2025年12月01日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(12)

たわしの読書メモ・・ブログ719[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(12)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
 第二節 <三体図式> の形成
(この節の問題設定−長い標題)「環境と主体との分截は、その域に止まることなく、軈ては謂う所の「能為的主体」を「肉体」と「精神」との二要因から成るものとして把握せしめる。ここにおいて、さしあたり、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成される。――が、「用具的肉体」は両義的・伸縮的であり、「客体−用具−主体」という三体図式への変容が導かれる。――この図式は、「物質」と「精神」との二元化的截断という錯認と併せて、如実の営為的世界たる能動的所動=所動的能動の渾然一体的な統一態を能動的存在体と所動的存在体との存在的に截断する謬見と相即するものであるが、所謂「主体−客体」図式の現実的形態であり、既成の「実践的世界」観点の構図を劃しているものである。」250-1P
第一段落――「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直す 251-7P
(対話@)「前節の行文中で、能為的主体が外廓部と内核部とに、謂うなれば二重体化した状相で覚識される経緯にも言及し、また、主体が謂わゆる表象像や知覚像を“内蔵”する者として精神的エージェントを内に宿しているとされるに至ることをも陳べておいた。但し、その折りにも一言断書を添えた通り、主体の二重体化は直ちに精神的エージェントの措定を意味するわけではなく、また、表象像や知覚像の内蔵化も実はそのこと自体で直ちに精神的エージェントの内含を意味するものではない。前節では稍々速断的に運んだ憾みのある「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直すことから始めよう。」251P
(対話A)「われわれが今爰に「精神的エージェント」(=「心」)と一括して呼んでいるところの特異な存在体は、それについての見方の細目は文化毎に岐れるにしても、全世界の伝統的諸文化において斉しく“認め”られていると言えよう。「心」なるものが如何なる歴史的経緯で“認め”られ、それが如何なる具象的規定性を帯びるものと見做されるに至っているか、発生史的・形成史的な過程については文化史毎の研究を要するにせよ、爰では「心」の存在が想定される基本的な論理構制、依って亦、日常的意識においてそれが謂うなれば“個体発生的”に再想定される構制を一通り対自化しうれば足る。当面の論脈においては、しかも、能為主体としての構成要件がもっぱらの問題である。」251P
(対話B)「惟うに、「心」は「肉体」とは別種類の性質を有つものと了解されている。同時に、この了解は、肉体とは別個の特異な存在体(これが「心」と名付けられる)が在るという思念と相即する。では、「心」と呼ばれる(肉体とは別個の)ものが存在するという思念は如何なる機縁と理路で形成されるのか?」251P
(対話C)「第一巻第二篇第一章第一節でも陳べたように、対象的一個体の相で看ぜられる「身体」の内部に「心」という特異な存在を“内在”せしめる了解の構えが形成されるのは、基本的にみて、次の四つの脈絡においてであろう。/第一に――生体と死体の区別といった観察的な場面に即した省察や、意志行為の場面での内発的起動者の覚識を機縁にしつつ――身体の内部に能知能動的な或るエージェントが宿っているように思念されること。/第二に――いわゆる(イ)体内感覚、(ロ)感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、――身体の内部に、外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の、格別な所知的与件が内在しているように覚知されること。/第三に――これとは間主体的=間身体的な交渉の場面で対他・対自化されることであるが――身体的存在たる各人の内部に、各自に固有の「内面的世界」が秘匿されているように覚識されること。/第四に――これは直接的に感知されることではなく、知覚をはじめとする認識的事実を説明された案出された想定なのだが――各人の内部に「心像」という内在的与件が存在するものと推論されること。――以上が是である。」251-2P
(対話D)「右のうち、第二・第三・第四については、第一巻において稍々詳しく討究し、また、必要最小限度の論点は前節の行論中で再録しておいた。それゆえ、爰で再論するには及ぶまい。――因みに亦、第二条に謂う「外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の所知的与件」、第三条に謂う「各自に固有の内面的世界」、第四条に謂う「心像という内在的与件」、これらは、なるほど物的現象・物的存在とは異種の心的現象・心的存在と見做されるにしても、しかし、それ自身としては能知的ではなく況してや能動的でもない。しかるに、勝義の「心」なるものは能知・能動性を特質とするものではないのか。しかも、この能知能動的エージェントは、第二・第三・第四条に謂う「内なる与件」を、よしんば悉く定在ごと創り出すものでこそなけれ、尠なくともそれの相在に規制的影響力を及ぼしうるものであり、仍(「すなわ」のルビ)ち、「内なる与件」の具象的現相在にとって“存在条件”をなすものとさえ言えるのでないか。そうだとすれば、愈々、第一条に即した究攻が要諦をなす。」252P
(対話E)「偖、能知性および能動性という両概念は、意識性および起動性という両概念でパラフレーズできるものとすれば、一応独立な両つの概念である。がしかし、「精神的エージェント」は能知的能動性=能動的能知性を特質とするのであって能知性と能動性がここでは一体的である。――人は反問して言うかもしれない。意思行為の場面においては慥かにそうだとしても、知覚的認知などの場合にはむしろ受動的能知と言わるべきではないのか? 一般に、意志は能動的で知覚は受動的とされていることは謂われにしとしない。しかし、われわれの看るところ、アクチュアルな知覚といえども実践的な構えと相即するものであって、単なる受動的能知ではない。知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)もやはり一種の能動的能知である。このことについては論定しえんがためにも、まずはいわゆる意思行為の能知能動性から見ていくのが順当であろう。」253P
(対話F)「人はいわゆる意思行為に際して、目標を表象し、且つ、内発的な起動を裡に感じる。が、このことだけでは、肉体的存在と端的に別種な「心」とかいう格別な内的存在体を措定させるには不十分である。――けだし、表象的情景を“知覚的外界情景(身体をも含む)”と同種(別亜種)の外的存在と見做し、且つ、内発的起動を肉体的現象と見做す余地が残っているからである。――表象したり起動したりする能力(表象能力・起動能力)が肉体とは端的に別種な存在体に帰せられ、以って、表象能力や起動能力を具えた非肉体的エージェントが措定されるためには、肉体それ自身には表象能力や起動能力が具っていないという了解が論理的に先行しなければならない。(人は心なる存在体を直接的な内観によって確認するわけではなく、また、肉体それ自身が表象能力や起動能力を具えていないことを直接的な内観によって現認するわけでもない。)」253P
(対話G)「では、論理構制上の当の先決要求、すなわち、肉体それ自身には表象したり起動したりする能力が具っていないという了解の先行、これはいかなる体験の場で充足・現成されるのか? おそらく、死体に関する観察・接触の経験場面においてであろうと想われる。」253-4P
(対話H)「人はなるほど人間の屍体に接触し観察する機会は稀にしかもたない。が、しかし、動物(鳥・魚・昆虫などをも含む)の死体に触ったり観察したりする機会を子供の時から頻々ともつ。そして、動物が生きているか死んでいるか、早期から直截に判別できるようになっている。(死んでいると思っていたのが実は生きていたという錯認に後で気が付くといった場合もあるが、その場その場では直截に判別されているのが普通である。)生きている/死んでいるの判別は、言うも愚かながら、生命なるものの存否の現認といった仕方でおこなわれるのではなく、自動的に動くかどうか、反応の具合はどうであるか……といった具体的な徴候に即して直覚的におこなわれる。そこでの判別徴表を学理的に整理し把えれば、詮(「つ」のルビ)まるところ、起動性および意識性ということになろう。(起動性ということなら湧水や川水のごときにも認められるし、文化によっては、泉や川にも意識性が認められているケースもあるかもしれない。また、文化によっては、昆虫などには起動性は認めても意識性は認めないかもしれない。が、これらのことは、単なる「生命」以上の「心」に関わるわれわれの論点には響かないことを後論がおのずと示すであろう。因みに亦、アミニズムが支配的な所では、万有が起動的と意識性を具えたアニマを宿しうる。が、ここにあっても或る個物にアニマが現住している状態と一時的に不在化している状態との区別があるとされるかぎり、やはりわれわれの後論には響かない。)生きている/死んでいるの判別徴表は、さしあたり、内発的起動性であると言える。熟眠体や失神体は、覚醒体と内発的起動性反応が大違いであるが、心搏・脈動・呼吸といった内発的起動性を有つており、意識性は帰属されなくとも生命体であることは認められる。文化によっては、広義の「心」を、没意識的な起動的エージェント(植物霊魂とか、臓器毎の魄とか)意識性を兼備せる起動的エージェントの二亜種に分け、しかもそれらを別々の実体だと見做すケースもある。この見地を採るときには、生命体は即ち第一亜種の「心」宿していることになる。――生きている人間は(そして恐らく尠なくとも獣類も)、それとの間主体的な応接の場面での反応の在り方に徴して、知覚・情動・表象の帰属する主体として、つまり意識性を具えている主体として、他者認知される。それはまた、それらの眼や手足の動く運動体として観察されるとか、押せば押し返してくる反応体として覚知されるとか、このような域を超えて、また、対抗的/模倣的な行動や役割期待に応えた行動をすることが現認されるという域をも超えて、前章の第三節中で叙べた意図的に役割期待を裏切る可能性を有つ主体としても意識されるのであって、畢竟するに内発的起動性を具えた主体として認知される。茲において、人間というものは意識性を兼備せる起動的存在者として了解される。(意識性を伴う起動性という想念が成立するにはいわゆる“自身に即した内省”が存在条件をなすであろう。が、それは、前篇の第二章第一節でみたあのg男がスッパサを“他身”の個所で感じるための成立条件として“自身に即した体験”の先行を要するのと類比的な構制においてのことである。意識性を伴う起動性が“他身の内”に覚知されるのは、自覚的な投入とか意識的な類推とかによってではない。機縁こそあれ、さしあたってはむしろ直截な覚知が現成する。)しかしながら、このことだけでは、つまり、意識性を伴う起動的なエージェントが内属するという了解だけでは、上述の通り、それが肉体とは端的に別種の存在体であると見做されるには及ばない。」254-5P
(対話I)「それでは、ここから進んで、内発的ないし/および意識的エージェントが、肉体とは端的に別種の存在体であると了解されるに及ぶのは如何なる経緯があってのことであるのか?」255P
(対話J)「まさに生体と死体との区別の自家了解を機縁にしてのことであろう。死体は全くの惰性体であることで、生体とは大違いである。死体は「内発的起動能力を欠いて」おり、可動的でこそあれ。それは「単なる受動的所動体」たるにすぎない。内発的起動性ないし/および意識性の有無、これ以外には生体と死体との相違は“存在しない”と認定される。(死体の硬直性は起動の欠如に因るものと了解され、死体の腐乱的崩壊は起動的統轄力の欠如に因るものと了解されえよう。)茲において、生体と死体との共通体を「肉体(「ソーマ」のルビ)」と呼ぶとすれば、「生体」は「肉体プラス内発的起動性ないし/および意識性を具えたエージェント」ということになる。――「肉体(「ソーマ」のルビ)」は万有(からアニマを抜き去ったもの)と斉しく惰性体であり、いわゆる無生物とも同種の「物体(「ソーマ」のルビ)」である。――此処で謂う所の「内発的起動性ないし/および意識性を具えているエージェント」を「心」と総称し、そのうち、唯単に「内発的起動性」を具えているだけのものを「第一亞種の心」と呼び、「内発的起動性および意識性」を兼備しているものを「第二亞種の心」と呼ぶことにしたいのだが、総じてこの「心」なるものは、惰性体ではないこと(非惰性体であること)において非物体的であり、以って「心」は「肉体(物体)」とは別種の存在体である。(「心」とりわけ第二亜種のそれ、すなわち、意識的かつ起動的なエージェントは、多くの文化において、所謂「霊魂」として肉体から遊離しても独立自存しうる実体であると考えられている。しかも、その「霊魂」たるや、生体と同型とされたり、軽くはあるが重さが全然ないわけではないとされたりもする。ここで人がもし、延長性や質量性ということを物体的存在の本質的徴表とするのであれば、霊魂は一種の物体的存在だということになるであろう。また、機動能力という力なるものは一種の物質的存在であるという見方をするならば、第一亜種の心は一種の物質的存在だということになる。しかし、このような近代科学流の見方は、“能為的主体は「心」を宿している”という思念の形成を份技する場面ではひとまず棚上げにしておくことが許されよう。近代科学流の考えを詰めて行けば、そもそも「心」なるものの存在そのことが否認されることは今諍(あらそ)わぬことにする。伝統的諸文化においては、形状をもつとか一定の重さをもつとかいうことは、決して物体的存在の排他的・判別的な特質とされていたわけではなく、亦、力なるものは総じて非物質的=霊的な存在であるとされていたのであること、このことにこそ思いを致すべきであろう。――われわれは素より伝統的な霊魂観の流儀で「心」なる実体を認める者ではありえない。が、近代科学流の流儀で物質一元論に自足する者でもない。この件については、本巻の最終章内で論ずる折りまで持越すことにし、以下暫くは“日常的思念”に即した行為主体観・行為観の問題構制を見定める作業に従事しておくのが順路であろうと思う。)」255-7P
(対話K)「大略叙上の理路において、能為的主体という生きている人間には、「内発的起動性を具えた非肉体的エージェント」が宿っており、覚醒時には「意識性を具えた起動的エージェント」(第二亜種の「心」)という「肉体(物体)」とは端的に別種の存在体が内属しているものと思念されるに至っている。(われわれとしては、「第一亜種の心」を以下では単なる「生命」と呼び、第二亜種のそれのみを「心」と呼ぶことにしたい。尚、この「心」が非物体的=非物質的=精神的存在と見做される機制や理路については第一巻第二篇での詳説をも参照されたい。)」257P
第二段落――「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係を規定し返し、実践論的視角において当の三項的関係を問題にする 257-60P
(対話@)「能為主体が「肉体プラス心」として、視角を変えて言い換えれば、非肉体的(非物体的=精神的)な「心」というエージェントを身体中に宿している存在体として観ぜられることにおいて、「肉体(および物的外界)」と「心」とが存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断される。とはいえ、この存在的截断は「心」と「肉体」とを無関係な二つのものと見做す謂いではない。今や「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係が規定し返される。――この三項的関係は認識事実学の視角においても大問題であるが、これについては第一巻で一通り論考を済ませているので(本巻でも最終章において新たな準位で討究し直す予定)、爰では実践論的視角において当の三項的関係を問題にしておこう。」257P
(対話A)「まずは「心」と「肉体」との関係が論件である。――能為的主体は前篇第三章第二節でみた経緯で人格的各私性を有つものと了解され、且つ亦、前節でみた経緯で各私的“心像”を内属せしめているものと了解されている。この既成的思念を爰では前提として議論を進めて行きたい。(この既成的了解・思念の抜本的再検討は本巻最終章まで俟たれねばならない。)」257P
(対話B)「日常的既成観念では、「心」は起動的作用を直接「肉体」に及ぼす。――人々は、起動的作用の発現の機序についても影響の機序についても、問い返されると返答・説明に困憊(「こんぱい」のルビ)することであろう。われわれの看るところ、ここでは、生身の身体的主体が“内発的起動力”を発揮して対象物駆動的影響を“及ぼす”日常的体験の構構制が、そっくりそのままスライドされて、“内なる小人”とも謂うべき“心”とやらに内自化されるに至っているというのが事の次第であるように見受けられる。が、ここはまだ問詰める場ではない。暫く既成観念の線を辿ろう。――異能者は念力で対象的外物を直接に動かしたり、テレパシーで直接に他人の心を動かしたりもしうるが、それはあくまで異能者の特例的超能力であって、一般人の心は直接的には自分の肉体にしか作用力を及ぼさない。」257-8P
(対話C)「心は、間接的には勿論、対象的外物や他人を動かすことができる。が、それは自分の内属する身体を動かすことを介してのことである。この意味において、心にとって、自分の内属する肉体的身体は、対象的外物や他人を動かす「用具」として機能すると言うことができる。」258P
(対話D)「――心が用具的身体を介して外物や他人を動かす方式は、決して単に惰性体を押し動かすとか、惰性体を変形・解体、加工・破壊するとかいった方式には限られない。心は身体を作動させることを通じて、対象物の“内発的運動”を誘起するという仕方で、対象物を“自から”動かしめることも可能である。例えば、弓の弦を放すことで矢を飛ばせたり、堰を切ることで水流を奔出(ほんしゅつ)させたり、とりわけ対象が能為主体である場合、目配せ・身振り・発声わけても言語的発話という身体的活動を用具的に用いることで他者の内発的運動を“遠隔的に”起動させることさえ可能である。議論の進め方としては、しかし、身体の用具的使用方式というこの論点は後論の論脈に譲ることにし、爰では唯形式的に「心にとって肉体が用具的に機能する」という構制を銘記するに止めよう。」258P
(対話E)「尚、「心」が身体を用具的に使用するという覚識に使嗾されてのことかと想われるのだが、つまり、生身の主体と道具との関係に類比してのことと忖度されるのだが、「人称的に各私的な心」たる「自我」「私」が「身体を持つ」という想念も形成される。――ヨーロッパ語流の「私は私の身体を持つ」という表現における「私」は、単なる人称代名詞としての私ではなく、「身体」とは別個の、「身体の所有者」たる「私」という実体的「自我」の含みになっているように思われる。少なくとも論理的構制上はそうであろう。その点、「私には身体(「からだ」のルビ)がある」という日本語式の見方にあっては、身体は「私という一全体」の部分と見做されており、私なるものが身体から分離されてはいない。しかし、日本人の日常的観念においても、心が肉体的身体を用具的に使用するという想念はやはり厳存するのではないか。「心」は、身体の所有者でこそなけれ、「身体の使用者」であるという想念は否みがたい。――行為理論そのものにとっては、しかしいずれにせよ、心が身体の所有者であるかどうかは須要事ではない。留意されべきことは「心」(「精神的エージェント」)が肉体的身体を用具的に使用するという想念の厳存である。」258-9P
(対話F)「扨、能為主体が精神的エージェントとそれの直接的に使用する用具的肉体とから成るという想念が成立し、斯かる能為的主体が外在的環境に内在しているものと了解されている限り、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成されるに至っていると言うことができる。が、この図式にあっては、「外在的環境」は能為的主体がそこに内在する舞台的環境世界というよりも、当事者意識にとっては寧ろ、精神的存在者たる内なる主体が用具的肉体を作動させて作(「はた」のルビ)らきかける外在的客体という相で覚識され易い。」259P
(対話G)「この覚識の図式は、しかし、構図的枠組みこそ相対的に安定的であれ、内部的分劃は多分に流動的である。用具的肉体を作動させることで所与の外在的客体に作らきかけるといっても、その客体に直(「じ」のルビ)かに肉体で作らきかけるとは限らない。例えば、直接的には手が手許(「てもと」のルビ)の物を動かすことによって目標客体に間接的に作らきかけるようなケース、すなわち、日常的表現で言えば「道具を用いて客体にはたらきかける」ケースがある。このような場合、道具までが用具的肉体の一部であるように覚識されること屢々である。逆に亦、例えば麦踏みをするような場合、足はむしろ外在的な道具のように覚識されたりもする。(これはわれわれの謂う「主体的身体の伸縮」という基礎的な体験事実の一斑である。この件については、第一巻の第一篇第二章および『世界の共同主観的存在構造』第二部第一論文第一節を参看されたい。) ――このような体験の場面に即すれば、起動的エージェントは必ずしも純然たる心という相で分劃されるわけではなく、“用具的肉体”も必ずしも皮膚的界面で劃された相で現識されるわけでなく、以って亦、いわゆる“外在的客体”も皮膚界面で閉じた肉体の外部に在るだけの存在体というより、“用具”を介して作らきかける対象的存在物というほうが当っている。」259-60P
(対話H)「茲に「主体−用具−客体」という三体図式が現成する所以となる。――謂う所の「用具」は、広義においては、肉体的=物体的な存在体には限られず、また、主体にとって用具的に機能する他主体をも含みうる。「客体」も、既在的に実在する物体的存在には限られず、“空無的な”対象でもありえ、加之(くわえて)、対象的に作らきかけられる他者をも含みうる。だが、主体的他者の介在するケースは次節まで持越すことにして、今暫くは、主体的存在者が唯一人しか登場しない範型での截り撮り、且つは亦、前節で一斑に論及した舞台的情景という契機を考察圏に引入れつつ、三体図式の基幹的な内部構制を問題にしておこう。」260P
第三段落――精神的主体は闇雲に起動するのではないこと 260-7P
(対話@)「「主体−用具−客体」、この三体図式においては「精神的主体が肉体的用具(これが皮膚界面を超えて伸・縮するにせよ)を介して外在的客体に移動的/変様的/生滅的な変化を生起せしめる」という構制になっているが、精神的主体は闇雲に起動するのではない。」260P
(対話A)「現実の行為場面では、人間は(そしておそらく或る種の高等生物も一定場面では)行為発動の構造内的契機として「表象」を泛かべる場合が屢々である。人は、なるほど、泛かべた表象を直接に作動させて物理的客体に作らきを及ぼすわけでも、泛かんでいる表象に物理的に作らきかけるわけでもない。しかし、人は恰度、設計図に則しながら製作したり地図を参照しながら運転したりするのと類比的な在り方で、想像表象に則しながら製作したり記憶表象を参照しながら運転したりもする。“知覚的現実界”に“実在”する設計図や地図を利用するのと類比的な仕方で“表象界”に“アル”想像心像や記憶心像を利用すると言っても宜(「よ」のルビ)い。(ここに謂う“知覚的現実界”“表象界”なるものの存在論上の身分については後論で補説・再検討するが、ひとまずは日常的思念に即しつつ、“知覚的現実界”は外部的実在界だということにし、客体や肉体もそこに含まれているものとして議論を進めておく段である。)」260-1P
(対話B)「人々は、“知覚的現実界”において事前に設計図を描いておくのと類比的に“表象界”において事前に想像心象を思い描き、収納場所から地図を出して参照するように記憶庫から出してきて記憶心象を参照する。(設計図を描くという行為にとって事前に想像心象を泛かべることが必要とされ、地図を探し出すという行為にとって事前に記憶心象を泛かべることが必要とされるという件については後論。)ここにおいて、設計図・地図も、一定の想像・記憶も、共に等しく、製作・運転という目標実現にとって手段的に機能していると言える。そこで、人がもし、手段一般を用具と呼ぶのであれば、設計図や地図はもとより、如上一定の想像や記憶の表象も用具に算入されることになる。これは定義の問題であるから、われわれとしては抗(「あがら」のルビ)うには及ばない。がしかし、われわれは「手段」という概念を「用具」という概念や「道具」という概念よりも広義に用いることにしたい。この配慮もあって、「用具」という概念は、対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなす物的(「ケルパーリッヒ」のルビ)存在体に限定して用いることにする。(但し、次節の過渡的な論脈内ではこの概念をもう少し拡大する。)このことにおいて、実際問題としては、われわれの謂う「用具」は、皮膚的界面で劃された肉体でこそないが、“伸・縮相での肉体”と相覆うことになろう。(従って、われわれの定義的限定からすれば、設計図や地図も、想像や記憶の表象も、それが対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなすkörperlich[肉体的・物体的]な存在体でない以上、手段ではあっても、用具ではない。)」261-2P
(対話C)「偖、「主体」が「用具的肉体」を起動し、それを介して「客体」に変化を生起せしめる際、それが意識的(「アプジヒトリッヒ」のルビ)行為であるかぎり、一定の表象を泛かべるのが普通である。この表象たるや、しかも、単なる参照資料というには尽きない。――表象は反省的には想像と記憶とに大別できるにしても、恒に必ず想像または記憶として自覚されているわけではない。というより、想像と記憶とは多分に混融しているのが実情だと言えよう。――表象のうちの或るものは、想像混りではあれ記憶心象として行為遂行の撰択的決定・調整の参考資料に供される。が、表象のうちの或るものは、記憶混りではあれ想像心象として、目標状景を予象する。そして、この予象が実現される。人は、例えば、手を挙げている状景を予象し→手を動かして→その表象状景を“知覚的現実界”に実現する。また、例えば、石を移している状景を予象し→手を動かして(この用具的起動を介して間接的に)→その表象状景を“知覚的現実界”において実現する。ここにあっては、予象的表象という“主体に内属する”“心的なもの”が知覚的現実界という“主体の外部の”“物的なもの”において実現する。この意味において、主体は表象という“心的なもの”を“物的なもの”に変換すると言うことができる。」262P
(対話D)「右に謂う“主体外部の”“物的なもの”は、しかし、“知覚的現実界”に属するものであり、或る種の論者たちに言わせれば、日常的には実在界だと思われているこの“知覚的現実界”なるものからしてそもそも一種の心像(表象とは別亜種の知覚心像)たるにすぎない。この論者たちの理路からはどうなるか、前節から持越した論件と絡めながら検討しておこう。」262P
(対話E)「論者たちは知覚的現実相は総じて主体に内属する心像であるという命題を共有しつつも、(a)超越論的な精神的主題に内属する心像が在るだけで物的実在など存在しない、という観念論、(b)心像とは別に物的実在も存在するが物的実在については認識できない、とする不可知論、(c)知覚心像は主体の内部に在るのだが物的実在の位置に投射・貼付された相で現識される(知覚的心像状景の現相在のうち第一性質的な部分は物的実在の現相在と照応している)とする照応説、これらに岐れる。」262-3P
(対話F)「このうち、(a)および(b)においては、たかだか“表象的心像”が“知覚的心像”に転換されるということに尽きるが、論者たちも、当事者たちの日常的意識にあっては、「予象的表象という“心的なもの”が“主体外部の”“物的なもの”へと変換され、仍ち、“知覚的現実界”において実現される」という相で意識されるということまでは認める。という次第で、(a)および(b)にあっては、われわれが嚮に記した“予象的表象の知覚的現実界における実現”という“体験的事実”は認めても、それ以上には進まず、知覚的現相の変化と物理的実在における変化との関係は問題にしない。しかるに、(c)にあってはまさにこの関係が問題にされるのである。」263P
(対話G)「われわれとしては、このゆえに、(c)の立場では「主体−用具−客体」の関係がいかなる構制にあるものとして理解されることになるか、これを検討してみる段となる。――われわれ自身は、第一巻で縷説した通り、知覚像内在説を採る者ではなく、従って亦、投射説を採る者ではない。が、行論の方略として、以下暫くこの(c)の立場に即した検討を許され度いと念う。――」263P
(対話H)「(c)の立場では、知覚的現相は知覚心像という在り方で実は心の内部に存在するとされ、外部的実在の位置に見えるのは一見そう見えるにすぎないとされる。(投射説といっても、文字通りに投射という物理的事象が生起するというのではなく、「内なるもの」が「外なるものに貼付された相で」現識される、という事態を“投射的貼付”という“比喩”で述べているだけである。尤も、投射ということが文字通りに生起すると主張されたとしても、この投射そのことによって物理的実在に物理的変化が生じるのだと強弁されるのではない限り、そして、“知覚的現実界”つまり論者たちの謂う“知覚的心像”における変化が本来「心の内部」で生起するのだと立論される限り、われわれの論点には響かない。)」263-4P
(対話I)「論者たちによれば、「当事主体は、目標情景表象を泛かべ、或る種の表象を参照資料としながら、用具という知覚心像を直接に動かし、そのことを介して客体という知覚心像に間接的に変化を生ぜしめる(そして、そのとき、その知覚像の変化に照応して物理的変化が生起する)」という話の筋になる。――ここにおける構制は、次の譬えによってイラストレイトすることができよう。新鋭の戦闘機があって、外界は直接には見えず、敵機との抗戦はもっぱらモニター・テレビ画面に即しておこなうものとする。ミサイルや機関砲の発射・発砲はテレビ・ゲームと同じような具合に、つまり、モニター画面の手前から頭を出しているミサイルや砲の所のボタン装置を押すことで遂行される仕掛けになっている。言うまでもなく、機内が“心の中”のアナロゴンであり、画面像ばかりでなく、ボタン装置や手なども“知覚心像”である。この“心の中”には、過去の戦闘状景の記憶や来たるべき戦闘の想像という“表象心像”も泛かぶ。起動的エージェントは「ボタン装置に指先を置いている手」という用具を動かすことでミサイルという客体を動かすと言ってもよい。が、「手→ボタン装置→ミサイル」という伸長せる肉体的用具を動かすことで画面の敵機という客体に作らきかけるという言い方もできる。いずれにしても、現認できるのは機内での現象、つまり“知覚心像”のあいだでの継起的・連鎖的な“運動的変化”だけである。とはいえ、いま問題の(c)という立場においては、ミサイル知覚心像や敵機知覚心像は物理的実在ミサイルや物理的実在敵機の現相在と“照応性”をもっているものと了解されており、物理的ミサイルの発射や物理的敵機の撃墜という実在的な物理変化も生起しているものとされる。――論者たちは心の中での行為現象(および、それと物理的な実在界での事象との照応)をこのような描像で“説明”する。(尤も、論者たちといえども、当事主体の日常的意識においては、知覚像は“心の内部的場所”に見えるのではなく、外部的実在の位置に“貼付された相”で見えるいう“主観的事実”を否認しはしない。日常的意識にあっては、主体は“心の中”(画面内)の“客体”(敵機)を“心の中”で射つことで別の場所(客観的物理空間)に在る実在的客体を射つなどとは思いもよらない。主体は外部のあの位置に現認される知覚的対象に作らきかけることで、その同じ場所で物理的実在客体に物理的変化を生起させるものと信じている。このことを承知・前提したうえで、論者たちは“実際にはどうなっているか”を“説明”してみせるのである。)」264-5P
(対話J)「論者たちのこの“理論的説明”は、「主体−用具−客体」の動態的関係の説明としては、素朴な日常的意識よりも却って厄介な困難を抱え込んでいる。この困難たるや、慧眼な読者には記すも蛇足ながら、知覚像内在説という理論的ドグマに淵源する。が、このことを駄目押しする前に、既に日常的意識における「精神的主体−肉体的用具−対象的客体」という三体図式からしてそもそも孕んでいる難題を指摘しておかねばなるまい。」265P
(対話K)「人々は、日常的意識においては已に、「心」なる主体は、外的客体に直接的に作用を及ぼすことはできず、もっぱら肉体を動かすことによって甫めて、間接的に客体に作らきかけるものと了解している。心はなぜ外的客体に直接的に作用を及ぼすことができないのか? 反っては亦、心はなぜ肉体を直接的に起動することが可能なのか? 心は如何なる機制で肉体を動かすのか? このことが問い返されてしかるべきはずである。(尤も、オカルト的能力に恵まれた異能者は外物に直接作用を及ぼすことができ。肉体も物体的存在という点では外物と同種である。常人といえども、対象が肉体である場合には、オカルト的作用を発動しうるということなのか?)」265P
(対話L)「理由を問い返されると困惑するにせよ、人々は日常的経験を通じて、心が外物を直接に動かせないことを“熟知”している。また、肉体の起動を日常的に“体験”している。肉体運動を介することなく、外物を直接には動かせないというのは、さしあたり“経験的事実”ということで“追認”しておいてもよい。だが、肉体の内発的起動を感じるということまでは体験的事実であるとしても、「心なるもの」が「肉体なるもの」を動かすということはおよそ経験的に現認されることではない。心が肉体を動かすというのは、已にして説明的自家了解である。この“説明”は再検討を要する。」265-6P
(対話M)「時に、前記(c)の立場では、行為者が覚知している肉体や客体を“知覚心像”として遇するので、“肉体”を動かすことも、それを介して“客体”を動かすことも“心中の出来事”ということになる。だが、問題場面が“心中”に移されたからといって、難題が消えるわけではない。なるほど、心というものは、想像表象を創出したり記憶表象を喚起したりすることが“できる”ように思われる。そのかぎりで、表象心像に直接作用を及ぼすことができるように思える。とあれば、“知覚心像”もやはり“心像”なのであるから“肉体”という“知覚心像”にも直接作用できるとしても“おかしくない”かもしれない。しかし、それなら“客体”もやはり“知覚心像”なのであるから、これに対して、“肉体”を介することなく直接に作用できるはずではないのか。なぜそれができないのか? 論者たちは、“知覚心像”が「照応」している物理的実在界の物理的機構が、肉体を介することなしに直接客体に作用することはできない構制になっているからだ、と答えざるをえまい。となると、問題場面は再び外的実在界に差戻される。が、論者たちは単純に元の木阿弥に返ったのではない。“知覚心像”と外的実在との「照応」の実在的機制がどうなっているかの説明という困難な課題を背負こんでいる。おまけに、論者たちは、表象心像や知覚心像の少なくとも一部に精神的エージェントが直接的に作用するということの説明課題をも対自化せざるをえない破目になる。」266P
(対話N)「われわれとしても、このさい、論者たちを嘲笑して済ますわけにはいかない。論者たちが、日常的・常識的思念を単に追認するのではなく、理論的説明を試図する過程で顕在化させた問題に決着をつける必要がある。この問題は実は存在論や認識論とも絡み、――このこととの関連で前記(a)、(b)の立場を顚から無視することなく対質する必要も出てくる次第であって――爰で直ちに論決する段にはない。(学史に鑑みるとき、これは寔(まこと)に大問題なのであって本巻の最終章まで連綿と持続する所以ともなる。)」266-7P
(対話O)「この課題に応えるためにも、「心が肉体を起動し間接的に外的客体に作用する」という日常的思念に溯って再検討し、問題構制を整理し直し、われわれ自身の回答を用意していく作業が求められる。」267P
第四段落――「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖をも勘案 267-73P
(対話@)「これまでの行論においては、「主体−用具−客体」という三体図式について、もっぱら「心→肉体→外物」という向外的作用連鎖を問題にしてきたが、「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖も勘案されねばならない。――論者の中には、「外物→肉体→心」という連鎖は感性的認識に関しては問題になっても、実践論にあってはもっぱら「心→肉体→外物」だけが問題である、と主張するむきもありえよう。がしかし、実践と認識とは隆替的フィードバックの相にあるとか循環的ループを形成するとかの域を超えて、遂行的行為の構造内部的契機として認識が存在するというのが実態である。――」267P
(対話A)「ところで、心→肉体→外物の連鎖にあっては、「肉体→外物」の部位は(肉体も外物も同類の物質的な存在であるからカテゴリー・ミステイクに陥らないといった理屈ではなく、)日常的経験において“確認できる”ことのように想える。が、それにひきかえ、「「外物→肉体」という作用連鎖の部位に関しては様態が異なる。先に扮技したように「心」なる格別なエージェント、すなわち、意識性と起動性を具えたエージェントが主体的身体の内部に宿っているという想念が形成されるのには、しかるべき機縁・経緯・事由がある。そして、その「心」が「肉体」に起動作用を及ぼすかのように思念されるのも謂われなしとはしない。だがしかし、体験的に“確実”なのは、体内に起動感が感じられるということ、このことまでである。「心」が「肉体」を起動するというのは、内観といった仕方で現認されることではなく、嚮にも指摘した通り、一種の説明的自家了解たるにすぎず、再検討を要する。当の“説明”に難があるとすれば増々そのはずである。この再検討課題は、心の作らきによって、表象が知覚的現実界において変換的に実現されるという想念(或る種の理論的立場をも視野に入れて言えば、表象的心像ないし/および知覚心像が物理的実在界において変換・実現されるという命題)の批判的検討という課題とも結合する。」267-8P
(対話B)「反(「ひるがえ」のルビ)って、外物→肉体→心という逆向きの連鎖にあっても、「外物→肉体」の部位に関しては一応“経験事実”ということで認めておくこともできよう。だが、「肉体→心」という部位に関しては話が別である。なるほど、第一巻でみた通り、肉体的内部過程、とりわけ脳内の過程によって心理現象が産出されるという理説にもそれなりの謂われがあるし、肉体が心に影響するように思い込む機縁となる日常体験にも事欠かない。とはいえ、肉体的過程が心とやらに作動するということは、内観という仕方で現認される事柄ではない。内観が及ぶのは(また、大脳生理心理学的研究の実証的知見の及ぶのは)肉体的状態の変化と心理的状態の変化とのあいだの一定の対応的即応性・並行性までである。そして、ここでもまた、いわゆる知覚心像ないし/および表象心像と肉体的過程(とりわけ脳髄的過程)との変換関係、生理的過程現象から意識現象への転成ということが問題になる。」268P
(対話C)「斯うして、詮ずるところ、いわゆる心身関係ないし心脳関係、それも「心↔身」(心↔脳)の双方向的関係がまさに解明さるべき問題として焦点化される次第なのである。」268P
(対話D)「われわれは今此の場で心身関係という哲学上の大問題に周到に立入るべくもない。が、実践論の脈絡では、この件は、実践主体が行為選択・行為起動の自由、すなわち、いわゆる意志の自由を果たして有っているのかどうかという問題、古来、実践論にとって本質的な一問題とされてきた論件を成す。この論件は、われわれにとって、決定論と非決定論との対立をどう捌くかという大問題とも不二である。このかぎりで、爰ではこの大問題への回答の伏線を調(「ととの」のルビ)えつつ、差当っては俗に謂う遠心的過程と求心的過程との“ループ”を論材とし、前節以来の「主体−環境」の截断が原理的にはいかなる次元において止揚さるべきであるかを示唆しておきたいと念う。(尚、以下での一面的で且つ皮相な論述を補全するものとして、別著『身心問題』一九八九年、青土社刊、および、『哲学の越境』一九九二年、勁草書房刊、第四章「身体的現相と<内奥>の意識」、ならびに、拙著「<心−身>関係への視角――意志行為論のための管制――」、雑誌『エピステーメー』、一九七九年、六・七月合併号、朝日出版社刊所載、を参看頂き度い。)」268-9P
(対話E)「偖、常識的にも或る種の学理的立場においても、知覚的認識では心は受納的、意志行為では心が発動的とされ、謂わば対照的に考えられている。この際、「心→肉体→外物」という三体図式が前提的な枠組とされており、「外物」も構造内的要因として勘考されているには違いないのだが、焦点は「心−肉体」の直接的関係の部面にある。そして、知覚では「肉体的過程が心に影響を及ぼす」のに対して、行為では「心が肉体的過程に影響を及ぼす」とされているわけである。この「心と肉体とのあいだの作用関係」にあっては、いわゆる「心像」も介在的に位置づけられるのだが、近代的学理では直接的作用関係の現場は脳に或るとされ、脳内における「生理的過程から心理的現象への転成」および「心理的現象の生理的過程への転成」ということがポイントになる。」269P
(対話F)「ひとまず、学理的な脳生理学的論議は措いて、日常的な思念相に即して言えば、「知覚」と「行為」とにおける「心−身」関係の「逆方向性」ということは、さしあたり次の三つに分けることができよう。/第一に、知覚の場合には、肉体的過程のほうが心理的過程よりも時間的に先行するのに対して、行為の場合には、心理的過程のほうが肉体的過程よりも時間的に先行する。/第二に、知覚の場合には「心」は受動的であるのに対して、行為の場合には「心」が「体」に対して起動的であり、能動的である。/第三に、知覚の場合には「心」被拘束的・被決定的であるのに対して、行為の場合には「心」は選択の自由をもち、且つ、内発的・自発的である。/このうち、第三条については基本的には次章以下の論脈に譲ることにして、第一・第二条の思念を爰では問題にしておこう。」269-70P
(対話G)「日常的な知覚体験では、水に触れれば直ちに冷たく感じられ、眼を覆えば瞬時にものが見えなくなる、等々、……同時でこそあれ、肉体的過程の時間的先行性などということはおよそ直截には感知されない。(なるほど、氷の方に手を伸ばす運動過程とか眼の前へ掌を翳(「かざ」のルビ)す運動過程とか、これは時間的に先行するかもしれない。が、今問題の「肉体的過程」というのは、知覚を生滅させる直接的な過程の筈であるから、混同してはならない。)ところが、俗に「心ここにあらざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず」と謂われるような事態を反省的に対自化する場合がある。或いは亦、怪我(「けが」のルビ)したことに気づかずにいて後になって(血を見た時点で)はじめて痛みを感じ始めるといった場合もある。このような場合、肉体的過程はしかるべく進行し・完了している筈なのに意識化の心的過程が開始されなかったのだと考え、こういう事態が生じうるのもけだし肉体的過程が先行し意識現象が後続するという機制になっているからだと考えれば、一応の説明がつく。この線で押し通そうと思えば、肉体的過程と意識過程とが同時相即的であるように感知される平常的知覚の場合、時間的先行性がそこでも実はあるのだが、タイムラグが僅少なため恰かも同時であるかのように錯覚されるのだ、と強弁する途がある。だが、これは決して唯一可能な説明というわけでも唯一合理的な説明というわけでもない。批判は保留するとして、爰ではとりあえず次のことだけを指摘・確認しておこう。右の“説明”の立場にあっては、知覚の肉体的過程(神経生理的過程)は所与の外的刺激に応じて受動的・機械的に“一義必然的に(?)”進行・完結するという構制が前提になっているということ、翻って、直接的・実証的には肉体的過程(但し、先の例での氷の方へ手を伸ばす運動とか、これに見合う神経生理学的過程とかでなく、まさに意識現象へと“転成”する現場的過程)の心的現象への時間的先行性ということは現認さるべくもないこと(僅かにせよタイムラグがあるのか、同時なのかは直接的には判定できず、所詮は理論的見地からの推論でしかありえないこと)、之である。――意志行為の側についてみてみよう。行為にさいして目標状景の表象や逡巡といった心理的過程が先行することが内観的に認められる場合があることは慥かでも、これを以ってそのまま今問題の心的過程の時間的先行の証拠とするわけにはいかない。それは、知覚の場合の(例えば氷の方へ手を伸ばす運動過程といった) “別の肉体的過程”に対応するとでもいうか、一応“別の心的過程”ではないか、と疑われうる。というのも、今論点になるのは、いわゆる決意的起動の瞬間における「心的過程の肉体的過程への“転成”という在り方での“因→果”的な先行性」だからである。あれこれの“副次的な心理現象”がいくら先行的に内観されても、それは今問題の先行性の証拠にはならない。体験的には、決意したらとたんに(同時相即的に)行動が生ずる場合もある。それどころか、急ブレーキを踏んで、その後でようやく心理現象が内観されるような場合さえある。という次第で、直接的体験に即するかぎり(そしておそらくはまた神経生理学的観察に即しても)、決意的起動が必ず肉体的過程の起動に時間的に先行するとは、現認すべくもない。意志行為にあっては心理的過程が肉体的過程に先行するという思念を使嗾する現象・事情があることは認めるのに吝かではないが、学理的には、それは内観的現認ではなくして、むしろ推論の所産である。この推論たるや、後論での批判の論点を予示して一言しておけば、肉体は惰性体であって自発的に運動を起始しえない筈だという想念を前提している。これは何ら唯一合理的な推論ではなく、そもそも、意志行為においては心的過程が時間的に先行するというのは実証的事実ではない。――総じて前掲第一条に謂う時間的先行性は、知覚の側についても行為の側についても、短慮の見であって、確定的事実ではないのである。」270-1P
(対話H)「第二条に関して聊か検討してみよう。知覚の場合(想像とは違って(?))、外的刺激が肉体的過程を介して心に到達しないことには始まらないものと思念されている。そのさい、「刺戟−伝播」の肉体内部的過程の所産的“与件”はとかく刺戟の質と量によって決定されるかのように思われ易いのだが、ともあれ、心は当の“与件”を素材ごと創り出すことはできず、(“心窓”を開閉して当の“与件”を受納・遮蔽したり、それに加工的変容を加えるという“対心像的能動性”は有ってはいても)、本質的に受容的であるとされる。だが、生理心理学的な知覚研究の教えるところによれば、知覚過程は、あながち受容的ではない。神経系というものは、系統発生論的・進化論的にみても、もともと刺戟受容・伝播の配備ではなく、筋肉を支配・統御する機能を担うものであり、むしろ遠心性指令パルスの発出現況が意識にのぼることにおいて知覚意識態が現成する。勿論、遠心性指令パルスの発出の在り方は、入来刺戟の求心的到来状況をも規制要因としており、絶対的な自発性に負うものではない。遠心性過程と求心性過程とは相互調整的である。この故に、いわゆる“注意の向け具合”といった実践的・能動的な態度性に応じて(求心的過程のアクチュアルな在り方も変様し、以って)“現識される知覚意識態”が規定されることにもなる。このさい、遠心的過程を「心なるもの」が統御しているか否かは、別途の討究を要するが、そしてまた、求心的過程が規制的一要因をなすことも確かであるが、しかし、知覚が本質的に受容的とは見做せないことが銘記されえよう。――反(「ひるがえ」のルビ)って、いわゆる意志行為の場合、慥かに体内に起動的開始感が覚知される。だがしかし、この遠心的活動は、決して何の機縁もなしに発動されるのではなく、求心的に到来した“信号・情報”を機縁として発動されるのではないか。そして、そのさいの遠心的パルス発出の瞬時的強化が起動的緊張感の相で意識にのぼるのではないか。もしそうだとすれば、ここでの基本的な構制は神経生理学的には却って知覚のそれとも類同的であると言わねばなるまい。――感性的知覚と意志的行為とは対照的というよりむしろ相同的というどころの話ではない。いわゆる“注意作用”“態度設定作用”が“意志作用”であるとし、内発的起動感が遠心性指令発出の特段的な状況の現識化であるとするならば、知覚と意志とは不可分的一態を成し、知覚(「ヴァールネームング」のルビ)が行為の構造内的一契機として位置づけられるというより、知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)も意志的行為の一形態だと言われてしかるべきであろう。(神経生理学的にみて「求心的⇄遠心的」な過程がルーティーンに進行する場合には、馴化(「ハビチュエイション」のルビ)に限らず、知覚的意識がことさらに現成することもなく、意志発動がことさらに意識化されることもない。平常的な生体活動の大部分は意識性を伴うことなく進捗するのが普通とも看られうる。生体にとって“異常”な状況に際してのみ“意識化”が現成する。「身⇄心」関係を論考するにあたっては、このことに留意し、一切が「肉体的過程⇄意識現象」という相にあるかのごとき臆断を卻けて掛からねばなるまい。)」271-3P
(対話I)「簡略ながら以上、俗に知覚と行為とにおける肉体的過程と心的現象との先行・後続の逆関係性と謂われる事態(前記の第一条項)、および、知覚と行為とにおける肉体と心との能動・受動の逆関係性と謂われる事態(前記の第二条項)の再考を通じて、謂う所の「逆関係性」を安直に追認すべくもないことを対自化した。――或る種の理説(folkway psychology (習俗心理学)をも含む)において、当の両命題が追認されているのは、「肉体は(その状態を物理必然的に向内的に決定されている)惰性体にすぎない」というドグマティックな想定の下に、「能動的な意識性エージェントとして精神(「こころ」のルビ)なるもの」を要請的に措定することを俟ってである。このことをもわれわれは再確認する運びとなった。」273P
(対話J)「今や、われわれは嚮に扮技的に“追認”した「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就くべく、議論を半歩前進させておかねばならない。」273P
第五段落――「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就く 273-8P
(対話@)「人々は「身−心」の二元的分離と相即的に、心が肉体的過程(神経生理学的過程)を介して与えられる“内的与件”を現認(知覚)するとか、心が肉体に作らきかけて起動させるとか、心と体(「からだ」のルビ)とのあいだの因果関係を考えたり、肉体的過程と心的現象とのあいだに一方から他方への“変換”“転化”が生起すると考えたりしてきた。(尤も、意識現象と肉体現象とのあいだの並行性を主張するに留める立場もありうる。が、単に並行性を主張するだけでは“説明不足”“説明の回避”という憾みがある。そこで、学説史上の心身並行論は、超越的起動者=神を持出して並行の成立する機序を“説明”しようと試みたのであった。われわれとしては、しかし、神という超越的創造者・起動者を持込むたぐいの並行説は敬して遠ざけるだけで済ませることにしたい。)」273-4P
(対話A)「惟うに、しかし、果たして肉体的過程と心的現象とのあいだの因果的作用関係とか、心的現象と物理的・現実的な肉体的過程とのあいだの“変換”“転化”とか、このたぐいのことが実際に存在・生起するのであろうか?」274P
(対話B)「この件について、知覚の場合に限らず、総じて認識的世界論の論脈では既に第一巻において説述しておいた。それゆえ、知覚その他の認識的場面での「「身−心」関係について爰で再論することは省きたいと思う。(但し、本巻最終章において、その部面をも含めて論決する。)爰では、もっぱら謂う所の「意志行為」、そこにおける「心の機動性」という部面に関して暫定的に述べ、次章で問題になる「自由意志」「意志の自由」という論件への伏線を敷く域に留めることで次善としよう。」274P
(対話C)「偖、われわれとしては、結論的回答を先ず記しておけば、心身の因果関係を認めない。従って、いわゆる意志行為に際して「心」が「体」に起動的な作用及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理的活動)に転化・転成するとも考えない。」274P・・・パラダイム転換的なところから、因果論の批判も押さえておく必要があります。
(対話D)「それでは、人々が意志行為の際に内感する起動感をどう説明するのか? 最終的な説明ではないが、とりあえず次のように考える途のあることを陳べることで暫定的“説明”に代えておきたい。――人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして「体」なのである。この起動は遠心性神経パルスの発出による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる。」274-5P
(対話E)「右の暫定的“説明”では、前篇第三章第一節での暫定的な措置とも照応させるべく随伴説の構制を仮りに採っている。が、随伴説が最終的な説明たりえない所以でもあるのだが、これで以っては、依然として次の疑問が残るであろう。すなわち、精神(「こころ」のルビ)は肉体に起動的作用を及ぼすのではなく、単に意識するだけであるのだとしても、感知という活動(意識活動)を営なむのではないか。そして、この感知という一種の認識にあっては、知られる側と知る側との二項的関係があるのではないか。しかもこの関係にあっては、肉体的過程という物質的存在(それが神経生理的機能状態と呼ばれようともあくまで物質的存在)を能知が直(「じ」のルビ)かに感知するという一種のオカルト的認知力の存在が想定される所以となるのではないか、云々。――随伴説的な構制に単に仮托しているかぎり、右の疑問は慥かに、直ちには解消しない。われわれの暫定的な“説明”では、心が肉体的過程を作動させるというオカルトは免れえても、肉体的過程という物質的存在を“直かに感知する”という“オカルト(?)”が却って“導入”される形に“なって”いる。――以下暫くの間は、しかし、「心が肉体に作動力を及ぼす」という難題が回避されたことに免じて、随伴説的構制への仮托で話を進めることを許されたいと念う。」275P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて関説しておきたいことがある。それはいわゆる「人間機械論」に関してである。人間機械論のポイントは、人体はもっぱら物理的機制のみで動くのであって、体を作動させたり制御したりする精神的エージェントは内在していない、という主張にあるといえよう。人間機械論者といえども人間に意識がアルことは否認しない。論者たちも一種の随伴説を採っていると言うこともできる。――動物機械論は聊か趣きを異にするところがある。此説では動物には意識はナイという主張にさしあたってのポイントがある。とはいえ、論者たちの中には、動物にも感性的レヴェルでの意識現象なら認める者もある。但し、「自己意識性」つまり「意識しているという意識」を欠くと言う。そして、此説にあってもやはり、起動的・統御的な精神的エージェントの存在が否認される構制になっていることは付言するまでもない。――/さて、意識現象の随伴説ということまでは認めても、肉体を起動・制御する精神(「こころ」のルビ)というエージェントを認めない見地を採るとき、「主体−肉体−客体」という三体図式は“止揚”の途に就く。そして、「主体−環境」の分截も含意が異なってくる。/われわれの謂う三体図式は「精神的主体が用具的肉体を作動させて外在的客体に作らきかける」(ないし/および「外的客体が肉体を介して精神的主体に影響する」)という了解に見合うものであった。そのさい、しかも、「主体(=心)」と「肉体」とは自発的存在と惰性的存在という別種性の故に存在的に截断され、また、精神的「主体」が「用具」として直接的に用益可能なのは肉体に限られていて、外的対象とは間接的にしか関わることができないということで「肉体」と「客体」とのあいだも分截されたのであった。しかるに、心なるものの自発的起動性が否認されて、意識現象はたかだか随伴現象にすぎないものと見做されるとなれば、「心的主体」と「物的肉体」とを二元化的・存在的に截断すべき謂われがなくなる。そして、この「物的肉体」(という「機械的存在」)と「物的客体」とのあいだを、心的主体が直接的に用益可能なものとそれの不可能なものという廉(「かど」のルビ)で分截すべき謂われもなくなる。なるほど、それでもなお、肉体は意識現象を随伴する特異な存在体としての一般の客体物から区別されるに値するように思えるかもしれない。依って亦、「意識現象を具備せる肉体的存在」としての「心身的主体」を「外部環境」から分截することは依然として妥当なことと考えられるかもしれない。だが、原理的には最早これらの区別・分截は必ずしも妥当しない。――という理由はこうである。われわれは嚮には、「脳中枢の神経生理的機能状態」に「意識現象」が「随伴」するかのように述べた。が、それは“随伴”という仮托的機制を判り易く伝えようと図った表現方式だったのであり、意識現象が脳内にアルと言おうとするものではなかった。俗に意識現象と呼ばれているものは、われわれに言わせれば、フェノメナルな世界諸現相(いわゆる知覚的現相や表象的現相など)を単なる心理現象であるかのように改釈したものなのであって、行文中で繰り返し指摘してきたように、いわゆる知覚現相はもとより表象現相ですらむしろ“身体外部的な場所”に現前する相でアル。それは決して脳という場所に泛かんでアルわけではない。(われわれが“超越論的身体=脳”とやらを想定して、これに“意識界”を内在させようとするがごとき形而上学的理論を立てないことは爰に絮言を要せぬであろう。)「脳中枢の機能的状態」に“随伴する現象”だからといって、脳内に定位されてアルわけではないのである。あまつさえ、「脳中枢の機能的状態」と記したものも、精確には「脳中枢という場所に局定的に存在」するものではない。意識現象を人称的各主体に帰属化した相で神経生理心理学的に論じる文脈では表現の便宜上「脳中枢の神経生理的機能状態に」と記したとしても、謂うところの「脳中枢の機能的状態」なるものは、中枢という局定的場所で自閉的に完結しているものではなく、オープンシステムを成している。なるほど、“実用的”な常識的見地では、オープンと言ってもたかだか末梢から外的環境の一部分までの範囲で問題にすれば足る。がしかし、原理的・存在論的に言えば、当の機能的状態は、総世界的諸要因の“函数”とも謂うべき在り方をしており、世界大のオープンシステムと観ねばならない。そして、このオープンシステムにとっては、皮膚的界面の外部/内部という区別はおよそ本質的に分劃ではない。という次第で、ここではもはや、心/身の存在的截断はもとよりとのこと、いわゆる「心身的主体」という当体と「外部的環境」との分截も、本質的には妥当しない。“主体”と“外部環境”との分截は、巨大なシステムの錯分節化として措定される「当体」と「環境」との“便宜的”分劃たるにすぎないのである。(前節で叙べた「主体と環境」は、原理的な次元においては、かかる「当体−環境」系の一定在形態として、“当体”および“環境”という“錯分節項”を含む“函数的・機能的な連関態”の相にあるものとして規定・了解されねばならない。) ――/ところで、「人間=機械」だとすれば、人間にとって「意識がアル」ことは無用の長物ではないのか? 単なる随伴的意識現象などというものは生物体にとって無用・無価値ではないのか? 能知能意的で撰択の自由や起動の自由を有った精神的エージェントなるものが存在し、それが肉体的行動を領導・統制するというのであれば、生体が危険を回避したり適合的・合理的な行動を営なむのに有用・有意義でもあろう。しかるに、たかだか“随伴現象”として覚知的現識にのぼらせるだけで、肉体行動を領導・統制する作用力のない意識などというものがアルとは全くの贅事と言わねばなるまい。生物進化論的過程で意識現象というものが生成したのは、生物の生存にとって有用・有意義な機能を果たす意識的領導・統制の作用力を有つものとしての筈ではないのか?――この疑義は尤も至極である。いわゆる脳神経的過程によって生体の活動が自動的に調整されているのだとすれば、そして、この活動状態が折々に随伴的に意識化されるだけなのだとすれば、意識現象などというものは生体にとって全く無用の長物と認めざるをえまい。意識はたかだか観照(「テオレイン」のルビ)のためにあるということになってしまうであろうから!/爰では、しかしまだ、右の疑義に応えうる段にはない。この疑義は「随伴説」にとって致命的な刺である。われわれが、暫定的に“随伴説”に仮托はしても、最終的にはそれを止揚する所以でもある。――示唆的に一言しておけば、随伴説は実体的存在としての心(精神)なるものの自存性こそ否認するものの、依然として物質的存在と意識現象との“二元論”(脳の生理的状態という物質的存在とそれとは別種の意識現象なるものとの“二元論”)を採っており、しかも、物質的存在なるものこそが真の実在であるという想念を維持し、いわゆる意識現象との関係における「物体的存在」の存在論的身分を検覈しない。ここに随伴説の難がある。われわれとしては、この難点を批判的に克服することによって随伴説やいわゆる人間機械論を止揚するであろう。(それに伴って、前段での「疑義」も解消する筈である。)」275-8P
第六段落――この節のまとめと次節(当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されること)へのつなぎ 278-81P
(対話@)「われわれは当面“随伴説”に仮托する方式を採り、以って「心なる主体」の起動性・領導性を“原理的”次元では臆言すべくもないことを対自化するが、しかし、行為の当事者はいずれにせよ「主体−用具−客体」という三体図式で自家了解しているのが日常的現実であり、そこでは「心」なる能知能意的エージェントが肉体的用具を介して外的実在に作らきかけているものと思念されている。(そして、知覚的認知に際しては「客体」が「肉体的過程」を介して「精神的主体」に影響し、以って知覚を現成せしめるものと了解されている。)」278-9P
(対話A)「実践理論の構図を見取るためには、単にフェア・ウンスな議論に終始するのではなく、当事者たち自身のフェア・エスな思念的事態が常に視野に収められていなければならない。」279P・・・弁証法的展開
(対話B)「このかぎりで、次節でのわれわれの論考は、当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されることになるであろう。」279P
(小さなポイントの但し書き)「本節を閉じる前に、「主体−用具−客体」図式に定位した所有権論について、余録的に若干言を費しておくことを許されたい。/周知の通り、学説史上、「私は私自身の身体を持つ」という命題を鍵鑰として、いわゆる「自己労働にもとづく所有」なるイデオロギーが主張され、多くの論者たちによって支持されてきた。そして、何と、近年たらためてそれが新たな粧いのもとに愈々(いよいよ)優勢になりつつある慨(がい)がある。/J・ロックは「人間は、各自,自分自身の身体に対する所有権を持っている」「彼の身体の労働はまさしく彼のものであると言ってよい」というところから、労働生産物は労働主体の「所有物」になる旨を説く。(J.Locke;Two Treatises of Government.1690.Ed.by P.Lasiett.1960.p.305f.) ・・・『資本論』的にはあり得ない論理/人間は各自の身体に対して所有権を持つという命題は、人身保護律をめぐっての論議その他、思想史的な前梯や背景があってのものだとしても、ヨーロッパ流の日常的表現・思念である「私は私自身の身体を持っている」という想念の追認に根差すものであると言えよう。しかるに、先の行文中でも示唆的に述べておいた通り、人々が「私は私の身中に居る」という具合に思念・表現することなく、「身体を持つ」と思念するのは、人格的主体たる自我(「わたし」のルビ)が身体を用具的(道具的)に使用しているという想念に基いてのことであろうかと思われる。とすれば、用具を持つ(それも単に「手に持つ」という次元での「持つ」ではなく、「所有権を持つ」という次元での歴史的に成立した事態)との“アナロジー”で「身体を持つ」と思念し、その思念を“適用”するかたちで道具ひいては道具を用いての生産物に対する“所有権”を“基礎づける”という“循環”が犯されていると評さねばなるまい。/爰で誌しておきたかったのは、しかし、右のことより。むしろ労働生産物が労働主体の所有物だとされる構制に関してである。生産物はなぜ労働主体の所有物と認められるのか? 労働という身体活動の生産物は、“身体の延長”“延長せる自分の身体”という相で思念されるからなのか? この契機も慥かにあることであろう。が、ロックを“受けて”リカードが労働生産物を「労働がbestow (投下)された[物resと化せられた]もの」と看じ、投下労働価値説を開陳したことに鑑みるまでもなく、労働という心身的活動において目標表象という“私の思い泛かべた”“私の心的なもの”が“用具的肉体”を起動・統御する私の労働を介して“客体的存在”へと“変換”“転成”されるという具合に思念される。(これはまさにあの「主体→用具→客体」という三体図式における思念相の一具現にほかならない!)生産物は謂うなれば私の“化体”なのであり、“化体”という“自己疎外”態にあるとはいえ、やはり私であり、“私は化体相での身体を持つ”。このような構制で生産物所有権が“権利づけられる”論理になっているように看ぜられる。/われわれに言わせれば「所有」「所有権」ということは、そもそも一人の主体と客体物とのあいだでの直接的な「主体−客体」関係なのではなく、本質的に間主体的・共同主体的な関係態の一射影にすぎないのだが(後論参照)、とりあえず叙上の“論理構制”に徴するとき、いわゆる「自己労働にもとづく所有権」なるものは「主体−肉体−客体」の三体図式が(本節の行文中で対自化したように)原理的には妥当しないことに鑑みただけでも権利づけRechtfertigungを欠く所以となる。」279-81P・・・「能力をコモンとしてとらえる」ところからのとらえ返し


posted by たわし at 00:19| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする