2025年12月17日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(13)

たわしの読書メモ・・ブログ720[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(13)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
 第三節 実践論の基幹的構図
(この節の問題設定−長い標題)「実践論は、当事主体の直接的思念相における行為を追認的に分析するものではなく、学知的認定相での(für uns)行為事象を検覈的に究明するものである。が、この究明は当事者(達)の思念相を理解することをも構成的一要因とする。――行為は、即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)にではあれ、範型的には「主体が一定の手段で所定の目的を達成する」という構図を呈し、然かも「役割行為」としての対他者的意義を有ち、本質的に間主体的協働の一部位として定位される。――行為事象は事実性と併せて価値性に即しても分析・認定されねばならない。」281P
第一段落――“近代”学理的実践論のヒュポダイムを直截に相対化し、われわれなりの観方を提示する前梯を設らえる  281-7P
(対話@)「学史的に顧みるとき、行為は、洋の東西において、或いは修業論の見地から論究され、或いは儀式論・儀礼論の見地から定式・確認されたり、或いは道徳論の見地から善論・徳論・義務論として論議されたりもしてきた。また、自由意志行為の存否という観点からも論攷されてきた。とはいえ、行為事象の存在構造の研究となると、例えばアリストテレスのプラクシス・ポイエーシス論のごときも旧くから一応あったにせよ、概して手薄であったように看ぜられる。――認識の存立構造については、哲学史上の近代が認識論の時代と謂われる程、近代哲学は主題的な研究を推進してきた。近代知の地平においては「認識の存立構造」観が決定的に相対立する立場に岐れ、原理的な次元での争論を繰り展げる所以となった。(このことに鑑み、第一巻においては認識論の範型的諸立場の内在的批判と絡めつつ近代認識論のヒュポダイムの止揚を図る論述方式を採ったのであった。)然るに「実践の存立構造」に関しては、アプローチの仕方こそ多岐多様ではあれ、存在構造論的次元での観方(「アウフファッスング」のルビ)の原理的対立は顕示的には見られない。それゆえ、爰では類型的諸立場の内在的検討を介する方式においてではなく、旧来の“近代”学理的実践論のヒュポダイム(これは哲学のみならず、社会学・経済学・政治学などにおいても当事主体の思念相における実践の構図を追認したものに庶(「ちか」のルビ)い)を直截に相対化し、拙速にも憚らず、われわれなりの観方を提示する前梯を設(「しつ」のルビ)らえておきたいと念う。」281-2P
(小さなポイントの但し書き) 「――行為連関態という与件を、個別的な主体的行為に即して観るか、総体的な既成連関態に即して観るか、これに応じて理論構成の在り方が相岐れる。社会学に限らず、社会諸科学において、前者すなわち主体行為をアトミックな(そのかぎりで一応自己完結的な)単位と観て理論構成する立場と、後者すなわち既成連関態を「物のように」(comme de chose、このかぎりで一応独立自存的に)観立てて理論構成する立場とが分立・対立してきた。この分立は、いわゆるミクロ分析・理論とマクロ分析・理論の次元的相違とも屢々相成る。が、アトミズムとホーリズムとは、一方は如実の関係態の項を実体化し他方は如実の関係態の全体を実体化するという仕方での、二様の物象化的錯認と相即するものにほかならない。依って、いわゆるミクロ理論とマクロ理論とは単純に接合すること不可能である。仮りに“接合”したとしても、それで以ってしては如実の行為連関態を捉え切れるものではない。よしんば中規模の理論なるものを挿入したとしても、これが物象化的実体化の弊に陥っているかぎり、本質的には事情は変らない。/われわれとしてはこのことを自覚するが故に、個別的な主体的行為を自足的な単位と観ることも、総体的な既成関連態を自存的な物象に観立てることもしない。とはいえ、人々の思念相を批判的に理解するためにはこれら物象化的錯認相を再構成的に視野に入れる必要があり、一見これらの観方と妥協したごとき論述法をも論脈に応じて採らざるをえない。――旧来の行為論においては、“方法論的”という自己規定の下にであれ、とかく、前者の観方が支配的であり、また、旧来の制度論においては後者の観方が支配的であったという事情に鑑み、既成理論との内在的な論判をヒュポダイム次元で図るためにも、本篇では前者の視角との“妥協”、次篇では後者の視角との“妥協”に傾いた論行を余儀なくされる。――このことを何卒諒として頂きたい。」282-3P
(対話A)「偖、議論の糸口として――単なる糸口としてと謂うのは、爰では旧来の行為観の類型化的分類やそれの内在的検討の意趣はないという意味においてなのであるが――M・ウェーバーおよびT・パーソンズにおける“行為の定義”を一瞥するところから始めよう。」283P
(対話B)「ウェーバーは、弘く知られている通り、「行為とは、行為者ないし行為者たちが主観的意味をそれに結びつけた時の、またその限りでの、人間行動の謂いである」と定義し、「社会的行為というのは、行為者ないし行為者たちの思念した(「ゲマイント」のルビ)意味に則って他者の行動に関連づけられ、行為の径行中それに方向づけられているような行為のことである」と規定している。――彼が「個々人とその行為を以って最低層の単位的統一体(「アインハイト」のルビ)として、……アトムとして、取扱う」という方法論的(?)個人主義の立場を執っていることは周知の通りである。」283P
(対話C)「パーソンズは、これまたよく知られているように、「規範に随ってエネルギーを消費することで、状況内の目的に到達するよう方向づけられたもの」として行為を定義する。――彼の(少なくとも初期時代の)「関心の焦点は『部分』ないし単位概念という一つのタイプに置かれて」おり、基本的(「エレメンタリ」のルビ)として「単位行為」なるものが措定される。この単位行為(「ユニット・アクト」のルビ)は、(1)行為者(actor) 、(2)目的(end) 、(3)状況(situation) 、(4)規範的方向づけ(normative orientation)という四要素から成っている、と彼は観る。(行為者というのは、エゴないしセルフであって、肉体は「状況」に算入される。目的とは「行為者によって望ましいと見做されているがために、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」の謂いである。状況は行為者にとってコントロールでききるもの[手段]とそうでないもの[条件]とに分けうる。規範的方向づけとは、目的と状況との関連様式であって、一定目的を実現しうる手段の中から特定手段を選択させる基準を「規範(「ノルム」のルビ)」と呼ぶ。)」283-4P
(対話D)「茲に、行為者の「主観的意味」「思念せる意味」「行為者によって望ましいと見做され、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」と謂うのは、行為者当人の意志にのぼっている範囲内に限られている。(なるほど、ウェーバーもパーソンズも、実際の行為分析の段になると、当人の意識していない範囲まで視野に入れているかもしれない。が、それは事柄の分析にとっては正当でも、彼等の方法論的立場からすれば逸脱と言わねばなるまい。彼等の方法論上の立場では、学知的第三者の見地からする“意味賦与”を自制しつつ、当事者的意識態を追認識することが肝要であり、そのさい、学知は当事者的意識態をそのまま理解できるものと“要請的”に前提される構制になっている。)」284P
(対話E)「われわれの看るところ、これは余りにも視野狭窄(ママ)的である。これで以っては、行為当事者本人の視座に即した行為の分析・定式すら十全にはおこなえない。――行為者のその都度における意識態とそれに “則った”行為の追認識のためには、ウェーバーや初期パーソンズのごとき構えも強ち無用無価値ではない。第三者的見地から得手勝手な意味賦与をおこなう弊も避けねばならない。これは確かである。また、問題の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその仕方でおこなわれたのか、これを十全に理解・説明するためには、外部観察的与件(「データ」のルビ)だけでは不十分であり、当人がどのように意識していたかを知ることが重要な手掛りを与えてくれる。(仮令、当人の脳神経生理的状態を精確に認識できたとしてさえ、――これは行為現象のアクチュアルな場面では現実問題として不可能な話であるが、原理的な可能性としてきれを仮定した場合でさえ――それだけで行為を十全に説明できるという保証はない。というのも、脳生理的状態によって行為が一義必然的に決定されているかどうか、これは生理学的決定論の要請的前提であっても、実証された確定事実ではないのだからである。)当人の意識態と行動のあいだに一義必然的な関係があったという保証こそないが、われわれは当人の意識態と行動のあいだには“一定の蓋然的関連性”のあることを“経験則”として知っており、行為を理解・説明するための資料として、行為当事者の意識態を利用することができる。この故に、われわれとしても「主観的に思念された意味」を積極的に勘案する。だが、併し、行為に際して当事者が現識している範囲だけで以っては、当の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその様態・方式でおこなわれたのか、その理由・原因を十全に説明するためには不足である。況んや、行為の“客観的な”意味・意義を説明・評価するためには、当人の「主観的思念」に即するだけでは決定的に不十分であろう。けだし行為理論にとっては、行為現成の規定要因になっておりながら当事者のその場の直接的意識にのぼっていない部面をも配視することが要件をなす所以である。但し、フロイトの謂う狭義の「無意識」(das Unbewußte)の如きを導入して説明せよと言うのではない。当事者がその場では意識化していなかったにせよ、反省的には対自化することが原理的には可能な筈(と学知的見地から思われる範囲)の諸要因、謂うなれば「前意識」(das Vorbewußte)の部面まで配視しなければならない。(但し、フロイトの謂うこれの内実まで直ちに認めようというのでは勿論ない。) ――行為論にとっては、当事者の直接的意識にのぼっていない規定的諸要因をも勘考して当該の行為を説明する必要があるばかりでなく、当事者の自己評価とは別の評価をくだす必要もある。」284-5P
(対話F)「われわれとしては、パーソンズの謂う「目的」(これは前篇第二章第二節で紹介したシュッツの「目的性動機Umzu-Motiv」に庶い)ばかりでなく、動機(シュッツの謂う「真性の理由性動機das echte Weil-Motiv」、但し、「差向けられた役割期待」のごときをもわれわれはこれに含める。が、論点を鮮明にするために言えば、むしろ「原因(「カウサ」のルビ)」)をも“単位行為”の構成要件として挙げねばなるまい。加之、パーソンズの謂う「規範的方向づけ」と併せて“因果的方向づけ”をも挙げねばならない。そしてまた、行為の実現目標と達成目的との区別、のみならず一般に、行為の事実性諸契機と価値性諸契機との二肢的二重性を勘考する配備を採らねばならない。」285P
(対話G)「これまでの行文中でも、ヘーゲル流の用語法を借りて、für es (当事主体の直接的経験意識にとって)およびfür uns (われわれ学知的観察者にとって)という詞を折々に用いてきたのであったが、行為分析の場面にあっては、ヘーゲルの枠から外出(「はみだ」のルビ)しつつ、次のごとき区別と関連においてこれら両次元の視座を構え、以って、当事者の直接的意識態の単なる追認を超える地歩を方法論的に調えることにしようと念う。」285-6P
(対話H−第一に)「第一に、我々第三的な視座から当事者とその環界的(「ウムヴェルトリッヒ」のルビ)情況を状態観察的に描出する準位(für uns Beobachter)。――これは分析与件行為事象の劃定のための要件という域には留まらない。観察的に現認できる行為当事者の諸規定性ならびに「舞台的情景」「道具的条件」「規範的拘束」といった環界的情況をどこまで描出しておくか、これは後段における理論的分析・説明と内容的に関わることであって、単なる挿絵的な情景描写ではない。この描出は、頭初に纏めて置かれるか分析的討究の途次で追録されるかは別として、ともあれ行為事象の具体的な分析に際しては、方法論的な自覚と見通しをもって配意さるべき一要件である。」286P
(対話I−第二に)「第二に、当事主体が思念している相を登記する準位(für es)。――当事者は一人であるとは限らない。特に問題になるのが、当事者たちが共互的(mit-einander)に関わり合っている場合である。このさいには、当事者たちにおける向自・向他的な意識態を分別的に記述することも必要とされる。」286P
(対話J−第三に)「第三に、我々省察知の見地から当事者の営為を分析的・解釈的に規定する準位(für uns Analytiker)。――この準位から嚮の第二準位を把え返すとき、そこで一括してフェア・エスとされていたものは、(イ)当事者自身は明識していないが、我々が扮技的に記述する限りでは、当事者が已に即自的には然(「そ」のルビ)う意識していると指称できる場合(つまりan sichな場合)、(ロ)我々の見地からは別様に乃至はより立入って規定してしかるべきところであるが、ともあれ当事者自身は斯く斯くとして対自的に現識している場合(つまりfür sichな場合)、(ハ)当事者自身の現識的規定が我々の対象準位(「オヴジェクト・レヴェル」のルビ)的認知規定態と合致する水準になっている場合(つまりan und für sichな場合)、に区分される。要言すれは、für esはfür unsな規定から区分するとき、(イ)即自的(an sich)、(ロ)対自的(für sich)、(ハ)即自且対自的(an und für sich)に下位区分される。」286-7P
(小さなポイントの但し書き)「右にはとりあえず、事実性と価値性との二肢的二重性に分入ることなく、もっぱら誰の見地からの規定態であるかのみの区別に即したのであるが、後論の論脈内で事実性と価値性との二重性に即して方法論的配備をより具体的に述べる予定である。/亦、右の形式的な立言では「我々」殊に第三準位での学知なるものを当事者の直接的な意識と区別するに止めているが、実際には、“学知”を自称する者どうしの見解の対立・対質が生じうる。「我々」としては、当事者的意識態の批判的討究ばかりでなく、“学知”的見解の批判的検討をも折々に必要とする。――「我々」なるものが、固定的・絶対的な高位に自足的に立っているわけでなく、弁証法的=対話的(「ディアレクティッシュ」のルビ)に準位を高めて行くものであること、この件その他、弁証法的体型構成法に関わる主題的な拙論については別著『弁証法の論理』の参看を求め、爰では詳説は省く。/尚、本書では、叙述を徒為に煩雑化することなきよう、混淆の惧れのない場面では、どの準位の規定であるかを逐一的には記さない便法を採りたいと念う。表現技術上、この措置を執ることをも事前に諒承いただきたい。」287P
(対話K)「爰本節はまだ具体的な行為現象の実質的な分析に立入る場所ではない。右で陳べた方法論的留意事項を記銘しつつ、まずは実践論の構図を隈取っておくことが当面の課題である。――この課題に暫定的に応える途次、旧来の行為観のパラダイムとの対質をも幾つかの論点で絡める運びとなるであろう。」287P
第二段落――実践論の構図を隈取っておく−行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措という構制を呈すること 287-93P
(対話@)「偖、行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措(「フェアハルテン」のルビ)という構制を呈する。そして、この構図は、当体が能知的主体である場合、当の主体にとって(für esに)も、形式的には妥当する。但し、観察者にとっての規定と当事者にとっての規定とは、構図的・形式的には同じく「環境−当体」の図柄を呈するにしても、範囲的にも内実的にもおよそ別様でありうる。環境が舞台的情況として、亦、当体が能為的主体として、それぞれ認知される場合であっても、右の事情には変りない。」287-8P
(対話A)「行為的当事主体の視座すらするとき(これは我々の見地からも差当たり追認することができるのだが)、行為的事象は、前節に謂う「客体−用具−主体」という三体図式を基底(「ベース」のルビ)にして式述することが可能である。――当事者にとって、例えば欲求行動の場合など、「主体→用具→客体」という相で意識されがちだとしても、即自的には已に「客体⇄用具⇄主体」という構制が一般に看られる、と言ってよいであろう。――「客体」は、主体が作らきかける単なる対象ではなく、主体的活動性を誘起・機縁づけるものでもあり、主体的活動性の在り方を制約するものでもある。「用具」は、主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へと作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある。「主体」は、客体および用具との関係で右に述べたところに含まれている通り、客体に作らきかけるばかりでなく客体に作らきかけられもするもの、且つ亦、用具を制御するだけでなく用具に制約もされてもいるのである。」288P
(対話B)「ところで、前節の行文中においては、謂う所の三体図式における「客体」をいわゆる事物的存在体に限局するかのごとき論述を事としたのであったが、それは当事者的意識の追認というよりむしろ旧套的パラダイムを暫定的に擦(「なぞ」のルビ)りつつ内在的に止揚する伏線だったのであって、「客体⇄用具⇄主体」における「客体」は何も事物的存在体に限局さるべき謂われはない。「客体」は、主体が(用具を介して)それに変化を生ぜしめるもの、ないし/および、主体がそれに縁って変化を生ぜしめられるもの、この要件を充たすものを全般に拡充されうる。今や客体は知覚的対象物には限らず、表象された対象やいわゆる志向的対象をも含みうる。それは人物他者でもありうるし、いわゆる自身の肉体をすら含んで差支えない。――前節での三体図式において「用具」と呼んだものについても、今や規定を新たにすることが望まれる。前節では事物的客体に限局する風情であったため、「用具」も伸・縮相における肉体という言い方に止めたのであった。だが、用具とは「主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へ作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある」とすれば、それは肉体的・物体的(「ケルパーリッヒ」のルビ)な存在体に限局されるには及ばない。それは「環境−主体」系から能為的「主体」項ならびに「客体」項を括り出した“残余”全域にまで拡がって定在しうる。」288-9P
(対話C)「爰において、「客体⇄用具⇄主体」という図式は、夫々の内自的な特性に拠って截断される三体を結ぶ図式というより、機能性に即して分節される三項関係の図式として把え返される所以となる。――「事物的客体−肉体的用具−精神的主体」という図式は、今では拡充・再措定された「客体⇄用具⇄主体」の特殊的ケースとして位置づけられる。また、この拡充・再措定された特殊的一ケースとして「目標−手段−能為」という図式を分出的に措定することができる。翻っては亦、客体が他者(単なる肉体的存在物というより主体的存在者)である場合、「客体⇄用具⇄主体」図式の特殊的ケースとして、「相手−配備−自分」という図式を分出できる構制になっている。――以下では、爰に再措定された「客体−用具−主体」図式を必要に応じて「対象−用財−主体」図式と標記することにしよう。」289P
(対話D)「偖、右に措定し直した「客体−用具−主体」図式、すなわち「対象−用財−主体」図式は、行為に際して、当事者自身にとっても現識されている構制である。(当事者の現識相と我々学知的分析者の規定相とは勿論そのまま重なるわけではない。が、構図的・形式的には我々も「対象−用財−主体」図式を“追認”しうる。)」289P
(対話E)「当事者にとって、「対象」とは、さしあたり、それにおいて所期の変化(生・滅[現実化・無在化] /変様/移動)が体現されるところのものである。「用財」とは、それを主体が用益して対象的変化をもたらすところのものである。一往このように言えるかもしれない。だが、当事者自身いちはやく、謂うなれば逆のヴェクトルにおける次のことを対自化する。「対象」は主体的活動性を誘発・機縁づけるものでもあること、「用財」は対象的変化の在り方をも主体的活動の在り方をも制約するものであること、「主体」はその活動性を対象によって誘発され且つ用財によって制約されるものでもあること、すなわちこれである。(繰り返し誌してきたとおり、著者は認識(「エルケンネン」のルビ)と呼ばれるものをも行為の一形態であると見做し、広義の実践に算入する者であるが、本巻においては、認識という行為形態については主題的には立入らないことにし、実践の構造内的一契機をなすかぎりでの認識を配視するに止める。この段あらためて諒承いただきたい。)」289-90P
(対話F)「茲に「用財」は極めて広袤の大なるものとなる。当事主体はその一部分しか現識していないにせよ、我々の学知的分析の見地からは、それは、(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的・規範的な準則、(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態を包摂する。――当事主体は、環境的条件をも用益しつつ、道具を肉体で以って一定の方式に由り、意識内の“設計図”や“地図”をも参酌しながら使用することで、目標状景を実現する(という仕方で対象的変化を現成せしめる。)」290P
(対話G)「尤も、前記(4) の一部をなす規範的準則および(5)の企投的・嚮導的意識態は、主体(精神的エージェント)に内在化させ、主体的活動に算入する見方もありうる。当事者の自家了解はむしろこの形に近いかもしれない。この線で立てられる理説も現にある。」290P
(対話H)「旧来の行為論においては、とかく「主体→用財→対象」というヴェクトルに主眼が置かれ、「対象→用財→主体」という逆向きのヴェクトルはたかだか認識面での副次的な意義しか認められていない傾向があり、そのためもあって、「対象」項が志向的目標ということでしか把えられない憾みもあった。そこにあっては、われわれの嚮に謂う「対象」は、むしろ、環境的与件の一部分ということにされ易い。――というのはこうである。論者たちによれば、外在的対象物は、たかだかそこにおいて“目的”が実現される“場所”たるにすぎない。勿論、論者たちも、対象物の客観的実在性を否認するわけでなく、それが空無的場所だと言うのではない。それが物理的な実質性を具えた存在体であることは承知している。が、論者たちは、「行為論的にみて肝要なのは“目的”(という主観内部的に思い泛かべられた観念)の実現、言い換えれば、当初は(頭の中にあって)現実的にはまだ存在しなかった状態の実現である」と主張する。この実現に際しては、なるほど、移動であれ変様であれ生滅であれ、外在的対象に一定の変化が生じるには違いない。がしかし、肝心なことは変化実現の以前には現実的には未在であった状態の新規的出現・現実化なのであり、この“目的の実現”にとって外在的対象は“場所”たるにすぎず、実質的にはむしろ、“目的の実現”にとっての“手段”と呼ぶほうが相応しい、云々。論者たちはこのように考える次第なのである。――という次第で、論者たちは“目的実現の場所”ということでミニマムの“対象”項を残し、そのかぎりで、「主体−用財−対象」という構図は維持するにしても、対象的実質は“目的実現のための一手段”として、“環境的与件の一部分”と見做す所以となる。」290-1P
(対話I)「論者たちは茲に、実態的には「目標−手段−能為」という図式を立て、謂う所の“手段”として、前記の(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的準則、等を考え、前記の(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態は“主体”に内属させる。――嚮に紹介した初期パーソンズの「単位行為」は、「行為者(目的を表象し規範的に方向づける自我) −状況(道具的手段および環境的条件) −目的(未来的事態)」という構制、つまり、右に謂う「能為−手段−目標」という図式に近い構制になっていると言えよう。これは何も特殊パーソンズ的というわけでなく、旧来の単位行為観に、かなり弘く見られるもののように見受けられる。――ここにあっては、「能為的主体が志向目的を一定手段を用いて対象的に実現する」ということが「単位行為」の本諦であるとされる。」291-2P
(対話J)「日常人は行為を恒に必ずしも右の理説の構図で了解しているわけではないように思われる。が、少なくとも或る種の行為に関してはこの構図で了解していることも確かであろう。――この限りで、右の理説の構制に今少しく関説しておかねばなるまい。」292P
(対話K)「一定の目的を志向し、一定の手段をしかるべき仕方で用益することで、主体が所期の目的を達成する、という構制の行為を「目的達成型」と呼ぶことにしよう。目的は一定の状態(企投の時点では未来完了的な一状態)において体現される。当の状態は、企投に際して、目標的状景として表象・予象(「フォル・シュテレン」のルビ)される。謂う所の状態(目的がそれにおいて体現されるところの状態)は嚮にみた意味で“場所的対象”とも謂われうる。そして、目標的状景は必ずしも“絵画的”に表象される必要はなく、内語的叙示態の相でしか意識されない場合もありうる。が、明晰判明な画像的表象の相においてではなくとも、ともあれ目標的状景が企投に際して意識され、所期の目的は一定の実現目標状態に体現されることで達成される。目的という価値は、実現目標という事実性に担われているのである。(目的価値を担う当の事実的状態は、同時に、欲求的/当為的/評価的/等々の価値をも担いうる。)目標実現のために利用される用財(行為舞台的環境条件、道具的手段、肉体的活動、技術・技倆的方式、等々)は、目的価値達成の手段として手段的価値性を帯びるのであって、これまた単なる実在でなくして財態である。そして、能為的主体も、目的価値を志向し目的価値を達成すべく活動する主体として、この一事だけからしても、単なる実在的活動体ではなく、価値性を帯びた主体、財態的主体である。(行為は、目的企投の在り方に関しても、手段選択の在り方に関しても、行為遂行の在り方に関しても、所業的結果に関しても……、諸々の価値的評価の与件となる。が、この件については後論まで持越すことにして、今爰では、行為の価値性・事実性という問題は、目的性価値および手段性価値に限ってのみ配視するに止めておく。)」292-3P
(対話L)「われわれの看るところ、行為はその全てが対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的達成型になっているというわけではないが、即自的には(つまり、我々の学的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっている、と言うことができる。――いわゆる反射的行動のごときは措くとしても、ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあり、ブルデューの謂うハビトゥスに基くプラティックのごときもある。フェア・エスには、ウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥス的行為が大部分であるように見受けられる。従って、フェア・エスには、ウェーバーの謂う目的合理的行為が行為の大半を占めるなどとは言えないばかりでなく、目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにもいかない。このことの銘記を要する。だが、アン・ジッヒには殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言えること、これは容易に認められうるであろうと信じる。――フェア・ウンスには、しかも、「目標→手段→能為」というヴェクトルも現認できる。俗に、“目的(目標)実現関係においては、因果的作動関係とは逆で、目的(目標)の側からの作らきかけで謂うなれば招き寄せられる”という言い方がなされる事情にそれは見合う。総じて、少なくともフェア・ウンスには「目標⇄手段⇄能為」という構制が殆んど全ての人間行為において看られる次第である。」293P
第三段落――「目的達成型」という構制と「役割行為」との関連  293-9P
(対話@)「ところで、翻って顧みるに、われわれは前篇において、人間の行為というものは殆んど全てが「役割行為」として営なまれている旨を論定していたのであった。では、「目的達成型」という構制と「役割行為」とは如何なる関連にあるのか?」293P
(対話A)「われわれはいま、「対象⇄用在⇄主体」という措定図式や「目標⇄手段⇄能為」という目的達成型の範式から“演繹的”“変形的”に「役割行為」を“導出”してみせる必要はない。そのつもりもない。がしかし、「相手⇄配備⇄自分」という役割行為型を、目的達成型のヴァリアントとして、溯っては亦、「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊な一形態として、位置づけて示すことはできる。」293-4P
(対話B)「嚮に謂う「対象」(“場所的対象=対象的場所”)が人物の場合もあること、また、目標的状態が人物の所動的状態である場合のみならず、相手人物の主体的所業である場合もありうること、このことは容易に認められよう。相手にしかじかの所業的行為を体現せしめることが目標であり、能為的主体たる自分が一定の手段を用いて当の所期目的を達成する場合、「目標−手段−能為」という構制が「相手−配備−自分」という特殊形態にあることになる。ここにあっては、少なくともフェア・ウンスには、ヘーゲルの謂う「力の遊戯」の構制が見られるのであって、俗な言い方をすれば、“誘惑者は誘惑すべく誘惑されており、被誘惑者は誘惑されるべく誘惑している”構制が看られる。つまり「相手⇄配備⇄自分」という構制になっており、溯っては、これは「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊的一定在形式にほかならないのである。」294P
(対話C)「役割行為なるものは、しかし、相手の期待に応えて自分が役割行動を遂行する場合であってさえ、行為対象は恒に必ず当の本人とは限らず、亦、行為目標は恒に必ず相手本人の所業とも限らない。――なるほど、例えば、会話とか、物品の授受とか、行為の目標的対象が相手本人の場合もありはする。これが役割的行為の原基的形態かもしれない。(精確には、原基的形態は、会話とか授受とかでなく、直截な対抗的即応行為であるが、今言いたかったのは、相手人物が自分の側での行為の目標的対象である場合が役割的行為の原基形態であるということである。)われわれは前篇においては事実上この形態での役割行為だけを視野に入れるに止った。だが、実は、これでは視野が狭すぎる。現実の役割行為には、目標的対象が第三者(事物的存在者または/および人物的存在者)の場合が現にある。――相手に期待されている自分の行為が、或る事物的対象に一定の変化を惹き起こすことであったり、或る第三者に一定の行為を遂行させることであったり、要するに目標的対象が第三の存在者である場合がある。自分の期待する相手の役割行為が、同様に亦、第三の存在者を目標的対象とする場合もある。」294-5P
(対話D)「このような役割行為の場合、「目標−手段−能為」と如何なる布置関係にあるのか? 「目標−手段−能為」と「相手−配備−自分」との双つが、単なる併存ないし単なる接合の関係にあるのか? ――或る種の論者は、対物行動と対人行動とを行動の基本的二種類とし、両者を両半球的に区分する。また、或る種の論者は、「人−物−人」という三項的関係を行為の基本的構図に見立てたがる。しかしながら、われわれは原理的次元においては、事物と人物との二元的区別を暗黙の大前提とするこれらの論者にそのまま与みするわけにはいかない。アニミズム的世界観を卻けた地平においても、行為の具体的な場面では、いわゆる事物的存在体といえども“能期待者/所期待者”に類する機能を現に屢々演じ、逆に亦、いわゆる人物的存在者といえども単なる事物的対象なみにしか機能しない場合が厳にあるのであって、原理的論議を俟たずしても、論者流の安直な理論構制は採らるべくもない。「人−物−人」という三項図式は、一見、われわれの謂う「相手−配備−自分」という図式の別表現のように見えようとも、実は存在観を異にしており、内実的にはおよそ相別れる。が、今爰では原理的な対質に立及ぶことなくしても、われわれの謂う「配備」は「物」には限局されないこと、この一事を指摘しておけば一往足りるであろう。――「目標−手段−能為」図式は「手段」項に「他者の一定の役割行為」をビルトインした相で存立しうる。反って亦、「相手−配備−自分」図式は「配備」項に(自分または/および相手の)一定の目的達成型の行為をビルトインした相でも存立しうる。こうして、目的達成型と役割行為型とは、単なる並存でも単なる接合でもなく、また、後者が前者の特殊的一形態という枠に納まるのでもなく、謂うなれば互いに他の構造内的契機としてビルトインされる相にありうる。現実の行為は、目的達成行為と呼ばれるものであれ役割遂行行為と呼ばれるものであれ、多少とも立入って分析的に規定すれば、大抵がこのような錯構造を呈する相で現存在する。」295-6P
(小さなポイントの但し書き) 「尤も、「目標−手段−能為」図式と「相手−配備−自分」図式とが“相互嵌入”的な相にあるというとき、両図式とも嚮の暫定的範式よりも内容的規定性が豊かになっている。嚮には、「相手−配備−自分」の原基的形態にあっては、互いに相手当人が目標的対象である旨を述べた。“即物的”には慥かにそう言われうるし、そのかぎりで、この図式を「目標−手段−能為」図式の特殊的形態として、溯っては「対象−用財−主体」図式のヴァリアントとして位置づけることも許されうる。だが、相手をも自分をも「能期待者/所期待者」という“主体的側面”と、「所期的所作態者」という“客体的側面”とに区別して捉えるとき、目標的対象となるのは後者の側面である。このように分析的に捉え返せば、目標的対象が(主体的相手とも主体的自分とも別の)第三者の存在者である場合と述べて嚮に別建てにしたものとの相違性は相対的な差異すぎないことになる。われわれは目標的対象が“相手当人”の場合と“第三者の存在者”の場合の場合との相対的区分を没却する者ではないが、役割行為の主体(人格的主体)と役割的所作とを区別する論脈では、主体としての相手当人が目標的対象なのではないこと、目標的対象は相手の所作という“客体的側面”、このかぎりでの“第三者の存在者”であること、このことを自覚して事に当らねばならない。――「目標−手段−能為」図式における「手段」項についても、それが「伸長せる肉体的用具」に算入されうる場合でさえ、他者の主体的役割行為であるケースを含みうること、今やこのことが銘記される。」296P
(対話E)「「目標−手段−能為」図式に「相手−配備−自分」図式が構造内的契機として嵌入される構制になっていると言うとき、他主体の役割行為が「手段」項の一部としてビルトインされていることを意味するが、そこでは他主体の行為とは言っても、所詮は「能為=自分」にとっての用具的一手段であり、他主体の行為がそれなりの目的達成行為であるにせよ、総体的には「能為=自分」が自分の志向目的を達成するのであって、他主体の行為はあくまで一手段たるにすぎない。ここにあっては、「目標−手段−能為」図式の「自分」項とが重なっていて「相手−配備」の部分が「手段」項の一部分を成すという構図が単位的な枠組みとなる。」296-7P・・・錯分子的構造
(対話F)「逆に、「相手−配備−自分」図式に「目標−手段−能為」図式が構造内的契機として嵌入されているという際には如何? 相手に相手の目標を自分が実現させられる場合、乃至、自分が自分の目標を相手に実現させる場合、いずれにせよ能期待者・使役者たる「自分」項が「能為」項とまず重なる。「配備」項は、さしあたり、「相手」に所期の役割行為をおこなわせる手段的配備であり、相手に一定の役割行動をおこなわせることが自己目的であるとするなら、その場合には「目標−手段」の部分(自分=能為の目標実現行為という部分)が「配備」項の一部分を成すと言える。がしかし、これはなるほど目的達成型の行為が「配備」項の構造内的契機を成しているという規定的豊富化を示すにもせよ、「目標」項は「相手」の反応的所作という“客体的側面”と重なるかぎりで、総じてむしろ「目標−手段−能為」図式の特殊的ケースとしての「相手−配備−自分」図式という埓を実質的には出るものではないと言ったほうがよいであろう。このことを省みるとき、役割行為型に目的達成型が嵌入されている嚮の言い方は、役割行為を促す機制をイラストレイトするものではあれ、事柄の本質的構制にとっては、嵌入とかビルトインとか言うのは相応しくない。そもそも、相手に一定の役割行為をおこなわせることが自己目的というのは実情に合わない。相手に一定の役割行動を期待・使役するのは、高次的目的のための一手段としてであり、所期の達成目的は相手の役割行為自体とは別の所、外部にあるのが現実である。こうして、現実問題として、嵌入ということが現成するのは、目的達成型への役割行為型のビルトインという相においてである。ひとまずはこのように“認め”ておくことができる。(ひとまずはと限定するのは、後に見るように、役割遂行行為が目的達成行為を謂うなれば“包み返す”場合、「主体我々の協働」の場合があるからである。)」297-8P・・・協働論
(対話G)「差当ってのところ、斯くして「実現目標−配備的手段(これに他者の役割行動も含まれておりうる)−能為的自分」という構図が単位的な行為の構制として“確認”される次第となる。(この構図は相手の視座に則しても成り立つ。)」298P
(対話H)「この構制においては、他者なるものがたかだか能為的自分にとっての手段的存在たるにすぎず、他者の主体的活動といえども所作という“客体的側面”において自分にとっての手段的要因として算入されるにすぎない。ここにあっては、他者は能為的主体・人格的主体として認知されてはいても、所詮は手段的存在にとどまる限り、「主体我々」として協働するわけではない。共互的な役割行動がおこなわれるとしても、せいぜい互いに相手の手段と成り合うという域を出ない。(尤も、この“手段”は“自発的能動者”であることにおいてその“手段的価値性”を発揮するのであって、並の手段とは別格であるのだが、手段は所詮手段である。)」298P
(対話I)「惟うに、いわゆる近代的自我主義・利己主義の風潮とも相即するかたちで――今この風潮が支配的(「プリヴァレント」のルビ)になった歴史的・社会的な事情・基盤まで掘下げることなく、表層的な指摘に留めるが――右の構制が人々の日常的行為観の基調をなしており、亦、それを追認する流儀で、学術的な行為論においてもそれが基幹的な構図とされている。そこでは、複数の諸個人の営為から成る社会的行為なるものも、右の構制での単位的行為の集合(単なる並存ではなく、対立・衝突・葛藤をも孕みつつも全体としては何とか“調和的統一性”を呈する集合現象)として把握される。まさに「実現目標−配備的手段−能為的自分」を単位的行為態とする個人主義的パラダイムが鞏固に確立している。」298P
(対話J)「省みれば、われわれ自身、嚮に――人間の行為は「フェア・エスにはウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥスな行為が大部分であり、……目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにはいかない」という但書きを添えつつも――「即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には(つまり、我々の学知的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言うことができる」と記したのであった。だが、この命題は、われわれの場合、人間の行為というものは(闇雲におこなわれるのではなく)大抵が少なくとも即自的にはその都度一定の目的を達成する構制になっているということを取敢えず確認するだけのものであって、個人主義的・利己主義的な含意に関しては中性的である。――他人の行為(当方の期待・要請に応えての役割行動をも含む)が自分の目的達成行為にビルトインされている事態について、他人の行為を「単なる手段として利用している」と観る場合と、「協力的恩恵を忝(かたじけなう)している」と観る場合とが相岐れうる。なるほど、協力的恩恵などと言っても、相手が打算的に報酬や恩顧を期待して協力するにすぎない場合には、相手は当方を単なる手段として遇している域を出ず、真の主体的協力の名に値しないであろう。このような場合には、協力という名を冠してみたところで、所詮は利己主義的な手段的利用の埓内にある。だが、互いに手段的に機能しつつも猶且つ「真の協力」と認めうる場合も厳にある。真の主体的協働の場合がそれである。」298-9P
第四段落――主体我々の形成−協働論  299-303P
(対話@)「目的達成型の行為という範式の枠内にあっても、複数の主体が共同の目的を志向して協働的に役割行動を遂行する場合、当の複数主体は、各々他主体の所作を目的達成の手段として機能せしめつつも「我々」として目的達成行為を営なむ。ここでは、協働者は、銘々他人にとっての単なる手段ではなく、各々主体であり、主体我々を形成する。(強いて言いたければ、行為者は“客体的側面”において他主体にとっての手段、“主体的側面”において他主体にとっても主体、と一応言ってもよい。がしかし、両側面を分断することは実質的にはナンセンスである。というのも、主体的活動であることにおいて手段的な機能性が客体的に発揮されるのであり、また客体的所作ぬきの単なる精神的活動では行為主体ではないのだからである。ここでの論脈において「単なる手段的存在」と「主体我々の片割れとしての主体的存在」とを別かつのは、“客体的側面”と“主体的側面”との振分けではなくして、志向目的の“主体的側面”のフェア・ジッヒな共同性・共有性の存否である。)」299-300P
(対話A)「志向目的の共有、主体我々としての協働は、日常茶飯に見られるところであり、打算的他者利用に際してすら部分的現象としてなら存立しうる。共互的役割行動の現成が(高次目的は別にあるとしても)暫定的目的である場合、例えば格闘技や敵対的ゲームのごときであってさえ、また会話のごときであってさえ、主体的協働たりうる。打算的な授受・取引行為のごときでも、授受・取引の成立が当面の暫定的共同目的である限り、その局部的共同行為は主体的協働であると言える。」300P
(対話B)「主体我々の協働的役割行為という事態においては、役割行為型の範型に目的達成型がビルトインされる構図になるという言い方もできる。が、ここでは絮言は省くことにしよう。」300P
(対話C)「尚、「協働」というとき、自覚的に目的を共有して営なまれるものだけでなく、当人たちはそれと自覚していなくともフェア・ウンスには看取される即自的な協働をも視野に入れて論考する必要がある。この件については、しかし、次章以下の論脈内で論じることにして、爰では次のことに留意を求めるに止めておく。」300P
(対話D)「人間の営為というものは、一見したところでは、孤独な、当人だけの目的達成行動であるように見える場合であっても、フェア・ウンスには、協働の一局部の担掌、他者たちとの即自的な協働である場合が多い。いや、それどころの話ではない。人間の行為は悉く一種の協働であるとすら言うことができる。――役所や企業など組織体における各人の業務行為は協働的営為の担掌であり、例えば、一人の事務員が孤独に従事しているデスクワークでも組織体としての事業の分業的協働の一齣である。個々人はその都度の仕事の目的を志向して行為するにしても、その目的たるや、それ自身としては、つまり組織体の事業目的から切離されて単独には、殆んど無価値であり、組織体(いきなりその全体とは言わぬまでも、部なり課なりといった直接的な協働単位)の目的にとっての手段的部分目的としてのみ意義をもつ。もしそれが組織体の事業目的にとっての手段的な部分目的として課せられるのでなかったら、当人はおよそ当の目的を志向することはないであろうし、以って当の目的達成行為は企投もされず、況してや、遂行されることもないであろう。当の企投。遂行が存在するのは、協働の一齣たることにおいてのみであり、仍ち、当の行為にとって協働が存在条件をなしているのである。別の例をとって、一人の農夫が孤独に畑を鍬で耕しているような場合には如何? 彼はなるほど、協業(=co-operation協同作業)という仕方での協働作業を営なむわけではない。耕すことが最終目的ではなく、それはさしあたり。播種・育成・収穫という高次目的にとっての手段的な中間目的にすぎないにしても、その高次目的とてまずは彼個人の目的であると言える。このような点で、慥かに、嚮の協業的部署の担掌者の場合と同列には語れない。だがしかし、直接的な共演者こそ欠くにせよ、この例のケースにあってもまた、本質的な構制では、やはり一種の協働の構制になっている。農夫は素手で耕すのではなく、鍬を用いて(謂うなれば“鍬の力を借りて”“鍬の助力で”“鍬と協力して”!)耕す。が、この鍬たるや彼自身で製作してものではなく他人の製作物である。彼は鍬を用いることにおいて、鍬の製作者たる他人の“助力”“協力”を得ているのであり、ここには間接的協働の構制が見られる。彼が耕すのは、未開の荒野ではなく、畑である。この畑たるや彼自身の開墾したものではなく、先祖他人の“製作物”である。畑の耕作は荒地の開発とは別種の行為であって、畑を耕すという彼の行為は、謂うなれば開拓者たる他人の助力・協力を仰いでおり、こうして労働対象に即してもやはり一種の間接的協働の構制が認められる。更に言えば、耕作の仕方、労働の技術的方式、これも彼自身が案出したものではなく、先祖からの伝承であれ、同時代人に教えられたものであれ、ともあれ他人から学んだものである。もしそれを学んでいなかったら彼の労働方式・行為の在り方は別様になったであろう。ことによると不可能かもしれない。彼が現に見る仕方で耕作するのは、この意味において“他人たちの助力・協力”の下においてなのであり、労働の方式に関してもやはり間接的協働の構制になっている次第である。溯って言えば、そもそも耕作という目的志向、この目的の志向・企投ということからして、彼がもし孤絶に育ったならば生じるべくもなかった筈である。農耕なるものの存在を学び以って耕作という目的を投企することが可能になっている場面で既に、一種の協働の構制が存立している。総ずるに、こうして、いわゆる孤独的行為にあってすら、行為目的の企投、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも孤独的主体の自閉的・自足的な事柄ではなく、一種の協働・担掌の構制を示す。翻って、間主観的組織体の成員として自覚的な共演的協業をな営んでいる主体にあっても、顕在的協業の成立条件として、右の農夫に類する潜在的な間接的協働の構制に支えられている。――舞台情況、企投目的、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも先人をも含めた他人たちの協働的所産であり、惟えば行為主体の如実の在り方すら協働的所産なのであって、行為というものはその都度すでに一種の協働の構制で存在する。」300-2P
(対話E)「われわれは、顕在的・対自的な協働と潜在的・即自的な協働とを区別し、依って両者を顚から同列に遇するごとき愚は犯さないが、行為というものは、一見孤独的主体の自足的な目的達成活動として単位的な完結性を示すかのように見える場合であってすら、協働的連関態の反照的一結節であるということ、このことを現認して実践理論の構図を立てる。」302P・・・協働ということを通した世界観・人間観の基底的なとらえ方、ここから未来の社会のあり方が導かれを
(小さなポイントの但し書き) 「先廻りになるが、マルクスも指摘した通り、「社会は諸個人から成り立っている[単なる集団な]のではない。さりとて社会なるものが諸個人[実体的に]独立自存するわけでもない。社会と人々の関わり合い(Beziehungen)、関係行為(Verhältnisse)そのものである」。――このさい、関係行為なるものが独立自存するものではないこと附言するまでもないことであって、行為主体、舞台的・道具的な条件、技術的・規範的な行為様式、これらの機能的連関態として謂う所の関係行為・行為関係が現存する。――社会というこの関係行為の一総体は、A・スミスに倣って「分業体系」と観ることも、M・ヘスに倣って「協働体系」と観ることもできる。labour,Wirkungという概念を「行為」一般の広義に解する限り、われわれとしてはいずれの射影相で捉えても差支えない。/分業体系というとき、いわゆる作業内的分業と総社会的分業とが区別されるが、前者は顕在的協働の編制を示し、後者は潜在的協働の編制を示す。(但し、先に指摘したように、前者においても潜在的・即自的な分業的協働が支えになっている。)――社会的分業ということで言えば、上例の農夫のごときいわゆる独立自営業者であっても、現実には自給自足しているわけではなく、鍬を交換(贈答をも含む)によって入手するのであり、そのためには自家作物を交換(すなわち他人の使用)に供するのであって、商品経済社会であれ贈与交換社会であれ、彼の労働・生産物は他人の労働・生産物と相互補完的な関係にある。この意味での分業的協働として、それは、対自的な協働でこそないが、嚮に指摘した次元での潜在的な協働とも異なり、“半ば顕在的”な協働になっていると言えよう。――先刻来、協働というとき、例を労働という特殊形態のものに採ってきたが、政治家・法律家・医師・芸術家・宗教家などの行為についても、やはり顕在的協働もあり、少なくとも農夫に類するごとき潜在的な協働の構制が存立すること、分業・協働という構制がおよそありとあらゆる人間行為に関して見出されることは詳述するまでもあるまい。」302-3P
第五段落――次章へのつなぎ−具体的な論考のための前梯を設える 303-8P
(対話@)「今や、以上で陳べてきたところを承けて、実践理論の構図を暫定的に隈取り、次章での稍々具体的な論考のための前梯を設らえる段である。」303P
(対話A)「行為という概念は余りにも広狭多義的に用いられているので、われわれは今爰で厳格な定義的限定を施すつもりはないのだが、大枠的な劃定をまず図っておこう。」303P
(対話B)「「当体的主体が、環境に規制されつつ反って環境内的変化を生ぜしめ、以って、目的を達成する能為的活動」――この提題的描像に内容的規定を賦え錯分節化を施すという手法で劃定を志向することにしたい。」303-4P
(対話C)「右の提題的構図は、第一節で陳べた「環境と当体との分截」の図式と関連づけて言えば、全一的動態を環境と当体という両項に分截し、両項の相互作用的関係を当体の側に視座を構えて把え、環境項からの作用をも当体項の能為的活動の構造内的要因として位置づける構制になっている。それはまた、第二節で陳べた「客体−用具−主体」図式(本節での再措定では「対象−配備−主体」図式)を視角を変えて把え返した構図になっているとも言える。が、爰では“演繹的”“変形的”な導出という手法においてではなく、直截に右の提題を自家解説する捷径を採ろう。」304P
(対話D)「「当体的主体」は、一般論としては全一的動態を環境と当体とに分截した際の当体項であるにしても、当座の行為論の構図においては、まずは行為の当事的主体に限定される。尤も、それは人間個体に限局される必要まではなく、いわゆる法人/集合的人格/超在者のごときであっても、また、人間以外の或る種の動物であっても、それが一定の要件を充たすとき、行為の当体的主体として認められてよい。が、われわれとしては、当体的主体の範型を人間個体とし、これの行為に準(「なぞ」のルビ)らえうるかぎりで、法人/集合的人格/超在や動物などの一定の活動をも行為に算入すべく、それら人間個体以外のものをも、行為の当体的主体と認める。――このさい、範型たる人間個体なるものを、「肉体を具えた精神的エージェント」という相で規定するか、「純然たる精神的エージェント」という相で規定するのか、これが問題になる。行為論を具体的に展開する場面では、実際問題としては具身相での人間主体に即するのが常態となるであろう。しかし、肉体はことごとく用具的な手段ということにして、もっぱら精神的エージェントだけを主体とするのでなければ議論が余り錯綜しすぎる場面もある。そのかぎりで、主体と用具的肉体との分截、ないしはまた、“主体的側面”と“客体的側面”との分截が厳しく必要とされる場面では、「精神的エージェント」、ないしはまた、前章第二節に謂う「人格的主体」を範型的な「当体的主体」として扱うことにしたいと念う。(尚、これは「能為的活動」について後述する折に誌せばよいことではあるが、われわれとしては「精神的エージェント」を勝義の主体的当体として扱うとはいっても、いわゆる“純然たる精神的活動”は、本巻では行為の構造内的契機たるかぎりで配視し、独立の単位的行為としては遇さないことにする。われわれは、いわゆる“純然たる精神的活動”をも、原理的には一種の行為として認めるのに吝かではあってはならないが、本巻では右の措置を採ることを諒とされたい。)」304-5P
(対話E)「「環境」は、一般論としては当体の残余であるから、行為論の構図においては、ひとまず当体的主体を除く総世界と言われうる。原理的には、慥かに総世界が当体的主体の活動を規制し且つそれによって変化せしめられるのであるから、このことが一往は銘記されねばならない。がしかし、行為については具体的に論述する場面では、その都度問題の行為主体の活動の在り方を規制していることが具象的・有意味的に現認される範囲内に限定されて宜(「よ」のルビ)いであろう。尤も、この限定は、当事主体が環境として明識している範囲という謂いでは必ずしもないのであって,殊にフェア・ウンスには、空間的範囲においても内実的においても、文脈如何ではかなりの広範囲に及ぶ。――環境は総体として主体的活動を規制し且つ主体的活動の影響を被るのであるとはいえ、行為の具体的分析に際しては、生起する環境内的変化を、主体的活動による所期的変化と非所期的・非意図的に生じる変化とに区別する必要がある。所期的・目標的変化がそこにおいて体現される環境内局部を「行為対象」と呼ぶことにしよう。しかし、現実問題として、当の所期的変化は別の変化を生ぜしめるための、中間目標にすぎない場合もある。当座の終局的目標を実現するためには、中間目標的変化が必須な構制になっているのが現実である。中間目標的変化であれ、それの体現される環境内局部が行為対象であるには違いないが、当座の終局目標的変化対象と区別して、中間目標的変化の体現体を「手段」と呼ぶことにしたい。茲に、「手段」的変化を介して「対象」的変化がもたらされる(日常的な表現で言えば、“手段を用いて対象への働らきかけがおこなわれ、以って、目標が実現される”)次第となる。ところで、上述の通り、環境は総体として主体的活動を規制するのであり、その一部たる行為対象も活動規制的な要因ではあるのだが、「行為対象(中間目標的な手段的対象を含めて)」が主体的活動によって変化をもたらされる対象という側面に主眼を置いて観られるのにひきかえ、行為対象以外の環境的諸要因は、非意図的変化がそこに生じようとも、主体的活動にとっての規制的要因という側面に主眼を置いて観られる。――環境は、或る種の分析視角では物理的存在と観られうること勿論ではあるが、フェア・エスには、さしあたり、われわれが前篇第一章で述べた用在的世界の総で展らける。が、それは、(イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件に錯分節化して現識されうる。これら錯分節項は、実体的に分立・並存するのではなく、錯合的である。そして、(イ)(ロ)(ハ)のいずれに属するものも、行為の対象ともなりうれば行為の手段ともなりうる。このことを銘したうえで、しかし、規制的環境要因という視角で観れば、J・ギブソンの謂うaffordance(「誘発特性」)、M・ハイデッガーの謂うZuhandenseinに庶い相で展らけていて、当事主体および協演的他者の活動を規制(正/負、すなわち、誘発的/抑止的に規制)するといえよう。これがわれわれの謂う表情価を帯びている財態であることは絮言するまでもない。協演的他者は、これが当事主体と「主体我々」を形成する場合は環境的要因から括り出されるのであるし、当事的相手対象や使役的利用手段に位する場合も別建になるので、それが環境的規制要因として存在するのは即自的協働者としてである。即自的協働者は、当事主体の視界内には現存しない者(例えば原料や道具の製作者など)でもありえ、芝居に譬えて言えば、裏方(道具係や黒衣)、囃方のごときでもありえ、亦、観衆のごときでもありうる。観衆も潜在的な賞・罰者(サンクショナー)として重要な環境的規制要因であることが忘れられてはならない。規範的条件と謂うのは、広義のそれであって、習慣・慣習と呼ばれているものはもとよりのこと、技術的・呪術的な様式的規制と呼ばれているものをも含みうる。或る種の学派などで「準環境」と呼ばれているもの、いわゆる「文化的環境」は、前記(イ)の場面的状況に含めてもよいが、デュルケーム学派の謂う広義のinstitutionやいわゆる文化的形成体は、規範的制約条件として大いに機能する。」305-7P
(対話F)「目的を達成する能為的活動」は、即物的に言えば、環境内的諸条件・諸与件(肉体をも含む)を手段的に利用して所期の対象的変化を実現する活動であるが、ここにおける意識性契機が問題になる。フェア・ウンスに行為と認められるものは、目的達成型の構制を呈するとはいえ。フェア・ジッヒには必ずしも恒に目的志向型の行動が常態というわけではない。M・ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあれば、P・ブルデューの謂うたかだかゲーム的感覚に導かれた行為のごときもある。だが、アン・ジッヒには、行為というものは目的達成型の構制になっていると言え、そこでは、舞台環境的諸条件を顧慮しつつ、目標(目的)の企投ならびに手段の撰定という前立的表象的(「フォルシュテレント」のルビ)な意識活動、そして、計画された目標実現行動を決意的に始動・嚮導する意識活動、このような精神的活動の構制が見られる。」307P
(対話G)「行為の展開相のもう少し立入った分析的規定、とりわけ、舞台環境的諸条件の顧慮の在り方、目標企投や手段撰定の意識活動の過程的構造、ならびにまた、各種手段(これには他者の能為的活動も含まれうる)の利用・駆使の方式、これらについての稍々具象的な分析規定は後論において追々試みることにし、爰ではひとまず、以上のコメントを含意させて、嚮の提題的構図を次のように錯図化しておこう。」307P
(対話H)「「当体的主体(人間的個体ないしこれに準ずる単位的主体)が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内的局所に対象的変化を現成せしめ、この手段利用的対象的変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動(舞台環境的諸条件の現認活動、目標企投・手段撰定の前立活動、目標実現的手段行動を始動・嚮導する意識活動)」――斯かる目的達成型構制の心身的活動。」307P
(対話I)「右の錯構図は更に進んだ分析的規定を要するばかりでなく、本来であれば、ここで、目標(目的)企投や手段撰定の「撰択的自由」、および、身体的行動を始動・嚮導する「起動的自由」、すなわち、いわゆる「自由意志」について検討する課題を負う。けだし、果たして「自由意志」「意志の自由」が存在するか、これが哲学的実践論の原理的次元における最大の係争問題をなしてきたのであるからである。決定論/非決定論の対立は、慥かに原理的な対立である。がしかし、行為論の構図的論議の場面では、決定論者といえども、行為主体の当事者意識においては目的志向的な撰択や企投の“自発的自由”があるものと思念されていることを一応は認め、この思念相に即して一旦は論考する。このかぎりで、われわれとしても「意志の自由」の有無、決定論/非決定論の対立、この問題に今爰で直ちに決着をつけることなくしても当座の議論を暫く先へ進めることができる。この故に、この論件については、後論(次々章、終局的には本巻最終章)まで持越す便法を許されたいと念う。」307-8P
(対話J)「爰では、われわれの実践的理論の大枠的構図として――単なる「客体−用具−主体」図式でも「対象−用財−主体」図式でもなく、また、単なる「目標−手段−能為」図式や「相手−配備−自分」図式でもなく――前掲の目的達成型の錯構図を以って、当事主体の視座に即した学知的認定(「フェア・ウンス」のルビ)相での「行為」の基本的な構図に擬することにしよう。――この構図が前篇で論定した四肢的連関態といかなる内面的関係にあるか、これを叙べるためにも、対自的・対他的な役割行為の成立機序、ひいては、即自的・対自的な協働態勢の存立構造を見て行かねばならない。」308P


posted by たわし at 01:34| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする