2025年07月16日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(2)

たわしの読書メモ・・ブログ707[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(2)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
 第一節 用在的財態の二肢性
(この節の問題設定−長い標題)「実践的な関心の構えに対して展(「ひ」のルビ)らける世界現相の分節態(=用在的財態(「ツーハンデンザイエンデ・ギューター」のルビ))は、その都度すでに、単なる認知的所与より以上の或るもの(価値性を“帯びた”或るもの)として覚知されている。われわれは用在態における所知的二契機を「実在的所与」および「意義的価値(「ベトイトザーメル・ヴェールト」のルビ)」と呼ぶことにしたいのであるが、用在的分節態はその都度すでに「実在的所与」以上の「意義的価値」として二肢的二重性の構制において、財態の相で、現前する。」5P
第一段落――“実践的世界の一相面”としての「実践的世界」 5-6P
(対話@)「爰に謂う「実践的な関心の構えに対して展らける世界」(すなわち「実践的世界」)は、われわれが第一巻で主題とした「認識的世界」と、所与としては別箇に定在するものではない。――「認識的世界」すなわち「認知的な関心の構えに対して展らける世界」なるものは、如実の実践的世界における実践的関心を捨象することに方法論的に抽出されたものにすぎず、謂うなれば、それは元々“実践的世界の一相面”にほかならなかったのである。――実践的世界の所知が認識的世界の所知(実在態)より以上であるのは、認知的所知(すなわち、たかだか「現相的所与以上の意味的所識」として措定されたもの)が抑々(「そもそも」のルビ)十全な世界現相より以下である所為(「せい」のルビ)なのである。実践的世界の所知的な分節態を「実在的所与より以上の意義的価値」として「財態」の相で捉え返すのは、認識的世界における捨象・過少を恢復・充当する所以のものにほかならない。」5-6P
(対話A)「われわれは第一巻での所見を前梯としうる限りで、世界現相の認知相を辿り返すには及ばない。がしかし、第一巻における認識的世界観が出発点において方法論的に捨象した部面を再確認するためにも、フェノメナルな世界現相の直截的な体験の場面に一旦立返って、現相世界の如実相を直視する必要がある。」6P
第二段落――「表情」−知覚的認知・情動価・行動価 6-11P
(対話@)「偖(「さて」のルビ)、直截的な体験に展らける世界現相は、決して唯単に認知されるのではなく、「表情価」とでも謂うべきものを“帯びた”相で感得される。如実の原基的な体験相においては、森羅万象が一種の表情性を帯びている。いわゆる知覚は、本源的に「相貌性知覚」(すなわち、一種の「表情性の籠(「こも」のルビ)った知覚」) である。」6P
(対話A)「右の提題は、今日の心理学においては定見と称して大過ないはずであるが、若干の敷衍(ふえん)を挟んでおくべきかもしれない。――人が、もし、表情という概念を「内奥的心態が体表的外面に表出されたもの」といった俗流的な定義(?)の線で云々するのであれば、万有霊魂論(「アニミズム」のルビ)の立場を採るのでもないかぎり、森羅万象が表情性を帯びているなどとは凡(「およ」のルビ)そ言うべくもないであろう、しかし、われわれとしては、無論、内奥的心態の体外的表出といった通俗的な表情観を採る者ではありえない。環界的現相が表情性を帯びていると謂うのは、それらが一定の情動興起性・行動誘発性を帯びた相で感知されるということの謂いである。或る種の理論的反省の立場からは、対象的現相が情動性・誘動性を帯びた相で見えるのは「感受主体たる自分自身の裡(「うち」のルビ)なる情動や傾動が“投射・投入”された一種の錯覚たるにすぎない」と評されるかもしれない。だが、当事者の直覚的な体験相においては環界的現相が一定の情動興起性・行動誘発性を帯びた相で感得されるということ、これは紛れもない一事実である。(K・レヴィンのAufforderungscharakterやJ・ギブソンのaffordanceとの位相差については別著『表情』弘文堂、一九八九年刊を参看されたい。)」6P ・・・8-11P(小さなポイントの但し書き)参照
(対話B)「われわれは、暫く、当事者の反省以前的・直接的な体験的覚知事態に即して分析的な討究を進めておかねばならない。――世の論者たちは、とかく、知情意の三分法に泥(「なず」のルビ)んでおり、感性的体験に関して、「まず知覚的認知がおこなわれ、→それにともなって情動的興奮が生じ、→そこで一定の即応的行動が起始する」といった三段階の継起相で考えがちである。われわれとしても三段階の継起相で体験される場合があるということは否認しない。しかし、反省的・事後的な区分は別として、直接的な体験にさいしては、そのような継起相で意識されるのはむしろ独別な場合であって、一般には、当の三継起が同時相即的に体験される。時によっては、例えば、まず急ブレーキを踏み、ゾッと恐怖感がこみあげ、そこで横切って走り去る猫の姿が見える、といった逆の順序で意識にのぼることさえもある。知覚→情動→行動という継起性は、反省的定式ではありえても、体験意識相の常態を記述するものとは認めがたい。――われわれは、情動性というとき、喜怒哀楽といった格別なものにばかりでなく、情調・気分といったものにまで留目する。また、行動性というとき、いわゆる有意的な行動などの高次の行動ばかりでなく、反応性向といった次元をも配視する。そのとき、論者たちが、知覚的認知→情動的興奮→行動的反応と三段階に分ける第一段、すなわち“知覚的認知”と称される“局面”において既に一定の情動性や行動性が籠っていることが見て取れる。論者たちが第二段・第三段と称するものは、格別な情動的興奮や高次の行動的反応に止目するかぎりでは、慥(「たし」のルビ)かに第一段で既に籠っていたものとは別段の継起的局面として扱う必要もあろう。論者たちの謂う第二段・第三段がそっくりそのまま第一段に籠っていると言うつもりはない。場合によっては、第一段では、例えば、不快感や忌避性向が籠っていたのが、第二段では激怒感、第三段では攻撃行動となって現成する、といったケースもありうる。要は、俗見において第一段の“単なる知覚的現認”として遇されている局面にあって既に籠っている情動価や行動価を逸せぬようにすることである。」7P
(対話C)「議論の焦点を見え易くするために、俗に原基的な感覚的体験と称されているものに目を向けてみよう。――現実の感性的体験においては、ピカッ・キラッ・テカッ・チカッは啻(「ただ」のルビ)単なる光覚ではなく、そこには一定の表情価(情動誘起価+反応性向価)が籠っている。ピカピカ・キラキラ・テカテカ・チカチカと表現してみればそのことが一層容易に納得されよう。同様に、白々(「しらじら」のルビ)・黒々(「くろぐろ」のルビ)・赤々・青々は啻なる色覚ではなく、ネバネバ・スベスベ・ベトベト・ツルツルは啻単なる触覚ではなく、温々(「ぬくぬく」のルビ)・冷々(「さむざむ」のルビ)・熱々(「あつあつ」のルビ)・寒々(「さむざむ」のルビ)は啻なる温度の感覚ではなく、コチコチ・フワフワ・ゴウゴウ・ブワブワは啻なる硬軟の感覚ではなく、カラカラ・ジメジメ・サラサラ・グジグジは啻なる乾湿の感覚ではなく、……いずれも表情性籠った現相である。直截的・原基的な体験においては表情性知覚こそが如実の体験相であり、俗に“要素的な感覚体験”と称される次元からして現相態は表情価を帯びている。(人々は色覚(「いろ」のルビ)・音覚(「おと」のルビ)・香(「におい」のルビ)……といった分け方で臨み、色覚を赤の感覚・青の感覚・黄の感覚……に分けることで原基的な体験を分析的に記述している心算になり、表情価を逸しがちである。が、われわれとしては、概念化的・分類化的把捉に先立ち、まずは直接的な体験相を見据えねばならない。)」8P
(対話D)「世界現相は特にこれというほどの表情価を帯びていない場合も慥かにある。がしかし、それら稀有な場合も、譬(「たと」のルビ)えば無色透明がそれ自身一種の色であるように、“無表情”もまた一種の表情にほかならないのである。世界現相が、森羅万象、一定の表情価を帯びているという構制は、われわれの観るところ汎通的である。」8P
(小さなポイントの但し書き)「後論への伏線も兼ねて、茲で感性的体験の内具する行動性向(敢えて対象化した相で言えば、感性的現相の行動誘起性向)について特段の留意を求めておこう。/赤い色や激しい音が興奮させ、青い色や静かな音が鎮静させることは日常的にも実感できるが、ゴルトンシュタインとローゼンタールの今では古典的とも言うべき実証的知見によれば、赤色光刺戟を眼に与えると腕を伸ばそうとする運動が興発され、青色光で眼を刺戟すると腕を体躯に引き寄せようとする運動が興発される。(Vgl.Goldstein und Rosenthal,Zum Problem der Wirkung der Farben auf den Organismus)。この行動誘起性向の相違に因って(と説明されるのだが)、赤色光の視野の場合と青色光の場合とでは、指で測った長さ、手を動かした距離、掌に乗せた物の重さ、それにまた時間の長さなども相違する。/イングルとクックの研究によれば、カエルは飛び脱けようとしている隙間の幅が頭の一・三倍以下であると、ジャンプが抑止される。(D.Ingle & J.Cook,The effect of viewing distance upon size preference of frogs from prey,in Vision Research,17,1977.)ホーリングの研究によれば、カサ貝が餌食となるバイ貝の攻撃を誘起されるか抑止されるかは、爾他の体調比でおのずと決まる。(C.S.Holling,The analysis of complex population process,in Canadian Stymologist,96.1964.)同様なことが人間(「ヒト」のルビ)にもみられるのであって、ワーレンとワンのおこなった隙間を通り抜けさせる実験によれば(W.H.Warren & S.Whang,Visual guidance of walking through apeturs,in Journal of Experimental Psychology,Human Perception and Performance,3,1987.)、隙間の幅が肩幅の一・三以上の場合とそれ以下の場合(先のカエルの場合と同じ数値!)とで、解発される運動様態が一変する。すなわち、一・三倍を超える場合には真直な姿勢で通り抜けるが、一・三倍以下になると、おのずと肩を左右に捻(「よじ」のルビ)って進む運動が誘発される。(以上の段落は、佐々木正人氏稿「身体はメディエイトしない」、『現代思想』第二十巻、第三号に拠る。) /J・ギブソンのアフォーダンスという概念がここであらためて留目される所以ともなる。――ギブソンの新造になるaffodanceという概念は、第三者的にみるとき、M・ハイデッガーの用材性(Zuhandenheit)という概念とも親縁であり、遡ってはフォン・ユクスキュルの環界(Umwelt)とりわけWirkwelt(作用世界)の契機と近似するところがある。本人は、ゲシュタルト心理学派のK・レヴィンの謂う要求特性(Aufforderungscharaker.この概念が、J・F・ブラウンによってinvitation character[誘発特性]、D・K・アダムスによってvalence[誘発性と英訳された])および生態学に謂うニッチ(niche ニッシェ)という概念を批判的・継承的に改作したものと自己規定している。――/ギブソンによれば、ゲシュタルト心理学派の謂う要求特性・誘発性は、経験を通じて後天的に「観察者の要求に応じて対象に付与されるもの」とされていた。「コフカは、郵便ポストは観察者が手紙を送りたいと念うときにのみ誘発特性をもつことになると論じた。人は送りたい手紙を持っているときに限ってポストに惹きつけられるのであり、……物の価値は観察者の要求が変わるにつれて変化する、とされる」。だが、彼がアフォーダンスと呼ぶ誘発特性は「観察者の要求が変化しても変化しない」。「観察者は、自分の要求に応じて特定対象の特定対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚さるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって対象に付与されるのではない。対象は、それがいかなるものであるかによって、それがなるところのものを提供する。対象はそもそも一定の意味や価値を所有しているのである。但し、これは[生態学的に規定されるたぐいの]新しい種類の価値である」。――「生態学では、ニッチは、動物にとって適切な、比喩的にいえばその動物がフィットする環境の特徴の一セット」であるが、ギブソンに言わせれば、「ニッチとはアフォーダンスのセット」にほかならない。動物心理学者は動物はそれぞれの種に固有な主観的世界に棲んでいるかのように論じるが、アフォーダンスのセットであるニッチは主観的環境ではない。アフォーダンスは、主観的な価値や意味というよりも、むしろ客観的価値や意味なのである。尤も、この言い方は正確でない。「実際には、アフォーダンスは客観的特性でも主観的特性でもない。あるいは、その両方であるのかもしれない。アフォーダンスは、主観的−客観的の二分法の範囲を超えており、二分法の不適切さを我々に理解させる助けとなる。それは環境の事実であり、同様に行動の事実でもある。それは物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもないのである」(J.J.Gibson,The ecological approach to visual perception,1979.古崎敬・辻敬一郎氏他共訳『生態学的視覚論』サイエンス社、一九八五年訳刊、一三九頁、一五一頁)。/ギブソンは、このように、生態学に謂うニッチ、ないしはまた、動物心理学に謂うphenomenal environment (環境)を彼の仕方で把え返すことにおいてアフォーダンスという概念を立てようとする。彼の意想は「環境に存在する事物の<価値>が直接的に知覚される」ということにある。/環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供(offer)するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたり(provide or furnish)しているものである」。例えば、「大地の表面は、動物にとって攀(「よ」のルビ)じ登れるもの、……摑めるもの、突き当たれるもの、である。異なった配置(layout)は動物が異なれば異なった行動をアフォードし、かつ異なった動作をアフォードする。……平準・平滑で一定の広さと堅さを具えた面(surface)が膝の高さほどであれば、その面は腰かけることをアフォードする。それは岩棚のような自然物でもあるうるし、椅子のような人工物でもありうる」。「環境にあるさまざまな物(substance)は食物や製品に関し異なるアフォーダンスをもっており、異なる対象は操作に関しても異なるアフォーダンスをもっている。環境内の動物は……交互作用の豊富で複雑なセットをアフォードする。他人がアフォードするものは、人間にとってあらゆる種類の社会的意味を包含している」(前掲訳書、一三五−一三六頁)。/われわれが世界現相の行動誘発性というとき、ギブソンの謂うアフォーダンスに庶(「ちか」のルビ)いものを念頭に置いている。但し、価値というものが把え方においてどこまで共通しうるか、どこでどう別れざるをえないかについては後論がおのずと示すであろう。」8-11P
第三段落――世界現相の表情性体験 11-3P
(対話@)「世界現相の表情性体験と謂うとき、われわれは一応は「認知的知覚と情動興起性・行動誘発性との融合的感得」という言い方をする。或る種の反省的見地においては“認知的成分”と“情動的成分”や“行動的性向”とを区別することが許されよう。そしてその論脈においては「表情性感得は、単なる認知的知覚ではなく、それ“以上”の情動的成分や行動的性向をも含んでいる」という言い方も禁ぜられない。われわれ自身、便宜的には、「表情性知覚」とは「情動興起性・行動誘発性の籠った知覚である」と仮称しさえもする。(このさい「興起」は、当然、鎮静をも包摂し、「誘発」は抑制をも包摂する広義での謂いである。)」11-3P
(対話A)「但し、「表情価」(単なる認知的所与より以上の表情価値)というのは、「情動的成分や行動的性向」の謂いではない。「情動的成分」や「行動的性向」は、レアールな成分やレアールな性向であるかぎり、「実在的所与」ではあっても「意義的価値」ではない。「情動興起性や行動誘発性の籠った知覚」と称されるかぎりでの「表情性知覚」なるものは、そっくりその全体が「実在的所与」なのである。意義的価値の一斑たる「表情価」「表情価」は、後論を先取して一言しておけば、レアールな表情性知覚とは端的に存在性格を異にするイデアールな或るものである。誤解なきよう、この点は呉々も留意ねがいたいと念う。」12P
(対話B)「われわれは、以上のところ、(1)まず、世界現相は汎通的に表情性を帯びた相で体験されることを述べ、(2)以って、如実に展らけている現相世界は、単なる認知的知覚より“以上”の情動的興起性・行動誘発性の“籠った”ものであることを指摘し、(3)但し、謂う所の情動的成分や行動的性向は、レアールな与件たるにすぎず、それがそのまま表情価なのではないことを叙べた。そして、(4)「情動興起性・行動誘発性の籠った知覚」、このレアールな「表情性知覚」は全体としてたかだか「実在的所与」であること、(5)われわれの謂う「表情価」は意義的価値の一斑なのであって、それは表情性知覚という実在的所与とは存在性格を異にするイデアールな或るものであること、このことまで構図的・暫定的に立言した。――猶若干のコメントを追録しつつ、議論を一歩先へと進める運びとしよう。」12P
(対話C)「抑々(「そもそも」のルビ)、実践的な関心の構えに対して展らける世界現相の分節態は、その都度すでに「実在的所与」以上の「意義的価値」として二肢的二重性の構制において、用在的財態の相で、現前すると唱するとき、この提題は何も森羅万象が表情価を帯びているということ自体を指摘しようと図るものではない。表情価は意義的価値中の低次の一斑たるにすぎない。――それにもかかわらず、敢えて直接的体験相におけるフェノメナルな世界の現前相に一旦議論を遡らせ、表情性知覚の汎通性(第一巻第一篇第一章第一節においては、これを一瞬配視したうえで、論域の外に括り出していた)に止目し直したのは、当然、故あってのことである。今その理由を列挙するつもりはない。が、(拙稿「役割理論の再構築のために――表情現相・対人応答・役割行動――」や別著『表情』を繙読された読者には納得していただけると念うのだが)、表情感得という日常卑近なこの機制が実践的世界の成立と存立にとって極めて重要であるという事実、これに鑑みてのものである。併せて亦、認知的所与と表情的価値との二肢的二重性の構制が汎通的であることを論定することによって、「実在的所与」以上の或る「意義的価値」性という構制の普遍性を挙示しうる、という事情もある。――われわれとしては、ともあれ、表情性現相の汎通性を揚言することにおいて、「実在的所与−意義的価値」の二肢的構制の普遍汎通性を立言した所以となる。」12-3P
(対話D)「尤も、実在的所与より以上の意義的価値」と一口に括っても、実在的所与は多種多様であり意義的価値にも多種多様なものがある。われわれは下位的分類をも必要とする。が、両契夫々については次節および次々節で説述することにし、茲では用在的財態そのことを今暫くイラストレイトしておこう。」13P
第四落――用在的財態のイラストレイト 13-5P
(対話@)「識者は、先刻来、K・マルクスの商品世界論の構制、そしてまた、M・ハイデッガーの用材論を連想しておられることであろう。著者は、慥かに――J・v・ユクスキュル、K・レヴィン、L・クラーゲス、K・コフカ、J・ギブソンなどもさることながら――、マルクスやハイデッガーを念頭に置いている。爰(「ここ」のルビ)は、素より、先学の理説を祖述・検討する場ではない。マルクスの価値形態論には後論において関説する予定であるが、当座の論脈と深く関わるのは彼の価値論よりも使用価値論であり、その点でむしろハイデッガーの用材論へのスタンスのほうが問題になる。このかぎりで、ハイデッガーに一言論及し、用在という彼の詞を借用することから生じかねない誤解の防遏(「ぼうあつ」のルビ)を図りつつ、自説を反照的に隈取る縁(「よすが」のルビ)としたい。」13-4P
(対話A)「「日常的世界内存在を、われわれは――とハイデッガーは言う――世界内での世界内部的存在者との、交渉(「ウムガング」のルビ)とも呼ぶ。……この交渉の最も身近かな様式は、認知しかしないだけの認識作用(「エルケンネン」のルビ)ではなく、従事し使用する配慮である」。」14P
(対話B)「「ギリシャ人たちは“事物”を表わす適切な用語をもっていた。それは、プラグマタという詞であって、つまり、配慮的交渉(プラクシス)において関わるものの謂いである。尤も、ギリシャ人たちは、存在論的には、プラグマタのまさに特種<プラグマティッシュ>な性格を曖昧にしたまま、プラグマタを“さしあたり”“単なる事物”として規定してしまった。われわれは配慮において出会われる存在者を道具(「ツオイク」のルビ)と呼ぶ。……道具は本質的に<何々のための或るもの>である。有用性、寄与性、利用できること、手ごろであること、こういった<……のため>のさまざまな在り方が道具全体性を構成する。<……のため>という構造には、或るものの或るものへの指示(「ツエルヴァイズング」のルビ)が含まれている」。」14P
(対話C)「「存在者のこうした存在様式が用在性である。この用在性ということは、しかし、……さしあたりそれ自体では物在的な世界素材が“主観的に色づけ”されたかのように、……単なる観方の特性(「アウツァツァッスングスカラクテール」のルビ)として解されてはならない。……用材性は<それ自体で>存在しているがままの存在者の存在論的・範疇的な規定なのである」(Sein und Zeit,S.66-71)。」14P
(対話D)「ハイデッガーの謂う用材性は、右の引用からも知られるように、それ自体では物在的な世界素材を主観的に色づけする観方の特性ではないとされており、それはそれ自体で存在しているがままの、存在者の存在論的規定であるとされている。この形式的・抽象的な規定に即するかぎり、われわれとしても、用在性というハイデッガーの詞を姑(「しばら」のルビ)く借用・襲用することができる。しかしながら、内容的・具体的に規定する段となると、われわれは彼の謂う用材性、ひいては、それと緊密な「有意義性(「ベドイトザームカイト」のルビ)」という概念を最早そのまま踏襲するわけにはいかない。(この件については稍々(「やや」のルビ)詳しくは別著『物象化論の構図』[岩波書店、一九八三年刊] 所収の「歴史的世界の物象化論」を参照されたい。)」14-5P
(対話E)「われわれとしては、実践的世界を現前(「フォルコメン」のルビ)せしめる「実践的な関心の構え(「アインシュテルング」のルビ)」なるものを、そもそも、ハイデッガーの「従事し使用する配慮」(das hantierende,gebrauchende Besorgen)よりも広く取る。このことに応じて、ハイデッガーの用材にあっては「配慮において出会われる存在者が<何々のための或るもの>=道具」に限局されるのに対して、われわれの用材はより広義のものとなる。しかも、ハイデッガーにおいては「或るものの[別の]或るものへの指示」が<……のため>という「目的−手段」連関であるのに対して、われわれにあっては“或るものの別の或るものへの指示”は<として>という「実在的所与−意義的価値」の等値化的統一の構制になっている。こうして、われわれの用材性は、内実的規定においてはハイデッガーのそれとは相覆わない。」15P
(対話F)「われわれの場合、「実践的な関心の構え」において(つまりハイデッガー式に言えば「認知しかしないだけの認識作用ではなく、配慮的交渉(「ベゾルゲンデル・ウムガング」のルビ)」において)出会う最広義の用材性が嚮に謂う「表情性」(すなわち「情動興起・行動誘発性」)なのである。」15P
第五段落――われわれの謂う用材態 15-6P
(対話@)「われわれの謂う用材態は、最低次の意義的価値として汎通的に表情価を帯びており、それに加えて更に種々の意義的価値を担った相で現前する。――意義的価値の種々相の中に、ハイデッガーの道具的価値やマルクスの経済的価値も見出され、涯(「は」のルビ)ては亦(「また」のルビ)、いわゆる道具的価値・経済的価値・宗教的価値のたぐいも看られる。が、これを視るためにも、財態の第一肢的与件=実在の側を予(「あらかじめ」のルビ)め主題化しておくのが順路であろう。」15-6P
(対話A)「尚、財態(狭義の財・禍の上位概念としてのGüter)という概念は、学史上は、人格的存在と区別された物件的存在に限局されるのが普通である。がしかし、われわれは、いわゆる事物と人物とを二元的に峻別する以前の現相的分節態(心理学に謂う「図」に庶(「ちか」のルビ)い分凝態)に定位して財態を立言する。従って、単なる認知的所与より以上の意義的価値を帯びた現相態でありさえすれば、森羅万象が財態と呼ばれうる。そして、高次の錯分節的統合態に関しても、それが別の分析視角のもとで物的と呼ばれうるものであれ心的と呼ばれるものであれ、はたまた、物件と呼ばれるものであれ人格と呼ばれるものであれ、具体物であれ抽象態であれ、苟(「いやし」のルビ)くも意義的価値性を帯びているかぎり、ひとまず悉(「ことごと」のルビ)く財態に算入される。」16P


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廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(1)

たわしの読書メモ・・ブログ706[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(1)
『存在と意味』の第二巻です。ただ、二巻の二篇で終わっています。二巻の三篇と三巻が未完のまま、筆者の廣松さんはその生涯を終えています。二巻の第三篇は「第二巻(続)」として出す予定だったようですが書かれてません。「目次」には挙げられていますので、書き記します。
一巻に続いて、全面打ち込みます。この巻も、「序文」に「本論の各節の頭初に数行分程度の梗概風の文書が配してある。それら梗概風の分掌は、必ずしも当該の節における論述内容の概要ではなく、論件を提示したものであって、謂うなれば“長大な標題”に類するものと諒解いただきたい。・・・・・・」と誌してあります。それを「(この節の問題設定−長い標題)」として置きます。この著も「項」に小見出しがついていません。著者が第一巻に「尚、本書の各節は、明示的には「項」に区分されておらず、従って「「項の標題」は欠いている・・・・・・」ID-EP と誌しています。第一巻と同様わたしが小見出しを付けます。「わたしの基礎的積み上げのない読解力では誤読しそうで、余計なことをするべきではない、まさに蛇足の類いですが、かなり練った論攷で展開されていると感じていて、小見出しが有効になると思い、学習ノートという性格からして、あえて斜体で項目の見出し付けをやります。」という主旨です。なお、第一巻は「項」にあたる段落は、ヘーゲル弁証法を想起させる各節基本三段落だったのですが、第二巻にはそのようなことは見当たりません。各段落で第一巻と同様な「対話」を試みます。本文小文字は「(小さなポイントの但し書き)」という但し書きをつけて、ポイントを変えないで普通文字にしています。
最初に「序文」があるのですが、「目次」を先に取り上げます。
改行ごとに論旨がはっきりしている場合も、波線で論旨の表記的なこと(詞をつなげればその行文の標題的なことになる)を試みます。強調と波線が重なったときは、二重線になります。
また、この著は著者の他の著作参照や既に書いたところ、それからこれから書くところ参照という記述が多くあります。それらのことを  で標記していきます。(序文はそもそも著者の旧稿紹介の個所が多く、煩雑になるので、本篇からにします。)
この巻には緒論はなく、序文が最初にあるのですが、ここでは最初に「目次」をあげます。
    
      目 次
序 文
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
 第一節 用在的財態の二肢性
 第二節 財態の第一肢的実在
 第三節 財態の第二肢的価値
第二章 自他的分極性の現成と主体の二重性
 第一節 能為的主体の現前相
 第二節 役割的行動と人格化
 第三節 人格的主体の二相性
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
 第一節 財態的二肢制の構制
 第二節 主体的二重性の形成
 第三節 四肢の相互的媒介性
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
 第一節 環境と主体との分截
 第二節 <三項図式> の形成
 第三節 実践論の基幹的構図
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
 第一節 役割行為の存在構制
 第二節 役割遂行の共互構造
 第三節 役割協働の存立性
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
 第一節 決意的企投の呼応性
 第二節 規矩形成と規則随順
 第三節 間主観的妥当と正義

      第二巻(続)目次予定
第三篇 制度的世界の存立機制
第一章 制度的世界の存立態勢と動態的遷移
 第一節 制度的世界の編成相
 第二節 舞台的構造の変動性
 第三節 遷移的動態の形象化
第二章 役の物象化と実体主義的錯認の位相
 第一節 役の既成化と自存視
 第二節 組織の分凝と機能態
 第三節 階層構造と価値様態
第三章 体制の生態系存立と環界の全一性
 第一節 環界的実在の存在性
 第二節 存在と間主体的営為
 第三節 主体と境位の一体性

「解説 熊野純彦」(『廣松渉著作集16 「存在と意味(第2巻)」』岩波書店1997)
「解題 小林昌人」(『廣松渉著作集16 「存在と意味(第2巻)」』岩波書店1997)

序 文
第一段落――第二巻発刊に際して D-EP
(対話@)「第一巻を上梓して以来満十一年間を閲(「け」のルビ)みして、今茲に第二巻を江湖に送り、𠮟正を仰ぐ機会を得ることが漸く叶う段となった。」DP
(対話A)「第二巻の公刊が遅延したのは、菲才と鈍重のしからしめるところとはいえ、未定稿の自家点検と補全とにと予期以上の時間を要した所以(「せい」のルビ)である。著者はこの十年間に一万枚を超える原稿を執筆し、十余冊の拙著を余に問うて来たが、これらの大半は本第二巻および第三巻の準備ないし脇固めの作業に応ずるものであった、と言うことができる。労苦のみ多くして成果に乏しきことを只管(「ひたすら」のルビ)に惧れる。」DP
(対話B)「本巻の論述は、素より第一巻を承けてのものであるが、読者におかれては一応独立の著作として繙読(「はんどく」のルビ)頂けるのではないかと念う。行論も第一巻の場合よりも遙かに平明になっていることと信じる。それゆえ、序文中において事前に導入的な言辞を綴ることはしない。また、第一巻でのごとき緒論を設けることなく、直截に本論に委ねる。」DP
(対話C)「本論の各節の頭初に数行分程度の梗概風の文書が配してある。それら梗概風の文章は、必ずしも当該の節における論述内容の概要ではなく、論件を提示したものであって、謂うなれば“長大な標題”に類するものと諒解いただきたい。――“標題”であるから、それだけで以っては、つまり、本文との反照なしには、文意不明・難解の印象を与える節々もありえようが、その節における主要な論件が何であるのかを事前に識っていただく縁(「よすが」のルビ)とはなりうる筈である。――この数行分の文章を「未定義語の重畳であって文意不明」という廉(「かど」のルビ)で放擲(ほうてき)されることなく何卒(なにとぞ)適宜に本文との反照を願い度いと念う。」D-EP
第二段落――いろいろな(現にある、予期される)批判への応答 E-GP
(対話@)「本第二巻が「実践的世界の存在構造」と題するからといって、よもや「政治的・社会的革命運動」の戦略・戦術論のたぐいの直接的な主題化を予期される読者はあるまいと信じるが、哲学系の読者の中には、道徳的実践論・倫理学を予期されるむきもあるかもしれない。実践哲学といえば、従来ともすれば、道徳哲学に“矮小化”される憾(「うら」のルビ)みのあった事情に鑑みるとき、それもあながちに謂われなしとはしえない。が、しかし、著者としては、倫理の問題は、第三巻「文化的世界の存在構造」の第二篇「人倫的世界の存在構造」中において主題的に論攷する予定であり、本第二巻においては、道徳的行為や倫理の一斑を配視はしても、道徳的実践論や倫理学は直接の主題ではない。この点、予め御諒承を得たい。」EP
(対話A)「此の第二巻での主題は、旧来の学問分類に対応づけていえば、むしろ「社会行為論」ならびに社会的行為連関の物象化された「社会制度論」と相覆う部面が大きい。――そして、その部面に関わる限りで、道徳的行為論に対しても一定射影からの基礎理論としての意義を有つ。――とはいえ、本二巻が「実践的世界の存在構造」と題される所以でもあるが、それは常套的な社会行為論や社会制度論の枠組みに納まるものではない。社会科学者諸賢の眼からは、社会哲学ですらなく、所詮は哲学屋による一種の世界観的談義にすぎないものと評されかねないことを畏れる。」EP
(対話B)「著者の心算(「つもり」のルビ)では、しかし、本巻の論述内容は決して世界観的抽象談義ではない。なるほど、本書は、社会科学者ばかりでなく社会哲学者たちですら往々にして“既定の事実”と見做し大前提に据えてしまっている場面・次元にまで遡って再検討しつつ、パラダイムの再構築を図る。旧来のヒュポダイムに安住している人々の眼からすれば、「土台の無用な掘り返し」「一路前進すればよい所でバック・ギアを入れての背進」と映じ、随所で無用な哲学的拘泥(こうでい)の印象を与えるかもしれない。――例えば、実践的世界の“価値附帯性”を「物理的実在が偶々(「たまたま」のルビ)折々に一定の価値を帯びた相で現われるにすぎない」と了解して済ませている論者たちの眼には、本源的価値性とそれの汎通的存立構造などに「拘泥して論ずる」ことは退屈きわまりないスコラ的談義に映ずることであろう。また、例えば、「他我認識が可能なことは自明の事実だ」と前提し、「人間には自由意志があり、精神的作用力が身体を因果的に操縦できることも不可疑だ」と前提して社会行為論に邁進する“良識的”な論者たちに言わせれば、「他我認識や心身問題は哲学的には厄介な問題かもしれないが、棚上げしても行為論には不都合を生じない。そういう哲学談義は、退屈なだけで、無用無価値だ」ということになろう。――だが、しかし、著者としては、“退屈で無用なスコラ談義”と評されようとも、世界の本源的な価値性とか他我認識問題とか心身問題とか、このたぐいの諸問題に“拘泥”しつつ議論を選ばざるをえない。それは、何も、このたぐいの諸問題が哲学上の重大な難問として「哲学者たちのあいだでのホットな係争問題」であるから避けて通れないといった問題史的な事情だけに因るものではない。哲学界において自覚化されているこれらの難問を解決して掛かることが、社会哲学のみならず社会諸科学次元での行為論の実質的な新展開にとっても必須であり有効であると信じうる理由があってのことである。」E-FP
(対話C)「社会科学者の中には「哲学屋さんはこれだから……」と言って、冷笑・憫笑(「びんしょう」のルビ)されるむきもあるに違いない。だが、ここは、一介の哲学屋として、聊(「いささ」のルビ)か居直りめいた弁疎を挿ませて頂きたい。哲学屋がいかに酔狂でも、一切合財の基礎的概念・基礎的命題を再検討して掛かろうとするわけではない。実際問題として、もしそう試みるとすれば、迂路に迂路を辿り、背進に背進を続ける仕儀となることであろう。既成的観念・既成的命題の抜本的な再検討と再定式に挑む場合、そこには、そのことによって理論の実質的な新展開の“目途”、少なくとも“予感”がある。哲学屋といえども闇雲に基礎概念を掘り下げるほど酔狂ではない。しかも、本書において著者が“拘泥”している問題構制たるや、まさに「問題」であることが“学界”なおいて自覚されているたぐいの事共である。それら問題の解決が、実質的な学問的進展にとって、必須かつ有効と思える事情を“説明”するに方(「あた」のルビ)っては、アナロジーに訴えるのが捷径(しょうけい)かもしれない。嘗つて旧くから、ユークリッド幾何学における平行線の公準が問題ぶくみであることが自覚されていた。また、ニュートン物理学における絶対的時間・絶対的空間の概念が問題ぶくみであることも割と早くから自覚されていた。が、さしあたり、ユークリッド流の平行線の公準やニュートン流の絶対時間・絶対空間を“取敢えずの前提”として理論構築が進められ、それなりの理論的進展が実現してきた。ところが、周知の通り、ユークリッド流の平行線の公準を抜本的に再検討することを介して非ユークリッド幾何学という新しいパラダイムに立った新展開が実現し、ニュートン流の絶対時間・絶対空間の概念を抜本的に再検討することを介して相対性理論という新しいパラダイムに立った新展開が現成したのであった。これらの故事とのアナロジカルな構制において、価値胚胎・他我認識・心身関係といった「問題ぶくみの構制」ないしアポリアの抜本的な再検討・再定式・解決を介して、理論的新展開が期せられるのである。――因みに、著者が本書において“拘泥”している一連の哲学的諸難題は、それがアポリアと成る所以の淵源が、「物心二元論」や「主−客」図式に象徴される近代哲学(狭義の哲学ならずして広く近代知)の基本パラダイムに発することが確認されているのであって、今や“哲学”においてのみならず、諸科学の新展開にとって桎梏となっている「近代哲学流のパラダイム」を超克するに当っての管制高地に位するのである。以って、“退屈な”“無用の”“拘泥的”論議が“折角具体的な事象に即した行論に夾雑”されているという印象を与える個所があろうとも、暫時、何卒“お付合い”下さるよう希(「ねが」のルビ)って止まない。本巻での論述は、全体としては、実証的な知見にも基いたかなり具体的な行論になっており、哲学系以外の読者にとっても「忍耐の限界内」に納っている筈である。」F-GP
第三段落――新しい論展開に当たって、対話を求めて注意喚起し𠮟正・批判を願うこと
H-IP
(対話@)「著者にとって倖いなことに、本書第一巻は相当広範な読書界に迎えられ、文理各方面の専門家諸氏からも望外な程の反応を賜った。著者としては各方面に亙る素人談義に忸怩(「じくじ」のルビ)たるものを感じつつも、博雅(はくが)の厳正なる御叱正を冀(「こいねが」のルビ)うや切なるものがある。本巻の場合、第一篇第一章第二節中で経済学上の価値に関説した論点や、第二篇第三章第三節中で法哲学に関わる論件に言及している点は、第三巻での敷衍(ふえん)を俟って𠮟正を仰ぎ度い所存であるが、随所における発達論的立言に関して、特に心理学・社会心理学・社会学の専門家諸氏の検討・矯正を仰ぐことが叶えば幸甚である。――読者の中には、著者が差当っての課題として「存在構造」論を標榜しておりながら、“発生論的・発達論的な議論を各所に夾雑せしめていること”自体を、方法論的不斉合ではないか、と疑われるむきも却ってあるかもしれない。それゆえ、茲を藉(「か」のルビ)りて若干の釈明を挿んでおこう。著者は固(「もと」のルビ)より、発生論・発達論がそれ自体として重要であることを認めているとはいえ、門外の身でそれを正規に展開する存念はない。著者にとって、発生論的・発達論的な配視・論考は構造論的な把捉のための“補助的”手段である。発生論的機序や発達論的経緯が所産的構造態の把握にとって有効な知見を供し得ることは誰方(「どなた」のルビ)も否認されはすまい。その限りで発生・発達を配視しているのであって、著者としては方法論的不斉合を犯していない心算である。――発生論・発達論として中途半端な挿入的議論であっても、構造把握のための“補助的手段”としては目的を達し得る。その限りで、発達論的に十全に跡づけられていないことは許されるかと思う。しかし、過程的追跡の不十全ではなく、誤認・謬見は許されない。けだし、それは著者なりの構造把握に導くからである。以って、この部面での誤認・謬見は、構造把捉そのことのありうべき誤謬と併せて、御叱正を頂き度いと願う次第である。」HP
(対話A)「この際、殊に社会学系ならびに心理学系の読者に願い上げておきたい事がある。それは著者が一種の「役割行為論」の構制を採っていることや、「模倣」という現象を相当に重要視していることや、「条件反射理論」を折々に援用してことなどに関わる。社会学史の知識を有(「も」のルビ)つ読者は、役割行為論の構制を採っているとか、模倣的現象を重視しているとか、レッテル風に知っただけで、「これは博物館物だ」と速断してしまわれるのではないかと惧れる。しかし、著者はいかに不案内であるとはいっても旧套の役割理論や旧套の模倣理論をそのまま踏襲していない。別稿「役割理論の構築のために」と題する長大な論文(これの総量は千数百枚、本巻以上の分量)を発表して(『思想』に一九八六年五月号から八八年三月号にかけて連載)、役割行為論を定礎し直し、模倣という現象とそれの機序についても把え返しを試みており、それに立脚しての立論である。何卒、速断的放擲(ほうてき)は姑(「しばら」のルビ)く待って頂きたい。また、条件反射論を折にふれて援用するとはいっても第一巻を繙読下さった読者には既に知られている通り、著者本来の立場は必ずしも生理学的決定論風のものではないこと、この原理的次元は今措くとしても、便宜的に条件反射理論に“仮托”する場合の“条件反射”が旧套そのままではないこと、このことを斟酌(しんしゃく)いただきたいと念う。」ix-xP
(対話B)「総じて、著者は本書において、旧来の諸説と内在的に対質しつつ議論を立てようと志向している関係で(尤も、逐一旧来の学説を紹介しつつ批判を重ねるという手法においてではなく、理念型的に類型化したうえでの対質であるが)、旧来の概念装置や伝来の用語法と可及的に接点を持たせるように努めている。そのことが理解を得易くするどころか、却って寇(「あだ」のルビ)になって、著者の見解を旧来の概念装置や旧来の発想枠組の座標系に押込める形で“理解”されてしまう危険があることかと虞(「おそ」のルビ)れる。著者としては、導入部では旧来の用語法に便乗・仮託している場合があっても、軈(「や」のルビ)がては定義的に既定し直して論述を進めるよう心掛けている。この間の事情を諒とされ、著者自身の座標系と用語法に即して御理解ねがいたいものである。既成理論への射影で以って能事足れりとされることのなきよう願いあげておく。」xP
第四段落――第一巻発刊以降の十余年間に発表・公刊してきた一連の論文・著書 x-xxP 
(対話@)「著者がここ十余年間に発表・公刊してきた一連の論文・著書をその都度に一読下さった読者におかれては、本巻既発表論点の集大成にすぎないとの印象を懐かれるかもしれない。著者自身の心意では新規の論点が相当に盛られている賦(「つもり」のルビ)ではあるが、既発表の試論を精緻化しつつ集約した部面も存在することは確かである。今爰で、旧稿・旧著と重複する点のあることの弁解はしない。また、本巻の公刊が遅延したことの弁明もしない。が、著者は本書を余りにも厖大化することを回避したいという念いもあって、本書でもう少しは詳しく論じてもよいはずのところ敢えて割愛した事項などもある。それゆえ、好意ある読者が本書を補完する含みで既刊の拙著を併読下さる折を念頭に置いて、別著との布置関係について茲に若干補綴(ほてい)しておこう。」x-xiP
(対話A)「顧みるに、著者は、第一巻を公刊して以後、第二巻および第三巻の構案を、一つには事象的知識を詳密化することで、もう一つには既成的理論と反照することで、自家点検し脇固めしようと図ってきた。その作業の一部は、折々の独立論文ないし対談・座談(多くは特集その他の機会に雑誌の編集部から需められたのに応えたものであるが)の形や自発的な連載論文の形を通して、或いは亦、独立の著作(これも書肆(しょし)の企画に“乗った”場合が多い)の形を通して、遂行・発表してきたのであった。――尤も、この十年間に発表した論著には「時務」に応えたり、編集者への“義理”を果たしたりしたものであって、『存在と意味』とは直接関係のないものもある。また、本巻と直接に関係するものでも、ここでその全てに言及するつもりはない。――第二巻の刊行に先立って著者がどのように準備してきたかの情報を提供し、御参考に供する趣意で、略々(「ほぼ」のルビ)時系列に沿う形で“告白的”に陳べておく。」xiP
(対話B)「偖、著者は、第一巻を刊行した直後に「記号論の哲学的次元」(『理想』一九八三年一月号)を発表し、第一巻で論じた「能記−所記」関係の場面から、言語行為や言語規則の問題次元への配視へと論考を進め、「表現−理解」関係および、「規則−随順」関係について卑見を叙べた。実践論にとって、記号・言語活動、そこにおける「表現−理解」や「規則−随順」がそれ自体として重要であるばかりでなく、言語活動が或る種の社会的行為論において“モデル”的に遇されていることを意識し、いわゆる“言語ゲーム・モデル”の社会論との対質への伏線を敷こうという意趣をも籠めた。(著者はこの翌年すなわち八四年に言語学者丸山圭三郎氏との対談「文化のフェティシズムと物象化」[『思想』四月号]の機会を得、さらに翌年、同じく氏との対談「コトバと権力と生の円環運動」[『思想』四月号]の宣を得た。この二回の対談を共著『記号的世界と物象化』[情況出版、一九九三年刊]の形で上梓(じょうし)するに当り、当該の論文「記号論の哲学的次元」を併録しておいた。) ――その翌月には「精神の間主体的存在構造――“精神異常”の存立構制の定位のために」(『思想』八三年二月号)を発表し、「実践的世界と役割行動」に即しつつ「精神異常の構造的定位」を企てた。この論文は、それに先立つこと五年の、精神病理学者・宮本忠雄氏との対談「現代心身関係論の地平」(『現代の眼』七八年十月号、その後『学際対話・知のインターフェイス』青土社、一九九〇年刊に収録)とも同様、いわゆる精神病態を論件とするものではあるが、むしろ別稿「<自己− 他己>論への序奏」(『臨床精神医学』国際医書出版、一九八一年五月号)とも同様に、「他我」認知が「自我」意識にとっての存在条件であることを説き、更には「自我」「他我」概念の多階性・多次元性について卑見を述べたものである。(この論文は、その後『哲学の越境――行為論の領野へ』勁草書房、一九九二年刊に、その第八章の形で採録。) ――その翌月には「物象化論の構制と射程」(『思想』八三年三月号)を発表し、マルクスに即しながら「社会的関係の物象化」「歴史動態の法則性」「物象化批判の方法と視座」などを論じておいた。(後ほど誌す『物象化論の構図』に収録。)」xi-xiiP
(対話C)「八三年は、――マルクス没後百年に当ったので、新聞・雑誌類の需めで相当数のマルクス論を執筆したが、それは省く――七月に、フランス哲学の専門家・港道隆氏との共著『メルロ・ポンティ』(岩波書店)を上梓し、十月には来日したJ・デリダ氏を迎えてのシンポジウムで発題者の一人を務め(於・日仏会館、発題はAutour de la différance.traduit par Kazuhiro ADACHI)、十一月には『物象化論の構図』(岩波書店)をも上梓した。――これらが、既成理論との反照において自説の再検討を図ったものであることは申すまでもない。哲学者の行動論というとき、そしてまた、単なる間主観性論ならざる間主体性論というとき、メルロ・ポンティこそが誰を措いても先ず参照・対質に値することは衆目の一致するところであろう。そこで、「知覚的現相と共存」「身体的対自と対他」「相互主体性と実践」に即して「メルロ・ポンティの間主体性の哲学」を検討し、「現象学的限界」を見定めた次第である。著者は「フランス構造主義」や「ポスト・モダン哲学」にも無関心ではなく、故足立和浩氏の慫慂(しょうよう)を黙(「もだ」のルビ)し難かったこともあり、デリダ氏の既発表論著を可及的に検覈したうえで、遠来の客人への非礼に亙(わた)らぬと思える範囲内で疑義的提起を試みたのであった。(後年のことになるが、やはり「ポスト・モダン」哲学の旗手であり、著者としては最も注目している一人、ピエール・ブルデュー氏が一九八九年二来日した折にも対談[『朝日ジャーナル』]および座談[『現代思想』]に臨んだ。これは氏が偶々拙著La philosophie de Marx《pour nous》.traduit du japonais par Takashi Minatomichi. Actuel Marx N0.2.1987.Parisを眼にする機会があったとのことで、氏の側からの会談希望に由るものであったが、礼を失せぬ範囲で対質的言辞をも陳べた。今村仁司氏と三人での座談の記録は、加藤晴久氏編P・ブルデュー『超領域の人間学』藤原書店、一九九〇年刊に再録。尚、拙著La philosophie de Marx《pour nous》の邦語元原稿は『ヘーゲルそしてマルクス』青土社、一九九一年刊において活字化。)翻って、著者の実践的世界論は、価値存立論・協働行為論・社会制度論・経済機構論・政治権力論・歴史法則論などの基礎論的場面において、マルクス物象化論に関わる自家了解を纏めるべく一連の旧稿をも含めて『物象化の構図』に輯(「あつ」のルビ)めたのであった。(尤も、マルクスの物象化論に関わる拙論は、別著『マルクス主義の地平』勁草書房、一九六九年刊、[一九九一年からは講談社学術文庫版もある]や『マルクス主義の理路』勁草書房刊、一九七四年刊、さらにはまた、『唯物史観と国家論』講談社学術文庫、一九九一年刊、などにも散在しており、この一書に全てを輯(「あつ」のルビ)めたわけではないが、『物象化論の構図』は『存在と意味』第二巻上梓への前梯性を強く意識したものである。)尚、八三年には「科学論の今日的課題と構案」(『思想』十月号)も発表しているが、これは方や『存在と意味』第一巻と係わり、方や遠く第三巻の第一篇「学理的世界の存在構造」とも係わるものであって、差当り第二巻とは直接に関係しないので、立入ることを省きたい。」xii-xivP
(対話D)「八四・五年は、前年八月の開腹手術の後遺症か、体調が優れず、両年とも広範に入院したこともあって、活字化した分量は多くはないが、経済学の再勉学と構造変動の機序についての省察に従事したのであった。経済学を勉強し直したのは、八四年の春に岩波市民セミナーにおいて「『資本論』を読む」講座を担当し、また、名古屋大学経済学部に出講(集中講義)したことを外的機縁としてのものであるが、内発的には、それが第二巻での拙論の自家点検にとって必要だと痛感したからにほかならない。いわゆる近経をも含めて聊か勉強した所以は、経済学上の主観価値説をも射程に入れる配意もさることながら、“オークション・モデル”の問題性を対自化したかったからであり、古典派経済学に溯ったのは、“商品交換社会モデル”(社会理論・社会行為論において“言語ゲーム・モデル”と並ぶ“商品交換互酬モデル”の祖型とも謂うべきもの)との対質の地固めを意図してのことであった。マルクスの相対的剰余価値論や蓄積論を特に学び直したのは、協働とその連関の物象化の機制に留目してのものである。経済学の再勉学にもとづいて、経済学者諸氏との座談会「経済学のパラダイム転換を求めて」(『理想』八五年四月、経済学特集号)に臨み、また『資本論を物象化論を視軸にして読む』(岩波書店)を編み、「資本論における単純商品の意義」(『インパクション』第三八号)を執筆し経済人類学者・山崎カヲル氏との対談「唯物史観と生態史観」(『思想』十二月号)をおこない、『生態史観と唯物史観』(ユニテ、一九八六年刊、一九九一年からは講談社学術文庫版もある)の第二部「人類生態系と生産物交換」をも草した。――著者なりの“経済人類学・試論”とも謂うべき右記「人類生態系と生産物交換」中において既に原始貨幣の問題に関説しているが、その後にも「貨幣と信約的行為」(『現代思想』一九八七年八月号)を更(「あらた」のルビ)めて書き、「貨幣」の問題に著者が特段の留意を払っているのは、御賢察の通り、ハーソンズならびにルーマンの社会理論中における貨幣の位置づけや扱いを強く意識してのものである。――構造変動という問題の省察に従事したのは、著者も一定の留保条件つきで与(「く」のルビ)みする構造論的発想にとって“構造変動の説明が泣所”と言われる事情に鑑みてのことであった。この論件については、座談会「構造変動のパラダイムを求めて」(『理想』一九八四年九月号、前出の『学際対話・知のインターフェイス』に再録)において語り、論文「構造変動論の論域と射程」(『エピステーメー』朝日出版社、第U期第一号、一九八五年八月刊)を書いたほか、先に記した丸山圭三郎氏との対談やブルデューとの座談会についても関説している。また細胞生物学的な方面に論材を採った「超個体の形成と組織分化」(『エピステーメー』第U期第二号、一九八六年一月刊)においても論じている。そして、実は、八三年から八六年かけて『インパクション』に分載した「『共産党宣言』の思想」や『季節』第十号(一九八四年二月刊)に寄稿した「ハブーフにおける人民革命の構想」など、革命運動論ないし革命組織形成論に関わる当時の拙稿も、構造変動の構制と機序を対自化しようとするモチーフを秘めているのであって、著者は“構造論的発想にとっての難題”の解決の目途を求めて腐心したのであった。その甲斐あって漸く成心を得、そこで八六年から第二巻の直接的な主題に関わる作業に復帰した。」xiv-xvP
(対話E)「八六年には、七月に『資本論を物象化論を視軸にして読む』および『生態史観と唯物史観』を上梓し、十月に、心理学者増山真緒子氏との共著『共同主観性の現象学』(世界書院)を発閲したのであったが、二月に「表情現相論・序説」(『現代思想』、後に前記拙著『哲学の越境』の第一章として収録)を発表、また、「ドイツ・イデオロギー内部論争・解説」(『ヘーゲル左派論叢』、お茶の水書房刊、第一巻への編者解説、後に前掲拙著『ヘーゲルそしてマルクス』に収録)や「『共産党宣言』の思想――本邦未紹介資料の披露を兼ねて」(『インパクション』)の連載第一部の“最終回”を活字化したほか、十二月に文化人類学者・田辺繋治氏との対談「生態史観は人類史を再編できるか」(『現代思想』)の機会も得た。この年には、四月から連載「社会行為論ノート」を開始(『現代思想』八九年の十月まで、全十七回に及ぶ。これらのうち十二回分を『現象学的社会学の祖型――A・シュッツ研究ノート』青土社、一九九一年刊)、五月からは「役割理論の再構築のために――表情現相・対人応答・役割行動」(『思想』八八年三月号まで)の並行連載を敢行した。――この年次以降、片や発達心理学・行動発達論の事象的知識を精密化することでの自家点検、片やM・ウェーバーやT・パーソンズ、それにA・シュッツと彼以後の現象学的社会学派の社会行為論との反照による理論的周到化に着手した次第であった。」xv-xviP
(対話F)「八七年には、前年に開始した二大連載に関わる行動発達論的な事象的研究と先行社会学における社会的行為論の勉学に時間と労力の大半を注いだほか、長年の懸案で七六年このかた折々論じてきた「貨幣」の問題について省察(先に誌した「貨幣と信的行為」を発表)、また、旧著『資本論の哲学』の新訂・増補に従事した。この年度には、文化人類学者を中心とする学際的な「文化的プラクティスとイデオロギー共同研究会」(於・国立民族学博物館)に参加する機会を得たこともあり、学生時代から関心を懐いてきた文化人類学方面の勉強にも聊か取組み、この部面からも実践的世界についての卑見を点検・補全する作業を試行した。――『資本論の哲学』(旧版の版元・現代評論社出版部門の閉鎖に伴い、新版は勁草書房)の増補に関連して茲で一言しておけば、それは『資本論』の物象化論的構制の理解に主として係わる。マルクスの物象化論といえば、世間ではとかくG・ルカーチの“物象化”論の線に引寄せて理解されている憾(うら)みがある。しかし、著者に言わせれば、ルカーチ流のそれは、後期マルクスの独特の物象化論の構制を見誤っているものと厳しく指弾せざるをえない。尤も、著者とて、マルクス解釈史上ルカーチの果たした役割を顚から否認するつもりはない。彼がマルクスの“物象化”概念を顕揚した当時、初期マルクスの手稿類が未公開であったうえ、マルクス流のあいだでヘーゲルやヘーゲル左派についての教養が乏しかったりこともあり、マルクス研究者の「ヘーゲル−マルクス」関係の理解は甚だ浅薄であった。その間に伍して、彼ルカーチはヘーゲルとマルクスとの関係をより緊密に把え返して見せたのであった。彼は、そのさい、勿論、ヘーゲルとマルクスとを一視同仁にしているわけではない。がしかし、彼はヘーゲルやヘーゲル左派の「疎外論」的発想や構制とマルクスの物象化論のそれとを強くオーヴァラップさせる弊に陥り、“後期”マルクスがヘーゲル学派流のパラダイムを自己止揚して切拓いた折角の独自的境地を見失っている概(「おもむき」のルビ)がある。そのため、ルカーチにあっては疎外論と物象化論とが離接不全を来たしていると評さざるを得ない。(因みに、著者が、初期マルクスの研究に多大のエネルギーを傾注し、また、ヘーゲル左派の紹介と検討に過分とも思えるほどの労力を捧げてきた理由の一斑は、ルカーチとその亜流に因る「疎外論と物象化論との離接不全」を実証的研究にもとづいて矯正しようと図ったことにある。尤も、「疎外論から物象化論の論理構制へ」という著者の提題は、マルクスがヘーゲル学派的パラダイムを自己止揚することと相即的に切拓いた世界観的新地平を宣揚するものであって、単なるルカーチ的な不全への批判に留まるものではないのだが……。)翻って、ルカーチ“以前”のマルクス解釈家、『資本論』研究家たちは、ヘーゲル学派や初期マルクスに関する知識の貧困に却って幸いされて(?)、『資本論』のテクスト“のみ”を内在的に読解したことにおいて、マルクスの物神性論や物象化論の構制をルカーチよりもむしろ忠実に受留めていた面がある。第二インターきっての理論家と謂われたカウツキーしかり、金融資本論のヒルファーディングもしかり、資本蓄積論のローザしかり、ロシアにおいてもレーニンの論敵ボグダーノフしかり、ブハーリンしかりであった。(日本においても、一時期の河上肇がしかりであった。)そして、誰よりも、ロシア革命後のソ連における最高の理論経済学者と讃えられた時期のあるI・ルービンがそうであり、スターリンによるルービン粛清期における「ルービンの論敵の代表A・コーン」でさえ一時期にはやはりそうであった。ところが、著者は、誠に恥多きことながら、『資本論の哲学』の旧版(一九七四年)を公刊した当時、右の事実に全く気がついていなかった。半ば弁解すれば、世の研究者たちが右の事実に気づき始めたのは、スターリン一派によって抹殺され、全く忘れ去られていたI・ルービンの著書『マルクス価値論・概説』がアメリカの新左翼系の学者の手で発掘・英訳されたことを機縁にしてであった。尤も、ルービンを“発掘”した米・独の学者たち自身は、ルービンの物象化論をルカーチやフランクフルト学派のそれに近い線で“評価”したものの如くではあるが。著者が不明を愧(「は」のルビ)じる所以のものは、旧版に先立つ七二・三年にはルービン“発掘”が既に始まっていたにもかかわらず、そのことを全く識らなかったサーヴェイ不足にある。そして、これは旧版の公刊以後のことに属するが、本邦においても佐藤金三郎氏の手によってルービンの文献の何篇かが邦訳されるに及び、そこでは、著者が『資本論の哲学』において新発見気取りで聊か得意気に論じた「ベイリー−マルクス」関係も既にルービンの論究事項の内に属していたことを知ることができる。但し、著者としては、ルービンの所説に全面的に服庸(ふくよう)するわけではない。以って長大な増補部を追加して、『資本論』の物象化論的読解が著者独りの異端的解釈ではなく、却って研究史上の基調的路線に連なるものであることを確認しつつ、且つ、ルービンに対するスタンスを表明した次第である。(尚、ルービンの主著『マルクスの価値論・概説』の各版テクストクリティークと詳密な訳註付の邦訳が竹永進氏の手で進められており、近く法政大学出版会から公刊される由。)『資本論の哲学』の新訂・増補版については、追補した「補註」(6)、(9)に誌したJ・モストの『資本論入門』の改訂第二版における“価値形態論”の部分が、実は、マルクス本人の執筆になるものであることが考証され、これを参酌するとき、『資本論』の「価値形態論」に関する解釈・論争の様態が一変する筈であること等、この場で論及したい事項が多々あるが、今爰では禁慾する。(この論件については吉田憲夫氏の論文「『価値形態論』の地平」、月刊誌『情況』情況出版、一九九三年十月号所載、を併せて参看されるよう推輓(すいばん)したい。)」xvi-viiiP
(対話G)「八八年には、『新哲学入門』(岩波新書)および『哲学入門一歩前』(講談社現代新書)を上梓した。これらは『存在と意味』第一巻への“入門”書としても機能しうることと念うが、前者では、本第二巻との関係をも意識し、その第三章「実践するとはどういうことか」において「行為の存立構造」「実践の価値評価」「正義の成立条件」について論じておいた。――この八八年からは、西洋・中洋・東洋の歴史研究家諸氏に経済学者や政治学者をも交えた学際的な月例研究会に出席する好宜 (こうぎ)にも恵まれ、歴史的知識と視野を可及的に有(「も」のルビ)って『存在と意味』を仕上げ度いという希求の一端を充たすようになった。(この研究会が縁で『これからの世界史』全十三巻、平凡社、一九九三年十一月より刊行開始、の一冊を担当する運びともなった。)」xviii-ixP
(対話H)「八九年には、『身心問題』(青土社)および『表情』(弘文堂)を公刊し、本書『存在と意味』においては、第一巻のみならず第二巻でも“拘泥”せざるを得ない身心関係という論件についての独立の一書を世に送り、且つは亦、本第二巻では簡略に議論を運ぶべく、表情的現相(これは顔面表情といった狭義のそれではなく、広く情動興発性・行動誘起性の“籠(「こも」のルビ)った”実践場の世界現相)の定位、更には、狭義の表情的表出・理解、他者認識・自己覚識といった間主体的な問題場面について、これまた本巻を補助する筈の一書を上木したのであった。この年にはまた、「儀礼研究への方法論的前梯――物象化論の視座から」(田辺繁治氏編『人類学的認識の冒険――イデオロギーとプラクティス』同文館、所収)を発表し、プレ実働的/ヒポ実働的/メタ実働的な役割行為までを射程に入れ、「行為における事実性と価値性」「儀礼行為とその役割論的構制」「儀礼制度の体制内的統合機能」などについて論じ、本巻および第三巻の一部への脇固めを試みておいた。」xixP
(対話I)「九〇年には、「社会主義諸国」の崩落に伴って時務的発言に追われたが「東欧・ソ連の“変動”に思う」(『思想』二月号)、「“壁”崩壊後の歴史的課題情況」(『情況』復刊第一号)、「マルクス主義運動の新段階」(「フォーラム’90」会報・創刊号)など、四十年に垂々(「なんなん」のルビ)せんとする積年の思いの丈を述べ、また、『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)および『マルクスと歴史の現実』(平凡社)を世に問うて、一知半解な“マルクス葬送”の風潮に抗し、旁々(「かたがた」のルビ)、著者としてはマルクス理論のどこをどう継承的に展開しようと努めているかを表明したのであった。殊に編『二十一世紀の哲学』有斐閣、一九九二年刊、所載、および、「私にとってのマルクス経済学」、『経済評論』日本評論社、一九九三年五月[終刊]号所載と併せて)、本巻の論述を背後的に支えている「想い」を読者に分有していただく縁になりうるのではないかと念う。――この年には、弘文堂刊『講座・ドイツ観念論』全六巻の編集委員の一人として、第三巻総説「カントを承けてフィヒテへ」、ならびに第四巻総説「自然と大我との統一原理」を執筆し、ドイツ観念論の非物理学主義的で且つ非要素主義的な動態的世界観との反照において、本書『存在と意味』の世界観を自己吟味する機会をも得た。」xix-xxP
(対話J)「九一年には、行文中で既に誌した『ヘーゲルそしてマルクス』および『現象学的社会学の祖型――A・シュッツ−研究ノート』の二著を公刊したのであったが、年末に業病の告知を受け、愈々(いよいよ)『存在と意味』第二巻の浄書原稿を急ぐことに意を定めた。」xxP
(対話K)「九二年には、入院加療と自宅療養の反復であったが、最小限の講義に出講しつつ、文字通り骨の想いで浄書稿の作製に邁進した。また、本第二巻への一種の“序説”的プロペドイティーク(プロペドイティーク: Propaedeutik, 「予備学」)として『哲学の越境――行為論の領野へ』を江湖に送っておいた。」xxP
第五段落――第二巻のこと xx-iP
(対話@)「以上の“告白的報告”からも察せられるであろうように、著者にとっては未だ「制度論」方面の事象的研究と持説の自家点検が手薄のままに残されている。そのことを自覚しつつも、浄書原稿の作製に着手したのであったが、本第二巻の原稿は第一・第二両篇だけで既に第一巻のそれに近い分量に肥厚してしまった。」xxP
(対話A)「茲に、第一篇ならびに第二篇の部分のみをひとまず活字化し、第三篇「制度的世界の存立機制」(これの章・節については目次欄を一覧いただきたい)の部分は『第二巻(続)』という形で別冊とすることに予定を変更した。――続刊部を“第三巻”とせずに『第二巻(続)』とするのは、第一巻中のみならず一連の別著において第二巻第何篇・第三巻第何篇と予告的に誌してあるため、無用の混乱を招来しないように配慮してのことである。また、今般刊行する部分を“第二巻(正)”と標記せず、単に『第二巻』と標示しておくのは、後続部が未定稿集成に了らざるをえない場合を慮っての措置であるものと御諒承ねがいたい。」xxiP
(対話B)「第二巻第三篇(すなわち『第二巻(続)』)の印刷用浄書原稿の作製は、体力の見通しに応じて調整する所存であるが、事情にして若し幸い許すならば、今暫く、新規の研究と点検を経たうえでのことにしたいと念う。著者としては、幾つかの方面での事象的知識の獲得と精密化と併せて、デュルケーム学派の制度論の学び直し、グーテンベルクの“経営学”の勉学、N・ハルトマンの階層構造理論(Schichtenbau Theorie)の再検討、ルーマンのシステム理論との対質などは、最小限果たしたうえでの脱稿としたいところである。また、本邦における清水盛光氏の集団理論、吉田民人氏の所有理論を首(「はじ」のルビ)め、見田宗介・佐藤勉・船津衛・宮島喬氏などの業績、それにまた、今田高俊・橋爪大三郎・筒井清忠・大澤真幸・宮台真司などの労作――法哲学その他の方面にも是非とも参酌すべき業績の存在することは承知しているが――、最低限これら社会学者の達成に学び直し反照することが当為であると自覚している。望むらく寧日(ねいじつ)よあれ!」xxiP
第六段落――本巻の補完すべき著作 xxi-iiP
「本書は、議論は錯綜していても、論旨は明快であるものと自負するのだが、読者におかれてもし著者の意想を摑み難いと感じられるようなことがあれば、別著『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房刊、講談社学術文庫版もある)の一読を願いたい。――尚、この旧著は、テンプル大学のマイケル・サントン氏の手で目下英訳が進行中であり、遠からず当の英訳書が一種のコメンタリーとして役に立つことかと念う。――この第二巻の予備門(「プロペドイティーク」のルビ)としては、前記『哲学の越境――行為論の領野へ』(勁草書房刊)が便利な心算である。この別著では、本書では敢えて簡略に叙べた幾つかの論点について稍々詳細に論じている趣きもある。『存在と意味』第二巻が、表情的世界現相から再出発する事情についても、同書の「はしがき」中の論述および第一章が一種の“序説”となる筈である。就いては参看を願う次第である。」xxi-iiP
第七段落――謝辞 xxiiP
「本巻を拙ない乍らも今日茲に上木できるに至ったのは、先輩・同僚・知友の鼓舞の賜物であり、亦、著者の作業の進行状況を明敏に察知しつつ準備・点検に資する論文や著書を鉛槧(えんざん)に上せるよう折々に慫慂(しょうよう)された雑誌・単行書の編集者諸氏の芳志・芳情の賜物である。本来であれば芳名を誌して感謝の辞を捧げるべきところであるが、割愛の非礼を何卒寛恕(かんじょ)頂き度い。/岩波の関係者諸氏に限っても多数の方々に謝辞を呈すべきところ、此の場では、『思想』の歴代編集者、伊藤修・野口敏雄・米浜泰英・合庭惇の諸氏、亦、折々に懇(「ねんごろ」のルビ)な督励を賜った大塚信一氏、病床を見舞って緩急の手綱を捌(「さば」のルビ)いて下さった合庭惇氏、直接に担当して頂いた高本邦彦氏、殊にこれら諸氏に誌して渝(「かわ」のルビ)らぬ深謝の意を表する。/ 一九九三年十月二十五日/ 廣松 渉」xxiiP


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2025年07月01日

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(19)

たわしの読書メモ・・ブログ705[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(19)
「解説 坂部恵」(『廣松渉著作集15 「存在と意味(1巻)」』岩波書店1997)
 解説はひとの数だけ解説があるので、一つの意見として参照するしかないのですが、哲学史的な押さえがわたしにはないので、そういうところを特に押さえて、切り抜きメモを残します。何か、この「解説」に違和を感じるところもいくつかあったのですが、ことば化しえません。とりあえずの切り抜きに止めます。
      1
「「共同主観性」、「関係主義」、「事的世界観」等を骨子とする廣松哲学の基本的結構が、『世界の共同主観的存在構造』(一九七二)あたりでひとまずの完成の域に達し、したがってまた、もっとも無駄のないいわば引き締まった表現に達していることは、多くのひとが認めるところだろう。」565P
「一方、本巻と続巻の『散在と意味』第一巻、第二巻(一九八二、一九九三)は、おなじ著作集で最後の締めくくりの位置に置かれている。ということは、当然(第三巻の未完という事情はあるにせよ)、この著作が全体の掉尾を飾るにふさわしい廣松の「主著」ないしライフ・ワークとして位置づけられていることを意味するといってよいだろう。」565P
「『世界の共同主観的存在構造』や『事的世界観への前哨』(一九七五)で、みずからの基本的発想の形はほぼ完成し了えていながら、いやそれだけに、その発想を、予備的・部分的展開を折に触れては試みつつ、認識、実践、文化の三領域にわたる総合的体系にまで、展開・分節・検証とようという意欲には、熾烈なものがあったように見受けられる。」565-6P
「これらの先刻承知のあまたの事例にもかかわらず、廣松は、あえて、『存在と意味』の体系の構築に踏み切る。しかも、他のあれこれの論者が同様の挙に出れば、たちまち、いまどき体系などとは、アナクロニズムだ、トンキホーテだといった陰口があちこちから聞こえてくることになるだろうが、廣松の場合には、そうした批評をあまり耳にしない。長年の実績を踏まえ、時代状況を重々意識しつつ選び撮られた構えには、そうしたやわな陰口や批評などをたちどころに圧殺するおのずからなる迫力がそなわっているということなのだろう。」566P
「廣松は、まず間違いなく、二〇世紀の代表的哲学書である『存在と時間』や『存在と無』を意識しつつ、それらに対等にわたり合う気概をこめて、主著の標題を選び取った。しかし、選びとられた標題は「存在と時間」でも「存在と無」でもなくて、「存在と意味」であった。」567P
「ここにそうおもってみれば、いわば廣松の発想の「意味論的転換」とでもいうべき基本的性格が的確に示されている。世にいう「言語論的転換」をもじって、わたしがここで「意味論的転換」というのは、いうまでもなく、廣松自身の表現でいえば、「世界の共同主観的存在構造」ないし「事的世界観」(への転換)にあたる。「意味」とは「共同主観的」形成体にほかならず、「存在」(もの)とは「意味」(何々であることないし何々としてあること)と見つけたり、というわけだからである。(もちろん、このことは、「事的世界観の定礎」という本書の副題と正確に照応する。)」567P
「・・・・・・『存在と意味』の「体系」についてもう一言いっておきたい。『存在と意味』は、本巻の序文冒頭にいわれているように、第一巻「認識論的世界の存在構造」、第二巻「実践的世界の存在構造」、第三巻「文化的世界の存在構造」という三巻構成で企画されている。この三巻構成が、「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」というカントの批判哲学三部作、(さらには、それを踏襲した、「純粋認識の論理学」、「純粋意志の倫理学」、「純粋感情の美学」というコーヘンの三部作等)の線に添うものであることは、自明である。では、たとえば、なぜここでヘーゲルではなくて、カントなのだろうか。」567P
      2
「『存在と意味』の三部構成の意味するところは見るには、それとカントないしカント主義の体系との単なる表面的類似に目を奪われることなく、廣松の発想ないしその根本結構にまでさかのぼって見通しを立てることが是非とも必要である。発想の根本結構というのは、ほかでもない、すでに触れた、共同主観性、事的世界観、加えて、関係主義(関係の一次性)、等々、本巻所収の第一巻でいずれも立ち入った解明がこころみられる一連のキー・コンセプトである。」568P・・・「等々」の中身として、物象化論、四肢構造論……
「この廣松の根本結構の中で、理論−実践の二元的対立は、(カントの場合とはちがって)、絶対的ないし両立不能のものではない。共同主観的構成体である「意味」は、(ついでにいえば主観−客観の二元的対立と同時に)、理論−実践の二元的対立を超えている。それは、共同主観的な習慣を通して形成され、さまざまなレベルの実践のなかで修正され、ときには物象化され、形骸化され、風化し、等々、習慣や実践と不可分な形で共同主観的な世界のなかに住み着き、息づき、時に病的組織と化しているからである。(ことさら「弁証法」という用語を表面に出すことはないとはいえ、このように整理してみると、廣松が弁証法的発想よくこなれた形で使っていることがあきらかだろう。)」568P
「という次第で、カントが「理論理性」と「実践理性」を分断して、その上であらためて両者の「裂目」の糊塗・架橋に第三の批判書たる『判断力批判』をアド・ホックに美と有機体に関する理説として書くことを余儀なくされたという不器用な事情が廣松を見舞うことも、幸いにして絶えてない、ということになる。『存在と意味』の第三巻「文化的世界の存在構造」は、むしろ第一巻、第二巻の発想とその根本結構のごく素直な延長上に、制度や組織やあるいは生態系をめぐる諸問題をあつかう予定であったようである。「文化」の領域もまた、共同主観的な活動と環境世界とのかかわりにもとづいて形成され、維持され、変革され、硬直し、抑圧し、等々の諸側面を呈する点において、認識や道徳・倫理のいとなみと根本的にはすこしも変わることがない、と見做されているのである。」568-9P
「(理論的)認識の問題も、実践、道徳・倫理にかかわる諸問題も、そして文化形成体にまつわる諸問題も、こうして、すべてが、「共同主観性」、「事的世界観」、「関係主義」、「物象化的錯視」ないし「実体主義的錯視」等々の基本的な概念装置の枠組みによって統一的視点からあつかわれることとなる。認識、道徳・倫理、文化等は、したがって、共同主観的意味形成体のさまざまな領域ないしレベルのちがいと見なされることになり、相互の境界は截然と別たれることはなく、むしろ、中間領域的な事象がいたるところに見られるということになるだろう。」569P
「しかし、廣松には、個人道徳よりも集団的な「人倫」を、あるいは市民社会よりも国家を優位に置くような、ヘーゲル流の階層秩序や集団主義の考えは見られない。・・・・・」569P・・・そもそもマルクス派の倫理学などありうるのでしょうか?
「ともあれ、一見古風とも見える『存在と意味』のカント風の三部構成の「体系」が、その実、むしろカントの結構の徹底した換骨奪胎(おのぞみなら「ディスコンストラクション」といってもよいが、廣松は古拙な漢語のほうを好むだろう)と、ヘーゲル風の階層秩序や集団規範主義のこれまた徹底した「水平化・平均化」の上に成立している、まことに「ラディカル」な哲学的思索の産物であることを、読者は是非心にとめておいていただきたい。」569-70P
      3
「さて、この第一巻「認識的世界の存在構造」について。/この巻が、カントにおける『純粋理性批判』とおなじく、廣松の『存在と意味』の体系において、全体の基礎を据える位置をしめることは、一読あきらかなところだろう。認識が、実践や文化の基底にある、人間の基本的な営為であることからしてもそのことは容易に納得の行くはずのことである。/しかし、特殊廣松的な思考の文脈に即していえば、認識は、「事的世界観の定礎」にあたって、いわばもっとも当の「事的世界観」に対する抵抗の強い領域、あるいは、いいかえれば、事柄の性質上「もの的世界観」がもっとも住み着きやすく、現にそうした錯視による汚染が日常の知覚から科学的・哲学的な認識理論にいたるまで、ほとんどそれと自覚されることもない常態と化している領域である。」570P
「ということは、この「認識」の領域で一旦、思考の根本的結構を周到に定めておけば、「実践」や「文化」についての考察は、それら各々の領域に特有の考察原理や方法を適宜補うことによって、ほとんど「認識」の領域で置かれた理論的基礎の応用問題として扱えることを意味するにほかならない。・・・・・・」570P
「元来、物理学をはじめとする自然諸科学に深い関心を寄せ、また早くからマッハの認識論に注目していた廣松にとって、この第一巻「認識的世界の存在構造」のあつかう問題領域は、今し方述べたように、「実践」や「文化」を含めた『存在と意味』の考察領域全体への理論的定礎となる同時に、個人的な思想形成の経緯からしても、もっとも早くから関心の集約点となり、また他の分野全体への思索のバックボーンとして機能しつづけた領域でもあった。/その次第は、本著作集の後続第十六巻『存在と意味』第二巻に合わせておさめられる予定の彼の卒業論文「認識論的主観に関する「論攷」を本巻の『存在と意味』第一巻と多少比べていただければ、どなたにもただちにわかっていただけるはずである。そこには認識の問題をあつかうについて、文献を含めた素材についても、そしてとりわけ基本的な発想の結構についても、学生時代の廣松が二十年後の「主著」を先取りする多くのものをすでにもっていたことが如実に示されているからである。」571P
「廣松が本当は学部専門課程で研究のテーマとしてマッハを取り上げたくて、当時の主任教授に相談したところ不適切と判断され、止むなく右記の「認識論的主観云々」に連なる諸テーマに切り替えたという話は、今日ではよく知られている。・・・・・・」571P
「マルクス主義公認の模写説の認識論に真っ向から反抗し、またレーニンがわざわざ標的に選んで批判・攻撃する戦略に出ているあのマッハのラディカル・コンヴェンショナリズムをことさらに取り上げて称揚する、というマルクス主義のなかでの反逆的な姿勢に廣松を誘ったものが何であったのか、・・・・・・」571P
「・・・・・・廣松が、マッハをくぐり、新カント派の判断論・認識論をくぐり、という(マルクス主義の内と外とを問わず)当時の哲学研究の常道とはかなり変わった道をひとり黙々と歩むことがなかったならば、今日の『存在と意味』、とりわけその第一巻は到底現に見る形では成り立ちえなかっただろうということである。」572P・・・坂部さんは、新カント派の幾人かの名を挙げているのですが、廣松さんが「函数的連関態」として援用する新カント派のロッチェやカッシーラーになぜか触れていないのです。
      4
「『存在と意味』第一巻は、見られるとおり、「第一篇 現相的世界の四肢構造」、「第二編 省察的世界の問題構制」、「第三編 事象的世界の存立機制」の三部構成をとっている。この三部構成が、(感性論)概念論、判断論、推理論という、またしても古典形式論理学からカントさらにはここではヘーゲルにまで継承される枠組みを継承していることについては、すこし気をつけてみればだれしもが気がつくところだろう。もちろん、ここでも周到な換骨奪胎の戦略がめぐらせての上であることはいまさら言うにもおよばないことなのだが。」572P
「『存在と意味』全三巻の構想の基底が第一巻において置かれているというさきに見た事情に似て、より微視的にこの第一巻内部の構成について見ても、右の全三篇のうち最初の第一篇が全体の発想の基本形を定めていることは、そうおもって見れば見やすいところである。そこでは、主観−客観の二元論や、あるいは意識対象−意識内容(心像、表象等々)−意識作用という「三項図式」にかわるべき、廣松のかねてからのキー・コンセプトである「四肢(的)構造」が、知覚をはじめとする人間と世界の原初的なかかわりの場面に即して懇切に叙述されているからである。」573P
「この「四肢構造」は、大方の読者にはあらためての説明も不要かとおもうが、念のためにいっておくとすれば、主観(意識作用) −客観(意識対象)のそれぞれの側を二分して、意識内容(心像、表象等)をいわばそれぞれの側に分属させ、こうして、主観、客観いずれをも脱物象化、脱実体化し、あわせて、意味内容の脱観念化をはかるという戦略に発する概念である。(『存在と意味』という標題にこめられた著者の意図は、このように見てくると一層鮮明になるだろう。)」573P
「主観−客観それぞれの側を二分するとは、具体的にいえば、そこに「として」構造を導入して、いわばその実体性を流動化することにほかならない。共同主観(われわれ)「として」の(その契機を欠いては存立しえない)わたし、普遍者(類、種)「として」の(その契機を欠いてはそれとして存立しえない)対象。そして、まさにこの二つの「として」構造を体現し、また両者を媒介する位置に立ち(それゆえに従来の構図では物象的、実体的存在をもちえぬと見なされる)意識内容(心像、表象)。廣松の読者には先刻ご承知の「〜として」(アルス・エトヴァス)構造が、こうして見ると(テロリストがさりげなく隠しもつ小型爆弾にも似て)きわめて巧妙かつ強力な「脱構築化」装置としてはたらいていることがあらためてはっきりするのではないだろうか。本当に強力な破壊力を持つ概念というものは、概してこのように目立たぬ顔をしているもののようだ。」573P
「「第二編 省察的世界の問題構制」は、外界と内界、物と心の分離とそれぞれの物象化、実体化、それにともなう「三項図式」の成立を批判的に跡づけ(脱構築し)、前述のように、(心の主要なまた高等なはたらきと見なされる)判断のありかたについて、従来の諸説が批判的に検討される。ここでは、既述の新カント学派のかずかずのそれなりに精緻な判断論のみならず、廣松がかねて興味を寄せ評価してもいたボルツァーノやマイノングらの諸説が直接あるいは暗黙に参照され、批判的な位置づけを得る。先にも述べたように、問題系としては、廣松の最初期からの関心の中心を占めてきた領域にあたり、それだけに一際力がこもるところである。」574P
「「四肢構造」とならんで「関係の一次性」を説き、したがって「概念の函数的性格」を強調する廣松にすれば、当然概念と判断の区別は相対化・流動化される(ついでにいえば、概念と推理あるいは推論との区別も相対化・流動化される――この点に限っていえば廣松はヘーゲルの徒である)。こうした思考の文脈のなかから、あらためて意味の網の目の結節点としての概念と判断の位置があきらかにされ、あるいはまた、たとえば、判断の「超文法的主語」の概念を導入することによって、判断概念の流動化・相対化がはかられる。このようにして、かねて開拓に努めた判断の理説が、第一篇ですでに提示された四肢構造論のなかにいわば的確に積分されて行くのである。」574P
「「第三編 事象的世界の存立機制」は、以上に述べた第一篇、第二編での考察をふまえて、主観−客観から中立な「事象」(こと)の共同主観的存立のありようをあきらかにして行く。廣松のいう「事的世界観」の全容を明確に提示する部分として本書の締め括りにふさわしい重みをもち、また『存在と意味』全体から見ても、議論の中枢をなす部分として構想されていたとおもわれる。全体は、見られるとおり、主として空間・時間の問題をあつかう第一章(もちろん、空間・時間を主観の形式とするか、客観の形式とするか、というカント以来の議論との対決が志向されている)、「事の物象化と実体主義的錯視」をあらためて取り上げて、いわば客観概念の相対化・流動化に仕上げを施すことを目差す第二章、事象の間主観的存立の様相をあらためて見定め、それが客観的存在性と両立不可能なものでない所以を解明して、「能知と所知の不二性」という事的世界観の極みにまで導く第三章、以上の三章構成で書かれている。」574-5P
「ことさら推理や弁証法の問題を強く言い立てることはないとはいえ、「関係」の網の目をほかならぬ主観−客観のかかわりにまでひろげて「事象」の成立の様相を追求するこの第三編が、古典形式論理学やカント、ヘーゲルの哲学体系の概念論−判断論−推理論の三部構成の頂点に位する「推理論」に相当するものとして構想されていることは、さきにもすこし述べたとおり、だれの目にもあきらかなところだろう。「推理」とは、もと媒介の論理にほかならず、廣松は、それをここでいわば「関係(づけ)」の論理一般にまで拡張した。ここに古典的な弁証法の論理が見当らないと非難するひとがいるとすれば、それは相対性理論のなかに(その特殊な部分系として)古典物理学が隠されていることを見落としてそれを難ずるひとと選ぶところがないのである。」575P
「さて、以上ごく手短に概観した『存在と意味』第一巻の論述に関連して、ここで是非とも触れておきたいトピックが二つある。ひとつは、ノミナリズム(唯名論) −レアリズム(実念論)の問題(いわゆる普遍問題)と廣松の立場との関係であり、いまひとつは、それと密接に関連する事柄とした、「個体」の問題の廣松哲学における位置づけの如何という問題である。」575P
「第一のノミナリズム−レアリズム問題に関しては端的に、『存在と意味』第一巻にすこし先立って刊行された著作中のつぎの一節を見ていただくのが早道だろう。/「それというのも、「イデアールな“存在”」というまさにプラトン的なイデア、ないしは、中世スコラの実念論(概念実在論)に謂う「普遍」[実在としての「類」とか「種」とか]と“近縁な”“形而上学的存在”を断乎として認めないところに、近代哲学・近代思想の立場性、近代合理主義的立場性が存するからである。われわれは、勿論、形而上学的存在の実在性を認めない。それは物象化的錯認の所産であって、決して真に実在するものではない。がしかし、錯認において形而上学的存在とみなされてしまうごとき対象性が現に“ある”ことは無視できない。近代合理主義は、「形而上学的実在」という錯認の生ずる機制を正しく把握し得ず、謂うなれば“恐怖にかられて”ひたすら“形而上学的存在”という“影”から目をそむけ、何かといえば「形而上学!」というレッテルないし呪文をなげつけて“保身”したつもりになっていた。」 (『もの・こと・ことば』) [本著作集第一巻四六一頁]」575-6P
「廣松は、「普遍(概念)」の実在性を否定するノミナリズムにも、またその一種として(コントからウィーン学団にいたる)実証主義を典型とする「近代合理主義」にも同じることがない(「何かといえば「形而上学」というレッテルないし呪文をなげつけて“保身”したつもりになっていた」という生々しい言い方には、何やら具体的に思い浮べている筋がありそうでもある)。かといって、また、廣松が実念論(概念実在論)の立場に与しないことは、引用中のわれわれは、勿論、形而上学的存在の実在性を認めない」云々のくだりによってあきらかである。」576P
「廣松は、ただ、(「普遍」という)「対象性が現に“ある”ことは無視できない」と端的にいうだけである。この立場を、それではなんと呼ぶべきだろうか。歴史上に先蹤(せんしょう)はあるのだろうか。わたくしに多少の見通しがないわけではないが、いまは、ここでも、廣松が、ノミナリズム−レアリズムという二項対立を根底から流動化・相対化する視点を見事に確保しえていることだけを指摘しておくにとどめよう。」576P
「廣松が「普遍(概念)」の実在性を否定するノミナリズムに同調しないということは、第二の問題、すなわち「個体」に関する廣松の見方にただちに関係してくる。いうまでもなく、ノミナリズムは、普遍の実在を否定する反面で、個体のみを実在として認めることにおいて成り立つと通常見なされるからである。普遍という対象性が“ある”ことは無視できない、とする廣松は、当然ノミナリズムの個体実在論にも同調することがない。」576-7P
「たとえば、本書『存在と意味』第一巻にもつぎのような一節が見られる。/「われわれは“個体的分節相”で現前する“性質複合体”(正しくは「関係の結節態」)であれば、臆することなくそれに“個体性”“個体的持続性”“個体的自己同一性”を認容しうるのである。」(第三編第二章四七六頁)」577P
「「事的世界観」を採って、従来一般の「物的世界観」をしりぞける廣松の思考において、このように、「個体」の概念が流動化・相対化されることは、考えてみればあまりにも当然のことかもしれない。」577P
「ここでは、ただ、この「関係の結節態」という個体観が、「自己分裂的自己統一」の相においてある「わたし」あるいは「ひと」という人格観ないし人称観に連なってくること、そして、このことが、社会−個人のかかわりの問題に多くの見通しをもたらすことだけを指摘しておこう。」577P
      5
「今回あらためて読み直してみて気がついたことだが、廣松は、この『存在と意味』第一巻では、「共同主観性」よりも「間主観(性)」の用語のほうを表に立てて使っている。もとよりこの二つの語は、廣松においてはほぼ同義なのだが、あえて「主著」でこの挙に出るについては、単にこの第一巻が「認識」の問題を主題とするためとばかりはいえぬ事情があるいはあったのではないかと、わたしは推測する。/「共同主観性」といってしまうと、あたかも個々人にその可能性を十分に発揮した自己同一性の実現を許す共同体が現にあるいは間近にあるという幻想を与えかねない。それを避ける意味は多少はこめられていたかと推測するのである。廣松は、もちろん、そうしたコミュニタリアンではなかった。/むしろ、根底では、個人のイニシャティヴと独自性を誰よりも念じまた尊重しており、現ある社会が自己に課してくる同一性の枠をいつも何ほどか居心地悪く感じることをいわば原動力として生き、思索していた。彼の心くばりを含羞も、ときには鎧をおもわせる文体も皆そこに由来するようにわたしにはおもわれる。」577-8P・・・解説者の近代合理主義的な観点での廣松の「誤読」?

「解題 小林昌人」(『廣松渉著作集15 「存在と意味(1巻)」』岩波書店1997)
 廣松さんの文献的なことを担当・展開している小林昌人さんが、この『著作集』の解題を全部担当しています。これは、『廣松渉著作集15 「存在と意味(1巻)」』総体の「解題」で、ここには「著作目録」「年譜」の「解題」も含まれます。ここは、『存在と意味』の読書メモなので、別の機会(たぶんそこまで書く機会はないとも思いますが)に取り上げることにして、ここでは、『存在と意味』第一巻分の「解題」をとりあげます。太字で見出しがついている項目が二つ、「『存在と意味――事的世界観の定礎』第一巻「認識的世界の存在構造」」と「『存在と意味』の諸プランについて」。
『存在と意味――事的世界観の定礎』第一巻「認識的世界の存在構造」
 ここでは、この本が極めて専門的な本なのに、かなり評判になって売れて刷を重ねたことと、廣松さん自身がいかにこの著についてこの本の出版以前にこの著を予告・紹介していたか、そして校正の作業について書いています。
 そして、出版後のインタビューの紹介や出版後におこなわれた鼎談における廣松さんの発言が書かれています。切り抜きメモを残します。
「本書の刊行に際しても山本啓氏によるインタビュー「理論的実践への飛翔――新著『存在と意味』をめぐって」(「日本読書新聞」八二年一一月一日号)、及び高橋順一氏によるインタビュー「近代知の地平の超克に向けて――『存在と意味』を刊行する廣松渉氏に聞く」(「週刊読書人」一一月一日号)が行われている。本書第一巻に対する著者自身のコメントや、第二巻、第三巻の構想も語られており、本書の理解を大いに助けるものであるが、紹介の紙幅を欠くここでは参照を求めるにとどめておく、しばしば寄せられる“疑念”を払拭する一助として、ここでは、本書刊行後に行なわれた足立和浩、山本信両氏との鼎談「『存在と意味』をめぐって――近代をのりこえる哲学」(「東京大学新聞」八三年二月八日号)での発言を紹介しておこう。
   「カントを連想させるような古くさい三部構成という点について弁明しますと、私の場合能力心理学的な三分法とは関係がありません。第二巻の実践世界というのは、カント流の実践哲学、倫理学とは違いまして、むしろ、社会哲学というか歴史哲学に近いものになります。第三巻も、新カント学派の文化哲学とは様子が別になります」。「認識論を先立てておくという姿勢ではたしかにカント的ないしはさかのぼってロック的になっていると自認します。しかし、私の場合、認識能力の批判的吟味でもなければ、既成科学の認識論的基礎づけでもない。まさに「存在=認識」論なんですね」。
   「認識論的世界論というかたちのものを第一巻として先行させるのは二つのモチーフがあってのことです。一つには、世界観的なパラダイムの転換期においては即自的に胚胎している新しいパラダイムを対自化しつつ、それを定式化することが哲学の課題となるはずで、この仕事はさしあたり認識論的な作業として先行的な要件をなしているという自己了解です。二つには、実践的有意義性を帯び文化的価値性を帯びている如実の世界にやみくもに切り込むのは困難だし、実践的世界・価値的世界を学理的に分析するためにも、まずは認知的な射影相で截った世界現相を暫定的に把握しておくという手続きが前梯的な作業になるという思いです。(『廣松渉コレクション』第六巻、忽那敬三編「知のアクチュアリテート」三〇一−二頁)。」381-2P
『存在と意味』の諸プランについて
 これは一巻の廣松さん自身のこの本の諸プランについて書かれています。どう構想をねっていたか、ということで、未完の二巻、三巻の構想とどう連携していくかに参照になり、誰かが未完分の発刊を試みるときに、参照できるのではないかと思いますが、とても、そんなひとが出てくるとは思えもしないのですが・・・。


posted by たわし at 17:31| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(18)

たわしの読書メモ・・ブログ704[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(18)
第三篇 事象的世界の存立機制
第三章 事象の間主観的存立と客観的存在性
 第三節 能知と所知の不二性
(この節の問題設定−長い標題) 「能知と所知とは現相的直接態においては「能知的所知=所知的能知」の未分化的統一態をなしており、直接態における現相はわれわれの謂う“膨縮する身体的自我”の“表面”に定位された自己意識にも譬えられうる。とはいえ、能知と所知とが反省的に分化するのも現相的一事実であって、この反省的区別がとかく存在的区別として錯認される。そして、かかる錯認にもとづいて、物象的外界と心象的内界との存在的截断、ひいては、「身体」と「精神」との二元化的截断の思念が形成され、いわゆる「身−心」問題を生ずる。この件に関して、われわれとしては、生理物理的な「実在的身体」という構造的・機能的一体系の存在論上の“身分”を見定めつつ、身心の一如性をあらためて対自化する。」530-1P
第一段落――物体としての「身体」に、「心」なるものが“内在”しているものとして思念される錯認 531-4P
(この項の問題設定)「われわれは第一篇第二章第一節において、現相的直接態における「能知的所知=所知的能知」の未分化的統一性を論述しておいた。また、第二編第一章第一節において、いわゆる心象的内界と物象的外界との二世界化が錯認にもとづくものであることを論定しておいた。翻って、しかし、第一篇第二章第二節でみたように、能知が所知から区別して覚識されるようになることも亦現相的一事実であり、そのさい、所知と能知との臨界面は“身体的自我”の膨縮に応じて“移動”するとはいえ、現相的風景世界内における通常的な「能知的主体」と「所知的対象」の区分は“この身”“あの身”という準皮膚的な個体を能知的主体として分凝せしめる。ところが、或る次元での反省態においては、“あの身”はもとより“この身”ですら所知的一対象の相で覚知され、能知としての能知は「精神的能知」に“退縮”する。そこにあっては、「身体」は、前々節で問題にした実相的時空間内に在る実在的事物の一種となっている。そして、この物体としての「身体」に、第二篇第一章で批判的に論究したごとき「心」なるものが“内在”しているものとして思念される。」531P
(対話@)「爰に、身体と心との関係をめぐって、いわゆる「身−心」問題が提起される所以となる。が、われわれとしては、この問題を三つの位相に分けて考えることができよう。/第一に、典型的には認知や情感の場面で問題になることであるが、身体的状態(とりわけ、脳の機構や機能における状態)と意識的状態とのあいだの関係を論考する位相。/第二に、典型的には意志行為の場面で問題になることであるが、精神的作用(とりわけ、目的志向的な決意性における意志の発動)と肉体的運動とのあいだの関係を論考する位相。/第三に、間主観的な場面で問題になることであるが、他人の心と自分の心とを両極に置いて、その両極のあいだに自他の肉体を挿入し、「心−身−心」の関係を論考する位相。」531-2P
(対話A)「これら三つの位相のうち、第二のものは優れて「実践的世界」で問題になることであるから次巻に譲ることにし、また、第三のものは現相記述的に扱えるかぎりでは既に第一篇第二・第三章および第二編第一章の論脈で討究しておいたので議論の重複は避け、ここでは主として第一の位相に関説することにしたいと念う。」532P
(対話B)「偖、学史を顧みるまでもなく、「精神」と「身体」とを二元的に分離する構図から出発するかぎり、両者の存在関係を説く構案は比較的少数のタイプに帰着する。/第一には、心と身とを二つの実体とみなしたうえで、(イ)利用者のあいだの作用的影響関係を認めるもの、 (ロ)直接的な作用関係を認めずに単なる並行的推移を主張するもの、である。前者(イ)「直接的作用説」は、さらなる下位分類として、相互的影響を認めるものと一方的な作用しか認めないもの、つまり、(a)「相互作用説」と (b)「随伴現象説」とに分かれる。後者 (ロ)「並行的推移説」は、(a)「機会原因説」と(b)「予定調和説」とに分かれる。/第二には、心と身とを同位的な実体とは認めず、(イ)精神のみが実体で身体はそれの一定在形態にすぎないとみなすもの、(ロ)身体のみが実体で精神はそれの状態ないし機能にすぎないものとみなすもの、である。前者(イ)が「唯心論的同一説」、後者 (ロ)が「唯物論的同一説」のさまざまな流派を形成する。/第三には、心と身のいずれをも実体とは認めず、(イ)心と身とは或る根源的な同一実体の二つの属性であるとみなすもの、(ロ)心と身とは或る根源的同一者の二つの現象形態にすぎないものとみなすもの、である。前者(イ)を「一実体両属性説」、(ロ)を「同一本態双貌説」と呼ぶことができよう。」532-3P
(対話C)「哲学史上・科学史上に現われた心身関係論を右に挙げた類型と逐一アイデンティファイするには及ぶまい。具体的に内実においては、往々にして、同一説と随伴説、同一説と双貌説との理説が不完全になるとはいえ、ともかく、如上によって、可能的な基本類型が尽きることが認められるはずである。――ところで、これらの各類型は、いずれもそれなりの仕方で強弁されうるにせよ、どこかに無理を孕んでいる。少なくとも不充分な契機を残している。」533P
(対話D)「第一綱に挙げた諸類型は、(イ)直接的作用説の場合、精神という非物質的な実体が物質たる身体に対して能動的ないし受動的な作用関係をどのようにして持ちうるのか、まさに作用のメカニズムを説きがたい。(ロ)並行的推移説の場合、神の干与を持出す形而上学的な議論であるか、さもなければ、説明さるべき当の“並行的推移”を公理的前提のかたちで先取するものであって、問題そのものを回避する遁辞と評されざるを得まい。」533P
(対話E)「第二綱に挙げた(イ)唯心論的同一説は「精神」が人間の有限的精神であるかぎり、精神がいかにして自己を物質化して肉体となるのか、所詮は臆言以上のものではない。(ロ)唯物論的同一説は、生理学的心理学の発達によるというよりも、科学主義的・機械論的な世界像に支えられて存外と有力であり、検討に値することを認めるに吝かではないが、精神現象を物質現象に還元・同定するという命題は、科学的に実証された事柄ではなく、論者たちの要請的期待たるにすぎない。」533P
(対話F)「第三綱に配した(イ)一実体両属性説は“両極性”の並行的変化のメカニズムを解明しえないかぎり、第一綱に挙げた作用説や調和説と同断と言われざるを得まい。(ロ)同一本態双貌説は、物心分離のパラダイムを卻けるかぎりで新境地を拓くものとは一応は認めうる。が、但し、謂うところの“双貌”たる身・心両現象のあいだに作用的連関が存在するかのように意識される事情を積極的に説明しえないあいだは、問題の解決というよりも、むしろ問題の回避に類すると言わざるを得ない。」533-4P
(対話G)「このようにみてくるとき、物心二元論の構図から発出した身心関係論は、前提的構図の内実を変容しつつ、唯物論的に一元化した同一説、および、現相論的に一元化した双貌説、これら二類型以外はおよそ臆弱である。――尤も、右における簡略な指摘を俟つまでもなく、心的実体であれ物的実体であれ、実体主義的存在観を排却してきた本巻の行文を通じて、「同一本態双貌説」以外は悉く排却さるべきことが慧眼(けいがん)な読者には既に彰らかであろうかと畏れる。とはいえ、同一説といえども心身両現象の双貌性を一応認めるかぎり、論理構制のうえでは、此説も一種の“同一本態双貌説”に帰趨する趣があり、顚から卻けてかかるのは不用意に過ぎよう。――われわれとしては、それゆえ、以下では同一説と双貌説とを意識しつつ因果説・随伴説・並行説をも省みることを通じて「身−心」問題のうち「認識的世界」論に関わる位相を討究し、われわれなりの見地を表明することにしたい。」534P
第二段落――“実在的身体”なるものの存在論上の“身分”を見定めることから始める 534-42P
(この項の問題設定)「われわれにとって「身−心」問題の鍵鑰(けんやく)は「身体」ならびに「精心」なるものの存在論上の“身分”を見極めることに懸っている。それゆえ、茲ではまず“実在的身体”なるものの存在論上の“身分”を見定めることから始めよう。」534P
(対話@)「実在的身体なるものは、それが一つの物体的事物と見做されるかぎりでは、前々節で論究した実在的事物の一斑たるにすぎない。それは、三次元的な延長体であり、質量をもつ惰性体であり、物質的な構造的組成体である。身体は、物理化学的な物体としては、生体であれ屍体であれ同断の物質的構造体であって、その構造や組成は物体的事物一般の範に漏れず“剖見的観察”や“反応的実験”を通じて“確定”される。が、この“確定”たるや、認識論的にみれば、前々節で確説しておいたように、一群の射映的現相(これには表面的な観察現相もあれば物理化学的な反応現相もある)を斉合的・統一的に“説明”しうるごとき“所識的な或るもの”の“構成”にほかならない。(尤も、ここに“構成”される“所識的或るもの”は単なるイデアールな存立態ではなく、所与の視覚的・触覚的・等々の射映的現相に即しつつ時間・空間的に定位された“受肉”体である。)こうして、とりあえず、生体と死体とを特に区別することなき物体としての身体は、物理化学的な“反応”という対他的関係規定性を内自化しつつ“構成”された一成体であり、物理化学的存在以上のものでも以下のものでもない。(尚、実在的身体の構造や機能の“確定”にさいして、各人の身体が基本的には同型的・斉一的であるとの前提的了解のもとに、前々節で論じた「サンプルに即しての構成」がおこなわれることは附言するまでもあるまい。) ――ところで、人々は物体に関して「構造的機構」と「機能的態勢」とを区別する。そして、構造的同一性と機能的同一性とは必ずしも照応しないと人々は考える。(例えば、金槌と石とは構造は相違するが釘を打つ機能は同一であり、湯と水とは構造的には同一であるが冷却する機能は相違する、等々。われわれの見地から考えれば、構造的機構と機能的態勢とは、十全な精度で確定すれば、一義的に照応するというよりも、同一事に帰着するとも考えられる。しかし、一般の手法における構造的確定と機能的確定とは“精度”を異にし、そもそも対他的反照規定の内自化的措定の仕方を異にするため、構造的“同一性”と機能的“同一性”とのあいだに乖離を生ずる次第なのである。)われわれとしても、暫く、この通念に仮託して議論を進めよう。」534-5P
(対話A)「身体は機能体としてみても、物理化学的な次元での機能的関係に即するかぎりでは、一般の物体的事物から殊更区別さるべき所以とはならない。ところが、身体は「心」(意識的現象)との機能的関係に即してみるとき、屍体と生体とでは決定的に相違すると思われ、少なくとも非アニマティズム的な物体観のもとでは、人間の身体は一般の物体的事物と決定的に区別される。この区別はサイエンティフィックな研究によって精密化されるに違いないが、もとはといえば、現相的な日常的体験の場に根差すものである。現相的知覚風景における一つの分節肢たる“この身体”にあっては、それの移動や回転にともなって風景的世界の情景が激変するとか、それの一部たる眼や耳や鼻を覆うと知覚的風景の或る種の現相が消失するとか、それの表面や内部に特有な感覚が感受されるとか……、他の事物に関しては一般にみられない特異性が見出される。このことの覚知は、原初的には知覚風景内の構図に定位されており、身体という知覚的風景世界の分肢的一部分とそれ以外の諸分肢(ひいては知覚的風景全体)との機能的関連の覚識であり、知覚風景の内部における謂わば“同一平面内”での(つまり、現相的分節肢という“同じ資格”の所知どおしの)「或る分肢−他の諸分肢」関係の認知である。やがては、しかし、物体的分節化にともない、「身体」は、知覚的風景内の分節肢に時空的に定位されつつも、射映的現相体以上の“実在的物体”として、直接的な知覚風景には現出しない「内的構造」や「内的機能」をそなえた相で対象化される。そして、楯の反面として、前々篇第二章や前篇第一章でみたごとき経緯のもとに、現相的風景世界が“内化”され“心象的内界”の想念が形成される。ところで、物体的分節相での覚知が成立している場面でも、「身体」は依然として知覚的風景世界に定位されており、身体と爾余の現相との機能的関係が覚識されるが、それが今や“実在的物体”としての「身体」と“心象的内界”との機能的関係と二重写しに思念される。あまつさえ、この機能的関係は、日常的体験の場では、一定の身体的状態に因って一定の心象的状態が生じ、また、一定の心象的状態に因って一定の身体的状態が生じるという“因果的”な相互的規定関係の相で覚識され易い。」535-6P
(対話B)「学理的反省以前の日常的な体験の場で形成される「身体的状態と心象的状態との相互的規定関係」という構図を維持したまま、否むしろ、この構図を前提的な枠組として、「機能系としての身体」なるものが学理的に“確定”される。今日の科学は、「身体」という「末梢−中枢」系の生理学的な「構造と機能」を精緻(せいち)に“確定”しつつ、そのような「身体」と「意識的状態」との関係を研究している。だがしかし、身体と意識(“心”)とのあいだに関係があるということ自体は、科学的研究によって発見されたことではなく、具体的な科学的研究に専攻する既定的了解事項であること、われわれはこのことを銘記してかかる必要がある。なるほど、今日の生理学的研究は身体に関する精密な研究にもとづいて身心関係の具体相を闡明(せんめい)する。とはいえ、そこにおける構制は現相的世界において現認される「身体現象と爾余の現相との相即的変化関係」という構図の埓を超脱するものではない。慥かに、脳生理学は脳の構造や機能を詳密に“確定”する域にまで進んでいる。が、脳の構造や機能の“確定”とはいかなる事柄であるか? そこには、生体であるか屍体であるかに関わりなき構造の確定や、意識現象の有無に関わりなき物理化学的な反応機能の確定のごときもさしあたりは含まれている。そして、それが基礎的な確定作業をなしていると言うこともできる。が、この次元での確定は、それがどこまで精緻化されようと、それ自体ではいわゆる意識現象には“出会”わない。脳生理学的研究においては、既知の意識現象に“対応”する相での脳生理学的機能状態が“確定”(実は“構成”)される。研究者たちが意識現象(“心的現象”)との関係で脳の機能的状態を探求しているとき、その機能的状態は、単なる物理化学的な機能的状態ではなく、まさしく「意識現象に“対応”しているごとき機能的状態」なのである。問題は、この「意識状態」に“対応”している機能的状態」の“身分”である。(ここに謂う“対応”は、単なる“並行的”現象と了解されるか、“因果的”と了解されるか、“随伴的”と了解されるか、論者によって岐れうる。)」536-7P
(対話C)「研究者たちは、今日では、脳の特定部位に微細な電極を押し込んで、その部位の“電磁的状態”を電流計の指針の動き(という直接的に観察できる表面的な知覚現象)を手掛りにして察知できるようにしておいて、例えば、被験者の耳許で音を発したさいに生ずる脳の機能的状態を“確定”し、その脳髄における内部的状態に一定の“意識状態”を“対応”づける。(この“対応づけ”の論理的機制については別の折に論じておいたが、謂うところの“対応”そのことをブラックス・ボックスのままにしている当座の論脈ではこれに立入るには及ぶまい。)」537-8P
(対話D)「ここでの構制に注目しよう。それは、果たして、日常的な体験の場における「身体的状態−意識的状態」の“対応”づけと別趣の構制であろうか。人は、例えば、轟音にともなって他人の顔面に一定の表情が現われたのを看取し、その“表情”(という身体的現象)に一定の“意識的状態”を“対応”づける。ここでは、意識的状態が“表情”という直接的に看取される現相と“対応”づけられるのであって、(それは謂わば“電流計の指針の動き”との“対応”づけであり)、内奥の身体的状態(脳の機能的状態)と対応づけられるわけではない。このかぎりでは脳生理学的意識現象の探求とは異なるようにみえる。だが、脳の場合、電流計の指針の動きという「徴候」的な“浮標”を手掛りにして脳内部の“電磁的状態”が探知されるとはいえ、この“電磁的状態”が直ちに“脳の機能的状態”の“本体”というわけではない。“本体”にとっては、“電磁的状態”も所詮は“徴候”な一“浮標”たるにすぎず、そのかぎりでは、“電磁的状態”といえども“指針の状態”と同趣であり、従って、“表情”とも同趣であると言うことができる。反面では、また人々は日常、なるほど“表情”と“内部的意識状態”とを“対応”づけ、一定の意識状態が一定の表情を生ぜしめるという言い方をするが、しかし、意識がストレートに表情を産出すると考えているわけではなく、表情の産出には内部的な身体的過程があるものと了解している。身体的現象と意識的現象のあいだにアクチュアルな規定関係があると思念されるとき、いずれにせよ“内奥の身体的過程”が想定されているのであり、身体的状態と意識的状態との直接的な“対応”の座は“内奥”に置かれている。このとこに鑑みるとき、日常的体験の場における「身−心」の関係づけも科学的研究におけ。「身−心」の関係づけも基本的な構制においては同一である。」538P
(対話E)「茲で焦点になるのが、謂うところの“内奥の身体的状態”(それも単なる構造ではなく、機能的状態系)、それの“確定”の在り方である。この内奥の身体的状態という「実在」は一連の“徴候”的“浮標”現象を手掛りにして“確定”されるが、それが単なる物理化学的存在ではなく、あくまで意識的状態と一義的に“対応”する機能的状態として“確定”されるかぎり、そこでは“浮標”的な身体現象を“斉合的・統一的に説明”するだけでなく、“意識的諸現象との対応性”を併せて斉合的・統一的に説明できる相での“構成”がおこなわれる。なるほど、内奥の身体的状態なるものは単なる物理化学的な実在相で“構成”されることもでき、これと意識的状態とが思弁的に対応づけられることもありうる。がしかし、いやしくも“身心関係の実証的研究”と称される場での“内奥の身体的状態”の“確定”作業は甫めから先取(註)的に“意識的諸現象との対応性”を併せて“斉合的・統一的に説明”する相での“構成”になっているのが実情である。ここでは、意識的状態と身体的状態との“対応性”そのことは実証されるのではなく、先取的に“投入”されているのである。(この先取を前提した上で、“対応”する身体的状態の具体相が“確定”される。)いわゆる実証科学的な「身−心」対応性の研究なるものにあっては、「心−身」が対応性(これの内容は上述の通り“因果的”“随伴的”“並行的”に岐かれうる)をもつような相で“内奥の身体的状態”なる“実在”が“構成”されている。けだし、われわれとしては、“実証科学的な身心関係論”をそのまま追認する流儀で「身−心」の関係性を論決しえない所以であって、“実在的身体”なるものは、日常的な描像であれ“実証科学”的な描像であれ、存在論上の“身分”に関していえば、所詮、説明さるべき現相を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”されたものにほかならない。」538-9P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。以下同様に。
(対話F)「翻って、“物象的外界”に属する“実在的身体”とのあいだに「身−心」関係をもつとされる。“心象的内界”“意識的状態”とは何か? それはしばしば非物質的=精神的な実体たる霊魂なるものの“内部にある世界”ないし霊魂の“内的状態”として思念される。がしかし、本巻ではまだ“実体としての霊魂”なるものを主題的に検討する作業を続巻に委ねたままになっているとはいえ、前篇第一章の論脈で暫定的に論断しておいた通り、謂うところの“心象的内界”“意識的状態”とは、その実態においては、現相的風景世界(ここではいわゆる感情や気分なども現前する)を改釈的に“内在化”したものにほかならず、事柄としては現相的風景世界と別ものではない。“心象的内界”“意識的状態”とは、与件的な事柄としてみれば、個別的な能知的主体誰某に帰属せしめられているかぎりでの現相的風景世界そのものである。」539-40P
(対話G)「爰において、“物象的実在身体”と“心象的意識状態”との「身−心」関係(すなわち、先に区分した「身−心」関係の「第一の位相」)は、一方における現相的風景世界の全体ないしこれの個別的分肢、と、他方における現相的身体(これは現相的風景の一分節肢)がそれ以上の或るものとして識られた実在的身体(これ自身は現相的風景世界に如実には登場しない)との関係である。――この「身−心」関係は現相的風景界内部での“身体”という分節肢と爾他の分節肢とのあいだの、謂わば“同一平面内”での現相的関係とは現に区別されねばならない。けだし、謂うところの「物象的実在身体」は現相的風景世界面を超越しており、それ自身としては非現相的な「身体」だからである。――現相的風景界内部における“身体”現象と爾他の分節肢との関連であれば、われわれは現相的な覚知に即して分析的に記述できる。(表情や身振であれ、脳内の電極に接続された電流計の指針の動きであれ、現相的に観察・覚知される“身体現象”と爾他の現相とは単なる並行的推移相を呈するとはかぎらない。一方に他方が合規則的に継起する相で覚知される場合もある。)が、この次元での“身体現象”と爾他の現相との関係は、それ自身では、哲学者たちが問題にしてきた「身−心」関係ではない。伝統的な哲学的問題をなしてきた「身−心」関係は、われわれの見地から定式化すれば、あくまで超越的身体と現相的風景世界との関係である。――しかるに、超越的な実在的身体なるものは、先にみておいた通り、単なる物理化学的な存在としても構造や組成が“確定”されうるにせよ、そしてこれが実在的身体の不可欠的契機をなすにせよ、いやしくも「身−心」関係のアクチュアルな項として探求されるかぎり、現相的“身体現象”と爾他の「現相」(心象的内界・意識的状態として思念される現相)とのアクチュアルな関連性を“斉合的・統一的に説明”できる相に“構成”されている。なるほど、論者たちは、身体を虚心坦懐に研究し、それにもとづいて「心」との関係を認定したつもりでいる。論者たちは、慥かに、身体を物理化学的に研究している場面では虚心かもしれない。だが、当の研究は、「心」との関係を遮断しているが故に物理化学的なのであり、まさしくその故に、それ自身では「心」との関係を確定できない。そこで、論者たちは「心」との関連性を研究する場面では、物理化学的・生理学的な研究を基礎としつつも、身体を単なる物理化学的存在以上の機能的状態系として“確定”しようとする。しかるに、身心のアクチュアルな関連性の現場たるこの機能的状態系の“確定”という作業が、上述の通り、実際の構制においては、“身体現象”と爾他の「現相」との関連性を“斉合的・統一的に説明”できる相での“構成”になってしまっているのである。このゆえに、“実在的身体”と“意識状態”との「身−心」関連性、それが“因果的”であるか、“随伴的”であるか、単に“並行的”であるか、却って“同一的”であるか、これは実証的研究によって発見されるのではなく、“実在的身体”の機能的状態なるものの“構成”にさいして先取的に“投入”される関係づけである。そしてここにあっては、“因果的”“随伴的”“並行的”“同一的”……という関係性のどの形式を投入するかは、実証性という観点からは、さしあたり同権であり、いずれにせよ実証性を超える“態度決定”である。」540-1P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれはもとより“因果説”“随伴説”“並行説”“同一説”が全く同位的な理説であると言うつもりはない。それは“斉合的・統一的に説明”にさいしての“優劣”、遡っては、体系全体との調和性に懸る。が、ここでは“優劣”の問題に立入るには及ばないであろう。)」541P
(対話H)「――われわれとしては、こうして、“実在的身体”と“意識状態”とのあいだの「身−心」関係という問題については、伝統的な問題設定の線では、謂うなれば一種の“形而上学的態度決定”に帰趨すること、問題構制に即していえば、“実在的身体”なるものの“構成”の仕方に応ずる循環的先取に帰着すること、のことをとりあえず確認する。そして、認識論的世界論を主題とする本巻ではこの件に関する“形而上学的態度決定”を差控えるというよりも、現相的世界を超越する“実在的身体”なるものを自存的な一存在とみなす「身−心」関係論の構図的前提そのものを排却することにおいて、伝統的な身心関係論の問題設定それ自身を止揚する。」541-2P
第三段落――“客観的実在性”を措定する“実在的事物としての身体” 542-7P
(この項の問題設定)「われわれとしては、それでは現相的風景世界の内部における“身体現象”と爾余の諸現相とのあいだの相互的連関性を単に記述することで自足し、「身−心」問題を現相的“身体”と爾余の現相との謂わば“同一平面内”での関係の次元に還元しようと図るのであるか? 或る意味では「然り」であるとはいえ、さしあたっては、むしろ「否」である。――現相的世界は射映的現相以上の或るものとして現前し、単なる射映的与件以上の“実相的”対象界を現識せしめる。そして、その一斑として“実相的”身体も覚知される。われわれは“実相的”事物なるものが射映的現相与件から超絶的に自存するかのように錯認する思念を厳しく卻けるとはいえ、上来種々の論脈で誌してきたように、射映的“仮現相”とは区別される“実相的”事物(実相的時空間内に定位された“客観的実在”としての事物)の“客観的実在性”を措定する。“実在的事物としての身体”もその一斑として現存する。(実在的事物は射映的所与がそれ以上の或るものとして所識される二肢的二重性の構制に根差しつつ、射映的現相を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”された所識的な在るものであるにせよ、そして、この所識体は射映的現相に“受肉”しているにせよ、射映的現相には還元できない。)」542P
(対話@)「われわれにあっても、茲に、“実在的事物としての身体”と“現相的風景世界”(知覚的風景世界や表象的風景世界)の諸肢節ひいては全体とのあいだの関係が問題になる。」542P
(対話A)「偖、われわれの謂う「現相的世界」の現存性は、通念によれば、「末梢−中枢」系としての生理・物理的な身体の内部的過程に負うものとされている。われわれとしても、現相と区別して“客観的実在”としての“身体”なるものを措定するかぎり、現相世界が“身体の内部過程”によって媒介されて現存することを立論する。(われわれはこれまでの行文において、現相的世界の被媒介的な存立機制を論攷しつつも、“身体内部過程”による被媒介性に論及しなかったが、それは“実在的身体”なる概念の導入を待たねばならなかった所為である。)」542-3P
(対話B)「われわれの“身−心”関係論にあっても、やはり、唯単なる「構造的機構」としての身体ではなく、「機能的態勢」としての身体が問題になる。ところで、嚮の議論にさいしては「身体の機能的状態」なるものが恰かも皮膚的限界の内部で閉じているかのように論じ去ったのであったが、厳密に考えれば、「機能的状態系としての身体」は皮膚的限界で劃されてはいない。なるほど、或る種の論者たちは、身心関係を論ずるにあたっては脳中枢の機能的状態は脳内部で閉じているわけではなく、末梢をも含む全身的状態によって規定されているどころか、皮膚的身体外部からの刺激によっても規定されているのであり、厳密にいえば、物理的実在世界の全体を包摂する一つの機能的状態系が存在するのである。そして、このグローバルな機能的状態系が“脳”その他の“部位”を“接点にして”(?)“意識的世界”と“関係”しているという構図になる。こうして、今や、「身−心」関係は、それ自身としては非現相的な“実在”である「グローバルな機能的状態系」と「現相世界」との関係として問い返さねばならない。(われわれはここに謂う「グローバルな機能的状態系」を第一篇第二章に謂う「世界大に膨脹せる身体的自我」に対応づけることができよう。) ――ところで、「機能」とは何であるか? それは、発現して一定の現実態になる或る可能態にほかならないのではないか。発現して現実態になる或る可能態を事物に“内自化”して人々は「機能」と呼んでいる。機能には諸々の種類があり、物理・化学・生理的な機能のごとき単なる物的な機能もある。が、今問題の「機能的状態」は、物理化学的な反応を呈しうるにしても、単なる、物理・化学・生理的な機能ではない。それは、まさに現識される現相的世界という“意識的状態”=現実態へと“転成”しうるごとき「機能」的状態=可能態である。――このような相で“構成”されることにおいて、謂うところの「機能的状態系としての身体」、剴切には“グローバルな機能的状態系”と“現相的意識状態”とは「可能態−現実態」の関係にある。(可能態とそれの転化する現実態とのあいだの関係は、前章第三節でみたように、非一義的であり、非決定論的あることに留意されたい。)われわれは“身体の機能的状態”と“意識状態”との“身−心”関係を、認識的世界論の論脈では、さしあたり、“可能態”と“その現実態”との関係として(“対応”づけて)把え返す。」543-4P
(対話C)「ところで、「グローバルな機能的状態系」は決して無構造の団塊といったものではなく、謂うなれば“布置的構造”をもった“分節態”をなしており、そのような相で現実態化するものとみるべきであろう。(われわれはこのような相で“身体的機能状態”を“構成”“再構成”する。)それは、それ自身としては非人称的=人称未然的であり、諸多の“身体”(但し機能的状態性)を包摂する機能的連関態であるが、それの各部位は、必ずしも均質的・均等的ではなく、特異性をもっている。各部位の在り方は全体の“函数”でありつつしかも部位毎の特性を具有している。」544P
(対話D)「このような即自的な「機能的状態」が対自的な「意識的状態」へと“転成”するのであるかぎり、「可能態」から「現実態」へのこの“転化”は、機能的状態系がグローバルであることに鑑みて、「世界が世界す」(Welt weltet)と称することもできようが、われわれとしてはそれを即自的状態の「対自化」(Für-sich-werden=対自的現成)と呼ぶことにしたい。――このさい、対自態へと“転化”する即自態をあくまで機能的な可能態として把握することが肝要である。「機能的状態」は、なるほど、それを対象化して規定すれば持続する「もの」の相で考えられる。だが、状態は不断に再生されつつ継続するのであり、謂うなれば“瞬時的”な状態がその都度現実態に“転化”するのであって、機能的状態なる持続体が“貫入”してくるのではない。“転化”という詞を用いるかぎり、継時的な出来事のように受けとられるのは詮のないことであるが、可能態から現実態への“転化”、即自態から対自態への“転化”は、実在的事象の継時的変化とはカテゴリカルに異なり、非時間的である。この“転化”の構制は数学における「截断」の構制になぞらえることもできよう。――翻って亦、今問題の「機能的状態の対自化」は、人々が「脳はセルフ・レファレントに脳自身を認識する」という言い方をするのに倣って言えば、やはりセルフ・レファレントである。「グローバルな機能的状態系」の諸々の部位において「対自化」が現成しているとしても、その各々がセルフ・レファレントであり、そこにあっては「能知」と「所知」とは存在的(「オンティッシ」のルビ)には不二である。」544-5P
(対話E)「われわれは、茲で、右の立言が、旧来の「身−心」関係論における「同一本態双貌説」や「同一説」とどのような関係に立つかを省みておこう。――われわれの場合、“転化”を云々する以上、“転化”の前後では別であるが、しかし、全く別々のものの並存ではなく、前後を通じての「同一者」の存在が論理上要求される。この論理的要求からすれば“転化”の前後は「同一者」の「双貌」ということになり、われわれの立論は「同一本態双貌説」の一種ということになろう。しかしながら、われわれの議論では“転化”という概念的把握の論理構制が或る同一性を要求するだけのことであって、われわれは当の「同一者」が実在するとは主張しない。それゆえ、われわれの立論は、積極的な「同一本態双貌説」には算入されないはずである。(われわれは、例えばマッハなどのように「身」と「心」とが同一の「成素」から成る二つの貌であるなどとは主張しないし、そもそも物象過程と心象過程とが同一本態の両つの定在形態であるなどとは主張しない。) ――ところで、身体的状態と意識的状態との関係を「因果」とか「随伴」とかの関係として把えるのではなく、また、単なる「並行」の関係と把えるのでもなく、“転化”として把え、そのかぎりで前後を通ずる一種の“同一性”を措定しながら、第三の“実在的同一者”を認めないわれわれの立言は、一種の「身心同一説」になってはいないか? われわれの立論は、旧来の「同一説」とは議論の立て方においても存在観においてもおよそ相違する。われわれは「精神的実体」も「物質的実体」も実体主義的には措定しない。とはいえ、俗流唯物論的な同一説論者たちは、われわれの嚮の立論を彼等流の「唯物論的な身心同一説」の一亜種とみなすことであろう。われわれ自身、嚮の立論のかぎりでは、 (いかに存在論を異にし、また、いかに非決定論であろうとも)俗流唯物論的な身心同一説の一亜流に近いものとみなされることに甘んじるのほかはないかとも思う。」545-6P
(対話F)「以上の立言は、しかし、知覚的風景に現前する現相的身体ないし「身体的自我」と区別して“客観的実在”としての“身体”なる“深奥の機能的状態系”をわれわれが措定するかぎりでの(そしてこの“実在的身体”による現相的世界の被媒介性を立論するかぎりでの)ことである。“客観的実在”としての“事物的身体”なるものは、もとより、得手勝手な 恣意的構想物ではない。況んや幻想ではない。それは“客観的事物”の一斑として物理化学的な対象的実在である。(それはさしあたっては生理学的対象として規定されるとしても、突き詰めて行けば素粒子から“成る”構造的機構体の機能的状態系ということになろう)。だが、この“客観的実在としての身体”は、存在論上の“身分”に関していえば、「知覚的に現前する現相的身体」の射映的諸現相(これには、解剖して観察される所見や、挿入した電極に接続された電流計の指針の運動的所見、などのごときも含まれる)を“斉合的・統一的に説明”しうべき相に間主観的に“構成”された所識体にほかならない。われわれにとって第一次的・基底的に存在するのは、「知覚風景的に現前する現相的世界」(これは、その都度すでに単なる射映的現相以上の或るものとして「所与−所識」成態)であって、「実在的事物」自体なるものは、現相的所与がそれ以上の或るものとして所識される高次の所識体を(現相的与件に定位しつつも) “自存化”させたものである。(この“事物の自存化”と相即的に、遺憾にも、実際には第一次的・基底的な存在である「知覚的現相世界」が“内化”されて“心象的内界”という単なる“心理的なもの”と改釈されてしまう。) ――われわれは、知覚的に現前する現相世界を(これは、第一篇でみたように、表象的に補完されているが) “心象的内界”として改釈することなく、あくまでこれを第一次的・基底的な世界として把(註)住し、従って亦、“事物的世界”を超越的に自存化せしめることを抑え、そして、“実在的身体”とその“機能”なるものが射映的現相を“説明”する“可能的一配備”にすぎないことを自覚するかぎり、いわゆる“身−心”関係について、ミニマルには、現相世界に内在的な記述的分析で自足する。」546-7P
(註)印字がかすれていてきちんと読み取れないので推測です。
(対話G)「現相世界内在的には、“身体的現象”(これには上述の通り、解剖的な所見や実験的所見も含まれる)と爾他の各種現相の相関性、一者の変化と他者の変化との合規則的な連動性、……が覚知され、諸々の現相(「所与−所識」成態)の“この身”“あの身”への帰属性・不帰属性等が覚識されるが、これらの現相の現前は「能知的所知=所知的能知」の渾然一体的統一相であって、ここではさしあたり「能所不二」である。」547P
(対話H)「われわれは、今や再び、かかる「能知能動的主体−所知所動的客体」未分の相、現相的世界の原初的直接態に立ち戻って、新たな視角から世界の編制構造を検覈しなければならない。――本巻では認知的(「コグニティヴ」のルビ)に展らける世界現相の基幹的構制に臨んだのであったが、今や、巻を新たにして、実践的に拓らける世界に臨む段である。」547P


posted by たわし at 17:28| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月17日

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(17)

たわしの読書メモ・・ブログ703[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(17)
第三篇 事象的世界の存立機制
第三章 事象の間主観的存立と客観的存在性
 第二節 存在と間主観的妥当
(この節の問題設定−長い標題) 「存在(「アル」のルビ)とは、存在者(「アルモノ」のルビ)をして存在者(「アルモノ」のルビ)たらしめる根源的な或る事の謂いであり、一種の関係である。存在は、伝統的には、格別な観念論を措くかぎり、「所知−能知」関係を超絶するものと思念されてきた。それは、しかし、存在(「アル」のルビ)を一種の存在者(「アルモノ」のルビ)の相に物象化してしまうことに因由する。存在者は能知者から“独立自存する”相で考えられうる。だが、無や虚構ですら一応は存在すると言わるべきかぎり、最広義における存在(「アル」のルビ)は(狭義の存在(「アル」のルビ)とは異なり)「能知−所知」関係を超絶しない。最広義における存在(「アル」のルビ)とは「所知が能知に現前する」謂いにほかならない。但し、所知と能知とが先ず自足的に在って存在関係を結ぶのではなく、存在(「アル」のルビ)という関係において「所知」「能知」という関係項が成立するのである。――われわれは知覚的ないし表象的次元における「アル」と存在判断的な次元における「アル」を区別する。前者は述定的な概念ではないが、後者はすでに述定的な存在概念であり、判断としての存在概念は一種の述定的なアルであり、後者は“超”時空間的なアルである。――「所知が能知に対して現前する」という関係態「アル」における所知も能知も二肢的二重態であり、「アル」は四肢的関係態としての「事」と別事ではない。そして、“客観的に”“真に”アルは、個別的な能知的誰某に意識されてアルことからは独立ではあるが、“認識論的主観”としての能識的或者に対する妥当性(実は、理念化された間主観的な対妥当性)と相即する。――存在としての存在は(従ってまた、無としての無は)、しかし、認識的世界の構造に即しただけでは対自化し尽くすことができない。」511-2P
第一段落――「(ガ)アル」の検討 512-7P
(この項の問題設定)「存在(「アル」のルビ)は定義不可能である旨を多くのスコラ哲学者たちが指摘してきた。十七世紀のイスラム哲学者モッラー・サドラーも、存在が提起不可能な理由を「存在には類もなく種差もないゆえに完全定義ということは全くあり得ないし、また存在を存在よりもっと明らかでもっと分かりやすい概念を通じて理解しようとすることは不可能であり、また存在と全く同等の概念もない故に、これを説明的に定義することもできないからである」と述べている。(井筒俊彦訳『存在認識の道』)。「存在(「アル」のルビ)とは云々デアル」という形の定義が求められるとすれば、定義する側にデアルという定義される当の概念が含まれているという理由からして、存在の定義は不可能ということになる。――人々は「石がアル」「幾何学的三角形がアル」「価値がアル」「神がアル」「観念がアル」「認識作用がアル」「意識がアル」はては「お伽噺(「とぎばなし」のルビ)の世界がアル」「虚数がアル」「無がアル」……というように、ありとあらゆる主語の命題を立て、「石が存在する」→「石は存在である」、「三角形が存在する」→「三角形は存在である」、「神が存在する」→「神は存在である」……という命題を立てる。このようにして「存在」という詞が述語概念として用いられるとき、森羅万象が主語に立ちうる以上、「存在」は万象を包摂する「類」概念、最高の類概念とみなされる。そして、人は、かかる「最高・最広の類概念たる存在という概念」の内包を規定しようとする。曰く「存在とは何(いかなるもの)であるか?」。人々が定義不可能を喞(「かこ」のルビ)っているのは茲においてである。――われわれは別段「存在」の定義を求める意趣はない。だが、「存在」なるものを普遍概念に仕立てたうえでそれの「何」たるかを問うことはいずれにせよ無用であろう。それは「果物なるもの」とか「動物なるもの」とかを固有の存在に祀り上げてそれがいかなるものであるかを問うのと同趣である。われわれとしては、「石がアル」「三角形がアル」「価値がアル」……「無がアル」……という存在命題の場面に立帰って「(ガ)アル」を検討することにしよう。」512-3P
(対話@)「「アル」という動詞で表現されるのはいかなる事柄であるか? 人は、動詞は動作や状態などを表わすと言い、動作や状態という固有のものがあるかのように思念しがちである。なるほど、動作や状態として把握される現象が現存する。が、その実態を正しく把え返す必要がある。――例えば「切ル」という動作や「刺サル」という状態を考えてみよう。人はとかく「切断」とか「刺胳(しらく)」とかいうことを一つの対象相で覚識し、切断とか刺胳とかがそれ自身で自己完結的な一存在であるかのように表象する。しかし、「切ル」は必ず何か(例えば刃)が何か(例えば肉)を切ルのであり、「刺サル」は何か(例えば針)が何か(例えば布)に刺サルのであって、関係態である。関係「項」は可変的であり、色々な“値”で充当されうる。関係「項」は特定の何々である必要がなく、まさに“変項”であるため、とかく意識から欠落しがちである。そして、関係そのことの部面だけが意識される次第であるが、「項」が“無化”されるのにともなって、当の関係性が自存化され、関係規定であることが忘佚(「ぼういつ」のルビ)される。その結果として、関係「項」の覚識を抜きにした「切断」とか「刺胳」とかいう“自己完結的”な事柄の相で動作や状態が表象されてしまう。だが、実態に即するとき、動詞の表現する動作や状態は一種の関係態であり、“変項”へと“抽象化”されているにせよ、構造的には関係「項」の存在を要件としている。(尤も、「項」が「項」として存在するのは当の関係に俟ってであって、「切ル」という関係において「切ルもの」「切ラレルもの」なのであり、「刺サル」という関係態において「刺サルもの」「刺サレルもの」が反照的に現成するのであるが。) ――それでは、「アル」という動詞が表現する事柄、それは一体いかなる関係態であるか?」513-4P
(対話A)「最広義における「アル」、すなわち、御伽噺(「フィクション」のルビ)の世界のアルや無(「ニヒツ」のルビ)のアルのごときも包括する「アル」は、反省的に定式化していえば、所知たる何かが能知たる誰かに“現前する”という関係態の謂いにほかならない。斯様に誌すとき早速に反問が予想される。「所知−能知」関係は「知ル」「意識スル」という関係であって、「アル」はそれとは別のはずではないか? 右の提題では、それこそesse est percipi (「存在するとは知覚されること」)になってしまわないか? これは一応尤もな疑義である。だが、われわれは、「所知−能知」関係、「知ル(「ヴィッセン」のルビ)」より適切には「意識スル(「ベヴィッセン」のルビ)」という関係を正しく把えねばならない。人々はとかく、所知的客観と能知的主観とを自存化させたうえで、“意識スル”とは能知的な主観内部での出来事であるかのように考える。このように考えられた“意識スル”は、なるほど、「アル」とはおよそ別事であろう。しかし、「意識スル」とは、決して、能知的主観とやらの内部での出来事ではない。マルクス・エンゲルスは「環境に関わる私の関係が私の意識である」と言い、「意識とは意識されたアルdas bwußte Seinにほかならない」と明言しているが、われわれとしてはまさにこの線で「意識」ということを了解する。何かが私にとってアル(für mich sein)と何かが私に意識されてアル(bwußt-sein)とは、最広義の「アル」において合致するのである。(われわれはいまマルクス・エンゲルスの線に則って立論しているのであって、「意識されてアル」とは決していわゆる“主観内部の出来事”ではないことに留意されたい。さもないとわれわれの立論は観念的な妄言であるかのように誤解されてしまう。) ――或る種の論者たちは、しかし、猶も反論して言うことであろう。無や虚構のアルを包括するごとき広義の「アル」は、なるほど、「意識されてアル」を離れて自存的にアルわけではないにしても、だが、「無がアル」と意識され、「虚構(「フィクション」のルビ)がアル」と意識されるのであって、「アル」はあくまで意識される対象的客観ではないのか? 何かが走ル・動ク・等々と意識するのと同様、何かがアルと意識のではないか? われわれとしても、「アル」が「走ル」「動ク」等々と謂わば並列する相に対象化されて意識される場合があることを否認するわけではない。だが、それは狭義におけるアルの一位相であって、今問題の最広義における「アル」ではない。この間の事情を判り易くするためには、いわゆる存在判断を引合いに出すのが便利かもしれない。多くの論者たちによって従来論じられてきたように、「Aがアル」(Aが存在スル)という存在判断においては(メタ・レベルでの反省的意識においてならともかく、直接的意識においては) Aの存在(「アル」のルビ)が志向的に意識されるのではなく、端的にAが対象的に意識されるのである。誰かがAを意識スルことと、それ誰かにとってAがアルこととは、「アル」の最広義においては、同値なのである。(実をいえば「存在判断」としての存在判断については、後述するように、われわれはこの通説をそのまま踏襲する者ではないのだが、ここでは暫く“通説”に仮託しておく。)人々は、とかく「意識スル」「アル」が関係態であることを忘佚し、しかも「意識スル」や「アル」を対象化した相で表象しがちであるため、「アル」と「意識スル」とを全く別々の事柄としてみなしてしまうが、「所知が能知に意識されてアル」「所知が能知に対して(「フェア」のルビ)アル」という関係態を正視してみれば、両者が同値であることが納得されよう。」514-5P
(対話B)「「アル」と「意識されてアル」とが(正確には「アル」と「意識されてアル」とではなく、「所知たる何かが能知たる誰かに意識されてアル」という関係態と「所知たる何かが誰かに対してアル」という関係態とが)同値になると言われうるのはあくまで最広義の「アル」に即した場合のことであって、狭義のアルはむしろ意識されてアルこととはおよそ無関係な事柄(ないしは対立的な事柄)であるものと普通には考えられている。端的に言ってしまえば、普通には、「アル」は認識主観から独立にアルことだと考えられている。(慥かに、「認識主観から独立にアル」の謂いという相で狭義のアル[の一位相]が意識されてアル。このかぎりで、われわれとしても、狭義のアルの一位相たる“客観的にアル”を能知的誰某々から独立の謂いとして定義することもできる。)」515-6P
(対話C)「この間の事情を分析的に討究し、狭義のアルについて論考するためにも、その前梯として「アル」が自存化される構制を省みておこう。」516P
(対話D)「「アル」が「所知的な何かが能知的な誰かに対してアル」謂いにほかならないというのはあくまで反省的な定式化であって、直接的な意識においては「能知」は能知として対自化されない。従って、直接的な意識においては「所知たる何かが(能知的な誰かに意識されて)アル」ないし「所知たる何かが(能知的な誰かに対して)アル」という構図における( )内が覚識されず、覚識されるのは、「所知たる何かがアル」だけである。否、この言い方ですら過大と言わざるをえない。能知が自覚されていないかぎり、「所知たる何か」という規定は過大であって、覚識されているのは「何かがアル」だけである。この「何かがアル」は、能知的関係項の覚識をともなわぬかぎり、関係態として現識されない。しかも「何かが」はその都度の“変数”であるため“抽象化”されて、もっぱら「アル」だけが“ゲシュタルト的に”覚知され、固有の対象的所知となる。こうして「(ガ)「アル」という概念態(函数的概念態)が形成される次第であるが、即自的意識においては、「何かが」および「誰かに」という“変項”が現識されず、「アル」が自足的な“図”の相で覚識される所以となる。ここにおいて、「存在」そのことが自存的な或るものとされるに及ぶ。あまつさえ、「存在(「アル」のルビ)」はありとあらゆる「何かがアル」に妥当するための最高・最広の概念とみなされるばかりか、この概念に対応する「存在」なるものが現存する筈だと思念されるに至ることさえもある。――このようにして、「存在(「アル」のルビ)」そのことが「存在者(「アルモノ」のルビ)」に化せられることは往々であるが、「存在(「アル」のルビ)」そのことが直接に存在者に化せられない場合であっても、或る間接的な仕方で「存在」がとかく「存在者」に化せられてしまう。それは「Aガアル」という現識が「Aハ存在デアル」という述語判断と同一視されることを介してである。ありとあらゆるAについて「Aガアル」と言えるところから、無や仮想的事物についてすら、一応は「Aハ存在デアル」と言い換えることができるものと人々は思念する。そして、「Aハ存在デアル」以上Aは「存在デアルA」であると人々はみなす。こうして、万象が「存在である何」として、「存在」(=存在者)と規定される。ところで、茲に謂う「存在である何」(=存在者)は、まさに所知的な対象であり、ここでは「存在(者)」と「所知的対象」とが二重写しにされる。そのさい、しかも、「存在(者)」は自足的とみなされるかぎり、「存在」は能知との関係性から独立自存するもの(事によっては能知と対立するもの)と思念されるに及ぶ。端的な話、天王星のごときはかつて誰にも認識されていなかったが往時から厳として存在したのである!(が、ここでの構制は「能知から独立に存在する(した)」という相で(現在では) 「意識されてアル」という構制になっており、メタ・レベルにおいては決して能知から端的に独立ではないのである。)」516-7P
(対話E)「われわれ自身、或る種の論脈では、勿論、「存在者」という概念を立てるし、その存在(者)が個々の能知的誰某から“独立自存”することも認める。だが、われわれとしては「存在」の「存在者」化を厳に戒め、「所知−能知」関係態としての「存在(「アル」のルビ)」と対象化された「存在者(「アルモノ」のルビ)」とを厳に区別しつづける。」517P
第二段落――「デアル」と「ガアル」との関係 517-26P
(この項の問題設定)「われわれは、以上、最広義における「アル」を論件としてきたかぎりで、「無(「ナイ」のルビ)」ですら「存在(「アル」のルビ)」に包括したのであった。が、今や、「有(「アル」のルビ)」と「無(「ナイ」のルビ)」とが相補的に対立する次元、すなわち、狭義のアルを論題とし、「アル」の下位的な分類の一斑にもふれつつ、「デアル」と「ガアル」との関係などにも関説すべき次序である。」517-8P
(対話@)「偖、言語的に表記すれば同じく「Aがアル」「Aがナイ」と表わされる事柄であっても、それが単なる知覚の次元に属する場合と、それが判断(存在判断)の次元に属する場合とをわれわれは明確に区別しなければならない。鳥や獣ですら、巣から卵や仔が無くなっている(ナイ!)ことを知覚するという具合に「Aがナイ」ことを知覚的に覚識するものと忖度される。人間(「ヒト」のルビ)もやはり、例えば、探しに入ったカフェにピエールがイナイとか、サイフがナイとか、判断以前的な知覚的次元において、「Aがナイ」ことを覚知する。茲では、まず、知覚的次元での「Aがアル」「Aがナイ」の分析的討究から始めよう。――「Aがアル」「Aがナイ」という表現は既にして存在判断を表意してしまうので知覚的次元での存否を表記するのにはいかにも不適当であるが、われわれとしては、とりあえず存在判断を括弧に入れるよう努めつつ、この表記に頼らざるをえない。」518P
(対話A)「知覚的に「Aがアル」とはAが知覚的に現前すること(Aが知覚的に意識されてアルということ)の謂いであるとしかさしあたり言いようがない。ところで、知覚的に「Aがナイ」についてであるが、これは「Aが知覚的に現前しないこと(Aが知覚的に意識されてイナイこと)」といっただけでは済まない。なるほど「知覚的に現前する」「知覚的に現前しない」という区別が概念的に既成化している場面ならば、言葉の節約うえ、右のように記すことも許されるであろう。がしかし、「知覚的に現前シナイ」ということの規定が先決問題である。知覚的に「Aがナイ」といっても、Aは端的にナイわけではない。けだし、最広義の「アル」に即するかぎり「Aはナイ」はすでにAが(意識されて)アルことを含意しているからである。知覚的に「Aがナイ」は、表象的に「Aが(意識されて)アル」ことを前梯的要件とする。サルトル好みのピエールがイナイを例にとろう。ピエールがイナイことを知覚的に現認するためにはあらかじめピエールが表象されていなければならない。ピエールは、表象的にアリ、知覚的にはナイ。このさいの「ナイ」は、判断以前的な知覚的次元でのここでは、判断的「否定」ではない。表象的アルが否定的作用で無化されるのではない。では、ここでの「ナイ」とは何か? われわれは嚮に判断について論ずる行文で、同じく「デアル」「デナイ」と言語的に表現されるにしても、単純な「同立」「異立」の場合と判断的「肯定」「否定」の場合との区別を要することを述べておいたが、「ガアル」「ガナイ」においてもやはり単純な「同立」「異立」の場合と判断的「肯定」「否定」の場合とがある。いま問題の「ナイ」は単純な「異立」である。何と何との異立であるか? ピエールを核とするカフェの表象的状景と、知覚的に現認しているカフェの知覚的状景との異立である。尤も、それは表象と知覚との一般的な異立ではない。予期的表象のうち知覚的に現認・充当される諸契機にあっては表象とが融合してしまい、反省的にはともかくとして、直接的な意識においては相違性が意識されない。対応物のないピエール表象が際立って予期と現認との「異」を覚識せしめる。この「異立」の覚識に照応するのが知覚的にナイという現識である。この間の構制は、サイフがナイと現認する場合であれ。眼前の机上にアラディンのランプなどナイと現認する場合であれ、普遍的である。」518-9P
(小さなポイントの但し書き)「――人はここで反問して言うかもしれない。なるほど表象的状景と知覚的状景との「相違」が覚知されることは確かであるが、それはまさに「表象的にはアル」と「知覚的にはナイ」との相違、有と無との相違にほかならないのではないか? とすれば、相違の認知に対する前件として「知覚的にナイ」が覚知されているはずである。つまり、「知覚的にナイ」は、「知覚的にアル」と同様に、直截に覚知されるのである、云々。われわれとしても、不在の覚知を反省的に定式・記述する場面では「表象的にはアリ知覚的にはナイ」ことの覚識(有無の相違)という言い方を拒まない。しかし、「知覚的にナイ」ということが直截に覚知されるとするのは実情に合わない。「知覚的にナイ」場合、それ自体では、端的に意識されない。「知覚的に(意識されてイ)ナイ」が覚識されるのは必ず表象的にアルとの異立においてである。「Aが知覚的にナイ」と覚知するためには、Aが表象的にアリ、表象的状景と知覚的状景との相違が覚識されること、これが要件である。そして、この相違の覚識を反省的に定式化して「Aは(表象的にアルが)知覚的にはナイ」と人々は言うのである。なるほど、反省してみれば、私には今「ロンドン塔は知覚的にナイ」「エッフェル塔も知覚的にナイ」「太平洋も知覚的にナイ」……云々云々、無数のものが知覚的にナイ。しかし、知覚的にナイと知るのは反省的にそれの表象を泛かべ状景の相違を覚識することにおいてであって、この反省的異立を抜きにしては単なる無意識的(無知覚的)状態にとどまる。単なる無知覚状態と「Aはナイ」という知覚的状態とは別である。そして「無」そのものは直截には知覚できない次第なのである。」519-20P
(対話B)「――「知覚的にナイ」が「表象−知覚」の異立という構制をもつのと相補的に「知覚的にアル」は「表象−知覚」の同立という構制をもつのではないか? なるほど、予期通りに現認される場合、「アッタ!」という強い「アル」の覚識が生ずる。この現認的同立に定位して「知覚的にアル」を定義する途もありえよう。単なる「知覚的に(意識されて)アル」に定位して「知覚的にアル」を定義するとき、これは「表象的に(意識されて)アル」とも同次元の最広義の「アル」でしかなく、「知覚的にナイ」と同位的ではないことになってしまう。このことを承知のうえで、しかし、「知覚的に(意識されて)アル」は別段「表象−知覚」の同立を要件としないことに鑑み、われわれとしては「知覚的にアル」を前掲の規定のままで通したいと念う。」520P
(対話C)「尚、「表象的にアル」「表象的にナイ」については「知覚的にアル」「知覚的にナイ」と同趣である。「表象的にアル」は「表象的に現前すること(表象的に意識されてアルこと)」の謂いであるとしか言いようがない。「表象的にナイ」は、ピエールがイナかったと回顧する場合にせよ、ピエールはイナイだろうと想像する場合にせよ、端的に無表象ではなく、或る意味では「表象的にアル」。が、先の「表象的状景」と「知覚的状景」との類比的に、ここでは二つの表象的状景が異立される。そして、一般には、知覚状景の記憶ないし知覚状景の予料が先の「知覚状景」の役を演ずる。――但し、「表象的にアル」と「表象的にナイ」とは、単なる表象次元では未決定のままで、判断的決定に委ねられる場合などもあり、知覚的現認と類比的な構制に尽きるわけではない。ついでながら、幻覚が自覚されるような場合、つまり、知覚的な相貌でアルにもかかわらず実はナイのだと覚識されるような場合も同様であるが、仮想的表象が仮想的表象として自覚される場合は、すでに存在判断の次元に属する。」520-1P
(対話D)「判断としての存在判断「Aハアル」「Aハナイ」に議論を移そう。われわれは前篇において「判断」について論じたさい「存在判断」は一応措くかたちにしてきた。が、われわれとしては存在判断を判断一般から特別に区別する意趣はない。「コレハ動ク」といった措定がしかるべき条件のもとでは立派に判断たりうるように「コレハ在ル」もやはり判断たりうる。唯、われわれとしては、知覚的ないし表象的次元での「Aがアル」と判断(存在判断)的次元での「Aがアル」とを明確に区別して取扱う。」521P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、“コレハ動ク”という単なる知覚的認知と「コレハ動ク」という判断的措定とが区別される以上、この区別も存在判断に特有というわけではない。が、学史上の経緯から存在判断には格別な留意を要するかぎりで、知覚的次元での「アル」「ナイ」を論考する本節まで、存在判断を一応措いてきた次第なのである。)」521P
(対話E)「旧来の論議においては、単なる知覚的次元での「Aがアル」と判断的次元での「Aがアル」との区別、畢竟するに、知覚と判断との区別が曖昧であったため、存在判断における文法上の述語「アル」が論理的にみて果たして真正の「述語」であるかどうかをめぐって意見が岐かれてきた。(学説史上の事実問題としていえば、更めて指摘するまでもなく、カントの有名なテーゼ以降、「アル(「ザイン」のルビ)」を述語としては認めないのが主流であると言えよう)。だが、われわれの見解では、単なる知覚次元でのアルは述語概念ではないが、存在判断におけるアルは述語概念である。知覚的ないし表象的次元でのアルやナイが反省的に概念化されて「有ル」や「無イ」という概念が形成される。(それは「動ク」や「停ル」などが概念化されるのと同断である。尤も、これは概念化の機制に関することであって、われわれは「アル」という概念を「動ク」等の概念と同位同格的に扱おうとするものではない。尚、精確にいえば、概念が概念として形成されるのは判断の結節としてであって概念の形成が判断的措定に先立つわけではない。が、全体としての論趣に響かないので、ここでは、あたかも概念の形成が判断に対して先行的・独立的であるかのように誌すにとどめる。けだし、当該概念が一たん形成されてしまえば、その都度の判断に対しては述語概念が先行的・既成的であるし、「アル」「ナイ」という概念がそれの結節である当の判断は存在判断ではないからである。)そして、動クや停ルを述語概念として「コレハ動ク(コレハ動ク也)」「コレハ停ル(コレハ停ル也)」という判断が成立するのと同様、有ルや無イを述語概念として「コレハ有ル(コレハ有ル也)」「コレハ無イ(コレハ無イ也)」という判断が成立する。(尤も、われわれは「コレハ無イ」という判断を「コレハ無イ也(「デアル」のルビ)」という一種の肯定的述語判断として押出したいわけではない。「コレハ有ルニ非ズ」(これは存在シナイ)という否定判断と「コレハ無イ」とが同値的であるかぎり、われわれとしても、「コレハ無イ」を以って「コレハ有ル」という存在判断の否定形として扱う。)」521-2P
(対話F)「――「Sハ有ル」「Sハ無イ」という形の存在判断は、超(「メタ」のルビ)文法的に分析するとき、「コレハSデアル、Sデアルコレハ有ルデアル」「コレハSデアル、Sデアルコレハ無イデアル(=Sハ有ルデナイ)」という肯定・否定の述語判断になっている。従って、いわゆる存在判断においても、主語・述語の等値化的統一性、施詞措定態の対他・対自的な帰属性、間主観的妥当性、等々、述語判断に関して前篇第二・第三章で論定した一連の論点がmutatis mutandis (必要な変更を加えて)妥当する。茲では、この旨を誌せば、肯定的存在判断「Sが有ル」「Sが無イ」について、もはや詳細な議論に立入るには及ばないであろう。」522P
(対話G)「ところで、斉しく最広義における「アル」の一斑であるにしても、そして、同じく存在概念「有ル」に下属するにしても、「アル」には下位的な“種別”が設けられうる。「存在(「アル」のルビ)」の下位的区分は具体的には勿論多肢多様にわたりうる。われわれとしては、しかし、ここではとりあえず基本的な区分として「実在スル」と「存立スル」に二大別を銘記しておけば足ると思う。」522-3P
(対話H)「「実在スル」(レアールにアル)とは、空間的・時間的に定位された相でアルことの謂いである。尤も、同じく時・空的な定位といっても、前々章第二節でみておいたように、“仮想的・射映的”な時間空間的規定と“実相的・物理的”な時間空間的規定とが岐かれる。これら両つの相は、伝統的思念においては、しばしば“内界”と“外界”、“心理的”と“物理的”、“主観的”と“客観的”という規定相で区別される。(この間の事情、および、これらに対してわれわれ自身のとる態度については上来縷説してきたのでここで復唱するには及ぶまい。)われわれとしては、射映的な知覚空間時間ないし射映的な表象空間時間に定位されたアルを「当事主体にとって“主観的に”実在スル」と呼ぶことにし、“実相的”な物理空間時間に定位されたアルを「“客観的に”実在スル」と呼ぶことにする。但し、“主観的”な実在性にすぎない場合であっても、「現相Aが実在スル」という事象は“客観的”でありうるし、「現相Aが当事主体にとって実在スル」という存在判断は客観的妥当性を要求しうる。翻って、“実相的”“物理的”な空間・時間の内に定位的に在るというさい、当の物理的時空間は、即自的にもせよ、間主観的に妥当する相での形象(「ゲビルデ」のルビ)であり、「“客観的に”実在スル」とは「間主観的に妥当する相でアル」ことの謂いの一斑にほかならない。(逆に、しかし、「間主観的に妥当する相でアル」は、「物理的空間・時間の内にアル」や「“客観的に”実在スル」を直ちに意味するわけではない。それは“主観的”な実在性に関しての間主観的妥当性の場合は措くとしても、「存立」の場合もあるからである。この点に注意されたい。)」523P
(対話I)「「存立スル」(イデアールにアル)とは、“超”時空間的な相でアルことの謂いである。尤も、「“超”時空間的な相」そのことは直接に覚識さるべくもない。所識を「アルモノ」の相に形象化したうえで、所識たるそのアルモノが(空間的デナイ、時間的デナイ、という否定判断を介して)非時空間的と規定されつつも猶「対他者的にもアル」と覚識されるかぎりで、当の非時空間的な所識形象が“超”時空間的にアル、と称するのである。(ここに謂う「非時空間的な所識形象」はさしあたり、嚮に第一篇で規定した意味での「イデアール・イルレアールな形象」である。が、「イデアール・イルレアールな形象」「“超”時空間的にアルモノ」はわれわれが本書の本巻で論じている認識論的世界の構造的契機たる「意味的所識」には尽きない。けだし、第二巻「実践的世界の存在構造」で問題にする「価値」や第三巻「文化的世界の存在構造」で問題にする「超在」のごとき「存立(「ベシュタント」のルビ)」もアルからである。)われわれは「存立」に関しても、メタ・レベルの反省において、「当事主体の思念にとって“主観的に”存立スル」だけの「主観的な存立」と、間主観的に認証されて「“客観的に”存立スル」「客観的な存立」とを区別する。茲で、前篇第三章第三節の所論を想起ねがいたいのであるが、「或るものが“客観的に”存立スル」とは(「或るものが“客観的に”実在スル」も同断であるが)、慥かに、個々の認識主観がそのことを意識すると否とにかかわりなく(所謂「認識主観から独立に」)アル謂いにほかならない。とはいえ、それは能知的能識一般と端的に無関係な事柄なのではなく、“客観的に”「或るものがアル」ということは、認識論上の構制に徴すれば、当該の存在判断が「認識論的主観」に対妥当することと相即する。」523-4P
(小さなポイントの但し書き)「(蛇足を憚らずに念のため誌せば、「認識論的主観」なるイデアールな能識的或者が独立自存して、これに対する対妥当などということがレアールに在るわけではない。判断的措定の間主観的妥当という態勢において、判断的能知の「能知的誰某」と「能識的或者」との二肢的二重性に鑑みつつ、存在判断の妥当性が個別的判断主観としての能知的誰某の措定から独立であるかぎりで、「或るものが[“客観的に”=“個々の能知的誰某”から独立に]アル」と謂い、存在判断の妥当性が判断主観一般としての能識的或者の措定と相関的であるかぎりで、「或るものが[“客観的に”=“認識論的主観”に対妥当する相で]アル」と謂うのである。レアールに存するのは、判断的措定の間主観的な妥当・不妥当という現相的“事実”までである。)」524P
(対話J)「遡って、「ガアル」と「デアル」とはいかなる区別相にありつつしかも同じく「アル」であるのか? 「デアル存在」と「ガアル存在」という問題は「本質」(essntia)と「実存(existentia)」という伝統的な問題などとも絡むことであり、存在論を主題的に展開するさいには当然この件に詳しく立入る必要がある。しかし、われわれの場合、存在論としての存在論を開陳するためには、実践的世界に即して、人間存在そのものや、歴史的・社会的形象の存在性、さらには「価値」の問題や「超在」の問題などを論攷しておくことが先決要求をなす。本巻での認識的世界に即した範囲ではまだ存在論の主題的な論述はいずれにしても期しがたい。爰では、それゆえ、謂わば外面的かつ形式的なコメントの流儀で、極く簡単な臆言に止めたいと念う。」525P
(対話K)「「デアル」と「ガアル」の区別を明らかにするにあたっては、「アル」が関係態であることをあらためて対自化しつつ、関係「項」の在り方に留目しなければならない。われわれは嚮に「(ガ)アル」「所知が能知に現前する」謂いである旨を暫定的に表明しておいたが、第一・第二篇を通じて論定してきた通り、「所知」も「能知」もそれぞれ二肢的成態である。そこで、まず、「所知」の両契機、すなわち「現相的所与」と「意味的所識」に止目しよう。所与の契機であれ所識の契機であれ、所知が「能知」に対して現前するとき、それ「ガアル」。(意味的所識はそれ自身としてはイルレアール・イデアールであるから、「所識」のアルは必ず「存立スル」である。これにひきかえ、「所与」は、あくまで「所識」と相関的な「質料」であり、それ自身としてレアールであるかイデアールであるかを一義的には言えない。が、多くの場合、「所与」はすでに「質料−形相」成態であり、しかもレアールに“受肉”した現相であるのが普通である。そのかぎりで、「現相的所与」契機の「アル」は反省的に規定すれば「実在スル」のケースが多い、と言うことまでは許されるかもしれない。)ところで、「所与」と「所識」とは決してバラバラにアルのではなく、「所与が単なるそれ以上の所識として」「等値化的統一」の二肢的構造関係を呈する。この「所与−所識」=「等値化的統一関係」が「能知」に対して現前する「として」関係態、それが「(所与が所識)デアル」にほかならない。(精確に立論するさいには、単なる知覚ないし表象の次元での等値化的統一と、判断の次元での等値化的統一の対他的・対自的な措定とを区別して論ずる必要があるのだが、また、日常言語的には同じく「デアル」と表記されても単純同立を表現するにすぎない場合を除外する手続なども必要なのだが、ここでは一括したまま誌すにとどめる。)」525-6P
(対話L)「以上では、まだ、「能知」の二肢的二重性が顧慮されぬままになっているが、われわれとしては「能知的誰某」と「能識的或者」との二肢性を顧慮する必要がある。そして、そのことによって、われわれは“主観的に”アルと“客観的に”アルとを区別することができる。所知がそれに対してアル能知が、単なる個別的な「能知的誰某」にすぎないとき、当のアルは“主観的に”アル(主観的にガアル、ないし、主観的デアル)にすぎない。これにひきかえ、所知がそれに対してアル能知が、「認識論的主観としての能識的或者」の場合、当のアルは“客観的に”アル(客観的にガアル、ないし、客観的デアル)と認められる。形式的に論決すれば右のごとくである。が、しかし、「能知的誰某」と「能識的或者」とは二肢的統一態をなすのであるから、右の立言におけるがごとき、“振り分け”は精確な言い方ではない。精確には、「個々の能知的主観に対してアル」と「能識的主観一般に対してアル」との対立的区別でなければならない。この間の事情を明らかにしつつ、且つ、先の便宜的な言い方をも弁証するには、視圏を拡大して、四肢的連関態勢の間主観性を見据えることが要件である。」526P
第三段落――四肢的連関態勢の間主観性−「アル」の間主観的存立性 526-30P
(この項の問題設定)「「現相的所与−意味的所識」ガ「能知的誰某−能識的或者」ニ現前スル、この「事」(四肢的構制態)の第一次的な対自化が「アル」にほかならない。形式的にはこう言われうるにしても、「事」はそもそも間主観的に媒介されて成立するものであり、われわれとしては「アル」の間主観的存立性を配視する必要がある。」526P
(対話@)「爰では、能知的主体が間主体的交通を通じて「ヒト」の相へ、ひいては「能識者一般」「判断主観一般」の相へと自己形成を遂げる機制や過程について再論するには及ばないであろう。われわれは、能知的主観がすでに判断主観一般の相へと自己形成を遂げている場面に定位すれば足ると念う。ところで、能知的主観が判断主観一般としての能識的或者の相へ自己形成を遂げている場面で「アル」(ガアルおよびデアル)を省みるとき、「アル」はその一切が“客観的に”アルになってしまい“主観的に”アルの余地が失われてしまうのではないか? 一切のアルが“客観的”“真理的”ということになってしまわないか? このような疑問が生じうる。というのも、茲では、所知が能知に対してアルさいの能知が「判断主観一般」という「認識論的主観」として存立しているように思えるからである。このありうべき疑義に応えることを通じて、上来の行文において残してきた曖昧な点(行論の便宜上あえて犯してきた不精確な論述)を除去しつつ、存在とその間主観的妥当の構制を彰らかにしていこう。――われわれは嚮に「アル」とは、「所知が能知に対して現前する」謂いにほかならない旨を云々した。だが、「能知に対して現前する」というさい、「能知に対して」ということが、自覚的に認知されているのであるか? もし、そのことが自覚的に認知されているのであれば「能知」はすでに一種の“所知”になり了っており、「所知」が“所知”に対して……という構制になってしまう道理である。慥かにそうなのであって、われわれは反省における「能知」の“所知”化という事態を勘考しなければならない。当事意識が直接的に覚識するのは「何かが現前する」ことまでであって、そこでは当事意識自身の「能知」は“所知”化されて現識されるわけではないのである。「能知に対して」というのは第三者的ないし反省的な定式たるにすぎない。従って、また、当事意識の直接態においては、「アル」(ガアルにせよデアルにせよ)は直截な“現前”であって、“主観的に”アルか“客観的に”アルかの弁別は存しない。「能知」が能知(“所知”)として対他・対自己的に覚識される態勢を俟ってはじめて“主観的にアル”と“客観的にアル”との弁別が成立しうるのである。――われわれは、これまでの行文においては、当事意識の直接態と反省態とを必ずしも明確に区別することなく論じてきたが、今や「能知に対してアル」のは反省態に即した定式、ないし、第三者的な定式であることを銘記しつつ議論する次序である。」527-8P・・・「「所知」が“所知”に対して」の「 」と“ ”の使い方
(対話A)「偖、反省態において主題的に覚識される「能知」は、すでに間主観的に“同型的”な「ヒト」の相へと自己形成を遂げた「能識的或者」としての「能知的誰某」でありうる。この二肢的二重態たる「能知的誰某−能識的或者」は、後者の契機においていかに間主観的な“同調化”“同型化”のゆえに、それを認識主観として反省的に概念把握(「ベグライフェン」のルビ)すれば、所詮は他人(他の能知的主観)との“函数概念的”な“同型性”の埓内にある。(彼が認識に“用いる”概念とその体系が他人たちと共有されていることはおろか、知覚的分節の仕方といった次元にわたって就中所識的契機が他人たちと“同型的”になっている。)だが、彼は決して他人たちと“合同”な認識主観なのではなく、あくまで個性的である。このゆえに、能知的諸主観は、マクロスコピックには“同型的”であるにもかかわらず、判断的措定に関して合致するとはかぎらない。現に、判断的措定が、間主観的に岐かれうるのが実情である。」528P
(対話B)「判断的措定「アル」は(存在判断の「ガアル」にせよ述定判断の「デアル」にせよ)、反省態において「能知」を対自的に覚識したとしても、その能知は、直接的な反省場においては、さしあたり「能知的自分」であって、「能識的或者としての能知的誰某」という二肢的二重相で現識されるわけではない。自己が単なる能知的誰某以上の能識者として対自化されるのは、対他者的妥当性の反照的覚識を介してのことである。」528P
(小さなポイントの但し書き)「(なるほど、自分および他人の能知主体としての在り方を主題的に把握する分析において、自分も他人も単なる能知的誰某以上の能識的或者であることが了解されうるし、自他が能識者としては“同型的”であることすら了解されうる。が、これは能知的主体に関する主題的な分析的把握なのであって、判断的措定の対自化にあたってその都度このような主題的分析がおこなわれるわけではない。尚、実は、ここに謂う能知的主体に関する主題的分析、二肢性の把握や同型性の把握ということも、認識の対自的、対他的な帰属とかの省察を介して成就するのである。)」528-9P
(対話C)「判断的措定は、嚮に前篇で討究しておいた通り、対他者的・対自己的な帰属の相で覚識される。そして、或る判断的措定は、対他者的には帰属しても対自己的には帰属しない場合、および、逆に、対自己的には帰属しても対他者的には帰属しない場合がありうる。(このさい、自分および他人が、別の論脈での省察を通じて、能識的或者としては“同型的”であることが了解されているとしても、この“同型性”は任意の判断的措定が自分と他人とに共同的に帰属することを直ちに意味するものではない。二人の能知的主体は「能識的或者」の契機に即すれば“同型的”であるにしても、「能知的誰某」の契機において個性をもつのであって、相対立する判断的措定をおこなうことが現にありうる。)ところで、判断的措定の帰属する他者は、さしあたっては個別的な他者であるが、「他人一般」(ヒト)の相に理念化(「イデアリジーレン」のルビ)されている場合もある。そして、所与の判断的措定は、反省態において、自分には帰属するが判断主観一般としてのヒトには対妥当的に帰属しないことが自覚されたり、自分には帰属しないが判断主観一般としてのヒトには対妥当的に帰属することが自覚されたりする。この自覚相のもとで、自分にとってアル判断措定「アル」「ナイ」が“主観的にアル”“主観的にナイ”と自認される。(ここに謂う「自分」は主題的に反省してみれば判断主観一般としてのヒトの相へと“同型化”しているにせよ、この反省的対自化は先の判断措定の判断主観一般への対妥当性の覚識とは別階型の事柄である。)これに対して、所与の判断的措定が、反省態において、自分および理念化されたヒト一般としての判断主観一般に対して対妥当的に共同帰属すること、ないし、共同帰属しないこと、これが前篇で論じた構制のもとに自覚される場合、「判断主観一般たるヒトとしての自分」が対自化され、当の判断的措定「アル」「ナイ」が“客観的にアル”“客観的にナイ”と認識される。こうして、判断的措定の反省態において現識化される「能知」の在り方に応じて、“主観的にアル”と“客観的にアル”(“主観的にナイ”と“客観的にナイ”)が区別されるのである。」529-30P
(対話D)「翻って、右の行文中に謂う「他人一般」「ヒト」に対する対妥当というのは、前篇第三章第三節で論定しておいたように、実態においては「間主観的妥当性」にほかならない。従って、“客観的な”存在(「アル」のルビ)とは、判断的存在定立「アル」(ガアルにせよデアルにせよ)の間主観的妥当性に帰向する。」530P
(対話E)「以上の立言は、しかし、さしあたり「認識的世界」に定位しての存在規定(「実在スル」「存立スル」の次元)であり、存在論としての存在論にとってはかかるプリミティヴな存在規定では済ませない。われわれは次巻「実践的世界の存在構造」において、認識論的には“主観的にアル”にすぎない「アル」の“客観的にアル”への転化(それも単に客観的実在化(「レアリジーレン」のルビ)といった域においてではなく、間主観的妥当性を支える「共同世界」「共同主観性」そのものの実践的再編を射程に入れて)の論攷を「実践主体」の存在性の省察に俟ちつつ遂行することをはじめ、存在規定を深化する予定である。そのことを通じて、能知の能知としての対自的存在性は「認識論的主観性」をめぐって本巻の範囲では権利づけに問題が残った憾のある点もあらためて定礎されることになろう。が、「実践的世界」に主題移し得んがためにも、本巻を閉じるにあたり、次節では、能知的主体における所謂「身−心的統一性」をめぐって若干の省察を加えておかねばならない。」530P


posted by たわし at 06:11| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月02日

菅野完『日本会議の研究』

たわしの読書メモ・・ブログ702
・菅野完『日本会議の研究』扶桑社(扶桑社新書)2022
今、兵庫県知事の失職と選挙での再選をめぐる混乱のなかで、フリー、小さいメディアのジャーナリストが、維新政治の腐敗の極的状況を暴き出すべく活躍しているのですが、そのうちの(自称「著述業」の)ひとりです。記者会見で、大手メディアの記者たちよりも、フリーのひとたちが実に鋭い質問をし、問題点を露呈させています。この著者は、公職選挙法や法律に詳しく、警察や検察の動向の分析を的確にしていて、何が問題点になっているかを明らかにしています。それを自身のYouTubeチャンネルで流しています。YouTube  を発信媒体にしているひとは、マスコミ批判をしていることが多いのですが、このひとはマスコミ各紙朝刊読みとかもYouTubeでやっていて、マスコミの記者たちを持ち上げることもしています。
そのひとが、自分のYouTubeで紹介していた自著です。この本は丁度、安倍政権が戦争法案(安全保障関連法案)の集団的自衛権を憲法学者の9割が違憲としているのを押し切って成立させる前後に出された初版本から普及版の新書としてだされた本です。日本会議は、もろもろの宗教関係の団体や右派学者からなるのですが、その源流は長崎大学に始まる「生長の家」学生運動だったという押さえ、そこから、「生長の家」は右派運動から降りた中で、「生長の家」原理主義運動が、色んな流れに分かれつつ、「日本会議」を支える運動になっているという押さえのようです。著者は、そもそもバラバラな宗教団体、そして「生長の家」原理主義運動自体も分かれているのに、どうして事務的なことがまとまってできるのかの分析をしていき、それをまとめる人物を絞り込んでいきます。何か推理小説のような感さえあり、読み物として面白いのです。
さて、このひとは保守・右派として自らを突きだしています。ですが、そもそもアベ政治には批判的ですし、ヘイトへの批判もするどくしていました。兵庫知事選をめぐる論究もむしろリベラル的なのです。どうも、左派・リベラルとして突きだすと、過去のことや現在的思想で批判されるから、保守・右派を名乗っているのではないかとわたしは想ってしまうのです。
反原発の集会に参加しているときに、このひとの話が上がっていました。ここでは書くのを止めます。インターネット上で検索するとでてきます。YouTube上でも過去の反省をいっていたりしています。ただ、性差別に関しては一応おさえているようですが、障害差別に関しては、キレるひと特有の差別的発言を繰り返しています。わたしはもうYouTubeを観るのを止めています。なんとか、差別を総体的にとらえる観点を獲得してほしいと願ってはいるのですが。
さて、それはともかく、この本は右派政治を支える「日本会議」を知るのに貴重な資料だとはいえるのではないかと、読書メモを残します。


posted by たわし at 04:37| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(16)

たわしの読書メモ・・ブログ701[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(16)
第三篇 事象的世界の存立機制
第三章 事象の間主観的存立と客観的存在性
 第一節 対象的実在の存在性
(この節の問題設定−長い標題) 「実在的世界は、“われわれ”の日常的意識においては、実相的な空間・時間の内に定位的に存在しつつ、法則に規制された在り方をしている“もの”の一大集成として表象され、総じて射映的現相世界とは区別して覚識される。――われわれが爰で問題にしたいのは射映的“仮現相”と区別して覚識される対象的“実在相”の存在性である。謂う所の“対象的実在性”は“われわれ”の今日的な既成観念に即するかぎり、時間・空間そのものの次元、時空間内に定在する事物の次元、事物の在り方を規制する法則性の次元、これら三つの次元にわたって検討すれば足ると思えるのであるが、結論的に言えば、対象的実在相とは、現相的世界の即自的な二肢的二重性の構制を基礎に、射映的“仮現相”を統一的・整合的に“説明”すべく“構成”された所識相の一斑にほかならない。」494P
第一段落――“実相的”定在として思念されている空間・時間の存在論上の身分 494-9P
(この項の問題設定)「われわれは嚮に、前々章の行文において、空間なるものおよび時間なるものが対象的に形象化される次第を論攷し、また“仮想”的な空間・時間規定と“実相”的な空間・時間規定との即自的な区別にも言及しておいた。爰では、“われわれ”の日常的既成観念において“実相的”定在として思念されている空間・時間の存在論上の身分がまずは問題である。」494P
(対話@)「空間的・時間的な布置・延長・間隔といった規定性(空間的規定の場合には加之“形状”)について“仮現相”と“実在相”と言うとき、直接的な知覚にさいして覚識される“見掛”と“実際”との次元と、ここでの“実際相”に関わる直接的な計測現相と間接的な計測結果のあいだで云々される“仮相”と“実相”との次元、これら二つの次元的差異を対自化して臨む必要がある。――これら二つの次元のうち、直接的な知覚の場で覚識される“見掛”と“実際”については折にふれて論じてきたので茲で詳しく立入るには及ばないであろう。われわれとしてはそこにみられる或る構制についてだけ確認しておけば足る。現相的視覚風景における空間的規定は、配景視や立体視においてすでに、射映的“見掛”相と対象的“実際”相との二肢的二重相で覚識される。しかも、日常的な直接的仮現するものと思念されている。ここに思念されている対象的実在相とは、見る側(能知)との関係に応じて合法則的に一定の仮現相を呈する自己同一的な或る所知であると言えよう。それは諸々の射映相が斉しくそれの仮現相であるごとき自己同一者として思念されており、日常的覚識においては、この自己同一者を根拠にして諸多の射映相の在り方(その都度の“見掛”相)が合法則的に“説明”される。(実在相なるものが既成化した所識態になっているところでは、これを基準ないし説明根拠にして仮現的見掛相を定位するのは尤もな“生活の知恵”である。)われわれの見地からいえば、しかし、この思念や手続は原理的には顚倒している。人は成程その都度の現相を単なるそれ以上・以外の或るものとして覚知し、幾つかの所与現相群をそれとは別の単一の所識相で覚識する。所与現相は相違しても、それらが単なる射映的現相以上の或るものとして覚識される当の或るもの=所識は一個同一でありうる。人は身体的布置に応じて合法則的に変貌する一連の射映的現相を、個体的に同一の所識と等値化的に統一する。とはいえ、射映とは別の一個同一者そのものを人は如実に知覚するわけではない。人は“説明根拠”としての実在相とやらを如実に知ったうえで射映相と関係づけるのではない。逆である。人は射映相を手掛りにしつつ、射映相の合法則的な在り方を説明すべく“対象的実在相”を要請的に措定するのである。(対象的実在相は、既知の諸射映相を手掛りにしつつ、未知の射映相の現出を予見するごとき相ですら“構成”されうる。)“仮相とは別の実在的自己同一者”として思念されているものは、身体的布置等に応じて合法則的に変貌する一連の射映的現相を統一的・整合的に把住すべく反省以前的に措定された所識的な或るものにほかならない。」495-6P
(小さなポイントの但し書き)「人は茲で、対象的実在相は計測的な仕方で如実に認知される旨を云々するかもしれない。だが、計測的認知にさいしてすら如実に現前するのは一つの射映相であり、射映とは別の実在相が純粋に現出するわけではない。尤も、論者たちの立言にも反面の理はある。それは計測的認知における所識相の規定、これが対象的実在相として計測的に“確定”されるという点である。が、このことは、謂うところの“射映的実在相”なるものが射映相を単なるそれ以上の或るものとして覚識する所識相であることを覆えすものではない。」496P
(対話A)「われわれの見地からみるとき、こうして、人々は“見掛”上の布置・延長・間隔と“実際”上の空間規定性とを即自的に区別する機制を基盤にしつつ、“実在相”での空間的規定性を計測的に確定するという仕方で秩序づけ、それを自存視する。が、実在的な空間的規定性なるものは、(それは射映的現相の現与性と合則性に定位したものであって決して全くの恣意的構想物ではないが)、射映的空間現相を統一的・合則的に“説明”するために即自的に“構成”された所識的形象にほかならない。そして、この“構成”が間主観的に認証されるかぎりで、当の“実在的空間規定性”が“客観的存在性”を有つものと信憑される。“実在的時間規定性”についても同趣であることは、前々章第三節および前章第一節の行論の想起を求めれば、茲で絮言を要せぬことかと念う。」496P
(対話B)「ところで、以上の立論は、計測的確定への言及を含むとはいえ、直接的な知覚の場に定位したものであって、われわれはまだ前章の行文中でふれた直接的測定・間接的測定の問題をすら配視していない。今や、先に区別の必要を誌しておいた第二の次元について、“実在的な空間・時間の規定性”に関わる計測的確定の認識論的な構制に即しながら議論を進めることにしよう。――伝統的な思念においては、空間・時間の客観的規定性は観測者から端的に独立な“絶対的”な或るものであると了解されていた。しかし、相対性理論の登場を俟つまでもなく、われわれの見地から考察するとき、いわゆる“実在的空間・時間”は決して観測者から端的に独立な絶対的存在たるべくもない。このさい、空間・時間の観測者との相対性ということは、勿論、直接的な知覚における射映的現相の相対性とは別次元の事柄であることが銘記されねばならない。が同時に、計測的空間の観測者との相対性という問題論的構構制そのものは、知覚的射映の相対性と同根に根差すことも忘佚(「ぼういつ」のルビ)されてはならないのである。偖、古典物理学的な時空観においては、時空系SとS´とが相対的に運動していようとも、系Sにおける時間・空間的な“長さ”は、系S自身で測定しようと系S´から測定しようと、そのまま合致するものと思念されていた。なるほど、例えば、地上を等速直進している列車内で物を落下させる場合、列車内の座標系で観察測定すれば鉛直落下運動(空間的には直線という形)になるのにひきかえ、地上に固定された座標系で観察測定すれば抛物運動(空間的には直線という形)になる、というような相違がみられるかぎりでは、古典力学的な了解においても、観測系に応じて測定結果が“相違する” (直截には合致しない)という事態は存立した。しかし、このたぐいの測定結果相は、原理的には“見掛”にすぎないものとみなされ、これら“見掛”とは別事の“絶対的な”客観的実相が厳存するものと了解されていた。では、そこで思念されていた絶対的な客観的実相とは何か? それは絶対静止座標系からの観測的定式相にほかならない。空間・時間規定はいかなる観測系から測定しても延長・持続に関しては完全に合致するという前梯的な了解のもとに、いわゆるガリレイ式変換によって、原理的には、絶対運動の形を確定できるものとされていた。ということは、絶対静止系に立っての測定的所知がとりもなおさず客観的実相であると見做されていたことを意味する。そこでは、測定という操作が無時間的に遂行されうること、換言すれば、無限の速度をもった光を観測手段として測定が遂行されうること、このことが暗黙の了解事項になっていたわけである。ところが、現実には、観測手段たる光の速度が有限であるという現実的条件を入れるとき、時間・空間に関わる測定的な所知は観測運動系に応じて必然的に相違することになり、もはやかつてのごとく、時間・空間的な規定性は観測系とは無関係に同一的であるとするわけにはいかない。」496-8P
(小さなポイントの但し書き)「――相対性理論においては、光速度は有限なだけでなく、真空中にあってはいかなる観測系に対しても一定であるものとされる。ここから帰結する事柄の一端をみてみよう。今、地上に対して速度vで等速直進運動をしている列車があるものとし、その中央から光を発射したとする。車内で観測すれば、中央から発射した光は運転室と車掌室とに同時に到達する。ところが、地上で観測すれば、その同じ光が、まず車掌室に到着し、そのあとで運転室に到達する。こうして、光の前後壁への到着という一個同一の事件が、車内の観測では同時刻に、地上の観測では別々の時刻に生ずることになる。車内での同時が地上では異時なのである。(古典的な了解では、運動している列車上で発せられた光の速度は列車の速度と代数的に加算されるので、地上で観測しても光は運転室と車掌室とに同時に到着するものとされていた。しかるに、相対性理論の“仮定”では、光速度は運動体から発射されようと静止体から発射されようと、光源の運動状態にかかわりなく一定である。それゆえ、光は一定の速度で前方にも後方にも進んで行くのだが、運転室は逃げるのに対して車掌室は迫って来る。このため、まず車掌室に、そのあとで運転室に、という到達時刻の差異が生ずる次第なのである。)時刻からしてこうなのであるから、二つの時刻のあいだの時間(持続時間)も相違することになるし、空間的な長さの測定値(長さの測定とは同時刻における二点間の距離の測定である。)も相違することになる。定量的に言おう。結論だけ記せば、車内で測定して進行方向に長さLの物体は、地上から測定すれば、いわゆるローレンツ収縮のためL’=L (eは光速)の長さになる。また、
車内で測定してTの時間は地上で測定すればT’=T/ に伸長している。これは、しかも、一方的な関係ではない。地上で測定した。l、tを車内から測定すれば、やはり、l’=ll という収縮、およびt’=t という伸長した測定値が得られるのである。相対的に運動している系においては、互いに相手の系では空間の収縮と時間の伸長が生じる。」498-9P
(対話C)「――では、どの運動系からの測定値が真の客観的な測定値なのか? このように問うこと自身がもはや無意味なのである。もし、絶対的な基準系が存在するのであれば、その基準系に立っての測定値を以って“真の客観的な測定値”と言うこともできよう。だが、運動はあくまで相対的であり、特権的な絶対的基準系など存在しない。また、各々の観測者は、自分の得た観測値こそが真正だと強弁したとしても水掛論になるだけであるし、自分の所属系での自家測定値こそが真正だと強弁したとしてもそれの唯一的客観性が保証されるわけではない。観測者たちは、対自的現相と対他的現相(自己の所属系での測定値と他者の所属系からの測定値)とが直接的には合致しないこと、但し、そこに生ずる相違は合法則的であること、このことの自覚的承認のうえに立って、対自的現相と対他的現相とを整合的・統一的に把住できる相で空間・時間を措定し、その間主観的に統一的な単一相を以って“実在的な空間・時間”と規約する。相対性理論における時間・空間規定の構制は大略このような配備になっている。」499P
(対話D)「計測的に確定される空間・時間の“実在相”とは、こうして、自己の所属系に定位した測定値と、他者の所属系に定位した測定値とを、間主観的統一相で整合的に把住・説明すべく要請的に措定した所識相なのである。“実相的”空間・時間なるものは、その存在性をこのような間主観的な“構成”的措定に負うている。(この件について主題的には前掲の別著『相対性理論の哲学』のほか、『科学の危機と認識論』の当該個所の参看を願い、茲では割愛することにしたい。)」499P
第二段落――実在的事物の「性格・機能」「組成・構造」および「発現・過程」の配視 499-503P
(この項の問題設定)「空間・時間の内に定在すると思念されている「事物」(性状的当体、ないしはむしろ、事相的事体)については、前々章第一節および前章第一節において、必要とされる論件の一斑を既に論定してあるので、爰では簡略な議論に止めたいのであるが、われわれとしては「事物」の存在性を論攷するにあたり、実在的事物の「性格・機能」「組成・構造」および「発現・過程」を配視しなければなるまい。」499-500P
(対話@−事物の「性格・機能」)「事物は、嚮に論じた通り、日常的意識においては性状的当体の相で覚知されるにしても、謂うところの実在的性質は対他的関係規定の内自化されたものにほかならない。“性質を具えた事物”と称されるものは、Aという対他関係ではa、Bという対他関係ではb、……という反応的自己規定を合規則的に呈する或るものである。成程、日常的意識においては、事物はそれ自身がしかるべき「性格・機能」を具有しているが故に対他的関係に応じて一定の「性格・機能」を発露するのだと思念される。だが、前章第二節でも論究しておいたように、実態においては、事物そのもの具っている性格や機能と目される潜勢的・可能的規定性なるものは、対他的関係規定が反照的に内自化されたものにすぎない。(人は鉄片には磁石に吸引される潜勢的能力・可能的性質がもともと自体的に具っており、銅片にはそのような可能的性質がもともと具っていないという具合に考える。だが、それは対他的関係における“現実態化”からの逆推的賦与である。慥かに鉄片は磁石に吸着され銅片は吸着されない。直接に実在するのはこの関係的事実までである。人はこの事実を説明しようとして磁性なるものを鉄に内自化させる。現実的事実の在るところ必ずそれに見合う可能態を想定し、それを“説明根拠”にすることが論理上できる。が、ここでの論理構制からすれば、男性個体は“夫性”や“親性”をもともと潜勢的・可能態的に具えていたと主張する仕儀になろう。それはかつてhomunculus(同種性・種的同型性)が想定されたのと同じ論理構制になっている)。所与の事物の「性格・機能」に関わる実在的性質とやらは、当の事物が対他的関係において合規則的に呈する射映的現相を統一的に“説明”すべく“構成”的に措定されたものにほかならないのである。――尤も、われわれは事物の「性格」や「機能」を云々する場合、当の個体自身に即して対他的反応関係を逐一直接的に確認するとは限らない。いわゆる「実験」の構制を省みると事情が見え易くなるが、サンプルに即して確認した性格や機能を同種の事物全般に推及する。人々は一群の事物の同種性を先行的に了解したうえで、それら事物群のうちの或るサンプルに即してaという性格や機能を確認し、(一個同一のサンプルに即して引続き実験する場合もあるとはいえ)別のサンプルに即してbという性格や機能を確認し、さらに別のサンプルに即してcという性格や機能を確認し……という仕方で別々のサンプル的個体に即して個々別々に確認した性格や機能abc……をその種に属する各個体が全て斉しく具えているものと見做す。このようにして措定される「abc……を具有する事物」なるものは単なる種的概念ではない。それはあくまで一定の時空的場所に定在する各事物であって、謂うなれば種的概念諸規定の“受肉体”である。が、このようにして措定された「実在的な性格や機能abc……を具有する各事物」というのは、性格・機能abc……を当の個体自身に即して直接に確認されたものではなく、サンプル的他個体での実験的観察を手掛りにして“推定”的に“構成”されたものにほかならない。当該の種に属する個体は、種的同型性という前提的諒解のもとに、そのうちの或る個体がAという対他的関係でaという性格・機能を呈し、別のサンプル個体がBという対他的関係でbという性格・機能を呈し……という事態を斉合的統一的に“説明”すべく、各個体が全て斉しくabc……という性格・機能を具有するものとして“構成”的に統握されるのである。(尤も、或るサンプルで確認された事柄が他のサンプルでは同工の実験をおこなったにもかかわらず現認できない場合には、当の規定性は第一のサンプルの個体的持性とみなされて、他個体への推及は差控えられる。が、このような“反証的”実験結果が生じないかぎり、サンプルに即して得られた知見が同種の他個体全般に推及されるのが常套である。)」500-1P
(対話A)「こうして「実在的な性格や機能abc……を具有する同一種の個体的事物」なるものは、同一個体の射映的諸現相でこそないが、やはり、一連・一群の射映的現相を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”的に措定されたものである。」501P
(対話B−事物の「組成・構造」)「事物の「組成・構造」はどうか。組成や構造は、事物という一統体の相での対他的関係規定ではなく、単一の個体的事物の内部的規定態である。そして、「組成」はいかなる構成分が当の事物に内在しているかを表わし、「構造」は当の内的構成分どうしがいかなる布置になっているかを表わす。事物(事物1)の構成分はそれ自身事物(事物2)であるかぎりでは、事物1の組成・構造を確定することは事物2とそれの事物1というかたちでの複合相を確定することにほかならない。茲で、今、所与の事物から事物a、事物b、事物c……が分出されたものとしよう。(分出が生ずるのは他物との作用的関係のもとにおいてであるが、今はこの点にはふれないことにする。尚、分出された事物2はつねに事物1の「構成分」Bestandteilではあるにしても、それがもし事物1と全く同種である場合には「成分」Komponenteとは呼ばない。)そのとき、当の事物は成分a、b、c、……を内在させているものと把え返され、成分abc……の分出という現象を斉合的・統一的に“説明”すべく成分abc……から組成されているものとして“再構成”される。(このさい、成分a、成分b、……は既知の物質と固定されることもあれば、新発見の物質として新規に定性的に規定されることもある。が、いずれにしても、この定性的規定は、対他的反応規定に即した「性格・機能」の確認にもとづいておこなわれる。)」501-2P
(対話C−事物の「構造」)「――ところで、事物の実在的規定性としての「構造」なるものであるが、人は所与の事物をさまざまな“截断面”で“截”ってそこにおける“射映”的な布置関係を確認する。射映相は多肢多様である。人は、しかし、“截断面”に応じて多肢多様な構成分の射映的布置関係を斉合的・統一的に“説明”すべく、当の布置的諸関係を射映に応じて呈するごとき単一の構造を構成的に設定する。こうして、射映的截断面に応じて合規則的に特定の“値”を呈する“函数”的な統一相で“構成”的に措定され、しかも「事物」に内在する構成分の布置とみなされる関係態、それがいわゆる「事物の実在的規定性としての構造」にほかならない。(この構造態は構成分の相互的機能関係や対他的機能関係に即して機能態として把え返されることを妨げない)。――以上では、単一の事物に即した直接的な確認と直接的な構成に定位したのであるが、一般には、サンプルにおける“実験的”観察を手掛りにして、同一種の事物に汎通的な「組成・構造」が構成的に措定されるという事情は嚮に「性格・機能」に関して述べたところと同断である。」502P
(対話D)「人々はこのような構制で「事物の客観的実在像」を思い描がき、反証的事実が反証的事実として現認されるようにならないかぎり、それが唯一絶対的な客観的実在相であるものと信憑しつづける。だが、所詮は、現認される射映的諸現相を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”された“実在相”であってみれば、「客観的実在相」はきわめて相対的である。このことを自覚するためには、今日では廃れた過去の描像を想ってみればよい。十七世紀後半の指導的な科学者であったN・ルメリは、周知の通り、酸性物質を「棘(「とげ」のルビ)」を具えた相で想い描がいたのであった。酸は固い金属を溶かし、アルカリと中和し、舐めると舌がチクチクする――等々の現象を呈するが、これらの現象は酸の「突起(「とげ」のルビ)」が金属を突き刺して解離させ、アルカリの穴に納って突き刺さなくなり、舌に突き刺ささり、――という仕方で“斉合的・統一的”に“説明”できる! シュタールがフロギストン説を唱え、それが支持されていた当時、フロギストンはまさに当時知られていた諸々の燃焼現象を斉合的・統一的に説明する恰当(「かっとう」のルビ)な“実在像”だったのである! いわゆる「客観的実在像」は、因みに今日における「クォーク」を想ってみるがよい、認識論上の基幹的構制と存在論上の原理的身分に鑑みるかぎり「酸突起」や「フロギストン」とも同工異曲と認めざるをえまい。」503P
(対話E−事物の「発現・過程」)「事物の客観的・実在的な「発現・過程」相と謂われるものが、これまた一連の射映的現相を“斉合的・統一的”に“説明”しうべき相に“構成”されたものであること、このことそれ自体についてはもはや多言を要せぬことかと念う。が、これは「合法則性」の問題とも絡むので、視軸を転じて関説することにしよう。」503P
(小さなポイントの但し書き)「(尚、事物の「性格・機能」「組成・構造」「発現・過程」の内奥に存在するかのように思念される「実体そのもの」については、既に前章での論攷で尽きているので、茲では省いても差支えあるまい。)」503P
第三段落――法則の存在性をめぐって 503-11P
(この項の問題設定)「法則なるものが事物の「発現・過程」、従って、事象の継時的な在り方を規制するという想念については既に前章第三節において関説しておいた。われわれが茲で問題にしておきたいのは法則の存在性をめぐってである。」503-4P
(対話@)「人々は日常的意識において自然法則なるものが厳然と実在していることを疑わない。では、法則とはいかなる存在であるか? それは特個的な事象とは抑々の甫めから区別した相で覚識される。法則は、一群の事象が時と所を異にし、具体的な様態は異にしつつも、本質的には同型的な仕方その都度具現する或るものとして、甫めから一種の普遍態として表象されている。とはいえ、この“普遍態”は単なる概念としての普遍態ではない。(勿論、法則一般という概念は概念としての普遍態であるが、ここで問題にしているのは個々の法則である。)それは、個々の法則という個的な存在でありながら、特個的な個体ではなくして一種の普遍態なのである。ここにおいて、日常的に思念されている自然法則は、省察してみると“個的な普遍態”“個的に実在する普遍態”として、さながら「概念実在論」における“実在する普遍”という形而上学的存在を想わせる態のものである。人々は、法則(例えば、「落体の法則」)なるものが在るからこそ事象の合法則的な進展(しかじかの仕方での落下)が現出すると思念する。人々は、今日では、中世ヨーロッパの実念論派の知識人たちとは異なり、果物という普遍が存在するからこそ、リンゴやナシという個別が存在するのだと思念しない。ところが、法則となると、人々は今日でも暗黙の裡に、法則という普遍態が存在するからこそ個々の合法則的な事象という個別態が存在するのだという構図で思念してしまう。概念的普遍態は必ずしも実在化して表象されないのに対して、法則的普遍態は実在化して表象されている次第なのである。」504P
(対話A)「法則は何故実在化して表象されるのか? 法則そのものが特定の時と所に如実に見出されるわけではない。この点では概念そのものと同断である。では、一方は実在化され、他方は実在化されないのは何故であろうか? それは、おそらく、法則は「事象の生起に先立って“未在的に既在”しつつしかも事象の径行(けいこう)に規則的な作用を及ぼす」ものとして思念されること(概念は事物に対して先在もせず規制もしないと了解されていること)に由来する。この思念は、「規則的拘束力をもった法則なるものが在って、事象の振舞いはその法則に随う」という了解と相即する。そして、この了解は、前章第三節で指摘した擬人法にもほかならない。人々は、人間の行動を内省してそれが一定の拘束的規制に服していることを覚識し、この拘束的規制への随順という行動の在り方を万象に推及する。このさい、しかも、拘束的に規制する「掟」の既在性、それの規制力を人々は覚識する次第であって、法則の実在性という思念はこの覚識に根差すものと言えよう。――人々は、他人たちに対して、一定の所与的情況のもとでは、一定の様式での行動を予期的に期待するが、それと類比的に、かくかくの自然的状況にあってはしかじかの様式での“行動”を自然的事象が“遂行”するものと予期する。この予期は可成りの程度まで充たされる。それは、但し、人間の予見力が優れているせいではない。条件反射理論に謂う「抑止」と「強化」の機制によって、充たされなかった予期は抑止され充たされた予期は強化される結果、一定の(類同的な)状況において以前に栗貸し充たされた予見相を人々はおのずと予期するようになっており、そのたぐいの予期はあらためて充たされることが多いというだけのことである。」504-5P
(対話B)「「自然の斉一性」が存在条件となって謂う所の「予期の充足」が現実化する。一応はそう言うことができる。類同的な先行状態に類同的な後続状態が合規則的に継行するのでなければ、予期が充足されないどころか、そもそも予料的予期という“心身的態勢”そのものが形成されないことであろう。――「自然の斉一性」ということは、しかし、純粋に客観的な構造的斉一性ではない。なるほど、恣意的な予期は裏切られるだけで、予期の如何にかかわりなく“客観的な”斉一性がみられることが「自然の斉一性」の謂いとされる。客観的径行と主観的予期とを二分する常套の発想に即するかぎり、慥かに「自然の斉一性」は客観的な斉一性の謂いであり、それは主観的な予期とは独立の事柄である。だが、ここに謂う“客観的径行”、“類同的な先行状態に類同的な後続状態が継起する斉一性”、このことそれ自身が“純然たる客観的事実”ではなくして、いわゆる“主観的契機”の協働的介在に俟っている。この間の事情を対自化するためには、今茲で別段、大上段に「そもそも客観的実在相とは認識論的にみて……」と構えるには及ぶまい。ここではさしあたり「類同的状態に類同的状態が……という斉一性」が云々されるさいの「類同的状態」なる統握に止目すれは足る。――議論を直截化する便法としてラプラスのデーモンを引き合いに出そう。ラプラスのデーモンのように万象を精緻に認識する主観にとっては、どの現象も極めて個性的なので、類同的として一括することなど到底不可能であろうし、少なくとも人間が敢行するような類同化的把握は「味噌も糞も一緒くた」にする流儀の暴挙に映ずることであろう。ラプラスのデーモンにとっては、事象各々の推移決定論的に必然であれ、類同的斉一性など存立しないはずである。デーモンに言わせれば、おそらく、人間は事象間の差異に鈍感にすぎ、およそ斉同的ならざるものをラフに一括してしまい、斉一でもないのに斉一とみなしてしまっている、ということになろう。――人々は特個的な一群の事象類同的として一括把握し、精密には決して一様ではないものを斉同的として一括把握し、このラフな概括を前提として甫めて斉一性(一定の類同的先行状態には一定の類同的後続状態が継起するという大枠内での対応性)を措定しているのである。(このさい、類同的把握が全くの“主観的恣意”ではないこと、伝統的な思念に妥協した言い方をすれば、それは“主客の協働”の所産であること、このことは前章第三節で“星座”に仮託して誌しておいた通りである。)」505-6P
(対話C)「こうして、いわゆる「自然の斉一性」なるものは“純然たる客観自体の法則性”ではない。それは、概念が帰納的抽象の論理的構制に対して論理的アプリオリであるのと同趣的に、予期の充足という構制に対して論理構成上は先在的条件をなすにしても、事実問題としては(“類同的”な先行状態に“類同的”後続状態が継起することの)「予期−充足」の経験に即しての“抽象”(正しくは前篇第二章第一節で論じた「函数化的補完」による措定態)なのである。」506P
(対話D)「個々の「法則」についていえば、或る種の状態に一定の状態が一定の在り方で随伴・継起すること、この予期的現認が恒常的に充足されること(実は、予期の充足・不充足の経験にもとづいて「或る種の状態」「一定の状態」「一定の在り方」なる類同的把握の側が無意識的・意識的に調整されるのだが)、この現象の斉合的・統一的に“説明”すべく、事象が規則的拘束に服しているという擬人法的な暗黙の想定のもとに“構成的に措定”されるものにほかならない。――なるほど、予期的現認という契機を含むことなく、継起の回想的ないし観察的な現認に即して法則性が定立される場合もありうる。がしかし、法則的定立は過去においてそうであったということの単なる追認的記述に終始するものではない。人は過去における事例を“サンプル”として未来における事象の在り方をも予料する。(これは反省以前的な日常的予期の構制でもあり、実験にもとづいた予測という自覚的な予期の構制でもある。) ――事象の在り方を“支配”している一定の「法則」性とは、事象に対する拘束的規制力をそなえた「則」として「掟」との類比的想念を伴って形象化されている点で特異性をもつにしても、同種的・類同的な事象の射映的“仮現相”を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”的に措定された所識相という点では、そしてまた、それの“客観的実在性”が間主観的な認証に俟つ点でも、嚮にみた「時間・空間」や「事物」の「性格・機能」「組成・構造」などと同趣的である。」506-7P
(対話E)「われわれのこの提題に対して、或る種の論者たちは「法則性そのものは類同的なケースを統一的に説明する“構成”的措定態ではない」旨を主張する。論者たちによれば「法則性は一回起的な特個的事象をも支配している必然的な関係性であって」「類同的なケースは客観的な法則性を探知する手掛りではあっても、法則性に服しているという信念を単に表明しているのであれば、論駁の術もない。だが、論者たちが、「同一の原因的先行状態には同一の結果的後続状態が継起する」という知見に立って「一定の先行状態には一定の後続状態が継起する」旨を主張し、先行群の類似度(“同一性”の度合)が高まれば高まるほど後続群の類似度も高まるという“経験的事実”を論拠にするのであれば、その場合には応接することができる。なるほど、先行状態群の類似度が低ければ後続状態群の類似度も低く、先行状態群の類似度が高まれば後続状態群の類似度も高まるということが“経験的事実”かもしれない。そこで、論者たちは、先行状態が全く同一であれば後続状態も全く同一になるはずだ、と外挿的に推論する。この推論は謂われなしとはしない。しかし、「全く同一な状態」なるものが現実的に存在するであろうか? 論者たちは、それを要請的に想定し、その要請されたケースにおいては、同一状態に同一状態が継起するものと要請しているだけである。これは諒解可能な要請ではあるが、所詮は要請たるにすぎない。そして、そのさいにも、そこに定立される“一回起的にも存立するはずの法則性”なるものは、論者たちの議論の構制そのものが示しているように、先行状態群の類似度が高まるほど……という現象を斉合的・統一的に“説明”すべく“構成”的に要請措定されたものにほかならないではないか。従って、論者たちの立論はわれわれの提題を覆しうるものではない。」507-8P
(対話F)「翻って、事実の問題としていえば、“純粋に客観的に同一な状態”なるものが、量子力学的不確定原理のもとではもはや現実的には設定できない。われわれの設定しうるギリギリの“同一的状態”(これは「観測理論」からして純粋に「客観的」な状態ではなく“主客の協働”に俟つものである!)から“同一的ならざる”結果が生じうるのであって、そこに貫徹する法則性は、決定論的に一義必然的的ではなく、前章第三節で誌したごとき「偶然性と必然性との統一」相になっている次第である。」508P
(小さなポイントの但し書き)「この場所を借りてありうべき疑念を念のため卻けておこう。われわれは、以上、いわゆる「客観的実在相」とは一群の射映的諸現相を統一的・整合的に“説明”すべく“構成”された所識的な或るものにほかならない旨を論じたのであるが、これに対して或る種の論者たちは、そのようにして「構成」されるのは対象的実在に関する「認識」(対象像)であって、対象的実在そのものは当の射映的認識相の存在根拠をなすものであり、「認識」から独立自存する旨を主張する。論者たちによれば、しかるべき実在相をもった客体が存在するからこそ布置その他の関係に応じて合法則的に一定の射映的認識相が現出するのだ云々。これは半ば諒解しうべき議論ではあるが、原理的には物象化的顚倒であると言わざるをえない。人は客観的実在相を“構成”するさい、所与の射映的現相を“結果”の位置に置きつつ、それの“原因”たりうべき相で「客観的実在相」を逆推的に“構成”する。「実在相」がもししかじかであれば射映相は現与のようになる、という論理構制に立脚して「実在相」しかじかが逆推される。しかるに、この論理構制は「実在相がしかじかであるが故に射映相が現与のようになる」と論理的に“同値”である。そこで、論者たちは、逆推的に“構成”された「実在相」を「原因」「理由」「根拠」として自存化させてしまい、「この実在相客観的にあるが故に射映的諸現相も成立しうるのだ」と「説明」する。尤も、論者たちも、「実在相」を直截には認識できないことを承知しており、実在相の認識は“構成的”手続によってもたらされることを認める。が、構成されるのはあくまで“認識像”であり、この“認識像”は自存的対象の“模像”である、(この“模像”に客観的実在である“原物”が対応している)と論者たちは思念するのである。われわれに言わせれば、しかし、論者たちが“認識像”と区別して、この“認識像”=“模像”の“原物”と称するものは直截に認識されたものではなく(従って「原物−模像」関係も直截に認識されたことではなく)、まさしく“認識像の原像”として要請的に措定された代物にすぎない。しかるに、この“要請的措定”もまたわれわれの謂う“構成”の一斑なのである。論者たちは「客観的実相」を“構成”する手続をいわば二段化しているにすぎないのである。このかぎりでは、われわれと論者たちとのあいだに基幹的な構制では別段相違があるわけではない。但し、論者たちが<三項図式>を前提しつつ、「意識内容」としての“認識像”と「意識対象」としての“原物”という発想を採るのに対して、われわれはこの発想を原理的な次元では卻けるという認識論上の相違はある。われわれも便宜的な次元では“認識像”と“原物”との区別を云々したりもする。がしかし、本文中における上来の立論において「射映的諸現相を統一的・整合的に“説明”すべく“構成”された所識体」というのは、決して「意識内容」としての単なる“認識像”ではない。射映相についてならば論者たちに妥協して“認識像”という言い方をしてもよいが、「射映相以上の或るもの」たる「客観的実相」は断じて単なる認識像、単なる意識内容ではない。それはむしろ論者たちの謂う“原物”に擬せられるものである。それは、まさに物象化されているかぎりでは、射映的認識像の存在根拠たる或るものという相で“構成”される。この“構成”の所産(かつてのフロギストンのごときもそのような“原物”“客観的実在”と思われた!)を射映的諸現相から文字通りに独立自存するものと思念するところが、先述の論理構制を介しての、論者たちの物象化的倒錯なのである。[われわれは循環的構制に自覚的であるが、論者たちは存在上は循環を断った心算でいるだけに、循環論法に無自覚な始末である]。/ところで論者たちは“原物”は“認識像”以上の或るものであることを立言する。われわれも、亦、位相こそ異なるにせよ、「客観的実在相」は単なる“認識像”以上の或るものであることを認める。論者たちは“原物”は既知の射映的諸現相から構成された“認識像”以上の実在であるが故に新事実をもたらしうるのだと言う。たしかに、実在像が“構成”された折りには未知であった射映的現相が現出し、この新事象(これは予言されていたり、実験的に“創出”されたりもしうる)が既知=既成の実在像に拠ってうまく説明できる場合がある。論者たちは、この場合、それは客観的実在が正しく認識されていた証拠だとみなす。また、逆に、新事実がうまく説明できない場合が生ずると、論者たちは、それは客観的実在が正しく認識されていなかった証拠であるとみなす。しかしながら、新事実をうまく説明できる場合とできない場合があるという事態は、客観的実在なるものの端的な自存性の決定的論拠たりうるものではない。なるほど論者流の立論は便利な一図式ではある。がしかし、原理的に言えば、いわゆる「自然の斉一性」(正しくは「現相的世界の斉一性」、つまり単なる“客観”世界の斉一性ならざる“主客協働的”世界の斉一性)とも同趣の構制なのであるが、“構成”される「客観的実在相」は汎化や分化を容れる“函数的可塑性”をもった成態であり(因みに実在相の“構成”は既知の現相を手掛りにして未知の新現相を予見するごとき相で遂行されることすら可能である)、新事象に直面しても従前における“構成”の大枠を維持できる場合と、維持できずに“再構成”を迫られる場合と、この両ケースがあるだけのことである。原理的にはこれに尽きる。しかるに人々は、客観的実在相なるものの物象化を前梯として、前者の場合には、“実在相を正しく認識していた”と称し、後者の場合には “実在相を正しく認識していなかった”と称する。そして、客観的実在自体を“正しく認識していた”が故に前者の場合には“認識像”を再構成する必要はなく、“正しく認識していなかった”が故に後者の場合には“認識像”を再構成する必要があるのだと思念する。だが、実態においては、新事象を含めて射映的諸現相を統一的・整合的に“説明”しうべき相での「客観的実在相」の“構成”、これが存するのみであって、新事象に関する説明の能・不能は客観的実在の端的な自存性とやらの証拠たりうべきものではないのである。」508-11P
第四段落――此の説のまとめと次節の課題 511P
「われわれは、以上、今日の日常的意識において対象的実在として思念されているものを――社会的・文化的な形象は次巻に譲り――「時空」「事物」「法則」の次元にわたって検覈しつつ、対象的実在の「存在性」が奈辺に存するかを対自化しようと試みてきた。(人々は“認識主観から独立に客観的に既在する実在相”をさまざまな射映的視角からのアプローチによって“認識”するのだと思念しているが、実は、さまざまな射映的“認識”相を統一的・斉合的に“説明”すべく“実在相”なる単一的描像が“構成”的に措定されるのであること、そして、“主客的協働”の所産たる当の描像が間主観的に信認されるかぎりにおいて“客観的実在相”として認証されるのであること、対象的実在の存在性にかかわるこの構制をわれわれはとりあえず対自化した。――因みに、謂う所の“構成”は「対自然的かつ間人間的」な実践(「プラクシス」のルビ)であり、認識の“彼岸的射程性”がこれに負うて規定される――)。だが、われわれとしては、まだ、「存在」性そのことを主題的に討究していない。この論件は本書の全三巻に亘るべきものであるとはいえ、今や「存在」性そのことの一斑を主題的に論攷する段取りである。」511P


posted by たわし at 04:32| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(15)

たわしの読書メモ・・ブログ700[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(15)
第三篇 事象的世界の存立機制
第二章 事の物象化と実体主義的錯認の位相
 第三節 因果法則と存在様相
(この節の問題設定−長い標題) 「事象的世界は汎通的な聯関態をなしており、われわれとしてはこれを“函数態”的に記述しうれば足る。ところが、伝統的・日常的な思念においては、実体主義的発想の構図を前提とする一種の物象化的錯視にもとづいて、事象は因果的作用と法則的支配のもとにあるものと観ぜられている。――いわゆる“因果的作用”もいわゆる“法則的支配”も謂うなれば“擬人法的”な投入であって、われわれは、原理的には、これを排却せざるをえない。とはいえ、因果的法則性の貫徹という構図は日常的思念に適っており、われわれ自身、この構図に仮託して論考するかぎりで、事象の法則性的変化を「可能態から現実態への推転」として、法則的変化事象を「偶然性と必然性との統一態」として、その存在様相を非決定論的に把握しつつ、この契機をも勘案して“函数態的”に再定式化する。」480-1P
第一段落――対象的関係−非対象的関係、外掩的認識上の規定関係−内貫的な存在上の規定関係 481-4P
(この項の問題設定)「関係性は、仏教哲学の用語法を藉(か)りて言えば、すべて相待的依他起生性であるといえ、関係のすべてがいわゆる対称的関係であるわけではない。「対称的関係」(一項の他項に対する関係と他項の一項に対する関係とが同一であるもの、例えば友人関係)と並んで、「非対称的関係」(一項の他項に対する関係と他項の一項に対する関係とが相違するもの、例えば親子関係)も存在する。また、日常的思念の即自的分類によれば、外掩(「がいえん」のルビ)的な認識上の規定関係と内貫的存在上の規定関係とがある。例えば、AとBとが相異するとか同類であるとかいう関係は“単なる認識上の規定関係”であるとみなされ、AとBとが衝突するとか化合するとかいう関係は“現実に作用の及ぶ存在上の規定関係”であるとみなされる。」481P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれ自身の見地からいえば、原理的な次元では、このような区別は存立しない。AとBとの相異という関係は、まさにAとBとは相異するそのようなAとしてあらしめ、BをAとは相異するそのようなBであらしめている存在上の関係なのであるし、物理・化学的な作用関係がないからといって、存在上の関係でないとは言えない。このことは例えば、親子関係などを設定することによって考えると判り易い。物理・化学的な作用関係でこそないが、それは親を親であらしめ、子を子であらしめるれっきとした存在上の規定関係である。ここでは、しかし、常識的な思念を仮りに認める流儀で暫く議論を運ぶことにしたい。)」481P
(対話@)「所謂常識的な思念に即するとき、非対称的でしかも内貫的な存在上の最たるものが「因果関係」であるとされる。そして、あらゆる事象は因果的連鎖に服しているものと了解されている。それでは、因を因たらしめ果を果たらしめる所以の因果関係とはいかなる相待関係であるのか? それが先行事象と後続事象とのあいだの通時的一関係であることまでは既定の了解事項であるとしても、この伝統的・常識的な概念の内容は、いざ問い返してみると漠然としている。近時の科学理論においては、単一の系として統握される或る変化事象における“先行位相”を原因と呼び、“後続位相”を結果と呼ぶ用語法もあり、ここでは事実上“継時的関係態”の単なる“時間函数的な記述”に帰趨しているが、一般の用語法では決してこれには尽きない。われわれなりに常識的な因果概念の内包を忖度してみるに、まずは原因と呼ばれる事象と結果と呼ばれる事象とが別々の両つの事象として表象され、原因と呼ばれる先行事象の生起と結果と呼ばれる後続事象の生起とのあいだに必然的な継起連鎖のあることが必要条件とされている。但し、これはあくまで必然的な継起というだけでは十分でない。昼に夜が“必然的”に継起し、手押車の前輪の回転に必ず後輪の回転が継起するとしても、昼は夜の原因とは言わず、手押車における前輪の回転は後輪の回転の原因であるとは言わない。(ところが、前輪がモーターで動く前輪駆動式自動車の場合には、前輪の回転が原因で後輪の回転が生ずると言う。)先件が後件を「惹き起こす」という関係があって甫めて因果関係と言われる。原因には結果を「惹き起こす」能動者・起動者であるということが含意されていると言えよう。能動式起動者たる原因が、しかし、一定の結果を必ず惹き起こすのでなければならず、惹起したりしなかったり恣意的であってはならない。――では、原因が必然的に一定の結果を「惹き起こす」とはいかなる謂いであるか?」481-2P
(対話A)「能動的起動者たる原因が一定の結果を惹き起こすという表象においては、原因なるものの擬人化(剴切には人物的起動者の擬物化)がおこなわれている趣があり、因果関係の必然性にあっては、原因は結果を起こさざるをえず、結果は原因によって起こらざるをえない(せざるをえない−ならざるをえない)という構制がみられる。因果という想念に一種の“擬人法”がつきまとっていることは旧くから指摘されている通りである。――人間的実践の在り方が対象界に投入されているのは「原因」という能動的起動者だけではない。原因が結果を必然的に惹き起こすというさいの必然性の在り方にも人間的実践の構制からの投入が認められる。因果連鎖の必然性は、普通には「事実必然性」として、規範的行為における「当為必然性」とは別種のものと思われている。そして、因果的事実必然性の在り方を形象化した「法則」と規範的当為必然性の在り方を定式化した「規則」とを峻別するのが普通である。われわれの見解では、しかし、「事実必然性」(müssen=ならざるをえない)は、「当為必然性」(sollen=せざるをえない=しなければならない)を謂うなれば擬物法的に物象化したものにほかならない。規範的行為や当為必然性は次巻『実践的世界の存在構造』における主題的な一論件であり、ここではまだ立入るを得ないのだが、臆言を惧れずに、因果的必然性の構制を敢て指摘しておこう。――原因が必然的に一定の結果を惹き起こすのはそうせざるをえない強制のもとにおいてであろう。ここに謂う強制は、なるほど規範的・当為的な強制とはかぎらず、さしあたってはむしろ“物理的”な強制かもしれない。しかし、物理的強制に押し流されただけであれば、そうならざるをえなかっただけで、そのさいには、原因は起動因ではなくして単なる受動的な伝導的媒体ないし結果になってしまう。原因が能動的起動者として擬人法的に表象されるかぎり、よしんば物理的強制に迫られてのこと(不本意ながら)であろうとも、状況を主体的に受け留め直して、そうせざるをえないと我が身にひきうけて起動するのでなければなるまい。これが「法則的必然性に則って惹き起こす」という構制である。しかるに、そうせざるをえない強制に随うということは(“事実必然性”に服するだけでは単なる伝導的媒体であって、起動的能動者ではないことになるので)畢竟するに当為に随順することにほかならないであろう。原因の表象が擬人法的であるかぎり、この擬人法と相即的に、法則的・必然的に惹き起こすという営為の在り方も規範的・当為的な強制に随って規則的・必然的に……という擬人法になっている次第なのである。」482-3P
(対話B)「われわれは、しかし、伝統的・日常的な因果概念が一種の擬人法になっているだけでの廉でこれを卻けようというのではない。伝統的・日常的な因果概念では事象の法則的生起を決して十全には説明的に記述できないが故にこれを卻けて、別途の十全な配備で置き換えようと図るのである。――人々は日常、砲弾の命中が原因で城壁の倒壊という結果が生じた、というような言い方をする。しかしながら、砲弾の命中ということで城壁の倒壊という事象の生起が果たして十全に説明されたことになるであろうか? 城壁が非常に堅牢であったり、逆に紙のように弱かったりしたら、倒壊することはなかったであろう。城壁の側も倒壊を生じた一因をなしている。また、地球の重力がなければ倒壊は生じないわけで、重力の存在も一因である。地盤の強さ、命中の角度、砲弾の重量、砲弾の速度……等々、精確には諸多の要因を勘案しなければならないはずである。日常的には主要な因子を原因、副次的な因子を条件ということにして処理するが、この場合、或る意味では重力の存在こそが最も主要な因子ではないのか。この点は今問わぬとしても、マッハも指摘する通り、「自然界における聯関は一つの原因と一つの結果とを指摘できるほど単純なことは稀」であって、事象の世紀を十全に説明・記述しようとするとき、われわれは錯綜した連関態の相対を視野に収めて統括的に記述する必要があるのである。――われわれとしては、茲において、いわゆる原因といわゆる結果とを包括する事象系(これは原理的にはオープン・システムというより世界大の聯関態である)を“函数的連関態”として定式化し、事象系の変化相を時間的函数として記述する。ここには、擬実体化された原因なるものも擬実体化された結果なるものも存在せず、擬人化された原因が結果を惹き起こすという想念も介在しない。変化的事象系における先行位相と後続位相との継時的遷移が存立するのみである。この遷移系が表わす“函数”(これの構制については前節で述べた)は時間値に応じて必然的展相を示すが、その必然性はさしあたり数学的な論理必然性であり、この必然性は、しかも、函数が“確率変項”を含みうるかぎりでは、必ずしも一価函数的な決定論的必然性ではなく、むしろ「偶然性と必然性との統一」である。」483-4P
(対話C)「右の提題を敷衍(ふえん)するためにも、今や、事象の合法則性の問題、さらには、事象の存在様相の問題を主題化していかねばならない。」484P
第二段落――事象の合法則性の問題&事象の存在様相の問題の主題化 485P
(この項の問題設定)「常識的な思念においては、事象界には「法則」なるものが在って、事象の生成変化を法則が規制している。ないしは、事象が法則に随って生成変化する、と了解されている。法則という概念は、日本語の「法」「則」もそうであるが、ヨーロッパ語のlaw,Gesetz,loiにみられるように、元来は人間の実践的社会における「法律」「掟」を表わす詞であって、人間界の規範的・当為的な律法が事象界全般に投入されたものと言えよう。事象が法則に随うというのは、事象を擬人化して律法に規範的拘束に服せしめる擬人法的な表象であり、これは嚮にみた因果論的擬人法とも相俟つ。尤も、法則の表象の原型が人間界における規範的・当為的な律法であるとはいっても、それは人定法の謂いではない。社会習慣的な規範も含めて「掟」が超越的主宰者による「定め」として了解されていたかぎりでの律法である。この場面では律法そのものが直接的に事象を拘束するのではなく、超越的主宰者が事象に強制して則(「のり」のルビ)に随わせるという構図になっていたと思われるのだが、超越的主宰者が“棚上げ”されるに及び、法則そのものが事象に対する拘束的規制力をもつかのように表象されるようになり、「法則が支配する」という想念が生まれる。ここでは「法則」なるものが能動的規制者の相で擬人化ないし物神化されているとみることもできよう。」485P
(対話@)「われわれは、法則なるものをそれ自身が規制力をそなえているものとして擬神化することを卻けるだけでなく、事象なるものをそれ自身が法則に随順するものとして擬人化することをも卻ける。そして、われわれとしては只管(ひたすら)、事象系の継時的変化相を函数的に記述する。この函数的記述は、勿論、単なる過去の記述ではなく、予料的記述をも含む。――ところで、予料的に記述された状態が現実化するという仕方で予期的事象相が現認されるということは、事象界に合法則的規則性が存立している一証左ではないのか? 或る意味では勿論そうである。或る種の論者たちは「客観的対象界それ自身は全くの混沌であって、客観的対象自体には何らの法則性もない」と主張し、「対象界の法則性なるものは主観の側が、例えば、それ自身としては無規則的に散らばっている星を“星座”というかたちで統握して一定の纏まりをつけるのと同趣であって、外掩的で主観的な“関係づけ”にすぎない」と強弁する。が、われわれは、論者たちとは異なり、主観の側と客観の側とを二元的に分断することはしない。論者たちに半ば妥協した用語法でいえば、“法則性”とは“主客の協働”において成立するのである。人が、もし、ギリシャ・ローマ風の“星座”区劃を以って“星座の客観的配列”であると主張するとすれば、それは慥かに誤まりであろう。中国風の“星座”やマヤ式の“星座”も同等の権利を主張しうる。論者たちが“星座というかたちでの統握は主観的な関係づけにすぎない”と言う事情は一応諒解できる。星の見掛上の位置を経度・緯度で規定する天文学の手続も“星座と本質的には同権の主観的関係づけ”と一応言われうる。だが、論者たちも“星座”が“全くの主観的幻影”“全くの主観的恣意”だとはよもや言わないであろう。それは、論者たちが「色や音や香は主観的なものであって客観的なものではない」と主張しつつも、“全くの主観的恣意”ではなく、“客観の側にも一定限制約されている”と認めるであろうとの同工である。われわれはその都度一定の“星座”というかたちででしか見掛上の星群を統握できないというかぎりで、論者たちが主客二元化を前提したうえで要求するごとき“客観それ自体の法則性”なるものを“裸”のかたちで認識することは原理上不可能である。けだし、先に、論者たちの発想と語法に半ば妥協して“法則性は主客の協働において存立する”旨を云々しておいた所以でもあるが、論者式の立論を整合化すれば、“星座”や“法則性”は“一定限客観の側にも制約されている”のであって“全くの主観的……意思的な関係づけてはない”ことになる。このように議論を運ぶとき、今度は別の論者たちが登場して、次のように反問するかもしれない。「ギリシャ式星座、中国式星座、マヤ式星座……が同じ対象群の相異った定式化であり、依って以って“変換に対応づける”ことが可能である所以の客観的配列が厳存するのではないか。個々の“星図”に籠められている主観的契機を消去することによって、純粋に客観的な配列を認知することができるのではないか」云々。われわれの見地から言えば、論者たちの謂う“主観的契機”を完全に“消去してしまう”ことは原理上不可能である。論者たちの謂う“客観的な配列”なるものが、すでに、原理的には、ギリシャ式・中国式・マヤ式……“星座”と並ぶもう一つの“星座”でしかありえない。なるほど、論者たちの謂う“客観的な配列”なる“星図”は、そのパラダイムに立って評価すれば、ギリシャ式や中国式の星座図と同位同格ではなく、これらよりも優れたものと認定されることであろう。がしかし、メタ・レベルに立ってみれば、それとてやはり“主客の協働”に俟つものという構制においては他と同趣なのである。論者たちの謂う“純粋に客観的な配列”なるものは、「横顔」や「高杯」とは別の、それでいて両者において“客観的に同一な対象性”と称される「ルビンの杯」なる“白黒図形”と類比的であると言えよう。因みに、謂う所の“白黒図形”は行文中くりかえし指摘してきた通り、原理的には「横顔」や「高杯」と並ぶもう一つの“見え方”なのであって、決して“純粋な客観的所与”ではない。そして、われわれの“函数態的記述”も、法則の擬神化のごときこそ排却しているにせよ、“主客の協働”に俟って存立するものであることには変わりはない。われわれとしては、このような“身分”での“函数的記述態”が一定の“合法則的規則性”を呈すること、それの定式化する未来的位相が現実化していくこと(正しくは、未来的位相の現実化が同類のケースにおいて経験的に認識されているかぎりで当の定式を信認するのであり、また、そのかぎりでいわゆる“自然の斉一性”を信憑するのだが)、このことを現認する。そして、しかじかの先行的事象にはかくかくの後件的事象が合法則的に継起するという通則に現与のケースを下属せしめることによって、いわゆる因果的説明に代える。――偖、われわれの“函数態的記述”が事象の未来的位相が“合法則的に実現”することの予料を含むことにおいて、“合法則的に予料”される未来的事象は、未在ではあるがすでに既定的であり、謂うなれば“未在的に既往する”所以となる。」485-7P
(対話A)「人が、茲で、函数態的に記述される事象系の合法則的な継時的進展相が一義確定的であると思料するならば、そのさいには、いわゆる決定論的な世界像を描くことになる。われわれとしては、しかし、事象的変化の合法則的進展は一義決定的であるとは考えない。事象系に応ずるわれわれの“函数”は、謂うなれば“確率変項”を含むのであって、未来相は一価的に確定してはいない。――われわれは、事象の未来相が“未在的に既在”しつつも“一義的には未決定”という在り方を表現するために「可能態」という概念を導入し、事象の合法則的な進展を「可能態から現実態への推転」という構図で把握したいと念う。」487-8P
(小さなポイントの但し書き)「――「可能態」「現実態」などと言い出すと、いかにも古色蒼然たる形而上学の亡霊を想わせることかと惧れるが、われわれとしては勿論この旧い概念を改鋳して用いる。ここではひとまず、留意すべき点を外面的に押さえておこう。普通、団栗(「どんぐり」のルビ)は檞(かしわ)の木の可能態であるとか、蕾は花の潜勢態であるとか言うとき、金塊は金貨の可能態であるとか、米は酒の潜勢態であるとか言う場合とは違って、そこでは、自然必然的に、檞になったり花になったりすることが確定的である、という含みがこもっているように思える。しかし、可能態Aが現実態Bになることが必然的・確定的であるとすれば、メガラ派がいちはやく指摘しているように、Aに可能性を云々することは事実上無意味なってしまい。Aは既定的・現実的にBであったという仕儀に陥りかねない。そこで、今度は、団栗は檞の木になるとは決まっておらず、腐って“土”に成る可能性、人に拾われて“数珠玉”に成る可能性……もあると認め、“土の可能態”“数珠玉の可能態”……ということにすれば、金塊が金貨の、米の酒の可能態というのと同趣になりおわる。先には、AがBに成る、その「成る」が必然的であったが、今度は、「成る」が偶然的で、(事によっては「成ることもあり得る」という意味での)可能的にすぎないことになる。この単なる可能性に即して可能態を云々することも許されないわけではないが、その場合には、可能態Aが現実態Bに成ったと言っても、そもそも不可能態が現実態に転成するわけはなく、現実態に成るのは可能態に決まりきっているから、「可能態Aが」という言い方、つまり、Aをことさらに「Bの可能態」と呼ぶことが実際には無意味になってしまう。という次第で「可能態−現実態」という概念装置が有効にはたらくためには、右に述べた両極の謂わば“中間”で定義される必要がある。」488P
(対話B)「――茲において、事象系の状態がAからBに成るというさいのBという未来相の既定関係が問題になる。例えば、檞の木に成るというさい、未来相が檞の木という大枠内にあることは既定的であるが、決定論的な世界像を採らないわれわれの場合、実現する枝ぶりとか幹の太さとかまでが事前に確定的であるわけではない。これはまさに函数概念的な規定態であって、或る“函数”という大枠は事前に既定的でもその“値”は多様でありうるという在り方、視角を変えていえば、一定“函数”の一定“値”が現実化することは未然に既定的でも、どの“値”で実現するかは未定的という在り方、このような規定態である。われわれは、大枠としての「檞に成る」を“函数”Aに擬し、その函数の“特定値”をBに擬して、AをBの可能態、BをAの現実態と呼びたいのであるが、事象系の変相に関するわれわれの“函数態的記述”に謂うなれば“確率波”的であって、その都度の現認において現実態に“収束”するのである。――このような「可能態−現実態」の設定は、一昔前までは、つまり、古典物理学的な決定論的世界像が支配的であった時代には、全くのナンセンスだと見做されたことであろう。最も好意的な場合でさえ、それはたかだか日常用の“粗雑な認識”に応ずる便宜上の概念装置としか認められなかったはずである。というのも、決定論的な因果必然観のもとでは、初期条件が同一であれば結果も一義的に確定していることになり、あのメガラ派の指摘と同趣の論理で、可能態が可能態でなく、謂わば必然態になってしまうからである。しかるに、今や、量子力学における不確定性原理によって、降っては亦、動態的平衡系を扱う場合には「揺動(「ゆらぎ」のルビ)」を完全に消去することが不可能なことによって、「同一の初期状態」から、一定の限界内においてではあるが「一義的には予料することのできない帰結状態」が現成するわけで、これに応ずる概念装置が要求される。われわれの立てる「可能態−現実態」は、まさにこの要求に応えるものであり、しかも、「偶然性と必然性の統一態」という弁証法的な運動論・変化論の論理構制に応ずる配備でもある。」488-9P
第三段落――「存在様相」なるものを巡っての若干の迂回的討究 489-93P
(この項の問題設定)「われわれの見地からは、事象的変化の“合法則性”は決定論的な一義必然性ではなく、事象の「存在様相」はさしあたり「偶然性と必然性との統一」相である。――このことについて説述するためには「存在様相」なるものを巡って若干の迂回的討究から始め直さねばならない。」489-90P
(対話@)「「存在様相」は、しばしば、領域的範疇として処遇される。「可能性−現実性−必然性」「不可能性−非現実性−偶然性」という「様相」は、普通には、次のような配位で領域的範疇として扱われていると言えよう。およそ考えられるかぎりの世界が、まずは可能的領界と不可能的領界とに二分される。そして、可能的領界は、可能であるが、非現実の領界と現実的な領界とに二分される。裏返していえば、現実的領界と非現実的領界とが合して可能的領界を形成する。そして、その現実性の領界を、偶然的に現実的な領界と必然的に現実的な領界に分けることができる。その場合には、裏返していえば、必然的領界と偶然的領界とが合して現実的領界を形成することになる。――以上の区分を視覚的(「ヴィジュアル」のルビ)に形象化して言えば、例えば一枚の紙を二つの部分に区切って、一方を不可能性の領域とし、残りの可能性の領域を更に二分して、その一半を非現実の領域とし、その残りの現実性の領域をこれまた二分して、その一半を偶然性の領域とし、残余を必然性の領域とする。このような方式になっている。」490P
(小さなポイントの但し書き)「(別著『弁証法の論理』に誌した通り、様相の領域的区分にはこれとは別の方式があり、現実性と必然性との強弱・広狭については特に異見が岐かれる。ここでは、しかし、後論に響かないので、最もポピュラーな右の方式を掲げるにとどめる。尚、「存在様相」が「認識様相」わけても「論理様相」を物象化したものである事情については詳しくは『弁証法の論理』第十章の第二節を参看されたい。)」490P
(対話A)「悟性的な見地では「様相」を領域的範疇として区分するが、しかし、いかに悟性的な立場といえども、領域的境界を絶対的に固定化してしまうわけではない。少なくとも、事象の所属する領界を一義的固定化するわけではない。所与の一定条件下ではおよそ不可能な或る事象が別の条件が出現した場面では可能になるとされるし、逆に、現在は可能な事象が将来的には不可能になることもありうるとされる。現実性と非現実性についても同趣である。ところが、偶然性と必然性については様子が変わる。悟性的見地では、偶然と必然とは存在上は決して両立しないものとみなされる。それは、悟性的見地においては「偶然性」ということを一応は存在様相として云々しておりながら、実際には真の存在様相としては認めておらず、偶然性の領域とは認識上のものにすぎないと見做していることに由来する。」490-1P
(対話B)「われわれとしては、右のごとき悟性的立場とは全く別様の仕方で「様相」を取扱う。ここでは前篇第三章第二節で既に述べた方面の復唱は差控えるが、われわれの存在観においては、そもそも「様相」は領域的範疇ではない。なるほど、悟性的な処置に仮託して領域的に扱う場合もありうるとはいえ、それはわれわれにとって決して本来的な取扱いではない。――非現実的ということをイルレアール=イデアールの謂いとするわれわれの場合、非現実性という領界を立てているわけではない。けだし、われわれは、イルレアール=イデアールな世界の自存性を認めず、それをあくまで現相存立の構造的契機としてのみ措定するのだからである。また、可能態の未在的既在性云々するからといって、われわれはいわゆる可能的世界(「ポッシブル・ワールド」のルビ)を共時的世界の一領域として立てているわけではない。――茲で特記しておきたいのは、事象の合法則的変化に関わる偶然性と必然性の統一相に関してである。嚮の行文中、量子力学的不確定や熱力学的揺動に言及した論点を想起ねがえると好便であるが、旧来の決定論的な法則観・存在観のもとでは、世界の客観的な在り方は一義必然的であるものと了解され、偶然性とは“必然性の未知”という主観的なもの、“認識の不十分性・不確定性”にすぎないものとみなされてきた。しかるに、量子力学における不確定性原理を持出すまでもなく、自然的過程が一義的に決定されていないという意味での“客観的偶然性”はまさに事象界そのものの構造的契機なのである。(この“客観的偶然性”の問題について、詳しくは別著『事的世界観への前哨』の第二部および『科学の危機と認識論』の当該個所に譲ることにしたい。)この偶然性=非決定性は、但し、得手勝手な放縦ではなく、一定の限定性の埓内に劃定されている。全くの一義的必然性でもなければ、全くの放縦的偶然でもなく、まさに確率函数的な両者の統一態、これが事象的現実過程の実態なのである。――なるほど、概念としての必然性、概念としての偶然性は、悟性概念の流儀で截然と区別することもできよう。そして、数学的必然性のごとき、論理的な一義必然性を立てることもできる。しかし、現実の対称的存在界の事象について、偶然か必然かという悟性論理式の二者択一を迫るわけにはいかない。そもそも客観的必然性や客観的偶然性という概念からして、現実の存在様相として物象化された二つの射映をイデアリジーレンすることによって立てられたものであって、純粋な必然体や純粋な偶然体がレアールに自存するわけではないのである。――必然性および偶然性ということは事象の在り方の二契機であり、その意味で、事象の存在様相はさしあたり「必然性と偶然性の統一」として規定される。ところで、「事象の在り方」というときに、「可能態」と「現実態」との双方を含む。果たして、これら双方ともに「必然性と偶然性との確率函数的統一態」と言えるのか? この統一態は可能態だけに限るのではないか、という疑問が生じうる。それどころか、“波束”の収束した現実態は端的に必然態と呼び、それ以前の状態は偶然態と呼ぶのが相応しい、という意見さえありうるかもしれない。結論から先に言えば、可能態と現実態はいずれも「必然性と偶然性との確率函数的統一態」という構制を呈する。但し、両者のあいだには当然“種差”がある。前者では変項が変項のままであるのに対して、後者では特定値で充当されているという相違がある。そして、この相違は、変化的事象の状相的予料(この確率函数的措定にはわれわれの場合Rückschluß (回想)をも含む)と、「観測」による現認(波束の収束)という認識論的場面での次元的差異に相応するものである。」491-2P
(小さなポイントの但し書き)「このように誌すと、まさにその故にこそ現実態は必然態にほかならないという意見が擡頭しそうである。「観測」された「現実態」にあっては“波束”が収束して“確定的な値”が現認されるのであるから、もはや不確定性・偶然性の余地はなく、一義必然的・確然的である云々。この意見には聴くべきものがあることを認めるに吝かではない。この線で定義する途も一応ありうる。がしかし、観測的現認において変項の値が確定されたといっても、量子力学的な「不確定性原理」の次元でいえば依然として不確定性が原理的に残っている。この一点に徴しただけでも、現実態を以ってそのまま必然態としてしまうわけにはいかない。慥かに、可能態と現実態という当座の対比の文脈では、或る種の項の変項的不確定が“一義的”な“値”に“確定”される以上、後者が確然的であるわけだが、しかし、確定化するのは変項のうちたかだか若干のものの値であって、総体としてみた場合には必ずしも一義確定的とは言えない道理である。或る種の措定場面に即するとき、現実態を事実必然態と呼びたくなる事情があることは否めないにしても、通時的な函数的措定態の構制は一貫しているのであるから、原理上は、現実態といえどもやはり「必然性と偶然性との統一態」と呼ばるべき次第である。」492-3P
(対話C)「事象の存在様相は、こうして、可能態の相であれ、現実態の相であれ、――右に量子力学的な場面に定位して述べたことは原理的にはマクロの世界にも妥当すること、このことは前節で丹治信春氏を援用してミクロとマクロの両断が許されないことを示したところからも諒解ねがえると念うのだが、――「必然性と偶然性との確率函数的統一態」であり、視角を変えて言い換えれば、「必然性」「偶然性」という存在様相は事象的存在様相の弁証法的二契機ということになる。けだし、事象の変化相は「可能態」から「現実態」への不断の転化相にありつつも、一貫して、事象の「合法則的」変化は「必然性と偶然性との統一相」にあると言う所以である。」493P


posted by たわし at 04:10| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月15日

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(14)

たわしの読書メモ・・ブログ699[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(14)
第三篇 事象的世界の存立機制
第二章 事の物象化と実体主義的錯認の位相
 第二節 当体の個性と関係態
(この節の問題設定−長い標題) 「伝統的な「実体−属性」という存在観における「属性」のみならず「実体」もまた、真実態においては、「関係規定」(これは単なる“客観的関係”でも況んや単なる“主観的関係”でもなく、能知と所知とを構造的契機とする)を“内自化”し“即自化”したものであって、それ自身で存在するものではない。――われわれは「実体の第一次性」という伝統的な想念に対して「関係の第一次性」というテーゼを反立する。――現相的分節肢は、従って、事物や事象は、対他的な示差的区別性の反照において(そのかぎりでの) “自己同一性”と“個体性”を有つとはいえ、所謂「実体」としての「自己統一性」や「個体性」は有たない。視角を変えて言えば、事物や事象は「実体的自己同一性」を有たないにもかかわらず“個体性”を有ちうるのである。」460P
第一段落――「実体」が第一次的に存在すると観る伝統的思念にコミットする 460-7P
(この項の問題設定)「議論の順序として、爰ではひとまず、「実体」(属性をそなえた実体)が第一次的に存在すると観る伝統的思念に聊かコミットするところから始めよう。――伝統的な実体主義的存在観と一口に括っても、成程、「全体が部分に先立つ」と主張する「有機体的・全体主義的」な実体感と「部分が全体に先立つ」と主張する「機械論的・要素主義的」な実体観があり、また、「質料=実体」主義、「形相=実体」主義、「原子=実体」主義といった種別も岐かれる。がしかし、当座の議論としては、実体主義を一括してわれわれの謂う「関係主義」をそれに対置しておけば足ると思う。但し、全体主義は、それがもし世界全体を単一の“有機的関係態”と看じ、個別的な実体的有機体の存在を認めないとすれば、その場合に限って、事実上一種の“関係主義”に帰趨する。が、実際問題としては、唯一箇の実体しか世界に認めない理説は、姑く慮外において差支えあるまい。」460-1P
(対話@)「さて、卑俗を惧れずに、いま、AとBとが夫婦関係にあるものとしよう。常識的な思念では、Aは男性という性質、父親という性質、人間という性質――をもっており、色・音・香……等の第二性質をもっており、大きさ・形……等の第一性質、さらには、力や質量などの物質的性質をもっている。また、Bは女性という性質、母親という性質、人間という性質をもち……第一・第二性質を彼女自身もっている。そして、このようなAとBとが偶々「夫婦」という関係に立っているのであって、Aのもつ“Bの夫という性質”、Bのもつ“Aの妻という性質”は当の夫婦関係に俟って甫めて存在するのではあるが、実体としてのA、実体としてのBは(そしてABのもつ爾他の諸性質も)夫婦という当の関係に関わりなく存在する。現にABが離婚したとしても、実体としてのABは(夫・妻という偶有的な性質こそ失うが)属性ともども前通りに存続する云々。例こそ卑俗であるが、これが「関係」に対して「実体」の第一次性を思念する伝統的な思念の構図であると言えよう。――人々は、ABをそれぞれが諸々の属性をそなえている自存的な実体であるものと先行的に思念している。そして、慥かに、夫婦という特定の一関係に俟って存在するのは、たかだか、夫・妻という属性だけであり、ABの“実体性”はおろか他の諸性質なるものは当の関係とは独立に“先在”する。だが、Aのもつ父親という性質、Bのもつ母親という性質は、夫婦という関係でこそないが、子供との関係(親子関係という関係)に俟って甫めて存在するのではないか。父親性・母親姓なる性質をA・Bが自分自身だけで(子に対する関係を抜きに)そなえているわけではあるまい。人間という性質についてはどうか。これまた、他の動物などとの反照的区別関係において甫めて存在する規定性である。だが、と反論して言われるかもしれない。なるほど、人間的性質として概念的に規定されるのは対他的な区別という反照的な関係づけを俟ってであるにしても、そのように概念規定を受ける所与的規定性それ自身はAB自身にそなわっているはずである云々。では、AB自身にそなわっていると称される当の所与規定性とやらを検討してみよう。それは、第二性質・第一性質、生理・物理的性質を措いては存在すまい。そこで、いまや、これらの諸性質を検覈する段取りである。第二性質、つまり、色・音・香……等は、かつては客観的対象それ自身がそなえている性質であると信じられていたし、こんにちでも常識的な思念においては事物それ自身のそなえている性質であるかのように遇せられているが、第二性質が客観的対象それ自身のそなえている性質ではないということについては多言を要せぬであろう。それは、一時期に考えられたような“単なる主観内部の観念”“意識内容”という“心の内なる存在”ではなく、「感官の機能的状態系−刺戟媒体−刺戟の発出源」を包括する機能的関係態に俟って甫めて成立する或るものである。(だが、とここで人は反問するかもしれない。色・音・香・味……というかたちでの性質が客観的事物に附着しているわけではないが、感官機能と一定のしかるべき関連におかれたさいに特定の色・特定の音・特定の香……等となって“発現”“感受”されるごとき客観的性質が現存し、それが事物自身にそなわっているのではないか、この“可能的色彩”“可能的音韻”……等々、謂うなれば“可能態としての第二性質”の想定には一理がある。しかし、“実体自身にそなわっていて一定の機能的関連のもとで発現する可能態としての潜在的性質”という想定は、第一性質はもとより、可能態的“夫性”、可能態的“親性”等々、あらゆる性質に推及されうるので、後に一括して検討することにして、姑く措くことにしたい。)第一性質のうち大きさや形などの関係規定であること、それらが第二性質とも同趣であること、これはもはや常識であろうから、いわゆる物理的性質についてだけ、ここで若干の言葉を費しておこう。「物理的実在」の何たるかについて次章の論脈で正規に討究するので、ここではヘルムホルツを援用する便法で軽く済ませておきたいのだが、彼はいみじくも次のように述べている。「事物の性質ないし質なるものは、実際には、その事物が他の諸事物に一定の作用(「ヴィルクング」のルビ)を及ぼす能力にほかならない。……この作用を発現させる試薬(Reagens)をことさらに言挙げすることなく自明のこととして心にとどめておくとき、その作用を性質と呼ぶのである。という次第で、われわれは或る実体[物質]の可溶性を云々するが、それは当の実体の水に対する動態的関係(「フェアハルテン」のルビ)であり、実体の重さを云々するとき、それは当の実体の地球に対する引力関係(「アンツィーウング」のルビ)である。……ところで、性質と呼ばれるものが必ず二つの事物間の関連(「ベッィーウング」のルビ)に俟つとすれば、そういうものとしての作用は、勿論、作用する一者の本性だけに依属するのではなく、作用される他者の本性との関連においてのみ甫めて存立するものであり、作用される他者の本性にも依属する。」(Helmholtz : Vorträge und Reden, 4. Aufl. 1896. S. 321.)。かつては、「質量」は事物が他物との関係を絶してそれ自身でそなえている実質性とみなされ、事物の物理的実体性の究極的論拠とされていたが、こんにちでは、一般相対性理論にみられるように、或る物体の「質量」とはその物体と宇宙の全物体(の質量)との相互作用関係によって規定される“関係的規定性”とみなされるようになっている。一切の物理的性質が、現代物理学の常識では、対他的関係規定性結節なのである。――こうして、さしあたり「属性」について言えば、属性なるものはいずれも対他的関係性を俟って存在するものであり、“実体”が自分以外のものとの関係なしにそれ自身でそなえている性質ではない。いわゆる「属性」とは、実は、対他的関係規定が“物性化”され、“内自化”されて個々の“実体そのものに附属”するかのように錯認されたものである。尤も、ここに謂う関係規定性は一様ではない。男性とか人性とか動物性とか生物性とかのように、分類的に反照される“だけ”の対他的区別関係もあれば、夫性とか親性とか教師性とか日本人性とか、他人に対する社会的関係もある。また、色性とか音性とか香性とか形性とか、能知的主体の感官に対する機能的関係もあれば、磁石の“鉄を引き付ける性質”とか、物体の“他の物体と万有引力を及ぼし合う性質”とか、化学物質の“他の物体と化合する性質”とか、他物に対する作用的関係もある。(いわゆる「機能」や「構造」については後論)。しかし、関係性の種類や次元は多様であろうとも、ともあれ、「属性」と呼ばれているものが対他的関係において成立する或ること(etwie)を当の対他的関係から“自存化”せしめつつ、“実体”そのものに附属する性質とみなしたものであること、このことまでは一括して論断できる。」461-4P
(対話A)「ところで、以上の議論では、対他的関係に立つ“実体”が想定されたままの構図になっており、“実体”どおしの関係によっていわゆる「属性」が成立するかのような立論になっている。このかぎりでは、「実体」が排却されていないばかりか、「属性」ですらまだ排却されたことにならない。なるほど、先の議論によって、人々が日常的に属性と呼んでいるもの、色とか形とか、磁性とか質量とか、親性とか人間性とか、これら“現勢的な性質”はそのままのかたちで個々の実体に附属しているわけではないこと、それは対他的関係に俟って甫めて現実的に成立するものであること、ここまでは明らかになっている。だがしかし、実体には他者と関係し合う能力、他者とのしかるべき関係に立つことによって色なり磁性なり夫性なりを発現する能力、この意味での潜在的能力ないし可能的性質が、関係に先立って、自体的にそなわっているのではないか。もしそうだとすれば、日常的に属性と呼ばれているものとは次元が違うにしても、やはり「実体」には“属性”がそなわっていることになる。それゆえ、われわれとしては、謂う所の“潜勢的属性”なる想念から卻けてからねばならない。」464P
(対話B)「論者たちの想念によれば、実体は、Aという対他的関係ではa、Bという対他的関係ではb……となって発現するごとき可能的・潜在的な性質、“a”“b”“c”をそれ自身でそなえている。同じAという類いの対他的関係と一口に言っても、実際には多様であり、それに応じてのaの具体的な在り方が変わるはずであるから、一括してaと呼ばれれるものは、実際にはa1a2a3……の集合であろう。とすれば、“a”とか“b”とかで標記される潜勢的性質は、具体的な対他的関係情況に応じて、a1a2a3……b1b2b3……という“値”をとりうる“変更”とも呼ばれうべき構制になっている。このことに徴すれば、論者たちの謂う実体は変項“x”“y”“z” で表わされうるごとき一群の“潜勢的”可変的性質をそなえていることになる。そこで、或る実体のそなえている“潜勢的性質の総体”はƒ (x,y,z,……)という潜勢的性質の一総体を担っているのか? ――実体それ自体も潜勢的性質とやらも、それ自身を直接に認知することはできないので、「属性」が現勢化している場面に立戻って深針することにしよう。先に挙げた夫妻ABに眼を向け直してみると、ミスターAは第二性質・物理化学的性質・生理生物学的性質・人という性質・父親という性質・夫という性質……をそなえた事相的事体ないし性状的当体の相で現前する。彼はさしあたり、所性質の複合的統一態(これが内奥の実体に支えられているかどうかは措くとして)の相で覚知される。彼は一つの“図”としての纏まりをもってゲシュタルト的分節している。ところで、先にみておいた通り、反省的に検討していくと、当の諸性質の一つ一つは自立的に存在するものではなく、夫という性質は妻との関係で、親という性質は子との関係で、体重という性質は地球との引力関係で……甫めて成立するのであって、諸性質自身が相集って一つの複合体を形成しているかのごとき相貌は仮現的にすぎないことが判る。なるほど、このことが自覚されたからといつて、A氏が諸性質の複合的統一相で見え続けることには変わりはない。(それは、地動説が自覚されたからといって。依然、太陽が東から昇り、西に沈むように見えるのと同趣であると言えよう。――現相的分節肢が「図」(諸性質の複合的統一態)の相で分凝するということはフェノメナルな厳事実でありつづける。そして、事物や事体はこれに定位されている。)」464-6P
(対話C)「この複合的統一体は、可塑的であり、あれこれの性質(つまり“複合体”の“構成分”)が剥奪されても、基本的には“同じ”当のものとして覚識されつづけるし、夫婦関係・親子関係・生理的反応関係・物理的規定関係……等々、その都度に現識される関係に先立って既在する相で認知される。しかしながら、原理的にいえば、これは仮現相であって、“諸性質の複合的統一体”なるものが自存するわけではない。真実に存在するのは錯綜した関係態であって、唯、これが物性化されて性質という相で覚知されるのである。諸性質自身どうしの複合的統一相で仮現するものは、錯綜した関係態の重畳とも謂うべき結節にほかならない。(前章第一章で指摘しておいた通り、“図”が“図”として分凝することがすでに反照的規定関係の内自化の機制に由るものである。)」466P
(対話D)「茲で、人が、“諸性質の複合的統一態”という構図に固執してこの構図を維持し、且つ、それが“関係に先立って自存する”と思念するとき、その場合には、諸性質は対他的関係に即応して現実化する“潜勢的な可能態としての性質”として把え返されざるをえず、諸性質の複合的統一態は上述したように変項からなる函数態ƒ (x,y,z,……)という構制で措定される所以となる。だが、真実には、(次章第一節における主題的な討究の結論を敢て先取りする流儀で論断しておけば)、潜勢的性質なるものが実在するわけではなく、前掲のごときƒ (x,y,z,……)という統一態が実在するわけではないのである。それは“諸性質の複合的統一体”という仮現相に幻惑され、この仮現性には気付いても猶、当初に“幻視”した折りの構図だけは維持しようとする傾動に由来するものにすぎない。」466P
(対話E)「われわれは、こうして、潜勢的性質とやらが関係に先立って実在するという思念を卻け、ƒ (x,y,z,……)という可能的性質の統一態が実在すると考える謬見を厳しく卻ける。とはいえ、これを排却して能事足れりとする者ではない。現相世界における分節体が「図」の相で分凝して現前するとき、それはさしあたり具体的な諸性質の複合的統一相で立現われるし、日常的意識においてはその構制が維持される。われわれとしては、この日常的覚識と接点を保つうえで、函数態ƒ (x,y,z,……)を換骨奪胎しつつ好便に援用することができる。――その都度具体相で現出する性質を、自存的性質ではないという廉(「かど」のルビ)で単に捨象してしまうのではなく、関係態の具体的在り方に応じて“値”を変じうる“変項”として把え返し、当初の“性質複合態”をƒ (x,y,z,……)という“函数態”として把え返す手続、これはわれわれが前篇第二章第一節で論じておいた函数化的「補完」の手続ともほかなるものではない。(ここに措定されるのは、さしあたり「事相的事件」であって「本質」ではないが、第一篇このかた折りにふれて誌してきたように、われわれは“実体”と“本質”とを原理的な次元では峻別できないものと考える。) ――現に、われわれが「性状的当体」や「事相的事体」をゲシュタルト的な“自己同一態”として“認知”するとき、この自己統一態の所識的形相は“函数態”ƒ (x,y,z,……)になっている。但し、この“函数態”は関係的規定態の“重畳的結節態”をイデアリジーレンしたものであって、レアールに実在するわけでも、また「実体」という格別な存在に担われているわけでもない。――この間の事情を明らかにするためにも、今や、いわゆる「実体」の側を主題的に討究すべき次序である。」466-7P
第二段落――「実体」の側を主題的に討究する 467-73P
(この項の問題設定)「現相的分節体は諸性質の複合的統一態の相で現前するが、この複合的統一態は諸性質どうしが直接に結合し合っているのではなく、「実体」を核にして統合されているのではないか? 性質は関係規定の結節であるとしても、それらの結節どうしが統合されるのは「実体」を拠点にしてではないのか? そしてまた、事物や事体という統一体がそれぞれ個体性をもつ所以のものは“性質”の個性ではなく「実体」の個性に存するのではないのか?――茲では、右の藉問に応えつつ、「実体」の問題性を闡(あき)らかにしていこう。」467P
(対話@)「人々は、とかく、諸性質の結合体には“核”がなければならないと考え、諸関係の結節だけでは安定性を欠いて宙に浮いてしまうかのように危惧する。人々が色・形・大きさ……といった諸性質の複合的統一体にける実体的な“核”とい表象を抱く機縁は、多くの事物において“境界的に閉じた形状”が認められ、この形状は容易に崩れず、この閉じた境域内には外物が侵入しえないこと(不可入性)、動かそうとすれば抵抗感があり(慣性・質量・重量)、触れれば難いこと(固性(「ハードネス」のルビ))、事物のこういう在り方はその事物において覚知される諸多の性質が変様しても概して安定的・持続的に恒同的であること、このことの体験に根差すものと思われる。人々が色・香・味……などの第二性質や有用性にかかわる用在的性質、さらにはまた、概念的反省によって規定されるたぐいの性質、これらの性質と上述の“不可入性”“質量性”“固性”といった性質とを区別し、後者を以って事物に内在的・本有的な性質だとみなすのは諒解に難くない。しかしながら、これら内在的で本有的とされる諸性質でさえ、他物との作用的関係において甫めて“発現”するのであり、自足的な性質ではない。(なるほど、不可入性・慣性・固性のごときは、もし然々の作用的関係におけば必ず発現する“可能的性質”“潜在的能力”として内自化されている。だが、対他的関係規定であることは変わりない。)「性質」であるかぎり、“内在的性質”であれ、“実体的性質”であれ、凡そ一切の性質が対他的関係の“内自化”されたものである。こういて、「性質」を関係規定の“結節”として把え返したからといって、さてしかし、“不可入性”“慣性”“固性”といった仮現的覚識相が消失するわけでなく、事物が不安定化して宙に浮くというようなことは生じない。それゆえ、人々の危惧はは杞憂たるにすぎないのである。」467-8P
(対話A)「ところで、しかし、“不可入性”“質量性”“固性”などは、事物にとっていかに“内在的・本有的”であれ、所詮は「性質」たるにすぎず、これらの「性質」を「担う」「実体」が「性質」とは別に存在するというのが伝統的な思念である。では、その「実体」とはいかなるものか? 人は、日常的な思念の場面では、“不可入性”“質量性”“固性”といった諸静止の複合的統一体に担われて色とか味とか有用性とかが存在するように考えている。この場面において“性質を担う基体”=「実体」とされているのは“本有的性質”の“複合体”たるにすぎず、ここでは“実体そのもの”という格別な存在が表象されているわけではない。ところが、ここにおける「性質を担う基体=基体に担われる性質」という構図を固執・維持しつつ、“本有的性質”を担う“基体=実体”が今や求められる。だが、そのような“純然たる基体”など、実際には、存在しないのである。実在するのは“性質の複合体”(正しくは関係態の重畳的結節)だけであり、それで足りる。“担う部分”と“担われる部分”とに事物を分節化して考えるのは、日常的な思念における諒解しうべき傾動であるが、事柄に即して原理的にみるかぎり、一種の“方便”にすぎない。しかるに、人々はここでの構図を固持して、ありもしない「実体そのもの」を要請的に想定する。これが事の顛末である。」468-9P・・・ひとは物象化から逃れられない(言語という物象化に依拠するところにおいても)、但し、物象化として押さえ、それをとらえ返しつつ(脱構築しつつ)、行動していく、そしてその物象化の絶対化、すなわち物神化の批判をこそなしていかねばならないー
(小さなポイントの但し書き)「――とはいえ、「実体」なるものの想定には根強いものがあるので、若干のコメントを付け加えておこう。「実体」なるものが存在するとすれば、それは端的に無性質ではないはずである。けだし、端的に無性質であれば、それは全くの無(「ニヒツ」のルビ)であろうから、そこで「実体」が性質をもつとすれば、その性質は結局のところ関係規定の結節であるから、「性質をもつ実体」はことごとく関係規定に還元されてしまう。そこであらためて“性質の担い手”としての純粋実体を云々するとすれば、「それ自身として端的に無性質な或るもの」=「無」を以って“実体”と唱する仕儀になろう。」469P
(対話B)「論者たちは、ここに至って、陣容を立て直して言う。「実体」は「性質」と同等な次元でのレアールな存在者として考えられてはならない。「実体」はレアールな存在領界に実在しないかぎりでレアールには“無”であるが、しかし、超実在的な存在体なのである、云々。われわれは、そのような“形而上学的存在”としての“実体”とやらが、端的に不可知な存在体として主張されるのであれば、応接の必要を認めない。がしかし、当の“実体”は如実の具体相でこそ認識できないにしても、それが存在するということには確実な論拠があると主張される場合には、敢て応接せねばなるまい。実際、或る種の論者たちは、「実体の存在」にはしかるべき認識根拠が現存する旨を主張するのである。それは(「神的実体」の存在という問題はここでは措きたいのだが)、さしあたり「事物の個体性」ということに関連する。「事物」(ないし「事体」)の“自己同一性”をƒ (x,y,z,……)という“函数的同一態”に帰着せしめる見地では、「事物の個体性が説けない」と論者たちは指摘する。論者たちの指摘するところでは、ƒ (x,y,z,……)という函数態によっては「コノ牛」と「アノ牛」との個体的区別がつかない。性質というものは、いかに特殊具体的な性質であっても、例えば「コノ赤」と「アノ赤」とは全くの区別がつかぬ“全くの同一性質”でありうる。そのため、原理的には、例えば理想的な二枚の銅貨のように、すべての性質が相同になっている場合、つまり“諸性質の複合的な統一態”としては全く同一である場合が生じうる。ところで、この場合にもやはり、二枚の銅貨(以下、「甲銅貨」と「乙銅貨」と呼ぶことにしよう)はそれぞれ個体性をもっており、甲と乙とは別々の存在体である。しかるに、もし銅貨に実体性がなく、銅貨が単なる“性質の複合体”であるとすれば、甲乙の諸性質が全く相同な今の場合、両者は区別がないことになり、全く同一の(個体的区別のない)銅貨だということになってしまう。このような悖理を避けるためには、つまり、性質的には全く相同な二枚の理想的な銅貨甲と乙とが(「コノ牛」と「アノ牛」とが)個体的に別々であるということを保証するためには、相同な性質とは別途に個体的実体性を想定せざるをえない。論者たちはこのように主張する。要言すれば、性質は相同でもそれを担う“かけがえのない個体的実体性”が存在するということ、これが実体存在の認識根拠(ratio cogniscandi)とされる次第なのである。」469-70P
(対話C)「右の主張に対して、われわれは以下のように論駁する。――問題の構制を確認しておけば、人々は通常、二つの事物は性質的には全く同じであっても、この物たらしめ、あの物をあの物たらしめる所以の、それぞれ個性をもった存在体であると思念している。そして、性質が全く同じであるにもかかわらず、この物とあの物とを区別せしめる所以の、それぞれかの当体をなすものが、両者の“実体”であると人々は考える。(このさい、性質上の同一性というのは、認識能力の粗雑さの故の弁別不能という消極的・主観的な同一性ではではなく、“客観的な同一性”の謂いであることは附言するまでもない。)この思念においては、甲乙両(「ふた」のルビ)つのじ事物が、客観的に、「性質上=同一」「実体上=同一」という諒解になっているわけである。――偖、われわれとしては、事物の性質が厳密に同一であれば、当の事物は総体として全く同一なのであり、個体的区別性は存立しない(現実的には両つの事物であるかぎり“性質”がどこかで必ず相違している)、と主張する。論者たちは、「性質=同一」かつ「実体=別異」というが、実体的に別異という以上、“実体的性質(?)”が相違するのではないか。もしそうであれば、「性質=同一」という前件が崩れる。そこで、“実体的性質(?)”まで同じであれば、両者は文字通り同一体になる道理ではないか? 「否、そうはならない。彼(「あれ」のルビ)−此(「これ」のルビ)の区別が厳存する」と論者たちは主張する。では、「あれ」「これ」の区別とは何か? 占めている空間的場所の区別であるか? (性質的に酷似した二つの事物を個体的に区別するギリギリの手続は、慥かに、同時刻における両者の空間的位置の区別である。二つの事物は“性質的に全く同一”であっても同時刻に別々に存在するかぎり別々の個体であると言って、人々は位置の相違という論点を持出す。このさいには「位置」という規定性が「性質」から除外されているわけである。)われわれに言わせれば、しかし、事物の位置というのは対他的反照規定を内自化したものであって、性質の一斑である。場所が相違するということは性質が相違するということにほかならない。(コノ牛とアノ牛とは同一の函数態であり且つ諸多の変項値が相同であるとしても、位置という変更値=性質が相違すれば個体的に区別されるのである)。なるほど、論者たちは、位置は事物を内在的に規定するものではなく、性質には参入されない、と主張することであろう。「その証拠に、性質的に全く同一の甲乙を、場所的に入れ換えても、“変身”することなく、場所こそ違え、依然として甲は甲であり、乙は乙である」云々。これに対して、われわれは、位置は「事物を内在的規定する積極的な要因である」と主張する。論者たちは事物に影響を及ぼすことなく位置だけを入れ換えることができると考えているが、これは「空間」と「物体」とを分断する存在観(前章第二節でみておいたように、それは帰するところ原子論的な世界観・空間観・物体観になっており、「質料的空間=空間的質量」観とは相容れない)に立脚しており、現代物理学の知見と撞着する。現代物理学の「場」としての空間は一種の「質料的空間=空間的質量」になっていることは措くとしても、一般相対性理論からすれば「空間」と「質量」とは相互的に影響し合うのであるから、厳密にいえば、場所だけを変えるというわけにはいかない。場所を変えれば質量(=エネルギー)も変わってしまう。尤も、ここで物理学を援用するのはわれわれの本意ではない。議論を物理学以前のところへ差戻そう。いま、甲と乙とは位置だけしか違わないとされているのであるから(爾他の相同な諸性質はことごとく捨象して対比できるので)、恰度、二つの「点」のようなものである。そこで、甲点と乙点とを入れ換えたとしてみよう。(例えば、座標平面上にA点(1・1)とB点(2・2)とがあり、AがB点に移動し、BがA点に移動するという入れ換えが生じた場面を想定されたい。)「点」は経歴などとは関係なく、現在の位置だけで一義的に規定されるのであるから、甲点と乙点とは位置の入れ換えにともなって、互いに他へと“変身”するのである! 一般には、甲と乙とは性質的に相違するので、場所を入れ換えても変身して相手に成りきってしまうことはない。そのため、人々は位置を入れ換えても事物には自己同一性が保持され、“変身”など生じないと思念する。が、しかし、いまの仮定条件、すなわち、甲乙が場所だけ相違し、爾他の諸性質は厳密に全く相同であるという仮定的条件のもとでは、場所を入れ換えれば互いに変身してしまう。それゆえ、「場所を入れ換えても、依然、甲は甲であり、乙は乙である」という論者たちの主張、実体的自己同一性・実体的個別性の主張は成立しえないのである。けだし、「事物の性質が厳密に全く同一であれば、実体的別異性、個体的区別性は成立しない」というわれわれの提題が妥当する所以である。」470-2P
(対話D)「こうして「一つの事物は性質的には全く同一であっても個体的区別性をもつ」「この個体的区別性の根拠は実体に存する」という仕方で「性質とは別途の存在たる実体」の存在を立論する途は遮断される。」472P
(小さなポイントの但し書き)「――尤も、論者たちのうちには、猶も、事物の実体的自己同一性、実体的個別性に固執して、甲乙二枚の銅貨が実体的個別性をもたないとしたら、二枚の銅貨を投げて表・裏の出る格率が、二枚とも表=四分の一、表裏一枚ずつ=二分の一、二枚とも裏=四分の一、という分布にはならず、すべて三分の一という分布になるはずである(事実に反する帰結に陥る)といって反論を試みる者もあるかもしれない。慥かに、旧来の“定説”では、甲乙が実体的個別性をもつからこそ、同じく表裏一枚ずつといっても、甲表乙裏と甲裏乙表の二つの場合がある(甲乙がそれぞれ自己同一性をもたなければ、単に表裏一枚ずつという一つの場合になってしまう)とされ、この了解にもとづいて、確率分布の在り方を説明してきた。しかし、同じ表が出るという場合でも、その結果に至るコインの「落ち方」が多様であるかぎり、銅貨甲乙に「実体的同一性がない」としても確率分布はやはり、四分の一、二分の一、四分の一になること、換言すれば、四分の一、二分の一、四分の一という確率分布は甲乙の実体的自己同一性の論拠たりえないこと、このことは丹治信春氏が『科学基礎論研究』第十三巻第二号[一九七八年]に発表した「米粒の自己同一性――古典的統計と量子統計――」において完璧に証明してみせたところである。今日では、もはや、事物の統計的・確率的“振る舞い”を論拠にして、実体的自己同一性、況んや、実体の存在を主張することはできなくなった。――丹治論文の紹介と敷衍(ふえん)は、拙著『弁証法の論理』第九章に譲る。」473P
第三段落――自己同一性の問題 473-8P
(この項の問題設定)「われわれは、伝統的に思念されてきたごとき格別な存在としての「実体」を厳しく卻けるとはいえ、便宜的には“実体的自己同一性”や“実体的個別性”という言い方をも厭わないし、況してや、事物(ないし事体)の“自己同一性”や“個体性”を云為する。われわれが「事物」や「事象」の“自己同一性”を立論する構制は既に前節の論脈中で示したところであるが、個体性の問題は個体的自己同一性と絡むので、そのかぎりで、自己同一性の問題にもあらためて関説しておこう。」473P
(対話@)「「事物」や「事象」は(或る纏まりをもったそれぞれ単一の)分節体として空間的世界に共時的に現出していて「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的に区別される場合には、別々の個体として直截に認知される。この場合、両個体を当の個体として認知せしめる個性的特徴が、実体とやらではないこと、一般には、目立ち易い個々の特質ですらなく、「性質の複合的統一態」全体であること、そして、両者が酷似している場合にはもっぱら位置値であること、このことは容易に認められよう。共時的並存態においては、個体性・個体的自己同一性ということをめぐって格別に厄介な問題は存在しない。(尤も、対象の間主観的同一性・単一性をめぐっては厄介な問題が生じうる。この件にはここでは立入らないことにするが、これは、第一篇で論じた「視線の読み」や対他・対自的な帰属の問題に帰向する。)」473-4P
(対話A)「――ところが、通時的な場面においては俄然問題が複雑になる。知覚的現在という“幅”を超え、時間性ゲシュタルトとしての単一態という纏まりがもはや失われている場面で、個体的自己同一性ということが、果たして、また、如何にして、立言されうるのか。(実体=持続体を想定する立場では成程この問題への対応が容易であるが、しかし、われわれに言わせれば、それは一種の論件先取(註)であり、顚倒である。)」474P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
(対話B)「人々は、例えば、反転図形「ルビンの杯」において、或る時には「向き合った横顔」を視、或る時には「高杯」を視る。これら両つの現相的“事物”の覚識態にあっては、“性質の複合的統一態”はおよそ相違している。それにもかかわらず、人々は、両者は個体的に自己同一的なもの(の両つの現相態)であると反省的に把握する。では、ここにおける同一者とは何か。人は、ここで、ルビンの杯と呼ばれる「白黒図形」が同一者であると答えたがる。しかし、嚮に別の論脈で論じておいたように、「白黒図形」というのも一つの現相態であって、それは「横顔」や「高杯」と並ぶ(といっても、われわれはそれを常に全く同位的に扱うつもりはないのだが)もう一つの“見え方”にすぎない。われわれの見地からいえば、ここで自己同一性的な個体とされている或るものは、それ自身としては「横顔」でも「高杯」でも「白黒図形」でもなく、それでいて「横顔」として定在することも「高杯」として定在することも「白黒図形」として定在することも可能な或るもの、謂うなればこれらの“値”をとって定在しうる“函数”態的な一つの同一者にほかならない。そのような“函数的形象”が「ルビンの杯」と指称される「個体的自己同一者」なのである。――同趣の構制が「再認」の場合にも存立することは、これまた第一篇以来繰り返し指摘してきたところである。再認にあたっては、およそ相貌の相違する現相(「性質の複合的統一態」としては異貌な現相)が端的に同一者として覚識される。ここでは、過去における現相がそのまま現在における現相と同一視されるのではない。日常的意識においては同一実体が二つの相貌で現出するという構図で思念されるにしても、正しくは、両現相が一箇同一の“函数”態の二つの定在“値”として把握されるのであり、ここでの個体的同一者とは当の“函数的同一態”にほかならないのである。――以上は、しかし、通時態における体個体的同一視にみられる構制の一斑を指摘したものであっても、個体的同一者の存在が措定される条件についてはまだ無記である。今や、議論をもう一歩先に進めなければならない。」474-5P・・・「横顔」や「高杯」は「白黒図形」の錯図、間に「ルビンの図形」
(対話C)「“われわれ”は、太陽が西に消えて、翌朝東から現われる場合、個体的に同一の太陽が再現したのだと了解し、太陽は見えないあいだも“実体的に”持続していたと考える。ところが、或る種の“未開文化”においては、太陽は日毎に新生する別個体であるものと了解され、夜には消失しているものと考えられる由である。他方、祖父に酷似した孫が生まれた場合、“われわれ”は、祖父と孫は似てはいても別個体であると了解するが、或る種の文化圏では同一個体の再現であると了解するとのことである。このように同じ現象に直面しても、一箇同一の個体の再現と了解するか、別々の個体の出現であると了解するか、これは“文化”相対的であり、感官生理学的な知見によって一義的に決定されるわけではない。だが、それにしても、凡そいかなる文化にあっても“個体的持続体”なるものが存在することは一般に認められているのであるし、その基幹的構制は同趣でうろうかと思われる。――日常的意識にあっては、人々は、例えば、サイレンの音のごときも、一続きに鳴り続ける音は“一つの個体”相で覚知し、断続的に鳴る場合には、幾つかの別々の“個体”相で覚知する。電光掲示板の上を左から右へと“流れ”いく文字のごときも、一文字ずつ“個体”相で覚知しつつ、その“個体”が持続しているものと人々は覚知する。或る種の論者たちは“学理的省察”の見地に立って、サイレンの音や電光掲示板の文字には個体性はないと主張し、個体的持続性があるわけではないと主張する。論者たちによれば、ここで存在するのは日常的覚識において“同一性の意識をともなう”“同様な性質複合態”(同様な関係の結節態)にすぎないのであって、当の“性質複合態”の基底に「実体」が存在しないがゆえに、それは個体ではなく個体的持続体ではない云々。われわれの見地からいえば、しかし、論者たちの謂う「実体」なるものはいわゆる物体においても存在せず、存在するのはいずれにせよ“個体的”分節相で覚知される“性質複合態”(正しくは「関係の結節態」)だけであるから、論者たちの発想法でサイレンの音や電光掲示板の文字から個体性や個体的持続性を奪うべき謂われはない。なるほど、音や文字には“不可入性”“質量”“固性”といった性質がないことは慥かであり、この点で、音や文字は「物体」とは別種の存在であると言われうる。だか、それはあくまで「性質」に即した区別なのであって、「実体」とやらの存否の別なのではない。われわれは“個体的分節相”で現前する“性質複合体”(正しくは「関係の結節態」) であれば、臆することなくそれに“個体性”“個体的持続性”“個体的自己同一性”を認容しうるのである。――では、太陽は、個体的持続体・個体的自己同一体が再現するのか、それとも新生するのか? われわれは、一般的構制として、所与の個体的分節体は、断滅的変化を閲歴しないかぎり、一箇同一の個体のままである(個体的自己同一性を維持する)と了解する。これは、しかし、一般的構制たるにすぎず、この構制自身では太陽が持続する同一個体であるか新生する別個体であるかはまだ決定されない。われわれがもし太陽は夜中に断滅すると考えるのであれば翌日の太陽は別個体とみなし、断滅しないと判断するのであれば同一個体とする。電光掲示板上の文字は、瞬間ごとに断滅・新生する不連続的連続態と判断されるかぎり瞬間ごとに別個体であり、断滅しない連続体として判断されるかぎり持続的同一個体である。」475-7P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれは「刹那滅」的な不連続的連続観を執って、個体的持続体を一切認めない見地を採ることも原理上は可能である。が、その場合にも、或る種の個体的対象が自己同一的持続体の相で覚知されるという現相的事実は揺がない。)」477P
(対話D)「このさい、断滅的な変化を途中で閲歴したと判断されるか否かは、先後の状態相が酷似していると否とには関わりない。酷似していても別個体(新しい個体の出現)と判断されることもあれば、逆に、相貌は激変しても同一個体のままであると判断されることもある。では、断滅的変化の閲覧の有無、従って、個体的自己同一性の有無は、誰がどのように認知するのか? 同時相においては、たとえ酷似していいても、空間的位置値が異なれば別々の個体として容易に認知されうる。ところが、異時相においては、酷似した相貌を呈するものが個体的同一体であるか個体的別異体であるか、これの判定は容易ではない。また、異貌を呈するものが、別異体ならずして同一体であることの判定はいよいよ困難のはずである。だが、それにもかかわらず、事実の問題としては、“文化”に応じて、個体的同一体と個体的別異体との弁別は(個々人の私念は“誤り”うるにせよ)“安定的”であり、この弁別は概して間主観的一致がみられる。現実には誰彼が対象における変化相を見守って断滅的変化を閲歴したかどうかを見届けるわけではないが、“誰か”が見守っているという想定的構案のもとに、断滅的変化の閲歴の有無が判定され、断滅的変化を閲歴していないと判断される次第である。(判断の真理性・客観性については、従ってまた、客観的事実性については、とりあえず。前篇第三章を想起されたい。尚、この問題には次章でもふれる予定である。)」477P
(対話E)「人々は、この構制にもとづいて、所与の個体的対象は、それぞれの断滅が予期されないかぎり、未来時においても個体的自己同一性を異時しつつ持続するものと予料し、多くの個体にについて、それが未来時にまで自己同一性を保ったまま持続することが規定の事実であるものと覚識する。――個体的対象の通時的な自己同一性ということは、以上の行文が明らかなように、原理的に言えば、一種の“見做し”(とはいえ、間主観的判断的措定)であって、「実体」とやらの認知にもとづくものではない。だが、まさしく、当の間主観的な判断措定がおこなわれるかぎり、われわれは「実体」なる格別な存在を排却した地平において、対象的分節体の“個体性”“個体的持続性”“個体的自己同一性”を立論できる次第なのである。」477-8P
第四段落――「関係の第一次性」ということについて若干のコメント 478-80P
(この節のまとめ的補足的項として)「われわれは、以上ではまだ、個体的な持続的自己同一体という時間的“変項”を含む“函数的同一態”の存在様相などにはふれておらず、従って量子力学における「観測問題」で特に顕在化するたぐいの個体的自己同一態のプロブレマティックその他の論件を残しているが、これは次節に譲り、ここで「関係の第一次性」ということについて若干のコメントを加えておこう。――現相的分節の直接態においては分節肢たる「図」が「質的規定態」として現前するが、われわれは、反省的に、規定態がいかにして存在するかを問い返さざるをえない。この問い返しと検討は幾つかの次元にわたって遂行する必要があり、そのうち現相が現相として存在する基底的構造については既に第一篇において論究しておいた。ここでの問題次元は現相の相互的反照規定関係である。omnis determinatio est relatio. (関係のあらゆる境界)であるかぎり、「事」という原基的なコンフィギュレイション(configuration:外形・ゲシュタルト)も一つの関係として述定されうるが、ここではとりあえず現相の分節的統一態として“物性化”“物象化”される関係態を謂わば“表層的”に論考しておけば当座の責めは塞ぐことができると念う。――「関係」は、概念として措定するかぎり、最も普遍的な概念と言われうるから、上位概念に種差を加えて定義する常套の手続では「定義」できない。「関係」の何たるかについて所知内容を読者と共有化しようと企てるにあたっては、“イラストレイション”の流儀で提示しつつ、読者にそれをそれとして把捉して頂くよう試みるほかない。しかもその作業は一回起的な完結は期しがたいのであって、行文を積み重ねるなかでおのずと成就されることを図らざるをえない。因みに「関係」ということを“イラストレイト”するにあたっては「あいだ」(zwischen)とか「対して」(für)とかいう概念の規定を要するが、これら自身また、実は「実践的世界」における対自・対他関係の場に即しての“イラストレイション”に俟たねば内容で十全に規定することは期しがたい所以である。この段あらかじめ諒解ねがったうえで誌せば、関係性とは「相待的依他起生性」であり、関係とは「一者−他者」の相互的(ein-ander)区別化的統一態であって、しかも、一者と他者との「あいだ」に互いに他者が自分の「かくある(「ゾーダイン」のルビ)」の存在条件をなすごとき相待性が存立することの謂いである。このように誌すと、「一者」と「他者」という関係「項」が「関係」に先立って存在するかのように誤解される惧れなしとしない。が、両項は互いに他項との関係によって事故の存在を得ているのであるから、関係に先立って独立自存するわけではない。われわれは、ここではあらためて、あのありうべき主張、すなわち、「関係によって規定されるのは“性質”だけであって、“項”の存在、および、“項”の関係能力としての潜勢的性質は“項自体”にそなわっている云々」という実体主義の主張を論駁するには及ばないであろう。だが、と人はここで反問して言うかもしれない。「項」は「関係」に先立って存在するわけではないにしても、「関係」と同時に存在するのではないか。言い換えれば、「関係」は「項」と同時に成立するのであって「項に先立つ」わけではないのではないか? 人がここで「同時」とか「先立つ」とかいう詞を時間上の先後や同時の意味で用いているのであれば、われわれはそのことを認める。(関係項と関係性とは同時相即的に成立すると言ってよい。これでも十分、伝統的な「自存的実体の第一次性」への反対定立たりうる)。われわれとしては、「項」が自存するのではなく、「関係態」の分節項としてのみ「一者−他者」が分立するのであり、「関係項」としてのみ甫めて存在するという存在規定に徴して「関係が先立つ」という言い方をしているのである。そして、関係に先立って自存する項(「もの」のルビ)として(伝統的思念において)了解されているもの、それが「実体」(ens per sui=それ自身で[対他的関係なしに]存在するもの)にほかならないかぎりで、この「(関係に先立つ)実体の第一次性」「実体の自存的先在性」という了解を卻けつつ、ens per suiなど実在しないこと、「いわゆる実体」に対して「関係態」のほうが第一次的であること、この旨を反定立する次第なのである。――われわれは、加之(しかのみならず)、「属性を具有せる実体」とか「個体性を有った持続的自己同一体」とかいう格別な存在体として思念されている「実体」とは、その真実態においては、「関係規定の結節」たる“函数的同一態”にほかならない旨を、上述のごとく、論定する。そして、われわれの見地から、対象的分節体の“個体性”“個体的持続性”“個体的自己同一性”を規定し返す。茲では、しかし、論旨を復唱するには及ばないであろう。」478-80P


posted by たわし at 22:54| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『存在と意味1―事的世界観の定礎』(13)

たわしの読書メモ・・ブログ698[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(13)
第三篇 事象的世界の存立機制
第二章 事の物象化と実体主義的錯認の位相
 第一節 事の事象化と実体視
(この節の問題設定−長い標題) 「「能知的所知=所知的能知」の渾一態たる「現相」は、学知的反省の見地にとっては「射映的所与−意味的所識」「能知的誰某−能識的或者」の四肢的な被媒介的統一態たる「事」として存立するが、直接的意識においてはさしあたり「図」の相で分凝する。そして図が言語的能記と象徴的に結合され、そこで、「超文法的主語対象−超文法的述語規定」の分化的統一相(ひいては、通常の「主語対象−述語規定」の分化的統一相)が覚識されるとき、この分化的統一態を「事象」と呼ぶ。――「事象」は、現相的空間世界が「射映的時空間世界」と「実相的時空間世界」とに分界するのに応じて、いわゆる「内的事象」といわゆる「外的事象」とに岐かれつつ、それぞれ時間・空間的に定位される。――「外的事象」における主語的対象(超文法的であれ文法的であれ)の契機(事体)は述語的規定の契機(事相)から自存視され、いわゆる“実体”として思念される。」440P
第一段落――われわれの日常的覚知における常態として叙示の次元に存して論じる 440-5P
(この項の問題設定)「現相的世界の分節肢たる諸々の「図」は、“われわれ”の日常的意識においては即自的に現前し、“われわれ”は普通、「図」の現認的覚知と同時相即的に、それを一定の“内語”で呼称する。なるほど、漫然と机の上を眺めているような場合には、知覚的分節態の一つ一つを命名的に呼称したりはしない。がしかし、或る特定の分節態に志向的注意が向かい、その分節態がそれとして現認的に覚知される場合には、まずもって、それの呼び名がおのずから内語的に泛かぶ。(時として、志向的に覚知している与件が名状しがたいとか、呼び名が判らないとかいう場面を体験するが、そのさいには疑問的関心の念が昂じ、軽い不安に襲われる。そして、「何々のようなもの」というかたちであれ、一定の名づけがおこなわれてはじめて安堵的覚知に達する。)これが、発生論的には如何なる媒介を経たものであるにせよ、“われわれ”の日常的覚知における常態であると言えよう。――現相的分節態が“内語”的に(時によっては“外語”的に実際に発声して)呼称される“名”というのは文法に所謂「名詞」とはかぎらない。それは、言語学的・文法学的には、むしろ「一語文」であって、(1)「何々(ダ)」(水ダ、風ダ、犬ダ)、 (2) 「然々スル」(動ク、逃ゲル、落チル)、 (3)「斯々シイ」(黒イ、大キイ、危ナイ)、という内容になっている。(発生論的にみるとき「一語文」の典型は願望文ないし命令文であることをわれわれは無視する者ではない。が、ここでは表出や喚起の次元は暫く括弧に納めて叙示の次元に即して論ずる)。」440-1P
(対話@)「この「一語文」的な呼称の態勢にあっては(1)基質認知、 (2)能相把握、 (3)性質規定という種別が学知的反省にとっては存立するにせよ、さしあたり、射映的所与たる「図」が未分化的全一態のまま直截に言語的能記(「何々(ダ)」「然々スル」「斯々シイ」)と象徴的に結合されているにとどまる。このさい、覚知される与件がたとえ変化相にあっても、一つの図として(いわゆる“時間的ゲシュタルト”の相で)把持されていて、先の状態と後の状態とが両つの状態として別々に覚識されることのないかぎり、「図」は未分化的統一を保っている。ここで、一語文的に呼称される現相的与件を“コレ”と指称したとしても、(1)「“コレ”は何々(ダ)」、(2)「“コレ”は然々スル」、(3)「“コレ”は斯々シイ」という述定的呼称において、“コレ”が指し示すのは所与の未分化的全一態のままである。ところが、変化的現相の先の状態と今の状態が別々の両つの状態として区別的に覚識されつつ、しかも、依然として同じ言語的能記と個証的に結合されつづけ、持続的同一性が対自化されるに及ぶと、そのさいには、“コレ”と指称する与件的対象が分化した相で覚識されるようになる。今や、(1) コレは何々(ダ)」、(2)「コレは然々スル」、(3)「コレは斯々シイ」というさいの「コレ」は、その都度の状態相での全一的所与ではなく、状態相の相違にもかかわらず自己同一性を保っている或るもの、この「或るもの」を指称するのだと意識される。この「自己同一的な或るもの」は、われわれの見地からいえば、先後の状態相を“値”とするゲシュタルト的“函数態”にほかならないのであるが、人々の日常的な直接的意識においては、先後の状態を通じて同一的と認知される“成分”とも謂うべき或るものの相で、状態相での全一態から“分出”的に意識される。(ここに意識される先後を通じて自己同一なものは、一概には何とも言えないが、例えば射映的変易にもかかわらず自己同一的と覚知される“実相的”な“形”とか“大きさ”とかの固有の統一態といったものである。)こうして、いまや、かつて未分化的統一態であった「図」が、自己同一体と可変的状相とに“分化”しつつ、それでいて、両契機の統一的な一全体として覚知される態勢になる。――この態勢における(1)「コレは何々(ダ)」、(2)「コレは然々スル」、(3)「コレは斯々シイ」という「主語対象−述語規定」成態の被示的意味がわれわれが術語的に謂う原基的な「事象」である。」441-2P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれは、前篇第二章第三節の行文中で、(1)「コレは何々(ダ)」という事実、(2)「コレは然々スル」という事件、(3)「コレは斯々シイ」という事況を区別したうえで、事実・事件・事況を総称して「事象」と呼ぶ旨を誌しておいたが、われわれの謂う「事象」はいわゆる「出来事」一般の謂いではなく、判断成態の被示的意味であることに留意されたい。尚、判断成態の被指的意味を「事態」と呼ぶことは、これまた前篇第二章第三節で誌したところである。)」442P
(対話A)「――右には、一語文で呼称される未分化的全一体としての「図」が先後の状態相の区別化的覚識を通じて直接的に分化する場合に即して論じたのであったが、一語文で呼称される「図」は、それ自身すでに、「当体−性状」の分化的統一態たる「もの」ひいては「事物」の相で直截に現前する場合もありうる。ここにあっては、「当体−性状」の分化的統一態が(1)「コレは何々(ダ)」、(2)「コレは然々スル」、(3)「コレは斯々シイ」という分化的統一相で述定的に呼称されることも無論不可能ではない。」442-3P
(対話B)「ところで、「事象」における「主語対象−述語規定」は、(1)「本体−基質」、(2)「主体−能相」、(3)「基体−性質」の種別を設けられうるが、この種別に関わりなく、われわれはこれを総称して以下では「事体−事相」と呼ぶことにしよう。――「事体」と「事相」とが分化的に覚知される以上、事体はそれ自身が「犬」とか「牛」とか「風」とか「水」とか、等々、「何々」と呼称されうるのであって、茲に、(1)「何々は何々(ダ)」、(2)「何々は然々スル」、(3)「何々は斯々シイ」という通常の「主語−述語」構造をもった事象が成立する。(但し、ここにいう「何々」は前篇第二章第一節で規定した「知覚的現場的判断」において措定される「超文法的賓述」に俟つものであり、「コレハ何々ダ」「ソノ何々タルコレ」という構制になっており、「Sなるもの」の謂いではない。Sという詞の被指的意味たる「Sなるもの」が問題になるのは「事態」の次元においてである。この点にはあくまで留意したい。)」443P
(対話C)「事象においては、強いて言えば、「事相」の契機に志向的関心が向かうのが普通の分化的統一態における「事体」の契機に志向的関心が移る場合もあり、その場合には、さしあたり、(1)「何々タル何々」、(2)「然々スル何々」、(3)「斯々シイ何々」という相で「事相的事体」とでも呼ぶべき「もの」が覚識される。(これは言語介在的ではあるが、構制のうえでは、「当体−性状」の分節態に即して覚識される「性状的当体」とも同趣である。「当体−性状」ならびに「性状的当体」については、前章第一節の行論を想起されたい。)」443P
(対話D)「尚、「事象」は積極形とは限らない。「事象」が判断成態の被示的意味であり、判断成態には否定形、消極形のものも存在する以上は、(1)「何々は何々デナイ」という否定的・消極的な事実、(2)「何々は然々シナイ」という否定的・消極的な事件、(3)「何々は斯々シクナイ」否定的・消極的な事況、要言すれば「消極的事象」も存在するそして、この「消極的事象」における「事相的事体」として、(1)「何々デナイ何々」、(2)「然々シナイ何々」、 (3)「斯々シクナイ何々」というかたちの「消極的・否定的な事相的事体」も存在しうる。」443-4P
(対話E)「われわれは、爰で、「事象」そのものの在り方を討究する前に、そのための通路としても「事物」と「事象」との相違性の一端を確認しておこう。――「事物」という分節相は原理的には、言語以前的な「性状的当体」の分節化的現前と連続的である。勿論、事物が事物として十全に覚識されるようになるのは言語的活動の介在を俟ってのことである。“われわれ”にとつての事物は、事実上、ことごとく、言語によって媒介されて成立する「事相的事体」(の一種)であると言っても過言ではあるまい。が、しかし、前章第一節で論じておいた通り、「事物」という相での分節化は即自的には言語以前的にも一定限進捗しておりうる。それにひきかえ、「事象」は、本源的に、言語によって媒介された存在態である。なるほど、これは定義の問題にすぎないとも言える。慥かに、猫ですら、「コレハ鼠ダ」とか、「コノ鼠は大キイ」とか、「コノ鼠は逃げヨウトシテイル」とか、このたぐいの“事象”を覚知するという見解もありえよう。われわれは、「もの」ひいては「事物」が「当体−性状」の分化的統一相で覚知されることを認めるのであるから、ここでの言語以前的な対象的覚知現相を“事象”と呼ぶのであれば、猫によってすら“事象”が現前することになる。このように、単なる「当体−性状」の分化的統一相での覚知を以って“事象”の現前と定義することも許されないわけではない。だが、われわれとしては単なる「当体−性状」の分化的統一相での覚知と、言語介在的な判断的措定に俟つ「事体−事相」の現識とを次元的に区別し、「事体−事相」成態を「事象」と呼ぶ次第なのである。――「事象」には積極形と消極形との区別があるのに対して、「事物」にはそのような種別がない。(「事物」は積極形なのではなく、肯定的積極性、否定的積極性に関して中性的なのである)。なるほど、猫ですら、大きい鼠と小さい鼠とを区別して意識することができるであろうし、そのかぎりで、「コノ鼠は大キクナイ」と覚知できるという主張もありえよう。しかし、この次元での「ナイ」は、判断的否定ではなく、前篇の論脈中でふれた「異立」たるにすぎない。本来的な「事物」は、判断措定以前的 であるがゆえに積極性・消極性の対立性を有たないのである。その点、「事相的事体」には「積極的な事相的事体」と「消極的事相的事体」との対立的区別性がある。そして、人々が、「事相的事体」と「性状的当体」とを混淆するかぎりで、積極的に規定された事物(「もの」のルビ)と消極的規定された事物(「もの」のルビ)とが存在するかのように思念されるのである。“われわれ”が日常“事物”と呼んでいるものは、事実上、事相的事体であるから、“事物”には積極的規定態と消極的規定態とがあるという言い方も妥当しないではないが、本来的な「事物」に関して言うかぎり、そこには積極・消極の対立性は未在である。――この場を藉(か)りて話しておけば、以上の行文から明らかな通り、発生論的には「事物」のほうが「事象」よりも先行するとはいえ、“われわれ”成人の現識する対象的分節体たる“事物”は、もはや言語介在以前的な「事物」ではなくして、実際には「事相的事体」にほかならないのであって、かかる“事物”(=「事相的事体」)に対して「事象」のほうが先立つ。しかるに、「事象」は言語的能記との象徴的結合に俟つばかりか、判断的措定に俟つ。ということは、「現相的所与−意味的所識」「能知的誰某−能識的或者」の四肢的構制態=「事」に俟つということを意味する。後論を先取りして言えば、「事象」とは判断的意味成態の“受肉態”であり、「事」の“充当的”一具象態なのである。“事物”は「事象」に俟ち、「事象」は「事」を基底的構制とする。従って、“事物”は「事」という四肢的構制態に俟って甫めて存在する次第なのである。」444-5P
第二段落――「事象」は時空間的世界に定在する 445-53P
(この項の問題設定)「「事象」は時空間的世界に定在する。前篇第二章第三節で論じておいた「事態」(すなわち、判断成態の被指的意味)がイルレアール・イデアールの形象であり、超時空的であるのに対して、「事象」はレアール(精確にはレアール・イデアール)であり、時空間的である。――一語的に、(1)「コレは何々(ダ)」、(2)「コレは然々スル」、(3)「コレは斯々シイ」という「事体−事相」の分化的統一相で現識されるようになっても、依然として当初の時空間的定位が保持される。(所与現相が既に対象的「事物」相でまずは覚知される場合にも、その事物は時空間的に定位されており、「当体−性状」の分節体は時空間的である。)」445-6P
(対話@)「ところで、知覚的空間世界は、視野的に限られているが、背後や側方を表象的に補完された一全体をなしつつ、知覚的現在に補完されたこの現在的な知覚空間世界は、パースペクティヴな構図を対自的に呈することにおいて、前章第二節で指摘したように、“仮現相”と“実際相”との二肢的二重相で覚識されつつ、しかも、“仮想的位置”と“実相的位置”とが二重写しの構図になっている。このような知覚的空間世界に定位されている「事象」は、空間的二重相に応じて、“仮想的空間”と“実相的空間”とに二重的に帰属するが、さしあたっては、その位置に関してはまだ二重写しの相にある。――射映的な“見掛上”の位置と実在的な“実際上”の位置とが二重写しに覚識されるのは、しかし、知覚的空間世界にみられる特質であって、表象的空間世界(但し、知覚的視野空間の表象的補完部は除く)にあっては位置的二重写しはみられない。想像的な(現在的に覚識されている)空間的風景世界であれ、回想的な(既往的に覚識されている)空間的風景世界であれ、予期的な(将来的に覚識されている)空間的風景世界であれ、これら表象的な空間的風景世界においては、パースペクティヴに泛かぶ射映的な位置と実際上の位置とが区別的二重相で覚識されるにとどまらず、場所的にも分離して覚識される。表象的な空間的風景世界における射映的な“見掛上”の位置は、当の表象的世界に“見える”がままの位置であり、当の表象的風景世界に内属しているが、“実際上”の位置は、当の表象的世界を超えた場所、表象的世界の“外部”にあるものと覚識される。では、その“実際上の位置”はどこにあるのか? それは、さしあたっては、知覚的空間世界(但し、眼前の直接的な視野にはかぎられず、嚮に述べたように、直接的視野の“周囲”を表象的に補完された一全体)に即しての“実際上の位置”(これは上述の通り、さしあたっては、知覚的な“見掛上”の射映的位置と二重写しになっている)にほかならない。“見掛上”の位置は、知覚的空間世界と表象的空間世界という別々の“世界”に内属しているにしても、“実際上の位置”(実相的空間内の位置)は単一であるものと直截に覚識されているのである。ここにおいて、まずは、表象的な風景世界に即して、“見掛上の射映的空間”と“実際上の実相的空間”とが存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断される。次いで、いまや、知覚的な風景世界における“見掛上の位置”と“実際上の位置”との二重写しが反省的に卻けられ、パースペクティヴな収縮的構図を呈する“射映的空間”と、パースペクティヴな収縮を呈さない“実相的空間”とが位置的にも分離されるようになる。(尤も、知覚的風景世界における位置的二重写しには根強いものがあり、“現に見えている位置”と“実相的空間内での位置”との二重写しは完全には払拭されず、少なくとも輻湊的原点に関しては二重写しが存続するのが実態ではあるが。)併せて、亦、われわれが前篇第一章第一節でみておいた機制によって、表象的射映現相と知覚的射映現相とが類同化され、射映的現相世界(いわゆる「内界」)と所識的実相世界(いわゆる「外界」)とが存在的に截断される。このことに俟って、いまや知覚的風景世界をも含めて、“世界”が“仮現的・射映的な空間世界”と“実相的・所識的な空間世界”とに、二世界化されるに及ぶ。――われわれは、これら二つの世界を「内的世界」「外的世界」と呼ぶことにしよう。」446-7P
(対話A)「「事象」は、それの内属する空間的世界が当初の二重写し相から剥離されて離在的な二世界を“形成”するに至ったのに応じて、今や「内的世界」と「外的世界」を分属する。「内的世界」と「外的世界」とのこの区別は、われわれ自身の積極的主張ではなく、日常的な思念を追認したものであって、そのため離接に曖昧なところもあるが、前篇第一章に謂う「内界」と「外界」との区別にほぼ相覆うものとして扱うことができようかと思う。――「内的世界」はいわゆる「心象世界」、「外的世界」はいわゆる「物象世界」にほかならず、前者に分属するかぎりでの事象は「内的事象」「心的事象」と呼ばれ、後者に分属するかぎりでの事象は「外的事象」「物的事象」と呼ばれる。「内的世界空間」は“配景視的(「パースペクティヴ」のルビ)”構図を呈し、人称的主観にその都度帰属しているが、「外的世界空間」は“無視点的”構造を呈し、人称的主観から独立自存するものと思念されている。――偖、「内的世界」と「外的世界」とは、共に、過現未の時相をもった時間的規定を帯びており、謂うなれば、“時間的位置値”を有っている。この“時間的位置値”は空間そのものが有つのではなく、空間に定位されている事象が有つのである。まず、知覚的現在においては、内界と外界とが同時相で対応している。そして、この知覚的現在という“時間的厚み”の内部での先後的“布置”も持続的“延長”も「内界」と「外界」で相同的である、と直截に信憑されている。ところが、記憶的表象世界と知覚的現認世界、または、知覚的現認世界と予期的表象世界、これら両つの世界が変様的移動相で統轄的に覚識される場面では(実はこの態勢においてはじめて過現未の時相的規定を世界が帯びるのだが)、ここで二世界的に截断される両世界、すなわち「仮現的射映的世界=内的世界」と「実相的所識的世界=外的世界」のあいだで、時間的“距離”すなわち「持続」が相同的には合致しなくなる。――というのはこうである。内界における諸事象やその分肢は、回想的であれ現認的であれ予期的であれ、先後的布置に即して(若干の事象的分肢どうしは、先後的差異が感知されないかぎりで、同時的布置で) “時間的位置値”ともいうべき“時点値”を“内自化”されており、この射映的“時点値”が“実相的”外界にも謂わば“投影”され、外的にプロットされる。このかぎりで、内界の時点的位置と外界の時点的位置とは一義的に対応し、両者は“同時刻”である。この同時刻性を前提にして、両世界に対応する二時点間の“距離”(すなわち、時間的持続=時間)が相対応する(“同じ筈”の)持続時間として措定される。しかるに、内化における時間の長さ(時点間の距離)は、記憶ないし感覚ないし予想という“内的”な覚識で感知するという仕方でしか“測る”ことができず、他方、外界における時間的長さは前章で述べた時間の形象化を前梯として“尺度”とされる運動の空間的位置“目盛”を読むか、周期的運動の「回」数を数えるか、このたぐいの仕方でしか測定することができず、直接に“測る”ことはできない。こうして、測定の仕方こそ違え、相対応する時点間の“同じ時間”を測っているのであるから、“測定値”は同じになる“筈”だと思えるのだが、現実に「内的時間の長さ」と「外的時間の長さ」とを比較してみると、両者は一義的に対応していないことが判る。――ここにおいて、内的に覚知される時間のほうが“本物”であり“精確”であると主張することも一応は許される道理なのであるが、しかし、権利上ではなく事実上の問題として、人々は、内的時間は“心理的・主観的・仮現的”であり、外的時間こそが“物理的・客観的・実相的”であるとみなす。(それは、外的な時間測定値は間主観的に合致するのに対して、内的な時間測定値は間主観的に合致しないということ、にほかならないのである。――勿論、この間主観性=共同主観性というのは人々の共通した“幻想”といったものではなく、幻想的世界全体の変化の在り方に根差すものである。間主観性というとき、主観と客観とを存在論的に截断する因習的な存在観を卻けた地平にわれわれは立っているということ、この点に呉々も留意をねがいたいと念う。)」447-9P
(対話B)「翻って惟うに、内的時刻と外的時刻とは“時点的”に相互対応しているものと前提的に了解されていたのであり、内的時点からの投影的プロットを介して外的時点なるものが定位されたのであった。そして、内的現在という時刻と外的現在という時刻とは合致しているということ、この了解は依然として存続する。しかるに、「内的時間の長さ」と「外的時間の長さ」とが合致しないとすれば、現在を起点とするこれら両つの「長さ」の“他端”ともいうべき「内的時刻」と「外的時刻」とはもはや合致しないという構制になる。こうして、茲には、一種の撞着が存するのであるが、人々は、外的時間・外的時刻こそが客観的な“真の”時刻であるとみなし、内的時間・内的時刻を単なる主観的・仮現的なものとして遇するに及ぶ。ここに至って、内的時間体系と外的時間体系とは、現在という一点でこそ重なるが、もはや別々の体系となり、「内的時間」と「外的時間」とは別々の秩序体系となる。」449-50P
(対話C)「「内的世界」に属する「事象」、すなわち、「内的事象」は、射映的現相風景においてフェノメナルに覚知される空間・時間的な“布置”に即して直接的に定位されており、その空間的・時間的な“位置”や“距離”を測定的に規定することはできない。――なるほど、空間的距離に関していえば、遠方における二つの「もの」の間の見掛上の距離を、身近かで見た物差しの射映的長さと比較し、何倍かを見積ることができる。現に、人々は、そのようにして、例えば北極星と何々座α星との“天球”における見掛上の距離を何メートルぐらいと見て取る。また、時間的距離に関しては、既往における二つの事件の間の時間的間合を、時間的感覚ないし時間的記憶の持続的大きさと比較し、何倍かを算定することができ、例えば、「自分が幼稚園に入園してから小学校に入学するまでの時間的距離は、昨今の三日間くらいの長さにしか感じられない」と言ったりもする。だが、これは「測定」の名には値しないであろう。――それにひきかえ、「外的事象」の空間・時間的規定性は、直接的に覚知することはできず、測定という間接的な手段を俟って甫めて規定される。空間的測定とは、言うまでもなく、原基的には、測定対象と物差しとを“現場”で(対象に接近した場所に“身”を置いて)重ね合わせて較認する構制になっている。ここでも、なるほど、直接的に比較されるのは射映的与件である。がしかし、単なる射映的与件“以上”“以外”の所識的な“或るもの”どうしの比較であるものと覚識される。ところで、空間的測定には間接的な手段を用いての測定、つまり、直接“現場”に“この身”を置くことなく換算的におこなわれる測定もある。とはいえ、この場合の測定値なるものはやはり“現場”に“身を置いた”直接的な測定値と合致するものと了解されている。というより、間接的測定の手続なるものは、現場に身を置いた場合にはどうなるかを一義的に推算する手続にほかならないのである。このかぎりで、「外的世界」における空間的測定は、“現場”に“この身”を置いての対象と物差しとの較認という構制をどこまでも免れないのであって、“客観的な”空間的測定値とは“現場”に“身を置いた”さいに覚知される測定値の謂いになっている。「外的世界」における“客観的な”時間的規定性の測定も空間的規定性の測定と同趣的である。知覚的風景世界において一個同一の“注視野”に現前する二つの現相が先後の覚識を伴わぬとき両現相は“同時”に存在すると定義される。人は斉一なテンポで変化が進行すると感受されるたぐいの規則的な変化現象を物差し(“時計”)とし、任意の変化的現象とこの“時計”とを一個同一の“注視野”に起き、“時計”の“指度”との“同時”性に即しての現象の“時刻”を測定し、“時計”の“進度”に対応づけて“時間(持続)”を測定する。既往的・過去的な事象や将来的・未来的な事象については、その現象と“時計”とを直接に同一の知覚的注視野に置くことはできないとはいえ、その“現場”に“身を置き移し”て“同じ時計”と測定対象とを“注視野”内で対応づけたとしたさいの“時計の指度”を以って当該事象の時刻とみなす。こうして、空間的測定も時間的測定も、“同じ物差し”を携えて“現場”で測定対象と較認するという構制になっている。だが、“同じ物差し”ということ、すなわち、“物差しの自己同一性”ということが果たして絶対的に保証されるであろうか? 測定の現場が異なるのに応じて“物差し”が伸縮するとしたらどうなるか? ここに謂う“物差し”は特権的な特定の物差しではない。物差しに撰ばれた特定の「もの」の伸縮であれば他の「もの」を物差しとすることによって容易に判定がつく。が、どの「もの」を物差しに撰んでも斉一に伸縮が生じる態勢になっている場合、つまり、“空間そのもの”“時間そのもの”が伸縮する場合、これが問題である。この場合、現場ごとの直接的な測定だけでは、当の伸縮ということが気付かるべくもない。伸縮の存否および程度が判定されうるとすれば、現実には、現場A点に身を置いた測定と現場B点に身を置いた測定が“同じ物差し”を用いておこなわれ、その測定値が交信され、直接的測定値と“間接的”測定値とが比較されることを介してであろう。ここに、“間接的”測定値というのは、“携帯”する“物差し”が伸縮しないという想定条件のもとで“身を置き移した”とした場合に推算される測定値の謂いである。普通には、現場Aと現場Bとで空間・時間の伸縮が無いものと信憑されており、直接的測定値と“間接的測定値”とは端的に合致するものと信憑されている。そして、それゆえにこそ、“間接的測定値”も直接的測定値“間接的”に準ずるものとして、“客観的”測定値として認証される。われわれも、先には、この思念をそのまま追認する流儀で論定しておいた。しかし、“同じ物差し”と謂われるものの伸縮、つまりは、時空間的世界の均整を保った伸縮、俗に謂う“空間・時間そのものの伸縮”が存在する場合には、共に“客観的”測定値と称される二つの測定値(直接的測定値と“間接的”測定値)が合致しない。それでは、ここで、直接的測定値だけを客観的測定値として信認することにするのか? それも一つの行き方ではあるにしても、その場合には、二つの現場におけるそれぞれ直接的な測定値のあいだに共通のスケールが存在しないことになってしまう。そこで、現場Aと現場Bとの、対自的測定値と対他的測定値とを共通のスケールのもとに統一的に把握し、しかるべく換算しうる仕方で“客観的時空間”なるものが規定し返される所以となる。翻って考えるに、われわれが嚮に、“身を置き移しての測定”という言い方をしたさい、“この身”の同一性(つまり、測定的認識主観の同一性)のゆえに、現場Aでの測定値と現場Bでの測定値との“交信”とか“対他・対自的な定式”とかいう構制を覆い隠す仕儀になっていた。が、実際には、“身を置き移す”前後の測定値を統一的に把握するという構制、一人二役ではあれ対他・対自的な間主観的な測定という構制が既に基底になっていたのである。こうして、直接的な現場的較認という埓を超えて、「外的世界」に関する (「外的事象」に関する)空間的・時間的規定の“客観的”測定にもとづく措定がおこなわれるさい、それは時空間の間主観的な統一的措定という構制になっている次第である。」450-3P
(対話D)「われわれは、以上、「内界」と「外界」、「内的事象」と「外的事象」とを截断する日常的な思念に副うかたちで議論を運んできたが、われわれ自身は“射映的仮現相”と“所識的実在相”とを存在的に截断する者ではない。謂うところの「内的事象」といえども単なる射映的所与ではなく判断的措定に俟つものであり、唯、射映的時空相に直接に定位されたままであることにおいて、間接的に“定在”する“実相的”な時空間に定位される「外的事象」と区別されるにすぎない。「外的事象」は、なるほど“射映的仮現相”とは別の定在として思念されはする。がしかし、「外的事象」は、決して、純粋な所識態ではなく、その都度、射映的現相を質料的所与としており、「外的事象」の測定的な空間・時間規定の構制から明らかなように、現相的所与が現相的風景世界において呈する布置に即して甫めてそれの“実相的”空間・時間への定位づけがおこなわれるのである。「事態」が判断的成態の所識的意味契機を自存化させたものであるのに対して(尤も、質料的契機をぬきにした純然たる形相的意味契機が現前することは不可能であり、実は判断成態の能記的言語表象が「事態」覚識の質料的契機をなしているのであるが)、「事象」はあくまで現相的与件を質料的所与としている。(「事象」は「事態」が現相的与件に“受肉”した具体的な相にあるものという言い方も許されうるであろう)。尤も、「事象」と「事態」とが厳に区別さるべき所以のものは、質料的与件への“受肉”ということそれ自体ではなく、空間・時間的な秩序への定位ということに存するのであって、わけても「外的事象」の場合、“客観的な”空間・時間規定という間主観的に措定される規定性を帯びていること、これが茲で銘記しておきたい論点である。――空間的・時間的定位から超脱した相で自存化される「事態」とは異なり、「事象」はあくまで時空内存在である。「事象」つまり「事体−事相」の分節的統一態が空間・時間的に定位されていることにおいて、「事相的事体」も空間・時間的に定位されて定在する。今や、この「事相的事体」ひいては「事体」を主題的にみてみよう。」453P
第三段落――「事相的事体」ひいては「事体」を主題的にみる 454-60P
(この項の問題設定)「われわれは、嚮に「事象」における「主語対象−述語規定」には、(1)「本体−基質」、(2)「主体−能相」、(3)「基体−性質」の種別が設けられうることを誌したうえで、これを総称して「事体−事相」と呼ぶことにしたのであった。事象においては強いて言えば事相の契機に志向的関心が向かうのが普通であるとはいえ、「事体−事相」の分化的統一態における「事体」の契機に志向的関心が移る場合もあり、その場合には、さしあたり、(1)「何々タルコレ」、(2)「然々タルコレ」、(3)「斯々シイコレ」、ひいては、(1)「何々タル何々」、(2)「然々スル何々」、(3)「斯々シイ何々」という相で「事相的事体」とでも呼ぶべき「もの」が覚識される。(因みに、“われわれ”が日常的に覚知する「事物」=「性状的当体」は、事実上、そのことごとく「事相的事体」にほかならないと言っても過言ではないほどである。) ――尚、これまた上述しておいた通り、事相的事体には消極型の被規定態もあるが、以下では積極型で代表させて議論を進めることにしよう。」454P
(対話@)「偖、「事体」は、「事象」が変化相にありながらも依然として「同一」のその事象である所以の自己同一性を支える或るものとして措定される経緯からして、「事物」における「当体」とも同様、いわゆる「実体」として思念され易い。従って、「事相的事体」は、とかく、“属性を担った実体”という相で思念されがちである。だが、われわれの見地から言えば、事物や事象において自己同一性を保っている格別な“実体”とやらが存在するわけではない。なるほど、事物や事象が変化相にありながらも“同じ”事物や事象でありつづけるとき、そこには論理構制上、相違性と同一性の両契機が統合相で存立するのでなければならない。そこで、同一性の契機を不変的(=自己同一性を維持する)実体に担わせ、相違性の契機を可変的属性に帰せしめる配備が思いつかれ易い。尤も、この配備は論理的思考の脈絡で構想されたものというより、現相的体験を追認的に伸長したものと言うべきかもしれない。“われわれ”が日常、事物や事象の変化に気付くさい、先の状態と後の状態とで相違している諸契機を認知すると同時に、先後で特に目立った相違を感知させない諸契機(先後を通じて“同一”のままの諸契機)をも併せて認知する。そして、まさに、先後で一貫した同一の諸契機に即して当該の事物や事象を“同一の事物”“同一の事象”であると認定するのであるように思う。ここにおいて、事物や事象は“不変的(=先後で同一な)成分”と“可変的(=先後で相違する)成分”とから成っているという了解が生じる。但し、単に二つの状態を比較しただけで、そこにみられる共通・不変の“成分”が直ちに“実体”視されるわけではない。状態Aと状態Bとでは共通の不変的成分であった契機が状態Cではもはや存続しなくなり、代わって別の契機が状態Dとのあいだでの共通・不変成分になっている、という具合に、共通・不変成分は可塑的である。が、人は、あらゆる状態を通じて不変・共通であり、且つ、もしそれがなければ“同一”の事物ないし“同一”の事象でなくなるごとき格別な“成分”が存在するものと信憑する。そしの不変な“成分”なるものは、例えば“形”として挙示されるとしても、その“形”なるものは現相に射映相で与えられるがままの形ではない。検討していけば、不変な成分と称されるものは、あれこれの現相的与件ではもはやないことが判る。それでは、人は、ここで、事物や事象における不変的な“成分”など実在しないと考え直すのか? 必ずしもそうではない。不変的な或るもの(依って以って、事物や事象がその“同じ”事物や事象である所以の或るもの)が事物や事象に内在していると普通に考え続ける。が、そうなると、当の不変な“成分”的或るものは、感性的な対象的与件とは別の存在次元に属するものとされざるをえない。このような次元で措定される“不変的な或るもの”“事物や事象に内在する自己同一体”、それがいわゆる“実体”にほかならないわけである。人は、茲で今や、事物の「当体」や事象の「事体」を改釈して“実体”とみなし、「性状的当体」や「事相的事体」を“属性を担った実体”“可変的俗世を附帯している不変的実体”という相で思念する。」454-5P
(対話A)「省みれば、しかし、事物や事象の“内奥”に「実体」なるものが厳存するわけではない。(況んや、その「実体」とやらが「属性」を附帯的に所有しているわけではない)。事物や事象が変化相を呈しつつも“同じ”事物、“同じ”事象として認知されるということは確かであり、ここには論理構制上「同一性」と「区別性」、「不変性」と「可変性」との統合的体制が存立することも確かである。だが、与件が“同じ事物”“同じ事象”として認知されるためには、不変的・同一的“成分”が存在する必要はない。われわれは、人々が日常的体験の場で、“同一の事物”“同一の事象”の諸状態を通じて“共通”“不変”な成分と思念するごとき契機を感性的に“認知”する場合が確かにあるということ、この体験的事実を認めるに吝かではない。人々がこの種の体験の場で形成された構図を墨守しつつ、もはや“共通”で“不変”の成分を感性的には挙示できないことを反省的に自覚した場面で“感性的与件とは別次元の存在体”たる“実体”なるものを想定する事情をも諒とする。だかしかし、錯誤はあくまで錯誤であり、「実体」なる格別な存在の想定は厳に卻けられねばならない。――だが、と人は反問して言うかもしれない。変化相にある事物や事象において、もし“不変の成分”が存在しないとしたら、それを“同じ事物”“同じ事象”として認知する根拠が失われてしまうのではないか? 否である。慥かに、“同じ事物”“同じ事象”として認知されるにあたっては、或る同一性の覚知が要件をなすであろう。しかしながら、この“同一性”は、格別な“成分”の同一性であるを要しない。現に亦、人が変化的状態相にある与件を“同じ事物”“同じ事象”として一貫して把持したり、先後二つの状態相を“同じ事物”“同じ事象”の状態として認知したりするさい、必ずしも同一“成分”を覚知するわけではない。なるほど、“同一成分”が覚知される場合もあるし、それが“同じ事物”“同じ事象”としての把握を機縁づける場合もある。がしかし、一般には、“同一成分”なるもの(況んや“同一実体”なるもの)がまず覚知されてしかるのちに“同じ事物”“同じ事象”として認知されるわけではない。“同じ事物”“同じ事象”としての覚知のほうが先行して、謂わば事後的に“同一成分”“不変の共通成分”が確認されるのが普通である。では、“同一成分”の確認に先立って端的に“同じ事物”“同じ事象”として覚知される同一態とは何であるのか? われわれの見地からいえば、それは「ゲシュタルト的同一態」にほかならない。ゲシュタルト的同一性は“成分”の同一性ではなく、前二篇の行文中繰り返し指摘した意味での、一種の“函数的同一態”である。(いわゆる状態相はこの“函数”が具象的な“値”で充実された成態に当たる。)」455-7P
(対話B)「ゲシュタルト的同一者なるものは、それ自身の存在性格を問えばイルレアール・イデアールな所識態であるが、現相的所与から独立自存するものではなく、その都度の事物的与件や事象的与件が単なる射映的所与以上のそれ(当の同一者)として端的に覚知されるかぎりで、具体的に即して現識される。われわれとしては、事物や事象のいわゆる“自己同一性”を支えるのは、“成分”的な「実体」ではなくして、“函数的”な全一体としてのゲシュタルト的同一態であると了解する。――茲に謂うゲシュタルト的統一態=“函数態”には絶対的な不変項(すなわち恒同的な定項)は原理的には存在せず、“項”はすべて“変項”である。とはいえ、相対的には恒同的な“値”を維持する項もあれば、“値”の激変する項もある。そして、“函数”は、全一性を保ちながらも、一種の“複合”的“函数”の相を呈し、構造的に安定的な“部分”函数と流動的な“部分”函数とに分節化して覚識されることもある。「当体−性状」、「事体−事相」の分化的統一相が覚知されるさい、そのような“複合的な函数”の相で「事物」「事象」が現認されているのだ、と言うこともできよう。」457P
(対話C)「以上の行文では、対象的与件が変化相にありつつも、一貫して“同じ”述語で述定されるたぐいのケースを念頭において論じてきたのであるが、“同じ”主語対象について別々の述語で述定されるようなケースもある。このケースにあっては如何? この場合の同一性は、もはや「主語−述語」成態全体の同一性ではなく、「主語対象」だけの同一性のはずであって、ここではゲシュタルト的同一態という議論は通用しえないのではないか? ここでは、主語対象、ないし、当体や事体の実体的自己同一性ひいては実体なるものの存在を認めざるをえないのではないか? 結論から先に言えば、われわれの答えは「否」である。――いま、(イ)「コレは牛ダ」、(ロ)「コレは動物ダ」、(ハ)「コレは牛家畜ダ」、(ニ)「コレは寝テイル」、(ホ)「コレは反芻シテイル」、(ヘ)「コレは黒イ」、(ト)「コレは大キイ」という一連の述定が「コレ」と指称される“同じ”主語対象についておこなわれるものとしよう。伝統的な思念においては、(イ)−(ト)の事象における「事体」は「同一実体」を指示しているものと考えられてきた。では、ここに謂う「同一実体」とはいかなるものであるか。(イ)−(ト)の「事象」すなわち「事体−事相」の分化的統一態において、伝統的な思念では、「事体」は全く同一で「事相」が種々相に岐かれるだけとみなされる。だが、(イ)−(ト)における“真の主語対象”が“全く同一な事体”であるわけではないこと、これは前篇第二章で既に事実上論じたところである。ここではその復唱は罷めて、稍々別の角度から論決しておこう。――(イ)なり(ニ)なりという単一の事象において、それが変化相にあることが覚識されつつも一貫して“同じ”事象として把持されるさいの“同一者”と、事象(イ)と事象(ニ)とを比較して、二つの事象において較認的に認知される“同一者”とはそのまま合致しはしない。後者は前者の“成分”であり“部分函数”である。」457-8P
(小さなポイントの但し書き)「(但し、この“特定成分”だけが(イ)−(ト)における「コレ」「主語対象」なのではない。われわれは、便宜的な論脈では、「事象」が“主語成分”と“述語成分”、「事体」と「事相」とから成っているかのような論じ方をしないでもない。が、しかし、原理的には、ゲシュタルト的な「図」の全一態が主語対象をなし、これに述語の被表的意味規定が向妥当せしめられるのである。けだし、(イ)−(ト)が“共通成分”を“含む”としても、その“共通成分”だけが主語対象なのではなく、上述の通り、厳密にいえば、(イ)−(ト)の「主語対象」は全くの“同一の事体”ではない所以である。前篇において、「Sノ○○性ハ」「Sノ○○性に即して」という主語の在り方を論考した議論を想起ねがえれば明らかな通り、(イ)−(ト)の主語対象が“共通・単一”という言い方は、日常的既成観念に妥協した“便宜的”な立論たるにすぎない。――尤も、(イ)−(ト)を以って“同一の函数”が種々の“値”をとっている成態であるとみなしうるかぎりでは、主語対象の共通性・単一性が主張されうるが、しかし、その場合には、それは較認的に同一相で認知される“成分”的“部分函数”ではない。却って、この場合には、(イ)−(ト)の「真の主語対象」は「全く同一」であることになる。とはいえ、これはわれわれ自身がここで積極的に主張しようとするところではない。)」458-9P
(対話D)「翻って、(イ)−(ト)の“共通成分”、この“同一者”とはいかなるものであるか。「牛」とも「動物」とも「家畜」とも……述定される或る“単一・同一”のものとは何か。それが文字通りの或る“成分”でないことは絮言を要しないであろう。それは函数ƒ (x,y,z……)になぞらえうるような関係態であり、“変項”(これは対他的反照規定性を“内自化”したもの)がさまざまな“値”をとるのに応じてさまざまな状態的規定相を呈しつつも当の同じ“函数”とされるかぎりでの同一態である。“共通成分”と称される例えば骨・肉・皮……の統一的定在にせよ、色・香・形……の統一的定在にせよ、不変不動の自己同一者ではなく、それらが同一のものと称されるさいには既に一種の函数的な同一者、すなわち“値”を変ずることが可能な、それでいて「ソレ」でありつづける或るものとして了解されている、と言うことができよう。勿論、人々は日常的意識において“函数的同一者”などということを自覚するわけではない。心理学的にいえば、それはたかだか“錯図”的分節肢としての「ゲシュタルト的同一性」にすぎない。がしかし、われわれの見地からいえば、「ゲシュタルト」なるものがそもそも一種の“函数的同一態”にほかならないわけであって、けだし、嚮に“共通・単一”者を“部分”函数(「事象」全体に応ずる“函数態”の“部分函数”)と誌した所以でもある。」459P
(対話E)「こうして、われわれは、“個々の事象”における自己同一者であれ、いわゆる“主語対象を共有する諸事象”を通じての自己同一者であれ、伝統的な思念に謂う「実体」としてではなく、ゲシュタルト的な函数的同一態として了解し、この了解にもとづいて「実体」という格別な存在体の想念を排却する。だが、以上の議論によって伝統的な「実体」の思念の無用性が論証つくしたわけではない。「事象」における「自己同一者」を“函数的同一態”に帰趨せしめるわれわれの議論に対しては、次のごとき反論の余地がまだ残っている。例えば「コノ牛」と「アノ牛」という二つの「事体」(遡っては二つの「事物」)における“自己同一者”たる“ゲシュタルト”ないし“函数的同一態”は「コノ牛」のそれも「アノ牛」のそれも“同一”であって“個体的区別”を有たないのではないか? しかるに「コノ牛」と「アノ牛」とは「属性」はよしんば全く同一であっても、別々の個体である。この「個体的区別性」を支える根基として、“属性とは端的に別途な存在”たる或るもの、視角を変えていえば「個体的自己同一性」を支える根基としての或るもの、これが存在するはずではないのか? 論者たちは、「個体的区別性」「個体的同一性」を依って以って成立せしめる或るものとして「実体」を想定し、この意味での「実体」は“函数的同一態”“関係的規定態”には還元しうべくもないと主張する。――節を新たにして、このありうべき主張に応えることにしよう。」459-60P


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2025年05月01日

高田一宏『新自由主義と教育改革 大阪から問う』

たわしの読書メモ・・ブログ697
・高田一宏『新自由主義と教育改革 大阪から問う』岩波書店(岩波新書)2024
公教育が現在どうなっているのか、特に大阪維新の地方自治行政下で教育が如何に歪められたかを丁寧に押さえ、そして教育に対するいろいろな意見を押さえて、「二つの側面」という中身を丁寧に押さえ直しながら、自分の教育に対する見解ということを展開した本です。新書で、読みやすく判り易い書です。
ちょっとこの本からヒントを得て、わたしのとらえ返しを展開します。「二つの側面」ということは、著者は資本主義批判にまで踏み込まないで、色んな側面からとらえ返しをしていますが、資本主義批判に踏み込んでいるわたしなりに押さえると、一つは資本主義社会の差別選別教育ということで、資本(主義的社会)に役立つ「人材の育成」ということと、二つ目は社会ということの矛盾とかもとらえて、自分の批判意見や感性をもち、社会の矛盾を解決していくことに参画・働きかけをしていくということに結局はなるのだと押さえ直します。わたしからするとそれは結局資本主義の止揚ということまで踏み込まないと競争原理的なことに飲み込まれていってしまうという傾向がとらえられるのです。勿論そういうなかでも、いろんな後者のことで試行錯誤していく試みは続けられてはいるのですが。
維新政治で教育というところでは、特に高校の無償化を評価できるという意見があるのですが、公立高校と私立の高校の比率が変化していくという、公的なことの民営化路線ということにつながることで、公立の高校が統廃合されていく流れが出ています。そしてユニークな取り組みが出来ていた公立高校がなくなっていくということも生み出されているようです。私立がユニークな教育ができるという面も指摘されますが、それは選別教育の競争原理主義のなかでのユニークさにすぎません。そして、維新の教育施策では、競争原理主義の徹底というなかで、結局いじめや不登校を生みしていくことになり(この本の中で検証されています)、差別と分断を招いていくことになります。資本主義社会の教育は、結局「人材の育成」ということで競争原理を徹底すれば色んな矛盾が起きるということで、道徳教育を持ち出すのですが、そもそも競争原理主義をどうするのかというところで、道徳教育自体が矛盾に陥るのです。それを、右派の戦前回帰や新自由主義者は国家主義をもちだしたりするのですが、新自由主義の競争原理の徹底化は自分中心主義のエゴイズムにしかならないので、国家主義のカルト的なことに陥らない限り矛盾を来たします。もちろん、国家主義のカルトは戦争とファシズムの道を突き進んでいくのです。
この本は維新政治への特に教育をめぐる批判の書として参考になるので、お薦めの本です。切り抜きは、いろいろ参照になる部分がいくつもあるのですが、ほとんど共鳴していくつもの多大な切り抜きになるところ、新書で読みやすい本なので読んでもらいたいので書きません。目次を挙げおきます。
  目 次
序――検証なき改革を検証するために
第1章 新自由主義的教育改革の潮流――歴史を振り返る
   1 新自由主義的教育改革の系譜
   2 日本の新自由主義的教育改革――二〇〇〇年代以降の政策転換
   3 大阪の教育改革を検証する意義
第2章 大阪の教育改革を振り返る――政治主導による政策の転換
   1 教育改革の幕開け――府民討論会の開催
   2 改革を支える思想とは
   3 改革以前の大阪の教育――人権・同和教育の歴史に学ぶ
   4 教育政策の大転換
第3章 公正重視から卓越性重視へ――学力政策はどう変わったか
   1 教育課題としての学力問題
   2 前のめりな学力向上政策
   3 学力テストは教育現場に何をもたらしたか
第4章 格差の拡大と地域の分断――小・中学の学校選択制
   1 学校選択制の歴史と現状
   2 大阪市の学校選択制――全国的な流れに反して
   3 学校選択制はいま――広がる格差と地域の分断
第5章 高校の淘汰と進路保障の危機――入試制度改革と再編整備
   1 人権保障としての進路保障
   2 淘汰される高校、狭められる進路
   3 チャレンジテストは中学校教育にどう影響したか
第6章 改革は成果を上げたのか――新自由主義的教育改革の帰結
   1 教育課題は克服されたか――子どもたちの現実
   2 保護者と学校は改革をどうみているか
   3 検証なき改革の果てに
第7章 新自由主義的教育改革に対抗するために
   1 学校選択制の歴史と現状新自由主義的教育改革の系譜
   2 大阪市の学校選択制――全国的な流れに反して
   3 学校選択制はいま――拡がる格差と地域の分断
参考文献
あとがき


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雨宮処凛『相模原・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイトのあいだ」』

たわしの読書メモ・・ブログ696
・雨宮処凛『相模原・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイトのあいだ」』太田出版2020
反貧困を軸に発言・運動・執筆している雨宮さんの相模原事件の裁判の傍聴記です。障害問題を軸にして差別の問題を総体的にとらえようとしてきたわたしサイドの立場から、反貧困という差別の問題で活動し、執筆活動をしてきている著者がどのように相模原事件をとらえているのか、また相模原事件のとらえ返しという意味で、気になっていた本です。図書館で借りて読みました。
まず目次を揚げておきます。日にちの入った項目が「章」立てのようになっています。その「章」に当たる項目に更に小項目の見出しがある章があるのですが、それは省いています。
     CONTENTS
まえがき
1月8日 第1回公判
思ったより妄想がひどい
1月10日 第2回公判
夜勤職員の調書
1月15日 第3回公判
遺族の供述調書読み上げ
1月16日 第4回公判
遺族の供述調書読み上げ・続き
1月17日 第5回公判
証人尋問に元カノ登場
1月20日 第6回公判
植松被告、30歳の誕生日 「戦争をなくすため、障害者を殺す」
1月21日 第7回公判
後輩女性の供述調書読み上げ
1月24日 第8回公判
初めての被告人質問で語った 「幸せになるための七つの秩序」
1月27日 第9回公判
やまゆり園で虐待はあったのか? 「2、3年やればわかるよ」
1月30日 植松被告に面会。
「雨宮さんに聞きたいんですけど、処女じゃないですよね?」
2月5日 第10回公判
遺族、被害者家族からの被告人質問
 2月6日 第11回公判
これまでのストーリーが覆る。 「障害者はいらない」という作文
 2月7日 第12回公判
精神鑑定をした大沢医師が出廷
 2月10日 第13回公判
精神鑑定をした工藤医師が出廷
 2月12日 第14回公判
「大事な一人息子に私は死刑をお願いしました」
 2月17日 第15回公判
美帆さんの母親の意見陳述
 2月19日 第16回公判
結審の日
 3月16日 判決言い渡し
「被告人を死刑に処する」

 対談
 渡辺一史×雨宮処凛

あとがき

さて、「よく分からない、分からない」ということが連発されているのですか、その中でも、色んなひとが自分なりのとらえ方をしているのですが、いくつか押さえ損なっている話があります。植松被告は「頑張っているのに報われないひとがいるのに、「障害者」は・・・」というところで、「自分が頑張っているのに報われない」とかいうことが犯行のきっかけになったという主旨の斉藤環さんの話が出てくるのですが、植松被告自身は、堀江貴文こと「ホリエモン」に憧れています。自分の「才覚」とやらで汗をかかないで金儲けしているひとに憧れているのです。ですから、自分が頑張っているという発想はなかったのだと思われます。楽して儲けるという発想がそもそも彼の中にあったのです。ですから、「楽でない」と感じる介助の仕事に入る込むことが出来なかったのです。また、彼が「障害者」に対して、仕事に入って初期に「かわいい」(註1)と言っていたことをもって、「彼は変わってしまった」、という意見がかなり出ていたのですが、そもそも人格をもった対等な関係という押さえがあるところで、「かわいい」などという言葉を使うことはありえません。また、裁判過程で小学生のころの「障害者」に対する差別的感情をもっていたという話が出ていますが、これはそもそも彼のみならず、今のこの差別社会で多くのひとがもっている感情で、多くのひとは他者から注意されて口に出していけないこととして学んでいきます。このことは後述します。
それから、最首悟さんが、「障害者福祉に携わる教え子」の話として「優生思想でも、なんでもない。単純な嫉妬ですよ」という話を紹介しているのですが、そもそも嫉妬は差別的関係の現れで、そういう意味で優生思想のひとつの現れなのです。が、これは「嫉妬」と言えることでしょうか? 嫉妬というのは「下位」、もしくは下位的な境遇にあると(勘違いも含め)思っているひとが「上位」もしくは上位的な境遇にいるひとに懐く感情です。彼は、施設の「障害者」たちを見下していて、「かわいそうなひとたち」という表現をも用いています。そこに嫉妬という感情はないと思います。あるとしたら、介護職がそのハードな内容に合わない低賃金で他の職業のひとが良い賃金をもらっていることへの嫉妬が歪曲・屈折する形で、「障害者」にむけられたという押さえはできるかもとは思います。
さて、多くのひとが、優生思想を抹殺の思想とでもとらえているのかもしれませんが、青い芝の運動で、『母を殺すな!』を書いた横塚さんは、親の障害者殺しをラジカル(根源的に、鋭く)批判しつつ、自分達がこどもが生まれた時、「五体満足」かついみてしまう。そのことが自らの存在の否定となるのにそういう思いをもってしまう、その内なる差別をとらえ返していました。それが優生思想そのものなのです。日本において長く反差別運動を牽引した部落解放運動において、「社会にある差別意識を空気を吸うようにとりこんでしまう」という表現がされていました。多くのひとが「障害者」に対する社会的差別意識を少なからずもってしまって育っていきます。それを払拭しようとしていくひともいますが(そしてこの差別社会で完全に払拭などできはしないのでしょうが)、多くのひとは「差別意識」はもったまま本音と建て前を使い分けて生きています。植松被告は、本音を表に出し、周りのひとはそれをきちんと批判するメッセージを(自らの「本音」の部分で共振したこともあっただろうので)出せないまま、そして彼がきちんと対話をしていく習慣を身に付けないで、他者の意見を聞かないというところで「犯行」に到ったのだとわたしはとらえています。
そもそも優生思想を狭義の抹殺の思想としてとらえる傾向が強いのですが、わたしどちらが上か下かという意識をもってしまう、それが優生思想だと思っています。それは、そもそもが公教育の中で、成績ということで、どちらが上か下かという意識をもってしまう、そこから優生思想が起きています。そして、親の職業、親や周囲のひとたちの差別的発言にさらされて育っていくこと、学習環境、スポーツ、ルッキズム、数多くの差別事項、その他(註2)。そもそも、この社会派差別で成り立っているので、優生思想にとらわれないひとはいません。だから、それを払拭するには、反差別の思想を自らが獲得しそだてていくことしかないのです。
さて、この本に戻ります。雨宮さんは、この書を、いろいろ思考をめぐらせながら、「だけど、この14年、「無条件の生存の肯定」という言葉をスローガンにしてさまざまな活動をしてきた。」225Pというところで、結論的なところに到っているととらえられます。それに、わたしも共鳴していました。
(追記)
  わたしの事件直後に書いた文は、http://www.taica.info/adsnews-59.pdf
「相模原事件について・・・優生思想との対峙のために ―「犯罪の社会モデル」を考える立場から―」
(註)
1 フェミニズムの論考・論攷では、性的なことにおける「かわいい」ということ自体を、「そこには守ってあげたいとかいう感情がある」として、その差別的なことの指摘がありました。
2 例えば、わたしは兄に教えられて将棋を憶えて、クラスメイトに教えながら、将棋をさしたりしていたのですが、その中で相手は知らないひとですから、勝つわけですが、その時に起きる相手を打ち負かしたという感情が起きることに身震いし、将棋を指すことを止めました。学生時代に周りで囲碁を打つひとたちがいて、その中でみていると打ち負かした時の感情的なことをみていました。勿論スポーツやそういう娯楽の世界でも、勝ち負けというよりも自分を磨く、たとえば囲碁の場合など、自らのひとつの構想的なことを楽しむという心境に至るひともいるのだとは思いますが、この社会は勝ち組・負け組という言葉の流布のように差別に満ち満ちた社会で、そのことがどのように発露していくか、その極端な例のひとつだとわたしはとらえています。

posted by たわし at 23:33| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(12)

たわしの読書メモ・・ブログ695[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(12)
第三篇 事象的世界の存立機制
第一章 事物的世界の分節態勢と空間・時間
 第三節 時間的規定の形象化
(この節の問題設定−長い標題) 「現相的世界においては、反省的見地のもとで“時間的ゲシュタルト”と呼ばれる分節肢があり、先後(時間的布置)、持続(時間的延長)、間合(時間的距離)が直截的に覚知される。――過去・現在・未来は、いわゆる“心理的現在”が内部的に先時・同時・後時に分節化することによって直接的に区分されるものではなく、回想的表象世界・現認的知覚世界・予期的表象世界が、それらの世界に内属する“私”の自己分裂的自己統一を介して区別化的統一=統一的区別の相で覚識されることに俟って時相化されるものである。但し、回想的世界・現認的世界・予期的世界がそのまま過去的世界・現在的世界・未来的世界なのではない。過去的世界・現在的世界・未来的世界、ひいては過去・現在・未来がそれとして存立するのは“時間的推移”の間主観的な形象化(直線的であれ円環的であれ)に基づいてである。――知覚的風景世界に共属する自分と他人にとって「今」は間主観的に単一・共通であるという思念と相即的に、自他にとっての先後・持続・間合も共通であるものと覚識される。この覚識のもとに、時間的持続の大きさが視覚的に現認される規則的変化の量的規定性と対応づけられることにおいて、いわゆる“時間の客観的計測”が共同主観的におこなわれる。」414P
第一段落――端緒としての“心理的現在”としての先後・持続・間合の即自的な覚識 414-9P
(この項の問題設定)「爰では、まず、いわゆる“心理的現在”に眼を向け、先後・持続・間合の即自的な覚識に留目するところから始めよう。“心理的現在”は、物理的に計測すれば“時間的厚み”をもっている。例えば<チン・トン・シャン>と聞こえる音響を、人は三音の分節を含む一纏りのゲシュタルトして現在的に知覚する。なるほど、或る種の論者たちは「先行する音列はもはや記憶にすぎず、感覚的に知覚されるのは現瞬間の音だけである」と主張する。しかし、そのような言い方をするのであれば、謂うところの「現瞬間の音」でさえ初めの部分はもはや記憶なのであって、最終的瞬間だけが知覚に属すると言わねばならなくなろうし、ひいては、それは音の知覚ということの全面的な否認に到らざるをえないであろう。われわれとしても、もちろん、一定限界を超えれば、先行部分は記憶のかたちでしか現前しないと認める。また単一の知覚的ゲシュタルトとして意識される形象(「ゲビルデ」のルビ)であっても、第三者的に省察すれば、すでに一定の記憶的介在に俟っているということも認める。しかし、われわれとしては、さしあたっては、現在的に覚識されているゲシュタルト的知覚、このフェノメナルな意識事態に定位することができる。」414-5P
(対話@)「偖、今聞こえている<チン・トン・シャン>という音は、現在的な知覚的ゲシュタルトであり、心理的現在に属するわけであるが、この音は<チン・トン・シャン>という順序の入れ換った音とゲシュタルト的に弁別して(別々のメロディーとして)知覚される。ということは、第三者的に省察していえば、“同じ構成分”から成っていても“時間的配列”が異なるものは相異なるゲシュタルトとして弁別的に知覚されるということを意味する。視覚的な現相の場合にも、例えば、赤・黄・青という順序での光斑の点滅と黄・赤・青という別の順序点滅とはゲシュタルト的に弁別される。触覚や味覚や嗅覚でもやはり同様である。別種の感覚の順序、例えば、光・音・香と香・光・音という順序をも、人はゲシュタルト的に区別して知覚する。マッハの実験によれば「全く異質的な諸感覚、音・色・触覚印象、等々の継起からなるリズムを創り出すことができる」由である。同様な弁別的機制が、おそらく、高等動物一般の知覚に存立するものと忖度される。少なくとも人間の知覚は、その都度の感性的与件の具体的内容・種別からは相対的に独立に、時間的順序(と反省的に規定される布置関係)を(インターヴァルがあまり大きくない一定限界内で)弁別的に覚知することができる。この点で、空間的知覚において二つの事物の空間的布置(前後・左右・上下)を弁別的に覚知できるのと同趣的である。――いわゆる時間的持続の大きさについてはどうか。音色、強さ、高さが全く同一の音であっても、人は長音と短音とを弁別的に聞きとる。視覚的与件の場合についても、同断であって、この点では、物体の空間的大きさ(延長)を弁別的に覚知すると類同的である。――間合についても、一定限界内では、人は“間隔”を弁別的に知覚することができる。例えば、同じ音列でも、早いリズムの場合、つまり、間合が短い場合と間伸びのしている場合とを弁別的に聞き分ける。光斑の点滅や触覚の継起などの場合も同様であり、この点で、二つの事物間の空間的な距たり(距離・間隔の大小)が知覚的に認知されるのと併行的と言うことができる。」415-6P
(対話A)「こうして、われわれは、心理的現在において覚知される音列や運動などのごとき所謂“時間性ゲシュタルト”乃至その知覚において――空間的知覚における布置・延長・距離と併行的に――時間的布置(先後)、時間的延長(持続)、時間的距離(間合)が弁別的に現識されるということをフェノメナルな事実として立言することができる。」416P
(対話B)「人々は、しばしば、空間的規定性については、それが感覚的に認知できる対象性であることを容認しつつも、時間的規定性については感覚的に覚知されることを認めず、「時間対象性というものはそもそも知性的反省の所産にすぎない」と主張する。ないしは、「今」という一瞬だけを感性的与件なりとし、先後・持続・間合といった規定はことごとく反省的概念にすぎないとみなしがちである。われわれはもとよりこのような臆見にくみすることはできない。尤も、われわれとしても、先後関係や持続時間といった対象性を純然たる感覚的所与であると考えるわけではない。そこには「感性的与件」と「意味的所識」との二肢的二重性が存立している。ここでは、しかし、この二肢的二重性の主題的指摘は差控えて、とりあえず、通俗的な意味での時間感覚という次元で論じておけば足る。――人は音韻メロディーのみならず、視覚的・触覚的・嗅覚的・味覚的与件の“メロディー”をも弁別的に知覚できるが、それはその都度の感性的内容(音・色・香、等々)に充たされた知覚なのであって、純粋な「今」とやらの継起ではなく、また、先後・持続といった関係や形式の純粋直観ではない。われわれの現実的知覚において与えられるのは、その都度の感性的与件内容によって充たされたゲシュタルトなのであり、布置そのもの、持続そのもの、といった規定性が自存的に抽離されたかたちでフェノメナルに現前することはない。その点では、しかし、空間的布置や空間的延長にしても、形や色にしても、純粋にそれ自体が単純に覚知されるわけではない。にもかかわらず、人々は、リンゴの色とバラの色を同定して“赤色の感覚”を云々し、赤いリンゴと青いリンゴとの形を同定して“形の感覚”を云々する。このような立論が許されうるかぎり、メロディーやリズムに関する分析的同定にもとづいて、先後・持続・間合の“時間感覚”が存在すると主張することも同様に許されるはずである。」416-7P
(対話C)「茲に、空間的延長性や形や色といったものの“感覚”が存在すると認められるのと同等の権利において、われわれは、時間(先後・持続・間合)の感覚が存在する旨を主張することができる。このさい、しかし、われわれとしては要素主義的な感覚説を採る必要はないし、また、いわゆる素朴実在論の流儀で“感覚”にはそれに対応する原像的対象性が“実在”すると強弁する者でもない。さしあたって立言しているのは、“時間感覚”の存在が“空間感覚”の存在と同等の資格で認められるということまでである。(なるほど、時間は、空間形象や音などとは異なって、それを感受する特定の感覚器官との対応性をもたないかもしれない。しかし、この点では、いわゆる“体内時計”がそのまま対自化されるとは考えない。)当面の議論にとっては、いわゆる時間的ゲシュタルトの異相性が即自的な現在的意識において覚知されうるとうこと。そして、当の異相性が反省的には「時間的先後」「時間的持続」「時間的間合」の相違として対自化されうるということ、このことを銘記しておけばよい。」417-8P
(対話D)「ところで、例えば<チン・トン・シャン>という音響ゲシュタルトが「知覚的現在」に属するということ。すなわち、それが現在的意識野、現在的現相世界に属するということは、<チン>という音と<シャン>という音とが“時間的同時”位相にあるという意味ではない。単一の音響的ゲシュタルトだといっても、例えば、鐘の音がそれに重なる場合、<チン・トン(カン)・シャン>(註)といった相で聞こえるのであって、この場合、反省的に措定される“同時”と言われるのは<トン>と<カン>とであって、メロディー全体とではない。このさい、しかも、反省的に措定される“同時”ということの位階が問題である。与件が時間的先後の布置関係にある場合には、もちろん一定の識閾内においてであるが、即自的な意識においてもそのこと(先後)意識されている。ところが、与件が同時位相にある場合には、そのこと(同時性)は殊更に意識されない。例えば、自分の掌を眺める場合、反省してみればなるほど親指と中指を同時に見ているには違いないのだが、直接的な意識においては同時性の意識は見出せない。それにひきかえ、まず親指を見てつぎに中指を見る場合、ないしは、その逆に視線を移す場合には、反省以前的な意識においても、先後の関係が非措定的にもせよ意識されている。このことに鑑みれば、「先後関係」と「同時関係」とは、それが概念的に措定されるのはいずれにせよ反省を介してであるとはいえ、先後の覚知のほうが先行的・直接的であり、同時関係ということはさらなる被媒介性において対自化される間接的な所知であると言わねばなるまい。二つの与件の同時性覚知ということは、両者のあいだに先後関係の直接的覚識が認められないという否定的媒介(対他的反照区別)を経てはじめて対自的に措定されうることであって、直接的な反省において対自化されうる先後関係とは位階を異にする。」418P
(対話E)「こうして、知覚的現在は、反省的に措定される“瞬間的同時位相”ではなくして、反省的に対自化すれば異時にわたる間合ないし継続を懐胎している。そして、この知覚的現在という時間帯(持続)の内部における限定としてのみ、はじめて、反省的同時性(従ってまた厳密な意味での「今」)が措定されうるという事情にある。(旧来の哲学的時間論は往々「今」「瞬間」「同時」から出発しようとして諸々のアポリアに陥っているが、よしんば論理的手続きとしてはそれが許容されうるとしても、それはそもそも体験的時間の実情には合わないのである。)」418-9P
(註) <トン>と<カン>は1行に小文字で併列的に二文字同じ大きさで入れています。わたしのルビの諸式で、<カン>を(カン) と納めました。但し、ルビの場合とは反対に、<トン>が上、<カン>が下です。
第二段落――時相の分化的形成における運動・変化を「生滅」「変様」「移動」という三種類に分けて位相をとらえつつ、記憶的時空間、知覚的=現在的時空間、予期的時空間の位相をとらえる 419-26P
(この項の問題設定)「先後・持続・間合が直接的に覚知されるということは、しかし、それ自身ではまだ、過去・現在・未来という時相がそれとして覚識される謂いではなく、況んや、時間なるものの固有の存在として形象化される謂いではない。時相をもった時間なるものが固有の存在として対象的に形象化されるのは諸多の媒介を俟ってのことである。ここでは、時相の分化的形成をみる縁(「よすが」のルビ)としてフェノメナルな現在的世界の内部において知覚的に認知される相での運動・変化を「生滅」「変様」「移動」という三種類に分けて、それの知覚的空間(実は「時空間」)との関わり具合を内省しつつ、記憶的時空間、知覚的=現在的時空間、予期的時空間の位相を一瞥しておこう。」419P
(対話@−「生滅」)「「生滅」は、前節でも指摘した通り、知覚的空間世界との関わりの有化・無化というべき変化であって。準反省的にいえば、生起とは空間的関わりをもち、そこに座を占めるようになること、消滅とは空間的世界内にもはや座をもたず、空間的世界と端的に無関係になること、このような様態で了解される。このさい、生滅はあくまでこの知覚的世界空間内での事件なのであって、消滅してしまった事象はもはやそれの属すべき別の空間的布置世界をもたない。なるほど、記憶的に回想される場合、当の事件が“記憶的空間世界”に所属するということが一応は言える。しかし、その“記憶的空間世界”なるものは、まさに当の生滅がそこで起こった“知覚的空間世界”全体の記憶的再生であって、それは決して“もう一つの可能的知覚世界”ではない。消滅してしまったものは、もはや、いかなる可能的知覚世界にも存在しないものと了解される。(尤も、夢や夢想的な想像においては消滅した事象が、かつてそれが知覚されたさいの空間的布置とはおよそ別様な脈絡で、このかぎりで、別の空間的世界に再現しうる。が、これについては後に別途の論脈内で論ずる予定である。)」419-20P
(対話A−「変様」)「「変様」にはさまざまな種類があるが、知覚的世界空間との関係では、空間的大きさの変化(肥大・縮小) に定位して一般的に論定することができる。例えば、眼の前で風船が膨れるのを見る場合、この変化相での風船がそのまま知覚的現在の空間的世界に属する。それは恰度<ド・レ・ミ・ファ>という次第に高まっていく音の全体(つまり、最後のファだけでなくゲシュタルト的全体)が知覚的現在世界に現前するのと同様である。一般論として、変様しつつある事象は、当の変様相というゲシュタルト態において知覚的空間世界に所属する。尤も、変様が緩慢である場合には、所記の状態と現在の状態とが分離して、ゲシュタルト的統一性を喪失することがある。その場合には、所記の状態が“記憶的世界空間”に所属することになるが、この初期状態は前記の意味で「消滅」したものであって、初期状態の与件はもはやいかなる可能的知覚空間世界にも所属しない。存在するのは、あくまで、変化相で知覚的に現前している知覚空間的与件だけである。」420P
(対話B−「移動」)「「移動」的運動の場合、それが現在的知覚空間世界の内部で完結するケースや、運動が緩慢なケースにあっては「変様」について上述したところと同趣である。しかし、運動体が知覚的意識野を横切って知覚的空間世界を超出する場合には、それはかの「消滅」とは存在様相を異にする。例えば、猫が視界を横切って走り去った場合、その猫は消滅したのではなく、可能的知覚空間内に現存しているものと了解される。現に、視角を変ずると、同じ猫を知覚的に再認することができる。知覚的空間世界を横断(縦断)的に超出する運動体的与件は、現在的知覚空間からは姿を消しても、別の空間的世界(可能的知覚空間)に存在するものと即自的に了解される所以である。(知覚的空間世界の内部において物影に隠れたものも同様である。)この間の事情が最も鮮明に現われるのが、われわれ自身の身体的運動にともなって、知覚的空間世界(視野)が移動する場合である。例えば、町並みを歩くとき、今しがた通過してきた情景はもはや現在的知覚空間には存在せず、それは“記憶的空間世界”に属する。とはいえ、知覚的空間を横切って超出した当の情景は、別の可能的知覚空間に属しているものと覚識されており、現に、われわれが振り返るとき、ないしは同じ道を再度歩むとき、それを知覚的に再認することができる。その場合には、しかも“記憶的空間世界”という一たん過ぎ去ったあの空間的世界の全体的情景と知覚的現相で再開しうるわけである。」420-1P
(対話C)「こうして、われわれ自身の継時的な身体的移動――それは一般に等速的前進運動としておこなわれる!――によって、知覚的視野空間の移動、対象的世界の流過が継行される場合、過ぎ去った知覚的空間=記憶的空間世界に所属する与件、いな、当の空間的世界そのものが、知覚的に再認=現前可能なものとして了解される。しかも、前進的歩行運動は一定のリズム感をともなって、視界の遷移そのことを時間的ゲシュタルトの相で現出せしめる。ここにおいて、過去的世界は「消滅」したのではなく、再度近く可能な在り方で、現出する知覚的空間世界とは別に、厳存するという思念が機縁づけられることになる。」421P
(対話D)「われわれは、以上、運動性知覚ゲシュタルトと知覚的=現在的空間世界との関係、ならびに、それと記憶的空間世界との関係、これらの一端を検覈してきた。今や予期的空間世界に関説すべき次序であるが、上述のところとパラレルに、ここでは次のように臆言するにとどめよう。――予科されている事象は、生滅にせよ変様にせよ移動にせよ、それが現在の知覚的空間という静止的な大枠内部にディスポジショナルに定位されている場合には、それは別の可能的知覚空間世界を思念せしめることはない。しかるに、当の予期的変化が現在の知覚的空間を超出する場合、ないしは、それが現然的知覚空間世界の大枠そのものを変容せしめる相で予料されている場合には、別の可能的知覚空間が表象される。――予料的表象には、しかし、狭義の予期と夢想などとの種別が存在するし、予期そのものの内部に“未来完了”を規定するごとき過現未の三時相が存在するといった事情もあり、ここには立入って討究すべき問題点が残されている。だが、これらの問題点を絡めて予期的=未来的空間世界について敷衍しえんがためにも、先決問題を処理しておかねばならない。」421-2P
(対話E)「右の行文中、「記憶的空間世界」「予期的空間世界」という言葉を唐突に導入したのであったが、これらの概念は明示的に規定し返す必要がある。(遡っていえば、生滅・変様・移動と空間的世界との関係についても、変化という概念およびその様態的区別を“常識的”に先取したかたちになっており、これまた再措定を要する)。とはいえ、今暫くのあいだ常識的理解に仮托する流儀で議論を進めることを許されたいと念う。」422P
(対話F)「ここでは、とりあえず、意識主体、さしあたっては「身体的自我」の脱自的な自己分裂的自己統一という態勢を勘案しつつ、フェノメナルな時空間の存在現相を追認しておくのが順路である。」422P
(対話G)「知覚的=現在的意識空間が時間的な“厚み”をもっていることは上述しておいたが、この時空間はさながら相対性理論の時空間のごとき内的統一性をもっており、あまつさえ、それは身体的自我を輻湊点とするパースペクティヴな構造をそなえている。覚知される空間的・時間的な“大きさ”がそれを充たす事象の“質・量”によって制約されることはあらためて指摘するまでもあるまい。ここで特記しておきたいのは、空間規定と時間規定との相互浸透的な制約性である。一直線上に等間隔に並んだ光点を順次に点滅していくとき、点滅の時間間隔を不等にすると、物理的空間距離は等しいにもかかわらず、時間間隔の大きい二光点間が大きな距離に感じられる(タウ効果)。また、直線上の光点を不等間隔にしておき、同じ時間間隔で順次に点滅していくと、物理的には同じ時間間隔であるにもかかわらず、空間的に距離の大きな二光点の継起は時間的間合が長かったように感じられる(エス効果)。このような実験事実からも明らかなように、空間知覚と時間知覚とは相互制約的であって、要言すれば、現在的知覚空間は四次元連続体的な(?)時空間系をなしている。そしてこの知覚的な時空間系が「身体的自我」に定位されているわけである。(けだし、われわれが時間感覚と空間感覚との布置・大小・距離の対応的規定性を指摘するだけでなく、時間形象をつねに空間形象との関連相で論考する所以でもある。)」422-3P
(対話H)「われわれは知覚と“想像的”ないし“記憶的”な表象とを即自的に区別して意識する。なるほど、反省してみれば幻影であったことに気づくというような場合もあるが、その都度の意識において、知覚と表象とを反省以前的・直覚的に弁別しているのが常態である。ところで、「表象」の属する“時空間系”は一義的ではない。これは過現未の世界の分局化ならびに時間意識の形象化の機制において枢要な契機をなすので、若干の分析を挿んでおこう。」423P
(対話I)「私はいまライターを手に持ってタバコに火をつけようとしている。私はライターから焔が出ることを予期する。予期的に泛かぶ焔は表象であって知覚ではない。だが、焔の表象は、私が手に持っているライターの穴の上に、つまり、現在的知覚空間の一定の位置に、定位されている。今度は、私がついいましがた消えた焔を回想的に思い泛かべる。焔の記憶表象はもちろん知覚的に現前するわけでないが、しかし、それの在り場所はやはりライターの穴の上、つまり、わたしの知覚空間世界の一定個所である。このような事例においては、予期的ないし記憶的な表象が現在的知覚空間に定位的に属する、と言えよう。それはしかも、それが表象であるかぎり、現在時相に属する。――当の焔が知覚的に現前する(現前した)のは現在ではなくして今後(以前)であるにしても、表象としては時間的にも現在的知覚空間に定位されているのである。」423P
(対話J)「右のごときケースは、なるほど、特殊例外的かもしれない。一般には、例えば、明日の遠足の状景を予想的に表象したり、昨日の会議の場を回想的に表象したりする場合など、当の情景的表象は眼前の知覚的空間内に定位されてはいない。それでは、それはどこに属するのか? これを確定するためには若干の廻り途を要する。漫然と庭先を眺めていると、ふと友人某の面影が泛かぶ。彼は庭に立っているわけではない。そもそも、泛かんでいるのは首から上の顔だけである。このような場合でもやはり、当の表象は現在的意識野=現在的知覚空間に属するというべきではないのか? それは、たしかに、先程のライターの焔とは異なって、特定の空間的位置に定位されてはいない。それは恰度、メロディーが私の意識野=現在的知覚空間に属するとはいっても場所的に定位できないのと類同的であって、だからといって現在的知覚空間に属しないと言うわけにはいかない。先に挙げた遠足の情景や会議の情景も同様である。それは、宙空に浮いており、知覚空間内の特定位置に座を占めているわけではないが、しかし、私の知覚的空間世界の大枠内には所属している。――さて、問題はここからである。遠足の情景や会議の情景は、友人の面影やライターの焔といった個別的表象とは異って、それ自身、一つの時空間的なパースペクティヴな体系性をもっている。そして、この表象された時空間的体系には、この私(表象とというかたちで登場する私の姿)も所属している。そこに現われる私自身は、概して、頭から足まで見える全一体であり、パースペクティヴの輻湊点ではなくして、パースペクティヴな対象的情景内定位されているのが普通である。(因みに、知覚的に現認されている私自身の姿は、頭や背中が見えないので、他人たちと相貌が異なるが、夢の世界や記憶ないし想像の世界では、私自身もまるで他人のように、全身的な姿がまるごと見える。)時によっては、表象的世界の私も知覚的世界の私と同型の姿で現われるが、その場合にも、それはやはり私自身であることが直截に認知されている。」423-4P
(対話K)「こうして、予想的ないし回想的な情景が一纏まりの時空間的体系をもった表象的世界の相で分節している場合には、その情景的世界の内部に、私自身(身体的私)も一つの表象として見出される。このさい、しかも、この表象的世界は、上述の通り、私の現在的意識野=現在的知覚空間内に――非定位的ではあるが、宙に浮いたかたちで、その大枠内に――あくまで属している。ここにおいて、「私」は知覚的世界の一成員であると同時に表象的世界の一成員でもあるという二重化された相で現前する。といっても、これら二つの「私」はあくまで同じ私なのであって、自己分裂的自己同一とでも謂うべき二重性の相で存立するわけである。(尤も、謂うところの「私」は、対象化された身体でもなければ、純粋主観といったものでもない。知覚的世界の成員としての能知的所知=所知的能知としての「私」という身体的自我は、この文脈ではむしろ、知覚的空間のパースペクティヴの輻湊点とでもいうべき相でさしあたり覚識されている。)」424-5P
(対話L)「身体的自我=「私」のこのような自己分裂的自己統一、二相的二重性における存立、強いて言いたければ「私」の脱自的な在り方、これが過去的世界と未来的世界の存在、ひいては、過去・現在・未来の存在という観念の形成にとって存在条件をなすのではないか。われわれは先に、ライターの焔の表象が現在的知覚空間に属する例に言及したが、もしこのたぐいの体験の域にとどまるならば――そこにも、なるほど、予期や記憶が存在しているのであるが、しかし――嚮に述べた「生滅」の現相様態(そこでは知覚的に現前する世界だけが在って、別の世界は措定されない)からしても、過去の世界や未来の世界というものが形象化されるには至らないであろう。現に、乳幼児や犬でさえ、ライターの焔に類する予期・記憶の体験ならもつものと推察される。例えば、犬が自分用の皿に今まさに餌が与えられようとしているのを予期したり、先ほど囓っていた骨を(すきをみて取りあげてしまうと)探したりする場合などから、そのことが推測される。しかし、犬は(個別的な対象の再認や個別的な予期の現認はおこない得ても)おそらく、過去的世界・未来的世界という仕方で、過去・未来を形象化することはないであろう。このことは、犬が自己分裂的自己同一という脱自的な在り方を体験しえないことと相即するのではないか。」425P
(対話M)「尤も、人間とて、自己分裂的自己統一を常時体験するというわけではない。知覚的空間は時間的“厚み”をもつにしても、知覚的空間世界では身体的自我の自己分裂的二重化は存立しないのが常態である。ここで併せて問題になるのが夢や夢想の場合であろう。――一般の予期的ないし回想的な表象にあっては、それが情景的に泛かぶかぎり、黙想する場合などのように知覚的与件が殆んど体感だけに限られているにしても、表象的世界は現在的=知覚的意識野に属しつつ、知覚的に現われる「私」と表象的に現われる「私」との二肢的二重性を現成せしめる。それにひきかえ、夢をみている真最中や夢想的状態(記憶的回想であれ予期的想像であれ)にあっては、現在的意識野の輻湊点「たる「私」の意識が全く欠落してしまい、そこには「私」が現われるにしても、それは夢の世界や想像的世界の登場人物としての私だけであって、かの自己分裂的二相統一が存在しない。このことに応じて、そこでは、表象的世界(夢の世界、白昼夢的な想像の世界)があたかも知覚的空間世界(ここでは「私」の二重性がやはりみられないのが常態)であるかのごとき相貌で現識されることになる。そして、夢からさめるという事態、すなわち、知覚的世界と表象的世界の区別的分節を現前化せしめつつ「私」の自己分裂的自己統一が現出する事態において、現在的世界と回想的世界との時空間的な区別化的再統一がもたらされる。」425-6P
(対話N)「この間の機制をも勘案しつつ、今や、過現未の世界の分立、それの存立構造を討究すべき段取りである。因みに、嚮に論及した「記憶的に表象される時空間的世界」「予期的に表象される時空間的世界」なるものは、決してそのまま「過去的世界」「未来的世界」と合致するものではない。このことは、いわゆる歴史的過去の世界、例えば古代世界が「過去的世界」ではあっても、私の記憶的世界ではないという一事を慮みれば明らかであろう。過現未の世界、ひいては、過現未という時間の三時相を概念的に把握するためには、身体的自我の「脱自的」な自己分裂的二相統一性という域を超えて、時間の共同主観的な形象化に視軸を転じなければならない。」426P
第三段落――遺された未決問題の当座の討究 426-39P
(この項の問題設定)「われわれはこれまでの行論を通じて、いわゆる体験的時間に止目しつつ、知覚的・表象的世界における身体的自我の自己分裂的自己統一の問題にまでふれておいた。そこでは、しかし、時間的規定性はたかだかメロディーを典型とするごときいわゆる“時間的ゲシュタルト”の構造的契機として扱われているにすぎず、「先後」「持続」「間合」ひいては「同時性」や「連続性」、さらにまた「過去・現在・未来」の時相、等々、共同主観的に存立する「時間形象」とその規定態の討究が遺されたままになっている。当座の議論に必要なかぎりで、この未決問題に応えておくのが茲での課題である。」426-7P
(対話@)「現相的世界に共属する自分と他人とに、現前する“時間的ゲシュタルト”(メロディー、視覚的に現認される運動・変化、等)は対自−対他的に共同帰属するものと思念されており、そのさい所与現相の射映は自他で相異なるにしても、先後・持続・間合は自他で共通・単一であるものと淳朴に信憑されている。(この思念・信憑は、現相世界に共属する他人の表情・視線・挙措などによって“裏打”される。)現相的知覚世界に現出・生起した“時間的ゲシュタルト”の覚知が自他で“同時”的・相同的であるという覚識を前梯にして、例えばメロディーの長さといった個別的な事象の個別的規定性を超えて、やがては「時間」なるものが間主観的に形象化されるようになる。」427P
(対話A)「「時間」なるものが固有の存在相で形象化される機縁には諸多の契機が考えられるが、特に留意すべきものとして「周期性運動」(昼夜の交替、四季の循環といったことだけでなく、歩行運動の周期的リズムといったものをも含む)において体験される反復的再認の覚識、および、予期的現認の覚識がある。」427P
(対話B)「周期的運動においては予期的現認が再認と二重写しになる次第であるが、反復的に再認される“対象”ないし予期的に現認される“対象”は、一般に、反省的思念相で揚言すれば“客観的に実在しているもの”、しかも“実体的に存続するもの”という相で了解される。周期性運動が時間の形象化と機縁づけるどころか、時間そのものの代象として歴史的に効らいてきたのは、おそらく右の機制が介在することによってであろう。――尤も、時間なるものが対象的定在として思念され、「運動」で代象されるとしても、そこから直ちに過現未という時間が措定されるわけではない。それでは、過去・現在・未来にわたって存続ないし流過する時間という形象化がいかなる構制において存立するのであるか?」427-8P
(対話C)「一口に過現未の時相といっても、循環的時間観念の場合と直線的時間観念の場合とでは了解内容が異なってくるし、霊魂の不滅を認める文化とそれを認めない文化とでは「過去的世界」「未来的世界」の了解内実がおよそ相隔ったものになる。このことを念頭に納めつつも、ここでは一般的構図ないし論理的構制に限って論じておこう。」428P
(対話D)「過去的世界・未来的世界ということは、先にも断った通り、記憶的世界・予期的世界と同値ではない。しかし、われわれとしては、記憶的。予期的世界を媒介環として時間なるものの形象化にアプローチすることができる。――われわれは嚮に「表象的世界」が「知覚的=現在的世界空間」に内属する事情にふれておいたが、表象的世界は固有の時空的体系を含意しているにせよ、表象的与件そのものはあくまで現在的意識野に所属している。このかぎりでは、表象的世界は、それが記憶的であれ予期的であれ、表象としては現在的にある。ここにおいて、われわれがもし、もっぱらレアールな射映的所与に留目するのであれば、記憶的世界といい予期的世界といっても、それは所詮、現在表象されている表象体系にすぎないということになろう。しかしながら、「記憶的世界」「予期的世界」というものは、決して如上の心理的・現在的な表象的所与に尽きるものではない。」428P
(対話E)「われわれの意識する「記憶的世界」「予期的世界」は、単なる「再認の覚識を伴っている表象体系」「基体の覚識を伴っている表象体系」ではなく、明らかに、それ以上の或るものetwas Mehrそれ以外の或るものetwas Anderesである。それは「所与−所識」二肢成態であって、単なる表象的所与ではない。論者たちのうちは「以上」「以外」というのは思念たるにすぎないと評するむきもあろう。或る意味では、われわれもそのことを認めるに吝かではない。だが、論者たちは「知覚的=現在的世界」ということも、単なる知覚心像にすぎないと言うのであるか? 従ってまた、例えば、現在の私には知覚的に現前しない隣室や戸外は端的に存在しないと主張するのであるか? 「在る」ということは「私によっていま知覚されてある」という以上の意味をもつ。それは単に知覚されていることに対してetwas Mehrであり、etwas Anderesである。(現に、単なる想像的世界は、表象としてあっても、私はそれを「在る」とは言わない)。当のetwas Mehrが間主観的=共同主観的に対妥当的と判断されるとき、私は“認識論的主観”としての資格を僭称しつつ、それを「客観的に在る」ものと了解する。(この間の機制について、その一斑はすでに前篇第三章の論脈内でふれておいたが、「在る」そのことの論究は本篇第三章を俟たねばならない。)」428-9P
(対話F)「記憶的世界ならびに予期的世界は、この機制に俟つことによって、心理的には再認の覚識・期待の覚識を伴って表象されているにとどまるとしても、意味的所識性においては、固有の対象的存立性をもつ或るものとして現識される。そして、当の表象的世界が現前的空間世界に内属しつつ、かの身体的自我の自己分裂的自己統一性を現識せしめる。」429P
(対話G)「ここにおいて、身体的自我を二重性において現前せしめる二つの世界(記憶的世界と知覚的=現在的空間世界、または、予期的空間世界と知覚的=現在的空間世界)の関連づけをめぐって、幾通りかの反省的知見が分立する所以となる。――尚、ここには知覚と表象という二重の相で現出しつつも同一体として覚知されるごとき所知的契機も介在するのであって、二重的現出そのことでは必ずしも身体的自我が特権的であるわけではない。――」429P
(小さなポイントの但し書き)「謂うところの二つの世界が全く不変のまま現前するとすれば、その場合には、二世界が併存したままであり、動態的な時間意識も生じないことであろう。(因みに、そもそも、記憶的世界は知覚的現在世界との異化的区別性のもとにはじめて記憶的世界として現識されるのが実情であり、記憶的世界は、知覚的現在世界との対比的覚識をぬきにして、それ自身だけをいかに“眺め”ても、それだけではそれ自身の内部に過去性の意識は見出せない。)が、このようなケースは、体験的事実の問題として、むしろ例外的であるから、問題外としよう。そこで、当の二重世界に変化相での統轄的な関連性が現識される諸ケースが問題であるが、嚮にみたように、世界現相の変化は「生滅」「変様」「移動」の三類型に分けて論考することができる。/第一に考えられるのは、両世界が「生滅」という変化相で思念される場合である。一者が消滅して他者が生起するというこの思念においては、第三者的にみれば、デカルトの「連続的創造」の構図(神を除きたければテレビの画面――これは不断に点滅しているが連続的に仮現する――に譬えても可)になるわけであって、そこでは時間なるものを敢て形象化しようとすれば「断滅的時間」とでも呼ぶべきものになろう。これは、しかし、超越的存在を想定しない場合には「刹那滅」の「現在主義」に帰趨し、無時間論になることであるから、ここでは立入って検討するに及ぶまい。」429-30P
(対話H)「主題的な検討に値するのは、世界現相が「変様」という様式で変化することを了解しつつ、そこに移動的契機と非移動的契機とを措定する諸類型である。われわれとしては、表象的空間世界(記憶的またち予期的世界)と知覚的=現在的世界とに二様的二重相で自己分裂的自己統一的に現われる身体的自我の変容的移動に留目しつつ、まず、この身体的自我が不動的に止住する場合と、それ自身が移動的に遷移する場合とに分け、それぞれのケースに対しての移動的・非移動的な変様を対応づけて分類してみよう。」430P
(対話I)「(1)身体的自我そのものは止住しつつ、世界が移動的に変様する場合。これは身体的自我が世界の移動的運動に対して外在的(世界が廻り舞台式に遷移しつつ変容するのを外部から眺めている構図)であることを必要とし、(さもないと自我も移動してしまい止住しないことにないってしまう)、この点で、身体的自我が表象的・知覚的な世界に内存在するというフェノメナルな事態に牴触するので、ここでは措くことにしたい。(この構図にあっては、空間的世界と時間とが未分化であるとはいえ、廻り舞台式に世界が遷移するという想念は、「狩猟民型」の“時間”(時空間)観念と名づけることも許されよう。が、これにおいては「時間」なるものが固有の存在としては形象化されないかぎりで、当座の議論では措く次第なのである。)/ (2)身体的自我そのものは止住、世界も非移動的に変様する場合。ここでは、表象的世界と知覚的世界のうち、一者から他者への変様が(そこへの内部に存在する身体的自我をも含めて)もっぱら変様的変化として了解されるわけであって、自我も世界も止住している以上、そこにおける変様は空間世界内部的である。この構図にあっては、世界の変様は昼夜の交替や四季の変化などに即して形象化されうるとしても、何かしらそれが変位するために世界の変様が惹き起こされる格別な存在、変様をもたらす主宰者的な或るものが想定される、というのがナチュナルな成り行きであろう。(文化史的事実を念頭においていえば、これはいわゆる「農耕民型」の時間観念とも相即する。) /(3)身体的自我そのものが(予期的であった世界へと)移動するとはいえ、世界もまた一緒に移動しつつ変容する場合。この構図にあっては、変様的移動をもたらす所以の動因について別途の考察を要するにしても、空間的世界そのものがそっくりそのまま遷移するのであるから、移動を可能ならしめる或るもの(移動的運動の可能性の条件をなす或るもの)が存在することを要し、そのものはそれ自身としては世界空間に外在的な定在でなければならない。しかも、それが移動的運動の布置と大きさを決するものであることが要件となる。このものは、それ自身としては非移動的であって且つ布置と大きさを規定しうる或るものという条件からして――文化史的経緯は措いてもっぱら論理的構制から言っても――現与の空間的世界に対して外在的な延長相で静止路線的に形象化されるのがナチュナルである。(これは「遊牧民型」とでも呼ばれうる時間観念と対応する。) /(4)身体的自我は移動的に運動するが世界そのものは移動しない場合。ここにあっては、自我の移動を自律的とみるか他律的とみるかに応じて下位区分を要するが、基本的な構図としては、絶対静止的世界の内部に変様をもたらすところの流過的・移動的な或るものが流線的に形象化されること、(尤も、自我の運動が自律的である場合にはベルグソン的な軌跡になるわけであるが)、これについては絮言を要せぬであろう。」430-1P
(対話J)「こうして、記憶的ないし予期的な表象世界と知覚的世界という二つの世界が(厳密にいえば、自我がそれぞれの世界に二重的に内属するかぎり、表象世界どうしでも可。このことに負うていわゆる未来完了のごとき時間相が可能になる)、そこにおける身体的自我の自己分裂的自己統一を介して、変様的移動というゲシュタルトの相で統握されるとき、形象化の類型は幾つかに分かれうるにせよ、ともあれ、記憶的ないし予期的に表象される世界と知覚的=現在的空間世界とが、当の変様的移動という運動性ゲシュタルトの布置関係と持続性において経過の相で関係づけられる。」432P
(対話K)「ここにおいて、表象的世界との変様的移動に定位して、記憶的世界は布置的に先行せるまさしく過ぎ去った世界(既往の世界)、予期的世界は布置的に後続する将(「まさ」のルビ)に来たらんとする世界(将来の世界)として意味づけられうることになる次第であるが、上述しておいた「移動」運動と知覚的空間世界との関係様式からして、既往的にせよ将来的にせよ、現在の知覚的空間を超出して「移動」する世界は、もう一つの可能的知覚的空間世界として了解されることを機縁づける。(現に多くの文化において、例えばシャーマンのごときは、過去や未来の世界と往来可能なものと思念されている。)そして、それらの表象的世界は、私の記憶世界、つまり「私が直接的に再認の意識を伴って表象する世界」ではないとしても、(歴史的過去の世界だけでなく、本人としてはもはや失念してしまっているような以前の体験の再生的表象世界などを含めて)、それが共同主観的既往の世界として認知されるかぎり、「過去の世界」として認証される。「将来的=未来的な世界」に関しても同様である。」432P
(対話L)「ところで、過去・現在・未来という「世界の変様的移動」の構図が形成されると、この構図が知覚的(心理的)現在の内部にまで転入され、知覚的現在幅の収縮という事態がもたらされる。例えば、<チン・トン・シャン>という音が途中まで聞こえた場合、<シャン>は、嚮にみた予期されているライターの焔と同様、現在的=知覚的空間内に既往するにもかかわらず、将来に属するとされ、<チン>という音は既往的過去に属する(記憶)とみなされてしまう。」432P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれが敢て長大な廻り道を要した所以でもあるが、このさい強調しておきたいのは、逆倒した俗見に陥ってはならないことである。人がもし、<トン>=「今」、<チン>=「過去」、<シャン>=「未来」、というような仕方で、知覚的現在がまず分化して、そのあと、それが次第に遠い過去や遠い未来に推及される。という具合に考えるとすれば、それは誤りである。もしそれが正しければ、犬や猫でさえ過現未の意識をもつことであろう。犬や猫は、時間的ゲシュタルトの知覚において、先後・持続・間合を契機とする「時間性感覚」はもつとしても、おそらく、過去とか未来とかいう時間観念はもたないと忖度される。われわれの看ずるところ、知覚的・心理的現在の内部に過現未の時相的分化が生ずるのは、表象的世界と知覚的世界との区別化的統一を可能ならしめる所以の「身体的自我の自己分裂的自己統一」を要件とする被媒介的な後件としてである。知覚的現在は、先・後の分節化まだは直接的にもたらしうるとしても、直接的には過去・未来という観念をもたらしうるものではない。因みに、フッサールの時間論があのような結果に終らわらざるをえなかったのは、彼が折角「意識全体の瞬間性のドグマ」を批判しておりながら、知覚的現在の内部での過現未的分化という発想を採っていること、ここに淵源があるように見受けられる。)」433P
(対話M)「――ここにおいて、時間なるものがあたかも「今」という瞬間的現在の継起的持続であるかのように私念される傾向を生み、あまつさえ、そのような「今」の遷移としての過現未的時間なるものが措定され、それが物象化的に錯視される所以の、誤った論理構制が立てられることになる。」433P
(対話N)「この件は措いて、偖、時間なるものが間主観的に存立する形象として一たん対象化され、それが過現未を通じて定在する或るものとみなされると、「時間」は一種独特の存在性格を呈する所以となる。――われわれは嚮に、「時間」なるものが対象的に覚識される機縁のうち、特に留意すべきものとして「周期性運動」における規則的な反復的再認の覚識、および、予期的現認の覚識を挙げておいた。朝昼晩の規則的推転、昼夜の規則的交替、四季の規則的循環、このたぐいの周期性運動は、例えば、眼前での錐揉(「きりも」のルビ)み運動とか腕の回転運動とかのように知覚的現在世界に属するゲシュタルトとは異なって、記憶的世界や予期的世界を表象せしめ、身体的自我の自己分裂的自己統一に俟って、先後の持続的な統合を現識せしめる。あまつさえ、朝昼夕の推移は、太陽が東方から姿を現わし、次第に頭上へと移り、次第次第に西方へと傾いていく運動との対応性を容易に覚知せしめる。そして、太陽のこの連続的な運動は影の方向と長さの連続的な変化とも相即していることが看取される。四季の循行もまた、太陽の出現する位置、南中の位置、消失する位置、これらの位置の規則的な変化と対応性をもつていることが覚知される。この種の体験が基礎になって、連続的な時間なるものの間合ないし持続の大きさが太陽の運行上の位置ないし距離(天蓋に運行距離) ――ないしはまた、影の方向や長さ――に即して間主観的に計測されることが可能になる。短時間の持続は“時間感覚”によって直截にその大きさが覚知されるのにひきかえ、或る識閾を超えた時間的長さの覚識は覚束なくなるのだが、これは規則的運動位相の感覚的認知と対応づける“計測”によって確定される。人は、空間的な長さを物体的な物差しで計るのと類比的に、時間的な長さを規則的な運動位相という物差しで計り、この運動位相と対応づけて“時間上の位置”を規定する。――時間というものが長さ(持続)や位置(時刻=時点)をもち、間隔(間合=時点間の長さ)をもつ“計測”可能な対象の相で覚識されるということは、時間が空間(線)に類する相で表象されることを意味する。――尤も、空間的な長さを延長的物体という物差しで計測するさいには、対象と物差しとが相対的静止の相で、つまり、相対的に運動しない相で対応づけられるのに対して、時間的長さを運動的変化という物差しで計測するさいには、対象と物差しとが相対的運動の相で対応づけられる。時間的測定にさいして対応づけられるのは運動的変化どうしである。この運動的変化は、生滅的変化でも変様的変化でも移動的変化でもありうる。そして、どの種の変化も特権的ではないのであるから、どの種の変化でも他の運動的変化現象を計る物差しとなることが原理上は可能である。マッハのように「時間とは変化相互間の依属関係である」と言い切れるかどうかは問題であるが、そもあれ、時間測定とは変化相互間の対応づけであることまでは慥かであり、世界における変化が相互依属的であるかぎり、どの変化を物差しにとることも原理上は許されうる。なるほど、消滅という変化は、それ以后には対応性を失うため、時間的位置の物差しとしては充分機能しうるにせよ、これが時間的持続の物差しとされることはない。が、変様的変化は、空間性のものだけでなく、色彩の変化や温度の変化のごときものでも、他の運動的変化と一定の対応性をもつており、それが物差しの位置につくことを原理上は妨げられない。周期的変化(これには生滅的、変様的、移動的の各種がある)の場合、同じ位相状態どうしはそれ自身としては区別がつかないので、第何回目の当該位相状態であるか、その回「数」を顧慮しつつ他の運動的変化現象と対応づけられることになるが、これが物差しとされることは現に可能である。(われわれは、昼夜の交替、月の盈虧(「みちかけ」のルビ)、季節の循環という周期的変化の回「数」に即して何日、何ヶ月、何年と計測するが、周知のように、アリストテレスの有名な時間の定義には「数」による時間の形象化すらみられる。)事実の問題としては、しかし、運動的変化現象の相互的な対応づけにさいして、太陽の運行をはじめ、移動的変化が物差しとされるのが“自然的”な傾向であると言えよう。そして、この事実によって「時間」の形象化の在り方が規制される。移動的変化現象が他の変化現象を計る物差しにされるといっても、物差しとされるのは謂うなれば“純粋”な変化相であって、移動的変化体の具象的な在り方はことごとく捨象される。物差しとしての“純粋”な移動的変化というのは、つまるところ、線形の位置的移動である。このかぎりで、先端が線形の軌跡を描く流過的運動が他の変化的現象と対応づけられる尺度となるわけであるが、当の流過的運動が自分以外の諸々の運動的変化を計る尺度=時間計測の尺度とされることにおいて、それそのものが「時間」(経過を「時間で計る」当の時間)として形象化される。これが、円環的であれ直進的であれ、運動相で形象化された時間にほかならない。ところが、翻って反省するに、当の基準的運動自身、それが運動であるかぎり、時間で計測されねばならない。ここにおいて、当の運動の計測は、線形の運動軌跡上における“運動体”(これは「点」的に脱肉化され理想化されている)の位置に即しておこなわれることになり、尺度としての時間そのものは、その上に位置的規定性をもつところのそれ自身としては運動しない静止的な線として形象化される所以となる。こうして、移動的変化が時間的計測の物差しとされることを機縁にして、純粋な運動としての流過的時間、ないし、純粋な静止路線としての線条的時間、このような相での時間的形象化がおこなわれる。そして、この“軌跡”ないし“路線”といういずれにしても線状の“時間”が、周期的運動の回「数」と対応づけて“目盛”をつけられる。」433-6P
(小さなポイントの但し書き)「(人々がもし、例えば、成長的変様現象を物差しにし、それに即して「時間」を形象化するとすれば、“成長していく時間”といった相での形象化がもたらされることであろう。このたぐいの「時間形象」をも原理的には十分可能である。移動的変化でしかも周期的変化である太陽の運動が“偶々”基本的物差しとされ、それに即した形象化がおこなわれたために、線状の時間――流過的であれ路線的であれ――が表象されるというにすぎない。)」436P
(対話O)「茲に、固有の対象相で形象化される「時間」は、流過的時間であれ路線的時間であれ、あらためて省みるまでもなく、それ自身としては知覚的現相世界には内属しない。「時間」は、また、回想的記憶世界にも予期的想像世界にも、それ自身として見出されるわけでない。「時間」は、回想的世界、いな、過去的世界と現在的世界とを繋ぐ一関係として、また、予期的世界、いな、未来的世界と現在的世界を繋ぐ一関係として、剴切には、過去的世界−現在的世界−未来的世界の連続的・持続的な一存在様式として表象され、それ自身としての特定の“空間的”世界に内属しはしない。尤も、時間それ自身が特定の世界にそっくりそのまま所属するわけではないが、知覚的現在世界は“時間的厚み”をもっているし、回想的世界や予期的世界も、事象を経過相で回想・予期せしめるかぎりで、やはり“時間性”をもっている。――時間なるものの流過的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界はそれぞれ「時間」の一部分を分有するという表象になるし、時間なるものの路線的形象化を前提すれば、過去的世界、現在的世界、未来的世界がさながらモノ・レールのように「時間」に跨っているという表象になる。――時間それ自身なるものは、しかし、いずれにせよ世界の構成部分をなすわけではない。世界の内実をなす変化的現相は「先後的布置をもった持続」という存在様式を現示するが、この「先後的布置をもった持続」という存在様式をイデアリジーレンしたもの、それが「時間」にほかならない。(それは、「配位的布置をもった延長」という存在様式をイデアリジーレンしたものが「空間」であるのと同趣である。)「先後的持続」という存在様式をもつ変化的現相は、さしあたり、知覚的世界における“時間的ゲシュタルト”として与えられるが、回想的世界と知覚的現相世界、および、知覚的現相世界と予期的世界、これら両つの世界がそこに内属する身体的自我の自己分裂的自己統一を介して変様的移動相で覚識されることにおいて、「先後的持続」という存在様式をもった変化相が両つの世界(従ってまた、そこに内在する「もの」)の推移にまで延長される。このことに俟って、上述しておいた通り、過去的世界−現在的世界−未来的世界が「先後的布置をもった持続」という存在様式で把えられることが甫めて可能になる。が、「先後的布置をもった持続」というのは、変化的現相の射映的存在様式の「意味的所識」であることからしても、それ自身の存在性格はイルレアール=イデアールである。「時間」なるものの呈する一種独特の存在性格は、帰するところ、それがイデアールな形象であることに存する。――人は、ここで、反問して言うかもしれない。なるほど、時間概念はイデアール=理念的な形象であるにしても、時間そのものはまさにレアールな存在ではないのか? 時間なるものがレアールに在るからこそ変化的事象(時間性ゲシュタルトを含む)が成立しうるのであって、時間こそが変化の存在条件ではないのか? また、時間なるものがそれ自身イデアールだということになれば、イデアリテートに関する前篇一章での規定(そこでは「超時間的」ということがメルクマールの一つにされていた)が妥当しえなくなるのではないか? われわれ自身の回答はこうである。レアールに存在するのは変化相での現相であって、時間なるものが変化的現相とは別に独立自存するわけではない。先後という関係態、持続という関係態、これがレアールに実在するのである。だが、先後や持続という関係態、変化という現相、これの存在条件として「時間」というものがなければならないのではないか? 或る種の概念的整序体系においては、なるほど、「時間」なるもの「空間」なるものを基礎概念にして「変化」ということを概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)するし、線状に形象化された「時間」なるものを基底において、この線状時間における位置的限定や円柱的規定として「先後」や「持続」が概念的に定式化する。この概念的体系にあっては、変化という概念、持続という概念に対して、時間という概念が基底的であり、“存在条件”をなしている。がしかし、この概念的整序体系は事柄に即すれば顚倒している。第一次的に存在するのはあくまで、先後や持続という契機を含む関係態=変化態なのである。だが、先後や持続が存在するということは、とりもなおさず時間が存在するということではないのか? 先後的持続をそのまま時間と呼び換えるのであれば、それでよい。そのさいには、先後的持続態実在するのであり、“時間”とは当の実在態の存在様式の謂いにすぎない。つまり、そのさいには、変化態とは別に「時間」なるものが独立自存するわけではないのである。(独立自存する時間なるものは、上述しておいた通り、先後的持続態の存在様式をイデアリジーレンしたものにほかならず、換言すれば、先後的持続という存在様式の意味的所識にほかならない。)時間とは変化相にある世界の存在様式であり、われわれが「イデアリテート」を規定して「超時間的」というのは(「時間なるもの」を超越している謂いではなく)「不易」つまり「変化を超絶している」ことの謂い、(万物流転の相にあるレアールな世界を超絶していることの謂い)なのである。「時間」なるものも、それ自身としては「変化を超絶している」イデアールな形象にほかならないわけであるが、われわれの謂う「超時間的」は「イデアールな時間なるもの」をこえている謂いではなく、「変化的世界を超絶している」の謂いであるから、「時間そのもの」のイデアリテートはわれわれが「超時間的」ということをイデアリテートのメルクマールの一つとすることに何ら不都合を生じせしめない。――ところで、「時間」を以って変化的現相の存在様式とするとき、いわゆる“時間性ゲシュタルト”に鑑みるまでもなく、先後や持続は“時間感覚”の次元で覚知されるのであるから、「時間」は却って“アプリオリ”と謂わねばならないのではないか? この点については、空間感覚に関して、前節の行文中、布置性や延長性の感知機能が生得的であるという意味でなら“アプリオリ”と言われうると認めたのと同趣であって、先後性や持続性の感知機能が生得的であるというかぎりで、且つ、そのかぎりでのみ“アプリオリ”と謂うことが慥かに許されうる。がしかし、これがアプリオリな時間直観、純粋な時間直観なるものの承認に通じないことは、空間直観、純粋な空間直観が卻けられるのと同断である。“感性的に直観”されるのは“感性的内容”に“充たされた”変化相にある現相なのであって、純粋時間とやらではない。」436-9P・・・「生得的」に留目−宿題
(対話P)「われわれは、以上、時間の存在性が後論において格別な意義を帯びることを勘案して、幾つかの論脈にわたって議論を運んできたが、本節で敷いた伏線を手繰るためにも、そして時間なるものや遡っては空間なるものについてより立入って規定するためにも、時間・空間・事物を統一的な視界のもとに把え返していき、世界の作用的連関相や存在様相にまで討究の歩を進めなければならない。」439P

posted by たわし at 23:26| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年04月16日

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(11)

たわしの読書メモ・・ブログ694[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(11)
第三篇 事象的世界の存立機制
第一章 事物的世界の分節態勢と空間・時間
 第二節 場所的空間と定位置
(この節の問題設定−長い標題) 「現相的世界は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図を呈し、現相的分節肢は各々この配景的構図の定位置を占める相で現前する。現相的分節肢は、また、概して一定の形態を有ち一定の拡がり(延長性)を示す。ところで、遠近法的配景の構図は単なる射映的風景以上の所識性において覚識され、現相的分節体の形や大きさも射映的現相とは別の所識相で覚知される。この意味的所識性における形や大きさと区別して意識されるにもかかわらず、直接的な日常意識にあっては、所識性における位置と所与性における位置とが二重写しにされ、対象的事物は知覚的現相風景の「定位置」にそのまま実在するものと思念される。――事物はその都度一定の拡がりを有った場所を占めるが、この場所と事物そのものとが截断され、「場所」が固有の存在相で覚知されるに及ぶ。事物から截断されて自存する固有のものと表象される「場所的存在」(これは位置規定および拡がり=延長性を有つ)が「空間」と呼ばれる。」395-6P
第一段落――遠近法的な構図を呈する視覚的に展らける知覚的現相風景 396-401P
(この項の問題設定)「視覚的に展らける知覚的現相風景は、日常的意識においても既に、一定の遠近法的な構図を呈している。風景が遠近法的構図で覚識されているということは、状景が単に“先細り”に見えるという謂いでなく、それ以上の或る了解がこもっていることを意味する。遠方の事物は段々に小さく“見え”ているが“実際”には先細りなのではなく、しかじかの大きさ(高さ、幅)であるということ、“見掛”と“実際”との二肢的区別と統一がこのように意識されていることにおいてはじめてパースペクティヴがパースペクティヴとして意識されるのである。――現実の視角風景は、心理学に所謂「知覚の恒常性」のゆえに、幾何工学が要求するような“厳密”な遠近法的な収縮を示さない。上下の方向と左右の方向ですら均等ではないのが実情である。がしかし、上下(高さ)と左右(幅)に関しては準遠近法的な収縮がみられると言ってよいであろう。ところが、遠近線上の距離に関しては、反省的意識においてはともかくとして、直接的な日常的意識においては、特異な事実で際立っている。――遠近法的風景において“見掛=仮相”と区別される“実際=実相”としての大きさというのは、さしあたり、身近かで見たさいの“大きさ”の謂いであり、対象的事物は、それの見える距離(遠さ)に応じて、上下(高さ)、左右(幅)が一定の仕方で収縮して“仮現”する。距離に関しても“見え”方が遠距離法的に収縮しているはずであり、理屈のうえではそのことが納得される。だが、直接的な日常的意識においてはどうであろうか? 遠方に見える事物は、上下、左右に関しては“見掛”はあのようでも“実際”にはしかじかの大きさであるとして、“見掛”と“実際”とが、区別して覚識されるのに対して、その“距離”(位置)に関しては“見え”ているその位置に事物が“在る”相で覚知される。位置は“見え”ている位置がそのまま“実際”の位置として感じられるのであって、日常的意識においては、位置については“見掛”と“実際”とが区別されないのである。――例えば、講演を散歩していて、いま向こうにベンチが見え、その延長戦上に噴水が見えているものとしよう。足許からベンチまでの距離とベンチから噴水までの距離は“見掛”上同じである。つまり、噴水は、ベンチに比べて二倍の距離の処に“見え”る。“実際”に歩けば、ベンチから噴水までの距離のほうがベンチまでの距離よりも遠いということ、つまり、“実際には”噴水はベンチまでの二倍以上の遠さに在ること、このことを人は承知している。そのかぎりで、噴水が“実際”に在る位置(距離)は“見掛”上の位置とは違うということ、“実際”の位置は“見掛”よりもはるかに遠いということ、“見掛の位置”と“実際の位置”とのこの相違が自覚されているには違いない。それにもかかわらず、直接的な覚識に即するかぎり、噴水はまさにあの(“見えている”)個所にあるのであって、はるか後方にあるなどとは感じられない。“見えている”あの位置がそのまま“実際に”噴水の“在る”位置として感じられる。噴水の“見掛の大きさや形”と“実際の大きさや形”とは直覚的に区別して意識されているにもかかわらず、そうなのである。――視空間内における事物の“見掛上のあの位置”と“実際上の位置”とが、直覚的には区別されず、二重写しに覚識されること、すなわち、日常的な直接的意識においては遠近線上の位置に関して“見え”ているある位置がそのまま“実際”の位置とみなされるということ、フェノメナルに覚知されるこの事実がわれわれの「空間」概念にとって決定的に重要な意義を帯びる。」396-7P
(対話@)「動物の生活にとって、提唱の“実際上の位置”、対象までの“実際上の距離”を正確に把捉することが死活の重要性をもっている。動物は対象に関して、“実際上の大きさや形”と併せて、正確な位置を知っていなければ餌を捕らえることも敵から身を守ることも異性と交接することもできない。“見掛の距離”“見掛の位置”に欺かれるようでは動物の生活は成り立たない。このことに鑑みれば、動物ですら対象の“実際上の大きさ”や“実際上の位置”を直截に把捉しているものと考えられる。(第一篇第一章一節の論脈内で紹介したゲッツの実験結果は、単なる“大きさ”に関わるものでなく、おそらくは、距離把握の函数でもあろう。)」397-8P
(対話A)「尚、動物は、位置・距離・大きさ・形など、いわゆる空間的規定性に関して、視覚だけでなく、触覚によっても把える。距離に関しては、聴覚や嗅覚によっても把える。そして、視空間は蝕空間(や聴空間・嗅空間)と有機的に統合されている。この統合はおそらく「協応」の機制に負うものと思われるのだが、ともかく、知覚空間は単なる視覚空間ではないことの銘記を要する。以上の行文では視空間に即するかたちで議論を進めるが、そこでは蝕空間とも協応的に統合された知覚空間一般が問題である。」398P
(対話B)「ところで、“見掛”とも二重写しにさる“実際上の位置”とは何であるか? 人はここで「大地」という基準系に即した定位を考えたがるかもしれない。だが、大地という基準系なるものは既にして硬度に抽象化された座標系であって、われわれは直ちに「大地」を基準系として挙げるわけにはいかない。われわれとしてはフェノメナルな風景に即して考究しなければなるまい。」398P
(対話C)「われわれは、今爰では、知覚的風景の構図そのものの成立に関して発生論的に溯って跡づけるには及ばないであろう。知覚的風景はなるほど既に複雑な媒介的機制に俟って形成されたものであるが、ここではそれを与件としつつ、「空間」なるものがいかにして形象化されるか、その機制をみておけば足ると念う。」398P
(対話D)「知覚的風景界の諸肢節は“この身体”とのあいだに一種独特の関係をもっていることが覚識される。“この身体”は遠近法的配景の輻湊点をなしており、視覚風景の膨縮的編制が“この身体”と一定の規則的連関相にある。“この身体”からの距離に応じての膨縮というこの連関性がとりわけ移動的体験の場面で自覚される。(移動の体験もしなければパースペクティヴがパースペクティヴとして覚識されることもあり得ないことであろう。“実相”なるものの意識され方は経験による媒介を俟つものである。測量・測定も勿論ここに謂う経験に算入される。)」398-9P
(対話E)「身体に接近して行くと、対象的事物の視覚的射映現相が段々と大きくなっていき、布置的射映相も規則的に変貌する。そのさい、しかし、対象的事物の所識相における形や大きさは恒常的な相で覚識される。そのかぎりで、変様するのは射映的現相=“見掛”だけであって、対象的事物の“実相”そのものは身体との距離関係、パースペクティヴの膨縮にかかわりなく一定のままであると覚識される。卑近な話、机の前から部屋の出口まで歩くあいだに知覚風景の視覚的射映は激変するが、私は部屋の調度品の相互的布置関係や大きさや形は“実相”上は安定的・恒常的なままであるものと了解している。戸外で歩き廻ったり、四囲を見廻したりする場合にも、やはり同様に、対象的事物の布置・大きさ・形はゲシュタルト的な恒常性を示す。こうして、視覚的射映相こそパースペクティヴの輻湊点をなす身体に依属的であるが、対象的事物の“実相”における布置・大きさ・形は“見掛”の遠近法的膨縮にかかわりなく自存的に一定であるものと意識される。このさい、しかし、対象的事物の“実相”は常に恒同・不変とみなされるわけではない。射映的事物のそのものが生滅的な変化をすることもあれば、変容的な変化や移動的な変化を示すこともある。但し、対象的事物そのもののこの変化は、あくまで射映的現相の変化とは別のオーダーの出来事なのであって、射映的変化相とそのまま合致するわけではないものとされる。――では、対象的事物の“実相”における変化とはフェノメナルには如何なることであるのか? まず移動的変化についていえば、それは周辺の書事物との布置的関係の変化、位置の変化にほかならない。変様的変化には、単なる色のごときものも(色を“実相”に算入するかぎりで) 含まれるが、一般には形や大きさの変化を契機とするのが変様であろう。しかるに“実相”上の形や大きさの変化というのは、周囲の諸事物との布置的関係の変化と相即する。尤も、形や大きさの変化は、移動的変化とは異なり、当該の個体的事物自身における変容である。が、この変容は、当該の事物自身における内部的布置関係の変化にほかならない。残るところ生滅的変化であるが、これは周囲の事物との布置的連関に座を占めるようになること、および、周囲の事物との布置的連関の座を失うことと相即し、こうしてやはり、生滅的変化も事物の布置的変容と緊合している。そして、生滅・消滅する事物がいやしくも形や大きさを有つかぎり、それは当該の事物自身における内部的布置関係の変化にもほかならない。変化には学知的反省の見地からみて非空間的と目されるものも含まれはするが、空間的規定性に関わるかぎりでの変化は、こうして、移動的であれ変容であれ生滅であれ、いずれも布置的関係の変化に帰趨する。」399-400P
(対話F)「翻って、嚮にみておいた通り、対象的事物の「位置」に関しては“見掛上の位置”と“実際上の位置”とがフェノメナルな意識態においては二重写しにされており、このことは変化という現象の生起する位置に関しても妥当する。それでは、フェノメナルな視覚空間や触覚空間における「位置」とは何であるか? 知覚風景に現出している事物の位置とは、さしあたり、その事物の四囲(前後・左右・上下)に見出される事物群との布置関係によって規定される。“見掛”においてももこの布置関係のゲシュタルトは変わらない。先の例で言えば、噴水がまさに見えているあの位置に在るものと覚識され、“見掛上の位置”と“実際上の位置”とが分離されないのは、けだし、四囲の事物群とのゲシュタルト的布置がそのまま“実相”に応ずるものと覚知される所為であろう。――布置関係ということは、事物という単位どうしだけでなく、事物の部分であれ事物の表面の一部であれ、およそ「図」として分凝しうるかぎりのあらゆる分節肢に関して覚知される。ここにおいて、微少な「図」的分節肢どうしの布置関係ということ、いわゆる“点”の位置ということが覚識されるに及ぶ。そして、一個の事物における内部的布置関係ということも問題になりうる次第なのである。――或る種の論者たちは「布置関係」に先立って「位置」なるものを規定しようとする。論者たちが、もし、「位置」の覚知、すなわち、知覚的空間における遠近線上での位置の定位が直截であること、それは布置関係の反省的定位よりもフェノメナルに先立つということ、この事実を単に指摘しようというのであればわれわれも肯んずることができる。位置の覚知が布置関係の覚知であるという提題は反省的対自化であって、直截的な意識においては慥かに「位置」の定位は端的である。われわれ自身、このようなことなら積極的に主張する。しかしながら、論者たちが、もし、「位置」なるものがあってはじめて「布置関係」ということも成立しうる旨を立論するのであれば、われわれはこれを強く卻けざるをえない。なるほど、或る種の概念体系においては、位置なるものがまずあって第二次的に布置関係態というゲシュタルト的な一総体こそが第一次的にあって、この布置的関係態の“結節”として位置が存立するのである。「位置」は、布置的関係という反照規定が“物性化”され“内自化”されたものにほかならない。」400-1P
(対話G)「ところで、布置の関係、位置の規定が整序体系の相で形象化されるようになると、“実相”としての位置や布置が“見掛”と截断されるだけでなく、布置的関係態の項をなす具体的な事物がそこから“脱肉”化されて、布置関係が固有のシステムを形成する特有の存在相で表象される傾動が生ずる。ここに、「空間」概念の一つの基盤が存するのであるが、空間概念の形象化を跡づけるためには、茲で一たん別の淵源を配視しておかねばならない。」401P
第二段落――知覚的対象世界の“肢体的”な分節 401-7P
(この項の問題設定)「知覚的対象世界の“肢体的”な分節は、ゲシュタルト心理学流にいえば、空間を「地」とする「図」の顕出という構造を一般に呈しているとしても、この「地」と「図」とが直接的に反転することは極めて稀である。「空間」というものがそれとして意識されるようになるのは、発生論的には、おそらく、対象的活動の準省察に即した場面においてであろう。対象を摑むべくさしのばすべき距(「へだ」のルビ)たりとか、対象物を容れする余地(つまり、容器や住居において、新たに物を入れうる余地、事物によってまだ占められていない場所)とか、空間というものの初発敵な形象化はこのようなかたちでおこなわれるものと思われる。」401-2P
(対話@)「発生論的にはどのような過程を経るにもせよ、ともあれ、ゲシュタルト的にはほぼ閉じた場所的余地、すなわち、肢体的ないし物体的に非在ないし未在の「限られた場所的余地」、これが対象的に覚知されるようになると、不可入的な“有体的事物”と可入的な“場所的空間”との相補的区別の覚識を伴いつつ、有体的対象物と開かれた場所との分節が覚識されるようになってくる。形や大きさの自己同一性を保ちながら移動する有体的事物がその都度すでに一定の場所的空間を占めること、このことの準反省的覚知から有体的事物の「場所的空間=空間的場所」に即した“大きさ”(体積)の意識が形成され、元来はむしろ定性的・質的な区別であった大小の覚識が量的な相違として意識されるようになる。ここにおいて、はじめて、有体的事物と場所的空間とが容量的な大きさという規定性で類同化されうるに至る。――茲に、有体的事物と場所的空間とが類同化される所以の規定性、それが学知的反省の立場では「延長性」と呼ばれる。延長性は、或る種の概念的整序にさいして、「位置と位置との距たり」として、つまり、位置(点)とその関係を基底におくかたちで規定されうるとしても、フェノメナルには決してそのような相で覚識されるものではない。延長性という概念の被示的与件は、立体視される事物の“大きさ”として、“形”と併せて、まずは一種の“質”的規定性の相で端的に覚知される。延長性は、原初的には“事物の性質”なのである。(但し、余地的場所もそれが一つの「図」として「もの」の相で対象化されているさいには、大きさや形を“質”的規定相で直截にもつ。)そして、一定の“大きさ”(と“形”)をそなえた有体的事物がその都度「場所的空間」を占めることが反省的に占めることが反省的に覚識されるに及び、同じ「延長性」が場所的空間にも帰属化されるようになる。延長性は、当初から「空間」なるものの規定性なのではなく、原初的にはあくまで「事物」の規定性であることが銘記されねばならない。」402-3P
(対話A)「ところで、「有体的事物」と反照的に区別して覚識されるかぎりでの「場所的空間」は学理的な省察における「空間」概念とは径庭がある。が、われわれは「場所的空間=空間的場所」に即した若干の考究を介して「空間」という存立態の問題論的構制を確認しておこう。――有体的事物の不可入性と場所的空間の可入性とが相補的に意識される所以でもあるが、有体的事物には触れると抵抗感があり、一般には、持ち上げると重量感があるという点で、“つかみどころのない虚空の場所的空間”と“有体的事物”とは対照的である。(いわゆる「質量」は、この抵抗感ないし重量感が或る屈折を経て定量的に概念化されたものにほかなるまい。)この準概念的な表象の成立を俟って、形態性をそなえた「体積」および実質性と一体になった「質量」という二種の量的規定性を具有するものとして有体的事物が了解されるようになる。有体的事物が有形的・質量的な定在であるのに対して、場所的空間はさしあたり無定型的・没質量的な存在として表象される。但し、有形的質量的な有体的事物と無定形的没質量的な場所的空間という表象が形成されたとしても、そのことから直ちに「物体と空間」という世界像が成立するわけではない。――ここでは、生物的肢体は姑くおいて、物体的事物を念頭におきたいのであるが、物体的世界了解がまだ既成観念として確立していない場面で考えるとき、水や火のごときは果たして物体的存在とみなされえたであろうか。水は無定形で可入的という点では“空間”に類するが、質量的という点では“物体的”である。しかも、水や火はそれ自身で固有の力能をそなえているようにみえる。このような事実を勘案するとき、“物体”と“空間”という日常的な表象が一たん成立しはじめた場面で、これを万有に推及するどころではなく、却って当の表象そのものを再編成する動きが生じたとしてもけだし当然といわねばなるまい。謂うところの“空間”は果たして質量的に空無であるか。空中で棒を振りまわしたり、風が吹いたりするとき、抵抗感や質量感がある。“空間”というのは、軽いだけで、実際には水のごときものではないのか。火や青空などというものは存在せず、万物は空間的延長性と一定の質量性をかねそなえた質量性をかねそなえた質量的存在とみたほうが至当ではないのか。」403-4P
(対話B)「この考えを採るとき、有体的質量性は空間的存在の一性質だということもできるし、逆に、延長的空間性は質量的散在の一性質だということもできる。そして、いわゆる“物体”は、このような“空間的質量=質量的空間”の一定在形態にすぎないということができる。現に、質料主義的な了解のもとでは、物体の形態や硬軟のごときは偶有的とみなされ、実体としての物体(物質)はむしろ可塑的な或るものとして了解される。実体としての物質はその都度一定の空間的・形態的規定性を帯びるとしても、固定性や形態は非本質的な規定性にすぎない。この了解の構えに立って四囲の“場所的空間”を把え返すとき、それは物体を容れうる単なる余地ではなく、それ自身一つの物質的な存在として意識される。空間はつねに質料的に充たされているという表象(自然は真空を嫌う!)、いな、“空間”そのものが一種の物質だという表象が成立しうる所以である。――なるほど、更なる反省を加えるとき、質料的空間=空間的質料の全体を容れる純然たる場所的な存在として“絶対的場所空間”を想定する途もありえる。がしかし、質料主義の立場においては、そもそも質料的物質(例えば地水火風)が空間的性質(いわゆる延長性)を本源的にそなえているのであるから、そこでは「空間」なるものを物質とは別途の存在として措定するには及ばない。(実際、歴史的にみても、質料主義的な地水火風の四元素説などにおいては、空間なるものが別途の存在としては立てられていない。ジャイナ教における“空間”は別途の論脈から立てられたものであって、質料主義的世界像においては、質料的空間=空間的質料とも謂うべき四元素だけで間に合うのである。) ――こうして、徹底した質料主義的世界観のもとでは、固型的な物体と空虚な空間という“素朴”な二元論は斥けられ、「空間」なるものが固有の定在とは認められない。そこでは、対象的世界はもっぱら質料(そのさまざまな相での定在)として了解され、空間的規定性はたかだか質料的実体の一属性とみなされる。」404-5P
(対話C)「右の行文では、日常に謂う“空間”が実は質量的な存在(大気)であるというところから、直ちに質料主義的な立場を扮技したのであったが、そこには論理の飛躍が存在した。“空間”(大気的空間)は果たしてそれ自身が一つの質料的存在であるのか。“空間”は実は微細な物体と真正の虚空とから成っていると考える途がある。また、日常的に謂う“物体”(ないし肢体)は空間的間隙を内部に含む“複合体”であると考えることもできる。この考え方を採るとき、「空間」なるもののしてしまう存在を没却してしまう嚮の議論は、そのまま肯んずるわけにはいかない。」405P
(対話D)「日常的な即自的な了解では、物体は他の物体と接合しうるとはいえ、空間的な截断、つまり、虚空(といってもこれはさしあたり質料的空間で差支えないのだが)によって距てられることの現実的可能性をもつことにおいて物体的実体である。単一の物体として日常的に取扱われているものであっても、それが複合的実体であるかぎり、その内部に可入的空間を含んでおり、この可入的空間を含んでおり、この可入的空間を拡大することによって、分割することができる。実際、単体としての真の物体的実体は微細でありうるのであって、常識が非物体的な存在と考えがちな火などは勿論のこと、空間(虚空)と思念している個所も微細な物体を多数含んでいるのが通例である。だが、当面の思念的見地においては物体と空間とはあくまで別々の存在であって、峻別されねばならない。虚空的空間が無限に分割可能な連続体であるのに対して、質量的物体は終局的にはもはや分割不能な実体から成っている。というのは、もしも物体の分割が無限に可能だとすれば、この想定は物体が無限に虚空を含むという含意であり、無限分割の結果として物体はついに虚空に帰着してしまうであろうからである。」405P
(対話E)「このように省察してみるとき、物体という質量的実体と没質量的な空間との二元的な区別の構図を維持する立場では、物体は窮局的には不可分体=原子ではなければならず、世界は原子と空虚から成っているとみなさざるをえない。この立場では、世界の各種諸定在は原子の複合の差異によって説明されるわけであるが、原子そのものが質的・量的に均等的であるか多種多様であるかという点については必ずしも一義的ではない。だが、空間についていえば、それは虚空という点で均一であり、かつ、純粋な空間的大きさ(延長性)をもつもの、要言すれば、絶対的な純粋空間でなければならない。――こうして、物体と空間とを二元的に分離する構図を一たん立てれば、質料的実体性をそなえた存在はアトム、没質料的な空間は虚空として二極的に截断とれざるをえず、畢竟するに、原子論(「アトミズム」のルビ)的な世界了解に到り着くことになる。そして、この原子論的世界像においてのみ、物体=原子とならんで「空間」=虚空が“固有の存在”を認められるのである。」405-6P
(小さなポイントの但し書き)「尚、ここで、物体の側について若干の確認を挿んでおきたい。われわれは前節の行論中で「物体」という想念の徴標として、@成長性をもつ質量的存在、A惰性体、B剛体的不可入体、C受動的可動体、これらの“日常的既成観念”を対自化しておいた。ところで、これらのノーションがそのまま妥当するのはいかなる存在者であるか。前節では、@は生物体にも妥当すること、しかし、日常的表象においてABCに適合的なのは道具的諸定在であること、このような臆断を介して議論を進めてきた。だが、道具の或るものは一旦ネジを捲いておけば“外力”を加えずとも“自動的”に動くし、水と油のごときは“不可入体”ではないし……というように、省察 していけば、@ABCがそのまま妥当するごとき定在は日常的四囲には見出せない、と言っても過言ではないほどである。現に、日常的に出会う“物体”は殆んどすべてが変質(つまり、空間的・場所的移動とは別種の運動・変化)していくし、そもそも剛体的不可入体ではない。――今や明らかであろうように、剛体的不可入体、受動的可動体という表象に適合的なのはすぐれてアトム的な存在者である。そして四囲に見出される一切の変化(生物の成長や相貌の変化などをも含む)を構成分の場所的・力学的運動の複合的結果として了解する構えは、まさしく原子論的な存在観を前提する。人が「自然界は諸物体から複合されている」と言うとき、謂うところの“物体”の想念は、それが日常的現相世界の説明原理としての妥当性を要求されるとき、実質的には「原子」的存在者たらざるをえない。この意味において、物体的分節体(空間から截断されて自己完結的な、一定の形態性をそなえた質料的存在、このようなものとしての惰性体)の複合として世界を了解する構えは、自覚的と無自覚的とを問わず、原子論的な存在了解に立脚しているということになる。ここは、まだ、原子論的世界観ひいては機械論的・要素主義的な世界観の批判に立入るべき個所ではない。しかし、「物体的分節」の論理構制は、の二元化的分離、すなわち、「空間」という非質料的存在と「原子」という質料的存在とへの二元化的分離を帰結するということ、そして、この二元化的分離においてはじめて「空間」なるものが固有の自立的存在性を賦えられるということ、とりあえずこの点までは確認しておくことができると念う。」406-7P
(対話F)「われわれは以上において、「場所的空間=空間的場所」という日常的表象から出発して考察を進め、その結果、質料主義的な世界了解の構制のもとでは、「空間」は固有の自立的存在性を認められず、たかだか「質料的空間=空間的質料」という“物質”的定在の“延長的”規定性として、謂うなれば一種の“属性”とみなされること、しかるに、原子論的世界了解の構制を俟ってはじめて「空間」なるものが固有の存在性を認められること、この旨を論定してきた。――ここでは、「空間概念」をめぐる学説史の回顧に立入ったり、現代物理学に謂う空間が一種の“場所的空間”であるかそれとも一種の“質料的空間”であるかを検討したりすることは課題外である。」407P
(対話G)「翻って惟えば、しかし、質料主義的世界像にあっても質料と空間とを截断する余地が依然として残っているのでないか、また、原子論的世界像における「空間」=「虚空」なるものは果たして延長的規定性をそなえた固有の自立的存在と呼べるであろうか。原子論的世界了解における空間は、むしろ、端的な「無」ではないのか。原子論に謂う「空間=空無」は、それ自身としては、延長性を位置性すら有せぬのではないか。これらの案件について考覈するためにも、今や、配位的布置空間と容量的場所空間とを統一的に視野に収めつつ、原理的な問題場面にまで遡らねばならない。そのためには、一たん、日常的覚識の場面に立ち帰るのが捷径(しょうけい)あろう。」407P
第三段落――日常的既成観念においては、世界は「事物」というものと「空間」というものとから成っている世界ということ 408-14P
(この項の問題設定)「日常的既成観念においては「空間」の存在が素朴に信憑されているが、省察的に把え返すとき、その空間なるものの実態はいかなるものであろうか。これらの対自化を行論の手掛りにしよう。――“われわれ”の既成観念における「空間」は“質料的空間=空間的質料”という充実態ではなく、さしあたり、質料的物体とは区別された空虚な“場所的空間”であると謂えるかと思う。この「空間」は、事物を容れうる余地といった“事物的不在・未在”の“限られた場所的空間”を一つの「図」として分節化しつつ、一種の対象的な「もの」の相で自存視することに淵源するであろう。この分節態勢においては、世界は、謂うなれば、「事物」というものと「空間」というものとから成っている。」408P
(小さなポイントの但し書き)「ここでの構制が原子論的世界像へと通ずることは嚮にみておいたところであるが、日常的な直接的意識においては必ずしも原子論的世界像が対自化されているわけではない。さしあたっては、知覚野事物的分節にさいして一般には「地」をなしている部分が「図」の相で顕出しつつ、しかも事物的分節体が「無=地」化されていない態勢が現前しているにすぎない。「地」は「地」たるかぎり「図」の背後で連なっている相を呈するが、今は「空間」が「図」となって顕出しているため、この「空間」=「図」は必ずしも一連ではなく、漠然とではあれ固有の輪郭線で「事物」の部分から区劃されている。謂わば、「事物」と「空間」とが境を接しつつ並存しているのである。」408P
(対話@)「偖、ところが、省察が一歩深まると、事物が現に占めている場所にも「「場所的空間」が在るものとされるようになり、「事物」と「空間」とはもはや単なる並存相ではなくなる。事物の移動にさいして覚知されることであるが、事物はその都度一定の場所的空間を占めつつ位置を変える。事物が移動してもそれの占めていた空間はそのまま残る。なるほど、質料的空間=空間的質料の想念のもとでならば、事物の移動したあとに空間が残るのではなく、事物の移動した余白に周囲の“質料的空間”が“流入”すると考えられることであろう。しかし、“空虚な場所的空間”と“充実せる事物”という分節態勢で思念されている茲では、事物の移動したあとに空虚な空間がその都度に残る。ということは、移動する事物がその都度占めている個所に場所的空間があるということを意味し、事物が静止している場合もやはり同断である。こうして、いまや、事物に占められている個所をも含めて、「空間」なるものが世界大に存在するものと了解される。――ところで、空虚な没質料的“場所空間”が、その或る個所は質料的事物によって占められつつも、全世界大の規模で一様に遍在するという表象が形成されると、その見地からは“質料的空間=空間的質料”についても、それは質料的実質とそれの占める場所的空間という二契機から成るものとされ、質料的実質とは別の純然たる空間(結局は場所的空間)なるものが措定される。――では、その脱質料的な純然たる場所的空間とは何か? それは、さしあたり、質料的事物によって占められうる“可能的場所”の相で形象化されるが、当の「空間」自身の積極的規定性は何か? 空間は質料的実質性においてこそ虚無であるが、部分に“分割”することができるし、依って以って事物に占められうる“大きさ”(容量・延長性)をもつ。空間はまた“内在的”に“布置”や“位置”の規定性をもつ。日常的意識においては、このように、「空間」なるものが在って、それが延長性や位置性を有つ、という相で表象される。だが、延長性や位置性をそなえた空間なるものが事物を離れて独立自存するのであろうか? 世界大の場所的空間なるものは、事物の存在する世界、遡っては、フェノメナルな知覚的空間世界から、事物や現相を“思考上”消去したものであって、延長性や位置性というのは、元来は、事物的世界ないし現相的世界の規定性ではないのか? 慥かにそうであろう。がしかし、一定の場所的空間(これは世界大に開らいてはおらず、また、その内部に事物を存在せしめうる)が一つの「図」として「もの」の相で覚知されるかぎり、この「もの」は延長性をそなえており、また内部的な布置・位置の規定性を有っている。延長性や位置性をそなえた世界大の純粋な場所的空間という表象は、後述の通り、実は布置的位置空間との二重写しの機制に俟つものであるが、当座の論脈で言い切っておけば、有限な「図」としての場所的空間を理念化しつつ拡大したものにほかなるまい。」408-10P
(対話A)「有限な場所的空間が「図」として対象的に覚知されるさい、この「図」は現相的所与と意味的所識との二肢的二重態であって、単なる射映的所与ではない。視覚的風景の遠近法的配景が対自化されているかぎり、射映的な所与上の延長的大きさや布置的構図はさしあたり“見掛”であり、“実際”にはそれとは別の大きさや布置であることが直截に了解されている。見掛上の大きさや見掛上の布置という所与相が、実際上の大きさや実際上の布置という所識相で覚識されるのである。“実相”上の延長的大きさや布置的構図とされるものは、なるほど、身辺で見たさいの大きさや構図の謂いと称されうるが、しかし、身辺で見たさいの射映的な大きさや射映的構図がそのまま“実相”なのではない。実相上の延長的大きさや実相上の布置的構図は、あくまで所識相であって、射映相そのものではない。遠方から見たさいの射映的な大きさや布置と身近かで見たさいの射映的な大きさ布置とが、共に斉しく、それ以上・以外のかくかく大きさ、かくかくの布置として覚識される或る相、それが謂うところの“実際相”である。――“実際相”として覚識される延長的・布置的な“空間”は、さまざまな射映的“見掛相”が斉しくそれとして覚知されるイデアールなゲシュタルト的所識であり、それ自体がレアールに実在するわけではない。それにもかかわらず、謂うところの“実相”的な“空間”は、ゲシュタルト的な安定性と恒常性の相で覚識され、しかも、間主観的に共通・単一の相で覚識される。そのため、実相的空間なるものが独立自存するかのように思念され、この自存的な“空間”が身近ではかくかくに見え、遠方からはしかじかに見えるという具合に、顚倒して意識される。われわれの見地からは、しかし、実相的な純粋空間それ自体なるものはイデアールな所識的形象(「ゲビルデ」のルビ)たるにすぎず、フェノメナルな世界現相を離れて独立自存するものではない。――だが、と人は反問して言うかもしれない。射映的空間現相が斉しくそれとして覚知されるイデアールな所識的形象というのは「概念」として空間であって、この空間概念=概念空間とは別に、事物的世界の存在条件をなすレアールな空間が原的実在するのではないか? また、そもそもフェノメナルな知覚的風景の存在条件として基底的な空間が存在するのではないか? 事物の存在にとって、空間内に在ること、換言すれば、場所的空間内の一定の位置を占めていることが存在条件をなすものと考えられるかぎり、なるほど、空間は事物の存在条件であろう。事物は、慥かに,空間内の定位置をその都度に占めるという在り方をしている。この在り方は、フェノメナルな視覚的風景世界において、分節肢がその都度一定の位置に現前することとも相即する。事物ないし現相の場所的(空間的)配位ということは、世界が現存する構図をなしている。しかしながら、空間という自存的なものがまず在って、それの内に事物や現相が含有されているのではない。諸々の事物や現相の布置的関係態が現存するのである。嚮に論定しておいた通り、「布置的関係態こそが第一次的に在って、この布置的関係態の“結節”として位置が存立する……。位置は、布置的関係という反照規定が“物性化”され“内自化”されたものにほかならない。」しかるに、“場所的空間世界”の内実をなす布置的関係態において、具体的な関係項が“脱肉化”され、もっぱら布置的位置関係なるものが形象化されることに俟って、位置関係が場所的空間に内自化される。そこで、関係態にある事物や現相が単に空間内にあるという相で覚識されるに及び、茲に「空間」が事物や現相の存在条件であるという思念が生ずる次第なのである。」410-1P
(対話B)「翻って、しかし、「第一次的に存在する布置的関係態」なるものが、そもそも既に空間的規定態に俟つものではないのか、布置性や延長性という空間的規定性は、フェノメナルな世界のアプリオリな構造的契機であって、フェノメナルな世界が分節化する存在条件ではないのか。われわれは、同じく「空間性」といっても、場所的空間や質料的空間のように「図」=「もの」の相で対象化される空間的存在(いわゆる「物理的空間」もこれに含まれる)と、フェノメナルな世界の分節化の構図を劃する空間的規定とを区別する必要がある。布置性や延長性という空間的規定は、場所的空間や質料的空間が対象的に覚知される所以の分節化と緊合している。現相世界の分節は、布置性や延長性を欠いては存立しない。布置性や延長性は“われわれ”が現に有つ現相世界の可能性の条件であると言われうる。但し、布置性や延長性はアプリオリな直観というわけではない。発生論的には布置性や延長性を以って構造化される以前に“図”の分凝が一応成立するのであって、布置性や延長性は知覚の原初的な構造的契機ではない。とはいえ、布置性や延長性の覚知は、色彩性とか先後性(いわゆる時間的順序性)とかの覚知が直截であって学習に俟つものではないのと同様、直覚的である。布置や延長を把捉する具体的な仕方は学習に俟つとしても、布置性や延長性の覚知そのことは謂うなれば生得的・本能的な機制であって、それが一定の発達段階と場面において発現する。新生児においてはそれがまだみられないという意味ではアプリオリでないが、しかし、布置性や延長性の覚知は、一定の発達段階でおのずとそれの発現する機制が生得的に具っててるという意味では、かつそのかぎりで、色彩性の覚知などとも同様、一種の“アプリオリ”であると言うこともできよう。――ポアンカレが指摘し、ピアジェが支持しているように、布置は「群」の規則を充たす。そして、この「群」規則の了解も“アプリオリ”であると言われうる。が、この件には立入るには及ぶまい。――ところで、布置関係の“結節”が“内自化”された「位置」についていえば、フェノメナルな知覚的風景世界にあっては、上述の通り、“見掛上の位置”と“実相上の位置”とが二重写しにされる。知覚的風景世界に共属する自分と他人(「この身体」と「あの身体」)にとって、例えば、自分の右前方にある位置が他人からは左前方にあるという具合に、定位置の布置は自他で相違する。それにもかかわらず、当の定位置は、自分にとっても他人にとってもまさにあの(知覚風景に現出している)位置にあるものと覚識され、その位置が“実相上の位置”と二重写しにされる。このため、位置(の体系)は自分と他人たちとで共通・単一の相で覚識される。なるほど、反省的意識においては、“見掛上の位置”と“実相上の位置”とが区別され、“実相上の位置”に即して“実相上の空間”が措定されるに及ぶが、しかし、そのさいにも、位置体系が自他で共通・単一であるという思念は崩れない。ここに措定される自他共通・単一の位置的空間は辞書的空間をも貫通する。このことに俟って、今や位置的空間と場所的空間とが二重写しになる。この二重写しにおいては、一方における場所的空間の固有の存在感と、他方における位置的空間の格別な規定感とかオーヴァラップすることもあって、絶対的空間の想念が使嗾される所以ともなる。そして、布置的位置空間と容量的場所空間とのこの融合態は、延長性という属性をそなえた一つの「もの」の相で表象される。」411-3P・・・宿題の生得的感応機制の論述
(対話C)「われわれは、以上、フェノメナルな風景世界の布置的構造性に淵源する空間像と、対象的に覚知される場所的空間に定位した空間像との“融合”という点にまで議論を進めてきた。フェノメナルに現前する布置的関係態において関係“項”をなすあれこれの事物を入れかえても“同じ”関係性が存立するところから、具体的な事物が“偶有視”“脱肉化”され、布置的・位置的な関係性ひいては延長性が恰かも自存的な相で抽離されて形象化される。他方場所的空間は、それの一部を事物が占めているかどうかは偶有的さされ、事物はおろか、「もの」の相で対象化されているかぎりでの余地的場所をすら、その内部に存在せしめる自存的な存在として形象化される。われわれの見地からは、配位的位置空間と容量的場所空間とはルーツを異にするのであるが、人々の日常的意識においては、両者の融合を生じ、単一の「空間」なるものとして自存化される。――因みに、知覚的風景世界は視野的に限られているが、見廻わせばさらにひろい世界が展らけること、現に見えているのは世界風景の一部分であることがディスポジショナルに覚識されている。この限りで知覚的風景世界のより広い世界(空間的世界)が現存するものと即自的に了解されている次第であって、このことから知覚的風景世界の全体を包む世界空間なる表象が成立する。そして、この絶対化されて場所的・布置的な「世界空間」なるものの特性ならびにいわゆる物理的実在空間なるものの実態を対自的に定式化するためにも、今や「時間」に眼を転じて、そこから反照すべき次序である。」413-4P


posted by たわし at 17:43| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(10)

たわしの読書メモ・・ブログ693[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(10)
第三篇 事象的世界の存立機制
第一章 事物的世界の分節態勢と空間・時間
 第一節 事物的世界の分節相
(この節の問題設定−長い標題) 「現相的世界の分節肢は、“錯図”的な分節化を遂げつつも、対他的反照において劃定され、フェノメナルな直接的与件たる射映的現相以上の“個体的対象”の相で現識されるが、この「所知」たる個体的対象が日常的意識においてそれ自体で独立自存するものと思念されているかぎりで、当の個体的対象を「事物」と呼ぶ。事物は、それの対他的反照規定が“内自有化”されることを負うて、諸々の「質」的ならびに「量」的規定性をそれ自身で有つものと覚識され、「当体−性状」の構制を呈する。――対象的世界の事物的分節相といえば「物体的分節」が人間の知覚にとってアプリオリに必然的であるかのように思念されがちであるが、物体的世界像が形成されるためには、現実問題として道具的物品に取り囲まれた日常的生活の態勢が要件であり、物体的事物観は歴史的に相対的である。事物的世界は所謂「物体的分節」に先立って「肢体的分節」とも呼ぶべき相を呈したものと想われる。」381P
第一段落――言語以前的分節機制 381-4P
(この項の問題設定)「フェノメナルな世界現相の分節は、心理学に謂う「図」と「地」の分節機制にもとづくにせよ、「図」は時として“錯図”的とも呼ぶべき分節成態の相で現前し、あまつさえ“意味懐胎的”(sinn-prägnant)な現識相を呈する。――所謂「図−地」の分節機制は、動物の感覚系においてもみられる感官生理・心理学的な次元に属するものであり、それ自身としては言語以前的である。(因みに、言語的音韻の分節そのことからして図と地との分化の機制に俟つものであり、この機制を前梯とすることなくしてはそもそも分節言語が成立しえないであろう。人間にあってすら当の機制が言語以前的に作動している。)」381-2P
(対話@)「勿論、言語的動物(「ゾーオン・ロゴン・エコン」のルビ)たる人間の場合、更(「あらた」のルビ)めて断わるまでもなく、世界現相の分節状相は言語的交通の媒介による間主観的=共同主観的な同調性(「コンフォーミズム」のルビ)に規制されており、生理・心理学的な“自然状態”に委ねられてはいない。人間においては、フェノメナの分節の具体的な在り方からして言語被拘束的(sprach-gebunden)である。とはいえ、発生論的には世界現相の分節化が言語以前的に一定限進捗していること、そして、言語的活動の拘束的介入も生理・心理学的な「統−轄」の機制に参入(sich-teilnehmen)するという仕方でおこなわれること、これは確かであろう。そのかぎりで、世界現相の具象的な様態、すなわち、錯図的な図柄の分節様態は言語的活動の介在によって激変するとしても、現相「統−轄」の基本的な機制そのものについては“言語以前的な準位”に即してあらかじめ考覈(こうかく)しておくことが方法論的に要求される。」382P
(対話A)「われわれが第一篇第三章第一節の論脈中で述べておいた「或るものの端的な現前」には心理学に謂う「全体野」(Ganzfeld)のケースも含まれるが、これとて決して文字通りの「等質視野」ではなく、いちはやく「迫力性」(Eindringlichkeit)をもった分節化、「統−轄」の傾動を示す。尤も、単なる「異−化」の次元にあるとき、“図”たる“端的な或るもの”(etwas schlechthin)はまだそれ自身としてはいかなる或るものであるか認知的には明識されない。「図」と「地」との「区−別」が意識されるようになった準位ではじめて、「図」が当の或るもの=「其れ」として認知されるようになる。」382P
(対話B)「「図」が「其れ」として「地」から「区−別」される準位にあっても、図たる「其れ」の規定性は原初的には対自化されず、例えば白紙に描かれた円を見る場合、図たる円が紙面から浮き出て見えること、円内の色調が周辺より明るいこと、さしあたって覚知されるのはこの対照性である。とはいえ、反省以前的に、輪郭線は図の側に属しており、このことが図の纏まりと相即しているのであって、既に「統−轄」の機制が作動している。(数学上の「切断」ではないが、輪郭線は図の側に属し、地には輪郭線がない。このことは、黒地に白抜きの円が描かれている場合を見てみれば一目瞭然である。地の側に輪郭線が帰属したとたんに反転が生じ、そのさいには白抜きの部分が“地化”される。)この準位において図を図たらしめているのは、輪郭的な纏まりと相即的な「区−分」、より明るい色調を伴っての浮き出し、これらの対照性である。しかも、この対照的「区−別」性が基本なのであって、地と図とのそれぞれの固有規定がまず認知されてしかるのちに対比されるのではない。輪郭的な区分にせよ、色調的差異にせよ、浮沈の相反にせよ、自存的な性質ではなく、相関的関係規定であり、学知的反省の立場からみれば、反照規定(Reflexion-bestimmung) である。――ところが、「図」が図として明瞭に覚知されるにつけ、「地」は“無−化”(ver-nichten)されるのが通例であり、地は意識野から消失して「図」だけが現識される。茲において、「図」は地との「区−別性の異」における対照性の覚識を失い、それにともなって、反照的関係規定であるところのものが自存的な規定・図の固有的規定として“内自有”(In-sich-sein)化される。第三者的に反省してみれば、地が無−化されて図だけが顕出しているといっても、その「図」がいかなる規定性を呈するかは実は「地」の部分との区別的対照によって左右されるのであるが、当事主体の直接的体験においては、地との反照ということは覚識されず、「図」の規定性は自己完結的で固有的であるように覚知される次第なのである。」382-3P
(対話C)「こうして、われわれの謂う「物性化的錯視」が早くも始まる。この「物性化」の機制によって、われわれが第三者が、種々様々な形、色、香、等々と呼ぶところのものが、勿論まで「形」とか「色」とかいうように概念的に一般化された次元においてではなく、その都度その都度の特殊個別的な性状で、当の図たる或るもの=「其れ」の規定性の相で覚知される。」383-4P
(対話D)「「図」たる「其れ」のかかる規定性は、学知的反省の立場からは「質」(Qualität)と総称することができる。が、この「質」規定は「量」(Quantität)規定とここではまだ未分化である。剴切にいえば、後に「量」的規定として対自化されるところの、大・小、長・短、広・狭、軽・重、等も、まずは対他的対照の反照的規定の“内自有化”された「物性」の相で、そのかぎりで一種の“質”として体験される。――この次元で「量」的規定の対自化が生起しうるとしても、それは濃−淡、遅−速、温−冷、強−弱などの「度合」(内包量)に関わるものであって、外延量の対自化はより高次の(「彼−此」性の関係)場面に俟たねばならない。――」384P
(対話E)「ところで、右に述べたごとき質・量的な規定性を内自有化した「其れ」が当体として自己同一性を保った相で現前するかぎり、それは「もの」(但し、語の広義における「もの」であって、狭義の「物」corpusではない)と指称されうるであろう。この意味での「もの」は“同一体制”の相で持続的に知覚されうるだけでなく、一たん消失しても再認の覚識をともなって直覚的に当の同一のものとして認知されること屢々である。動物が餌食(「えじき」のルビ)を狙って追跡・捕獲したり、仲間を個体的に認知・識別したり、鳥などが自分の巣を同定したりするのは、おそらくこの次元での当体的同一性を覚知してのことであろう。生活体験が蓄積されるにつれて、世界現相はかかる「もの」の併存する相で錯図化され、われわれの謂う「物的世界像」の分節相を形成するようになっていく。この「統−轄」相の機制を知るためにも、今や「当体−性状」の構制を対自化しておかねばなるまい。」384P
第二段落――「当体−性状」の構制の対自化 384-8P
(この項の問題設定)「「もの」の相で現存する「其れ」は、屢々、変化相において知覚される。「もの」は移動相にあるとき、周辺の「地」に対して布置的な変位を示しつつも当体的自己同一性の覚識を伴いつづける。というより、“変移”が当体的自己同一性を伴わなぬときには「消滅と生成」(生滅的変化)の相で、つまり、別の図の出現として覚知されるのであって、そのさいにはもはや「移動的変化」としては覚知されない。われわれが「移動」と呼ぶ相での変化が覚知されているかぎり、そこには当体的自己同一性の意識が伴う所以である。「もの」が移動的変化相にあるとき、第三者的反省の見地からは「もの」それ自身は不易のままと見做せる場合であっても、「もの」が遠ざかったり近づいたり、暗所を横切ったりという変位に応じて、直接的体験相では「もの」が変貌しうる。すなわち、「もの」は当体的自己同一性を保持しつつも、「質」的諸規定(形態・色彩・容量、等々)の変様が体験される。「もの」が「変容」的変化相にある場合にも同趣の構制が体験される。ここにおいて、自己同一的な「当体」そのものと変易的な「質」的規定性との「区−別」が意識されるようになる。――このさい、「質」的規定性とその変様は、われわれの見地からすれば(für uns)対他的な反照規定なのであるが、当事的体験にとっては「質」は「もの」の“内自有”(In-sich-sein)であり、謂うところの「ものそのもの」が「当体」として、「質的諸規定」が「性状」として「統−轄」される。茲に、「もの」が「当体−性状」の「区−別的統一」の相で錯図化される。」384-5P
(対話@)「こうして「もの」が「当体−性状」の相で“錯図”化され、変化相が状態として対自化されると、変化という一種の“質”的規定性が、遅速・緩急・膨縮、等々、「度」合として、その意味での「量」的規定性も対自化され始める。が、そこには停まらない。「もの」が「当体−性状」という統−轄相で錯図化されるに及ぶと、この“錯図”の“分肢”たる「質」が更めて「其れ」として当体の相で現出しうるようになる。そして、この「其れ」つまり特定の性質が変化相を呈しつつも当体的自己同一性の覚識を伴うことにおいて、性質的変化が「度合」の変様として覚識される。「もの」はあまつさえ、その“分肢”たる「質」のあれこれが「生滅」的変化相を呈しても、当の「其のもの」としての当体的自己同一性を保持する。ここにおいて、分肢的質(=性状)と当体そのもの(=基質)とが截断され、「性状」は当体にとって偶有的とみなされるようになる。」385-6P
(対話A)「当体と性状との截断、ならびに、性状の偶有視は、しかし、“単一”の「もの」の変化相の体験だけではいくらも進捗しない。それが本格的に進捗するのは、けだし、両つの「もの」が「彼−此性の関係」相で現前する場面においてである。(単一の「もの」の変化相が当体と性状との截断を機縁づけるのも、実は変化相の二状態が即自的には“彼−此性の関係”相にある所為であって、一般に「変化」の覚知は即自的な継時的“彼−此性の異”にほかならない。) 「当体−性状」の統轄相にある両つの「もの」が彼−此性の関係に立つとき、両つの「もの」における「質」の対他的反照規定の“内自的物性化”がいよいよ進捗し、“錯図”的全体としての「此のもの」(「彼のもの」)の「物象化」が進展する。「此のもの」と「彼(「あ」のルビ)のもの」との相互的関係規定は“無−地”化される傾動にあり、もっぱら「当体−性状」統轄体たる両項(両つの「もの」)が対比される次第となる。そして、これら両項の対比的現前が「対照的異」ないし「校合的同」の意識態において明識される。――この両項的対比は、「此のもの」と「彼のもの」とがそれぞれ「質」的規定性の錯図的な統轄相にある以上、諸“分肢”たる「質」の対照・校合の過程となり、そのことを通じて、「当体」と「性状」との截断が進捗する所以ともなる。そして、「質」の校合性にもかかわらず端的な「相等性の同」の覚識を伴わぬ体験を通じて「質」の量的規定性が対自的に明識化されていく。」386P
(対話B)「両つの「もの」が「彼−此」の対向的「区−別」の相にありつつも「類似性」の覚識を伴い、総体として「相等性の同」の意識態において認知されるとき、両者を「類同的」と呼ぶことができよう。われわれは類同的な両つのものを「同等なもの」と謂い、同等なものについて此れを此れ、彼(「あ」のルビ)れを彼れとして区−別する相異性を「個体的区別性」と呼ぶことにしよう。「同等なもの」が「個体的区別」相で「彼−此」的に対向している態勢においては、二個という数的な規定が尠なくとも順反省的に対自化される。」386P
(小さなポイントの但し書き)「――学知的反省の見地からいえば、成程、数的な規定性は原初的な体験の場面から存在している。或るものが端的に現出するとき、それは一つの或るものであり、図と地とが分化するとき、両者は二つのフェノメナである。等々。しかし、数(個数)的な規定性が当事的体験において対自化されるのは、「同等なもの」の統轄の局面においてであろう。原基的には、しかも、それは数(個数)的算定の体験相ではなく、一種の“質”的な規定性、ないし“度合”に準じる相で覚識される。すなわち、第三者的にいえば類同的なものが二個ある状態と三個ある状態といった区別相がまずは対照的に覚識される。(この準位での“数的”区別、つまり、類同的なものが二個ある状態と三個ある状態といった区別は、鳥においてさえ、卵や雛の“個数”的状態に関して、数個内の範囲で認知されていると言われる。因みに、ネズミは五個までの弁別力をもつと言われるが、それはおそらくこの準位でのことであろうと思われる。)やがては、しかし、当の多寡的な事態(謂わば「質」規定的な対照ないし「度合」的な相異の事態)が「同等なもの」を「個体的区−分」の相で錯分肢的に分節化し、この対比的事態を通じて「個数」的「統−轄」が次第に対自的になる。」387P
(対話C)「――こうして、「同等なもの」が「個数」的に区分されるようになるとし、類同的なものの錯図的な「統−轄」態が「集合」(Menge für uns)を形成し“単一”なもの「一」(一個という規定性)が反照的に物象化されて宛然「即自有」として表象される。(がしかし、これらの“集合”が数量的に整序されるのは高次の経験を経てのことであり、“言語以前的”にはいずれにせよ数量的規定の対自化はさして進捗しないものと思われる。)」387P
(対話D)「ところで、「同等なものといっても啻に「個体的区別」だけでなく、反省的には何らかの相異性の覚識を伴い、われわれの謂う「類同性」の相に遷移するのが普通であろう。但し、類同性の覚識が現前するのは当体的な相−等性の意識が持続している所為である以上、そこでの相−異性はたかだか「量」的規定性(容量や重量、等の「度合」といった次元)にしか及ばない。そして、「相似」なものの対比的経験において、量的な規定性が辛うじて即自的な“外延量”の相で表象されるにとどまる。(因みに、外延量の対自的把捉は計量・計測的実践の経験を俟たねばなるまい。)」387P
(対話E)「翻って、性状としての性状の次元に止目していえば、偶有的な性状は類同的なもののあいだでも著しく相異しうるのであって、類同的な個体間で対照・校合されているだけでなく、当体と性状との既述の截断とも相俟ち、別類の「もの」に見出される性状とのあいだでも対照・校合される。ここにおいて、諸性状、つまり錯分肢的な諸々の「質」が更めて「同等なもの」と「不等なもの」に類別され、こうして諸々の「質」的規定性がそれはそれとして「分−類」される所以となる。」388P
(小さなポイントの但し書き)「――学知的反省の見地からすれば、ここにあってはすでに、「類」的普遍と個別との対立性、ならびに、類的“集合”を形成する各個体の“本質”的同一性が即自的には措定されている。とはいえ、それはまだ対自的ではない。これの対自化には言語的活動の介在を俟たねばならないであろう。――」388P
(対話F)「斯くして、フェノメナルに現前する諸々の「もの」は、基体的には同等でも属性の或るものについては不等であったり、逆に、属性の或るものについては同等でも基体的には不等であったりという相貌で錯図的に分節化し、反照的規定の“媒体”が“無=地”化されるのと相即的に、“錯図”(「もの」)が個体的区別性と個体的自己同一性の相で即自有化され、それの“分肢”的諸性質もまた概して内自有化された相で覚知される。現相的世界は、ここに「物的世界像」の構制を現示する。」388P
第三段落――「物的世界像」の現示 388-95P
(この項の問題設定)「われわれは、以上の行文においては、「物的世界像」の分節化が言語以前的に一定進捗しうること、「物的世界」相での分節化の機制は決して人間だけに特有ではなく既に動物の知覚においても機能しているであろうこと、このことを勘考しつつ敢て言語的活動の介在を閉脚する流儀で議論を進めてきた。がしかし、実際問題としては、人間の場合、「図」が当の或るもの=「其れ」として対自的に認知される場面からいちはやく言語的能記と象徴的に結合(「シュムボレイン」のルビ)される。そして、この象徴的に結合が、「図」の安定的分節態勢を支え、「図」=「其れ」の自己同一性の覚知を強め、「もの」の相での内自的完結性を覚識せしめる。また、「其れ」が変化相を呈しても“同じ”象徴的能記で指称されることが、「其れ」の当体的自己同一性の覚識を強化しつつ「当体−性状」の構制を記銘せしめ、ひいては、質的・量的な規定性を対自化せしめる媒介的要因となる。(コレガ然々スル、コレガ斯々シイという統一的な言語的把捉が、一方におけるコレ=指称当体と他方における能相や性質との統一的な態勢を明識せしめつつ「当体−性状」の構制を強化するが、この間の事情については次章で論攷することにして、爰では姑く措く。)さらには、「個体的区別」相にある複数の「もの」が斉しく“同じ”詞と象徴的に結合される間主観的体験を俟って、「同等なもの−不等なもの」の統−轄が言語以前的な“自然状態”におけるそれとは別様になる可能性が生じ、ここにおいて、いわゆる「類別」や「分類」の在り方が言語的に規制される所以となる。――茲に一端を指摘した範囲からも既に彰(あき)らかであろう通り、「図」の分節化・錯図化、その統−轄の在り方は言語活動の介在によって実地には大いに規制されているのである。――われわれは事実的にも論理的にも言語以前的な統轄過程が一定限進捗することを主張するとはいえ、このことが併せて十全に銘記されねばならない。」388-9P
(対話@)「翻って亦、われわれの嚮の行論では、「もの」という相での分節肢が一概に語られており、現相的世界に現出する「身体的自我」という格別な現相の特異な在り様が明示的に区別されていない。「身体的自我」も一つの「もの」の相で現前しうるのであり、「当体−性状」の構制すら呈しうる。が、「能知的所知=所知的能知」の分節化と能知的契機の“退縮”に伴って、身体的自我においては所知的身体とそこに“宿る”能知的能作とが区別的に意識されるようになる。われわれは、爰では、身体的自我それ自身についても、また、能知的能作と「もの」との特異な媒介関係についても立入らないが、「当体−性状」の統轄相での「もの」が能知的能作から独立自存するものとして即自有化され、前篇第一章に謂う「外界」に属するものと思念されているかぎりで「事物」と呼び、「事物」を「もの」一般から区別することにしよう。尚、「事物」を事物として存立せしめる機制においては、実際には言語的活動が大いに介在しているのであるが、以上の行文においては、「言語」と「事物」という論題は姑く括弧に納めたまま議論を進めることにしたい。――今や「事物」の存立態が論件である。」389-90P
(対話A)「偖、「事物」と謂うとき、人はとかく「物体」という相での分節体を思いがちであるが、「肢体」とも呼ぶべき分節体も考えられる。われわれは「肢体的分節」なるものを殊更に顕揚する心算はない。がしかし、いわゆる「物体的分節」が歴史的・社会的に相対的な分節相であることを対自化する含みで、「物体」に対して「肢体」なるものを対比的に特出しておこう。」390P
(対話B)「対象的自然界の分類相は“われわれ”の日常的意識にとってはおおむね「物体」複合的であり、物体という想念(「ノーション」のルビ)は殆んど自明の感を与えるほどであるが、省察的に規定しようとする段になるとおよそ茫洋としている。そこで、暫定的な手掛りとして、ニュートンの挙げたメルクマールを念頭におきつつ、@延長性をそなえた質量的存在であること、A惰性体、つまり、外力が加えられないかぎり静止(または等速直線運動)の状態を自ら変ずることのない惰性体であること、B剛体的形態性をそなえた不可入体、つまり内部的布置を一定保ったまま位置的移動をすることはあっても、その都度一定の空間的場所を排他的に占める定在であること、C受動的可動体、つまり、内発的には運動・変化せず、外力に応じて硬直的な運動をする受動的被動体であること、以上のような指標を挙げてみればわれわれが日常的にいだいている「物体」の表象を幾分とも明晰にする縁(「よすが」のルビ)となろう。――ここにおいて、@は生物体にも妥当する。しかも、ABCは、反省的・学理的にはともあれ、日常的意識における生物には妥当しえないであろう。日常的表象における生物は“内発的に”、つまり、外力が加わることなしに運動・変形・生長するのであって、とうていABCのごとき存在了解には収まりきれない。物体という概念が学理的省察の場ではいかに普遍的な適用性をもつにせよ、「物体」という表象の原型は無生物のはずである。――それでは、物体の表象の原型的な与件たるべきものとして、われわれが日常的生活の場で出会う無生物は何であるか? 天然自然のままの無生物はわれわれの日常的四囲には稀にしか存在せず、われわれが出会う無生物は、家具、食器をはじめとする諸々の人造賓、道具その他の物品である。物体の表象の原型的与件=無生物が実際問題として殆んどもっぱら人工的製造物であるとすれば、人々の日常的四囲を人工的製作品が取り巻くような生活状況が歴史的に確立する以前には、前記ABCを含意とするごとき「物体」のノーションは成立しうべくもなかったと思われる。」390-1P
(対話C)「問題状況を鮮明にするために、原始未開人の世界に身を置いた場面を想定してみよう。森林地帯においてにせよ、草原地帯においてにせよ、四囲に見出されるのは植物と動物である。そこでは“ひとりでに動く”太陽や月も一種の動物として了解され、地面から“生えて”いる岩石も一種の準植物とみなされるのが自然のなりゆきであったと想像される。未開人の生活環境のなかで“物体”らしきものを強いて探すとすれば、棍棒や丸太、骨器や石器など、道具的に使用されている用度品ぐらいのものである。これらのものは、ひとりでに運動したり成長したりしないという点で動植物と違うし、それらの置かれている場から容易に分離して損わずに移動させることができる(木の枝や動物の四肢などは暴力的な破壊を加えなければ分離・移動できない)という点で際立っている。この特性と剛体的分離・移動の体験に鑑みるとき、道具的用度品は、骨器や木器などのように出自は動植物であっても、また呪術的な能力が帰せられるにしても、知覚的対象分節の様相では“物体”的覚知に近いものでありえたかもしれない。実際、物体的存在という了解の機縁と典型をなしたものは、発生論的にはおそらくや“道具”であったと考えられる。」391P
(対話D)「「物体」というとき、われわれはとかく、やれ質量だ、やれ延長性だ、やれ非霊魂な惰性体だといった“科学的”な規定性を表象しがちであるけれども、これら“科学的規定”のもとになっている基礎的な体験に遡ってみれば、対象的与件の「物体」としての分節的覚知は、当の与件ないしそれの類同物の、剛体的な形態的恒常性を保った空間的移動の体験(やがては、分離的移動の様態に関する類推的な推及)を必要条件とするものではないであろうか? 論点先取(註)を憚らずにいえば、物体的分節体は、例えば石器や土器などのように持上げて移動させることができ、そのさい、それは内部的布置の一定性を保ちながら、四囲の知覚的布置に対して或る斉一な変位を示す。それはこのような相で体験される個体的対象である。このことは、もとより、物体的分節にとっての必要条件の一つであるにしても充分条件ではない。移動体ないし可能的移動体が直ちに“物体”として意識されるわけではない。現に、樹木や枝や動物の肢体が動いても、われわれはそれを一つの“物体”とは感受しない。それは、日常的な視覚的ゲシュタルトとして分離・独立していないということだけでなく、それを実際に切り離すのが困難であり、破損的な切り離ししかできないということ、このような事情が介在しているせいであろう。(われわれ“近代人”は、もちろん、直接に分離・移動させた体験をもたぬ対象についても物体的に分節して意識する。岩石にせよ、建物にせよ、山などにせよ、われわれは“物体”として認知する。しかし、そのさいには、それの可能的分離・可動面を類推的・推測的に表象していることが内省的に認められよう。) ――知覚的対象世界の物体的分節は、逐一的な直接体験にもとづくものでこそないが、発生論的には、ゲシュタルト的に安定した個体的対象性を保ったままの“分離的移動”の体験に支えられており、それの即自的な推及に俟つものと考えて大過ないであろう。しかるに、このような体験の機縁を与えるものは就中「道具」を措いては存在しない。けだし、物体的分節という概念図式の形成にとって、道具の現存在が必要条件をなすと考える所以である。」391-2P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
(対話E)「このように考えて大過ないものとすれば、日常的生活環境が道具にとりかこまれるようになってはじめて物体的世界了解が可能になる。もちろん、これは必要条件の一つたるにすぎず、道具の脱霊魂化その他の条件を必要とするが、そしてそのためにも道具の製作をめぐる或る種の体験が要件となるのだが、ともあれ、対象的世界を「物体」的分節の相で、ひいては、「諸物体」の複合の相で看ずる世界観が成立するためには、「道具」の製作と使用の発達が歴史的要件をなしたであろうということ、われわれはこの点を銘記したうえで論考の歩を進めなければならない。」392-3P
(対話F)「われわれがここで問題にしたいのは、ハイデッガー流の「用在」Zuhandenseinと「物在」Vorhandenseinとの関係ではない。嚮に道具的用度品の特異性を指摘したさいにも、道具の道具性(道具としての機能的有意義性)ではなく、道具的存在の物体性(さしあたっては剛体的な恒常性自己完結的な分離的移動の可能性)を顕揚したのであったが、われわれは、もとより、道具が第一次的には道具性において現前することを承知している自然的対象といえども、それが生の関心対象になるのは第一次的には用在性(危険か安全か、食用になるか有毒か、等々)においてであろう。このことを無視するつもりはないが、この剣については次巻第一篇第一章で扱うことにして、ここではとりあえず留目しておきたいのは、あくまで「事物」的世界像の構造的特質である。」393P
(対話G)「これを規定する伏線として、もう一度、未開人の世界に眼を向けておこう。原始未開人の世界像が物体的に分節した相を呈しないということは、対象的世界が「事物的」に未分節であるという謂いではない。動物の四肢や樹木の枝葉は、胴体や樹幹から物体的に分節するわけでないが、“肢体”的とでも呼ぶべき相で分節して意識されるはずである。そして、この肢体的な分節を含む錯分子的なゲシュタルトとして全体像が現前しうる。そこでは、果実は枝の肢体であり、枝は樹幹の肢体であり、樹木はこれまた地面から突き出ている肢体であって、森林なり草原なりの全体が謂うなれば動物(生き物)に類するような存在として了解されたことであろう。もとより、原始人の生活にあっても、物体的分節の機縁が絶無だというわけではない。例えば、保有している道具的に使用している動物の骨や皮、貝殻や石器など、この種のものは、上述の通り、知覚的分節の様相では“物体”的了解に近いものでありえたかもしれない。しかし、未開人の生活環境においては、この種の与件はいずれにせよ特殊例外的な存在であり、世界像を汎通的に規定するものではありえなかったであろう。原始未開人の世界観にあっては、日常的道具の場で“物体的”分節の可能的構造を有しつも、総体としては「肢体的分節」の相で世界が了解されていたものと忖度される。」393-4P
(対話H)「「肢体」という相での分節肢は、それ自身の成体的構造に関しては、さしづめ「外皮−中身」成態として覚識されたことであろう。果実にせよ芋類にせよ、魚介や動物や植物にせよ、肢体的与件は、剥ぎ取れる「外皮」とその内に納っている「中身」とから成っている。そして、その中身は、これはこれでまた、果実のなかには種殻があり、動物や魚の肉のなかには骨があるあるという具合に、あらためて、「外皮−中身」の構造になっている。さらにいえば、種殻のなかには種核、骨のなかには髄というように「外皮−中身」の構造は多層的・多重的である。(石器・土器・金属器などの道具的製作物は“形態−実質”成態でこそあれ、多重的・多層的な「外皮−中身」成態ではない。この相違が或る種の省察的脈絡で重要な意義を帯びるのであるが、ここでは注記するにとどめよう。)」394P
(対話I)「翻って謂うところの「肢体」分節相が「小枝−中枝−大枝−樹幹」といった整序体系を形成していたとすれば、それは「家族−氏族−胞族−部族」といった社会的編制の構造とも照応的である。」394P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれとしては、しかし、これを以って直ちに、社会的編制構造が自然界に投入されたものとみなすには及ばない。デュルケームが指摘するように、自然的対象界の分類・整序にさいして「社会的な諸関係こそが諸事物についての論理的な諸関係の原型」になっているにしても、当の社会的諸関係の覚知そのことは自然的対象の分節的覚知に対して自覚的に先行するものとは言い切れまい。原基的な場面では、そもそも自然的定在と社会的定在との二元的区分は存立しないのであって、対象的世界の肢体的分節化のほうが社会的関係の分節的把握に先行しうる。)」394P
(対話J)「われわれが茲で勘案しておくべきことは、対象的自然界の分節的編制の構制が社会的諸関係の編制によって媒介的に規制されるということ、対象的知覚界の分節様態は感官生理学的に一義的に決定されるわけでなく人間の場合には知覚的分節ひいては事物的分節の基調からして社会的生活の在り方と相対的であるということ、さしあたりこのことまでである。」394-5P
(対話K)「“われわれ”の日常的意識では、対象的事物界を――その一部に関して、ないしは下位的分類の一図式としては、「肢体」的分節の相で了解することもありうるにせよ――基調的には「物体」的分節相で看取するが、「物体的分節」ということは決して人間の知覚にとって必然的な構造ではない。それは、歴史的・社会的・文化的に形成された生活環境と生活状況によって媒介された歴史的・社会的・文化的な所産なのである。物体的世界像が人間の知覚にとってアプリオリでナチュラルであるかのように思念する謬見を卻けつつ、われわれはこの事実を須臾(しゅゆ)も忘れないようにしなければならない。」395P
(対話L)「ところで、事物的世界の分節相を立入って見定め、そもそも「事物」とは何であるかを規定するためにも空間ならびに時間を主題化することが今や要件である。空間・時間との反照のもとに、事物的世界を順次把え返していくことにしよう。」395P


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2025年04月02日

バーセル・アドラー 、ハムダーン・バラール、 ユヴァル・アブラハーム 、ラヘル・ショール監督「ノー・アザー・ランド故郷は他にない」

たわしの映像鑑賞メモ080
・バーセル・アドラー 、ハムダーン・バラール、 ユヴァル・アブラハーム 、ラヘル・ショール監督「ノー・アザー・ランド故郷は他にない」パレスチナとノルウェーの共同製作2025
今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品。ヨルダン川西岸地区へイスラエルが「入植」するとして、そこに住んでいるパレスチナ人を追いだしていこうとする、それに抵抗するパレスチナ人に発砲もし、死者や負傷者や拘束者も出ています。そういう情況の中でパレスチナ人のジャーナリストとイスラエルの横暴に反対するユダヤ人のジャーナリストとの交流も描いているのですが、そこに僅かな希望のようなことがあるのですが、イスラエルの軍隊だけでなく武装した入植者もあらわれ、ブルドーザーでの住居やインフラや学校の破壊場面、抵抗するパレスチナ人の抗議の叫びとデモ、そして銃撃されるシーン、その地区から離れていくひとも出ていくというところでこの映画が終わっています。「ノー・アザー・ランド故郷は他にない」というタイトルとは裏腹に、それが叫びでしか無いというパレスチナの苦悩と絶望的な情況になっていっています。
 どうしてホロコーストを経験したユダヤ人がシオニズムという思想をも背景にしてイスラエル建国と称して、パレスチナ人を追い払うというようなことができるのか、まさに差別されてきた民が、差別ということ自体をなくそうとする、反差別の立場に立つのではなく、「差別されるのは嫌だ、差別する側になる」というところで、差別排外主義者として立ち現れる構図がそこにあるのです。そして何よりも問題なのは、コロニアリズムの中で、「帝国主義」の時代の欧米<帝国>中枢国が、ポストコロニアリズムの時代なのに、イスラエルのパレスチナへの「入植」を許しているのか、というこの問題の根源的問いがあるのです。ロシアのウクライナ侵攻ということでの対応と矛盾する、特にアメリカのダブルスタンダードがそこで指摘されています。そして、トランプのアメリカ大統領再選ということがこの絶望的な情況に、ウクライナ問題も含めてさらに追い打ちをかけていきそうです。イスラエル、プーチンの所業を、そしてトランプの新しい動きも含めて「帝国主義の時代に戻った」という言説がでているのですが、わたしは、これは「戻った」ということではなくて、資本主義の新しい段階としてのグロバリーゼーションが世界を覆う中で矛盾が蓄積され、その出口をファシズムとして立ち現れている、差別主義と国家主義−超国家主義の新しい段階に突入してきていると押さえることだと考えています。それに対抗するのは、国家主義批判と反差別主義として、国家の枠組みを超えた、すなわち反差別主義−反国家主義の民衆の国際連帯の運動が今必要になっているのだと、改めて想起しています。


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白井聡『武器としての「資本論」』

たわしの読書メモ・・ブログ692
・白井聡『武器としての「資本論」』東洋経済新報社2020
白井さんの本、5冊目です。白井さんはインターネットの世界でマルクスを突きだしている大学の教員で、レーニンの再評価をも突きだしています。
『資本論』の読み方は、さまざまで、入門書の類いもいくつも出ていると思うのですが、この本は「支配の構造」ということに焦点を当て、合法的盗みである搾取をいかに反抗なしにおこなっていくかを、形式的包摂―実質的包摂の概念で暴き出しています。また、資本主義の出発点である「本源的蓄積」を、イギリスを軸にして、日本における本源的蓄積の歴史をも押さえています。さらに、イギリスの食事は何故まずいのかという民衆の感覚での、資本主義の構造=矛盾を押さえていることが面白く読めました。入門書としては、それなりに面白いのですが、『資本論』の読み方の議論になると、わたしは、廣松渉さんの『資本論の哲学』とその流れのひとたちとで共編著した『資本論を物象化論を視軸にして読む』があり、「物象化」という概念で『資本論』を押さえてきたので、そういう観点がないので、まあ、ないものねだりのようなことなので、それはそれで、読んでいくしかないのでしょうが・・・。
 もうひとつ、「本源的蓄積」論は、わたしはローザ・ルクセンブルクの「継続的本源的蓄積論」を反差別という処から読み解いていっているので、そこから支配の構造を読み取っています。白井さんはマルクスのなかに萌芽としてあったグロバリーゼーションというところまで展開していっているのですが、それの世界展開の果てに、「<帝国>中枢国」(ネグリ/ハートの概念)での内部的収奪に進まざるをえないところでの差別ということの意味をいまひとつ押さえ切れていないと感じています。これもないものねだりのようなことです。更に、白井さんの「キャリア」ということを、物象化論とからめて、「労働力」ということ自体が物象化されたこととしておさえ、さらに、その能力ということ(すなわち白井さんのいう「キャリア」もその一端)もさらに「コモン(共有財)としての能力の内自(有)化」という二重の(すなわち錯分肢的)物象化として押さえています。
いずれにしても『資本論』はもっともっと深く読み取っていけるとその一端を示してくれているとても読みやすい入門書です。

目次を揚げておきます。きれいなレイアウトなのですが、ベタで打ち込みます。
     目 次
    はじめに 生き延びるための「武器」としての『資本論』
 第1講 本書はどんな『資本論』入門なのか
『資本論』入門――どのような視角から読むのか
なぜ今、マルクスなのか
使用するテキスト
 第2講 資本主義社会とは?              万物の「商品化」
マルクスによる資本制社会の定義
資本主義は続くよ、永遠に!?
資本主義はいつ始まった?
『資本論』が「商品」の分析をもって始まることの意味
生殖までもが「商品化」される
商品による「商品の生産」
「それをお金で買いますか」
「富」と「商品」の違い
物質代謝の大半が商品を通じて行われる資本主義社会
 第3講 後腐れのない共同体外の原理「無縁」        商品の起源
商品はどこからやってくる?
商品交換の特徴
労働力を「売る」「買う」とは?
第4講 新自由主義が変えた人間の「魂・感性・センス」 「包摂」とは何か
「形式的包摂」と「実質的包摂」
新自由主義と終わりなき「包摂」
新自由主義が変えた人間の魂・感性・センス
第5講 失われた「後ろめたさ」「誇り」「階級意識」     魂の「包摂」
「寅さん」がわからない!
「後ろめさた」ゆえの支離滅裂
消え去る労働者階級
純然たる「消費者」となった労働者階級
第6講 「人生がつまらない」のはなぜか  魂の商品化の果ての「消費者」化
キーポイントの復習
「仕事がなくて無一文」な「自由な労働者」
教育の商品化
消えることそのものが資本の目的
第7講 すべては資本の増殖のために            「剰余価値」
機械は人間を楽にしない!
商品と労働の二重性
「資本」とは
なぜ、労働力によって剰余価値が生産できるのか?
「必要」の弾力性
第8講 イノベーションはなぜ人を幸せにしないのか  二種類の「剰余価値」
「必要労働」と「剰余労働」――生産性をめぐる「錯覚」
絶対的剰余価値――搾取するにも限界がある
相対的剰余価値と資本主義のダイナミズム
技術革新はなぜ人を幸福にしないのか
第9講 現代資本主義はどう変化してきたのか   ポスト・フォーディズム
という悪夢
二〇世紀後半のフォーディズム型資本主義
二一世紀のネオリベラリズム(ポスト・フォーディズム)
ポスト・フォーディズムという悪夢
第10講 資本主義はどのようにして始まったのか       「本源的蓄積」
江戸時代の生産統制
副産物としての「物質的豊かさ」
悪循環の行き着く先
「本源的蓄積」とは何か?
資本主義の始まる条件
「はじまりの労働者」を生んだ「囲い込み」
第11講 引きはがされる私たち            歴史上の「本源的蓄積」
日本における本源的蓄積
地租改正が生んだ「分離」
日本がいまだに抜け出せない封建制の残滓
ロシア文学に見る本源的蓄積の過程
封建制ユートピアへのノスタルジー
チェーホフ『桜の園』は「土地の商品化」の物語
本源的蓄積の過程の持続性
「空間の差異」を用いる労働力のダイビング
イノベーションで生まれる剰余価値はたかが知れている
本源的蓄積と暴力
「階級闘争」を闘ってきたのは「金持ち」だった
可能なる「階級闘争」
第12講 「みんなで豊かに」なれない時代      階級闘争の理論と現実
「階級闘争」という概念
再分配機構の逆利用――住む場所で人生が決まる!?
東京都民がかみしめるべき「さみしさ」
歴史的に敗れた戦略
「正体不明化」進む労働組合
機能しなくなった「階級闘争」の戦略
第13講 はじまったものは必ず終わる       マルクスの階級闘争の理論
『共産党宣言』における階級闘争の概念
『資本論』のどこに階級闘争があるのか?
階級闘争vs.構造主義
はじまったものは必ず終わる歴史的に敗れた戦略
第14講 「こんなものが食えるか!」と言えますか?  階級闘争のアリーナ
エフゲニー・バシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』
汝、何を食すか?
『資本論』のどこに階級闘争があるのか?
なぜイギリス料理はまずくなったのか
階級闘争のアリーナとしての感性
   おわりに
   付属ブックガイド

 特に印象に残ったことの抜き書き、また対話をも含んだ切り抜きメモを項目だけのところもありますが、挙げて置きます。
「ですから、「こんな世の中をどうやって生き延びていったらいいのか」という知恵を『資本論』の中に探っていく、マルクスをきちんと読めば、そのヒントを得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。そう思っています。」22P
「われわれの社会においては、そういう形で物がめぐりめぐっている。そのプロセスを物質代謝といい、その大半を――この「大半」という言葉が厄介なのですが――商品の生産、流通、消費を通じて行う社会が「資本主義社会」と言えるでしょう。」38P
 階級がなくなったという言説69P・・・階級がなくなったのではなく、グロバリーゼーションの進行の中で、矛盾が周縁国やその民衆に転化され、「中枢国」の社会変革の運動の弾圧の行きつく先で労働者階級に階級意識が一時薄れただけ。グロバリーゼーションの行きついた処で、労働者の非正規雇用化の中で、階級差別は激化してきている。「第5講」全体もその観点で読み解いていく必要
「この「大半」という言葉は曖昧で、これでは定義がしっかりしないように見えるかもしれない。明確な基準はあります。それは労働力と土地であり、マルクスはこの二つが商品化されたとき、その社会は資本制社会となったとみなすのです。」95P
「商品を作るために投ぜられ、商品の価値を形成する労働を「抽象的人間労働」と呼びます。労働価値説とは、「商品の価値とは、抽象的人間労働の結晶なのだ」という考え方です。」111P・・・物象化された相で起きていること、労働価値説自体が錯誤
「ビジネスの世界に、「PDCAサイクル」という手法がありますよね。「計画(Plan)」「実行(Do)」「評価(Check)」「改善(Action)」を繰り返すことにより、継続的に生産性を上げていくやり方であるとされていますが、最近では「役に立たない」とか「時代遅れだ」という批判もされているようです。/私が思うに、これは特別剰余価値の獲得競争の戯画なのです。・・・・・・」142P
「二一世紀の今、世界は再階級化の波にさらされている。それによってさまざまな問題発生している。それは事実ですが、逆に言えば、少なくとも見かけ上、階級社会ではなくなった時代が過去にあったということです。・・・・・・」146P・・・見かけ上でも「階級社会ではなくなった時代」などはなかった。69Pのコメント参照。
「ポスト・フォーディズムは認知資本主義である」152P――「認知資本主義では腕力、肉体の力、さらには忍耐力より、むしろ脳の力、知力や何かを感じたり気づいたりする感性、そういった能力が剰余力の生産にとって重要になる」153P・・・一面的、労働の部署によって違ってくる。
 9講・・・現代資本主義論
 10講・・・本源的蓄積論→206Pの「反復論」とセットで
 日本における本源的蓄積188P〜・・・松方デフレの過大評価、一つのスポット
 封建社会のユートピア200P・・・「支配層のユートピア」
「マルクスは本源的蓄積を「資本主義の原罪」と形容しましたが、それが一度きりで終わらせるものでなく、長期にわたって続く過程であると考えるならば、むしろ本源的蓄積は資本制社会において、反復して生じてくる出来事と捉えた方がいいのではないか。・・・・・・」206P・・・「反復」というより、継続的本源的蓄積論(ローザ・ルクセンブルク)――差別なしには存在できない資本主義の構造
「今の労働分配率低さに基づく格差がこれらも広がっていけば、いずれ資本家も没落することになりかねない。なぜなら、生産した商品の買い手がどこを探してもいなくなってしまうからです。」217P・・・資本家が没落するのは一部で、少しの資本家に集中していくことと、戦争や軍備というスペンディング経済やスクラップ・アンドビルドで消費を求めていくことも追求していく、民衆の幸せにつながらないどころか不幸に追い込む「政治――経済」的追求なのだと思えます。
「では、どうしたら階級闘争を再開できるのか。」220P・・・わたし的には反差別から立て直すところだと考えています。
「本書は『資本論』の入門書ではありますが、裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」です。・・・・・・」222P
「しかし、ソ連の経済はやがて失速しついには崩壊します。その原因が何であったのかはさまざまな説明がありますが、やはり中央集権制的な指令経済というものに根本的に無理があったと考えられます。」231P ・・・レーニン組織論批判になります。
「ヘーゲルはこの考え方(ヘーゲル弁証法の展開)を人間の歴史に当てはめました。「歴史とは何か。それは理性と自由が実現していく過程である。しかしそれは、人間が傾斜が一定の坂道を上るようにして、着々と理性と自由を高めていくということではない。理性と自由は弁証法的な矛盾、対立、闘争を経て、徐々に実現していくのだ」という見方です。フランス革命に震撼させられたヘーゲルは、それは人類史における理性と自由の現れであり、自由な契機である、と考えた。/マルクスはヘーゲルのこの歴史観を基本的に受けついでいます。・・・・・・」246P・・・ヘーゲル弁証法とマルクスの弁証法の違いの検証が必要です。つぼみの例?
「「社会を構造として把握する」という方法論をここでは「構造主義」と呼んでみます。」253P・・・構造主義批判が必要
「法を作るのは国家であり、国家権力です。マルクス主義の世界観からすると、国家とは階級の乗り物であり、階級に従属するものでした。・・・・・・」262P・・・国家=幻想共同体論の欠落
 著者のバシュカーニスへの共鳴263-6P・・・?マルクスを押さえていない。
「人間というものにそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。・・・・・・」279P・・・冒頭に書いたように、「能力をコモンとしてとらえる」――「能力を個人がもつものとして考えない」ということからのとらえ返しでの論攷の批判と深化が必要


posted by たわし at 04:47| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(9)

たわしの読書メモ・・ブログ691[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(9)
第二篇 省察的世界の問題構制
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
 第三節 間主観的妥当と真理
(この節の問題設定−長い標題) 「認識の真理性とは一般に客観的妥当性の謂いであると了解されており、「意識対象−意識内容−意識作用」の三項図式を前提としつつ、伝統的には、意識対象と照合的に合致する意識内容が真理(真なる認識)であるものと思念されてきた。しかしながら、われわれの見地からいえば、認識の「客観的妥当性」とは意識内容と意識対象との直接的な照合的合致性の謂いではない。判断的成態と対象的事象との照合的一致・不一致が真理・虚偽の判断的基準であると謂われうるにせよ、対象的事態なるものは間主観的に形成されて、“認識的主観”に対妥当する事象的・命題的事態にほかならないのであって、認識の客観的妥当性=真理性は「質料的所与−形相的所識」「能知的誰某−能識的或者」の四肢的連関性において存立するものであり、真理性−虚偽性とは、判断成態の対象的事態に即しての共同主観的妥当性・不妥当性なのである。」353-4P
第一段落――認識の真理性・虚偽性という価値的対立規定性は判断の次元を俟って甫めて成立すること 353-63P
(この項の問題設定)「認識の真理性・虚偽性という価値的対立規定性は判断の次元を俟って甫めて成立する。単なる知覚や単なる表象は真偽の価値的判定は「指示的対象性−述定的意味性」の成態、すなわち、判断成態に関しておこなわれる。――尤も、われわれは、いわゆる知覚やいわゆる表象と謂うフェノメノンも「現相的所与」に「意味的所識」を向妥当せしめた等値化的統一態、「質料的所与−形相的所識」成態であることを指摘し、基本的な構制においては既に「判断」と同型的な意味構造を有つことを主張する者であり、質料的所与に形相的所識を向妥当せしめる等値化的統一を語の最広義においては“判断”と呼びさえもする。そのかぎりでは、知覚や表象といえども真偽性を有つと謂えるが、しかし、それはあくまで知覚や表象が“判断”でありそれの“客観的妥当性”(実は「客観的妥当性」)が問題になりうる限りのことである。――」354P
(対話@)「判断「SハPナリ(ナラズ)」は、事象ないし事態としての「SハPナリ(ナラズ)」が“客観的に”アルとき“真理”であると謂われる。時によっては、「SハPナリ(ナラズ)」という事象ないし事態が「Pナル(ナラザル)S」という相に“物”化されて、「SハPナリ(ナラズ)」という判断は「Pナル(ナラザル)S」が“客観的に”アルときに“真理”であると謂われる。爰では、しかし、“客観的に”アル(ナイ)とされる事象に即して議論を進めることにしたい。」354-5P
(小さなポイントの但し書き)「(事象・事態の「Pナル(ナラザル) S」という相への“物”化、例えば「コレハ雪ダ」「雪ハ白イ」「雪は黒クナイ」→「雪ナルコノもの」「白イ雪」「黒クナイ雪」といった “物”化については次篇第二章第一節の論脈内で討究する。その関係で、爰では“客観的に”アル(ナイ)とされる「Pナル(ナラザル) S」という“物”に即しての真偽性の検討は姑く措く次第である。この手続を採ることがわれわれの真・偽論にとって欠陥を生じないことは次篇での行論が闡(あき)らかにするであろう。尚、いわゆる「整合説」およびプラグマティックな真理説については第三巻第一篇の論脈で討究することにして、爰では措く。)」355P
(対話A)「偖、「SハPナリ(ナラズ)」という判断がそれと照合的に合致すると謂われる「SハPナリ(ナラズ)」という事象ないし事態が“客観的に”アルとはいかなる謂いであるか? まず「事象」の場合から考えていこう。「コレハ何々・然々・斯々」、例えば「コレハ犬(ダ)」「コレハ走ル」「コレハ黒イ」という事象は、コレと指称される対象的与件たる基質・能相・性状が「犬」「走ル」「黒イ」と人々によって呼称される在り方をしていることを示す。人々が当該の与件を「犬」「走ル」「黒イ」という詞で呼称するのは、これらの詞の被表的意味の“特定値”が対象的に現前するからにほかなるまい。が、現前する対象性を或る詞の被表的意味=“函数態”の“特定値”的定在として認知することは、それ以外の詞の被表的意味との示差的区別性において劃定していることと相即し、(「犬」であって「猫」「机」「石」……ではないこと、「走ル」であって「坐ル」「歩ク」……ではないこと、「黒イ」であって「赤イ」「白イ」……ではないことの劃定)一定の分類的定位をおこなっていることを含意する。このかぎりで、「人々」が一定の詞で呼称するということは、当該の与件的対象性を既成的分類体系の一定の位置に定位していることと相即的である。コレハ犬(ダ)」「コレハ走ル」「コレハ黒イ」が“客観的に”アルとは、当該の対象的与件たる基質・能相・性状を既成の分類的体系に徴して「犬」「走ル」「黒イ」と呼称する態勢にあることの謂いである、と言えよう。このさい、人々がそう呼称するのは当該与件が“客観的に”「犬」「走ル」「黒イ」デアルからだ、と考えられ易い。すなわち、人々がそう認知・呼称するのは結果であって、その原因として“客観的に”「犬」「走ル」「黒イ」デアル事象ガアルのだ、と考えられがちである。しかしながら、「コレハ黒イ・白イ・臭(「クサ」のルビ)イ・甘イ……」といった事象を惟ってみるがよい。当該の事象が“客観的に”アルというとき、与件的対象性がいわゆる感性的性質である場合には、特定の誰彼がそう感受すると謂いでこそないが、“スタンダード”な「人々」が共通に「黒イ・白イ・臭イ・甘イ……」と覚知することが謂われているのではないか。この共同主観的な認知・呼称を離れて、“客観的に”黒イ・白イ・臭イ・甘イ……が別途に存在するわけではあるまい。“客観的に”とは“主観とは独立に”の謂いであるとされるが、主観から全く独立に「黒イ・臭イ……」といった感性的性質がアルわけではない。誰彼という個々の主観がたまたまどう感覚(錯覚)するかからは独立でも、主観一般から端的に独立ではないのである。こうして、さしあたり、「コレハ黒イ・臭イ・甘イ……」といった、性状がいわゆる感性的性質であるたぐいの事況に関しては、事況が“客観的に”アルということは「人々」が共同主観的にそう認知・呼称することの謂いにほかならないことが認められよう。「コレハ然々スル」という事件に関しても、能相然々がもっぱら感性的に認知される能相である場合には、やはり、事件が“客観的に”アルとは「人々」が共同主観的にそう認知・呼称することの謂いであることが容易に認められる筈である。慥かに日常的意識においては、“客観的に”然々斯々デアルからこそ人々が共同主観的に一致して然々斯々と認知・呼称するのだという具合に思念されるが、とりあえず斯々然々が感性的能知である場合について言えば、この日常的思念は顚倒しているのであって、「人々」が共同主観的に一致して然々斯々と認知・呼称することから当の事件や事況が“客観的に”アルと思念されるのである。以上の議論は、しかし、とりあえず、斯々然々がいわゆる“感性的性質”の場合に限られている。これを果たして「コレハ何々・然々・斯々」という事象一般の“客観的に”アルにまで推及できるであろうか。われわれの結論はしかりである。順次議論を詰めて行こう。「コレハ斯々然々」という事況・事件が、例えば「コレハ賢イ」「コレハ大キイ」「コレハ哺乳スル」「コレハ形ヲモツ」というように、直接的な“感性的性質”ではない性状や能相を呈する場合にも、事象の与件的対象性は感性的に現前する。そして当の感性的な性状や能相が単なる感性的性質の複合以上の「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」という相で現識される。このさい、現与の感性的性質の“背後”にある“客観的実在”とやらが露呈するのではない。現与の感性的な性状や能相の“複合”が単なるそれ以上の意味的所識性において「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」として覚識されるのである。ここでは、認知・呼称に先立って事象そのものが“客観的に”「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」とされるが、それは「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」とされるが、それは「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」として覚知される性状や能相、“感性的性質”のことの一種独特の現われ方が「人々」によってそのような意味的規定性で共同主観的に一致して覚識されるということ、このことの謂いにほかなるまい。この認知的覚識にもとづいて「人々」は「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」と呼称する。当の共同主観的認知を離れて「コレハ賢イ」「コレハ大キイ」「コレハ哺乳スル」「コレハ形ヲモツ」という事象ガアルわけでないことは、「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」ということが一定の“感性的性質”の“複合”たる感性的な性状や能相についての共同主観的に一致した感知を離れてはあり得ないということから明らかであろう。嚮の「コレハ黒イ・臭イ・甘イ・辛イ……」と同断なのであって、“客観的に”アルとはここでも共同主観的に一致して人々がそう覚知することの謂いなのである。日常的意識においては、なるほど、事象が“客観的に”「賢イ」「大キイ」「哺乳スル」「形ヲモツ」からこそ共同主観的にそう思念されるが、それは、日常的意識においては、事象が“客観的に”「黒イ・臭イ・甘イ……」から共同主観的に一致してそう感知されるのだと思念されるのと同趣であって、同様な物象化的顚倒であると言わねばならない。」355-8P
(小さなポイントの但し書き)「「賢サ」「大キサ」「哺乳」「形」といったものが独立自存するかのように思えるのは、それらが個々の誰彼がそう覚知するかどうかにかかわりなく“客観的な”意味として存立するということに起因する。しかし、意味形象の“客観的な”存立ということは、まさにイデアールな「人々」にとって共同主観的に存立すること、そしてこの意味形象の存立性がレアールな個々人誰彼がそれを認識するかどうかから一定“独立”であること、このことの謂いにすぎない。「人々」の共同主観的一致というさいの「人々」を理念(「イデアール」のルビ)化された能識者として了解せず、レアールな人々の単なる集合とみなす場合には成る程「意味形象」は“人々”からすら独立自存する。“客観的”な或るものの相で思念されるが、しかし、共同主観的な能識者としての「人々」というのは、後段において手段的に立帰って論ずる通り、単なる多数者といった謂いではなく、理念化(idealisieren)された世人を意味するのである。――尚、本書では「性状」という詞と「性質」という詞とを文脈に応じて“混用”する。」358P
(対話B)「残るところ、「コレハ何々」、例えば「コレハ犬ダ」「コレハ果物ダ」といった事実の場合は如何? ここでもやはり“感性的性質”の或る複合的な与件が単なるそれ以上の意味的所識性において措定されており、既成の分類的整序体系への汎称のもとに、当の与件が「犬」とか「果物」とかとして認知・呼称される。人は、こうこうしかじかの徴標が“客観的に”見出されるからこそ「コレハ犬」「コレハ果物」と覚知し、そう呼称するのだと思念する。だが、こうこうしかじかの感性的徴標が“客観的に”見出されるというのは、「人々」が分類的整序体系との反照のもとにかくかくと呼称するごとき徴標が現に見出されることの謂いにほかならない。例えば、トマトを眼前にしつつ、「コレハ野菜デアル」という事実、「コレハ果物デハナイ」という事実が“客観的に”アルというとき、コレ(トマトなる対象的与件)の性質そのものをいくら精査してみても、ソレが野菜であってくだものではない所以の規定性を見出すことは困難であろう。それにもかかわらず、「コレハ野菜デアル」という事実、「コレハ果物デナイ」という事実が、“客観的に”厳存するものとして普通には割切る。このさいには、当の与件を分類的整序体系に徴して「人々」が何と呼称しているかを以って、そのまま“客観的”事実と称しているわけである。尤も、人は対象的与件において現に見出される性質を顧慮しないわけではない。まさにそれを顧慮することによって呼称の仕方を決めるのである。だが、与件において現に見出される“客観的”規定性なるものは、基質そのものは直截には現出しない以上、帰するところ、嚮にみておいた性状や能相にほかならなるまい。(感性的に与えられる“性状”や“能相”に即して、それが単なるそれ以上の或るもの=基質として覚知される。)とすれば、当の規定性が“客観的に”アルとは、上述の如く、「人々」が共同主観的に一致してそう認知・呼称することの謂いにほかならないのである。このような“客観性”つまり“共同主観性”に即して「コレハ何々」という事実が厳存するとされるのが実情であると言えよう。」358-9P
(対話C)「われわれは以上“客観的事象”のうち、「コレハ何々・然々・斯々デアル」という積極形のものについて稍々詳しくみてきたが、そのことに負うて、「コレハ何々・然々・斯々デナイ」という消極形の事象については簡略に論決ことができる。「コレハ何々デナイ」「コレハ然々シナイ」「コレハ斯々シクナイ」という消極形の事実・事件・事況が“客観的に”アルとは「人々」が与件コレを当の何々然々・斯々とは認知・呼称しないことの謂いであることが容易に認められる筈である。尤も人が「コレガ何々・然々・斯々デナイのは“客観的事象”デアルというとき、分類的整序体系と反照するにさいして、与件コレにおける積極的な規定性を顧慮していることは慥かであろう。そこでの暗黙の論理構制は、コレハかくかくの積極的規定性を“客観的に”モツが故に何々・然々・斯々デハナイ、というかたちになっているとも言えよう。このかぎりで、議論の焦点は、与件コレガかくかくの積極的規定性を“客観的に”モツ、ということに懸る。だが与件コレガしかじかの規定性をモツという積極的な事象が“客観的に”アルというのは、嚮にみておいた通り、結局は、「人々」が共同主観的に“一致”して認知・呼称する謂いにほかならないのである。こうして「消極的事象」が“客観的に”アルとは、詮ずるところ、「人々」の共同主観的な認知・呼称に帰趨する。(尚、客観的な基質・能相・性状というものそれ自身の何たるかについては次篇の論脈中で討究する)。」359-60P
(対話D)「茲で今や「SハPナリ(ナラズ)」という事態が“客観的に”アルとはいかなる謂いであるか、事象との区別における「事態」の検討に移る段取りである。――「SハPナリ(ナラズ)」と標記されても、Sが具体的な現相的所与コレ(Sと指称されるコレ)を示している場合は、「事象」(事実・事件・事況)であって、「事態」ではない。「事態」というのは嚮に命題に即して定義しておいた通り、Sが被指的意味を指し「SなるものハPナリ(ナラズ)」という意味構制になっている場合である。ここで扱うのは「事象」から区別されるこのような被指的意味成態としての「事態」である。――「Sなるもの」というのはまさに「人々」によってSとして認知・呼称されるものの謂いであり、その「Sなるもの」ガPナリ(ナラズ)ということが“客観的に”アルというのは、既成の概念体系、既成の分類的整序体系においてSがPに下属する(しない)ことにほかならない。ところで、SなるものがPに下属する(しない)とは、SおよびPの“客観的”規定性に即して、両者が包摂(不包摂)の関係にアルことの謂いである。だが、Sの規定性が“客観的に”しかじかデアリ、Pの規定性が“客観的に”かくかくデアルというのは、誰彼の個別的主観がどう認識するかからは独立であるとはいえ、主観一般から端的に独立ではない。なるほど、日常的意識においては「SハPナリ(ナラズ)」という“客観的”事態(例えば「雪ハ白色ナリ」「犬ハ動物ナリ」「雪ハ黒色ナラズ」「犬ハ植物ナラズ」)は、認識主観がそう認識するといなとにかかわりなく、認識主観からは独立に自存するものと思念されている。慥かに、認識主観が誤って“SハPナラズ(ナリ)”と判断しようと、誰かが無知で判断を保留しようと、そのこととは“無関係に”「SハPナリ(ナラズ)」という“客観的”事態は存立する。常識的な思念では、仮令万人が誤って判断しようとも“客観的”事態は厳然として「SハPナリ(ナラズ)」デアル。“客観的”事態「SハPナリ(ナラズ)」は「人々」の共同主観的な認知からさえ独立自存する、というのが日常的思念である。この思念にはもっともなところがある。“客観的”事態は“万人”の認識から独立(“人々”の共同主観的な認知からさえ独立)と謂われているのは、「客観的とは認識主観から端的に独立の謂いなり」という既成観念の“言い換え”であると諒解できる。とはいえ、しかし、――この既成観念そのものに関する主題的な批判は次篇の論脈に譲ることにして、とりあえず表層的な次元で論断しておけば――ここに謂われている“万人”とは個別的な主観の誰彼を万人にまで推及したものにすぎまい。認識の場面で、一人や二人が誤って“SハPナラズ”と判断しようと、百人や千人がそういようと……一万人や十万人が誤って判断しようと……「SハPナリ」という“客観的”事態は厳として存立する。が、「仮令“万人”が誤って“SハPナラズ”と認識しようとも」と言うさい、少なくとも、自分自身がそうである或る者は正しく「SハPナリ」と認識していることが暗黙裡に措定されている。それゆえ、文字通りら「万人」が誤って認識しているわけではない。“正しく”認識している者が少なくとも一人は居るのでなければならない。」360-1P
(小さなポイントの但し書き)「(さもなければ、SハPナリという事態そのものが顚から問題になりえないであろう。人は、ここで、或る時代には文字取りに万人が誤ってSハPナラズと判断している場合があること、この事例を持ち出すかもしれない。われわれに言わせれば、しかし、その時代の人々にとっては“SハPナラズ”がいわゆる“事実”なのである。或る時代にとっての“事実”が別の時代にとっては“事実”でなくなる。“客観的”事態とされるものは時代と相関的である。或る時代には「万人」によった“SハPナラズ”とされていたところ、後代になって“正しく”SハPナリとされるようになった場面で、後代は自己の「事態体系」を前代にまで推及して、前代の人々が万人が誤っていたと称し、その万人の誤りにもかかわらず“客観的”事態は厳存していた旨を主張するに及ぶのである。この構制を自己の時代にも適用しつつ、自己の時代を相対化することにおいて、仮令万人が誤っていようとも“客観的”事態は云々という議論が登場する次第ともなるが、そのさいにも“事態”に関する“正しき”認識者の存在という論理構制は崩れない。)」361-2P
(対話E)「「SハPナリ」という事態の“客観的”存立ということは、よしんば誤って“SハPナラズ”と判断している者が現実の人々の頭数では多数であろうとも、あるべき人々にとっては「SハPナリ」デアルこと、この旨を主張する構制において云為されるのである。このさいにも、なるほど、あるべき「人々」がそう認識するから“客観的に”「SハPナリ」なのではなく、「SハPナリ」が“客観的事態”であるからこそあるべき人々は「SハPナリ」と判断してしかるべきだ、という具合に思念される。しかしながら、「SハPナリ」が“客観的事態”でということ、すなわち、SとPが両者の“客観的”規定性に即して包摂の“客観的”関係にアルということ、この立言を支えるところの、SおよびPの規定性が“客観的に”かくかくしかじかデアルというという提題は、事象に即した嚮の研究の論脈で示した通り、SならびにPの規定性に関して「人々」が共同主観的に一致してそう認知・呼称する謂いにほかならず謂うところの“客観的な包摂関係”もまた共同主観的な認知を離れて自存するものではない。(因みに「雪ハ黒色ナリ」「犬ハ植物ナリ」という事態が認識主観から端的に独立して客観的に自存するか否かを考えてみるがよい。それが客観的に自存しないと言うのは、当の“事態”が共同主観的に認知されないことの謂いにほかなるまい。)“客観的に”アルとはここでも共同主観的に「人々」がそう認知することの謂いなのである。」362P
(対話F)「以上では行論の途中から「SハPナリ」という積極形の事態に即するかたちで議論を運んだのであるが、「SハPナラズ」という消極形の事態の“客観的”存立性についてはもはや多言を要せぬであろう。「SハPナラズ」(例えば「雪ハ黒体ナラズ」「犬ハ植物ナラズ」)という事態が“客観的に”アル(“客観的に”「SハPナラズ」デアル)とは、既成の概念体系、既成の分類整序体系に徴して、「人々」がSをPに下属せしめないことの謂いにほかならない。」362P
(小さなポイントの但し書き)「茲で既成の分類整序体系へ反照するさい、暗黙の構制として、「Sハ○○デアル」、そして、「Pハ××デアル」、故にSハPナラズというかたちになっているものと思われる。この構制にあっては、「Sハ○○デアル」および「Pハ××デアル」という積極形の事態の“客観的”存立が、上述の如く、「人々」の共同主観的な認証に俟つ。」363P
(対話G)「こうして、帰するところ、「SハPナリ」という積極形の事態の“客観的”存立も、「SハPナラズ」という消極形の事態の“客観的”存立も、「人々」の共同主観的な認知に帰向する。」363P
(対話H)「われわれは、以上、「事象」ならびに「事態」が“客観的に”アルとは、「SハPナリ(ナラズ)」という成態が「人々」に共同主観的に対妥当することの謂いにほかならないことを論定してきた。しかし、判断的認識の真理性・虚偽性は、日常的意識においては、“客観的”に自存する相に“物象化”されている“客観的事象”ないし“客観的事態”と判断的成態との一致・不一致に即して判定される。われわれは、この間の構制を批判的に検討しつつ、認識の真理性・虚偽性とは実際には何であるかを論決すべき課題を負うが、この課題に応えるためにも、次には一たん、謂う所の「人々」と「共同主観性」なるものの実態に眼を向け、いわゆる「認識論的主観性」の構制を彰(あき)らかにしておかねばならない。」363P
第二段落――「認識論的主観性」の構制を彰らかにする 363-8P
(この項の問題設定)「「人々」の共同主観的な認知がいわゆる“客観性”の存立と同値であると主張するとき、われわれの謂う「人々」の共同主観性は、経験的・個別的な主観の単なる集合ではなく、いわゆる「認識論的主観性」としての性格を有つ。このかぎりでわれわれも一種の認識論的主観を立てる者ではあるが、しかし、われわれの見地では、経験的・個別的な主観たる能知的誰某から超絶して“認識論的主観”なるものが自存するわけではない。嚮には、行文の便宜上、「人々」の共同主観的な認知・呼称という表現を辞せなかったが、実際には、「人々」なるものがレアールに在って認知したり呼称したりするのではない。理念化(「イデアリジーレン」のルビ)された「人々」への対妥当性がレアールな個別的主観によって覚識される態勢、これを便宜上「人々」による認知・呼称と言い倣した次第なのであって、現実に存在するのは経験的・個別的な諸主観による認知・呼称のみである。だが、経験的・個別的な認識主観の営為が、或る脈絡において、認識主観の能作としての意義を有つ。」363-4P
(対話@)「われわれが「人々」と誌したのは、認識主観たるがきりでの、すなわち、形相的所識契機を質料的所与契機に向妥当せしめる能作たるかぎりでの諸主観が、前篇第三章で論究した既成のもとに、間主観的交通を通じて所識的形相を同型化していくのと相即的に、同型的に自己形成を遂げている相を理念化した能識的或者(の一定在形態) にほかならない。それが現実の人々の集合体というレアールな定在ではなく、イデアールな存立者にすぎないにもかかわらず、敢て現実の人々を連想させる「人々」という詞を用いた所以のものは、われわれの謂う「人々」が現実のレアールな人々の認識論上の在り方とも大いに関係があることに由来する。――一定の時代の一定の共同世界に属する人々は、日常的な相互的交通(「フェアケール」のルビ)というサンクショナルな場を通じて、同調性(「コンフォーミズム」のルビ)をもつ相に自己形成を遂げており、言語(「ラング」のルビ)体系を共有する相に相互形成を遂げている。その結果、人は他人達(「ひとびと」のルビ)と言語活動の在り方を同型化し、与件的所記と言語的能記との象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)という等値化的統一の在り方をと他人達(「ひとびと」のルビ)と同型化するようになっており、あまつさえ、いわゆる“知覚の言語的被拘束性”の機制(言語的意味が知覚の場面にまで“滲透”して知覚的分節の相在を制約する機制)があるため、人は他人達と言語的・概念的な認識活動の在り方はおろか感性的・知覚的な認識活動の在り方すら同型化する傾動にあり、現に或る程度まで当の同型化が実現していると目されうる。われわれとしては、一定の共同世界に属する人々のあいだに成立しているこの同調性・同型性に定位しつつ、それを理念化して「人々」の間主観的な「同型性」を立論するのである。そして、「人々」という複数的表現が(現実の人々との関連性、共同世界に共属する他人達(「ひとびと」のルビ)との関連性を示唆するコンテクストでは便利でも)間主観的な「同型者「単一者」を表わすうえでは不適切なかぎりで「ヒト」という表現をも用いる。――間主観的に同型的な能知者たる「能識的或者」は、対象化して一つの所知の相で把えれば、どの個別的な能知的誰某も斉しくそれであり得る“函数態的”な或るものであり、しかも、一定の時と所に定在する特定の誰彼自身ではなく、謂うなればレアールな諸主観を“超越”しているイルレアール・イデアールな或るものである。しかしながら、「能知的誰某」が単なるそれ以上の或る者としてあるイデアールな契機たる「能識的或者」は、仮令「ヒト」と呼ばれようと、対象的所知たるレアールな人物の意味的所識ではない。「ヒト」というのは、老若男女のいずれでもあり得つつしかもなお、特定の誰でもない“函数態的”な“ゲシュタルト的”存在であるとはいえ、例えば「人間」というごとき概念的・対象的な「所知」ではなく、あくまで「能知」なのであり、能知のこのイデアールな契機(能識的或者=「ヒト」)は所知のイデアールな契機(意味的所識=形相的契機)と雙関的である。共同主観的な同型者たる「ヒト」=「能識的或者」は、「能知的誰某」がそれとして能知的にあるイデアールな契機なのであって、二肢的“成体”たる認識主観が質料的契機に向妥当せしめる形相的契機の“直接的な保持者”にも譬えられるべき者にほかならない。」364-5P・・・虹が何色に見えるかの文化拘束性
(対話A)「われわれは、能知的主観のイデアールな契機たる「能識的或者」=「ヒト」、この共同主観的な“同型者”を判断的認識の次元では、「判断主観一般」としての「認識論的主観」と呼ぶ。――この用語法のもとで、先にみておいた事象・事態の“客観的に”アルを規定し返せば、「判断主観一般」に対妥当的に帰属する判断成態が“客観的に”存立する事象的事態・命題的事態である。われわれは「判断主観一般」なるものを独立自存するエージェントとみなす者ではないが、以下では暫く、敢て「認識論的主観」が自立的な能作者であるかのごとき表現方式を採って議論を進めよう。――「判断主観一般」が肯定的・否定的に措定する判断成態が積極形・消極形の“客観的事象”や“客観的事態”にほかならないとするとき、この認識論的主観は対象界の存在に関して恰かも絶対権をもつかのように思われかねない。がしかし、認識論的主観は対象界の存在に関して絶対的権能を揮いうるものではないということ、この点が銘記されねばならない。なるほど、認識論的主観は、それを自立的な能作者であるかのように扱うとき、判断の質料的契機に形相的契機を向妥当せしめることによって事象や事態を“客観的”に“現成”せしめると言われうるし、また、判断主観一般の判断的措定によって、「犬ハ動物デアルこと」「犬ハ節足動物デナイこと」「犬ハ植物デナイこと」「犬ハ生物デアルこと」「犬ハ無生物デハナイこと」等々の命題的事態および命題的事態の階統的秩序体系が成立すると言われうる。溯っては、判断主観一般の措定によっていわゆる概念的秩序体系が成立するとも言われうる。こうして、判断主観一般は、事象とその体系、事態とその体系、概念とその体系、命題とその体系、……およそあらゆる所知的世界の“形成者”であるかのように主張されうる。しかしながら、判断主観一般といえども、それが判断主観であるかぎり、「判断成態」の主語対象的契機、すなわち、質料的契機は与えられるのであって、自ら創出しうるものではない。前篇第三章でみておいたように、能知的主観は形相的所識を一定の自由度をもって質料的所与に向妥当せしめるとはいえ、この向妥当化は所与の質料的契機によっても制約されるのである。尤も、われわれの謂う「質料」はあくまで「形相」との相関規定であり、先行的措定に俟って、既に「質料−形相」成態でありうる。が、その都度の判断的措定に関して言えば、その都度の質料が「向妥当せしめられる形相」に対する先在的与件をなす。そして、この与件的質料が形相の向妥当化を一定限制約する。このゆえに、認識論的主観としての「判断主観一般」の判断的措定といえども、質料的与件に制約されるのであり、絶対的な“創出的”能作ではないのである。」365-6P
(小さなポイントの但し書き)「――このさい、しかし、次のことを併せて銘記しておかねばならない。われわれの謂う「質料」は、形相に対する“先在的”与件であるとはいっても、“裸の質料”が如実に与えられることはありえない。われわれは、アリストテレスの「第一質料」やカントの「物自体」の流儀で質料的与件を立てる者ではないし、判断主観一般の認識論的措定が「実体」的に自存する“質料”によって規制されると説く者ではない。況んや、われわれは質料的与件による認識の被制約性ということを認識の“客観性”“客観的妥当性”の論拠とする者ではない。われわれが立論するのは、判断的次元における形相的意味契機の向妥当化はフェノメナルな世界の基底的な現出によって究極的に制約されているということまでである。」366-7P
(対話B)「認識論的主観は、その判断的措定を質料的与件によって制約されるばかりでなく、そもそも自己の在り方そのものを歴史的・社会的・文化的に制約されている。われわれは、嚮に、一定の時代の一定の共同世界に属する人々の認識主観としての在り方が同調化・同型化しているという事実に定位しつつ、認識活動の在り方が同型化されているかぎりでの人々を理念化して「人々」と謂い、同型されている相でのイデアールな能知的主観を「ヒト」と呼び換え、この「能識的或者」としての「ヒト」を判断的認識の次元に即して「判断主観一般」と呼ぶことにしたのであった。この経緯と構制からして、認識論的主観としてわれわれの立てる「判断主観一般」の如実の在り方は人々の同型化が進捗する歴史的・社会的・文化的な制約条件によって規制される。爰に謂う「同型化」の機制ならびに「歴史的・社会的・文化的な制約」の機制については第二巻『実践的世界の存在構造』の論脈に俟たねばならないのであるが、とりあえず、われわれの謂う「判断主観一般」の在り方が歴史的・社会的・文化的な共同世界における人々の認識主観として現実的な自己形成の機制によって制約されているといこと、このことまでは「認識論的主観」を「意味的所識」たる形相的契機との相関性のもとに「間主観性」に即して定位するわれわれの論理構制に鑑みて諒解されうるものと念う。」367P
(対話C)「ところで、実際問題としては「判断主観一般」なる認識論的主観が判断的措定を遂行するのではなく、現実には、個別的・経験的な認識主観が自己の判断的措定を以って「理念化された人々」にも対妥当するものと信憑する。「人々」に対する対妥当性のこの信憑にあっては、個別的な判断主観が謂うなれば「判断主観一般」を僭称しつ判断的措定を遂行する機制になっている。とすれば、「判断主観一般」への対妥当的帰属とは、その実は、個別的認識主観の単なる僭称にすぎないのではないか?  「判断主観一般」の“僭称”が一体いかにして権利づけられるのか? この問題に答えるためにも、判断的認識の真理性・虚偽性の存立構制を主題的に検討する作業に移ることにしよう。」367-8P
第三段落――判断的認識の真理性・虚偽性の存立構制の主題的検討 368-78P
(この項の問題設定)「判断的認識の真理性・虚偽性は、伝統的な思念においては、判断成態と“客観的事象”ないし“客観的事態”との一致・不一致によって岐かれるものとされている。われわれとしても、個々の認識主観が肯定的にであれ否定的にであれ陳述的に措定する定言的な判断成態が、積極形であれ消極形であれ“客観的”な事象や事態と、合致する場合に当の判断は真であり、合致しない場合に当の判断は偽である、という“図式”で議論を運ぶことができる。爰では、伝統的な真偽論を内在的に止揚するためにも、適宜、この“図式”にも仮託する流儀で議論を進めたいと念う。――上述の通り、われわれ自身の本来的な立場にあっては、“客観的”な事象や事態とは認識論的主観たる「判断主観一般」に対妥当する判断成態の謂いであって、判断成態と“客観的”な事象や事態との一致・不一致ということは、<三項図式>に謂う意識内容と意識対象との直接的な「主観−客観」関係ではなく、真実態においては間主観的な一致・不一致である。真実態に即すれば個別的判断主観の提有する判断成態と「人々」つまり判断主観一般に対妥当する判断成態との間主観的な一致・不一致であるところの関係が、後者が“客観的”な事象や事態という相に物象化されているかぎりで、個別的な主観の判断成態と“客観的”な事象と事態との「主観−客観」的な一致・不一致の相で覚識される。この物象化された相での覚識にも適宜仮託しようというのである。」368P
(対話@)「議論の通路として、“客観的”な事象や事態なるものについて、嚮の行論とは別の視角をも絡めつつ、規定し返す作業から始めよう。嚮に事象や事態の“客観的に”アルを「人々」に対する共同主観的な妥当性に帰趨させたさいには「犬ハ動物ナリ」「雪ハ白色ナリ」といつた積極的事態ならびに「犬ハ植物ナラズ」「雪ハ黒色ナラズ」といった消極的事態を配視したとはいえ、「犬ハ植物ナリ」「雪ハ黒色ナリ」とか「犬ハ動物ナラズ」「雪ハ白色ナラズ」とかいうたぐいの“事態”は顚から無視したかたちになっていた。“客観的に”アルということが、もし初めから“真実”デアルことの別称であるとするならば、その場合には嚮の議論で済むかもしれない。しかしながら、前章第三節でも触れておいたように、学説史上、「真理自体」と並べて「虚偽自体」(Falschheit an sich)の“客観的”な存立を説く理説も存在するほどであって、「犬ハ植物ナリ」とか「犬ハ動物ナラズ」とかいうたぐいの命題的事態も“客観的に”アルかもしれないという可能性を顚から卻けてかかるわけにはいかないのである。――われわれは、肯定的判断措定ならびに否定的判断措定が叙示成態に“内自化”されている積極形の事象・事態ならびに消極形の事象・事態の存立性を認める。ここまでの場面では「犬ハ植物ナリ」「雪ハ黒色ナリ」や「犬ハ動物ナラズ」「雪ハ白色ナラズ」と排却すべき謂われはない。岐かれるのは、「人々」(正しくは認識論的主観としての「判断主観一般」)に対する対妥当性を判定する場面からである。嚮には“客観的に”アルと思念されている事象や事態は、「人々」に対妥当する事象や事態である旨だけを述べたのであるが、“事象”や“事態”のうちには「人々」に対妥当しないものもある。「人々」に対妥当しないたぐいの“事象”や“事態”、例えば「犬ハ植物ナリ」や「犬ハ動物ナラズ」が普通には“客観的に”ナイと思念されている事象や事態にほかならない。われわれとしては、爰で、「人々」(認識論的主観)に対妥当する事象・事態を「真実的」な事象・事態と呼び、「人々」に対妥当しない事象・事態を「仮構的」な事象・事態と呼んで、区別することにしよう。(ここで省みれば、“客観的に”アル事象・事態とは「真実的」な事象・事態の謂いであったことになる。)われわれは、「仮構的事象」や「仮構的事態」をも顚から無視するわけにはいかないかぎりで、これを勘案しつつ議論を進めなければならない。」369-70P
(対話A)「ところで、事象・事態が「人々」(「認識論的主観」としての「判断主観一般」)に「対妥当する」「対妥当しない」とはいかなる謂いであるか。「犬ハ動物ナリ」「雪ハ白色ナリ」「犬ハ植物ナラズ」「雪ハ黒色ナラズ」という事象・事態が、積極形であれ消極形であれ、「人々」に対妥当するというのは、認識論的主観を判断の当事者風に扱って言うとき、当該の叙示成態を(それが積極形であれ消極形であれ)「人々」が「シカリ! 犬ハ動物ナリなり」「シカリ! 犬ハ植物ナラズなり」という“日本語式”の仕方で「肯定する」ことの謂いである。「犬ハ植物ナリ」「雪ハ黒色ナリ」「犬ハ動物ナラズ」「雪ハ白色ナラズ」といった事象・事態が「人々」に対妥当しないというのは、「人々」が当該の叙示成態に関して(それが積極形であれ消極形であれ)「イナ! 犬ハ植物ナリならず」「イナ! 犬ハ動物ナラズならず」という“日本語式”の仕方で「否定する」ことの謂いである。(日常用語的には勿論「ナリなり」は「ナリ」にとどまり、二重否定「ナラズならず」は「ナリ」に、「ナリならず」ないし「ナラズなり」は「ナラズ」になる。尚、右には“日本語式”の仕方でと断ったが、判断的肯定・否定の基本的な構成は内容的にみるとき「日本語式」でも「印欧語式」でも結局は同一であることは前節での行論から既に明らかであろう。百歩譲って、「日本語式」と「印欧語式」とが相違するというのであれば、標記法は稍々複雑になるにせよ、積極形の場合と消極形の場合に分けて規定すれば済む。が、ここではそれを示してみせるにも及ぶまい。)」370P
(対話B)「偖、認識論的主観に対して右の意味で「対妥当する」事象・事態、すなわち「真実的」事象・事態と、認識論的主観に「対妥当しない」「仮構的」事象・事態、これら両者の存立を一応認めるかぎり、われわれは判断的認識の真理性・虚偽性ということを単純に事象や事態との一致・不一致ということで処理するわけにはいかない。対境が「真実的」事象・事態であるときには、この対境的事象・事態が積極形であれ消極形であれ(例えば「犬ハ動物ナリ」「雪ハ黒色ナラズ」)それを“日本語式”に言って、「シカリ!」と肯定する場合が真であり、「イナ!」と否定する場合が偽である。(例えば、「シカリ! 犬ハ動物ナリ」「シカリ! 犬雪ハ黒色ナラズ」は真理であり、「イナ! 犬ハ動物ナラズ」「イナ! 雪ハ黒色ナリ」は虚偽である。)ところが、対境が「仮構的」事象・事態であるときには、それが積極形であれ消極形であれ(例えば、「犬ハ植物ナリ」「雪ハ白色ナラズ」、“日本語式”に言って、それを「イナ!」と否定する判断が真であり、「シカリ!」と肯定する判断が偽である。(例えば、「イナ! 犬ハ植物ナラズ」「イナ! 雪ハ白色ナリ」は真理であり「シカリ! 犬ハ植物ナリ」「シカリ! 雪ハ白色ナラズ」は虚偽である。) ――ここにおける真理性・虚偽性は、対境的事象・事態との“一致・不一致”とは直接に対応しないが、個別的主観の判断的陳述が認識論的主観の“判断陳述”と一致している場合が真理で一致していない場合が虚偽になっており、個別的判断主観の判断と認識論的主観の“判断”との一致・不一致ということと真理性・虚偽性がストレートに対応する。――要言すれば、認識論的主観に対妥当する事象・事態について、それを肯定する判断が真、それを否定する判断が偽、そして認識論的主観に対妥当しない事象・事態について、それを否定する判断が真、それを肯定する判断が偽、である。」370-1P
(対話C)「判断的認識の真理性・虚偽性に関しては、このように、「認識論的主観」(「判断主観一般」)に対する妥当性が鍵鑰をなす。だが、認識論的主観たる判断主観一般なる者が自立的にあって判断成態を自己に対妥当性に帰属せしめたり帰属せしめなかったりするわけではない。判断主観一般に「対妥当する」「対妥当しない」という認定は、実際問題としては、個別的・経験的な生身の判断主観の営為である。判断主観一般に対する妥当性・不妥当性ということは個別的な判断主観の単なる“僭称”ではないのか。それが単なる僭称ではないということがいかにして権利づけられうるか。――翻って惟うに、人が真なる判断を下そうとするさい、別段、認識論的主観とやらの“判断”と合致しようと努めたりはしない。人は、肯定的判断措定であれ、判断的“決意”を下すにあたって、判断の態勢に内在的な必然性、一種の当為(「ゾレン」のルビ)的な必然性に駆られて、しかるべく肯否の判断を下さざるをえない。これが実情ではないのか。対他者的な間主観的顧慮がはたらくことがあるとしても、それは所詮、副次的な参考にすぎないのではないか。慥かに、判断の当事者性は、逐一対他者的な顧慮をおこなうことなく、むしろ、客観的対境が“真実に”そうでアル(ナイ)から認め(斥け)ざるをえないという覚識性において、是認さるべきことを肯定的に承認し、否認さるべきことを否定的に拒斥する、というのが心理的実情であろう。だが、“真実に”そうでアル(ナイ)対境的事態とは何か? 是認(否認)さるべき対境的事態とは何か? それは視角を変えてみれば、“客観的に”アル(ナイ)と思念されている対境的事態、つまり、「真実的」事象・事態(「仮構的」的事象・事態)にほかなるまい。とすれば、ここで対境的事態に対する判断的態度決定と覚識されている態勢は、第三者的に反省してみれば、結局のところ、認識論的主観たる認識論的主観「人々」認識論的主観に対妥当スル(対妥当シナイ)事象や事態に対する承認的肯定(拒斥)になっており、「人々」に「対妥当スル(シナイ)」の追認になっている次第である。では、「人々」に「対妥当スル(シナイ)」の追認が、何故、是認(否認)せざるをえないという当為意識を伴うのか、「人々」に「対妥当スル(シナイ)」事態が、なぜ「是認(否認)サルベキ」対境として意識されるのか。この当為意識の由って来るところについて、正規には「当為」なるものを主題的に論攷する次巻での論脈に委ねなければならないが、ここで論件先取的に言えば、それは、それは間主観的交通の場におけるサンクションに由来する。所与の対境的事象・事態に関して是認するか否認するか、これは条件反射的に謂う一定の「汎化」と「分化」を伴いつつ、サンクショナルな間主観的交通を通じて「条件づけ」られるという仕方で“傾動”を内在化されている。(これはいわゆる「深層催眠」の機制であるとも言える)。間主観的な場におけるサンクションは具体的・現実的な他者達によっておこなわれるが、社会学理論に謂う「サンクション」の当事主体は脱人称化されて変容し、一方の極ではいわゆる“超越的命令者”の相で、他方の極ではいわゆる“内なる声”の相で形象化される。ここにおいて超越化されたサンクションがいわゆる当為的拘束規制性であり、内面化されたサンクションがいわゆる当為的自発規制性である。人は、汎化と分化を伴って現識される相での所与対境(この対境が現実的には初めて与えられるものであっても「汎化」や「分化」の機制に負うて、以前に現実に与えられたものと機能的には“同一視”される)に関して「ヒト」が是認するように自らも是認し、「ヒト」が否認するように自らも否認するように「間主体的な場」でサンクショナルに「条件付け」(conditioning)を蒙っており、そのことが表層的意識においては、判断にさいしての当為的規制の覚識となって現われるのである。判断的態度決定にさいして「是認(否認)せざるをえない」というかたちで覚識される当為的必然性の意識というものは、こうして、よしんばそれが超越化されたり内面化されたりしていようとも、元来、間主体的な現実的交渉の場に根差すものであり、判断主観が是認・否認に関して“人々”ないし“ヒト”と同調化・同型化するようサンクショナルに規制されていることの投影なのである。このゆえに、判断の当事主観が所与の対境に関する是認・否認の当為的必然性に随うとき、「人々」に対妥当スル対境(つまり「真実的」事象・事態、“客観的に”アル事象・事態、是認サルベキ対境)を是認し、「人々」に対妥当シナイ対境(つまり「仮構的」事象・事態、“客観的に”ナイ事象・事態、否認サルベキ対境)を否認する結果になる。」371-3P
(対話D)「判断の現実的当事者である個別的主観は、能知的誰某としての彼の個性をもっており、そのまま「ヒト」の相に同型化されてしまっているわけではない。がしかし、彼の判断的措定が当為的に拘束されているということがゆくりなくも示しているように、彼は間主観的に同調的・同型的な相に共同主観的な自己形成を遂げて(遂げさせられて)いる。認識主観が認識主観であるのは、嚮に論定した通り、質料的契機に形相的契機を向妥当せしめる等値化的統一者であることにおいてであるが、当の形相的契機=意味的所識契機は、前篇第三章で論じた通り、間主観的に同型的な相へと共同主観的に形成されており、形相的契機の“保有者”たるかぎりでの能知的主観のイデアールな契機を「能識的或者」呼ぶとき、この「能識的或者」はまさに「ヒト」という“同型者”になっているのである。現実の認識主観たる能知は、特個的な「能知的誰某」と普遍的“同型的”な「能識的或者」との二肢的“成態”であり、謂うなれば「ヒト」を“内在化”せしめている。従って、能知たる判断主観が判断成態を自己に帰属化・対妥当化するとき、その都度すでに、それは認識論的主観たる「ヒト」への対妥当化・帰属化を含意する。判断主観が「判断主観一般」を“僭称”するという構制は須臾(「しゅゆ」のルビ)も免れないのである。――このさい、同時に、しかし、判断主観は「能知的誰某」と「能識的或者」との不可分な二肢的二重性であることにおいて、決して純粋な能識的或者=純粋な認識論的主観ではありえない。(この間の事情は「言語主体」の場合とアナロジカルに考えると理解し易いであろう。人は言語活動にさいして当該言語の“言語主体一般”ともいうべきideal-speaker-listener を“僭称”しつつ言語活動をおこなう。彼はいかに個性的な言語活動を営むにせよ、それが当該「言語(「ラング」のルビ)」の言語活動であるかぎり、“同型的”な言語活動主体の埓を所詮は脱することはできない。が、同時に、彼は語彙が特に豊富であるとか、特に雄弁なレトリカーであるとか、一定の訛りを帯びているとか、まさに個性的な言語活動を営むのであって、純然たるideal-speaker-listenerの権化というわけにはいかない。)個々人の認識活動には彼固有のバイヤスがかかっており、彼の判断的措定を以って直ちにそのまま判断主観一般の措定とはみなせない。では、彼の判断的措定が「判断主観一般」=「人々」に対妥当するというのは単なる妄念であるのか。判断の真理性・虚偽性とは単なる思念にすぎないのか。」373-4P
(対話E)「現実の判断主観は、平常は、自己の下す判断の真理性・虚偽性ということを逐一は意識しないとしても、反省してみるとき、当該の対境的事態が“客観的に”アル(ナイ)が故に肯定(否定)的に判断したのだ、ないしは、当の対境が“当為上”是認スベキ(スベカラザル)ことであるが故に承認的に肯定(拒斥的に否認)したのだ、というかたちで理由づけを与えつつ、自己の判断を正当化することであろう。しかし、心理的にはこのような相で覚識される真理性(虚偽性)が、結局のところ、「人々」(つまり「認識論的主観」)への対妥当(対不妥当)の問題に帰着すること、これは嚮にみておいたところである。この態勢は、視角を変えていえば、判断主観が真・偽の価値判断(Beurteilung)をおこなうにさいして「人々」(「判断主観一般」)を僭称していることを意味する。そこで、問題は、この“僭称”が単なる僭称にすぎないかどうかである。自己の下した判断が真理であった(虚偽であった)という価値判断は、それが単なる自家認定であるかぎりでは慥かに私念(「マイネン」のルビ)たるにすぎない。しかし、さしあたり事実問題(quid facti)の次元で言えば、当の価値判断、溯っては当該の判断が、人々(当人の属する一定の時代の一定の共同世界)によって“公認”されるかどうか、人々との同調性が事実問題として成立しているかどうか、これによって真理性・虚偽性が決まるのである。個別的判断主観に「判断主観一般」の“僭称”が「単なる僭称」であるか、それとも、僭称ならずして「正統的主張」であるか、これは共同主観的に認証されるか否かによって決まる“僭称”が人々との共同主観的同調性・同型性を現に有つとき、それは僭称ではないものとして“公認”され、それが現実には共同主観的同調性を有たないとき単なる僭称に終始する。ここにおいて、判断的認識の真理性・虚偽性は、人々の共同主観性と相対的であり、従って、歴史的・社会的・文化的に相対的であることになる。(事実問題としては、共同世界(「ミット・ヴェルト」のルビ)は――それがグローバルであるかローカルであるかはさておき――共同世界ごとに真理命題の体系、虚偽命題の体系をもつ。)」374-5P
(対話F)「惟えば、しかし、共同世界の人々に相対的な真理性というのは、例えば、かつての天動説というような“通用geltendする真理”であって“妥当するgültig真理”ではないのではないか。そもそも、人々による共同主観的“公認”というが、人々なるものが人称的発言をおこなうわけではない。現に亦、人は少数意見であることを自覚していてさえ、自己の判断の真理性(妥当する真理性gültige Wahrheit)を主張して譲らぬではないか。慥かに、通用する真理と妥当する真理とを区別しようとするのは謂われのないことではない。全地球規模での人々に通用するということになれば、例えば、地動説など聞いたこともなく、「地球(大地)ハ静止シテオリ、太陽ガ地球ノ周リヲ廻ル」と信じている人々のほうが今日でも却って多数派かもしれないし、稍々高等な“科学的真理”などともなれば、普通の人々は聞いたことさえなく、知っていて“認めている”人々の数は地球人口中ほんの一握りということになろう。高等な“科学的真理”と謂われるものが通用している人々の範囲は、専門的科学者集団という極く限られた“共同世界”にすぎない。ところで、或る提題が現実に通用している範囲はこのように極く限られているとしても、人はとかく、当の提題が全地球人口の規模で“妥当する”と考えたがる。真理としての“妥当性”を“通用性”から区別しようとする意思はよくわかる。このさい人は、他人たちが既に知っていて“承認済み”ということと、一定の対話的交通をおこなっていけば他人達も必ずや“承認するであろう”ということを区別する。この区別も諒解できる。そもそも「人々が是認(否認)スル」というさい、問題になっている当の提題が、嘗つて現実に是認されたり否認されたりするのを体験したことのあるかたちのそのままではなく、「汎化」や「分化」をうけたかたちのものである以上、「人々の是認(否認)」というのは記憶的体験ではなくしてもともと予科である。しかしながら、「一定の対話的交通をおこなっていけば他人達(「ひとびと」のルビ)も必ずや“承認するであろう”」という予科的確信が常に懐かれうるとは限らない。そこで、この予科的確信を抱ける範囲を“妥当する真理”ということにしても、その外部に、自分達にとってこそ通用するが他人たちにとっては頑として妥当しない“真理”の範囲が残る。それゆえ“妥当する真理”と“通用する真理”との区別が依然として存続しうる。翻って、われわれが嚮に、間主観的な“同調性”を有ち共同主観的に“公認”される真理と言ったのは、ここにいう“妥当する真理”の謂いであって、“通用している真理”の謂いではなかったのである。“通用している真理”はもとより共同世界の現実の人々と相対的であるが、“妥当する真理”もまた歴史的・社会的・文化的な共同世界の人々の現実の在り方と相対的である。(けだし、承認的予科の確信が必ず独断的に懐かれうるとは限らないのであって、“妥当する真理”性に関わる承認的予科は、事実の問題として、現実における人々の在り方を顧慮しておこなわれる)。」375-7P
(対話G)「以上の行文から既に彰(あき)らかな通り、真理が妥当する人々というのは、「人々の是認(否認)」ということが(確然的であれ実然的であれ蓋然的であれ)定言的な予科的確信であることと相即的に、実は理念化(「イデアリジーレン」のルビ)された「人々」ないし「ヒト」になっている。この「人々」ないし「ヒト」は一定の歴史的・社会的・文化的な相対性の埓内で措定されるとはいえ、ともかく、この理念化された「人々」「ヒト」という「認識論的主観」に対する妥当性ということが、蓋然的であれ実然的であれ確然的であれ、判断認識の真理性(虚偽性)の基準になっている次第である。そして、“妥当する真理”なるものは、われわれの見地では、それが現実に間主観的同調性(「コンフォーミズム」のルビ)を有つかどうかという“事実性”によって“権利づけ”られるのであって、認識(真なる認識)の“権利根拠”なるものは終局的には共同主観性以外のところに求めらるべくもない。但し、認識の場面におけるこの共同主観性は、「質料的与件−形相的所識」の二肢的二重態に関わる「能知的誰某−能識的或者」の共同主観性なのであり、単に「能知」の間主観的な在り方によって規定されているのではなく、「所知」の現実的な在り方によっても規制されている。(それが生の関心の在り方によって、結局は「生活世界」の編制の在り方によって、生態系的に規制されていること、この点については続巻において討究する。)」377P
(対話H)「ところで、真理を真理として成立せしめる間主観的な共同世界は、現実には歴史的・社会的・文化的に多層的である。そして、各々の共同世界は、専門家集団や信徒集団といった次元においてすら、それぞれ自分達の内部で通用している“真理”を以って他の共同世界にも妥当する真理であるものと信憑しがちであり、平常はこの信憑的思念の埓内にある。そのかぎりで“真理体系”は相対的に安定しているともいえる。だが、当の思念が思念にすぎないことを時に応じて思い知らされる。“妥当する真理”は“通用”しうる真理としての実を示し、“通用する真理”に成らなければならない。――現実の動態においては、共同主観的“同型”性なるものがスタティックに厳存しているのではなく、一貫して厳存するのはさしあたり諸能知の交通的相互連関を支える間主観的存在構造だけであり、それの現実的・具体的な在り方は不断に流動的である。或る位層での共同世界に通用する真理、極端な場合には、或る個人の私念する提題、これが“対話的交通”を通じて他者達にも通用する真理になっていき、共同主観的な真理の体系が動態的に形成されていく。――共同世界と共同主観性の成立をめぐる動態的現実については、しかし、次巻『実践的世界の存在構造』に譲らねばならない。爰では、とりあえず、「認識論的主観性」を支える間主観的=共同主観的な構制に則して「真実性(虚偽性)」の存立機制を討究することがわれわれの限定的課題であった。今暫く、真理性とそれを支える共同主観性の動態的編制は括弧に収めたまま、次篇においては、以上の行論では形式的な取扱いにとどめた「事象」的世界の内容に立入り、物象化された世界の基底的構制を見定めておくのが次序である。このことを通じて、亦、“客観的に”“真に”アルとはいかなる謂いであるかをも把え返すことができる。」377-8P


posted by たわし at 04:39| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月17日

廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(8)

たわしの読書メモ・・ブログ690[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(8)
第二篇 省察的世界の問題構制
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
   第二節 叙示成態と陳述様相
(この節の問題設定−長い標題) 「主語の指示する対象性に述語の表意する規定性を向妥当せしめた成態、すなわち「指示−述定」態を、それが「表出」の前梯的内容たるかぎりで、「叙示成態」と呼ぶ。叙示成態は、第一次的には単なる象徴的結合態としての単なる等値化的統一態であって、肯定・否定をはじめてとする陳述的措定を含まない。(但し、第二次的・派生的には、肯定的措定・否定的措定の“内自化”によって、叙示成態とその意味内容が積極形・消極形に岐かれる。) ――「陳述」は、「主語−述語」成態たる叙示態に関わるいわゆる“情意的”表出の一斑であって、叙示的内容の間主観的対妥当性・帰属性の覚識を構造内的契機としつつ、疑問・仮言・定言の別を含み、蓋然性・実然性・確然性、現実性・非現実性、可能性・必然性などの様相をもつ。」338-9P
第一段落――「叙示成態」と「判断成態」の区別の必要性 339-42P
(この項の問題設定)「叙示成態は――前節の論脈では「施詞措定態」と呼んだ「主語−述語」成態を「表出」機能の前梯的与件として把え返したものであって――原初的・原基的な「コレハA」という形のものはもとより、「SハPナリ」「SハPナラズ」という積極性・消極性を内自化された形のものであっても、あくまでその都度における判断的措定の前件として存立する。日常的な言語意識においては「叙示成態」と「判断成態」とが混淆されがちであるが、われわれとしては両者を明確に区別する必要がある。(われわれは行論の便宜上、前章において「判断成態」なるものを先に論じ、「命題的事態」にまで論及したのであったが、事柄としては「叙示成態」のほうが「判断成態」に先立つ。尤も、判断的措定の内自化が生じ、新規の判断措定にとっての前件たる叙示成態が先行的判断措定の媒介的所産である場合が現にあるのであるから、叙示成態の時間的先行性は原基的・原初的な場面に限られるのではあるが。)」339P
(対話@)「議論の前梯として確認しておけば、叙示成態の内在的契機をなす超文法的・文法的な述語規定性は叙示成態そのものの賓述的規定性ではない。「SハPナリ」つまり「コレハSナリ、SナルコレハPナリ」において、SもPも「SハPナリ(ということ)」の賓述的規定性ではない。「犬ハ動物デアル」は犬でもなければ動物でもない。「犬ハ走ル」や「犬ガ黒イ」は、犬でもなければ、また、走るわけでも黒いわけでもない。――後にもみる通り、事象の内的規定性をなし、従って叙示成態の内在的規定性をなす契機を表わすのと同じ詞が叙示成態についての賓述的規定詞となりうるケースも存在しはするが、それは反省的な述定、メタ・レベルでの述定が、偶々、叙示成態に内在する詞と“同一”の詞でおこなわれるだけで、叙示成態の構成契機となっている詞がそのまま叙示成態についての賓述的規定をおこなうわけではないのである。――叙示成態はSの規定性によってもPの規定性によっても賓述的に規定されない固有の成態である。」339-40P
(対話A)「偖、叙示成態に“累加”される陳述的表出を見定めるためにも、叙示成態そのものの劃定に資する作業から始めよう。――「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」という言明は、単なる超文法的賓述とか以上のものを含意する。例えば、「コレハ吠エル」と言明するとき、“怖い”“腹立たしい”とか“可愛らしい”とかいう感情価を伴っており、さらには“気をつけろ”というような行動喚起的な意義を帯びているのが普通であろう。主語対象性に述語規定性を向妥当せしめただけの叙示成態というのは現実の言明から「表出機能」や「喚起機能」を捨象し、従って「表出的意味」や「喚起的意味」を捨象した反省的な措定態なのである。われわれは、爰では表出機能に関しては陳述という契機に限ってとりあげ取り上げ、喚起機能に関しては一切立ち入らないことにするが、「指示−述定」成態としての叙示成態なるものが、現実的言明のもつ四重の機能のうち二者だけを抽離した抽象的指定態であるということが銘記されねばならない。――叙示成態は、狭義の感情価やシグナル価を捨象されているだけでなく、陳述価をも捨象されている。例えば、「コレハ吠エル」という叙示態は、断言的な言表であるかのように受け取られかねないが、「コレハ吠エルか?」「コレハ吠エルなら」「コレハ吠エルのだ」といった「疑問」「仮言」「定言」の“共通成分”をなしている。現実の言明においては、感情価に関わる表出機能やシグナル価に関わる喚起機能はもとより、陳述価に関わる機能も声調とか抑揚とかによって示差が表されており、機械的に“共通成分”を云々することは慥かに問題ではあるが、しかしともあれ、叙示成態なるものは「疑問」「仮言」「定言」といった陳述価を捨象して立てられた抽象的措定態なのである。叙示成態は、疑問価・仮言価・定言価がしかるべき仕方でそれに“累加”されることによって、疑問・仮言・定言の陳述となって現成する。叙示成態は、例えば、「犬ハ吠エル」というような形で標記すると、恰かも定言であるかのように、しかも発話者本人自身に積極的に帰属かるかのように錯認されかねないが、それ自身としては、疑問・仮言・定言以前的であり、積極的には人称的には帰属しない。(叙示成態のそれ自身としての没人称帰属性は、人称的帰属以前的であるケースと、肯定的・否定的措定という人称的帰属化の体験を経つつ、脱人称帰属化を蒙ったケースとの双方を含みうる。そして、後者のケースに俟って、叙示成態には積極形のものと消極形のものとが存立する。すなわち、叙示成態のうちには肯定性・否定性が“内自化”されているものもありうる。)」340-1P
(対話B)「叙示成態という没人称化されている成態、「コレハ何々デアル(デナイ)」「コレハ然々スル(シナイ)」「コレハ斯々シイ(シクナイ)」、一般に「SハPナリ(ナラズ)」の人称帰属化があらためて問題化する場面で「疑問」「仮言」「定言」の陳述価が岐かれる。――一般的懐疑は「疑問」とは別であって、これについては後述するが、さしあたり「疑問」としての疑問、肯否を問う質問に関して言えば、これは当該の叙示成態=施詞措定態が積極形であれ消極形であれ、質問の相手たる誰か(必ずしも具体的個人とは限らない)に対妥当するかどうか、すなわち、自分によって仮りに“主張”される言明内容が相手にとって肯定的=帰属的であるかそれとも否定的=不帰属的であるか、応答を求めるものにほかならならない。「仮言」すなわち「もし……ならば」というのは、当該の叙示成態が、具体的人称者であれ、不定的人称者であれ、ともあれ没人称的帰属の相から誰かしら(自分としての自分自身以外の或者)に帰属化される態勢にほかならない。(先に遺した一般的懐疑なるものは真・偽の問題を論考する場面まで持越さざるをえないとはいえ、ここで取り敢えず一言しておけば、一般的懐疑とは仮言的帰属化そのことすら懐疑的であることの謂いである)。「定言」とは「SハPナリ」という積極形であれ「SハPナラズ」という消極形であれ、当該叙示成態が自分に帰属的であることの表明であって、「まさしく! SハPナリ!」ないし「まさしく! SハPナラズ!」という態度の表明なのである。(叙示態という没人称的帰属態を前件的与件としておこなわれる「肯定的措定・否定的措定」であるにしても、そしてそのため肯定的・否定的な判断措定は対他者的な間主観的な場面での態度決定ではなくして対境的与件に対する直接的な態度決定であるかのように思念され易いが、「肯定的定言・否定的定言」は、一たん人称帰属的であった陳述が脱人称的帰属化された叙示成態を前件的与件とするものであって、人称帰属性的な他者の主張に対する態度決定に媒介されているし、間接的にはあくまで他者の提題に対する承認・ 拒斥 である。その点、人称的帰属以前的な原初的・原基的な叙示成態に対しての定言は、対他者的には即自的な肯定的判断であると言えるにしても、当人自身に即すればたかだか積極的な定言的陳述としか言えない。前節の末尾に誌したありうべき疑義に応える含みで、以上の点を茲で銘記しておこう。) 」341-2P
(対話C)「尚、「選言」についてここで一言しておかねばなるまい。「定言」や「仮言」という陳述価がある以上、「選言」という陳述価もあるかのように思えるかもしれない。しかしながら、「選言的疑問」「選言的仮言」「選言的定言」は存在するが、選言という固有の陳述価は存在しない。選言それ自身は陳述とは別次元の事柄なのである。そして、選言的疑問・選言的仮言・選言的定言は、それぞれ疑問・仮言・定言の陳述価で人称的に帰属化される。」342P
第二段落――陳述価のそれぞれは陳述様相をも持つ―蓋然・実然・確然の陳述様相を持ちうる 342-3P
(この項の問題設定)「陳述価のそれぞれは陳述様相をも持つ。同一の叙示成態を共通の“構成分”としつつ、疑問・仮言・定言の陳述価が岐かれるだけでなく、さらには、疑問・仮言・定言のそれぞれが相異った陳述様相を持ちうるのである。例えば、「コレハ犬デアル」という叙示態を“共通な構成分”として、「コレハ犬デアルかもしれない」という蓋然、「コレハ犬デアルこのとおりに」という実然、「コレハ犬デアルにちがいない」という確然、これらの陳述様相が岐かれる。疑問も仮言も定言も斉しくこれらの陳述様相をもちうることは見易いところである。「SハPデアルかもしれないか?」「SはこのとおりにPデアルか?」「SハPデアルにちがいないか?」――「SハPデアルかもしれないなら」「SハこのとおりにPデアルなら」「SハPデアルにちがいないなら」――「SハPデアルかもしれないのだ「SハこのとおりにPデアル」のだ」「SハPデアルにちがいないのだ」――このように、疑問・仮言・定言のそれぞれが蓋然・実然・確然の陳述様相を持ちうる。」342-3P
(対話@)「右には敢て「かもしれない」「このとおりに」「にちがいない」という形で標記したが、日常的言語活動においては、蓋然・実然・確然という陳述様相の区別は、大抵の場合、声調や抑揚などによって表出されるのが実情であろう。そして、陳述様相とは、SハPナリ(ナラズ)と述定するさいの確信の度合に応ずるものにすぎないかのように思われがちである。なるほど、陳述様相は叙示成態の帰属化される当事者の“主観的”な確信の度合と密接に関連してはいる。がしかし、当の確信を支える媒介的な構制が問題である。事情を見易くする一具として、「SハPデアルことは蓋然的(「ありそう」のルビ)である」「SハPデアルことは実然的(「このとおり」のルビ)である」「SハPデアルことは確然的(「かくじつ」のルビ)である」という方式で標記してみよう。「SハPデアルことは可能的である」「現実的である」「必然的である」と書き換えることも事によっては許されよう。尤も、蓋然性・実然性・確然性と可能性・現実性・必然性とを単純に等値するわけにはいかないし、陳述様相については、知覚現場的に判断する場合と概念思考的に判断する場合とを一応分けて考えなければならない。」343P
(対話A)「われわれは前章三節の論脈中で次のように註記しておいた。――同じく「SハPナリ(ナラズ)」と標記される成態であっても、Sが知覚現場的に、具体的な“個体的”対象たる被示的意味を指称している場合と、Sが概念思考的に「Sというもの」という被指的意味を指称しているにすぎない場合とを明確に区別する必要がある。前者の場合、Sと呼ばれる具体的な“個体的”対象が、単一であれ若干であれ全てであれ、(1)何々デアル(デナイ)、(2)然々スル(シナイ)、(3)斯々シイ(シクナイ)という具体的な(1)事実、(2)事件、(3)事況(われわれは事実・事件・事況を総称して「事象」と呼ぶ)を表わすのに対して、後者の場合、「或ル」と限定されるにせよ「凡ソ」であるにせよ、ともかく「SというものはPである(でない)」という事態を表わす云々。――叙示成態が“主語”の位置に立って、「SハPナリ(ナラズ)ハ蓋然的・実然的・確然的デアル(デナイ)」ないし「SハPナリ(ナラズ)ハ可能性・現実性・必然性ガアル(ナイ)」という述定を受けるべく、何事かを指示するさい、言語標記的には同じでも、「SハPナリ(ナラズ)」という事象を示す場合と、「SハPナリ(ナラズ)」という事態を指す場合とが岐かれる。前者すなわち事象は叙示成態のレアールな被示的意味、後者すなわち事態は叙示成態のイデアールな被指的意味として述定の対象的与件をなす。」343-4P
(対話B)「知覚現場的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述される場合、Pナリ(ナラズ)は、それが綜合判断的述定であるとき、実然的や確然的あるとはかぎらず、蓋然的でもありうる。が、ともあれ、Sで指示されるフェノメナルな対象的与件が一定の時と所に現前すること、P(非P)として述定として述定される対象的与件Sが一定の時と所にフェノメナルに現前すること、その意味で、当の事象が現実的であることが陳述されている。Sが果たして真にPデアルかどうかの確信度はさまざまでも、SハPナリ(ナラズ)で指示されている被示的事象が現実的にアル(ナイ)こと、現実的デアルことは確知・確言されている。議論の焦点を見え易くするには、Pナリの真理性をめぐる認識様相は蓋然的・実然的・確然的に岐れえても、Sアリの存在様相は現実的であるとして確言されている、という言い方もできよう。」344P
(小さなポイントの但し書き)「ここにあっては、「SハPナリ」が現実的にある以上は「SハPナラズ」があることは事実的に不可能であり、また、「SハPナラズ」が現実的にある以上は「SハPナリ」があることは事実的に不可能であって、「それの反対が不可能であること」という伝統的な「必然性」の定義にもとづいて、「SハPナリ(ナラズ)」が現実的であるとき「SハPナラズ(ナリ)」は事実的に必然的である、と言えるであろうか? 否である。一概には言えない。Pナリの認識様相とSアリの存在様相とは一応別事であるとはいえ、Pナリ(ナラズ)の認識様相に蓋然性が含まれているため、「SハPナリ(ナラズ)」の現実は一般には「SハPナラズ(ナリ)」の事実的可能性が含まれているのである。「Pナリ(ナラズ)」の認識様相が実然的ないし確然的である場合にかぎって「SハPナリ(ナラズ)」が現実的であるときに「SハPナラズ(ナリ)」が事実必然的であるにすぎない。」344-5P
(対話C)「右には、Pナリという述定が知覚現場的でしかも綜合判断的である場合について述べたのであったが、知覚現場的な判断的陳述でしかもPナリという述定が分析判断的である場合はどうか。ここでもSアリというという存在様相はもとより現実的である。そして、Pナリという述定的陳述の様相は論理必然的である。従って、「SハPナリ」という事象は、この場合、Pナリの認識様相の如何を問わず、現実的であり、且つ、論理的に必然的である。ところで、知覚的現場を離れつつも依然として被示的事象が問題である場合、「SハPナリ(ナラズ)」は、別の時と所に関しては何ら必然的な規定を受けないかぎりで、可能的である。――これを要言するに、知覚現場を離れて被示的事象が問題である場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は、認識様相の如何にかかわりなく、存在様相上現実的で且つ論理的に可能であり、知覚現場的な分析的判断の場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は論理必然的である。知覚現場的な綜合判断の場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は、現実的であるとはいえ、Pナリ(ナラズ)という述定的陳述に関して蓋然的・実然的・確然的の様相が岐かれる。」345P
(対話D)「概念思考的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述される場合、疑問的であれ仮言的であれ定言的であれ、「SハPナリ(ナラズ)」という事態は「SなるものハPナリ(ナラズ)というコト」という時と所を“超越”したイデアールな形象であるから、およそ現実的ではない。(但し、事態の非現実性というのは妄念のたぐいの謂いではなく、あくまで、時と所の一定したレアールな事象性をそれ自身では持たないというだけの謂いである。叙示成態の被指的意味たる事態は、それ自身としては、イルレアール・イデアールな存在性格を呈するとはいえ、一定の被示的意味=事象に“受肉”した相で“現実化”する可能性を有っており、その意味で、可能的な存在であると言うことはできる。)」345-6P
(対話E)「概念思考的な場面での「SハPナリ(ナラズ)」は、存在様相のうえでは非現実的・可能的でありつつ、Pナリ(ナラズ)という述定が綜合判断的である場合、蓋然的・実然的・確然的の陳述様相に岐かれる。概念Sが概念Pの上位概念であるとき、「SハPナリ(ナラズ)」は、存在様相のうえでは非現実的であっても、認識様相の如何を問わず、論理的には可能的である。また、Pナリ(ナラズ)という述定が分析的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」という陳述は、認識様相にかかわりなく、論理必然的である。SとPとが離接の明確(「ディスジャンクティヴ」のルビ)な同位概念である場合には、「SハPナラズ」という陳述は論理必然的である。――これを要言するに、概念思考的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述されるさい、SとPとが同位概念である場合、「SハPナラズ」が必然性の様相で、SがPの上位概念である場合、「SハPナリ(ナラズ)」が可能性の様相で、それぞれ陳述される。そしてPナリ(ナラズ)という述定が分析的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」が必然性の様相で陳述され、Pナリ(ナラズ)という述定が綜合的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」は存在様相のうえでは非現実的でありつつ、陳述様相が蓋然的・実然的・確然的に岐かれる。」346P
第三段落――陳述様相は存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含む 346-53P
(この項の問題設定)「われわれは、以上、「SハPナリ(ナラズ)」の存在様相を、Sアリの認定に関わる存在様相、Pナリ(ナラズ)の述定に関わる認識様相、SハPナリ(ナラズ)の判断に関わる論理様相、これら三つの契機の交錯に即して論じてきた。陳述様相は、その諸契機が明示的に言表されるかいなかは別にして、存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含むのである。」346P
(対話@――様相論の一端の展開)「ところで、存在様相・認識様相・論理様相とはそれぞれ何であり、また、それぞれが如何なる秩序体系をなすのか。様相論について最終的に論決するためには、第三巻第一篇の「学理的世界の存立構造」を俟たねばならないのであるが、当面の行論にとって必要なかぎりで、様相論の一端を茲で述べておこう。」347P
(対話A――認識様相)「順序を紊(「みだ」のルビ)すようであるが、認識様相から始めたいと念う。茲で認識様相と呼ぶのは蓋然的・実然的・確然的の謂いであって、一般には判断的措定の確信度を表わすものと思われている。――われわれは嚮に、蓋然的判断(probliematisch Urteil)、実然的判断(assertorisches U.)、確然的判断(apodiktisches U.)を「SハPデアルかもしれない」「SハPデアルこのとおりに」「SハPデアルにちがいない」という表現でそれぞれ標記した。(これを英語で言えばS may be P, S is P, S must be P. と標記することができよう。)」347P
(対話B)「実然的判断(assertorisches,assertive)といい、「このとおりに」といえば、日常用語ではかなり強い確信を表わすように思えるし、現にS may be P.で S is P, S must be P.を表意する場合もあるであろう。われわれとしては、しかし、様相論の通説的理解に随って、実然的判断というものは別段“確信”らしい確信を表わすものではなく、確実性の意識に関しては“中立的”“無記的”であるものとして処理することにしよう。このように処理するとき、蓋然的判断はS must be P.という措定に関する不確実性の意識を表出し、確然的判断はS must be P.という措定に関する確実性の意識を表出するものとされる。」347P
(小さなポイントの但し書き)「(通説的理解に随ってこのように処理するとき、実然的と確然的との区別をどうつけるか、どの程度で線を引くかという困難を回避できるが、日常的判断意識とのあいだに若干の乖離を生ずるという点は措くとしても、実然性が判断的措定の確信度に関して“中立的”“無記的”であるとすれば、実然性を一つの様相として挙げること自身に疑義を生じかねない。すなわち、判断様相は蓋然性と確然性との二つだけで済むのではないかという考えが登場しうる。実際、われわれの立場にとっては、認識様相を蓋然と確然の二つだけに限ったとしても特に不都合は生じない。がしかし、ここでは通説的な理解に沿う形で議論を進めよう。)」347-8P
(対話C)「判断的認識様相は、判断的措定に関する確信の度合、ないし、確実性・不確実性の意識を表出するものと“通説”では謂われるが、確信的意識の内実は何であるのか。それはさしあたり一定の心理的状態であるには違いない。とはいえ、それは認識論的には、単なる心理的状態以上の或るものである。謂う所の“確信”は、当該判断“真理性”いわゆる“客観的妥当性”の価値評価・価値判断(Beurteilung)に関わるものであろう。ここにおいて、真理性の価値判断とは何かという問題に直面する次第であるが、この問題は次節の主題であるので、ここでは判断的認識様相とは当該判断の真理性に関わる確実性・不確実性の覚識を表出するものであるということ、この点を銘記するにとどめて議論を一たん先に進めることにしよう。」348P
(対話D)「様相の整序はいずれにしも厄介であり、定説と呼べるものは存在しないにしても、さしあたり、蓋然性・実然性・確然性を拠点にして様相を配位するのが常套的手法である。われわれもとりあえず常套的手法に随ってみよう。――「SハPナリ」が蓋然的であるとすれば、「SハPナリ」ガアルこと、ないし「SハPナリ」デアルこと、これが可能的であるとして、蓋然性と可能性とが対応づけられる。「SハPナリ」が実然的であるとすれば、「SハPナリ」が現実的にアル、ないし、現実的に「SハPナリ」デアル、として、実然性と現実性とか対応づけられる。そして、「SハPナリ」が確然的であれば、「SハPナリ」ガアルこと、ないし、「SハPナリ」デアルことが必然的であるとして、確然性と必然性とが対応づけられる。――このようにして、可能性・現実性・必然性が定位されると、今度は、それぞれの否定的相関者として不可能性・非現実性・偶然性が立てられる。「可能性−不可能性」「現実性−非現実性」「必然性−偶然性」の組が、今や総じて「蓋然性」「実然性」「確然性」と対応づけられるわけである。」348P
(対話E)「右の整序には、しかし、早速に問題が生ずる。第一に、必然性の否定的相関者は果たして偶然性であるかという問題である。慥かに或る種の論脈では必然性と偶然性とが対立する。しかしながら、必然性が確然性と対応づけられるかぎり、必然性の否定的相関項は不可能性ではないかという考えが登場する。というのは、S must be P.という確然性の判断の否定は、初等英文法式にいって、S can not be P.になる。(must notという否定形は「禁止」を表わすので、SがPニ違イナイというS must be P.の否定、つまりSハPデアル筈ガナイはS can not be P.でなければならず、S must not be P. [SハPデアッテハイケナイ]とは言えない。)つまり、確然的必然の否定は「不可能」(can not)になる所以である。現に、初等英文法式の了解にも応ずるかのように、アリストテレス以来、「必然性」とは「それの反対が不可能になること」であると定義されてきた。この論脈では、必然性の否定的対立項は、偶然性ではなく、不可能性になる。――第二に生ずる問題は、「可能性と不可能性」「現実性と非現実性」「必然性と偶然性」という三つの組が同位的に対立するのではなく、これら六つの様相は謂わば一本の系列をなすのではないか、という問題である。存在(ガアルおよびデアル)の“強さ”ともいうべきものに留目するとき、次のような系列性が慥かに認められる。「斯様にアリ別様にアリ得ない」(必然性)、「斯様にアリ別様にナイ」(現実性)、「斯様にアリ別様にアリ得る」(偶然性)、「斯様にアリ得て別ににもアリ得る」(可能性)、「斯様にナイ」(非現実性)、「斯様にアリ得ない」(不可能性)。(ニコライ・ハルトマンが暫定的に整理してみせた序列に比べるとき、これは可能性と偶然性とが入れ替わった形になっているが、“存在の強さ”に即するかぎり、この配位のほうが妥当であろうと思う。)」349P
(対話F)「これら二つの問題のうち、前者は、判断的認識様相である確然性とそれとは別種の様相である必然性とを二重写しにするところから生ずるものであり、元来の必然性はあくまで偶然性の否定的相関項であると言い張ることで一応は“解消”する。また、後者は、別の分類視角ではそうなるというだけのことで、嚮の三組にベアづけることは妨げられないと主張すれば“解消”する。だが、前者について謂えば、嚮にはまさしく確然性と必然性とを二重写しにすることで必然性を導入したのであるから、“二重写し”を卻けるさいには別の仕方で必然性を定位することが要求される。後者について言えば、六つの様相をそもそも“存在の強さ”なる視角で整序できるのかどうか、このこと自身が問い返さねばならない。」349-50P
(対話G)「われわれ自身としては「可能性−現実性−必然性」を「蓋然性−実然性−確然性」と対応づけて導入する手続を積極的に採るものではないし、また、「可能性・不可能性・現実性・非現実性・必然性・偶然性」という六つの様相を初めから存在様相とみなしてしまうことにも批判的である。――われわれの見地では、「蓋然性−実然性−確然性」という様相を「認識様相」として上述のように認めたうえで、「現実性−非現実性」を本来的な「存在様相」として認める。本来的な存在様相という限定的な言い方をするのは、元来は「論理様相」であるところの「可能性−不可能性」「必然性−偶然性(=非必然性)」という四つの様相も或る物象化の構制によって第二次的に“存在様相”とされてしまい、そのかぎりで、広義の“存在様相”が他にも派生するからである。本来的な存在様相である現実性はフェノメナルに現認されること、視角をかえていえば、一定の時と所にレアールに実存することの謂いである。そして、非現実性は現実性の否定的相関者であって、端的な無の謂いではなく、広義の存在(有)の一斑でありつつも、フェノメナルに現認されないこと、視角をかえていえば、一定の時と所とを“超越”してイデアールに存在することの謂いである。――「可能−不可能」「必然−偶然(=非必然)」は、物象化によって“存在様相”とされるにせよ、本来的には「論理様相」である。「SハPナリ(ナラズ)」という判断措定が論理的に“許容”されるというのが「可能」であり、「SハPナリ(ナラズ)」という判断措定が論理的に当為(「ゾレン」のルビ)であって“強制”されるというのが「必然」である。」350P
(小さなポイントの但し書き)「(当の判断措定の当為的強制の覚識が、この論理的機制に即した必然性を、真理的妥当に即した確然性と二重写しにさせる。また、当の判断的措定が強制されはしないが許容されるという可能性の覚識と蓋然性の覚識とが二重写しになりがちである。このため、必然性という論理様相と確然性という認識様相、可能性という論理様相と蓋然性という認識様相とが、“対応”づけられるどころか、二重写しにされてしまう。日常的意識におけるこの事実は諒解できるとしても、しかし、われわれとしては真理性に即した認識論的妥当様相と論理性・規則性に即した論理的妥当様相とをまずは明確に区別してかからねばならない。)」350-1P
(対話H)「論理的“許容”の否定的相関者、すなわち、許容されない=禁示の覚識に応ずる論理的様相が不可能性であり、論理的“強制”の否定的相関者、すなわち、当為的強制ではない=別様でも宜しいという覚識に応ずる論理的様相が偶然性=非必然性である。――論理的に“許容”“強制”される(されない)とはいかなる謂いであるか。これに答えるためには、そもそも「論理」とは何ぞやということを規定せねばならず、最終的には第三巻第一篇に俟たねばならない。が、ここではとりあえず、次の点まで答えておこう。「論理」は“実践的な”「規則」の一斑であり、論理的・規則的に許容される(されない)とは、論理的規則(「ルール」のルビ)の埓内に納っている(いない)と判定される謂いである。論理的に強制される(されない)とは論理規則上当為(「ゾレン」のルビ)である(ない)と覚識される謂いである。但し、後に論ずる通り、逐一規則を直接的に省みるわけでなく、論理規則への反照的顧慮は実際には間接的である。」351P
(小さなポイントの但し書き)「尚、規則上そうすべきでないは「禁止」、つまり、「許容されない=不可能」になるため、当為的必然性の否定的相関者が不可能であるかのように思われる所以となる。しかし、当為の直接的な否定的相関者は「当為ではない(すべきであるとはかぎらない)」なのであって「すべからず」(禁止)ではないのである。「SハPナリ(ナラズ)」と判断措定「すべし」に対する「SハPナリ(ナラズ)」と判断措定「すべからず」は、排中関係を前提的了解として導入するとき、「SハPナラズ(ナリ)」と判断措定「すべし」に還元される。そのかぎりで、当為・必然性と禁止・不可能性が対立的相関項をなすが、このさいには「不可能性」もまた一種の「必然性」であると言わねばなるまい。因みに、この「必然性」には「非必然性=偶然性・可能性」が対立し、偶然性と可能性とが一括される。けだし、いずれも非必然性=非不可能性だからである。」351P
(対話I)「ところで、論理様相は“物象化”されて存在様相の相で覚識されるようになる。その機制について簡単にみておこう。――「SハPナリ(ナラズ)」と措定するさい、知覚的現場的には、論理的規則への反照的顧慮は一斑にはおこなわれず、Sアリの現実性の覚識を基礎にしつつ、もっぱら「SハPナリ(ナラズ)」の真理性が価値判断されるので、陳述様相は、現実性という存在様式のうえに認識様相の表出となる。なるほど、「SハPナリ(ナラズ)」はが分析的判断の公正に自覚的になっている場合には必然性という論理様相の覚識を伴いうるし、この論理様相が表出されるが、それはあくまで、確然性という存在様相と一体的にである。知覚的現場を離れても、「SハPナリ(ナラズ)」という事象=被示的意味が問題である場合には、可能性という論理様相が覚識されるとはいえ、主としてはやはり認識様相が表出されると言えよう。総じて、「SハPナリ(ナラズ)」という事象が志向されている場面では、認識様相の覚識が基調であって、論理様相は殊更に表出されることはない。ところが、概念思考的判断の場面になると一変する。――概念思考判断の場合、「SハPナリ(ナラズ)」という述定が綜合判断的であるときは、もっぱら認識様相が覚識されるとはいえ、「SハPナリ(ナラズ)」が分析判断的に措定されるときには、認識様相としての認識様相よりも、或る屈折を介して論理的妥当性が覚識される所以となる。分析判断的措定にあっては、SやPを含む概念体系への反照的顧慮がおこなわれるだけでなく「S−P」成態たる命題的成態・命題的事態の秩序体系への反照的顧慮もおこなわれる。この反照的顧慮のもとに「SハPナリ」ないし「SハPナラズ」という述定の論理的妥当価が認定される。ここでの論理的妥当価が論理様相にほかならない。論理的妥当価が、概念体系や命題体系との反照関係において決まるものであり、当の反照的認定は突き詰めていけば矛盾律といった論理的規則に照らしての“許容”“強制”の認定に行きつくのだが、現実問題としては既成の命題体系や概念体系への反照の場面で“許容”“強制”が覚知される。しかるに、既成の概念体系や命題体系というものが、前章で論考した通り、人々の思念的意識においては既存的に自存する相で覚識されている。そして、「SハPナリ(ナラズ)」の妥当価は、その既存的に自存する命題的事態の体系に即して既定的であるかのように覚識される。このため、判断の論理様相は既定的・既存的な事態そのものに属する契機の“模写的”追認であるかのように思念される所以となる。ここにおいて、論理様相が恰かも“模写的”に追認される対象的規定性・存在的規定性であるかの相に“物象化”されて覚識される次第なのである。こうして、「可能性−不可能性」「必然性−偶然性(=非必然性)」という元来は論理的規則との反照的認定の覚識に応ずる論理様相が一種の“存在様相”とみなされてしまう。(この間の事情については次篇の第二章第三節をも参照されたい。尚、そこでは存在様相の領域範疇化にもふれる予定である。)」352-3P
(対話J)「われわれの看るところ、こうして、論理様相が存在様相に“物象化”されることで「可能性−現実性−必然性」とその否定的相関者たる「不可能性−非現実性−偶然性」という都合六つから成る“存在様相”が形成され、しかも「可能性−現実性−必然性」と本来的な認識様相たる「蓋然性−実然性−確然性」とがしばしばオーヴァラップされてしまう。そのため陳述様相とはあたかも唯一種の様相であるかのように思われがちであるが、実態においては、以上を通じて論究したように、陳述様相は存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含む複合的な覚識の表出なのである。――今やこれら三様相の相互媒介的統一をみるためにも「SハPナリ(ナラズ)」という叙示成態の間主観的妥当性と真理性を主題的に討究しなければならない。」353P


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松波めぐみ『「社会モデで考える」ためのレッスン――障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』

たわしの読書メモ・・ブログ689
・松波めぐみ『「社会モデで考える」ためのレッスン――障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』生活書院2024
松波さんのこの本は、「社会モデル」の意義を宣揚し、それを広めていくというところで書かれています。「社会モデル」を運動的観点から取り上げた貴重な資料になっています。わたしも一時、「社会モデル」の考え方を広めようとしていました。で、本(三村洋明『反障害原論――障害概念のパラダイム転換のために――』世界書院2010)を出したとき、まさに「社会モデル」の意味で、「反障害」というタイトルをつけました。
松波さんのこの本の中で、「医学モデルから社会モデルへのパラダイム転換」という概念が出てきます。これも意義のある展開になっています。ただ、「パラダイム転換」という言葉をどう使っているかということで、いろいろな使い方があるのですが、ゲシュタルト心理学の「反転」的意味では、「障害者が障害をもっている」(厳密にいうと「「障害者」が「障害」をもっている」)というところから「社会が障害をもっている」(厳密にいうと、「「社会」が障害をもっている」)というまさに反転です。そういう意味では、パラダイム転換といえなくもないのですが、そもそもイギリス障害学の第二世代の第一世代への批判、「第一世代の「社会モデル」は、「社会が障害をもっている」というけれど、障害者個人が抱えている苦悩をとらえれていない」(わたしの要約です)ということに応え切れていない中で、イギリス障害学代第一世代の突き出した「社会モデル」が混乱的情況の中で(註1)、当時WHOの障害規定ICIDHの改定作業の中でとりあげられず、アメリカ障害学の「障害」概念が採用されました(これには、アメリカとイギリスの力関係、またどちらの「社会モデル」が、現在社会――資本主義社会にとって適合的な論理であるかというところで、アメリカ障害学の「社会モデル」が受け入れられたのですが)。それは、「障害者」という言葉が、イギリス障害学のdisabled peapleでなく、アメリカ障害学のpersons with disabilityという言葉が採用されたことに端的に表れています。直訳すると「障害をもつ人々」となります。まさに従来の医学モデルです。また、「個人」と「環境」(註2)という対立項をおいて「相互浸透」(註3)という概念が採用されました。松波さんの指摘ではそれはアメリカ障害学のとらえ方だということです(註4)。それで、個人と環境なり社会の関係をどう押さえるのかというと、それが曖昧になっています。それで、どうなったかというと、松波さんは「改定障害者基本法」に「社会モデル」の概念が織り込まれたとしているのですが、わたしは「社会モデル」ということを言い、「障壁」という言葉を織り込んだけれど、結局‘障害’という言葉をどう使っているかというと、従来の医学モデル的意味でしか使っていないのです。松波さんの言う意味でも、パラダイム転換になっていないのです。そもそもICIDHにだって、「社会的不利」という概念で、「社会モデル」的な内容はもっていなくはなく、結局、何が変わったのだろうという思いがあります。ひとつは、「合理的配慮」ということで、しかも「差別解消法」の改定作業の中で、努力義務から義務へとなり、一定の有効性をもってきているということがあります。ですが、そもそも原語のreasonable accommodationの翻訳の問題もあり、そのことを暗に松波さんは「正統な理由のある調整」と訳されていますが、法的条文では、「恩恵としての福祉」に落としこめる「配慮」という言葉を使い続けていますし、「合理的」という言葉には、「制限」する機能がついて回り、新自由主義的福祉の切り捨てにつながる「合理化」概念がついてまわります。それは、「中途障害者」である「高齢者福祉」で介護事業会社が潰れていく事態を引き起こしています。法整備で理念を謳っても、現実に福祉をになうひとが居なくなっては意味がないのです。
 さて、パラダイム転換という概念自体からのとらえ返しを指摘しておきます。
 この言葉は、クーンが、コペルニクスやガリレオガリレイが天動説から地動説への転換を果たしたことを、コペルニックス的転換ともいわれることにあらわされる「基本的認識の枠組み」の転換を指摘し、広めた言葉です。まさに、これは反転とも言えることです。で、それは天文学のみならず、哲学的には中世のキリスト教的世界観から、デカルトなどの近代知と言われる哲学にも及んでいます。それは有機的統一態から要素還元主義的な実体主義的な世界観への転換となっています。そして、そのような転換は、中世的世界観から近代的世界観だけでなく、近代的世界観から現代的世界観への転換にも顕れています。その端的な例とされるのが、ニュートン力学から量子力学への転換です。それは哲学的には要素還元主義的な実体主義的な世界観から関係主義的な世界観への転換となっていくのです。で、その近代から現代へのパラダイム転換(註5)というところから、「社会モデル」をとらえると、「社会が障害をもっている」と表現するのは、「社会」を実体主義的にとらえていると指摘できます。そこから、更に実体主義にからめとられる「社会」ではなくて、「関係性の総体」と関係主義的に押さえることが必要になる、となります。このあたりは、パラダイム転換を主張する廣松渉さんが、関係という網の結節態的にあらわれる網の目として「個人」をとらえる、網の目は網から離れて存在するわけではない、という押さえ方をしています。まさに従来の医学モデルが、「障害者が障害をもっている」としたのに対してイギリス障害学の「社会が障害をもっている」というのは、実体が属性をもっているという「実体―属性」という実体主義に陥っていると批判されることになります。
 そこで関係主義的なところへの転換することによって、パラダイム転換を押さえるということになります。わたしが宣揚する関係論モデルの障害概念です。このパラダイム転換概念から、「社会モデル」をとらえると、物理学のニュートン力学から量子力学へのパラダイム転換と言われることの過程に、マッハの力学・哲学があり、アインシュタインの相対性理論があったとされることに類比されます。「社会モデル」は医学モデルから関係モデルへ転換する過渡の理論として位置づけられるのです。
 関係モデルの考え方について、説明します。ゲシュタルト心理学に、「地」から「図」が浮かび上がるという概念があります。ここで「地」というのは、後に意識されることで、先にあるわけではないのです。直截には「図」が意識化され、後に「地」が意識化されます。「地」が関係態としてとらえられます。関係態のなかから「図」が浮かび上がるのです。で、医学モデル的「障害」がなぜ、「障害者」と規定されるひとがもっているものとして顕れるのか、ということのとらえ返しが必要になります。そもそも近代以前から、「障害者」が個別「障害」的に名付けられることがありました。今は差別語として使われなくなった、意味不明になるのであえて書きますが、「おし」「つんぼ」「めくら」「いざり」、総体的用語としては「不具」という語が後からでてきたのでしょうか?(文献的検証はしないまま先を急ぎます)。で、生産性が低いとか、搾取・収奪が苛酷な社会では、生まれた時に殺されるということもあったようなのですが、生きのびて、それなりに共同体の中で役割を担い、生きて来た歴史もあります。それが、資本主義社会になって、「障害者」という概念が出てきたのではないでしょうか? 「ケガレ」という概念で、反転して「障害者」が巫女やシャーマンとして反転して持ち上げられることも出ています。「障害児」殺しが、以前からあったとしても、ちょっと様相がちがっていたのではと指摘できます。さて、いろんな様相があり、その分析をしていかなくてはならないのですが、「障害者」概念が今の社会で拡がり固定化されていったことには、ある言葉で表し得ます。「標準的人間像」ということです。資本主義的生産様式は、機械制工場労働ということで広がりを持っていきました。そこで、ここで資本主義社会の分析を最も根源的になしたマルクス(註6)の『資本論』のなかに、「標準的人間労働」という概念があり、そこからこの社会の差別の論理を押さえることができるのです。この概念で、そこから外れることが、工場労働で協働することが「できない」として異化し、「障害」と浮かび上がり、それが「障害者」が持っているとして異化するのです。それがゲシュタルト心理学の「図」―「地」関係として示し得ます。その「図」として浮かび上がるのは、そもそもそれがどうして「できない」といけないのか、ひとりでできないといけないのか、「標準労働力」なるものがどうして設定されたのか、それは公教育の問題もからんできます。「標準的労働」力になるために、公教育で労働力に生産・再生産することを遂行する中で、「標準的労働力」という個人に内自化(註7)された―物象化された言いも生まれていくのです。
 もうひとつ、松波さんの論攷の中で、分からないことが出てきます。差別する側の立場にいるひとを「特権をもっている」というとらえ方が、よく判りません。これは、ひとつの被差別事項での被差別当事者と非当事者の問題ですが、二項対立的にはなりません。およそ、被差別事項をひとつももっていない(何らかのスティグマやコンプレックスをもつていない)ひとはいません。で、もしもっていないひとがいるとしたら、他者の被差別の痛みを理解し得ないところで、孤立するというコンプレックスをもつことになります。そもそも、権利なり、人権という概念が法的なキー概念になってしまっているというところで、いろいろ問題がおきてきます。人権ということは、「天賦人権思想」からきていて、キリスト教文化圏からきています。そして、「帝国主義」の侵略の植民と支配が、資本とキリスト教と人権思想ということの輸出で時には武力を伴って、またそれを背景にしてなされてきた歴史を押さえるなら、そもそも人権思想自体をきちんととらえかえす必要があります。実際に人権概念は、「差別のない関係の物象化された概念」として、しかも法的拘束力をもっているので、反差別というところで使えるとされてきたのですが、現実には、人権を守るためにと称して、戦争という最大の「人権侵害」をしかけてきた歴史さえあります。(註8)
また、自民党の片山さつき参議院議員は「人権は架空の概念だ」という話をしています。そもそも神の与えたもうた平等の思想ということで、キリスト教的神がそもそも、非キリスト教圏では信じられない架空の話になります。それに人権思想では差別を総体的に扱えません。資本主義社会の生産力の所有からの排除(ここから来る資産の格差)や「労働能力」による差別も人権という概念でとらえられなくなります。だから人権概念を使うことの危うさがあるのです。だから、法律用語として使うことがあっても、反差別の論展開としては直截に、反差別という詞を使っていくことではないかと思うのです。
 何か「ないものねだり」でごちゃごちゃ書いてしまいました。むしろこの本は現実的にある法や条約をどう使って現実をよりより方向に変えていくかという実践的な本としてきわめて判り易く、実践的な本です。そして、著者が活動していくきっかけやその経歴を書いていて、いろいろの思いのつまった本になっています。
 全体の構成をとらえるために目次を挙げておきます。

目 次
はじめに
PART1 「社会モデルで考える」ためのレッスン
 レッスン1 「特権」をもつ側であること
 レッスン2 情報のバリアを放置してきた社会に気づく
 レッスン3 「対話」はなぜ大事で、どんな時に難しいのか
 レッスン4 文化的障壁(社会の慣行、価値観などのバリア)を考える
 レッスン5 学びの場と合理的配慮@――学ぶ権利を保障する
 レッスン6 学びの場と合理的配慮A――障害のある先生
 レッスン7 研修、啓発のあり方を考える
 レッスン8 複合差別を考える――幾重にも「マジョリティ中心」の社会の中で
 レッスン9 社会モデルは障害のことだけじゃない
 レッスン10 障害者バッシング
 レッスン11 相模原障害者殺傷事件の後で
レッスン12 「うしろめたさ」とつきあう
PART2 「社会モデル」にまつわる個人史から
 レッスン1 最初の出会い
 レッスン2 なぜ人権教育に興味をもって進学したか
 レッスン3 どうやって「社会モデル」を知り、納得したか
 レッスン4 なぜ二〇〇六年夏に権利条約ができるところを見に行ったのか
 レッスン5 なぜ「条例づくり」に興味を持ったのか(二〇〇八年秋の転機)
 レッスン6 条例づくり運動で何を学んだのか
 レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)
       ――障害者差別解消法のことを書いたり話したりする日々の中で
 レッスン8 そして今――改正障害者差別解消法の施行も踏まえて
初出一覧
おわりに

 さて、いつものように備忘録的にことばの切り抜き的メモを残して置きます。運動と関わり続ける中で生まれたすてきな文があり、また少しわたしが疑問に思ったことも指摘しておきます。
「・・・・・・「配慮」という日本語についてまる「思いやり」というイメージに引っ張られてしまうのだろうか、・・・・・・」23-4P・・・「合理的配慮」という訳語自体を批判することではないでしょうか? 実際、「正統な意義ある調整」155Pと出しています。「配慮」という語は、「恩恵としての福祉」というところにからめとられる概念なのです。
(注15)「学生に特権の話をしたら、実際こういうふうに書いてこられることがある。こういう「健康でよかった」というと感情は、思いやりの感情は喚起するかもしれないが、障害のある人の「見下し、あわれみ」」と紙一重だ。悪意はなくても、「障害」と「不幸」を直結させる優生思想的な考え方であり、「社会モデル」とは相容れない。」33P
「しかし、「障害の医学モデルから社会モデルへ」のパラダイム転換にしても、・・・・・・」45P――(注7)「医学モデルから社会モデルへの転換」については、レッスン9(一六六ページ)か、PART2(二二八〜二三二ページ)あたりを参照。」56P
「一つの鍵は、「これまで(歴史的、構造的に)権利を奪われてきた」への想像力をもてるかどうかではないか……・・・・・・」54P・・・「権利論」にいくとよけい分からなくなります。「生きる為の条件を非対象的に奪われてきた」として押さえる必要。
「「相手のことがわからないのは当然。ぎこちなくていいし、うまくいかないかもしれないけど、まずは対話しよう」とは教えられてこなかった。」68P
「・・・・・・なお、世間では「心のバリア」という語もよく使われているが、社会モデルの視点のないまま、「思いやり」のニュアンスで使われがちなので私は使わない。」95P
(冒頭のタイトルの見出し)「「魔法の杖」でなく、「対話を始める合図」として」96P
タブレットでの撮影の話100P――そもそも板書しなくてもいいようにレジメを出すというようになっていくのでは・・・
「この問いへの私の結論は、「障害者の権利(人権)」への理解である、というものだ。・・・・・・」125P・・・人権概念を出すと余計分からなくなる、差別の禁止ということになるのでは・・・。
(項のタイトル)「「理解」はらせん状に」127P――「・・・・・・出会うことなしの「理解」には限界がある。だが、「出会いさえすれば理解できる」などという甘いものでもない。一度きり、ステレオタイプを確認するだけの出会いなら、ないほうがいいのかもしれないとさえ思う。/出会いつつ、特性を知りつつ、権利を学びつつ……。いろんな学びが少しずつ積み重なって、はじめて少しだけ「理解」に近づくのだろう。少なくとも、「理解いっちょあがり」などということはないのだと肝に銘じている。」128P
「「感動ポルノ」」138P――(注5)「二〇二三年前期にお呼びしたゲスト(車いすユーザー)は、講義の最後に「お願いだから、『がんばっている』とか、『感動した』とか書かないでください。仕事で来ただけです」と釘を刺した。私は痛快だったが、それだけ本人はそういう「感想」にうんざりしているということだろう。」140P・・・この「仕事」は社会の中の役割分掌ということ。
(注1)「自治体によって、「障害、障がい、障碍」の表記はさまざまである。「どれが正しいのか」と質問を頻繁に受けるが、私は「障害の社会モデル」の考え方から、「社会が作っている障壁」の意味で「障害」を使い続けている。「障害」という語のネガティブな含意は、個人ではなく、健常者中心の社会に原因がある。」139P
「実は「合理的配慮」という語のルーツは障害者問題とは別のところにある。この語が一九九〇年にアメリカ障害者差別禁止法(ADA法)に入る前に、公民権法(一九六四年〜)の改正があった。具体的にどんな背景があったかというと、宗教的に少数者であるユダヤ教徒には戒律で「安息日」があるが、そのことが働く上で不利にならないように、という要請があった。マイノリティが自らの宗教の教義を実践することで仕事をクビになることがあってはならない。そのための「調整」の必要が認められ、それを「合理的配慮」(正当な理由のある調整reasonable accommodation)と呼んだのである。それが障害者にも適用されるようになったのがADA法だ。」155P・・・なぜ、「合理的配慮」という訳がおかしいと言わないのでしょう?
「マジョリティを前提にした社会であるからこそ、マイノリティの権利をとりもどすために合理的配慮が必要になる。」156P・・・「マジョリティを前提にした社会」などそれ自体が許されないと思うのですが。それと同様に「本来の人間」とか、「本来もっている権利」とか、「本来」という概念がおかしいのです。
(性の多様性(ダイバーシティ)について)「「多数者=フツウ?」と「少数者」がきれいに二つに分かれるわけではなく、現実はグラデーションだ。少数者のことを理解しましょう、と言われがちだが、多数者こそ勘違いしていて、自らの性に向き合えていなかったりする。」162-3P
「性の多様性とは、「めざすもの」ではない。今ここにいる子どもたち、先生たちの中にある、「現実」そのものであるはずだ。」164P
「性同一性障害」――「LGBTRQ」の併記165P→(注5)「性同一性障害」という表記の問題性の指摘171P
「運動の中でうまれた「まちに慣れる。まちが慣れる」という味わい深い言葉を思い出す。」200P――(注8)「牧口一二さんの言葉」・・・「まちが慣れる」は社会モデル的考え方
(項のタイトル)「わきあがる「うしろめたさ」」207P
「「障害の社会モデル」の考え方、「Nothing about us,without us!(私たち抜きで私たちのことを決めないで)」というスローガンのもとで障害者権利条約がつくられてきたこと・・・・・・」210P
「「うしろめたさ」は厄介な感情だが、人が一歩を踏み出すことを後押しもする。一歩踏み出す先が、より公平な社会へとつながっていくことを願って、私は種まきを続けたい。」216P
「「うしろめたさ」と「居心地の悪さ」は重なるけれど全く同じでもない気がする。」216P
「「自分は自分でいい」」226P
「基本法は、障害分野のいろんな法律をまとめる「憲法」のようなもの。そこに始めて「社会モデル」の考え方が入った。障害者の定義自体を「社会モデル」にすることによって、難病、発達障害、高次脳機能障害などが障害者として具体的に追加された。」257P――(注84)「「障害」の定義が変更され、“「社会的障壁」との関係で”という文言が入った。」(注85)「障害者基本法の改正では、「社会モデル」の考え方を踏まえ、障害者の定義が見直された(2条1号)。・・・・・・」298P・・・実際は冒頭に書いたように、「社会モデル」の‘障害’は‘障壁’という言葉に表されているだけで、他は医学モデルでしかなく、「障害」概念の拡張は医学モデルの拡張でしかないのでは?
「「てんかん患者」の「精神障害者と一緒にされたくない」という偏見」259P――「異なる団体が一緒に活動していけた理由」259P――「ひとことで言えば「権利条約があったから」ですね。」259P
(京都の「条例づくり」最初)「三五人の委員の中で女性はたった二人だけ、特に「障害のある女性」はゼロだったのです。」261P
(項のタイトル)「「障害女性への複合差別」を条例に! という運動(二〇一三〜一五年)」264P
「障害者差別についての自治体の条例としては全国で一〇番目ですが、「障害のある女性」という字句が入ったものは初めてでした。」270P
(章のタイトル)「レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)」273P
(改正障害者差別解消法の改正のポイント)「民間事業者も合理的配慮を行うのが、努力義務じゃなくて義務になったこと」283P・・・「合理的配慮」という概念における制限
「事業者は、自分がこれまで生きてきた環境の中で「いかにバリアを意識せず済んだか」に思いめぐらせてほしい。知らなくて済むのは、PART1のレッスン1のおわりで書いている通り、「特権」です。」284P・・・冒頭本文でコメント
「「社会モデルは障害のことだけじゃない」と思っていて、領域をこえて差別をなくすことにつながる実践もやっていきたいです。インターセクショナリティ(交差性)という言葉があるけども、障害のある性的マイノリティを含めた「複合差別」の問題に取り組むことも大事だし、「社会モデル的な考え方をもとに横断的な差別禁止法をつくっていく」ことにも興味があります。」285P
(本文最後の文)「ただほんと、「行ったり来たり」なんですよね。知識も認識もいっぺんに広がるわけじゃないから、「国連は……」みたいな話をした直後に、何十年も時計の針が戻ったような現実に引き合わされる。だからあまり風呂敷を広げず、ぼちぼちと。」286P

(註)
1 松波さんはコリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004の訳者のひとりで、このあたりの事情はつかんでいるはずなのですが、この混乱の指摘も、その解決の道筋もしめしていません(註9)。
2 「社会」ではなくなぜ「環境」という概念をもってきたのか、よく分かりません。例えば舗装されていない「自然 」的環境が、車いす使用者に障害になるというところで、「社会」だけでない「自然」という環境も障害になるということが考えられます。ただし、「社会化された自然」というところで、そういう「自然」も「社会」の中に含み得ます。そういうところで、一応「社会」という規定をした上で、関係論的に「社会」を実体主義化しない概念として「関係性総体」と押さえ直し、その関係性総体の中の実体主義化されない「個人」という押さえ方になっていきます。
3 そもそも二項対立図式批判は、構築主義でもマルクスの物象化批判の流れでもでてきているのに、まさに二項対立図式に陥っています(註10)。
4 わたしはアメリカ障害学については、杉野さんの紹介で押さえているだけで、その文献は読めていません。
5 『事的世界観への前哨』序文
 それは、認識論的な射影においては従前の「主観―客観」図式に代えて四肢構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。(これは論理の次元でいうならば、同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えることを意味し、また成素的複合型に対して函数的聯関型の構制を立てる存在観となり、因果論的説明原理に対して相作論的記述原理を立てる所以となる。……(略)……)……(略)……。
 そこにおいては、いわゆる存在論的・認識論的・論理学的諸契機が統一態をなしている。
(廣松渉『事的世界観への前哨―物象化論の認識論的=存在論的位相』勁草書房1975年「序文」A)
6 「現代社会では乗り越え不可能な思想」と、別な流れの哲学者、サルトルやデリダが提言しているように、マルクスは現代社会の分析に貢献を果たしてきました。逆に言うと、マルクスを棄てると、現代社会の分析ができなくなるのです。
7 ルビンの図形という白黒図形の境界線の内自化で、この実体への属性の内自化を押さええます。黒い杯が浮かび上がるのは、境界線を黒い杯に内自化したとき、白い向かい合った顔を浮かび上がるのは、境界線を白い向かい合った顔の方に内自化させたときです。この反転図形で、例えば、山本おさむさんが、『遙かなる甲子園』というろう学校高等部の野球部が、参加を高野連に参加を認められなかったところから、参加を果たしていくことを描く漫画を描くために、手話サークルに参加し手話を学び、「手話ができないという障害を克服しました」ということを発言していたことに、この反転を示し得ます。
8 これは例えば、日本的侵略において、「人権」概念に比する東洋的「家」概念から、「八紘一宇」という概念で、天皇の赤子というところで平等を装い、大東亜共栄圏形成として第二次世界大戦という戦争にふみこんで、現実の植民地支配の差別的な関係を作り出し、膨大な人殺しをしていった日本の侵略の歴史も押さえることができます。
9 この翻訳本の中で、オリバーが、医学モデルから反転させた社会モデルの概念を突き出しています。コリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004 47-48P
10 その相互浸透という論理は、エンゲルスの弁証法の三法則の一つを想起させます。ただ、エンゲルスの弁証法の三法則は、弁証法を法則としてとらえ物象化していると批判されることですし、対立物の相互浸透という概念は、各項を実体化していると批判しえます。実は、個人と対置しているのは「関係性の総体」といえることで、それは網の目と網の関係に譬えられます。これ自体が仮言で、網を実体化しないという前提で、ですが。


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