2026年03月17日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(17)

たわしの読書メモ・・ブログ725[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(17)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
 第一節 決意的企投の呼応性
(この節の問題設定−長い標題)「舞台的世界において、人々は能為的人格として出会い、呼応的に決意的な企投的行為を営むことが可能であり、以って自覚的な共互的協働が可能であると同時に、互いに“裏切る”可能性をも有つ。とはいえ、行為は、恒に必ずしも対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的意識性を伴っているわけではなく、また必ずしも呼応的協働の意識性を伴っているわけではない。人間の行動は、しかも企投的決意の意識性を伴っている場合でさえ、選択的自由ならびに自発的自由を具えた「精神的エージェント」の統御・駆動に因るものとは言い切れない。」395P
第一段落――これまでの復習とこの節の課題−直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向ける− 395-6P
(対話@)「われわれは第一篇このかた世界的舞台場における人物どうしの出会いの諸位相に留目し、役割的・役柄的な規定相での認知や人格的特性相での認知ばかりでなく、初対面の人物との遭遇の場面であってもそこでの認知・応対の態勢に特質の存することを分析・論定してきた。溯っては、抑々、人物的個体の分節化的現前の原初的場面から配視し、“あの身”“この身”の共軛的な対他・対自性の現成を跡づけ、自己像の成立にとって他己像が要件をなし、対自的自己形成にとって他己との共軛的な関わりが存在条件をなすことを見定め、他己認知・他者認識の成立機序、等々を論考したうえで、共互的役割行為の構制、協働的役割遂行と主体=我々の現成機制にも議論を及ぼしておいた。」395P
(対話A)「今茲では、既述の論点の復唱は省き直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向けることにしよう。――尤も、企投的行為主体の出会いと言っても、対自的なそれだけでなく、観察者的視座からのそれをも配視する必要がある。そして、いずれにせよ、われわれとしては、当事者の直接的思念相を単純に追認するのでなく、当事者においても反省的に確認されうる筈の構制を学知的見地に立って分析する課題を負う。」396P
第二段落――当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化する 396-401P
(対話@)「われわれは、人間の行為は、当事者の意識性に即する限り必ずしも目的合理的ではなくむしろハビトゥアルであるのが普通だということを折々に叙べながらも、フェア・ウンスには、概して、目的達成型の構制になっている事実に鑑み、行為わけても役割行為を、前章においては、目的達成型の構制に即して論考してきた。――目的合理的・価値合理的・伝統的・感情的というウェーバー流の“類型分類”は、当事者の主観的に思念せる意味に即してすら十全とは認めがたいが、しかし、そのいずれも、フェア・ウンスな一定の視座からすれば、多くの場合、目的達成型の構制に納めうる。このことは確かである。とはいえ、それは適当な機能的目的性を措定すればことのことであって、或る種の目的性に徴すれば非合理的でもありえる。――ここでは、まずさしあたり、当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化しておかねばならない。」396P
(対話A)「偖、われわれは已に前章第一節「役割行為の存在構制」の論脈中において「決意的企投」の意識態を分析しておいたのであったが(三一八頁以下をここで再読されたい)、その折りに見たように、決意的企投に際して要件をなすのは目的志向性であって、「目標的状景」を明晰判明に表象することは必ずしも須要事ではない。そして、人は、他者の決意的企投意識態についても、自分に差向けられた役割行為期待の構造内的“成分”としてであれ、他者自身の直截な企投意識“内容”としてであれ、それを察知・理解することが可能である。――この察知・理解は他者理解の一斑なのであって、他者が別段企投的決意をおこなっていない場合の意識態についての察知・理解も可能であることは附言するまでもない。――茲に人々は決意的企投者として相見(「あいまみ」のルビ)え、自覚的呼応性において、共互的行為ひいてはまた協働的行為を相営なむことが出来る次第である。」396-7P
(対話B)「ところで、他者が企投的に決意していることやその内容を知るのは、他者理解の機制について詳しく前述した直截な仕方を原基としてのことであるが、いわゆる類推や投入の機制によってもそれがおこなわれる。それはいずれにしても前言語的な機制を原基としておこなわれる。とはいえ、現実問題として、高等・複雑な企投的決意内容の伝達・理解は言語的交信に俟つところが大きい。尤も、後言語的な交信にあっても、決意的企投やその内容が逐一具体的に言表されるとは限らない。或る階梯・局面では詳しい言表がなければ伝達が成立しないにせよ、やがて直接的言表が退縮しうる。というのも、言表とコングロマリットを成していた表情・身振・様子・態度といった非言語的契機が、それらを核とする直接的補完・融合的同化・補完的拡充・標徴的連合、等の機制によって、(これらの機制については第一巻四五頁以下を参看されたい)、言語的言表を謂うなれば“代償”するかたちになりうるからである。(このため、言表が一定限はおこなわれるにしても、例えば「ケシカラン」と呟(「つぶや」のルビ)いただけで聴者は舞台的・場面的な諸情況や当人の動勢に照らして、彼が叱責を、乃至は亦、殴打、等々を、企投的に決意していることを察知することができる。また、例えば、当人は「美味(「うま」のルビ)そうだな」と言っただけでも、舞台的情況や本人の動勢に徴して、彼がいま見上げている柿の木に登り、実を捥(「も」のルビ)いで、喰べようと企投・決意していることを察知できる、等々。極めて“退縮”化した言表で以って、詳しい言表とはほぼ等価な伝達機能を果たしうる所以となる。) 」397P
(対話C)「勿論、人は他者が企投的に決意しているという事実ないし/および決意性の企投の内容について、錯認・誤解に陥る場合もある。そして、そこから様々な齟齬や悲喜劇が生じうるのであるが、その具体相について今茲で論及するには及ばないであろう。われわれの当面の行論にとっては錯認や誤解に気がついて正しい認識に是正される構制が原理上ありうれば足る。この要件が超越論的視座から見たさいに果たして充たされるか否かは問題が残るにせよ、少なくとも当事者たちに即するかぎり、錯認や誤解に“気がついて”正し、応待が以後は“齟齬なく”“円滑に”進捗し、もはやあらためて錯認や誤解を思い知らされることなく進行するようになること(このとき、「正しい理解に達している」と当事者たちは確信する次第だが)、これは現に経験されるところである。」397-8P
(対話D)「今ここで敢えて関説しておきたいのは、単純な錯認や誤解ではなくして、意図的な欺(「あざむ」のルビ)き・騙(「だま」のルビ)しのケースについてである。――著者としては、或る種のエスプリの効いた論者たちの驥尾(きび)に付して、「能知・能意的な主体とは他者を瞞着する能力を持つ者の謂いなり」と定義するつもりも、また、「記号とは他人を騙すことの可能な用具の謂いなり」と定義するつもりもない。が、能為的人格(能知能意・能動的な主体)どうしの出会いを論件とするに当っては、意図的な欺き・騙しの能力・可能性という問題を避けて通るわけには参らない。けだし、これは“裏切り”の問題にも通じ、「約束」とも裏腹の面があるからである。――」398P
(対話E)「日常用語では、嘘言(「うそ」のルビ)という詞は、広義においては、当人自身がそう信じ込んでいる虚偽的命題の言表も含みうるが、狭義においては、当人自身はそう思っていないにも拘らず、他人に、その誤まてる言表内容を信じさせようとして発せられる言表、これが嘘言と呼ばれる。そして、この狭義の嘘言について、他人に誤った思念を懐かせること(ないし、懐かせようとすること)を「騙す」と謂う。が、「騙し」は必ずしも言語的言表だけによっておこなわれわけではない。他人に誤った思念を懐かせる(懐かせようとする)手段、つまり騙しの手段としては、表情・身振・挙措・態度といったものも用いられうる。これは「振り」(pretention)とも呼ばれる。――これらの日常的用語では概念的厳密性を欠くが、当座の議論では、これに便乗して進めておいて大過を生じないと念う。――扨、嘘言や振りに因る錯認・誤認を、人々はかなり多くの場合、自家是正しうる。相手の意識態に関する嘘言単純な誤認・誤解のケースでは、誤認・誤解されているらしいと気付いた相手当人がそれを是正して貰おうとして追加的な各種情報を発信するのにひきかえ、相手が意図的に騙そうとしている場合には、是正の機縁となるような追加情報を供しないどころか、誤認・錯認を強化するような追加的情報を齎(「もた」のルビ)らすので、是正は容易でない道理である。それにも拘らず、現実問題として、かなり多くの場合、嘘言・振りを見破り、自家是正がおこなわれる。これが可能になるのは、おそらく、諸般の諸要因に徴しての不斉合性とか蓋然度の低さとかの“理詰めの推論”もさることながら、表情・身振・挙措・態度(言語的表現のトーンなどにおける“表情”をも含む)に何かしら“不自然”で“疑念を喚びおこす機縁”を看取し、それを契機に“再考”することにおいてであろうかと想われる。(騙しに何故また如何にして気付きうるのか、そして一体以下にして真実の洞見に到りうるのか、この機制については審(「つまび」のルビ)らかでない。)が、機制は不明でも、ともかく、現実問題として、人々はかなり多くの場合、瞞着に“気がつき”“真実を洞見し”て事に当り瞞着を免れて然るべく対処する。そして多くの場合、“自分で気がついて洞見した真実”がまさに真実であったこと、この確信をその後の経過で愈々強めるのが普通であって、当の自家確信を撤回する破目になることはむしろ稀である。この場合における“真実の洞見”という確信は何に支えられているのか。相手当人が白状して、真実を証言するわけではない。自分の側での確信が揺がないというのはたかだか心理的事実にすぎないとはいえ、これにはしかるべき機縁と併せて一定の判断的支えが与っている筈である。それは、論理的構制上で言えば、「「認識論的主観」の「判断」と合致していることの自家信憑ということになろうが、通俗的に言えば、自分以外の判断者たちも自分と同じ判断をくだす筈だという確信、一種の共同主観的=間主観的な判断一致の確信と相即するものにほかならないであろう。――尚、世には「反語」や「皮肉」といった現象、すなわち、“形式的”には嘘言や振りと“同型”的でありながら、騙す意図はなく、却って、“嘘言”や“振り”にすぎないことをトーンその他の徴表で同時的に表出する方式も存在する。が、これについては、反語や皮肉であることを察知せしめる機制と、嘘言や振りを看破する機制との間に、或る共通な機制が存するであろうことに留意するにとどめ、ここでは立入らないことにしよう。――」398-400P
(対話F)「ところで、右で一端に触れた嘘言や振り、騙しの問題とも関連する事柄で、決意的企投の呼応性を論題とする際、是非とも配視を要する事項として、「信頼」と「裏切り」(その特殊的ケースとして「約束」と「違約」)という論件が厳存する。――人々は共互的ないし/および共演的な行為に際して、相手(「パートナー」のルビ) (達)の遂行的行為に関し、一定の期待的・予測的な予科を懐いているのが普通である。この予科は、時としては、相手の企投的決意内容の察知・理解と相覆う場合もあり、また、特別なケースとして、事前の「約束」に則るものの場合もある。そして、一般に、騙されている場合をも含めて、“相手の人格に対する信用”でこそなけれ、相手の遂行的行為の予料を信じているという意味で、相手の予料的行為相を出来(「しゅったい」のルビ)させる。それには、相手における蹉跌・失敗の場合もあれば、当方が相手の志向を誤解して見当外れの予期を懐いていただけで相手当人にとっては予定通りの行動という場合もあれば、相手の意図的な騙しに当方が欺かれていた場合もある。また、相手が途中で予定を変更して、企投の立て直しをおこなった所為(「せい」のルビ)の場合などもある。共演的に行為する者たちは、いずれにせよ、その都度一定の予料を概して「信頼的」に懐きつつ行為するとはいえ、不断に予期外れの相手の行動が出来する可能性を考慮しつつ対処する。さもなければ、円滑な即応的共演がそもそも成立しがたい。が、特に問題なのは、相手が明示的な約束というかたちで、ないしは、明示的な約束でこそないが一定の表出で、当方が相手の遂行的行為相についてしかじかの「信頼的」予期を懐くように仕向けておきながら、相手が途中で当の予期を意図的に破る行動に出る場合、すなわち「裏切行為」の場合である。相手がいわゆる「自由な主体」である限り、人は不断に、相手による「裏切り」の可能性に当面せざるをえない。」400-1P
(対話G)「能為的主体の出会い、共演、ひいては、協働、とりわけ、呼応的な決意的企投行為、これは、単純な錯認・誤解による予期外れや相手の蹉跌・失敗による予期外れのほかに、相手に騙されての予期外れ、相手が途中で変心することに因っての「裏切り」による予期外れ、この可能性に不断に曝されている。――ということは、呼応的な決意的企投にもとづく共演・協働が円滑に進捗するためには、当事者たちが互いに相手の行為に関わる予測・予期を誤まらないこと、そしてそのためにも、望むらくは相手の意識態について可及的に正しく理解していることが“要件”となり、企投的意識態に関して言えば、相手が舞台的場面的情況をどのように現識しているか、どのように目標的状景を泛かべどのような目的達成を志向しているか、どのように手段を策定しているか、これを可及的に察知していることを要し、併せては溯って、相手のありうべき欺瞞・蹉跌・予定変更・裏切りなどの可能性を考慮に入れることをも必要とする謂いとなる。」401P
(対話H)「当事者たち自身のフェア・ジッヒな体験相に即する限り仍ち斯くの如くである。――だが、学知的見地から反省的に捉え返すとき、果たして人間の行動というものは、真実左様に「自由な行為」なのであるか? 人間の行為というものは、その全てが意識的に統御されているわけでなく、そこには非決意的な“自動行動”もある。そして、いわゆる企投的決意の意識性を伴っている行為の場合でさえ、果たして選択的自由や自発的自由に因るものであるのか、この件については再考を要する。今や、その作業に溯る段である。」401P
第三段落――意識性・意図性に導かれている行為 401-4P
(対話@)「議論の順序として、「意識性・意図性に導かれている行為」と謂われる場合から問題にして行こう。」401P
(対話A)「人々は、通常、行為なるものの単位的区劃を、企投的決意から目標実現までのスパンで截り取り、その期間、一貫した目的意識性を伴っているものとしたがる。これはいわゆる意志行為の“正準的”な“単位”の在り方と一応は認められうるかもしれない。しかし、主体的・意志的行為にとって目標意識性・決意意識性が必要条件であるとは称されるものの、現実の行為においてこの条件がどこまで充たされているかは多分に訝(「いぶ」のルビ)かしい。人は、単位的一行為と認定される営みを実行する一期間を通じて終始一貫「目標意識性」を明識し且つ「決意意識性」を裡に実感する意識態を対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に保持し続けているわけでは必ずしもない。」401-2P
(対話B)「例えば、或る目的地へ行こうとして電車に乗り込む。雑誌を読み始める。読んでいる以上は、彼は意識を失ってはいないが、目的地に行こうという意識性を明識し続けているとは言えない。なるほど、降りる駅が近づく頃には注意するところをみると、目的意識性や決意意識性が消失していたわけではない、と言えるかもしれない。では、途中で寝入った場合はどうか。熟読したり熟睡したりしている期間中は、およそ目的地へ行く行動目標を忘向的に明識していないが故に、目標地を目指しての主体的行為が中断されていると見做すのか? 決意的行為と呼ばれるものでも、行動様態がルーティーン化しているものの場合、途中の期間には、目標意識性も決意意識性も“消えて”いることが多い。従って、目標意識性・決意意識性の現識ということを厳しく言い立て、それを主体的行為であるための必要条件とするさいには、人間の行動はその大抵がおよそ主体的な行為ではないことになってしまうであろう。そこで、人々は、目標志向的起動に始まり、それの成就に終る一纏まりの行動を、目標意識性や決意意識性の“消失”している途中の過程をも含めて、全体として主体的行為と呼んでいるのが実情であるように見受けられる。この扱いそのことに異を唱えるつもりはない。が、そうなると、目標意識性・決意意識性が主体的行為の必要条件であるという提題は脆弱になり、なるほど開始時にこそ特性的であれ、以後は惰性に身を委ねた行動や他律的操縦される行動とも同趣になってしまう。」402P
(対話C)「これでは、何ぞ意識性・意志性・主体性なる乎と言いたくもなる。この実情が銘記されねばならないが、しかし、ともあれ行為の開始時点に企投的・決意的な起動の要件として目標意識性が特異的に存在するとされる限りで、目標意識性ということを逸してしまうわけにはいかない。が、今や見易い通り、目標意識性なるものが主体的行為にとって必要条件だと謂われるのは、決意的・内発的な起動にとって企投的目標意識が構成要件をなす限りのことなのである。」403P
(対話D)「そこで、主体的行為にとっての必要条件と称される「内発的起動性」とやらを検討しよう。内発的起動というのは、さしあたり、身体内部に在るエンジンが内発的に始動せしめられる謂いであろう。が、そのさい、企投的志向目標を意識するエージェントが、兼ねては亦、決意的起動作用を発揮するエージェントでもある、という了解が通念であるように思われる。ここでは、意識性を有ち且つ作用性も有つエージェントが身体内に在って、そのエージェントが決意的発動をおこなう、という描像にもなろう。(このエージェントは、普通には「心」として思念され、そのかぎりでは純粋に精神的(「プシヒッシュ」のルビ)な存在と思念されているのだが、考え直してみれば、それは純然たる精神的存在というよりもむしろ、一種の「心−身」的存在と考える方が整合的かもしれない。というのも、意識性をもつかぎりでは「心的」であるが、同時に、それが肉体という物質的存在に対して因果的起動作用を及ぼすものである点では「身的」であると見做した方がオカルト的作用を想定せずに済むからである。そこで、もし、裡なるエージェントを一種の「心−身」的散在と考えるとすれば、そのエージェントによしんば手足がなく、個体的主体と同型的でこそなけれ、それでもやはり「心−身」的存在としての個体的主体と同趣的な、このかぎりで一種の“裡なる小人”とそれは呼ばれうる所以となろう。がしかし、ここでは通念通り、純然たる精神的存在=心ということにして暫く議論を運びたいと念う。)」403P
(対話E)「偖、謂う所の決意的・内発的な起動は、外的な諸条件・諸要因によっても制約・影響されることを禁ぜられない。企投的目標設定にさいして、舞台的・他者的・道具的な与件によって制約されることはむしろ当然であるし、起動的決意遂行にさいして、情況的・肉体的・規範的な諸条件によって制約されることもこれまた不回避である。そして、また、決意的起動が期待的督促や物理的触発による興発によって影響を蒙むることもありうる。が、要は外的な要因によって一義的に決定されてしまうことなく、企投的決意をどうおこなうかおこなわないかの最終的決定、これの裁量が“裡なるエージェント”に委ねられていれば宜い。」403-4P
(対話F)「ここにおいて、決意的起動性という問題は、いわゆる「自由」の問題、すなわち、(イ)選択的自由(別途の余地なく一義的に決定されていないこと) 、(ロ)自発的自由(すなわち、一義的な必然的因果連鎖によって押し動かされるのではなく、また、単なる偶発でもなく、自己決定的に起動できること)、この問題と絡んでくる。(尚、選択的自由は企投の自由とも関わるが、選択の自由は結局は自発的自由に帰着するとも言える)。――この哲学上の大問題たる「自由論」に深く関説することは爰での任ではないが、当座の行論にとって必要最低限、若干の詞を費しておかねばなるまい。」404P
第四段落――「自由」に関して 404-12P
(対話@)「まず「選択的自由」に関して。――人が決意的な企投をおこなうさい、一般に、可能的選択肢が既在的に現在していると思念していること、そして、選択的決断がおこなわれた後、事後的に反省するとき、往々、他の選択肢を選ぶことも可能であった、と人が思念すること、この思念という事実は慥かに存在する。選択的自由と謂われるものは、さしあたりこの思念内容に照応するものにほかならない。ところで、しかし、本当に(in Wirklichkeit)可能的選択肢が既在していたのか? そして、或る行為が実行された時、別様に行動することが本当に可能であったのか? 可能的選択肢なるものは、選択の時点ではいずれもまだ未来的行動なのであるから、可能態であっても現実態ではない。だから、前掲の借問は、可能態が現実的に既在していたのかと問うている所以となる。ここに謂う所の可能態なるものがもし単に表象態の謂いにすぎないのであれば、可能的諸選択肢の既在とはあれこれの(選択肢的)行動様態が表象されているという心理的事態の言い換えにすぎないことになるから、可能的選択肢の既在はトートロジカルに事実である。だが、それはさしづめ思念的事実たるにすぎない。」404-5P
(対話A)「では、この思念としての事実という以上に、可能的選択肢の既在性ということが“客観的”に言われうるであろうか。或る種の論者たちは、可能的選択肢の「客観的既在性」を主張して、「行為主体が可能的諸途を意識(表象)していないとしても(そして現に、当事主体が意識するのは客観的に可能な諸途中のたかだか僅かのものに止まるのだが)、客観的には諸々の選択可能性が現存している」と言い、その“証拠”として、「“ほぼ同一”とみなせる現与的諸条件のもとでも、主体の“選択的決意”に応じて様々に異なった行動が現に生起する」という「経験的事実」を挙げる。論者たちといえども「現与的諸条件(舞台的・道具的諸条件ばかりでなく、身体生理的諸条件をも含む)の類似度を高めていけば(つまり“ほぼ同一”とみなすさいの“同一性”の精度を上げていけば)、そこに生起する行動の“同一度”も高まる傾向が見られる」という「経験的事実」をも併せて認める。だがしかし、「経験的事実」に即するかぎり、その収斂的傾向性が大枠的には見られるにせよ、そこには“揺動(flactuation)”的な“外(「は」のルビ)み出し”も見られるのであって、「現与的諸条件が厳密に同一(単一)であればそこに生起する行動も必然的に同一(単一)である筈だと外挿的に推測するのは、経験的には実証さるべくもない一種の形而上学的臆断(立場的態度決定)にすぎない」と論者たちは指摘する。」405P
(対話B)「ここでの論者たちの謂う「経験的事実」の確認および指摘は一応認められてしかるべきであろう。とはいえ、果たして、当の経験的事実や論者たちの指摘する事態は「可能的選択肢の客観的既在」「選択的意志行為の自由の現存」の積極的「証拠」たりうるであろうか? 差当り確説できるのは、「経験的事実」に即するかぎり「別途の余地なく一義的に決定されてはいそうにはない」こと、「現与的諸条件が同一であれば生起する行動も必然的に同一であると推定するのは形而上学的臆断にすぎない」こと、ここまでである。そして、そのかぎりでならば、実在界は一義決定論的ではなく、客観的偶然性の余地があるということ、このことまでは言えても、当の偶然性(必然性を“破る”もの)が自由意志なるものの選択活動に負うものかどうか、自由なる選択的選取という思念が実在的世界の客観的な事実に見合うものかどうか、これについては確言できない。」405-6P
(対話C)「われわれとしては、こうしてさしあたっては、客観的偶然性の余地がありうること(これは物理的実在が量子力学的不確定性を孕んでいることに支えられているかもしれない)、および、選択的自由という当事者の思念的意識があること、このことまでしか言うことができず、そこでの次のステップとして、自由意志的選択活動という自発的自己決定活動が実際におこなわれるのか、このことが論件になる。しかるに、これはまさに前掲の(ロ)「自発的自由」という論件にほかならない。」406P
(対話D)「今や、そこで、「自発的自由」の検討に移る段である。人が内発的起動感を体内に覚知するという意識事実はさしあたり認められてよい。だが、本当に自発的な起動が存在し、それが覚知されるのであるか? 錯覚的な思念でないという保証があるのか? 一定の内的緊張感や、それに引続く運動開始が感知されるとしても、それはむしろ身体的(当初は身体内部的)な状態の感知、謂うなれば体内感覚の覚知であろう。それは始動することの覚識ではなく、体内的エンジンが始動したことの感知にすぎないかもしれないのである。しかも、体内エンジンの当の運動開始は、偶発であるかもしれず、また、実は、先行的因果の連鎖に“押さ”れてのものであるのだが、先行部は意識にのぼらず、たまたま位相上の或る局面から意識にのぼり始めた(そのため、当の位相の所で起始したかのように覚識される)だけのことかもしれない。もしそうであれば、それは「自発」ではなく、実際には偶発であったり、因果連鎖の先行部が覆われているだけで、実際には強制された受動であったり、ということになってしまう。偶発や強制的受動ではなく、自発的自由行為であるためには、“内なるエージェント”が一定の“必然性”(但し「事実必然性[Müssen]」ではなく、「当為的必然性[Sollen])に則って能作的に起動することが要件である、と人々はとかく考える。そして、人々は、自発的起動感という意識事実に定位しつつ、それが「単なる主観的事実ではなく、客観的根拠をもつこと」を裏付けようとして、“意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェント”たる“心”なるものの実在性を要請的に想定する。がしかし、それは所詮要請的想定たるにすぎない。人は、いかに努力しても、いわゆる実証科学的手法よっては、「心(意識・意志)なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」という知見を得ることは覚束ない。それでも、もし、そのような心というエージェントの要請的想定が唯一リーズナブルであるのだとすれば、それを定位するのが成程至当かもしれない。だがしかし、それはとうてい唯一リーズナブルとは認めがたい。」406-7P
(対話E)「因みに、いわゆる催眠現象を思ってするがよい。人の行動は勿論そのすべてが狭義の催眠現象であるとは言えないにしても、人々の行動(とりわけ対人的・社会的行動)が極めて広く且つ深く一種の催眠的誘導に規制されていることは今日では定説的な知見に属する。――曩(「さき」のルビ)にも“紹介”したように、催眠現象には、(a)被術者が憑依的状態(顕在的意識を消失している状態)に陥っている情況において、術師の命令する通りに被術者が“操られて”行動するケース、(b) 被術者が顕在的意識を残しており、術師の命令に意識的に反抗(つまり、命ぜられたのとは別様の行動をしようと企投的に決意)するのだが、現実には命ぜられた行動を体現してしまうケース、(c) 被術者が憑依状態に陥っている間に、術師が(例えば、時計が三時を打ったら窓を開けよ、というような)将来的行動を命じておいて一たん術を解く。すると、被術者は意識が戻っている状態で、命ぜられていた行動をおこなうが、それが命ぜられていたという記憶的意識はなく、当人としては自発的な企投的意志行為の心算(「つもり」のルビ)でいるケース(その行動の理由を訊かれると、例えば「空気が濁ってきたようだから窓を開けたのだ」と答える)、以上の三大別を設けることができる。ここで特に留目したいのは、(c)のケース、すなわち、しかじかの場合にはかくかくの行為をせよと命令・期待されていて、当人はその仮言的命令を記憶していないのだが、当の仮言的場合に直面すると“自発的な企投的意志行為”として当該の受命行動を実行してしまう「深層催眠」のケースである。人々の日常的行動の機制にはこの深層的催眠が広く介在しているように思えるのだが、いずれにせよこのケースは、当人自身の意識においてこそ“自発的な企投的意志行為”の心算でも、第三者的・客観的には自発的自由行為とは認められがたい事実のあることを示していよう。翻って(b)のケースを思い合わせるとき、すなわち、当人の企投的決心とは別異な行動が(催眠的操縦によって)現成してしまうというケースを思い合わせるとき、当人の現識している意思的志向は身体的運動の起動・駆動をおよそ統御するものではなくて、極言すれば、意思的志向と呼ばれる意識性とは直接の関係なしに身体的運動が進捗しうること、このことが認められざるをえまい。」407-8P
(対話F)「それでは、意思的志向意識と現実の身体的運動とはむしろ無関係なのが実態であると言うのか? 通常は意思的な志向意識と現実の身体的運動とが概ね照応的であるからこそ「随意運動」という“思念”も生じる次第なのであり、催眠的行動という“特殊例外的(?)なケース”を楯に取って臆断するわけにはいかない。催眠的行動やいわゆる「不随意的運動」と「随意的運動」とを綜合的に説明できる配備が求めらるべき所以となる。(因みに、或る種の行者(「ぎょうじゃ」のルビ)などは、一定の努力によって、例えば心臓のごとき不随意筋を随意的に一時停止させることができるようになる由である。亦、ヒトは普通は耳を動かせないが、努力すれば割合いと簡単に耳を随意に[といっても、馬・兎・猫などほど著しくでないが]或る程度までは動かせるようになると言われる。)」408P
(対話G)「誰しもここで容易に思い付くのがあの“心的エージェント”説を若干ソフィスティケイトした構案である。「心的エージェントの身体制御力には限界があり、心的エージェントは身体的活動を全面的に制御しているわけではない。だから、不随意的身体運動もあれば、我が意に反して身体が運動してしまう場合もある。催眠現象のうち(a)のケースは、自分の無意識中に、自分の身体が術師に操縦されてしまうものであり、(b)のケースは、自分の随意的制御力に打勝って、自分の身体が術師の操縦に服してしまうものであり、(c)のケースは、術師の命令的要求を受け容れつつ、自分が引請けて自発的に起動するものである」云々。これは一見尤もらしく聞こえるが、思い直してみれば、ここでの“心的エージェント”とやらは具身の主体“この身”をほぼそのまま“内在化”させたものにすぎないことが判ろう。“この身”は、無自覚裡にも反射的・条件反射的な行動をおこなうし、意に反した行動を仕出かしてしまうこともあるし、他人の命令・期待に応えて“自発的に起動する”こともある。こういう“この身”の在り方をそっくりそのままスライドさせて“心的エージェント”の在り方と言い做したもの、それが嚮のソフィスティケイションの実態なのである。だから、それは、まさに説明さるべき問題をそっくりそのまま説明する装置に擦替えたものに過ぎず、実質的には何ら説明たり得ない。」408-9P
(対話H)「問題の焦点は依然として、「意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェントたる心」なるものが果たして真に実在するのか、「心なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」と考えることが果たして唯一リーズナブルであるのか、茲に懸っている。そこで、あの催眠的運動現象を更(「あらた」のルビ)めて議論の手懸りにしよう。」409P
(対話I)「仮令、実体的な心的エージェントを想定する論者であってさえ、よもや、催眠術師が被術者の「心」に直接に働きかけるとは主張すまい。術師の命令的に発する言語的音声(聴覚的刺激)や身振(視覚的刺激)が被術者の感性的受容装置や神経系に作(「はた」のルビ)らきかけ、そこに現成する神経生理的状態を介して「心」に影響する、という構図で考えるのが今日では普通の筈である。そしてこのさい、中枢神経系の機制は一種の条件反応(第二信号系レヴェルの条件反射)ということで説明されうることであろう。とすれば、(a)および(b)のケースにおける催眠的身体運動は条件反射の機制で説明され、(c)のケースにおけるそれも、一種の遅滞的条件反射ということで説明される所以となり、「(要求を引請けての)決意的起動」なる意識態はたかだか随伴的現象にすぎないものとして遇されうる。」409-10P
(対話J)「一般論として神経生理学的状態系という物理的存在の実在性を積極的に措定する立場を執る場合、外部的影響によって一定の身体的状態がもたらされる受動的ケースばかりでなく、第一篇第三章第一節の論脈内で陳べたように、“内発的に始動”する「心因性の身体的現象」と呼ばれるものも、悉(「ことごと」のルビ)く、「心−身」関係論上の「随伴説(epiphenomenalism)」で“説明”することができ、「心」という格別な起動的エージェントを想定することはおよそ必須ではない。――論点の一部を再掲しておこう。「起因性の身体現象」と謂われるものであっても、当の身体的現象は生理的因果過程連鎖の終端であり「心因」が肉体に影響する起点的現場は中枢にある、と考えられる。(例えば心因性の胃潰瘍と言っても、心が直接に胃壁に作らきかけるわけでなく、心は先ず脳中枢的状態に影響を及ぼし、そこから生理的因果連鎖過程が進行して、胃酸の過多的分泌や胃壁の修復機能低下をもたらし、このような過程的媒介の結果として胃潰瘍という身体現象が発生するのである。)視角を変えて言えば、原因さされる心理状態と“直接的・第一次的な結果的生理状態”とが中枢において“接合”している、と考えられる。が、ここにいう“接合”は、よく考えてみれば、心理的過程と生理的過程との直截な時間的継起ではない。というのはこうである。謂う所の「心因」、この心理的状態は“絶対的偶発”として自生した自己原因ではなく、それ自身、その状態へともたらした“規定因”に先立たれている。この“先行的規定因”たるや、直ちに身体的状態ではない。それはひとまずは“先行的心理状態”であってよい。だが、嚮に妥協的に設定した構成の下では(つまり、いわゆる心理的状態・意識的状態には必ず一定の脳神経生理的な機能的状態が一意的に「対応」している、と想定する構制の下では)、いかなる心理的状態にもそのつど一定の中枢的生理状態が「対応」的に存在する。従って、「心因」にも先行的“規定因”を認めるかぎり、当の「心因」自体、先行的“規定因”たる心的状態に見合う“中枢的生理状態”の終局的位相に「対応」(“随伴”)するものにほかならない。こうして、随伴説的な構制の下では、心因に“先行する規定因の連鎖”と“後続する結果的連鎖”とは、意識現象として連続しており、亦、それに見合う生理状態的過程としても中断なく連続している。このさい留意すべきことには、決して「@生理的過程→A心理的状態→B生理的過程」というように、@とBとの中間にAの心理的状態が時間的に挟まるのではなく、@とBとは直接連続している。@の終点とBの始点とは一個同一の時点なのであって、その時点における脳中枢的生理がAの心理状態を“随伴”するのである。こうして「心因」なるものを以って絶対的なオカルト的自己原因なりと主張するのでないがきり、いわゆる「心因性の身体現象」は随伴説的構制によって割合いとうまく“説明”がつくのである。――という次第で、「心なる格別なエージェントが存在していて、その心が身体的運動を起動する」と考えることは到底唯一リーズナブルな構案とは認めがたい。」410-1P
(対話K)「誤解ないように願いたいのだが、著者自身は必ずしも「随伴説」を積極的・最終的に採る者ではない。差当り叙べておきたかったのは、「自発的起動感」という“意識事実”を説明するために、心的エージェントなるものが身体に対して起動的作用を及ぼすと考えることは必須でもなければ唯一合理的というわけでもないこと、取敢えずこのことまでである。」411P
(対話L)「先刻来の「自由意志」をめぐる当座の論件に関して暫定的に閉じるべく言えば、人は無制約的自由でこそなけれ、慥かに「選択的自由」ならびに「自発的自由」を思念的に覚識しているが、この“意識的事実”は必ずしも「撰択的・起動的な作用を発揮する心的エージェント」「自由意志」なる格別な存在の実在性の認識根拠ではない。しかし、このことは「決定論」(Determinismus)を直ちに正当化するものではなく、「客観的偶発性」の余地が存するかぎりでの非決定論を許す。但し、謂う所の「客観的偶発性」は「心的エージェントの自己原因的自発性」に負うものではない。われわれは「精神的自発性」「精神の自己原因的自由性」を論拠とするたぐいの非決定論・自由論に与(「く」のルビ)みしない。いわゆる主体的意志行為の主体なるものは、「撰択的・自発的な自由性・起動性」の覚識の帰属する存在ではあっても、行動の機制としては(意識性を“随伴”すると否とに拘らず)専ら神経生理学的に統御される活動機構体であればひとまずは足りる。」411-2P
第五段落――“無意識的行動者”との呼応的な共演の成立 412-6P
(対話@)「翻って、人々の共演的営為が円滑に進捗するためには、共演者たちが互いに他者の行動の展相について正確に予料できていることが有効である。が、惟えば、共演者たちの行動の展相について正確に予料するということと、彼らの企投的決意の意識態を正確に現認するということとは、直ちに相覆うものではなく、むしろ別事である。卑近な話、決意的企投の通りにはならず、蹉跌を生じるような場合、企投的意識態を知っただけでは正確な予料にはなりえない。現実に円滑な共演行動が進捗する場合、習熟した連繋プレイヤーたちは、殆んど反射的に呼応的動作をおこなうのであって、共演者の意識態など殊更に現識しないのが却って普通だとさえ言えるかもしれない。要は、共演者の行動の展相を逐時的に正確に予料することに懸かっており、企投的意識態の察知はそのための“補助的一手段”にすぎないと謂うことすらできる。」412P
(対話A)「爰に、いわゆる“無意識的行動者”(別段失神的状態にあるわけではなく、覚醒的意識を具えてはいるのだが、目下どのように行動しているかを明識することなく“自動的”に行動している者)との呼応的な共演も成立しうる。とはいえ、共演者の行動の展相について当方の側でも十全な明識性をもって現識していない場合でさえも、即応的共演が円滑に進捗している際には、偶然に平仄(ひょうそく)が合っているのでない限り、少なくとも一方の側では相手側の行動の逐時的展相を覚知しつつ即応している筈である。」412-3P
(対話B)「では“無意識的行動者”との円滑な即応的共演が可能であるのは如何にしてであるのか? また、相手の意識態の察知が、相手の行動・展相の予料にとって“補助的な手段”たりうるのは何故であるのか? これは自明の理を問い返すもののようでいて、一考に値する。」413P
(対話C)「人は他人の行動のその都度の具体的な成立機序について認識を有っているわけではなく、身体生理学的な“原因”から行動という“結果”を予想・推論するわけではない。他人の行動の展相の予料に際して、いわゆる“経験的知識の備蓄”がどのように活用されるのか、これの討究にまでは今茲では立入らないが、人は他人の表情・挙措・態度……を単なる与件以上の相で、謂うなればディスポジショナルに覚知するのであって、このディスポジショナルな覚知予料を支える。この予料が蓋然的に適中するのは、表情・挙措・態度と近未来的行動とのあいだに一定の“法則的”対応性があることに拠ってであろう。“法則的対応性”ということで言えば、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……や、主体の役柄的規定・人格的特性……と行動とのあいだにも一定限それが存立していることは確かだと思える。そして人々は現に“経験的知識の備蓄”に恃みつつ、この“法則的対応性”をも予料の一具にしていると言えよう。……即応的共演が極めて円滑に“自動的に”進捗するような場合、謂うなればプロテンツィオナール(未来的)な予料が逐時的に充実されて行くのが実情であって、このような際には、当人たちの顕在意識においては、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……といったことすら明識されず、たかだか表情・挙措・態度……といったものが現識されているという域に留まるかもしれない。だが、そのような場合でも、“前意識(「ダス・フォルベヴステ」のルビ)”的なレヴェルにおいては、それらの諸要因と行動のあいだの“法則的な対応性”が勘考されている可能性は大いにある。相手が“無意識的行為者”の場合であれ、相手の意識態を当方が明識していないだけの場合であれ、そこでも相手の行動に関わる予料が概ね適中し、以って即応的・呼応的な共演が円滑に進行しうるのは、謂う所の“法則的対応性”に則っての予測がおこなわれることに拠ってのことであろう。反(「ひるがえ」のルビ)って思うに、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……を明識的に勘考し、更には相手の表情・挙措・態度を分析的に顧慮しつつ、相手の現出するであろう行動を予想するといった場合においては、却って予料が心もとない。“法則的対応性”といっても確定的に定式化された相で泛かぶわけでなく、“法則適用”の具体的な条件が劃定的でなく、理詰めで予想しようと試みる段ともなれば、一義的な推定は不可能という“論理的結論”になるのが落ちである。(それにもかかわらず、人々は往々にして臆断的な“推論”を敢行し、それがかなりの蓋然度で“中(「あた」のルビ)る”ことも確かである。このことにはしかるべき根拠があるにしても、それは論理的推論というより一種の“直観”“賭け”の性格しかもたない。)茲でクローズ・アップされるのが、相手当人の意識態の理解という契機である。相手の意識態を理解するうえで、相手本人の言語的表現が重要な“手掛り”として役立つことは言うまでもないが、嘘言の可能性があることは措くとしても、相手が意識態の全幅を言語的に表現しているわけでなく、そもそも相手本人の意識態が悉く顕在的な意識にのぼっているという保証もない。という次第で、人は他人の意識態を“十全”に把捉・理解しようと図る際には、言語によって直接には表現されていない諸契機をも配視する。相手本人が一定の言語的表現をもたらす場合でさえ斯くの如くであり、相手が特別に言語的表現をおこなわない場合にはなおさら非言語的与件を“手掛り”として相手の意識態の把捉・理解が図られる所以ともなる。そこでは、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……も当然勘考さるべき重要な契機をなすが、このさい、それらが“客観的”にどうあるかよりも、相手本人にどう意識化されているかの察知が殊に重要であることは絮言するまでもない。そこでは、また、相手が意識化している役割期待(差向けられているそれ及び差向けているそれ)や、役柄的規定・人格的特性……も勘考され、表情・挙措・態度……も勘考される。だが、今問題のケース、すなわち、相手の行動相の予料が顕在意識的・判断的に殊更におこなわざるをえない場面にあっては、それら諸契機の勘考に即して直截に将来的な行動の展相が予料されるというよりも(そのような場合もないわけではないが)、それら諸契機を勘考しつつ一旦相手の意識態を忖度的に“思い描き”、その意識態に応じて“今から現出するであろう行動の展相”を予測する、という形になることが多い。このような仕方で相手の意識態を“把捉”することが相手の現出するであろう行動の予料にとっての“補助的手段”とされ利用されるのは、意識態と現出する行動とのあいだに一定の“法則的対応性”の存することが“経験的に”信憑されていることに因る。」413-5P
(対話D)「人々は、屢々、右の“意識態”と“現出する行動”とのあいだの一定の“法則的対応性”を「心→身」因果論的に了解し、意識態を知ることで行動展相を予測する構制を“原因”を知ることに拠って“結果”を予測する機制であるかのように思い做している。が、それは飛躍である。この間の機制は、先にいわゆる「心因性の身体現象」に関して叙べたとところと同趣であり、謂う所の“一定の法則的対応性”は“随伴的意識性”に見合う“中枢的状態”を介して成立しているものとも解されうる。――人々は、“中枢神経的状態”のその都度の具体相を知らず、これと身体動作等との因果的連鎖過程を知らないが、謂うなれば“中項”をブラック・ボックスに納めたまま“意識態”と“現出する行動”との“法則的対応性”を頼りに、“意識態の把捉”を“補助手段”として“現出する行動”を予料する次第なのである。――他人の意識態の“把捉”“理解”は、学理的には難題であるにせよ、当事主体たちは日常的な共演行為の場においては、それをかなりの蓋然度で“正しく達成”している心算で居り、“齟齬”(に気付かされることの)なさ“円滑”な呼応的・即応的な共演を現に営なんでいる。」415P
(対話E)「是を以って観るに、意識態の“把捉”を“補助的手段”として活用すると否とに関らず、人が他人の行動の展相を予料し、概ね“齟齬を来たすことなき”呼応的共演を営なみ得ているのは、斯くかくの現与的条件の下では然かじかの行動が出来(「しゅったい」のルビ)することが蓋然的であるという“常道的”“法則的”な“合規則性”が存立することに負ってである。――齟齬なき呼応的共演は、当事者たちが共演者の企投的決意性の内容を正確に理解し合っていることに因るものではない。共演者の企投的決意意識態の“把捉”は“正確な予料”にとって重要な“補助手段”であり、以って円滑な共演をもたらす一契機であっても、これが齟齬なき呼応的共演の存立条件というわけではない。このことの銘記を要する。――」415-6P
(対話F)「今や、行為主体当事者たちがいわゆる「自由意志の主体」でありつつも、彼らの行為が、斯々の条件下では然々の行動の出来することが相応の蓋然性を以って予料される所以の“常道的”“合規則性”、これの成立する機序に目を向ける段である。」416P


posted by たわし at 01:59| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする