2025年11月16日

廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(11)

たわしの読書メモ・・ブログ718[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
 第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内に予期されることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する  224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起価・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は)“存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成”(これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること  232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相にあるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的行動を通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆されはしない。尤も、知覚だと思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている”(つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者を前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張されうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚像内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚像内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とされるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相”(知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P


たわしの読書メモ・・ブログ718[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
 第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内によきさけることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する  224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起か・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は) “存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成” (これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること  232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相におるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして、前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的恒同をを通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆とれはしない。尤も、知覚だち思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている” (つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが゛道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者わ前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張それうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚蔵内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚蔵内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。
」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とそれるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相” (知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P


posted by たわし at 23:39| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする