2026年04月17日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(18)

たわしの読書メモ・・ブログ726[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(18)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
 第二節 規矩形成と規則随順
(この節の問題設定−長い標題)「能為的主体の行為は、実在的な現与的諸条件によって制約されているばかりでなく、“既成的”な諸価値、とりわけ規矩によっても拘束されており、規則随順的な相を呈する。(この規矩的拘束性・規則随順性が、所与の場面において現出するであろう行動相の予料をも蓋然的にする。) ――規矩的規則は、当事者にとって既存していて拘束力を及ぼす或るものの相で覚識されるにしても、必ずしも明晰判明に識られているわけではない。当事者は、規矩的規則体系を明晰判明には識らないにもかかわらず、自他の行動が規矩的規則に適っているか否かを判定でき、規則に適った仕方で身を処すことができる。――規矩・規則は現実的行為に先立って既在するもののように(物象化されて)覚識されようとも、その実態においては、当事主体が一定の在り方で行為する都度に生産・再生産される。」416P
第一段落――規矩的規制への随順性を論件とし、規矩・規範なるものの成立機序の確認を課題にする 417P
(対話@)「われわれが前節において一端にまで説き及んだ行為の“合法則性(Gesetzmäßigkeit)”を周到に論じるためには、場面的情況や道具的諸条件、等々、舞台的な環境による行動の制約性を全面的に配視しつつ討究し、しかも、人格的特性・個性的特徴を有った能為的主体毎の個別的“合法則性”をも論件としなければならないであろう。がしかし、実践的世界の存在構造を主題とする本巻においては、そこまで立入って詳論することは課題外である。――尤も、制度化された舞台的環境による行動制約性、そのことに因る行為的動態の“合法則性”という次元については次篇の論脈内で必要最低限の論攷はおこなう予定である。亦、能為的主体の人格的特性・個性的特徴に応じた行動の個別的具体的“合法則性”という問題については、原理的には已に前篇第三章第二節で叙べたように、抑々、人格的特性・個体的特徴なるものは現与の斯々の条件下で然々の行動相を現出せしめる個人別的な特個性・傾向性に即して“構成的”に措定されるものにほかならないのだが、当事者たちの物象化された日常的覚識においてはそれが逆倒している限りで(つまり、斯々の人格的特性の持主であるが故に然々の行為を出来せしめる筈という期待・予料が“因果法則的に”おこなわれ、その予料が“適中する”という貌をとる限りで)、この現相をもわれわれは次篇の論脈内で配視することになろう。――」417P
(対話A)「茲では、場面的・道具的その他の実在的な制約条件に関しては、それらが規矩的・規則的な拘束の存在条件を成している限りでは勘考しつつも、主題的には括弧内に納め、主眼的には専ら規矩的規制への随順性を論件とし、行為の規則随順の成立場面に溯って発生論的な議論をも或る程度は試みたうえで、規則随順の存立構制の分析、延いては、規矩・規範なるものの成立機序の確認、このたぐいの課題に応えておきたいと念う。」417P
第二段落――発生論的な議論を聊か挿む  418-21P
(対話@)「われわれは前章第三節の論脈内において、一見過分とも思える紙幅を割いて、対抗的即応・模倣的協応という行動発達論上の階梯に留目したのであった。本書では、勿論、行動の発生・発達を詳しく跡づけることは論域外であるが、行為の存在構造を検討するうえで、われわれは行為の形成機序について一定の基礎知識を保有していることが必要でもあり行論上好便でもある。その限りで、前章第三節における発達論的論議を承ける形で、爰で発生論的な議論を聊か挿む作業から始めよう。」418P
(対話A)「惟えば、人間の行動というものは、環境的状況の制約条件下で物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうち、極く限られたものしか現実には発現しない。意図的意識性を伴った行動ともなれば、物理的制約条件が“許容”する行動形態のうち極く極く限られた範囲に納っているのが現実であることが聊か省察してみれば容易に認められよう。では、物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうちの、極く限られた範囲内に現実の行動を“押込める”機制は如何? そこには、おそらく一種の学習(とはいっても、明瞭な意識性を伴うことなき条件反射的“学習”をも含む)にもとづく行動の限定化、つまり、当人は十全にそのことを意識していないとしても試行錯誤を通じて“学び”“体得”した“目的合理的”行動への限定化(“錯誤的”行動様態の“抑制”的消失)の機制も確かに作(「はた」のルビ)らいていることであろう。がしかし、全てが試行錯誤に因るのではなく、或る種の行動は物理的には可能な筈でありながら、そもそも試行されさえもしないのではないか。つまり、試行をすら現成させないような非物理的制約が機能しているのではないか、と想われる。」418P
(対話B)「意図的・企投的な行為の場合には、設定される目標からして、それが期待の察知にもとづくものであれ、いわゆる自発的な企投によるものであれ、世界事象の可能的多肢多様性に比べるとき、極めて限定された埓内にある。人は、なるほど、幻想的目標を立てることも可能であるが、人間の構想力・想像力(「アインビルドゥングスクラフト」のルビ)は悲しむべくも貧弱である。況してや当座の実現を図る現実的目標設定ともなれば、フェア・ウンスには固(「もと」のルビ)よりフェア・エスにも、諸々の制約条件の故に、論理的・物理的な可能域の極く極く狭い範囲内に局定化されている。が、今茲では、この目標設定の限局はさておいて、設定された目標を実現する可能的諸方式に鑑みての、手段的な行動様式の限定性に留目することにしよう。――設定された目標的終局状景へと帰入する手段的行動の進捗過程、この実行様態は、様式的にみるとき、物理的に可能な筈の各種様態のうち、かなり限定された範囲内に納まる。このさい、手段的行動様式が目標そのものによって制限されること当然として、遂行的行為が舞台的条件や道具的条件によって制約され、この制約が行動の具体相にまで及びうることも、殊更に絮言せずに議論を進めうるであろう。また、行動の種類や様式が行動主体の身体構造や生理的機能によって大いに制約されていること、この制約がこれはこれでまた道具的使用の在り方なども制限すること、このことも今茲では銘記しておくだけで足る。如上諸々の制約条件が在るとはいえ、手段的行動の具体的な実行様式にはまだまだ相当の“自由度”がありうる。それにもかかわらず、実際に遂行される行動の様式は、概して狭い枠組内に“押込め”られている看があり、しかも様式的に固定化される傾動を呈する。それでは一体、この様式的限定化・固定化の由って来たるところは奈辺に存するのであるか?」418-9P
(対話C)「発生論的には、基礎的な一機制として、いわゆる「模倣学習」の機制が慥かに勘案されねばなるまい。――前記の通り、われわれはいわゆる試行錯誤の機制を忘失する者ではない。嬰児がよちよち歩きを始めると色々な物に手当り次第に作(「はた」のルビ)らきかけてみること、それはさながらどうすればどうなるかを調べてみていいる風情であり、これを通じて物に作らきかけたさいのディスポジショナルな展相の予料が“確立”していくこと、このことが銘記されねばならない。嬰児は、物を押してみたり、引いてみたり、摑んで投げてみたり、様々な探索行をおこなう。大人の眼から見れば、それはしばしば破壊的であって、障子を破ったり、花弁を毟ったり、紙を引裂いたり、それなりに積極的な働きかけである。が、このような独創的な試行のほかに、嬰児は早期から、いわゆる観察的学習・模倣的学習を積んでいる。――嬰児は早期から大人の行動をじっと観察していて、記憶しているお手本に倣って一種の模倣的な行動をあれこれと実行してみる。(観察的模倣が可能になるのは、あのg男が他人がレモンを舐める行動と自分が舐める行動とを“同一視”できる機制、一般化して言えば、他身と自身との“一体化的同一視”の機制があってのことである。が、この件については、前篇第二章第一節の想起を求めるに留め、ここでは立入らない。)中沢和子氏の観察報告を援用して誌せば、嬰児たちは、例えば、鏡台の抽出を引き開けて、口紅を取出して塗ってみる。顔中真赤にしてしまうのは手許が狂った結果であって、あくまで口唇に塗ろうと努めているとこことである。もう一例だけ引いておこう。嬰児はナイフを持とうものならすぐ取上げられてしまうが、偶々大人の目を盗んで果物ナイフを扱った幸運児は、リンゴを選んで切りつけていて、側にあったミカンや、況んや他の諸々の物には切りつけていなかった由である。(『イメージの誕生』日本放送出版協会、一九七九年刊、四〇頁以下参照。)嬰児は、このような“模倣的”試行をやってみるが、そこで前提的に意識にのぼっている「ああすればこうなる」物、「しかじかするための」物という認知は、他人(大人や兄姉)の特種化された用具的使用の目撃・模倣の埓内にあり、その結果、年長者における用具性認知と同型的な相になっている次第である。(嬰児は、創発的に、エンピツやクレヨンで壁に書いてみたり、口紅で畳に描いてみたり、新規の用途を“開発”したり“発見”したりもする。さらにはまた、後述の「見立て」によって、同じ一本の棒を、或る時には剣に見立て、或る時には銃に見立て、或る時には旗竿に見立てる、というように様々な“用途性”を“発見”しうる。がしかし、用具性と呼べるほどの用途性の原初的な認知は、目撃・模倣的試行によって枠づけられ、成人社会における既成的な用途性、既成的なum-zu連関 (用途制性連関)への組込みと同型的になっているむきが強い。われわれは原初的な場面におけるこの事実を念頭に置いて掛かる必要があろう。)」419-20P
(対話D)「行動の様式化・固定化をもたらすのは、勿論、模倣的学習ばかりではない。対抗的即応において既に行為の様式化・固定化の傾動が生ずる。」421P
(対話E)「惟えば、役割演技は、初次的には概して、対向的な当事他者との共互的・共軛的な行動であり、当事他者の協応的行動様式によって共軛的に規制される。その際の相手の呼応的行動の様式が既成的に固定化しているとすれば、それに協応する共軛的な当方の行動様式も、協応的アンガージュマンがおこなわれるかぎり、おのずと、一定の様式化・固定化を生ずる道理である。」421P
(対話F)「右の立言には、しかし、二つの前件がある。第一には、対向する当事他者の行動様式が既成的に固定化された相に形成されているということ、第二には、自分の側が相手主導の協応にアンガージュするということ、これら二つの前件がそれである。――第一の件は、相手がその行動様式を独創的に編み出したのではなく、彼自身それを別の先行的他者との協応を通じて習得したのだとすれば、順次に溯向すべき所以となり、当の行動様式の歴史的起源という問題をも射程に引入れずにはおかない。第二の件は、自分の側が相手に一方的に“合わせる”必然性はないのであるから、もし事実の問題として、多くの場合に相手に合わせるのが蓋然的であるとすれば、それも当の行動様式を身につける階梯においてとりわけ蓋然的であるとすれば、行動発達論上の初期的な階梯に止目することを要請する。――第一の案件を解く鍵も実は第二の案件に懸っている。けだし、当座の議論の進め方として、対向的当事者の主導下に乳幼児が役割演技の様式を体得して行く場面にまずは留目する所以である。」421P
第三段落――「随意的行動」の様式性について論ずるに模倣的行動を手始めにする  421-8P
(対話@)「嬰児は、あらためて言うまでもなく、いわゆる「生得的解発機構」を基礎にした無条件反応を体現し、各種の条件反応を身につけて行くが、やがて意識性を伴って信号的送受・対抗的即応・模倣的共応をおこなうようになる。――無条件反射行動は勿論のこと単純な条件反射的行動も、まさに生理身体的機構に負うて、行動様式の固定性・一定性を呈する。これらの反射的行動においては、加之、第三者的見地から看取するかぎり、即自的なコード性を認めることができる。特定刺激と特定反応行動とのあいだに一対一的な対応性があり、しかもその特定刺激が他種の刺激と示差的に区別される相にあり、亦、当該の特定反応行動が他種の反応行動と示差的に区別される相にあって、これら双方の示差的区別体系が存立している。このことに鑑みて、刺激と反応行動とのあいだに、コード性(U・エコーの謂う「Sコード」性)が認められると言う次第なのである。――いわゆる随意運動の場合には、単純な反射的行動の場合のようには、話が簡単に運ばない。とはいえ、随意運動と呼ばれるものも総じては結局のところ複雑な条件反応にほかならないかもしれないという大問題は姑く棚上げするとしても、初等的な随意運動はいずれにせよ意識性を“随伴”せる条件反応という域をいくばくも出ないことまでは認められよう。とすれば、そのたぐいの行動の様式に関しても、条件反応なるが故の様式的一定性・固定性を云々することを許されるかと思う。尤も、如上は前梯的確認事項にすぎない。」421-2P
(対話A)「苟くも、所謂「随意的行動」の様式性について論ずるからには、模倣的行動を手始めにするのが順路というものであろう。」422P
(対話B)「模倣的に調整される動作は、イナイイナイバーの如きであれ、遣り取りの如きであれ、発語・発話の如きであれ、――これらがそれ自体、一種の条件づけに因るものかどうかは今問わぬことにして――それがまさに模倣の手本(「フォルビルト」のルビ)という固定化された様式の既成型と同型化するように自身の行動様式を調整するものである以上、模倣的調整を通じて体得される行動形態は所定の様式的な固定化を蒙ることになる。(尤も、嬰児の側は、模倣しない“自由”、すなわち、模倣的追従そのことを“拒む”ないし、独創的な変様方式でのみ応ずる“自由”を“有つ”のであるから、そもそも模倣的追従・模倣的同調が蓋然的に生起する機制が問い返されねばならない。これは規則的随順性、溯っては、規則の成立と存立の機制との関連においても積極的な論点となるべきものである。――が、この件については姑く脇に置いて、模倣的な行動の進捗を一歩先まで追っておこう。) 」422-3P
(対話C)「行動発達論上、役割行動論的に観て重大なステップとして「ゴッコ遊ビ」と総称される模倣的で且つ当事者相互間の共互的な役割演技によって編制されている幼児期の行動がある。ママゴト、オ医者サンゴッコ、学校ゴッコ、戦争ゴッコ、などのたぐいがそれである。――ゴッコ遊ビは、大人の行動編制態のミニアチュアであると目されるかぎり、慥かに大人の行動の模倣ではあるが、しかし、幼児たちは直接に大人の行動を真似るわけではない。幼児達は自分自身の目撃したことのある大人の行動を参考的に取入れて演技しはする。が、ゴッコ遊ビという“劇”は子供の世界内でそれなりに既成化していて、子供の世界内で伝承されるのであって、子供たちは伝承された劇を演ずるというのがむしろ実態に近い。その点では、童歌(「わらべうた」のルビ)とか毬(「まり」のルビ)ツキとか、綾取りとか、縄跳ビとか、このたぐいの伝承的な行動様式の編制態と同趣なのである。従って、模倣を云々するにしても手本となるのは主として先輩の演技である。ママゴトやオ人形サンゴッコなどにあっては、自分で直接に目撃したことのある大人の行動が大いに参酌されることも確かであり、その都度の“新作劇”の趣きが強いことも認められるが、一人遊ビや並行遊ビの域を脱するや、“伝承劇”の型に嵌った相になるのが普通であろう。――幼児が大人の実生活行動様式をも参酌しつつ、先輩の演技的行動様式に自身の行動様式を模倣的に同型化するゴッコ遊ビを通じて、一般化して言えば、遊び仲間の行動様式に同化して行くことを通じて、行動様式の一定性・固定性を体現するようになること、このことをそれ自体については最早喋々するは及ぶまい。ここで特筆しておきたいのは、ゴッコ遊ビの階梯が自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順的行動の端緒、ないしは尠なくともそれの直截的な前梯をなすという事情である。」423P
(対話D)「ゴッコ遊ビは、行動の発達上(従って亦、その構造内的契機を成す認知の発達上)種々の観点から言って極めて重要であるが、自覚的な規則随順的行動の形成を視軸にする茲では、取敢えず次の三点を銘記すれば足ろう。」424P
(対話E−第一)「第一に「見立て」という契機である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちは、自分および他人を、母親・父親、医者・患者、先生・生徒、……に見立てる。また、木の葉を皿に、砂を御飯に……、棒を剣に……というように見立てる。与件Aをそれとは別なBとして見做す「見立て」の構制は、学理的に省察すれば現相界汎通的に見出させるものであり、言語的記号(象徴)活動の場でいちはやくフェア・エスに一応成立しているものであるが、ゴッコ遊ビの場面における象徴的見立てには特筆に値すべき自覚性が現存する。惟うに、幼児は、象徴的言語活動においても、音声与件Aをそれとは別な意味Bとして把捉するとはいえ、言語活動が円滑に進捗しているかぎり、記号的与件それ自体は強く意識されず、従って、AをBとして見做しているという明確な意識は欠く態勢にあろう。ところが、ゴッコ遊ビにおける用具の見立てにあっては、所与AはおよそBとは違うということを明識しつつ、しかもそのAはBとして見做すのである。ゴッコ遊ビにおいては役の見立てに関しても同断であって、自分はおよそママではないことを自覚しつつもその自分をママとして見做し、相手はおよそ先生でないことを意識しつつもその相手を先生と見做す……というように、二項的区別相を明識しつつ等値化的統一がおこなわれる。しかも、ゴッコ遊ビが成立しているかぎり、この等値化的統一は誰か独りの思念ではなく参加者全員の共有的見立てなのであり、子供たちはこの見立ての共有性を自覚している。がしかし、言語的象徴などの場合とは違って、その見立て・見做しはいつどこでも通用する謂うなれば“自然的”な事態ではないこと、今この遊ビの場においてのみ謂うなれば“約定”的に共有されているものにすぎないこと、このことをも子供たちは併せて承知している。“自然的(「ピュセイ」のルビ)”ならざる斯かる“約定的(「ノモイ」のルビ)”な見做しという契機がまずは銘記されねばならない。」424P
(対話F−第二)「第二に「役割取得」そして往々にして「役割交換」の体験という契機。――ゴッコ遊ビにおいては、子供は自分を、例えばママとか戦士とか、一定の役柄的存在者に見立てることに応じて、その役柄をそっくり我が身に引請けて演じる。なるほど、役柄取得という構制は、第三者的な見地から見れば、対話における話し手または聞き手としての役割取得とか、遣り取りにおける与え手または受け手としての役割取得とか、このような場面からいちはやく見られる。とはいえ、子供当人にとって、演技さるべき役割行動のシステムとも謂うべき役柄がそれとして意識化されて、自覚的に引請けられるようになるのは、何といってもゴッコ遊ビにおいてであろう。(弟妹が生まれた後、兄ないし姉の役柄を取得するケースのうち、兄・姉としての役割演技を大人から直接に仕込まれるのではなく、自分にとっての兄・姉の既往における役柄存在を真似る場合などは、模倣的機制による役柄取得の初期形態として、ゴッコと併せて勘案されねばなるまい。が、当面の論趣には響かないので、これには立入らないことにする。)子供は 役柄を取得しそれを実演してみる体験を通じて、その役柄存在者の見地からものごとの観方を学び、また、その役割動作の様式を明晰判明に体得する。この学習は現実の生活において当の役柄と共軛的な役割行動をおこなううえで重要性をもつ。そもそも役柄の直截な取得が可能なのは、平常その役柄の演行を目撃・観察していてVorbilt(眼前像=お手本、先導像)を獲得していることに負うてである。が、観察といっても、或る時期以降は単なる観照ではなく、予料を伴うばかりか、観念的扮技(実地の模倣扮技ではないが観念上の模倣扮技)をも往々にして伴っており、謂うなれば観念的扮技という仕方での練習になっているむきが認められよう。(観念的扮技といっても、筋肉の微妙な動きなど、恰度、黙読のつもりでも唇が動いているように、実地的行動の場合と生理的態勢が似た形になっていることも考えられる。因みに、生後すぐから隔離して飼育したサルはセックスや子育てに齟齬を生ずると報告されている。自然状態では目撃を機縁にしての観念的模倣扮技による“学習”がおこなわれている一証左と言えよう。)このような観察的学習・観念的模倣があればこそ、ゴッコ遊ビでの役柄取得演技も用意かつ円滑に進む次第であるが、反(「かえ」のルビ)っては亦、ゴッコ遊びという“実地演習”によって以後の観念的扮技がより十全なものとなり、以って、その役柄と共軛的な実地演技もより周到になりうる。「役柄交換」の体験が愈々(いよいよ)それを促進することは絮言するまでもあるまい。ゴッコ遊ビは、勿論、役柄交換を常に伴うわけではない。同じメンバーののあいだでも役柄交換がおこなわれる場合もあるが、メンバーが同じであれば役柄が固定化されるという径行もありえよう。しかし、別のメンバーのあいだでゴッコ遊ビがおこなわれると、他処(「よそ」のルビ)ではオ医者サン専任だった子が此処では患者の一人になるという具合に、役替りが生ずる。子供たちは交替的に種々様々な役柄を扮技することによって、啻に多種多様な役柄存在を体得するだけでなく、共軛的役柄演技の阿吽(「あうん」のルビ)の呼吸を身につける。」425-6P
(対話G−第三)「第三に挙げておきたいのは「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」の現識である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちの見立てによって役柄を取得するが、元来この見立てが二項的区別性の覚識を伴う等値化的統一の認知態であることに加えて、役柄演技の稚拙や中途放棄を機縁にして役柄存在と扮技主体との結合は恰かも“仮想的着用”にすぎないもののように覚知される。この仮想的な“着用”“脱却”の覚知は、ゴッコの開始時・終了時にも感受される。学理的な見地から言えば、役柄存在と扮技主体との区別性という構制は、役柄扮技一般において汎通的に存立するものであるのだが、日常的には成人ですら恒に必ずそのことを現識しているわけではない。成程、子供は余所(「よそ」のルビ)行用のオリコウサンに振舞っている自分、お客様の前での気取ったママなど“本来の姿”と“見せ掛け(pretension)”との区別性や“仮想的な脱・着”を覚知する機会を有ちうる。がしかし、実際問題として「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」を子供が明識化するのは、保育園でのお芝居を措くかぎり、何といってもゴッコ遊ビの体験の場を主斑としてであろうと想われる。役柄存在と扮技主体とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に分断するこの思念的覚識の形成は、一方においては、役柄の物象化的自存視の前梯的条件として閉却すべからざるものであり、他方においては、主体なるものを役割的行動から截断して実体視する一機縁としても無視すべからざるものである。子供はゴッコ遊ビの発達段階における各種の(必ずしもゴッコだけとは限らぬ)共互的役割行動を通じて、他人をも自発・自律的な行為主体として諒解するようになる。この点に徴してもゴッコ遊ビは格別な留意に値するが、ここではひとまず以上の登記に止めておこう。」426-7P
(対話H)「茲に当座の論脈で指摘しておきたいことは、ゴッコ遊ビには自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順性の尠なくとも萌芽が見られる、という点である。即自的・無自覚的なルール随順性であれば、遣り取りや言語活動などの場面においても既に存立している。が、しかし、嬰児は遣り取りのルールや文法的ルールをおよそ其れとしては意識していないことであろう。ところが、ゴッコ遊ビにおいては、用具や役柄に関わる“約定”的な見立て・見做しを基礎にして、“扮技の主体”がこの“約定的”な共有的見做しに随(「したが」のルビ)った行動をおこなう“べき”ことが自覚的に諒解されている。例えばママゴトにおいては、パパ役の扮技主体はパパらしく、ママ役の扮技主体はママらしく、コドモ役はコドモらしくそれぞれ振舞わねばならないのであって、コドモ役を取得している者が突然ママ役を演じてしまうといったことは禁じられていることが共通の諒解事項になっている。ゴッコ遊ビにおいては、所定の役柄の埓内で演技すべきこと、裏返して言えば、所定の役柄の埓を破る行動をしないこと、これが自覚的に共有されている“ルール”なのである。この“ルール”は、敢えてルールとは呼んでも、ルール以前的な暗黙の約束にすぎず、そこでのルール的細則は演ぜられる役柄にビルト・インされていて明示的な規則をなしていない。そのかぎりで、ゴッコ遊ビは一般にはまだ自覚的なルール随順行動の先駆的形態と言うべきかもしれない。(オニゴッコ、ないし、カクレンボは、明確なルールを有っているが、これはゴッコの名こそついていても、別カテゴリーだという見方もありえよう。)われわれはゴッコに留目するのは、しかし、それがまさしくこの前駆的ないし過渡的な相にあるからこそなのである。――子供はゴッコ遊ビの段階において、唯単なる生理主体的な制約とか、舞台的・用具的制約とか、共演者の動作への即応上の制約とか、この種の“実在的”な制約による行動様式の限定とは別種の“規範的”な制約による自覚的な行動制御をおこなうようになる。」427-8P・・・ジェンダー形成のメカニズムもも押さえること
第四段落――行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか? 428-32P
(対話@)「ルール随順行動は、ゴッコ遊ビに関説した右の行文中でも叙べた通り、ルールをルールとして明識したうえで開始されるものではない。では、行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか?」428P
(対話A)「発生論的・発達論的な経緯を詳しく跡づける心算はないが、茲では、ルール遊ビ、すなわち、ジャンケン・カゴメカゴメ……メンコ・ビー玉……五目並べ・碁・将棋……ドッジボール・野球……といった明示的なルールを有つ遊ビ(ゲーム)を視野に入れつつ、しかも、一般論としては、慣習・慣行・習俗・風俗……等々、そして勿論、言語的文法のたぐいに関しても妥当する議論の一端を陳べておこう。」428P
(対話B)「行動の規則随順性と言うとき、その一班については嚮に先廻りして記しておいた通り、即自的な規則随順性、すなわち、第三者的・省察的見地からは合規則的と認められても行為者当人は別段自己の行動を規則に随って律しているわけではない場合と、対自的=自覚的な随順性とを区別する必要がある。発生論的事実の問題として言えば、無論、即自的な随順性を前梯にして対自的な規則随順的行動が形成される。――即自的な規則随順性は、無条件的・条件的な反応行動における法則性・コード性において存立するし、模倣行動においては、模倣されるお手本が規則随順的であるかぎり、当人は模倣の意識性こそ持っておれ、そこでの規則性には無自覚なまま、即自的な規則随順的行動が遂行されうるし、その規則随順性が身につきうる。そして、この即自的に身につけた規則性を反省的に自覚することにおいて、自覚的な規則随順的行動を遂行しうるようになる(文法が一典型)。序(「ついで」のルビ)ながら、ルールには協約・約定によって自覚的に形成されるものもあるが、そのようなルールとて大抵は既成のルールの推及や改訂であって、先行的な既成的ルールを前提とする。――規則随順的行動が自覚されるのは、一般論として言えば、模倣的行動(観念的模倣扮技を含む)を通じてであると言えよう。」428-9P
(対話C)「議論に多少とも具体性をもたせるべく、或る幼稚園で「初めてドッジボールを導入した例」を論材にしてみたいと念う。」429P
(対話D)「「保育者が、ま新しいボールをもって園庭に出て、ドリブルで走ってみせると、たちまち数人の男児たちが集まり……ドッジボールが始った。ルールを知っていた子どもたちがリーダーになったことはいうまでもない。――その後もこの新しい遊びは同じメンバーで二週間以上集中的に続いた。……ある朝、保育者が、この子どもたちを園外に連れだした。子どもたちがでていくと、それぞれの遊びをしていた他の子どもたちがホールや保育室からのこのことコートに集まってきてドッジボールを始めた。だれも教えなかったのに、子どもたち持ち寄りルールから合成された園のドッジボールのルールをちゃんと知っていて、最初の子どもたちが始めたときよりずっとうまくドッジボールをやった。保育者たちはこれを“二軍”と呼び、第四軍まであることを確かめた。これは五歳児のほとんど全員だったのである。/これは保育者が資料を得ようとして実験的に行なったものだが、それぞれの活動について経験的に同じようなことが知られている。保育者たちは、一つのことを全員に教えるよりも、いくつかのグループが違うことを同時にしている方がはるかに子どもの得るものは大きい、と自信をもって言う。これは子どもの学び合う力を信頼したうえで成立つ。」(前掲『イメージの誕生』一七五頁以下。)」429P
(対話E)「右の例は「子どもへの信頼」という小節内で挙げられているのであって、ルール随順性が主題とされているわけではなく、況してやルール取得の構制が論じられているものではない。が、われわれとしては、この論材に即しての次のことを立言しても大過ないのではあるまいか。」429-30P
(対話F)「ルールを既知であった“一軍”メンバーは脇に置いて、第二軍以下、つまり、別段ルールを教えられることもなく、唯単に観戦していただけでドッジボールのルールを習得した子供たちについて言えば、彼らは俗に謂う「見様見真似」でルールを身につけたわけである。見様見真似というのは、一種の模倣的追随には違いないが、しかし、単なる仕草の模倣ではない。単なる模倣行動であれば、お手本と同型の仕草をすれば済む。ところが、よしんば全く同型の逃避行動ないし受球行動であっても、或いは亦、全く同型の投球攻撃行動であっても、ラインの内側でおこなわれるか外側でおこなわれるかで全然意味が違う。同型の仕草を模倣的に習得しただけではドッジボールというルール遊ビを習得したことにはならない。ここで肝要なのはルールに叶った行動をするようになることなのであって、ルールに叶ってさえいれば、仕草(行動の所作的様態)を真似る必要は毛頭ない。模倣とはいっても、ここでの範型は、所作の型態ではなく、ルール適合性・随順性である。」430P
(対話G)「それでは、ルール随順性の模倣的習得とは、実質的に言って、如何なる構制の事態であるのか?」430P
(対話H)「子供たちは、ルール・ブックで学んだり、ルールの説明を聞いたり場合を別とすれば、別段、ルールなるものそれ自体を対象的知識として認知・記憶するのではない。現に幼ない子供たちは、所与の行動が合則的か反則的かを個々には精確に判別できるようになっていてさえ、ルールという一体系を知識のかたちで説述することは覚束ない。それもおそらくは説明力の不足なのではなく、そもそもルール体系が知識のかたちに整理されて頭に入ってはいないせいであろう。(俗に身体(「からだ」のルビ)で憶えるとか、要領を身につけるとか言うが、名人芸の職人がノウハウを説述できないのにも似て、それは知識化されているには及ばないのである。)ドッジボールのプレイヤーたち(観戦による観念的扮技者をも含む)は、ドッジ・ライン!の内側に居る者と外側に居る者とのそれぞれの「役柄」を認識している。(内側の者は、外側から飛来するボールが自身に直接当らないよう逃避するか、または、外側から飛来するボールを受留める、という役割行動を期待されていること。外側の者は、内側の者にボールを投げつけ。、しかも可及的に、受留められないように投げつける、という役割行動を期待されていること、この役柄の了解が前件をなす。そして、この役柄の“約定”的な規定自体、ルール体系の一部を形成する。)さて、そのうえで、夫々はラインの内側・外側という所定の舞台で行動すべきこと、外側のプレイヤーAが内側のプレイヤーBにボールを“当て”た時にはAとBとが内・外の地位を交替すべきこと、内側の者がプレー中にラインを踰越(「ふみこ」のルビ)した場合には(罰則として)外側の役に廻るべきこと、外側の者が越境して投球した場合にはボールが首尾よく“当っ”たとしても無効(反則)であること、このたぐいの“約定”をプレイヤーたちは“体現”する。見様見真似で修業中の者も、プレイヤーの位置に観念的に身を置き、観念的に扮技することを通じて、行動様式と当該の“約定”ルールを“身につけて”行く。」430-1P
(対話I)「ゲーム(ルール遊ビ)を実地に習得中の子供も、見様見真似で観念的に修業中の者も、先述した通り、ルールという対象的知識を学習するのではなく、ドッジボールの場合で言えば、例えば、ボールを“当て”たら当然の要求として内役と交替すること、ボールが“当っ”たら已むを得ざる仕儀として外役に廻ること、踰越したら従容として外役に移ること、このたぐいの行動の在り方を身につけるのである。そのさい、右に付記しておいたごとき態度も身につくが、併せて亦、例えば、ボールが“当っ”たにもかかわらず外役に移ろうとしない者があるような場合には、憤激・非難するような心態も形成される。」431P
(対話J)「ルール随順的行動性の“模倣的”習得というのは、さしあたり、右の如き事態の形成の謂いにほかならない。――如上の随順性が“身につく”かぎりで、一般に役割演技行動は、“実在的”諸制約による行動様態の限局という域を超えて、“規範的”合法則性、ルール随順性・適合性という限定相に整型化される。」431P
(対話K)「以上の行論では、しかし、事態の表層的な確認でありえても、究明さるべき真の問題性はまだ殆んど手つかずのままに遺されている。既述の範囲では、役割演技者たちが既成の合規則的行動にアンガージュすること、見様見真似で模倣的に追随しようとすること、このことが、恰かも当然の傾動であるかのように扱われている。亦、その都度の新参者に対するルールの先与的な既在性が前提とされており、ルールそのものの成立の機序が検討の埒外に措かれたままになっている。だが、嚮に誌しておいた通り、実はこれらの前件が大問題なのである。」432P
(対話L)「今や、前件に、論理的にも発生論的にも溯向して討究すべき段である。そのさいには、当然サンクショナルな規制が視野に入れられねばならない。」432P
第五段落――サンクショナルな規制を視野に入れて、論理的にも発生論的にも溯向して討究する−三つの着眼点に即しての評価 432-5P
(対話@)「所業的行為は、次節での論点を先取りして言えば、当事他者の見地からであれ、環視的他者たちの見地からであれ、当事主体自身の反省的見地かであれ、――所業的行為を対象的に認知するとき、総じては、所業のもついわゆる、“客観的意味”に即して評価されるのではあるが、つまり、当該の所業を社会的行為体系のコンテクストに置いてurteilen(判断)し、価値的評価体系に鑑みてbeurteilen(価値判断)されるのであるが、とりあえず単位行為については――いずれも、三つの着眼点に即して評価されうる。」432P
(対話A)「第一は、当該行為の志向的目的そのもの、ないしは、目的志向的企投そのことに即してであり、第二は、当該行為の実行的所作に即してであり、第三は、当該行為の動機に即してである。」432P
(対話B)「われわれは、今茲では、行為・行動の分類に立入る段ではなく、行為の目的・所作・動機をそれらの多様性を分出しつつ緻密に規定しうる段にはない。原理的には、他者的な見地からする、目的や動機の事後的認知なることの認識論的権利づけという大問題すら控えている。が、茲では敢えて半ば論件先取を犯しつつ、議論の焦点をもっぱら、「行為の賞罰的(「サンクショナル」のルビ)規制」に絞り、行論にとって不可欠な範囲でのみ目的や動機の問題をも配視する便法を採ることにしたいと念う。」432-3P
(対話C)「偖、賞・罰は、前記の三つの着眼点に即して、すなわち、(1)目的そのもの、ないし、企投そのことに即して、(2)所作に即して、(3)動機に即して、おこなわれる。が、そのさい、(1)、(2)、(3)は相対的に独立であって、目的は賞して所作を罰するとか、所業は罰して動機は賞するとか、等々の場合を生じうる。」433P
(対話D)「正・負のサンクションたる賞・罰は――理論的には、責任の主体性という問題とも絡み、それの権利づけを尭(たか)って古来論議の囂(「かまびす」のルビ)しい論件であるが、この部面については後論に持越すことにして――実地的に言えば、サンクションの対象となる行為の主体に、それ以後の行動に関して、鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼすことにおいて現実的機能を果たす。」433P
(対話E)「この鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼす者、すなわちサンクショナーは、発達心理学的・行動発達論的には、先ずは、対向的行為の当事他者であり、次では、環視的第三者である。尤も、この者は、彼が与件的行為の単なる環視者であったかぎりでのみ第三者なのであって、賞罰的行動に乗り出した場面では、賞罰という対向的行動の当事他者に転成する。更には、これらサンクショナーたる他者が“内面化”されて、行為者本人が自己分裂的自己統一の相で、自己の行為に対して賞罰的に関わるようにもなる。が、“他者の内面化”という次元は姑く措いて、さしあたっては、対向的当事他者の賞罰的規制に止目することにしよう。――尚、“全く同一”の所与的行為に対して、例えば父親はそれを賞し母親はそれを罰するというように、サンクショナーたちのあいだに不統一・対立の場合を生じうる。また、“全く同一”としか思えない行為に関して、例えば同じ母親が或る時には賞し或る時には罰するといった不斉合のある場合も生じする。(この不整合的分裂性は、或る種の精神病の発生との関連などを持出すまでもなく、いわゆる人格形成の論脈で重要な論件となる。)一般論として、賞罰行動と相即する価値規範体系が他者たち一般において単一的で普遍妥当的というわけではなく、従って所与の行為が被むるサンクションは決して一義的とは言えない。ここに重要な案件が存在することを銘記したうえで、しかし、当座の議論としてはサンクションがほぼ整合的な場面に即してひとまず叙べておくことにしたい。」433-4P
(対話F)「今、対向的な当事他者の行動というとき、この概念を広義に用い、元来は環視的第三者であった者のサンクショナルな反応を含めるだけでなく、即自的な賞罰行動、すなわち、別段賞罰的な行動という自覚性を伴うことなきサンクションをも含めることにしよう。例えば、子供の行動に接して母親が想わず喜んだり悲しんだりする反応も、それがあの表情感得・情動共鳴の機制によって子供の側にも喜び又は悲しみの感情をもたらし、この体験がその後における子供の行動に鼓舞的/禁圧的な影響を及ぼすものと認められる場合、賞罰の自覚性を欠く母親の当該反応をもサンクションに算入する。子供の行動に接して友達が大喜びしたり激怒したり、上機嫌になったり不機嫌になったりする反応についても同断である。――サンクションと言うとき、功賞や刑罰のごときを直ちに思い泛かべるかどうかは別として、人はとかく褒賞と懲罰というように概念化した相で考えたがる。そして、そこでは、サンクショナーが義務感に駆られた役割行動として賞罰行動を決意的におこなうとまでは言わぬまでも、賞罰遂行の当為(「ゾレン」のルビ)意識を伴ったサンクションを思い描きがちである。慥かに、親が子を叱ったり、一般に大人が“教育者”的に振舞いつつ年少者を褒めたり叱ったりするような場合、私情に駆られた即自的な反応ではなく、当為意識を伴った自覚的な賞罰の行動をおこなっていることが認められる。がしかし、現実の生活実践の場で不断におこなわれているサンクションの圧倒的大部分はそれと自覚することのなき即自的な賞罰であって、当為意識を伴う自覚的サンクションは九牛の一毛にすぎないのが実情である。――われわれは前篇第一章において表情現相の汎通性を確認し、表情性現相の内自的規定をも分析しておいたのであったが、現前する他人たちの表情性現相はそこに内自有化せる情緒価・行動価が多分に「即自的な“賞罰価”」ビルト・インしているとでも謂うべき態勢にある。“賞・罰”価という概念を狭義に規定するとすれば、他人の表情性現相といえども“賞・罰”価を内自有化しているものは一部分にすぎないということになろう。だが、“賞・罰”価ということを稍広義に規定する場合には、他人の表情性反応の極めて多くのものが「即自的な“賞罰価”」を帯びているものと認められる筈である。」434-5P
(対話G)「われわれとしては、こうして、いずれにせよ、情動的反応行動の階梯から始まる即自的なサンクションに定位しつつ行動の賞罰的規制を問題にして行かねばならない。という次第で、「他人の表情性反応」の「即自的な“賞罰価”」に留目しつつ、行為とその様式の規範的限局制が如何様に進捗していくかを一瞥し、就中、規則(「ルール」のルビ)随順性の成立機序を見定める段取りである。」435P
第六段落――語の広義におけるサンクショナルな行動規制 435-8P
(対話@)「上述の通り、行為の評価は目的・所作・動機という三つの着眼点から別々におこなわれうる。尤も、発達心理学上・行動発達論上の初期的階梯にあっては、行為者本人において目標と所作とが十全に分節化して意識されているかどうかすら疑われうるし、況んや動機の自覚を伴うことは覚束ないであろう。そして、乳幼児の行動に対する親兄姉その他の対向的・環視的な“賞罰”反応も、目的・所作・動機の分析的評価に基く場合はむしろ稀であって、一般にはまさに即自的な反応たるに止まる。が、そのような埓においてさえ、語の広義におけるサンクショナルな行動規制がいちはやくおこなわれる所以となっている。」435P
(対話A)「広義のサンクションと謂うとき、われわれとしては、「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトルで考える。(狭義のサンクションにおいては「許容・委棄」のゾーンが中性的見做される。)この広義のサンクション概念に即する場合、笑顔の表情による継行の許容や、無記(「ニュートラル」のルビ)な態度による継行の委棄のごときも対向的なサンクションの行動の内に算入される所以となり、対向的反応の殆んど一切がサンクショナルな意義を有つ、と言うこともできよう。」435-6P
(対話B)「ところで、インプリシットには既に述べたことであるが、対向的当事他者の強い情動的反応、嬉怒哀怖という類(「たぐい」のルビ)の表情性反応は已(「すで」のルビ)にしてかなり狭義のサンクショナルな意義を有ちうる。況んや亦、感嘆の声(マー、オジョウズネ、……)、嗟嘆の声(アラ、アーア、……)のごときや、褒誉の言葉や難詰の言葉のごときは、乳児が言語的意味を理解できるようになる以前から、その音声の表情価によってサンクショナルな機能を果たしうる。」436P
(対話C)「発達上の初期的階梯におけるサンクションにあっては、所与的行為者の側もサンクショナーの側も、対象的行為を分析的には覚識しないにしても、しかし、乳・幼児の行動が発達するにつれて、まずは年長者たるサンクショナーの側が、所与の対象的な行動の目的・所作・動機を分析的に覚識するようになり、しかも、自覚的な賞罰的行動をおこなうようになる。例えば、子供が突然ママの顔を叩く。ママは叱る。が、蚊を打(「ぶ」のルビ)とうとしたことに気がついて、所作を罰しても目的や動機は賞する場合が出来(「しゅったい」のルビ)する。オ手伝イしようとして邪魔になって叱られる場合など目的そのものは賞されるとしても、所作を禁圧されることによって、実質的には当の目的志向的企投が禁圧されてしまうといったケースも生じうる。が、一般論として、目的・所作・動機のそれぞれに応じたサンクションを体験することを通じて、子供に対するサンクションの効果も分節化したものになって行く。そして、この分節が子供にとっても対自化されるようになる。」436P
(対話D)「この準位に達したとしても、しかし、子供の側と大人の側との非対称性はなかなか克服されない。大人つまりサンクショナーの側としては、所与的行動の目的・所作・動機を評価する価値規準体系を一応は持っている。なるほど、大人の側の価値評価なるものも必ずしも明晰判明ではなく、極言すれば大人の賞罰的行動自体が一種の条件反射に類する域に止っているケースも尠なしとしない。評価規準がそれなりに意識されていても、それの正当性が十全に理由づけられているわけではなく、まさに因習的な価値観、世間様の価値観を無批判的に受け容れてしまっているというのが実態であろう。が、しかし、よしんば“世間”の価値観に同化してしまっているだけだとしても、大人のサンクショナルな行動には概ね“体系的”な価値規準がある。しかるに、子供の側は、サンクショナーたる大人の順拠する価値規準体系を知らない。仮令大人がそれを教え込もうとしても、初めからは体系の形で教えるべくもない。子供は個別ケースごとに、これは賞される、(これは許容される、これは委棄される)、これは罰せられる、ということを体験してゆくのみである。しかも、同じ目的志向・同じ所作方式・同じ抱懐動機と思えるものであっても、舞台的情況をはじめとする諸々の条件のコンテクストに応じて、賞と罰とが岐れるのであって、肌理(「きめ」のルビ)の細(「こま」のルビ)かい分類的な同定を身につけるに及ぶ。そして、実は、このようにしてサンクショナーたちの側の価値評価を同化的に共有する域に達したとき、彼は嚮に謂う「価値規準体系」を身につけるに至ったと認められるのである。」436-7P
(対話E)「翻って、賞罰的効能は表情性現相一般が発揮しうること上述の通りであり(ヒトの場合、「笑い」による賞罰が極めて重要な地歩を占めることはデュルケーム学派などによって夙(「つと」のルビ)に指摘されているところであるが、ここでは立入らない)、また、言語的言明による賞罰、愛撫や殴打といった身体的な直接行動による賞罰などもあり、賞罰の実行方式は極めて多岐多様である。が、賞・罰は鼓舞的または禁圧的な効果を現実化しうれば足るのであって、それがいかなる実行方式でおこなわれるか、爰ではこれの具体相の論述は須いないであろう。――サンクションには、公的権力機関による命令・禁止、それの遵守・違反を介しての賞・罰のごときも存在し、高等なサンクションにおいては、物品的・栄誉的な授賞、肉体的・精神的な応懲の多岐多様な手段が用いられる。われわれはこの事実を忘佚する者ではありえないが、そのような高次のサンクションについては当座の論脈ではまた立入るを得ないしその要もあるまい。」437P
(対話F)「われわれは、しかし、茲で或る重大な事実について一言しておかねばならない。それは、賞罰(「褒賞−許容−委棄−懲罰」)というものは、直接自分に加えられた体験ばかりでなく、謂うなれば“間接的な体験”とも呼びうるものを通じてもサンクショナルな実を収めするという事実である。賞罰の“間接的な体験”と謂うのは、他者の受ける賞罰の目撃・伝聞・理解のたぐいであって、嚮に叙べた「観念的模倣学習」「観念的扮技」の機制によって、人は他人の蒙むる賞罰行動を自身において観念的に扮技し、以ってサンクションを“間接的に体験”する。この観念的扮技、自身を他身に置き移しての“想像的”な体験、これらのうちには、なるほど、たかだか“知識”のかたちで保持されて、同趣の場面に自身が際会した折に“参酌”される、という域をいくばくも出ぬものもあろう。いわゆる「見せしめ」“公開的懲罰”や「表彰」のたぐいは、それで結構“間接的体験”のサンクショナルな実を挙げる。がしかし、初次的・日常的な各種サンクションの“間接的体験”にあっては、人々は多くの場合、あの観念的扮技にさいしてvorbildlich(手本とすべき,模範的)な他人とのあいだに俗に謂う“感情移入的一体化”、いなむしろ“身体移入的一体化”を遂げており、サンクションを“自身に刻み込む”に及ぶ。そのため、被賞罰の観念的扮技体験が自身における現実的被賞罰の体験とほぼ同効に機能しうる所以となる。わけても幼児期においては、兄弟や友達の受けているサンクションの目撃が、その折りに往々“身体移入的一体化”を現成せしめているだけに、我が身の行動陶冶にストレートに影響する。――こうして、サンクショナルな行動規制は、被賞罰の“間接的体験”を通じても進捗するのである。」437-8P
第七段落――行為規則的規範を巡って陳べる  438-43P
(対話@)「われわれは、今や、以上でサンクションに関説したところを踏んで、先刻来の懸案にもようやく答えて行くことが可能となっている。爰でまず陳べたいのは行為規則的規範を巡ってである。――茲では、実定法といった次元を念頭に置き、狭義でのゲーム・ルールのごときだけでなく、いわゆる作法などにも見られる規範的規則をも視野に入れ、先にゲームのルールに関説しつつも遺してきた課題に応えようと図る。」439-9P
(対話A)「惟えば、行為の規範的規則(「ルール」のルビ)に属するものは、――それに則って(つまり、逸脱せずに)行動するのが当然だと思念されていることに見合って――それを遵守したからといってとりたてて正のサンクションを受けないが、それに違反しようものなら厳しい負のサンクションを受ける。(行為のうちには、或る種の自己犠牲的行為といった「高貴な倫理的行為」のように、それをおこなえば高い価値評価を受け、大きな正のサンクションを受けるが、それをおこなわなかったからといって殊更に負のサンクションを受けるというほどのことはない類(「たぐい」のルビ)のものがある。名人技やファインプレーのごときもこの類に入る。ルール遵守的な行動は、この類の行為と対蹠的である。)また、規則的拘束は、合則・反則(適法・違法)だけを命令・禁止するにとどまり、一般の規範的拘束のように仕草(遂行様態)、はては目的や動機の懐き方のごときまで容喙(ようかい)するようなことはない。反則への制裁にさいして目的や動機が勘案されるとしても、それは情状酌量としてであって、行動の目的・様態・動機そのものは元来は判定の埒外に置かれている。」439P
(対話B)「規範的なルールに徴しての合則的・反則的な行動に対するサンクションは、前段の前半に指摘した在り方に鑑みるとき、サンクション一般における「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトル中、(褒賞−許容−委棄)と(懲罰)との間に截然たる劃線がある。しかもここでは、褒賞と呼ばれうるほどの積極的な正のサンクションはおこなわれないのであるから、「許容・委棄」という消極的な(弱い)“正”のサンクションと「懲罰」という強い負のサンクションとの二種があるのみ、と言うこともできよう。――ここにあっては、ルール遵守の強い命令(must)、および、ルール違反の強い禁止(must not)、そして、適法たるかぎりでのありとあらゆる行動(目的志向・遂行様態・起行動機)の許容・委棄(may,allow)という構制になっているわけである。」439P
(対話C)「では、このような稍々特異なサンクションの執行規矩ともなる規範的なルールは如何にして成立・存立するのか? ルールなるものが、ルール・ブックの内に実在するのではなく、人々の行動様式に体現されてのみ実在するのである以上、行動者たちが常態的に体現している当の合則的挙措の成立・存立機制がここでの論件にほかならない。」439-40P
(対話D)「ルールが実定的に約定されるのは特殊例外的なケースであり、一般には伝習的なルールが踏襲される。新規の約定と称されるものですら実質的には既成のルールの変形・改作という大枠を出ないのが普通である。それゆえ、伝習的ルールの踏襲から見て行くのが順序かと思われるが、子供たちのゲーム遊ビ等にあっても、ルールの“新規的約定”(遊び仲間内での整調的“約定”)が存外と生起してることでもあり、論件を対自化する一具としても、敢えてルール約定の場面を一瞥することから始めよう。(ここでは勿論まだ、結社の規約や国家の法律といった次元は措く。)」440P
(対話E)「人々が合い寄って、斯々然々の条件を充たす行動のみをおこなうことを約束するとき、ブリミティヴな行動ルールが約定的に成立する第一階梯となる。当の約束事を遵奉(違反を抑止)することの誓約にもとづいて、参加者たちに約定に則った行動を強制(違反者を制裁)することが実効性をもって施行されるとき、当該の約定された行動準則がルールとして現成していることになる。――約定の手続的過程には立入らぬことにして、約束の履行、約定に則った行動の自律的・他律的な強制、違反行為の制裁、これの成立機序に眼を向けることにしよう。空(「から」のルビ)約束ではルールにならない。約定に則った行動の履行が如何にして確保されるのか? 約束を墨守する“徳性”が人(「ヒト」のルビ)に先天的に具っているとは思えない。“ゲーム”(今この詞を当の約定されたルールに適う行動体系の意に用いる)に参加し続けようとするかぎり、つまり、参加仲間から放逐されまいとするかぎり、参加者はまさに約定上、約束を守ってルールに随わざるをえない。参加し続けることが“利益”(但し広義)であることからの打算によってそうすることもあろうし、“ゲーム”の進行的存続が高次の目的に徴して“利益”であるという“合理的”判断にもとづいてそうすることもあろうし、約束であるからには守らねばならないという義務感からそうすることもあろう。約束の遵奉を支える意識態は様々でありうる。が、問題は、その意識態を成立せしめる深層的機制である。」440-1P
(対話F)「この機制を見る手掛りとして、約束を破った場合を考えてみよう。他の参加者たち及び/又は環視的第三者たちの直接間接の制裁を受けて、以後は約束を守るよう強制されるか、または、放逐されるかであろう。放逐に諾々と甘んじるとすれば、彼はもともと参加への強い選好・利害を有っていなかったものと見做され、恰かも元来参加メンバーではなかったかのように扱われる。ところで、違約への加罰に対して抵抗するとき、暴力的(但し広義)対立となり、一般には参加メンバーとの“喧嘩”になる。そこで敗れれば、以後は約束を守りルールに随うことを強制的に再誓約させられるか、または放逐されてしまう。(“喧嘩”に勝って居直るとき、一時的な例外措置として違反が無かったことにして、ないし、判定の誤りであったことにして、制裁“取消”の応急措置がとられるのでないかぎり、ルールそのものの改訂・再約定がおこなわれることになる。が、こうして横車を押した強者は、諸種の道徳的制裁を後々にわたって免れず、その場でのルールにもとづいた制裁こそ返上したにせよ、道徳的非難や各種の不利益を蒙むる。)」441P
(対話G)「こうして、参加し続けようとするかぎり、つまり、放逐=仲間外れにされまいとするかぎり、ルールに随うことを強要される。違反すれば放逐されるか(因みに、子供の世界にあっては、仲間外れは最も厳しく身にこたえる制裁である)、暴力的に打ちのめされるか(これも泣きださざるをえないほど身に徹(「こた」のルビ)える)、横車を押通して(その場ではたとえ無かったことにしてもらえても)諸々の道徳的制裁を受けるか(義憤や慍恨(うんこん?)、極端な場合、以後は敬遠されて一緒に楽しくは遊んでもらえない、等)、いずれにせよ苦痛、不利益を免れない。という次第で、自発的打算や合理的判断や“善良な心根”から約束・ルールを守るのではないとしても、“誓約集団”の内部に留まろうとするかぎりは遵守を強制されるのであり、放逐者を生みつつであれ存続する“誓約集団”の内部ではともかくルールが遵守されている事態を結果する。(約束事は無条件に墨守すべしとする“善良な心根”なるものが、当該の“ゲーム”内部での制裁を免れたい心情の屈折せる倒錯的意識態だと言うつもりはない。がしかし、当該の“ゲーム”内での制裁という狭い枠組を外して、より広い社会生活全般において約束違反に加えられる制裁・不利益の直接間接的な体験の屈折ということで考える場合には、議論がまた別になろうかと思う。)」441-2P
(対話H)「翻って、伝習的ルールに随順な行動体系の確立が先行して、そこで身についたルールを事後的に自覚化するようになる通例の場合は如何? ここでは“ゲーム”に参加し続けようという意向をもつ場面で、約定でこそなけれ、謂うなれば「自覚されたルールを遵守する誓約」を交わしたのと同趣の構制になる。それゆえ、ルールの自覚的遵守の“誓約”以降の局面については、約定の場面に即して上述した機制と同工である。そこで、論件となるのは即自的なルール随順的行動の確立場面である。が、その件それ自体については先に幼稚園児のドッジボールのルール習得の例に即して論じたところでもあり、また、この件が舞台内的・対他者的行動の諸々の“実在的”制約要因による限局化の一斑に包摂される以上、実質的には既にこれまでの行文で論定済みとも言える。残されている主要な論点は、むしろ、一応は“自由”な主体と見做せる行為当事者が、伝習的所与の規範的規則への随順を拒絶することなく、概してはそれにアンガージェするようになるのは何故また如何にしてであるか、この件に懸っている。」442P
(対話I)「扨、即自的な規則随順的行動の形成が模倣的追随(観念的扮技による“練習”をも含む)を主斑として進捗すること、すなわち合規則的に編制されている伝習的な行動を就中模倣することにおいて(当初は、決して規則そのものを対象的に意識・学習するわけではなく、もっぱら行動を模倣的に身につけて行くことを通じて)、ルール随順的な行動が成立すること、これは嚮に論じた通りである。この模倣的追随ということ、そして、既成の伝習的規範規則を規矩として他人たちがおこなう価値評価と賞罰的規制を当事主体が受容するということ、これら二件が事実であるとすれば、伝習的な規範的ルールに随順する相での行動様態がおのずと確立するのは必当然的ということになる。がしかし、なるほど謂う所の二件が大枠としては経験的に認められる事実であるとしても、それはあくまで蓋然的事実にとどまり、必然的というものではない。ここに、当該二件の蓋然的事実性が如何にして成立するかということが問題になる。それがとりもなおさず、前記のアンガージュマンの問題にもほかならない。」442-3P
第八段落――当面論攷すべき四つの課題  443-50P
(対話@)「われわれが当面論攷すべき課題を次のように整理することもできよう。第一に、或る当事主体が他者の行動に模倣的に追随するのは何故であるか? 併せて、アンガージュマンの機制や程度。第二に、当事主体が他者によるサンクションを受容するのは何故であるか? 併せて、ここでのアンガージュマンの機制や程度。第三に、サンクショナーたちが伝習的な価値基準や蝕罰規矩に則るのは何故であるか? 併せてサンクション遂行の機制、既成的基準・規矩への順拠の程度。第四に、伝習的規範規則の起源の問題。第五に、伝習的規範規則の可塑性・硬直性の問題。」443P
(対話A−第一の問題)「第一の問題。模倣が何故おこなわれるかについては、群棲動物の生得的傾動とする説と社会的圧力による強制とする説とを両極とする対立がある。生得的傾動ということを確説しえんがためには然るべき生理的機制の画定が要件であろうが、寡聞にして然(「そ」のルビ)ういう確定的な知見が得られたとは知らない。だが、経験的観外見的には模倣的な追随にも似て、他者と同型的な身体行動を営むこと、このことはまず確かである。また、特別な強制を蒙っていそうには見えない場面でも、乳幼児が他者、わけても胞輩や友人達と同型的に振舞おうとする傾動を示すこと(双児の姉妹は服装まで同じでないと気が済まない!)、大人の行動を真似ること、これまて経験的観察によって知られる。この模倣が或る種の学派の主張するような「尊敬」や「愛着」によるものといった理屈づけを許すか否かは今措くとして、特段の強制や指導に俟つことなく生じうることは否定しがたいように思われる。このかぎりで、或る条件つきで、乳幼児が或る種の“模倣”的行動(同型的追随・即応行動)の内発的性向を具えていることは認められてよかろう。それがあって甫めて、社会的圧力による模倣の強制ということも現実化しうるのではないか。そこには、負のサンクションを貶置・回避しようとし、正のサンクションを選好・獲得しようとする意識性を伴う場合もありうる。そして、それには、おそらく生物・生理学的な機制の裏打ちがあるものと忖度される。が、仮令これを措くとしても、乳幼児は条件づけの機制によって一連の模倣的行動を強制・誘導される。オペラント条件反射を含めて考えるとき、乳幼児は、模倣のための模倣ではなく、各種の欲求充足行動、信号的送受行動、対抗的即応行動において、外形的には模倣的な同型化を現出するたぐいの行動を数多くおこなう。その結果、乳幼児は数々の“模倣的行動”をを体現しつつ、即自的な規則随順的行為をアンガージェしているように“見え”る。とはいえ、しかし、乳幼児が“模倣”する動作は成人の多種多様な動作の一部たるにすぎず、また“模倣”の成立した動作においても個性差があり、決して他者達と精確に同型化するわけではない。昨今流行の言葉を使えば「ズレ」がある。この個人差による“フラクチュエイション(揺動・flactuation)”のゆえに、仮りに模倣的“同型化”が汎通的であるとしてさえ、伝習されて行く行動様式は、不変不易ではなく、可塑性を孕む。――幼児期を過ぎ、青年期・成人期に達すると、直截な模倣・追随はむしろ稀になり、他者の行動との同型化的アンガージュマンがおこなわれるとしても、“打算的・合理的”な計算や“義務感・当為感”の意識性を伴ったものが多くなる。が、これについては、先に約定に即して論じたことがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当するであろうし、模倣的アンガージュマンという当面の論件の範囲外に属することでもあるので、ここでは立入らないことにする。」443-4P
(対話B−第二の問題)「第二の問題。乳幼児といえどもサンクションを無礙に受容れるわけではない。わけても負のサンクショナルな刺戟は、それが苦痛・不快を与えるものであるだけに、生体・生物学的な論理から言っても当然、抵抗的・拒絶的な反応を興発せずにはおかない。そして、ここにおける前件的行動と苦痛的後件との条件反応的継起事象を回避“しよう”として、前件的行動そのものを抑止する条件づけ(conditioning)、かかる条件反射の機制が作(「はたら」のルビ)く。ここに作く機制は、一度火を摑んで熱い目に合った子供は、もはや二度と火を摑まないように条件づけられているのと同工であろう。(尤も、一般のサンクションは一度だけで十全に条件づけを達成することは困難であり、また、折々の「強化」を必要とするのであるが。)その点、正のサンクショナルな刺戟は、快感・愉楽をもたらすものであるから、生体・生物学的な論理から言って、抵抗なく体験される。が、それは抵抗なく受納されるために却って条件づけの効力を削(「そ」のルビ)がれ、これまたそう簡単には条件づけに成功しない。ここに作らく条件づけの機制は、迷路実験の試行錯誤を通じて“正しい”経路を辿り、報賞(餌)にありついた鼠(「ラット」のルビ)が以後は概ね所定の“正しい”経路を進むように条件づけられるのと同工であろうかと想われる。謂うなれば正のサンクションを受け“ようとして”所定の行動をするわけである。――条件反射の機制による行動の条件づけ、これによってサンクションが機能しうるとすれば、生体・生理的機構のうちに或る種の刺戟と相即する或る種の状態を選好(「フォルツイーエン」のルビ)・獲得“しよう”とする性向、および、別の或る種の刺戟と相即する或る種の状態を貶置(「ナハゼッツェン」のルビ)・回避“しよう”とする性向、かかる傾動性が具っているものと想定しなければなるまい。(因みに右に謂う前者の状態、快感・愉楽……安心……を生体・生物学的に正の価値をもつ状態と呼び、後者の状態、不快感・苦痛……恐怖……を生体・生物学的に負の価値をもつ状態と呼ぶことができよう。)この想定は、事実の問題として、認められるように思える。そして、サンクションの受容、つまりサンクショナーの側の企図に叶った行動がそれ以後はおこなわれるようになること、この事態を成立せしめる基底的な機制は前記の条件づけを措いてはあるまい。――しかしながら、当事者の表層的意識においては事情は稍々異なるであろう。当事者は“打算的・合理的”な思料にもとづいてサンクションを受容したり、“罪悪感・慙愧(ざんき)感”や“義務感・当為感”を植えつけられることで以後的行動を自己統制するようになったりする。だが、打算的・合理的な思料にもとづく決意なるもの、そこでの態度決定の基底を掘って行けば、結局のところ、生体・生物学的に正の価値状態を選好し、負の価値状態を貶置する性向に帰着しないであろうか。(当事者の思念する諸々の倫理的価値・文化的価値の分析、ひいては、それと生体・生物学的価値との関連に立入らぬ今爰では、この件について論決するを得ない。ここでは唯ありうべき見方を右のように示唆しておくに止める。)罪悪感・慙愧(ざんき)感は、サンクションの対象になった自己の行為が“悪しき”“恥ずべき”行為であったと自己認定と相即する。「悪」「恥」として概念化される価値態は抽象化されており、往々にして対他者性の意識が殆んど脱色されているが、元来は具体的な体験場面で形成されたものと想われる。悪行の評価・判定の基準は社会的規範体系にビルト・インされており、単層的ではない。しかし、基底的な場面まで掘り下げて発生論的に言えば、自己の行動が対向的当事他者の悲・痛をもたらし、対向的他者自身なり環視的他者なりから負のサンクションを蒙った種類のもの、そのような行動が悪行として自覚されるようになるのではないか。そして、自己のその時々の行為をかかる悪行として覚知するとき罪悪感を覚識するのではないか。恥ずべきと自認する行為について言えば、それは多分に「嗤(「わら」のルビ)いのサンクション」を蒙むった行為に淵源する概念態であろう。恐らくは、かかる発生論的経緯に由来する内面化された機制に負うて、人は罪悪感ゃ慙愧感を覚識するとき、懲罰を蒙むったのも当然と感じ、以後は当の所業を改めようと決意するのを“常”とする。(いわゆる確信犯はこの埓には入らない。そこで別途の論理での懲罰がおこなわれる所以となるが、ここではこの件に立入るを須いないであろう。)義務感や当為感を植えつけられてのサンクションの受容については、次に取上げる第三の問題の論脈に組込むことにしよう。けだし、義務感ゃ当為感を伴って自己の行為を律するとき、このアンガージュマンにおいては、当人は“自分自身に対するサンクショナー”としても振舞っている機制にあるからである。――尚、確信犯の存在を述べ立てるまでもなく、サンクションに抵抗し、行為を改めない分子が現に存在する以上、また、或る種の行為に関しては因習的なサンクショナーの基準そのものに多くの者たちが強く抵抗する事態なども存在するのであるから、サンクションは決して一義的に受容されてその実を収めるわけでない。サンクション(従って亦、それの実効性の程度)は、所詮はサンクションを蒙むる側の者との“共犯行為”である。」444-7P
(対話C−第三の問題)「第三の問題。人は私情・私憤に駆られてサンクショナルな行動に出ること屢々であるが(即自的なサンクションについては本節の初めからさまざまな文脈で叙べたので再説は省こう)、サンクションの自覚を伴った行動にさいしては、一般には、むしろ、義務感・当為感に促されていると言えよう。――「道学者輩でもない親兄姉や隣人が、一体なぜ無関心に見過ごすことなく、制裁(「サンクション」のルビ)を加えるのか? われわれは賞罰(「サンクション」のルビ)の心理を単純に一元化してしまう心算(「つもり」のルビ)はないが、根源的には、彼ら自身、当のシチュエイションにおいては、一定のサンクションのrole-takingをおこなわざるをえない心理的圧力に押されているのではないか? 未開人(ママ)においては、タブーを犯す者が出ると集団の全員が心理的恐慌(「パニック」のルビ)におちいるといわれるが、同様な機制(「メカニズム」のルビ)が作用しているのではないか?」筆者は別の折りに右のように書き、究極的には条件反射の機制に基礎をもつにしても、そこには催眠術に所謂「深層的催眠」の機制が作用しているであろうことを論じておいた。(『世界の共同主観的存在構造』第一部第三章。)ここでは深層催眠ということを“解説”したり、それを条件反射に還元したりする議論に更めて立ち入ることは割愛する。が、以下、当為感・義務感の深層的基底に議論の焦点を置くことにしよう。――当為(「とうい」のルビ)意識・義務意識は、いささか省察してみれば誰しも認めるであろうように、命令や禁止と密接に関連している。尤も、当為意識や禁止意識という既成態となった覚識においては、命令者・禁止者は脱人称化・非人称化されているのが普通である。時によっては、それは、超越者の命令・禁止とか、裡なる両親の命令・禁止とかの相で覚識される。とはいえ、命令や禁止の体験される発生論上の初期階梯に溯っていえば、命令者・禁止者は具身の対向的他者である。そして、この具身の命令者・禁止者は、彼の命令・禁止に当方が従わないとき、怒鳴ったり殴打したり……具体的な懲罰を加える強迫的規制者である。しかも、命令・禁止される行動は舞台的場面とも相関的である。一定の舞台的場面における一定の行動の命令・禁止、それの遂行の懲罰的脅迫による強制の受動的体験、加之、命令・禁止の直接的当事者に対する環視的他者たちの加担的支持、命令・禁止への違反にさいしては環視的第三者たちが命令・禁止の当事者に対して懲罰を督促・強要している雰囲気。かかる受動的態勢の反復的体験を通じて、しかじかの舞台的情況場面においてはかくかくの行動の遂行が強請されているという覚識(抽象的に一般化・脱肉化された命令者・禁止者による被命の覚識)が形成されるに至る。詳しくは後論においてより普遍化された機序に即して論攷する予定であるが、暫定的に言い切っておけば、これがいわゆる「一般化された他者の内面化」とか「超自我の形成」とか呼ばれている事態にほかなるまい。が、われわれとしては、神といった超越的命令者や良心といった内在的命令者の相に擬人格化されて覚識される思念相ばかりでなく、舞台的場の強迫(命令・禁止的な場のの強要)という脱人格化された相での覚識をも併せて銘記する。いわゆる当為感・義務感は脱人称化された被命令・被禁止の深層催眠化された覚識態に照応するものと考えられる。かかる当為意識・義務意識に駆られての(許容すべからざる目前の他者の行為に対して深層催眠的に駆動されての)サンクショナルな行動においては、当の意識態の形成の経緯からして、伝習的な既成的価値基準や賞罰規矩におのずと則る所以となる。とはいえ、基準となる価値観や規範なるものが、明示的に定式化され自覚化されているものではないこともあって、サンクショナーの遂行する制裁行動と制裁強度にはバラツキがある。既成的基準・規矩とやらが、斉一的に墨守されるわけでなく、伝習的な価値基準や賞罰規矩がサンクションの蓋然的枠組と標準を劃するという程度にとどまる。――サンクションには、命令・禁止と違反への懲罰という形態ばかりでなく、要望・諫止(かんし)に発するものなどもあり、正のサンクションも勿論存在する。観念的扮技による予習を前梯としてのサンクショナーとして役割取得、わけても、年少者・新参者に対する教育的配慮からするサンクションということなども看過できない。が、これらについても、当為感・義務感にもとづく限りでは上述のところからmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する道理であるから、爰では紙幅を惜しみたい。」447-9P
(対話D−第四の問題)「第四の問題。サンクショナーたちが伝習的な価値基準・賞罰規矩に則るのだとすれば、その規準は世代から世代へと伝承されたはずであり、論理上、第一世代はどこから準則を得たのかという問題が持上がる。この問題は規範的規矩・規則一般に推及される。これは実証的・経験科学的には愚劣な設問であろうとも、論理的には回避しがたい論件かと思われる。人がもし価値基準体系や規範的規則なるものを既定的・既成的なものの相で表象し、それが世代から世代へと継受される状相で表象するとき、慥かに、第一世代がそれをどのように受領・獲得してかが謎めいてくる。人々の日常的意識において規範なるものがその都度の行為に対して先与的既成態(「レディメイド」のルビ)の相に物象化されて覚識されているとしても、しかし、規範なるものが自存するわけでなく、人々のその都度の行為の在り方がいわゆる規範をその都度に生産・再生産するのが実態である。実在するのは一定様式での行動のみである。そしてこの様式的限定は、世代間に相応の類似相を以って継行されるにしても、不易的同一相にあるわけでなく、歴史的に変様して行く、この変様過程を逆に辿れば、歴史的端緒における行動のノルマルな限定は洵(しゅん)にプリミティヴなものであり得たであろう。――規範なるものの物象化的錯認にもとづく起源論上のアポリアとその解決、規範的規則の伝授の場面における不断の“共犯的”な生産・再生産という機制については、如上の示唆的立言によって大宗を理解して頂けることかと念うので、詳説は省くことにしたい。」449P
(対話E−第五の問題)「第五の問題。伝習的規範規則は多分に硬直的同一相で意識されるにしても、そしてまた、歴史的に観望するとき、相応の“自己同一性”を呈することも確かであるが、しかし、第一・第二・第三の問題に即して叙べたフラクチュエイションとズレを孕んだ蓋然的な生産・再生産、これらの継起において存立するそれの存在構制の故に、伝習的な規範規則といえども可塑的であることは贅言(ぜいげん)するまでもない。問題はむしろ、この可塑性にもかかわらず、事実の問題として現に認知されるごとき相応の“自己同一性”“硬直性”が如何にして成立するか、その物象化の機制である。――この問題を解く鍵鑰(「けんやく」のルビ)はインプリシットには已に本節の行文中に与えられているのであるが、主題的には次篇での制度論の論脈内で回答することにしたいと念う。」449-50P
第九段落―― 本節のまとめ&次節の課題−行為の評価  450-1P
(対話@)「省みるに、本節における論述は、幾つかの重大な論件先取を犯している。「規矩」「規則」といった基本的な概念についてさえそれの何たるかの既定を与えていない。剰之(「あまつさえ」のルビ)、行文中に唐突に「命令」「禁止」などの概念を引入れて説明を試みておりながら、それの成立機序を発生論的にも存在論的にも解明していない。――命令・禁止ということは、行動の対他者的「期待」つまりは「役割期待」から説かるべきはずであり、命令者(禁止者)と被命令者(被禁止者)との「地位」的分化の成立と併せて論考さるべきはずである。――価値の問題についても、本巻では主題的・一般的な論究にこそ立入るべくもないにせよ、規範的拘束や賞罰的規制と不可分な部面に関しては論究を省(「はぶ」のルビ)けない道理であろう。ここに宿題が遺されている。」450P
(対話A)「行文の次序として、後論での螺旋的回帰を期しつつ敢えて論点先取を事とした一連の事項論題とするには、役割行為と諸々の制度的編制の物象化的成立・存立の媒介的・被媒介的な関連性を討究する運びとしなければならない。この作業は次篇での論脈に組込むことにする。」450P
(対話B)「次節では差当り、本節内でサンクショナルな規制の対象という論脈でその一部を配視した行為の評価という問題を主題化しておく段である。――本節においては、アリストテレスの卓抜な表現で言えば、「文法的に語る」次元に主として関説し、「文法家的に語る」次元、すなわち、規範的規則体系を自覚しつつ遵奉的に行為する次元にはまだ殆んど論及していない。いわゆるrule-followingの問題一般には立入らないまでも、この欠を次節の論脈内で可及的に埋めることにしたいと念う。」450-1P


posted by たわし at 01:40| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする