2026年01月17日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(14)

たわしの読書メモ・・ブログ721[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(14)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
 第一節 役割行為の存在構制
(この節の問題設定−長い標題)「行為は、学理的な見地から観るとき、その大抵が役割演技としての構制と意義を有ち、且つ亦、協働としての構制と意義を有つ。当事者自身、他者の期待に応えての役割遂行、この役割行為を屢々自覚的に遂行し、共互的な役割行動を演行し、往々にして亦、顕在的・対自的な協働行為を営なむ。役割行為は即自的にも対自的にも他者にとっての所期目標または/および手段として位置しうるが、いずれにせよ、対自的・対他的な役割行為は、対自的/即自的な期待の察知を成立要件とし、期待察知に動機づけられた目標実現(目的達成)型の構制を具えた機序で遂行される。」309P
第一段落――前節の復習と「役割行為」の定義−「他者の期待に応えての行為」309-10P
(対話@)「前節において行為のフェア・ウンスな範式として「当体主体が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内部的局所に対象的変化を現成せしめ。この手段利用的対象変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動」という目的達成型の構図を暫定的に提示しておいた。溯っては前篇第二章第二節の論脈中で、「他者の興発的価値の現前に呼応して発動される行動を、それが当事他者ないし環視的第三者によって期待されている様式的行動と(少なくともフェア・ウンスに)認めうる場合、それを当事他者に対向する役割演技と謂う」と述べ、役割行為を暫定的に“定義”しておいた。」309P
(対話A)「役割行為は、右に再掲した範式において、特に、環境中の協演的他者(裏方・囃子方・観衆たちをも含みうる)の期待に動機づけられて特定他者に対向して遂行される目的達成型の行為として、つまり、暫定的に“基本的範式”と呼んでおいた図式の特殊的限定形態として、叙べることができる。が、翻って前節の行論中で指摘しておいた通り、「人間の行為は(少なくとも即自的には)悉く一種の協働である」と言うことができる。今茲において、協働の担掌という規定で以って「役割行為」なる概念を“再定義”するとすれば、人間の行為なるものは(それが特定他者に対向して遂行されると否とに拘わらず)悉く一種の役割行為にほかならないことになる。」310P
(対話B)「以下では、当体的主体の視座に即して陳べる際には「他者の期待に応えての行為」という常套的“定義”の線でそれを把え返す便法を採ることにしたい。」310P
第二段落――演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及する 310-4P
(対話@)「偖、「役割行為」も「目的達成型」行為の一形態であるからには、前掲範式中に謂う「環境」に属する「場面的状況」や「規範的与件」によっても制約されること言を俟たない。が、規範的制約という要件については「規範」なるものの形成を論考する後論に先立っては、それの介在を配視はしつつも、ブラックボックスに納めたままにしよう。場面的状況とそれによる規制という論件についても、後論に至ってはじめて全幅を勘案しうる段となる。とはいえ、当座の議論を進めるにあたり必要最低限、演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及しておかねばなるまい。」310P
(対話A)「能為的主体たる当体にとって展らける環境は、啻なる物理的実在界などというものではなく、情動興発性・行動誘発性を具え(加之、規範的拘束性のごときをも含む諸々の価値性を物象化せる相で帯び)た財態的環界であり、それの諸分肢は相互照映・媒介相にある。(財態の「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重性の構制や「価値」の物象化的内自化の機制などについて、当座の議論にとって最小限必要な事項は既に前篇中で叙べておいたので、爰ではそれを前梯として稍々拙速に議論を進めることにしたい。) ――財態的環界の“一部”たる「場面的状況」は、当事的主体にとっての“舞台的場面”に擬(「なぞ」のルビ)らえることができる。それは、或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。環境的状況は主体的行動ににとって(正/負の)制約的要因、条件を成す。この舞台的場面上において、当事主体によって与件の一部が用具的・道具的な手段として利用され、場面内の局所で目標的変化が実現される。目標的変化がそれにおいて体現されるところのものを行為対象と呼び、主体がそれを“用い”て目標的変化をもたらすところのものを手段と呼ぶが、手段は用具的・道具的に利用される既存的与件ばかりでなく遂行的行為をも含みうる。(当事主体を“純然たる精神的エージェント”に局定して議論する場面では、肉体の全体はもとより、いわゆる意識内容のごときをも環境的状況に属せしめることになる。われわれとしては、いずれ、考察を原理的な次元にまで深める必要があり、その場面ではこのことを真摯に勘案する運びとするであろう。が、しかし、以下暫くの間、当事主体なるものを“純然たる精神的エージェント”にまで局定することなく、常識的・日常的な思念相に仮托する流儀で、“心身的主体”の次元で扱っておきたいと念う。但し、この“常識的な取扱い”においても、肉体は悉く主体の側に算入されるわけではなく、肉体(の一部)は恰かも外的な用具的手段として扱われたり、行為的作らきかけの対象として扱われたりしている。これが実情である限りで、肉体の(少なくとも一部)は環境的状況の側に位置しうる。)」310-1P
(対話B)「場面的状況すなわち能為的主体にとっての“舞台的場面”は、こうして、決して単なる物財から成っているわけではなく、機能性に即して錯構造化されるのであるが、図柄を見え易くする方便として敢えて物財的編制に象徴させれば、(a)“舞台的装置”、(b)“道具的手段”、(c)“目標的対象”に“分かれ”つつ、総じて主体的行為にとっての正/負の制約条件を成す。」311-2P
(対話C)「協演的他者は、一定条件の下では、当体的自分と一緒に「主体我々」を形成しうる。が、その場合には、実は協演的他者ではもはやなくなっている。この次元については後論において考察することにし、爰では飽くまで協演的であるかぎりでの他者を問題にしておく段である。」312P
(対話D)「舞台場面的環境に登場する他者は、直接的な相手や直接的な共演者だけとは限らない。芝居に譬えて記せば、囃方や黒衣や裏方も在り、観客でさえ、彼らが演者の役割行為の期待者、暗黙の賞罰者(「サンクショナー」のルビ)である以上は、われわれの謂う広義の協演的他者に算入される。――協演的他者は財態的環界の“一部”を成す者として、当事主体の或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。それは、種々の価値性を帯びた財態として主体的行動にとって正/負の制約的要因・条件を成す。協演的他者といえども、財態的環界の分節態の一種として、右記の点では「場面的状況」(“舞台的場面”)とも共通する。更に言えば、協演的他者も、当事主体にとって“道具的手段”として機能することも“目標的対象”に位することもありえ、謂うなれば“舞台的装置”の一部ですらありうる。」312P
(対話E)「協演的他者は、それなりの特殊性を帯びている筈ではあるが、右に見るように、財態的環界内の存在体一般と共通する。客体的存在体としては環境的状況を形成している諸物と決定的に別異というわけではない。それでは、どこに種差的特性があるのか? さしあたり二つの特性が思い泛かぶ。第一に、役割期待的意識性である。同じく当事主体の行為を誘発・促進(抑止・阻害)するといっても、協演的他者は、唯単なる客体的財態としてそうするのではなく、少なくともそれに加えて、期待意識性を差向けることで(時によっては、期待的意識性に基づいた具体的行動を差向けることで)誘発・促進(抑止・阻害)する。この点で一般の環境舞台内的与件とは相違する。(尤もアニミズム的な世界了解にあっては、全ての財態的存在がそうしうる他者と見做されるので、この種差は消失する。が、これについてはひとまず棚上げしておく。)第二に、目標実現的内発性を挙げることができる。同じく手段として当事主体が利用するといっても、人物的他者の手段的利用の場合、例えば人間枕といった唯単なる財態的客体としての利用もありうるとはいえ、大抵は、当の他者に一定の目標実現行為を遂行するように仕向けるという仕方で手段的利用がおこなわれる。つまり、他者の内発的行為を当事主体が誘発し、他者のその行為(他者にとっての目標実現型の行為)を当事主体が自分の目的達成のための手段としてそっくり利用するという仕方で他者(の主体的行為)を手段的に利用する。この点で、単なる客体的財態の手段的利用と相違する。(尤も、アニミズム的な世界了解の下では、例えば、弓の弦を手離して矢を“内発的”に発射させるとか、水道のコックを捻って水を噴出させるとか、このたぐいの現象も他者の主体的行為の誘発と見做されうるであろう。更には、呪術的感応によって、直接的には手を下すことなしにも、諸々の与件の主体的行為を誘発し、それを手段的に利用できるものと了解されておりうる。が、これは姑く棚上げとして議論を先に進めておきたい。) ――第一の「役割期待的意識性」ということは他者に意識主体性を認めることであり、第二の「目標実現的内発性」ということは他者に行為の主体性を認めることであり、いずれにしても、他者を単なる客体的存在体ならざる主体的存在者として扱うところに種差的区別が置かれている所以となる。」312-3P
(対話F)「茲では、しかし、他者を「役割期待的意識性」の主体として認知すること、ないしはまた、他者を「目標実現的内発性」の主体として認知すること、この主体としての認知そのことがポイントなのではない。当事主体の側が、他者の役割期待的意識性を理解することによって誘発的/抑止的影響・制約を被むるということ、および、他者の目標実現的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発するということ、この意識性を介しての影響関係がポイントである。(尤も、アニミズムの場合は今棚上げのままにしてあるが、他者による役割期待を理解することによって……という域を超えて、他者に手を下されることで……というケースもあり、また、他者の意識性に作らきかけることで……という域を超えて、他者に手を下すことで……というケースもある。が、しかし、その場合でも、惰性体に手を下して物理的に突き動かすのとは違って、意識的過程による媒介がやはりポイントであることが認められよう。) ――協演的他者は、それの差向ける役割期待が当事主体によって理解されるという意識過程を介して正/負の制約的影響を及ぼし、また当事主体がそれへと差向ける役割期待を理解するという意識過程を介して言って居の目標実現型行為を遂行することで当事主体にとっての手段として機能する。」313-4P
(対話G)「ところで、当事主体と協演的他者とは期待されていることを理解する、および、期待していることを理解させる、という逆方向の「期待−理解」を体現するとはいえ、ここでの協演的他者は同一人物とは限られないのであるから、恒に必ず共互的というわけではない。当事者に期待を差向ける他者と、当事者が期待を差向ける他者とは、別人でもありうる。(例えば、前者は“観衆”、後者は“共演者”といった場合もありうる。) ――「期待されている−理解する」と「期待している−理解させる」とが同一人物相手(「パートナー」のルビ)との間で交互的・反転的に成立する場合、以って交互的に相手にとっての手段と成り合うケース、それが共互的役割行為の場合にほかならない。」314P
(対話H)「いずれにしても、しかし、協演的他者を構造内的契機とする行為、すなわち役割行為においては、他者による期待の(一方的または/および双方的)理解が、成立条件の必須的一契機をなす。――それ故、爰で「期待の理解」という問題が論件となる。そして、実は、役割行為の円滑な遂行に際しては、啻に「期待の理解」だけでなく、協演的他者に関わる種々の理解が要件をなす。依って、役割行為の成立機序に関わる他者理解について、稍々視界を拡げて論じておく次序である。」314P
第三段落――役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面  314-8P
(対話@)「役割行為が自覚的に遂行されるためには、当事主体が協演的他者による役割期待を察知・理解することが何は措いても必要である。――協演的他者なるものが財態一般から区別して意識されるためにも、他己認知・他者理解が要件をなすが、これの原理的可能性という次元での論考(前篇の最終節二〇四頁以下参照)には爰では溯るには及ばないであろう。――役割期待の察知・理解とは、当事“この身”が一定の“意識事態”(これは期求的督促感を伴って表象されている一定の未来的状景であり、当の企投的未来状景とそこへ到る過程は、“この身”を、そして場合によっては他の能為主体とその所作態をも、構造内的契機として含む相で表象されている)を“あの身”に帰属化させる態勢の現成である。(この帰属化の現成と相即的に“あの身”が能期待者、“この身”が所期待者という規定性を受け取ること、溯っては、謂う所の「帰属化」の機制、これらの事項については前篇第二章で論じておいたので、再説は省くことにしたい。)」314-5P
(対話A)「爰で述べておきたいのは、役割期待の察知・理解という役割行為にとっての必要条件そのことではなく、役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面についてである。」315P
(対話B)「当事主体は自分が行為を差向ける相手に関して必要な認識を確保しようとする。彼は相手の相貌・態度・挙動に認識の目を注ぎ、意識態勢(なかんずく情意的心態や期成的志向)を察知し、相手の動静を可及的具体的に予料する。――なるほど、当の必要な認識が謂うなれば瞬時的・直覚的に獲得され、さながら反射的に即応的行動が履行されるため、事前的認識というステップが殊更に介在しない場合もある。がしかし、そのような場合であっても、対向的・即応的な行動の過程を通じて、相手に関する認識が構造内的契機を成すことには変りない。――相手が既知の人物である場合には、その相手については既に持合わせている知識も動員して解釈・理解がおこなわれる。相手が初対面の人物であっても、外部的に観察される諸特徴(発話・発現の様式や内容をも含む)を手掛かりに、既成の類型的・範型的な把捉図式や解釈図式に当て嵌めて理解が図られる。相手の動静の予料に方(「あた」のルビ)っては、予備的知識や推測的判断によってそれが可能な場合には、役柄存在規定や人格的特性も参酌される。(前篇、第二章第三節、第三章第二節を参照されたい。尚、役柄存在規定や人格特性の理解に際しては、「慣行様態理念型」や「人格特性理念型」を“用い”ての理解がおこなわれる。この件については別著「現象学的社会学の祖型」三〇三頁を参看頂きたいと念う。)」315-6P
(対話C)「相手が行為中であるとき、ないしはまた、相手が一定行為を了えた場面では、その行為の目的性動機ないし/および理由性動機(これらの動機概念については本巻一一一頁以下参照)の解釈的理解がおこなわれる。――行為というものは、第三者的見地からは全て目的達成型の範式に納めうるにしても、行為主体当人の意識性においては決して恒に目的意識型になっているわけではない。激情の爆発といった行為もあれば、習慣的惰性的な行為もある。時としては、当人は殆んど無意識的に行為している場合もある。それ故、理解者の側では、所与の行為が第三者的認定においてもつ目的価値性を認定するだけでは不十分であって(つまり、第三者的認定の見地から“目的性動機”を“読み取る”だけでは不十全であって)、当事者の意識態に即しても追体験的・追認識的に理解する必要がある。これを欠いては自分の側での適応的行為は覚束ない。――当人の顕在的意識にのぼっている目的性動機を理解することが大切なのは言うまでもないが、それを安直に追認してしまうわけにもいかない。本人はしばしば一種の自己欺瞞に陥っていて、第三者的に判定すれば“真の目的性動機”は別であること屢々だからである。当人の心算(「つもり」のルビ)の追体験的理解と、第三者的見地からの“客観的”判定理解との双方が必要とされる。理由性動機の精確な理解は甚だ複雑である。理由性動機は極めて多くのケースにおいて(旧来の動機理由にあっては無視・軽視されてきた憾みがあるのだが)、役割期待の察知、それに基因する所期的役割行為の決意的企投であるように見受けられる。尤も、役割取得が即自的“条件反射的”におこなわれてしまい。理由性の動機が当人の意識にはこれといってのぼらない場合もある。いなむしろ、そのようなケースが大部分であると言っても過言でないかもしれない。「役割期待の察知、それに基因する所期的な役割行為の決意的企投」を以って理由性動機として理解する際、これは当人においても反省的に対自化されうることは言い条(くだり)、さしあたっては理解者の側での判定的理解である。翻っては亦、真性の理由性動機は深層心理的分析に俟ってしか理解できない場合もある。更には、唯単なる深層心理的分析といった手法では動機を突き止めることが不可能であり、そうでありながら、“経験的一般則”として、しかじかの与件的状況下ではかくかくの規定性を帯びた人物主体は概してどういう行動をおこなうかが“決っている”ため、動機からというよりもむしろ“原因”から所与の行為を“説明的に理解”できるような場合もある。」316-7P
(対話D)「役割行為の遂行に際して、当事主体が協演的他者におこなう認識・理解は多種多様であり、以上で叙べた幾つかは僅々一斑にすぎないのだが、役割行為の齟齬なき(齟齬の少なき)履行のためには、如上の諸部面に亘る認識・理解が要件をなす。(前篇の行文中ですでに誌しておいたので復唱しなかったが、例えば、眼前の人物の感情状態を認識することは、その人物とそつなく応対するために必要というばかりでなく、第三者たちによってこの自分がその人物を慰める/宥(なだ)める/励ます……という役割行動を演じるように期待されていることの察知・理解のためにも必要、という事情もある。)就中(なかんずく)、相手との共演わけても交互的即応行為に際しては、如上(じょじょう)の認識・理解が須要であって、殊に、自分の目的達成のために相手の行為を手段的に利用しようと図る場合(逆に亦、相手の目的達成のために自分の行為を手段的に提供しようと図る場合)、それは不可欠の構成要件である。」317P
(小さなポイントの但し書き) 「他者に関する理解というとき、当人自身の自己規定や自家証言は何らの特権性を有たない。なるほど、当人の意識態を追体験的に理解しようと図る場合など、当人の自家証言が極めて重要な手掛りになる。とはいえ、当人は自己欺瞞に屢々陥りがちでもあり、自家誤認と言わざるえないケースも往々にしてある。“正しい理解”というのは、当人の思念相と合致した理解の謂いではなく、認識論的に突き詰めれば“判断主観一般”の“判断”との合致、卑俗に言えば、間主観的に認証される“理解”の謂いとなる。/或る種の学派においては、意識の私秘性というドグマとの関係もあって、当人の証言に特権的な位置を与えるが、前篇の最終節でも述べた通り、これは到底戴けない。/本節では、対面的な役割行動の存在構制に主眼を向けつつ論じているため、当人自身の思念相における意識態の追認識にかなりの比重を置いて叙述している次第であるが、役柄的行為の協働的編制の一般的存立機序にあっては、次節および次々節において見るように、当事者本人の主観的私念相は事実上ブラックボックスに納めることさえできる。一般論としての「行為の意味」の理解においては、主観的に私念された意味の理解、況してや、それの追体験的理解ということは、手掛かりではあっても、何ら特権的な意義を有つものではない。念のためこのことを爰に申し添えておく。」317-8
第四段落――「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制 318-23P
(対話@)「偖、役割行為は、当事主体本人が恒に必ずそのことを逐一自覚しているというわけではないが、少なくともフェア・ウンスには、目的達成型の構制になっており、当人自身も屢々「目的−手段」の構制を意識している。それ故、爰で「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、更に進んでは、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制、これを一瞥しておきたいと念う。」318P
(対話A)「企投は、或る未在的状景を表象し、その未在的状景を実現することにおいて、一定の目的を達成しようと決意する意識性活動である。」318P
(対話B)「茲に謂う「実現される(予象的な)状景」を「目標」と呼ぶ。この目標は、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。とはいえ、目標状景の構成分は企投の時点において既に知覚的に現前しておりうる。例えば、手中のライターを点火しようとする場合や、眼前の蛇口から出ている水流を止めようとする場合など、前者では知覚的に現認されうるライターの上部の位置に定位的に焔の表象が泛かぶのであって、謂うなれば“知覚プラス定位的表象”という一状景(この状景全体としては企投の時点では知覚的には不在)が目標状景として現識されている。目標状景は、企投の時点では知覚的には不在の「表象されているだけの未在的状景」とは言い条、右に見たように、知覚的・既在的な“成分”をも含み得、表象とはいっても(瞼に泛かぶのではなく)知覚的対象界の一定の場所に定位的に泛かぶ場合もある。実際問題としては、このような場合のほうがむしろ普通だとさえ言える。(言い換えれば、目標状景が純然たる表象界に泛かぶ場合のほうが却って稀である。)目標は、表象界に留まろうと知覚的対象界で実現されようと、そのまま「目的」なのではない。目的は目標という所与が“帯びる”意義的価値(目標という所与が単なる所与以上の或るものとして妥当するところの「或るもの」、意義的価値)である。企投者は、例えば殺人という目標実現において、復讎とか名誉保持とか処刑とかの目的達成を期する。同一の与件的実在(といっても、これ自身すでに別の価値を担う財態)たる目標が、企投者の志向に応じて、種々様々な目的価値を有ちうる。(目標と目的の二肢的二重性については前篇第一章第三節の論脈内で既述したところを想起・参照されたい。) ――尚、目標状景なるものは明晰判明に表象されるとは限らない。目的がそれに即して意識されさえすれば、目標なるものは明晰判明に表象されるには及ばない。それは丁度、認知的意味(例えば内語の意味)が明識されさえすれば、認知的所与(例えば内語の音韻表象)は不明晰であっても支障がないのと同様である。目標が単に言語表現(内語)的泛かべられるだけで、およそ“絵画的”“画像的”には泛かばない場合もある。が、その場合でも、当の言語表現的に描出される状景が目的価値を担う所与たるかぎり、企投が成立しうる。(これまた前篇の論脈中で述べたことなので留意を求めるに止めるが、「目標」というとき、われわれは目標的状景の一全体を指す。或る種の学説では主体の現出する所作態の終局的姿態だけを目標と見做す風情であるが、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれの謂う目標状景には、勿論、企投当事主体本人の一定の所作態が含まれうるし、時によっては主体当人の一定所作態が目標状景の基幹・中核でもありうる。が、目標状景は場面的状況内の与件を「目標対象」つまり作らきかけの対象として含むのが普通であり、ミニマムでも、“対象的場所=場所的対象”の相では含む。目標的対象というのは、それにおける所期の変化が目標を体現するところのものであり、一般には対象物である。が、対象物の実質的な変化は事実上問題外で、もっぱら、そこにおいて所期の変化が生じる場所的存在としてのみ視野に入る場合もある。このような場合でも、純粋空間的場所といったものではなく、一定の対象的変化を体現するかぎりで目標的対象に算入する。――目標状景に他人、他人の一定の所作態が含まれうること、他人が目標的対象物のケースさえありうること、これは言い添えるまでもない。)」318-20P
(対話C)「企投は、一般に亦、手段の策定をも構造内的契機として含む。場所的状況内の特定与件を“駆使”することによって目標的対象に作用を及ぼし(主体に即すれば、それを仲介して対象に作用を及ぼし)、以って所期の対象的変化を実現しようとする。」320P
(対話D)「茲に謂う「駆使される(仲介的)与件」を「手段」と呼ぶ。――われわれは日常的思念に妥協して「手段」を「もの」の相で語るが、勝義においては手段は動態的機能であって、単なる「もの」ではない。――手段は、「もの」の相では企投の時点において知覚対象的与件である場合でさえ、勝義においては、つまり動態的機能相においては、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。(手段は目標的変化を仲介的に生ぜしめる機能的与件の総称であるから、一定スパンでの目標が更なる高次的目標にとっての手段に位する場合、中間的目標が終局的目標にとっての手段に位置すると言う。が、以下では暫くの間、行論の錯雑化を避けつつ手段の本質的構制を直視すべく、中間目標的手段というケースは棚上げするかたちで議論を運んでおきたい。)手段は、「もの」の相で言っても、事物や人物でありうるばかりか、物体的運動や肉体的運動でもありえ、言語その他の“無形的文化財”でもありうる。が、勝義においては、動態的な機能態の一全態が目標的対象に作用して所期の変化をもたらす機能を演じるのであり、この機能態が手段なのであるから、当の機能態の“本質的な構成因子”と見做される限り、個々には目標的対象に直接的に作用を及ぼすわけではないものであっても、手段の構成因子に算入される。(いわゆる技能・技倆・技術といったものばかりでなく、事と次第では規範のごときでも、それが“手段的に機能する動態的機能態”の“本質的な構成因子”と見做される限り、手段に算入されうる。――厳密に言い出せば、総世界的な連関態の機能が目標対象的変化を現成せしめるのであるから、手段は総世界的な拡がりにおいて考えられねばならない。だが、その際には目標的対象や当事的主体なるものと機能的手段なるものとを分截化することも無意味に帰する。存在論的な原理的次元で言えば、「目標対象−機能的手段−当事的主体」という分截そのことが、所詮は便宜的・仮設的な区分にすぎない。われわれとしては、このことを踏まえ、「“本質的な構成因子”と見做される限り」という便宜的な限定の下で、手段なるものの要因をひとまず劃する次第なのである。)手段は目的価値性との反照において手段的価値性を帯びる財態である。が、前篇第一章第三節の論脈内で既述したように、手段は目標実現機能性において目標と因果連鎖的に関わり、その目標が一定の目的価値性を有つこととの反照において、間接的に、目的に対する手段的価値性を帯びるのである。」320-1P
(対話E)「読者は爰で、手段の駆使、とりわけ主体による肉体の駆動や道具の使用、さらには、協演的他者を動かして手段的に利用する機制、これらについて分析的に討究する作業を予期されるかもしれない。が、議論の順序として、これは姑く措いて、企投意識態の分析をもう一段進めておかねばならない。」321P
(対話F)「企投は、目標状景の表象と相即的な目的を志向、加之(「くわえて」のルビ)手段の策定、これで完結するのではなく、決意をも構成要件とする。――決意が直ちに実行に移される場合もあるが、決意と実行とのあいだにタイムラグの介在する場合もあり、いずれにせよ、企投的決意という意識現象と実行という心身的(心物的)事象とが一応分截される。(繰り返して断っている通り、われわれは認識(「エルケンネン」のルビ)など“純然たる精神的行為”と呼ばれるものをも実践の一形態に算入する。が、本巻では、認識はそれが“心身的行為”の構造内的契機たる限りでのみ扱い、心身的事象としての行為を論件とする。そして認識といえども実は決して単なる“精神的行為”ではない限りで、必要に応じて折々に配視する措置を採っている。何卒、諒とされたい。)」321-2P
(対話G)「扨、決意は、欲求的情動感や当為的促迫感などを伴ったり、欲求や当為に限らず諸々の情動性/非情動性の覚識に機縁づけられたり、要言すれば“純粋意志”ではなく、複雑な心態の構造内部的一契機とも謂うべき相にある。この故に、人が企投的決意の具体相を検討しようと試みる際には、決意に纏(「まつ」のルビ)わる当の複雑な心態を綜観・分析する課題を負うであろう。がしかし、企投意識の本質的構制を概念的に把握するに当っては、欲求・当為などの因子は暫く括り出して、恰かも“純粋意志的決意”であるかのように処理するのがひとまず妥当であろうと思う。」322P
(対話H)「茲に、企投的決意は、目標状景の表象と相即的に志向される目的を(手段の策定をも伴いつつ)現実化・達成しようとする態勢を決する意志の営なみである、と一応は言われうる。が、目標状景を表象する能作や手段を策定する能作は直ちに意志の能作とは言えないであろう。目標の表象や手段の策定に際しては、諸々の知覚環境内的与件や諸々の記憶的・想像的表象も勘考されるが、この勘考も直ちに意志の能作とは言い難い。――われわれの本来の立場からすれば、知覚的能作、表象的能作、感情的能作、意志的能作……といったそれぞれに固有の作用成句を具備する多種類の能作、多種類の意識作用なるものを想定すべき謂われはない。が、今は姑く、常套的な思念に便乗しつつ、論点の所在を見定めようと試行中である。――認知的能作と意志的能作とを分けるとすれば、目標的状景の表象や手段的与件の表象は、場面的状況の知覚・表象とも併せて、認知的能作によるものと見做されるのが常套であろう。しかし、思い泛かぶあれこれの可能的目標状景・目標対象のうち、特定の状景・対象を撰定的に確定する能作は如何? また、思い泛かびうるあれこれの可能的手段のうち、特定の手段を撰定的に策定する能作は如何? 撰ぶ与件は認知的能作によって知覚・表象されるのであるとしても、撰択する能作、すなわち、撰び・定める能作は、意志的能作だとするのが通念であろう。」322-3P
(対話I)「目標や手段の撰択・決定に際しては、当の目標や手段の実現や活用が可能である(Können)かどうか、許容される(Mögen)かどうか、時によっては、当為である(Sollen)かどうか、場合によってはまた、それが望ましいかどうか、といったことも勘考・判定される。これらの勘考の“与件”は、目標や手段の撰択に方(「あた」のルビ)っての与件とは別種の能作によって現識化されるのかもしれない。だがいずれにせよ、判定する能作、それは撰定する能作の一亜種であろうから、やはり意志的能作と見做されてしかるべき筈である。」323P
(対話J)「斯くて、企投的決意にあっては、認知的能作も作らくにせよ、意志的能作による撰択的決定が構成的一要件である。そして、企投を実行に移す決意的起動、これが意志の作らきであるというのが通念にほかなるまい。」323P
第五段落――撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方を論件とする 323-9P
(対話@)「今や撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方が論件になる。が、撰択的決定については、意志の自由(撰択的自由)について後述する論脈に持越すことにしよう。決意的起動についても、その一斑はやはり、意志の自由(起動的自由)について後論する論脈に持越すが、一端に関しては爰で直ちに討究に付す段である。」323P
(対話A)「爰では、企投の実行の構制が当座の焦点であるとはいえ、「手段利用−目標実現」過程の具体相はひとまず措いて、主体自身の身体的起動、および、協演的他者の誘動、この局面における問題性から見て行こう。」323P
(対話B)「われわれは先刻来、論点の所在を明瞭にすべく、認識的能作とは別種の意志的能作なるものが撰択や起動をおこなうのであるかのように誌してきた。この言い方では、精神的エージェントの意志作用が、意識現象の領野内で撰択的決定をおこなうばかりでなく、物質的肉体に起動力を及ぼして身体的活動を始動させる、という含意になっている。日常的・常識的な思念においては慥かにそのように了解されており、種々の理説においても往々にしてそう考えられている。この理路にあっては、心→身の因果的な影響関係が想定されているわけである。しかも、企投的意識内容が物理的対象界において現実化されるというのであるから、そこでは「心的現象→物的現象」の“変換”“転化”も併せて想定されている。だが、しかし、われわれ自身の理論的見地では、このような理路は積極的に採らるべくもない。意志的能作が身体的運動を起動するかのごとき上来の表現は日常的思念に仮托した暫定的言表だったのであって、「意志」という特別な作用力が在って、それが肉体に作動力を及ぼすわけではない。われわれ本来の理論的立場からすれば「心→身」因果関係は認められない。」323-4P
(対話C)「人々は日常、「心」が起動的影響を「体(「からだ」のルビ)」に及ぼすと考えており、この思念は鞏固な既成観念にさえなっている。この既成観念は、決意的起動感を体内に感じるという体験的事実によって支えられている。だが、前章第二節の論脈中で述べた通り、「われわれとしては……いわゆる意志行為に際して、“心”が“体”に起動的作用を及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理学的活動)に転化・転成するとも考えない」。われわれは「身心関係論」上の「随伴説」を最終的に採らず、新規の理説を唱道する者ではあるが、当座の行文においては、前章第二節の暫定的措置を踏んで、次の了解に立脚する。――「人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして“体”なのである。この起動は遠心性パルスの発生による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる」。この暫定的了解が即それである。――この際のポイントは、随伴ということではなく、「心」が直接「体」に作用力を及ぼすというオカルトの回避にある。」324-5P
(対話D)「われわれの見地からすれば、こうして、意志なる精神力が肉体を動かすわけではないのだが、当事主体の表層的な意識性に即すれば、決意的起動に“因って”身体的運動が開始され、中介的な手段を介しての「対象への作用的因果連鎖」に及び、対象的変化が生起する。起動された身体的運動と中介的手段との接続の在り方、中介的手段の種類、中介的諸手段の連鎖的編成の方式、これは多様である。手段として協演的他者の主体的な活動が利用されない場合であっても、つまり、中介的手段としてはもっぱら物的存在たる用具・道具が使用される場合であっても、当人の意識では、惰性体を順次に衝き動かすという様式になっているとは限らない。念力で体外の事物(道具や対象)を動かすことこそ叶わないものの、自身に関しては、決意しただけで、謂わば遠隔操縦的に、手足が“おのずと”動いたりもする。また、手足で直接に突き動かしたり、持ち動かしたりするのでなく、直接には一定の機縁的な操作を施すだけで、バネの“自発力”、風力や水力などの“自動力”、ひいては、蒸気力や電磁力などの“内発力”を発動させ、これを手段的に利用することで所期の作用連鎖、対象的変化を実現することも可能である。「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”でありうる。機械装置やハイテク技術が手段的に利用される場合には愈々その感が深い。(爰では、呪力による操縦という思念は棚上げとするが、当人の思念相では「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”であるということ、但し、フェア・ウンスには、そこには因果的作用連鎖が見出される筈であるということ、この両面的事実の配視を要する。)」325P
(対話E)「他者の主体的活動を手段として利用する場合には、「他者の目標的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発すること」、この意識的過程による媒介が要件になる。尤も、他者の意識性に作らきかけると言い、以って他者を“遠隔的に操縦する”と言っても、念力で誘導・操縦するわけではない。当方としては、言語的発話であれ、態度・眼差・身振であれ、一定の身体的運動を第一次的・機縁的な手段として行使するのであって、純然たる精神力とやらで始動させるわけではない。相手の意識性に作らきかけるためにも自分自身の側での一定の身体的運動が必須不可欠である。――他者は当方の期待(懇請であれ命令であれ)に応えて一定の目標実現型の行為という形で役割行為を遂行し、以って当方にとっての一手段として機能する。その機能的径行は当の他者本人にとっては“近接的操作”であっても、当方にとっては“遠隔操縦的”である。この構制の内実については次節「役割遂行の共互構造」において論究することにし、爰ではとりあえず誘導的起動の在り方に関してのみ一言しておこう。――他者は決して無条件的に当方の期待に服従して行為するわけではない。彼は能為的主体である以上、拒絶的反応の“自由”を有つ。とはいえ、それにもかかわらず事実の問題として、人は差向けられている期待を察知・理解するや、期待されている通りにでこそなけれ、まず大抵は期待に副う形での応待を体現する。拒絶する場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚えるのが普通であって、とかく期待に応えようとするヴェクトルが傾動する。他者の誘導的起動はこの傾動性に俟つところ大であるように思われる。では、誘導的起動を発現せしめる当の傾動性のビルトインは如何なる機制に因るものであるのか?」325-6P
(対話F)「惟えば、この傾動たるや、そもそも当事主体が役割行動(これは一般に目的達成型の構制になっている)の企投を動機づけられている当のものにもほかならない。」326P
(対話G)「この問題に周到に応えるためには、役割行動なるものの動機づけの一般的構制を発生論的に溯って討究する必要がある。われわれとしてはこの作業を次々節から次章の前半にかけて追々に果たして行く予定である。が、爰で論件の一端に搦手(「からめて」のルビ)から示唆的に触れておくことにしよう。」326P
(対話H)「人が差向けられた期待に応えて役割行動を演じるのは、必ずしも利害得失・賞罰などの利己的打算・計算に基いてのことではない。さりとてまた、それは“利他的本能”“他受的本能”とやらの発露といったものでもあるまい。――突飛・奇矯の印象を与えることを憚らずに言えば、今問題の機制はいわゆる催眠現象とも共通するところがあるように見受けられる。」326-7P
(対話I)「催眠現象と一口に言っても、多次元的であって、一様ではない。表層的催眠にあっては、被術者は、意識が朦朧とした状態になっていて、術師が命ずるままに、手を挙げろと言われれば挙げ、座れと言われれば座り、「兎さんになった」と言われれば、いかにも兎らしい仕草でピョンピョン跳ねたりする。ところが、術師が「ズボンを脱げ」というような被術者の“価値観”“当為観”に反するたぐいの命令を出すと、上衣を脱ぐというような“妥協的”“代償的”な行動で応える。特に留目したいのが、深層的催眠と呼ばれる現象である。術師が被術者に「三時になったら窓を開けなさい」「燕の姿を見かけたら直ぐ閉めなさい」と命じておいてから術を解く。被術者は正常な意識に戻って談笑している。そのうち、三時になると彼は窓を開ける。そして、やがて、窓の外に燕の姿を見かけると慌てて窓を閉める。何故、窓を開けたのか、また、何故窓を閉めたのか、彼に質問してみる。「空気が濁ってきたから」「燕が飛び込んできては厭だから」と彼は答える。彼は術師に命じられていたということを全然憶えておらず、自分なりの意識性で“自発的に”企投し、決意的に起動したつもりでいる。――深層催眠においては、術師によって事前に“条件づけられていた反応”が、当の“条件刺戟”の出現(それの認知)に伴って“おのずと”“自発的な”企投的・決意的行為のかたちで発現する。まさに「条件反射」(意識性・決意的企投性を伴う条件反射!)である。表層的催眠現象もこれまた、条件反射理論に拠れば、言語的刺戟による「第二次信号系」条件反射にほかならない。」327P
(対話J)「人が期待に応えようとする傾動性、すなわち、期待性表出現相の出現(それの認知、つまり、期待の察知・理解)を機縁にして、所定の企投的・決意的な行動で応えようとする傾動性は、まさに深層的催眠と共通の機制に因るものと思わせずにはおかないであろう。人は、なるほど、欲求・価値観・当為観に強く反する期待を差向けられた場合には、拒絶するかもしれない。だが、その場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚え、一定の“妥協的”“代償的”な行動で応じるのが普通ではないか。ここでもやはり、催眠的行動現象との共通性が認められよう。」327-8P
(対話K)「議論のポイントは催眠現象ということそのことにあるのではない。神経生理学的に溯れば「条件反射」「条件反応」ということが論点である。つまり、一定の“条件刺戟”の出現(それの認知)を機縁にして、ビルトインされている条件反応が現出するということ、この条件反応は、現に多くの役割行動がそうであるように、“無意識的”“反射的”にも進捗するが、時としては意識性(企投的意図性・決意的起動性)を伴っても遂行されうるということ、ここにポイントがある。」328P
(対話L)「問題は、ここで、一体いかにして当の「条件づけ」が形成され既成化するに至っているのか、この発生論的経緯に懸ってくる。この件については後論に俟たねばならないが、嚮に前篇第三章第二節の行文中で先取的に述べておいた「広義のサンクション」が回答の鍵をなす筈である。今は唯この旨を記しておくに止めよう。」328P
(対話M)「役割行為というものは、当事主体が差向けられている期待を察知・理解すること(即自的な“察知”をも含む)を機縁にして企投的・決意的に遂行する場面であれ、当事主体にとって手段的に機能する他主体が(当事主体による期待に応えて)一定の役割行動を演ずる場面であれ、一般に、既成的にビルトインされている条件反応の機制を成立条件とする。が、発生論的初次局面に限らず、その場で現成する条件反射(この言い方が一見「条件反射理論」に牴触するように見えようとも、さに非ざることについては本書一四九頁を参照されたい)に俟つ場合もある。畢竟するに、神経生理学的な機制に即して言えば、役割行為なるものの成立機序は条件反応の機制を基底的な構成要因とする。」328P
(対話N)「われわれは以上、「役割行為の存在構制」を見定めるべく、舞台的環境(場面的状況・協演的他者・規範的条件、等)とその分節を視野に入れつつ、環境的制約・規制、協演的他者に関わる理解(役割期待の理解ばかりでなく役柄存在規定性や人格的特性の理解、ひいては、他者的行為の目的性/理由性動機の理解、等)を配視し、役割行為がフェア・ウンスには一般に「目的達成型」の構図を呈することに鑑み、目的企投意識の構造(目標の表象、手段の策定、等)、決意的“起動”による身体的運動を介しての手段的与件の操作、所期の対象的変化=目標実現、そのことによる目的の達成、これらの構制について、概略を論じてきた。その論脈内で、協演的他者の役割行為を当事主体が自分の目的達成のための手段として利用する機制についても一端を論じておいた。とはいえ、「行為撰択(目的な手段の撰択)の自由」および「行為起動の自由」、つまりは、決定論/非決定論の原理的な対立に関わる所謂「自由意志」論を首(「はじ」のルビ)め、役割行為の交互的手段化の分析、役割行為の協働的存立性、役割行為主体の「我々」相への形成の追跡、等々、未だ数多くの論件を遺したままだある。総じて、本節での行論は、主題化しえた範囲でも、論点の確認という域を幾許も出ていない。」329P
(対話O)「遺された課題に応えるためには、しかし、視界を拡充しつつ爾他の論材を取入れる必要もあるので、節を新たにして議論を継続する途に就くことにしよう。」329P


posted by たわし at 01:28| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする