2026年03月17日

マルクス エンゲルス『共産党宣言』

たわしの読書メモ・・ブログ724
・マルクス エンゲルス/大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』岩波文庫(岩波書店)1951・1971 改訳
・マルクス=エンゲルス/マルクス=レーニン主義研究所訳『共産党宣言 共産主義の原理 他一篇』国民文庫(大月書店)1952
最近物忘れがひどくなって、しかも、以前にそれで読んだ岩波文庫が行方不明になっていました。さらにその上に、読書メモ585で、三読目の読書メモを残しているのをすっかり忘れていて、しかも、蔵書管理ソフトにないと勘違いして、新たにこの文庫本二冊を古本で買い求めました。
読書メモ585を遺したのは、「「マルクス主義者」は差別の問題を対象化しえてこなかった」という批判で、「共産党宣言」がサイードの『オリエンタリズム』の中などで取り上げられていたことを検証するためでした。そのことは後期マルクスの「資本論草稿」の中における転換ということで、マルクスの対象化しようとする志向性を読み取る作業が一部進んでいます。
今回の検証課題は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(「共産主義」の正体見たり「国家資本主義」、「共産主義」の正体見たり「全体主義」)という反共主義者たちのとらえ方に対する批判としての句が浮かび、マルクスがそもそも「共産主義」ということをどうとらえていたのか、そしてどう変遷していったかを、検証しようという念いが湧いてきたからです。この「幽霊」という言葉は岩波文庫版で、国民文庫では、「妖怪」になっています。「幽霊」は「死者の亡霊」というニュアンスなので、この宣言が書かれた当事には「妖怪」の方が内容的に合っているのですが、現在的に(「社会主義国家」ととらえられていた政権が崩壊した後、そもそもそれも国家資本主義でしかなかったことを)とらえ返すと、「幽霊」という言葉の方が剴切にとらえられます。
国民文庫版の「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」も読んだような記憶があるのですが、さらに、今回DVD「全集」で「共産主義の原理」をざっと読んだのですが、アナログなわたしとしては押さえきれないので、今回購入した国民文庫で二つとも読みました。岩波文庫版と国民文庫版を若干なりとも比較検証しながら、岩波文庫版にはない、他の二篇をも読み進めます。
岩波版と国民版の違い
岩波文庫版と国民文庫版の違いは、岩波は「宣言」だけなのに、国民は「共産主義の原理 他一篇」があり(「他一篇」とは前述した「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」1850です)、岩波には、序文に英語版があり、付録に英語版とドイツ語版との比較表が載せられています。また、解説が各々あるのですが、国民文庫版の解説は、「マルクス=レーニン主義研究所訳」となっているように、レーニン主義的とらえかたにずっぽりはまっています。これについてのわたしのコメントは後述します。
さて、国民文庫版の解説を読むと、エンゲルスが、「共産主義の原理」で草稿的文を書き、二人に委託された「共産主義者同盟綱領」の文を、マルクス主導でそれをまとめあげたというようになっているようです。これは二人が生きているあいだは一部を除いて刊行されなかった「ドイツ・イデオロギー」と執筆経過と同じスタイルです(これは廣松渉さんの「ド・イデ」編集でのとらえ方です)。
「共産党宣言」の位置
「第二回大会の一八四七年の十一月末から十二月はじめにかけてロンドンで開催され、マルクスも出席してながい討論ののち、マルクスの考えが満場一致で採用されマルクスとエンゲルスとは『宣言』の起草を委嘱された。」(岩波文庫版、訳者向坂逸郎「解説」110P)とあります。それが印刷物として出回る頃に、ブルジョアジーとプロレタリアートの歴史的に最初のはっきりした衝突になる一八四八年の二月革命が起きています。
「読書メモ585」の修整・補論
 まず、「「読書メモ585」の修整・補論」を書きます。「未開」という脈絡での話、サイードが批判しているところの引用は、「読書メモ585」で引用しているところを参照して貰えればいいのですが、手間をかけるので、切り取りのところと重複するのですが再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」岩波文庫版45P
そこから、更に続く文があり、そちらの方が重要ではないかと、書き加えます。
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。まさに、「文明−未開」という図式で、帝国主義の植民地支配を合理化していると今日批判されているところなのですが、この最後の「・・・・・・東洋を西洋に依存させた。」という文言が、サイードの「オリエンタリズム」という論攷につながるのです。
 さて、わたしが「読書メモ585」でもうひとつ指摘した「書かれた歴史がない」という脈絡は、序文をも含めたところで、読み通すと原始共産制という脈絡があります。これは第一章の有名な冒頭「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」岩波32Pに付けられたエンゲルスの註に「すなわち、あらゆる書かれた歴史である」と、それはでてきます。
 ただし、それは原始共産制という脈絡でてくるのです。しかし、また、その註の中で、まだそのような共同体の少なくとも残滓的なことが存在するとの記述が出てきます。それは「一九九〇ドイツ語版序文」の中に出てくるロシア語版の序文の引用にロシアの農村共同体(「オプシチナ」のルビ)の話があります。
これは原始共産制ではなく、マルクスが後に「資本論草稿」の中でアジア的生産様式論として、書かれた歴史として出てきます。それは、二人の連名の文ですが、おそらくマルクスの文です(*) 。「『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の崩壊[没落]が不可避的に迫りつつあると布告することであった。しかし、ロシアでは、資本主義[的体制]のぺてんが急速に栄え、ブルジョア的土地所有がいまようやく発達しつつあるが、またそれと並んで、土地の過半は農民の共有となっている。そこで次のことが問題になる。ひどく分解してはいるが太古からの土地所有の一形態[原始的所有の形態]である農村共同体(「オプシチナ」のルビ)は、共産主義的共有のより高い形態[土地所有のより高い共産主義的形態]に直接移行しうるであろうか? それとも反対に、そのまえにそれは西ヨーロッパの歴史的発展においておこなわれたと同じ崩壊過程を通過しなければならないであろうか?/この問題に対して今可能な唯一の解答は、次の如くであろう。もし、ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる。」岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)
これを読むと、少なくともマルクスは、先進国革命→後進国革命という図式、最も発達した資本主義から遅れて発達してきた資本主義・前資本主義に革命が波及していくという図式にとらわれない、すなわち単線的発達史観と言われているそれまでの主張から脱していると言い得ます。実は、レーニンは、「ロシア革命の「社会主義」革命の可能性」というところで、『ロシアにおける資本主義の発展』を書き、それでロシアはもう資本主義的に熟しているので、それまでの民主主義革命というところから飛躍させた「社会主義革命の可能性」として二月革命を受けて帰国した直後に四月テーゼを出します。これは、マルクスのロシアの農村共同体における革命の可能性という論攷は考慮されていないようなのです。結局ボルシェヴィキは、農業問題がネックになっていっています。
『共産党宣言』(特に国民文庫版)に見るエンゲルス(/『宣言』執筆時マルクス)とマルクス(後期マルクス)の違い
 前項で「(*)」を付けたところ、これは以前からあった『マルクス=エンゲルス全集』は、『著作集』にすぎないとして、世界的なマルクス・エンゲルス全集の協同編集作業が書簡・ノート・本への書き込みなど網羅して進む中で、とりわけ「資本論草稿」という後期マルクス研究の中ででてきていることです。マルクスは「アジア的生産様式論」の発見で、それまで進めてきた単線的発達史観や進歩史観ということの見直し的になっていったということが、「資本論草稿」の研究の中で明らかになって来ています。そこには、アイルランド問題−イングランドのアイルランドに対する属国的支配植民地的支配−のとらえ返しの中で、モルガンの『古代社会』やそれらを研究したマルクスの「古代社会ノート」が、「資本論草稿」の中に収められた文の中に出ているという指摘がでています。日本でその協同作業に参加しているのは、わたしが知る限り、佐々木隆治さんや斎藤幸平さんですが、その他外国の翻訳本の中にそれを見ることが出来ます(註1)。それを見て行くと、先に書いたエンゲルス主導説ということが、この「宣言」の草稿−「共産主義の原理」を書いたのがエンゲルスということ、また『ド・イデ』の原稿を最初に書いたのがエンゲルスということがあり、「経済学」の学習をマルクスに勧めたのもエンゲルスという話があります(註2)。それで、結局論考を深化させていくのがマルクスというようになっていきます。そして一方で、中期以降は、マルクスが論考を深化させていくのに対して、エンゲルスはどこまで付いていっているのかという話があります。具体的には、マルクスの転換の中で指摘したアイルランド問題をエンゲルスは、自分のパトナーがアイルランド人であったにもかかわらず、とらえきれていなかったとかという指摘があります。勿論、エンゲルスが独自に展開した論攷があるのですが、それが図式主義に陥っているとか、弁証法を法則的に絶対化していったという話がでてきます。そして、物象化という概念がとらえ切れていないというわたしの推論があります。マルクスとともに青年ヘーゲル派から出発しつつヘーゲルを批判・止揚していったにも拘わらず、後期エンゲルスはヘーゲルへの先祖返りに陥っているとかの指摘も出て来ます。
(註)
1 取り敢えず以下の文を、わたしがコメントを遺している資料として挙げておきます。
「たわしの読書メモ・・ブログ206/・佐々木隆治『マルクスの物象化論 資本主義批判としての素材の思想』社会評論社2011」
たわしの読書メモ・・ブログ331/・ケヴィン・B・アンダーソン/平子 友長・明石 英人・佐々木 隆治・斎藤 幸平・隅田 聡一郎訳『周縁のマルクス―ナショナリズム、エスニシティおよび非西洋社会について』社会評論社2015」
たわしの読書メモ・・ブログ573/・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020」
2 この通説には、マルクスの経済学的事始めは、ヘーゲルの経済学的展開から直接学んだという、『マルクス主義の成立過程』での廣松さんの展開−異論が出ています。

 いくつかの論点
(イ) 単線的発達史観のとらえ返し
マルクスは「資本論草稿」を準備し研究を進め執筆していく中で、アジア的生産様式論(それは著作物としては、『資本主義に先行する諸形態』)を出しています。また、前述した『共産党宣言』の序文や、更に、同じ内容のマルクスのサスーリッチへの手紙ということ中でも出ています。その内容は、共同体所有ということが、古代社会だけでなく、インドやロシアにおいても存在したという発見の話です。それまでは、「原始共産制(−氏族制)−奴隷制−封建制−資本制−来るべき社会としての共産制」という押さえをしていました。
(ロ) 世界革命論と革命の波及の図式
二人とも世界革命ということが必要であると言う押さえがあるのですが、かなりタイムラグがでてくる可能性も認めていて、それを当初は、資本主義の先進国から後進国へという図式でとらえていました。生産力の発達が資本主義的生産様式と合わなくなって、その一端として恐慌が起こり、それを繰り返して行く中で、プロレタリア革命が起きるとしていたのです。ところが、アイルランド問題のとらえ返しや、ロシアの土地の共同所有ということやモルガンの『古代社会』の研究と「古代社会ノート」の作成などから、「後期マルクスの転換」と言われうることが起きているという指摘が「マルクス・エンゲルス全集」の世界的な共同編集作業の中で起きています。エンゲルスにはそれが起きていないようだという指摘とともにです。それだと、それまでの「先進資本主義国から革命が起こるのではなく、ロシアの農村共同体から、資本主義を止揚する新しい社会が生まれる可能性があるかもしれない」ということになります。わたしはきちんと押さええていないのですが、ベトナム戦争などの帝国主義との闘いの中で、後進国革命論なども起きていました。
(ハ)国家主義的とらわれ(国家概念の矛盾するとらえ方)
 そもそも『ド・イデ』で国家=幻想共同体論が出ていたのです。また、「共産主義者には国境がない」という規定も『共産党宣言』の中で出てくるのに、「まず自国のブルジョアジー権力と闘わなければならない」とか、過程としてですが国有化論が出てくるのかがよく分かりません。マルクス・エンゲルスの共産主義論は当時かなり浸透していたアナーキズムとその運動との論争の中で出てきているので、プロレタリア独裁ということが必要であるということで(プロ独の必要性ということは二人とも変えていないようです)、国家権力の掌握というところで、国有化論や国家主義的なとらわれから脱しえなかったとも言いうるのかもしれません。このことの是非を検討しなければならないのですが、今日のファシズム的な隆起との対峙において、国家主義と差別主義との闘いということが鍵になるというところでは、国家主義からの止揚が必要になるということは押さえねばならないと思っています。
(ニ) 生産力至上主義と革命の主体の問題
マルクスは少なくとも単線的「発達史観」から脱したのですから、そのことをさらに深化してとらえ返すと、「生産力の発達と生産様式の矛盾からするプロレタリア革命」という図式からも脱することになります。ルンプロ規定が非正規雇用の拡大というところで、今日的に合わなくなってきているのと同様に、反差別というところから、マルクスの流れから出てきている、ネグリ/ハートの「マルチチュード」という概念や、グラムシやG.C. スピヴァクのサバルタン概念も出てきていて、更に、ベトナム戦争などで出てきた「民族解放闘争」というところからの後進国革命論なども押さえた、すなわち反差別というところからのとらえ返しが必要になっています。それはそもそも「差別とは階級支配の手段=道具」であるというレーニン的とらえ返しが、そもそも階級問題も、生産手段の所有からの排除、労働力の価値という二重に物象化されたヒエラルヒーという差別の問題としてとらえ返す作業も必要になっています。
 また、マルクスの『資本論』は資本主義の帝国主義的段階を十全に押さええていないという批判があり、またレーニン的帝国主義論だけでなく、ローザの継続的本源的蓄積論や今日的なグロバリーゼーションとしてとらえられる情況も押さえ、さらに、ファシズムの流れなどを、国家主義批判・差別主義批判として展開していく必要も出てきているのではと、わたしはとらえています。
(ホ)暴力革命論
 さて、「共産主義の原理」には「一六 問 私的所有の廃止は、平和的な方法で可能だろうか?」という問が出ていて、それは望ましいけれど、現実には「行動をもってプロレタリアの大義を擁護するであろう。」という答えで最後を結んでいます。
わたしは反差別ということをとらえ返すと、反暴力主義とならざるを得ないと押さえています。ただし、そもそも右翼やファシストの暴力主義クーデターの歴史をとらえる中で、非暴力主義にはなりえないと押さえています。勿論、いろいろな、とくに構造改革的な変革の可能性はあるのですが、このことは、現実的場面で判断していくしかないとも思っています。エンゲルスは晩年議会からの革命の可能性を模索していきます。それで、ドイツ社会民主党へエンゲルスが寄稿した文を、当事完全に議会主義に陥ったところでエンゲルスの文を改竄した問題でトラブルになっていたという有名な話があったのですが、議会的なことでの革命の可能性は、チリの教訓をも含めて、そして構造改革的革命論ということも含めて考えて行くことだとしか言いようがないとのとりあえずの提起です。
レーニンとマルクスの違いを『共産党宣言』からとらえる
幾つかの違いを見出せます@革命主体A既成の組織を利用できないB国境は無い・祖国をもたない、というところで違いが出ていると指摘できます。
まず、@ですが、『共産党宣言』では、「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という基本的な姿勢において、レーニンの外部注入論と批判される、革命の主体が結局革命的インテリゲンチャになっていることと対立しているととらえられるのですが、一方で『宣言』には、共産主義者前衛論と読めるところもあり、そもそも前衛論自体の止揚ということを考慮することが必要になります。Aに関しては、レーニンは現実主義において革命の防衛というところで、帝政ロシア時代の秘密警察のような機関を作っています。それが党の独裁というところで対立意見の者にも向かったところにおいて、原則を完全に踏み外しています。原則主義と現実主義の弁証法において、これは明らかな間違いだったと言い得るでしょう。Bは、レーニン自体は世界革命が必要だという思いは持ち続けていたようなのですが、ローザとの民族自決権論争などで、国民国家としての独立や自治ということを主張することにおいて、国家主義的なことに陥っていくことになります。それが、スターリンの一国社会主義建設論に繋がっていくことになります。革命の防衛というところでも、「社会主義」の防衛というところで、国家主義的陥穽に嵌まり込むことになってしまいます。今日的な観点からとらえ返すと、この国家主義への対峙ということが、必要になっていきます。
さて、レーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』において、ロシアは充分に資本主義的に発展しているとして、先進国革命の図式にはめ込んだのですが、実際には、農業的な要素が強く、農業問題において抑圧的な立場になってしまっています。しかも、マルクスがロシアに於ける農業共同体の特質に留意していたことが全然頭に入っていず、「ロシア革命」の時に、食料の確保ということで収奪的なことになっていますし、民族自決権に反する、ドイツとの講和において、農業地域のウクライナの分割さえ成しています。そのことが、今日のウクライナ戦争に影を落としているのです
さて、前述している単線的発達史観やそこから繋がる先進国革命から後進国にも波及していくという図式への批判への後期マルクスの転回ということから、対話が起きてきます。そのマルクスの転回、どうもエンゲルスはついていっていないようなのです。実は、レーニンは、『資本論』を読み込むには、ヘーゲルを押さえなければならないというようなことも書いています。そのあたり、先に指摘したエンゲルスのヘーゲルへの先祖返りとシンクロしているのです。ですから、後期マルクスの転回ということでいえば、マルクス・レーニン主義というよりも「エンゲルス・レーニン主義」と言い得ることではないかと思ったりしています。
 最後に、この読書メモに話を戻しますが、 特に国民文庫版「解説」は、紛れもなくレーニン主義的になっています。
「共産主義」論
「原理」の「問一」では、「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76Pと出ています。
これは運動論的規定になっています。むしろ、存在論的規定においては、「共産主義とは私有財産制と分業の止揚である」という規定において、むしろ私的所有がなぜ生じたのかの分析と分業の機制についての論究が必要になります。
 さて、わたしは認識論的な深化において、廣松渉さんの論攷を学習して来たのですが、そのとらえ返しの地平からの論考を、過渡的に展開したいと思います。
言語の発生にも関わる、役割期待−役割遂行という、役割行動の進展の中で、協働的連関態的蓄積というところから、厖大なインフラや物的・精神的(「人類の叡智」とも言われるような)財の蓄積をなしていったのです。すなわちコモン(公共財)ということです。ところが、私有財産制がそれをゆがめ、1%のひとたちが99%のひとを支配するという情況を生み出しています。そのことを歴史の必然としてとらえるひとがいるのですが、それは、これからの可能性も含めて対話していくことだと、わたしは思っています。
これは、わたしの長年課題としてきたことで、それを書き出したら、本一冊分でも終わりません。とりあえず、この少し踏み込んだ文を掲載する「反障害通信」の巻頭言に「共産主義とは何か?」というタイトルで書いています。
(附記)
岩波文庫版切り抜きメモ・・・本文掲載分は割愛
[序文(群)]
(岩波メモ@)「・・・・・・最近二十五年間における大工業のはかり知れない進歩や、それとともに前進する労働者階級の党組織や、二月革命をはじめとしさらに進んでプロレタリア階級がはじめて二か月のあいだ政権をにぎったバリ・コミューンの実践的諸経験を考えれば、この綱領は今日ではところどころ時代おくれとなっている。特にコミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した。(『フランスにおける内乱、国際労働者協会総務委員会の建言』を見よ。ドイツ語版一九ページ。岩波文庫版九〇ページ。ここにこの点のくわしい説明がある。)・・・・・・」8P(「一八七二年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八七二年六月二十四年/二人の連名標記)・・・「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」
(岩波メモA)「『宣言をつらぬいている根本思想は次のことである。おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生まれる社会組織は、その時期の政治的ならびに知的歴史にとっては基礎をなす。したがって(太古の土地共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。――・・・・・・」10P(「一八八三年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八八三年六月二十八年/F・エンゲルス)・・・「太古」でなくても土地共有は発見された−アジア的生産様式
(岩波メモB)「この『宣言』には独自の経歴がある。それが出版された瞬間には、そのころまだ多数ではなかった科学的社会主義の前衛から、熱狂(ママ)的な歓迎をうけた・・・・・・」16P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・科学的社会主義と前衛
(岩波メモC)「ヨーロッパの労働者階級が、ふたたび、支配階級の権力に向かってあらたに充分スタートがきれるほど協力になったときに、国際労働者協会(「インテルナチュオナーレ・アルバイターアソチアチオン」のルビ)が生まれた。・・・・・・」17P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・国際労働者協会
(岩波メモD)「しかも、この『宣言』がでたときには、われわれがそれを社会主義宣言と呼ぶわけにはいかなかった。一八四七年には、社会主義者というとき、そのなかに二種類の人々が含まれていた。一つは、さまざまの空想的体系の信奉者、特にイギリスのオーウェン主義者とフランスのフーリエ主義者であり、これは両者とも当時すでに萎縮してしまって、次第に死滅していく単なる宗派(「セクト」のルビ)となっていた。もう一つは、さまざまの万能薬をのませ膏薬(「こうやく」のルビ)をべたべたはって、資本や利潤を少しも痛めずに社会の弊害を取り除こうとする種々雑多な社会的やぶ医者であった。両方とも、労働運動の外部に立ち、はるかに多くの支持を「教養ある」階級に求める人々であった。これに対して、労働者のうちで、単なる政変では充分ではないと確信し、社会の根本的改造を要求する部分、その部分の人々は当時みずから共産主義的と称した。それは単に荒けずりの、単に本能的な、時にはいくらか粗野な共産主義であった。それでも、この共産主義は、空想的共産主義の二つの体系、すなわちフランスではカペーの『イカリア』の共産主義、ドイツではヴァイトリングの共産主義を作りだすだけの強さをもっていた。一八四七年には、社会主義者はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した。社会主義は、少なくとも大陸では、サロンに出入りできるものであり、共産主義はその正反対のものであった。われわれはすでにそのころ、決然と「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という意見をもっていたのであるから、われわれは、二つの名前のいずれを選ぶかについて、一瞬も迷うことはなかった。それ以後も、この名前を返上しようとなどと思ったことはない。」18-9P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・なぜ、「共産党宣言」なのか? 社会主義との違い−様々な社会主義者たちとの違い――「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」の有名な文言
(岩波メモE)「『宣言』はわれわれの共同の著作であるが、私は、その核心をなす基本思想はマルクスのものであることをのべる義務があると思う。その思想とは次の主張である。いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的様式、およびそれから必然的に産まれる社会組織が土台をなし、その時期の政治的ならびに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される。したがって、人類の歴史は(土地を共有していた原始氏族社会が崩壊して以来)階級闘争の歴史であった。つまり、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった。そしてこの階級闘争の歴史は、次第に発展し、現在では、搾取され圧迫される階級――プロレタリア階級――が、搾取し支配する階級――ブルジョア階級――のくびきから解放されるためには、同時に、また究極的に、社会全体をあらゆる搾取、あらゆる圧迫、あらゆる階級的差別、あらゆる階級闘争から解放しなければならない段階に達している。」25-6P(「一八八八年英語版への序文」/ロンドン、一八八八年一月三十日/フリードリヒ・エンゲルス)・・・マルクスの唯物史観の発見と階級の廃絶の必要性 エンゲルスは未だにマルクスの「アジア的生産様式」を対象化していない。
[本文冒頭]
(岩波メモF)「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾーフランス急進派とドイツ官憲。」37P(本文・冒頭)・・・「幽霊」の文言、国民文庫版では「妖怪」
[第一章]
(岩波メモG)「今日まであらゆる社会の歴史は(註)、階級闘争の歴史である。」38P
(註) ここに「(二)」の註があります。次の「(岩波メモH)」で誌します。二つの版の違う註がついています。
(岩波メモH)「(二) [原註] (一八八八年英語版へのエンゲルスの註)すなわち、あらゆる書かれた歴史である。一八四七年には、世界の前史、すなわち記録された歴史に先行する社会組織は、全然といっていいほど知られていなかった。その後、ハクストハウゼンは、ロシアにおける土地の共有制を発見し、マウラーは、土地の共有制がすべてのチュートン部族の歴史的出発の社会的基礎であったことを立証した。そして次第に、村落共同体は、インドからアイルランドにいたるあらゆるところで、社会の原始的形態であること、あるいはあったことが発見された。そして、氏族(「ゲンス」のルビ)の真の性質および部族に対するその関係についてのモルガンの称賛すべき発見によって、原始共産主義社会の内部組織の典型的な形が明らかにされた。この原始時代の共同社会の解体とともに、別々の、ついには対立する階級への分裂がはじまる。私は、この解体過程を、『家族、私有財産および国家の起源』(第二版、シュトゥトガルト、一八八六年)において追求しようと企てた。」38P・・・ここが共産主義論の要。エンゲルスが註をつけているのですが、マルクスの註ではありません。「アジア的生産様式論」を発見し、単線的発達史観から脱しようとしたマルクスとの違いを読み取れます。エンゲルスもマルクスの「古代社会ノート」を受けて、『家族・私有財産・国家の起源』を書いていますが、『共産党宣言』を出しした当初の単線的発達史観から抜け出せていないように思えるのです。これには、厖大な検証作業が必要です。取り敢えずの提起に止めます。
「(一八九〇年ドイツ語版へのエンゲルスの註)・・・・・・」39P・・・前の版とほとんど重なっていて、こちらが記述が少ないので、こちらを省略。
(岩波メモI)「ブルジョア階級のこのような発展の一つ一つの段階にともなって、それにふさわしい政治的進歩があった。ブルジョア階級は、封建君主の支配下にあっては圧迫された身分であり、自由都市(「コンミューン」のルビ・註あり(省略))にあっては武装し、自治をもった組合をなした。そしてあとのばあいは独立した都市共和国、前のばあいは君主政体下の納税義務をもつ第三身分であった。次に工場手工業(「マニュファクチャ」のルビ)の時代になると、かれらは身分制的王制または絶対的王制において貴族と平衡を保つ錘(「おもり」のルビ)の役目を果し、大君主制一般の主要な基礎となった。そしてついには、大工業と世界市場とが建設されて以来、ブルジョア階級は近代的代議制国家において、ひとり占めの政治支配を闘いとった。近代的国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない。」41P・・・幻想共同体論(『ド・イデ』)と軍事的官僚的統治機構(レーニン)という国家規定が出ていません。
(岩波メモJ)「・・・・・・昔は地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代ってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係があらわれる。物質的生産におけると同じことが、精神的生産にも起る。個々の国々の精神的生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭は、ますます不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される。」44P・・・ここは文学だけでなく、むしろ生産物一般にまで、及びます。「国々」ということではなく、「協働態的連関」というところでの「生産物」とらえるとコモンというとらえ返しになります。
(岩波メモK) 45Pに「読書メモ585」引用文「参照ください」ですませようとしたのですが、手間をかけるので、それも掲載して)とそれに続く本文引用文があります。これも最初に引用しているのですが、再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」45P
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。
(岩波メモL)「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれ、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。は」53P・・・当時の時代状況的には、そのような側面があったのでしょうが、今日には、むしろ非正規雇用問題として、むしろこちらの方が多数化していく現実があり、ここに依拠する必要性が認められます。これは単線的発達史観の「先進国革命→後進国革命」という図式の見直しにも及びます。
(岩波メモM)「旧世界の生活条件は、プロレタリア階級の生活条件のなかですでに破壊されている。プロレタリアの無所有である。妻や子に対するかれらの関係は、ブルジョア的家族関係と共鳴なものをもはやもっていない。近代的工業労働、すなわち資本のもとに近代的制圧を受けている状態は、イギリスでもフランスでも、アメリカでもドイツでも同一であり、プロレタリアからすべての国民的性格をはぎとってしまった。法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョア的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョア的利益がかくされている。」53-4P・・・ブルジョア文化(家族・法律・道徳・宗教)への包摂
(岩波メモN)「ブルジョア階級に対するプロレタリア階級の闘争は、内容上ではないが、形式上は、何よりも第一に国民的闘争である。おのおのの国のプロレタリア階級は、当然まず自分自身のブルジョア階級を片づけねばならない。」54P・・・「国民的闘争」? 国境を持たないということとの矛盾 国家主義的にとらわれていく問題
[第二章]・・・「共産主義者」=前衛論になっていく可能性を感じられる文
(岩波メモO)「かれらはプロレタリア階級の全体の利益から離れた利益をもっていない。/共産主義者は、特別の原則をかかげてプロレタリア運動をその型にはめようとするものではない。/共産主義者は、他のプロレタリア党から、次のことによって区別されるにすぎない。すなわち、一方では、共産主義者は、プロレタリアの種々な国民闘争において、国籍とは無関係な共通のプロレタリア階級全体の利益を強調し、それを貫徹する。他方では、共産主義者は、プロレタリア階級とブルジョア階級のあいだの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。」57P・・・いくつかの矛盾。「国籍とは無関係な」とするなら、「国民闘争」という規定とは合わない。「つねに運動全体の利益を代表する」というのは、封建制的な勢力が存在するところで立てられている。利害の問題が階級問題に純化されたところでは、ブルジョア階級の利害は代表しない。
(岩波メモP)「共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。/ところで近代のブルジョア的私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。/この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産制の廃止という一つの言葉に要約することができる。」58P・・・共産主義の特徴−私有財産制の止揚
(岩波メモQ)「ブルジョア社会においては、生きた労働が、蓄積された労働をふやすための手段であるにすぎない。共産主義社会においては、蓄積された労働は、労働者の生活過程を拡げ、富まし、促進するための手段にすぎない。/したがって、ブルジョア社会においては過去が現在を支配し、共産主義社会においては、現在が過去を支配する。ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。」60P
(岩波メモR)「諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することにおどろく。ところが、諸君の現在社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。これは十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。すなわち諸君は、社会の途方もない多数者が財産をもたないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとすることに対して、われわれを非難しているのである。」61P・・・私有財産制の廃止ということの道理
(岩波メモS)「ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。/ここに問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。」64P・・・フェミニズム的論攷−産む性が物化されること批判
(岩波メモ㉑)「さらに共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。/労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。」65P・・・矛盾? 国家主義へのとらわれ。
(岩波メモ㉒)「諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相当する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。/プロレタリア階級の支配は、それをますます消滅させるであろう。少なくとも文明諸国が団結した行動をとることは、プロレタリア階級解放の第一条件の一つである。」65-6P・・・前半はネグリ/ハートが陥った論理、国民国家の意味・国家主義的差別排外主義を読み落としている−継続的本源的蓄積論における差別と国家主義の意味を押さえる必要があります。後半は、まさに国家の死滅という『ド・イデ』の地平。しかし、先進国から後進国へという図式主義。
(岩波メモ㉓)「プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。/このことは、もちろんなによりも、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。したがって、その方策は、経済的には不充分で不安定に見えるが、運動が進行するにつれて、自分自身を乗り越えてすすみ、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる。/この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるであろう。/とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。/一、土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。/二、強度の累進税。/三、相続権の廃止。/四、すべての亡命者および反逆者の財産の没収。/五、国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。/六、すべての運輸機関を国家の手に集中する。/七、国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。/八、すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。/九、農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目ざす。/一〇、すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育を物質的生産との結合。等々、等々。」68-9P・・・革命への途、生産力発展至上主義、プロ独論の原型、しかし国家所有論では国家資本主義の陥穽に落ちます。また、強制的なことが出ています。
(岩波メモ㉔)「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべてのひとびとの自由な発展にとっての条件である。」69P
[第三章]
国民文庫版の「共産主義の原理」という草案と対比してみること。
[第四章]
「読書メモ585」参照。特に追加事項ありません。
[解説]省略

国民文庫版切り抜きメモ
『共産党宣言』の文での岩波版との対比が必要ですが、ここでは省き、「共産主義の原理」から入ります。
「共産主義の原理――共産主義者の信条草案――」
(国民メモ@)「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76P・・・運動論的定義、存在論的には?−これを主題にして別稿を書くこと(本号、巻頭言参照)
(国民メモA)「六 問 産業革命のまえには、どんな働く階級がいたか?/答 ・・・・・・古代には、はたらくものは所有者の奴隷であった。・・・・・・中世には、はたらくものは土地所有貴族の農奴であった。・・・・・・中世および産業革命までは、そのほか都市には手工業の職人があって、小ブルジョアの親方のもとにやとわれてはたらいていた。そして、マニュファクチュアが発展するにつれてマニュファクチュア労働者もだんだんあらわれきたが、これはすでに大資本家にやとわれていた。」80P・・・まだ、さまざまな労働形態があります。次々項参照
(国民メモB)「七 問 プロレタリアは、どういう点で奴隷とちがうか?/答 ・・・・・・奴隷はブロレタリアより生存条件のよいこともあろうが、しかし、ブロレタリアは奴隷よりは高い発展段階のものであって、またそれ自身としても奴隷よりも高い段階に立っているのである。・・・・・・」81P・・・「生存条件」とは、奴隷は「飢え死にする自由」や「競争を強いられる」ことを一応免れ得ること、プロレタリアの「飢え死にする自由」は奴隷より「よりは高い段階」であると言えるのでしょうか? 発達史観・進歩史観へのとらわれ
(国民メモC)「八 問 プロレタリアは、どういう点で農奴とちがうか?/答 ・・・・・・農奴は、都会に逃げ出して、手工業者となるか、または、労役や生産物でなしに、金銭を地主におさめて自由借地農になるか、あるいはまた、自分の封建地主を追いだして、自分自身土地の所有者になるか、つまりどういう方法によるにせよ、とにかく有産階級になり、競争の仲間入りをすることによって自分自身を解放するのである。」82P・・・ただの商業的「下働き」や「家事労働者」・「娼婦」という労働者的存在の途を脱け落としています。変則的「解放」にすぎませんが。
(国民メモD)「一五 問 では私的所有の廃止は、もっと以前にはできなかったか?/答そうだ、できなかった。・・・・・・」89-90P・・・序文に指摘される、原始共産制やアジア的生産様式における土地共有ということが押さえられていません。
(国民メモE)「一七 問 私的所有の廃止は、一挙にできるだろうか?/答 いやできない。それはいま現にある生産力を、共同社会をうちたてるために必要な程度にまで一挙に何倍にもふやせないのと同じことだ。したがって、おそらくきたりつつあるプロレタリアートの革命は、現在の社会を徐々にのみ変革し、そしてそのために必要な生産手段の量がつくりだされたときに、はじめて私的所有を廃止することができる。」91P・・・生産力発達至上主義的になりかねない。その後の帝国主義論やファシズムの隆起、ローザの継続的本源的蓄積論などの他のモーメントを押さえることが、必要になっています。
(国民メモF)「一八 問 この革命は、どんな発展への道をたどるだろうか?/答 ・・・・・・(8) すべての子供を、母親の養育なしでやっていけるようになるところからただちに、国家の施設で、無国家の費用で教育すること。教育と生産との結合。」91-4P・・・これは、『共産党宣言』の「二」の最後のところ(55-6P)との対比で押さえることです。どちらも、国家主義的になっていますが、特に引用している「(8)」はファシズム的論攷になっています。さすがに『共産党宣言』の本文では使われていません。
(国民メモG)「一九 問 この革命は、ただ、一国だけでおこりうるだろうか?/答 いやおこりえない。・・・・・・だから、共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。・・・・・・」・・・これは、「先進国革命から後進国へ波及していく」図式なのですが、後にマルクスが「岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)」の中で書いているアジア的生産様式の発見、取り分けロシアの「農村共同体(「オプシチナ」のルビ)」の発見からするロシア革命の先導の可能性や戦後出てきた後進国革命論との対話が必要になっています。
(国民メモH)「二〇 問 私的所有を最終的にとりのぞいた結果は、どうなろうか?/答 ・・・・・・生産力を共同で計画的に利用するための社会全員の一般的な結合。あらゆる人の欲望をみたすほどの生産の拡張。ひとりの欲望が他の人を犠牲にしてみたされる状態がおわること。階級と階級対立とがまったくなくなること。これまでのような分業をなくすことによって、産業教育および仕事の交替によって、すべての人の生産した利益にあらゆる人があずかることによって、都市と農村との融合によって、全社会成員の能力を全面的に発展させること。――以上が私的所有を廃止したおもな結果である。」95-8P・・・私有財産制と分業の止揚という共産主義の基本概念の問題 分業とは役割分掌の固定化

「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」
(国民メモI)「・・・・・・一七九三年のフランスと同じく、今日のドイツでも、もっとも厳格な中央集権の実行が真に革命的な党の任務である(註)。」118P・・・次の項での修正も含めて、レーニンの中央集権制との対話を含めて検証すること。
(註) ここには「*」がついていて、次の「(国民メモJ)」の文が展開されています。
(国民メモJ)「今日では、この箇所が一つの誤解にもとづいていることを想起しなければならない。当時はボナパルト派や自由主義者の歴史的偽造のおかげで、フランスの中央集権的な行政機関が大革命によって導入され、ことに国民公会によって、王党および連邦党の反動派や外敵を克服するさいになくてはならぬ決定的な武器として使用されたということが、確実なことと考えられていたのである。しかしいまでは、ブリュメール十八日にいたるまでの全革命を通じて、県、郡、市町村の全行政が、統治者自身によってえらばれ、一般国法の範囲で完全な自由をもってうごいていた当局者からなっていたこと、この、アメリカのそれに類似していた州および地方自治こそ、革命の最強の槓桿(こうかん・てこ)となり、しかも、ナポレオンが彼のブリュメール十八日のクーデターの直後いそいでこの自治のかわりに、今日なお存続している知事政治――したがって当初から純粋な反動の具であった――をもってしたほど強力なものであったということは、周知の事実である。しかし、地方および州自治が政治的・国民的中央集権と矛盾するものではないと同じく、この自治はまた、スイスにおいてわれわれにあれほどいやな感じをいだかせ、一八四九年には南ドイツのすべての連邦共和主義者がドイツにおいてこれを通則にしようとした、かの狭量な州および市町村利己主義と、必然的にむすびつくものでもないのである。[一八八五版へのエンゲルスの注]」118P
(国民メモK)「・・・・・・/しかし、彼ら自身は、彼らの階級利益をみずからあきらかに知り、できるだけはやく彼らの独自的な党派的立場をとり、民主主義的小ブルジョアの偽善的言辞にまよわされて一瞬たりともプロレタリアートの党の独立の組織をわすれないことによって、彼らの最後的勝利のために、全力あげねばならない。彼らの鬨(「とき」のルビ)の声は、「永続革命」ということでなければならない。/ロンドン 一八五〇年三月/一八八五年チューリヒ発行のマルクスの『共産党裁判の暴露』にエンゲルスが掲載」120P・・・この文の最後の文 「 永続革命」の文言


posted by たわし at 01:53| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする