくも弁別の基準とされる仮設的な徴表の明識がポイントになります。迂生としては、ここにいう「徴表の明識」は、上述の通り、対他的な比較校合の過程に機縁づけられてはいるが、一種の直覚的洞察であり、論理的には一種の飛躍に俟つものだと考えます。(しかるに通念では、対他的な比較校合の過程を通じての論理必然的な抽出によって当の徴表が劃定されるものとみなされており、それが「抽象」であると称されます。そして、その場合には、論理必然的な抽出の基準をめぐって、循環と先取のアポリアに陥る次第です)。機縁となる過程は比量的でも、基準となる徴表の洞見的仮設が契機になっており、そのかぎりで所謂「抽象」は論理的必然性ではないということ、このことを銘記しとかからねばなりません。」165-6P
第三段落――ロッツェの「補完」ということの援用 166-171P
「徴表的規定性の洞見的明識にもとづいてそれを共有する対象群が統括され、さらに、それら諸群を統括する共通の規定性が明識化されていくという進行によって、いわゆる「抽象の階段」の上昇が生じます。そのことによって、次第に、より抽象的でより普遍的な概念が形成される、と称されます。だが、抽象的・普遍的な概念の形成とは、果たして、共通的規定性の抽出、非共通的規定性の捨象という単純な事柄でしょうか。ここで、前々便このかた折りにふれて示唆しましたヘルマン・ロッツェの「補完」(Ersatz)ということが問題になります。」166-7Pこの項は、著者の「函数的聯関態」モデルの突き出しへのロッチェ・カッシラーの援用の箇所です。これをカッシラーの『実体概念と函数概念』の山本義隆さん訳の草稿を譲り受けての援用となっています。訳本ですが購入して積ん読しているので、原本に当る必要性を感じているのですが、おそらく「果たせぬ先送り」になりそうです。
さて、ロッツェの引用を含むカッシーラーの引用です。「p1p2:q1q2という相異なる種では相異なる徴表を単に<省略>することが規則を成すのではではなく、省略された特殊的諸規定のところに、それの個別的種がp1p2やq1q2であるような普遍的徴表PやQが代置されるのである。これに反して単なる否定の手続では、ついには一切の規定性全般の無化に到り、われわれの思惟は、そのさいには概念がそれを意味することになる論理的無から具体的な特殊的諸ケースへの<還路>をまったく見出すことはできない始末になろう。[ロッツェ『論理学』第二版、ライプツィッヒ、一八八〇年、四〇頁以下]。ロッツェが茲でランベルトが数学的概念の例に即して鋭く定式化した当の問題に、いかにして、新しい側面から、心理学的考察にもとづいて接近したのかが見て取れる。ここに与えられた手順を最後まで推し進めて考えていけば、概念の形成に際して抜け落ちてゆく個別的徴標の代りに件の徴標が個別的規定として属しているところの<総体(「インベクリック」のルビ)>を視野に収めよという要求に導かれるのは明らかである。われわれが特殊な色彩を度外視できるのは<色彩一般の全体的系列>を基本的図式として保持しつつ、われわれの形成する概念がそれとの関連で規定されているものと考えるときに限られる。この総体が現出するのは、しかし、われわれが<不変的>個別的徴標の位置に、様々な徴標のとりうる、可能な値の全体を代表する<可変的>な項を代置することによってである。特殊的規定性の<脱落>が純然たる否定的な過程であるかのように見えるのは外見上のことにすぎないということが、ここではおのずと明らかである。このような仕方で失われたかのように見えるものは、じっさいには、他の形で<他の論理学的範疇のもとで>確保されているのである。規定性というものは、不変な徴標、つまり、事物とその諸性質というもので尽くされていると思い込む場合には、たしかに、あらゆる概念的一般化がとりもなおさず概念的内容の貧困化を意味するかのように思える。だが、概念が事物的な存在から謂わば解放されるにつれて、反面では、概念のもつ固有の機能的・函数的(「フンクチオナール」のルビ) (Funktional)な能作が浮び上がってくる。固定的な諸性質が、可能的諸規定の全体を一度に見渡すことのできる一般的な規則で置換(ersetzen補完)されるのである。この変換、論理学的「存在」の新しい形式へのこの置き換えが、抽象ということの本来の積極的能作をなしているのである。われわれは、系列aα1β1, aα2β2, aα3β3……からその共通成分aへと直接移行するのではなく、個別項αの全体がxという可変的表現で、項βの全体がyという可変的表現で与えられていると考える。こうしてわれわれは全体系をaxyという表現にまとめあげ、これに連続的変化を施すことによって、系列項の具体的全体を導くことができ、このようにして、当の総体の結構と論理的分節とが充全に現されるのである」云々。(< >内は原文での強調個所です)。」168-9P
著者・廣松さんの注釈として「文中ランベルトに言及されている論点は、カッシーラーがヘーゲルの「具体的普遍」に論及する直接的前梯となり、さなきだに彼の謂う「函数概念」が「実体概念」といかなる含みにおいて対蹠(たいせき)的であるかをゆくりなく示しております・・・・・・・」169Pこの後、カッシーラーのランベルトへの論及が続いています。数学的概念で、特殊が省略や消去されるのではなく、代置・補完という形で保存されているというような展開になっています。
ここから著者のこの節のまとめには入ります。「「抽象」と呼ばれる概念形式の能作は、日常的にはなるほど、共通規定の抽出、別異規定の捨象という相で思念されているにしても、そしていわゆる“類表象”なるものは多分にそのような所産であるにしても、学的な概念の名に値する程のものは決してそういう単純な残渣ではないものと了解されます。抽象を通じて形成されると称される学理的な概念は、真実態においてすでに、個別的規定性を変項化する「補完」、そのことによる一種の「函数」的成態化に俟つものであること、この点はロッツェやカッシーラーが指摘する通りだと思います。」171P
二 系列的整序の諸相と函数概念的補完
第一段落――反芻的とらえ返しと「分類」的体系化の実態の分析 172-3P
前節の反芻的とらえ返しから始まっています。「「抽象」というより「分類」にさいしては、統轄基準となる徴標的規定性の洞見的設定が鍵鑰(けんやく)をなすことは嚮に見た通りです。そして、徴標的規定性の「固定的な諸性質が、可能的諸規定の全体を一度に見做すことのできる一般的規則で置換される」ことにおいて函数的概念が形成されるということ、「概念の特徴的契機をなすものは、表象像の普遍性ではなく、<系列原理>の普遍妥当性であり」、「真正の概念が与えられるのは、特殊を統合するための或る不変的な<規則>そのものである」ということも判りました。」172P
そして、「分類」的体系化の実態の分析に入っていきます。
「常識的にいえば、(イ)の「類種的統合体系」、(ロ)の「成素的合成体系」、(ハ)の「系譜的整序体系」において、縦の系列原理としては、それぞれ、(イ)「普遍−特殊」、(ロ)「複雑−単純」、(ハ)「先祖−後裔」の関係が、そして、横の配列原理としては、それぞれ、(イ)「同位的諸種」、(ロ)「同格的成体」、(ハ)「同輩的胞族」の位階が構図を画します。――先には、「特殊から普遍へ」という列に定位して、共通的規定性の「抽象」ということを分類一般における認識上の基礎的な手続として問題にしましたが、この手続は存在観のうえでは「単純−複雑」の成素的合成相を前提にしていると申せます。ここでは、この存在観上の前提的了解、敢えていえば、そこで前提にされている世界像を対自化しつつ、(イ) (ロ) (ハ)の内面的な相互連関を見据えておきたいと念います。」172-3Pとして、続く段落へ移行します。
第二段落――分類的体系化の相互連関(1) ――(イ)と(ロ) 173-7P
「与件のそなえている規定性を類似・別異に即して選別するという手続は、与件の規定性が全一的なものではなく、解離可能なものであることを前提にしており、このかぎりで「性質」ないしは「実質」に関する「成素複合型」の存在観を前提にしていると申せる次第です。がしかし、(イ)の「類種的統合体系」と(ロ)の「成素的合成体系」とでは、全く一様というわけではありません。(イ)の「普遍−特殊」と(ロ)の「複雑−単純」の系列原理は、同じく成素複合型といっても、さしあたっては、同列に扱えない面があります。/日常的思念においては、基体的実質と附帯的性質とが実体と属性という相で区別して意識されるのではないでしょうか。そして、(イ)の分類においては、「属性」に定位した統轄がおこなわれるのに対して、(ロ)の分類においては「実体」に定位した分類がおこなわれます。勿論、属性と実体とは分断してしまうわけにはいきませんし、いずれにおいても両契機が視野に収められているには違いありません。けれども、直接的な着眼は、前者では“属性”、後者では“実体”だと言えるように思います。稍々極端な言い方をすれば、(イ)においては、基体的実質は一貫して同一であり、もっぱら性質の相違が対象群の序列を形成するかのように思念され、(ロ)においては、附帯的性質はさながら偶有的であり、もっぱら、基体的実質の相違が対象群の序列を形成するかのように思念されます。/このような思念の構図下にあって、(イ)の体系では最上段に位するものが、当の系列中、最も単純で、最も普遍的で、且つ、最も抽象的な存在とみなされます。他方、(ロ)の体系では、最下段に位するものが当の系列中、最も単純な存在とみなされることは確かですが、それが果たして普遍的とか抽象的とか言えるのかどうか、この点は遽(にわ)かには言えません。窮局的な単純成素が複数存在する場合には、最も単純な成素たるアトム(ないし「元素」)はそれ自身特殊的かつ具体的存在であって、必ずしも普遍的・抽象的な存在ではないことになります。この場合には、対象界は、単純であるが特殊的・具体的な成素から複合されているという表象になるわけです。しかしながら、成素複合型の分類体系においては、常に必ずしもアトミズムないし多元素論の立場が採られるとは限りません。窮局的な成素的実質は、単元的であるという考え方もあり得ます。この考え方を採る場合には、窮局的な実質的元素に性質が加わることにおいて、成素が形成されることになるわけで、実質的な単元的元素は普遍的で且つ抽象的ということになります。翻って(イ)の場合、最上位の類は一つなのかどうか。もし幾つかのカテゴリー(最高類概念)が並存するのだとすれば、それら複数の類は、厳密には普遍的でないことになりましょう。単一の類へと上昇がおこなわれる場合にかぎって、最高類が普遍的な存在とし認められる所以となります。」173-4P「元素」の例を「素粒子」にするとどうなるのか?
さらに論攷は進みます。「こうして、今や、(イ)においては単一の類への上昇的階梯が確立し、(ロ)においては、単一の元素への下降的階梯が確立した場面で考え直してみましょう。後者(ロ)では、基体的実質は窮局的には単一の元素であって、諸々の定在が岐れるのは附帯的な「性質」の差異に応ずるものとみなされるわけですから、成素的複合というのは突き詰めて考えれば「性質」(もちろん「実質」に担われた)の複合ということになります。翻って、前者(イ)での「普遍−特殊」の階段を降りるのは、「性質」の複合と相即します。(イ)においては、上昇に伴って基体的実質が逓(「てい」のルビ)減するという考え方もあり得ますが、単元的実質が一貫している考えるほうがが素直でしょう。――こうなりますと、(イ)であれ(ロ)であれ、同じ実質が一貫していて、性質が種別化の原理になります。ここで謂う「実質」と「性質」は、伝統的な用語法では、「質料」と「形相」と呼ばれるものにほかなりません。ここでは、分類のヒエラルヒーは、窮局的な単純質料に、諸々の形相が複合的に累加されることによって成立することになります。/このさい、形相はそれ自身の内在的規定性において「普遍−特殊」「抽象−具体」の階梯を形成するのでしょうか? それとも、形相=性質それ自身としては「単純−複雑」という成素的複合の秩序系列を形成するにすぎないのでしょうか? ・・・・・・形相・質料の成体に注目すれば、それらの成体群は慥かに「普遍的−特殊的」「抽象的−具体的」のヒエラルヒーを形成することが認められます。が、それは、契機をなす形相の「単純−複合」に応ずるものと申せましょう。つまり、単純な形相(したがって共通度の高い形相)を帯びている成体が「普遍的」「抽象的」であり、複合的な形相を帯びている成体が「特殊的」「具体的」ということではないでしょうか。そもそも単純的か複合的かということは所与の形相をそれ自身として内在的に分析してみれば“判り”ますが、「普遍−特殊」「抽象−具体」ということは他者との比較関係においてしか言えないことであって、直接的な内在的規定ではありません、単純な形相と複雑な(複合された)形相とを対比関係において、前者を帯びているものを「普遍的」「抽象的」と呼び、後者を帯びているものを「特殊的」「具体的」と呼んでいる。これが実状であるように見受けます。・・・・・・「普遍−特殊」「抽象−具体」ということは、元来は内包的規定性に即した関係だということを忘れないでいただきたいと念います。」174-6Pとして、この項の纏めに入ります。「こうして、(イ)「類種的統合体系」と(ロ)「成素的合成体系」とは――常識的には全く別々の分類体系だと思念されているにせよ、そして実際、日常的な場面では両者を一応区別する必要があるにせよ――、基本的な論理構制を突き詰めていくと、結局は同一の型に帰趨します。そこでは、基体的実質(質料)は窮局的には同一であり、附帯的性質(形相)の成素的複合に応じて対象的諸定在が階梯的に岐れるものと了解されている所以です。この言い方は、但し、系列原理の型に即した概括であって、実際の理説は様々な形態を採ります。質料だけでなく、形相をも自立的な実体と認める立場もありますし、また、質料と形相との可能的結合体のうち実在するのは特定のものに限られるとする立場もあります。実念論の立場では普遍的・抽象的な形相も実在すると考えますが、唯名論の立場では個体とその分肢の次元しか実在しないと考えます。また、原子論や多元素説では――論者たち自身は必ずしもこういう言い方をしませんけれど、先の構図中に位置づけて言えば――、或る次元での形相・質料の成体とその複合しか実在しないと考えます。という次第で、先の「成素複合系列」のうち、実在するのは特定の階梯系だけであって、それ以外は単なる思考上の抽象、単なる概念上の系列とみなす立場も存立するわけです。しかしともあれ、実体と性質という二契機から対象が成立してるものと考え、この実体主義のもとで、共通の規定性をそなえているものを類同化していくという手続によって系列化的区分がおこなわれるものと思念されるかぎり、(イ)も(ロ)も、結局は成素複合型の整序に帰趨することになります。」176-7P
第三段落――分類的体系化の相互連関(2) ――(ハ)
ここで(ハ)の「系譜的整序体系」に入ります。「ここでは「先祖−後裔」の関係が系列原理になっております。(イ)では「類−種」、(ロ)では「成素−複合体」という別次元の存在体の関係であったのに対して、(ハ)では、親族関係の場合など、先祖も後裔も個体であり、そのかぎりでは同次元の個体どうしの関係であるように思えます。ここには「普遍−特殊」「抽象−具体」といった関係は存立しないかのようにも思えます。だが、果たして、これで押し通せるでしょうか?」177Pと、問います。「「系譜的整序体系」には、生物進化論的な系列ごときものや、一個体における受精卵から諸器官組織への分化的系統を整序した体系のごときものも含まれます。そして、ここでは「単純−複雑」の系列がみられますし、射影のとりかた如何では一種の成素複合に類する構制すらみられます。このたぐいのものをティプスとする場合には、家系図や親族体系のごときは、先祖と後裔とのあいだに「単純−複雑」の度の差異がない特殊ケースとみなすことも可能です。ここでは敢てこの措置をとり、単細胞生物からの進化論的な系譜体系をティプスにして考えることにしましょう。」177-8Pとして、「これを見定めるためには、先の(イ) (ロ)の場合と対比してみるのが便利です。」とこの項に踏み入っていきます。
まずはおさらい、「顧みますと、(イ) (ロ)においては、実質と性質とから対象が成っているという実体主義的な存在観に立脚して、窮局的には同一的な質料に、諸々の形相が成素複合的に附帯することにおいて対象群が成立するという了解が含意されておりました。そして、そこでは、分類的系列化の原理的手続として、共通的規定性の抽出的統轄が私念されていたかぎりで、――念のために爰で申し添えますと、先にみたロッツェやカッシーラーの指摘を俟つもでもなく、これは必ずしも実態に適うものではありませんけれど、もう暫く常識的な思念に追随して議論を進めます――、対象的規定性は結局のところ成素複合的な相で了解され、そのことに負うて、対象群の「普遍的−特殊的」「抽象的−具体的」という系列化が、形相的規定性の「単純的−複合的」という構制に照応したのでした。このさい、しかも、当の成素的規定性=形相は、それ自身としては自己同一性を保つこと、不易的であること、変化相はそれら不易的成素の結合の在り方の差異にもっぱら基因すること、要言すれば、形相の不易性が含意されて所以となります。」ここから(ハ)に関する直接的論攷に入ります。「しかるに、(ハ)の場合には構制を異にします。成程、系譜的整序体系が既成態として現前する場合、成素複合型の構図に投影することが可能であることは先刻も認めた通りです。しかし、それはあくまで結果についての悟性的な措置であって、「先祖−後裔」の如実の関係を把え切れません。「先祖」は「後裔」を産む(厳密にいえば、先祖は自己転化を遂げて後裔に成る)のであり、外部から成素を寄せ集めるわけにはいきません。既成の成素的形相が周囲に転がっているわけではありませんから、「先祖」という形相・質料成体は、自己分化・自己転成によって、「後裔」を厳正させるのでなければなりません。ここでも、窮局的質料は純一だとしますと、形相そのものが可易的了解される所以です。「先祖」はそれ自身のうちに「可能態」の相で「子孫」の形相を含んでいるという表象がここに要請されます。そして、原始的祖先は、転成して子孫になるにせよ、一貫して当の転成的系列を形成する当体ですから、転形しつつも当体的自己同一性を保持します。この意味において、系譜系列の諸分肢が斉しくそれ(の定在形態)であるという相で、原始的祖先は「普遍者」であり、それ自身としては諸々の具体者ではないかぎり「抽象態」であり、分化の端初としても最も「単純なもの」であることになります。こうして、原始的祖先も、「単純体」「普遍者」「抽象態」であり、形式的にみれば成素複合型の系列の端初項と同趣になりますが、しかし、形相そのものが可変的であること、この点において決定的に異なります。「祖先−後裔」という系列原理の特質は、まさに、形相そのものの可変性(厳密に言えば「形相そのものの」という言い方には問題が残りますが)、この可変性と相即的に祖先が可能態においてすでに後裔であるとい点に存すると申せます。」179Pと展開し、この段落・項のまとめに入ります。「「系譜的整序体系」は、右の特質に徴して、家系図流のものをも包摂しつつ、総じて、前便で問題にした「有機的醸成型」の構制になっております。そして、(イ)の「類型的統合体系」と(ロ)の「成素的合成体系」が、一見懸隔しつつも、共に「成素複合型」の構制になっていることは先に見定めておいた通りです。」178-9P
第四段落――分類的体系化の相互連関(3) ――まとめ「函数充当型」への止揚 180-3P
この便のこれまでのまとめ「本便では、分類的体系の三つのタイプ、すなわち、(イ)「類型的」、(ロ)「成素的」、(ハ)「系譜的」の論理構制を検討することによって、以上の範囲でひとまず(イ) (ロ)が「成素複合型」(ハ)が「有機醸成型」に帰趨することを確認しました。先に列挙しておいた(ニ) (ホ) (ヘ) (ト)も結局のところ、これら二つの型に還元できる筈です。・・・・・・/・・・・・・以上では、これら二つの型の区別性を述べたかたちになっておりますけれども、これら二つの型ですら事実には同一の構図に記入することを示し、その地平において「原始函数型」の端初措定を顕揚することが狙いなのです。そのための下準備として、ロッツェ・カッシーラーの「函数的補完」を援用し、他面では、「単純−複雑」「普通−特殊」「抽象−具体」の並行性の存立機制に多言を費やしてきた次第です。」180P
いよいよ、著者自身の主張的論攷に入ります。「さて、今や、旧来における体系構成法の二大基本型たる「成素複合型」および「有機醸成型」の論理構制が「函数充当型」に止揚されていくことを論定し、そのことに即して、体系的展開の端初の設定法を対自化していく段取りです。」180Pとし、踏み込んでいきます。「成素複合型の論理構制を採る論者たちは、「抽象の階段」を昇るにさいして、特異的諸規定を捨象しつつ共通な本質的規定性を抽出するという手続で「抽象的」「普遍的」な単純態を得ている心算でも、学理的体系では「函数化的普遍化」をおこなっているのであること、そのかぎりにおいてのみ「階段」を降ることが可能になっていること、これはカッシーラーの指摘する通りだと申せましょう。成素的分割のさいにおいても、決して単に成素を純粋に抽離するのではなく、――化学者の定性分析ならいざ知らず、概念的措定の場合――対他的な結合関係の在り方を“変項”化して「補完」するのであり、このゆえに、再生的複合化の階段を登ることが可能になるのだと思われます。畢竟するに、成素複合型の体系構制において、原理的な定在たる「抽象的」「普遍的」な「単純態」の措定と称されるものは、学理的な概念体系の場合、論者たちは自身が思念する相での“抽象化”ではなく、実際には“函数化”的措定にほかならないわけです。翻って、有機的醸成型の論理構制にあっても、原始的な祖型たる「抽象的」「普遍的」な「単純態」として思念されているところのものは、省みれば「祖先」という定在そのものではありません。実在する「祖先」そのものは、なるほど単純な定在であるにしても、それはあくまで、特定の時と所に定在する特個的・具体的な存在であり、「普遍的」でも「抽象的」でもありません。有機的醸成型の論理的構制において真の端初=原基をなすものは、現実的に定在する祖先というよりも、当の系譜列の各項が斉しくそれの定在諸形態であるごとき当体であり、それは可能態の相で全展開相を“含んで”いるごとき存在の筈です。この原基は原始祖先そのものとしばしば二重写しにされますけれども、歴史的に定在する祖先はすでに当の原基が原初的に現実態化したものであり、そのまま重なるわけではありません。・・・・・・論者たち自身は、この函数的措定態を以って「祖先」という特個的な定在であるかのように物象化して表象しておりますけれど、従って、論者たち自身の思念では端初項は決して函数概念的な措定態ではないものと主張されますけれども、われわれの見地からみれば、所詮は函数化的に措定された「普遍的」「抽象的」な「単純態」にほかならないわけです。」180-2Pと押さえ、マルクスとヘーゲルからこの論攷をとらえ返します。「爰で、マルクスが「下向」によって到達し、「上向」の出発点に据えるアルケーが「単純」「普遍」「抽象的」という性格規定を与えられていたことを想起されるかと思います。マルクスが、彼の端初を立言するさいに、函数化的普遍というようなことを意識していたかどうかは別問題です。しかし、そもそもヘーゲルの概念論、彼の謂う「具体的普遍」の存立機制が、われわれの見地からいえば際立って「函数的」であることまでは異存なく認められると思います。――・・・・・・因みにカッシーラーも、ヘーゲルの「具体的普遍」のうちに、函数概念の構造を読み取っております――。そしてヘーゲルの「具体的普遍」の構制を最も明確に継承したのがマルクスであるということ、この点についても大方の見解が一致するところです。」182Pと展開し、この節のまとめに入ります。「ところで、マルクスは「端初」(=原基=原理)を設定する「下向」そのものは学的方法に属さない旨を述べております。ここは、勿論、マルクスの諸説そのものを論材とする場所ではありませんけれど、併せて留意を求めておきたいと念います。迂生も先の行文中、「分類的整序において機縁となる過程は比量的であっても、基準となる徴表の設定そのことは洞見的(einsichtlich)であり、そのかぎりで、いわゆる「抽象」は論理必然的ではない」旨を申しおきました。」と書き置き、次の節につなげる文を書いています。「今や、この論点とも絡めながら、“原始函数的”な原基の措定とそれの充当的展開という方法を直接的な主題とし、函数充当型の体系構成法を対自化したいと思います。」162-3P
三 「原始函数」整型の洞見性と相対性
第一段落――上向的展開の原基となる“原始函数”を整序する手続 183-5P
「上向的展開の原基となる“原始函数”を整序する手続は、マルクスに倣って言えば、研究の方法には属しますが、体系的叙述の方法の埒外にあります。ということは、しかし、“原始函数”は得手勝手な方法で設定してもよいということを意味するわけでは毛頭ありえません。それでは“原始函数”の整序はどうのようにしておこなわれるのでしょうか?」183Pとこの項の問題設定として問います。「学理的体系においては、それが対象界を方法論的に“再構成”してみせる配備になっている以上、一定の整序体系が予想されます。このことは分野ごとにも言えますので、そのかぎりでは領域的な整序体系が岐れ、それに応じて領域的アルケーが設定される所以ともなります。そして、諸学のアクチュアルな現場では、整序体系のありかたが全く一様というわけではありません。基幹的には一様であるにしても諸学に応じた具象的な方法論が求められます。ここでは、しかし、敢て抽象的・一般的に構図を問題にすることで次善とせざるをえません。・・・・・・・。/偖、原理から出立する体系的論述にあっては、整序体系はあからさまに既在するわけでなく、――即自的に、ないし、フェア・ウンスに、可能的に既在するにすぎず、――原理そのものの展開によって整序体系がいわば産出されるかたちになります。マルクス式にいえば、具体的なものが現実的・歴史的に産出されるわけではないが、「精神的に具体的なものとして」「再生産」されるかたちをとります。しかし、このことが可能なのは、「われわれ」ないし「著者」が既に当の整序体系を知っていることに負うてであり、「著者」においては、原理の設定は体系の整序と相補的です。そして「原理」は体系的内容に対して抽象的普遍的でしかも単純であることを理想とします。」183-4Pと展開し、さらに「“原始函数”の設定は、しかし、決して単に既成の分類体系、既成の整序体系を極限にまで伸長するだけで済みません。既成の分類的整序体系では、実体主義的発想に禍されて、しばしば捨象的省略に終り、函数的補完性が逸せられておりますし、項の対他的反照規定を悟性的に看過して、函数的に繰り込んでおりません。前便で見ましたヘーゲルの謂う「照映」や「反照」、これを概念的に把え込むためには、実体主義的区画を卻けて、よほど慎重に函数化しなければならないことはあらためて絮言を要しないと思います。」184Pと押さえて、この項の最終的論述に入ります。「こうして、既成の分類的整序体系(これには当然「命題」次元での分類的整序も含みます)を手掛りにしつつも、洞見的に“函数”の型を仮設するにさいしては、各分肢とその関係態の把え返しが要件になります。“原始函数”の措定はその極北に位するわけですが、しかし、いかなる体系的原理といえども歴史的・社会的・文化的な相対性を免れえませんし、マルクスが対自的に執っております通り、実際的問題としては、先行する理論体系の諸原理を措定し返すという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ることができないというのが冷徹な現実であることを否めません。パラダイム転換と謂い、飛躍と言っても、そのゲシュタルト・チェンジは、事実過程の次元でいえば、――ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、ニュートン力学と相対性理論のなどの例を想起するまでもなく――先行理論との共有面が大きいのが通則です。但し、事実的におけるその“小さな”変更が、時としてゲシュタルト全体を一変させるわけで、学説史的評価の次元でいえば、先行する理論的原理の部分的変換による再措定が新地平の開示と相即することもありうる所以です。マルクスが「上向」の起点の設定にさいして、先行理論の達成との関係を述べている論趣は、当世風にいえば、右のような含意になっているように思います。マルクスの場合、しかも、「上向」の起点の設定、つまり、「下向」の過程そのものは学の方法に属さない旨の対自的表明にさいして、プラトン・アリストテレス・ヘーゲルの端初論を念頭におき、上向の起点はたかだかエンドクサの域を幾何も出ることができないという歴史的・社会的・文化的な相対性を含意しているように見受けられます。学理的展開の原基たる「抽象的・普遍的」な「単純態」を“原始函数”のかたちで下向的に措定するにあたり、これらの点ではマルクスの顰(ひそ)みに倣うべきだと考えます。」184-5P
第二段落――構図的・一般的次元でのスケッチ
まずは反芻的おさらいと次章以降の課題の提起「“原始函数”の整序は、いかに周到におこなわれるべきだとしても、所詮は論理必然的な定位ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定位された“原始函数”から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。/これはわれわれの弁証法的展開の論理にもほかなりませんし、そこでは「当事主体」と「われわれ」、それに「著者」と「読者」といった契機も絡めた対話的構制が問題になり、遡っては、そもそも論理とはなんぞやということの省察から必要になります。という次第で、この課題については次箋以下に亘(わた)って順次に応えていくほかはありませんけれど、ここではとりあえず構図的・一般的な次元についてのみ一端を申し述べ、後便への前廷をしつらえておきたいと念います。」185-6Pとして、この節の内容に踏み込んでいきます。「本箋では、これまで対象的分類や概念的秩序の次元に即して議論を進めてきました関係で、命題の次元、つまり、「主語−述語」成体の場合は括弧に収めたままになっております。しかし、学理的体系とはそもそも「命題」体系にほかならず、学理的展開とは賓述的進展にほかなりません。それゆえ、何は措いてもまず、ここでは「主語−述語」構造というよりも「主語」と「述語」との関係について考え、函数充当型の展開における「主−述」関係の存立構造を問題視にする必要がある次第なのですが、とりあえず、あの「分類」型と相即する議論から始めるとしましょう」186Pとして「哲学的には「主語」とは何か、「述語」とは何かということからして大問題ですが、これは暫くブラック・ボックスにして、両者の関係についての伝統的・常識的な思念をあらかじめ省みておきます。/命題ないし判断における「主語−述語」関係について、伝統的な考え方はさしあたり二つの形に岐れます。「犬ハ動物である」という命題を例にとって申しますと、(イ)主語で表わされる「犬」という種が述語で表わされる「動物」という類に下属するという関係を述定するという考え方、(ロ)主語で表わされる「犬」という実体が述語で表わされる「動物」という性質を帯有するという関係を述定するという考え方、さしあたり、この二つに岐れると申せます。」186-7P
ここから(イ) (ロ)二つに関する展開です。「一者(イ)は「類−種−個」(「普遍−特殊−個体」)というヒエラルヒーにおいて、より下位のものを主語、より上位のものを述語としつつ、下位のものが上位のものに包摂される関係に則ります。ここで「外延」(つまり、或る概念で呼称される諸対象、それの範囲)というテクニカルタームを用いて言えば、主語概念の外延が述語概念の外延に包含されることの表明です。これは、また、主語で表わされる「集合」(の元)が述語で表わされる「集合」(の元)に含まれることの表明、と言い換えることもできます。が、要するに「普遍−特殊−個体」(「類−種−個」)という分類的整序体系において、下位に立つものを主語、上位に立つものを述語にしつつ、前者が後者に下属することの認定が事の眼目になります。/他者(ロ)は「実体」と「性質」との関係に着目するものですが、もう少し分析していえば、主語で表わされる実体のもつ性質のうち述語で表わされる性質があることの表明になります。ここでは、主語で表わされる実体のもつ性質を謂わば成素的に分出して、それを明示的に表明するという構造が見出せます。ないしはまた、述語で表わされる成素的性質を主語(たる実体にそなわっている諸性質)に合成する構造を呈します。ここでは、いずれにせよ、性質群に関する成素複合型の分類的秩序体系が構図を画するわけです。そのことに負うて、「内包」(つまり、或る概念の内容的規定性)に即していえば、概念の内包に述語概念の内包が含まれていることの表明になります。」187Pと押さえたところで、(イ)と(ロ)の関係を押さえる作業に踏み入ります。「こうして、(イ)ではさしあたり、実体面に注目しつつ成素とその集合体の包摂関係、(ロ)ではつまるところ、性質に注目しつつ成素とその複合体との包摂関係を認定するかたちになるわけですが、両者は結局のところ重なり合います。」187-8Pということで、名詞の形容詞化、形容詞の名詞化の例を示して「(イ)の「外延主義」と(ロ)の「内包主義」との区別は、決して相容れないものではありません。」188Pとし、この便のまとめの作業に入ります。「(イ)「類種的分類体系」と(ロ)「成素的分類体系」とが、根底的な論理構制においては――「性質」(形相)に関する「成素複合的整序体系」という同一の構制に――帰一することを指摘し、「成素複合型」として一括した経緯(173P)を茲であらためて想起して下さると念います。とすれば、併せてもう一つの「有機醸成型」をも連想して頂けると思うのですが、ここでの「主語−述語」関係は前便で申し述べましたように、それがヘーゲル的な形態をとるさいには、原基たる主語=実体=主体が、原始分割的に自己を分化・定立するという相をとります。」188Pと押さえ、次の便・章につなげる話をしています。「因みに、実体主義的発想のもとに「実体−性質」の関係(ないしは「実体」どうし、「性質」どうしの関係)で「主語−述語」関係を論ずるのとは異なり、関係主義的発想のもとに把え返して論ずる作業は相当に厄介です。このことは「函数」においては「主語」と「述語」とがどう定位・表現されるのか、――記号論理学者流の安直な議論に追随するのであればともかく――この一事を想っただけでも御諒解いただけるのではないでしょうか。今や、「主語」および「述語」というブラック・ボックスの内部に立ち入って再検討を要する次序なのです。」188-9P
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(3)
第五信「方法論的展開相」の構図
(前便のまとめ)「前便ではヘーゲル哲学におけるいわゆる「円環構造」の問題にふれた上で、『論理学』に即してその下降的展開の構制を縦観し、マルクスの批判と代案にも言及しておきました。」126P
(この便(章)の問題設定) 「本箋は、抑々、ヘーゲルやマルクスの祖述を宗とするものではなく、弁証法的体系構成法の対自的把え返しを当座の目標にしております」とのことで、「此の課題に応えるための前廷をしつらえ、そのことを介して、前便で示唆的に申し述べた論件の一斑を埋めておきます。ヘーゲルやマルクスの弁証法的体系とその構成原理を把えるうえでも、これが結局は捷径になるものと庶幾する所以です。」126-7Pとして、以前論じたとして、『マルクス主義の理路』に所収された「『上向法』の方法論的地平」を参考文献に挙げています。
一 ヘーゲル弁証法の「三階梯」的進展
第一段落――ヘーゲルの概念の自己展開と観望の矛盾 127-30P
「前便でみましたように、尠なくともヘーゲル論理学の場合、下降的展開の一貫した論理らしきものは寧ろ存在しないとすら言うこともできます。爰では、しかし、二つの事柄を区別してかかる必要があります。一つには、ヘーゲルの自称する「進展」の論理が必ずしも建前通りには運ばないという消極的事実、もう一つには、展開の論理とか称して固定的な図式を押し付けるようなことはしないという積極面です。――前便では消極面の指摘に急すぎた憾みが遺りますので、ひとまず積極面に目を向け、そこにおのずと生ずる構図を問題にするところから始めたいと念います。」127-8Pとしてヘーゲル『法の哲学』からの引用が来ます。「方法とは、学においては概念が自己自身から自己を展開していく仕方であり、それはもっぱら概念の諸規定の内在的な進展と産出である。……普遍的なものの特殊化した諸々の在り方を解消していくばかりか産出してもいく、こういう、概念の運動原理を私は弁証法と呼ぶ。……われわれの概念され自身がどのように自己を規定していくかを単に観望しようとしているのであり、われわれの私念や思惟を附加しないように自制する・・・・・・・。」128Pそして、著者による押さえは「ヘーゲルは「概念」の自己運動を観望するという建前に徹します。つまり、認識主観の側が勝手に論理操作をおこなうことを厳しく避けようとします。このかぎりでは、格別な展開の方法とか体系構築の論理とか、このようなものは入り込む余地がありません。体系的展開に一貫した論理がみられるとしたら、それはひとえに「概念の自己運動」がそのような合法則性を呈することに負うものです。」128Pと、著者はヘーゲルの観望の意義を突き出しています。そして、「「概念の自己運動、これは「概念」なるものを自立的な主体=実体に仕立て上げる悪しき形而上学に基づくものであること、この点は先便でみたマルクスの批判的指摘が抉(えぐ)る通りです。ヘーゲルが自己運動の主体とみなす「概念」、それは普通の意味での概念ではなく「理念」であり、結局は「絶対的理念」にほかなりません。そのかぎりでは、「神学的な絶対者の自己運動の観望」、この一事に尽きます。だが、認識主観は文字通りに観望するだけなのでしょうか? まったく受動的に、単に眺めるだけなのでしょうか? 然り且つ否です。」128Pと押さえます。そしてヘーゲル『小論理学』を引用した上で、「自己運動する概念=理念と、観望的に認識する主観、これら両者は決して単なる対立相にあるわけではありません。省みれば、上昇の途において、認識主観と絶対的理念との合一は確認ずみです。両者が合一するかぎりでは、絶対的概念の自己運動と認識主観の能動的営為とは別物ではありません。しかし、両者が哲学的思惟とその対象という相で分極化するかぎり、認識主観の営為が疎外されて概念の自己運動として映現し、認識主観はもっぱら対象的概念の自己運動を受動的に観望する配備になる次第です。」129Pと展開し、「彼は、能知と所知との絶対的合一態から如何にして両契機の対立性が生ずるのか、これを精確に説くことができず、絶対的理念の自己疎外という神学的表象に逃げ込んでおります。そのため、「観望」ということと、能動的な営為との関係づけも積極的には解けない仕儀に陥ります。因みに、「観望」ということは、『精神現象学』では、当事意識と哲学値(フェア・ウンスというさいのヴィア)との関係で言われておりましたのが、今や認識主観の在り方の一般的意図にされております。これではいよいよ「エス」と「ヴィア」とのダイナミックな論理構制が採れなくなる所以です。遡って問題にすれば、上昇の途で折角に絶対知・主客統一に達したのに、何を今更「受動的観望」をしなければならないのか。自己定立の自覚的把持でよいのではないか、こういう疑問も生じます。それも、一に懸って、上昇の極点および下降への推移に無理があるからです。」とヘーゲルとの対話・批判を推し進め、「がしかし、さしあたっては好意的に譲って議論を進めましょう――。」129-30Pと次項につなげます。
第二段落――ヘーゲルの「概念ないし真理」における三つの契機・側面 130-3P
「概念の自己運動の在り方ですが、ヘーゲルによればそこに一定の合法則性が見出されます。それが、弁証法的な展開の論理ということになります。」130P筆者は、この弁証法的な展開の論理をヘーゲルから読み解こうとしています。
「ヘーゲルは「あらゆる論理的に実的もの(jedes Logisch-Reelle)」すなわち「概念ないし真理」一般に三つの契機、三つの側面をもつことを指摘します。(α)抽象的側面(β)弁証法的側面(γ)思弁的側面が当の三契機ですが、これらは(α)悟性的側面 (β) 否定理性的側面(γ)肯定理性的側面とも呼び換えられます。」とし、「このかぎりでは「弁証法的」というのは第二の「否定理性的(negative-vernünftig)な側面」に照応しますけれど、それは狭義での語法にすぎず、ここでの用語法を一般化してしまうと間違います。」130Pと注意を促しています。そこで、ヘーゲルの『小論理学』からのこの三つの側面を押さえます。その三つ「(α) 悟性としての思惟は、固定的な規定性と、この規定性の他の規定性に対する区別性とに立ちどまっており、こういう制限された抽象的なものをそれだけで存立し存在するものとみなしている。」「(β)弁証法的モメントは、そういう有限な諸規定の特有な自己止揚であり、それと対立的に措置される規定への移行である。」「(γ)思弁的なものないし肯定理性的なものは対立的措定の相にある両規定の統一を把捉する。すなわち対立的規定の解消と移行のうちに含まれている肯定的なものを把捉する。/弁証法は肯定的な成果をもつ。それというのもそれというのも、弁証法は規定された内容をもつからである。すなわち、弁証法の成果は、空虚な抽象的無ではなくして特定の諸規定の否定……だからである。この理性的なものは、それゆえ、思惟されたものであり、抽象的なものであるとはいっても、同時に具体的なものでもある。というのは、それは単純な形式的な統一態ではなく、区別された諸規定の統一態だからである」130-2Pここまでヘーゲルの引用をして、著者の展開「ヘーゲルによれば、あらゆる概念的措定態は、このように、悟性的階梯・否定理性的階梯・肯定理性的階梯という順を追って深化します。これがいわゆる“正・反・合”であり、“否定の否定”にもほかなりません。」132Pとして、そこで反問を設定します。「ヘーゲルは、あらゆる概念が「三つの側面」「三つの契機」をもつ旨を論じていた筈のところ、いつの間にか三つのステップの話に変わっているのは論点の摩り替えではないのか? 三つのステップというのがもし移動であるならば、慥かに話が違ってきます。がしかし、主題的与件は一貫して同じものであり、そのかぎりでは“同じもの”の持続、従って、第二段階においても第一段階の規定性が“保持”されていること、このことが逸せられると第二段が「単独に切離して受け取られ」懐疑論になってしまいます。」132Pとして、「階梯的に進展するとはいっても、“同じもの”についての規定の深化だということ、これが一つのポイントです。」132Pと押さえ、そして、「勿論、あの三階梯が三階梯であり、三側面である所以の“同じもの”の持続というかぎりでは、何らかの意味で自己同一性を維持する対象=当体の定在を想定せざるをえません。だかしかし、これは謂わばメタ・レベルにおいて措定される同一性であって、当座の文脈における“対象”の相在は“認識”と相即的に変化するわけです。ヘーゲルが「概念」そのものの「自己運動」とその「観望」というシェーマで論ずるのは、この間の事情に応ずるものと申せるでしょう。勿論、そこにはまた、絶対的理念という主体=実体の自己疎外と自己獲得の運動という存在論的了解が籠められていることは付言するまでもありませんし、その論脈でいうかぎり、あの三階梯を以って“認識”の側の進行の在り方だと申してはヘーゲルに叱られます。ヘーゲル本人としては「正・反・合」、つまり定立・反立・綜合というシェーマを唱えないという事実――これはフィヒテの場合を念頭におきつつ第三者が定式化したものであってヘーゲルの自称ではありません――、このことも恐らく右の事情と関係があると思えます。しかしながら、われわれ第三者としては、ヘーゲルのそういう含みを理解したうえで、彼の謂う「概念の自己運動」の実態を“認識”の進展ということに定位して把え返すことが一応許されると思います。」133Pとして、次項に移ります。
第三段落――ヘーゲルの「概念」の自己運動の物象化された表象 134-5P
「ヘーゲルの謂う「概念の自己運動」、「論理的に実的なものの三階梯的進行」は、実際には、学理的“認識”の進展が物象化されて表象されたものであり、そのかぎりでは、認識の合規則的な展開相に応ずるものと言うことができます。」134Pと、この項の課題を突き出し、「認識は、与件的対象を“一つの”或るものとして措定せざるを得ず、そのかぎりで、他との区別における規定態を“画定”する作業から着手します。この“或るもの”は、たとえ“このもの(das Diese)”という特個性において措定されたとしても、――あの感性的確知論を想起するまでもなく――すでに或る普遍的な規定たることを免れません。況んや一般には、悟性的な概念規定として、それは一定の普遍的な規定の賦与です。このことによって、対象的与件が、単なる感性的与件以上の或る概念的規定態として画定されます。/悟性はとかくこの意味での概念的に普遍・不易的な措定態の次元にとどまろうとしがちであり、この抽象的な普遍の固定化――なかんずく、他物との固定的な区画、および、この固定的な規定性の自己同一的な不易化――にもとづいて、その地平内で思索を進めようとします。・・・・・・ヘーゲルとしては、勿論、悟性的段階に固執する弊を卻けますけれども、悟性的規定を第一の暫定的規定としてしかるべく位置づけます。」134Pとして、更に、著者は対話を進めます。「では、この悟性規定の準位から、認識は何故また如何にして、合規則的に次のステップに進んでいくのか? このさい、次のステップというのが高次の準位であることが一つの論点です。同じ準位内での進行であれば、分析的精緻化とか、比較校合による整序とか、さらには、同一律の埓内での悟性的推理とか、こういう機制によって進捗が生じえます。が、いま問題にしている、悟性的な次元そのものを超える進展です。/考えてみれば、しかし、悟性的規定の準位に甘んじてしまう認識がむしろ“常態”といえるほどですから、この準位からの踰越が何故また如何にして合規則的・必然的に生ずるのかという設問は、非常な大問題です。」135Pとして、この段落のまとめに入ります。「ヘーゲルは、さしあたっては只管(「ひたすら」のルビ)「弁証法的モメントは、そういう有限な諸規定[悟性的規定]の特有な自己止揚であり、それと対立的に措定される規定への移行である」と言い切ります。対立的措定態への移行といっても、しかし、先の悟性的規定態が廃棄されてしまうわけではありません。ここに、矛盾命題が並立する所以となります。認識は、そこで途方にくれてしまうのではなく、「対立的措定の相にある両規定の統一を把捉し、対立的規定の解消と移行のうちに含まれている肯定的なものを把捉する」に至る、と彼は主張します。先にみておいた通り、こうして「反・合」の過程が進捗するというわけです。」と展開し、「このさいのポイントになるのが、弁証法的否定は、懐疑論流の否定とは異なって「特定の諸規定の否定」「限定された無」を内実・成果とするという論点であることは、あらためて想起をもとめるまでもありません」135Pと付言しています。このあたり、著者のヘーゲル弁証法の「正・反・合」的展開の途行きを生かし得るというところでのヘーゲルとの対話を展開したものとなっているのではないかと、とらえ返しています。
二 弁証法的否定の論理構制上の“仕組”
第一段落――この節の問題設定
「茲で、件の大問題、つまり、悟性的規定の準位からの超出とその合規則的な必然性という問題を考えてみる次序です。――もしこれが説けねば「反・合」の過程的進展は保証されず、たかだか悟性論理の埓内での“進行”の準位を踰越できない仕儀に陥ってしまいます。」136Pと押さえ、「第三者的に整理するとき、ヘーゲルにおける弁証法的否定は、次のような幾つかの型に岐れると思います。」136Pとして、「最初に挙げておきたいのは、絶対的全称判断の自己破壊とでも呼べる型です。悟性的概念というものは、あれかこれかという排中関係を満足させる仕方で規定されております。そうでない“概念”は、曖昧な概念として、似而非とはいわぬまでも、不完全な概念として卻けられます。そして、或る概念とそれの矛盾概念とは、同一主語について絶対に両立しないものと悟性は了解します。」136Pとし、さらに対話を進め、「ヘーゲルは、それと自覚することなく、この論理的機制によって、悟性的規定をば自己破壊に導き、それの矛盾概念(正確には、それの矛盾概念を述語とする命題)への移行、ひいては両措定の止揚を随所でおこなっております。尤も、論理学に登場するカテゴリーはすべて神の述語であり、従って、そこでの全命題が「神の定義」とみなされうると称しながらも、そのヘーゲル自身が、例えば、「定有」は神の述語ではないと言って、前言を翻している所以ですが、実地の議論としては、常に必ず絶対者が主語に立っているというわけではありません。ですから、絶対的全称判断の自己破壊という道具立てで全局面を律することは不可能です。/そこで、ヘーゲルとしては、悟性的規定のもう少し具体的な在り方に即して、それの弁証法的な自己否定を導こうとします。この次元で問題になるのが、あの「移行」「照映」「発展」という進展の三方式なのです。実際には、有論・本質論・概念論でこれらの方式が順次採られるという具合には必ずしもなっておらず、事態に応じて適宜にこれらのうちいずれかが採られているというのが実情です。因みに、論理学に限らず、ヘーゲルの哲学体系の全般で、これらの方式のうちいずれかによって(場面次第では併用によって)弁証法的否定が導かれている、と申しても大過ないと思います。言い換えれば、これらの三方式はヘーゲルが具体的な論件の場面で遂行する弁証法的否定の汎通的な型になっているわけです。事態に応じて三つの方式が岐れると申すさいの「事態」の在り方ですが、これを順に述べてみます。」137-8Pと次の段落に入ります。
第二段落――第一の「移行」の場合 138-9P
「悟性は与件を或る概念的規定態で把えますが、当の与件が変化相を呈する場合があります。・・・・・・変化がいわゆる量的変化の域にとどまっていれば、悟性的概念そのものを取り換えるに及びませんが、いわゆる質的変化に直面した場合には、概念的規定の変更を迫られます。“生けるものはあくまでも生けるものである、「生けるもの」という概念はあくまで「死せるもの」という概念とは区別される”ということが真実だとしても、いやむしろそれが真実なるが故に、事態に質的な変化が生じた場合には、以前の悟性的規定、従前の概念的措定を固持するわけには参りません。爰に、悟性的規定の自己否定が余儀なくされます。・・・・・・だが、このさい、認識主観は受動的に、事態の変化に応じて認識を改めているわけで、この受動的な在り方を、ヘーゲルとしては「概念の自己運動の観望」と称する次第なのです。概念の「自己運動」というのはいかにも錯誤ですけれど、事態的には大差ないのではないでしょうか。・・・・・・いやしくも「変化」を「変化」として規定しようとするかぎり、単なる適用概念の取換えではなく、矛盾的措定を遂行せざるを得ません。という次第で、対象的変化、少なくとも質的変化を把握しようとするかぎり、悟性的規定の自己否定とヘーゲルの称する事態が必然的になります。「移行」という方式は――ヘーゲル自身は稍々強引に拡張しておりますけれども――こういう対象的変化の場合に応ずるものと言うことができましょう。」138-9Pとこの段をまとめます。
第三段落――第二の「照映」と第三の「発展」の場合 140-4P
「第二の「照映」の場合、悟性は、概念というものはそれ自身の内在的規定性、いわゆる概念的内容(Inhalt=内包)のゆえに当の概念なのである了解しており、概念が各々自己完結的な内自的(「イン・ジッヒ」のルビ)規定を具えているが故に他の概念との区別も成立し、また概念の秩序体系も成立しうるのだと考えております。これが概念の固定的区画化と相即するものにもほかなりません。ところで、概念の規定的内容(内包)は、反省してみれば、決して、自己完結的・自立的ではなく、当世風にいえば、「示差」的な区別という対他的な反照関係においてのみ存在します。“Aであるが故に非Aではない”のではなく、むしろ“Aではあるのは非Aではないが故”なのです。精確にいえば、Aとか非Aとかいうものがまず在って区別関係に立つのではなく、原始的な区別関係の両項として甫めてAと非Aとが相補的に成立するというのが実態です。示差的区別の関係というのは対他的反照関係のうちに最もブリミティヴで抽象的な次元であって、対他的反照関係は具体的であり、積極的な相互規定的関係相を呈します。対象的規定の実状を把えようとすれば、悟性が内自有(In-sich-sein)と思念して自存視しているところのものを対他的関係の反照規定として把え返す必要があります。ヘーゲルとしては「反照」(Reflexion)ないしは「照映」(Scheinnen)ということを基本的には「本質論」の段階で論じておりますけれども、事実上は、すでに「有論」の段階でも概念規定の対他的反照に定位して悟性的思念の自己否定を導きます。尤も、悟性の内自有的措定を反照的関係規定として把え返す営為は、メタ・レベルに立ってみれば常に一種の弁証法的否定の構造になりますけれども、直接的な現相では必ずしも弁証法的矛盾の形を呈するとはかぎりません。その点、「固有の他者」との反照関係に立つ「両極性」の場合にも事態が明瞭になります。」140Pとして、ここから磁石を例にした論攷が続きます。そして「つまり、極というものが自存し、且つ、北極という規定が内自的に自存するという思念を改め、真実に、“当体化”の扱いが許されるのは両極の関係態であり、北極というのは南極との実在的な(単なる概念規定上の相補性ではない)反照的関係規定であるということを対自化するかぎりの話ですが……。」142Pと押さえます。差異論的展開は、わたしの反差別論にとって、極めて重要なところです。
さて、ここから「第三の「発展」の場合」143Pに入ります。その前に、まず前節の押さえとして、「第一の「移行」では、悟性が謂わば思いがけず対象的変化に襲われて当初の概念措定の自己否定を余儀なくされ、第二の「照映」では、別段対象的事態が変化を示すわけではないが、悟性が当初の措定態の反照的被媒介性を謂わば自発的に把え返すことによって進展が生ずる次第ですが、第三の「発展」は或る意味では前二者の綜合と言うこともできます。このさい、対象の変化に直面するとか、悟性が自発的に把え返すとか申しても、“悟性”とはそのじつ「読者」の暫定的な意識態であり、「著者」たるヘーゲルの舞台廻し使嗾によって「読者」の措定が進展するのが実態であること、このことは附言するまでもありません。」143Pと押さえています。で、ここから、第三の「発展」の本題の話、「「発展」の機構ですが、これはヘーゲルが生物の成長の観望になぞらえていることからも判りますように、対象的変化は、しかし、「移行」の次元における、わけても質的な変化の場合のように、悟性にとって謂わば思いがけない変化の出現ではなく、即自的にあらかじめ了解されている変化の対自的な現前です。例えば、種子は、現実態(顕勢態、対自態)としてあくまで種子であって成樹ではありません。がしかし、可能態(潜勢態、即自態)としては既に“樹木”であると言えます。種子という措定態において、悟性はそれを種子という規定性で把えるとはいえ、変化が現出するまでもなく、それが可能的には樹木であることを知っております。ここでは、悟性は種子を共時的な対他的諸関係の相でのみ把えるのではなく、可能的樹木とも即自的に照映させているわけです。そして、種子の変化がこの可能態を現実態転化せしめるのに応じて、即自的な樹木としての概念規定を対自的に措定していきます。このものは、種子であって現実的には樹木ではない、がしかし、種子でありながら可能的には樹木である。そのかぎりで、種子でありながら非種子(樹木)である。この矛盾的規定が対自的に単解され、現実態の次元でで、当初の悟性的規定が否定されて発展が生ずる次第です。」143-4Pとして、次の節へのつなぎの文がきます。「形式的にいえば、これで尽きますが、しかし、「発展」は、いかに観望と称されるにせよ、ヘーゲルが「主観的論理学」たる「概念論」(内容的には、判断論や推理論)で論じておりますことからも、認識としての認識の進展の在り方が具体的に絡んでおります。今や、この間の次第を見るためにも、論件を拡充する必要があります。」144P
三 成素複合型と有機醸成型の体系構制
最初に断り書きが入っています。「体系構成法というよりも、さしあたり、方法論的展開という次元で考えるさい、誰しも真先に想い浮かべるのが、いわゆる「演繹的体系」だろうと思います。これが謂う所の「形式論理」を導きの糸にすることは更めて申すまでもありません。/爰では、形式論理学と弁証法との比較的討究という巨きな作業に取り組む段ではありません。」144-5Pとし、第一段落の項へ入ります。
第一段落――形式論理学における「変化」の存在論 145-9P
「形式論理学は、もっぱら、概念や命題どうしの“論理的関係”を問題にすること、そのさい、概念や基礎的命題は“意味論的”に一義画定的なものとして前提的に了解されていること、そして、論理的な“変形の導出”といっても所詮はこれら“形式的”諸要素の“算術的複合”にすぎないということです。・・・・・・形式的論理に則った演繹的展開では、成素そのものは不易的で、ただ、成素の組合わせ方が変わるだけだと申せます。それに対して、ヘーゲル流の弁証法的体系では、嚮に見ましたように、論理の進展と相即的に、概念(従ってまた命題)の規定性そのものすら、“進化”します。」145Pと押さえ、「形式論理と弁証法との最大の相違は、論理的“要素”の次元に在るのではなく、実は論理的“関係”の次元に在る」145Pとして「ここでは、さしあたり、右の述べた“成素”の扱い方の差異に藉口して或る一事だけ記すにとどめます。――それは「変化」をめぐるプロブレマティックです。俗に、弁証法は「変化の論理」であるのに対して、形式論理、従って亦、演繹的体系では変化ということが説けない旨が云々されます。しかし、形式論理では変化が説けないということの意味を精確に把える必要があります。もし人が形式論理学では概念を一義固定的に規定するということを理由にして、そこから直ちに「変化を記述できない」と決めつけるとしたら、それは全く笑止の沙汰というものでしょう。・・・・・・成素というものは不変であっても、それを組み合わせた成態は変化しうるのですから、対象的変化に即応することができます。構図的にいえば、原子論がそれなりの仕方で変化事象を把握・説明できるのと同趣になります。」145-6Pと押さえます。
そこから「描写されている幾つかの状態、すなわち、別々の概念で記述されている諸状景が、一箇同一の或るもの(それが変化するところの当体)の継時的諸状態だということです。さもなければ、それらの諸記述は、別々のものの状景記述であっても、変化の記述とは認められない筈です。自同的な当体、主語で指示される同一の対象が、或る時には状態A、別の時には状態Bにある。これは異時、つまり、同時ではない二つの時点におけることですから、矛盾律を犯すものではないと言われます。・・・・・・ともかく、それは変化の当体である以上「同じもの」でなければなりませんが、且つ同時に、それが変化した以上、もはや「同じでない」ものでなければなりません。当の或るものが「同じであり且つ同じでない」という矛盾、これは「変化の当体」という概念、従ってまた「変化」という概念が必然的に孕む矛盾です。この矛盾を免れようとして、「同じでない」だけを残したのでは、別々の状景の記述であっても、変化とはいえなくなってしまいます。「同じである」だけを残しても無変化になります。けだし、「変化」ということがら自身が「矛盾」構造を呈する、と言われる所以です。形式論理の根本定律たる「矛盾律」を墨守するかぎり、「変化」を概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)することができないと言われるのは、このような事情にもとづいてのことです。駄目押しすれば、論者たちは、形式論理に則りつつ変化事象を記述しているつもりでも、苟くも変化ということを認めようとする場面で、実は形式論理の根本定律を犯してしまっていることになります。」146-7Pと押さえ、「こうして、形式論理に則ったのでは、「変化」ということを原理的な次元では把握(「ベグライフェン」のルビ)できない仕儀に陥ります。」147Pとし、「ここで、ヘーゲルの「移行」論を想起」147Pすることを求め、「ヘーゲルの「移行」論をそっくりそのまま「変化」把捉の構案に貶める必要はありませんけれども、形式論理に則ったのではたかだかその都度の状景の記述しかできず、諸状態の統一的把捉は別途の処理に委ねられざるをえないところ、ヘーゲルは最初から変化の総体的把握に応ずる構制を採っていること、まずはこの点を追認しておきたかった次第です。」148Pと展開しています。そこで「論者たち自身は、実在するのは持続体の諸状態だけだと言い、「象は鼻が長い」式に、本当の主語は“象の鼻”である(「象」ではない)から、論理矛盾にはならないと言い張ります。論者たちによれば「象」を主語化する認識にのみ矛盾が帰属するわけです。がしかし、このような次元での“認識”の物象化、そこにおいてはじめて、抑々“実在的矛盾”“実在的変化”なるものが存立するのであって、これを思惟の側に帰して単なる主観的なものと称するとすれば、一切の概念的規定が単なる主観的なものになってしまいます。論者たちは、実在的矛盾だけを卻けたつもりでも、実は、一切の実在的規定を主観的な表象とみなし、そのかぎりでトリビアル(trivial採るに足らない)に実在的を消去しているにすぎません。このトリビアリズムを脱しようとするとき、論者たちは、諸状態の記述と、それらの統一的把握(変化という措定)とを“階型的”に区別しつつ、実在的変化なるものを状態的記述とは別次元で立てざるをえない所以です」149Pと附言してます。
第二段落――形式論理学と弁証法――成素的構成と関係論的構成 149-153P
「演繹的であると否とを問わず、形式論理というか悟性論理に則って体系的記述を試みる場合、成素的概念そのものは固定的な相で規定され、機械論的要素主義の流儀で成素の加算的複合が企てられ、そのことによる構成的記述が図られます。この方式は、或る種の分野で、一定の限度内では、有効であることを否めません。有機的統一体を分析的に記述する場合ですら、宛かもブロック的な構築物に見立てつつ、成素的諸部分への解離と再構成的な複合の手続を採ることが、初歩的なアプローチとしては有効な場面もあります。」149-50Pとして、しかし、「記述される対象的定在が、レンガや積木のような自在的なブロックではなく、有機体の分肢のように、“相互浸透”的な存在であるとすれば、積木細工の方式では対象的事態を十全には記述できない道理です。悟性は、区画的に切り取った対象的相在を自己完結的に自存するものとして扱い、それが他のものといかなる関係に置かれようとそれ自身の内的規定は影響を受けないかのように処理します。形式論理やいわゆる演繹的体系は、このような措置によってはじめて可能になっております。ところが「照映」に関説して先刻申し述べましたように、悟性の措定する“ブロック”は実は反照的規定の結節にすぎず、“相互浸透”の相に在ります。従って、機械的・加算的に複合されるのではなく、有機的・化合的に綜合されるのではなければ、実態に照応すべくもありません。/形式論理に則った演繹的な体系は、このゆえに――余程特殊な射映、ないし、機械論的な“模型”に関しては妥当するにしても――対象的世界の真実態を“復元”的に描出することは不可能です。「照映」ないし「反照規定」に関するヘーゲルの所説は、決して十分ではないにせよ、ともかくにも、悟体的措定では対象的実態には合わないこと、内自有化された悟性的規定の自己否定的進行による真実態の把え返しが必須であること、このことを体系的展開の方法論的場面に組み込んでいるのは流石(「さすが」のルビ)だと思います。」150Pと、著者は、ヘーゲルを無礙に切り捨てるのではなく、その途行き・方法論の意義をとらえ返そうとしています。そこで、「茲で対蹠的なのは、論理とか方法論とかの次元というよりも、成素複合型の世界像と有機複合型の世界像との対立という世界観の次元ですから、今は深入りを控えますけれども、右の論点と関連するかぎりで、「分析」「綜合」という問題に一言ふれ、それを媒介にしてあの「発展」に話題をつなげることにします。」150-1Pと展開していきます。「普通には、分析といえば成素への解離が表象され、綜合とは成素の複合であるかのように了解されており、そこでは成素的複合型の世界像が暗黙の前提になっているように見受けます。有機複合型の世界像を抱懐する場合には、しかし、もはや分析・綜合ということはそのような単純な逆過程としては遇せないことになります。」151Pと押さえ、「ここでは、カント流の「分析判断」と「綜合判断」を手掛かりにしましょう。概念どうしの含意関係を命題どうしの含意関係にまで拡張して、「分析推理」と「綜合的推理」を云々することも許されるかと思います。」151Pとカントとヘーゲルとを類比して、「カントの道具立てでは「分析」と「綜合」との区別が明確につけがたいということも事実です。この問題を捌(さば)くためにも、für esとfür unsという構制が要件になります――。カントは成素複合型存の在了解をもっていることも相即的に「判断」とは原基的には綜合判断の構造をもつものと考えましたが、ヘーゲルは有機複統合型の存在観とも相即的に「判断」(Urteilen)とは原基的には「原始―分割」(Ur-teilen)であると考えます。判断はfür esには「綜合的」であっても、für unsには「分析的」である所以です。当事意識にとって判断の分析性が対自化されるとき、それは事態が即自的にはそれであったところのことの対自化を意味します。ここでの即自態から対自態への転化は、必ずしも直ちに可能態から現実態への発展的転化とは重なりませんが、論理的進展の一形態であることは確かです。」151-2Pとカントの批判主義を意識したヘーゲルの「思惟形式自身が自分を吟味し、自分自身に即して自分の限界を規定し自分の欠陥を指示しなければならない。後に弁証法として特別に考察する思惟活動はこれにほかならない」152Pという『エンチクロペディー』の引用で、この段落をまとめています。そして「では、このような自己吟味=批判との自己吟味=批判と合一した(そして、「分析的」で且つ「綜合的」な)体系構成がどのように存立するのか、愈々(いよいよ)この問題を主題にしていく段取りです。」153Pと次の項・段落の課題を出しています。
第三段落――自己吟味=批判と合一した体系構成の存立構造 153-7P
「体系的な論述を企てる場合、錯綜した具体的なものから出発するのではなく、「端初」にはいずれにしても単純な原理を据えて、そこから展開することが望まれます。対象的世界がもし機械的複合相を呈するのであれば、基本的な成素と、成素間の関係の基本的な様式を析出し、これらの単純な構成要素(「ストイゲイオ」のルビ)を原理にして体系的構築を試みることが許されるでしょう。体系構成法は、通常、この方式を採っております。しかし、対象的世界が機械的複合相を呈しておらず、謂わば有機的統体相を呈しているのが実態だとすれば、成素複合型の方式を採るわけにはいきません。」153Pとして、「別様の体系構成法が現に存在」153Pするとして「われわれは、そのような方式の一つとして「有機醸成型」とでも呼べる体系構成法を挙示することができます。」153Pと突き出します。
そこから、「ヘーゲルは「発展」の例というより比喩として、「胚」からの成長を持ち出しておりましたが、茲では卵黄という“均質”な“単純”なものから、それが分化・成長して雛鳥へと発展していく構図を念頭におくと便利かもしれません。/この「有機的構成型」の体系構成法は、それが単なる発生論ではなくして、体系構成法であるかぎり、発生や進化という歴史的・時間的変化そのことが問題なのではなく、具象的な「現実世界」を「単純な原始的な存在」から分化・発展した定在として定位・整序する構制が眼目です。」154Pとして「爰では、現存する複雑な定在諸規定は、いずれも端初の原基的な存在のうちに即自的に、(可能態(「デュナミス」のルビ)の相で)既在していた契機の現実態化(realisation)として了解することが出来ます。そのかぎりで、原基(「アルケー」のルビ) (=端初=原理)の原始的自己分化=自己展開による“判断的”定位は、既在の即自態の対自態への現成(可能態の現実態(「エネルゲイア」のルビ)への転化)にすぎず、この意味では、「分析的」ということになります。がしかし、“述語的”諸規定の既在とはいっても、それは対自的ではなく、可能態たるにとどまり、現実態の相では展開的定位を俟って甫めて出現するのですから、この事態に即すれば「綜合的」ということになります。――以上は、“主体=実体たる概念”の“自己運動”に仮託した言い方ですが、認識する主観に即していえば、原基の可能的諸規定を知悉(ちしつ)している「われわれ」(wir)ないし「著者」にとっては「分析的」、「現実態」しか識らない「当事意識」(es)ないし「読者」にとっては「綜合的」ということになります。・・・・・・ヘーゲルの体系が、主体=実体たるアルケーの自己分割的自己定立、そのことによる即自(可能)態から対自(現実)態への順次的・体系的な転成、このような分析的=綜合的な展開という構制をとっていること、このことはあらためて喋々するまでもありません。」154-5Pとし、この後生物学的な次元でのとらえ返しをしています。そして「ところで「有機醸成型」の体系構成法は、アクセントはあくまで「体系構制」にあるとしても、所詮は「発生論」の一種であり、方法論上の限界性を免れません。ヘーゲル本人は、多分にその間の事情を自覚しており、歴史性と論理性とは必ずしも一致するわけではないことを断っております。がしかし、マルクスが厳しく批判します通り、ヘーゲルの場合は結局のところ歴史性と論理性が合致する発生論型の構制になっていることを否めません。」155-6Pここのところ、ヘーゲルの三位一体性へのマルクスの批判になっていると改めてわたしは押さえています。著者のヘーゲルのとらえ返しはさらに続きます。「「概念の自己運動の観望」という彼の建前は発生論的構制と不可分であり、このことは、剰え彼の場合は「神学的」モチーフからも余儀なくされます。ヘーゲルは、彼の体系構成法では歴史性と論理性との合致が要請されざるをえないこと、この点に難があることを一定自覚しながらも、当の難点を克服した方法論ひいては体系構成法を確立できなかったと申すべきでしょう。・・・・・・「有機醸成型」の理説は、発生論的たるかぎり、端初の「単純な」原始的存在の自己分化が何故また如何にして生起するのか、この点の説明に難渋します。ヘーゲルは絶対者の自己疎外ということで“説明”しましたが、これでは到底説明になりません。一般論として、原始的存在の自己分化の必然性と具体相は、当の原基的存在の即自的規定性(可能態としての規定性)のうちに孕まれて筈です。だが、可能態の相で即自的に“既在”するというのは一体どのような事態の謂いでしょうか? 微少な形で潜んでいるということであればまだしも話が判りますが、それではおそらく実状に合いません。可能態の相での既在性ということが理解可能な仕方で規定されなければ、此説は悪しき形而上学に堕しかねません。」156Pとし、ここから著者は次便・次章で本格的に入るのですが、いよいよ自らの「原始函数」という論攷を展開していくことになります。「迂生としては、「有機醸成型」の構制の積極面を生かしつつ、それを発生論から解放する配備として「原始函数型」のアルケーとその開展という方式を考えてみたいと思うのです。・・・・・・函数は、その変項がさまざまな“値”をとることができ、諸項がしかるべき“値”をとるのに応じて、種々様々な定在形態を体現します。“原始的存在”(正しくは現実世界)を函数的関係態として定式化するとき、変項がまだ特定の値をとっていない場面では、それは変項の可能的な諸値に応ずる様々な可能的定在諸形態を即自的に表現します。そして変項が特定の値によって現実的に充当されるのに応じて様々な現実的定在形態を体現していきます。この配置によって、発生論から解放しつつ、先にみておいた「有機醸成型」の構制のメリットを継承しうることまではご理解いただけると念います。/問題は、しかし、“宇宙方程式”にもなぞらえ得べき「原始函数」をどのようにして確定するのか、そのさい、あの「反照規定」がどのようにして函数化されるのか、遡っては、どのような世界像と相即させられるのか、そもそも函数的定式化とは認識論的にみていかなる事柄であるのか、この種の事項です。――そして、ここで、あの「端初」の設定という問題、マルクス式にいえば「下向」のプロセスがあらためてクローズ・アップされる所以となります。/御記憶いただいていると信じますが、第一便で「帰納」という手続の孕むアポリアに稍々立ち入り、前便ではその打開策をヘルマン・ロッツェの謂うErsatz(補完166P)と関連づけて示唆的に申し述べておきました。「原始函数」(これは可能態としては複雑でも、端初においては現実態としては単純であり、しかも函数的普遍としての性格を具えております)と設定するプロセス、これはマルクスが「下向」に関して言う通り、それ自身としては学の体系的方法には属しませんけれども、やはり一定の学問的手続を踏むものであり、「闇からのピストル」ではありません。この場面では、帰納的分析法とか、公理設定法とか、従来のさまざまな方式が勘案されてしかるべきです。そして“原始函数”からの「上向」的開展の「論理」それも、存在論・認識論と三位一体的に統一された――従ってまた「批判」と階型的に統合された――論理が要件になります。」156-7Pここで、「三位一体性」の主張になっているのですが・・・・・・。
第六信「原始函数」の整型と充当
この便・章は、新カント派のロッチェやカッシラーとの対話の中で著者独特の、展開になっています。函数的連関態論の核心的な展開です。
まずは、前便の押さえから、「前便では、ヘーゲルにおける概念的措定の“進展”の論理を悟性的論理との異同に即しながら把え返し、成素複合型の体系構成法と有機醸成型の体系構成法とを対比的に考え、さらには“原始函数”の充当的展開とでも呼べるタイプの構案を申し述べました。/成素複合型の悟性論理では学的対象の実態を把えきれないこと、さりとてヘーゲルのように論理性と歴史性を二重写しにする流儀にも無理が伴うこと、そこで有機醸成型のメリットを保持しつつ発生論的難点を除去する配備として“函数充当型”の体系構成法がありうること、この間の事情を綴った次第でした。」159P二重写し批判というよりも、三位一体性批判として展開していくことではないかと思うのですが、このことは最初からわたしの課題としていることですが、まだ曖昧になったままです。
本便・章の課題として「本簡では、マルクスの下向・上向法をも念頭におきつつ、遡っては「端初」の設定をめぐっていつぞや問題にしていた次元も絡めて、議論を具体化して行きたいと念います。」159P
一 所謂「分類」および「抽象」の実相
第一段落――端初の設定の問題――分節化的統轄化 160-6P
「学理的体系というものは、複雑で具体的な対象的世界の実状を方法論的(「メトディシュ」のルビ)に“再構成”してみせる配備になっているということ、この点までは一般的に認められると思います。方法的な“再構成”にさいして、単純なものから複雑なものへ、ないしは、抽象的なものから具体的なものへ、この方向が採られることも通則であると申せます。そして、この進行が、「原理」からの“説明的推理”と称される事態ともしばしば重なります。/爰で、“再構成”の起点におかれる――「単純なもの」=原理の性格、および、再構成的進展の性格、これら二つの契機が問題にならざるを得ません。前者が体系的展開の「端初」の問題を形成します。」160P
原基の設定というところでの論攷に入ります。「整序された体系というとき、・・・・・・誰しも真っ先に連想するのが、(イ)生物の分類体系、(ロ)化学の元素体系、(ハ)親族の血統体系、などではないかと思います。このほか、(ニ)数論での数の体系、(ホ)有機体の器官体系、(ヘ)機械装置の連動体系、(ト)軍隊や官僚機構などの組織体系を思い泛かべる向きもあることでしょう。同じく体系と言っても、(ホ) (ヘ) (ト)のたぐいは秩序立った組織的統合性というところにアクセントがあり、(イ) (ロ) (ハ)は分類的体系性ということがポイントになるわけですけれど、迂生としては、やはり、これらを一連のものとして扱いたい気がします。「分節化的統轄化」とでもいいましょうか、分化と統合という相反するヴェクトルの緊張を孕みつつ体系づけられていることに徴してのことです。尤も、(イ) (ロ) (ハ)では分節性が目立ち易いのに対して(ホ) (ヘ) (ト)では統轄性が目立ち易いという比重の相違は否めませんが、両契機とも逸せないはずです。」162Pと押さえ、「ここでは、しかし、まずは(イ) (ロ) (ハ)の三つの類型に即して議論をすすめてみたい」162Pとして、「「分類」ということは、それ自身すでに、学理的体系の一部と認められるか、そうでないとしても、学理的体系への第一歩として認められていると言えましょう。しかるに、普通に分類と呼ばれるものは、(イ)のタイプ、すなわち「類種的分類」、(ロ)のタイプの「成素的分類」、(ハ)のタイプの「系譜的分類」、この三者で尽くせるのではないでしょうか。但し、これらの三者は、全く同位同格というわけではなく、(イ)を支える手続が基礎になっているとも申せます。/複数の諸個体を比較・校合して、幾つかの種に纏め、これらの種を比較・校合していくつかの類に纏めという仕方でヒエラルヒーを形成していく手続、これによって「類種的分類」がおこなわれる次第ですが、比較・校合とはさしあたり、「類似性」と「相異性」の較認にほかなりません。同一性と区別性という原理的次元は暫く措いて申せば、与件群を共通的な規定性と別異的な規定性に即して弁別し、取纏めて行く。伝統的思念では、この手続における「共通規定」の抽出、裏返していえば「特異規定」の捨象、これが「抽象」(abstraction=捨象)と呼ばれます。――先には、分類においてはいずれのタイプであれ、「(イ)を支える手続が基礎になっている」という言い方をいたしましたが、それは結局のところ「共通規定」の銘記と「特異規定」の閉却という手続、この意味での「抽象」が基礎的な手続をなしているという謂いになります――。」161-2Pと展開し、さらに「単なる共通規定の抽出では不可であり、共通でしかも本質的な規定性の抽出を要するということ、しかるに、所与の規定性が抽出さるべき本質的な規定であるか、捨象さるべき非本質的な規定であるかの判断基準は、詮ずるところ所求の当該概念を置いては存しないこと、この故に、先取・循環に陥る次第です。――単なる共通規定ということに徹すればどうかという御意見もありうるかもしれません。が、そこまで後退しても事態は一向に改善されません。と申すのは、厳密に共通な規定など存在しないのが実情であり、一定の基準を持ち込んで異同(共通か否か)を弁別するというとのが実際の手続でして、このさいの基準設定の場で先取・循環が生ずるからです――。このような事情もあって、アプリオリズムが提唱されることもいつぞや申した通りです。それでは「抽象」と呼ばれる手続の実態はどうなっているのか? これを検討してみることが「原始函数」の措定という議論とも直接につらなっていきます。そのかぎりで、まずはこの論件から片付けていきましょう」162-3Pと次段落・項に入ります。
第二段落――「抽象」と呼ばれる手続きの実態 163-6P
「「抽象」と呼ばれる手続を純粋に論理必然的な手続であるかのように考えると、いずれにしても悖理を免れません。抽象とは、共通でかつ本質的な規定性の抽象であると称しても、それはむしろ結果に即した言い方であって、そのような過程的手続が自覚的に進行するとは必ずしも言い切れません。専門家がよほど特殊な問題場面で自覚的に遂行する抽象の作業は暫く別として、日常的に言語の使用が即自的に“抽象”を規定します。一群の対象が<人々>によって同一の詞(「ことば」のルビ)で呼称されているという共同主観的な事実、このことから同一の詞で呼称される対象群にはしかるべき本質的同一性が存在するかのような思念が生じます。人々が、或る与件を或る特定の詞で呼称することにはしかるべき事由があることは確かですし、そこに或る“本質的同一性”の意識が介在することも謂われなしとしません。がしかし、論理的に整理してみれば、そこには必ずしも本質必然的な一義的照応性は認められないのが実情です。・・・・・・或る詞で呼称される対象群の画定は、学理的に反省してみれば、多分に恣意的であるにもかかわらず、人々は当該の対象群を同一種として扱いつつ“分類”をおこない、それをしかるべき“抽象”の結果であるかのように思念する次第なのです。尤も、或る与件を或る特定の詞で呼んで別の詞で呼ばないという弁別的な言語使用にさいして、十分明確な認識でこそなけれ、一定の種的同一規定性の認識が根底にあるのではないか、さもなければ安定した言語使用とその共同主観的な一致が成立しうべくもないのではないか。この問題次元に答えるためにはわれわれの対象認知がパターン化の構造を伴うということを論ずる必要が出てきます。そして、アプリオリズムの提出したプロブレマティックも、実は、このパターン認識ということに即して解決されます。がしかし、当座の議論としては、日常的な“分類”の進行とその安定は、パターン化された認識の分節とそれと相即的な言語使用の共同主観性に基礎づけられているものであって、――因みに、言語使用のありかたが対象認識の分節化の相在を逆に規定し返すことにもなる次第なのですが――、必ずしも自覚的な比較校合による「抽象」の所産ではないということ、とりあえず、この点まで申しておけば宜しいかと思います。」163-4Pと展開しています。
ここで、「ところで、先に棚上げしておいた学理的・反省的な抽象とそれにもとづく分類の場合、これは通常、日常的に既成化している分類の補修(ないしは、そのようにして成立した既成の学理的な分類に関する更なる補修)というかたちでおこなわれる次第でして、そこでは既成の分節態に見出される徴表をベースにしつつ、自覚的な作業が進捗します。そのさいには徴表体系の“洗い直し”がおこなわれるわけで、おそらく、“典型的”な徴表内容に定位した理想化(「イデアリジーレン」のルビ)の所産が基準にされるかたちになります。ここでの認識過程は、論理的には一種の飛躍を含み、“洞察”(Einsicht=洞見)による範型の設定=仮設が契機になる筈です。そこから、「本質直観」といった議論が生じたりもしますが、それは決して特異な認識機能ではなく、認識が一般に呈する構造の機制、つまり、所与を或るものとして覚知するという機制における意味的所知の一斑にほかなりません。――この「意味的所知」は、比較その他の過程に機縁づけられているにしても、論理必然的な分析の所産ではなく、直覚的な洞見であり、また、意味的所知がそれ自身として明晰判明な表象のかたちで泛かぶわけでもありませんが、対他的な区別と統轄の相で意識されます。――自覚的に整序された徴表の体系とそれに照応する対象群の統轄、この分節的統合系において、それぞれ一定の徴表のもとに統轄されている対象群を、それらの徴表の共通規定を新たな徴表としつつ一括する過程が生起するとき、当の「共通規定」=「新たな徴表」の措定を「抽象」と呼ぶ、という具合に人々は思念しております。」164-5P、と展開しています。なお、「意味的所知」ということは、『存在と意味』では、「所識」になっている旨、前のノートからの持ち越し事項です。
更なる展開、この項のまとめ的文です。「同種・他種の他者との“分類”的比較を抜きにして(或る個体だけを単独に注視しつつ)そのような過程が進捗するということは、実際にはありえないと思います。分類としての分類でこそなけれ、類同化種別化という対他的な比較の過程を場にして、そこではじめて「抽象」が進捗すると思うのです。――日常的には、しかも、当の類同・種別の整序系がすでに言語的使用と相即的に既成態となっております。・・・・・・――。ところで、自覚的な抽象ないし分類の場面で、或る規定性が徴表として明識され、この徴表を共有する対象群が統轄される場合、その過程で徴表そのものが変更されるケースもありえますが、ともかくも弁別の基準とされる仮設的な徴表の明識がポイントになります。迂生としては、ここにいう「徴表の明識」は、上述の通り、対他的な比較校合の過程に機縁づけられてはいるが、一種の直覚的洞察であり、論理的には一種の飛躍に俟つものだと考えます。(しかるに通念では、対他的な比較校合の過程を通じての論理必然的な抽出によって当の徴表が劃定されるものとみなされており、それが「抽象」であると称されます。そして、その場合には、論理必然的な抽出の基準をめぐって、循環と先取のアポリアに陥る次第です)。機縁となる過程は比量的でも、基準となる徴表の洞見的仮設が契機になっており、そのかぎりで所謂「抽象」は論理的必然性ではないということ、このことを銘記しとかからねばなりません。」165-6P
第三段落――ロッツェの「補完」ということの援用 166-171P
「徴表的規定性の洞見的明識にもとづいてそれを共有する対象群が統括され、さらに、それら諸群を統括する共通の規定性が明識化されていくという進行によって、いわゆる「抽象の階段」の上昇が生じます。そのことによって、次第に、より抽象的でより普遍的な概念が形成される、と称されます。だが、抽象的・普遍的な概念の形成とは、果たして、共通的規定性の抽出、非共通的規定性の捨象という単純な事柄でしょうか。ここで、前々便このかた折りにふれて示唆しましたヘルマン・ロッツェの「補完」(Ersatz)ということが問題になります。」166-7Pこの項は、著者の「函数的聯関態」モデルの突き出しへのロッチェ・カッシラーの援用の箇所です。これをカッシラーの『実体概念と函数概念』の山本義隆さん訳の草稿を譲り受けての援用となっています。訳本ですが購入して積ん読しているので、原本に当る必要性を感じているのですが、おそらく「果たせぬ先送り」になりそうです。
さて、ロッツェの引用を含むカッシーラーの引用です。「p1p2:q1q2という相異なる種では相異なる徴表を単に<省略>することが規則を成すのではではなく、省略された特殊的諸規定のところに、それの個別的種がp1p2やq1q2であるような普遍的徴表PやQが代置されるのである。これに反して単なる否定の手続では、ついには一切の規定性全般の無化に到り、われわれの思惟は、そのさいには概念がそれを意味することになる論理的無から具体的な特殊的諸ケースへの<還路>をまったく見出すことはできない始末になろう。[ロッツェ『論理学』第二版、ライプツィッヒ、一八八〇年、四〇頁以下]。ロッツェが茲でランベルトが数学的概念の例に即して鋭く定式化した当の問題に、いかにして、新しい側面から、心理学的考察にもとづいて接近したのかが見て取れる。ここに与えられた手順を最後まで推し進めて考えていけば、概念の形成に際して抜け落ちてゆく個別的徴標の代りに件の徴標が個別的規定として属しているところの<総体(「インベクリック」のルビ)>を視野に収めよという要求に導かれるのは明らかである。われわれが特殊な色彩を度外視できるのは<色彩一般の全体的系列>を基本的図式として保持しつつ、われわれの形成する概念がそれとの関連で規定されているものと考えるときに限られる。この総体が現出するのは、しかし、われわれが<不変的>個別的徴標の位置に、様々な徴標のとりうる、可能な値の全体を代表する<可変的>な項を代置することによってである。特殊的規定性の<脱落>が純然たる否定的な過程であるかのように見えるのは外見上のことにすぎないということが、ここではおのずと明らかである。このような仕方で失われたかのように見えるものは、じっさいには、他の形で<他の論理学的範疇のもとで>確保されているのである。規定性というものは、不変な徴標、つまり、事物とその諸性質というもので尽くされていると思い込む場合には、たしかに、あらゆる概念的一般化がとりもなおさず概念的内容の貧困化を意味するかのように思える。だが、概念が事物的な存在から謂わば解放されるにつれて、反面では、概念のもつ固有の機能的・函数的(「フンクチオナール」のルビ) (Funktional)な能作が浮び上がってくる。固定的な諸性質が、可能的諸規定の全体を一度に見渡すことのできる一般的な規則で置換(ersetzen補完)されるのである。この変換、論理学的「存在」の新しい形式へのこの置き換えが、抽象ということの本来の積極的能作をなしているのである。われわれは、系列aα1β1, aα2β2, aα3β3……からその共通成分aへと直接移行するのではなく、個別項αの全体がxという可変的表現で、項βの全体がyという可変的表現で与えられていると考える。こうしてわれわれは全体系をaxyという表現にまとめあげ、これに連続的変化を施すことによって、系列項の具体的全体を導くことができ、このようにして、当の総体の結構と論理的分節とが充全に現されるのである」云々。(< >内は原文での強調個所です)。」168-9P
著者・廣松さんの注釈として「文中ランベルトに言及されている論点は、カッシーラーがヘーゲルの「具体的普遍」に論及する直接的前梯となり、さなきだに彼の謂う「函数概念」が「実体概念」といかなる含みにおいて対蹠(たいせき)的であるかをゆくりなく示しております・・・・・・・」169Pこの後、カッシーラーのランベルトへの論及が続いています。数学的概念で、特殊が省略や消去されるのではなく、代置・補完という形で保存されているというような展開になっています。
ここから著者のこの節のまとめには入ります。「「抽象」と呼ばれる概念形式の能作は、日常的にはなるほど、共通規定の抽出、別異規定の捨象という相で思念されているにしても、そしていわゆる“類表象”なるものは多分にそのような所産であるにしても、学的な概念の名に値する程のものは決してそういう単純な残渣ではないものと了解されます。抽象を通じて形成されると称される学理的な概念は、真実態においてすでに、個別的規定性を変項化する「補完」、そのことによる一種の「函数」的成態化に俟つものであること、この点はロッツェやカッシーラーが指摘する通りだと思います。」171P
二 系列的整序の諸相と函数概念的補完
第一段落――反芻的とらえ返しと「分類」的体系化の実態の分析 172-3P
前節の反芻的とらえ返しから始まっています。「「抽象」というより「分類」にさいしては、統轄基準となる徴標的規定性の洞見的設定が鍵鑰(けんやく)をなすことは嚮に見た通りです。そして、徴標的規定性の「固定的な諸性質が、可能的諸規定の全体を一度に見做すことのできる一般的規則で置換される」ことにおいて函数的概念が形成されるということ、「概念の特徴的契機をなすものは、表象像の普遍性ではなく、<系列原理>の普遍妥当性であり」、「真正の概念が与えられるのは、特殊を統合するための或る不変的な<規則>そのものである」ということも判りました。」172P
そして、「分類」的体系化の実態の分析に入っていきます。
「常識的にいえば、(イ)の「類種的統合体系」、(ロ)の「成素的合成体系」、(ハ)の「系譜的整序体系」において、縦の系列原理としては、それぞれ、(イ)「普遍−特殊」、(ロ)「複雑−単純」、(ハ)「先祖−後裔」の関係が、そして、横の配列原理としては、それぞれ、(イ)「同位的諸種」、(ロ)「同格的成体」、(ハ)「同輩的胞族」の位階が構図を画します。――先には、「特殊から普遍へ」という列に定位して、共通的規定性の「抽象」ということを分類一般における認識上の基礎的な手続として問題にしましたが、この手続は存在観のうえでは「単純−複雑」の成素的合成相を前提にしていると申せます。ここでは、この存在観上の前提的了解、敢えていえば、そこで前提にされている世界像を対自化しつつ、(イ) (ロ) (ハ)の内面的な相互連関を見据えておきたいと念います。」172-3Pとして、続く段落へ移行します。
第二段落――分類的体系化の相互連関(1) ――(イ)と(ロ) 173-7P
「与件のそなえている規定性を類似・別異に即して選別するという手続は、与件の規定性が全一的なものではなく、解離可能なものであることを前提にしており、このかぎりで「性質」ないしは「実質」に関する「成素複合型」の存在観を前提にしていると申せる次第です。がしかし、(イ)の「類種的統合体系」と(ロ)の「成素的合成体系」とでは、全く一様というわけではありません。(イ)の「普遍−特殊」と(ロ)の「複雑−単純」の系列原理は、同じく成素複合型といっても、さしあたっては、同列に扱えない面があります。/日常的思念においては、基体的実質と附帯的性質とが実体と属性という相で区別して意識されるのではないでしょうか。そして、(イ)の分類においては、「属性」に定位した統轄がおこなわれるのに対して、(ロ)の分類においては「実体」に定位した分類がおこなわれます。勿論、属性と実体とは分断してしまうわけにはいきませんし、いずれにおいても両契機が視野に収められているには違いありません。けれども、直接的な着眼は、前者では“属性”、後者では“実体”だと言えるように思います。稍々極端な言い方をすれば、(イ)においては、基体的実質は一貫して同一であり、もっぱら性質の相違が対象群の序列を形成するかのように思念され、(ロ)においては、附帯的性質はさながら偶有的であり、もっぱら、基体的実質の相違が対象群の序列を形成するかのように思念されます。/このような思念の構図下にあって、(イ)の体系では最上段に位するものが、当の系列中、最も単純で、最も普遍的で、且つ、最も抽象的な存在とみなされます。他方、(ロ)の体系では、最下段に位するものが当の系列中、最も単純な存在とみなされることは確かですが、それが果たして普遍的とか抽象的とか言えるのかどうか、この点は遽(にわ)かには言えません。窮局的な単純成素が複数存在する場合には、最も単純な成素たるアトム(ないし「元素」)はそれ自身特殊的かつ具体的存在であって、必ずしも普遍的・抽象的な存在ではないことになります。この場合には、対象界は、単純であるが特殊的・具体的な成素から複合されているという表象になるわけです。しかしながら、成素複合型の分類体系においては、常に必ずしもアトミズムないし多元素論の立場が採られるとは限りません。窮局的な成素的実質は、単元的であるという考え方もあり得ます。この考え方を採る場合には、窮局的な実質的元素に性質が加わることにおいて、成素が形成されることになるわけで、実質的な単元的元素は普遍的で且つ抽象的ということになります。翻って(イ)の場合、最上位の類は一つなのかどうか。もし幾つかのカテゴリー(最高類概念)が並存するのだとすれば、それら複数の類は、厳密には普遍的でないことになりましょう。単一の類へと上昇がおこなわれる場合にかぎって、最高類が普遍的な存在とし認められる所以となります。」173-4P「元素」の例を「素粒子」にするとどうなるのか?
さらに論攷は進みます。「こうして、今や、(イ)においては単一の類への上昇的階梯が確立し、(ロ)においては、単一の元素への下降的階梯が確立した場面で考え直してみましょう。後者(ロ)では、基体的実質は窮局的には単一の元素であって、諸々の定在が岐れるのは附帯的な「性質」の差異に応ずるものとみなされるわけですから、成素的複合というのは突き詰めて考えれば「性質」(もちろん「実質」に担われた)の複合ということになります。翻って、前者(イ)での「普遍−特殊」の階段を降りるのは、「性質」の複合と相即します。(イ)においては、上昇に伴って基体的実質が逓(「てい」のルビ)減するという考え方もあり得ますが、単元的実質が一貫している考えるほうがが素直でしょう。――こうなりますと、(イ)であれ(ロ)であれ、同じ実質が一貫していて、性質が種別化の原理になります。ここで謂う「実質」と「性質」は、伝統的な用語法では、「質料」と「形相」と呼ばれるものにほかなりません。ここでは、分類のヒエラルヒーは、窮局的な単純質料に、諸々の形相が複合的に累加されることによって成立することになります。/このさい、形相はそれ自身の内在的規定性において「普遍−特殊」「抽象−具体」の階梯を形成するのでしょうか? それとも、形相=性質それ自身としては「単純−複雑」という成素的複合の秩序系列を形成するにすぎないのでしょうか? ・・・・・・形相・質料の成体に注目すれば、それらの成体群は慥かに「普遍的−特殊的」「抽象的−具体的」のヒエラルヒーを形成することが認められます。が、それは、契機をなす形相の「単純−複合」に応ずるものと申せましょう。つまり、単純な形相(したがって共通度の高い形相)を帯びている成体が「普遍的」「抽象的」であり、複合的な形相を帯びている成体が「特殊的」「具体的」ということではないでしょうか。そもそも単純的か複合的かということは所与の形相をそれ自身として内在的に分析してみれば“判り”ますが、「普遍−特殊」「抽象−具体」ということは他者との比較関係においてしか言えないことであって、直接的な内在的規定ではありません、単純な形相と複雑な(複合された)形相とを対比関係において、前者を帯びているものを「普遍的」「抽象的」と呼び、後者を帯びているものを「特殊的」「具体的」と呼んでいる。これが実状であるように見受けます。・・・・・・「普遍−特殊」「抽象−具体」ということは、元来は内包的規定性に即した関係だということを忘れないでいただきたいと念います。」174-6Pとして、この項の纏めに入ります。「こうして、(イ)「類種的統合体系」と(ロ)「成素的合成体系」とは――常識的には全く別々の分類体系だと思念されているにせよ、そして実際、日常的な場面では両者を一応区別する必要があるにせよ――、基本的な論理構制を突き詰めていくと、結局は同一の型に帰趨します。そこでは、基体的実質(質料)は窮局的には同一であり、附帯的性質(形相)の成素的複合に応じて対象的諸定在が階梯的に岐れるものと了解されている所以です。この言い方は、但し、系列原理の型に即した概括であって、実際の理説は様々な形態を採ります。質料だけでなく、形相をも自立的な実体と認める立場もありますし、また、質料と形相との可能的結合体のうち実在するのは特定のものに限られるとする立場もあります。実念論の立場では普遍的・抽象的な形相も実在すると考えますが、唯名論の立場では個体とその分肢の次元しか実在しないと考えます。また、原子論や多元素説では――論者たち自身は必ずしもこういう言い方をしませんけれど、先の構図中に位置づけて言えば――、或る次元での形相・質料の成体とその複合しか実在しないと考えます。という次第で、先の「成素複合系列」のうち、実在するのは特定の階梯系だけであって、それ以外は単なる思考上の抽象、単なる概念上の系列とみなす立場も存立するわけです。しかしともあれ、実体と性質という二契機から対象が成立してるものと考え、この実体主義のもとで、共通の規定性をそなえているものを類同化していくという手続によって系列化的区分がおこなわれるものと思念されるかぎり、(イ)も(ロ)も、結局は成素複合型の整序に帰趨することになります。」176-7P
第三段落――分類的体系化の相互連関(2) ――(ハ)
ここで(ハ)の「系譜的整序体系」に入ります。「ここでは「先祖−後裔」の関係が系列原理になっております。(イ)では「類−種」、(ロ)では「成素−複合体」という別次元の存在体の関係であったのに対して、(ハ)では、親族関係の場合など、先祖も後裔も個体であり、そのかぎりでは同次元の個体どうしの関係であるように思えます。ここには「普遍−特殊」「抽象−具体」といった関係は存立しないかのようにも思えます。だが、果たして、これで押し通せるでしょうか?」177Pと、問います。「「系譜的整序体系」には、生物進化論的な系列ごときものや、一個体における受精卵から諸器官組織への分化的系統を整序した体系のごときものも含まれます。そして、ここでは「単純−複雑」の系列がみられますし、射影のとりかた如何では一種の成素複合に類する構制すらみられます。このたぐいのものをティプスとする場合には、家系図や親族体系のごときは、先祖と後裔とのあいだに「単純−複雑」の度の差異がない特殊ケースとみなすことも可能です。ここでは敢てこの措置をとり、単細胞生物からの進化論的な系譜体系をティプスにして考えることにしましょう。」177-8Pとして、「これを見定めるためには、先の(イ) (ロ)の場合と対比してみるのが便利です。」とこの項に踏み入っていきます。
まずはおさらい、「顧みますと、(イ) (ロ)においては、実質と性質とから対象が成っているという実体主義的な存在観に立脚して、窮局的には同一的な質料に、諸々の形相が成素複合的に附帯することにおいて対象群が成立するという了解が含意されておりました。そして、そこでは、分類的系列化の原理的手続として、共通的規定性の抽出的統轄が私念されていたかぎりで、――念のために爰で申し添えますと、先にみたロッツェやカッシーラーの指摘を俟つもでもなく、これは必ずしも実態に適うものではありませんけれど、もう暫く常識的な思念に追随して議論を進めます――、対象的規定性は結局のところ成素複合的な相で了解され、そのことに負うて、対象群の「普遍的−特殊的」「抽象的−具体的」という系列化が、形相的規定性の「単純的−複合的」という構制に照応したのでした。このさい、しかも、当の成素的規定性=形相は、それ自身としては自己同一性を保つこと、不易的であること、変化相はそれら不易的成素の結合の在り方の差異にもっぱら基因すること、要言すれば、形相の不易性が含意されて所以となります。」ここから(ハ)に関する直接的論攷に入ります。「しかるに、(ハ)の場合には構制を異にします。成程、系譜的整序体系が既成態として現前する場合、成素複合型の構図に投影することが可能であることは先刻も認めた通りです。しかし、それはあくまで結果についての悟性的な措置であって、「先祖−後裔」の如実の関係を把え切れません。「先祖」は「後裔」を産む(厳密にいえば、先祖は自己転化を遂げて後裔に成る)のであり、外部から成素を寄せ集めるわけにはいきません。既成の成素的形相が周囲に転がっているわけではありませんから、「先祖」という形相・質料成体は、自己分化・自己転成によって、「後裔」を厳正させるのでなければなりません。ここでも、窮局的質料は純一だとしますと、形相そのものが可易的了解される所以です。「先祖」はそれ自身のうちに「可能態」の相で「子孫」の形相を含んでいるという表象がここに要請されます。そして、原始的祖先は、転成して子孫になるにせよ、一貫して当の転成的系列を形成する当体ですから、転形しつつも当体的自己同一性を保持します。この意味において、系譜系列の諸分肢が斉しくそれ(の定在形態)であるという相で、原始的祖先は「普遍者」であり、それ自身としては諸々の具体者ではないかぎり「抽象態」であり、分化の端初としても最も「単純なもの」であることになります。こうして、原始的祖先も、「単純体」「普遍者」「抽象態」であり、形式的にみれば成素複合型の系列の端初項と同趣になりますが、しかし、形相そのものが可変的であること、この点において決定的に異なります。「祖先−後裔」という系列原理の特質は、まさに、形相そのものの可変性(厳密に言えば「形相そのものの」という言い方には問題が残りますが)、この可変性と相即的に祖先が可能態においてすでに後裔であるとい点に存すると申せます。」179Pと展開し、この段落・項のまとめに入ります。「「系譜的整序体系」は、右の特質に徴して、家系図流のものをも包摂しつつ、総じて、前便で問題にした「有機的醸成型」の構制になっております。そして、(イ)の「類型的統合体系」と(ロ)の「成素的合成体系」が、一見懸隔しつつも、共に「成素複合型」の構制になっていることは先に見定めておいた通りです。」178-9P
第四段落――分類的体系化の相互連関(3) ――まとめ「函数充当型」への止揚 180-3P
この便のこれまでのまとめ「本便では、分類的体系の三つのタイプ、すなわち、(イ)「類型的」、(ロ)「成素的」、(ハ)「系譜的」の論理構制を検討することによって、以上の範囲でひとまず(イ) (ロ)が「成素複合型」(ハ)が「有機醸成型」に帰趨することを確認しました。先に列挙しておいた(ニ) (ホ) (ヘ) (ト)も結局のところ、これら二つの型に還元できる筈です。・・・・・・/・・・・・・以上では、これら二つの型の区別性を述べたかたちになっておりますけれども、これら二つの型ですら事実には同一の構図に記入することを示し、その地平において「原始函数型」の端初措定を顕揚することが狙いなのです。そのための下準備として、ロッツェ・カッシーラーの「函数的補完」を援用し、他面では、「単純−複雑」「普通−特殊」「抽象−具体」の並行性の存立機制に多言を費やしてきた次第です。」180P
いよいよ、著者自身の主張的論攷に入ります。「さて、今や、旧来における体系構成法の二大基本型たる「成素複合型」および「有機醸成型」の論理構制が「函数充当型」に止揚されていくことを論定し、そのことに即して、体系的展開の端初の設定法を対自化していく段取りです。」180Pとし、踏み込んでいきます。「成素複合型の論理構制を採る論者たちは、「抽象の階段」を昇るにさいして、特異的諸規定を捨象しつつ共通な本質的規定性を抽出するという手続で「抽象的」「普遍的」な単純態を得ている心算でも、学理的体系では「函数化的普遍化」をおこなっているのであること、そのかぎりにおいてのみ「階段」を降ることが可能になっていること、これはカッシーラーの指摘する通りだと申せましょう。成素的分割のさいにおいても、決して単に成素を純粋に抽離するのではなく、――化学者の定性分析ならいざ知らず、概念的措定の場合――対他的な結合関係の在り方を“変項”化して「補完」するのであり、このゆえに、再生的複合化の階段を登ることが可能になるのだと思われます。畢竟するに、成素複合型の体系構制において、原理的な定在たる「抽象的」「普遍的」な「単純態」の措定と称されるものは、学理的な概念体系の場合、論者たちは自身が思念する相での“抽象化”ではなく、実際には“函数化”的措定にほかならないわけです。翻って、有機的醸成型の論理構制にあっても、原始的な祖型たる「抽象的」「普遍的」な「単純態」として思念されているところのものは、省みれば「祖先」という定在そのものではありません。実在する「祖先」そのものは、なるほど単純な定在であるにしても、それはあくまで、特定の時と所に定在する特個的・具体的な存在であり、「普遍的」でも「抽象的」でもありません。有機的醸成型の論理的構制において真の端初=原基をなすものは、現実的に定在する祖先というよりも、当の系譜列の各項が斉しくそれの定在諸形態であるごとき当体であり、それは可能態の相で全展開相を“含んで”いるごとき存在の筈です。この原基は原始祖先そのものとしばしば二重写しにされますけれども、歴史的に定在する祖先はすでに当の原基が原初的に現実態化したものであり、そのまま重なるわけではありません。・・・・・・論者たち自身は、この函数的措定態を以って「祖先」という特個的な定在であるかのように物象化して表象しておりますけれど、従って、論者たち自身の思念では端初項は決して函数概念的な措定態ではないものと主張されますけれども、われわれの見地からみれば、所詮は函数化的に措定された「普遍的」「抽象的」な「単純態」にほかならないわけです。」180-2Pと押さえ、マルクスとヘーゲルからこの論攷をとらえ返します。「爰で、マルクスが「下向」によって到達し、「上向」の出発点に据えるアルケーが「単純」「普遍」「抽象的」という性格規定を与えられていたことを想起されるかと思います。マルクスが、彼の端初を立言するさいに、函数化的普遍というようなことを意識していたかどうかは別問題です。しかし、そもそもヘーゲルの概念論、彼の謂う「具体的普遍」の存立機制が、われわれの見地からいえば際立って「函数的」であることまでは異存なく認められると思います。――・・・・・・因みにカッシーラーも、ヘーゲルの「具体的普遍」のうちに、函数概念の構造を読み取っております――。そしてヘーゲルの「具体的普遍」の構制を最も明確に継承したのがマルクスであるということ、この点についても大方の見解が一致するところです。」182Pと展開し、この節のまとめに入ります。「ところで、マルクスは「端初」(=原基=原理)を設定する「下向」そのものは学的方法に属さない旨を述べております。ここは、勿論、マルクスの諸説そのものを論材とする場所ではありませんけれど、併せて留意を求めておきたいと念います。迂生も先の行文中、「分類的整序において機縁となる過程は比量的であっても、基準となる徴表の設定そのことは洞見的(einsichtlich)であり、そのかぎりで、いわゆる「抽象」は論理必然的ではない」旨を申しおきました。」と書き置き、次の節につなげる文を書いています。「今や、この論点とも絡めながら、“原始函数的”な原基の措定とそれの充当的展開という方法を直接的な主題とし、函数充当型の体系構成法を対自化したいと思います。」162-3P
三 「原始函数」整型の洞見性と相対性
第一段落――上向的展開の原基となる“原始函数”を整序する手続 183-5P
「上向的展開の原基となる“原始函数”を整序する手続は、マルクスに倣って言えば、研究の方法には属しますが、体系的叙述の方法の埒外にあります。ということは、しかし、“原始函数”は得手勝手な方法で設定してもよいということを意味するわけでは毛頭ありえません。それでは“原始函数”の整序はどうのようにしておこなわれるのでしょうか?」183Pとこの項の問題設定として問います。「学理的体系においては、それが対象界を方法論的に“再構成”してみせる配備になっている以上、一定の整序体系が予想されます。このことは分野ごとにも言えますので、そのかぎりでは領域的な整序体系が岐れ、それに応じて領域的アルケーが設定される所以ともなります。そして、諸学のアクチュアルな現場では、整序体系のありかたが全く一様というわけではありません。基幹的には一様であるにしても諸学に応じた具象的な方法論が求められます。ここでは、しかし、敢て抽象的・一般的に構図を問題にすることで次善とせざるをえません。・・・・・・・。/偖、原理から出立する体系的論述にあっては、整序体系はあからさまに既在するわけでなく、――即自的に、ないし、フェア・ウンスに、可能的に既在するにすぎず、――原理そのものの展開によって整序体系がいわば産出されるかたちになります。マルクス式にいえば、具体的なものが現実的・歴史的に産出されるわけではないが、「精神的に具体的なものとして」「再生産」されるかたちをとります。しかし、このことが可能なのは、「われわれ」ないし「著者」が既に当の整序体系を知っていることに負うてであり、「著者」においては、原理の設定は体系の整序と相補的です。そして「原理」は体系的内容に対して抽象的普遍的でしかも単純であることを理想とします。」183-4Pと展開し、さらに「“原始函数”の設定は、しかし、決して単に既成の分類体系、既成の整序体系を極限にまで伸長するだけで済みません。既成の分類的整序体系では、実体主義的発想に禍されて、しばしば捨象的省略に終り、函数的補完性が逸せられておりますし、項の対他的反照規定を悟性的に看過して、函数的に繰り込んでおりません。前便で見ましたヘーゲルの謂う「照映」や「反照」、これを概念的に把え込むためには、実体主義的区画を卻けて、よほど慎重に函数化しなければならないことはあらためて絮言を要しないと思います。」184Pと押さえて、この項の最終的論述に入ります。「こうして、既成の分類的整序体系(これには当然「命題」次元での分類的整序も含みます)を手掛りにしつつも、洞見的に“函数”の型を仮設するにさいしては、各分肢とその関係態の把え返しが要件になります。“原始函数”の措定はその極北に位するわけですが、しかし、いかなる体系的原理といえども歴史的・社会的・文化的な相対性を免れえませんし、マルクスが対自的に執っております通り、実際的問題としては、先行する理論体系の諸原理を措定し返すという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ることができないというのが冷徹な現実であることを否めません。パラダイム転換と謂い、飛躍と言っても、そのゲシュタルト・チェンジは、事実過程の次元でいえば、――ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、ニュートン力学と相対性理論のなどの例を想起するまでもなく――先行理論との共有面が大きいのが通則です。但し、事実的におけるその“小さな”変更が、時としてゲシュタルト全体を一変させるわけで、学説史的評価の次元でいえば、先行する理論的原理の部分的変換による再措定が新地平の開示と相即することもありうる所以です。マルクスが「上向」の起点の設定にさいして、先行理論の達成との関係を述べている論趣は、当世風にいえば、右のような含意になっているように思います。マルクスの場合、しかも、「上向」の起点の設定、つまり、「下向」の過程そのものは学の方法に属さない旨の対自的表明にさいして、プラトン・アリストテレス・ヘーゲルの端初論を念頭におき、上向の起点はたかだかエンドクサの域を幾何も出ることができないという歴史的・社会的・文化的な相対性を含意しているように見受けられます。学理的展開の原基たる「抽象的・普遍的」な「単純態」を“原始函数”のかたちで下向的に措定するにあたり、これらの点ではマルクスの顰(ひそ)みに倣うべきだと考えます。」184-5P
第二段落――構図的・一般的次元でのスケッチ
まずは反芻的おさらいと次章以降の課題の提起「“原始函数”の整序は、いかに周到におこなわれるべきだとしても、所詮は論理必然的な定位ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定位された“原始函数”から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。/これはわれわれの弁証法的展開の論理にもほかなりませんし、そこでは「当事主体」と「われわれ」、それに「著者」と「読者」といった契機も絡めた対話的構制が問題になり、遡っては、そもそも論理とはなんぞやということの省察から必要になります。という次第で、この課題については次箋以下に亘(わた)って順次に応えていくほかはありませんけれど、ここではとりあえず構図的・一般的な次元についてのみ一端を申し述べ、後便への前廷をしつらえておきたいと念います。」185-6Pとして、この節の内容に踏み込んでいきます。「本箋では、これまで対象的分類や概念的秩序の次元に即して議論を進めてきました関係で、命題の次元、つまり、「主語−述語」成体の場合は括弧に収めたままになっております。しかし、学理的体系とはそもそも「命題」体系にほかならず、学理的展開とは賓述的進展にほかなりません。それゆえ、何は措いてもまず、ここでは「主語−述語」構造というよりも「主語」と「述語」との関係について考え、函数充当型の展開における「主−述」関係の存立構造を問題視にする必要がある次第なのですが、とりあえず、あの「分類」型と相即する議論から始めるとしましょう」186Pとして「哲学的には「主語」とは何か、「述語」とは何かということからして大問題ですが、これは暫くブラック・ボックスにして、両者の関係についての伝統的・常識的な思念をあらかじめ省みておきます。/命題ないし判断における「主語−述語」関係について、伝統的な考え方はさしあたり二つの形に岐れます。「犬ハ動物である」という命題を例にとって申しますと、(イ)主語で表わされる「犬」という種が述語で表わされる「動物」という類に下属するという関係を述定するという考え方、(ロ)主語で表わされる「犬」という実体が述語で表わされる「動物」という性質を帯有するという関係を述定するという考え方、さしあたり、この二つに岐れると申せます。」186-7P
ここから(イ) (ロ)二つに関する展開です。「一者(イ)は「類−種−個」(「普遍−特殊−個体」)というヒエラルヒーにおいて、より下位のものを主語、より上位のものを述語としつつ、下位のものが上位のものに包摂される関係に則ります。ここで「外延」(つまり、或る概念で呼称される諸対象、それの範囲)というテクニカルタームを用いて言えば、主語概念の外延が述語概念の外延に包含されることの表明です。これは、また、主語で表わされる「集合」(の元)が述語で表わされる「集合」(の元)に含まれることの表明、と言い換えることもできます。が、要するに「普遍−特殊−個体」(「類−種−個」)という分類的整序体系において、下位に立つものを主語、上位に立つものを述語にしつつ、前者が後者に下属することの認定が事の眼目になります。/他者(ロ)は「実体」と「性質」との関係に着目するものですが、もう少し分析していえば、主語で表わされる実体のもつ性質のうち述語で表わされる性質があることの表明になります。ここでは、主語で表わされる実体のもつ性質を謂わば成素的に分出して、それを明示的に表明するという構造が見出せます。ないしはまた、述語で表わされる成素的性質を主語(たる実体にそなわっている諸性質)に合成する構造を呈します。ここでは、いずれにせよ、性質群に関する成素複合型の分類的秩序体系が構図を画するわけです。そのことに負うて、「内包」(つまり、或る概念の内容的規定性)に即していえば、概念の内包に述語概念の内包が含まれていることの表明になります。」187Pと押さえたところで、(イ)と(ロ)の関係を押さえる作業に踏み入ります。「こうして、(イ)ではさしあたり、実体面に注目しつつ成素とその集合体の包摂関係、(ロ)ではつまるところ、性質に注目しつつ成素とその複合体との包摂関係を認定するかたちになるわけですが、両者は結局のところ重なり合います。」187-8Pということで、名詞の形容詞化、形容詞の名詞化の例を示して「(イ)の「外延主義」と(ロ)の「内包主義」との区別は、決して相容れないものではありません。」188Pとし、この便のまとめの作業に入ります。「(イ)「類種的分類体系」と(ロ)「成素的分類体系」とが、根底的な論理構制においては――「性質」(形相)に関する「成素複合的整序体系」という同一の構制に――帰一することを指摘し、「成素複合型」として一括した経緯(173P)を茲であらためて想起して下さると念います。とすれば、併せてもう一つの「有機醸成型」をも連想して頂けると思うのですが、ここでの「主語−述語」関係は前便で申し述べましたように、それがヘーゲル的な形態をとるさいには、原基たる主語=実体=主体が、原始分割的に自己を分化・定立するという相をとります。」188Pと押さえ、次の便・章につなげる話をしています。「因みに、実体主義的発想のもとに「実体−性質」の関係(ないしは「実体」どうし、「性質」どうしの関係)で「主語−述語」関係を論ずるのとは異なり、関係主義的発想のもとに把え返して論ずる作業は相当に厄介です。このことは「函数」においては「主語」と「述語」とがどう定位・表現されるのか、――記号論理学者流の安直な議論に追随するのであればともかく――この一事を想っただけでも御諒解いただけるのではないでしょうか。今や、「主語」および「述語」というブラック・ボックスの内部に立ち入って再検討を要する次序なのです。」188-9P
2024年04月16日
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(2)
たわしの読書メモ・・ブログ655[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(2)
第三信「上昇的展開」と四肢構造
(この章の問題設定)「ヘーゲル弁証法の構制を第三者的に突き放して見さだめ、マルクス弁証法との異同を見較べるという手続きもさることながら、われわれなりの体系構成法を画定することを主眼と」69Pするけれど、「学史上の系譜的な位置をあきらかにするためには、若干の祖述」69Pが必要になるので、押さえの作業をするとしています。そして、「ヘーゲルにおける上昇的展開、つまり、「意識の経験の学」の展開を可能にならしめている「意識」の構造について、その特質を第三者的に見定め、後論への予備的作業を兼ねてマルクスの場合をそれと対照しておき、次いでわれわれの採るべき構図を対自化する」70Pとしています。この章からヘーゲル批判が本格化し、マルクス−著者との対話も出てきます。
一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
第一段落――ヘーゲルの「意識」概念の概略 70-5P
「ヘーゲルの「意識」概念について主題的な討究を試みるつもりはありませんが、特質の一端を指摘し、それとの関連でマルクスにも論及しておき、拙著『資本論の哲学』(現代評論社刊)での論件との呼応を図ります。」70Pとし、
「「意識」という概念は・・・・・・大雑把な議論としては、三つのタイプに分けて整理できる」70Pとし、
「第一には、意識を以って一種の「機能」と見做すもの、第二には「状態」と観ずるもの、第三には「関係」と規定するもの」70Pとしています。そして断り書きとして
「伝統的には、霊魂という実体が想定されて」70Pいたので、
「その場面では、「機能」「状態」「関係」と申しても、実体的霊魂の発揮する“作用的機能”、実体的霊魂に内属する“属性的機能”、霊魂と外物との“相作的関係”といった相で表象されていました。しかし、近代以降になりますと、実体的霊魂が括弧に入れられたり、場合によっては積極的に否認されたりしますので、「意識」というものについての了解も変貌します。」70-1Pとしています。
そして、ヘーゲルは「「道具」説や「媒体」説の排却と相即的に、いわゆる「意識内容」というかたちでの中間項の存在を否認します。近代における意識論では普通、<対象自体−意識内容−意識作用>という三項図式を構図上の前提としますが、ヘーゲルは基本的にいって、「意識内容」という中項の存立性を否認する構図を立てて」71Pいるとし、そこでの動揺の指摘をした上で、
「が、しかし、基幹的にいえば、彼は、対象的所知と作用的能知のとの二項的関係で発想しております。ですから、彼の場合は、純然たる作用的意識を以って意識なりとする作用的機能説も、また「意識内容−意識作用」の部面を截り出して意識を定位する表象的状態説も採るわけ」71Pにはいかないとして、「意識論としては、ヘーゲルはさしあたり、一種の「関係」説の構図を採っております。」71Pとしています。
ここでヘーゲルからの引用として「意識は或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。」72Pの文を出し、「そして、このような構造的関係態である意識の吟味の途行きとしての「上昇」的展開、「意識の経験」を追跡的に観望するという建前をとっております。彼の「意識」概念の構図、これが彼の弁証法の展開の在り方を直截に規制することは更めて申し添えるまでもありません。」72Pとして、
「もう少し彼の「関係」説の構図を検討」72Pすると展開していきます。「ヘーゲルは、慥かに、一応は「関係」説を立ててはおりますが、しかし、それがどこまで関係主義に徹したものであるかは直ちに疑われ得ます。「意識は或るものを自分から区別する」という命題は一種の実体主義的な了解を背後に持ってはいないでしょうか? 根源的な存在者、おそらくは精神的な存在者が、自己を二分化(entzweien)しつつ、その区別された対項と関係する。この唯心論的な理説においては、対項はいかに「即自存在」=自体的存在と称されようとも、実質的には意識内容にすぎないのではないか。このような疑問が早速に生じ得ます。このかぎりでは、たとえ、「関係」説の構図とはいっても、状態説と大同小異であり、また、作用関係説といっても所詮は精神的な“自己”内関係にすぎないことになります。ヘーゲルが結局は観念論者であり、また、主体=実体というかたちで実体主義を残しているかぎりでは、右の疑義が窮局的には提出されざるを得ません。とは申せ、彼は自我が非我的対象を産出的に構制するような持論を避け、さしあたっては所知的対象の即自性を認め、これとの関係としての意識という提題を打ち出しつつ、この関係構造に即して自然的意識から絶対的意識への上昇的自己陶冶を説いているのですから、最終的な論判で済まして了うのではなく、少なくとも一旦は積極面を配視しておくのが順当というものでしょう。彼は、まさに関係説の構図に拠ることによって、往時の有力な理説、すなわち、一方における対象産出的な作用説、および、他方における潜勢発動的な状態説、これら両途に対して新しい第三の途を進むことができた所以でもあります。」72-3P
この「最終的な論判で済まして了うのではなく」ということが、そもそもここまでのヘーゲル弁証法との対話の著者の姿勢を現しています。ヘーゲルの途行きのとらえ返しです。
ここで、「ところで、二項的「関係」性の構図を採るとき、意識の志向性(Intentionalität)という問題や、いわゆる「知的直観」の問題と、どう絡んで来るでしょうか?」73Pと問いを立てます。
そして、「まず、謂うところの関係が外的な関係ではないこと、関係態としての意識の両契機に対して規定的な関係であること、この点を銘記しておかねばなりません。両項が自己完結的に自存していて、外的に関係づけられるのであれば、一項が他項を“在りのまま”に観取するといった“如実の直観知”が或いは可能かもしれません。がしかし、ヘーゲルの場合、当の関係が規定的ですから、一項がいかに即自的存在であるといっても、それは「意識にとっての即自存在」であり、対象は<この即自存在の意識−に対する− 存在>でしかありえない以上、「知的直観」を唱える論者の流儀には参りません。最終的な真理に到達するためには、媒介知の過程的行程が不可欠になる所以です。」73Pとして、また「意識の志向性という問題については、ヘーゲルの精神現象学と、フッサール学派の現象学との関係という問題にも通じ、それがまたマルクス主義の場合とも関係して参りますので、ここで多少とも言葉を費やしておきましょう。」73Pとして「志向性」という概念は、元々スコラ哲学から発し、ブレンターノやフッサールが論じていったことを押さえ、
「われわれ東洋の文化圏に育った者は、意識というとき、何は措いてもまず、「或るものについての意識」という相で考えますが、従って、ヨーロッパの学者たちが意識というときはまず作用的な自己意識を考えるらしいことを奇異に感じますが、ヨーロッパにおいても、近代以前にはやはり、われわれの日常的な意識観と同趣だった様子です。つまり、意識とは第一次的には、「或るものについての意識」(対象意識)であり、第二次的に「意識していることについての意識」(自己意識)であると了解され、前者の契機が「第一志向」(intentio prima)、後者の契機が「第二志向」(intentio secunda)と呼ばれた由です。」73-4Pとして、「フッサール流のデカルト解釈は棚上げにして申しますかぎり、デカルトこのかたの近代哲学では、意識を主として「第二志向」に即して考えるようになったこと、すなわち、スコラ流の第一と第二の重点を謂わば逆転させるかたちになったこと」74Pを示し、論点をヘーゲルに戻します。
「ヘーゲルの場合、彼が意識内容という中項を卻けて、即自的な対象との直接的な関わりに定位する点で、彼の第一志向は直截だと申せましょう。しかし、彼の場合、先験的な統覚(transzendentale Apperzeption)というかたちで第二志向を重視したカントなどとは異なって、第二志向=自己意識は余り強調されません。・・・・・・勿論、ヘーゲルは第二志向という契機を無視しているわけでなく、・・・・・・即自的意識と区別される対自的意識がそのまま第二志向と重なるということもありません。彼の場合、誤解を惧れずに敢ていえば、第一志向こそが基幹であって、第二志向は謂うなれば様態的な規定になっていると申すこともできましょう。この点ではフェノメノロジカル(現象学的)というより、フェノメナリスティック(現象的)です。」74-5P
そして、「このようなフェノメナリスティックな場において、意識というものを対象的所知との直接的な志向的関係、かの二項的関係性において把えていること、・・・・・・この点においてヘーゲルの意識概念は「志向説」の構図に近いと思います。」75Pとまとめます。このあたり、先走れば、フッサールの間主観性−共同主観性の概念とカントの先験性論を共同主観性概念で読みかえるところから、ヘーゲルの不備を唯物史観的に転換させていく中での、マルクス−廣松的なところへ到り着くことを予期させているのですが。
第二段落――マルクス・エンゲルスの意識概念 75-8P
「マルクス・エンゲルスの意識概念は、ヘーゲルにおける「関係」説の構図を徹底し、しかも、間主観性の契機をより直截に組み込んだかたちになっていると申せます。」75Pとして、ヘーゲルを承けたキュルケゴールやフォイエルバッハなどを押さえつつ、「マルクス・エンゲルスは、主題的な意識論こそ書き遺しておりませんが、『ドイツ・イデオロギー』のなかで、基本的な構案は提示しております。」76Pとして、その文を引用します。「環境に関わる私の関係(mein Verhältnis)が私の意識である。或る関係が実存するところ、それは対私的(für mich)に実存する。動物は、<対自的には>何ものとも“関係”しない。動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係としては実存しない。」76Pそして著者自身のコメントをつなげます。「マルクス・エンゲルスは、「意識」というものを、まずは「関係」として押さえます。但し、関係というとき、第三志向的な見地から関係づけるだけのケースがありますけれど、彼等は「動物は何ものとも“関係”しない」という言い方で、単なる即自的な関係は謂う所の「関係」から除外しており、この意味で、対自的(für sich)な関係に限定します。「意識は、当初的には、外部の人物や事物との聯関の意識である」。――彼等は、このような「関係」説の構図で意識を規定し、意識を以って、当の関係の対自態と了解するところから、かの有名な「意識das Bewußtseinとは意識された存在das bewußte Seinにほかならない。そして、人間存在とは彼らの現実的な生活過程の謂いである」という命題を立てます。・・・・・・尤もdas Bewußtsein・das bewußte Seinという提題そのものはフォイエルバッハのものとも言えます。眼目はあくまでも意識というものを、普通の唯物論者の場合とは違って、「脳髄的機能」とか「心理的状態」とかとてではなく、「関係」として規定している事です。」76-7Pさらに「マルクス・エンゲルスも、勿論、或る文脈では、脳髄的機能とか心理的状態とかいう規定態を容認します。がしかし、意識存在論の原理的・根底的な場面では、まずは、環境的与件との「関係」性に即して規定する次第なのです。しかも、そのさい、意識の本源的な間(「かん」のルビ)主観性を押さえています。『ドイツ・イデオロギー』では「意識の現実態は言語である」という有名な命題が打ち出されていることを御記憶かと思いますが、今問題にしている論脈では、先に引用した環境との関係云々の直前の個所で」77Pのマルクス・エンゲルスの文「言語の成立した時点、それがとりもなおさず意識の成立した時点であって、言語は、実践的な、他の人間にとって(für andere Menschen対他的に)実存するが故にまた私自身にとって(für mich selbst 対自的に)もはじめて実存する現実的な意識である」77Pという文を引用し、著者自らが、更なる引用文を含んで、コメントしていきます。「このことから、また、「意識は、かくして、本源的に、一つの社会的な生産物であり、いやしくも人間が実存するかぎり、そうでありつづける」という意識の本源的な社会性という命題が導かれます。」77Pここから、これからのことにつなげるまとめ的な文に入り「マルクス・エンゲルスの意識規定については、彼等の弁証法的な展開の論理とも絡めて検討を要する論件がありますし、『資本論』や『自然弁証法』における「意識」への関説などをも射程に収め、更にはイデオロギー論との関連性をも念頭において第一志向・第二志向の去就を追跡するといった課題が控えております。/此処では、しかし、とりあえず、以上、ヘーゲルにおける「関係」説の構図が、マルクス・エンゲルスにおいては徹底化されていること、しかも、意識の本源的な間主観性が原基的関係性の構図に組み込まれていること・・・・・・まずはこの規定的な構図を確認した」77-8Pとして、ヘーゲルに戻って次節へ話をつなげます。
二 『精神現象学』本論の構制上の実態
序説的段落――「感性的確知」の機制 79-80P
(この節の問題設定)「ヘーゲルが「意識の経験の学」というかたちで、下降的な体系に先立てた「上昇的展開」の機制が、彼の意識概念によって如何に支えられているか、また、それが彼の意識概念によって如何に制約され、総じて彼の弁証法体系構成法を何所(「どこ」のルビ)で失敗に終わらせているか、これを見定める一助として、ひとまず『精神現象学』における本論の最初の部分、つまり、あの有名な「感性的確知」論の機制を一瞥してみたい」78P、「もっぱら論理的機制に直目」78Pして、とこの節の問題設定をしています。
「ヘーゲルは「経験」する「自然的意識」の最もプリミティヴな形態から上昇的に展開する次第ですが、「上昇の途における端初」に位する直接的な意識の在り方、それが「感性的確知」(die sinnliche Gewißheit)であり、これはあれこれの個別的な感性的対象の受納的な感知こそが最も具体的で最も真実な認識であると確信しているような意識態にほかなりません。/この意識態においては、個別的な「このもの」(das Diese)、つまり、「いま・ここに在るもの」、ないし、それの確知こそが真実であると確信されておりますが、ヘーゲルとしては、当事意識の私念とは逆に、そこでは「普遍的なもの」こそがじつは真実態とされていることを指摘してみせるわけでして、この逆転劇を三つの側面ないし階梯に分けて彼は論決します。」79Pそこで、この「三つの」のことを段落をわけて、各項として論じていきます。実はここで一つ目の階梯に入るところでは改行していないのですが、改行したこととして項的に立てていきます。
第一段落――「対象の側に定位しての検討」 79-80P
「この階梯では、対象は知られると知られざるとにかかわりなく、自体的に存在するものと私念されており、このかぎりでは、対象のほうが本質的、知の方が非本質的と了解されております。そこでは、直接的な当事意識が「単純な無媒介的に存在する」対象として確信している「このもの」とは何であるか? これを確定すべく、ヘーゲルは「いま」と「ここ」に即して分析します。」79Pとして、具体的に「いま」のヘーゲルの分析に入り、「この持続するいまは無媒介的ないまではなく、媒介されたいまである」79Pと規定し、「このような単純なもの、つまり、このものでもかのものでもないという否定によって存在するところのもの、このものに非ざるもの、それでいて、一様に、このものでもかのものでもあるところの単純なもの、われわれはこれを普遍的なものと呼ぶ。という次第で、普遍的なものこそが実際には感性的確知の真理なのである」79-80Pというヘーゲルの引用から、「尤も、この逆転劇は、さしあたりわれわれ第三者の見地から言えることなのであって、当事意識が自覚することではありません。当事意識としては、まだ、その都度の“個別的”な対象的感知を次々に確言するだけです。」80Pとしています。そこから「しかるに、言語は私念よりもより真実なもののわけで、人々は言語的に言表することにおいて、自ら、直接的に自分たちの私念を論駁する」80Pとヘーゲルを引用し、「総じて対象の側に即するとき、感性的確知の私念は逆倒している、と言わざるをえませんけれど、当事意識が自分の確信を維持するとすれば、当初における了解を部分的に修正するかたちで、対象の個別的自存性という私念から転じて、「対象は自我[私]が知るから存在するのだ」と考えることになりましょう。」80Pと、この項を結び、次項につなげます。
第二段落――「主観の側に即した分析」 80-1P
「爰でも、論理の構制は対象の場合と同じです。」80-1Pとし、「樹」「家」という具体例で吟味しつつ、これらは「無媒介的な直接態ではありません。成る程、各自が「個別的なこの私」を思念しているかもしれませんけど、言語で言表するかぎり、やはり、「すべての私」になり了ります。それは、つまり「この個別的な私」という普遍者、特定の誰彼ではなく、しかも、どこの誰ででもありうる普遍者を意味します。――感性的確知は、自我の側が個別者であり、この個別者の個別的な知なるが故に個別的な感知が真実である旨を主張するわけにはいかない所以です。」81Pと結んでいます。そこで、「対象の側」と「主観の側」とで、「個別」と「普遍」という四肢構造的な様相が現れています。そこで、次節の冒頭に繋がります。
第三段落――「対象の側でも主観の側でもなく、主客関係の「一全体」を以って「感性的確知」の本質とみなし、この個別性の「直接態」に固執しようとするありうべき第三の構えの検討」
「「この純粋な直接態は」、此のものが他のものへ移行する「他在」にも、自分と並び立つ「他の自我」にも最早かかずり合わない。「この直接態の真理は、自同的な関係として持続するのであって、当該の関係は自我と対象とのあいだに本質性と非本質性の区別を設けないし、従ってまた、そこには何らの区別も侵入することができない。……自我[私]は純粋な直視であり、……一つの直接的な関係に固執している」」81Pとヘーゲルを引用し、更に、「この相での確知は、みずから言語的に言表するということもしません。そういう個別的な一つの関係態である「この確知は、夜であるところのいま、や、夜が彼に対してあるところの私に注意を向けさせようとしても、自分の殻から出て来ようとはしませんので、『我々』観望者のほうでそれ[確知]に歩み寄って、それの主張するいまを指示(zeigen)するように仕向けてみましょう」。ということは、実質的には「われわれ」が「当事意識」に成り変わって対象的いまを指示することに帰一します。」82Pまたヘーゲルを引用して「指摘そのことが運動なのであり、いまとはそのじつ成果であり、今の集合された一つの数多性であること、そのことを言表します。指摘とは、いまが普遍的なものであるという経験にほかなりません」82Pとして「いま」「ここ」が同趣的に「「指摘される固執されるここと(いまと)は、多数の此処(今)の単純な複合」「此処(今)の単純な数多性」であることが論決されます。」82Pとして「一般論として「このもの」の指示が明らかにする実態は、「多くのこれの合在、つまり普遍的なもの」であって、「私はそれをそれが真実態においてあるがままの受け取る」ようになります。つまり「直接的なものを知る代りに、知覚する(Wahr-nehmen=真を受け取る=真理を把捉する)ことになります。」――という次第で、ヘーゲルは次のステップである「知覚」論に進みます。」82-3Pしかし、「私どもとしては」「ヘーゲル弁証法の上昇的展開の論理構制の孕む限界と難点を指摘しておくことが当座の作業課題です。」83Pとして次の節へ移行します。
三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
この節は段落で項的なことを書いているのと同時に、その中でヘーゲルの四肢構造論的展開の押さえを通し番号で7つ錯分子的に織り込んでいます。その7つは、「第一に」「第二に」「第三に」・・・となっているのですが、項的な番号と紛らわしいので@AB・・・としておきます。
(この節の問題設定)序説――ヘーゲルの四肢構造論への廣松四肢構造論からの批判・対話
「ヘーゲルの「意識の経験の学」は、或る意味では、“四肢的構造”に定位して展開されていると言うことが一応は可能です。ところで迂生もかねがね「意識の四肢構造的存立構造」を云々しておりますので、学兄ならずとも、迂生がヘーゲルの“四肢性”をどう評価しているか、ひいてはまた、継承の関係について問い質されるかもしれません。/世上には、迂生の云為する四肢構造論は、ヘーゲルのヴァリアントにすぎないとか、マルクスの「価値形態論」の構図を一般化したものにすぎないとか、そのような受け取りかたをするむきがあることは先刻承知しております。」83Pとし、ここではマルクスとの関係までは展開しないとして、ヘーゲルの上昇的展開の論理構制を見据えるという設定に沿った論攷を進めるとしています。
第一段落――ヘーゲルにおける上昇的展開の論理構制 84-5P
@ 対象的所知の側の二肢的二重性について
「ヘーゲルは「感性的確知」論という原初的な場面において、対象的所知を「このもの」という個別性の相で呈示しつつ、それが実際は「普遍的なもの」であることを指摘してみせます。このかぎりでは、対象的所知が二重の相で把えられていると言えます。だが、果たして、当事意識は個別的なこのものと単なるそれ以上の普遍的なものとして、このものを謂うなれば個別性と普遍性との矛盾的な統一体として、二肢的二重性の相で対自的に意識しているのでしょうか? 当事意識は対象をば個別的なものとして感知し、「我々」観望者はそれが実は「普遍的なもの」であると認定する――“同じ”対象が、一者にとっては個別的なものと私念され、他者にとっては普遍者と認識される――という具合に、両規定の各々が当事意識と我々とに振り分けられてはいないでしょうか? この点はじつに微妙です。・・・・・・少なくとも第一階梯の内部では、当初の私念における個別的なものが単なる個別ではなく同時にじつは普遍的なものであるという対自化、そのような意識的進展はみられません。第一階梯の内部では、当事意識にとって(für es)とわれわれ哲学的観望者にとって(für uns)とが分裂したままであり、どちらの意識にとっても対自的には二肢的二重性は存立しておりません。拙速を憚らずに言えば、前便でみた「緒論」では、ヘーゲルは「意識にとっての即自存在」と「この即自存在の意識に−対する−存在」との二肢的二重性を押さえており、この両契機の不一致を転機とする進展の構制を予示しておりましたが、第一階梯ではこの自己吟味の構制は生かされていないように見受けられます。」84-5Pと展開しています。以前書いたわたしの取り違えの元になりますが、ヘーゲル的観望は、二重の導き手的存在を措くことになるから、哲学的観望にはなりえない。「観望」の違いに留目すること。
A 能知的主観の側の二肢性について
「感性的確知論においては、能知的主観が、個別的な私という相で登場し、それがわれわれの見地からみれば普遍的な私、謂うなれば諸々の私が代入されうる一種の函数ƒ(χ)的な普遍者であることの指摘はおこなわれます。が、少なくとも第二階梯の内部では、私念されている個別者としての私が単なる個別者以上のものであること、私は同時に普遍者でもあるごとき個別者として“二肢的な自己矛盾的な二重性の統一者”であること、このことは対自化されません。要言すれば、フェア・エスなる個別者とフェア・ウンスな普遍者との分立相、この意味での二重規定はみられますが、そして、この二重性がやがては統一される筈なのですが、しかし、感性的確知の次元では当事意識の二肢的二重性は対自化されることなく、次のステップへと進行してしまいます。総じて、能知的主観に関する第二階梯でのヘーゲルの立論は、対象的所知に関する第一階梯での立場とパラレルですから、対象の側に即して上述したところがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する筈です。」85P
第二段落――ヘーゲルは四肢構造が押さえられていないこと、弁証法の配備の不備 85-9P
「ヘーゲルの場合、所知の側についても能知の側についても、一応は二重的規定性がみられ、そこに俟って、甫めて彼の展望が可能になっていることは確かなのですが、しかし、対自的な二肢的二重性、両契機合わせて都合「四肢的な構造」ということは彼の「意識」の原基的な構造としては押さえられておりません。二肢それぞれの存在性格の討究といった次元に立ち入れば、卑見との相違が愈々大きくなりますが、さしあたり構造上の形式面だけから申しても、ヘーゲルは四肢的構造を真には把えていないと評さざるをえない所以です。」と押さえて、「爰で、第三の階梯に即した議論に進む前に、敢て銘記しておきたい」85-6Pとして3つの提起をします。なお、これは、この節の冒頭に書いたように、ヘーゲルの不備の指摘として通し番号にしています。
B 前記の二項に併せて、意識の基礎的な構造の把え方に関わる論点として、当事意識の本源的な間主観性が逸せられていること
「この件については、「相互承認」ということが問題になる「自己意識論」以降の問題だと言われかねませんが、自己意識論においても「自我」(他人)が対象として登場するだけであって、真の間主観性にはなっておりません。或る意味ではヘーゲルが間主観性を説こうと腐心しておりながら、ついに成功しなかった理由の根本は、意識の本源的な構造の場面で間主観性を逸したことにあると言うこともできます。勿論ヘーゲルが自己意識以降の個所で間主観性の問題を扱っている事実に鑑みれば、ここで云々するのは拙速というものですけど、当座の文脈では、此の私は「これは樹である」と言い、他の私は「これは家である」という「臆言」合戦の相以上では自他の関係が勘案されていないこと、しかも両者の間には「対話」が成立していないこと、この点を看過できません。感性的確知の私念が両つの「私」の対話を通じて変化していくわけではありません。成程、ヘーゲルは、両者の臆言合戦によって「一方の真理は他方の真理のうちで消失する」旨を述べてはおります。が、しかし、直ちに「このさい消失しないのは、普遍的なものとしての私であり」云々という議論で承けていることからも判りますように、私念の内容が対話を通じて止揚されるという機制になっておりません。」86-7P
C そのうえ、当事主体われわれのあいだにも対話が成立するわけではないこと
「対話的構造は、当事主体とわれわれのあいだにすら存立しません。このことは「緒論」で、当事意識の自己吟味が云々され、「われわれ」哲学的観望者は静観するだけだと、言明されていた機制からいって、当然といえば当然のことですけれども、対話なき弁証法というこの“特徴的事実”は銘記に値する筈です。実際問題としては、勿論、ヘーゲルは建前に反するかたちで、一種の対話的進行をおこなわせてはおります。しかしながら、感性的確知論の範囲でいうかぎり、当事意識は二肢的二重性を対自化しませんので内なる対話をおこなうわけでもなく、また他の自我とのあいだに対話をおこなうわけでもなく、「われわれ」とのあいだの対話をおこなうわけでもない。こういう意想外な機制になっていることを否めません。」87Pこの後に、「観望者」という概念がでてきます。この「観望者」はエンドクサを展開する「観望者」で、さらにwirという概念をヘーゲルは曖昧に使い、術語的にも使っている旨を書いています。また「ヘーゲル本人にとっては、esとwirとの呼応的機制ということが喧伝されているほどに重視されていなかった」88Pということを書いています。そもそもヘーゲルには哲学的観望者としての「われわれ」というものが、根源的に存立し得るかということがあります。絶対精神とエンドクサをもつ「われわれ」としか、存立し得ないのではないかと思ったりしています。このあたりは、ヘーゲルの読み直しが必要になります。
D 間主観性とも本質的に関係する否定ということの取扱いついて(の)問題(性)
「「否定」ということは、弁証法においては特に重要な概念」88Pと押さえたところで、「ヘーゲルにおいては、対象的規定における「相違」ということと「否定」ということとがしはしば重なってしまいます。彼はスピノザを踏んでomnis determination est(すべての規定は否定なり)と言うのですから、彼にとってはそれは当然かもしれませんけれども、これは戴けません。弁証法的否定は、対象変容的な否定であり、故にこそ「否定の否定」が元の木阿弥の単純な肯定に還らないわけでして、ここでは否定における作用ということが問題になる筈です。しかるにヘーゲルの場合、この点での構制がはっきりしておりません。同趣の問題が「肯定」の場合についても当然生じます。それでは一体「肯定」と「否定」はどのように定位されるのか? ここでは、「異・同」や「有・無」との関係に主題的には立ち入りませんが、卑見を結論的に申せば、肯定・否定ということは間主観的な場面で、謂わば“対話的”な構制の場において成立するものの筈です。(ところが、普通には、それが物象化されて、しばしば対象そのものの自存的な内的契機であるかのように見立てられており、このことから悲喜劇的な混乱が各方面でおこっている次第です)。二肢的二重性において指定される“対象”(これは二肢的二重性の構造において、謂わば“原始的判断”の構造成態)の自分への帰属性、対自己的帰属性と対他者的帰属性、この場面における同感と違和から肯・否が岐れるのではないでしょうか。そして、不協和を介しての対象的措定の変容、それがいわゆる弁証法的否定の対象変容的能作なのであって、否定作用といっても、何かしら物理作用に類するかたちで対象を変化させるわけではない道理です。・・・・・・真実には、一者が命題Aを主張し、他者が命題Bを主張するという対立、この相違・対立を両者が自覚するところから、相互に相手の主張の「否定」ということが生じるのではないでしょうか。そして、この相互的な否定の対自化および自己の主張の相対化という“対話”的構制において、「これ」なるものは、樹でも家でもなく且つ樹でもあるのだということ、この意味で謂わば函数的な普遍であるあることが“対話”的構制を通じて当事主体本人に対自化され、上昇的止揚が生じるというのが実態ではないでしょうか。しかるに、ヘーゲルは否定ということを初めから対象化してしまっており、このような対話的な対自的上昇の構制をとっていないことは上述の通りです。」88-9P
第三段落――言語による言表と直接的指示取扱いを巡る問題(第三階梯) 89-92P
(この項の問題設定)「ヘーゲルにおいては、「関係」態としての意識の対自的・対他的な間主観的帰属性の構制が原基的な構図として押さえられておらず、そのために上昇的展開が建前上は“対話的”な進展にはなりえない形に陥っていること」89-90Pこのことを念頭において次の検討に入るとしています。
E 言語による言表と直接的指示の取扱いを巡る問題
「ヘーゲルにあっては、「言語」というものが――これを以って「意識の現実態」とするマルクス・エンゲルスとはおよそ異なって――間主観的な対話的交流の脈絡を捨象されて、殆んどもっぱら主体−客体の関係の場で定位されます。勿論言語の間主観性を全く捨象してしまうことは不可能であり、ヘーゲルといえどもそのことを忘れているわけではありません。がしかし、いわゆる『イエナ実在哲学T』で言語の問題を扱った当初から、彼の場合、主・客を媒介する道具としての定位が強く、本源的な間主観的存立性が明示的でない憾みが遺ります。・・・・・・ヘーゲルとしては、「指示」機能と「言表」の機能を区別し、前者はむしろ言語以前的な機能と考えた様子ですから、外在的な批判をしても始まりません。それにしても、しかし、ヘーゲルは、今は夜である、今は昼である……といった一連の提題から、「今」の普遍性を立論するさいに、“今”という語で指示される対象とこの語の表わす意味とを混淆してはいないでしょうか。感性的確知が対象の個別性を私念しているのは、指示される対象的与件の在り方のはずです。ところが、ヘーゲルは、「今」という言葉の意味に話を摩り替えて、意味の普遍性を指摘することによって済ませております。・・・・・・第三階梯の「指示」ですけれど、この階梯では、対象の側でも、主観の側でもなく、主客関係の一全体の個別性という確知が検討される建前になっております。しかも、「われわれ」のほうが歩み寄って、当事意識と謂わば合一することにおいて、当の「直接態」を指示してみせるという触れ込みです。ところが、実際の認識内容は「いま」と「ここ」の指示にしかなっておりません。尤も、ヘーゲルとしては対象のいまやここでなく、主客関係態のいまやここを指示したつもりだとも考えられます。この点で、第一階梯とは違うつもりなのでしょう。その点は認めたとしても、しかし、彼が論定しているのは「いま」および「ここ」が「今の単純な数多性」「此処の単純な数多性」であること、このことであって、件の全一的直接態の検討は全然おこなわれておりません。主題が摩り替えられてしまっております。そのうえ、「今」は指摘したとたんに過去(今ならざるもの)に変じてしまうと言い、「この指摘においてわれわれが見るのは一つの運動である」と言うとき、この運動は弁証法的な措定を通じて生起するのではなく、謂わば外的な、つまり、時間というものが絶対的に流れることに負うかたちになっております。つまり、運動が外在的・既在的です。この自動的な遷移の在り方でも、第一階梯の議論の埓を出るものとは認められません。・・・此処についても同様に論じられるとして・・・「いま」というのが「一日」というような幅のある今であること、「われわれ」の見地からはそうであること、このことがともかくにも立論されており、「いま」の普遍性といっても、抽象的な普遍ではなく、「一即多」なる「一」として論決されていることは一応認めてよいでしょう。がしかし、これが果たして個別性と普遍性という矛盾の統一でしょうか? 知覚論への移行の文脈その他でヘーゲル自身が認める通り、それはさしあたり「多の合在Zusammen」にすぎず、二肢的二重性の統一とは呼べそうにありません。こうして、「指示」される個別性といっても、「瞬間」や「点」ではなく一定の拡がりがある「このもの」であること、そして「拡がり」があってもやはり「一つのこのもの」であると認められること、他方では、この「このもの」に関する「言表」は謂うなれば函数的普遍性の性格をもつこと、確保された論点は如上に帰趨します。そして、これら二つの契機は二肢的二重性の相で統一されることなく、「一即多」としての「一」のモメントに定位して「知覚」の次元へと進む次第です。」90-2P
第四段落――暫定的小括 92-5P
F 暫定的小括
「ヘーゲルの論述では、「われわれ」が謂わば当事意識に成り変わって「指示」を試みたかぎりで、「われわれ」にとっては「一即多」が明らかになったわけですが、このことを当事意識が対自的に「経験」する経緯は何ら示されておりません。・・・・・・一体、感性的確知の内部では、どのようにして上向的展開が進行したのか当事意識の「自己吟味」がどう進展したのか、悠々疑問が深まるばかりです。既に指摘しました通り、ヘーゲルは、対象の二肢的二重性を把えませんので、「結論」にいう「即自存在」と「これの意識に対する存在」との一致・不一致を対自的には吟味しません。ですから、この自己吟味による進展は「感性的確知論」の内部では存立しえない仕儀になり了ります。・・・・・・次にまた、能知的主観の二肢的二重性を対自的に把えませんので、「内なる対話」を通じての進展の途も保証されません。更にはまた、他者と自己とへの対象的措定の帰属性、対他的帰属と対自的帰属、遡っては、他者の存在ということ、これを原基的な構図に組み込んでありませんため、「対話」的構制での進展も、少なくとも感性的確知の場面では、成立しません。そのうえ、「当事意識」と「われわれ」とのあいだにも対話は成立せず、一者の「経験」と他者の「観望」があるのみです。このように省みてみますと、「感性的確知論」の内部では、およそ上昇的進行が生ずべくもないはずなのです。」92-3P
「こうして理屈の上では、上昇的展開が進行すべくもない筈のところ、何とか“進展”するのは一体なぜどうしてなのか? その“秘密”を考えてみましょう。迂生自身としては、四肢的構造に定位しつつ、まさに対自と対他との対話的構制(このさい「われわれ」が対話の一方の当事者になる場合も含めます)を軸にして、弁証法的自己吟味の論理的展開を定式化したいのですが、――また、この視角からマルクスの弁証法を問題にする次第なのですが――、ヘーゲルの論理構制は、嚮に見ました通り、そうなってはおりません。とは申せ、擬似的な四肢性に定位することによって、あたかも対話的進展であるかのように読者をして思わしめる仕掛けになっており、そのゆえに、かにかくにもヘーゲル一流の“弁証法的展開”が進行する所以となります。この間の事情について稍々敷衍しておきましょう。」94Pとして「ヘーゲルの立論を「読む」者は、或る時には当事主体の立場に身を置き、或る時には著者たるヘーゲルの立場(我々ということで読者も著者たるヘーゲルに捲き添えにされる)に身を置きます。ヘーゲル自身は、建前上は観望するだけで、当事主体と対話しませんし、「我々」哲学的観望者も、当事主体と別の見方をすることはあっても、それを積極的に押しつけることはしません。だがしかし、「読者」は当事主体の立場と著者(ないし「われわれ」)の立場と両々扮技することにおいて、自分の内で“対話”します。というより、自分の内で、当事意識と「我々」とを対話させます。・・・・・・読者は、この内なる弁証法的対話を通じて、自から“向上”します。・・・・・・“内なる対話”が読者の“内”で進行する・・・・・・「読者」の“内なる対話”においては、対象的二契機と能知的二契機とが、読者の内的営為において四肢的な構造連関におかれるわけです。こうして、読者は、自分の内部で四肢的構造の論理構制を“自演”させられ、この自演的向上を「当事意識」の向上的展開と見做してしまう次第です。」94-5P
「爰では、ヘーゲルの「狡智」を難じようというのではありません。「読者」の内的過程としては、慥かに四肢的構造に定礎した弁証法的進行が実現するということ、こういう仕組みになっているかぎりで、ヘーゲルの上昇的展開法は――彼が論述するかぎりでの論理構造に即すれば必ずしも弁証法的進展が保証されない形になっているにもかかわらず、――弁証法的上昇の論理として実効性をもつことを追認できます。ヘーゲルにおける「上昇的展開」の論理構制のこの“秘密”を察知したからには、われわれとしてはあらためて「著者」と「読者」という契機を自覚的に組み込んで体系構成法を構築してしかるべき筈です。」95P
第五段落――まとめ 96P
「さしあたり、「感性的確知」論の内実という論材にしぼってでありますが、ヘーゲルの上昇的展開の実際が必ずしも「緒論」での定式の形通りにはなっていないこと、四肢的構造も擬似的であること、突き放した言い方をすれば、ヘーゲルの表層的論理では弁証法的進行は生ずべくもないということ、この種の指摘を延々とおこなったのは、何もヘーゲルを貶しめんがためではありません。彼の体系構成法の“秘密”を対自的に把え返し、それを自覚的な構制として組み込みつつ、真に弁証法的な論理構制を方法論化しようというのが趣意だった心算です。」96Pそこで次箋(章)の予告として「遺された案件に先立てて、「下降の途」についてその論理構制を問題にし、マルクスの弁証法における「下向・上向法」にもあらかじめ言及するのが順路かとも思います。」96Pとこの章を括っています。
第四信「下降」の途と上向的論述
(前便のまとめ)「前便では、ヘーゲル哲学における「意識」概念の特質を追認したうえで、『精神現象学』の第一章に即して「上昇」的展開の仕組みを、一瞥しておきました。――ヘーゲルのいう「意識の経験の学」は、一見したところでは四肢的な構造に定位しているかのようにみえますが、しかし、当事意識そのものの構造としては別段四肢的になっているわけではないこと、従って亦、当事意識は内的な対話をおこなうわけではないこと、「われわれ」(つまり、für unsといわれるさいのwir)とのあいだにすら対話的な構制が存立しないこと、それにもかかわらず、あたかも対話的構造での進展に想えるのは、「当事意識」(経験する意識es)の思念と「われわれ」(哲学的観望者wir)の認定という二重の措定を「読者」がその都度“裡”で扮技させられるため、謂うなれば「読者」の内において“対話”が進行する所為(「せい」のルビ)であること、・・・・・・/ヘーゲルが『精神現象学』の緒論で説く上昇的展開の方法論的機制からすれば、意識対象の二肢的な二重性、そこにおける二契機の“別異”性の対自化が進展を動議づける建前になっておりますけれども、「意識の経験の学」の上昇的展開の機構は、実際には、必ずしもそうはなっておりません。二肢的二重性の対自化は「われわれ」においてさえ、十全にはおこなわれないのが実態です。という次第で、二肢的二重性の対自化、ひいては四肢的連関性の対自化、これと相即する対話的構制ということが実際問題としてはもっぱら「読者」の営為に委ねられているのだとすれば、ヘーゲルの行論にとって「当事意識」という主体も「われわれ」という主体も必須ではないことになります。肝要なのは、「当事意識」が私念的に主張する提題と、「われわれ」が評定的に主張する提題、これら両つの主張内容であって、それを主張する主体は明示の要がありません。両つの主張内容が「読者」の裡(「うら」のルビ)で対話的に交錯し得れば足ります。露骨に言い換えれば、著者たるヘーゲルが「読者」の裡に両つのしかるべき提題を順次に泛かばせ、「読者」の内なる“対話”を通じて両提題を止揚させることができればそれで十分だということになります。/『精神現象学』以後の著作では、少なくとも表面的にみるかぎり、「当事意識」対「われわれ」という概念装置が消失します。勿論、或る種の文脈ではfür unsという道具立てが現われることもあり、歴史哲学その他でfür esということがあらためて重要な場面になる場面があります。また、即自とか対自とかいう概念の含みのうちにfür es, für unsという道具立てが“止揚”されているむきもあります。がしかし、基幹的な道具立てとしては表層から退きます。」97-9P
(この便・章の問題設定)「本箋では、以上のところを念頭に収めて、「下降」的展開の論理構制を一瞥し、さらには、マルクスにおける下向・上向の方法論的含意をも顧慮しつつ、われわれの採るべき体系機制法の対自化を行っていきたいと念います。」99P
一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
第一段落――下降と円環運動 99-101P
「抑々ヘーゲルの弁証法が「上昇」と「下降」の二途から成るという立論そのものからして学界の定見とは言い切れません。「学の体系第一部」として上梓とれた『精神現象学』――というよりも、当初予定されていた予備門ともいうべき『意識の経験の学』――が一種の「上昇」的展開を事とするものであることは割合いと広く認められると思います。がしかし、『精神現象学』の「序文」には、あの有名な「円環」云々の立論が見られます。それは、『大論理学』はもとより『エンチクロペティー』ゃ『歴史哲学』などでも復唱される持論であって、「自分の終局を自分の目的としてあらかじめ立てておいて、その終局を[循行の]端初となし、[循行運動の]遂行によってのみ、そして自分の[復帰した]終局によってのみ現実であるような円環」という議論です。『大論理学』の端初論のなかでは、「学にとって重要なことは、純然たる直接的なものが端初である、ということではなく、学の全体が、そこにおいて最初のものが最後のものでもあり、最後のものが最初のものでもあるような、円環運動をなすことである」と表現されております。円環運動である以上は、上昇・下降というような往復運動、ないし、折線上の運動はそもそも存立しないと言うべきではないでしょうか?」99-100P
「円環運動ということが余り無理をせずに言えるのは、第一に「論理学」、第二に「実在哲学」、第三に「論理学と実在哲学とを合わせた全体」(つまり、当初の予定では、「学の体系第二部」、後年の変更では『エンチクロペティー』に体現された「学の体系の全体」)、これら三様の体系に限られます。」101P
第二段落――円循環ということの破綻 101-6P
「ヘーゲル自身が言う「円環運動」とは、さしあたり、絶対者から出発して絶対者へと到達(還帰)する循行ですから、出発に即すれば下降、到達に即すれば上昇ということになり、・・・・・・/円環運動という言い方をヘーゲルが採ったのは・・・・・・主体=実体たる絶対者の自己疎外と自己恢復という神学的表象に照応させたものであること、・・・・・・『精神現象学』の序文で円環が云々されているのは、このようなヘーゲル哲学=神学の意想に即してであり、現に本文の終局たる絶対知論ではこの意味での円環の閉じ(完現)が立論されております。論理学から自然哲学を経て精神哲学に及ぶ体系も慥かにこの意味での円環になっております。(但し、論理学は「天地創造に先立っての神の思惟」にすぎず、論理学の終局たる絶対的理念から自然哲学への移行こそが「創造」に照応するかぎりでは、「実在哲学」の部分が実在的な円環運動になります)。存在論的ないし神学的な視角からみれば、神から出発して神へと帰向する運動、それが謂う所の円環運動にほかりません。」102-3P
「ヘーゲルとしては、しかし、このような存在論的了解と認識論的了解ないし論理学的意想とを“巧みに”重ね合わせます。ヘーゲルがこの着想を固めた機縁としては、二つのことが忖度されます。第一には、論理学(および「実在哲学」を含めての体系)の「端初」を権利づける脈絡、第二には、ラインホルトの方法論による触発です。これら二つの契機は勿論緊密に絡まっております。・・・・・・」103Pここで、ラインホルトへのヘーゲルの解説に入ります。「哲学は仮設的・蓋然的な真理をしか端初とすることができず、従って、哲学的営為は当初は探究でしかありえない、という考えであって、ラインホルトが彼の晩年に彼が繰りかえし力説したところである。・・・・・・(ラインホルトの見解においては)哲学においては前進はむしろ背進・定礎[Begründen=根拠づけ]であり、背進・定礎によってはじめて、端初とされたのが恣意的な想定ではなく、実際に、真理であったこと、しかも最初の真理であったことが両々明らかになる。・・・・・・最初のものが同様にまた根拠でもあり、最後のものは導出されたものである。最初のものから出発して正しい推論によって根拠として最後のものに到達するのであるから、この根拠こそ成果である」103-4Pここで、廣松さんの論攷になります。「前進とはとりもなおさず背進であるとい提題は、普通の場合、いわば直接的に、次々に根拠を遡っていくことを意味します。これでは、しかし、無限背進に陥りかねません。ヘーゲルは、これに対して、あの円環運動という表象を持込むことで、解決を図るわけです。ヘーゲルの場合時計になぞらえていえば、針が前進(出発点である十二時のところから遠ざかる)運動をすることが、逆向きに見れば、出発点に近づいて行くことを意味し、やがて、前進運動の果てに出発点に復帰する所以になります。こうして、出発点は、一面から見れば、そこから他が導出される根拠・原理であり、かつ同時に、他面から見れば、円環運動の連鎖によって根拠づけられる成果である、という次第です。」104P
「ヘーゲルの円環的論証行程という議論は、狭義の「論理」の次元でみるかぎり、たとえ真無限を云々してみたところで、所詮は循環論法という嘲笑を免れ得ないと思います。」104-5P
「翻って、ヘーゲルの行論の実際に即するとき、論理的には決して循環論法にはなってはおりません。・・・・・・ヘーゲルは無規定的な直接態から出発するわけでして、これは普通の意味での論理的根拠にもなりえなければ、論理的成果にもなりえません。端初がfür unsには既に絶対者だと言っても、認識のうえ、論理的行程のうえでは、無規定的な直接態は論理的循環の“環”を形成すべくもない筈です。存在論上の思い込みとしては前進=背進のつもりであるにせよ、論理的体系としては到底円環運動になっていない次第です。ですから、一面からいえば、ヘーゲルの体系は循環論証という非難を免れますし、他面からいえば、円環運動による端初の根拠づけという自称が論理的には成り立たないことになります。/「このもの」(das Diese)を対象とする感性的確知から絶対知へと高まっていく“精神現象学”の場合であれ、「純粋有」に始まり絶対精神に終る後年の場合であれ、同断です。」105P
「認識論上の論理展開としては、「学の体系第一部」では、直接的意識にとって具象的な次元から絶対知へと辿り着く途が歩まれ、「学の体系第二部」では直接的な意識にとっての抽象的次元から具象的・被媒介的な規定態への途が歩まれるわけで、このかぎりでは方向が逆になっており、これらはとうてい円環運動の前半・後半というような布置にはなりません。前者が「われわれにとっての先なるものから」の途、後者が「事柄にとっての先なるものから」の途にそれぞれ照応するとも申せるでしょう。」105-6P
「ヘーゲルの論理的展開の実態に即するかぎり、こうして、『精神現象学』においては原理(「アルケー」のルビ)へと上昇する途が歩まれるのに対して、「論理学」以下の体系では原理から下降する途が歩まれるということ――ヘーゲル本人の円環云々とう発言にもかかわらず――このことが認められます。けだし、われわれとしては、ヘーゲル弁証法における「下降」の途とそこにおける論理の機制について論件となしうる所以です。」106P
二 下降の三様式――移行・照映・発展
第一段落――ヘーゲル弁証法の没論理性 106-13P
前節との繋ぎを「この問題はマルクスが上昇(所謂「下向」)の途は学問的叙述以前のたかだか探求の手続にすぎないものと位置づけ、下降(彼の用語法では「上向」)の途だけを学にふさわしいものと見做した事情とも関係します。」106Pとして示し、ここからこの節に入っていきます。「アルケーからの「下降」的展開というとき、存在論上の構図としては、幾つかのパターンが考えられます。」106Pとして三つのパターンを示します。@「プラトン学派式の「流出」(emanatio)、つまりアルケーから具体的な諸定在が成層的に順次流出して形成されるという構図。」A「ミレトス学派式にアルケーが具体的な諸定在に現成するという構図。」B「フィヒテ流に、アルケーが自己を外化して具体的な諸定在へと転成するという構図。――・・・・・・「化体の構図」・・・・・・――」106-7P
「ヘーゲル哲学の場合・・・・・・総じては、主体=実体たる絶対精神の自己外化(Selbstentäußerung)と自己恢復という構図の点で、第三(B)のパターンに属することは申すまでもありません。しかし、これは存在論上の構図の話であって、・・・・・・彼は決して謂わば外部的に当の外化運動を描写するのではなく、学理の体系的展開としてはアルケーからの下降的展開を固有の内在的論理に則って方法的に遂行する姿勢をとります。ここに謂う方法的な展開の論理、それが下降の途における弁証法にほかなりません。」107P
「ヘーゲルにおける下降の論理が最も直截に顕われているはずの『論理学』に即して、・・・・・・「否定の否定」といった図式を措くかぎり、一貫した論理らしい論理の構制は、これといって存在しません。・・・・・・『精神現象学』の場合には、実情はともあれ、建前のうえでは、あの「緒論」で表明されているような、一貫した上昇の論理構制が存立します。それにひきかえ、『論理学』の場合には、ヘーゲルなりに一貫した“構制”があるにはちがいないのですが、マルクスも指摘する通り、実に奇妙です。」107P
「ヘーゲルの論理学は、ご承知のように、有論・本質論・概念論という三つの会下位部門から成っており、前二者が合して客観的論理学、概念論が主観的論理学と呼ばれます。そして、論理的進展のありかたが、各部門で相違します。ヘーゲルが『エンチクロペディー』の一六一節でみずから総括的に述べておりますように、進展のありかたは、有論では他者への「移行」(Übergehen)、本質論では固有の他者への「照映」(Scheinen)、概念論では「発展」(Entwickeln)です。・・・・・・・一通りこれらの各々を調べてみる必要がありますが、ここでは幾つかの典型的な部位を一瞥することで次善と」107-8Pする、ということで、この段落の続きでは有論――「移行」について展開しています。@有論――「移行」A本質論――「照映」B概念論――「発展」と番号を振って、メモをとります。
(@ 有論)「まず、有論冒頭の余りにも有名な「有・無・成」のトリアーデですが・・・・」
108Pで、ヘーゲルの引用をしています。今回は情報吸収よりも廣松理論の学習ノート取りをしているので、省きます。廣松さんの押さえから「ここでの進展、つまり移行の論理構制を見定めるためには、有といい無といい成といっても、これらは主語というよりもむしろ述語である」109Pとして「述語づけを抜きにしては、ないしは述語づけに先立っては、概念上はまだ、謂わば空虚なXたるにすぎない。そういう主語を殊更に茲で持出して命題(定義)のかたちにすることは無用であるばかりか、概念ならざる表象的規定が混淆的に泛ぶので有害ですらある。」109Pとして、「ヘーゲルとしては「絶対者は有である」「絶対者は成である」というような命題の形での措定を避けます。がしかし、内容的には、「論理的諸規定はすべて絶対者の諸定義」にほかならないということを銘記してかかる必要があります。」109Pとして
「このことを念頭において有・無・成という進展を分析してみましょう。」109Pと細かい展開に入ります。「第一段で、絶対者(といってもまだX)は「有である」ことが措定されます。が、この「有」という規定は、端初のここでは、「無規定的で単純な直接的なもの」にすぎませんから、「純粋な抽象」「絶対的に否定的なもの」であり、従ってこれを「直接的に受けとれば」、無と言うも同断です。こうしてXは無であるという第二段が措定されます。ところで、「有」と述語づけされるXと、「無」と述語づけされるXとは、実は同じもの(絶対者)ですから“当のXは有であり且つ無である”という矛盾命題が定立された所以となります。しかし、単にそのかぎりでは、つまり「有」かつ「無」という措定のかぎりでは、矛盾であっても、「成」とは言えない筈です。有から無への移行(消滅)、無から有への移行(生成)があってはじめて「成」と言えるようになります。だが、この「移行」(厳密には「移行してしまっているということ」)はどこから生ずるのでしょう。」109-10Pと著者は問います。そして「移行が生ずるとすれば、それは「読者」が同じ主語的対象について「有(無)である」という認定から「無(有)である」という認定へと推移することを俟ってです。「読者」が一箇同一の主語=対象に関して“先程は有(無)であったが今では無(有)である”と“統一的に”認定すること、「移行」はひとえに、この「読者」の認定に懸っております。」110Pと答えます。そして「著者たるヘーゲルは「読者」の裡なる認定を推移させ、しかもそのさい主語=対象の自己同一性把持させるかぎりで、「読者」の裡で認定の移行が生じ、「正・反」両命題の“内なる対話”を通じて“否定の否定”たる「合」が現成する。これが実態です。しかるにヘーゲルは、あたかも、「正」がそれ自身で「反」に移行し、正反が相互に移行し合い、「合」がひとりでに現成するかのように論じます。」110Pとして、「併せて指摘」110Pするとして
「ヘーゲルの建前では、有論の範囲における進展は移行というかたちをとることになっておりますけれども、実地には必ずしもそうはなっておりません。また常に正反合というかたちの進展になっているわけでもありません。先にも引用しました通り、「成はそれ自身の内なる矛盾によって崩壊し、有無がそこで止揚されているごとき統一となる。その成果が定有である」という仕方で、「成」から「定有」への進展が説かれます。」110-1Pそこから「或る意味からいえば、「成」と「定有」とはまったく同じものであって、合の相でみるか、一つの正の相でみるかの見方の相違にすぎない」111Pとして、「実態においては、「読者」が「成る」という相での把握から「成ったもの(=定有)」という相での把握に推移すること、これにつきると言うべきでしょう。ここには、いずれにせよ、反立的な否定による進展も、自動的移行も存在しません。」111Pとします。
さらに補足として「「移行」の典型たる「定有」の場面での進展の構成」111Pをみるとして「「定有するもの」たる「或るもの」(Etwas)は「その質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。或るものは他のものになる。だが、この他のものはそれ自身一つの或るものである。ゆえに、これも同じく一つの他のものになる。かくして、[悪無限的に]限りなく続いていく。」111Pと展開しています。さらに「しかし、定有が「可変的(Für-anderrs-sein) 」であるという論点は、『小論理学』の場合、全く唐突に、何らの説明ぬきに断定されるだけです。そしてこの断定にもとづいて、「他のもの」への移行ということが論断されます。ここには論理の飛躍があるどころの話ではありません。」112Pとして「「読者」は、有限な存在者と聞けば直ちに可変的ということを納得してしまうものと当てにされている風情です。そして、そのかぎりで、定有は有限なり、エルゴ、定有は可変的なり、エルゴ、定有は別の定有に「移行」する、というように、有論の範囲における進展のありかた、つまり「移行」ということが没論理的に強弁されている始末です。」112Pとこの項をまとめています。
第二段落――「照映」と「発展」 113-7P
第一段落で有論――「移行」について展開していて、ここでは、後の二つ、本質論――「照映」と概念論――「発展」についての展開になっています。
(A本質論)「本質論の場面におけるヘーゲルは、対策に内属する固有の性質と称されるものが、実はことごとく関係規定の反照である」113Pと押さえ、「関係の一次性の洞察ともいうべきこの観方は、既に定有論の個所にもみられますが、本質論においては、それが「固有の他者」との照影的反照の関係として論定されます。これは瞠目すべき議論です。がしかし、本質的存在を関係規定の相で把え返すということは、そのまま直ちに論理的進展を意味する筈はありません。」113Pとして、『大論理学』『小論理学』からの引用に入っています。
それを受けて著者の展開「本質の次元における諸規定は、一見したところ、それぞれ自己完結的にみえ、それ自身で当の規定であるかのように思えますけれども、実際には、固有の他者との反照規定という相での対他的関係規定にほかなりません。同一性といい、積極的なものといい、それ自体で同一とかそれ自体で積極とかであるわけではなく、固有の他者たる区別とか、消極とかの反照関係においてのみ同一性であり積極的なものであるわけです。これは、決して単なる外面的な反省、単なる概念規定上のことではありません。磁石の北極と南極など、一般に「両極性」(Poalität)と呼ばれるものを考えてみれば、それが実在的な反照的関係規定であることが判ります。ここまでは正当な指摘です。ところがヘーゲルは、こういう両極的な対立項の各々は即自的にも対自的にも、当の他者と「同じもの」(dasselbe)であると強弁します。つまり、同一事態(一箇同一の関係態)の両契機だという域をこえて、両契機の各々が他者を自分自身のうちに含むという言い方をします。そして、この矛盾、つまり、「同じもの」が対立的両極の、一者であり且つ他者でもあるという矛盾から「没落」が生ずると強弁するに及ぶ次第なのです。/ヘーゲルが説く「照映」というありかたでの進展、本質論の場面における進展の論理、これが無理を孕んでいることは詳しく指摘するまでもありますまい。反照ないし照映はそれ自身としては存在上の進展をもたらす筈もありません。進展が生ずるとすれば、それは「読者」が“項”ないし“極”を自己完結的なものとして悟性的な抽象態において固定していた思念から、反照的な関係規定態に即した概念的把握へ進むこと、この把え返しに際して、悟性的に固定化された抽象的規定を述語にするかぎりでは矛盾的対立の両極的被措定項が止揚(正・反・合)されること、著者たるヘーゲルに仕向けられた「読者」のこの営為に俟ってのことです。」114-5P
(B「概念論」)「「概念論」の次元での進展の論理、すなわち「発展」について」115P
「ヘーゲルの「概念論」は、御承知の通り、狭義の概念論ではなく、判断論や推理論をも内容とするものであって伝統的な意味での論理学の全体をカヴァーするものと言うこともできます。有論・本質論の部分が・・・・・・伝統的な形而上学ないし存在論に照応し、概念論の部分がいわゆる論理学に照応するところから、ヘーゲル自身、前者の部分を「客観的論理学」、後論の部分を「主観的論理学」と呼んでおります。」115-6Pこのことは「一つには、概念論といっても、内容的にはイデー論であり、機械的関係・化学的関係・目的的関係についての考察や生命論や意志論などまで含まれていること、もう一つには「判断」といってもヘーゲルの場合、いわゆる“判断”とは把え方が違うこと、このため、普通の意味での「主観的論理学」とは似て非なるものになっております。」116Pとして、
「進展の論理たる発展」116Pについて、ヘーゲルの引用に入ります。「概念も判断も単にわれわれの頭のなかにあるのではなく、単にわれわれによって形成されるものでもない、ということを銘記するのにも役立てることができる。概念は事物それ自身に内在しているものであり、事物が現にそれであるところのものであるのは、概念が内在していることによってである。それゆえ、対象を概念的に把握するということは対象の概念を意識することにほかならない。対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰属せしめるのは、われわれの主観的な営為ではない。われわれは対象を、それの概念によって定立されている規定態において考察するのである」116-7P
ここからは著者のヘーゲルの部分引用によるヘーゲルの押さえです。「ヘーゲルによれば、判断とは外なる対象にわれわれの側が勝手に主観的な概念を述語として結合するものではなく、固有の概念的規定態によって即自的に現前する対象を謂わば追認的に、対自的な意識にもたらすことなのです。彼は「すべての事物は判断である」「すべての事物は推論である」と主張します」117P
で、「ヘーゲルのいう「発展」は、普通の意味での論理的展開とはおよそ様子が異なることになります。それは、即自的な概念的規定態からから対自的な概念規定態への推移にすぎず、判断者と彼における認識の進展は、あくまで観望者的です。極言すれば、対象の既存的な在り方を謂わば受動的に観望・追認・記述するという建前になりますから、ここは筋道の立った狭義の論理的進展は何ら保証されません。唯、「あらゆる規定は否定である」かぎりで、しかも、「否定」はあくまで「限定された否定」であるかぎりで、正・反・合という進展が観望されるであろうこと、このことは予期され」117Pる、というヘーゲルの押さえから
「これはもちろん、建前であって、ヘーゲルは実際には、決して単に植物の成長を見守る流儀で事を運んでいるわけではありません。」117Pと著者廣松さんはまとめ、次の節に移ります。
三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
(この節の問題設定)「ヘーゲルにおける「下降」の論理を見るためには、『論理学』だけでは不十分ですが、『論理学』に限っても詳しく祖述していたのでは涯(はて)しがありません。茲では、幾つかのトピカルな個所と建前を一瞥した範囲で拙速にも憚らず、マルクスの対ヘーゲル批判も顧慮しつつ、われわれの探るべき方法論上の構案を漸次対自化していく段取りです。」118P
第一段落――ヘーゲルの下降−マルクスの上向 118-9P
冒頭に著者はマルクスの『神聖家族』からの個別(<リンゴ・スモモ・イチゴ>)から普遍(<果物>)の弁証法を展開しています。そこで、マルクスのヘーゲルの普遍の化体としての個別という弁証法と批判を押さえ、マルクスの結論的文を引用しています。「思弁哲学者が、順次連綿と創造行為を達成するのは、……彼が、リンゴの表象からナシの表象に移行していく彼自身の活動を、絶対的主体の、すなわち<果物>の自己活動だと公言することによってである。この操作のことを、実態を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解すると呼ぶ。そしてこれがヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」119P
そこから、著者は「実態=主体たる絶対的精神の自己外化の過程として説述されるヘーゲルの「下降」的展開の“秘密”を鋭く剔抉してみせている」119Pで、「爰でヘーゲルの自然哲学や精神哲学もさることながら、論理学のわけても概念論の「発展」の論理を連想されることでしょう。」119Pとして
「マルクスのこの批判は、ヘーゲル哲学の存在論的な次元にまで一気に射程を及ぼしており、「下降」の論理に関する立ち入った批判というごとき準位は甫から彼の眼中にありません。119P」としつつ、著者は「われわれとしては、そういう次元にもこだわらざるを得ません。」119Pとして次項の展開に入ります。
第二段落――マルクスのヘーゲルに対する批判的継承=継承的批判として打ち出したマルクス自身の弁証法の図柄 120-4P
「マルクスは「弁証法」に関する主題的な論攷を遺しておりませんので、『資本論』その他から読み取るほかない次第ですが、ここでは彼が経済学の方法論に即して述べている所謂「上向法」の想起を求めます。――彼は学問的アプローチにおける二途を区別します。第一には、「実在的で具体的なもの」から出発して「分析的に」順次より単純な概念に遡る方途、つまり「表象された具体的なものから一段一段稀薄な抽象的一般者に進み、最も単純な諸規定に到達する」途行き。これが“下向”の途であり、抽象的普遍態から具体的諸定在にと進む第二の方途が「上向」の途です。これら両途は、同格的に並存するのではなく、マルクスによれば、第一の途(下向の途)はたかだか研究の手順でありえても学問的叙述の方法ではありえません。第二の途(上向の途)こそが「学問的に正しい方法」と認められます。」120P
そしてここから、マルクスからの引用で、「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直観や表象の出発点であるにもかかわらず、思考においては総括の過程として、成果として現われ出発点としては現われないのである。第一の途では、充実した表象が蒸発させられて抽象的な規定にされ、第二の途では、抽象的な諸規定が、思考の道を通って、具体的なものの再生産に到る。ヘーゲルは、このため、実在的なものを……思考の成果とみなす幻想に陥ったのであるが、しかし、抽象的なものから具体的なものとして(als ein geistig Konkretes)再生産する思考にとっての様式たるにすぎないのであって、決して具体的なもの自体の成立過程ではない。・・・・・・・。」120-1P
そして著者の論攷として「茲でとりあえず注目したいのは、具体的なものから抽象的なものへの下向、および、抽象的普遍的なものから具体的実在的なものへの上向、これら両途の方法論的区別そのことです。――マルクスはさしあたり経済学という学問分野での端初の措定や展開の仕方について論じているにすぎませんが、先の引用文からも窺える通り、彼の方法論上の構えは“哲学”的な次元にまで推及できます――。これを哲学的な次元での体系構制に推及して考えるとき、プラトン流の「上昇の途」はたかだか探究の途であって、学問の体系的叙述は「下降の途」でなければならない、という了解になりましょう。」121Pと展開し、
さらに「上昇の途の端初は、所詮ドクサ(臆見)乃至エンドクサ(一般に承認されている意見)でしかありません。そこから出発してエピステーメーへの到達が企図されますけれど、善のイデアとか絶対知とかいう“アニュポテトン(無前提なもの)”に到りつくという保証はありません。認識論上の権利からいえば、どこまで行ってもせいぜいエンドクサであり、原理上の終点には達しません。となりますと、「下降」を開始しようにも、その起点をつかめない仕儀に陥ります。ブラトンにせよ、ヘーゲルにせよ、また、アリストテレスやスコラ哲学者たちにせよ、下降の絶対的起点を設定できると信じていたかぎりで、彼等流の方法論を唱えることができました。しかるに、マルクスのように、理論の歴史的・社会的な相対性を自覚する者にとっては、絶対的な起点(下降のための絶対的な端初)などありえません。・・・・・・成程、そういうエンドクサたる“原理”から“下降”することは可能であり、マルクスとしてはまさにそういう“下降”(つまり彼の謂う「上向」)を試みます。がしかし、この上向は所詮エンドクサからの出発であるかぎり、認識論上の権利においては上昇の途と峻別されるものではありえません。言い換えれば、プラトンやヘーゲルの意味での上昇や下降との峻別は成り立たない」121-2Pとして、
そこから「所詮はエンドクサから出発せざるを得ない以上――そこには成程、より抽象的・一般的な“原理”へと遡上する方向と、より具象的・特殊的な“実在”へと降下する方向との区別はありえますけれども――“絶対的原理”の定立と称する方法論的過程(上昇=下向)は学の体系にとって必須的・内在的な契機ではなく、謂わば予備的な手続になります。勿論、この過程が不用とか価値が低いとかいうのではなく、学の体系(叙述体系)にとっては“埒外”という意味です。マルクスは、このゆえに、下向の途(“上昇”の途)を学の方法から“括りだし”てしまいます。彼にあっては、さしあたり、「上向」法こそが「学問的に正しい方法」とされる所以です。」122Pとし、
さらに論攷を進め「ヘーゲルが「円環運動」を云々したさい、上昇・下降という往復運動では方法論的・認識論的にみて問題が残るということを彼は意識していたのではないでしょうか。彼としては、端初と終局とを円環的に閉じさせることで、上昇・下降が悪無限に陥る危険性を防遏したかったのだと想えます。」122Pとして、さらに著者のヘーゲルのとらえ返しを通したマルクスのとらえ返しを続けます。「存在論上ないしは神学上の意義賦与(思い入れ)は別として、論理の行程という次元では、実際、円環的に閉じることは不可能です。もし、論理の行程上“円環”を閉じるとしたら、それこそ循環論法になってしまいます。マルクスが円環的構造を云々せず、下向と上向とを両半周として位置づけることをしなかったのは、ヘーゲルの挫折せる故知に鑑みるとき背綮(「はいけい」のルビ)にあたります。」122-3Pと押さえ、
最後にこの項のまとめに入ります。「マルクスの謂う下向・上向、これは皮相に読めばさして重大なことにはみえませんけれど、上昇・下降や円環運動といった先行者の方法論的配備との関係を省みるとき、非常に深い議論である事が認められる筈です。マルクスは、しかし、残念ながら、上向法の論理構制について主題的に詳説してはおりません。われわれとしては、『資本論』その他に即して、マルクスの弁証法的論理構制を対自的に顕揚しつつ、その意想と構案を継承的に展開する姿勢で事に当たるべき所以となります。」123-4P
第三段落――ヘーゲル弁証法のネガティヴな面とポジティヴな面 124-5P
「ヘーゲルにおける“下降”の弁証法は、論理的進展の機制に関しておよそ構案が調っておらず、「読者」の“内なる対話”を“狡智的に”進行せしめる配備となっているかぎりで辛うじて議論が進捗しうるにすぎません。あまつさえ、弁証法は抑々単なる“論理”ではなく、存在論・認識論と三位一体的に統一されており、ヘーゲルの場合、それは絶対的観念論と不可分の在り方をしております。そしてこのことが由因となって、実体=主体たる絶対者の自己運動(因みに『論理学』は「天地創造に先立っての神の思惟」とされております)として思念される“下降”の途にあっては、für esとfür unsという構制をはじめ“上昇”の途で勘案されていた有意義な契機が没却される事態を招いております。迂生に言わせれば、「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」との交錯した対話的構造を抜きにしては、上昇的であれ下降的であれ、そもそも弁証法が存立しえないのが道理です。“対話なき弁証法”、この没概念のもとでは、せいぜい読者の内なる擬似的対話を操ることしかできず、実質的には“託宣”の連続たらざるをえません。そこでは、有即無、同一即区別、肯定即否定、等々の弁証法的統一性が臆言に堕し、いわゆる「否定の否定」による正反合の進展もたかだか“観望的記述”に陥ってしまいます。」124-5Pとして、ネガティヴな面をここでは書いて来たとして、
「ヘーゲル弁証法のポジティヴなモメント」125Pの指摘として「分析と綜合、帰納と演繹、ひいては、発生的方法と批判的方法、これらをしかるべき仕方でヘーゲルがアウフヘーベンしていること、更にはまた、オブジェクト・レベルとメタ・レベルとの階型性をヘーゲルが巧みに踏んでいること」125Pと押さえています。
最後に次箋(章)の予告として、「これまでの確保した論点を緯(「よこいと」のルビ)に配しつつ、迂生なりの構案を経(「たていと」のルビ)として綴り、――因みに、下向の途というのはロッツェの謂うErsetzen(補完)の手続を通じて謂うなれば“原始函数”をfür unsに確定していく途行きであり、上向の途というのはラプラスやハイゼンベルグの“宇宙方程式”にも譬えるべき当の“原始函数”をシステマティックに充当・具象化していく途行きに準(「なぞ」のルビ)らえるのも一策かもしれません――その上で、あらためてヘーゲルやマルクスの弁証法についても立帰って卑見を述べる」125Pと書いています。
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(2)
第三信「上昇的展開」と四肢構造
(この章の問題設定)「ヘーゲル弁証法の構制を第三者的に突き放して見さだめ、マルクス弁証法との異同を見較べるという手続きもさることながら、われわれなりの体系構成法を画定することを主眼と」69Pするけれど、「学史上の系譜的な位置をあきらかにするためには、若干の祖述」69Pが必要になるので、押さえの作業をするとしています。そして、「ヘーゲルにおける上昇的展開、つまり、「意識の経験の学」の展開を可能にならしめている「意識」の構造について、その特質を第三者的に見定め、後論への予備的作業を兼ねてマルクスの場合をそれと対照しておき、次いでわれわれの採るべき構図を対自化する」70Pとしています。この章からヘーゲル批判が本格化し、マルクス−著者との対話も出てきます。
一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
第一段落――ヘーゲルの「意識」概念の概略 70-5P
「ヘーゲルの「意識」概念について主題的な討究を試みるつもりはありませんが、特質の一端を指摘し、それとの関連でマルクスにも論及しておき、拙著『資本論の哲学』(現代評論社刊)での論件との呼応を図ります。」70Pとし、
「「意識」という概念は・・・・・・大雑把な議論としては、三つのタイプに分けて整理できる」70Pとし、
「第一には、意識を以って一種の「機能」と見做すもの、第二には「状態」と観ずるもの、第三には「関係」と規定するもの」70Pとしています。そして断り書きとして
「伝統的には、霊魂という実体が想定されて」70Pいたので、
「その場面では、「機能」「状態」「関係」と申しても、実体的霊魂の発揮する“作用的機能”、実体的霊魂に内属する“属性的機能”、霊魂と外物との“相作的関係”といった相で表象されていました。しかし、近代以降になりますと、実体的霊魂が括弧に入れられたり、場合によっては積極的に否認されたりしますので、「意識」というものについての了解も変貌します。」70-1Pとしています。
そして、ヘーゲルは「「道具」説や「媒体」説の排却と相即的に、いわゆる「意識内容」というかたちでの中間項の存在を否認します。近代における意識論では普通、<対象自体−意識内容−意識作用>という三項図式を構図上の前提としますが、ヘーゲルは基本的にいって、「意識内容」という中項の存立性を否認する構図を立てて」71Pいるとし、そこでの動揺の指摘をした上で、
「が、しかし、基幹的にいえば、彼は、対象的所知と作用的能知のとの二項的関係で発想しております。ですから、彼の場合は、純然たる作用的意識を以って意識なりとする作用的機能説も、また「意識内容−意識作用」の部面を截り出して意識を定位する表象的状態説も採るわけ」71Pにはいかないとして、「意識論としては、ヘーゲルはさしあたり、一種の「関係」説の構図を採っております。」71Pとしています。
ここでヘーゲルからの引用として「意識は或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。」72Pの文を出し、「そして、このような構造的関係態である意識の吟味の途行きとしての「上昇」的展開、「意識の経験」を追跡的に観望するという建前をとっております。彼の「意識」概念の構図、これが彼の弁証法の展開の在り方を直截に規制することは更めて申し添えるまでもありません。」72Pとして、
「もう少し彼の「関係」説の構図を検討」72Pすると展開していきます。「ヘーゲルは、慥かに、一応は「関係」説を立ててはおりますが、しかし、それがどこまで関係主義に徹したものであるかは直ちに疑われ得ます。「意識は或るものを自分から区別する」という命題は一種の実体主義的な了解を背後に持ってはいないでしょうか? 根源的な存在者、おそらくは精神的な存在者が、自己を二分化(entzweien)しつつ、その区別された対項と関係する。この唯心論的な理説においては、対項はいかに「即自存在」=自体的存在と称されようとも、実質的には意識内容にすぎないのではないか。このような疑問が早速に生じ得ます。このかぎりでは、たとえ、「関係」説の構図とはいっても、状態説と大同小異であり、また、作用関係説といっても所詮は精神的な“自己”内関係にすぎないことになります。ヘーゲルが結局は観念論者であり、また、主体=実体というかたちで実体主義を残しているかぎりでは、右の疑義が窮局的には提出されざるを得ません。とは申せ、彼は自我が非我的対象を産出的に構制するような持論を避け、さしあたっては所知的対象の即自性を認め、これとの関係としての意識という提題を打ち出しつつ、この関係構造に即して自然的意識から絶対的意識への上昇的自己陶冶を説いているのですから、最終的な論判で済まして了うのではなく、少なくとも一旦は積極面を配視しておくのが順当というものでしょう。彼は、まさに関係説の構図に拠ることによって、往時の有力な理説、すなわち、一方における対象産出的な作用説、および、他方における潜勢発動的な状態説、これら両途に対して新しい第三の途を進むことができた所以でもあります。」72-3P
この「最終的な論判で済まして了うのではなく」ということが、そもそもここまでのヘーゲル弁証法との対話の著者の姿勢を現しています。ヘーゲルの途行きのとらえ返しです。
ここで、「ところで、二項的「関係」性の構図を採るとき、意識の志向性(Intentionalität)という問題や、いわゆる「知的直観」の問題と、どう絡んで来るでしょうか?」73Pと問いを立てます。
そして、「まず、謂うところの関係が外的な関係ではないこと、関係態としての意識の両契機に対して規定的な関係であること、この点を銘記しておかねばなりません。両項が自己完結的に自存していて、外的に関係づけられるのであれば、一項が他項を“在りのまま”に観取するといった“如実の直観知”が或いは可能かもしれません。がしかし、ヘーゲルの場合、当の関係が規定的ですから、一項がいかに即自的存在であるといっても、それは「意識にとっての即自存在」であり、対象は<この即自存在の意識−に対する− 存在>でしかありえない以上、「知的直観」を唱える論者の流儀には参りません。最終的な真理に到達するためには、媒介知の過程的行程が不可欠になる所以です。」73Pとして、また「意識の志向性という問題については、ヘーゲルの精神現象学と、フッサール学派の現象学との関係という問題にも通じ、それがまたマルクス主義の場合とも関係して参りますので、ここで多少とも言葉を費やしておきましょう。」73Pとして「志向性」という概念は、元々スコラ哲学から発し、ブレンターノやフッサールが論じていったことを押さえ、
「われわれ東洋の文化圏に育った者は、意識というとき、何は措いてもまず、「或るものについての意識」という相で考えますが、従って、ヨーロッパの学者たちが意識というときはまず作用的な自己意識を考えるらしいことを奇異に感じますが、ヨーロッパにおいても、近代以前にはやはり、われわれの日常的な意識観と同趣だった様子です。つまり、意識とは第一次的には、「或るものについての意識」(対象意識)であり、第二次的に「意識していることについての意識」(自己意識)であると了解され、前者の契機が「第一志向」(intentio prima)、後者の契機が「第二志向」(intentio secunda)と呼ばれた由です。」73-4Pとして、「フッサール流のデカルト解釈は棚上げにして申しますかぎり、デカルトこのかたの近代哲学では、意識を主として「第二志向」に即して考えるようになったこと、すなわち、スコラ流の第一と第二の重点を謂わば逆転させるかたちになったこと」74Pを示し、論点をヘーゲルに戻します。
「ヘーゲルの場合、彼が意識内容という中項を卻けて、即自的な対象との直接的な関わりに定位する点で、彼の第一志向は直截だと申せましょう。しかし、彼の場合、先験的な統覚(transzendentale Apperzeption)というかたちで第二志向を重視したカントなどとは異なって、第二志向=自己意識は余り強調されません。・・・・・・勿論、ヘーゲルは第二志向という契機を無視しているわけでなく、・・・・・・即自的意識と区別される対自的意識がそのまま第二志向と重なるということもありません。彼の場合、誤解を惧れずに敢ていえば、第一志向こそが基幹であって、第二志向は謂うなれば様態的な規定になっていると申すこともできましょう。この点ではフェノメノロジカル(現象学的)というより、フェノメナリスティック(現象的)です。」74-5P
そして、「このようなフェノメナリスティックな場において、意識というものを対象的所知との直接的な志向的関係、かの二項的関係性において把えていること、・・・・・・この点においてヘーゲルの意識概念は「志向説」の構図に近いと思います。」75Pとまとめます。このあたり、先走れば、フッサールの間主観性−共同主観性の概念とカントの先験性論を共同主観性概念で読みかえるところから、ヘーゲルの不備を唯物史観的に転換させていく中での、マルクス−廣松的なところへ到り着くことを予期させているのですが。
第二段落――マルクス・エンゲルスの意識概念 75-8P
「マルクス・エンゲルスの意識概念は、ヘーゲルにおける「関係」説の構図を徹底し、しかも、間主観性の契機をより直截に組み込んだかたちになっていると申せます。」75Pとして、ヘーゲルを承けたキュルケゴールやフォイエルバッハなどを押さえつつ、「マルクス・エンゲルスは、主題的な意識論こそ書き遺しておりませんが、『ドイツ・イデオロギー』のなかで、基本的な構案は提示しております。」76Pとして、その文を引用します。「環境に関わる私の関係(mein Verhältnis)が私の意識である。或る関係が実存するところ、それは対私的(für mich)に実存する。動物は、<対自的には>何ものとも“関係”しない。動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係としては実存しない。」76Pそして著者自身のコメントをつなげます。「マルクス・エンゲルスは、「意識」というものを、まずは「関係」として押さえます。但し、関係というとき、第三志向的な見地から関係づけるだけのケースがありますけれど、彼等は「動物は何ものとも“関係”しない」という言い方で、単なる即自的な関係は謂う所の「関係」から除外しており、この意味で、対自的(für sich)な関係に限定します。「意識は、当初的には、外部の人物や事物との聯関の意識である」。――彼等は、このような「関係」説の構図で意識を規定し、意識を以って、当の関係の対自態と了解するところから、かの有名な「意識das Bewußtseinとは意識された存在das bewußte Seinにほかならない。そして、人間存在とは彼らの現実的な生活過程の謂いである」という命題を立てます。・・・・・・尤もdas Bewußtsein・das bewußte Seinという提題そのものはフォイエルバッハのものとも言えます。眼目はあくまでも意識というものを、普通の唯物論者の場合とは違って、「脳髄的機能」とか「心理的状態」とかとてではなく、「関係」として規定している事です。」76-7Pさらに「マルクス・エンゲルスも、勿論、或る文脈では、脳髄的機能とか心理的状態とかいう規定態を容認します。がしかし、意識存在論の原理的・根底的な場面では、まずは、環境的与件との「関係」性に即して規定する次第なのです。しかも、そのさい、意識の本源的な間(「かん」のルビ)主観性を押さえています。『ドイツ・イデオロギー』では「意識の現実態は言語である」という有名な命題が打ち出されていることを御記憶かと思いますが、今問題にしている論脈では、先に引用した環境との関係云々の直前の個所で」77Pのマルクス・エンゲルスの文「言語の成立した時点、それがとりもなおさず意識の成立した時点であって、言語は、実践的な、他の人間にとって(für andere Menschen対他的に)実存するが故にまた私自身にとって(für mich selbst 対自的に)もはじめて実存する現実的な意識である」77Pという文を引用し、著者自らが、更なる引用文を含んで、コメントしていきます。「このことから、また、「意識は、かくして、本源的に、一つの社会的な生産物であり、いやしくも人間が実存するかぎり、そうでありつづける」という意識の本源的な社会性という命題が導かれます。」77Pここから、これからのことにつなげるまとめ的な文に入り「マルクス・エンゲルスの意識規定については、彼等の弁証法的な展開の論理とも絡めて検討を要する論件がありますし、『資本論』や『自然弁証法』における「意識」への関説などをも射程に収め、更にはイデオロギー論との関連性をも念頭において第一志向・第二志向の去就を追跡するといった課題が控えております。/此処では、しかし、とりあえず、以上、ヘーゲルにおける「関係」説の構図が、マルクス・エンゲルスにおいては徹底化されていること、しかも、意識の本源的な間主観性が原基的関係性の構図に組み込まれていること・・・・・・まずはこの規定的な構図を確認した」77-8Pとして、ヘーゲルに戻って次節へ話をつなげます。
二 『精神現象学』本論の構制上の実態
序説的段落――「感性的確知」の機制 79-80P
(この節の問題設定)「ヘーゲルが「意識の経験の学」というかたちで、下降的な体系に先立てた「上昇的展開」の機制が、彼の意識概念によって如何に支えられているか、また、それが彼の意識概念によって如何に制約され、総じて彼の弁証法体系構成法を何所(「どこ」のルビ)で失敗に終わらせているか、これを見定める一助として、ひとまず『精神現象学』における本論の最初の部分、つまり、あの有名な「感性的確知」論の機制を一瞥してみたい」78P、「もっぱら論理的機制に直目」78Pして、とこの節の問題設定をしています。
「ヘーゲルは「経験」する「自然的意識」の最もプリミティヴな形態から上昇的に展開する次第ですが、「上昇の途における端初」に位する直接的な意識の在り方、それが「感性的確知」(die sinnliche Gewißheit)であり、これはあれこれの個別的な感性的対象の受納的な感知こそが最も具体的で最も真実な認識であると確信しているような意識態にほかなりません。/この意識態においては、個別的な「このもの」(das Diese)、つまり、「いま・ここに在るもの」、ないし、それの確知こそが真実であると確信されておりますが、ヘーゲルとしては、当事意識の私念とは逆に、そこでは「普遍的なもの」こそがじつは真実態とされていることを指摘してみせるわけでして、この逆転劇を三つの側面ないし階梯に分けて彼は論決します。」79Pそこで、この「三つの」のことを段落をわけて、各項として論じていきます。実はここで一つ目の階梯に入るところでは改行していないのですが、改行したこととして項的に立てていきます。
第一段落――「対象の側に定位しての検討」 79-80P
「この階梯では、対象は知られると知られざるとにかかわりなく、自体的に存在するものと私念されており、このかぎりでは、対象のほうが本質的、知の方が非本質的と了解されております。そこでは、直接的な当事意識が「単純な無媒介的に存在する」対象として確信している「このもの」とは何であるか? これを確定すべく、ヘーゲルは「いま」と「ここ」に即して分析します。」79Pとして、具体的に「いま」のヘーゲルの分析に入り、「この持続するいまは無媒介的ないまではなく、媒介されたいまである」79Pと規定し、「このような単純なもの、つまり、このものでもかのものでもないという否定によって存在するところのもの、このものに非ざるもの、それでいて、一様に、このものでもかのものでもあるところの単純なもの、われわれはこれを普遍的なものと呼ぶ。という次第で、普遍的なものこそが実際には感性的確知の真理なのである」79-80Pというヘーゲルの引用から、「尤も、この逆転劇は、さしあたりわれわれ第三者の見地から言えることなのであって、当事意識が自覚することではありません。当事意識としては、まだ、その都度の“個別的”な対象的感知を次々に確言するだけです。」80Pとしています。そこから「しかるに、言語は私念よりもより真実なもののわけで、人々は言語的に言表することにおいて、自ら、直接的に自分たちの私念を論駁する」80Pとヘーゲルを引用し、「総じて対象の側に即するとき、感性的確知の私念は逆倒している、と言わざるをえませんけれど、当事意識が自分の確信を維持するとすれば、当初における了解を部分的に修正するかたちで、対象の個別的自存性という私念から転じて、「対象は自我[私]が知るから存在するのだ」と考えることになりましょう。」80Pと、この項を結び、次項につなげます。
第二段落――「主観の側に即した分析」 80-1P
「爰でも、論理の構制は対象の場合と同じです。」80-1Pとし、「樹」「家」という具体例で吟味しつつ、これらは「無媒介的な直接態ではありません。成る程、各自が「個別的なこの私」を思念しているかもしれませんけど、言語で言表するかぎり、やはり、「すべての私」になり了ります。それは、つまり「この個別的な私」という普遍者、特定の誰彼ではなく、しかも、どこの誰ででもありうる普遍者を意味します。――感性的確知は、自我の側が個別者であり、この個別者の個別的な知なるが故に個別的な感知が真実である旨を主張するわけにはいかない所以です。」81Pと結んでいます。そこで、「対象の側」と「主観の側」とで、「個別」と「普遍」という四肢構造的な様相が現れています。そこで、次節の冒頭に繋がります。
第三段落――「対象の側でも主観の側でもなく、主客関係の「一全体」を以って「感性的確知」の本質とみなし、この個別性の「直接態」に固執しようとするありうべき第三の構えの検討」
「「この純粋な直接態は」、此のものが他のものへ移行する「他在」にも、自分と並び立つ「他の自我」にも最早かかずり合わない。「この直接態の真理は、自同的な関係として持続するのであって、当該の関係は自我と対象とのあいだに本質性と非本質性の区別を設けないし、従ってまた、そこには何らの区別も侵入することができない。……自我[私]は純粋な直視であり、……一つの直接的な関係に固執している」」81Pとヘーゲルを引用し、更に、「この相での確知は、みずから言語的に言表するということもしません。そういう個別的な一つの関係態である「この確知は、夜であるところのいま、や、夜が彼に対してあるところの私に注意を向けさせようとしても、自分の殻から出て来ようとはしませんので、『我々』観望者のほうでそれ[確知]に歩み寄って、それの主張するいまを指示(zeigen)するように仕向けてみましょう」。ということは、実質的には「われわれ」が「当事意識」に成り変わって対象的いまを指示することに帰一します。」82Pまたヘーゲルを引用して「指摘そのことが運動なのであり、いまとはそのじつ成果であり、今の集合された一つの数多性であること、そのことを言表します。指摘とは、いまが普遍的なものであるという経験にほかなりません」82Pとして「いま」「ここ」が同趣的に「「指摘される固執されるここと(いまと)は、多数の此処(今)の単純な複合」「此処(今)の単純な数多性」であることが論決されます。」82Pとして「一般論として「このもの」の指示が明らかにする実態は、「多くのこれの合在、つまり普遍的なもの」であって、「私はそれをそれが真実態においてあるがままの受け取る」ようになります。つまり「直接的なものを知る代りに、知覚する(Wahr-nehmen=真を受け取る=真理を把捉する)ことになります。」――という次第で、ヘーゲルは次のステップである「知覚」論に進みます。」82-3Pしかし、「私どもとしては」「ヘーゲル弁証法の上昇的展開の論理構制の孕む限界と難点を指摘しておくことが当座の作業課題です。」83Pとして次の節へ移行します。
三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
この節は段落で項的なことを書いているのと同時に、その中でヘーゲルの四肢構造論的展開の押さえを通し番号で7つ錯分子的に織り込んでいます。その7つは、「第一に」「第二に」「第三に」・・・となっているのですが、項的な番号と紛らわしいので@AB・・・としておきます。
(この節の問題設定)序説――ヘーゲルの四肢構造論への廣松四肢構造論からの批判・対話
「ヘーゲルの「意識の経験の学」は、或る意味では、“四肢的構造”に定位して展開されていると言うことが一応は可能です。ところで迂生もかねがね「意識の四肢構造的存立構造」を云々しておりますので、学兄ならずとも、迂生がヘーゲルの“四肢性”をどう評価しているか、ひいてはまた、継承の関係について問い質されるかもしれません。/世上には、迂生の云為する四肢構造論は、ヘーゲルのヴァリアントにすぎないとか、マルクスの「価値形態論」の構図を一般化したものにすぎないとか、そのような受け取りかたをするむきがあることは先刻承知しております。」83Pとし、ここではマルクスとの関係までは展開しないとして、ヘーゲルの上昇的展開の論理構制を見据えるという設定に沿った論攷を進めるとしています。
第一段落――ヘーゲルにおける上昇的展開の論理構制 84-5P
@ 対象的所知の側の二肢的二重性について
「ヘーゲルは「感性的確知」論という原初的な場面において、対象的所知を「このもの」という個別性の相で呈示しつつ、それが実際は「普遍的なもの」であることを指摘してみせます。このかぎりでは、対象的所知が二重の相で把えられていると言えます。だが、果たして、当事意識は個別的なこのものと単なるそれ以上の普遍的なものとして、このものを謂うなれば個別性と普遍性との矛盾的な統一体として、二肢的二重性の相で対自的に意識しているのでしょうか? 当事意識は対象をば個別的なものとして感知し、「我々」観望者はそれが実は「普遍的なもの」であると認定する――“同じ”対象が、一者にとっては個別的なものと私念され、他者にとっては普遍者と認識される――という具合に、両規定の各々が当事意識と我々とに振り分けられてはいないでしょうか? この点はじつに微妙です。・・・・・・少なくとも第一階梯の内部では、当初の私念における個別的なものが単なる個別ではなく同時にじつは普遍的なものであるという対自化、そのような意識的進展はみられません。第一階梯の内部では、当事意識にとって(für es)とわれわれ哲学的観望者にとって(für uns)とが分裂したままであり、どちらの意識にとっても対自的には二肢的二重性は存立しておりません。拙速を憚らずに言えば、前便でみた「緒論」では、ヘーゲルは「意識にとっての即自存在」と「この即自存在の意識に−対する−存在」との二肢的二重性を押さえており、この両契機の不一致を転機とする進展の構制を予示しておりましたが、第一階梯ではこの自己吟味の構制は生かされていないように見受けられます。」84-5Pと展開しています。以前書いたわたしの取り違えの元になりますが、ヘーゲル的観望は、二重の導き手的存在を措くことになるから、哲学的観望にはなりえない。「観望」の違いに留目すること。
A 能知的主観の側の二肢性について
「感性的確知論においては、能知的主観が、個別的な私という相で登場し、それがわれわれの見地からみれば普遍的な私、謂うなれば諸々の私が代入されうる一種の函数ƒ(χ)的な普遍者であることの指摘はおこなわれます。が、少なくとも第二階梯の内部では、私念されている個別者としての私が単なる個別者以上のものであること、私は同時に普遍者でもあるごとき個別者として“二肢的な自己矛盾的な二重性の統一者”であること、このことは対自化されません。要言すれば、フェア・エスなる個別者とフェア・ウンスな普遍者との分立相、この意味での二重規定はみられますが、そして、この二重性がやがては統一される筈なのですが、しかし、感性的確知の次元では当事意識の二肢的二重性は対自化されることなく、次のステップへと進行してしまいます。総じて、能知的主観に関する第二階梯でのヘーゲルの立論は、対象的所知に関する第一階梯での立場とパラレルですから、対象の側に即して上述したところがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する筈です。」85P
第二段落――ヘーゲルは四肢構造が押さえられていないこと、弁証法の配備の不備 85-9P
「ヘーゲルの場合、所知の側についても能知の側についても、一応は二重的規定性がみられ、そこに俟って、甫めて彼の展望が可能になっていることは確かなのですが、しかし、対自的な二肢的二重性、両契機合わせて都合「四肢的な構造」ということは彼の「意識」の原基的な構造としては押さえられておりません。二肢それぞれの存在性格の討究といった次元に立ち入れば、卑見との相違が愈々大きくなりますが、さしあたり構造上の形式面だけから申しても、ヘーゲルは四肢的構造を真には把えていないと評さざるをえない所以です。」と押さえて、「爰で、第三の階梯に即した議論に進む前に、敢て銘記しておきたい」85-6Pとして3つの提起をします。なお、これは、この節の冒頭に書いたように、ヘーゲルの不備の指摘として通し番号にしています。
B 前記の二項に併せて、意識の基礎的な構造の把え方に関わる論点として、当事意識の本源的な間主観性が逸せられていること
「この件については、「相互承認」ということが問題になる「自己意識論」以降の問題だと言われかねませんが、自己意識論においても「自我」(他人)が対象として登場するだけであって、真の間主観性にはなっておりません。或る意味ではヘーゲルが間主観性を説こうと腐心しておりながら、ついに成功しなかった理由の根本は、意識の本源的な構造の場面で間主観性を逸したことにあると言うこともできます。勿論ヘーゲルが自己意識以降の個所で間主観性の問題を扱っている事実に鑑みれば、ここで云々するのは拙速というものですけど、当座の文脈では、此の私は「これは樹である」と言い、他の私は「これは家である」という「臆言」合戦の相以上では自他の関係が勘案されていないこと、しかも両者の間には「対話」が成立していないこと、この点を看過できません。感性的確知の私念が両つの「私」の対話を通じて変化していくわけではありません。成程、ヘーゲルは、両者の臆言合戦によって「一方の真理は他方の真理のうちで消失する」旨を述べてはおります。が、しかし、直ちに「このさい消失しないのは、普遍的なものとしての私であり」云々という議論で承けていることからも判りますように、私念の内容が対話を通じて止揚されるという機制になっておりません。」86-7P
C そのうえ、当事主体われわれのあいだにも対話が成立するわけではないこと
「対話的構造は、当事主体とわれわれのあいだにすら存立しません。このことは「緒論」で、当事意識の自己吟味が云々され、「われわれ」哲学的観望者は静観するだけだと、言明されていた機制からいって、当然といえば当然のことですけれども、対話なき弁証法というこの“特徴的事実”は銘記に値する筈です。実際問題としては、勿論、ヘーゲルは建前に反するかたちで、一種の対話的進行をおこなわせてはおります。しかしながら、感性的確知論の範囲でいうかぎり、当事意識は二肢的二重性を対自化しませんので内なる対話をおこなうわけでもなく、また他の自我とのあいだに対話をおこなうわけでもなく、「われわれ」とのあいだの対話をおこなうわけでもない。こういう意想外な機制になっていることを否めません。」87Pこの後に、「観望者」という概念がでてきます。この「観望者」はエンドクサを展開する「観望者」で、さらにwirという概念をヘーゲルは曖昧に使い、術語的にも使っている旨を書いています。また「ヘーゲル本人にとっては、esとwirとの呼応的機制ということが喧伝されているほどに重視されていなかった」88Pということを書いています。そもそもヘーゲルには哲学的観望者としての「われわれ」というものが、根源的に存立し得るかということがあります。絶対精神とエンドクサをもつ「われわれ」としか、存立し得ないのではないかと思ったりしています。このあたりは、ヘーゲルの読み直しが必要になります。
D 間主観性とも本質的に関係する否定ということの取扱いついて(の)問題(性)
「「否定」ということは、弁証法においては特に重要な概念」88Pと押さえたところで、「ヘーゲルにおいては、対象的規定における「相違」ということと「否定」ということとがしはしば重なってしまいます。彼はスピノザを踏んでomnis determination est(すべての規定は否定なり)と言うのですから、彼にとってはそれは当然かもしれませんけれども、これは戴けません。弁証法的否定は、対象変容的な否定であり、故にこそ「否定の否定」が元の木阿弥の単純な肯定に還らないわけでして、ここでは否定における作用ということが問題になる筈です。しかるにヘーゲルの場合、この点での構制がはっきりしておりません。同趣の問題が「肯定」の場合についても当然生じます。それでは一体「肯定」と「否定」はどのように定位されるのか? ここでは、「異・同」や「有・無」との関係に主題的には立ち入りませんが、卑見を結論的に申せば、肯定・否定ということは間主観的な場面で、謂わば“対話的”な構制の場において成立するものの筈です。(ところが、普通には、それが物象化されて、しばしば対象そのものの自存的な内的契機であるかのように見立てられており、このことから悲喜劇的な混乱が各方面でおこっている次第です)。二肢的二重性において指定される“対象”(これは二肢的二重性の構造において、謂わば“原始的判断”の構造成態)の自分への帰属性、対自己的帰属性と対他者的帰属性、この場面における同感と違和から肯・否が岐れるのではないでしょうか。そして、不協和を介しての対象的措定の変容、それがいわゆる弁証法的否定の対象変容的能作なのであって、否定作用といっても、何かしら物理作用に類するかたちで対象を変化させるわけではない道理です。・・・・・・真実には、一者が命題Aを主張し、他者が命題Bを主張するという対立、この相違・対立を両者が自覚するところから、相互に相手の主張の「否定」ということが生じるのではないでしょうか。そして、この相互的な否定の対自化および自己の主張の相対化という“対話”的構制において、「これ」なるものは、樹でも家でもなく且つ樹でもあるのだということ、この意味で謂わば函数的な普遍であるあることが“対話”的構制を通じて当事主体本人に対自化され、上昇的止揚が生じるというのが実態ではないでしょうか。しかるに、ヘーゲルは否定ということを初めから対象化してしまっており、このような対話的な対自的上昇の構制をとっていないことは上述の通りです。」88-9P
第三段落――言語による言表と直接的指示取扱いを巡る問題(第三階梯) 89-92P
(この項の問題設定)「ヘーゲルにおいては、「関係」態としての意識の対自的・対他的な間主観的帰属性の構制が原基的な構図として押さえられておらず、そのために上昇的展開が建前上は“対話的”な進展にはなりえない形に陥っていること」89-90Pこのことを念頭において次の検討に入るとしています。
E 言語による言表と直接的指示の取扱いを巡る問題
「ヘーゲルにあっては、「言語」というものが――これを以って「意識の現実態」とするマルクス・エンゲルスとはおよそ異なって――間主観的な対話的交流の脈絡を捨象されて、殆んどもっぱら主体−客体の関係の場で定位されます。勿論言語の間主観性を全く捨象してしまうことは不可能であり、ヘーゲルといえどもそのことを忘れているわけではありません。がしかし、いわゆる『イエナ実在哲学T』で言語の問題を扱った当初から、彼の場合、主・客を媒介する道具としての定位が強く、本源的な間主観的存立性が明示的でない憾みが遺ります。・・・・・・ヘーゲルとしては、「指示」機能と「言表」の機能を区別し、前者はむしろ言語以前的な機能と考えた様子ですから、外在的な批判をしても始まりません。それにしても、しかし、ヘーゲルは、今は夜である、今は昼である……といった一連の提題から、「今」の普遍性を立論するさいに、“今”という語で指示される対象とこの語の表わす意味とを混淆してはいないでしょうか。感性的確知が対象の個別性を私念しているのは、指示される対象的与件の在り方のはずです。ところが、ヘーゲルは、「今」という言葉の意味に話を摩り替えて、意味の普遍性を指摘することによって済ませております。・・・・・・第三階梯の「指示」ですけれど、この階梯では、対象の側でも、主観の側でもなく、主客関係の一全体の個別性という確知が検討される建前になっております。しかも、「われわれ」のほうが歩み寄って、当事意識と謂わば合一することにおいて、当の「直接態」を指示してみせるという触れ込みです。ところが、実際の認識内容は「いま」と「ここ」の指示にしかなっておりません。尤も、ヘーゲルとしては対象のいまやここでなく、主客関係態のいまやここを指示したつもりだとも考えられます。この点で、第一階梯とは違うつもりなのでしょう。その点は認めたとしても、しかし、彼が論定しているのは「いま」および「ここ」が「今の単純な数多性」「此処の単純な数多性」であること、このことであって、件の全一的直接態の検討は全然おこなわれておりません。主題が摩り替えられてしまっております。そのうえ、「今」は指摘したとたんに過去(今ならざるもの)に変じてしまうと言い、「この指摘においてわれわれが見るのは一つの運動である」と言うとき、この運動は弁証法的な措定を通じて生起するのではなく、謂わば外的な、つまり、時間というものが絶対的に流れることに負うかたちになっております。つまり、運動が外在的・既在的です。この自動的な遷移の在り方でも、第一階梯の議論の埓を出るものとは認められません。・・・此処についても同様に論じられるとして・・・「いま」というのが「一日」というような幅のある今であること、「われわれ」の見地からはそうであること、このことがともかくにも立論されており、「いま」の普遍性といっても、抽象的な普遍ではなく、「一即多」なる「一」として論決されていることは一応認めてよいでしょう。がしかし、これが果たして個別性と普遍性という矛盾の統一でしょうか? 知覚論への移行の文脈その他でヘーゲル自身が認める通り、それはさしあたり「多の合在Zusammen」にすぎず、二肢的二重性の統一とは呼べそうにありません。こうして、「指示」される個別性といっても、「瞬間」や「点」ではなく一定の拡がりがある「このもの」であること、そして「拡がり」があってもやはり「一つのこのもの」であると認められること、他方では、この「このもの」に関する「言表」は謂うなれば函数的普遍性の性格をもつこと、確保された論点は如上に帰趨します。そして、これら二つの契機は二肢的二重性の相で統一されることなく、「一即多」としての「一」のモメントに定位して「知覚」の次元へと進む次第です。」90-2P
第四段落――暫定的小括 92-5P
F 暫定的小括
「ヘーゲルの論述では、「われわれ」が謂わば当事意識に成り変わって「指示」を試みたかぎりで、「われわれ」にとっては「一即多」が明らかになったわけですが、このことを当事意識が対自的に「経験」する経緯は何ら示されておりません。・・・・・・一体、感性的確知の内部では、どのようにして上向的展開が進行したのか当事意識の「自己吟味」がどう進展したのか、悠々疑問が深まるばかりです。既に指摘しました通り、ヘーゲルは、対象の二肢的二重性を把えませんので、「結論」にいう「即自存在」と「これの意識に対する存在」との一致・不一致を対自的には吟味しません。ですから、この自己吟味による進展は「感性的確知論」の内部では存立しえない仕儀になり了ります。・・・・・・次にまた、能知的主観の二肢的二重性を対自的に把えませんので、「内なる対話」を通じての進展の途も保証されません。更にはまた、他者と自己とへの対象的措定の帰属性、対他的帰属と対自的帰属、遡っては、他者の存在ということ、これを原基的な構図に組み込んでありませんため、「対話」的構制での進展も、少なくとも感性的確知の場面では、成立しません。そのうえ、「当事意識」と「われわれ」とのあいだにも対話は成立せず、一者の「経験」と他者の「観望」があるのみです。このように省みてみますと、「感性的確知論」の内部では、およそ上昇的進行が生ずべくもないはずなのです。」92-3P
「こうして理屈の上では、上昇的展開が進行すべくもない筈のところ、何とか“進展”するのは一体なぜどうしてなのか? その“秘密”を考えてみましょう。迂生自身としては、四肢的構造に定位しつつ、まさに対自と対他との対話的構制(このさい「われわれ」が対話の一方の当事者になる場合も含めます)を軸にして、弁証法的自己吟味の論理的展開を定式化したいのですが、――また、この視角からマルクスの弁証法を問題にする次第なのですが――、ヘーゲルの論理構制は、嚮に見ました通り、そうなってはおりません。とは申せ、擬似的な四肢性に定位することによって、あたかも対話的進展であるかのように読者をして思わしめる仕掛けになっており、そのゆえに、かにかくにもヘーゲル一流の“弁証法的展開”が進行する所以となります。この間の事情について稍々敷衍しておきましょう。」94Pとして「ヘーゲルの立論を「読む」者は、或る時には当事主体の立場に身を置き、或る時には著者たるヘーゲルの立場(我々ということで読者も著者たるヘーゲルに捲き添えにされる)に身を置きます。ヘーゲル自身は、建前上は観望するだけで、当事主体と対話しませんし、「我々」哲学的観望者も、当事主体と別の見方をすることはあっても、それを積極的に押しつけることはしません。だがしかし、「読者」は当事主体の立場と著者(ないし「われわれ」)の立場と両々扮技することにおいて、自分の内で“対話”します。というより、自分の内で、当事意識と「我々」とを対話させます。・・・・・・読者は、この内なる弁証法的対話を通じて、自から“向上”します。・・・・・・“内なる対話”が読者の“内”で進行する・・・・・・「読者」の“内なる対話”においては、対象的二契機と能知的二契機とが、読者の内的営為において四肢的な構造連関におかれるわけです。こうして、読者は、自分の内部で四肢的構造の論理構制を“自演”させられ、この自演的向上を「当事意識」の向上的展開と見做してしまう次第です。」94-5P
「爰では、ヘーゲルの「狡智」を難じようというのではありません。「読者」の内的過程としては、慥かに四肢的構造に定礎した弁証法的進行が実現するということ、こういう仕組みになっているかぎりで、ヘーゲルの上昇的展開法は――彼が論述するかぎりでの論理構造に即すれば必ずしも弁証法的進展が保証されない形になっているにもかかわらず、――弁証法的上昇の論理として実効性をもつことを追認できます。ヘーゲルにおける「上昇的展開」の論理構制のこの“秘密”を察知したからには、われわれとしてはあらためて「著者」と「読者」という契機を自覚的に組み込んで体系構成法を構築してしかるべき筈です。」95P
第五段落――まとめ 96P
「さしあたり、「感性的確知」論の内実という論材にしぼってでありますが、ヘーゲルの上昇的展開の実際が必ずしも「緒論」での定式の形通りにはなっていないこと、四肢的構造も擬似的であること、突き放した言い方をすれば、ヘーゲルの表層的論理では弁証法的進行は生ずべくもないということ、この種の指摘を延々とおこなったのは、何もヘーゲルを貶しめんがためではありません。彼の体系構成法の“秘密”を対自的に把え返し、それを自覚的な構制として組み込みつつ、真に弁証法的な論理構制を方法論化しようというのが趣意だった心算です。」96Pそこで次箋(章)の予告として「遺された案件に先立てて、「下降の途」についてその論理構制を問題にし、マルクスの弁証法における「下向・上向法」にもあらかじめ言及するのが順路かとも思います。」96Pとこの章を括っています。
第四信「下降」の途と上向的論述
(前便のまとめ)「前便では、ヘーゲル哲学における「意識」概念の特質を追認したうえで、『精神現象学』の第一章に即して「上昇」的展開の仕組みを、一瞥しておきました。――ヘーゲルのいう「意識の経験の学」は、一見したところでは四肢的な構造に定位しているかのようにみえますが、しかし、当事意識そのものの構造としては別段四肢的になっているわけではないこと、従って亦、当事意識は内的な対話をおこなうわけではないこと、「われわれ」(つまり、für unsといわれるさいのwir)とのあいだにすら対話的な構制が存立しないこと、それにもかかわらず、あたかも対話的構造での進展に想えるのは、「当事意識」(経験する意識es)の思念と「われわれ」(哲学的観望者wir)の認定という二重の措定を「読者」がその都度“裡”で扮技させられるため、謂うなれば「読者」の内において“対話”が進行する所為(「せい」のルビ)であること、・・・・・・/ヘーゲルが『精神現象学』の緒論で説く上昇的展開の方法論的機制からすれば、意識対象の二肢的な二重性、そこにおける二契機の“別異”性の対自化が進展を動議づける建前になっておりますけれども、「意識の経験の学」の上昇的展開の機構は、実際には、必ずしもそうはなっておりません。二肢的二重性の対自化は「われわれ」においてさえ、十全にはおこなわれないのが実態です。という次第で、二肢的二重性の対自化、ひいては四肢的連関性の対自化、これと相即する対話的構制ということが実際問題としてはもっぱら「読者」の営為に委ねられているのだとすれば、ヘーゲルの行論にとって「当事意識」という主体も「われわれ」という主体も必須ではないことになります。肝要なのは、「当事意識」が私念的に主張する提題と、「われわれ」が評定的に主張する提題、これら両つの主張内容であって、それを主張する主体は明示の要がありません。両つの主張内容が「読者」の裡(「うら」のルビ)で対話的に交錯し得れば足ります。露骨に言い換えれば、著者たるヘーゲルが「読者」の裡に両つのしかるべき提題を順次に泛かばせ、「読者」の内なる“対話”を通じて両提題を止揚させることができればそれで十分だということになります。/『精神現象学』以後の著作では、少なくとも表面的にみるかぎり、「当事意識」対「われわれ」という概念装置が消失します。勿論、或る種の文脈ではfür unsという道具立てが現われることもあり、歴史哲学その他でfür esということがあらためて重要な場面になる場面があります。また、即自とか対自とかいう概念の含みのうちにfür es, für unsという道具立てが“止揚”されているむきもあります。がしかし、基幹的な道具立てとしては表層から退きます。」97-9P
(この便・章の問題設定)「本箋では、以上のところを念頭に収めて、「下降」的展開の論理構制を一瞥し、さらには、マルクスにおける下向・上向の方法論的含意をも顧慮しつつ、われわれの採るべき体系機制法の対自化を行っていきたいと念います。」99P
一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
第一段落――下降と円環運動 99-101P
「抑々ヘーゲルの弁証法が「上昇」と「下降」の二途から成るという立論そのものからして学界の定見とは言い切れません。「学の体系第一部」として上梓とれた『精神現象学』――というよりも、当初予定されていた予備門ともいうべき『意識の経験の学』――が一種の「上昇」的展開を事とするものであることは割合いと広く認められると思います。がしかし、『精神現象学』の「序文」には、あの有名な「円環」云々の立論が見られます。それは、『大論理学』はもとより『エンチクロペティー』ゃ『歴史哲学』などでも復唱される持論であって、「自分の終局を自分の目的としてあらかじめ立てておいて、その終局を[循行の]端初となし、[循行運動の]遂行によってのみ、そして自分の[復帰した]終局によってのみ現実であるような円環」という議論です。『大論理学』の端初論のなかでは、「学にとって重要なことは、純然たる直接的なものが端初である、ということではなく、学の全体が、そこにおいて最初のものが最後のものでもあり、最後のものが最初のものでもあるような、円環運動をなすことである」と表現されております。円環運動である以上は、上昇・下降というような往復運動、ないし、折線上の運動はそもそも存立しないと言うべきではないでしょうか?」99-100P
「円環運動ということが余り無理をせずに言えるのは、第一に「論理学」、第二に「実在哲学」、第三に「論理学と実在哲学とを合わせた全体」(つまり、当初の予定では、「学の体系第二部」、後年の変更では『エンチクロペティー』に体現された「学の体系の全体」)、これら三様の体系に限られます。」101P
第二段落――円循環ということの破綻 101-6P
「ヘーゲル自身が言う「円環運動」とは、さしあたり、絶対者から出発して絶対者へと到達(還帰)する循行ですから、出発に即すれば下降、到達に即すれば上昇ということになり、・・・・・・/円環運動という言い方をヘーゲルが採ったのは・・・・・・主体=実体たる絶対者の自己疎外と自己恢復という神学的表象に照応させたものであること、・・・・・・『精神現象学』の序文で円環が云々されているのは、このようなヘーゲル哲学=神学の意想に即してであり、現に本文の終局たる絶対知論ではこの意味での円環の閉じ(完現)が立論されております。論理学から自然哲学を経て精神哲学に及ぶ体系も慥かにこの意味での円環になっております。(但し、論理学は「天地創造に先立っての神の思惟」にすぎず、論理学の終局たる絶対的理念から自然哲学への移行こそが「創造」に照応するかぎりでは、「実在哲学」の部分が実在的な円環運動になります)。存在論的ないし神学的な視角からみれば、神から出発して神へと帰向する運動、それが謂う所の円環運動にほかりません。」102-3P
「ヘーゲルとしては、しかし、このような存在論的了解と認識論的了解ないし論理学的意想とを“巧みに”重ね合わせます。ヘーゲルがこの着想を固めた機縁としては、二つのことが忖度されます。第一には、論理学(および「実在哲学」を含めての体系)の「端初」を権利づける脈絡、第二には、ラインホルトの方法論による触発です。これら二つの契機は勿論緊密に絡まっております。・・・・・・」103Pここで、ラインホルトへのヘーゲルの解説に入ります。「哲学は仮設的・蓋然的な真理をしか端初とすることができず、従って、哲学的営為は当初は探究でしかありえない、という考えであって、ラインホルトが彼の晩年に彼が繰りかえし力説したところである。・・・・・・(ラインホルトの見解においては)哲学においては前進はむしろ背進・定礎[Begründen=根拠づけ]であり、背進・定礎によってはじめて、端初とされたのが恣意的な想定ではなく、実際に、真理であったこと、しかも最初の真理であったことが両々明らかになる。・・・・・・最初のものが同様にまた根拠でもあり、最後のものは導出されたものである。最初のものから出発して正しい推論によって根拠として最後のものに到達するのであるから、この根拠こそ成果である」103-4Pここで、廣松さんの論攷になります。「前進とはとりもなおさず背進であるとい提題は、普通の場合、いわば直接的に、次々に根拠を遡っていくことを意味します。これでは、しかし、無限背進に陥りかねません。ヘーゲルは、これに対して、あの円環運動という表象を持込むことで、解決を図るわけです。ヘーゲルの場合時計になぞらえていえば、針が前進(出発点である十二時のところから遠ざかる)運動をすることが、逆向きに見れば、出発点に近づいて行くことを意味し、やがて、前進運動の果てに出発点に復帰する所以になります。こうして、出発点は、一面から見れば、そこから他が導出される根拠・原理であり、かつ同時に、他面から見れば、円環運動の連鎖によって根拠づけられる成果である、という次第です。」104P
「ヘーゲルの円環的論証行程という議論は、狭義の「論理」の次元でみるかぎり、たとえ真無限を云々してみたところで、所詮は循環論法という嘲笑を免れ得ないと思います。」104-5P
「翻って、ヘーゲルの行論の実際に即するとき、論理的には決して循環論法にはなってはおりません。・・・・・・ヘーゲルは無規定的な直接態から出発するわけでして、これは普通の意味での論理的根拠にもなりえなければ、論理的成果にもなりえません。端初がfür unsには既に絶対者だと言っても、認識のうえ、論理的行程のうえでは、無規定的な直接態は論理的循環の“環”を形成すべくもない筈です。存在論上の思い込みとしては前進=背進のつもりであるにせよ、論理的体系としては到底円環運動になっていない次第です。ですから、一面からいえば、ヘーゲルの体系は循環論証という非難を免れますし、他面からいえば、円環運動による端初の根拠づけという自称が論理的には成り立たないことになります。/「このもの」(das Diese)を対象とする感性的確知から絶対知へと高まっていく“精神現象学”の場合であれ、「純粋有」に始まり絶対精神に終る後年の場合であれ、同断です。」105P
「認識論上の論理展開としては、「学の体系第一部」では、直接的意識にとって具象的な次元から絶対知へと辿り着く途が歩まれ、「学の体系第二部」では直接的な意識にとっての抽象的次元から具象的・被媒介的な規定態への途が歩まれるわけで、このかぎりでは方向が逆になっており、これらはとうてい円環運動の前半・後半というような布置にはなりません。前者が「われわれにとっての先なるものから」の途、後者が「事柄にとっての先なるものから」の途にそれぞれ照応するとも申せるでしょう。」105-6P
「ヘーゲルの論理的展開の実態に即するかぎり、こうして、『精神現象学』においては原理(「アルケー」のルビ)へと上昇する途が歩まれるのに対して、「論理学」以下の体系では原理から下降する途が歩まれるということ――ヘーゲル本人の円環云々とう発言にもかかわらず――このことが認められます。けだし、われわれとしては、ヘーゲル弁証法における「下降」の途とそこにおける論理の機制について論件となしうる所以です。」106P
二 下降の三様式――移行・照映・発展
第一段落――ヘーゲル弁証法の没論理性 106-13P
前節との繋ぎを「この問題はマルクスが上昇(所謂「下向」)の途は学問的叙述以前のたかだか探求の手続にすぎないものと位置づけ、下降(彼の用語法では「上向」)の途だけを学にふさわしいものと見做した事情とも関係します。」106Pとして示し、ここからこの節に入っていきます。「アルケーからの「下降」的展開というとき、存在論上の構図としては、幾つかのパターンが考えられます。」106Pとして三つのパターンを示します。@「プラトン学派式の「流出」(emanatio)、つまりアルケーから具体的な諸定在が成層的に順次流出して形成されるという構図。」A「ミレトス学派式にアルケーが具体的な諸定在に現成するという構図。」B「フィヒテ流に、アルケーが自己を外化して具体的な諸定在へと転成するという構図。――・・・・・・「化体の構図」・・・・・・――」106-7P
「ヘーゲル哲学の場合・・・・・・総じては、主体=実体たる絶対精神の自己外化(Selbstentäußerung)と自己恢復という構図の点で、第三(B)のパターンに属することは申すまでもありません。しかし、これは存在論上の構図の話であって、・・・・・・彼は決して謂わば外部的に当の外化運動を描写するのではなく、学理の体系的展開としてはアルケーからの下降的展開を固有の内在的論理に則って方法的に遂行する姿勢をとります。ここに謂う方法的な展開の論理、それが下降の途における弁証法にほかなりません。」107P
「ヘーゲルにおける下降の論理が最も直截に顕われているはずの『論理学』に即して、・・・・・・「否定の否定」といった図式を措くかぎり、一貫した論理らしい論理の構制は、これといって存在しません。・・・・・・『精神現象学』の場合には、実情はともあれ、建前のうえでは、あの「緒論」で表明されているような、一貫した上昇の論理構制が存立します。それにひきかえ、『論理学』の場合には、ヘーゲルなりに一貫した“構制”があるにはちがいないのですが、マルクスも指摘する通り、実に奇妙です。」107P
「ヘーゲルの論理学は、ご承知のように、有論・本質論・概念論という三つの会下位部門から成っており、前二者が合して客観的論理学、概念論が主観的論理学と呼ばれます。そして、論理的進展のありかたが、各部門で相違します。ヘーゲルが『エンチクロペディー』の一六一節でみずから総括的に述べておりますように、進展のありかたは、有論では他者への「移行」(Übergehen)、本質論では固有の他者への「照映」(Scheinen)、概念論では「発展」(Entwickeln)です。・・・・・・・一通りこれらの各々を調べてみる必要がありますが、ここでは幾つかの典型的な部位を一瞥することで次善と」107-8Pする、ということで、この段落の続きでは有論――「移行」について展開しています。@有論――「移行」A本質論――「照映」B概念論――「発展」と番号を振って、メモをとります。
(@ 有論)「まず、有論冒頭の余りにも有名な「有・無・成」のトリアーデですが・・・・」
108Pで、ヘーゲルの引用をしています。今回は情報吸収よりも廣松理論の学習ノート取りをしているので、省きます。廣松さんの押さえから「ここでの進展、つまり移行の論理構制を見定めるためには、有といい無といい成といっても、これらは主語というよりもむしろ述語である」109Pとして「述語づけを抜きにしては、ないしは述語づけに先立っては、概念上はまだ、謂わば空虚なXたるにすぎない。そういう主語を殊更に茲で持出して命題(定義)のかたちにすることは無用であるばかりか、概念ならざる表象的規定が混淆的に泛ぶので有害ですらある。」109Pとして、「ヘーゲルとしては「絶対者は有である」「絶対者は成である」というような命題の形での措定を避けます。がしかし、内容的には、「論理的諸規定はすべて絶対者の諸定義」にほかならないということを銘記してかかる必要があります。」109Pとして
「このことを念頭において有・無・成という進展を分析してみましょう。」109Pと細かい展開に入ります。「第一段で、絶対者(といってもまだX)は「有である」ことが措定されます。が、この「有」という規定は、端初のここでは、「無規定的で単純な直接的なもの」にすぎませんから、「純粋な抽象」「絶対的に否定的なもの」であり、従ってこれを「直接的に受けとれば」、無と言うも同断です。こうしてXは無であるという第二段が措定されます。ところで、「有」と述語づけされるXと、「無」と述語づけされるXとは、実は同じもの(絶対者)ですから“当のXは有であり且つ無である”という矛盾命題が定立された所以となります。しかし、単にそのかぎりでは、つまり「有」かつ「無」という措定のかぎりでは、矛盾であっても、「成」とは言えない筈です。有から無への移行(消滅)、無から有への移行(生成)があってはじめて「成」と言えるようになります。だが、この「移行」(厳密には「移行してしまっているということ」)はどこから生ずるのでしょう。」109-10Pと著者は問います。そして「移行が生ずるとすれば、それは「読者」が同じ主語的対象について「有(無)である」という認定から「無(有)である」という認定へと推移することを俟ってです。「読者」が一箇同一の主語=対象に関して“先程は有(無)であったが今では無(有)である”と“統一的に”認定すること、「移行」はひとえに、この「読者」の認定に懸っております。」110Pと答えます。そして「著者たるヘーゲルは「読者」の裡なる認定を推移させ、しかもそのさい主語=対象の自己同一性把持させるかぎりで、「読者」の裡で認定の移行が生じ、「正・反」両命題の“内なる対話”を通じて“否定の否定”たる「合」が現成する。これが実態です。しかるにヘーゲルは、あたかも、「正」がそれ自身で「反」に移行し、正反が相互に移行し合い、「合」がひとりでに現成するかのように論じます。」110Pとして、「併せて指摘」110Pするとして
「ヘーゲルの建前では、有論の範囲における進展は移行というかたちをとることになっておりますけれども、実地には必ずしもそうはなっておりません。また常に正反合というかたちの進展になっているわけでもありません。先にも引用しました通り、「成はそれ自身の内なる矛盾によって崩壊し、有無がそこで止揚されているごとき統一となる。その成果が定有である」という仕方で、「成」から「定有」への進展が説かれます。」110-1Pそこから「或る意味からいえば、「成」と「定有」とはまったく同じものであって、合の相でみるか、一つの正の相でみるかの見方の相違にすぎない」111Pとして、「実態においては、「読者」が「成る」という相での把握から「成ったもの(=定有)」という相での把握に推移すること、これにつきると言うべきでしょう。ここには、いずれにせよ、反立的な否定による進展も、自動的移行も存在しません。」111Pとします。
さらに補足として「「移行」の典型たる「定有」の場面での進展の構成」111Pをみるとして「「定有するもの」たる「或るもの」(Etwas)は「その質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。或るものは他のものになる。だが、この他のものはそれ自身一つの或るものである。ゆえに、これも同じく一つの他のものになる。かくして、[悪無限的に]限りなく続いていく。」111Pと展開しています。さらに「しかし、定有が「可変的(Für-anderrs-sein) 」であるという論点は、『小論理学』の場合、全く唐突に、何らの説明ぬきに断定されるだけです。そしてこの断定にもとづいて、「他のもの」への移行ということが論断されます。ここには論理の飛躍があるどころの話ではありません。」112Pとして「「読者」は、有限な存在者と聞けば直ちに可変的ということを納得してしまうものと当てにされている風情です。そして、そのかぎりで、定有は有限なり、エルゴ、定有は可変的なり、エルゴ、定有は別の定有に「移行」する、というように、有論の範囲における進展のありかた、つまり「移行」ということが没論理的に強弁されている始末です。」112Pとこの項をまとめています。
第二段落――「照映」と「発展」 113-7P
第一段落で有論――「移行」について展開していて、ここでは、後の二つ、本質論――「照映」と概念論――「発展」についての展開になっています。
(A本質論)「本質論の場面におけるヘーゲルは、対策に内属する固有の性質と称されるものが、実はことごとく関係規定の反照である」113Pと押さえ、「関係の一次性の洞察ともいうべきこの観方は、既に定有論の個所にもみられますが、本質論においては、それが「固有の他者」との照影的反照の関係として論定されます。これは瞠目すべき議論です。がしかし、本質的存在を関係規定の相で把え返すということは、そのまま直ちに論理的進展を意味する筈はありません。」113Pとして、『大論理学』『小論理学』からの引用に入っています。
それを受けて著者の展開「本質の次元における諸規定は、一見したところ、それぞれ自己完結的にみえ、それ自身で当の規定であるかのように思えますけれども、実際には、固有の他者との反照規定という相での対他的関係規定にほかなりません。同一性といい、積極的なものといい、それ自体で同一とかそれ自体で積極とかであるわけではなく、固有の他者たる区別とか、消極とかの反照関係においてのみ同一性であり積極的なものであるわけです。これは、決して単なる外面的な反省、単なる概念規定上のことではありません。磁石の北極と南極など、一般に「両極性」(Poalität)と呼ばれるものを考えてみれば、それが実在的な反照的関係規定であることが判ります。ここまでは正当な指摘です。ところがヘーゲルは、こういう両極的な対立項の各々は即自的にも対自的にも、当の他者と「同じもの」(dasselbe)であると強弁します。つまり、同一事態(一箇同一の関係態)の両契機だという域をこえて、両契機の各々が他者を自分自身のうちに含むという言い方をします。そして、この矛盾、つまり、「同じもの」が対立的両極の、一者であり且つ他者でもあるという矛盾から「没落」が生ずると強弁するに及ぶ次第なのです。/ヘーゲルが説く「照映」というありかたでの進展、本質論の場面における進展の論理、これが無理を孕んでいることは詳しく指摘するまでもありますまい。反照ないし照映はそれ自身としては存在上の進展をもたらす筈もありません。進展が生ずるとすれば、それは「読者」が“項”ないし“極”を自己完結的なものとして悟性的な抽象態において固定していた思念から、反照的な関係規定態に即した概念的把握へ進むこと、この把え返しに際して、悟性的に固定化された抽象的規定を述語にするかぎりでは矛盾的対立の両極的被措定項が止揚(正・反・合)されること、著者たるヘーゲルに仕向けられた「読者」のこの営為に俟ってのことです。」114-5P
(B「概念論」)「「概念論」の次元での進展の論理、すなわち「発展」について」115P
「ヘーゲルの「概念論」は、御承知の通り、狭義の概念論ではなく、判断論や推理論をも内容とするものであって伝統的な意味での論理学の全体をカヴァーするものと言うこともできます。有論・本質論の部分が・・・・・・伝統的な形而上学ないし存在論に照応し、概念論の部分がいわゆる論理学に照応するところから、ヘーゲル自身、前者の部分を「客観的論理学」、後論の部分を「主観的論理学」と呼んでおります。」115-6Pこのことは「一つには、概念論といっても、内容的にはイデー論であり、機械的関係・化学的関係・目的的関係についての考察や生命論や意志論などまで含まれていること、もう一つには「判断」といってもヘーゲルの場合、いわゆる“判断”とは把え方が違うこと、このため、普通の意味での「主観的論理学」とは似て非なるものになっております。」116Pとして、
「進展の論理たる発展」116Pについて、ヘーゲルの引用に入ります。「概念も判断も単にわれわれの頭のなかにあるのではなく、単にわれわれによって形成されるものでもない、ということを銘記するのにも役立てることができる。概念は事物それ自身に内在しているものであり、事物が現にそれであるところのものであるのは、概念が内在していることによってである。それゆえ、対象を概念的に把握するということは対象の概念を意識することにほかならない。対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰属せしめるのは、われわれの主観的な営為ではない。われわれは対象を、それの概念によって定立されている規定態において考察するのである」116-7P
ここからは著者のヘーゲルの部分引用によるヘーゲルの押さえです。「ヘーゲルによれば、判断とは外なる対象にわれわれの側が勝手に主観的な概念を述語として結合するものではなく、固有の概念的規定態によって即自的に現前する対象を謂わば追認的に、対自的な意識にもたらすことなのです。彼は「すべての事物は判断である」「すべての事物は推論である」と主張します」117P
で、「ヘーゲルのいう「発展」は、普通の意味での論理的展開とはおよそ様子が異なることになります。それは、即自的な概念的規定態からから対自的な概念規定態への推移にすぎず、判断者と彼における認識の進展は、あくまで観望者的です。極言すれば、対象の既存的な在り方を謂わば受動的に観望・追認・記述するという建前になりますから、ここは筋道の立った狭義の論理的進展は何ら保証されません。唯、「あらゆる規定は否定である」かぎりで、しかも、「否定」はあくまで「限定された否定」であるかぎりで、正・反・合という進展が観望されるであろうこと、このことは予期され」117Pる、というヘーゲルの押さえから
「これはもちろん、建前であって、ヘーゲルは実際には、決して単に植物の成長を見守る流儀で事を運んでいるわけではありません。」117Pと著者廣松さんはまとめ、次の節に移ります。
三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
(この節の問題設定)「ヘーゲルにおける「下降」の論理を見るためには、『論理学』だけでは不十分ですが、『論理学』に限っても詳しく祖述していたのでは涯(はて)しがありません。茲では、幾つかのトピカルな個所と建前を一瞥した範囲で拙速にも憚らず、マルクスの対ヘーゲル批判も顧慮しつつ、われわれの探るべき方法論上の構案を漸次対自化していく段取りです。」118P
第一段落――ヘーゲルの下降−マルクスの上向 118-9P
冒頭に著者はマルクスの『神聖家族』からの個別(<リンゴ・スモモ・イチゴ>)から普遍(<果物>)の弁証法を展開しています。そこで、マルクスのヘーゲルの普遍の化体としての個別という弁証法と批判を押さえ、マルクスの結論的文を引用しています。「思弁哲学者が、順次連綿と創造行為を達成するのは、……彼が、リンゴの表象からナシの表象に移行していく彼自身の活動を、絶対的主体の、すなわち<果物>の自己活動だと公言することによってである。この操作のことを、実態を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解すると呼ぶ。そしてこれがヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」119P
そこから、著者は「実態=主体たる絶対的精神の自己外化の過程として説述されるヘーゲルの「下降」的展開の“秘密”を鋭く剔抉してみせている」119Pで、「爰でヘーゲルの自然哲学や精神哲学もさることながら、論理学のわけても概念論の「発展」の論理を連想されることでしょう。」119Pとして
「マルクスのこの批判は、ヘーゲル哲学の存在論的な次元にまで一気に射程を及ぼしており、「下降」の論理に関する立ち入った批判というごとき準位は甫から彼の眼中にありません。119P」としつつ、著者は「われわれとしては、そういう次元にもこだわらざるを得ません。」119Pとして次項の展開に入ります。
第二段落――マルクスのヘーゲルに対する批判的継承=継承的批判として打ち出したマルクス自身の弁証法の図柄 120-4P
「マルクスは「弁証法」に関する主題的な論攷を遺しておりませんので、『資本論』その他から読み取るほかない次第ですが、ここでは彼が経済学の方法論に即して述べている所謂「上向法」の想起を求めます。――彼は学問的アプローチにおける二途を区別します。第一には、「実在的で具体的なもの」から出発して「分析的に」順次より単純な概念に遡る方途、つまり「表象された具体的なものから一段一段稀薄な抽象的一般者に進み、最も単純な諸規定に到達する」途行き。これが“下向”の途であり、抽象的普遍態から具体的諸定在にと進む第二の方途が「上向」の途です。これら両途は、同格的に並存するのではなく、マルクスによれば、第一の途(下向の途)はたかだか研究の手順でありえても学問的叙述の方法ではありえません。第二の途(上向の途)こそが「学問的に正しい方法」と認められます。」120P
そしてここから、マルクスからの引用で、「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直観や表象の出発点であるにもかかわらず、思考においては総括の過程として、成果として現われ出発点としては現われないのである。第一の途では、充実した表象が蒸発させられて抽象的な規定にされ、第二の途では、抽象的な諸規定が、思考の道を通って、具体的なものの再生産に到る。ヘーゲルは、このため、実在的なものを……思考の成果とみなす幻想に陥ったのであるが、しかし、抽象的なものから具体的なものとして(als ein geistig Konkretes)再生産する思考にとっての様式たるにすぎないのであって、決して具体的なもの自体の成立過程ではない。・・・・・・・。」120-1P
そして著者の論攷として「茲でとりあえず注目したいのは、具体的なものから抽象的なものへの下向、および、抽象的普遍的なものから具体的実在的なものへの上向、これら両途の方法論的区別そのことです。――マルクスはさしあたり経済学という学問分野での端初の措定や展開の仕方について論じているにすぎませんが、先の引用文からも窺える通り、彼の方法論上の構えは“哲学”的な次元にまで推及できます――。これを哲学的な次元での体系構制に推及して考えるとき、プラトン流の「上昇の途」はたかだか探究の途であって、学問の体系的叙述は「下降の途」でなければならない、という了解になりましょう。」121Pと展開し、
さらに「上昇の途の端初は、所詮ドクサ(臆見)乃至エンドクサ(一般に承認されている意見)でしかありません。そこから出発してエピステーメーへの到達が企図されますけれど、善のイデアとか絶対知とかいう“アニュポテトン(無前提なもの)”に到りつくという保証はありません。認識論上の権利からいえば、どこまで行ってもせいぜいエンドクサであり、原理上の終点には達しません。となりますと、「下降」を開始しようにも、その起点をつかめない仕儀に陥ります。ブラトンにせよ、ヘーゲルにせよ、また、アリストテレスやスコラ哲学者たちにせよ、下降の絶対的起点を設定できると信じていたかぎりで、彼等流の方法論を唱えることができました。しかるに、マルクスのように、理論の歴史的・社会的な相対性を自覚する者にとっては、絶対的な起点(下降のための絶対的な端初)などありえません。・・・・・・成程、そういうエンドクサたる“原理”から“下降”することは可能であり、マルクスとしてはまさにそういう“下降”(つまり彼の謂う「上向」)を試みます。がしかし、この上向は所詮エンドクサからの出発であるかぎり、認識論上の権利においては上昇の途と峻別されるものではありえません。言い換えれば、プラトンやヘーゲルの意味での上昇や下降との峻別は成り立たない」121-2Pとして、
そこから「所詮はエンドクサから出発せざるを得ない以上――そこには成程、より抽象的・一般的な“原理”へと遡上する方向と、より具象的・特殊的な“実在”へと降下する方向との区別はありえますけれども――“絶対的原理”の定立と称する方法論的過程(上昇=下向)は学の体系にとって必須的・内在的な契機ではなく、謂わば予備的な手続になります。勿論、この過程が不用とか価値が低いとかいうのではなく、学の体系(叙述体系)にとっては“埒外”という意味です。マルクスは、このゆえに、下向の途(“上昇”の途)を学の方法から“括りだし”てしまいます。彼にあっては、さしあたり、「上向」法こそが「学問的に正しい方法」とされる所以です。」122Pとし、
さらに論攷を進め「ヘーゲルが「円環運動」を云々したさい、上昇・下降という往復運動では方法論的・認識論的にみて問題が残るということを彼は意識していたのではないでしょうか。彼としては、端初と終局とを円環的に閉じさせることで、上昇・下降が悪無限に陥る危険性を防遏したかったのだと想えます。」122Pとして、さらに著者のヘーゲルのとらえ返しを通したマルクスのとらえ返しを続けます。「存在論上ないしは神学上の意義賦与(思い入れ)は別として、論理の行程という次元では、実際、円環的に閉じることは不可能です。もし、論理の行程上“円環”を閉じるとしたら、それこそ循環論法になってしまいます。マルクスが円環的構造を云々せず、下向と上向とを両半周として位置づけることをしなかったのは、ヘーゲルの挫折せる故知に鑑みるとき背綮(「はいけい」のルビ)にあたります。」122-3Pと押さえ、
最後にこの項のまとめに入ります。「マルクスの謂う下向・上向、これは皮相に読めばさして重大なことにはみえませんけれど、上昇・下降や円環運動といった先行者の方法論的配備との関係を省みるとき、非常に深い議論である事が認められる筈です。マルクスは、しかし、残念ながら、上向法の論理構制について主題的に詳説してはおりません。われわれとしては、『資本論』その他に即して、マルクスの弁証法的論理構制を対自的に顕揚しつつ、その意想と構案を継承的に展開する姿勢で事に当たるべき所以となります。」123-4P
第三段落――ヘーゲル弁証法のネガティヴな面とポジティヴな面 124-5P
「ヘーゲルにおける“下降”の弁証法は、論理的進展の機制に関しておよそ構案が調っておらず、「読者」の“内なる対話”を“狡智的に”進行せしめる配備となっているかぎりで辛うじて議論が進捗しうるにすぎません。あまつさえ、弁証法は抑々単なる“論理”ではなく、存在論・認識論と三位一体的に統一されており、ヘーゲルの場合、それは絶対的観念論と不可分の在り方をしております。そしてこのことが由因となって、実体=主体たる絶対者の自己運動(因みに『論理学』は「天地創造に先立っての神の思惟」とされております)として思念される“下降”の途にあっては、für esとfür unsという構制をはじめ“上昇”の途で勘案されていた有意義な契機が没却される事態を招いております。迂生に言わせれば、「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」との交錯した対話的構造を抜きにしては、上昇的であれ下降的であれ、そもそも弁証法が存立しえないのが道理です。“対話なき弁証法”、この没概念のもとでは、せいぜい読者の内なる擬似的対話を操ることしかできず、実質的には“託宣”の連続たらざるをえません。そこでは、有即無、同一即区別、肯定即否定、等々の弁証法的統一性が臆言に堕し、いわゆる「否定の否定」による正反合の進展もたかだか“観望的記述”に陥ってしまいます。」124-5Pとして、ネガティヴな面をここでは書いて来たとして、
「ヘーゲル弁証法のポジティヴなモメント」125Pの指摘として「分析と綜合、帰納と演繹、ひいては、発生的方法と批判的方法、これらをしかるべき仕方でヘーゲルがアウフヘーベンしていること、更にはまた、オブジェクト・レベルとメタ・レベルとの階型性をヘーゲルが巧みに踏んでいること」125Pと押さえています。
最後に次箋(章)の予告として、「これまでの確保した論点を緯(「よこいと」のルビ)に配しつつ、迂生なりの構案を経(「たていと」のルビ)として綴り、――因みに、下向の途というのはロッツェの謂うErsetzen(補完)の手続を通じて謂うなれば“原始函数”をfür unsに確定していく途行きであり、上向の途というのはラプラスやハイゼンベルグの“宇宙方程式”にも譬えるべき当の“原始函数”をシステマティックに充当・具象化していく途行きに準(「なぞ」のルビ)らえるのも一策かもしれません――その上で、あらためてヘーゲルやマルクスの弁証法についても立帰って卑見を述べる」125Pと書いています。
2024年04月01日
三上智恵監督「戦雲(いくさふむ)」
たわしの映像鑑賞メモ076
・三上智恵監督「戦雲(いくさふむ)」2024
三上監督の作品は、この映像鑑賞メモの最初で取り上げて以降、ずっと見ています。YouTubeで流されるテレビ局のアナウンサー兼ディレクター時代の映像とか三上さんのテレビに出たトークの映像とか、映画のアフタートークの映像とか、マガジン9とかの映像も追いかけています。最近、コロナ禍になって、そしてわたし自身がトイレが近くなって、劇場には映画を観に行かなくなって、専ら、少し遅れてのビデオ配信で映画を観るようになっていました。久しぶりの映画館での映画鑑賞です。アフタートーク付きの予約で見ようかと予約状況を調べたら、まだ少し席が空いていたのですが、途中でトイレに出られる席ではなかったので、少し日にちを遅らせて平日にしたのですが、予約制になっていて、しかも満席に近い状態、予約を取って喫茶店に行き時間になって戻ってきたときには、満席になっていました。最初の石垣島の山里節子さんの歌から涙が出てきて、三上さんがこの映画の宣伝であちこちのインターネットの情報番組に出ていて、「明るい映画にしました」と言っていたのに話が違うと思って観ていました(笑)。
そもそも、最初は沖縄のひとたちを守るためにと言っていたのに、そして基地の建設も監視のためとか言っていたのに、今の政治の嘘とごまかしの典型的なこと、象徴するようなことを推し進め、ミサイルの配備という、いざ戦争になったら最も攻撃を受けやすい武器の配置までなしてきています。
今回の映画がこれまでの三上さんの映画と少し違っているのは、人々の生活を描いていることです。戦争になったら避難計画で待避させるとかの計画を作っているのですが、そもそもの避難計画がどうなっていくのかは原発事故の避難で起きたことや、その計画の破綻、そして対馬丸事件などの歴史をとらえれば、これも嘘とごまかしの上塗りなのはあきらかなのです。ひとびとの日々の営みや祭りの様子などが、そして、この映画に出て来る牛や馬ややぎとかがどうなっていくのか、ぞっとするのは、フクシマ原発事故の牛の骨だけになった映像を観ていて、それと重なって、「ぞっと」がストレートに怒りにつながっていくのです。末端の自衛隊員や防衛省のひとたちが、「守りますよ」とか「避難の話」などしているのですが、わたしには原発誘致で動いていた電力会社の社員の話と重なりました。日々の生活や営みが、事故や戦争になったら、全部消え去るのです。なんとかして戦争になることを抑えなければならないのに、今、沖縄で起きているのは、全く真逆ことです。そして、それは沖縄だけでなく、「本土」でも、同様のことがどんどん進んでいるのです。
沖縄の反対運動をしているひとたちは、今回メインになっている山里節子さん(その即興の歌は心に突き刺さります)はじめ、今回は余り出てきませんが山城博治さんとかも、何人ものひとの「反対運動の名言集」として記録しておきたい発言がいくつも出ていて、ここに書き起こして置きたいのですが、またビデオとか出てきたときや買い求めた新書版の同名の本の読書メモで試みます。
そもそもどうして過去の戦争の歴史からひとは学ばないのか、どうして戦争がなくならないのか、わざわざ戦争への途を作り出すようなことをしていくのか、絶望的な思いの中で、それでも発言せざるをえないというところで反対運動があり、そして揺らいでいく容認派のひとや、そして反対運動のひとの言葉に衝き動かせられるであろう、自衛隊のひとたちも、この映画で描こうしています。自衛隊の隊員や家族が島の祭りとかにも参加するようになっていて、カヌーの競技で応援していた子どもに三上さんがインタビューしていると、鳥取からきたという話になって、お父さんが自衛隊員だと分かるというシーンが出てきます。その子どもが将来基地反対で沖縄に帰ってくるという想起が三上さんには起きたようです。わたしは電力会社の社員で賠償の担当をしていて、病んで労災を申請するようになり、東電と裁判をしているひとの話を、原発の反対運動の集会で聞いたことがあるのですが、その自衛隊のことどもがどんな思いで生きていくのだろうと想起してしまいました。
このメモは急遽挟みました。まだ劇場で上映中です。是非、劇場に観に行ってください。
・三上智恵監督「戦雲(いくさふむ)」2024
三上監督の作品は、この映像鑑賞メモの最初で取り上げて以降、ずっと見ています。YouTubeで流されるテレビ局のアナウンサー兼ディレクター時代の映像とか三上さんのテレビに出たトークの映像とか、映画のアフタートークの映像とか、マガジン9とかの映像も追いかけています。最近、コロナ禍になって、そしてわたし自身がトイレが近くなって、劇場には映画を観に行かなくなって、専ら、少し遅れてのビデオ配信で映画を観るようになっていました。久しぶりの映画館での映画鑑賞です。アフタートーク付きの予約で見ようかと予約状況を調べたら、まだ少し席が空いていたのですが、途中でトイレに出られる席ではなかったので、少し日にちを遅らせて平日にしたのですが、予約制になっていて、しかも満席に近い状態、予約を取って喫茶店に行き時間になって戻ってきたときには、満席になっていました。最初の石垣島の山里節子さんの歌から涙が出てきて、三上さんがこの映画の宣伝であちこちのインターネットの情報番組に出ていて、「明るい映画にしました」と言っていたのに話が違うと思って観ていました(笑)。
そもそも、最初は沖縄のひとたちを守るためにと言っていたのに、そして基地の建設も監視のためとか言っていたのに、今の政治の嘘とごまかしの典型的なこと、象徴するようなことを推し進め、ミサイルの配備という、いざ戦争になったら最も攻撃を受けやすい武器の配置までなしてきています。
今回の映画がこれまでの三上さんの映画と少し違っているのは、人々の生活を描いていることです。戦争になったら避難計画で待避させるとかの計画を作っているのですが、そもそもの避難計画がどうなっていくのかは原発事故の避難で起きたことや、その計画の破綻、そして対馬丸事件などの歴史をとらえれば、これも嘘とごまかしの上塗りなのはあきらかなのです。ひとびとの日々の営みや祭りの様子などが、そして、この映画に出て来る牛や馬ややぎとかがどうなっていくのか、ぞっとするのは、フクシマ原発事故の牛の骨だけになった映像を観ていて、それと重なって、「ぞっと」がストレートに怒りにつながっていくのです。末端の自衛隊員や防衛省のひとたちが、「守りますよ」とか「避難の話」などしているのですが、わたしには原発誘致で動いていた電力会社の社員の話と重なりました。日々の生活や営みが、事故や戦争になったら、全部消え去るのです。なんとかして戦争になることを抑えなければならないのに、今、沖縄で起きているのは、全く真逆ことです。そして、それは沖縄だけでなく、「本土」でも、同様のことがどんどん進んでいるのです。
沖縄の反対運動をしているひとたちは、今回メインになっている山里節子さん(その即興の歌は心に突き刺さります)はじめ、今回は余り出てきませんが山城博治さんとかも、何人ものひとの「反対運動の名言集」として記録しておきたい発言がいくつも出ていて、ここに書き起こして置きたいのですが、またビデオとか出てきたときや買い求めた新書版の同名の本の読書メモで試みます。
そもそもどうして過去の戦争の歴史からひとは学ばないのか、どうして戦争がなくならないのか、わざわざ戦争への途を作り出すようなことをしていくのか、絶望的な思いの中で、それでも発言せざるをえないというところで反対運動があり、そして揺らいでいく容認派のひとや、そして反対運動のひとの言葉に衝き動かせられるであろう、自衛隊のひとたちも、この映画で描こうしています。自衛隊の隊員や家族が島の祭りとかにも参加するようになっていて、カヌーの競技で応援していた子どもに三上さんがインタビューしていると、鳥取からきたという話になって、お父さんが自衛隊員だと分かるというシーンが出てきます。その子どもが将来基地反対で沖縄に帰ってくるという想起が三上さんには起きたようです。わたしは電力会社の社員で賠償の担当をしていて、病んで労災を申請するようになり、東電と裁判をしているひとの話を、原発の反対運動の集会で聞いたことがあるのですが、その自衛隊のことどもがどんな思いで生きていくのだろうと想起してしまいました。
このメモは急遽挟みました。まだ劇場で上映中です。是非、劇場に観に行ってください。
TBS「報道特集」――特集「安楽死@A」
たわしの映像鑑賞メモ075
・TBS「報道特集」――特集「安楽死@A」2024.3.16 17:30〜18:50
この「報道特集」は、今、マスコミで一番リベラルな番組で毎週録画もして、家に居るときはライブで観続けている番組です。この文を打ち込んでいるのは、すでにこの文を載せる「反障害通信」146号の「インターネットへの投稿から」に載せているフェイスブックへの投稿文の後です。その中でも書いたのですが、観ていて一体「報道特集」はどうしたのだろうと感じていました。@Aと分けているのですが、@は以前NHKが作った番組と同じようになっていると思いました。Aの最後までちゃんと観てほしいと分けることではなかったと思っています。マスコミはどうしても報道の中立性という幻想にとらわれてしまうようで、両論併記の「客観的」報道にしてしまい、問題を堀りさげようとしません。それでも、「報道特集」はいろんな課題で、かなり掘り下げてきたのですが。
さて、スイスでは「安楽死」を認める法律はないようで、日本も含めてスイスに死に場所を求めていく事態になっているのは、自分で薬を飲むとか点滴のストッパーを自分で開けるという方法で、自殺幇助的なことを法的に罰しない――許容しているところでの起きている事態のようです。ですが、そもそも「安楽死」の議論は末期癌のひとの苦痛を取り除けないというところで起きてきた議論で、現実にできる医者に出会えるかどうかがあるようですが、癌の苦痛はほとんど取り除けると言われています。そこで、精神的苦痛という案件もいれたようです。実際、この番組で最初に取り上げられた「フランス人男性」は医者から苦痛を取り除く処置をしますよ、と言われているのを断ってスイス行きを決めたようです。その他のスイスに来ているこの番組に出ているひとを見るとほとんど「肉体的苦痛」の案件になっていないようです。そもそも、現在的には、「安楽死」を精神的苦痛に適応するのなら、働けなくなったひとは死を選択できますよという映画「PLAN75」(註1)の世界になってしまいます。
三人目の思いとどまった「日本人女性」は、車いすを押して付添で来ていたお父さんとの間で、「わたしが死にたいというのは、わたしのエゴで、それを止めようとするのはお父さんのエゴだ」という話をしていました。自分がこのまま「安楽死」したら、お父さんが生きれなくなってしまうと思い止まったのだけど、「エゴ」という言葉で一対一の関係しか見れなくなっているのですが、そもそも、二人目の「日本人女性」、「パーキンソン病」ということですが、そのひとに記者兼ティレクターのひとが、「同じような境遇のひとに与える影響を考えないのか」という主旨の問いかけをしています(これはNHKの番組との徹底した違いですが)。わたしはヒットラーがT4計画で殺した人たちの中に「パーキンソン病」のひとがいたことを想起しました。
この「安楽死」と言われていることは、ここで取り上げられている範囲では、実は「中途障害者」や「進行性の」「障害者」のひとの話なのです。
わたしは他殺――自殺という対比の中で、「自殺」と言われることは、社会の差別的関係の中で殺されるという側面があるとして、「他殺ではない」とは言えないという意味で「自死」という言葉を使おうと提起してきたのですが、実は、自分の中で、他者性として現れてくる「障害」(「障害の医学モデル」へのとらわれ)なることを受け入れられないで、自らを消滅させるという意味で、「障害者」殺しではないかと押さえ直しています。自らの命は自分のものである、いうところで行う行為ですが、それは共同的な関係で生きているところで、「自らの命は自らのものである」ということは成り立たないのです。だからこそ、三人目の女性は思い止まりました。最初の「フランス人男性」には、妹が付き添っていました。そのショックはきっと癒えないと思います。
さて、そもそも政治家が「老害」とか語り、「90過ぎて延命なんていつまで生きるつもりなんだよ」と公の場で発言した麻生太郎元副総裁、数々の差別発言を繰り返してきた政治家が政府の中枢にとどまり続けていました。なぜ、即刻議員辞職まで追いこまれ、2度と政治家に返り咲けないという情況が作り出せないのでしょうか?
そもそも、新自由主義的政策や考え方が広まり「自己決定権の尊重」とかいう名目で、医療や福祉の場面で、「延命処置を望むか望まないか」という選択を迫られる、これは医療や福祉の切り捨て・抑制という名の政権への忖度で、本末転倒の「死へ誘う医療・福祉」という情況さえ生まれてきています。
そんな社会状況の中で、障害差別的意識・世界観・人間観に取り込まれていくのです。そういう中で、「自ら選択する死」に追いこまれるのです。
さて、わたしも心理的マージナリティに陥り易い「障害者」として、思春期を自死願望とその戯れの中で生きていました。ですが、「障害者」宣言を成したところで、「障害者運動主体」として定立したところで、自死するということは、文字通り「障害者」殺しになってしまうのだと思い始めました。自死にはならない、「障害者殺し」としての「自殺」なのです。
勿論、「障害者運動主体」として定立することに失敗することによって、自死を選択していく構造があるのですが、それらのことを、人間観・世界観から掘り起こして提起して行く必要があります。この番組でALSの岡部さんが語り、あちこちで講演しているように、「死にたい」という思いをもつひとと対話していく必要があるのです。
以前、オーストラリアのバリバリの官僚(註2)で、「認知症」になったひとが当事者運動を起こしていった記録があります。その中で、以前は同時にいつくものことがやれたし、やれないひとを批判していた、「認知症」なった後に、自分の世界観が変わり得たことをむしろ喜んでいる、という主旨の話をし、書いています。
そもそも「障害者」と規定される存在になるということで、むしろ、それを否定的にとらえるのではなく、反転させて、自分の存在を反転的に突き出していく、そんな世界観や人間観もあるのです(註3)。
そもそも社会が「障害」を「障害者」がもっている医学モデル的な規定のなかで、否定的に規定しているので、苦難の途なのですが。
(註)
1 たわしの映像鑑賞メモ073/・早川千絵監督「PLAN75」2022
2 たわしの読書メモ・・ブログ202/・クリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界』クリエイツかもがわ2003
たわしの読書メモ・・ブログ203/・クリスティーン・ブライデン『私は私になっていく―痴呆とダンスを』クリエイツかもがわ2004
パートナーの名にしたので名前が変わっていますが、同じ著者です。
3 わたしが出した本、三村洋明『反障害原論』世界書院2010「第4章 「障害者が障害をもっている」とは」「2節 「「中途障害者」の苦しみ、病気や公害における「障害」の否定性」への批判」を参照してください。
・TBS「報道特集」――特集「安楽死@A」2024.3.16 17:30〜18:50
この「報道特集」は、今、マスコミで一番リベラルな番組で毎週録画もして、家に居るときはライブで観続けている番組です。この文を打ち込んでいるのは、すでにこの文を載せる「反障害通信」146号の「インターネットへの投稿から」に載せているフェイスブックへの投稿文の後です。その中でも書いたのですが、観ていて一体「報道特集」はどうしたのだろうと感じていました。@Aと分けているのですが、@は以前NHKが作った番組と同じようになっていると思いました。Aの最後までちゃんと観てほしいと分けることではなかったと思っています。マスコミはどうしても報道の中立性という幻想にとらわれてしまうようで、両論併記の「客観的」報道にしてしまい、問題を堀りさげようとしません。それでも、「報道特集」はいろんな課題で、かなり掘り下げてきたのですが。
さて、スイスでは「安楽死」を認める法律はないようで、日本も含めてスイスに死に場所を求めていく事態になっているのは、自分で薬を飲むとか点滴のストッパーを自分で開けるという方法で、自殺幇助的なことを法的に罰しない――許容しているところでの起きている事態のようです。ですが、そもそも「安楽死」の議論は末期癌のひとの苦痛を取り除けないというところで起きてきた議論で、現実にできる医者に出会えるかどうかがあるようですが、癌の苦痛はほとんど取り除けると言われています。そこで、精神的苦痛という案件もいれたようです。実際、この番組で最初に取り上げられた「フランス人男性」は医者から苦痛を取り除く処置をしますよ、と言われているのを断ってスイス行きを決めたようです。その他のスイスに来ているこの番組に出ているひとを見るとほとんど「肉体的苦痛」の案件になっていないようです。そもそも、現在的には、「安楽死」を精神的苦痛に適応するのなら、働けなくなったひとは死を選択できますよという映画「PLAN75」(註1)の世界になってしまいます。
三人目の思いとどまった「日本人女性」は、車いすを押して付添で来ていたお父さんとの間で、「わたしが死にたいというのは、わたしのエゴで、それを止めようとするのはお父さんのエゴだ」という話をしていました。自分がこのまま「安楽死」したら、お父さんが生きれなくなってしまうと思い止まったのだけど、「エゴ」という言葉で一対一の関係しか見れなくなっているのですが、そもそも、二人目の「日本人女性」、「パーキンソン病」ということですが、そのひとに記者兼ティレクターのひとが、「同じような境遇のひとに与える影響を考えないのか」という主旨の問いかけをしています(これはNHKの番組との徹底した違いですが)。わたしはヒットラーがT4計画で殺した人たちの中に「パーキンソン病」のひとがいたことを想起しました。
この「安楽死」と言われていることは、ここで取り上げられている範囲では、実は「中途障害者」や「進行性の」「障害者」のひとの話なのです。
わたしは他殺――自殺という対比の中で、「自殺」と言われることは、社会の差別的関係の中で殺されるという側面があるとして、「他殺ではない」とは言えないという意味で「自死」という言葉を使おうと提起してきたのですが、実は、自分の中で、他者性として現れてくる「障害」(「障害の医学モデル」へのとらわれ)なることを受け入れられないで、自らを消滅させるという意味で、「障害者」殺しではないかと押さえ直しています。自らの命は自分のものである、いうところで行う行為ですが、それは共同的な関係で生きているところで、「自らの命は自らのものである」ということは成り立たないのです。だからこそ、三人目の女性は思い止まりました。最初の「フランス人男性」には、妹が付き添っていました。そのショックはきっと癒えないと思います。
さて、そもそも政治家が「老害」とか語り、「90過ぎて延命なんていつまで生きるつもりなんだよ」と公の場で発言した麻生太郎元副総裁、数々の差別発言を繰り返してきた政治家が政府の中枢にとどまり続けていました。なぜ、即刻議員辞職まで追いこまれ、2度と政治家に返り咲けないという情況が作り出せないのでしょうか?
そもそも、新自由主義的政策や考え方が広まり「自己決定権の尊重」とかいう名目で、医療や福祉の場面で、「延命処置を望むか望まないか」という選択を迫られる、これは医療や福祉の切り捨て・抑制という名の政権への忖度で、本末転倒の「死へ誘う医療・福祉」という情況さえ生まれてきています。
そんな社会状況の中で、障害差別的意識・世界観・人間観に取り込まれていくのです。そういう中で、「自ら選択する死」に追いこまれるのです。
さて、わたしも心理的マージナリティに陥り易い「障害者」として、思春期を自死願望とその戯れの中で生きていました。ですが、「障害者」宣言を成したところで、「障害者運動主体」として定立したところで、自死するということは、文字通り「障害者」殺しになってしまうのだと思い始めました。自死にはならない、「障害者殺し」としての「自殺」なのです。
勿論、「障害者運動主体」として定立することに失敗することによって、自死を選択していく構造があるのですが、それらのことを、人間観・世界観から掘り起こして提起して行く必要があります。この番組でALSの岡部さんが語り、あちこちで講演しているように、「死にたい」という思いをもつひとと対話していく必要があるのです。
以前、オーストラリアのバリバリの官僚(註2)で、「認知症」になったひとが当事者運動を起こしていった記録があります。その中で、以前は同時にいつくものことがやれたし、やれないひとを批判していた、「認知症」なった後に、自分の世界観が変わり得たことをむしろ喜んでいる、という主旨の話をし、書いています。
そもそも「障害者」と規定される存在になるということで、むしろ、それを否定的にとらえるのではなく、反転させて、自分の存在を反転的に突き出していく、そんな世界観や人間観もあるのです(註3)。
そもそも社会が「障害」を「障害者」がもっている医学モデル的な規定のなかで、否定的に規定しているので、苦難の途なのですが。
(註)
1 たわしの映像鑑賞メモ073/・早川千絵監督「PLAN75」2022
2 たわしの読書メモ・・ブログ202/・クリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界』クリエイツかもがわ2003
たわしの読書メモ・・ブログ203/・クリスティーン・ブライデン『私は私になっていく―痴呆とダンスを』クリエイツかもがわ2004
パートナーの名にしたので名前が変わっていますが、同じ著者です。
3 わたしが出した本、三村洋明『反障害原論』世界書院2010「第4章 「障害者が障害をもっている」とは」「2節 「「中途障害者」の苦しみ、病気や公害における「障害」の否定性」への批判」を参照してください。
廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(1)
たわしの読書メモ・・ブログ654[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(1)
この本の初出は、「『現代思想』に十二回にわたって連載した書簡体の論攷「弁証法における体系構成法」」@Pです。この本は、わたしの読書計画では、実は『物象化論の構図』の後に、そして基幹学習の最後の主著の『存在と意味』のひとつ前に再読する予定でしたが、前から書いているように、für es(当事者意識)とfür uns(第三者・学的意識)の弁証法で、「とんでもない」取り違えをしているのに気付いて、その検証を早急にしておきたいと、先に読むことにしました(宿題@)。丁度執筆順にもなっているようです。実は、もうひとつの懸念がでています。この本には目次には載っていない、「啓上」で始まる、「はじめに」か「序(文)」に当たるような文があるのですが、それをさっと流し読みしていて、「弁証法は単なる論理学ではなく、存在論および認識論と三位一体的な統一態をなすものである以上・・・・・・」CPとあり、わたしはこの三位一体性はヘーゲル弁証法で、廣松さんは存在論を入れると絶対精神の自己展開となる故に、存在論は切り離すことだとしていると押さえていました。これも、この本の中で検証していくことになります(宿題A)。以上2点の宿題に関しては、後述あるいは「追記」で書こうと思っています。
さて、この本は廣松さんにしては珍しく対話的な書簡方式の文になっています。で、註などもついていません。で、分かりやすい、読みやすい文になっているのかと言えば、そんなことはないのです。そもそも廣松さん自身が、「自家了解」BPという詞を使っています。この本は、『著作集』二巻に所収されていて、その解説を書いている高橋洋児さんが、ドゥールズ/ガタリの概念でしょうか、「リゾーム状」という詞を用いて、現しています。要するに他の著と根っこ的にひろがり絡み合っているような展開になっていて、実際にこの著の中で、他の著を参照というようなことを連発しています。それを書き出して、構成していくと、きっと何冊かの本になるかと思います。勿論、それはきっと主著の『存在と意味』への途になっているのでしょう。尤も、『存在と意味』で弁証法ということばを余り使っていないという話です(高橋さんの解説)。頭のなかに入って展開しているところを、読み出していくというところで、『存在と意味』自体がまた膨大な書き込みになっていきます。だから、「読みやすい」というのは、余りにも難しいから、それを軽減するために書簡体にしたという話にすぎません。
さて、その「はじめに」にあたる文の中で、この本の位置づけに当たる文が出て来ます。
「・・・・・・本書は著者自身にとっては枢要と自認される論攷の一つです。著者がもしこれまで世に問うた十余冊の自著のうち三冊の自撰を求められるとすれば、躊躇なくその一冊として本書を数えます。本書は、別著『存在と意味』を江湖に送り出すための直截の予備作業であり、且つ同時に、固有の存在意義を有するものと念う所以です。」@Pとあります。この著は、ヘーゲルの弁証法との対話の中で、自らの体系を構成していく廣松弁証法の構築ということを目指して書かれた著で、『存在と意味』につながる重要な著です。
そういうことで、またほとんど対話に踏み込むメモもとれないままの全文切り抜きのような膨大な切り抜きになりそうなのですが、多分、廣松さんの過去の文を読んでいないひとにはほとんど理解出来ないだろうし、わたし自身の備忘録としても、余り用を為さなくなります。で、今回は思い切って、メモを導入的に使ってそこに切り抜きを入れるという方法にします。
また、節にあたる「一」「二」「三」の中に、それぞれ段落があり、それが項的になっているので、それに、「お笑いぐさ」になりそうなのですが、学習的に「恥ずることが学び」というところで表題をつけていきます。
まずは、目次を挙げます。太字にはなっていないのですが、わたしの文との区別をつけるために太字にします。目次は、そもそも「体系構制」というときき、同様に展開していくのか、というときに、それ自身が対話−分析の対象になるのでしょうし、ヘーゲルやカント、アリストテレスなどの体系構制と対比させながら、押さえていく作業が必要になるのだと想いますが、そもそも基礎学習をなしていないわたしにはとてもできません。とりあえず複書するに止めます。
目 次
第一信「端初」の設定をめぐって
一 プラトン・アリストテレスの弁証法
二 帰納法的手続の先取(註)性と論理的悖理
三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第二信「意識の経験の学」のの構制
一 『精神現象学』緒論における見取図
二 「現象知」を叙述する方法論的構案
三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第三信「上昇的展開」と四肢構造
一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
二 『精神現象学』本論の構制上の実態
三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
第四信「下降」の途と上向的論述
一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
二 下降の三様式――移行・照映・発展
三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
第五信「方法論的展開相」の構図
一 ヘーゲル弁証法の「三階梯」的進展
二 弁証法的否定の論理構制上の“仕組”
三 成素複合型と有機醸成型の体系構制
第六信「原始函数」の整型と充当
一 所謂「分類」および「抽象」の実相
二 系列的整序の諸相と函数概念的補完
三 「原始函数」整型の洞見性と相対性
第七信「判断」の機制と関係規定
一 主語的対象に関する実体主義の排却
二 「主語−述語」構造と函数的連関態
三 所謂「個体的特性」と関係態の結節
第八信「主辞−賓辞」と函数成態
一 主語的与件と述語的規定との関係相
二 主語・述語規定の「対他的」反照関係
三 判断成態と「函数−変項」の内的構制
第九信「変化」の記述と当体措定
一 実体的個体の物理的「没自己同一性」
二 遷移の当体と「可能態」・「現実態」
三 変化の諸相と「函数態的当体」の措定
第十信「肯定・否定」と存在様相
一 「存在様相」をめぐる問題論的構制
二 「肯定」・「否定」と間主観的妥当性
三 「判断措定」の命題成態への内自化
第十一信「対論」の論理と推理連鎖
一 論理的「根本定律」の事実性と規範性
二 所謂「因果的必然性」と当為的必然性
三 推理連鎖の論理的機能と真偽の価値
第十二信「叙述体系」と著者・読者
一 体系にとっての「端初」とエンドクサ
二 著者と読者との「協働」的概念把握
三 叙述体系の真理必然性と論理必然性
(註)目次では「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。本文中で、ここに当たるところは、全部「先取」となっているので、「取」としておきます。
さて、目次にはないのですが、冒頭の導入文に書いている、「啓上」で始まる「はじめに」にとか、「序」当たるような文から始めます。導入文に書いているのは重複するので省きます。ここからは斜文字がわたしの文です。「 」内の文章は引用文です。
序(文)に当たる部分
なぜ「弁証法」を問題にするのかという件がでてきます。「・・・・・・本来的には「弁証法」は決して単なる論理ではなく、また、「哲学大系」は断じて博物誌の謂いではない筈です。・・・・・・故実に鑑みるとき、目下冀求されうるのは、革(「あた」のルビ)らしい視座と指針の生きにとどまるとも思えます。しかし、著者の看るところでは新しいパラダイムの構図は既に先哲の事績を通じて開示されており、暫定的にせよ、それを受け留めて体定型化することが課題をなす局面を夙に迎えているように見受けられます。著者が就中マルクスを念頭に置きつつ「弁証法における体系構成法」の対自化を試みたのは、けだし、この了解に基づくものにほかなりません。」AP
形式論理学と弁証法の論理との関係性についての廣松さんの説明が出てきます。
「著者に言わせれば弁証法的理性論理が形式的悟性論理をアウフヘーベンしているということは、決して弁証法が形式論理の体系を既成の体系としてそのまま下位的な予備部門として包摂している謂いではありませんし、また両者の関係をユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係になぞらえるのも剴切ではありません。形式論理学と弁証法との関係は、平面的にであれ立面的にであれ、既成の体系どうしの関係として単層的に扱うことでは済まないのであって、われわれとしては、弁証法的理性論理がダイナミックな論理展開にさいして、形式的悟性論理の分別知(ディアノイア)をその都度のモメントとしつつ内在的に止揚していく構制を方法論的に式述することをこそ要件とします。」BPここのところ、弁証法が形式論理学を包含するものではなく、そこにパラダイム的転換が在るとの話としてわたしは押さえています。ひとつ、わたしが過去にユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へのパラダイム転換を書いたことは、ここの廣松さんの文を読んでいくと、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学に包含されるようにも読み取れるので、これについては、後に検証します(宿題B)。
さて、このメモの冒頭でわたしが宿題Aとした存在論および認識論、論理学の三位一体性の問題、肯定・否定両面的な文がでてきます。「認識がもし客観的対象の単純なる模写であるとすれば、“自存的な”客体自体とやらの主宰のもとに、“三位一体”が成立しうるかもしれません。だが、模写論が大前提とする「主観−客観」の二元論的図式そのものが妥当しないことは爰に絮言を要せぬところでして、・・・・・・そこでの大前提たる「主観−客観」図式を止揚する地平において「三位一体」の定礎を要します。精確に言えば、むしろ、弁証法的な三位一体を支える構制に即してこそはじめて「主観−客観」図式の止揚も可能になる、と申さねばなりますまい。けだし弁証法に関する論攷は、単なる方法論的手続の次元を超えて、存在論や認識論の準位への関説を余儀なくさせる所以です。・・・・・・(小さなポイントで)「事実世界が如何にして可能であるか」という哲学的論及において、存在論・認識論・論理学が三位一体化する所以・・・・・・」CPそもそもヘーゲルにおいて、「事実世界が如何にして可能であるか」で、絶対精神の自己展開が出てきたのです。後に、歴史的存在という所で三位一体性を認めるとヘーゲルの絶対精神の自己展開という陥穽に陥ってしまうということがこの本の中でも展開されていたので、そこで改めて指摘しつつ、後の書も含めて「切断する」という件が後に出てこないか、検証します。この宿題は継続です。
「序」の通例にならって「これらの論件は本書ではじめて立入ってみた」こととして、章にあたる「第○信」をあげていませんが、この本の内容展開をしています。なお、これも試論としてだいたいどの章(第○信)で展開されているかを書いてみます。
「伝統的な実体主義的存在観と相即する「実体−属性」の構制に代えて「函数−変項」の構制を関係主義的な存在観に照応するかたちで導入するにあたっての「主語−述語」関係の函数概念的な規定態の検討(第七信)。論理学に所謂「判断の質」つまり「肯定・否定」を間(「かん」のルビ)主観的な場で第一次的に定位し、思考なるものを本源的に“内なる対話”として了解する弁証法的思惟観の構制をこの点からも照射しつつ、「積極的事態」「消極的事態」の物象化が成立する機序を討究する作業(第十信)。「存在様相」の問題を現代物理学の自然観・法則観と見合うかたちで把え返しつつ、「可能態から現実態への転成」という構図を「必然性と偶然性の統一」という弁証法的法則観と併せて「弁証法的転化」論の構制とリンクさせる試論(第九信)。弁証法的対話のフェア・エスとフェア・ウンスという域にとどめることなく「著者」と「読者」との協働的営為の場面をも含めて方法論的に対自化する考案の模索(第十二信)。――論理的必然性と因果的必然性、当為的必然性と事実的必然性の関係という問題については詳説と断案を持ち越すことにしましたけれども(第十一信で少し展開)――、・・・・・・・」DP
この著で、ヘーゲル弁証法との対峙というところで、カッシラー/ロッツェの函数的連関態という概念がかなり詳しく展開されていて、実体主義からパラダイム転換した関係性の第一次性ということにつながり、三項図式批判、四肢構造論と展開していく流れが立てられてきます。それが『存在と意味』にどう繋がっていくのか、まさに廣松さんにとって重要な著作になっています。この著は、ヘーゲルを軸にした弁証法に関する基礎知識という前半と、後半での廣松さん自身の理論的展開とに分かれています。前半はかなり飛ばし気味にして、後半についてとらえ返しを深めようと思います。
(追記)
(宿題@)に関して、とんでもない勘違いをしていたことを書きましたが、このわたしの勘違いは単に、語学的な錯誤だけでないということもとらえ返しています。それは、ヘーゲルのフェア・ウンスという「観望」は、マルクス的な廣松的なフェア・ウンス、すなわち、哲学的「観望」、学的、第三者的とらえ返しとは違ってエンドクサ的「観望」のままになっていることをこの本を再読する中でとらえ返しています。おまけに、障害問題を論じてきたわたしの立場としては、フェア・エスの訳語として使われている「当事意識」という概念になると、「障害者運動」の理論化の中で言われている「当事者主体」というとらえ方があり、マジョリティのwirわれわれ的な意識よりも差別に関しては根源的なとらえ返しができるという考えがあり、そこでショートを起こしたのだともとらえ返しています。また、そもそもこの社会の価値観に多くのひとがとらわれているという意味での、wirわれわれ的な意識のエンドクサ、これがまさにわたしが誤読したかもしれない、ヘーゲル的な「観望」なのですが、そんなところでのwir批判がありました。そんな思いの中での錯誤でした。実際には、ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、それをさらにアウフヘーベンして、マルクスの・廣松のフェア・ウンスがあるとしてとらえていたところで、いつの間にか、それがたわしの頭のなかでショートしてマルクスの・廣松のフェア・エスとフェア・ウンスがひっくり返っていたというお笑いぐさになっていたのです。「ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、」というところは、アウフヘーベンではなくて、どちらもエンドクサでしょうが、「障害者運動」的にとらえ返した「当事者主体」という概念では、どうなるのかは検討の余地があるのかもしれません。
第一信「端初」の設定をめぐって
「拝呈」に始まる序
「「弁証法」をめぐる論件のうち、「体系構成法」に関わる方法について卑見を綴る」7Pとこの著のサブタイトルになっていることの説明を兼ねて主題を述べています。そして、その始まりを「議論の順序として、まずやはり「端緒」の設定をめぐる問題点にふれておくべきかと考えます。惟えば、これはヘーゲルの場合のみならず、プラトンやアリストテレスの場合においてもすでに、論理構制としての弁証法が分出的に岐れる「基(「もと」のルビ)」であり、端初論の周辺を照射することによって、弁証法の論理的特質を隈取ることができるものと予期されます。・・・・・・」7-8Pと押さえています。
一 プラトン・アリストテレスの弁証法
(この節の問題設定)「弁証法の学祖として、ゼノンを挙げるか、ヘラクレイトスに遡るか、これは議論のあるところですが、体系的構成法という見地からするかぎり、とりあえずプラトンから問題にしていけば足るはずです。」8P
第一段落――ブラトンの弁証法 8-10P
ここからは段落のページ数をわたしの仮表題の後ろに挙げています。
「ディアレクティケー(弁証法διαλεκτική)という言葉にディアロゴス(対話)テクネー(術)という原義が生きて」8Pいて、「プラトンの弁証法が学知の方法的展開と密接不可分」と展開しています。そして、プラトンの「創立した学院(「アカデメイア」のルビ)の門に「幾何学を知らざる者は入るべからず」と掲示した」8Pけれど、「幾何学の方法ですら駄目であるからこそ弁証法というものが要件にな」9Pり、プラトンは「幾何学が依然として感性的直観の援けを借りるから理性知(「ノエーシス」のルビ)に徹せぬこと、たかだか悟性知(「ディアノイア」のルビ)にすぎない廉で卻けるのです。」9Pということをとりあげ、「哲学者は、出発点に据える前提的事ス題と自明の真理とみなすのではなく、それをあくまでも一つの仮設という資格づけのもとに仮定しつつ、そこから一定の帰結を導き、この帰結に徴して最初の仮設的命題を吟味(「エレンケイン」のルビ)し、論駁(「アナイレイン」のルビ)する・・・・・・・そこで、もう一次元高い仮説がおのずと泛かび、これを前提として内的対話が継続され、吟味・論駁があらためて遂行される。そして、更に……という具合に進行します。」9Pと弁証法的途行き(上向)を説明します。そこで、それでは無際限、懐疑論にならないかという質問(自問)に「理性の所知は、『国家(「ポリティア」のルビ)』篇の有名な条りを援用していえば、「ロゴスそのものが対話の力[ヘー・トゥー・ディアレゲスタイ・デュミナス=弁証の能力]によって把握するところのものであって、この場合、ロゴスはさまざまな仮説的前提(「ヒュポテシス」のルビ)を絶対的原理(「アルケー」のルビ)とするのではなく、文字通りヒュポテシス[ὑπόθεσις ヒュポ=下に、テシス=置かれたもの]となし、謂わば踏み台・跳躍台として扱いつつ、万有の原理(「アルケー」のルビ)[端初・始原・原基]へと上昇し、無前提の[アニュポテトン=仮説(ヒュポテシス)ではない]ものにまで到達する。そして、一旦、その原基(「アルケー」のルビ)を把握したうえで、今度は逆に、アルケーに依存しているものを次々に辿りながら終局に到るまで下降していくのであるが、そのさい、およそ感覚的に知られているものを何一つ援用することなく、もっぱら形相(「エイドス」のルビ)そのものだけを用い、形相から形相へと動き、形相に達して終わるのである」・・・・・・・。」10Pさらにプラトンは「彼の場合、上昇(「エクバシス」のルビ)の到達点、つまり下降(「カタバシス」のルビ)の出発点となるのは――マルクスの謂う「上向」「下向」と逆の言い方になっていることに注意して頂きたいのですが――申すまでもなく「善のイデア」です。踏み台となる仮設から出発して吟味・論駁を重ねていけば、弁証の能力によって、ついに無前提のもの、もはや仮定ならざるもの、アニュポテトンたる善のイデアに到達する。ですから、無際限な遍歴にはならない、というのがプラトンの確信です。」10P・・・この「上向」「下向」がマルクスと逆になっているというのは、唯物論と観念論から来ているのではと思ったりしています。ですが、「上向」「下向」の概念がプラトンから来ていることを押さええます。
第二段落――アリストテレスの弁証法とプラトンとの対質 10-4P
ここで、アリストテレスを取り上げます。アリストテレスは「形式論理学の元祖」とされていて、エンゲルスの「最大の弁証法家」という規定を笑う者がいるけれど、そんな簡単なことではないとして、アリストテレスの弁証法の端初論的な押さえをしていきます。
「アリストテレスは広義の「推理」(シュロギスモス=推論)、すなわち「或ることが定立されると、それとは別の或ることが、当の定立されたものによって必然的に帰結するような論語方式(「ロゴス」のルビ)」を四種に区分します。第一が「論証」、第二が「弁証法推理」、第三が「争論的推理」、第四が「誤謬推理」です。/第一のアポデイクシス(論証)というのは「真実なる最初のことどもから出発しておこなわれる推論、ないしは、真実なる最初のことどもから認識の端初がつかまれるような前提を起点とする推論」。/第二のディアレクティコス・シュロギスモスというのは、「一般に承認されている意見(「エンドクサ」のルビ)」から出発しておこなわれる推論。/第三のエリスティコス・シュロギスモスというのは「一般に承認されている意見のようにみえて実はそうではないもの」から出発しておこなわれる推論/第四のパラロギスモスというのは「幾何学やそれと同類の諸学においてよく起こる」ことだが「その学問に固有ではあるが真実ではない想定」から出発する推論と、規定されます。/これらの四者の相違は、ご覧の通り、この意味での端初の設定の仕方、というよりも端初命題の認識論上の権利に応じるものです。」10-2Pとしていて、慥かに「第一の「論証的推論」の方を第二の「弁証的推論」より上位に価値づけてい」12Pて、アリストテレスは「弁証法(「ディアレクティケー」のルビ)を最上位に置いたプラトンとは異なって、弁証術(「ディアレクティケー」のルビ)は論証法(「アポデイクティケー」のルビ)より貶置されます。」12Pが、「「真実なる最初のもの」を定立する手続の場面で、アリストテレス自ら弁証的推論の有効性を認めて」13-4Pいます。それは次のアリストテレスの言に現れています。「「それは、提出された問題の肯否両方の難点を見出し、それぞれについてどこが真でどこが偽であるかを容易に認識できる。また個々の学問の諸原理の第一のものを認識するうえでも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一[最初・根本]のものであるから、当面の学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、個々のものに関する一般に承認されている意見(エンドクサ)からそれを究明しなければならない。このことは弁証術に特有な、乃至は少なくとも固有な仕事である。弁証法は吟味検討に適しており、あらゆる方法的学問の諸原理へと近づく道を保持している」・・・・・・。」14Pということからして、「アリストテレスも、実際上は、ブラトンのいう上昇・下降と同様な方途を考えていたことになり、俗説のように、アリストテレスは専ら論証法を顕彰して弁証法を貶価したとは言い切れぬ道理です。」14Pと著者は押さえています。
第三段落――プラトンとアリストテレスの端初論まとめ 14-7P
さて、端初論のまとめに入ります。「学知の体系的講述を期する場合、絶対的に確実な原理[端初]から出発して、論理必然的な展開とは抑々如何なることかという大問題は暫く預かりとして、ここで早速に問題になるのが、謂う所の端的に確実な端初を如何にして設定するかという点です。」15Pと問題を立てます。そして、「プラトンやアリストテレスの場合、弁証法ということが要件になるのは、展開の論理の場面においてではなく、まさに出発点の設定、第一原理の設定の場面においてなのです。このことからも「端初(「アンファング」のルビ)」の設定が弁証法にとってもつ重要性をあらためて知る所以ともなります。」16Pとして、プラトンとアリストテレスの対質として、「プラトンの場合でいえば、文字通りのヒュポテシスを踏み台としてヒュポテシス吟味・論駁を重ねていく過程には、原理上の終局はないということになりますし、アリストテレスの場合でいえば、一般に承認されている意見からの展開しかありえないことになります。つまり、「無前提」とか「真実なる最初のことども」といっても、それは所詮、一種のエンドクサたるヒュポテシスにすぎない、ということになってしまいます。」16-7Pと押さえます。
さてこの節のまとめ、結論的命題として「プラトンやアリストテレスの志向は諒としつつも、端初命題はたかだかエンドクサたるヒュポテシス(仮設)でしかありえない・・・・・・・」17Pとしています。これは、マルクス・廣松さんの弁証法にまで至ることなのだと理解していますが、このことでわたしが想起したのは、真鍋淑郎さんの二酸化炭素温暖化説(註)を、その当否はわたしには検証できないままでいますが、シミュレーションモデルを使った統計学的、すなわち廣松さんのいう函数的連関態を確率函数的なところにつながることで見出していく試行を想起しています。
(註)
「たわしの読書メモ・・ブログ628/・真鍋淑郎・アンソニー・J・ブロッコリー/増田耕一・安倍彩子監訳・宮本寿代訳『地球温暖化はなぜ起こるのか 気候モデルで探る 過去・現在・未来の地球』講談社(ブルーバックス)2022」(「反障害通信135号」所収)参照 135 (taica.info)
二 帰納法的手続の先取性と論理的悖理
前節からの引き継いだ端初論の問題論的構制の話をまとめています。「或る意味からいえば、哲学者たちは端初の論理的無根拠性の故にこそ方法論的に苦心してきた次第でして、この事実の対自化から事が始まるとすら申せます。プラトンがいかなる方法論的意識を懐いて上昇(「エクバシス」のルビ)の途を追求したか、デカルトがcogito ergo sumという端初を設定すべく何故あのような方法論的懐疑(「ドウト・メトディンク」のルビ)を展開したのか、ヘーゲルが端初論をいかなる想いで開陳したのか、このような論件に立ち入るまでもなく、端初の論理的無根拠性というとき、その「論理」は「前提から帰結を導出」するという構造になっていること、しかし、この「導出(「デドクチオ」のルビ)」という論理の構造そのものからして問い返す必要があること、この一事を省みただけでも、端初は無根拠なりという命題そのものがプロブレマーティシュ(問題構成的)であることが判ります。」18P
第一段落――第一原理(端初)の設定の再論的整理 18-21P
端初設定の帰納的方法がアプリオリズムに陥っていく構図を描いています。「一般論として、研究を進めるに当たっては、「われわれにとって先なるもの(「ブロス・ヘーマース」のルビ)」からア・ポステリオリな手続を通じて「事柄にとって先なるもの」へと遡及して行くのが普通です。この際、「われわれにとって先なるもの」には、感性的な経験知(「エムベイリア」のルビ)と常識的な意見(「ドクサ」のルビ)とがありますが、それらは個別的ないし特殊的なものと言えましょう。研究の進捗は、これらの“知識”に分析と綜合を施し、真偽を検討し、特殊的な知見から普遍的な知見を措定します。」18Pで、「普通、第一原理の措定に先行する手続は、就中、帰納的抽象による普遍化であると考えられておりますので、この手続の内実というか、論理的構造を茲で検討しておきましょう。因みに、アリストテレスも弁証術的な推論の一種として帰納法を挙げ、「帰納 επαγωγήとは個々のものともから一般的なものへと上昇する道である」と述べております。」19Pというところで、<犬>という概念でのとらえ返しをして「一群の与件を比較校合の素材として確定する場面で、既にいちはやく、つまり、帰納的抽象に取掛かる以前に、(アプリオリに)抽象さるべき当の概念を知っており、それを基準にしているということになります。勿論、与件群を確立する場面で既に知っている犬の概念は漠然たるものにすぎず、帰納的抽象の作業を介してそれか確然たるものになるのだ、と言うこともできます。だが、たとえ漠然とであれ、犬という概念をあらかじめ知っていたのはどのようにしてでしょう。それは少なくとも帰納的抽象によってではない筈です。帰納的抽象に先立って知っているのですから、そうなると、話はそこでは止まりません。普遍概念の抽象というのは、抽象によって導出されるのではなく、帰納的抽象の手続を介して明確化されるだけだ、つまり、漠然としていたものが明確になるだけだ、ということに話が進んでしまいます。漠然とであるがアプリオリに知っていたのだ? 現にそういう主張が存在します。」19-20Pということの中で、「とどのつまりは、まさに帰納的に抽出さるべき当の概念そのものという仕儀になります。ここでもまた、帰納的抽象に先立って、当の概念そのものを取捨の基準として、あらかじめ知っている、という循環に陥っている次第なのです。」20-1Pと、循環、無限遡及に陥っていく構図を押さえ、「帰納的抽象説が論理場の循環と先取を免れないことは慥かです。帰納的抽象の作業は、人々がそう信じているように、個別から普遍を初めて取出すものではないこと、それはたかだかのところ、既知の漠然たる普遍概念を明確化するものにすぎないということ――帰納的抽象によって普遍概念や普遍命題を導出するという理説は、謂う所の抽出作業に際して、外延的素材群選取する基準として、また、内包的規定性を取捨する基準として、当の普遍概念や普遍命題をあらかじめ知っているという先取と循環に陥るということ――、論理的にはこれが正しい認定です。」21Pと結論付けます。
第二段落――アプリオリズムの止揚の途 21-3P
前段落で陥ったアプリオリズムの指摘として「論証的推論の出発点(「アルケー」のルビ)となる普遍概念や普遍命題、ひいてはまた論理規則を以って、経験的・帰納的に導出されたものと見做すことには論理的難点(先取と循環)があるということ、この事実が一因となってアプリオリズムが生じる所以ともなります。」21Pそこで、「端初の論理的無根拠性という先にみた論点と絡むかぎりで、もう一つには、ヘーゲルの或る議論と絡むかぎりで、若干の問題点を確認しておきたい」22Pとして「論証的推論の端初たるべき普遍概念・普遍命題は、経験的・帰納的な抽象という手続で導出されるものではないにしても、帰納的過程を通じて明晰化するということが認められるとすれば、ここには或る媒介的過程を機縁として、即自的な普遍が対自的普遍へと現成すると考える余地が残されております。この対自的措定は、或る根拠からの論理的導出ではありませんから、当の対自的措定態は無根拠(論理的脈絡上での無根拠)であり、直接態です。但し、端的な直接態であるのかといえば、即自態から転成したものという意味では被媒介態(間接態)ですし、また、対自化の機縁(論理的な推論による論証的な導出ではないというかぎりでの促成的機縁)となる論考の過程に俟っているという意味においても被媒介態です。とすれば、論証的展開の端初(「アルケー」のルビ)として対自化された普遍者は、単なる直接態ではなく、直接性と媒介性との統一としての直接態と言うことも許されるのではないでしょうか。/ヘーゲルが「端初」を直接性と媒介性の統一として規定していることは御承知の通りです。」22Pとして「即自態における普遍者は必ずしも認識主観に生具的みなされる必要はありませんし、また、対自態における普遍者の現成は必ずしも特殊な認識能力の発動とみなされるにも及びません。――即自的な規定態から対自的な規定態への転成という構図を埋めるためには、さしあたり、ヘーゲル式に、熟知されたもの(「ベカント」のルビ)(つまり常識的知見(「ドクサ」のルビ)の次元でよく知られているもの)から認識されたもの(「エルカント」のルビ)(つまり、学知的認識(「エピステーメー」のルビ)の次元で厳に知られているもの)への転成ということが保証されれば足ります。/こうして、アプリオリズムを採ることなく、また、帰納的抽象による導出という強弁に陥ることもなく、それでいて、論理的展開の「端初」を――藪から棒の直接性・臆断としてではなく――一定の媒介的機縁に俟って対自的に措定されたものとして設定される途が拓かれ得ます。」22-3Pそして、補足説明的なまとめです。「もちろん、ここでは、Das Bekannte(熟知されたもの)がそもそもいかにして存立しうるのか。それがDas Erkannte(エルカント)にいかに転成するのか、――これはまさに、弁証法的展開の途行きに関わる問題にほかなりません――。さらには謂う所の「認識されたもの(「ダス・エルカント」のルビ)」、つまり、エピステーメー(ノエタ)と称されるものが、たかだかエンドクサにすぎないという可能性をどう処理するのか、これら一連の問題群があらためて生じます。そして、ヘーゲルは彼の弁証法的体系構成法において、ほかならぬこれらの問題にも応えております。」23P
第三段落――ヘーゲルの弁証法における端初論の揺らぎ 24-6P
ここは、次節につながる事実関係を押さえる作業です。端初論に絞った論攷です。で、「寺沢恒信氏訳の『大論理学』初版本」24Pが出たこと、この「初版本を参照することなくしては、『大論理学』冒頭の端初論は到底理解できないと言っても過言ではないほどです。」25Pと指摘しています。というのは、『大論理学』は三分冊本になっていて、一応三分冊まで出した時点で、最初の一分冊の改定版・二版を出し、ヘーゲルはコレラにかかって死んでしまい、二版としての改定作業を成し遂げられなかったという話です。これは何かというと、初版を出した時点では、『精神現象学』を学の体系第一部として『大論理学』を第二部という構想を立てていたところ、『エンチクロベティー』で「論理学」を第一部にする構想に変えたところで、『大論理学』も第一部に変える必要に迫られ、改訂版を書いたという次第です。ところが、改定が一冊分だけになったところで、底本とされる本の中で、端初論のところが第二版になっていて、その他の初版との論理整合性とれなくなっているという次第のようです。この話は、次の第三節で精説・展開されます。
三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第一段落――『大論理学』の端初としての純粋有 27-30P
最初に先廻りして結論として『大論理学』の訳者武市健人さんの文を引用しています。「(ヘーゲルにおける)始元[端初](「アンファング」のルビ)とは宗教的な表現を用いて云うと『神』である。神の絶対性は何ものにも媒介されたものであることは許されない。もしも神が何ものかによって存在するとすれば、それだけ神の絶対性は傷つけられる。この神が論理学においては純粋有とせられ、始元とせられる」27Pと展開しています。廣松さんは「プラトンにおける下降の出発点がアニュポテトンたる「善のイデア」あるのと類比的に、ヘーゲルの場合、論理学(これは同時に「形而上学」=存在学でもあるのですが)の出発点は絶対者=と神にほかなりません。」27Pと押さえます。ここから、吟味に入ります。「端初に設定されうるのは単純な直接態たる「存在(「ある」のルビ)」でしかありません。」27Pしかし、それは媒介されたものであってはならず、所知的存在と能知的存在が分離すると単純性(純粋性)との悖理に陥るのですが、能知と所知とその関係とは区別されざるを得ないけれど、「自己意識」の場合には、それら三者は反省的には区別されるとしても、事柄としては如実の一体性、純粋性が保証されるとしています。しかし、その自己意識も対象意識と区別されたものであれば、相関性が免れ得ないけれど、そこで対象的意識と統一された自己意識になる必要があり、それをヘーゲルは絶対精神と名づけたというはなしです。そこで、「ドクサとしての端初とエピステーメーとしての端初との二様性、二様の端初を設定する途が残されているはずです。現にヘーゲルに二途を採っております。」28Pとして、そのことが『大論理学』のゆらぎ問題に到っていると指摘しています。ここから、純粋知の吟味に踏み込みます。「純粋知こそが現象する精神の最後の真理、絶対的真理であることが結果として明らかになる、ということである。」29Pと、そして、わたしは純粋知は「能知−所知」関係の「所知」というところで、絶対精神の能知に対峙しているのではと想っているのですが、廣松さんは純粋知に関する規定をいくつも引用した上で、最後に、この段落のまとめとして、「絶対学の端初はそれ自身の絶対的端初でなければなければならず、それは何ものをも前提にしてはならない。それは何ものによっても媒介されていてはならず、根拠をもっていてはならない。むしろ端初それ自身が学全体の根拠たるべきである。端初は、それゆえ、端的に或る直接的なものでなければならず、乃至はむしろ、直接的なものそのものでなければならない。それは他者に対してなんらかの規定をもことができないと同様に、自分のうちにも――どのような内容をもふくむことができない。というのは、規定や内容は同様に一つの区別であり、差異のあるものの相互間の関係で在り、ゆえに、一つの媒介であろうからである。従って、端初は純粋な存在(純粋有)である」29-30Pとのヘーゲルの引用でまとめています。
第二段落――神は存在(ザイン) 30-2P
この項は、「ヘーゲルは、同時に存在論でもあるところの彼の論理学の体系を「神」の存在という端初から説き起こそう」30Pとしているとして、そのことを押さえる作業です。「尤も、ここではまだ「神」といってもその何たるかは規定されておらず、「神というものが存在する」というより「神=存在」、つまり、存在という規定での神が立てられるに止まります。」30Pとして、「ヘーゲルは、端初を「神は有(「ザイン」のルビ)である」という命題ないし判断の主語・述語形式においてではなく、端的に「存在」しかも、「純粋有」という形で措定し、これを以って、彼の論理学=存在論の端初に据え」31Pます。そして、この項のまとめとして「端的な「存在」、しかも、能知と所知との如実の統一態であるごとき「純粋知」にほかならないところのもの、このような存在が現に存立することを究明してみせる必要が生じます。それを遂行したもの、つまり、純粋知を成果として上昇的に開示したもの、これが精神現象学であり、これを前梯にして論理学の端緒が設定されるというわけなのです。尤も、この前提は、論理学の端初に対して論理的な根拠ではありませんし、論理学の端初たる「存在」は純一なる直接態としての学の根拠にほかならないのですが、この下降の起点は、上昇の過程によって媒介され、その媒介性を止揚することにおいて存立する直接態という触れ込みになっているというのが委細です。」31-2P
第三段落――学の体系第二部のゆらぎ 32-5P
この項は、「『精神現象学』での上昇の到達点との関連でみることにしたいのですが、下降の起点たる「学の体系第二部」の端初は果たしてうまく行っているのでしょうか? これが必ずしもうまく行っていないことが、後年になってヘーゲルが『精神現象学』と『大論理学』との関係、わけても後者における端初との関係について、持説を変更した一因にもなっている」32Pというところから始まり、「絶対者=神を原理(「アルケー」のルビ)(=端初=第一のもの)として、しかも「無前提なもの」(アニュポテトン)として学の体系を展開しようという企図は、賛否はともあれ、一往は諒解することができます。キリスト教文化圏における存在論ということになれば、或る意味では、それはごくナチュラルなことかもしれません。だとすれば、「学は何を端初にすべきか」(因みにこれがヘーゲル端初論のタイトルです)などという面倒な議論は抜きにして、端的に「神」から始めたらよさそうなものだ、という意見もありえましょう。しかし、ヘーゲルとしては、そういう行き方は採ることができませんでした。」32-3Pというのは、「神」という概念が揺らいでいた時代だったからで、だから、「自分流に理解した神の概念から出発した」33Pシェリングや、「人は果たして絶対者=神を認識できるのか?」33Pとして不可知論に陥ったカントに対して、「ヘーゲルとしては、絶対者=神から下降の途に就くに先立って、人間が認識論的にいって絶対者の認識に達しうるということ、および、存在論的にみて絶対者とはいかなる存在であるかということ、これら二つの事項を確説することを要件とします。この予備的な作業を遂行したものが『精神現象学』にほかならないわけです。」33Pとし、「人間が絶対者の認識に到達しうるということだけの確認だけでよいのではないか、という考えも生じ得ますし、実際ヘーゲルが『精神現象学』を起稿した時点、つまり「意識の経験の学」という形での展開を志向した時点では、もっぱらそのことを意図していたのではないか、という解釈もありえます。さらには、絶対者の認識可能性ということは当然事だとみなしたうえで、そのためにとるべき認識論上の「態度」と「方法」だけを予備的に表明しておけばよいのではないか、という考えもありえますし、現に『小論理学』では、ほぼそのような姿勢で「予備概念」が説述されております。しかし、ともあれ、執筆の途上で著述の構想が変更され、肥厚されて、学の体系第一部と銘打って上梓された『精神現象学』をみるかぎり、前記の二事項に応えることになっていることは明らかです。」33-4Pとした上で、「ヘーゲルは、ドクサから始めて「意識の経験」を通じてエピステーメーへと上昇し、絶対知というその極点から下降する考構案を立てましたが、神がエピステーメーだとする純粋知=純粋有が、第三者的には所詮、たかだかエンドクサにすぎないわけです。「太初に(「アンファング」のルビ)ロゴスあり、ロゴスは神と偕(「とも」のルビ)にあり、ロゴスは神なりき」という“エンドクサ”の埓をヘーゲルは脱却しえていない所以です。」34P
第四段落――マルクス−廣松の弁証法への途 35-7P
この段落は単なる空白の改行でなく、記号をつけて特別仕立てです。この節はほとんどヘーゲルの引用・解説ですが、この部分は著者の後論への自説的展開への導入的覚え書き的文になっています。著者は冒頭、この節の論攷を「さしあたっては、ヘーゲルの絶対的な真理から下降的に展開しようという企図そのものを相対化しておきたかった」35Pと書いています。そして「絶対的原理(「アルケー」のルビ)から学の体系を下降的に展開しようという志向の点では、プラトンもアリストテレスもヘーゲルも共通です。」35Pとし「彼等が「学知」のあるべき方法という根底的な反省に沈潜したこと、そしてこの反省を試みるや絶望的に迷路的な問題場面に横逢着したこと、この問題圏で唯一恃むべきものが「弁証法」であること」35Pとしています。そして、「プラトンもアリストテレスもヘーゲルも、つまり、西洋哲学史上における「三大弁証法家」は斉しく、説対的な原理から下降すべく、それに先立つ上昇の弁証法を配位しました。「上昇」の出発点は、所詮踏み台(ヒュポテシス)となる臆見(ドクサ)、たかだかエンドクサでしかあり得ません。が、彼等は、弁証の道を辿って、ついにはいったんアニュポテトンたるたるエピステーメーに到達できると主張します。だが、この絶対的な真知と目されるものも、実際にはたかだか、歴史的・社会的・文化的に総体的な、一種のエンドクサでしかありえないのではないでしょうか。」36Pとして、「上昇・下降の二途は、彼等の私念とは別様な、新たな認識論的了解のもとに把え返さねばなりますまい。そこでは、上昇・下降の方法論的意義づけも一変します。」36Pとして、マルクスの下向法・上向法を対置します。そして、「マルクスの場合、上・下が表現がプラトン以来のそれと逆転しているのは、決して単なる用語法の問題ではありません。只今申した認識了解の転換、そして方法論的な意義づけの変換、これがマルクスによって遂行されたわけでして、ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒は、これをも含意していると思われます。勿論「転倒」というのは、比喩的表現であり、上昇・下降を逆にして下向・上向とするわけでなく、ヘーゲル弁証法の継承的批判=批判的継承が事の内実をなすことは喋々するまでもありません。」36Pとしています。弁証法的途行きを学びつつ、観念論から唯物論的転換という次第ではないかと、わたしは想起しています。そして、「ところで、下降の起点、マルクス式にいえば上向Aufsteigenの起点が、所詮一種のエンドクサにすぎないのだとすれば、そこには、もはや上昇の道しか残らず、下降の道は無いというべきではないのか? このような疑問も提起されうるかもしれません。が、敢て下向と上向という謂わば逆方向の二途を方法論的に区別しているところに、マルクス的弁証法におけるプラトン以来の伝統との連続面、わけてもヘーゲル弁証法との連続面が認められます。」36-7Pとまとめ、次章(信)以降へと繋ぎます。5信までがヘーゲル弁証法との対話になっています。
第二信「意識の経験の学」のの構制
(この章の問題設定)「本便箋では上昇の途の一典型であるヘーゲルの『精神現象学』の論理構制について一瞥しておきたい」38Pということで、ただし、「我々の執るべき体系構成法の対自化が目的」38Pだとして、「若干の祖述的な紹介も必要かと」38P論を進めます。
一 『精神現象学』緒論における見取図
第一段落――緒論の成立経緯と問題点 38-40P
「ヘーゲルにおける弁証法的「上昇」の論理構制を見極めるためには、何を措いてもまず『精神現象学』の「緒論」(Einleitung)を読んでおくことが要件になる」39Pとして、「『精神現象学』(一八〇七年刊)という本は、ヘーゲルの当初の予定では『意識の経験の学』という表題になる筈でした。」39Pで、「現行の「緒論」は『精神現象学』に対する緒論ではなく、当初に予定されていた『意識の経験の学』への序論として執筆されたものなのです。しかも、元来は「緒論」というタイトルもつけられていなかったことからみれば、それはむしろ本論の冒頭部分と呼ばれるべきかもしれません。」39Pこれも改定を試み、「「序文」(Vorrede=前書き)の途中まで朱を入れたところで」39Pコレラで一八三一年に他界したので、「「緒論」の部分は手つかずのまま」39-40Pで、「こういう経過からいって、『精神現象学』の「緒論」は、「意識の経験の学」の姿勢・課題・性格・論理構制などを序説風に予示するものとなって」40Pいるとのこと「ヘーゲルのように形而上学的な絶対者関する哲理を展開しようと志向する場合、前以って認識論的省察を試みる必要があるのではないか、それとも、認識論的省察など無用無価値と断じて、直ちに絶対者からアポディクティシュ(論証法的)な「下降」的議論を展開すれば足りるのか、この問題に関する態度決定が一つのポイントになるということだけは銘記しておかねばなりますまい。現に「緒論」は、ほかならぬこの問題から起稿されております。」40Pとこの項(段落)を結んでいます。
第二段落――認識論的とらえ返しの悖理 40-2P
ヘーゲルの「認識論を先立てることが必要」40Pという考えで「認識論なるものが「それによって絶対者を捕える道具として、または、それを透して絶対者を省察する媒体として」、つまり、能動的な道具または受動的な媒体として考えられている。――ヘーゲルはまず、この旨を指摘します。ここで「道具」および「媒体」というのは、おそらく、認識能力に関する二元主義的な観方を念頭においての発言だと思いますが、以下の議論のもつ射程に即すれば、認識論上のいわゆる「構成説」と「模写説」とを総じて衝くかたちになっております。」40-1Pとして、以下、ヘーゲルの文の引用で、内容展開をしていくのですが、ここのところは三項図式の認識論的悖理についての展開になっています。重要な内容を含むのですが、後で、廣松理論によって、この問題を解くことになりますので、ここの詳しい引用は省きます。そして、ヘーゲルは「道具説であれ、媒介説であれ、つまり、構成説的認識論であれ模写説であれ、そこからは、物自体、すなわち事実在・絶対者は不可知だという結論にならない所以を誌します。」42Pとして、「尤も、道具も媒体も使わぬ直接知、そういう知的直観を唱える理説に対しては、右の範囲でのヘーゲルの立論は無記で」42Pと断りを入れて、後論へと保留しています。
第三段落――誤謬への恐怖−真理への恐怖を三項図式の矛盾として押さえつつ、「絶対的」概念の持ち出し 42-4P
「認識を道具や媒体だとみなす表象を前提し、またわれわれ自身とそういう認識との区別を前提にしている。特に挙げておきたいのは、一方の側に絶対者が立っており、そして他方の側に認識がそれ自身で[独立に]絶対者から分離して立っていて、しかもこの認識はそういう在り方をしているにもかかわらず或る実在的なものであるということ、依って言い換えれば、認識が絶対者の外部に、故に当然また、真理の外部に在りながら、それにもかかわらず真理にかなっているということ、こういう前提が立てられている」43Pとして、「この想定がたるや、誤謬への恐怖と称しているものが、実は真実への恐怖である」43Pことを示しているとしています。そして、「ヘーゲルが“認識論”主義者たちの大前提を剔抉しつつ、それを批判している点に留目したいと念います。<自体的存在>としての絶対者と<表象>としての認識、これらを分断し、更には道具や媒体としてのこの<認識>と<われわれ自身>とを区別する論者たちの前提的発想というのは、当世風に言えば「対象自体−意識内容−意識作用」という三項図式に帰趨します。ヘーゲルは、この“三項図式”が不当前提であるということをいちはやく洞見し、まさにこの“前提”こそが真っ先に問い返さるべき当もの」43-4Pとして、「絶対者のみが真である。換言すれば、成るもののみが絶対的である」44Pというヘーゲルの提言を持ち出し、「ヘーゲルとしては、ひとまず、そういう“二重真理説”では、結局のところ、両“真理”の区別が曖昧たらざるをえないこと、そしてそこでは、絶対者とか認識とかいう概念が意義不明のままであることを指弾して議論を次のステップへと進めます。」44-5Pとしています。
第四段落――「意識の経験の学」の「上昇」の必要性 45-7P
ヘーゲルの「学が登場しさえすればただちにその眼前から消え失せる」45Pという言は「“学の体系的叙述”とやらを“下降”的に展開するわけにはいかないからこそ、『精神現象学』、さしあたっては『意識の経験の学』という“予備的作業”が必要になるのであり、また、そのための方法論的配備も必要になる」45Pとしています。そして、「ヘーゲルが、彼固有の仕方で「上昇」的弁証法を方法論的に整備した所以でもあるのですが、「学」といえども、今まさに登場するここでは、それ自身まだ「知の一現象」、「現象知(das erscheinende Wissen=立ち現われる知)」にすぎず、認識論上の権利からいえばエピステーメーというよりもドクサとしか言えません。が、ともあれ、「現象知」の叙述から始めてみる術のないことが、このようにして対自化され」46-7Pるとして「「現象知」の叙述は、いかに「現象知」に即した叙述であるとはいっても、雑然たる羅列的な記述たるべくもありません。さりとて、原理・原則を公理的な前件とする演繹的な展開ではありませんから、方法論的によほどしっかりしておきませんことには、どういう進行になるか判じかねましょう。そこで、ヘーゲルは、――これが「緒論」の主内容でもあり、また、「意識の経験の学」の論理構制ということで関心の対象になるものにほかならないわけですが――、現象知叙述の方法論的構案を予示的に詳述してみせます。」47Pとして、次の節に入ります。
二 「現象知」を叙述する方法論的構案
第一段落――弁証法の「上昇」としての『現象学』 47-9P
「先便以来、「学の体系一部」として当初定位されていた『精神現象学』と、論理学以下の「学の体系第二部」とでは、同じく弁証法といっても展開の論理が必ずしも同列ではないことを申し述べてきました。そして、迂生としては「上昇の途」と「下降の途」というかたちでそれらを配位しました。勿論、細かい議論になれば、果たして「自然哲学」や「精神哲学」をも下降の途と言えるのかどうか、上昇・下降は、現象学と論理学の範囲でしか使えないか、こういう問題が生じえます。更にいえば、上昇の途ということがヘーゲル哲学の最終的な体系に属するのかどうか、それには疑義がありえます。」48Pとして、「ヘーゲルは一方では、認識論を評して、「水に入る前に水泳を練習しようとする」たぐいのものだと言われるのを知って、いつぞや怪訝(「けげん」のルビ)な風情でした。が、この“謎”も「意識の経験の学」の実態、わけても、そこにおける「上昇」の方法を知れば、氷塊すると思います。」49Pと、次の項に移ります。
第二段落――ヘーゲル弁証法における「上昇」の方法 49-52P
ヘーゲルは「現象知の叙述的展開を、さながら、“神へと到る魂の歴程”のように描き、この道程の宿駅を辿る現象的意識にとっては、それは謂うなれば<絶望>の途であると誌します。が、陶冶の道程を歩み抜くことにおいて、自然的意識が学的精神へ浄化されること、一切の真実ならざる表象・思念とスケプティッシュ(懐疑的 Skeptizismus懐疑論48P)に対質しつつ、「意識自身が学へと自己形成を遂げること」を説きます。意識の経験の学的歩みは、この意味で「教養=形成の歴史」にもほかならない」50-1Pと言います。そこで、廣松さんは「現象知はどうして、或る宿駅でストップしてしまわないのでしょうか。」51Pと問います。しかし、「著者たるヘーゲルも、当事主体たる現象的意識も、そういう心配はしません。一者はすでに踏破した経験から、他者は“本然の定めに駆り立てられる”が故に、懸念を懐きません。」51Pと廣松さんは押さえています。
第三段落――読者向けの説明と論理構制の概述 52-4P
ヘーゲル自身もそれではすまないので、読者向けの説明に入ります。その途行きの廣松さんの押さえです。「「実在的でない意識の諸形態」つまり、現象的意識の諸逓駅たる諸姿態が「完璧につくされるということ」、“欠け目なく揃っていること”は「進行および聯関(Zusammenhang=論脈)そのものの必然性によっておのずと明らかにあるであろう」。」52Pと引用して、ヘーゲルの「現象知の叙述方法、意識の経験の学の方法、というより論理構制の概述に」53P踏み込んでいきます。その内容をヘーゲル自身からの引用として「現象知に対する学の応対として、しかも、認識の実在性の吟味・検査として提示されたこの叙述は、尺度として基礎におかれる何らかの前提なしには成立しえないかのように思われるかもしれない。というのは、検査とは或る容認済みの尺度を当てることであり、吟味されるものと尺度との、そこに明らかになる等・不等によって、正・否が決定されるのだからである。そして、この場合、尺度というものは一般に真の存在[Wesen=本質存在]ないし自体的存在[das Ansich]として容認されている。そこで、今もし、学が尺度たるべきならば、学もまた当然そのような容認ずみものということになろう」53Pと押さえ、さらに「しかしながら、学がはじめて登場するいまここでは、学それ自身も、いかなる存在も、真なる存在ないし自体的な存在として、自己を権利づけていない。が、そういう存在がなければ、検査ということがそもそも成立しないかのように思える。」54Pとヘーゲルの引用を重ね、「吟味・検査ということが、ここではそもそも成立しえないかのように思えます。」54Pと廣松さんは押さえます。
第四段落――ヘーゲルの“窮境”の脱し方 54-7P
そこで、そのヘーゲルの“窮境”の脱し方としてヘーゲルからの引用として「この矛盾とそれの除去とを明確化するためには、まず、知と真との抽象的規定を、それが意識に現われてくる相で、裡(「うち」のルビ)に泛(「うか」のルビ)べてみる(erinnern=想い出してみる)のが好便である」54Pとして「現象知そのものの如実相に定位することによって、謂うなればフェノメナルな意識の実相に即して議論を展開しようとします。」54Pと著者は押さえ、さらにヘーゲルからの引用として「意識は、或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。しかし、われわれは、この或る他者に対する存在(Sein für ein Anderes)から、自己における存在(das Ansichsein=自体存在、即自存在)を区別する。知に関係づけられはこのものは、同時にまた、知から区別されて、この関係の外部にも存在しているものとして定立される。この即自(Ansich)の側面が真理と呼ばれる」55Pとの展開を押さえます。そして、廣松さんは「われわれは、こうして、当該の意識の自作自演を見守っていればよい。となれば、実は、われわれは別段検査などしない、ということにならないでしょうか? そうなのです。「概念と対象、尺度と検査さるべきもの、これら両契機が当該の意識それ自身の内に現前しているというこの事態からいって、われわれによる助力が無用であるばかりでなく、むしろ、われわれは両契機の比較=検査をおこなうという労をも免れることになる。……われわれに残されているのは、純然たる観望(Zusehen)のみである」57Pとヘーゲルを引用し、廣松さんは「だが、そうなると逆の心配が起こります。現象知は果たして、自己吟味を遂行できるのだろうか。それが遂行されるとすれば、一体どのような機制でおこなわれるのか?」57Pと問います。それが次の項の課題です。ここのところは、すでに廣松さん自身が書いていますが、ヘーゲルは三項図式を超え得ないけれど、絶対精神の自己展開−下降ということですませないで、「読者向けの説明」として「上昇」の途行きを展開しようとしていることとの廣松さんの対話です。なお、「純然たる観望(Zusehen)」という概念が、ここで出ていることに留目です。
第五段落――現象知の自己吟味の機制 57-9P
ヘーゲルの「[先に所与と所知との二肢的二重性を指摘しておいた通り]、そもそも意識が或る対象について知っているということ、まさにこのことにうちに、既に、意識にとって或るものが即自であり、もう一つのモメントが知、つまり対象の意識に対する存在である、という区別が現存している。検査が存立するのは、この現存する区別づけに基づいてのことである」57Pと押さえて、廣松さんは「こうして、現象知が自分自身で自分の知を吟味・検査するということが可能」57Pになるとして、「それはどのようにして遂行されるのか?」57Pを問います。そして、ヘーゲルが「この比較[=検査]において、両者[つまり、一方の<意識にとっての或るものの即自>と他方の<その或るものの意識に対する存在>という二契機]が照応しない場合には、意識は<知>を変化させて<対象>に適合させねばならないように思えるかもしれない。が、知が変化するときには実は対象それ自身も意識にとって変化する……」58Pと展開していることを引用して、更にヘーゲルの引用が続きます。「この弁証法的運動――意識が自分自身に即して、対象の側に即してのみならず自分の知の側に即しても遂行するこの運動――は、そのことから意識にとって新たな真の対象が発展するかぎり、元来、<経験>と呼ばれるところのものにほからない」58Pと、ここはヘーゲルの「意識の経験の学」ということの中身的展開です。そして、廣松さんは「この際、わけても検査の不合格が確認された場合、尺度=対象が変化するということを特に銘記しておかねばなりますまい。そこでは、変化以前と以後との二重の相で対象が登場してくる所以となります。第一には<意識にとっての即自存在>、第二には<この即自存在の意識−に対する−存在>です。」58Pとして、ヘーゲルから「後者は、一見したところでは、対象の表象ではなくして、第一の対象についての意識の知の表象にすぎないかのようにみえるけれども」58Pと引用し、それに廣松さんはコメントして「あくまで「意識の対象」なのであり、」58Pとして「この新しい対象は、最初の対象の非真実性を含意しており、この新しい対象は第一の対象についてなされた経験である」58-9Pとのヘーゲルのコメントに繋げます。そしてこの項を廣松さんは、「われわれの叙述では」59Pと文を起こし、ヘーゲルからの引用で「第一の対象とそれの知とから、別の対象への移行が生じており、この[新たな]対象に即して<経験>がおこなわれた旨が立言され、第一の対象についての知、ないし、第一の即自存在の<当の−意識−に対する−存在>が、第二の対象それ自身に転成する旨が云々されている」「われわれの見解においては、意識の改変それ自身を通じて、<新たな対象>が<生成>するのである」59Pと以上、ヘーゲルの言説を廣松さんの自らの補足説明を込めて引用し、まとめ、次の項に繋ぎます。
第六段落――<運動><生成>として存在する<意識の経験の学>の本性を把捉し、絶対知の本性を示す
前の項を受けて「現象知の自己吟味を通じてこのように<新しい対象>が<生成>し、従って、新しい知がそれに関して形成されるという<意識の経験>の進展、これが「上昇」を支える。とはいえ、そのことがそのことが果たして、当の「経験する意識」「現象する意識」そのものに自覚されているのであろうか?」59Pと問うて、それに廣松さんはヘーゲルに答えさせていきます。「当該の意識にとってはその仕組みが知られぬままともかく立ち現われるところの、新たな対象の発生、これのみは、いうなれば当該の意識の背後で、われわれにとって(für uns)進行する事柄である。というわけで、意識の運動のうちには、即自的存在またはわれわれにとっての存在という契機、つまり、経験そのものに没頭している当の意識に対して[対自的に]は現前しない契機が入り込んでいる。とはいえ、われわれにとって発生するところのものの<内容>は当の意識に対して[対自的に]存在するのであって、われわれが把握するのは生成する当のものの<形式面>にほかならない。……当の意識にとってはこの発生したものは単に<対象>として存在するにすぎないが、われわれにとってはそれは同時に<運動><生成>として存在する」「この必然性によって、学へと到るこの道程はそれ自身すでに学であり、その内容から言えば<意識の経験の学>なのである」60P「意識が自己についてなす経験はその概念上それの全体系、換言すれば、精神の真理の全領域を包括(in sich beegreifen)せざるをえない。真理の諸契機が、この特有の規定性において自ら叙示するのであり……全体の諸契機が意識の諸姿態というかたちで登場する。意識が自分の真の実存へと邁進して行くとき、意識はついて自分の仮相を脱ぎ去る点に到達する。・・・・・・その到達点では、現象が本質に等しくなり、従って、そこでは意識の叙述が精神に固有の学と合致する。そして終局的には、[経験する当の]意識自身が自分のこの本質[真の在り方]を把捉することにおいて、自らが絶対知そのものの本性を示すに及ぶであろう」60-1Pこれが「『精神現象学』の「緒論」――剴切には「意識の経験の学」の導入部」61Pの結びの部分としています。ヘーゲルの「上昇」の途行き。そもそも、絶対精神――絶対知自体が錯誤なのに、「上昇」の途行きはありえるのでしょうか? 廣松理論では、共同主観性での客観的妥当性の吟味・検証という弁証法で、「真理」を探究していくがゆえに、「観望」(für uns)が学的意識となるのですが、ヘーゲルでは「観望」はドクサにすぎないものになってしまい、「真理」は結局「絶対精神」にあるということが問題なのではないでしょうか?
三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第一段落――ヘーゲルの途行き−<知>と<対象>との関係 61-3P
廣松さんの自著でのヘーゲルとの対話です。「『世界の共同主観的存在構造』では序章の末尾に近い箇所で「認識論は……悟性的反省の次元にとどまっては無限退行に陥る。認識論的省察は、われわれにおいても、“即自的かつ対自的な考察……自己みずから自己を吟味し、自己自身に即して自己の限界を規定し、自己自身の欠陥を指示しつつ進行する途ゆき”としてヘーゲルが定義した意味での“弁証法”を措いてはありえない。」61Pとしています。ここのところ、もっと吟味する必要があるのですが、ヘーゲル的途行きを参照し、弁証法的途行きを探るということなのだととらえ返しています。この節は、廣松さんのヘーゲルとの対話の進行になっています。
そこから「ヘーゲルは現象的意識の実態に定位して、<対象>と<知>とを区別しつつも、分断はしていないこと、このことは想起するまでもありません。知は対象たる即自存在と別々にあるわけではない。<知>は<或るものの意識に対する存在の特定側面>だとされております。」とし、「一方では、あの道具・媒体というかたちでの自立的中間項を否認し、他方では、あの<異質なもの>が意識に対して他者として在るかのようにみえるのは「仮相」だと言っていることからも、彼が意識と対象とを実体的に分立させていないことは判ります。それは、しかも、決して主観的観念論の流儀で一切を意識に内在させることにおいてではなく、実体=主体、主体=実体という絶対的観念論を背景にしてのことです。」62-3Pそして「なるほど関係の第一次性に徹せぬ以上、いくら絶対的観念論といっても、構図的には一種の“先験的内在主義”」63Pに陥っていると指摘しています。この段落のまとめとして
「当座の議論としては、こうしてヘーゲルにあってはともかくにも<対象自体−表象内容−意識作用>という三項図式には拘泥しない相で立論されていること、より適切に言えば、当事的意識は三項図式に半ば囚われているが、われわれにとっては(für uns)既にそうでないこと、――この二重性の故に話が複雑になる次第ですが、――この点を念頭に収めて追認・検討しましょう。」63Pと次項以降につなげます。
第二段落――<知>の変化と<対象>の変化―ヘーゲルの隘路 63-6P
「結論的な認定を表明してしまえば、ヘーゲルはこの難問(「途中で合格を認めれば“意識の経験” はそこでストップしてしま」65Pう)を解決し得ていないと申さざるをえません。が、彼の当座の論理からいえば、“不合格”が必然的な筈です。現象知は<対象>の即自存在そのものを如実に<知>っているものと思念しておりますけれど、その存在は意識に対しての存在にすぎないこと、しかも、<限定された特定の側面>にすぎないことを対自化せざるをえません。ですから、意識の構造そのものからいって、当初の知の否定が必然的です。勿論、この否定は「純然たる消極的否定」ではなく、「限定された否定」であり、故に「そこから直ちに新しい形態が発現し、否定のうちにおいて移行が成就される」わけです。尤もそのことは、当事意識が常に自覚するとはかぎりませんけれども、構造的には必然的な構制とされております。――われわれにとって(für uns)は<新しい形態><新しい対象>がその転成前の“対象”と完く同じものと認知される可能性、従って“生成”や“運動”が停止する可能性がフェア・ウンスにはありえますが、当事主体にとってはそれはあくまで<新しい対象>の現前であり、新しい<経験>であって、停止にはならない道理なのです――。そうである以上は、絶対的な“合格”的一致=絶対知は存立しえないことになるはずです。それにもかかわらず、ヘーゲルは絶対知という“安定点”(当事意識自身にとっての自覚的な安定点)の存在を強弁します。そして、そのことによってはじめて、上昇の途が無際限にはならないこと、上昇の完結を立言しえた形にしております。」65-6P
結局「ヘーゲルとしては神学的な表象に訴えることで辛うじて議論を繕っていますが、というより、絶対知における合一の実現ということが既定の到達目標として彼の先取的構案になっている次第ですが、弁証法的な上昇を支える論理構制は、この“完結”を原理上許容せず、絶対的肯定を弁証法的に披界(entgrenzen)するが故に、彼の神学=哲学の体系的自閉症(ママ)を破綻せざるをえません。」66Pとこの項を結んでいます。
第三段落――ヘーゲル流の建前の「観望」とその違反としての展開 66-8P
「上昇の弁証法は「善のイデア」とか「絶対知」とかへの到達を保証しないからといって、決して方法論的に無効とは申せません。それどころか、迂生としてはむしろ、弁証法的否定の“上昇”運動が、原理上は固定的な終局をもたず、体系的に開いていること、このことは必然的な構制に却って留目する者です。/弁証法的な学の体系が、謂わば“折線”状の往復になるのではなく、ヘーゲル本人が言うとおり、「円環」的になる所以のものも、固定的な終局が存在しないことと相即するはずです。――エンゲルスが指摘するとおり、ヘーゲル流の弁証法的方法と彼流の体系的完結性とは、両立しません。――そして、学知の円環的構造ということは、固定的な「端初」が存在しないこと、原理的にはどこから現象知の叙述を始めても差支えないことをも含意します。もちろん、既定的な端初が存在しないというのは原理上の話であって、実際問題としては、当然、しかるべき出発点が選ばれざるをえません。」66-7P
そして、「現象的意識=現象知の「自己吟味」の進行を観望的に叙述すると称しても、現象知には雑多な内容が含まれておりますし、また、学的叙述は無限の多様性を完璧な目録に仕立てるものではありませんから、そこでおのずと“枠組”や“尺度”を持ち込まざるをえません。学的叙述は、ヘーゲルが建前とするような「観望」(Zusehen)ということでは済みません。そこでは一定の、方法論的な舞台廻しが要件であり、故にまた、謂うところの“枠組”“尺度”“方法”に関するメタ・レベルでの“自己吟味が併せて要求されることになります。このような点でも、ヘーゲルの“建前”にそのまま従うわけには参りません。」67Pとして
「ヘーゲルへの批判は暫く保留して、彼自身が建前に違反しつつ“即自的”に乃至für unsに遂行している実態を見ておくのが順序」67Pとして
「ヘーゲルは、夙に御承知の通り、現象知の叙述を「感性的確知」(sinnliche Gewißheit)から始めます。絶対的無知は、絶対的完知と同様、学の出発点にはなりません。一定のドクサが出発点に選ばれざるをえない所以です。」67Pとして
「次便では、四肢的構造論とも絡めつつ、ヘーゲルが秘めている上昇的展開の“舞台廻しの論理” ――これが、やがて、マルクスによって積極的に活用されるに及びます――と見定め、「意識の経験の学」のメタ・レベルにおける方法論的省察を試みてみたいと存じます。」68Pと予告してこの章を終えます。
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(1)
この本の初出は、「『現代思想』に十二回にわたって連載した書簡体の論攷「弁証法における体系構成法」」@Pです。この本は、わたしの読書計画では、実は『物象化論の構図』の後に、そして基幹学習の最後の主著の『存在と意味』のひとつ前に再読する予定でしたが、前から書いているように、für es(当事者意識)とfür uns(第三者・学的意識)の弁証法で、「とんでもない」取り違えをしているのに気付いて、その検証を早急にしておきたいと、先に読むことにしました(宿題@)。丁度執筆順にもなっているようです。実は、もうひとつの懸念がでています。この本には目次には載っていない、「啓上」で始まる、「はじめに」か「序(文)」に当たるような文があるのですが、それをさっと流し読みしていて、「弁証法は単なる論理学ではなく、存在論および認識論と三位一体的な統一態をなすものである以上・・・・・・」CPとあり、わたしはこの三位一体性はヘーゲル弁証法で、廣松さんは存在論を入れると絶対精神の自己展開となる故に、存在論は切り離すことだとしていると押さえていました。これも、この本の中で検証していくことになります(宿題A)。以上2点の宿題に関しては、後述あるいは「追記」で書こうと思っています。
さて、この本は廣松さんにしては珍しく対話的な書簡方式の文になっています。で、註などもついていません。で、分かりやすい、読みやすい文になっているのかと言えば、そんなことはないのです。そもそも廣松さん自身が、「自家了解」BPという詞を使っています。この本は、『著作集』二巻に所収されていて、その解説を書いている高橋洋児さんが、ドゥールズ/ガタリの概念でしょうか、「リゾーム状」という詞を用いて、現しています。要するに他の著と根っこ的にひろがり絡み合っているような展開になっていて、実際にこの著の中で、他の著を参照というようなことを連発しています。それを書き出して、構成していくと、きっと何冊かの本になるかと思います。勿論、それはきっと主著の『存在と意味』への途になっているのでしょう。尤も、『存在と意味』で弁証法ということばを余り使っていないという話です(高橋さんの解説)。頭のなかに入って展開しているところを、読み出していくというところで、『存在と意味』自体がまた膨大な書き込みになっていきます。だから、「読みやすい」というのは、余りにも難しいから、それを軽減するために書簡体にしたという話にすぎません。
さて、その「はじめに」にあたる文の中で、この本の位置づけに当たる文が出て来ます。
「・・・・・・本書は著者自身にとっては枢要と自認される論攷の一つです。著者がもしこれまで世に問うた十余冊の自著のうち三冊の自撰を求められるとすれば、躊躇なくその一冊として本書を数えます。本書は、別著『存在と意味』を江湖に送り出すための直截の予備作業であり、且つ同時に、固有の存在意義を有するものと念う所以です。」@Pとあります。この著は、ヘーゲルの弁証法との対話の中で、自らの体系を構成していく廣松弁証法の構築ということを目指して書かれた著で、『存在と意味』につながる重要な著です。
そういうことで、またほとんど対話に踏み込むメモもとれないままの全文切り抜きのような膨大な切り抜きになりそうなのですが、多分、廣松さんの過去の文を読んでいないひとにはほとんど理解出来ないだろうし、わたし自身の備忘録としても、余り用を為さなくなります。で、今回は思い切って、メモを導入的に使ってそこに切り抜きを入れるという方法にします。
また、節にあたる「一」「二」「三」の中に、それぞれ段落があり、それが項的になっているので、それに、「お笑いぐさ」になりそうなのですが、学習的に「恥ずることが学び」というところで表題をつけていきます。
まずは、目次を挙げます。太字にはなっていないのですが、わたしの文との区別をつけるために太字にします。目次は、そもそも「体系構制」というときき、同様に展開していくのか、というときに、それ自身が対話−分析の対象になるのでしょうし、ヘーゲルやカント、アリストテレスなどの体系構制と対比させながら、押さえていく作業が必要になるのだと想いますが、そもそも基礎学習をなしていないわたしにはとてもできません。とりあえず複書するに止めます。
目 次
第一信「端初」の設定をめぐって
一 プラトン・アリストテレスの弁証法
二 帰納法的手続の先取(註)性と論理的悖理
三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第二信「意識の経験の学」のの構制
一 『精神現象学』緒論における見取図
二 「現象知」を叙述する方法論的構案
三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第三信「上昇的展開」と四肢構造
一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
二 『精神現象学』本論の構制上の実態
三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
第四信「下降」の途と上向的論述
一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
二 下降の三様式――移行・照映・発展
三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
第五信「方法論的展開相」の構図
一 ヘーゲル弁証法の「三階梯」的進展
二 弁証法的否定の論理構制上の“仕組”
三 成素複合型と有機醸成型の体系構制
第六信「原始函数」の整型と充当
一 所謂「分類」および「抽象」の実相
二 系列的整序の諸相と函数概念的補完
三 「原始函数」整型の洞見性と相対性
第七信「判断」の機制と関係規定
一 主語的対象に関する実体主義の排却
二 「主語−述語」構造と函数的連関態
三 所謂「個体的特性」と関係態の結節
第八信「主辞−賓辞」と函数成態
一 主語的与件と述語的規定との関係相
二 主語・述語規定の「対他的」反照関係
三 判断成態と「函数−変項」の内的構制
第九信「変化」の記述と当体措定
一 実体的個体の物理的「没自己同一性」
二 遷移の当体と「可能態」・「現実態」
三 変化の諸相と「函数態的当体」の措定
第十信「肯定・否定」と存在様相
一 「存在様相」をめぐる問題論的構制
二 「肯定」・「否定」と間主観的妥当性
三 「判断措定」の命題成態への内自化
第十一信「対論」の論理と推理連鎖
一 論理的「根本定律」の事実性と規範性
二 所謂「因果的必然性」と当為的必然性
三 推理連鎖の論理的機能と真偽の価値
第十二信「叙述体系」と著者・読者
一 体系にとっての「端初」とエンドクサ
二 著者と読者との「協働」的概念把握
三 叙述体系の真理必然性と論理必然性
(註)目次では「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。本文中で、ここに当たるところは、全部「先取」となっているので、「取」としておきます。
さて、目次にはないのですが、冒頭の導入文に書いている、「啓上」で始まる「はじめに」にとか、「序」当たるような文から始めます。導入文に書いているのは重複するので省きます。ここからは斜文字がわたしの文です。「 」内の文章は引用文です。
序(文)に当たる部分
なぜ「弁証法」を問題にするのかという件がでてきます。「・・・・・・本来的には「弁証法」は決して単なる論理ではなく、また、「哲学大系」は断じて博物誌の謂いではない筈です。・・・・・・故実に鑑みるとき、目下冀求されうるのは、革(「あた」のルビ)らしい視座と指針の生きにとどまるとも思えます。しかし、著者の看るところでは新しいパラダイムの構図は既に先哲の事績を通じて開示されており、暫定的にせよ、それを受け留めて体定型化することが課題をなす局面を夙に迎えているように見受けられます。著者が就中マルクスを念頭に置きつつ「弁証法における体系構成法」の対自化を試みたのは、けだし、この了解に基づくものにほかなりません。」AP
形式論理学と弁証法の論理との関係性についての廣松さんの説明が出てきます。
「著者に言わせれば弁証法的理性論理が形式的悟性論理をアウフヘーベンしているということは、決して弁証法が形式論理の体系を既成の体系としてそのまま下位的な予備部門として包摂している謂いではありませんし、また両者の関係をユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係になぞらえるのも剴切ではありません。形式論理学と弁証法との関係は、平面的にであれ立面的にであれ、既成の体系どうしの関係として単層的に扱うことでは済まないのであって、われわれとしては、弁証法的理性論理がダイナミックな論理展開にさいして、形式的悟性論理の分別知(ディアノイア)をその都度のモメントとしつつ内在的に止揚していく構制を方法論的に式述することをこそ要件とします。」BPここのところ、弁証法が形式論理学を包含するものではなく、そこにパラダイム的転換が在るとの話としてわたしは押さえています。ひとつ、わたしが過去にユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へのパラダイム転換を書いたことは、ここの廣松さんの文を読んでいくと、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学に包含されるようにも読み取れるので、これについては、後に検証します(宿題B)。
さて、このメモの冒頭でわたしが宿題Aとした存在論および認識論、論理学の三位一体性の問題、肯定・否定両面的な文がでてきます。「認識がもし客観的対象の単純なる模写であるとすれば、“自存的な”客体自体とやらの主宰のもとに、“三位一体”が成立しうるかもしれません。だが、模写論が大前提とする「主観−客観」の二元論的図式そのものが妥当しないことは爰に絮言を要せぬところでして、・・・・・・そこでの大前提たる「主観−客観」図式を止揚する地平において「三位一体」の定礎を要します。精確に言えば、むしろ、弁証法的な三位一体を支える構制に即してこそはじめて「主観−客観」図式の止揚も可能になる、と申さねばなりますまい。けだし弁証法に関する論攷は、単なる方法論的手続の次元を超えて、存在論や認識論の準位への関説を余儀なくさせる所以です。・・・・・・(小さなポイントで)「事実世界が如何にして可能であるか」という哲学的論及において、存在論・認識論・論理学が三位一体化する所以・・・・・・」CPそもそもヘーゲルにおいて、「事実世界が如何にして可能であるか」で、絶対精神の自己展開が出てきたのです。後に、歴史的存在という所で三位一体性を認めるとヘーゲルの絶対精神の自己展開という陥穽に陥ってしまうということがこの本の中でも展開されていたので、そこで改めて指摘しつつ、後の書も含めて「切断する」という件が後に出てこないか、検証します。この宿題は継続です。
「序」の通例にならって「これらの論件は本書ではじめて立入ってみた」こととして、章にあたる「第○信」をあげていませんが、この本の内容展開をしています。なお、これも試論としてだいたいどの章(第○信)で展開されているかを書いてみます。
「伝統的な実体主義的存在観と相即する「実体−属性」の構制に代えて「函数−変項」の構制を関係主義的な存在観に照応するかたちで導入するにあたっての「主語−述語」関係の函数概念的な規定態の検討(第七信)。論理学に所謂「判断の質」つまり「肯定・否定」を間(「かん」のルビ)主観的な場で第一次的に定位し、思考なるものを本源的に“内なる対話”として了解する弁証法的思惟観の構制をこの点からも照射しつつ、「積極的事態」「消極的事態」の物象化が成立する機序を討究する作業(第十信)。「存在様相」の問題を現代物理学の自然観・法則観と見合うかたちで把え返しつつ、「可能態から現実態への転成」という構図を「必然性と偶然性の統一」という弁証法的法則観と併せて「弁証法的転化」論の構制とリンクさせる試論(第九信)。弁証法的対話のフェア・エスとフェア・ウンスという域にとどめることなく「著者」と「読者」との協働的営為の場面をも含めて方法論的に対自化する考案の模索(第十二信)。――論理的必然性と因果的必然性、当為的必然性と事実的必然性の関係という問題については詳説と断案を持ち越すことにしましたけれども(第十一信で少し展開)――、・・・・・・・」DP
この著で、ヘーゲル弁証法との対峙というところで、カッシラー/ロッツェの函数的連関態という概念がかなり詳しく展開されていて、実体主義からパラダイム転換した関係性の第一次性ということにつながり、三項図式批判、四肢構造論と展開していく流れが立てられてきます。それが『存在と意味』にどう繋がっていくのか、まさに廣松さんにとって重要な著作になっています。この著は、ヘーゲルを軸にした弁証法に関する基礎知識という前半と、後半での廣松さん自身の理論的展開とに分かれています。前半はかなり飛ばし気味にして、後半についてとらえ返しを深めようと思います。
(追記)
(宿題@)に関して、とんでもない勘違いをしていたことを書きましたが、このわたしの勘違いは単に、語学的な錯誤だけでないということもとらえ返しています。それは、ヘーゲルのフェア・ウンスという「観望」は、マルクス的な廣松的なフェア・ウンス、すなわち、哲学的「観望」、学的、第三者的とらえ返しとは違ってエンドクサ的「観望」のままになっていることをこの本を再読する中でとらえ返しています。おまけに、障害問題を論じてきたわたしの立場としては、フェア・エスの訳語として使われている「当事意識」という概念になると、「障害者運動」の理論化の中で言われている「当事者主体」というとらえ方があり、マジョリティのwirわれわれ的な意識よりも差別に関しては根源的なとらえ返しができるという考えがあり、そこでショートを起こしたのだともとらえ返しています。また、そもそもこの社会の価値観に多くのひとがとらわれているという意味での、wirわれわれ的な意識のエンドクサ、これがまさにわたしが誤読したかもしれない、ヘーゲル的な「観望」なのですが、そんなところでのwir批判がありました。そんな思いの中での錯誤でした。実際には、ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、それをさらにアウフヘーベンして、マルクスの・廣松のフェア・ウンスがあるとしてとらえていたところで、いつの間にか、それがたわしの頭のなかでショートしてマルクスの・廣松のフェア・エスとフェア・ウンスがひっくり返っていたというお笑いぐさになっていたのです。「ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、」というところは、アウフヘーベンではなくて、どちらもエンドクサでしょうが、「障害者運動」的にとらえ返した「当事者主体」という概念では、どうなるのかは検討の余地があるのかもしれません。
第一信「端初」の設定をめぐって
「拝呈」に始まる序
「「弁証法」をめぐる論件のうち、「体系構成法」に関わる方法について卑見を綴る」7Pとこの著のサブタイトルになっていることの説明を兼ねて主題を述べています。そして、その始まりを「議論の順序として、まずやはり「端緒」の設定をめぐる問題点にふれておくべきかと考えます。惟えば、これはヘーゲルの場合のみならず、プラトンやアリストテレスの場合においてもすでに、論理構制としての弁証法が分出的に岐れる「基(「もと」のルビ)」であり、端初論の周辺を照射することによって、弁証法の論理的特質を隈取ることができるものと予期されます。・・・・・・」7-8Pと押さえています。
一 プラトン・アリストテレスの弁証法
(この節の問題設定)「弁証法の学祖として、ゼノンを挙げるか、ヘラクレイトスに遡るか、これは議論のあるところですが、体系的構成法という見地からするかぎり、とりあえずプラトンから問題にしていけば足るはずです。」8P
第一段落――ブラトンの弁証法 8-10P
ここからは段落のページ数をわたしの仮表題の後ろに挙げています。
「ディアレクティケー(弁証法διαλεκτική)という言葉にディアロゴス(対話)テクネー(術)という原義が生きて」8Pいて、「プラトンの弁証法が学知の方法的展開と密接不可分」と展開しています。そして、プラトンの「創立した学院(「アカデメイア」のルビ)の門に「幾何学を知らざる者は入るべからず」と掲示した」8Pけれど、「幾何学の方法ですら駄目であるからこそ弁証法というものが要件にな」9Pり、プラトンは「幾何学が依然として感性的直観の援けを借りるから理性知(「ノエーシス」のルビ)に徹せぬこと、たかだか悟性知(「ディアノイア」のルビ)にすぎない廉で卻けるのです。」9Pということをとりあげ、「哲学者は、出発点に据える前提的事ス題と自明の真理とみなすのではなく、それをあくまでも一つの仮設という資格づけのもとに仮定しつつ、そこから一定の帰結を導き、この帰結に徴して最初の仮設的命題を吟味(「エレンケイン」のルビ)し、論駁(「アナイレイン」のルビ)する・・・・・・・そこで、もう一次元高い仮説がおのずと泛かび、これを前提として内的対話が継続され、吟味・論駁があらためて遂行される。そして、更に……という具合に進行します。」9Pと弁証法的途行き(上向)を説明します。そこで、それでは無際限、懐疑論にならないかという質問(自問)に「理性の所知は、『国家(「ポリティア」のルビ)』篇の有名な条りを援用していえば、「ロゴスそのものが対話の力[ヘー・トゥー・ディアレゲスタイ・デュミナス=弁証の能力]によって把握するところのものであって、この場合、ロゴスはさまざまな仮説的前提(「ヒュポテシス」のルビ)を絶対的原理(「アルケー」のルビ)とするのではなく、文字通りヒュポテシス[ὑπόθεσις ヒュポ=下に、テシス=置かれたもの]となし、謂わば踏み台・跳躍台として扱いつつ、万有の原理(「アルケー」のルビ)[端初・始原・原基]へと上昇し、無前提の[アニュポテトン=仮説(ヒュポテシス)ではない]ものにまで到達する。そして、一旦、その原基(「アルケー」のルビ)を把握したうえで、今度は逆に、アルケーに依存しているものを次々に辿りながら終局に到るまで下降していくのであるが、そのさい、およそ感覚的に知られているものを何一つ援用することなく、もっぱら形相(「エイドス」のルビ)そのものだけを用い、形相から形相へと動き、形相に達して終わるのである」・・・・・・・。」10Pさらにプラトンは「彼の場合、上昇(「エクバシス」のルビ)の到達点、つまり下降(「カタバシス」のルビ)の出発点となるのは――マルクスの謂う「上向」「下向」と逆の言い方になっていることに注意して頂きたいのですが――申すまでもなく「善のイデア」です。踏み台となる仮設から出発して吟味・論駁を重ねていけば、弁証の能力によって、ついに無前提のもの、もはや仮定ならざるもの、アニュポテトンたる善のイデアに到達する。ですから、無際限な遍歴にはならない、というのがプラトンの確信です。」10P・・・この「上向」「下向」がマルクスと逆になっているというのは、唯物論と観念論から来ているのではと思ったりしています。ですが、「上向」「下向」の概念がプラトンから来ていることを押さええます。
第二段落――アリストテレスの弁証法とプラトンとの対質 10-4P
ここで、アリストテレスを取り上げます。アリストテレスは「形式論理学の元祖」とされていて、エンゲルスの「最大の弁証法家」という規定を笑う者がいるけれど、そんな簡単なことではないとして、アリストテレスの弁証法の端初論的な押さえをしていきます。
「アリストテレスは広義の「推理」(シュロギスモス=推論)、すなわち「或ることが定立されると、それとは別の或ることが、当の定立されたものによって必然的に帰結するような論語方式(「ロゴス」のルビ)」を四種に区分します。第一が「論証」、第二が「弁証法推理」、第三が「争論的推理」、第四が「誤謬推理」です。/第一のアポデイクシス(論証)というのは「真実なる最初のことどもから出発しておこなわれる推論、ないしは、真実なる最初のことどもから認識の端初がつかまれるような前提を起点とする推論」。/第二のディアレクティコス・シュロギスモスというのは、「一般に承認されている意見(「エンドクサ」のルビ)」から出発しておこなわれる推論。/第三のエリスティコス・シュロギスモスというのは「一般に承認されている意見のようにみえて実はそうではないもの」から出発しておこなわれる推論/第四のパラロギスモスというのは「幾何学やそれと同類の諸学においてよく起こる」ことだが「その学問に固有ではあるが真実ではない想定」から出発する推論と、規定されます。/これらの四者の相違は、ご覧の通り、この意味での端初の設定の仕方、というよりも端初命題の認識論上の権利に応じるものです。」10-2Pとしていて、慥かに「第一の「論証的推論」の方を第二の「弁証的推論」より上位に価値づけてい」12Pて、アリストテレスは「弁証法(「ディアレクティケー」のルビ)を最上位に置いたプラトンとは異なって、弁証術(「ディアレクティケー」のルビ)は論証法(「アポデイクティケー」のルビ)より貶置されます。」12Pが、「「真実なる最初のもの」を定立する手続の場面で、アリストテレス自ら弁証的推論の有効性を認めて」13-4Pいます。それは次のアリストテレスの言に現れています。「「それは、提出された問題の肯否両方の難点を見出し、それぞれについてどこが真でどこが偽であるかを容易に認識できる。また個々の学問の諸原理の第一のものを認識するうえでも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一[最初・根本]のものであるから、当面の学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、個々のものに関する一般に承認されている意見(エンドクサ)からそれを究明しなければならない。このことは弁証術に特有な、乃至は少なくとも固有な仕事である。弁証法は吟味検討に適しており、あらゆる方法的学問の諸原理へと近づく道を保持している」・・・・・・。」14Pということからして、「アリストテレスも、実際上は、ブラトンのいう上昇・下降と同様な方途を考えていたことになり、俗説のように、アリストテレスは専ら論証法を顕彰して弁証法を貶価したとは言い切れぬ道理です。」14Pと著者は押さえています。
第三段落――プラトンとアリストテレスの端初論まとめ 14-7P
さて、端初論のまとめに入ります。「学知の体系的講述を期する場合、絶対的に確実な原理[端初]から出発して、論理必然的な展開とは抑々如何なることかという大問題は暫く預かりとして、ここで早速に問題になるのが、謂う所の端的に確実な端初を如何にして設定するかという点です。」15Pと問題を立てます。そして、「プラトンやアリストテレスの場合、弁証法ということが要件になるのは、展開の論理の場面においてではなく、まさに出発点の設定、第一原理の設定の場面においてなのです。このことからも「端初(「アンファング」のルビ)」の設定が弁証法にとってもつ重要性をあらためて知る所以ともなります。」16Pとして、プラトンとアリストテレスの対質として、「プラトンの場合でいえば、文字通りのヒュポテシスを踏み台としてヒュポテシス吟味・論駁を重ねていく過程には、原理上の終局はないということになりますし、アリストテレスの場合でいえば、一般に承認されている意見からの展開しかありえないことになります。つまり、「無前提」とか「真実なる最初のことども」といっても、それは所詮、一種のエンドクサたるヒュポテシスにすぎない、ということになってしまいます。」16-7Pと押さえます。
さてこの節のまとめ、結論的命題として「プラトンやアリストテレスの志向は諒としつつも、端初命題はたかだかエンドクサたるヒュポテシス(仮設)でしかありえない・・・・・・・」17Pとしています。これは、マルクス・廣松さんの弁証法にまで至ることなのだと理解していますが、このことでわたしが想起したのは、真鍋淑郎さんの二酸化炭素温暖化説(註)を、その当否はわたしには検証できないままでいますが、シミュレーションモデルを使った統計学的、すなわち廣松さんのいう函数的連関態を確率函数的なところにつながることで見出していく試行を想起しています。
(註)
「たわしの読書メモ・・ブログ628/・真鍋淑郎・アンソニー・J・ブロッコリー/増田耕一・安倍彩子監訳・宮本寿代訳『地球温暖化はなぜ起こるのか 気候モデルで探る 過去・現在・未来の地球』講談社(ブルーバックス)2022」(「反障害通信135号」所収)参照 135 (taica.info)
二 帰納法的手続の先取性と論理的悖理
前節からの引き継いだ端初論の問題論的構制の話をまとめています。「或る意味からいえば、哲学者たちは端初の論理的無根拠性の故にこそ方法論的に苦心してきた次第でして、この事実の対自化から事が始まるとすら申せます。プラトンがいかなる方法論的意識を懐いて上昇(「エクバシス」のルビ)の途を追求したか、デカルトがcogito ergo sumという端初を設定すべく何故あのような方法論的懐疑(「ドウト・メトディンク」のルビ)を展開したのか、ヘーゲルが端初論をいかなる想いで開陳したのか、このような論件に立ち入るまでもなく、端初の論理的無根拠性というとき、その「論理」は「前提から帰結を導出」するという構造になっていること、しかし、この「導出(「デドクチオ」のルビ)」という論理の構造そのものからして問い返す必要があること、この一事を省みただけでも、端初は無根拠なりという命題そのものがプロブレマーティシュ(問題構成的)であることが判ります。」18P
第一段落――第一原理(端初)の設定の再論的整理 18-21P
端初設定の帰納的方法がアプリオリズムに陥っていく構図を描いています。「一般論として、研究を進めるに当たっては、「われわれにとって先なるもの(「ブロス・ヘーマース」のルビ)」からア・ポステリオリな手続を通じて「事柄にとって先なるもの」へと遡及して行くのが普通です。この際、「われわれにとって先なるもの」には、感性的な経験知(「エムベイリア」のルビ)と常識的な意見(「ドクサ」のルビ)とがありますが、それらは個別的ないし特殊的なものと言えましょう。研究の進捗は、これらの“知識”に分析と綜合を施し、真偽を検討し、特殊的な知見から普遍的な知見を措定します。」18Pで、「普通、第一原理の措定に先行する手続は、就中、帰納的抽象による普遍化であると考えられておりますので、この手続の内実というか、論理的構造を茲で検討しておきましょう。因みに、アリストテレスも弁証術的な推論の一種として帰納法を挙げ、「帰納 επαγωγήとは個々のものともから一般的なものへと上昇する道である」と述べております。」19Pというところで、<犬>という概念でのとらえ返しをして「一群の与件を比較校合の素材として確定する場面で、既にいちはやく、つまり、帰納的抽象に取掛かる以前に、(アプリオリに)抽象さるべき当の概念を知っており、それを基準にしているということになります。勿論、与件群を確立する場面で既に知っている犬の概念は漠然たるものにすぎず、帰納的抽象の作業を介してそれか確然たるものになるのだ、と言うこともできます。だが、たとえ漠然とであれ、犬という概念をあらかじめ知っていたのはどのようにしてでしょう。それは少なくとも帰納的抽象によってではない筈です。帰納的抽象に先立って知っているのですから、そうなると、話はそこでは止まりません。普遍概念の抽象というのは、抽象によって導出されるのではなく、帰納的抽象の手続を介して明確化されるだけだ、つまり、漠然としていたものが明確になるだけだ、ということに話が進んでしまいます。漠然とであるがアプリオリに知っていたのだ? 現にそういう主張が存在します。」19-20Pということの中で、「とどのつまりは、まさに帰納的に抽出さるべき当の概念そのものという仕儀になります。ここでもまた、帰納的抽象に先立って、当の概念そのものを取捨の基準として、あらかじめ知っている、という循環に陥っている次第なのです。」20-1Pと、循環、無限遡及に陥っていく構図を押さえ、「帰納的抽象説が論理場の循環と先取を免れないことは慥かです。帰納的抽象の作業は、人々がそう信じているように、個別から普遍を初めて取出すものではないこと、それはたかだかのところ、既知の漠然たる普遍概念を明確化するものにすぎないということ――帰納的抽象によって普遍概念や普遍命題を導出するという理説は、謂う所の抽出作業に際して、外延的素材群選取する基準として、また、内包的規定性を取捨する基準として、当の普遍概念や普遍命題をあらかじめ知っているという先取と循環に陥るということ――、論理的にはこれが正しい認定です。」21Pと結論付けます。
第二段落――アプリオリズムの止揚の途 21-3P
前段落で陥ったアプリオリズムの指摘として「論証的推論の出発点(「アルケー」のルビ)となる普遍概念や普遍命題、ひいてはまた論理規則を以って、経験的・帰納的に導出されたものと見做すことには論理的難点(先取と循環)があるということ、この事実が一因となってアプリオリズムが生じる所以ともなります。」21Pそこで、「端初の論理的無根拠性という先にみた論点と絡むかぎりで、もう一つには、ヘーゲルの或る議論と絡むかぎりで、若干の問題点を確認しておきたい」22Pとして「論証的推論の端初たるべき普遍概念・普遍命題は、経験的・帰納的な抽象という手続で導出されるものではないにしても、帰納的過程を通じて明晰化するということが認められるとすれば、ここには或る媒介的過程を機縁として、即自的な普遍が対自的普遍へと現成すると考える余地が残されております。この対自的措定は、或る根拠からの論理的導出ではありませんから、当の対自的措定態は無根拠(論理的脈絡上での無根拠)であり、直接態です。但し、端的な直接態であるのかといえば、即自態から転成したものという意味では被媒介態(間接態)ですし、また、対自化の機縁(論理的な推論による論証的な導出ではないというかぎりでの促成的機縁)となる論考の過程に俟っているという意味においても被媒介態です。とすれば、論証的展開の端初(「アルケー」のルビ)として対自化された普遍者は、単なる直接態ではなく、直接性と媒介性との統一としての直接態と言うことも許されるのではないでしょうか。/ヘーゲルが「端初」を直接性と媒介性の統一として規定していることは御承知の通りです。」22Pとして「即自態における普遍者は必ずしも認識主観に生具的みなされる必要はありませんし、また、対自態における普遍者の現成は必ずしも特殊な認識能力の発動とみなされるにも及びません。――即自的な規定態から対自的な規定態への転成という構図を埋めるためには、さしあたり、ヘーゲル式に、熟知されたもの(「ベカント」のルビ)(つまり常識的知見(「ドクサ」のルビ)の次元でよく知られているもの)から認識されたもの(「エルカント」のルビ)(つまり、学知的認識(「エピステーメー」のルビ)の次元で厳に知られているもの)への転成ということが保証されれば足ります。/こうして、アプリオリズムを採ることなく、また、帰納的抽象による導出という強弁に陥ることもなく、それでいて、論理的展開の「端初」を――藪から棒の直接性・臆断としてではなく――一定の媒介的機縁に俟って対自的に措定されたものとして設定される途が拓かれ得ます。」22-3Pそして、補足説明的なまとめです。「もちろん、ここでは、Das Bekannte(熟知されたもの)がそもそもいかにして存立しうるのか。それがDas Erkannte(エルカント)にいかに転成するのか、――これはまさに、弁証法的展開の途行きに関わる問題にほかなりません――。さらには謂う所の「認識されたもの(「ダス・エルカント」のルビ)」、つまり、エピステーメー(ノエタ)と称されるものが、たかだかエンドクサにすぎないという可能性をどう処理するのか、これら一連の問題群があらためて生じます。そして、ヘーゲルは彼の弁証法的体系構成法において、ほかならぬこれらの問題にも応えております。」23P
第三段落――ヘーゲルの弁証法における端初論の揺らぎ 24-6P
ここは、次節につながる事実関係を押さえる作業です。端初論に絞った論攷です。で、「寺沢恒信氏訳の『大論理学』初版本」24Pが出たこと、この「初版本を参照することなくしては、『大論理学』冒頭の端初論は到底理解できないと言っても過言ではないほどです。」25Pと指摘しています。というのは、『大論理学』は三分冊本になっていて、一応三分冊まで出した時点で、最初の一分冊の改定版・二版を出し、ヘーゲルはコレラにかかって死んでしまい、二版としての改定作業を成し遂げられなかったという話です。これは何かというと、初版を出した時点では、『精神現象学』を学の体系第一部として『大論理学』を第二部という構想を立てていたところ、『エンチクロベティー』で「論理学」を第一部にする構想に変えたところで、『大論理学』も第一部に変える必要に迫られ、改訂版を書いたという次第です。ところが、改定が一冊分だけになったところで、底本とされる本の中で、端初論のところが第二版になっていて、その他の初版との論理整合性とれなくなっているという次第のようです。この話は、次の第三節で精説・展開されます。
三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第一段落――『大論理学』の端初としての純粋有 27-30P
最初に先廻りして結論として『大論理学』の訳者武市健人さんの文を引用しています。「(ヘーゲルにおける)始元[端初](「アンファング」のルビ)とは宗教的な表現を用いて云うと『神』である。神の絶対性は何ものにも媒介されたものであることは許されない。もしも神が何ものかによって存在するとすれば、それだけ神の絶対性は傷つけられる。この神が論理学においては純粋有とせられ、始元とせられる」27Pと展開しています。廣松さんは「プラトンにおける下降の出発点がアニュポテトンたる「善のイデア」あるのと類比的に、ヘーゲルの場合、論理学(これは同時に「形而上学」=存在学でもあるのですが)の出発点は絶対者=と神にほかなりません。」27Pと押さえます。ここから、吟味に入ります。「端初に設定されうるのは単純な直接態たる「存在(「ある」のルビ)」でしかありません。」27Pしかし、それは媒介されたものであってはならず、所知的存在と能知的存在が分離すると単純性(純粋性)との悖理に陥るのですが、能知と所知とその関係とは区別されざるを得ないけれど、「自己意識」の場合には、それら三者は反省的には区別されるとしても、事柄としては如実の一体性、純粋性が保証されるとしています。しかし、その自己意識も対象意識と区別されたものであれば、相関性が免れ得ないけれど、そこで対象的意識と統一された自己意識になる必要があり、それをヘーゲルは絶対精神と名づけたというはなしです。そこで、「ドクサとしての端初とエピステーメーとしての端初との二様性、二様の端初を設定する途が残されているはずです。現にヘーゲルに二途を採っております。」28Pとして、そのことが『大論理学』のゆらぎ問題に到っていると指摘しています。ここから、純粋知の吟味に踏み込みます。「純粋知こそが現象する精神の最後の真理、絶対的真理であることが結果として明らかになる、ということである。」29Pと、そして、わたしは純粋知は「能知−所知」関係の「所知」というところで、絶対精神の能知に対峙しているのではと想っているのですが、廣松さんは純粋知に関する規定をいくつも引用した上で、最後に、この段落のまとめとして、「絶対学の端初はそれ自身の絶対的端初でなければなければならず、それは何ものをも前提にしてはならない。それは何ものによっても媒介されていてはならず、根拠をもっていてはならない。むしろ端初それ自身が学全体の根拠たるべきである。端初は、それゆえ、端的に或る直接的なものでなければならず、乃至はむしろ、直接的なものそのものでなければならない。それは他者に対してなんらかの規定をもことができないと同様に、自分のうちにも――どのような内容をもふくむことができない。というのは、規定や内容は同様に一つの区別であり、差異のあるものの相互間の関係で在り、ゆえに、一つの媒介であろうからである。従って、端初は純粋な存在(純粋有)である」29-30Pとのヘーゲルの引用でまとめています。
第二段落――神は存在(ザイン) 30-2P
この項は、「ヘーゲルは、同時に存在論でもあるところの彼の論理学の体系を「神」の存在という端初から説き起こそう」30Pとしているとして、そのことを押さえる作業です。「尤も、ここではまだ「神」といってもその何たるかは規定されておらず、「神というものが存在する」というより「神=存在」、つまり、存在という規定での神が立てられるに止まります。」30Pとして、「ヘーゲルは、端初を「神は有(「ザイン」のルビ)である」という命題ないし判断の主語・述語形式においてではなく、端的に「存在」しかも、「純粋有」という形で措定し、これを以って、彼の論理学=存在論の端初に据え」31Pます。そして、この項のまとめとして「端的な「存在」、しかも、能知と所知との如実の統一態であるごとき「純粋知」にほかならないところのもの、このような存在が現に存立することを究明してみせる必要が生じます。それを遂行したもの、つまり、純粋知を成果として上昇的に開示したもの、これが精神現象学であり、これを前梯にして論理学の端緒が設定されるというわけなのです。尤も、この前提は、論理学の端初に対して論理的な根拠ではありませんし、論理学の端初たる「存在」は純一なる直接態としての学の根拠にほかならないのですが、この下降の起点は、上昇の過程によって媒介され、その媒介性を止揚することにおいて存立する直接態という触れ込みになっているというのが委細です。」31-2P
第三段落――学の体系第二部のゆらぎ 32-5P
この項は、「『精神現象学』での上昇の到達点との関連でみることにしたいのですが、下降の起点たる「学の体系第二部」の端初は果たしてうまく行っているのでしょうか? これが必ずしもうまく行っていないことが、後年になってヘーゲルが『精神現象学』と『大論理学』との関係、わけても後者における端初との関係について、持説を変更した一因にもなっている」32Pというところから始まり、「絶対者=神を原理(「アルケー」のルビ)(=端初=第一のもの)として、しかも「無前提なもの」(アニュポテトン)として学の体系を展開しようという企図は、賛否はともあれ、一往は諒解することができます。キリスト教文化圏における存在論ということになれば、或る意味では、それはごくナチュラルなことかもしれません。だとすれば、「学は何を端初にすべきか」(因みにこれがヘーゲル端初論のタイトルです)などという面倒な議論は抜きにして、端的に「神」から始めたらよさそうなものだ、という意見もありえましょう。しかし、ヘーゲルとしては、そういう行き方は採ることができませんでした。」32-3Pというのは、「神」という概念が揺らいでいた時代だったからで、だから、「自分流に理解した神の概念から出発した」33Pシェリングや、「人は果たして絶対者=神を認識できるのか?」33Pとして不可知論に陥ったカントに対して、「ヘーゲルとしては、絶対者=神から下降の途に就くに先立って、人間が認識論的にいって絶対者の認識に達しうるということ、および、存在論的にみて絶対者とはいかなる存在であるかということ、これら二つの事項を確説することを要件とします。この予備的な作業を遂行したものが『精神現象学』にほかならないわけです。」33Pとし、「人間が絶対者の認識に到達しうるということだけの確認だけでよいのではないか、という考えも生じ得ますし、実際ヘーゲルが『精神現象学』を起稿した時点、つまり「意識の経験の学」という形での展開を志向した時点では、もっぱらそのことを意図していたのではないか、という解釈もありえます。さらには、絶対者の認識可能性ということは当然事だとみなしたうえで、そのためにとるべき認識論上の「態度」と「方法」だけを予備的に表明しておけばよいのではないか、という考えもありえますし、現に『小論理学』では、ほぼそのような姿勢で「予備概念」が説述されております。しかし、ともあれ、執筆の途上で著述の構想が変更され、肥厚されて、学の体系第一部と銘打って上梓された『精神現象学』をみるかぎり、前記の二事項に応えることになっていることは明らかです。」33-4Pとした上で、「ヘーゲルは、ドクサから始めて「意識の経験」を通じてエピステーメーへと上昇し、絶対知というその極点から下降する考構案を立てましたが、神がエピステーメーだとする純粋知=純粋有が、第三者的には所詮、たかだかエンドクサにすぎないわけです。「太初に(「アンファング」のルビ)ロゴスあり、ロゴスは神と偕(「とも」のルビ)にあり、ロゴスは神なりき」という“エンドクサ”の埓をヘーゲルは脱却しえていない所以です。」34P
第四段落――マルクス−廣松の弁証法への途 35-7P
この段落は単なる空白の改行でなく、記号をつけて特別仕立てです。この節はほとんどヘーゲルの引用・解説ですが、この部分は著者の後論への自説的展開への導入的覚え書き的文になっています。著者は冒頭、この節の論攷を「さしあたっては、ヘーゲルの絶対的な真理から下降的に展開しようという企図そのものを相対化しておきたかった」35Pと書いています。そして「絶対的原理(「アルケー」のルビ)から学の体系を下降的に展開しようという志向の点では、プラトンもアリストテレスもヘーゲルも共通です。」35Pとし「彼等が「学知」のあるべき方法という根底的な反省に沈潜したこと、そしてこの反省を試みるや絶望的に迷路的な問題場面に横逢着したこと、この問題圏で唯一恃むべきものが「弁証法」であること」35Pとしています。そして、「プラトンもアリストテレスもヘーゲルも、つまり、西洋哲学史上における「三大弁証法家」は斉しく、説対的な原理から下降すべく、それに先立つ上昇の弁証法を配位しました。「上昇」の出発点は、所詮踏み台(ヒュポテシス)となる臆見(ドクサ)、たかだかエンドクサでしかあり得ません。が、彼等は、弁証の道を辿って、ついにはいったんアニュポテトンたるたるエピステーメーに到達できると主張します。だが、この絶対的な真知と目されるものも、実際にはたかだか、歴史的・社会的・文化的に総体的な、一種のエンドクサでしかありえないのではないでしょうか。」36Pとして、「上昇・下降の二途は、彼等の私念とは別様な、新たな認識論的了解のもとに把え返さねばなりますまい。そこでは、上昇・下降の方法論的意義づけも一変します。」36Pとして、マルクスの下向法・上向法を対置します。そして、「マルクスの場合、上・下が表現がプラトン以来のそれと逆転しているのは、決して単なる用語法の問題ではありません。只今申した認識了解の転換、そして方法論的な意義づけの変換、これがマルクスによって遂行されたわけでして、ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒は、これをも含意していると思われます。勿論「転倒」というのは、比喩的表現であり、上昇・下降を逆にして下向・上向とするわけでなく、ヘーゲル弁証法の継承的批判=批判的継承が事の内実をなすことは喋々するまでもありません。」36Pとしています。弁証法的途行きを学びつつ、観念論から唯物論的転換という次第ではないかと、わたしは想起しています。そして、「ところで、下降の起点、マルクス式にいえば上向Aufsteigenの起点が、所詮一種のエンドクサにすぎないのだとすれば、そこには、もはや上昇の道しか残らず、下降の道は無いというべきではないのか? このような疑問も提起されうるかもしれません。が、敢て下向と上向という謂わば逆方向の二途を方法論的に区別しているところに、マルクス的弁証法におけるプラトン以来の伝統との連続面、わけてもヘーゲル弁証法との連続面が認められます。」36-7Pとまとめ、次章(信)以降へと繋ぎます。5信までがヘーゲル弁証法との対話になっています。
第二信「意識の経験の学」のの構制
(この章の問題設定)「本便箋では上昇の途の一典型であるヘーゲルの『精神現象学』の論理構制について一瞥しておきたい」38Pということで、ただし、「我々の執るべき体系構成法の対自化が目的」38Pだとして、「若干の祖述的な紹介も必要かと」38P論を進めます。
一 『精神現象学』緒論における見取図
第一段落――緒論の成立経緯と問題点 38-40P
「ヘーゲルにおける弁証法的「上昇」の論理構制を見極めるためには、何を措いてもまず『精神現象学』の「緒論」(Einleitung)を読んでおくことが要件になる」39Pとして、「『精神現象学』(一八〇七年刊)という本は、ヘーゲルの当初の予定では『意識の経験の学』という表題になる筈でした。」39Pで、「現行の「緒論」は『精神現象学』に対する緒論ではなく、当初に予定されていた『意識の経験の学』への序論として執筆されたものなのです。しかも、元来は「緒論」というタイトルもつけられていなかったことからみれば、それはむしろ本論の冒頭部分と呼ばれるべきかもしれません。」39Pこれも改定を試み、「「序文」(Vorrede=前書き)の途中まで朱を入れたところで」39Pコレラで一八三一年に他界したので、「「緒論」の部分は手つかずのまま」39-40Pで、「こういう経過からいって、『精神現象学』の「緒論」は、「意識の経験の学」の姿勢・課題・性格・論理構制などを序説風に予示するものとなって」40Pいるとのこと「ヘーゲルのように形而上学的な絶対者関する哲理を展開しようと志向する場合、前以って認識論的省察を試みる必要があるのではないか、それとも、認識論的省察など無用無価値と断じて、直ちに絶対者からアポディクティシュ(論証法的)な「下降」的議論を展開すれば足りるのか、この問題に関する態度決定が一つのポイントになるということだけは銘記しておかねばなりますまい。現に「緒論」は、ほかならぬこの問題から起稿されております。」40Pとこの項(段落)を結んでいます。
第二段落――認識論的とらえ返しの悖理 40-2P
ヘーゲルの「認識論を先立てることが必要」40Pという考えで「認識論なるものが「それによって絶対者を捕える道具として、または、それを透して絶対者を省察する媒体として」、つまり、能動的な道具または受動的な媒体として考えられている。――ヘーゲルはまず、この旨を指摘します。ここで「道具」および「媒体」というのは、おそらく、認識能力に関する二元主義的な観方を念頭においての発言だと思いますが、以下の議論のもつ射程に即すれば、認識論上のいわゆる「構成説」と「模写説」とを総じて衝くかたちになっております。」40-1Pとして、以下、ヘーゲルの文の引用で、内容展開をしていくのですが、ここのところは三項図式の認識論的悖理についての展開になっています。重要な内容を含むのですが、後で、廣松理論によって、この問題を解くことになりますので、ここの詳しい引用は省きます。そして、ヘーゲルは「道具説であれ、媒介説であれ、つまり、構成説的認識論であれ模写説であれ、そこからは、物自体、すなわち事実在・絶対者は不可知だという結論にならない所以を誌します。」42Pとして、「尤も、道具も媒体も使わぬ直接知、そういう知的直観を唱える理説に対しては、右の範囲でのヘーゲルの立論は無記で」42Pと断りを入れて、後論へと保留しています。
第三段落――誤謬への恐怖−真理への恐怖を三項図式の矛盾として押さえつつ、「絶対的」概念の持ち出し 42-4P
「認識を道具や媒体だとみなす表象を前提し、またわれわれ自身とそういう認識との区別を前提にしている。特に挙げておきたいのは、一方の側に絶対者が立っており、そして他方の側に認識がそれ自身で[独立に]絶対者から分離して立っていて、しかもこの認識はそういう在り方をしているにもかかわらず或る実在的なものであるということ、依って言い換えれば、認識が絶対者の外部に、故に当然また、真理の外部に在りながら、それにもかかわらず真理にかなっているということ、こういう前提が立てられている」43Pとして、「この想定がたるや、誤謬への恐怖と称しているものが、実は真実への恐怖である」43Pことを示しているとしています。そして、「ヘーゲルが“認識論”主義者たちの大前提を剔抉しつつ、それを批判している点に留目したいと念います。<自体的存在>としての絶対者と<表象>としての認識、これらを分断し、更には道具や媒体としてのこの<認識>と<われわれ自身>とを区別する論者たちの前提的発想というのは、当世風に言えば「対象自体−意識内容−意識作用」という三項図式に帰趨します。ヘーゲルは、この“三項図式”が不当前提であるということをいちはやく洞見し、まさにこの“前提”こそが真っ先に問い返さるべき当もの」43-4Pとして、「絶対者のみが真である。換言すれば、成るもののみが絶対的である」44Pというヘーゲルの提言を持ち出し、「ヘーゲルとしては、ひとまず、そういう“二重真理説”では、結局のところ、両“真理”の区別が曖昧たらざるをえないこと、そしてそこでは、絶対者とか認識とかいう概念が意義不明のままであることを指弾して議論を次のステップへと進めます。」44-5Pとしています。
第四段落――「意識の経験の学」の「上昇」の必要性 45-7P
ヘーゲルの「学が登場しさえすればただちにその眼前から消え失せる」45Pという言は「“学の体系的叙述”とやらを“下降”的に展開するわけにはいかないからこそ、『精神現象学』、さしあたっては『意識の経験の学』という“予備的作業”が必要になるのであり、また、そのための方法論的配備も必要になる」45Pとしています。そして、「ヘーゲルが、彼固有の仕方で「上昇」的弁証法を方法論的に整備した所以でもあるのですが、「学」といえども、今まさに登場するここでは、それ自身まだ「知の一現象」、「現象知(das erscheinende Wissen=立ち現われる知)」にすぎず、認識論上の権利からいえばエピステーメーというよりもドクサとしか言えません。が、ともあれ、「現象知」の叙述から始めてみる術のないことが、このようにして対自化され」46-7Pるとして「「現象知」の叙述は、いかに「現象知」に即した叙述であるとはいっても、雑然たる羅列的な記述たるべくもありません。さりとて、原理・原則を公理的な前件とする演繹的な展開ではありませんから、方法論的によほどしっかりしておきませんことには、どういう進行になるか判じかねましょう。そこで、ヘーゲルは、――これが「緒論」の主内容でもあり、また、「意識の経験の学」の論理構制ということで関心の対象になるものにほかならないわけですが――、現象知叙述の方法論的構案を予示的に詳述してみせます。」47Pとして、次の節に入ります。
二 「現象知」を叙述する方法論的構案
第一段落――弁証法の「上昇」としての『現象学』 47-9P
「先便以来、「学の体系一部」として当初定位されていた『精神現象学』と、論理学以下の「学の体系第二部」とでは、同じく弁証法といっても展開の論理が必ずしも同列ではないことを申し述べてきました。そして、迂生としては「上昇の途」と「下降の途」というかたちでそれらを配位しました。勿論、細かい議論になれば、果たして「自然哲学」や「精神哲学」をも下降の途と言えるのかどうか、上昇・下降は、現象学と論理学の範囲でしか使えないか、こういう問題が生じえます。更にいえば、上昇の途ということがヘーゲル哲学の最終的な体系に属するのかどうか、それには疑義がありえます。」48Pとして、「ヘーゲルは一方では、認識論を評して、「水に入る前に水泳を練習しようとする」たぐいのものだと言われるのを知って、いつぞや怪訝(「けげん」のルビ)な風情でした。が、この“謎”も「意識の経験の学」の実態、わけても、そこにおける「上昇」の方法を知れば、氷塊すると思います。」49Pと、次の項に移ります。
第二段落――ヘーゲル弁証法における「上昇」の方法 49-52P
ヘーゲルは「現象知の叙述的展開を、さながら、“神へと到る魂の歴程”のように描き、この道程の宿駅を辿る現象的意識にとっては、それは謂うなれば<絶望>の途であると誌します。が、陶冶の道程を歩み抜くことにおいて、自然的意識が学的精神へ浄化されること、一切の真実ならざる表象・思念とスケプティッシュ(懐疑的 Skeptizismus懐疑論48P)に対質しつつ、「意識自身が学へと自己形成を遂げること」を説きます。意識の経験の学的歩みは、この意味で「教養=形成の歴史」にもほかならない」50-1Pと言います。そこで、廣松さんは「現象知はどうして、或る宿駅でストップしてしまわないのでしょうか。」51Pと問います。しかし、「著者たるヘーゲルも、当事主体たる現象的意識も、そういう心配はしません。一者はすでに踏破した経験から、他者は“本然の定めに駆り立てられる”が故に、懸念を懐きません。」51Pと廣松さんは押さえています。
第三段落――読者向けの説明と論理構制の概述 52-4P
ヘーゲル自身もそれではすまないので、読者向けの説明に入ります。その途行きの廣松さんの押さえです。「「実在的でない意識の諸形態」つまり、現象的意識の諸逓駅たる諸姿態が「完璧につくされるということ」、“欠け目なく揃っていること”は「進行および聯関(Zusammenhang=論脈)そのものの必然性によっておのずと明らかにあるであろう」。」52Pと引用して、ヘーゲルの「現象知の叙述方法、意識の経験の学の方法、というより論理構制の概述に」53P踏み込んでいきます。その内容をヘーゲル自身からの引用として「現象知に対する学の応対として、しかも、認識の実在性の吟味・検査として提示されたこの叙述は、尺度として基礎におかれる何らかの前提なしには成立しえないかのように思われるかもしれない。というのは、検査とは或る容認済みの尺度を当てることであり、吟味されるものと尺度との、そこに明らかになる等・不等によって、正・否が決定されるのだからである。そして、この場合、尺度というものは一般に真の存在[Wesen=本質存在]ないし自体的存在[das Ansich]として容認されている。そこで、今もし、学が尺度たるべきならば、学もまた当然そのような容認ずみものということになろう」53Pと押さえ、さらに「しかしながら、学がはじめて登場するいまここでは、学それ自身も、いかなる存在も、真なる存在ないし自体的な存在として、自己を権利づけていない。が、そういう存在がなければ、検査ということがそもそも成立しないかのように思える。」54Pとヘーゲルの引用を重ね、「吟味・検査ということが、ここではそもそも成立しえないかのように思えます。」54Pと廣松さんは押さえます。
第四段落――ヘーゲルの“窮境”の脱し方 54-7P
そこで、そのヘーゲルの“窮境”の脱し方としてヘーゲルからの引用として「この矛盾とそれの除去とを明確化するためには、まず、知と真との抽象的規定を、それが意識に現われてくる相で、裡(「うち」のルビ)に泛(「うか」のルビ)べてみる(erinnern=想い出してみる)のが好便である」54Pとして「現象知そのものの如実相に定位することによって、謂うなればフェノメナルな意識の実相に即して議論を展開しようとします。」54Pと著者は押さえ、さらにヘーゲルからの引用として「意識は、或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。しかし、われわれは、この或る他者に対する存在(Sein für ein Anderes)から、自己における存在(das Ansichsein=自体存在、即自存在)を区別する。知に関係づけられはこのものは、同時にまた、知から区別されて、この関係の外部にも存在しているものとして定立される。この即自(Ansich)の側面が真理と呼ばれる」55Pとの展開を押さえます。そして、廣松さんは「われわれは、こうして、当該の意識の自作自演を見守っていればよい。となれば、実は、われわれは別段検査などしない、ということにならないでしょうか? そうなのです。「概念と対象、尺度と検査さるべきもの、これら両契機が当該の意識それ自身の内に現前しているというこの事態からいって、われわれによる助力が無用であるばかりでなく、むしろ、われわれは両契機の比較=検査をおこなうという労をも免れることになる。……われわれに残されているのは、純然たる観望(Zusehen)のみである」57Pとヘーゲルを引用し、廣松さんは「だが、そうなると逆の心配が起こります。現象知は果たして、自己吟味を遂行できるのだろうか。それが遂行されるとすれば、一体どのような機制でおこなわれるのか?」57Pと問います。それが次の項の課題です。ここのところは、すでに廣松さん自身が書いていますが、ヘーゲルは三項図式を超え得ないけれど、絶対精神の自己展開−下降ということですませないで、「読者向けの説明」として「上昇」の途行きを展開しようとしていることとの廣松さんの対話です。なお、「純然たる観望(Zusehen)」という概念が、ここで出ていることに留目です。
第五段落――現象知の自己吟味の機制 57-9P
ヘーゲルの「[先に所与と所知との二肢的二重性を指摘しておいた通り]、そもそも意識が或る対象について知っているということ、まさにこのことにうちに、既に、意識にとって或るものが即自であり、もう一つのモメントが知、つまり対象の意識に対する存在である、という区別が現存している。検査が存立するのは、この現存する区別づけに基づいてのことである」57Pと押さえて、廣松さんは「こうして、現象知が自分自身で自分の知を吟味・検査するということが可能」57Pになるとして、「それはどのようにして遂行されるのか?」57Pを問います。そして、ヘーゲルが「この比較[=検査]において、両者[つまり、一方の<意識にとっての或るものの即自>と他方の<その或るものの意識に対する存在>という二契機]が照応しない場合には、意識は<知>を変化させて<対象>に適合させねばならないように思えるかもしれない。が、知が変化するときには実は対象それ自身も意識にとって変化する……」58Pと展開していることを引用して、更にヘーゲルの引用が続きます。「この弁証法的運動――意識が自分自身に即して、対象の側に即してのみならず自分の知の側に即しても遂行するこの運動――は、そのことから意識にとって新たな真の対象が発展するかぎり、元来、<経験>と呼ばれるところのものにほからない」58Pと、ここはヘーゲルの「意識の経験の学」ということの中身的展開です。そして、廣松さんは「この際、わけても検査の不合格が確認された場合、尺度=対象が変化するということを特に銘記しておかねばなりますまい。そこでは、変化以前と以後との二重の相で対象が登場してくる所以となります。第一には<意識にとっての即自存在>、第二には<この即自存在の意識−に対する−存在>です。」58Pとして、ヘーゲルから「後者は、一見したところでは、対象の表象ではなくして、第一の対象についての意識の知の表象にすぎないかのようにみえるけれども」58Pと引用し、それに廣松さんはコメントして「あくまで「意識の対象」なのであり、」58Pとして「この新しい対象は、最初の対象の非真実性を含意しており、この新しい対象は第一の対象についてなされた経験である」58-9Pとのヘーゲルのコメントに繋げます。そしてこの項を廣松さんは、「われわれの叙述では」59Pと文を起こし、ヘーゲルからの引用で「第一の対象とそれの知とから、別の対象への移行が生じており、この[新たな]対象に即して<経験>がおこなわれた旨が立言され、第一の対象についての知、ないし、第一の即自存在の<当の−意識−に対する−存在>が、第二の対象それ自身に転成する旨が云々されている」「われわれの見解においては、意識の改変それ自身を通じて、<新たな対象>が<生成>するのである」59Pと以上、ヘーゲルの言説を廣松さんの自らの補足説明を込めて引用し、まとめ、次の項に繋ぎます。
第六段落――<運動><生成>として存在する<意識の経験の学>の本性を把捉し、絶対知の本性を示す
前の項を受けて「現象知の自己吟味を通じてこのように<新しい対象>が<生成>し、従って、新しい知がそれに関して形成されるという<意識の経験>の進展、これが「上昇」を支える。とはいえ、そのことがそのことが果たして、当の「経験する意識」「現象する意識」そのものに自覚されているのであろうか?」59Pと問うて、それに廣松さんはヘーゲルに答えさせていきます。「当該の意識にとってはその仕組みが知られぬままともかく立ち現われるところの、新たな対象の発生、これのみは、いうなれば当該の意識の背後で、われわれにとって(für uns)進行する事柄である。というわけで、意識の運動のうちには、即自的存在またはわれわれにとっての存在という契機、つまり、経験そのものに没頭している当の意識に対して[対自的に]は現前しない契機が入り込んでいる。とはいえ、われわれにとって発生するところのものの<内容>は当の意識に対して[対自的に]存在するのであって、われわれが把握するのは生成する当のものの<形式面>にほかならない。……当の意識にとってはこの発生したものは単に<対象>として存在するにすぎないが、われわれにとってはそれは同時に<運動><生成>として存在する」「この必然性によって、学へと到るこの道程はそれ自身すでに学であり、その内容から言えば<意識の経験の学>なのである」60P「意識が自己についてなす経験はその概念上それの全体系、換言すれば、精神の真理の全領域を包括(in sich beegreifen)せざるをえない。真理の諸契機が、この特有の規定性において自ら叙示するのであり……全体の諸契機が意識の諸姿態というかたちで登場する。意識が自分の真の実存へと邁進して行くとき、意識はついて自分の仮相を脱ぎ去る点に到達する。・・・・・・その到達点では、現象が本質に等しくなり、従って、そこでは意識の叙述が精神に固有の学と合致する。そして終局的には、[経験する当の]意識自身が自分のこの本質[真の在り方]を把捉することにおいて、自らが絶対知そのものの本性を示すに及ぶであろう」60-1Pこれが「『精神現象学』の「緒論」――剴切には「意識の経験の学」の導入部」61Pの結びの部分としています。ヘーゲルの「上昇」の途行き。そもそも、絶対精神――絶対知自体が錯誤なのに、「上昇」の途行きはありえるのでしょうか? 廣松理論では、共同主観性での客観的妥当性の吟味・検証という弁証法で、「真理」を探究していくがゆえに、「観望」(für uns)が学的意識となるのですが、ヘーゲルでは「観望」はドクサにすぎないものになってしまい、「真理」は結局「絶対精神」にあるということが問題なのではないでしょうか?
三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第一段落――ヘーゲルの途行き−<知>と<対象>との関係 61-3P
廣松さんの自著でのヘーゲルとの対話です。「『世界の共同主観的存在構造』では序章の末尾に近い箇所で「認識論は……悟性的反省の次元にとどまっては無限退行に陥る。認識論的省察は、われわれにおいても、“即自的かつ対自的な考察……自己みずから自己を吟味し、自己自身に即して自己の限界を規定し、自己自身の欠陥を指示しつつ進行する途ゆき”としてヘーゲルが定義した意味での“弁証法”を措いてはありえない。」61Pとしています。ここのところ、もっと吟味する必要があるのですが、ヘーゲル的途行きを参照し、弁証法的途行きを探るということなのだととらえ返しています。この節は、廣松さんのヘーゲルとの対話の進行になっています。
そこから「ヘーゲルは現象的意識の実態に定位して、<対象>と<知>とを区別しつつも、分断はしていないこと、このことは想起するまでもありません。知は対象たる即自存在と別々にあるわけではない。<知>は<或るものの意識に対する存在の特定側面>だとされております。」とし、「一方では、あの道具・媒体というかたちでの自立的中間項を否認し、他方では、あの<異質なもの>が意識に対して他者として在るかのようにみえるのは「仮相」だと言っていることからも、彼が意識と対象とを実体的に分立させていないことは判ります。それは、しかも、決して主観的観念論の流儀で一切を意識に内在させることにおいてではなく、実体=主体、主体=実体という絶対的観念論を背景にしてのことです。」62-3Pそして「なるほど関係の第一次性に徹せぬ以上、いくら絶対的観念論といっても、構図的には一種の“先験的内在主義”」63Pに陥っていると指摘しています。この段落のまとめとして
「当座の議論としては、こうしてヘーゲルにあってはともかくにも<対象自体−表象内容−意識作用>という三項図式には拘泥しない相で立論されていること、より適切に言えば、当事的意識は三項図式に半ば囚われているが、われわれにとっては(für uns)既にそうでないこと、――この二重性の故に話が複雑になる次第ですが、――この点を念頭に収めて追認・検討しましょう。」63Pと次項以降につなげます。
第二段落――<知>の変化と<対象>の変化―ヘーゲルの隘路 63-6P
「結論的な認定を表明してしまえば、ヘーゲルはこの難問(「途中で合格を認めれば“意識の経験” はそこでストップしてしま」65Pう)を解決し得ていないと申さざるをえません。が、彼の当座の論理からいえば、“不合格”が必然的な筈です。現象知は<対象>の即自存在そのものを如実に<知>っているものと思念しておりますけれど、その存在は意識に対しての存在にすぎないこと、しかも、<限定された特定の側面>にすぎないことを対自化せざるをえません。ですから、意識の構造そのものからいって、当初の知の否定が必然的です。勿論、この否定は「純然たる消極的否定」ではなく、「限定された否定」であり、故に「そこから直ちに新しい形態が発現し、否定のうちにおいて移行が成就される」わけです。尤もそのことは、当事意識が常に自覚するとはかぎりませんけれども、構造的には必然的な構制とされております。――われわれにとって(für uns)は<新しい形態><新しい対象>がその転成前の“対象”と完く同じものと認知される可能性、従って“生成”や“運動”が停止する可能性がフェア・ウンスにはありえますが、当事主体にとってはそれはあくまで<新しい対象>の現前であり、新しい<経験>であって、停止にはならない道理なのです――。そうである以上は、絶対的な“合格”的一致=絶対知は存立しえないことになるはずです。それにもかかわらず、ヘーゲルは絶対知という“安定点”(当事意識自身にとっての自覚的な安定点)の存在を強弁します。そして、そのことによってはじめて、上昇の途が無際限にはならないこと、上昇の完結を立言しえた形にしております。」65-6P
結局「ヘーゲルとしては神学的な表象に訴えることで辛うじて議論を繕っていますが、というより、絶対知における合一の実現ということが既定の到達目標として彼の先取的構案になっている次第ですが、弁証法的な上昇を支える論理構制は、この“完結”を原理上許容せず、絶対的肯定を弁証法的に披界(entgrenzen)するが故に、彼の神学=哲学の体系的自閉症(ママ)を破綻せざるをえません。」66Pとこの項を結んでいます。
第三段落――ヘーゲル流の建前の「観望」とその違反としての展開 66-8P
「上昇の弁証法は「善のイデア」とか「絶対知」とかへの到達を保証しないからといって、決して方法論的に無効とは申せません。それどころか、迂生としてはむしろ、弁証法的否定の“上昇”運動が、原理上は固定的な終局をもたず、体系的に開いていること、このことは必然的な構制に却って留目する者です。/弁証法的な学の体系が、謂わば“折線”状の往復になるのではなく、ヘーゲル本人が言うとおり、「円環」的になる所以のものも、固定的な終局が存在しないことと相即するはずです。――エンゲルスが指摘するとおり、ヘーゲル流の弁証法的方法と彼流の体系的完結性とは、両立しません。――そして、学知の円環的構造ということは、固定的な「端初」が存在しないこと、原理的にはどこから現象知の叙述を始めても差支えないことをも含意します。もちろん、既定的な端初が存在しないというのは原理上の話であって、実際問題としては、当然、しかるべき出発点が選ばれざるをえません。」66-7P
そして、「現象的意識=現象知の「自己吟味」の進行を観望的に叙述すると称しても、現象知には雑多な内容が含まれておりますし、また、学的叙述は無限の多様性を完璧な目録に仕立てるものではありませんから、そこでおのずと“枠組”や“尺度”を持ち込まざるをえません。学的叙述は、ヘーゲルが建前とするような「観望」(Zusehen)ということでは済みません。そこでは一定の、方法論的な舞台廻しが要件であり、故にまた、謂うところの“枠組”“尺度”“方法”に関するメタ・レベルでの“自己吟味が併せて要求されることになります。このような点でも、ヘーゲルの“建前”にそのまま従うわけには参りません。」67Pとして
「ヘーゲルへの批判は暫く保留して、彼自身が建前に違反しつつ“即自的”に乃至für unsに遂行している実態を見ておくのが順序」67Pとして
「ヘーゲルは、夙に御承知の通り、現象知の叙述を「感性的確知」(sinnliche Gewißheit)から始めます。絶対的無知は、絶対的完知と同様、学の出発点にはなりません。一定のドクサが出発点に選ばれざるをえない所以です。」67Pとして
「次便では、四肢的構造論とも絡めつつ、ヘーゲルが秘めている上昇的展開の“舞台廻しの論理” ――これが、やがて、マルクスによって積極的に活用されるに及びます――と見定め、「意識の経験の学」のメタ・レベルにおける方法論的省察を試みてみたいと存じます。」68Pと予告してこの章を終えます。

