たわしの読書メモ・・ブログ722[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(15)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第二節 役割遂行の共互構造
(この節の問題設定−長い標題)「役割行為は、当事者たちにとって対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)にも、屢々、共互的に遂行される。――共互的役割遂行には、順次交替的/並行共業的/同時相補的、等の諸形態をとる。――共互的な役割行為は、当事主体たる一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)が互いに相手の手段となり合う(「互いに相手を手段として利用し合う)ことにおいて目的を達成するという構制を示す。当の目的達成が両者各々の単独的行為では期し難い限りで、共互的役割行為は、単なる銘々の個別特殊的利害の期成ではなく、共同的利害の成就を体現する。そこではまた、各々が夫々目的を志向するのであるとはいえ、両者の目的が合致する場合もある。だが、共互的役割行為は対等な互酬的行為とは限らないのであって、支配−服従の構造をも呈しうる。」329-30P
第一段落――対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る 330-1P
(対話@)「前節の行文中で述べた通り、われわれは既成的理論の多くとは異なり、いわゆる対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る。マルクス式に言えば、「人間の対自然的かつ相互的な関係行為」、この統合相を如実に把握することが要件である。――尤も、分析を進めるに際しては、いわゆる対物的行為(すなわち、事物的対象に一定の変化を生ぜしめることを企投目標とする行為)と、いわゆる対人的行為(すなわち、人物的対象に一定の行動を生ぜしめることを企投目標とする行為)とを、無差別に処理するわけにはいかない。両者が構造的に統合されている場合にあってさえ、“対物的側面”と“対人的側面”とを、区別と関連の相で分析する必要に往々直面する。このことを否認する心算はない。だが、或る種の論者たちのように、例えば、生産的労働と相互的行為(「インタラクチオン」のルビ)とを両半球的に分断し、前者は恰かも(対人的・協働的な関係抜きの)孤絶な対物的行為であるかのように、そして、後者は恰かも(対物的な関連抜きの)純然たる対人的行為であるかのように、夫々を切離して行為論を展開するのでは断じて不可である。(対物的行為と対人的行為とが分断して扱われるのは、物心二元論に基く物的存在と人的存在との二元的処理という“存在論的(?)”淵源もさることながら、行為観それ自身の場面での、視野狭窄(ママ)に因由するものであろう。論者たちは、ともすれば、片や、摂食的欲求的充足行為とか、たかだか農耕的作業とかを“対物的行為”の典型とし、片や、道徳的行為とか、たかだか対話的活動とかを“対人的行為”の典型とする。そして、“対物的かつ対人的”な行為の典型を、物品の授受、商品の交換といったケースに置きがちである。これらがそれなりにモデル化されうるたぐいの行為であることは、一応認めても宜(「よ」のルビ)い。がしかし、このたぐいの余りにも抽象的で貧弱なモデルに即しつつ、それを単純に推及する流儀で以っては、行為事象のアクチュアルな分析・規定は到底覚束ない。モデルというものは、なるほど単純で抽象的であるのを嘉(「よ」のルビ)しとするにしても、それは必要な諸規定を具えている限りでのことであって、単純性の選好にも自ずと限界があろうというものである。――論者たちの単純性選好は、しかも、多分に要素主義的な存在観に支えられている。が、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれとしては、謂うなれば「函数的概念」[E・カッシーラー]として必要最小限の“変数”を具えた相での概念を措定し、それに相応してモデルを設定して事に当らねばならない。)」330-1P
(対話A)「われわれの謂う「役割行為」の範型は、“対物的側面”と“対人的側面”との統合相に即したものであって、決して純然たる対人的行為ではない。「共互的役割行為」に限定してもやはりそうである。――惟うに、旧来の役割理論おいては、とかく“対物的行為”は閉却しつつ、もっぱら“対人的行為”として処理されてきた概(「おもむき」のルビ)がある。われわれとしても、目的達成型の行為とはいっても、人物的対象に一定の変化(一定の役割行為)を生起せしめることを当座の専一的な企投目標とするケースが現にあることを否認しはしない。だが、われわれの観るところ、役割行為なるものは一般に、そして、共互的役割行為ですら、単なる対人的行為ではなくして、概しては“対物的かつ対人的”な目的達成型行為としての構造を有つ。」331P
第二段落―― 共互的役割行為の幾つかの種別的類型 331-7P
(対話@)「共互的役割行為、すなわち、複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手人物にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為は、これ自身、幾つかの種別的類型に分けることができる。理念型的には、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けて論じうるように思う。本節では、そのうち、(1)に即して論じ、(2)、(3)は基本的には次節に譲り、(1)との対比・対照に必要な限りでのみ言及する算段としたい。」331-2P
(対話A)「交互型の共互的役割行為というのは、発生論的にはいわゆる「オ頂戴遊ビ(遣り取りゲーム)」のごときどころか、「頬笑み−頬笑み返し」や交互的な「イナイイナイバー」のごときまで溯ることのできる順次交替的な役割行為の謂いである。或る種の対話活動もこれに含めることができる。交互的と謂うのは、但し、構造に即した規定なのであり、即自的な共互的行為も存在する。――われわれとしては、この際、同型的な行為の交互的な演行という如上の諸ケースから拡張して、交互的に役割行為が演行される限り、遂行される行為は非同型的である場合をもこれに含めたい。というより、非同型的な役割行為が交互に演行されるケースをこれの典型として取扱いたいと念う。例えば、人物Aが人物Bに向かってボールを投げ人物Bが人物Aに向かってボールを打ち返す。或いは、AがBに衣服を仕立てさせ、BがAに仕立賃を支払わせる。このたぐいの交互的役割行動がそれである。(協同型というのは、複数の人物が力を合わせて岩を転がすとか、声を合わせて歌を唱う斉唱とか、このタイプの並行共業型の役割行為の謂い。補完型というのは、例えば握手とか格闘とかのように、一人の側だけでは目標実現行為にならず同時相補的な行為としてのみ甫めて一定の役割行為の演行になるようなタイプの謂いである。このコメントで(1)、(2)、(3)の種別の大略を理解して頂けよう。)」332P
(対話B)「偖、順次交替型(交互型)役割行為の共互構造を、AがBに衣服を仕立てさせて仕立賃を支払う、という例に即しながら検討してみよう。――Aにとっては、仕立て上った衣服の使用価値の獲得が達成目標である。(出来上った衣服の引渡しを受けること、これが実現目標であり、この実現目標において所期の企投目的を達成する。)Aはこの目的を企投し、中間的目標としてBに衣服を仕立てさせることを企投する。Bによる一定衣服の縫製という事象の生起が、Aにとっての手段(手段的中間目標)であり、Aはこの事象の生起(Bが衣服を縫製すること)をBに期待し、この役割行動期待をBに差向ける。(この期待告知は、態度や身振によって履行される場合もあるにせよ、一般には言語的伝達によっておこなわれるが、いずれにせよ、Aにしてみれば、それが第一局面的課題であり、この暫定目標を実現するためには、自分自身の一定の身体的活動[発声を含む]を手段的に起動することを要件とする。) Bは、Aによって差向けられた役割期待(Aが、Bによる縫製という未在的状景を表象しつつ、且つ希求的督促感を懐いていること)を察知する。そこで、Bは、Aによる期待に応じるか否かを撰択的に決意するが、そのさい、応じた場合にAに対して期待できる役割行為(仕立賃の支払い)、応じなかった場合には予期されるAの反応行為を勘考する。(今此処では、Aが材料を提供するのか、材料の調達までBがおこなうのか、この区別はブラックボックスに納める。また、仕立賃の金額の交渉過程は恰かも無いもののように、つまり固定的な提示額で請けるか請けないかを決めるだけというように取扱う。そしてまた、Aによる期待を応諾/拒絶することがもたらす第三者のBに対する反応への顧慮は無いかのように想定する。――ということは、現実の場面にあっては、ここで捨象した要因が介在しており、それらの要因・過程が絡んでAの側の期待告知ならびにBの側の役割取得がおこなわれる次第なのである。が、必要最低限の骨格的構造を見据える便法として、敢えて爰では右記の諸要因を捨象しておく。)そして、今やBがAの期待に応えることを決意したものとしよう。Bのこの決意は、企投的決意であって、中間的目標として企投される状景はAによって期待されている状景と不二であるが、Bの終局的目標・目的は、Aに仕立賃を支払わせ、貨幣的価値を収得することにある。茲において、縫製というBの役割行為は、Aにとっての手段(中間的目標)であり、且つ亦、Bにとっての手段(中間的目標)でもある。溯って、Aの期待告知という行為は、AにとってBを起動して縫製せしめる手段であるが、それはBにとって縫製という中間的目標の企投的決意を動機づけるもの(理由性動機)であり、Bは仕立賃の獲得という目的(目的性動機)を達成すべく所期的縫製行為を遂行する。Bは、Aの期待に応えて縫製し納品する行為そのことで、Aに支払いという役割行為を期待・呼掛けるのであり、以って、Aに支払いの準備(最低限でも例えば金庫・財布からの取出しといった)をさせ、支払いというB自身にとっての手段的行為をAに演行せしめる。」332-4P
(対話C)「此処に構造内的に見られる目的達成型行為の構制それ自体については、前節内で必要最低限すでに触れておいたので、殊更に立入るには及ばないであろう。爰で留目したいのは当事者たちが互いに相手を手段として利用(使役)する構造である。――AはBに縫製という自分にとっての手段的行為を演行させ、BはAに仕立代金の支払いという自分にとっての手段的行為を演行させる。(裏返して言えば、Bは縫製行為によってAにとっての手段となり、Aは支払行為によってBにとっての手段となる)。両人は互いに相手側を手段として使役することで(互いに相手の手段となり合うことで)各々自分にとっての目的を達成する。このかぎりでは、手段に化すとはいっても、双方が自分の利益を得ているのであり、ここでは利害の共同性=共同的利害が存在する、と言うことが一応はできる。がしかし、共互的役割行為といい、形式的には相互使役(相互利用)といっても、また、共同的利害が一応は存在するとはいっても、内容的には、一方が優位・有利、他方が劣位・不利な関係でもありうる。」334P
(対話D)「この間の事情を見易くするためにも、先の縫製の例を継時的位相に分けてA、Bの行為の対応関係を分析しておくと便利である。/Aは、@期待を告知し、A縫製させ、B金銭を用意し、C納品させ、D賃料を支払う。/Bは@'期待を受容し、A'縫製し、B'金銭を用意させ、C'納品し、D'賃料を支払わせる。/右の過程のうち、B、B'は、@、@'の前に位置することもありうるし、C、C'の後に位置することもありうる。が、共互的対応性の構造が論件である爰では、論点に響かないので、後論との関連での便宜も計り、右記の位置に据えておきたい。――尚、@の注文が受託されないとか、D'の支払いが履行されないとか、現実にはこのような場合も生じするが、そして、それはそれで行為論にとって重要な一論件であるが、これは次章の論脈に譲ることにして、爰では、@〜Dと@'〜D'とが対応的に円滑に進捗するものとしよう。/扨、@@'、AA'……DD'は夫々対応的であるとはいえ、AとA'、BとB'は、爾余と聊か趣を異にすることに留意を要する。@と@'は、拒絶されないという目下の想定条件下では、相互補完的(同時相補的)である。つまり、注文と受注とは、謂うなれば握手などの相補的行為と同様、両々相俟って甫めて発注が発注として・受注が受注として成立するのであり、片方だけでは成立しえない。両々相俟って“単一の行為事象”である。CとC'も、製品の授受というこれまた両々相俟って甫めて成立する事件であり、DとD'も同様である。それにひきかえ、Aの「縫製させる」とA'の「縫製する」とは、また、Bの「用意する」とB'の「用意させる」とは、概念上はなるほど相補的であり、時間上も同時的と言えなくもないが、現実に遂行される行為は、A'の「縫製する」対物行為、及びBの「金銭を用意する」対物行為だけであり、これらの対物行為だけであり、これらの対物行為それ自体は各々が単独にも成立しうる。(慥かに、Aの「縫製させる」やB'の「用意させる」は使役行為であり、概念上は相手の実行行為と相補的ではある。がしかし、実行するのは一方だけであって、握手式の合体的実行ではない。)」334-5P
(対話E)「こうして、順次交替的(交互的)役割行為は、その内部に構造内的契機として同時相補型(補完型)の行為を含みうるが、一者側だけの実行行為、一方の側だけがもっぱら使役的に実行させられる行為をも構造内的に含みうる。この非対称性は、勿論、直ちに一方の優位・有利、他方の劣位・不利を意味するものではない。がしかし、この非対称性から、優位(有利)と劣位(不利)の関係が成立しうる。そして、局部だけを取り出せば相補的な・補完的な、そのかぎりで対等・平等な関係行為であっても、全体としては不平等な関係行為の構成分として、実質内容的には不平等な意義を帯びることもありうる。」335P・・・相対的差別のキーワードとしての「非対称性」
(対話F)「この間の事情は、先の縫製の例の大枠を維持したままでも、一寸したヴァリエーションのケースを思えば、容易に見て取れる。――AがBに支払う貨幣が、もともとAがBから盗んだものであったとする。今こう仮定しても、先の@〜Dおよび@'〜D'の事実的過程には毫(ごう)の変化もない。しかし、この場合には、Bは実質上只働らきであり、Aは実質的には丸々Bを只で働らかせたことになる。形式上は“労働”と“貨幣”との等価交換であってさえ、実質的には只取りになるわけである。盗んだという過激な想定は取消してもよい。Aの所持金が、以前にBに安価で縫製させ、それを売却して得ていた利鞘であったとしても事情は似たり寄ったりである。(BがAに賃労働者として雇用される場合、労働力に対して価値通りに支払われるとしても、そこに生じる構造的搾取が“盗んだ金で支払う”のと同様な構制になることはマルクスが『資本論』で説く通りであるが、今爰ではそこまでは言わないでおく。)」336P・・・マルクスの説く資本主義社会の秘密
(対話G)「ヴァリエーションをもう一歩進めてみると、共互的役割行為が、形式的には相互的に手段になり合い、夫々がそのことによって利益を得る構制、そのかぎりでは利害の共同性=共同利害性が成立するにしても、実質的には「支配−服従」の関係になる場合もあることが瞭然となる。――先には縫製労働に対して賃料という反対給付がおこなわれるものとしたが、Aの期待(依頼・命令)にもしBが応えなければ、Bは不利益を被むること必定なので、その不利益(以後の発注の差止めとか、撲られる・苛められる・殺されるとか、他種多様な“不利益”の形態がありうる)を免れようとして、Bが応諾・縫製・納品するケースを考えてみられたい。このケースでは、先のD'の賃料の代りに、Bは「当該不利益を免れる」という“反対給付”を獲得する型になる。現実問題として、Bは「当該不利益を免れる」ことを目的としてAの期待に応える役割行為を演行すること屢々である。形式上から言えば、この際でも、Bは「当該の蓋然的不利益行為をさせない」という負の形態においてAを使役し、そのかぎりで、Bは「不利益を被らない」という自分自身の目的のためにAを“手段化”する、と言えないわけではない。以って、ここでも、「形式的には相互的に手段になり合い、それぞれがそのことによって利益を得る構制、利害の共同性=共同利害性が存立する」と言うことが、一応可能ではある。しかし、実質的には、これはまさに「強制−屈従」「命令−服従」「支配−服属」にほかならない。仮令賃料が支払われるとしても、それが不等に低い額であるにもかかわらず、“より大きな不利益を免れるために”応需するのであれば、やはり一種の「支配−服従」と言わねばなるまい。また、仮令恩顧といった形で“反対給付”がおこなわれる場合でも、“恩顧を失わないために”ということであれば、実質的には「支配−服従」の関係になる。」336-7P・・・支配の構造
(対話H)「共互的役割行為なるものは、こうして、形式的には相互手段化によって各々が自分の目的を達成し利益を得る利害的共同性の構制になっているにしても、実質的には必ずしも対等・平等ではなく、「支配−服従」の場合を含みうる。――詳しくは次篇で述べるが、この「支配−服従」は、当事両者が事前に「優位−劣位」の関係にあるためとは限らない。ヒエラルヒーが既成化している場面では、「上−下」「優−劣」の地位関係にある役柄を分掌的に取得するので、「命令−服従」「支配−服属」の関係が行為に先立って事前に決っていると言える。(この場合でも、形式的にはあの相互的手段化による目的達成、共同的利害が、共互的行為の構造分析としては立言できる。このことが見失われてはならない。)そもそも、しかし、当の上下・優劣の役柄的地位関係、支配服属の地位的身分関係が如何にして形成・成立するのかを溯って究明する必要がある。今爰では役割遂行の共互構造が論件であるから、発生論的・形成論的な経緯については後論に委ねるが、「優位−劣位」「支配−服属」の地位的関係の発生論的機序を論考する際には(それが単純な「一者−他者」の二者関係ではなく、第三者の絡む関係として解明される筈であるが)、却って、共互的役割行為が構造内的に孕みうる上述の非対象的な契機が説明項としてクローズ・アップされる所以となる。この旨を予告的に一言しておこう。――共互的役割行為の構造それ自身の内部に「支配−服属」の可能的構造、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれていること、このことをわれわれは銘記して掛らねばならない。」337P
第三段落――共互的役割行為の構造を把え返す 338-42P
(対話@)「共互的な役割行為が、単純な利己的行為でも単純な利他的行為でもなく、一種独特の利害構造の構制を有つことを彰らかにしつつ、旧来の社会的行為理論のパラダイムと論判するためにも、われわれは爰で論材を新たにして共互的役割行為の構造を把え返す段である。」338P
(対話A)「われわれは先に、AがBに縫製させて賃料を支払うというかなり複雑な例を仮設して共互的役割行為、しかも順次交替型(交互型)役割行為を途中まで分析したのであったが、論者たちは、一般には、交互型役割行為の典型として「遣り取りゲーム」や「会話」のごときを挙げ、「商品交換(売買)」や「対話」のごときを以って社会的行為の範型とすることが多い。――これら構造的に“単純”な相互行為を範型とすることがいかにも至当であるように思えるかもしれない。が、敢えて先に一見“複雑すぎる”例にまず即したのは勿論故あってのことであった。――今やわれわれとしても、これらの常套的な“単純”な相互行為“範型”を論材にして議論を進めてみよう。」338P・・・「故」は「(対話G)」で的展開されています。わたし的には、「資本主義的役割行為の秘密−特質を暴いておくため?!」とか、ブラックボックスの問題としておさえていました。
(対話B)「発生論的に見るとき、自覚的な交互的役割行為の初次的形態は「遣り取りゲーム」(いわゆるオ頂戴遊ビ))や「会話」であると言うことも慥かにできよう。――ボールが遣り取りされているケースを例にとれば、第一段でAがボールをBに手渡し(BがAからボールを受取り)、第二段でBがボールをAに手渡す。この交互的行為が反復される。(AはBがボールを受取るという役割行為を演行することを期待し、Bに受取る行為を企投・起動させるべく……目的達成型の行為を企投して……手段的行為を起動・遂行し……云々という構制の復唱は爰では省いて直截・簡略に議論を進めたい。)各段の行為事象は、対物的契機と対人的行為とが統合されているばかりでなく、上述した意味で(つまり、握手などと同様な)「同時相補的(補完型)」になっている。(「ボールを手で持つ」という対物的行為と「手渡す」「受取る」という対人的行為とを階梯的に分けることも勿論可能であり、後論において必要になった際にはこの区分を導入するが、当座は「ボールを手渡す」と「ボールを受取る」とが同時相補的な補完的行為事象ということにして議論を運ぶことにする。)ボールの交互的な遣り取りは、この同時相補的行為事象、この“同型的”事象の交互的反復である。」338-9P
(対話C)「扨、ここにおいてもA、Bは互いに相手を手段的に使役しつつ(裏返して言えば、互いに相手の手段となりつつ)夫々自己の目的を達成するのであり、“利害的共同性”が存立する。そして、ここでは、先の縫製の場合とは違って“非対称”な構造内的契機は存在しない。両サイドからの行動は悉く対応的・合一的である。依って対等な役割行為の交替的進捗であり、ここには支配服従の関係は見られない。」339P・・・地位的関係を内自化している際には、非対称的関係は存在しうる。ただし、これは弁証的展開において、ここでは問題を除外しているともとらえられます。以下同文。
(対話D)「「会話」の場合には、一個同一のボールの往復とは違って、往きの発話と還りの発話とは相違する。がしかし、「Aが話しBが聞く」と「Bが話しAが聞く」という第一段と第二段とにおいて、各段が同時相補的(補完的)であり、“非対称的”な構造内的契機は存在せず、対応的・合一的である点ではボールの遣り取りと同趣である。」339P・・・ここでも、女性話者や「言語障害者」話者のさいの割り込みの問題とかで、非対称性は存在しうる――廣松さんが役柄と役割を分けた意味にも通じる事
(対話E)「「商品交換」の場合も「会話」と同型的である。――人あって、商品交換は対物的契機を含むのに対して、会話はもっぱら対人的契機だけだと言うかもしれない。ボールの遣り取りに関して、断書風に記しておいたように、ボールの授受や商品交換は慥かに、対物的・対人的な二階梯に分けることもできる。がしかし、会話についても、言語なる物の遣り取りとか言語なる物の交換とか強弁することなく、そこにもやはり“対物的”契機があり、商品交換と同趣の構制になっていることを指摘できる。というのは、音(声)を発する、音(声)を聞く、という“手段的な行動”の側面は、一種の対物的行為に類するからである。――ここにあっても、同時相補的(補完型)行為事象の継起であり、“非対称”的契機は存在せず、悉く対応的・合一的である。そして、当事者たちは互いに相手を「使役」(註) (互いに相手の手段となり合い)、夫々の目的(所求的使用価値の獲得)を達成し、以って“利害的共同性”を現成せしめる。ここにも支配服属の関係は見られない。商品交換という相互行為は、そこでの構制だけに留目するかぎり、ボールの遣り取りや会話と同様、対等な関係行為である。」339-40P
(註) ‘使役」’の‘」’に対する‘「’がないので挿入して、‘「使役」’にしました。
(対話F)「尤も、商品交換は、先の縫製の例における最終局面、すなわち、納品・支払い、つまり、製品と貨幣との交換の局面を截り撮ったものになっている場合もありうる。そして、この場合には、“製造”の過程まで視野に入れ、且つ亦、取引条件などを視野に入れるとすれば、「優位−劣位」「有利−不利」ひいては一種の「支配−服属」の関係が対自化されうる。がしかし、商品交換モデルの社会的行為論は、言語ゲーム・モデルの社会的関係論と双生児であり、生産関係をブラックボックスに納めたままにしているのがまさに特徴である。」340P・・・同じく、「遣り取りゲーム」や「会話」においても既にある差別的関係をブラックボックスに納めているのでは?
(対話G)「今や、先に敢えて縫製の例に即するところから始めた所以のもの、言い換えれば、商品交換モデルや言語ゲーム・モデルから始めることをしなかった理由、これが納得されよう。形式的には一見対等な相互的役割行為、共同的利害行為の構造であっても、そこに支配服従の可能的構造が、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれておりうることを対自化するためには、過度の“単純的選好”に陥らないよう心すべきだったのである。」340P・・・「(対話A)」参照
(対話H)「商品交換モデルは、いわゆる「近代市民型」が対等な同市民たちが各々自家生産物を携えて市場で出会い、自由で対等な人格的主体として、各々の自家生産物を等価交換し合う市場社会の相でイメージされるのにも見合う。近代市民社会の古典的イメージにあっては、生産過程は謂わば私事としてブラックボックスに納められ、もっぱら市場的出会いの場に即して社会(社会関係)なるものが表象され、そこでは資本家と賃労働者との関係すら“労働力”商品の売買関係として扱われる。この市民社会像に徴すれば、商品交換モデルは、単なるモデルというより、人々の社会的間主体関係・行為の普遍的な定在形態を定式化したものとさえ思念(「マイネン」のルビ)されうる。――言語行為モデルも、先に指摘した通り、商品交換モデルと本質的には同型的である。なるほど、言語行為にあっては、文法という規則(「ルール」のルビ)性が見え易く、文法的規約性をビルトインしてモデル化されるという“長所”を有つが、文法は当該言語活動諸主体にとって“万人平等”であり、しかも文法という規範体系はコンクリフトを含まない。言語ゲーム・モデルの社会論・社会的行為論も、商品交換モデルのそれと同断である。――モデルは所詮モデルにすぎないとはいえ、商品交換モデルや言語行為モデルを社会的行為の一般的モデルとすることは、古典的な近代市民社会像のイデオローギッシュな短見と同じ弊に陥りかねない。それは矛盾的葛藤や支配服従的対立性の可能的構造をイデオローギッシュに“隠蔽”する所以ともなりうるからである。(翻って、或る種の単純な労働・作業をモデルとして、行為なるものをもっぱら“主体−客体”関係として扱うことにも慎重な配慮を要する。いわゆる“対物的行為”という“側面”が行為一般の構造内契機を成す以上、その部面をクローズアップして分析するに際して、しかるべきモデルを立てることが慥かに望まれる。これを卻けるべき謂われはない。われわれ自身、“対物的行為”論を主題的に試みる場面では労働の構造分析をモデル化するであろう。が、しかし、現実の労働は、前節で指摘したように、協働分掌の構制になっており、決して孤絶な“主体−客体”関係ではないことが銘記されねばならない。現実の行為は“対物的かつ対人的”関係行為として存在する。)」340-1P
(対話I)「よもや誤解はあるまいと信じるが、著者は言語行為なるものを軽視する心算はない。役割期待の告知(指令・命令)は、非言語的伝達によってもおこなわれるとはいえ、圧倒的大部分は言語活動によっておこなわれるのであり、現実の共演的役割行為は言語活動を抜きにして殆んど成立しえないのが実情である。また、賞罰も、単なる表情性反応でおこなわれる場合や、褒賞・刑罰といった形をとる場合もあるが、大抵は賞賛や叱責を言語活動で表現・伝達することによって現成する。言語活動の手段的機能性への留目は、行為論にとって不可欠の重要事である。尤も、(手段的機能性ということに徴する限りでは、非言語的な手段によっても告知・伝達が可能であり、言語的活動が恒に必ず人間行為にとっての構造内的必須契機を成しているわけではないという事情は措くとしても)行為論にとって本質的に須要なのは役割期待の告知・理解や賞罰の表明・受容といった構制なのであるから、それらの基本的構制の現認が先決的課題となる。言語的活動が多くの場合に手段的に介在するとはいっても、それが基本的な構制にとって必須の構造内的契機とまでは言えない限り、言語活動は当座の論攷において主題的論件からは外れる。爰ではまだ手段的行為の各論的分析に立入る段ではないので、著者が言語活動の手段的機能性をいかに重視していようとも、直ちに主題的論件とはしない事情を諒として頂きたい。」341-2P・・・眉の上げ下げによるサンクションの例
(対話J)「附言するまでもなく、言語活動はそれ自身一種の歴(「れっき」のルビ)とした行為である。手段的機能性を演じる場合でも、言語行為は目的達成型の構制を具えた企投的行為であることは言うを俟たない。そして、言語活動は先ず以って役割行為でもある。それゆえ、目的達成型の各種行為の分類や分析、役割遂行型の各種行為の分類や分析が試みられる場合には、言語行為の主題的検討がそれらの視角においても履行されねばならない。――著者としてはオースティンやサールの言語行為論に謂うlocutionary act(発語行為)、illocutionary act(発語内行為)、perlocutionary act(発語媒介行為)の区別もさることながら、K・ビューラーの「三極的オルガノン」モデルを継承的に展開しつつ、第一巻中で叙べた言語の四機能に即して言語行為論を定式化したいと念う。その際、熊野純彦氏のシグナル・シンプトン・シンボルの理論を勘案することになる筈である。――言語行為論(乃至はより広く記号論)は、主題的な論究に値するばかりではなく、実践的世界論の各論的展開に際しては、呪術行為論、儀礼行為論、司法行為論などと“並んで”特別な配慮を要する。著者はこのことを承知している心算である。が、爰はまだその段ではない。」342P
第四段落――共互的役割行為が利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちの間に、「有利−不利」「支配−服属」の可能的構造を孕みうること 342-3P
(対話@)「共互的役割行為は、上述した通り、共互的に相手にとっての手段となり合い(互いに相手を手段的に使役し合い)、単独では成就できない目的を達成する限りで、利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちのあいだに、「有利−不利」ばかりか「支配−服属」の可能的構造を孕みうる。そして、(1)順次交替型(交互型)の役割行為は、そこにおける、「役割期待−役割取得」が「強要−屈従」「命令−受命」となる場合を生じ、共互的役割遂行とは言っても、「指揮−服従 」という形での“協働”になる場合が現にある。(2)並行共業型(協同型)にあっては、複数の当事者たちが、よしんば思惑は別々であり、各々別々の高次目的を利己的に追求している場合であっても、差当っては、共通・単一の目標を企投しつつ同型的な手段的行為の共業・協同的な遂行を演行する。(3)同時相補型(補完型)の共互的役割行為においては、複数の行為当事者たちの行為が補完的合一相で甫めて各々の側の行為を成立せしめる。――これらの共互的な役割行為の構造について分析し、片やコンフリクトの発生を、片や「主体我々」の形成を見定める次序であるが、捷径(しょうけい)を期してこれは次節「役割行動の存立性」の論脈に繰込むことにしたい。本節の標題に掲げた論件を十全に論定するに至っていないが、次節での継承・継続に免じてこの措置を許されたいと念う。」342-3P

