たわしの読書メモ・・ブログ723[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(16)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第三節 役割協働の存立性
(この節の問題設定−長い標題)「人間の行為は、共互的役割行為の場合は勿論のこと、当人は孤絶な対物的行為を営んでいる心算の場合であってさえ、一種の協働的営為の構制になっているのが常態である。協働的行為は、われわれの見地から規定するとき、(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型に分けうるが、いずれにしても、当事諸主体の行為が(協働を手段にすることによって達成されるところの)目的を共有する態勢になっている。――協働的態勢の成立は、発生論的には、共鳴的同調・対抗的即応・模倣的協応の機制にまで溯る。――行為主体は自覚的協働の場において、「客体我々」ばかりか「主体我々」を形成する。」343P
第一段落――人間の行為は殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制になっている 344P
(対話@)「人間の行為は、前章第三節で指摘したように、第三者的・反省的な見地から規定するとき、殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制を呈する。亦、分業的協働の態勢は、次篇において主題的に討究するように、制度的物象化をも遂げる。」344P
(対話A)「本節の主要課題は――協働の汎通性を確認することでも、協働の物象化を見定めることでもなく――、協働的役割行為の共同的目的達成型の構制を分析しつつ、前節から持越した役割行為の共互構造の内在的検討を継続し、葛藤的構造を孕みながらも共同利害性=目的共同性の存立する構制、之に即して「主体我々」の現存在を見ることにある。とはいえ、行論の進め方としては、前節からの連続性を一旦中断する形になることをも厭わず、本来であれば前々節および前節において論じておく途もありえた発生論的・行動発達論的な基礎場面に溯って、役割行為・協働的営為の形成機序から論を起こし、以って前篇このかたの宿題にも応えておきたいと念う。」344P
第二段落――生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事 344-9P
(対話@)「役割的行為・協働的営為の発生論的機序について周到に論じようとする際には、生体の神経生理学的機構をも配視しなければならないであろう。がしかし、爰ではそこまで周到を期すことは紙幅が許さない。(著者は、本書では当面、身心関係については随伴説に仮託する形で議論を進めており、そのさい、条件反射の機制で屢々“説明”しているのであるから、そこでの神経生理学的機制に関してどのように自家諒解しているか、誌して然るべきであることを自覚している。だが、この論件については、別著『共同主観性の現象学』第一部の第三章および第四章で稍々詳しく論じておいたところの参看を願い、本書では割愛する。)爰では直截に、生体が一種独特の振動系である事実に留目することで次善としよう。」344P
(対話A)「生物体としての人間個体は、他種の高等動物も本質的には同様であろうが、優れて機能的な振動系を成している。それは多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられ、多種多様な振動の重合系である。それは非線形の非平衡状態を基底にしているにしても、揺動(flactuation)の引込み(entrainment)による同調化の機制によって、マクロには各位階・各位層の準定常的な振動系を形成しつつ、それらを重合している。そのため、生体は、振動的不安定性を孕みつつも、全体としては相対的に安定した振動相を呈しうる。――神経細胞は、電気的・化学的な諸刺激によって一過性の興奮を呈するが、定常的にリズム興奮しており、その固有振動リズムが刺激によって乱されることが情報伝達の一様式をなす仕組みになっている。神経系の興奮、神経を通じての情報伝達という事態は、物理・化学的な機構によって支えられてはいるが、物理・化学的状態そのものは振動装置にすぎないと言うこともでき、伝達・興奮の機能的な実質は振動であると言うことさえもできよう。求心的情報は振動状態の変化という示差をシニフィアンとして伝達されるのである。――今茲では、振動機構や遠心的・求心的な過程の振動的送達のパルス機構そのことに深く立入るには及ぶまい。当座の議論にとっては、生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事実を銘記しうれば足る。」344-5P
(対話B)「生体は内部的編制において振動系・共振系であるだけでなく、刺激受容の場面においても共振的であること、著者としては、今この事実を重視する。」345P
(対話C)「耳(聴覚器官)の機構を想ってみられたい。耳の内部機構は一昔以前にヘルムホルツやマッハが考えたような単純な共鳴器ではない。空気の振動(音波)との共鳴振動がそのまま弾性的振動のかたちで中枢に送達されるわけではない。中枢への送達は電気パルスに変換したかたちでおこなわれる。とはいえ、刺激収容の直接的場面では有毛細胞(の毛)が空気振動と共振する機制になっており、まさに受容装置と空気振動(音波)とが共振するわけである。そして、この共振的振動が、電気的パルスという別種類の振動に変換されてではあるが、ともかく、やはり振動のかたちで中枢へ送達され、謂うなれば中枢をも共振せしめるのである。」345P
(対話D)「眼の場合は如何? 光線は慥かに電磁波であるには違いないが、視覚的受容は音の聴覚的受容とは趣きを異にし、視覚装置が光波と共振するわけではない。しかしながら、視覚が可視的対象物の振動相を直截にキャッチできることを見落してはならない。対象物の振動に応じて(そこから反射されて到来する)光の布置が網膜の細胞上で振動する。そして、この振動が写像されて中枢に送還され、謂うなれば中枢的受容布置をも振動状態に引込み、間接的に中枢的状態を対象の振動と共振せしめる所以となる。」345-6P
(対話E)「惟えば、聴覚の場合、空気の振動と有毛細胞とが共振し、それの送達を受けて中枢的機能状態も共振する。そこで、振動という見地からみれば、恰度地震に際して地面と建物とか共振し地面と建物とが一体となった振動系を形成するのと同様、空気と生体とが一体となった振動系が成立していることになる。視覚の場合には、可視対象物の振動と視覚装置とが力学的に共振するわけでこそないが、対象物の振動と視覚装置の興奮布置の振動とが共振的になり、この共振的振動が中枢的機能状態を共振に引込む。このかぎりで、やはり、対象物と生体の機能的状態とを包括する一体的な振動系が形成されるわけである。翻って、個々の音ならざる音響リズムの知覚にさいしても、同趣の機制が認められよう。」346P
(対話F)「対象物の振動を触覚的に知覚する場合、ここでも直接的であれ、杖などを介してであれ、やはり、同趣の振動系が成立する。つまり、一方における対象物と、他方における皮膚的界面内の生体、これら両者の並行的共同振動というよりも、むしろ、両者を包括する一体的振動系が形成される。」346P
(対話G)「こうして、音声を知覚する場合、可視的対象物の振動を知覚する場合、可触対象物の振動を知覚する場合、対象的振動と共振的な生体振動が発生すると言うことができ、より剴切には、対象的振動と生体的振動とを包括する一大振動系が形成されると言うことができる。」346P
(対話H)「ところで、生物個体(皮膚的に劃された生体)は振動系として固有振動を有っており、このような個体どうしが共存の場に置かれたさい、共鳴、唸り、引込、同調、不調和、等々、振動学的な各種の現象を生じうることは、絮言するまでもない。断るまでもなく、著者は個体どうしの一切の関係を振動学的概念の枠組に押込むつもりはない。しかし、共振的現象が日常茶飯に見られるという事実、しかも、そのうちの或る種のものは間主体的関係の基礎的機制として、発生論的・発達論的な考察にとって極めて重要と目されること、この件を積極的に勘考する必要があろう。――R・ザゾやT・バウアーによって、生後間もない新生児が、母親が舌を出したり口をパクパク動かして見せたりするのに反応して、自分の側でも舌を突出したり、口をパクパクさせたりする観察事実が報告されている。この反応は、外部的に観察すると模倣(「まね」のルビ)行動のように見えるにしても、とうてい狭義の模倣行動ではありえない。現に、この反応はモロー反射などとも同様、やがて一旦は消失するのであり、生後二、三週間内にみられるにすぎない。この反応態勢は、ザゾも言う通り、「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)である。そのメカニズムはまだ解明されていない由であるが、これはおそらく一種の共振的機制に因って生じるものと思われる。――」346-7P
(対話I)「著者は、実践的世界における基礎的な体験現象であるところの、表情現象や情動現象を悉く共振現象・引込現象に還元するつもりはない。現に単なる表情知解の次元になれば情動的共振性は要件でなくなる。また、相手が怒ったり悲しんだりしているのを知って自分の側では喜ぶといった意地悪な情動性現象も存在しうる。がしかし、表情感得の次元、および、表示用感得と密着した情動現象の場面では如何であろうか。発生論的・発達論的にみて原初的原基的なこの場面においては、表情感得・情動反応はまさに共振的引込現象の機制に俟つのではないか。――著しい表情的顔貌・身振・態度は、ニコニコニコニコ、ワナワナワナワナ、ヒクヒクヒクヒク、ニヤニヤニヤニヤ、ピリピリピリピリ……というようにまさに振動的である。また、著しく情動的な発声は、キャキャキャキャ、ワッハハハハ、イッヒヒヒヒ、ウェーンウェーンウェーン……というように直接的に音写されるたぐいのものばかりでなく、ガミガミガミ、ブツブツブツ、ブーブーブーブー、シクシクシク……というようにリズム的に標記されるたぐいのものも振動的である。――なるほど、ニコニコといった顔面の振動運動やワナワナといった全身的振動運動は、そのまま弾性振動として他人に伝わって、他人の身体を直接に共振させるわけではない。また、ワッハハハハという音相で知覚される空気振動やガミガミガミというリズムで聴取される空気振動も、その音波的衝撃力で相手を共振させるわけではない。がしかし、上述の通り、視覚対象物の振動はそこから発する反射光束の視覚装置での受像相の振動となって写像され、この末梢器官で受信された振動相が中枢部に送達されて、謂うなれば中枢系の機能的状態相を共振せしめる。音波の形や強さやリズムも、またやはり、耳内部の有毛細胞をしかるべく共振せしめ、この振動相が電気パルスに変換され(シュナプスごとに逐次的なイオン反応−電気反応の継起を生ずることによって)求心的に送達され、中枢系の機能的状態相を共振に引込む。だが、この過程は、一方的に求心的なのではなく、中枢を介して遠心的にも伝播して行き、部位によって位相差はあるにせよ、謂うなれば全身的な振動状態を現出せしめる。こういう全体的な共振状態の局部的な表われとして、受信者側の顔面にもニコニコニコニコという発信者側のそれと共振的な顔面振動やワッハハハという発信者側のそれと共振的な声帯振動が現出する、という事態が生じうる。」347-8P
(対話J)「人間という生体は、音叉や共鳴箱のような簡単な機構ではない。外見的に見た場合、例えば互いに笑い合うとか、互いに嘆き合うとか、直接的な共振・共鳴のように見えるさいでも、中枢的過程を介してはじめて共振が成立する。音楽やダンスのリズムに乗るようなケースでもやはりそうである。しかしともあれ、事実の問題として、人間というこの振動系は、いわゆる表情感得・振動反応の場面において、存外とよく共鳴するように出来ているように見受けられる。」348P
(対話K)「この可能的共鳴・共振の態勢は、生体機構の類同性・同型性によってアプリオリに保証され尽しているわけでは勿論ありえない。人は或る部面から共鳴の仕方をも「学習」しなければならない。だが、原基的・原初的な局面における「情動の学習」、つまり、対人的関係場面でおこなわれる“情動性経験”、これは共振・共鳴の機制を措いては成立し得まい。とすれば、新生児と母親との「カップリング」等々、表情感得・情動反応の原初的・原基的な階梯において既に見られる共振現象、これを説明しえんがためには生得的解発機構として共鳴的機構が一応本具的であると解するのほかはないであろう。この共鳴的解発機構は、後天的に陶冶され再調整されるにしても、共振を現成せしめる可能的な機構そのものとしては生体に本具的な振動機構の筈であり、それが他個体のそれとのあいだに錯構造的な連関態を形成するものと考えられる。」348-9P・・・宿題にしている「生得的解発機構として共鳴機構が一応本具的である」という提題は物象化ではないかという疑問の解?
(対話L)「われわれは、今やこの振動機構を勘案しつつ――といっても、生理・物理的機構なるものの認識論的・存在論的な権利・身分については、第一巻最終節で表明したごとき厳しい限界決定を施したうえでのことであるが――、対人的応答、そこにおける個体間の共振・共鳴的な同調の進捗、ひいてはまた、対抗的即応や模倣的協応の進展に即して、役割的行動・協働的営為の形成と展開を縦観しておく段である。」349P
第三段落――役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態としての共鳴的同調行動 349-53P
(対話@)「役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態として、共鳴的同調行動を先ず配視しておこう。」349P
(対話A)「「共鳴的同調」行動というのは、第三者的に観察・省察すれば二人(または以上)の当事者たちの行動が同型的・同調的であるケースのうち、当事者自身においては、少なくとも一方が、自分の行動と相手の行動との同型性・同調性を現識していないような行動の謂いである。――例えば母親のあやしかけの音声リズムに応じて嬰児が共振するとか新生児どうしの泣きの「伝染」とか(但し、もう少し大きくなった時点での嬰児のいわゆる「もらい泣き」は別)、このたぐいの現象においては、両当事者のいずれも行動の同型性・同調性を現識していない。また、ザゾやバウアーの報告している新生児の母親との同調運動のごときにあっては、当事者の一方がそれを現識していない。(なるほど、このような場合についても、第三者的見地から“信号送受”とか“模倣調整”とかを云々する語法もありえようが、しかし、著者としては次元的混淆を避けるべく、信号とか模倣とかを拙速に云為することは慎しみ、右に挙げたケースのごときはひとまず単なる「共鳴的同調行動」と呼ぶ。) ――但し、共鳴的同調行動は、少なくとも一者の側の行動が無意識的な行動である場合とは限らない。両当事者とも意識的に覚醒していても差支えない。唯、自他の行動様態の同型性・同調性ということを(少なくとも一方が)現識するに至っていないという限定なのである。」349-50P
(対話B)「惟えば、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)は、動物学的にみるとき多分に未熟なまま出生するので、生得的=本具的な解発機構のうち多くのものが一応の完成態に達する以前から胎外的環境に置かれる。が、早産性・未熟性の故に、人間(「ヒト」のルビ)の新生児は重厚な保護を受ける。このため、新生児にとっての環境は、他種の動物が生後まもなく内存在(「イン・ザイン」のルビ)関係に入るそれに比べて、対物的刺激に乏しく、新生児にとっての到来刺激のきわめて多くが母親(養育者)に由来する。人間(「ヒト」のルビ)の新生児は、未熟なるが故に長期の保育を必須とし、ために、他種の動物よりもはるかに長期にわたって、母親由来の対人的刺激を主斑とする場に置かれる。こうして母親の養育活動への応答的適応が生存の基本的条件をなす態勢に長期間おかれるということは、嬰児にとって対母親の同調的適応ができなければ生存・生育ができないということをも意味する。――この生存条件に応ずる“造化の妙”とも言うべきか、新生児は母親との著しい共振現象を呈し、この無意識的な同調的動作、例えば微笑をはじめとする表情が、母親の側の濃密な働きかけを解発する。その働きかけたるや、未熟早生なるが故の動物学的必須性という域を超えて、あやしかけや戯れかけ、模倣的反復などに及ぶ。」350P・・・母性の強調? 乳母制度などの対象化
(対話C)「乳児の側での共鳴的同調行動が、こうして一種の信号的機能を演じ、母親の側の過分な反応的働きかけを誘発するという事実、これは人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)という動物種における行動発達論の前提として銘記されてよい一事実であろう。」350P
(対話D)「偖、乳児が生後まもない時点から母親の声や顔面表情に対していちはやく呈する共振的・共鳴的な反応はおそらくまだ意識性を伴った反応ではあるまい。しかし、ともあれ、乳児は早くから母親の声ひいては人声のする方向に顔を向ける。」351P
(対話E)「この現象は、左右の耳から入来する音波の位相が合うように自動的に調整する機制、単純化して言えば、風向器(風見鶏)が左右両側に請ける風圧が等しくなる(均衡する)よう自動調整されるのと類比的な、謂うなれば生体物理学的な調整機構に因るものと考えられる。また、凝視対象を正中面内で把えようとする頭部・眼球の運動も同趣の機制に因るものと見做されうる。(尤も本具的解発機構が備っていても、励起状態になれば、解発刺激が到来したからといって自動的に一義的反応が発現するものではない。生体の反応は外来刺激の一価函数ではない。)これらの現象は、光波や音波の位相調整という機制に留目するかぎり、まさに左右から入来・伝播する振動の相同化と相即する。」351P
(対話F)「視覚と聴覚とは、しかも、早期から協応しており、母親の顔面部は、単なる可視対象でも、単なる音源でもなく、両者の融合したもの、すなわち、音源的可視対象とでも呼ぶべき相にある。――理屈を言い出せば、視覚・視野と聴覚・音声とは無関係であり、視界の内部に音(音源)が定位される謂われはなさそうに思える。しかし事実の問題として、乳児は母親の顔面(口唇部)とか、ガラガラとか、視覚的に現認している対象物から音声が発していること(そこが音源であること)を直截に覚知する。この事実を説明しえんがためには、ともかく、視覚と聴覚との間に協応の機構(おそらく条件反射バーン)が存在するものと推定せざるをえない。――この協応的機制は、一般化して謂えば、音を視覚的対象へと音源的に帰属させる機制であり、音源的交信を可能ならしめる基本的一条件として重要である。が、それ以前に、初歩的な表情感得・情動反応・協応動作の解発される場面においてすでに重要な機能を演じる。」351P・・・「障害者」と言われる者たちの知覚認識にも論及する必要
(対話G)「乳児は、母親の声がすると、自分が激しく泣いているような場合を別にすれば、母親の顔に視線を向ける。そこで母親の当の声は、右に誌した音源的帰属の機制によって、それの発せられたさいの母親の顔貌に帰属化される所以となる。ここにあっては、声も顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される。」351-2P
(対話H)「溯って、新生児は、頬をつつくと口許をほころばすとか、口の周りに指先や乳首で触れると吸いつくとか、こういう無条件反射を現出する。が、このたぐいの触覚的・力学的な直接的刺激だけでなく、また、苦(「にが」のルビ)い味のものが口に入ると吐き出すとか、物が急激に眼前に迫ってくると眼を閉じるとか、このたぐいの味覚性や視覚性の刺激だけでなく、音声も反射的な行動を解発する。或る日齢に達すると、先刻来くりかえし誌してきた母親の声のする方へ顔を向ける反射のほか、一定の音調での呼び掛けに応えて微笑するとか、大きな音が響くと驚愕して行動を停止するとか、このたぐいの、音声を解発刺激とする反射的反応もある。」352P
(対話I)「一見するとこれはいかにも「信号受信−信号解読」にもとづく反応行動のように見えるにせよ、少なくとも原初的な場面では、生得的にビルト・インされている解発機構の発動による無条件反射と解さねばなるまい。反射とはいっても、無論、それは蛇口を捻ると水が噴出するというような単純な眼メカニズムによるものではなく、それなりに複雑な機構での連鎖的反応の帰結であるには違いない。が、適応刺激という鍵の挿入によって生得的機構の錠が開かれたともいうべき機制の域をいくばくも出ないものと言えよう。――尤も、皮膚への力学的刺激は延髄まで達したところで直ちに遠心的過程が発動されるのにひきかえ、音声刺激は大脳過程を介するという点で位階的差異を認めるべきかもしれない。だが、そうだとしても、ハード・ウェアもソフト・ウェアも、本具的なままのもので反応行動が発露するという点では、音声的刺激による解発反応のうちの原基的な位層も、やはり同工異曲と言えるのではないか。――乳児が、産院などでお互いに近くに居る時に、一人が泣き出すと他の者も共鳴的に泣き出す「伝染現象」が知られているが、これなどはさしづめ音声刺激によって共鳴的に解発(「アウスレーゼン」のルビ)される反射的行動と見做される。」352P ・・・宿題の核心?
(対話J)「嬰児は、以上いくつかの例を交えながら挿絵風に描出(「イラストレイト」のルビ)してきたように、生得的な解発機構を基底にして、各種の無条件反射を呈する。が、そのさい、視覚と聴覚との協応に限らず、一般には、有機感覚や触覚などをも含めてsensory cross-modal-matchingの機制に負う、かなり複雑な「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)反応を現出させる。その一斑として、ザゾやバウアーの報告している現象のような共振的同調や、母親の微笑表情に対する微笑(「ほほえみ」のルビ)返しなどの共鳴的同調が現成する。人間(「ヒト」のルビ)の行動発達の初期位相における母子間の共鳴・同調現象については、小林登・石井威望氏等の共同研究など、近年の我邦において瞠目すべき研究成果が蓄積されているが、ここでは共鳴的同調現象の発達を詳細に辿るには及ばないであろう。――」353P・・・動物としての規定性の強調?−「本能を喪失した動物」規定との関係?
(対話K)「当座の論脈においては、信号的送受や模倣的協応の前梯として、共鳴的同調という態勢が存在するという事実を銘記し、表情性感得と相即的に現出する共鳴的同調という共振的現象こそが新生児における対人的供応の原基形態であることを確認しておけば足りる。」353P
第四段落――信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面 353-7P
(対話@)「対人的共振と言い、共鳴的同調と言っても、それは同時位相で現成するものとは限らない。われわれは時差を隔てた同調現象(遅延模倣など)をも配視する必要があり、また変形された同型対応をも勘案する必要がある。ここでは同型的行動のプリミティヴな形態に即して「自他の行動の同型性」の対自化に関わる問題構制の一端を再確認したうえで、信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面に目を向ける運びとしよう。」353P・・・いわゆる「遺伝」の問題も押さえる
(対話A)「嚮に第一篇第二章第一節の行文中で援用した久保田正人氏の報告を想起して頂きたい。六ヶ月児g男は他人がレモンを舐める情景を目撃して直截に酸っぱそうな顔をしたのであったが、そのさい彼は以前に自分が舐めた折りの情景を想起的に覚識したわけではあるまい。この局面では、射映的情景を<舐める>という所識態で覚知するといっても、舐める行動なるものが概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)されるにはまだ程遠い域にとどまっていると想われる。が、レモンの視覚刺激と味覚刺激とを含む全体的刺激が酸っぱい顔の反応を最初に解発したのだとしても、レモンの視覚刺激だけで条件刺激になっているわけではない。g男は、おそらく、あのレモンに他の物体が接触するのを目撃したとしても、それだけではやはり酸っぱい顔はしないことであろう。酸っぱい顔を解発する“条件刺激”たるためには、レモンに接触するのが特有の姿のものであり、しかも、接触する仕方が特有な様式であることを要すると想われる。とすれば、<舐める>というゲシュタルト的所識態は、少なくとも、特有な姿のものの特有な仕方での接触を含意している。そして、姿態や仕方は、自分が舐める場合と他人が舐める場合とでは、射映的な相貌が甚しく相違するにもかかわらず、それら相異する射映的与件が<同一の所識態>で覚識される次第なのである。」353-4P
(対話B)「ここでの同一視は、おそらくアン・ジッヒであって、あれとこれとを自覚的に比較して確認する同一視ではない。さりとて、しかし、実験者の側は別段すっぱそうな顔はしなかったのであるから、それは決して表情的共振・共鳴といった、専ら第三者的にのみ観察される同一性ではない。アン・ジッヒではあれ、ここでの“同一視”はフェア・エスな事態の筈である。(今茲では生理学的な機制の推定には立入らないが、身心関係に関して前篇このかたわれわれが妥協的・暫定的に托している仮設に則れば、ともあれ如上の“同一視”を“随伴”するごとき身体生理的機制が成立するに至っているものと考えられる。そして、射映的相貌の異なる自・他の舐める行動という与件を<同一のゲシュタルト的所識態>で覚知するという二肢的二重性の構制がそこに存立し、この二肢的構制を可能性の条件としてg男の同型的反応が現成する。)」354P
(対話C)「単なる共鳴的・共振的な同調反応の域を超えた斯かる“同型的反応”の高次的形態として、発達心理学に謂う「延滞模倣」のごときも成立するが、さしあたっては信号的送受活動のプリミティヴな形態が見られる。今や信号的送受という対人共応(役割的協働)の原基的構制を論件とする段である。」354P
(対話D)「「信号送受」活動の初期的段階にあっては、「信号」「送信」「受信」といってもフェア・ウンスな規定であって、当事者自身においてはアン・ジッヒでよい。が、われわれとしては「信号(「シグナル」のルビ)」と「象徴(「シンボル」のルビ)」とはひとまず別種であることに留意して掛らねばならない。」355P
(対話E)「「信号」は、初等的には「象徴」以前的に、「無条件刺激−無条件反応」の解発の場面に根差す。一者によって呈示され他者によって知覚的に現認される所与的現相が、少なくともフェア・ウンスにはコード性を以って、他者の側に一定の反応行動を解発(「アウスレーゼン」のルビ)するとき、当の呈示現相を「信号」と呼ぶ。(「象徴(「シンボル」のルビ)」について、また「信号的結合」と「象徴的結合」との別などについては前篇第三章第一節を参看されたい。より詳しくは、別著『表情』の第三章第三節、および、別稿「記号論の哲学的次元」[丸山圭三郎氏との共著『記号的世界と物象化』所収]を参照頂き度いと念う。)」355P
(対話F)「発信・受信にはきわめて高度の意識性を伴う水準のこともあるが、われわれとしては最低を次のレヴェルに置く。――「発信とは、当事者が自分の為(「な」のルビ)している行動を能動的覚識を伴って調整しつつ、或る現相の出現を期待している事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、期待されている当の現相の出現が発信者とは別の能知能動的な主体の受信に縁る応答活動の所業であるケースの謂いである。われわれとしては、当事者の期待している現相が他主体の所業であることを当事者本人がフェア・ジッヒに意識しているような発信だけでなく、他主体の所業という認知的意識性はまだ欠けているようなレヴェルの発信をも認めようというわけである。(但し、唯単なる予期的・期待的な行動一般から区別する条件として、フェア・ウンスには見た場合の対他者的構制を種差的に導入していることに留意されたい。) ――「受信」の側についても、われわれはこれまた、信号の意識性を十全には伴わぬレヴェルから認める。所与現相の知覚的認知と相即的に一定の行動が解発される事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、(所与現相と解発行動とのあいだに少なくともフェア・ウンスにはコード的対応性があるという意味で「一定の」と右に記し、このことによって「能起−所起」関係を含意しているので、このことはあらためて述べないことにして)、当の所与現相が、被解発的行動者とは別の主体の身体的現象ないしその別主体に発源的に帰属する現象である場合、「受信」と謂う。この定義にあっては、単なる事物によって解発される行動は受信行動とは呼ばず、少なくともフェア・ウンスには、発信者が主体的存在者と認められる場合に限って、そこでコード的対応性を以って解発される行動を受信行動と呼ぶ(但し、われわれの定義では、発信者が発信の意識を自覚的に伴わぬ場合を含める形になっていることに注意されたい。)尚、「所与現相の知覚的認知と即応的に一定の行動が解発される事態のうち……」と上記したさい、「知覚的認知」が要件であって無意識的反射は除外されていること、「即応的に」であって“自覚的理由として”とか“惹起的原因として”とかではないこと、この点にも留意を願い度いと念う。」355-6P
(対話G)「さて、「発信−受信」という役割的協働行動は、発生論的・発達論的には、共鳴的同調行動から連続的に展開する。「発信」は、原初的には、空腹での渇望的に泣くとか、排泄後の不快時に泣くとか、こういう無意図的な、言うなれば自動的な生体的反応が偶々(「たまたま」のルビ)現出したところ、それが(母親の側の生得的解発機構に対する解発刺戟となって)一定の現相を出現せしめる体験、これに縁(「よ」のルビ)って成立するようになる。やがては、声を出すと、あの顔(母親)が現出するとか、両腕を差伸べると抱き上げせれるとか、このような体験にもとづいた信号活動も形成される。ここでの「発信行動−期待実現」は、心理学に謂うオペラント条件づけに照応するであろう。――オペラント条件反応はパブロフ型の古典的な条件反応と、神経生理学的な基本的既成すなわち新回路(「パーン」のルビ)の開通という機制では本質的に同一であるにしても、区別を要する。古典的条件反射の場合、先ず受動的に無条件刺激が与えられて(これに引続き報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられて)そこで一定の条件づけられた反応が成立する。それにひきかえ、先ず偶然的に或る能動的な行動が生起したのに引続いて、報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられる体験、これに縁って(一定のポジティヴな与件の出現を期待して、ないしは、ネガティヴな与件の回避を期待して)或る一定の行動がおこなわれるようになる条件反応がオペラント条件反応である。――このさいの、能起的行動と所起的現相とのコード的対応関係、これの一定性は、原基的には、上述したように、当の能起的行動が母親の側の生得的解発機構を解発する。生理機構上の反応的一定性に因る。また、当の行動と所期的現相との期待的連結は、体験的過去における「当の行動→当の現相出現」の記憶的パーンの励起に負うものと想われる。嬰児の側について言えば、原初的には、まずこのような準位での発信的行動が成立する。」356-7P・・・母性本能がビルトインされているという構図 ?
(対話H)「「受信」活動は、嬰児の側に即して言えば、無条件反射および古典的条件反射において端初的に形成される。嬰児の意識態においては、表情感得プロパー、すなわち「情緒価と協応価とを内自化せる知覚的現認」一般に応じて、“受信”的な行動が発現する。嬰児にとっての環界内的現相は悉く表情価を帯び、その内自的契機としての“信号価”を帯びている。このかぎりでは“発信”体が事物であるか動物や他人であるかは選ぶところがない。そこには、単なる共鳴的同調のケースも含まれうる。但し、われわれとしては、前記の通り、「信号送受的活動」従って「受診」という概念を、右よりも狭く定義し、少なくともフェア・ウンスに、能起的所与現相が「被解発的行動者とは別の主体の身体現象、ないし、その別主体に発源的に帰属する現象」であると認められる場合に限って「受信」というテクニカルタームを用いる。われわれのこの用語法に則るとき、嬰児が原初的な場面で「受信」するのは、当初は殆んど(註)専ら、母親の表情現象である。(既述の通り、母親の発する音声も、生後ほどない時点で、母親の顔面的表情に内自化され易い。)そして、嬰児の側における受信的な反応行動も、これまた、当初は殆んど専ら表情的現象である。笑顔に対する喜びの表情反応、穏かな表情に対する安堵の表情反応、心配顔に対する不安の表情反応、等々。――だが、これらの表情的な共振的同調には限らない。われわれの定義からすれば、嬰児の側が母親の表情を感得するという意識態において表情感得と相即的に呈する行動はすべて「受診」的反応活動に算入されうる。」357P
(註) ここは「始んど」になっていたのですが、「殆んど」の誤植と想われます。
第五段落――威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいを押さえる 358-61P
(対話@)「信号的活動の段階的な発展を跡づけ、交信的行動の進展を主題的に論じようとするさいには、発声や視線への追随という言語的記号活動の前梯も重要な論件となるが、われわれの当面の関心からすれば、威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいが茲で特筆されねばならない。」358P
(対話A)「乳児は母親が独得の音質と抑揚を以って鋭く発音する或る種の音声(ダメッ! メェー、等)によって行動を停止する。これは、原初的には、突然響いて来た大きな音に驚愕(「びっくり」のルビ)するだけのことかもしれない。がしかし、このさいの驚愕(「きょうがく」のルビ)的事態というのは、第三者的に見れば、乳児の側が一定の情動的興奮と相即的にその折りの身体的行動を停止する所以のものとなっており、母親の発した声が乳児の行動を抑止する機能を演ずる所以となっている。第三者的に言えば、母親の発した独得のその音声が乳児に行動を停止される信号となっているわけである。まずは、ともあれ、このような次元で、音声が反射的反応行動を解発しうる。そして、この音声は、先述した視覚的対象への音源的帰属の機制によってその折りにおける母親の顔貌に内自化されがちである。」358P
(対話B)「聴覚と視覚とが協応して顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される母親の声が乳児の情動的興発や反射的行動を解発するこの機制は、何も驚愕と停止だけに限られてはいない。独得の質態・度量・趨勢値の音声はそれに応じた幾種かの基礎的な反応行動を解発しうる。しかもそのような声は、母親の顔貌と融合するばかりでなく、むしろそれ以前に、母親の抱き具合の変化などに照応する種々な触覚性体感とも未分化的に融合しているのが普通である。人間(「ヒト」のルビ)の場合、胎内期から既に音声的分節化が或る程度までは既に進行していると言われるが、生後に感受される音声は、触感性の体感や母親の顔貌とコングロマリットを成した相で分化や汎化が進展するすると考えても大過ないであろう。まさに、表情的現認相・情緒価・協応価の融合的全一態を基底にしての分化・汎化である。――ここに心理学者流の詞を用いればクロス・モーダル・マッチングが形成されており、そのため、例えば警声というように、生得的な解発機構・無条件反射機構それ自体としては「音刺激→一定様式の斯々の反応」がビルト・インされているものであっても、協応的シェマの成立している他種の刺激感覚、例えば顔貌視知覚によって当の行動が解発されることも可能となる。この例で言えば、つまり、顔貌視知覚が条件刺激となって、生得的機制としては元来警声に応ずる筈の反射行動が、一種の条件反応として解発されるといった事態が生じうることになる。このさい、しかも、当の条件刺激たる顔貌の質態相・度量相の分化が、それは元々単独の視覚相ではなく、上述のコングロマリットの分化であるがゆえに、非常に精緻なものになりうる。」358-9P
(対話C)「乳児が分節的に知覚する母親の顔面表情は音声や触覚的体感と融合しているのが常態であるにしても、顔貌の或る種の視覚性刺激それ自身も信号価を有ちうる。なるほど、相貌的視覚性の刺激が乳児に一定の行動を触発する場合、上述の協応的シェマのもとで条件づけられた反射であって、無条件反射でないように考えられ易い。実際、表情的顔貌に対する反応には、広義の学習にもとづくもの、しかもオペラント条件づけにもとづくものが圧倒的に多いことであろう。しかしながら、相貌的視覚性の刺激を解発刺激とするたぐいの生得的解発機構が存在することには疑いを容れない。そして、動物実験心理学の知見(威嚇表情→恐怖反応)からすれば、顔貌という知覚的刺激が、それ単独で一定の情動的反応・共応的行動を解発しうる場合が厳存する。」359P・・・「障害者」と規定されるひとたちの生得的解発機構を考えること
(対話D)「顔貌的に感知される(他者の顔面から発する)視覚性刺激が解発する反射的行動のうちには言語的記号活動との関連で格別に重要な「視線の読み」「視線の追い」もある。これは、顔貌的に呈示される表情的与件が特定の共応的行動を解発する信号(「シグナル」のルビ)として機能するという部面でも重大な一現象であり、間主体的な協応的行動の陶冶的形成にとっても重要な基礎的一機制をなす。今茲では、視線の読みということがもつ生物学的な意義や、それが動物学的にみてどの範囲まで認められるかといった方面には立入らぬが、視線の読みは、視線単独の認知ではなく、それは顔面表情(時によっては全身的な身振・態度)の全体的感知の一成分をなしていること、この点を銘記しておきたい。」359-60P
(対話E)「われわれは、以上で、表情現象と密接に関連性をもつと想われる生得的解発機構による信号送受にアクセントを置いて一端を見てきた。動物の、従って/況んや、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の、情動的反応・共応的行動は、しかし、言うまでもなくその悉くが生得的な反射的解発ではない。生得的解発機構を基底的な存在条件としつつ、そこには条件的反応が後天的に加わり、これが生得的反応をも修整する。――条件反応の形成が広義の「学習」にほかならないわけであるが、この誘因的(incentive)刺激は、事物的与件に由来するものも勿論ありはするにせよ、動物的他個体(わけても同種の他個体、さしあたっては就中養育者たる母親)に因由する信号的刺激が圧倒的であり、亦、重要である。間主体的な協応がアン・ジッヒに現成して行くのも、生得的解発機制を前梯とする無自覚・自覚的な学習、すなわち、条件反応の重畳を通じてのことである。――乳幼児の側における信号受信的学習(養育者の側から言えば信号発信的教育)、これが行動のサンクショナルな規制の可能的機制であることは殊更に指摘するまでもなく容易に諒解されよう。」360P
(対話F)「行動発達論的な追跡が主題的に試みられる際には、右に謂う語の広義における「教育−学習」(これは役割的協働の重要な一定在形態でもある)の具体相の討究が図られねばならない。亦、われわれが爰でそれの端初的・初次的な局面に止目した信号的送受という活動についても、以後的な発展を辿り、言語的活動(さしあたってはいわゆる言語習得)をも論件とし、信号と象徴(熊野純彦氏に俟てばシグナル・シンプトン・シンボル)の記号論的な区別と連関を配視しつつ、信号活動と象徴活動との成立と相互媒介の問題などを論攷する課題を負う。このことを承知してはいるが、爰では協働の基本的存立構制、わけても間主体的共応の存在構造の対自化に主眼を置いているので(この論脈に属しながらも前篇から宿題として持越した論点に関わる限りで発生論上の幾つかの必須的論件にコミットするに止め)、発達論上の周到は期さないことにする。(この論件については、これまた不十全であるとはいえ、別稿「役割理論の再構築のために」第二章第二節の第二・第三項、別著『表情』第三章第三節などを参看いただければ幸いである。) ――以下では慌しく「模倣的協応」という協働の存立構造にとって直截に重要な論件に当座の主題を移すことを許されたいと念う。」360P
第六段落――模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制の分析 361-7P
(対話@)「先に一瞥した「共鳴的(共振的)同調」からの発達論的連続において模倣行動の発生を見定めたうえで、模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制を分析する運びにすることがここでの課題である。が、論者のありうべき疑義を防遏する含みで、事前に若干言を費しておくべきかもしれない。」361P
(対話A)「「模倣」が、協働の成立にとって、一般に社会的行動の形成にとって、極めて重要な機制であることは誰しも否定しないであろう。だが、学説史上、社会学的にも心理学的にも、模倣の位置づけをめぐっては、議論が岐れる。――周知の通り、模倣の法則を社会理論の基幹に据えたG・タルドの立場に対してE・デュルケームとその学派が厳しく批判し、一旦はタルド派を奢(おご)った看があった。G・H・ミードも亦、或る特殊な文脈においてではあるが、彼の時代に有力であった模倣を説明原理とする心理学上の理説を卻けている。近くはK・ホールやM・ゴスウェルが猿の行動発達に関して、動物心理学の方向における模倣説を批判するに及んでいる。――著者は、素より、模倣行動を社会的行為の基本形態に据える存念はない。がしかし、往時の模倣説が“粉砕”されたという形式的史実に跼蹐(きょくせき)することなく、事実として重要な模倣という行動形態にあらためて留目の要があると考える。今日では、嘗(「か」のルビ)つての論者たちのように自発的・自覚的な主体性を前提する構図のもとに行動形態の模倣的学習をもっぱら想定したり、或いは逆に亦、模倣本能なるものを前提として学習をことごとく模倣に還元する流儀で処理することは、無論もはや論外である。模倣は、決して、実体的個体の“知性的に自発的な行為”でもなければ、“本能的に自動的な行動”でもない。模倣的な動作は、対他者的な関係場において解発(「アウスレーゼン」のルビ)されるものであって、共振的同調現象と連続的であり、高次的形態にあってさえ一種の深層催眠的拘束の機制に俟つものであって、実体的内発性の発露ではない。とはいえ、模倣行動は、いわゆる自我形成の現場的階梯に存し、自覚的役割行動の形成過程とも相即する。けだし、これの討究を逸しえない所以である。」361-2P
(対話B)「偖、「模倣」という言葉は、日常的にも学理的にも広狭多義的に用いられ、単なる共鳴的同調や単なる追随行動のごときをも、第三者的にみて同型性・同調性が看取されさえすれば、直ちに「真似」「模倣」と呼ばれることもある。がしかし、著者としては、単なる「共鳴的同調行動」と「模倣的調整行為」とを区別して扱う。」362P
(対話C)「定義的に誌せば、模倣的調整行為とは、当事者たちのうち少なくとも一方が、相手の行動と自分の行動とが同型的になるよう、自分の行動を意識性を伴って調整している行為である。――この暫定的“定義”からすれば、例えば、母親の側が乳幼児の側の行動(発声、表情的顔貌、仕草などを含む広義の行動)を一方的に真似る場合も模倣的調整行為の一形態として含まれうる。行動発達論上の事実問題として、このたぐいの共鳴的・共振的事態、一種の教育的な働きかけを機縁にして乳幼児の側の自覚的模倣が大いに進捗する。――議論を進めるに方(「あた」のルビ)っては、しかし、母親の側さえ同型性の意識や同型化の意思を有せぬ場面での共鳴現象や追随現象から連続的に視野に収めねばなるまい。」362P
(対話D)「模倣は、各種の追随的・共時的な同調的反応を前梯とし、その共時的追随動作の過程で、例えば、意識性を伴った微笑とか、“良(「い」のルビ)イオ顔”とか“オツムテンテン”とか、このだくいの調整行動になってようやく現成するものと思われる。が、共時的な模倣であるかぎり、単なる共振的・追随的な動作であるのか、意識的な調整に因る模倣であるのか、判別をつけ難い。その点、いわゆる延滞模倣ともなれば、これまた半自動的な追随と目されうる初等的階梯がありうるとしても、嚮に定義した模倣の域に達している場合が多いものと認められよう。」362P
(対話E)「われわれが前篇のかた援用しているg男との関連で久保田正人氏の方来しておられるf女の事例が当面の行論にとって好便である。」362-3P
(対話F)「「百二十一日目のf女に次のことがあった。母親が歌をうたいながらベッドの柵(「さく」のルビ)を軽く叩いてやっていると、子供は母親を見て笑っていたが、やがて母親をじっと見つめはじめた。歌がおわると、子どもは独りで、母親のほうは見ずに、その歌のメロディーの一部を、うたいはじめた。……七ヶ月以後のf女は、大人がやっている掃除とか布団たたみとかをじっと見ていて、あとでそれに似たことを独りでやっている、ということが目につくようになった。//このような模倣にとって、手本と子どもとが日ごろ愛情で結ばれていることはひとつの有利な条件だと思われるが、このような条件がなくても、模倣は大変広範に起こっているのである。動作のまね、発声のまね、といわれることは、日ごろ個人的なつきあいのない動物同士、それも種類のちがう動物の間でも起こる。動物園ではその例が多い。ジャンプをしないと思われていたオランウータンが、チンパンジーの動作を見ているうちに、ジャンプをした、という観察もある」(前掲書、一九五頁以下)。」363P
(対話G)「ここに大いなる疑問が却って湧き起こる。一体、人間(「ヒト」のルビ)にせよ動物にせよ、その場面の模倣行動にこれといった生物学的意義はなさそうに思えるのに、何故そのような模倣行動をおこなうのか? 生得的解発機構が適応刺激によって発動されたものとも思えないし、他個体によって強制された様子もみられない。それにもかかわらず、何故、“遊び”に類する模倣行動が出来(「しゅったい」のルビ)するのか? 省みれば、学説史上、「尊敬にもとづく追従」説や「模倣本能」説が唱えられたのも、模倣行動の動機や発生機構が不可解だったことを一因としてのことであったと思われる。――群棲動物には仲間の行動を模倣する傾動が生得的であると言えば、そのとたんに本能説になってしまう。――」363P
(対話H)「この一大難問に正面から普遍的・一般的に回答を試みることは姑く断念して、まずは、模倣という与件事実そのものの構制を分析しておこう。この作業に当っては、Fort-da,peek-a-boo(いない、いない、バー)を論材にするのが後論との関係からもわれわれにとって便利である。」363-4P
(対話I)「「いない、いない、バー」は、なるほど、単なる共鳴的同調行動の域を超えたものであることは確かだとしても、当初から果たしてわれわれの定義する意味での「模倣的調整」行為であるかどうかは疑われうる。それは、「オスワリ! 」や「オ手!」を犬が条件づけられる流儀で、大人が手をとって仕向ける強制によって、受動的に条件づけられたものであろう。そして、大人の側がいないいないと言って眼を手で覆う仕草や発声は、初めのうちはたかだか条件刺激であり、嬰児の反応が条件反射にすぎないとすれば、それは初次的な信号送受的な活動ではあっても、到底まだ模倣的調整行為とは呼べない域に止まる。(いわゆる「遣り取りゲーム」すなわち「オ頂戴遊ビ」も、当初には、ほぼ同様であろう。)しかしながら、嬰児が、眼を瞑ったまま反射的・機械的に顔を手で覆ったり手を放したりする段階をすぎて、指の間から盗み見をしながら、相手の動作と位相・タイミングを合わせて「イナイイナイ・イナイイナイ・バー」をするようになっている局面では、明確に、われわれの謂う「模倣的調整」の階梯に達していると言えよう。」364P
(対話J)「乳幼児の側での模倣的調整行為が形成されるためには、それに先行する信号的活動の或る階梯で準備・形成される幾つかの機制が前提的要件をなす。第一に、ディスポジショナルな予期的知覚(予期的表象の籠った知覚、ともいうべきもの)の形成である。すなわち、現前する知覚的現相がどのように推移的に変貌していくかの趨向予見的知覚が成立していることである。予見・予期といっても、無論、それは遠い将来に関わる想像ではなく、謂うなれば、メロディ的知覚とでもいった時間性ゲシュタルト覚知である。(予期的知覚という稍々奇異に響きかねない表現を執る所以でもあるが、聴き慣れたメロディの頭初部が現出したさい、後続部が、表象的に分離して泛かぶのではなく、謂うなれば補完的融合相で予期的に現識される。或る種の既成的理論の見地においては、知覚は現在的感覚であり、予期は想像的表象である、とされ、予期が可能になっているのは、過去における継起的進展相の記憶が蓄積されているからだ、とされることであろう。なるほど、記憶的バーンが励起されていることは確かであろうし、予期的未来相が感覚的所与でないことは確かである。だがしかし、体験相の如実態を記述しようとすれば、メロディの頭初部に接した場合などに体験されるような“予期的知覚”とでも表現するのほかのないことは、読者の諒解を得られることかと念う。――茲では、フッサールの謂うProtention (未来志向)との異同は論(「あげつ」のルビ)らわないでおく。)「いない、いない、バー」などにおいてはまさにそのような“予期的知覚”が体験される。が、ディスポジショナルな予期的知覚、予料(「アンティツィパチオン」のルビ)というものは、何も対人的な信号活動的場面での期待だけに限られるものではない。運動・変化の推移を見慣れた物的現象に接する場面でもそれは成立する。この予料、予期的知覚ということが模倣的調整行為の可能性の条件として真先に挙げられねばなるまい。第二には、他個体がよしんば全身的個体相ではないまでも一応の“個体相”で分節化していること、第三に、乳幼児自身が、到底全身像でこそなけれ、皮膚的界面性において分節化されるようになっており、しかも、それの若干の部位とそこでの動作が、他個体における部位や動作と「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的な対応相で現識されるようになっていること。最低限、以上の三契機が前提的要件をなすであろう。――第二および第三の契機の形成については既に前篇の行論中で稍々先廻りするかたちで見ておいたので、ここでは、第一の契機に止目しつつ、模倣的調整の意識態勢を見定める段としよう。」364-5P
(対話K)「「いない、いない、バー」など、われわれの謂う稍々狭義の「模倣行為」のうちでの原基的階梯にあっては、嬰児が眼前に居る他人の身体的動作(発声を含む)をVorbild (眼前像=お手本)にしながら、それと同型的になるように自身の身体的動作を調整する。この同型化の意図的意識性を伴った行為は、しかも、ディスポジショナルな予期的知覚相に即応しておこなわれるのであって、Vorbildは必ずしも現在的知覚ではなく、むしろ予期位相になってくる。」365P
(対話L)「こうなると、やがて、予期的知覚が分化して、現在的知覚予見相を予兆とする予期的表象像が別に泛かび、むしろこの予期的な表象像がVorbild (先導像)になる。ここでは、他人の行動(表情や態度や発声を含む)の現在的知覚相と現相的予見が、@それに引続いて生ずることの予料される相手自身の将来的行動の「兆候」、A時によっては、この身の現出する所作の「信号(「シグナル」のルビ)」となりうるばかりでなく、B予期的にvorbilden(先行形成)されるVorstellungsbild(表象像)の「象徴(「シンボル」のルビ)」ともなり始めうる。(正確には、「象徴」的記号性予見の指し表わす<意味>は、単なる表象像とか知覚像とかいったレアールな現相ではなく、“イデアールな”所識態である。この所識態は、「現与の知覚現相」と「予期的に泛かぶ表象像」という両つの射映的現相予見が偕(とも)にそれとして覚知される意味的所識である。「信号」性記号予見の<意味>についても、それが認知されるかぎり、同趣の構制が存立する。が、いまここでは、恰かも予料的に泛かぶ表象像がそのまま意味であるかのような取扱いで暫く議論を運んでおく。尚、「目標」表象へ通ずる「予期的に泛かぶ表象像」は、<意味的所識>性ばかりでなく、「目的」という<意義的価値>性をも帯びるのであるが、この件にも今は立入らないでおく。)」365-6P
(対話M)「他人の身体的行動をVorbild としながら、そして、しかも、他人の身体的行動のディスポジショナルな推移相の予期的知覚を泛かべながら、自分の身体的行動をそれと即応的に同型化させる模倣的調整行為は、イナイイナイ・バーのごとき低位の階梯から、多階的に多様な発達を遂げる。――((註)茲は発達過程を順次的に追う場ではないが、次のことが銘記されねばなるまい。立つ・歩く・食う・着るの如き行動からして模倣的調整を介して甫めて成る。論者によっては、立つ・歩く・食うの如きは“本能の発露”であって、模倣的調整の成果ではないと考えるかもしれない。だが、狼少年たちを想ってみるがよい。彼らは四足で這っていたのではなかったか。ヒトには直立・歩行の“本能的”傾動がビルト・インされているとしても、それが発揮・実現されるためには模倣的学習が必要なのである。食うとか飲むとかいう行動すら何を如何なる行動様式で……ということになれば、ヒトの場合、模倣的学習に俟つところ大である。本能的自然のままなら当然吐き出す筈の物を嗜好したり、箸や匙で一定のマナーで食べたり、これは模倣的学習の結果以外のなにものでもありえない。立つ姿勢(「ポーズ」のルビ)、寝る姿勢、歩き方、食べ方、着方……表情の作り方……から、箸の上げ下げに至るまで、ヒトは悉く模倣的に学習する。そして、また、言語活動! 幼児の行動様式は殆んどすべてが模倣的学習によって身につけたものと言っても過言ではあるまい。) ――幼児の発達過程は、やがて、「オ遊戯」「グループ踊り」のごときを経て、相手がランダムに突如呈する身体的動作に追従する高位のものまで、多岐多階にわたる模倣的協応を現成せしめる。」366-7P・・・「生得的表情感得」ということを巡る「宿題」はフェミニズムからする「母性本能」ということへの批判というところからのわたしの反差別論的論考となっているのですが、ここまでの廣松さんの論攷で解けているのでしょうか?
(註) ‘(’が落ちています。最初の‘――’と最後の‘――’での‘( )’でここで落ちつくのではないかと。
(対話N)「慧眼な読者は、嬰児が、他人への行動相をVorbild としつつ、自身をそれと同型的に調整、行動する場面において逸早く“目標の実現に向けて自身を調整的に動かす”構制(目標実現型行為の構制)が存立することを、看取されるであろう。謂う所の“予期的知覚”が分化して、現在的知覚相とは別に予期的な表象像が泛かぶようになる局面では、予期的表象像は、企投的・内発的に創像したものでこそなけれ、“企投的目標像”に類するものとなっており、それが他人と自分との“共通目標”をなすことに徴すれば、そこでの模倣行為は第三者的にみれば、一種の“共通目標を目指す協同的行為”の構制を示す。」367P
(対話O)「人はここで直ちに模倣行動の次なる発達段階へと議論を進め、ゴッコ遊ビに基づく役割的協働の存立構造を分析する途に就くこともできる。がしかし、われわれとしては、ゴッコという発達段階については後に規則(「ルール」のルビ)・規範(「ノルム」のルビ)に則った行動(いわゆる“規則の習得”や“規範への随順”)を論件とする場面(次章第二節)まで持越すことにし、次には模倣とは別類型の或る基礎的な行為類型(対抗的即応)を配視しておきたいと念う。」367P
第七段落――「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢の勘考 367-71P
(対話@)「社会的行動の形成・発達を論攷するにあたっては、模倣的協応と密接不可分の行動形態として、「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢を勘考しなければならない。対抗的即応は外形的には一種の延滞的模倣の看を呈する部面を含むとしても――そしてこのために、発達心理学においてはとかくこれも模倣的動作に繰り込んで論じられる例が多いのではあるが――われわれの観るところ、発生論的にはむしろ別系統の起源と意義を有つものである。」367P
(対話A)「人がもし、「対抗的即応」の原基的階梯における典型として、「遣り取りゲーム」(オ頂戴遊ビ)のごときものを考え、それを「与える動作」と「受け取る動作」とに分解してしまうとすれば、その場合にはなるほど「模倣」と見做されるのも道理である。著者としても、このような分析的規定が顚(「てん」のルビ)から誤りだと言うつもりはない。がしかし、「遣り取り」ですら単なる時相のズレた模倣ではない。お頂戴といってあちらが手を出しているとき、こちらも頂戴の手を出したのでは勿論不可であるが、単に一呼吸おいて遅滞的に頂戴の手を出したのでも不可である。これでは、模倣的追随ではあっても、遣り取りにはならない。相手の「与える動作」に対しては自分は「受取る動作」、相手の「受取る動作」に対しては自分の「与える動作」という、相補的に適合的な即応的動作(このケースでは模倣の場合とは異なった、相手のそれとは非同型的な動作)で自身を調整することが要件である。このような相補的・即応的な対抗的行動という点で、それは模倣的同型化とは別種の行動態勢と言わねばならない。なるほど、模倣的同型化も相補的・即応的という点では同類と言われうるにせよ、種差的相違を見落としてはなるまい。」368P
(対話B)「惟えば、模倣的協応は或る種の共鳴的同調・追随的同調という前梯を有ち、発生論的にはその前階梯から連続的であるが、片や意識的な対抗的即応も意図的調整以前的な反応行動を前梯に有ち、発生論的にはそれら前階梯から連続的である。――われわれの謂う「対抗的即応」は、必ずしも敵対的とは限らず、友好的なものを含む。だがしかし、生物学的意義や機能からみるとき、母子間や胞輩間や異性間の友好的即応と、天敵や餌食や同種他個体に対する敵対的即応との、両義性を有つものと思われる。そして、いずれにせよ、「対抗的即応」と「模倣的協応」とは、系譜的にも構造的には、並行的・同位的ではなく、交錯する。従って亦、対抗的即応という概念と模倣的協応という概念とは、単純な上下関係にも単純な同位関係もなく、外延的にも内包的にも複雑に交錯する。」368P
(対話C)「今ここで対抗的即応という意識的調整の前史から辿り返す趣意はないが、嚮にはもっぱら友好的な同調として模倣的協応の先駆のように取扱った新生児の共振的・共鳴的な反応のうちの或る種のもの、例えば、母親が口をパクパクさせるのに即応して新生児が口をパクパクさせる反応のごときは、模倣的追随・同調だと思って喜んでいる母親には気の毒ながら、存外と敵対的即応かもしれない。すなわち、大口を開けて噛みつこうとしている相手に、自分の側でも噛みつく態勢で“本能的に”即応しているのかもしれないのである! この恐ろしい可能性は措くとして、先に信号的送受活動という視角で扱った行動は対抗的即応の構図になっており、原初的にはもちろん意識的調整ではないにせよ、かなりの早期から意識性を伴った調整的即応の準位に達しているものと思われる。母親の授乳行動に対する嬰児の側での即応的調整はかなり早くから単なる条件反射の域を脱しているように見受けられるし、抱き上げられるさい両腕を伸ばして抱きつく反応、ひいては、抱く人が交替するような場合、身を乗り出して移動の態勢をとる行動など、意識性・意図性を伴った調整による対抗的即応の萌芽がいちはやく成立しているのではないかと考えられる。」368-9P
(対話D)「時に、意識的・意図的に調整する対抗的行動なるものを、睨むとか身構えるとかの次元での即応まで拡張するとすれば、対抗的即応の前史ならざる本史が非常に早い時期から始まる所以となる。睨むとか身構えるとか喚(「わめ」のルビ)くとか、この種の行動は原初的には反射的に生ずるにしても、かなりの早期から意識性を伴って調整される行動になっているのではないか。上述したように、信号的送受行動もかなりの早期から意識性を伴った対抗的即応の準位に達することに鑑みれば、われわれは対抗的即応行動なるものの開始期を相当に溯らせて想定せねばならないであろう。」369P
(対話E)「ところで、対抗的即応行動は、同じく意識的調整行動といっても、通常の模倣的協応に比べて、「企投(projection,Entwurf)」にもとづく意志行為としての緊張度が高く、ここではまたEntwurfの構制も内省的に対自化され易い。そして、ここにおける「企投」の構制は「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制とも構造的に不二である。われわれとしては、このゆえに、「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制の原基相を対抗的即応行動に即しつつ好便に見据えることができる。」369-70P
(対話F)「このさい、同じく対抗的即応といっても、企投の構制を見据えるうえでは、敵対的即応を思い泛かべるのが好便であるように思う。――なるほど、人は信号的応答活動一般に定位して「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制を分析することができれば、いわゆる延滞的模倣行動に定位して「企投」の構制を分析することもできる。がしかし、何といっても敵対性の対抗的即応を念頭に置くと話を進め易い。――この故に、ここでは敵対的即応に暫く留目することにしたい。」370P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて、本線からは多少脱線することも憚らず、われわれの役割行動論ひいては協働行為論が視野の狭窄(ママ)に陥ることを防遏せんがために、敵対的行動プロパーに関わる論件を傍白的に挿入しておこう。/敵対的な行動の端初的形態は、ヒトに限らず高等動物においては一般に「睨み合い」であろう。同種の個体であれ他種の個体であれ、ともあれ他者の視線が自分に注がれているのを感知するとき、反射的に緊張が生ずる。わけても、相手の視線が真直ぐに自分の眼に向けられている場合、つまり、視線と視線とが対向する場合にそれが著しい。柔和な表情で視線が注がれている場合には此方(「こちら」のルビ)も一瞬の緊張が解けて顔面が弛緩し、以って一種の微笑的顔貌が期せずして現出する所以となり、それが相手の共振を喚(よ)び起こして微笑の共振をもたらす。が、緊張の面差(「おもざし」のルビ)で視凝(「みつ」のルビ)め合う形になる場合には、一種の睨み合いの状態になり、緊張感が共振的に亢進(こうしん)する。そして、表情の示差的な質態に応じて様々な情動が興発される。緊張の面持で視凝め合う場合、これはおそらく生得的な解発機構にビルト・インされている共振かと思われるのだが、憤怒・憎悪の激しい情動が亢(「たか」のルビ)まる。/原初的には、威嚇と恐怖は未分化のようであり、いずれにせよ射竦(「いすく」のルビ)め合っているかぎり、外発的な行動は互いに抑止され合う。この状態は、しかし、いずれにせよ長くは続かない。攻撃的前進か逃避的後退か、どちらかの姿勢が発現する。攻撃と逃避のどちらに天秤が傾くかは、いわゆる縄張り行動(テリトリーの侵犯・防衛)などの観察的知見などかせも窺われるように、環界的舞台をも包括した“心理的場”の函数であって、場から切離して両個体だけを比較し、単に戦闘力の優劣を諍う流儀で裁くことはいずれにせよ期し難いほど、複雑な諸要因の複合に因る結果だと目される。が、相手の身体から視線を外(「そ」のルビ)らすことは、他種間においても、それだけで攻撃の停止(擬人法的に言えば、攻撃の意志のないこと)の徴表的な信号として機能するものの如くである。尤も、他種間では、一方が攻撃する気のないことを表わしたからといって、他方が矛を納めるとは限らない。その点同種の個体間においては、高等動物の場合、狼の咽喉部の差出しとも類比的に、立停ったまま(つまり、逃走の態勢をとることなく)視線を外らす仕草は、相手の攻撃を自動的・反射的に停止させる信号的解発価を生得的に帯びているように見受けられる。これと同趣の機制として、特定の表情的表出(特有の恐怖的表情、悲鳴、落涙、泣顔、判り易く言ってしまえば“女子供の涙”(ママ)に類するもの!)が、少なくとも猿族においては、攻撃停止を反射的に解発するような生得的解発機構が一応は備っているものとみて大過あるまい。/ところで、対峙した両者が相譲らずに攻撃の態勢を崩さないとき、やがて格闘が開始される。動物界における戦闘動作は、噛みつく、角で突く、爪を立てる、後肢で蹴る、……といった方式であるが、手の自由になった高等猿類、わけてもヒトの場合、噛みつくという動物の基本的な攻撃形態も失われてこそいないが、手で殴る、衝く、物を投げつける……、直立歩行の可能ならしめる前蹴り……頭突きの変様ともいうべき組み伏せ……涯ては、首締め胴締め……といった特有な攻撃行動が主要形態になっており、手近かな事物・棒・竿・紐がいつでも武器になりえて攻撃・防禦の即応的行動形態と技術を極端なまでに多様化させている。さてこそ喧嘩の技術は大変なものであり、ヒトの場合、敵対的即応は幼児期から習熟を要する。」370-1P・・・ヒトは闘争する動物? 次の段落
第八段落――ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義 371-5P
(対話@)「読者のうちには、ヒトはなるほど複雑な行動形態での対抗的即応を余儀なくされる場合があるにしても、それは可能性であり、通常の幼児は敵対性の対抗的即応など殆んど経験しないのではないか、と反問されるむきがあるかもしれない。とすれば、友好性の協応的な対抗的即応ばかりでなく、敵対性の対抗的即応をも含む「対抗的即応」がヒトの行動発達論において極めて重要であるとするテーゼそのものも疑義にさらされる。それゆえ、ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義という問題性について、迂回をも虞(おそ)れず茲で多少述べておこう。」371-2P
(小さなポイントの但し書き) 「敵対性の対抗的即応は、動物界において、対抗力のある他種動物を捕食するもの(これは魚以上の脊椎動物ばかりでなく、昆虫などにさえ存在する)の生存条件であり、草食動物類にあってさえ捕食者や危害者から防衛するために生物学上須要である。種間での敵対に加えて、動物は種内においても、テリトリーの防衛とか、雌をめぐっての抗争とか、存亡を賭けた厳しい闘争を経験する。このような生物学的基礎条件に鑑みるとき、動物種には、進化論的淘汰圧からして、種間および種内の敵対的即応のノウハウが、本能的・生得的にビルト・インされているものと思われる。また殊に殺傷力を強く具えた種などにあっては、テリトリーの争いや雌の争いなどにおいて“無用”な種内圧迫や種内殺戮を回避できるよう、しかるべく生得的機構がビルト・インされていることが知られている。動物個体は各種の本具的機構・本能的機能を生理学的基礎条件として対抗的即応を演じる。格闘の技倆はなるほど後天的学習によって上達するであろうが、通俗的な言い方をすれば、対向の技能は生得的であると言えよう。・・・自然淘汰説への疑義、今西進化論の「棲み分け」とか……/人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の場合、慥かに、動物界の一般則では律しきれない様態的差異がある。樹上生活を営んでいた猿からの進化が、生物学的スケールでみれば余りにも急速に、生活の形態を激変させたため、人間(「ヒト」のルビ)は通則から多分に外(「はず」のルビ)れていると言われる。「狂った(ママ)サル」と呼ばれる所以でもある。樹上生活時代、昆虫や鳥の卵などを若干は食したにせよ、植物性の食物を主とする種属であったため、摂食のための格闘は必要としなかった。また、樹上生活では、大蛇や猛禽(「きん」のルビ)の危険が若干あった程度で、捕食者たる猛獣と不断に格闘する必要は免れていた。この前史からして、人間というサルは、種間闘争における格闘の本能的態勢において、生得的技能を余り発達させていない。器官的にも、鋭い牙や鋭い顎、蹴殺力をもった脚など備えていない。種間闘争の部面に関しては、樹上から平原へ進出した後にも、人類の祖先は、チンパンジーがそうであるように、集団生活を営み、バンドのテリトリーは厳しくなく、雌をめぐっての排他性も余りなく、種内での格闘を激烈に繰り展げるようなことはなかったと見られている。このような次第で、人間(「ヒト」のルビ)は格闘の応変な技能に長(「た」のルビ)けていないだけでなく、ローレンツなどの指摘するように、同種の個体間の格闘を停止させる生得的なサインとそれによって解発される制止機構を十分に具えていない。(そのこともあって、人類史はまさに種内抗争の生物学的歯止めが効かず、私闘という形態であれ。戦争という形態であれ、弾圧や処刑という形態であれ、涯てしない殺傷に血塗られてきた。)がしかし、格闘的抗争の技能や抑止機構が先天的に十分に発達していないという事実も、人間(「ホモ」のルビ)が動物たるかぎり、敵対性の対抗的即応の本能的技能をそれなりに具えていることを覆いうるものではない。(因みに、蛇や蛙を見て思わずゾーとするのはいわゆる「種の記憶」による本能的機制、つまり、人間が人類になるはるか以前の進化段階で爬虫類を天敵としていた時代にビルト・インされた反応機構に因るものではないかと言われている。動物の「闘争本能」という概念は今日では通用しないにせよ、闘争に対処する本具的機制・本能的技能は、格闘的スポーツの盛行を見れば瞭然とするように!数奇な進化を遂げた現生人類においてもなお失われていないことが強く銘記されねばなるまい。) ・・・? どこまでが動物性でどこまでが文化−「本能をなくしたサル」? 生物学的規定されるヒトと能為的ひととの弁証法/現に、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の乳幼児の行動には本能的な対抗的技能の発露ないしそれの直截的準備と目されるものが尠なくない。ヒトも見凝められれば見凝め返し、吠えられれば吠え返し、口を開けて現前するものがあればこちらも口を開けて反撃の態勢をとる。――バウアーの余りにも有名な実験によれば、生後わずか二、三日の新生児でさえ、顔面を直撃する方向で何かが迫って来ると、目を見開き、頭を退く姿勢で身構え、手をかざす防禦反応を示す。/乳児期を過ぎ幼児期ともなると、そこでは兄弟間や遊び友達間での喧嘩を見逃せない。――近年の日本などでは、慥かに兄弟の数が少なかったり年齢差が大きすぎたり喧嘩仲間に恵まれなかったりで、喧嘩しながら育つという常道から逸脱し、そのため大きくなってから種々の不全を生じているようであるが、一昔前まではいわゆる先進国においても、子供は兄弟や友達と喧嘩しながら遊ぶことを通じて対人行動の社会ルールを身につけたものであった。なるほど、女子は早期からしとやかになるが、それは文化的圧力による抑制の結果であって、生まれつき喧嘩しないなどというものではなく、或る時期までは男子に混って渡り合う。――ここで留目したいのは、喧嘩友達との遊びを通じて対人行動の規範的ルールを身につけるということの以前に、喧嘩という対抗的即応の身体的行動そのものの構制である。」372-4P
(対話A)「喧嘩=格闘という対抗的即応の幼児期的段階にあっては、多分に反射的即応のむきが強く、亦、外見的には模倣的同型化との区別もつきにくい。睨み合い、取組み合い……、ここでの体型や運動形態は共時的に同型的であり、外見的には模倣的協応のようにさえ見える。しかし、両者もし全く同型的に行動しているのであれば、相打ちになり、勝ちも負けもないことになってしまう筈である。実際には、殴りかかられれば、身を躱(「かわ」のルビ)したり、跳(「は」のルビ)ね除(「の」のルビ)けたりという別の行動形態で応じており、共時的に全く同型的というわけではない。同型的対応性は、体躯の構造的同型性に由来する外観であって、同型化的調整の所産ではない。仮令、交互的に同型的行動形態で応酬し合うにしても、猿真似とはわけが違う。それは延滞的模倣でもない。あくまで即応的対抗なのである。――なるほど、喧嘩=格闘における対抗的即応は必ずしも十全に意識的な調整行動ではなく、多分に反射的な即応であることを否めない。がしかし、意識的即応であるかぎりでは、あの“予期的知覚相”への即応という構制、いなむしろ、予期的表象像への即応性を意識した調整行動になっている。」374P
び(対話B)「この対抗的即応は、模倣的協応とは異なり、予期的表象像との同型化的な調整ではなく、攻撃的であれ、防禦的であれ、予期的表象像への即応的な行動の調整である。――喧嘩的格闘ともなれば、もはや、刺戟に対応した反射的な攻撃・防禦の自動的反応ではなく、それを通じて身につけた攻撃・防禦のしかるべき行動形態が、予期される相手の出方に応じて意識的に調整される。――対抗的即応における意識態勢を明晰判明に描出するためには、もう一段高等な対抗的即応に調整、例えばジャンケンとかドッジボールとかに即するのが好便である。だが、これについては後に(次章第二節)別の論脈と絡めて述べる予定でもあるので、今茲で直ちに触れることは差控える。この措置を採っても、読者は、先に(第一篇第二章第一節)論及しておいた「遣り取り」や言語的交信の初期的階梯という在り方での対抗的即応(非敵対的=友好的な対抗的即応)の構制を想起させるとき、対抗的即応の一定階梯が「役割期待の察知−即応的役割遂行」の対自的現成の現場であること、また、或る段階では対抗的即応行為が目標企投型行為の構制を対自的に有つに至ること、このことを納得されるものと念う。」374-5P
第九段落――模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見る 375-7P
(対話@)「発達論的にみるとき、高等動物においては、従って人間(「ヒト」のルビ)にあっては、共振的同調から連続的に、模倣的協応ならびに対抗的即応が成立するようになる次第であるが、一定の発達段階までは、少なくとも仔(嬰児)の側では、“予期的知覚”の意識性こそあれ、模倣的協応も対抗的即応も反射的・条件反射的な行動の域を出ない。やがては、しかし、模倣的協応行動や対抗的即応行動の発達の途次、予期的知覚が分化して知覚的現認相とは別に予期的表象像が泛かぶようになり、且つ、当の予期的表象像への同型化的調整または/および即応的調整が意図的におこなわれるようになる。予期的表象像を“目指して”の意図的調整といっても、当初は、そこでの予期的表象像は企投的な創出像ではなく、他者から期待されている在り方の察知像でもない。がしかし、まさに模倣的協応や対抗的即応の場において、前篇第二章第一節で嚮に見ておいた如き、「役割期待の察知−即応的役割の遂行」が自覚的におこなわれるようになり、亦、予期的表象状景の企投的実現がおこなわれるようになる。――発達論的には、目標実現型行為ならびにまた役割取得性行為が自覚的に成立する現場は、模倣的協応的行動または/対抗的即応行動にある。」375P
(対話A)「今茲では、右の発達論的過程を周到に跡づけることは課題外である。われわれの当面の目論見からすれば、模倣的協応および対抗的即応に見られる或る構制を見定めうれば足るのであって、そのためには模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見ただけで当座の間には合う。――尤も、本節における以上の行文は前篇から宿題として持越した論件を埋めつつ、次章ひいては次篇での論究への伏線を敷くという思惑も秘めたため、当座の必要最低限の域を超える、聊か長大なものになった。発達論的な議論としてこれを看るとき、本節の主題内で必須とされる域を超えながらも、十全な発達論ではなく、しかも初次的階梯で打止めるという奇態な形になっているが、意のあるところを汲んで頂きたいと願う。――」376P
(対話B)「われわれにとって今や、模倣的協応ならびに対抗的即応に予め関説したことによって、前節での「役割遂行の共互構造」論において“括弧に納めた”ままになっていた「並行共業的(協同型)役割行為」および「同時相補的(補完型)役割行為」の構制を見定め、以って亦、本節での本来の主題である役割的協働行為の存立性を(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型という類型に即しつつ討究する順路が拓かれるに至っている。」376P
(対話C)「偖、前節では共互的役割行為を、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けうる旨を誌しながらも、とりあえず(1)についてのみ論じ、(2)(3)はブラック・ボックスに納めたままで恰かも行論を中断するかのごとき風情に了っていた。が、この遺してきた問題を、いまでは容易に処理することができる。――模倣的協応行為も対抗的即応行為も、それらがすでに役割行為の域に達しているケースであっても、また直ちにはわれわれの謂う「並行共業的(協同型)」の共互的役割行為や「同時相補的(補完型)」の共互的役割行為、とは言えない。われわれが「共互的役割行為」というのは、前節で“定義”したように、「複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ) −他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為」の謂いである。この定義上の要件を充たすためには、模倣的協応や対抗的即応が、啻に期待に応えての役割取得行為として演じられるだけでなく、相手にとっての目的(この目的は同時に自分にとっての目的であっても可)を達成する手段としての意義を有たねばならない。相手に対する自身の模倣的協応行動や対抗的即応行動が当人の単なる自己目的であるだけでは共互的役割行動というには不足であり、また、それが相手によって期待されている行動の遂行であっても(それが相手にとって目的達成に資する手段的意義を有たず、謂うなれば模倣/対抗させることが相手にとっての“自足的目的”であるならば)それだけではまだ、共互的役割行動とは呼べないのである。――模倣的協応行為や対抗的即応行為のうちには、例えば、相手に同調して岩を押し転がすとか、握手をするとか、並行共業的(協同型)の共互的役割行為や同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成立させるケースがある。一般に、世に謂う「単純協業」つまり、斉同的な目標を共有しつつ斉同的な行動様式で協業する複数主体の行為は並行共業的(協同型)の共互的役割行為を成す。片や対抗的即応行為には各種格闘技などのように、奉納・上覧・興業といった目的(当事行為者たちの共有的目的)にとっての共互的手段行為とし演行される対人的行為ばかりでなく、例えば餅の搗(「つ」のルビ)き手と捏(「こ」のルビ)ね手、鍛冶の打ち手と返し手、などのように、一般化して言えば対抗的即応行為のカップリングによって甫めて或る単一の作業が成立しうるごとき対物的行為もある。これらは同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成す。(模倣的協応や対抗的即応がそのまま協同型や補完型の共互的役割行為になるわけではないことは上述の通りであるが、逆に亦、共互的役割行為と認められるたぐいの対抗的即応行為のすべてが同時相補型に属するのではない。このことに留意されたい。対抗的即応行為のうちには「順次交替型(交互型)」の共互的役割行為に算入されうるものもある。このことは前節において「遣り取り」や「商品交換」に即して論述したところを想起して頂ければ絮言を要せぬであろう。)」376-7P
第十段落――「協働」の(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、(3)分業的協働という三類型 378-82P
(対話@)「協働的役割遂行という観点から把え返すとき、並行共業(協同)型の役割行為は、行為当事者たちが共通単一の達成目的を共有する構制に成っている場合、「並行的協働」行為と規定される。同時相補(補完)型の共互的役割行為は、その同時補完的な応待的作業によって当事者たちが共通単一の目的を達成する構制に成っている場合、「拮抗的協働」と規定される。」378P
(対話A)「われわれは、「協働」を、(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、および、(3)分業的協働の三類型に分ける。」378P
(対話B−第一の)「第一の「並行的協働」というのは、複数の行為主体が共通的目的を斉同的な行動様式で追求する協働であって、「同調的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、行動様式の斉同性は、単なる外見的斉同というより、志向目標の共通的同一性からの反照的規制に已に負う。尤も、謂うところの共通的目的は、数的に単一な場合もあれば類的に同一であるにすぎない場合もありうる。――いわゆる「単純協業」がこれに属するが、われわれとしてはこの並行的協働という概念をより広義に用いる。例えば、斉唱や群舞、鞠(「ボール」のルビ)追いや獲物追い、横列になっての耕転や田植、駅や通路での斉同的歩行、お望みとあればサルトルの謂う集列(série)のうち買物の行列の如きをもここに算入してもよい。この単純な協働にあっても、集合的意識の特種的綜合(synthèse sui generis des consciences collectives)が早速に生じ、特有なグループ・ダイナミズムが作(「はた」のルビ)らきうるのであって、「主体我々」が形成されることもありうる。が、今茲では、さしあたり、共通目的を追求しての斉同的動作が形成する協働性、ということに留目するに止めておく。」378P
(対話C−第二の)「第二の「拮抗的協働」というのは、複数の行為主体が同時相補型の共互的役割行動を営みつつ、各々の直接的目的高度が拮抗するにもかかわらず、高次的単一目的を共有する構制に成っていて、「応待的協働」と呼べる特種的綜合が形成される部類である。――このさい、目的行動の拮抗性といっても、それは敵対とは限らず、単なる競合をも含みうる。当の拮抗的・応待的な行動の様式が共軛的に相互規制を受けることは附言するまでもない。この拮抗的協働は、例えば鞠なり獲物なりを斉同的に追っていた状態から奪い合いに転化する場合などのように、並行的協働からの転成の場合もありうる。が、われわれとしては、いずれにせよこの概念を広義に用いるのであって、発生論的には、対抗的即応の場面から逸早くこれが生起しうる。応待的協働のうちに、格闘技や勝敗を競う(つまり、一者の勝利という直接的な目的達成が他者の勝利=目的達成を阻止するという拮抗関係にある)競技やゲーム類、さらには、優劣(一等・二等・三等……等外)や合格・不合格を競うコンテストのたぐいをも、それが高次的目的を共有されているかぎり、算入しうる。亦、この広義の「拮抗的協働」には、二極的対抗だけでなく、三竦(「すく」のルビ)み・四竦みといった多極的な拮抗をも含めうる。そして、最広義の場合、生態学的均衡といった即自的な拮抗的協働をも包摂することができる。――ところで、この拮抗的協働=応待的協働においては両サイドの直接的志向目的の分極性が存立するわけであるが、その分極性目的の一つ又は夫々に関して複数の行為主体が「並行的協働」を自覚的に遂行する場合もある。このさいには、並行的協働者たちは一つのグループを形成する者として、自分(達)の側と相手(達)の側との二陣営に、分立の相で意識される。(三極的構造の場合には三陣営に、……分立化する。)ここにあっては、並行的協働者のグループ(陣営)が、拮抗的な対他者関係性に即して「同一の企投目的を志向している能作体」として覚識され、「同調的協働者たちの特種的綜合による一“主体”」の想念が生じうる。(単純な自他両陣営的な“主体”はがりでなく、「同盟軍」や「中立的第三者」の覚識も形成されうる。)拮抗性の意識されない単純な並行的協働=同調的協働の場面においても斯かる特種的綜合が生じうるにせよ、特種的綜合相での主体=我々の意識が本格的に現成するのは、発生論的にも、一般には、拮抗的な陣営的分立の覚識される場面を俟ってのことであろう。対物的協働の場で主体=我々の覚識が生じうるとしても、その際の物的対境は、単なる与件的対象事物ではなく、一種の対抗的陣営に準ずる相で覚識されているのが実情であろうかと思われる。が、グループ・ダイナミズムや特種的綜合相での能作体の問題などには後論で立帰ることにして、茲ではひとまず右の指摘に止めておく。」378-80P
(対話D−第三の)「第三の「分業的協働」。これは複数の行為主体たちが統一的目的を達成すべく分掌的行動を遂行するものであって、「担掌的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、統一的目的という同一目的が存立するにしても、協働者たちの行動様式は斉同的ではなく、各自の直接的な志向目標は斉一ではない。ここでは各自の行動の直接的志向目標が統一的高次目的にとっての手段であることが自覚されているかぎり、直接的な志向目標どうしが拮抗的であることすら妨げせれない。例えば、格闘なり競争なりであっても、それが奉納とか興業とか娯楽とかの統一的目的性の自覚であるかぎり、つまり、当面の勝利・優勝という直接的目的を志向する行動は統一的上位目的にとっての手段にすぎないことを当事者たちが自覚しているかぎり、われわれとしてはそれをも「分業的協働」に算入しうる。――発生論的には、分業的協働の自覚的遂行が遣り取り遊ビや模倣遊ビの或る局面から逸早く成立しているものと目される。亦、対話的言語活動も、直接的な音声表出や直接的な意味理解が自己目的ではなく、それらが上位的な達成事態への手段的中間態にすぎないことが自覚されるかぎり、早期からフェア・エスな分業的協働=担掌的協働の域に達していると言えよう。――分業には、いわゆる水平的分業もあればいわゆる垂直的分業もあり、並行的協働者グループや拮抗的協働者グループを単位として編制される高次的な分業的協働もあり、多種多様な様態が見られる。が、ゴッコ遊ビやティーム・プレー、合唱・合奏・芝居、生産活動の場における各種の分業的協業、儀式・祭事・政治、はては、教育から戦争にいたるまで、社会的活動の殆んど全域で自覚的な分業的協働が営なまれている。そして、分業的協働者達は極めて屢々「統一的目的の自覚的共有に基く特種的綜合相にある主体=我々」という相を覚識する。この件については、しかし、茲ではまだ登記に留めておく。」380P
(対話E)「われわれは、以上、当事主体たちの日常的・直接的な意識に現出する相に即して見た次第であるが、観察者的視座に立った学理的分析に際しては、当の事態が原理上は当事者自身において対自(「フェア・ジッヒ」のルビ)化されることが可能である限りで、協働連関態の存立している範囲を当事者たちが現実に自覚している範囲よりも拡充して画定することが必要とされ、また、それが許容される。すなわち、観察者的分析に際しては当事者の顕在意識にのぼっていない協働相をも即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)な協働として規定し、この相をも含めて討究することが必要とされ、且つ、方法論的に許されうる。――例えば、当事者たち自身は目的の共通性や行動様式の斉同性を自覚していない(乃至は部分的にしか自覚していない)場合でも、フェア・ウンスな見地からアン・ジッヒな並行的協働=同調的協働の存立を立論し、共鳴的同調や模倣的協応の初等的な場面から協働性の構造を指摘したり、当事者たちの直接的な視野外にまで伸びている集列(長大な列の遠方部やサルトルの謂う同一ラジオ番組の聴取者達)の如きをも含めて同調的協働を分析したりする作業、このたぐいの措置がそれである。拮抗的協働については、当事者たちが目的の分極性や行為の拮抗性を十分に意識していない場面や部分をも含めて、即自的な応待的協働を立論し、分業的協働については、当事者たちが目的の統一性や行為の分掌性を十分には自覚していない範囲や機構をも含めて、即自的な担掌的協働を立論すること等々。――」381P
(対話F)「観察者的分析においては、更に、当事者たち自身の意識上では統合的な上位の目的が存在しない場合であっても、協同的連関態の動向が恰かも或る一定の統合的“目的”を志向しているかの如き傾動と機能を体現している際には、上位的統一機能を体現する。“分業的協働”態として取扱うことが便宜である。――この取扱いに際しては、協働態が協働作業当事者たちの目的志向とはおよそ関わりなく実現する結末や機能を協働の目的と混合しないように呉々も留意を要する。結末の単なる機能的“合目的性”にすぎないものを企図された目的であるかのように錯認するとき、人は容易に、超越論的主宰者の目的であるとか、世界内在的な目的であるとか、「形而上学的な目的論」への途を開く所以となる。われわれとしては、エコロジカルなシステムをも配視するだけに愈々(いよいよ)、この弊を鋭意排却しつつ事に当たらねばなるまい。」381-2P
(対話G)「惟うに、機能的な合目的性、この擬似的な“統一的目的”性を措定するとき、実際問題として、凡そ大抵の協働連関態は一種の“分業的協働”連関態として取扱うことが出来る。というのも、「並行的協働」は、行動様式が斉同的であるとは言っても厳密には斉同的でなく、よしんば厳密に斉同的な行動であってさえ、“統一的目的”行動の分掌と見做される以上、“分業的協働”の一種に包摂されうるし、また「拮抗的協働」は、それの齎(「もた」のルビ)らす帰結を“統一的目的”に準(「なぞ」のルビ)らえるかぎり、応待的諸行動によって担掌される“分業的協働”と見做されうるからである。斯くして、協働の殆んど一切の定在が“分業的協働”として取扱われうるとすれば、――そこには現実の統一的上位目的が存在せず、たかだか機能的“合目的”性しか認知されないものが含まれるとはいえ、“分業的協働”の内部編制に即するかぎり担掌される行動がまさしく役割行動にほかならない以上――殆んど一切の協働連関態は役割担掌編制態として存立している所以となる。」382P
(対話H)「われわれは爰に観察者的視座からも規定し返される協働連関態、すなわち役割行動編制態の制度的物象化その他を討究する課題をも負うが、この作業は次篇に譲り、今茲では姑くそのための先件の幾つかを処理しておかねばならない。」382P
第十一段落――協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ 382-7P
(対話@)「協働とは共互的役割行為によって編制されているものである以上、そして、共互的役割行為は、前節で叙べたように、当事主体たちが互いに相手の手段となり合うことで夫々の目的を達するという構制において、利害の共同性=共同的利害性を存立せしめる構造になっている以上、協働は共同的利益を実現する。――協同的役割行為の遂行は、協働者たちの共有する統合的目的を達成するものとして、共有的目的を成就するものにもほかならない。――茲に、協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ。」382-3P・・・廣松コミュニズム論
(対話A)「協働態は、こうして、一定の高次的利益目的に即して観れば、協働者たちの一種の共同体である。がしかし、前節の行文中において見た通り、共互的役割行為なるものからして、それはなるほど共同的利害性を存立せしめるとはいえ、当事者たちの葛藤、矛盾・対立を孕みうるものであり、支配−服従の構造を含みうる。協働的役割行為編制態=利益共同体=目的共同体とは言っても、対等・平等な諸人格の協同とは限らず、また、直接的利害や直接的目的まで共通とは限らないのであって、実質的にはむしろ「幻想共同体」にすぎない場合もある。」383P
(対話B)「現実の協働態は、総体としてみるとき、国家の次元であれ、或る種の“地域社会”の次元であれ、いわゆる“企業”の次元であれ、たかだか幻想共同体にすぎないのが寧ろ歴史的事実である。だが、それにも拘らず、人々がそこに内存在する限り、一定の利害共同性、および一定の即自的な目的共同性の構制が“形式的に”存立していることも確かであって、その意味において、よしんば幻想的であれ、協働態は一応、利益共同体・目的共同体の構制を有つと言うことができる。」383P
(対話C)「例えば国家社会の場合、諸身分・諸階層の利害対立どころか、階級的な矛盾葛藤を孕んでいる。とはいえ、国家が分立している歴史的状況下にあっては、すなわち、言い換えれば、特定の国家に所属せざるをえない状況下では、個々人は国家社会に内存在することなくしては生きて行くことができないわけで(それも、生存権とやらの国家による保障といった次元のことではなく、生計の具体的・日常的な在り方が国家社会への内存在によって甫めて成立しえているという次元においてそうなのであって)、この限りで、国家社会という協働連関態に組み込まれていることが、個々人にとって生存という利害(生存という個々人が共有する利害)に適っている所以となる。が、これは最低限の話であって、国家が分立している歴史的状況下では、国家の各々は他国による“脅威”に不断に曝されており、開戦して敗戦という破目になれば勿論のこと、緊張下で劣勢に立たされているだけでも、社会的・経済的・政治的生活上、殆んど全国民がさまざまな不利益を直接/関説に被むること必定である。そのため国家の隆盛が殆んど全国民にとって、共同の利益なるものと意識され、国家の隆盛が共同の目標として思念されることにもなる。現実には、国家が隆盛しても、被支配階級の生活が改善されるという保証があるわけではない。極端な場合、自国が他国を経済的に収奪する事態になったとしてさえ、被支配層が“オコボレ”に与(「あず」のルビ)かるとは限らない。が、しかし、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が緩和されること期待できるとか、少なくとも自国が外国に服属するようになった場合に予測される水準よりは“まし”な筈であるとか、これは一応言える場合が多いであろう。茲に、国家が運命共同体として思念され、国家の隆祥が“共同目的”として志向されることになる。階級階層間の、降っては、成員個々人間の深刻な利害対立を孕んでいる以上、国家社会なるものは、およそ真正の共同体ではなく、マルクス・エンゲルスが指摘する通り、幻想的な共同体(illusorische Gemeinschaft)にすぎないのだが、しかし、マルクス・エンゲルスが併せて指摘している通り、それは単なる幻想というわけではなく、一定の物質的利害の共同性に客観的基礎をもつのである。」383-4P・・・物象化された相において、幻想共同体としての国家へのとらわれ−国家主義は、批判・克服しうる。
(対話D)「別の例として、資本制的企業の場合をも一考しておこう。資本−賃労働関係にもとづく資本制企業は、断じて雇用者(資本家)と被雇用者(労働者)との共同経営体ではなく、労働者はさしあたり賃金の獲得が目的で働くのであって、企業の業績は労働者たちにとって直接的な関心事ではない、と一応は言うことができる。賃金は事前の協約にもとづいて支払われるのであり、業績の良否が賃金額に直接響くわけではない。が、しかし、継続的雇用が見込まれている場合、業績不振・倒産ということにでもなれば継続的な賃金獲得が覚束なくなることに鑑みれば、労働者にとって、継続的雇用による賃金の取得が“利益”と意識され、この“利益”を確保するための条件として、企業の業績を一定水準以下に降下させないようにすることが労働者側をも含めた“共同利益”ということになる。最小限で然うである。現実問題として、業績が向上したからといって賃金が増額される保証はないものの、経営不振の場合に比べて相対的に“よりまし”な賃金が期待されうる。資本制企業は国内国外の同種的企業と激烈な競争関係にあり、弱肉強食の状態にあるとあってみれば、企業の“生き残りを賭けた”競争に打ち克つべく、“業績の向上”に努めることが企業体成員の“共同利益”に適うものと意識される。ここに、企業の産品(市場に供する商品一般の謂いであって、物品とは限らず、無形的サーヴィスの如きをも含みうる)を質的により良く量的により多くし、以って業績を向上させること、之が企業という協働的連関態=協働態の“統一的志向目的”に擬せられる所以ともなる。(日本などのようにいわゆる終身雇用制が定着している所では、つまり、途中で就職先を変えると一般には不利である条件が成立している所では、企業の業績を向上させて競争戦で有利な地歩を確立・確保することが、所属全成員の“共同的利益”という域を超えて、一種の“運命共同”課題であるといったイデオローギッシュに屈折した形で意識され易い。ここでは、企業という協働態が“利益共同体”しかも“運命共同体”の相で思念される。)実際には、資本制企業というものは、協同の所産的利潤を成員たちが“共同経営者”として配分するものではなく、被雇用者は労働力商品の販売(その代価として賃金を取得)する構制になっているのであって、決して真正の共同体ではない。経済学的にみれば、資本−賃労働関係は搾取関係であり(尤も、だからといって、マルクスとてこれを単純素朴に悪(「あく」のルビ)だと論難するわけではない)、マルクスが指摘する意味での「賃金奴隷制」の構造になっている。(マルクスは、株式会社企業などについて、所有資本家[株主]と機能資本家[経営者層]とを区別し、後者は一種の高級労働者であるとしているが、法人資本と賃労働者との関係が“奴隷制的”関係であることには変りなく、ここでは“奴隷階級”の内部に階層的差別もあり、直接的利害の矛盾葛藤も厳存する。)そうであるにも拘わず、労働者が特定企業に雇用されている賃金労働者たる限り、彼の現行的生活にとって(望むらくは今より幾らかでも“ましな生活”のためには)その企業の業績向上が“有利”であることは確かであって、企業が一定の条件下では被雇用者をも含めた全成員の“利益共同体”として覚識されることには“客観的根拠”が無いわけではない。(マルクスは、資本家と労働者との利害の共同性・同一性なるものは、「高利貸と借手」「姦夫と姦婦」の「利害の同一性」に類する旨を皮肉をこめて指摘しつつも、一定の「利害の同一性」が存在すること自体は“認めて”いる。)資本制企業を以って利益共同体と見做すとき、実質的にはそれは「幻想共同体」にすぎないとはいえ、そこでの“共同利害”なるものは、単なる純粋幻想でなく、協働的連関態=協働態の存在構造(なかんずく対他的市場競争関係からの反照的規定)に現実的“根拠”を一応は有つ次第なのである。」384-6P ・・・これも物象化された相
(対話E)「よもや誤解はいるまいと信じるが、著者としては、協働態が形式的には協働者たちの共同的利害を実現しうる構制を有つにせよ、実質的には利害的矛盾葛藤を孕みうる以上、必ずしも真正の共同体ではないこと、このことを銘記しているのであって、当事者たちのイデオローギュシュな思念を追認しようとしているのではない。が、同時に、協働連関態=協働態は、それの存在構造のうちに、一定の歴史的条件下では、あれこれの協働態を以って“利益共同体”“目的共同体”として成員たちに思念せしめる構制を客観的に有っていること、このことの銘記を要する。」386P
(対話F)「著者は、協働連関態=協働態というとき、決して国家社会や或る種の地域社会(“都市共同体”であれ“農村共同体”であれ)や企業体のごときを主として念頭に置いているわけではない。勿論、これらの制度的に“骨化”せる協働態の配視が是非とも必要であり、次篇において主題化する予定でもある。が、右の行文でこれに関説したのは、「幻想的共同性」を確認する便宜を図ってのことであった。当座の行論にとって重要なのは、むしろ、その都度の行為に即しての、機能的な協働連関の現成、そこにおける間主体的な存在構造である。」386P
(対話G)「この課題には次章にかけて応えて行く段であるが、茲ではまず前章との関連で或る事項について補説したうえで、前篇から一部を持越した「主体我々」という問題に触れる運びとしよう。」386-7P
第十二段落――協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱う 387-94P
(対話@)「われわれは前章第三節の行文中において、一見孤絶した営みに見える農夫の作業のごときでさえ已に「協働」の構制になっている旨を陳べたのであった。読者の中には、農夫の耕す土地は先人の開拓地であり、彼の用いる農具は他人の製作物であり、彼の農作業方式・技術は先人からの伝承であり、……ということを認めたうえでも、しかし、当の農夫は先人・他人の成果を労働の対象や手段として活用するのであって、別段、他人たちと協働するわけではないのではないか? と反問されるむきもありえよう。われわれとしては「共演」と「協働」を区別したうえで、共演でこそなけれ一種の協働ではあること、謂うなれば先人・他人たちの“助力”を得つつ作業する構制になっていること、この旨を陳べたのであったが、それでも他人たちの“助力”というのは、その他人たちが今問題の農夫と作業目的を志向的に共有しつつ協力するという態のものではなく、第三者的な見地から機能的な効果を評定し、そこに一種の“協働的目的達成”の構図を読み入れる限りでのみ甫めて言われうることであって、「助力」とか「協働」とか称するのは用語法上不当ではないか? この疑義を生じうることであろう。」387P・・・手段化論は能為的主体の実体化という一種の物象化?
(対話A)「概念規定や用語法をめぐって激しく争う心算はないが、著者としては先に(三八一頁)誌した通り、学知的観察者の見地から論攷する際には、協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱いたいものと念っている。(それだけに協働態=共同体を独立の“目的意識性を具えた主体=実体”であるかのように錯認することを警戒し、また協働態=共同体に“形而上学的”な“内在的目的”とやらを迂闊に読み入れることを警戒しもする。)この趣意からするとき、前章第三節での「協働」という用語法は恰当であると考える。」387P
(対話B)「読者の中には、しかし、もはや生存していない他人(先祖)たちをも協働者に含はめるのは、いかにも不当拡張であるという印象を懐かれるむきもあるかもしれない。著者は今ここで、多くの文化圏において“祖霊”のアクチュアルな参与・協力が思念されているという事実を持出して“正当化”する存念はない。そして、先人をも協力者に算入するとはいっても、先人一般を抽象的に引入れるのではなく、具体的な“助力”“協力”が当該行為の“本質的な構造内的契機”を成している限りでのみ(この“没概念的”と評されかねない契機についての弁疎は先の三〇一頁を参看されたい)然(「そ」のルビ)うするのである。」388P
(対話C)「分業的協働には共時的・同時的な協働もあれば、通時的・継時的な協働もある。林業のごときにあっては親子三代にわたる分業的協働、すなわち、もはや存在しない祖父をも含めての協働は茶飯であろう。近代的工業においても同趣である。機械製作部門、加工製造部門、販売部門からなる大企業体のごときにあっては、継時的分業のステップごとが相対的に自立的であって、先行部門担掌の協働者たちが依然生存しているのが普通だとしても、従業員たちの全員が共演するわけではない。協働というものは、いずれにせよ“実体的主体”の編成にアクセントがあるのではなく、役柄行為の機能的編制にアクセントがある以上、われわれとしては斯かる分業的協働の編制によって措定される特種綜合的な統合的目的行為をも配視しなければならない。この任に応ずるためには、学知的観察の見地からの分析に際しては、一見“不当拡張”と見紛うほどの広義において、「分業的協働」という概念を用いるのが好便である。今やこの件は納得されたものと念う。」388P
(対話D)「ところで、協働という概念を極めて広義に用い、協働の“統合的主体”を「我々」と呼ぶとすれば、「我々」という概念も極めて広義となる。が、「我々」という概念は、いずれにしても、単層的な扱いでは済むべくもない。そこで「我々」という概念の広狭多義的な用法や層位的区別を自覚的に設けることが必要とされる。――この作業は次章にかけておこなうが、茲ではひとまず構図的に隈取っておこう。」388-9P
(対話E)「「我々(我等)」という想念の成立にとって、能知能為的な主体が複数現存在することの覚識が先件的な必要条件をなす。が、この必要条件の発生論的充足の経緯に関しては、前篇このかた幾つかの論脈で已に勘考してきているので、今茲で辿り返すには及ばないであろう。茲では「自他的共軛称」(第一篇第二章第二節参照)からの更なる分化的再統合の場面に止目すれば足ると思う。――自他的共軛性が現識されるようになるのは、発生論的には対抗的即応や模倣的供応の場においてであるが、これは原初的な共互的役割行為の場でもあり初次的な自覚的協働の場でもある。――「汝−我」「彼−我」翻っては、「其−我」の共軛的分立が現識化されている場面では、必ずしも個体的分節体どうしの出会いという形はとらず、第三者的に分析すればむしろ“巨きな主体”の錯分節化という相で進捗する場合も慥かにある。とはいえ、謂う所の“巨きな主体”は当人において「巨きな主体」、況してや「我々」として事前に明識されているわけではない。この現識が生じうるとしても、それは「自他的共軛」が分節的に覚識されるようになって以後の反省的な把え返しである。それゆえに、われわれとしては「自他的共軛称」に先立てて原基的・本源的な“我々的協同称”とやらを立てるようなことはしない。(唯、一定の発達段階以降においては、“我々的一体”相からの反省的分化として「汝−我」や「彼−我」の分節的意識化が成立する場合もあるということをも認めるに吝かでないだけである。)」389P
(対話F)「偖、「汝−我」「彼−我」、況してや「汝等」「彼等」という複数主体から成る構造的関係態が現識されたとしても、それだけでは「我々」の現識ではない。なるほど、或る種の反省的見地からは、複数の主体(「エゴ」のルビ)の存在が認知される場合、そこに一定の扮技的な視座から「我々」を“読み取る”ことも一般に可能かもしれない。だがしかし、謂う所の「一定の扮技的視座」とやらが問題であって、これは帰するところ当事者たちに即した「我々」の構制を扮技する視座にほかなるまい。「我々」なるものは、まずはともあれ当事者(達)の覚識に即して規定されねばならない。――われわれ日本人の日常的意識においては、漢語の元来的用法とも見合うかたちでと言おうか、彼我(「ひが」のルビ)の陣営的区別における我方(「わがほう」のルビ) (味方=身方)に属する者共を「我我」として一括的に現識するというのが「我々意識」の原基的形態であるように見受けられる。その点、印欧語圏の人々の日常的直接意識においては、we(一人称複数)とは、まずもって、言語活動の場でのI and you(つまり、一人称者と二人称者とを一括して、第三人称者と対立的に置いたもの)という人称代名詞用語に強く規定された含意を有つものの如くである。極端化して言えば、片や布陣的区別における「お前たち部外者(「よそもの」のルビ)に対する身内」、片や「第三人称者を共通の話題にしているI and you(第一人称単数者プラス第二人称者の合称)」という相違が見られる。勿論、これは原基であってそこから「我々概念」が陶冶される。――」389-90P
(対話G)「惟うに、彼我の布陣的区別における「味方・我々」というのは、拮抗的協働の当事者たちがそれぞれ複数者達から成る陣営に分立しつつ陣営内的に並行的協働ひいては分業的協働を営んでいる態勢において現識される。このさい、味方=我々が直截に意識化されるのか、それとも相手側=彼等(むしろ、汝等)を一括的な“巨きな当事主体”の相で意識することの反照において、謂うなれば相手の側の視座から見るとき当方が一括して“巨きな当事主体”の相で看ぜられ、この“巨きな当方”が複数の人格的諸主体から成る統一態として覚識されるという間接的・媒介的な経過があってはじめて「我々」が意識されるのか、これは一概には断じ難い。心理的意識の事実過程としては、両方の場合がそれぞれ折りふれて見出される。とはいえ、“単一の巨きな当事主体”相で看て取るというとき、当方の側であれ先方の側であれそれが或る単一の志向目的を追求しつつ行為している主体として見做されていること、この意味において“単一の企投的行為主体”の相で見做されているということ、このことまでは確かであろう。(このさい、“当方の側”にせよ“先方の側”にせよ、単なる集塊としてでなく、それぞれ人物的諸個体から成っていることが分節化されて現識化されていることを妨げない。いなむしろ、原基的にはそのほうがむしろ普通であると言ってよい。だが、そのことは、本篇第一章第一節「環境と主体との分節」その他の論脈で叙べたところの想起を求めるまでもなく、個体的人物=主体とのアナロギーで“巨きな主体”が措定されるということを必ずしも意味しない。一定の諸条件を充たす場合には、或る種の“巨きな主体”が初めから能為的主体の相で“観取”されることが事実の問題としてありうる。[これを学理的見地からそのまま追認するかどうかは別問題として、発生論上の経緯としては、能意的主体なるものは常に必ず個体的人物の相で原初的に現認されるとは限らない。]但し、上述の通り、“巨きな主体”なるものがそのまま直ちに「我々」として認知されるわけではない。)尚、謂う所の“単一の企投的行為主体”“巨きな主体”は、「味方側」または/および「相手側」という陣営だけとは限らない。“単一の企投的行為主体”つまり“或る単一の志向的目的を追求しつつ行為している主体”として、陣営的に対立しつつ拮抗的に協働している一全体ですら、一定の条件を充たす折りには認められうる。現に、このことに負うて、一定の条件(単一的・統合的上位目的の共同的志向)が充たされる場合には、「汝(等)と我(等)」や「彼(等)と我(等)」は、直接的には敵対的対立関係にあってさえ、“単一の企投的行為主体”として認められうるばかりか、時によっては「主体=我々」を現成しうるのである。」390-1P
(対話H)「「我々」と謂うのは、暫定的に式述すれば、「単一の志向目的を協働的に追求しつつ行為している人格的諸主体の協働態」の謂いであって、斯かる協働相にあるとき、当の人格的諸主体は「我々的協同称」にあると謂う。――この“定義”からして、「我々」は、人格としての“相互承認”を要件とするばかりでなく、単一の協働的志向目的を追求する協働態として特種的綜合(synthèse sui generis)態、“巨きな単一の主体”を形成していることを要件とするのであって、単なる「我(「エゴ」のルビ)の複合称」ではない。相互承認という論件については前篇このかた縷説してきたところであり、遺された論点は次章第一節で陳べることにして、茲では次のコメントを加える域に留めておこう。「我々」は我同士の相互承認を構造内的要件とする限り、単なる「一」ではなく、さりとて特種的綜合態である以上、単なる「多」でもない。それは、伝統的な表現を藉(か)りて言えば、「一而二(「いにしてふ」のルビ)、二而一(「ふにしてい」のルビ)」、いやむしろ、「一而多、多而一」である。――ところで、前掲の“暫定的定義”では「主体=我々」と「客体=我々」との区別が明示的でなく、また、当事者たちのフェア・ジッヒな我々と観察者的見地からのフェア・ウンスな我々との区別、等も明示的でない。今茲では周到な分類的区分を企てる意趣はないが、若干の規定的分化と併せて必要な拡充を施しておこう。」391-2P
(対話I)「「主体=我々」が勝義においては、単一の志向目的を協働的に追求している複数主体の特種的綜合態であること(ここにおける複数主体性の対自化が能知能意的主体としての相互承認と相即的であること)は絮言するまでもない。が、人々は、これを推及するかたちで、単一の志向目的を複数主体が協働的に追求しているものと見做される場合、もうそれだけで(つまり、当事者たちが相互的に人格的に承認し合う意識態が現存しなくとも)当該の複数主体が「主体=我々」を形成しているものと認めてしまう。尤も、これにもグレイドがあって、当事者たちが、現実には自覚的な相互承認には至っていないが、謂うなればいつでも自覚的な相互承認を遂げうる可能的態勢にあると目されるかぎりでのみ彼らが「主体=我々」を形成していると認める。というのが第一歩である。そして、ここから進んで、当事者たちが現実に接触・承認し合うことはまずありえないにもかかわらず、仮想的(「サブジャンクティヴ」のルビ)な接触状況を想定すれば相互承認がおこなわれる筈だという暗黙の見做しのもとに、単一の志向目的を追求する構制を形成している協働的諸主体を「主体=我々」と認める段となり、更には、例えば先人の“助力”的協働を含む場合などのように、現実の相互承認は不可能であってさえ、単一の志向目的を達成する機能的構制を形成していると見做されうる諸主体を「主体=我々」を形成しているものと認める域にまで拡張される。――フェア・ウンスには、慥かに、このような極めて広義の「主体=我々」概念を措定することも文脈によっては許されうるであろう。」392P
(対話J)「「客体=我々」と謂うのは、原初的にはおそらく、陣営的対立における味方側の集合体を相手側の視座から捉えたものを対自的に引き請けるという相で現識化されるであろう。このかぎりでは、それは「主体=我々」を(味方の側からではなく、つまり味方の側からの対相手関係に即してではなく)相手側の視座に即して捉えたものと言うこともできる。惟えば、「主体=我々」も、直接的な相互承認ぬきに、謂うなれば観察的視座から、協働相にある諸主体を一括的に把握する概念へと変様的に拡張されるが、この当事者外的な視座からの「我々」想定も「客体=我々」の規定と相通ずるところがある。この当事者外的な視座からの規定(これをおこなうのは当事者の中の一人ないし一部であっても可)という線で進むとき、相互的承認を伴う協働的営為という特種的綜合とは関わりなく、「我」と呼ばれる存在者と(“主体的”規定性においてであれ“客体的”規定性においてであれ)類同的な者共(die Meinesgleichen)が一括して「我々」と呼ばれうることにもなる。ここに例えば男性という“同類者共”、青年という“同類者共”……同一民族の成員という“同類者共”……同一宗教の信徒という“同類者共”……といった者共が「我々〜」と呼ばれたりもする。――尤も、これは、あの布陣的区分、そこにおける“主体我々”のアイデンティティといった“原基的”構制の名残りを引被っている趣きもあるが、「客体=我々」の赴く所、単なる「我の同類者達」へと極限化されうる。――われわれとしては、「我々」概念の斯かる拡張が現に通用している事実を配視しはするが、しかし、これとて原基的には協働的“布陣”に淵源すること、協働の場における対他的対自の機制をぬきにしては「我々」の想念はおよそ成立しえないであろうこと、このことを須臾(しゅゆ)も忘れてはならない。」392-3P
(対話K)「慮みるに、以上で叙べたところは、印欧文化圏における「我々」の想念についても妥当すると信ずるのだが、上述の通り、印欧文化圏においては、weとは原基的にはI and youの含意が強いものとされる。尤も、先に、weとはI and youつまり“第一人称者単数と第二人称者との合称”と誌したのは、補訂を要するかもしれない。weはあくまでのI複数形なのであって、I and youであるかI and heであるか、これは本質的ではないと目されうる。つまり、第一人称者(speaker)が複数であることが要件なのであって、「僕と彼女」とが「君」のことを話題にしているような場合I and sheを形成するのであって、I and youがweを形成するわけではない。――speakersとしてのweを基調にしての「我々」の想念なるものは、われわれ日本人にとって実感的には理解しがたいところがある。とはいえ、言語的活動も協働の定在形態の一種であることは確かであって、speakersとしての we を、協働者としての「主体=我々」にまずは位置づけるか、それとも、話題内登場者(達)との布陣的な区分性においてまずは位置づけるか、これをどう措置するかは別として、ともあれ、 speakersとしてのweをも上述の「我々」の構制に納めることは可能であろうかと思う。――」393-4P
(対話L)「欧米の哲学者たちが「我々」と謂う際に「我と汝」ということを強調する論点は、「我」と「汝」との人格的相互承認という契機(われわれ日本人の日常的な「我々」意識においては稀薄なこの契機)を顕揚するものとして留意に値する。と同時に、K・レーヴィットの指摘を俟つまでもなく、単に「我と汝」ということで判ってしまったつもりになることなく、謂う所の「と」を、単なる並存や合称という相においてではなく、アクチュアルな共互関係に即して、われわれに謂わせれば「役割的共互関係」に即して、存在論的に規定し返すことを課題として自覚化せしめる。これは、いわゆる「主体と主体との出会い」の問題にもほかならない。」394P
(対話M)「われわれは、以上、本節で隈取った役割的協働の存立性の構図に、以後、可及的に具象的な内実を賦える途に就く次序であるが、次章では「汝と我との出会い」から筆を起こすことになろう。」394P

