たわしの読書メモ・・ブログ727[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(19)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
第三節 間主観的妥当と正義
(この節の問題設定−長い標題)「人間の行為は、存在論的には一種の財態である以上、多様な価値性をおびており、様々な視角と準位で価値的評価・判定を受ける。が、行為論的脈絡では、就中、(1)企投の目的性、(2)行動の順則性、(3)動機の心情性、これら三つの視点に即した評価判定が問題になり、行為の(1)正義(不義)性、 (2)正当(不当)性、 (3)善良(邪悪)性、が評価判定される。――価値的評価・判定のいわゆる客観的妥当性とは認識論的には価値的判断主観一般への対妥当性という構制になるが、之は現実的機制においては理念化された間主体的妥当性と相即する。」451P
第一段落――人倫的価値の基幹的かつ基礎的な部面に限って当座の論件とする 451-4P
(対話@)「行為は実に様々な視角から、例えば好悪的・審美的……経済的……等々の視角から、自他によって評価され、この評価が当事者的行為の在り方を規制しもする。それ故、価値評価プロパーは爰での課題外であるとはいっても、行為の評価を堯(「めぐ」のルビ)って稍々周到に論考しようと試みる際には、多方面に亘る価値評価の問題を配視して然るべきである。がしかし、当面の論脈におけるわれわれの目論見からすれば、右の事情を承知しつつも、人倫的価値(但し稍々広義)の基幹的かつ基礎的な部面に限って当座の論件とすることで次善とせねばなるまい。」451P
(対話A)「ここでは、人倫的な価値性を論件にするにしても、しかし、いわゆる道徳哲学・倫理学に深入りする心算はない。(況してや、法学などを含む規範学一般に立入るべくもない。)たかだか、そのための基礎理論の構制が示されうるのみである。――西洋の伝統的倫理学は、善論・義務論・徳論という三主題・三部門を枠組として来たと謂われる。この三主題は、東洋の伝統的な“倫理”的省察においても主要な論件であったと言えるかもしれない。倫理的パラダイムは、世界観と緊合(きんごう)しており、世界観が相異するのに応じて相異することであろう。だが、“主題”を比較的に見ての共通性や継時的に見ての連続性に止目する流儀で言えば、多分に共通性や連続性を認めることもできる。今日の学界においても(デュルケーム学派のいわゆる道徳物理学、つまりは、道徳現象の社会学的・文化人類学的研究が伝統的な主題の与件をそっくり研究対象に包摂しうることは措くとして、狭義の倫理学においても)往時の善論は倫理的価値論の形で、義務論は当為論や規範論の形で、徳論も実践的倫理学の徳目論や陶冶論などの形で、伝統的な諸主題を位相を変えて論件としていると言える。われわれとしても当該の主題に関わる理説をいずれは固めなければならない。尚、倫理学というとき、われわれ日本の学徒は和辻倫理学の勘考を回避しえない。和辻倫理学は伝統的倫理学の埓を超えて社会哲学・歴史哲学にまで射程の及ぶ「人間(「じんかん」のルビ)」の学であって、間主体的実践の学とも呼びうる体系をなしている。われわれは是に対するスタンスをもいずれ表明しなければならない。が、本巻では、行文を通じておのずと示すところはあるにせよ、先行理説との関連づけは事としない。――予め諒とされたい。」451-2P
(対話B)「偖、人間行為の人倫的価値性の評価・判定は、多種多様であるが、就中、(1)企投的達成目的の価値的高低、(2)実行的行動所作の規範的適否、(3)決意的動機心情の当為的合否、これら三つの着眼に即しての評価・判定が重要である。――達成目的に即した評価には、価値的大小に徴しての精進的か懶惰(らんだ)的かといった評価もあり、実行所作に即した評価には巧拙といった評価もある。動機心情に即しては、誠実/不誠実、誠心的/狡猾的、無欲的/打算的、利他的/利己的、良心的/非良心的……といった評価もある。が、今敢えて、(1)達成目的の価値的高低、(2)実行所作の規範的適否、(3)動機心情の当為的合否、という着眼に即しての評価・判定を重要視するのは、次の事由(じゆう)があるからにほかならない。――(1)によって行為の正義(不義)性が認定され、(2)によって行為の正当(不当)性が、(3)によって行為の善良(邪悪)性が認定される。」452-3P
(小さなポイントの但し書き)「用語法について若干のコメントを挿んでおきたい。西洋語では英語でのgood/badに相当する詞が総括的・一般的に正価値/反価値を表意するようである。これは日本語での「良し/悪(「あ」のルビ)し」にほぼ対応すると言えよう。(尤も、真/偽をも価値に含めるとき、これをも「良い(「グッド」のルビ)/悪い(「バッド」のルビ)」に包摂しうるか、聊か微妙ではあるが)。ところが、日本語では、良否という語法の外(「ほか」のルビ)に善悪という語法があり、善/悪ということで、行為に関する価値性全般とは言わぬまでも、行為の倫理的価値性の正価値性/負価値性を総括的・一般的に表わしうる。こうして、現代日本語では、善悪という語法は良否よりも遙かに限定された領域内に適用されるとはいえ、しかし、倫理的価値性全般に適用されうるので、正義/不義も、正当/不当も、善/悪の下位概念に位する所以となる。だが、現代日本語で善行/悪行と言うとき、右の広義での用法の外に、狭義の用法も通用しているように見受けられる。狭義の用法では、善なる行為/悪なる行為は、正当なる行為/不当なる行為とは一応は別種であり、正義なる行為/不義なる行為とも別種である。ここに謂う狭義の善行/悪行は、善(「よ」のルビ)き心根(「こころね」のルビ)に起因する行為/悪(「あし」のルビ)き心根に起因する行為、といった含意になるであろう。そして、その限りでは、それは動機心情に即した行為評価の正/負のプロパーをカヴァーし、誠実的/不実的、無欲的/打算的、……良心的/非良心的な諸行為をも総称しうる。(善き心根/悪しき心根というさいの善/悪とは何ぞや、それは何に徴して認定されるのか、これについては爰では不問に付したまま、日常的用語の現実の用語ではそのような含意になっていることを指摘・確認するに留める。) ――われわれとしては、当為(「まさになすべき」のルビ)であるが故にという意識性に“もとづいた”行為を「善良なる行為」と呼び、当為への違反性を自覚しつつ敢行される行為を「邪悪なる行為」と呼ぶことにしたいのだが、但しこの際、誠実・無欲的・利他的……な行為が当為遵奉感に“もとづく”ものであれば、当の誠実・無欲的・利他的……な行為は善良なる行為であり、他方、不実・打算的・利己的……な行為が当為背馳(はいち)的であることを自覚しつつも敢行される場合は、当の不実・打算的・利己的……な行為は邪悪なる行為であることは言うまでもない。精確には当為遵奉/当為背馳の意識性が必要条件なのであるが、動機心情の心態は概してこの意識性を構造内契機としているのが常態であるので、便宜的な用語で処理する文脈では、嚮に謂う「狭義の善行/悪行」を以って「善良なる行為/邪悪なる行為」に代用することも辞さないことにしたい。」453-4P
第二段落――(1) 達成目的の価値的高低に徴しての行為的評価 454-6P
(対話@)「(1)人間の行為は企投的達成目的に関して様々な評価・判定を受けるが、茲で留目したいのは、そのうち、達成目的の価値的高低に徴しての行為的評価を堯(「めぐ」のルビ)ってである。」454P
(対話A)「価値的高−低というのは、第一篇第一章第三節中で説述しておいたように、較認的価値評価における撰取(「フォルツイーエン」のルビ) −貶置(「ナハビッツェン」のルビ) と照応的に規定される配位であって、異種の価値の比較において撰取される価値をより高い価値、貶置(へんち)される価値をより低い価値と呼ぶ。」454P
(対話B)「(因みに、同種の価値の比較において撰取される価値をより大きい価値、貶置される価値をより小さい価値と呼ぶ。――尚、正価値と反価値とは対(「つい」のルビ)をなすものであっても“異種”として扱う。亦、ここでの撰取−貶置はその都度の“比較的評価”であるから、価値序列体系において相応に上位を占める価値であっても、より上位の価値の撰取と共軛的にそれが貶置される場合には、より低い、乃至、より小さい価値と評される仕儀となる。――比較の両項が撰取・貶置されることなく均衡するときは、より低い、乃至、より小さい価値と評価される仕儀となる。――比較の両項が撰取・貶置されることなく均衡するとき、異種の価値どうしの場合には同等、同種の価値どうしの場合には同量と謂う。)」454P
(対話C)「企投的達成目的とは、第一篇第一章第三節中で規定した意味において、目標実現に縁って達成しようと企図されている期成的価値の謂いである。期成的価値の内実は種々様々でありうるが、さしあたって形式的・構図的に言えば、価値的に高い目的の達成と低い目的の達成とが撰択的に可能な場合において、高い目的の達成を期する行為は正義的行為であり、低い目的の達成しか期さない行為は(この“より低い”目的なるものがそれ自身としては大きな正価値であってさえ)不義的行為である。著者としてはまずこのように既定する。」454-5P
(小さなポイントの但し書き)「右の既定における。「正義」という詞の用法が、通常の用法と“乖離”していることを見咎(みとが)められることかと畏れる。――「より高い(これは最高を当然含みうる)期成的価値の達成を期して行為すること」を一種の正価値と見做すこと自体には異論を招かぬことと信じる。が、M・シェーラーなどはそれを「善」と規定する筈であり、それを以って「正義」と呼ぶことは不適当と評されかねない。(尤も、著者とて「正義」を広義の「善」には算入するのだが……。)/「正義」という詞は、本来の漢熟語というよりも、翻訳語として通用している。それは古典語δικαιοσύνη, iustitia,現代語のjustice, Gerechtigkeit訳語であると言えよう。周知の通り、アリストテレスは正義(「ディカイオシュネー」のルビ)を全般的正義と部分的正義とに分け、後者を更に配分的と整調的とに分けたのであったが、この後者の系譜においてiustitia,justice, Gerechtigkeitの概念が存立している慨がある。――近年囂(「かまび」のルビ)すしいロールズ流の正義論もその範に漏れない!――ius,Rechtは「法」でもあり「権利」でもあって、われわれ日本人には甚だ理解しにくい概念であるのだが、iustitiaは単なる適法性の謂いではなく、強いて言えば“法の精神”に適っている謂いであろう。近代思想においてはjusの根拠が人性や人権に求められたりもするにせよ、法の精神は詮ずるところ社会的秩序性の安定的保持を希うものの如くである。そしてjustice, Gerechtigkeitは“正義”と邦訳される場合が多いにしても、内容上は「公正」という訳語の方がむしろ相応して看がある。/著者は、固よりjustice, Gerechtigkeitの訳語変項を求めたり、況んやそれを専ら「公正」と訳すよう提議したりする心算(「つもり」のルビ)はない。唯、“正義”という訳語で指称されているjustice, Gerechtigkeitは後述の「公正」という概念中に止揚的に包摂することにして、この“正義(公正)”は著者の謂う「正義」とは別扱いにしたいと念う。/それでは、著者としては、アリストテレス流の「全般的正義」のみを「正義」として残す心算(「つもり」のルビ)であるのか? なるほど、著者は、アリストテレス流の「部分的正義」が一定の規範(「ノルム」のルビ)を措定しつつその規範に適合せる状態という構制になっていると見做されうる限り、これを「正当」という別概念に納める。がしかし「全般的正義」を以ってそのまま「正義」を定義しているのではない。著者は慥かに「全般的正義」概念の止揚的復興に意義を認め、そのこともあって「正義」という用語に拘泥している趣きがあるにしても、前掲の規定が示しているように、アリストテレスの謂う「全般的正義」をそのまま踏襲する者ではない。/尚、無用の誤解を防遏すべく附言しておけば、著者は「正義」と「正当」(「公正」をも含む)とを機械的・平面的に区別するわけでなく、著者の謂う正義的行為が別の視角からは同時にrichtig,gerichtigな場合もありうる。従ってjusticeの訳語の意味で“正義”と訳される当の行為が、著者の謂う意味で「正義」とされる行為と重なる場合も存在しうる次第となる。」455-6P
第三段落――(2) 規範的適否に徴しての行為評価を堯って 456-61P
(対話@)「(2)人間の行為は実行的行動所作に関しても様々な評価・判定を受けるが、茲で留目したいのは、そのうち、規範的適否に徴しての行為評価を堯(「めぐ」のルビ)ってである。」456P
(対話A)「規範的適合というのは、第一篇第一章第三節中で論及しておいたように、所与の行為現相が既成的規範に適盈的(「てきじゅうてき」のルビ)であるか反虧的(「はんかてき」のルビ)であるか、これの謂いであって、照会的価値判定が下される。所与の行為がその実行所作に関しての規範適盈的であるとき、当の行為は「正当」であり、規範反虧的であるとき「不当」である、と判定される。(茲で次の疑問が提出されるかもしれない。すなわち、実行所作が正当/不当なのであって、行為が正当/不当と言うのは主語の摩り替えではないか?――同趣の疑問が嚮の正義的/不正義的の判定に関しても、また後述の善良/邪悪に関しても生じうる。――これは認識論的には第一巻の第二篇第二章第二節で討究した判断の一般的構造に関して問題になりうる構制の一ケースに外ならない。例えば「雪ハ白イ」と判断するとき、意味構造上は「雪ハ色に関して判定すれば白イ」となっており、「白イ」のは「(雪の)色」であり、主題は雪ではなく色ではないのか、という考えが泛かぶ。そしてここでの“真の主語”は「(雪の)色」だとして処理する途もありえないわけではない。が、しかし、そもそも「SハPナリ」という判断は、恒に、Pという述語が妥当するような「Sノ○○性」に関しておこなわれるのであり、「Sノ○○性に関してPナリ」のとき、「S」を主語とする形で「SハPナリ」というのが慣わしである。この慣わしに“追従”して、「行為Aガその実行的所作に関して正当ナリ」と判定されるとき、われわれは「行為Aは正当ナリ」と判定する次第なのである。――蛇足ながら、日常的に下される判断は多くの場合、主語Sの何性に関しての判断であるか、そこでの何々性が“自明”的であり、「Sハ○○性に関して……」ということが殊更には意識されず、直截に「SハPナリ(ナラズ)」と判断される。ところが正当/不当の判定に際しては「行為Aの実行的所作」に関してなのか、「行為Aの企投という行為の在り方」に関してなのか、等々、必ずしも判然としない場合が往々にしてある。「行為Aの企投という行為」はAとは別の一行為なのだが、日常的には、例えば「あのとき散歩に出かけようとしたのがマズかった」と言うべきところを、「あのとき散歩したのはマズかった」という具合に、屢々「行為Aの企投という行為」を「行為A」と呼んでしまう。このような事情があるためであろうか、「雪ハ白イ」と判断する場合と違って、行為に関わる判断の場合には“真の主語”が何であるかについて、人々は日常的にも稍々神経質になることが屢々である。が、しかし、論理構制上は、主語が“事物”の場合と“行為”の場合とを別扱いにするには及ばないであろう。)」456-7P
(対話B)「「規範(「ノルム」のルビ)」の何たるかについては爰はまだ正規に論攷する場所ではないが、「規範」と「規則」(約款(やっかん)や法律のごときも含む)との関係など、二、三の事項について誌しておこう。」458P
(対話C)「規範とは、然々の情況においては斯々(「かくかく」のルビ)に行為すべしと命ずる(/斯々に行為すべからずと禁ずる)行為規準の謂いである、とひとまず規定できよう。が、この提題は、より立入った規定とコメントを必要とする。「然々の情況においては……」という限定的条件を右には附したが、論者によっては、絶対的・無条件的な、定言的命題の形での規範も存在するのではないか、と反問するかもしれない。定言的命令ということでならば、著者としても、「正義的行為を為すべし」「善(広義)なる行為を為すべし」といった命法が妥当することを認めないではない。がしかし、こういう形式的な(つまり、実質的規定性を欠く)命令にはさしたる意義がないと思っていることは措くとしても、命令がそのまま直ちに規範であるわけではない。規範は、よしんば抽象的であれ、実質的限定相での斯々という行為規準を自己現示するものであって、中には、それが大抵の情況下で略々“普遍的”に妥当するため、無条件的・定言的であるかのように見えるものもあるにせよ、絶対的・無条件的に命ずるものではない。規範は、なるほど、恒に必ず文法上の仮言的命法の形で表現されるとは限らないが、実質的には、情況に関する限定条件つきの仮言的命令規準である。――仮言的命令というとき、文法上の形式に幻惑されて混淆に陥らぬよう、留意を要する事項が茲にある。形式上は「何々ならば斯々すべし」という同じ形になっていても、例えば「幸福になりたければ、斯々すべし」と「然々の情況下であれば、斯々すべし」とでは、同列に扱えない。前者は手段的行為の目的合理性に関わるものであって、命令形“べし”で表わされてはいても、(幸福な状態になるという目標を実現するためには、斯々の行為を)「要する(need)」という意味であり、本来の当為(「ゾレン」のルビ)的命令ではない。もっぱら後者の場合が、実質的な仮言的当為命令である。翻って言えば、定言的命令なるものは「あらゆる情況において(いかなる情況下においても)斯々すべし」という意味構造になる。――」458P
(対話D)「仮言的に限定された行為を命ずる(/禁ずる)規準たる規範は、体系を形成しうるにしても、単なる規範たる限り、さしあたり個別の命法的規準ごとに一つ一つの規範である。が、規範条項の或る種の体系が「規則」と呼ばれる。――現実に(一定の“時と所”で)通用・機能している規範(当為条項群)は、観察者的・反省的に検討してみれば、恒に必ず十全に斉合的とは言えないまでも、略々整合的な体系的纏まりを形成しているのが普通である。(但し、それは飽くまで“一定の時と所”という埓内でのことであって、その埓を超えれば規範群の両立不可能的対立性が屢々見られる。)今敢えて曖昧な表現を用いて“一定の時と所”と誌したが、現実問題としては、それは一定時代の国家のごときから一時的な小規模結社のごときにまで亙りうる。それは、また、一定の祭祀とか一定のゲームとかの実行場のこともありうる。視角を変えて分ければ、それは、いわゆる自然共同体(つまり恣意的に加入・脱退するわけにはいかず、生きているかぎり内属せざるをえないような“共同体”)のこともあれば、自由意志で入会・退会の可能な結社のこともあれば、随時に参加の可能なゲームの類(「たぐい」のルビ)のこともある。そして、それら様々な規模と性格での単位的統一体たる“一定の時と所”の内部において、“一定の体系的な纏まりを有った規範条項群”が存立している。われわれとしては、此処に謂う“一定の体系的な纏まりを有った(つまり、矛盾・対立を孕まないように整序された)規範条項群”を語の広義における「規則」と呼ぶ。」458-9P
(対話E)「「規則」というものは、「規範(的条項)」なる仮言的命法の集成という成立構制の故に、厳格に言えば“不完全”であるのを常態とする。というのは、ありうべきありとあらゆるケースを抽象概念的にカヴァーすることなら可能だとしても、実効性をもつ具体相で可能的全ケースを仮言命法かすることは(よしんば規則の繁雑化を厭わぬとしてさえ)現実問題として不可能だからである。依って、卑俗な言い方をすれば、規則には必ず“穴”がある。従って、人々がもし挙(「こぞ」のルビ)って“穴抜け”を狙うとすれば、規則“適法”性だけではとうてい律しきれない筈である。が、実際問題としては、人々は必ずしも“穴抜け”を事とするわけではなく、“不完全”な規則で以って通常は間に合う。たかだか、時折に“補正”“細則化”を要する程度である。――溯って、規則が規則として成立するのは、そして実効性を有って存立するのは、前述の通り、規範的条項群が矛盾対立を孕まぬよう整序的に体系化されることを俟ってであるが、実定的な“立法”(約定を含む)という特殊ケースを別とすれば、謂うなれば“自然淘汰”を通じてそれが現成する。ここに前記の“穴”とは別の不完全性、つまり概念規定や条項間の離接の不完全が残りうる。が、これも“判例”等の手法でこと糊塗できるのが普通である。――がしかし、規則というものは右に謂う“不完全性”の故に、亦、不完全性に淵源する“補訂”的変様の故に、揺動的・変容的であることを免れない。(規則が実効性を有って通用・機能するというとき、サンクションわけても懲罰という行為の介在を忘佚(「ぼういつ」のルビ)できない。懲罰の発動は、当該の前記“単一的統一体”に内在的な規範的規則に徴しておこなわれるにせよ、懲罰行為には懲罰行為の規則が別にある。が、サンクション行為とその規範・規則については爰では立入らない。)」459-60P
(対話F)「ところで、われわれは嚮に、規模も種類も様々な“一定の時と所”という“単一的統一体”内部でメンバーの行為を律する一定の規範体系を以って「規則」と呼ぶことにした。この暫定的な言い方での「規則」は極めて広義であって、そこには、慣習的・習俗的な常道・規道、結社の約款・定款類や、国家の法律のごときはもとよりのこと、礼儀作法・儀式範則、言語文法、ゲームのルールのごときをも含みうる。それら諸々の「規則」は各々“小宇宙”を形成していて、体系どうしは没交渉であったり、別々の体系に属する条項どうしは次元が異なるため矛盾葛藤することはなかったりで、並存・共存しているのが大枠的事実である。その限りでは、一個同一の人物が複数の規則、すなわち複数の規範体系に適宜順拠した行動を齟齬なく営むことができる。とはいえ、しかし、別々の“自然共同体”に内住していた人々が交流して“文化摩擦”を生ずるような場合は今茲では問題にしないとしても、例えば、新興宗教の信徒集団(教団)の内部規則と、彼らの居住する“地域共同体”の慣習法や国家の法律とが相容れないといった場合が現にある。――一般に、上位集団の規範と下位集団の規範とが喰違うときには、上位集団の規範が優先されるということが事実問題として指摘されうる。一般の場合、“上位集団”というのは“下位集団”を包摂するが、それは所属する成員の事実的包摂ということには尽きず、規制的位階関係であることに鑑みれば、謂う所の「上位−下位」集団編制が成立しているということは、とりもなおさず“上位集団”の規範の優先的貫徹が確立している謂いにほかならない。上位集団であるからそれの規範が優先するのではなく、逆であって、それの規範が優先的に妥当するがゆえに上位集団なのである。という次第で、先の例での「信徒集団」と「国家」とでは、成員の事実的包摂では「国家」が“上位”であるとはいっても、国家的規範が直ちに教団的規範に優先する上位規範であるということにはならない。信徒たちは、国法に則って弾圧されようとも、教団規範の方を優位に置くこともありうる。――このような場合、ヘーゲルに倣って象徴的に言えば、アンチゴネーの悲劇が出来(「しゅったい」のルビ)する。論者たちはカントに至っても「規範体系」なるものは総体として無矛盾的・整合的・一義的な筈であるものと思念する風情で立論して来たのであった。が、ヘーゲルが象徴的に指摘し、マルクスがイデオロギー論によって承ける形になっているように、一定社会の内部にあってもそこで通用している規範諸体系は相互的矛盾対立を必ずしも免れないのである。(即自的な諸階級の各々の内部に自己完結的な夫々の規範体系が確立していて、それら規範体系どうしが対立するのが常態だ、と言うつもりはない。諸階級を“縦断”して略々共通の規範体系が“基幹”としてあり、階級ごとの特殊的な規範的諸条項が“枝葉”として加わっている、というあたりが平常的現実の描像であろう。が、階級的対立が尖鋭化する歴史局面においては、階級的諸規範体系が“鎬(「しのぎ」のルビ)を削る”ような状況も出現しうる。)われわれは「規範」「規則」いわゆる“普遍妥当性”の問題、「規範」「規則」に則った行為の評価や規制の問題、これを論攷するにあたっては右の冷厳な事実をも配視して討究しなければならない。そのためにも、しかし、事前に動機に即してのの行為評価を一瞥しておくのが順路である。」460-1P
第四段落――(3)動機心情における当為的合否の意識性の継起に徴しての行為評価を堯って 462-4P
(対話@)「(3)人間の行為は決意的動機心情に関しても様々な評価・判定を受ける。が、茲ではそのうち、動機心情における当為的合否の意識性の継起に徴しての行為評価を堯(「めぐ」のルビ)って問題にしておこう。」462P
(対話A)「人間の行為は実に様々な動機的心情に“因由”し、そこでの心態に関してもこれまた多種多様な認知的判定(自家判定をも含む)が下される。――動機的心情には、同情、憐愍(れんびん)・喜悦・憤怒、……義理感、当為感、といったものがあり、それに因由する行為の心態は、色々な視角から、例えば、慈愛的、激情的、……利他的、利己的、……自慰的、自虐的、……誠実、不実、……高潔、卑劣、……無欲的、打算的、……良心的、非良心的、……善良、邪悪、といった認知的判定を受ける。が、そういう判定は、自家判定の場合であっても、与件的心態について第三者的見地から下す認定であって、行為者は、例えば、眼前で転んだ老人を助け起こす時に、助けるのは慈愛的(/利他的/……/良心的)行為なるが故に……という意識で発動するわけではない。世には、なるほど、常日頃、「慈愛的行為を心掛けよう」「利他的行為に努めよう」「良心的に行為しよう」という格率(「マクシーメ」のルビ)を立てている人もあろう。だが、その人でさえ、その都度の行為に際して「これは慈愛的だから」「これは利他的行為だから」「これは良心的行為だから」という形で意識するわけではあるまい。もしもそういう意識で発動されるのであれば、その行為はむしろ偽善的と謂われねばなるまい。実際には、人は大抵の場合、「気の毒に思って」/……、……/「当為感に促迫されて」行為するのであり、発動時に自分の心態について価値評価・価値判定するわけではない。(尤も「これは利己的・打算的だが……」「卑劣かもしれないが……」という意識を発動時に伴う場合にはかなり屢々ありうる。がしかし、その場合でも、行為の発動的動機心態は「打算的だから」「卑劣なるが故に」ではなく、――もしそうなら、それはむしろ偽悪的行為であろう!――「打算的で気が咎めるがどうしても欲しいので……」「卑劣かもしれないが何が何でも仕返ししたいから……」といった具合に、当の評価的躊躇を乗り越える発動的動機が存在する。そしてこの発動的動機が要件である。) ――行為がそれに“因由”する動機的心情には様々なものがあり、そこでの与件的心態に関して多種多様な価値評価・価値判定がおこなわれうるが、茲で留目したいのは、当為感を構造内的継起とする動機心態とそれに“もとづく”行為の善悪的評価についてである。」462-3P
(対話B)「先廻りをして述べてしまえば、当為感に“もとづく”行為(当為感に“もとづいて”抑止された行為、つまり、当為違反感のゆえに抑止される消極的形態での行為、これも「善良」である。)そして、当為違反感を伴いつつ敢行される行為を「邪悪」な行為と呼ぶ。――われわれは、端的に没価値的な世界事象なるものは存在しないと考えるが、しかし、あれこれの個別的な価値評価視角に即しての価値中立性(正価値でも負価値でもない中性的なゾーン)は認める立場を採るので、「善良−邪悪」という価値スペクトルにおいて中性的な行為の存在することを認める。――当為感に“もとづく”という際の「当為感」は情動的心態契機であって、「当為であるという判断」とは区別されねばならない。当為であると判断される行為は(規範適合的と判定される行為と重なるので)、さしづめ「正当」的行為ではあっても、「善良」な行為と直ちには相覆わない。当為感はさしあたり当人の“主観的な”当為(「べき」のルビ)感であって、当為ナリという“客観的な”価値判断とは別であり、当人は当為遵奉的なつもりでも第三者的にみれば当為背馳(はいち)的と認定される場合もありうる。(依って、動機心情に徴して善良な行為と認められる行為であっても、規範適合性に徴して不当な行為と判定される場合も生じうる。)」463P
(対話C)「此処において価値の多重的規定とそれらの位階という問題が、人倫的価値という範域の内部に限ってさえ、かなり複雑な様態を呈することになる。」463P
(対話D)「動機心情に即した評価という枠内ですら、多様的・多重的な評価・判定がおこなわれるのであり、そこでは、例えば、傲慢・倨傲(きょごう)ではあるが無欲的・利他的というように、或る観点から負に評価されるものと別の観点から正に評価されるものとが“一体化”しているようなケースもある。このような場合、当の行為について、何々の観点からは然々、云々の観点からは斯々、という並列的・併記的な評価・判定で済ませるのか、その行為が“総じては正価値的/負価値的”と認定されるを要しないか、このことが問題になる。日常的生活の場では、時に応じて、前者で“済”んだり、後者が“敢行”されたりする。が、学理的にはそれの単なる追認では終るべくもない。“総じては正”または“総じては負”と認定される際、なるほど“正価値成分”“負価値成分”それぞれの度量がそれなりに“考量”されはしても、厳密に合算して帳尻を見定める流儀で結論されるわけではない。そのような手続きは、厳密にはそもそも不可能であろう。“総じて”の評価は、考量的評価活動が介在しようとも、終局的には、撰取/(「または」のルビ)貶置(へんち)でしかありえまい。動機心情に即して“総じて”正/負に評価される行為は、動機心情に即した行為評価という範域内では一応、善行/悪行(広義での)と呼ばれうる。そして、実際問題としては、多くの場合、当の“総じて”正/負と認定される行為は、「当為的遵守感」/「当為的背馳感」を動機心情の構造内部的成分としており、依って以って、われわれの謂う狭義の「善良(善良なる行為)」/「悪行(邪悪なる行為)」でもある、かもしれない。とはいえ、恒に必ずそうであるとは言えない。ここに、広義の“善行/悪行”と狭義の「善行/悪行」とが合致しない一つのケースが存立する。(一つのケースと限定するのは、実行所作や企投目的に即しての広義の“善行/悪行”と認定されるものが狭義の「善行/悪行」と合致しないケースが他に存在するからである。) ――茲は、いずれにしてもまだ、動機心情に即した評価の諸相を周到に討究して、人倫的価値評価を全面的に定位する場ではない。この作業は次巻第二篇「人倫的世界の存立構制」を俟たねばならない。が、著者としては、動機心情に即した行為評価の範域内においては、当為的合否に徴しての評価、すなわち「善良/邪悪」を基幹とし、この評価軸を域内での最上位に据える。この旨を爰に誌しておく。」463-4P
第五段落――「正義(不義) −正当(不当) −善良(邪悪)」を優位−劣位の位階に秩序づける 464-7P
(対話@)「翻って、行為というものは、先述の通り、実行的行動所作の規範的適否に即しても、亦、企投的達成目的の価値的高低に即しても評価・判定され、正統的/不当的、正義的/不義的の認定をも受ける。正当的/不当的な諸行為も、正義的/不義的な諸行為も、語の広義における善行/悪行であるには違いない。だが、この“善行/悪行”と狭義の「善行/悪行」とが必ずしも合致しないことは既に行文中で述べておいた通りである。――著者としては、行動所作に即した行為評価の範域内では規範的適否に徴しての評価、すなわち「正当/不当」を基幹とし、この評価軸を域内での最上位に据える。また、企投に即した高評価の範域内では価値的高低に徴しての評価、すなわち「正義/不義」を基幹とし、この評価軸を域内での最上位に据える。――ここにおいて、所与の一行為に関する(1)企投的達成目的の価値的高低に即した行為評価(正義/不義)、(2)実行的行動所作の規範的適否に即した行為評価(正当/不当)、(3)決意的動機心情の当為的合否に即した行為評価(善良/邪悪)という、三つの範域内でのそれぞれの最上位的認定の正/負が合致しない場合、“総合的”“最終的”判定を如何に下すかが問題になる。この件について結論だけをここに誌しておけば、著者としては、「正義(不義) −正当(不当) −善良(邪悪)」を優位−劣位の位階に秩序づける。以って、善良な行為であっても不当な行為であれば広義の“悪行”に算入し、正当な行為であっても不義な行為であれば(後に見るように、このような場合が現にある)広義の“悪行”に算入する。――それでは、広義での善行(/悪行)、つまりは、人倫的価値としての善(/悪)を、正義(/不義)よりも上位に、ということは「正義(/不正義) −正当(/不当) −善良(/邪悪)」の位階秩序全体の更に上位に据えるのか? 否である。広義の“善(/悪)”という人倫的価値概念は、個々の人倫的正(/負)価値を包括する“普遍的”概念であって、概念理論の用語法では個々の人倫的価値概念に対する“上位概念”と呼ばれはするが(しかし、それはあくまで概念理論上の“上位概念”なのであり)、価値的秩序上の「上位」に立つものではない。それは恰度「哺乳動物」に対して「脊椎動物」という概念が概念上の上位概念であっても、脊椎動物が哺乳動物より価値的に上位というわけではないのと同趣である。人倫的価値秩序上では「正義」が最上位(「不義」が最下位)である。けだし人倫的価値の評価・判定においては「正義/不義」が最優位だからである。「正義/不義」は、また「正当/不当」「善良/邪悪」は、広義の“善/悪”という概念に概念上包摂されるにすぎない。――」464-6P
(小さなポイントの但し書き)「尚、ここで附言しておくことが必須というほどの事項でもないのだが、カント倫理学との関係その他で、読者においてありうべき借問の一つに応えておくのが一策かと思える事項に「義務」(これに伴って「権利」)という論件がある。――この件に多少とも立入るためには、次篇での制度論を待たねばならないので、ここでは一斑に限って触れるに留める。/「義務」とは、役柄存在(これがいかに広義であるかは前篇でも叙べたが、次篇でその広袤を示す予定)に“内自化”された相での規範的当為であり、現実問題としては規則遵奉的当為の一種である。――そこでもし“共同体”に道徳的規則(“道徳律”=“道徳法則”)なるものがあり“共同体”に成員として“所属”することが已に一種の“役柄存在”を“身に引請けて”いることを意味するとすれば、“道徳律を遵奉すること”が“義務”(の一部)ということになろう。――依って、義務履行は、規範的当為・規則適合的行為であり、「正当」な行為(義務不履行は「不当」な行為)と評価・判定される。が、これは“客観的”な評価・判定である。その点、義務感に“もとづく”行為は如何? 義務感は一種の当為感なのであるから、先の規定に鑑みるとき、義務感に“もとづく”行為は「善良」な行為(義務感に背馳して敢行される行為は「邪悪」な行為)と認定される。但し、われわれの立場では、“主観的”な当為感に“もとづく”善行であっても、“客観的”に規範的当為不適合であれば「不当」なる行為であり、――それでもなおかつ「正義」的である場合を別とすれば――、広義での“悪行”に算入される。という次第で、われわれはカント流の理説を部分的には採り入れうるにせよ、驥尾(きび)に付するという具合には参らない。/「権利」は、“物象化”されて行為主体の“所持”する“権能”の相で表象され易い。或る一定の役柄存在者が、当該役柄存在規定に“内自化”された規範的規則体系に徴して「為すべき−為して宜(「メイ」のルビ)い−為すべからざる」スペクトル上に配位される諸行為のうち「為すべからざる」行為以外の行為を遂行することを「許容」される事態になっていること(規範的規則体系に徴しての「許容」とはそれをおこなっても当の有為が当該の規範的規則に拠っては負の制裁を受けないことに見合う)が物象化されて、当人が“それを使用・発揮することを許容される「機能」を所持している”と表象されている“所持機能”がいわゆる「権利」にほかならない。(権能という可能態の“物象化”“物性化”については、第一巻第三篇の第二章第三節参照。尚「為すべき」は義務であるから権利は「為して宜い」のゾーンに限定する立場もありえよう。これは「権利でもあり且つ義務でもある」ケースを認めるかどうかの撰択にもなる。が、著者としては「越権行為」の処理を簡単にする配慮もあって、前記の線で権利を規定する。) ――そこで、“共同体”に成員として所属することが已に一種の“役柄存在”を“身に引請けて”いることを意味する場合、当該の役柄存在規定に“内自化”されている規範的規則体系に徴して「許容」される諸行為遂行する「権利」が役柄存在者=主体に“内属”するものと表象される。依って“共同体”が“自然共同体”であるとき、その“自然共同体”の成員は、(当該“自然共同体”に成員として所属することと相即する“役柄存在者”として已に)一定の“自然権”を持つものと思念される次第となる。――権利を“行使”せる行為は、それが「規範的規則違反的ではない」ことからして「不当ではない」行為であり、語の広義における“正当”な行為であると認められる。が、それが単に“権利行使的行為”である限りでは“正当”ではあれ、正義/不義に関しても、善良/邪悪に関しても、それだけではまだ「無記」である。/「権利」「義務」に関しては後に立帰って論ずることにして、取敢えず以上のことだけを附記的に誌しておく。」466-7P・・・権利論的物象化の押さえ
第六段落――“主観的”価値感とか“客観的”価値判定についての論及 467-70P
(対話@)「省みて惟うに、以上の行文中、“主観的”価値感とか“客観的”価値判定とかを云々したのであったが、それを一体誰がどう認知・認定するのか、価値評価がどう権利づけ(「ベレヒティゲン」のルビ)られるのか、価値認識・価値判断をめぐる認識論的問題次元はブラック・ボックスのままにしてきた。この件について周到に論ずることは爰での課題でないとはいえ、次篇での論攷にとって前梯として必要な限りで、この場で若干の論及をおこなっておく段である。」467P
(対話A)「価値の評価・判定をめぐる認識論上の権利問題(quid juris)の次元以前に、事実問題(quid facti)の次元において、(イ)当事者(達)の意識にとって……、 (ロ)観察者(達)の認知にとって……、という区別を自覚的に設けて捌(さば)く必要がある。――(イ)と(ロ)は、単なる認識論的場面においては、大抵の場合、当事者たち個々の直接的現識相と、それを吟味する学知的研究者の学理的認識相という、二つの位階を立てるだけで殆んど間に合う。それゆえ、与件が行為現象や価値事象であっても、それの単なる認知に関わる方法論的手続においては、für das erfahrende Bewußtsein (経験的意識・当事者意識)とfür uns Analytikers(分析的・第三者的意識)とを区別すればひとまず足る。ところが、実践的場面にあっては、行為の当事者たちが各々相手の行為(外面的・内面的活動)について観察・分析し、且つ亦、自分の行為についても省察・分析しつつ、呼応的・調整的な共互行為を営なむのであるから、これの記述・討究に際しては当事者たち自身における向他的・向自的な観察・省察を方法論的な自覚をもって配視しなければならない。けだし、本篇の第一章第三節中において、三つの準位に分かつ方法論的配慮を表明しておいた所以でもある。そして、現に、これまでの行文を通じて、われわれは当の準位的区別を自覚しつつ事柄の記述・分析をおこなってきた。が、当面の論件にあっては、当事者たち自身における向他的・向自的な観察的・省察的な価値評価が主題となる。(本篇の前節までの行論では、当事者たちの向他的・向自的な観察・省察をも構造内的契機といる行為の在り方が主題的論件であったのにひきかえ、本節では当事者たち自身が向他的・向自的な観察・省察に即して下す価値評価活動そのことが、そして、更には、それの認識論的権利構制が、主題的論件をなす。)」468P
(対話B)「偖、当事者と観察者との区別といっても、当座はまず、実行者と学知的認定者との区別ではなく、行為者たち自身が実行的当事者と観察的認知者とに“役割”分掌する次元から一瞥しておこう。――他者のいわゆる“内面”を認識することの“困難性”をめぐる「他者認識」論の原理的な次元については既に第一篇第三章第三節中で論じておいたので、復唱はしない。ここでは、さしあたり、日常的・常識的な次元での“他者理解の不確実性”を視野に入れれば足りる。」468-9P
(対話C)「論者たちは屢々、他者の“外面的”な所作に関する認識はほぼ確実であるのにひきかえ、他者の“内面的”な心態に関する認識は不確実であると考える。そして、併せて、自分の心態に関する不可疑性を確実性(真実性)と二重写しにし、自分の心態に関して、本人だけは確実に認識していると見做す。だが、論者たちのこの見方は、学理的に見ても謬見であることは今措くとして(この件については「他者認識不可能論」を検討・批判する論脈内で既に論定しておいた)、当事者たちにおける日常的“事実”に合わない。」469P
(対話D)「当事者たちが自他の“外面的”所作に関して下す認知は、自他いずれも“不確実性”を孕んでおり、しかも、事実問題としても権利問題としても、いずれか一方の認知の方がより確実ということはない。“内面的”心態に関する認知も、これまたいずれも“不確実性”を孕んでいるが、本人の方がより確実ということはない。ケース・バイ・ケースであって、或る時には当事者自身の認知が真実とされ、或る時には観察者の認知の方が却って真実とされ、時によっては両者の認知が合致して共に真実とされる。(尤も、後に至って共に誤認であったと自覚される場合もありうる。)」469P
(小さなポイントの但し書き)「右の提題を詳しく敷衍(ふえん)する必要はないと念うが、鞏固な既成概念に禍いされぬよう若干のコメントを挿んでおこう。――“確実”と今謂うのは、主観的な“確信”の謂いではなく「真実」の謂いであることを念頭に置かれたい。――さて、他者の所作に関する観察的認知というとき、現時点での現認ばかりでなく、現在的評価の対象となるかぎりでの、既往的所作の観察的記憶をも含める。とあれば、これが“不確実性”を誰しも否まぬであろう。が、強調しておきたいのは現時点での現認的認知なるものからして“不確実性”を孕んでいることである。人は自他の所作を常に必ずそう精確に観察するわけではない。このことに因由する不確実性がまずある。目撃証言の喰違いなどからも察せられるように、所作の物理的現相に関する観察的認知すら一様でない。しかも、所作の認知というものは、単に大きな声を出したとか、身体をしかじかに動かしたとか、“純粋物理的”認知としておこなわれるものではなく、「脅した」とか「誘惑しようとした」とか、意義づけを含んだ「○○して」相でおこなわれるのが普通であり、当の意義づけの契機(これによって所与の“物理的”現相認知・記憶もデフォルメされるのだが)において不確実性が増す。剰え、その際、イデオローギッシュな拘束性などという大仰なこと以前に、関心的態度性に応じて評価ばかりか“物理的”現相認知に変様が生じ易い。という次第で、所作の“観察的認知”からして大いに“不確実”である。当人自身は、自分の所作について、その“意味”は意識していてさえ、観察的認知相に関しては極めて不確実にしか現識していないのが普通であろう。こうして、所作に関する自他の認知はいずれも直接相では“不確実性”を免れず、所作の「真実相」については、第三者的・反省的見地(当事者・観察者たち当人がこの見地に立ちうる)から判断が下されるしか術(「すべ」のルビ)がない。/心態に関して、他者による認知が不確実性を孕むことは絮言を要しないが、自分自身による認知も不確実性を免れない。なるほど、本人の意識においては明晰判明で不可疑的な場合も多いかもしれない。だが、いわゆる自己欺瞞の場合もある。そして、精神分析的認定のごときを俟つまでもなく、他人による認定を受け容れて、表層的意識においてはかくかくでも“真実”はしかじかであったと自家認知するようなケースも屢々生じる。つまり、当人自身の認知が特権的に確実視されるわけではなく、却って他人による認知の方が“真実”と認められる場合もあるのである。ここにおいても、自分の側ないし他人の側からの直接的な認知が、そのまま最終的な真実とされるのではなく、第三者的・反省的見地からの判断に俟つかたちになる。/是を以って之を見れば、所作に関しても、直接的な認知(当人または/観察者の直接的な認知)がそのまま“事実(真実)”とされるわけではなく、“事実”認知なるものは、“最終的”には反省的「判断」に俟たざるをえないのである。――後論において見る通り、所作や心態に関わる価値評価・価値判定にあっても、結局は、反省的な「価値判断」に俟つ所以となる。」469-70P
第七段落――当事者たちが自他の行為の動機心情・実行所作・企投目的についておこなう価値評価・判定のフェア・エス準位での記述 471-4P
(対話@)「以上で叙べたことは、しかし、多分に第三者的見地からの論考になっており、行為当事者・観察者当事者たちの直接的認知・評価の現行的過程をそのまま記述してものではない。茲で今まさに課題をなすのは、当事者たちが自他の行為の動機心情・実行所作・企投目的についておこなう価値評価・判定のフェア・エス準位での記述である。」471P
(対話A)「当事者たちは自他に関わる認知が一般論としては不確実性を孕むことを自覚しているにしても、その都度の認知に関しては、(時としては確信をもてずに留保する場合もあるが)、日常的に大抵は、直截にであれ一定の省察を介してであれ“確信的”に認知・評価をおこなう。」471P
(対話B)「当事的観察者は所与の行為(という財態「実在−価値」の二肢的二重態)に関し、それの契機たる行為者の心態について一定の事実性認知と価値性評価を“確信的に”おこなうのが常態であり、認知・評価の内容を言表するのはむしろ特殊的場合にかぎられるにせよ、彼がどのように認知・評価したかの大凡(「おおよそ」のルビ)は、彼の反応(表情・態度・行動など)に縁って、行為者当人や第三者に察しがつく。行為者当人は、意識性を伴って行為するかぎり動機その他の心態を覚識してはいても、その心態をことさらに評価したりはしないのが普通である。がしかし、自分の行為が“心外な評価”を受けた(らしい)と“気がついた”場合、他人によるその評価が、(a)単に価値観(価値基準)の相違によるものなのか、それとも、(b)事実誤認に根差すものなのか、これを忖度(「そんたく」のルビ)する。そして、(a)であると念えば必ずしも諍(「あらが」のルビ)わないにせよ、(b)であると思えば“誤解”を解こうとして、つまり、相手の“事実認知上の誤り”を是正しようとして、しかるべき応対を試みるのが通例である。しかるに、相手側が“事実誤認”を“認めない”際には屢々争論になり、時としては第三者たちを交えての論判がおこなわれることになる。そこでは、事実認知に関してばかりでなく、価値評価の当否を堯(「めぐ」のルビ)っても論議される結果になりうる。(尤も、以上の過程は必ずしも言語的に表現されることなく、無言の“以心伝心”の形でも進捗しうる。)そして、第三者たちをも交えた三巴・四巴の対立のまま物別かれに終る場合もある。が、多くの場合、どちらかが自分の非を認め、共通の事実性判断、同一の価値性判断に至り着く。(行為者当人が一時の事故認定を“撤回”して、他者たちの判定を“受け容れる”場合も尠なくない)。そこにあっては、“客観的な判断”、当事関係者間で“普遍的(共通的)に妥当する価値判断”が関係者各自によって“認承”されたことになる次第だが、善良/邪悪の判定もそういう間主観的な(妥当性をもつ)判定の一斑に含まれうる。」471-2P
(対話C)「所与の実行所作を堯る認知・評価に関しても右と同趣の事態が出来する。が、動機心態の認知・評価を堯る対立の場合には、事が他にも増して人格の評価に深く関わるという点で重大でありながら、単に価値観の相異による評価の不一致だと“納得”されればそこで熄(「や」のルビ)むケースが多いのに対して、実行所作の評価を堯る対立の場合には、事実性認知の正誤よりも、むしろ価値性判定の当否に執着するかたちで争われがちであり、この点で動機心態を堯る際とは対照的である。――もう少し詳しく述べて対照性を鮮明にしておこう。動機心態の価値評価が相違・対立する場合、それがもっぱら価値観の相異に由るものと“判”れば、一般には“主観的価値観”の相異ということにされて、いずれの側の価値評価基準が妥当であるか、ひいては、いずれの側の価値体系が妥当であるか、そこまで踏み込んだ議論にならないのが通例である。唯、事実誤認にもとづいて(価値基準そのものは共通・同一の筈なのに)評価に相異が生じていると信じられる場合にほぼ限って、誤認の訂正によって事実認知を自他同一化し以って価値評定をも同一化しようという意図で、事実認知面に焦点を置いた争論が展開される。実行所作の価値性評価に関わる対立の場合でも価値性の種類如何では動機心情に関わる場合と同様であるが、事が規範適合性/違反性(正当性/不当性)に関わるケースでは、この価値性判定の当否そのことが対立の焦点になる。人々が、心態の認知とは違って、所作の認知は自他で通常は同一だと信じているせいもあって、ここで真先に疑われるのは、事実認知面ではなく、規準適用面での過失(「あやまり」のルビ)ではないかということである。――当事的行為者は、彼の行為(所作)が規範背馳的であるとの判定を受けたことが意外なとき、判定者の規準適用の仕方に過失(「あやまり」のルビ)があるのではないかと先ず疑い、その点の検討の構造内部的一契機として、所作に関する判定者側の事実認知の誤りを認めて抗議を撤回する場合、つまり、事実認知の合致と相即的に価値評価も合致する場合には、そこで一件落着する。しかるに、事実認知は合致しているにも拘らず価値評価・判定が相違する仕儀となっている場合には、評価・判定の規準が相違する所以となり、争点が規準そのものの妥当性(いずれの側の順拠規準が妥当であるか)に移る。(周到に論攷するさいには、この場面に限らず一般に、判定の仕方についての判定というメタ判定の在り方の討究を要するのだが、今茲では、“同一条文”を規準にしていてもそれの“解釈”“適用の仕方”が相違する場合には「規準が別異」ということにして簡略に処理し、メタ判定という問題は姑く棚上げとする。)規準が行為者と判定者たちとの間で三巴・四巴に相違したまま“神々の争い”が続く場合もある。が、“争い”を介して、「その場面での判定に“適用”されるべき規準(体系)」が収斂する場合もあり、その際には、収斂した当の規準(体系)が当事関係者たちの間での“普遍的[共通的]適用性を有つ規準”として、この規準に則った評価・判定が“正しい”“客観的な”評価・判定として罷り通ることになる。」472-3P
(対話D)「企投目的の価値的高低性に徴しての行為の正義性/不義性の評価・判定に関しても、右に実行所作の規範的適否性に徴しての行為の正当性/不当性の評価・判定に関して叙べた構制が全く同型的に当嵌る。――整序化された規範体系が既成的に存立するのと同様に位階化された価値体系が既成的存立するとされるかぎり、前段で叙べたところと全く同型の議論になるので重複的に綴り直す必要はあるまい。」473P
(対話E)「われわれは、以上で、善良/邪悪、正当/不当、正義/不義を堯る当事関係者たちの評価・判定の構制を縦観することを通じて、総じて、評価・判定の間主体的不一致が存続する(“神々の争い”の)余地が恒に残ること、不一致が解消し以って間主体的に一致する“客観的な”価値評価が可能となるのは、当事関係者たちの価値基準が収斂し間主体的に共通・単一の価値基準が存立する態勢の現成を俟ってのことであること、このことを見定める結果となった。」473-4P
(対話F)「しかしながら、原理的に言えば、規範体系や価値体系というものが既存的、客観的存立していて、人々がそれを斉(「ひと」のルビ)しく受納して価値基準にすると謂うのは(第一篇第一章第三節の行文中で予備的に見ておいた通り)一種の物象化的錯認であって、実は通用する(「ゲルテント」のルビ)価値評価・価値判断に俟って所謂“既存的・客観的な”規範体系や価値体系なるものが“成立”するのである。(所与の行為が当為遵奉感に“もとづく”善良な行為であるか、当為違反感“にもかかわらず”敢行された邪悪な行為であるか、これを“終局的に”決するのも通用的価値評価である。)」474P
(対話G)「当事関係者たちは「客観的に存立する価値(体系)との合致・不合致に応じて価値評価・価値判定・価値判断の正否が別かれる」という思念を懐いているのが現実であるとしても、認識論的に分析すれば、価値評価・価値判定・価値判断の通用性・妥当性の方が基抵なのである。――今やこの間の事情を見極める運びとしよう。」474P
第八段落――価値評価・価値判断の間主体的=共同主観的な妥当性と相即する「価値評価主観一般・価値判断主体一般」という構造的契機に焦点を絞って暫定的論決を図る 474-82P
(対話@)「価値評価・価値判断という意識性活動は、謂うまでもなく生身の人物主体がおこなうものであって、認識論的主観とやらが(どこかに超在していて、それが)実行するという態(「てい」のルビ)のものではない。が、判断・評価の能知主体(いわゆる意識主観)が、「レアール−イデアール」な「能知者誰某−能識者或者」という二肢的二重性の構制を“具(「そな」のルビ)えて”いること、翻って亦、判断・評価の所知的対境の側も、これまた「レアール−イデアール」な「実在的所与−意義的所識」という二肢的二重性の構制で“成って”いることこの総じて四肢的な構造の構制が茲にあらためて対自化されねばならない。――尤も、四肢的構造の存在論的・認識論的構制プロパーについて既に第一巻で論究し、本巻の前篇において「用在的世界」の四肢構造を嚮に見ておいたので、詳しくはそこでの所論の想起・参照に委ね、復唱は最小限度に抑えるべきであろう。――茲では就中、価値評価・価値判断の間主体的=共同主観的な妥当性と相即する「価値評価主観一般・価値判断主体一般」(これは、前篇第三章の論脈内で見ておいた通り、認識論上のいわゆる「判断主観一般」とも不二である)という構造的契機に焦点を絞って暫定的論決を図り度いと念う。」474-5P
(対話A)「価値性認識は、(a)直覚的価値性評価、(b)照会的価値性判定、(c)判断的価値性認定、の三相に分けて論じることができる。――これらは第一巻で論じた事実性認識における(α)感性的直接知覚、(β)知覚現場的判断、(γ)概念思考的判断と、直截に対応するわけではないが、連想的に思い泛かべて頂けると好便かもしれない。認識論的に掘り下げれば、(α)、(β)、(γ)の本質的構造が同一であるのと同様、(a)、(b)、(c)の本質的構造は同一である。三つの相は心理的現識相の相違であって、第三者的・反省的に分析してみれば(b)や(c)の介在した筈のものが当事意識においては(a)の相で現識されている、等々の、ケースがありうる。――(a)は、単項的感知の相で覚知されるものも複項的対比の相で覚知されるものもあるが、ともあれ直証的である。(b)は照会的価値基準に照らして(適合的か/不適合的か)の判定、 (c)は価値的命題的事態(「主語−価値性述語」成態)を対境としての判断にほかならない。価値性認識の構制を具体的に分析する際には、(a)、(b)、(c)を分けて論ずる必要も生じるが、以下ではこの区別を念頭に納めつつも、むしろ一括的・一般的に述べることで次善とする。」475P
(対話B)「大々の認識、わけても価値性認識は、同じ与件についてであっても、文化共同体に応じて極端に相違しうる。或る文化圏では七色に見られる虹(「にじ」のルビ)が別の文化圏では五色にしか見て取られないとか、或る文化圏では非常に好まれる香が別の文化圏では嫌悪されるとか、その相違たるや“感性的低位層”にまで及ぶ。ところが、同一文化共同体の内部では、なるほど此処にも個人的差異があって、全く均質的に一様というわけでこそないが、同じ与件についての人々の事実性認知・価値性評価が収斂して斉同的になる“傾向性”が見られる。人々の認識が価値性認識をも含めて、主体相互間で相互主観的に影響され、以って、各人は“他人(「ひと」のルビ)様たちと同じように見、聞き……感じ……思う”ように“自己形成”する結果そうなるのに違いない。尤も、相互主体的な影響とは言っても、文化共同体間での相違を思い併せるとき、共同体の内部域と外部域とでは、人々の相互的影響の在り方が(認識論的な機構としては単一的・共通的でも)具象的内実において相違し、認識主体として“自己形成”の結果が異相になるのだと考えられる。(精確には、文化共同体なるものが先在していてそこで人々の価値性認識の斉同化が生じるのではなくて、人々の価値性認識が斉同的になっているような範域を一つの文化共同体という名で括るのであるから、右での立言は顚倒した形になっている。しかし、新世代にとっては“既成的文化共同体”が“先与”的枠組みをなすことでもあり、原理的に溯れば顚倒であることを自覚しつつも、先の立言方式で押し通すことにしたい。)」475-6P
(対話C)「文化共同体と一口に括っても、截り方の如何によって広狭さまざまに分劃(ぶんかく)可能であり、錯構造を呈しうる。が、今ここでは先に(四五九頁)“一定の時と所”という曖昧な表現で運んだ議論をそのまま承ける形で暫く事に当たることにしよう。そして、共同体毎の相違がなぜいかにして生じるかという方面(この論件は、その一端については次篇で触れることになるが、本格的には次巻第二篇を待って頂かねばならない)は事実上棚上げとして、茲では共同体内部での斉同かの構制に限って(つまり、実質性をもった具象的な歴史的分析ではなく、価値性認識の構図の対自化として)暫定的に陳べておきたいと念う。」476P
(対話D)「偖、価値性認識は、直覚的評価であってさえ、対象的に独立自存する客観的な価値とやらを模写的・受容的に観取するという仕方のものではない。――このことは、認識論上の正規の議論を持出さずとも、あの文化的共同体に応じた相違からも判る。すなわち、人種的に同一で、認識の生理的機構は同型と見做されうる人々であっても、彼らが別々の文化共同体に属する場合には、与件が同一であるにもかかわらず、それについての価値性認識が極端に相違しうるという事実は、価値性認識がとうてい模写的受納といった在り方のものではないことを物語る。――さりとてまた、価値は主観的感情とやらでもない。このことは第一篇において縷説したので復唱は罷める。価値性認識の所識は、実践的な「関心的態度性」に見合うものであって、但し、この関心的態度性が体感といった様態で感受されるのではなく、“内なる与件”であれ“外なる与件”であれ、一種の与件的性質の相に物性化されて“感知”される。この間の事情についても第一篇で詳説しておいたので再論は不要であろう。――事実性与件(といっても、これは既に「現相的所与−意味的所識」の二肢的成態であり、より原理的に言えば、端的に没価値的な純粋意味所識などというものは現実には存在せず、事実的意味的所識なるものは価値性を捨象することにおいて措定されたものにほかならないのだが)は同一と見做せる場合でさえ、価値性認識が文化共同体毎に相違しうるという事態を記述・説明するためには、溯っては、同一の事実性与件に関する価値性認識が個々人で相違しうるという事態を記述・説明し、且つ併せて、価値性認識の間主体的な同調化・斉同かが成立しうる機制を記述・説明するためには、「質料−形式」という図式に仮托するのが便利である。われわれは、第一篇において既に、一旦この仮托の線でイラストレイトしたうえでそれを止揚したのであるから、今茲であらためて止揚済みの図式に仮托するのも憚られる。が、価値性認識の間主体的通用性・妥当性の認識論上の構制を明示的論じるためには当の仮托が至便であるので、仮托的立言を復た姑く許して頂きたい。」476-7P
(対話E)「価値性認識の一つ一つは、「質料−形式」という図式に仮托して言えば、「実在的与件」という“質料”を「意義的価値」という“認識形式”で把えること(従前の認識論に謂うKonstruktion (構成、構造)ないしまたhingelten lassen (向妥当性?))で以って成立する。但し、当の“認識(論的)形式”は、アプリオリに同型的な既成相で各々の認識主体に具有されているのではなく、アポステリオリに、しかも間主体的な影響を通じて、同型化的に“形成”されて行く。ここに、同型的な“認識形式”(同型化的に形成された認識形式)を“保有”すると見做されるイデアールな認識主観を“認識論的主観”(超越論的主観、などとも呼ばれてきた)と謂うことにすれば、生身の各主体が“認識論的主観”として認識機能する限りでは、各主体のおこなう価値性認識は斉同化する、という構図になる。如上の仮托的な議論上の構図は、第一巻このかた馴染のものであるから、敷衍は要すまい。――問題は、間主体的影響を通じて同型化的に形成される機制、および、その機制そのものはどの共同体においても斉同的であると考えられるにせよ、結果的・現実的に形成される同型的認識形式なるものが共同体毎に相違する機序、これに懸っている。これを究明するにあたっては、日常的生活の在り方が共同体毎に類同的であることを暫定的与件としうるにしても、溯ってはそれの舞台的・道具的な“自然的”条件から問題にし、技術的その他の伝習的・伝統的な文化的諸条件の形成を配視し、その都度の各世代が“先行世代との協働”をも構造内的契機としつつ協働的生活実践を営なむ場で日常的にアンガージェするコミュニケーションやサンクション(表情性反応・嗤いなどを含む広義のサンクション)などを通じて即応的に同調化して行く次第を審(つまび)らかにする必要がある。が、それはまさに人倫的世界の構造的・歴史的研究という一大課題であり、次篇および次巻第二篇でその一斑に応える予定ではあっても、今茲で立入るべくもない。――爰では、先の仮托的構図に見合う相に、所与文化共同体内部の人々が事実問題として“自己形成”を遂げる“傾向性”が現に実証的に認められるということ、これを記銘して議論を一旦先に進めておき、後に立帰って、必要な論点を確認する次序としよう。」477-8P
(対話F)「価値性認識の当事主体たちが同型的な“認識形式”を“形成・保有”し、以って、同じ与件については同じ価値性認識を懐くように“自己形成”を遂げていると描出される事態は平たく言ってしまえば、人々が“他人(「ひと」のルビ)様たちと同じように感じ、思い……判定し……態度を執る”ように成っている事態にほかならず、そこでは「<ヒト>の価値判定」が、従って亦「<ヒト>の価値判定と合致する判定」が“正しい価値判定”(それに反する判定が“誤った価値判定”)とされる所以になる。――尤も、現実には人々は常に必ず「<ヒト>の価値基準や価値判定」を受納するわけでなく、それを卻けようとする場合があり、故にこそあの“神々の争い”をも生じうる次第であるが、このケースについてはすぐあとで検討することにして、差当っては、それが受容されている際の構成を分析しておく段である。「<ヒト>の価値基準・価値判定」と謂うが、<ヒト>とは誰のことであるか? 人々は屢々それを<万人(「ヒト」のルビ)>と呼ぶが、聊か反省すれば、それが文字通りの「万人(全ての人)」でないことを自覚できる。身近かな(自分の属する共同体内の)人物であっても<ヒト>と価値基準をすら共有しない者が往々あり、共同体外部の人間には愈々そういう者が多くあることを人々は知っている。依ってそれは、現に居る「万人(「ヒト」のルビ)」の謂いではない。では、万人(全ての人)でこそないが、多数者の謂いであるのか? 現実の問題としては、なるほど、人々が「<ヒト>の価値基準・価値判定」に同調している(と思念している)際、匿名者たちではあれ“多数者”に同調している場合が多いことであろう。その限りでは、謂う所の<ヒト>は、さしあたり“共同体内の多数者”がイデアリジーレンされたものと言うことができる。事実問題上の構成としては、ひとまず、略々これに尽きる。“認識形式”の同型化的形成・保有とか“認識論的主観”としての自己形成とか、大仰(おおぎょう)なことを言っても、現実に見出されるのは、大略のところ、右に謂う“多数者”との同調性・斉同性という埓を幾何(「いくばく」のルビ)も出ない。」478-9P
(対話G)「しかしながら、若し単に右の処で事が済むのであれば、人々は時として自他の価値認識が相違することを確認して物別れになることはあっても“神々の争い”という事態は生じない筈である。しかるに現実に“神々の争い”という事態が出来する。その際の構制は如何? 争論者たちは、決して単に「自分はこう思う」といって主観的な妥当性表明し合うのではなく、各々自分の認識の“客観的妥当性”“普遍的妥当性”を主張し合うのである。これは、先に謂う「<ヒト>の価値基準・価値判定」に自分の基準・判定こそが合致していると主張し合っている所以であって、各自が“認識論的主観”を自称しつつ争っている所以ともなる。――なるほど、それは、さしあたりは、あの“多数者”の基準や判定と自分のそれとが合致しているという信念を各自が表明し合っているに“すぎない”かもしれない。が、認識論的には、それ以上の含みを有つ。“多数者”とはいっても、それはいずれにせよ匿名的であり、現実に頭数を数えての多数者ではなく、<ヒト>である。この<ヒト>たるや現実の「世人(「ヒト」のルビ)」ではなく、謂うなれば「あるべき<ヒト>」、より反省的に言えば「あるべき(とこの自分が信じている在り方での)ヒト」の謂いとなる。以って、争論者たちは各々「あるべき<ヒト>」の立場を自称しつつ“争って”いる次第なのである。この「べき」を支える価値は、当座の争論の拠所となっている価値基準より高位の価値であると言えよう。」479-80P
(対話H)「価値認識を堯る争論が物別れに終るにせよ決着するにせよ、いずれの場合においても「あるべき<ヒト>」の下す価値認識こそが、依って亦(生身の主体の懐く価値性認識のうち)それと合致する価値性認識こそが「正しい価値性認識」(“客観的妥当性”を有つ価値性認識、“普遍妥当性”を有つ価値性認識)であるものとされている。茲に謂う所の「あるべき<ヒト>にとっての価値性認識」とは、上来の論脈から闡(あき)らかな通り、結局は「間主体的に(共通・単一・同一)妥当する価値性認識」にほかならず、実際問題として「間主体的に共通・単一・同一な価値性認識」が存立しているかどうかは、先に見たあの間主体的同調性・斉同性が事実問題として成立しているかどうかに懸る。――是を以って之を見るに、事実問題上の構制としてはそれに尽きる旨を上述しておいたところが茲でも維持される。とはいえ、争論が決着を見るに至る際には、同じく間主体的同調性・斉同性の形成と言っても、次元的進展・再構造化が現成する場合がありうる。」480P
(小さなポイントの但し書き)「この点について若干敷衍しておこう。争論の決着には、――単純な認知面で、ないしはまた、元々共有していた基準の適用面で、一方が自分の非を認めるといったケースもあるが――、(1)争論の拠って立っていた二つの価値基準のうち一方が棄却される場合、(2)二つの価値基準が修訂されることで“改善された”共通・単一の価値基準が確立される場合、(3)二つの価値基準が高下に位置づけられる場合、がある。/(1)にも、全くの主観的“基準”にすぎなかったと自認するケース、世間ではそれなりに通用している基準だが、最早それを採らない立場に変ずるケースなど色々ありうるが、これには立入るを要しないと念う。(2)も、規範的な規則に“穴”があったり、“不整合”があったりしたために生じていた争論が“規則改正”によって決着をみるといった単純な場合だけでなく、まさにそれを通じて社会文化的価値体系が“整備され”“向上して行く”歴史的に重要なケースを含むが、ここでは立入らない。/今ここに多少とも敷衍しておきたいのは(3)の場合に即してである。照会的価値性判定をめぐる争論は、単位“共同体”の内部でも、とりわけ、目的価値性や範型的亀鑑が照会基準である場合などには、日常不断に生じうる。そして、これの決着の積み重ねを通じて“共同体”内部における“分子的価値体系”とも謂うべきものの錯構造体が位階的に整備されて行くのであって、重要である。が、ここでは、先刻来“単位共同体”とか“一定の時と所”とかいう曖昧な規定のまま論じてきた不備の一斑なりとも解消する含みもあって“共同体”なるものの編成・再編成に関わるようなケースを問題にしておく段である。/人は実生活において唯一つの“共同体”だけに内属して暮らしているわけでなく、フェア・ウンスに見れば必ず複数の“共同体”に多重的に内属している。それには、所与“共同体”が“上位共同体”に“入れ子”型に“包み込ま”れているために、一定所与“共同体”に内属することでおのずと“上位共同体”にも“二重籍的に”内属することになる、というような単純なケースもある。がしかし、一定の“自然共同体”に“生まれつき内属”しているほかに、それに加えて“任意加入性の共同体”にも内属していて、しかしそれら両つの“共同体”は“入れ子”型にはなっていず、部分的には“外(「は」のルビ)み出す”布置になっている場合もある。さらにまた、双つの“自然共同体”が局部的に“交わる”部位に内属し、以って“二重加盟”的な在り方になっているケース等々もある。このような二重的(ひいては多重的)な内属の構造になっているために、さしあたり“同一共同体”に共属する者どうしの争論(価値性認識をめぐる相異・対立)であるとは言い条(「ながら」のルビ)、第三者的・反省的見地に立ってみれば、実際は“別々の共同体”(註) の価値基準に夫々が拠っている場合が現にありうる。争論者たちがそのことに気付いたからといって争論が熄(「や」のルビ)むとは限らない。しかし争論者たちは、相手が単純な錯誤を犯しているのではないこと、相手の拠っている価値基準からすれば相手の認定は一応“正しい”のだということ、これを諒解しうる。そして、それに加えてもし、双つの価値基準が「上位−下位」に位置づけられ、共に上位基準に則る次第となれば、その際には、再構造化が進捗した次元において間主体的同調性・斉同性が形成される所以となる。/――右では“共同体”なる概念を依然として曖昧なままに用いており、従って亦、“共同体”どうしの関係についても曖昧なままであるが、この欠は次篇の論脈内で埋める予定であるので、姑く猶予を頂きたい。概念規定上は曖昧であっても、当事者たちが“双つの共同体”に属しつつ“交わり”を形成する場合、両“共同体”成員間での同調化・斉同化の可能性がありうること(事実問題として間共同体的には相違が残り易く、斉同化が困難であることは免れないにせよ、再構造化の可能的構制は存立すること)、このことまでは読み取って頂けたものと念う。尚、無用の誤解を防遏する含みで、次篇での論点の一端を先取りして記しておけば、「上位−下位」への位置づけということは、両つの“共同体”の「全体−部分」という規模や成員包摂の関係ではなく、あくまで価値的高低性の位階づけである。(大規模共同体より高位に置かれる傾向性が事実問題として見られるにせよ、それは決して一義必然的ではない。)」480-2P
(註) 受けの”がないので、ここに挿入、もしくは‘価値基準’の後。
第九段落――“客観的”“普遍的”妥当性=間主体的(共通的・単一的・同一的)妥当性 482-4P
(対話@)「価値性認識のいわゆる“客観的”“普遍的”妥当性とは、所詮は間主体的(共通的・単一的・同一的)妥当性の謂いである。事実問題としては、先に見たように、当事主体が「あるべき<ヒト>にとっての妥当性」を「あるべき<ヒト>」を“自称”しつつ主張するという構制に帰趨する。(直覚的価値性評価であれ、照会的価値性判定であれ、判断的価値性認定であれ、これらに関わる各種メタ判定であれ、この構制の埓を出ることはない。)当の“自称”が単なる私念的な僭称にすぎないか、一定の“客観性”“普遍性”を有つか、この“権利問題”は、何と当該の価値性認識に関して、間主体的“同調性”“斉同性”が事実問題として現に成立しているか否かに徴して、その都度、反省的・対自的裁断されるのほかない。ここに謂う反省的・対自的な裁断、つまり、学知的ヴィア(われわれ)の省察的裁断なるものも“自称”の構制を免れない。」482-3P
(対話A)「茲に、われわれは、価値性認識に関して超越的絶対主義を“断念”して一種の“相対主義”(歴史的・社会的“相対主義”)をひとまず採ることになる。(第一巻で見たように、事実認識に関しても同様である。)だが、われわれは、事実問題として、一定の歴史的・社会的“共同体”の内部においては、間主体的な同調性・斉同性が相応に成立していること、そこには間主体的に「通用性(geltent)」な価値体系(価値性認識の体系)が存立していること、この現実に定位する。」483P
(対話B)「われわれは、しかし、「通用的」価値体系が存立するという事実を追認して価値相対主義で熄む者ではありえない。「通用的」な価値(価値認識)を認識し得ず、追認に自足し得ない限り「通用的価値」に異を唱え、「妥当的(gültig)価値」を別に主張する。(「通用的」と「妥当的」との区別と連関については、第一巻第二篇第三章第三節と併せて『新哲学入門』二一五頁以下を参看されたい。)妥当的価値の主張は、当面、間主体的な普遍性を有たぬ以上、「通用的価値」を執る立場からは少数異端的主張として遇せられる。だが、それは自己の主張する価値を間主体的に斉同的な価値たらしむべく志向し、それを「通用的価値」たらしめることを実践的に追求する。この実践的追求は、単なる理論闘争・単なる思想闘争ではなく、「通用的価値」を間主体的に成立せしめる所以の現実的・事実的な歴史的・社会的な体制の革命的変革を追求するものとなる。――この革命的実践、すなわち、既成的・通用的価値体系とそれを支える社会制度的体制の変革を志向する実践を定礎するためにも、今や篇を新たにして「制度的世界の存立構制」の討究に移る次第である。」483-4P
(対話C)「本節の行文を通じて闡(あき)らかな通り、著者としては、人倫的諸価値のうち「正義」を以って最高位に据える。しかるに「形式的・構図的に言えば、価値的により高い目的の達成とより低い目的の達成とが撰択的に可能な場面において、より高い(その極が最高)目的の達成を期す行為は正義的行為であり、より低い目的の達成しか期さない行為は(この“より低い”目的なるものが、それ自身としては大きな正価値、相応に高い価値であってさえ)不義的行為である」(四五四頁参照)。このさい、謂う所の「達成可能性」なるものは、「通用的」判断においては屢々“達成不可能”“夢想的高望み”とされがちである。それゆえ、それが「達成可能」であること、「達成可能な高い価値」であること、このことを現示し、以ってそれの達成が「正義的行為」であることを証示するためにも、実践的・現実的にそれを達成してみせることが要件となること往々である。――本節ではたかだか「正義」の形式的規定とそれの妥当条件の形式的構図を陳べたに留まり、最高価値の内実とそれの実質的完現を呈示・描出するには至っていない。これを図るには、「文化的世界の存在構造」の討究(第三巻)を通じて価値体系を整序する作業を要するが、次篇における「制度的世界」の検覈はその一前梯となる筈である。」484P
2026年05月16日
2026年04月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(18)
たわしの読書メモ・・ブログ726[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(18)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
第二節 規矩形成と規則随順
(この節の問題設定−長い標題)「能為的主体の行為は、実在的な現与的諸条件によって制約されているばかりでなく、“既成的”な諸価値、とりわけ規矩によっても拘束されており、規則随順的な相を呈する。(この規矩的拘束性・規則随順性が、所与の場面において現出するであろう行動相の予料をも蓋然的にする。) ――規矩的規則は、当事者にとって既存していて拘束力を及ぼす或るものの相で覚識されるにしても、必ずしも明晰判明に識られているわけではない。当事者は、規矩的規則体系を明晰判明には識らないにもかかわらず、自他の行動が規矩的規則に適っているか否かを判定でき、規則に適った仕方で身を処すことができる。――規矩・規則は現実的行為に先立って既在するもののように(物象化されて)覚識されようとも、その実態においては、当事主体が一定の在り方で行為する都度に生産・再生産される。」416P
第一段落――規矩的規制への随順性を論件とし、規矩・規範なるものの成立機序の確認を課題にする 417P
(対話@)「われわれが前節において一端にまで説き及んだ行為の“合法則性(Gesetzmäßigkeit)”を周到に論じるためには、場面的情況や道具的諸条件、等々、舞台的な環境による行動の制約性を全面的に配視しつつ討究し、しかも、人格的特性・個性的特徴を有った能為的主体毎の個別的“合法則性”をも論件としなければならないであろう。がしかし、実践的世界の存在構造を主題とする本巻においては、そこまで立入って詳論することは課題外である。――尤も、制度化された舞台的環境による行動制約性、そのことに因る行為的動態の“合法則性”という次元については次篇の論脈内で必要最低限の論攷はおこなう予定である。亦、能為的主体の人格的特性・個性的特徴に応じた行動の個別的具体的“合法則性”という問題については、原理的には已に前篇第三章第二節で叙べたように、抑々、人格的特性・個体的特徴なるものは現与の斯々の条件下で然々の行動相を現出せしめる個人別的な特個性・傾向性に即して“構成的”に措定されるものにほかならないのだが、当事者たちの物象化された日常的覚識においてはそれが逆倒している限りで(つまり、斯々の人格的特性の持主であるが故に然々の行為を出来せしめる筈という期待・予料が“因果法則的に”おこなわれ、その予料が“適中する”という貌をとる限りで)、この現相をもわれわれは次篇の論脈内で配視することになろう。――」417P
(対話A)「茲では、場面的・道具的その他の実在的な制約条件に関しては、それらが規矩的・規則的な拘束の存在条件を成している限りでは勘考しつつも、主題的には括弧内に納め、主眼的には専ら規矩的規制への随順性を論件とし、行為の規則随順の成立場面に溯って発生論的な議論をも或る程度は試みたうえで、規則随順の存立構制の分析、延いては、規矩・規範なるものの成立機序の確認、このたぐいの課題に応えておきたいと念う。」417P
第二段落――発生論的な議論を聊か挿む 418-21P
(対話@)「われわれは前章第三節の論脈内において、一見過分とも思える紙幅を割いて、対抗的即応・模倣的協応という行動発達論上の階梯に留目したのであった。本書では、勿論、行動の発生・発達を詳しく跡づけることは論域外であるが、行為の存在構造を検討するうえで、われわれは行為の形成機序について一定の基礎知識を保有していることが必要でもあり行論上好便でもある。その限りで、前章第三節における発達論的論議を承ける形で、爰で発生論的な議論を聊か挿む作業から始めよう。」418P
(対話A)「惟えば、人間の行動というものは、環境的状況の制約条件下で物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうち、極く限られたものしか現実には発現しない。意図的意識性を伴った行動ともなれば、物理的制約条件が“許容”する行動形態のうち極く極く限られた範囲に納っているのが現実であることが聊か省察してみれば容易に認められよう。では、物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうちの、極く限られた範囲内に現実の行動を“押込める”機制は如何? そこには、おそらく一種の学習(とはいっても、明瞭な意識性を伴うことなき条件反射的“学習”をも含む)にもとづく行動の限定化、つまり、当人は十全にそのことを意識していないとしても試行錯誤を通じて“学び”“体得”した“目的合理的”行動への限定化(“錯誤的”行動様態の“抑制”的消失)の機制も確かに作(「はた」のルビ)らいていることであろう。がしかし、全てが試行錯誤に因るのではなく、或る種の行動は物理的には可能な筈でありながら、そもそも試行されさえもしないのではないか。つまり、試行をすら現成させないような非物理的制約が機能しているのではないか、と想われる。」418P
(対話B)「意図的・企投的な行為の場合には、設定される目標からして、それが期待の察知にもとづくものであれ、いわゆる自発的な企投によるものであれ、世界事象の可能的多肢多様性に比べるとき、極めて限定された埓内にある。人は、なるほど、幻想的目標を立てることも可能であるが、人間の構想力・想像力(「アインビルドゥングスクラフト」のルビ)は悲しむべくも貧弱である。況してや当座の実現を図る現実的目標設定ともなれば、フェア・ウンスには固(「もと」のルビ)よりフェア・エスにも、諸々の制約条件の故に、論理的・物理的な可能域の極く極く狭い範囲内に局定化されている。が、今茲では、この目標設定の限局はさておいて、設定された目標を実現する可能的諸方式に鑑みての、手段的な行動様式の限定性に留目することにしよう。――設定された目標的終局状景へと帰入する手段的行動の進捗過程、この実行様態は、様式的にみるとき、物理的に可能な筈の各種様態のうち、かなり限定された範囲内に納まる。このさい、手段的行動様式が目標そのものによって制限されること当然として、遂行的行為が舞台的条件や道具的条件によって制約され、この制約が行動の具体相にまで及びうることも、殊更に絮言せずに議論を進めうるであろう。また、行動の種類や様式が行動主体の身体構造や生理的機能によって大いに制約されていること、この制約がこれはこれでまた道具的使用の在り方なども制限すること、このことも今茲では銘記しておくだけで足る。如上諸々の制約条件が在るとはいえ、手段的行動の具体的な実行様式にはまだまだ相当の“自由度”がありうる。それにもかかわらず、実際に遂行される行動の様式は、概して狭い枠組内に“押込め”られている看があり、しかも様式的に固定化される傾動を呈する。それでは一体、この様式的限定化・固定化の由って来たるところは奈辺に存するのであるか?」418-9P
(対話C)「発生論的には、基礎的な一機制として、いわゆる「模倣学習」の機制が慥かに勘案されねばなるまい。――前記の通り、われわれはいわゆる試行錯誤の機制を忘失する者ではない。嬰児がよちよち歩きを始めると色々な物に手当り次第に作(「はた」のルビ)らきかけてみること、それはさながらどうすればどうなるかを調べてみていいる風情であり、これを通じて物に作らきかけたさいのディスポジショナルな展相の予料が“確立”していくこと、このことが銘記されねばならない。嬰児は、物を押してみたり、引いてみたり、摑んで投げてみたり、様々な探索行をおこなう。大人の眼から見れば、それはしばしば破壊的であって、障子を破ったり、花弁を毟ったり、紙を引裂いたり、それなりに積極的な働きかけである。が、このような独創的な試行のほかに、嬰児は早期から、いわゆる観察的学習・模倣的学習を積んでいる。――嬰児は早期から大人の行動をじっと観察していて、記憶しているお手本に倣って一種の模倣的な行動をあれこれと実行してみる。(観察的模倣が可能になるのは、あのg男が他人がレモンを舐める行動と自分が舐める行動とを“同一視”できる機制、一般化して言えば、他身と自身との“一体化的同一視”の機制があってのことである。が、この件については、前篇第二章第一節の想起を求めるに留め、ここでは立入らない。)中沢和子氏の観察報告を援用して誌せば、嬰児たちは、例えば、鏡台の抽出を引き開けて、口紅を取出して塗ってみる。顔中真赤にしてしまうのは手許が狂った結果であって、あくまで口唇に塗ろうと努めているとこことである。もう一例だけ引いておこう。嬰児はナイフを持とうものならすぐ取上げられてしまうが、偶々大人の目を盗んで果物ナイフを扱った幸運児は、リンゴを選んで切りつけていて、側にあったミカンや、況んや他の諸々の物には切りつけていなかった由である。(『イメージの誕生』日本放送出版協会、一九七九年刊、四〇頁以下参照。)嬰児は、このような“模倣的”試行をやってみるが、そこで前提的に意識にのぼっている「ああすればこうなる」物、「しかじかするための」物という認知は、他人(大人や兄姉)の特種化された用具的使用の目撃・模倣の埓内にあり、その結果、年長者における用具性認知と同型的な相になっている次第である。(嬰児は、創発的に、エンピツやクレヨンで壁に書いてみたり、口紅で畳に描いてみたり、新規の用途を“開発”したり“発見”したりもする。さらにはまた、後述の「見立て」によって、同じ一本の棒を、或る時には剣に見立て、或る時には銃に見立て、或る時には旗竿に見立てる、というように様々な“用途性”を“発見”しうる。がしかし、用具性と呼べるほどの用途性の原初的な認知は、目撃・模倣的試行によって枠づけられ、成人社会における既成的な用途性、既成的なum-zu連関 (用途制性連関)への組込みと同型的になっているむきが強い。われわれは原初的な場面におけるこの事実を念頭に置いて掛かる必要があろう。)」419-20P
(対話D)「行動の様式化・固定化をもたらすのは、勿論、模倣的学習ばかりではない。対抗的即応において既に行為の様式化・固定化の傾動が生ずる。」421P
(対話E)「惟えば、役割演技は、初次的には概して、対向的な当事他者との共互的・共軛的な行動であり、当事他者の協応的行動様式によって共軛的に規制される。その際の相手の呼応的行動の様式が既成的に固定化しているとすれば、それに協応する共軛的な当方の行動様式も、協応的アンガージュマンがおこなわれるかぎり、おのずと、一定の様式化・固定化を生ずる道理である。」421P
(対話F)「右の立言には、しかし、二つの前件がある。第一には、対向する当事他者の行動様式が既成的に固定化された相に形成されているということ、第二には、自分の側が相手主導の協応にアンガージュするということ、これら二つの前件がそれである。――第一の件は、相手がその行動様式を独創的に編み出したのではなく、彼自身それを別の先行的他者との協応を通じて習得したのだとすれば、順次に溯向すべき所以となり、当の行動様式の歴史的起源という問題をも射程に引入れずにはおかない。第二の件は、自分の側が相手に一方的に“合わせる”必然性はないのであるから、もし事実の問題として、多くの場合に相手に合わせるのが蓋然的であるとすれば、それも当の行動様式を身につける階梯においてとりわけ蓋然的であるとすれば、行動発達論上の初期的な階梯に止目することを要請する。――第一の案件を解く鍵も実は第二の案件に懸っている。けだし、当座の議論の進め方として、対向的当事者の主導下に乳幼児が役割演技の様式を体得して行く場面にまずは留目する所以である。」421P
第三段落――「随意的行動」の様式性について論ずるに模倣的行動を手始めにする 421-8P
(対話@)「嬰児は、あらためて言うまでもなく、いわゆる「生得的解発機構」を基礎にした無条件反応を体現し、各種の条件反応を身につけて行くが、やがて意識性を伴って信号的送受・対抗的即応・模倣的共応をおこなうようになる。――無条件反射行動は勿論のこと単純な条件反射的行動も、まさに生理身体的機構に負うて、行動様式の固定性・一定性を呈する。これらの反射的行動においては、加之、第三者的見地から看取するかぎり、即自的なコード性を認めることができる。特定刺激と特定反応行動とのあいだに一対一的な対応性があり、しかもその特定刺激が他種の刺激と示差的に区別される相にあり、亦、当該の特定反応行動が他種の反応行動と示差的に区別される相にあって、これら双方の示差的区別体系が存立している。このことに鑑みて、刺激と反応行動とのあいだに、コード性(U・エコーの謂う「Sコード」性)が認められると言う次第なのである。――いわゆる随意運動の場合には、単純な反射的行動の場合のようには、話が簡単に運ばない。とはいえ、随意運動と呼ばれるものも総じては結局のところ複雑な条件反応にほかならないかもしれないという大問題は姑く棚上げするとしても、初等的な随意運動はいずれにせよ意識性を“随伴”せる条件反応という域をいくばくも出ないことまでは認められよう。とすれば、そのたぐいの行動の様式に関しても、条件反応なるが故の様式的一定性・固定性を云々することを許されるかと思う。尤も、如上は前梯的確認事項にすぎない。」421-2P
(対話A)「苟くも、所謂「随意的行動」の様式性について論ずるからには、模倣的行動を手始めにするのが順路というものであろう。」422P
(対話B)「模倣的に調整される動作は、イナイイナイバーの如きであれ、遣り取りの如きであれ、発語・発話の如きであれ、――これらがそれ自体、一種の条件づけに因るものかどうかは今問わぬことにして――それがまさに模倣の手本(「フォルビルト」のルビ)という固定化された様式の既成型と同型化するように自身の行動様式を調整するものである以上、模倣的調整を通じて体得される行動形態は所定の様式的な固定化を蒙ることになる。(尤も、嬰児の側は、模倣しない“自由”、すなわち、模倣的追従そのことを“拒む”ないし、独創的な変様方式でのみ応ずる“自由”を“有つ”のであるから、そもそも模倣的追従・模倣的同調が蓋然的に生起する機制が問い返されねばならない。これは規則的随順性、溯っては、規則の成立と存立の機制との関連においても積極的な論点となるべきものである。――が、この件については姑く脇に置いて、模倣的な行動の進捗を一歩先まで追っておこう。) 」422-3P
(対話C)「行動発達論上、役割行動論的に観て重大なステップとして「ゴッコ遊ビ」と総称される模倣的で且つ当事者相互間の共互的な役割演技によって編制されている幼児期の行動がある。ママゴト、オ医者サンゴッコ、学校ゴッコ、戦争ゴッコ、などのたぐいがそれである。――ゴッコ遊ビは、大人の行動編制態のミニアチュアであると目されるかぎり、慥かに大人の行動の模倣ではあるが、しかし、幼児たちは直接に大人の行動を真似るわけではない。幼児達は自分自身の目撃したことのある大人の行動を参考的に取入れて演技しはする。が、ゴッコ遊ビという“劇”は子供の世界内でそれなりに既成化していて、子供の世界内で伝承されるのであって、子供たちは伝承された劇を演ずるというのがむしろ実態に近い。その点では、童歌(「わらべうた」のルビ)とか毬(「まり」のルビ)ツキとか、綾取りとか、縄跳ビとか、このたぐいの伝承的な行動様式の編制態と同趣なのである。従って、模倣を云々するにしても手本となるのは主として先輩の演技である。ママゴトやオ人形サンゴッコなどにあっては、自分で直接に目撃したことのある大人の行動が大いに参酌されることも確かであり、その都度の“新作劇”の趣きが強いことも認められるが、一人遊ビや並行遊ビの域を脱するや、“伝承劇”の型に嵌った相になるのが普通であろう。――幼児が大人の実生活行動様式をも参酌しつつ、先輩の演技的行動様式に自身の行動様式を模倣的に同型化するゴッコ遊ビを通じて、一般化して言えば、遊び仲間の行動様式に同化して行くことを通じて、行動様式の一定性・固定性を体現するようになること、このことをそれ自体については最早喋々するは及ぶまい。ここで特筆しておきたいのは、ゴッコ遊ビの階梯が自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順的行動の端緒、ないしは尠なくともそれの直截的な前梯をなすという事情である。」423P
(対話D)「ゴッコ遊ビは、行動の発達上(従って亦、その構造内的契機を成す認知の発達上)種々の観点から言って極めて重要であるが、自覚的な規則随順的行動の形成を視軸にする茲では、取敢えず次の三点を銘記すれば足ろう。」424P
(対話E−第一)「第一に「見立て」という契機である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちは、自分および他人を、母親・父親、医者・患者、先生・生徒、……に見立てる。また、木の葉を皿に、砂を御飯に……、棒を剣に……というように見立てる。与件Aをそれとは別なBとして見做す「見立て」の構制は、学理的に省察すれば現相界汎通的に見出させるものであり、言語的記号(象徴)活動の場でいちはやくフェア・エスに一応成立しているものであるが、ゴッコ遊ビの場面における象徴的見立てには特筆に値すべき自覚性が現存する。惟うに、幼児は、象徴的言語活動においても、音声与件Aをそれとは別な意味Bとして把捉するとはいえ、言語活動が円滑に進捗しているかぎり、記号的与件それ自体は強く意識されず、従って、AをBとして見做しているという明確な意識は欠く態勢にあろう。ところが、ゴッコ遊ビにおける用具の見立てにあっては、所与AはおよそBとは違うということを明識しつつ、しかもそのAはBとして見做すのである。ゴッコ遊ビにおいては役の見立てに関しても同断であって、自分はおよそママではないことを自覚しつつもその自分をママとして見做し、相手はおよそ先生でないことを意識しつつもその相手を先生と見做す……というように、二項的区別相を明識しつつ等値化的統一がおこなわれる。しかも、ゴッコ遊ビが成立しているかぎり、この等値化的統一は誰か独りの思念ではなく参加者全員の共有的見立てなのであり、子供たちはこの見立ての共有性を自覚している。がしかし、言語的象徴などの場合とは違って、その見立て・見做しはいつどこでも通用する謂うなれば“自然的”な事態ではないこと、今この遊ビの場においてのみ謂うなれば“約定”的に共有されているものにすぎないこと、このことをも子供たちは併せて承知している。“自然的(「ピュセイ」のルビ)”ならざる斯かる“約定的(「ノモイ」のルビ)”な見做しという契機がまずは銘記されねばならない。」424P
(対話F−第二)「第二に「役割取得」そして往々にして「役割交換」の体験という契機。――ゴッコ遊ビにおいては、子供は自分を、例えばママとか戦士とか、一定の役柄的存在者に見立てることに応じて、その役柄をそっくり我が身に引請けて演じる。なるほど、役柄取得という構制は、第三者的な見地から見れば、対話における話し手または聞き手としての役割取得とか、遣り取りにおける与え手または受け手としての役割取得とか、このような場面からいちはやく見られる。とはいえ、子供当人にとって、演技さるべき役割行動のシステムとも謂うべき役柄がそれとして意識化されて、自覚的に引請けられるようになるのは、何といってもゴッコ遊ビにおいてであろう。(弟妹が生まれた後、兄ないし姉の役柄を取得するケースのうち、兄・姉としての役割演技を大人から直接に仕込まれるのではなく、自分にとっての兄・姉の既往における役柄存在を真似る場合などは、模倣的機制による役柄取得の初期形態として、ゴッコと併せて勘案されねばなるまい。が、当面の論趣には響かないので、これには立入らないことにする。)子供は 役柄を取得しそれを実演してみる体験を通じて、その役柄存在者の見地からものごとの観方を学び、また、その役割動作の様式を明晰判明に体得する。この学習は現実の生活において当の役柄と共軛的な役割行動をおこなううえで重要性をもつ。そもそも役柄の直截な取得が可能なのは、平常その役柄の演行を目撃・観察していてVorbilt(眼前像=お手本、先導像)を獲得していることに負うてである。が、観察といっても、或る時期以降は単なる観照ではなく、予料を伴うばかりか、観念的扮技(実地の模倣扮技ではないが観念上の模倣扮技)をも往々にして伴っており、謂うなれば観念的扮技という仕方での練習になっているむきが認められよう。(観念的扮技といっても、筋肉の微妙な動きなど、恰度、黙読のつもりでも唇が動いているように、実地的行動の場合と生理的態勢が似た形になっていることも考えられる。因みに、生後すぐから隔離して飼育したサルはセックスや子育てに齟齬を生ずると報告されている。自然状態では目撃を機縁にしての観念的模倣扮技による“学習”がおこなわれている一証左と言えよう。)このような観察的学習・観念的模倣があればこそ、ゴッコ遊ビでの役柄取得演技も用意かつ円滑に進む次第であるが、反(「かえ」のルビ)っては亦、ゴッコ遊びという“実地演習”によって以後の観念的扮技がより十全なものとなり、以って、その役柄と共軛的な実地演技もより周到になりうる。「役柄交換」の体験が愈々(いよいよ)それを促進することは絮言するまでもあるまい。ゴッコ遊ビは、勿論、役柄交換を常に伴うわけではない。同じメンバーののあいだでも役柄交換がおこなわれる場合もあるが、メンバーが同じであれば役柄が固定化されるという径行もありえよう。しかし、別のメンバーのあいだでゴッコ遊ビがおこなわれると、他処(「よそ」のルビ)ではオ医者サン専任だった子が此処では患者の一人になるという具合に、役替りが生ずる。子供たちは交替的に種々様々な役柄を扮技することによって、啻に多種多様な役柄存在を体得するだけでなく、共軛的役柄演技の阿吽(「あうん」のルビ)の呼吸を身につける。」425-6P
(対話G−第三)「第三に挙げておきたいのは「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」の現識である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちの見立てによって役柄を取得するが、元来この見立てが二項的区別性の覚識を伴う等値化的統一の認知態であることに加えて、役柄演技の稚拙や中途放棄を機縁にして役柄存在と扮技主体との結合は恰かも“仮想的着用”にすぎないもののように覚知される。この仮想的な“着用”“脱却”の覚知は、ゴッコの開始時・終了時にも感受される。学理的な見地から言えば、役柄存在と扮技主体との区別性という構制は、役柄扮技一般において汎通的に存立するものであるのだが、日常的には成人ですら恒に必ずそのことを現識しているわけではない。成程、子供は余所(「よそ」のルビ)行用のオリコウサンに振舞っている自分、お客様の前での気取ったママなど“本来の姿”と“見せ掛け(pretension)”との区別性や“仮想的な脱・着”を覚知する機会を有ちうる。がしかし、実際問題として「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」を子供が明識化するのは、保育園でのお芝居を措くかぎり、何といってもゴッコ遊ビの体験の場を主斑としてであろうと想われる。役柄存在と扮技主体とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に分断するこの思念的覚識の形成は、一方においては、役柄の物象化的自存視の前梯的条件として閉却すべからざるものであり、他方においては、主体なるものを役割的行動から截断して実体視する一機縁としても無視すべからざるものである。子供はゴッコ遊ビの発達段階における各種の(必ずしもゴッコだけとは限らぬ)共互的役割行動を通じて、他人をも自発・自律的な行為主体として諒解するようになる。この点に徴してもゴッコ遊ビは格別な留意に値するが、ここではひとまず以上の登記に止めておこう。」426-7P
(対話H)「茲に当座の論脈で指摘しておきたいことは、ゴッコ遊ビには自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順性の尠なくとも萌芽が見られる、という点である。即自的・無自覚的なルール随順性であれば、遣り取りや言語活動などの場面においても既に存立している。が、しかし、嬰児は遣り取りのルールや文法的ルールをおよそ其れとしては意識していないことであろう。ところが、ゴッコ遊ビにおいては、用具や役柄に関わる“約定”的な見立て・見做しを基礎にして、“扮技の主体”がこの“約定的”な共有的見做しに随(「したが」のルビ)った行動をおこなう“べき”ことが自覚的に諒解されている。例えばママゴトにおいては、パパ役の扮技主体はパパらしく、ママ役の扮技主体はママらしく、コドモ役はコドモらしくそれぞれ振舞わねばならないのであって、コドモ役を取得している者が突然ママ役を演じてしまうといったことは禁じられていることが共通の諒解事項になっている。ゴッコ遊ビにおいては、所定の役柄の埓内で演技すべきこと、裏返して言えば、所定の役柄の埓を破る行動をしないこと、これが自覚的に共有されている“ルール”なのである。この“ルール”は、敢えてルールとは呼んでも、ルール以前的な暗黙の約束にすぎず、そこでのルール的細則は演ぜられる役柄にビルト・インされていて明示的な規則をなしていない。そのかぎりで、ゴッコ遊ビは一般にはまだ自覚的なルール随順行動の先駆的形態と言うべきかもしれない。(オニゴッコ、ないし、カクレンボは、明確なルールを有っているが、これはゴッコの名こそついていても、別カテゴリーだという見方もありえよう。)われわれはゴッコに留目するのは、しかし、それがまさしくこの前駆的ないし過渡的な相にあるからこそなのである。――子供はゴッコ遊ビの段階において、唯単なる生理主体的な制約とか、舞台的・用具的制約とか、共演者の動作への即応上の制約とか、この種の“実在的”な制約による行動様式の限定とは別種の“規範的”な制約による自覚的な行動制御をおこなうようになる。」427-8P・・・ジェンダー形成のメカニズムもも押さえること
第四段落――行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか? 428-32P
(対話@)「ルール随順行動は、ゴッコ遊ビに関説した右の行文中でも叙べた通り、ルールをルールとして明識したうえで開始されるものではない。では、行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか?」428P
(対話A)「発生論的・発達論的な経緯を詳しく跡づける心算はないが、茲では、ルール遊ビ、すなわち、ジャンケン・カゴメカゴメ……メンコ・ビー玉……五目並べ・碁・将棋……ドッジボール・野球……といった明示的なルールを有つ遊ビ(ゲーム)を視野に入れつつ、しかも、一般論としては、慣習・慣行・習俗・風俗……等々、そして勿論、言語的文法のたぐいに関しても妥当する議論の一端を陳べておこう。」428P
(対話B)「行動の規則随順性と言うとき、その一班については嚮に先廻りして記しておいた通り、即自的な規則随順性、すなわち、第三者的・省察的見地からは合規則的と認められても行為者当人は別段自己の行動を規則に随って律しているわけではない場合と、対自的=自覚的な随順性とを区別する必要がある。発生論的事実の問題として言えば、無論、即自的な随順性を前梯にして対自的な規則随順的行動が形成される。――即自的な規則随順性は、無条件的・条件的な反応行動における法則性・コード性において存立するし、模倣行動においては、模倣されるお手本が規則随順的であるかぎり、当人は模倣の意識性こそ持っておれ、そこでの規則性には無自覚なまま、即自的な規則随順的行動が遂行されうるし、その規則随順性が身につきうる。そして、この即自的に身につけた規則性を反省的に自覚することにおいて、自覚的な規則随順的行動を遂行しうるようになる(文法が一典型)。序(「ついで」のルビ)ながら、ルールには協約・約定によって自覚的に形成されるものもあるが、そのようなルールとて大抵は既成のルールの推及や改訂であって、先行的な既成的ルールを前提とする。――規則随順的行動が自覚されるのは、一般論として言えば、模倣的行動(観念的模倣扮技を含む)を通じてであると言えよう。」428-9P
(対話C)「議論に多少とも具体性をもたせるべく、或る幼稚園で「初めてドッジボールを導入した例」を論材にしてみたいと念う。」429P
(対話D)「「保育者が、ま新しいボールをもって園庭に出て、ドリブルで走ってみせると、たちまち数人の男児たちが集まり……ドッジボールが始った。ルールを知っていた子どもたちがリーダーになったことはいうまでもない。――その後もこの新しい遊びは同じメンバーで二週間以上集中的に続いた。……ある朝、保育者が、この子どもたちを園外に連れだした。子どもたちがでていくと、それぞれの遊びをしていた他の子どもたちがホールや保育室からのこのことコートに集まってきてドッジボールを始めた。だれも教えなかったのに、子どもたち持ち寄りルールから合成された園のドッジボールのルールをちゃんと知っていて、最初の子どもたちが始めたときよりずっとうまくドッジボールをやった。保育者たちはこれを“二軍”と呼び、第四軍まであることを確かめた。これは五歳児のほとんど全員だったのである。/これは保育者が資料を得ようとして実験的に行なったものだが、それぞれの活動について経験的に同じようなことが知られている。保育者たちは、一つのことを全員に教えるよりも、いくつかのグループが違うことを同時にしている方がはるかに子どもの得るものは大きい、と自信をもって言う。これは子どもの学び合う力を信頼したうえで成立つ。」(前掲『イメージの誕生』一七五頁以下。)」429P
(対話E)「右の例は「子どもへの信頼」という小節内で挙げられているのであって、ルール随順性が主題とされているわけではなく、況してやルール取得の構制が論じられているものではない。が、われわれとしては、この論材に即しての次のことを立言しても大過ないのではあるまいか。」429-30P
(対話F)「ルールを既知であった“一軍”メンバーは脇に置いて、第二軍以下、つまり、別段ルールを教えられることもなく、唯単に観戦していただけでドッジボールのルールを習得した子供たちについて言えば、彼らは俗に謂う「見様見真似」でルールを身につけたわけである。見様見真似というのは、一種の模倣的追随には違いないが、しかし、単なる仕草の模倣ではない。単なる模倣行動であれば、お手本と同型の仕草をすれば済む。ところが、よしんば全く同型の逃避行動ないし受球行動であっても、或いは亦、全く同型の投球攻撃行動であっても、ラインの内側でおこなわれるか外側でおこなわれるかで全然意味が違う。同型の仕草を模倣的に習得しただけではドッジボールというルール遊ビを習得したことにはならない。ここで肝要なのはルールに叶った行動をするようになることなのであって、ルールに叶ってさえいれば、仕草(行動の所作的様態)を真似る必要は毛頭ない。模倣とはいっても、ここでの範型は、所作の型態ではなく、ルール適合性・随順性である。」430P
(対話G)「それでは、ルール随順性の模倣的習得とは、実質的に言って、如何なる構制の事態であるのか?」430P
(対話H)「子供たちは、ルール・ブックで学んだり、ルールの説明を聞いたり場合を別とすれば、別段、ルールなるものそれ自体を対象的知識として認知・記憶するのではない。現に幼ない子供たちは、所与の行動が合則的か反則的かを個々には精確に判別できるようになっていてさえ、ルールという一体系を知識のかたちで説述することは覚束ない。それもおそらくは説明力の不足なのではなく、そもそもルール体系が知識のかたちに整理されて頭に入ってはいないせいであろう。(俗に身体(「からだ」のルビ)で憶えるとか、要領を身につけるとか言うが、名人芸の職人がノウハウを説述できないのにも似て、それは知識化されているには及ばないのである。)ドッジボールのプレイヤーたち(観戦による観念的扮技者をも含む)は、ドッジ・ライン!の内側に居る者と外側に居る者とのそれぞれの「役柄」を認識している。(内側の者は、外側から飛来するボールが自身に直接当らないよう逃避するか、または、外側から飛来するボールを受留める、という役割行動を期待されていること。外側の者は、内側の者にボールを投げつけ。、しかも可及的に、受留められないように投げつける、という役割行動を期待されていること、この役柄の了解が前件をなす。そして、この役柄の“約定”的な規定自体、ルール体系の一部を形成する。)さて、そのうえで、夫々はラインの内側・外側という所定の舞台で行動すべきこと、外側のプレイヤーAが内側のプレイヤーBにボールを“当て”た時にはAとBとが内・外の地位を交替すべきこと、内側の者がプレー中にラインを踰越(「ふみこ」のルビ)した場合には(罰則として)外側の役に廻るべきこと、外側の者が越境して投球した場合にはボールが首尾よく“当っ”たとしても無効(反則)であること、このたぐいの“約定”をプレイヤーたちは“体現”する。見様見真似で修業中の者も、プレイヤーの位置に観念的に身を置き、観念的に扮技することを通じて、行動様式と当該の“約定”ルールを“身につけて”行く。」430-1P
(対話I)「ゲーム(ルール遊ビ)を実地に習得中の子供も、見様見真似で観念的に修業中の者も、先述した通り、ルールという対象的知識を学習するのではなく、ドッジボールの場合で言えば、例えば、ボールを“当て”たら当然の要求として内役と交替すること、ボールが“当っ”たら已むを得ざる仕儀として外役に廻ること、踰越したら従容として外役に移ること、このたぐいの行動の在り方を身につけるのである。そのさい、右に付記しておいたごとき態度も身につくが、併せて亦、例えば、ボールが“当っ”たにもかかわらず外役に移ろうとしない者があるような場合には、憤激・非難するような心態も形成される。」431P
(対話J)「ルール随順的行動性の“模倣的”習得というのは、さしあたり、右の如き事態の形成の謂いにほかならない。――如上の随順性が“身につく”かぎりで、一般に役割演技行動は、“実在的”諸制約による行動様態の限局という域を超えて、“規範的”合法則性、ルール随順性・適合性という限定相に整型化される。」431P
(対話K)「以上の行論では、しかし、事態の表層的な確認でありえても、究明さるべき真の問題性はまだ殆んど手つかずのままに遺されている。既述の範囲では、役割演技者たちが既成の合規則的行動にアンガージュすること、見様見真似で模倣的に追随しようとすること、このことが、恰かも当然の傾動であるかのように扱われている。亦、その都度の新参者に対するルールの先与的な既在性が前提とされており、ルールそのものの成立の機序が検討の埒外に措かれたままになっている。だが、嚮に誌しておいた通り、実はこれらの前件が大問題なのである。」432P
(対話L)「今や、前件に、論理的にも発生論的にも溯向して討究すべき段である。そのさいには、当然サンクショナルな規制が視野に入れられねばならない。」432P
第五段落――サンクショナルな規制を視野に入れて、論理的にも発生論的にも溯向して討究する−三つの着眼点に即しての評価 432-5P
(対話@)「所業的行為は、次節での論点を先取りして言えば、当事他者の見地からであれ、環視的他者たちの見地からであれ、当事主体自身の反省的見地かであれ、――所業的行為を対象的に認知するとき、総じては、所業のもついわゆる、“客観的意味”に即して評価されるのではあるが、つまり、当該の所業を社会的行為体系のコンテクストに置いてurteilen(判断)し、価値的評価体系に鑑みてbeurteilen(価値判断)されるのであるが、とりあえず単位行為については――いずれも、三つの着眼点に即して評価されうる。」432P
(対話A)「第一は、当該行為の志向的目的そのもの、ないしは、目的志向的企投そのことに即してであり、第二は、当該行為の実行的所作に即してであり、第三は、当該行為の動機に即してである。」432P
(対話B)「われわれは、今茲では、行為・行動の分類に立入る段ではなく、行為の目的・所作・動機をそれらの多様性を分出しつつ緻密に規定しうる段にはない。原理的には、他者的な見地からする、目的や動機の事後的認知なることの認識論的権利づけという大問題すら控えている。が、茲では敢えて半ば論件先取を犯しつつ、議論の焦点をもっぱら、「行為の賞罰的(「サンクショナル」のルビ)規制」に絞り、行論にとって不可欠な範囲でのみ目的や動機の問題をも配視する便法を採ることにしたいと念う。」432-3P
(対話C)「偖、賞・罰は、前記の三つの着眼点に即して、すなわち、(1)目的そのもの、ないし、企投そのことに即して、(2)所作に即して、(3)動機に即して、おこなわれる。が、そのさい、(1)、(2)、(3)は相対的に独立であって、目的は賞して所作を罰するとか、所業は罰して動機は賞するとか、等々の場合を生じうる。」433P
(対話D)「正・負のサンクションたる賞・罰は――理論的には、責任の主体性という問題とも絡み、それの権利づけを尭(たか)って古来論議の囂(「かまびす」のルビ)しい論件であるが、この部面については後論に持越すことにして――実地的に言えば、サンクションの対象となる行為の主体に、それ以後の行動に関して、鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼすことにおいて現実的機能を果たす。」433P
(対話E)「この鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼす者、すなわちサンクショナーは、発達心理学的・行動発達論的には、先ずは、対向的行為の当事他者であり、次では、環視的第三者である。尤も、この者は、彼が与件的行為の単なる環視者であったかぎりでのみ第三者なのであって、賞罰的行動に乗り出した場面では、賞罰という対向的行動の当事他者に転成する。更には、これらサンクショナーたる他者が“内面化”されて、行為者本人が自己分裂的自己統一の相で、自己の行為に対して賞罰的に関わるようにもなる。が、“他者の内面化”という次元は姑く措いて、さしあたっては、対向的当事他者の賞罰的規制に止目することにしよう。――尚、“全く同一”の所与的行為に対して、例えば父親はそれを賞し母親はそれを罰するというように、サンクショナーたちのあいだに不統一・対立の場合を生じうる。また、“全く同一”としか思えない行為に関して、例えば同じ母親が或る時には賞し或る時には罰するといった不斉合のある場合も生じする。(この不整合的分裂性は、或る種の精神病の発生との関連などを持出すまでもなく、いわゆる人格形成の論脈で重要な論件となる。)一般論として、賞罰行動と相即する価値規範体系が他者たち一般において単一的で普遍妥当的というわけではなく、従って所与の行為が被むるサンクションは決して一義的とは言えない。ここに重要な案件が存在することを銘記したうえで、しかし、当座の議論としてはサンクションがほぼ整合的な場面に即してひとまず叙べておくことにしたい。」433-4P
(対話F)「今、対向的な当事他者の行動というとき、この概念を広義に用い、元来は環視的第三者であった者のサンクショナルな反応を含めるだけでなく、即自的な賞罰行動、すなわち、別段賞罰的な行動という自覚性を伴うことなきサンクションをも含めることにしよう。例えば、子供の行動に接して母親が想わず喜んだり悲しんだりする反応も、それがあの表情感得・情動共鳴の機制によって子供の側にも喜び又は悲しみの感情をもたらし、この体験がその後における子供の行動に鼓舞的/禁圧的な影響を及ぼすものと認められる場合、賞罰の自覚性を欠く母親の当該反応をもサンクションに算入する。子供の行動に接して友達が大喜びしたり激怒したり、上機嫌になったり不機嫌になったりする反応についても同断である。――サンクションと言うとき、功賞や刑罰のごときを直ちに思い泛かべるかどうかは別として、人はとかく褒賞と懲罰というように概念化した相で考えたがる。そして、そこでは、サンクショナーが義務感に駆られた役割行動として賞罰行動を決意的におこなうとまでは言わぬまでも、賞罰遂行の当為(「ゾレン」のルビ)意識を伴ったサンクションを思い描きがちである。慥かに、親が子を叱ったり、一般に大人が“教育者”的に振舞いつつ年少者を褒めたり叱ったりするような場合、私情に駆られた即自的な反応ではなく、当為意識を伴った自覚的な賞罰の行動をおこなっていることが認められる。がしかし、現実の生活実践の場で不断におこなわれているサンクションの圧倒的大部分はそれと自覚することのなき即自的な賞罰であって、当為意識を伴う自覚的サンクションは九牛の一毛にすぎないのが実情である。――われわれは前篇第一章において表情現相の汎通性を確認し、表情性現相の内自的規定をも分析しておいたのであったが、現前する他人たちの表情性現相はそこに内自有化せる情緒価・行動価が多分に「即自的な“賞罰価”」ビルト・インしているとでも謂うべき態勢にある。“賞・罰”価という概念を狭義に規定するとすれば、他人の表情性現相といえども“賞・罰”価を内自有化しているものは一部分にすぎないということになろう。だが、“賞・罰”価ということを稍広義に規定する場合には、他人の表情性反応の極めて多くのものが「即自的な“賞罰価”」を帯びているものと認められる筈である。」434-5P
(対話G)「われわれとしては、こうして、いずれにせよ、情動的反応行動の階梯から始まる即自的なサンクションに定位しつつ行動の賞罰的規制を問題にして行かねばならない。という次第で、「他人の表情性反応」の「即自的な“賞罰価”」に留目しつつ、行為とその様式の規範的限局制が如何様に進捗していくかを一瞥し、就中、規則(「ルール」のルビ)随順性の成立機序を見定める段取りである。」435P
第六段落――語の広義におけるサンクショナルな行動規制 435-8P
(対話@)「上述の通り、行為の評価は目的・所作・動機という三つの着眼点から別々におこなわれうる。尤も、発達心理学上・行動発達論上の初期的階梯にあっては、行為者本人において目標と所作とが十全に分節化して意識されているかどうかすら疑われうるし、況んや動機の自覚を伴うことは覚束ないであろう。そして、乳幼児の行動に対する親兄姉その他の対向的・環視的な“賞罰”反応も、目的・所作・動機の分析的評価に基く場合はむしろ稀であって、一般にはまさに即自的な反応たるに止まる。が、そのような埓においてさえ、語の広義におけるサンクショナルな行動規制がいちはやくおこなわれる所以となっている。」435P
(対話A)「広義のサンクションと謂うとき、われわれとしては、「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトルで考える。(狭義のサンクションにおいては「許容・委棄」のゾーンが中性的見做される。)この広義のサンクション概念に即する場合、笑顔の表情による継行の許容や、無記(「ニュートラル」のルビ)な態度による継行の委棄のごときも対向的なサンクションの行動の内に算入される所以となり、対向的反応の殆んど一切がサンクショナルな意義を有つ、と言うこともできよう。」435-6P
(対話B)「ところで、インプリシットには既に述べたことであるが、対向的当事他者の強い情動的反応、嬉怒哀怖という類(「たぐい」のルビ)の表情性反応は已(「すで」のルビ)にしてかなり狭義のサンクショナルな意義を有ちうる。況んや亦、感嘆の声(マー、オジョウズネ、……)、嗟嘆の声(アラ、アーア、……)のごときや、褒誉の言葉や難詰の言葉のごときは、乳児が言語的意味を理解できるようになる以前から、その音声の表情価によってサンクショナルな機能を果たしうる。」436P
(対話C)「発達上の初期的階梯におけるサンクションにあっては、所与的行為者の側もサンクショナーの側も、対象的行為を分析的には覚識しないにしても、しかし、乳・幼児の行動が発達するにつれて、まずは年長者たるサンクショナーの側が、所与の対象的な行動の目的・所作・動機を分析的に覚識するようになり、しかも、自覚的な賞罰的行動をおこなうようになる。例えば、子供が突然ママの顔を叩く。ママは叱る。が、蚊を打(「ぶ」のルビ)とうとしたことに気がついて、所作を罰しても目的や動機は賞する場合が出来(「しゅったい」のルビ)する。オ手伝イしようとして邪魔になって叱られる場合など目的そのものは賞されるとしても、所作を禁圧されることによって、実質的には当の目的志向的企投が禁圧されてしまうといったケースも生じうる。が、一般論として、目的・所作・動機のそれぞれに応じたサンクションを体験することを通じて、子供に対するサンクションの効果も分節化したものになって行く。そして、この分節が子供にとっても対自化されるようになる。」436P
(対話D)「この準位に達したとしても、しかし、子供の側と大人の側との非対称性はなかなか克服されない。大人つまりサンクショナーの側としては、所与的行動の目的・所作・動機を評価する価値規準体系を一応は持っている。なるほど、大人の側の価値評価なるものも必ずしも明晰判明ではなく、極言すれば大人の賞罰的行動自体が一種の条件反射に類する域に止っているケースも尠なしとしない。評価規準がそれなりに意識されていても、それの正当性が十全に理由づけられているわけではなく、まさに因習的な価値観、世間様の価値観を無批判的に受け容れてしまっているというのが実態であろう。が、しかし、よしんば“世間”の価値観に同化してしまっているだけだとしても、大人のサンクショナルな行動には概ね“体系的”な価値規準がある。しかるに、子供の側は、サンクショナーたる大人の順拠する価値規準体系を知らない。仮令大人がそれを教え込もうとしても、初めからは体系の形で教えるべくもない。子供は個別ケースごとに、これは賞される、(これは許容される、これは委棄される)、これは罰せられる、ということを体験してゆくのみである。しかも、同じ目的志向・同じ所作方式・同じ抱懐動機と思えるものであっても、舞台的情況をはじめとする諸々の条件のコンテクストに応じて、賞と罰とが岐れるのであって、肌理(「きめ」のルビ)の細(「こま」のルビ)かい分類的な同定を身につけるに及ぶ。そして、実は、このようにしてサンクショナーたちの側の価値評価を同化的に共有する域に達したとき、彼は嚮に謂う「価値規準体系」を身につけるに至ったと認められるのである。」436-7P
(対話E)「翻って、賞罰的効能は表情性現相一般が発揮しうること上述の通りであり(ヒトの場合、「笑い」による賞罰が極めて重要な地歩を占めることはデュルケーム学派などによって夙(「つと」のルビ)に指摘されているところであるが、ここでは立入らない)、また、言語的言明による賞罰、愛撫や殴打といった身体的な直接行動による賞罰などもあり、賞罰の実行方式は極めて多岐多様である。が、賞・罰は鼓舞的または禁圧的な効果を現実化しうれば足るのであって、それがいかなる実行方式でおこなわれるか、爰ではこれの具体相の論述は須いないであろう。――サンクションには、公的権力機関による命令・禁止、それの遵守・違反を介しての賞・罰のごときも存在し、高等なサンクションにおいては、物品的・栄誉的な授賞、肉体的・精神的な応懲の多岐多様な手段が用いられる。われわれはこの事実を忘佚する者ではありえないが、そのような高次のサンクションについては当座の論脈ではまた立入るを得ないしその要もあるまい。」437P
(対話F)「われわれは、しかし、茲で或る重大な事実について一言しておかねばならない。それは、賞罰(「褒賞−許容−委棄−懲罰」)というものは、直接自分に加えられた体験ばかりでなく、謂うなれば“間接的な体験”とも呼びうるものを通じてもサンクショナルな実を収めするという事実である。賞罰の“間接的な体験”と謂うのは、他者の受ける賞罰の目撃・伝聞・理解のたぐいであって、嚮に叙べた「観念的模倣学習」「観念的扮技」の機制によって、人は他人の蒙むる賞罰行動を自身において観念的に扮技し、以ってサンクションを“間接的に体験”する。この観念的扮技、自身を他身に置き移しての“想像的”な体験、これらのうちには、なるほど、たかだか“知識”のかたちで保持されて、同趣の場面に自身が際会した折に“参酌”される、という域をいくばくも出ぬものもあろう。いわゆる「見せしめ」“公開的懲罰”や「表彰」のたぐいは、それで結構“間接的体験”のサンクショナルな実を挙げる。がしかし、初次的・日常的な各種サンクションの“間接的体験”にあっては、人々は多くの場合、あの観念的扮技にさいしてvorbildlich(手本とすべき,模範的)な他人とのあいだに俗に謂う“感情移入的一体化”、いなむしろ“身体移入的一体化”を遂げており、サンクションを“自身に刻み込む”に及ぶ。そのため、被賞罰の観念的扮技体験が自身における現実的被賞罰の体験とほぼ同効に機能しうる所以となる。わけても幼児期においては、兄弟や友達の受けているサンクションの目撃が、その折りに往々“身体移入的一体化”を現成せしめているだけに、我が身の行動陶冶にストレートに影響する。――こうして、サンクショナルな行動規制は、被賞罰の“間接的体験”を通じても進捗するのである。」437-8P
第七段落――行為規則的規範を巡って陳べる 438-43P
(対話@)「われわれは、今や、以上でサンクションに関説したところを踏んで、先刻来の懸案にもようやく答えて行くことが可能となっている。爰でまず陳べたいのは行為規則的規範を巡ってである。――茲では、実定法といった次元を念頭に置き、狭義でのゲーム・ルールのごときだけでなく、いわゆる作法などにも見られる規範的規則をも視野に入れ、先にゲームのルールに関説しつつも遺してきた課題に応えようと図る。」439-9P
(対話A)「惟えば、行為の規範的規則(「ルール」のルビ)に属するものは、――それに則って(つまり、逸脱せずに)行動するのが当然だと思念されていることに見合って――それを遵守したからといってとりたてて正のサンクションを受けないが、それに違反しようものなら厳しい負のサンクションを受ける。(行為のうちには、或る種の自己犠牲的行為といった「高貴な倫理的行為」のように、それをおこなえば高い価値評価を受け、大きな正のサンクションを受けるが、それをおこなわなかったからといって殊更に負のサンクションを受けるというほどのことはない類(「たぐい」のルビ)のものがある。名人技やファインプレーのごときもこの類に入る。ルール遵守的な行動は、この類の行為と対蹠的である。)また、規則的拘束は、合則・反則(適法・違法)だけを命令・禁止するにとどまり、一般の規範的拘束のように仕草(遂行様態)、はては目的や動機の懐き方のごときまで容喙(ようかい)するようなことはない。反則への制裁にさいして目的や動機が勘案されるとしても、それは情状酌量としてであって、行動の目的・様態・動機そのものは元来は判定の埒外に置かれている。」439P
(対話B)「規範的なルールに徴しての合則的・反則的な行動に対するサンクションは、前段の前半に指摘した在り方に鑑みるとき、サンクション一般における「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトル中、(褒賞−許容−委棄)と(懲罰)との間に截然たる劃線がある。しかもここでは、褒賞と呼ばれうるほどの積極的な正のサンクションはおこなわれないのであるから、「許容・委棄」という消極的な(弱い)“正”のサンクションと「懲罰」という強い負のサンクションとの二種があるのみ、と言うこともできよう。――ここにあっては、ルール遵守の強い命令(must)、および、ルール違反の強い禁止(must not)、そして、適法たるかぎりでのありとあらゆる行動(目的志向・遂行様態・起行動機)の許容・委棄(may,allow)という構制になっているわけである。」439P
(対話C)「では、このような稍々特異なサンクションの執行規矩ともなる規範的なルールは如何にして成立・存立するのか? ルールなるものが、ルール・ブックの内に実在するのではなく、人々の行動様式に体現されてのみ実在するのである以上、行動者たちが常態的に体現している当の合則的挙措の成立・存立機制がここでの論件にほかならない。」439-40P
(対話D)「ルールが実定的に約定されるのは特殊例外的なケースであり、一般には伝習的なルールが踏襲される。新規の約定と称されるものですら実質的には既成のルールの変形・改作という大枠を出ないのが普通である。それゆえ、伝習的ルールの踏襲から見て行くのが順序かと思われるが、子供たちのゲーム遊ビ等にあっても、ルールの“新規的約定”(遊び仲間内での整調的“約定”)が存外と生起してることでもあり、論件を対自化する一具としても、敢えてルール約定の場面を一瞥することから始めよう。(ここでは勿論まだ、結社の規約や国家の法律といった次元は措く。)」440P
(対話E)「人々が合い寄って、斯々然々の条件を充たす行動のみをおこなうことを約束するとき、ブリミティヴな行動ルールが約定的に成立する第一階梯となる。当の約束事を遵奉(違反を抑止)することの誓約にもとづいて、参加者たちに約定に則った行動を強制(違反者を制裁)することが実効性をもって施行されるとき、当該の約定された行動準則がルールとして現成していることになる。――約定の手続的過程には立入らぬことにして、約束の履行、約定に則った行動の自律的・他律的な強制、違反行為の制裁、これの成立機序に眼を向けることにしよう。空(「から」のルビ)約束ではルールにならない。約定に則った行動の履行が如何にして確保されるのか? 約束を墨守する“徳性”が人(「ヒト」のルビ)に先天的に具っているとは思えない。“ゲーム”(今この詞を当の約定されたルールに適う行動体系の意に用いる)に参加し続けようとするかぎり、つまり、参加仲間から放逐されまいとするかぎり、参加者はまさに約定上、約束を守ってルールに随わざるをえない。参加し続けることが“利益”(但し広義)であることからの打算によってそうすることもあろうし、“ゲーム”の進行的存続が高次の目的に徴して“利益”であるという“合理的”判断にもとづいてそうすることもあろうし、約束であるからには守らねばならないという義務感からそうすることもあろう。約束の遵奉を支える意識態は様々でありうる。が、問題は、その意識態を成立せしめる深層的機制である。」440-1P
(対話F)「この機制を見る手掛りとして、約束を破った場合を考えてみよう。他の参加者たち及び/又は環視的第三者たちの直接間接の制裁を受けて、以後は約束を守るよう強制されるか、または、放逐されるかであろう。放逐に諾々と甘んじるとすれば、彼はもともと参加への強い選好・利害を有っていなかったものと見做され、恰かも元来参加メンバーではなかったかのように扱われる。ところで、違約への加罰に対して抵抗するとき、暴力的(但し広義)対立となり、一般には参加メンバーとの“喧嘩”になる。そこで敗れれば、以後は約束を守りルールに随うことを強制的に再誓約させられるか、または放逐されてしまう。(“喧嘩”に勝って居直るとき、一時的な例外措置として違反が無かったことにして、ないし、判定の誤りであったことにして、制裁“取消”の応急措置がとられるのでないかぎり、ルールそのものの改訂・再約定がおこなわれることになる。が、こうして横車を押した強者は、諸種の道徳的制裁を後々にわたって免れず、その場でのルールにもとづいた制裁こそ返上したにせよ、道徳的非難や各種の不利益を蒙むる。)」441P
(対話G)「こうして、参加し続けようとするかぎり、つまり、放逐=仲間外れにされまいとするかぎり、ルールに随うことを強要される。違反すれば放逐されるか(因みに、子供の世界にあっては、仲間外れは最も厳しく身にこたえる制裁である)、暴力的に打ちのめされるか(これも泣きださざるをえないほど身に徹(「こた」のルビ)える)、横車を押通して(その場ではたとえ無かったことにしてもらえても)諸々の道徳的制裁を受けるか(義憤や慍恨(うんこん?)、極端な場合、以後は敬遠されて一緒に楽しくは遊んでもらえない、等)、いずれにせよ苦痛、不利益を免れない。という次第で、自発的打算や合理的判断や“善良な心根”から約束・ルールを守るのではないとしても、“誓約集団”の内部に留まろうとするかぎりは遵守を強制されるのであり、放逐者を生みつつであれ存続する“誓約集団”の内部ではともかくルールが遵守されている事態を結果する。(約束事は無条件に墨守すべしとする“善良な心根”なるものが、当該の“ゲーム”内部での制裁を免れたい心情の屈折せる倒錯的意識態だと言うつもりはない。がしかし、当該の“ゲーム”内での制裁という狭い枠組を外して、より広い社会生活全般において約束違反に加えられる制裁・不利益の直接間接的な体験の屈折ということで考える場合には、議論がまた別になろうかと思う。)」441-2P
(対話H)「翻って、伝習的ルールに随順な行動体系の確立が先行して、そこで身についたルールを事後的に自覚化するようになる通例の場合は如何? ここでは“ゲーム”に参加し続けようという意向をもつ場面で、約定でこそなけれ、謂うなれば「自覚されたルールを遵守する誓約」を交わしたのと同趣の構制になる。それゆえ、ルールの自覚的遵守の“誓約”以降の局面については、約定の場面に即して上述した機制と同工である。そこで、論件となるのは即自的なルール随順的行動の確立場面である。が、その件それ自体については先に幼稚園児のドッジボールのルール習得の例に即して論じたところでもあり、また、この件が舞台内的・対他者的行動の諸々の“実在的”制約要因による限局化の一斑に包摂される以上、実質的には既にこれまでの行文で論定済みとも言える。残されている主要な論点は、むしろ、一応は“自由”な主体と見做せる行為当事者が、伝習的所与の規範的規則への随順を拒絶することなく、概してはそれにアンガージェするようになるのは何故また如何にしてであるか、この件に懸っている。」442P
(対話I)「扨、即自的な規則随順的行動の形成が模倣的追随(観念的扮技による“練習”をも含む)を主斑として進捗すること、すなわち合規則的に編制されている伝習的な行動を就中模倣することにおいて(当初は、決して規則そのものを対象的に意識・学習するわけではなく、もっぱら行動を模倣的に身につけて行くことを通じて)、ルール随順的な行動が成立すること、これは嚮に論じた通りである。この模倣的追随ということ、そして、既成の伝習的規範規則を規矩として他人たちがおこなう価値評価と賞罰的規制を当事主体が受容するということ、これら二件が事実であるとすれば、伝習的な規範的ルールに随順する相での行動様態がおのずと確立するのは必当然的ということになる。がしかし、なるほど謂う所の二件が大枠としては経験的に認められる事実であるとしても、それはあくまで蓋然的事実にとどまり、必然的というものではない。ここに、当該二件の蓋然的事実性が如何にして成立するかということが問題になる。それがとりもなおさず、前記のアンガージュマンの問題にもほかならない。」442-3P
第八段落――当面論攷すべき四つの課題 443-50P
(対話@)「われわれが当面論攷すべき課題を次のように整理することもできよう。第一に、或る当事主体が他者の行動に模倣的に追随するのは何故であるか? 併せて、アンガージュマンの機制や程度。第二に、当事主体が他者によるサンクションを受容するのは何故であるか? 併せて、ここでのアンガージュマンの機制や程度。第三に、サンクショナーたちが伝習的な価値基準や蝕罰規矩に則るのは何故であるか? 併せてサンクション遂行の機制、既成的基準・規矩への順拠の程度。第四に、伝習的規範規則の起源の問題。第五に、伝習的規範規則の可塑性・硬直性の問題。」443P
(対話A−第一の問題)「第一の問題。模倣が何故おこなわれるかについては、群棲動物の生得的傾動とする説と社会的圧力による強制とする説とを両極とする対立がある。生得的傾動ということを確説しえんがためには然るべき生理的機制の画定が要件であろうが、寡聞にして然(「そ」のルビ)ういう確定的な知見が得られたとは知らない。だが、経験的観外見的には模倣的な追随にも似て、他者と同型的な身体行動を営むこと、このことはまず確かである。また、特別な強制を蒙っていそうには見えない場面でも、乳幼児が他者、わけても胞輩や友人達と同型的に振舞おうとする傾動を示すこと(双児の姉妹は服装まで同じでないと気が済まない!)、大人の行動を真似ること、これまて経験的観察によって知られる。この模倣が或る種の学派の主張するような「尊敬」や「愛着」によるものといった理屈づけを許すか否かは今措くとして、特段の強制や指導に俟つことなく生じうることは否定しがたいように思われる。このかぎりで、或る条件つきで、乳幼児が或る種の“模倣”的行動(同型的追随・即応行動)の内発的性向を具えていることは認められてよかろう。それがあって甫めて、社会的圧力による模倣の強制ということも現実化しうるのではないか。そこには、負のサンクションを貶置・回避しようとし、正のサンクションを選好・獲得しようとする意識性を伴う場合もありうる。そして、それには、おそらく生物・生理学的な機制の裏打ちがあるものと忖度される。が、仮令これを措くとしても、乳幼児は条件づけの機制によって一連の模倣的行動を強制・誘導される。オペラント条件反射を含めて考えるとき、乳幼児は、模倣のための模倣ではなく、各種の欲求充足行動、信号的送受行動、対抗的即応行動において、外形的には模倣的な同型化を現出するたぐいの行動を数多くおこなう。その結果、乳幼児は数々の“模倣的行動”をを体現しつつ、即自的な規則随順的行為をアンガージェしているように“見え”る。とはいえ、しかし、乳幼児が“模倣”する動作は成人の多種多様な動作の一部たるにすぎず、また“模倣”の成立した動作においても個性差があり、決して他者達と精確に同型化するわけではない。昨今流行の言葉を使えば「ズレ」がある。この個人差による“フラクチュエイション(揺動・flactuation)”のゆえに、仮りに模倣的“同型化”が汎通的であるとしてさえ、伝習されて行く行動様式は、不変不易ではなく、可塑性を孕む。――幼児期を過ぎ、青年期・成人期に達すると、直截な模倣・追随はむしろ稀になり、他者の行動との同型化的アンガージュマンがおこなわれるとしても、“打算的・合理的”な計算や“義務感・当為感”の意識性を伴ったものが多くなる。が、これについては、先に約定に即して論じたことがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当するであろうし、模倣的アンガージュマンという当面の論件の範囲外に属することでもあるので、ここでは立入らないことにする。」443-4P
(対話B−第二の問題)「第二の問題。乳幼児といえどもサンクションを無礙に受容れるわけではない。わけても負のサンクショナルな刺戟は、それが苦痛・不快を与えるものであるだけに、生体・生物学的な論理から言っても当然、抵抗的・拒絶的な反応を興発せずにはおかない。そして、ここにおける前件的行動と苦痛的後件との条件反応的継起事象を回避“しよう”として、前件的行動そのものを抑止する条件づけ(conditioning)、かかる条件反射の機制が作(「はたら」のルビ)く。ここに作く機制は、一度火を摑んで熱い目に合った子供は、もはや二度と火を摑まないように条件づけられているのと同工であろう。(尤も、一般のサンクションは一度だけで十全に条件づけを達成することは困難であり、また、折々の「強化」を必要とするのであるが。)その点、正のサンクショナルな刺戟は、快感・愉楽をもたらすものであるから、生体・生物学的な論理から言って、抵抗なく体験される。が、それは抵抗なく受納されるために却って条件づけの効力を削(「そ」のルビ)がれ、これまたそう簡単には条件づけに成功しない。ここに作らく条件づけの機制は、迷路実験の試行錯誤を通じて“正しい”経路を辿り、報賞(餌)にありついた鼠(「ラット」のルビ)が以後は概ね所定の“正しい”経路を進むように条件づけられるのと同工であろうかと想われる。謂うなれば正のサンクションを受け“ようとして”所定の行動をするわけである。――条件反射の機制による行動の条件づけ、これによってサンクションが機能しうるとすれば、生体・生理的機構のうちに或る種の刺戟と相即する或る種の状態を選好(「フォルツイーエン」のルビ)・獲得“しよう”とする性向、および、別の或る種の刺戟と相即する或る種の状態を貶置(「ナハゼッツェン」のルビ)・回避“しよう”とする性向、かかる傾動性が具っているものと想定しなければなるまい。(因みに右に謂う前者の状態、快感・愉楽……安心……を生体・生物学的に正の価値をもつ状態と呼び、後者の状態、不快感・苦痛……恐怖……を生体・生物学的に負の価値をもつ状態と呼ぶことができよう。)この想定は、事実の問題として、認められるように思える。そして、サンクションの受容、つまりサンクショナーの側の企図に叶った行動がそれ以後はおこなわれるようになること、この事態を成立せしめる基底的な機制は前記の条件づけを措いてはあるまい。――しかしながら、当事者の表層的意識においては事情は稍々異なるであろう。当事者は“打算的・合理的”な思料にもとづいてサンクションを受容したり、“罪悪感・慙愧(ざんき)感”や“義務感・当為感”を植えつけられることで以後的行動を自己統制するようになったりする。だが、打算的・合理的な思料にもとづく決意なるもの、そこでの態度決定の基底を掘って行けば、結局のところ、生体・生物学的に正の価値状態を選好し、負の価値状態を貶置する性向に帰着しないであろうか。(当事者の思念する諸々の倫理的価値・文化的価値の分析、ひいては、それと生体・生物学的価値との関連に立入らぬ今爰では、この件について論決するを得ない。ここでは唯ありうべき見方を右のように示唆しておくに止める。)罪悪感・慙愧(ざんき)感は、サンクションの対象になった自己の行為が“悪しき”“恥ずべき”行為であったと自己認定と相即する。「悪」「恥」として概念化される価値態は抽象化されており、往々にして対他者性の意識が殆んど脱色されているが、元来は具体的な体験場面で形成されたものと想われる。悪行の評価・判定の基準は社会的規範体系にビルト・インされており、単層的ではない。しかし、基底的な場面まで掘り下げて発生論的に言えば、自己の行動が対向的当事他者の悲・痛をもたらし、対向的他者自身なり環視的他者なりから負のサンクションを蒙った種類のもの、そのような行動が悪行として自覚されるようになるのではないか。そして、自己のその時々の行為をかかる悪行として覚知するとき罪悪感を覚識するのではないか。恥ずべきと自認する行為について言えば、それは多分に「嗤(「わら」のルビ)いのサンクション」を蒙むった行為に淵源する概念態であろう。恐らくは、かかる発生論的経緯に由来する内面化された機制に負うて、人は罪悪感ゃ慙愧感を覚識するとき、懲罰を蒙むったのも当然と感じ、以後は当の所業を改めようと決意するのを“常”とする。(いわゆる確信犯はこの埓には入らない。そこで別途の論理での懲罰がおこなわれる所以となるが、ここではこの件に立入るを須いないであろう。)義務感や当為感を植えつけられてのサンクションの受容については、次に取上げる第三の問題の論脈に組込むことにしよう。けだし、義務感ゃ当為感を伴って自己の行為を律するとき、このアンガージュマンにおいては、当人は“自分自身に対するサンクショナー”としても振舞っている機制にあるからである。――尚、確信犯の存在を述べ立てるまでもなく、サンクションに抵抗し、行為を改めない分子が現に存在する以上、また、或る種の行為に関しては因習的なサンクショナーの基準そのものに多くの者たちが強く抵抗する事態なども存在するのであるから、サンクションは決して一義的に受容されてその実を収めるわけでない。サンクション(従って亦、それの実効性の程度)は、所詮はサンクションを蒙むる側の者との“共犯行為”である。」444-7P
(対話C−第三の問題)「第三の問題。人は私情・私憤に駆られてサンクショナルな行動に出ること屢々であるが(即自的なサンクションについては本節の初めからさまざまな文脈で叙べたので再説は省こう)、サンクションの自覚を伴った行動にさいしては、一般には、むしろ、義務感・当為感に促されていると言えよう。――「道学者輩でもない親兄姉や隣人が、一体なぜ無関心に見過ごすことなく、制裁(「サンクション」のルビ)を加えるのか? われわれは賞罰(「サンクション」のルビ)の心理を単純に一元化してしまう心算(「つもり」のルビ)はないが、根源的には、彼ら自身、当のシチュエイションにおいては、一定のサンクションのrole-takingをおこなわざるをえない心理的圧力に押されているのではないか? 未開人(ママ)においては、タブーを犯す者が出ると集団の全員が心理的恐慌(「パニック」のルビ)におちいるといわれるが、同様な機制(「メカニズム」のルビ)が作用しているのではないか?」筆者は別の折りに右のように書き、究極的には条件反射の機制に基礎をもつにしても、そこには催眠術に所謂「深層的催眠」の機制が作用しているであろうことを論じておいた。(『世界の共同主観的存在構造』第一部第三章。)ここでは深層催眠ということを“解説”したり、それを条件反射に還元したりする議論に更めて立ち入ることは割愛する。が、以下、当為感・義務感の深層的基底に議論の焦点を置くことにしよう。――当為(「とうい」のルビ)意識・義務意識は、いささか省察してみれば誰しも認めるであろうように、命令や禁止と密接に関連している。尤も、当為意識や禁止意識という既成態となった覚識においては、命令者・禁止者は脱人称化・非人称化されているのが普通である。時によっては、それは、超越者の命令・禁止とか、裡なる両親の命令・禁止とかの相で覚識される。とはいえ、命令や禁止の体験される発生論上の初期階梯に溯っていえば、命令者・禁止者は具身の対向的他者である。そして、この具身の命令者・禁止者は、彼の命令・禁止に当方が従わないとき、怒鳴ったり殴打したり……具体的な懲罰を加える強迫的規制者である。しかも、命令・禁止される行動は舞台的場面とも相関的である。一定の舞台的場面における一定の行動の命令・禁止、それの遂行の懲罰的脅迫による強制の受動的体験、加之、命令・禁止の直接的当事者に対する環視的他者たちの加担的支持、命令・禁止への違反にさいしては環視的第三者たちが命令・禁止の当事者に対して懲罰を督促・強要している雰囲気。かかる受動的態勢の反復的体験を通じて、しかじかの舞台的情況場面においてはかくかくの行動の遂行が強請されているという覚識(抽象的に一般化・脱肉化された命令者・禁止者による被命の覚識)が形成されるに至る。詳しくは後論においてより普遍化された機序に即して論攷する予定であるが、暫定的に言い切っておけば、これがいわゆる「一般化された他者の内面化」とか「超自我の形成」とか呼ばれている事態にほかなるまい。が、われわれとしては、神といった超越的命令者や良心といった内在的命令者の相に擬人格化されて覚識される思念相ばかりでなく、舞台的場の強迫(命令・禁止的な場のの強要)という脱人格化された相での覚識をも併せて銘記する。いわゆる当為感・義務感は脱人称化された被命令・被禁止の深層催眠化された覚識態に照応するものと考えられる。かかる当為意識・義務意識に駆られての(許容すべからざる目前の他者の行為に対して深層催眠的に駆動されての)サンクショナルな行動においては、当の意識態の形成の経緯からして、伝習的な既成的価値基準や賞罰規矩におのずと則る所以となる。とはいえ、基準となる価値観や規範なるものが、明示的に定式化され自覚化されているものではないこともあって、サンクショナーの遂行する制裁行動と制裁強度にはバラツキがある。既成的基準・規矩とやらが、斉一的に墨守されるわけでなく、伝習的な価値基準や賞罰規矩がサンクションの蓋然的枠組と標準を劃するという程度にとどまる。――サンクションには、命令・禁止と違反への懲罰という形態ばかりでなく、要望・諫止(かんし)に発するものなどもあり、正のサンクションも勿論存在する。観念的扮技による予習を前梯としてのサンクショナーとして役割取得、わけても、年少者・新参者に対する教育的配慮からするサンクションということなども看過できない。が、これらについても、当為感・義務感にもとづく限りでは上述のところからmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する道理であるから、爰では紙幅を惜しみたい。」447-9P
(対話D−第四の問題)「第四の問題。サンクショナーたちが伝習的な価値基準・賞罰規矩に則るのだとすれば、その規準は世代から世代へと伝承されたはずであり、論理上、第一世代はどこから準則を得たのかという問題が持上がる。この問題は規範的規矩・規則一般に推及される。これは実証的・経験科学的には愚劣な設問であろうとも、論理的には回避しがたい論件かと思われる。人がもし価値基準体系や規範的規則なるものを既定的・既成的なものの相で表象し、それが世代から世代へと継受される状相で表象するとき、慥かに、第一世代がそれをどのように受領・獲得してかが謎めいてくる。人々の日常的意識において規範なるものがその都度の行為に対して先与的既成態(「レディメイド」のルビ)の相に物象化されて覚識されているとしても、しかし、規範なるものが自存するわけでなく、人々のその都度の行為の在り方がいわゆる規範をその都度に生産・再生産するのが実態である。実在するのは一定様式での行動のみである。そしてこの様式的限定は、世代間に相応の類似相を以って継行されるにしても、不易的同一相にあるわけでなく、歴史的に変様して行く、この変様過程を逆に辿れば、歴史的端緒における行動のノルマルな限定は洵(しゅん)にプリミティヴなものであり得たであろう。――規範なるものの物象化的錯認にもとづく起源論上のアポリアとその解決、規範的規則の伝授の場面における不断の“共犯的”な生産・再生産という機制については、如上の示唆的立言によって大宗を理解して頂けることかと念うので、詳説は省くことにしたい。」449P
(対話E−第五の問題)「第五の問題。伝習的規範規則は多分に硬直的同一相で意識されるにしても、そしてまた、歴史的に観望するとき、相応の“自己同一性”を呈することも確かであるが、しかし、第一・第二・第三の問題に即して叙べたフラクチュエイションとズレを孕んだ蓋然的な生産・再生産、これらの継起において存立するそれの存在構制の故に、伝習的な規範規則といえども可塑的であることは贅言(ぜいげん)するまでもない。問題はむしろ、この可塑性にもかかわらず、事実の問題として現に認知されるごとき相応の“自己同一性”“硬直性”が如何にして成立するか、その物象化の機制である。――この問題を解く鍵鑰(「けんやく」のルビ)はインプリシットには已に本節の行文中に与えられているのであるが、主題的には次篇での制度論の論脈内で回答することにしたいと念う。」449-50P
第九段落―― 本節のまとめ&次節の課題−行為の評価 450-1P
(対話@)「省みるに、本節における論述は、幾つかの重大な論件先取を犯している。「規矩」「規則」といった基本的な概念についてさえそれの何たるかの既定を与えていない。剰之(「あまつさえ」のルビ)、行文中に唐突に「命令」「禁止」などの概念を引入れて説明を試みておりながら、それの成立機序を発生論的にも存在論的にも解明していない。――命令・禁止ということは、行動の対他者的「期待」つまりは「役割期待」から説かるべきはずであり、命令者(禁止者)と被命令者(被禁止者)との「地位」的分化の成立と併せて論考さるべきはずである。――価値の問題についても、本巻では主題的・一般的な論究にこそ立入るべくもないにせよ、規範的拘束や賞罰的規制と不可分な部面に関しては論究を省(「はぶ」のルビ)けない道理であろう。ここに宿題が遺されている。」450P
(対話A)「行文の次序として、後論での螺旋的回帰を期しつつ敢えて論点先取を事とした一連の事項論題とするには、役割行為と諸々の制度的編制の物象化的成立・存立の媒介的・被媒介的な関連性を討究する運びとしなければならない。この作業は次篇での論脈に組込むことにする。」450P
(対話B)「次節では差当り、本節内でサンクショナルな規制の対象という論脈でその一部を配視した行為の評価という問題を主題化しておく段である。――本節においては、アリストテレスの卓抜な表現で言えば、「文法的に語る」次元に主として関説し、「文法家的に語る」次元、すなわち、規範的規則体系を自覚しつつ遵奉的に行為する次元にはまだ殆んど論及していない。いわゆるrule-followingの問題一般には立入らないまでも、この欠を次節の論脈内で可及的に埋めることにしたいと念う。」450-1P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(18)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
第二節 規矩形成と規則随順
(この節の問題設定−長い標題)「能為的主体の行為は、実在的な現与的諸条件によって制約されているばかりでなく、“既成的”な諸価値、とりわけ規矩によっても拘束されており、規則随順的な相を呈する。(この規矩的拘束性・規則随順性が、所与の場面において現出するであろう行動相の予料をも蓋然的にする。) ――規矩的規則は、当事者にとって既存していて拘束力を及ぼす或るものの相で覚識されるにしても、必ずしも明晰判明に識られているわけではない。当事者は、規矩的規則体系を明晰判明には識らないにもかかわらず、自他の行動が規矩的規則に適っているか否かを判定でき、規則に適った仕方で身を処すことができる。――規矩・規則は現実的行為に先立って既在するもののように(物象化されて)覚識されようとも、その実態においては、当事主体が一定の在り方で行為する都度に生産・再生産される。」416P
第一段落――規矩的規制への随順性を論件とし、規矩・規範なるものの成立機序の確認を課題にする 417P
(対話@)「われわれが前節において一端にまで説き及んだ行為の“合法則性(Gesetzmäßigkeit)”を周到に論じるためには、場面的情況や道具的諸条件、等々、舞台的な環境による行動の制約性を全面的に配視しつつ討究し、しかも、人格的特性・個性的特徴を有った能為的主体毎の個別的“合法則性”をも論件としなければならないであろう。がしかし、実践的世界の存在構造を主題とする本巻においては、そこまで立入って詳論することは課題外である。――尤も、制度化された舞台的環境による行動制約性、そのことに因る行為的動態の“合法則性”という次元については次篇の論脈内で必要最低限の論攷はおこなう予定である。亦、能為的主体の人格的特性・個性的特徴に応じた行動の個別的具体的“合法則性”という問題については、原理的には已に前篇第三章第二節で叙べたように、抑々、人格的特性・個体的特徴なるものは現与の斯々の条件下で然々の行動相を現出せしめる個人別的な特個性・傾向性に即して“構成的”に措定されるものにほかならないのだが、当事者たちの物象化された日常的覚識においてはそれが逆倒している限りで(つまり、斯々の人格的特性の持主であるが故に然々の行為を出来せしめる筈という期待・予料が“因果法則的に”おこなわれ、その予料が“適中する”という貌をとる限りで)、この現相をもわれわれは次篇の論脈内で配視することになろう。――」417P
(対話A)「茲では、場面的・道具的その他の実在的な制約条件に関しては、それらが規矩的・規則的な拘束の存在条件を成している限りでは勘考しつつも、主題的には括弧内に納め、主眼的には専ら規矩的規制への随順性を論件とし、行為の規則随順の成立場面に溯って発生論的な議論をも或る程度は試みたうえで、規則随順の存立構制の分析、延いては、規矩・規範なるものの成立機序の確認、このたぐいの課題に応えておきたいと念う。」417P
第二段落――発生論的な議論を聊か挿む 418-21P
(対話@)「われわれは前章第三節の論脈内において、一見過分とも思える紙幅を割いて、対抗的即応・模倣的協応という行動発達論上の階梯に留目したのであった。本書では、勿論、行動の発生・発達を詳しく跡づけることは論域外であるが、行為の存在構造を検討するうえで、われわれは行為の形成機序について一定の基礎知識を保有していることが必要でもあり行論上好便でもある。その限りで、前章第三節における発達論的論議を承ける形で、爰で発生論的な議論を聊か挿む作業から始めよう。」418P
(対話A)「惟えば、人間の行動というものは、環境的状況の制約条件下で物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうち、極く限られたものしか現実には発現しない。意図的意識性を伴った行動ともなれば、物理的制約条件が“許容”する行動形態のうち極く極く限られた範囲に納っているのが現実であることが聊か省察してみれば容易に認められよう。では、物理的には可能な筈の多種多様な行動様態のうちの、極く限られた範囲内に現実の行動を“押込める”機制は如何? そこには、おそらく一種の学習(とはいっても、明瞭な意識性を伴うことなき条件反射的“学習”をも含む)にもとづく行動の限定化、つまり、当人は十全にそのことを意識していないとしても試行錯誤を通じて“学び”“体得”した“目的合理的”行動への限定化(“錯誤的”行動様態の“抑制”的消失)の機制も確かに作(「はた」のルビ)らいていることであろう。がしかし、全てが試行錯誤に因るのではなく、或る種の行動は物理的には可能な筈でありながら、そもそも試行されさえもしないのではないか。つまり、試行をすら現成させないような非物理的制約が機能しているのではないか、と想われる。」418P
(対話B)「意図的・企投的な行為の場合には、設定される目標からして、それが期待の察知にもとづくものであれ、いわゆる自発的な企投によるものであれ、世界事象の可能的多肢多様性に比べるとき、極めて限定された埓内にある。人は、なるほど、幻想的目標を立てることも可能であるが、人間の構想力・想像力(「アインビルドゥングスクラフト」のルビ)は悲しむべくも貧弱である。況してや当座の実現を図る現実的目標設定ともなれば、フェア・ウンスには固(「もと」のルビ)よりフェア・エスにも、諸々の制約条件の故に、論理的・物理的な可能域の極く極く狭い範囲内に局定化されている。が、今茲では、この目標設定の限局はさておいて、設定された目標を実現する可能的諸方式に鑑みての、手段的な行動様式の限定性に留目することにしよう。――設定された目標的終局状景へと帰入する手段的行動の進捗過程、この実行様態は、様式的にみるとき、物理的に可能な筈の各種様態のうち、かなり限定された範囲内に納まる。このさい、手段的行動様式が目標そのものによって制限されること当然として、遂行的行為が舞台的条件や道具的条件によって制約され、この制約が行動の具体相にまで及びうることも、殊更に絮言せずに議論を進めうるであろう。また、行動の種類や様式が行動主体の身体構造や生理的機能によって大いに制約されていること、この制約がこれはこれでまた道具的使用の在り方なども制限すること、このことも今茲では銘記しておくだけで足る。如上諸々の制約条件が在るとはいえ、手段的行動の具体的な実行様式にはまだまだ相当の“自由度”がありうる。それにもかかわらず、実際に遂行される行動の様式は、概して狭い枠組内に“押込め”られている看があり、しかも様式的に固定化される傾動を呈する。それでは一体、この様式的限定化・固定化の由って来たるところは奈辺に存するのであるか?」418-9P
(対話C)「発生論的には、基礎的な一機制として、いわゆる「模倣学習」の機制が慥かに勘案されねばなるまい。――前記の通り、われわれはいわゆる試行錯誤の機制を忘失する者ではない。嬰児がよちよち歩きを始めると色々な物に手当り次第に作(「はた」のルビ)らきかけてみること、それはさながらどうすればどうなるかを調べてみていいる風情であり、これを通じて物に作らきかけたさいのディスポジショナルな展相の予料が“確立”していくこと、このことが銘記されねばならない。嬰児は、物を押してみたり、引いてみたり、摑んで投げてみたり、様々な探索行をおこなう。大人の眼から見れば、それはしばしば破壊的であって、障子を破ったり、花弁を毟ったり、紙を引裂いたり、それなりに積極的な働きかけである。が、このような独創的な試行のほかに、嬰児は早期から、いわゆる観察的学習・模倣的学習を積んでいる。――嬰児は早期から大人の行動をじっと観察していて、記憶しているお手本に倣って一種の模倣的な行動をあれこれと実行してみる。(観察的模倣が可能になるのは、あのg男が他人がレモンを舐める行動と自分が舐める行動とを“同一視”できる機制、一般化して言えば、他身と自身との“一体化的同一視”の機制があってのことである。が、この件については、前篇第二章第一節の想起を求めるに留め、ここでは立入らない。)中沢和子氏の観察報告を援用して誌せば、嬰児たちは、例えば、鏡台の抽出を引き開けて、口紅を取出して塗ってみる。顔中真赤にしてしまうのは手許が狂った結果であって、あくまで口唇に塗ろうと努めているとこことである。もう一例だけ引いておこう。嬰児はナイフを持とうものならすぐ取上げられてしまうが、偶々大人の目を盗んで果物ナイフを扱った幸運児は、リンゴを選んで切りつけていて、側にあったミカンや、況んや他の諸々の物には切りつけていなかった由である。(『イメージの誕生』日本放送出版協会、一九七九年刊、四〇頁以下参照。)嬰児は、このような“模倣的”試行をやってみるが、そこで前提的に意識にのぼっている「ああすればこうなる」物、「しかじかするための」物という認知は、他人(大人や兄姉)の特種化された用具的使用の目撃・模倣の埓内にあり、その結果、年長者における用具性認知と同型的な相になっている次第である。(嬰児は、創発的に、エンピツやクレヨンで壁に書いてみたり、口紅で畳に描いてみたり、新規の用途を“開発”したり“発見”したりもする。さらにはまた、後述の「見立て」によって、同じ一本の棒を、或る時には剣に見立て、或る時には銃に見立て、或る時には旗竿に見立てる、というように様々な“用途性”を“発見”しうる。がしかし、用具性と呼べるほどの用途性の原初的な認知は、目撃・模倣的試行によって枠づけられ、成人社会における既成的な用途性、既成的なum-zu連関 (用途制性連関)への組込みと同型的になっているむきが強い。われわれは原初的な場面におけるこの事実を念頭に置いて掛かる必要があろう。)」419-20P
(対話D)「行動の様式化・固定化をもたらすのは、勿論、模倣的学習ばかりではない。対抗的即応において既に行為の様式化・固定化の傾動が生ずる。」421P
(対話E)「惟えば、役割演技は、初次的には概して、対向的な当事他者との共互的・共軛的な行動であり、当事他者の協応的行動様式によって共軛的に規制される。その際の相手の呼応的行動の様式が既成的に固定化しているとすれば、それに協応する共軛的な当方の行動様式も、協応的アンガージュマンがおこなわれるかぎり、おのずと、一定の様式化・固定化を生ずる道理である。」421P
(対話F)「右の立言には、しかし、二つの前件がある。第一には、対向する当事他者の行動様式が既成的に固定化された相に形成されているということ、第二には、自分の側が相手主導の協応にアンガージュするということ、これら二つの前件がそれである。――第一の件は、相手がその行動様式を独創的に編み出したのではなく、彼自身それを別の先行的他者との協応を通じて習得したのだとすれば、順次に溯向すべき所以となり、当の行動様式の歴史的起源という問題をも射程に引入れずにはおかない。第二の件は、自分の側が相手に一方的に“合わせる”必然性はないのであるから、もし事実の問題として、多くの場合に相手に合わせるのが蓋然的であるとすれば、それも当の行動様式を身につける階梯においてとりわけ蓋然的であるとすれば、行動発達論上の初期的な階梯に止目することを要請する。――第一の案件を解く鍵も実は第二の案件に懸っている。けだし、当座の議論の進め方として、対向的当事者の主導下に乳幼児が役割演技の様式を体得して行く場面にまずは留目する所以である。」421P
第三段落――「随意的行動」の様式性について論ずるに模倣的行動を手始めにする 421-8P
(対話@)「嬰児は、あらためて言うまでもなく、いわゆる「生得的解発機構」を基礎にした無条件反応を体現し、各種の条件反応を身につけて行くが、やがて意識性を伴って信号的送受・対抗的即応・模倣的共応をおこなうようになる。――無条件反射行動は勿論のこと単純な条件反射的行動も、まさに生理身体的機構に負うて、行動様式の固定性・一定性を呈する。これらの反射的行動においては、加之、第三者的見地から看取するかぎり、即自的なコード性を認めることができる。特定刺激と特定反応行動とのあいだに一対一的な対応性があり、しかもその特定刺激が他種の刺激と示差的に区別される相にあり、亦、当該の特定反応行動が他種の反応行動と示差的に区別される相にあって、これら双方の示差的区別体系が存立している。このことに鑑みて、刺激と反応行動とのあいだに、コード性(U・エコーの謂う「Sコード」性)が認められると言う次第なのである。――いわゆる随意運動の場合には、単純な反射的行動の場合のようには、話が簡単に運ばない。とはいえ、随意運動と呼ばれるものも総じては結局のところ複雑な条件反応にほかならないかもしれないという大問題は姑く棚上げするとしても、初等的な随意運動はいずれにせよ意識性を“随伴”せる条件反応という域をいくばくも出ないことまでは認められよう。とすれば、そのたぐいの行動の様式に関しても、条件反応なるが故の様式的一定性・固定性を云々することを許されるかと思う。尤も、如上は前梯的確認事項にすぎない。」421-2P
(対話A)「苟くも、所謂「随意的行動」の様式性について論ずるからには、模倣的行動を手始めにするのが順路というものであろう。」422P
(対話B)「模倣的に調整される動作は、イナイイナイバーの如きであれ、遣り取りの如きであれ、発語・発話の如きであれ、――これらがそれ自体、一種の条件づけに因るものかどうかは今問わぬことにして――それがまさに模倣の手本(「フォルビルト」のルビ)という固定化された様式の既成型と同型化するように自身の行動様式を調整するものである以上、模倣的調整を通じて体得される行動形態は所定の様式的な固定化を蒙ることになる。(尤も、嬰児の側は、模倣しない“自由”、すなわち、模倣的追従そのことを“拒む”ないし、独創的な変様方式でのみ応ずる“自由”を“有つ”のであるから、そもそも模倣的追従・模倣的同調が蓋然的に生起する機制が問い返されねばならない。これは規則的随順性、溯っては、規則の成立と存立の機制との関連においても積極的な論点となるべきものである。――が、この件については姑く脇に置いて、模倣的な行動の進捗を一歩先まで追っておこう。) 」422-3P
(対話C)「行動発達論上、役割行動論的に観て重大なステップとして「ゴッコ遊ビ」と総称される模倣的で且つ当事者相互間の共互的な役割演技によって編制されている幼児期の行動がある。ママゴト、オ医者サンゴッコ、学校ゴッコ、戦争ゴッコ、などのたぐいがそれである。――ゴッコ遊ビは、大人の行動編制態のミニアチュアであると目されるかぎり、慥かに大人の行動の模倣ではあるが、しかし、幼児たちは直接に大人の行動を真似るわけではない。幼児達は自分自身の目撃したことのある大人の行動を参考的に取入れて演技しはする。が、ゴッコ遊ビという“劇”は子供の世界内でそれなりに既成化していて、子供の世界内で伝承されるのであって、子供たちは伝承された劇を演ずるというのがむしろ実態に近い。その点では、童歌(「わらべうた」のルビ)とか毬(「まり」のルビ)ツキとか、綾取りとか、縄跳ビとか、このたぐいの伝承的な行動様式の編制態と同趣なのである。従って、模倣を云々するにしても手本となるのは主として先輩の演技である。ママゴトやオ人形サンゴッコなどにあっては、自分で直接に目撃したことのある大人の行動が大いに参酌されることも確かであり、その都度の“新作劇”の趣きが強いことも認められるが、一人遊ビや並行遊ビの域を脱するや、“伝承劇”の型に嵌った相になるのが普通であろう。――幼児が大人の実生活行動様式をも参酌しつつ、先輩の演技的行動様式に自身の行動様式を模倣的に同型化するゴッコ遊ビを通じて、一般化して言えば、遊び仲間の行動様式に同化して行くことを通じて、行動様式の一定性・固定性を体現するようになること、このことをそれ自体については最早喋々するは及ぶまい。ここで特筆しておきたいのは、ゴッコ遊ビの階梯が自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順的行動の端緒、ないしは尠なくともそれの直截的な前梯をなすという事情である。」423P
(対話D)「ゴッコ遊ビは、行動の発達上(従って亦、その構造内的契機を成す認知の発達上)種々の観点から言って極めて重要であるが、自覚的な規則随順的行動の形成を視軸にする茲では、取敢えず次の三点を銘記すれば足ろう。」424P
(対話E−第一)「第一に「見立て」という契機である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちは、自分および他人を、母親・父親、医者・患者、先生・生徒、……に見立てる。また、木の葉を皿に、砂を御飯に……、棒を剣に……というように見立てる。与件Aをそれとは別なBとして見做す「見立て」の構制は、学理的に省察すれば現相界汎通的に見出させるものであり、言語的記号(象徴)活動の場でいちはやくフェア・エスに一応成立しているものであるが、ゴッコ遊ビの場面における象徴的見立てには特筆に値すべき自覚性が現存する。惟うに、幼児は、象徴的言語活動においても、音声与件Aをそれとは別な意味Bとして把捉するとはいえ、言語活動が円滑に進捗しているかぎり、記号的与件それ自体は強く意識されず、従って、AをBとして見做しているという明確な意識は欠く態勢にあろう。ところが、ゴッコ遊ビにおける用具の見立てにあっては、所与AはおよそBとは違うということを明識しつつ、しかもそのAはBとして見做すのである。ゴッコ遊ビにおいては役の見立てに関しても同断であって、自分はおよそママではないことを自覚しつつもその自分をママとして見做し、相手はおよそ先生でないことを意識しつつもその相手を先生と見做す……というように、二項的区別相を明識しつつ等値化的統一がおこなわれる。しかも、ゴッコ遊ビが成立しているかぎり、この等値化的統一は誰か独りの思念ではなく参加者全員の共有的見立てなのであり、子供たちはこの見立ての共有性を自覚している。がしかし、言語的象徴などの場合とは違って、その見立て・見做しはいつどこでも通用する謂うなれば“自然的”な事態ではないこと、今この遊ビの場においてのみ謂うなれば“約定”的に共有されているものにすぎないこと、このことをも子供たちは併せて承知している。“自然的(「ピュセイ」のルビ)”ならざる斯かる“約定的(「ノモイ」のルビ)”な見做しという契機がまずは銘記されねばならない。」424P
(対話F−第二)「第二に「役割取得」そして往々にして「役割交換」の体験という契機。――ゴッコ遊ビにおいては、子供は自分を、例えばママとか戦士とか、一定の役柄的存在者に見立てることに応じて、その役柄をそっくり我が身に引請けて演じる。なるほど、役柄取得という構制は、第三者的な見地から見れば、対話における話し手または聞き手としての役割取得とか、遣り取りにおける与え手または受け手としての役割取得とか、このような場面からいちはやく見られる。とはいえ、子供当人にとって、演技さるべき役割行動のシステムとも謂うべき役柄がそれとして意識化されて、自覚的に引請けられるようになるのは、何といってもゴッコ遊ビにおいてであろう。(弟妹が生まれた後、兄ないし姉の役柄を取得するケースのうち、兄・姉としての役割演技を大人から直接に仕込まれるのではなく、自分にとっての兄・姉の既往における役柄存在を真似る場合などは、模倣的機制による役柄取得の初期形態として、ゴッコと併せて勘案されねばなるまい。が、当面の論趣には響かないので、これには立入らないことにする。)子供は 役柄を取得しそれを実演してみる体験を通じて、その役柄存在者の見地からものごとの観方を学び、また、その役割動作の様式を明晰判明に体得する。この学習は現実の生活において当の役柄と共軛的な役割行動をおこなううえで重要性をもつ。そもそも役柄の直截な取得が可能なのは、平常その役柄の演行を目撃・観察していてVorbilt(眼前像=お手本、先導像)を獲得していることに負うてである。が、観察といっても、或る時期以降は単なる観照ではなく、予料を伴うばかりか、観念的扮技(実地の模倣扮技ではないが観念上の模倣扮技)をも往々にして伴っており、謂うなれば観念的扮技という仕方での練習になっているむきが認められよう。(観念的扮技といっても、筋肉の微妙な動きなど、恰度、黙読のつもりでも唇が動いているように、実地的行動の場合と生理的態勢が似た形になっていることも考えられる。因みに、生後すぐから隔離して飼育したサルはセックスや子育てに齟齬を生ずると報告されている。自然状態では目撃を機縁にしての観念的模倣扮技による“学習”がおこなわれている一証左と言えよう。)このような観察的学習・観念的模倣があればこそ、ゴッコ遊ビでの役柄取得演技も用意かつ円滑に進む次第であるが、反(「かえ」のルビ)っては亦、ゴッコ遊びという“実地演習”によって以後の観念的扮技がより十全なものとなり、以って、その役柄と共軛的な実地演技もより周到になりうる。「役柄交換」の体験が愈々(いよいよ)それを促進することは絮言するまでもあるまい。ゴッコ遊ビは、勿論、役柄交換を常に伴うわけではない。同じメンバーののあいだでも役柄交換がおこなわれる場合もあるが、メンバーが同じであれば役柄が固定化されるという径行もありえよう。しかし、別のメンバーのあいだでゴッコ遊ビがおこなわれると、他処(「よそ」のルビ)ではオ医者サン専任だった子が此処では患者の一人になるという具合に、役替りが生ずる。子供たちは交替的に種々様々な役柄を扮技することによって、啻に多種多様な役柄存在を体得するだけでなく、共軛的役柄演技の阿吽(「あうん」のルビ)の呼吸を身につける。」425-6P
(対話G−第三)「第三に挙げておきたいのは「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」の現識である。――ゴッコ遊ビにおいては、子供たちの見立てによって役柄を取得するが、元来この見立てが二項的区別性の覚識を伴う等値化的統一の認知態であることに加えて、役柄演技の稚拙や中途放棄を機縁にして役柄存在と扮技主体との結合は恰かも“仮想的着用”にすぎないもののように覚知される。この仮想的な“着用”“脱却”の覚知は、ゴッコの開始時・終了時にも感受される。学理的な見地から言えば、役柄存在と扮技主体との区別性という構制は、役柄扮技一般において汎通的に存立するものであるのだが、日常的には成人ですら恒に必ずそのことを現識しているわけではない。成程、子供は余所(「よそ」のルビ)行用のオリコウサンに振舞っている自分、お客様の前での気取ったママなど“本来の姿”と“見せ掛け(pretension)”との区別性や“仮想的な脱・着”を覚知する機会を有ちうる。がしかし、実際問題として「“役柄存在”と“扮技主体”との区別性」を子供が明識化するのは、保育園でのお芝居を措くかぎり、何といってもゴッコ遊ビの体験の場を主斑としてであろうと想われる。役柄存在と扮技主体とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に分断するこの思念的覚識の形成は、一方においては、役柄の物象化的自存視の前梯的条件として閉却すべからざるものであり、他方においては、主体なるものを役割的行動から截断して実体視する一機縁としても無視すべからざるものである。子供はゴッコ遊ビの発達段階における各種の(必ずしもゴッコだけとは限らぬ)共互的役割行動を通じて、他人をも自発・自律的な行為主体として諒解するようになる。この点に徴してもゴッコ遊ビは格別な留意に値するが、ここではひとまず以上の登記に止めておこう。」426-7P
(対話H)「茲に当座の論脈で指摘しておきたいことは、ゴッコ遊ビには自覚的な規則(「ルール」のルビ)随順性の尠なくとも萌芽が見られる、という点である。即自的・無自覚的なルール随順性であれば、遣り取りや言語活動などの場面においても既に存立している。が、しかし、嬰児は遣り取りのルールや文法的ルールをおよそ其れとしては意識していないことであろう。ところが、ゴッコ遊ビにおいては、用具や役柄に関わる“約定”的な見立て・見做しを基礎にして、“扮技の主体”がこの“約定的”な共有的見做しに随(「したが」のルビ)った行動をおこなう“べき”ことが自覚的に諒解されている。例えばママゴトにおいては、パパ役の扮技主体はパパらしく、ママ役の扮技主体はママらしく、コドモ役はコドモらしくそれぞれ振舞わねばならないのであって、コドモ役を取得している者が突然ママ役を演じてしまうといったことは禁じられていることが共通の諒解事項になっている。ゴッコ遊ビにおいては、所定の役柄の埓内で演技すべきこと、裏返して言えば、所定の役柄の埓を破る行動をしないこと、これが自覚的に共有されている“ルール”なのである。この“ルール”は、敢えてルールとは呼んでも、ルール以前的な暗黙の約束にすぎず、そこでのルール的細則は演ぜられる役柄にビルト・インされていて明示的な規則をなしていない。そのかぎりで、ゴッコ遊ビは一般にはまだ自覚的なルール随順行動の先駆的形態と言うべきかもしれない。(オニゴッコ、ないし、カクレンボは、明確なルールを有っているが、これはゴッコの名こそついていても、別カテゴリーだという見方もありえよう。)われわれはゴッコに留目するのは、しかし、それがまさしくこの前駆的ないし過渡的な相にあるからこそなのである。――子供はゴッコ遊ビの段階において、唯単なる生理主体的な制約とか、舞台的・用具的制約とか、共演者の動作への即応上の制約とか、この種の“実在的”な制約による行動様式の限定とは別種の“規範的”な制約による自覚的な行動制御をおこなうようになる。」427-8P・・・ジェンダー形成のメカニズムもも押さえること
第四段落――行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか? 428-32P
(対話@)「ルール随順行動は、ゴッコ遊ビに関説した右の行文中でも叙べた通り、ルールをルールとして明識したうえで開始されるものではない。では、行動の意識的ルール随順性は如何にして成立するのであるか? 溯っては、そもそもルールなるものが如何にして形成されるものであるか?」428P
(対話A)「発生論的・発達論的な経緯を詳しく跡づける心算はないが、茲では、ルール遊ビ、すなわち、ジャンケン・カゴメカゴメ……メンコ・ビー玉……五目並べ・碁・将棋……ドッジボール・野球……といった明示的なルールを有つ遊ビ(ゲーム)を視野に入れつつ、しかも、一般論としては、慣習・慣行・習俗・風俗……等々、そして勿論、言語的文法のたぐいに関しても妥当する議論の一端を陳べておこう。」428P
(対話B)「行動の規則随順性と言うとき、その一班については嚮に先廻りして記しておいた通り、即自的な規則随順性、すなわち、第三者的・省察的見地からは合規則的と認められても行為者当人は別段自己の行動を規則に随って律しているわけではない場合と、対自的=自覚的な随順性とを区別する必要がある。発生論的事実の問題として言えば、無論、即自的な随順性を前梯にして対自的な規則随順的行動が形成される。――即自的な規則随順性は、無条件的・条件的な反応行動における法則性・コード性において存立するし、模倣行動においては、模倣されるお手本が規則随順的であるかぎり、当人は模倣の意識性こそ持っておれ、そこでの規則性には無自覚なまま、即自的な規則随順的行動が遂行されうるし、その規則随順性が身につきうる。そして、この即自的に身につけた規則性を反省的に自覚することにおいて、自覚的な規則随順的行動を遂行しうるようになる(文法が一典型)。序(「ついで」のルビ)ながら、ルールには協約・約定によって自覚的に形成されるものもあるが、そのようなルールとて大抵は既成のルールの推及や改訂であって、先行的な既成的ルールを前提とする。――規則随順的行動が自覚されるのは、一般論として言えば、模倣的行動(観念的模倣扮技を含む)を通じてであると言えよう。」428-9P
(対話C)「議論に多少とも具体性をもたせるべく、或る幼稚園で「初めてドッジボールを導入した例」を論材にしてみたいと念う。」429P
(対話D)「「保育者が、ま新しいボールをもって園庭に出て、ドリブルで走ってみせると、たちまち数人の男児たちが集まり……ドッジボールが始った。ルールを知っていた子どもたちがリーダーになったことはいうまでもない。――その後もこの新しい遊びは同じメンバーで二週間以上集中的に続いた。……ある朝、保育者が、この子どもたちを園外に連れだした。子どもたちがでていくと、それぞれの遊びをしていた他の子どもたちがホールや保育室からのこのことコートに集まってきてドッジボールを始めた。だれも教えなかったのに、子どもたち持ち寄りルールから合成された園のドッジボールのルールをちゃんと知っていて、最初の子どもたちが始めたときよりずっとうまくドッジボールをやった。保育者たちはこれを“二軍”と呼び、第四軍まであることを確かめた。これは五歳児のほとんど全員だったのである。/これは保育者が資料を得ようとして実験的に行なったものだが、それぞれの活動について経験的に同じようなことが知られている。保育者たちは、一つのことを全員に教えるよりも、いくつかのグループが違うことを同時にしている方がはるかに子どもの得るものは大きい、と自信をもって言う。これは子どもの学び合う力を信頼したうえで成立つ。」(前掲『イメージの誕生』一七五頁以下。)」429P
(対話E)「右の例は「子どもへの信頼」という小節内で挙げられているのであって、ルール随順性が主題とされているわけではなく、況してやルール取得の構制が論じられているものではない。が、われわれとしては、この論材に即しての次のことを立言しても大過ないのではあるまいか。」429-30P
(対話F)「ルールを既知であった“一軍”メンバーは脇に置いて、第二軍以下、つまり、別段ルールを教えられることもなく、唯単に観戦していただけでドッジボールのルールを習得した子供たちについて言えば、彼らは俗に謂う「見様見真似」でルールを身につけたわけである。見様見真似というのは、一種の模倣的追随には違いないが、しかし、単なる仕草の模倣ではない。単なる模倣行動であれば、お手本と同型の仕草をすれば済む。ところが、よしんば全く同型の逃避行動ないし受球行動であっても、或いは亦、全く同型の投球攻撃行動であっても、ラインの内側でおこなわれるか外側でおこなわれるかで全然意味が違う。同型の仕草を模倣的に習得しただけではドッジボールというルール遊ビを習得したことにはならない。ここで肝要なのはルールに叶った行動をするようになることなのであって、ルールに叶ってさえいれば、仕草(行動の所作的様態)を真似る必要は毛頭ない。模倣とはいっても、ここでの範型は、所作の型態ではなく、ルール適合性・随順性である。」430P
(対話G)「それでは、ルール随順性の模倣的習得とは、実質的に言って、如何なる構制の事態であるのか?」430P
(対話H)「子供たちは、ルール・ブックで学んだり、ルールの説明を聞いたり場合を別とすれば、別段、ルールなるものそれ自体を対象的知識として認知・記憶するのではない。現に幼ない子供たちは、所与の行動が合則的か反則的かを個々には精確に判別できるようになっていてさえ、ルールという一体系を知識のかたちで説述することは覚束ない。それもおそらくは説明力の不足なのではなく、そもそもルール体系が知識のかたちに整理されて頭に入ってはいないせいであろう。(俗に身体(「からだ」のルビ)で憶えるとか、要領を身につけるとか言うが、名人芸の職人がノウハウを説述できないのにも似て、それは知識化されているには及ばないのである。)ドッジボールのプレイヤーたち(観戦による観念的扮技者をも含む)は、ドッジ・ライン!の内側に居る者と外側に居る者とのそれぞれの「役柄」を認識している。(内側の者は、外側から飛来するボールが自身に直接当らないよう逃避するか、または、外側から飛来するボールを受留める、という役割行動を期待されていること。外側の者は、内側の者にボールを投げつけ。、しかも可及的に、受留められないように投げつける、という役割行動を期待されていること、この役柄の了解が前件をなす。そして、この役柄の“約定”的な規定自体、ルール体系の一部を形成する。)さて、そのうえで、夫々はラインの内側・外側という所定の舞台で行動すべきこと、外側のプレイヤーAが内側のプレイヤーBにボールを“当て”た時にはAとBとが内・外の地位を交替すべきこと、内側の者がプレー中にラインを踰越(「ふみこ」のルビ)した場合には(罰則として)外側の役に廻るべきこと、外側の者が越境して投球した場合にはボールが首尾よく“当っ”たとしても無効(反則)であること、このたぐいの“約定”をプレイヤーたちは“体現”する。見様見真似で修業中の者も、プレイヤーの位置に観念的に身を置き、観念的に扮技することを通じて、行動様式と当該の“約定”ルールを“身につけて”行く。」430-1P
(対話I)「ゲーム(ルール遊ビ)を実地に習得中の子供も、見様見真似で観念的に修業中の者も、先述した通り、ルールという対象的知識を学習するのではなく、ドッジボールの場合で言えば、例えば、ボールを“当て”たら当然の要求として内役と交替すること、ボールが“当っ”たら已むを得ざる仕儀として外役に廻ること、踰越したら従容として外役に移ること、このたぐいの行動の在り方を身につけるのである。そのさい、右に付記しておいたごとき態度も身につくが、併せて亦、例えば、ボールが“当っ”たにもかかわらず外役に移ろうとしない者があるような場合には、憤激・非難するような心態も形成される。」431P
(対話J)「ルール随順的行動性の“模倣的”習得というのは、さしあたり、右の如き事態の形成の謂いにほかならない。――如上の随順性が“身につく”かぎりで、一般に役割演技行動は、“実在的”諸制約による行動様態の限局という域を超えて、“規範的”合法則性、ルール随順性・適合性という限定相に整型化される。」431P
(対話K)「以上の行論では、しかし、事態の表層的な確認でありえても、究明さるべき真の問題性はまだ殆んど手つかずのままに遺されている。既述の範囲では、役割演技者たちが既成の合規則的行動にアンガージュすること、見様見真似で模倣的に追随しようとすること、このことが、恰かも当然の傾動であるかのように扱われている。亦、その都度の新参者に対するルールの先与的な既在性が前提とされており、ルールそのものの成立の機序が検討の埒外に措かれたままになっている。だが、嚮に誌しておいた通り、実はこれらの前件が大問題なのである。」432P
(対話L)「今や、前件に、論理的にも発生論的にも溯向して討究すべき段である。そのさいには、当然サンクショナルな規制が視野に入れられねばならない。」432P
第五段落――サンクショナルな規制を視野に入れて、論理的にも発生論的にも溯向して討究する−三つの着眼点に即しての評価 432-5P
(対話@)「所業的行為は、次節での論点を先取りして言えば、当事他者の見地からであれ、環視的他者たちの見地からであれ、当事主体自身の反省的見地かであれ、――所業的行為を対象的に認知するとき、総じては、所業のもついわゆる、“客観的意味”に即して評価されるのではあるが、つまり、当該の所業を社会的行為体系のコンテクストに置いてurteilen(判断)し、価値的評価体系に鑑みてbeurteilen(価値判断)されるのであるが、とりあえず単位行為については――いずれも、三つの着眼点に即して評価されうる。」432P
(対話A)「第一は、当該行為の志向的目的そのもの、ないしは、目的志向的企投そのことに即してであり、第二は、当該行為の実行的所作に即してであり、第三は、当該行為の動機に即してである。」432P
(対話B)「われわれは、今茲では、行為・行動の分類に立入る段ではなく、行為の目的・所作・動機をそれらの多様性を分出しつつ緻密に規定しうる段にはない。原理的には、他者的な見地からする、目的や動機の事後的認知なることの認識論的権利づけという大問題すら控えている。が、茲では敢えて半ば論件先取を犯しつつ、議論の焦点をもっぱら、「行為の賞罰的(「サンクショナル」のルビ)規制」に絞り、行論にとって不可欠な範囲でのみ目的や動機の問題をも配視する便法を採ることにしたいと念う。」432-3P
(対話C)「偖、賞・罰は、前記の三つの着眼点に即して、すなわち、(1)目的そのもの、ないし、企投そのことに即して、(2)所作に即して、(3)動機に即して、おこなわれる。が、そのさい、(1)、(2)、(3)は相対的に独立であって、目的は賞して所作を罰するとか、所業は罰して動機は賞するとか、等々の場合を生じうる。」433P
(対話D)「正・負のサンクションたる賞・罰は――理論的には、責任の主体性という問題とも絡み、それの権利づけを尭(たか)って古来論議の囂(「かまびす」のルビ)しい論件であるが、この部面については後論に持越すことにして――実地的に言えば、サンクションの対象となる行為の主体に、それ以後の行動に関して、鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼすことにおいて現実的機能を果たす。」433P
(対話E)「この鼓舞的または禁圧的な影響を及ぼす者、すなわちサンクショナーは、発達心理学的・行動発達論的には、先ずは、対向的行為の当事他者であり、次では、環視的第三者である。尤も、この者は、彼が与件的行為の単なる環視者であったかぎりでのみ第三者なのであって、賞罰的行動に乗り出した場面では、賞罰という対向的行動の当事他者に転成する。更には、これらサンクショナーたる他者が“内面化”されて、行為者本人が自己分裂的自己統一の相で、自己の行為に対して賞罰的に関わるようにもなる。が、“他者の内面化”という次元は姑く措いて、さしあたっては、対向的当事他者の賞罰的規制に止目することにしよう。――尚、“全く同一”の所与的行為に対して、例えば父親はそれを賞し母親はそれを罰するというように、サンクショナーたちのあいだに不統一・対立の場合を生じうる。また、“全く同一”としか思えない行為に関して、例えば同じ母親が或る時には賞し或る時には罰するといった不斉合のある場合も生じする。(この不整合的分裂性は、或る種の精神病の発生との関連などを持出すまでもなく、いわゆる人格形成の論脈で重要な論件となる。)一般論として、賞罰行動と相即する価値規範体系が他者たち一般において単一的で普遍妥当的というわけではなく、従って所与の行為が被むるサンクションは決して一義的とは言えない。ここに重要な案件が存在することを銘記したうえで、しかし、当座の議論としてはサンクションがほぼ整合的な場面に即してひとまず叙べておくことにしたい。」433-4P
(対話F)「今、対向的な当事他者の行動というとき、この概念を広義に用い、元来は環視的第三者であった者のサンクショナルな反応を含めるだけでなく、即自的な賞罰行動、すなわち、別段賞罰的な行動という自覚性を伴うことなきサンクションをも含めることにしよう。例えば、子供の行動に接して母親が想わず喜んだり悲しんだりする反応も、それがあの表情感得・情動共鳴の機制によって子供の側にも喜び又は悲しみの感情をもたらし、この体験がその後における子供の行動に鼓舞的/禁圧的な影響を及ぼすものと認められる場合、賞罰の自覚性を欠く母親の当該反応をもサンクションに算入する。子供の行動に接して友達が大喜びしたり激怒したり、上機嫌になったり不機嫌になったりする反応についても同断である。――サンクションと言うとき、功賞や刑罰のごときを直ちに思い泛かべるかどうかは別として、人はとかく褒賞と懲罰というように概念化した相で考えたがる。そして、そこでは、サンクショナーが義務感に駆られた役割行動として賞罰行動を決意的におこなうとまでは言わぬまでも、賞罰遂行の当為(「ゾレン」のルビ)意識を伴ったサンクションを思い描きがちである。慥かに、親が子を叱ったり、一般に大人が“教育者”的に振舞いつつ年少者を褒めたり叱ったりするような場合、私情に駆られた即自的な反応ではなく、当為意識を伴った自覚的な賞罰の行動をおこなっていることが認められる。がしかし、現実の生活実践の場で不断におこなわれているサンクションの圧倒的大部分はそれと自覚することのなき即自的な賞罰であって、当為意識を伴う自覚的サンクションは九牛の一毛にすぎないのが実情である。――われわれは前篇第一章において表情現相の汎通性を確認し、表情性現相の内自的規定をも分析しておいたのであったが、現前する他人たちの表情性現相はそこに内自有化せる情緒価・行動価が多分に「即自的な“賞罰価”」ビルト・インしているとでも謂うべき態勢にある。“賞・罰”価という概念を狭義に規定するとすれば、他人の表情性現相といえども“賞・罰”価を内自有化しているものは一部分にすぎないということになろう。だが、“賞・罰”価ということを稍広義に規定する場合には、他人の表情性反応の極めて多くのものが「即自的な“賞罰価”」を帯びているものと認められる筈である。」434-5P
(対話G)「われわれとしては、こうして、いずれにせよ、情動的反応行動の階梯から始まる即自的なサンクションに定位しつつ行動の賞罰的規制を問題にして行かねばならない。という次第で、「他人の表情性反応」の「即自的な“賞罰価”」に留目しつつ、行為とその様式の規範的限局制が如何様に進捗していくかを一瞥し、就中、規則(「ルール」のルビ)随順性の成立機序を見定める段取りである。」435P
第六段落――語の広義におけるサンクショナルな行動規制 435-8P
(対話@)「上述の通り、行為の評価は目的・所作・動機という三つの着眼点から別々におこなわれうる。尤も、発達心理学上・行動発達論上の初期的階梯にあっては、行為者本人において目標と所作とが十全に分節化して意識されているかどうかすら疑われうるし、況んや動機の自覚を伴うことは覚束ないであろう。そして、乳幼児の行動に対する親兄姉その他の対向的・環視的な“賞罰”反応も、目的・所作・動機の分析的評価に基く場合はむしろ稀であって、一般にはまさに即自的な反応たるに止まる。が、そのような埓においてさえ、語の広義におけるサンクショナルな行動規制がいちはやくおこなわれる所以となっている。」435P
(対話A)「広義のサンクションと謂うとき、われわれとしては、「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトルで考える。(狭義のサンクションにおいては「許容・委棄」のゾーンが中性的見做される。)この広義のサンクション概念に即する場合、笑顔の表情による継行の許容や、無記(「ニュートラル」のルビ)な態度による継行の委棄のごときも対向的なサンクションの行動の内に算入される所以となり、対向的反応の殆んど一切がサンクショナルな意義を有つ、と言うこともできよう。」435-6P
(対話B)「ところで、インプリシットには既に述べたことであるが、対向的当事他者の強い情動的反応、嬉怒哀怖という類(「たぐい」のルビ)の表情性反応は已(「すで」のルビ)にしてかなり狭義のサンクショナルな意義を有ちうる。況んや亦、感嘆の声(マー、オジョウズネ、……)、嗟嘆の声(アラ、アーア、……)のごときや、褒誉の言葉や難詰の言葉のごときは、乳児が言語的意味を理解できるようになる以前から、その音声の表情価によってサンクショナルな機能を果たしうる。」436P
(対話C)「発達上の初期的階梯におけるサンクションにあっては、所与的行為者の側もサンクショナーの側も、対象的行為を分析的には覚識しないにしても、しかし、乳・幼児の行動が発達するにつれて、まずは年長者たるサンクショナーの側が、所与の対象的な行動の目的・所作・動機を分析的に覚識するようになり、しかも、自覚的な賞罰的行動をおこなうようになる。例えば、子供が突然ママの顔を叩く。ママは叱る。が、蚊を打(「ぶ」のルビ)とうとしたことに気がついて、所作を罰しても目的や動機は賞する場合が出来(「しゅったい」のルビ)する。オ手伝イしようとして邪魔になって叱られる場合など目的そのものは賞されるとしても、所作を禁圧されることによって、実質的には当の目的志向的企投が禁圧されてしまうといったケースも生じうる。が、一般論として、目的・所作・動機のそれぞれに応じたサンクションを体験することを通じて、子供に対するサンクションの効果も分節化したものになって行く。そして、この分節が子供にとっても対自化されるようになる。」436P
(対話D)「この準位に達したとしても、しかし、子供の側と大人の側との非対称性はなかなか克服されない。大人つまりサンクショナーの側としては、所与的行動の目的・所作・動機を評価する価値規準体系を一応は持っている。なるほど、大人の側の価値評価なるものも必ずしも明晰判明ではなく、極言すれば大人の賞罰的行動自体が一種の条件反射に類する域に止っているケースも尠なしとしない。評価規準がそれなりに意識されていても、それの正当性が十全に理由づけられているわけではなく、まさに因習的な価値観、世間様の価値観を無批判的に受け容れてしまっているというのが実態であろう。が、しかし、よしんば“世間”の価値観に同化してしまっているだけだとしても、大人のサンクショナルな行動には概ね“体系的”な価値規準がある。しかるに、子供の側は、サンクショナーたる大人の順拠する価値規準体系を知らない。仮令大人がそれを教え込もうとしても、初めからは体系の形で教えるべくもない。子供は個別ケースごとに、これは賞される、(これは許容される、これは委棄される)、これは罰せられる、ということを体験してゆくのみである。しかも、同じ目的志向・同じ所作方式・同じ抱懐動機と思えるものであっても、舞台的情況をはじめとする諸々の条件のコンテクストに応じて、賞と罰とが岐れるのであって、肌理(「きめ」のルビ)の細(「こま」のルビ)かい分類的な同定を身につけるに及ぶ。そして、実は、このようにしてサンクショナーたちの側の価値評価を同化的に共有する域に達したとき、彼は嚮に謂う「価値規準体系」を身につけるに至ったと認められるのである。」436-7P
(対話E)「翻って、賞罰的効能は表情性現相一般が発揮しうること上述の通りであり(ヒトの場合、「笑い」による賞罰が極めて重要な地歩を占めることはデュルケーム学派などによって夙(「つと」のルビ)に指摘されているところであるが、ここでは立入らない)、また、言語的言明による賞罰、愛撫や殴打といった身体的な直接行動による賞罰などもあり、賞罰の実行方式は極めて多岐多様である。が、賞・罰は鼓舞的または禁圧的な効果を現実化しうれば足るのであって、それがいかなる実行方式でおこなわれるか、爰ではこれの具体相の論述は須いないであろう。――サンクションには、公的権力機関による命令・禁止、それの遵守・違反を介しての賞・罰のごときも存在し、高等なサンクションにおいては、物品的・栄誉的な授賞、肉体的・精神的な応懲の多岐多様な手段が用いられる。われわれはこの事実を忘佚する者ではありえないが、そのような高次のサンクションについては当座の論脈ではまた立入るを得ないしその要もあるまい。」437P
(対話F)「われわれは、しかし、茲で或る重大な事実について一言しておかねばならない。それは、賞罰(「褒賞−許容−委棄−懲罰」)というものは、直接自分に加えられた体験ばかりでなく、謂うなれば“間接的な体験”とも呼びうるものを通じてもサンクショナルな実を収めするという事実である。賞罰の“間接的な体験”と謂うのは、他者の受ける賞罰の目撃・伝聞・理解のたぐいであって、嚮に叙べた「観念的模倣学習」「観念的扮技」の機制によって、人は他人の蒙むる賞罰行動を自身において観念的に扮技し、以ってサンクションを“間接的に体験”する。この観念的扮技、自身を他身に置き移しての“想像的”な体験、これらのうちには、なるほど、たかだか“知識”のかたちで保持されて、同趣の場面に自身が際会した折に“参酌”される、という域をいくばくも出ぬものもあろう。いわゆる「見せしめ」“公開的懲罰”や「表彰」のたぐいは、それで結構“間接的体験”のサンクショナルな実を挙げる。がしかし、初次的・日常的な各種サンクションの“間接的体験”にあっては、人々は多くの場合、あの観念的扮技にさいしてvorbildlich(手本とすべき,模範的)な他人とのあいだに俗に謂う“感情移入的一体化”、いなむしろ“身体移入的一体化”を遂げており、サンクションを“自身に刻み込む”に及ぶ。そのため、被賞罰の観念的扮技体験が自身における現実的被賞罰の体験とほぼ同効に機能しうる所以となる。わけても幼児期においては、兄弟や友達の受けているサンクションの目撃が、その折りに往々“身体移入的一体化”を現成せしめているだけに、我が身の行動陶冶にストレートに影響する。――こうして、サンクショナルな行動規制は、被賞罰の“間接的体験”を通じても進捗するのである。」437-8P
第七段落――行為規則的規範を巡って陳べる 438-43P
(対話@)「われわれは、今や、以上でサンクションに関説したところを踏んで、先刻来の懸案にもようやく答えて行くことが可能となっている。爰でまず陳べたいのは行為規則的規範を巡ってである。――茲では、実定法といった次元を念頭に置き、狭義でのゲーム・ルールのごときだけでなく、いわゆる作法などにも見られる規範的規則をも視野に入れ、先にゲームのルールに関説しつつも遺してきた課題に応えようと図る。」439-9P
(対話A)「惟えば、行為の規範的規則(「ルール」のルビ)に属するものは、――それに則って(つまり、逸脱せずに)行動するのが当然だと思念されていることに見合って――それを遵守したからといってとりたてて正のサンクションを受けないが、それに違反しようものなら厳しい負のサンクションを受ける。(行為のうちには、或る種の自己犠牲的行為といった「高貴な倫理的行為」のように、それをおこなえば高い価値評価を受け、大きな正のサンクションを受けるが、それをおこなわなかったからといって殊更に負のサンクションを受けるというほどのことはない類(「たぐい」のルビ)のものがある。名人技やファインプレーのごときもこの類に入る。ルール遵守的な行動は、この類の行為と対蹠的である。)また、規則的拘束は、合則・反則(適法・違法)だけを命令・禁止するにとどまり、一般の規範的拘束のように仕草(遂行様態)、はては目的や動機の懐き方のごときまで容喙(ようかい)するようなことはない。反則への制裁にさいして目的や動機が勘案されるとしても、それは情状酌量としてであって、行動の目的・様態・動機そのものは元来は判定の埒外に置かれている。」439P
(対話B)「規範的なルールに徴しての合則的・反則的な行動に対するサンクションは、前段の前半に指摘した在り方に鑑みるとき、サンクション一般における「褒賞−許容−委棄−懲罰」というスペクトル中、(褒賞−許容−委棄)と(懲罰)との間に截然たる劃線がある。しかもここでは、褒賞と呼ばれうるほどの積極的な正のサンクションはおこなわれないのであるから、「許容・委棄」という消極的な(弱い)“正”のサンクションと「懲罰」という強い負のサンクションとの二種があるのみ、と言うこともできよう。――ここにあっては、ルール遵守の強い命令(must)、および、ルール違反の強い禁止(must not)、そして、適法たるかぎりでのありとあらゆる行動(目的志向・遂行様態・起行動機)の許容・委棄(may,allow)という構制になっているわけである。」439P
(対話C)「では、このような稍々特異なサンクションの執行規矩ともなる規範的なルールは如何にして成立・存立するのか? ルールなるものが、ルール・ブックの内に実在するのではなく、人々の行動様式に体現されてのみ実在するのである以上、行動者たちが常態的に体現している当の合則的挙措の成立・存立機制がここでの論件にほかならない。」439-40P
(対話D)「ルールが実定的に約定されるのは特殊例外的なケースであり、一般には伝習的なルールが踏襲される。新規の約定と称されるものですら実質的には既成のルールの変形・改作という大枠を出ないのが普通である。それゆえ、伝習的ルールの踏襲から見て行くのが順序かと思われるが、子供たちのゲーム遊ビ等にあっても、ルールの“新規的約定”(遊び仲間内での整調的“約定”)が存外と生起してることでもあり、論件を対自化する一具としても、敢えてルール約定の場面を一瞥することから始めよう。(ここでは勿論まだ、結社の規約や国家の法律といった次元は措く。)」440P
(対話E)「人々が合い寄って、斯々然々の条件を充たす行動のみをおこなうことを約束するとき、ブリミティヴな行動ルールが約定的に成立する第一階梯となる。当の約束事を遵奉(違反を抑止)することの誓約にもとづいて、参加者たちに約定に則った行動を強制(違反者を制裁)することが実効性をもって施行されるとき、当該の約定された行動準則がルールとして現成していることになる。――約定の手続的過程には立入らぬことにして、約束の履行、約定に則った行動の自律的・他律的な強制、違反行為の制裁、これの成立機序に眼を向けることにしよう。空(「から」のルビ)約束ではルールにならない。約定に則った行動の履行が如何にして確保されるのか? 約束を墨守する“徳性”が人(「ヒト」のルビ)に先天的に具っているとは思えない。“ゲーム”(今この詞を当の約定されたルールに適う行動体系の意に用いる)に参加し続けようとするかぎり、つまり、参加仲間から放逐されまいとするかぎり、参加者はまさに約定上、約束を守ってルールに随わざるをえない。参加し続けることが“利益”(但し広義)であることからの打算によってそうすることもあろうし、“ゲーム”の進行的存続が高次の目的に徴して“利益”であるという“合理的”判断にもとづいてそうすることもあろうし、約束であるからには守らねばならないという義務感からそうすることもあろう。約束の遵奉を支える意識態は様々でありうる。が、問題は、その意識態を成立せしめる深層的機制である。」440-1P
(対話F)「この機制を見る手掛りとして、約束を破った場合を考えてみよう。他の参加者たち及び/又は環視的第三者たちの直接間接の制裁を受けて、以後は約束を守るよう強制されるか、または、放逐されるかであろう。放逐に諾々と甘んじるとすれば、彼はもともと参加への強い選好・利害を有っていなかったものと見做され、恰かも元来参加メンバーではなかったかのように扱われる。ところで、違約への加罰に対して抵抗するとき、暴力的(但し広義)対立となり、一般には参加メンバーとの“喧嘩”になる。そこで敗れれば、以後は約束を守りルールに随うことを強制的に再誓約させられるか、または放逐されてしまう。(“喧嘩”に勝って居直るとき、一時的な例外措置として違反が無かったことにして、ないし、判定の誤りであったことにして、制裁“取消”の応急措置がとられるのでないかぎり、ルールそのものの改訂・再約定がおこなわれることになる。が、こうして横車を押した強者は、諸種の道徳的制裁を後々にわたって免れず、その場でのルールにもとづいた制裁こそ返上したにせよ、道徳的非難や各種の不利益を蒙むる。)」441P
(対話G)「こうして、参加し続けようとするかぎり、つまり、放逐=仲間外れにされまいとするかぎり、ルールに随うことを強要される。違反すれば放逐されるか(因みに、子供の世界にあっては、仲間外れは最も厳しく身にこたえる制裁である)、暴力的に打ちのめされるか(これも泣きださざるをえないほど身に徹(「こた」のルビ)える)、横車を押通して(その場ではたとえ無かったことにしてもらえても)諸々の道徳的制裁を受けるか(義憤や慍恨(うんこん?)、極端な場合、以後は敬遠されて一緒に楽しくは遊んでもらえない、等)、いずれにせよ苦痛、不利益を免れない。という次第で、自発的打算や合理的判断や“善良な心根”から約束・ルールを守るのではないとしても、“誓約集団”の内部に留まろうとするかぎりは遵守を強制されるのであり、放逐者を生みつつであれ存続する“誓約集団”の内部ではともかくルールが遵守されている事態を結果する。(約束事は無条件に墨守すべしとする“善良な心根”なるものが、当該の“ゲーム”内部での制裁を免れたい心情の屈折せる倒錯的意識態だと言うつもりはない。がしかし、当該の“ゲーム”内での制裁という狭い枠組を外して、より広い社会生活全般において約束違反に加えられる制裁・不利益の直接間接的な体験の屈折ということで考える場合には、議論がまた別になろうかと思う。)」441-2P
(対話H)「翻って、伝習的ルールに随順な行動体系の確立が先行して、そこで身についたルールを事後的に自覚化するようになる通例の場合は如何? ここでは“ゲーム”に参加し続けようという意向をもつ場面で、約定でこそなけれ、謂うなれば「自覚されたルールを遵守する誓約」を交わしたのと同趣の構制になる。それゆえ、ルールの自覚的遵守の“誓約”以降の局面については、約定の場面に即して上述した機制と同工である。そこで、論件となるのは即自的なルール随順的行動の確立場面である。が、その件それ自体については先に幼稚園児のドッジボールのルール習得の例に即して論じたところでもあり、また、この件が舞台内的・対他者的行動の諸々の“実在的”制約要因による限局化の一斑に包摂される以上、実質的には既にこれまでの行文で論定済みとも言える。残されている主要な論点は、むしろ、一応は“自由”な主体と見做せる行為当事者が、伝習的所与の規範的規則への随順を拒絶することなく、概してはそれにアンガージェするようになるのは何故また如何にしてであるか、この件に懸っている。」442P
(対話I)「扨、即自的な規則随順的行動の形成が模倣的追随(観念的扮技による“練習”をも含む)を主斑として進捗すること、すなわち合規則的に編制されている伝習的な行動を就中模倣することにおいて(当初は、決して規則そのものを対象的に意識・学習するわけではなく、もっぱら行動を模倣的に身につけて行くことを通じて)、ルール随順的な行動が成立すること、これは嚮に論じた通りである。この模倣的追随ということ、そして、既成の伝習的規範規則を規矩として他人たちがおこなう価値評価と賞罰的規制を当事主体が受容するということ、これら二件が事実であるとすれば、伝習的な規範的ルールに随順する相での行動様態がおのずと確立するのは必当然的ということになる。がしかし、なるほど謂う所の二件が大枠としては経験的に認められる事実であるとしても、それはあくまで蓋然的事実にとどまり、必然的というものではない。ここに、当該二件の蓋然的事実性が如何にして成立するかということが問題になる。それがとりもなおさず、前記のアンガージュマンの問題にもほかならない。」442-3P
第八段落――当面論攷すべき四つの課題 443-50P
(対話@)「われわれが当面論攷すべき課題を次のように整理することもできよう。第一に、或る当事主体が他者の行動に模倣的に追随するのは何故であるか? 併せて、アンガージュマンの機制や程度。第二に、当事主体が他者によるサンクションを受容するのは何故であるか? 併せて、ここでのアンガージュマンの機制や程度。第三に、サンクショナーたちが伝習的な価値基準や蝕罰規矩に則るのは何故であるか? 併せてサンクション遂行の機制、既成的基準・規矩への順拠の程度。第四に、伝習的規範規則の起源の問題。第五に、伝習的規範規則の可塑性・硬直性の問題。」443P
(対話A−第一の問題)「第一の問題。模倣が何故おこなわれるかについては、群棲動物の生得的傾動とする説と社会的圧力による強制とする説とを両極とする対立がある。生得的傾動ということを確説しえんがためには然るべき生理的機制の画定が要件であろうが、寡聞にして然(「そ」のルビ)ういう確定的な知見が得られたとは知らない。だが、経験的観外見的には模倣的な追随にも似て、他者と同型的な身体行動を営むこと、このことはまず確かである。また、特別な強制を蒙っていそうには見えない場面でも、乳幼児が他者、わけても胞輩や友人達と同型的に振舞おうとする傾動を示すこと(双児の姉妹は服装まで同じでないと気が済まない!)、大人の行動を真似ること、これまて経験的観察によって知られる。この模倣が或る種の学派の主張するような「尊敬」や「愛着」によるものといった理屈づけを許すか否かは今措くとして、特段の強制や指導に俟つことなく生じうることは否定しがたいように思われる。このかぎりで、或る条件つきで、乳幼児が或る種の“模倣”的行動(同型的追随・即応行動)の内発的性向を具えていることは認められてよかろう。それがあって甫めて、社会的圧力による模倣の強制ということも現実化しうるのではないか。そこには、負のサンクションを貶置・回避しようとし、正のサンクションを選好・獲得しようとする意識性を伴う場合もありうる。そして、それには、おそらく生物・生理学的な機制の裏打ちがあるものと忖度される。が、仮令これを措くとしても、乳幼児は条件づけの機制によって一連の模倣的行動を強制・誘導される。オペラント条件反射を含めて考えるとき、乳幼児は、模倣のための模倣ではなく、各種の欲求充足行動、信号的送受行動、対抗的即応行動において、外形的には模倣的な同型化を現出するたぐいの行動を数多くおこなう。その結果、乳幼児は数々の“模倣的行動”をを体現しつつ、即自的な規則随順的行為をアンガージェしているように“見え”る。とはいえ、しかし、乳幼児が“模倣”する動作は成人の多種多様な動作の一部たるにすぎず、また“模倣”の成立した動作においても個性差があり、決して他者達と精確に同型化するわけではない。昨今流行の言葉を使えば「ズレ」がある。この個人差による“フラクチュエイション(揺動・flactuation)”のゆえに、仮りに模倣的“同型化”が汎通的であるとしてさえ、伝習されて行く行動様式は、不変不易ではなく、可塑性を孕む。――幼児期を過ぎ、青年期・成人期に達すると、直截な模倣・追随はむしろ稀になり、他者の行動との同型化的アンガージュマンがおこなわれるとしても、“打算的・合理的”な計算や“義務感・当為感”の意識性を伴ったものが多くなる。が、これについては、先に約定に即して論じたことがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当するであろうし、模倣的アンガージュマンという当面の論件の範囲外に属することでもあるので、ここでは立入らないことにする。」443-4P
(対話B−第二の問題)「第二の問題。乳幼児といえどもサンクションを無礙に受容れるわけではない。わけても負のサンクショナルな刺戟は、それが苦痛・不快を与えるものであるだけに、生体・生物学的な論理から言っても当然、抵抗的・拒絶的な反応を興発せずにはおかない。そして、ここにおける前件的行動と苦痛的後件との条件反応的継起事象を回避“しよう”として、前件的行動そのものを抑止する条件づけ(conditioning)、かかる条件反射の機制が作(「はたら」のルビ)く。ここに作く機制は、一度火を摑んで熱い目に合った子供は、もはや二度と火を摑まないように条件づけられているのと同工であろう。(尤も、一般のサンクションは一度だけで十全に条件づけを達成することは困難であり、また、折々の「強化」を必要とするのであるが。)その点、正のサンクショナルな刺戟は、快感・愉楽をもたらすものであるから、生体・生物学的な論理から言って、抵抗なく体験される。が、それは抵抗なく受納されるために却って条件づけの効力を削(「そ」のルビ)がれ、これまたそう簡単には条件づけに成功しない。ここに作らく条件づけの機制は、迷路実験の試行錯誤を通じて“正しい”経路を辿り、報賞(餌)にありついた鼠(「ラット」のルビ)が以後は概ね所定の“正しい”経路を進むように条件づけられるのと同工であろうかと想われる。謂うなれば正のサンクションを受け“ようとして”所定の行動をするわけである。――条件反射の機制による行動の条件づけ、これによってサンクションが機能しうるとすれば、生体・生理的機構のうちに或る種の刺戟と相即する或る種の状態を選好(「フォルツイーエン」のルビ)・獲得“しよう”とする性向、および、別の或る種の刺戟と相即する或る種の状態を貶置(「ナハゼッツェン」のルビ)・回避“しよう”とする性向、かかる傾動性が具っているものと想定しなければなるまい。(因みに右に謂う前者の状態、快感・愉楽……安心……を生体・生物学的に正の価値をもつ状態と呼び、後者の状態、不快感・苦痛……恐怖……を生体・生物学的に負の価値をもつ状態と呼ぶことができよう。)この想定は、事実の問題として、認められるように思える。そして、サンクションの受容、つまりサンクショナーの側の企図に叶った行動がそれ以後はおこなわれるようになること、この事態を成立せしめる基底的な機制は前記の条件づけを措いてはあるまい。――しかしながら、当事者の表層的意識においては事情は稍々異なるであろう。当事者は“打算的・合理的”な思料にもとづいてサンクションを受容したり、“罪悪感・慙愧(ざんき)感”や“義務感・当為感”を植えつけられることで以後的行動を自己統制するようになったりする。だが、打算的・合理的な思料にもとづく決意なるもの、そこでの態度決定の基底を掘って行けば、結局のところ、生体・生物学的に正の価値状態を選好し、負の価値状態を貶置する性向に帰着しないであろうか。(当事者の思念する諸々の倫理的価値・文化的価値の分析、ひいては、それと生体・生物学的価値との関連に立入らぬ今爰では、この件について論決するを得ない。ここでは唯ありうべき見方を右のように示唆しておくに止める。)罪悪感・慙愧(ざんき)感は、サンクションの対象になった自己の行為が“悪しき”“恥ずべき”行為であったと自己認定と相即する。「悪」「恥」として概念化される価値態は抽象化されており、往々にして対他者性の意識が殆んど脱色されているが、元来は具体的な体験場面で形成されたものと想われる。悪行の評価・判定の基準は社会的規範体系にビルト・インされており、単層的ではない。しかし、基底的な場面まで掘り下げて発生論的に言えば、自己の行動が対向的当事他者の悲・痛をもたらし、対向的他者自身なり環視的他者なりから負のサンクションを蒙った種類のもの、そのような行動が悪行として自覚されるようになるのではないか。そして、自己のその時々の行為をかかる悪行として覚知するとき罪悪感を覚識するのではないか。恥ずべきと自認する行為について言えば、それは多分に「嗤(「わら」のルビ)いのサンクション」を蒙むった行為に淵源する概念態であろう。恐らくは、かかる発生論的経緯に由来する内面化された機制に負うて、人は罪悪感ゃ慙愧感を覚識するとき、懲罰を蒙むったのも当然と感じ、以後は当の所業を改めようと決意するのを“常”とする。(いわゆる確信犯はこの埓には入らない。そこで別途の論理での懲罰がおこなわれる所以となるが、ここではこの件に立入るを須いないであろう。)義務感や当為感を植えつけられてのサンクションの受容については、次に取上げる第三の問題の論脈に組込むことにしよう。けだし、義務感ゃ当為感を伴って自己の行為を律するとき、このアンガージュマンにおいては、当人は“自分自身に対するサンクショナー”としても振舞っている機制にあるからである。――尚、確信犯の存在を述べ立てるまでもなく、サンクションに抵抗し、行為を改めない分子が現に存在する以上、また、或る種の行為に関しては因習的なサンクショナーの基準そのものに多くの者たちが強く抵抗する事態なども存在するのであるから、サンクションは決して一義的に受容されてその実を収めるわけでない。サンクション(従って亦、それの実効性の程度)は、所詮はサンクションを蒙むる側の者との“共犯行為”である。」444-7P
(対話C−第三の問題)「第三の問題。人は私情・私憤に駆られてサンクショナルな行動に出ること屢々であるが(即自的なサンクションについては本節の初めからさまざまな文脈で叙べたので再説は省こう)、サンクションの自覚を伴った行動にさいしては、一般には、むしろ、義務感・当為感に促されていると言えよう。――「道学者輩でもない親兄姉や隣人が、一体なぜ無関心に見過ごすことなく、制裁(「サンクション」のルビ)を加えるのか? われわれは賞罰(「サンクション」のルビ)の心理を単純に一元化してしまう心算(「つもり」のルビ)はないが、根源的には、彼ら自身、当のシチュエイションにおいては、一定のサンクションのrole-takingをおこなわざるをえない心理的圧力に押されているのではないか? 未開人(ママ)においては、タブーを犯す者が出ると集団の全員が心理的恐慌(「パニック」のルビ)におちいるといわれるが、同様な機制(「メカニズム」のルビ)が作用しているのではないか?」筆者は別の折りに右のように書き、究極的には条件反射の機制に基礎をもつにしても、そこには催眠術に所謂「深層的催眠」の機制が作用しているであろうことを論じておいた。(『世界の共同主観的存在構造』第一部第三章。)ここでは深層催眠ということを“解説”したり、それを条件反射に還元したりする議論に更めて立ち入ることは割愛する。が、以下、当為感・義務感の深層的基底に議論の焦点を置くことにしよう。――当為(「とうい」のルビ)意識・義務意識は、いささか省察してみれば誰しも認めるであろうように、命令や禁止と密接に関連している。尤も、当為意識や禁止意識という既成態となった覚識においては、命令者・禁止者は脱人称化・非人称化されているのが普通である。時によっては、それは、超越者の命令・禁止とか、裡なる両親の命令・禁止とかの相で覚識される。とはいえ、命令や禁止の体験される発生論上の初期階梯に溯っていえば、命令者・禁止者は具身の対向的他者である。そして、この具身の命令者・禁止者は、彼の命令・禁止に当方が従わないとき、怒鳴ったり殴打したり……具体的な懲罰を加える強迫的規制者である。しかも、命令・禁止される行動は舞台的場面とも相関的である。一定の舞台的場面における一定の行動の命令・禁止、それの遂行の懲罰的脅迫による強制の受動的体験、加之、命令・禁止の直接的当事者に対する環視的他者たちの加担的支持、命令・禁止への違反にさいしては環視的第三者たちが命令・禁止の当事者に対して懲罰を督促・強要している雰囲気。かかる受動的態勢の反復的体験を通じて、しかじかの舞台的情況場面においてはかくかくの行動の遂行が強請されているという覚識(抽象的に一般化・脱肉化された命令者・禁止者による被命の覚識)が形成されるに至る。詳しくは後論においてより普遍化された機序に即して論攷する予定であるが、暫定的に言い切っておけば、これがいわゆる「一般化された他者の内面化」とか「超自我の形成」とか呼ばれている事態にほかなるまい。が、われわれとしては、神といった超越的命令者や良心といった内在的命令者の相に擬人格化されて覚識される思念相ばかりでなく、舞台的場の強迫(命令・禁止的な場のの強要)という脱人格化された相での覚識をも併せて銘記する。いわゆる当為感・義務感は脱人称化された被命令・被禁止の深層催眠化された覚識態に照応するものと考えられる。かかる当為意識・義務意識に駆られての(許容すべからざる目前の他者の行為に対して深層催眠的に駆動されての)サンクショナルな行動においては、当の意識態の形成の経緯からして、伝習的な既成的価値基準や賞罰規矩におのずと則る所以となる。とはいえ、基準となる価値観や規範なるものが、明示的に定式化され自覚化されているものではないこともあって、サンクショナーの遂行する制裁行動と制裁強度にはバラツキがある。既成的基準・規矩とやらが、斉一的に墨守されるわけでなく、伝習的な価値基準や賞罰規矩がサンクションの蓋然的枠組と標準を劃するという程度にとどまる。――サンクションには、命令・禁止と違反への懲罰という形態ばかりでなく、要望・諫止(かんし)に発するものなどもあり、正のサンクションも勿論存在する。観念的扮技による予習を前梯としてのサンクショナーとして役割取得、わけても、年少者・新参者に対する教育的配慮からするサンクションということなども看過できない。が、これらについても、当為感・義務感にもとづく限りでは上述のところからmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する道理であるから、爰では紙幅を惜しみたい。」447-9P
(対話D−第四の問題)「第四の問題。サンクショナーたちが伝習的な価値基準・賞罰規矩に則るのだとすれば、その規準は世代から世代へと伝承されたはずであり、論理上、第一世代はどこから準則を得たのかという問題が持上がる。この問題は規範的規矩・規則一般に推及される。これは実証的・経験科学的には愚劣な設問であろうとも、論理的には回避しがたい論件かと思われる。人がもし価値基準体系や規範的規則なるものを既定的・既成的なものの相で表象し、それが世代から世代へと継受される状相で表象するとき、慥かに、第一世代がそれをどのように受領・獲得してかが謎めいてくる。人々の日常的意識において規範なるものがその都度の行為に対して先与的既成態(「レディメイド」のルビ)の相に物象化されて覚識されているとしても、しかし、規範なるものが自存するわけでなく、人々のその都度の行為の在り方がいわゆる規範をその都度に生産・再生産するのが実態である。実在するのは一定様式での行動のみである。そしてこの様式的限定は、世代間に相応の類似相を以って継行されるにしても、不易的同一相にあるわけでなく、歴史的に変様して行く、この変様過程を逆に辿れば、歴史的端緒における行動のノルマルな限定は洵(しゅん)にプリミティヴなものであり得たであろう。――規範なるものの物象化的錯認にもとづく起源論上のアポリアとその解決、規範的規則の伝授の場面における不断の“共犯的”な生産・再生産という機制については、如上の示唆的立言によって大宗を理解して頂けることかと念うので、詳説は省くことにしたい。」449P
(対話E−第五の問題)「第五の問題。伝習的規範規則は多分に硬直的同一相で意識されるにしても、そしてまた、歴史的に観望するとき、相応の“自己同一性”を呈することも確かであるが、しかし、第一・第二・第三の問題に即して叙べたフラクチュエイションとズレを孕んだ蓋然的な生産・再生産、これらの継起において存立するそれの存在構制の故に、伝習的な規範規則といえども可塑的であることは贅言(ぜいげん)するまでもない。問題はむしろ、この可塑性にもかかわらず、事実の問題として現に認知されるごとき相応の“自己同一性”“硬直性”が如何にして成立するか、その物象化の機制である。――この問題を解く鍵鑰(「けんやく」のルビ)はインプリシットには已に本節の行文中に与えられているのであるが、主題的には次篇での制度論の論脈内で回答することにしたいと念う。」449-50P
第九段落―― 本節のまとめ&次節の課題−行為の評価 450-1P
(対話@)「省みるに、本節における論述は、幾つかの重大な論件先取を犯している。「規矩」「規則」といった基本的な概念についてさえそれの何たるかの既定を与えていない。剰之(「あまつさえ」のルビ)、行文中に唐突に「命令」「禁止」などの概念を引入れて説明を試みておりながら、それの成立機序を発生論的にも存在論的にも解明していない。――命令・禁止ということは、行動の対他者的「期待」つまりは「役割期待」から説かるべきはずであり、命令者(禁止者)と被命令者(被禁止者)との「地位」的分化の成立と併せて論考さるべきはずである。――価値の問題についても、本巻では主題的・一般的な論究にこそ立入るべくもないにせよ、規範的拘束や賞罰的規制と不可分な部面に関しては論究を省(「はぶ」のルビ)けない道理であろう。ここに宿題が遺されている。」450P
(対話A)「行文の次序として、後論での螺旋的回帰を期しつつ敢えて論点先取を事とした一連の事項論題とするには、役割行為と諸々の制度的編制の物象化的成立・存立の媒介的・被媒介的な関連性を討究する運びとしなければならない。この作業は次篇での論脈に組込むことにする。」450P
(対話B)「次節では差当り、本節内でサンクショナルな規制の対象という論脈でその一部を配視した行為の評価という問題を主題化しておく段である。――本節においては、アリストテレスの卓抜な表現で言えば、「文法的に語る」次元に主として関説し、「文法家的に語る」次元、すなわち、規範的規則体系を自覚しつつ遵奉的に行為する次元にはまだ殆んど論及していない。いわゆるrule-followingの問題一般には立入らないまでも、この欠を次節の論脈内で可及的に埋めることにしたいと念う。」450-1P
2026年03月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(17)
たわしの読書メモ・・ブログ725[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(17)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
第一節 決意的企投の呼応性
(この節の問題設定−長い標題)「舞台的世界において、人々は能為的人格として出会い、呼応的に決意的な企投的行為を営むことが可能であり、以って自覚的な共互的協働が可能であると同時に、互いに“裏切る”可能性をも有つ。とはいえ、行為は、恒に必ずしも対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的意識性を伴っているわけではなく、また必ずしも呼応的協働の意識性を伴っているわけではない。人間の行動は、しかも企投的決意の意識性を伴っている場合でさえ、選択的自由ならびに自発的自由を具えた「精神的エージェント」の統御・駆動に因るものとは言い切れない。」395P
第一段落――これまでの復習とこの節の課題−直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向ける− 395-6P
(対話@)「われわれは第一篇このかた世界的舞台場における人物どうしの出会いの諸位相に留目し、役割的・役柄的な規定相での認知や人格的特性相での認知ばかりでなく、初対面の人物との遭遇の場面であってもそこでの認知・応対の態勢に特質の存することを分析・論定してきた。溯っては、抑々、人物的個体の分節化的現前の原初的場面から配視し、“あの身”“この身”の共軛的な対他・対自性の現成を跡づけ、自己像の成立にとって他己像が要件をなし、対自的自己形成にとって他己との共軛的な関わりが存在条件をなすことを見定め、他己認知・他者認識の成立機序、等々を論考したうえで、共互的役割行為の構制、協働的役割遂行と主体=我々の現成機制にも議論を及ぼしておいた。」395P
(対話A)「今茲では、既述の論点の復唱は省き直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向けることにしよう。――尤も、企投的行為主体の出会いと言っても、対自的なそれだけでなく、観察者的視座からのそれをも配視する必要がある。そして、いずれにせよ、われわれとしては、当事者の直接的思念相を単純に追認するのでなく、当事者においても反省的に確認されうる筈の構制を学知的見地に立って分析する課題を負う。」396P
第二段落――当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化する 396-401P
(対話@)「われわれは、人間の行為は、当事者の意識性に即する限り必ずしも目的合理的ではなくむしろハビトゥアルであるのが普通だということを折々に叙べながらも、フェア・ウンスには、概して、目的達成型の構制になっている事実に鑑み、行為わけても役割行為を、前章においては、目的達成型の構制に即して論考してきた。――目的合理的・価値合理的・伝統的・感情的というウェーバー流の“類型分類”は、当事者の主観的に思念せる意味に即してすら十全とは認めがたいが、しかし、そのいずれも、フェア・ウンスな一定の視座からすれば、多くの場合、目的達成型の構制に納めうる。このことは確かである。とはいえ、それは適当な機能的目的性を措定すればことのことであって、或る種の目的性に徴すれば非合理的でもありえる。――ここでは、まずさしあたり、当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化しておかねばならない。」396P
(対話A)「偖、われわれは已に前章第一節「役割行為の存在構制」の論脈中において「決意的企投」の意識態を分析しておいたのであったが(三一八頁以下をここで再読されたい)、その折りに見たように、決意的企投に際して要件をなすのは目的志向性であって、「目標的状景」を明晰判明に表象することは必ずしも須要事ではない。そして、人は、他者の決意的企投意識態についても、自分に差向けられた役割行為期待の構造内的“成分”としてであれ、他者自身の直截な企投意識“内容”としてであれ、それを察知・理解することが可能である。――この察知・理解は他者理解の一斑なのであって、他者が別段企投的決意をおこなっていない場合の意識態についての察知・理解も可能であることは附言するまでもない。――茲に人々は決意的企投者として相見(「あいまみ」のルビ)え、自覚的呼応性において、共互的行為ひいてはまた協働的行為を相営なむことが出来る次第である。」396-7P
(対話B)「ところで、他者が企投的に決意していることやその内容を知るのは、他者理解の機制について詳しく前述した直截な仕方を原基としてのことであるが、いわゆる類推や投入の機制によってもそれがおこなわれる。それはいずれにしても前言語的な機制を原基としておこなわれる。とはいえ、現実問題として、高等・複雑な企投的決意内容の伝達・理解は言語的交信に俟つところが大きい。尤も、後言語的な交信にあっても、決意的企投やその内容が逐一具体的に言表されるとは限らない。或る階梯・局面では詳しい言表がなければ伝達が成立しないにせよ、やがて直接的言表が退縮しうる。というのも、言表とコングロマリットを成していた表情・身振・様子・態度といった非言語的契機が、それらを核とする直接的補完・融合的同化・補完的拡充・標徴的連合、等の機制によって、(これらの機制については第一巻四五頁以下を参看されたい)、言語的言表を謂うなれば“代償”するかたちになりうるからである。(このため、言表が一定限はおこなわれるにしても、例えば「ケシカラン」と呟(「つぶや」のルビ)いただけで聴者は舞台的・場面的な諸情況や当人の動勢に照らして、彼が叱責を、乃至は亦、殴打、等々を、企投的に決意していることを察知することができる。また、例えば、当人は「美味(「うま」のルビ)そうだな」と言っただけでも、舞台的情況や本人の動勢に徴して、彼がいま見上げている柿の木に登り、実を捥(「も」のルビ)いで、喰べようと企投・決意していることを察知できる、等々。極めて“退縮”化した言表で以って、詳しい言表とはほぼ等価な伝達機能を果たしうる所以となる。) 」397P
(対話C)「勿論、人は他者が企投的に決意しているという事実ないし/および決意性の企投の内容について、錯認・誤解に陥る場合もある。そして、そこから様々な齟齬や悲喜劇が生じうるのであるが、その具体相について今茲で論及するには及ばないであろう。われわれの当面の行論にとっては錯認や誤解に気がついて正しい認識に是正される構制が原理上ありうれば足る。この要件が超越論的視座から見たさいに果たして充たされるか否かは問題が残るにせよ、少なくとも当事者たちに即するかぎり、錯認や誤解に“気がついて”正し、応待が以後は“齟齬なく”“円滑に”進捗し、もはやあらためて錯認や誤解を思い知らされることなく進行するようになること(このとき、「正しい理解に達している」と当事者たちは確信する次第だが)、これは現に経験されるところである。」397-8P
(対話D)「今ここで敢えて関説しておきたいのは、単純な錯認や誤解ではなくして、意図的な欺(「あざむ」のルビ)き・騙(「だま」のルビ)しのケースについてである。――著者としては、或る種のエスプリの効いた論者たちの驥尾(きび)に付して、「能知・能意的な主体とは他者を瞞着する能力を持つ者の謂いなり」と定義するつもりも、また、「記号とは他人を騙すことの可能な用具の謂いなり」と定義するつもりもない。が、能為的人格(能知能意・能動的な主体)どうしの出会いを論件とするに当っては、意図的な欺き・騙しの能力・可能性という問題を避けて通るわけには参らない。けだし、これは“裏切り”の問題にも通じ、「約束」とも裏腹の面があるからである。――」398P
(対話E)「日常用語では、嘘言(「うそ」のルビ)という詞は、広義においては、当人自身がそう信じ込んでいる虚偽的命題の言表も含みうるが、狭義においては、当人自身はそう思っていないにも拘らず、他人に、その誤まてる言表内容を信じさせようとして発せられる言表、これが嘘言と呼ばれる。そして、この狭義の嘘言について、他人に誤った思念を懐かせること(ないし、懐かせようとすること)を「騙す」と謂う。が、「騙し」は必ずしも言語的言表だけによっておこなわれわけではない。他人に誤った思念を懐かせる(懐かせようとする)手段、つまり騙しの手段としては、表情・身振・挙措・態度といったものも用いられうる。これは「振り」(pretention)とも呼ばれる。――これらの日常的用語では概念的厳密性を欠くが、当座の議論では、これに便乗して進めておいて大過を生じないと念う。――扨、嘘言や振りに因る錯認・誤認を、人々はかなり多くの場合、自家是正しうる。相手の意識態に関する嘘言単純な誤認・誤解のケースでは、誤認・誤解されているらしいと気付いた相手当人がそれを是正して貰おうとして追加的な各種情報を発信するのにひきかえ、相手が意図的に騙そうとしている場合には、是正の機縁となるような追加情報を供しないどころか、誤認・錯認を強化するような追加的情報を齎(「もた」のルビ)らすので、是正は容易でない道理である。それにも拘らず、現実問題として、かなり多くの場合、嘘言・振りを見破り、自家是正がおこなわれる。これが可能になるのは、おそらく、諸般の諸要因に徴しての不斉合性とか蓋然度の低さとかの“理詰めの推論”もさることながら、表情・身振・挙措・態度(言語的表現のトーンなどにおける“表情”をも含む)に何かしら“不自然”で“疑念を喚びおこす機縁”を看取し、それを契機に“再考”することにおいてであろうかと想われる。(騙しに何故また如何にして気付きうるのか、そして一体以下にして真実の洞見に到りうるのか、この機制については審(「つまび」のルビ)らかでない。)が、機制は不明でも、ともかく、現実問題として、人々はかなり多くの場合、瞞着に“気がつき”“真実を洞見し”て事に当り瞞着を免れて然るべく対処する。そして多くの場合、“自分で気がついて洞見した真実”がまさに真実であったこと、この確信をその後の経過で愈々強めるのが普通であって、当の自家確信を撤回する破目になることはむしろ稀である。この場合における“真実の洞見”という確信は何に支えられているのか。相手当人が白状して、真実を証言するわけではない。自分の側での確信が揺がないというのはたかだか心理的事実にすぎないとはいえ、これにはしかるべき機縁と併せて一定の判断的支えが与っている筈である。それは、論理的構制上で言えば、「「認識論的主観」の「判断」と合致していることの自家信憑ということになろうが、通俗的に言えば、自分以外の判断者たちも自分と同じ判断をくだす筈だという確信、一種の共同主観的=間主観的な判断一致の確信と相即するものにほかならないであろう。――尚、世には「反語」や「皮肉」といった現象、すなわち、“形式的”には嘘言や振りと“同型”的でありながら、騙す意図はなく、却って、“嘘言”や“振り”にすぎないことをトーンその他の徴表で同時的に表出する方式も存在する。が、これについては、反語や皮肉であることを察知せしめる機制と、嘘言や振りを看破する機制との間に、或る共通な機制が存するであろうことに留意するにとどめ、ここでは立入らないことにしよう。――」398-400P
(対話F)「ところで、右で一端に触れた嘘言や振り、騙しの問題とも関連する事柄で、決意的企投の呼応性を論題とする際、是非とも配視を要する事項として、「信頼」と「裏切り」(その特殊的ケースとして「約束」と「違約」)という論件が厳存する。――人々は共互的ないし/および共演的な行為に際して、相手(「パートナー」のルビ) (達)の遂行的行為に関し、一定の期待的・予測的な予科を懐いているのが普通である。この予科は、時としては、相手の企投的決意内容の察知・理解と相覆う場合もあり、また、特別なケースとして、事前の「約束」に則るものの場合もある。そして、一般に、騙されている場合をも含めて、“相手の人格に対する信用”でこそなけれ、相手の遂行的行為の予料を信じているという意味で、相手の予料的行為相を出来(「しゅったい」のルビ)させる。それには、相手における蹉跌・失敗の場合もあれば、当方が相手の志向を誤解して見当外れの予期を懐いていただけで相手当人にとっては予定通りの行動という場合もあれば、相手の意図的な騙しに当方が欺かれていた場合もある。また、相手が途中で予定を変更して、企投の立て直しをおこなった所為(「せい」のルビ)の場合などもある。共演的に行為する者たちは、いずれにせよ、その都度一定の予料を概して「信頼的」に懐きつつ行為するとはいえ、不断に予期外れの相手の行動が出来する可能性を考慮しつつ対処する。さもなければ、円滑な即応的共演がそもそも成立しがたい。が、特に問題なのは、相手が明示的な約束というかたちで、ないしは、明示的な約束でこそないが一定の表出で、当方が相手の遂行的行為相についてしかじかの「信頼的」予期を懐くように仕向けておきながら、相手が途中で当の予期を意図的に破る行動に出る場合、すなわち「裏切行為」の場合である。相手がいわゆる「自由な主体」である限り、人は不断に、相手による「裏切り」の可能性に当面せざるをえない。」400-1P
(対話G)「能為的主体の出会い、共演、ひいては、協働、とりわけ、呼応的な決意的企投行為、これは、単純な錯認・誤解による予期外れや相手の蹉跌・失敗による予期外れのほかに、相手に騙されての予期外れ、相手が途中で変心することに因っての「裏切り」による予期外れ、この可能性に不断に曝されている。――ということは、呼応的な決意的企投にもとづく共演・協働が円滑に進捗するためには、当事者たちが互いに相手の行為に関わる予測・予期を誤まらないこと、そしてそのためにも、望むらくは相手の意識態について可及的に正しく理解していることが“要件”となり、企投的意識態に関して言えば、相手が舞台的場面的情況をどのように現識しているか、どのように目標的状景を泛かべどのような目的達成を志向しているか、どのように手段を策定しているか、これを可及的に察知していることを要し、併せては溯って、相手のありうべき欺瞞・蹉跌・予定変更・裏切りなどの可能性を考慮に入れることをも必要とする謂いとなる。」401P
(対話H)「当事者たち自身のフェア・ジッヒな体験相に即する限り仍ち斯くの如くである。――だが、学知的見地から反省的に捉え返すとき、果たして人間の行動というものは、真実左様に「自由な行為」なのであるか? 人間の行為というものは、その全てが意識的に統御されているわけでなく、そこには非決意的な“自動行動”もある。そして、いわゆる企投的決意の意識性を伴っている行為の場合でさえ、果たして選択的自由や自発的自由に因るものであるのか、この件については再考を要する。今や、その作業に溯る段である。」401P
第三段落――意識性・意図性に導かれている行為 401-4P
(対話@)「議論の順序として、「意識性・意図性に導かれている行為」と謂われる場合から問題にして行こう。」401P
(対話A)「人々は、通常、行為なるものの単位的区劃を、企投的決意から目標実現までのスパンで截り取り、その期間、一貫した目的意識性を伴っているものとしたがる。これはいわゆる意志行為の“正準的”な“単位”の在り方と一応は認められうるかもしれない。しかし、主体的・意志的行為にとって目標意識性・決意意識性が必要条件であるとは称されるものの、現実の行為においてこの条件がどこまで充たされているかは多分に訝(「いぶ」のルビ)かしい。人は、単位的一行為と認定される営みを実行する一期間を通じて終始一貫「目標意識性」を明識し且つ「決意意識性」を裡に実感する意識態を対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に保持し続けているわけでは必ずしもない。」401-2P
(対話B)「例えば、或る目的地へ行こうとして電車に乗り込む。雑誌を読み始める。読んでいる以上は、彼は意識を失ってはいないが、目的地に行こうという意識性を明識し続けているとは言えない。なるほど、降りる駅が近づく頃には注意するところをみると、目的意識性や決意意識性が消失していたわけではない、と言えるかもしれない。では、途中で寝入った場合はどうか。熟読したり熟睡したりしている期間中は、およそ目的地へ行く行動目標を忘向的に明識していないが故に、目標地を目指しての主体的行為が中断されていると見做すのか? 決意的行為と呼ばれるものでも、行動様態がルーティーン化しているものの場合、途中の期間には、目標意識性も決意意識性も“消えて”いることが多い。従って、目標意識性・決意意識性の現識ということを厳しく言い立て、それを主体的行為であるための必要条件とするさいには、人間の行動はその大抵がおよそ主体的な行為ではないことになってしまうであろう。そこで、人々は、目標志向的起動に始まり、それの成就に終る一纏まりの行動を、目標意識性や決意意識性の“消失”している途中の過程をも含めて、全体として主体的行為と呼んでいるのが実情であるように見受けられる。この扱いそのことに異を唱えるつもりはない。が、そうなると、目標意識性・決意意識性が主体的行為の必要条件であるという提題は脆弱になり、なるほど開始時にこそ特性的であれ、以後は惰性に身を委ねた行動や他律的操縦される行動とも同趣になってしまう。」402P
(対話C)「これでは、何ぞ意識性・意志性・主体性なる乎と言いたくもなる。この実情が銘記されねばならないが、しかし、ともあれ行為の開始時点に企投的・決意的な起動の要件として目標意識性が特異的に存在するとされる限りで、目標意識性ということを逸してしまうわけにはいかない。が、今や見易い通り、目標意識性なるものが主体的行為にとって必要条件だと謂われるのは、決意的・内発的な起動にとって企投的目標意識が構成要件をなす限りのことなのである。」403P
(対話D)「そこで、主体的行為にとっての必要条件と称される「内発的起動性」とやらを検討しよう。内発的起動というのは、さしあたり、身体内部に在るエンジンが内発的に始動せしめられる謂いであろう。が、そのさい、企投的志向目標を意識するエージェントが、兼ねては亦、決意的起動作用を発揮するエージェントでもある、という了解が通念であるように思われる。ここでは、意識性を有ち且つ作用性も有つエージェントが身体内に在って、そのエージェントが決意的発動をおこなう、という描像にもなろう。(このエージェントは、普通には「心」として思念され、そのかぎりでは純粋に精神的(「プシヒッシュ」のルビ)な存在と思念されているのだが、考え直してみれば、それは純然たる精神的存在というよりもむしろ、一種の「心−身」的存在と考える方が整合的かもしれない。というのも、意識性をもつかぎりでは「心的」であるが、同時に、それが肉体という物質的存在に対して因果的起動作用を及ぼすものである点では「身的」であると見做した方がオカルト的作用を想定せずに済むからである。そこで、もし、裡なるエージェントを一種の「心−身」的散在と考えるとすれば、そのエージェントによしんば手足がなく、個体的主体と同型的でこそなけれ、それでもやはり「心−身」的存在としての個体的主体と同趣的な、このかぎりで一種の“裡なる小人”とそれは呼ばれうる所以となろう。がしかし、ここでは通念通り、純然たる精神的存在=心ということにして暫く議論を運びたいと念う。)」403P
(対話E)「偖、謂う所の決意的・内発的な起動は、外的な諸条件・諸要因によっても制約・影響されることを禁ぜられない。企投的目標設定にさいして、舞台的・他者的・道具的な与件によって制約されることはむしろ当然であるし、起動的決意遂行にさいして、情況的・肉体的・規範的な諸条件によって制約されることもこれまた不回避である。そして、また、決意的起動が期待的督促や物理的触発による興発によって影響を蒙むることもありうる。が、要は外的な要因によって一義的に決定されてしまうことなく、企投的決意をどうおこなうかおこなわないかの最終的決定、これの裁量が“裡なるエージェント”に委ねられていれば宜い。」403-4P
(対話F)「ここにおいて、決意的起動性という問題は、いわゆる「自由」の問題、すなわち、(イ)選択的自由(別途の余地なく一義的に決定されていないこと) 、(ロ)自発的自由(すなわち、一義的な必然的因果連鎖によって押し動かされるのではなく、また、単なる偶発でもなく、自己決定的に起動できること)、この問題と絡んでくる。(尚、選択的自由は企投の自由とも関わるが、選択の自由は結局は自発的自由に帰着するとも言える)。――この哲学上の大問題たる「自由論」に深く関説することは爰での任ではないが、当座の行論にとって必要最低限、若干の詞を費しておかねばなるまい。」404P
第四段落――「自由」に関して 404-12P
(対話@)「まず「選択的自由」に関して。――人が決意的な企投をおこなうさい、一般に、可能的選択肢が既在的に現在していると思念していること、そして、選択的決断がおこなわれた後、事後的に反省するとき、往々、他の選択肢を選ぶことも可能であった、と人が思念すること、この思念という事実は慥かに存在する。選択的自由と謂われるものは、さしあたりこの思念内容に照応するものにほかならない。ところで、しかし、本当に(in Wirklichkeit)可能的選択肢が既在していたのか? そして、或る行為が実行された時、別様に行動することが本当に可能であったのか? 可能的選択肢なるものは、選択の時点ではいずれもまだ未来的行動なのであるから、可能態であっても現実態ではない。だから、前掲の借問は、可能態が現実的に既在していたのかと問うている所以となる。ここに謂う所の可能態なるものがもし単に表象態の謂いにすぎないのであれば、可能的諸選択肢の既在とはあれこれの(選択肢的)行動様態が表象されているという心理的事態の言い換えにすぎないことになるから、可能的選択肢の既在はトートロジカルに事実である。だが、それはさしづめ思念的事実たるにすぎない。」404-5P
(対話A)「では、この思念としての事実という以上に、可能的選択肢の既在性ということが“客観的”に言われうるであろうか。或る種の論者たちは、可能的選択肢の「客観的既在性」を主張して、「行為主体が可能的諸途を意識(表象)していないとしても(そして現に、当事主体が意識するのは客観的に可能な諸途中のたかだか僅かのものに止まるのだが)、客観的には諸々の選択可能性が現存している」と言い、その“証拠”として、「“ほぼ同一”とみなせる現与的諸条件のもとでも、主体の“選択的決意”に応じて様々に異なった行動が現に生起する」という「経験的事実」を挙げる。論者たちといえども「現与的諸条件(舞台的・道具的諸条件ばかりでなく、身体生理的諸条件をも含む)の類似度を高めていけば(つまり“ほぼ同一”とみなすさいの“同一性”の精度を上げていけば)、そこに生起する行動の“同一度”も高まる傾向が見られる」という「経験的事実」をも併せて認める。だがしかし、「経験的事実」に即するかぎり、その収斂的傾向性が大枠的には見られるにせよ、そこには“揺動(flactuation)”的な“外(「は」のルビ)み出し”も見られるのであって、「現与的諸条件が厳密に同一(単一)であればそこに生起する行動も必然的に同一(単一)である筈だと外挿的に推測するのは、経験的には実証さるべくもない一種の形而上学的臆断(立場的態度決定)にすぎない」と論者たちは指摘する。」405P
(対話B)「ここでの論者たちの謂う「経験的事実」の確認および指摘は一応認められてしかるべきであろう。とはいえ、果たして、当の経験的事実や論者たちの指摘する事態は「可能的選択肢の客観的既在」「選択的意志行為の自由の現存」の積極的「証拠」たりうるであろうか? 差当り確説できるのは、「経験的事実」に即するかぎり「別途の余地なく一義的に決定されてはいそうにはない」こと、「現与的諸条件が同一であれば生起する行動も必然的に同一であると推定するのは形而上学的臆断にすぎない」こと、ここまでである。そして、そのかぎりでならば、実在界は一義決定論的ではなく、客観的偶然性の余地があるということ、このことまでは言えても、当の偶然性(必然性を“破る”もの)が自由意志なるものの選択活動に負うものかどうか、自由なる選択的選取という思念が実在的世界の客観的な事実に見合うものかどうか、これについては確言できない。」405-6P
(対話C)「われわれとしては、こうしてさしあたっては、客観的偶然性の余地がありうること(これは物理的実在が量子力学的不確定性を孕んでいることに支えられているかもしれない)、および、選択的自由という当事者の思念的意識があること、このことまでしか言うことができず、そこでの次のステップとして、自由意志的選択活動という自発的自己決定活動が実際におこなわれるのか、このことが論件になる。しかるに、これはまさに前掲の(ロ)「自発的自由」という論件にほかならない。」406P
(対話D)「今や、そこで、「自発的自由」の検討に移る段である。人が内発的起動感を体内に覚知するという意識事実はさしあたり認められてよい。だが、本当に自発的な起動が存在し、それが覚知されるのであるか? 錯覚的な思念でないという保証があるのか? 一定の内的緊張感や、それに引続く運動開始が感知されるとしても、それはむしろ身体的(当初は身体内部的)な状態の感知、謂うなれば体内感覚の覚知であろう。それは始動することの覚識ではなく、体内的エンジンが始動したことの感知にすぎないかもしれないのである。しかも、体内エンジンの当の運動開始は、偶発であるかもしれず、また、実は、先行的因果の連鎖に“押さ”れてのものであるのだが、先行部は意識にのぼらず、たまたま位相上の或る局面から意識にのぼり始めた(そのため、当の位相の所で起始したかのように覚識される)だけのことかもしれない。もしそうであれば、それは「自発」ではなく、実際には偶発であったり、因果連鎖の先行部が覆われているだけで、実際には強制された受動であったり、ということになってしまう。偶発や強制的受動ではなく、自発的自由行為であるためには、“内なるエージェント”が一定の“必然性”(但し「事実必然性[Müssen]」ではなく、「当為的必然性[Sollen])に則って能作的に起動することが要件である、と人々はとかく考える。そして、人々は、自発的起動感という意識事実に定位しつつ、それが「単なる主観的事実ではなく、客観的根拠をもつこと」を裏付けようとして、“意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェント”たる“心”なるものの実在性を要請的に想定する。がしかし、それは所詮要請的想定たるにすぎない。人は、いかに努力しても、いわゆる実証科学的手法よっては、「心(意識・意志)なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」という知見を得ることは覚束ない。それでも、もし、そのような心というエージェントの要請的想定が唯一リーズナブルであるのだとすれば、それを定位するのが成程至当かもしれない。だがしかし、それはとうてい唯一リーズナブルとは認めがたい。」406-7P
(対話E)「因みに、いわゆる催眠現象を思ってするがよい。人の行動は勿論そのすべてが狭義の催眠現象であるとは言えないにしても、人々の行動(とりわけ対人的・社会的行動)が極めて広く且つ深く一種の催眠的誘導に規制されていることは今日では定説的な知見に属する。――曩(「さき」のルビ)にも“紹介”したように、催眠現象には、(a)被術者が憑依的状態(顕在的意識を消失している状態)に陥っている情況において、術師の命令する通りに被術者が“操られて”行動するケース、(b) 被術者が顕在的意識を残しており、術師の命令に意識的に反抗(つまり、命ぜられたのとは別様の行動をしようと企投的に決意)するのだが、現実には命ぜられた行動を体現してしまうケース、(c) 被術者が憑依状態に陥っている間に、術師が(例えば、時計が三時を打ったら窓を開けよ、というような)将来的行動を命じておいて一たん術を解く。すると、被術者は意識が戻っている状態で、命ぜられていた行動をおこなうが、それが命ぜられていたという記憶的意識はなく、当人としては自発的な企投的意志行為の心算(「つもり」のルビ)でいるケース(その行動の理由を訊かれると、例えば「空気が濁ってきたようだから窓を開けたのだ」と答える)、以上の三大別を設けることができる。ここで特に留目したいのは、(c)のケース、すなわち、しかじかの場合にはかくかくの行為をせよと命令・期待されていて、当人はその仮言的命令を記憶していないのだが、当の仮言的場合に直面すると“自発的な企投的意志行為”として当該の受命行動を実行してしまう「深層催眠」のケースである。人々の日常的行動の機制にはこの深層的催眠が広く介在しているように思えるのだが、いずれにせよこのケースは、当人自身の意識においてこそ“自発的な企投的意志行為”の心算でも、第三者的・客観的には自発的自由行為とは認められがたい事実のあることを示していよう。翻って(b)のケースを思い合わせるとき、すなわち、当人の企投的決心とは別異な行動が(催眠的操縦によって)現成してしまうというケースを思い合わせるとき、当人の現識している意思的志向は身体的運動の起動・駆動をおよそ統御するものではなくて、極言すれば、意思的志向と呼ばれる意識性とは直接の関係なしに身体的運動が進捗しうること、このことが認められざるをえまい。」407-8P
(対話F)「それでは、意思的志向意識と現実の身体的運動とはむしろ無関係なのが実態であると言うのか? 通常は意思的な志向意識と現実の身体的運動とが概ね照応的であるからこそ「随意運動」という“思念”も生じる次第なのであり、催眠的行動という“特殊例外的(?)なケース”を楯に取って臆断するわけにはいかない。催眠的行動やいわゆる「不随意的運動」と「随意的運動」とを綜合的に説明できる配備が求めらるべき所以となる。(因みに、或る種の行者(「ぎょうじゃ」のルビ)などは、一定の努力によって、例えば心臓のごとき不随意筋を随意的に一時停止させることができるようになる由である。亦、ヒトは普通は耳を動かせないが、努力すれば割合いと簡単に耳を随意に[といっても、馬・兎・猫などほど著しくでないが]或る程度までは動かせるようになると言われる。)」408P
(対話G)「誰しもここで容易に思い付くのがあの“心的エージェント”説を若干ソフィスティケイトした構案である。「心的エージェントの身体制御力には限界があり、心的エージェントは身体的活動を全面的に制御しているわけではない。だから、不随意的身体運動もあれば、我が意に反して身体が運動してしまう場合もある。催眠現象のうち(a)のケースは、自分の無意識中に、自分の身体が術師に操縦されてしまうものであり、(b)のケースは、自分の随意的制御力に打勝って、自分の身体が術師の操縦に服してしまうものであり、(c)のケースは、術師の命令的要求を受け容れつつ、自分が引請けて自発的に起動するものである」云々。これは一見尤もらしく聞こえるが、思い直してみれば、ここでの“心的エージェント”とやらは具身の主体“この身”をほぼそのまま“内在化”させたものにすぎないことが判ろう。“この身”は、無自覚裡にも反射的・条件反射的な行動をおこなうし、意に反した行動を仕出かしてしまうこともあるし、他人の命令・期待に応えて“自発的に起動する”こともある。こういう“この身”の在り方をそっくりそのままスライドさせて“心的エージェント”の在り方と言い做したもの、それが嚮のソフィスティケイションの実態なのである。だから、それは、まさに説明さるべき問題をそっくりそのまま説明する装置に擦替えたものに過ぎず、実質的には何ら説明たり得ない。」408-9P
(対話H)「問題の焦点は依然として、「意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェントたる心」なるものが果たして真に実在するのか、「心なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」と考えることが果たして唯一リーズナブルであるのか、茲に懸っている。そこで、あの催眠的運動現象を更(「あらた」のルビ)めて議論の手懸りにしよう。」409P
(対話I)「仮令、実体的な心的エージェントを想定する論者であってさえ、よもや、催眠術師が被術者の「心」に直接に働きかけるとは主張すまい。術師の命令的に発する言語的音声(聴覚的刺激)や身振(視覚的刺激)が被術者の感性的受容装置や神経系に作(「はた」のルビ)らきかけ、そこに現成する神経生理的状態を介して「心」に影響する、という構図で考えるのが今日では普通の筈である。そしてこのさい、中枢神経系の機制は一種の条件反応(第二信号系レヴェルの条件反射)ということで説明されうることであろう。とすれば、(a)および(b)のケースにおける催眠的身体運動は条件反射の機制で説明され、(c)のケースにおけるそれも、一種の遅滞的条件反射ということで説明される所以となり、「(要求を引請けての)決意的起動」なる意識態はたかだか随伴的現象にすぎないものとして遇されうる。」409-10P
(対話J)「一般論として神経生理学的状態系という物理的存在の実在性を積極的に措定する立場を執る場合、外部的影響によって一定の身体的状態がもたらされる受動的ケースばかりでなく、第一篇第三章第一節の論脈内で陳べたように、“内発的に始動”する「心因性の身体的現象」と呼ばれるものも、悉(「ことごと」のルビ)く、「心−身」関係論上の「随伴説(epiphenomenalism)」で“説明”することができ、「心」という格別な起動的エージェントを想定することはおよそ必須ではない。――論点の一部を再掲しておこう。「起因性の身体現象」と謂われるものであっても、当の身体的現象は生理的因果過程連鎖の終端であり「心因」が肉体に影響する起点的現場は中枢にある、と考えられる。(例えば心因性の胃潰瘍と言っても、心が直接に胃壁に作らきかけるわけでなく、心は先ず脳中枢的状態に影響を及ぼし、そこから生理的因果連鎖過程が進行して、胃酸の過多的分泌や胃壁の修復機能低下をもたらし、このような過程的媒介の結果として胃潰瘍という身体現象が発生するのである。)視角を変えて言えば、原因さされる心理状態と“直接的・第一次的な結果的生理状態”とが中枢において“接合”している、と考えられる。が、ここにいう“接合”は、よく考えてみれば、心理的過程と生理的過程との直截な時間的継起ではない。というのはこうである。謂う所の「心因」、この心理的状態は“絶対的偶発”として自生した自己原因ではなく、それ自身、その状態へともたらした“規定因”に先立たれている。この“先行的規定因”たるや、直ちに身体的状態ではない。それはひとまずは“先行的心理状態”であってよい。だが、嚮に妥協的に設定した構成の下では(つまり、いわゆる心理的状態・意識的状態には必ず一定の脳神経生理的な機能的状態が一意的に「対応」している、と想定する構制の下では)、いかなる心理的状態にもそのつど一定の中枢的生理状態が「対応」的に存在する。従って、「心因」にも先行的“規定因”を認めるかぎり、当の「心因」自体、先行的“規定因”たる心的状態に見合う“中枢的生理状態”の終局的位相に「対応」(“随伴”)するものにほかならない。こうして、随伴説的な構制の下では、心因に“先行する規定因の連鎖”と“後続する結果的連鎖”とは、意識現象として連続しており、亦、それに見合う生理状態的過程としても中断なく連続している。このさい留意すべきことには、決して「@生理的過程→A心理的状態→B生理的過程」というように、@とBとの中間にAの心理的状態が時間的に挟まるのではなく、@とBとは直接連続している。@の終点とBの始点とは一個同一の時点なのであって、その時点における脳中枢的生理がAの心理状態を“随伴”するのである。こうして「心因」なるものを以って絶対的なオカルト的自己原因なりと主張するのでないがきり、いわゆる「心因性の身体現象」は随伴説的構制によって割合いとうまく“説明”がつくのである。――という次第で、「心なる格別なエージェントが存在していて、その心が身体的運動を起動する」と考えることは到底唯一リーズナブルな構案とは認めがたい。」410-1P
(対話K)「誤解ないように願いたいのだが、著者自身は必ずしも「随伴説」を積極的・最終的に採る者ではない。差当り叙べておきたかったのは、「自発的起動感」という“意識事実”を説明するために、心的エージェントなるものが身体に対して起動的作用を及ぼすと考えることは必須でもなければ唯一合理的というわけでもないこと、取敢えずこのことまでである。」411P
(対話L)「先刻来の「自由意志」をめぐる当座の論件に関して暫定的に閉じるべく言えば、人は無制約的自由でこそなけれ、慥かに「選択的自由」ならびに「自発的自由」を思念的に覚識しているが、この“意識的事実”は必ずしも「撰択的・起動的な作用を発揮する心的エージェント」「自由意志」なる格別な存在の実在性の認識根拠ではない。しかし、このことは「決定論」(Determinismus)を直ちに正当化するものではなく、「客観的偶発性」の余地が存するかぎりでの非決定論を許す。但し、謂う所の「客観的偶発性」は「心的エージェントの自己原因的自発性」に負うものではない。われわれは「精神的自発性」「精神の自己原因的自由性」を論拠とするたぐいの非決定論・自由論に与(「く」のルビ)みしない。いわゆる主体的意志行為の主体なるものは、「撰択的・自発的な自由性・起動性」の覚識の帰属する存在ではあっても、行動の機制としては(意識性を“随伴”すると否とに拘らず)専ら神経生理学的に統御される活動機構体であればひとまずは足りる。」411-2P
第五段落――“無意識的行動者”との呼応的な共演の成立 412-6P
(対話@)「翻って、人々の共演的営為が円滑に進捗するためには、共演者たちが互いに他者の行動の展相について正確に予料できていることが有効である。が、惟えば、共演者たちの行動の展相について正確に予料するということと、彼らの企投的決意の意識態を正確に現認するということとは、直ちに相覆うものではなく、むしろ別事である。卑近な話、決意的企投の通りにはならず、蹉跌を生じるような場合、企投的意識態を知っただけでは正確な予料にはなりえない。現実に円滑な共演行動が進捗する場合、習熟した連繋プレイヤーたちは、殆んど反射的に呼応的動作をおこなうのであって、共演者の意識態など殊更に現識しないのが却って普通だとさえ言えるかもしれない。要は、共演者の行動の展相を逐時的に正確に予料することに懸かっており、企投的意識態の察知はそのための“補助的一手段”にすぎないと謂うことすらできる。」412P
(対話A)「爰に、いわゆる“無意識的行動者”(別段失神的状態にあるわけではなく、覚醒的意識を具えてはいるのだが、目下どのように行動しているかを明識することなく“自動的”に行動している者)との呼応的な共演も成立しうる。とはいえ、共演者の行動の展相について当方の側でも十全な明識性をもって現識していない場合でさえも、即応的共演が円滑に進捗している際には、偶然に平仄(ひょうそく)が合っているのでない限り、少なくとも一方の側では相手側の行動の逐時的展相を覚知しつつ即応している筈である。」412-3P
(対話B)「では“無意識的行動者”との円滑な即応的共演が可能であるのは如何にしてであるのか? また、相手の意識態の察知が、相手の行動・展相の予料にとって“補助的な手段”たりうるのは何故であるのか? これは自明の理を問い返すもののようでいて、一考に値する。」413P
(対話C)「人は他人の行動のその都度の具体的な成立機序について認識を有っているわけではなく、身体生理学的な“原因”から行動という“結果”を予想・推論するわけではない。他人の行動の展相の予料に際して、いわゆる“経験的知識の備蓄”がどのように活用されるのか、これの討究にまでは今茲では立入らないが、人は他人の表情・挙措・態度……を単なる与件以上の相で、謂うなればディスポジショナルに覚知するのであって、このディスポジショナルな覚知予料を支える。この予料が蓋然的に適中するのは、表情・挙措・態度と近未来的行動とのあいだに一定の“法則的”対応性があることに拠ってであろう。“法則的対応性”ということで言えば、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……や、主体の役柄的規定・人格的特性……と行動とのあいだにも一定限それが存立していることは確かだと思える。そして人々は現に“経験的知識の備蓄”に恃みつつ、この“法則的対応性”をも予料の一具にしていると言えよう。……即応的共演が極めて円滑に“自動的に”進捗するような場合、謂うなればプロテンツィオナール(未来的)な予料が逐時的に充実されて行くのが実情であって、このような際には、当人たちの顕在意識においては、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……といったことすら明識されず、たかだか表情・挙措・態度……といったものが現識されているという域に留まるかもしれない。だが、そのような場合でも、“前意識(「ダス・フォルベヴステ」のルビ)”的なレヴェルにおいては、それらの諸要因と行動のあいだの“法則的な対応性”が勘考されている可能性は大いにある。相手が“無意識的行為者”の場合であれ、相手の意識態を当方が明識していないだけの場合であれ、そこでも相手の行動に関わる予料が概ね適中し、以って即応的・呼応的な共演が円滑に進行しうるのは、謂う所の“法則的対応性”に則っての予測がおこなわれることに拠ってのことであろう。反(「ひるがえ」のルビ)って思うに、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……を明識的に勘考し、更には相手の表情・挙措・態度を分析的に顧慮しつつ、相手の現出するであろう行動を予想するといった場合においては、却って予料が心もとない。“法則的対応性”といっても確定的に定式化された相で泛かぶわけでなく、“法則適用”の具体的な条件が劃定的でなく、理詰めで予想しようと試みる段ともなれば、一義的な推定は不可能という“論理的結論”になるのが落ちである。(それにもかかわらず、人々は往々にして臆断的な“推論”を敢行し、それがかなりの蓋然度で“中(「あた」のルビ)る”ことも確かである。このことにはしかるべき根拠があるにしても、それは論理的推論というより一種の“直観”“賭け”の性格しかもたない。)茲でクローズ・アップされるのが、相手当人の意識態の理解という契機である。相手の意識態を理解するうえで、相手本人の言語的表現が重要な“手掛り”として役立つことは言うまでもないが、嘘言の可能性があることは措くとしても、相手が意識態の全幅を言語的に表現しているわけでなく、そもそも相手本人の意識態が悉く顕在的な意識にのぼっているという保証もない。という次第で、人は他人の意識態を“十全”に把捉・理解しようと図る際には、言語によって直接には表現されていない諸契機をも配視する。相手本人が一定の言語的表現をもたらす場合でさえ斯くの如くであり、相手が特別に言語的表現をおこなわない場合にはなおさら非言語的与件を“手掛り”として相手の意識態の把捉・理解が図られる所以ともなる。そこでは、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……も当然勘考さるべき重要な契機をなすが、このさい、それらが“客観的”にどうあるかよりも、相手本人にどう意識化されているかの察知が殊に重要であることは絮言するまでもない。そこでは、また、相手が意識化している役割期待(差向けられているそれ及び差向けているそれ)や、役柄的規定・人格的特性……も勘考され、表情・挙措・態度……も勘考される。だが、今問題のケース、すなわち、相手の行動相の予料が顕在意識的・判断的に殊更におこなわざるをえない場面にあっては、それら諸契機の勘考に即して直截に将来的な行動の展相が予料されるというよりも(そのような場合もないわけではないが)、それら諸契機を勘考しつつ一旦相手の意識態を忖度的に“思い描き”、その意識態に応じて“今から現出するであろう行動の展相”を予測する、という形になることが多い。このような仕方で相手の意識態を“把捉”することが相手の現出するであろう行動の予料にとっての“補助的手段”とされ利用されるのは、意識態と現出する行動とのあいだに一定の“法則的対応性”の存することが“経験的に”信憑されていることに因る。」413-5P
(対話D)「人々は、屢々、右の“意識態”と“現出する行動”とのあいだの一定の“法則的対応性”を「心→身」因果論的に了解し、意識態を知ることで行動展相を予測する構制を“原因”を知ることに拠って“結果”を予測する機制であるかのように思い做している。が、それは飛躍である。この間の機制は、先にいわゆる「心因性の身体現象」に関して叙べたとところと同趣であり、謂う所の“一定の法則的対応性”は“随伴的意識性”に見合う“中枢的状態”を介して成立しているものとも解されうる。――人々は、“中枢神経的状態”のその都度の具体相を知らず、これと身体動作等との因果的連鎖過程を知らないが、謂うなれば“中項”をブラック・ボックスに納めたまま“意識態”と“現出する行動”との“法則的対応性”を頼りに、“意識態の把捉”を“補助手段”として“現出する行動”を予料する次第なのである。――他人の意識態の“把捉”“理解”は、学理的には難題であるにせよ、当事主体たちは日常的な共演行為の場においては、それをかなりの蓋然度で“正しく達成”している心算で居り、“齟齬”(に気付かされることの)なさ“円滑”な呼応的・即応的な共演を現に営なんでいる。」415P
(対話E)「是を以って観るに、意識態の“把捉”を“補助的手段”として活用すると否とに関らず、人が他人の行動の展相を予料し、概ね“齟齬を来たすことなき”呼応的共演を営なみ得ているのは、斯くかくの現与的条件の下では然かじかの行動が出来(「しゅったい」のルビ)することが蓋然的であるという“常道的”“法則的”な“合規則性”が存立することに負ってである。――齟齬なき呼応的共演は、当事者たちが共演者の企投的決意性の内容を正確に理解し合っていることに因るものではない。共演者の企投的決意意識態の“把捉”は“正確な予料”にとって重要な“補助手段”であり、以って円滑な共演をもたらす一契機であっても、これが齟齬なき呼応的共演の存立条件というわけではない。このことの銘記を要する。――」415-6P
(対話F)「今や、行為主体当事者たちがいわゆる「自由意志の主体」でありつつも、彼らの行為が、斯々の条件下では然々の行動の出来することが相応の蓋然性を以って予料される所以の“常道的”“合規則性”、これの成立する機序に目を向ける段である。」416P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(17)
第二篇 営為的世界の問題構制
第三章 実践の間主観的規制と規範的当為性
第一節 決意的企投の呼応性
(この節の問題設定−長い標題)「舞台的世界において、人々は能為的人格として出会い、呼応的に決意的な企投的行為を営むことが可能であり、以って自覚的な共互的協働が可能であると同時に、互いに“裏切る”可能性をも有つ。とはいえ、行為は、恒に必ずしも対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的意識性を伴っているわけではなく、また必ずしも呼応的協働の意識性を伴っているわけではない。人間の行動は、しかも企投的決意の意識性を伴っている場合でさえ、選択的自由ならびに自発的自由を具えた「精神的エージェント」の統御・駆動に因るものとは言い切れない。」395P
第一段落――これまでの復習とこの節の課題−直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向ける− 395-6P
(対話@)「われわれは第一篇このかた世界的舞台場における人物どうしの出会いの諸位相に留目し、役割的・役柄的な規定相での認知や人格的特性相での認知ばかりでなく、初対面の人物との遭遇の場面であってもそこでの認知・応対の態勢に特質の存することを分析・論定してきた。溯っては、抑々、人物的個体の分節化的現前の原初的場面から配視し、“あの身”“この身”の共軛的な対他・対自性の現成を跡づけ、自己像の成立にとって他己像が要件をなし、対自的自己形成にとって他己との共軛的な関わりが存在条件をなすことを見定め、他己認知・他者認識の成立機序、等々を論考したうえで、共互的役割行為の構制、協働的役割遂行と主体=我々の現成機制にも議論を及ぼしておいた。」395P
(対話A)「今茲では、既述の論点の復唱は省き直截に企投的行為主体の出会いの構造に目を向けることにしよう。――尤も、企投的行為主体の出会いと言っても、対自的なそれだけでなく、観察者的視座からのそれをも配視する必要がある。そして、いずれにせよ、われわれとしては、当事者の直接的思念相を単純に追認するのでなく、当事者においても反省的に確認されうる筈の構制を学知的見地に立って分析する課題を負う。」396P
第二段落――当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化する 396-401P
(対話@)「われわれは、人間の行為は、当事者の意識性に即する限り必ずしも目的合理的ではなくむしろハビトゥアルであるのが普通だということを折々に叙べながらも、フェア・ウンスには、概して、目的達成型の構制になっている事実に鑑み、行為わけても役割行為を、前章においては、目的達成型の構制に即して論考してきた。――目的合理的・価値合理的・伝統的・感情的というウェーバー流の“類型分類”は、当事者の主観的に思念せる意味に即してすら十全とは認めがたいが、しかし、そのいずれも、フェア・ウンスな一定の視座からすれば、多くの場合、目的達成型の構制に納めうる。このことは確かである。とはいえ、それは適当な機能的目的性を措定すればことのことであって、或る種の目的性に徴すれば非合理的でもありえる。――ここでは、まずさしあたり、当事者たちのフェア・ジッヒな意識性に即するかたちで、決意的企投行為ならびに非決意的“自動行為”の在り方を主題化しておかねばならない。」396P
(対話A)「偖、われわれは已に前章第一節「役割行為の存在構制」の論脈中において「決意的企投」の意識態を分析しておいたのであったが(三一八頁以下をここで再読されたい)、その折りに見たように、決意的企投に際して要件をなすのは目的志向性であって、「目標的状景」を明晰判明に表象することは必ずしも須要事ではない。そして、人は、他者の決意的企投意識態についても、自分に差向けられた役割行為期待の構造内的“成分”としてであれ、他者自身の直截な企投意識“内容”としてであれ、それを察知・理解することが可能である。――この察知・理解は他者理解の一斑なのであって、他者が別段企投的決意をおこなっていない場合の意識態についての察知・理解も可能であることは附言するまでもない。――茲に人々は決意的企投者として相見(「あいまみ」のルビ)え、自覚的呼応性において、共互的行為ひいてはまた協働的行為を相営なむことが出来る次第である。」396-7P
(対話B)「ところで、他者が企投的に決意していることやその内容を知るのは、他者理解の機制について詳しく前述した直截な仕方を原基としてのことであるが、いわゆる類推や投入の機制によってもそれがおこなわれる。それはいずれにしても前言語的な機制を原基としておこなわれる。とはいえ、現実問題として、高等・複雑な企投的決意内容の伝達・理解は言語的交信に俟つところが大きい。尤も、後言語的な交信にあっても、決意的企投やその内容が逐一具体的に言表されるとは限らない。或る階梯・局面では詳しい言表がなければ伝達が成立しないにせよ、やがて直接的言表が退縮しうる。というのも、言表とコングロマリットを成していた表情・身振・様子・態度といった非言語的契機が、それらを核とする直接的補完・融合的同化・補完的拡充・標徴的連合、等の機制によって、(これらの機制については第一巻四五頁以下を参看されたい)、言語的言表を謂うなれば“代償”するかたちになりうるからである。(このため、言表が一定限はおこなわれるにしても、例えば「ケシカラン」と呟(「つぶや」のルビ)いただけで聴者は舞台的・場面的な諸情況や当人の動勢に照らして、彼が叱責を、乃至は亦、殴打、等々を、企投的に決意していることを察知することができる。また、例えば、当人は「美味(「うま」のルビ)そうだな」と言っただけでも、舞台的情況や本人の動勢に徴して、彼がいま見上げている柿の木に登り、実を捥(「も」のルビ)いで、喰べようと企投・決意していることを察知できる、等々。極めて“退縮”化した言表で以って、詳しい言表とはほぼ等価な伝達機能を果たしうる所以となる。) 」397P
(対話C)「勿論、人は他者が企投的に決意しているという事実ないし/および決意性の企投の内容について、錯認・誤解に陥る場合もある。そして、そこから様々な齟齬や悲喜劇が生じうるのであるが、その具体相について今茲で論及するには及ばないであろう。われわれの当面の行論にとっては錯認や誤解に気がついて正しい認識に是正される構制が原理上ありうれば足る。この要件が超越論的視座から見たさいに果たして充たされるか否かは問題が残るにせよ、少なくとも当事者たちに即するかぎり、錯認や誤解に“気がついて”正し、応待が以後は“齟齬なく”“円滑に”進捗し、もはやあらためて錯認や誤解を思い知らされることなく進行するようになること(このとき、「正しい理解に達している」と当事者たちは確信する次第だが)、これは現に経験されるところである。」397-8P
(対話D)「今ここで敢えて関説しておきたいのは、単純な錯認や誤解ではなくして、意図的な欺(「あざむ」のルビ)き・騙(「だま」のルビ)しのケースについてである。――著者としては、或る種のエスプリの効いた論者たちの驥尾(きび)に付して、「能知・能意的な主体とは他者を瞞着する能力を持つ者の謂いなり」と定義するつもりも、また、「記号とは他人を騙すことの可能な用具の謂いなり」と定義するつもりもない。が、能為的人格(能知能意・能動的な主体)どうしの出会いを論件とするに当っては、意図的な欺き・騙しの能力・可能性という問題を避けて通るわけには参らない。けだし、これは“裏切り”の問題にも通じ、「約束」とも裏腹の面があるからである。――」398P
(対話E)「日常用語では、嘘言(「うそ」のルビ)という詞は、広義においては、当人自身がそう信じ込んでいる虚偽的命題の言表も含みうるが、狭義においては、当人自身はそう思っていないにも拘らず、他人に、その誤まてる言表内容を信じさせようとして発せられる言表、これが嘘言と呼ばれる。そして、この狭義の嘘言について、他人に誤った思念を懐かせること(ないし、懐かせようとすること)を「騙す」と謂う。が、「騙し」は必ずしも言語的言表だけによっておこなわれわけではない。他人に誤った思念を懐かせる(懐かせようとする)手段、つまり騙しの手段としては、表情・身振・挙措・態度といったものも用いられうる。これは「振り」(pretention)とも呼ばれる。――これらの日常的用語では概念的厳密性を欠くが、当座の議論では、これに便乗して進めておいて大過を生じないと念う。――扨、嘘言や振りに因る錯認・誤認を、人々はかなり多くの場合、自家是正しうる。相手の意識態に関する嘘言単純な誤認・誤解のケースでは、誤認・誤解されているらしいと気付いた相手当人がそれを是正して貰おうとして追加的な各種情報を発信するのにひきかえ、相手が意図的に騙そうとしている場合には、是正の機縁となるような追加情報を供しないどころか、誤認・錯認を強化するような追加的情報を齎(「もた」のルビ)らすので、是正は容易でない道理である。それにも拘らず、現実問題として、かなり多くの場合、嘘言・振りを見破り、自家是正がおこなわれる。これが可能になるのは、おそらく、諸般の諸要因に徴しての不斉合性とか蓋然度の低さとかの“理詰めの推論”もさることながら、表情・身振・挙措・態度(言語的表現のトーンなどにおける“表情”をも含む)に何かしら“不自然”で“疑念を喚びおこす機縁”を看取し、それを契機に“再考”することにおいてであろうかと想われる。(騙しに何故また如何にして気付きうるのか、そして一体以下にして真実の洞見に到りうるのか、この機制については審(「つまび」のルビ)らかでない。)が、機制は不明でも、ともかく、現実問題として、人々はかなり多くの場合、瞞着に“気がつき”“真実を洞見し”て事に当り瞞着を免れて然るべく対処する。そして多くの場合、“自分で気がついて洞見した真実”がまさに真実であったこと、この確信をその後の経過で愈々強めるのが普通であって、当の自家確信を撤回する破目になることはむしろ稀である。この場合における“真実の洞見”という確信は何に支えられているのか。相手当人が白状して、真実を証言するわけではない。自分の側での確信が揺がないというのはたかだか心理的事実にすぎないとはいえ、これにはしかるべき機縁と併せて一定の判断的支えが与っている筈である。それは、論理的構制上で言えば、「「認識論的主観」の「判断」と合致していることの自家信憑ということになろうが、通俗的に言えば、自分以外の判断者たちも自分と同じ判断をくだす筈だという確信、一種の共同主観的=間主観的な判断一致の確信と相即するものにほかならないであろう。――尚、世には「反語」や「皮肉」といった現象、すなわち、“形式的”には嘘言や振りと“同型”的でありながら、騙す意図はなく、却って、“嘘言”や“振り”にすぎないことをトーンその他の徴表で同時的に表出する方式も存在する。が、これについては、反語や皮肉であることを察知せしめる機制と、嘘言や振りを看破する機制との間に、或る共通な機制が存するであろうことに留意するにとどめ、ここでは立入らないことにしよう。――」398-400P
(対話F)「ところで、右で一端に触れた嘘言や振り、騙しの問題とも関連する事柄で、決意的企投の呼応性を論題とする際、是非とも配視を要する事項として、「信頼」と「裏切り」(その特殊的ケースとして「約束」と「違約」)という論件が厳存する。――人々は共互的ないし/および共演的な行為に際して、相手(「パートナー」のルビ) (達)の遂行的行為に関し、一定の期待的・予測的な予科を懐いているのが普通である。この予科は、時としては、相手の企投的決意内容の察知・理解と相覆う場合もあり、また、特別なケースとして、事前の「約束」に則るものの場合もある。そして、一般に、騙されている場合をも含めて、“相手の人格に対する信用”でこそなけれ、相手の遂行的行為の予料を信じているという意味で、相手の予料的行為相を出来(「しゅったい」のルビ)させる。それには、相手における蹉跌・失敗の場合もあれば、当方が相手の志向を誤解して見当外れの予期を懐いていただけで相手当人にとっては予定通りの行動という場合もあれば、相手の意図的な騙しに当方が欺かれていた場合もある。また、相手が途中で予定を変更して、企投の立て直しをおこなった所為(「せい」のルビ)の場合などもある。共演的に行為する者たちは、いずれにせよ、その都度一定の予料を概して「信頼的」に懐きつつ行為するとはいえ、不断に予期外れの相手の行動が出来する可能性を考慮しつつ対処する。さもなければ、円滑な即応的共演がそもそも成立しがたい。が、特に問題なのは、相手が明示的な約束というかたちで、ないしは、明示的な約束でこそないが一定の表出で、当方が相手の遂行的行為相についてしかじかの「信頼的」予期を懐くように仕向けておきながら、相手が途中で当の予期を意図的に破る行動に出る場合、すなわち「裏切行為」の場合である。相手がいわゆる「自由な主体」である限り、人は不断に、相手による「裏切り」の可能性に当面せざるをえない。」400-1P
(対話G)「能為的主体の出会い、共演、ひいては、協働、とりわけ、呼応的な決意的企投行為、これは、単純な錯認・誤解による予期外れや相手の蹉跌・失敗による予期外れのほかに、相手に騙されての予期外れ、相手が途中で変心することに因っての「裏切り」による予期外れ、この可能性に不断に曝されている。――ということは、呼応的な決意的企投にもとづく共演・協働が円滑に進捗するためには、当事者たちが互いに相手の行為に関わる予測・予期を誤まらないこと、そしてそのためにも、望むらくは相手の意識態について可及的に正しく理解していることが“要件”となり、企投的意識態に関して言えば、相手が舞台的場面的情況をどのように現識しているか、どのように目標的状景を泛かべどのような目的達成を志向しているか、どのように手段を策定しているか、これを可及的に察知していることを要し、併せては溯って、相手のありうべき欺瞞・蹉跌・予定変更・裏切りなどの可能性を考慮に入れることをも必要とする謂いとなる。」401P
(対話H)「当事者たち自身のフェア・ジッヒな体験相に即する限り仍ち斯くの如くである。――だが、学知的見地から反省的に捉え返すとき、果たして人間の行動というものは、真実左様に「自由な行為」なのであるか? 人間の行為というものは、その全てが意識的に統御されているわけでなく、そこには非決意的な“自動行動”もある。そして、いわゆる企投的決意の意識性を伴っている行為の場合でさえ、果たして選択的自由や自発的自由に因るものであるのか、この件については再考を要する。今や、その作業に溯る段である。」401P
第三段落――意識性・意図性に導かれている行為 401-4P
(対話@)「議論の順序として、「意識性・意図性に導かれている行為」と謂われる場合から問題にして行こう。」401P
(対話A)「人々は、通常、行為なるものの単位的区劃を、企投的決意から目標実現までのスパンで截り取り、その期間、一貫した目的意識性を伴っているものとしたがる。これはいわゆる意志行為の“正準的”な“単位”の在り方と一応は認められうるかもしれない。しかし、主体的・意志的行為にとって目標意識性・決意意識性が必要条件であるとは称されるものの、現実の行為においてこの条件がどこまで充たされているかは多分に訝(「いぶ」のルビ)かしい。人は、単位的一行為と認定される営みを実行する一期間を通じて終始一貫「目標意識性」を明識し且つ「決意意識性」を裡に実感する意識態を対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に保持し続けているわけでは必ずしもない。」401-2P
(対話B)「例えば、或る目的地へ行こうとして電車に乗り込む。雑誌を読み始める。読んでいる以上は、彼は意識を失ってはいないが、目的地に行こうという意識性を明識し続けているとは言えない。なるほど、降りる駅が近づく頃には注意するところをみると、目的意識性や決意意識性が消失していたわけではない、と言えるかもしれない。では、途中で寝入った場合はどうか。熟読したり熟睡したりしている期間中は、およそ目的地へ行く行動目標を忘向的に明識していないが故に、目標地を目指しての主体的行為が中断されていると見做すのか? 決意的行為と呼ばれるものでも、行動様態がルーティーン化しているものの場合、途中の期間には、目標意識性も決意意識性も“消えて”いることが多い。従って、目標意識性・決意意識性の現識ということを厳しく言い立て、それを主体的行為であるための必要条件とするさいには、人間の行動はその大抵がおよそ主体的な行為ではないことになってしまうであろう。そこで、人々は、目標志向的起動に始まり、それの成就に終る一纏まりの行動を、目標意識性や決意意識性の“消失”している途中の過程をも含めて、全体として主体的行為と呼んでいるのが実情であるように見受けられる。この扱いそのことに異を唱えるつもりはない。が、そうなると、目標意識性・決意意識性が主体的行為の必要条件であるという提題は脆弱になり、なるほど開始時にこそ特性的であれ、以後は惰性に身を委ねた行動や他律的操縦される行動とも同趣になってしまう。」402P
(対話C)「これでは、何ぞ意識性・意志性・主体性なる乎と言いたくもなる。この実情が銘記されねばならないが、しかし、ともあれ行為の開始時点に企投的・決意的な起動の要件として目標意識性が特異的に存在するとされる限りで、目標意識性ということを逸してしまうわけにはいかない。が、今や見易い通り、目標意識性なるものが主体的行為にとって必要条件だと謂われるのは、決意的・内発的な起動にとって企投的目標意識が構成要件をなす限りのことなのである。」403P
(対話D)「そこで、主体的行為にとっての必要条件と称される「内発的起動性」とやらを検討しよう。内発的起動というのは、さしあたり、身体内部に在るエンジンが内発的に始動せしめられる謂いであろう。が、そのさい、企投的志向目標を意識するエージェントが、兼ねては亦、決意的起動作用を発揮するエージェントでもある、という了解が通念であるように思われる。ここでは、意識性を有ち且つ作用性も有つエージェントが身体内に在って、そのエージェントが決意的発動をおこなう、という描像にもなろう。(このエージェントは、普通には「心」として思念され、そのかぎりでは純粋に精神的(「プシヒッシュ」のルビ)な存在と思念されているのだが、考え直してみれば、それは純然たる精神的存在というよりもむしろ、一種の「心−身」的存在と考える方が整合的かもしれない。というのも、意識性をもつかぎりでは「心的」であるが、同時に、それが肉体という物質的存在に対して因果的起動作用を及ぼすものである点では「身的」であると見做した方がオカルト的作用を想定せずに済むからである。そこで、もし、裡なるエージェントを一種の「心−身」的散在と考えるとすれば、そのエージェントによしんば手足がなく、個体的主体と同型的でこそなけれ、それでもやはり「心−身」的存在としての個体的主体と同趣的な、このかぎりで一種の“裡なる小人”とそれは呼ばれうる所以となろう。がしかし、ここでは通念通り、純然たる精神的存在=心ということにして暫く議論を運びたいと念う。)」403P
(対話E)「偖、謂う所の決意的・内発的な起動は、外的な諸条件・諸要因によっても制約・影響されることを禁ぜられない。企投的目標設定にさいして、舞台的・他者的・道具的な与件によって制約されることはむしろ当然であるし、起動的決意遂行にさいして、情況的・肉体的・規範的な諸条件によって制約されることもこれまた不回避である。そして、また、決意的起動が期待的督促や物理的触発による興発によって影響を蒙むることもありうる。が、要は外的な要因によって一義的に決定されてしまうことなく、企投的決意をどうおこなうかおこなわないかの最終的決定、これの裁量が“裡なるエージェント”に委ねられていれば宜い。」403-4P
(対話F)「ここにおいて、決意的起動性という問題は、いわゆる「自由」の問題、すなわち、(イ)選択的自由(別途の余地なく一義的に決定されていないこと) 、(ロ)自発的自由(すなわち、一義的な必然的因果連鎖によって押し動かされるのではなく、また、単なる偶発でもなく、自己決定的に起動できること)、この問題と絡んでくる。(尚、選択的自由は企投の自由とも関わるが、選択の自由は結局は自発的自由に帰着するとも言える)。――この哲学上の大問題たる「自由論」に深く関説することは爰での任ではないが、当座の行論にとって必要最低限、若干の詞を費しておかねばなるまい。」404P
第四段落――「自由」に関して 404-12P
(対話@)「まず「選択的自由」に関して。――人が決意的な企投をおこなうさい、一般に、可能的選択肢が既在的に現在していると思念していること、そして、選択的決断がおこなわれた後、事後的に反省するとき、往々、他の選択肢を選ぶことも可能であった、と人が思念すること、この思念という事実は慥かに存在する。選択的自由と謂われるものは、さしあたりこの思念内容に照応するものにほかならない。ところで、しかし、本当に(in Wirklichkeit)可能的選択肢が既在していたのか? そして、或る行為が実行された時、別様に行動することが本当に可能であったのか? 可能的選択肢なるものは、選択の時点ではいずれもまだ未来的行動なのであるから、可能態であっても現実態ではない。だから、前掲の借問は、可能態が現実的に既在していたのかと問うている所以となる。ここに謂う所の可能態なるものがもし単に表象態の謂いにすぎないのであれば、可能的諸選択肢の既在とはあれこれの(選択肢的)行動様態が表象されているという心理的事態の言い換えにすぎないことになるから、可能的選択肢の既在はトートロジカルに事実である。だが、それはさしづめ思念的事実たるにすぎない。」404-5P
(対話A)「では、この思念としての事実という以上に、可能的選択肢の既在性ということが“客観的”に言われうるであろうか。或る種の論者たちは、可能的選択肢の「客観的既在性」を主張して、「行為主体が可能的諸途を意識(表象)していないとしても(そして現に、当事主体が意識するのは客観的に可能な諸途中のたかだか僅かのものに止まるのだが)、客観的には諸々の選択可能性が現存している」と言い、その“証拠”として、「“ほぼ同一”とみなせる現与的諸条件のもとでも、主体の“選択的決意”に応じて様々に異なった行動が現に生起する」という「経験的事実」を挙げる。論者たちといえども「現与的諸条件(舞台的・道具的諸条件ばかりでなく、身体生理的諸条件をも含む)の類似度を高めていけば(つまり“ほぼ同一”とみなすさいの“同一性”の精度を上げていけば)、そこに生起する行動の“同一度”も高まる傾向が見られる」という「経験的事実」をも併せて認める。だがしかし、「経験的事実」に即するかぎり、その収斂的傾向性が大枠的には見られるにせよ、そこには“揺動(flactuation)”的な“外(「は」のルビ)み出し”も見られるのであって、「現与的諸条件が厳密に同一(単一)であればそこに生起する行動も必然的に同一(単一)である筈だと外挿的に推測するのは、経験的には実証さるべくもない一種の形而上学的臆断(立場的態度決定)にすぎない」と論者たちは指摘する。」405P
(対話B)「ここでの論者たちの謂う「経験的事実」の確認および指摘は一応認められてしかるべきであろう。とはいえ、果たして、当の経験的事実や論者たちの指摘する事態は「可能的選択肢の客観的既在」「選択的意志行為の自由の現存」の積極的「証拠」たりうるであろうか? 差当り確説できるのは、「経験的事実」に即するかぎり「別途の余地なく一義的に決定されてはいそうにはない」こと、「現与的諸条件が同一であれば生起する行動も必然的に同一であると推定するのは形而上学的臆断にすぎない」こと、ここまでである。そして、そのかぎりでならば、実在界は一義決定論的ではなく、客観的偶然性の余地があるということ、このことまでは言えても、当の偶然性(必然性を“破る”もの)が自由意志なるものの選択活動に負うものかどうか、自由なる選択的選取という思念が実在的世界の客観的な事実に見合うものかどうか、これについては確言できない。」405-6P
(対話C)「われわれとしては、こうしてさしあたっては、客観的偶然性の余地がありうること(これは物理的実在が量子力学的不確定性を孕んでいることに支えられているかもしれない)、および、選択的自由という当事者の思念的意識があること、このことまでしか言うことができず、そこでの次のステップとして、自由意志的選択活動という自発的自己決定活動が実際におこなわれるのか、このことが論件になる。しかるに、これはまさに前掲の(ロ)「自発的自由」という論件にほかならない。」406P
(対話D)「今や、そこで、「自発的自由」の検討に移る段である。人が内発的起動感を体内に覚知するという意識事実はさしあたり認められてよい。だが、本当に自発的な起動が存在し、それが覚知されるのであるか? 錯覚的な思念でないという保証があるのか? 一定の内的緊張感や、それに引続く運動開始が感知されるとしても、それはむしろ身体的(当初は身体内部的)な状態の感知、謂うなれば体内感覚の覚知であろう。それは始動することの覚識ではなく、体内的エンジンが始動したことの感知にすぎないかもしれないのである。しかも、体内エンジンの当の運動開始は、偶発であるかもしれず、また、実は、先行的因果の連鎖に“押さ”れてのものであるのだが、先行部は意識にのぼらず、たまたま位相上の或る局面から意識にのぼり始めた(そのため、当の位相の所で起始したかのように覚識される)だけのことかもしれない。もしそうであれば、それは「自発」ではなく、実際には偶発であったり、因果連鎖の先行部が覆われているだけで、実際には強制された受動であったり、ということになってしまう。偶発や強制的受動ではなく、自発的自由行為であるためには、“内なるエージェント”が一定の“必然性”(但し「事実必然性[Müssen]」ではなく、「当為的必然性[Sollen])に則って能作的に起動することが要件である、と人々はとかく考える。そして、人々は、自発的起動感という意識事実に定位しつつ、それが「単なる主観的事実ではなく、客観的根拠をもつこと」を裏付けようとして、“意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェント”たる“心”なるものの実在性を要請的に想定する。がしかし、それは所詮要請的想定たるにすぎない。人は、いかに努力しても、いわゆる実証科学的手法よっては、「心(意識・意志)なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」という知見を得ることは覚束ない。それでも、もし、そのような心というエージェントの要請的想定が唯一リーズナブルであるのだとすれば、それを定位するのが成程至当かもしれない。だがしかし、それはとうてい唯一リーズナブルとは認めがたい。」406-7P
(対話E)「因みに、いわゆる催眠現象を思ってするがよい。人の行動は勿論そのすべてが狭義の催眠現象であるとは言えないにしても、人々の行動(とりわけ対人的・社会的行動)が極めて広く且つ深く一種の催眠的誘導に規制されていることは今日では定説的な知見に属する。――曩(「さき」のルビ)にも“紹介”したように、催眠現象には、(a)被術者が憑依的状態(顕在的意識を消失している状態)に陥っている情況において、術師の命令する通りに被術者が“操られて”行動するケース、(b) 被術者が顕在的意識を残しており、術師の命令に意識的に反抗(つまり、命ぜられたのとは別様の行動をしようと企投的に決意)するのだが、現実には命ぜられた行動を体現してしまうケース、(c) 被術者が憑依状態に陥っている間に、術師が(例えば、時計が三時を打ったら窓を開けよ、というような)将来的行動を命じておいて一たん術を解く。すると、被術者は意識が戻っている状態で、命ぜられていた行動をおこなうが、それが命ぜられていたという記憶的意識はなく、当人としては自発的な企投的意志行為の心算(「つもり」のルビ)でいるケース(その行動の理由を訊かれると、例えば「空気が濁ってきたようだから窓を開けたのだ」と答える)、以上の三大別を設けることができる。ここで特に留目したいのは、(c)のケース、すなわち、しかじかの場合にはかくかくの行為をせよと命令・期待されていて、当人はその仮言的命令を記憶していないのだが、当の仮言的場合に直面すると“自発的な企投的意志行為”として当該の受命行動を実行してしまう「深層催眠」のケースである。人々の日常的行動の機制にはこの深層的催眠が広く介在しているように思えるのだが、いずれにせよこのケースは、当人自身の意識においてこそ“自発的な企投的意志行為”の心算でも、第三者的・客観的には自発的自由行為とは認められがたい事実のあることを示していよう。翻って(b)のケースを思い合わせるとき、すなわち、当人の企投的決心とは別異な行動が(催眠的操縦によって)現成してしまうというケースを思い合わせるとき、当人の現識している意思的志向は身体的運動の起動・駆動をおよそ統御するものではなくて、極言すれば、意思的志向と呼ばれる意識性とは直接の関係なしに身体的運動が進捗しうること、このことが認められざるをえまい。」407-8P
(対話F)「それでは、意思的志向意識と現実の身体的運動とはむしろ無関係なのが実態であると言うのか? 通常は意思的な志向意識と現実の身体的運動とが概ね照応的であるからこそ「随意運動」という“思念”も生じる次第なのであり、催眠的行動という“特殊例外的(?)なケース”を楯に取って臆断するわけにはいかない。催眠的行動やいわゆる「不随意的運動」と「随意的運動」とを綜合的に説明できる配備が求めらるべき所以となる。(因みに、或る種の行者(「ぎょうじゃ」のルビ)などは、一定の努力によって、例えば心臓のごとき不随意筋を随意的に一時停止させることができるようになる由である。亦、ヒトは普通は耳を動かせないが、努力すれば割合いと簡単に耳を随意に[といっても、馬・兎・猫などほど著しくでないが]或る程度までは動かせるようになると言われる。)」408P
(対話G)「誰しもここで容易に思い付くのがあの“心的エージェント”説を若干ソフィスティケイトした構案である。「心的エージェントの身体制御力には限界があり、心的エージェントは身体的活動を全面的に制御しているわけではない。だから、不随意的身体運動もあれば、我が意に反して身体が運動してしまう場合もある。催眠現象のうち(a)のケースは、自分の無意識中に、自分の身体が術師に操縦されてしまうものであり、(b)のケースは、自分の随意的制御力に打勝って、自分の身体が術師の操縦に服してしまうものであり、(c)のケースは、術師の命令的要求を受け容れつつ、自分が引請けて自発的に起動するものである」云々。これは一見尤もらしく聞こえるが、思い直してみれば、ここでの“心的エージェント”とやらは具身の主体“この身”をほぼそのまま“内在化”させたものにすぎないことが判ろう。“この身”は、無自覚裡にも反射的・条件反射的な行動をおこなうし、意に反した行動を仕出かしてしまうこともあるし、他人の命令・期待に応えて“自発的に起動する”こともある。こういう“この身”の在り方をそっくりそのままスライドさせて“心的エージェント”の在り方と言い做したもの、それが嚮のソフィスティケイションの実態なのである。だから、それは、まさに説明さるべき問題をそっくりそのまま説明する装置に擦替えたものに過ぎず、実質的には何ら説明たり得ない。」408-9P
(対話H)「問題の焦点は依然として、「意識的・決断的に起動作用を発揮する内なるエージェントたる心」なるものが果たして真に実在するのか、「心なるものが能動的作用を及ぼすことによって身体的運動を起動する」と考えることが果たして唯一リーズナブルであるのか、茲に懸っている。そこで、あの催眠的運動現象を更(「あらた」のルビ)めて議論の手懸りにしよう。」409P
(対話I)「仮令、実体的な心的エージェントを想定する論者であってさえ、よもや、催眠術師が被術者の「心」に直接に働きかけるとは主張すまい。術師の命令的に発する言語的音声(聴覚的刺激)や身振(視覚的刺激)が被術者の感性的受容装置や神経系に作(「はた」のルビ)らきかけ、そこに現成する神経生理的状態を介して「心」に影響する、という構図で考えるのが今日では普通の筈である。そしてこのさい、中枢神経系の機制は一種の条件反応(第二信号系レヴェルの条件反射)ということで説明されうることであろう。とすれば、(a)および(b)のケースにおける催眠的身体運動は条件反射の機制で説明され、(c)のケースにおけるそれも、一種の遅滞的条件反射ということで説明される所以となり、「(要求を引請けての)決意的起動」なる意識態はたかだか随伴的現象にすぎないものとして遇されうる。」409-10P
(対話J)「一般論として神経生理学的状態系という物理的存在の実在性を積極的に措定する立場を執る場合、外部的影響によって一定の身体的状態がもたらされる受動的ケースばかりでなく、第一篇第三章第一節の論脈内で陳べたように、“内発的に始動”する「心因性の身体的現象」と呼ばれるものも、悉(「ことごと」のルビ)く、「心−身」関係論上の「随伴説(epiphenomenalism)」で“説明”することができ、「心」という格別な起動的エージェントを想定することはおよそ必須ではない。――論点の一部を再掲しておこう。「起因性の身体現象」と謂われるものであっても、当の身体的現象は生理的因果過程連鎖の終端であり「心因」が肉体に影響する起点的現場は中枢にある、と考えられる。(例えば心因性の胃潰瘍と言っても、心が直接に胃壁に作らきかけるわけでなく、心は先ず脳中枢的状態に影響を及ぼし、そこから生理的因果連鎖過程が進行して、胃酸の過多的分泌や胃壁の修復機能低下をもたらし、このような過程的媒介の結果として胃潰瘍という身体現象が発生するのである。)視角を変えて言えば、原因さされる心理状態と“直接的・第一次的な結果的生理状態”とが中枢において“接合”している、と考えられる。が、ここにいう“接合”は、よく考えてみれば、心理的過程と生理的過程との直截な時間的継起ではない。というのはこうである。謂う所の「心因」、この心理的状態は“絶対的偶発”として自生した自己原因ではなく、それ自身、その状態へともたらした“規定因”に先立たれている。この“先行的規定因”たるや、直ちに身体的状態ではない。それはひとまずは“先行的心理状態”であってよい。だが、嚮に妥協的に設定した構成の下では(つまり、いわゆる心理的状態・意識的状態には必ず一定の脳神経生理的な機能的状態が一意的に「対応」している、と想定する構制の下では)、いかなる心理的状態にもそのつど一定の中枢的生理状態が「対応」的に存在する。従って、「心因」にも先行的“規定因”を認めるかぎり、当の「心因」自体、先行的“規定因”たる心的状態に見合う“中枢的生理状態”の終局的位相に「対応」(“随伴”)するものにほかならない。こうして、随伴説的な構制の下では、心因に“先行する規定因の連鎖”と“後続する結果的連鎖”とは、意識現象として連続しており、亦、それに見合う生理状態的過程としても中断なく連続している。このさい留意すべきことには、決して「@生理的過程→A心理的状態→B生理的過程」というように、@とBとの中間にAの心理的状態が時間的に挟まるのではなく、@とBとは直接連続している。@の終点とBの始点とは一個同一の時点なのであって、その時点における脳中枢的生理がAの心理状態を“随伴”するのである。こうして「心因」なるものを以って絶対的なオカルト的自己原因なりと主張するのでないがきり、いわゆる「心因性の身体現象」は随伴説的構制によって割合いとうまく“説明”がつくのである。――という次第で、「心なる格別なエージェントが存在していて、その心が身体的運動を起動する」と考えることは到底唯一リーズナブルな構案とは認めがたい。」410-1P
(対話K)「誤解ないように願いたいのだが、著者自身は必ずしも「随伴説」を積極的・最終的に採る者ではない。差当り叙べておきたかったのは、「自発的起動感」という“意識事実”を説明するために、心的エージェントなるものが身体に対して起動的作用を及ぼすと考えることは必須でもなければ唯一合理的というわけでもないこと、取敢えずこのことまでである。」411P
(対話L)「先刻来の「自由意志」をめぐる当座の論件に関して暫定的に閉じるべく言えば、人は無制約的自由でこそなけれ、慥かに「選択的自由」ならびに「自発的自由」を思念的に覚識しているが、この“意識的事実”は必ずしも「撰択的・起動的な作用を発揮する心的エージェント」「自由意志」なる格別な存在の実在性の認識根拠ではない。しかし、このことは「決定論」(Determinismus)を直ちに正当化するものではなく、「客観的偶発性」の余地が存するかぎりでの非決定論を許す。但し、謂う所の「客観的偶発性」は「心的エージェントの自己原因的自発性」に負うものではない。われわれは「精神的自発性」「精神の自己原因的自由性」を論拠とするたぐいの非決定論・自由論に与(「く」のルビ)みしない。いわゆる主体的意志行為の主体なるものは、「撰択的・自発的な自由性・起動性」の覚識の帰属する存在ではあっても、行動の機制としては(意識性を“随伴”すると否とに拘らず)専ら神経生理学的に統御される活動機構体であればひとまずは足りる。」411-2P
第五段落――“無意識的行動者”との呼応的な共演の成立 412-6P
(対話@)「翻って、人々の共演的営為が円滑に進捗するためには、共演者たちが互いに他者の行動の展相について正確に予料できていることが有効である。が、惟えば、共演者たちの行動の展相について正確に予料するということと、彼らの企投的決意の意識態を正確に現認するということとは、直ちに相覆うものではなく、むしろ別事である。卑近な話、決意的企投の通りにはならず、蹉跌を生じるような場合、企投的意識態を知っただけでは正確な予料にはなりえない。現実に円滑な共演行動が進捗する場合、習熟した連繋プレイヤーたちは、殆んど反射的に呼応的動作をおこなうのであって、共演者の意識態など殊更に現識しないのが却って普通だとさえ言えるかもしれない。要は、共演者の行動の展相を逐時的に正確に予料することに懸かっており、企投的意識態の察知はそのための“補助的一手段”にすぎないと謂うことすらできる。」412P
(対話A)「爰に、いわゆる“無意識的行動者”(別段失神的状態にあるわけではなく、覚醒的意識を具えてはいるのだが、目下どのように行動しているかを明識することなく“自動的”に行動している者)との呼応的な共演も成立しうる。とはいえ、共演者の行動の展相について当方の側でも十全な明識性をもって現識していない場合でさえも、即応的共演が円滑に進捗している際には、偶然に平仄(ひょうそく)が合っているのでない限り、少なくとも一方の側では相手側の行動の逐時的展相を覚知しつつ即応している筈である。」412-3P
(対話B)「では“無意識的行動者”との円滑な即応的共演が可能であるのは如何にしてであるのか? また、相手の意識態の察知が、相手の行動・展相の予料にとって“補助的な手段”たりうるのは何故であるのか? これは自明の理を問い返すもののようでいて、一考に値する。」413P
(対話C)「人は他人の行動のその都度の具体的な成立機序について認識を有っているわけではなく、身体生理学的な“原因”から行動という“結果”を予想・推論するわけではない。他人の行動の展相の予料に際して、いわゆる“経験的知識の備蓄”がどのように活用されるのか、これの討究にまでは今茲では立入らないが、人は他人の表情・挙措・態度……を単なる与件以上の相で、謂うなればディスポジショナルに覚知するのであって、このディスポジショナルな覚知予料を支える。この予料が蓋然的に適中するのは、表情・挙措・態度と近未来的行動とのあいだに一定の“法則的”対応性があることに拠ってであろう。“法則的対応性”ということで言えば、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……や、主体の役柄的規定・人格的特性……と行動とのあいだにも一定限それが存立していることは確かだと思える。そして人々は現に“経験的知識の備蓄”に恃みつつ、この“法則的対応性”をも予料の一具にしていると言えよう。……即応的共演が極めて円滑に“自動的に”進捗するような場合、謂うなればプロテンツィオナール(未来的)な予料が逐時的に充実されて行くのが実情であって、このような際には、当人たちの顕在意識においては、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……といったことすら明識されず、たかだか表情・挙措・態度……といったものが現識されているという域に留まるかもしれない。だが、そのような場合でも、“前意識(「ダス・フォルベヴステ」のルビ)”的なレヴェルにおいては、それらの諸要因と行動のあいだの“法則的な対応性”が勘考されている可能性は大いにある。相手が“無意識的行為者”の場合であれ、相手の意識態を当方が明識していないだけの場合であれ、そこでも相手の行動に関わる予料が概ね適中し、以って即応的・呼応的な共演が円滑に進行しうるのは、謂う所の“法則的対応性”に則っての予測がおこなわれることに拠ってのことであろう。反(「ひるがえ」のルビ)って思うに、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……役柄的規定・人格的特性……を明識的に勘考し、更には相手の表情・挙措・態度を分析的に顧慮しつつ、相手の現出するであろう行動を予想するといった場合においては、却って予料が心もとない。“法則的対応性”といっても確定的に定式化された相で泛かぶわけでなく、“法則適用”の具体的な条件が劃定的でなく、理詰めで予想しようと試みる段ともなれば、一義的な推定は不可能という“論理的結論”になるのが落ちである。(それにもかかわらず、人々は往々にして臆断的な“推論”を敢行し、それがかなりの蓋然度で“中(「あた」のルビ)る”ことも確かである。このことにはしかるべき根拠があるにしても、それは論理的推論というより一種の“直観”“賭け”の性格しかもたない。)茲でクローズ・アップされるのが、相手当人の意識態の理解という契機である。相手の意識態を理解するうえで、相手本人の言語的表現が重要な“手掛り”として役立つことは言うまでもないが、嘘言の可能性があることは措くとしても、相手が意識態の全幅を言語的に表現しているわけでなく、そもそも相手本人の意識態が悉く顕在的な意識にのぼっているという保証もない。という次第で、人は他人の意識態を“十全”に把捉・理解しようと図る際には、言語によって直接には表現されていない諸契機をも配視する。相手本人が一定の言語的表現をもたらす場合でさえ斯くの如くであり、相手が特別に言語的表現をおこなわない場合にはなおさら非言語的与件を“手掛り”として相手の意識態の把捉・理解が図られる所以ともなる。そこでは、舞台的情況・道具的条件・規範的制約……も当然勘考さるべき重要な契機をなすが、このさい、それらが“客観的”にどうあるかよりも、相手本人にどう意識化されているかの察知が殊に重要であることは絮言するまでもない。そこでは、また、相手が意識化している役割期待(差向けられているそれ及び差向けているそれ)や、役柄的規定・人格的特性……も勘考され、表情・挙措・態度……も勘考される。だが、今問題のケース、すなわち、相手の行動相の予料が顕在意識的・判断的に殊更におこなわざるをえない場面にあっては、それら諸契機の勘考に即して直截に将来的な行動の展相が予料されるというよりも(そのような場合もないわけではないが)、それら諸契機を勘考しつつ一旦相手の意識態を忖度的に“思い描き”、その意識態に応じて“今から現出するであろう行動の展相”を予測する、という形になることが多い。このような仕方で相手の意識態を“把捉”することが相手の現出するであろう行動の予料にとっての“補助的手段”とされ利用されるのは、意識態と現出する行動とのあいだに一定の“法則的対応性”の存することが“経験的に”信憑されていることに因る。」413-5P
(対話D)「人々は、屢々、右の“意識態”と“現出する行動”とのあいだの一定の“法則的対応性”を「心→身」因果論的に了解し、意識態を知ることで行動展相を予測する構制を“原因”を知ることに拠って“結果”を予測する機制であるかのように思い做している。が、それは飛躍である。この間の機制は、先にいわゆる「心因性の身体現象」に関して叙べたとところと同趣であり、謂う所の“一定の法則的対応性”は“随伴的意識性”に見合う“中枢的状態”を介して成立しているものとも解されうる。――人々は、“中枢神経的状態”のその都度の具体相を知らず、これと身体動作等との因果的連鎖過程を知らないが、謂うなれば“中項”をブラック・ボックスに納めたまま“意識態”と“現出する行動”との“法則的対応性”を頼りに、“意識態の把捉”を“補助手段”として“現出する行動”を予料する次第なのである。――他人の意識態の“把捉”“理解”は、学理的には難題であるにせよ、当事主体たちは日常的な共演行為の場においては、それをかなりの蓋然度で“正しく達成”している心算で居り、“齟齬”(に気付かされることの)なさ“円滑”な呼応的・即応的な共演を現に営なんでいる。」415P
(対話E)「是を以って観るに、意識態の“把捉”を“補助的手段”として活用すると否とに関らず、人が他人の行動の展相を予料し、概ね“齟齬を来たすことなき”呼応的共演を営なみ得ているのは、斯くかくの現与的条件の下では然かじかの行動が出来(「しゅったい」のルビ)することが蓋然的であるという“常道的”“法則的”な“合規則性”が存立することに負ってである。――齟齬なき呼応的共演は、当事者たちが共演者の企投的決意性の内容を正確に理解し合っていることに因るものではない。共演者の企投的決意意識態の“把捉”は“正確な予料”にとって重要な“補助手段”であり、以って円滑な共演をもたらす一契機であっても、これが齟齬なき呼応的共演の存立条件というわけではない。このことの銘記を要する。――」415-6P
(対話F)「今や、行為主体当事者たちがいわゆる「自由意志の主体」でありつつも、彼らの行為が、斯々の条件下では然々の行動の出来することが相応の蓋然性を以って予料される所以の“常道的”“合規則性”、これの成立する機序に目を向ける段である。」416P
マルクス エンゲルス『共産党宣言』
たわしの読書メモ・・ブログ724
・マルクス エンゲルス/大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』岩波文庫(岩波書店)1951・1971 改訳
・マルクス=エンゲルス/マルクス=レーニン主義研究所訳『共産党宣言 共産主義の原理 他一篇』国民文庫(大月書店)1952
最近物忘れがひどくなって、しかも、以前にそれで読んだ岩波文庫が行方不明になっていました。さらにその上に、読書メモ585で、三読目の読書メモを残しているのをすっかり忘れていて、しかも、蔵書管理ソフトにないと勘違いして、新たにこの文庫本二冊を古本で買い求めました。
読書メモ585を遺したのは、「「マルクス主義者」は差別の問題を対象化しえてこなかった」という批判で、「共産党宣言」がサイードの『オリエンタリズム』の中などで取り上げられていたことを検証するためでした。そのことは後期マルクスの「資本論草稿」の中における転換ということで、マルクスの対象化しようとする志向性を読み取る作業が一部進んでいます。
今回の検証課題は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(「共産主義」の正体見たり「国家資本主義」、「共産主義」の正体見たり「全体主義」)という反共主義者たちのとらえ方に対する批判としての句が浮かび、マルクスがそもそも「共産主義」ということをどうとらえていたのか、そしてどう変遷していったかを、検証しようという念いが湧いてきたからです。この「幽霊」という言葉は岩波文庫版で、国民文庫では、「妖怪」になっています。「幽霊」は「死者の亡霊」というニュアンスなので、この宣言が書かれた当事には「妖怪」の方が内容的に合っているのですが、現在的に(「社会主義国家」ととらえられていた政権が崩壊した後、そもそもそれも国家資本主義でしかなかったことを)とらえ返すと、「幽霊」という言葉の方が剴切にとらえられます。
国民文庫版の「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」も読んだような記憶があるのですが、さらに、今回DVD「全集」で「共産主義の原理」をざっと読んだのですが、アナログなわたしとしては押さえきれないので、今回購入した国民文庫で二つとも読みました。岩波文庫版と国民文庫版を若干なりとも比較検証しながら、岩波文庫版にはない、他の二篇をも読み進めます。
岩波版と国民版の違い
岩波文庫版と国民文庫版の違いは、岩波は「宣言」だけなのに、国民は「共産主義の原理 他一篇」があり(「他一篇」とは前述した「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」1850です)、岩波には、序文に英語版があり、付録に英語版とドイツ語版との比較表が載せられています。また、解説が各々あるのですが、国民文庫版の解説は、「マルクス=レーニン主義研究所訳」となっているように、レーニン主義的とらえかたにずっぽりはまっています。これについてのわたしのコメントは後述します。
さて、国民文庫版の解説を読むと、エンゲルスが、「共産主義の原理」で草稿的文を書き、二人に委託された「共産主義者同盟綱領」の文を、マルクス主導でそれをまとめあげたというようになっているようです。これは二人が生きているあいだは一部を除いて刊行されなかった「ドイツ・イデオロギー」と執筆経過と同じスタイルです(これは廣松渉さんの「ド・イデ」編集でのとらえ方です)。
「共産党宣言」の位置
「第二回大会の一八四七年の十一月末から十二月はじめにかけてロンドンで開催され、マルクスも出席してながい討論ののち、マルクスの考えが満場一致で採用されマルクスとエンゲルスとは『宣言』の起草を委嘱された。」(岩波文庫版、訳者向坂逸郎「解説」110P)とあります。それが印刷物として出回る頃に、ブルジョアジーとプロレタリアートの歴史的に最初のはっきりした衝突になる一八四八年の二月革命が起きています。
「読書メモ585」の修整・補論
まず、「「読書メモ585」の修整・補論」を書きます。「未開」という脈絡での話、サイードが批判しているところの引用は、「読書メモ585」で引用しているところを参照して貰えればいいのですが、手間をかけるので、切り取りのところと重複するのですが再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」岩波文庫版45P
そこから、更に続く文があり、そちらの方が重要ではないかと、書き加えます。
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。まさに、「文明−未開」という図式で、帝国主義の植民地支配を合理化していると今日批判されているところなのですが、この最後の「・・・・・・東洋を西洋に依存させた。」という文言が、サイードの「オリエンタリズム」という論攷につながるのです。
さて、わたしが「読書メモ585」でもうひとつ指摘した「書かれた歴史がない」という脈絡は、序文をも含めたところで、読み通すと原始共産制という脈絡があります。これは第一章の有名な冒頭「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」岩波32Pに付けられたエンゲルスの註に「すなわち、あらゆる書かれた歴史である」と、それはでてきます。
ただし、それは原始共産制という脈絡でてくるのです。しかし、また、その註の中で、まだそのような共同体の少なくとも残滓的なことが存在するとの記述が出てきます。それは「一九九〇ドイツ語版序文」の中に出てくるロシア語版の序文の引用にロシアの農村共同体(「オプシチナ」のルビ)の話があります。
これは原始共産制ではなく、マルクスが後に「資本論草稿」の中でアジア的生産様式論として、書かれた歴史として出てきます。それは、二人の連名の文ですが、おそらくマルクスの文です(*) 。「『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の崩壊[没落]が不可避的に迫りつつあると布告することであった。しかし、ロシアでは、資本主義[的体制]のぺてんが急速に栄え、ブルジョア的土地所有がいまようやく発達しつつあるが、またそれと並んで、土地の過半は農民の共有となっている。そこで次のことが問題になる。ひどく分解してはいるが太古からの土地所有の一形態[原始的所有の形態]である農村共同体(「オプシチナ」のルビ)は、共産主義的共有のより高い形態[土地所有のより高い共産主義的形態]に直接移行しうるであろうか? それとも反対に、そのまえにそれは西ヨーロッパの歴史的発展においておこなわれたと同じ崩壊過程を通過しなければならないであろうか?/この問題に対して今可能な唯一の解答は、次の如くであろう。もし、ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる。」岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)
これを読むと、少なくともマルクスは、先進国革命→後進国革命という図式、最も発達した資本主義から遅れて発達してきた資本主義・前資本主義に革命が波及していくという図式にとらわれない、すなわち単線的発達史観と言われているそれまでの主張から脱していると言い得ます。実は、レーニンは、「ロシア革命の「社会主義」革命の可能性」というところで、『ロシアにおける資本主義の発展』を書き、それでロシアはもう資本主義的に熟しているので、それまでの民主主義革命というところから飛躍させた「社会主義革命の可能性」として二月革命を受けて帰国した直後に四月テーゼを出します。これは、マルクスのロシアの農村共同体における革命の可能性という論攷は考慮されていないようなのです。結局ボルシェヴィキは、農業問題がネックになっていっています。
『共産党宣言』(特に国民文庫版)に見るエンゲルス(/『宣言』執筆時マルクス)とマルクス(後期マルクス)の違い
前項で「(*)」を付けたところ、これは以前からあった『マルクス=エンゲルス全集』は、『著作集』にすぎないとして、世界的なマルクス・エンゲルス全集の協同編集作業が書簡・ノート・本への書き込みなど網羅して進む中で、とりわけ「資本論草稿」という後期マルクス研究の中ででてきていることです。マルクスは「アジア的生産様式論」の発見で、それまで進めてきた単線的発達史観や進歩史観ということの見直し的になっていったということが、「資本論草稿」の研究の中で明らかになって来ています。そこには、アイルランド問題−イングランドのアイルランドに対する属国的支配植民地的支配−のとらえ返しの中で、モルガンの『古代社会』やそれらを研究したマルクスの「古代社会ノート」が、「資本論草稿」の中に収められた文の中に出ているという指摘がでています。日本でその協同作業に参加しているのは、わたしが知る限り、佐々木隆治さんや斎藤幸平さんですが、その他外国の翻訳本の中にそれを見ることが出来ます(註1)。それを見て行くと、先に書いたエンゲルス主導説ということが、この「宣言」の草稿−「共産主義の原理」を書いたのがエンゲルスということ、また『ド・イデ』の原稿を最初に書いたのがエンゲルスということがあり、「経済学」の学習をマルクスに勧めたのもエンゲルスという話があります(註2)。それで、結局論考を深化させていくのがマルクスというようになっていきます。そして一方で、中期以降は、マルクスが論考を深化させていくのに対して、エンゲルスはどこまで付いていっているのかという話があります。具体的には、マルクスの転換の中で指摘したアイルランド問題をエンゲルスは、自分のパトナーがアイルランド人であったにもかかわらず、とらえきれていなかったとかという指摘があります。勿論、エンゲルスが独自に展開した論攷があるのですが、それが図式主義に陥っているとか、弁証法を法則的に絶対化していったという話がでてきます。そして、物象化という概念がとらえ切れていないというわたしの推論があります。マルクスとともに青年ヘーゲル派から出発しつつヘーゲルを批判・止揚していったにも拘わらず、後期エンゲルスはヘーゲルへの先祖返りに陥っているとかの指摘も出て来ます。
(註)
1 取り敢えず以下の文を、わたしがコメントを遺している資料として挙げておきます。
「たわしの読書メモ・・ブログ206/・佐々木隆治『マルクスの物象化論 資本主義批判としての素材の思想』社会評論社2011」
たわしの読書メモ・・ブログ331/・ケヴィン・B・アンダーソン/平子 友長・明石 英人・佐々木 隆治・斎藤 幸平・隅田 聡一郎訳『周縁のマルクス―ナショナリズム、エスニシティおよび非西洋社会について』社会評論社2015」
たわしの読書メモ・・ブログ573/・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020」
2 この通説には、マルクスの経済学的事始めは、ヘーゲルの経済学的展開から直接学んだという、『マルクス主義の成立過程』での廣松さんの展開−異論が出ています。
いくつかの論点
(イ) 単線的発達史観のとらえ返し
マルクスは「資本論草稿」を準備し研究を進め執筆していく中で、アジア的生産様式論(それは著作物としては、『資本主義に先行する諸形態』)を出しています。また、前述した『共産党宣言』の序文や、更に、同じ内容のマルクスのサスーリッチへの手紙ということ中でも出ています。その内容は、共同体所有ということが、古代社会だけでなく、インドやロシアにおいても存在したという発見の話です。それまでは、「原始共産制(−氏族制)−奴隷制−封建制−資本制−来るべき社会としての共産制」という押さえをしていました。
(ロ) 世界革命論と革命の波及の図式
二人とも世界革命ということが必要であると言う押さえがあるのですが、かなりタイムラグがでてくる可能性も認めていて、それを当初は、資本主義の先進国から後進国へという図式でとらえていました。生産力の発達が資本主義的生産様式と合わなくなって、その一端として恐慌が起こり、それを繰り返して行く中で、プロレタリア革命が起きるとしていたのです。ところが、アイルランド問題のとらえ返しや、ロシアの土地の共同所有ということやモルガンの『古代社会』の研究と「古代社会ノート」の作成などから、「後期マルクスの転換」と言われうることが起きているという指摘が「マルクス・エンゲルス全集」の世界的な共同編集作業の中で起きています。エンゲルスにはそれが起きていないようだという指摘とともにです。それだと、それまでの「先進資本主義国から革命が起こるのではなく、ロシアの農村共同体から、資本主義を止揚する新しい社会が生まれる可能性があるかもしれない」ということになります。わたしはきちんと押さええていないのですが、ベトナム戦争などの帝国主義との闘いの中で、後進国革命論なども起きていました。
(ハ)国家主義的とらわれ(国家概念の矛盾するとらえ方)
そもそも『ド・イデ』で国家=幻想共同体論が出ていたのです。また、「共産主義者には国境がない」という規定も『共産党宣言』の中で出てくるのに、「まず自国のブルジョアジー権力と闘わなければならない」とか、過程としてですが国有化論が出てくるのかがよく分かりません。マルクス・エンゲルスの共産主義論は当時かなり浸透していたアナーキズムとその運動との論争の中で出てきているので、プロレタリア独裁ということが必要であるということで(プロ独の必要性ということは二人とも変えていないようです)、国家権力の掌握というところで、国有化論や国家主義的なとらわれから脱しえなかったとも言いうるのかもしれません。このことの是非を検討しなければならないのですが、今日のファシズム的な隆起との対峙において、国家主義と差別主義との闘いということが鍵になるというところでは、国家主義からの止揚が必要になるということは押さえねばならないと思っています。
(ニ) 生産力至上主義と革命の主体の問題
マルクスは少なくとも単線的「発達史観」から脱したのですから、そのことをさらに深化してとらえ返すと、「生産力の発達と生産様式の矛盾からするプロレタリア革命」という図式からも脱することになります。ルンプロ規定が非正規雇用の拡大というところで、今日的に合わなくなってきているのと同様に、反差別というところから、マルクスの流れから出てきている、ネグリ/ハートの「マルチチュード」という概念や、グラムシやG.C. スピヴァクのサバルタン概念も出てきていて、更に、ベトナム戦争などで出てきた「民族解放闘争」というところからの後進国革命論なども押さえた、すなわち反差別というところからのとらえ返しが必要になっています。それはそもそも「差別とは階級支配の手段=道具」であるというレーニン的とらえ返しが、そもそも階級問題も、生産手段の所有からの排除、労働力の価値という二重に物象化されたヒエラルヒーという差別の問題としてとらえ返す作業も必要になっています。
また、マルクスの『資本論』は資本主義の帝国主義的段階を十全に押さええていないという批判があり、またレーニン的帝国主義論だけでなく、ローザの継続的本源的蓄積論や今日的なグロバリーゼーションとしてとらえられる情況も押さえ、さらに、ファシズムの流れなどを、国家主義批判・差別主義批判として展開していく必要も出てきているのではと、わたしはとらえています。
(ホ)暴力革命論
さて、「共産主義の原理」には「一六 問 私的所有の廃止は、平和的な方法で可能だろうか?」という問が出ていて、それは望ましいけれど、現実には「行動をもってプロレタリアの大義を擁護するであろう。」という答えで最後を結んでいます。
わたしは反差別ということをとらえ返すと、反暴力主義とならざるを得ないと押さえています。ただし、そもそも右翼やファシストの暴力主義クーデターの歴史をとらえる中で、非暴力主義にはなりえないと押さえています。勿論、いろいろな、とくに構造改革的な変革の可能性はあるのですが、このことは、現実的場面で判断していくしかないとも思っています。エンゲルスは晩年議会からの革命の可能性を模索していきます。それで、ドイツ社会民主党へエンゲルスが寄稿した文を、当事完全に議会主義に陥ったところでエンゲルスの文を改竄した問題でトラブルになっていたという有名な話があったのですが、議会的なことでの革命の可能性は、チリの教訓をも含めて、そして構造改革的革命論ということも含めて考えて行くことだとしか言いようがないとのとりあえずの提起です。
レーニンとマルクスの違いを『共産党宣言』からとらえる
幾つかの違いを見出せます@革命主体A既成の組織を利用できないB国境は無い・祖国をもたない、というところで違いが出ていると指摘できます。
まず、@ですが、『共産党宣言』では、「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という基本的な姿勢において、レーニンの外部注入論と批判される、革命の主体が結局革命的インテリゲンチャになっていることと対立しているととらえられるのですが、一方で『宣言』には、共産主義者前衛論と読めるところもあり、そもそも前衛論自体の止揚ということを考慮することが必要になります。Aに関しては、レーニンは現実主義において革命の防衛というところで、帝政ロシア時代の秘密警察のような機関を作っています。それが党の独裁というところで対立意見の者にも向かったところにおいて、原則を完全に踏み外しています。原則主義と現実主義の弁証法において、これは明らかな間違いだったと言い得るでしょう。Bは、レーニン自体は世界革命が必要だという思いは持ち続けていたようなのですが、ローザとの民族自決権論争などで、国民国家としての独立や自治ということを主張することにおいて、国家主義的なことに陥っていくことになります。それが、スターリンの一国社会主義建設論に繋がっていくことになります。革命の防衛というところでも、「社会主義」の防衛というところで、国家主義的陥穽に嵌まり込むことになってしまいます。今日的な観点からとらえ返すと、この国家主義への対峙ということが、必要になっていきます。
さて、レーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』において、ロシアは充分に資本主義的に発展しているとして、先進国革命の図式にはめ込んだのですが、実際には、農業的な要素が強く、農業問題において抑圧的な立場になってしまっています。しかも、マルクスがロシアに於ける農業共同体の特質に留意していたことが全然頭に入っていず、「ロシア革命」の時に、食料の確保ということで収奪的なことになっていますし、民族自決権に反する、ドイツとの講和において、農業地域のウクライナの分割さえ成しています。そのことが、今日のウクライナ戦争に影を落としているのです
さて、前述している単線的発達史観やそこから繋がる先進国革命から後進国にも波及していくという図式への批判への後期マルクスの転回ということから、対話が起きてきます。そのマルクスの転回、どうもエンゲルスはついていっていないようなのです。実は、レーニンは、『資本論』を読み込むには、ヘーゲルを押さえなければならないというようなことも書いています。そのあたり、先に指摘したエンゲルスのヘーゲルへの先祖返りとシンクロしているのです。ですから、後期マルクスの転回ということでいえば、マルクス・レーニン主義というよりも「エンゲルス・レーニン主義」と言い得ることではないかと思ったりしています。
最後に、この読書メモに話を戻しますが、 特に国民文庫版「解説」は、紛れもなくレーニン主義的になっています。
「共産主義」論
「原理」の「問一」では、「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76Pと出ています。
これは運動論的規定になっています。むしろ、存在論的規定においては、「共産主義とは私有財産制と分業の止揚である」という規定において、むしろ私的所有がなぜ生じたのかの分析と分業の機制についての論究が必要になります。
さて、わたしは認識論的な深化において、廣松渉さんの論攷を学習して来たのですが、そのとらえ返しの地平からの論考を、過渡的に展開したいと思います。
言語の発生にも関わる、役割期待−役割遂行という、役割行動の進展の中で、協働的連関態的蓄積というところから、厖大なインフラや物的・精神的(「人類の叡智」とも言われるような)財の蓄積をなしていったのです。すなわちコモン(公共財)ということです。ところが、私有財産制がそれをゆがめ、1%のひとたちが99%のひとを支配するという情況を生み出しています。そのことを歴史の必然としてとらえるひとがいるのですが、それは、これからの可能性も含めて対話していくことだと、わたしは思っています。
これは、わたしの長年課題としてきたことで、それを書き出したら、本一冊分でも終わりません。とりあえず、この少し踏み込んだ文を掲載する「反障害通信」の巻頭言に「共産主義とは何か?」というタイトルで書いています。
(附記)
岩波文庫版切り抜きメモ・・・本文掲載分は割愛
[序文(群)]
(岩波メモ@)「・・・・・・最近二十五年間における大工業のはかり知れない進歩や、それとともに前進する労働者階級の党組織や、二月革命をはじめとしさらに進んでプロレタリア階級がはじめて二か月のあいだ政権をにぎったバリ・コミューンの実践的諸経験を考えれば、この綱領は今日ではところどころ時代おくれとなっている。特にコミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した。(『フランスにおける内乱、国際労働者協会総務委員会の建言』を見よ。ドイツ語版一九ページ。岩波文庫版九〇ページ。ここにこの点のくわしい説明がある。)・・・・・・」8P(「一八七二年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八七二年六月二十四年/二人の連名標記)・・・「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」
(岩波メモA)「『宣言をつらぬいている根本思想は次のことである。おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生まれる社会組織は、その時期の政治的ならびに知的歴史にとっては基礎をなす。したがって(太古の土地共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。――・・・・・・」10P(「一八八三年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八八三年六月二十八年/F・エンゲルス)・・・「太古」でなくても土地共有は発見された−アジア的生産様式
(岩波メモB)「この『宣言』には独自の経歴がある。それが出版された瞬間には、そのころまだ多数ではなかった科学的社会主義の前衛から、熱狂(ママ)的な歓迎をうけた・・・・・・」16P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・科学的社会主義と前衛
(岩波メモC)「ヨーロッパの労働者階級が、ふたたび、支配階級の権力に向かってあらたに充分スタートがきれるほど協力になったときに、国際労働者協会(「インテルナチュオナーレ・アルバイターアソチアチオン」のルビ)が生まれた。・・・・・・」17P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・国際労働者協会
(岩波メモD)「しかも、この『宣言』がでたときには、われわれがそれを社会主義宣言と呼ぶわけにはいかなかった。一八四七年には、社会主義者というとき、そのなかに二種類の人々が含まれていた。一つは、さまざまの空想的体系の信奉者、特にイギリスのオーウェン主義者とフランスのフーリエ主義者であり、これは両者とも当時すでに萎縮してしまって、次第に死滅していく単なる宗派(「セクト」のルビ)となっていた。もう一つは、さまざまの万能薬をのませ膏薬(「こうやく」のルビ)をべたべたはって、資本や利潤を少しも痛めずに社会の弊害を取り除こうとする種々雑多な社会的やぶ医者であった。両方とも、労働運動の外部に立ち、はるかに多くの支持を「教養ある」階級に求める人々であった。これに対して、労働者のうちで、単なる政変では充分ではないと確信し、社会の根本的改造を要求する部分、その部分の人々は当時みずから共産主義的と称した。それは単に荒けずりの、単に本能的な、時にはいくらか粗野な共産主義であった。それでも、この共産主義は、空想的共産主義の二つの体系、すなわちフランスではカペーの『イカリア』の共産主義、ドイツではヴァイトリングの共産主義を作りだすだけの強さをもっていた。一八四七年には、社会主義者はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した。社会主義は、少なくとも大陸では、サロンに出入りできるものであり、共産主義はその正反対のものであった。われわれはすでにそのころ、決然と「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という意見をもっていたのであるから、われわれは、二つの名前のいずれを選ぶかについて、一瞬も迷うことはなかった。それ以後も、この名前を返上しようとなどと思ったことはない。」18-9P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・なぜ、「共産党宣言」なのか? 社会主義との違い−様々な社会主義者たちとの違い――「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」の有名な文言
(岩波メモE)「『宣言』はわれわれの共同の著作であるが、私は、その核心をなす基本思想はマルクスのものであることをのべる義務があると思う。その思想とは次の主張である。いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的様式、およびそれから必然的に産まれる社会組織が土台をなし、その時期の政治的ならびに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される。したがって、人類の歴史は(土地を共有していた原始氏族社会が崩壊して以来)階級闘争の歴史であった。つまり、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった。そしてこの階級闘争の歴史は、次第に発展し、現在では、搾取され圧迫される階級――プロレタリア階級――が、搾取し支配する階級――ブルジョア階級――のくびきから解放されるためには、同時に、また究極的に、社会全体をあらゆる搾取、あらゆる圧迫、あらゆる階級的差別、あらゆる階級闘争から解放しなければならない段階に達している。」25-6P(「一八八八年英語版への序文」/ロンドン、一八八八年一月三十日/フリードリヒ・エンゲルス)・・・マルクスの唯物史観の発見と階級の廃絶の必要性 エンゲルスは未だにマルクスの「アジア的生産様式」を対象化していない。
[本文冒頭]
(岩波メモF)「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾーフランス急進派とドイツ官憲。」37P(本文・冒頭)・・・「幽霊」の文言、国民文庫版では「妖怪」
[第一章]
(岩波メモG)「今日まであらゆる社会の歴史は(註)、階級闘争の歴史である。」38P
(註) ここに「(二)」の註があります。次の「(岩波メモH)」で誌します。二つの版の違う註がついています。
(岩波メモH)「(二) [原註] (一八八八年英語版へのエンゲルスの註)すなわち、あらゆる書かれた歴史である。一八四七年には、世界の前史、すなわち記録された歴史に先行する社会組織は、全然といっていいほど知られていなかった。その後、ハクストハウゼンは、ロシアにおける土地の共有制を発見し、マウラーは、土地の共有制がすべてのチュートン部族の歴史的出発の社会的基礎であったことを立証した。そして次第に、村落共同体は、インドからアイルランドにいたるあらゆるところで、社会の原始的形態であること、あるいはあったことが発見された。そして、氏族(「ゲンス」のルビ)の真の性質および部族に対するその関係についてのモルガンの称賛すべき発見によって、原始共産主義社会の内部組織の典型的な形が明らかにされた。この原始時代の共同社会の解体とともに、別々の、ついには対立する階級への分裂がはじまる。私は、この解体過程を、『家族、私有財産および国家の起源』(第二版、シュトゥトガルト、一八八六年)において追求しようと企てた。」38P・・・ここが共産主義論の要。エンゲルスが註をつけているのですが、マルクスの註ではありません。「アジア的生産様式論」を発見し、単線的発達史観から脱しようとしたマルクスとの違いを読み取れます。エンゲルスもマルクスの「古代社会ノート」を受けて、『家族・私有財産・国家の起源』を書いていますが、『共産党宣言』を出しした当初の単線的発達史観から抜け出せていないように思えるのです。これには、厖大な検証作業が必要です。取り敢えずの提起に止めます。
「(一八九〇年ドイツ語版へのエンゲルスの註)・・・・・・」39P・・・前の版とほとんど重なっていて、こちらが記述が少ないので、こちらを省略。
(岩波メモI)「ブルジョア階級のこのような発展の一つ一つの段階にともなって、それにふさわしい政治的進歩があった。ブルジョア階級は、封建君主の支配下にあっては圧迫された身分であり、自由都市(「コンミューン」のルビ・註あり(省略))にあっては武装し、自治をもった組合をなした。そしてあとのばあいは独立した都市共和国、前のばあいは君主政体下の納税義務をもつ第三身分であった。次に工場手工業(「マニュファクチャ」のルビ)の時代になると、かれらは身分制的王制または絶対的王制において貴族と平衡を保つ錘(「おもり」のルビ)の役目を果し、大君主制一般の主要な基礎となった。そしてついには、大工業と世界市場とが建設されて以来、ブルジョア階級は近代的代議制国家において、ひとり占めの政治支配を闘いとった。近代的国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない。」41P・・・幻想共同体論(『ド・イデ』)と軍事的官僚的統治機構(レーニン)という国家規定が出ていません。
(岩波メモJ)「・・・・・・昔は地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代ってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係があらわれる。物質的生産におけると同じことが、精神的生産にも起る。個々の国々の精神的生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭は、ますます不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される。」44P・・・ここは文学だけでなく、むしろ生産物一般にまで、及びます。「国々」ということではなく、「協働態的連関」というところでの「生産物」とらえるとコモンというとらえ返しになります。
(岩波メモK) 45Pに「読書メモ585」引用文「参照ください」ですませようとしたのですが、手間をかけるので、それも掲載して)とそれに続く本文引用文があります。これも最初に引用しているのですが、再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」45P
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。
(岩波メモL)「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれ、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。は」53P・・・当時の時代状況的には、そのような側面があったのでしょうが、今日には、むしろ非正規雇用問題として、むしろこちらの方が多数化していく現実があり、ここに依拠する必要性が認められます。これは単線的発達史観の「先進国革命→後進国革命」という図式の見直しにも及びます。
(岩波メモM)「旧世界の生活条件は、プロレタリア階級の生活条件のなかですでに破壊されている。プロレタリアの無所有である。妻や子に対するかれらの関係は、ブルジョア的家族関係と共鳴なものをもはやもっていない。近代的工業労働、すなわち資本のもとに近代的制圧を受けている状態は、イギリスでもフランスでも、アメリカでもドイツでも同一であり、プロレタリアからすべての国民的性格をはぎとってしまった。法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョア的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョア的利益がかくされている。」53-4P・・・ブルジョア文化(家族・法律・道徳・宗教)への包摂
(岩波メモN)「ブルジョア階級に対するプロレタリア階級の闘争は、内容上ではないが、形式上は、何よりも第一に国民的闘争である。おのおのの国のプロレタリア階級は、当然まず自分自身のブルジョア階級を片づけねばならない。」54P・・・「国民的闘争」? 国境を持たないということとの矛盾 国家主義的にとらわれていく問題
[第二章]・・・「共産主義者」=前衛論になっていく可能性を感じられる文
(岩波メモO)「かれらはプロレタリア階級の全体の利益から離れた利益をもっていない。/共産主義者は、特別の原則をかかげてプロレタリア運動をその型にはめようとするものではない。/共産主義者は、他のプロレタリア党から、次のことによって区別されるにすぎない。すなわち、一方では、共産主義者は、プロレタリアの種々な国民闘争において、国籍とは無関係な共通のプロレタリア階級全体の利益を強調し、それを貫徹する。他方では、共産主義者は、プロレタリア階級とブルジョア階級のあいだの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。」57P・・・いくつかの矛盾。「国籍とは無関係な」とするなら、「国民闘争」という規定とは合わない。「つねに運動全体の利益を代表する」というのは、封建制的な勢力が存在するところで立てられている。利害の問題が階級問題に純化されたところでは、ブルジョア階級の利害は代表しない。
(岩波メモP)「共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。/ところで近代のブルジョア的私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。/この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産制の廃止という一つの言葉に要約することができる。」58P・・・共産主義の特徴−私有財産制の止揚
(岩波メモQ)「ブルジョア社会においては、生きた労働が、蓄積された労働をふやすための手段であるにすぎない。共産主義社会においては、蓄積された労働は、労働者の生活過程を拡げ、富まし、促進するための手段にすぎない。/したがって、ブルジョア社会においては過去が現在を支配し、共産主義社会においては、現在が過去を支配する。ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。」60P
(岩波メモR)「諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することにおどろく。ところが、諸君の現在社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。これは十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。すなわち諸君は、社会の途方もない多数者が財産をもたないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとすることに対して、われわれを非難しているのである。」61P・・・私有財産制の廃止ということの道理
(岩波メモS)「ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。/ここに問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。」64P・・・フェミニズム的論攷−産む性が物化されること批判
(岩波メモ㉑)「さらに共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。/労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。」65P・・・矛盾? 国家主義へのとらわれ。
(岩波メモ㉒)「諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相当する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。/プロレタリア階級の支配は、それをますます消滅させるであろう。少なくとも文明諸国が団結した行動をとることは、プロレタリア階級解放の第一条件の一つである。」65-6P・・・前半はネグリ/ハートが陥った論理、国民国家の意味・国家主義的差別排外主義を読み落としている−継続的本源的蓄積論における差別と国家主義の意味を押さえる必要があります。後半は、まさに国家の死滅という『ド・イデ』の地平。しかし、先進国から後進国へという図式主義。
(岩波メモ㉓)「プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。/このことは、もちろんなによりも、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。したがって、その方策は、経済的には不充分で不安定に見えるが、運動が進行するにつれて、自分自身を乗り越えてすすみ、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる。/この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるであろう。/とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。/一、土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。/二、強度の累進税。/三、相続権の廃止。/四、すべての亡命者および反逆者の財産の没収。/五、国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。/六、すべての運輸機関を国家の手に集中する。/七、国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。/八、すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。/九、農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目ざす。/一〇、すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育を物質的生産との結合。等々、等々。」68-9P・・・革命への途、生産力発展至上主義、プロ独論の原型、しかし国家所有論では国家資本主義の陥穽に落ちます。また、強制的なことが出ています。
(岩波メモ㉔)「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべてのひとびとの自由な発展にとっての条件である。」69P
[第三章]
国民文庫版の「共産主義の原理」という草案と対比してみること。
[第四章]
「読書メモ585」参照。特に追加事項ありません。
[解説]省略
国民文庫版切り抜きメモ
『共産党宣言』の文での岩波版との対比が必要ですが、ここでは省き、「共産主義の原理」から入ります。
「共産主義の原理――共産主義者の信条草案――」
(国民メモ@)「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76P・・・運動論的定義、存在論的には?−これを主題にして別稿を書くこと(本号、巻頭言参照)
(国民メモA)「六 問 産業革命のまえには、どんな働く階級がいたか?/答 ・・・・・・古代には、はたらくものは所有者の奴隷であった。・・・・・・中世には、はたらくものは土地所有貴族の農奴であった。・・・・・・中世および産業革命までは、そのほか都市には手工業の職人があって、小ブルジョアの親方のもとにやとわれてはたらいていた。そして、マニュファクチュアが発展するにつれてマニュファクチュア労働者もだんだんあらわれきたが、これはすでに大資本家にやとわれていた。」80P・・・まだ、さまざまな労働形態があります。次々項参照
(国民メモB)「七 問 プロレタリアは、どういう点で奴隷とちがうか?/答 ・・・・・・奴隷はブロレタリアより生存条件のよいこともあろうが、しかし、ブロレタリアは奴隷よりは高い発展段階のものであって、またそれ自身としても奴隷よりも高い段階に立っているのである。・・・・・・」81P・・・「生存条件」とは、奴隷は「飢え死にする自由」や「競争を強いられる」ことを一応免れ得ること、プロレタリアの「飢え死にする自由」は奴隷より「よりは高い段階」であると言えるのでしょうか? 発達史観・進歩史観へのとらわれ
(国民メモC)「八 問 プロレタリアは、どういう点で農奴とちがうか?/答 ・・・・・・農奴は、都会に逃げ出して、手工業者となるか、または、労役や生産物でなしに、金銭を地主におさめて自由借地農になるか、あるいはまた、自分の封建地主を追いだして、自分自身土地の所有者になるか、つまりどういう方法によるにせよ、とにかく有産階級になり、競争の仲間入りをすることによって自分自身を解放するのである。」82P・・・ただの商業的「下働き」や「家事労働者」・「娼婦」という労働者的存在の途を脱け落としています。変則的「解放」にすぎませんが。
(国民メモD)「一五 問 では私的所有の廃止は、もっと以前にはできなかったか?/答そうだ、できなかった。・・・・・・」89-90P・・・序文に指摘される、原始共産制やアジア的生産様式における土地共有ということが押さえられていません。
(国民メモE)「一七 問 私的所有の廃止は、一挙にできるだろうか?/答 いやできない。それはいま現にある生産力を、共同社会をうちたてるために必要な程度にまで一挙に何倍にもふやせないのと同じことだ。したがって、おそらくきたりつつあるプロレタリアートの革命は、現在の社会を徐々にのみ変革し、そしてそのために必要な生産手段の量がつくりだされたときに、はじめて私的所有を廃止することができる。」91P・・・生産力発達至上主義的になりかねない。その後の帝国主義論やファシズムの隆起、ローザの継続的本源的蓄積論などの他のモーメントを押さえることが、必要になっています。
(国民メモF)「一八 問 この革命は、どんな発展への道をたどるだろうか?/答 ・・・・・・(8) すべての子供を、母親の養育なしでやっていけるようになるところからただちに、国家の施設で、無国家の費用で教育すること。教育と生産との結合。」91-4P・・・これは、『共産党宣言』の「二」の最後のところ(55-6P)との対比で押さえることです。どちらも、国家主義的になっていますが、特に引用している「(8)」はファシズム的論攷になっています。さすがに『共産党宣言』の本文では使われていません。
(国民メモG)「一九 問 この革命は、ただ、一国だけでおこりうるだろうか?/答 いやおこりえない。・・・・・・だから、共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。・・・・・・」・・・これは、「先進国革命から後進国へ波及していく」図式なのですが、後にマルクスが「岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)」の中で書いているアジア的生産様式の発見、取り分けロシアの「農村共同体(「オプシチナ」のルビ)」の発見からするロシア革命の先導の可能性や戦後出てきた後進国革命論との対話が必要になっています。
(国民メモH)「二〇 問 私的所有を最終的にとりのぞいた結果は、どうなろうか?/答 ・・・・・・生産力を共同で計画的に利用するための社会全員の一般的な結合。あらゆる人の欲望をみたすほどの生産の拡張。ひとりの欲望が他の人を犠牲にしてみたされる状態がおわること。階級と階級対立とがまったくなくなること。これまでのような分業をなくすことによって、産業教育および仕事の交替によって、すべての人の生産した利益にあらゆる人があずかることによって、都市と農村との融合によって、全社会成員の能力を全面的に発展させること。――以上が私的所有を廃止したおもな結果である。」95-8P・・・私有財産制と分業の止揚という共産主義の基本概念の問題 分業とは役割分掌の固定化
「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」
(国民メモI)「・・・・・・一七九三年のフランスと同じく、今日のドイツでも、もっとも厳格な中央集権の実行が真に革命的な党の任務である(註)。」118P・・・次の項での修正も含めて、レーニンの中央集権制との対話を含めて検証すること。
(註) ここには「*」がついていて、次の「(国民メモJ)」の文が展開されています。
(国民メモJ)「今日では、この箇所が一つの誤解にもとづいていることを想起しなければならない。当時はボナパルト派や自由主義者の歴史的偽造のおかげで、フランスの中央集権的な行政機関が大革命によって導入され、ことに国民公会によって、王党および連邦党の反動派や外敵を克服するさいになくてはならぬ決定的な武器として使用されたということが、確実なことと考えられていたのである。しかしいまでは、ブリュメール十八日にいたるまでの全革命を通じて、県、郡、市町村の全行政が、統治者自身によってえらばれ、一般国法の範囲で完全な自由をもってうごいていた当局者からなっていたこと、この、アメリカのそれに類似していた州および地方自治こそ、革命の最強の槓桿(こうかん・てこ)となり、しかも、ナポレオンが彼のブリュメール十八日のクーデターの直後いそいでこの自治のかわりに、今日なお存続している知事政治――したがって当初から純粋な反動の具であった――をもってしたほど強力なものであったということは、周知の事実である。しかし、地方および州自治が政治的・国民的中央集権と矛盾するものではないと同じく、この自治はまた、スイスにおいてわれわれにあれほどいやな感じをいだかせ、一八四九年には南ドイツのすべての連邦共和主義者がドイツにおいてこれを通則にしようとした、かの狭量な州および市町村利己主義と、必然的にむすびつくものでもないのである。[一八八五版へのエンゲルスの注]」118P
(国民メモK)「・・・・・・/しかし、彼ら自身は、彼らの階級利益をみずからあきらかに知り、できるだけはやく彼らの独自的な党派的立場をとり、民主主義的小ブルジョアの偽善的言辞にまよわされて一瞬たりともプロレタリアートの党の独立の組織をわすれないことによって、彼らの最後的勝利のために、全力あげねばならない。彼らの鬨(「とき」のルビ)の声は、「永続革命」ということでなければならない。/ロンドン 一八五〇年三月/一八八五年チューリヒ発行のマルクスの『共産党裁判の暴露』にエンゲルスが掲載」120P・・・この文の最後の文 「 永続革命」の文言
・マルクス エンゲルス/大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』岩波文庫(岩波書店)1951・1971 改訳
・マルクス=エンゲルス/マルクス=レーニン主義研究所訳『共産党宣言 共産主義の原理 他一篇』国民文庫(大月書店)1952
最近物忘れがひどくなって、しかも、以前にそれで読んだ岩波文庫が行方不明になっていました。さらにその上に、読書メモ585で、三読目の読書メモを残しているのをすっかり忘れていて、しかも、蔵書管理ソフトにないと勘違いして、新たにこの文庫本二冊を古本で買い求めました。
読書メモ585を遺したのは、「「マルクス主義者」は差別の問題を対象化しえてこなかった」という批判で、「共産党宣言」がサイードの『オリエンタリズム』の中などで取り上げられていたことを検証するためでした。そのことは後期マルクスの「資本論草稿」の中における転換ということで、マルクスの対象化しようとする志向性を読み取る作業が一部進んでいます。
今回の検証課題は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(「共産主義」の正体見たり「国家資本主義」、「共産主義」の正体見たり「全体主義」)という反共主義者たちのとらえ方に対する批判としての句が浮かび、マルクスがそもそも「共産主義」ということをどうとらえていたのか、そしてどう変遷していったかを、検証しようという念いが湧いてきたからです。この「幽霊」という言葉は岩波文庫版で、国民文庫では、「妖怪」になっています。「幽霊」は「死者の亡霊」というニュアンスなので、この宣言が書かれた当事には「妖怪」の方が内容的に合っているのですが、現在的に(「社会主義国家」ととらえられていた政権が崩壊した後、そもそもそれも国家資本主義でしかなかったことを)とらえ返すと、「幽霊」という言葉の方が剴切にとらえられます。
国民文庫版の「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」も読んだような記憶があるのですが、さらに、今回DVD「全集」で「共産主義の原理」をざっと読んだのですが、アナログなわたしとしては押さえきれないので、今回購入した国民文庫で二つとも読みました。岩波文庫版と国民文庫版を若干なりとも比較検証しながら、岩波文庫版にはない、他の二篇をも読み進めます。
岩波版と国民版の違い
岩波文庫版と国民文庫版の違いは、岩波は「宣言」だけなのに、国民は「共産主義の原理 他一篇」があり(「他一篇」とは前述した「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」1850です)、岩波には、序文に英語版があり、付録に英語版とドイツ語版との比較表が載せられています。また、解説が各々あるのですが、国民文庫版の解説は、「マルクス=レーニン主義研究所訳」となっているように、レーニン主義的とらえかたにずっぽりはまっています。これについてのわたしのコメントは後述します。
さて、国民文庫版の解説を読むと、エンゲルスが、「共産主義の原理」で草稿的文を書き、二人に委託された「共産主義者同盟綱領」の文を、マルクス主導でそれをまとめあげたというようになっているようです。これは二人が生きているあいだは一部を除いて刊行されなかった「ドイツ・イデオロギー」と執筆経過と同じスタイルです(これは廣松渉さんの「ド・イデ」編集でのとらえ方です)。
「共産党宣言」の位置
「第二回大会の一八四七年の十一月末から十二月はじめにかけてロンドンで開催され、マルクスも出席してながい討論ののち、マルクスの考えが満場一致で採用されマルクスとエンゲルスとは『宣言』の起草を委嘱された。」(岩波文庫版、訳者向坂逸郎「解説」110P)とあります。それが印刷物として出回る頃に、ブルジョアジーとプロレタリアートの歴史的に最初のはっきりした衝突になる一八四八年の二月革命が起きています。
「読書メモ585」の修整・補論
まず、「「読書メモ585」の修整・補論」を書きます。「未開」という脈絡での話、サイードが批判しているところの引用は、「読書メモ585」で引用しているところを参照して貰えればいいのですが、手間をかけるので、切り取りのところと重複するのですが再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」岩波文庫版45P
そこから、更に続く文があり、そちらの方が重要ではないかと、書き加えます。
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。まさに、「文明−未開」という図式で、帝国主義の植民地支配を合理化していると今日批判されているところなのですが、この最後の「・・・・・・東洋を西洋に依存させた。」という文言が、サイードの「オリエンタリズム」という論攷につながるのです。
さて、わたしが「読書メモ585」でもうひとつ指摘した「書かれた歴史がない」という脈絡は、序文をも含めたところで、読み通すと原始共産制という脈絡があります。これは第一章の有名な冒頭「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」岩波32Pに付けられたエンゲルスの註に「すなわち、あらゆる書かれた歴史である」と、それはでてきます。
ただし、それは原始共産制という脈絡でてくるのです。しかし、また、その註の中で、まだそのような共同体の少なくとも残滓的なことが存在するとの記述が出てきます。それは「一九九〇ドイツ語版序文」の中に出てくるロシア語版の序文の引用にロシアの農村共同体(「オプシチナ」のルビ)の話があります。
これは原始共産制ではなく、マルクスが後に「資本論草稿」の中でアジア的生産様式論として、書かれた歴史として出てきます。それは、二人の連名の文ですが、おそらくマルクスの文です(*) 。「『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の崩壊[没落]が不可避的に迫りつつあると布告することであった。しかし、ロシアでは、資本主義[的体制]のぺてんが急速に栄え、ブルジョア的土地所有がいまようやく発達しつつあるが、またそれと並んで、土地の過半は農民の共有となっている。そこで次のことが問題になる。ひどく分解してはいるが太古からの土地所有の一形態[原始的所有の形態]である農村共同体(「オプシチナ」のルビ)は、共産主義的共有のより高い形態[土地所有のより高い共産主義的形態]に直接移行しうるであろうか? それとも反対に、そのまえにそれは西ヨーロッパの歴史的発展においておこなわれたと同じ崩壊過程を通過しなければならないであろうか?/この問題に対して今可能な唯一の解答は、次の如くであろう。もし、ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる。」岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)
これを読むと、少なくともマルクスは、先進国革命→後進国革命という図式、最も発達した資本主義から遅れて発達してきた資本主義・前資本主義に革命が波及していくという図式にとらわれない、すなわち単線的発達史観と言われているそれまでの主張から脱していると言い得ます。実は、レーニンは、「ロシア革命の「社会主義」革命の可能性」というところで、『ロシアにおける資本主義の発展』を書き、それでロシアはもう資本主義的に熟しているので、それまでの民主主義革命というところから飛躍させた「社会主義革命の可能性」として二月革命を受けて帰国した直後に四月テーゼを出します。これは、マルクスのロシアの農村共同体における革命の可能性という論攷は考慮されていないようなのです。結局ボルシェヴィキは、農業問題がネックになっていっています。
『共産党宣言』(特に国民文庫版)に見るエンゲルス(/『宣言』執筆時マルクス)とマルクス(後期マルクス)の違い
前項で「(*)」を付けたところ、これは以前からあった『マルクス=エンゲルス全集』は、『著作集』にすぎないとして、世界的なマルクス・エンゲルス全集の協同編集作業が書簡・ノート・本への書き込みなど網羅して進む中で、とりわけ「資本論草稿」という後期マルクス研究の中ででてきていることです。マルクスは「アジア的生産様式論」の発見で、それまで進めてきた単線的発達史観や進歩史観ということの見直し的になっていったということが、「資本論草稿」の研究の中で明らかになって来ています。そこには、アイルランド問題−イングランドのアイルランドに対する属国的支配植民地的支配−のとらえ返しの中で、モルガンの『古代社会』やそれらを研究したマルクスの「古代社会ノート」が、「資本論草稿」の中に収められた文の中に出ているという指摘がでています。日本でその協同作業に参加しているのは、わたしが知る限り、佐々木隆治さんや斎藤幸平さんですが、その他外国の翻訳本の中にそれを見ることが出来ます(註1)。それを見て行くと、先に書いたエンゲルス主導説ということが、この「宣言」の草稿−「共産主義の原理」を書いたのがエンゲルスということ、また『ド・イデ』の原稿を最初に書いたのがエンゲルスということがあり、「経済学」の学習をマルクスに勧めたのもエンゲルスという話があります(註2)。それで、結局論考を深化させていくのがマルクスというようになっていきます。そして一方で、中期以降は、マルクスが論考を深化させていくのに対して、エンゲルスはどこまで付いていっているのかという話があります。具体的には、マルクスの転換の中で指摘したアイルランド問題をエンゲルスは、自分のパトナーがアイルランド人であったにもかかわらず、とらえきれていなかったとかという指摘があります。勿論、エンゲルスが独自に展開した論攷があるのですが、それが図式主義に陥っているとか、弁証法を法則的に絶対化していったという話がでてきます。そして、物象化という概念がとらえ切れていないというわたしの推論があります。マルクスとともに青年ヘーゲル派から出発しつつヘーゲルを批判・止揚していったにも拘わらず、後期エンゲルスはヘーゲルへの先祖返りに陥っているとかの指摘も出て来ます。
(註)
1 取り敢えず以下の文を、わたしがコメントを遺している資料として挙げておきます。
「たわしの読書メモ・・ブログ206/・佐々木隆治『マルクスの物象化論 資本主義批判としての素材の思想』社会評論社2011」
たわしの読書メモ・・ブログ331/・ケヴィン・B・アンダーソン/平子 友長・明石 英人・佐々木 隆治・斎藤 幸平・隅田 聡一郎訳『周縁のマルクス―ナショナリズム、エスニシティおよび非西洋社会について』社会評論社2015」
たわしの読書メモ・・ブログ573/・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020」
2 この通説には、マルクスの経済学的事始めは、ヘーゲルの経済学的展開から直接学んだという、『マルクス主義の成立過程』での廣松さんの展開−異論が出ています。
いくつかの論点
(イ) 単線的発達史観のとらえ返し
マルクスは「資本論草稿」を準備し研究を進め執筆していく中で、アジア的生産様式論(それは著作物としては、『資本主義に先行する諸形態』)を出しています。また、前述した『共産党宣言』の序文や、更に、同じ内容のマルクスのサスーリッチへの手紙ということ中でも出ています。その内容は、共同体所有ということが、古代社会だけでなく、インドやロシアにおいても存在したという発見の話です。それまでは、「原始共産制(−氏族制)−奴隷制−封建制−資本制−来るべき社会としての共産制」という押さえをしていました。
(ロ) 世界革命論と革命の波及の図式
二人とも世界革命ということが必要であると言う押さえがあるのですが、かなりタイムラグがでてくる可能性も認めていて、それを当初は、資本主義の先進国から後進国へという図式でとらえていました。生産力の発達が資本主義的生産様式と合わなくなって、その一端として恐慌が起こり、それを繰り返して行く中で、プロレタリア革命が起きるとしていたのです。ところが、アイルランド問題のとらえ返しや、ロシアの土地の共同所有ということやモルガンの『古代社会』の研究と「古代社会ノート」の作成などから、「後期マルクスの転換」と言われうることが起きているという指摘が「マルクス・エンゲルス全集」の世界的な共同編集作業の中で起きています。エンゲルスにはそれが起きていないようだという指摘とともにです。それだと、それまでの「先進資本主義国から革命が起こるのではなく、ロシアの農村共同体から、資本主義を止揚する新しい社会が生まれる可能性があるかもしれない」ということになります。わたしはきちんと押さええていないのですが、ベトナム戦争などの帝国主義との闘いの中で、後進国革命論なども起きていました。
(ハ)国家主義的とらわれ(国家概念の矛盾するとらえ方)
そもそも『ド・イデ』で国家=幻想共同体論が出ていたのです。また、「共産主義者には国境がない」という規定も『共産党宣言』の中で出てくるのに、「まず自国のブルジョアジー権力と闘わなければならない」とか、過程としてですが国有化論が出てくるのかがよく分かりません。マルクス・エンゲルスの共産主義論は当時かなり浸透していたアナーキズムとその運動との論争の中で出てきているので、プロレタリア独裁ということが必要であるということで(プロ独の必要性ということは二人とも変えていないようです)、国家権力の掌握というところで、国有化論や国家主義的なとらわれから脱しえなかったとも言いうるのかもしれません。このことの是非を検討しなければならないのですが、今日のファシズム的な隆起との対峙において、国家主義と差別主義との闘いということが鍵になるというところでは、国家主義からの止揚が必要になるということは押さえねばならないと思っています。
(ニ) 生産力至上主義と革命の主体の問題
マルクスは少なくとも単線的「発達史観」から脱したのですから、そのことをさらに深化してとらえ返すと、「生産力の発達と生産様式の矛盾からするプロレタリア革命」という図式からも脱することになります。ルンプロ規定が非正規雇用の拡大というところで、今日的に合わなくなってきているのと同様に、反差別というところから、マルクスの流れから出てきている、ネグリ/ハートの「マルチチュード」という概念や、グラムシやG.C. スピヴァクのサバルタン概念も出てきていて、更に、ベトナム戦争などで出てきた「民族解放闘争」というところからの後進国革命論なども押さえた、すなわち反差別というところからのとらえ返しが必要になっています。それはそもそも「差別とは階級支配の手段=道具」であるというレーニン的とらえ返しが、そもそも階級問題も、生産手段の所有からの排除、労働力の価値という二重に物象化されたヒエラルヒーという差別の問題としてとらえ返す作業も必要になっています。
また、マルクスの『資本論』は資本主義の帝国主義的段階を十全に押さええていないという批判があり、またレーニン的帝国主義論だけでなく、ローザの継続的本源的蓄積論や今日的なグロバリーゼーションとしてとらえられる情況も押さえ、さらに、ファシズムの流れなどを、国家主義批判・差別主義批判として展開していく必要も出てきているのではと、わたしはとらえています。
(ホ)暴力革命論
さて、「共産主義の原理」には「一六 問 私的所有の廃止は、平和的な方法で可能だろうか?」という問が出ていて、それは望ましいけれど、現実には「行動をもってプロレタリアの大義を擁護するであろう。」という答えで最後を結んでいます。
わたしは反差別ということをとらえ返すと、反暴力主義とならざるを得ないと押さえています。ただし、そもそも右翼やファシストの暴力主義クーデターの歴史をとらえる中で、非暴力主義にはなりえないと押さえています。勿論、いろいろな、とくに構造改革的な変革の可能性はあるのですが、このことは、現実的場面で判断していくしかないとも思っています。エンゲルスは晩年議会からの革命の可能性を模索していきます。それで、ドイツ社会民主党へエンゲルスが寄稿した文を、当事完全に議会主義に陥ったところでエンゲルスの文を改竄した問題でトラブルになっていたという有名な話があったのですが、議会的なことでの革命の可能性は、チリの教訓をも含めて、そして構造改革的革命論ということも含めて考えて行くことだとしか言いようがないとのとりあえずの提起です。
レーニンとマルクスの違いを『共産党宣言』からとらえる
幾つかの違いを見出せます@革命主体A既成の組織を利用できないB国境は無い・祖国をもたない、というところで違いが出ていると指摘できます。
まず、@ですが、『共産党宣言』では、「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という基本的な姿勢において、レーニンの外部注入論と批判される、革命の主体が結局革命的インテリゲンチャになっていることと対立しているととらえられるのですが、一方で『宣言』には、共産主義者前衛論と読めるところもあり、そもそも前衛論自体の止揚ということを考慮することが必要になります。Aに関しては、レーニンは現実主義において革命の防衛というところで、帝政ロシア時代の秘密警察のような機関を作っています。それが党の独裁というところで対立意見の者にも向かったところにおいて、原則を完全に踏み外しています。原則主義と現実主義の弁証法において、これは明らかな間違いだったと言い得るでしょう。Bは、レーニン自体は世界革命が必要だという思いは持ち続けていたようなのですが、ローザとの民族自決権論争などで、国民国家としての独立や自治ということを主張することにおいて、国家主義的なことに陥っていくことになります。それが、スターリンの一国社会主義建設論に繋がっていくことになります。革命の防衛というところでも、「社会主義」の防衛というところで、国家主義的陥穽に嵌まり込むことになってしまいます。今日的な観点からとらえ返すと、この国家主義への対峙ということが、必要になっていきます。
さて、レーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』において、ロシアは充分に資本主義的に発展しているとして、先進国革命の図式にはめ込んだのですが、実際には、農業的な要素が強く、農業問題において抑圧的な立場になってしまっています。しかも、マルクスがロシアに於ける農業共同体の特質に留意していたことが全然頭に入っていず、「ロシア革命」の時に、食料の確保ということで収奪的なことになっていますし、民族自決権に反する、ドイツとの講和において、農業地域のウクライナの分割さえ成しています。そのことが、今日のウクライナ戦争に影を落としているのです
さて、前述している単線的発達史観やそこから繋がる先進国革命から後進国にも波及していくという図式への批判への後期マルクスの転回ということから、対話が起きてきます。そのマルクスの転回、どうもエンゲルスはついていっていないようなのです。実は、レーニンは、『資本論』を読み込むには、ヘーゲルを押さえなければならないというようなことも書いています。そのあたり、先に指摘したエンゲルスのヘーゲルへの先祖返りとシンクロしているのです。ですから、後期マルクスの転回ということでいえば、マルクス・レーニン主義というよりも「エンゲルス・レーニン主義」と言い得ることではないかと思ったりしています。
最後に、この読書メモに話を戻しますが、 特に国民文庫版「解説」は、紛れもなくレーニン主義的になっています。
「共産主義」論
「原理」の「問一」では、「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76Pと出ています。
これは運動論的規定になっています。むしろ、存在論的規定においては、「共産主義とは私有財産制と分業の止揚である」という規定において、むしろ私的所有がなぜ生じたのかの分析と分業の機制についての論究が必要になります。
さて、わたしは認識論的な深化において、廣松渉さんの論攷を学習して来たのですが、そのとらえ返しの地平からの論考を、過渡的に展開したいと思います。
言語の発生にも関わる、役割期待−役割遂行という、役割行動の進展の中で、協働的連関態的蓄積というところから、厖大なインフラや物的・精神的(「人類の叡智」とも言われるような)財の蓄積をなしていったのです。すなわちコモン(公共財)ということです。ところが、私有財産制がそれをゆがめ、1%のひとたちが99%のひとを支配するという情況を生み出しています。そのことを歴史の必然としてとらえるひとがいるのですが、それは、これからの可能性も含めて対話していくことだと、わたしは思っています。
これは、わたしの長年課題としてきたことで、それを書き出したら、本一冊分でも終わりません。とりあえず、この少し踏み込んだ文を掲載する「反障害通信」の巻頭言に「共産主義とは何か?」というタイトルで書いています。
(附記)
岩波文庫版切り抜きメモ・・・本文掲載分は割愛
[序文(群)]
(岩波メモ@)「・・・・・・最近二十五年間における大工業のはかり知れない進歩や、それとともに前進する労働者階級の党組織や、二月革命をはじめとしさらに進んでプロレタリア階級がはじめて二か月のあいだ政権をにぎったバリ・コミューンの実践的諸経験を考えれば、この綱領は今日ではところどころ時代おくれとなっている。特にコミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した。(『フランスにおける内乱、国際労働者協会総務委員会の建言』を見よ。ドイツ語版一九ページ。岩波文庫版九〇ページ。ここにこの点のくわしい説明がある。)・・・・・・」8P(「一八七二年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八七二年六月二十四年/二人の連名標記)・・・「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」
(岩波メモA)「『宣言をつらぬいている根本思想は次のことである。おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生まれる社会組織は、その時期の政治的ならびに知的歴史にとっては基礎をなす。したがって(太古の土地共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。――・・・・・・」10P(「一八八三年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八八三年六月二十八年/F・エンゲルス)・・・「太古」でなくても土地共有は発見された−アジア的生産様式
(岩波メモB)「この『宣言』には独自の経歴がある。それが出版された瞬間には、そのころまだ多数ではなかった科学的社会主義の前衛から、熱狂(ママ)的な歓迎をうけた・・・・・・」16P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・科学的社会主義と前衛
(岩波メモC)「ヨーロッパの労働者階級が、ふたたび、支配階級の権力に向かってあらたに充分スタートがきれるほど協力になったときに、国際労働者協会(「インテルナチュオナーレ・アルバイターアソチアチオン」のルビ)が生まれた。・・・・・・」17P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・国際労働者協会
(岩波メモD)「しかも、この『宣言』がでたときには、われわれがそれを社会主義宣言と呼ぶわけにはいかなかった。一八四七年には、社会主義者というとき、そのなかに二種類の人々が含まれていた。一つは、さまざまの空想的体系の信奉者、特にイギリスのオーウェン主義者とフランスのフーリエ主義者であり、これは両者とも当時すでに萎縮してしまって、次第に死滅していく単なる宗派(「セクト」のルビ)となっていた。もう一つは、さまざまの万能薬をのませ膏薬(「こうやく」のルビ)をべたべたはって、資本や利潤を少しも痛めずに社会の弊害を取り除こうとする種々雑多な社会的やぶ医者であった。両方とも、労働運動の外部に立ち、はるかに多くの支持を「教養ある」階級に求める人々であった。これに対して、労働者のうちで、単なる政変では充分ではないと確信し、社会の根本的改造を要求する部分、その部分の人々は当時みずから共産主義的と称した。それは単に荒けずりの、単に本能的な、時にはいくらか粗野な共産主義であった。それでも、この共産主義は、空想的共産主義の二つの体系、すなわちフランスではカペーの『イカリア』の共産主義、ドイツではヴァイトリングの共産主義を作りだすだけの強さをもっていた。一八四七年には、社会主義者はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した。社会主義は、少なくとも大陸では、サロンに出入りできるものであり、共産主義はその正反対のものであった。われわれはすでにそのころ、決然と「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」という意見をもっていたのであるから、われわれは、二つの名前のいずれを選ぶかについて、一瞬も迷うことはなかった。それ以後も、この名前を返上しようとなどと思ったことはない。」18-9P(「一八九〇年ドイツ語版への序文」/ロンドン、一八九〇年五月一日/F・エンゲルス)・・・なぜ、「共産党宣言」なのか? 社会主義との違い−様々な社会主義者たちとの違い――「労働者の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」の有名な文言
(岩波メモE)「『宣言』はわれわれの共同の著作であるが、私は、その核心をなす基本思想はマルクスのものであることをのべる義務があると思う。その思想とは次の主張である。いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的様式、およびそれから必然的に産まれる社会組織が土台をなし、その時期の政治的ならびに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される。したがって、人類の歴史は(土地を共有していた原始氏族社会が崩壊して以来)階級闘争の歴史であった。つまり、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった。そしてこの階級闘争の歴史は、次第に発展し、現在では、搾取され圧迫される階級――プロレタリア階級――が、搾取し支配する階級――ブルジョア階級――のくびきから解放されるためには、同時に、また究極的に、社会全体をあらゆる搾取、あらゆる圧迫、あらゆる階級的差別、あらゆる階級闘争から解放しなければならない段階に達している。」25-6P(「一八八八年英語版への序文」/ロンドン、一八八八年一月三十日/フリードリヒ・エンゲルス)・・・マルクスの唯物史観の発見と階級の廃絶の必要性 エンゲルスは未だにマルクスの「アジア的生産様式」を対象化していない。
[本文冒頭]
(岩波メモF)「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾーフランス急進派とドイツ官憲。」37P(本文・冒頭)・・・「幽霊」の文言、国民文庫版では「妖怪」
[第一章]
(岩波メモG)「今日まであらゆる社会の歴史は(註)、階級闘争の歴史である。」38P
(註) ここに「(二)」の註があります。次の「(岩波メモH)」で誌します。二つの版の違う註がついています。
(岩波メモH)「(二) [原註] (一八八八年英語版へのエンゲルスの註)すなわち、あらゆる書かれた歴史である。一八四七年には、世界の前史、すなわち記録された歴史に先行する社会組織は、全然といっていいほど知られていなかった。その後、ハクストハウゼンは、ロシアにおける土地の共有制を発見し、マウラーは、土地の共有制がすべてのチュートン部族の歴史的出発の社会的基礎であったことを立証した。そして次第に、村落共同体は、インドからアイルランドにいたるあらゆるところで、社会の原始的形態であること、あるいはあったことが発見された。そして、氏族(「ゲンス」のルビ)の真の性質および部族に対するその関係についてのモルガンの称賛すべき発見によって、原始共産主義社会の内部組織の典型的な形が明らかにされた。この原始時代の共同社会の解体とともに、別々の、ついには対立する階級への分裂がはじまる。私は、この解体過程を、『家族、私有財産および国家の起源』(第二版、シュトゥトガルト、一八八六年)において追求しようと企てた。」38P・・・ここが共産主義論の要。エンゲルスが註をつけているのですが、マルクスの註ではありません。「アジア的生産様式論」を発見し、単線的発達史観から脱しようとしたマルクスとの違いを読み取れます。エンゲルスもマルクスの「古代社会ノート」を受けて、『家族・私有財産・国家の起源』を書いていますが、『共産党宣言』を出しした当初の単線的発達史観から抜け出せていないように思えるのです。これには、厖大な検証作業が必要です。取り敢えずの提起に止めます。
「(一八九〇年ドイツ語版へのエンゲルスの註)・・・・・・」39P・・・前の版とほとんど重なっていて、こちらが記述が少ないので、こちらを省略。
(岩波メモI)「ブルジョア階級のこのような発展の一つ一つの段階にともなって、それにふさわしい政治的進歩があった。ブルジョア階級は、封建君主の支配下にあっては圧迫された身分であり、自由都市(「コンミューン」のルビ・註あり(省略))にあっては武装し、自治をもった組合をなした。そしてあとのばあいは独立した都市共和国、前のばあいは君主政体下の納税義務をもつ第三身分であった。次に工場手工業(「マニュファクチャ」のルビ)の時代になると、かれらは身分制的王制または絶対的王制において貴族と平衡を保つ錘(「おもり」のルビ)の役目を果し、大君主制一般の主要な基礎となった。そしてついには、大工業と世界市場とが建設されて以来、ブルジョア階級は近代的代議制国家において、ひとり占めの政治支配を闘いとった。近代的国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない。」41P・・・幻想共同体論(『ド・イデ』)と軍事的官僚的統治機構(レーニン)という国家規定が出ていません。
(岩波メモJ)「・・・・・・昔は地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代ってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係があらわれる。物質的生産におけると同じことが、精神的生産にも起る。個々の国々の精神的生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭は、ますます不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される。」44P・・・ここは文学だけでなく、むしろ生産物一般にまで、及びます。「国々」ということではなく、「協働態的連関」というところでの「生産物」とらえるとコモンというとらえ返しになります。
(岩波メモK) 45Pに「読書メモ585」引用文「参照ください」ですませようとしたのですが、手間をかけるので、それも掲載して)とそれに続く本文引用文があります。これも最初に引用しているのですが、再掲します。
「ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって、無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」45P
「ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは大きな都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知(ママ)から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。」岩波文庫版45P。
(岩波メモL)「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれ、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。は」53P・・・当時の時代状況的には、そのような側面があったのでしょうが、今日には、むしろ非正規雇用問題として、むしろこちらの方が多数化していく現実があり、ここに依拠する必要性が認められます。これは単線的発達史観の「先進国革命→後進国革命」という図式の見直しにも及びます。
(岩波メモM)「旧世界の生活条件は、プロレタリア階級の生活条件のなかですでに破壊されている。プロレタリアの無所有である。妻や子に対するかれらの関係は、ブルジョア的家族関係と共鳴なものをもはやもっていない。近代的工業労働、すなわち資本のもとに近代的制圧を受けている状態は、イギリスでもフランスでも、アメリカでもドイツでも同一であり、プロレタリアからすべての国民的性格をはぎとってしまった。法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョア的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョア的利益がかくされている。」53-4P・・・ブルジョア文化(家族・法律・道徳・宗教)への包摂
(岩波メモN)「ブルジョア階級に対するプロレタリア階級の闘争は、内容上ではないが、形式上は、何よりも第一に国民的闘争である。おのおのの国のプロレタリア階級は、当然まず自分自身のブルジョア階級を片づけねばならない。」54P・・・「国民的闘争」? 国境を持たないということとの矛盾 国家主義的にとらわれていく問題
[第二章]・・・「共産主義者」=前衛論になっていく可能性を感じられる文
(岩波メモO)「かれらはプロレタリア階級の全体の利益から離れた利益をもっていない。/共産主義者は、特別の原則をかかげてプロレタリア運動をその型にはめようとするものではない。/共産主義者は、他のプロレタリア党から、次のことによって区別されるにすぎない。すなわち、一方では、共産主義者は、プロレタリアの種々な国民闘争において、国籍とは無関係な共通のプロレタリア階級全体の利益を強調し、それを貫徹する。他方では、共産主義者は、プロレタリア階級とブルジョア階級のあいだの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。」57P・・・いくつかの矛盾。「国籍とは無関係な」とするなら、「国民闘争」という規定とは合わない。「つねに運動全体の利益を代表する」というのは、封建制的な勢力が存在するところで立てられている。利害の問題が階級問題に純化されたところでは、ブルジョア階級の利害は代表しない。
(岩波メモP)「共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。/ところで近代のブルジョア的私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。/この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産制の廃止という一つの言葉に要約することができる。」58P・・・共産主義の特徴−私有財産制の止揚
(岩波メモQ)「ブルジョア社会においては、生きた労働が、蓄積された労働をふやすための手段であるにすぎない。共産主義社会においては、蓄積された労働は、労働者の生活過程を拡げ、富まし、促進するための手段にすぎない。/したがって、ブルジョア社会においては過去が現在を支配し、共産主義社会においては、現在が過去を支配する。ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。」60P
(岩波メモR)「諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することにおどろく。ところが、諸君の現在社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。これは十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。すなわち諸君は、社会の途方もない多数者が財産をもたないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとすることに対して、われわれを非難しているのである。」61P・・・私有財産制の廃止ということの道理
(岩波メモS)「ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。/ここに問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。」64P・・・フェミニズム的論攷−産む性が物化されること批判
(岩波メモ㉑)「さらに共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。/労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。」65P・・・矛盾? 国家主義へのとらわれ。
(岩波メモ㉒)「諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相当する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。/プロレタリア階級の支配は、それをますます消滅させるであろう。少なくとも文明諸国が団結した行動をとることは、プロレタリア階級解放の第一条件の一つである。」65-6P・・・前半はネグリ/ハートが陥った論理、国民国家の意味・国家主義的差別排外主義を読み落としている−継続的本源的蓄積論における差別と国家主義の意味を押さえる必要があります。後半は、まさに国家の死滅という『ド・イデ』の地平。しかし、先進国から後進国へという図式主義。
(岩波メモ㉓)「プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。/このことは、もちろんなによりも、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。したがって、その方策は、経済的には不充分で不安定に見えるが、運動が進行するにつれて、自分自身を乗り越えてすすみ、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる。/この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるであろう。/とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。/一、土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。/二、強度の累進税。/三、相続権の廃止。/四、すべての亡命者および反逆者の財産の没収。/五、国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。/六、すべての運輸機関を国家の手に集中する。/七、国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。/八、すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。/九、農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目ざす。/一〇、すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育を物質的生産との結合。等々、等々。」68-9P・・・革命への途、生産力発展至上主義、プロ独論の原型、しかし国家所有論では国家資本主義の陥穽に落ちます。また、強制的なことが出ています。
(岩波メモ㉔)「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべてのひとびとの自由な発展にとっての条件である。」69P
[第三章]
国民文庫版の「共産主義の原理」という草案と対比してみること。
[第四章]
「読書メモ585」参照。特に追加事項ありません。
[解説]省略
国民文庫版切り抜きメモ
『共産党宣言』の文での岩波版との対比が必要ですが、ここでは省き、「共産主義の原理」から入ります。
「共産主義の原理――共産主義者の信条草案――」
(国民メモ@)「一 問 共産主義とはなにか?/答 共産主義とは、プロレタリアートの解放の諸条件に関する学説である。」76P・・・運動論的定義、存在論的には?−これを主題にして別稿を書くこと(本号、巻頭言参照)
(国民メモA)「六 問 産業革命のまえには、どんな働く階級がいたか?/答 ・・・・・・古代には、はたらくものは所有者の奴隷であった。・・・・・・中世には、はたらくものは土地所有貴族の農奴であった。・・・・・・中世および産業革命までは、そのほか都市には手工業の職人があって、小ブルジョアの親方のもとにやとわれてはたらいていた。そして、マニュファクチュアが発展するにつれてマニュファクチュア労働者もだんだんあらわれきたが、これはすでに大資本家にやとわれていた。」80P・・・まだ、さまざまな労働形態があります。次々項参照
(国民メモB)「七 問 プロレタリアは、どういう点で奴隷とちがうか?/答 ・・・・・・奴隷はブロレタリアより生存条件のよいこともあろうが、しかし、ブロレタリアは奴隷よりは高い発展段階のものであって、またそれ自身としても奴隷よりも高い段階に立っているのである。・・・・・・」81P・・・「生存条件」とは、奴隷は「飢え死にする自由」や「競争を強いられる」ことを一応免れ得ること、プロレタリアの「飢え死にする自由」は奴隷より「よりは高い段階」であると言えるのでしょうか? 発達史観・進歩史観へのとらわれ
(国民メモC)「八 問 プロレタリアは、どういう点で農奴とちがうか?/答 ・・・・・・農奴は、都会に逃げ出して、手工業者となるか、または、労役や生産物でなしに、金銭を地主におさめて自由借地農になるか、あるいはまた、自分の封建地主を追いだして、自分自身土地の所有者になるか、つまりどういう方法によるにせよ、とにかく有産階級になり、競争の仲間入りをすることによって自分自身を解放するのである。」82P・・・ただの商業的「下働き」や「家事労働者」・「娼婦」という労働者的存在の途を脱け落としています。変則的「解放」にすぎませんが。
(国民メモD)「一五 問 では私的所有の廃止は、もっと以前にはできなかったか?/答そうだ、できなかった。・・・・・・」89-90P・・・序文に指摘される、原始共産制やアジア的生産様式における土地共有ということが押さえられていません。
(国民メモE)「一七 問 私的所有の廃止は、一挙にできるだろうか?/答 いやできない。それはいま現にある生産力を、共同社会をうちたてるために必要な程度にまで一挙に何倍にもふやせないのと同じことだ。したがって、おそらくきたりつつあるプロレタリアートの革命は、現在の社会を徐々にのみ変革し、そしてそのために必要な生産手段の量がつくりだされたときに、はじめて私的所有を廃止することができる。」91P・・・生産力発達至上主義的になりかねない。その後の帝国主義論やファシズムの隆起、ローザの継続的本源的蓄積論などの他のモーメントを押さえることが、必要になっています。
(国民メモF)「一八 問 この革命は、どんな発展への道をたどるだろうか?/答 ・・・・・・(8) すべての子供を、母親の養育なしでやっていけるようになるところからただちに、国家の施設で、無国家の費用で教育すること。教育と生産との結合。」91-4P・・・これは、『共産党宣言』の「二」の最後のところ(55-6P)との対比で押さえることです。どちらも、国家主義的になっていますが、特に引用している「(8)」はファシズム的論攷になっています。さすがに『共産党宣言』の本文では使われていません。
(国民メモG)「一九 問 この革命は、ただ、一国だけでおこりうるだろうか?/答 いやおこりえない。・・・・・・だから、共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。・・・・・・」・・・これは、「先進国革命から後進国へ波及していく」図式なのですが、後にマルクスが「岩波文庫版14P (「一八九〇年ドイツ語版への序文」の中の「一八八二年ロシア語版への序文のドイツ語原文の逸失によるロシア語版からの再翻訳。二人の連名文。)」の中で書いているアジア的生産様式の発見、取り分けロシアの「農村共同体(「オプシチナ」のルビ)」の発見からするロシア革命の先導の可能性や戦後出てきた後進国革命論との対話が必要になっています。
(国民メモH)「二〇 問 私的所有を最終的にとりのぞいた結果は、どうなろうか?/答 ・・・・・・生産力を共同で計画的に利用するための社会全員の一般的な結合。あらゆる人の欲望をみたすほどの生産の拡張。ひとりの欲望が他の人を犠牲にしてみたされる状態がおわること。階級と階級対立とがまったくなくなること。これまでのような分業をなくすことによって、産業教育および仕事の交替によって、すべての人の生産した利益にあらゆる人があずかることによって、都市と農村との融合によって、全社会成員の能力を全面的に発展させること。――以上が私的所有を廃止したおもな結果である。」95-8P・・・私有財産制と分業の止揚という共産主義の基本概念の問題 分業とは役割分掌の固定化
「共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ」
(国民メモI)「・・・・・・一七九三年のフランスと同じく、今日のドイツでも、もっとも厳格な中央集権の実行が真に革命的な党の任務である(註)。」118P・・・次の項での修正も含めて、レーニンの中央集権制との対話を含めて検証すること。
(註) ここには「*」がついていて、次の「(国民メモJ)」の文が展開されています。
(国民メモJ)「今日では、この箇所が一つの誤解にもとづいていることを想起しなければならない。当時はボナパルト派や自由主義者の歴史的偽造のおかげで、フランスの中央集権的な行政機関が大革命によって導入され、ことに国民公会によって、王党および連邦党の反動派や外敵を克服するさいになくてはならぬ決定的な武器として使用されたということが、確実なことと考えられていたのである。しかしいまでは、ブリュメール十八日にいたるまでの全革命を通じて、県、郡、市町村の全行政が、統治者自身によってえらばれ、一般国法の範囲で完全な自由をもってうごいていた当局者からなっていたこと、この、アメリカのそれに類似していた州および地方自治こそ、革命の最強の槓桿(こうかん・てこ)となり、しかも、ナポレオンが彼のブリュメール十八日のクーデターの直後いそいでこの自治のかわりに、今日なお存続している知事政治――したがって当初から純粋な反動の具であった――をもってしたほど強力なものであったということは、周知の事実である。しかし、地方および州自治が政治的・国民的中央集権と矛盾するものではないと同じく、この自治はまた、スイスにおいてわれわれにあれほどいやな感じをいだかせ、一八四九年には南ドイツのすべての連邦共和主義者がドイツにおいてこれを通則にしようとした、かの狭量な州および市町村利己主義と、必然的にむすびつくものでもないのである。[一八八五版へのエンゲルスの注]」118P
(国民メモK)「・・・・・・/しかし、彼ら自身は、彼らの階級利益をみずからあきらかに知り、できるだけはやく彼らの独自的な党派的立場をとり、民主主義的小ブルジョアの偽善的言辞にまよわされて一瞬たりともプロレタリアートの党の独立の組織をわすれないことによって、彼らの最後的勝利のために、全力あげねばならない。彼らの鬨(「とき」のルビ)の声は、「永続革命」ということでなければならない。/ロンドン 一八五〇年三月/一八八五年チューリヒ発行のマルクスの『共産党裁判の暴露』にエンゲルスが掲載」120P・・・この文の最後の文 「 永続革命」の文言
2026年02月11日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(16)
たわしの読書メモ・・ブログ723[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(16)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第三節 役割協働の存立性
(この節の問題設定−長い標題)「人間の行為は、共互的役割行為の場合は勿論のこと、当人は孤絶な対物的行為を営んでいる心算の場合であってさえ、一種の協働的営為の構制になっているのが常態である。協働的行為は、われわれの見地から規定するとき、(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型に分けうるが、いずれにしても、当事諸主体の行為が(協働を手段にすることによって達成されるところの)目的を共有する態勢になっている。――協働的態勢の成立は、発生論的には、共鳴的同調・対抗的即応・模倣的協応の機制にまで溯る。――行為主体は自覚的協働の場において、「客体我々」ばかりか「主体我々」を形成する。」343P
第一段落――人間の行為は殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制になっている 344P
(対話@)「人間の行為は、前章第三節で指摘したように、第三者的・反省的な見地から規定するとき、殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制を呈する。亦、分業的協働の態勢は、次篇において主題的に討究するように、制度的物象化をも遂げる。」344P
(対話A)「本節の主要課題は――協働の汎通性を確認することでも、協働の物象化を見定めることでもなく――、協働的役割行為の共同的目的達成型の構制を分析しつつ、前節から持越した役割行為の共互構造の内在的検討を継続し、葛藤的構造を孕みながらも共同利害性=目的共同性の存立する構制、之に即して「主体我々」の現存在を見ることにある。とはいえ、行論の進め方としては、前節からの連続性を一旦中断する形になることをも厭わず、本来であれば前々節および前節において論じておく途もありえた発生論的・行動発達論的な基礎場面に溯って、役割行為・協働的営為の形成機序から論を起こし、以って前篇このかたの宿題にも応えておきたいと念う。」344P
第二段落――生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事 344-9P
(対話@)「役割的行為・協働的営為の発生論的機序について周到に論じようとする際には、生体の神経生理学的機構をも配視しなければならないであろう。がしかし、爰ではそこまで周到を期すことは紙幅が許さない。(著者は、本書では当面、身心関係については随伴説に仮託する形で議論を進めており、そのさい、条件反射の機制で屢々“説明”しているのであるから、そこでの神経生理学的機制に関してどのように自家諒解しているか、誌して然るべきであることを自覚している。だが、この論件については、別著『共同主観性の現象学』第一部の第三章および第四章で稍々詳しく論じておいたところの参看を願い、本書では割愛する。)爰では直截に、生体が一種独特の振動系である事実に留目することで次善としよう。」344P
(対話A)「生物体としての人間個体は、他種の高等動物も本質的には同様であろうが、優れて機能的な振動系を成している。それは多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられ、多種多様な振動の重合系である。それは非線形の非平衡状態を基底にしているにしても、揺動(flactuation)の引込み(entrainment)による同調化の機制によって、マクロには各位階・各位層の準定常的な振動系を形成しつつ、それらを重合している。そのため、生体は、振動的不安定性を孕みつつも、全体としては相対的に安定した振動相を呈しうる。――神経細胞は、電気的・化学的な諸刺激によって一過性の興奮を呈するが、定常的にリズム興奮しており、その固有振動リズムが刺激によって乱されることが情報伝達の一様式をなす仕組みになっている。神経系の興奮、神経を通じての情報伝達という事態は、物理・化学的な機構によって支えられてはいるが、物理・化学的状態そのものは振動装置にすぎないと言うこともでき、伝達・興奮の機能的な実質は振動であると言うことさえもできよう。求心的情報は振動状態の変化という示差をシニフィアンとして伝達されるのである。――今茲では、振動機構や遠心的・求心的な過程の振動的送達のパルス機構そのことに深く立入るには及ぶまい。当座の議論にとっては、生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事実を銘記しうれば足る。」344-5P
(対話B)「生体は内部的編制において振動系・共振系であるだけでなく、刺激受容の場面においても共振的であること、著者としては、今この事実を重視する。」345P
(対話C)「耳(聴覚器官)の機構を想ってみられたい。耳の内部機構は一昔以前にヘルムホルツやマッハが考えたような単純な共鳴器ではない。空気の振動(音波)との共鳴振動がそのまま弾性的振動のかたちで中枢に送達されるわけではない。中枢への送達は電気パルスに変換したかたちでおこなわれる。とはいえ、刺激収容の直接的場面では有毛細胞(の毛)が空気振動と共振する機制になっており、まさに受容装置と空気振動(音波)とが共振するわけである。そして、この共振的振動が、電気的パルスという別種類の振動に変換されてではあるが、ともかく、やはり振動のかたちで中枢へ送達され、謂うなれば中枢をも共振せしめるのである。」345P
(対話D)「眼の場合は如何? 光線は慥かに電磁波であるには違いないが、視覚的受容は音の聴覚的受容とは趣きを異にし、視覚装置が光波と共振するわけではない。しかしながら、視覚が可視的対象物の振動相を直截にキャッチできることを見落してはならない。対象物の振動に応じて(そこから反射されて到来する)光の布置が網膜の細胞上で振動する。そして、この振動が写像されて中枢に送還され、謂うなれば中枢的受容布置をも振動状態に引込み、間接的に中枢的状態を対象の振動と共振せしめる所以となる。」345-6P
(対話E)「惟えば、聴覚の場合、空気の振動と有毛細胞とが共振し、それの送達を受けて中枢的機能状態も共振する。そこで、振動という見地からみれば、恰度地震に際して地面と建物とか共振し地面と建物とが一体となった振動系を形成するのと同様、空気と生体とが一体となった振動系が成立していることになる。視覚の場合には、可視対象物の振動と視覚装置とが力学的に共振するわけでこそないが、対象物の振動と視覚装置の興奮布置の振動とが共振的になり、この共振的振動が中枢的機能状態を共振に引込む。このかぎりで、やはり、対象物と生体の機能的状態とを包括する一体的な振動系が形成されるわけである。翻って、個々の音ならざる音響リズムの知覚にさいしても、同趣の機制が認められよう。」346P
(対話F)「対象物の振動を触覚的に知覚する場合、ここでも直接的であれ、杖などを介してであれ、やはり、同趣の振動系が成立する。つまり、一方における対象物と、他方における皮膚的界面内の生体、これら両者の並行的共同振動というよりも、むしろ、両者を包括する一体的振動系が形成される。」346P
(対話G)「こうして、音声を知覚する場合、可視的対象物の振動を知覚する場合、可触対象物の振動を知覚する場合、対象的振動と共振的な生体振動が発生すると言うことができ、より剴切には、対象的振動と生体的振動とを包括する一大振動系が形成されると言うことができる。」346P
(対話H)「ところで、生物個体(皮膚的に劃された生体)は振動系として固有振動を有っており、このような個体どうしが共存の場に置かれたさい、共鳴、唸り、引込、同調、不調和、等々、振動学的な各種の現象を生じうることは、絮言するまでもない。断るまでもなく、著者は個体どうしの一切の関係を振動学的概念の枠組に押込むつもりはない。しかし、共振的現象が日常茶飯に見られるという事実、しかも、そのうちの或る種のものは間主体的関係の基礎的機制として、発生論的・発達論的な考察にとって極めて重要と目されること、この件を積極的に勘考する必要があろう。――R・ザゾやT・バウアーによって、生後間もない新生児が、母親が舌を出したり口をパクパク動かして見せたりするのに反応して、自分の側でも舌を突出したり、口をパクパクさせたりする観察事実が報告されている。この反応は、外部的に観察すると模倣(「まね」のルビ)行動のように見えるにしても、とうてい狭義の模倣行動ではありえない。現に、この反応はモロー反射などとも同様、やがて一旦は消失するのであり、生後二、三週間内にみられるにすぎない。この反応態勢は、ザゾも言う通り、「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)である。そのメカニズムはまだ解明されていない由であるが、これはおそらく一種の共振的機制に因って生じるものと思われる。――」346-7P
(対話I)「著者は、実践的世界における基礎的な体験現象であるところの、表情現象や情動現象を悉く共振現象・引込現象に還元するつもりはない。現に単なる表情知解の次元になれば情動的共振性は要件でなくなる。また、相手が怒ったり悲しんだりしているのを知って自分の側では喜ぶといった意地悪な情動性現象も存在しうる。がしかし、表情感得の次元、および、表示用感得と密着した情動現象の場面では如何であろうか。発生論的・発達論的にみて原初的原基的なこの場面においては、表情感得・情動反応はまさに共振的引込現象の機制に俟つのではないか。――著しい表情的顔貌・身振・態度は、ニコニコニコニコ、ワナワナワナワナ、ヒクヒクヒクヒク、ニヤニヤニヤニヤ、ピリピリピリピリ……というようにまさに振動的である。また、著しく情動的な発声は、キャキャキャキャ、ワッハハハハ、イッヒヒヒヒ、ウェーンウェーンウェーン……というように直接的に音写されるたぐいのものばかりでなく、ガミガミガミ、ブツブツブツ、ブーブーブーブー、シクシクシク……というようにリズム的に標記されるたぐいのものも振動的である。――なるほど、ニコニコといった顔面の振動運動やワナワナといった全身的振動運動は、そのまま弾性振動として他人に伝わって、他人の身体を直接に共振させるわけではない。また、ワッハハハハという音相で知覚される空気振動やガミガミガミというリズムで聴取される空気振動も、その音波的衝撃力で相手を共振させるわけではない。がしかし、上述の通り、視覚対象物の振動はそこから発する反射光束の視覚装置での受像相の振動となって写像され、この末梢器官で受信された振動相が中枢部に送達されて、謂うなれば中枢系の機能的状態相を共振せしめる。音波の形や強さやリズムも、またやはり、耳内部の有毛細胞をしかるべく共振せしめ、この振動相が電気パルスに変換され(シュナプスごとに逐次的なイオン反応−電気反応の継起を生ずることによって)求心的に送達され、中枢系の機能的状態相を共振に引込む。だが、この過程は、一方的に求心的なのではなく、中枢を介して遠心的にも伝播して行き、部位によって位相差はあるにせよ、謂うなれば全身的な振動状態を現出せしめる。こういう全体的な共振状態の局部的な表われとして、受信者側の顔面にもニコニコニコニコという発信者側のそれと共振的な顔面振動やワッハハハという発信者側のそれと共振的な声帯振動が現出する、という事態が生じうる。」347-8P
(対話J)「人間という生体は、音叉や共鳴箱のような簡単な機構ではない。外見的に見た場合、例えば互いに笑い合うとか、互いに嘆き合うとか、直接的な共振・共鳴のように見えるさいでも、中枢的過程を介してはじめて共振が成立する。音楽やダンスのリズムに乗るようなケースでもやはりそうである。しかしともあれ、事実の問題として、人間というこの振動系は、いわゆる表情感得・振動反応の場面において、存外とよく共鳴するように出来ているように見受けられる。」348P
(対話K)「この可能的共鳴・共振の態勢は、生体機構の類同性・同型性によってアプリオリに保証され尽しているわけでは勿論ありえない。人は或る部面から共鳴の仕方をも「学習」しなければならない。だが、原基的・原初的な局面における「情動の学習」、つまり、対人的関係場面でおこなわれる“情動性経験”、これは共振・共鳴の機制を措いては成立し得まい。とすれば、新生児と母親との「カップリング」等々、表情感得・情動反応の原初的・原基的な階梯において既に見られる共振現象、これを説明しえんがためには生得的解発機構として共鳴的機構が一応本具的であると解するのほかはないであろう。この共鳴的解発機構は、後天的に陶冶され再調整されるにしても、共振を現成せしめる可能的な機構そのものとしては生体に本具的な振動機構の筈であり、それが他個体のそれとのあいだに錯構造的な連関態を形成するものと考えられる。」348-9P・・・宿題にしている「生得的解発機構として共鳴機構が一応本具的である」という提題は物象化ではないかという疑問の解?
(対話L)「われわれは、今やこの振動機構を勘案しつつ――といっても、生理・物理的機構なるものの認識論的・存在論的な権利・身分については、第一巻最終節で表明したごとき厳しい限界決定を施したうえでのことであるが――、対人的応答、そこにおける個体間の共振・共鳴的な同調の進捗、ひいてはまた、対抗的即応や模倣的協応の進展に即して、役割的行動・協働的営為の形成と展開を縦観しておく段である。」349P
第三段落――役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態としての共鳴的同調行動 349-53P
(対話@)「役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態として、共鳴的同調行動を先ず配視しておこう。」349P
(対話A)「「共鳴的同調」行動というのは、第三者的に観察・省察すれば二人(または以上)の当事者たちの行動が同型的・同調的であるケースのうち、当事者自身においては、少なくとも一方が、自分の行動と相手の行動との同型性・同調性を現識していないような行動の謂いである。――例えば母親のあやしかけの音声リズムに応じて嬰児が共振するとか新生児どうしの泣きの「伝染」とか(但し、もう少し大きくなった時点での嬰児のいわゆる「もらい泣き」は別)、このたぐいの現象においては、両当事者のいずれも行動の同型性・同調性を現識していない。また、ザゾやバウアーの報告している新生児の母親との同調運動のごときにあっては、当事者の一方がそれを現識していない。(なるほど、このような場合についても、第三者的見地から“信号送受”とか“模倣調整”とかを云々する語法もありえようが、しかし、著者としては次元的混淆を避けるべく、信号とか模倣とかを拙速に云為することは慎しみ、右に挙げたケースのごときはひとまず単なる「共鳴的同調行動」と呼ぶ。) ――但し、共鳴的同調行動は、少なくとも一者の側の行動が無意識的な行動である場合とは限らない。両当事者とも意識的に覚醒していても差支えない。唯、自他の行動様態の同型性・同調性ということを(少なくとも一方が)現識するに至っていないという限定なのである。」349-50P
(対話B)「惟えば、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)は、動物学的にみるとき多分に未熟なまま出生するので、生得的=本具的な解発機構のうち多くのものが一応の完成態に達する以前から胎外的環境に置かれる。が、早産性・未熟性の故に、人間(「ヒト」のルビ)の新生児は重厚な保護を受ける。このため、新生児にとっての環境は、他種の動物が生後まもなく内存在(「イン・ザイン」のルビ)関係に入るそれに比べて、対物的刺激に乏しく、新生児にとっての到来刺激のきわめて多くが母親(養育者)に由来する。人間(「ヒト」のルビ)の新生児は、未熟なるが故に長期の保育を必須とし、ために、他種の動物よりもはるかに長期にわたって、母親由来の対人的刺激を主斑とする場に置かれる。こうして母親の養育活動への応答的適応が生存の基本的条件をなす態勢に長期間おかれるということは、嬰児にとって対母親の同調的適応ができなければ生存・生育ができないということをも意味する。――この生存条件に応ずる“造化の妙”とも言うべきか、新生児は母親との著しい共振現象を呈し、この無意識的な同調的動作、例えば微笑をはじめとする表情が、母親の側の濃密な働きかけを解発する。その働きかけたるや、未熟早生なるが故の動物学的必須性という域を超えて、あやしかけや戯れかけ、模倣的反復などに及ぶ。」350P・・・母性の強調? 乳母制度などの対象化
(対話C)「乳児の側での共鳴的同調行動が、こうして一種の信号的機能を演じ、母親の側の過分な反応的働きかけを誘発するという事実、これは人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)という動物種における行動発達論の前提として銘記されてよい一事実であろう。」350P
(対話D)「偖、乳児が生後まもない時点から母親の声や顔面表情に対していちはやく呈する共振的・共鳴的な反応はおそらくまだ意識性を伴った反応ではあるまい。しかし、ともあれ、乳児は早くから母親の声ひいては人声のする方向に顔を向ける。」351P
(対話E)「この現象は、左右の耳から入来する音波の位相が合うように自動的に調整する機制、単純化して言えば、風向器(風見鶏)が左右両側に請ける風圧が等しくなる(均衡する)よう自動調整されるのと類比的な、謂うなれば生体物理学的な調整機構に因るものと考えられる。また、凝視対象を正中面内で把えようとする頭部・眼球の運動も同趣の機制に因るものと見做されうる。(尤も本具的解発機構が備っていても、励起状態になれば、解発刺激が到来したからといって自動的に一義的反応が発現するものではない。生体の反応は外来刺激の一価函数ではない。)これらの現象は、光波や音波の位相調整という機制に留目するかぎり、まさに左右から入来・伝播する振動の相同化と相即する。」351P
(対話F)「視覚と聴覚とは、しかも、早期から協応しており、母親の顔面部は、単なる可視対象でも、単なる音源でもなく、両者の融合したもの、すなわち、音源的可視対象とでも呼ぶべき相にある。――理屈を言い出せば、視覚・視野と聴覚・音声とは無関係であり、視界の内部に音(音源)が定位される謂われはなさそうに思える。しかし事実の問題として、乳児は母親の顔面(口唇部)とか、ガラガラとか、視覚的に現認している対象物から音声が発していること(そこが音源であること)を直截に覚知する。この事実を説明しえんがためには、ともかく、視覚と聴覚との間に協応の機構(おそらく条件反射バーン)が存在するものと推定せざるをえない。――この協応的機制は、一般化して謂えば、音を視覚的対象へと音源的に帰属させる機制であり、音源的交信を可能ならしめる基本的一条件として重要である。が、それ以前に、初歩的な表情感得・情動反応・協応動作の解発される場面においてすでに重要な機能を演じる。」351P・・・「障害者」と言われる者たちの知覚認識にも論及する必要
(対話G)「乳児は、母親の声がすると、自分が激しく泣いているような場合を別にすれば、母親の顔に視線を向ける。そこで母親の当の声は、右に誌した音源的帰属の機制によって、それの発せられたさいの母親の顔貌に帰属化される所以となる。ここにあっては、声も顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される。」351-2P
(対話H)「溯って、新生児は、頬をつつくと口許をほころばすとか、口の周りに指先や乳首で触れると吸いつくとか、こういう無条件反射を現出する。が、このたぐいの触覚的・力学的な直接的刺激だけでなく、また、苦(「にが」のルビ)い味のものが口に入ると吐き出すとか、物が急激に眼前に迫ってくると眼を閉じるとか、このたぐいの味覚性や視覚性の刺激だけでなく、音声も反射的な行動を解発する。或る日齢に達すると、先刻来くりかえし誌してきた母親の声のする方へ顔を向ける反射のほか、一定の音調での呼び掛けに応えて微笑するとか、大きな音が響くと驚愕して行動を停止するとか、このたぐいの、音声を解発刺激とする反射的反応もある。」352P
(対話I)「一見するとこれはいかにも「信号受信−信号解読」にもとづく反応行動のように見えるにせよ、少なくとも原初的な場面では、生得的にビルト・インされている解発機構の発動による無条件反射と解さねばなるまい。反射とはいっても、無論、それは蛇口を捻ると水が噴出するというような単純な眼メカニズムによるものではなく、それなりに複雑な機構での連鎖的反応の帰結であるには違いない。が、適応刺激という鍵の挿入によって生得的機構の錠が開かれたともいうべき機制の域をいくばくも出ないものと言えよう。――尤も、皮膚への力学的刺激は延髄まで達したところで直ちに遠心的過程が発動されるのにひきかえ、音声刺激は大脳過程を介するという点で位階的差異を認めるべきかもしれない。だが、そうだとしても、ハード・ウェアもソフト・ウェアも、本具的なままのもので反応行動が発露するという点では、音声的刺激による解発反応のうちの原基的な位層も、やはり同工異曲と言えるのではないか。――乳児が、産院などでお互いに近くに居る時に、一人が泣き出すと他の者も共鳴的に泣き出す「伝染現象」が知られているが、これなどはさしづめ音声刺激によって共鳴的に解発(「アウスレーゼン」のルビ)される反射的行動と見做される。」352P ・・・宿題の核心?
(対話J)「嬰児は、以上いくつかの例を交えながら挿絵風に描出(「イラストレイト」のルビ)してきたように、生得的な解発機構を基底にして、各種の無条件反射を呈する。が、そのさい、視覚と聴覚との協応に限らず、一般には、有機感覚や触覚などをも含めてsensory cross-modal-matchingの機制に負う、かなり複雑な「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)反応を現出させる。その一斑として、ザゾやバウアーの報告している現象のような共振的同調や、母親の微笑表情に対する微笑(「ほほえみ」のルビ)返しなどの共鳴的同調が現成する。人間(「ヒト」のルビ)の行動発達の初期位相における母子間の共鳴・同調現象については、小林登・石井威望氏等の共同研究など、近年の我邦において瞠目すべき研究成果が蓄積されているが、ここでは共鳴的同調現象の発達を詳細に辿るには及ばないであろう。――」353P・・・動物としての規定性の強調?−「本能を喪失した動物」規定との関係?
(対話K)「当座の論脈においては、信号的送受や模倣的協応の前梯として、共鳴的同調という態勢が存在するという事実を銘記し、表情性感得と相即的に現出する共鳴的同調という共振的現象こそが新生児における対人的供応の原基形態であることを確認しておけば足りる。」353P
第四段落――信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面 353-7P
(対話@)「対人的共振と言い、共鳴的同調と言っても、それは同時位相で現成するものとは限らない。われわれは時差を隔てた同調現象(遅延模倣など)をも配視する必要があり、また変形された同型対応をも勘案する必要がある。ここでは同型的行動のプリミティヴな形態に即して「自他の行動の同型性」の対自化に関わる問題構制の一端を再確認したうえで、信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面に目を向ける運びとしよう。」353P・・・いわゆる「遺伝」の問題も押さえる
(対話A)「嚮に第一篇第二章第一節の行文中で援用した久保田正人氏の報告を想起して頂きたい。六ヶ月児g男は他人がレモンを舐める情景を目撃して直截に酸っぱそうな顔をしたのであったが、そのさい彼は以前に自分が舐めた折りの情景を想起的に覚識したわけではあるまい。この局面では、射映的情景を<舐める>という所識態で覚知するといっても、舐める行動なるものが概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)されるにはまだ程遠い域にとどまっていると想われる。が、レモンの視覚刺激と味覚刺激とを含む全体的刺激が酸っぱい顔の反応を最初に解発したのだとしても、レモンの視覚刺激だけで条件刺激になっているわけではない。g男は、おそらく、あのレモンに他の物体が接触するのを目撃したとしても、それだけではやはり酸っぱい顔はしないことであろう。酸っぱい顔を解発する“条件刺激”たるためには、レモンに接触するのが特有の姿のものであり、しかも、接触する仕方が特有な様式であることを要すると想われる。とすれば、<舐める>というゲシュタルト的所識態は、少なくとも、特有な姿のものの特有な仕方での接触を含意している。そして、姿態や仕方は、自分が舐める場合と他人が舐める場合とでは、射映的な相貌が甚しく相違するにもかかわらず、それら相異する射映的与件が<同一の所識態>で覚識される次第なのである。」353-4P
(対話B)「ここでの同一視は、おそらくアン・ジッヒであって、あれとこれとを自覚的に比較して確認する同一視ではない。さりとて、しかし、実験者の側は別段すっぱそうな顔はしなかったのであるから、それは決して表情的共振・共鳴といった、専ら第三者的にのみ観察される同一性ではない。アン・ジッヒではあれ、ここでの“同一視”はフェア・エスな事態の筈である。(今茲では生理学的な機制の推定には立入らないが、身心関係に関して前篇このかたわれわれが妥協的・暫定的に托している仮設に則れば、ともあれ如上の“同一視”を“随伴”するごとき身体生理的機制が成立するに至っているものと考えられる。そして、射映的相貌の異なる自・他の舐める行動という与件を<同一のゲシュタルト的所識態>で覚知するという二肢的二重性の構制がそこに存立し、この二肢的構制を可能性の条件としてg男の同型的反応が現成する。)」354P
(対話C)「単なる共鳴的・共振的な同調反応の域を超えた斯かる“同型的反応”の高次的形態として、発達心理学に謂う「延滞模倣」のごときも成立するが、さしあたっては信号的送受活動のプリミティヴな形態が見られる。今や信号的送受という対人共応(役割的協働)の原基的構制を論件とする段である。」354P
(対話D)「「信号送受」活動の初期的段階にあっては、「信号」「送信」「受信」といってもフェア・ウンスな規定であって、当事者自身においてはアン・ジッヒでよい。が、われわれとしては「信号(「シグナル」のルビ)」と「象徴(「シンボル」のルビ)」とはひとまず別種であることに留意して掛らねばならない。」355P
(対話E)「「信号」は、初等的には「象徴」以前的に、「無条件刺激−無条件反応」の解発の場面に根差す。一者によって呈示され他者によって知覚的に現認される所与的現相が、少なくともフェア・ウンスにはコード性を以って、他者の側に一定の反応行動を解発(「アウスレーゼン」のルビ)するとき、当の呈示現相を「信号」と呼ぶ。(「象徴(「シンボル」のルビ)」について、また「信号的結合」と「象徴的結合」との別などについては前篇第三章第一節を参看されたい。より詳しくは、別著『表情』の第三章第三節、および、別稿「記号論の哲学的次元」[丸山圭三郎氏との共著『記号的世界と物象化』所収]を参照頂き度いと念う。)」355P
(対話F)「発信・受信にはきわめて高度の意識性を伴う水準のこともあるが、われわれとしては最低を次のレヴェルに置く。――「発信とは、当事者が自分の為(「な」のルビ)している行動を能動的覚識を伴って調整しつつ、或る現相の出現を期待している事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、期待されている当の現相の出現が発信者とは別の能知能動的な主体の受信に縁る応答活動の所業であるケースの謂いである。われわれとしては、当事者の期待している現相が他主体の所業であることを当事者本人がフェア・ジッヒに意識しているような発信だけでなく、他主体の所業という認知的意識性はまだ欠けているようなレヴェルの発信をも認めようというわけである。(但し、唯単なる予期的・期待的な行動一般から区別する条件として、フェア・ウンスには見た場合の対他者的構制を種差的に導入していることに留意されたい。) ――「受信」の側についても、われわれはこれまた、信号の意識性を十全には伴わぬレヴェルから認める。所与現相の知覚的認知と相即的に一定の行動が解発される事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、(所与現相と解発行動とのあいだに少なくともフェア・ウンスにはコード的対応性があるという意味で「一定の」と右に記し、このことによって「能起−所起」関係を含意しているので、このことはあらためて述べないことにして)、当の所与現相が、被解発的行動者とは別の主体の身体的現象ないしその別主体に発源的に帰属する現象である場合、「受信」と謂う。この定義にあっては、単なる事物によって解発される行動は受信行動とは呼ばず、少なくともフェア・ウンスには、発信者が主体的存在者と認められる場合に限って、そこでコード的対応性を以って解発される行動を受信行動と呼ぶ(但し、われわれの定義では、発信者が発信の意識を自覚的に伴わぬ場合を含める形になっていることに注意されたい。)尚、「所与現相の知覚的認知と即応的に一定の行動が解発される事態のうち……」と上記したさい、「知覚的認知」が要件であって無意識的反射は除外されていること、「即応的に」であって“自覚的理由として”とか“惹起的原因として”とかではないこと、この点にも留意を願い度いと念う。」355-6P
(対話G)「さて、「発信−受信」という役割的協働行動は、発生論的・発達論的には、共鳴的同調行動から連続的に展開する。「発信」は、原初的には、空腹での渇望的に泣くとか、排泄後の不快時に泣くとか、こういう無意図的な、言うなれば自動的な生体的反応が偶々(「たまたま」のルビ)現出したところ、それが(母親の側の生得的解発機構に対する解発刺戟となって)一定の現相を出現せしめる体験、これに縁(「よ」のルビ)って成立するようになる。やがては、声を出すと、あの顔(母親)が現出するとか、両腕を差伸べると抱き上げせれるとか、このような体験にもとづいた信号活動も形成される。ここでの「発信行動−期待実現」は、心理学に謂うオペラント条件づけに照応するであろう。――オペラント条件反応はパブロフ型の古典的な条件反応と、神経生理学的な基本的既成すなわち新回路(「パーン」のルビ)の開通という機制では本質的に同一であるにしても、区別を要する。古典的条件反射の場合、先ず受動的に無条件刺激が与えられて(これに引続き報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられて)そこで一定の条件づけられた反応が成立する。それにひきかえ、先ず偶然的に或る能動的な行動が生起したのに引続いて、報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられる体験、これに縁って(一定のポジティヴな与件の出現を期待して、ないしは、ネガティヴな与件の回避を期待して)或る一定の行動がおこなわれるようになる条件反応がオペラント条件反応である。――このさいの、能起的行動と所起的現相とのコード的対応関係、これの一定性は、原基的には、上述したように、当の能起的行動が母親の側の生得的解発機構を解発する。生理機構上の反応的一定性に因る。また、当の行動と所期的現相との期待的連結は、体験的過去における「当の行動→当の現相出現」の記憶的パーンの励起に負うものと想われる。嬰児の側について言えば、原初的には、まずこのような準位での発信的行動が成立する。」356-7P・・・母性本能がビルトインされているという構図 ?
(対話H)「「受信」活動は、嬰児の側に即して言えば、無条件反射および古典的条件反射において端初的に形成される。嬰児の意識態においては、表情感得プロパー、すなわち「情緒価と協応価とを内自化せる知覚的現認」一般に応じて、“受信”的な行動が発現する。嬰児にとっての環界内的現相は悉く表情価を帯び、その内自的契機としての“信号価”を帯びている。このかぎりでは“発信”体が事物であるか動物や他人であるかは選ぶところがない。そこには、単なる共鳴的同調のケースも含まれうる。但し、われわれとしては、前記の通り、「信号送受的活動」従って「受診」という概念を、右よりも狭く定義し、少なくともフェア・ウンスに、能起的所与現相が「被解発的行動者とは別の主体の身体現象、ないし、その別主体に発源的に帰属する現象」であると認められる場合に限って「受信」というテクニカルタームを用いる。われわれのこの用語法に則るとき、嬰児が原初的な場面で「受信」するのは、当初は殆んど(註)専ら、母親の表情現象である。(既述の通り、母親の発する音声も、生後ほどない時点で、母親の顔面的表情に内自化され易い。)そして、嬰児の側における受信的な反応行動も、これまた、当初は殆んど専ら表情的現象である。笑顔に対する喜びの表情反応、穏かな表情に対する安堵の表情反応、心配顔に対する不安の表情反応、等々。――だが、これらの表情的な共振的同調には限らない。われわれの定義からすれば、嬰児の側が母親の表情を感得するという意識態において表情感得と相即的に呈する行動はすべて「受診」的反応活動に算入されうる。」357P
(註) ここは「始んど」になっていたのですが、「殆んど」の誤植と想われます。
第五段落――威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいを押さえる 358-61P
(対話@)「信号的活動の段階的な発展を跡づけ、交信的行動の進展を主題的に論じようとするさいには、発声や視線への追随という言語的記号活動の前梯も重要な論件となるが、われわれの当面の関心からすれば、威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいが茲で特筆されねばならない。」358P
(対話A)「乳児は母親が独得の音質と抑揚を以って鋭く発音する或る種の音声(ダメッ! メェー、等)によって行動を停止する。これは、原初的には、突然響いて来た大きな音に驚愕(「びっくり」のルビ)するだけのことかもしれない。がしかし、このさいの驚愕(「きょうがく」のルビ)的事態というのは、第三者的に見れば、乳児の側が一定の情動的興奮と相即的にその折りの身体的行動を停止する所以のものとなっており、母親の発した声が乳児の行動を抑止する機能を演ずる所以となっている。第三者的に言えば、母親の発した独得のその音声が乳児に行動を停止される信号となっているわけである。まずは、ともあれ、このような次元で、音声が反射的反応行動を解発しうる。そして、この音声は、先述した視覚的対象への音源的帰属の機制によってその折りにおける母親の顔貌に内自化されがちである。」358P
(対話B)「聴覚と視覚とが協応して顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される母親の声が乳児の情動的興発や反射的行動を解発するこの機制は、何も驚愕と停止だけに限られてはいない。独得の質態・度量・趨勢値の音声はそれに応じた幾種かの基礎的な反応行動を解発しうる。しかもそのような声は、母親の顔貌と融合するばかりでなく、むしろそれ以前に、母親の抱き具合の変化などに照応する種々な触覚性体感とも未分化的に融合しているのが普通である。人間(「ヒト」のルビ)の場合、胎内期から既に音声的分節化が或る程度までは既に進行していると言われるが、生後に感受される音声は、触感性の体感や母親の顔貌とコングロマリットを成した相で分化や汎化が進展するすると考えても大過ないであろう。まさに、表情的現認相・情緒価・協応価の融合的全一態を基底にしての分化・汎化である。――ここに心理学者流の詞を用いればクロス・モーダル・マッチングが形成されており、そのため、例えば警声というように、生得的な解発機構・無条件反射機構それ自体としては「音刺激→一定様式の斯々の反応」がビルト・インされているものであっても、協応的シェマの成立している他種の刺激感覚、例えば顔貌視知覚によって当の行動が解発されることも可能となる。この例で言えば、つまり、顔貌視知覚が条件刺激となって、生得的機制としては元来警声に応ずる筈の反射行動が、一種の条件反応として解発されるといった事態が生じうることになる。このさい、しかも、当の条件刺激たる顔貌の質態相・度量相の分化が、それは元々単独の視覚相ではなく、上述のコングロマリットの分化であるがゆえに、非常に精緻なものになりうる。」358-9P
(対話C)「乳児が分節的に知覚する母親の顔面表情は音声や触覚的体感と融合しているのが常態であるにしても、顔貌の或る種の視覚性刺激それ自身も信号価を有ちうる。なるほど、相貌的視覚性の刺激が乳児に一定の行動を触発する場合、上述の協応的シェマのもとで条件づけられた反射であって、無条件反射でないように考えられ易い。実際、表情的顔貌に対する反応には、広義の学習にもとづくもの、しかもオペラント条件づけにもとづくものが圧倒的に多いことであろう。しかしながら、相貌的視覚性の刺激を解発刺激とするたぐいの生得的解発機構が存在することには疑いを容れない。そして、動物実験心理学の知見(威嚇表情→恐怖反応)からすれば、顔貌という知覚的刺激が、それ単独で一定の情動的反応・共応的行動を解発しうる場合が厳存する。」359P・・・「障害者」と規定されるひとたちの生得的解発機構を考えること
(対話D)「顔貌的に感知される(他者の顔面から発する)視覚性刺激が解発する反射的行動のうちには言語的記号活動との関連で格別に重要な「視線の読み」「視線の追い」もある。これは、顔貌的に呈示される表情的与件が特定の共応的行動を解発する信号(「シグナル」のルビ)として機能するという部面でも重大な一現象であり、間主体的な協応的行動の陶冶的形成にとっても重要な基礎的一機制をなす。今茲では、視線の読みということがもつ生物学的な意義や、それが動物学的にみてどの範囲まで認められるかといった方面には立入らぬが、視線の読みは、視線単独の認知ではなく、それは顔面表情(時によっては全身的な身振・態度)の全体的感知の一成分をなしていること、この点を銘記しておきたい。」359-60P
(対話E)「われわれは、以上で、表情現象と密接に関連性をもつと想われる生得的解発機構による信号送受にアクセントを置いて一端を見てきた。動物の、従って/況んや、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の、情動的反応・共応的行動は、しかし、言うまでもなくその悉くが生得的な反射的解発ではない。生得的解発機構を基底的な存在条件としつつ、そこには条件的反応が後天的に加わり、これが生得的反応をも修整する。――条件反応の形成が広義の「学習」にほかならないわけであるが、この誘因的(incentive)刺激は、事物的与件に由来するものも勿論ありはするにせよ、動物的他個体(わけても同種の他個体、さしあたっては就中養育者たる母親)に因由する信号的刺激が圧倒的であり、亦、重要である。間主体的な協応がアン・ジッヒに現成して行くのも、生得的解発機制を前梯とする無自覚・自覚的な学習、すなわち、条件反応の重畳を通じてのことである。――乳幼児の側における信号受信的学習(養育者の側から言えば信号発信的教育)、これが行動のサンクショナルな規制の可能的機制であることは殊更に指摘するまでもなく容易に諒解されよう。」360P
(対話F)「行動発達論的な追跡が主題的に試みられる際には、右に謂う語の広義における「教育−学習」(これは役割的協働の重要な一定在形態でもある)の具体相の討究が図られねばならない。亦、われわれが爰でそれの端初的・初次的な局面に止目した信号的送受という活動についても、以後的な発展を辿り、言語的活動(さしあたってはいわゆる言語習得)をも論件とし、信号と象徴(熊野純彦氏に俟てばシグナル・シンプトン・シンボル)の記号論的な区別と連関を配視しつつ、信号活動と象徴活動との成立と相互媒介の問題などを論攷する課題を負う。このことを承知してはいるが、爰では協働の基本的存立構制、わけても間主体的共応の存在構造の対自化に主眼を置いているので(この論脈に属しながらも前篇から宿題として持越した論点に関わる限りで発生論上の幾つかの必須的論件にコミットするに止め)、発達論上の周到は期さないことにする。(この論件については、これまた不十全であるとはいえ、別稿「役割理論の再構築のために」第二章第二節の第二・第三項、別著『表情』第三章第三節などを参看いただければ幸いである。) ――以下では慌しく「模倣的協応」という協働の存立構造にとって直截に重要な論件に当座の主題を移すことを許されたいと念う。」360P
第六段落――模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制の分析 361-7P
(対話@)「先に一瞥した「共鳴的(共振的)同調」からの発達論的連続において模倣行動の発生を見定めたうえで、模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制を分析する運びにすることがここでの課題である。が、論者のありうべき疑義を防遏する含みで、事前に若干言を費しておくべきかもしれない。」361P
(対話A)「「模倣」が、協働の成立にとって、一般に社会的行動の形成にとって、極めて重要な機制であることは誰しも否定しないであろう。だが、学説史上、社会学的にも心理学的にも、模倣の位置づけをめぐっては、議論が岐れる。――周知の通り、模倣の法則を社会理論の基幹に据えたG・タルドの立場に対してE・デュルケームとその学派が厳しく批判し、一旦はタルド派を奢(おご)った看があった。G・H・ミードも亦、或る特殊な文脈においてではあるが、彼の時代に有力であった模倣を説明原理とする心理学上の理説を卻けている。近くはK・ホールやM・ゴスウェルが猿の行動発達に関して、動物心理学の方向における模倣説を批判するに及んでいる。――著者は、素より、模倣行動を社会的行為の基本形態に据える存念はない。がしかし、往時の模倣説が“粉砕”されたという形式的史実に跼蹐(きょくせき)することなく、事実として重要な模倣という行動形態にあらためて留目の要があると考える。今日では、嘗(「か」のルビ)つての論者たちのように自発的・自覚的な主体性を前提する構図のもとに行動形態の模倣的学習をもっぱら想定したり、或いは逆に亦、模倣本能なるものを前提として学習をことごとく模倣に還元する流儀で処理することは、無論もはや論外である。模倣は、決して、実体的個体の“知性的に自発的な行為”でもなければ、“本能的に自動的な行動”でもない。模倣的な動作は、対他者的な関係場において解発(「アウスレーゼン」のルビ)されるものであって、共振的同調現象と連続的であり、高次的形態にあってさえ一種の深層催眠的拘束の機制に俟つものであって、実体的内発性の発露ではない。とはいえ、模倣行動は、いわゆる自我形成の現場的階梯に存し、自覚的役割行動の形成過程とも相即する。けだし、これの討究を逸しえない所以である。」361-2P
(対話B)「偖、「模倣」という言葉は、日常的にも学理的にも広狭多義的に用いられ、単なる共鳴的同調や単なる追随行動のごときをも、第三者的にみて同型性・同調性が看取されさえすれば、直ちに「真似」「模倣」と呼ばれることもある。がしかし、著者としては、単なる「共鳴的同調行動」と「模倣的調整行為」とを区別して扱う。」362P
(対話C)「定義的に誌せば、模倣的調整行為とは、当事者たちのうち少なくとも一方が、相手の行動と自分の行動とが同型的になるよう、自分の行動を意識性を伴って調整している行為である。――この暫定的“定義”からすれば、例えば、母親の側が乳幼児の側の行動(発声、表情的顔貌、仕草などを含む広義の行動)を一方的に真似る場合も模倣的調整行為の一形態として含まれうる。行動発達論上の事実問題として、このたぐいの共鳴的・共振的事態、一種の教育的な働きかけを機縁にして乳幼児の側の自覚的模倣が大いに進捗する。――議論を進めるに方(「あた」のルビ)っては、しかし、母親の側さえ同型性の意識や同型化の意思を有せぬ場面での共鳴現象や追随現象から連続的に視野に収めねばなるまい。」362P
(対話D)「模倣は、各種の追随的・共時的な同調的反応を前梯とし、その共時的追随動作の過程で、例えば、意識性を伴った微笑とか、“良(「い」のルビ)イオ顔”とか“オツムテンテン”とか、このだくいの調整行動になってようやく現成するものと思われる。が、共時的な模倣であるかぎり、単なる共振的・追随的な動作であるのか、意識的な調整に因る模倣であるのか、判別をつけ難い。その点、いわゆる延滞模倣ともなれば、これまた半自動的な追随と目されうる初等的階梯がありうるとしても、嚮に定義した模倣の域に達している場合が多いものと認められよう。」362P
(対話E)「われわれが前篇のかた援用しているg男との関連で久保田正人氏の方来しておられるf女の事例が当面の行論にとって好便である。」362-3P
(対話F)「「百二十一日目のf女に次のことがあった。母親が歌をうたいながらベッドの柵(「さく」のルビ)を軽く叩いてやっていると、子供は母親を見て笑っていたが、やがて母親をじっと見つめはじめた。歌がおわると、子どもは独りで、母親のほうは見ずに、その歌のメロディーの一部を、うたいはじめた。……七ヶ月以後のf女は、大人がやっている掃除とか布団たたみとかをじっと見ていて、あとでそれに似たことを独りでやっている、ということが目につくようになった。//このような模倣にとって、手本と子どもとが日ごろ愛情で結ばれていることはひとつの有利な条件だと思われるが、このような条件がなくても、模倣は大変広範に起こっているのである。動作のまね、発声のまね、といわれることは、日ごろ個人的なつきあいのない動物同士、それも種類のちがう動物の間でも起こる。動物園ではその例が多い。ジャンプをしないと思われていたオランウータンが、チンパンジーの動作を見ているうちに、ジャンプをした、という観察もある」(前掲書、一九五頁以下)。」363P
(対話G)「ここに大いなる疑問が却って湧き起こる。一体、人間(「ヒト」のルビ)にせよ動物にせよ、その場面の模倣行動にこれといった生物学的意義はなさそうに思えるのに、何故そのような模倣行動をおこなうのか? 生得的解発機構が適応刺激によって発動されたものとも思えないし、他個体によって強制された様子もみられない。それにもかかわらず、何故、“遊び”に類する模倣行動が出来(「しゅったい」のルビ)するのか? 省みれば、学説史上、「尊敬にもとづく追従」説や「模倣本能」説が唱えられたのも、模倣行動の動機や発生機構が不可解だったことを一因としてのことであったと思われる。――群棲動物には仲間の行動を模倣する傾動が生得的であると言えば、そのとたんに本能説になってしまう。――」363P
(対話H)「この一大難問に正面から普遍的・一般的に回答を試みることは姑く断念して、まずは、模倣という与件事実そのものの構制を分析しておこう。この作業に当っては、Fort-da,peek-a-boo(いない、いない、バー)を論材にするのが後論との関係からもわれわれにとって便利である。」363-4P
(対話I)「「いない、いない、バー」は、なるほど、単なる共鳴的同調行動の域を超えたものであることは確かだとしても、当初から果たしてわれわれの定義する意味での「模倣的調整」行為であるかどうかは疑われうる。それは、「オスワリ! 」や「オ手!」を犬が条件づけられる流儀で、大人が手をとって仕向ける強制によって、受動的に条件づけられたものであろう。そして、大人の側がいないいないと言って眼を手で覆う仕草や発声は、初めのうちはたかだか条件刺激であり、嬰児の反応が条件反射にすぎないとすれば、それは初次的な信号送受的な活動ではあっても、到底まだ模倣的調整行為とは呼べない域に止まる。(いわゆる「遣り取りゲーム」すなわち「オ頂戴遊ビ」も、当初には、ほぼ同様であろう。)しかしながら、嬰児が、眼を瞑ったまま反射的・機械的に顔を手で覆ったり手を放したりする段階をすぎて、指の間から盗み見をしながら、相手の動作と位相・タイミングを合わせて「イナイイナイ・イナイイナイ・バー」をするようになっている局面では、明確に、われわれの謂う「模倣的調整」の階梯に達していると言えよう。」364P
(対話J)「乳幼児の側での模倣的調整行為が形成されるためには、それに先行する信号的活動の或る階梯で準備・形成される幾つかの機制が前提的要件をなす。第一に、ディスポジショナルな予期的知覚(予期的表象の籠った知覚、ともいうべきもの)の形成である。すなわち、現前する知覚的現相がどのように推移的に変貌していくかの趨向予見的知覚が成立していることである。予見・予期といっても、無論、それは遠い将来に関わる想像ではなく、謂うなれば、メロディ的知覚とでもいった時間性ゲシュタルト覚知である。(予期的知覚という稍々奇異に響きかねない表現を執る所以でもあるが、聴き慣れたメロディの頭初部が現出したさい、後続部が、表象的に分離して泛かぶのではなく、謂うなれば補完的融合相で予期的に現識される。或る種の既成的理論の見地においては、知覚は現在的感覚であり、予期は想像的表象である、とされ、予期が可能になっているのは、過去における継起的進展相の記憶が蓄積されているからだ、とされることであろう。なるほど、記憶的バーンが励起されていることは確かであろうし、予期的未来相が感覚的所与でないことは確かである。だがしかし、体験相の如実態を記述しようとすれば、メロディの頭初部に接した場合などに体験されるような“予期的知覚”とでも表現するのほかのないことは、読者の諒解を得られることかと念う。――茲では、フッサールの謂うProtention (未来志向)との異同は論(「あげつ」のルビ)らわないでおく。)「いない、いない、バー」などにおいてはまさにそのような“予期的知覚”が体験される。が、ディスポジショナルな予期的知覚、予料(「アンティツィパチオン」のルビ)というものは、何も対人的な信号活動的場面での期待だけに限られるものではない。運動・変化の推移を見慣れた物的現象に接する場面でもそれは成立する。この予料、予期的知覚ということが模倣的調整行為の可能性の条件として真先に挙げられねばなるまい。第二には、他個体がよしんば全身的個体相ではないまでも一応の“個体相”で分節化していること、第三に、乳幼児自身が、到底全身像でこそなけれ、皮膚的界面性において分節化されるようになっており、しかも、それの若干の部位とそこでの動作が、他個体における部位や動作と「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的な対応相で現識されるようになっていること。最低限、以上の三契機が前提的要件をなすであろう。――第二および第三の契機の形成については既に前篇の行論中で稍々先廻りするかたちで見ておいたので、ここでは、第一の契機に止目しつつ、模倣的調整の意識態勢を見定める段としよう。」364-5P
(対話K)「「いない、いない、バー」など、われわれの謂う稍々狭義の「模倣行為」のうちでの原基的階梯にあっては、嬰児が眼前に居る他人の身体的動作(発声を含む)をVorbild (眼前像=お手本)にしながら、それと同型的になるように自身の身体的動作を調整する。この同型化の意図的意識性を伴った行為は、しかも、ディスポジショナルな予期的知覚相に即応しておこなわれるのであって、Vorbildは必ずしも現在的知覚ではなく、むしろ予期位相になってくる。」365P
(対話L)「こうなると、やがて、予期的知覚が分化して、現在的知覚予見相を予兆とする予期的表象像が別に泛かび、むしろこの予期的な表象像がVorbild (先導像)になる。ここでは、他人の行動(表情や態度や発声を含む)の現在的知覚相と現相的予見が、@それに引続いて生ずることの予料される相手自身の将来的行動の「兆候」、A時によっては、この身の現出する所作の「信号(「シグナル」のルビ)」となりうるばかりでなく、B予期的にvorbilden(先行形成)されるVorstellungsbild(表象像)の「象徴(「シンボル」のルビ)」ともなり始めうる。(正確には、「象徴」的記号性予見の指し表わす<意味>は、単なる表象像とか知覚像とかいったレアールな現相ではなく、“イデアールな”所識態である。この所識態は、「現与の知覚現相」と「予期的に泛かぶ表象像」という両つの射映的現相予見が偕(とも)にそれとして覚知される意味的所識である。「信号」性記号予見の<意味>についても、それが認知されるかぎり、同趣の構制が存立する。が、いまここでは、恰かも予料的に泛かぶ表象像がそのまま意味であるかのような取扱いで暫く議論を運んでおく。尚、「目標」表象へ通ずる「予期的に泛かぶ表象像」は、<意味的所識>性ばかりでなく、「目的」という<意義的価値>性をも帯びるのであるが、この件にも今は立入らないでおく。)」365-6P
(対話M)「他人の身体的行動をVorbild としながら、そして、しかも、他人の身体的行動のディスポジショナルな推移相の予期的知覚を泛かべながら、自分の身体的行動をそれと即応的に同型化させる模倣的調整行為は、イナイイナイ・バーのごとき低位の階梯から、多階的に多様な発達を遂げる。――((註)茲は発達過程を順次的に追う場ではないが、次のことが銘記されねばなるまい。立つ・歩く・食う・着るの如き行動からして模倣的調整を介して甫めて成る。論者によっては、立つ・歩く・食うの如きは“本能の発露”であって、模倣的調整の成果ではないと考えるかもしれない。だが、狼少年たちを想ってみるがよい。彼らは四足で這っていたのではなかったか。ヒトには直立・歩行の“本能的”傾動がビルト・インされているとしても、それが発揮・実現されるためには模倣的学習が必要なのである。食うとか飲むとかいう行動すら何を如何なる行動様式で……ということになれば、ヒトの場合、模倣的学習に俟つところ大である。本能的自然のままなら当然吐き出す筈の物を嗜好したり、箸や匙で一定のマナーで食べたり、これは模倣的学習の結果以外のなにものでもありえない。立つ姿勢(「ポーズ」のルビ)、寝る姿勢、歩き方、食べ方、着方……表情の作り方……から、箸の上げ下げに至るまで、ヒトは悉く模倣的に学習する。そして、また、言語活動! 幼児の行動様式は殆んどすべてが模倣的学習によって身につけたものと言っても過言ではあるまい。) ――幼児の発達過程は、やがて、「オ遊戯」「グループ踊り」のごときを経て、相手がランダムに突如呈する身体的動作に追従する高位のものまで、多岐多階にわたる模倣的協応を現成せしめる。」366-7P・・・「生得的表情感得」ということを巡る「宿題」はフェミニズムからする「母性本能」ということへの批判というところからのわたしの反差別論的論考となっているのですが、ここまでの廣松さんの論攷で解けているのでしょうか?
(註) ‘(’が落ちています。最初の‘――’と最後の‘――’での‘( )’でここで落ちつくのではないかと。
(対話N)「慧眼な読者は、嬰児が、他人への行動相をVorbild としつつ、自身をそれと同型的に調整、行動する場面において逸早く“目標の実現に向けて自身を調整的に動かす”構制(目標実現型行為の構制)が存立することを、看取されるであろう。謂う所の“予期的知覚”が分化して、現在的知覚相とは別に予期的な表象像が泛かぶようになる局面では、予期的表象像は、企投的・内発的に創像したものでこそなけれ、“企投的目標像”に類するものとなっており、それが他人と自分との“共通目標”をなすことに徴すれば、そこでの模倣行為は第三者的にみれば、一種の“共通目標を目指す協同的行為”の構制を示す。」367P
(対話O)「人はここで直ちに模倣行動の次なる発達段階へと議論を進め、ゴッコ遊ビに基づく役割的協働の存立構造を分析する途に就くこともできる。がしかし、われわれとしては、ゴッコという発達段階については後に規則(「ルール」のルビ)・規範(「ノルム」のルビ)に則った行動(いわゆる“規則の習得”や“規範への随順”)を論件とする場面(次章第二節)まで持越すことにし、次には模倣とは別類型の或る基礎的な行為類型(対抗的即応)を配視しておきたいと念う。」367P
第七段落――「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢の勘考 367-71P
(対話@)「社会的行動の形成・発達を論攷するにあたっては、模倣的協応と密接不可分の行動形態として、「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢を勘考しなければならない。対抗的即応は外形的には一種の延滞的模倣の看を呈する部面を含むとしても――そしてこのために、発達心理学においてはとかくこれも模倣的動作に繰り込んで論じられる例が多いのではあるが――われわれの観るところ、発生論的にはむしろ別系統の起源と意義を有つものである。」367P
(対話A)「人がもし、「対抗的即応」の原基的階梯における典型として、「遣り取りゲーム」(オ頂戴遊ビ)のごときものを考え、それを「与える動作」と「受け取る動作」とに分解してしまうとすれば、その場合にはなるほど「模倣」と見做されるのも道理である。著者としても、このような分析的規定が顚(「てん」のルビ)から誤りだと言うつもりはない。がしかし、「遣り取り」ですら単なる時相のズレた模倣ではない。お頂戴といってあちらが手を出しているとき、こちらも頂戴の手を出したのでは勿論不可であるが、単に一呼吸おいて遅滞的に頂戴の手を出したのでも不可である。これでは、模倣的追随ではあっても、遣り取りにはならない。相手の「与える動作」に対しては自分は「受取る動作」、相手の「受取る動作」に対しては自分の「与える動作」という、相補的に適合的な即応的動作(このケースでは模倣の場合とは異なった、相手のそれとは非同型的な動作)で自身を調整することが要件である。このような相補的・即応的な対抗的行動という点で、それは模倣的同型化とは別種の行動態勢と言わねばならない。なるほど、模倣的同型化も相補的・即応的という点では同類と言われうるにせよ、種差的相違を見落としてはなるまい。」368P
(対話B)「惟えば、模倣的協応は或る種の共鳴的同調・追随的同調という前梯を有ち、発生論的にはその前階梯から連続的であるが、片や意識的な対抗的即応も意図的調整以前的な反応行動を前梯に有ち、発生論的にはそれら前階梯から連続的である。――われわれの謂う「対抗的即応」は、必ずしも敵対的とは限らず、友好的なものを含む。だがしかし、生物学的意義や機能からみるとき、母子間や胞輩間や異性間の友好的即応と、天敵や餌食や同種他個体に対する敵対的即応との、両義性を有つものと思われる。そして、いずれにせよ、「対抗的即応」と「模倣的協応」とは、系譜的にも構造的には、並行的・同位的ではなく、交錯する。従って亦、対抗的即応という概念と模倣的協応という概念とは、単純な上下関係にも単純な同位関係もなく、外延的にも内包的にも複雑に交錯する。」368P
(対話C)「今ここで対抗的即応という意識的調整の前史から辿り返す趣意はないが、嚮にはもっぱら友好的な同調として模倣的協応の先駆のように取扱った新生児の共振的・共鳴的な反応のうちの或る種のもの、例えば、母親が口をパクパクさせるのに即応して新生児が口をパクパクさせる反応のごときは、模倣的追随・同調だと思って喜んでいる母親には気の毒ながら、存外と敵対的即応かもしれない。すなわち、大口を開けて噛みつこうとしている相手に、自分の側でも噛みつく態勢で“本能的に”即応しているのかもしれないのである! この恐ろしい可能性は措くとして、先に信号的送受活動という視角で扱った行動は対抗的即応の構図になっており、原初的にはもちろん意識的調整ではないにせよ、かなりの早期から意識性を伴った調整的即応の準位に達しているものと思われる。母親の授乳行動に対する嬰児の側での即応的調整はかなり早くから単なる条件反射の域を脱しているように見受けられるし、抱き上げられるさい両腕を伸ばして抱きつく反応、ひいては、抱く人が交替するような場合、身を乗り出して移動の態勢をとる行動など、意識性・意図性を伴った調整による対抗的即応の萌芽がいちはやく成立しているのではないかと考えられる。」368-9P
(対話D)「時に、意識的・意図的に調整する対抗的行動なるものを、睨むとか身構えるとかの次元での即応まで拡張するとすれば、対抗的即応の前史ならざる本史が非常に早い時期から始まる所以となる。睨むとか身構えるとか喚(「わめ」のルビ)くとか、この種の行動は原初的には反射的に生ずるにしても、かなりの早期から意識性を伴って調整される行動になっているのではないか。上述したように、信号的送受行動もかなりの早期から意識性を伴った対抗的即応の準位に達することに鑑みれば、われわれは対抗的即応行動なるものの開始期を相当に溯らせて想定せねばならないであろう。」369P
(対話E)「ところで、対抗的即応行動は、同じく意識的調整行動といっても、通常の模倣的協応に比べて、「企投(projection,Entwurf)」にもとづく意志行為としての緊張度が高く、ここではまたEntwurfの構制も内省的に対自化され易い。そして、ここにおける「企投」の構制は「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制とも構造的に不二である。われわれとしては、このゆえに、「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制の原基相を対抗的即応行動に即しつつ好便に見据えることができる。」369-70P
(対話F)「このさい、同じく対抗的即応といっても、企投の構制を見据えるうえでは、敵対的即応を思い泛かべるのが好便であるように思う。――なるほど、人は信号的応答活動一般に定位して「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制を分析することができれば、いわゆる延滞的模倣行動に定位して「企投」の構制を分析することもできる。がしかし、何といっても敵対性の対抗的即応を念頭に置くと話を進め易い。――この故に、ここでは敵対的即応に暫く留目することにしたい。」370P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて、本線からは多少脱線することも憚らず、われわれの役割行動論ひいては協働行為論が視野の狭窄(ママ)に陥ることを防遏せんがために、敵対的行動プロパーに関わる論件を傍白的に挿入しておこう。/敵対的な行動の端初的形態は、ヒトに限らず高等動物においては一般に「睨み合い」であろう。同種の個体であれ他種の個体であれ、ともあれ他者の視線が自分に注がれているのを感知するとき、反射的に緊張が生ずる。わけても、相手の視線が真直ぐに自分の眼に向けられている場合、つまり、視線と視線とが対向する場合にそれが著しい。柔和な表情で視線が注がれている場合には此方(「こちら」のルビ)も一瞬の緊張が解けて顔面が弛緩し、以って一種の微笑的顔貌が期せずして現出する所以となり、それが相手の共振を喚(よ)び起こして微笑の共振をもたらす。が、緊張の面差(「おもざし」のルビ)で視凝(「みつ」のルビ)め合う形になる場合には、一種の睨み合いの状態になり、緊張感が共振的に亢進(こうしん)する。そして、表情の示差的な質態に応じて様々な情動が興発される。緊張の面持で視凝め合う場合、これはおそらく生得的な解発機構にビルト・インされている共振かと思われるのだが、憤怒・憎悪の激しい情動が亢(「たか」のルビ)まる。/原初的には、威嚇と恐怖は未分化のようであり、いずれにせよ射竦(「いすく」のルビ)め合っているかぎり、外発的な行動は互いに抑止され合う。この状態は、しかし、いずれにせよ長くは続かない。攻撃的前進か逃避的後退か、どちらかの姿勢が発現する。攻撃と逃避のどちらに天秤が傾くかは、いわゆる縄張り行動(テリトリーの侵犯・防衛)などの観察的知見などかせも窺われるように、環界的舞台をも包括した“心理的場”の函数であって、場から切離して両個体だけを比較し、単に戦闘力の優劣を諍う流儀で裁くことはいずれにせよ期し難いほど、複雑な諸要因の複合に因る結果だと目される。が、相手の身体から視線を外(「そ」のルビ)らすことは、他種間においても、それだけで攻撃の停止(擬人法的に言えば、攻撃の意志のないこと)の徴表的な信号として機能するものの如くである。尤も、他種間では、一方が攻撃する気のないことを表わしたからといって、他方が矛を納めるとは限らない。その点同種の個体間においては、高等動物の場合、狼の咽喉部の差出しとも類比的に、立停ったまま(つまり、逃走の態勢をとることなく)視線を外らす仕草は、相手の攻撃を自動的・反射的に停止させる信号的解発価を生得的に帯びているように見受けられる。これと同趣の機制として、特定の表情的表出(特有の恐怖的表情、悲鳴、落涙、泣顔、判り易く言ってしまえば“女子供の涙”(ママ)に類するもの!)が、少なくとも猿族においては、攻撃停止を反射的に解発するような生得的解発機構が一応は備っているものとみて大過あるまい。/ところで、対峙した両者が相譲らずに攻撃の態勢を崩さないとき、やがて格闘が開始される。動物界における戦闘動作は、噛みつく、角で突く、爪を立てる、後肢で蹴る、……といった方式であるが、手の自由になった高等猿類、わけてもヒトの場合、噛みつくという動物の基本的な攻撃形態も失われてこそいないが、手で殴る、衝く、物を投げつける……、直立歩行の可能ならしめる前蹴り……頭突きの変様ともいうべき組み伏せ……涯ては、首締め胴締め……といった特有な攻撃行動が主要形態になっており、手近かな事物・棒・竿・紐がいつでも武器になりえて攻撃・防禦の即応的行動形態と技術を極端なまでに多様化させている。さてこそ喧嘩の技術は大変なものであり、ヒトの場合、敵対的即応は幼児期から習熟を要する。」370-1P・・・ヒトは闘争する動物? 次の段落
第八段落――ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義 371-5P
(対話@)「読者のうちには、ヒトはなるほど複雑な行動形態での対抗的即応を余儀なくされる場合があるにしても、それは可能性であり、通常の幼児は敵対性の対抗的即応など殆んど経験しないのではないか、と反問されるむきがあるかもしれない。とすれば、友好性の協応的な対抗的即応ばかりでなく、敵対性の対抗的即応をも含む「対抗的即応」がヒトの行動発達論において極めて重要であるとするテーゼそのものも疑義にさらされる。それゆえ、ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義という問題性について、迂回をも虞(おそ)れず茲で多少述べておこう。」371-2P
(小さなポイントの但し書き) 「敵対性の対抗的即応は、動物界において、対抗力のある他種動物を捕食するもの(これは魚以上の脊椎動物ばかりでなく、昆虫などにさえ存在する)の生存条件であり、草食動物類にあってさえ捕食者や危害者から防衛するために生物学上須要である。種間での敵対に加えて、動物は種内においても、テリトリーの防衛とか、雌をめぐっての抗争とか、存亡を賭けた厳しい闘争を経験する。このような生物学的基礎条件に鑑みるとき、動物種には、進化論的淘汰圧からして、種間および種内の敵対的即応のノウハウが、本能的・生得的にビルト・インされているものと思われる。また殊に殺傷力を強く具えた種などにあっては、テリトリーの争いや雌の争いなどにおいて“無用”な種内圧迫や種内殺戮を回避できるよう、しかるべく生得的機構がビルト・インされていることが知られている。動物個体は各種の本具的機構・本能的機能を生理学的基礎条件として対抗的即応を演じる。格闘の技倆はなるほど後天的学習によって上達するであろうが、通俗的な言い方をすれば、対向の技能は生得的であると言えよう。・・・自然淘汰説への疑義、今西進化論の「棲み分け」とか……/人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の場合、慥かに、動物界の一般則では律しきれない様態的差異がある。樹上生活を営んでいた猿からの進化が、生物学的スケールでみれば余りにも急速に、生活の形態を激変させたため、人間(「ヒト」のルビ)は通則から多分に外(「はず」のルビ)れていると言われる。「狂った(ママ)サル」と呼ばれる所以でもある。樹上生活時代、昆虫や鳥の卵などを若干は食したにせよ、植物性の食物を主とする種属であったため、摂食のための格闘は必要としなかった。また、樹上生活では、大蛇や猛禽(「きん」のルビ)の危険が若干あった程度で、捕食者たる猛獣と不断に格闘する必要は免れていた。この前史からして、人間というサルは、種間闘争における格闘の本能的態勢において、生得的技能を余り発達させていない。器官的にも、鋭い牙や鋭い顎、蹴殺力をもった脚など備えていない。種間闘争の部面に関しては、樹上から平原へ進出した後にも、人類の祖先は、チンパンジーがそうであるように、集団生活を営み、バンドのテリトリーは厳しくなく、雌をめぐっての排他性も余りなく、種内での格闘を激烈に繰り展げるようなことはなかったと見られている。このような次第で、人間(「ヒト」のルビ)は格闘の応変な技能に長(「た」のルビ)けていないだけでなく、ローレンツなどの指摘するように、同種の個体間の格闘を停止させる生得的なサインとそれによって解発される制止機構を十分に具えていない。(そのこともあって、人類史はまさに種内抗争の生物学的歯止めが効かず、私闘という形態であれ。戦争という形態であれ、弾圧や処刑という形態であれ、涯てしない殺傷に血塗られてきた。)がしかし、格闘的抗争の技能や抑止機構が先天的に十分に発達していないという事実も、人間(「ホモ」のルビ)が動物たるかぎり、敵対性の対抗的即応の本能的技能をそれなりに具えていることを覆いうるものではない。(因みに、蛇や蛙を見て思わずゾーとするのはいわゆる「種の記憶」による本能的機制、つまり、人間が人類になるはるか以前の進化段階で爬虫類を天敵としていた時代にビルト・インされた反応機構に因るものではないかと言われている。動物の「闘争本能」という概念は今日では通用しないにせよ、闘争に対処する本具的機制・本能的技能は、格闘的スポーツの盛行を見れば瞭然とするように!数奇な進化を遂げた現生人類においてもなお失われていないことが強く銘記されねばなるまい。) ・・・? どこまでが動物性でどこまでが文化−「本能をなくしたサル」? 生物学的規定されるヒトと能為的ひととの弁証法/現に、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の乳幼児の行動には本能的な対抗的技能の発露ないしそれの直截的準備と目されるものが尠なくない。ヒトも見凝められれば見凝め返し、吠えられれば吠え返し、口を開けて現前するものがあればこちらも口を開けて反撃の態勢をとる。――バウアーの余りにも有名な実験によれば、生後わずか二、三日の新生児でさえ、顔面を直撃する方向で何かが迫って来ると、目を見開き、頭を退く姿勢で身構え、手をかざす防禦反応を示す。/乳児期を過ぎ幼児期ともなると、そこでは兄弟間や遊び友達間での喧嘩を見逃せない。――近年の日本などでは、慥かに兄弟の数が少なかったり年齢差が大きすぎたり喧嘩仲間に恵まれなかったりで、喧嘩しながら育つという常道から逸脱し、そのため大きくなってから種々の不全を生じているようであるが、一昔前まではいわゆる先進国においても、子供は兄弟や友達と喧嘩しながら遊ぶことを通じて対人行動の社会ルールを身につけたものであった。なるほど、女子は早期からしとやかになるが、それは文化的圧力による抑制の結果であって、生まれつき喧嘩しないなどというものではなく、或る時期までは男子に混って渡り合う。――ここで留目したいのは、喧嘩友達との遊びを通じて対人行動の規範的ルールを身につけるということの以前に、喧嘩という対抗的即応の身体的行動そのものの構制である。」372-4P
(対話A)「喧嘩=格闘という対抗的即応の幼児期的段階にあっては、多分に反射的即応のむきが強く、亦、外見的には模倣的同型化との区別もつきにくい。睨み合い、取組み合い……、ここでの体型や運動形態は共時的に同型的であり、外見的には模倣的協応のようにさえ見える。しかし、両者もし全く同型的に行動しているのであれば、相打ちになり、勝ちも負けもないことになってしまう筈である。実際には、殴りかかられれば、身を躱(「かわ」のルビ)したり、跳(「は」のルビ)ね除(「の」のルビ)けたりという別の行動形態で応じており、共時的に全く同型的というわけではない。同型的対応性は、体躯の構造的同型性に由来する外観であって、同型化的調整の所産ではない。仮令、交互的に同型的行動形態で応酬し合うにしても、猿真似とはわけが違う。それは延滞的模倣でもない。あくまで即応的対抗なのである。――なるほど、喧嘩=格闘における対抗的即応は必ずしも十全に意識的な調整行動ではなく、多分に反射的な即応であることを否めない。がしかし、意識的即応であるかぎりでは、あの“予期的知覚相”への即応という構制、いなむしろ、予期的表象像への即応性を意識した調整行動になっている。」374P
び(対話B)「この対抗的即応は、模倣的協応とは異なり、予期的表象像との同型化的な調整ではなく、攻撃的であれ、防禦的であれ、予期的表象像への即応的な行動の調整である。――喧嘩的格闘ともなれば、もはや、刺戟に対応した反射的な攻撃・防禦の自動的反応ではなく、それを通じて身につけた攻撃・防禦のしかるべき行動形態が、予期される相手の出方に応じて意識的に調整される。――対抗的即応における意識態勢を明晰判明に描出するためには、もう一段高等な対抗的即応に調整、例えばジャンケンとかドッジボールとかに即するのが好便である。だが、これについては後に(次章第二節)別の論脈と絡めて述べる予定でもあるので、今茲で直ちに触れることは差控える。この措置を採っても、読者は、先に(第一篇第二章第一節)論及しておいた「遣り取り」や言語的交信の初期的階梯という在り方での対抗的即応(非敵対的=友好的な対抗的即応)の構制を想起させるとき、対抗的即応の一定階梯が「役割期待の察知−即応的役割遂行」の対自的現成の現場であること、また、或る段階では対抗的即応行為が目標企投型行為の構制を対自的に有つに至ること、このことを納得されるものと念う。」374-5P
第九段落――模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見る 375-7P
(対話@)「発達論的にみるとき、高等動物においては、従って人間(「ヒト」のルビ)にあっては、共振的同調から連続的に、模倣的協応ならびに対抗的即応が成立するようになる次第であるが、一定の発達段階までは、少なくとも仔(嬰児)の側では、“予期的知覚”の意識性こそあれ、模倣的協応も対抗的即応も反射的・条件反射的な行動の域を出ない。やがては、しかし、模倣的協応行動や対抗的即応行動の発達の途次、予期的知覚が分化して知覚的現認相とは別に予期的表象像が泛かぶようになり、且つ、当の予期的表象像への同型化的調整または/および即応的調整が意図的におこなわれるようになる。予期的表象像を“目指して”の意図的調整といっても、当初は、そこでの予期的表象像は企投的な創出像ではなく、他者から期待されている在り方の察知像でもない。がしかし、まさに模倣的協応や対抗的即応の場において、前篇第二章第一節で嚮に見ておいた如き、「役割期待の察知−即応的役割の遂行」が自覚的におこなわれるようになり、亦、予期的表象状景の企投的実現がおこなわれるようになる。――発達論的には、目標実現型行為ならびにまた役割取得性行為が自覚的に成立する現場は、模倣的協応的行動または/対抗的即応行動にある。」375P
(対話A)「今茲では、右の発達論的過程を周到に跡づけることは課題外である。われわれの当面の目論見からすれば、模倣的協応および対抗的即応に見られる或る構制を見定めうれば足るのであって、そのためには模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見ただけで当座の間には合う。――尤も、本節における以上の行文は前篇から宿題として持越した論件を埋めつつ、次章ひいては次篇での論究への伏線を敷くという思惑も秘めたため、当座の必要最低限の域を超える、聊か長大なものになった。発達論的な議論としてこれを看るとき、本節の主題内で必須とされる域を超えながらも、十全な発達論ではなく、しかも初次的階梯で打止めるという奇態な形になっているが、意のあるところを汲んで頂きたいと願う。――」376P
(対話B)「われわれにとって今や、模倣的協応ならびに対抗的即応に予め関説したことによって、前節での「役割遂行の共互構造」論において“括弧に納めた”ままになっていた「並行共業的(協同型)役割行為」および「同時相補的(補完型)役割行為」の構制を見定め、以って亦、本節での本来の主題である役割的協働行為の存立性を(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型という類型に即しつつ討究する順路が拓かれるに至っている。」376P
(対話C)「偖、前節では共互的役割行為を、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けうる旨を誌しながらも、とりあえず(1)についてのみ論じ、(2)(3)はブラック・ボックスに納めたままで恰かも行論を中断するかのごとき風情に了っていた。が、この遺してきた問題を、いまでは容易に処理することができる。――模倣的協応行為も対抗的即応行為も、それらがすでに役割行為の域に達しているケースであっても、また直ちにはわれわれの謂う「並行共業的(協同型)」の共互的役割行為や「同時相補的(補完型)」の共互的役割行為、とは言えない。われわれが「共互的役割行為」というのは、前節で“定義”したように、「複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ) −他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為」の謂いである。この定義上の要件を充たすためには、模倣的協応や対抗的即応が、啻に期待に応えての役割取得行為として演じられるだけでなく、相手にとっての目的(この目的は同時に自分にとっての目的であっても可)を達成する手段としての意義を有たねばならない。相手に対する自身の模倣的協応行動や対抗的即応行動が当人の単なる自己目的であるだけでは共互的役割行動というには不足であり、また、それが相手によって期待されている行動の遂行であっても(それが相手にとって目的達成に資する手段的意義を有たず、謂うなれば模倣/対抗させることが相手にとっての“自足的目的”であるならば)それだけではまだ、共互的役割行動とは呼べないのである。――模倣的協応行為や対抗的即応行為のうちには、例えば、相手に同調して岩を押し転がすとか、握手をするとか、並行共業的(協同型)の共互的役割行為や同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成立させるケースがある。一般に、世に謂う「単純協業」つまり、斉同的な目標を共有しつつ斉同的な行動様式で協業する複数主体の行為は並行共業的(協同型)の共互的役割行為を成す。片や対抗的即応行為には各種格闘技などのように、奉納・上覧・興業といった目的(当事行為者たちの共有的目的)にとっての共互的手段行為とし演行される対人的行為ばかりでなく、例えば餅の搗(「つ」のルビ)き手と捏(「こ」のルビ)ね手、鍛冶の打ち手と返し手、などのように、一般化して言えば対抗的即応行為のカップリングによって甫めて或る単一の作業が成立しうるごとき対物的行為もある。これらは同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成す。(模倣的協応や対抗的即応がそのまま協同型や補完型の共互的役割行為になるわけではないことは上述の通りであるが、逆に亦、共互的役割行為と認められるたぐいの対抗的即応行為のすべてが同時相補型に属するのではない。このことに留意されたい。対抗的即応行為のうちには「順次交替型(交互型)」の共互的役割行為に算入されうるものもある。このことは前節において「遣り取り」や「商品交換」に即して論述したところを想起して頂ければ絮言を要せぬであろう。)」376-7P
第十段落――「協働」の(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、(3)分業的協働という三類型 378-82P
(対話@)「協働的役割遂行という観点から把え返すとき、並行共業(協同)型の役割行為は、行為当事者たちが共通単一の達成目的を共有する構制に成っている場合、「並行的協働」行為と規定される。同時相補(補完)型の共互的役割行為は、その同時補完的な応待的作業によって当事者たちが共通単一の目的を達成する構制に成っている場合、「拮抗的協働」と規定される。」378P
(対話A)「われわれは、「協働」を、(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、および、(3)分業的協働の三類型に分ける。」378P
(対話B−第一の)「第一の「並行的協働」というのは、複数の行為主体が共通的目的を斉同的な行動様式で追求する協働であって、「同調的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、行動様式の斉同性は、単なる外見的斉同というより、志向目標の共通的同一性からの反照的規制に已に負う。尤も、謂うところの共通的目的は、数的に単一な場合もあれば類的に同一であるにすぎない場合もありうる。――いわゆる「単純協業」がこれに属するが、われわれとしてはこの並行的協働という概念をより広義に用いる。例えば、斉唱や群舞、鞠(「ボール」のルビ)追いや獲物追い、横列になっての耕転や田植、駅や通路での斉同的歩行、お望みとあればサルトルの謂う集列(série)のうち買物の行列の如きをもここに算入してもよい。この単純な協働にあっても、集合的意識の特種的綜合(synthèse sui generis des consciences collectives)が早速に生じ、特有なグループ・ダイナミズムが作(「はた」のルビ)らきうるのであって、「主体我々」が形成されることもありうる。が、今茲では、さしあたり、共通目的を追求しての斉同的動作が形成する協働性、ということに留目するに止めておく。」378P
(対話C−第二の)「第二の「拮抗的協働」というのは、複数の行為主体が同時相補型の共互的役割行動を営みつつ、各々の直接的目的高度が拮抗するにもかかわらず、高次的単一目的を共有する構制に成っていて、「応待的協働」と呼べる特種的綜合が形成される部類である。――このさい、目的行動の拮抗性といっても、それは敵対とは限らず、単なる競合をも含みうる。当の拮抗的・応待的な行動の様式が共軛的に相互規制を受けることは附言するまでもない。この拮抗的協働は、例えば鞠なり獲物なりを斉同的に追っていた状態から奪い合いに転化する場合などのように、並行的協働からの転成の場合もありうる。が、われわれとしては、いずれにせよこの概念を広義に用いるのであって、発生論的には、対抗的即応の場面から逸早くこれが生起しうる。応待的協働のうちに、格闘技や勝敗を競う(つまり、一者の勝利という直接的な目的達成が他者の勝利=目的達成を阻止するという拮抗関係にある)競技やゲーム類、さらには、優劣(一等・二等・三等……等外)や合格・不合格を競うコンテストのたぐいをも、それが高次的目的を共有されているかぎり、算入しうる。亦、この広義の「拮抗的協働」には、二極的対抗だけでなく、三竦(「すく」のルビ)み・四竦みといった多極的な拮抗をも含めうる。そして、最広義の場合、生態学的均衡といった即自的な拮抗的協働をも包摂することができる。――ところで、この拮抗的協働=応待的協働においては両サイドの直接的志向目的の分極性が存立するわけであるが、その分極性目的の一つ又は夫々に関して複数の行為主体が「並行的協働」を自覚的に遂行する場合もある。このさいには、並行的協働者たちは一つのグループを形成する者として、自分(達)の側と相手(達)の側との二陣営に、分立の相で意識される。(三極的構造の場合には三陣営に、……分立化する。)ここにあっては、並行的協働者のグループ(陣営)が、拮抗的な対他者関係性に即して「同一の企投目的を志向している能作体」として覚識され、「同調的協働者たちの特種的綜合による一“主体”」の想念が生じうる。(単純な自他両陣営的な“主体”はがりでなく、「同盟軍」や「中立的第三者」の覚識も形成されうる。)拮抗性の意識されない単純な並行的協働=同調的協働の場面においても斯かる特種的綜合が生じうるにせよ、特種的綜合相での主体=我々の意識が本格的に現成するのは、発生論的にも、一般には、拮抗的な陣営的分立の覚識される場面を俟ってのことであろう。対物的協働の場で主体=我々の覚識が生じうるとしても、その際の物的対境は、単なる与件的対象事物ではなく、一種の対抗的陣営に準ずる相で覚識されているのが実情であろうかと思われる。が、グループ・ダイナミズムや特種的綜合相での能作体の問題などには後論で立帰ることにして、茲ではひとまず右の指摘に止めておく。」378-80P
(対話D−第三の)「第三の「分業的協働」。これは複数の行為主体たちが統一的目的を達成すべく分掌的行動を遂行するものであって、「担掌的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、統一的目的という同一目的が存立するにしても、協働者たちの行動様式は斉同的ではなく、各自の直接的な志向目標は斉一ではない。ここでは各自の行動の直接的志向目標が統一的高次目的にとっての手段であることが自覚されているかぎり、直接的な志向目標どうしが拮抗的であることすら妨げせれない。例えば、格闘なり競争なりであっても、それが奉納とか興業とか娯楽とかの統一的目的性の自覚であるかぎり、つまり、当面の勝利・優勝という直接的目的を志向する行動は統一的上位目的にとっての手段にすぎないことを当事者たちが自覚しているかぎり、われわれとしてはそれをも「分業的協働」に算入しうる。――発生論的には、分業的協働の自覚的遂行が遣り取り遊ビや模倣遊ビの或る局面から逸早く成立しているものと目される。亦、対話的言語活動も、直接的な音声表出や直接的な意味理解が自己目的ではなく、それらが上位的な達成事態への手段的中間態にすぎないことが自覚されるかぎり、早期からフェア・エスな分業的協働=担掌的協働の域に達していると言えよう。――分業には、いわゆる水平的分業もあればいわゆる垂直的分業もあり、並行的協働者グループや拮抗的協働者グループを単位として編制される高次的な分業的協働もあり、多種多様な様態が見られる。が、ゴッコ遊ビやティーム・プレー、合唱・合奏・芝居、生産活動の場における各種の分業的協業、儀式・祭事・政治、はては、教育から戦争にいたるまで、社会的活動の殆んど全域で自覚的な分業的協働が営なまれている。そして、分業的協働者達は極めて屢々「統一的目的の自覚的共有に基く特種的綜合相にある主体=我々」という相を覚識する。この件については、しかし、茲ではまだ登記に留めておく。」380P
(対話E)「われわれは、以上、当事主体たちの日常的・直接的な意識に現出する相に即して見た次第であるが、観察者的視座に立った学理的分析に際しては、当の事態が原理上は当事者自身において対自(「フェア・ジッヒ」のルビ)化されることが可能である限りで、協働連関態の存立している範囲を当事者たちが現実に自覚している範囲よりも拡充して画定することが必要とされ、また、それが許容される。すなわち、観察者的分析に際しては当事者の顕在意識にのぼっていない協働相をも即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)な協働として規定し、この相をも含めて討究することが必要とされ、且つ、方法論的に許されうる。――例えば、当事者たち自身は目的の共通性や行動様式の斉同性を自覚していない(乃至は部分的にしか自覚していない)場合でも、フェア・ウンスな見地からアン・ジッヒな並行的協働=同調的協働の存立を立論し、共鳴的同調や模倣的協応の初等的な場面から協働性の構造を指摘したり、当事者たちの直接的な視野外にまで伸びている集列(長大な列の遠方部やサルトルの謂う同一ラジオ番組の聴取者達)の如きをも含めて同調的協働を分析したりする作業、このたぐいの措置がそれである。拮抗的協働については、当事者たちが目的の分極性や行為の拮抗性を十分に意識していない場面や部分をも含めて、即自的な応待的協働を立論し、分業的協働については、当事者たちが目的の統一性や行為の分掌性を十分には自覚していない範囲や機構をも含めて、即自的な担掌的協働を立論すること等々。――」381P
(対話F)「観察者的分析においては、更に、当事者たち自身の意識上では統合的な上位の目的が存在しない場合であっても、協同的連関態の動向が恰かも或る一定の統合的“目的”を志向しているかの如き傾動と機能を体現している際には、上位的統一機能を体現する。“分業的協働”態として取扱うことが便宜である。――この取扱いに際しては、協働態が協働作業当事者たちの目的志向とはおよそ関わりなく実現する結末や機能を協働の目的と混合しないように呉々も留意を要する。結末の単なる機能的“合目的性”にすぎないものを企図された目的であるかのように錯認するとき、人は容易に、超越論的主宰者の目的であるとか、世界内在的な目的であるとか、「形而上学的な目的論」への途を開く所以となる。われわれとしては、エコロジカルなシステムをも配視するだけに愈々(いよいよ)、この弊を鋭意排却しつつ事に当たらねばなるまい。」381-2P
(対話G)「惟うに、機能的な合目的性、この擬似的な“統一的目的”性を措定するとき、実際問題として、凡そ大抵の協働連関態は一種の“分業的協働”連関態として取扱うことが出来る。というのも、「並行的協働」は、行動様式が斉同的であるとは言っても厳密には斉同的でなく、よしんば厳密に斉同的な行動であってさえ、“統一的目的”行動の分掌と見做される以上、“分業的協働”の一種に包摂されうるし、また「拮抗的協働」は、それの齎(「もた」のルビ)らす帰結を“統一的目的”に準(「なぞ」のルビ)らえるかぎり、応待的諸行動によって担掌される“分業的協働”と見做されうるからである。斯くして、協働の殆んど一切の定在が“分業的協働”として取扱われうるとすれば、――そこには現実の統一的上位目的が存在せず、たかだか機能的“合目的”性しか認知されないものが含まれるとはいえ、“分業的協働”の内部編制に即するかぎり担掌される行動がまさしく役割行動にほかならない以上――殆んど一切の協働連関態は役割担掌編制態として存立している所以となる。」382P
(対話H)「われわれは爰に観察者的視座からも規定し返される協働連関態、すなわち役割行動編制態の制度的物象化その他を討究する課題をも負うが、この作業は次篇に譲り、今茲では姑くそのための先件の幾つかを処理しておかねばならない。」382P
第十一段落――協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ 382-7P
(対話@)「協働とは共互的役割行為によって編制されているものである以上、そして、共互的役割行為は、前節で叙べたように、当事主体たちが互いに相手の手段となり合うことで夫々の目的を達するという構制において、利害の共同性=共同的利害性を存立せしめる構造になっている以上、協働は共同的利益を実現する。――協同的役割行為の遂行は、協働者たちの共有する統合的目的を達成するものとして、共有的目的を成就するものにもほかならない。――茲に、協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ。」382-3P・・・廣松コミュニズム論
(対話A)「協働態は、こうして、一定の高次的利益目的に即して観れば、協働者たちの一種の共同体である。がしかし、前節の行文中において見た通り、共互的役割行為なるものからして、それはなるほど共同的利害性を存立せしめるとはいえ、当事者たちの葛藤、矛盾・対立を孕みうるものであり、支配−服従の構造を含みうる。協働的役割行為編制態=利益共同体=目的共同体とは言っても、対等・平等な諸人格の協同とは限らず、また、直接的利害や直接的目的まで共通とは限らないのであって、実質的にはむしろ「幻想共同体」にすぎない場合もある。」383P
(対話B)「現実の協働態は、総体としてみるとき、国家の次元であれ、或る種の“地域社会”の次元であれ、いわゆる“企業”の次元であれ、たかだか幻想共同体にすぎないのが寧ろ歴史的事実である。だが、それにも拘らず、人々がそこに内存在する限り、一定の利害共同性、および一定の即自的な目的共同性の構制が“形式的に”存立していることも確かであって、その意味において、よしんば幻想的であれ、協働態は一応、利益共同体・目的共同体の構制を有つと言うことができる。」383P
(対話C)「例えば国家社会の場合、諸身分・諸階層の利害対立どころか、階級的な矛盾葛藤を孕んでいる。とはいえ、国家が分立している歴史的状況下にあっては、すなわち、言い換えれば、特定の国家に所属せざるをえない状況下では、個々人は国家社会に内存在することなくしては生きて行くことができないわけで(それも、生存権とやらの国家による保障といった次元のことではなく、生計の具体的・日常的な在り方が国家社会への内存在によって甫めて成立しえているという次元においてそうなのであって)、この限りで、国家社会という協働連関態に組み込まれていることが、個々人にとって生存という利害(生存という個々人が共有する利害)に適っている所以となる。が、これは最低限の話であって、国家が分立している歴史的状況下では、国家の各々は他国による“脅威”に不断に曝されており、開戦して敗戦という破目になれば勿論のこと、緊張下で劣勢に立たされているだけでも、社会的・経済的・政治的生活上、殆んど全国民がさまざまな不利益を直接/関説に被むること必定である。そのため国家の隆盛が殆んど全国民にとって、共同の利益なるものと意識され、国家の隆盛が共同の目標として思念されることにもなる。現実には、国家が隆盛しても、被支配階級の生活が改善されるという保証があるわけではない。極端な場合、自国が他国を経済的に収奪する事態になったとしてさえ、被支配層が“オコボレ”に与(「あず」のルビ)かるとは限らない。が、しかし、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が緩和されること期待できるとか、少なくとも自国が外国に服属するようになった場合に予測される水準よりは“まし”な筈であるとか、これは一応言える場合が多いであろう。茲に、国家が運命共同体として思念され、国家の隆祥が“共同目的”として志向されることになる。階級階層間の、降っては、成員個々人間の深刻な利害対立を孕んでいる以上、国家社会なるものは、およそ真正の共同体ではなく、マルクス・エンゲルスが指摘する通り、幻想的な共同体(illusorische Gemeinschaft)にすぎないのだが、しかし、マルクス・エンゲルスが併せて指摘している通り、それは単なる幻想というわけではなく、一定の物質的利害の共同性に客観的基礎をもつのである。」383-4P・・・物象化された相において、幻想共同体としての国家へのとらわれ−国家主義は、批判・克服しうる。
(対話D)「別の例として、資本制的企業の場合をも一考しておこう。資本−賃労働関係にもとづく資本制企業は、断じて雇用者(資本家)と被雇用者(労働者)との共同経営体ではなく、労働者はさしあたり賃金の獲得が目的で働くのであって、企業の業績は労働者たちにとって直接的な関心事ではない、と一応は言うことができる。賃金は事前の協約にもとづいて支払われるのであり、業績の良否が賃金額に直接響くわけではない。が、しかし、継続的雇用が見込まれている場合、業績不振・倒産ということにでもなれば継続的な賃金獲得が覚束なくなることに鑑みれば、労働者にとって、継続的雇用による賃金の取得が“利益”と意識され、この“利益”を確保するための条件として、企業の業績を一定水準以下に降下させないようにすることが労働者側をも含めた“共同利益”ということになる。最小限で然うである。現実問題として、業績が向上したからといって賃金が増額される保証はないものの、経営不振の場合に比べて相対的に“よりまし”な賃金が期待されうる。資本制企業は国内国外の同種的企業と激烈な競争関係にあり、弱肉強食の状態にあるとあってみれば、企業の“生き残りを賭けた”競争に打ち克つべく、“業績の向上”に努めることが企業体成員の“共同利益”に適うものと意識される。ここに、企業の産品(市場に供する商品一般の謂いであって、物品とは限らず、無形的サーヴィスの如きをも含みうる)を質的により良く量的により多くし、以って業績を向上させること、之が企業という協働的連関態=協働態の“統一的志向目的”に擬せられる所以ともなる。(日本などのようにいわゆる終身雇用制が定着している所では、つまり、途中で就職先を変えると一般には不利である条件が成立している所では、企業の業績を向上させて競争戦で有利な地歩を確立・確保することが、所属全成員の“共同的利益”という域を超えて、一種の“運命共同”課題であるといったイデオローギッシュに屈折した形で意識され易い。ここでは、企業という協働態が“利益共同体”しかも“運命共同体”の相で思念される。)実際には、資本制企業というものは、協同の所産的利潤を成員たちが“共同経営者”として配分するものではなく、被雇用者は労働力商品の販売(その代価として賃金を取得)する構制になっているのであって、決して真正の共同体ではない。経済学的にみれば、資本−賃労働関係は搾取関係であり(尤も、だからといって、マルクスとてこれを単純素朴に悪(「あく」のルビ)だと論難するわけではない)、マルクスが指摘する意味での「賃金奴隷制」の構造になっている。(マルクスは、株式会社企業などについて、所有資本家[株主]と機能資本家[経営者層]とを区別し、後者は一種の高級労働者であるとしているが、法人資本と賃労働者との関係が“奴隷制的”関係であることには変りなく、ここでは“奴隷階級”の内部に階層的差別もあり、直接的利害の矛盾葛藤も厳存する。)そうであるにも拘わず、労働者が特定企業に雇用されている賃金労働者たる限り、彼の現行的生活にとって(望むらくは今より幾らかでも“ましな生活”のためには)その企業の業績向上が“有利”であることは確かであって、企業が一定の条件下では被雇用者をも含めた全成員の“利益共同体”として覚識されることには“客観的根拠”が無いわけではない。(マルクスは、資本家と労働者との利害の共同性・同一性なるものは、「高利貸と借手」「姦夫と姦婦」の「利害の同一性」に類する旨を皮肉をこめて指摘しつつも、一定の「利害の同一性」が存在すること自体は“認めて”いる。)資本制企業を以って利益共同体と見做すとき、実質的にはそれは「幻想共同体」にすぎないとはいえ、そこでの“共同利害”なるものは、単なる純粋幻想でなく、協働的連関態=協働態の存在構造(なかんずく対他的市場競争関係からの反照的規定)に現実的“根拠”を一応は有つ次第なのである。」384-6P ・・・これも物象化された相
(対話E)「よもや誤解はいるまいと信じるが、著者としては、協働態が形式的には協働者たちの共同的利害を実現しうる構制を有つにせよ、実質的には利害的矛盾葛藤を孕みうる以上、必ずしも真正の共同体ではないこと、このことを銘記しているのであって、当事者たちのイデオローギュシュな思念を追認しようとしているのではない。が、同時に、協働連関態=協働態は、それの存在構造のうちに、一定の歴史的条件下では、あれこれの協働態を以って“利益共同体”“目的共同体”として成員たちに思念せしめる構制を客観的に有っていること、このことの銘記を要する。」386P
(対話F)「著者は、協働連関態=協働態というとき、決して国家社会や或る種の地域社会(“都市共同体”であれ“農村共同体”であれ)や企業体のごときを主として念頭に置いているわけではない。勿論、これらの制度的に“骨化”せる協働態の配視が是非とも必要であり、次篇において主題化する予定でもある。が、右の行文でこれに関説したのは、「幻想的共同性」を確認する便宜を図ってのことであった。当座の行論にとって重要なのは、むしろ、その都度の行為に即しての、機能的な協働連関の現成、そこにおける間主体的な存在構造である。」386P
(対話G)「この課題には次章にかけて応えて行く段であるが、茲ではまず前章との関連で或る事項について補説したうえで、前篇から一部を持越した「主体我々」という問題に触れる運びとしよう。」386-7P
第十二段落――協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱う 387-94P
(対話@)「われわれは前章第三節の行文中において、一見孤絶した営みに見える農夫の作業のごときでさえ已に「協働」の構制になっている旨を陳べたのであった。読者の中には、農夫の耕す土地は先人の開拓地であり、彼の用いる農具は他人の製作物であり、彼の農作業方式・技術は先人からの伝承であり、……ということを認めたうえでも、しかし、当の農夫は先人・他人の成果を労働の対象や手段として活用するのであって、別段、他人たちと協働するわけではないのではないか? と反問されるむきもありえよう。われわれとしては「共演」と「協働」を区別したうえで、共演でこそなけれ一種の協働ではあること、謂うなれば先人・他人たちの“助力”を得つつ作業する構制になっていること、この旨を陳べたのであったが、それでも他人たちの“助力”というのは、その他人たちが今問題の農夫と作業目的を志向的に共有しつつ協力するという態のものではなく、第三者的な見地から機能的な効果を評定し、そこに一種の“協働的目的達成”の構図を読み入れる限りでのみ甫めて言われうることであって、「助力」とか「協働」とか称するのは用語法上不当ではないか? この疑義を生じうることであろう。」387P・・・手段化論は能為的主体の実体化という一種の物象化?
(対話A)「概念規定や用語法をめぐって激しく争う心算はないが、著者としては先に(三八一頁)誌した通り、学知的観察者の見地から論攷する際には、協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱いたいものと念っている。(それだけに協働態=共同体を独立の“目的意識性を具えた主体=実体”であるかのように錯認することを警戒し、また協働態=共同体に“形而上学的”な“内在的目的”とやらを迂闊に読み入れることを警戒しもする。)この趣意からするとき、前章第三節での「協働」という用語法は恰当であると考える。」387P
(対話B)「読者の中には、しかし、もはや生存していない他人(先祖)たちをも協働者に含はめるのは、いかにも不当拡張であるという印象を懐かれるむきもあるかもしれない。著者は今ここで、多くの文化圏において“祖霊”のアクチュアルな参与・協力が思念されているという事実を持出して“正当化”する存念はない。そして、先人をも協力者に算入するとはいっても、先人一般を抽象的に引入れるのではなく、具体的な“助力”“協力”が当該行為の“本質的な構造内的契機”を成している限りでのみ(この“没概念的”と評されかねない契機についての弁疎は先の三〇一頁を参看されたい)然(「そ」のルビ)うするのである。」388P
(対話C)「分業的協働には共時的・同時的な協働もあれば、通時的・継時的な協働もある。林業のごときにあっては親子三代にわたる分業的協働、すなわち、もはや存在しない祖父をも含めての協働は茶飯であろう。近代的工業においても同趣である。機械製作部門、加工製造部門、販売部門からなる大企業体のごときにあっては、継時的分業のステップごとが相対的に自立的であって、先行部門担掌の協働者たちが依然生存しているのが普通だとしても、従業員たちの全員が共演するわけではない。協働というものは、いずれにせよ“実体的主体”の編成にアクセントがあるのではなく、役柄行為の機能的編制にアクセントがある以上、われわれとしては斯かる分業的協働の編制によって措定される特種綜合的な統合的目的行為をも配視しなければならない。この任に応ずるためには、学知的観察の見地からの分析に際しては、一見“不当拡張”と見紛うほどの広義において、「分業的協働」という概念を用いるのが好便である。今やこの件は納得されたものと念う。」388P
(対話D)「ところで、協働という概念を極めて広義に用い、協働の“統合的主体”を「我々」と呼ぶとすれば、「我々」という概念も極めて広義となる。が、「我々」という概念は、いずれにしても、単層的な扱いでは済むべくもない。そこで「我々」という概念の広狭多義的な用法や層位的区別を自覚的に設けることが必要とされる。――この作業は次章にかけておこなうが、茲ではひとまず構図的に隈取っておこう。」388-9P
(対話E)「「我々(我等)」という想念の成立にとって、能知能為的な主体が複数現存在することの覚識が先件的な必要条件をなす。が、この必要条件の発生論的充足の経緯に関しては、前篇このかた幾つかの論脈で已に勘考してきているので、今茲で辿り返すには及ばないであろう。茲では「自他的共軛称」(第一篇第二章第二節参照)からの更なる分化的再統合の場面に止目すれば足ると思う。――自他的共軛性が現識されるようになるのは、発生論的には対抗的即応や模倣的供応の場においてであるが、これは原初的な共互的役割行為の場でもあり初次的な自覚的協働の場でもある。――「汝−我」「彼−我」翻っては、「其−我」の共軛的分立が現識化されている場面では、必ずしも個体的分節体どうしの出会いという形はとらず、第三者的に分析すればむしろ“巨きな主体”の錯分節化という相で進捗する場合も慥かにある。とはいえ、謂う所の“巨きな主体”は当人において「巨きな主体」、況してや「我々」として事前に明識されているわけではない。この現識が生じうるとしても、それは「自他的共軛」が分節的に覚識されるようになって以後の反省的な把え返しである。それゆえに、われわれとしては「自他的共軛称」に先立てて原基的・本源的な“我々的協同称”とやらを立てるようなことはしない。(唯、一定の発達段階以降においては、“我々的一体”相からの反省的分化として「汝−我」や「彼−我」の分節的意識化が成立する場合もあるということをも認めるに吝かでないだけである。)」389P
(対話F)「偖、「汝−我」「彼−我」、況してや「汝等」「彼等」という複数主体から成る構造的関係態が現識されたとしても、それだけでは「我々」の現識ではない。なるほど、或る種の反省的見地からは、複数の主体(「エゴ」のルビ)の存在が認知される場合、そこに一定の扮技的な視座から「我々」を“読み取る”ことも一般に可能かもしれない。だがしかし、謂う所の「一定の扮技的視座」とやらが問題であって、これは帰するところ当事者たちに即した「我々」の構制を扮技する視座にほかなるまい。「我々」なるものは、まずはともあれ当事者(達)の覚識に即して規定されねばならない。――われわれ日本人の日常的意識においては、漢語の元来的用法とも見合うかたちでと言おうか、彼我(「ひが」のルビ)の陣営的区別における我方(「わがほう」のルビ) (味方=身方)に属する者共を「我我」として一括的に現識するというのが「我々意識」の原基的形態であるように見受けられる。その点、印欧語圏の人々の日常的直接意識においては、we(一人称複数)とは、まずもって、言語活動の場でのI and you(つまり、一人称者と二人称者とを一括して、第三人称者と対立的に置いたもの)という人称代名詞用語に強く規定された含意を有つものの如くである。極端化して言えば、片や布陣的区別における「お前たち部外者(「よそもの」のルビ)に対する身内」、片や「第三人称者を共通の話題にしているI and you(第一人称単数者プラス第二人称者の合称)」という相違が見られる。勿論、これは原基であってそこから「我々概念」が陶冶される。――」389-90P
(対話G)「惟うに、彼我の布陣的区別における「味方・我々」というのは、拮抗的協働の当事者たちがそれぞれ複数者達から成る陣営に分立しつつ陣営内的に並行的協働ひいては分業的協働を営んでいる態勢において現識される。このさい、味方=我々が直截に意識化されるのか、それとも相手側=彼等(むしろ、汝等)を一括的な“巨きな当事主体”の相で意識することの反照において、謂うなれば相手の側の視座から見るとき当方が一括して“巨きな当事主体”の相で看ぜられ、この“巨きな当方”が複数の人格的諸主体から成る統一態として覚識されるという間接的・媒介的な経過があってはじめて「我々」が意識されるのか、これは一概には断じ難い。心理的意識の事実過程としては、両方の場合がそれぞれ折りふれて見出される。とはいえ、“単一の巨きな当事主体”相で看て取るというとき、当方の側であれ先方の側であれそれが或る単一の志向目的を追求しつつ行為している主体として見做されていること、この意味において“単一の企投的行為主体”の相で見做されているということ、このことまでは確かであろう。(このさい、“当方の側”にせよ“先方の側”にせよ、単なる集塊としてでなく、それぞれ人物的諸個体から成っていることが分節化されて現識化されていることを妨げない。いなむしろ、原基的にはそのほうがむしろ普通であると言ってよい。だが、そのことは、本篇第一章第一節「環境と主体との分節」その他の論脈で叙べたところの想起を求めるまでもなく、個体的人物=主体とのアナロギーで“巨きな主体”が措定されるということを必ずしも意味しない。一定の諸条件を充たす場合には、或る種の“巨きな主体”が初めから能為的主体の相で“観取”されることが事実の問題としてありうる。[これを学理的見地からそのまま追認するかどうかは別問題として、発生論上の経緯としては、能意的主体なるものは常に必ず個体的人物の相で原初的に現認されるとは限らない。]但し、上述の通り、“巨きな主体”なるものがそのまま直ちに「我々」として認知されるわけではない。)尚、謂う所の“単一の企投的行為主体”“巨きな主体”は、「味方側」または/および「相手側」という陣営だけとは限らない。“単一の企投的行為主体”つまり“或る単一の志向的目的を追求しつつ行為している主体”として、陣営的に対立しつつ拮抗的に協働している一全体ですら、一定の条件を充たす折りには認められうる。現に、このことに負うて、一定の条件(単一的・統合的上位目的の共同的志向)が充たされる場合には、「汝(等)と我(等)」や「彼(等)と我(等)」は、直接的には敵対的対立関係にあってさえ、“単一の企投的行為主体”として認められうるばかりか、時によっては「主体=我々」を現成しうるのである。」390-1P
(対話H)「「我々」と謂うのは、暫定的に式述すれば、「単一の志向目的を協働的に追求しつつ行為している人格的諸主体の協働態」の謂いであって、斯かる協働相にあるとき、当の人格的諸主体は「我々的協同称」にあると謂う。――この“定義”からして、「我々」は、人格としての“相互承認”を要件とするばかりでなく、単一の協働的志向目的を追求する協働態として特種的綜合(synthèse sui generis)態、“巨きな単一の主体”を形成していることを要件とするのであって、単なる「我(「エゴ」のルビ)の複合称」ではない。相互承認という論件については前篇このかた縷説してきたところであり、遺された論点は次章第一節で陳べることにして、茲では次のコメントを加える域に留めておこう。「我々」は我同士の相互承認を構造内的要件とする限り、単なる「一」ではなく、さりとて特種的綜合態である以上、単なる「多」でもない。それは、伝統的な表現を藉(か)りて言えば、「一而二(「いにしてふ」のルビ)、二而一(「ふにしてい」のルビ)」、いやむしろ、「一而多、多而一」である。――ところで、前掲の“暫定的定義”では「主体=我々」と「客体=我々」との区別が明示的でなく、また、当事者たちのフェア・ジッヒな我々と観察者的見地からのフェア・ウンスな我々との区別、等も明示的でない。今茲では周到な分類的区分を企てる意趣はないが、若干の規定的分化と併せて必要な拡充を施しておこう。」391-2P
(対話I)「「主体=我々」が勝義においては、単一の志向目的を協働的に追求している複数主体の特種的綜合態であること(ここにおける複数主体性の対自化が能知能意的主体としての相互承認と相即的であること)は絮言するまでもない。が、人々は、これを推及するかたちで、単一の志向目的を複数主体が協働的に追求しているものと見做される場合、もうそれだけで(つまり、当事者たちが相互的に人格的に承認し合う意識態が現存しなくとも)当該の複数主体が「主体=我々」を形成しているものと認めてしまう。尤も、これにもグレイドがあって、当事者たちが、現実には自覚的な相互承認には至っていないが、謂うなればいつでも自覚的な相互承認を遂げうる可能的態勢にあると目されるかぎりでのみ彼らが「主体=我々」を形成していると認める。というのが第一歩である。そして、ここから進んで、当事者たちが現実に接触・承認し合うことはまずありえないにもかかわらず、仮想的(「サブジャンクティヴ」のルビ)な接触状況を想定すれば相互承認がおこなわれる筈だという暗黙の見做しのもとに、単一の志向目的を追求する構制を形成している協働的諸主体を「主体=我々」と認める段となり、更には、例えば先人の“助力”的協働を含む場合などのように、現実の相互承認は不可能であってさえ、単一の志向目的を達成する機能的構制を形成していると見做されうる諸主体を「主体=我々」を形成しているものと認める域にまで拡張される。――フェア・ウンスには、慥かに、このような極めて広義の「主体=我々」概念を措定することも文脈によっては許されうるであろう。」392P
(対話J)「「客体=我々」と謂うのは、原初的にはおそらく、陣営的対立における味方側の集合体を相手側の視座から捉えたものを対自的に引き請けるという相で現識化されるであろう。このかぎりでは、それは「主体=我々」を(味方の側からではなく、つまり味方の側からの対相手関係に即してではなく)相手側の視座に即して捉えたものと言うこともできる。惟えば、「主体=我々」も、直接的な相互承認ぬきに、謂うなれば観察的視座から、協働相にある諸主体を一括的に把握する概念へと変様的に拡張されるが、この当事者外的な視座からの「我々」想定も「客体=我々」の規定と相通ずるところがある。この当事者外的な視座からの規定(これをおこなうのは当事者の中の一人ないし一部であっても可)という線で進むとき、相互的承認を伴う協働的営為という特種的綜合とは関わりなく、「我」と呼ばれる存在者と(“主体的”規定性においてであれ“客体的”規定性においてであれ)類同的な者共(die Meinesgleichen)が一括して「我々」と呼ばれうることにもなる。ここに例えば男性という“同類者共”、青年という“同類者共”……同一民族の成員という“同類者共”……同一宗教の信徒という“同類者共”……といった者共が「我々〜」と呼ばれたりもする。――尤も、これは、あの布陣的区分、そこにおける“主体我々”のアイデンティティといった“原基的”構制の名残りを引被っている趣きもあるが、「客体=我々」の赴く所、単なる「我の同類者達」へと極限化されうる。――われわれとしては、「我々」概念の斯かる拡張が現に通用している事実を配視しはするが、しかし、これとて原基的には協働的“布陣”に淵源すること、協働の場における対他的対自の機制をぬきにしては「我々」の想念はおよそ成立しえないであろうこと、このことを須臾(しゅゆ)も忘れてはならない。」392-3P
(対話K)「慮みるに、以上で叙べたところは、印欧文化圏における「我々」の想念についても妥当すると信ずるのだが、上述の通り、印欧文化圏においては、weとは原基的にはI and youの含意が強いものとされる。尤も、先に、weとはI and youつまり“第一人称者単数と第二人称者との合称”と誌したのは、補訂を要するかもしれない。weはあくまでのI複数形なのであって、I and youであるかI and heであるか、これは本質的ではないと目されうる。つまり、第一人称者(speaker)が複数であることが要件なのであって、「僕と彼女」とが「君」のことを話題にしているような場合I and sheを形成するのであって、I and youがweを形成するわけではない。――speakersとしてのweを基調にしての「我々」の想念なるものは、われわれ日本人にとって実感的には理解しがたいところがある。とはいえ、言語的活動も協働の定在形態の一種であることは確かであって、speakersとしての we を、協働者としての「主体=我々」にまずは位置づけるか、それとも、話題内登場者(達)との布陣的な区分性においてまずは位置づけるか、これをどう措置するかは別として、ともあれ、 speakersとしてのweをも上述の「我々」の構制に納めることは可能であろうかと思う。――」393-4P
(対話L)「欧米の哲学者たちが「我々」と謂う際に「我と汝」ということを強調する論点は、「我」と「汝」との人格的相互承認という契機(われわれ日本人の日常的な「我々」意識においては稀薄なこの契機)を顕揚するものとして留意に値する。と同時に、K・レーヴィットの指摘を俟つまでもなく、単に「我と汝」ということで判ってしまったつもりになることなく、謂う所の「と」を、単なる並存や合称という相においてではなく、アクチュアルな共互関係に即して、われわれに謂わせれば「役割的共互関係」に即して、存在論的に規定し返すことを課題として自覚化せしめる。これは、いわゆる「主体と主体との出会い」の問題にもほかならない。」394P
(対話M)「われわれは、以上、本節で隈取った役割的協働の存立性の構図に、以後、可及的に具象的な内実を賦える途に就く次序であるが、次章では「汝と我との出会い」から筆を起こすことになろう。」394P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(16)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第三節 役割協働の存立性
(この節の問題設定−長い標題)「人間の行為は、共互的役割行為の場合は勿論のこと、当人は孤絶な対物的行為を営んでいる心算の場合であってさえ、一種の協働的営為の構制になっているのが常態である。協働的行為は、われわれの見地から規定するとき、(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型に分けうるが、いずれにしても、当事諸主体の行為が(協働を手段にすることによって達成されるところの)目的を共有する態勢になっている。――協働的態勢の成立は、発生論的には、共鳴的同調・対抗的即応・模倣的協応の機制にまで溯る。――行為主体は自覚的協働の場において、「客体我々」ばかりか「主体我々」を形成する。」343P
第一段落――人間の行為は殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制になっている 344P
(対話@)「人間の行為は、前章第三節で指摘したように、第三者的・反省的な見地から規定するとき、殆んど全てが他者の協働に俟ち、分業的協働の一部部署の担掌という構制を呈する。亦、分業的協働の態勢は、次篇において主題的に討究するように、制度的物象化をも遂げる。」344P
(対話A)「本節の主要課題は――協働の汎通性を確認することでも、協働の物象化を見定めることでもなく――、協働的役割行為の共同的目的達成型の構制を分析しつつ、前節から持越した役割行為の共互構造の内在的検討を継続し、葛藤的構造を孕みながらも共同利害性=目的共同性の存立する構制、之に即して「主体我々」の現存在を見ることにある。とはいえ、行論の進め方としては、前節からの連続性を一旦中断する形になることをも厭わず、本来であれば前々節および前節において論じておく途もありえた発生論的・行動発達論的な基礎場面に溯って、役割行為・協働的営為の形成機序から論を起こし、以って前篇このかたの宿題にも応えておきたいと念う。」344P
第二段落――生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事 344-9P
(対話@)「役割的行為・協働的営為の発生論的機序について周到に論じようとする際には、生体の神経生理学的機構をも配視しなければならないであろう。がしかし、爰ではそこまで周到を期すことは紙幅が許さない。(著者は、本書では当面、身心関係については随伴説に仮託する形で議論を進めており、そのさい、条件反射の機制で屢々“説明”しているのであるから、そこでの神経生理学的機制に関してどのように自家諒解しているか、誌して然るべきであることを自覚している。だが、この論件については、別著『共同主観性の現象学』第一部の第三章および第四章で稍々詳しく論じておいたところの参看を願い、本書では割愛する。)爰では直截に、生体が一種独特の振動系である事実に留目することで次善としよう。」344P
(対話A)「生物体としての人間個体は、他種の高等動物も本質的には同様であろうが、優れて機能的な振動系を成している。それは多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられ、多種多様な振動の重合系である。それは非線形の非平衡状態を基底にしているにしても、揺動(flactuation)の引込み(entrainment)による同調化の機制によって、マクロには各位階・各位層の準定常的な振動系を形成しつつ、それらを重合している。そのため、生体は、振動的不安定性を孕みつつも、全体としては相対的に安定した振動相を呈しうる。――神経細胞は、電気的・化学的な諸刺激によって一過性の興奮を呈するが、定常的にリズム興奮しており、その固有振動リズムが刺激によって乱されることが情報伝達の一様式をなす仕組みになっている。神経系の興奮、神経を通じての情報伝達という事態は、物理・化学的な機構によって支えられてはいるが、物理・化学的状態そのものは振動装置にすぎないと言うこともでき、伝達・興奮の機能的な実質は振動であると言うことさえもできよう。求心的情報は振動状態の変化という示差をシニフィアンとして伝達されるのである。――今茲では、振動機構や遠心的・求心的な過程の振動的送達のパルス機構そのことに深く立入るには及ぶまい。当座の議論にとっては、生体は振動系であり、振動的伝達体=振動的反応体であるという事実を銘記しうれば足る。」344-5P
(対話B)「生体は内部的編制において振動系・共振系であるだけでなく、刺激受容の場面においても共振的であること、著者としては、今この事実を重視する。」345P
(対話C)「耳(聴覚器官)の機構を想ってみられたい。耳の内部機構は一昔以前にヘルムホルツやマッハが考えたような単純な共鳴器ではない。空気の振動(音波)との共鳴振動がそのまま弾性的振動のかたちで中枢に送達されるわけではない。中枢への送達は電気パルスに変換したかたちでおこなわれる。とはいえ、刺激収容の直接的場面では有毛細胞(の毛)が空気振動と共振する機制になっており、まさに受容装置と空気振動(音波)とが共振するわけである。そして、この共振的振動が、電気的パルスという別種類の振動に変換されてではあるが、ともかく、やはり振動のかたちで中枢へ送達され、謂うなれば中枢をも共振せしめるのである。」345P
(対話D)「眼の場合は如何? 光線は慥かに電磁波であるには違いないが、視覚的受容は音の聴覚的受容とは趣きを異にし、視覚装置が光波と共振するわけではない。しかしながら、視覚が可視的対象物の振動相を直截にキャッチできることを見落してはならない。対象物の振動に応じて(そこから反射されて到来する)光の布置が網膜の細胞上で振動する。そして、この振動が写像されて中枢に送還され、謂うなれば中枢的受容布置をも振動状態に引込み、間接的に中枢的状態を対象の振動と共振せしめる所以となる。」345-6P
(対話E)「惟えば、聴覚の場合、空気の振動と有毛細胞とが共振し、それの送達を受けて中枢的機能状態も共振する。そこで、振動という見地からみれば、恰度地震に際して地面と建物とか共振し地面と建物とが一体となった振動系を形成するのと同様、空気と生体とが一体となった振動系が成立していることになる。視覚の場合には、可視対象物の振動と視覚装置とが力学的に共振するわけでこそないが、対象物の振動と視覚装置の興奮布置の振動とが共振的になり、この共振的振動が中枢的機能状態を共振に引込む。このかぎりで、やはり、対象物と生体の機能的状態とを包括する一体的な振動系が形成されるわけである。翻って、個々の音ならざる音響リズムの知覚にさいしても、同趣の機制が認められよう。」346P
(対話F)「対象物の振動を触覚的に知覚する場合、ここでも直接的であれ、杖などを介してであれ、やはり、同趣の振動系が成立する。つまり、一方における対象物と、他方における皮膚的界面内の生体、これら両者の並行的共同振動というよりも、むしろ、両者を包括する一体的振動系が形成される。」346P
(対話G)「こうして、音声を知覚する場合、可視的対象物の振動を知覚する場合、可触対象物の振動を知覚する場合、対象的振動と共振的な生体振動が発生すると言うことができ、より剴切には、対象的振動と生体的振動とを包括する一大振動系が形成されると言うことができる。」346P
(対話H)「ところで、生物個体(皮膚的に劃された生体)は振動系として固有振動を有っており、このような個体どうしが共存の場に置かれたさい、共鳴、唸り、引込、同調、不調和、等々、振動学的な各種の現象を生じうることは、絮言するまでもない。断るまでもなく、著者は個体どうしの一切の関係を振動学的概念の枠組に押込むつもりはない。しかし、共振的現象が日常茶飯に見られるという事実、しかも、そのうちの或る種のものは間主体的関係の基礎的機制として、発生論的・発達論的な考察にとって極めて重要と目されること、この件を積極的に勘考する必要があろう。――R・ザゾやT・バウアーによって、生後間もない新生児が、母親が舌を出したり口をパクパク動かして見せたりするのに反応して、自分の側でも舌を突出したり、口をパクパクさせたりする観察事実が報告されている。この反応は、外部的に観察すると模倣(「まね」のルビ)行動のように見えるにしても、とうてい狭義の模倣行動ではありえない。現に、この反応はモロー反射などとも同様、やがて一旦は消失するのであり、生後二、三週間内にみられるにすぎない。この反応態勢は、ザゾも言う通り、「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)である。そのメカニズムはまだ解明されていない由であるが、これはおそらく一種の共振的機制に因って生じるものと思われる。――」346-7P
(対話I)「著者は、実践的世界における基礎的な体験現象であるところの、表情現象や情動現象を悉く共振現象・引込現象に還元するつもりはない。現に単なる表情知解の次元になれば情動的共振性は要件でなくなる。また、相手が怒ったり悲しんだりしているのを知って自分の側では喜ぶといった意地悪な情動性現象も存在しうる。がしかし、表情感得の次元、および、表示用感得と密着した情動現象の場面では如何であろうか。発生論的・発達論的にみて原初的原基的なこの場面においては、表情感得・情動反応はまさに共振的引込現象の機制に俟つのではないか。――著しい表情的顔貌・身振・態度は、ニコニコニコニコ、ワナワナワナワナ、ヒクヒクヒクヒク、ニヤニヤニヤニヤ、ピリピリピリピリ……というようにまさに振動的である。また、著しく情動的な発声は、キャキャキャキャ、ワッハハハハ、イッヒヒヒヒ、ウェーンウェーンウェーン……というように直接的に音写されるたぐいのものばかりでなく、ガミガミガミ、ブツブツブツ、ブーブーブーブー、シクシクシク……というようにリズム的に標記されるたぐいのものも振動的である。――なるほど、ニコニコといった顔面の振動運動やワナワナといった全身的振動運動は、そのまま弾性振動として他人に伝わって、他人の身体を直接に共振させるわけではない。また、ワッハハハハという音相で知覚される空気振動やガミガミガミというリズムで聴取される空気振動も、その音波的衝撃力で相手を共振させるわけではない。がしかし、上述の通り、視覚対象物の振動はそこから発する反射光束の視覚装置での受像相の振動となって写像され、この末梢器官で受信された振動相が中枢部に送達されて、謂うなれば中枢系の機能的状態相を共振せしめる。音波の形や強さやリズムも、またやはり、耳内部の有毛細胞をしかるべく共振せしめ、この振動相が電気パルスに変換され(シュナプスごとに逐次的なイオン反応−電気反応の継起を生ずることによって)求心的に送達され、中枢系の機能的状態相を共振に引込む。だが、この過程は、一方的に求心的なのではなく、中枢を介して遠心的にも伝播して行き、部位によって位相差はあるにせよ、謂うなれば全身的な振動状態を現出せしめる。こういう全体的な共振状態の局部的な表われとして、受信者側の顔面にもニコニコニコニコという発信者側のそれと共振的な顔面振動やワッハハハという発信者側のそれと共振的な声帯振動が現出する、という事態が生じうる。」347-8P
(対話J)「人間という生体は、音叉や共鳴箱のような簡単な機構ではない。外見的に見た場合、例えば互いに笑い合うとか、互いに嘆き合うとか、直接的な共振・共鳴のように見えるさいでも、中枢的過程を介してはじめて共振が成立する。音楽やダンスのリズムに乗るようなケースでもやはりそうである。しかしともあれ、事実の問題として、人間というこの振動系は、いわゆる表情感得・振動反応の場面において、存外とよく共鳴するように出来ているように見受けられる。」348P
(対話K)「この可能的共鳴・共振の態勢は、生体機構の類同性・同型性によってアプリオリに保証され尽しているわけでは勿論ありえない。人は或る部面から共鳴の仕方をも「学習」しなければならない。だが、原基的・原初的な局面における「情動の学習」、つまり、対人的関係場面でおこなわれる“情動性経験”、これは共振・共鳴の機制を措いては成立し得まい。とすれば、新生児と母親との「カップリング」等々、表情感得・情動反応の原初的・原基的な階梯において既に見られる共振現象、これを説明しえんがためには生得的解発機構として共鳴的機構が一応本具的であると解するのほかはないであろう。この共鳴的解発機構は、後天的に陶冶され再調整されるにしても、共振を現成せしめる可能的な機構そのものとしては生体に本具的な振動機構の筈であり、それが他個体のそれとのあいだに錯構造的な連関態を形成するものと考えられる。」348-9P・・・宿題にしている「生得的解発機構として共鳴機構が一応本具的である」という提題は物象化ではないかという疑問の解?
(対話L)「われわれは、今やこの振動機構を勘案しつつ――といっても、生理・物理的機構なるものの認識論的・存在論的な権利・身分については、第一巻最終節で表明したごとき厳しい限界決定を施したうえでのことであるが――、対人的応答、そこにおける個体間の共振・共鳴的な同調の進捗、ひいてはまた、対抗的即応や模倣的協応の進展に即して、役割的行動・協働的営為の形成と展開を縦観しておく段である。」349P
第三段落――役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態としての共鳴的同調行動 349-53P
(対話@)「役割的行動・協働的行動の直接的前梯ないし端緒的形態として、共鳴的同調行動を先ず配視しておこう。」349P
(対話A)「「共鳴的同調」行動というのは、第三者的に観察・省察すれば二人(または以上)の当事者たちの行動が同型的・同調的であるケースのうち、当事者自身においては、少なくとも一方が、自分の行動と相手の行動との同型性・同調性を現識していないような行動の謂いである。――例えば母親のあやしかけの音声リズムに応じて嬰児が共振するとか新生児どうしの泣きの「伝染」とか(但し、もう少し大きくなった時点での嬰児のいわゆる「もらい泣き」は別)、このたぐいの現象においては、両当事者のいずれも行動の同型性・同調性を現識していない。また、ザゾやバウアーの報告している新生児の母親との同調運動のごときにあっては、当事者の一方がそれを現識していない。(なるほど、このような場合についても、第三者的見地から“信号送受”とか“模倣調整”とかを云々する語法もありえようが、しかし、著者としては次元的混淆を避けるべく、信号とか模倣とかを拙速に云為することは慎しみ、右に挙げたケースのごときはひとまず単なる「共鳴的同調行動」と呼ぶ。) ――但し、共鳴的同調行動は、少なくとも一者の側の行動が無意識的な行動である場合とは限らない。両当事者とも意識的に覚醒していても差支えない。唯、自他の行動様態の同型性・同調性ということを(少なくとも一方が)現識するに至っていないという限定なのである。」349-50P
(対話B)「惟えば、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)は、動物学的にみるとき多分に未熟なまま出生するので、生得的=本具的な解発機構のうち多くのものが一応の完成態に達する以前から胎外的環境に置かれる。が、早産性・未熟性の故に、人間(「ヒト」のルビ)の新生児は重厚な保護を受ける。このため、新生児にとっての環境は、他種の動物が生後まもなく内存在(「イン・ザイン」のルビ)関係に入るそれに比べて、対物的刺激に乏しく、新生児にとっての到来刺激のきわめて多くが母親(養育者)に由来する。人間(「ヒト」のルビ)の新生児は、未熟なるが故に長期の保育を必須とし、ために、他種の動物よりもはるかに長期にわたって、母親由来の対人的刺激を主斑とする場に置かれる。こうして母親の養育活動への応答的適応が生存の基本的条件をなす態勢に長期間おかれるということは、嬰児にとって対母親の同調的適応ができなければ生存・生育ができないということをも意味する。――この生存条件に応ずる“造化の妙”とも言うべきか、新生児は母親との著しい共振現象を呈し、この無意識的な同調的動作、例えば微笑をはじめとする表情が、母親の側の濃密な働きかけを解発する。その働きかけたるや、未熟早生なるが故の動物学的必須性という域を超えて、あやしかけや戯れかけ、模倣的反復などに及ぶ。」350P・・・母性の強調? 乳母制度などの対象化
(対話C)「乳児の側での共鳴的同調行動が、こうして一種の信号的機能を演じ、母親の側の過分な反応的働きかけを誘発するという事実、これは人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)という動物種における行動発達論の前提として銘記されてよい一事実であろう。」350P
(対話D)「偖、乳児が生後まもない時点から母親の声や顔面表情に対していちはやく呈する共振的・共鳴的な反応はおそらくまだ意識性を伴った反応ではあるまい。しかし、ともあれ、乳児は早くから母親の声ひいては人声のする方向に顔を向ける。」351P
(対話E)「この現象は、左右の耳から入来する音波の位相が合うように自動的に調整する機制、単純化して言えば、風向器(風見鶏)が左右両側に請ける風圧が等しくなる(均衡する)よう自動調整されるのと類比的な、謂うなれば生体物理学的な調整機構に因るものと考えられる。また、凝視対象を正中面内で把えようとする頭部・眼球の運動も同趣の機制に因るものと見做されうる。(尤も本具的解発機構が備っていても、励起状態になれば、解発刺激が到来したからといって自動的に一義的反応が発現するものではない。生体の反応は外来刺激の一価函数ではない。)これらの現象は、光波や音波の位相調整という機制に留目するかぎり、まさに左右から入来・伝播する振動の相同化と相即する。」351P
(対話F)「視覚と聴覚とは、しかも、早期から協応しており、母親の顔面部は、単なる可視対象でも、単なる音源でもなく、両者の融合したもの、すなわち、音源的可視対象とでも呼ぶべき相にある。――理屈を言い出せば、視覚・視野と聴覚・音声とは無関係であり、視界の内部に音(音源)が定位される謂われはなさそうに思える。しかし事実の問題として、乳児は母親の顔面(口唇部)とか、ガラガラとか、視覚的に現認している対象物から音声が発していること(そこが音源であること)を直截に覚知する。この事実を説明しえんがためには、ともかく、視覚と聴覚との間に協応の機構(おそらく条件反射バーン)が存在するものと推定せざるをえない。――この協応的機制は、一般化して謂えば、音を視覚的対象へと音源的に帰属させる機制であり、音源的交信を可能ならしめる基本的一条件として重要である。が、それ以前に、初歩的な表情感得・情動反応・協応動作の解発される場面においてすでに重要な機能を演じる。」351P・・・「障害者」と言われる者たちの知覚認識にも論及する必要
(対話G)「乳児は、母親の声がすると、自分が激しく泣いているような場合を別にすれば、母親の顔に視線を向ける。そこで母親の当の声は、右に誌した音源的帰属の機制によって、それの発せられたさいの母親の顔貌に帰属化される所以となる。ここにあっては、声も顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される。」351-2P
(対話H)「溯って、新生児は、頬をつつくと口許をほころばすとか、口の周りに指先や乳首で触れると吸いつくとか、こういう無条件反射を現出する。が、このたぐいの触覚的・力学的な直接的刺激だけでなく、また、苦(「にが」のルビ)い味のものが口に入ると吐き出すとか、物が急激に眼前に迫ってくると眼を閉じるとか、このたぐいの味覚性や視覚性の刺激だけでなく、音声も反射的な行動を解発する。或る日齢に達すると、先刻来くりかえし誌してきた母親の声のする方へ顔を向ける反射のほか、一定の音調での呼び掛けに応えて微笑するとか、大きな音が響くと驚愕して行動を停止するとか、このたぐいの、音声を解発刺激とする反射的反応もある。」352P
(対話I)「一見するとこれはいかにも「信号受信−信号解読」にもとづく反応行動のように見えるにせよ、少なくとも原初的な場面では、生得的にビルト・インされている解発機構の発動による無条件反射と解さねばなるまい。反射とはいっても、無論、それは蛇口を捻ると水が噴出するというような単純な眼メカニズムによるものではなく、それなりに複雑な機構での連鎖的反応の帰結であるには違いない。が、適応刺激という鍵の挿入によって生得的機構の錠が開かれたともいうべき機制の域をいくばくも出ないものと言えよう。――尤も、皮膚への力学的刺激は延髄まで達したところで直ちに遠心的過程が発動されるのにひきかえ、音声刺激は大脳過程を介するという点で位階的差異を認めるべきかもしれない。だが、そうだとしても、ハード・ウェアもソフト・ウェアも、本具的なままのもので反応行動が発露するという点では、音声的刺激による解発反応のうちの原基的な位層も、やはり同工異曲と言えるのではないか。――乳児が、産院などでお互いに近くに居る時に、一人が泣き出すと他の者も共鳴的に泣き出す「伝染現象」が知られているが、これなどはさしづめ音声刺激によって共鳴的に解発(「アウスレーゼン」のルビ)される反射的行動と見做される。」352P ・・・宿題の核心?
(対話J)「嬰児は、以上いくつかの例を交えながら挿絵風に描出(「イラストレイト」のルビ)してきたように、生得的な解発機構を基底にして、各種の無条件反射を呈する。が、そのさい、視覚と聴覚との協応に限らず、一般には、有機感覚や触覚などをも含めてsensory cross-modal-matchingの機制に負う、かなり複雑な「知覚−運動的」(perceptif-cinétique)反応を現出させる。その一斑として、ザゾやバウアーの報告している現象のような共振的同調や、母親の微笑表情に対する微笑(「ほほえみ」のルビ)返しなどの共鳴的同調が現成する。人間(「ヒト」のルビ)の行動発達の初期位相における母子間の共鳴・同調現象については、小林登・石井威望氏等の共同研究など、近年の我邦において瞠目すべき研究成果が蓄積されているが、ここでは共鳴的同調現象の発達を詳細に辿るには及ばないであろう。――」353P・・・動物としての規定性の強調?−「本能を喪失した動物」規定との関係?
(対話K)「当座の論脈においては、信号的送受や模倣的協応の前梯として、共鳴的同調という態勢が存在するという事実を銘記し、表情性感得と相即的に現出する共鳴的同調という共振的現象こそが新生児における対人的供応の原基形態であることを確認しておけば足りる。」353P
第四段落――信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面 353-7P
(対話@)「対人的共振と言い、共鳴的同調と言っても、それは同時位相で現成するものとは限らない。われわれは時差を隔てた同調現象(遅延模倣など)をも配視する必要があり、また変形された同型対応をも勘案する必要がある。ここでは同型的行動のプリミティヴな形態に即して「自他の行動の同型性」の対自化に関わる問題構制の一端を再確認したうえで、信号的授受というかたちでの役割的協働の初次的場面に目を向ける運びとしよう。」353P・・・いわゆる「遺伝」の問題も押さえる
(対話A)「嚮に第一篇第二章第一節の行文中で援用した久保田正人氏の報告を想起して頂きたい。六ヶ月児g男は他人がレモンを舐める情景を目撃して直截に酸っぱそうな顔をしたのであったが、そのさい彼は以前に自分が舐めた折りの情景を想起的に覚識したわけではあるまい。この局面では、射映的情景を<舐める>という所識態で覚知するといっても、舐める行動なるものが概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)されるにはまだ程遠い域にとどまっていると想われる。が、レモンの視覚刺激と味覚刺激とを含む全体的刺激が酸っぱい顔の反応を最初に解発したのだとしても、レモンの視覚刺激だけで条件刺激になっているわけではない。g男は、おそらく、あのレモンに他の物体が接触するのを目撃したとしても、それだけではやはり酸っぱい顔はしないことであろう。酸っぱい顔を解発する“条件刺激”たるためには、レモンに接触するのが特有の姿のものであり、しかも、接触する仕方が特有な様式であることを要すると想われる。とすれば、<舐める>というゲシュタルト的所識態は、少なくとも、特有な姿のものの特有な仕方での接触を含意している。そして、姿態や仕方は、自分が舐める場合と他人が舐める場合とでは、射映的な相貌が甚しく相違するにもかかわらず、それら相異する射映的与件が<同一の所識態>で覚識される次第なのである。」353-4P
(対話B)「ここでの同一視は、おそらくアン・ジッヒであって、あれとこれとを自覚的に比較して確認する同一視ではない。さりとて、しかし、実験者の側は別段すっぱそうな顔はしなかったのであるから、それは決して表情的共振・共鳴といった、専ら第三者的にのみ観察される同一性ではない。アン・ジッヒではあれ、ここでの“同一視”はフェア・エスな事態の筈である。(今茲では生理学的な機制の推定には立入らないが、身心関係に関して前篇このかたわれわれが妥協的・暫定的に托している仮設に則れば、ともあれ如上の“同一視”を“随伴”するごとき身体生理的機制が成立するに至っているものと考えられる。そして、射映的相貌の異なる自・他の舐める行動という与件を<同一のゲシュタルト的所識態>で覚知するという二肢的二重性の構制がそこに存立し、この二肢的構制を可能性の条件としてg男の同型的反応が現成する。)」354P
(対話C)「単なる共鳴的・共振的な同調反応の域を超えた斯かる“同型的反応”の高次的形態として、発達心理学に謂う「延滞模倣」のごときも成立するが、さしあたっては信号的送受活動のプリミティヴな形態が見られる。今や信号的送受という対人共応(役割的協働)の原基的構制を論件とする段である。」354P
(対話D)「「信号送受」活動の初期的段階にあっては、「信号」「送信」「受信」といってもフェア・ウンスな規定であって、当事者自身においてはアン・ジッヒでよい。が、われわれとしては「信号(「シグナル」のルビ)」と「象徴(「シンボル」のルビ)」とはひとまず別種であることに留意して掛らねばならない。」355P
(対話E)「「信号」は、初等的には「象徴」以前的に、「無条件刺激−無条件反応」の解発の場面に根差す。一者によって呈示され他者によって知覚的に現認される所与的現相が、少なくともフェア・ウンスにはコード性を以って、他者の側に一定の反応行動を解発(「アウスレーゼン」のルビ)するとき、当の呈示現相を「信号」と呼ぶ。(「象徴(「シンボル」のルビ)」について、また「信号的結合」と「象徴的結合」との別などについては前篇第三章第一節を参看されたい。より詳しくは、別著『表情』の第三章第三節、および、別稿「記号論の哲学的次元」[丸山圭三郎氏との共著『記号的世界と物象化』所収]を参照頂き度いと念う。)」355P
(対話F)「発信・受信にはきわめて高度の意識性を伴う水準のこともあるが、われわれとしては最低を次のレヴェルに置く。――「発信とは、当事者が自分の為(「な」のルビ)している行動を能動的覚識を伴って調整しつつ、或る現相の出現を期待している事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、期待されている当の現相の出現が発信者とは別の能知能動的な主体の受信に縁る応答活動の所業であるケースの謂いである。われわれとしては、当事者の期待している現相が他主体の所業であることを当事者本人がフェア・ジッヒに意識しているような発信だけでなく、他主体の所業という認知的意識性はまだ欠けているようなレヴェルの発信をも認めようというわけである。(但し、唯単なる予期的・期待的な行動一般から区別する条件として、フェア・ウンスには見た場合の対他者的構制を種差的に導入していることに留意されたい。) ――「受信」の側についても、われわれはこれまた、信号の意識性を十全には伴わぬレヴェルから認める。所与現相の知覚的認知と相即的に一定の行動が解発される事態のうち、フェア・ウンスにみるとき、(所与現相と解発行動とのあいだに少なくともフェア・ウンスにはコード的対応性があるという意味で「一定の」と右に記し、このことによって「能起−所起」関係を含意しているので、このことはあらためて述べないことにして)、当の所与現相が、被解発的行動者とは別の主体の身体的現象ないしその別主体に発源的に帰属する現象である場合、「受信」と謂う。この定義にあっては、単なる事物によって解発される行動は受信行動とは呼ばず、少なくともフェア・ウンスには、発信者が主体的存在者と認められる場合に限って、そこでコード的対応性を以って解発される行動を受信行動と呼ぶ(但し、われわれの定義では、発信者が発信の意識を自覚的に伴わぬ場合を含める形になっていることに注意されたい。)尚、「所与現相の知覚的認知と即応的に一定の行動が解発される事態のうち……」と上記したさい、「知覚的認知」が要件であって無意識的反射は除外されていること、「即応的に」であって“自覚的理由として”とか“惹起的原因として”とかではないこと、この点にも留意を願い度いと念う。」355-6P
(対話G)「さて、「発信−受信」という役割的協働行動は、発生論的・発達論的には、共鳴的同調行動から連続的に展開する。「発信」は、原初的には、空腹での渇望的に泣くとか、排泄後の不快時に泣くとか、こういう無意図的な、言うなれば自動的な生体的反応が偶々(「たまたま」のルビ)現出したところ、それが(母親の側の生得的解発機構に対する解発刺戟となって)一定の現相を出現せしめる体験、これに縁(「よ」のルビ)って成立するようになる。やがては、声を出すと、あの顔(母親)が現出するとか、両腕を差伸べると抱き上げせれるとか、このような体験にもとづいた信号活動も形成される。ここでの「発信行動−期待実現」は、心理学に謂うオペラント条件づけに照応するであろう。――オペラント条件反応はパブロフ型の古典的な条件反応と、神経生理学的な基本的既成すなわち新回路(「パーン」のルビ)の開通という機制では本質的に同一であるにしても、区別を要する。古典的条件反射の場合、先ず受動的に無条件刺激が与えられて(これに引続き報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられて)そこで一定の条件づけられた反応が成立する。それにひきかえ、先ず偶然的に或る能動的な行動が生起したのに引続いて、報酬的ないし懲罰的な刺激が与えられる体験、これに縁って(一定のポジティヴな与件の出現を期待して、ないしは、ネガティヴな与件の回避を期待して)或る一定の行動がおこなわれるようになる条件反応がオペラント条件反応である。――このさいの、能起的行動と所起的現相とのコード的対応関係、これの一定性は、原基的には、上述したように、当の能起的行動が母親の側の生得的解発機構を解発する。生理機構上の反応的一定性に因る。また、当の行動と所期的現相との期待的連結は、体験的過去における「当の行動→当の現相出現」の記憶的パーンの励起に負うものと想われる。嬰児の側について言えば、原初的には、まずこのような準位での発信的行動が成立する。」356-7P・・・母性本能がビルトインされているという構図 ?
(対話H)「「受信」活動は、嬰児の側に即して言えば、無条件反射および古典的条件反射において端初的に形成される。嬰児の意識態においては、表情感得プロパー、すなわち「情緒価と協応価とを内自化せる知覚的現認」一般に応じて、“受信”的な行動が発現する。嬰児にとっての環界内的現相は悉く表情価を帯び、その内自的契機としての“信号価”を帯びている。このかぎりでは“発信”体が事物であるか動物や他人であるかは選ぶところがない。そこには、単なる共鳴的同調のケースも含まれうる。但し、われわれとしては、前記の通り、「信号送受的活動」従って「受診」という概念を、右よりも狭く定義し、少なくともフェア・ウンスに、能起的所与現相が「被解発的行動者とは別の主体の身体現象、ないし、その別主体に発源的に帰属する現象」であると認められる場合に限って「受信」というテクニカルタームを用いる。われわれのこの用語法に則るとき、嬰児が原初的な場面で「受信」するのは、当初は殆んど(註)専ら、母親の表情現象である。(既述の通り、母親の発する音声も、生後ほどない時点で、母親の顔面的表情に内自化され易い。)そして、嬰児の側における受信的な反応行動も、これまた、当初は殆んど専ら表情的現象である。笑顔に対する喜びの表情反応、穏かな表情に対する安堵の表情反応、心配顔に対する不安の表情反応、等々。――だが、これらの表情的な共振的同調には限らない。われわれの定義からすれば、嬰児の側が母親の表情を感得するという意識態において表情感得と相即的に呈する行動はすべて「受診」的反応活動に算入されうる。」357P
(註) ここは「始んど」になっていたのですが、「殆んど」の誤植と想われます。
第五段落――威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいを押さえる 358-61P
(対話@)「信号的活動の段階的な発展を跡づけ、交信的行動の進展を主題的に論じようとするさいには、発声や視線への追随という言語的記号活動の前梯も重要な論件となるが、われわれの当面の関心からすれば、威嚇の表情に対する恐怖的停止、警声や𠮟声に応ずる反射的な行動中断のたぐいが茲で特筆されねばならない。」358P
(対話A)「乳児は母親が独得の音質と抑揚を以って鋭く発音する或る種の音声(ダメッ! メェー、等)によって行動を停止する。これは、原初的には、突然響いて来た大きな音に驚愕(「びっくり」のルビ)するだけのことかもしれない。がしかし、このさいの驚愕(「きょうがく」のルビ)的事態というのは、第三者的に見れば、乳児の側が一定の情動的興奮と相即的にその折りの身体的行動を停止する所以のものとなっており、母親の発した声が乳児の行動を抑止する機能を演ずる所以となっている。第三者的に言えば、母親の発した独得のその音声が乳児に行動を停止される信号となっているわけである。まずは、ともあれ、このような次元で、音声が反射的反応行動を解発しうる。そして、この音声は、先述した視覚的対象への音源的帰属の機制によってその折りにおける母親の顔貌に内自化されがちである。」358P
(対話B)「聴覚と視覚とが協応して顔面表情の一成分ともいうべき相で覚知される母親の声が乳児の情動的興発や反射的行動を解発するこの機制は、何も驚愕と停止だけに限られてはいない。独得の質態・度量・趨勢値の音声はそれに応じた幾種かの基礎的な反応行動を解発しうる。しかもそのような声は、母親の顔貌と融合するばかりでなく、むしろそれ以前に、母親の抱き具合の変化などに照応する種々な触覚性体感とも未分化的に融合しているのが普通である。人間(「ヒト」のルビ)の場合、胎内期から既に音声的分節化が或る程度までは既に進行していると言われるが、生後に感受される音声は、触感性の体感や母親の顔貌とコングロマリットを成した相で分化や汎化が進展するすると考えても大過ないであろう。まさに、表情的現認相・情緒価・協応価の融合的全一態を基底にしての分化・汎化である。――ここに心理学者流の詞を用いればクロス・モーダル・マッチングが形成されており、そのため、例えば警声というように、生得的な解発機構・無条件反射機構それ自体としては「音刺激→一定様式の斯々の反応」がビルト・インされているものであっても、協応的シェマの成立している他種の刺激感覚、例えば顔貌視知覚によって当の行動が解発されることも可能となる。この例で言えば、つまり、顔貌視知覚が条件刺激となって、生得的機制としては元来警声に応ずる筈の反射行動が、一種の条件反応として解発されるといった事態が生じうることになる。このさい、しかも、当の条件刺激たる顔貌の質態相・度量相の分化が、それは元々単独の視覚相ではなく、上述のコングロマリットの分化であるがゆえに、非常に精緻なものになりうる。」358-9P
(対話C)「乳児が分節的に知覚する母親の顔面表情は音声や触覚的体感と融合しているのが常態であるにしても、顔貌の或る種の視覚性刺激それ自身も信号価を有ちうる。なるほど、相貌的視覚性の刺激が乳児に一定の行動を触発する場合、上述の協応的シェマのもとで条件づけられた反射であって、無条件反射でないように考えられ易い。実際、表情的顔貌に対する反応には、広義の学習にもとづくもの、しかもオペラント条件づけにもとづくものが圧倒的に多いことであろう。しかしながら、相貌的視覚性の刺激を解発刺激とするたぐいの生得的解発機構が存在することには疑いを容れない。そして、動物実験心理学の知見(威嚇表情→恐怖反応)からすれば、顔貌という知覚的刺激が、それ単独で一定の情動的反応・共応的行動を解発しうる場合が厳存する。」359P・・・「障害者」と規定されるひとたちの生得的解発機構を考えること
(対話D)「顔貌的に感知される(他者の顔面から発する)視覚性刺激が解発する反射的行動のうちには言語的記号活動との関連で格別に重要な「視線の読み」「視線の追い」もある。これは、顔貌的に呈示される表情的与件が特定の共応的行動を解発する信号(「シグナル」のルビ)として機能するという部面でも重大な一現象であり、間主体的な協応的行動の陶冶的形成にとっても重要な基礎的一機制をなす。今茲では、視線の読みということがもつ生物学的な意義や、それが動物学的にみてどの範囲まで認められるかといった方面には立入らぬが、視線の読みは、視線単独の認知ではなく、それは顔面表情(時によっては全身的な身振・態度)の全体的感知の一成分をなしていること、この点を銘記しておきたい。」359-60P
(対話E)「われわれは、以上で、表情現象と密接に関連性をもつと想われる生得的解発機構による信号送受にアクセントを置いて一端を見てきた。動物の、従って/況んや、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の、情動的反応・共応的行動は、しかし、言うまでもなくその悉くが生得的な反射的解発ではない。生得的解発機構を基底的な存在条件としつつ、そこには条件的反応が後天的に加わり、これが生得的反応をも修整する。――条件反応の形成が広義の「学習」にほかならないわけであるが、この誘因的(incentive)刺激は、事物的与件に由来するものも勿論ありはするにせよ、動物的他個体(わけても同種の他個体、さしあたっては就中養育者たる母親)に因由する信号的刺激が圧倒的であり、亦、重要である。間主体的な協応がアン・ジッヒに現成して行くのも、生得的解発機制を前梯とする無自覚・自覚的な学習、すなわち、条件反応の重畳を通じてのことである。――乳幼児の側における信号受信的学習(養育者の側から言えば信号発信的教育)、これが行動のサンクショナルな規制の可能的機制であることは殊更に指摘するまでもなく容易に諒解されよう。」360P
(対話F)「行動発達論的な追跡が主題的に試みられる際には、右に謂う語の広義における「教育−学習」(これは役割的協働の重要な一定在形態でもある)の具体相の討究が図られねばならない。亦、われわれが爰でそれの端初的・初次的な局面に止目した信号的送受という活動についても、以後的な発展を辿り、言語的活動(さしあたってはいわゆる言語習得)をも論件とし、信号と象徴(熊野純彦氏に俟てばシグナル・シンプトン・シンボル)の記号論的な区別と連関を配視しつつ、信号活動と象徴活動との成立と相互媒介の問題などを論攷する課題を負う。このことを承知してはいるが、爰では協働の基本的存立構制、わけても間主体的共応の存在構造の対自化に主眼を置いているので(この論脈に属しながらも前篇から宿題として持越した論点に関わる限りで発生論上の幾つかの必須的論件にコミットするに止め)、発達論上の周到は期さないことにする。(この論件については、これまた不十全であるとはいえ、別稿「役割理論の再構築のために」第二章第二節の第二・第三項、別著『表情』第三章第三節などを参看いただければ幸いである。) ――以下では慌しく「模倣的協応」という協働の存立構造にとって直截に重要な論件に当座の主題を移すことを許されたいと念う。」360P
第六段落――模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制の分析 361-7P
(対話@)「先に一瞥した「共鳴的(共振的)同調」からの発達論的連続において模倣行動の発生を見定めたうえで、模倣行動の存立構造、模倣の主体的行為としての構制を分析する運びにすることがここでの課題である。が、論者のありうべき疑義を防遏する含みで、事前に若干言を費しておくべきかもしれない。」361P
(対話A)「「模倣」が、協働の成立にとって、一般に社会的行動の形成にとって、極めて重要な機制であることは誰しも否定しないであろう。だが、学説史上、社会学的にも心理学的にも、模倣の位置づけをめぐっては、議論が岐れる。――周知の通り、模倣の法則を社会理論の基幹に据えたG・タルドの立場に対してE・デュルケームとその学派が厳しく批判し、一旦はタルド派を奢(おご)った看があった。G・H・ミードも亦、或る特殊な文脈においてではあるが、彼の時代に有力であった模倣を説明原理とする心理学上の理説を卻けている。近くはK・ホールやM・ゴスウェルが猿の行動発達に関して、動物心理学の方向における模倣説を批判するに及んでいる。――著者は、素より、模倣行動を社会的行為の基本形態に据える存念はない。がしかし、往時の模倣説が“粉砕”されたという形式的史実に跼蹐(きょくせき)することなく、事実として重要な模倣という行動形態にあらためて留目の要があると考える。今日では、嘗(「か」のルビ)つての論者たちのように自発的・自覚的な主体性を前提する構図のもとに行動形態の模倣的学習をもっぱら想定したり、或いは逆に亦、模倣本能なるものを前提として学習をことごとく模倣に還元する流儀で処理することは、無論もはや論外である。模倣は、決して、実体的個体の“知性的に自発的な行為”でもなければ、“本能的に自動的な行動”でもない。模倣的な動作は、対他者的な関係場において解発(「アウスレーゼン」のルビ)されるものであって、共振的同調現象と連続的であり、高次的形態にあってさえ一種の深層催眠的拘束の機制に俟つものであって、実体的内発性の発露ではない。とはいえ、模倣行動は、いわゆる自我形成の現場的階梯に存し、自覚的役割行動の形成過程とも相即する。けだし、これの討究を逸しえない所以である。」361-2P
(対話B)「偖、「模倣」という言葉は、日常的にも学理的にも広狭多義的に用いられ、単なる共鳴的同調や単なる追随行動のごときをも、第三者的にみて同型性・同調性が看取されさえすれば、直ちに「真似」「模倣」と呼ばれることもある。がしかし、著者としては、単なる「共鳴的同調行動」と「模倣的調整行為」とを区別して扱う。」362P
(対話C)「定義的に誌せば、模倣的調整行為とは、当事者たちのうち少なくとも一方が、相手の行動と自分の行動とが同型的になるよう、自分の行動を意識性を伴って調整している行為である。――この暫定的“定義”からすれば、例えば、母親の側が乳幼児の側の行動(発声、表情的顔貌、仕草などを含む広義の行動)を一方的に真似る場合も模倣的調整行為の一形態として含まれうる。行動発達論上の事実問題として、このたぐいの共鳴的・共振的事態、一種の教育的な働きかけを機縁にして乳幼児の側の自覚的模倣が大いに進捗する。――議論を進めるに方(「あた」のルビ)っては、しかし、母親の側さえ同型性の意識や同型化の意思を有せぬ場面での共鳴現象や追随現象から連続的に視野に収めねばなるまい。」362P
(対話D)「模倣は、各種の追随的・共時的な同調的反応を前梯とし、その共時的追随動作の過程で、例えば、意識性を伴った微笑とか、“良(「い」のルビ)イオ顔”とか“オツムテンテン”とか、このだくいの調整行動になってようやく現成するものと思われる。が、共時的な模倣であるかぎり、単なる共振的・追随的な動作であるのか、意識的な調整に因る模倣であるのか、判別をつけ難い。その点、いわゆる延滞模倣ともなれば、これまた半自動的な追随と目されうる初等的階梯がありうるとしても、嚮に定義した模倣の域に達している場合が多いものと認められよう。」362P
(対話E)「われわれが前篇のかた援用しているg男との関連で久保田正人氏の方来しておられるf女の事例が当面の行論にとって好便である。」362-3P
(対話F)「「百二十一日目のf女に次のことがあった。母親が歌をうたいながらベッドの柵(「さく」のルビ)を軽く叩いてやっていると、子供は母親を見て笑っていたが、やがて母親をじっと見つめはじめた。歌がおわると、子どもは独りで、母親のほうは見ずに、その歌のメロディーの一部を、うたいはじめた。……七ヶ月以後のf女は、大人がやっている掃除とか布団たたみとかをじっと見ていて、あとでそれに似たことを独りでやっている、ということが目につくようになった。//このような模倣にとって、手本と子どもとが日ごろ愛情で結ばれていることはひとつの有利な条件だと思われるが、このような条件がなくても、模倣は大変広範に起こっているのである。動作のまね、発声のまね、といわれることは、日ごろ個人的なつきあいのない動物同士、それも種類のちがう動物の間でも起こる。動物園ではその例が多い。ジャンプをしないと思われていたオランウータンが、チンパンジーの動作を見ているうちに、ジャンプをした、という観察もある」(前掲書、一九五頁以下)。」363P
(対話G)「ここに大いなる疑問が却って湧き起こる。一体、人間(「ヒト」のルビ)にせよ動物にせよ、その場面の模倣行動にこれといった生物学的意義はなさそうに思えるのに、何故そのような模倣行動をおこなうのか? 生得的解発機構が適応刺激によって発動されたものとも思えないし、他個体によって強制された様子もみられない。それにもかかわらず、何故、“遊び”に類する模倣行動が出来(「しゅったい」のルビ)するのか? 省みれば、学説史上、「尊敬にもとづく追従」説や「模倣本能」説が唱えられたのも、模倣行動の動機や発生機構が不可解だったことを一因としてのことであったと思われる。――群棲動物には仲間の行動を模倣する傾動が生得的であると言えば、そのとたんに本能説になってしまう。――」363P
(対話H)「この一大難問に正面から普遍的・一般的に回答を試みることは姑く断念して、まずは、模倣という与件事実そのものの構制を分析しておこう。この作業に当っては、Fort-da,peek-a-boo(いない、いない、バー)を論材にするのが後論との関係からもわれわれにとって便利である。」363-4P
(対話I)「「いない、いない、バー」は、なるほど、単なる共鳴的同調行動の域を超えたものであることは確かだとしても、当初から果たしてわれわれの定義する意味での「模倣的調整」行為であるかどうかは疑われうる。それは、「オスワリ! 」や「オ手!」を犬が条件づけられる流儀で、大人が手をとって仕向ける強制によって、受動的に条件づけられたものであろう。そして、大人の側がいないいないと言って眼を手で覆う仕草や発声は、初めのうちはたかだか条件刺激であり、嬰児の反応が条件反射にすぎないとすれば、それは初次的な信号送受的な活動ではあっても、到底まだ模倣的調整行為とは呼べない域に止まる。(いわゆる「遣り取りゲーム」すなわち「オ頂戴遊ビ」も、当初には、ほぼ同様であろう。)しかしながら、嬰児が、眼を瞑ったまま反射的・機械的に顔を手で覆ったり手を放したりする段階をすぎて、指の間から盗み見をしながら、相手の動作と位相・タイミングを合わせて「イナイイナイ・イナイイナイ・バー」をするようになっている局面では、明確に、われわれの謂う「模倣的調整」の階梯に達していると言えよう。」364P
(対話J)「乳幼児の側での模倣的調整行為が形成されるためには、それに先行する信号的活動の或る階梯で準備・形成される幾つかの機制が前提的要件をなす。第一に、ディスポジショナルな予期的知覚(予期的表象の籠った知覚、ともいうべきもの)の形成である。すなわち、現前する知覚的現相がどのように推移的に変貌していくかの趨向予見的知覚が成立していることである。予見・予期といっても、無論、それは遠い将来に関わる想像ではなく、謂うなれば、メロディ的知覚とでもいった時間性ゲシュタルト覚知である。(予期的知覚という稍々奇異に響きかねない表現を執る所以でもあるが、聴き慣れたメロディの頭初部が現出したさい、後続部が、表象的に分離して泛かぶのではなく、謂うなれば補完的融合相で予期的に現識される。或る種の既成的理論の見地においては、知覚は現在的感覚であり、予期は想像的表象である、とされ、予期が可能になっているのは、過去における継起的進展相の記憶が蓄積されているからだ、とされることであろう。なるほど、記憶的バーンが励起されていることは確かであろうし、予期的未来相が感覚的所与でないことは確かである。だがしかし、体験相の如実態を記述しようとすれば、メロディの頭初部に接した場合などに体験されるような“予期的知覚”とでも表現するのほかのないことは、読者の諒解を得られることかと念う。――茲では、フッサールの謂うProtention (未来志向)との異同は論(「あげつ」のルビ)らわないでおく。)「いない、いない、バー」などにおいてはまさにそのような“予期的知覚”が体験される。が、ディスポジショナルな予期的知覚、予料(「アンティツィパチオン」のルビ)というものは、何も対人的な信号活動的場面での期待だけに限られるものではない。運動・変化の推移を見慣れた物的現象に接する場面でもそれは成立する。この予料、予期的知覚ということが模倣的調整行為の可能性の条件として真先に挙げられねばなるまい。第二には、他個体がよしんば全身的個体相ではないまでも一応の“個体相”で分節化していること、第三に、乳幼児自身が、到底全身像でこそなけれ、皮膚的界面性において分節化されるようになっており、しかも、それの若干の部位とそこでの動作が、他個体における部位や動作と「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的な対応相で現識されるようになっていること。最低限、以上の三契機が前提的要件をなすであろう。――第二および第三の契機の形成については既に前篇の行論中で稍々先廻りするかたちで見ておいたので、ここでは、第一の契機に止目しつつ、模倣的調整の意識態勢を見定める段としよう。」364-5P
(対話K)「「いない、いない、バー」など、われわれの謂う稍々狭義の「模倣行為」のうちでの原基的階梯にあっては、嬰児が眼前に居る他人の身体的動作(発声を含む)をVorbild (眼前像=お手本)にしながら、それと同型的になるように自身の身体的動作を調整する。この同型化の意図的意識性を伴った行為は、しかも、ディスポジショナルな予期的知覚相に即応しておこなわれるのであって、Vorbildは必ずしも現在的知覚ではなく、むしろ予期位相になってくる。」365P
(対話L)「こうなると、やがて、予期的知覚が分化して、現在的知覚予見相を予兆とする予期的表象像が別に泛かび、むしろこの予期的な表象像がVorbild (先導像)になる。ここでは、他人の行動(表情や態度や発声を含む)の現在的知覚相と現相的予見が、@それに引続いて生ずることの予料される相手自身の将来的行動の「兆候」、A時によっては、この身の現出する所作の「信号(「シグナル」のルビ)」となりうるばかりでなく、B予期的にvorbilden(先行形成)されるVorstellungsbild(表象像)の「象徴(「シンボル」のルビ)」ともなり始めうる。(正確には、「象徴」的記号性予見の指し表わす<意味>は、単なる表象像とか知覚像とかいったレアールな現相ではなく、“イデアールな”所識態である。この所識態は、「現与の知覚現相」と「予期的に泛かぶ表象像」という両つの射映的現相予見が偕(とも)にそれとして覚知される意味的所識である。「信号」性記号予見の<意味>についても、それが認知されるかぎり、同趣の構制が存立する。が、いまここでは、恰かも予料的に泛かぶ表象像がそのまま意味であるかのような取扱いで暫く議論を運んでおく。尚、「目標」表象へ通ずる「予期的に泛かぶ表象像」は、<意味的所識>性ばかりでなく、「目的」という<意義的価値>性をも帯びるのであるが、この件にも今は立入らないでおく。)」365-6P
(対話M)「他人の身体的行動をVorbild としながら、そして、しかも、他人の身体的行動のディスポジショナルな推移相の予期的知覚を泛かべながら、自分の身体的行動をそれと即応的に同型化させる模倣的調整行為は、イナイイナイ・バーのごとき低位の階梯から、多階的に多様な発達を遂げる。――((註)茲は発達過程を順次的に追う場ではないが、次のことが銘記されねばなるまい。立つ・歩く・食う・着るの如き行動からして模倣的調整を介して甫めて成る。論者によっては、立つ・歩く・食うの如きは“本能の発露”であって、模倣的調整の成果ではないと考えるかもしれない。だが、狼少年たちを想ってみるがよい。彼らは四足で這っていたのではなかったか。ヒトには直立・歩行の“本能的”傾動がビルト・インされているとしても、それが発揮・実現されるためには模倣的学習が必要なのである。食うとか飲むとかいう行動すら何を如何なる行動様式で……ということになれば、ヒトの場合、模倣的学習に俟つところ大である。本能的自然のままなら当然吐き出す筈の物を嗜好したり、箸や匙で一定のマナーで食べたり、これは模倣的学習の結果以外のなにものでもありえない。立つ姿勢(「ポーズ」のルビ)、寝る姿勢、歩き方、食べ方、着方……表情の作り方……から、箸の上げ下げに至るまで、ヒトは悉く模倣的に学習する。そして、また、言語活動! 幼児の行動様式は殆んどすべてが模倣的学習によって身につけたものと言っても過言ではあるまい。) ――幼児の発達過程は、やがて、「オ遊戯」「グループ踊り」のごときを経て、相手がランダムに突如呈する身体的動作に追従する高位のものまで、多岐多階にわたる模倣的協応を現成せしめる。」366-7P・・・「生得的表情感得」ということを巡る「宿題」はフェミニズムからする「母性本能」ということへの批判というところからのわたしの反差別論的論考となっているのですが、ここまでの廣松さんの論攷で解けているのでしょうか?
(註) ‘(’が落ちています。最初の‘――’と最後の‘――’での‘( )’でここで落ちつくのではないかと。
(対話N)「慧眼な読者は、嬰児が、他人への行動相をVorbild としつつ、自身をそれと同型的に調整、行動する場面において逸早く“目標の実現に向けて自身を調整的に動かす”構制(目標実現型行為の構制)が存立することを、看取されるであろう。謂う所の“予期的知覚”が分化して、現在的知覚相とは別に予期的な表象像が泛かぶようになる局面では、予期的表象像は、企投的・内発的に創像したものでこそなけれ、“企投的目標像”に類するものとなっており、それが他人と自分との“共通目標”をなすことに徴すれば、そこでの模倣行為は第三者的にみれば、一種の“共通目標を目指す協同的行為”の構制を示す。」367P
(対話O)「人はここで直ちに模倣行動の次なる発達段階へと議論を進め、ゴッコ遊ビに基づく役割的協働の存立構造を分析する途に就くこともできる。がしかし、われわれとしては、ゴッコという発達段階については後に規則(「ルール」のルビ)・規範(「ノルム」のルビ)に則った行動(いわゆる“規則の習得”や“規範への随順”)を論件とする場面(次章第二節)まで持越すことにし、次には模倣とは別類型の或る基礎的な行為類型(対抗的即応)を配視しておきたいと念う。」367P
第七段落――「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢の勘考 367-71P
(対話@)「社会的行動の形成・発達を論攷するにあたっては、模倣的協応と密接不可分の行動形態として、「対抗的即応」とでも総称しうる特別な行動態勢を勘考しなければならない。対抗的即応は外形的には一種の延滞的模倣の看を呈する部面を含むとしても――そしてこのために、発達心理学においてはとかくこれも模倣的動作に繰り込んで論じられる例が多いのではあるが――われわれの観るところ、発生論的にはむしろ別系統の起源と意義を有つものである。」367P
(対話A)「人がもし、「対抗的即応」の原基的階梯における典型として、「遣り取りゲーム」(オ頂戴遊ビ)のごときものを考え、それを「与える動作」と「受け取る動作」とに分解してしまうとすれば、その場合にはなるほど「模倣」と見做されるのも道理である。著者としても、このような分析的規定が顚(「てん」のルビ)から誤りだと言うつもりはない。がしかし、「遣り取り」ですら単なる時相のズレた模倣ではない。お頂戴といってあちらが手を出しているとき、こちらも頂戴の手を出したのでは勿論不可であるが、単に一呼吸おいて遅滞的に頂戴の手を出したのでも不可である。これでは、模倣的追随ではあっても、遣り取りにはならない。相手の「与える動作」に対しては自分は「受取る動作」、相手の「受取る動作」に対しては自分の「与える動作」という、相補的に適合的な即応的動作(このケースでは模倣の場合とは異なった、相手のそれとは非同型的な動作)で自身を調整することが要件である。このような相補的・即応的な対抗的行動という点で、それは模倣的同型化とは別種の行動態勢と言わねばならない。なるほど、模倣的同型化も相補的・即応的という点では同類と言われうるにせよ、種差的相違を見落としてはなるまい。」368P
(対話B)「惟えば、模倣的協応は或る種の共鳴的同調・追随的同調という前梯を有ち、発生論的にはその前階梯から連続的であるが、片や意識的な対抗的即応も意図的調整以前的な反応行動を前梯に有ち、発生論的にはそれら前階梯から連続的である。――われわれの謂う「対抗的即応」は、必ずしも敵対的とは限らず、友好的なものを含む。だがしかし、生物学的意義や機能からみるとき、母子間や胞輩間や異性間の友好的即応と、天敵や餌食や同種他個体に対する敵対的即応との、両義性を有つものと思われる。そして、いずれにせよ、「対抗的即応」と「模倣的協応」とは、系譜的にも構造的には、並行的・同位的ではなく、交錯する。従って亦、対抗的即応という概念と模倣的協応という概念とは、単純な上下関係にも単純な同位関係もなく、外延的にも内包的にも複雑に交錯する。」368P
(対話C)「今ここで対抗的即応という意識的調整の前史から辿り返す趣意はないが、嚮にはもっぱら友好的な同調として模倣的協応の先駆のように取扱った新生児の共振的・共鳴的な反応のうちの或る種のもの、例えば、母親が口をパクパクさせるのに即応して新生児が口をパクパクさせる反応のごときは、模倣的追随・同調だと思って喜んでいる母親には気の毒ながら、存外と敵対的即応かもしれない。すなわち、大口を開けて噛みつこうとしている相手に、自分の側でも噛みつく態勢で“本能的に”即応しているのかもしれないのである! この恐ろしい可能性は措くとして、先に信号的送受活動という視角で扱った行動は対抗的即応の構図になっており、原初的にはもちろん意識的調整ではないにせよ、かなりの早期から意識性を伴った調整的即応の準位に達しているものと思われる。母親の授乳行動に対する嬰児の側での即応的調整はかなり早くから単なる条件反射の域を脱しているように見受けられるし、抱き上げられるさい両腕を伸ばして抱きつく反応、ひいては、抱く人が交替するような場合、身を乗り出して移動の態勢をとる行動など、意識性・意図性を伴った調整による対抗的即応の萌芽がいちはやく成立しているのではないかと考えられる。」368-9P
(対話D)「時に、意識的・意図的に調整する対抗的行動なるものを、睨むとか身構えるとかの次元での即応まで拡張するとすれば、対抗的即応の前史ならざる本史が非常に早い時期から始まる所以となる。睨むとか身構えるとか喚(「わめ」のルビ)くとか、この種の行動は原初的には反射的に生ずるにしても、かなりの早期から意識性を伴って調整される行動になっているのではないか。上述したように、信号的送受行動もかなりの早期から意識性を伴った対抗的即応の準位に達することに鑑みれば、われわれは対抗的即応行動なるものの開始期を相当に溯らせて想定せねばならないであろう。」369P
(対話E)「ところで、対抗的即応行動は、同じく意識的調整行動といっても、通常の模倣的協応に比べて、「企投(projection,Entwurf)」にもとづく意志行為としての緊張度が高く、ここではまたEntwurfの構制も内省的に対自化され易い。そして、ここにおける「企投」の構制は「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制とも構造的に不二である。われわれとしては、このゆえに、「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制の原基相を対抗的即応行動に即しつつ好便に見据えることができる。」369-70P
(対話F)「このさい、同じく対抗的即応といっても、企投の構制を見据えるうえでは、敵対的即応を思い泛かべるのが好便であるように思う。――なるほど、人は信号的応答活動一般に定位して「役割期待の察知−即応的役割遂行」の構制を分析することができれば、いわゆる延滞的模倣行動に定位して「企投」の構制を分析することもできる。がしかし、何といっても敵対性の対抗的即応を念頭に置くと話を進め易い。――この故に、ここでは敵対的即応に暫く留目することにしたい。」370P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて、本線からは多少脱線することも憚らず、われわれの役割行動論ひいては協働行為論が視野の狭窄(ママ)に陥ることを防遏せんがために、敵対的行動プロパーに関わる論件を傍白的に挿入しておこう。/敵対的な行動の端初的形態は、ヒトに限らず高等動物においては一般に「睨み合い」であろう。同種の個体であれ他種の個体であれ、ともあれ他者の視線が自分に注がれているのを感知するとき、反射的に緊張が生ずる。わけても、相手の視線が真直ぐに自分の眼に向けられている場合、つまり、視線と視線とが対向する場合にそれが著しい。柔和な表情で視線が注がれている場合には此方(「こちら」のルビ)も一瞬の緊張が解けて顔面が弛緩し、以って一種の微笑的顔貌が期せずして現出する所以となり、それが相手の共振を喚(よ)び起こして微笑の共振をもたらす。が、緊張の面差(「おもざし」のルビ)で視凝(「みつ」のルビ)め合う形になる場合には、一種の睨み合いの状態になり、緊張感が共振的に亢進(こうしん)する。そして、表情の示差的な質態に応じて様々な情動が興発される。緊張の面持で視凝め合う場合、これはおそらく生得的な解発機構にビルト・インされている共振かと思われるのだが、憤怒・憎悪の激しい情動が亢(「たか」のルビ)まる。/原初的には、威嚇と恐怖は未分化のようであり、いずれにせよ射竦(「いすく」のルビ)め合っているかぎり、外発的な行動は互いに抑止され合う。この状態は、しかし、いずれにせよ長くは続かない。攻撃的前進か逃避的後退か、どちらかの姿勢が発現する。攻撃と逃避のどちらに天秤が傾くかは、いわゆる縄張り行動(テリトリーの侵犯・防衛)などの観察的知見などかせも窺われるように、環界的舞台をも包括した“心理的場”の函数であって、場から切離して両個体だけを比較し、単に戦闘力の優劣を諍う流儀で裁くことはいずれにせよ期し難いほど、複雑な諸要因の複合に因る結果だと目される。が、相手の身体から視線を外(「そ」のルビ)らすことは、他種間においても、それだけで攻撃の停止(擬人法的に言えば、攻撃の意志のないこと)の徴表的な信号として機能するものの如くである。尤も、他種間では、一方が攻撃する気のないことを表わしたからといって、他方が矛を納めるとは限らない。その点同種の個体間においては、高等動物の場合、狼の咽喉部の差出しとも類比的に、立停ったまま(つまり、逃走の態勢をとることなく)視線を外らす仕草は、相手の攻撃を自動的・反射的に停止させる信号的解発価を生得的に帯びているように見受けられる。これと同趣の機制として、特定の表情的表出(特有の恐怖的表情、悲鳴、落涙、泣顔、判り易く言ってしまえば“女子供の涙”(ママ)に類するもの!)が、少なくとも猿族においては、攻撃停止を反射的に解発するような生得的解発機構が一応は備っているものとみて大過あるまい。/ところで、対峙した両者が相譲らずに攻撃の態勢を崩さないとき、やがて格闘が開始される。動物界における戦闘動作は、噛みつく、角で突く、爪を立てる、後肢で蹴る、……といった方式であるが、手の自由になった高等猿類、わけてもヒトの場合、噛みつくという動物の基本的な攻撃形態も失われてこそいないが、手で殴る、衝く、物を投げつける……、直立歩行の可能ならしめる前蹴り……頭突きの変様ともいうべき組み伏せ……涯ては、首締め胴締め……といった特有な攻撃行動が主要形態になっており、手近かな事物・棒・竿・紐がいつでも武器になりえて攻撃・防禦の即応的行動形態と技術を極端なまでに多様化させている。さてこそ喧嘩の技術は大変なものであり、ヒトの場合、敵対的即応は幼児期から習熟を要する。」370-1P・・・ヒトは闘争する動物? 次の段落
第八段落――ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義 371-5P
(対話@)「読者のうちには、ヒトはなるほど複雑な行動形態での対抗的即応を余儀なくされる場合があるにしても、それは可能性であり、通常の幼児は敵対性の対抗的即応など殆んど経験しないのではないか、と反問されるむきがあるかもしれない。とすれば、友好性の協応的な対抗的即応ばかりでなく、敵対性の対抗的即応をも含む「対抗的即応」がヒトの行動発達論において極めて重要であるとするテーゼそのものも疑義にさらされる。それゆえ、ヒトにおける対抗的即応、これが社会的行為の形成にとって有つ意義という問題性について、迂回をも虞(おそ)れず茲で多少述べておこう。」371-2P
(小さなポイントの但し書き) 「敵対性の対抗的即応は、動物界において、対抗力のある他種動物を捕食するもの(これは魚以上の脊椎動物ばかりでなく、昆虫などにさえ存在する)の生存条件であり、草食動物類にあってさえ捕食者や危害者から防衛するために生物学上須要である。種間での敵対に加えて、動物は種内においても、テリトリーの防衛とか、雌をめぐっての抗争とか、存亡を賭けた厳しい闘争を経験する。このような生物学的基礎条件に鑑みるとき、動物種には、進化論的淘汰圧からして、種間および種内の敵対的即応のノウハウが、本能的・生得的にビルト・インされているものと思われる。また殊に殺傷力を強く具えた種などにあっては、テリトリーの争いや雌の争いなどにおいて“無用”な種内圧迫や種内殺戮を回避できるよう、しかるべく生得的機構がビルト・インされていることが知られている。動物個体は各種の本具的機構・本能的機能を生理学的基礎条件として対抗的即応を演じる。格闘の技倆はなるほど後天的学習によって上達するであろうが、通俗的な言い方をすれば、対向の技能は生得的であると言えよう。・・・自然淘汰説への疑義、今西進化論の「棲み分け」とか……/人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の場合、慥かに、動物界の一般則では律しきれない様態的差異がある。樹上生活を営んでいた猿からの進化が、生物学的スケールでみれば余りにも急速に、生活の形態を激変させたため、人間(「ヒト」のルビ)は通則から多分に外(「はず」のルビ)れていると言われる。「狂った(ママ)サル」と呼ばれる所以でもある。樹上生活時代、昆虫や鳥の卵などを若干は食したにせよ、植物性の食物を主とする種属であったため、摂食のための格闘は必要としなかった。また、樹上生活では、大蛇や猛禽(「きん」のルビ)の危険が若干あった程度で、捕食者たる猛獣と不断に格闘する必要は免れていた。この前史からして、人間というサルは、種間闘争における格闘の本能的態勢において、生得的技能を余り発達させていない。器官的にも、鋭い牙や鋭い顎、蹴殺力をもった脚など備えていない。種間闘争の部面に関しては、樹上から平原へ進出した後にも、人類の祖先は、チンパンジーがそうであるように、集団生活を営み、バンドのテリトリーは厳しくなく、雌をめぐっての排他性も余りなく、種内での格闘を激烈に繰り展げるようなことはなかったと見られている。このような次第で、人間(「ヒト」のルビ)は格闘の応変な技能に長(「た」のルビ)けていないだけでなく、ローレンツなどの指摘するように、同種の個体間の格闘を停止させる生得的なサインとそれによって解発される制止機構を十分に具えていない。(そのこともあって、人類史はまさに種内抗争の生物学的歯止めが効かず、私闘という形態であれ。戦争という形態であれ、弾圧や処刑という形態であれ、涯てしない殺傷に血塗られてきた。)がしかし、格闘的抗争の技能や抑止機構が先天的に十分に発達していないという事実も、人間(「ホモ」のルビ)が動物たるかぎり、敵対性の対抗的即応の本能的技能をそれなりに具えていることを覆いうるものではない。(因みに、蛇や蛙を見て思わずゾーとするのはいわゆる「種の記憶」による本能的機制、つまり、人間が人類になるはるか以前の進化段階で爬虫類を天敵としていた時代にビルト・インされた反応機構に因るものではないかと言われている。動物の「闘争本能」という概念は今日では通用しないにせよ、闘争に対処する本具的機制・本能的技能は、格闘的スポーツの盛行を見れば瞭然とするように!数奇な進化を遂げた現生人類においてもなお失われていないことが強く銘記されねばなるまい。) ・・・? どこまでが動物性でどこまでが文化−「本能をなくしたサル」? 生物学的規定されるヒトと能為的ひととの弁証法/現に、人間(「ホモ・サピエンス」のルビ)の乳幼児の行動には本能的な対抗的技能の発露ないしそれの直截的準備と目されるものが尠なくない。ヒトも見凝められれば見凝め返し、吠えられれば吠え返し、口を開けて現前するものがあればこちらも口を開けて反撃の態勢をとる。――バウアーの余りにも有名な実験によれば、生後わずか二、三日の新生児でさえ、顔面を直撃する方向で何かが迫って来ると、目を見開き、頭を退く姿勢で身構え、手をかざす防禦反応を示す。/乳児期を過ぎ幼児期ともなると、そこでは兄弟間や遊び友達間での喧嘩を見逃せない。――近年の日本などでは、慥かに兄弟の数が少なかったり年齢差が大きすぎたり喧嘩仲間に恵まれなかったりで、喧嘩しながら育つという常道から逸脱し、そのため大きくなってから種々の不全を生じているようであるが、一昔前まではいわゆる先進国においても、子供は兄弟や友達と喧嘩しながら遊ぶことを通じて対人行動の社会ルールを身につけたものであった。なるほど、女子は早期からしとやかになるが、それは文化的圧力による抑制の結果であって、生まれつき喧嘩しないなどというものではなく、或る時期までは男子に混って渡り合う。――ここで留目したいのは、喧嘩友達との遊びを通じて対人行動の規範的ルールを身につけるということの以前に、喧嘩という対抗的即応の身体的行動そのものの構制である。」372-4P
(対話A)「喧嘩=格闘という対抗的即応の幼児期的段階にあっては、多分に反射的即応のむきが強く、亦、外見的には模倣的同型化との区別もつきにくい。睨み合い、取組み合い……、ここでの体型や運動形態は共時的に同型的であり、外見的には模倣的協応のようにさえ見える。しかし、両者もし全く同型的に行動しているのであれば、相打ちになり、勝ちも負けもないことになってしまう筈である。実際には、殴りかかられれば、身を躱(「かわ」のルビ)したり、跳(「は」のルビ)ね除(「の」のルビ)けたりという別の行動形態で応じており、共時的に全く同型的というわけではない。同型的対応性は、体躯の構造的同型性に由来する外観であって、同型化的調整の所産ではない。仮令、交互的に同型的行動形態で応酬し合うにしても、猿真似とはわけが違う。それは延滞的模倣でもない。あくまで即応的対抗なのである。――なるほど、喧嘩=格闘における対抗的即応は必ずしも十全に意識的な調整行動ではなく、多分に反射的な即応であることを否めない。がしかし、意識的即応であるかぎりでは、あの“予期的知覚相”への即応という構制、いなむしろ、予期的表象像への即応性を意識した調整行動になっている。」374P
び(対話B)「この対抗的即応は、模倣的協応とは異なり、予期的表象像との同型化的な調整ではなく、攻撃的であれ、防禦的であれ、予期的表象像への即応的な行動の調整である。――喧嘩的格闘ともなれば、もはや、刺戟に対応した反射的な攻撃・防禦の自動的反応ではなく、それを通じて身につけた攻撃・防禦のしかるべき行動形態が、予期される相手の出方に応じて意識的に調整される。――対抗的即応における意識態勢を明晰判明に描出するためには、もう一段高等な対抗的即応に調整、例えばジャンケンとかドッジボールとかに即するのが好便である。だが、これについては後に(次章第二節)別の論脈と絡めて述べる予定でもあるので、今茲で直ちに触れることは差控える。この措置を採っても、読者は、先に(第一篇第二章第一節)論及しておいた「遣り取り」や言語的交信の初期的階梯という在り方での対抗的即応(非敵対的=友好的な対抗的即応)の構制を想起させるとき、対抗的即応の一定階梯が「役割期待の察知−即応的役割遂行」の対自的現成の現場であること、また、或る段階では対抗的即応行為が目標企投型行為の構制を対自的に有つに至ること、このことを納得されるものと念う。」374-5P
第九段落――模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見る 375-7P
(対話@)「発達論的にみるとき、高等動物においては、従って人間(「ヒト」のルビ)にあっては、共振的同調から連続的に、模倣的協応ならびに対抗的即応が成立するようになる次第であるが、一定の発達段階までは、少なくとも仔(嬰児)の側では、“予期的知覚”の意識性こそあれ、模倣的協応も対抗的即応も反射的・条件反射的な行動の域を出ない。やがては、しかし、模倣的協応行動や対抗的即応行動の発達の途次、予期的知覚が分化して知覚的現認相とは別に予期的表象像が泛かぶようになり、且つ、当の予期的表象像への同型化的調整または/および即応的調整が意図的におこなわれるようになる。予期的表象像を“目指して”の意図的調整といっても、当初は、そこでの予期的表象像は企投的な創出像ではなく、他者から期待されている在り方の察知像でもない。がしかし、まさに模倣的協応や対抗的即応の場において、前篇第二章第一節で嚮に見ておいた如き、「役割期待の察知−即応的役割の遂行」が自覚的におこなわれるようになり、亦、予期的表象状景の企投的実現がおこなわれるようになる。――発達論的には、目標実現型行為ならびにまた役割取得性行為が自覚的に成立する現場は、模倣的協応的行動または/対抗的即応行動にある。」375P
(対話A)「今茲では、右の発達論的過程を周到に跡づけることは課題外である。われわれの当面の目論見からすれば、模倣的協応および対抗的即応に見られる或る構制を見定めうれば足るのであって、そのためには模倣的同型化および対抗的即応化の原基的構制を見ただけで当座の間には合う。――尤も、本節における以上の行文は前篇から宿題として持越した論件を埋めつつ、次章ひいては次篇での論究への伏線を敷くという思惑も秘めたため、当座の必要最低限の域を超える、聊か長大なものになった。発達論的な議論としてこれを看るとき、本節の主題内で必須とされる域を超えながらも、十全な発達論ではなく、しかも初次的階梯で打止めるという奇態な形になっているが、意のあるところを汲んで頂きたいと願う。――」376P
(対話B)「われわれにとって今や、模倣的協応ならびに対抗的即応に予め関説したことによって、前節での「役割遂行の共互構造」論において“括弧に納めた”ままになっていた「並行共業的(協同型)役割行為」および「同時相補的(補完型)役割行為」の構制を見定め、以って亦、本節での本来の主題である役割的協働行為の存立性を(1)並行型、(2)拮抗型、(3)分業型という類型に即しつつ討究する順路が拓かれるに至っている。」376P
(対話C)「偖、前節では共互的役割行為を、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けうる旨を誌しながらも、とりあえず(1)についてのみ論じ、(2)(3)はブラック・ボックスに納めたままで恰かも行論を中断するかのごとき風情に了っていた。が、この遺してきた問題を、いまでは容易に処理することができる。――模倣的協応行為も対抗的即応行為も、それらがすでに役割行為の域に達しているケースであっても、また直ちにはわれわれの謂う「並行共業的(協同型)」の共互的役割行為や「同時相補的(補完型)」の共互的役割行為、とは言えない。われわれが「共互的役割行為」というのは、前節で“定義”したように、「複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ) −他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為」の謂いである。この定義上の要件を充たすためには、模倣的協応や対抗的即応が、啻に期待に応えての役割取得行為として演じられるだけでなく、相手にとっての目的(この目的は同時に自分にとっての目的であっても可)を達成する手段としての意義を有たねばならない。相手に対する自身の模倣的協応行動や対抗的即応行動が当人の単なる自己目的であるだけでは共互的役割行動というには不足であり、また、それが相手によって期待されている行動の遂行であっても(それが相手にとって目的達成に資する手段的意義を有たず、謂うなれば模倣/対抗させることが相手にとっての“自足的目的”であるならば)それだけではまだ、共互的役割行動とは呼べないのである。――模倣的協応行為や対抗的即応行為のうちには、例えば、相手に同調して岩を押し転がすとか、握手をするとか、並行共業的(協同型)の共互的役割行為や同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成立させるケースがある。一般に、世に謂う「単純協業」つまり、斉同的な目標を共有しつつ斉同的な行動様式で協業する複数主体の行為は並行共業的(協同型)の共互的役割行為を成す。片や対抗的即応行為には各種格闘技などのように、奉納・上覧・興業といった目的(当事行為者たちの共有的目的)にとっての共互的手段行為とし演行される対人的行為ばかりでなく、例えば餅の搗(「つ」のルビ)き手と捏(「こ」のルビ)ね手、鍛冶の打ち手と返し手、などのように、一般化して言えば対抗的即応行為のカップリングによって甫めて或る単一の作業が成立しうるごとき対物的行為もある。これらは同時相補的(補完型)の共互的役割行為を成す。(模倣的協応や対抗的即応がそのまま協同型や補完型の共互的役割行為になるわけではないことは上述の通りであるが、逆に亦、共互的役割行為と認められるたぐいの対抗的即応行為のすべてが同時相補型に属するのではない。このことに留意されたい。対抗的即応行為のうちには「順次交替型(交互型)」の共互的役割行為に算入されうるものもある。このことは前節において「遣り取り」や「商品交換」に即して論述したところを想起して頂ければ絮言を要せぬであろう。)」376-7P
第十段落――「協働」の(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、(3)分業的協働という三類型 378-82P
(対話@)「協働的役割遂行という観点から把え返すとき、並行共業(協同)型の役割行為は、行為当事者たちが共通単一の達成目的を共有する構制に成っている場合、「並行的協働」行為と規定される。同時相補(補完)型の共互的役割行為は、その同時補完的な応待的作業によって当事者たちが共通単一の目的を達成する構制に成っている場合、「拮抗的協働」と規定される。」378P
(対話A)「われわれは、「協働」を、(1)並行的協働、(2)拮抗的協働、および、(3)分業的協働の三類型に分ける。」378P
(対話B−第一の)「第一の「並行的協働」というのは、複数の行為主体が共通的目的を斉同的な行動様式で追求する協働であって、「同調的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、行動様式の斉同性は、単なる外見的斉同というより、志向目標の共通的同一性からの反照的規制に已に負う。尤も、謂うところの共通的目的は、数的に単一な場合もあれば類的に同一であるにすぎない場合もありうる。――いわゆる「単純協業」がこれに属するが、われわれとしてはこの並行的協働という概念をより広義に用いる。例えば、斉唱や群舞、鞠(「ボール」のルビ)追いや獲物追い、横列になっての耕転や田植、駅や通路での斉同的歩行、お望みとあればサルトルの謂う集列(série)のうち買物の行列の如きをもここに算入してもよい。この単純な協働にあっても、集合的意識の特種的綜合(synthèse sui generis des consciences collectives)が早速に生じ、特有なグループ・ダイナミズムが作(「はた」のルビ)らきうるのであって、「主体我々」が形成されることもありうる。が、今茲では、さしあたり、共通目的を追求しての斉同的動作が形成する協働性、ということに留目するに止めておく。」378P
(対話C−第二の)「第二の「拮抗的協働」というのは、複数の行為主体が同時相補型の共互的役割行動を営みつつ、各々の直接的目的高度が拮抗するにもかかわらず、高次的単一目的を共有する構制に成っていて、「応待的協働」と呼べる特種的綜合が形成される部類である。――このさい、目的行動の拮抗性といっても、それは敵対とは限らず、単なる競合をも含みうる。当の拮抗的・応待的な行動の様式が共軛的に相互規制を受けることは附言するまでもない。この拮抗的協働は、例えば鞠なり獲物なりを斉同的に追っていた状態から奪い合いに転化する場合などのように、並行的協働からの転成の場合もありうる。が、われわれとしては、いずれにせよこの概念を広義に用いるのであって、発生論的には、対抗的即応の場面から逸早くこれが生起しうる。応待的協働のうちに、格闘技や勝敗を競う(つまり、一者の勝利という直接的な目的達成が他者の勝利=目的達成を阻止するという拮抗関係にある)競技やゲーム類、さらには、優劣(一等・二等・三等……等外)や合格・不合格を競うコンテストのたぐいをも、それが高次的目的を共有されているかぎり、算入しうる。亦、この広義の「拮抗的協働」には、二極的対抗だけでなく、三竦(「すく」のルビ)み・四竦みといった多極的な拮抗をも含めうる。そして、最広義の場合、生態学的均衡といった即自的な拮抗的協働をも包摂することができる。――ところで、この拮抗的協働=応待的協働においては両サイドの直接的志向目的の分極性が存立するわけであるが、その分極性目的の一つ又は夫々に関して複数の行為主体が「並行的協働」を自覚的に遂行する場合もある。このさいには、並行的協働者たちは一つのグループを形成する者として、自分(達)の側と相手(達)の側との二陣営に、分立の相で意識される。(三極的構造の場合には三陣営に、……分立化する。)ここにあっては、並行的協働者のグループ(陣営)が、拮抗的な対他者関係性に即して「同一の企投目的を志向している能作体」として覚識され、「同調的協働者たちの特種的綜合による一“主体”」の想念が生じうる。(単純な自他両陣営的な“主体”はがりでなく、「同盟軍」や「中立的第三者」の覚識も形成されうる。)拮抗性の意識されない単純な並行的協働=同調的協働の場面においても斯かる特種的綜合が生じうるにせよ、特種的綜合相での主体=我々の意識が本格的に現成するのは、発生論的にも、一般には、拮抗的な陣営的分立の覚識される場面を俟ってのことであろう。対物的協働の場で主体=我々の覚識が生じうるとしても、その際の物的対境は、単なる与件的対象事物ではなく、一種の対抗的陣営に準ずる相で覚識されているのが実情であろうかと思われる。が、グループ・ダイナミズムや特種的綜合相での能作体の問題などには後論で立帰ることにして、茲ではひとまず右の指摘に止めておく。」378-80P
(対話D−第三の)「第三の「分業的協働」。これは複数の行為主体たちが統一的目的を達成すべく分掌的行動を遂行するものであって、「担掌的協働」と呼ぶこともできる。――ここにあっては、統一的目的という同一目的が存立するにしても、協働者たちの行動様式は斉同的ではなく、各自の直接的な志向目標は斉一ではない。ここでは各自の行動の直接的志向目標が統一的高次目的にとっての手段であることが自覚されているかぎり、直接的な志向目標どうしが拮抗的であることすら妨げせれない。例えば、格闘なり競争なりであっても、それが奉納とか興業とか娯楽とかの統一的目的性の自覚であるかぎり、つまり、当面の勝利・優勝という直接的目的を志向する行動は統一的上位目的にとっての手段にすぎないことを当事者たちが自覚しているかぎり、われわれとしてはそれをも「分業的協働」に算入しうる。――発生論的には、分業的協働の自覚的遂行が遣り取り遊ビや模倣遊ビの或る局面から逸早く成立しているものと目される。亦、対話的言語活動も、直接的な音声表出や直接的な意味理解が自己目的ではなく、それらが上位的な達成事態への手段的中間態にすぎないことが自覚されるかぎり、早期からフェア・エスな分業的協働=担掌的協働の域に達していると言えよう。――分業には、いわゆる水平的分業もあればいわゆる垂直的分業もあり、並行的協働者グループや拮抗的協働者グループを単位として編制される高次的な分業的協働もあり、多種多様な様態が見られる。が、ゴッコ遊ビやティーム・プレー、合唱・合奏・芝居、生産活動の場における各種の分業的協業、儀式・祭事・政治、はては、教育から戦争にいたるまで、社会的活動の殆んど全域で自覚的な分業的協働が営なまれている。そして、分業的協働者達は極めて屢々「統一的目的の自覚的共有に基く特種的綜合相にある主体=我々」という相を覚識する。この件については、しかし、茲ではまだ登記に留めておく。」380P
(対話E)「われわれは、以上、当事主体たちの日常的・直接的な意識に現出する相に即して見た次第であるが、観察者的視座に立った学理的分析に際しては、当の事態が原理上は当事者自身において対自(「フェア・ジッヒ」のルビ)化されることが可能である限りで、協働連関態の存立している範囲を当事者たちが現実に自覚している範囲よりも拡充して画定することが必要とされ、また、それが許容される。すなわち、観察者的分析に際しては当事者の顕在意識にのぼっていない協働相をも即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)な協働として規定し、この相をも含めて討究することが必要とされ、且つ、方法論的に許されうる。――例えば、当事者たち自身は目的の共通性や行動様式の斉同性を自覚していない(乃至は部分的にしか自覚していない)場合でも、フェア・ウンスな見地からアン・ジッヒな並行的協働=同調的協働の存立を立論し、共鳴的同調や模倣的協応の初等的な場面から協働性の構造を指摘したり、当事者たちの直接的な視野外にまで伸びている集列(長大な列の遠方部やサルトルの謂う同一ラジオ番組の聴取者達)の如きをも含めて同調的協働を分析したりする作業、このたぐいの措置がそれである。拮抗的協働については、当事者たちが目的の分極性や行為の拮抗性を十分に意識していない場面や部分をも含めて、即自的な応待的協働を立論し、分業的協働については、当事者たちが目的の統一性や行為の分掌性を十分には自覚していない範囲や機構をも含めて、即自的な担掌的協働を立論すること等々。――」381P
(対話F)「観察者的分析においては、更に、当事者たち自身の意識上では統合的な上位の目的が存在しない場合であっても、協同的連関態の動向が恰かも或る一定の統合的“目的”を志向しているかの如き傾動と機能を体現している際には、上位的統一機能を体現する。“分業的協働”態として取扱うことが便宜である。――この取扱いに際しては、協働態が協働作業当事者たちの目的志向とはおよそ関わりなく実現する結末や機能を協働の目的と混合しないように呉々も留意を要する。結末の単なる機能的“合目的性”にすぎないものを企図された目的であるかのように錯認するとき、人は容易に、超越論的主宰者の目的であるとか、世界内在的な目的であるとか、「形而上学的な目的論」への途を開く所以となる。われわれとしては、エコロジカルなシステムをも配視するだけに愈々(いよいよ)、この弊を鋭意排却しつつ事に当たらねばなるまい。」381-2P
(対話G)「惟うに、機能的な合目的性、この擬似的な“統一的目的”性を措定するとき、実際問題として、凡そ大抵の協働連関態は一種の“分業的協働”連関態として取扱うことが出来る。というのも、「並行的協働」は、行動様式が斉同的であるとは言っても厳密には斉同的でなく、よしんば厳密に斉同的な行動であってさえ、“統一的目的”行動の分掌と見做される以上、“分業的協働”の一種に包摂されうるし、また「拮抗的協働」は、それの齎(「もた」のルビ)らす帰結を“統一的目的”に準(「なぞ」のルビ)らえるかぎり、応待的諸行動によって担掌される“分業的協働”と見做されうるからである。斯くして、協働の殆んど一切の定在が“分業的協働”として取扱われうるとすれば、――そこには現実の統一的上位目的が存在せず、たかだか機能的“合目的”性しか認知されないものが含まれるとはいえ、“分業的協働”の内部編制に即するかぎり担掌される行動がまさしく役割行動にほかならない以上――殆んど一切の協働連関態は役割担掌編制態として存立している所以となる。」382P
(対話H)「われわれは爰に観察者的視座からも規定し返される協働連関態、すなわち役割行動編制態の制度的物象化その他を討究する課題をも負うが、この作業は次篇に譲り、今茲では姑くそのための先件の幾つかを処理しておかねばならない。」382P
第十一段落――協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ 382-7P
(対話@)「協働とは共互的役割行為によって編制されているものである以上、そして、共互的役割行為は、前節で叙べたように、当事主体たちが互いに相手の手段となり合うことで夫々の目的を達するという構制において、利害の共同性=共同的利害性を存立せしめる構造になっている以上、協働は共同的利益を実現する。――協同的役割行為の遂行は、協働者たちの共有する統合的目的を達成するものとして、共有的目的を成就するものにもほかならない。――茲に、協働態は一種の利益共同体・目的共同体の構制を有つ。」382-3P・・・廣松コミュニズム論
(対話A)「協働態は、こうして、一定の高次的利益目的に即して観れば、協働者たちの一種の共同体である。がしかし、前節の行文中において見た通り、共互的役割行為なるものからして、それはなるほど共同的利害性を存立せしめるとはいえ、当事者たちの葛藤、矛盾・対立を孕みうるものであり、支配−服従の構造を含みうる。協働的役割行為編制態=利益共同体=目的共同体とは言っても、対等・平等な諸人格の協同とは限らず、また、直接的利害や直接的目的まで共通とは限らないのであって、実質的にはむしろ「幻想共同体」にすぎない場合もある。」383P
(対話B)「現実の協働態は、総体としてみるとき、国家の次元であれ、或る種の“地域社会”の次元であれ、いわゆる“企業”の次元であれ、たかだか幻想共同体にすぎないのが寧ろ歴史的事実である。だが、それにも拘らず、人々がそこに内存在する限り、一定の利害共同性、および一定の即自的な目的共同性の構制が“形式的に”存立していることも確かであって、その意味において、よしんば幻想的であれ、協働態は一応、利益共同体・目的共同体の構制を有つと言うことができる。」383P
(対話C)「例えば国家社会の場合、諸身分・諸階層の利害対立どころか、階級的な矛盾葛藤を孕んでいる。とはいえ、国家が分立している歴史的状況下にあっては、すなわち、言い換えれば、特定の国家に所属せざるをえない状況下では、個々人は国家社会に内存在することなくしては生きて行くことができないわけで(それも、生存権とやらの国家による保障といった次元のことではなく、生計の具体的・日常的な在り方が国家社会への内存在によって甫めて成立しえているという次元においてそうなのであって)、この限りで、国家社会という協働連関態に組み込まれていることが、個々人にとって生存という利害(生存という個々人が共有する利害)に適っている所以となる。が、これは最低限の話であって、国家が分立している歴史的状況下では、国家の各々は他国による“脅威”に不断に曝されており、開戦して敗戦という破目になれば勿論のこと、緊張下で劣勢に立たされているだけでも、社会的・経済的・政治的生活上、殆んど全国民がさまざまな不利益を直接/関説に被むること必定である。そのため国家の隆盛が殆んど全国民にとって、共同の利益なるものと意識され、国家の隆盛が共同の目標として思念されることにもなる。現実には、国家が隆盛しても、被支配階級の生活が改善されるという保証があるわけではない。極端な場合、自国が他国を経済的に収奪する事態になったとしてさえ、被支配層が“オコボレ”に与(「あず」のルビ)かるとは限らない。が、しかし、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が緩和されること期待できるとか、少なくとも自国が外国に服属するようになった場合に予測される水準よりは“まし”な筈であるとか、これは一応言える場合が多いであろう。茲に、国家が運命共同体として思念され、国家の隆祥が“共同目的”として志向されることになる。階級階層間の、降っては、成員個々人間の深刻な利害対立を孕んでいる以上、国家社会なるものは、およそ真正の共同体ではなく、マルクス・エンゲルスが指摘する通り、幻想的な共同体(illusorische Gemeinschaft)にすぎないのだが、しかし、マルクス・エンゲルスが併せて指摘している通り、それは単なる幻想というわけではなく、一定の物質的利害の共同性に客観的基礎をもつのである。」383-4P・・・物象化された相において、幻想共同体としての国家へのとらわれ−国家主義は、批判・克服しうる。
(対話D)「別の例として、資本制的企業の場合をも一考しておこう。資本−賃労働関係にもとづく資本制企業は、断じて雇用者(資本家)と被雇用者(労働者)との共同経営体ではなく、労働者はさしあたり賃金の獲得が目的で働くのであって、企業の業績は労働者たちにとって直接的な関心事ではない、と一応は言うことができる。賃金は事前の協約にもとづいて支払われるのであり、業績の良否が賃金額に直接響くわけではない。が、しかし、継続的雇用が見込まれている場合、業績不振・倒産ということにでもなれば継続的な賃金獲得が覚束なくなることに鑑みれば、労働者にとって、継続的雇用による賃金の取得が“利益”と意識され、この“利益”を確保するための条件として、企業の業績を一定水準以下に降下させないようにすることが労働者側をも含めた“共同利益”ということになる。最小限で然うである。現実問題として、業績が向上したからといって賃金が増額される保証はないものの、経営不振の場合に比べて相対的に“よりまし”な賃金が期待されうる。資本制企業は国内国外の同種的企業と激烈な競争関係にあり、弱肉強食の状態にあるとあってみれば、企業の“生き残りを賭けた”競争に打ち克つべく、“業績の向上”に努めることが企業体成員の“共同利益”に適うものと意識される。ここに、企業の産品(市場に供する商品一般の謂いであって、物品とは限らず、無形的サーヴィスの如きをも含みうる)を質的により良く量的により多くし、以って業績を向上させること、之が企業という協働的連関態=協働態の“統一的志向目的”に擬せられる所以ともなる。(日本などのようにいわゆる終身雇用制が定着している所では、つまり、途中で就職先を変えると一般には不利である条件が成立している所では、企業の業績を向上させて競争戦で有利な地歩を確立・確保することが、所属全成員の“共同的利益”という域を超えて、一種の“運命共同”課題であるといったイデオローギッシュに屈折した形で意識され易い。ここでは、企業という協働態が“利益共同体”しかも“運命共同体”の相で思念される。)実際には、資本制企業というものは、協同の所産的利潤を成員たちが“共同経営者”として配分するものではなく、被雇用者は労働力商品の販売(その代価として賃金を取得)する構制になっているのであって、決して真正の共同体ではない。経済学的にみれば、資本−賃労働関係は搾取関係であり(尤も、だからといって、マルクスとてこれを単純素朴に悪(「あく」のルビ)だと論難するわけではない)、マルクスが指摘する意味での「賃金奴隷制」の構造になっている。(マルクスは、株式会社企業などについて、所有資本家[株主]と機能資本家[経営者層]とを区別し、後者は一種の高級労働者であるとしているが、法人資本と賃労働者との関係が“奴隷制的”関係であることには変りなく、ここでは“奴隷階級”の内部に階層的差別もあり、直接的利害の矛盾葛藤も厳存する。)そうであるにも拘わず、労働者が特定企業に雇用されている賃金労働者たる限り、彼の現行的生活にとって(望むらくは今より幾らかでも“ましな生活”のためには)その企業の業績向上が“有利”であることは確かであって、企業が一定の条件下では被雇用者をも含めた全成員の“利益共同体”として覚識されることには“客観的根拠”が無いわけではない。(マルクスは、資本家と労働者との利害の共同性・同一性なるものは、「高利貸と借手」「姦夫と姦婦」の「利害の同一性」に類する旨を皮肉をこめて指摘しつつも、一定の「利害の同一性」が存在すること自体は“認めて”いる。)資本制企業を以って利益共同体と見做すとき、実質的にはそれは「幻想共同体」にすぎないとはいえ、そこでの“共同利害”なるものは、単なる純粋幻想でなく、協働的連関態=協働態の存在構造(なかんずく対他的市場競争関係からの反照的規定)に現実的“根拠”を一応は有つ次第なのである。」384-6P ・・・これも物象化された相
(対話E)「よもや誤解はいるまいと信じるが、著者としては、協働態が形式的には協働者たちの共同的利害を実現しうる構制を有つにせよ、実質的には利害的矛盾葛藤を孕みうる以上、必ずしも真正の共同体ではないこと、このことを銘記しているのであって、当事者たちのイデオローギュシュな思念を追認しようとしているのではない。が、同時に、協働連関態=協働態は、それの存在構造のうちに、一定の歴史的条件下では、あれこれの協働態を以って“利益共同体”“目的共同体”として成員たちに思念せしめる構制を客観的に有っていること、このことの銘記を要する。」386P
(対話F)「著者は、協働連関態=協働態というとき、決して国家社会や或る種の地域社会(“都市共同体”であれ“農村共同体”であれ)や企業体のごときを主として念頭に置いているわけではない。勿論、これらの制度的に“骨化”せる協働態の配視が是非とも必要であり、次篇において主題化する予定でもある。が、右の行文でこれに関説したのは、「幻想的共同性」を確認する便宜を図ってのことであった。当座の行論にとって重要なのは、むしろ、その都度の行為に即しての、機能的な協働連関の現成、そこにおける間主体的な存在構造である。」386P
(対話G)「この課題には次章にかけて応えて行く段であるが、茲ではまず前章との関連で或る事項について補説したうえで、前篇から一部を持越した「主体我々」という問題に触れる運びとしよう。」386-7P
第十二段落――協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱う 387-94P
(対話@)「われわれは前章第三節の行文中において、一見孤絶した営みに見える農夫の作業のごときでさえ已に「協働」の構制になっている旨を陳べたのであった。読者の中には、農夫の耕す土地は先人の開拓地であり、彼の用いる農具は他人の製作物であり、彼の農作業方式・技術は先人からの伝承であり、……ということを認めたうえでも、しかし、当の農夫は先人・他人の成果を労働の対象や手段として活用するのであって、別段、他人たちと協働するわけではないのではないか? と反問されるむきもありえよう。われわれとしては「共演」と「協働」を区別したうえで、共演でこそなけれ一種の協働ではあること、謂うなれば先人・他人たちの“助力”を得つつ作業する構制になっていること、この旨を陳べたのであったが、それでも他人たちの“助力”というのは、その他人たちが今問題の農夫と作業目的を志向的に共有しつつ協力するという態のものではなく、第三者的な見地から機能的な効果を評定し、そこに一種の“協働的目的達成”の構図を読み入れる限りでのみ甫めて言われうることであって、「助力」とか「協働」とか称するのは用語法上不当ではないか? この疑義を生じうることであろう。」387P・・・手段化論は能為的主体の実体化という一種の物象化?
(対話A)「概念規定や用語法をめぐって激しく争う心算はないが、著者としては先に(三八一頁)誌した通り、学知的観察者の見地から論攷する際には、協働を結局は分業的協働の構制で把え、一種の機能的“合目的性”が貫徹する限り、その協働が恰かも高次的統一的目的を達成する特種的綜合行為であるかのように扱いたいものと念っている。(それだけに協働態=共同体を独立の“目的意識性を具えた主体=実体”であるかのように錯認することを警戒し、また協働態=共同体に“形而上学的”な“内在的目的”とやらを迂闊に読み入れることを警戒しもする。)この趣意からするとき、前章第三節での「協働」という用語法は恰当であると考える。」387P
(対話B)「読者の中には、しかし、もはや生存していない他人(先祖)たちをも協働者に含はめるのは、いかにも不当拡張であるという印象を懐かれるむきもあるかもしれない。著者は今ここで、多くの文化圏において“祖霊”のアクチュアルな参与・協力が思念されているという事実を持出して“正当化”する存念はない。そして、先人をも協力者に算入するとはいっても、先人一般を抽象的に引入れるのではなく、具体的な“助力”“協力”が当該行為の“本質的な構造内的契機”を成している限りでのみ(この“没概念的”と評されかねない契機についての弁疎は先の三〇一頁を参看されたい)然(「そ」のルビ)うするのである。」388P
(対話C)「分業的協働には共時的・同時的な協働もあれば、通時的・継時的な協働もある。林業のごときにあっては親子三代にわたる分業的協働、すなわち、もはや存在しない祖父をも含めての協働は茶飯であろう。近代的工業においても同趣である。機械製作部門、加工製造部門、販売部門からなる大企業体のごときにあっては、継時的分業のステップごとが相対的に自立的であって、先行部門担掌の協働者たちが依然生存しているのが普通だとしても、従業員たちの全員が共演するわけではない。協働というものは、いずれにせよ“実体的主体”の編成にアクセントがあるのではなく、役柄行為の機能的編制にアクセントがある以上、われわれとしては斯かる分業的協働の編制によって措定される特種綜合的な統合的目的行為をも配視しなければならない。この任に応ずるためには、学知的観察の見地からの分析に際しては、一見“不当拡張”と見紛うほどの広義において、「分業的協働」という概念を用いるのが好便である。今やこの件は納得されたものと念う。」388P
(対話D)「ところで、協働という概念を極めて広義に用い、協働の“統合的主体”を「我々」と呼ぶとすれば、「我々」という概念も極めて広義となる。が、「我々」という概念は、いずれにしても、単層的な扱いでは済むべくもない。そこで「我々」という概念の広狭多義的な用法や層位的区別を自覚的に設けることが必要とされる。――この作業は次章にかけておこなうが、茲ではひとまず構図的に隈取っておこう。」388-9P
(対話E)「「我々(我等)」という想念の成立にとって、能知能為的な主体が複数現存在することの覚識が先件的な必要条件をなす。が、この必要条件の発生論的充足の経緯に関しては、前篇このかた幾つかの論脈で已に勘考してきているので、今茲で辿り返すには及ばないであろう。茲では「自他的共軛称」(第一篇第二章第二節参照)からの更なる分化的再統合の場面に止目すれば足ると思う。――自他的共軛性が現識されるようになるのは、発生論的には対抗的即応や模倣的供応の場においてであるが、これは原初的な共互的役割行為の場でもあり初次的な自覚的協働の場でもある。――「汝−我」「彼−我」翻っては、「其−我」の共軛的分立が現識化されている場面では、必ずしも個体的分節体どうしの出会いという形はとらず、第三者的に分析すればむしろ“巨きな主体”の錯分節化という相で進捗する場合も慥かにある。とはいえ、謂う所の“巨きな主体”は当人において「巨きな主体」、況してや「我々」として事前に明識されているわけではない。この現識が生じうるとしても、それは「自他的共軛」が分節的に覚識されるようになって以後の反省的な把え返しである。それゆえに、われわれとしては「自他的共軛称」に先立てて原基的・本源的な“我々的協同称”とやらを立てるようなことはしない。(唯、一定の発達段階以降においては、“我々的一体”相からの反省的分化として「汝−我」や「彼−我」の分節的意識化が成立する場合もあるということをも認めるに吝かでないだけである。)」389P
(対話F)「偖、「汝−我」「彼−我」、況してや「汝等」「彼等」という複数主体から成る構造的関係態が現識されたとしても、それだけでは「我々」の現識ではない。なるほど、或る種の反省的見地からは、複数の主体(「エゴ」のルビ)の存在が認知される場合、そこに一定の扮技的な視座から「我々」を“読み取る”ことも一般に可能かもしれない。だがしかし、謂う所の「一定の扮技的視座」とやらが問題であって、これは帰するところ当事者たちに即した「我々」の構制を扮技する視座にほかなるまい。「我々」なるものは、まずはともあれ当事者(達)の覚識に即して規定されねばならない。――われわれ日本人の日常的意識においては、漢語の元来的用法とも見合うかたちでと言おうか、彼我(「ひが」のルビ)の陣営的区別における我方(「わがほう」のルビ) (味方=身方)に属する者共を「我我」として一括的に現識するというのが「我々意識」の原基的形態であるように見受けられる。その点、印欧語圏の人々の日常的直接意識においては、we(一人称複数)とは、まずもって、言語活動の場でのI and you(つまり、一人称者と二人称者とを一括して、第三人称者と対立的に置いたもの)という人称代名詞用語に強く規定された含意を有つものの如くである。極端化して言えば、片や布陣的区別における「お前たち部外者(「よそもの」のルビ)に対する身内」、片や「第三人称者を共通の話題にしているI and you(第一人称単数者プラス第二人称者の合称)」という相違が見られる。勿論、これは原基であってそこから「我々概念」が陶冶される。――」389-90P
(対話G)「惟うに、彼我の布陣的区別における「味方・我々」というのは、拮抗的協働の当事者たちがそれぞれ複数者達から成る陣営に分立しつつ陣営内的に並行的協働ひいては分業的協働を営んでいる態勢において現識される。このさい、味方=我々が直截に意識化されるのか、それとも相手側=彼等(むしろ、汝等)を一括的な“巨きな当事主体”の相で意識することの反照において、謂うなれば相手の側の視座から見るとき当方が一括して“巨きな当事主体”の相で看ぜられ、この“巨きな当方”が複数の人格的諸主体から成る統一態として覚識されるという間接的・媒介的な経過があってはじめて「我々」が意識されるのか、これは一概には断じ難い。心理的意識の事実過程としては、両方の場合がそれぞれ折りふれて見出される。とはいえ、“単一の巨きな当事主体”相で看て取るというとき、当方の側であれ先方の側であれそれが或る単一の志向目的を追求しつつ行為している主体として見做されていること、この意味において“単一の企投的行為主体”の相で見做されているということ、このことまでは確かであろう。(このさい、“当方の側”にせよ“先方の側”にせよ、単なる集塊としてでなく、それぞれ人物的諸個体から成っていることが分節化されて現識化されていることを妨げない。いなむしろ、原基的にはそのほうがむしろ普通であると言ってよい。だが、そのことは、本篇第一章第一節「環境と主体との分節」その他の論脈で叙べたところの想起を求めるまでもなく、個体的人物=主体とのアナロギーで“巨きな主体”が措定されるということを必ずしも意味しない。一定の諸条件を充たす場合には、或る種の“巨きな主体”が初めから能為的主体の相で“観取”されることが事実の問題としてありうる。[これを学理的見地からそのまま追認するかどうかは別問題として、発生論上の経緯としては、能意的主体なるものは常に必ず個体的人物の相で原初的に現認されるとは限らない。]但し、上述の通り、“巨きな主体”なるものがそのまま直ちに「我々」として認知されるわけではない。)尚、謂う所の“単一の企投的行為主体”“巨きな主体”は、「味方側」または/および「相手側」という陣営だけとは限らない。“単一の企投的行為主体”つまり“或る単一の志向的目的を追求しつつ行為している主体”として、陣営的に対立しつつ拮抗的に協働している一全体ですら、一定の条件を充たす折りには認められうる。現に、このことに負うて、一定の条件(単一的・統合的上位目的の共同的志向)が充たされる場合には、「汝(等)と我(等)」や「彼(等)と我(等)」は、直接的には敵対的対立関係にあってさえ、“単一の企投的行為主体”として認められうるばかりか、時によっては「主体=我々」を現成しうるのである。」390-1P
(対話H)「「我々」と謂うのは、暫定的に式述すれば、「単一の志向目的を協働的に追求しつつ行為している人格的諸主体の協働態」の謂いであって、斯かる協働相にあるとき、当の人格的諸主体は「我々的協同称」にあると謂う。――この“定義”からして、「我々」は、人格としての“相互承認”を要件とするばかりでなく、単一の協働的志向目的を追求する協働態として特種的綜合(synthèse sui generis)態、“巨きな単一の主体”を形成していることを要件とするのであって、単なる「我(「エゴ」のルビ)の複合称」ではない。相互承認という論件については前篇このかた縷説してきたところであり、遺された論点は次章第一節で陳べることにして、茲では次のコメントを加える域に留めておこう。「我々」は我同士の相互承認を構造内的要件とする限り、単なる「一」ではなく、さりとて特種的綜合態である以上、単なる「多」でもない。それは、伝統的な表現を藉(か)りて言えば、「一而二(「いにしてふ」のルビ)、二而一(「ふにしてい」のルビ)」、いやむしろ、「一而多、多而一」である。――ところで、前掲の“暫定的定義”では「主体=我々」と「客体=我々」との区別が明示的でなく、また、当事者たちのフェア・ジッヒな我々と観察者的見地からのフェア・ウンスな我々との区別、等も明示的でない。今茲では周到な分類的区分を企てる意趣はないが、若干の規定的分化と併せて必要な拡充を施しておこう。」391-2P
(対話I)「「主体=我々」が勝義においては、単一の志向目的を協働的に追求している複数主体の特種的綜合態であること(ここにおける複数主体性の対自化が能知能意的主体としての相互承認と相即的であること)は絮言するまでもない。が、人々は、これを推及するかたちで、単一の志向目的を複数主体が協働的に追求しているものと見做される場合、もうそれだけで(つまり、当事者たちが相互的に人格的に承認し合う意識態が現存しなくとも)当該の複数主体が「主体=我々」を形成しているものと認めてしまう。尤も、これにもグレイドがあって、当事者たちが、現実には自覚的な相互承認には至っていないが、謂うなればいつでも自覚的な相互承認を遂げうる可能的態勢にあると目されるかぎりでのみ彼らが「主体=我々」を形成していると認める。というのが第一歩である。そして、ここから進んで、当事者たちが現実に接触・承認し合うことはまずありえないにもかかわらず、仮想的(「サブジャンクティヴ」のルビ)な接触状況を想定すれば相互承認がおこなわれる筈だという暗黙の見做しのもとに、単一の志向目的を追求する構制を形成している協働的諸主体を「主体=我々」と認める段となり、更には、例えば先人の“助力”的協働を含む場合などのように、現実の相互承認は不可能であってさえ、単一の志向目的を達成する機能的構制を形成していると見做されうる諸主体を「主体=我々」を形成しているものと認める域にまで拡張される。――フェア・ウンスには、慥かに、このような極めて広義の「主体=我々」概念を措定することも文脈によっては許されうるであろう。」392P
(対話J)「「客体=我々」と謂うのは、原初的にはおそらく、陣営的対立における味方側の集合体を相手側の視座から捉えたものを対自的に引き請けるという相で現識化されるであろう。このかぎりでは、それは「主体=我々」を(味方の側からではなく、つまり味方の側からの対相手関係に即してではなく)相手側の視座に即して捉えたものと言うこともできる。惟えば、「主体=我々」も、直接的な相互承認ぬきに、謂うなれば観察的視座から、協働相にある諸主体を一括的に把握する概念へと変様的に拡張されるが、この当事者外的な視座からの「我々」想定も「客体=我々」の規定と相通ずるところがある。この当事者外的な視座からの規定(これをおこなうのは当事者の中の一人ないし一部であっても可)という線で進むとき、相互的承認を伴う協働的営為という特種的綜合とは関わりなく、「我」と呼ばれる存在者と(“主体的”規定性においてであれ“客体的”規定性においてであれ)類同的な者共(die Meinesgleichen)が一括して「我々」と呼ばれうることにもなる。ここに例えば男性という“同類者共”、青年という“同類者共”……同一民族の成員という“同類者共”……同一宗教の信徒という“同類者共”……といった者共が「我々〜」と呼ばれたりもする。――尤も、これは、あの布陣的区分、そこにおける“主体我々”のアイデンティティといった“原基的”構制の名残りを引被っている趣きもあるが、「客体=我々」の赴く所、単なる「我の同類者達」へと極限化されうる。――われわれとしては、「我々」概念の斯かる拡張が現に通用している事実を配視しはするが、しかし、これとて原基的には協働的“布陣”に淵源すること、協働の場における対他的対自の機制をぬきにしては「我々」の想念はおよそ成立しえないであろうこと、このことを須臾(しゅゆ)も忘れてはならない。」392-3P
(対話K)「慮みるに、以上で叙べたところは、印欧文化圏における「我々」の想念についても妥当すると信ずるのだが、上述の通り、印欧文化圏においては、weとは原基的にはI and youの含意が強いものとされる。尤も、先に、weとはI and youつまり“第一人称者単数と第二人称者との合称”と誌したのは、補訂を要するかもしれない。weはあくまでのI複数形なのであって、I and youであるかI and heであるか、これは本質的ではないと目されうる。つまり、第一人称者(speaker)が複数であることが要件なのであって、「僕と彼女」とが「君」のことを話題にしているような場合I and sheを形成するのであって、I and youがweを形成するわけではない。――speakersとしてのweを基調にしての「我々」の想念なるものは、われわれ日本人にとって実感的には理解しがたいところがある。とはいえ、言語的活動も協働の定在形態の一種であることは確かであって、speakersとしての we を、協働者としての「主体=我々」にまずは位置づけるか、それとも、話題内登場者(達)との布陣的な区分性においてまずは位置づけるか、これをどう措置するかは別として、ともあれ、 speakersとしてのweをも上述の「我々」の構制に納めることは可能であろうかと思う。――」393-4P
(対話L)「欧米の哲学者たちが「我々」と謂う際に「我と汝」ということを強調する論点は、「我」と「汝」との人格的相互承認という契機(われわれ日本人の日常的な「我々」意識においては稀薄なこの契機)を顕揚するものとして留意に値する。と同時に、K・レーヴィットの指摘を俟つまでもなく、単に「我と汝」ということで判ってしまったつもりになることなく、謂う所の「と」を、単なる並存や合称という相においてではなく、アクチュアルな共互関係に即して、われわれに謂わせれば「役割的共互関係」に即して、存在論的に規定し返すことを課題として自覚化せしめる。これは、いわゆる「主体と主体との出会い」の問題にもほかならない。」394P
(対話M)「われわれは、以上、本節で隈取った役割的協働の存立性の構図に、以後、可及的に具象的な内実を賦える途に就く次序であるが、次章では「汝と我との出会い」から筆を起こすことになろう。」394P
2026年01月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(15)
たわしの読書メモ・・ブログ722[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(15)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第二節 役割遂行の共互構造
(この節の問題設定−長い標題)「役割行為は、当事者たちにとって対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)にも、屢々、共互的に遂行される。――共互的役割遂行には、順次交替的/並行共業的/同時相補的、等の諸形態をとる。――共互的な役割行為は、当事主体たる一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)が互いに相手の手段となり合う(「互いに相手を手段として利用し合う)ことにおいて目的を達成するという構制を示す。当の目的達成が両者各々の単独的行為では期し難い限りで、共互的役割行為は、単なる銘々の個別特殊的利害の期成ではなく、共同的利害の成就を体現する。そこではまた、各々が夫々目的を志向するのであるとはいえ、両者の目的が合致する場合もある。だが、共互的役割行為は対等な互酬的行為とは限らないのであって、支配−服従の構造をも呈しうる。」329-30P
第一段落――対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る 330-1P
(対話@)「前節の行文中で述べた通り、われわれは既成的理論の多くとは異なり、いわゆる対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る。マルクス式に言えば、「人間の対自然的かつ相互的な関係行為」、この統合相を如実に把握することが要件である。――尤も、分析を進めるに際しては、いわゆる対物的行為(すなわち、事物的対象に一定の変化を生ぜしめることを企投目標とする行為)と、いわゆる対人的行為(すなわち、人物的対象に一定の行動を生ぜしめることを企投目標とする行為)とを、無差別に処理するわけにはいかない。両者が構造的に統合されている場合にあってさえ、“対物的側面”と“対人的側面”とを、区別と関連の相で分析する必要に往々直面する。このことを否認する心算はない。だが、或る種の論者たちのように、例えば、生産的労働と相互的行為(「インタラクチオン」のルビ)とを両半球的に分断し、前者は恰かも(対人的・協働的な関係抜きの)孤絶な対物的行為であるかのように、そして、後者は恰かも(対物的な関連抜きの)純然たる対人的行為であるかのように、夫々を切離して行為論を展開するのでは断じて不可である。(対物的行為と対人的行為とが分断して扱われるのは、物心二元論に基く物的存在と人的存在との二元的処理という“存在論的(?)”淵源もさることながら、行為観それ自身の場面での、視野狭窄(ママ)に因由するものであろう。論者たちは、ともすれば、片や、摂食的欲求的充足行為とか、たかだか農耕的作業とかを“対物的行為”の典型とし、片や、道徳的行為とか、たかだか対話的活動とかを“対人的行為”の典型とする。そして、“対物的かつ対人的”な行為の典型を、物品の授受、商品の交換といったケースに置きがちである。これらがそれなりにモデル化されうるたぐいの行為であることは、一応認めても宜(「よ」のルビ)い。がしかし、このたぐいの余りにも抽象的で貧弱なモデルに即しつつ、それを単純に推及する流儀で以っては、行為事象のアクチュアルな分析・規定は到底覚束ない。モデルというものは、なるほど単純で抽象的であるのを嘉(「よ」のルビ)しとするにしても、それは必要な諸規定を具えている限りでのことであって、単純性の選好にも自ずと限界があろうというものである。――論者たちの単純性選好は、しかも、多分に要素主義的な存在観に支えられている。が、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれとしては、謂うなれば「函数的概念」[E・カッシーラー]として必要最小限の“変数”を具えた相での概念を措定し、それに相応してモデルを設定して事に当らねばならない。)」330-1P
(対話A)「われわれの謂う「役割行為」の範型は、“対物的側面”と“対人的側面”との統合相に即したものであって、決して純然たる対人的行為ではない。「共互的役割行為」に限定してもやはりそうである。――惟うに、旧来の役割理論おいては、とかく“対物的行為”は閉却しつつ、もっぱら“対人的行為”として処理されてきた概(「おもむき」のルビ)がある。われわれとしても、目的達成型の行為とはいっても、人物的対象に一定の変化(一定の役割行為)を生起せしめることを当座の専一的な企投目標とするケースが現にあることを否認しはしない。だが、われわれの観るところ、役割行為なるものは一般に、そして、共互的役割行為ですら、単なる対人的行為ではなくして、概しては“対物的かつ対人的”な目的達成型行為としての構造を有つ。」331P
第二段落―― 共互的役割行為の幾つかの種別的類型 331-7P
(対話@)「共互的役割行為、すなわち、複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手人物にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為は、これ自身、幾つかの種別的類型に分けることができる。理念型的には、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けて論じうるように思う。本節では、そのうち、(1)に即して論じ、(2)、(3)は基本的には次節に譲り、(1)との対比・対照に必要な限りでのみ言及する算段としたい。」331-2P
(対話A)「交互型の共互的役割行為というのは、発生論的にはいわゆる「オ頂戴遊ビ(遣り取りゲーム)」のごときどころか、「頬笑み−頬笑み返し」や交互的な「イナイイナイバー」のごときまで溯ることのできる順次交替的な役割行為の謂いである。或る種の対話活動もこれに含めることができる。交互的と謂うのは、但し、構造に即した規定なのであり、即自的な共互的行為も存在する。――われわれとしては、この際、同型的な行為の交互的な演行という如上の諸ケースから拡張して、交互的に役割行為が演行される限り、遂行される行為は非同型的である場合をもこれに含めたい。というより、非同型的な役割行為が交互に演行されるケースをこれの典型として取扱いたいと念う。例えば、人物Aが人物Bに向かってボールを投げ人物Bが人物Aに向かってボールを打ち返す。或いは、AがBに衣服を仕立てさせ、BがAに仕立賃を支払わせる。このたぐいの交互的役割行動がそれである。(協同型というのは、複数の人物が力を合わせて岩を転がすとか、声を合わせて歌を唱う斉唱とか、このタイプの並行共業型の役割行為の謂い。補完型というのは、例えば握手とか格闘とかのように、一人の側だけでは目標実現行為にならず同時相補的な行為としてのみ甫めて一定の役割行為の演行になるようなタイプの謂いである。このコメントで(1)、(2)、(3)の種別の大略を理解して頂けよう。)」332P
(対話B)「偖、順次交替型(交互型)役割行為の共互構造を、AがBに衣服を仕立てさせて仕立賃を支払う、という例に即しながら検討してみよう。――Aにとっては、仕立て上った衣服の使用価値の獲得が達成目標である。(出来上った衣服の引渡しを受けること、これが実現目標であり、この実現目標において所期の企投目的を達成する。)Aはこの目的を企投し、中間的目標としてBに衣服を仕立てさせることを企投する。Bによる一定衣服の縫製という事象の生起が、Aにとっての手段(手段的中間目標)であり、Aはこの事象の生起(Bが衣服を縫製すること)をBに期待し、この役割行動期待をBに差向ける。(この期待告知は、態度や身振によって履行される場合もあるにせよ、一般には言語的伝達によっておこなわれるが、いずれにせよ、Aにしてみれば、それが第一局面的課題であり、この暫定目標を実現するためには、自分自身の一定の身体的活動[発声を含む]を手段的に起動することを要件とする。) Bは、Aによって差向けられた役割期待(Aが、Bによる縫製という未在的状景を表象しつつ、且つ希求的督促感を懐いていること)を察知する。そこで、Bは、Aによる期待に応じるか否かを撰択的に決意するが、そのさい、応じた場合にAに対して期待できる役割行為(仕立賃の支払い)、応じなかった場合には予期されるAの反応行為を勘考する。(今此処では、Aが材料を提供するのか、材料の調達までBがおこなうのか、この区別はブラックボックスに納める。また、仕立賃の金額の交渉過程は恰かも無いもののように、つまり固定的な提示額で請けるか請けないかを決めるだけというように取扱う。そしてまた、Aによる期待を応諾/拒絶することがもたらす第三者のBに対する反応への顧慮は無いかのように想定する。――ということは、現実の場面にあっては、ここで捨象した要因が介在しており、それらの要因・過程が絡んでAの側の期待告知ならびにBの側の役割取得がおこなわれる次第なのである。が、必要最低限の骨格的構造を見据える便法として、敢えて爰では右記の諸要因を捨象しておく。)そして、今やBがAの期待に応えることを決意したものとしよう。Bのこの決意は、企投的決意であって、中間的目標として企投される状景はAによって期待されている状景と不二であるが、Bの終局的目標・目的は、Aに仕立賃を支払わせ、貨幣的価値を収得することにある。茲において、縫製というBの役割行為は、Aにとっての手段(中間的目標)であり、且つ亦、Bにとっての手段(中間的目標)でもある。溯って、Aの期待告知という行為は、AにとってBを起動して縫製せしめる手段であるが、それはBにとって縫製という中間的目標の企投的決意を動機づけるもの(理由性動機)であり、Bは仕立賃の獲得という目的(目的性動機)を達成すべく所期的縫製行為を遂行する。Bは、Aの期待に応えて縫製し納品する行為そのことで、Aに支払いという役割行為を期待・呼掛けるのであり、以って、Aに支払いの準備(最低限でも例えば金庫・財布からの取出しといった)をさせ、支払いというB自身にとっての手段的行為をAに演行せしめる。」332-4P
(対話C)「此処に構造内的に見られる目的達成型行為の構制それ自体については、前節内で必要最低限すでに触れておいたので、殊更に立入るには及ばないであろう。爰で留目したいのは当事者たちが互いに相手を手段として利用(使役)する構造である。――AはBに縫製という自分にとっての手段的行為を演行させ、BはAに仕立代金の支払いという自分にとっての手段的行為を演行させる。(裏返して言えば、Bは縫製行為によってAにとっての手段となり、Aは支払行為によってBにとっての手段となる)。両人は互いに相手側を手段として使役することで(互いに相手の手段となり合うことで)各々自分にとっての目的を達成する。このかぎりでは、手段に化すとはいっても、双方が自分の利益を得ているのであり、ここでは利害の共同性=共同的利害が存在する、と言うことが一応はできる。がしかし、共互的役割行為といい、形式的には相互使役(相互利用)といっても、また、共同的利害が一応は存在するとはいっても、内容的には、一方が優位・有利、他方が劣位・不利な関係でもありうる。」334P
(対話D)「この間の事情を見易くするためにも、先の縫製の例を継時的位相に分けてA、Bの行為の対応関係を分析しておくと便利である。/Aは、@期待を告知し、A縫製させ、B金銭を用意し、C納品させ、D賃料を支払う。/Bは@'期待を受容し、A'縫製し、B'金銭を用意させ、C'納品し、D'賃料を支払わせる。/右の過程のうち、B、B'は、@、@'の前に位置することもありうるし、C、C'の後に位置することもありうる。が、共互的対応性の構造が論件である爰では、論点に響かないので、後論との関連での便宜も計り、右記の位置に据えておきたい。――尚、@の注文が受託されないとか、D'の支払いが履行されないとか、現実にはこのような場合も生じするが、そして、それはそれで行為論にとって重要な一論件であるが、これは次章の論脈に譲ることにして、爰では、@〜Dと@'〜D'とが対応的に円滑に進捗するものとしよう。/扨、@@'、AA'……DD'は夫々対応的であるとはいえ、AとA'、BとB'は、爾余と聊か趣を異にすることに留意を要する。@と@'は、拒絶されないという目下の想定条件下では、相互補完的(同時相補的)である。つまり、注文と受注とは、謂うなれば握手などの相補的行為と同様、両々相俟って甫めて発注が発注として・受注が受注として成立するのであり、片方だけでは成立しえない。両々相俟って“単一の行為事象”である。CとC'も、製品の授受というこれまた両々相俟って甫めて成立する事件であり、DとD'も同様である。それにひきかえ、Aの「縫製させる」とA'の「縫製する」とは、また、Bの「用意する」とB'の「用意させる」とは、概念上はなるほど相補的であり、時間上も同時的と言えなくもないが、現実に遂行される行為は、A'の「縫製する」対物行為、及びBの「金銭を用意する」対物行為だけであり、これらの対物行為だけであり、これらの対物行為それ自体は各々が単独にも成立しうる。(慥かに、Aの「縫製させる」やB'の「用意させる」は使役行為であり、概念上は相手の実行行為と相補的ではある。がしかし、実行するのは一方だけであって、握手式の合体的実行ではない。)」334-5P
(対話E)「こうして、順次交替的(交互的)役割行為は、その内部に構造内的契機として同時相補型(補完型)の行為を含みうるが、一者側だけの実行行為、一方の側だけがもっぱら使役的に実行させられる行為をも構造内的に含みうる。この非対称性は、勿論、直ちに一方の優位・有利、他方の劣位・不利を意味するものではない。がしかし、この非対称性から、優位(有利)と劣位(不利)の関係が成立しうる。そして、局部だけを取り出せば相補的な・補完的な、そのかぎりで対等・平等な関係行為であっても、全体としては不平等な関係行為の構成分として、実質内容的には不平等な意義を帯びることもありうる。」335P・・・相対的差別のキーワードとしての「非対称性」
(対話F)「この間の事情は、先の縫製の例の大枠を維持したままでも、一寸したヴァリエーションのケースを思えば、容易に見て取れる。――AがBに支払う貨幣が、もともとAがBから盗んだものであったとする。今こう仮定しても、先の@〜Dおよび@'〜D'の事実的過程には毫(ごう)の変化もない。しかし、この場合には、Bは実質上只働らきであり、Aは実質的には丸々Bを只で働らかせたことになる。形式上は“労働”と“貨幣”との等価交換であってさえ、実質的には只取りになるわけである。盗んだという過激な想定は取消してもよい。Aの所持金が、以前にBに安価で縫製させ、それを売却して得ていた利鞘であったとしても事情は似たり寄ったりである。(BがAに賃労働者として雇用される場合、労働力に対して価値通りに支払われるとしても、そこに生じる構造的搾取が“盗んだ金で支払う”のと同様な構制になることはマルクスが『資本論』で説く通りであるが、今爰ではそこまでは言わないでおく。)」336P・・・マルクスの説く資本主義社会の秘密
(対話G)「ヴァリエーションをもう一歩進めてみると、共互的役割行為が、形式的には相互的に手段になり合い、夫々がそのことによって利益を得る構制、そのかぎりでは利害の共同性=共同利害性が成立するにしても、実質的には「支配−服従」の関係になる場合もあることが瞭然となる。――先には縫製労働に対して賃料という反対給付がおこなわれるものとしたが、Aの期待(依頼・命令)にもしBが応えなければ、Bは不利益を被むること必定なので、その不利益(以後の発注の差止めとか、撲られる・苛められる・殺されるとか、他種多様な“不利益”の形態がありうる)を免れようとして、Bが応諾・縫製・納品するケースを考えてみられたい。このケースでは、先のD'の賃料の代りに、Bは「当該不利益を免れる」という“反対給付”を獲得する型になる。現実問題として、Bは「当該不利益を免れる」ことを目的としてAの期待に応える役割行為を演行すること屢々である。形式上から言えば、この際でも、Bは「当該の蓋然的不利益行為をさせない」という負の形態においてAを使役し、そのかぎりで、Bは「不利益を被らない」という自分自身の目的のためにAを“手段化”する、と言えないわけではない。以って、ここでも、「形式的には相互的に手段になり合い、それぞれがそのことによって利益を得る構制、利害の共同性=共同利害性が存立する」と言うことが、一応可能ではある。しかし、実質的には、これはまさに「強制−屈従」「命令−服従」「支配−服属」にほかならない。仮令賃料が支払われるとしても、それが不等に低い額であるにもかかわらず、“より大きな不利益を免れるために”応需するのであれば、やはり一種の「支配−服従」と言わねばなるまい。また、仮令恩顧といった形で“反対給付”がおこなわれる場合でも、“恩顧を失わないために”ということであれば、実質的には「支配−服従」の関係になる。」336-7P・・・支配の構造
(対話H)「共互的役割行為なるものは、こうして、形式的には相互手段化によって各々が自分の目的を達成し利益を得る利害的共同性の構制になっているにしても、実質的には必ずしも対等・平等ではなく、「支配−服従」の場合を含みうる。――詳しくは次篇で述べるが、この「支配−服従」は、当事両者が事前に「優位−劣位」の関係にあるためとは限らない。ヒエラルヒーが既成化している場面では、「上−下」「優−劣」の地位関係にある役柄を分掌的に取得するので、「命令−服従」「支配−服属」の関係が行為に先立って事前に決っていると言える。(この場合でも、形式的にはあの相互的手段化による目的達成、共同的利害が、共互的行為の構造分析としては立言できる。このことが見失われてはならない。)そもそも、しかし、当の上下・優劣の役柄的地位関係、支配服属の地位的身分関係が如何にして形成・成立するのかを溯って究明する必要がある。今爰では役割遂行の共互構造が論件であるから、発生論的・形成論的な経緯については後論に委ねるが、「優位−劣位」「支配−服属」の地位的関係の発生論的機序を論考する際には(それが単純な「一者−他者」の二者関係ではなく、第三者の絡む関係として解明される筈であるが)、却って、共互的役割行為が構造内的に孕みうる上述の非対象的な契機が説明項としてクローズ・アップされる所以となる。この旨を予告的に一言しておこう。――共互的役割行為の構造それ自身の内部に「支配−服属」の可能的構造、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれていること、このことをわれわれは銘記して掛らねばならない。」337P
第三段落――共互的役割行為の構造を把え返す 338-42P
(対話@)「共互的な役割行為が、単純な利己的行為でも単純な利他的行為でもなく、一種独特の利害構造の構制を有つことを彰らかにしつつ、旧来の社会的行為理論のパラダイムと論判するためにも、われわれは爰で論材を新たにして共互的役割行為の構造を把え返す段である。」338P
(対話A)「われわれは先に、AがBに縫製させて賃料を支払うというかなり複雑な例を仮設して共互的役割行為、しかも順次交替型(交互型)役割行為を途中まで分析したのであったが、論者たちは、一般には、交互型役割行為の典型として「遣り取りゲーム」や「会話」のごときを挙げ、「商品交換(売買)」や「対話」のごときを以って社会的行為の範型とすることが多い。――これら構造的に“単純”な相互行為を範型とすることがいかにも至当であるように思えるかもしれない。が、敢えて先に一見“複雑すぎる”例にまず即したのは勿論故あってのことであった。――今やわれわれとしても、これらの常套的な“単純”な相互行為“範型”を論材にして議論を進めてみよう。」338P・・・「故」は「(対話G)」で的展開されています。わたし的には、「資本主義的役割行為の秘密−特質を暴いておくため?!」とか、ブラックボックスの問題としておさえていました。
(対話B)「発生論的に見るとき、自覚的な交互的役割行為の初次的形態は「遣り取りゲーム」(いわゆるオ頂戴遊ビ))や「会話」であると言うことも慥かにできよう。――ボールが遣り取りされているケースを例にとれば、第一段でAがボールをBに手渡し(BがAからボールを受取り)、第二段でBがボールをAに手渡す。この交互的行為が反復される。(AはBがボールを受取るという役割行為を演行することを期待し、Bに受取る行為を企投・起動させるべく……目的達成型の行為を企投して……手段的行為を起動・遂行し……云々という構制の復唱は爰では省いて直截・簡略に議論を進めたい。)各段の行為事象は、対物的契機と対人的行為とが統合されているばかりでなく、上述した意味で(つまり、握手などと同様な)「同時相補的(補完型)」になっている。(「ボールを手で持つ」という対物的行為と「手渡す」「受取る」という対人的行為とを階梯的に分けることも勿論可能であり、後論において必要になった際にはこの区分を導入するが、当座は「ボールを手渡す」と「ボールを受取る」とが同時相補的な補完的行為事象ということにして議論を運ぶことにする。)ボールの交互的な遣り取りは、この同時相補的行為事象、この“同型的”事象の交互的反復である。」338-9P
(対話C)「扨、ここにおいてもA、Bは互いに相手を手段的に使役しつつ(裏返して言えば、互いに相手の手段となりつつ)夫々自己の目的を達成するのであり、“利害的共同性”が存立する。そして、ここでは、先の縫製の場合とは違って“非対称”な構造内的契機は存在しない。両サイドからの行動は悉く対応的・合一的である。依って対等な役割行為の交替的進捗であり、ここには支配服従の関係は見られない。」339P・・・地位的関係を内自化している際には、非対称的関係は存在しうる。ただし、これは弁証的展開において、ここでは問題を除外しているともとらえられます。以下同文。
(対話D)「「会話」の場合には、一個同一のボールの往復とは違って、往きの発話と還りの発話とは相違する。がしかし、「Aが話しBが聞く」と「Bが話しAが聞く」という第一段と第二段とにおいて、各段が同時相補的(補完的)であり、“非対称的”な構造内的契機は存在せず、対応的・合一的である点ではボールの遣り取りと同趣である。」339P・・・ここでも、女性話者や「言語障害者」話者のさいの割り込みの問題とかで、非対称性は存在しうる――廣松さんが役柄と役割を分けた意味にも通じる事
(対話E)「「商品交換」の場合も「会話」と同型的である。――人あって、商品交換は対物的契機を含むのに対して、会話はもっぱら対人的契機だけだと言うかもしれない。ボールの遣り取りに関して、断書風に記しておいたように、ボールの授受や商品交換は慥かに、対物的・対人的な二階梯に分けることもできる。がしかし、会話についても、言語なる物の遣り取りとか言語なる物の交換とか強弁することなく、そこにもやはり“対物的”契機があり、商品交換と同趣の構制になっていることを指摘できる。というのは、音(声)を発する、音(声)を聞く、という“手段的な行動”の側面は、一種の対物的行為に類するからである。――ここにあっても、同時相補的(補完型)行為事象の継起であり、“非対称”的契機は存在せず、悉く対応的・合一的である。そして、当事者たちは互いに相手を「使役」(註) (互いに相手の手段となり合い)、夫々の目的(所求的使用価値の獲得)を達成し、以って“利害的共同性”を現成せしめる。ここにも支配服属の関係は見られない。商品交換という相互行為は、そこでの構制だけに留目するかぎり、ボールの遣り取りや会話と同様、対等な関係行為である。」339-40P
(註) ‘使役」’の‘」’に対する‘「’がないので挿入して、‘「使役」’にしました。
(対話F)「尤も、商品交換は、先の縫製の例における最終局面、すなわち、納品・支払い、つまり、製品と貨幣との交換の局面を截り撮ったものになっている場合もありうる。そして、この場合には、“製造”の過程まで視野に入れ、且つ亦、取引条件などを視野に入れるとすれば、「優位−劣位」「有利−不利」ひいては一種の「支配−服属」の関係が対自化されうる。がしかし、商品交換モデルの社会的行為論は、言語ゲーム・モデルの社会的関係論と双生児であり、生産関係をブラックボックスに納めたままにしているのがまさに特徴である。」340P・・・同じく、「遣り取りゲーム」や「会話」においても既にある差別的関係をブラックボックスに納めているのでは?
(対話G)「今や、先に敢えて縫製の例に即するところから始めた所以のもの、言い換えれば、商品交換モデルや言語ゲーム・モデルから始めることをしなかった理由、これが納得されよう。形式的には一見対等な相互的役割行為、共同的利害行為の構造であっても、そこに支配服従の可能的構造が、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれておりうることを対自化するためには、過度の“単純的選好”に陥らないよう心すべきだったのである。」340P・・・「(対話A)」参照
(対話H)「商品交換モデルは、いわゆる「近代市民型」が対等な同市民たちが各々自家生産物を携えて市場で出会い、自由で対等な人格的主体として、各々の自家生産物を等価交換し合う市場社会の相でイメージされるのにも見合う。近代市民社会の古典的イメージにあっては、生産過程は謂わば私事としてブラックボックスに納められ、もっぱら市場的出会いの場に即して社会(社会関係)なるものが表象され、そこでは資本家と賃労働者との関係すら“労働力”商品の売買関係として扱われる。この市民社会像に徴すれば、商品交換モデルは、単なるモデルというより、人々の社会的間主体関係・行為の普遍的な定在形態を定式化したものとさえ思念(「マイネン」のルビ)されうる。――言語行為モデルも、先に指摘した通り、商品交換モデルと本質的には同型的である。なるほど、言語行為にあっては、文法という規則(「ルール」のルビ)性が見え易く、文法的規約性をビルトインしてモデル化されるという“長所”を有つが、文法は当該言語活動諸主体にとって“万人平等”であり、しかも文法という規範体系はコンクリフトを含まない。言語ゲーム・モデルの社会論・社会的行為論も、商品交換モデルのそれと同断である。――モデルは所詮モデルにすぎないとはいえ、商品交換モデルや言語行為モデルを社会的行為の一般的モデルとすることは、古典的な近代市民社会像のイデオローギッシュな短見と同じ弊に陥りかねない。それは矛盾的葛藤や支配服従的対立性の可能的構造をイデオローギッシュに“隠蔽”する所以ともなりうるからである。(翻って、或る種の単純な労働・作業をモデルとして、行為なるものをもっぱら“主体−客体”関係として扱うことにも慎重な配慮を要する。いわゆる“対物的行為”という“側面”が行為一般の構造内契機を成す以上、その部面をクローズアップして分析するに際して、しかるべきモデルを立てることが慥かに望まれる。これを卻けるべき謂われはない。われわれ自身、“対物的行為”論を主題的に試みる場面では労働の構造分析をモデル化するであろう。が、しかし、現実の労働は、前節で指摘したように、協働分掌の構制になっており、決して孤絶な“主体−客体”関係ではないことが銘記されねばならない。現実の行為は“対物的かつ対人的”関係行為として存在する。)」340-1P
(対話I)「よもや誤解はあるまいと信じるが、著者は言語行為なるものを軽視する心算はない。役割期待の告知(指令・命令)は、非言語的伝達によってもおこなわれるとはいえ、圧倒的大部分は言語活動によっておこなわれるのであり、現実の共演的役割行為は言語活動を抜きにして殆んど成立しえないのが実情である。また、賞罰も、単なる表情性反応でおこなわれる場合や、褒賞・刑罰といった形をとる場合もあるが、大抵は賞賛や叱責を言語活動で表現・伝達することによって現成する。言語活動の手段的機能性への留目は、行為論にとって不可欠の重要事である。尤も、(手段的機能性ということに徴する限りでは、非言語的な手段によっても告知・伝達が可能であり、言語的活動が恒に必ず人間行為にとっての構造内的必須契機を成しているわけではないという事情は措くとしても)行為論にとって本質的に須要なのは役割期待の告知・理解や賞罰の表明・受容といった構制なのであるから、それらの基本的構制の現認が先決的課題となる。言語的活動が多くの場合に手段的に介在するとはいっても、それが基本的な構制にとって必須の構造内的契機とまでは言えない限り、言語活動は当座の論攷において主題的論件からは外れる。爰ではまだ手段的行為の各論的分析に立入る段ではないので、著者が言語活動の手段的機能性をいかに重視していようとも、直ちに主題的論件とはしない事情を諒として頂きたい。」341-2P・・・眉の上げ下げによるサンクションの例
(対話J)「附言するまでもなく、言語活動はそれ自身一種の歴(「れっき」のルビ)とした行為である。手段的機能性を演じる場合でも、言語行為は目的達成型の構制を具えた企投的行為であることは言うを俟たない。そして、言語活動は先ず以って役割行為でもある。それゆえ、目的達成型の各種行為の分類や分析、役割遂行型の各種行為の分類や分析が試みられる場合には、言語行為の主題的検討がそれらの視角においても履行されねばならない。――著者としてはオースティンやサールの言語行為論に謂うlocutionary act(発語行為)、illocutionary act(発語内行為)、perlocutionary act(発語媒介行為)の区別もさることながら、K・ビューラーの「三極的オルガノン」モデルを継承的に展開しつつ、第一巻中で叙べた言語の四機能に即して言語行為論を定式化したいと念う。その際、熊野純彦氏のシグナル・シンプトン・シンボルの理論を勘案することになる筈である。――言語行為論(乃至はより広く記号論)は、主題的な論究に値するばかりではなく、実践的世界論の各論的展開に際しては、呪術行為論、儀礼行為論、司法行為論などと“並んで”特別な配慮を要する。著者はこのことを承知している心算である。が、爰はまだその段ではない。」342P
第四段落――共互的役割行為が利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちの間に、「有利−不利」「支配−服属」の可能的構造を孕みうること 342-3P
(対話@)「共互的役割行為は、上述した通り、共互的に相手にとっての手段となり合い(互いに相手を手段的に使役し合い)、単独では成就できない目的を達成する限りで、利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちのあいだに、「有利−不利」ばかりか「支配−服属」の可能的構造を孕みうる。そして、(1)順次交替型(交互型)の役割行為は、そこにおける、「役割期待−役割取得」が「強要−屈従」「命令−受命」となる場合を生じ、共互的役割遂行とは言っても、「指揮−服従 」という形での“協働”になる場合が現にある。(2)並行共業型(協同型)にあっては、複数の当事者たちが、よしんば思惑は別々であり、各々別々の高次目的を利己的に追求している場合であっても、差当っては、共通・単一の目標を企投しつつ同型的な手段的行為の共業・協同的な遂行を演行する。(3)同時相補型(補完型)の共互的役割行為においては、複数の行為当事者たちの行為が補完的合一相で甫めて各々の側の行為を成立せしめる。――これらの共互的な役割行為の構造について分析し、片やコンフリクトの発生を、片や「主体我々」の形成を見定める次序であるが、捷径(しょうけい)を期してこれは次節「役割行動の存立性」の論脈に繰込むことにしたい。本節の標題に掲げた論件を十全に論定するに至っていないが、次節での継承・継続に免じてこの措置を許されたいと念う。」342-3P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(15)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第二節 役割遂行の共互構造
(この節の問題設定−長い標題)「役割行為は、当事者たちにとって対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)にも、屢々、共互的に遂行される。――共互的役割遂行には、順次交替的/並行共業的/同時相補的、等の諸形態をとる。――共互的な役割行為は、当事主体たる一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)が互いに相手の手段となり合う(「互いに相手を手段として利用し合う)ことにおいて目的を達成するという構制を示す。当の目的達成が両者各々の単独的行為では期し難い限りで、共互的役割行為は、単なる銘々の個別特殊的利害の期成ではなく、共同的利害の成就を体現する。そこではまた、各々が夫々目的を志向するのであるとはいえ、両者の目的が合致する場合もある。だが、共互的役割行為は対等な互酬的行為とは限らないのであって、支配−服従の構造をも呈しうる。」329-30P
第一段落――対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る 330-1P
(対話@)「前節の行文中で述べた通り、われわれは既成的理論の多くとは異なり、いわゆる対物的行為と対人的行為とを二半球的に分断することなく、統合相で範式化しようと図る。マルクス式に言えば、「人間の対自然的かつ相互的な関係行為」、この統合相を如実に把握することが要件である。――尤も、分析を進めるに際しては、いわゆる対物的行為(すなわち、事物的対象に一定の変化を生ぜしめることを企投目標とする行為)と、いわゆる対人的行為(すなわち、人物的対象に一定の行動を生ぜしめることを企投目標とする行為)とを、無差別に処理するわけにはいかない。両者が構造的に統合されている場合にあってさえ、“対物的側面”と“対人的側面”とを、区別と関連の相で分析する必要に往々直面する。このことを否認する心算はない。だが、或る種の論者たちのように、例えば、生産的労働と相互的行為(「インタラクチオン」のルビ)とを両半球的に分断し、前者は恰かも(対人的・協働的な関係抜きの)孤絶な対物的行為であるかのように、そして、後者は恰かも(対物的な関連抜きの)純然たる対人的行為であるかのように、夫々を切離して行為論を展開するのでは断じて不可である。(対物的行為と対人的行為とが分断して扱われるのは、物心二元論に基く物的存在と人的存在との二元的処理という“存在論的(?)”淵源もさることながら、行為観それ自身の場面での、視野狭窄(ママ)に因由するものであろう。論者たちは、ともすれば、片や、摂食的欲求的充足行為とか、たかだか農耕的作業とかを“対物的行為”の典型とし、片や、道徳的行為とか、たかだか対話的活動とかを“対人的行為”の典型とする。そして、“対物的かつ対人的”な行為の典型を、物品の授受、商品の交換といったケースに置きがちである。これらがそれなりにモデル化されうるたぐいの行為であることは、一応認めても宜(「よ」のルビ)い。がしかし、このたぐいの余りにも抽象的で貧弱なモデルに即しつつ、それを単純に推及する流儀で以っては、行為事象のアクチュアルな分析・規定は到底覚束ない。モデルというものは、なるほど単純で抽象的であるのを嘉(「よ」のルビ)しとするにしても、それは必要な諸規定を具えている限りでのことであって、単純性の選好にも自ずと限界があろうというものである。――論者たちの単純性選好は、しかも、多分に要素主義的な存在観に支えられている。が、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれとしては、謂うなれば「函数的概念」[E・カッシーラー]として必要最小限の“変数”を具えた相での概念を措定し、それに相応してモデルを設定して事に当らねばならない。)」330-1P
(対話A)「われわれの謂う「役割行為」の範型は、“対物的側面”と“対人的側面”との統合相に即したものであって、決して純然たる対人的行為ではない。「共互的役割行為」に限定してもやはりそうである。――惟うに、旧来の役割理論おいては、とかく“対物的行為”は閉却しつつ、もっぱら“対人的行為”として処理されてきた概(「おもむき」のルビ)がある。われわれとしても、目的達成型の行為とはいっても、人物的対象に一定の変化(一定の役割行為)を生起せしめることを当座の専一的な企投目標とするケースが現にあることを否認しはしない。だが、われわれの観るところ、役割行為なるものは一般に、そして、共互的役割行為ですら、単なる対人的行為ではなくして、概しては“対物的かつ対人的”な目的達成型行為としての構造を有つ。」331P
第二段落―― 共互的役割行為の幾つかの種別的類型 331-7P
(対話@)「共互的役割行為、すなわち、複数の当事者たちが一者(「アイン」のルビ)−他者(「アンダー」のルビ)の対他者関係に立ちつつ互いに相手人物にとっての手段として機能する行為を演じ合う(演じさせ合う)行為は、これ自身、幾つかの種別的類型に分けることができる。理念型的には、(1)順次交替型(交互型)、(2)並行共業型(協同型)、(3)同時相補型(補完型)に分けて論じうるように思う。本節では、そのうち、(1)に即して論じ、(2)、(3)は基本的には次節に譲り、(1)との対比・対照に必要な限りでのみ言及する算段としたい。」331-2P
(対話A)「交互型の共互的役割行為というのは、発生論的にはいわゆる「オ頂戴遊ビ(遣り取りゲーム)」のごときどころか、「頬笑み−頬笑み返し」や交互的な「イナイイナイバー」のごときまで溯ることのできる順次交替的な役割行為の謂いである。或る種の対話活動もこれに含めることができる。交互的と謂うのは、但し、構造に即した規定なのであり、即自的な共互的行為も存在する。――われわれとしては、この際、同型的な行為の交互的な演行という如上の諸ケースから拡張して、交互的に役割行為が演行される限り、遂行される行為は非同型的である場合をもこれに含めたい。というより、非同型的な役割行為が交互に演行されるケースをこれの典型として取扱いたいと念う。例えば、人物Aが人物Bに向かってボールを投げ人物Bが人物Aに向かってボールを打ち返す。或いは、AがBに衣服を仕立てさせ、BがAに仕立賃を支払わせる。このたぐいの交互的役割行動がそれである。(協同型というのは、複数の人物が力を合わせて岩を転がすとか、声を合わせて歌を唱う斉唱とか、このタイプの並行共業型の役割行為の謂い。補完型というのは、例えば握手とか格闘とかのように、一人の側だけでは目標実現行為にならず同時相補的な行為としてのみ甫めて一定の役割行為の演行になるようなタイプの謂いである。このコメントで(1)、(2)、(3)の種別の大略を理解して頂けよう。)」332P
(対話B)「偖、順次交替型(交互型)役割行為の共互構造を、AがBに衣服を仕立てさせて仕立賃を支払う、という例に即しながら検討してみよう。――Aにとっては、仕立て上った衣服の使用価値の獲得が達成目標である。(出来上った衣服の引渡しを受けること、これが実現目標であり、この実現目標において所期の企投目的を達成する。)Aはこの目的を企投し、中間的目標としてBに衣服を仕立てさせることを企投する。Bによる一定衣服の縫製という事象の生起が、Aにとっての手段(手段的中間目標)であり、Aはこの事象の生起(Bが衣服を縫製すること)をBに期待し、この役割行動期待をBに差向ける。(この期待告知は、態度や身振によって履行される場合もあるにせよ、一般には言語的伝達によっておこなわれるが、いずれにせよ、Aにしてみれば、それが第一局面的課題であり、この暫定目標を実現するためには、自分自身の一定の身体的活動[発声を含む]を手段的に起動することを要件とする。) Bは、Aによって差向けられた役割期待(Aが、Bによる縫製という未在的状景を表象しつつ、且つ希求的督促感を懐いていること)を察知する。そこで、Bは、Aによる期待に応じるか否かを撰択的に決意するが、そのさい、応じた場合にAに対して期待できる役割行為(仕立賃の支払い)、応じなかった場合には予期されるAの反応行為を勘考する。(今此処では、Aが材料を提供するのか、材料の調達までBがおこなうのか、この区別はブラックボックスに納める。また、仕立賃の金額の交渉過程は恰かも無いもののように、つまり固定的な提示額で請けるか請けないかを決めるだけというように取扱う。そしてまた、Aによる期待を応諾/拒絶することがもたらす第三者のBに対する反応への顧慮は無いかのように想定する。――ということは、現実の場面にあっては、ここで捨象した要因が介在しており、それらの要因・過程が絡んでAの側の期待告知ならびにBの側の役割取得がおこなわれる次第なのである。が、必要最低限の骨格的構造を見据える便法として、敢えて爰では右記の諸要因を捨象しておく。)そして、今やBがAの期待に応えることを決意したものとしよう。Bのこの決意は、企投的決意であって、中間的目標として企投される状景はAによって期待されている状景と不二であるが、Bの終局的目標・目的は、Aに仕立賃を支払わせ、貨幣的価値を収得することにある。茲において、縫製というBの役割行為は、Aにとっての手段(中間的目標)であり、且つ亦、Bにとっての手段(中間的目標)でもある。溯って、Aの期待告知という行為は、AにとってBを起動して縫製せしめる手段であるが、それはBにとって縫製という中間的目標の企投的決意を動機づけるもの(理由性動機)であり、Bは仕立賃の獲得という目的(目的性動機)を達成すべく所期的縫製行為を遂行する。Bは、Aの期待に応えて縫製し納品する行為そのことで、Aに支払いという役割行為を期待・呼掛けるのであり、以って、Aに支払いの準備(最低限でも例えば金庫・財布からの取出しといった)をさせ、支払いというB自身にとっての手段的行為をAに演行せしめる。」332-4P
(対話C)「此処に構造内的に見られる目的達成型行為の構制それ自体については、前節内で必要最低限すでに触れておいたので、殊更に立入るには及ばないであろう。爰で留目したいのは当事者たちが互いに相手を手段として利用(使役)する構造である。――AはBに縫製という自分にとっての手段的行為を演行させ、BはAに仕立代金の支払いという自分にとっての手段的行為を演行させる。(裏返して言えば、Bは縫製行為によってAにとっての手段となり、Aは支払行為によってBにとっての手段となる)。両人は互いに相手側を手段として使役することで(互いに相手の手段となり合うことで)各々自分にとっての目的を達成する。このかぎりでは、手段に化すとはいっても、双方が自分の利益を得ているのであり、ここでは利害の共同性=共同的利害が存在する、と言うことが一応はできる。がしかし、共互的役割行為といい、形式的には相互使役(相互利用)といっても、また、共同的利害が一応は存在するとはいっても、内容的には、一方が優位・有利、他方が劣位・不利な関係でもありうる。」334P
(対話D)「この間の事情を見易くするためにも、先の縫製の例を継時的位相に分けてA、Bの行為の対応関係を分析しておくと便利である。/Aは、@期待を告知し、A縫製させ、B金銭を用意し、C納品させ、D賃料を支払う。/Bは@'期待を受容し、A'縫製し、B'金銭を用意させ、C'納品し、D'賃料を支払わせる。/右の過程のうち、B、B'は、@、@'の前に位置することもありうるし、C、C'の後に位置することもありうる。が、共互的対応性の構造が論件である爰では、論点に響かないので、後論との関連での便宜も計り、右記の位置に据えておきたい。――尚、@の注文が受託されないとか、D'の支払いが履行されないとか、現実にはこのような場合も生じするが、そして、それはそれで行為論にとって重要な一論件であるが、これは次章の論脈に譲ることにして、爰では、@〜Dと@'〜D'とが対応的に円滑に進捗するものとしよう。/扨、@@'、AA'……DD'は夫々対応的であるとはいえ、AとA'、BとB'は、爾余と聊か趣を異にすることに留意を要する。@と@'は、拒絶されないという目下の想定条件下では、相互補完的(同時相補的)である。つまり、注文と受注とは、謂うなれば握手などの相補的行為と同様、両々相俟って甫めて発注が発注として・受注が受注として成立するのであり、片方だけでは成立しえない。両々相俟って“単一の行為事象”である。CとC'も、製品の授受というこれまた両々相俟って甫めて成立する事件であり、DとD'も同様である。それにひきかえ、Aの「縫製させる」とA'の「縫製する」とは、また、Bの「用意する」とB'の「用意させる」とは、概念上はなるほど相補的であり、時間上も同時的と言えなくもないが、現実に遂行される行為は、A'の「縫製する」対物行為、及びBの「金銭を用意する」対物行為だけであり、これらの対物行為だけであり、これらの対物行為それ自体は各々が単独にも成立しうる。(慥かに、Aの「縫製させる」やB'の「用意させる」は使役行為であり、概念上は相手の実行行為と相補的ではある。がしかし、実行するのは一方だけであって、握手式の合体的実行ではない。)」334-5P
(対話E)「こうして、順次交替的(交互的)役割行為は、その内部に構造内的契機として同時相補型(補完型)の行為を含みうるが、一者側だけの実行行為、一方の側だけがもっぱら使役的に実行させられる行為をも構造内的に含みうる。この非対称性は、勿論、直ちに一方の優位・有利、他方の劣位・不利を意味するものではない。がしかし、この非対称性から、優位(有利)と劣位(不利)の関係が成立しうる。そして、局部だけを取り出せば相補的な・補完的な、そのかぎりで対等・平等な関係行為であっても、全体としては不平等な関係行為の構成分として、実質内容的には不平等な意義を帯びることもありうる。」335P・・・相対的差別のキーワードとしての「非対称性」
(対話F)「この間の事情は、先の縫製の例の大枠を維持したままでも、一寸したヴァリエーションのケースを思えば、容易に見て取れる。――AがBに支払う貨幣が、もともとAがBから盗んだものであったとする。今こう仮定しても、先の@〜Dおよび@'〜D'の事実的過程には毫(ごう)の変化もない。しかし、この場合には、Bは実質上只働らきであり、Aは実質的には丸々Bを只で働らかせたことになる。形式上は“労働”と“貨幣”との等価交換であってさえ、実質的には只取りになるわけである。盗んだという過激な想定は取消してもよい。Aの所持金が、以前にBに安価で縫製させ、それを売却して得ていた利鞘であったとしても事情は似たり寄ったりである。(BがAに賃労働者として雇用される場合、労働力に対して価値通りに支払われるとしても、そこに生じる構造的搾取が“盗んだ金で支払う”のと同様な構制になることはマルクスが『資本論』で説く通りであるが、今爰ではそこまでは言わないでおく。)」336P・・・マルクスの説く資本主義社会の秘密
(対話G)「ヴァリエーションをもう一歩進めてみると、共互的役割行為が、形式的には相互的に手段になり合い、夫々がそのことによって利益を得る構制、そのかぎりでは利害の共同性=共同利害性が成立するにしても、実質的には「支配−服従」の関係になる場合もあることが瞭然となる。――先には縫製労働に対して賃料という反対給付がおこなわれるものとしたが、Aの期待(依頼・命令)にもしBが応えなければ、Bは不利益を被むること必定なので、その不利益(以後の発注の差止めとか、撲られる・苛められる・殺されるとか、他種多様な“不利益”の形態がありうる)を免れようとして、Bが応諾・縫製・納品するケースを考えてみられたい。このケースでは、先のD'の賃料の代りに、Bは「当該不利益を免れる」という“反対給付”を獲得する型になる。現実問題として、Bは「当該不利益を免れる」ことを目的としてAの期待に応える役割行為を演行すること屢々である。形式上から言えば、この際でも、Bは「当該の蓋然的不利益行為をさせない」という負の形態においてAを使役し、そのかぎりで、Bは「不利益を被らない」という自分自身の目的のためにAを“手段化”する、と言えないわけではない。以って、ここでも、「形式的には相互的に手段になり合い、それぞれがそのことによって利益を得る構制、利害の共同性=共同利害性が存立する」と言うことが、一応可能ではある。しかし、実質的には、これはまさに「強制−屈従」「命令−服従」「支配−服属」にほかならない。仮令賃料が支払われるとしても、それが不等に低い額であるにもかかわらず、“より大きな不利益を免れるために”応需するのであれば、やはり一種の「支配−服従」と言わねばなるまい。また、仮令恩顧といった形で“反対給付”がおこなわれる場合でも、“恩顧を失わないために”ということであれば、実質的には「支配−服従」の関係になる。」336-7P・・・支配の構造
(対話H)「共互的役割行為なるものは、こうして、形式的には相互手段化によって各々が自分の目的を達成し利益を得る利害的共同性の構制になっているにしても、実質的には必ずしも対等・平等ではなく、「支配−服従」の場合を含みうる。――詳しくは次篇で述べるが、この「支配−服従」は、当事両者が事前に「優位−劣位」の関係にあるためとは限らない。ヒエラルヒーが既成化している場面では、「上−下」「優−劣」の地位関係にある役柄を分掌的に取得するので、「命令−服従」「支配−服属」の関係が行為に先立って事前に決っていると言える。(この場合でも、形式的にはあの相互的手段化による目的達成、共同的利害が、共互的行為の構造分析としては立言できる。このことが見失われてはならない。)そもそも、しかし、当の上下・優劣の役柄的地位関係、支配服属の地位的身分関係が如何にして形成・成立するのかを溯って究明する必要がある。今爰では役割遂行の共互構造が論件であるから、発生論的・形成論的な経緯については後論に委ねるが、「優位−劣位」「支配−服属」の地位的関係の発生論的機序を論考する際には(それが単純な「一者−他者」の二者関係ではなく、第三者の絡む関係として解明される筈であるが)、却って、共互的役割行為が構造内的に孕みうる上述の非対象的な契機が説明項としてクローズ・アップされる所以となる。この旨を予告的に一言しておこう。――共互的役割行為の構造それ自身の内部に「支配−服属」の可能的構造、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれていること、このことをわれわれは銘記して掛らねばならない。」337P
第三段落――共互的役割行為の構造を把え返す 338-42P
(対話@)「共互的な役割行為が、単純な利己的行為でも単純な利他的行為でもなく、一種独特の利害構造の構制を有つことを彰らかにしつつ、旧来の社会的行為理論のパラダイムと論判するためにも、われわれは爰で論材を新たにして共互的役割行為の構造を把え返す段である。」338P
(対話A)「われわれは先に、AがBに縫製させて賃料を支払うというかなり複雑な例を仮設して共互的役割行為、しかも順次交替型(交互型)役割行為を途中まで分析したのであったが、論者たちは、一般には、交互型役割行為の典型として「遣り取りゲーム」や「会話」のごときを挙げ、「商品交換(売買)」や「対話」のごときを以って社会的行為の範型とすることが多い。――これら構造的に“単純”な相互行為を範型とすることがいかにも至当であるように思えるかもしれない。が、敢えて先に一見“複雑すぎる”例にまず即したのは勿論故あってのことであった。――今やわれわれとしても、これらの常套的な“単純”な相互行為“範型”を論材にして議論を進めてみよう。」338P・・・「故」は「(対話G)」で的展開されています。わたし的には、「資本主義的役割行為の秘密−特質を暴いておくため?!」とか、ブラックボックスの問題としておさえていました。
(対話B)「発生論的に見るとき、自覚的な交互的役割行為の初次的形態は「遣り取りゲーム」(いわゆるオ頂戴遊ビ))や「会話」であると言うことも慥かにできよう。――ボールが遣り取りされているケースを例にとれば、第一段でAがボールをBに手渡し(BがAからボールを受取り)、第二段でBがボールをAに手渡す。この交互的行為が反復される。(AはBがボールを受取るという役割行為を演行することを期待し、Bに受取る行為を企投・起動させるべく……目的達成型の行為を企投して……手段的行為を起動・遂行し……云々という構制の復唱は爰では省いて直截・簡略に議論を進めたい。)各段の行為事象は、対物的契機と対人的行為とが統合されているばかりでなく、上述した意味で(つまり、握手などと同様な)「同時相補的(補完型)」になっている。(「ボールを手で持つ」という対物的行為と「手渡す」「受取る」という対人的行為とを階梯的に分けることも勿論可能であり、後論において必要になった際にはこの区分を導入するが、当座は「ボールを手渡す」と「ボールを受取る」とが同時相補的な補完的行為事象ということにして議論を運ぶことにする。)ボールの交互的な遣り取りは、この同時相補的行為事象、この“同型的”事象の交互的反復である。」338-9P
(対話C)「扨、ここにおいてもA、Bは互いに相手を手段的に使役しつつ(裏返して言えば、互いに相手の手段となりつつ)夫々自己の目的を達成するのであり、“利害的共同性”が存立する。そして、ここでは、先の縫製の場合とは違って“非対称”な構造内的契機は存在しない。両サイドからの行動は悉く対応的・合一的である。依って対等な役割行為の交替的進捗であり、ここには支配服従の関係は見られない。」339P・・・地位的関係を内自化している際には、非対称的関係は存在しうる。ただし、これは弁証的展開において、ここでは問題を除外しているともとらえられます。以下同文。
(対話D)「「会話」の場合には、一個同一のボールの往復とは違って、往きの発話と還りの発話とは相違する。がしかし、「Aが話しBが聞く」と「Bが話しAが聞く」という第一段と第二段とにおいて、各段が同時相補的(補完的)であり、“非対称的”な構造内的契機は存在せず、対応的・合一的である点ではボールの遣り取りと同趣である。」339P・・・ここでも、女性話者や「言語障害者」話者のさいの割り込みの問題とかで、非対称性は存在しうる――廣松さんが役柄と役割を分けた意味にも通じる事
(対話E)「「商品交換」の場合も「会話」と同型的である。――人あって、商品交換は対物的契機を含むのに対して、会話はもっぱら対人的契機だけだと言うかもしれない。ボールの遣り取りに関して、断書風に記しておいたように、ボールの授受や商品交換は慥かに、対物的・対人的な二階梯に分けることもできる。がしかし、会話についても、言語なる物の遣り取りとか言語なる物の交換とか強弁することなく、そこにもやはり“対物的”契機があり、商品交換と同趣の構制になっていることを指摘できる。というのは、音(声)を発する、音(声)を聞く、という“手段的な行動”の側面は、一種の対物的行為に類するからである。――ここにあっても、同時相補的(補完型)行為事象の継起であり、“非対称”的契機は存在せず、悉く対応的・合一的である。そして、当事者たちは互いに相手を「使役」(註) (互いに相手の手段となり合い)、夫々の目的(所求的使用価値の獲得)を達成し、以って“利害的共同性”を現成せしめる。ここにも支配服属の関係は見られない。商品交換という相互行為は、そこでの構制だけに留目するかぎり、ボールの遣り取りや会話と同様、対等な関係行為である。」339-40P
(註) ‘使役」’の‘」’に対する‘「’がないので挿入して、‘「使役」’にしました。
(対話F)「尤も、商品交換は、先の縫製の例における最終局面、すなわち、納品・支払い、つまり、製品と貨幣との交換の局面を截り撮ったものになっている場合もありうる。そして、この場合には、“製造”の過程まで視野に入れ、且つ亦、取引条件などを視野に入れるとすれば、「優位−劣位」「有利−不利」ひいては一種の「支配−服属」の関係が対自化されうる。がしかし、商品交換モデルの社会的行為論は、言語ゲーム・モデルの社会的関係論と双生児であり、生産関係をブラックボックスに納めたままにしているのがまさに特徴である。」340P・・・同じく、「遣り取りゲーム」や「会話」においても既にある差別的関係をブラックボックスに納めているのでは?
(対話G)「今や、先に敢えて縫製の例に即するところから始めた所以のもの、言い換えれば、商品交換モデルや言語ゲーム・モデルから始めることをしなかった理由、これが納得されよう。形式的には一見対等な相互的役割行為、共同的利害行為の構造であっても、そこに支配服従の可能的構造が、依って亦、社会的矛盾葛藤の可能的構造が孕まれておりうることを対自化するためには、過度の“単純的選好”に陥らないよう心すべきだったのである。」340P・・・「(対話A)」参照
(対話H)「商品交換モデルは、いわゆる「近代市民型」が対等な同市民たちが各々自家生産物を携えて市場で出会い、自由で対等な人格的主体として、各々の自家生産物を等価交換し合う市場社会の相でイメージされるのにも見合う。近代市民社会の古典的イメージにあっては、生産過程は謂わば私事としてブラックボックスに納められ、もっぱら市場的出会いの場に即して社会(社会関係)なるものが表象され、そこでは資本家と賃労働者との関係すら“労働力”商品の売買関係として扱われる。この市民社会像に徴すれば、商品交換モデルは、単なるモデルというより、人々の社会的間主体関係・行為の普遍的な定在形態を定式化したものとさえ思念(「マイネン」のルビ)されうる。――言語行為モデルも、先に指摘した通り、商品交換モデルと本質的には同型的である。なるほど、言語行為にあっては、文法という規則(「ルール」のルビ)性が見え易く、文法的規約性をビルトインしてモデル化されるという“長所”を有つが、文法は当該言語活動諸主体にとって“万人平等”であり、しかも文法という規範体系はコンクリフトを含まない。言語ゲーム・モデルの社会論・社会的行為論も、商品交換モデルのそれと同断である。――モデルは所詮モデルにすぎないとはいえ、商品交換モデルや言語行為モデルを社会的行為の一般的モデルとすることは、古典的な近代市民社会像のイデオローギッシュな短見と同じ弊に陥りかねない。それは矛盾的葛藤や支配服従的対立性の可能的構造をイデオローギッシュに“隠蔽”する所以ともなりうるからである。(翻って、或る種の単純な労働・作業をモデルとして、行為なるものをもっぱら“主体−客体”関係として扱うことにも慎重な配慮を要する。いわゆる“対物的行為”という“側面”が行為一般の構造内契機を成す以上、その部面をクローズアップして分析するに際して、しかるべきモデルを立てることが慥かに望まれる。これを卻けるべき謂われはない。われわれ自身、“対物的行為”論を主題的に試みる場面では労働の構造分析をモデル化するであろう。が、しかし、現実の労働は、前節で指摘したように、協働分掌の構制になっており、決して孤絶な“主体−客体”関係ではないことが銘記されねばならない。現実の行為は“対物的かつ対人的”関係行為として存在する。)」340-1P
(対話I)「よもや誤解はあるまいと信じるが、著者は言語行為なるものを軽視する心算はない。役割期待の告知(指令・命令)は、非言語的伝達によってもおこなわれるとはいえ、圧倒的大部分は言語活動によっておこなわれるのであり、現実の共演的役割行為は言語活動を抜きにして殆んど成立しえないのが実情である。また、賞罰も、単なる表情性反応でおこなわれる場合や、褒賞・刑罰といった形をとる場合もあるが、大抵は賞賛や叱責を言語活動で表現・伝達することによって現成する。言語活動の手段的機能性への留目は、行為論にとって不可欠の重要事である。尤も、(手段的機能性ということに徴する限りでは、非言語的な手段によっても告知・伝達が可能であり、言語的活動が恒に必ず人間行為にとっての構造内的必須契機を成しているわけではないという事情は措くとしても)行為論にとって本質的に須要なのは役割期待の告知・理解や賞罰の表明・受容といった構制なのであるから、それらの基本的構制の現認が先決的課題となる。言語的活動が多くの場合に手段的に介在するとはいっても、それが基本的な構制にとって必須の構造内的契機とまでは言えない限り、言語活動は当座の論攷において主題的論件からは外れる。爰ではまだ手段的行為の各論的分析に立入る段ではないので、著者が言語活動の手段的機能性をいかに重視していようとも、直ちに主題的論件とはしない事情を諒として頂きたい。」341-2P・・・眉の上げ下げによるサンクションの例
(対話J)「附言するまでもなく、言語活動はそれ自身一種の歴(「れっき」のルビ)とした行為である。手段的機能性を演じる場合でも、言語行為は目的達成型の構制を具えた企投的行為であることは言うを俟たない。そして、言語活動は先ず以って役割行為でもある。それゆえ、目的達成型の各種行為の分類や分析、役割遂行型の各種行為の分類や分析が試みられる場合には、言語行為の主題的検討がそれらの視角においても履行されねばならない。――著者としてはオースティンやサールの言語行為論に謂うlocutionary act(発語行為)、illocutionary act(発語内行為)、perlocutionary act(発語媒介行為)の区別もさることながら、K・ビューラーの「三極的オルガノン」モデルを継承的に展開しつつ、第一巻中で叙べた言語の四機能に即して言語行為論を定式化したいと念う。その際、熊野純彦氏のシグナル・シンプトン・シンボルの理論を勘案することになる筈である。――言語行為論(乃至はより広く記号論)は、主題的な論究に値するばかりではなく、実践的世界論の各論的展開に際しては、呪術行為論、儀礼行為論、司法行為論などと“並んで”特別な配慮を要する。著者はこのことを承知している心算である。が、爰はまだその段ではない。」342P
第四段落――共互的役割行為が利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちの間に、「有利−不利」「支配−服属」の可能的構造を孕みうること 342-3P
(対話@)「共互的役割行為は、上述した通り、共互的に相手にとっての手段となり合い(互いに相手を手段的に使役し合い)、単独では成就できない目的を達成する限りで、利害の共同性=共同利益性を存立せしめるとはいえ、当事主体たちのあいだに、「有利−不利」ばかりか「支配−服属」の可能的構造を孕みうる。そして、(1)順次交替型(交互型)の役割行為は、そこにおける、「役割期待−役割取得」が「強要−屈従」「命令−受命」となる場合を生じ、共互的役割遂行とは言っても、「指揮−服従 」という形での“協働”になる場合が現にある。(2)並行共業型(協同型)にあっては、複数の当事者たちが、よしんば思惑は別々であり、各々別々の高次目的を利己的に追求している場合であっても、差当っては、共通・単一の目標を企投しつつ同型的な手段的行為の共業・協同的な遂行を演行する。(3)同時相補型(補完型)の共互的役割行為においては、複数の行為当事者たちの行為が補完的合一相で甫めて各々の側の行為を成立せしめる。――これらの共互的な役割行為の構造について分析し、片やコンフリクトの発生を、片や「主体我々」の形成を見定める次序であるが、捷径(しょうけい)を期してこれは次節「役割行動の存立性」の論脈に繰込むことにしたい。本節の標題に掲げた論件を十全に論定するに至っていないが、次節での継承・継続に免じてこの措置を許されたいと念う。」342-3P
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(14)
たわしの読書メモ・・ブログ721[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(14)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第一節 役割行為の存在構制
(この節の問題設定−長い標題)「行為は、学理的な見地から観るとき、その大抵が役割演技としての構制と意義を有ち、且つ亦、協働としての構制と意義を有つ。当事者自身、他者の期待に応えての役割遂行、この役割行為を屢々自覚的に遂行し、共互的な役割行動を演行し、往々にして亦、顕在的・対自的な協働行為を営なむ。役割行為は即自的にも対自的にも他者にとっての所期目標または/および手段として位置しうるが、いずれにせよ、対自的・対他的な役割行為は、対自的/即自的な期待の察知を成立要件とし、期待察知に動機づけられた目標実現(目的達成)型の構制を具えた機序で遂行される。」309P
第一段落――前節の復習と「役割行為」の定義−「他者の期待に応えての行為」309-10P
(対話@)「前節において行為のフェア・ウンスな範式として「当体主体が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内部的局所に対象的変化を現成せしめ。この手段利用的対象変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動」という目的達成型の構図を暫定的に提示しておいた。溯っては前篇第二章第二節の論脈中で、「他者の興発的価値の現前に呼応して発動される行動を、それが当事他者ないし環視的第三者によって期待されている様式的行動と(少なくともフェア・ウンスに)認めうる場合、それを当事他者に対向する役割演技と謂う」と述べ、役割行為を暫定的に“定義”しておいた。」309P
(対話A)「役割行為は、右に再掲した範式において、特に、環境中の協演的他者(裏方・囃子方・観衆たちをも含みうる)の期待に動機づけられて特定他者に対向して遂行される目的達成型の行為として、つまり、暫定的に“基本的範式”と呼んでおいた図式の特殊的限定形態として、叙べることができる。が、翻って前節の行論中で指摘しておいた通り、「人間の行為は(少なくとも即自的には)悉く一種の協働である」と言うことができる。今茲において、協働の担掌という規定で以って「役割行為」なる概念を“再定義”するとすれば、人間の行為なるものは(それが特定他者に対向して遂行されると否とに拘わらず)悉く一種の役割行為にほかならないことになる。」310P
(対話B)「以下では、当体的主体の視座に即して陳べる際には「他者の期待に応えての行為」という常套的“定義”の線でそれを把え返す便法を採ることにしたい。」310P
第二段落――演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及する 310-4P
(対話@)「偖、「役割行為」も「目的達成型」行為の一形態であるからには、前掲範式中に謂う「環境」に属する「場面的状況」や「規範的与件」によっても制約されること言を俟たない。が、規範的制約という要件については「規範」なるものの形成を論考する後論に先立っては、それの介在を配視はしつつも、ブラックボックスに納めたままにしよう。場面的状況とそれによる規制という論件についても、後論に至ってはじめて全幅を勘案しうる段となる。とはいえ、当座の議論を進めるにあたり必要最低限、演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及しておかねばなるまい。」310P
(対話A)「能為的主体たる当体にとって展らける環境は、啻なる物理的実在界などというものではなく、情動興発性・行動誘発性を具え(加之、規範的拘束性のごときをも含む諸々の価値性を物象化せる相で帯び)た財態的環界であり、それの諸分肢は相互照映・媒介相にある。(財態の「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重性の構制や「価値」の物象化的内自化の機制などについて、当座の議論にとって最小限必要な事項は既に前篇中で叙べておいたので、爰ではそれを前梯として稍々拙速に議論を進めることにしたい。) ――財態的環界の“一部”たる「場面的状況」は、当事的主体にとっての“舞台的場面”に擬(「なぞ」のルビ)らえることができる。それは、或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。環境的状況は主体的行動ににとって(正/負の)制約的要因、条件を成す。この舞台的場面上において、当事主体によって与件の一部が用具的・道具的な手段として利用され、場面内の局所で目標的変化が実現される。目標的変化がそれにおいて体現されるところのものを行為対象と呼び、主体がそれを“用い”て目標的変化をもたらすところのものを手段と呼ぶが、手段は用具的・道具的に利用される既存的与件ばかりでなく遂行的行為をも含みうる。(当事主体を“純然たる精神的エージェント”に局定して議論する場面では、肉体の全体はもとより、いわゆる意識内容のごときをも環境的状況に属せしめることになる。われわれとしては、いずれ、考察を原理的な次元にまで深める必要があり、その場面ではこのことを真摯に勘案する運びとするであろう。が、しかし、以下暫くの間、当事主体なるものを“純然たる精神的エージェント”にまで局定することなく、常識的・日常的な思念相に仮托する流儀で、“心身的主体”の次元で扱っておきたいと念う。但し、この“常識的な取扱い”においても、肉体は悉く主体の側に算入されるわけではなく、肉体(の一部)は恰かも外的な用具的手段として扱われたり、行為的作らきかけの対象として扱われたりしている。これが実情である限りで、肉体の(少なくとも一部)は環境的状況の側に位置しうる。)」310-1P
(対話B)「場面的状況すなわち能為的主体にとっての“舞台的場面”は、こうして、決して単なる物財から成っているわけではなく、機能性に即して錯構造化されるのであるが、図柄を見え易くする方便として敢えて物財的編制に象徴させれば、(a)“舞台的装置”、(b)“道具的手段”、(c)“目標的対象”に“分かれ”つつ、総じて主体的行為にとっての正/負の制約条件を成す。」311-2P
(対話C)「協演的他者は、一定条件の下では、当体的自分と一緒に「主体我々」を形成しうる。が、その場合には、実は協演的他者ではもはやなくなっている。この次元については後論において考察することにし、爰では飽くまで協演的であるかぎりでの他者を問題にしておく段である。」312P
(対話D)「舞台場面的環境に登場する他者は、直接的な相手や直接的な共演者だけとは限らない。芝居に譬えて記せば、囃方や黒衣や裏方も在り、観客でさえ、彼らが演者の役割行為の期待者、暗黙の賞罰者(「サンクショナー」のルビ)である以上は、われわれの謂う広義の協演的他者に算入される。――協演的他者は財態的環界の“一部”を成す者として、当事主体の或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。それは、種々の価値性を帯びた財態として主体的行動にとって正/負の制約的要因・条件を成す。協演的他者といえども、財態的環界の分節態の一種として、右記の点では「場面的状況」(“舞台的場面”)とも共通する。更に言えば、協演的他者も、当事主体にとって“道具的手段”として機能することも“目標的対象”に位することもありえ、謂うなれば“舞台的装置”の一部ですらありうる。」312P
(対話E)「協演的他者は、それなりの特殊性を帯びている筈ではあるが、右に見るように、財態的環界内の存在体一般と共通する。客体的存在体としては環境的状況を形成している諸物と決定的に別異というわけではない。それでは、どこに種差的特性があるのか? さしあたり二つの特性が思い泛かぶ。第一に、役割期待的意識性である。同じく当事主体の行為を誘発・促進(抑止・阻害)するといっても、協演的他者は、唯単なる客体的財態としてそうするのではなく、少なくともそれに加えて、期待意識性を差向けることで(時によっては、期待的意識性に基づいた具体的行動を差向けることで)誘発・促進(抑止・阻害)する。この点で一般の環境舞台内的与件とは相違する。(尤もアニミズム的な世界了解にあっては、全ての財態的存在がそうしうる他者と見做されるので、この種差は消失する。が、これについてはひとまず棚上げしておく。)第二に、目標実現的内発性を挙げることができる。同じく手段として当事主体が利用するといっても、人物的他者の手段的利用の場合、例えば人間枕といった唯単なる財態的客体としての利用もありうるとはいえ、大抵は、当の他者に一定の目標実現行為を遂行するように仕向けるという仕方で手段的利用がおこなわれる。つまり、他者の内発的行為を当事主体が誘発し、他者のその行為(他者にとっての目標実現型の行為)を当事主体が自分の目的達成のための手段としてそっくり利用するという仕方で他者(の主体的行為)を手段的に利用する。この点で、単なる客体的財態の手段的利用と相違する。(尤も、アニミズム的な世界了解の下では、例えば、弓の弦を手離して矢を“内発的”に発射させるとか、水道のコックを捻って水を噴出させるとか、このたぐいの現象も他者の主体的行為の誘発と見做されうるであろう。更には、呪術的感応によって、直接的には手を下すことなしにも、諸々の与件の主体的行為を誘発し、それを手段的に利用できるものと了解されておりうる。が、これは姑く棚上げとして議論を先に進めておきたい。) ――第一の「役割期待的意識性」ということは他者に意識主体性を認めることであり、第二の「目標実現的内発性」ということは他者に行為の主体性を認めることであり、いずれにしても、他者を単なる客体的存在体ならざる主体的存在者として扱うところに種差的区別が置かれている所以となる。」312-3P
(対話F)「茲では、しかし、他者を「役割期待的意識性」の主体として認知すること、ないしはまた、他者を「目標実現的内発性」の主体として認知すること、この主体としての認知そのことがポイントなのではない。当事主体の側が、他者の役割期待的意識性を理解することによって誘発的/抑止的影響・制約を被むるということ、および、他者の目標実現的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発するということ、この意識性を介しての影響関係がポイントである。(尤も、アニミズムの場合は今棚上げのままにしてあるが、他者による役割期待を理解することによって……という域を超えて、他者に手を下されることで……というケースもあり、また、他者の意識性に作らきかけることで……という域を超えて、他者に手を下すことで……というケースもある。が、しかし、その場合でも、惰性体に手を下して物理的に突き動かすのとは違って、意識的過程による媒介がやはりポイントであることが認められよう。) ――協演的他者は、それの差向ける役割期待が当事主体によって理解されるという意識過程を介して正/負の制約的影響を及ぼし、また当事主体がそれへと差向ける役割期待を理解するという意識過程を介して言って居の目標実現型行為を遂行することで当事主体にとっての手段として機能する。」313-4P
(対話G)「ところで、当事主体と協演的他者とは期待されていることを理解する、および、期待していることを理解させる、という逆方向の「期待−理解」を体現するとはいえ、ここでの協演的他者は同一人物とは限られないのであるから、恒に必ず共互的というわけではない。当事者に期待を差向ける他者と、当事者が期待を差向ける他者とは、別人でもありうる。(例えば、前者は“観衆”、後者は“共演者”といった場合もありうる。) ――「期待されている−理解する」と「期待している−理解させる」とが同一人物相手(「パートナー」のルビ)との間で交互的・反転的に成立する場合、以って交互的に相手にとっての手段と成り合うケース、それが共互的役割行為の場合にほかならない。」314P
(対話H)「いずれにしても、しかし、協演的他者を構造内的契機とする行為、すなわち役割行為においては、他者による期待の(一方的または/および双方的)理解が、成立条件の必須的一契機をなす。――それ故、爰で「期待の理解」という問題が論件となる。そして、実は、役割行為の円滑な遂行に際しては、啻に「期待の理解」だけでなく、協演的他者に関わる種々の理解が要件をなす。依って、役割行為の成立機序に関わる他者理解について、稍々視界を拡げて論じておく次序である。」314P
第三段落――役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面 314-8P
(対話@)「役割行為が自覚的に遂行されるためには、当事主体が協演的他者による役割期待を察知・理解することが何は措いても必要である。――協演的他者なるものが財態一般から区別して意識されるためにも、他己認知・他者理解が要件をなすが、これの原理的可能性という次元での論考(前篇の最終節二〇四頁以下参照)には爰では溯るには及ばないであろう。――役割期待の察知・理解とは、当事“この身”が一定の“意識事態”(これは期求的督促感を伴って表象されている一定の未来的状景であり、当の企投的未来状景とそこへ到る過程は、“この身”を、そして場合によっては他の能為主体とその所作態をも、構造内的契機として含む相で表象されている)を“あの身”に帰属化させる態勢の現成である。(この帰属化の現成と相即的に“あの身”が能期待者、“この身”が所期待者という規定性を受け取ること、溯っては、謂う所の「帰属化」の機制、これらの事項については前篇第二章で論じておいたので、再説は省くことにしたい。)」314-5P
(対話A)「爰で述べておきたいのは、役割期待の察知・理解という役割行為にとっての必要条件そのことではなく、役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面についてである。」315P
(対話B)「当事主体は自分が行為を差向ける相手に関して必要な認識を確保しようとする。彼は相手の相貌・態度・挙動に認識の目を注ぎ、意識態勢(なかんずく情意的心態や期成的志向)を察知し、相手の動静を可及的具体的に予料する。――なるほど、当の必要な認識が謂うなれば瞬時的・直覚的に獲得され、さながら反射的に即応的行動が履行されるため、事前的認識というステップが殊更に介在しない場合もある。がしかし、そのような場合であっても、対向的・即応的な行動の過程を通じて、相手に関する認識が構造内的契機を成すことには変りない。――相手が既知の人物である場合には、その相手については既に持合わせている知識も動員して解釈・理解がおこなわれる。相手が初対面の人物であっても、外部的に観察される諸特徴(発話・発現の様式や内容をも含む)を手掛かりに、既成の類型的・範型的な把捉図式や解釈図式に当て嵌めて理解が図られる。相手の動静の予料に方(「あた」のルビ)っては、予備的知識や推測的判断によってそれが可能な場合には、役柄存在規定や人格的特性も参酌される。(前篇、第二章第三節、第三章第二節を参照されたい。尚、役柄存在規定や人格特性の理解に際しては、「慣行様態理念型」や「人格特性理念型」を“用い”ての理解がおこなわれる。この件については別著「現象学的社会学の祖型」三〇三頁を参看頂きたいと念う。)」315-6P
(対話C)「相手が行為中であるとき、ないしはまた、相手が一定行為を了えた場面では、その行為の目的性動機ないし/および理由性動機(これらの動機概念については本巻一一一頁以下参照)の解釈的理解がおこなわれる。――行為というものは、第三者的見地からは全て目的達成型の範式に納めうるにしても、行為主体当人の意識性においては決して恒に目的意識型になっているわけではない。激情の爆発といった行為もあれば、習慣的惰性的な行為もある。時としては、当人は殆んど無意識的に行為している場合もある。それ故、理解者の側では、所与の行為が第三者的認定においてもつ目的価値性を認定するだけでは不十分であって(つまり、第三者的認定の見地から“目的性動機”を“読み取る”だけでは不十全であって)、当事者の意識態に即しても追体験的・追認識的に理解する必要がある。これを欠いては自分の側での適応的行為は覚束ない。――当人の顕在的意識にのぼっている目的性動機を理解することが大切なのは言うまでもないが、それを安直に追認してしまうわけにもいかない。本人はしばしば一種の自己欺瞞に陥っていて、第三者的に判定すれば“真の目的性動機”は別であること屢々だからである。当人の心算(「つもり」のルビ)の追体験的理解と、第三者的見地からの“客観的”判定理解との双方が必要とされる。理由性動機の精確な理解は甚だ複雑である。理由性動機は極めて多くのケースにおいて(旧来の動機理由にあっては無視・軽視されてきた憾みがあるのだが)、役割期待の察知、それに基因する所期的役割行為の決意的企投であるように見受けられる。尤も、役割取得が即自的“条件反射的”におこなわれてしまい。理由性の動機が当人の意識にはこれといってのぼらない場合もある。いなむしろ、そのようなケースが大部分であると言っても過言でないかもしれない。「役割期待の察知、それに基因する所期的な役割行為の決意的企投」を以って理由性動機として理解する際、これは当人においても反省的に対自化されうることは言い条(くだり)、さしあたっては理解者の側での判定的理解である。翻っては亦、真性の理由性動機は深層心理的分析に俟ってしか理解できない場合もある。更には、唯単なる深層心理的分析といった手法では動機を突き止めることが不可能であり、そうでありながら、“経験的一般則”として、しかじかの与件的状況下ではかくかくの規定性を帯びた人物主体は概してどういう行動をおこなうかが“決っている”ため、動機からというよりもむしろ“原因”から所与の行為を“説明的に理解”できるような場合もある。」316-7P
(対話D)「役割行為の遂行に際して、当事主体が協演的他者におこなう認識・理解は多種多様であり、以上で叙べた幾つかは僅々一斑にすぎないのだが、役割行為の齟齬なき(齟齬の少なき)履行のためには、如上の諸部面に亘る認識・理解が要件をなす。(前篇の行文中ですでに誌しておいたので復唱しなかったが、例えば、眼前の人物の感情状態を認識することは、その人物とそつなく応対するために必要というばかりでなく、第三者たちによってこの自分がその人物を慰める/宥(なだ)める/励ます……という役割行動を演じるように期待されていることの察知・理解のためにも必要、という事情もある。)就中(なかんずく)、相手との共演わけても交互的即応行為に際しては、如上(じょじょう)の認識・理解が須要であって、殊に、自分の目的達成のために相手の行為を手段的に利用しようと図る場合(逆に亦、相手の目的達成のために自分の行為を手段的に提供しようと図る場合)、それは不可欠の構成要件である。」317P
(小さなポイントの但し書き) 「他者に関する理解というとき、当人自身の自己規定や自家証言は何らの特権性を有たない。なるほど、当人の意識態を追体験的に理解しようと図る場合など、当人の自家証言が極めて重要な手掛りになる。とはいえ、当人は自己欺瞞に屢々陥りがちでもあり、自家誤認と言わざるえないケースも往々にしてある。“正しい理解”というのは、当人の思念相と合致した理解の謂いではなく、認識論的に突き詰めれば“判断主観一般”の“判断”との合致、卑俗に言えば、間主観的に認証される“理解”の謂いとなる。/或る種の学派においては、意識の私秘性というドグマとの関係もあって、当人の証言に特権的な位置を与えるが、前篇の最終節でも述べた通り、これは到底戴けない。/本節では、対面的な役割行動の存在構制に主眼を向けつつ論じているため、当人自身の思念相における意識態の追認識にかなりの比重を置いて叙述している次第であるが、役柄的行為の協働的編制の一般的存立機序にあっては、次節および次々節において見るように、当事者本人の主観的私念相は事実上ブラックボックスに納めることさえできる。一般論としての「行為の意味」の理解においては、主観的に私念された意味の理解、況してや、それの追体験的理解ということは、手掛かりではあっても、何ら特権的な意義を有つものではない。念のためこのことを爰に申し添えておく。」317-8
第四段落――「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制 318-23P
(対話@)「偖、役割行為は、当事主体本人が恒に必ずそのことを逐一自覚しているというわけではないが、少なくともフェア・ウンスには、目的達成型の構制になっており、当人自身も屢々「目的−手段」の構制を意識している。それ故、爰で「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、更に進んでは、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制、これを一瞥しておきたいと念う。」318P
(対話A)「企投は、或る未在的状景を表象し、その未在的状景を実現することにおいて、一定の目的を達成しようと決意する意識性活動である。」318P
(対話B)「茲に謂う「実現される(予象的な)状景」を「目標」と呼ぶ。この目標は、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。とはいえ、目標状景の構成分は企投の時点において既に知覚的に現前しておりうる。例えば、手中のライターを点火しようとする場合や、眼前の蛇口から出ている水流を止めようとする場合など、前者では知覚的に現認されうるライターの上部の位置に定位的に焔の表象が泛かぶのであって、謂うなれば“知覚プラス定位的表象”という一状景(この状景全体としては企投の時点では知覚的には不在)が目標状景として現識されている。目標状景は、企投の時点では知覚的には不在の「表象されているだけの未在的状景」とは言い条、右に見たように、知覚的・既在的な“成分”をも含み得、表象とはいっても(瞼に泛かぶのではなく)知覚的対象界の一定の場所に定位的に泛かぶ場合もある。実際問題としては、このような場合のほうがむしろ普通だとさえ言える。(言い換えれば、目標状景が純然たる表象界に泛かぶ場合のほうが却って稀である。)目標は、表象界に留まろうと知覚的対象界で実現されようと、そのまま「目的」なのではない。目的は目標という所与が“帯びる”意義的価値(目標という所与が単なる所与以上の或るものとして妥当するところの「或るもの」、意義的価値)である。企投者は、例えば殺人という目標実現において、復讎とか名誉保持とか処刑とかの目的達成を期する。同一の与件的実在(といっても、これ自身すでに別の価値を担う財態)たる目標が、企投者の志向に応じて、種々様々な目的価値を有ちうる。(目標と目的の二肢的二重性については前篇第一章第三節の論脈内で既述したところを想起・参照されたい。) ――尚、目標状景なるものは明晰判明に表象されるとは限らない。目的がそれに即して意識されさえすれば、目標なるものは明晰判明に表象されるには及ばない。それは丁度、認知的意味(例えば内語の意味)が明識されさえすれば、認知的所与(例えば内語の音韻表象)は不明晰であっても支障がないのと同様である。目標が単に言語表現(内語)的泛かべられるだけで、およそ“絵画的”“画像的”には泛かばない場合もある。が、その場合でも、当の言語表現的に描出される状景が目的価値を担う所与たるかぎり、企投が成立しうる。(これまた前篇の論脈中で述べたことなので留意を求めるに止めるが、「目標」というとき、われわれは目標的状景の一全体を指す。或る種の学説では主体の現出する所作態の終局的姿態だけを目標と見做す風情であるが、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれの謂う目標状景には、勿論、企投当事主体本人の一定の所作態が含まれうるし、時によっては主体当人の一定所作態が目標状景の基幹・中核でもありうる。が、目標状景は場面的状況内の与件を「目標対象」つまり作らきかけの対象として含むのが普通であり、ミニマムでも、“対象的場所=場所的対象”の相では含む。目標的対象というのは、それにおける所期の変化が目標を体現するところのものであり、一般には対象物である。が、対象物の実質的な変化は事実上問題外で、もっぱら、そこにおいて所期の変化が生じる場所的存在としてのみ視野に入る場合もある。このような場合でも、純粋空間的場所といったものではなく、一定の対象的変化を体現するかぎりで目標的対象に算入する。――目標状景に他人、他人の一定の所作態が含まれうること、他人が目標的対象物のケースさえありうること、これは言い添えるまでもない。)」318-20P
(対話C)「企投は、一般に亦、手段の策定をも構造内的契機として含む。場所的状況内の特定与件を“駆使”することによって目標的対象に作用を及ぼし(主体に即すれば、それを仲介して対象に作用を及ぼし)、以って所期の対象的変化を実現しようとする。」320P
(対話D)「茲に謂う「駆使される(仲介的)与件」を「手段」と呼ぶ。――われわれは日常的思念に妥協して「手段」を「もの」の相で語るが、勝義においては手段は動態的機能であって、単なる「もの」ではない。――手段は、「もの」の相では企投の時点において知覚対象的与件である場合でさえ、勝義においては、つまり動態的機能相においては、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。(手段は目標的変化を仲介的に生ぜしめる機能的与件の総称であるから、一定スパンでの目標が更なる高次的目標にとっての手段に位する場合、中間的目標が終局的目標にとっての手段に位置すると言う。が、以下では暫くの間、行論の錯雑化を避けつつ手段の本質的構制を直視すべく、中間目標的手段というケースは棚上げするかたちで議論を運んでおきたい。)手段は、「もの」の相で言っても、事物や人物でありうるばかりか、物体的運動や肉体的運動でもありえ、言語その他の“無形的文化財”でもありうる。が、勝義においては、動態的な機能態の一全態が目標的対象に作用して所期の変化をもたらす機能を演じるのであり、この機能態が手段なのであるから、当の機能態の“本質的な構成因子”と見做される限り、個々には目標的対象に直接的に作用を及ぼすわけではないものであっても、手段の構成因子に算入される。(いわゆる技能・技倆・技術といったものばかりでなく、事と次第では規範のごときでも、それが“手段的に機能する動態的機能態”の“本質的な構成因子”と見做される限り、手段に算入されうる。――厳密に言い出せば、総世界的な連関態の機能が目標対象的変化を現成せしめるのであるから、手段は総世界的な拡がりにおいて考えられねばならない。だが、その際には目標的対象や当事的主体なるものと機能的手段なるものとを分截化することも無意味に帰する。存在論的な原理的次元で言えば、「目標対象−機能的手段−当事的主体」という分截そのことが、所詮は便宜的・仮設的な区分にすぎない。われわれとしては、このことを踏まえ、「“本質的な構成因子”と見做される限り」という便宜的な限定の下で、手段なるものの要因をひとまず劃する次第なのである。)手段は目的価値性との反照において手段的価値性を帯びる財態である。が、前篇第一章第三節の論脈内で既述したように、手段は目標実現機能性において目標と因果連鎖的に関わり、その目標が一定の目的価値性を有つこととの反照において、間接的に、目的に対する手段的価値性を帯びるのである。」320-1P
(対話E)「読者は爰で、手段の駆使、とりわけ主体による肉体の駆動や道具の使用、さらには、協演的他者を動かして手段的に利用する機制、これらについて分析的に討究する作業を予期されるかもしれない。が、議論の順序として、これは姑く措いて、企投意識態の分析をもう一段進めておかねばならない。」321P
(対話F)「企投は、目標状景の表象と相即的な目的を志向、加之(「くわえて」のルビ)手段の策定、これで完結するのではなく、決意をも構成要件とする。――決意が直ちに実行に移される場合もあるが、決意と実行とのあいだにタイムラグの介在する場合もあり、いずれにせよ、企投的決意という意識現象と実行という心身的(心物的)事象とが一応分截される。(繰り返して断っている通り、われわれは認識(「エルケンネン」のルビ)など“純然たる精神的行為”と呼ばれるものをも実践の一形態に算入する。が、本巻では、認識はそれが“心身的行為”の構造内的契機たる限りでのみ扱い、心身的事象としての行為を論件とする。そして認識といえども実は決して単なる“精神的行為”ではない限りで、必要に応じて折々に配視する措置を採っている。何卒、諒とされたい。)」321-2P
(対話G)「扨、決意は、欲求的情動感や当為的促迫感などを伴ったり、欲求や当為に限らず諸々の情動性/非情動性の覚識に機縁づけられたり、要言すれば“純粋意志”ではなく、複雑な心態の構造内部的一契機とも謂うべき相にある。この故に、人が企投的決意の具体相を検討しようと試みる際には、決意に纏(「まつ」のルビ)わる当の複雑な心態を綜観・分析する課題を負うであろう。がしかし、企投意識の本質的構制を概念的に把握するに当っては、欲求・当為などの因子は暫く括り出して、恰かも“純粋意志的決意”であるかのように処理するのがひとまず妥当であろうと思う。」322P
(対話H)「茲に、企投的決意は、目標状景の表象と相即的に志向される目的を(手段の策定をも伴いつつ)現実化・達成しようとする態勢を決する意志の営なみである、と一応は言われうる。が、目標状景を表象する能作や手段を策定する能作は直ちに意志の能作とは言えないであろう。目標の表象や手段の策定に際しては、諸々の知覚環境内的与件や諸々の記憶的・想像的表象も勘考されるが、この勘考も直ちに意志の能作とは言い難い。――われわれの本来の立場からすれば、知覚的能作、表象的能作、感情的能作、意志的能作……といったそれぞれに固有の作用成句を具備する多種類の能作、多種類の意識作用なるものを想定すべき謂われはない。が、今は姑く、常套的な思念に便乗しつつ、論点の所在を見定めようと試行中である。――認知的能作と意志的能作とを分けるとすれば、目標的状景の表象や手段的与件の表象は、場面的状況の知覚・表象とも併せて、認知的能作によるものと見做されるのが常套であろう。しかし、思い泛かぶあれこれの可能的目標状景・目標対象のうち、特定の状景・対象を撰定的に確定する能作は如何? また、思い泛かびうるあれこれの可能的手段のうち、特定の手段を撰定的に策定する能作は如何? 撰ぶ与件は認知的能作によって知覚・表象されるのであるとしても、撰択する能作、すなわち、撰び・定める能作は、意志的能作だとするのが通念であろう。」322-3P
(対話I)「目標や手段の撰択・決定に際しては、当の目標や手段の実現や活用が可能である(Können)かどうか、許容される(Mögen)かどうか、時によっては、当為である(Sollen)かどうか、場合によってはまた、それが望ましいかどうか、といったことも勘考・判定される。これらの勘考の“与件”は、目標や手段の撰択に方(「あた」のルビ)っての与件とは別種の能作によって現識化されるのかもしれない。だがいずれにせよ、判定する能作、それは撰定する能作の一亜種であろうから、やはり意志的能作と見做されてしかるべき筈である。」323P
(対話J)「斯くて、企投的決意にあっては、認知的能作も作らくにせよ、意志的能作による撰択的決定が構成的一要件である。そして、企投を実行に移す決意的起動、これが意志の作らきであるというのが通念にほかなるまい。」323P
第五段落――撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方を論件とする 323-9P
(対話@)「今や撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方が論件になる。が、撰択的決定については、意志の自由(撰択的自由)について後述する論脈に持越すことにしよう。決意的起動についても、その一斑はやはり、意志の自由(起動的自由)について後論する論脈に持越すが、一端に関しては爰で直ちに討究に付す段である。」323P
(対話A)「爰では、企投の実行の構制が当座の焦点であるとはいえ、「手段利用−目標実現」過程の具体相はひとまず措いて、主体自身の身体的起動、および、協演的他者の誘動、この局面における問題性から見て行こう。」323P
(対話B)「われわれは先刻来、論点の所在を明瞭にすべく、認識的能作とは別種の意志的能作なるものが撰択や起動をおこなうのであるかのように誌してきた。この言い方では、精神的エージェントの意志作用が、意識現象の領野内で撰択的決定をおこなうばかりでなく、物質的肉体に起動力を及ぼして身体的活動を始動させる、という含意になっている。日常的・常識的な思念においては慥かにそのように了解されており、種々の理説においても往々にしてそう考えられている。この理路にあっては、心→身の因果的な影響関係が想定されているわけである。しかも、企投的意識内容が物理的対象界において現実化されるというのであるから、そこでは「心的現象→物的現象」の“変換”“転化”も併せて想定されている。だが、しかし、われわれ自身の理論的見地では、このような理路は積極的に採らるべくもない。意志的能作が身体的運動を起動するかのごとき上来の表現は日常的思念に仮托した暫定的言表だったのであって、「意志」という特別な作用力が在って、それが肉体に作動力を及ぼすわけではない。われわれ本来の理論的立場からすれば「心→身」因果関係は認められない。」323-4P
(対話C)「人々は日常、「心」が起動的影響を「体(「からだ」のルビ)」に及ぼすと考えており、この思念は鞏固な既成観念にさえなっている。この既成観念は、決意的起動感を体内に感じるという体験的事実によって支えられている。だが、前章第二節の論脈中で述べた通り、「われわれとしては……いわゆる意志行為に際して、“心”が“体”に起動的作用を及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理学的活動)に転化・転成するとも考えない」。われわれは「身心関係論」上の「随伴説」を最終的に採らず、新規の理説を唱道する者ではあるが、当座の行文においては、前章第二節の暫定的措置を踏んで、次の了解に立脚する。――「人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして“体”なのである。この起動は遠心性パルスの発生による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる」。この暫定的了解が即それである。――この際のポイントは、随伴ということではなく、「心」が直接「体」に作用力を及ぼすというオカルトの回避にある。」324-5P
(対話D)「われわれの見地からすれば、こうして、意志なる精神力が肉体を動かすわけではないのだが、当事主体の表層的な意識性に即すれば、決意的起動に“因って”身体的運動が開始され、中介的な手段を介しての「対象への作用的因果連鎖」に及び、対象的変化が生起する。起動された身体的運動と中介的手段との接続の在り方、中介的手段の種類、中介的諸手段の連鎖的編成の方式、これは多様である。手段として協演的他者の主体的な活動が利用されない場合であっても、つまり、中介的手段としてはもっぱら物的存在たる用具・道具が使用される場合であっても、当人の意識では、惰性体を順次に衝き動かすという様式になっているとは限らない。念力で体外の事物(道具や対象)を動かすことこそ叶わないものの、自身に関しては、決意しただけで、謂わば遠隔操縦的に、手足が“おのずと”動いたりもする。また、手足で直接に突き動かしたり、持ち動かしたりするのでなく、直接には一定の機縁的な操作を施すだけで、バネの“自発力”、風力や水力などの“自動力”、ひいては、蒸気力や電磁力などの“内発力”を発動させ、これを手段的に利用することで所期の作用連鎖、対象的変化を実現することも可能である。「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”でありうる。機械装置やハイテク技術が手段的に利用される場合には愈々その感が深い。(爰では、呪力による操縦という思念は棚上げとするが、当人の思念相では「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”であるということ、但し、フェア・ウンスには、そこには因果的作用連鎖が見出される筈であるということ、この両面的事実の配視を要する。)」325P
(対話E)「他者の主体的活動を手段として利用する場合には、「他者の目標的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発すること」、この意識的過程による媒介が要件になる。尤も、他者の意識性に作らきかけると言い、以って他者を“遠隔的に操縦する”と言っても、念力で誘導・操縦するわけではない。当方としては、言語的発話であれ、態度・眼差・身振であれ、一定の身体的運動を第一次的・機縁的な手段として行使するのであって、純然たる精神力とやらで始動させるわけではない。相手の意識性に作らきかけるためにも自分自身の側での一定の身体的運動が必須不可欠である。――他者は当方の期待(懇請であれ命令であれ)に応えて一定の目標実現型の行為という形で役割行為を遂行し、以って当方にとっての一手段として機能する。その機能的径行は当の他者本人にとっては“近接的操作”であっても、当方にとっては“遠隔操縦的”である。この構制の内実については次節「役割遂行の共互構造」において論究することにし、爰ではとりあえず誘導的起動の在り方に関してのみ一言しておこう。――他者は決して無条件的に当方の期待に服従して行為するわけではない。彼は能為的主体である以上、拒絶的反応の“自由”を有つ。とはいえ、それにもかかわらず事実の問題として、人は差向けられている期待を察知・理解するや、期待されている通りにでこそなけれ、まず大抵は期待に副う形での応待を体現する。拒絶する場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚えるのが普通であって、とかく期待に応えようとするヴェクトルが傾動する。他者の誘導的起動はこの傾動性に俟つところ大であるように思われる。では、誘導的起動を発現せしめる当の傾動性のビルトインは如何なる機制に因るものであるのか?」325-6P
(対話F)「惟えば、この傾動たるや、そもそも当事主体が役割行動(これは一般に目的達成型の構制になっている)の企投を動機づけられている当のものにもほかならない。」326P
(対話G)「この問題に周到に応えるためには、役割行動なるものの動機づけの一般的構制を発生論的に溯って討究する必要がある。われわれとしてはこの作業を次々節から次章の前半にかけて追々に果たして行く予定である。が、爰で論件の一端に搦手(「からめて」のルビ)から示唆的に触れておくことにしよう。」326P
(対話H)「人が差向けられた期待に応えて役割行動を演じるのは、必ずしも利害得失・賞罰などの利己的打算・計算に基いてのことではない。さりとてまた、それは“利他的本能”“他受的本能”とやらの発露といったものでもあるまい。――突飛・奇矯の印象を与えることを憚らずに言えば、今問題の機制はいわゆる催眠現象とも共通するところがあるように見受けられる。」326-7P
(対話I)「催眠現象と一口に言っても、多次元的であって、一様ではない。表層的催眠にあっては、被術者は、意識が朦朧とした状態になっていて、術師が命ずるままに、手を挙げろと言われれば挙げ、座れと言われれば座り、「兎さんになった」と言われれば、いかにも兎らしい仕草でピョンピョン跳ねたりする。ところが、術師が「ズボンを脱げ」というような被術者の“価値観”“当為観”に反するたぐいの命令を出すと、上衣を脱ぐというような“妥協的”“代償的”な行動で応える。特に留目したいのが、深層的催眠と呼ばれる現象である。術師が被術者に「三時になったら窓を開けなさい」「燕の姿を見かけたら直ぐ閉めなさい」と命じておいてから術を解く。被術者は正常な意識に戻って談笑している。そのうち、三時になると彼は窓を開ける。そして、やがて、窓の外に燕の姿を見かけると慌てて窓を閉める。何故、窓を開けたのか、また、何故窓を閉めたのか、彼に質問してみる。「空気が濁ってきたから」「燕が飛び込んできては厭だから」と彼は答える。彼は術師に命じられていたということを全然憶えておらず、自分なりの意識性で“自発的に”企投し、決意的に起動したつもりでいる。――深層催眠においては、術師によって事前に“条件づけられていた反応”が、当の“条件刺戟”の出現(それの認知)に伴って“おのずと”“自発的な”企投的・決意的行為のかたちで発現する。まさに「条件反射」(意識性・決意的企投性を伴う条件反射!)である。表層的催眠現象もこれまた、条件反射理論に拠れば、言語的刺戟による「第二次信号系」条件反射にほかならない。」327P
(対話J)「人が期待に応えようとする傾動性、すなわち、期待性表出現相の出現(それの認知、つまり、期待の察知・理解)を機縁にして、所定の企投的・決意的な行動で応えようとする傾動性は、まさに深層的催眠と共通の機制に因るものと思わせずにはおかないであろう。人は、なるほど、欲求・価値観・当為観に強く反する期待を差向けられた場合には、拒絶するかもしれない。だが、その場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚え、一定の“妥協的”“代償的”な行動で応じるのが普通ではないか。ここでもやはり、催眠的行動現象との共通性が認められよう。」327-8P
(対話K)「議論のポイントは催眠現象ということそのことにあるのではない。神経生理学的に溯れば「条件反射」「条件反応」ということが論点である。つまり、一定の“条件刺戟”の出現(それの認知)を機縁にして、ビルトインされている条件反応が現出するということ、この条件反応は、現に多くの役割行動がそうであるように、“無意識的”“反射的”にも進捗するが、時としては意識性(企投的意図性・決意的起動性)を伴っても遂行されうるということ、ここにポイントがある。」328P
(対話L)「問題は、ここで、一体いかにして当の「条件づけ」が形成され既成化するに至っているのか、この発生論的経緯に懸ってくる。この件については後論に俟たねばならないが、嚮に前篇第三章第二節の行文中で先取的に述べておいた「広義のサンクション」が回答の鍵をなす筈である。今は唯この旨を記しておくに止めよう。」328P
(対話M)「役割行為というものは、当事主体が差向けられている期待を察知・理解すること(即自的な“察知”をも含む)を機縁にして企投的・決意的に遂行する場面であれ、当事主体にとって手段的に機能する他主体が(当事主体による期待に応えて)一定の役割行動を演ずる場面であれ、一般に、既成的にビルトインされている条件反応の機制を成立条件とする。が、発生論的初次局面に限らず、その場で現成する条件反射(この言い方が一見「条件反射理論」に牴触するように見えようとも、さに非ざることについては本書一四九頁を参照されたい)に俟つ場合もある。畢竟するに、神経生理学的な機制に即して言えば、役割行為なるものの成立機序は条件反応の機制を基底的な構成要因とする。」328P
(対話N)「われわれは以上、「役割行為の存在構制」を見定めるべく、舞台的環境(場面的状況・協演的他者・規範的条件、等)とその分節を視野に入れつつ、環境的制約・規制、協演的他者に関わる理解(役割期待の理解ばかりでなく役柄存在規定性や人格的特性の理解、ひいては、他者的行為の目的性/理由性動機の理解、等)を配視し、役割行為がフェア・ウンスには一般に「目的達成型」の構図を呈することに鑑み、目的企投意識の構造(目標の表象、手段の策定、等)、決意的“起動”による身体的運動を介しての手段的与件の操作、所期の対象的変化=目標実現、そのことによる目的の達成、これらの構制について、概略を論じてきた。その論脈内で、協演的他者の役割行為を当事主体が自分の目的達成のための手段として利用する機制についても一端を論じておいた。とはいえ、「行為撰択(目的な手段の撰択)の自由」および「行為起動の自由」、つまりは、決定論/非決定論の原理的な対立に関わる所謂「自由意志」論を首(「はじ」のルビ)め、役割行為の交互的手段化の分析、役割行為の協働的存立性、役割行為主体の「我々」相への形成の追跡、等々、未だ数多くの論件を遺したままだある。総じて、本節での行論は、主題化しえた範囲でも、論点の確認という域を幾許も出ていない。」329P
(対話O)「遺された課題に応えるためには、しかし、視界を拡充しつつ爾他の論材を取入れる必要もあるので、節を新たにして議論を継続する途に就くことにしよう。」329P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(14)
第二篇 営為的世界の問題構制
第二章 役割行為の共互的構造と協働的態勢
第一節 役割行為の存在構制
(この節の問題設定−長い標題)「行為は、学理的な見地から観るとき、その大抵が役割演技としての構制と意義を有ち、且つ亦、協働としての構制と意義を有つ。当事者自身、他者の期待に応えての役割遂行、この役割行為を屢々自覚的に遂行し、共互的な役割行動を演行し、往々にして亦、顕在的・対自的な協働行為を営なむ。役割行為は即自的にも対自的にも他者にとっての所期目標または/および手段として位置しうるが、いずれにせよ、対自的・対他的な役割行為は、対自的/即自的な期待の察知を成立要件とし、期待察知に動機づけられた目標実現(目的達成)型の構制を具えた機序で遂行される。」309P
第一段落――前節の復習と「役割行為」の定義−「他者の期待に応えての行為」309-10P
(対話@)「前節において行為のフェア・ウンスな範式として「当体主体が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内部的局所に対象的変化を現成せしめ。この手段利用的対象変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動」という目的達成型の構図を暫定的に提示しておいた。溯っては前篇第二章第二節の論脈中で、「他者の興発的価値の現前に呼応して発動される行動を、それが当事他者ないし環視的第三者によって期待されている様式的行動と(少なくともフェア・ウンスに)認めうる場合、それを当事他者に対向する役割演技と謂う」と述べ、役割行為を暫定的に“定義”しておいた。」309P
(対話A)「役割行為は、右に再掲した範式において、特に、環境中の協演的他者(裏方・囃子方・観衆たちをも含みうる)の期待に動機づけられて特定他者に対向して遂行される目的達成型の行為として、つまり、暫定的に“基本的範式”と呼んでおいた図式の特殊的限定形態として、叙べることができる。が、翻って前節の行論中で指摘しておいた通り、「人間の行為は(少なくとも即自的には)悉く一種の協働である」と言うことができる。今茲において、協働の担掌という規定で以って「役割行為」なる概念を“再定義”するとすれば、人間の行為なるものは(それが特定他者に対向して遂行されると否とに拘わらず)悉く一種の役割行為にほかならないことになる。」310P
(対話B)「以下では、当体的主体の視座に即して陳べる際には「他者の期待に応えての行為」という常套的“定義”の線でそれを把え返す便法を採ることにしたい。」310P
第二段落――演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及する 310-4P
(対話@)「偖、「役割行為」も「目的達成型」行為の一形態であるからには、前掲範式中に謂う「環境」に属する「場面的状況」や「規範的与件」によっても制約されること言を俟たない。が、規範的制約という要件については「規範」なるものの形成を論考する後論に先立っては、それの介在を配視はしつつも、ブラックボックスに納めたままにしよう。場面的状況とそれによる規制という論件についても、後論に至ってはじめて全幅を勘案しうる段となる。とはいえ、当座の議論を進めるにあたり必要最低限、演劇モデルに仮託する流儀で錯図化し、場面的与件の一部が、目標実現の“場所的対象”または/および“道具的手段”として機能する在り方にも論及しておかねばなるまい。」310P
(対話A)「能為的主体たる当体にとって展らける環境は、啻なる物理的実在界などというものではなく、情動興発性・行動誘発性を具え(加之、規範的拘束性のごときをも含む諸々の価値性を物象化せる相で帯び)た財態的環界であり、それの諸分肢は相互照映・媒介相にある。(財態の「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重性の構制や「価値」の物象化的内自化の機制などについて、当座の議論にとって最小限必要な事項は既に前篇中で叙べておいたので、爰ではそれを前梯として稍々拙速に議論を進めることにしたい。) ――財態的環界の“一部”たる「場面的状況」は、当事的主体にとっての“舞台的場面”に擬(「なぞ」のルビ)らえることができる。それは、或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。環境的状況は主体的行動ににとって(正/負の)制約的要因、条件を成す。この舞台的場面上において、当事主体によって与件の一部が用具的・道具的な手段として利用され、場面内の局所で目標的変化が実現される。目標的変化がそれにおいて体現されるところのものを行為対象と呼び、主体がそれを“用い”て目標的変化をもたらすところのものを手段と呼ぶが、手段は用具的・道具的に利用される既存的与件ばかりでなく遂行的行為をも含みうる。(当事主体を“純然たる精神的エージェント”に局定して議論する場面では、肉体の全体はもとより、いわゆる意識内容のごときをも環境的状況に属せしめることになる。われわれとしては、いずれ、考察を原理的な次元にまで深める必要があり、その場面ではこのことを真摯に勘案する運びとするであろう。が、しかし、以下暫くの間、当事主体なるものを“純然たる精神的エージェント”にまで局定することなく、常識的・日常的な思念相に仮托する流儀で、“心身的主体”の次元で扱っておきたいと念う。但し、この“常識的な取扱い”においても、肉体は悉く主体の側に算入されるわけではなく、肉体(の一部)は恰かも外的な用具的手段として扱われたり、行為的作らきかけの対象として扱われたりしている。これが実情である限りで、肉体の(少なくとも一部)は環境的状況の側に位置しうる。)」310-1P
(対話B)「場面的状況すなわち能為的主体にとっての“舞台的場面”は、こうして、決して単なる物財から成っているわけではなく、機能性に即して錯構造化されるのであるが、図柄を見え易くする方便として敢えて物財的編制に象徴させれば、(a)“舞台的装置”、(b)“道具的手段”、(c)“目標的対象”に“分かれ”つつ、総じて主体的行為にとっての正/負の制約条件を成す。」311-2P
(対話C)「協演的他者は、一定条件の下では、当体的自分と一緒に「主体我々」を形成しうる。が、その場合には、実は協演的他者ではもはやなくなっている。この次元については後論において考察することにし、爰では飽くまで協演的であるかぎりでの他者を問題にしておく段である。」312P
(対話D)「舞台場面的環境に登場する他者は、直接的な相手や直接的な共演者だけとは限らない。芝居に譬えて記せば、囃方や黒衣や裏方も在り、観客でさえ、彼らが演者の役割行為の期待者、暗黙の賞罰者(「サンクショナー」のルビ)である以上は、われわれの謂う広義の協演的他者に算入される。――協演的他者は財態的環界の“一部”を成す者として、当事主体の或る種の行動を抑止・阻害し、或る種の行動を誘発・促進する。それは、種々の価値性を帯びた財態として主体的行動にとって正/負の制約的要因・条件を成す。協演的他者といえども、財態的環界の分節態の一種として、右記の点では「場面的状況」(“舞台的場面”)とも共通する。更に言えば、協演的他者も、当事主体にとって“道具的手段”として機能することも“目標的対象”に位することもありえ、謂うなれば“舞台的装置”の一部ですらありうる。」312P
(対話E)「協演的他者は、それなりの特殊性を帯びている筈ではあるが、右に見るように、財態的環界内の存在体一般と共通する。客体的存在体としては環境的状況を形成している諸物と決定的に別異というわけではない。それでは、どこに種差的特性があるのか? さしあたり二つの特性が思い泛かぶ。第一に、役割期待的意識性である。同じく当事主体の行為を誘発・促進(抑止・阻害)するといっても、協演的他者は、唯単なる客体的財態としてそうするのではなく、少なくともそれに加えて、期待意識性を差向けることで(時によっては、期待的意識性に基づいた具体的行動を差向けることで)誘発・促進(抑止・阻害)する。この点で一般の環境舞台内的与件とは相違する。(尤もアニミズム的な世界了解にあっては、全ての財態的存在がそうしうる他者と見做されるので、この種差は消失する。が、これについてはひとまず棚上げしておく。)第二に、目標実現的内発性を挙げることができる。同じく手段として当事主体が利用するといっても、人物的他者の手段的利用の場合、例えば人間枕といった唯単なる財態的客体としての利用もありうるとはいえ、大抵は、当の他者に一定の目標実現行為を遂行するように仕向けるという仕方で手段的利用がおこなわれる。つまり、他者の内発的行為を当事主体が誘発し、他者のその行為(他者にとっての目標実現型の行為)を当事主体が自分の目的達成のための手段としてそっくり利用するという仕方で他者(の主体的行為)を手段的に利用する。この点で、単なる客体的財態の手段的利用と相違する。(尤も、アニミズム的な世界了解の下では、例えば、弓の弦を手離して矢を“内発的”に発射させるとか、水道のコックを捻って水を噴出させるとか、このたぐいの現象も他者の主体的行為の誘発と見做されうるであろう。更には、呪術的感応によって、直接的には手を下すことなしにも、諸々の与件の主体的行為を誘発し、それを手段的に利用できるものと了解されておりうる。が、これは姑く棚上げとして議論を先に進めておきたい。) ――第一の「役割期待的意識性」ということは他者に意識主体性を認めることであり、第二の「目標実現的内発性」ということは他者に行為の主体性を認めることであり、いずれにしても、他者を単なる客体的存在体ならざる主体的存在者として扱うところに種差的区別が置かれている所以となる。」312-3P
(対話F)「茲では、しかし、他者を「役割期待的意識性」の主体として認知すること、ないしはまた、他者を「目標実現的内発性」の主体として認知すること、この主体としての認知そのことがポイントなのではない。当事主体の側が、他者の役割期待的意識性を理解することによって誘発的/抑止的影響・制約を被むるということ、および、他者の目標実現的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発するということ、この意識性を介しての影響関係がポイントである。(尤も、アニミズムの場合は今棚上げのままにしてあるが、他者による役割期待を理解することによって……という域を超えて、他者に手を下されることで……というケースもあり、また、他者の意識性に作らきかけることで……という域を超えて、他者に手を下すことで……というケースもある。が、しかし、その場合でも、惰性体に手を下して物理的に突き動かすのとは違って、意識的過程による媒介がやはりポイントであることが認められよう。) ――協演的他者は、それの差向ける役割期待が当事主体によって理解されるという意識過程を介して正/負の制約的影響を及ぼし、また当事主体がそれへと差向ける役割期待を理解するという意識過程を介して言って居の目標実現型行為を遂行することで当事主体にとっての手段として機能する。」313-4P
(対話G)「ところで、当事主体と協演的他者とは期待されていることを理解する、および、期待していることを理解させる、という逆方向の「期待−理解」を体現するとはいえ、ここでの協演的他者は同一人物とは限られないのであるから、恒に必ず共互的というわけではない。当事者に期待を差向ける他者と、当事者が期待を差向ける他者とは、別人でもありうる。(例えば、前者は“観衆”、後者は“共演者”といった場合もありうる。) ――「期待されている−理解する」と「期待している−理解させる」とが同一人物相手(「パートナー」のルビ)との間で交互的・反転的に成立する場合、以って交互的に相手にとっての手段と成り合うケース、それが共互的役割行為の場合にほかならない。」314P
(対話H)「いずれにしても、しかし、協演的他者を構造内的契機とする行為、すなわち役割行為においては、他者による期待の(一方的または/および双方的)理解が、成立条件の必須的一契機をなす。――それ故、爰で「期待の理解」という問題が論件となる。そして、実は、役割行為の円滑な遂行に際しては、啻に「期待の理解」だけでなく、協演的他者に関わる種々の理解が要件をなす。依って、役割行為の成立機序に関わる他者理解について、稍々視界を拡げて論じておく次序である。」314P
第三段落――役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面 314-8P
(対話@)「役割行為が自覚的に遂行されるためには、当事主体が協演的他者による役割期待を察知・理解することが何は措いても必要である。――協演的他者なるものが財態一般から区別して意識されるためにも、他己認知・他者理解が要件をなすが、これの原理的可能性という次元での論考(前篇の最終節二〇四頁以下参照)には爰では溯るには及ばないであろう。――役割期待の察知・理解とは、当事“この身”が一定の“意識事態”(これは期求的督促感を伴って表象されている一定の未来的状景であり、当の企投的未来状景とそこへ到る過程は、“この身”を、そして場合によっては他の能為主体とその所作態をも、構造内的契機として含む相で表象されている)を“あの身”に帰属化させる態勢の現成である。(この帰属化の現成と相即的に“あの身”が能期待者、“この身”が所期待者という規定性を受け取ること、溯っては、謂う所の「帰属化」の機制、これらの事項については前篇第二章で論じておいたので、再説は省くことにしたい。)」314-5P
(対話A)「爰で述べておきたいのは、役割期待の察知・理解という役割行為にとっての必要条件そのことではなく、役割行為の遂行に際して当事主体が協演的他者(とりわけ相手・共演者)に関しておこなう認識・理解の部面についてである。」315P
(対話B)「当事主体は自分が行為を差向ける相手に関して必要な認識を確保しようとする。彼は相手の相貌・態度・挙動に認識の目を注ぎ、意識態勢(なかんずく情意的心態や期成的志向)を察知し、相手の動静を可及的具体的に予料する。――なるほど、当の必要な認識が謂うなれば瞬時的・直覚的に獲得され、さながら反射的に即応的行動が履行されるため、事前的認識というステップが殊更に介在しない場合もある。がしかし、そのような場合であっても、対向的・即応的な行動の過程を通じて、相手に関する認識が構造内的契機を成すことには変りない。――相手が既知の人物である場合には、その相手については既に持合わせている知識も動員して解釈・理解がおこなわれる。相手が初対面の人物であっても、外部的に観察される諸特徴(発話・発現の様式や内容をも含む)を手掛かりに、既成の類型的・範型的な把捉図式や解釈図式に当て嵌めて理解が図られる。相手の動静の予料に方(「あた」のルビ)っては、予備的知識や推測的判断によってそれが可能な場合には、役柄存在規定や人格的特性も参酌される。(前篇、第二章第三節、第三章第二節を参照されたい。尚、役柄存在規定や人格特性の理解に際しては、「慣行様態理念型」や「人格特性理念型」を“用い”ての理解がおこなわれる。この件については別著「現象学的社会学の祖型」三〇三頁を参看頂きたいと念う。)」315-6P
(対話C)「相手が行為中であるとき、ないしはまた、相手が一定行為を了えた場面では、その行為の目的性動機ないし/および理由性動機(これらの動機概念については本巻一一一頁以下参照)の解釈的理解がおこなわれる。――行為というものは、第三者的見地からは全て目的達成型の範式に納めうるにしても、行為主体当人の意識性においては決して恒に目的意識型になっているわけではない。激情の爆発といった行為もあれば、習慣的惰性的な行為もある。時としては、当人は殆んど無意識的に行為している場合もある。それ故、理解者の側では、所与の行為が第三者的認定においてもつ目的価値性を認定するだけでは不十分であって(つまり、第三者的認定の見地から“目的性動機”を“読み取る”だけでは不十全であって)、当事者の意識態に即しても追体験的・追認識的に理解する必要がある。これを欠いては自分の側での適応的行為は覚束ない。――当人の顕在的意識にのぼっている目的性動機を理解することが大切なのは言うまでもないが、それを安直に追認してしまうわけにもいかない。本人はしばしば一種の自己欺瞞に陥っていて、第三者的に判定すれば“真の目的性動機”は別であること屢々だからである。当人の心算(「つもり」のルビ)の追体験的理解と、第三者的見地からの“客観的”判定理解との双方が必要とされる。理由性動機の精確な理解は甚だ複雑である。理由性動機は極めて多くのケースにおいて(旧来の動機理由にあっては無視・軽視されてきた憾みがあるのだが)、役割期待の察知、それに基因する所期的役割行為の決意的企投であるように見受けられる。尤も、役割取得が即自的“条件反射的”におこなわれてしまい。理由性の動機が当人の意識にはこれといってのぼらない場合もある。いなむしろ、そのようなケースが大部分であると言っても過言でないかもしれない。「役割期待の察知、それに基因する所期的な役割行為の決意的企投」を以って理由性動機として理解する際、これは当人においても反省的に対自化されうることは言い条(くだり)、さしあたっては理解者の側での判定的理解である。翻っては亦、真性の理由性動機は深層心理的分析に俟ってしか理解できない場合もある。更には、唯単なる深層心理的分析といった手法では動機を突き止めることが不可能であり、そうでありながら、“経験的一般則”として、しかじかの与件的状況下ではかくかくの規定性を帯びた人物主体は概してどういう行動をおこなうかが“決っている”ため、動機からというよりもむしろ“原因”から所与の行為を“説明的に理解”できるような場合もある。」316-7P
(対話D)「役割行為の遂行に際して、当事主体が協演的他者におこなう認識・理解は多種多様であり、以上で叙べた幾つかは僅々一斑にすぎないのだが、役割行為の齟齬なき(齟齬の少なき)履行のためには、如上の諸部面に亘る認識・理解が要件をなす。(前篇の行文中ですでに誌しておいたので復唱しなかったが、例えば、眼前の人物の感情状態を認識することは、その人物とそつなく応対するために必要というばかりでなく、第三者たちによってこの自分がその人物を慰める/宥(なだ)める/励ます……という役割行動を演じるように期待されていることの察知・理解のためにも必要、という事情もある。)就中(なかんずく)、相手との共演わけても交互的即応行為に際しては、如上(じょじょう)の認識・理解が須要であって、殊に、自分の目的達成のために相手の行為を手段的に利用しようと図る場合(逆に亦、相手の目的達成のために自分の行為を手段的に提供しようと図る場合)、それは不可欠の構成要件である。」317P
(小さなポイントの但し書き) 「他者に関する理解というとき、当人自身の自己規定や自家証言は何らの特権性を有たない。なるほど、当人の意識態を追体験的に理解しようと図る場合など、当人の自家証言が極めて重要な手掛りになる。とはいえ、当人は自己欺瞞に屢々陥りがちでもあり、自家誤認と言わざるえないケースも往々にしてある。“正しい理解”というのは、当人の思念相と合致した理解の謂いではなく、認識論的に突き詰めれば“判断主観一般”の“判断”との合致、卑俗に言えば、間主観的に認証される“理解”の謂いとなる。/或る種の学派においては、意識の私秘性というドグマとの関係もあって、当人の証言に特権的な位置を与えるが、前篇の最終節でも述べた通り、これは到底戴けない。/本節では、対面的な役割行動の存在構制に主眼を向けつつ論じているため、当人自身の思念相における意識態の追認識にかなりの比重を置いて叙述している次第であるが、役柄的行為の協働的編制の一般的存立機序にあっては、次節および次々節において見るように、当事者本人の主観的私念相は事実上ブラックボックスに納めることさえできる。一般論としての「行為の意味」の理解においては、主観的に私念された意味の理解、況してや、それの追体験的理解ということは、手掛かりではあっても、何ら特権的な意義を有つものではない。念のためこのことを爰に申し添えておく。」317-8
第四段落――「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制 318-23P
(対話@)「偖、役割行為は、当事主体本人が恒に必ずそのことを逐一自覚しているというわけではないが、少なくともフェア・ウンスには、目的達成型の構制になっており、当人自身も屢々「目的−手段」の構制を意識している。それ故、爰で「目的達成型行為」の「企投意識」の構造を分析し、この「企投」の実行、更に進んでは、他者の「目標実現型行為」を自分の目的達成行為の一手段として利用する構制、これを一瞥しておきたいと念う。」318P
(対話A)「企投は、或る未在的状景を表象し、その未在的状景を実現することにおいて、一定の目的を達成しようと決意する意識性活動である。」318P
(対話B)「茲に謂う「実現される(予象的な)状景」を「目標」と呼ぶ。この目標は、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。とはいえ、目標状景の構成分は企投の時点において既に知覚的に現前しておりうる。例えば、手中のライターを点火しようとする場合や、眼前の蛇口から出ている水流を止めようとする場合など、前者では知覚的に現認されうるライターの上部の位置に定位的に焔の表象が泛かぶのであって、謂うなれば“知覚プラス定位的表象”という一状景(この状景全体としては企投の時点では知覚的には不在)が目標状景として現識されている。目標状景は、企投の時点では知覚的には不在の「表象されているだけの未在的状景」とは言い条、右に見たように、知覚的・既在的な“成分”をも含み得、表象とはいっても(瞼に泛かぶのではなく)知覚的対象界の一定の場所に定位的に泛かぶ場合もある。実際問題としては、このような場合のほうがむしろ普通だとさえ言える。(言い換えれば、目標状景が純然たる表象界に泛かぶ場合のほうが却って稀である。)目標は、表象界に留まろうと知覚的対象界で実現されようと、そのまま「目的」なのではない。目的は目標という所与が“帯びる”意義的価値(目標という所与が単なる所与以上の或るものとして妥当するところの「或るもの」、意義的価値)である。企投者は、例えば殺人という目標実現において、復讎とか名誉保持とか処刑とかの目的達成を期する。同一の与件的実在(といっても、これ自身すでに別の価値を担う財態)たる目標が、企投者の志向に応じて、種々様々な目的価値を有ちうる。(目標と目的の二肢的二重性については前篇第一章第三節の論脈内で既述したところを想起・参照されたい。) ――尚、目標状景なるものは明晰判明に表象されるとは限らない。目的がそれに即して意識されさえすれば、目標なるものは明晰判明に表象されるには及ばない。それは丁度、認知的意味(例えば内語の意味)が明識されさえすれば、認知的所与(例えば内語の音韻表象)は不明晰であっても支障がないのと同様である。目標が単に言語表現(内語)的泛かべられるだけで、およそ“絵画的”“画像的”には泛かばない場合もある。が、その場合でも、当の言語表現的に描出される状景が目的価値を担う所与たるかぎり、企投が成立しうる。(これまた前篇の論脈中で述べたことなので留意を求めるに止めるが、「目標」というとき、われわれは目標的状景の一全体を指す。或る種の学説では主体の現出する所作態の終局的姿態だけを目標と見做す風情であるが、われわれとしてはこれを採るべくもない。われわれの謂う目標状景には、勿論、企投当事主体本人の一定の所作態が含まれうるし、時によっては主体当人の一定所作態が目標状景の基幹・中核でもありうる。が、目標状景は場面的状況内の与件を「目標対象」つまり作らきかけの対象として含むのが普通であり、ミニマムでも、“対象的場所=場所的対象”の相では含む。目標的対象というのは、それにおける所期の変化が目標を体現するところのものであり、一般には対象物である。が、対象物の実質的な変化は事実上問題外で、もっぱら、そこにおいて所期の変化が生じる場所的存在としてのみ視野に入る場合もある。このような場合でも、純粋空間的場所といったものではなく、一定の対象的変化を体現するかぎりで目標的対象に算入する。――目標状景に他人、他人の一定の所作態が含まれうること、他人が目標的対象物のケースさえありうること、これは言い添えるまでもない。)」318-20P
(対話C)「企投は、一般に亦、手段の策定をも構造内的契機として含む。場所的状況内の特定与件を“駆使”することによって目標的対象に作用を及ぼし(主体に即すれば、それを仲介して対象に作用を及ぼし)、以って所期の対象的変化を実現しようとする。」320P
(対話D)「茲に謂う「駆使される(仲介的)与件」を「手段」と呼ぶ。――われわれは日常的思念に妥協して「手段」を「もの」の相で語るが、勝義においては手段は動態的機能であって、単なる「もの」ではない。――手段は、「もの」の相では企投の時点において知覚対象的与件である場合でさえ、勝義においては、つまり動態的機能相においては、企投の時点では知覚的には未在であり、表象的に泛かべられる。(手段は目標的変化を仲介的に生ぜしめる機能的与件の総称であるから、一定スパンでの目標が更なる高次的目標にとっての手段に位する場合、中間的目標が終局的目標にとっての手段に位置すると言う。が、以下では暫くの間、行論の錯雑化を避けつつ手段の本質的構制を直視すべく、中間目標的手段というケースは棚上げするかたちで議論を運んでおきたい。)手段は、「もの」の相で言っても、事物や人物でありうるばかりか、物体的運動や肉体的運動でもありえ、言語その他の“無形的文化財”でもありうる。が、勝義においては、動態的な機能態の一全態が目標的対象に作用して所期の変化をもたらす機能を演じるのであり、この機能態が手段なのであるから、当の機能態の“本質的な構成因子”と見做される限り、個々には目標的対象に直接的に作用を及ぼすわけではないものであっても、手段の構成因子に算入される。(いわゆる技能・技倆・技術といったものばかりでなく、事と次第では規範のごときでも、それが“手段的に機能する動態的機能態”の“本質的な構成因子”と見做される限り、手段に算入されうる。――厳密に言い出せば、総世界的な連関態の機能が目標対象的変化を現成せしめるのであるから、手段は総世界的な拡がりにおいて考えられねばならない。だが、その際には目標的対象や当事的主体なるものと機能的手段なるものとを分截化することも無意味に帰する。存在論的な原理的次元で言えば、「目標対象−機能的手段−当事的主体」という分截そのことが、所詮は便宜的・仮設的な区分にすぎない。われわれとしては、このことを踏まえ、「“本質的な構成因子”と見做される限り」という便宜的な限定の下で、手段なるものの要因をひとまず劃する次第なのである。)手段は目的価値性との反照において手段的価値性を帯びる財態である。が、前篇第一章第三節の論脈内で既述したように、手段は目標実現機能性において目標と因果連鎖的に関わり、その目標が一定の目的価値性を有つこととの反照において、間接的に、目的に対する手段的価値性を帯びるのである。」320-1P
(対話E)「読者は爰で、手段の駆使、とりわけ主体による肉体の駆動や道具の使用、さらには、協演的他者を動かして手段的に利用する機制、これらについて分析的に討究する作業を予期されるかもしれない。が、議論の順序として、これは姑く措いて、企投意識態の分析をもう一段進めておかねばならない。」321P
(対話F)「企投は、目標状景の表象と相即的な目的を志向、加之(「くわえて」のルビ)手段の策定、これで完結するのではなく、決意をも構成要件とする。――決意が直ちに実行に移される場合もあるが、決意と実行とのあいだにタイムラグの介在する場合もあり、いずれにせよ、企投的決意という意識現象と実行という心身的(心物的)事象とが一応分截される。(繰り返して断っている通り、われわれは認識(「エルケンネン」のルビ)など“純然たる精神的行為”と呼ばれるものをも実践の一形態に算入する。が、本巻では、認識はそれが“心身的行為”の構造内的契機たる限りでのみ扱い、心身的事象としての行為を論件とする。そして認識といえども実は決して単なる“精神的行為”ではない限りで、必要に応じて折々に配視する措置を採っている。何卒、諒とされたい。)」321-2P
(対話G)「扨、決意は、欲求的情動感や当為的促迫感などを伴ったり、欲求や当為に限らず諸々の情動性/非情動性の覚識に機縁づけられたり、要言すれば“純粋意志”ではなく、複雑な心態の構造内部的一契機とも謂うべき相にある。この故に、人が企投的決意の具体相を検討しようと試みる際には、決意に纏(「まつ」のルビ)わる当の複雑な心態を綜観・分析する課題を負うであろう。がしかし、企投意識の本質的構制を概念的に把握するに当っては、欲求・当為などの因子は暫く括り出して、恰かも“純粋意志的決意”であるかのように処理するのがひとまず妥当であろうと思う。」322P
(対話H)「茲に、企投的決意は、目標状景の表象と相即的に志向される目的を(手段の策定をも伴いつつ)現実化・達成しようとする態勢を決する意志の営なみである、と一応は言われうる。が、目標状景を表象する能作や手段を策定する能作は直ちに意志の能作とは言えないであろう。目標の表象や手段の策定に際しては、諸々の知覚環境内的与件や諸々の記憶的・想像的表象も勘考されるが、この勘考も直ちに意志の能作とは言い難い。――われわれの本来の立場からすれば、知覚的能作、表象的能作、感情的能作、意志的能作……といったそれぞれに固有の作用成句を具備する多種類の能作、多種類の意識作用なるものを想定すべき謂われはない。が、今は姑く、常套的な思念に便乗しつつ、論点の所在を見定めようと試行中である。――認知的能作と意志的能作とを分けるとすれば、目標的状景の表象や手段的与件の表象は、場面的状況の知覚・表象とも併せて、認知的能作によるものと見做されるのが常套であろう。しかし、思い泛かぶあれこれの可能的目標状景・目標対象のうち、特定の状景・対象を撰定的に確定する能作は如何? また、思い泛かびうるあれこれの可能的手段のうち、特定の手段を撰定的に策定する能作は如何? 撰ぶ与件は認知的能作によって知覚・表象されるのであるとしても、撰択する能作、すなわち、撰び・定める能作は、意志的能作だとするのが通念であろう。」322-3P
(対話I)「目標や手段の撰択・決定に際しては、当の目標や手段の実現や活用が可能である(Können)かどうか、許容される(Mögen)かどうか、時によっては、当為である(Sollen)かどうか、場合によってはまた、それが望ましいかどうか、といったことも勘考・判定される。これらの勘考の“与件”は、目標や手段の撰択に方(「あた」のルビ)っての与件とは別種の能作によって現識化されるのかもしれない。だがいずれにせよ、判定する能作、それは撰定する能作の一亜種であろうから、やはり意志的能作と見做されてしかるべき筈である。」323P
(対話J)「斯くて、企投的決意にあっては、認知的能作も作らくにせよ、意志的能作による撰択的決定が構成的一要件である。そして、企投を実行に移す決意的起動、これが意志の作らきであるというのが通念にほかなるまい。」323P
第五段落――撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方を論件とする 323-9P
(対話@)「今や撰択的決定および決意的起動という意志作用の在り方が論件になる。が、撰択的決定については、意志の自由(撰択的自由)について後述する論脈に持越すことにしよう。決意的起動についても、その一斑はやはり、意志の自由(起動的自由)について後論する論脈に持越すが、一端に関しては爰で直ちに討究に付す段である。」323P
(対話A)「爰では、企投の実行の構制が当座の焦点であるとはいえ、「手段利用−目標実現」過程の具体相はひとまず措いて、主体自身の身体的起動、および、協演的他者の誘動、この局面における問題性から見て行こう。」323P
(対話B)「われわれは先刻来、論点の所在を明瞭にすべく、認識的能作とは別種の意志的能作なるものが撰択や起動をおこなうのであるかのように誌してきた。この言い方では、精神的エージェントの意志作用が、意識現象の領野内で撰択的決定をおこなうばかりでなく、物質的肉体に起動力を及ぼして身体的活動を始動させる、という含意になっている。日常的・常識的な思念においては慥かにそのように了解されており、種々の理説においても往々にしてそう考えられている。この理路にあっては、心→身の因果的な影響関係が想定されているわけである。しかも、企投的意識内容が物理的対象界において現実化されるというのであるから、そこでは「心的現象→物的現象」の“変換”“転化”も併せて想定されている。だが、しかし、われわれ自身の理論的見地では、このような理路は積極的に採らるべくもない。意志的能作が身体的運動を起動するかのごとき上来の表現は日常的思念に仮托した暫定的言表だったのであって、「意志」という特別な作用力が在って、それが肉体に作動力を及ぼすわけではない。われわれ本来の理論的立場からすれば「心→身」因果関係は認められない。」323-4P
(対話C)「人々は日常、「心」が起動的影響を「体(「からだ」のルビ)」に及ぼすと考えており、この思念は鞏固な既成観念にさえなっている。この既成観念は、決意的起動感を体内に感じるという体験的事実によって支えられている。だが、前章第二節の論脈中で述べた通り、「われわれとしては……いわゆる意志行為に際して、“心”が“体”に起動的作用を及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理学的活動)に転化・転成するとも考えない」。われわれは「身心関係論」上の「随伴説」を最終的に採らず、新規の理説を唱道する者ではあるが、当座の行文においては、前章第二節の暫定的措置を踏んで、次の了解に立脚する。――「人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして“体”なのである。この起動は遠心性パルスの発生による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる」。この暫定的了解が即それである。――この際のポイントは、随伴ということではなく、「心」が直接「体」に作用力を及ぼすというオカルトの回避にある。」324-5P
(対話D)「われわれの見地からすれば、こうして、意志なる精神力が肉体を動かすわけではないのだが、当事主体の表層的な意識性に即すれば、決意的起動に“因って”身体的運動が開始され、中介的な手段を介しての「対象への作用的因果連鎖」に及び、対象的変化が生起する。起動された身体的運動と中介的手段との接続の在り方、中介的手段の種類、中介的諸手段の連鎖的編成の方式、これは多様である。手段として協演的他者の主体的な活動が利用されない場合であっても、つまり、中介的手段としてはもっぱら物的存在たる用具・道具が使用される場合であっても、当人の意識では、惰性体を順次に衝き動かすという様式になっているとは限らない。念力で体外の事物(道具や対象)を動かすことこそ叶わないものの、自身に関しては、決意しただけで、謂わば遠隔操縦的に、手足が“おのずと”動いたりもする。また、手足で直接に突き動かしたり、持ち動かしたりするのでなく、直接には一定の機縁的な操作を施すだけで、バネの“自発力”、風力や水力などの“自動力”、ひいては、蒸気力や電磁力などの“内発力”を発動させ、これを手段的に利用することで所期の作用連鎖、対象的変化を実現することも可能である。「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”でありうる。機械装置やハイテク技術が手段的に利用される場合には愈々その感が深い。(爰では、呪力による操縦という思念は棚上げとするが、当人の思念相では「手段利用−対象変化」は多分に“遠隔操縦的”であるということ、但し、フェア・ウンスには、そこには因果的作用連鎖が見出される筈であるということ、この両面的事実の配視を要する。)」325P
(対話E)「他者の主体的活動を手段として利用する場合には、「他者の目標的内発性を相手の意識性に作らきかけることによって誘発すること」、この意識的過程による媒介が要件になる。尤も、他者の意識性に作らきかけると言い、以って他者を“遠隔的に操縦する”と言っても、念力で誘導・操縦するわけではない。当方としては、言語的発話であれ、態度・眼差・身振であれ、一定の身体的運動を第一次的・機縁的な手段として行使するのであって、純然たる精神力とやらで始動させるわけではない。相手の意識性に作らきかけるためにも自分自身の側での一定の身体的運動が必須不可欠である。――他者は当方の期待(懇請であれ命令であれ)に応えて一定の目標実現型の行為という形で役割行為を遂行し、以って当方にとっての一手段として機能する。その機能的径行は当の他者本人にとっては“近接的操作”であっても、当方にとっては“遠隔操縦的”である。この構制の内実については次節「役割遂行の共互構造」において論究することにし、爰ではとりあえず誘導的起動の在り方に関してのみ一言しておこう。――他者は決して無条件的に当方の期待に服従して行為するわけではない。彼は能為的主体である以上、拒絶的反応の“自由”を有つ。とはいえ、それにもかかわらず事実の問題として、人は差向けられている期待を察知・理解するや、期待されている通りにでこそなけれ、まず大抵は期待に副う形での応待を体現する。拒絶する場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚えるのが普通であって、とかく期待に応えようとするヴェクトルが傾動する。他者の誘導的起動はこの傾動性に俟つところ大であるように思われる。では、誘導的起動を発現せしめる当の傾動性のビルトインは如何なる機制に因るものであるのか?」325-6P
(対話F)「惟えば、この傾動たるや、そもそも当事主体が役割行動(これは一般に目的達成型の構制になっている)の企投を動機づけられている当のものにもほかならない。」326P
(対話G)「この問題に周到に応えるためには、役割行動なるものの動機づけの一般的構制を発生論的に溯って討究する必要がある。われわれとしてはこの作業を次々節から次章の前半にかけて追々に果たして行く予定である。が、爰で論件の一端に搦手(「からめて」のルビ)から示唆的に触れておくことにしよう。」326P
(対話H)「人が差向けられた期待に応えて役割行動を演じるのは、必ずしも利害得失・賞罰などの利己的打算・計算に基いてのことではない。さりとてまた、それは“利他的本能”“他受的本能”とやらの発露といったものでもあるまい。――突飛・奇矯の印象を与えることを憚らずに言えば、今問題の機制はいわゆる催眠現象とも共通するところがあるように見受けられる。」326-7P
(対話I)「催眠現象と一口に言っても、多次元的であって、一様ではない。表層的催眠にあっては、被術者は、意識が朦朧とした状態になっていて、術師が命ずるままに、手を挙げろと言われれば挙げ、座れと言われれば座り、「兎さんになった」と言われれば、いかにも兎らしい仕草でピョンピョン跳ねたりする。ところが、術師が「ズボンを脱げ」というような被術者の“価値観”“当為観”に反するたぐいの命令を出すと、上衣を脱ぐというような“妥協的”“代償的”な行動で応える。特に留目したいのが、深層的催眠と呼ばれる現象である。術師が被術者に「三時になったら窓を開けなさい」「燕の姿を見かけたら直ぐ閉めなさい」と命じておいてから術を解く。被術者は正常な意識に戻って談笑している。そのうち、三時になると彼は窓を開ける。そして、やがて、窓の外に燕の姿を見かけると慌てて窓を閉める。何故、窓を開けたのか、また、何故窓を閉めたのか、彼に質問してみる。「空気が濁ってきたから」「燕が飛び込んできては厭だから」と彼は答える。彼は術師に命じられていたということを全然憶えておらず、自分なりの意識性で“自発的に”企投し、決意的に起動したつもりでいる。――深層催眠においては、術師によって事前に“条件づけられていた反応”が、当の“条件刺戟”の出現(それの認知)に伴って“おのずと”“自発的な”企投的・決意的行為のかたちで発現する。まさに「条件反射」(意識性・決意的企投性を伴う条件反射!)である。表層的催眠現象もこれまた、条件反射理論に拠れば、言語的刺戟による「第二次信号系」条件反射にほかならない。」327P
(対話J)「人が期待に応えようとする傾動性、すなわち、期待性表出現相の出現(それの認知、つまり、期待の察知・理解)を機縁にして、所定の企投的・決意的な行動で応えようとする傾動性は、まさに深層的催眠と共通の機制に因るものと思わせずにはおかないであろう。人は、なるほど、欲求・価値観・当為観に強く反する期待を差向けられた場合には、拒絶するかもしれない。だが、その場合ですら、拒絶することに“内的抵抗感”を覚え、一定の“妥協的”“代償的”な行動で応じるのが普通ではないか。ここでもやはり、催眠的行動現象との共通性が認められよう。」327-8P
(対話K)「議論のポイントは催眠現象ということそのことにあるのではない。神経生理学的に溯れば「条件反射」「条件反応」ということが論点である。つまり、一定の“条件刺戟”の出現(それの認知)を機縁にして、ビルトインされている条件反応が現出するということ、この条件反応は、現に多くの役割行動がそうであるように、“無意識的”“反射的”にも進捗するが、時としては意識性(企投的意図性・決意的起動性)を伴っても遂行されうるということ、ここにポイントがある。」328P
(対話L)「問題は、ここで、一体いかにして当の「条件づけ」が形成され既成化するに至っているのか、この発生論的経緯に懸ってくる。この件については後論に俟たねばならないが、嚮に前篇第三章第二節の行文中で先取的に述べておいた「広義のサンクション」が回答の鍵をなす筈である。今は唯この旨を記しておくに止めよう。」328P
(対話M)「役割行為というものは、当事主体が差向けられている期待を察知・理解すること(即自的な“察知”をも含む)を機縁にして企投的・決意的に遂行する場面であれ、当事主体にとって手段的に機能する他主体が(当事主体による期待に応えて)一定の役割行動を演ずる場面であれ、一般に、既成的にビルトインされている条件反応の機制を成立条件とする。が、発生論的初次局面に限らず、その場で現成する条件反射(この言い方が一見「条件反射理論」に牴触するように見えようとも、さに非ざることについては本書一四九頁を参照されたい)に俟つ場合もある。畢竟するに、神経生理学的な機制に即して言えば、役割行為なるものの成立機序は条件反応の機制を基底的な構成要因とする。」328P
(対話N)「われわれは以上、「役割行為の存在構制」を見定めるべく、舞台的環境(場面的状況・協演的他者・規範的条件、等)とその分節を視野に入れつつ、環境的制約・規制、協演的他者に関わる理解(役割期待の理解ばかりでなく役柄存在規定性や人格的特性の理解、ひいては、他者的行為の目的性/理由性動機の理解、等)を配視し、役割行為がフェア・ウンスには一般に「目的達成型」の構図を呈することに鑑み、目的企投意識の構造(目標の表象、手段の策定、等)、決意的“起動”による身体的運動を介しての手段的与件の操作、所期の対象的変化=目標実現、そのことによる目的の達成、これらの構制について、概略を論じてきた。その論脈内で、協演的他者の役割行為を当事主体が自分の目的達成のための手段として利用する機制についても一端を論じておいた。とはいえ、「行為撰択(目的な手段の撰択)の自由」および「行為起動の自由」、つまりは、決定論/非決定論の原理的な対立に関わる所謂「自由意志」論を首(「はじ」のルビ)め、役割行為の交互的手段化の分析、役割行為の協働的存立性、役割行為主体の「我々」相への形成の追跡、等々、未だ数多くの論件を遺したままだある。総じて、本節での行論は、主題化しえた範囲でも、論点の確認という域を幾許も出ていない。」329P
(対話O)「遺された課題に応えるためには、しかし、視界を拡充しつつ爾他の論材を取入れる必要もあるので、節を新たにして議論を継続する途に就くことにしよう。」329P
2025年12月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(13)
たわしの読書メモ・・ブログ720[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(13)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第三節 実践論の基幹的構図
(この節の問題設定−長い標題)「実践論は、当事主体の直接的思念相における行為を追認的に分析するものではなく、学知的認定相での(für uns)行為事象を検覈的に究明するものである。が、この究明は当事者(達)の思念相を理解することをも構成的一要因とする。――行為は、即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)にではあれ、範型的には「主体が一定の手段で所定の目的を達成する」という構図を呈し、然かも「役割行為」としての対他者的意義を有ち、本質的に間主体的協働の一部位として定位される。――行為事象は事実性と併せて価値性に即しても分析・認定されねばならない。」281P
第一段落――“近代”学理的実践論のヒュポダイムを直截に相対化し、われわれなりの観方を提示する前梯を設らえる 281-7P
(対話@)「学史的に顧みるとき、行為は、洋の東西において、或いは修業論の見地から論究され、或いは儀式論・儀礼論の見地から定式・確認されたり、或いは道徳論の見地から善論・徳論・義務論として論議されたりもしてきた。また、自由意志行為の存否という観点からも論攷されてきた。とはいえ、行為事象の存在構造の研究となると、例えばアリストテレスのプラクシス・ポイエーシス論のごときも旧くから一応あったにせよ、概して手薄であったように看ぜられる。――認識の存立構造については、哲学史上の近代が認識論の時代と謂われる程、近代哲学は主題的な研究を推進してきた。近代知の地平においては「認識の存立構造」観が決定的に相対立する立場に岐れ、原理的な次元での争論を繰り展げる所以となった。(このことに鑑み、第一巻においては認識論の範型的諸立場の内在的批判と絡めつつ近代認識論のヒュポダイムの止揚を図る論述方式を採ったのであった。)然るに「実践の存立構造」に関しては、アプローチの仕方こそ多岐多様ではあれ、存在構造論的次元での観方(「アウフファッスング」のルビ)の原理的対立は顕示的には見られない。それゆえ、爰では類型的諸立場の内在的検討を介する方式においてではなく、旧来の“近代”学理的実践論のヒュポダイム(これは哲学のみならず、社会学・経済学・政治学などにおいても当事主体の思念相における実践の構図を追認したものに庶(「ちか」のルビ)い)を直截に相対化し、拙速にも憚らず、われわれなりの観方を提示する前梯を設(「しつ」のルビ)らえておきたいと念う。」281-2P
(小さなポイントの但し書き) 「――行為連関態という与件を、個別的な主体的行為に即して観るか、総体的な既成連関態に即して観るか、これに応じて理論構成の在り方が相岐れる。社会学に限らず、社会諸科学において、前者すなわち主体行為をアトミックな(そのかぎりで一応自己完結的な)単位と観て理論構成する立場と、後者すなわち既成連関態を「物のように」(comme de chose、このかぎりで一応独立自存的に)観立てて理論構成する立場とが分立・対立してきた。この分立は、いわゆるミクロ分析・理論とマクロ分析・理論の次元的相違とも屢々相成る。が、アトミズムとホーリズムとは、一方は如実の関係態の項を実体化し他方は如実の関係態の全体を実体化するという仕方での、二様の物象化的錯認と相即するものにほかならない。依って、いわゆるミクロ理論とマクロ理論とは単純に接合すること不可能である。仮りに“接合”したとしても、それで以ってしては如実の行為連関態を捉え切れるものではない。よしんば中規模の理論なるものを挿入したとしても、これが物象化的実体化の弊に陥っているかぎり、本質的には事情は変らない。/われわれとしてはこのことを自覚するが故に、個別的な主体的行為を自足的な単位と観ることも、総体的な既成関連態を自存的な物象に観立てることもしない。とはいえ、人々の思念相を批判的に理解するためにはこれら物象化的錯認相を再構成的に視野に入れる必要があり、一見これらの観方と妥協したごとき論述法をも論脈に応じて採らざるをえない。――旧来の行為論においては、“方法論的”という自己規定の下にであれ、とかく、前者の観方が支配的であり、また、旧来の制度論においては後者の観方が支配的であったという事情に鑑み、既成理論との内在的な論判をヒュポダイム次元で図るためにも、本篇では前者の視角との“妥協”、次篇では後者の視角との“妥協”に傾いた論行を余儀なくされる。――このことを何卒諒として頂きたい。」282-3P
(対話A)「偖、議論の糸口として――単なる糸口としてと謂うのは、爰では旧来の行為観の類型化的分類やそれの内在的検討の意趣はないという意味においてなのであるが――M・ウェーバーおよびT・パーソンズにおける“行為の定義”を一瞥するところから始めよう。」283P
(対話B)「ウェーバーは、弘く知られている通り、「行為とは、行為者ないし行為者たちが主観的意味をそれに結びつけた時の、またその限りでの、人間行動の謂いである」と定義し、「社会的行為というのは、行為者ないし行為者たちの思念した(「ゲマイント」のルビ)意味に則って他者の行動に関連づけられ、行為の径行中それに方向づけられているような行為のことである」と規定している。――彼が「個々人とその行為を以って最低層の単位的統一体(「アインハイト」のルビ)として、……アトムとして、取扱う」という方法論的(?)個人主義の立場を執っていることは周知の通りである。」283P
(対話C)「パーソンズは、これまたよく知られているように、「規範に随ってエネルギーを消費することで、状況内の目的に到達するよう方向づけられたもの」として行為を定義する。――彼の(少なくとも初期時代の)「関心の焦点は『部分』ないし単位概念という一つのタイプに置かれて」おり、基本的(「エレメンタリ」のルビ)として「単位行為」なるものが措定される。この単位行為(「ユニット・アクト」のルビ)は、(1)行為者(actor) 、(2)目的(end) 、(3)状況(situation) 、(4)規範的方向づけ(normative orientation)という四要素から成っている、と彼は観る。(行為者というのは、エゴないしセルフであって、肉体は「状況」に算入される。目的とは「行為者によって望ましいと見做されているがために、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」の謂いである。状況は行為者にとってコントロールでききるもの[手段]とそうでないもの[条件]とに分けうる。規範的方向づけとは、目的と状況との関連様式であって、一定目的を実現しうる手段の中から特定手段を選択させる基準を「規範(「ノルム」のルビ)」と呼ぶ。)」283-4P
(対話D)「茲に、行為者の「主観的意味」「思念せる意味」「行為者によって望ましいと見做され、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」と謂うのは、行為者当人の意志にのぼっている範囲内に限られている。(なるほど、ウェーバーもパーソンズも、実際の行為分析の段になると、当人の意識していない範囲まで視野に入れているかもしれない。が、それは事柄の分析にとっては正当でも、彼等の方法論的立場からすれば逸脱と言わねばなるまい。彼等の方法論上の立場では、学知的第三者の見地からする“意味賦与”を自制しつつ、当事者的意識態を追認識することが肝要であり、そのさい、学知は当事者的意識態をそのまま理解できるものと“要請的”に前提される構制になっている。)」284P
(対話E)「われわれの看るところ、これは余りにも視野狭窄(ママ)的である。これで以っては、行為当事者本人の視座に即した行為の分析・定式すら十全にはおこなえない。――行為者のその都度における意識態とそれに “則った”行為の追認識のためには、ウェーバーや初期パーソンズのごとき構えも強ち無用無価値ではない。第三者的見地から得手勝手な意味賦与をおこなう弊も避けねばならない。これは確かである。また、問題の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその仕方でおこなわれたのか、これを十全に理解・説明するためには、外部観察的与件(「データ」のルビ)だけでは不十分であり、当人がどのように意識していたかを知ることが重要な手掛りを与えてくれる。(仮令、当人の脳神経生理的状態を精確に認識できたとしてさえ、――これは行為現象のアクチュアルな場面では現実問題として不可能な話であるが、原理的な可能性としてきれを仮定した場合でさえ――それだけで行為を十全に説明できるという保証はない。というのも、脳生理的状態によって行為が一義必然的に決定されているかどうか、これは生理学的決定論の要請的前提であっても、実証された確定事実ではないのだからである。)当人の意識態と行動のあいだに一義必然的な関係があったという保証こそないが、われわれは当人の意識態と行動のあいだには“一定の蓋然的関連性”のあることを“経験則”として知っており、行為を理解・説明するための資料として、行為当事者の意識態を利用することができる。この故に、われわれとしても「主観的に思念された意味」を積極的に勘案する。だが、併し、行為に際して当事者が現識している範囲だけで以っては、当の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその様態・方式でおこなわれたのか、その理由・原因を十全に説明するためには不足である。況んや、行為の“客観的な”意味・意義を説明・評価するためには、当人の「主観的思念」に即するだけでは決定的に不十分であろう。けだし行為理論にとっては、行為現成の規定要因になっておりながら当事者のその場の直接的意識にのぼっていない部面をも配視することが要件をなす所以である。但し、フロイトの謂う狭義の「無意識」(das Unbewußte)の如きを導入して説明せよと言うのではない。当事者がその場では意識化していなかったにせよ、反省的には対自化することが原理的には可能な筈(と学知的見地から思われる範囲)の諸要因、謂うなれば「前意識」(das Vorbewußte)の部面まで配視しなければならない。(但し、フロイトの謂うこれの内実まで直ちに認めようというのでは勿論ない。) ――行為論にとっては、当事者の直接的意識にのぼっていない規定的諸要因をも勘考して当該の行為を説明する必要があるばかりでなく、当事者の自己評価とは別の評価をくだす必要もある。」284-5P
(対話F)「われわれとしては、パーソンズの謂う「目的」(これは前篇第二章第二節で紹介したシュッツの「目的性動機Umzu-Motiv」に庶い)ばかりでなく、動機(シュッツの謂う「真性の理由性動機das echte Weil-Motiv」、但し、「差向けられた役割期待」のごときをもわれわれはこれに含める。が、論点を鮮明にするために言えば、むしろ「原因(「カウサ」のルビ)」)をも“単位行為”の構成要件として挙げねばなるまい。加之、パーソンズの謂う「規範的方向づけ」と併せて“因果的方向づけ”をも挙げねばならない。そしてまた、行為の実現目標と達成目的との区別、のみならず一般に、行為の事実性諸契機と価値性諸契機との二肢的二重性を勘考する配備を採らねばならない。」285P
(対話G)「これまでの行文中でも、ヘーゲル流の用語法を借りて、für es (当事主体の直接的経験意識にとって)およびfür uns (われわれ学知的観察者にとって)という詞を折々に用いてきたのであったが、行為分析の場面にあっては、ヘーゲルの枠から外出(「はみだ」のルビ)しつつ、次のごとき区別と関連においてこれら両次元の視座を構え、以って、当事者の直接的意識態の単なる追認を超える地歩を方法論的に調えることにしようと念う。」285-6P
(対話H−第一に)「第一に、我々第三的な視座から当事者とその環界的(「ウムヴェルトリッヒ」のルビ)情況を状態観察的に描出する準位(für uns Beobachter)。――これは分析与件行為事象の劃定のための要件という域には留まらない。観察的に現認できる行為当事者の諸規定性ならびに「舞台的情景」「道具的条件」「規範的拘束」といった環界的情況をどこまで描出しておくか、これは後段における理論的分析・説明と内容的に関わることであって、単なる挿絵的な情景描写ではない。この描出は、頭初に纏めて置かれるか分析的討究の途次で追録されるかは別として、ともあれ行為事象の具体的な分析に際しては、方法論的な自覚と見通しをもって配意さるべき一要件である。」286P
(対話I−第二に)「第二に、当事主体が思念している相を登記する準位(für es)。――当事者は一人であるとは限らない。特に問題になるのが、当事者たちが共互的(mit-einander)に関わり合っている場合である。このさいには、当事者たちにおける向自・向他的な意識態を分別的に記述することも必要とされる。」286P
(対話J−第三に)「第三に、我々省察知の見地から当事者の営為を分析的・解釈的に規定する準位(für uns Analytiker)。――この準位から嚮の第二準位を把え返すとき、そこで一括してフェア・エスとされていたものは、(イ)当事者自身は明識していないが、我々が扮技的に記述する限りでは、当事者が已に即自的には然(「そ」のルビ)う意識していると指称できる場合(つまりan sichな場合)、(ロ)我々の見地からは別様に乃至はより立入って規定してしかるべきところであるが、ともあれ当事者自身は斯く斯くとして対自的に現識している場合(つまりfür sichな場合)、(ハ)当事者自身の現識的規定が我々の対象準位(「オヴジェクト・レヴェル」のルビ)的認知規定態と合致する水準になっている場合(つまりan und für sichな場合)、に区分される。要言すれは、für esはfür unsな規定から区分するとき、(イ)即自的(an sich)、(ロ)対自的(für sich)、(ハ)即自且対自的(an und für sich)に下位区分される。」286-7P
(小さなポイントの但し書き)「右にはとりあえず、事実性と価値性との二肢的二重性に分入ることなく、もっぱら誰の見地からの規定態であるかのみの区別に即したのであるが、後論の論脈内で事実性と価値性との二重性に即して方法論的配備をより具体的に述べる予定である。/亦、右の形式的な立言では「我々」殊に第三準位での学知なるものを当事者の直接的な意識と区別するに止めているが、実際には、“学知”を自称する者どうしの見解の対立・対質が生じうる。「我々」としては、当事者的意識態の批判的討究ばかりでなく、“学知”的見解の批判的検討をも折々に必要とする。――「我々」なるものが、固定的・絶対的な高位に自足的に立っているわけでなく、弁証法的=対話的(「ディアレクティッシュ」のルビ)に準位を高めて行くものであること、この件その他、弁証法的体型構成法に関わる主題的な拙論については別著『弁証法の論理』の参看を求め、爰では詳説は省く。/尚、本書では、叙述を徒為に煩雑化することなきよう、混淆の惧れのない場面では、どの準位の規定であるかを逐一的には記さない便法を採りたいと念う。表現技術上、この措置を執ることをも事前に諒承いただきたい。」287P
(対話K)「爰本節はまだ具体的な行為現象の実質的な分析に立入る場所ではない。右で陳べた方法論的留意事項を記銘しつつ、まずは実践論の構図を隈取っておくことが当面の課題である。――この課題に暫定的に応える途次、旧来の行為観のパラダイムとの対質をも幾つかの論点で絡める運びとなるであろう。」287P
第二段落――実践論の構図を隈取っておく−行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措という構制を呈すること 287-93P
(対話@)「偖、行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措(「フェアハルテン」のルビ)という構制を呈する。そして、この構図は、当体が能知的主体である場合、当の主体にとって(für esに)も、形式的には妥当する。但し、観察者にとっての規定と当事者にとっての規定とは、構図的・形式的には同じく「環境−当体」の図柄を呈するにしても、範囲的にも内実的にもおよそ別様でありうる。環境が舞台的情況として、亦、当体が能為的主体として、それぞれ認知される場合であっても、右の事情には変りない。」287-8P
(対話A)「行為的当事主体の視座すらするとき(これは我々の見地からも差当たり追認することができるのだが)、行為的事象は、前節に謂う「客体−用具−主体」という三体図式を基底(「ベース」のルビ)にして式述することが可能である。――当事者にとって、例えば欲求行動の場合など、「主体→用具→客体」という相で意識されがちだとしても、即自的には已に「客体⇄用具⇄主体」という構制が一般に看られる、と言ってよいであろう。――「客体」は、主体が作らきかける単なる対象ではなく、主体的活動性を誘起・機縁づけるものでもあり、主体的活動性の在り方を制約するものでもある。「用具」は、主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へと作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある。「主体」は、客体および用具との関係で右に述べたところに含まれている通り、客体に作らきかけるばかりでなく客体に作らきかけられもするもの、且つ亦、用具を制御するだけでなく用具に制約もされてもいるのである。」288P
(対話B)「ところで、前節の行文中においては、謂う所の三体図式における「客体」をいわゆる事物的存在体に限局するかのごとき論述を事としたのであったが、それは当事者的意識の追認というよりむしろ旧套的パラダイムを暫定的に擦(「なぞ」のルビ)りつつ内在的に止揚する伏線だったのであって、「客体⇄用具⇄主体」における「客体」は何も事物的存在体に限局さるべき謂われはない。「客体」は、主体が(用具を介して)それに変化を生ぜしめるもの、ないし/および、主体がそれに縁って変化を生ぜしめられるもの、この要件を充たすものを全般に拡充されうる。今や客体は知覚的対象物には限らず、表象された対象やいわゆる志向的対象をも含みうる。それは人物他者でもありうるし、いわゆる自身の肉体をすら含んで差支えない。――前節での三体図式において「用具」と呼んだものについても、今や規定を新たにすることが望まれる。前節では事物的客体に限局する風情であったため、「用具」も伸・縮相における肉体という言い方に止めたのであった。だが、用具とは「主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へ作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある」とすれば、それは肉体的・物体的(「ケルパーリッヒ」のルビ)な存在体に限局されるには及ばない。それは「環境−主体」系から能為的「主体」項ならびに「客体」項を括り出した“残余”全域にまで拡がって定在しうる。」288-9P
(対話C)「爰において、「客体⇄用具⇄主体」という図式は、夫々の内自的な特性に拠って截断される三体を結ぶ図式というより、機能性に即して分節される三項関係の図式として把え返される所以となる。――「事物的客体−肉体的用具−精神的主体」という図式は、今では拡充・再措定された「客体⇄用具⇄主体」の特殊的ケースとして位置づけられる。また、この拡充・再措定された特殊的一ケースとして「目標−手段−能為」という図式を分出的に措定することができる。翻っては亦、客体が他者(単なる肉体的存在物というより主体的存在者)である場合、「客体⇄用具⇄主体」図式の特殊的ケースとして、「相手−配備−自分」という図式を分出できる構制になっている。――以下では、爰に再措定された「客体−用具−主体」図式を必要に応じて「対象−用財−主体」図式と標記することにしよう。」289P
(対話D)「偖、右に措定し直した「客体−用具−主体」図式、すなわち「対象−用財−主体」図式は、行為に際して、当事者自身にとっても現識されている構制である。(当事者の現識相と我々学知的分析者の規定相とは勿論そのまま重なるわけではない。が、構図的・形式的には我々も「対象−用財−主体」図式を“追認”しうる。)」289P
(対話E)「当事者にとって、「対象」とは、さしあたり、それにおいて所期の変化(生・滅[現実化・無在化] /変様/移動)が体現されるところのものである。「用財」とは、それを主体が用益して対象的変化をもたらすところのものである。一往このように言えるかもしれない。だが、当事者自身いちはやく、謂うなれば逆のヴェクトルにおける次のことを対自化する。「対象」は主体的活動性を誘発・機縁づけるものでもあること、「用財」は対象的変化の在り方をも主体的活動の在り方をも制約するものであること、「主体」はその活動性を対象によって誘発され且つ用財によって制約されるものでもあること、すなわちこれである。(繰り返し誌してきたとおり、著者は認識(「エルケンネン」のルビ)と呼ばれるものをも行為の一形態であると見做し、広義の実践に算入する者であるが、本巻においては、認識という行為形態については主題的には立入らないことにし、実践の構造内的一契機をなすかぎりでの認識を配視するに止める。この段あらためて諒承いただきたい。)」289-90P
(対話F)「茲に「用財」は極めて広袤の大なるものとなる。当事主体はその一部分しか現識していないにせよ、我々の学知的分析の見地からは、それは、(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的・規範的な準則、(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態を包摂する。――当事主体は、環境的条件をも用益しつつ、道具を肉体で以って一定の方式に由り、意識内の“設計図”や“地図”をも参酌しながら使用することで、目標状景を実現する(という仕方で対象的変化を現成せしめる。)」290P
(対話G)「尤も、前記(4) の一部をなす規範的準則および(5)の企投的・嚮導的意識態は、主体(精神的エージェント)に内在化させ、主体的活動に算入する見方もありうる。当事者の自家了解はむしろこの形に近いかもしれない。この線で立てられる理説も現にある。」290P
(対話H)「旧来の行為論においては、とかく「主体→用財→対象」というヴェクトルに主眼が置かれ、「対象→用財→主体」という逆向きのヴェクトルはたかだか認識面での副次的な意義しか認められていない傾向があり、そのためもあって、「対象」項が志向的目標ということでしか把えられない憾みもあった。そこにあっては、われわれの嚮に謂う「対象」は、むしろ、環境的与件の一部分ということにされ易い。――というのはこうである。論者たちによれば、外在的対象物は、たかだかそこにおいて“目的”が実現される“場所”たるにすぎない。勿論、論者たちも、対象物の客観的実在性を否認するわけでなく、それが空無的場所だと言うのではない。それが物理的な実質性を具えた存在体であることは承知している。が、論者たちは、「行為論的にみて肝要なのは“目的”(という主観内部的に思い泛かべられた観念)の実現、言い換えれば、当初は(頭の中にあって)現実的にはまだ存在しなかった状態の実現である」と主張する。この実現に際しては、なるほど、移動であれ変様であれ生滅であれ、外在的対象に一定の変化が生じるには違いない。がしかし、肝心なことは変化実現の以前には現実的には未在であった状態の新規的出現・現実化なのであり、この“目的の実現”にとって外在的対象は“場所”たるにすぎず、実質的にはむしろ、“目的の実現”にとっての“手段”と呼ぶほうが相応しい、云々。論者たちはこのように考える次第なのである。――という次第で、論者たちは“目的実現の場所”ということでミニマムの“対象”項を残し、そのかぎりで、「主体−用財−対象」という構図は維持するにしても、対象的実質は“目的実現のための一手段”として、“環境的与件の一部分”と見做す所以となる。」290-1P
(対話I)「論者たちは茲に、実態的には「目標−手段−能為」という図式を立て、謂う所の“手段”として、前記の(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的準則、等を考え、前記の(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態は“主体”に内属させる。――嚮に紹介した初期パーソンズの「単位行為」は、「行為者(目的を表象し規範的に方向づける自我) −状況(道具的手段および環境的条件) −目的(未来的事態)」という構制、つまり、右に謂う「能為−手段−目標」という図式に近い構制になっていると言えよう。これは何も特殊パーソンズ的というわけでなく、旧来の単位行為観に、かなり弘く見られるもののように見受けられる。――ここにあっては、「能為的主体が志向目的を一定手段を用いて対象的に実現する」ということが「単位行為」の本諦であるとされる。」291-2P
(対話J)「日常人は行為を恒に必ずしも右の理説の構図で了解しているわけではないように思われる。が、少なくとも或る種の行為に関してはこの構図で了解していることも確かであろう。――この限りで、右の理説の構制に今少しく関説しておかねばなるまい。」292P
(対話K)「一定の目的を志向し、一定の手段をしかるべき仕方で用益することで、主体が所期の目的を達成する、という構制の行為を「目的達成型」と呼ぶことにしよう。目的は一定の状態(企投の時点では未来完了的な一状態)において体現される。当の状態は、企投に際して、目標的状景として表象・予象(「フォル・シュテレン」のルビ)される。謂う所の状態(目的がそれにおいて体現されるところの状態)は嚮にみた意味で“場所的対象”とも謂われうる。そして、目標的状景は必ずしも“絵画的”に表象される必要はなく、内語的叙示態の相でしか意識されない場合もありうる。が、明晰判明な画像的表象の相においてではなくとも、ともあれ目標的状景が企投に際して意識され、所期の目的は一定の実現目標状態に体現されることで達成される。目的という価値は、実現目標という事実性に担われているのである。(目的価値を担う当の事実的状態は、同時に、欲求的/当為的/評価的/等々の価値をも担いうる。)目標実現のために利用される用財(行為舞台的環境条件、道具的手段、肉体的活動、技術・技倆的方式、等々)は、目的価値達成の手段として手段的価値性を帯びるのであって、これまた単なる実在でなくして財態である。そして、能為的主体も、目的価値を志向し目的価値を達成すべく活動する主体として、この一事だけからしても、単なる実在的活動体ではなく、価値性を帯びた主体、財態的主体である。(行為は、目的企投の在り方に関しても、手段選択の在り方に関しても、行為遂行の在り方に関しても、所業的結果に関しても……、諸々の価値的評価の与件となる。が、この件については後論まで持越すことにして、今爰では、行為の価値性・事実性という問題は、目的性価値および手段性価値に限ってのみ配視するに止めておく。)」292-3P
(対話L)「われわれの看るところ、行為はその全てが対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的達成型になっているというわけではないが、即自的には(つまり、我々の学的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっている、と言うことができる。――いわゆる反射的行動のごときは措くとしても、ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあり、ブルデューの謂うハビトゥスに基くプラティックのごときもある。フェア・エスには、ウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥス的行為が大部分であるように見受けられる。従って、フェア・エスには、ウェーバーの謂う目的合理的行為が行為の大半を占めるなどとは言えないばかりでなく、目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにもいかない。このことの銘記を要する。だが、アン・ジッヒには殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言えること、これは容易に認められうるであろうと信じる。――フェア・ウンスには、しかも、「目標→手段→能為」というヴェクトルも現認できる。俗に、“目的(目標)実現関係においては、因果的作動関係とは逆で、目的(目標)の側からの作らきかけで謂うなれば招き寄せられる”という言い方がなされる事情にそれは見合う。総じて、少なくともフェア・ウンスには「目標⇄手段⇄能為」という構制が殆んど全ての人間行為において看られる次第である。」293P
第三段落――「目的達成型」という構制と「役割行為」との関連 293-9P
(対話@)「ところで、翻って顧みるに、われわれは前篇において、人間の行為というものは殆んど全てが「役割行為」として営なまれている旨を論定していたのであった。では、「目的達成型」という構制と「役割行為」とは如何なる関連にあるのか?」293P
(対話A)「われわれはいま、「対象⇄用在⇄主体」という措定図式や「目標⇄手段⇄能為」という目的達成型の範式から“演繹的”“変形的”に「役割行為」を“導出”してみせる必要はない。そのつもりもない。がしかし、「相手⇄配備⇄自分」という役割行為型を、目的達成型のヴァリアントとして、溯っては亦、「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊な一形態として、位置づけて示すことはできる。」293-4P
(対話B)「嚮に謂う「対象」(“場所的対象=対象的場所”)が人物の場合もあること、また、目標的状態が人物の所動的状態である場合のみならず、相手人物の主体的所業である場合もありうること、このことは容易に認められよう。相手にしかじかの所業的行為を体現せしめることが目標であり、能為的主体たる自分が一定の手段を用いて当の所期目的を達成する場合、「目標−手段−能為」という構制が「相手−配備−自分」という特殊形態にあることになる。ここにあっては、少なくともフェア・ウンスには、ヘーゲルの謂う「力の遊戯」の構制が見られるのであって、俗な言い方をすれば、“誘惑者は誘惑すべく誘惑されており、被誘惑者は誘惑されるべく誘惑している”構制が看られる。つまり「相手⇄配備⇄自分」という構制になっており、溯っては、これは「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊的一定在形式にほかならないのである。」294P
(対話C)「役割行為なるものは、しかし、相手の期待に応えて自分が役割行動を遂行する場合であってさえ、行為対象は恒に必ず当の本人とは限らず、亦、行為目標は恒に必ず相手本人の所業とも限らない。――なるほど、例えば、会話とか、物品の授受とか、行為の目標的対象が相手本人の場合もありはする。これが役割的行為の原基的形態かもしれない。(精確には、原基的形態は、会話とか授受とかでなく、直截な対抗的即応行為であるが、今言いたかったのは、相手人物が自分の側での行為の目標的対象である場合が役割的行為の原基形態であるということである。)われわれは前篇においては事実上この形態での役割行為だけを視野に入れるに止った。だが、実は、これでは視野が狭すぎる。現実の役割行為には、目標的対象が第三者(事物的存在者または/および人物的存在者)の場合が現にある。――相手に期待されている自分の行為が、或る事物的対象に一定の変化を惹き起こすことであったり、或る第三者に一定の行為を遂行させることであったり、要するに目標的対象が第三の存在者である場合がある。自分の期待する相手の役割行為が、同様に亦、第三の存在者を目標的対象とする場合もある。」294-5P
(対話D)「このような役割行為の場合、「目標−手段−能為」と如何なる布置関係にあるのか? 「目標−手段−能為」と「相手−配備−自分」との双つが、単なる併存ないし単なる接合の関係にあるのか? ――或る種の論者は、対物行動と対人行動とを行動の基本的二種類とし、両者を両半球的に区分する。また、或る種の論者は、「人−物−人」という三項的関係を行為の基本的構図に見立てたがる。しかしながら、われわれは原理的次元においては、事物と人物との二元的区別を暗黙の大前提とするこれらの論者にそのまま与みするわけにはいかない。アニミズム的世界観を卻けた地平においても、行為の具体的な場面では、いわゆる事物的存在体といえども“能期待者/所期待者”に類する機能を現に屢々演じ、逆に亦、いわゆる人物的存在者といえども単なる事物的対象なみにしか機能しない場合が厳にあるのであって、原理的論議を俟たずしても、論者流の安直な理論構制は採らるべくもない。「人−物−人」という三項図式は、一見、われわれの謂う「相手−配備−自分」という図式の別表現のように見えようとも、実は存在観を異にしており、内実的にはおよそ相別れる。が、今爰では原理的な対質に立及ぶことなくしても、われわれの謂う「配備」は「物」には限局されないこと、この一事を指摘しておけば一往足りるであろう。――「目標−手段−能為」図式は「手段」項に「他者の一定の役割行為」をビルトインした相で存立しうる。反って亦、「相手−配備−自分」図式は「配備」項に(自分または/および相手の)一定の目的達成型の行為をビルトインした相でも存立しうる。こうして、目的達成型と役割行為型とは、単なる並存でも単なる接合でもなく、また、後者が前者の特殊的一形態という枠に納まるのでもなく、謂うなれば互いに他の構造内的契機としてビルトインされる相にありうる。現実の行為は、目的達成行為と呼ばれるものであれ役割遂行行為と呼ばれるものであれ、多少とも立入って分析的に規定すれば、大抵がこのような錯構造を呈する相で現存在する。」295-6P
(小さなポイントの但し書き) 「尤も、「目標−手段−能為」図式と「相手−配備−自分」図式とが“相互嵌入”的な相にあるというとき、両図式とも嚮の暫定的範式よりも内容的規定性が豊かになっている。嚮には、「相手−配備−自分」の原基的形態にあっては、互いに相手当人が目標的対象である旨を述べた。“即物的”には慥かにそう言われうるし、そのかぎりで、この図式を「目標−手段−能為」図式の特殊的形態として、溯っては「対象−用財−主体」図式のヴァリアントとして位置づけることも許されうる。だが、相手をも自分をも「能期待者/所期待者」という“主体的側面”と、「所期的所作態者」という“客体的側面”とに区別して捉えるとき、目標的対象となるのは後者の側面である。このように分析的に捉え返せば、目標的対象が(主体的相手とも主体的自分とも別の)第三者の存在者である場合と述べて嚮に別建てにしたものとの相違性は相対的な差異すぎないことになる。われわれは目標的対象が“相手当人”の場合と“第三者の存在者”の場合の場合との相対的区分を没却する者ではないが、役割行為の主体(人格的主体)と役割的所作とを区別する論脈では、主体としての相手当人が目標的対象なのではないこと、目標的対象は相手の所作という“客体的側面”、このかぎりでの“第三者の存在者”であること、このことを自覚して事に当らねばならない。――「目標−手段−能為」図式における「手段」項についても、それが「伸長せる肉体的用具」に算入されうる場合でさえ、他者の主体的役割行為であるケースを含みうること、今やこのことが銘記される。」296P
(対話E)「「目標−手段−能為」図式に「相手−配備−自分」図式が構造内的契機として嵌入される構制になっていると言うとき、他主体の役割行為が「手段」項の一部としてビルトインされていることを意味するが、そこでは他主体の行為とは言っても、所詮は「能為=自分」にとっての用具的一手段であり、他主体の行為がそれなりの目的達成行為であるにせよ、総体的には「能為=自分」が自分の志向目的を達成するのであって、他主体の行為はあくまで一手段たるにすぎない。ここにあっては、「目標−手段−能為」図式の「自分」項とが重なっていて「相手−配備」の部分が「手段」項の一部分を成すという構図が単位的な枠組みとなる。」296-7P・・・錯分子的構造
(対話F)「逆に、「相手−配備−自分」図式に「目標−手段−能為」図式が構造内的契機として嵌入されているという際には如何? 相手に相手の目標を自分が実現させられる場合、乃至、自分が自分の目標を相手に実現させる場合、いずれにせよ能期待者・使役者たる「自分」項が「能為」項とまず重なる。「配備」項は、さしあたり、「相手」に所期の役割行為をおこなわせる手段的配備であり、相手に一定の役割行動をおこなわせることが自己目的であるとするなら、その場合には「目標−手段」の部分(自分=能為の目標実現行為という部分)が「配備」項の一部分を成すと言える。がしかし、これはなるほど目的達成型の行為が「配備」項の構造内的契機を成しているという規定的豊富化を示すにもせよ、「目標」項は「相手」の反応的所作という“客体的側面”と重なるかぎりで、総じてむしろ「目標−手段−能為」図式の特殊的ケースとしての「相手−配備−自分」図式という埓を実質的には出るものではないと言ったほうがよいであろう。このことを省みるとき、役割行為型に目的達成型が嵌入されている嚮の言い方は、役割行為を促す機制をイラストレイトするものではあれ、事柄の本質的構制にとっては、嵌入とかビルトインとか言うのは相応しくない。そもそも、相手に一定の役割行為をおこなわせることが自己目的というのは実情に合わない。相手に一定の役割行動を期待・使役するのは、高次的目的のための一手段としてであり、所期の達成目的は相手の役割行為自体とは別の所、外部にあるのが現実である。こうして、現実問題として、嵌入ということが現成するのは、目的達成型への役割行為型のビルトインという相においてである。ひとまずはこのように“認め”ておくことができる。(ひとまずはと限定するのは、後に見るように、役割遂行行為が目的達成行為を謂うなれば“包み返す”場合、「主体我々の協働」の場合があるからである。)」297-8P・・・協働論
(対話G)「差当ってのところ、斯くして「実現目標−配備的手段(これに他者の役割行動も含まれておりうる)−能為的自分」という構図が単位的な行為の構制として“確認”される次第となる。(この構図は相手の視座に則しても成り立つ。)」298P
(対話H)「この構制においては、他者なるものがたかだか能為的自分にとっての手段的存在たるにすぎず、他者の主体的活動といえども所作という“客体的側面”において自分にとっての手段的要因として算入されるにすぎない。ここにあっては、他者は能為的主体・人格的主体として認知されてはいても、所詮は手段的存在にとどまる限り、「主体我々」として協働するわけではない。共互的な役割行動がおこなわれるとしても、せいぜい互いに相手の手段と成り合うという域を出ない。(尤も、この“手段”は“自発的能動者”であることにおいてその“手段的価値性”を発揮するのであって、並の手段とは別格であるのだが、手段は所詮手段である。)」298P
(対話I)「惟うに、いわゆる近代的自我主義・利己主義の風潮とも相即するかたちで――今この風潮が支配的(「プリヴァレント」のルビ)になった歴史的・社会的な事情・基盤まで掘下げることなく、表層的な指摘に留めるが――右の構制が人々の日常的行為観の基調をなしており、亦、それを追認する流儀で、学術的な行為論においてもそれが基幹的な構図とされている。そこでは、複数の諸個人の営為から成る社会的行為なるものも、右の構制での単位的行為の集合(単なる並存ではなく、対立・衝突・葛藤をも孕みつつも全体としては何とか“調和的統一性”を呈する集合現象)として把握される。まさに「実現目標−配備的手段−能為的自分」を単位的行為態とする個人主義的パラダイムが鞏固に確立している。」298P
(対話J)「省みれば、われわれ自身、嚮に――人間の行為は「フェア・エスにはウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥスな行為が大部分であり、……目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにはいかない」という但書きを添えつつも――「即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には(つまり、我々の学知的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言うことができる」と記したのであった。だが、この命題は、われわれの場合、人間の行為というものは(闇雲におこなわれるのではなく)大抵が少なくとも即自的にはその都度一定の目的を達成する構制になっているということを取敢えず確認するだけのものであって、個人主義的・利己主義的な含意に関しては中性的である。――他人の行為(当方の期待・要請に応えての役割行動をも含む)が自分の目的達成行為にビルトインされている事態について、他人の行為を「単なる手段として利用している」と観る場合と、「協力的恩恵を忝(かたじけなう)している」と観る場合とが相岐れうる。なるほど、協力的恩恵などと言っても、相手が打算的に報酬や恩顧を期待して協力するにすぎない場合には、相手は当方を単なる手段として遇している域を出ず、真の主体的協力の名に値しないであろう。このような場合には、協力という名を冠してみたところで、所詮は利己主義的な手段的利用の埓内にある。だが、互いに手段的に機能しつつも猶且つ「真の協力」と認めうる場合も厳にある。真の主体的協働の場合がそれである。」298-9P
第四段落――主体我々の形成−協働論 299-303P
(対話@)「目的達成型の行為という範式の枠内にあっても、複数の主体が共同の目的を志向して協働的に役割行動を遂行する場合、当の複数主体は、各々他主体の所作を目的達成の手段として機能せしめつつも「我々」として目的達成行為を営なむ。ここでは、協働者は、銘々他人にとっての単なる手段ではなく、各々主体であり、主体我々を形成する。(強いて言いたければ、行為者は“客体的側面”において他主体にとっての手段、“主体的側面”において他主体にとっても主体、と一応言ってもよい。がしかし、両側面を分断することは実質的にはナンセンスである。というのも、主体的活動であることにおいて手段的な機能性が客体的に発揮されるのであり、また客体的所作ぬきの単なる精神的活動では行為主体ではないのだからである。ここでの論脈において「単なる手段的存在」と「主体我々の片割れとしての主体的存在」とを別かつのは、“客体的側面”と“主体的側面”との振分けではなくして、志向目的の“主体的側面”のフェア・ジッヒな共同性・共有性の存否である。)」299-300P
(対話A)「志向目的の共有、主体我々としての協働は、日常茶飯に見られるところであり、打算的他者利用に際してすら部分的現象としてなら存立しうる。共互的役割行動の現成が(高次目的は別にあるとしても)暫定的目的である場合、例えば格闘技や敵対的ゲームのごときであってさえ、また会話のごときであってさえ、主体的協働たりうる。打算的な授受・取引行為のごときでも、授受・取引の成立が当面の暫定的共同目的である限り、その局部的共同行為は主体的協働であると言える。」300P
(対話B)「主体我々の協働的役割行為という事態においては、役割行為型の範型に目的達成型がビルトインされる構図になるという言い方もできる。が、ここでは絮言は省くことにしよう。」300P
(対話C)「尚、「協働」というとき、自覚的に目的を共有して営なまれるものだけでなく、当人たちはそれと自覚していなくともフェア・ウンスには看取される即自的な協働をも視野に入れて論考する必要がある。この件については、しかし、次章以下の論脈内で論じることにして、爰では次のことに留意を求めるに止めておく。」300P
(対話D)「人間の営為というものは、一見したところでは、孤独な、当人だけの目的達成行動であるように見える場合であっても、フェア・ウンスには、協働の一局部の担掌、他者たちとの即自的な協働である場合が多い。いや、それどころの話ではない。人間の行為は悉く一種の協働であるとすら言うことができる。――役所や企業など組織体における各人の業務行為は協働的営為の担掌であり、例えば、一人の事務員が孤独に従事しているデスクワークでも組織体としての事業の分業的協働の一齣である。個々人はその都度の仕事の目的を志向して行為するにしても、その目的たるや、それ自身としては、つまり組織体の事業目的から切離されて単独には、殆んど無価値であり、組織体(いきなりその全体とは言わぬまでも、部なり課なりといった直接的な協働単位)の目的にとっての手段的部分目的としてのみ意義をもつ。もしそれが組織体の事業目的にとっての手段的な部分目的として課せられるのでなかったら、当人はおよそ当の目的を志向することはないであろうし、以って当の目的達成行為は企投もされず、況してや、遂行されることもないであろう。当の企投。遂行が存在するのは、協働の一齣たることにおいてのみであり、仍ち、当の行為にとって協働が存在条件をなしているのである。別の例をとって、一人の農夫が孤独に畑を鍬で耕しているような場合には如何? 彼はなるほど、協業(=co-operation協同作業)という仕方での協働作業を営なむわけではない。耕すことが最終目的ではなく、それはさしあたり。播種・育成・収穫という高次目的にとっての手段的な中間目的にすぎないにしても、その高次目的とてまずは彼個人の目的であると言える。このような点で、慥かに、嚮の協業的部署の担掌者の場合と同列には語れない。だがしかし、直接的な共演者こそ欠くにせよ、この例のケースにあってもまた、本質的な構制では、やはり一種の協働の構制になっている。農夫は素手で耕すのではなく、鍬を用いて(謂うなれば“鍬の力を借りて”“鍬の助力で”“鍬と協力して”!)耕す。が、この鍬たるや彼自身で製作してものではなく他人の製作物である。彼は鍬を用いることにおいて、鍬の製作者たる他人の“助力”“協力”を得ているのであり、ここには間接的協働の構制が見られる。彼が耕すのは、未開の荒野ではなく、畑である。この畑たるや彼自身の開墾したものではなく、先祖他人の“製作物”である。畑の耕作は荒地の開発とは別種の行為であって、畑を耕すという彼の行為は、謂うなれば開拓者たる他人の助力・協力を仰いでおり、こうして労働対象に即してもやはり一種の間接的協働の構制が認められる。更に言えば、耕作の仕方、労働の技術的方式、これも彼自身が案出したものではなく、先祖からの伝承であれ、同時代人に教えられたものであれ、ともあれ他人から学んだものである。もしそれを学んでいなかったら彼の労働方式・行為の在り方は別様になったであろう。ことによると不可能かもしれない。彼が現に見る仕方で耕作するのは、この意味において“他人たちの助力・協力”の下においてなのであり、労働の方式に関してもやはり間接的協働の構制になっている次第である。溯って言えば、そもそも耕作という目的志向、この目的の志向・企投ということからして、彼がもし孤絶に育ったならば生じるべくもなかった筈である。農耕なるものの存在を学び以って耕作という目的を投企することが可能になっている場面で既に、一種の協働の構制が存立している。総ずるに、こうして、いわゆる孤独的行為にあってすら、行為目的の企投、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも孤独的主体の自閉的・自足的な事柄ではなく、一種の協働・担掌の構制を示す。翻って、間主観的組織体の成員として自覚的な共演的協業をな営んでいる主体にあっても、顕在的協業の成立条件として、右の農夫に類する潜在的な間接的協働の構制に支えられている。――舞台情況、企投目的、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも先人をも含めた他人たちの協働的所産であり、惟えば行為主体の如実の在り方すら協働的所産なのであって、行為というものはその都度すでに一種の協働の構制で存在する。」300-2P
(対話E)「われわれは、顕在的・対自的な協働と潜在的・即自的な協働とを区別し、依って両者を顚から同列に遇するごとき愚は犯さないが、行為というものは、一見孤独的主体の自足的な目的達成活動として単位的な完結性を示すかのように見える場合であってすら、協働的連関態の反照的一結節であるということ、このことを現認して実践理論の構図を立てる。」302P・・・協働ということを通した世界観・人間観の基底的なとらえ方、ここから未来の社会のあり方が導かれを
(小さなポイントの但し書き) 「先廻りになるが、マルクスも指摘した通り、「社会は諸個人から成り立っている[単なる集団な]のではない。さりとて社会なるものが諸個人[実体的に]独立自存するわけでもない。社会と人々の関わり合い(Beziehungen)、関係行為(Verhältnisse)そのものである」。――このさい、関係行為なるものが独立自存するものではないこと附言するまでもないことであって、行為主体、舞台的・道具的な条件、技術的・規範的な行為様式、これらの機能的連関態として謂う所の関係行為・行為関係が現存する。――社会というこの関係行為の一総体は、A・スミスに倣って「分業体系」と観ることも、M・ヘスに倣って「協働体系」と観ることもできる。labour,Wirkungという概念を「行為」一般の広義に解する限り、われわれとしてはいずれの射影相で捉えても差支えない。/分業体系というとき、いわゆる作業内的分業と総社会的分業とが区別されるが、前者は顕在的協働の編制を示し、後者は潜在的協働の編制を示す。(但し、先に指摘したように、前者においても潜在的・即自的な分業的協働が支えになっている。)――社会的分業ということで言えば、上例の農夫のごときいわゆる独立自営業者であっても、現実には自給自足しているわけではなく、鍬を交換(贈答をも含む)によって入手するのであり、そのためには自家作物を交換(すなわち他人の使用)に供するのであって、商品経済社会であれ贈与交換社会であれ、彼の労働・生産物は他人の労働・生産物と相互補完的な関係にある。この意味での分業的協働として、それは、対自的な協働でこそないが、嚮に指摘した次元での潜在的な協働とも異なり、“半ば顕在的”な協働になっていると言えよう。――先刻来、協働というとき、例を労働という特殊形態のものに採ってきたが、政治家・法律家・医師・芸術家・宗教家などの行為についても、やはり顕在的協働もあり、少なくとも農夫に類するごとき潜在的な協働の構制が存立すること、分業・協働という構制がおよそありとあらゆる人間行為に関して見出されることは詳述するまでもあるまい。」302-3P
第五段落――次章へのつなぎ−具体的な論考のための前梯を設える 303-8P
(対話@)「今や、以上で陳べてきたところを承けて、実践理論の構図を暫定的に隈取り、次章での稍々具体的な論考のための前梯を設らえる段である。」303P
(対話A)「行為という概念は余りにも広狭多義的に用いられているので、われわれは今爰で厳格な定義的限定を施すつもりはないのだが、大枠的な劃定をまず図っておこう。」303P
(対話B)「「当体的主体が、環境に規制されつつ反って環境内的変化を生ぜしめ、以って、目的を達成する能為的活動」――この提題的描像に内容的規定を賦え錯分節化を施すという手法で劃定を志向することにしたい。」303-4P
(対話C)「右の提題的構図は、第一節で陳べた「環境と当体との分截」の図式と関連づけて言えば、全一的動態を環境と当体という両項に分截し、両項の相互作用的関係を当体の側に視座を構えて把え、環境項からの作用をも当体項の能為的活動の構造内的要因として位置づける構制になっている。それはまた、第二節で陳べた「客体−用具−主体」図式(本節での再措定では「対象−配備−主体」図式)を視角を変えて把え返した構図になっているとも言える。が、爰では“演繹的”“変形的”な導出という手法においてではなく、直截に右の提題を自家解説する捷径を採ろう。」304P
(対話D)「「当体的主体」は、一般論としては全一的動態を環境と当体とに分截した際の当体項であるにしても、当座の行為論の構図においては、まずは行為の当事的主体に限定される。尤も、それは人間個体に限局される必要まではなく、いわゆる法人/集合的人格/超在者のごときであっても、また、人間以外の或る種の動物であっても、それが一定の要件を充たすとき、行為の当体的主体として認められてよい。が、われわれとしては、当体的主体の範型を人間個体とし、これの行為に準(「なぞ」のルビ)らえうるかぎりで、法人/集合的人格/超在や動物などの一定の活動をも行為に算入すべく、それら人間個体以外のものをも、行為の当体的主体と認める。――このさい、範型たる人間個体なるものを、「肉体を具えた精神的エージェント」という相で規定するか、「純然たる精神的エージェント」という相で規定するのか、これが問題になる。行為論を具体的に展開する場面では、実際問題としては具身相での人間主体に即するのが常態となるであろう。しかし、肉体はことごとく用具的な手段ということにして、もっぱら精神的エージェントだけを主体とするのでなければ議論が余り錯綜しすぎる場面もある。そのかぎりで、主体と用具的肉体との分截、ないしはまた、“主体的側面”と“客体的側面”との分截が厳しく必要とされる場面では、「精神的エージェント」、ないしはまた、前章第二節に謂う「人格的主体」を範型的な「当体的主体」として扱うことにしたいと念う。(尚、これは「能為的活動」について後述する折に誌せばよいことではあるが、われわれとしては「精神的エージェント」を勝義の主体的当体として扱うとはいっても、いわゆる“純然たる精神的活動”は、本巻では行為の構造内的契機たるかぎりで配視し、独立の単位的行為としては遇さないことにする。われわれは、いわゆる“純然たる精神的活動”をも、原理的には一種の行為として認めるのに吝かではあってはならないが、本巻では右の措置を採ることを諒とされたい。)」304-5P
(対話E)「「環境」は、一般論としては当体の残余であるから、行為論の構図においては、ひとまず当体的主体を除く総世界と言われうる。原理的には、慥かに総世界が当体的主体の活動を規制し且つそれによって変化せしめられるのであるから、このことが一往は銘記されねばならない。がしかし、行為については具体的に論述する場面では、その都度問題の行為主体の活動の在り方を規制していることが具象的・有意味的に現認される範囲内に限定されて宜(「よ」のルビ)いであろう。尤も、この限定は、当事主体が環境として明識している範囲という謂いでは必ずしもないのであって,殊にフェア・ウンスには、空間的範囲においても内実的においても、文脈如何ではかなりの広範囲に及ぶ。――環境は総体として主体的活動を規制し且つ主体的活動の影響を被るのであるとはいえ、行為の具体的分析に際しては、生起する環境内的変化を、主体的活動による所期的変化と非所期的・非意図的に生じる変化とに区別する必要がある。所期的・目標的変化がそこにおいて体現される環境内局部を「行為対象」と呼ぶことにしよう。しかし、現実問題として、当の所期的変化は別の変化を生ぜしめるための、中間目標にすぎない場合もある。当座の終局的目標を実現するためには、中間目標的変化が必須な構制になっているのが現実である。中間目標的変化であれ、それの体現される環境内局部が行為対象であるには違いないが、当座の終局目標的変化対象と区別して、中間目標的変化の体現体を「手段」と呼ぶことにしたい。茲に、「手段」的変化を介して「対象」的変化がもたらされる(日常的な表現で言えば、“手段を用いて対象への働らきかけがおこなわれ、以って、目標が実現される”)次第となる。ところで、上述の通り、環境は総体として主体的活動を規制するのであり、その一部たる行為対象も活動規制的な要因ではあるのだが、「行為対象(中間目標的な手段的対象を含めて)」が主体的活動によって変化をもたらされる対象という側面に主眼を置いて観られるのにひきかえ、行為対象以外の環境的諸要因は、非意図的変化がそこに生じようとも、主体的活動にとっての規制的要因という側面に主眼を置いて観られる。――環境は、或る種の分析視角では物理的存在と観られうること勿論ではあるが、フェア・エスには、さしあたり、われわれが前篇第一章で述べた用在的世界の総で展らける。が、それは、(イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件に錯分節化して現識されうる。これら錯分節項は、実体的に分立・並存するのではなく、錯合的である。そして、(イ)(ロ)(ハ)のいずれに属するものも、行為の対象ともなりうれば行為の手段ともなりうる。このことを銘したうえで、しかし、規制的環境要因という視角で観れば、J・ギブソンの謂うaffordance(「誘発特性」)、M・ハイデッガーの謂うZuhandenseinに庶い相で展らけていて、当事主体および協演的他者の活動を規制(正/負、すなわち、誘発的/抑止的に規制)するといえよう。これがわれわれの謂う表情価を帯びている財態であることは絮言するまでもない。協演的他者は、これが当事主体と「主体我々」を形成する場合は環境的要因から括り出されるのであるし、当事的相手対象や使役的利用手段に位する場合も別建になるので、それが環境的規制要因として存在するのは即自的協働者としてである。即自的協働者は、当事主体の視界内には現存しない者(例えば原料や道具の製作者など)でもありえ、芝居に譬えて言えば、裏方(道具係や黒衣)、囃方のごときでもありえ、亦、観衆のごときでもありうる。観衆も潜在的な賞・罰者(サンクショナー)として重要な環境的規制要因であることが忘れられてはならない。規範的条件と謂うのは、広義のそれであって、習慣・慣習と呼ばれているものはもとよりのこと、技術的・呪術的な様式的規制と呼ばれているものをも含みうる。或る種の学派などで「準環境」と呼ばれているもの、いわゆる「文化的環境」は、前記(イ)の場面的状況に含めてもよいが、デュルケーム学派の謂う広義のinstitutionやいわゆる文化的形成体は、規範的制約条件として大いに機能する。」305-7P
(対話F)「目的を達成する能為的活動」は、即物的に言えば、環境内的諸条件・諸与件(肉体をも含む)を手段的に利用して所期の対象的変化を実現する活動であるが、ここにおける意識性契機が問題になる。フェア・ウンスに行為と認められるものは、目的達成型の構制を呈するとはいえ。フェア・ジッヒには必ずしも恒に目的志向型の行動が常態というわけではない。M・ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあれば、P・ブルデューの謂うたかだかゲーム的感覚に導かれた行為のごときもある。だが、アン・ジッヒには、行為というものは目的達成型の構制になっていると言え、そこでは、舞台環境的諸条件を顧慮しつつ、目標(目的)の企投ならびに手段の撰定という前立的表象的(「フォルシュテレント」のルビ)な意識活動、そして、計画された目標実現行動を決意的に始動・嚮導する意識活動、このような精神的活動の構制が見られる。」307P
(対話G)「行為の展開相のもう少し立入った分析的規定、とりわけ、舞台環境的諸条件の顧慮の在り方、目標企投や手段撰定の意識活動の過程的構造、ならびにまた、各種手段(これには他者の能為的活動も含まれうる)の利用・駆使の方式、これらについての稍々具象的な分析規定は後論において追々試みることにし、爰ではひとまず、以上のコメントを含意させて、嚮の提題的構図を次のように錯図化しておこう。」307P
(対話H)「「当体的主体(人間的個体ないしこれに準ずる単位的主体)が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内的局所に対象的変化を現成せしめ、この手段利用的対象的変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動(舞台環境的諸条件の現認活動、目標企投・手段撰定の前立活動、目標実現的手段行動を始動・嚮導する意識活動)」――斯かる目的達成型構制の心身的活動。」307P
(対話I)「右の錯構図は更に進んだ分析的規定を要するばかりでなく、本来であれば、ここで、目標(目的)企投や手段撰定の「撰択的自由」、および、身体的行動を始動・嚮導する「起動的自由」、すなわち、いわゆる「自由意志」について検討する課題を負う。けだし、果たして「自由意志」「意志の自由」が存在するか、これが哲学的実践論の原理的次元における最大の係争問題をなしてきたのであるからである。決定論/非決定論の対立は、慥かに原理的な対立である。がしかし、行為論の構図的論議の場面では、決定論者といえども、行為主体の当事者意識においては目的志向的な撰択や企投の“自発的自由”があるものと思念されていることを一応は認め、この思念相に即して一旦は論考する。このかぎりで、われわれとしても「意志の自由」の有無、決定論/非決定論の対立、この問題に今爰で直ちに決着をつけることなくしても当座の議論を暫く先へ進めることができる。この故に、この論件については、後論(次々章、終局的には本巻最終章)まで持越す便法を許されたいと念う。」307-8P
(対話J)「爰では、われわれの実践的理論の大枠的構図として――単なる「客体−用具−主体」図式でも「対象−用財−主体」図式でもなく、また、単なる「目標−手段−能為」図式や「相手−配備−自分」図式でもなく――前掲の目的達成型の錯構図を以って、当事主体の視座に即した学知的認定(「フェア・ウンス」のルビ)相での「行為」の基本的な構図に擬することにしよう。――この構図が前篇で論定した四肢的連関態といかなる内面的関係にあるか、これを叙べるためにも、対自的・対他的な役割行為の成立機序、ひいては、即自的・対自的な協働態勢の存立構造を見て行かねばならない。」308P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(13)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第三節 実践論の基幹的構図
(この節の問題設定−長い標題)「実践論は、当事主体の直接的思念相における行為を追認的に分析するものではなく、学知的認定相での(für uns)行為事象を検覈的に究明するものである。が、この究明は当事者(達)の思念相を理解することをも構成的一要因とする。――行為は、即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)にではあれ、範型的には「主体が一定の手段で所定の目的を達成する」という構図を呈し、然かも「役割行為」としての対他者的意義を有ち、本質的に間主体的協働の一部位として定位される。――行為事象は事実性と併せて価値性に即しても分析・認定されねばならない。」281P
第一段落――“近代”学理的実践論のヒュポダイムを直截に相対化し、われわれなりの観方を提示する前梯を設らえる 281-7P
(対話@)「学史的に顧みるとき、行為は、洋の東西において、或いは修業論の見地から論究され、或いは儀式論・儀礼論の見地から定式・確認されたり、或いは道徳論の見地から善論・徳論・義務論として論議されたりもしてきた。また、自由意志行為の存否という観点からも論攷されてきた。とはいえ、行為事象の存在構造の研究となると、例えばアリストテレスのプラクシス・ポイエーシス論のごときも旧くから一応あったにせよ、概して手薄であったように看ぜられる。――認識の存立構造については、哲学史上の近代が認識論の時代と謂われる程、近代哲学は主題的な研究を推進してきた。近代知の地平においては「認識の存立構造」観が決定的に相対立する立場に岐れ、原理的な次元での争論を繰り展げる所以となった。(このことに鑑み、第一巻においては認識論の範型的諸立場の内在的批判と絡めつつ近代認識論のヒュポダイムの止揚を図る論述方式を採ったのであった。)然るに「実践の存立構造」に関しては、アプローチの仕方こそ多岐多様ではあれ、存在構造論的次元での観方(「アウフファッスング」のルビ)の原理的対立は顕示的には見られない。それゆえ、爰では類型的諸立場の内在的検討を介する方式においてではなく、旧来の“近代”学理的実践論のヒュポダイム(これは哲学のみならず、社会学・経済学・政治学などにおいても当事主体の思念相における実践の構図を追認したものに庶(「ちか」のルビ)い)を直截に相対化し、拙速にも憚らず、われわれなりの観方を提示する前梯を設(「しつ」のルビ)らえておきたいと念う。」281-2P
(小さなポイントの但し書き) 「――行為連関態という与件を、個別的な主体的行為に即して観るか、総体的な既成連関態に即して観るか、これに応じて理論構成の在り方が相岐れる。社会学に限らず、社会諸科学において、前者すなわち主体行為をアトミックな(そのかぎりで一応自己完結的な)単位と観て理論構成する立場と、後者すなわち既成連関態を「物のように」(comme de chose、このかぎりで一応独立自存的に)観立てて理論構成する立場とが分立・対立してきた。この分立は、いわゆるミクロ分析・理論とマクロ分析・理論の次元的相違とも屢々相成る。が、アトミズムとホーリズムとは、一方は如実の関係態の項を実体化し他方は如実の関係態の全体を実体化するという仕方での、二様の物象化的錯認と相即するものにほかならない。依って、いわゆるミクロ理論とマクロ理論とは単純に接合すること不可能である。仮りに“接合”したとしても、それで以ってしては如実の行為連関態を捉え切れるものではない。よしんば中規模の理論なるものを挿入したとしても、これが物象化的実体化の弊に陥っているかぎり、本質的には事情は変らない。/われわれとしてはこのことを自覚するが故に、個別的な主体的行為を自足的な単位と観ることも、総体的な既成関連態を自存的な物象に観立てることもしない。とはいえ、人々の思念相を批判的に理解するためにはこれら物象化的錯認相を再構成的に視野に入れる必要があり、一見これらの観方と妥協したごとき論述法をも論脈に応じて採らざるをえない。――旧来の行為論においては、“方法論的”という自己規定の下にであれ、とかく、前者の観方が支配的であり、また、旧来の制度論においては後者の観方が支配的であったという事情に鑑み、既成理論との内在的な論判をヒュポダイム次元で図るためにも、本篇では前者の視角との“妥協”、次篇では後者の視角との“妥協”に傾いた論行を余儀なくされる。――このことを何卒諒として頂きたい。」282-3P
(対話A)「偖、議論の糸口として――単なる糸口としてと謂うのは、爰では旧来の行為観の類型化的分類やそれの内在的検討の意趣はないという意味においてなのであるが――M・ウェーバーおよびT・パーソンズにおける“行為の定義”を一瞥するところから始めよう。」283P
(対話B)「ウェーバーは、弘く知られている通り、「行為とは、行為者ないし行為者たちが主観的意味をそれに結びつけた時の、またその限りでの、人間行動の謂いである」と定義し、「社会的行為というのは、行為者ないし行為者たちの思念した(「ゲマイント」のルビ)意味に則って他者の行動に関連づけられ、行為の径行中それに方向づけられているような行為のことである」と規定している。――彼が「個々人とその行為を以って最低層の単位的統一体(「アインハイト」のルビ)として、……アトムとして、取扱う」という方法論的(?)個人主義の立場を執っていることは周知の通りである。」283P
(対話C)「パーソンズは、これまたよく知られているように、「規範に随ってエネルギーを消費することで、状況内の目的に到達するよう方向づけられたもの」として行為を定義する。――彼の(少なくとも初期時代の)「関心の焦点は『部分』ないし単位概念という一つのタイプに置かれて」おり、基本的(「エレメンタリ」のルビ)として「単位行為」なるものが措定される。この単位行為(「ユニット・アクト」のルビ)は、(1)行為者(actor) 、(2)目的(end) 、(3)状況(situation) 、(4)規範的方向づけ(normative orientation)という四要素から成っている、と彼は観る。(行為者というのは、エゴないしセルフであって、肉体は「状況」に算入される。目的とは「行為者によって望ましいと見做されているがために、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」の謂いである。状況は行為者にとってコントロールでききるもの[手段]とそうでないもの[条件]とに分けうる。規範的方向づけとは、目的と状況との関連様式であって、一定目的を実現しうる手段の中から特定手段を選択させる基準を「規範(「ノルム」のルビ)」と呼ぶ。)」283-4P
(対話D)「茲に、行為者の「主観的意味」「思念せる意味」「行為者によって望ましいと見做され、行為がそれへと方向づけられているような未来的事態」と謂うのは、行為者当人の意志にのぼっている範囲内に限られている。(なるほど、ウェーバーもパーソンズも、実際の行為分析の段になると、当人の意識していない範囲まで視野に入れているかもしれない。が、それは事柄の分析にとっては正当でも、彼等の方法論的立場からすれば逸脱と言わねばなるまい。彼等の方法論上の立場では、学知的第三者の見地からする“意味賦与”を自制しつつ、当事者的意識態を追認識することが肝要であり、そのさい、学知は当事者的意識態をそのまま理解できるものと“要請的”に前提される構制になっている。)」284P
(対話E)「われわれの看るところ、これは余りにも視野狭窄(ママ)的である。これで以っては、行為当事者本人の視座に即した行為の分析・定式すら十全にはおこなえない。――行為者のその都度における意識態とそれに “則った”行為の追認識のためには、ウェーバーや初期パーソンズのごとき構えも強ち無用無価値ではない。第三者的見地から得手勝手な意味賦与をおこなう弊も避けねばならない。これは確かである。また、問題の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその仕方でおこなわれたのか、これを十全に理解・説明するためには、外部観察的与件(「データ」のルビ)だけでは不十分であり、当人がどのように意識していたかを知ることが重要な手掛りを与えてくれる。(仮令、当人の脳神経生理的状態を精確に認識できたとしてさえ、――これは行為現象のアクチュアルな場面では現実問題として不可能な話であるが、原理的な可能性としてきれを仮定した場合でさえ――それだけで行為を十全に説明できるという保証はない。というのも、脳生理的状態によって行為が一義必然的に決定されているかどうか、これは生理学的決定論の要請的前提であっても、実証された確定事実ではないのだからである。)当人の意識態と行動のあいだに一義必然的な関係があったという保証こそないが、われわれは当人の意識態と行動のあいだには“一定の蓋然的関連性”のあることを“経験則”として知っており、行為を理解・説明するための資料として、行為当事者の意識態を利用することができる。この故に、われわれとしても「主観的に思念された意味」を積極的に勘案する。だが、併し、行為に際して当事者が現識している範囲だけで以っては、当の行為がなぜおこなわれたのか、なぜその様態・方式でおこなわれたのか、その理由・原因を十全に説明するためには不足である。況んや、行為の“客観的な”意味・意義を説明・評価するためには、当人の「主観的思念」に即するだけでは決定的に不十分であろう。けだし行為理論にとっては、行為現成の規定要因になっておりながら当事者のその場の直接的意識にのぼっていない部面をも配視することが要件をなす所以である。但し、フロイトの謂う狭義の「無意識」(das Unbewußte)の如きを導入して説明せよと言うのではない。当事者がその場では意識化していなかったにせよ、反省的には対自化することが原理的には可能な筈(と学知的見地から思われる範囲)の諸要因、謂うなれば「前意識」(das Vorbewußte)の部面まで配視しなければならない。(但し、フロイトの謂うこれの内実まで直ちに認めようというのでは勿論ない。) ――行為論にとっては、当事者の直接的意識にのぼっていない規定的諸要因をも勘考して当該の行為を説明する必要があるばかりでなく、当事者の自己評価とは別の評価をくだす必要もある。」284-5P
(対話F)「われわれとしては、パーソンズの謂う「目的」(これは前篇第二章第二節で紹介したシュッツの「目的性動機Umzu-Motiv」に庶い)ばかりでなく、動機(シュッツの謂う「真性の理由性動機das echte Weil-Motiv」、但し、「差向けられた役割期待」のごときをもわれわれはこれに含める。が、論点を鮮明にするために言えば、むしろ「原因(「カウサ」のルビ)」)をも“単位行為”の構成要件として挙げねばなるまい。加之、パーソンズの謂う「規範的方向づけ」と併せて“因果的方向づけ”をも挙げねばならない。そしてまた、行為の実現目標と達成目的との区別、のみならず一般に、行為の事実性諸契機と価値性諸契機との二肢的二重性を勘考する配備を採らねばならない。」285P
(対話G)「これまでの行文中でも、ヘーゲル流の用語法を借りて、für es (当事主体の直接的経験意識にとって)およびfür uns (われわれ学知的観察者にとって)という詞を折々に用いてきたのであったが、行為分析の場面にあっては、ヘーゲルの枠から外出(「はみだ」のルビ)しつつ、次のごとき区別と関連においてこれら両次元の視座を構え、以って、当事者の直接的意識態の単なる追認を超える地歩を方法論的に調えることにしようと念う。」285-6P
(対話H−第一に)「第一に、我々第三的な視座から当事者とその環界的(「ウムヴェルトリッヒ」のルビ)情況を状態観察的に描出する準位(für uns Beobachter)。――これは分析与件行為事象の劃定のための要件という域には留まらない。観察的に現認できる行為当事者の諸規定性ならびに「舞台的情景」「道具的条件」「規範的拘束」といった環界的情況をどこまで描出しておくか、これは後段における理論的分析・説明と内容的に関わることであって、単なる挿絵的な情景描写ではない。この描出は、頭初に纏めて置かれるか分析的討究の途次で追録されるかは別として、ともあれ行為事象の具体的な分析に際しては、方法論的な自覚と見通しをもって配意さるべき一要件である。」286P
(対話I−第二に)「第二に、当事主体が思念している相を登記する準位(für es)。――当事者は一人であるとは限らない。特に問題になるのが、当事者たちが共互的(mit-einander)に関わり合っている場合である。このさいには、当事者たちにおける向自・向他的な意識態を分別的に記述することも必要とされる。」286P
(対話J−第三に)「第三に、我々省察知の見地から当事者の営為を分析的・解釈的に規定する準位(für uns Analytiker)。――この準位から嚮の第二準位を把え返すとき、そこで一括してフェア・エスとされていたものは、(イ)当事者自身は明識していないが、我々が扮技的に記述する限りでは、当事者が已に即自的には然(「そ」のルビ)う意識していると指称できる場合(つまりan sichな場合)、(ロ)我々の見地からは別様に乃至はより立入って規定してしかるべきところであるが、ともあれ当事者自身は斯く斯くとして対自的に現識している場合(つまりfür sichな場合)、(ハ)当事者自身の現識的規定が我々の対象準位(「オヴジェクト・レヴェル」のルビ)的認知規定態と合致する水準になっている場合(つまりan und für sichな場合)、に区分される。要言すれは、für esはfür unsな規定から区分するとき、(イ)即自的(an sich)、(ロ)対自的(für sich)、(ハ)即自且対自的(an und für sich)に下位区分される。」286-7P
(小さなポイントの但し書き)「右にはとりあえず、事実性と価値性との二肢的二重性に分入ることなく、もっぱら誰の見地からの規定態であるかのみの区別に即したのであるが、後論の論脈内で事実性と価値性との二重性に即して方法論的配備をより具体的に述べる予定である。/亦、右の形式的な立言では「我々」殊に第三準位での学知なるものを当事者の直接的な意識と区別するに止めているが、実際には、“学知”を自称する者どうしの見解の対立・対質が生じうる。「我々」としては、当事者的意識態の批判的討究ばかりでなく、“学知”的見解の批判的検討をも折々に必要とする。――「我々」なるものが、固定的・絶対的な高位に自足的に立っているわけでなく、弁証法的=対話的(「ディアレクティッシュ」のルビ)に準位を高めて行くものであること、この件その他、弁証法的体型構成法に関わる主題的な拙論については別著『弁証法の論理』の参看を求め、爰では詳説は省く。/尚、本書では、叙述を徒為に煩雑化することなきよう、混淆の惧れのない場面では、どの準位の規定であるかを逐一的には記さない便法を採りたいと念う。表現技術上、この措置を執ることをも事前に諒承いただきたい。」287P
(対話K)「爰本節はまだ具体的な行為現象の実質的な分析に立入る場所ではない。右で陳べた方法論的留意事項を記銘しつつ、まずは実践論の構図を隈取っておくことが当面の課題である。――この課題に暫定的に応える途次、旧来の行為観のパラダイムとの対質をも幾つかの論点で絡める運びとなるであろう。」287P
第二段落――実践論の構図を隈取っておく−行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措という構制を呈すること 287-93P
(対話@)「偖、行為事象は、我々観察者の視界において恒に、一定環境の内部における一定当体の挙措(「フェアハルテン」のルビ)という構制を呈する。そして、この構図は、当体が能知的主体である場合、当の主体にとって(für esに)も、形式的には妥当する。但し、観察者にとっての規定と当事者にとっての規定とは、構図的・形式的には同じく「環境−当体」の図柄を呈するにしても、範囲的にも内実的にもおよそ別様でありうる。環境が舞台的情況として、亦、当体が能為的主体として、それぞれ認知される場合であっても、右の事情には変りない。」287-8P
(対話A)「行為的当事主体の視座すらするとき(これは我々の見地からも差当たり追認することができるのだが)、行為的事象は、前節に謂う「客体−用具−主体」という三体図式を基底(「ベース」のルビ)にして式述することが可能である。――当事者にとって、例えば欲求行動の場合など、「主体→用具→客体」という相で意識されがちだとしても、即自的には已に「客体⇄用具⇄主体」という構制が一般に看られる、と言ってよいであろう。――「客体」は、主体が作らきかける単なる対象ではなく、主体的活動性を誘起・機縁づけるものでもあり、主体的活動性の在り方を制約するものでもある。「用具」は、主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へと作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある。「主体」は、客体および用具との関係で右に述べたところに含まれている通り、客体に作らきかけるばかりでなく客体に作らきかけられもするもの、且つ亦、用具を制御するだけでなく用具に制約もされてもいるのである。」288P
(対話B)「ところで、前節の行文中においては、謂う所の三体図式における「客体」をいわゆる事物的存在体に限局するかのごとき論述を事としたのであったが、それは当事者的意識の追認というよりむしろ旧套的パラダイムを暫定的に擦(「なぞ」のルビ)りつつ内在的に止揚する伏線だったのであって、「客体⇄用具⇄主体」における「客体」は何も事物的存在体に限局さるべき謂われはない。「客体」は、主体が(用具を介して)それに変化を生ぜしめるもの、ないし/および、主体がそれに縁って変化を生ぜしめられるもの、この要件を充たすものを全般に拡充されうる。今や客体は知覚的対象物には限らず、表象された対象やいわゆる志向的対象をも含みうる。それは人物他者でもありうるし、いわゆる自身の肉体をすら含んで差支えない。――前節での三体図式において「用具」と呼んだものについても、今や規定を新たにすることが望まれる。前節では事物的客体に限局する風情であったため、「用具」も伸・縮相における肉体という言い方に止めたのであった。だが、用具とは「主体がそれを通じて客体へと作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて主体へ作らきかける中介体であるばかりでなく、客体がそれを通じて作らきかける中介体でもあり、客体的変化をもたらす要因であり且つ主体的活動を制約する要因でもある」とすれば、それは肉体的・物体的(「ケルパーリッヒ」のルビ)な存在体に限局されるには及ばない。それは「環境−主体」系から能為的「主体」項ならびに「客体」項を括り出した“残余”全域にまで拡がって定在しうる。」288-9P
(対話C)「爰において、「客体⇄用具⇄主体」という図式は、夫々の内自的な特性に拠って截断される三体を結ぶ図式というより、機能性に即して分節される三項関係の図式として把え返される所以となる。――「事物的客体−肉体的用具−精神的主体」という図式は、今では拡充・再措定された「客体⇄用具⇄主体」の特殊的ケースとして位置づけられる。また、この拡充・再措定された特殊的一ケースとして「目標−手段−能為」という図式を分出的に措定することができる。翻っては亦、客体が他者(単なる肉体的存在物というより主体的存在者)である場合、「客体⇄用具⇄主体」図式の特殊的ケースとして、「相手−配備−自分」という図式を分出できる構制になっている。――以下では、爰に再措定された「客体−用具−主体」図式を必要に応じて「対象−用財−主体」図式と標記することにしよう。」289P
(対話D)「偖、右に措定し直した「客体−用具−主体」図式、すなわち「対象−用財−主体」図式は、行為に際して、当事者自身にとっても現識されている構制である。(当事者の現識相と我々学知的分析者の規定相とは勿論そのまま重なるわけではない。が、構図的・形式的には我々も「対象−用財−主体」図式を“追認”しうる。)」289P
(対話E)「当事者にとって、「対象」とは、さしあたり、それにおいて所期の変化(生・滅[現実化・無在化] /変様/移動)が体現されるところのものである。「用財」とは、それを主体が用益して対象的変化をもたらすところのものである。一往このように言えるかもしれない。だが、当事者自身いちはやく、謂うなれば逆のヴェクトルにおける次のことを対自化する。「対象」は主体的活動性を誘発・機縁づけるものでもあること、「用財」は対象的変化の在り方をも主体的活動の在り方をも制約するものであること、「主体」はその活動性を対象によって誘発され且つ用財によって制約されるものでもあること、すなわちこれである。(繰り返し誌してきたとおり、著者は認識(「エルケンネン」のルビ)と呼ばれるものをも行為の一形態であると見做し、広義の実践に算入する者であるが、本巻においては、認識という行為形態については主題的には立入らないことにし、実践の構造内的一契機をなすかぎりでの認識を配視するに止める。この段あらためて諒承いただきたい。)」289-90P
(対話F)「茲に「用財」は極めて広袤の大なるものとなる。当事主体はその一部分しか現識していないにせよ、我々の学知的分析の見地からは、それは、(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的・規範的な準則、(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態を包摂する。――当事主体は、環境的条件をも用益しつつ、道具を肉体で以って一定の方式に由り、意識内の“設計図”や“地図”をも参酌しながら使用することで、目標状景を実現する(という仕方で対象的変化を現成せしめる。)」290P
(対話G)「尤も、前記(4) の一部をなす規範的準則および(5)の企投的・嚮導的意識態は、主体(精神的エージェント)に内在化させ、主体的活動に算入する見方もありうる。当事者の自家了解はむしろこの形に近いかもしれない。この線で立てられる理説も現にある。」290P
(対話H)「旧来の行為論においては、とかく「主体→用財→対象」というヴェクトルに主眼が置かれ、「対象→用財→主体」という逆向きのヴェクトルはたかだか認識面での副次的な意義しか認められていない傾向があり、そのためもあって、「対象」項が志向的目標ということでしか把えられない憾みもあった。そこにあっては、われわれの嚮に謂う「対象」は、むしろ、環境的与件の一部分ということにされ易い。――というのはこうである。論者たちによれば、外在的対象物は、たかだかそこにおいて“目的”が実現される“場所”たるにすぎない。勿論、論者たちも、対象物の客観的実在性を否認するわけでなく、それが空無的場所だと言うのではない。それが物理的な実質性を具えた存在体であることは承知している。が、論者たちは、「行為論的にみて肝要なのは“目的”(という主観内部的に思い泛かべられた観念)の実現、言い換えれば、当初は(頭の中にあって)現実的にはまだ存在しなかった状態の実現である」と主張する。この実現に際しては、なるほど、移動であれ変様であれ生滅であれ、外在的対象に一定の変化が生じるには違いない。がしかし、肝心なことは変化実現の以前には現実的には未在であった状態の新規的出現・現実化なのであり、この“目的の実現”にとって外在的対象は“場所”たるにすぎず、実質的にはむしろ、“目的の実現”にとっての“手段”と呼ぶほうが相応しい、云々。論者たちはこのように考える次第なのである。――という次第で、論者たちは“目的実現の場所”ということでミニマムの“対象”項を残し、そのかぎりで、「主体−用財−対象」という構図は維持するにしても、対象的実質は“目的実現のための一手段”として、“環境的与件の一部分”と見做す所以となる。」290-1P
(対話I)「論者たちは茲に、実態的には「目標−手段−能為」という図式を立て、謂う所の“手段”として、前記の(1)舞台的環境条件、(2)道具的使用財、(3)肉体的活動、(4)技術的準則、等を考え、前記の(5)いわゆる企投的・嚮導的意識態は“主体”に内属させる。――嚮に紹介した初期パーソンズの「単位行為」は、「行為者(目的を表象し規範的に方向づける自我) −状況(道具的手段および環境的条件) −目的(未来的事態)」という構制、つまり、右に謂う「能為−手段−目標」という図式に近い構制になっていると言えよう。これは何も特殊パーソンズ的というわけでなく、旧来の単位行為観に、かなり弘く見られるもののように見受けられる。――ここにあっては、「能為的主体が志向目的を一定手段を用いて対象的に実現する」ということが「単位行為」の本諦であるとされる。」291-2P
(対話J)「日常人は行為を恒に必ずしも右の理説の構図で了解しているわけではないように思われる。が、少なくとも或る種の行為に関してはこの構図で了解していることも確かであろう。――この限りで、右の理説の構制に今少しく関説しておかねばなるまい。」292P
(対話K)「一定の目的を志向し、一定の手段をしかるべき仕方で用益することで、主体が所期の目的を達成する、という構制の行為を「目的達成型」と呼ぶことにしよう。目的は一定の状態(企投の時点では未来完了的な一状態)において体現される。当の状態は、企投に際して、目標的状景として表象・予象(「フォル・シュテレン」のルビ)される。謂う所の状態(目的がそれにおいて体現されるところの状態)は嚮にみた意味で“場所的対象”とも謂われうる。そして、目標的状景は必ずしも“絵画的”に表象される必要はなく、内語的叙示態の相でしか意識されない場合もありうる。が、明晰判明な画像的表象の相においてではなくとも、ともあれ目標的状景が企投に際して意識され、所期の目的は一定の実現目標状態に体現されることで達成される。目的という価値は、実現目標という事実性に担われているのである。(目的価値を担う当の事実的状態は、同時に、欲求的/当為的/評価的/等々の価値をも担いうる。)目標実現のために利用される用財(行為舞台的環境条件、道具的手段、肉体的活動、技術・技倆的方式、等々)は、目的価値達成の手段として手段的価値性を帯びるのであって、これまた単なる実在でなくして財態である。そして、能為的主体も、目的価値を志向し目的価値を達成すべく活動する主体として、この一事だけからしても、単なる実在的活動体ではなく、価値性を帯びた主体、財態的主体である。(行為は、目的企投の在り方に関しても、手段選択の在り方に関しても、行為遂行の在り方に関しても、所業的結果に関しても……、諸々の価値的評価の与件となる。が、この件については後論まで持越すことにして、今爰では、行為の価値性・事実性という問題は、目的性価値および手段性価値に限ってのみ配視するに止めておく。)」292-3P
(対話L)「われわれの看るところ、行為はその全てが対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に目的達成型になっているというわけではないが、即自的には(つまり、我々の学的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっている、と言うことができる。――いわゆる反射的行動のごときは措くとしても、ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあり、ブルデューの謂うハビトゥスに基くプラティックのごときもある。フェア・エスには、ウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥス的行為が大部分であるように見受けられる。従って、フェア・エスには、ウェーバーの謂う目的合理的行為が行為の大半を占めるなどとは言えないばかりでなく、目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにもいかない。このことの銘記を要する。だが、アン・ジッヒには殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言えること、これは容易に認められうるであろうと信じる。――フェア・ウンスには、しかも、「目標→手段→能為」というヴェクトルも現認できる。俗に、“目的(目標)実現関係においては、因果的作動関係とは逆で、目的(目標)の側からの作らきかけで謂うなれば招き寄せられる”という言い方がなされる事情にそれは見合う。総じて、少なくともフェア・ウンスには「目標⇄手段⇄能為」という構制が殆んど全ての人間行為において看られる次第である。」293P
第三段落――「目的達成型」という構制と「役割行為」との関連 293-9P
(対話@)「ところで、翻って顧みるに、われわれは前篇において、人間の行為というものは殆んど全てが「役割行為」として営なまれている旨を論定していたのであった。では、「目的達成型」という構制と「役割行為」とは如何なる関連にあるのか?」293P
(対話A)「われわれはいま、「対象⇄用在⇄主体」という措定図式や「目標⇄手段⇄能為」という目的達成型の範式から“演繹的”“変形的”に「役割行為」を“導出”してみせる必要はない。そのつもりもない。がしかし、「相手⇄配備⇄自分」という役割行為型を、目的達成型のヴァリアントとして、溯っては亦、「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊な一形態として、位置づけて示すことはできる。」293-4P
(対話B)「嚮に謂う「対象」(“場所的対象=対象的場所”)が人物の場合もあること、また、目標的状態が人物の所動的状態である場合のみならず、相手人物の主体的所業である場合もありうること、このことは容易に認められよう。相手にしかじかの所業的行為を体現せしめることが目標であり、能為的主体たる自分が一定の手段を用いて当の所期目的を達成する場合、「目標−手段−能為」という構制が「相手−配備−自分」という特殊形態にあることになる。ここにあっては、少なくともフェア・ウンスには、ヘーゲルの謂う「力の遊戯」の構制が見られるのであって、俗な言い方をすれば、“誘惑者は誘惑すべく誘惑されており、被誘惑者は誘惑されるべく誘惑している”構制が看られる。つまり「相手⇄配備⇄自分」という構制になっており、溯っては、これは「対象⇄用財⇄主体」図式の特殊的一定在形式にほかならないのである。」294P
(対話C)「役割行為なるものは、しかし、相手の期待に応えて自分が役割行動を遂行する場合であってさえ、行為対象は恒に必ず当の本人とは限らず、亦、行為目標は恒に必ず相手本人の所業とも限らない。――なるほど、例えば、会話とか、物品の授受とか、行為の目標的対象が相手本人の場合もありはする。これが役割的行為の原基的形態かもしれない。(精確には、原基的形態は、会話とか授受とかでなく、直截な対抗的即応行為であるが、今言いたかったのは、相手人物が自分の側での行為の目標的対象である場合が役割的行為の原基形態であるということである。)われわれは前篇においては事実上この形態での役割行為だけを視野に入れるに止った。だが、実は、これでは視野が狭すぎる。現実の役割行為には、目標的対象が第三者(事物的存在者または/および人物的存在者)の場合が現にある。――相手に期待されている自分の行為が、或る事物的対象に一定の変化を惹き起こすことであったり、或る第三者に一定の行為を遂行させることであったり、要するに目標的対象が第三の存在者である場合がある。自分の期待する相手の役割行為が、同様に亦、第三の存在者を目標的対象とする場合もある。」294-5P
(対話D)「このような役割行為の場合、「目標−手段−能為」と如何なる布置関係にあるのか? 「目標−手段−能為」と「相手−配備−自分」との双つが、単なる併存ないし単なる接合の関係にあるのか? ――或る種の論者は、対物行動と対人行動とを行動の基本的二種類とし、両者を両半球的に区分する。また、或る種の論者は、「人−物−人」という三項的関係を行為の基本的構図に見立てたがる。しかしながら、われわれは原理的次元においては、事物と人物との二元的区別を暗黙の大前提とするこれらの論者にそのまま与みするわけにはいかない。アニミズム的世界観を卻けた地平においても、行為の具体的な場面では、いわゆる事物的存在体といえども“能期待者/所期待者”に類する機能を現に屢々演じ、逆に亦、いわゆる人物的存在者といえども単なる事物的対象なみにしか機能しない場合が厳にあるのであって、原理的論議を俟たずしても、論者流の安直な理論構制は採らるべくもない。「人−物−人」という三項図式は、一見、われわれの謂う「相手−配備−自分」という図式の別表現のように見えようとも、実は存在観を異にしており、内実的にはおよそ相別れる。が、今爰では原理的な対質に立及ぶことなくしても、われわれの謂う「配備」は「物」には限局されないこと、この一事を指摘しておけば一往足りるであろう。――「目標−手段−能為」図式は「手段」項に「他者の一定の役割行為」をビルトインした相で存立しうる。反って亦、「相手−配備−自分」図式は「配備」項に(自分または/および相手の)一定の目的達成型の行為をビルトインした相でも存立しうる。こうして、目的達成型と役割行為型とは、単なる並存でも単なる接合でもなく、また、後者が前者の特殊的一形態という枠に納まるのでもなく、謂うなれば互いに他の構造内的契機としてビルトインされる相にありうる。現実の行為は、目的達成行為と呼ばれるものであれ役割遂行行為と呼ばれるものであれ、多少とも立入って分析的に規定すれば、大抵がこのような錯構造を呈する相で現存在する。」295-6P
(小さなポイントの但し書き) 「尤も、「目標−手段−能為」図式と「相手−配備−自分」図式とが“相互嵌入”的な相にあるというとき、両図式とも嚮の暫定的範式よりも内容的規定性が豊かになっている。嚮には、「相手−配備−自分」の原基的形態にあっては、互いに相手当人が目標的対象である旨を述べた。“即物的”には慥かにそう言われうるし、そのかぎりで、この図式を「目標−手段−能為」図式の特殊的形態として、溯っては「対象−用財−主体」図式のヴァリアントとして位置づけることも許されうる。だが、相手をも自分をも「能期待者/所期待者」という“主体的側面”と、「所期的所作態者」という“客体的側面”とに区別して捉えるとき、目標的対象となるのは後者の側面である。このように分析的に捉え返せば、目標的対象が(主体的相手とも主体的自分とも別の)第三者の存在者である場合と述べて嚮に別建てにしたものとの相違性は相対的な差異すぎないことになる。われわれは目標的対象が“相手当人”の場合と“第三者の存在者”の場合の場合との相対的区分を没却する者ではないが、役割行為の主体(人格的主体)と役割的所作とを区別する論脈では、主体としての相手当人が目標的対象なのではないこと、目標的対象は相手の所作という“客体的側面”、このかぎりでの“第三者の存在者”であること、このことを自覚して事に当らねばならない。――「目標−手段−能為」図式における「手段」項についても、それが「伸長せる肉体的用具」に算入されうる場合でさえ、他者の主体的役割行為であるケースを含みうること、今やこのことが銘記される。」296P
(対話E)「「目標−手段−能為」図式に「相手−配備−自分」図式が構造内的契機として嵌入される構制になっていると言うとき、他主体の役割行為が「手段」項の一部としてビルトインされていることを意味するが、そこでは他主体の行為とは言っても、所詮は「能為=自分」にとっての用具的一手段であり、他主体の行為がそれなりの目的達成行為であるにせよ、総体的には「能為=自分」が自分の志向目的を達成するのであって、他主体の行為はあくまで一手段たるにすぎない。ここにあっては、「目標−手段−能為」図式の「自分」項とが重なっていて「相手−配備」の部分が「手段」項の一部分を成すという構図が単位的な枠組みとなる。」296-7P・・・錯分子的構造
(対話F)「逆に、「相手−配備−自分」図式に「目標−手段−能為」図式が構造内的契機として嵌入されているという際には如何? 相手に相手の目標を自分が実現させられる場合、乃至、自分が自分の目標を相手に実現させる場合、いずれにせよ能期待者・使役者たる「自分」項が「能為」項とまず重なる。「配備」項は、さしあたり、「相手」に所期の役割行為をおこなわせる手段的配備であり、相手に一定の役割行動をおこなわせることが自己目的であるとするなら、その場合には「目標−手段」の部分(自分=能為の目標実現行為という部分)が「配備」項の一部分を成すと言える。がしかし、これはなるほど目的達成型の行為が「配備」項の構造内的契機を成しているという規定的豊富化を示すにもせよ、「目標」項は「相手」の反応的所作という“客体的側面”と重なるかぎりで、総じてむしろ「目標−手段−能為」図式の特殊的ケースとしての「相手−配備−自分」図式という埓を実質的には出るものではないと言ったほうがよいであろう。このことを省みるとき、役割行為型に目的達成型が嵌入されている嚮の言い方は、役割行為を促す機制をイラストレイトするものではあれ、事柄の本質的構制にとっては、嵌入とかビルトインとか言うのは相応しくない。そもそも、相手に一定の役割行為をおこなわせることが自己目的というのは実情に合わない。相手に一定の役割行動を期待・使役するのは、高次的目的のための一手段としてであり、所期の達成目的は相手の役割行為自体とは別の所、外部にあるのが現実である。こうして、現実問題として、嵌入ということが現成するのは、目的達成型への役割行為型のビルトインという相においてである。ひとまずはこのように“認め”ておくことができる。(ひとまずはと限定するのは、後に見るように、役割遂行行為が目的達成行為を謂うなれば“包み返す”場合、「主体我々の協働」の場合があるからである。)」297-8P・・・協働論
(対話G)「差当ってのところ、斯くして「実現目標−配備的手段(これに他者の役割行動も含まれておりうる)−能為的自分」という構図が単位的な行為の構制として“確認”される次第となる。(この構図は相手の視座に則しても成り立つ。)」298P
(対話H)「この構制においては、他者なるものがたかだか能為的自分にとっての手段的存在たるにすぎず、他者の主体的活動といえども所作という“客体的側面”において自分にとっての手段的要因として算入されるにすぎない。ここにあっては、他者は能為的主体・人格的主体として認知されてはいても、所詮は手段的存在にとどまる限り、「主体我々」として協働するわけではない。共互的な役割行動がおこなわれるとしても、せいぜい互いに相手の手段と成り合うという域を出ない。(尤も、この“手段”は“自発的能動者”であることにおいてその“手段的価値性”を発揮するのであって、並の手段とは別格であるのだが、手段は所詮手段である。)」298P
(対話I)「惟うに、いわゆる近代的自我主義・利己主義の風潮とも相即するかたちで――今この風潮が支配的(「プリヴァレント」のルビ)になった歴史的・社会的な事情・基盤まで掘下げることなく、表層的な指摘に留めるが――右の構制が人々の日常的行為観の基調をなしており、亦、それを追認する流儀で、学術的な行為論においてもそれが基幹的な構図とされている。そこでは、複数の諸個人の営為から成る社会的行為なるものも、右の構制での単位的行為の集合(単なる並存ではなく、対立・衝突・葛藤をも孕みつつも全体としては何とか“調和的統一性”を呈する集合現象)として把握される。まさに「実現目標−配備的手段−能為的自分」を単位的行為態とする個人主義的パラダイムが鞏固に確立している。」298P
(対話J)「省みれば、われわれ自身、嚮に――人間の行為は「フェア・エスにはウェーバーの謂う伝統的行為、いなむしろ、ハビトゥスな行為が大部分であり、……目的合理的行為を以ってフェア・ジッヒな行為の“特権的”な範型とするわけにはいかない」という但書きを添えつつも――「即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には(つまり、我々の学知的見地からすれば)殆んど全ての行為が目的達成型の構制になっていると言うことができる」と記したのであった。だが、この命題は、われわれの場合、人間の行為というものは(闇雲におこなわれるのではなく)大抵が少なくとも即自的にはその都度一定の目的を達成する構制になっているということを取敢えず確認するだけのものであって、個人主義的・利己主義的な含意に関しては中性的である。――他人の行為(当方の期待・要請に応えての役割行動をも含む)が自分の目的達成行為にビルトインされている事態について、他人の行為を「単なる手段として利用している」と観る場合と、「協力的恩恵を忝(かたじけなう)している」と観る場合とが相岐れうる。なるほど、協力的恩恵などと言っても、相手が打算的に報酬や恩顧を期待して協力するにすぎない場合には、相手は当方を単なる手段として遇している域を出ず、真の主体的協力の名に値しないであろう。このような場合には、協力という名を冠してみたところで、所詮は利己主義的な手段的利用の埓内にある。だが、互いに手段的に機能しつつも猶且つ「真の協力」と認めうる場合も厳にある。真の主体的協働の場合がそれである。」298-9P
第四段落――主体我々の形成−協働論 299-303P
(対話@)「目的達成型の行為という範式の枠内にあっても、複数の主体が共同の目的を志向して協働的に役割行動を遂行する場合、当の複数主体は、各々他主体の所作を目的達成の手段として機能せしめつつも「我々」として目的達成行為を営なむ。ここでは、協働者は、銘々他人にとっての単なる手段ではなく、各々主体であり、主体我々を形成する。(強いて言いたければ、行為者は“客体的側面”において他主体にとっての手段、“主体的側面”において他主体にとっても主体、と一応言ってもよい。がしかし、両側面を分断することは実質的にはナンセンスである。というのも、主体的活動であることにおいて手段的な機能性が客体的に発揮されるのであり、また客体的所作ぬきの単なる精神的活動では行為主体ではないのだからである。ここでの論脈において「単なる手段的存在」と「主体我々の片割れとしての主体的存在」とを別かつのは、“客体的側面”と“主体的側面”との振分けではなくして、志向目的の“主体的側面”のフェア・ジッヒな共同性・共有性の存否である。)」299-300P
(対話A)「志向目的の共有、主体我々としての協働は、日常茶飯に見られるところであり、打算的他者利用に際してすら部分的現象としてなら存立しうる。共互的役割行動の現成が(高次目的は別にあるとしても)暫定的目的である場合、例えば格闘技や敵対的ゲームのごときであってさえ、また会話のごときであってさえ、主体的協働たりうる。打算的な授受・取引行為のごときでも、授受・取引の成立が当面の暫定的共同目的である限り、その局部的共同行為は主体的協働であると言える。」300P
(対話B)「主体我々の協働的役割行為という事態においては、役割行為型の範型に目的達成型がビルトインされる構図になるという言い方もできる。が、ここでは絮言は省くことにしよう。」300P
(対話C)「尚、「協働」というとき、自覚的に目的を共有して営なまれるものだけでなく、当人たちはそれと自覚していなくともフェア・ウンスには看取される即自的な協働をも視野に入れて論考する必要がある。この件については、しかし、次章以下の論脈内で論じることにして、爰では次のことに留意を求めるに止めておく。」300P
(対話D)「人間の営為というものは、一見したところでは、孤独な、当人だけの目的達成行動であるように見える場合であっても、フェア・ウンスには、協働の一局部の担掌、他者たちとの即自的な協働である場合が多い。いや、それどころの話ではない。人間の行為は悉く一種の協働であるとすら言うことができる。――役所や企業など組織体における各人の業務行為は協働的営為の担掌であり、例えば、一人の事務員が孤独に従事しているデスクワークでも組織体としての事業の分業的協働の一齣である。個々人はその都度の仕事の目的を志向して行為するにしても、その目的たるや、それ自身としては、つまり組織体の事業目的から切離されて単独には、殆んど無価値であり、組織体(いきなりその全体とは言わぬまでも、部なり課なりといった直接的な協働単位)の目的にとっての手段的部分目的としてのみ意義をもつ。もしそれが組織体の事業目的にとっての手段的な部分目的として課せられるのでなかったら、当人はおよそ当の目的を志向することはないであろうし、以って当の目的達成行為は企投もされず、況してや、遂行されることもないであろう。当の企投。遂行が存在するのは、協働の一齣たることにおいてのみであり、仍ち、当の行為にとって協働が存在条件をなしているのである。別の例をとって、一人の農夫が孤独に畑を鍬で耕しているような場合には如何? 彼はなるほど、協業(=co-operation協同作業)という仕方での協働作業を営なむわけではない。耕すことが最終目的ではなく、それはさしあたり。播種・育成・収穫という高次目的にとっての手段的な中間目的にすぎないにしても、その高次目的とてまずは彼個人の目的であると言える。このような点で、慥かに、嚮の協業的部署の担掌者の場合と同列には語れない。だがしかし、直接的な共演者こそ欠くにせよ、この例のケースにあってもまた、本質的な構制では、やはり一種の協働の構制になっている。農夫は素手で耕すのではなく、鍬を用いて(謂うなれば“鍬の力を借りて”“鍬の助力で”“鍬と協力して”!)耕す。が、この鍬たるや彼自身で製作してものではなく他人の製作物である。彼は鍬を用いることにおいて、鍬の製作者たる他人の“助力”“協力”を得ているのであり、ここには間接的協働の構制が見られる。彼が耕すのは、未開の荒野ではなく、畑である。この畑たるや彼自身の開墾したものではなく、先祖他人の“製作物”である。畑の耕作は荒地の開発とは別種の行為であって、畑を耕すという彼の行為は、謂うなれば開拓者たる他人の助力・協力を仰いでおり、こうして労働対象に即してもやはり一種の間接的協働の構制が認められる。更に言えば、耕作の仕方、労働の技術的方式、これも彼自身が案出したものではなく、先祖からの伝承であれ、同時代人に教えられたものであれ、ともあれ他人から学んだものである。もしそれを学んでいなかったら彼の労働方式・行為の在り方は別様になったであろう。ことによると不可能かもしれない。彼が現に見る仕方で耕作するのは、この意味において“他人たちの助力・協力”の下においてなのであり、労働の方式に関してもやはり間接的協働の構制になっている次第である。溯って言えば、そもそも耕作という目的志向、この目的の志向・企投ということからして、彼がもし孤絶に育ったならば生じるべくもなかった筈である。農耕なるものの存在を学び以って耕作という目的を投企することが可能になっている場面で既に、一種の協働の構制が存立している。総ずるに、こうして、いわゆる孤独的行為にあってすら、行為目的の企投、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも孤独的主体の自閉的・自足的な事柄ではなく、一種の協働・担掌の構制を示す。翻って、間主観的組織体の成員として自覚的な共演的協業をな営んでいる主体にあっても、顕在的協業の成立条件として、右の農夫に類する潜在的な間接的協働の構制に支えられている。――舞台情況、企投目的、行為対象、行為手段、行為方法、いずれも先人をも含めた他人たちの協働的所産であり、惟えば行為主体の如実の在り方すら協働的所産なのであって、行為というものはその都度すでに一種の協働の構制で存在する。」300-2P
(対話E)「われわれは、顕在的・対自的な協働と潜在的・即自的な協働とを区別し、依って両者を顚から同列に遇するごとき愚は犯さないが、行為というものは、一見孤独的主体の自足的な目的達成活動として単位的な完結性を示すかのように見える場合であってすら、協働的連関態の反照的一結節であるということ、このことを現認して実践理論の構図を立てる。」302P・・・協働ということを通した世界観・人間観の基底的なとらえ方、ここから未来の社会のあり方が導かれを
(小さなポイントの但し書き) 「先廻りになるが、マルクスも指摘した通り、「社会は諸個人から成り立っている[単なる集団な]のではない。さりとて社会なるものが諸個人[実体的に]独立自存するわけでもない。社会と人々の関わり合い(Beziehungen)、関係行為(Verhältnisse)そのものである」。――このさい、関係行為なるものが独立自存するものではないこと附言するまでもないことであって、行為主体、舞台的・道具的な条件、技術的・規範的な行為様式、これらの機能的連関態として謂う所の関係行為・行為関係が現存する。――社会というこの関係行為の一総体は、A・スミスに倣って「分業体系」と観ることも、M・ヘスに倣って「協働体系」と観ることもできる。labour,Wirkungという概念を「行為」一般の広義に解する限り、われわれとしてはいずれの射影相で捉えても差支えない。/分業体系というとき、いわゆる作業内的分業と総社会的分業とが区別されるが、前者は顕在的協働の編制を示し、後者は潜在的協働の編制を示す。(但し、先に指摘したように、前者においても潜在的・即自的な分業的協働が支えになっている。)――社会的分業ということで言えば、上例の農夫のごときいわゆる独立自営業者であっても、現実には自給自足しているわけではなく、鍬を交換(贈答をも含む)によって入手するのであり、そのためには自家作物を交換(すなわち他人の使用)に供するのであって、商品経済社会であれ贈与交換社会であれ、彼の労働・生産物は他人の労働・生産物と相互補完的な関係にある。この意味での分業的協働として、それは、対自的な協働でこそないが、嚮に指摘した次元での潜在的な協働とも異なり、“半ば顕在的”な協働になっていると言えよう。――先刻来、協働というとき、例を労働という特殊形態のものに採ってきたが、政治家・法律家・医師・芸術家・宗教家などの行為についても、やはり顕在的協働もあり、少なくとも農夫に類するごとき潜在的な協働の構制が存立すること、分業・協働という構制がおよそありとあらゆる人間行為に関して見出されることは詳述するまでもあるまい。」302-3P
第五段落――次章へのつなぎ−具体的な論考のための前梯を設える 303-8P
(対話@)「今や、以上で陳べてきたところを承けて、実践理論の構図を暫定的に隈取り、次章での稍々具体的な論考のための前梯を設らえる段である。」303P
(対話A)「行為という概念は余りにも広狭多義的に用いられているので、われわれは今爰で厳格な定義的限定を施すつもりはないのだが、大枠的な劃定をまず図っておこう。」303P
(対話B)「「当体的主体が、環境に規制されつつ反って環境内的変化を生ぜしめ、以って、目的を達成する能為的活動」――この提題的描像に内容的規定を賦え錯分節化を施すという手法で劃定を志向することにしたい。」303-4P
(対話C)「右の提題的構図は、第一節で陳べた「環境と当体との分截」の図式と関連づけて言えば、全一的動態を環境と当体という両項に分截し、両項の相互作用的関係を当体の側に視座を構えて把え、環境項からの作用をも当体項の能為的活動の構造内的要因として位置づける構制になっている。それはまた、第二節で陳べた「客体−用具−主体」図式(本節での再措定では「対象−配備−主体」図式)を視角を変えて把え返した構図になっているとも言える。が、爰では“演繹的”“変形的”な導出という手法においてではなく、直截に右の提題を自家解説する捷径を採ろう。」304P
(対話D)「「当体的主体」は、一般論としては全一的動態を環境と当体とに分截した際の当体項であるにしても、当座の行為論の構図においては、まずは行為の当事的主体に限定される。尤も、それは人間個体に限局される必要まではなく、いわゆる法人/集合的人格/超在者のごときであっても、また、人間以外の或る種の動物であっても、それが一定の要件を充たすとき、行為の当体的主体として認められてよい。が、われわれとしては、当体的主体の範型を人間個体とし、これの行為に準(「なぞ」のルビ)らえうるかぎりで、法人/集合的人格/超在や動物などの一定の活動をも行為に算入すべく、それら人間個体以外のものをも、行為の当体的主体と認める。――このさい、範型たる人間個体なるものを、「肉体を具えた精神的エージェント」という相で規定するか、「純然たる精神的エージェント」という相で規定するのか、これが問題になる。行為論を具体的に展開する場面では、実際問題としては具身相での人間主体に即するのが常態となるであろう。しかし、肉体はことごとく用具的な手段ということにして、もっぱら精神的エージェントだけを主体とするのでなければ議論が余り錯綜しすぎる場面もある。そのかぎりで、主体と用具的肉体との分截、ないしはまた、“主体的側面”と“客体的側面”との分截が厳しく必要とされる場面では、「精神的エージェント」、ないしはまた、前章第二節に謂う「人格的主体」を範型的な「当体的主体」として扱うことにしたいと念う。(尚、これは「能為的活動」について後述する折に誌せばよいことではあるが、われわれとしては「精神的エージェント」を勝義の主体的当体として扱うとはいっても、いわゆる“純然たる精神的活動”は、本巻では行為の構造内的契機たるかぎりで配視し、独立の単位的行為としては遇さないことにする。われわれは、いわゆる“純然たる精神的活動”をも、原理的には一種の行為として認めるのに吝かではあってはならないが、本巻では右の措置を採ることを諒とされたい。)」304-5P
(対話E)「「環境」は、一般論としては当体の残余であるから、行為論の構図においては、ひとまず当体的主体を除く総世界と言われうる。原理的には、慥かに総世界が当体的主体の活動を規制し且つそれによって変化せしめられるのであるから、このことが一往は銘記されねばならない。がしかし、行為については具体的に論述する場面では、その都度問題の行為主体の活動の在り方を規制していることが具象的・有意味的に現認される範囲内に限定されて宜(「よ」のルビ)いであろう。尤も、この限定は、当事主体が環境として明識している範囲という謂いでは必ずしもないのであって,殊にフェア・ウンスには、空間的範囲においても内実的においても、文脈如何ではかなりの広範囲に及ぶ。――環境は総体として主体的活動を規制し且つ主体的活動の影響を被るのであるとはいえ、行為の具体的分析に際しては、生起する環境内的変化を、主体的活動による所期的変化と非所期的・非意図的に生じる変化とに区別する必要がある。所期的・目標的変化がそこにおいて体現される環境内局部を「行為対象」と呼ぶことにしよう。しかし、現実問題として、当の所期的変化は別の変化を生ぜしめるための、中間目標にすぎない場合もある。当座の終局的目標を実現するためには、中間目標的変化が必須な構制になっているのが現実である。中間目標的変化であれ、それの体現される環境内局部が行為対象であるには違いないが、当座の終局目標的変化対象と区別して、中間目標的変化の体現体を「手段」と呼ぶことにしたい。茲に、「手段」的変化を介して「対象」的変化がもたらされる(日常的な表現で言えば、“手段を用いて対象への働らきかけがおこなわれ、以って、目標が実現される”)次第となる。ところで、上述の通り、環境は総体として主体的活動を規制するのであり、その一部たる行為対象も活動規制的な要因ではあるのだが、「行為対象(中間目標的な手段的対象を含めて)」が主体的活動によって変化をもたらされる対象という側面に主眼を置いて観られるのにひきかえ、行為対象以外の環境的諸要因は、非意図的変化がそこに生じようとも、主体的活動にとっての規制的要因という側面に主眼を置いて観られる。――環境は、或る種の分析視角では物理的存在と観られうること勿論ではあるが、フェア・エスには、さしあたり、われわれが前篇第一章で述べた用在的世界の総で展らける。が、それは、(イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件に錯分節化して現識されうる。これら錯分節項は、実体的に分立・並存するのではなく、錯合的である。そして、(イ)(ロ)(ハ)のいずれに属するものも、行為の対象ともなりうれば行為の手段ともなりうる。このことを銘したうえで、しかし、規制的環境要因という視角で観れば、J・ギブソンの謂うaffordance(「誘発特性」)、M・ハイデッガーの謂うZuhandenseinに庶い相で展らけていて、当事主体および協演的他者の活動を規制(正/負、すなわち、誘発的/抑止的に規制)するといえよう。これがわれわれの謂う表情価を帯びている財態であることは絮言するまでもない。協演的他者は、これが当事主体と「主体我々」を形成する場合は環境的要因から括り出されるのであるし、当事的相手対象や使役的利用手段に位する場合も別建になるので、それが環境的規制要因として存在するのは即自的協働者としてである。即自的協働者は、当事主体の視界内には現存しない者(例えば原料や道具の製作者など)でもありえ、芝居に譬えて言えば、裏方(道具係や黒衣)、囃方のごときでもありえ、亦、観衆のごときでもありうる。観衆も潜在的な賞・罰者(サンクショナー)として重要な環境的規制要因であることが忘れられてはならない。規範的条件と謂うのは、広義のそれであって、習慣・慣習と呼ばれているものはもとよりのこと、技術的・呪術的な様式的規制と呼ばれているものをも含みうる。或る種の学派などで「準環境」と呼ばれているもの、いわゆる「文化的環境」は、前記(イ)の場面的状況に含めてもよいが、デュルケーム学派の謂う広義のinstitutionやいわゆる文化的形成体は、規範的制約条件として大いに機能する。」305-7P
(対話F)「目的を達成する能為的活動」は、即物的に言えば、環境内的諸条件・諸与件(肉体をも含む)を手段的に利用して所期の対象的変化を実現する活動であるが、ここにおける意識性契機が問題になる。フェア・ウンスに行為と認められるものは、目的達成型の構制を呈するとはいえ。フェア・ジッヒには必ずしも恒に目的志向型の行動が常態というわけではない。M・ウェーバーの謂う感情的行為のごときもあれば、P・ブルデューの謂うたかだかゲーム的感覚に導かれた行為のごときもある。だが、アン・ジッヒには、行為というものは目的達成型の構制になっていると言え、そこでは、舞台環境的諸条件を顧慮しつつ、目標(目的)の企投ならびに手段の撰定という前立的表象的(「フォルシュテレント」のルビ)な意識活動、そして、計画された目標実現行動を決意的に始動・嚮導する意識活動、このような精神的活動の構制が見られる。」307P
(対話G)「行為の展開相のもう少し立入った分析的規定、とりわけ、舞台環境的諸条件の顧慮の在り方、目標企投や手段撰定の意識活動の過程的構造、ならびにまた、各種手段(これには他者の能為的活動も含まれうる)の利用・駆使の方式、これらについての稍々具象的な分析規定は後論において追々試みることにし、爰ではひとまず、以上のコメントを含意させて、嚮の提題的構図を次のように錯図化しておこう。」307P
(対話H)「「当体的主体(人間的個体ないしこれに準ずる単位的主体)が、環境((イ)場面的状況、(ロ)協演的他者、(ハ)規範的条件、等)に規制されつつ反って環境内与件を手段的に利用することで環境内的局所に対象的変化を現成せしめ、この手段利用的対象的変化の実現(目標実現)において目的を達成する能為的活動(舞台環境的諸条件の現認活動、目標企投・手段撰定の前立活動、目標実現的手段行動を始動・嚮導する意識活動)」――斯かる目的達成型構制の心身的活動。」307P
(対話I)「右の錯構図は更に進んだ分析的規定を要するばかりでなく、本来であれば、ここで、目標(目的)企投や手段撰定の「撰択的自由」、および、身体的行動を始動・嚮導する「起動的自由」、すなわち、いわゆる「自由意志」について検討する課題を負う。けだし、果たして「自由意志」「意志の自由」が存在するか、これが哲学的実践論の原理的次元における最大の係争問題をなしてきたのであるからである。決定論/非決定論の対立は、慥かに原理的な対立である。がしかし、行為論の構図的論議の場面では、決定論者といえども、行為主体の当事者意識においては目的志向的な撰択や企投の“自発的自由”があるものと思念されていることを一応は認め、この思念相に即して一旦は論考する。このかぎりで、われわれとしても「意志の自由」の有無、決定論/非決定論の対立、この問題に今爰で直ちに決着をつけることなくしても当座の議論を暫く先へ進めることができる。この故に、この論件については、後論(次々章、終局的には本巻最終章)まで持越す便法を許されたいと念う。」307-8P
(対話J)「爰では、われわれの実践的理論の大枠的構図として――単なる「客体−用具−主体」図式でも「対象−用財−主体」図式でもなく、また、単なる「目標−手段−能為」図式や「相手−配備−自分」図式でもなく――前掲の目的達成型の錯構図を以って、当事主体の視座に即した学知的認定(「フェア・ウンス」のルビ)相での「行為」の基本的な構図に擬することにしよう。――この構図が前篇で論定した四肢的連関態といかなる内面的関係にあるか、これを叙べるためにも、対自的・対他的な役割行為の成立機序、ひいては、即自的・対自的な協働態勢の存立構造を見て行かねばならない。」308P
2025年12月01日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(12)
たわしの読書メモ・・ブログ719[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(12)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第二節 <三体図式> の形成
(この節の問題設定−長い標題)「環境と主体との分截は、その域に止まることなく、軈ては謂う所の「能為的主体」を「肉体」と「精神」との二要因から成るものとして把握せしめる。ここにおいて、さしあたり、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成される。――が、「用具的肉体」は両義的・伸縮的であり、「客体−用具−主体」という三体図式への変容が導かれる。――この図式は、「物質」と「精神」との二元化的截断という錯認と併せて、如実の営為的世界たる能動的所動=所動的能動の渾然一体的な統一態を能動的存在体と所動的存在体との存在的に截断する謬見と相即するものであるが、所謂「主体−客体」図式の現実的形態であり、既成の「実践的世界」観点の構図を劃しているものである。」250-1P
第一段落――「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直す 251-7P
(対話@)「前節の行文中で、能為的主体が外廓部と内核部とに、謂うなれば二重体化した状相で覚識される経緯にも言及し、また、主体が謂わゆる表象像や知覚像を“内蔵”する者として精神的エージェントを内に宿しているとされるに至ることをも陳べておいた。但し、その折りにも一言断書を添えた通り、主体の二重体化は直ちに精神的エージェントの措定を意味するわけではなく、また、表象像や知覚像の内蔵化も実はそのこと自体で直ちに精神的エージェントの内含を意味するものではない。前節では稍々速断的に運んだ憾みのある「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直すことから始めよう。」251P
(対話A)「われわれが今爰に「精神的エージェント」(=「心」)と一括して呼んでいるところの特異な存在体は、それについての見方の細目は文化毎に岐れるにしても、全世界の伝統的諸文化において斉しく“認め”られていると言えよう。「心」なるものが如何なる歴史的経緯で“認め”られ、それが如何なる具象的規定性を帯びるものと見做されるに至っているか、発生史的・形成史的な過程については文化史毎の研究を要するにせよ、爰では「心」の存在が想定される基本的な論理構制、依って亦、日常的意識においてそれが謂うなれば“個体発生的”に再想定される構制を一通り対自化しうれば足る。当面の論脈においては、しかも、能為主体としての構成要件がもっぱらの問題である。」251P
(対話B)「惟うに、「心」は「肉体」とは別種類の性質を有つものと了解されている。同時に、この了解は、肉体とは別個の特異な存在体(これが「心」と名付けられる)が在るという思念と相即する。では、「心」と呼ばれる(肉体とは別個の)ものが存在するという思念は如何なる機縁と理路で形成されるのか?」251P
(対話C)「第一巻第二篇第一章第一節でも陳べたように、対象的一個体の相で看ぜられる「身体」の内部に「心」という特異な存在を“内在”せしめる了解の構えが形成されるのは、基本的にみて、次の四つの脈絡においてであろう。/第一に――生体と死体の区別といった観察的な場面に即した省察や、意志行為の場面での内発的起動者の覚識を機縁にしつつ――身体の内部に能知能動的な或るエージェントが宿っているように思念されること。/第二に――いわゆる(イ)体内感覚、(ロ)感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、――身体の内部に、外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の、格別な所知的与件が内在しているように覚知されること。/第三に――これとは間主体的=間身体的な交渉の場面で対他・対自化されることであるが――身体的存在たる各人の内部に、各自に固有の「内面的世界」が秘匿されているように覚識されること。/第四に――これは直接的に感知されることではなく、知覚をはじめとする認識的事実を説明された案出された想定なのだが――各人の内部に「心像」という内在的与件が存在するものと推論されること。――以上が是である。」251-2P
(対話D)「右のうち、第二・第三・第四については、第一巻において稍々詳しく討究し、また、必要最小限度の論点は前節の行論中で再録しておいた。それゆえ、爰で再論するには及ぶまい。――因みに亦、第二条に謂う「外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の所知的与件」、第三条に謂う「各自に固有の内面的世界」、第四条に謂う「心像という内在的与件」、これらは、なるほど物的現象・物的存在とは異種の心的現象・心的存在と見做されるにしても、しかし、それ自身としては能知的ではなく況してや能動的でもない。しかるに、勝義の「心」なるものは能知・能動性を特質とするものではないのか。しかも、この能知能動的エージェントは、第二・第三・第四条に謂う「内なる与件」を、よしんば悉く定在ごと創り出すものでこそなけれ、尠なくともそれの相在に規制的影響力を及ぼしうるものであり、仍(「すなわ」のルビ)ち、「内なる与件」の具象的現相在にとって“存在条件”をなすものとさえ言えるのでないか。そうだとすれば、愈々、第一条に即した究攻が要諦をなす。」252P
(対話E)「偖、能知性および能動性という両概念は、意識性および起動性という両概念でパラフレーズできるものとすれば、一応独立な両つの概念である。がしかし、「精神的エージェント」は能知的能動性=能動的能知性を特質とするのであって能知性と能動性がここでは一体的である。――人は反問して言うかもしれない。意思行為の場面においては慥かにそうだとしても、知覚的認知などの場合にはむしろ受動的能知と言わるべきではないのか? 一般に、意志は能動的で知覚は受動的とされていることは謂われにしとしない。しかし、われわれの看るところ、アクチュアルな知覚といえども実践的な構えと相即するものであって、単なる受動的能知ではない。知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)もやはり一種の能動的能知である。このことについては論定しえんがためにも、まずはいわゆる意思行為の能知能動性から見ていくのが順当であろう。」253P
(対話F)「人はいわゆる意思行為に際して、目標を表象し、且つ、内発的な起動を裡に感じる。が、このことだけでは、肉体的存在と端的に別種な「心」とかいう格別な内的存在体を措定させるには不十分である。――けだし、表象的情景を“知覚的外界情景(身体をも含む)”と同種(別亜種)の外的存在と見做し、且つ、内発的起動を肉体的現象と見做す余地が残っているからである。――表象したり起動したりする能力(表象能力・起動能力)が肉体とは端的に別種な存在体に帰せられ、以って、表象能力や起動能力を具えた非肉体的エージェントが措定されるためには、肉体それ自身には表象能力や起動能力が具っていないという了解が論理的に先行しなければならない。(人は心なる存在体を直接的な内観によって確認するわけではなく、また、肉体それ自身が表象能力や起動能力を具えていないことを直接的な内観によって現認するわけでもない。)」253P
(対話G)「では、論理構制上の当の先決要求、すなわち、肉体それ自身には表象したり起動したりする能力が具っていないという了解の先行、これはいかなる体験の場で充足・現成されるのか? おそらく、死体に関する観察・接触の経験場面においてであろうと想われる。」253-4P
(対話H)「人はなるほど人間の屍体に接触し観察する機会は稀にしかもたない。が、しかし、動物(鳥・魚・昆虫などをも含む)の死体に触ったり観察したりする機会を子供の時から頻々ともつ。そして、動物が生きているか死んでいるか、早期から直截に判別できるようになっている。(死んでいると思っていたのが実は生きていたという錯認に後で気が付くといった場合もあるが、その場その場では直截に判別されているのが普通である。)生きている/死んでいるの判別は、言うも愚かながら、生命なるものの存否の現認といった仕方でおこなわれるのではなく、自動的に動くかどうか、反応の具合はどうであるか……といった具体的な徴候に即して直覚的におこなわれる。そこでの判別徴表を学理的に整理し把えれば、詮(「つ」のルビ)まるところ、起動性および意識性ということになろう。(起動性ということなら湧水や川水のごときにも認められるし、文化によっては、泉や川にも意識性が認められているケースもあるかもしれない。また、文化によっては、昆虫などには起動性は認めても意識性は認めないかもしれない。が、これらのことは、単なる「生命」以上の「心」に関わるわれわれの論点には響かないことを後論がおのずと示すであろう。因みに亦、アミニズムが支配的な所では、万有が起動的と意識性を具えたアニマを宿しうる。が、ここにあっても或る個物にアニマが現住している状態と一時的に不在化している状態との区別があるとされるかぎり、やはりわれわれの後論には響かない。)生きている/死んでいるの判別徴表は、さしあたり、内発的起動性であると言える。熟眠体や失神体は、覚醒体と内発的起動性反応が大違いであるが、心搏・脈動・呼吸といった内発的起動性を有つており、意識性は帰属されなくとも生命体であることは認められる。文化によっては、広義の「心」を、没意識的な起動的エージェント(植物霊魂とか、臓器毎の魄とか)意識性を兼備せる起動的エージェントの二亜種に分け、しかもそれらを別々の実体だと見做すケースもある。この見地を採るときには、生命体は即ち第一亜種の「心」宿していることになる。――生きている人間は(そして恐らく尠なくとも獣類も)、それとの間主体的な応接の場面での反応の在り方に徴して、知覚・情動・表象の帰属する主体として、つまり意識性を具えている主体として、他者認知される。それはまた、それらの眼や手足の動く運動体として観察されるとか、押せば押し返してくる反応体として覚知されるとか、このような域を超えて、また、対抗的/模倣的な行動や役割期待に応えた行動をすることが現認されるという域をも超えて、前章の第三節中で叙べた意図的に役割期待を裏切る可能性を有つ主体としても意識されるのであって、畢竟するに内発的起動性を具えた主体として認知される。茲において、人間というものは意識性を兼備せる起動的存在者として了解される。(意識性を伴う起動性という想念が成立するにはいわゆる“自身に即した内省”が存在条件をなすであろう。が、それは、前篇の第二章第一節でみたあのg男がスッパサを“他身”の個所で感じるための成立条件として“自身に即した体験”の先行を要するのと類比的な構制においてのことである。意識性を伴う起動性が“他身の内”に覚知されるのは、自覚的な投入とか意識的な類推とかによってではない。機縁こそあれ、さしあたってはむしろ直截な覚知が現成する。)しかしながら、このことだけでは、つまり、意識性を伴う起動的なエージェントが内属するという了解だけでは、上述の通り、それが肉体とは端的に別種の存在体であると見做されるには及ばない。」254-5P
(対話I)「それでは、ここから進んで、内発的ないし/および意識的エージェントが、肉体とは端的に別種の存在体であると了解されるに及ぶのは如何なる経緯があってのことであるのか?」255P
(対話J)「まさに生体と死体との区別の自家了解を機縁にしてのことであろう。死体は全くの惰性体であることで、生体とは大違いである。死体は「内発的起動能力を欠いて」おり、可動的でこそあれ。それは「単なる受動的所動体」たるにすぎない。内発的起動性ないし/および意識性の有無、これ以外には生体と死体との相違は“存在しない”と認定される。(死体の硬直性は起動の欠如に因るものと了解され、死体の腐乱的崩壊は起動的統轄力の欠如に因るものと了解されえよう。)茲において、生体と死体との共通体を「肉体(「ソーマ」のルビ)」と呼ぶとすれば、「生体」は「肉体プラス内発的起動性ないし/および意識性を具えたエージェント」ということになる。――「肉体(「ソーマ」のルビ)」は万有(からアニマを抜き去ったもの)と斉しく惰性体であり、いわゆる無生物とも同種の「物体(「ソーマ」のルビ)」である。――此処で謂う所の「内発的起動性ないし/および意識性を具えているエージェント」を「心」と総称し、そのうち、唯単に「内発的起動性」を具えているだけのものを「第一亞種の心」と呼び、「内発的起動性および意識性」を兼備しているものを「第二亞種の心」と呼ぶことにしたいのだが、総じてこの「心」なるものは、惰性体ではないこと(非惰性体であること)において非物体的であり、以って「心」は「肉体(物体)」とは別種の存在体である。(「心」とりわけ第二亜種のそれ、すなわち、意識的かつ起動的なエージェントは、多くの文化において、所謂「霊魂」として肉体から遊離しても独立自存しうる実体であると考えられている。しかも、その「霊魂」たるや、生体と同型とされたり、軽くはあるが重さが全然ないわけではないとされたりもする。ここで人がもし、延長性や質量性ということを物体的存在の本質的徴表とするのであれば、霊魂は一種の物体的存在だということになるであろう。また、機動能力という力なるものは一種の物質的存在であるという見方をするならば、第一亜種の心は一種の物質的存在だということになる。しかし、このような近代科学流の見方は、“能為的主体は「心」を宿している”という思念の形成を份技する場面ではひとまず棚上げにしておくことが許されよう。近代科学流の考えを詰めて行けば、そもそも「心」なるものの存在そのことが否認されることは今諍(あらそ)わぬことにする。伝統的諸文化においては、形状をもつとか一定の重さをもつとかいうことは、決して物体的存在の排他的・判別的な特質とされていたわけではなく、亦、力なるものは総じて非物質的=霊的な存在であるとされていたのであること、このことにこそ思いを致すべきであろう。――われわれは素より伝統的な霊魂観の流儀で「心」なる実体を認める者ではありえない。が、近代科学流の流儀で物質一元論に自足する者でもない。この件については、本巻の最終章内で論ずる折りまで持越すことにし、以下暫くは“日常的思念”に即した行為主体観・行為観の問題構制を見定める作業に従事しておくのが順路であろうと思う。)」255-7P
(対話K)「大略叙上の理路において、能為的主体という生きている人間には、「内発的起動性を具えた非肉体的エージェント」が宿っており、覚醒時には「意識性を具えた起動的エージェント」(第二亜種の「心」)という「肉体(物体)」とは端的に別種の存在体が内属しているものと思念されるに至っている。(われわれとしては、「第一亜種の心」を以下では単なる「生命」と呼び、第二亜種のそれのみを「心」と呼ぶことにしたい。尚、この「心」が非物体的=非物質的=精神的存在と見做される機制や理路については第一巻第二篇での詳説をも参照されたい。)」257P
第二段落――「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係を規定し返し、実践論的視角において当の三項的関係を問題にする 257-60P
(対話@)「能為主体が「肉体プラス心」として、視角を変えて言い換えれば、非肉体的(非物体的=精神的)な「心」というエージェントを身体中に宿している存在体として観ぜられることにおいて、「肉体(および物的外界)」と「心」とが存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断される。とはいえ、この存在的截断は「心」と「肉体」とを無関係な二つのものと見做す謂いではない。今や「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係が規定し返される。――この三項的関係は認識事実学の視角においても大問題であるが、これについては第一巻で一通り論考を済ませているので(本巻でも最終章において新たな準位で討究し直す予定)、爰では実践論的視角において当の三項的関係を問題にしておこう。」257P
(対話A)「まずは「心」と「肉体」との関係が論件である。――能為的主体は前篇第三章第二節でみた経緯で人格的各私性を有つものと了解され、且つ亦、前節でみた経緯で各私的“心像”を内属せしめているものと了解されている。この既成的思念を爰では前提として議論を進めて行きたい。(この既成的了解・思念の抜本的再検討は本巻最終章まで俟たれねばならない。)」257P
(対話B)「日常的既成観念では、「心」は起動的作用を直接「肉体」に及ぼす。――人々は、起動的作用の発現の機序についても影響の機序についても、問い返されると返答・説明に困憊(「こんぱい」のルビ)することであろう。われわれの看るところ、ここでは、生身の身体的主体が“内発的起動力”を発揮して対象物駆動的影響を“及ぼす”日常的体験の構構制が、そっくりそのままスライドされて、“内なる小人”とも謂うべき“心”とやらに内自化されるに至っているというのが事の次第であるように見受けられる。が、ここはまだ問詰める場ではない。暫く既成観念の線を辿ろう。――異能者は念力で対象的外物を直接に動かしたり、テレパシーで直接に他人の心を動かしたりもしうるが、それはあくまで異能者の特例的超能力であって、一般人の心は直接的には自分の肉体にしか作用力を及ぼさない。」257-8P
(対話C)「心は、間接的には勿論、対象的外物や他人を動かすことができる。が、それは自分の内属する身体を動かすことを介してのことである。この意味において、心にとって、自分の内属する肉体的身体は、対象的外物や他人を動かす「用具」として機能すると言うことができる。」258P
(対話D)「――心が用具的身体を介して外物や他人を動かす方式は、決して単に惰性体を押し動かすとか、惰性体を変形・解体、加工・破壊するとかいった方式には限られない。心は身体を作動させることを通じて、対象物の“内発的運動”を誘起するという仕方で、対象物を“自から”動かしめることも可能である。例えば、弓の弦を放すことで矢を飛ばせたり、堰を切ることで水流を奔出(ほんしゅつ)させたり、とりわけ対象が能為主体である場合、目配せ・身振り・発声わけても言語的発話という身体的活動を用具的に用いることで他者の内発的運動を“遠隔的に”起動させることさえ可能である。議論の進め方としては、しかし、身体の用具的使用方式というこの論点は後論の論脈に譲ることにし、爰では唯形式的に「心にとって肉体が用具的に機能する」という構制を銘記するに止めよう。」258P
(対話E)「尚、「心」が身体を用具的に使用するという覚識に使嗾されてのことかと想われるのだが、つまり、生身の主体と道具との関係に類比してのことと忖度されるのだが、「人称的に各私的な心」たる「自我」「私」が「身体を持つ」という想念も形成される。――ヨーロッパ語流の「私は私の身体を持つ」という表現における「私」は、単なる人称代名詞としての私ではなく、「身体」とは別個の、「身体の所有者」たる「私」という実体的「自我」の含みになっているように思われる。少なくとも論理的構制上はそうであろう。その点、「私には身体(「からだ」のルビ)がある」という日本語式の見方にあっては、身体は「私という一全体」の部分と見做されており、私なるものが身体から分離されてはいない。しかし、日本人の日常的観念においても、心が肉体的身体を用具的に使用するという想念はやはり厳存するのではないか。「心」は、身体の所有者でこそなけれ、「身体の使用者」であるという想念は否みがたい。――行為理論そのものにとっては、しかしいずれにせよ、心が身体の所有者であるかどうかは須要事ではない。留意されべきことは「心」(「精神的エージェント」)が肉体的身体を用具的に使用するという想念の厳存である。」258-9P
(対話F)「扨、能為主体が精神的エージェントとそれの直接的に使用する用具的肉体とから成るという想念が成立し、斯かる能為的主体が外在的環境に内在しているものと了解されている限り、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成されるに至っていると言うことができる。が、この図式にあっては、「外在的環境」は能為的主体がそこに内在する舞台的環境世界というよりも、当事者意識にとっては寧ろ、精神的存在者たる内なる主体が用具的肉体を作動させて作(「はた」のルビ)らきかける外在的客体という相で覚識され易い。」259P
(対話G)「この覚識の図式は、しかし、構図的枠組みこそ相対的に安定的であれ、内部的分劃は多分に流動的である。用具的肉体を作動させることで所与の外在的客体に作らきかけるといっても、その客体に直(「じ」のルビ)かに肉体で作らきかけるとは限らない。例えば、直接的には手が手許(「てもと」のルビ)の物を動かすことによって目標客体に間接的に作らきかけるようなケース、すなわち、日常的表現で言えば「道具を用いて客体にはたらきかける」ケースがある。このような場合、道具までが用具的肉体の一部であるように覚識されること屢々である。逆に亦、例えば麦踏みをするような場合、足はむしろ外在的な道具のように覚識されたりもする。(これはわれわれの謂う「主体的身体の伸縮」という基礎的な体験事実の一斑である。この件については、第一巻の第一篇第二章および『世界の共同主観的存在構造』第二部第一論文第一節を参看されたい。) ――このような体験の場面に即すれば、起動的エージェントは必ずしも純然たる心という相で分劃されるわけではなく、“用具的肉体”も必ずしも皮膚的界面で劃された相で現識されるわけでなく、以って亦、いわゆる“外在的客体”も皮膚界面で閉じた肉体の外部に在るだけの存在体というより、“用具”を介して作らきかける対象的存在物というほうが当っている。」259-60P
(対話H)「茲に「主体−用具−客体」という三体図式が現成する所以となる。――謂う所の「用具」は、広義においては、肉体的=物体的な存在体には限られず、また、主体にとって用具的に機能する他主体をも含みうる。「客体」も、既在的に実在する物体的存在には限られず、“空無的な”対象でもありえ、加之(くわえて)、対象的に作らきかけられる他者をも含みうる。だが、主体的他者の介在するケースは次節まで持越すことにして、今暫くは、主体的存在者が唯一人しか登場しない範型での截り撮り、且つは亦、前節で一斑に論及した舞台的情景という契機を考察圏に引入れつつ、三体図式の基幹的な内部構制を問題にしておこう。」260P
第三段落――精神的主体は闇雲に起動するのではないこと 260-7P
(対話@)「「主体−用具−客体」、この三体図式においては「精神的主体が肉体的用具(これが皮膚界面を超えて伸・縮するにせよ)を介して外在的客体に移動的/変様的/生滅的な変化を生起せしめる」という構制になっているが、精神的主体は闇雲に起動するのではない。」260P
(対話A)「現実の行為場面では、人間は(そしておそらく或る種の高等生物も一定場面では)行為発動の構造内的契機として「表象」を泛かべる場合が屢々である。人は、なるほど、泛かべた表象を直接に作動させて物理的客体に作らきを及ぼすわけでも、泛かんでいる表象に物理的に作らきかけるわけでもない。しかし、人は恰度、設計図に則しながら製作したり地図を参照しながら運転したりするのと類比的な在り方で、想像表象に則しながら製作したり記憶表象を参照しながら運転したりもする。“知覚的現実界”に“実在”する設計図や地図を利用するのと類比的な仕方で“表象界”に“アル”想像心像や記憶心像を利用すると言っても宜(「よ」のルビ)い。(ここに謂う“知覚的現実界”“表象界”なるものの存在論上の身分については後論で補説・再検討するが、ひとまずは日常的思念に即しつつ、“知覚的現実界”は外部的実在界だということにし、客体や肉体もそこに含まれているものとして議論を進めておく段である。)」260-1P
(対話B)「人々は、“知覚的現実界”において事前に設計図を描いておくのと類比的に“表象界”において事前に想像心象を思い描き、収納場所から地図を出して参照するように記憶庫から出してきて記憶心象を参照する。(設計図を描くという行為にとって事前に想像心象を泛かべることが必要とされ、地図を探し出すという行為にとって事前に記憶心象を泛かべることが必要とされるという件については後論。)ここにおいて、設計図・地図も、一定の想像・記憶も、共に等しく、製作・運転という目標実現にとって手段的に機能していると言える。そこで、人がもし、手段一般を用具と呼ぶのであれば、設計図や地図はもとより、如上一定の想像や記憶の表象も用具に算入されることになる。これは定義の問題であるから、われわれとしては抗(「あがら」のルビ)うには及ばない。がしかし、われわれは「手段」という概念を「用具」という概念や「道具」という概念よりも広義に用いることにしたい。この配慮もあって、「用具」という概念は、対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなす物的(「ケルパーリッヒ」のルビ)存在体に限定して用いることにする。(但し、次節の過渡的な論脈内ではこの概念をもう少し拡大する。)このことにおいて、実際問題としては、われわれの謂う「用具」は、皮膚的界面で劃された肉体でこそないが、“伸・縮相での肉体”と相覆うことになろう。(従って、われわれの定義的限定からすれば、設計図や地図も、想像や記憶の表象も、それが対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなすkörperlich[肉体的・物体的]な存在体でない以上、手段ではあっても、用具ではない。)」261-2P
(対話C)「偖、「主体」が「用具的肉体」を起動し、それを介して「客体」に変化を生起せしめる際、それが意識的(「アプジヒトリッヒ」のルビ)行為であるかぎり、一定の表象を泛かべるのが普通である。この表象たるや、しかも、単なる参照資料というには尽きない。――表象は反省的には想像と記憶とに大別できるにしても、恒に必ず想像または記憶として自覚されているわけではない。というより、想像と記憶とは多分に混融しているのが実情だと言えよう。――表象のうちの或るものは、想像混りではあれ記憶心象として行為遂行の撰択的決定・調整の参考資料に供される。が、表象のうちの或るものは、記憶混りではあれ想像心象として、目標状景を予象する。そして、この予象が実現される。人は、例えば、手を挙げている状景を予象し→手を動かして→その表象状景を“知覚的現実界”に実現する。また、例えば、石を移している状景を予象し→手を動かして(この用具的起動を介して間接的に)→その表象状景を“知覚的現実界”において実現する。ここにあっては、予象的表象という“主体に内属する”“心的なもの”が知覚的現実界という“主体の外部の”“物的なもの”において実現する。この意味において、主体は表象という“心的なもの”を“物的なもの”に変換すると言うことができる。」262P
(対話D)「右に謂う“主体外部の”“物的なもの”は、しかし、“知覚的現実界”に属するものであり、或る種の論者たちに言わせれば、日常的には実在界だと思われているこの“知覚的現実界”なるものからしてそもそも一種の心像(表象とは別亜種の知覚心像)たるにすぎない。この論者たちの理路からはどうなるか、前節から持越した論件と絡めながら検討しておこう。」262P
(対話E)「論者たちは知覚的現実相は総じて主体に内属する心像であるという命題を共有しつつも、(a)超越論的な精神的主題に内属する心像が在るだけで物的実在など存在しない、という観念論、(b)心像とは別に物的実在も存在するが物的実在については認識できない、とする不可知論、(c)知覚心像は主体の内部に在るのだが物的実在の位置に投射・貼付された相で現識される(知覚的心像状景の現相在のうち第一性質的な部分は物的実在の現相在と照応している)とする照応説、これらに岐れる。」262-3P
(対話F)「このうち、(a)および(b)においては、たかだか“表象的心像”が“知覚的心像”に転換されるということに尽きるが、論者たちも、当事者たちの日常的意識にあっては、「予象的表象という“心的なもの”が“主体外部の”“物的なもの”へと変換され、仍ち、“知覚的現実界”において実現される」という相で意識されるということまでは認める。という次第で、(a)および(b)にあっては、われわれが嚮に記した“予象的表象の知覚的現実界における実現”という“体験的事実”は認めても、それ以上には進まず、知覚的現相の変化と物理的実在における変化との関係は問題にしない。しかるに、(c)にあってはまさにこの関係が問題にされるのである。」263P
(対話G)「われわれとしては、このゆえに、(c)の立場では「主体−用具−客体」の関係がいかなる構制にあるものとして理解されることになるか、これを検討してみる段となる。――われわれ自身は、第一巻で縷説した通り、知覚像内在説を採る者ではなく、従って亦、投射説を採る者ではない。が、行論の方略として、以下暫くこの(c)の立場に即した検討を許され度いと念う。――」263P
(対話H)「(c)の立場では、知覚的現相は知覚心像という在り方で実は心の内部に存在するとされ、外部的実在の位置に見えるのは一見そう見えるにすぎないとされる。(投射説といっても、文字通りに投射という物理的事象が生起するというのではなく、「内なるもの」が「外なるものに貼付された相で」現識される、という事態を“投射的貼付”という“比喩”で述べているだけである。尤も、投射ということが文字通りに生起すると主張されたとしても、この投射そのことによって物理的実在に物理的変化が生じるのだと強弁されるのではない限り、そして、“知覚的現実界”つまり論者たちの謂う“知覚的心像”における変化が本来「心の内部」で生起するのだと立論される限り、われわれの論点には響かない。)」263-4P
(対話I)「論者たちによれば、「当事主体は、目標情景表象を泛かべ、或る種の表象を参照資料としながら、用具という知覚心像を直接に動かし、そのことを介して客体という知覚心像に間接的に変化を生ぜしめる(そして、そのとき、その知覚像の変化に照応して物理的変化が生起する)」という話の筋になる。――ここにおける構制は、次の譬えによってイラストレイトすることができよう。新鋭の戦闘機があって、外界は直接には見えず、敵機との抗戦はもっぱらモニター・テレビ画面に即しておこなうものとする。ミサイルや機関砲の発射・発砲はテレビ・ゲームと同じような具合に、つまり、モニター画面の手前から頭を出しているミサイルや砲の所のボタン装置を押すことで遂行される仕掛けになっている。言うまでもなく、機内が“心の中”のアナロゴンであり、画面像ばかりでなく、ボタン装置や手なども“知覚心像”である。この“心の中”には、過去の戦闘状景の記憶や来たるべき戦闘の想像という“表象心像”も泛かぶ。起動的エージェントは「ボタン装置に指先を置いている手」という用具を動かすことでミサイルという客体を動かすと言ってもよい。が、「手→ボタン装置→ミサイル」という伸長せる肉体的用具を動かすことで画面の敵機という客体に作らきかけるという言い方もできる。いずれにしても、現認できるのは機内での現象、つまり“知覚心像”のあいだでの継起的・連鎖的な“運動的変化”だけである。とはいえ、いま問題の(c)という立場においては、ミサイル知覚心像や敵機知覚心像は物理的実在ミサイルや物理的実在敵機の現相在と“照応性”をもっているものと了解されており、物理的ミサイルの発射や物理的敵機の撃墜という実在的な物理変化も生起しているものとされる。――論者たちは心の中での行為現象(および、それと物理的な実在界での事象との照応)をこのような描像で“説明”する。(尤も、論者たちといえども、当事主体の日常的意識においては、知覚像は“心の内部的場所”に見えるのではなく、外部的実在の位置に“貼付された相”で見えるいう“主観的事実”を否認しはしない。日常的意識にあっては、主体は“心の中”(画面内)の“客体”(敵機)を“心の中”で射つことで別の場所(客観的物理空間)に在る実在的客体を射つなどとは思いもよらない。主体は外部のあの位置に現認される知覚的対象に作らきかけることで、その同じ場所で物理的実在客体に物理的変化を生起させるものと信じている。このことを承知・前提したうえで、論者たちは“実際にはどうなっているか”を“説明”してみせるのである。)」264-5P
(対話J)「論者たちのこの“理論的説明”は、「主体−用具−客体」の動態的関係の説明としては、素朴な日常的意識よりも却って厄介な困難を抱え込んでいる。この困難たるや、慧眼な読者には記すも蛇足ながら、知覚像内在説という理論的ドグマに淵源する。が、このことを駄目押しする前に、既に日常的意識における「精神的主体−肉体的用具−対象的客体」という三体図式からしてそもそも孕んでいる難題を指摘しておかねばなるまい。」265P
(対話K)「人々は、日常的意識においては已に、「心」なる主体は、外的客体に直接的に作用を及ぼすことはできず、もっぱら肉体を動かすことによって甫めて、間接的に客体に作らきかけるものと了解している。心はなぜ外的客体に直接的に作用を及ぼすことができないのか? 反っては亦、心はなぜ肉体を直接的に起動することが可能なのか? 心は如何なる機制で肉体を動かすのか? このことが問い返されてしかるべきはずである。(尤も、オカルト的能力に恵まれた異能者は外物に直接作用を及ぼすことができ。肉体も物体的存在という点では外物と同種である。常人といえども、対象が肉体である場合には、オカルト的作用を発動しうるということなのか?)」265P
(対話L)「理由を問い返されると困惑するにせよ、人々は日常的経験を通じて、心が外物を直接に動かせないことを“熟知”している。また、肉体の起動を日常的に“体験”している。肉体運動を介することなく、外物を直接には動かせないというのは、さしあたり“経験的事実”ということで“追認”しておいてもよい。だが、肉体の内発的起動を感じるということまでは体験的事実であるとしても、「心なるもの」が「肉体なるもの」を動かすということはおよそ経験的に現認されることではない。心が肉体を動かすというのは、已にして説明的自家了解である。この“説明”は再検討を要する。」265-6P
(対話M)「時に、前記(c)の立場では、行為者が覚知している肉体や客体を“知覚心像”として遇するので、“肉体”を動かすことも、それを介して“客体”を動かすことも“心中の出来事”ということになる。だが、問題場面が“心中”に移されたからといって、難題が消えるわけではない。なるほど、心というものは、想像表象を創出したり記憶表象を喚起したりすることが“できる”ように思われる。そのかぎりで、表象心像に直接作用を及ぼすことができるように思える。とあれば、“知覚心像”もやはり“心像”なのであるから“肉体”という“知覚心像”にも直接作用できるとしても“おかしくない”かもしれない。しかし、それなら“客体”もやはり“知覚心像”なのであるから、これに対して、“肉体”を介することなく直接に作用できるはずではないのか。なぜそれができないのか? 論者たちは、“知覚心像”が「照応」している物理的実在界の物理的機構が、肉体を介することなしに直接客体に作用することはできない構制になっているからだ、と答えざるをえまい。となると、問題場面は再び外的実在界に差戻される。が、論者たちは単純に元の木阿弥に返ったのではない。“知覚心像”と外的実在との「照応」の実在的機制がどうなっているかの説明という困難な課題を背負こんでいる。おまけに、論者たちは、表象心像や知覚心像の少なくとも一部に精神的エージェントが直接的に作用するということの説明課題をも対自化せざるをえない破目になる。」266P
(対話N)「われわれとしても、このさい、論者たちを嘲笑して済ますわけにはいかない。論者たちが、日常的・常識的思念を単に追認するのではなく、理論的説明を試図する過程で顕在化させた問題に決着をつける必要がある。この問題は実は存在論や認識論とも絡み、――このこととの関連で前記(a)、(b)の立場を顚から無視することなく対質する必要も出てくる次第であって――爰で直ちに論決する段にはない。(学史に鑑みるとき、これは寔(まこと)に大問題なのであって本巻の最終章まで連綿と持続する所以ともなる。)」266-7P
(対話O)「この課題に応えるためにも、「心が肉体を起動し間接的に外的客体に作用する」という日常的思念に溯って再検討し、問題構制を整理し直し、われわれ自身の回答を用意していく作業が求められる。」267P
第四段落――「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖をも勘案 267-73P
(対話@)「これまでの行論においては、「主体−用具−客体」という三体図式について、もっぱら「心→肉体→外物」という向外的作用連鎖を問題にしてきたが、「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖も勘案されねばならない。――論者の中には、「外物→肉体→心」という連鎖は感性的認識に関しては問題になっても、実践論にあってはもっぱら「心→肉体→外物」だけが問題である、と主張するむきもありえよう。がしかし、実践と認識とは隆替的フィードバックの相にあるとか循環的ループを形成するとかの域を超えて、遂行的行為の構造内部的契機として認識が存在するというのが実態である。――」267P
(対話A)「ところで、心→肉体→外物の連鎖にあっては、「肉体→外物」の部位は(肉体も外物も同類の物質的な存在であるからカテゴリー・ミステイクに陥らないといった理屈ではなく、)日常的経験において“確認できる”ことのように想える。が、それにひきかえ、「「外物→肉体」という作用連鎖の部位に関しては様態が異なる。先に扮技したように「心」なる格別なエージェント、すなわち、意識性と起動性を具えたエージェントが主体的身体の内部に宿っているという想念が形成されるのには、しかるべき機縁・経緯・事由がある。そして、その「心」が「肉体」に起動作用を及ぼすかのように思念されるのも謂われなしとはしない。だがしかし、体験的に“確実”なのは、体内に起動感が感じられるということ、このことまでである。「心」が「肉体」を起動するというのは、内観といった仕方で現認されることではなく、嚮にも指摘した通り、一種の説明的自家了解たるにすぎず、再検討を要する。当の“説明”に難があるとすれば増々そのはずである。この再検討課題は、心の作らきによって、表象が知覚的現実界において変換的に実現されるという想念(或る種の理論的立場をも視野に入れて言えば、表象的心像ないし/および知覚心像が物理的実在界において変換・実現されるという命題)の批判的検討という課題とも結合する。」267-8P
(対話B)「反(「ひるがえ」のルビ)って、外物→肉体→心という逆向きの連鎖にあっても、「外物→肉体」の部位に関しては一応“経験事実”ということで認めておくこともできよう。だが、「肉体→心」という部位に関しては話が別である。なるほど、第一巻でみた通り、肉体的内部過程、とりわけ脳内の過程によって心理現象が産出されるという理説にもそれなりの謂われがあるし、肉体が心に影響するように思い込む機縁となる日常体験にも事欠かない。とはいえ、肉体的過程が心とやらに作動するということは、内観という仕方で現認される事柄ではない。内観が及ぶのは(また、大脳生理心理学的研究の実証的知見の及ぶのは)肉体的状態の変化と心理的状態の変化とのあいだの一定の対応的即応性・並行性までである。そして、ここでもまた、いわゆる知覚心像ないし/および表象心像と肉体的過程(とりわけ脳髄的過程)との変換関係、生理的過程現象から意識現象への転成ということが問題になる。」268P
(対話C)「斯うして、詮ずるところ、いわゆる心身関係ないし心脳関係、それも「心↔身」(心↔脳)の双方向的関係がまさに解明さるべき問題として焦点化される次第なのである。」268P
(対話D)「われわれは今此の場で心身関係という哲学上の大問題に周到に立入るべくもない。が、実践論の脈絡では、この件は、実践主体が行為選択・行為起動の自由、すなわち、いわゆる意志の自由を果たして有っているのかどうかという問題、古来、実践論にとって本質的な一問題とされてきた論件を成す。この論件は、われわれにとって、決定論と非決定論との対立をどう捌くかという大問題とも不二である。このかぎりで、爰ではこの大問題への回答の伏線を調(「ととの」のルビ)えつつ、差当っては俗に謂う遠心的過程と求心的過程との“ループ”を論材とし、前節以来の「主体−環境」の截断が原理的にはいかなる次元において止揚さるべきであるかを示唆しておきたいと念う。(尚、以下での一面的で且つ皮相な論述を補全するものとして、別著『身心問題』一九八九年、青土社刊、および、『哲学の越境』一九九二年、勁草書房刊、第四章「身体的現相と<内奥>の意識」、ならびに、拙著「<心−身>関係への視角――意志行為論のための管制――」、雑誌『エピステーメー』、一九七九年、六・七月合併号、朝日出版社刊所載、を参看頂き度い。)」268-9P
(対話E)「偖、常識的にも或る種の学理的立場においても、知覚的認識では心は受納的、意志行為では心が発動的とされ、謂わば対照的に考えられている。この際、「心→肉体→外物」という三体図式が前提的な枠組とされており、「外物」も構造内的要因として勘考されているには違いないのだが、焦点は「心−肉体」の直接的関係の部面にある。そして、知覚では「肉体的過程が心に影響を及ぼす」のに対して、行為では「心が肉体的過程に影響を及ぼす」とされているわけである。この「心と肉体とのあいだの作用関係」にあっては、いわゆる「心像」も介在的に位置づけられるのだが、近代的学理では直接的作用関係の現場は脳に或るとされ、脳内における「生理的過程から心理的現象への転成」および「心理的現象の生理的過程への転成」ということがポイントになる。」269P
(対話F)「ひとまず、学理的な脳生理学的論議は措いて、日常的な思念相に即して言えば、「知覚」と「行為」とにおける「心−身」関係の「逆方向性」ということは、さしあたり次の三つに分けることができよう。/第一に、知覚の場合には、肉体的過程のほうが心理的過程よりも時間的に先行するのに対して、行為の場合には、心理的過程のほうが肉体的過程よりも時間的に先行する。/第二に、知覚の場合には「心」は受動的であるのに対して、行為の場合には「心」が「体」に対して起動的であり、能動的である。/第三に、知覚の場合には「心」被拘束的・被決定的であるのに対して、行為の場合には「心」は選択の自由をもち、且つ、内発的・自発的である。/このうち、第三条については基本的には次章以下の論脈に譲ることにして、第一・第二条の思念を爰では問題にしておこう。」269-70P
(対話G)「日常的な知覚体験では、水に触れれば直ちに冷たく感じられ、眼を覆えば瞬時にものが見えなくなる、等々、……同時でこそあれ、肉体的過程の時間的先行性などということはおよそ直截には感知されない。(なるほど、氷の方に手を伸ばす運動過程とか眼の前へ掌を翳(「かざ」のルビ)す運動過程とか、これは時間的に先行するかもしれない。が、今問題の「肉体的過程」というのは、知覚を生滅させる直接的な過程の筈であるから、混同してはならない。)ところが、俗に「心ここにあらざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず」と謂われるような事態を反省的に対自化する場合がある。或いは亦、怪我(「けが」のルビ)したことに気づかずにいて後になって(血を見た時点で)はじめて痛みを感じ始めるといった場合もある。このような場合、肉体的過程はしかるべく進行し・完了している筈なのに意識化の心的過程が開始されなかったのだと考え、こういう事態が生じうるのもけだし肉体的過程が先行し意識現象が後続するという機制になっているからだと考えれば、一応の説明がつく。この線で押し通そうと思えば、肉体的過程と意識過程とが同時相即的であるように感知される平常的知覚の場合、時間的先行性がそこでも実はあるのだが、タイムラグが僅少なため恰かも同時であるかのように錯覚されるのだ、と強弁する途がある。だが、これは決して唯一可能な説明というわけでも唯一合理的な説明というわけでもない。批判は保留するとして、爰ではとりあえず次のことだけを指摘・確認しておこう。右の“説明”の立場にあっては、知覚の肉体的過程(神経生理的過程)は所与の外的刺激に応じて受動的・機械的に“一義必然的に(?)”進行・完結するという構制が前提になっているということ、翻って、直接的・実証的には肉体的過程(但し、先の例での氷の方へ手を伸ばす運動とか、これに見合う神経生理学的過程とかでなく、まさに意識現象へと“転成”する現場的過程)の心的現象への時間的先行性ということは現認さるべくもないこと(僅かにせよタイムラグがあるのか、同時なのかは直接的には判定できず、所詮は理論的見地からの推論でしかありえないこと)、之である。――意志行為の側についてみてみよう。行為にさいして目標状景の表象や逡巡といった心理的過程が先行することが内観的に認められる場合があることは慥かでも、これを以ってそのまま今問題の心的過程の時間的先行の証拠とするわけにはいかない。それは、知覚の場合の(例えば氷の方へ手を伸ばす運動過程といった) “別の肉体的過程”に対応するとでもいうか、一応“別の心的過程”ではないか、と疑われうる。というのも、今論点になるのは、いわゆる決意的起動の瞬間における「心的過程の肉体的過程への“転成”という在り方での“因→果”的な先行性」だからである。あれこれの“副次的な心理現象”がいくら先行的に内観されても、それは今問題の先行性の証拠にはならない。体験的には、決意したらとたんに(同時相即的に)行動が生ずる場合もある。それどころか、急ブレーキを踏んで、その後でようやく心理現象が内観されるような場合さえある。という次第で、直接的体験に即するかぎり(そしておそらくはまた神経生理学的観察に即しても)、決意的起動が必ず肉体的過程の起動に時間的に先行するとは、現認すべくもない。意志行為にあっては心理的過程が肉体的過程に先行するという思念を使嗾する現象・事情があることは認めるのに吝かではないが、学理的には、それは内観的現認ではなくして、むしろ推論の所産である。この推論たるや、後論での批判の論点を予示して一言しておけば、肉体は惰性体であって自発的に運動を起始しえない筈だという想念を前提している。これは何ら唯一合理的な推論ではなく、そもそも、意志行為においては心的過程が時間的に先行するというのは実証的事実ではない。――総じて前掲第一条に謂う時間的先行性は、知覚の側についても行為の側についても、短慮の見であって、確定的事実ではないのである。」270-1P
(対話H)「第二条に関して聊か検討してみよう。知覚の場合(想像とは違って(?))、外的刺激が肉体的過程を介して心に到達しないことには始まらないものと思念されている。そのさい、「刺戟−伝播」の肉体内部的過程の所産的“与件”はとかく刺戟の質と量によって決定されるかのように思われ易いのだが、ともあれ、心は当の“与件”を素材ごと創り出すことはできず、(“心窓”を開閉して当の“与件”を受納・遮蔽したり、それに加工的変容を加えるという“対心像的能動性”は有ってはいても)、本質的に受容的であるとされる。だが、生理心理学的な知覚研究の教えるところによれば、知覚過程は、あながち受容的ではない。神経系というものは、系統発生論的・進化論的にみても、もともと刺戟受容・伝播の配備ではなく、筋肉を支配・統御する機能を担うものであり、むしろ遠心性指令パルスの発出現況が意識にのぼることにおいて知覚意識態が現成する。勿論、遠心性指令パルスの発出の在り方は、入来刺戟の求心的到来状況をも規制要因としており、絶対的な自発性に負うものではない。遠心性過程と求心性過程とは相互調整的である。この故に、いわゆる“注意の向け具合”といった実践的・能動的な態度性に応じて(求心的過程のアクチュアルな在り方も変様し、以って)“現識される知覚意識態”が規定されることにもなる。このさい、遠心的過程を「心なるもの」が統御しているか否かは、別途の討究を要するが、そしてまた、求心的過程が規制的一要因をなすことも確かであるが、しかし、知覚が本質的に受容的とは見做せないことが銘記されえよう。――反(「ひるがえ」のルビ)って、いわゆる意志行為の場合、慥かに体内に起動的開始感が覚知される。だがしかし、この遠心的活動は、決して何の機縁もなしに発動されるのではなく、求心的に到来した“信号・情報”を機縁として発動されるのではないか。そして、そのさいの遠心的パルス発出の瞬時的強化が起動的緊張感の相で意識にのぼるのではないか。もしそうだとすれば、ここでの基本的な構制は神経生理学的には却って知覚のそれとも類同的であると言わねばなるまい。――感性的知覚と意志的行為とは対照的というよりむしろ相同的というどころの話ではない。いわゆる“注意作用”“態度設定作用”が“意志作用”であるとし、内発的起動感が遠心性指令発出の特段的な状況の現識化であるとするならば、知覚と意志とは不可分的一態を成し、知覚(「ヴァールネームング」のルビ)が行為の構造内的一契機として位置づけられるというより、知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)も意志的行為の一形態だと言われてしかるべきであろう。(神経生理学的にみて「求心的⇄遠心的」な過程がルーティーンに進行する場合には、馴化(「ハビチュエイション」のルビ)に限らず、知覚的意識がことさらに現成することもなく、意志発動がことさらに意識化されることもない。平常的な生体活動の大部分は意識性を伴うことなく進捗するのが普通とも看られうる。生体にとって“異常”な状況に際してのみ“意識化”が現成する。「身⇄心」関係を論考するにあたっては、このことに留意し、一切が「肉体的過程⇄意識現象」という相にあるかのごとき臆断を卻けて掛からねばなるまい。)」271-3P
(対話I)「簡略ながら以上、俗に知覚と行為とにおける肉体的過程と心的現象との先行・後続の逆関係性と謂われる事態(前記の第一条項)、および、知覚と行為とにおける肉体と心との能動・受動の逆関係性と謂われる事態(前記の第二条項)の再考を通じて、謂う所の「逆関係性」を安直に追認すべくもないことを対自化した。――或る種の理説(folkway psychology (習俗心理学)をも含む)において、当の両命題が追認されているのは、「肉体は(その状態を物理必然的に向内的に決定されている)惰性体にすぎない」というドグマティックな想定の下に、「能動的な意識性エージェントとして精神(「こころ」のルビ)なるもの」を要請的に措定することを俟ってである。このことをもわれわれは再確認する運びとなった。」273P
(対話J)「今や、われわれは嚮に扮技的に“追認”した「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就くべく、議論を半歩前進させておかねばならない。」273P
第五段落――「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就く 273-8P
(対話@)「人々は「身−心」の二元的分離と相即的に、心が肉体的過程(神経生理学的過程)を介して与えられる“内的与件”を現認(知覚)するとか、心が肉体に作らきかけて起動させるとか、心と体(「からだ」のルビ)とのあいだの因果関係を考えたり、肉体的過程と心的現象とのあいだに一方から他方への“変換”“転化”が生起すると考えたりしてきた。(尤も、意識現象と肉体現象とのあいだの並行性を主張するに留める立場もありうる。が、単に並行性を主張するだけでは“説明不足”“説明の回避”という憾みがある。そこで、学説史上の心身並行論は、超越的起動者=神を持出して並行の成立する機序を“説明”しようと試みたのであった。われわれとしては、しかし、神という超越的創造者・起動者を持込むたぐいの並行説は敬して遠ざけるだけで済ませることにしたい。)」273-4P
(対話A)「惟うに、しかし、果たして肉体的過程と心的現象とのあいだの因果的作用関係とか、心的現象と物理的・現実的な肉体的過程とのあいだの“変換”“転化”とか、このたぐいのことが実際に存在・生起するのであろうか?」274P
(対話B)「この件について、知覚の場合に限らず、総じて認識的世界論の論脈では既に第一巻において説述しておいた。それゆえ、知覚その他の認識的場面での「「身−心」関係について爰で再論することは省きたいと思う。(但し、本巻最終章において、その部面をも含めて論決する。)爰では、もっぱら謂う所の「意志行為」、そこにおける「心の機動性」という部面に関して暫定的に述べ、次章で問題になる「自由意志」「意志の自由」という論件への伏線を敷く域に留めることで次善としよう。」274P
(対話C)「偖、われわれとしては、結論的回答を先ず記しておけば、心身の因果関係を認めない。従って、いわゆる意志行為に際して「心」が「体」に起動的な作用及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理的活動)に転化・転成するとも考えない。」274P・・・パラダイム転換的なところから、因果論の批判も押さえておく必要があります。
(対話D)「それでは、人々が意志行為の際に内感する起動感をどう説明するのか? 最終的な説明ではないが、とりあえず次のように考える途のあることを陳べることで暫定的“説明”に代えておきたい。――人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして「体」なのである。この起動は遠心性神経パルスの発出による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる。」274-5P
(対話E)「右の暫定的“説明”では、前篇第三章第一節での暫定的な措置とも照応させるべく随伴説の構制を仮りに採っている。が、随伴説が最終的な説明たりえない所以でもあるのだが、これで以っては、依然として次の疑問が残るであろう。すなわち、精神(「こころ」のルビ)は肉体に起動的作用を及ぼすのではなく、単に意識するだけであるのだとしても、感知という活動(意識活動)を営なむのではないか。そして、この感知という一種の認識にあっては、知られる側と知る側との二項的関係があるのではないか。しかもこの関係にあっては、肉体的過程という物質的存在(それが神経生理的機能状態と呼ばれようともあくまで物質的存在)を能知が直(「じ」のルビ)かに感知するという一種のオカルト的認知力の存在が想定される所以となるのではないか、云々。――随伴説的な構制に単に仮托しているかぎり、右の疑問は慥かに、直ちには解消しない。われわれの暫定的な“説明”では、心が肉体的過程を作動させるというオカルトは免れえても、肉体的過程という物質的存在を“直かに感知する”という“オカルト(?)”が却って“導入”される形に“なって”いる。――以下暫くの間は、しかし、「心が肉体に作動力を及ぼす」という難題が回避されたことに免じて、随伴説的構制への仮托で話を進めることを許されたいと念う。」275P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて関説しておきたいことがある。それはいわゆる「人間機械論」に関してである。人間機械論のポイントは、人体はもっぱら物理的機制のみで動くのであって、体を作動させたり制御したりする精神的エージェントは内在していない、という主張にあるといえよう。人間機械論者といえども人間に意識がアルことは否認しない。論者たちも一種の随伴説を採っていると言うこともできる。――動物機械論は聊か趣きを異にするところがある。此説では動物には意識はナイという主張にさしあたってのポイントがある。とはいえ、論者たちの中には、動物にも感性的レヴェルでの意識現象なら認める者もある。但し、「自己意識性」つまり「意識しているという意識」を欠くと言う。そして、此説にあってもやはり、起動的・統御的な精神的エージェントの存在が否認される構制になっていることは付言するまでもない。――/さて、意識現象の随伴説ということまでは認めても、肉体を起動・制御する精神(「こころ」のルビ)というエージェントを認めない見地を採るとき、「主体−肉体−客体」という三体図式は“止揚”の途に就く。そして、「主体−環境」の分截も含意が異なってくる。/われわれの謂う三体図式は「精神的主体が用具的肉体を作動させて外在的客体に作らきかける」(ないし/および「外的客体が肉体を介して精神的主体に影響する」)という了解に見合うものであった。そのさい、しかも、「主体(=心)」と「肉体」とは自発的存在と惰性的存在という別種性の故に存在的に截断され、また、精神的「主体」が「用具」として直接的に用益可能なのは肉体に限られていて、外的対象とは間接的にしか関わることができないということで「肉体」と「客体」とのあいだも分截されたのであった。しかるに、心なるものの自発的起動性が否認されて、意識現象はたかだか随伴現象にすぎないものと見做されるとなれば、「心的主体」と「物的肉体」とを二元化的・存在的に截断すべき謂われがなくなる。そして、この「物的肉体」(という「機械的存在」)と「物的客体」とのあいだを、心的主体が直接的に用益可能なものとそれの不可能なものという廉(「かど」のルビ)で分截すべき謂われもなくなる。なるほど、それでもなお、肉体は意識現象を随伴する特異な存在体としての一般の客体物から区別されるに値するように思えるかもしれない。依って亦、「意識現象を具備せる肉体的存在」としての「心身的主体」を「外部環境」から分截することは依然として妥当なことと考えられるかもしれない。だが、原理的には最早これらの区別・分截は必ずしも妥当しない。――という理由はこうである。われわれは嚮には、「脳中枢の神経生理的機能状態」に「意識現象」が「随伴」するかのように述べた。が、それは“随伴”という仮托的機制を判り易く伝えようと図った表現方式だったのであり、意識現象が脳内にアルと言おうとするものではなかった。俗に意識現象と呼ばれているものは、われわれに言わせれば、フェノメナルな世界諸現相(いわゆる知覚的現相や表象的現相など)を単なる心理現象であるかのように改釈したものなのであって、行文中で繰り返し指摘してきたように、いわゆる知覚現相はもとより表象現相ですらむしろ“身体外部的な場所”に現前する相でアル。それは決して脳という場所に泛かんでアルわけではない。(われわれが“超越論的身体=脳”とやらを想定して、これに“意識界”を内在させようとするがごとき形而上学的理論を立てないことは爰に絮言を要せぬであろう。)「脳中枢の機能的状態」に“随伴する現象”だからといって、脳内に定位されてアルわけではないのである。あまつさえ、「脳中枢の機能的状態」と記したものも、精確には「脳中枢という場所に局定的に存在」するものではない。意識現象を人称的各主体に帰属化した相で神経生理心理学的に論じる文脈では表現の便宜上「脳中枢の神経生理的機能状態に」と記したとしても、謂うところの「脳中枢の機能的状態」なるものは、中枢という局定的場所で自閉的に完結しているものではなく、オープンシステムを成している。なるほど、“実用的”な常識的見地では、オープンと言ってもたかだか末梢から外的環境の一部分までの範囲で問題にすれば足る。がしかし、原理的・存在論的に言えば、当の機能的状態は、総世界的諸要因の“函数”とも謂うべき在り方をしており、世界大のオープンシステムと観ねばならない。そして、このオープンシステムにとっては、皮膚的界面の外部/内部という区別はおよそ本質的に分劃ではない。という次第で、ここではもはや、心/身の存在的截断はもとよりとのこと、いわゆる「心身的主体」という当体と「外部的環境」との分截も、本質的には妥当しない。“主体”と“外部環境”との分截は、巨大なシステムの錯分節化として措定される「当体」と「環境」との“便宜的”分劃たるにすぎないのである。(前節で叙べた「主体と環境」は、原理的な次元においては、かかる「当体−環境」系の一定在形態として、“当体”および“環境”という“錯分節項”を含む“函数的・機能的な連関態”の相にあるものとして規定・了解されねばならない。) ――/ところで、「人間=機械」だとすれば、人間にとって「意識がアル」ことは無用の長物ではないのか? 単なる随伴的意識現象などというものは生物体にとって無用・無価値ではないのか? 能知能意的で撰択の自由や起動の自由を有った精神的エージェントなるものが存在し、それが肉体的行動を領導・統制するというのであれば、生体が危険を回避したり適合的・合理的な行動を営なむのに有用・有意義でもあろう。しかるに、たかだか“随伴現象”として覚知的現識にのぼらせるだけで、肉体行動を領導・統制する作用力のない意識などというものがアルとは全くの贅事と言わねばなるまい。生物進化論的過程で意識現象というものが生成したのは、生物の生存にとって有用・有意義な機能を果たす意識的領導・統制の作用力を有つものとしての筈ではないのか?――この疑義は尤も至極である。いわゆる脳神経的過程によって生体の活動が自動的に調整されているのだとすれば、そして、この活動状態が折々に随伴的に意識化されるだけなのだとすれば、意識現象などというものは生体にとって全く無用の長物と認めざるをえまい。意識はたかだか観照(「テオレイン」のルビ)のためにあるということになってしまうであろうから!/爰では、しかしまだ、右の疑義に応えうる段にはない。この疑義は「随伴説」にとって致命的な刺である。われわれが、暫定的に“随伴説”に仮托はしても、最終的にはそれを止揚する所以でもある。――示唆的に一言しておけば、随伴説は実体的存在としての心(精神)なるものの自存性こそ否認するものの、依然として物質的存在と意識現象との“二元論”(脳の生理的状態という物質的存在とそれとは別種の意識現象なるものとの“二元論”)を採っており、しかも、物質的存在なるものこそが真の実在であるという想念を維持し、いわゆる意識現象との関係における「物体的存在」の存在論的身分を検覈しない。ここに随伴説の難がある。われわれとしては、この難点を批判的に克服することによって随伴説やいわゆる人間機械論を止揚するであろう。(それに伴って、前段での「疑義」も解消する筈である。)」275-8P
第六段落――この節のまとめと次節(当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されること)へのつなぎ 278-81P
(対話@)「われわれは当面“随伴説”に仮托する方式を採り、以って「心なる主体」の起動性・領導性を“原理的”次元では臆言すべくもないことを対自化するが、しかし、行為の当事者はいずれにせよ「主体−用具−客体」という三体図式で自家了解しているのが日常的現実であり、そこでは「心」なる能知能意的エージェントが肉体的用具を介して外的実在に作らきかけているものと思念されている。(そして、知覚的認知に際しては「客体」が「肉体的過程」を介して「精神的主体」に影響し、以って知覚を現成せしめるものと了解されている。)」278-9P
(対話A)「実践理論の構図を見取るためには、単にフェア・ウンスな議論に終始するのではなく、当事者たち自身のフェア・エスな思念的事態が常に視野に収められていなければならない。」279P・・・弁証法的展開
(対話B)「このかぎりで、次節でのわれわれの論考は、当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されることになるであろう。」279P
(小さなポイントの但し書き)「本節を閉じる前に、「主体−用具−客体」図式に定位した所有権論について、余録的に若干言を費しておくことを許されたい。/周知の通り、学説史上、「私は私自身の身体を持つ」という命題を鍵鑰として、いわゆる「自己労働にもとづく所有」なるイデオロギーが主張され、多くの論者たちによって支持されてきた。そして、何と、近年たらためてそれが新たな粧いのもとに愈々(いよいよ)優勢になりつつある慨(がい)がある。/J・ロックは「人間は、各自,自分自身の身体に対する所有権を持っている」「彼の身体の労働はまさしく彼のものであると言ってよい」というところから、労働生産物は労働主体の「所有物」になる旨を説く。(J.Locke;Two Treatises of Government.1690.Ed.by P.Lasiett.1960.p.305f.) ・・・『資本論』的にはあり得ない論理/人間は各自の身体に対して所有権を持つという命題は、人身保護律をめぐっての論議その他、思想史的な前梯や背景があってのものだとしても、ヨーロッパ流の日常的表現・思念である「私は私自身の身体を持っている」という想念の追認に根差すものであると言えよう。しかるに、先の行文中でも示唆的に述べておいた通り、人々が「私は私の身中に居る」という具合に思念・表現することなく、「身体を持つ」と思念するのは、人格的主体たる自我(「わたし」のルビ)が身体を用具的(道具的)に使用しているという想念に基いてのことであろうかと思われる。とすれば、用具を持つ(それも単に「手に持つ」という次元での「持つ」ではなく、「所有権を持つ」という次元での歴史的に成立した事態)との“アナロジー”で「身体を持つ」と思念し、その思念を“適用”するかたちで道具ひいては道具を用いての生産物に対する“所有権”を“基礎づける”という“循環”が犯されていると評さねばなるまい。/爰で誌しておきたかったのは、しかし、右のことより。むしろ労働生産物が労働主体の所有物だとされる構制に関してである。生産物はなぜ労働主体の所有物と認められるのか? 労働という身体活動の生産物は、“身体の延長”“延長せる自分の身体”という相で思念されるからなのか? この契機も慥かにあることであろう。が、ロックを“受けて”リカードが労働生産物を「労働がbestow (投下)された[物resと化せられた]もの」と看じ、投下労働価値説を開陳したことに鑑みるまでもなく、労働という心身的活動において目標表象という“私の思い泛かべた”“私の心的なもの”が“用具的肉体”を起動・統御する私の労働を介して“客体的存在”へと“変換”“転成”されるという具合に思念される。(これはまさにあの「主体→用具→客体」という三体図式における思念相の一具現にほかならない!)生産物は謂うなれば私の“化体”なのであり、“化体”という“自己疎外”態にあるとはいえ、やはり私であり、“私は化体相での身体を持つ”。このような構制で生産物所有権が“権利づけられる”論理になっているように看ぜられる。/われわれに言わせれば「所有」「所有権」ということは、そもそも一人の主体と客体物とのあいだでの直接的な「主体−客体」関係なのではなく、本質的に間主体的・共同主体的な関係態の一射影にすぎないのだが(後論参照)、とりあえず叙上の“論理構制”に徴するとき、いわゆる「自己労働にもとづく所有権」なるものは「主体−肉体−客体」の三体図式が(本節の行文中で対自化したように)原理的には妥当しないことに鑑みただけでも権利づけRechtfertigungを欠く所以となる。」279-81P・・・「能力をコモンとしてとらえる」ところからのとらえ返し
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(12)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第二節 <三体図式> の形成
(この節の問題設定−長い標題)「環境と主体との分截は、その域に止まることなく、軈ては謂う所の「能為的主体」を「肉体」と「精神」との二要因から成るものとして把握せしめる。ここにおいて、さしあたり、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成される。――が、「用具的肉体」は両義的・伸縮的であり、「客体−用具−主体」という三体図式への変容が導かれる。――この図式は、「物質」と「精神」との二元化的截断という錯認と併せて、如実の営為的世界たる能動的所動=所動的能動の渾然一体的な統一態を能動的存在体と所動的存在体との存在的に截断する謬見と相即するものであるが、所謂「主体−客体」図式の現実的形態であり、既成の「実践的世界」観点の構図を劃しているものである。」250-1P
第一段落――「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直す 251-7P
(対話@)「前節の行文中で、能為的主体が外廓部と内核部とに、謂うなれば二重体化した状相で覚識される経緯にも言及し、また、主体が謂わゆる表象像や知覚像を“内蔵”する者として精神的エージェントを内に宿しているとされるに至ることをも陳べておいた。但し、その折りにも一言断書を添えた通り、主体の二重体化は直ちに精神的エージェントの措定を意味するわけではなく、また、表象像や知覚像の内蔵化も実はそのこと自体で直ちに精神的エージェントの内含を意味するものではない。前節では稍々速断的に運んだ憾みのある「精神的エージェントの内在」という想念の“形成”される場面まで一旦溯行して議論を立て直すことから始めよう。」251P
(対話A)「われわれが今爰に「精神的エージェント」(=「心」)と一括して呼んでいるところの特異な存在体は、それについての見方の細目は文化毎に岐れるにしても、全世界の伝統的諸文化において斉しく“認め”られていると言えよう。「心」なるものが如何なる歴史的経緯で“認め”られ、それが如何なる具象的規定性を帯びるものと見做されるに至っているか、発生史的・形成史的な過程については文化史毎の研究を要するにせよ、爰では「心」の存在が想定される基本的な論理構制、依って亦、日常的意識においてそれが謂うなれば“個体発生的”に再想定される構制を一通り対自化しうれば足る。当面の論脈においては、しかも、能為主体としての構成要件がもっぱらの問題である。」251P
(対話B)「惟うに、「心」は「肉体」とは別種類の性質を有つものと了解されている。同時に、この了解は、肉体とは別個の特異な存在体(これが「心」と名付けられる)が在るという思念と相即する。では、「心」と呼ばれる(肉体とは別個の)ものが存在するという思念は如何なる機縁と理路で形成されるのか?」251P
(対話C)「第一巻第二篇第一章第一節でも陳べたように、対象的一個体の相で看ぜられる「身体」の内部に「心」という特異な存在を“内在”せしめる了解の構えが形成されるのは、基本的にみて、次の四つの脈絡においてであろう。/第一に――生体と死体の区別といった観察的な場面に即した省察や、意志行為の場面での内発的起動者の覚識を機縁にしつつ――身体の内部に能知能動的な或るエージェントが宿っているように思念されること。/第二に――いわゆる(イ)体内感覚、(ロ)感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、――身体の内部に、外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の、格別な所知的与件が内在しているように覚知されること。/第三に――これとは間主体的=間身体的な交渉の場面で対他・対自化されることであるが――身体的存在たる各人の内部に、各自に固有の「内面的世界」が秘匿されているように覚識されること。/第四に――これは直接的に感知されることではなく、知覚をはじめとする認識的事実を説明された案出された想定なのだが――各人の内部に「心像」という内在的与件が存在するものと推論されること。――以上が是である。」251-2P
(対話D)「右のうち、第二・第三・第四については、第一巻において稍々詳しく討究し、また、必要最小限度の論点は前節の行論中で再録しておいた。それゆえ、爰で再論するには及ぶまい。――因みに亦、第二条に謂う「外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の所知的与件」、第三条に謂う「各自に固有の内面的世界」、第四条に謂う「心像という内在的与件」、これらは、なるほど物的現象・物的存在とは異種の心的現象・心的存在と見做されるにしても、しかし、それ自身としては能知的ではなく況してや能動的でもない。しかるに、勝義の「心」なるものは能知・能動性を特質とするものではないのか。しかも、この能知能動的エージェントは、第二・第三・第四条に謂う「内なる与件」を、よしんば悉く定在ごと創り出すものでこそなけれ、尠なくともそれの相在に規制的影響力を及ぼしうるものであり、仍(「すなわ」のルビ)ち、「内なる与件」の具象的現相在にとって“存在条件”をなすものとさえ言えるのでないか。そうだとすれば、愈々、第一条に即した究攻が要諦をなす。」252P
(対話E)「偖、能知性および能動性という両概念は、意識性および起動性という両概念でパラフレーズできるものとすれば、一応独立な両つの概念である。がしかし、「精神的エージェント」は能知的能動性=能動的能知性を特質とするのであって能知性と能動性がここでは一体的である。――人は反問して言うかもしれない。意思行為の場面においては慥かにそうだとしても、知覚的認知などの場合にはむしろ受動的能知と言わるべきではないのか? 一般に、意志は能動的で知覚は受動的とされていることは謂われにしとしない。しかし、われわれの看るところ、アクチュアルな知覚といえども実践的な構えと相即するものであって、単なる受動的能知ではない。知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)もやはり一種の能動的能知である。このことについては論定しえんがためにも、まずはいわゆる意思行為の能知能動性から見ていくのが順当であろう。」253P
(対話F)「人はいわゆる意思行為に際して、目標を表象し、且つ、内発的な起動を裡に感じる。が、このことだけでは、肉体的存在と端的に別種な「心」とかいう格別な内的存在体を措定させるには不十分である。――けだし、表象的情景を“知覚的外界情景(身体をも含む)”と同種(別亜種)の外的存在と見做し、且つ、内発的起動を肉体的現象と見做す余地が残っているからである。――表象したり起動したりする能力(表象能力・起動能力)が肉体とは端的に別種な存在体に帰せられ、以って、表象能力や起動能力を具えた非肉体的エージェントが措定されるためには、肉体それ自身には表象能力や起動能力が具っていないという了解が論理的に先行しなければならない。(人は心なる存在体を直接的な内観によって確認するわけではなく、また、肉体それ自身が表象能力や起動能力を具えていないことを直接的な内観によって現認するわけでもない。)」253P
(対話G)「では、論理構制上の当の先決要求、すなわち、肉体それ自身には表象したり起動したりする能力が具っていないという了解の先行、これはいかなる体験の場で充足・現成されるのか? おそらく、死体に関する観察・接触の経験場面においてであろうと想われる。」253-4P
(対話H)「人はなるほど人間の屍体に接触し観察する機会は稀にしかもたない。が、しかし、動物(鳥・魚・昆虫などをも含む)の死体に触ったり観察したりする機会を子供の時から頻々ともつ。そして、動物が生きているか死んでいるか、早期から直截に判別できるようになっている。(死んでいると思っていたのが実は生きていたという錯認に後で気が付くといった場合もあるが、その場その場では直截に判別されているのが普通である。)生きている/死んでいるの判別は、言うも愚かながら、生命なるものの存否の現認といった仕方でおこなわれるのではなく、自動的に動くかどうか、反応の具合はどうであるか……といった具体的な徴候に即して直覚的におこなわれる。そこでの判別徴表を学理的に整理し把えれば、詮(「つ」のルビ)まるところ、起動性および意識性ということになろう。(起動性ということなら湧水や川水のごときにも認められるし、文化によっては、泉や川にも意識性が認められているケースもあるかもしれない。また、文化によっては、昆虫などには起動性は認めても意識性は認めないかもしれない。が、これらのことは、単なる「生命」以上の「心」に関わるわれわれの論点には響かないことを後論がおのずと示すであろう。因みに亦、アミニズムが支配的な所では、万有が起動的と意識性を具えたアニマを宿しうる。が、ここにあっても或る個物にアニマが現住している状態と一時的に不在化している状態との区別があるとされるかぎり、やはりわれわれの後論には響かない。)生きている/死んでいるの判別徴表は、さしあたり、内発的起動性であると言える。熟眠体や失神体は、覚醒体と内発的起動性反応が大違いであるが、心搏・脈動・呼吸といった内発的起動性を有つており、意識性は帰属されなくとも生命体であることは認められる。文化によっては、広義の「心」を、没意識的な起動的エージェント(植物霊魂とか、臓器毎の魄とか)意識性を兼備せる起動的エージェントの二亜種に分け、しかもそれらを別々の実体だと見做すケースもある。この見地を採るときには、生命体は即ち第一亜種の「心」宿していることになる。――生きている人間は(そして恐らく尠なくとも獣類も)、それとの間主体的な応接の場面での反応の在り方に徴して、知覚・情動・表象の帰属する主体として、つまり意識性を具えている主体として、他者認知される。それはまた、それらの眼や手足の動く運動体として観察されるとか、押せば押し返してくる反応体として覚知されるとか、このような域を超えて、また、対抗的/模倣的な行動や役割期待に応えた行動をすることが現認されるという域をも超えて、前章の第三節中で叙べた意図的に役割期待を裏切る可能性を有つ主体としても意識されるのであって、畢竟するに内発的起動性を具えた主体として認知される。茲において、人間というものは意識性を兼備せる起動的存在者として了解される。(意識性を伴う起動性という想念が成立するにはいわゆる“自身に即した内省”が存在条件をなすであろう。が、それは、前篇の第二章第一節でみたあのg男がスッパサを“他身”の個所で感じるための成立条件として“自身に即した体験”の先行を要するのと類比的な構制においてのことである。意識性を伴う起動性が“他身の内”に覚知されるのは、自覚的な投入とか意識的な類推とかによってではない。機縁こそあれ、さしあたってはむしろ直截な覚知が現成する。)しかしながら、このことだけでは、つまり、意識性を伴う起動的なエージェントが内属するという了解だけでは、上述の通り、それが肉体とは端的に別種の存在体であると見做されるには及ばない。」254-5P
(対話I)「それでは、ここから進んで、内発的ないし/および意識的エージェントが、肉体とは端的に別種の存在体であると了解されるに及ぶのは如何なる経緯があってのことであるのか?」255P
(対話J)「まさに生体と死体との区別の自家了解を機縁にしてのことであろう。死体は全くの惰性体であることで、生体とは大違いである。死体は「内発的起動能力を欠いて」おり、可動的でこそあれ。それは「単なる受動的所動体」たるにすぎない。内発的起動性ないし/および意識性の有無、これ以外には生体と死体との相違は“存在しない”と認定される。(死体の硬直性は起動の欠如に因るものと了解され、死体の腐乱的崩壊は起動的統轄力の欠如に因るものと了解されえよう。)茲において、生体と死体との共通体を「肉体(「ソーマ」のルビ)」と呼ぶとすれば、「生体」は「肉体プラス内発的起動性ないし/および意識性を具えたエージェント」ということになる。――「肉体(「ソーマ」のルビ)」は万有(からアニマを抜き去ったもの)と斉しく惰性体であり、いわゆる無生物とも同種の「物体(「ソーマ」のルビ)」である。――此処で謂う所の「内発的起動性ないし/および意識性を具えているエージェント」を「心」と総称し、そのうち、唯単に「内発的起動性」を具えているだけのものを「第一亞種の心」と呼び、「内発的起動性および意識性」を兼備しているものを「第二亞種の心」と呼ぶことにしたいのだが、総じてこの「心」なるものは、惰性体ではないこと(非惰性体であること)において非物体的であり、以って「心」は「肉体(物体)」とは別種の存在体である。(「心」とりわけ第二亜種のそれ、すなわち、意識的かつ起動的なエージェントは、多くの文化において、所謂「霊魂」として肉体から遊離しても独立自存しうる実体であると考えられている。しかも、その「霊魂」たるや、生体と同型とされたり、軽くはあるが重さが全然ないわけではないとされたりもする。ここで人がもし、延長性や質量性ということを物体的存在の本質的徴表とするのであれば、霊魂は一種の物体的存在だということになるであろう。また、機動能力という力なるものは一種の物質的存在であるという見方をするならば、第一亜種の心は一種の物質的存在だということになる。しかし、このような近代科学流の見方は、“能為的主体は「心」を宿している”という思念の形成を份技する場面ではひとまず棚上げにしておくことが許されよう。近代科学流の考えを詰めて行けば、そもそも「心」なるものの存在そのことが否認されることは今諍(あらそ)わぬことにする。伝統的諸文化においては、形状をもつとか一定の重さをもつとかいうことは、決して物体的存在の排他的・判別的な特質とされていたわけではなく、亦、力なるものは総じて非物質的=霊的な存在であるとされていたのであること、このことにこそ思いを致すべきであろう。――われわれは素より伝統的な霊魂観の流儀で「心」なる実体を認める者ではありえない。が、近代科学流の流儀で物質一元論に自足する者でもない。この件については、本巻の最終章内で論ずる折りまで持越すことにし、以下暫くは“日常的思念”に即した行為主体観・行為観の問題構制を見定める作業に従事しておくのが順路であろうと思う。)」255-7P
(対話K)「大略叙上の理路において、能為的主体という生きている人間には、「内発的起動性を具えた非肉体的エージェント」が宿っており、覚醒時には「意識性を具えた起動的エージェント」(第二亜種の「心」)という「肉体(物体)」とは端的に別種の存在体が内属しているものと思念されるに至っている。(われわれとしては、「第一亜種の心」を以下では単なる「生命」と呼び、第二亜種のそれのみを「心」と呼ぶことにしたい。尚、この「心」が非物体的=非物質的=精神的存在と見做される機制や理路については第一巻第二篇での詳説をも参照されたい。)」257P
第二段落――「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係を規定し返し、実践論的視角において当の三項的関係を問題にする 257-60P
(対話@)「能為主体が「肉体プラス心」として、視角を変えて言い換えれば、非肉体的(非物体的=精神的)な「心」というエージェントを身体中に宿している存在体として観ぜられることにおいて、「肉体(および物的外界)」と「心」とが存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断される。とはいえ、この存在的截断は「心」と「肉体」とを無関係な二つのものと見做す謂いではない。今や「心」と「肉体」との関係、ひいてはまた、「心−肉体−外物」の関係が規定し返される。――この三項的関係は認識事実学の視角においても大問題であるが、これについては第一巻で一通り論考を済ませているので(本巻でも最終章において新たな準位で討究し直す予定)、爰では実践論的視角において当の三項的関係を問題にしておこう。」257P
(対話A)「まずは「心」と「肉体」との関係が論件である。――能為的主体は前篇第三章第二節でみた経緯で人格的各私性を有つものと了解され、且つ亦、前節でみた経緯で各私的“心像”を内属せしめているものと了解されている。この既成的思念を爰では前提として議論を進めて行きたい。(この既成的了解・思念の抜本的再検討は本巻最終章まで俟たれねばならない。)」257P
(対話B)「日常的既成観念では、「心」は起動的作用を直接「肉体」に及ぼす。――人々は、起動的作用の発現の機序についても影響の機序についても、問い返されると返答・説明に困憊(「こんぱい」のルビ)することであろう。われわれの看るところ、ここでは、生身の身体的主体が“内発的起動力”を発揮して対象物駆動的影響を“及ぼす”日常的体験の構構制が、そっくりそのままスライドされて、“内なる小人”とも謂うべき“心”とやらに内自化されるに至っているというのが事の次第であるように見受けられる。が、ここはまだ問詰める場ではない。暫く既成観念の線を辿ろう。――異能者は念力で対象的外物を直接に動かしたり、テレパシーで直接に他人の心を動かしたりもしうるが、それはあくまで異能者の特例的超能力であって、一般人の心は直接的には自分の肉体にしか作用力を及ぼさない。」257-8P
(対話C)「心は、間接的には勿論、対象的外物や他人を動かすことができる。が、それは自分の内属する身体を動かすことを介してのことである。この意味において、心にとって、自分の内属する肉体的身体は、対象的外物や他人を動かす「用具」として機能すると言うことができる。」258P
(対話D)「――心が用具的身体を介して外物や他人を動かす方式は、決して単に惰性体を押し動かすとか、惰性体を変形・解体、加工・破壊するとかいった方式には限られない。心は身体を作動させることを通じて、対象物の“内発的運動”を誘起するという仕方で、対象物を“自から”動かしめることも可能である。例えば、弓の弦を放すことで矢を飛ばせたり、堰を切ることで水流を奔出(ほんしゅつ)させたり、とりわけ対象が能為主体である場合、目配せ・身振り・発声わけても言語的発話という身体的活動を用具的に用いることで他者の内発的運動を“遠隔的に”起動させることさえ可能である。議論の進め方としては、しかし、身体の用具的使用方式というこの論点は後論の論脈に譲ることにし、爰では唯形式的に「心にとって肉体が用具的に機能する」という構制を銘記するに止めよう。」258P
(対話E)「尚、「心」が身体を用具的に使用するという覚識に使嗾されてのことかと想われるのだが、つまり、生身の主体と道具との関係に類比してのことと忖度されるのだが、「人称的に各私的な心」たる「自我」「私」が「身体を持つ」という想念も形成される。――ヨーロッパ語流の「私は私の身体を持つ」という表現における「私」は、単なる人称代名詞としての私ではなく、「身体」とは別個の、「身体の所有者」たる「私」という実体的「自我」の含みになっているように思われる。少なくとも論理的構制上はそうであろう。その点、「私には身体(「からだ」のルビ)がある」という日本語式の見方にあっては、身体は「私という一全体」の部分と見做されており、私なるものが身体から分離されてはいない。しかし、日本人の日常的観念においても、心が肉体的身体を用具的に使用するという想念はやはり厳存するのではないか。「心」は、身体の所有者でこそなけれ、「身体の使用者」であるという想念は否みがたい。――行為理論そのものにとっては、しかしいずれにせよ、心が身体の所有者であるかどうかは須要事ではない。留意されべきことは「心」(「精神的エージェント」)が肉体的身体を用具的に使用するという想念の厳存である。」258-9P
(対話F)「扨、能為主体が精神的エージェントとそれの直接的に使用する用具的肉体とから成るという想念が成立し、斯かる能為的主体が外在的環境に内在しているものと了解されている限り、「外在的環境−用具的肉体−精神的主体」という三分截図式が形成されるに至っていると言うことができる。が、この図式にあっては、「外在的環境」は能為的主体がそこに内在する舞台的環境世界というよりも、当事者意識にとっては寧ろ、精神的存在者たる内なる主体が用具的肉体を作動させて作(「はた」のルビ)らきかける外在的客体という相で覚識され易い。」259P
(対話G)「この覚識の図式は、しかし、構図的枠組みこそ相対的に安定的であれ、内部的分劃は多分に流動的である。用具的肉体を作動させることで所与の外在的客体に作らきかけるといっても、その客体に直(「じ」のルビ)かに肉体で作らきかけるとは限らない。例えば、直接的には手が手許(「てもと」のルビ)の物を動かすことによって目標客体に間接的に作らきかけるようなケース、すなわち、日常的表現で言えば「道具を用いて客体にはたらきかける」ケースがある。このような場合、道具までが用具的肉体の一部であるように覚識されること屢々である。逆に亦、例えば麦踏みをするような場合、足はむしろ外在的な道具のように覚識されたりもする。(これはわれわれの謂う「主体的身体の伸縮」という基礎的な体験事実の一斑である。この件については、第一巻の第一篇第二章および『世界の共同主観的存在構造』第二部第一論文第一節を参看されたい。) ――このような体験の場面に即すれば、起動的エージェントは必ずしも純然たる心という相で分劃されるわけではなく、“用具的肉体”も必ずしも皮膚的界面で劃された相で現識されるわけでなく、以って亦、いわゆる“外在的客体”も皮膚界面で閉じた肉体の外部に在るだけの存在体というより、“用具”を介して作らきかける対象的存在物というほうが当っている。」259-60P
(対話H)「茲に「主体−用具−客体」という三体図式が現成する所以となる。――謂う所の「用具」は、広義においては、肉体的=物体的な存在体には限られず、また、主体にとって用具的に機能する他主体をも含みうる。「客体」も、既在的に実在する物体的存在には限られず、“空無的な”対象でもありえ、加之(くわえて)、対象的に作らきかけられる他者をも含みうる。だが、主体的他者の介在するケースは次節まで持越すことにして、今暫くは、主体的存在者が唯一人しか登場しない範型での截り撮り、且つは亦、前節で一斑に論及した舞台的情景という契機を考察圏に引入れつつ、三体図式の基幹的な内部構制を問題にしておこう。」260P
第三段落――精神的主体は闇雲に起動するのではないこと 260-7P
(対話@)「「主体−用具−客体」、この三体図式においては「精神的主体が肉体的用具(これが皮膚界面を超えて伸・縮するにせよ)を介して外在的客体に移動的/変様的/生滅的な変化を生起せしめる」という構制になっているが、精神的主体は闇雲に起動するのではない。」260P
(対話A)「現実の行為場面では、人間は(そしておそらく或る種の高等生物も一定場面では)行為発動の構造内的契機として「表象」を泛かべる場合が屢々である。人は、なるほど、泛かべた表象を直接に作動させて物理的客体に作らきを及ぼすわけでも、泛かんでいる表象に物理的に作らきかけるわけでもない。しかし、人は恰度、設計図に則しながら製作したり地図を参照しながら運転したりするのと類比的な在り方で、想像表象に則しながら製作したり記憶表象を参照しながら運転したりもする。“知覚的現実界”に“実在”する設計図や地図を利用するのと類比的な仕方で“表象界”に“アル”想像心像や記憶心像を利用すると言っても宜(「よ」のルビ)い。(ここに謂う“知覚的現実界”“表象界”なるものの存在論上の身分については後論で補説・再検討するが、ひとまずは日常的思念に即しつつ、“知覚的現実界”は外部的実在界だということにし、客体や肉体もそこに含まれているものとして議論を進めておく段である。)」260-1P
(対話B)「人々は、“知覚的現実界”において事前に設計図を描いておくのと類比的に“表象界”において事前に想像心象を思い描き、収納場所から地図を出して参照するように記憶庫から出してきて記憶心象を参照する。(設計図を描くという行為にとって事前に想像心象を泛かべることが必要とされ、地図を探し出すという行為にとって事前に記憶心象を泛かべることが必要とされるという件については後論。)ここにおいて、設計図・地図も、一定の想像・記憶も、共に等しく、製作・運転という目標実現にとって手段的に機能していると言える。そこで、人がもし、手段一般を用具と呼ぶのであれば、設計図や地図はもとより、如上一定の想像や記憶の表象も用具に算入されることになる。これは定義の問題であるから、われわれとしては抗(「あがら」のルビ)うには及ばない。がしかし、われわれは「手段」という概念を「用具」という概念や「道具」という概念よりも広義に用いることにしたい。この配慮もあって、「用具」という概念は、対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなす物的(「ケルパーリッヒ」のルビ)存在体に限定して用いることにする。(但し、次節の過渡的な論脈内ではこの概念をもう少し拡大する。)このことにおいて、実際問題としては、われわれの謂う「用具」は、皮膚的界面で劃された肉体でこそないが、“伸・縮相での肉体”と相覆うことになろう。(従って、われわれの定義的限定からすれば、設計図や地図も、想像や記憶の表象も、それが対象的「客体」に作動的効果を及ぼす媒介体をなすkörperlich[肉体的・物体的]な存在体でない以上、手段ではあっても、用具ではない。)」261-2P
(対話C)「偖、「主体」が「用具的肉体」を起動し、それを介して「客体」に変化を生起せしめる際、それが意識的(「アプジヒトリッヒ」のルビ)行為であるかぎり、一定の表象を泛かべるのが普通である。この表象たるや、しかも、単なる参照資料というには尽きない。――表象は反省的には想像と記憶とに大別できるにしても、恒に必ず想像または記憶として自覚されているわけではない。というより、想像と記憶とは多分に混融しているのが実情だと言えよう。――表象のうちの或るものは、想像混りではあれ記憶心象として行為遂行の撰択的決定・調整の参考資料に供される。が、表象のうちの或るものは、記憶混りではあれ想像心象として、目標状景を予象する。そして、この予象が実現される。人は、例えば、手を挙げている状景を予象し→手を動かして→その表象状景を“知覚的現実界”に実現する。また、例えば、石を移している状景を予象し→手を動かして(この用具的起動を介して間接的に)→その表象状景を“知覚的現実界”において実現する。ここにあっては、予象的表象という“主体に内属する”“心的なもの”が知覚的現実界という“主体の外部の”“物的なもの”において実現する。この意味において、主体は表象という“心的なもの”を“物的なもの”に変換すると言うことができる。」262P
(対話D)「右に謂う“主体外部の”“物的なもの”は、しかし、“知覚的現実界”に属するものであり、或る種の論者たちに言わせれば、日常的には実在界だと思われているこの“知覚的現実界”なるものからしてそもそも一種の心像(表象とは別亜種の知覚心像)たるにすぎない。この論者たちの理路からはどうなるか、前節から持越した論件と絡めながら検討しておこう。」262P
(対話E)「論者たちは知覚的現実相は総じて主体に内属する心像であるという命題を共有しつつも、(a)超越論的な精神的主題に内属する心像が在るだけで物的実在など存在しない、という観念論、(b)心像とは別に物的実在も存在するが物的実在については認識できない、とする不可知論、(c)知覚心像は主体の内部に在るのだが物的実在の位置に投射・貼付された相で現識される(知覚的心像状景の現相在のうち第一性質的な部分は物的実在の現相在と照応している)とする照応説、これらに岐れる。」262-3P
(対話F)「このうち、(a)および(b)においては、たかだか“表象的心像”が“知覚的心像”に転換されるということに尽きるが、論者たちも、当事者たちの日常的意識にあっては、「予象的表象という“心的なもの”が“主体外部の”“物的なもの”へと変換され、仍ち、“知覚的現実界”において実現される」という相で意識されるということまでは認める。という次第で、(a)および(b)にあっては、われわれが嚮に記した“予象的表象の知覚的現実界における実現”という“体験的事実”は認めても、それ以上には進まず、知覚的現相の変化と物理的実在における変化との関係は問題にしない。しかるに、(c)にあってはまさにこの関係が問題にされるのである。」263P
(対話G)「われわれとしては、このゆえに、(c)の立場では「主体−用具−客体」の関係がいかなる構制にあるものとして理解されることになるか、これを検討してみる段となる。――われわれ自身は、第一巻で縷説した通り、知覚像内在説を採る者ではなく、従って亦、投射説を採る者ではない。が、行論の方略として、以下暫くこの(c)の立場に即した検討を許され度いと念う。――」263P
(対話H)「(c)の立場では、知覚的現相は知覚心像という在り方で実は心の内部に存在するとされ、外部的実在の位置に見えるのは一見そう見えるにすぎないとされる。(投射説といっても、文字通りに投射という物理的事象が生起するというのではなく、「内なるもの」が「外なるものに貼付された相で」現識される、という事態を“投射的貼付”という“比喩”で述べているだけである。尤も、投射ということが文字通りに生起すると主張されたとしても、この投射そのことによって物理的実在に物理的変化が生じるのだと強弁されるのではない限り、そして、“知覚的現実界”つまり論者たちの謂う“知覚的心像”における変化が本来「心の内部」で生起するのだと立論される限り、われわれの論点には響かない。)」263-4P
(対話I)「論者たちによれば、「当事主体は、目標情景表象を泛かべ、或る種の表象を参照資料としながら、用具という知覚心像を直接に動かし、そのことを介して客体という知覚心像に間接的に変化を生ぜしめる(そして、そのとき、その知覚像の変化に照応して物理的変化が生起する)」という話の筋になる。――ここにおける構制は、次の譬えによってイラストレイトすることができよう。新鋭の戦闘機があって、外界は直接には見えず、敵機との抗戦はもっぱらモニター・テレビ画面に即しておこなうものとする。ミサイルや機関砲の発射・発砲はテレビ・ゲームと同じような具合に、つまり、モニター画面の手前から頭を出しているミサイルや砲の所のボタン装置を押すことで遂行される仕掛けになっている。言うまでもなく、機内が“心の中”のアナロゴンであり、画面像ばかりでなく、ボタン装置や手なども“知覚心像”である。この“心の中”には、過去の戦闘状景の記憶や来たるべき戦闘の想像という“表象心像”も泛かぶ。起動的エージェントは「ボタン装置に指先を置いている手」という用具を動かすことでミサイルという客体を動かすと言ってもよい。が、「手→ボタン装置→ミサイル」という伸長せる肉体的用具を動かすことで画面の敵機という客体に作らきかけるという言い方もできる。いずれにしても、現認できるのは機内での現象、つまり“知覚心像”のあいだでの継起的・連鎖的な“運動的変化”だけである。とはいえ、いま問題の(c)という立場においては、ミサイル知覚心像や敵機知覚心像は物理的実在ミサイルや物理的実在敵機の現相在と“照応性”をもっているものと了解されており、物理的ミサイルの発射や物理的敵機の撃墜という実在的な物理変化も生起しているものとされる。――論者たちは心の中での行為現象(および、それと物理的な実在界での事象との照応)をこのような描像で“説明”する。(尤も、論者たちといえども、当事主体の日常的意識においては、知覚像は“心の内部的場所”に見えるのではなく、外部的実在の位置に“貼付された相”で見えるいう“主観的事実”を否認しはしない。日常的意識にあっては、主体は“心の中”(画面内)の“客体”(敵機)を“心の中”で射つことで別の場所(客観的物理空間)に在る実在的客体を射つなどとは思いもよらない。主体は外部のあの位置に現認される知覚的対象に作らきかけることで、その同じ場所で物理的実在客体に物理的変化を生起させるものと信じている。このことを承知・前提したうえで、論者たちは“実際にはどうなっているか”を“説明”してみせるのである。)」264-5P
(対話J)「論者たちのこの“理論的説明”は、「主体−用具−客体」の動態的関係の説明としては、素朴な日常的意識よりも却って厄介な困難を抱え込んでいる。この困難たるや、慧眼な読者には記すも蛇足ながら、知覚像内在説という理論的ドグマに淵源する。が、このことを駄目押しする前に、既に日常的意識における「精神的主体−肉体的用具−対象的客体」という三体図式からしてそもそも孕んでいる難題を指摘しておかねばなるまい。」265P
(対話K)「人々は、日常的意識においては已に、「心」なる主体は、外的客体に直接的に作用を及ぼすことはできず、もっぱら肉体を動かすことによって甫めて、間接的に客体に作らきかけるものと了解している。心はなぜ外的客体に直接的に作用を及ぼすことができないのか? 反っては亦、心はなぜ肉体を直接的に起動することが可能なのか? 心は如何なる機制で肉体を動かすのか? このことが問い返されてしかるべきはずである。(尤も、オカルト的能力に恵まれた異能者は外物に直接作用を及ぼすことができ。肉体も物体的存在という点では外物と同種である。常人といえども、対象が肉体である場合には、オカルト的作用を発動しうるということなのか?)」265P
(対話L)「理由を問い返されると困惑するにせよ、人々は日常的経験を通じて、心が外物を直接に動かせないことを“熟知”している。また、肉体の起動を日常的に“体験”している。肉体運動を介することなく、外物を直接には動かせないというのは、さしあたり“経験的事実”ということで“追認”しておいてもよい。だが、肉体の内発的起動を感じるということまでは体験的事実であるとしても、「心なるもの」が「肉体なるもの」を動かすということはおよそ経験的に現認されることではない。心が肉体を動かすというのは、已にして説明的自家了解である。この“説明”は再検討を要する。」265-6P
(対話M)「時に、前記(c)の立場では、行為者が覚知している肉体や客体を“知覚心像”として遇するので、“肉体”を動かすことも、それを介して“客体”を動かすことも“心中の出来事”ということになる。だが、問題場面が“心中”に移されたからといって、難題が消えるわけではない。なるほど、心というものは、想像表象を創出したり記憶表象を喚起したりすることが“できる”ように思われる。そのかぎりで、表象心像に直接作用を及ぼすことができるように思える。とあれば、“知覚心像”もやはり“心像”なのであるから“肉体”という“知覚心像”にも直接作用できるとしても“おかしくない”かもしれない。しかし、それなら“客体”もやはり“知覚心像”なのであるから、これに対して、“肉体”を介することなく直接に作用できるはずではないのか。なぜそれができないのか? 論者たちは、“知覚心像”が「照応」している物理的実在界の物理的機構が、肉体を介することなしに直接客体に作用することはできない構制になっているからだ、と答えざるをえまい。となると、問題場面は再び外的実在界に差戻される。が、論者たちは単純に元の木阿弥に返ったのではない。“知覚心像”と外的実在との「照応」の実在的機制がどうなっているかの説明という困難な課題を背負こんでいる。おまけに、論者たちは、表象心像や知覚心像の少なくとも一部に精神的エージェントが直接的に作用するということの説明課題をも対自化せざるをえない破目になる。」266P
(対話N)「われわれとしても、このさい、論者たちを嘲笑して済ますわけにはいかない。論者たちが、日常的・常識的思念を単に追認するのではなく、理論的説明を試図する過程で顕在化させた問題に決着をつける必要がある。この問題は実は存在論や認識論とも絡み、――このこととの関連で前記(a)、(b)の立場を顚から無視することなく対質する必要も出てくる次第であって――爰で直ちに論決する段にはない。(学史に鑑みるとき、これは寔(まこと)に大問題なのであって本巻の最終章まで連綿と持続する所以ともなる。)」266-7P
(対話O)「この課題に応えるためにも、「心が肉体を起動し間接的に外的客体に作用する」という日常的思念に溯って再検討し、問題構制を整理し直し、われわれ自身の回答を用意していく作業が求められる。」267P
第四段落――「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖をも勘案 267-73P
(対話@)「これまでの行論においては、「主体−用具−客体」という三体図式について、もっぱら「心→肉体→外物」という向外的作用連鎖を問題にしてきたが、「外物→肉体→心」という逆方向の向内的作用連鎖も勘案されねばならない。――論者の中には、「外物→肉体→心」という連鎖は感性的認識に関しては問題になっても、実践論にあってはもっぱら「心→肉体→外物」だけが問題である、と主張するむきもありえよう。がしかし、実践と認識とは隆替的フィードバックの相にあるとか循環的ループを形成するとかの域を超えて、遂行的行為の構造内部的契機として認識が存在するというのが実態である。――」267P
(対話A)「ところで、心→肉体→外物の連鎖にあっては、「肉体→外物」の部位は(肉体も外物も同類の物質的な存在であるからカテゴリー・ミステイクに陥らないといった理屈ではなく、)日常的経験において“確認できる”ことのように想える。が、それにひきかえ、「「外物→肉体」という作用連鎖の部位に関しては様態が異なる。先に扮技したように「心」なる格別なエージェント、すなわち、意識性と起動性を具えたエージェントが主体的身体の内部に宿っているという想念が形成されるのには、しかるべき機縁・経緯・事由がある。そして、その「心」が「肉体」に起動作用を及ぼすかのように思念されるのも謂われなしとはしない。だがしかし、体験的に“確実”なのは、体内に起動感が感じられるということ、このことまでである。「心」が「肉体」を起動するというのは、内観といった仕方で現認されることではなく、嚮にも指摘した通り、一種の説明的自家了解たるにすぎず、再検討を要する。当の“説明”に難があるとすれば増々そのはずである。この再検討課題は、心の作らきによって、表象が知覚的現実界において変換的に実現されるという想念(或る種の理論的立場をも視野に入れて言えば、表象的心像ないし/および知覚心像が物理的実在界において変換・実現されるという命題)の批判的検討という課題とも結合する。」267-8P
(対話B)「反(「ひるがえ」のルビ)って、外物→肉体→心という逆向きの連鎖にあっても、「外物→肉体」の部位に関しては一応“経験事実”ということで認めておくこともできよう。だが、「肉体→心」という部位に関しては話が別である。なるほど、第一巻でみた通り、肉体的内部過程、とりわけ脳内の過程によって心理現象が産出されるという理説にもそれなりの謂われがあるし、肉体が心に影響するように思い込む機縁となる日常体験にも事欠かない。とはいえ、肉体的過程が心とやらに作動するということは、内観という仕方で現認される事柄ではない。内観が及ぶのは(また、大脳生理心理学的研究の実証的知見の及ぶのは)肉体的状態の変化と心理的状態の変化とのあいだの一定の対応的即応性・並行性までである。そして、ここでもまた、いわゆる知覚心像ないし/および表象心像と肉体的過程(とりわけ脳髄的過程)との変換関係、生理的過程現象から意識現象への転成ということが問題になる。」268P
(対話C)「斯うして、詮ずるところ、いわゆる心身関係ないし心脳関係、それも「心↔身」(心↔脳)の双方向的関係がまさに解明さるべき問題として焦点化される次第なのである。」268P
(対話D)「われわれは今此の場で心身関係という哲学上の大問題に周到に立入るべくもない。が、実践論の脈絡では、この件は、実践主体が行為選択・行為起動の自由、すなわち、いわゆる意志の自由を果たして有っているのかどうかという問題、古来、実践論にとって本質的な一問題とされてきた論件を成す。この論件は、われわれにとって、決定論と非決定論との対立をどう捌くかという大問題とも不二である。このかぎりで、爰ではこの大問題への回答の伏線を調(「ととの」のルビ)えつつ、差当っては俗に謂う遠心的過程と求心的過程との“ループ”を論材とし、前節以来の「主体−環境」の截断が原理的にはいかなる次元において止揚さるべきであるかを示唆しておきたいと念う。(尚、以下での一面的で且つ皮相な論述を補全するものとして、別著『身心問題』一九八九年、青土社刊、および、『哲学の越境』一九九二年、勁草書房刊、第四章「身体的現相と<内奥>の意識」、ならびに、拙著「<心−身>関係への視角――意志行為論のための管制――」、雑誌『エピステーメー』、一九七九年、六・七月合併号、朝日出版社刊所載、を参看頂き度い。)」268-9P
(対話E)「偖、常識的にも或る種の学理的立場においても、知覚的認識では心は受納的、意志行為では心が発動的とされ、謂わば対照的に考えられている。この際、「心→肉体→外物」という三体図式が前提的な枠組とされており、「外物」も構造内的要因として勘考されているには違いないのだが、焦点は「心−肉体」の直接的関係の部面にある。そして、知覚では「肉体的過程が心に影響を及ぼす」のに対して、行為では「心が肉体的過程に影響を及ぼす」とされているわけである。この「心と肉体とのあいだの作用関係」にあっては、いわゆる「心像」も介在的に位置づけられるのだが、近代的学理では直接的作用関係の現場は脳に或るとされ、脳内における「生理的過程から心理的現象への転成」および「心理的現象の生理的過程への転成」ということがポイントになる。」269P
(対話F)「ひとまず、学理的な脳生理学的論議は措いて、日常的な思念相に即して言えば、「知覚」と「行為」とにおける「心−身」関係の「逆方向性」ということは、さしあたり次の三つに分けることができよう。/第一に、知覚の場合には、肉体的過程のほうが心理的過程よりも時間的に先行するのに対して、行為の場合には、心理的過程のほうが肉体的過程よりも時間的に先行する。/第二に、知覚の場合には「心」は受動的であるのに対して、行為の場合には「心」が「体」に対して起動的であり、能動的である。/第三に、知覚の場合には「心」被拘束的・被決定的であるのに対して、行為の場合には「心」は選択の自由をもち、且つ、内発的・自発的である。/このうち、第三条については基本的には次章以下の論脈に譲ることにして、第一・第二条の思念を爰では問題にしておこう。」269-70P
(対話G)「日常的な知覚体験では、水に触れれば直ちに冷たく感じられ、眼を覆えば瞬時にものが見えなくなる、等々、……同時でこそあれ、肉体的過程の時間的先行性などということはおよそ直截には感知されない。(なるほど、氷の方に手を伸ばす運動過程とか眼の前へ掌を翳(「かざ」のルビ)す運動過程とか、これは時間的に先行するかもしれない。が、今問題の「肉体的過程」というのは、知覚を生滅させる直接的な過程の筈であるから、混同してはならない。)ところが、俗に「心ここにあらざれば、見えども見えず、聞けども聞こえず」と謂われるような事態を反省的に対自化する場合がある。或いは亦、怪我(「けが」のルビ)したことに気づかずにいて後になって(血を見た時点で)はじめて痛みを感じ始めるといった場合もある。このような場合、肉体的過程はしかるべく進行し・完了している筈なのに意識化の心的過程が開始されなかったのだと考え、こういう事態が生じうるのもけだし肉体的過程が先行し意識現象が後続するという機制になっているからだと考えれば、一応の説明がつく。この線で押し通そうと思えば、肉体的過程と意識過程とが同時相即的であるように感知される平常的知覚の場合、時間的先行性がそこでも実はあるのだが、タイムラグが僅少なため恰かも同時であるかのように錯覚されるのだ、と強弁する途がある。だが、これは決して唯一可能な説明というわけでも唯一合理的な説明というわけでもない。批判は保留するとして、爰ではとりあえず次のことだけを指摘・確認しておこう。右の“説明”の立場にあっては、知覚の肉体的過程(神経生理的過程)は所与の外的刺激に応じて受動的・機械的に“一義必然的に(?)”進行・完結するという構制が前提になっているということ、翻って、直接的・実証的には肉体的過程(但し、先の例での氷の方へ手を伸ばす運動とか、これに見合う神経生理学的過程とかでなく、まさに意識現象へと“転成”する現場的過程)の心的現象への時間的先行性ということは現認さるべくもないこと(僅かにせよタイムラグがあるのか、同時なのかは直接的には判定できず、所詮は理論的見地からの推論でしかありえないこと)、之である。――意志行為の側についてみてみよう。行為にさいして目標状景の表象や逡巡といった心理的過程が先行することが内観的に認められる場合があることは慥かでも、これを以ってそのまま今問題の心的過程の時間的先行の証拠とするわけにはいかない。それは、知覚の場合の(例えば氷の方へ手を伸ばす運動過程といった) “別の肉体的過程”に対応するとでもいうか、一応“別の心的過程”ではないか、と疑われうる。というのも、今論点になるのは、いわゆる決意的起動の瞬間における「心的過程の肉体的過程への“転成”という在り方での“因→果”的な先行性」だからである。あれこれの“副次的な心理現象”がいくら先行的に内観されても、それは今問題の先行性の証拠にはならない。体験的には、決意したらとたんに(同時相即的に)行動が生ずる場合もある。それどころか、急ブレーキを踏んで、その後でようやく心理現象が内観されるような場合さえある。という次第で、直接的体験に即するかぎり(そしておそらくはまた神経生理学的観察に即しても)、決意的起動が必ず肉体的過程の起動に時間的に先行するとは、現認すべくもない。意志行為にあっては心理的過程が肉体的過程に先行するという思念を使嗾する現象・事情があることは認めるのに吝かではないが、学理的には、それは内観的現認ではなくして、むしろ推論の所産である。この推論たるや、後論での批判の論点を予示して一言しておけば、肉体は惰性体であって自発的に運動を起始しえない筈だという想念を前提している。これは何ら唯一合理的な推論ではなく、そもそも、意志行為においては心的過程が時間的に先行するというのは実証的事実ではない。――総じて前掲第一条に謂う時間的先行性は、知覚の側についても行為の側についても、短慮の見であって、確定的事実ではないのである。」270-1P
(対話H)「第二条に関して聊か検討してみよう。知覚の場合(想像とは違って(?))、外的刺激が肉体的過程を介して心に到達しないことには始まらないものと思念されている。そのさい、「刺戟−伝播」の肉体内部的過程の所産的“与件”はとかく刺戟の質と量によって決定されるかのように思われ易いのだが、ともあれ、心は当の“与件”を素材ごと創り出すことはできず、(“心窓”を開閉して当の“与件”を受納・遮蔽したり、それに加工的変容を加えるという“対心像的能動性”は有ってはいても)、本質的に受容的であるとされる。だが、生理心理学的な知覚研究の教えるところによれば、知覚過程は、あながち受容的ではない。神経系というものは、系統発生論的・進化論的にみても、もともと刺戟受容・伝播の配備ではなく、筋肉を支配・統御する機能を担うものであり、むしろ遠心性指令パルスの発出現況が意識にのぼることにおいて知覚意識態が現成する。勿論、遠心性指令パルスの発出の在り方は、入来刺戟の求心的到来状況をも規制要因としており、絶対的な自発性に負うものではない。遠心性過程と求心性過程とは相互調整的である。この故に、いわゆる“注意の向け具合”といった実践的・能動的な態度性に応じて(求心的過程のアクチュアルな在り方も変様し、以って)“現識される知覚意識態”が規定されることにもなる。このさい、遠心的過程を「心なるもの」が統御しているか否かは、別途の討究を要するが、そしてまた、求心的過程が規制的一要因をなすことも確かであるが、しかし、知覚が本質的に受容的とは見做せないことが銘記されえよう。――反(「ひるがえ」のルビ)って、いわゆる意志行為の場合、慥かに体内に起動的開始感が覚知される。だがしかし、この遠心的活動は、決して何の機縁もなしに発動されるのではなく、求心的に到来した“信号・情報”を機縁として発動されるのではないか。そして、そのさいの遠心的パルス発出の瞬時的強化が起動的緊張感の相で意識にのぼるのではないか。もしそうだとすれば、ここでの基本的な構制は神経生理学的には却って知覚のそれとも類同的であると言わねばなるまい。――感性的知覚と意志的行為とは対照的というよりむしろ相同的というどころの話ではない。いわゆる“注意作用”“態度設定作用”が“意志作用”であるとし、内発的起動感が遠心性指令発出の特段的な状況の現識化であるとするならば、知覚と意志とは不可分的一態を成し、知覚(「ヴァールネームング」のルビ)が行為の構造内的一契機として位置づけられるというより、知覚(「ヴァールネーメン」のルビ)も意志的行為の一形態だと言われてしかるべきであろう。(神経生理学的にみて「求心的⇄遠心的」な過程がルーティーンに進行する場合には、馴化(「ハビチュエイション」のルビ)に限らず、知覚的意識がことさらに現成することもなく、意志発動がことさらに意識化されることもない。平常的な生体活動の大部分は意識性を伴うことなく進捗するのが普通とも看られうる。生体にとって“異常”な状況に際してのみ“意識化”が現成する。「身⇄心」関係を論考するにあたっては、このことに留意し、一切が「肉体的過程⇄意識現象」という相にあるかのごとき臆断を卻けて掛からねばなるまい。)」271-3P
(対話I)「簡略ながら以上、俗に知覚と行為とにおける肉体的過程と心的現象との先行・後続の逆関係性と謂われる事態(前記の第一条項)、および、知覚と行為とにおける肉体と心との能動・受動の逆関係性と謂われる事態(前記の第二条項)の再考を通じて、謂う所の「逆関係性」を安直に追認すべくもないことを対自化した。――或る種の理説(folkway psychology (習俗心理学)をも含む)において、当の両命題が追認されているのは、「肉体は(その状態を物理必然的に向内的に決定されている)惰性体にすぎない」というドグマティックな想定の下に、「能動的な意識性エージェントとして精神(「こころ」のルビ)なるもの」を要請的に措定することを俟ってである。このことをもわれわれは再確認する運びとなった。」273P
(対話J)「今や、われわれは嚮に扮技的に“追認”した「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就くべく、議論を半歩前進させておかねばならない。」273P
第五段落――「身−心」分離そのことを相対化し、延いては止揚する途に就く 273-8P
(対話@)「人々は「身−心」の二元的分離と相即的に、心が肉体的過程(神経生理学的過程)を介して与えられる“内的与件”を現認(知覚)するとか、心が肉体に作らきかけて起動させるとか、心と体(「からだ」のルビ)とのあいだの因果関係を考えたり、肉体的過程と心的現象とのあいだに一方から他方への“変換”“転化”が生起すると考えたりしてきた。(尤も、意識現象と肉体現象とのあいだの並行性を主張するに留める立場もありうる。が、単に並行性を主張するだけでは“説明不足”“説明の回避”という憾みがある。そこで、学説史上の心身並行論は、超越的起動者=神を持出して並行の成立する機序を“説明”しようと試みたのであった。われわれとしては、しかし、神という超越的創造者・起動者を持込むたぐいの並行説は敬して遠ざけるだけで済ませることにしたい。)」273-4P
(対話A)「惟うに、しかし、果たして肉体的過程と心的現象とのあいだの因果的作用関係とか、心的現象と物理的・現実的な肉体的過程とのあいだの“変換”“転化”とか、このたぐいのことが実際に存在・生起するのであろうか?」274P
(対話B)「この件について、知覚の場合に限らず、総じて認識的世界論の論脈では既に第一巻において説述しておいた。それゆえ、知覚その他の認識的場面での「「身−心」関係について爰で再論することは省きたいと思う。(但し、本巻最終章において、その部面をも含めて論決する。)爰では、もっぱら謂う所の「意志行為」、そこにおける「心の機動性」という部面に関して暫定的に述べ、次章で問題になる「自由意志」「意志の自由」という論件への伏線を敷く域に留めることで次善としよう。」274P
(対話C)「偖、われわれとしては、結論的回答を先ず記しておけば、心身の因果関係を認めない。従って、いわゆる意志行為に際して「心」が「体」に起動的な作用及ぼすとは考えない。また、意識現象ないし心的活動が肉体的過程(神経生理的活動)に転化・転成するとも考えない。」274P・・・パラダイム転換的なところから、因果論の批判も押さえておく必要があります。
(対話D)「それでは、人々が意志行為の際に内感する起動感をどう説明するのか? 最終的な説明ではないが、とりあえず次のように考える途のあることを陳べることで暫定的“説明”に代えておきたい。――人々がいわゆる意志行為に際して内に感じる起動感は、心なるものの作動の感知ではなく、一定の肉体的過程の始動(神経支配(「インネルヴァチオン」のルビ)的筋肉運動の起始)の感知にほかならない。起動・始動しているのは、心なるものではなくして「体」なのである。この起動は遠心性神経パルスの発出による一定筋肉活動の開始にほかなるまい。そして、それの感知・感受という“精神的活動”は、精神なる存在体の自発的自己活動ではなくして、起動時における中枢神経の機能的状態に“随伴”する一現象と考えられる。」274-5P
(対話E)「右の暫定的“説明”では、前篇第三章第一節での暫定的な措置とも照応させるべく随伴説の構制を仮りに採っている。が、随伴説が最終的な説明たりえない所以でもあるのだが、これで以っては、依然として次の疑問が残るであろう。すなわち、精神(「こころ」のルビ)は肉体に起動的作用を及ぼすのではなく、単に意識するだけであるのだとしても、感知という活動(意識活動)を営なむのではないか。そして、この感知という一種の認識にあっては、知られる側と知る側との二項的関係があるのではないか。しかもこの関係にあっては、肉体的過程という物質的存在(それが神経生理的機能状態と呼ばれようともあくまで物質的存在)を能知が直(「じ」のルビ)かに感知するという一種のオカルト的認知力の存在が想定される所以となるのではないか、云々。――随伴説的な構制に単に仮托しているかぎり、右の疑問は慥かに、直ちには解消しない。われわれの暫定的な“説明”では、心が肉体的過程を作動させるというオカルトは免れえても、肉体的過程という物質的存在を“直かに感知する”という“オカルト(?)”が却って“導入”される形に“なって”いる。――以下暫くの間は、しかし、「心が肉体に作動力を及ぼす」という難題が回避されたことに免じて、随伴説的構制への仮托で話を進めることを許されたいと念う。」275P
(小さなポイントの但し書き) 「この場を藉(か)りて関説しておきたいことがある。それはいわゆる「人間機械論」に関してである。人間機械論のポイントは、人体はもっぱら物理的機制のみで動くのであって、体を作動させたり制御したりする精神的エージェントは内在していない、という主張にあるといえよう。人間機械論者といえども人間に意識がアルことは否認しない。論者たちも一種の随伴説を採っていると言うこともできる。――動物機械論は聊か趣きを異にするところがある。此説では動物には意識はナイという主張にさしあたってのポイントがある。とはいえ、論者たちの中には、動物にも感性的レヴェルでの意識現象なら認める者もある。但し、「自己意識性」つまり「意識しているという意識」を欠くと言う。そして、此説にあってもやはり、起動的・統御的な精神的エージェントの存在が否認される構制になっていることは付言するまでもない。――/さて、意識現象の随伴説ということまでは認めても、肉体を起動・制御する精神(「こころ」のルビ)というエージェントを認めない見地を採るとき、「主体−肉体−客体」という三体図式は“止揚”の途に就く。そして、「主体−環境」の分截も含意が異なってくる。/われわれの謂う三体図式は「精神的主体が用具的肉体を作動させて外在的客体に作らきかける」(ないし/および「外的客体が肉体を介して精神的主体に影響する」)という了解に見合うものであった。そのさい、しかも、「主体(=心)」と「肉体」とは自発的存在と惰性的存在という別種性の故に存在的に截断され、また、精神的「主体」が「用具」として直接的に用益可能なのは肉体に限られていて、外的対象とは間接的にしか関わることができないということで「肉体」と「客体」とのあいだも分截されたのであった。しかるに、心なるものの自発的起動性が否認されて、意識現象はたかだか随伴現象にすぎないものと見做されるとなれば、「心的主体」と「物的肉体」とを二元化的・存在的に截断すべき謂われがなくなる。そして、この「物的肉体」(という「機械的存在」)と「物的客体」とのあいだを、心的主体が直接的に用益可能なものとそれの不可能なものという廉(「かど」のルビ)で分截すべき謂われもなくなる。なるほど、それでもなお、肉体は意識現象を随伴する特異な存在体としての一般の客体物から区別されるに値するように思えるかもしれない。依って亦、「意識現象を具備せる肉体的存在」としての「心身的主体」を「外部環境」から分截することは依然として妥当なことと考えられるかもしれない。だが、原理的には最早これらの区別・分截は必ずしも妥当しない。――という理由はこうである。われわれは嚮には、「脳中枢の神経生理的機能状態」に「意識現象」が「随伴」するかのように述べた。が、それは“随伴”という仮托的機制を判り易く伝えようと図った表現方式だったのであり、意識現象が脳内にアルと言おうとするものではなかった。俗に意識現象と呼ばれているものは、われわれに言わせれば、フェノメナルな世界諸現相(いわゆる知覚的現相や表象的現相など)を単なる心理現象であるかのように改釈したものなのであって、行文中で繰り返し指摘してきたように、いわゆる知覚現相はもとより表象現相ですらむしろ“身体外部的な場所”に現前する相でアル。それは決して脳という場所に泛かんでアルわけではない。(われわれが“超越論的身体=脳”とやらを想定して、これに“意識界”を内在させようとするがごとき形而上学的理論を立てないことは爰に絮言を要せぬであろう。)「脳中枢の機能的状態」に“随伴する現象”だからといって、脳内に定位されてアルわけではないのである。あまつさえ、「脳中枢の機能的状態」と記したものも、精確には「脳中枢という場所に局定的に存在」するものではない。意識現象を人称的各主体に帰属化した相で神経生理心理学的に論じる文脈では表現の便宜上「脳中枢の神経生理的機能状態に」と記したとしても、謂うところの「脳中枢の機能的状態」なるものは、中枢という局定的場所で自閉的に完結しているものではなく、オープンシステムを成している。なるほど、“実用的”な常識的見地では、オープンと言ってもたかだか末梢から外的環境の一部分までの範囲で問題にすれば足る。がしかし、原理的・存在論的に言えば、当の機能的状態は、総世界的諸要因の“函数”とも謂うべき在り方をしており、世界大のオープンシステムと観ねばならない。そして、このオープンシステムにとっては、皮膚的界面の外部/内部という区別はおよそ本質的に分劃ではない。という次第で、ここではもはや、心/身の存在的截断はもとよりとのこと、いわゆる「心身的主体」という当体と「外部的環境」との分截も、本質的には妥当しない。“主体”と“外部環境”との分截は、巨大なシステムの錯分節化として措定される「当体」と「環境」との“便宜的”分劃たるにすぎないのである。(前節で叙べた「主体と環境」は、原理的な次元においては、かかる「当体−環境」系の一定在形態として、“当体”および“環境”という“錯分節項”を含む“函数的・機能的な連関態”の相にあるものとして規定・了解されねばならない。) ――/ところで、「人間=機械」だとすれば、人間にとって「意識がアル」ことは無用の長物ではないのか? 単なる随伴的意識現象などというものは生物体にとって無用・無価値ではないのか? 能知能意的で撰択の自由や起動の自由を有った精神的エージェントなるものが存在し、それが肉体的行動を領導・統制するというのであれば、生体が危険を回避したり適合的・合理的な行動を営なむのに有用・有意義でもあろう。しかるに、たかだか“随伴現象”として覚知的現識にのぼらせるだけで、肉体行動を領導・統制する作用力のない意識などというものがアルとは全くの贅事と言わねばなるまい。生物進化論的過程で意識現象というものが生成したのは、生物の生存にとって有用・有意義な機能を果たす意識的領導・統制の作用力を有つものとしての筈ではないのか?――この疑義は尤も至極である。いわゆる脳神経的過程によって生体の活動が自動的に調整されているのだとすれば、そして、この活動状態が折々に随伴的に意識化されるだけなのだとすれば、意識現象などというものは生体にとって全く無用の長物と認めざるをえまい。意識はたかだか観照(「テオレイン」のルビ)のためにあるということになってしまうであろうから!/爰では、しかしまだ、右の疑義に応えうる段にはない。この疑義は「随伴説」にとって致命的な刺である。われわれが、暫定的に“随伴説”に仮托はしても、最終的にはそれを止揚する所以でもある。――示唆的に一言しておけば、随伴説は実体的存在としての心(精神)なるものの自存性こそ否認するものの、依然として物質的存在と意識現象との“二元論”(脳の生理的状態という物質的存在とそれとは別種の意識現象なるものとの“二元論”)を採っており、しかも、物質的存在なるものこそが真の実在であるという想念を維持し、いわゆる意識現象との関係における「物体的存在」の存在論的身分を検覈しない。ここに随伴説の難がある。われわれとしては、この難点を批判的に克服することによって随伴説やいわゆる人間機械論を止揚するであろう。(それに伴って、前段での「疑義」も解消する筈である。)」275-8P
第六段落――この節のまとめと次節(当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されること)へのつなぎ 278-81P
(対話@)「われわれは当面“随伴説”に仮托する方式を採り、以って「心なる主体」の起動性・領導性を“原理的”次元では臆言すべくもないことを対自化するが、しかし、行為の当事者はいずれにせよ「主体−用具−客体」という三体図式で自家了解しているのが日常的現実であり、そこでは「心」なる能知能意的エージェントが肉体的用具を介して外的実在に作らきかけているものと思念されている。(そして、知覚的認知に際しては「客体」が「肉体的過程」を介して「精神的主体」に影響し、以って知覚を現成せしめるものと了解されている。)」278-9P
(対話A)「実践理論の構図を見取るためには、単にフェア・ウンスな議論に終始するのではなく、当事者たち自身のフェア・エスな思念的事態が常に視野に収められていなければならない。」279P・・・弁証法的展開
(対話B)「このかぎりで、次節でのわれわれの論考は、当事者思念相における「主体−用具−客体」の三体図式を前梯・基底としつつ展開されることになるであろう。」279P
(小さなポイントの但し書き)「本節を閉じる前に、「主体−用具−客体」図式に定位した所有権論について、余録的に若干言を費しておくことを許されたい。/周知の通り、学説史上、「私は私自身の身体を持つ」という命題を鍵鑰として、いわゆる「自己労働にもとづく所有」なるイデオロギーが主張され、多くの論者たちによって支持されてきた。そして、何と、近年たらためてそれが新たな粧いのもとに愈々(いよいよ)優勢になりつつある慨(がい)がある。/J・ロックは「人間は、各自,自分自身の身体に対する所有権を持っている」「彼の身体の労働はまさしく彼のものであると言ってよい」というところから、労働生産物は労働主体の「所有物」になる旨を説く。(J.Locke;Two Treatises of Government.1690.Ed.by P.Lasiett.1960.p.305f.) ・・・『資本論』的にはあり得ない論理/人間は各自の身体に対して所有権を持つという命題は、人身保護律をめぐっての論議その他、思想史的な前梯や背景があってのものだとしても、ヨーロッパ流の日常的表現・思念である「私は私自身の身体を持っている」という想念の追認に根差すものであると言えよう。しかるに、先の行文中でも示唆的に述べておいた通り、人々が「私は私の身中に居る」という具合に思念・表現することなく、「身体を持つ」と思念するのは、人格的主体たる自我(「わたし」のルビ)が身体を用具的(道具的)に使用しているという想念に基いてのことであろうかと思われる。とすれば、用具を持つ(それも単に「手に持つ」という次元での「持つ」ではなく、「所有権を持つ」という次元での歴史的に成立した事態)との“アナロジー”で「身体を持つ」と思念し、その思念を“適用”するかたちで道具ひいては道具を用いての生産物に対する“所有権”を“基礎づける”という“循環”が犯されていると評さねばなるまい。/爰で誌しておきたかったのは、しかし、右のことより。むしろ労働生産物が労働主体の所有物だとされる構制に関してである。生産物はなぜ労働主体の所有物と認められるのか? 労働という身体活動の生産物は、“身体の延長”“延長せる自分の身体”という相で思念されるからなのか? この契機も慥かにあることであろう。が、ロックを“受けて”リカードが労働生産物を「労働がbestow (投下)された[物resと化せられた]もの」と看じ、投下労働価値説を開陳したことに鑑みるまでもなく、労働という心身的活動において目標表象という“私の思い泛かべた”“私の心的なもの”が“用具的肉体”を起動・統御する私の労働を介して“客体的存在”へと“変換”“転成”されるという具合に思念される。(これはまさにあの「主体→用具→客体」という三体図式における思念相の一具現にほかならない!)生産物は謂うなれば私の“化体”なのであり、“化体”という“自己疎外”態にあるとはいえ、やはり私であり、“私は化体相での身体を持つ”。このような構制で生産物所有権が“権利づけられる”論理になっているように看ぜられる。/われわれに言わせれば「所有」「所有権」ということは、そもそも一人の主体と客体物とのあいだでの直接的な「主体−客体」関係なのではなく、本質的に間主体的・共同主体的な関係態の一射影にすぎないのだが(後論参照)、とりあえず叙上の“論理構制”に徴するとき、いわゆる「自己労働にもとづく所有権」なるものは「主体−肉体−客体」の三体図式が(本節の行文中で対自化したように)原理的には妥当しないことに鑑みただけでも権利づけRechtfertigungを欠く所以となる。」279-81P・・・「能力をコモンとしてとらえる」ところからのとらえ返し
2025年11月16日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(11)
たわしの読書メモ・・ブログ718[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内に予期されることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する 224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起価・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は)“存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成”(これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること 232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相にあるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的行動を通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆されはしない。尤も、知覚だと思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている”(つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者を前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張されうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚像内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚像内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とされるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相”(知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P
たわしの読書メモ・・ブログ718[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内によきさけることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する 224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起か・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は) “存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成” (これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること 232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相におるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして、前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的恒同をを通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆とれはしない。尤も、知覚だち思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている” (つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが゛道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者わ前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張それうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚蔵内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚蔵内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。
」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とそれるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相” (知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内に予期されることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する 224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起価・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は)“存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成”(これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること 232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相にあるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的行動を通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆されはしない。尤も、知覚だと思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている”(つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者を前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張されうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚像内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚像内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とされるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相”(知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P
たわしの読書メモ・・ブログ718[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(11)
第二篇 営為的世界の問題構制
第一章 環境と主体の分截と実践理論の図式
第一節 環境と主体との分截
(この節の問題設定−長い標題@)「営為的世界は“動態的均衡”系を成しており、一全態として活動態なのであるが、そこにおける特定の分類項に視座を構えるとき、当の項を営為当体、爾余を営為環境として、区分と関連の相で把え返されうる。この区分は、存在論的・認識論的な権利上は暫定的な分劃にすぎないところ、通常的思念においては「当体」と「環境」とが兎角存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断されがちである。――われわれとしては、「主体−客体」図式を内在的に克服し、以って、この「図式」を前提として成立している旧来の実践論と論判するためにも、「環境」と「主体」との分截の構制をここで検討しておかねばならない。」221P・・・ICFの「個人」と「環境」の分截批判への核心
第一段落――個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究 221-4P
(対話@)「当体と環境との分劃は――システム理論におけるシステムと環境を連想されると好都合なのだが――いわゆる生物個体と環境との次元には限られない。当体は、小は機関・細胞・分子・原子・素粒子といった次元に設定されうるし、大は生物群・soziale Kollektiva・地球・太陽系・銀河系……といった次元でも設定されうる。爰では、しかし、当体と環境との区分一般について周到に論考するには及ばないであろう。実践論の構図の対自化を目論む本章にあっては個体的人物の次元に焦点を据え、環境と行為主体との分截に即した討究に課題を限ることにしたいと念う。」221P
(対話A)「われわれは前篇において用在的世界を論件とし、そこでの特異的分節体たる能為的主体にも留目したのであったが、分劃化の発生論的過程にまで溯ることなく、体軀的個体相での当体の現認から起論したのであった。省みれば、前篇では「実践的な関心の構えに対して展(「ひら」のルビ)ける世界」と称し、第一巻で主題とした「認識的世界」との異相性を揚言しつつも、謂う所の「実践的世界」はたかだか表情価その他の価値性を帯びた相での世界として、認知的世界相を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬ埓にあった。なるほど、それは、単なる知覚的認知世界ではなく、情動興発性・行動誘発性の籠った相で体験される世界として描出され、行論の途中からは、知覚空間的世界との区別において舞台空間的世界と呼ばれさえもした。とはいえ、それはまだアクチュアルな実践的関わりにおける舞台環境的場として如実には把握されていなかった。――溯って言えば、第一巻で論件とした認識的世界における体験的空間時間ひいては所謂物理的空間時間はその原基を実践的に世界の時空性に有つのであってみれば、われわれは物理的・実在的な空間時間と舞台環境的場の時空性との関係等をも論究する課題を負っている。がしかし、この課題に応えるためには第三篇終章を俟たねばならない。依って以下暫くは、時空性に関しては第一巻で対自化しておいた体験的時空相を略々(「ほぼ」のルビ)踏まえるかたちで議論を運んでおかざるをえない。読者の一部はおそらく実践的世界に即した時間論・空間論を本章の論脈内によきさけることであろうが、右の事情を諒として頂ければ幸いである。われわれは、差当り、前篇での粗論を補全する含みにおいても、舞台的環境の構造分析を要する。が、行論の順序としてはその前に環境と当体との截断に留目しておく段である。」222P
(小さなポイントの但し書き) 「学説史的経緯を配慮するとき、動物行動学的・動物心理学において蓄積されている環境と生体との力学的場や環境知覚と生体行動とのクライス、それを踏んだ哲学系の議論、これを強く意識させられるばかりでなく、当体と環境という議論にあっては所謂システム理論・自己組織化論等、諸多の理説が念頭をよぎる。亦、実践主体の内在的分析に関わる段ともなれば、精神分析学・精神病理学、社会心理学・社会学などの方面での厖大な知見・理説、それとも密接に関連する哲学サイドでの議論、さらには哲学固有の積年の理説が顧慮されねばならない。著者は浅学ながら、これらの方面をも配慮している心算である。がしかし、本章においては右顧左眄(うこさべん)することなく、実践論の基幹的構図を対自化するうえで必要最小限度と想われる限りでの環境と当体の截断に関説することで先を急ぐことにしたい。」222-3P
(対話B)「原初的体験の場面において環境と当体とは分劃(ぶんかく)化されてさえもいない。その場面でも、灰色のスクリーンの如きが現前するのではなくして、第一巻第一篇第三章第一節に謂う端的な或るもの(etwas schlechthin)という次元での分凝が成立しておりうるし、それ(es)という次元での分節化もやがて成立するであろう。が、「其れ」の分節化どころか「被−此」的な「区−別」が現前化するに至っても、そのことまだ直ちに環境と当体との分劃を意味するわけではない。当体と環境との「区−別」にあっては当体は図的(「フィグール」のルビ)に纏った相で、環境は準図的=準地的な相で、対比的であるのみならず、加之(「くわえて」のルビ)、当体は自己活動態の相で覚知される。――「当体」と「環境」という概念は、生物的個体とその環境、況してや、主体的自己と環境的四囲との区別的相関=相関的区別を専一的モデルとするものではない。だが、自己活動的当体とそれの内存在する環境とがフェア・エスに分劃化される発生論的端初は、われわれの用語法で言えば。やはり、能為的主体と周囲的環境場との区分であろう。」223P
(対話C)「われわれは今爰では――先にも断った通り、システムと環境との区別と連関の一般論に立入る心算はなく、また――能為的主体と周囲的環境との区別ひいては截断を周到に跡づけようというのではない。が、その一端に言及するところから始めよう。」223P
(対話D)「嬰児的体験にあっては、現相的現前界が已に一定の分節相を呈するに至っていても当初はまだ他身も自身も体軀的個体相で分劃化されているわけではない。殊に自身の分劃化は後(「おく」のルビ)れ、それは当初“母子融合態”とも謂うべき相に留まる。この局面においても、しかし、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているとの弁別的覚知、能動的触知感と受動的被触感との弁別的感受、これはいちはやく現成する。また、動体すなわち一定の形状的纏まりを保ったまま(四囲の静止的背景から際立って)動く物がいちはやく分凝化する。そして圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物とが区別的に覚知され、物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来ることに気がつく。このような過程・機制を介して、特異な形状体でもある“あの身”が現認されること、ならびにまた“あの身”との対向的な即応行動を通じて“この身”も現認されるようになり、共互的行動の場において“他己像”“自己像”が共軛的に形成されること、これの経緯については第一篇第二章第一節において既述しておいた。(この発生論的・発達論的な経過について次章の論脈内でも立帰る予定であるが、共振的・共鳴的同調から始め対抗的即応や模倣的協応の段階を経て役割行動の対自的形成を論究し、他己・自己の対自的・対他的形成を稍々詳しく論攷した拙論としては別稿「役割理論の再構築のために」の第二・第三章を参看頂きたい。)今爰では、前篇第二章から持越した部面、とりわけ、舞台的環境場と能作体的所作態=所作態的能作体との截断、および、能作体の内自的分析に由る肉体的身体と精神的エージェントとの区別化という論件に応える運びである。」223-4P
第二段落――舞台的世界に留目する 224-31 P
(対話@)「偖、前篇第二章に謂う「能作体的所作態=所作態的能作体」が「能為的主体」の一現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)として現認されるのは、舞台的世界との区別的関連性=関連的区別性においてである。われわれとしては茲に舞台的世界に留目しなければならない。」224P
(対話A)「舞台的世界――幕場情景、大道具・小道具、出演役者、環視観衆、等々を構造内契機とする世界――そのものの構造的分析・規定は次章まで先送りとし、今爰では内部的構造編制は準地化したまま、能為的主体にとっての行動空間的場という抽象的規定態での環境としてひとまず問題にしておこう。」224-5P
(対話B)「能為的主体にとっての舞台的場は、彼にとっての知覚空間的場とそのまま重ならない。一般論として俗見的には、知覚空間内の一定部分だけが舞台空間的場である。言い換えれば、舞台的空間の外周部に“単なる知覚空間”部が拡がっている。(精確には、現実的(「アクチュアル」のルビ)舞台空間には自身の背後の可能的(「ポテンシャル」のルビ)知覚空間の一部分まで含まれているのが普通であり、この意味では、舞台的空間は却って知覚的空間から部分的に外(「は」のルビ)み出している。また、舞台的空間は現在的知覚空間界を謂わば“時空間的に超え”て拡がっているむきもある。が、当座の論点には響かないので、以下暫く、舞台的空間は知覚的空間内の一部分に局定されているという扱いにして議論を進めることにしたい。)」225P
(対話C)「謂う所の舞台的空間も知覚的空間も境界・限界は漠然としている。戸外にあってさえ、知覚空間は必ずしも地平線のところまで拡がっておらず、それより著しく狭いのが常態であり、舞台空間は更にその一部分であるのが普通である。人は広大無辺な空間なるものが四囲に拡がって存在しているものと了解しており、その一部分に知覚空間が、更にその内部に舞台空間が納っている、という描像で思い描く。が、惟うにしかし、知覚空間界と物理的空間界との淳朴な二重写しから反省的に距離を執って、アクチュアルに展らけている知覚空間界に止目するとき、これをそう単純に舞台空間界でないもの(舞台空間界の外周部にまで拡がっているもの)と遇しうるか、聊(「いささ」のルビ)か再検討を要する。常識的には慥かに知覚的空間界の一部分だけが舞台的空間界なのであるが(そして、われわれ自身前篇第二章の論脈内ではその旨述べたのであるが)、謂う所のアクチュアルな知覚的空間界なのであるが(物理的空間界とは区別される現認的知覚風景界)は、“舞台的空間界の外部にまで拡がっている単なる知覚的空間界”ではなくして、正確には寧ろ、広義での舞台的空間界と呼ばれねばなるまい。それは純粋な空間知覚界といったものでなく、表情価(情動興起か・行動誘発価)の籠った財態的用在界であることは絮言を須(「もち」のルビ)いない。が、それを広義での舞台的空間世界と呼ぶ事由は、それが表情価の籠った相で認知されるということに存するのではなくして、まさに実践即応的態度性・関心性と雙関的に展らけている世界であることに存する。――この間の事情について今から叙べて行く次序であるが、嚮の描像との関連で敢えて誌しておけば、所謂アクチュアルな知覚空間界が広義の舞台的空間界として把え返されるとき、舞台的空間の外周部にまで知覚的空間が拡がっているのではなく、広義の舞台的空間の内部に狭義の舞台的空間ゾーンが在るという描像になる。舞台的空間界が外縁部と中核部とに分劃化されると言い直してもよい。尤も、いずれにせよ、広義の舞台的世界の限界も狭義の舞台的世界との境界も漠然としているのが実情である。が、このことは、広狭二重の舞台空間的ゾーンを措定することの妨げとはならない。――われわれは、原理的には俗見を卻けて、所謂知覚的情景界をも舞台的世界として把え返す所以となるが、行論の便宜上、必ずしも恒に広狭二重の舞台的世界という言い方には拘泥せず、文脈次第では俗見流の表現に仮托することをも許して頂き度いと念う。」225-6P
(対話D)「扨、俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものからして已に舞台的な世界としての性格を有つと主張する所以を陳べるためにも、俗に“知覚的意識にのぼる”と謂われる事態の存在構制にまで一旦は溯って省察しなければならない。――人々はとかく眼・耳・鼻といった受容器官(「レセプター」のルビ)に外的刺激が到来・受容されれば感覚が生じるかのように考えがちである。しかし知覚心理学の実証的研究を通じて単純な求心性知覚観はもはや維持されがたくなっている。――議論を簡略に運ぶ方略として、いわゆる馴れ(habituation)の現象に止目してみよう。」226P
(対話E)「例えば喫茶店に入った場合、当初は座席から見渡せるかなり広い範囲に視野が拡がっており、音楽が聞こえ、特有な臭いが感じられる。が、やがて、視野は話相手と自分の周辺部だけに挟まり、音楽はほとんど聞こえず、臭気は感じられなくなる。刺激が到来しているにもかかわらず感覚が意識にのぼらなくなること馴化は如何なる機制に因るものであるのか。恒同的刺激が入来し続けると端末の受容器が“飽和”して機能しなくなるのであろうか? 知覚なるものを求心的過程一辺倒で考えようとする一昔前の理説では、そのような説明が試みられもした。臭気を感じなくなる馴化については、眼鏡・指輪・手袋・着衣などの触感覚が消える馴れの場合と同様、刺戟の恒同性が一応言えるかもしれない。だが、音楽となるとどうであろうか。音楽は、サイレンのように同じ音刺戟が続くのではなく、次々に別音の刺戟を到来させるのであるから、端末が飽和して識閾が低下するのだという説明で済むべくもあるまい。――感性的知覚というものを、端末から入来した刺激が伝送されて中枢に到達する「求心的過程」の所産だとみなす往時の理説は妥当しない。重さの感覚でさえ、普通にそう思われがちなように、筋肉や関節の物理的緊張に因る求心的刺戟が受容的に感知されたものではない。それは、むしろ、中枢から末梢の筋肉へと発せられる「遠心性」の指令パルスが感受されたものであると言われる。尤も、このさい、求心的か遠心的かという一方的な択一で割切ろうとすると誤りかねない。「求心的−遠心的」のループになっているのであり、遠心性指令パルスの在り方は求心性到来パルスをも規定的一要因とする“函数”なのであるから、重さの感覚は当然「外来刺戟」をも規定要因とする。だが、物理的刺戟源泉としては同一物であっても、それを持ち上げている手の筋肉が疲労していると、段々と重たく感じられる。それというのも、重さの感覚が入来刺戟の受容的感受ではなく、指令パルスの感受であり、ここでは、疲れてきた筋肉を興発させようとして遠心的に送り出される指令パルスが強化されるからにほかならない。――馴化による感覚の消失は、末端からの求心パルスが途絶えるために中枢で感知さるべくもなくなったという単純な機制ではなく、中枢からの遠心性パルスの発せられ方の“弱化”に直接的には因由する。音楽の例のように、末梢自体は飽和しておらず、求心性パルスを送達し続けえても、中枢の体制が遠心性指令パルスの発出緊度を緩和する態勢になっておれば、そこでは昔の感覚がけだし生じない所以となる。」226-7P
(対話F)「視界の狭窄かも本質的には同じ機制に因る。――視感覚も「求心的−遠心的」なループの全一的過程がもたらすという機制では例外ではない。が、やや特異な部面も慥かにある。動物は触知にさいしても対象物の表面を撫でるという走査をおこなうが、眼球は不断に畜搦震盪(ちくできしんとう)をおこなうことで絶えず走査を続けている。この視線走査によって絶えず新刺戟が入来するため、視角の場合は、末梢が全面的に“飽和”してしまうことはない。また、視覚装置における興奮「抑制」の機構にも特異性がある。このため、視覚には「地」(つまり、「図」の背景)の“無化”という機制こそあれ、馴化による視感覚の全面的消失という事態は生じない。――視覚が限局されて話相手と自分との周辺部に狭窄化するのは、機構的に言えば、走査視線がその範囲内しか(密には)走査せず、従って外周部からは有効な刺激が(十分)入来しないからだ、と一応は粗く言っておくことが許されよう。だが、本質的な問題は、一体なぜ走査域がその狭い範囲に局定されてしまうのか、裏返して言えば、当初(喫茶店に入った直後)はそうしていたのに、今では何故もっと広い領域を走査しなくなったのか、このことにある。」227-8P
(対話G)「差当っての回答としては、主体の関心・注意がその範囲に局定され、外周部には注意・関心が及ばないような情景把握関心態勢が成立した所為(「せい」のルビ)だ、という殆んどトートロジーに近い言い方しかできない。――人は、当の相手人物が格別に注意・関心を惹くような刺戟を発しているからだという言い方で、関心・注意の向け方が到来刺戟によって受動的に規定されてしまっているかのように論じたがるが、こういう発想ではおそらく説明の役に立たない。因みに、足許でガサゴソという音がしただけで視野の中心はそちらに移ってしまう筈である。――あれこれの個別的対象それ自身が備えている格別な魅力の故にそれへと注意・関心が向かうのではなく、情景把握関心態勢はもっと大局的な関心の態勢(実践即応的な構え)によって規制されている。意識というものはそもそも実践的な構えの構造的契機を成しているのであって四囲的情況の知覚的把捉は適合的恒同の構えに支えられている。」228P
(対話H)「是を以って之を観れば、俗に謂う“知覚的意識にのぼる”情景は実践即応的な情景把握関心態勢と相即的である。俗にアクチュアルな知覚的情景世界と呼ばれるものが已に舞台的な世界としての性格を有つ所以は寔(「まこと」のルビ)に茲に存するのである。――知覚主体は、無論、“適合的実践にとって無価値だと判断して知覚野にのぼることを抑止・消去”するわけでなく、“適合的実践にとって有価値だと判断して知覚野にのぼらせる”わけでもない。「知覚意識にのぼっている情景」を反省的に対自化するとき、馴化的“消失”の在り方にせよ走査的“注視”の在り方にせよ、総じて知覚的現識相は実践即応的な関心態勢と相即的であるということ、確認しておきたいのはひとまずこの事実である。」228-9P
(対話I)「当体主体が現識している知覚空間情景(正しくは舞台空間情景)は、“(到来)物理刺戟”シャワーの全幅に応ずるものでなく、範囲的に限定されており、しかも、その範囲内でも到来刺戟と一対一的に対応するものではない。謂うなれば、刺戟シャワーを一定の(といっても実践的関心の態度性に応じて可塑的な)フィルターで掬い取って現識化した図柄になっている。」229P
(対話J)「この事実の省察に即して、“客観的・物理的な実在的空間世界”と知覚空間的な情景世界(延いては舞台空間的情景世界)との分離・截断が機縁づけられている。――謂う所の知覚空間的な情景世界は、前述の機制に因って、外来的刺戟と一対一的に対応していないばかりか、実際問題として、純粋知覚だけで満たされているのではなく、記憶や想像も“混入”している。あまつさえ情意的なものまで“混入”しているのが実態である。舞台空間的世界情景にあっては、そのことが積極的に自覚されてさえもいる。このたぐいの情景的な内容は措くとしても、知覚空間的世界(ないし/および舞台空間世界)は遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図になっているのに対して“実相的”空間世界、“物理的実在空間世界”それ自体は均質・均等なユークリッド的空間世界の相で考えられる。依って、遠近法的な配景で見える知覚空間的世界(舞台空間的世界)は“主観的”な“見掛け上”の世界にすぎない、という考えが使嗾される。――われわれは、第一巻第二篇の第一章その他において、“客観的・実相的”な物理的世界と“主観的・見掛け”的な心理的世界との截断、いわゆる「外界」と「内界」との截断について、詳細に検覈しておいた。今爰ではそれら既述の論点を再唱するには及ばないであろう。が、舞台的空間世界に関しては新規に勘考を要する論点がある。」229-30P
(対話K)「新規に勘考を要するのは次の事情である。すなわち、実践主体の舞台的行為を条件づけ、舞台的行為に規制的影響を及ぼし、逆に亦、変容的影響を被むり、総じて実践主体と力動的な相互“浸透的”連関に在る環境は、上来「舞台空間的情景世界」と呼んできたものの埓には尽きず、或る意味ではむしろ所謂“物理的実在界”と言える趣きすらある、という事情がそれである。――現識されている舞台空間的情景には、空気の如きは一般に“存在”せず、気温の如きも一般には(つまり特別に暑かったり寒かったりする場合以外は) “存在”しない。音波性刺戟や香気性刺戟などもごく一部しか意識にのぼっていない。(心臓の律動、血液の循環、器官・細胞の内部での過程・運動のたぐいは別枠として今は棚上げするが、主体概念・環境概念の規定仕方の如何では、通常は意識にのぼらないこれら体内的事象も勘案を要する。)しかし、意識にのぼっていない部面での物理的実在にまで及んでいる。――茲に、行為主体という当体にとっての「真の環境」はいわゆる「物理的実在界」にほかならないという想念が泛かぶ。」230P
(対話L)「われわれは既に第一巻においていわゆる「物理的実在」界なるものの存在論的・認識論的な身分を見定めているので、ここでは次のことを銘記すれば足ろう。「物理的実在」の措定は、事実問題として溯れば、日常的体験の場における“見掛け”と“実相”との区別を原基とするものであって、いかに洗練・精緻化されていようとも、権利問題としては、体験的諸現相を整合的・統一的に“説明”しうべく“要請”的に“構成”され、間主観的に認証されている「物象化された所識」という構制の埓を脱しうるものではない。物理的実在の措定を支える「所与−所識」構制は、さしあたり認識的関心態度ではあれ、謂う所の認知的関心態度の構造内的一契機なのである。そもそも物理的実在なるものを措定する認識的関心態度、これはその都度の場面場面に応じた(つまりその都度の舞台場面的情景に応じた)実践的関心態度からその都度の具象的関心態度性を捨象して措定される“抽象化(普遍化・一般化)された実践的関心態度”の“一射影”にほかならない。先には、舞台的世界情景に関する“省察”に即して、それの狭隘性・部分性、つまりは非十全性の自覚から、いわゆる物理的実在界が真の環境として思念されるに至る事情を叙べるに当り、物理的実在界なるものが恰かも別途の理路で既成的・既知的であるかのような叙べ方をしたのであったが、しかし、原理的には舞台的世界情景に即した省察と別途の理路で物理的実在なるものが謂わば“外的”に“思い合わされる”かもしれない。だが、彼の伝授された当の“学理的知識”が形成された経緯に溯るとき、“理論的知識”形成の与件(「データ」のルビ)となる現実的体験現相は、俗に知覚的な与件と称されるものからして、その実態においては純粋知覚ならずして「舞台世界的情景」なのである。舞台世界的情景を措いて理論的知識形成の与件(「データ」のルビ)は存在しない。依って、「物理的実在」界なるものの措定、この共同主観的営為は、原理的に溯って言えば、窮局のところ、「舞台世界的情景」現相の“存在条件”として、且つ、当該諸現相(場面場面に応じてその都度多様な相を呈する舞台世界情景の諸現相)を“整合的・統一的”に“説明”しうべく“要請”“構成” (これらの詞の認識論的意味での“要請”“構成”)する所以のものである。」230-1P
(対話M)「今やわれわれは、右の存在構制を銘記することにおいて、行為主体がその都度に現識している「舞台世界的情景」と第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)見地で措定される(当事者的見地においても省察において原理上は対自化可能な筈の)「環境」とを区別する段となる。――が、この理路で議論を進めるためにも、舞台内的(環境内的)行為主体の側に留目し直さねばなるまい。」231P
第三段落――行為主体の被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化しての覚識と更なる起動的内核エージェントが精神的存在として異別化すること 232-5P
(対話@)「行為主体は、さしあたり、舞台的世界(環境的世界)に内存在する能作体的所作態=所作態的能作体として、自己活動的当体の相で現識される。――この主体は、やがて、被動的外郭部と駆動的内核部とでも謂うべき相に内部分節化して覚識されるようになる。そして、さらには、起動的内核エージェントが精神的存在として異別化されるに及ぶ。順を追って概観してみよう。」232P
(対話A)「人間(「ホモ」のルビ)は発達論上の早期から、変化相にあるものとそうでないもの(移動的運動相にあるものと静止的不動相にあるもの、変様的遷移相にあるものと不変的自同相に或る者、生滅的変化相におるものと持続的恒存相にあるもの)とを対比的・弁別的に覚知する。尤も、対比性が常に必ず明識されているわけでなく、概しては変化相にあるものが直截に「図」化・現識される。また、動いている/動かされている、触れている/触れられている、押している/押されている、押し返している/押し返されている、といった能動感/受動感も早期から対比的・弁別的に体感する。しかも、触れられている・押されている……受動的体表感は、視認対象物とのcross modal matchingにおいて、当の対象物の方が触れている・押している……といった相で覚識される。ここでの触れる・押す……の対象物帰属は(対象物は人物とは限らないのだが、帰属の様態に留目して言えば)音源的帰属や視線的帰属(第一巻の第一篇第二章第二節参照)と同趣的であると言えよう。この機制は単なる帰属ではなく、触れられる・押される……という受動性から、触れる・押す……という能動性への反転をも構造内的契機にしている。その点では、左手を触知していた右手が反転的に左手によって触知されるようになるとか、見られているという受動的感得から(視線的帰属の明識化と相即的に)あの眼が見ているという能動性への反転が生じるとか、このたぐいの現象と類同する。(このさい、触れる・押す……見る……相手への帰属化は、決して自己体験の投入・移入Einfühlungでもなければ、況してや自己体験からの類推Analogieでもない。けだし、この能動性ヴェクトルの帰属化は自己像の明確な形成や自己における体験という自覚的認知の形成に先立つ段階でも已に現成しうる所以である。尚、能動/受動の反転といっても能動性/受動性ということが概念的に意識化されているわけでなく、左右の手における触知感の反転といった次元での触れられている/触れている、押されている/押している、……見られている/見ている……の反転たるにすぎない。)」232-3P
(対話B)「ところで、触れる・押す……対象物はいろいろであるが、対象物の再認的同定(同一個物としての認知)や較認的同定(同種類物としての認知)が進捗して行く途上、動いたり触れたり押したりもし、加之(「しかのみならず」のルビ)、見たり声を出したり押し返したりもする特異な個物(群)、形状的にも挙措(「ふるまい」のルビ)的にも特異な個物(群)が、他種の諸個物とは区別して現認されるようになる。(ここに謂う特異な個物は、ペットのごときでもありえ、人物とは限られないのだが、簡略のため以下では人物ということにして議論を急ぐことにしよう。) ――これを前梯にして、前篇第二章で見たように、そのような個物・体軀的個体相での人物との共互的恒同をを通じ、他己像・自己像が相補共軛的に形成される。この他己・自己が、能作体的所作態=所作態的能作体として、能為的主体として認知される次第や、いわゆる人格的陶冶・形成を遂げる機序などについても、前篇で一通り見ておいた。」233P
(対話C)「爰では、前篇の行論中ブラックボックスに納めたままにしてあった能為的主体の対自的内部構造の一斑を追認識しつつ、主体と環境との対自的截断を見定める段取りである。」233P
(対話D)「偖、能為的主体は体軀的個体一全体として運動し、一全体として一定の所作態を体現するのではあるが、そして一般には、触れる/触れられる、押す/押される、押し返す/押し返される……等を体表的部位に感受するのであるが、往々にしては亦、圧す/圧される、動かす/動かされる……界面を体軀内部的な個所に感じる。例えば、力を込めて掌で樹木を押すとき、手首の関節部、肘の関節部、肩の関節部などにも圧す/圧される界面があるように感じられ、時によっては、体幹内部にも圧している部分があるように感じられる。足を踏みしめる場合も類比的である。また、ルーティンな軽い手足の運動であれば手足が自動的に動いているかのように感じられるのだが、重いものを運ぶような場合には、手や足を体幹内的部分が動かしているように感じられる。裏返して言えば、この場合、手や足は(物を動かす主体というより)動かされる対象のように感じられるわけである。麻痺している手や足は文字通り対象物のように感じられる。――このような体験を通じて、能作体=所作体という、全一態が内部的に分節化して感知されるようになる。それも、四肢および首から上と体幹との分節化という外見的現認とも合致する相での分節化の域には留まらない。腹筋を動かしたり深呼吸したりする際など、体表に近い部分と内奥部とか分化して覚知される。詮ずるところ総じて、身体が被動的外廓部と駆動的内核部との二重的構造体であるかのように覚識されるに至る。」233-4P
(対話E)「身体的主体がこうして内核部と外廓部とから成る二重的構造体の相で覚識されるにしても、単にこの限りでは、謂うなれば身体が内外二層に区分されるにすぎない。(内核部が直ちに魂魄(「こんぱく」のルビ)といった精神的エージェントとされるわけではない。現に多くの文化においては魂魄はむしろ全身に漲(「みなぎ」のルビ)る相で考えられてきた。) ――なるほど、或る種の体験の場面では“内核”が四肢などの“外廓”部を遠隔操作するかのように感じられるが、しかし、このことが直ちに“内核”部を非肉体的・精神的なエージェントと見做せるわけではない。能為的主体の能知能情能意性も、直ちに内核部に帰すべき謂われはなく、また、そのこと自身では格別な精神的実体を直ちに要請する所以とはならない。――」234P
(対話F)「ところが、生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、身体の内部に(イ) 体内感覚、(ロ) 感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、外的対象や単なる肉体現象とはおよそ別種の格別な所知的与件が内在しているように覚知されること、これが機縁となって身体内部に特別な能知能情能為的なエージェント(非肉体的=精神的エージェント)が宿っているという思念が形成される。」234P
(対話G)「この間の事情について、われわれは第一巻第二篇第一章において詳しく論考し、奈辺に謬見の存するかを剔抉しておいた。それゆえ爰では紙幅を惜しみたいと念う。但し、肉体と精神との截断に伴い、“真の主体”は“精神的自我”とされ、それに応じて“肉体”も精神的主体にとっての“環境”として括り出されることに鑑みて、第一巻とは別の視角から検討を要する論件も存在する。この限りで、精神的エージェントという主体的当体が想定される経緯、これを意識の各私性(Jemeinigkeit)という思念の形成機序とも絡めて討究し、物理的環境との区別における“舞台世界的情景”の再定位などをも図らねばなるまい。」234-5P
第四段落――意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめること 235-41P
(対話@)「能為的主体は、単なる駆動的主体ではなく、意識性を伴った起動主体として自覚される。もしも単なる駆動的運動主体というだけであれば、先に見た“内核”的肉体部を以って起動的なエージェントと見做せば済むことであろう。しかるに、能為的主体は意識性(舞台的情況に関する意識性、行為企投に関わる意識性、決意的起動と相即する意識性、総じて実践的主体性としての意識性)を具えており、この意識性なるものが<外界>に対する<内界>ひいては<内界所持者>としての<精神的当体>の存在を思念せしめる。」235P
(対話A)「惟えば、行為主体はさしづめ舞台環境世界に内在しているのであるが、しかし、舞台情景的世界、つまり、俗にアクチュアルな知覚情景世界と謂われる“直接的な体験相”での世界は、先の行文中でも留意したように“客観的・実相的”な物理的世界という“真の環境”との区別において“主観的・見掛け的”な心理的<内界>にすぎないものと“把え返”される。茲に、行為主体はいわゆる舞台情景世界に“実際には”内在しているのではなく、物理的環境世界の内に在りつつ、却って逆に“主観的・見掛け的”な“舞台情景世界”を内蔵しているのだ、と称される次第となる。こうして今や行為主体は“心理的内界”を蔵している者とされる。……この“把え返し”に伴って、直接的体験相での舞台情景的世界(情意性の籠った知覚的情景界)、これと“物理的実在環境”との関係が行為の機序に即して問い返されねばならない。が、そのためにもあらかじめ行為主体の“主観的意識態”に目を向けてみる必要がある。」235-6P
(対話B)「行為主体の直接的・反省以前的な意識性に即すれば、彼はまだ依然として、舞台情景的世界の内に在って行動するのであり、反射的・無意識的な行動をしたことに事後的に気が付く場合などもあるが、多くは意識性を伴って行為する。意識性を伴う行為といっても、常に必ず明瞭な企投意識に導かれるわけではない。が、しかし、企投意識に則って行為する場合が現にあり、彼は自分が企投(「エントヴェールフェン」のルビ)することの可能な主体であるもの自認する。――企投における意識態勢の構造的分析は後論(次章第一節)まで持越すことにして、爰では企投意識態の主体“内属”性をめぐって一端を叙べるに留めたいのだが、さしあたり次のことは認められよう。」236P
(対話C)「企投は目標情景の表−象(「フォル・シュテレン」のルビ)を要件とする。(精確には「目的」の現識が要件であり、目的を担う具象的な目標状景の明晰判明な表象が必須というわけではない。後論での是正に免じて、姑く右の線で押通すことを許されたい。)当の目標状景は、眼前の知覚情景内の特定部分ないし特定対象物の将来的状相(予期的将来相)として、眼前の知覚的空間内部の特定の一に“置かれて(「シュテレン」のルビ)”いる場合もあれば、単なる想像的表象として、眼前の知覚的風景とは分離・独立している場合もある。例えば、手に持っているペンをペン皿に置こうとするような場合が前者であり、明日訪れる友人宅を思い泛かべるような場合が後者である。が、前者の場合であっても、実現目標状景は表象であって現在的知覚ではないことが承知されており、表象と知覚とが混同されることはない。後者の場合には、予期的表象と現然的知覚との区別が一層判然としている。――企投に際してはまた、過去の事例を想起して参考にするとか、実現可能なあれこれのケースを想定して選択するとか、このような仕方でも記憶表象や想像表象が泛かべられることもある。だが、この場合にも、記憶的/想像的表象と現在的知覚とが混淆とれはしない。尤も、知覚だち思っていたものが幻覚(「ハルシネイション」のルビ)であったことに気がつくようなケースもあるが、その都度の意識においては知覚と“単なる表象”とは混淆されることなく弁別的に覚識されている。――こうして企投に際しては、現然的知覚情景世界、この現然的舞台情景世界とは別に表象(俗に記憶心像・想像心像・思考思像と呼ばれる非知覚的“像”が) 泛かぶ。(表象が泛かぶのは無論企投の際ばかりではない。だが、いずれにせよ、知覚と表象とは、弁別的に意識される。なるほど、夢は夢見ている最中にはそれが表象であるとは意識されない。しかし、醒めれば現在的知覚情景世界と弁別されうるかぎり、幻覚の場合などとも同様、当座の論点には響かないので、このまま議論を進める。尚、夢の場合、なぜその最中には知覚と紛う相にあるのか、その“理由”については第一巻の第三篇第一章第三節を参看されたい。)」236-7P
(対話D)「茲において、行為主体は知覚情景的舞台世界に内存在してそこで行動しているつもりであってさえ、知覚情景とは別異の表象なるものがアルことを対自化する所以となる。表象なるもの在り場所は如何? ――表象は直接的体験相では必ずしも主体内部的な場所に泛かぶわけではない。先に挙げたペン皿にペンを置こうとしているときの目標状景表象のごときは、さしあたり、知覚情景的空間内部の特定場所、主体身体の外部に見えている特定場所に“定置”された状相で泛かぶのであって、主体の内部にアルなどとはおよそ直截には言うべくもない。もう一つ挙げた友人宅の表象も、なるほどこれは眼前的知覚空間内の特定場所に定置された相にはないが、身体内部的場所に泛かんでいるわけでもない。俗に瞼に泛かぶという言い方もされるにせよ、眼を開けて思い泛かべている限り、それは決して瞼の個所に泛かんではいない。強いて言うならば、眼前の一定個所にまるで半透明のスクリーンが垂れていて、その“スクリーン”に映っているかのように“見え”る。“半透明のスクリーン”であるから、その向こうが隠れてはしまわない。背後の知覚的情景が透(「す」のルビ)けて見えるので、知覚と混同されることもない。直接的な体験相ではこのような状相にあることを誰しも認めるであろう。」237P
(対話E)「われわれは勿論、表象は常に必ず体外的な場所に泛かぶなどと強弁するつもりはない。時としては、胸のあたりとか頭のなかとかに泛かんでいるように感じられる場合も慥かにある。ひとまず言っておきたかったのは、次のこと、すなわち、直接的体験相においては表象は必ずしも体内的場所に定位的に泛かぶわけではないこと、表象は一般にはむしろ体外的な場所(やや前方の“半透明のスクリーン”上、場合によっては知覚空間内の特定対象物の個所)に泛かぶということ、従って、当事主体の直接的な体験からストレートに“表象は主体内部にアル”という思念が形成されるわけではないこと、このことまでである。“主体は表象を内蔵する”という思念は、いわゆる内観によって成立するものではなく、先廻りをして言ってしまえば、省察的思考の所産である。」237-8P
(小さなポイントの但し書き) 「では、如何なる省察的思考の理路で能為的主体が表象を内蔵するという思念が形成されるのであるか? 今この場所でこの件について長大な議論を挿むことは、当体と環境との截断という、当面の主題的な行論を迂路に導きかねない。とはいえ、前篇から持越した宿題にも応え後論への前梯を調えるためにも、敢えてこの場を藉(か)りて、最小必要限の論点を提示しておきたいと念う。/復々(「またまた」のルビ)先走りになるが、直接的体験相では体外的場所にアル表象が“実際には”“主体の内部に在る”となれば、体外的場所に展らけてアル知覚的情景もこれまた“実際には主体の内部に在る”とする理説にも途が拓ける。知覚像を認識主観に内属化させる思念の理路には、表象像を内属化させる理路とは別の分肢も存在するが、これについては第一巻で討究しておいた。それゆえ、爰ではその部面に立入ることは省き、唯、“物理的実在環境”と“知覚的情景的舞台環境”との二義態に関わる限りでのみ、いわゆる知覚的射映相の内属化という問題の一端に関説するに止める。知覚的射映像の内属化をめぐる詳しい議論は、認知的表象界の内属化をめぐる論究とも併せて第一巻によって補全して頂くよう事前に願っておく次第である。/偖、表象(ひいてはまた知覚)が能為的主体に内属するものと思料される機縁は、間主体的な場面、他者理解の試行場面に存する。――人がもし孤独に生まれ育つとすれば、彼は表象の主観内存在、況してや知覚野主観内存在などという思念にはおよそ至るべくもないであろう。――人は、通常、他者の期待・企投・言表などの意識態を理解できるつもりになっており、他者の意識態を殊更明晰判明に現認しようとしたりはしない。しかし、判っていたつもりが誤解であったりおよそ無理解であったりしたことを、折々に思い知らされもする。時としては亦、他者が何事かを期待/企投/言表していることまでは“判って”も、その内実をおよそ不分明にしか察知できていないという思い感じる場合がある。相手が何事か思い泛かべていることは“確か”でありながら、自分には相手の思い泛かべている表象が現認できていないという事態、この事態を省察し説明(自家了解)しようとする場面で、表象的意識態の各自への内属という思念が機縁づけられる。/表象と知覚との意識のされ方が別異であることは已に自覚されている。視覚性表象は“見える”とはいえ、その“見え具合”は知覚的見え具合とは別異な“表象的見え方”においてである。聴覚性表象も “聞こえ”るとはいえ、知覚的な聞こえとは別異の“表象的な聞こえ方”においてであり、触覚性表象も知覚的蝕知覚とは異なった“表象的蝕知感”でしか覚識されない、等々。――この表象的“見え”“聞こえ”“蝕感”……は、自分が期待したり企投したりする場合(総じて“自分が表象する”場合)に限らないのであって、他人の期待/企投/言表などを直截に“理解できている” (つもりの)場合にも、“表象的な見え方”や“表象的な聞こえ方”においてではあるが、やはり“見え”たり、“聞こえ”たりしうる。“見える”位置は、例えば、他人がペン皿にペンを置こうとしているのを察知するような場合、或いは亦、相手が自分に握手を求めていることを察知したり、眼の前で転んだ子供が自力で起き上がるよう母親が期待しているのを察知する場合など、知覚情景内の特定位置の所である。しかも、それはこのような場合、当事他者の視座からの布置で定位的に“見える”ことさえある。という次第で、表象というものは顚(「てん」のルビ)から自己帰属相で現識されるわけでなく、他己帰属相で現識される場合もある。このことが銘記されねばならない。表象といえども“見え”たり“聞こえ”たりする対象的現前様態に徴するとき、本源的にはむしろ人称帰属以前的=非人称帰属的であって、決して原初的・本源的に自他への内属相で意識されるものではないのである。――/ところで、他者の期待/企投/言表がよく判っている(つもりの)場合には他者に帰属する表象が往々にして“見え”るにせよ、皆目(「かいもく」のルビ)判らないと感じる場合には、他者に帰属する表象がおよそ“見え”ない。(逆は必ずしも真ならずであって、“見え”なくても“判る”場合もある。後述する通り、意識するとは心像を泛かべる謂いではない。)人は、また、自分の期待/企投/言表の内容が相手や第三者に一向に判って貰えていないらしいこと、自分の泛かべている表象が他者には“見え”ないという、この体験を説明的に理解(自家了解)しようとする場面で、内蔵という理屈に人は想到する。(“内に泛かぶ”という相で覚識される場合もあるという体験的“事実”もおそらくそれを授けるであろう。が、上述の通り、表象は決して一般に“内に泛かぶ”相で体験されるわけではない。人々が一般化して“内に泛かぶ”“心中に泛かべる”と言っているのは、直接的な体験相が一般にそうなっていることの表白ではなく、対他者的場面での“見えない”という事態の説明的理屈がルーティン化された既成観念に因るものであろう。)体験相をそのまま追認するのであれば、泛かんでいる表象が他人にも“見える場合”と“見えない場合”とがある、ということになるであろうところ、“統一的説明”の理屈として(学理的な議論においては「脳と意識現象」との関係機序といった“知見”もここで援用されるのだが)“内蔵説”が形成される。体外的な場所一見“見える”のは錯認なのであって、表象像のアル場所は各主体の内部なのであり、以って他人には“見え”ないのが゛道理だというわけである。こうして表象は各々の主体の内部に収蔵されているとされ、謂うなれば“箱”に“内蔵”されているが故に外部からは見えない、という理屈になる。が、少なくとも、自分の表象が“見える”という体験的な事実は消えない。この体験的事実をも理屈に合わせねばならない。そこで、各自は自分の表象を謂うなれば“内から見る”という仕方で現識するのだとされる。こうして今や、表象は各自に内属し、各自本人が“内側から見る”という仕方でしか現識されないものとされ、以って、表象はその都度私のもの(jemeinig)であると見做される。そして、他人の表象が一見“見える”ように体験される場合が現にあることについても“統一的な説明”がおこなわれる。すなわち、今問題の理屈においては、“見える”限りでの表象はあくまで“私に内蔵する”“私の”表象なのであるが、それが一種の“投射”の機制によって私の外部的場所に泛かんでいるように“見える”場合があり、それの特殊的ケースとして表象が他人に“投入的に帰属化”される場合もあるのであって、そのような折りに恰かも他人の表象が“見える”かのように“錯視”されるのである云々、という“統一的・斉合的”な“説明”がおこなわれる。(これが可能的“説明方式”の一つではあっても、所詮は謬説であって、理論的には棄却さるべきものであること、このことについては第一巻第二篇第一章を参看ねがうことにして、ここでは詳しい批判には立入ることなく、先を急ぐことにしたい。)」238-41P
(対話F)「斯くて、間主体的な場面で、他者理解の困難性の自覚・説明の理屈に即して、表象なるものが主体各自に“内蔵”されているものとされ、表象は他者に“見える”筈はなく(もし一見“見える”とすれば“錯認”であって、たかだか“投入的帰属”でしかありえず)、事の本質上、表象は“各私的”であるとされる。――この理屈は学術理論以前的なfolkway psychology(民間心理学)なのだが、それが学術的に洗練された形で旧来の意識観における支配的なパラダイムを成している。そして、そのことから、認識論上の諸々のアポリアが生じ、また、主観的観念論や独我論への途が踏み出される次第ともなる。――この宿痾的パラダイムを芟除するためにも、今暫く、それに沿った実践論の構図を描出する予備作業に従事しておかねばならない。」241P
第五段落――知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されること 241-7P
(対話@)「主体は、今や“表象的心像を内蔵している存在者”と感ぜられるばかりでなく、実は知覚的情景世界をも“内蔵”している者として規定し返されるに及ぶ。アクチュアルな知覚情景的世界は、一見、能為的主体がそこに内存在する舞台的空間世界の相で、身体外部的に展がって見えるが、“実際には”逆に、主体の方がそれを“内属”させているとされるのである。」241-2P
(対話A)「知覚風景的世界が主観に内属化される経緯については、第一巻(第二篇第一章)で詳しく追思考し批判をも加えておいたので、再論は差控えたい。が、二、三の論点だけは爰に誌しておかねばなるまい。――知覚情景的世界(舞台情景的世界)が主体に内属化される基本的理路は、表象の内属化の場合と同様、やはり他者理解という間主体的な場に即してのものである。とはいえ、そこには「知覚モデルの知覚観」「カメラモデルの知覚論」とも謂うべきものも絡む。(「カメラモデルの知覚論」が知覚の生理・物理的機構の“説明”モデルとしては一定の妥当性を有ちうるにせよ、知覚という意識現象の“説明”としては決定的な難があること、それはおよそ知覚という意識現象の説明たりえていないこと、この件については別著『新哲学入門』[岩波新書]において縷説しておいた。就いては参照いただきたい。)今爰では“内蔵説”の成立した歴史的経過を辿る意趣はない。歴史的事実の問題としては、対他者的場面での(あの表象の内属化と同工の)省察的説明と対物的場面での(カメラモデル式の)説明的省察との双方が、両々相携えつつ“内蔵説”を鞏固な理説として成立せしめたと言えるかもしれない。だが、それが可能になるためには、論理上は、或る先決問題が“解決”していなければならなかった筈である。カメラ映像はカメラ内部場所に在るフィルムに写って見えるのに対して、直接的体験相での知覚は身体の外部の“被写体”の位置に見えるという一見明白な相違がある以上、そう簡単に後者わ前者をモデルにして説明することなどできようわけがない。視覚装置の説明なら直ちにカメラモデルを適用できるにしても、視知覚という(外部対象物の個所)に映現する意識現象をカメラモデルで説明するためには或る前提が不可欠である。モデルとそれの適用される事実とは類同的な構制になっていなければならない。しかるに、カメラ像はカメラ内部のフィルムに写って見え、知覚像は身体外部の“被写体”の場所に映現するという一見決定的な相違がある。にもかかわらずカメラモデルが適用されうるとすれば、知覚像も(一見外部的に見えるのは錯認であって、真実には)身体の内部(の“フィルム”)に写っているのだという、知覚像内在説が前提的に“確保”されていなければならない。嚮に論理上の“先決問題の解決”を要すると述べたのは、右に謂う“前提の確保”、すなわち、“知覚像内在説の形成”は如何にして達成されるのか? それは直接的な内観・内省によってでてはありえない。知覚像とやらはいくら内観しようとしても厳然として身体外部的な場所に見え続ける。“知覚像”の“内在化”がおこなわれるのは、依ってカメラモデルの知覚論が“主張それうる”ようになるのは、結論的には、畢竟するに間主体的場面、他者理解に即してである。」242-3P
(対話B)「人は知覚的射映現相が自身の移動的運動に伴って変易することを体験する。が、この身体帰属性はさしあたり「見え具合」(その都度のパースペクティヴをも含めて)が身体との布置関係に応じて変様することの謂いであって、決して直ちに“見え姿”を身体に内属化せしめるものではない。人はまた、眼を覆えば視象が消失し耳を覆えば音声が消失するといった事態を経験する。が、これも直ちに知覚像を内属化せしめる所以にはならない。往時のエイドロン説のごときを持出すまでもなく、外部的入来の阻害といった“説明方式”がいろいろと可能だからである。――人は、“あの身の視座から見る”という機制によって(それが或る種の理論的な立場からは想像にすぎないと評されようとも)ともかく直接的体験相では他者にとっての視え具合を“知っている”場合も多く、以って“この身の視座から見る”のと“あの身の視座から見る”のとでは「見え具合」の相違することを承知している。が、これはまさに身体外部的に現認される「見え具合」の相違なのであって、このことから直ちに内在説が導かれはしない。――ところが、人は時として、他人があの対象物を見ていることまでは確かなのだが、どのような具合に見えているのかは判らない、と感じる場合がある。また、他人が何物かを見ていることまでは確かなのだが、どの物を見ているのか、況してやどのような具合に見ているのか、これが判らないことを思い知らされる場合もある。そして、他人の側に関しても、自分には見えているものが彼には見えない場合や、自分にとっての見え具合が判っていないらしい場合のあること、このことに気がつく。このたぐいの経験を機縁にして他者理解の困難性が自覚され、当の事態を“説明”する理屈として“知覚蔵内在説”という“理論”が形成される。」243-4P
(対話C)「“知覚蔵内在説”が茲に形成される理路は、基本的には、嚮に叙べた“他者理解”の場に即しての“表象の各私的内在化”と類同的な構制になっている、と言うことができる。この旨誌しただけで最早論趣は通じたと念うので、当の理路の構制を爰に辿り直す煩は避けることにしよう。」244P
(対話D)「敢えて当の理路での結論的“認定・説明”を録すれば、「人は他者の知覚を理解しているつもりの場合と理解できていないと自覚する場合とを体験するが、原理的には、他者の知覚を直截に理解することは不可能である。(他者の知覚相も“見える”ように思える場合、それは“自分の側での主観的な思い込み”“推測的想像”“投入的帰属化”にすぎない。)蓋し、知覚というものは、入来外部刺激を機縁にするにもせよ、主体各自の内部に形成される“知覚心像”を“内側から見る”機制において現識されるものにほかならず(因みに、パースペクティヴな“収縮”相を呈したり、記憶や想像が“混入”したりしうるのも、知覚像が所詮は心像だからであって)、依って、“各私内在的”たる所以である」云々。
」244P
(対話E)「茲に、今や、能為的主体は“表象的心像”を“内蔵”するばかりでなく、日常的体験相では自身の外部に展らけている“知覚的舞台情景相”をも“実は内蔵している”者とそれるに及ぶ。――能為的主体は、しかも、“表象や知覚という心像”を“内蔵”する特異な“心”なるものを“内に具えて”いるのであって、その“心”が単に心像を収納するのではなく、能為的主体を主宰しているものとされる。そこで、詮ずるところ“心(精神的エージェント)”なるものが能為的主体の活動性の“真の主体”だとされ、“肉体”は“真の主体”から括り出されて了う。が、そこまで辿る前に、爰でひとまず確認しておくべき事項が存在する。」244-5P
(小さなポイントの但し書き) 「「意識の各私性」以って亦「他者認識の不可能性」の命題が導かれる理路は、以上の行文中で指摘したように、直接的な内観・内省に即するものではなく、他者理解の困難性についての“説明” (“自家了解”)の一試図に存する。/この理路は、しかし、慧眼な読者は先刻すでに気付いておられると思うのだが、他者についての一定の認識可能性いなむしろ現実性を前提にしている。若(「も」のルビ)しも他者認識が端的に不可能であるならば、依って、他者が意識していることがおよそ(“当方の”)意識にのぼらないのであれば、そもそも他者理解困難性とか他者認識の不可能性とか、このたぐいのことが意識にのぼることもない筈であろう。――他者について、或る程度という限定つきであれ、ともかく理解している(つもりの)体験が現事実・原与件なのであって、いかにそれが原理上は不可能な筈だと言われようとも、当の体験的な原事実がもし無ければ、そもそも論者たちの謂う“不可能”云々の議論そのことが生起すべくもないのである。/人は慥かに、いわゆる“他人の意識内実”がいつも“丸見え”だなどと感じているわけではない。「一定限までしか判っていない」と自覚する場合もあれば、相手が何事かを意識していることまでは確信しても、「意識内実は皆目見当もつかない」と感じる場合もある。だが、嚮に見た通り、まさに、このような場合があるからこそ「他者理解の困難性」という意識が生じ、その理由を“説明”“自家了解”しようとする試図が起こるのである。――ここでの「判らない」と「判っている」との“両義性”について、ならびに、そこにおける他者認識の構制については、先に(二一四頁)「所与−所識」構制に即して(所与の相違性と所識の同一性の分析的指摘に基いて)叙べておいたので再録には及ばないであろう。――今爰で指摘しておきたいのは、「他者理解の困難性」の自覚に際しては、何と却って、いわゆる“意識現相”の前各私性・非各私性が前提的構制になっているということである。/惟うに、他者理解が困難であると感じるのは、繰り返しを憚らずに陳べれば、間主体的な具体的場面で、他者が何事かを意識していることは“確知”しておりながら、彼に帰属している筈の“意識事態内実”が現認できずにいる態勢においてである。しかるに、この態勢にあっては、ともあれ、当の他者に意識性が帰属されており、以って、他者が意識主体として已に“認知”されている。(上述の通り、さもなければ、他者理解の困難性というという想念がそもそも泛かばない道理であろう。人は意識主体と認めない事物に関しては、対象的理解の困難性を感じることはあっても、“他者理解の困難性”など感じはしない。先行的にであれ同時相即的にであれ、ともかく意識主体として認知している者に関してのみ、“他者理解”の“困難性”を感じるのである。)日常的既成態にあっては他者の主体としての認知が概ね先行しているのが現実であるが、発生論的・原理的には、“意識性”なる“抽象態”の帰属化ではなく、一定の具象的な“意識現相”を他者に帰属している相で“現認”すること、この具体相での意識性の他者帰属、この意味での意識主体としての他者“認知”が同時相即的に成立する。(このことを承知している以上、われわれは他者の“主体としての認知”が、原理的な場では、時間的に先行すると主張する者ではない。) /このような次第で、意識の各私性などという思念形成の出発点となる他者理解の困難性という意識は、他者の意識主体としての“認知”を論理的要件とし、この要件たるや、原理的・発生的には、具象的な“意識現相”の“他者帰属相での現認”、即ち言い換えれば“他者理解”と相即的に成立するのであって、かかる直裁な“他者理解”つまり“意識現相の他者帰属相での現認”こそが先件なのである。――事実の問題として、当の“意識現相” (知覚的・情意的・表象的、等と呼ばれる“現前的にアル”現相)は、必ずしも原初的に“他者帰属相”で現認されるわけでなく、況んや、原初的に“自己帰属相”で現認されるわけでもない。それは、むしろ一般には、特定のあれこれの主体に帰属化されることなく、端的に現前している。この限りで、原初的には、それは人称帰属以前的・非人称帰属的と謂われてしかるべきであって、原初的にはおよそ各私内在的などというものではない。――とりあえず、如実の体験相に即したこの厳事実が銘記されねばならない。」245-6P
(対話F)「われわれは、勿論、右の体験的厳事実を単に追認するだけで以って、他我認識の可能性・現実性を確説したつもりになったり、意識の各私性という“理論的”ドグマを終局的に排却したつもりになって自足する者ではありえない。“意識”の本源的な非人称性や他我認識の可能性を確説するためには、一部論者たちが、右に記した「体験的厳事実」のそのことをも「私の主観的私念」たるにほかならない旨を主張する“論拠”を批判的に殲滅する必要がある。(先に“内蔵化”“各私化”の理路を簡略に辿ってみせはしたが、論者たちはその理路に沿いつつも、ソフィスティケイトされた“理論”を構築しており、それがいかに主観的観念論や独我論、或いはまた先験的単子論(「モナドロギー」のルビ)の譏りを免れまいとも、その立場から“首尾一貫”、われわれの揚言した「体験的厳事実」を以って“主観的私念”なりと強弁する途を“残して”いる。けだし、論者たちとの本格的論判――それは、帰するところ、本節で確認した「体験的原事実」を如何に解釈し、如何に権利づけるかをめぐっての対質となるのだが――、この“消耗な”作業を要する所以である。)」247P
(対話G)「この作業に従事するためにも、いわゆる“超越論的主体”が論者たちによって、“想定”“措定”される事情などをも視野に入れつつ論攷を進めて行かねばならない。」247P
第六段落――“超越論的主体”などの若干の分析的立言を追補する 247-50 P
(対話@)「顧みるに、われわれは嚮に、実践の企投に際して“意識にのぼる”表象(想像的・記憶的・思考的な“心像”)ばかりでなく、いわゆる知覚的舞台情景界すら行為的主体に“内属”するものと見做される次第を辿り、更には、能為的主体には“心(精神的エージェント)”なるものが“内在”していて、これこそが“真の主体”だと“主張されうる”ことに一言しておいた。」247P
(対話A)「この“真の主体”と称されるものについて討究し、それと相即的に捉えられる“主体−環境”の在り方を問題にするためにも、此処で一旦立停って、若干の分析的立言を追補しておくのが順当であろうかと思う。」247-8P
(対話B)「日常的実践・行為の態勢にあっては、人は“知覚的情景は各私内在的な主観的心像”であるとする“理説”を“知解”はしていても。舞台情景的知覚世界に“内存在”しつつ行動する。――先に指摘した「知覚的見え方」と「表象的“見え方”」との相違をはじめいろいろな事由があってのことだが、いわゆる表象界はまだしも日常的意識においてすら“内在的”と思念それ易い。がしかし、知覚的に現前する舞台情景的世界は、依然として能為主体の外部に展らけた相で現識される。」248P
(対話C)「この体験相に即するとき、“あの身体主体”も“この身体主体”も舞台情景的世界の内部に登場している。だが、知覚的現相ひいては舞台情景界なるものが“主体に内属”するものとすれば、“あの身体主体”は勿論のこと“この身体主体”も、それが知覚現相たる限り、能為的主体の内部に存在することになる。」248P
(対話D)「省察的にこのように把え返されるさい、「舞台的情景世界を“内蔵”する能為主体」なるものは、如何なる存在であるか? それは、現に知覚されている相での“この身体”とそのまま重なるべくもない。けだし、“この身体”は“内蔵されている心像”たるにすぎず、能為的主体はそれをも内蔵している或る者の筈だからである。能為的主体は、舞台情景的世界を“包越”する“超越(論)的主体”でなければならない! その“超越(論)的主体”とやらは、やはり、身体をも具備しているのであろうか?」248P
(対話E)「“超越(論)的主体”は純然たる精神的エージェントであるとする考え(超越論的無身体論)と、超越(論)的主体も身体を具えているという考え(超越論的有身体論)との、双方がありうる。」248P
(対話F)「前者(無身体論)の考えの下で、更に両つの立場が岐れる。(イ)超越論的主体が、他人および自分の“身体”をも含む知覚情景的世界を内蔵していて、それ以外には実は何も存在しないという超越論的な主観的観念論(超越論的独在論)の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものこそ存在するにせよ、環境なるものは真実には存在しないことになる。この意味において、この立場では、“真の主体”にとっての環境は不在ということになり、主体と環境との截断は“止揚(?)”される。(ロ)超越論的主体が自他の“身体”をも含む舞台情景的世界全体を内蔵しつつ、しかも、超越的実在界に内在しているとする超越論的な客観的実在論の立場。――これにあっては、超越論的主体なるものが、超越的身体は有たぬ“裸で”、超越的実在世界とやらを環境としつつ、その(物質的?)実在界に内在していることになる。この立場では“純精神的エージェント”たる“真の主体”が超越的な客観的環境と截断される。」248-9P
(対話G)「後者(超越論的有身体論)の考えの下では、超越論的主体が(それに内蔵されている知覚相での“この身体”とは別異の)超越的身体を具えているとされるが、その超越的身体なるものの在り場所は、“この身体”が見える位置とは別の場所とされる必要は必ずしもない。というのは、“この身体”という“知覚心像”の“実在する場所”は超越的主体の内部であれ、それの「見える場所」は超越的主体外部の場所(“知覚像”の“投射・貼付されている場所”)でありうるからである。(この立場では、一般に、知覚的心像の“本当の在り場所”は主体内部であるが、知覚心像は客観的実在物の場所に“仮現して見える”とされる。)この立場にあっては、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“真の主体”が「超越的実在界」に内在するとされ、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とが分載される。」249P
(対話H)「われわれの見地からすれば、超越(論)的主体を想定する如上両つの考想は、いずれも謬説である。しかしながら、翻って、人々が日常的に思念している相、すなわち、知覚的に現認できる舞台的世界(そこにおける事物や人物)の「見える位置」と「客観的実在の存在する位置」とは“同じ位置”“重なっている”ものと了解しつつ、この舞台的世界に「精神的エージェント」を宿す“この身体主体”が内在しているという思念相、この構図は如何? これは、構図的には、先に挙げた両論のうちの後者、すなわち、「超越的身体を具えた精神的エージェント」が「超越的世界」に内在する旨を主張し、以って、「超越的身体を具えた精神的エージェント」という“主体”と「超越的実在界」という“環境”とを分載する立場、これと同じ描像になっている始末なのである!」249-50P
(対話I)「この描像は固より最終的には維持さるべくもない。がしかし、以下暫く、この描像の線で、つまり身体を具えた精神的エージェントたる主体が外部的環境に内存在しつつ行為するという描像で主体と環境とを“分載”する構図に則しつつ、論究・検討を進めることにしよう。」250P
(対話J)「本節での以上の行文では「精神的エージェント」なるものの規定、それと「身体」との関係が明示化されておらず、「主体と環境との“分截”」もたかだか外面的に立言された域に留っている。が、この未済の論件については次節に引継ぐことにして、ここで一旦節を閉じる形にしたい。」250P
2025年10月28日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(10)
たわしの読書メモ・・ブログ717[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(10)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第三節 四肢の相互的媒介性
(この節の問題設定−長い標題@)「用在的財態の二肢的二重性(「実在的所与−意義的価値」)と能為的主体の二肢的二重性(「能為者誰某−役柄者或者」)とは、両々独立ではなく、一種独特の仕方で連関し合っており、都合四肢的な連環を形成している。――イルレアール=イデアールな「意義的価値」ならびに「役柄的或者」が存立性を得るのはこの四肢的相互媒介性の構造においてであり、用在的財態の間主体的価値性や能為的主体の人格的“同型”性が現成するのは、そこにおける「意義的価値」「役柄者或者」の対他・対自の媒介性に俟ってである。――用在的世界は、「実在的所与」「能為的誰某」「意義的価値」「役柄者或者」という四契機から成る四肢的構造連関態をなす。」181P
(この節の問題設定−長い標題A)「われわれは、これまでの行文において「実在的所与−意義的価値」、「能為者誰某−役柄者或者」という両つの二肢的二重性に関説してきたが、ここに登場する四つの契機の総体的な相互連関性についてはまだ主題的に討究していない。この遺された課題に応えつつ、就中イデアールな「意義的価値」ならびに「役柄的或者」の存立性を立言しうる所以の“権利根拠”とその“限界”を明示しておくことが本節の論件である。――この作業は、価値的有意義性なるものの相互主体的な被媒介的存立性を確認し、併せて亦、能為的諸主体の相互主体的な承認(Anerkennung)の構制を確説するものともなる筈である。」182P
第一段落――認識論的“構成”の所産としての仮托で、「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重態の現成をとらえる 182-5P
(対話@)「財態が財態として成立するのは、すなわち、「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重態が現成するのは、認識論的な視角で言えば、一種の認識論的“構成”の所産としてである。――けだし、認知論的射影で截り撮って見れば、意義的価値は一種の「所識」であり、所識というものは、第一巻で縷説した通り、“質料的所与”に“向妥当”する一種の“認識論的構成形式”であって、この“構成形式”が質料的所与に“投入(hineinlegen)”されることにおいて「実在的所与−意義的価値」の成態が“成立”するのだからである。但し、第一巻において併せて詳説したように、われわれは認識論上の構成説の道具立に仮托してイラストレイトするとはいえ、最終的には構成説をそのまま採るわけではない。われわれとしては、文字通りの意味で、構成形式なるものが存在するとか、投入が実行されるとか、以って構成がおこなわれるとか、このたぐいの主張をするものではない。構成説に仮托した立論の埓内にあってさえ、われわれは、いわゆる“構成形式”は、先験的な認識論的主観にアプリオリに具っているものではなく、アポステリオリに間主観的に形成されるものであることを説き、構成形式の具有者とされるいわゆる先験的主観性なるものは、実態において間主観性にほかならないことを説く。われわれが構成説の道具立てに托した議論を敢えて媒介にするのは、認識論史上の諸々の係争問題に好便に応接する方略としてなのであり、現に第一巻ではその実を収めた心算であるが、本巻二巻においては長期迂回的な仮托は必要としない。成程、本巻においても、価値判断の主観という論脈で“価値判断主観一般”という認識論的主観が問題に上り、それの実態を間主観的な同調性・同型性の成立機序に即して論定し返す作業等が課題となる。厳密に言い出せば、第一巻で一応は論定しておいた“先験的主観性”とはその実は「間主観性」なりというテーゼの論決は本巻での実践論的場面に俟たねばならない。とはいえ、これらの課題には本節の行文中で比較的簡略に応えることができる。敢えて猶ここで一旦、認識論上の構成説に仮托するかのごとき方略を採るのは、イデアールな存在性格の価値(価値的有意義性)なるものが対象的に自存していて、それを各主観が模写(知的直観とか本質直観とか謂う流儀をも含めて)するのであるかのように思念する謬見と対質する便宜上からである。」182-3P
(対話A)「偖、日常的意識においては、財態すなわち“価値を帯びた実在”が対象的に自存していて、それを実在的主観が“受容”的に認知するものと思念されている。この思念は謂われなしとはしないが、学知的省察の見地からすれば一種の物象化的錯認であって、われわれとしてはこの錯認の機制を(前々章第三節や本章第一節での形式的指摘の域から実質的な議論へと推し進めて)対自化しておかねばならない。――謂う所の「実在」の契機に関して已(「すで」のルビ)に一種の物象化的錯認の機制が介在しているのだが、これについては第一巻で討究済みであるから、爰ではもっぱら「意義的価値」の契機に即して討究することにしよう。」183P
(対話B)「尚、誤解のないよう、事前に一言しておきたいことがある。著者は価値なるものは間主体的・文化的な形成態であるとするが、価値的分節化に“自然的”要因が介在していないと言うのではない。場面と次元は異なるが、第一巻において、知覚的分節は決して硬派の言語相対論者の謂うように悉皆“言語被拘束的”“言語被媒介的”ではなく、「言分け」に先立って市川浩・丸山圭三郎氏の謂う「見分け」の機制が作(「はた」のルビ)らくことを述べておいた。尤も、その際に附言した通り、既成的分節にあっては「言分け」に浸潤されているのが現実であり、“純然たる身分け”などというものを単離することはおよそ不可能である。とはいえ、「言分け」が成立するためにも、原基的機制として「身分け」の機制が前梯となる。もし、これが無ければ、早い話、言語音声の原初的な音韻的分節化が成立しえないであろうからである。これとの正確な類比でこそないが、財態的分節、そこにおける価値性の原基的構制に関して、情動的興発性・行動誘発性の原初的・原基的な場面では、いわゆる“無条件反応”的な場面では、いわゆる“無条件反応”的な機制が基層をなすものと考える。この意味において“自然的”な基層を想定する所以となる。とはいえ、人間(「ヒト」のルビ)の場合、養育過程でいちはやく“無条件反応”が“条件反応”へと極度に変容されるため、幼児にあってすら価値性反応の“自然的”基層が純粋相で厳存することは現実にはおよそありえないに等しい。――成程、「猫にマタタビ」の様態で、人間(「ホモ」のルビ)は或る種の香気・味覚・形状・音質を好感し、或る種の臭気・味覚・音質を嫌悪する“自然的”傾向性を有っているかもしれない。それが後天的に変様するにせよ、当の先天的“自然的”な傾向性がかなりの程度維持され続けるという事実さえ認められよう。しかしながら、腐敗臭のする高級チーズやクサヤの干物を好むとか、苦味(「にがみ」のルビ)・渋味のする鮎のウルカを好むとか、このたぐいの実例に象徴的に見られるように、人間における価値性反応の現実は“自然的”“先天的”な反応、つまり“無条件反応”とは“逆”になる場合さえもあるほどに文化的・後天的な変容を蒙むっている。この現実を捉えることが要件なのであって、原初的・原基的“基底層”とやらに“還元”して“説明”したつもりになるの愚をわれわれは犯してはなるまい。――という次第で、われわれは価値性に関わる原初的・原基的な“自然的”層を論理的にも事実的にも認め、それが一種の“自然的”傾動性として存続し、以って価値性の具体的・現実的な在り方の規定的要因として作動しているであろうことも否認しない見地を採りつつも、人々の日常的・既成的な場面における価値性認知・反応にあっては、価値性なるものは概ね文化的に変様・形成された所産になっているという現実に定位する。」183-5P
(対話C)「われわれのこの視座・視角からするとき、価値性の認知・反応が、自存的に定在・相在する価値なるものの単純な受容といったものではないということは已(「すで」のルビ)に彰らかであり、問題の焦点は、一体なぜ亦いかにして、それにもかかわらず、価値なるものが自存するかのように思念され、故に亦、受容的な認知・反応をもたらすかのように思念されるのか、この機制を解明することに懸る。――因みに、嚮に認めた“自然的”基層にあってすら、単なる変容・受納ではない。著者は、今爰で、シャクターの情動理論のごときに恃んで「ラベル貼付」を云為しようというのではない。“ラベル貼付”以前の謂うなれば“身分け”的局面において既にそうだと言いたいのである。つまり、“自然的”基層における“無条件反応”の機制からして、反応の在り方は反応主体の側の反応機構の在り方をも規定的要因としているのであって、一方的な受容・受納ではない。これは固よりいわゆる認識論的構成とは別次元のことではあるが、単なるタブラ・ラサへの受容・受納ではないということは銘記されて宜(「よ」のルビ)いであろう。そして、現実問題として、謂う所の“無条件反応”は条件反応へと変様され、当の変様の在り方が文化被拘束的な他者たちの干与に因って規定されるのであるから、いちはやく文化的変様・形成の機制が作(「はた」のルビ)らき始める次第なのである。――」185P
(対話D)「以上の但書、断書を先立てたことで、われわれが価値性認知・反応の“自然的”基層性や傾動性を顚から無視する者であるかのような誤解は防遏できるものと信じ、今や安んじて、価値性認知・反応の文化的被拘束性、さしあたっては価値性認知における“構成”的機序、しかも、間主体的な“構成”機序の論考に移りうる段である。」185P
第二段落――「貨幣」の例に即しながら暫く議論を進める 185-91P
(対話@)「議論の構図を見え易くするため、また、ハイデッガーの「用材性」(Zuhandenheit)と接点を設けつつ、彼のbewenden lassen(適所を得さしめる)論の存在論上の短見を指摘する便を図って、事例としては特殊にすぎることをも憚らず、敢えて「貨幣」の例に即しながら暫く議論を進めることにしよう。」185-6P
(対話A)「「貨幣」という財物は、価値尺度機能・購買手段機能・蓄蔵手段機能といった、幾種類かの「使用価値」を有ち、また、それ自身一定の大きさの「商品価値」を有っている。――論者によっては、本物の貨幣は金/銀のみであって、銅貨・陶貨・紙貨の如きは金貨/銀貨の代理物にすぎないと見做す。が、仮令代理物であれ、貨幣として通用するのであるから、ひとまず「紙幣」に即して論じ、その後で金銀貨に“溯る”ことにしたい。――「紙幣(貨幣)」の使用価値も商品価値も、客観的に自存しているように思え、以って人々は“既存する価値”を“受容的”に認知して反応するのであるように思える。当事者たちの思念相においては確かにそうである。彼等にとっては、紙幣は認知・反応に先立って価値を有っており客観的に価値性を具えていると認知するからこそ、その紙幣と引換えに物品を引渡すという反応的行動を彼等は営なむのである。あれこれの個人が紙幣の価値性を否認し、それを貨幣として遇することを拒絶したとしても、紙幣は当人の否認・拒否には拘(「かか」のルビ)わりなく、“客観的に価値性を有ち”、“客観的に通用する”ことであろう。まさしくこの事実・事態を追認する流儀で紙幣価値性の客観的・自体的な存立性という日常的既成観念・常識的思念が鞏固に成立する。」186P
(対話B)「慧眼な読者は爰で今更この錯認の分析・検討に立入ることは、退屈極まりないと感じられるかもしれない。著者はそれを惧れないではないが、しかし、この凡俗な例は却って論件の対自化に役立つという事情に免じて、何卒暫くの御辛抱を願い度いと念う。――偖、あれこれの個人が否認・拒否したとしても紙幣の価値性が厳として“客観的に”存立するというのは、他の人々が紙幣に価値性を認め、他の人々が貨幣として遇するという事態、この間主体的事態の反照以外の何ものでもない。人々が皆こぞって紙幣に価値性を認めず、貨幣としての受取りを拒絶する事態になれば、この新たな間主体的事態のもとでは、当の紙幣はもはや価値性を有たないことになろう。この際、紙幣に価値性を認めるか認めないかという認知性の態度よりも、貨幣として受取るか否かという実践性の態度(ひいては行為)の方が決定的である。観念上は一応紙幣であることを認め(以って、その限りで一応、紙幣の価値的限定性を認め)ていても、つまり、認知上は貨幣として認めていても、こぞって受取りを拒否すれば、つまり、実践的に貨幣として遇しなければ、その紙幣は“客観的”価値性を喪失してしまう。価値性が個々の主観にとって既在的・独立的というのは、当人の承認・否認の如何に拘わりなく、他の人々が価値性を認知し、それに応じた実践を営なむという事態、斯かる間主体的事態が貨幣財所与に「物性化」されている構成にほかならないのである。」186-7P
(対話C)「紙幣の価値性なるものは、こうして、人々の間主体的営為が成立せしめるものである。――それは政府なり中央銀行なりといった機関が“権力によって創出”するものではない。なるほど、公権力の一定の施策が、人々の営為に一定の規制力をもつことを介して、紙幣の価値性の成否に影響を及ぼすことは確かである。だが、公権力が直接に紙幣の価値性を創出するのではない。権力を背景として、紙片に一定の図柄を印刷したものを“創出”しても、この物理的・実在的過程それ自身では紙幣としての紙幣(貨幣的価値性を帯びた紙券)の「創出」にはならない。けだし、もしも人々がそれを紙幣として遇しなければ、印刷紙片こそ“創出”されても、価値性を帯びた紙幣が「創出」されたことにはならないからである。現に、政府発行の紙幣どころか金属貨ですら、例えば、本邦奈良時代の和同開珎などのように、一向に流通せず、以って、貨幣的価値性の成立しなかった事実がある。(貨幣価値の量的規定性に関しては、公的権力がその大きさを規定しようとしても、市場原理によって騰落するため、到底、公権力の「創出」しえざるところであること、これは絮言するまでもあるまい。) ――ハイデッガーは、彼の謂う用材性=道具的存在性について、それは物在的事物に主観的な彩りを添えたものではないことを正当に指摘し、それの成立をbewenden lassenという構制で説いている。が、彼は、道具的存在性なるものが適所を得せしめることにおいて成立することを、存在的(「オンティッシュ」のルビ)な次元では認めても、存在論的(「オントローギッシュ」のルビ)な次元では頑として認めない。著者に言わせれば、これは「存在性」についての一種の物象化的錯認である。著者としては、ハイデッガー流の稍々狭い用材性のみならず、著者の謂う広義の用材の価値性全般がハイデッガー用語に仮托して言えばbewenden lassenに負うもの、精確には、間主体的な実践的連関態の反照的規定として成立するものと考える。(この間の事情については拙稿「ハイデッガーと物象化的錯視」、『事的世界観への前哨』所収を参看頂き度い。尚、彼の説明における「全態としての存在者」による被投という議論の地平において用材性論がどう変容されるか、再検討の余地があるが、爰では『存在と時間』に即して以上の立言に留めておく。)」187-8P
(対話D)「茲に謂う「間主体的な実践的連関態」は一定の“共同体”的枠組内に現存在し、直ちに全人類的な実践的連関態をカヴァーするものではない。そして、現実には、当の“共同体”に内存在する成員たちの間で価値性の認知・反応の同調性、同型性が見られるのである。(ここでの言い方は、実は顚倒している。正しくは、価値性の認知・反応の同調性、同型性の見出される区劃態を以って“共同体”と呼ぶのである。この“共同体”なるものは、“同調性・同型性”をどの程度・精度で認定するか、溯っては“間主体的な実践的連関態”をどの緊密度・整型度で分劃するか、これに応じて広袤が可塑的であり、現実問題としては錯構造態として描出される必要がある。がしかし、間主体的実践による被媒介的反照規定に留目すれば足る爰では、“共同体”なるものの規模・範囲は明示さないまま、しかも、“共同体”なる枠組が先在するかのごとき顚倒的な措置のまま、姑く議論を運ぶことを恕(ゆる)され度いと念う。) ――“共同体”に内存在する成員たちの間で価値性の認知・反応の同調性・同型性が見られるという事態は、視角を変えて言えば、成員たちの価値性意識・態度が同調化・同型化している事態を表わす。此処にあっては、成員たちにとって、価値性対象は間主体的に同一相で客観的に既在するものと思念され、その価値性対象に対して概ね同型的な認知・反応が遂行される。ということは、亦、成員の各自が同型的な価値性認知・反応を体現する主体として自己形成を遂げていること、すなわち、価値性認知・反応の主体として間主体的な同型化を遂げていることを意味する。」188-9P
(対話E)「われわれは前節の行文中において、「役柄者或者としての能為者誰某」という在り方での能為的各主体が、人格的形成を遂げて行き、「<当在的主体>としての能為者誰某」という現相在を体現するに及ぶことを論じたのであった。そして、<当在的主体>というのは実践論的視界での役柄存在者の一位相ではあるが、それを認識論的射影で截り撮れば一種の「価値認知主観一般」であること等々をも誌しておいた。「<当在的主体>としての能為者」が所与“共同体”内において“同型化”された価値性反応主体の相にあることは言うまでもない。」189P
(対話F)「今や、先に対自化したところを前節における右の所見とリンクさせて、われわれは次のことを爰に叙べることができる。――先に対自化したところでは、紙幣という財態の価値性は、人々が一定の紙片(実在的所与)に貨幣的価値性を認知し、それを貨幣として(つまり、価値尺度/購買手段/蓄蔵手段/等として)実践的に遇するという事態の反照的規定性である。この間主体的に同調的・同型的な認知・反応は、“共同体”に内存在する能為的諸主体が前節に謂う「<当在的主体>としての能為者誰某」の相へと自己形成を遂げていることとも相即し、能為的諸主体の“同型化”に照応する。しかるに、この“同型性”は、能為的主体の二肢的二重性の構造的契機に即して言えば(現実の主体においては両契機は要素的に複合・接合されているわけではないが、二肢的二重態という物象化された把捉・措定に即して敢えて言えば)、<当在的主体>という契機の“同型化”的形成に俟つものである。その限りで、間主体的に同調的・同型的な価値性認知・反応、以って価値性を“客観的に存立する”相に物象化せしめる所以のものは、“同型化的形成”を遂げた<当在的主体>としての認知・反応に存すると言える。ここに見られる構制を認識論上の構成説の構図に仮托して言えば、<当在的主体>という相での“認識論的主観性”(間主観的に“同型化”を遂げた主観性)が価値性を“構成”し、生身の“経験的諸主観”の日常的・直接的意識にとって価値性を“客観的に存立”せしめる次第となる。(構成説への仮托を一層強めた表現を敢えて採れば、各主体は<当在的主体>としての自己形成と相即的に価値性認知“形式”を形成しており、認知に際して、この“形式”を実在的与件という“質料”に“投入”し“向妥当”せしめる。)」189-90P
(対話G)「現実には、財態の現前様態と主体の在り方とは雙関的・相互媒介的である。そもそも、「実在的所与−意義的価値」成態なるものと「能為者誰某−役柄者或者」成態なるものとを対置的な構図で把えることからして、本来的統一態を二極化的に分劃した措定であって、日常的意識への映現層に便乗した措置でしかない。が、敢えてこの対置的雙関の構図に即して記せば、財態「実在的所与−意義的価値」の現前様態は主体「能為者誰某−役柄者或者」の形成相在に応じて変様し、返っては亦、主体の在り方は財態の現前仕方に応じて変貌する。――財態の現前様態が主体の形成相在に応じて変様するというのは、さしあたり認知相の変様と言っても宜いが、しかし、その変様せる認知相(新しい認知相)に即しての実践的反応が生じ、この実践的反応によって財態に変化が生じ、この変化せる財態との認知的・実践的な関わりを介して主体の形成が進捗し……、という次第で、それは単なる認知的変化ではなく、雙関的・相互媒介的な実有的変化である。この実有的変化は実有的変化、しかも、単なる実在的契機における変化ではない。財態の側でも、主体の側でも、価値性の契機(すなわち、「意義的価値」および「役柄的或者」)の具体的な在り方の変化を伴う。実際問題としては「価値性契機の在り方の変化をも伴う」というより、この契機の変化の方が(実際的契機の変化よりも)著しいのが普通である。実在的契機の物理的変化は僅少であっても(極端な場合、実在的契機は元のままと見做せるような場合であっても)価値性契機は甚大な変化を遂げうる。例えば、紙幣は、物理的には元のままでも、価値的には大変動を遂げうるし、事と次第では、無にも帰しうる。用在的財態においては(対象の側であれ主体の側であれ)、実在的契機の変化と価値性契機の変化とは一対一的に対応・並行しないのである。このことが銘されねばならない。――有様(「ありよう」のルビ)は、「役柄的或者としての能為者誰某」が「実在的所与」を一定の「意義的価値」性において認知し、それに見合う反応をすること、そして、そのことを通じてまた能為的主体の自己形成が進捗して行き……、四肢的連関態の総体的な構造的変位が進展するのであるが、敢えて実在的契機と価値性契機とを抽離するかの如き筆法で誌せば、財態の意義的価値性の現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)と<当在的主体>を“完成成態”とする役柄者或者の現相在とが相対応する。」190-1P
(小さなポイントの但し書き)「駄目押しを憚らずに誌しておけば、紙幣という財態の貨幣的価値性は、能為的諸主体が紙幣使用という役柄行為を遂行すること、紙幣使用者という相での役柄者或者へと自己形成を遂げていること、主体の側のこの現相在と相対応する。――紙幣使用者という相への自己形成、紙幣使用という役柄行為の遂行、この現実は、個々人に即して言えば、紙幣という財態が既存し、この紙幣の道具的使用(価値尺度/購買手段/蓄蔵手段/等としての使用)を他者たちに役割期待され、それに即応して……という間主体的営為において成立する。――紙幣の価値性は能為的諸主体が紙幣使用という役柄行為を間主体的に遂行することにおいてbewenden lassenされる所以ともなる。紙幣ならざる金貨・銀貨についても本質的には同断である。単なる実在(金属)としての金や銀が自然的属性として貨幣的価値性なるものを具えているわけではない。経済“学”史上、かつて重金主義者がそのように誤想したというエピソードこそあれ、古典派経済学がいちはやく正しい認識に到達した通り、自然物としての金や銀それ自体が価値尺度機能・購買手段機能・価値蓄蔵手段、等の使用価値性を有つわけではない。まさにそれらの諸機能を演じさせる手段として(要言すれば貨幣として)それを使用する間主体的営為が金銀を貨幣たらしめるのである。このことに鑑みれば、紙幣に即して上述した事柄が貨幣一般について妥当すること、金銀貨であれ陶貨や紙幣であれ、貨幣的(手段)価値性の構制においては本質的に同断であることが彰らかであろう。」191P
第三段落――与件が誰かにとって意義的価値性を有つとは如何なる構制の事態であるのか検討する 191-9 P
(対話@)「われわれは、以上、財態の側の価値性規定と主体の側の役柄者規定との関連を構図的に見え易くする方略を慮って認識論上の構成説の道具立てに仮托する流儀で陳べ、また、いわゆる価値性が社会的・文化的な間主体的“形成”の所産であることの見え易い貨幣(紙幣)の側に即して叙べてきたが、そこには補訂を要する論点も遺されており、視圏を拡充して論決すべき案件も遺されている。――認識論的構成主義への仮托はわれわれ本来の立場からすれば一種の論件先取にも通じ、また、貨幣という例は財態の価値性一般にとってはいかにも特殊的事例に過ぎる。――けだし補全を要する所以である。」191-2P
(対話A)「嚮には、貨幣という事例に訴えたため、財態の価値性が人々皆にとって(同一“共同体”に内存在する成員という限定こそあれ)同様に“客観的に存立”する相で思念されていることを前梯とする議論を事とした。溯って言えば、われわれは第一章このかた、それが物象化的錯認であることの指摘を添えたとしても、財態なるものが一定の価値性を“客観的に”帯びて映現する事態を既定の事実とする地歩で議論を運んできたのであった。現実には、しかし、例えば、私が或る与件に有用的価値性を認めるのに他人たちは無用としか見做さないとか、私は有用という正価値性を認めるのに他人たちは有害という負(反)価値性の認定を下すとか、このたぐいの場合が往々に見られる。けだし、価値性とは所詮“主観的なものにすぎない”という見解が生まれる由縁でもある。爰にわれわれとしては、そもそも与件が誰かにとって意義的価値性を有つとは如何なる構制の事態であるのか、このことにまで溯って、検討する課題を負う。」192P
(対話B)「議論を直截に価値性一般に即させようとすると、抽象談義に終始する惧れもあり、混乱を招きかねない。それ故、今復た稍々特殊的事情ではあるが、道具的有意義性(道具的価値性)の場合に即して暫くのあいだ論考を進めておき、そのうえで一般論へと移ることにしたいと念う。」192P
(対話C)「偖、道具というものの効用的・手段的な価値性なるものも人々にとって客観的に存立するものと思念されるのが、日常的・既成的な意識事実かもしれない。例えば、金槌は、誰にとっても、客観的にそれ自体で、道具的価値性を有っているものと思念される。だが厳密には、金槌が直接に道具的価値性を有つのは、使用者にとって、しかも、使用中に限ってである、と言うこともできる。(この間の事情は、例えば、手頃な石を拾って金槌として使用するような場面を思い泛かべると納得されよう。一定の目的連関での手段的な使用という現実的な行為が、当の与件に道具的価値性をbewenden lassenするのである。)尤も、日常的・既成的意識にあっては、金槌と呼ばれる道具が既成物として存在し、それを誰が用いようと、否、それを誰一人使用しまいと、道具的価値性がそれに内属しているかのように思い込まれているのも謂われなしとはしない。(突飛に響くかもしれないが、これは人物を教師とか父親とか概念規定するのと同趣の構制であると認められよう。第三者にとっては別段、直接に教師でも父親でもないのだが、しかじかの対他的関連において教師・父親であるという反照的規定性・関係的規定性が当の人物なる一実在に“内属化”されてしまうあの日常的機制である。)が、この既成的意識を発生論的・論理的に分析してみれば、誰かがそれをしかじかに使用することにおいて道具的有意義性が“発揮”されるということ、この“可能態”、言い得べくんば“蓋然態(?)”に即して、恰かも道具的価値性なるものが物在に内蔵するかのように見做されている次第なのである。この限りで、原理的には、道具的価値性なるものは、「誰々にとって、且つ、彼のしかじかの行為にとって」存立するもの、しかも当の行為によって「成立・存在せしめられる」ものにほかならない。この故に、或る与件が、誰某にとっては道具的価値性を有つが、別の誰某にとっては価値性を有たないとか、場合によっては反価値性を帯びるとかいった事態が生じうることにもなる。」192-3P
(対話D)「道具的価値性なるものは、こうして、直接的には、使用者にとって且つ使用行為の場においてのみ存立するものだとしても、しかし、他の者たちもそれに道具的価値性を認知する、という事実もまた重要である。使用者にとっての直接的な道具的価値性と認知的第三者にとっての価値性とは区別を要するが、後者の存在構造と“権利”が併せて論件になる。」193-4P
(対話E)「所与の物を、人は自分自身で直接に道具として使用しなくとも、他人が使用しているのを目撃して、当の物に使用者がしかじかの道具的価値性を賦与・認知していることを理解できる。この理解を成立せしめる発生論上の基層的な体験の場では、前章第一節で問題にした「あの身とこの身との一体化」的「同一視」の機制なども作(「はた」のルビ)らく。が、それを前梯として、もはや“一体化的融合”や“一体化的同一視”といった体験相にはなく、“あの身”と“この身”との分立が明確に覚識されている場面にあっても、他者の体験を“想像的に追体験する”こと、つまり、“あの身”の座に想像上“身を置き”、“あの座での体験相を想像する”ことなども可能になる。そして、自身での体験からの類推ばかりでなく、以前に“想像的に追体験”したケースから眼前の他者の現在的体験相への類推といったこともおこなわれるようになる。これらの機制・過程を通じて、一定の道具的価値性を特定の物に“物性化”して“帰属化”させる事態が進捗し、具体的な使用者や具象的な使用様態の“脱肉化”に伴い、諸々の物がそれぞれ斯々の道具的価値性を具えた物(端的に言えば“何々という道具”)という相で覚知されるまでになる。――涯ては、想像的・類推的な使用体験とか、それの類推的拡張という既往的媒介過程の意識を伴うことなく、何々と呼ばれる物は何々用の道具だということが“概念的に知解”されるまでに至る。例えば、ブーメランや絞首台など、使用場面どころか現物をすら見たことのない物についても人々はそれが何々用の道具であること、つまり、しかじかの道具的価値性を具えた物であることを“概念的に理解”し知識として有(「も」のルビ)ちうる。――道具的価値性は日常的意識においては“物性化”して覚知されるとはいえ、当の物性化的帰属の成立機序に溯ってみれば、斯々の使用行為において誰々にとって然々の価値的有意義性が有(「あ」のルビ)る、という構制に支えられている。道具的価値性の物性化された規定性は、行為連関態の反照的規定(これの“凝縮化的帰属”に俟つもの)であるが、具体的な使用者や具象的な使用行動様態の“脱肉化”に伴って宛然(「あたかも」のルビ)“純然たる物性”であるかのように映現する次第であって、爰には嚮に述べた理解者の側の認知的営為が絡む。“一体化的体験”であれ、“想像的追体験”であれ、“第三者のケースからの類推”であれ、“理解者”の側は、単なる私としてではなく、当事他者に“成り変り”つつ“体験”することにおいて、当事他者の座で、道具使用的行為を理解する。尤も、“成り変る”といっても、成り切って了うことは不可能な道理であって、謂うなれば“他者としての私”ともいうべき“自己分裂的自己統一”の相で“体験”するというのが実情である。この“自己分裂的自己統一”における“他者としての私”は、さまざまな“他者”たちとの“自己統一”を経ることを通じて“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という相に“脱人称化”されて行く。そこでは“他者”が“世人(「ヒト」のルビ)”という“標準的”“同型的”な能為主体へと“脱人称化”され、以って行為主体(道具使用者として意識に上(「のぼ」のルビ)る者)の“脱肉化”が生じ易くなると共に、理解者の側も“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という“標準的・同型的”な認知主体の相へと“自己形成”を遂げる所以ともなる。人々が、日常、道具的価値性を物性化された相で覚知/知解する際、理解者たる当の人々なるものは、“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という相へと“自己形成”を遂げているのが常態なのである。裏返して言えば、所与の物について、直截にしかじかの道具的価値性を有つものとして人々が覚知/知解するのは、人々が右に謂う“標準的・同型的”な“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という“自己形成”を遂げている事態と相即する。」194-5P
(対話F)「この際、謂う所の“世人としての私”は、それの形成機序に想像や類推といったかたちでの“体験”も介在しうるのであるから、実生活の場を共有する狭隘な範囲での人間に局定されるとは限らない。知解的レヴェルともなれば、その範囲はかなり拡がりうることでもあろう。が、しかし、想像や類推といえども実体験や目撃的“体験”に根差すものであって、想像や類推がかなりの“自由度”をもつことは慥かであるにせよ、おのずと限界がある。況してや、確信を伴って類推/知解がおこなわれうる範囲は存外と狭い。そのため或る共同体においては歴(「れっき」のルビ)とした道具である物が、新来の他所者(「よそもの」のルビ)にはおよそ道具として知解されさえもしないといった場合を生じうる。何らかの道具らしいという推測・見当はついてもそれの道具的価値性の内実が不明という場合もありえようが、そもそも道具であるということに気がつかない場合も往々にしてありうる。想像的・類推的に“体験”するというかたちで道具的使用を“観念的に扮技”することすら叶わない場合、与件の道具的価値性を認知することは殆んど不可能である。(この間の事情については、別著『世界の共同主観的存在構造』の第一部第三章第三節を参照されたい。)道具的価値性が認知されるのは、“私としての私”が“私としての私”にとっての価値性を賦与・認知する場合を措くとして、一般には“他者としての私”ひいては“世人(「ヒト」のルビ)としての私”にとってのそれであり“世人としての私”の形成の在り方に応じて道具的価値性の規定内容や広袤が定まる。」195-6P
(対話G)「ところで、道具的価値性なるものは、具体的使用者が具象的な行為の場でbewenden lassen(適所を得)せしめるもの(より精確に言えば、能為主体を構造内的契機とする一定の対象的活動という行為連関態の反照的規定)なのであるから、道具的価値性の内容は道具財の実在的性質と一対一的に対応するものではない。例えばペーパーナイフは、素材的には、骨・石・木・金属・セルロイド・ブラスチック、等々、物理・化学的にはおよそ異質の物材でありうる。一定の合目的的な機能性を担いうればよい。とはいえ、いかに使用者が適所を得せしめる(bewenden lassen)といっても、それは決して全く恣意的な意義賦与ではないのであって財物の実在的性質によっても制約される。ペーパーナイフの例で言えば、それが所求の機能を発揮しえんがためには、化学的組成こそ様々でありえても、ともあれ、硬い物材でなければならない。一般に、道具は、同種のものであっても、材質(という実在的性質)によって機能に亜種的差異が生じるのが普通であり、道具材の実在的性質の特異性に応じて“個性的差異”を呈する。爰に、概念的規定上は同一の道具であってさえ、つまり、「意義的価値性」は同一でも、「実在的所与性」の差異によって、「実在的所与−意義的価値」成態、すなわち「財態」としては、“個性的差異”を呈しうる所以となる。(但し、例えば“同じ”鉄という物在で多種多様な道具が製作されうることが端的に示すように、実在的所与規定性が道具という財態の種別を一義的に規定するわけではない。そもそも個別化の原理が“質料”の側に存するわけではないということ、このことについては第一巻第三篇第二章第二節を見られたい。また、実在的性質、実在物に具っている“自然的機能”と呼ばれるものが、精確には事物自身に内属するものではなく、これも関係的規定態の反照的結節にほかならないこと、この件については第一巻第三篇第三章第一節での詳論を参看されたい。)」196-7P
(対話H)「今や翻って、先に認識論上の構成説に仮托するかのごとき流儀で誌しておいたところと議論をリンクさせ、構成説への仮托を自己止揚することもできる。――道具的価値性が宛かも物在自体に具っているかのように映現するのは、先刻把え返しておいたとおり、「標準的・同型的」な「世人(「ヒト」のルビ)としての私」という相へと人々が自己形成を遂げている事態とも相即的である。(価値性なるものが、それ自身の存在性格を問い詰めてみるとき、イルレアール=イデアールな存在性格の或るものと呼ばれざるをえなくなること、およびその次第については、今爰に再唱するには及ばないであろう。) ――われわれは、先に、前章第三節で対自化した「<当在的主体>としての能為者誰某」における<当在的主体>を、それが価値性認知の主体でもある限りで、いわゆる認識論的主観(主観一般)に擬したのであった。惟うに、前章第三節に謂う<当在的主体>は「世間様並みの者」「世人(「ひと」のルビ)様並の者」にほかならないのであって、「世人(「ヒト」のルビ)としての私」とも別者ではない。という委細で、先に、価値性が“認識論的主観”によって“構成”されるかのように記した事態は「世人(「ヒト」のルビ)としての私」にとって価値性が対象性の相で映現するという事態と実は不二である。今や、この知見に定位し、「世人としての私」に「とって」……という認知相の成立機序をも勘考しつつ、次のように分析して叙べうる段である。」197P
(対話I)「道具的価値性・価値的有意義性なるものは、真実には決して、認識論的主観とやらが自己の帯有する“超越論的”認識形式を与件的質料に「投入」するという仕方での「構成」によって成立せしめるものではない。道具的価値性を成立せしめるのは、むしろ実在的与件へと関わる具体的使用者の具体的行為である。実在的与件と実在的主体との実在的な関係行為(これは“模写”とか“構成”とかいった認識論的な関係ではない)が道具的価値性を現成せしめるのである。依って、その都度の特個的価値現象は、その都度の具象的行為連関態の反照的規定として把え返さねばならない。尤も、謂う所の「具体的使用者の具体的行為」なるものは、しかし、原初的な場面を措く限りでは、已(「すで」のルビ)に被媒介的な形成態である。そして、そこでの価値性の認知主体は、当人自身であれ目撃者等であれ、純然たる「私としての私」ではない。不断の形成・変様・陶冶の動態的過程にあり、「単なる私以上の私」の相へと自己形成を遂げつつ、その都度の主体的形成態として価値性を認知する。如何なる価値性が如何なる有様で映現するか、これの現相在が、認知主体の側が如何なる間主体的な形成を遂げているか、これの現相在と相対応するのである。しかも、この対応性は、単なる並行性ではなく、相互影響的・相互規定的な相互媒介的雙関性である。」197-8P
(対話J)「われわれは斯かる諒解に基づくが故に、原理的な次元においては、価値性現象に関して、“客体の側が主導的規定因であるのか、それとも、主体の側が主導的規定因であるのか”という問題設定そのものを止揚する。それにも拘らず、敢えて構成説の側に仮托するかのごとき筆法で先にひとまず述べておいた所以でもあるのだが、現実の問題として、主客が対立的に覚識され、宛かも“主体の側が主導的規定因”であるかのように映現する“日常的事実”が多分にあり、これの由って来たるところを説明する必要がある。――省みるに、価値性なるものは、なるほど、主体の側が一方的・恣意的に賦与するものではなく、実在的所与の現相在によって制約・規制されることは確かであるにせよ、実在的所与は“同一”見做せる場合でも、主体の側の在り方に依って価値性は質的にも量的にも“不同一”相を呈する。極端な場合、実在的所与は“同一”でありながら、主体の在り方の如何で、無価値であったり反価値であったりもする。謂う所の「主体の側の在り方」は現実には多種多様であるが、既成化した価値認知の場での構図的定式化では、「世人(「ヒト」のルビ)としての私」という相での認知主体に焦点化することができる。そこでは「世人としての私」という認知種体の形成相に応じて物性化されて“客観的価値”とされるものの現相在が“既成的”であり、個々の主体はそれを感得・直観するのであるかのように体験される次第であるが、爰における事態を説明するうえで、旧来の認識論的道具立てに仮托する限りでは、構成説に恃むのが好便である。すなわち「世人としての私の形成相に応じて物象化される価値の現相在」という事態を、<世人としての私>をイデアリジーレンして<認識論的主観>に祀り上げ、これによる“認識論的構成”ということにするとコミュニケーションがつき易い。この限りで先には敢えて構成説に仮托したのであった。が、今やこの仮托が原理的には非なること、真実には模写でも構成でもないこと、このことが已(「すで」のルビ)に対自化された筈である。実在的個別与件と実在的個別主体との直接的関係を截り撮って見る限りでは、必ずしも主体の側が主導的というわけではない。(強いて言うならば、実在的与件の側の方が主導的であるようにさえ“見え”る。)にもかかわらず、主体の側が主導的で……という具合に思えるのは、主体の側の形成・変様・陶冶、つまりは、主体の側の間主体的な形成的変化、これの現相在に応じて、感応的情動・反応的行動・利用的行為の在り方が変じ、以って亦、価値性の映現する仕方が一変するからにほかならない。価値現象の現相在が主体の側の在り方を主導的な規定因とするとすれば、そこでの主体は単なる「私としての私」ではなく、「単なる私より以上の私」であり、これは間主体的影響・変化を蒙むっている相での私である。それは間主体的関係性を反照的に内自化している相での私、謂うなれば“他者たちの内面化(「インターナライズ」のルビ)している私”である。斯かる主体の自己形成の現相在が(実在的所与は“同一”と見做される際などでも)変易するが故に、宛かも価値性現象においては“主体の側が主導的規定因”であると思い做される所以となる。」198-9P・・・行為ということをポイントにして、主体の側が規定的因になるかのように見做される(?)
第四段落――道具的価値性に即して論究したところが、本質的構制においては価値性一般に妥当することを構図的に要点を確認する 200-2P
(対話@)「われわれが、以上、道具的価値性に即して論究したところが、本質的構制においては価値性一般に妥当する。このことは慧眼(けいがん)な読者の前では絮言を要しないことかと念う。が、構図的に要点を確認しておこう。」200P
(対話A)「価値性現象は、実在的与件に実在的主体が如何なる関心的態度性で望むか(道具的使用はこれの特殊的一形態であった)に応じて現成する。実践的世界において、実在的与件がその都度、単なる実在性以上の意義的価値性を“帯びて”現前するのは、実践的態度性連関態の反照的規定である。主体の関心的態度性は、実在的与件の“自然的”性質によっても制約・規制され続けはするが、原初的な場面を措く限りは、已に被媒介的な形成態になっている。価値性認知の主体は、当人自身であれ目撃者等であれ、純然たる「私としての私」ではなく、「単なる私以上の私」へと自己形成を遂げた相で認知する。如何なる価値性が如何なる有様で映現するか、これの現相在は、実在的与件契機によっても一定限制約・規制されつつも、主要には、認知主体の側が如何なる間主体的形成を遂げているか、これの現相在と相対応するのであって、この対応性は、しかも、単なる並行性ではなく、相互影響的・相互媒介的な雙関性である。」200P
(対話B)「茲に謂う雙関的な対応性が認識論上のいわゆる模写的関係でもいわゆる構成的関係でもないこと、および、それの実態については嚮に縷説した通りである。が、実を言えば、そもそも「雙関的対応性」という言い方からして一種の悟性的分割に即した対照化にすぎない。――一方の側に対象的財態「実在的所与−意義的価値」成態を置き、他方の側に能知的主体「役柄者或者−能為者誰某」成態を置くのは、如実の四肢的な連関態を錯構造化しての措定であり、構図的には主客図式に仮托した“縦の分割”である。また、「実在的所与」および「能為者誰某」というレアールな契機を下方に据え、「意義的価値」および「役柄者誰某」というイデアールな契機を上方に架すのは、これも如実の四肢的連関態を錯構造化しての措定であり、謂うなれば“横の分割”である。如実の実践的世界連関態の存在構造を分析的に記述しようと図るに方(「あた」のルビ)り、悟性的“分割”に托さざるをえない限りで、われわれは敢えてこの措置を採る次第であって、“縦の分割”を施した描像に即するとき、前記の雙関的対応性という図柄になる。そして、“横の分割”をも交えて記せば、そこでは、「実在的所与」契機と「能為者誰某」契機との雙関的対応、且つ亦、「意義的価値」契機と「役柄者或者」契機との雙関的対応という描像になる次第である。(“縦の分割”体における「レアールな契機」と「イデアールな契機」との関係は、あらためて記すまでもなく、本章の第一節で叙べた「として」「等値化的統一」関係になっている。) ――如実に存在するのは四肢的連関態という動態的な構造、われわれの謂う勝義での「こと」、もっぱら是である。」200-1P
(対話C)「蛇足めくが、“縦・横の分割”によって措定される四つの“項”的契機は、独立自存するものではなく、あくまで関係規定性の“反照的結節”にすぎない。しかるに、それを自存する「もの」と見做し、それ自身を内自的に確定しようと試行するとき、哲学史が訓(おし)える通り、それなりに“筋は通って”いても、奇態な議論に陥る。“実在的所与”自体は不可知な“物自体”どころか窮竟(きゅうきょう)的には“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)”なる“無(「ウーデン」のルビ)”と言わざるをえなくなり、エートル・プール・ソアとしての“能為者誰某”は(“不滅的霊魂としての人格的自己同一者”という相で一旦は考えられ得ても)畢竟するに“実存的無(「ネアン」のルビ)”なる“無(「リャン」のルビ)”と言わざるをえなくなる。そして、“意義的価値”というイデアールな(ということはレアールには無(「ニヒツ」のルビ)なる)存在体が自存視されるとき、それはまさしく“形而上学的な存在”として主張されることになる。“役柄者或者”“当在的主体”は種々様々な形態でソフィストケイトされうるが、倫理学的分脈では“理念的人格”“完成人”等々として、認識論的分脈では“超越論的主観”として、宗教的分脈では(直ちに神格的とされるに及ばないにせよ、また、内臨的とされることもありうるが、ともかく) “超人間的な主体的存在”として、定位・想定される。爰では内在的な批判・検討には立入らないが、われわれの見地からすればこれらの主張・見解は、然るべき機縁・経緯・理路に由って生ずる事情を諒としうるにしても、詮ずる所、関係態の構造的契機を独立自存視する錯認(「対象−内容−作用」という三項図式もこれと同根に根差すのだが)に淵源するものにほかならない。」201-2P・・・「エートル・プール・ソア」(超人間的な主体的存在?)
第五段落――実践的世界の具象的な現相在にとって、能為的主体に反照的に内自化される間主体的関係性の占める格別に重要な地歩 202-6P
(対話@)「われわれは、茲に、四肢的各契機を自存視する弊を自戒しつつ、猶、実践的世界の具象的な現相在(「ダー・ウント・ソー・ザイン」のルビ)にとって、能為的主体に反照的に内自化される間主体的関係性の占める格別に重要な地歩に思いを致さざるをえない。」202P
(対話A)「これまでの論行において、われわれは四肢的諸“項”を分肢的“単位”に見立てる流儀で論じ来ったのであるが、当の諸“項”は、物象化された対象相で視れば、錯構造的編制態の“部位”的な構造態なのであり、しかも四項的連環体として閉じているわけではない。――いずれの“項”もそれぞれ謂うなれば“オープン・システム”を成している。実在的与件項(対象相で把えられた人物をも含む)からして、既に第一巻で見定めた通り、総世界的な関係性の反照的結節とも謂うべきものである。(本巻ではこのことにあらためて立入るに及ばないであろう。)意義的価値も第三巻を俟つまでもなく、歴史的・実践的な総世界の反照的結節にほかならない。能為的主体(役柄者或者としての能為者誰某)は、これまた、実存的な単独者として各自で閉じているのではなく、財態的舞台世界と(認知活動的契機をも含めて)実践的に関わる間主体的関係の反照的結節である。――これまでの行文を通じて、“四項的連環”に止目したのは、謂うなれば総世界的連関態の“一局部”を截り撮って、そこに存立する構造を分析し、そこにおいて照映・反照している対他的関係性を確認することを期してのものであった。」202P
(対話B)「総世界的各契機の相互反照的関係については、素より、今爰で直ちに最終的な確認を遂げることは期し難い。役柄存在規定がネット・ワークを形成していること、しかも、そのネット・ワークは舞台的財態の現況によって条件づけられつつも、実践を通じて舞台的状況を変化せしめる雙関的・相互的な変易的動態相にあること、これを見極めるためには第二・第三篇での多少とも具体的な論究を俟たねばならない。また、価値的異議性が歴史的・文化的な実践的世界の在り方と相関的・相対的である事情最終的に論定するには、第三巻「文化的世界の存在構造」論を要する。――尤も、役柄存在規定および価値的異議性という“項”に関しては、実体的に自己完結的なものではなく関係的規定態であるということ、このことまでは比較的容易に理解されていることと念う。これまでの行文中でもそのことの一斑は示してきた。それゆえ、これら両項について今爰で直ちに図りうる程度の確認を挿むのは差控えることにしよう。」202-3P
(対話C)「爰で紙幅を割(「さ」のルビ)いて確認しておきたいのは、就中、能為的主体の対他者的な関係に即してである。能為的主体間の相互反照にあっては、全員相互が直接的にというわけではないが、相互的に意識性を伴っている場合があり、少なくともその一部においてはいわゆる「相互承認」つまり「人格的主体」(さしあたり、自我性・意識性を具えた主体)としての相互承認を伴っている。――四肢的連環態の各“項”が実はそれぞれ“オープン・システム”であり、それぞれの仕方での総世界的な関係性の“結節”であって、謂うなれば各“項”がそれぞれ総世界的な“同類項”を“代表”する“もの”の相で相関わることにおいて“四肢的連環”体という“部位”的“構造”が成立している。このような描像になる次第であるが、今爰では、嚮に謂う“縦の分割”を施した射影相の能為的諸主体の直接的な相互的反照関係、これに留目しようという算段なのである。この間主体的相互反照関係は、それ自体、多次元的・多面的で且つ多肢多様なのだが、爰では相互承認の部面に絞り込んで見ておきたいと念う。(尚、“縦の分割”を施した際の他半、すなわち“対象的財態”は、各“能為的主体”の能知的主体性にとって初めから相同的とは言えず、全面的に共有されているわけではなく、少なくとも“射映的”相違性を払拭できるものではない。能為的諸主体が間主体的に相同的・単一的な世界の共有化に如何にして到りうるかということは、発生論的にも認識構造論的にも周到に論攷さるべき一論件である。が、対面的な場での相互承認を論じる以下の暫くのあいだ、“舞台的状況”を成す“対象的財態”は恰かも間主体的に“同一”であることが既定的であるかの如くに扱うことにし、後論に至って当の論件先取を是正する方略を採る。この段、承知おき願い度い。) ――」203-4P
(対話D)「偖、われわれは、前章このかた、“あの身”と“この身”との分極化以前的な場面から論件とし、“あの身”への認知性現相の所属性、視線的・音源的な帰属、役割期待意識の帰属、等々を簡略ながらも辿り、それとの反照において進捗する自身の側の対自化をも追体験しつつ、能為的主体しかも人格的主体の現成を論じ、降っては、人格的特性の形成・陶冶ひいては「<当在者或者>としての能為者」の成立をも討究するに及んでいた。その過程で“あの身”との協応性即応行動が自身像の対自的成立の前梯として存在条件をなすことをはじめ、役割論的構制における共軛的な他自関係を必要最低限は配視しておいた。――能知的主体としての他己・自己、旁々、言語活動主体としての他己・自己の形成機序については已に第一巻において相応に詳しく跡づけていることでもあり、本巻では役割論的共軛関係下での形成というところに比重をかけるかたちで論じた心算である。――役割的行動の共互的実践を通じての相互的承認、能為的・人格的な主体としての相互的承認のこの機序について、範式上の概念装置に必須な論点は前章以来の所論を想起して頂ければ、逐一的に復唱せずとも済むことかと思う。今爰で要求されるのは、他己認知・他者理解やそれとの反照における自己認知・自分理解の事実的過程・機制そのことより寧ろ、能為的主体としての相互的承認の“権利問題”に関わる方面での論攷である。」204P
(対話E)「最終的な論決は本巻第三篇の最終章まで俟たるべきだとしても、この論件に関わるわれわれの理説の構図は、事実問題の幾つかのポイントの再確認をも伴わせつつ、爰で一通り説述する運びとしよう。」204P
(対話F)「論議の糸口として言及すれば、他我としての認知が先であるか、それとも他者の意識内実の認識が先であるか、この係争問題が存在する。前者の立場といってもヘーゲルの主奴の弁証法のごときからシュッツの一般定立(「ゲネラルテージス」のルビ)のごときまで諸多の理説があり、実践的考証の場に定位するものも目撃的認知の場に即するものもある。後者の立場にあっても他者認識の方式については諸説が岐れ、感情移入(自己投入)説、類比推理説、直接知覚説などがある。われわれの相互承認論は、先行の諸理説と所々に何がしらの接点があるにせよ、総じては、新しいタイプの理説と呼ばれる筈である。――著者としては、先行他我認識論のうち、以下に挙げる幾つかのものは内在的検討に値すると評価する。が、そのいずれにも批判なきをえない。順不同ながら、(イ)ヘーゲルやハイデッガーを批判的に踏まえたサルトルの理説、 (ロ)フッサールの理説、 (ハ)ベルグソンとフッサールを踏んだシュッツの理説、(ニ)クラーゲスやシェーラー継承的に展開したカッシーラーの理説、 (ホ)フッサールとサルトルを受けたメルロ=ポンティの理説、(ヘ)フォイエルバッハ(或る意味ではエープナーブーバーとも相通ずる)とハイデッガーを批判に突き抜けたレーヴィット、これらがその主たるものである。(学説史的には、ヘーゲル、フォイエルバッハ、ディルタイ、リップス、シェーラー、ブーバーなど個別的検討に値することを認めるが、これらは前記(イ)〜(ヘ)においてアウフヘーベンされているので、著者自身としてはモノグラフィックな検討にまで及ぶ心算はない。尚、トイニッセンは、条件つきで彼の学説史的研究の功は認められえても、独創的な理説を展開しているとまでは言えないように思う。)著者は、(イ)については『世界の共同主観的存在構造』の中で、(ロ)については『フッサール現象学批判の視角』中で、(ハ)については『現象学的社会学の祖型』において、(ニ)については『表情』において、(ホ)については『メルロ=ポンティ』において、(ヘ) については、未完結ながら『哲学の越境』中で、それぞれ内在的な検討・批判を試みておいた。(ヘ)に関して残されている論点も、読者には「役割理論の再構築のために」の参看を願えれば趣意は通じることと念う。それゆえ、先行理説の批判的再検討は省いて、直截に次節の構制を叙べるだけに爰では止める。――」204-5P
(対話G)「われわれとしては、旧来の理説が意識の本源的な各私性・人称性を大前提としてきたのに対して、いわゆる“意識現象”の本源的な前人称性に立脚して説き起こす。従って、前掲の係争・対立する両陣営のいずれかの側に与みするのではなく、両者に共通なヒュポダイムを卻ける立場を採る所以となる。尤も、ここで事前に表明しておいた方が結局は早道になろうかと思われる事項がある。哲学上の他我認知説でこそなけれ、日常的に心理学者や脳生理学者においても存外と“選取”される形になっている或る見方への態度表明である。」205-6P
第六段落――人間の(動物の?)意識主体という確信 206-7P
(対話@)「人々は、日常、動物を目撃して直ちに生物として、つまり、生命を具えたものとして認知する。生命とは何ぞやと問われれば困憊(こんぱい)することであろうが、それでもともあれ、眼前のものが動物であり、それに生命が具っていることは“確かに”“知って”いる。そして、それの眼の動きや耳の動き、嗅ぐ動作や表情などから、その動物に感覚や情動という意識性が具っていると確信する。その動物にとって、どのように見えどうのように聞こえどのように匂っているか、また、どのような感情を懐いているか、意識の内実までは分からないにしても、ともあれ、その動物が感覚や感情というレヴェルでの意識主体であることまでは確信される。相手が人物の場合にも同様な確信が生じる。この点では、実験心理学者にとっても同断であろう。彼は、相手“意識内実”についての実験的研究を開始するに先立ち、ともあれ相手が意識主体であるものと了解している。生理学者も脳の構造や機能を剖見的に精査して“意識現象”をそこに発見するのではない。彼は、相手の眼の動きや表情や発言だけでなく、体位電流や脳波や解剖所見なども与件(「データ」のルビ)にして意識主体性を認知し、意識内実についても推測する。脳生理学者といえども、意識現象を直接的に現認するのではない。一定の脳内状態に一定の意識状態が随伴するはずだという先行了解のもとに両状態を細(「こま」のルビ)かく探査するのであって、随伴性そのことは実証以前である。一定の脳内状態に一定の意識状態が随伴するはずだという了解それ自体は、先行的な確信たるにすぎない。動物や人物を意識主体として認知する手続は、素人の場合も脳生理学者の場合も、同工異曲である。脳生理学者にあっても、データや手続は精密化されているにせよ、所詮は“外見”的“様子”から意識性・意識内実を忖度(「そんたく」のルビ)するという手続の構制上は、本質的に同じである。眼耳などの動き、表情性顔面状相、情動性身振、言語音声、脳波の様態、……脳解剖所見、いずれも身体物理的な観察事実であって、素人も科学者も、この観察事実を機縁・手掛りにして相手の意識主体性・意識内実を認知・推察する次第なのである。精粗の度合に差異こそあれ、認識論上の基本資格は同じだと言わねばなるまい。」206-7P
第七段落――“直截的認知”の発生論的成立機序に溯って他己認知・他者認識を定礎しなければならないこと 207-12P
(対話@)「さて、ここで、われわれにとって問題になることは、日常人にせよ科学者にせよ、動物や人物を目撃しただけで、つまり、役割論的共互行動など遂行することなく、直截に、相手を意識主体として認知するというこの事実、これにどう対処するかということである。(文化圏によっては、人物や動物ばかりでなく、植物やわれわれの謂う無生物にまで、同様な機制で意識的主体が認知されている。)この日常的思念に便乗するかたちで“他我直截認知”説とでも謂うべきものを展開する途すらありうるのではないか? ――人は、所与のものを世人が生物(生命体)と認知・呼称するか否かを直截に判別できるようになっている。それと同趣的に、所与のものを世人が意識主体と認知するか否かも直截に判別できる。が、これがアプリオリな認知能力によるものではないということ、その“判別力”は言語活動をも含む他人たちとのコミュニケーションを通じて確立したものであること、これは言うまでもあるまい。言語活動を通じて、他人たちが所与のものを動物と認知・呼称するか否か、しかじかの徴候を呈するものに他人たちが意識性を認めるのが普通であること、人はこれを学び知る。こういう言語的・概念的把握が既成化している段階・場面においては、人はなるほど眼前の与件とことさらに共互的反応行動のごときをおこなわずとも、それが意識主体(と世人が認知・呼称するもの)であるかどうか、直截に判断できる。がしかし、言語活動を通じての伝授・教育が絶対的なのでない。成人が所与のものを目撃しただけで意識体として判定できるようになっている現実は言語活動の場での学習効果に因るところ大であることは確かでも、原理的には言語的伝達以前的な基礎的機制が問題である。われわれは、言語活動の場における当の認知・呼称の成立機序・成立条件にまで溯って考えねばならない。(因みに、チンパンジーなどでさえ、仲間が“見”たり“聞い”たり“喜ん”だり“怒っ”たりしていることを覚知でき、その意味で仲間を“意識主体”として認知できるようであるが、これは言語活動による伝授・学習によるものではあるまい。言語以前的に、言語的伝授・学習とは独立に、他我認知の機制が作(「はた」のルビ)らくものと看らるべきであろう。)われわれが前章このかた論考してきたのは、まさにこの成立条件・成立機序にもほかならなかったのである。――われわれとしては、日常人や科学者の“他我直截認知”という既成性に幻惑され便乗することなど論外であって、当の“直截的認知”の発生論的成立機序に溯って他己認知・他者認識を定礎しなければならない次第である。」207-8P
(対話A)「顧みるまでもなく、われわれは前章において、表情性現相の原始的体験、表情的分凝態の現前といった場面から論を起こし、身辺的動体の個体的分節といった階梯を介し、“あの身”の特異な様態での現前とそれへの応接という体験に即して、“あの身”と“この身”との共軛的関係を縦観したのであった。その発生論的・発達論的過程において、先ずは“あの身”の場所における体験(g男の“あの口”の個所でのスッパサの体験のごときから“あの身”と“一体化した”相での“希求的・促迫的・期待的”な意識態の体験、ひいては“内発的・駆動的”な覚識態の体験のごときまで)が現成すること、それは相即的な“この身”の場所における体験、或る段階以降は対自的な“この身”における体験を前梯とするにせよ、ともあれ“あの身”の場所において“体験”するという機制が作らくということ、このことをわれわれは留目したのであった。これは認知論的視角では“あの身”への“所属”“帰属”と呼ばれうる。――われわれは、また、第一巻で顕揚した「視線の読み」や「音源的帰属」という構制にもあらためて留目した。(因みに、かなり多くの種類の蝶などが“眼”と見間違う紋様を羽根に具えていて、それを拡げて見せつけることで天敵を撃退することが知られている。また、犬や猿は、仲間の視線を追って仲間と同じ方向[“同じ対象物”]を見るばかりか、異種の動物たる人間(「ヒト」のルビ)の視線をも追う。動物界において“眼”は、他種動物のそれをも含めて、格別な反応価・行動誘起価を有つもののごとくである。――音源的帰属の機制についても、これまた、鳥類や哺乳類においては已(「すで」のルビ)に作動しているように見受けられる。)これら「視線の帰属」や「音源的帰属」は極めて重要な機制であり、これなくしては言語(象徴性記号機能)も成立しえないことであろうが、しかし、当の帰属化それ自体ではまだ直ちに意識主体性の認知とまでは言えない。それは即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には已に意識主体性の認知に通じる構制になっているにしても、それをそのまま意識主体性の認知と見做すわけにはいかない。だが、一歩進んで、前章で留意した“あの身の視座”から“見る”とでも謂うべき機制が併(「あわ」のルビ)さるとき、事態が大きく進捗する。“あの身”にあれこれの現相を所属・帰属させるだけでなく、また、視線を帰属させるだけでなく、それに“加えて”“あの身”の視座から“見る”ことにおいて、そこに“見える相”を“あの身”に帰属化せしめる構制が現成するとき、“あの身”を能知的主体として認知する事態になっていると言えよう。亦、“あの身”に言語的記号音声(とフェア・ウンスに呼ばれる分節音)が音源的に帰属され、それに伴って、当の記号音声と等値化的に統一されている所識性意識態が帰属されるとき、“あの身”を言語主体(単なる能知的主体という以上の一種の能為的主体)として認知する事態になっていると言える筈である。そして、更に(といっても、発生論的にはこれの初次的位相が却って先行的なのだが)、役割期待の覚識(とフェア・ウンスに呼ばれる“希求的・促迫的・企投的な覚識態”)が“あの身”に帰属化されるとき、“あの身”は、能知・能情・能意的な能為的主体として認知される事態と成る。」208-9P
(対話B)「斯かる「主体」として“あの身”を認知する過程は、“あの身”と“この身”との共軛的関係性において進捗するのであって、或る種の現相が“あの身”には帰属しても“この身”には帰属しないことの現識が折々に生じることが重要な契機となる。この間の次第については、第一巻においても、前章においても相応に見たところであるから復唱には及ばないであろう。爰で特筆しておきたいのは、他者が自分の期待通りに行為しない場合に直面すること、時によっては、自分の側の期待が相手によって拒絶される場合があること、また、他者の企投と自分の企投とが合致せず対立する場合に当面すること、このたぐいの体験を通じて相手他者の自立的な主体性が強く意識されるようになるという事実である。――ともあれ、“あの身”他者と“この身”自分との共軛的な行為の場を通じて、他己像・自己像の形成、他己認知・自己認知が進捗するのであって、よしんば“あの身”が(超越論的第三者の眼から見るとき)“即応的な反応的行動を現出するマネキン”であったとしてさえ、もっぱらそのような“あの身”しか身辺に存在せず、そのような“あの身”との“共互的行為”を通じて“この身”が成育するのであるかぎり、(狼に育てられたあの少年のケースを爰で想起すると納得が得られ易いと念うのだが)、“あの身”他者との相補共軛性において「自己」象・「自己」認識が成立・進展するのであり、逆ではない。(自己の主体としての具体的な在り方、人格的特性の形成も他己たちとの交流において進捗するのであり、私の意識内実と謂われるものも、他人たちから“授け”られたもの、“学び”取ったもの、さなくとも他人たちとの交渉を通じて形成したものが殆んどである。もしこの世に他人[即応的に反応するマネキンであれ]というものが存在しないとしたら、およそ「私」は存在しない。極めて抽象的・未発達な“意識主体・欲求主体・行動主体”がフェア・ウンスに生存するとしてさえ、当人は「私」としての自覚をもちえないであろうし、いずれにせよ現に見るごとき豊かな内実を具えた私として存在することはありえない筈である。) ――主体他者は“この身”に期待を差向ける者であり、且つ、自分の側でも一定の応答的行為をそれに“呼掛け”うる者である。主体他者は、一定の行為を期待・呼掛けうる相手ではあるが、当人自身の企投によって(つまり、能意的に)当方の期待・呼掛けを“裏切る”可能性を持つ主体である。(唯単に「期待通りに動かない」物はいくらでも存在するが、期待に反する応対を意図的・能意的に遂行し得る者、という了解が他者を主体として認知するすえでの重要な一契機をなす。尤も、期待を差向けた当の“相手”を“意図的・能意的に遂行し得る者”と見做すこと、“意図・意志”という意識性を“相手”に帰属すること、これが単なる私念(「マイヌング」のルビ)にすぎないこともある。当の同じ“相手”とのその後の実践的な関わりを通じて、或いはまた第三者たちがそれを主体として認めていないのを知ることを通じて、一時的な私念(「マイヌング」のルビ)が撤回される場合も生じうる。が、撤回を促すような体験には直面せず、第三者たちも主体と認めている信憑されるかぎり、当の者は主体として認知され続ける。[ここに謂う「信憑」「認知」が単なる私念にすぎないのではないかという問題次元については後論]。現実問題として、能知・能情・能意的な主体としての他者認知は斯かる構制での信憑的認知であると言えよう。)“あの身”の主体他者としての認知は啻に“この身”自分との共軛的な関わりにおいてのみ成立するものではない。或る“あの身”と別の“あの身”(たち)との関わりを目撃する場においても、他者の主体としての認知がおこなわれる。この場合にも、しかし、原初的な局面にあっては、「一体化的同一視」や「想像的追遂行」の機制が作らく筈であって、原基的な構制はやはり“あの身”と“この身”との共軛的・共互的な即応的行為の構制になっている。」209-11P
(対話C)「他己像と自己像の形成、他己の主体としての認知と自己の主体としての自覚、これが一定限進捗した段階に至ると、一体化的同一視や想像的追遂行の機制での“あの身の視座に即した体験”ばかりでなく、上述しておいた通り、いわゆる感情移入や類比推理の機制による“他者理解”も大いに進展する。――言語的表現の理解に際して、大きな部分が一種の類比推理の構制になっていることは嚮に指摘した如くである。――そしてまた、あの「生命体」としての認知などと同趣の機制での謂うなれば述定的・概念的な「主体」としての認知、すなわち、与件が一定の徴候を呈するとき世人がそれを主体として認知・呼称するのを知りそれに“同調”して呼称・認知すること、認識論的にいえば“世人としての私”として所与を主体と認知すること、これがごく“自然”におこなわれるようにもなる。」211P
(対話D)「他者の主体としての承認、それとの共軛性における自分の主体としての自覚、すなわち、他己および自己の能為的主体(能知・能情・能意的主体)としての認知、これが単なる能知的意識主体としての認知を超えて実践的主体としての認知となるポイントは、上来の論考から已に彰らかなように、啻なる役割期待の帰属ではなく、企投的決意的な起動性の内属する者としての覚知に存する。――これを俗流化的に表現すれば、一定の行為をその者に向って期待・呼掛けうるが、且つ、その期待・呼掛けを自主的に“裏切り得る者”ということになる。――自己と他己とが互いに相手をこのような能為主体として認知し合うこと、それがまさしく相互承認にほかならない。」211-2P
第八段落――“世界の間主観的共有性”をめぐる論件 212-7P
(対話@)「われわれは、以上の行論において、「自主的企投」とか「自発的起動」とかを云為し、また、「信憑的認知」を云々した。これの権利問題を掘下げることを抜きにしたのでは、如上の議論、とりわけ、他己像が自己像成立の前梯条件であること、他己認知と自己認知とは相互共軛的であり自己認知にとって他己認知が存在条件であること、この主張が単なる日常経験の私念(「マイネン」のルビ)の追認にすぎないものと評されかねない。慥かに、自主的企投ということは自由意志の問題に絡み、自発的起動ということは心身関係に絡むのであって、体験的私念を追認して済ませうる事ではない。が、この件については、本巻の第三篇最終章まで持越すことにして、恰かも自由意志の主体が存在し、自発的な行動を営なむのであるかのように暫く語ることを許されたいと念う。また、いわゆる意識現象を“あの身”に帰属させること、“あの身”を知覚・表象・情動・期待・企投・意志などの主体として認知すること、これが所詮は「私」の主観的私念にすぎないのではないかという疑義に対して最終的に答えるためにも前段的な諸多の論究を俟たねばならない。それを俟って甫めて、意識の本源的な各私性というドグマ、以っていわゆる超越論的主観性を持出すことで超越論的独我論へと誘なう根本ドグマ、これを卻けつつ、いわゆる意識現相の本源的な前人称性を確説し、降っては、また、いわゆる超越論的主観性とは共同主観性にほかならないことを闡明しうる所以ともなろう。今爰はまだ最終的な論決を期しうる場ではない。が、“日常経験的私念”の領界においてもなお茲で論考を進めておくべき論件がある。それは、われわれがこれまでの行論において暗黙裡に論点先取してきた“世界の間主観的共有性”をめぐる論件である。」212-3P
(対話A)「自己と他己(たち)とが舞台的世界を間主体的に共有しているという事態、精確には、自己と他己(たち)とが舞台的世界に共属・共同内存在しているという事態、これは日常的意識にとっては自明に見えようとも、認識論的には一大問題であり、実はこの事態を離れては相互承認も成立しえない。卑近な話、他者認識の大きな部分を占める「他者にとっての対象的意識の認識」とは、「対象的意識」の自他共有化にほかならないのであって、他者理解の大きな部分が対象認識の共有性と相即するのである。」213P
(対話B)「人は日常、自分と居合わせている他人たちとが、同じ物(形・色)を見、同じ音を聞いているものと信じて疑わない。とはいえ、幼児ならいざしらず、或る発達段階以降の者は、それと同時に、他人にとっての見え方、聞こえ方は、自分にとっての見え方、聞こえ方とは相違することを、一寸反省しただけで自覚する。他人があの物を見、あの音を聞いていることまでは確かなのだが、彼にどのように見え、どのように聞こえているのかは判然としない。――これは俗流“理論”風に言い換えれば、他人が一定の対象認識をもっていることまでは確信できるが、意識内実は如実には察知できない、ということになろう。――われわれの詞で言えば、同じ物を見ているというのは所識的意味の同一性に相当し、見え方が違うというのは所与的射映の相違性に相当する。自分と他人とでは、所与的射映相は相違するが所識的意味は同一であるということ、これが見え方(聞こえ方)は違うが見ている物(聞いている音)は同じだ、という日常的意識のフェア・ウンスな構制である。勿論、所識的意味の同一性ということは固定的な信念ではない。誤解だった(らしい)と気がついて撤回されたり修正されたりもする。また、例えば、自分には縄に見えているものが相手には蛇に見えているらしいと察するような場合、所識相が自他で相違することが自覚されており、この場合には却って“所与”が自他で共通・単一であるように思える。だが、われわれとしては「所与−所識」の多階性に留意しなければならない。この場合でも、射映的所与は自他で相違することが自覚されているのであって、自他で共通・単一とされているのは、あの(細長い、しかじかの)物という「所与−所識」成態であり、ここでの単一性・同一性は所識契機が支える(第一巻序説において、ルビンの杯という反転図形の例に即して、「白黒図形」という同一の所与が「向き合った顔」「高盃」という別々の所識相で覚知されるという言い方が普通にはされるが、しかし逆に、今見えている特定射映相での「向き合った顔」という所与と「高盃」という所与、これら二つの所与が共にそれとして覚知される所識、それがルビンの杯と呼ばれる「白黒図形」だ、と言うこともできる旨を述べておいた。そこでの構制を想起されたい。――「蛇」相、「縄」相で射映的に現出している所与[これらが「向き合った顔」「高盃」のアナロゴンをなす]に対して、あの細長いしかじかの物[「白黒図形」のアナロゴン]が所識の位置に立っている、とも言える道理であろう。)畢竟するに、所与的射映相の相違性を自覚しつつ、共通・単一の対象について自他が意識していると覚識されている場合、そこでの単一的・同一性は「所識」契機の同一性なのである。一般には、この対象的共通性・単一性を支える所識的同一性の上に、射映相こそ自他で異なるが、自分も他人も共にその所与(下位的「所与・所識」成態)を「蛇」として(或いは、共に「縄」として、等々)覚知しているものと意識される・が、いずれにしても、要は自他で「所与的射映相は相違」するが、「所識的意味は同一」という構制になっているということである。他者が対象認識をしている(対象認識の主体である)と自分の側で認知している場合、恒に必ずこの構制になっている(言語的交信・理解の場合、この構制になっていることは見易いであろう。)なるほど、相手が見ているのか見ていないのか、見ているとしても何(どれ)を見ているのか、況(「ま」のルビ)してや、どのように見えているのか、見当もつかない場合もある。だが、こういう覚識、つまり、他者が見ているのか見ていないのか、見ているとしても何を見ているのか判らない、という覚識、これが生じるのは当の他者を意識主体・認識主体として先行的に認知していることを存在条件としてのことである。そして、この存在条件たる先行的認知を成立せしめるのは、上述の構制、すなわち、自他で「所与的射映相は相違」「所識的意味は同一」という構制と相即的にである。」213-5P
(対話C)「世界の間主体的な共有性・単一性、これは相互主体的承認とも表裏一体なのであるが、それは射映相をも含めての間主体的同一性の謂いではなく、まさしく自他で「所与的射映相は相違」するにもかかわらず「所識的意味は同一」であるという構制において存立する。――人々は、間主体的関わり、すなわち、言語以前的な共互的行為から言語的交信までを含む間主体的な交流を通じて、相互的他者理解を獲得・是正・豊富化しつつ、認知性所識ばかりでなく価値的所識をも共有化し、単一的所識世界(といっても多階的な「所与−所識」構造成態における所識界であって、単なる物理的実在界ではなく、用在的価値界)を間主体的に“有ち”、そこに“内存在”する。しかも、当の世界の認知相を陶冶するだけでなく、実践的な関わりを通じて実在的世界与件を不断に変様せしめて行く。この過程が、意義的価値形象の間主体的な形成・陶冶の過程とも相即し、当在的主体としての能為者誰某としての人格的形成・陶冶の過程とも相即すること、このことについては更めて復唱するまでもあるまい。――四肢的構造・四肢的連環として上述した“部位”的成態は、斯かる間主体的総世界の動態的連関態の“結節”とも謂うべき相にある。」215P
(小さなポイントの但し書き)「われわれは爰ではまだ超越論的独我論や他我認識不可能論の提起する疑義、すなわち、“他我認識、相互認識、世界の間主体的共有などと言っても、所詮は「私」の意識野内での私念にすぎないのではないか”という疑惑に対して最終的に答えうる段ではない。がしかし、他我認識不可能への応接を意識して差当たり次のことは銘記しておきたい。/他我認識不可能論者は他人の意識内実は認識不可能であると言うが、そのさい、他人が意識主体であることは前提的に認める構制になっている。つまり、意識内実は存在するのだが、私にはそれの認識が不可能だという構制になっている。さもなければ、つまり、他人の意識などというものがそもそも存在しないとするのであれば、いまさら認識可能・不可能の議論は無用なことであろう。だが、一体、他人が意識主体だという前提的認知はどこから得られたのか? 一定の機縁に縁って仮設的に“認知”されたものであって、意識内実が不可知である以上、所詮は懐疑的不決定のままに終るものと言うのか?/現実問題として、よしんば“仮設的認知”としてであれ、論者たちが他人が意識主体であることを認めつつ、唯、その他人の意識内実は不可知だという構制の議論を立てているさい、詮じつめれば、あの他人が見ていることまでは確かだがどう見えているかは不明、という構制で立論している所以となろう。――言語的交信・理解の場面に即しても同断である。ここでも、音声を発していること、しかも一定の意識活動を営んでいるらしいことまでは判るが、意識の内実を直接的に知ることは不可能であると論者たちは主張する。そして、たかだか言語的音声(身振や表情、等々を加えても可)を手掛りにして、当人の意識内実を類推・推測という仕方で“察知”“想像”するのだ、と論者たちは称する。――/われわれに言わせれば、論者たちの隘路・謬見の元は意識観・意識構造観に存する。論者たちは、所与−所識の二肢的構制、所識的意味の同一性、所与的射映の相違性という構制に想到せず、以って亦、推測的想像がおこなわれるのはさしあたり所与的射映相に関してなのであるということ(論者たちが、この“想像”は時として“あの身”の視座から“見る”という仕方でも現におこなわれるということに概して眼を閉ざしていることは今問わぬとしても)、これを対自化できない。論者たちは、あの「三項図式」のドグマ、「意識の各私性」のドグマに固執している次第だが、そのさい、意識するとは“内なる像”を“内側から見る”という構制の事態であるものと臆念している。――論者たちの思い込みでは、意識するということは、各自が自分の内なる“射映的心像”を“内から見る”ことにおいて成立するのであるから、他人の意識を認識するためには、他人の内部に入り込んで他人の内部から“眺める”ことが必要であるが、これと到底不可能であり、以って他者の意識内実を認識することは不可能ということになる。可能なのはたかだか想像的推測であるが、これはあくまで想像的推測者の側に内属する主観的な想念にすぎず、以って、他者本人の意識内実には事の原理上到底不可能という“結論”へと到る。――だが、われわれに言わせれば、意識するとは“内なる心像”を“内側から眺める”という構制の事態であるとする論者たちの意識観が根本的に謬見なのである。/論者流の意識観、以って他者認識の不可能論へと導く意識構造観の誤謬なることを、第一巻を通じて論定し、亦、他者認識不可能論の内在的批判を別著『表情』および『哲学の越境』(第四章「身体的現相と“内奥”の意識」)などで試行しておいたが、本巻では次篇での営為的世界の構制論を介して論攷の準位を高め、第三篇終章に至って、意識の本源的各私性のドグマを終局的に芟除(「せんじょ」のルビ)し、以って他者認識不可能論を卻けるばかりでなく、「他我認識とか間主観性とか言っても所詮は“私”の“内なる”“私念にすぎない”のではないか」という疑義に応える算段である。姑くの猶予を頂き度いと念う。」215-7P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(10)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第三節 四肢の相互的媒介性
(この節の問題設定−長い標題@)「用在的財態の二肢的二重性(「実在的所与−意義的価値」)と能為的主体の二肢的二重性(「能為者誰某−役柄者或者」)とは、両々独立ではなく、一種独特の仕方で連関し合っており、都合四肢的な連環を形成している。――イルレアール=イデアールな「意義的価値」ならびに「役柄的或者」が存立性を得るのはこの四肢的相互媒介性の構造においてであり、用在的財態の間主体的価値性や能為的主体の人格的“同型”性が現成するのは、そこにおける「意義的価値」「役柄者或者」の対他・対自の媒介性に俟ってである。――用在的世界は、「実在的所与」「能為的誰某」「意義的価値」「役柄者或者」という四契機から成る四肢的構造連関態をなす。」181P
(この節の問題設定−長い標題A)「われわれは、これまでの行文において「実在的所与−意義的価値」、「能為者誰某−役柄者或者」という両つの二肢的二重性に関説してきたが、ここに登場する四つの契機の総体的な相互連関性についてはまだ主題的に討究していない。この遺された課題に応えつつ、就中イデアールな「意義的価値」ならびに「役柄的或者」の存立性を立言しうる所以の“権利根拠”とその“限界”を明示しておくことが本節の論件である。――この作業は、価値的有意義性なるものの相互主体的な被媒介的存立性を確認し、併せて亦、能為的諸主体の相互主体的な承認(Anerkennung)の構制を確説するものともなる筈である。」182P
第一段落――認識論的“構成”の所産としての仮托で、「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重態の現成をとらえる 182-5P
(対話@)「財態が財態として成立するのは、すなわち、「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重態が現成するのは、認識論的な視角で言えば、一種の認識論的“構成”の所産としてである。――けだし、認知論的射影で截り撮って見れば、意義的価値は一種の「所識」であり、所識というものは、第一巻で縷説した通り、“質料的所与”に“向妥当”する一種の“認識論的構成形式”であって、この“構成形式”が質料的所与に“投入(hineinlegen)”されることにおいて「実在的所与−意義的価値」の成態が“成立”するのだからである。但し、第一巻において併せて詳説したように、われわれは認識論上の構成説の道具立に仮托してイラストレイトするとはいえ、最終的には構成説をそのまま採るわけではない。われわれとしては、文字通りの意味で、構成形式なるものが存在するとか、投入が実行されるとか、以って構成がおこなわれるとか、このたぐいの主張をするものではない。構成説に仮托した立論の埓内にあってさえ、われわれは、いわゆる“構成形式”は、先験的な認識論的主観にアプリオリに具っているものではなく、アポステリオリに間主観的に形成されるものであることを説き、構成形式の具有者とされるいわゆる先験的主観性なるものは、実態において間主観性にほかならないことを説く。われわれが構成説の道具立てに托した議論を敢えて媒介にするのは、認識論史上の諸々の係争問題に好便に応接する方略としてなのであり、現に第一巻ではその実を収めた心算であるが、本巻二巻においては長期迂回的な仮托は必要としない。成程、本巻においても、価値判断の主観という論脈で“価値判断主観一般”という認識論的主観が問題に上り、それの実態を間主観的な同調性・同型性の成立機序に即して論定し返す作業等が課題となる。厳密に言い出せば、第一巻で一応は論定しておいた“先験的主観性”とはその実は「間主観性」なりというテーゼの論決は本巻での実践論的場面に俟たねばならない。とはいえ、これらの課題には本節の行文中で比較的簡略に応えることができる。敢えて猶ここで一旦、認識論上の構成説に仮托するかのごとき方略を採るのは、イデアールな存在性格の価値(価値的有意義性)なるものが対象的に自存していて、それを各主観が模写(知的直観とか本質直観とか謂う流儀をも含めて)するのであるかのように思念する謬見と対質する便宜上からである。」182-3P
(対話A)「偖、日常的意識においては、財態すなわち“価値を帯びた実在”が対象的に自存していて、それを実在的主観が“受容”的に認知するものと思念されている。この思念は謂われなしとはしないが、学知的省察の見地からすれば一種の物象化的錯認であって、われわれとしてはこの錯認の機制を(前々章第三節や本章第一節での形式的指摘の域から実質的な議論へと推し進めて)対自化しておかねばならない。――謂う所の「実在」の契機に関して已(「すで」のルビ)に一種の物象化的錯認の機制が介在しているのだが、これについては第一巻で討究済みであるから、爰ではもっぱら「意義的価値」の契機に即して討究することにしよう。」183P
(対話B)「尚、誤解のないよう、事前に一言しておきたいことがある。著者は価値なるものは間主体的・文化的な形成態であるとするが、価値的分節化に“自然的”要因が介在していないと言うのではない。場面と次元は異なるが、第一巻において、知覚的分節は決して硬派の言語相対論者の謂うように悉皆“言語被拘束的”“言語被媒介的”ではなく、「言分け」に先立って市川浩・丸山圭三郎氏の謂う「見分け」の機制が作(「はた」のルビ)らくことを述べておいた。尤も、その際に附言した通り、既成的分節にあっては「言分け」に浸潤されているのが現実であり、“純然たる身分け”などというものを単離することはおよそ不可能である。とはいえ、「言分け」が成立するためにも、原基的機制として「身分け」の機制が前梯となる。もし、これが無ければ、早い話、言語音声の原初的な音韻的分節化が成立しえないであろうからである。これとの正確な類比でこそないが、財態的分節、そこにおける価値性の原基的構制に関して、情動的興発性・行動誘発性の原初的・原基的な場面では、いわゆる“無条件反応”的な場面では、いわゆる“無条件反応”的な機制が基層をなすものと考える。この意味において“自然的”な基層を想定する所以となる。とはいえ、人間(「ヒト」のルビ)の場合、養育過程でいちはやく“無条件反応”が“条件反応”へと極度に変容されるため、幼児にあってすら価値性反応の“自然的”基層が純粋相で厳存することは現実にはおよそありえないに等しい。――成程、「猫にマタタビ」の様態で、人間(「ホモ」のルビ)は或る種の香気・味覚・形状・音質を好感し、或る種の臭気・味覚・音質を嫌悪する“自然的”傾向性を有っているかもしれない。それが後天的に変様するにせよ、当の先天的“自然的”な傾向性がかなりの程度維持され続けるという事実さえ認められよう。しかしながら、腐敗臭のする高級チーズやクサヤの干物を好むとか、苦味(「にがみ」のルビ)・渋味のする鮎のウルカを好むとか、このたぐいの実例に象徴的に見られるように、人間における価値性反応の現実は“自然的”“先天的”な反応、つまり“無条件反応”とは“逆”になる場合さえもあるほどに文化的・後天的な変容を蒙むっている。この現実を捉えることが要件なのであって、原初的・原基的“基底層”とやらに“還元”して“説明”したつもりになるの愚をわれわれは犯してはなるまい。――という次第で、われわれは価値性に関わる原初的・原基的な“自然的”層を論理的にも事実的にも認め、それが一種の“自然的”傾動性として存続し、以って価値性の具体的・現実的な在り方の規定的要因として作動しているであろうことも否認しない見地を採りつつも、人々の日常的・既成的な場面における価値性認知・反応にあっては、価値性なるものは概ね文化的に変様・形成された所産になっているという現実に定位する。」183-5P
(対話C)「われわれのこの視座・視角からするとき、価値性の認知・反応が、自存的に定在・相在する価値なるものの単純な受容といったものではないということは已(「すで」のルビ)に彰らかであり、問題の焦点は、一体なぜ亦いかにして、それにもかかわらず、価値なるものが自存するかのように思念され、故に亦、受容的な認知・反応をもたらすかのように思念されるのか、この機制を解明することに懸る。――因みに、嚮に認めた“自然的”基層にあってすら、単なる変容・受納ではない。著者は、今爰で、シャクターの情動理論のごときに恃んで「ラベル貼付」を云為しようというのではない。“ラベル貼付”以前の謂うなれば“身分け”的局面において既にそうだと言いたいのである。つまり、“自然的”基層における“無条件反応”の機制からして、反応の在り方は反応主体の側の反応機構の在り方をも規定的要因としているのであって、一方的な受容・受納ではない。これは固よりいわゆる認識論的構成とは別次元のことではあるが、単なるタブラ・ラサへの受容・受納ではないということは銘記されて宜(「よ」のルビ)いであろう。そして、現実問題として、謂う所の“無条件反応”は条件反応へと変様され、当の変様の在り方が文化被拘束的な他者たちの干与に因って規定されるのであるから、いちはやく文化的変様・形成の機制が作(「はた」のルビ)らき始める次第なのである。――」185P
(対話D)「以上の但書、断書を先立てたことで、われわれが価値性認知・反応の“自然的”基層性や傾動性を顚から無視する者であるかのような誤解は防遏できるものと信じ、今や安んじて、価値性認知・反応の文化的被拘束性、さしあたっては価値性認知における“構成”的機序、しかも、間主体的な“構成”機序の論考に移りうる段である。」185P
第二段落――「貨幣」の例に即しながら暫く議論を進める 185-91P
(対話@)「議論の構図を見え易くするため、また、ハイデッガーの「用材性」(Zuhandenheit)と接点を設けつつ、彼のbewenden lassen(適所を得さしめる)論の存在論上の短見を指摘する便を図って、事例としては特殊にすぎることをも憚らず、敢えて「貨幣」の例に即しながら暫く議論を進めることにしよう。」185-6P
(対話A)「「貨幣」という財物は、価値尺度機能・購買手段機能・蓄蔵手段機能といった、幾種類かの「使用価値」を有ち、また、それ自身一定の大きさの「商品価値」を有っている。――論者によっては、本物の貨幣は金/銀のみであって、銅貨・陶貨・紙貨の如きは金貨/銀貨の代理物にすぎないと見做す。が、仮令代理物であれ、貨幣として通用するのであるから、ひとまず「紙幣」に即して論じ、その後で金銀貨に“溯る”ことにしたい。――「紙幣(貨幣)」の使用価値も商品価値も、客観的に自存しているように思え、以って人々は“既存する価値”を“受容的”に認知して反応するのであるように思える。当事者たちの思念相においては確かにそうである。彼等にとっては、紙幣は認知・反応に先立って価値を有っており客観的に価値性を具えていると認知するからこそ、その紙幣と引換えに物品を引渡すという反応的行動を彼等は営なむのである。あれこれの個人が紙幣の価値性を否認し、それを貨幣として遇することを拒絶したとしても、紙幣は当人の否認・拒否には拘(「かか」のルビ)わりなく、“客観的に価値性を有ち”、“客観的に通用する”ことであろう。まさしくこの事実・事態を追認する流儀で紙幣価値性の客観的・自体的な存立性という日常的既成観念・常識的思念が鞏固に成立する。」186P
(対話B)「慧眼な読者は爰で今更この錯認の分析・検討に立入ることは、退屈極まりないと感じられるかもしれない。著者はそれを惧れないではないが、しかし、この凡俗な例は却って論件の対自化に役立つという事情に免じて、何卒暫くの御辛抱を願い度いと念う。――偖、あれこれの個人が否認・拒否したとしても紙幣の価値性が厳として“客観的に”存立するというのは、他の人々が紙幣に価値性を認め、他の人々が貨幣として遇するという事態、この間主体的事態の反照以外の何ものでもない。人々が皆こぞって紙幣に価値性を認めず、貨幣としての受取りを拒絶する事態になれば、この新たな間主体的事態のもとでは、当の紙幣はもはや価値性を有たないことになろう。この際、紙幣に価値性を認めるか認めないかという認知性の態度よりも、貨幣として受取るか否かという実践性の態度(ひいては行為)の方が決定的である。観念上は一応紙幣であることを認め(以って、その限りで一応、紙幣の価値的限定性を認め)ていても、つまり、認知上は貨幣として認めていても、こぞって受取りを拒否すれば、つまり、実践的に貨幣として遇しなければ、その紙幣は“客観的”価値性を喪失してしまう。価値性が個々の主観にとって既在的・独立的というのは、当人の承認・否認の如何に拘わりなく、他の人々が価値性を認知し、それに応じた実践を営なむという事態、斯かる間主体的事態が貨幣財所与に「物性化」されている構成にほかならないのである。」186-7P
(対話C)「紙幣の価値性なるものは、こうして、人々の間主体的営為が成立せしめるものである。――それは政府なり中央銀行なりといった機関が“権力によって創出”するものではない。なるほど、公権力の一定の施策が、人々の営為に一定の規制力をもつことを介して、紙幣の価値性の成否に影響を及ぼすことは確かである。だが、公権力が直接に紙幣の価値性を創出するのではない。権力を背景として、紙片に一定の図柄を印刷したものを“創出”しても、この物理的・実在的過程それ自身では紙幣としての紙幣(貨幣的価値性を帯びた紙券)の「創出」にはならない。けだし、もしも人々がそれを紙幣として遇しなければ、印刷紙片こそ“創出”されても、価値性を帯びた紙幣が「創出」されたことにはならないからである。現に、政府発行の紙幣どころか金属貨ですら、例えば、本邦奈良時代の和同開珎などのように、一向に流通せず、以って、貨幣的価値性の成立しなかった事実がある。(貨幣価値の量的規定性に関しては、公的権力がその大きさを規定しようとしても、市場原理によって騰落するため、到底、公権力の「創出」しえざるところであること、これは絮言するまでもあるまい。) ――ハイデッガーは、彼の謂う用材性=道具的存在性について、それは物在的事物に主観的な彩りを添えたものではないことを正当に指摘し、それの成立をbewenden lassenという構制で説いている。が、彼は、道具的存在性なるものが適所を得せしめることにおいて成立することを、存在的(「オンティッシュ」のルビ)な次元では認めても、存在論的(「オントローギッシュ」のルビ)な次元では頑として認めない。著者に言わせれば、これは「存在性」についての一種の物象化的錯認である。著者としては、ハイデッガー流の稍々狭い用材性のみならず、著者の謂う広義の用材の価値性全般がハイデッガー用語に仮托して言えばbewenden lassenに負うもの、精確には、間主体的な実践的連関態の反照的規定として成立するものと考える。(この間の事情については拙稿「ハイデッガーと物象化的錯視」、『事的世界観への前哨』所収を参看頂き度い。尚、彼の説明における「全態としての存在者」による被投という議論の地平において用材性論がどう変容されるか、再検討の余地があるが、爰では『存在と時間』に即して以上の立言に留めておく。)」187-8P
(対話D)「茲に謂う「間主体的な実践的連関態」は一定の“共同体”的枠組内に現存在し、直ちに全人類的な実践的連関態をカヴァーするものではない。そして、現実には、当の“共同体”に内存在する成員たちの間で価値性の認知・反応の同調性、同型性が見られるのである。(ここでの言い方は、実は顚倒している。正しくは、価値性の認知・反応の同調性、同型性の見出される区劃態を以って“共同体”と呼ぶのである。この“共同体”なるものは、“同調性・同型性”をどの程度・精度で認定するか、溯っては“間主体的な実践的連関態”をどの緊密度・整型度で分劃するか、これに応じて広袤が可塑的であり、現実問題としては錯構造態として描出される必要がある。がしかし、間主体的実践による被媒介的反照規定に留目すれば足る爰では、“共同体”なるものの規模・範囲は明示さないまま、しかも、“共同体”なる枠組が先在するかのごとき顚倒的な措置のまま、姑く議論を運ぶことを恕(ゆる)され度いと念う。) ――“共同体”に内存在する成員たちの間で価値性の認知・反応の同調性・同型性が見られるという事態は、視角を変えて言えば、成員たちの価値性意識・態度が同調化・同型化している事態を表わす。此処にあっては、成員たちにとって、価値性対象は間主体的に同一相で客観的に既在するものと思念され、その価値性対象に対して概ね同型的な認知・反応が遂行される。ということは、亦、成員の各自が同型的な価値性認知・反応を体現する主体として自己形成を遂げていること、すなわち、価値性認知・反応の主体として間主体的な同型化を遂げていることを意味する。」188-9P
(対話E)「われわれは前節の行文中において、「役柄者或者としての能為者誰某」という在り方での能為的各主体が、人格的形成を遂げて行き、「<当在的主体>としての能為者誰某」という現相在を体現するに及ぶことを論じたのであった。そして、<当在的主体>というのは実践論的視界での役柄存在者の一位相ではあるが、それを認識論的射影で截り撮れば一種の「価値認知主観一般」であること等々をも誌しておいた。「<当在的主体>としての能為者」が所与“共同体”内において“同型化”された価値性反応主体の相にあることは言うまでもない。」189P
(対話F)「今や、先に対自化したところを前節における右の所見とリンクさせて、われわれは次のことを爰に叙べることができる。――先に対自化したところでは、紙幣という財態の価値性は、人々が一定の紙片(実在的所与)に貨幣的価値性を認知し、それを貨幣として(つまり、価値尺度/購買手段/蓄蔵手段/等として)実践的に遇するという事態の反照的規定性である。この間主体的に同調的・同型的な認知・反応は、“共同体”に内存在する能為的諸主体が前節に謂う「<当在的主体>としての能為者誰某」の相へと自己形成を遂げていることとも相即し、能為的諸主体の“同型化”に照応する。しかるに、この“同型性”は、能為的主体の二肢的二重性の構造的契機に即して言えば(現実の主体においては両契機は要素的に複合・接合されているわけではないが、二肢的二重態という物象化された把捉・措定に即して敢えて言えば)、<当在的主体>という契機の“同型化”的形成に俟つものである。その限りで、間主体的に同調的・同型的な価値性認知・反応、以って価値性を“客観的に存立する”相に物象化せしめる所以のものは、“同型化的形成”を遂げた<当在的主体>としての認知・反応に存すると言える。ここに見られる構制を認識論上の構成説の構図に仮托して言えば、<当在的主体>という相での“認識論的主観性”(間主観的に“同型化”を遂げた主観性)が価値性を“構成”し、生身の“経験的諸主観”の日常的・直接的意識にとって価値性を“客観的に存立”せしめる次第となる。(構成説への仮托を一層強めた表現を敢えて採れば、各主体は<当在的主体>としての自己形成と相即的に価値性認知“形式”を形成しており、認知に際して、この“形式”を実在的与件という“質料”に“投入”し“向妥当”せしめる。)」189-90P
(対話G)「現実には、財態の現前様態と主体の在り方とは雙関的・相互媒介的である。そもそも、「実在的所与−意義的価値」成態なるものと「能為者誰某−役柄者或者」成態なるものとを対置的な構図で把えることからして、本来的統一態を二極化的に分劃した措定であって、日常的意識への映現層に便乗した措置でしかない。が、敢えてこの対置的雙関の構図に即して記せば、財態「実在的所与−意義的価値」の現前様態は主体「能為者誰某−役柄者或者」の形成相在に応じて変様し、返っては亦、主体の在り方は財態の現前仕方に応じて変貌する。――財態の現前様態が主体の形成相在に応じて変様するというのは、さしあたり認知相の変様と言っても宜いが、しかし、その変様せる認知相(新しい認知相)に即しての実践的反応が生じ、この実践的反応によって財態に変化が生じ、この変化せる財態との認知的・実践的な関わりを介して主体の形成が進捗し……、という次第で、それは単なる認知的変化ではなく、雙関的・相互媒介的な実有的変化である。この実有的変化は実有的変化、しかも、単なる実在的契機における変化ではない。財態の側でも、主体の側でも、価値性の契機(すなわち、「意義的価値」および「役柄的或者」)の具体的な在り方の変化を伴う。実際問題としては「価値性契機の在り方の変化をも伴う」というより、この契機の変化の方が(実際的契機の変化よりも)著しいのが普通である。実在的契機の物理的変化は僅少であっても(極端な場合、実在的契機は元のままと見做せるような場合であっても)価値性契機は甚大な変化を遂げうる。例えば、紙幣は、物理的には元のままでも、価値的には大変動を遂げうるし、事と次第では、無にも帰しうる。用在的財態においては(対象の側であれ主体の側であれ)、実在的契機の変化と価値性契機の変化とは一対一的に対応・並行しないのである。このことが銘されねばならない。――有様(「ありよう」のルビ)は、「役柄的或者としての能為者誰某」が「実在的所与」を一定の「意義的価値」性において認知し、それに見合う反応をすること、そして、そのことを通じてまた能為的主体の自己形成が進捗して行き……、四肢的連関態の総体的な構造的変位が進展するのであるが、敢えて実在的契機と価値性契機とを抽離するかの如き筆法で誌せば、財態の意義的価値性の現相在(「ダー・ウント・ゾー・ザイン」のルビ)と<当在的主体>を“完成成態”とする役柄者或者の現相在とが相対応する。」190-1P
(小さなポイントの但し書き)「駄目押しを憚らずに誌しておけば、紙幣という財態の貨幣的価値性は、能為的諸主体が紙幣使用という役柄行為を遂行すること、紙幣使用者という相での役柄者或者へと自己形成を遂げていること、主体の側のこの現相在と相対応する。――紙幣使用者という相への自己形成、紙幣使用という役柄行為の遂行、この現実は、個々人に即して言えば、紙幣という財態が既存し、この紙幣の道具的使用(価値尺度/購買手段/蓄蔵手段/等としての使用)を他者たちに役割期待され、それに即応して……という間主体的営為において成立する。――紙幣の価値性は能為的諸主体が紙幣使用という役柄行為を間主体的に遂行することにおいてbewenden lassenされる所以ともなる。紙幣ならざる金貨・銀貨についても本質的には同断である。単なる実在(金属)としての金や銀が自然的属性として貨幣的価値性なるものを具えているわけではない。経済“学”史上、かつて重金主義者がそのように誤想したというエピソードこそあれ、古典派経済学がいちはやく正しい認識に到達した通り、自然物としての金や銀それ自体が価値尺度機能・購買手段機能・価値蓄蔵手段、等の使用価値性を有つわけではない。まさにそれらの諸機能を演じさせる手段として(要言すれば貨幣として)それを使用する間主体的営為が金銀を貨幣たらしめるのである。このことに鑑みれば、紙幣に即して上述した事柄が貨幣一般について妥当すること、金銀貨であれ陶貨や紙幣であれ、貨幣的(手段)価値性の構制においては本質的に同断であることが彰らかであろう。」191P
第三段落――与件が誰かにとって意義的価値性を有つとは如何なる構制の事態であるのか検討する 191-9 P
(対話@)「われわれは、以上、財態の側の価値性規定と主体の側の役柄者規定との関連を構図的に見え易くする方略を慮って認識論上の構成説の道具立てに仮托する流儀で陳べ、また、いわゆる価値性が社会的・文化的な間主体的“形成”の所産であることの見え易い貨幣(紙幣)の側に即して叙べてきたが、そこには補訂を要する論点も遺されており、視圏を拡充して論決すべき案件も遺されている。――認識論的構成主義への仮托はわれわれ本来の立場からすれば一種の論件先取にも通じ、また、貨幣という例は財態の価値性一般にとってはいかにも特殊的事例に過ぎる。――けだし補全を要する所以である。」191-2P
(対話A)「嚮には、貨幣という事例に訴えたため、財態の価値性が人々皆にとって(同一“共同体”に内存在する成員という限定こそあれ)同様に“客観的に存立”する相で思念されていることを前梯とする議論を事とした。溯って言えば、われわれは第一章このかた、それが物象化的錯認であることの指摘を添えたとしても、財態なるものが一定の価値性を“客観的に”帯びて映現する事態を既定の事実とする地歩で議論を運んできたのであった。現実には、しかし、例えば、私が或る与件に有用的価値性を認めるのに他人たちは無用としか見做さないとか、私は有用という正価値性を認めるのに他人たちは有害という負(反)価値性の認定を下すとか、このたぐいの場合が往々に見られる。けだし、価値性とは所詮“主観的なものにすぎない”という見解が生まれる由縁でもある。爰にわれわれとしては、そもそも与件が誰かにとって意義的価値性を有つとは如何なる構制の事態であるのか、このことにまで溯って、検討する課題を負う。」192P
(対話B)「議論を直截に価値性一般に即させようとすると、抽象談義に終始する惧れもあり、混乱を招きかねない。それ故、今復た稍々特殊的事情ではあるが、道具的有意義性(道具的価値性)の場合に即して暫くのあいだ論考を進めておき、そのうえで一般論へと移ることにしたいと念う。」192P
(対話C)「偖、道具というものの効用的・手段的な価値性なるものも人々にとって客観的に存立するものと思念されるのが、日常的・既成的な意識事実かもしれない。例えば、金槌は、誰にとっても、客観的にそれ自体で、道具的価値性を有っているものと思念される。だが厳密には、金槌が直接に道具的価値性を有つのは、使用者にとって、しかも、使用中に限ってである、と言うこともできる。(この間の事情は、例えば、手頃な石を拾って金槌として使用するような場面を思い泛かべると納得されよう。一定の目的連関での手段的な使用という現実的な行為が、当の与件に道具的価値性をbewenden lassenするのである。)尤も、日常的・既成的意識にあっては、金槌と呼ばれる道具が既成物として存在し、それを誰が用いようと、否、それを誰一人使用しまいと、道具的価値性がそれに内属しているかのように思い込まれているのも謂われなしとはしない。(突飛に響くかもしれないが、これは人物を教師とか父親とか概念規定するのと同趣の構制であると認められよう。第三者にとっては別段、直接に教師でも父親でもないのだが、しかじかの対他的関連において教師・父親であるという反照的規定性・関係的規定性が当の人物なる一実在に“内属化”されてしまうあの日常的機制である。)が、この既成的意識を発生論的・論理的に分析してみれば、誰かがそれをしかじかに使用することにおいて道具的有意義性が“発揮”されるということ、この“可能態”、言い得べくんば“蓋然態(?)”に即して、恰かも道具的価値性なるものが物在に内蔵するかのように見做されている次第なのである。この限りで、原理的には、道具的価値性なるものは、「誰々にとって、且つ、彼のしかじかの行為にとって」存立するもの、しかも当の行為によって「成立・存在せしめられる」ものにほかならない。この故に、或る与件が、誰某にとっては道具的価値性を有つが、別の誰某にとっては価値性を有たないとか、場合によっては反価値性を帯びるとかいった事態が生じうることにもなる。」192-3P
(対話D)「道具的価値性なるものは、こうして、直接的には、使用者にとって且つ使用行為の場においてのみ存立するものだとしても、しかし、他の者たちもそれに道具的価値性を認知する、という事実もまた重要である。使用者にとっての直接的な道具的価値性と認知的第三者にとっての価値性とは区別を要するが、後者の存在構造と“権利”が併せて論件になる。」193-4P
(対話E)「所与の物を、人は自分自身で直接に道具として使用しなくとも、他人が使用しているのを目撃して、当の物に使用者がしかじかの道具的価値性を賦与・認知していることを理解できる。この理解を成立せしめる発生論上の基層的な体験の場では、前章第一節で問題にした「あの身とこの身との一体化」的「同一視」の機制なども作(「はた」のルビ)らく。が、それを前梯として、もはや“一体化的融合”や“一体化的同一視”といった体験相にはなく、“あの身”と“この身”との分立が明確に覚識されている場面にあっても、他者の体験を“想像的に追体験する”こと、つまり、“あの身”の座に想像上“身を置き”、“あの座での体験相を想像する”ことなども可能になる。そして、自身での体験からの類推ばかりでなく、以前に“想像的に追体験”したケースから眼前の他者の現在的体験相への類推といったこともおこなわれるようになる。これらの機制・過程を通じて、一定の道具的価値性を特定の物に“物性化”して“帰属化”させる事態が進捗し、具体的な使用者や具象的な使用様態の“脱肉化”に伴い、諸々の物がそれぞれ斯々の道具的価値性を具えた物(端的に言えば“何々という道具”)という相で覚知されるまでになる。――涯ては、想像的・類推的な使用体験とか、それの類推的拡張という既往的媒介過程の意識を伴うことなく、何々と呼ばれる物は何々用の道具だということが“概念的に知解”されるまでに至る。例えば、ブーメランや絞首台など、使用場面どころか現物をすら見たことのない物についても人々はそれが何々用の道具であること、つまり、しかじかの道具的価値性を具えた物であることを“概念的に理解”し知識として有(「も」のルビ)ちうる。――道具的価値性は日常的意識においては“物性化”して覚知されるとはいえ、当の物性化的帰属の成立機序に溯ってみれば、斯々の使用行為において誰々にとって然々の価値的有意義性が有(「あ」のルビ)る、という構制に支えられている。道具的価値性の物性化された規定性は、行為連関態の反照的規定(これの“凝縮化的帰属”に俟つもの)であるが、具体的な使用者や具象的な使用行動様態の“脱肉化”に伴って宛然(「あたかも」のルビ)“純然たる物性”であるかのように映現する次第であって、爰には嚮に述べた理解者の側の認知的営為が絡む。“一体化的体験”であれ、“想像的追体験”であれ、“第三者のケースからの類推”であれ、“理解者”の側は、単なる私としてではなく、当事他者に“成り変り”つつ“体験”することにおいて、当事他者の座で、道具使用的行為を理解する。尤も、“成り変る”といっても、成り切って了うことは不可能な道理であって、謂うなれば“他者としての私”ともいうべき“自己分裂的自己統一”の相で“体験”するというのが実情である。この“自己分裂的自己統一”における“他者としての私”は、さまざまな“他者”たちとの“自己統一”を経ることを通じて“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という相に“脱人称化”されて行く。そこでは“他者”が“世人(「ヒト」のルビ)”という“標準的”“同型的”な能為主体へと“脱人称化”され、以って行為主体(道具使用者として意識に上(「のぼ」のルビ)る者)の“脱肉化”が生じ易くなると共に、理解者の側も“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という“標準的・同型的”な認知主体の相へと“自己形成”を遂げる所以ともなる。人々が、日常、道具的価値性を物性化された相で覚知/知解する際、理解者たる当の人々なるものは、“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という相へと“自己形成”を遂げているのが常態なのである。裏返して言えば、所与の物について、直截にしかじかの道具的価値性を有つものとして人々が覚知/知解するのは、人々が右に謂う“標準的・同型的”な“世人(「ヒト」のルビ)としての私”という“自己形成”を遂げている事態と相即する。」194-5P
(対話F)「この際、謂う所の“世人としての私”は、それの形成機序に想像や類推といったかたちでの“体験”も介在しうるのであるから、実生活の場を共有する狭隘な範囲での人間に局定されるとは限らない。知解的レヴェルともなれば、その範囲はかなり拡がりうることでもあろう。が、しかし、想像や類推といえども実体験や目撃的“体験”に根差すものであって、想像や類推がかなりの“自由度”をもつことは慥かであるにせよ、おのずと限界がある。況してや、確信を伴って類推/知解がおこなわれうる範囲は存外と狭い。そのため或る共同体においては歴(「れっき」のルビ)とした道具である物が、新来の他所者(「よそもの」のルビ)にはおよそ道具として知解されさえもしないといった場合を生じうる。何らかの道具らしいという推測・見当はついてもそれの道具的価値性の内実が不明という場合もありえようが、そもそも道具であるということに気がつかない場合も往々にしてありうる。想像的・類推的に“体験”するというかたちで道具的使用を“観念的に扮技”することすら叶わない場合、与件の道具的価値性を認知することは殆んど不可能である。(この間の事情については、別著『世界の共同主観的存在構造』の第一部第三章第三節を参照されたい。)道具的価値性が認知されるのは、“私としての私”が“私としての私”にとっての価値性を賦与・認知する場合を措くとして、一般には“他者としての私”ひいては“世人(「ヒト」のルビ)としての私”にとってのそれであり“世人としての私”の形成の在り方に応じて道具的価値性の規定内容や広袤が定まる。」195-6P
(対話G)「ところで、道具的価値性なるものは、具体的使用者が具象的な行為の場でbewenden lassen(適所を得)せしめるもの(より精確に言えば、能為主体を構造内的契機とする一定の対象的活動という行為連関態の反照的規定)なのであるから、道具的価値性の内容は道具財の実在的性質と一対一的に対応するものではない。例えばペーパーナイフは、素材的には、骨・石・木・金属・セルロイド・ブラスチック、等々、物理・化学的にはおよそ異質の物材でありうる。一定の合目的的な機能性を担いうればよい。とはいえ、いかに使用者が適所を得せしめる(bewenden lassen)といっても、それは決して全く恣意的な意義賦与ではないのであって財物の実在的性質によっても制約される。ペーパーナイフの例で言えば、それが所求の機能を発揮しえんがためには、化学的組成こそ様々でありえても、ともあれ、硬い物材でなければならない。一般に、道具は、同種のものであっても、材質(という実在的性質)によって機能に亜種的差異が生じるのが普通であり、道具材の実在的性質の特異性に応じて“個性的差異”を呈する。爰に、概念的規定上は同一の道具であってさえ、つまり、「意義的価値性」は同一でも、「実在的所与性」の差異によって、「実在的所与−意義的価値」成態、すなわち「財態」としては、“個性的差異”を呈しうる所以となる。(但し、例えば“同じ”鉄という物在で多種多様な道具が製作されうることが端的に示すように、実在的所与規定性が道具という財態の種別を一義的に規定するわけではない。そもそも個別化の原理が“質料”の側に存するわけではないということ、このことについては第一巻第三篇第二章第二節を見られたい。また、実在的性質、実在物に具っている“自然的機能”と呼ばれるものが、精確には事物自身に内属するものではなく、これも関係的規定態の反照的結節にほかならないこと、この件については第一巻第三篇第三章第一節での詳論を参看されたい。)」196-7P
(対話H)「今や翻って、先に認識論上の構成説に仮托するかのごとき流儀で誌しておいたところと議論をリンクさせ、構成説への仮托を自己止揚することもできる。――道具的価値性が宛かも物在自体に具っているかのように映現するのは、先刻把え返しておいたとおり、「標準的・同型的」な「世人(「ヒト」のルビ)としての私」という相へと人々が自己形成を遂げている事態とも相即的である。(価値性なるものが、それ自身の存在性格を問い詰めてみるとき、イルレアール=イデアールな存在性格の或るものと呼ばれざるをえなくなること、およびその次第については、今爰に再唱するには及ばないであろう。) ――われわれは、先に、前章第三節で対自化した「<当在的主体>としての能為者誰某」における<当在的主体>を、それが価値性認知の主体でもある限りで、いわゆる認識論的主観(主観一般)に擬したのであった。惟うに、前章第三節に謂う<当在的主体>は「世間様並みの者」「世人(「ひと」のルビ)様並の者」にほかならないのであって、「世人(「ヒト」のルビ)としての私」とも別者ではない。という委細で、先に、価値性が“認識論的主観”によって“構成”されるかのように記した事態は「世人(「ヒト」のルビ)としての私」にとって価値性が対象性の相で映現するという事態と実は不二である。今や、この知見に定位し、「世人としての私」に「とって」……という認知相の成立機序をも勘考しつつ、次のように分析して叙べうる段である。」197P
(対話I)「道具的価値性・価値的有意義性なるものは、真実には決して、認識論的主観とやらが自己の帯有する“超越論的”認識形式を与件的質料に「投入」するという仕方での「構成」によって成立せしめるものではない。道具的価値性を成立せしめるのは、むしろ実在的与件へと関わる具体的使用者の具体的行為である。実在的与件と実在的主体との実在的な関係行為(これは“模写”とか“構成”とかいった認識論的な関係ではない)が道具的価値性を現成せしめるのである。依って、その都度の特個的価値現象は、その都度の具象的行為連関態の反照的規定として把え返さねばならない。尤も、謂う所の「具体的使用者の具体的行為」なるものは、しかし、原初的な場面を措く限りでは、已(「すで」のルビ)に被媒介的な形成態である。そして、そこでの価値性の認知主体は、当人自身であれ目撃者等であれ、純然たる「私としての私」ではない。不断の形成・変様・陶冶の動態的過程にあり、「単なる私以上の私」の相へと自己形成を遂げつつ、その都度の主体的形成態として価値性を認知する。如何なる価値性が如何なる有様で映現するか、これの現相在が、認知主体の側が如何なる間主体的な形成を遂げているか、これの現相在と相対応するのである。しかも、この対応性は、単なる並行性ではなく、相互影響的・相互規定的な相互媒介的雙関性である。」197-8P
(対話J)「われわれは斯かる諒解に基づくが故に、原理的な次元においては、価値性現象に関して、“客体の側が主導的規定因であるのか、それとも、主体の側が主導的規定因であるのか”という問題設定そのものを止揚する。それにも拘らず、敢えて構成説の側に仮托するかのごとき筆法で先にひとまず述べておいた所以でもあるのだが、現実の問題として、主客が対立的に覚識され、宛かも“主体の側が主導的規定因”であるかのように映現する“日常的事実”が多分にあり、これの由って来たるところを説明する必要がある。――省みるに、価値性なるものは、なるほど、主体の側が一方的・恣意的に賦与するものではなく、実在的所与の現相在によって制約・規制されることは確かであるにせよ、実在的所与は“同一”見做せる場合でも、主体の側の在り方に依って価値性は質的にも量的にも“不同一”相を呈する。極端な場合、実在的所与は“同一”でありながら、主体の在り方の如何で、無価値であったり反価値であったりもする。謂う所の「主体の側の在り方」は現実には多種多様であるが、既成化した価値認知の場での構図的定式化では、「世人(「ヒト」のルビ)としての私」という相での認知主体に焦点化することができる。そこでは「世人としての私」という認知種体の形成相に応じて物性化されて“客観的価値”とされるものの現相在が“既成的”であり、個々の主体はそれを感得・直観するのであるかのように体験される次第であるが、爰における事態を説明するうえで、旧来の認識論的道具立てに仮托する限りでは、構成説に恃むのが好便である。すなわち「世人としての私の形成相に応じて物象化される価値の現相在」という事態を、<世人としての私>をイデアリジーレンして<認識論的主観>に祀り上げ、これによる“認識論的構成”ということにするとコミュニケーションがつき易い。この限りで先には敢えて構成説に仮托したのであった。が、今やこの仮托が原理的には非なること、真実には模写でも構成でもないこと、このことが已(「すで」のルビ)に対自化された筈である。実在的個別与件と実在的個別主体との直接的関係を截り撮って見る限りでは、必ずしも主体の側が主導的というわけではない。(強いて言うならば、実在的与件の側の方が主導的であるようにさえ“見え”る。)にもかかわらず、主体の側が主導的で……という具合に思えるのは、主体の側の形成・変様・陶冶、つまりは、主体の側の間主体的な形成的変化、これの現相在に応じて、感応的情動・反応的行動・利用的行為の在り方が変じ、以って亦、価値性の映現する仕方が一変するからにほかならない。価値現象の現相在が主体の側の在り方を主導的な規定因とするとすれば、そこでの主体は単なる「私としての私」ではなく、「単なる私より以上の私」であり、これは間主体的影響・変化を蒙むっている相での私である。それは間主体的関係性を反照的に内自化している相での私、謂うなれば“他者たちの内面化(「インターナライズ」のルビ)している私”である。斯かる主体の自己形成の現相在が(実在的所与は“同一”と見做される際などでも)変易するが故に、宛かも価値性現象においては“主体の側が主導的規定因”であると思い做される所以となる。」198-9P・・・行為ということをポイントにして、主体の側が規定的因になるかのように見做される(?)
第四段落――道具的価値性に即して論究したところが、本質的構制においては価値性一般に妥当することを構図的に要点を確認する 200-2P
(対話@)「われわれが、以上、道具的価値性に即して論究したところが、本質的構制においては価値性一般に妥当する。このことは慧眼(けいがん)な読者の前では絮言を要しないことかと念う。が、構図的に要点を確認しておこう。」200P
(対話A)「価値性現象は、実在的与件に実在的主体が如何なる関心的態度性で望むか(道具的使用はこれの特殊的一形態であった)に応じて現成する。実践的世界において、実在的与件がその都度、単なる実在性以上の意義的価値性を“帯びて”現前するのは、実践的態度性連関態の反照的規定である。主体の関心的態度性は、実在的与件の“自然的”性質によっても制約・規制され続けはするが、原初的な場面を措く限りは、已に被媒介的な形成態になっている。価値性認知の主体は、当人自身であれ目撃者等であれ、純然たる「私としての私」ではなく、「単なる私以上の私」へと自己形成を遂げた相で認知する。如何なる価値性が如何なる有様で映現するか、これの現相在は、実在的与件契機によっても一定限制約・規制されつつも、主要には、認知主体の側が如何なる間主体的形成を遂げているか、これの現相在と相対応するのであって、この対応性は、しかも、単なる並行性ではなく、相互影響的・相互媒介的な雙関性である。」200P
(対話B)「茲に謂う雙関的な対応性が認識論上のいわゆる模写的関係でもいわゆる構成的関係でもないこと、および、それの実態については嚮に縷説した通りである。が、実を言えば、そもそも「雙関的対応性」という言い方からして一種の悟性的分割に即した対照化にすぎない。――一方の側に対象的財態「実在的所与−意義的価値」成態を置き、他方の側に能知的主体「役柄者或者−能為者誰某」成態を置くのは、如実の四肢的な連関態を錯構造化しての措定であり、構図的には主客図式に仮托した“縦の分割”である。また、「実在的所与」および「能為者誰某」というレアールな契機を下方に据え、「意義的価値」および「役柄者誰某」というイデアールな契機を上方に架すのは、これも如実の四肢的連関態を錯構造化しての措定であり、謂うなれば“横の分割”である。如実の実践的世界連関態の存在構造を分析的に記述しようと図るに方(「あた」のルビ)り、悟性的“分割”に托さざるをえない限りで、われわれは敢えてこの措置を採る次第であって、“縦の分割”を施した描像に即するとき、前記の雙関的対応性という図柄になる。そして、“横の分割”をも交えて記せば、そこでは、「実在的所与」契機と「能為者誰某」契機との雙関的対応、且つ亦、「意義的価値」契機と「役柄者或者」契機との雙関的対応という描像になる次第である。(“縦の分割”体における「レアールな契機」と「イデアールな契機」との関係は、あらためて記すまでもなく、本章の第一節で叙べた「として」「等値化的統一」関係になっている。) ――如実に存在するのは四肢的連関態という動態的な構造、われわれの謂う勝義での「こと」、もっぱら是である。」200-1P
(対話C)「蛇足めくが、“縦・横の分割”によって措定される四つの“項”的契機は、独立自存するものではなく、あくまで関係規定性の“反照的結節”にすぎない。しかるに、それを自存する「もの」と見做し、それ自身を内自的に確定しようと試行するとき、哲学史が訓(おし)える通り、それなりに“筋は通って”いても、奇態な議論に陥る。“実在的所与”自体は不可知な“物自体”どころか窮竟(きゅうきょう)的には“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)”なる“無(「ウーデン」のルビ)”と言わざるをえなくなり、エートル・プール・ソアとしての“能為者誰某”は(“不滅的霊魂としての人格的自己同一者”という相で一旦は考えられ得ても)畢竟するに“実存的無(「ネアン」のルビ)”なる“無(「リャン」のルビ)”と言わざるをえなくなる。そして、“意義的価値”というイデアールな(ということはレアールには無(「ニヒツ」のルビ)なる)存在体が自存視されるとき、それはまさしく“形而上学的な存在”として主張されることになる。“役柄者或者”“当在的主体”は種々様々な形態でソフィストケイトされうるが、倫理学的分脈では“理念的人格”“完成人”等々として、認識論的分脈では“超越論的主観”として、宗教的分脈では(直ちに神格的とされるに及ばないにせよ、また、内臨的とされることもありうるが、ともかく) “超人間的な主体的存在”として、定位・想定される。爰では内在的な批判・検討には立入らないが、われわれの見地からすればこれらの主張・見解は、然るべき機縁・経緯・理路に由って生ずる事情を諒としうるにしても、詮ずる所、関係態の構造的契機を独立自存視する錯認(「対象−内容−作用」という三項図式もこれと同根に根差すのだが)に淵源するものにほかならない。」201-2P・・・「エートル・プール・ソア」(超人間的な主体的存在?)
第五段落――実践的世界の具象的な現相在にとって、能為的主体に反照的に内自化される間主体的関係性の占める格別に重要な地歩 202-6P
(対話@)「われわれは、茲に、四肢的各契機を自存視する弊を自戒しつつ、猶、実践的世界の具象的な現相在(「ダー・ウント・ソー・ザイン」のルビ)にとって、能為的主体に反照的に内自化される間主体的関係性の占める格別に重要な地歩に思いを致さざるをえない。」202P
(対話A)「これまでの論行において、われわれは四肢的諸“項”を分肢的“単位”に見立てる流儀で論じ来ったのであるが、当の諸“項”は、物象化された対象相で視れば、錯構造的編制態の“部位”的な構造態なのであり、しかも四項的連環体として閉じているわけではない。――いずれの“項”もそれぞれ謂うなれば“オープン・システム”を成している。実在的与件項(対象相で把えられた人物をも含む)からして、既に第一巻で見定めた通り、総世界的な関係性の反照的結節とも謂うべきものである。(本巻ではこのことにあらためて立入るに及ばないであろう。)意義的価値も第三巻を俟つまでもなく、歴史的・実践的な総世界の反照的結節にほかならない。能為的主体(役柄者或者としての能為者誰某)は、これまた、実存的な単独者として各自で閉じているのではなく、財態的舞台世界と(認知活動的契機をも含めて)実践的に関わる間主体的関係の反照的結節である。――これまでの行文を通じて、“四項的連環”に止目したのは、謂うなれば総世界的連関態の“一局部”を截り撮って、そこに存立する構造を分析し、そこにおいて照映・反照している対他的関係性を確認することを期してのものであった。」202P
(対話B)「総世界的各契機の相互反照的関係については、素より、今爰で直ちに最終的な確認を遂げることは期し難い。役柄存在規定がネット・ワークを形成していること、しかも、そのネット・ワークは舞台的財態の現況によって条件づけられつつも、実践を通じて舞台的状況を変化せしめる雙関的・相互的な変易的動態相にあること、これを見極めるためには第二・第三篇での多少とも具体的な論究を俟たねばならない。また、価値的異議性が歴史的・文化的な実践的世界の在り方と相関的・相対的である事情最終的に論定するには、第三巻「文化的世界の存在構造」論を要する。――尤も、役柄存在規定および価値的異議性という“項”に関しては、実体的に自己完結的なものではなく関係的規定態であるということ、このことまでは比較的容易に理解されていることと念う。これまでの行文中でもそのことの一斑は示してきた。それゆえ、これら両項について今爰で直ちに図りうる程度の確認を挿むのは差控えることにしよう。」202-3P
(対話C)「爰で紙幅を割(「さ」のルビ)いて確認しておきたいのは、就中、能為的主体の対他者的な関係に即してである。能為的主体間の相互反照にあっては、全員相互が直接的にというわけではないが、相互的に意識性を伴っている場合があり、少なくともその一部においてはいわゆる「相互承認」つまり「人格的主体」(さしあたり、自我性・意識性を具えた主体)としての相互承認を伴っている。――四肢的連環態の各“項”が実はそれぞれ“オープン・システム”であり、それぞれの仕方での総世界的な関係性の“結節”であって、謂うなれば各“項”がそれぞれ総世界的な“同類項”を“代表”する“もの”の相で相関わることにおいて“四肢的連環”体という“部位”的“構造”が成立している。このような描像になる次第であるが、今爰では、嚮に謂う“縦の分割”を施した射影相の能為的諸主体の直接的な相互的反照関係、これに留目しようという算段なのである。この間主体的相互反照関係は、それ自体、多次元的・多面的で且つ多肢多様なのだが、爰では相互承認の部面に絞り込んで見ておきたいと念う。(尚、“縦の分割”を施した際の他半、すなわち“対象的財態”は、各“能為的主体”の能知的主体性にとって初めから相同的とは言えず、全面的に共有されているわけではなく、少なくとも“射映的”相違性を払拭できるものではない。能為的諸主体が間主体的に相同的・単一的な世界の共有化に如何にして到りうるかということは、発生論的にも認識構造論的にも周到に論攷さるべき一論件である。が、対面的な場での相互承認を論じる以下の暫くのあいだ、“舞台的状況”を成す“対象的財態”は恰かも間主体的に“同一”であることが既定的であるかの如くに扱うことにし、後論に至って当の論件先取を是正する方略を採る。この段、承知おき願い度い。) ――」203-4P
(対話D)「偖、われわれは、前章このかた、“あの身”と“この身”との分極化以前的な場面から論件とし、“あの身”への認知性現相の所属性、視線的・音源的な帰属、役割期待意識の帰属、等々を簡略ながらも辿り、それとの反照において進捗する自身の側の対自化をも追体験しつつ、能為的主体しかも人格的主体の現成を論じ、降っては、人格的特性の形成・陶冶ひいては「<当在者或者>としての能為者」の成立をも討究するに及んでいた。その過程で“あの身”との協応性即応行動が自身像の対自的成立の前梯として存在条件をなすことをはじめ、役割論的構制における共軛的な他自関係を必要最低限は配視しておいた。――能知的主体としての他己・自己、旁々、言語活動主体としての他己・自己の形成機序については已に第一巻において相応に詳しく跡づけていることでもあり、本巻では役割論的共軛関係下での形成というところに比重をかけるかたちで論じた心算である。――役割的行動の共互的実践を通じての相互的承認、能為的・人格的な主体としての相互的承認のこの機序について、範式上の概念装置に必須な論点は前章以来の所論を想起して頂ければ、逐一的に復唱せずとも済むことかと思う。今爰で要求されるのは、他己認知・他者理解やそれとの反照における自己認知・自分理解の事実的過程・機制そのことより寧ろ、能為的主体としての相互的承認の“権利問題”に関わる方面での論攷である。」204P
(対話E)「最終的な論決は本巻第三篇の最終章まで俟たるべきだとしても、この論件に関わるわれわれの理説の構図は、事実問題の幾つかのポイントの再確認をも伴わせつつ、爰で一通り説述する運びとしよう。」204P
(対話F)「論議の糸口として言及すれば、他我としての認知が先であるか、それとも他者の意識内実の認識が先であるか、この係争問題が存在する。前者の立場といってもヘーゲルの主奴の弁証法のごときからシュッツの一般定立(「ゲネラルテージス」のルビ)のごときまで諸多の理説があり、実践的考証の場に定位するものも目撃的認知の場に即するものもある。後者の立場にあっても他者認識の方式については諸説が岐れ、感情移入(自己投入)説、類比推理説、直接知覚説などがある。われわれの相互承認論は、先行の諸理説と所々に何がしらの接点があるにせよ、総じては、新しいタイプの理説と呼ばれる筈である。――著者としては、先行他我認識論のうち、以下に挙げる幾つかのものは内在的検討に値すると評価する。が、そのいずれにも批判なきをえない。順不同ながら、(イ)ヘーゲルやハイデッガーを批判的に踏まえたサルトルの理説、 (ロ)フッサールの理説、 (ハ)ベルグソンとフッサールを踏んだシュッツの理説、(ニ)クラーゲスやシェーラー継承的に展開したカッシーラーの理説、 (ホ)フッサールとサルトルを受けたメルロ=ポンティの理説、(ヘ)フォイエルバッハ(或る意味ではエープナーブーバーとも相通ずる)とハイデッガーを批判に突き抜けたレーヴィット、これらがその主たるものである。(学説史的には、ヘーゲル、フォイエルバッハ、ディルタイ、リップス、シェーラー、ブーバーなど個別的検討に値することを認めるが、これらは前記(イ)〜(ヘ)においてアウフヘーベンされているので、著者自身としてはモノグラフィックな検討にまで及ぶ心算はない。尚、トイニッセンは、条件つきで彼の学説史的研究の功は認められえても、独創的な理説を展開しているとまでは言えないように思う。)著者は、(イ)については『世界の共同主観的存在構造』の中で、(ロ)については『フッサール現象学批判の視角』中で、(ハ)については『現象学的社会学の祖型』において、(ニ)については『表情』において、(ホ)については『メルロ=ポンティ』において、(ヘ) については、未完結ながら『哲学の越境』中で、それぞれ内在的な検討・批判を試みておいた。(ヘ)に関して残されている論点も、読者には「役割理論の再構築のために」の参看を願えれば趣意は通じることと念う。それゆえ、先行理説の批判的再検討は省いて、直截に次節の構制を叙べるだけに爰では止める。――」204-5P
(対話G)「われわれとしては、旧来の理説が意識の本源的な各私性・人称性を大前提としてきたのに対して、いわゆる“意識現象”の本源的な前人称性に立脚して説き起こす。従って、前掲の係争・対立する両陣営のいずれかの側に与みするのではなく、両者に共通なヒュポダイムを卻ける立場を採る所以となる。尤も、ここで事前に表明しておいた方が結局は早道になろうかと思われる事項がある。哲学上の他我認知説でこそなけれ、日常的に心理学者や脳生理学者においても存外と“選取”される形になっている或る見方への態度表明である。」205-6P
第六段落――人間の(動物の?)意識主体という確信 206-7P
(対話@)「人々は、日常、動物を目撃して直ちに生物として、つまり、生命を具えたものとして認知する。生命とは何ぞやと問われれば困憊(こんぱい)することであろうが、それでもともあれ、眼前のものが動物であり、それに生命が具っていることは“確かに”“知って”いる。そして、それの眼の動きや耳の動き、嗅ぐ動作や表情などから、その動物に感覚や情動という意識性が具っていると確信する。その動物にとって、どのように見えどうのように聞こえどのように匂っているか、また、どのような感情を懐いているか、意識の内実までは分からないにしても、ともあれ、その動物が感覚や感情というレヴェルでの意識主体であることまでは確信される。相手が人物の場合にも同様な確信が生じる。この点では、実験心理学者にとっても同断であろう。彼は、相手“意識内実”についての実験的研究を開始するに先立ち、ともあれ相手が意識主体であるものと了解している。生理学者も脳の構造や機能を剖見的に精査して“意識現象”をそこに発見するのではない。彼は、相手の眼の動きや表情や発言だけでなく、体位電流や脳波や解剖所見なども与件(「データ」のルビ)にして意識主体性を認知し、意識内実についても推測する。脳生理学者といえども、意識現象を直接的に現認するのではない。一定の脳内状態に一定の意識状態が随伴するはずだという先行了解のもとに両状態を細(「こま」のルビ)かく探査するのであって、随伴性そのことは実証以前である。一定の脳内状態に一定の意識状態が随伴するはずだという了解それ自体は、先行的な確信たるにすぎない。動物や人物を意識主体として認知する手続は、素人の場合も脳生理学者の場合も、同工異曲である。脳生理学者にあっても、データや手続は精密化されているにせよ、所詮は“外見”的“様子”から意識性・意識内実を忖度(「そんたく」のルビ)するという手続の構制上は、本質的に同じである。眼耳などの動き、表情性顔面状相、情動性身振、言語音声、脳波の様態、……脳解剖所見、いずれも身体物理的な観察事実であって、素人も科学者も、この観察事実を機縁・手掛りにして相手の意識主体性・意識内実を認知・推察する次第なのである。精粗の度合に差異こそあれ、認識論上の基本資格は同じだと言わねばなるまい。」206-7P
第七段落――“直截的認知”の発生論的成立機序に溯って他己認知・他者認識を定礎しなければならないこと 207-12P
(対話@)「さて、ここで、われわれにとって問題になることは、日常人にせよ科学者にせよ、動物や人物を目撃しただけで、つまり、役割論的共互行動など遂行することなく、直截に、相手を意識主体として認知するというこの事実、これにどう対処するかということである。(文化圏によっては、人物や動物ばかりでなく、植物やわれわれの謂う無生物にまで、同様な機制で意識的主体が認知されている。)この日常的思念に便乗するかたちで“他我直截認知”説とでも謂うべきものを展開する途すらありうるのではないか? ――人は、所与のものを世人が生物(生命体)と認知・呼称するか否かを直截に判別できるようになっている。それと同趣的に、所与のものを世人が意識主体と認知するか否かも直截に判別できる。が、これがアプリオリな認知能力によるものではないということ、その“判別力”は言語活動をも含む他人たちとのコミュニケーションを通じて確立したものであること、これは言うまでもあるまい。言語活動を通じて、他人たちが所与のものを動物と認知・呼称するか否か、しかじかの徴候を呈するものに他人たちが意識性を認めるのが普通であること、人はこれを学び知る。こういう言語的・概念的把握が既成化している段階・場面においては、人はなるほど眼前の与件とことさらに共互的反応行動のごときをおこなわずとも、それが意識主体(と世人が認知・呼称するもの)であるかどうか、直截に判断できる。がしかし、言語活動を通じての伝授・教育が絶対的なのでない。成人が所与のものを目撃しただけで意識体として判定できるようになっている現実は言語活動の場での学習効果に因るところ大であることは確かでも、原理的には言語的伝達以前的な基礎的機制が問題である。われわれは、言語活動の場における当の認知・呼称の成立機序・成立条件にまで溯って考えねばならない。(因みに、チンパンジーなどでさえ、仲間が“見”たり“聞い”たり“喜ん”だり“怒っ”たりしていることを覚知でき、その意味で仲間を“意識主体”として認知できるようであるが、これは言語活動による伝授・学習によるものではあるまい。言語以前的に、言語的伝授・学習とは独立に、他我認知の機制が作(「はた」のルビ)らくものと看らるべきであろう。)われわれが前章このかた論考してきたのは、まさにこの成立条件・成立機序にもほかならなかったのである。――われわれとしては、日常人や科学者の“他我直截認知”という既成性に幻惑され便乗することなど論外であって、当の“直截的認知”の発生論的成立機序に溯って他己認知・他者認識を定礎しなければならない次第である。」207-8P
(対話A)「顧みるまでもなく、われわれは前章において、表情性現相の原始的体験、表情的分凝態の現前といった場面から論を起こし、身辺的動体の個体的分節といった階梯を介し、“あの身”の特異な様態での現前とそれへの応接という体験に即して、“あの身”と“この身”との共軛的関係を縦観したのであった。その発生論的・発達論的過程において、先ずは“あの身”の場所における体験(g男の“あの口”の個所でのスッパサの体験のごときから“あの身”と“一体化した”相での“希求的・促迫的・期待的”な意識態の体験、ひいては“内発的・駆動的”な覚識態の体験のごときまで)が現成すること、それは相即的な“この身”の場所における体験、或る段階以降は対自的な“この身”における体験を前梯とするにせよ、ともあれ“あの身”の場所において“体験”するという機制が作らくということ、このことをわれわれは留目したのであった。これは認知論的視角では“あの身”への“所属”“帰属”と呼ばれうる。――われわれは、また、第一巻で顕揚した「視線の読み」や「音源的帰属」という構制にもあらためて留目した。(因みに、かなり多くの種類の蝶などが“眼”と見間違う紋様を羽根に具えていて、それを拡げて見せつけることで天敵を撃退することが知られている。また、犬や猿は、仲間の視線を追って仲間と同じ方向[“同じ対象物”]を見るばかりか、異種の動物たる人間(「ヒト」のルビ)の視線をも追う。動物界において“眼”は、他種動物のそれをも含めて、格別な反応価・行動誘起価を有つもののごとくである。――音源的帰属の機制についても、これまた、鳥類や哺乳類においては已(「すで」のルビ)に作動しているように見受けられる。)これら「視線の帰属」や「音源的帰属」は極めて重要な機制であり、これなくしては言語(象徴性記号機能)も成立しえないことであろうが、しかし、当の帰属化それ自体ではまだ直ちに意識主体性の認知とまでは言えない。それは即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には已に意識主体性の認知に通じる構制になっているにしても、それをそのまま意識主体性の認知と見做すわけにはいかない。だが、一歩進んで、前章で留意した“あの身の視座”から“見る”とでも謂うべき機制が併(「あわ」のルビ)さるとき、事態が大きく進捗する。“あの身”にあれこれの現相を所属・帰属させるだけでなく、また、視線を帰属させるだけでなく、それに“加えて”“あの身”の視座から“見る”ことにおいて、そこに“見える相”を“あの身”に帰属化せしめる構制が現成するとき、“あの身”を能知的主体として認知する事態になっていると言えよう。亦、“あの身”に言語的記号音声(とフェア・ウンスに呼ばれる分節音)が音源的に帰属され、それに伴って、当の記号音声と等値化的に統一されている所識性意識態が帰属されるとき、“あの身”を言語主体(単なる能知的主体という以上の一種の能為的主体)として認知する事態になっていると言える筈である。そして、更に(といっても、発生論的にはこれの初次的位相が却って先行的なのだが)、役割期待の覚識(とフェア・ウンスに呼ばれる“希求的・促迫的・企投的な覚識態”)が“あの身”に帰属化されるとき、“あの身”は、能知・能情・能意的な能為的主体として認知される事態と成る。」208-9P
(対話B)「斯かる「主体」として“あの身”を認知する過程は、“あの身”と“この身”との共軛的関係性において進捗するのであって、或る種の現相が“あの身”には帰属しても“この身”には帰属しないことの現識が折々に生じることが重要な契機となる。この間の次第については、第一巻においても、前章においても相応に見たところであるから復唱には及ばないであろう。爰で特筆しておきたいのは、他者が自分の期待通りに行為しない場合に直面すること、時によっては、自分の側の期待が相手によって拒絶される場合があること、また、他者の企投と自分の企投とが合致せず対立する場合に当面すること、このたぐいの体験を通じて相手他者の自立的な主体性が強く意識されるようになるという事実である。――ともあれ、“あの身”他者と“この身”自分との共軛的な行為の場を通じて、他己像・自己像の形成、他己認知・自己認知が進捗するのであって、よしんば“あの身”が(超越論的第三者の眼から見るとき)“即応的な反応的行動を現出するマネキン”であったとしてさえ、もっぱらそのような“あの身”しか身辺に存在せず、そのような“あの身”との“共互的行為”を通じて“この身”が成育するのであるかぎり、(狼に育てられたあの少年のケースを爰で想起すると納得が得られ易いと念うのだが)、“あの身”他者との相補共軛性において「自己」象・「自己」認識が成立・進展するのであり、逆ではない。(自己の主体としての具体的な在り方、人格的特性の形成も他己たちとの交流において進捗するのであり、私の意識内実と謂われるものも、他人たちから“授け”られたもの、“学び”取ったもの、さなくとも他人たちとの交渉を通じて形成したものが殆んどである。もしこの世に他人[即応的に反応するマネキンであれ]というものが存在しないとしたら、およそ「私」は存在しない。極めて抽象的・未発達な“意識主体・欲求主体・行動主体”がフェア・ウンスに生存するとしてさえ、当人は「私」としての自覚をもちえないであろうし、いずれにせよ現に見るごとき豊かな内実を具えた私として存在することはありえない筈である。) ――主体他者は“この身”に期待を差向ける者であり、且つ、自分の側でも一定の応答的行為をそれに“呼掛け”うる者である。主体他者は、一定の行為を期待・呼掛けうる相手ではあるが、当人自身の企投によって(つまり、能意的に)当方の期待・呼掛けを“裏切る”可能性を持つ主体である。(唯単に「期待通りに動かない」物はいくらでも存在するが、期待に反する応対を意図的・能意的に遂行し得る者、という了解が他者を主体として認知するすえでの重要な一契機をなす。尤も、期待を差向けた当の“相手”を“意図的・能意的に遂行し得る者”と見做すこと、“意図・意志”という意識性を“相手”に帰属すること、これが単なる私念(「マイヌング」のルビ)にすぎないこともある。当の同じ“相手”とのその後の実践的な関わりを通じて、或いはまた第三者たちがそれを主体として認めていないのを知ることを通じて、一時的な私念(「マイヌング」のルビ)が撤回される場合も生じうる。が、撤回を促すような体験には直面せず、第三者たちも主体と認めている信憑されるかぎり、当の者は主体として認知され続ける。[ここに謂う「信憑」「認知」が単なる私念にすぎないのではないかという問題次元については後論]。現実問題として、能知・能情・能意的な主体としての他者認知は斯かる構制での信憑的認知であると言えよう。)“あの身”の主体他者としての認知は啻に“この身”自分との共軛的な関わりにおいてのみ成立するものではない。或る“あの身”と別の“あの身”(たち)との関わりを目撃する場においても、他者の主体としての認知がおこなわれる。この場合にも、しかし、原初的な局面にあっては、「一体化的同一視」や「想像的追遂行」の機制が作らく筈であって、原基的な構制はやはり“あの身”と“この身”との共軛的・共互的な即応的行為の構制になっている。」209-11P
(対話C)「他己像と自己像の形成、他己の主体としての認知と自己の主体としての自覚、これが一定限進捗した段階に至ると、一体化的同一視や想像的追遂行の機制での“あの身の視座に即した体験”ばかりでなく、上述しておいた通り、いわゆる感情移入や類比推理の機制による“他者理解”も大いに進展する。――言語的表現の理解に際して、大きな部分が一種の類比推理の構制になっていることは嚮に指摘した如くである。――そしてまた、あの「生命体」としての認知などと同趣の機制での謂うなれば述定的・概念的な「主体」としての認知、すなわち、与件が一定の徴候を呈するとき世人がそれを主体として認知・呼称するのを知りそれに“同調”して呼称・認知すること、認識論的にいえば“世人としての私”として所与を主体と認知すること、これがごく“自然”におこなわれるようにもなる。」211P
(対話D)「他者の主体としての承認、それとの共軛性における自分の主体としての自覚、すなわち、他己および自己の能為的主体(能知・能情・能意的主体)としての認知、これが単なる能知的意識主体としての認知を超えて実践的主体としての認知となるポイントは、上来の論考から已に彰らかなように、啻なる役割期待の帰属ではなく、企投的決意的な起動性の内属する者としての覚知に存する。――これを俗流化的に表現すれば、一定の行為をその者に向って期待・呼掛けうるが、且つ、その期待・呼掛けを自主的に“裏切り得る者”ということになる。――自己と他己とが互いに相手をこのような能為主体として認知し合うこと、それがまさしく相互承認にほかならない。」211-2P
第八段落――“世界の間主観的共有性”をめぐる論件 212-7P
(対話@)「われわれは、以上の行論において、「自主的企投」とか「自発的起動」とかを云為し、また、「信憑的認知」を云々した。これの権利問題を掘下げることを抜きにしたのでは、如上の議論、とりわけ、他己像が自己像成立の前梯条件であること、他己認知と自己認知とは相互共軛的であり自己認知にとって他己認知が存在条件であること、この主張が単なる日常経験の私念(「マイネン」のルビ)の追認にすぎないものと評されかねない。慥かに、自主的企投ということは自由意志の問題に絡み、自発的起動ということは心身関係に絡むのであって、体験的私念を追認して済ませうる事ではない。が、この件については、本巻の第三篇最終章まで持越すことにして、恰かも自由意志の主体が存在し、自発的な行動を営なむのであるかのように暫く語ることを許されたいと念う。また、いわゆる意識現象を“あの身”に帰属させること、“あの身”を知覚・表象・情動・期待・企投・意志などの主体として認知すること、これが所詮は「私」の主観的私念にすぎないのではないかという疑義に対して最終的に答えるためにも前段的な諸多の論究を俟たねばならない。それを俟って甫めて、意識の本源的な各私性というドグマ、以っていわゆる超越論的主観性を持出すことで超越論的独我論へと誘なう根本ドグマ、これを卻けつつ、いわゆる意識現相の本源的な前人称性を確説し、降っては、また、いわゆる超越論的主観性とは共同主観性にほかならないことを闡明しうる所以ともなろう。今爰はまだ最終的な論決を期しうる場ではない。が、“日常経験的私念”の領界においてもなお茲で論考を進めておくべき論件がある。それは、われわれがこれまでの行論において暗黙裡に論点先取してきた“世界の間主観的共有性”をめぐる論件である。」212-3P
(対話A)「自己と他己(たち)とが舞台的世界を間主体的に共有しているという事態、精確には、自己と他己(たち)とが舞台的世界に共属・共同内存在しているという事態、これは日常的意識にとっては自明に見えようとも、認識論的には一大問題であり、実はこの事態を離れては相互承認も成立しえない。卑近な話、他者認識の大きな部分を占める「他者にとっての対象的意識の認識」とは、「対象的意識」の自他共有化にほかならないのであって、他者理解の大きな部分が対象認識の共有性と相即するのである。」213P
(対話B)「人は日常、自分と居合わせている他人たちとが、同じ物(形・色)を見、同じ音を聞いているものと信じて疑わない。とはいえ、幼児ならいざしらず、或る発達段階以降の者は、それと同時に、他人にとっての見え方、聞こえ方は、自分にとっての見え方、聞こえ方とは相違することを、一寸反省しただけで自覚する。他人があの物を見、あの音を聞いていることまでは確かなのだが、彼にどのように見え、どのように聞こえているのかは判然としない。――これは俗流“理論”風に言い換えれば、他人が一定の対象認識をもっていることまでは確信できるが、意識内実は如実には察知できない、ということになろう。――われわれの詞で言えば、同じ物を見ているというのは所識的意味の同一性に相当し、見え方が違うというのは所与的射映の相違性に相当する。自分と他人とでは、所与的射映相は相違するが所識的意味は同一であるということ、これが見え方(聞こえ方)は違うが見ている物(聞いている音)は同じだ、という日常的意識のフェア・ウンスな構制である。勿論、所識的意味の同一性ということは固定的な信念ではない。誤解だった(らしい)と気がついて撤回されたり修正されたりもする。また、例えば、自分には縄に見えているものが相手には蛇に見えているらしいと察するような場合、所識相が自他で相違することが自覚されており、この場合には却って“所与”が自他で共通・単一であるように思える。だが、われわれとしては「所与−所識」の多階性に留意しなければならない。この場合でも、射映的所与は自他で相違することが自覚されているのであって、自他で共通・単一とされているのは、あの(細長い、しかじかの)物という「所与−所識」成態であり、ここでの単一性・同一性は所識契機が支える(第一巻序説において、ルビンの杯という反転図形の例に即して、「白黒図形」という同一の所与が「向き合った顔」「高盃」という別々の所識相で覚知されるという言い方が普通にはされるが、しかし逆に、今見えている特定射映相での「向き合った顔」という所与と「高盃」という所与、これら二つの所与が共にそれとして覚知される所識、それがルビンの杯と呼ばれる「白黒図形」だ、と言うこともできる旨を述べておいた。そこでの構制を想起されたい。――「蛇」相、「縄」相で射映的に現出している所与[これらが「向き合った顔」「高盃」のアナロゴンをなす]に対して、あの細長いしかじかの物[「白黒図形」のアナロゴン]が所識の位置に立っている、とも言える道理であろう。)畢竟するに、所与的射映相の相違性を自覚しつつ、共通・単一の対象について自他が意識していると覚識されている場合、そこでの単一的・同一性は「所識」契機の同一性なのである。一般には、この対象的共通性・単一性を支える所識的同一性の上に、射映相こそ自他で異なるが、自分も他人も共にその所与(下位的「所与・所識」成態)を「蛇」として(或いは、共に「縄」として、等々)覚知しているものと意識される・が、いずれにしても、要は自他で「所与的射映相は相違」するが、「所識的意味は同一」という構制になっているということである。他者が対象認識をしている(対象認識の主体である)と自分の側で認知している場合、恒に必ずこの構制になっている(言語的交信・理解の場合、この構制になっていることは見易いであろう。)なるほど、相手が見ているのか見ていないのか、見ているとしても何(どれ)を見ているのか、況(「ま」のルビ)してや、どのように見えているのか、見当もつかない場合もある。だが、こういう覚識、つまり、他者が見ているのか見ていないのか、見ているとしても何を見ているのか判らない、という覚識、これが生じるのは当の他者を意識主体・認識主体として先行的に認知していることを存在条件としてのことである。そして、この存在条件たる先行的認知を成立せしめるのは、上述の構制、すなわち、自他で「所与的射映相は相違」「所識的意味は同一」という構制と相即的にである。」213-5P
(対話C)「世界の間主体的な共有性・単一性、これは相互主体的承認とも表裏一体なのであるが、それは射映相をも含めての間主体的同一性の謂いではなく、まさしく自他で「所与的射映相は相違」するにもかかわらず「所識的意味は同一」であるという構制において存立する。――人々は、間主体的関わり、すなわち、言語以前的な共互的行為から言語的交信までを含む間主体的な交流を通じて、相互的他者理解を獲得・是正・豊富化しつつ、認知性所識ばかりでなく価値的所識をも共有化し、単一的所識世界(といっても多階的な「所与−所識」構造成態における所識界であって、単なる物理的実在界ではなく、用在的価値界)を間主体的に“有ち”、そこに“内存在”する。しかも、当の世界の認知相を陶冶するだけでなく、実践的な関わりを通じて実在的世界与件を不断に変様せしめて行く。この過程が、意義的価値形象の間主体的な形成・陶冶の過程とも相即し、当在的主体としての能為者誰某としての人格的形成・陶冶の過程とも相即すること、このことについては更めて復唱するまでもあるまい。――四肢的構造・四肢的連環として上述した“部位”的成態は、斯かる間主体的総世界の動態的連関態の“結節”とも謂うべき相にある。」215P
(小さなポイントの但し書き)「われわれは爰ではまだ超越論的独我論や他我認識不可能論の提起する疑義、すなわち、“他我認識、相互認識、世界の間主体的共有などと言っても、所詮は「私」の意識野内での私念にすぎないのではないか”という疑惑に対して最終的に答えうる段ではない。がしかし、他我認識不可能への応接を意識して差当たり次のことは銘記しておきたい。/他我認識不可能論者は他人の意識内実は認識不可能であると言うが、そのさい、他人が意識主体であることは前提的に認める構制になっている。つまり、意識内実は存在するのだが、私にはそれの認識が不可能だという構制になっている。さもなければ、つまり、他人の意識などというものがそもそも存在しないとするのであれば、いまさら認識可能・不可能の議論は無用なことであろう。だが、一体、他人が意識主体だという前提的認知はどこから得られたのか? 一定の機縁に縁って仮設的に“認知”されたものであって、意識内実が不可知である以上、所詮は懐疑的不決定のままに終るものと言うのか?/現実問題として、よしんば“仮設的認知”としてであれ、論者たちが他人が意識主体であることを認めつつ、唯、その他人の意識内実は不可知だという構制の議論を立てているさい、詮じつめれば、あの他人が見ていることまでは確かだがどう見えているかは不明、という構制で立論している所以となろう。――言語的交信・理解の場面に即しても同断である。ここでも、音声を発していること、しかも一定の意識活動を営んでいるらしいことまでは判るが、意識の内実を直接的に知ることは不可能であると論者たちは主張する。そして、たかだか言語的音声(身振や表情、等々を加えても可)を手掛りにして、当人の意識内実を類推・推測という仕方で“察知”“想像”するのだ、と論者たちは称する。――/われわれに言わせれば、論者たちの隘路・謬見の元は意識観・意識構造観に存する。論者たちは、所与−所識の二肢的構制、所識的意味の同一性、所与的射映の相違性という構制に想到せず、以って亦、推測的想像がおこなわれるのはさしあたり所与的射映相に関してなのであるということ(論者たちが、この“想像”は時として“あの身”の視座から“見る”という仕方でも現におこなわれるということに概して眼を閉ざしていることは今問わぬとしても)、これを対自化できない。論者たちは、あの「三項図式」のドグマ、「意識の各私性」のドグマに固執している次第だが、そのさい、意識するとは“内なる像”を“内側から見る”という構制の事態であるものと臆念している。――論者たちの思い込みでは、意識するということは、各自が自分の内なる“射映的心像”を“内から見る”ことにおいて成立するのであるから、他人の意識を認識するためには、他人の内部に入り込んで他人の内部から“眺める”ことが必要であるが、これと到底不可能であり、以って他者の意識内実を認識することは不可能ということになる。可能なのはたかだか想像的推測であるが、これはあくまで想像的推測者の側に内属する主観的な想念にすぎず、以って、他者本人の意識内実には事の原理上到底不可能という“結論”へと到る。――だが、われわれに言わせれば、意識するとは“内なる心像”を“内側から眺める”という構制の事態であるとする論者たちの意識観が根本的に謬見なのである。/論者流の意識観、以って他者認識の不可能論へと導く意識構造観の誤謬なることを、第一巻を通じて論定し、亦、他者認識不可能論の内在的批判を別著『表情』および『哲学の越境』(第四章「身体的現相と“内奥”の意識」)などで試行しておいたが、本巻では次篇での営為的世界の構制論を介して論攷の準位を高め、第三篇終章に至って、意識の本源的各私性のドグマを終局的に芟除(「せんじょ」のルビ)し、以って他者認識不可能論を卻けるばかりでなく、「他我認識とか間主観性とか言っても所詮は“私”の“内なる”“私念にすぎない”のではないか」という疑義に応える算段である。姑くの猶予を頂き度いと念う。」215-7P
2025年10月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(9)
たわしの読書メモ・・ブログ716[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(9)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第二節 主体的二重性の形成
(この節の問題設定−長い標題@)「能為的主体の「能為者誰某」と「役柄的或者」という二肢的二重相の具体的な在り方は間主体的“協働”を通じて形成される。――能為主体人格のいわゆる内自的存在規定もいわゆる外自的存在規定も共に対他対自的な存在規定ではあるが、各々存在様態を異にするばかりでなく、両規定は形成機序の位相を異にする。――能為主体は間主体的な“応対”を通じて「<当在的主体>としての能為者誰某」という相へと人格的自己陶治を遂げ、以って主体的行為はその都度すでに単なるfacio(我は行なう)以上のfacimus(我々が行なう)として営まれる。」160P
(この節の問題設定−長い標題A)「曩(「さき」のルビ)にわれわれは第二章において、主体の「能作体−所作態」としての現相や人格の「内自的特性−役柄的規定」の現相をも配視したのであったが、そこでは他人の映現相を謂わば観察的に記述する部面に比重をかけていた。今や、爰では自分の側の内省的分析も併せて主体的二重相の対他対自的形成を追究する段である。尤も、いわゆる人格が間主体的交渉を通じて形成される発生論的・発達論的過程を詳しく追跡することが本節の課題なのではない。主眼はあくまで存在構造にある。」160P
第一段落――諸多の対他者的関係規定性における諸々の役柄的規定性を帯びた存在者 160-6P
(対話@)「能為的主体誰某本人なるものは、前章において一瞥したところでは、“装束的役柄”を脱着したり、“部署的位置(「ポジシォン」のルビ)”“位置的地位(「ステイタス」のルビ)”に出入りしたりする或る本体の相で表象されつつ、内自的な個体的特性をも具有している者と諒解されている。」160-1P
(対話A)「惟えば、しかし、例えば舞台俳優は上演中の何々役を“脱ぎ棄て”た実生活においては誰某本人とされるが、その彼は座長であり・夫であり・父であり……、というように、対他者的にはやはり役柄存在者であり、役割主体であることを免れない。一般に、人はあれこれの役割存在であることから離脱できるとしても、一切の役割存在規定を同時悉皆(しつかい)的に脱ぎ棄ててしまうことは叶うべくもない。役柄を脱着する“本人”なるものは、直ちには生身の一個体とは言えない。特定の役柄存在と区別して“当事主体本人”と称される者は、差当っては、およそ“実存的一個体”といったものではなく、諸多の対他者的関係規定性における諸々の役柄的規定性を帯びた存在者なのである。」161P
(対話B)「自分自身について省察してみよう。私は父に対しての子であり、妻に対しての夫であり、子に対しての父であり、学生に対しての教師であり、医師に対しての患者であり、商人に対しての顧客であり、同僚に対しての同僚……、である、というように、共軛的な役柄他者に対しての役柄存在者である。――世人(「ひと」のルビ)は、この私のことを妻帯者・父親・教師……というように述定的に規定するが、わたしは世人に対して夫だったり父親だったりするわけではない。それは、私のことを、政治学者は有権者、経済学者は消費者と規定するが、しかし、私は彼に対して有権者でも彼にとって消費者ではないのと同断である。――私は、諸々の対他者関係性において在り、アクチュアルには共軛的な相手に対して(für)その相手との共軛的な役柄規定性における「役柄存在」者である。」161P
(対話C)「ところで、私は、私自身に対して(für=とって)は何者なのであろうか? 私は、父に対しては子であり、子に対しては父であるにしても、私自身に対しては、父でもなければ子でもない。ピランデルロが劇中人物に語らせているように、私は私自身に対しては何者でもない。」161P
(対話D)「人は反論して言うかもしれない。私は、まさしく私自身に対して(とって)私なのだ。私は汝にとっては汝であり、私は彼女にとっては彼であり、私が私であるのはほかならぬ私自身にとってなのである。――私にとって汝は汝なのであり、私にとっては彼女は彼女なのであり、私にとっては私は私なのである。云々。」162P
(対話E)「この意見は、慧眼な読者には莫迦げて見えようとも「自己(自我) (「わたくし」のルビ)」という概念規定の根幹に絡む論点を孕んでいるので、敢えて検討を加えておこう。――私は、慥かに、汝に対しての汝であり、第三者たる彼女の視座からすれば彼である。「対して(とって)」という言葉の意味を、父親に対しての子、妻に対しての夫、という場合と同義に揃えるかぎり、紛れもなく、私は汝に対しての汝であり、私は彼女にとっての彼である。ところで、しかし、私は汝・彼・彼女・彼等に対して私である、という言い方もされる。この言い方では、私は汝に対して私である、私は彼女に対して私である、ということになり、先の規定(私は汝に対しての汝、私は彼女にとっての彼)と一見矛盾する。だが、この“矛盾”は、「対して」という言葉の意味が、先の規定と今の言い方とでは相違することに因るものである。私は汝・彼女・彼等に対して私であるという今の言い方においては、“対して”という言葉は単なる対比的区別しか含意しておらず、先の規定の場合のように「役柄的対他規定性」を意味してはいない。(右の立言には、後に立帰って是正するように、ミスリーディングなモメントが孕まれている。が、さしあたっては右の言い方で押し通しておく。――尚、因みに一言しておけば、「我と汝」「我対汝」という言い方は、我と呼ばれる人物と汝と呼ばれる人物とを単に区別的に対置した域に留まるならば、およそ「出会い」や「交わり」を云々しうるものではない。人々はそこに共軛的な役割行動・期待・呼応の共互的関係を含意させ、つまりは、互いにとっての汝としての関係行為を含意させるかぎりにおいて「我と汝」という略号よってアクチュアルな共互対他者的な関係を表現する所以となる。)われわれは日常的用語「対して」の多義性に呉々も留意しなければならない。では、一体、私は私自身に対して私である、と言われるさいの「対して」はいかなる意味での「対して」であろうか? ここでの「対して」は、先廻りして言っておけば、「私は汝に対しての汝(息子に対しての父)である」という第一の場合の意味とも、亦、「私は汝に対しての私(汝・彼女・彼等、其等に対しての私)である」という第二の場合の意味とも異なっている。「私は私(自身)に対して私である」と言うときに、よもや「私」と「私自身」とを別個体として区別化的に対比しているわけではあるまいから、ここでの「対して」は、まず、第二の語義での「対して」とは別義である。翻って亦、私は私(自身)に対して私であるというのは、「私は汝に対して、汝にとっての汝という役柄存在者である」というのと同趣的に「私は私自身に対して、私自身にとつての私という役柄存在者である」という意味ではない。「汝にとっての“汝という役柄存在者”としての私」は、汝という別個体と実践的に関わるのに対して、「私自身にとっての“私という役柄存在者”としての私」とやらは、「私自身」と「私」とが別個体ではない以上、実践的に関わる相手個体を欠く。セルフレフアレントな対自己役割行動(例えば後述のセルフサンクション)の余地があるにしても、それは所詮「父親に対しての子」「師匠に対しての弟子」といった第一の意味での「対して」とは別義と言わねばなるまい。こうして、「私は私(自身)」に対して私である」と称するさいの「対して」は、嚮にみておいた「対して」の二義とは別になる。」162-3P
(対話F)「今や、「私は私自身に対して私である」というありうべき論者の提題を「対して」の第三義をも見定めつつ、直接に検討する運びである。私が私自身に対して一定の役割的行動を演ずると立言するのが好便な場面が慥かに存在する。フロイド主義のように自我自身の内に複数的エージェントを立てる構図を選ぶかどうかは別として、いわゆるinternalization (内在化)によって形成された自我が自分自身に対するサンクショナーとしての機能的役割を演じるといった立論の場合がその一例である。だが、そのような場面においても、役柄存在は、サンクショナーとして等々、具体的に規定されるのであって、「私にとっての“私という役柄存在”」というような抽象的規定性では空疎にすぎる。現に亦、論者が「私は私自身に対して私である」と称するさい、役柄存在を念頭に置いているわけではあるまいと思われる。――論者の提題は、一般化して言えば、「各自は各自に対して私である」という命題になろう。ここでの「対して……ある」とはfür jn.sein、つまり、「誰々に……意識されている」の謂いとなる。各自は自分を意識している、各自は自分を自分として意識している、要言すれば、各自は「自己」認識をもつ、という委細である。(ここでは、統覚的な自己意識、すなわち、現に意識しているという自覚、意識しているということの意識、この意味でのconscince de soi (自己意識)が問題なのではない。論者が述べているのは、私という個体的な存在者のDa und So Seinについての意識、個体的な対象性認識であろう。)では、「私自身に対してある私」「意識されている私」とはいかなる存在者であるか?」163-4P
(対話G−第一段の分析的規定)「この「私」は、われわれの見地から分析的に規定して言えば、第一段としては、他の諸個体との対比的な区別における「この身」「この個体」の謂いであろう。が、この意味での「私」は、省みるとき、汝・彼・彼女・彼等・其等に対して(対比的に区別される)私、とされているのであって、「私自身に対しての私」と言い条、「汝・彼女……彼等……に対しての私」と同じになっている。というのも、有様(「ありよう」のルビ)は「(私は)汝・彼女……彼等・其等の諸個体と区別してこの個体=私を意識している」という構制に帰趨するからである。但し、これはあくまで第一段の分析的規定にすぎない。この第一段の分析的規定の準位にあっては、実を言えば、「私自身に対して(対象的に意識されて)あるこの私」という個体は「汝・彼・彼女・彼等・其等に対して(区別的に対比されて)ある私」と規定するのはミスリーディングである。というのは、汝とか彼とかいう代名詞といえども、単なる個体指示以上の表意機能(「汝」とか「彼」とか認定される所以の意味づけを表意する機能)を遂行してしまうからである。正確に言おうとすれば、今の第一段階では、各々が、たかだか固有名で呼び分けられる準位であれらの個体(何某・誰某たち)との区別におけるこの個体「誰」としか指称できない。この誰(etwer)は――あの個体を汝と呼ぶのが過大であり、あれらの個体を彼等と呼ぶのが過大であるのと同様――「私」と呼んではまだ過大である。」164-5P
(対話H−第二段の分析的規定)「第二段の分析的規定に進もう。「私自身に対してある(意識されている)私」は、単なる「この個体」「誰」という以上の規定性において相在する。だからこそ、それは単なる「この個体」「誰」と呼んで済まされるのではなく、まさに「私」として規定される。(発達心理学的に言っても、幼児が○○チャンとしか自称できない段階から、一人称代名詞を使用できる段階へ発達するのは一大劃期である。但し、代名詞の使用に先立って、“我”“汝”“彼”の対他的反照関係が或る程度までは自覚化されているであろうことを否定するつもりはない。)この個体は、眼前の別個体との一定の対他的役割的行為関係(汝=我関係)において「彼に対する私」として……自覚される。ここでの「私」という規定性は、その内容に立入ってみれば、まさに「汝にとっての汝」「彼にとっての彼」……という反照的規定の内自化されたものにほかならない。(この準位での対他的規定性「対して」は、嚮の行文中、第一の語義として扱った「役柄的対他規定性」、つまり「父に対しての子」「師匠に対しての弟子」……というさいの「対して」に帰着する。)このような意味での「汝(彼・彼女・彼等)に対する私」が「私自身に対して(für=意識されて)ある」のである。」165P
(対話I−第三段の分析的規定)「第三段。「私自身にとっての私」(「私自身に意識されている私」)は、決して単に、この個体が対他者的役割存在規定を附帯するという相に止まるものではなく、更にそれ以上の或る者である。(尤も、この第三段の規定は、第一・第二段において已(「すで」のルビ)にインブリシットには存在した規定性を明示的に述べるものとも言え、発達論上の新段階というわけではない。が、行論の方略上、敢えて第三段の規定という扱いに爰ではしたいと念う。)ここで対自化されるのは、先廻りをして陳べてしまえば、投企的行為の能動的遂行者としての私、である。(ここでの能為的主体は、“この身”の視座から見た私でありつつ、且つ、他者の視座から“見た”私、差当っては“被視的存在”としての私でもありうる。)」165P
(対話J)「「私自身にとっての私」「私自身の自覚する私」は如上の三段的規定で尽きるものではなく、われわれはなお幾つかの「自己」規定に関説する必要がある。だが、当座の行論としては右に謂う第三段の分析的規定として対自化した相での私、すなわち、投企的行為の能知・能意・能動的な主体として内自化される相での私、これに止目しつつ、「能為者誰某」と「役柄的或者」との二肢的二重性の対他対自的な存在構造の分析、ならびに当の二重相の形成の討究、これを主題的に進めておかねばならない。」166P
第二段落――“内自的存在で且つ外自的存在である者”と謂うべき二重相での覚識 166-73P
(対話@)「能為的主体は「能作体的所作態=所作態的能作体」の相で対自化されるばかりでなく、対他的役割存在相でも対自化される。――われわれは前章第三節において、用在的世界の既成的“舞台場”に登場する人物は、固有の人格的特性を具えた内自的主体(能為者誰某)が役柄的存在規定を帯びている者(役柄的或者)の相で現前することを確認したのであったが、このことは「私に対しての私」にも妥当する。――此処に対自化される能為的主体・人格的実践主体は、「他者の視座から見たこの“身”の対他存在」と「自身の視座から見たこの“身”の対他存在」との“複眼的視相の統一”というより、“内自的存在で且つ外自的存在である者”と謂うべき二重相で覚識される。」166P
(対話A)「われわれはこの二重相の構制と形成の討究を爰での課題とする。が、まずは嚮に暫定的に“確認”した「私にとっての私」の第三段規定、すなわち「投企的行為の能知・能意・能動的な主体として内自化される相での私」、これを前章第三節から“宿題”として持越した論点との絡みで稍々検討する作業から着手しよう。」166P
(対話B)「用在的世界という“舞台場”に登場する人物は、自分をも含めて、「能為的誰某」と「役柄的或者」という二肢的二重相を呈するが、この「能為的主体」は各自「人格的特性」を有するという所見にまで前章で及んでいた。そして、謂う所の「人格的特性」とは、「一切の役柄的規定性を、延いては、一切の社会的規定性を“脱ぎ棄てた”“真裸の”人物の内自的特性・内自的個性という次元での固有性」として思念(「マイネン」のルビ)されることをも見定めておいた。――この思念相における「人格的特性」なるものは、まさに“身心統一体”としての主体の特性と“同定”されうるであろう。けだし、それは一切の社会的規定性を捨象してなお残留する特性なのであるから、畢竟するに一種の自然的規定性の筈であり、詮ずるところ「精神的・肉体的」特性に帰着するであろう所以である。」166-7P
(小さなポイントの但し書き)「尤も、謂う所の自然的規定性は、論理上、精神的または肉体的な規定性とされる“べき”であり、実質上は、人格的特性にとって肉体的規定性は問題外であって、もっぱら当該人物の精神的特性のみが勘考に値する、という主張もありえよう。欧米の近代哲学者たちは大抵がこの主張に与みするかもしれない。しかし、日本人の日常的思念にあっては、精神的なものと肉体的ものとを概念的に区別はしても、両者を機会的に分離してはしまわないのが常套であろう。/人格的特性、人格的個性を云々する際、男・女とか、老・若とか、これらの肉体的特質が人格的特性に規定因子として入り込むか否か。読者はどう決裁されるであろうか? 男・女、老・若という概念は、純然たる肉体的な規定性を表わす場合と、一種の社会的な規定性を表わす場合との、二義性を帯びていることに注意しながら決裁して頂きたい。いずれにせよかなり微妙であろう。では、いわゆる「体質」はどうか。われわれ日本人は日常的には“人格的特性”の中に「気性」や「性向」を導入するのが普通のように見受けられるのだが、気性や性向というものは、純然たる肉体的特質でないことは確かでとしても、さりとて純粋に精神的なものでもあるまい。それらは、まさに「気」や「性」であり、むしろ、心身の分裂以前的ないし統合以後的な相を含意していよう。/われわれ日本人が日常的に思念している「人格的特性」とは、まさに、具象的な現在相から一切の社会的対他規定性を剥奪しても残留する「人物の肉体的および/ないし精神的な個性的特性」にほかならないと言えそうである。――「肉体的および/ないし……」というさいの「/ないし」が切離されてはならない。もし切離すならば、そのときには、純然たる肉体的特質は、今日の日本人の日常的意識にあっても、必ずしも人格的特性とは認められないであろう。男・女、老・若……といった肉体上の特質は、それ自体が人格的特性なのではなく、それが精神的特質と不可分的と思念されるかぎりで人格的特性に算入されるのであるように看ぜられる。」167-8P
(対話C)「如上の了解層での「人格的特性」は、それが性質や機能と目されるかぎり、伝統的な存在観の発想に則れば、一定の基体=実体に担われている筈だとされ、ここにおいて「人格的特性」を担う基体たる“人格的実体”なるものが立てられる所以となる。――人格的実体それ自体を丸裸で直接に認識することこそ不可能であるが、人格的特性という性質・機能に拠ってそれの現存を立言できる、と人々は思念する。――」168P
(対話D)「偖、今やわれわれの課題は、斯くの如き思念相における「人格的特性」ひいては「人格的実体」なるものを批判的に再考し、それらの実態を見極めることである。」168P
(対話E)「惟えば、「人格的特性は個体的一人物の固有性であり、時と所(情況)にかかわりなく一定であるからこそ、その一人物の人格的特性なのである」と一応は言うことができるにしても、人々は現実問題として「人格的特性」なるものを絶対的に不変不易な生得的・アプリオリな固定的特質と見做しているわけではない。人々は、人格的特性の具体相は一定の可塑性をもつものと了解しており、それは形成・陶冶されるものと了解している。「人物の肉体的および/ないし精神的な個性的特性」には生得的な“部分”も確かにあるであろう。しかし、現に見られる人格的特性の具体的な現相在は後天的形成に多くを負うており、どこまでが生得的(「アプリオリ」のルビ)なものでどこからが後天的(「アポステリオリ」のルビ)なものであるか、截然と区別することは実際問題としてまず不可能である。言い換えれば、或る人物の純粋に生得的な特性なるものをそれとして取出して挙示することは不可能である。それにもかかわらず、人物は各自に生得的な自然的特性を有っていることが認められて宜(「よ」のルビ)い。但し、人格的特性と呼ばれるものが悉く生得的な特性だというのではない。人格的特性は、先天的特性を出発点にしてはいても、後天的に変様・形成されたものである。」168-9P
(対話F)「人格的特性は、実生活の場において、わけても他人たちとの関わり方が、生得的特性によって制約されるであろうし、いわゆる後天的影響の蒙むり方も生得的特性に因由する差異を生じうるであろう。しかし、人格的特性は可塑的であり、“同一”の生活場に内在する諸人物の人格的特性は収斂する傾向を見せる。」169P
(対話G)「能為的主体の内自的規定性とされる人格的特性は、こうして不変不動なものではなく、可塑的ではあるが、それはあくまで主体の内自的規定性と見做され、行為現象の様態的特徴、外自的規定性とは区別される。人間行為は、われわれの広義の定義からすれば、その殆んど悉くが役割行動として営なまれる。そして、役割行動というものは、その都度場面的条件、舞台的情況に応じて、その具体的様態は一回起的に特個的である。が、この行動という事件の特個的特徴は人格的特性とは呼ばれない。当の特徴をもたらす原因の一斑として行動主体の人格的特性が与(「あず」のルビ)かっているとは認められても、行動様態の特徴がそのまま人格的特性と見做されるわけではない。ところで、概念規定上は“同じ役割行動”であり、且つ、舞台的情況も“同じ”でありながら、行動様態に演行者各自の個性的特徴が認められる場合がある。というより、それが一般的である。このさいも、行動の外自的特徴はあくまで行動様態の特徴とされて、それがそのまま演行者の人格的特性とされるわけではない。がしかし、行動様態の演行者毎の個性的差異は演行主体の個性・特性に因由・照応するものとされ、それを“手掛り”にして行為主体の特性なるものが“把捉”される。だが、ここに“把捉”される“行為主体の特性”なるものは、そのまま直ちに狭義の人格的特性とされるわけではない。それは、さしあたり、斯々の役柄存在者たる限りでの当人の特性(「役柄者或者としての能為者誰某」の特性)であるとされ、端的に能為者誰某の内自的人格特性とされるわけではない。――われわれは「役柄者或者としての能為者誰某」の特性を広義においては人格的特性と呼ぶ。行文中すでにこの広義でも人格的特性という語を用いてもきた。しかし、狭義における人格的特性というのは、一切の役柄的存在規定性を捨象してもなお残留すると思念されている相での内自的特性の謂いである。――が、人々は、同一人物がさまざまな役柄行為を遂行しつつ、それらさまざまな役柄行為の遂行を通じて“横断的に”呈する個人的特徴、これに即して当該人物の「人格的特性」(狭義)を“取出”す。このようにして措定されるのが「人格的特性」であり、伝統的な実体主義的存在観のもとでは、それは“人格的実体”(これが直ちに霊魂的次元で考えられるかどうかは今は措く)の内属性として位置づけられる。」169-70P
(対話H)「われわれは、以上、人々の思念(「マイネン」のルビ)する相での「人格的特性」なるものを、行為主体の対他的行為・役柄行為の場に即して“追認”する流儀で対自化してきた。しかし、読者の中には、人格的特性は単なる認知的場面で、謂わば対象物を観察する流儀において、把捉できるのではないかと思われるむきもあるかもしれない。人物の顔貌的特徴や肉体上の特質など、観察的に認知できる特性が確かにある。それら直接的に観取される特性がそのまま人格的特性ではないにしても、それを“手掛り”にして人格的特性の認知がおこなわれうる。現に初対面の人物に関して、つまり、当人の行為様態など目撃することなくして、風貌・態度などから、その人物の人格的特性が把捉される。この事実を否定するつもりはない。――著者は、第一巻の第三篇中で叙べた通り、いわゆる自然的事物にも個体性・個性を認める。とあれば、一箇の自然的事物と見做された人物、つまり、単なる認識対象的射影相で截撮って見た人物、一切の実践的関心性を捨象したという建前で認知される対象的個物としての人物にも、個体性・個性を否認しないのは理の当然である。(勿論、自然的“実体”、自然的“属性”とされるものについても、それらが反照的関係規定の物象化的結節であるとすることは、第一巻で縷説した通りであるが。)お望みとあらば、人物的特性なるものを自然物としての人物という個体に即して立てても宜い。――だが、苟(いやし)くも人格的特性と呼ばれるものは、人々がそれを一種の“自然的特性”(精神的または/および肉体的な特性)として思念しているにしても、単なる自然物的特性の謂いではなさそうに思える。それは、行動(態度・挙措・表情的表出などを含めての広義の行動)の規定的原因と見做される限りでのみ人格的特性に算入されるのではないか。つまり、人物の具えている自然的特性の全部ではなく、その中の、行動の在り方の規定的原因と見做される一部分のみが、人格的特性に算入されるのではないか。もしそうであるなら、それは通常の単純な自然的特性より以上の意義を有つ或るものと言わねばなるまい。では、初対面の人物に関しても直截にその人物の人格的特性を観取するという事実は如何? その場合でも、態度・挙措・表情的表出などの外自的行動が手掛りにされていることは今措くとしても、類似の自然物的特性を呈する別人たちからの類推といった“手続き”で当人の人格的特性が推察されるというのが実情であろう。この別人のケースからの類推(これによって人々はしばしば失態を仕出かすのだが)、これがおこなわれうるのは、別人たちにおける行動様態の個人的特性を手掛かりにして人格的特性を“把捉”し、それと風貌その他の特性との一定の相関的対応性を既成観念として保有していることを俟っての筈である。とすれば、初対面の人物の人格的特性を“観察的”に認知するといっても、そこでの構制を掘り下げてみれば、嚮に“追認”した「行為主体の対他的行為・役柄行為の場に即して……」という構制に帰趨する、と言えよう。」170-1P
(対話I)「偖、議論を本線に戻して述べれば、人々が所謂“人格的実体”の“内属性”として思念している「人格的特性」は当の人物にとって一生涯全く不変不動というわけでなく、それなりに変様・形成・陶冶されて行くものではあるが、その都度の行動にとっては既定的・既在的であり、且つ亦、その都度の行動の在り方を内自的に規定する要因である。人々はこのような相で人格的特性なるものを思念している。しかも、人々は狭義の人格的特性に関して、それは一切の社会的・文化的規定性を免れた内自的な自然的特性であるものと思念している。――惟うに、同じ情況下での同じ役柄行為の様態の個々人的特徴を“説明”すべく措定されたものであるのだから、この理路からしてそれが純然たる内自的な自然的特性と見做されるのはトートロジカルである。だがしかし、われわれとしてはこの理路において孕まれてもいる論理的飛躍と即断を見咎めざるをえない。人格的特性やそれを支える人格的実体なるものは、再考してみれば然(「し」のルビ)かく単純な代物ではない。」171-2P
(対話J)「厳密に言い出せば、同一情況下での同一役柄行為という際の同一性がそもそも保証さるべくもないが、今は百歩を譲っておこう。また、或る人物が或る役柄行為を遂行する際、彼は一般には、当の役柄存在者として既に陶冶された者として演行するのであって、真裸の主体として行動するわけではない。が、この点も譲って、恰かも真裸の生身で当該の役柄を装着するかのように遇することにしよう。このように譲る際に、“真裸”というのは、今問題の特定の役柄規定を一切免れている相の謂いでしかありえず、それが他種の役柄存在規定をも端的に免れているとは言い切れない。なるほど、狭義の人格的特性なるものを措定する手続においては、或る特定人物がさまざまな種類の役柄行為を遂行するにあたって“横断的に”呈する個人的特徴に止目するのであり、各種の役柄存在規定は“捨象”されてはいる。とはいえ、当人が各種の役柄行動の遂行を通じて“身につけた”ヒステレシス、謂うなれば各種役割行動の“沈澱的堆積”を免れない。この意味において“真裸の生身”と仮りに呼んだ主体は、実は、それまでの社会的行動を通じて変様的形成を遂げた相で現相在する。(この機序があればこそ、人格的特性なるものは、先天的特性のままの不変不易なものではなく、変様・陶冶されて行く所以ともなる。)社会的行動履歴の“内在化”された“沈澱的堆積”規定性をも“自然的特性”と呼び続けたければ、それでも宜(「よろ」のルビ)しかろう。が、しかし、それは対他的行為の場で“発現”するものであり、しかも、まさに人格的特性として対他的行為上の意義を有つものであり、いずれにせよ、生来の単純な自然的特質ではない。それは対他的対自的に一定の価値的有意義性を有つ或るものである。能為主体は“裸の主体”としてその都度の役柄を“装着”“演行”すると言い条(おち・くだり)、実態においては斯かる規定性、単なる自然的特性より以上の規定性を具えた主体として行為するのであり、人格的特性と呼ばれるものは、単なる自然的特性より以上の斯かる規定性であるのが実態なのである。」172-3P
(対話K)「われわれは嚮に人格的特性なるものの広狭二義性を暫定的に区別しておいた。すなわち、そこでは、「役柄的或者としての能為者誰某」の個性的特性を広義の人格的特性と呼び、「一切の役柄存在規定を捨象してもなお残留すると思念されている相での“能為者誰某の内自的な自然的特性”」を狭義の人格的特性と呼んだのであった。今爰において、しかし、此処の役柄存在規定ではなく、種々の役柄行為を“横断”する抽象的レヴェルでイデアリジーレンされた役柄存在規定、この意味での抽象的規定態でイデアリジーレンされた<役柄者或者>の次元に即して「<役柄者或者>としての能為者誰某の個性的特性」を最広義での人格的特性と呼ぶことにしてみては如何? 人々の思念している“狭義の”人格的特性、つまり、“裸の主体”の内自的な人格的特性なるものは、実態においては、何と却って、右に謂う最広義での人格的特性にほかならないことをわれわれは識る。――誤解のないように願いたい。「<役柄者或者>としての能為者誰某」というのはあくまで「イデアール−レアール」な二肢的二重態であって、決して単なる<役柄存在>ではない。そこにはレアールな「能為者誰某」という契機が厳存する。そして、この構造内的契機を“自然物的実在”と呼ぶことも妨げられない。尤も、このものを以って狭義と称する“人格的特性”を“内属”せしめている“人格的実体”と見做すことの“権利”とその限界については、論決を後論(第三篇第三章)まで持越すことにする。が、仮令この“人格的実体”や“人格的特性”なるものが関係的規定性の反照規定的“結節”として捉え返されるとしても、そこに謂う「関係」なるものは強(「あなが」のルビ)ち社会的関係・役割的関係には尽きず、いわゆる“自然的関係”をも含むのであるから、著者の見地からすれば、前章でも断っておいた通り、「人格」なるものが“役割の束”に還元されることにはならない。「人格」は決して“役割の束”には尽きないのである。――」173P
第三段落――能為主体の“内自的二重性”の形成を構図的に抽出する 174-9P
(対話@)「今や、以上の行文を通じて対自化した「<役柄者或者>としての能為者誰某」という主体的人格、この二重相成態の形成が論件とされる段である。――尤も、本節の頭初で限定した通り、発生論的機序の具象的な追跡は次篇の行論に譲らるべきであって、爰ではまだ課題外である。――因みに、右に謂う二重相成態は形成の所産ではあるが、既成的な局面での役割行動においては、当の二重相成態が既成化しており、能為的主体はそのような既成態として“役柄を装着”する構制を呈する。従って、そこでは、その都度の役柄存在規定が<役柄者或者>に“累加”される相を呈し、多重的構造を呈する所以となる。が、その都度の“役柄の装着”という部面は、既に前章においても必要最低限の論及を済ませており、詳しくは次篇で分析する予定であるから、爰ではこの部面を配視はしても、もっぱら能為主体の“内自的二重性”の形成を構図的に抽出するに留めよう。」174P
(対話A)「偖、われわれは嚮に「私にとっての私」なるものの多義性(これには「反省的自己意識」における自己)「先験的資源における自己」など極めて多義的な含意がある)の中、とりあえず三義を区別し、その三義を三段階に分けて暫定的に規定しておいた。そこでの論点との関係で謂えば、主体的人格として対自化される私は、さしあたり他個体(他人物)との区別性における此の私であるが、その私は人格的特性という対他対自的な規定性を具えて主体的人格として私にとってある。われわれが今爰で課題としているのは、この相での私の自己形成にもほかならない。」174P
(対話B)「主体的人格の自己変様・自己陶冶の構制を図式的に言えば、――その都度の局面において已に既成的な「<役柄者或者>としての私」が現場的役割行動を新たに遂行しつつ、以ってヒステレシスを“堆積”して行くのであるが、「<役柄者或者>としての私」なる既成態が形成されたのはそれまでの先行過程での役割行動を通じてなのであるから、原初的場面にまで溯れば、生得的自然存在としての私が役割行動を通じて……という構制になり――ポイントは役割取得(role-taking)、役割演技(role-playing)に懸っている。これは、決して単純に“他者の内面化”とか、況んや“一般化された他者の内面化”とか言って済ませうるものではない。では、役割取得・役割演技を通じての自己変様・自己陶冶が如何なる機制で進捗するのか。」174-5P
(対話C)「人格形成が役割取得・役割演技を通じて進捗する事実過程においては、賞・罰(「サンクション」のルビ)という機制が介在する。――原理的な問題次元においては、そもそも役割取得や役割演技が何故履行されるのか、賞罰が何故おこなわれるのか、人は何故サンクショナーとしての役割行動を遂行するのか、このたぐいの根本問題から論究しなければならない。だが、この件については別稿「役割理論の再構築のために」において稍々立入って論じておいたことでもあり、また、次篇の論脈内で必要最低限の論及をおこなう予定でもあるので、ここでは短絡的に議論を運ぶことを許されたいと念う。――人格の陶冶は賞罰の機制によって進捗すると言っても過言ではない程である。」175P
(対話D)「この際、賞・罰、すなわち、正・負のサンクションといっても、狭義のそればかりでなく、広義での賞・罰が勘考されねばならない。人は、他人を別段賞したり罰したりしたつもりはなくとも、嬉(よろこ)んだり、嗤(わら)ったりしただけで賞罰の機能を果たす。亦、人は自分が直接に賞罰を受けずとも、他人の受けている賞罰を目撃するだけで(後述の「観念的扮戯」の機制により)賞罰を自身で“体験”する。あまつさえ、或る行動の成功・失敗それだけで、それどころか、或る行動を上手(「うま」のルビ)くやれた、不手(「まず」のルビ)くしかやれなかったというだけでも、一種の賞罰的機制を体験する。賞・罰は、狭義のそれはもとより、広義のそれも、条件反射の機制(条件づけ、条件づけの強化・解除、汎化・分化などの機制)によって、それを体験した主体の爾後的行動の在り方に規制的な影響を及ぼす。そして、条件づけは、それが“内面化”されることにおいて、いわゆる「深層催眠」の機制ともなって効(「はたら」のルビ)く。――サンクションによる矯正、条件づけは、さしあたっては外自的な行動様態に関わるとしても、それは反応の機制の在り方を変様せしめ、以って内自的変化をもたらす。」175-6P
(小さなポイントの但し書き)「いわゆる躾(「しつけ」のルビ)は賞罰的機制の一形態であるが、躾によって人の特性的性格まだ変わるか否かをめぐっては古来議論のあるところである。――そもそも、躾の効(「き」のルビ)く者と効かない者とがある。アリストテレス以来の例を挙げれば、岩石を、上方に昇るよう躾ようとしても無効である。“本性(「フイシス」のルビ)”に反するたぐいの躾は不可能と言われる所以である。――躾というものは、さしあたり、外面的な行動を矯(「た」のルビ)めるものであって、直接的に“内面的人格”に干渉するものではない、だが、一定様式の行動を躾によって習慣づけられると、当初には“内面”と“外面”が乖離していても、軈(「や」のルビ)がては、その習慣づけられた行動様態が“内面化”され“自発的な”性向となる。これは日常的な“経験的事実”であると言えよう。この経験的事実を成立せしめる機序、すなわち、躾による習慣づけは、まさしく条件反射理論に謂う条件づけにほかなるまい。条件づけは反応性向の在り方を変える。しかるに、反応性向の在り方が“人格的特性”として“把捉”されるのが日常的な思念における理路なのであるから、条件づけによって“人格的特性”が変様するという道理となる。」176P
(対話E)「サンクションというものは、そもそも、謂うなれば定義上、それの対象となる行為の主体に、それ以後の諸行動に関して、鼓舞的/禁圧的な影響を及ぼすごとき対他者行為の謂いである。が、それはさしあたっては、所与の行為に関し、三つの着眼点に即した評価にもとづいて発動される。三つの着眼点というのは、(1)当該行為の志向的目的そのもの、ないし、目的志向的投企そのことに即して、(2)当該行為の過程的遂行方式に即して、(3)当該行為の理由性動機に即して、の三つである。これら、(1)、(2)、(3)は相対的に独立であって、目的は賞して方式は罰するとか、方式は賞して動機は罰するとか、等々の場合を生じうる。――サンクショナーは、発達心理学的・行動発達論的には、先ずは、対向的行為の当事他者であり、次では、環視的第三者である。(尤も、この環視的第三者は、彼が与件的行為の環視者であったかぎりでのみ第三者なのであって、賞罰的行為に乗り出した場面では、賞罰という対向的行動の当事他者に転成する。)更には、サンクショナーなる他者が“内面化”されて、行為者本人が自己分裂的自己統一の相で自己の行為に対して賞罰的に関わるようにもなる。亦、世にはサンクショナーとしての役柄を準専門的・専門的に担掌する他者も存在し、昇華されて超在者の相で覚識されるサンクショナーも存在する。――という次第で、サンクションについて周到に論じようとするさいには、論件が多肢に亘らざるをえないのだあるが、爰では議論を極端に簡略化して、もっぱらサンクションが人格形成においてもたらす帰趨に目を向けることにしよう。」176-7P
(対話F)「偖、前記の三つの着眼に即した価値評価に基づいて語の広義における正・負のサンクション(賞・罰)が発動される次第であるが、サンクショナーは正に価値評価した行為を賞し、負に価値評価した行為を罰する。サンクショナーの価値評価は、概(「おおむ」のルビ)ね、彼の内存在する“共同体”の価値基準に則って、当該“共同体”の成員たちのあいだで共同主観的に一致する相でおこなわれる。勿論、サンクショナーの価値評価は、個人毎のバイヤスを免れないし、時によっては、同じ所与行為に関して、サンクショナーたちの評価が岐れ、以って正・反逆のサンクションがおこなわれるような場合さえも生じる。(例えば、同じ行為を母親は褒め父親は叱るといったケース。――尚、分裂したサンクションに曝され続けると、いわゆる精神分裂症(ママ)に罹り、人格的分裂を生ずることが知られている。)がしかし、サンクショナーたちの価値評価は合致・一貫しているのが普通であり、若干の凹凸はあっても複数のサンクショナーたちによる多数回のサンクションを経ることで、所与の“一定”行為の蒙むる賞罰はほぼ“一定”する。」177P
(対話G)「斯くして、能為的主体は、自分の内存在する“共同体”の価値基準に則って行為を評価され、“共同体”諸成員の共同主観的に一致する相での価値評価に基づいた賞罰を蒙ることを通じて、自分の各種行為(目的投企・行動様式・動機心態)の在り方を鼓舞・禁圧され、当該の共同体において正価値とされる相に行為の在り方を矯正され、負価値とされる相での行為を抑止される。――賞罰的外部規制は無抵抗に受容されるというものではない。人によっては、また、行為の種類によっては、強い抵抗を生じる場合が現にある。とはいえ、事実の問題として、殆んどの成員が大抵の行為に関して、賞罰的矯正や抑止を受容する結果になる。――これは条件反射の機制に因るものと念われるのだが、当人の意識においては、それが当為意識(Sollen-bewußtsein)という形で対自化される。」177-8P
(対話H)「当為意識という形でその一端が対自化されるに及ぶサンクショナルな条件づけは、催眠術に謂う所の「催眠」就中「深層催眠」や「暗示」にもほかならないのであって、それはいわゆる「自己催眠」「自己暗示」をも可能ならしめる。催眠・暗示は“背後に制裁(「サンクション」のルビ)を控えている命令”とも謂うべきものであって、幼児は「お兄ちゃんなのだから」「女の子なのだから」……とか、「お利口さんね」「良い子ね」……とか、こういう言い方での催眠・暗示にかけられる。成人にあっても、期待の眼差しなどに縁る催眠・暗示、延いては自己催眠・自己暗示によって、「軍人らしく」「教員らしく」「商人らしく」……、「将校らしく」「校長らしく」「番頭らしく」……、「男らしく」……「日本人らしく」……「立派な人物らしく」……自分の行動を律するようになる。――条件づけ・催眠・自己暗示は、差たっては外自的な行動を規制するものではあれ、上述の通り、“内自的”行動性向を変化せしめ、人格的特性の変様、人格的陶冶をもたらす。」178P
(対話I)「以上の行文においては論点が見え易くなるよう、サンクションによる「条件づけ」の機能や「暗示」の作用を強調したのであったが、そもそも役割行動を期待されてそれに即応的な反応行動をすることか一般が「条件づけ」の機能を果たすのだということを忘失してはならない。役割行動は、一般に、先に指摘しておいたごとき広義のサンクションを形影相伴う。が、広義のサンクションすら殊更には伴ったり背後に控えていたりはしないように当人に思われるような場合であっても、およそ、期待を差向けられて反応行動をおこなうという機制は「条件反応」(中にはむしろ無条件反応と言ってようケースをも含む)にほかなるまい。それゆえ、役割行動という“反応”が生じるその都度その都度に一定の「条件づけ」が生じる所以となる。尤も、その条件づけは恒に新種の条件づけというわけではなく、種類上は既成的な条件反応の「分化」や「汎化」にすぎないケースをも含む。が、まさに、この「分化」や「汎化」をも含めた条件づけにおいて人格的陶冶が進捗するのである。――という次第で、殊更にサンクションの覚識を伴わぬ場合において已(「すで」のルビ)に役割行動の遂行は人格的変様・形成・陶冶の過程にあるわけであるが、この過程に屢々制裁(「サンクション」のルビ)が加重されることにおいて、前述の通り「当為意識」の“内面化”が生ずるに及ぶ。」178-9P
第四段落――「人格」とは『<当在的主体>としての能為者誰某』の謂い 179-81P
(対話@)「われわれは嚮に、「抽象的規定態でイデアリジーレンされた<役柄者或者>」という苦肉の表現を用い、現実的・具体的な役柄演行者は、「<役柄者或者>としての能為的誰某」がその都度の役柄を装着するかのごとき構制にあることを指摘しておいた。模式化すれば、『役柄者或者』としての『<役柄者或者>としての能為的誰某』という構制である。今や、しかし、先に<役柄者或者>と標記したイデアールな役柄者は、一人物が演行する諸々の役柄を横断的に通ずる単なる抽象的規定態といったものではなく、当為意識の内自化に俟つ<当在的主体>(das Sein-sollende Subjekt)とでも謂うべきものであること、このことが対自化できよう。それゆえ、これを用いて模式化すれば、能為的主体は「『役柄者或者』としての『<当為的主体>としての能為者誰某』」という構制を呈し、いわゆる「人格」とは『<当在的主体>としての能為者誰某』の謂いとなる。」179P
(対話A)「茲に謂う『役柄者誰某』は、『軍人』/『商人』……、『男子』/『女子』……『日本人』/『国際人』……等々、諸多の種類と次元に亘るが、現実の能為的主体はその都度「『役柄者或者』としての『<当在的主体>としての能為的誰某』」であって、決して“純粋な(?)”『<当在的主体>としての能為的誰某』とやらではない。――が、今仮りに『<当在的主体>としての能為的誰某』という「人格」を抽離的に“取出し”たとして、それについて考えてみよう。この「人格」は単一の“共同体”内部においてさえ完全に同型的(isomorph)というわけではない。現実の「人格」は、無論、彼が軍人/教員/商人……等々であることに一対一的にそのまま対応して相違するものではないが、彼が如何なる種類の役柄存在者として閲歴し、如何なる種類の役柄存在者として陶冶されてきたかに応じて差異性を帯びるであろう。そこにはまた、先天的・自然的な特性が、後天的に大変様を遂げようとも、払拭され尽さずに、差異的因子として介在することであろう。(固定化された分業制が廃止され、各人がありとあらゆる役柄を演ずる社会を想定するとき、そこでは「人格」の同型化非常に進捗すると目されうるであろうが、そこにあってすら完全な同型化は達すべくもない道理である。)この限定化での“程度”の問題として言えば、しかし、その都度の役柄を“装着”する『<当在的主体>としての能為的誰某』達は、単一の“共同体”内部において相当に“同型化”を遂げる相に形成・陶冶されているのが現実の筈である。(彼等がもし別の“共同体”に内存在し、以って別様の役割行動を営なむとすれば、『<当在的主体>としての能為的誰某』という形式的構制こそ普遍的であれ、人格としての実質的な現相在は別様に成ることであろう。が、事実の問題として、同一“共同体”に内存在する諸人物の人格形成は<当在的主体>の契機に即するとき、相当に“同型的”であると言えよう。)彼等は、その都度の役柄(役割)実践に際して、まさに『<当在的主体>としての能為的誰某』として、当該“共同体”の価値基準に則り、当該“共同体”において共同主観的に一致して、「斯々然々に行為すべし」とされている相で、その都度の実践を遂行する。」179-80P
(対話B)「『<当在的主体>としての能為的誰某』という相に形成・陶冶されている私、すなわち、『<当在的主体>としての私』の行為は、facio(我が行なう)には違いないが、共同主体的に“同型化”を遂げている主体の行為であることに鑑みれば、それはfacioとは言い条、facimus(我々が行なう)という相にある。けだし謂う所の“同型化”isomorphizationは社会学に謂う“一般化された他者の内面化”internalizatio of the generalized otherに照応しているからである。(facioがその実態においてはfacimusであるとされねばならないのは、このような抽象談義の次元においてではなく、役割行為というものが一見“孤独な営為”の場合ですら、協働Zusammenwirkenの構制になっていることに徴してである。が、この次元については次篇の行文中で立帰って見定めることにし、爰では臆断に留めておく。)」180-1P
(対話C)「能為的主体・実践的主体は、用在的世界という“舞台場”における生活実践――それは殆んど悉く役割行動として営なまれ、大抵が亦サンクション(広義)を形影相伴い、条件づけの機能、催眠的暗示の作用を有つ――を通じて、斯くの如き『<当在的主体>としての能為的誰某』という人格的二重相に形成される。――「私にとっての私」は差当り斯様な人格的主体として対他対自的に現存在するのである。」181P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(9)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第二節 主体的二重性の形成
(この節の問題設定−長い標題@)「能為的主体の「能為者誰某」と「役柄的或者」という二肢的二重相の具体的な在り方は間主体的“協働”を通じて形成される。――能為主体人格のいわゆる内自的存在規定もいわゆる外自的存在規定も共に対他対自的な存在規定ではあるが、各々存在様態を異にするばかりでなく、両規定は形成機序の位相を異にする。――能為主体は間主体的な“応対”を通じて「<当在的主体>としての能為者誰某」という相へと人格的自己陶治を遂げ、以って主体的行為はその都度すでに単なるfacio(我は行なう)以上のfacimus(我々が行なう)として営まれる。」160P
(この節の問題設定−長い標題A)「曩(「さき」のルビ)にわれわれは第二章において、主体の「能作体−所作態」としての現相や人格の「内自的特性−役柄的規定」の現相をも配視したのであったが、そこでは他人の映現相を謂わば観察的に記述する部面に比重をかけていた。今や、爰では自分の側の内省的分析も併せて主体的二重相の対他対自的形成を追究する段である。尤も、いわゆる人格が間主体的交渉を通じて形成される発生論的・発達論的過程を詳しく追跡することが本節の課題なのではない。主眼はあくまで存在構造にある。」160P
第一段落――諸多の対他者的関係規定性における諸々の役柄的規定性を帯びた存在者 160-6P
(対話@)「能為的主体誰某本人なるものは、前章において一瞥したところでは、“装束的役柄”を脱着したり、“部署的位置(「ポジシォン」のルビ)”“位置的地位(「ステイタス」のルビ)”に出入りしたりする或る本体の相で表象されつつ、内自的な個体的特性をも具有している者と諒解されている。」160-1P
(対話A)「惟えば、しかし、例えば舞台俳優は上演中の何々役を“脱ぎ棄て”た実生活においては誰某本人とされるが、その彼は座長であり・夫であり・父であり……、というように、対他者的にはやはり役柄存在者であり、役割主体であることを免れない。一般に、人はあれこれの役割存在であることから離脱できるとしても、一切の役割存在規定を同時悉皆(しつかい)的に脱ぎ棄ててしまうことは叶うべくもない。役柄を脱着する“本人”なるものは、直ちには生身の一個体とは言えない。特定の役柄存在と区別して“当事主体本人”と称される者は、差当っては、およそ“実存的一個体”といったものではなく、諸多の対他者的関係規定性における諸々の役柄的規定性を帯びた存在者なのである。」161P
(対話B)「自分自身について省察してみよう。私は父に対しての子であり、妻に対しての夫であり、子に対しての父であり、学生に対しての教師であり、医師に対しての患者であり、商人に対しての顧客であり、同僚に対しての同僚……、である、というように、共軛的な役柄他者に対しての役柄存在者である。――世人(「ひと」のルビ)は、この私のことを妻帯者・父親・教師……というように述定的に規定するが、わたしは世人に対して夫だったり父親だったりするわけではない。それは、私のことを、政治学者は有権者、経済学者は消費者と規定するが、しかし、私は彼に対して有権者でも彼にとって消費者ではないのと同断である。――私は、諸々の対他者関係性において在り、アクチュアルには共軛的な相手に対して(für)その相手との共軛的な役柄規定性における「役柄存在」者である。」161P
(対話C)「ところで、私は、私自身に対して(für=とって)は何者なのであろうか? 私は、父に対しては子であり、子に対しては父であるにしても、私自身に対しては、父でもなければ子でもない。ピランデルロが劇中人物に語らせているように、私は私自身に対しては何者でもない。」161P
(対話D)「人は反論して言うかもしれない。私は、まさしく私自身に対して(とって)私なのだ。私は汝にとっては汝であり、私は彼女にとっては彼であり、私が私であるのはほかならぬ私自身にとってなのである。――私にとって汝は汝なのであり、私にとっては彼女は彼女なのであり、私にとっては私は私なのである。云々。」162P
(対話E)「この意見は、慧眼な読者には莫迦げて見えようとも「自己(自我) (「わたくし」のルビ)」という概念規定の根幹に絡む論点を孕んでいるので、敢えて検討を加えておこう。――私は、慥かに、汝に対しての汝であり、第三者たる彼女の視座からすれば彼である。「対して(とって)」という言葉の意味を、父親に対しての子、妻に対しての夫、という場合と同義に揃えるかぎり、紛れもなく、私は汝に対しての汝であり、私は彼女にとっての彼である。ところで、しかし、私は汝・彼・彼女・彼等に対して私である、という言い方もされる。この言い方では、私は汝に対して私である、私は彼女に対して私である、ということになり、先の規定(私は汝に対しての汝、私は彼女にとっての彼)と一見矛盾する。だが、この“矛盾”は、「対して」という言葉の意味が、先の規定と今の言い方とでは相違することに因るものである。私は汝・彼女・彼等に対して私であるという今の言い方においては、“対して”という言葉は単なる対比的区別しか含意しておらず、先の規定の場合のように「役柄的対他規定性」を意味してはいない。(右の立言には、後に立帰って是正するように、ミスリーディングなモメントが孕まれている。が、さしあたっては右の言い方で押し通しておく。――尚、因みに一言しておけば、「我と汝」「我対汝」という言い方は、我と呼ばれる人物と汝と呼ばれる人物とを単に区別的に対置した域に留まるならば、およそ「出会い」や「交わり」を云々しうるものではない。人々はそこに共軛的な役割行動・期待・呼応の共互的関係を含意させ、つまりは、互いにとっての汝としての関係行為を含意させるかぎりにおいて「我と汝」という略号よってアクチュアルな共互対他者的な関係を表現する所以となる。)われわれは日常的用語「対して」の多義性に呉々も留意しなければならない。では、一体、私は私自身に対して私である、と言われるさいの「対して」はいかなる意味での「対して」であろうか? ここでの「対して」は、先廻りして言っておけば、「私は汝に対しての汝(息子に対しての父)である」という第一の場合の意味とも、亦、「私は汝に対しての私(汝・彼女・彼等、其等に対しての私)である」という第二の場合の意味とも異なっている。「私は私(自身)に対して私である」と言うときに、よもや「私」と「私自身」とを別個体として区別化的に対比しているわけではあるまいから、ここでの「対して」は、まず、第二の語義での「対して」とは別義である。翻って亦、私は私(自身)に対して私であるというのは、「私は汝に対して、汝にとっての汝という役柄存在者である」というのと同趣的に「私は私自身に対して、私自身にとつての私という役柄存在者である」という意味ではない。「汝にとっての“汝という役柄存在者”としての私」は、汝という別個体と実践的に関わるのに対して、「私自身にとっての“私という役柄存在者”としての私」とやらは、「私自身」と「私」とが別個体ではない以上、実践的に関わる相手個体を欠く。セルフレフアレントな対自己役割行動(例えば後述のセルフサンクション)の余地があるにしても、それは所詮「父親に対しての子」「師匠に対しての弟子」といった第一の意味での「対して」とは別義と言わねばなるまい。こうして、「私は私(自身)」に対して私である」と称するさいの「対して」は、嚮にみておいた「対して」の二義とは別になる。」162-3P
(対話F)「今や、「私は私自身に対して私である」というありうべき論者の提題を「対して」の第三義をも見定めつつ、直接に検討する運びである。私が私自身に対して一定の役割的行動を演ずると立言するのが好便な場面が慥かに存在する。フロイド主義のように自我自身の内に複数的エージェントを立てる構図を選ぶかどうかは別として、いわゆるinternalization (内在化)によって形成された自我が自分自身に対するサンクショナーとしての機能的役割を演じるといった立論の場合がその一例である。だが、そのような場面においても、役柄存在は、サンクショナーとして等々、具体的に規定されるのであって、「私にとっての“私という役柄存在”」というような抽象的規定性では空疎にすぎる。現に亦、論者が「私は私自身に対して私である」と称するさい、役柄存在を念頭に置いているわけではあるまいと思われる。――論者の提題は、一般化して言えば、「各自は各自に対して私である」という命題になろう。ここでの「対して……ある」とはfür jn.sein、つまり、「誰々に……意識されている」の謂いとなる。各自は自分を意識している、各自は自分を自分として意識している、要言すれば、各自は「自己」認識をもつ、という委細である。(ここでは、統覚的な自己意識、すなわち、現に意識しているという自覚、意識しているということの意識、この意味でのconscince de soi (自己意識)が問題なのではない。論者が述べているのは、私という個体的な存在者のDa und So Seinについての意識、個体的な対象性認識であろう。)では、「私自身に対してある私」「意識されている私」とはいかなる存在者であるか?」163-4P
(対話G−第一段の分析的規定)「この「私」は、われわれの見地から分析的に規定して言えば、第一段としては、他の諸個体との対比的な区別における「この身」「この個体」の謂いであろう。が、この意味での「私」は、省みるとき、汝・彼・彼女・彼等・其等に対して(対比的に区別される)私、とされているのであって、「私自身に対しての私」と言い条、「汝・彼女……彼等……に対しての私」と同じになっている。というのも、有様(「ありよう」のルビ)は「(私は)汝・彼女……彼等・其等の諸個体と区別してこの個体=私を意識している」という構制に帰趨するからである。但し、これはあくまで第一段の分析的規定にすぎない。この第一段の分析的規定の準位にあっては、実を言えば、「私自身に対して(対象的に意識されて)あるこの私」という個体は「汝・彼・彼女・彼等・其等に対して(区別的に対比されて)ある私」と規定するのはミスリーディングである。というのは、汝とか彼とかいう代名詞といえども、単なる個体指示以上の表意機能(「汝」とか「彼」とか認定される所以の意味づけを表意する機能)を遂行してしまうからである。正確に言おうとすれば、今の第一段階では、各々が、たかだか固有名で呼び分けられる準位であれらの個体(何某・誰某たち)との区別におけるこの個体「誰」としか指称できない。この誰(etwer)は――あの個体を汝と呼ぶのが過大であり、あれらの個体を彼等と呼ぶのが過大であるのと同様――「私」と呼んではまだ過大である。」164-5P
(対話H−第二段の分析的規定)「第二段の分析的規定に進もう。「私自身に対してある(意識されている)私」は、単なる「この個体」「誰」という以上の規定性において相在する。だからこそ、それは単なる「この個体」「誰」と呼んで済まされるのではなく、まさに「私」として規定される。(発達心理学的に言っても、幼児が○○チャンとしか自称できない段階から、一人称代名詞を使用できる段階へ発達するのは一大劃期である。但し、代名詞の使用に先立って、“我”“汝”“彼”の対他的反照関係が或る程度までは自覚化されているであろうことを否定するつもりはない。)この個体は、眼前の別個体との一定の対他的役割的行為関係(汝=我関係)において「彼に対する私」として……自覚される。ここでの「私」という規定性は、その内容に立入ってみれば、まさに「汝にとっての汝」「彼にとっての彼」……という反照的規定の内自化されたものにほかならない。(この準位での対他的規定性「対して」は、嚮の行文中、第一の語義として扱った「役柄的対他規定性」、つまり「父に対しての子」「師匠に対しての弟子」……というさいの「対して」に帰着する。)このような意味での「汝(彼・彼女・彼等)に対する私」が「私自身に対して(für=意識されて)ある」のである。」165P
(対話I−第三段の分析的規定)「第三段。「私自身にとっての私」(「私自身に意識されている私」)は、決して単に、この個体が対他者的役割存在規定を附帯するという相に止まるものではなく、更にそれ以上の或る者である。(尤も、この第三段の規定は、第一・第二段において已(「すで」のルビ)にインブリシットには存在した規定性を明示的に述べるものとも言え、発達論上の新段階というわけではない。が、行論の方略上、敢えて第三段の規定という扱いに爰ではしたいと念う。)ここで対自化されるのは、先廻りをして陳べてしまえば、投企的行為の能動的遂行者としての私、である。(ここでの能為的主体は、“この身”の視座から見た私でありつつ、且つ、他者の視座から“見た”私、差当っては“被視的存在”としての私でもありうる。)」165P
(対話J)「「私自身にとっての私」「私自身の自覚する私」は如上の三段的規定で尽きるものではなく、われわれはなお幾つかの「自己」規定に関説する必要がある。だが、当座の行論としては右に謂う第三段の分析的規定として対自化した相での私、すなわち、投企的行為の能知・能意・能動的な主体として内自化される相での私、これに止目しつつ、「能為者誰某」と「役柄的或者」との二肢的二重性の対他対自的な存在構造の分析、ならびに当の二重相の形成の討究、これを主題的に進めておかねばならない。」166P
第二段落――“内自的存在で且つ外自的存在である者”と謂うべき二重相での覚識 166-73P
(対話@)「能為的主体は「能作体的所作態=所作態的能作体」の相で対自化されるばかりでなく、対他的役割存在相でも対自化される。――われわれは前章第三節において、用在的世界の既成的“舞台場”に登場する人物は、固有の人格的特性を具えた内自的主体(能為者誰某)が役柄的存在規定を帯びている者(役柄的或者)の相で現前することを確認したのであったが、このことは「私に対しての私」にも妥当する。――此処に対自化される能為的主体・人格的実践主体は、「他者の視座から見たこの“身”の対他存在」と「自身の視座から見たこの“身”の対他存在」との“複眼的視相の統一”というより、“内自的存在で且つ外自的存在である者”と謂うべき二重相で覚識される。」166P
(対話A)「われわれはこの二重相の構制と形成の討究を爰での課題とする。が、まずは嚮に暫定的に“確認”した「私にとっての私」の第三段規定、すなわち「投企的行為の能知・能意・能動的な主体として内自化される相での私」、これを前章第三節から“宿題”として持越した論点との絡みで稍々検討する作業から着手しよう。」166P
(対話B)「用在的世界という“舞台場”に登場する人物は、自分をも含めて、「能為的誰某」と「役柄的或者」という二肢的二重相を呈するが、この「能為的主体」は各自「人格的特性」を有するという所見にまで前章で及んでいた。そして、謂う所の「人格的特性」とは、「一切の役柄的規定性を、延いては、一切の社会的規定性を“脱ぎ棄てた”“真裸の”人物の内自的特性・内自的個性という次元での固有性」として思念(「マイネン」のルビ)されることをも見定めておいた。――この思念相における「人格的特性」なるものは、まさに“身心統一体”としての主体の特性と“同定”されうるであろう。けだし、それは一切の社会的規定性を捨象してなお残留する特性なのであるから、畢竟するに一種の自然的規定性の筈であり、詮ずるところ「精神的・肉体的」特性に帰着するであろう所以である。」166-7P
(小さなポイントの但し書き)「尤も、謂う所の自然的規定性は、論理上、精神的または肉体的な規定性とされる“べき”であり、実質上は、人格的特性にとって肉体的規定性は問題外であって、もっぱら当該人物の精神的特性のみが勘考に値する、という主張もありえよう。欧米の近代哲学者たちは大抵がこの主張に与みするかもしれない。しかし、日本人の日常的思念にあっては、精神的なものと肉体的ものとを概念的に区別はしても、両者を機会的に分離してはしまわないのが常套であろう。/人格的特性、人格的個性を云々する際、男・女とか、老・若とか、これらの肉体的特質が人格的特性に規定因子として入り込むか否か。読者はどう決裁されるであろうか? 男・女、老・若という概念は、純然たる肉体的な規定性を表わす場合と、一種の社会的な規定性を表わす場合との、二義性を帯びていることに注意しながら決裁して頂きたい。いずれにせよかなり微妙であろう。では、いわゆる「体質」はどうか。われわれ日本人は日常的には“人格的特性”の中に「気性」や「性向」を導入するのが普通のように見受けられるのだが、気性や性向というものは、純然たる肉体的特質でないことは確かでとしても、さりとて純粋に精神的なものでもあるまい。それらは、まさに「気」や「性」であり、むしろ、心身の分裂以前的ないし統合以後的な相を含意していよう。/われわれ日本人が日常的に思念している「人格的特性」とは、まさに、具象的な現在相から一切の社会的対他規定性を剥奪しても残留する「人物の肉体的および/ないし精神的な個性的特性」にほかならないと言えそうである。――「肉体的および/ないし……」というさいの「/ないし」が切離されてはならない。もし切離すならば、そのときには、純然たる肉体的特質は、今日の日本人の日常的意識にあっても、必ずしも人格的特性とは認められないであろう。男・女、老・若……といった肉体上の特質は、それ自体が人格的特性なのではなく、それが精神的特質と不可分的と思念されるかぎりで人格的特性に算入されるのであるように看ぜられる。」167-8P
(対話C)「如上の了解層での「人格的特性」は、それが性質や機能と目されるかぎり、伝統的な存在観の発想に則れば、一定の基体=実体に担われている筈だとされ、ここにおいて「人格的特性」を担う基体たる“人格的実体”なるものが立てられる所以となる。――人格的実体それ自体を丸裸で直接に認識することこそ不可能であるが、人格的特性という性質・機能に拠ってそれの現存を立言できる、と人々は思念する。――」168P
(対話D)「偖、今やわれわれの課題は、斯くの如き思念相における「人格的特性」ひいては「人格的実体」なるものを批判的に再考し、それらの実態を見極めることである。」168P
(対話E)「惟えば、「人格的特性は個体的一人物の固有性であり、時と所(情況)にかかわりなく一定であるからこそ、その一人物の人格的特性なのである」と一応は言うことができるにしても、人々は現実問題として「人格的特性」なるものを絶対的に不変不易な生得的・アプリオリな固定的特質と見做しているわけではない。人々は、人格的特性の具体相は一定の可塑性をもつものと了解しており、それは形成・陶冶されるものと了解している。「人物の肉体的および/ないし精神的な個性的特性」には生得的な“部分”も確かにあるであろう。しかし、現に見られる人格的特性の具体的な現相在は後天的形成に多くを負うており、どこまでが生得的(「アプリオリ」のルビ)なものでどこからが後天的(「アポステリオリ」のルビ)なものであるか、截然と区別することは実際問題としてまず不可能である。言い換えれば、或る人物の純粋に生得的な特性なるものをそれとして取出して挙示することは不可能である。それにもかかわらず、人物は各自に生得的な自然的特性を有っていることが認められて宜(「よ」のルビ)い。但し、人格的特性と呼ばれるものが悉く生得的な特性だというのではない。人格的特性は、先天的特性を出発点にしてはいても、後天的に変様・形成されたものである。」168-9P
(対話F)「人格的特性は、実生活の場において、わけても他人たちとの関わり方が、生得的特性によって制約されるであろうし、いわゆる後天的影響の蒙むり方も生得的特性に因由する差異を生じうるであろう。しかし、人格的特性は可塑的であり、“同一”の生活場に内在する諸人物の人格的特性は収斂する傾向を見せる。」169P
(対話G)「能為的主体の内自的規定性とされる人格的特性は、こうして不変不動なものではなく、可塑的ではあるが、それはあくまで主体の内自的規定性と見做され、行為現象の様態的特徴、外自的規定性とは区別される。人間行為は、われわれの広義の定義からすれば、その殆んど悉くが役割行動として営なまれる。そして、役割行動というものは、その都度場面的条件、舞台的情況に応じて、その具体的様態は一回起的に特個的である。が、この行動という事件の特個的特徴は人格的特性とは呼ばれない。当の特徴をもたらす原因の一斑として行動主体の人格的特性が与(「あず」のルビ)かっているとは認められても、行動様態の特徴がそのまま人格的特性と見做されるわけではない。ところで、概念規定上は“同じ役割行動”であり、且つ、舞台的情況も“同じ”でありながら、行動様態に演行者各自の個性的特徴が認められる場合がある。というより、それが一般的である。このさいも、行動の外自的特徴はあくまで行動様態の特徴とされて、それがそのまま演行者の人格的特性とされるわけではない。がしかし、行動様態の演行者毎の個性的差異は演行主体の個性・特性に因由・照応するものとされ、それを“手掛り”にして行為主体の特性なるものが“把捉”される。だが、ここに“把捉”される“行為主体の特性”なるものは、そのまま直ちに狭義の人格的特性とされるわけではない。それは、さしあたり、斯々の役柄存在者たる限りでの当人の特性(「役柄者或者としての能為者誰某」の特性)であるとされ、端的に能為者誰某の内自的人格特性とされるわけではない。――われわれは「役柄者或者としての能為者誰某」の特性を広義においては人格的特性と呼ぶ。行文中すでにこの広義でも人格的特性という語を用いてもきた。しかし、狭義における人格的特性というのは、一切の役柄的存在規定性を捨象してもなお残留すると思念されている相での内自的特性の謂いである。――が、人々は、同一人物がさまざまな役柄行為を遂行しつつ、それらさまざまな役柄行為の遂行を通じて“横断的に”呈する個人的特徴、これに即して当該人物の「人格的特性」(狭義)を“取出”す。このようにして措定されるのが「人格的特性」であり、伝統的な実体主義的存在観のもとでは、それは“人格的実体”(これが直ちに霊魂的次元で考えられるかどうかは今は措く)の内属性として位置づけられる。」169-70P
(対話H)「われわれは、以上、人々の思念(「マイネン」のルビ)する相での「人格的特性」なるものを、行為主体の対他的行為・役柄行為の場に即して“追認”する流儀で対自化してきた。しかし、読者の中には、人格的特性は単なる認知的場面で、謂わば対象物を観察する流儀において、把捉できるのではないかと思われるむきもあるかもしれない。人物の顔貌的特徴や肉体上の特質など、観察的に認知できる特性が確かにある。それら直接的に観取される特性がそのまま人格的特性ではないにしても、それを“手掛り”にして人格的特性の認知がおこなわれうる。現に初対面の人物に関して、つまり、当人の行為様態など目撃することなくして、風貌・態度などから、その人物の人格的特性が把捉される。この事実を否定するつもりはない。――著者は、第一巻の第三篇中で叙べた通り、いわゆる自然的事物にも個体性・個性を認める。とあれば、一箇の自然的事物と見做された人物、つまり、単なる認識対象的射影相で截撮って見た人物、一切の実践的関心性を捨象したという建前で認知される対象的個物としての人物にも、個体性・個性を否認しないのは理の当然である。(勿論、自然的“実体”、自然的“属性”とされるものについても、それらが反照的関係規定の物象化的結節であるとすることは、第一巻で縷説した通りであるが。)お望みとあらば、人物的特性なるものを自然物としての人物という個体に即して立てても宜い。――だが、苟(いやし)くも人格的特性と呼ばれるものは、人々がそれを一種の“自然的特性”(精神的または/および肉体的な特性)として思念しているにしても、単なる自然物的特性の謂いではなさそうに思える。それは、行動(態度・挙措・表情的表出などを含めての広義の行動)の規定的原因と見做される限りでのみ人格的特性に算入されるのではないか。つまり、人物の具えている自然的特性の全部ではなく、その中の、行動の在り方の規定的原因と見做される一部分のみが、人格的特性に算入されるのではないか。もしそうであるなら、それは通常の単純な自然的特性より以上の意義を有つ或るものと言わねばなるまい。では、初対面の人物に関しても直截にその人物の人格的特性を観取するという事実は如何? その場合でも、態度・挙措・表情的表出などの外自的行動が手掛りにされていることは今措くとしても、類似の自然物的特性を呈する別人たちからの類推といった“手続き”で当人の人格的特性が推察されるというのが実情であろう。この別人のケースからの類推(これによって人々はしばしば失態を仕出かすのだが)、これがおこなわれうるのは、別人たちにおける行動様態の個人的特性を手掛かりにして人格的特性を“把捉”し、それと風貌その他の特性との一定の相関的対応性を既成観念として保有していることを俟っての筈である。とすれば、初対面の人物の人格的特性を“観察的”に認知するといっても、そこでの構制を掘り下げてみれば、嚮に“追認”した「行為主体の対他的行為・役柄行為の場に即して……」という構制に帰趨する、と言えよう。」170-1P
(対話I)「偖、議論を本線に戻して述べれば、人々が所謂“人格的実体”の“内属性”として思念している「人格的特性」は当の人物にとって一生涯全く不変不動というわけでなく、それなりに変様・形成・陶冶されて行くものではあるが、その都度の行動にとっては既定的・既在的であり、且つ亦、その都度の行動の在り方を内自的に規定する要因である。人々はこのような相で人格的特性なるものを思念している。しかも、人々は狭義の人格的特性に関して、それは一切の社会的・文化的規定性を免れた内自的な自然的特性であるものと思念している。――惟うに、同じ情況下での同じ役柄行為の様態の個々人的特徴を“説明”すべく措定されたものであるのだから、この理路からしてそれが純然たる内自的な自然的特性と見做されるのはトートロジカルである。だがしかし、われわれとしてはこの理路において孕まれてもいる論理的飛躍と即断を見咎めざるをえない。人格的特性やそれを支える人格的実体なるものは、再考してみれば然(「し」のルビ)かく単純な代物ではない。」171-2P
(対話J)「厳密に言い出せば、同一情況下での同一役柄行為という際の同一性がそもそも保証さるべくもないが、今は百歩を譲っておこう。また、或る人物が或る役柄行為を遂行する際、彼は一般には、当の役柄存在者として既に陶冶された者として演行するのであって、真裸の主体として行動するわけではない。が、この点も譲って、恰かも真裸の生身で当該の役柄を装着するかのように遇することにしよう。このように譲る際に、“真裸”というのは、今問題の特定の役柄規定を一切免れている相の謂いでしかありえず、それが他種の役柄存在規定をも端的に免れているとは言い切れない。なるほど、狭義の人格的特性なるものを措定する手続においては、或る特定人物がさまざまな種類の役柄行為を遂行するにあたって“横断的に”呈する個人的特徴に止目するのであり、各種の役柄存在規定は“捨象”されてはいる。とはいえ、当人が各種の役柄行動の遂行を通じて“身につけた”ヒステレシス、謂うなれば各種役割行動の“沈澱的堆積”を免れない。この意味において“真裸の生身”と仮りに呼んだ主体は、実は、それまでの社会的行動を通じて変様的形成を遂げた相で現相在する。(この機序があればこそ、人格的特性なるものは、先天的特性のままの不変不易なものではなく、変様・陶冶されて行く所以ともなる。)社会的行動履歴の“内在化”された“沈澱的堆積”規定性をも“自然的特性”と呼び続けたければ、それでも宜(「よろ」のルビ)しかろう。が、しかし、それは対他的行為の場で“発現”するものであり、しかも、まさに人格的特性として対他的行為上の意義を有つものであり、いずれにせよ、生来の単純な自然的特質ではない。それは対他的対自的に一定の価値的有意義性を有つ或るものである。能為主体は“裸の主体”としてその都度の役柄を“装着”“演行”すると言い条(おち・くだり)、実態においては斯かる規定性、単なる自然的特性より以上の規定性を具えた主体として行為するのであり、人格的特性と呼ばれるものは、単なる自然的特性より以上の斯かる規定性であるのが実態なのである。」172-3P
(対話K)「われわれは嚮に人格的特性なるものの広狭二義性を暫定的に区別しておいた。すなわち、そこでは、「役柄的或者としての能為者誰某」の個性的特性を広義の人格的特性と呼び、「一切の役柄存在規定を捨象してもなお残留すると思念されている相での“能為者誰某の内自的な自然的特性”」を狭義の人格的特性と呼んだのであった。今爰において、しかし、此処の役柄存在規定ではなく、種々の役柄行為を“横断”する抽象的レヴェルでイデアリジーレンされた役柄存在規定、この意味での抽象的規定態でイデアリジーレンされた<役柄者或者>の次元に即して「<役柄者或者>としての能為者誰某の個性的特性」を最広義での人格的特性と呼ぶことにしてみては如何? 人々の思念している“狭義の”人格的特性、つまり、“裸の主体”の内自的な人格的特性なるものは、実態においては、何と却って、右に謂う最広義での人格的特性にほかならないことをわれわれは識る。――誤解のないように願いたい。「<役柄者或者>としての能為者誰某」というのはあくまで「イデアール−レアール」な二肢的二重態であって、決して単なる<役柄存在>ではない。そこにはレアールな「能為者誰某」という契機が厳存する。そして、この構造内的契機を“自然物的実在”と呼ぶことも妨げられない。尤も、このものを以って狭義と称する“人格的特性”を“内属”せしめている“人格的実体”と見做すことの“権利”とその限界については、論決を後論(第三篇第三章)まで持越すことにする。が、仮令この“人格的実体”や“人格的特性”なるものが関係的規定性の反照規定的“結節”として捉え返されるとしても、そこに謂う「関係」なるものは強(「あなが」のルビ)ち社会的関係・役割的関係には尽きず、いわゆる“自然的関係”をも含むのであるから、著者の見地からすれば、前章でも断っておいた通り、「人格」なるものが“役割の束”に還元されることにはならない。「人格」は決して“役割の束”には尽きないのである。――」173P
第三段落――能為主体の“内自的二重性”の形成を構図的に抽出する 174-9P
(対話@)「今や、以上の行文を通じて対自化した「<役柄者或者>としての能為者誰某」という主体的人格、この二重相成態の形成が論件とされる段である。――尤も、本節の頭初で限定した通り、発生論的機序の具象的な追跡は次篇の行論に譲らるべきであって、爰ではまだ課題外である。――因みに、右に謂う二重相成態は形成の所産ではあるが、既成的な局面での役割行動においては、当の二重相成態が既成化しており、能為的主体はそのような既成態として“役柄を装着”する構制を呈する。従って、そこでは、その都度の役柄存在規定が<役柄者或者>に“累加”される相を呈し、多重的構造を呈する所以となる。が、その都度の“役柄の装着”という部面は、既に前章においても必要最低限の論及を済ませており、詳しくは次篇で分析する予定であるから、爰ではこの部面を配視はしても、もっぱら能為主体の“内自的二重性”の形成を構図的に抽出するに留めよう。」174P
(対話A)「偖、われわれは嚮に「私にとっての私」なるものの多義性(これには「反省的自己意識」における自己)「先験的資源における自己」など極めて多義的な含意がある)の中、とりあえず三義を区別し、その三義を三段階に分けて暫定的に規定しておいた。そこでの論点との関係で謂えば、主体的人格として対自化される私は、さしあたり他個体(他人物)との区別性における此の私であるが、その私は人格的特性という対他対自的な規定性を具えて主体的人格として私にとってある。われわれが今爰で課題としているのは、この相での私の自己形成にもほかならない。」174P
(対話B)「主体的人格の自己変様・自己陶冶の構制を図式的に言えば、――その都度の局面において已に既成的な「<役柄者或者>としての私」が現場的役割行動を新たに遂行しつつ、以ってヒステレシスを“堆積”して行くのであるが、「<役柄者或者>としての私」なる既成態が形成されたのはそれまでの先行過程での役割行動を通じてなのであるから、原初的場面にまで溯れば、生得的自然存在としての私が役割行動を通じて……という構制になり――ポイントは役割取得(role-taking)、役割演技(role-playing)に懸っている。これは、決して単純に“他者の内面化”とか、況んや“一般化された他者の内面化”とか言って済ませうるものではない。では、役割取得・役割演技を通じての自己変様・自己陶冶が如何なる機制で進捗するのか。」174-5P
(対話C)「人格形成が役割取得・役割演技を通じて進捗する事実過程においては、賞・罰(「サンクション」のルビ)という機制が介在する。――原理的な問題次元においては、そもそも役割取得や役割演技が何故履行されるのか、賞罰が何故おこなわれるのか、人は何故サンクショナーとしての役割行動を遂行するのか、このたぐいの根本問題から論究しなければならない。だが、この件については別稿「役割理論の再構築のために」において稍々立入って論じておいたことでもあり、また、次篇の論脈内で必要最低限の論及をおこなう予定でもあるので、ここでは短絡的に議論を運ぶことを許されたいと念う。――人格の陶冶は賞罰の機制によって進捗すると言っても過言ではない程である。」175P
(対話D)「この際、賞・罰、すなわち、正・負のサンクションといっても、狭義のそればかりでなく、広義での賞・罰が勘考されねばならない。人は、他人を別段賞したり罰したりしたつもりはなくとも、嬉(よろこ)んだり、嗤(わら)ったりしただけで賞罰の機能を果たす。亦、人は自分が直接に賞罰を受けずとも、他人の受けている賞罰を目撃するだけで(後述の「観念的扮戯」の機制により)賞罰を自身で“体験”する。あまつさえ、或る行動の成功・失敗それだけで、それどころか、或る行動を上手(「うま」のルビ)くやれた、不手(「まず」のルビ)くしかやれなかったというだけでも、一種の賞罰的機制を体験する。賞・罰は、狭義のそれはもとより、広義のそれも、条件反射の機制(条件づけ、条件づけの強化・解除、汎化・分化などの機制)によって、それを体験した主体の爾後的行動の在り方に規制的な影響を及ぼす。そして、条件づけは、それが“内面化”されることにおいて、いわゆる「深層催眠」の機制ともなって効(「はたら」のルビ)く。――サンクションによる矯正、条件づけは、さしあたっては外自的な行動様態に関わるとしても、それは反応の機制の在り方を変様せしめ、以って内自的変化をもたらす。」175-6P
(小さなポイントの但し書き)「いわゆる躾(「しつけ」のルビ)は賞罰的機制の一形態であるが、躾によって人の特性的性格まだ変わるか否かをめぐっては古来議論のあるところである。――そもそも、躾の効(「き」のルビ)く者と効かない者とがある。アリストテレス以来の例を挙げれば、岩石を、上方に昇るよう躾ようとしても無効である。“本性(「フイシス」のルビ)”に反するたぐいの躾は不可能と言われる所以である。――躾というものは、さしあたり、外面的な行動を矯(「た」のルビ)めるものであって、直接的に“内面的人格”に干渉するものではない、だが、一定様式の行動を躾によって習慣づけられると、当初には“内面”と“外面”が乖離していても、軈(「や」のルビ)がては、その習慣づけられた行動様態が“内面化”され“自発的な”性向となる。これは日常的な“経験的事実”であると言えよう。この経験的事実を成立せしめる機序、すなわち、躾による習慣づけは、まさしく条件反射理論に謂う条件づけにほかなるまい。条件づけは反応性向の在り方を変える。しかるに、反応性向の在り方が“人格的特性”として“把捉”されるのが日常的な思念における理路なのであるから、条件づけによって“人格的特性”が変様するという道理となる。」176P
(対話E)「サンクションというものは、そもそも、謂うなれば定義上、それの対象となる行為の主体に、それ以後の諸行動に関して、鼓舞的/禁圧的な影響を及ぼすごとき対他者行為の謂いである。が、それはさしあたっては、所与の行為に関し、三つの着眼点に即した評価にもとづいて発動される。三つの着眼点というのは、(1)当該行為の志向的目的そのもの、ないし、目的志向的投企そのことに即して、(2)当該行為の過程的遂行方式に即して、(3)当該行為の理由性動機に即して、の三つである。これら、(1)、(2)、(3)は相対的に独立であって、目的は賞して方式は罰するとか、方式は賞して動機は罰するとか、等々の場合を生じうる。――サンクショナーは、発達心理学的・行動発達論的には、先ずは、対向的行為の当事他者であり、次では、環視的第三者である。(尤も、この環視的第三者は、彼が与件的行為の環視者であったかぎりでのみ第三者なのであって、賞罰的行為に乗り出した場面では、賞罰という対向的行動の当事他者に転成する。)更には、サンクショナーなる他者が“内面化”されて、行為者本人が自己分裂的自己統一の相で自己の行為に対して賞罰的に関わるようにもなる。亦、世にはサンクショナーとしての役柄を準専門的・専門的に担掌する他者も存在し、昇華されて超在者の相で覚識されるサンクショナーも存在する。――という次第で、サンクションについて周到に論じようとするさいには、論件が多肢に亘らざるをえないのだあるが、爰では議論を極端に簡略化して、もっぱらサンクションが人格形成においてもたらす帰趨に目を向けることにしよう。」176-7P
(対話F)「偖、前記の三つの着眼に即した価値評価に基づいて語の広義における正・負のサンクション(賞・罰)が発動される次第であるが、サンクショナーは正に価値評価した行為を賞し、負に価値評価した行為を罰する。サンクショナーの価値評価は、概(「おおむ」のルビ)ね、彼の内存在する“共同体”の価値基準に則って、当該“共同体”の成員たちのあいだで共同主観的に一致する相でおこなわれる。勿論、サンクショナーの価値評価は、個人毎のバイヤスを免れないし、時によっては、同じ所与行為に関して、サンクショナーたちの評価が岐れ、以って正・反逆のサンクションがおこなわれるような場合さえも生じる。(例えば、同じ行為を母親は褒め父親は叱るといったケース。――尚、分裂したサンクションに曝され続けると、いわゆる精神分裂症(ママ)に罹り、人格的分裂を生ずることが知られている。)がしかし、サンクショナーたちの価値評価は合致・一貫しているのが普通であり、若干の凹凸はあっても複数のサンクショナーたちによる多数回のサンクションを経ることで、所与の“一定”行為の蒙むる賞罰はほぼ“一定”する。」177P
(対話G)「斯くして、能為的主体は、自分の内存在する“共同体”の価値基準に則って行為を評価され、“共同体”諸成員の共同主観的に一致する相での価値評価に基づいた賞罰を蒙ることを通じて、自分の各種行為(目的投企・行動様式・動機心態)の在り方を鼓舞・禁圧され、当該の共同体において正価値とされる相に行為の在り方を矯正され、負価値とされる相での行為を抑止される。――賞罰的外部規制は無抵抗に受容されるというものではない。人によっては、また、行為の種類によっては、強い抵抗を生じる場合が現にある。とはいえ、事実の問題として、殆んどの成員が大抵の行為に関して、賞罰的矯正や抑止を受容する結果になる。――これは条件反射の機制に因るものと念われるのだが、当人の意識においては、それが当為意識(Sollen-bewußtsein)という形で対自化される。」177-8P
(対話H)「当為意識という形でその一端が対自化されるに及ぶサンクショナルな条件づけは、催眠術に謂う所の「催眠」就中「深層催眠」や「暗示」にもほかならないのであって、それはいわゆる「自己催眠」「自己暗示」をも可能ならしめる。催眠・暗示は“背後に制裁(「サンクション」のルビ)を控えている命令”とも謂うべきものであって、幼児は「お兄ちゃんなのだから」「女の子なのだから」……とか、「お利口さんね」「良い子ね」……とか、こういう言い方での催眠・暗示にかけられる。成人にあっても、期待の眼差しなどに縁る催眠・暗示、延いては自己催眠・自己暗示によって、「軍人らしく」「教員らしく」「商人らしく」……、「将校らしく」「校長らしく」「番頭らしく」……、「男らしく」……「日本人らしく」……「立派な人物らしく」……自分の行動を律するようになる。――条件づけ・催眠・自己暗示は、差たっては外自的な行動を規制するものではあれ、上述の通り、“内自的”行動性向を変化せしめ、人格的特性の変様、人格的陶冶をもたらす。」178P
(対話I)「以上の行文においては論点が見え易くなるよう、サンクションによる「条件づけ」の機能や「暗示」の作用を強調したのであったが、そもそも役割行動を期待されてそれに即応的な反応行動をすることか一般が「条件づけ」の機能を果たすのだということを忘失してはならない。役割行動は、一般に、先に指摘しておいたごとき広義のサンクションを形影相伴う。が、広義のサンクションすら殊更には伴ったり背後に控えていたりはしないように当人に思われるような場合であっても、およそ、期待を差向けられて反応行動をおこなうという機制は「条件反応」(中にはむしろ無条件反応と言ってようケースをも含む)にほかなるまい。それゆえ、役割行動という“反応”が生じるその都度その都度に一定の「条件づけ」が生じる所以となる。尤も、その条件づけは恒に新種の条件づけというわけではなく、種類上は既成的な条件反応の「分化」や「汎化」にすぎないケースをも含む。が、まさに、この「分化」や「汎化」をも含めた条件づけにおいて人格的陶冶が進捗するのである。――という次第で、殊更にサンクションの覚識を伴わぬ場合において已(「すで」のルビ)に役割行動の遂行は人格的変様・形成・陶冶の過程にあるわけであるが、この過程に屢々制裁(「サンクション」のルビ)が加重されることにおいて、前述の通り「当為意識」の“内面化”が生ずるに及ぶ。」178-9P
第四段落――「人格」とは『<当在的主体>としての能為者誰某』の謂い 179-81P
(対話@)「われわれは嚮に、「抽象的規定態でイデアリジーレンされた<役柄者或者>」という苦肉の表現を用い、現実的・具体的な役柄演行者は、「<役柄者或者>としての能為的誰某」がその都度の役柄を装着するかのごとき構制にあることを指摘しておいた。模式化すれば、『役柄者或者』としての『<役柄者或者>としての能為的誰某』という構制である。今や、しかし、先に<役柄者或者>と標記したイデアールな役柄者は、一人物が演行する諸々の役柄を横断的に通ずる単なる抽象的規定態といったものではなく、当為意識の内自化に俟つ<当在的主体>(das Sein-sollende Subjekt)とでも謂うべきものであること、このことが対自化できよう。それゆえ、これを用いて模式化すれば、能為的主体は「『役柄者或者』としての『<当為的主体>としての能為者誰某』」という構制を呈し、いわゆる「人格」とは『<当在的主体>としての能為者誰某』の謂いとなる。」179P
(対話A)「茲に謂う『役柄者誰某』は、『軍人』/『商人』……、『男子』/『女子』……『日本人』/『国際人』……等々、諸多の種類と次元に亘るが、現実の能為的主体はその都度「『役柄者或者』としての『<当在的主体>としての能為的誰某』」であって、決して“純粋な(?)”『<当在的主体>としての能為的誰某』とやらではない。――が、今仮りに『<当在的主体>としての能為的誰某』という「人格」を抽離的に“取出し”たとして、それについて考えてみよう。この「人格」は単一の“共同体”内部においてさえ完全に同型的(isomorph)というわけではない。現実の「人格」は、無論、彼が軍人/教員/商人……等々であることに一対一的にそのまま対応して相違するものではないが、彼が如何なる種類の役柄存在者として閲歴し、如何なる種類の役柄存在者として陶冶されてきたかに応じて差異性を帯びるであろう。そこにはまた、先天的・自然的な特性が、後天的に大変様を遂げようとも、払拭され尽さずに、差異的因子として介在することであろう。(固定化された分業制が廃止され、各人がありとあらゆる役柄を演ずる社会を想定するとき、そこでは「人格」の同型化非常に進捗すると目されうるであろうが、そこにあってすら完全な同型化は達すべくもない道理である。)この限定化での“程度”の問題として言えば、しかし、その都度の役柄を“装着”する『<当在的主体>としての能為的誰某』達は、単一の“共同体”内部において相当に“同型化”を遂げる相に形成・陶冶されているのが現実の筈である。(彼等がもし別の“共同体”に内存在し、以って別様の役割行動を営なむとすれば、『<当在的主体>としての能為的誰某』という形式的構制こそ普遍的であれ、人格としての実質的な現相在は別様に成ることであろう。が、事実の問題として、同一“共同体”に内存在する諸人物の人格形成は<当在的主体>の契機に即するとき、相当に“同型的”であると言えよう。)彼等は、その都度の役柄(役割)実践に際して、まさに『<当在的主体>としての能為的誰某』として、当該“共同体”の価値基準に則り、当該“共同体”において共同主観的に一致して、「斯々然々に行為すべし」とされている相で、その都度の実践を遂行する。」179-80P
(対話B)「『<当在的主体>としての能為的誰某』という相に形成・陶冶されている私、すなわち、『<当在的主体>としての私』の行為は、facio(我が行なう)には違いないが、共同主体的に“同型化”を遂げている主体の行為であることに鑑みれば、それはfacioとは言い条、facimus(我々が行なう)という相にある。けだし謂う所の“同型化”isomorphizationは社会学に謂う“一般化された他者の内面化”internalizatio of the generalized otherに照応しているからである。(facioがその実態においてはfacimusであるとされねばならないのは、このような抽象談義の次元においてではなく、役割行為というものが一見“孤独な営為”の場合ですら、協働Zusammenwirkenの構制になっていることに徴してである。が、この次元については次篇の行文中で立帰って見定めることにし、爰では臆断に留めておく。)」180-1P
(対話C)「能為的主体・実践的主体は、用在的世界という“舞台場”における生活実践――それは殆んど悉く役割行動として営なまれ、大抵が亦サンクション(広義)を形影相伴い、条件づけの機能、催眠的暗示の作用を有つ――を通じて、斯くの如き『<当在的主体>としての能為的誰某』という人格的二重相に形成される。――「私にとっての私」は差当り斯様な人格的主体として対他対自的に現存在するのである。」181P
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(8)
たわしの読書メモ・・ブログ715[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(8)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 財態的二肢制の構制
(この節の問題設定−長い標題)「用在的財態の二肢的契機たる「実在的所与」と「意義的価値」とは、それぞれが自存するものではなく、関係態の“項”なのであるが、前者が後者「として」能為的主体(これは能知・能情・能意・能動的な主体)に対妥当(「ゲーゲングルテン」のルビ)する関係性をわれわれは「興発性の等値化的統一」と呼ぶ。――第一巻で叙べた「等値化的統一」すなわち「認知性の等値化的統一」は、所与がそれ以上の或るものとして現前する如実相から実践的関心性を捨象せる認識的関心性の構えで、認知相を“射映的に截撮(「きりと」のルビ)った構制”であって、「興発性の等値化的統一」の謂うなれば構造内的契機に位する。――実在的所与が意義的価値として能為主体に対妥当する「興発性の等値化的統一」は根源的な徴号的結合であって、この徴号的結合の両項という視角で把えるときには「実在的所与」を「能起」、「意義的価値」を「所起」と呼ぶことにする。」144P
第一段落――単なる「能記−所記」的な象徴的結合より“以上”の「能起−所起」的な(情動興起性・行動誘発性の)徴号的結合 144-52P
(対話@)「財態における二肢的契機たる「実在的所与」と「意義的価値」との「として」結合、すなわち、「興発性の等値化的統一」といっても、認知相に即して把える限りでは、第一巻(第一篇第三章第一節)で叙べた「(認知性の)等値化的統一」の構制になっている。――認知相で把える限りでは、意義性の契機が唯単なる意味的所識ならざる価値的所識である点で財態は所知一般から種差的に区別されるにせよ、等値化的統一の構制それ自体が相違するわけではない。従って、認知相に関する限り、「興発性の等値化的統一」と雖(いえど)も第一章で説述した等値化的統一の構制に尽きる。――とはいえ、認知的関心性の構えで、“射映的に截撮(「きりと」のルビ)った構制”は捨象に由る過少化を免れておらず、以って「興発性の等値化的統一」における「として」結合は、単なる象徴的結合(「シュンボレイン」のルビ)よりも“豊か”である。それは単なる「能記−所記」的な象徴的結合より“以上”の「能起−所起」的な(情動興起性・行動誘発性の)徴号的結合なのである。」144-5P
(対話A)「爰では、等値化的統一の構制それ自体については再唱することを罷め、第一巻における当該叙説の想起を求めるに止めよう。――想起の手掛りを供する含みで念のために摘記すれば、現相的所与と意味的所識との「として」結合、すなわち「(認知性の)等値化的統一」「象徴的結合」はレアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)どうしのレアールな結合ではなく、レアールな契機とイデアールな契機との“結合”であり、敢えて言えばイルレアールな結合である。それはレアールには結合ならざる“結合”である。レアールな所与とは別にイデアールな所識が在るわけではないが、さりとて、レアールな現相的所与が自己同一性の埓に自閉することなく、唯単なる自己(「それ」のルビ)以上・以外の或るもの=イデアールな意味的所識性において能知に現前=対妥当するのであるから、そこには二項分裂的(zwiespaltig)な相「異」性の覚識が存する。と同時に、当の「相異的」分裂は現実的な分裂ならざるかぎりで「同」一性を保持したままである。……「等値化的統一」「として」は、意味的所識の現相的所与からの「異−化」的顕出、「区−別」的「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的な分裂でありつつ、この「異」のうえに立つ両項を却って「同立」し、両項の異=同的な関係性を、所与の“無地=化”にともなって、謂わば当体的同一性の相で“図−化”するごとき「異と同との統一態」、このような状相で能知的主体に対妥当する「イルレアール=イデアールな統一性」である、云々。(右の再録文中に謂う「イデアールな契機」が、財態の場合、単なる「意味的所識」(註)ならざる「意義的価値」になる。)尚、「として(「アルス」のルビ)」の“als”は、示差的区別性におけるanders alsの“als”であり且つ同時に亦als etwas geltenの“als”である、と言うことも許されよう。(この点を含めて、「として」については、別著『メルロ=ポンティ』岩波書店、一九八三年刊、二五四頁以下をも参看されたい。) ――此処でいま説明を要するのは、「興発性の等値化的統一」が「認知性の等値化的統一」より“以上”、「象徴的結合」よりも“豊か”である所以の「徴号的結合」性についてである。」145-6P
(註)原文は‘意味的所識」’となっていて、後ろの‘」’に対する前の‘「’がありません。落丁と思われます。
(対話B)「これを説明するにはいわゆる条件反射を挿絵(「イラスト」のルビ)風に持出すと論点が見え易くなることかと念う。――第一巻においても「等値化的統一」を「生理学的に基礎づける存念は毛頭ない」ことを断ったうえで、しかし、「これをいわゆる“生理学的機制”と対応づけてイラストレイトすることはできる」として、反射(無条件的 ないし/および 条件的な反射)を云々し、次のように誌したのであった。「象徴的結合」は「一定の分化的埓内で、“射映的”相違の幅をもつ“条件づける刺戟”と“それの惹起する汎化的同一反応”との統合態」に照応すると言うこともできるのであって云々。この命題それ自身は維持されうる。だがしかし、“条件づける刺戟−惹起される反応”は、実情においては、単なる象徴的結合性より以上である。けだし、無条件反応であれ条件反応であれ、単なる認知的な「能記−所記」性ではなく、情動的興起性・行動誘発性の“刺戟−反応”であり、「能起−所起」的であるのが実情だからである。――われわれの謂う「徴号的結合」の原基は、反射論的機制における情動的興起的・行動誘発的な“刺戟=反応”結合に照応する。」146P
(対話C)「徴号的結合という概念を象徴的結合とは別に立てるのは、記号論におけるシグナルとシンボルの区別と勿論関係する。――熊野純彦氏流にシグナル・シンプトム(徴候)・シンボルを三分する場合には、徴号は行動誘発性のシグナルと情動興起性のシンプトムとの未分化的統合態と言うこともできる。がしかし、そもそも象徴的結合なるものは徴号的結合の構造内的契機を“射映的に截撮った”ものであるということに鑑みれば、徴号はむしろシグナル・シンプトム・シンボルの“未分化的統合態”と言うべきことになる。だが、徴号的結合ということは(象徴的結合ということも亦そうなのだが)、いわゆる“記号と意味との結合”を特殊的・派生的形態として存在可能ならしめる普遍的・基抵的な構制であっても、狭義の「記号(「サイン」のルビ)」的能所結合ではない。」146-7P
(対話D)「特筆するまでもなく、記号的表現・理解の活動は、それ自体として行為の重要な一存在形態であり、亦、役割期待の表明・諒解、指令・受命、賞・罰などが記号的活動(言語活動を含む)を枢要な媒介的手段として営まれる。この故に、実践論にとって記号論・記号活動論が格別なアイテムになる。それは認識活動の場においても巳に逸せない。著者はこのことを自覚している心算であり、第一巻の論脈内で既に、言語記号の機能性を「叙示(指示かつ述定)・表出・喚起」の“入れ子型”の四機能的統合性として叙べ、記号的表現・理解の成立機序を対他対自的な「帰属」の構制にまで溯って基礎づけ、更に溯れば「直接的補完」「融合的同化」「補完的拡充」の構制から説き起こし、降っては市川浩・丸山圭三郎氏の“見分け”“言分け”の問題次元などにも関説しておいた。また、拙稿「記号論の哲学的次元」(雑誌『理想』一九八三年一月号所載。その後、丸山圭三郎氏との共著『記号的世界と物象化』情況出版、一九九三年刊に収録。)において所謂コードや規則随順の問題にも論及し、拙著『表情』(弘文堂、一九八九年刊)の第三章第三節「表情活動と交信」においては、記号的表現・理解の諸機能の発生論的機序を「喚起・表出・指示・述定」の構制に即して概述し、言語的記号の成立機制や表現・理解の構制をも論じておいた。統辞論(「シンタクティクス」のルビ)や語用論(「「ブラグマティクス」のルビ)といった具体的場面の討究は遺憾ながらいずれにしてもまだブランクのままであるが、記号的表現・理解活動の基本構制と成立機序についての卑見は、既に第一巻の折々の論脈内で一応は叙べている。(第一巻では、なるほど、主題的に論じられているのは指示機能と述定機能とについてである。が、表出機能や喚起機能についても一応は言及されている。)別著・別稿の参看を願うまでもなく、第一巻の想起を得られれば、喚起機能や表出機能についても特段の叙説は必要としない。実践論にとって記号論や記号活動論がいかに重要であるとはいえ、本巻は所詮「実践的世界の存在構造」論なのであるから、記号および記号的交信活動について主題的に立入るには及ばないであろう。」147-8P
(対話E)「爰では唯次のことを銘記しておきたい。記号としての記号の表出機能・喚起機能は、用在的世界の表情性現相一般の情動興発的表情性(声調や態度などをも含む広義の表情性)の(記号受信者の側での)感得に因ってである。一般的構制に即して言えば、実在的与件と意義的価値との徴号的結合、記号として記号の場合には、特殊的“人工的”な記号与件と特定化された情動的・行動的な意義的価値との徴号的結合、この構制においてそれが成立する。――但し第一章第二節で述べた通り、情感や行動は「実在」であり、(尤も、正確には、その都度すでに「財」であって“裸の実在”ではないのだが)、受信者の側で生起する情感や行動そのものがわれわれの謂う記号的「所起」なのではない。「所起」は「実在」ならざる「意義的価値」であり、物象化されて記号的「能起」と徴号的に結合している「情動価 または/および 行動価」である。所起としてのこの意義的価値が受信者において“実現”される。「記号的呈示」と「興起・誘発」反応の特定化(Sコード的対応)の現成は条件反射の機制に俟つものと考えられる。」148P
(小さなポイントの但し書き)「読者の中には、著者が「生理学的に基礎づけようとなどとの存念はない」と言いながらも、条件反射を云々していることを見咎め、神経生理学的な機制に恃(「たの」のルビ)んでいるとの印象を懐かれるむきもあろうかと畏(「おそ」のルビ)れる。著者は、第一巻終章において既に述べておいたように、いわゆる神経生理学的説明なるものの認識論的“身分”を承知しており、原理的には生理学的説明とやらに恃む心算はない。しかし、それにもかかわらず、発達心理学的・発達行動学的に知見をも踏みつつ、行為に関する“発生論的”論考をおこなう場合では、いわゆる神経生理学的機制を勘考してしかるべきであると考える。このかぎりで、前章などの行文においても已(「すで」のルビ)に反射論的機制その他を念頭に置いてきたが、次篇中での発生論的考察の場では屢々条件反射論に“拠る”ことになろう。著者としては、その際に亦、一種の“随伴説”(epiphenomenalism)的な構制を前提にしているかのごとき論述法を採る所以ともなる。/此処がこの件について弁疏(べんそ)し、著者本来の立場からの逸脱・混乱ではない旨を記しておくに相応しい場所というわけでもないが、この場を藉(か)りて若干の自家了解を陳(「の」のルビ)べておきたいと念う。/条件反射と一口に言っても、古典的なそれもあれば、所謂オペラント条件反応のごときもある。が、爰では或る一事を確説しておけば当座の間に合う。/古典的な条件反射の成立機序を簡略に述べれば、周知の通り、@条件刺戟CSを与え、それに引続き並行して、A無条件刺戟USを与え、B無条件反応URを起こさせる。この過程をしかるべく経験させると@の刺戟を与えただけでBと同じ反応(このさいはB’条件反応CRと呼ぶ)が生じるようになる。この@→B’という、非本具的・非生得的な、つまり、後天的・獲得的な、反応解発が条件反射にほかならない。――A→Bは本具的解発機構(ein angeborener Auslösungsmechanismus)が適合刺戟によって解発されることで生起する所定の無条件反射であるのに対して、@→B’が生起するような生得的解発機構は存在せず、本具的には@→C(このCはB=B’とはおよそ別様な反応)という解発機構が存在するのみである。/茲において、末梢から入来した刺戟が求心的に中枢神経系に到達し、そこから遠心的に過程が進行して、反応的行動が発現する「刺戟→反応」の機構を想定するとき、A→BというA回路と@→CというB回路とは生得的な本具的機構上は合流していない筈であって、条件反射が成立したということは、A回路とB回路とが合流し、Bの流れの少なくとも一部分がAに流入するようになった所為(「せい」のルビ)だと考えられる。実験体験おける@Aの条件づけの状況においてA回路とB回路との連結が生じたものと察せられる。(この回路連結の神経生理学的機構としては、シュナプス結合を措いてはありえないであろう。但し、そのすべてが新発芽やシュナプス前性の伸長にもとづく新構造に負うとする必要はあるまい。両回路の同時的興奮による「シュナプス効率」の向上に負う実質上・機能上の“新結合”というだけの場合も考えられうる。)近年の研究が闡(「あき」のルビ)らかにした神経細胞におけるシュナプス結合の因型性に関わる可塑性・瞬発性に鑑みるとき、回路連結のこの想定は蓋然度が高いものと信ぜられる。/読者の中には、しかし、古典的な条件反射説に対するこれまた古典的な批判を想起して、例えば、初めて聴いた外国語の単語の意味がその場で直(「す」のルビ)ぐ判ったというたぐいの事例を挙げ、条件反射理論というものは、いかなる神経生理学的な裏打ちを与えようとも、そもそも新規的反応行動のの形成、行動学習の成立を説明する理論装置としては殆んど無用・無価値ではないか、と思われるむきもあるかもしれない。/是に対して著者としては、回路の凍結という条件反射理論の機制からすれば、初体験の場で直ちに条件反射が成立することもありえないことではないと考える。従って、いわゆる「洞見」(Einsicht)や「ああそうか体験」(Ach-So-Erlebnis)を持出して条件反射理論を批判した心算になるのは却って笑止である。――学史上の経緯顧みるまでもなく、実際問題として、第一回の試行で@→B’が形成されたと言えば、論敵は、それは条件反射ならずして、もともと無条件反射だったのだと、と言い募ることであろう。条件反射論者たち自身の側でも、自説の正しさを立証しようとするさい、何回も施行してはじめてようやく形成されるたぐいの実験事例を挙示してきた。この間の事情は諒解できるし、初回の試行で生起した或る反射が無条件反射ならずして条件反射であることの実証は事実上困難である。だが、@→B’の回路が本具的は存在せず、@Aの条件づけに俟って開通(つまり、@→CとA(註)→Bの両回路が連結)したのだとすれば初回の体験で直ちに条件反射が成立したことを正当に主張できる。著者が、通常無条件反射とされているものの多くが既に条件づけられたものである可能性を強く指摘し、厳密な無条件反射はむしろ誕生以前の局面にしか存在しないであろうと折に触れて叙べて来た所以もここにある。実証的な立証の場面は措いて条件反射理論なるものの理論構制に即するかぎり、之は断じて妄論ではない筈である。/ 著者が行為の後天的・獲得的な形成に関する説明装置として条件反射理論を援用するさい、古典的なそれだけでなく、オペラント条件反応をも勘考することは言うまでもない。オペラント条件反応は、慾求・意慾に基づく行動と直接に関連し、行為の期待(Erwartung)や投企(Entwurf)とも関わるので、これについては後論のしかるべき文脈内で論及することにして、ここではまだ立入らないでおく。/ところで、条件反射論を援用するに方(「あた」のルビ)って著者としては、意識現象を生理現象に還元したり、意識現象を生理的機構の所産として遇したりするわけでは勿論ない。著者としては、しかし、神経生理学的説明装置を援用するさい、一定の神経生理的な機能的状態に一定の意識状態が“随伴”しているかのごとき描像に仮託する。これは裏返して言えば、いわゆる心理的状態・意識的状態にはある一定の脳神経生理的な機能的状態が一意的に「対応」しているという構制である。――ここでの「脳神経生理的な一定の機能的状態」なるものは脳中枢に局定されるものではない。が、末梢的状態だけでは意識的状態との対応性はもたず、für sichな意識的状態は中枢的興奮状態を要件とするものとする。――心的状態と物的状態とのあいだに因果関係を云々することはカテゴリー・ミステイクとして厳しく卻けられねばならないが、嚮に謂う「対応」は単なる「並行」ではなく、「脳神経生理的な状態」の方が規定的で、心理的状態が“随伴”するという扱いにひとまずしておこうという次第なのである。/斯かる“随伴”説式の扱いで以っては、心→身のオカルト的作用を排除したのは良いように見えても、却っていわゆる「心因性」の病気、「心身症」のごときさえ取零(「とりこぼ」のルビ)さざるを得なくなりはしないか。このたぐいの危惧を反面で生じるかもしれない。だが、この危惧は無用である。「心因性の身体現象」と謂われるものであっても、(例えば精神的な悩みが原因で胃潰瘍になるという場合、悩みという精神現象が直接に胃壁に作用して潰瘍という身体現象を生じさせるのではなく)、当の身体現象(胃潰瘍)は生理的因果連鎖の終端であり、「心因」が肉体に影響する起点的現象は中枢にある。原因とされる心理状態と“直接的・第一次的な結果的生理状態”とが、中枢において“接合”している。が、ここにいう“接合”とは、よく考えてみれば、心理的状態と生理的過程との直截的な時間的継起ではない。というのは、こうである。謂う所の「心因」、この心理状態は、忽然として自生した自己原因ではなく、それ自身、その状態へともたらした“規定因”に先立たれている。この“先行的規定因”たるや、ひとまずは心理的状態であるにしても、嚮に暫定的・便宜的に設定した構制の下では、いかなる心理状態にもそのつど一定の中枢的生理状態が「対応」的に存在する。従って、「心因」にも先行的“規定因”を認めるかぎり、当の「心因」自体、先行的“(心理的)規定因”に見合う“中枢的生理状態”の終局的位相に「対応」(“随伴”)するものにほかならない。こうして、随伴説的な構制の下では、心因に“先行する規定因連鎖”と“後続する結果的連鎖”とは生理的状態的過程としては中断なく連続している。すなわち、「@生理的過程→A心理的状態→B生理的過程」というように@とBとの間にAの心理的状態が時間的に挟まるのではなく、@とBとは連続している。@の終点=Bの起点という時点において、Aの心理状態を“随伴”するのである。(@およびAもそれぞれ一定の心理状態を“随伴”するが、論点を見え易くするため、これは省く。) ――常識も心身医学も「心因」なるものを絶対的オカルト的自己原因とは考えないであろうから、“随伴説的構制”の埓内に納め得る。/著者が妥協的・便宜的に立てている茲での構制では、なるほど、実体的霊魂の作動性を主張する論者、「心」なるものの自己原因的自発性を積極的に主張する論者たちは、顚から話にならないと評することであろう。われわれも、いずれこのたぐいの論者との論判を必要とはする。がしかし、とりあえず、「心因性」を云為するにはしても、絶対的な自己原因性を別段主張するわけではない立場、「心因」それ自身が外的な感性的刺戟(言語的記号による聴覚的な刺戟のごときまでをも含む)や内的な生理化学的刺戟、等々に“根差す”規定因に先行されていることを認める常識や心身医学や心理学など、これらの理説と応接するかぎりでは、蓋し“随伴説的な構制”のもとで議論を運ぶことが出来る筈である。」148-52P
(註)原文は‘(2)’になっています。‘A’の間違いとして校正しました。
第二段落――認識論的世界現相における意味的所識と実践的世界現相における意義的価値=価値的所識との“種差”を闡らかにする 153-9P
(対話@)「偖、実在的与件が単なるそれ以上・以外の或るものとして妥当する所以の「意義的価値」、すなわち、実在的与件と徴号的に結合されている意義的価値、この「興発性の等値化的統一」の第二肢的契機は、それを抽離するかのごとき流儀で存在性格を検討するとき、イデアールな存在性格を呈することは第一章第三節において既に叙べた通りである。――駄目押しをするまでもなく、次の事に鑑みれば容易に納得が得られよう。興発性の等値化的統一と雖も、認知相においては、所与が所識として現前化するのであるから、そこでの所識たる意義的価値は第一巻で論定した所識一般の範に漏れない、ということが即ちそれである。所識は、所与がレアール(個別的・定場所的・変易的)であるのに対して、イデアール(普遍的・超場所的・不易的)な存在性格を呈する或るものであること、但し然(「そ」のルビ)ういうイデアールなものが対象性として自存するかのように思念されるのは一種の物象化的錯認であること、このことは第一巻において縷説したところである。今爰では、この論点それ自体を再説するには及ばないであろう。――爰での問題は、同じくイデアールな存在性格の所識といっても、認識論的世界現相における意味的所識と実践的世界現相における意義的価値=価値的所識との“種差”を闡(あき)らかにすることである。」153P
(対話A)「論者たちは、屢々、価値概念と単なる事実概念との相違を指摘して、価値概念の場合、善・悪、美・醜、聖・俗……というように、正価値と反価値とか概念対(「つい」のルビ)をなすことを述べる。事実概念であっても、例えば、大・小、強・弱、陽・陰、北極・南極、有理数・無理数……というように、正反の概念対をなすものは多数存在するのであるから、これは決定的な特徴的相違とまでは言えない。がしかし、価値概念の場合、必ず正反の概念対が見出されることが一応認められてもよく、そこに価値概念の特徴を探る手掛りを見出すことができるかもしれない。論者たちは、「自然−非自然」という事実概念に対して「自然−不自然」という価値概念対を持出したりもする。われわれ自身も第一章第三節で留意した通り、例えば、軟弱な男性(この一連のフレーズ、ママ)を評して「彼は男ではない」とか、女丈夫を評して「彼女は女ではない」とか、このたぐいの言い方が日常茶飯に通用している。殆んど全ての概念が、事実概念と価値概念との二義的な使われ方をすると言っても過言ではないほどである。けだし、範型に適(「かな」のルビ)った政治家ではないという意味で「彼は政治家ではない」と言ったり、絵らしい絵ではないという意味で「彼のは絵ではない」と言ったりできるからである。が、このような用語法にあっても、価値概念的には、概念甲と非(不)甲とが、事実概念とは別次元で、概念対をなすことが認められる。事実概念とは別次元で、概念対をなすことが認められる。事実概念としての非甲というのは「甲ではないもの(甲以外のもの)」を消極的に指表するだけであるのに対して、価値概念としての非甲は「事実概念的には甲でありながら価値的には反(非)甲」という限定的かつ“積極的”な内包的意味を有っている。このことも一応認められてよいであろう。――著者自身は、価値的対立性関して中立ゾーンを立てる処理法を採用する。例えば、善行でも悪行でもない行為、つまり善悪という価値対立性に関して中立的なゾーンにある行為、とりたてて美しいわけでも醜いわけでもない作品、つまり美醜という価値対立性に関して中立的なゾーンにある作品、こういった中立的ゾーンを設けつつ価値の体系を整序し、価値性判断や価値性推論を処理する。それゆえ、著者の立場では価値の正反対立性を単純・安直に云為するわけにはいかない。価値対立性に関して中立的といっても、それは特定の価値対立性に関してのことであって、端的に没価値というわけではないし、そもそも、特定の価値対立性に関しての中立的なゾーンなるものからして一種の価値的規定態である。価値的規定態であるにもかかわらず敢えて中立的・無記的と称示するのは、それがとりたてて正価値的でもとりたてて反価値的でもないと認定されるためであるから、謂わば定義的に、当の価値規定は正/反いずれでもない。当座の議論にとっては、しかし、正/反の価値対立性があってはじめて、これとネガティヴな反照性において“中立的”価値規定なるものが措定されうるという事情に免じて、価値概念は正反対立対(「つい」のルビ)を特徴とするということにして議論を一歩進めておくことも許されるであろう。――」153-4P
(対話B)「では、価値概念における正反対立性は奈辺に存するのであるか? 価値的正反性が対象に関わる態度(“認知的”“情動的”“即応的”態度)の正反性と雙関的であることは誰しも認めるであろう。主観−客観図式の下で旧来の理説が相分かれるのは、正反的対立規定性を帯びた価値なるものが客観的に存在していて、主観の側がそれを受動的に認知するのか、それとも正反的対立性をもった価値意識が謂うなれば投射されるのか、主としてこの諒解を堯(たか)ってである。価値認識の能力に関しては、それを感性的な感得能力とするもの、特別な直観能力とするもの、理性的能力とするもの、など、様々な見解が存在するとはいえ、価値の認知・把捉は一種の受容であるとされる。(財の産出は主体的活動による創造・構成とされ、作品価値は謂うなれば創発的特性とされるにしても、価値の認知は受容的感受とされるのが一般である。)主観価値説の立場を採るものにあっても、価値を心理的状態にすぎないと見るもの、評価的作用性と見るもの……等に分かれるとはいえ、日常的・直接的意識にとっては価値が対象性・対象的規定性の相で覚知されることは認める。(そこから一種の投射の機制が暗黙裡にせよ想定される所以となる。)主観価値説といえども、好悪の感情や正負の評価的作用には、機縁ないし対象として一定の対象的認知が介在することは否認しない。唯、認知対象それ自身は諸々の認知的特性を帯びているがそれら認知的特性はそれ自身として本来(つまり投射を俟つまでは)没価値的である、と主張する次第なのである。著者自身としては、そもそも主観−客観図式を止揚した地平において価値と世に呼ばれるものを把え返そうと試みるのであるから、いま爰で主観価値説および客観価値説を立入って検討する意趣はない。唯、議論を好便に運ぶ方略上、いわゆる正反的価値対象性の問題を顧慮しておこうというだけである。」155P
(対話C)「読者の中には、ここで遮って、正と反の対立性ということは、事実の領界の全般を覆わないにしても、肯定判断・否定判断があらゆる対象について下されうることに鑑みれば、特に価値なるものの特性とは言えないのではないか、これを手掛りにして価値の特性を論じようという試図は顚から徒為ではないのか、この旨の疑義を懐かれるむきもありえよう。このありうべき疑義が、判断的肯定・否定の問題、等にも関わる限りで、応答を茲に挿むことにしよう。哲学的価値論においては、経済的価値のごときを慮外に措くかの風情のものにあっても、真・偽を価値に算入するものが多い。新カント派などは真偽という価値を範型にとしつつ価値論を展開したとさえ言える。が、真偽は単なる事実として扱って価値に算入しない立場も存在する。われわれとしては、この件をどう処理するのか。まずはこの先決問題から答えて行かねばなるまい。惟うに、事実という概念からして、単に仮構との対比で用いられる場合のほかに、虚偽に対する「真実」の意味で、つまり価値概念として用いられる場合もある。そして、この価値概念としての事実(=真実)・非事実(=虚偽=虚構)ということが判断における肯定・否定の態度決定とも関係する。著者としては第一巻で詳論した通り、判断的肯否の態度決定は、所与の施措定的事態に関して、他者の主張に対しておこなわれるものと観る。このさい、謂う所の他者は、生身の他人から非人称化された他者ひいては認識論的主観(いわゆる判断主観一般)次元での能識者まで、多次元的である。(認識論的主観性なるものは、実は、間主観性の物象化に俟つものであるが、詳しくコメントするには及ぶまい。)認識論的主観の肯定する事態が真、否定する事態が偽、として定位される以上、認識論的主観(との謂うなれば“合一”)を“僭称”しつつ遂行される判断的態度決定(肯・否)が真・偽の別を措定する所以となる。尤も、日常的既成意識においては、生身の他者の判断的主張に対して肯/否の態度決定をおこなうにあたって、真/偽なるが故に……という相で、真/偽が規準化されているのが普通である。これは、真偽(精確には“事実的事態”)を基準とする一種の価値判断とみなすことができる。著者としては、真・偽をも価値に算入し、いわゆる事実判断と価値判断とを同類の構制で処理する立場を採り度いと念う。著者の執ろうとする立場にあっては、茲に、一方では正反的対立性が弘く認められ、且つ同時に、他方では先述の大小、強弱……といった、単なる事実性の領界にも正反的対立性があること、剰え、価値(の特定対立性に関する)中立的ゾーンをも認める、という事情から、正反的対立性そのことで以っては価値の特性を十全にマーク・アップすることは期すべくもない次第となる。が、それにもかかわらず、正反的対立性に留目することは強ち徒為ではない。このことは、以下の行論それ自身が示す筈である。」155-7P
(対話D)「偖、今や、価値における正反的対立性の由って来たる所をも闡(あき)らかにしつつ、そもそも価値の何たるかを見定め、イルレアール=イデアールな存在性格の価値なるものが物象化される機制についても再確認する段である。――われわれは既に第一章第三節の末尾近くにおいて、イデアールな存在性格の価値なるものが物象化された相で意識される機序についても一応は叙べておいた。必要な論点はそこにおいて一通り提示されているとも言える。がしかし、そこでは主観−客観図式に妥協する流儀で「価値意識作用−価値意識対象」という図式に仮託しつつ議論を運んだことに因由する限界性が遺されている。それゆえ、若干の重複を生ずることも厭わず、但し価値的正反性の成立する機序に絞り込んで述べることにしよう。」157P
(対話E)「実践的関心態度に展らける世界の現相は、認識論的射影における“単なる認知的現相”より以上であるが、価値性認知と雖も所与がそれ以上・以外の<所識>として認知されるという構制は免れない。(この構制の故に、上述した通り、用在的財態における<所識>たる「意義的価値」もやはり、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する次第となる。)如実の現認的態勢(これは主客分離を前提した“主観的意識態勢”ではなく、世界現相のフェノメナルな分節的現前態勢)は、錯分節的構造性を呈しつつも謂うなればゲシュタルト的な全一態を成している。が、反省的・分析的見地からはこれをさまざまな視角から分類的に規定することが可能であり、対自的にも、その都度の態勢は(先行位相・別位相から)示差的に区別されうる。われわれは第一巻においては、当の態勢をたかだか認識論的射影で扱ったため、肯定・否定(承認・拒斥)という態度性だけは視野に入れたものの、如実の積極的/消極的な態度性(歓好/嫌厭、撰取/貶置、渇仰/抑斥、促迫/禁制、追求/忌避、……といった実践的態度性)を配視しなかった。如実には、しかし、世界現相の展らけは、その都度すでに実践的態度性と相即的である。それは積極(正性)または消極(負性)を基調とする。――基調と限定するのは、中立(中性)的な場合も認められるからである。尤も、中立的と言っても、それは端的に没実践的な態度性なのではなく、実践的態度性の一形態と認めうる。というのも、それは俗には“無関心”的態度性と呼ばれるにせよ、絶対的な無関心性なのではなく(もしそうであるなら、俗流的には言い方をすれば、抑々“それは意識にのぼることがない”であろう。)、一旦は緊張的な関心的態度性が生じたうえで(謂うなれば“これはことさらな応対を要しない”と“判って”)弛緩したものと目されうるからである。――積極(正) /消極(負)の態度性と相即的な全態的態勢において、構造内的に現前化している「所与=所識」成態は積極(正) /消極(負)を内自化した相で現識される。(所知項の側へのこの“内自有化”の機制についてはこれまで折々に縷説してきたので爰では再唱するに及ぶまい。)然して、この積極/消極(正/反)の規定性が、啻単なる認知的「所与=所識」成態(「実在」)には欠如しているところから(この欠如は実は如実相からの捨象、認知相での“射映的截取り”に因由するものなのだが)、ここでの累層的所識契機(つまり「実在的所与−意義的価値」における「意義的価値」という所識契機)の内自的規定性と見做される仕儀となる。価値の正反対立性はこの機制に由るものであり、価値とは当の機制において実践的関心態度性の内自化的累加を被った所識にほかならないのである。(中性的価値規定性の場合も同じ機制に由ってことさらに正でも反でもない実践的関心態度性が所識的契機に内自有化されているものと目されうる。が、われわれの立場にとっては、これを単なる欠如態として扱ったとしても別段支障は生じない。)」157-8P
(小さなポイントの但し書き)「蛇足に類することも憚らず、学説史上の顧慮から次のことを茲に附言しておこう。――世界現相が現に展らけているフェノメナルな態勢は、われわれの見地からすれば当然のことながら、「現相的所与−意味的所識」成態(「実在」)の現前には尽きない。そこで、旧来の諸理説は、件の「三項図式」とも相即的に、情意的成分とか意識作用とかのレアールな陽陰がそこに存在するものと想定し、以って「実在」とは別種の“価値”をレアールな心態と“同定”したり、意識作用の“性格”が謂わば「投射」されたものと見做したり、これでは処理しきれないと自覚して、ないしは、日常的既成意識にとっての物象化された映現を追認する流儀で、価値なるものを自存的対象(独得の主観的能力で感受・感得・直観される対象性)であるとし、これの存在性格が通常の実在(「レアリタス」のルビ)とは別異であるところから、一種の形而上学的存在とか、非形而上的ではあるがともあれ理念的(「イデアール」のルビ)な存在とか、このたぐいの立言を事としてきたのであった。――「世界現相の現に展らけている態勢」を「主観−客観」図式、ひいては「三項図式」の概念装置で分析・説明止揚とする企図には学説史的経緯、溯っては、それを使嗾する体験的場での事情があること、これは第一巻第二篇において審らかに見た通りである。能知項と所知項とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断してしまえば、いわゆる意識作用なるものを挙示し、それに性格的種別を設け……という理説が生ずるのも謂われなしとしない。このたぐいの“理論的把握”“定式化”を機縁づけるに足る“体験的・内省的”現象が慥かに存在する。が、謬見は所詮謬見である。いわゆる評価的意識作用とそれの投射という謬見についてはあらためて論判に値しうべき点も絶無ではないにせよ、そこまでに蛇足に類する議論を伸ばすことは差控えよう。――われわれとしては、三項図式流の分断以前的な場面に溯り、「世界現相の現に展らけている態勢」の全一態に定位しつつ、議論の抜本的な建て直しを企図している次第なのである。」159P
第三段落――次節へのつなぎとして−実践的主体の各自的な現相性、それの対他対自的な形成を論件とする 159-60P
(対話@)「本節での議論の範囲では、しかし、謂う所の「全一的態勢」の錯構造化に十全に立入っておらず、実践的関心性・態度性の帰属主体、価値現相の対他・対自的帰属、これの前梯となる謂うなれば前人称的な場面で意義的価値性の一般的構制を論件とした域に留っている。この不十全性を埋めて行くためにも、次節では早速にいわゆる内自的主体性の問題を視野に入れつつ、実践的主体の各自的な現相性、それの対他対自的な形成を論件とする運びとしよう。」159-60P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(8)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第三章 用在的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 財態的二肢制の構制
(この節の問題設定−長い標題)「用在的財態の二肢的契機たる「実在的所与」と「意義的価値」とは、それぞれが自存するものではなく、関係態の“項”なのであるが、前者が後者「として」能為的主体(これは能知・能情・能意・能動的な主体)に対妥当(「ゲーゲングルテン」のルビ)する関係性をわれわれは「興発性の等値化的統一」と呼ぶ。――第一巻で叙べた「等値化的統一」すなわち「認知性の等値化的統一」は、所与がそれ以上の或るものとして現前する如実相から実践的関心性を捨象せる認識的関心性の構えで、認知相を“射映的に截撮(「きりと」のルビ)った構制”であって、「興発性の等値化的統一」の謂うなれば構造内的契機に位する。――実在的所与が意義的価値として能為主体に対妥当する「興発性の等値化的統一」は根源的な徴号的結合であって、この徴号的結合の両項という視角で把えるときには「実在的所与」を「能起」、「意義的価値」を「所起」と呼ぶことにする。」144P
第一段落――単なる「能記−所記」的な象徴的結合より“以上”の「能起−所起」的な(情動興起性・行動誘発性の)徴号的結合 144-52P
(対話@)「財態における二肢的契機たる「実在的所与」と「意義的価値」との「として」結合、すなわち、「興発性の等値化的統一」といっても、認知相に即して把える限りでは、第一巻(第一篇第三章第一節)で叙べた「(認知性の)等値化的統一」の構制になっている。――認知相で把える限りでは、意義性の契機が唯単なる意味的所識ならざる価値的所識である点で財態は所知一般から種差的に区別されるにせよ、等値化的統一の構制それ自体が相違するわけではない。従って、認知相に関する限り、「興発性の等値化的統一」と雖(いえど)も第一章で説述した等値化的統一の構制に尽きる。――とはいえ、認知的関心性の構えで、“射映的に截撮(「きりと」のルビ)った構制”は捨象に由る過少化を免れておらず、以って「興発性の等値化的統一」における「として」結合は、単なる象徴的結合(「シュンボレイン」のルビ)よりも“豊か”である。それは単なる「能記−所記」的な象徴的結合より“以上”の「能起−所起」的な(情動興起性・行動誘発性の)徴号的結合なのである。」144-5P
(対話A)「爰では、等値化的統一の構制それ自体については再唱することを罷め、第一巻における当該叙説の想起を求めるに止めよう。――想起の手掛りを供する含みで念のために摘記すれば、現相的所与と意味的所識との「として」結合、すなわち「(認知性の)等値化的統一」「象徴的結合」はレアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)どうしのレアールな結合ではなく、レアールな契機とイデアールな契機との“結合”であり、敢えて言えばイルレアールな結合である。それはレアールには結合ならざる“結合”である。レアールな所与とは別にイデアールな所識が在るわけではないが、さりとて、レアールな現相的所与が自己同一性の埓に自閉することなく、唯単なる自己(「それ」のルビ)以上・以外の或るもの=イデアールな意味的所識性において能知に現前=対妥当するのであるから、そこには二項分裂的(zwiespaltig)な相「異」性の覚識が存する。と同時に、当の「相異的」分裂は現実的な分裂ならざるかぎりで「同」一性を保持したままである。……「等値化的統一」「として」は、意味的所識の現相的所与からの「異−化」的顕出、「区−別」的「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)」的な分裂でありつつ、この「異」のうえに立つ両項を却って「同立」し、両項の異=同的な関係性を、所与の“無地=化”にともなって、謂わば当体的同一性の相で“図−化”するごとき「異と同との統一態」、このような状相で能知的主体に対妥当する「イルレアール=イデアールな統一性」である、云々。(右の再録文中に謂う「イデアールな契機」が、財態の場合、単なる「意味的所識」(註)ならざる「意義的価値」になる。)尚、「として(「アルス」のルビ)」の“als”は、示差的区別性におけるanders alsの“als”であり且つ同時に亦als etwas geltenの“als”である、と言うことも許されよう。(この点を含めて、「として」については、別著『メルロ=ポンティ』岩波書店、一九八三年刊、二五四頁以下をも参看されたい。) ――此処でいま説明を要するのは、「興発性の等値化的統一」が「認知性の等値化的統一」より“以上”、「象徴的結合」よりも“豊か”である所以の「徴号的結合」性についてである。」145-6P
(註)原文は‘意味的所識」’となっていて、後ろの‘」’に対する前の‘「’がありません。落丁と思われます。
(対話B)「これを説明するにはいわゆる条件反射を挿絵(「イラスト」のルビ)風に持出すと論点が見え易くなることかと念う。――第一巻においても「等値化的統一」を「生理学的に基礎づける存念は毛頭ない」ことを断ったうえで、しかし、「これをいわゆる“生理学的機制”と対応づけてイラストレイトすることはできる」として、反射(無条件的 ないし/および 条件的な反射)を云々し、次のように誌したのであった。「象徴的結合」は「一定の分化的埓内で、“射映的”相違の幅をもつ“条件づける刺戟”と“それの惹起する汎化的同一反応”との統合態」に照応すると言うこともできるのであって云々。この命題それ自身は維持されうる。だがしかし、“条件づける刺戟−惹起される反応”は、実情においては、単なる象徴的結合性より以上である。けだし、無条件反応であれ条件反応であれ、単なる認知的な「能記−所記」性ではなく、情動的興起性・行動誘発性の“刺戟−反応”であり、「能起−所起」的であるのが実情だからである。――われわれの謂う「徴号的結合」の原基は、反射論的機制における情動的興起的・行動誘発的な“刺戟=反応”結合に照応する。」146P
(対話C)「徴号的結合という概念を象徴的結合とは別に立てるのは、記号論におけるシグナルとシンボルの区別と勿論関係する。――熊野純彦氏流にシグナル・シンプトム(徴候)・シンボルを三分する場合には、徴号は行動誘発性のシグナルと情動興起性のシンプトムとの未分化的統合態と言うこともできる。がしかし、そもそも象徴的結合なるものは徴号的結合の構造内的契機を“射映的に截撮った”ものであるということに鑑みれば、徴号はむしろシグナル・シンプトム・シンボルの“未分化的統合態”と言うべきことになる。だが、徴号的結合ということは(象徴的結合ということも亦そうなのだが)、いわゆる“記号と意味との結合”を特殊的・派生的形態として存在可能ならしめる普遍的・基抵的な構制であっても、狭義の「記号(「サイン」のルビ)」的能所結合ではない。」146-7P
(対話D)「特筆するまでもなく、記号的表現・理解の活動は、それ自体として行為の重要な一存在形態であり、亦、役割期待の表明・諒解、指令・受命、賞・罰などが記号的活動(言語活動を含む)を枢要な媒介的手段として営まれる。この故に、実践論にとって記号論・記号活動論が格別なアイテムになる。それは認識活動の場においても巳に逸せない。著者はこのことを自覚している心算であり、第一巻の論脈内で既に、言語記号の機能性を「叙示(指示かつ述定)・表出・喚起」の“入れ子型”の四機能的統合性として叙べ、記号的表現・理解の成立機序を対他対自的な「帰属」の構制にまで溯って基礎づけ、更に溯れば「直接的補完」「融合的同化」「補完的拡充」の構制から説き起こし、降っては市川浩・丸山圭三郎氏の“見分け”“言分け”の問題次元などにも関説しておいた。また、拙稿「記号論の哲学的次元」(雑誌『理想』一九八三年一月号所載。その後、丸山圭三郎氏との共著『記号的世界と物象化』情況出版、一九九三年刊に収録。)において所謂コードや規則随順の問題にも論及し、拙著『表情』(弘文堂、一九八九年刊)の第三章第三節「表情活動と交信」においては、記号的表現・理解の諸機能の発生論的機序を「喚起・表出・指示・述定」の構制に即して概述し、言語的記号の成立機制や表現・理解の構制をも論じておいた。統辞論(「シンタクティクス」のルビ)や語用論(「「ブラグマティクス」のルビ)といった具体的場面の討究は遺憾ながらいずれにしてもまだブランクのままであるが、記号的表現・理解活動の基本構制と成立機序についての卑見は、既に第一巻の折々の論脈内で一応は叙べている。(第一巻では、なるほど、主題的に論じられているのは指示機能と述定機能とについてである。が、表出機能や喚起機能についても一応は言及されている。)別著・別稿の参看を願うまでもなく、第一巻の想起を得られれば、喚起機能や表出機能についても特段の叙説は必要としない。実践論にとって記号論や記号活動論がいかに重要であるとはいえ、本巻は所詮「実践的世界の存在構造」論なのであるから、記号および記号的交信活動について主題的に立入るには及ばないであろう。」147-8P
(対話E)「爰では唯次のことを銘記しておきたい。記号としての記号の表出機能・喚起機能は、用在的世界の表情性現相一般の情動興発的表情性(声調や態度などをも含む広義の表情性)の(記号受信者の側での)感得に因ってである。一般的構制に即して言えば、実在的与件と意義的価値との徴号的結合、記号として記号の場合には、特殊的“人工的”な記号与件と特定化された情動的・行動的な意義的価値との徴号的結合、この構制においてそれが成立する。――但し第一章第二節で述べた通り、情感や行動は「実在」であり、(尤も、正確には、その都度すでに「財」であって“裸の実在”ではないのだが)、受信者の側で生起する情感や行動そのものがわれわれの謂う記号的「所起」なのではない。「所起」は「実在」ならざる「意義的価値」であり、物象化されて記号的「能起」と徴号的に結合している「情動価 または/および 行動価」である。所起としてのこの意義的価値が受信者において“実現”される。「記号的呈示」と「興起・誘発」反応の特定化(Sコード的対応)の現成は条件反射の機制に俟つものと考えられる。」148P
(小さなポイントの但し書き)「読者の中には、著者が「生理学的に基礎づけようとなどとの存念はない」と言いながらも、条件反射を云々していることを見咎め、神経生理学的な機制に恃(「たの」のルビ)んでいるとの印象を懐かれるむきもあろうかと畏(「おそ」のルビ)れる。著者は、第一巻終章において既に述べておいたように、いわゆる神経生理学的説明なるものの認識論的“身分”を承知しており、原理的には生理学的説明とやらに恃む心算はない。しかし、それにもかかわらず、発達心理学的・発達行動学的に知見をも踏みつつ、行為に関する“発生論的”論考をおこなう場合では、いわゆる神経生理学的機制を勘考してしかるべきであると考える。このかぎりで、前章などの行文においても已(「すで」のルビ)に反射論的機制その他を念頭に置いてきたが、次篇中での発生論的考察の場では屢々条件反射論に“拠る”ことになろう。著者としては、その際に亦、一種の“随伴説”(epiphenomenalism)的な構制を前提にしているかのごとき論述法を採る所以ともなる。/此処がこの件について弁疏(べんそ)し、著者本来の立場からの逸脱・混乱ではない旨を記しておくに相応しい場所というわけでもないが、この場を藉(か)りて若干の自家了解を陳(「の」のルビ)べておきたいと念う。/条件反射と一口に言っても、古典的なそれもあれば、所謂オペラント条件反応のごときもある。が、爰では或る一事を確説しておけば当座の間に合う。/古典的な条件反射の成立機序を簡略に述べれば、周知の通り、@条件刺戟CSを与え、それに引続き並行して、A無条件刺戟USを与え、B無条件反応URを起こさせる。この過程をしかるべく経験させると@の刺戟を与えただけでBと同じ反応(このさいはB’条件反応CRと呼ぶ)が生じるようになる。この@→B’という、非本具的・非生得的な、つまり、後天的・獲得的な、反応解発が条件反射にほかならない。――A→Bは本具的解発機構(ein angeborener Auslösungsmechanismus)が適合刺戟によって解発されることで生起する所定の無条件反射であるのに対して、@→B’が生起するような生得的解発機構は存在せず、本具的には@→C(このCはB=B’とはおよそ別様な反応)という解発機構が存在するのみである。/茲において、末梢から入来した刺戟が求心的に中枢神経系に到達し、そこから遠心的に過程が進行して、反応的行動が発現する「刺戟→反応」の機構を想定するとき、A→BというA回路と@→CというB回路とは生得的な本具的機構上は合流していない筈であって、条件反射が成立したということは、A回路とB回路とが合流し、Bの流れの少なくとも一部分がAに流入するようになった所為(「せい」のルビ)だと考えられる。実験体験おける@Aの条件づけの状況においてA回路とB回路との連結が生じたものと察せられる。(この回路連結の神経生理学的機構としては、シュナプス結合を措いてはありえないであろう。但し、そのすべてが新発芽やシュナプス前性の伸長にもとづく新構造に負うとする必要はあるまい。両回路の同時的興奮による「シュナプス効率」の向上に負う実質上・機能上の“新結合”というだけの場合も考えられうる。)近年の研究が闡(「あき」のルビ)らかにした神経細胞におけるシュナプス結合の因型性に関わる可塑性・瞬発性に鑑みるとき、回路連結のこの想定は蓋然度が高いものと信ぜられる。/読者の中には、しかし、古典的な条件反射説に対するこれまた古典的な批判を想起して、例えば、初めて聴いた外国語の単語の意味がその場で直(「す」のルビ)ぐ判ったというたぐいの事例を挙げ、条件反射理論というものは、いかなる神経生理学的な裏打ちを与えようとも、そもそも新規的反応行動のの形成、行動学習の成立を説明する理論装置としては殆んど無用・無価値ではないか、と思われるむきもあるかもしれない。/是に対して著者としては、回路の凍結という条件反射理論の機制からすれば、初体験の場で直ちに条件反射が成立することもありえないことではないと考える。従って、いわゆる「洞見」(Einsicht)や「ああそうか体験」(Ach-So-Erlebnis)を持出して条件反射理論を批判した心算になるのは却って笑止である。――学史上の経緯顧みるまでもなく、実際問題として、第一回の試行で@→B’が形成されたと言えば、論敵は、それは条件反射ならずして、もともと無条件反射だったのだと、と言い募ることであろう。条件反射論者たち自身の側でも、自説の正しさを立証しようとするさい、何回も施行してはじめてようやく形成されるたぐいの実験事例を挙示してきた。この間の事情は諒解できるし、初回の試行で生起した或る反射が無条件反射ならずして条件反射であることの実証は事実上困難である。だが、@→B’の回路が本具的は存在せず、@Aの条件づけに俟って開通(つまり、@→CとA(註)→Bの両回路が連結)したのだとすれば初回の体験で直ちに条件反射が成立したことを正当に主張できる。著者が、通常無条件反射とされているものの多くが既に条件づけられたものである可能性を強く指摘し、厳密な無条件反射はむしろ誕生以前の局面にしか存在しないであろうと折に触れて叙べて来た所以もここにある。実証的な立証の場面は措いて条件反射理論なるものの理論構制に即するかぎり、之は断じて妄論ではない筈である。/ 著者が行為の後天的・獲得的な形成に関する説明装置として条件反射理論を援用するさい、古典的なそれだけでなく、オペラント条件反応をも勘考することは言うまでもない。オペラント条件反応は、慾求・意慾に基づく行動と直接に関連し、行為の期待(Erwartung)や投企(Entwurf)とも関わるので、これについては後論のしかるべき文脈内で論及することにして、ここではまだ立入らないでおく。/ところで、条件反射論を援用するに方(「あた」のルビ)って著者としては、意識現象を生理現象に還元したり、意識現象を生理的機構の所産として遇したりするわけでは勿論ない。著者としては、しかし、神経生理学的説明装置を援用するさい、一定の神経生理的な機能的状態に一定の意識状態が“随伴”しているかのごとき描像に仮託する。これは裏返して言えば、いわゆる心理的状態・意識的状態にはある一定の脳神経生理的な機能的状態が一意的に「対応」しているという構制である。――ここでの「脳神経生理的な一定の機能的状態」なるものは脳中枢に局定されるものではない。が、末梢的状態だけでは意識的状態との対応性はもたず、für sichな意識的状態は中枢的興奮状態を要件とするものとする。――心的状態と物的状態とのあいだに因果関係を云々することはカテゴリー・ミステイクとして厳しく卻けられねばならないが、嚮に謂う「対応」は単なる「並行」ではなく、「脳神経生理的な状態」の方が規定的で、心理的状態が“随伴”するという扱いにひとまずしておこうという次第なのである。/斯かる“随伴”説式の扱いで以っては、心→身のオカルト的作用を排除したのは良いように見えても、却っていわゆる「心因性」の病気、「心身症」のごときさえ取零(「とりこぼ」のルビ)さざるを得なくなりはしないか。このたぐいの危惧を反面で生じるかもしれない。だが、この危惧は無用である。「心因性の身体現象」と謂われるものであっても、(例えば精神的な悩みが原因で胃潰瘍になるという場合、悩みという精神現象が直接に胃壁に作用して潰瘍という身体現象を生じさせるのではなく)、当の身体現象(胃潰瘍)は生理的因果連鎖の終端であり、「心因」が肉体に影響する起点的現象は中枢にある。原因とされる心理状態と“直接的・第一次的な結果的生理状態”とが、中枢において“接合”している。が、ここにいう“接合”とは、よく考えてみれば、心理的状態と生理的過程との直截的な時間的継起ではない。というのは、こうである。謂う所の「心因」、この心理状態は、忽然として自生した自己原因ではなく、それ自身、その状態へともたらした“規定因”に先立たれている。この“先行的規定因”たるや、ひとまずは心理的状態であるにしても、嚮に暫定的・便宜的に設定した構制の下では、いかなる心理状態にもそのつど一定の中枢的生理状態が「対応」的に存在する。従って、「心因」にも先行的“規定因”を認めるかぎり、当の「心因」自体、先行的“(心理的)規定因”に見合う“中枢的生理状態”の終局的位相に「対応」(“随伴”)するものにほかならない。こうして、随伴説的な構制の下では、心因に“先行する規定因連鎖”と“後続する結果的連鎖”とは生理的状態的過程としては中断なく連続している。すなわち、「@生理的過程→A心理的状態→B生理的過程」というように@とBとの間にAの心理的状態が時間的に挟まるのではなく、@とBとは連続している。@の終点=Bの起点という時点において、Aの心理状態を“随伴”するのである。(@およびAもそれぞれ一定の心理状態を“随伴”するが、論点を見え易くするため、これは省く。) ――常識も心身医学も「心因」なるものを絶対的オカルト的自己原因とは考えないであろうから、“随伴説的構制”の埓内に納め得る。/著者が妥協的・便宜的に立てている茲での構制では、なるほど、実体的霊魂の作動性を主張する論者、「心」なるものの自己原因的自発性を積極的に主張する論者たちは、顚から話にならないと評することであろう。われわれも、いずれこのたぐいの論者との論判を必要とはする。がしかし、とりあえず、「心因性」を云為するにはしても、絶対的な自己原因性を別段主張するわけではない立場、「心因」それ自身が外的な感性的刺戟(言語的記号による聴覚的な刺戟のごときまでをも含む)や内的な生理化学的刺戟、等々に“根差す”規定因に先行されていることを認める常識や心身医学や心理学など、これらの理説と応接するかぎりでは、蓋し“随伴説的な構制”のもとで議論を運ぶことが出来る筈である。」148-52P
(註)原文は‘(2)’になっています。‘A’の間違いとして校正しました。
第二段落――認識論的世界現相における意味的所識と実践的世界現相における意義的価値=価値的所識との“種差”を闡らかにする 153-9P
(対話@)「偖、実在的与件が単なるそれ以上・以外の或るものとして妥当する所以の「意義的価値」、すなわち、実在的与件と徴号的に結合されている意義的価値、この「興発性の等値化的統一」の第二肢的契機は、それを抽離するかのごとき流儀で存在性格を検討するとき、イデアールな存在性格を呈することは第一章第三節において既に叙べた通りである。――駄目押しをするまでもなく、次の事に鑑みれば容易に納得が得られよう。興発性の等値化的統一と雖も、認知相においては、所与が所識として現前化するのであるから、そこでの所識たる意義的価値は第一巻で論定した所識一般の範に漏れない、ということが即ちそれである。所識は、所与がレアール(個別的・定場所的・変易的)であるのに対して、イデアール(普遍的・超場所的・不易的)な存在性格を呈する或るものであること、但し然(「そ」のルビ)ういうイデアールなものが対象性として自存するかのように思念されるのは一種の物象化的錯認であること、このことは第一巻において縷説したところである。今爰では、この論点それ自体を再説するには及ばないであろう。――爰での問題は、同じくイデアールな存在性格の所識といっても、認識論的世界現相における意味的所識と実践的世界現相における意義的価値=価値的所識との“種差”を闡(あき)らかにすることである。」153P
(対話A)「論者たちは、屢々、価値概念と単なる事実概念との相違を指摘して、価値概念の場合、善・悪、美・醜、聖・俗……というように、正価値と反価値とか概念対(「つい」のルビ)をなすことを述べる。事実概念であっても、例えば、大・小、強・弱、陽・陰、北極・南極、有理数・無理数……というように、正反の概念対をなすものは多数存在するのであるから、これは決定的な特徴的相違とまでは言えない。がしかし、価値概念の場合、必ず正反の概念対が見出されることが一応認められてもよく、そこに価値概念の特徴を探る手掛りを見出すことができるかもしれない。論者たちは、「自然−非自然」という事実概念に対して「自然−不自然」という価値概念対を持出したりもする。われわれ自身も第一章第三節で留意した通り、例えば、軟弱な男性(この一連のフレーズ、ママ)を評して「彼は男ではない」とか、女丈夫を評して「彼女は女ではない」とか、このたぐいの言い方が日常茶飯に通用している。殆んど全ての概念が、事実概念と価値概念との二義的な使われ方をすると言っても過言ではないほどである。けだし、範型に適(「かな」のルビ)った政治家ではないという意味で「彼は政治家ではない」と言ったり、絵らしい絵ではないという意味で「彼のは絵ではない」と言ったりできるからである。が、このような用語法にあっても、価値概念的には、概念甲と非(不)甲とが、事実概念とは別次元で、概念対をなすことが認められる。事実概念とは別次元で、概念対をなすことが認められる。事実概念としての非甲というのは「甲ではないもの(甲以外のもの)」を消極的に指表するだけであるのに対して、価値概念としての非甲は「事実概念的には甲でありながら価値的には反(非)甲」という限定的かつ“積極的”な内包的意味を有っている。このことも一応認められてよいであろう。――著者自身は、価値的対立性関して中立ゾーンを立てる処理法を採用する。例えば、善行でも悪行でもない行為、つまり善悪という価値対立性に関して中立的なゾーンにある行為、とりたてて美しいわけでも醜いわけでもない作品、つまり美醜という価値対立性に関して中立的なゾーンにある作品、こういった中立的ゾーンを設けつつ価値の体系を整序し、価値性判断や価値性推論を処理する。それゆえ、著者の立場では価値の正反対立性を単純・安直に云為するわけにはいかない。価値対立性に関して中立的といっても、それは特定の価値対立性に関してのことであって、端的に没価値というわけではないし、そもそも、特定の価値対立性に関しての中立的なゾーンなるものからして一種の価値的規定態である。価値的規定態であるにもかかわらず敢えて中立的・無記的と称示するのは、それがとりたてて正価値的でもとりたてて反価値的でもないと認定されるためであるから、謂わば定義的に、当の価値規定は正/反いずれでもない。当座の議論にとっては、しかし、正/反の価値対立性があってはじめて、これとネガティヴな反照性において“中立的”価値規定なるものが措定されうるという事情に免じて、価値概念は正反対立対(「つい」のルビ)を特徴とするということにして議論を一歩進めておくことも許されるであろう。――」153-4P
(対話B)「では、価値概念における正反対立性は奈辺に存するのであるか? 価値的正反性が対象に関わる態度(“認知的”“情動的”“即応的”態度)の正反性と雙関的であることは誰しも認めるであろう。主観−客観図式の下で旧来の理説が相分かれるのは、正反的対立規定性を帯びた価値なるものが客観的に存在していて、主観の側がそれを受動的に認知するのか、それとも正反的対立性をもった価値意識が謂うなれば投射されるのか、主としてこの諒解を堯(たか)ってである。価値認識の能力に関しては、それを感性的な感得能力とするもの、特別な直観能力とするもの、理性的能力とするもの、など、様々な見解が存在するとはいえ、価値の認知・把捉は一種の受容であるとされる。(財の産出は主体的活動による創造・構成とされ、作品価値は謂うなれば創発的特性とされるにしても、価値の認知は受容的感受とされるのが一般である。)主観価値説の立場を採るものにあっても、価値を心理的状態にすぎないと見るもの、評価的作用性と見るもの……等に分かれるとはいえ、日常的・直接的意識にとっては価値が対象性・対象的規定性の相で覚知されることは認める。(そこから一種の投射の機制が暗黙裡にせよ想定される所以となる。)主観価値説といえども、好悪の感情や正負の評価的作用には、機縁ないし対象として一定の対象的認知が介在することは否認しない。唯、認知対象それ自身は諸々の認知的特性を帯びているがそれら認知的特性はそれ自身として本来(つまり投射を俟つまでは)没価値的である、と主張する次第なのである。著者自身としては、そもそも主観−客観図式を止揚した地平において価値と世に呼ばれるものを把え返そうと試みるのであるから、いま爰で主観価値説および客観価値説を立入って検討する意趣はない。唯、議論を好便に運ぶ方略上、いわゆる正反的価値対象性の問題を顧慮しておこうというだけである。」155P
(対話C)「読者の中には、ここで遮って、正と反の対立性ということは、事実の領界の全般を覆わないにしても、肯定判断・否定判断があらゆる対象について下されうることに鑑みれば、特に価値なるものの特性とは言えないのではないか、これを手掛りにして価値の特性を論じようという試図は顚から徒為ではないのか、この旨の疑義を懐かれるむきもありえよう。このありうべき疑義が、判断的肯定・否定の問題、等にも関わる限りで、応答を茲に挿むことにしよう。哲学的価値論においては、経済的価値のごときを慮外に措くかの風情のものにあっても、真・偽を価値に算入するものが多い。新カント派などは真偽という価値を範型にとしつつ価値論を展開したとさえ言える。が、真偽は単なる事実として扱って価値に算入しない立場も存在する。われわれとしては、この件をどう処理するのか。まずはこの先決問題から答えて行かねばなるまい。惟うに、事実という概念からして、単に仮構との対比で用いられる場合のほかに、虚偽に対する「真実」の意味で、つまり価値概念として用いられる場合もある。そして、この価値概念としての事実(=真実)・非事実(=虚偽=虚構)ということが判断における肯定・否定の態度決定とも関係する。著者としては第一巻で詳論した通り、判断的肯否の態度決定は、所与の施措定的事態に関して、他者の主張に対しておこなわれるものと観る。このさい、謂う所の他者は、生身の他人から非人称化された他者ひいては認識論的主観(いわゆる判断主観一般)次元での能識者まで、多次元的である。(認識論的主観性なるものは、実は、間主観性の物象化に俟つものであるが、詳しくコメントするには及ぶまい。)認識論的主観の肯定する事態が真、否定する事態が偽、として定位される以上、認識論的主観(との謂うなれば“合一”)を“僭称”しつつ遂行される判断的態度決定(肯・否)が真・偽の別を措定する所以となる。尤も、日常的既成意識においては、生身の他者の判断的主張に対して肯/否の態度決定をおこなうにあたって、真/偽なるが故に……という相で、真/偽が規準化されているのが普通である。これは、真偽(精確には“事実的事態”)を基準とする一種の価値判断とみなすことができる。著者としては、真・偽をも価値に算入し、いわゆる事実判断と価値判断とを同類の構制で処理する立場を採り度いと念う。著者の執ろうとする立場にあっては、茲に、一方では正反的対立性が弘く認められ、且つ同時に、他方では先述の大小、強弱……といった、単なる事実性の領界にも正反的対立性があること、剰え、価値(の特定対立性に関する)中立的ゾーンをも認める、という事情から、正反的対立性そのことで以っては価値の特性を十全にマーク・アップすることは期すべくもない次第となる。が、それにもかかわらず、正反的対立性に留目することは強ち徒為ではない。このことは、以下の行論それ自身が示す筈である。」155-7P
(対話D)「偖、今や、価値における正反的対立性の由って来たる所をも闡(あき)らかにしつつ、そもそも価値の何たるかを見定め、イルレアール=イデアールな存在性格の価値なるものが物象化される機制についても再確認する段である。――われわれは既に第一章第三節の末尾近くにおいて、イデアールな存在性格の価値なるものが物象化された相で意識される機序についても一応は叙べておいた。必要な論点はそこにおいて一通り提示されているとも言える。がしかし、そこでは主観−客観図式に妥協する流儀で「価値意識作用−価値意識対象」という図式に仮託しつつ議論を運んだことに因由する限界性が遺されている。それゆえ、若干の重複を生ずることも厭わず、但し価値的正反性の成立する機序に絞り込んで述べることにしよう。」157P
(対話E)「実践的関心態度に展らける世界の現相は、認識論的射影における“単なる認知的現相”より以上であるが、価値性認知と雖も所与がそれ以上・以外の<所識>として認知されるという構制は免れない。(この構制の故に、上述した通り、用在的財態における<所識>たる「意義的価値」もやはり、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する次第となる。)如実の現認的態勢(これは主客分離を前提した“主観的意識態勢”ではなく、世界現相のフェノメナルな分節的現前態勢)は、錯分節的構造性を呈しつつも謂うなればゲシュタルト的な全一態を成している。が、反省的・分析的見地からはこれをさまざまな視角から分類的に規定することが可能であり、対自的にも、その都度の態勢は(先行位相・別位相から)示差的に区別されうる。われわれは第一巻においては、当の態勢をたかだか認識論的射影で扱ったため、肯定・否定(承認・拒斥)という態度性だけは視野に入れたものの、如実の積極的/消極的な態度性(歓好/嫌厭、撰取/貶置、渇仰/抑斥、促迫/禁制、追求/忌避、……といった実践的態度性)を配視しなかった。如実には、しかし、世界現相の展らけは、その都度すでに実践的態度性と相即的である。それは積極(正性)または消極(負性)を基調とする。――基調と限定するのは、中立(中性)的な場合も認められるからである。尤も、中立的と言っても、それは端的に没実践的な態度性なのではなく、実践的態度性の一形態と認めうる。というのも、それは俗には“無関心”的態度性と呼ばれるにせよ、絶対的な無関心性なのではなく(もしそうであるなら、俗流的には言い方をすれば、抑々“それは意識にのぼることがない”であろう。)、一旦は緊張的な関心的態度性が生じたうえで(謂うなれば“これはことさらな応対を要しない”と“判って”)弛緩したものと目されうるからである。――積極(正) /消極(負)の態度性と相即的な全態的態勢において、構造内的に現前化している「所与=所識」成態は積極(正) /消極(負)を内自化した相で現識される。(所知項の側へのこの“内自有化”の機制についてはこれまで折々に縷説してきたので爰では再唱するに及ぶまい。)然して、この積極/消極(正/反)の規定性が、啻単なる認知的「所与=所識」成態(「実在」)には欠如しているところから(この欠如は実は如実相からの捨象、認知相での“射映的截取り”に因由するものなのだが)、ここでの累層的所識契機(つまり「実在的所与−意義的価値」における「意義的価値」という所識契機)の内自的規定性と見做される仕儀となる。価値の正反対立性はこの機制に由るものであり、価値とは当の機制において実践的関心態度性の内自化的累加を被った所識にほかならないのである。(中性的価値規定性の場合も同じ機制に由ってことさらに正でも反でもない実践的関心態度性が所識的契機に内自有化されているものと目されうる。が、われわれの立場にとっては、これを単なる欠如態として扱ったとしても別段支障は生じない。)」157-8P
(小さなポイントの但し書き)「蛇足に類することも憚らず、学説史上の顧慮から次のことを茲に附言しておこう。――世界現相が現に展らけているフェノメナルな態勢は、われわれの見地からすれば当然のことながら、「現相的所与−意味的所識」成態(「実在」)の現前には尽きない。そこで、旧来の諸理説は、件の「三項図式」とも相即的に、情意的成分とか意識作用とかのレアールな陽陰がそこに存在するものと想定し、以って「実在」とは別種の“価値”をレアールな心態と“同定”したり、意識作用の“性格”が謂わば「投射」されたものと見做したり、これでは処理しきれないと自覚して、ないしは、日常的既成意識にとっての物象化された映現を追認する流儀で、価値なるものを自存的対象(独得の主観的能力で感受・感得・直観される対象性)であるとし、これの存在性格が通常の実在(「レアリタス」のルビ)とは別異であるところから、一種の形而上学的存在とか、非形而上的ではあるがともあれ理念的(「イデアール」のルビ)な存在とか、このたぐいの立言を事としてきたのであった。――「世界現相の現に展らけている態勢」を「主観−客観」図式、ひいては「三項図式」の概念装置で分析・説明止揚とする企図には学説史的経緯、溯っては、それを使嗾する体験的場での事情があること、これは第一巻第二篇において審らかに見た通りである。能知項と所知項とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断してしまえば、いわゆる意識作用なるものを挙示し、それに性格的種別を設け……という理説が生ずるのも謂われなしとしない。このたぐいの“理論的把握”“定式化”を機縁づけるに足る“体験的・内省的”現象が慥かに存在する。が、謬見は所詮謬見である。いわゆる評価的意識作用とそれの投射という謬見についてはあらためて論判に値しうべき点も絶無ではないにせよ、そこまでに蛇足に類する議論を伸ばすことは差控えよう。――われわれとしては、三項図式流の分断以前的な場面に溯り、「世界現相の現に展らけている態勢」の全一態に定位しつつ、議論の抜本的な建て直しを企図している次第なのである。」159P
第三段落――次節へのつなぎとして−実践的主体の各自的な現相性、それの対他対自的な形成を論件とする 159-60P
(対話@)「本節での議論の範囲では、しかし、謂う所の「全一的態勢」の錯構造化に十全に立入っておらず、実践的関心性・態度性の帰属主体、価値現相の対他・対自的帰属、これの前梯となる謂うなれば前人称的な場面で意義的価値性の一般的構制を論件とした域に留っている。この不十全性を埋めて行くためにも、次節では早速にいわゆる内自的主体性の問題を視野に入れつつ、実践的主体の各自的な現相性、それの対他対自的な形成を論件とする運びとしよう。」159-60P
2025年10月02日
『情況 2025年春号 特集 ニューウェイブ政党の挑戦状』
たわしの読書メモ・・ブログ714
・『情況 2025年春号 特集 ニューウェイブ政党の挑戦状』情況出版2025
昔、「新しい歴史教科書」という右派の歴史修正主義の教科書がかなりの売れ行きであると報じられていたことがありました。かなりの売れ行きになったのは、右派とそれに何らかのシンバシィを感じるひとたちが買っていただけでなく、わたしもそのひとりですが、ちゃんと否定しきらねばと批判的意図をもって買っていたひとがいたのです。結局、ざっと読み流して、論評するに値しないと、ちゃんとは読みはしないで、売り上げに協力することになったのを後悔したのですが。今回、この雑誌を買ったのは、「新しい歴史教科書」を買ったときと同じような動機です。この雑誌は、ずっと「変革のための総合誌」と銘打っていました。それが、右翼の特集をしたり、防衛論的なところで軍事特集を組んだり、右的な特集を組んだりしてきました。まさにポピュリズム的な取り上げ方をしだしたのです。今回、この特集号が出た時に、SNS上で『情況』誌はどうしたのだ、という(雑誌の売り上げを伸ばすために「奇をてらう」特集をくんでいるのではないかとおもんばかってか)web発刊にしてはという提言がでていました。左派的な雑誌が右派的な特集をするなどというのは論外のことで、読む気もしなかったのですが、思い直して、批判のためにそして一体何が起こっているのかを確かめるために買い求めました。
もうひとつのエピソードがあります。わたしの個人的な体験の話です。かつて、民衆叛乱の時代、それは学生においては、教育学園闘争という形で、全共闘運動があったのですが、その運動が潰れていく中で、残り火的なところで動いていたときに、一緒に動いていた仲間が、当時話題になっていた、「暴走族」を描いた「ブラックエンペラー」という映画を観て、「あのエネルギーはすごい」とか共感的なことを言っていたのです。わたしは、驚愕して、即座に「暴走族って、ヤクザや右翼の予備軍だよ、それって、ヒットラーの演説がすごいって、感動しているようなことだよ」と言ったのを闡明に記憶しています。
今回の『情況』誌で、立花孝志の写真を表紙でとりあげ、インタビュー記事を「秩序の破壊者」という、反体制的に持ち上げるような書き方をしていることもこの類いのことなのです。
特集の表題にある「ニューウェイブ」とは一体何を指すのでしょうか? わたしには、どうみても右派ポピュリズムというファシズムの蠢動的なこととしてしかとらえられません。
『情況』誌の編集を個人に委ねたり、次々に編集責任者を替えたりしているようです。そこまでは多様性の範囲内でしょうが、右派に編集を委ねるなどということは考えられません。今回の、編集責任者は右派ポピュリストに次々にインタビューをしているのですが、その話の右派的な内容に対する批判のかけらもありません。ただ、右派的な話を垂れ流しているのに紙面を提供しているだけです。
『情況』誌には「変革のための総合誌」という表題がついているのですが、それにサブ的なことを書き添えています。「オピニオンのステージを開く」「すべての人に言論を すべてのテーマに言論を」などということを書いていますが、そもそも右派や右派ポピュリズムをとらえ損なっているのです。右派に「理論」などないのです。そこにあるのは差別主義的感情や曖昧模糊な非論理性なのです。
だから、そのようなことを如何に拡散させないかを考えることなのに、わざわざ場−紙面を提供するなどというのは、とても考えられないのです。
そもそも兵庫県斉藤知事の言動で、そして立花孝志の言動でひとが何人も死んでいるのに、そのことの追及なしに、インタビューをとるという感性が信じられないのです。左派性のかけらもないのです。
ポピュリストの特徴は、票になることは何でも口にする、ということです。福祉とか言いつつ、施設に入りたいというなら(そもそも介護保険制度が作られた意味というのは在宅で逝くという意味があったはずです。施設と福祉はアンチノミーなのです。そもそも施設も介護保険制度も危機に瀕しています。そんなことも判らぬものが「福祉」など語るのはまさに茶番のポピュリズムです)、窮局の施設−刑務所を居場所にしてあげればいいのです。
そもそも、現在資本主義社会の法体系は因果論的なことで成り立ち、因果論的に実証されないと罪に問われません。ですが、論理的には道義的罪は関係論で成り立っているのです。立花孝志がひとを死に追いつめたことは、道義的に許されない大罪です。反差別論的に法律で差別は無くせないという原理的押さえがありました。冤罪とか、法的な刑罰は最小限にという原則もあります。「変革のための情報誌」を謳い、左派的なところで貴重な雑誌であった『情況』誌は、原点に立ち帰り、右派ポピュリズムやファシズムの蠢動をいかに打ち抑え込むのかというところに立ち帰ることです。
・『情況 2025年春号 特集 ニューウェイブ政党の挑戦状』情況出版2025
昔、「新しい歴史教科書」という右派の歴史修正主義の教科書がかなりの売れ行きであると報じられていたことがありました。かなりの売れ行きになったのは、右派とそれに何らかのシンバシィを感じるひとたちが買っていただけでなく、わたしもそのひとりですが、ちゃんと否定しきらねばと批判的意図をもって買っていたひとがいたのです。結局、ざっと読み流して、論評するに値しないと、ちゃんとは読みはしないで、売り上げに協力することになったのを後悔したのですが。今回、この雑誌を買ったのは、「新しい歴史教科書」を買ったときと同じような動機です。この雑誌は、ずっと「変革のための総合誌」と銘打っていました。それが、右翼の特集をしたり、防衛論的なところで軍事特集を組んだり、右的な特集を組んだりしてきました。まさにポピュリズム的な取り上げ方をしだしたのです。今回、この特集号が出た時に、SNS上で『情況』誌はどうしたのだ、という(雑誌の売り上げを伸ばすために「奇をてらう」特集をくんでいるのではないかとおもんばかってか)web発刊にしてはという提言がでていました。左派的な雑誌が右派的な特集をするなどというのは論外のことで、読む気もしなかったのですが、思い直して、批判のためにそして一体何が起こっているのかを確かめるために買い求めました。
もうひとつのエピソードがあります。わたしの個人的な体験の話です。かつて、民衆叛乱の時代、それは学生においては、教育学園闘争という形で、全共闘運動があったのですが、その運動が潰れていく中で、残り火的なところで動いていたときに、一緒に動いていた仲間が、当時話題になっていた、「暴走族」を描いた「ブラックエンペラー」という映画を観て、「あのエネルギーはすごい」とか共感的なことを言っていたのです。わたしは、驚愕して、即座に「暴走族って、ヤクザや右翼の予備軍だよ、それって、ヒットラーの演説がすごいって、感動しているようなことだよ」と言ったのを闡明に記憶しています。
今回の『情況』誌で、立花孝志の写真を表紙でとりあげ、インタビュー記事を「秩序の破壊者」という、反体制的に持ち上げるような書き方をしていることもこの類いのことなのです。
特集の表題にある「ニューウェイブ」とは一体何を指すのでしょうか? わたしには、どうみても右派ポピュリズムというファシズムの蠢動的なこととしてしかとらえられません。
『情況』誌の編集を個人に委ねたり、次々に編集責任者を替えたりしているようです。そこまでは多様性の範囲内でしょうが、右派に編集を委ねるなどということは考えられません。今回の、編集責任者は右派ポピュリストに次々にインタビューをしているのですが、その話の右派的な内容に対する批判のかけらもありません。ただ、右派的な話を垂れ流しているのに紙面を提供しているだけです。
『情況』誌には「変革のための総合誌」という表題がついているのですが、それにサブ的なことを書き添えています。「オピニオンのステージを開く」「すべての人に言論を すべてのテーマに言論を」などということを書いていますが、そもそも右派や右派ポピュリズムをとらえ損なっているのです。右派に「理論」などないのです。そこにあるのは差別主義的感情や曖昧模糊な非論理性なのです。
だから、そのようなことを如何に拡散させないかを考えることなのに、わざわざ場−紙面を提供するなどというのは、とても考えられないのです。
そもそも兵庫県斉藤知事の言動で、そして立花孝志の言動でひとが何人も死んでいるのに、そのことの追及なしに、インタビューをとるという感性が信じられないのです。左派性のかけらもないのです。
ポピュリストの特徴は、票になることは何でも口にする、ということです。福祉とか言いつつ、施設に入りたいというなら(そもそも介護保険制度が作られた意味というのは在宅で逝くという意味があったはずです。施設と福祉はアンチノミーなのです。そもそも施設も介護保険制度も危機に瀕しています。そんなことも判らぬものが「福祉」など語るのはまさに茶番のポピュリズムです)、窮局の施設−刑務所を居場所にしてあげればいいのです。
そもそも、現在資本主義社会の法体系は因果論的なことで成り立ち、因果論的に実証されないと罪に問われません。ですが、論理的には道義的罪は関係論で成り立っているのです。立花孝志がひとを死に追いつめたことは、道義的に許されない大罪です。反差別論的に法律で差別は無くせないという原理的押さえがありました。冤罪とか、法的な刑罰は最小限にという原則もあります。「変革のための情報誌」を謳い、左派的なところで貴重な雑誌であった『情況』誌は、原点に立ち帰り、右派ポピュリズムやファシズムの蠢動をいかに打ち抑え込むのかというところに立ち帰ることです。
『情況 2020年 1月号 特集 ポピュリズムの時代』
たわしの読書メモ・・ブログ713
・『情況 2020年 1月号 特集 ポピュリズムの時代』情況出版2020
以前、わたしが本(三村洋明『反障害原論−障害問題のパラダイム転換のために』)を出して貰った世界書院の故大下敦史社長が情況出版の社長でもあり、そもそもわたしが認識論的に採りいれようとしている廣松渉さんともゆかりのある出版社で、本を出版した後に、「障害者解放運動の今」という特集組んで貰い、わたしも一文(「廣松渉物象化論の反障害論−『反障害原論』の隠されたサブタイトル」)を載せて貰いました。その後暫くは、『情況』を本屋で続けて買い求めていました。
大下社長が亡くなり誌面がドンドン変わっていき、基本月刊から隔月や不定期などになり、タイトルの「変革のための総合誌」から離れた特集も出て来て、関心のある特集の号だけを買っていたところ、終刊号と名打った号が出て、ちゃんと支えるべきだったと反省とともに寂しい思いをしていたのですが、すぐに復刊号が出てきました。芸能人の引退会見→復帰じゃあるまいし、策略的なことや、「奇をてらう」ような手法に、さらに心が離れていました。あげくは、「奇をてらう」ことが進み、右派の雑誌かととらえられるような特集も出ていました。この「奇をてらう」ということが、まさに、ここで取り上げている号の特集のタイトルの「ポピュリズム」という概念につながるのです。
それは、最新号で立花孝志の写真を表紙に載せ、インタビュー記事を載せた右派ポピュリズム特集のような号が出て、それに『情況』と長年つながっているひとから、SNS上で、終刊とweb化の勧めが出るに及びました。
で、今回のこの読書メモと次回の最新号の読書メモで、わずかながらも関わった立場と責任、そしてちゃんと提起して来なかった責任も含めて、対話を試みたいと念います。
まず、ポピュリズムの定義ですが、これも政治情況の、「左派−リベラル−保守−右派−極右(ファシズム)」規定があいまいなまま、マスコミでもごちゃごちゃに使われている情況と同じように、ポピュリズム規定がきちんとなされていず、このことが、問題の所在が明らかにされないで、混乱的情況を生み出していると指摘できます。
この読書メモで取り上げている号で、表紙に「Populism 大衆迎合 いや、これは人民主義である!」と「ポピュリズム」という詞に「大衆迎合」という詞と「人民主義」という詞を当てています。が、わたし的にはすっきりしません。「大衆」という語には、レーニン主義的外部注入論的「前衛(党)−大衆」という対概念がつきまとっているからです(新左翼も解散した党派派別にして、大枠、レーニン主義に囚われています。)。かつて、日本共産党もマルクス−レーニン主義を標榜していましたが、ある時点で、それを綱領から外しています。きちんと、総括もなしにとりさげたのですが、レーニン主義的前衛党論や民主集中制という名の中央集権制を引きずっています。わたし的にとらえ返すと、要するにレーニンとローザの間で(必ずしもきちんと言葉化されているとは思えませんし、いまだ整理されていないのですが)交わされた論叢、民衆の自然発生的(革命的)エネルギーに依拠するか、自然発生的エネルギーに(それは革命にはつながらないこととして)拝跪することへの批判かという論叢で、これは左翼の間でロシア革命を成功させたレーニンとドイツ革命は敗北に終わったローザという論説の間で、レーニンが正しくローザは間違っていたという伝説が広まり、マルクスの思想の流れの中で、マルクス−レーニン主義が主流派となっていった歴史があります。わたしはそもそもマルクス関係の本を読んだ最初は、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義』でしたが、すぐにレーニンに批判的になり、民族問題の論攷以外は読まず嫌いでした。民族問題ではレーニンの民族自決権が正しく、ローザがユダヤ人、植民地ポーランド生まれ、「障害者」、女性、といくつもの被差別当事者性をもっているにも関わらず、なぜ、個別被差別で反差別論を展開し実践しないのか、という批判をもっていました。そういう中で、批判するためにそして論考の深化のために読んでおかなくてはと、レーニンを読み始めました。で、一時、ミイラ取りがミイラになるような感覚を懐き、またレーニンのローザ・ルクセンブルク批判に一部共鳴もしていたのです。そもそも、レーニンはローザがレーニン批判をとりさげ自己批判したということを書いていること(註)もあり、また確かに、ローザが死の直前に、ドイツ革命の敗北的予期を懐き、「成功した」ロシア革命との対比もあったのか、側近のロシア革命批判を、抑制するような発言もしていた様なのです。が、そもそも、レーニン運動論−組織論で、「民主主義的なことをやっていたのでは、革命まで100年かかる」(註)と言っていた、百年後の現在からとらえ直すと、わたしは自然発生性への依拠と拝跪の弁証法をとらえ返したところで、大枠レーニンが間違っていて、ローザの批判が当たっていたと言い得るのではないかと思えるのです。この「依拠と拝跪の弁証法」(註)というところからとらえ返すことが、左派ポピュリズムの(もしあるとしたらですが)、論点になるのではと思います。表紙の「人民主義」なるものは、国家主義に対峙するものとしての「人民主義」という意味もあるのでしょうが、この民衆の自然発生的運動(エネルギー)に依拠するというようにわたしはとらえています。依拠しつつ、拝跪にならない主体性をもって、しかも、反差別的関係論なり、ネットワーク論なりをもって、差別的な関係にならない「組織」ならざる「組織論」で、運動グループ展開していくというイメージが浮かびあがります。
さて、問題は左派ポピュリズムですが、左派ポピュリズムということで、真っ先に想起されるのは、いわゆる「日和見主義」です。ですが、「日和見主義」に陥った党・党派は左翼を棄てたことになります。かつて民衆叛乱の時代に、「理論なき実践は無、実践なき理論は死」という標語がありました。左派すなわち社会変革志向の運動は、理論をきちんと立てるのです。ポピュリズム左派などあり得ないのです。ポピュリズムは右派の「専売特許」のようなことで、あってもせいぜい保守ポピュリズムまでです。右でも左でもないと標榜しているポピュリストがいるとしたら、それは少なくとも左派ではないのです。
わたしは日本の政治でポピュリズムを最初に感じたのは、小沢一郎元自民党幹事長が、自民党を離脱して新党を作り、そこから「こわし屋」と言われるような変遷を繰り返して行ったことでした。なんで自民党を離れたのか、党内の権力争いで、党の中枢権力から排除されたので、政策の違いとかではなく、いかに権力の中枢を掌握するか、できるか、維持できるか否かというところで、離反・集合を繰り返していくのです。
ポピュリズムは政治の選挙運動を巡って起きることで、いかに票を多く取れるかで、政策、マニフェストを立てるのです。政治家になるのは、政治家になって何をやるかということが本筋ですが、そのことから転倒して、権力を握りたいとか、権力の中枢に近づきたいとか、握っている権力を維持したいとか、政治家をなりわいにする(すなわち金儲けの手段化する)政治屋になって、少しでも勢力を大きくするために、どうしたら票を多く取るかで、政策を立てるのです。
ここで、読書メモの本題にはいります。この「ポピュリズム特集」四本の論攷からなっています。@中村勝己「左翼ポピュリズムは、安倍政治へのオルタナティブとなりうるか−最近のイタリアの議論を参照して考える」A諏訪共平「右翼ポピュリズムの躍進−「左翼の衰退」と「非極右性」を中心として」B丸川哲史「中国革命の中の「群衆」−晋察冀軍区「抗敵劇社」を中心に」C山端伸英「「ロペス・オブラドール政権」とポピュリズム」。
すこしコメントを挿みます。@は、わたしはそもそも左派ポピュリズムはあり得ないと押さえているので、論外の論攷なのですが、このような論攷の中で、次の読書メモでの最新号でも押さえますが、『情況』誌が、右派ポピュリズム的になっていると言わざるをえないことになっているのです。Aは、ナチの台頭の歴史を押さえればいいのですが、選挙で政権を取るという方針を立てるからには、極右性を隠しに入るだけで、「非極右性」になっているのではない、まさにそれがポピュリズム的性格だ、と押さええます。Bは、これが、「人民主義」的論攷となっているのですが、「群衆」という概念と、「人民」概念がどう結びつき、それが更にポピュリズム概念に展開していくのか、今ひとつ明らかになっていきません。そもそも、演劇活動の中の民衆のエネルギーは、文化活動的になるので、直接政策を論じないというところで、ポピュリズム的になるだけで、それを政治活動のポピュリズムとごっちゃにすると意味不明になります。Cは、そもそも反資本主義までいかないと、「社会主義」的な政策は、一貫性をもたないで、左派性を喪失してポピュリズム的に収束してしまう、ということなのだと押さえます。
総じて述べれば、そもそも理論的なことの深化と広がりを求めてきた『情況』誌がいったいどうしたのだろうと、思わざるをえないのです。
(註) 「反障害通信」179号巻頭言参照してください。
・『情況 2020年 1月号 特集 ポピュリズムの時代』情況出版2020
以前、わたしが本(三村洋明『反障害原論−障害問題のパラダイム転換のために』)を出して貰った世界書院の故大下敦史社長が情況出版の社長でもあり、そもそもわたしが認識論的に採りいれようとしている廣松渉さんともゆかりのある出版社で、本を出版した後に、「障害者解放運動の今」という特集組んで貰い、わたしも一文(「廣松渉物象化論の反障害論−『反障害原論』の隠されたサブタイトル」)を載せて貰いました。その後暫くは、『情況』を本屋で続けて買い求めていました。
大下社長が亡くなり誌面がドンドン変わっていき、基本月刊から隔月や不定期などになり、タイトルの「変革のための総合誌」から離れた特集も出て来て、関心のある特集の号だけを買っていたところ、終刊号と名打った号が出て、ちゃんと支えるべきだったと反省とともに寂しい思いをしていたのですが、すぐに復刊号が出てきました。芸能人の引退会見→復帰じゃあるまいし、策略的なことや、「奇をてらう」ような手法に、さらに心が離れていました。あげくは、「奇をてらう」ことが進み、右派の雑誌かととらえられるような特集も出ていました。この「奇をてらう」ということが、まさに、ここで取り上げている号の特集のタイトルの「ポピュリズム」という概念につながるのです。
それは、最新号で立花孝志の写真を表紙に載せ、インタビュー記事を載せた右派ポピュリズム特集のような号が出て、それに『情況』と長年つながっているひとから、SNS上で、終刊とweb化の勧めが出るに及びました。
で、今回のこの読書メモと次回の最新号の読書メモで、わずかながらも関わった立場と責任、そしてちゃんと提起して来なかった責任も含めて、対話を試みたいと念います。
まず、ポピュリズムの定義ですが、これも政治情況の、「左派−リベラル−保守−右派−極右(ファシズム)」規定があいまいなまま、マスコミでもごちゃごちゃに使われている情況と同じように、ポピュリズム規定がきちんとなされていず、このことが、問題の所在が明らかにされないで、混乱的情況を生み出していると指摘できます。
この読書メモで取り上げている号で、表紙に「Populism 大衆迎合 いや、これは人民主義である!」と「ポピュリズム」という詞に「大衆迎合」という詞と「人民主義」という詞を当てています。が、わたし的にはすっきりしません。「大衆」という語には、レーニン主義的外部注入論的「前衛(党)−大衆」という対概念がつきまとっているからです(新左翼も解散した党派派別にして、大枠、レーニン主義に囚われています。)。かつて、日本共産党もマルクス−レーニン主義を標榜していましたが、ある時点で、それを綱領から外しています。きちんと、総括もなしにとりさげたのですが、レーニン主義的前衛党論や民主集中制という名の中央集権制を引きずっています。わたし的にとらえ返すと、要するにレーニンとローザの間で(必ずしもきちんと言葉化されているとは思えませんし、いまだ整理されていないのですが)交わされた論叢、民衆の自然発生的(革命的)エネルギーに依拠するか、自然発生的エネルギーに(それは革命にはつながらないこととして)拝跪することへの批判かという論叢で、これは左翼の間でロシア革命を成功させたレーニンとドイツ革命は敗北に終わったローザという論説の間で、レーニンが正しくローザは間違っていたという伝説が広まり、マルクスの思想の流れの中で、マルクス−レーニン主義が主流派となっていった歴史があります。わたしはそもそもマルクス関係の本を読んだ最初は、レーニンの『国家と革命』と『帝国主義』でしたが、すぐにレーニンに批判的になり、民族問題の論攷以外は読まず嫌いでした。民族問題ではレーニンの民族自決権が正しく、ローザがユダヤ人、植民地ポーランド生まれ、「障害者」、女性、といくつもの被差別当事者性をもっているにも関わらず、なぜ、個別被差別で反差別論を展開し実践しないのか、という批判をもっていました。そういう中で、批判するためにそして論考の深化のために読んでおかなくてはと、レーニンを読み始めました。で、一時、ミイラ取りがミイラになるような感覚を懐き、またレーニンのローザ・ルクセンブルク批判に一部共鳴もしていたのです。そもそも、レーニンはローザがレーニン批判をとりさげ自己批判したということを書いていること(註)もあり、また確かに、ローザが死の直前に、ドイツ革命の敗北的予期を懐き、「成功した」ロシア革命との対比もあったのか、側近のロシア革命批判を、抑制するような発言もしていた様なのです。が、そもそも、レーニン運動論−組織論で、「民主主義的なことをやっていたのでは、革命まで100年かかる」(註)と言っていた、百年後の現在からとらえ直すと、わたしは自然発生性への依拠と拝跪の弁証法をとらえ返したところで、大枠レーニンが間違っていて、ローザの批判が当たっていたと言い得るのではないかと思えるのです。この「依拠と拝跪の弁証法」(註)というところからとらえ返すことが、左派ポピュリズムの(もしあるとしたらですが)、論点になるのではと思います。表紙の「人民主義」なるものは、国家主義に対峙するものとしての「人民主義」という意味もあるのでしょうが、この民衆の自然発生的運動(エネルギー)に依拠するというようにわたしはとらえています。依拠しつつ、拝跪にならない主体性をもって、しかも、反差別的関係論なり、ネットワーク論なりをもって、差別的な関係にならない「組織」ならざる「組織論」で、運動グループ展開していくというイメージが浮かびあがります。
さて、問題は左派ポピュリズムですが、左派ポピュリズムということで、真っ先に想起されるのは、いわゆる「日和見主義」です。ですが、「日和見主義」に陥った党・党派は左翼を棄てたことになります。かつて民衆叛乱の時代に、「理論なき実践は無、実践なき理論は死」という標語がありました。左派すなわち社会変革志向の運動は、理論をきちんと立てるのです。ポピュリズム左派などあり得ないのです。ポピュリズムは右派の「専売特許」のようなことで、あってもせいぜい保守ポピュリズムまでです。右でも左でもないと標榜しているポピュリストがいるとしたら、それは少なくとも左派ではないのです。
わたしは日本の政治でポピュリズムを最初に感じたのは、小沢一郎元自民党幹事長が、自民党を離脱して新党を作り、そこから「こわし屋」と言われるような変遷を繰り返して行ったことでした。なんで自民党を離れたのか、党内の権力争いで、党の中枢権力から排除されたので、政策の違いとかではなく、いかに権力の中枢を掌握するか、できるか、維持できるか否かというところで、離反・集合を繰り返していくのです。
ポピュリズムは政治の選挙運動を巡って起きることで、いかに票を多く取れるかで、政策、マニフェストを立てるのです。政治家になるのは、政治家になって何をやるかということが本筋ですが、そのことから転倒して、権力を握りたいとか、権力の中枢に近づきたいとか、握っている権力を維持したいとか、政治家をなりわいにする(すなわち金儲けの手段化する)政治屋になって、少しでも勢力を大きくするために、どうしたら票を多く取るかで、政策を立てるのです。
ここで、読書メモの本題にはいります。この「ポピュリズム特集」四本の論攷からなっています。@中村勝己「左翼ポピュリズムは、安倍政治へのオルタナティブとなりうるか−最近のイタリアの議論を参照して考える」A諏訪共平「右翼ポピュリズムの躍進−「左翼の衰退」と「非極右性」を中心として」B丸川哲史「中国革命の中の「群衆」−晋察冀軍区「抗敵劇社」を中心に」C山端伸英「「ロペス・オブラドール政権」とポピュリズム」。
すこしコメントを挿みます。@は、わたしはそもそも左派ポピュリズムはあり得ないと押さえているので、論外の論攷なのですが、このような論攷の中で、次の読書メモでの最新号でも押さえますが、『情況』誌が、右派ポピュリズム的になっていると言わざるをえないことになっているのです。Aは、ナチの台頭の歴史を押さえればいいのですが、選挙で政権を取るという方針を立てるからには、極右性を隠しに入るだけで、「非極右性」になっているのではない、まさにそれがポピュリズム的性格だ、と押さええます。Bは、これが、「人民主義」的論攷となっているのですが、「群衆」という概念と、「人民」概念がどう結びつき、それが更にポピュリズム概念に展開していくのか、今ひとつ明らかになっていきません。そもそも、演劇活動の中の民衆のエネルギーは、文化活動的になるので、直接政策を論じないというところで、ポピュリズム的になるだけで、それを政治活動のポピュリズムとごっちゃにすると意味不明になります。Cは、そもそも反資本主義までいかないと、「社会主義」的な政策は、一貫性をもたないで、左派性を喪失してポピュリズム的に収束してしまう、ということなのだと押さえます。
総じて述べれば、そもそも理論的なことの深化と広がりを求めてきた『情況』誌がいったいどうしたのだろうと、思わざるをえないのです。
(註) 「反障害通信」179号巻頭言参照してください。
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(7)
たわしの読書メモ・・ブログ712[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(7)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第三節 人格的主体の二相性
(この節の問題設定−長い標題)「対他対自的関係性の場において現認される主体、すなわち、人格的存在者は、役柄存在者の相に既成化されつつも各々個性的特質を“内自的に”有つ能為者として了解され、一種独特の二肢的二重性を呈する。――人格的主体は「能為者誰某以上の役柄的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態、しかも、多重的な「実在−価値」成態の相で現存在する。」123P
第一段落――用在的世界という“人生劇場”における登場者達の人格的規定の構造的一瞥 123-4P
(対話@)「人は日常的生活の場において、他人を個体的人物として認知はしてもそのこと以上に一定の役割行動を期待したり、役柄存在基底で認識したりはしない(しえない)場合も現にある。われわれは「他者認知というものは恒に必ず役割(役柄)存在基底を伴っておこなわれる」と強弁するつもりはない。がしかし、役割(役柄)的存在規定相で現認しない場合ですら、当の人物が、男性であるか女性であるか、大人であるか子供であるか、老人であるか青年であるか、といったことを弁別的に認知しており、また、安全そうか警戒すべきか、一定のコミットメントを要するか無関与的に遣り過ごして差支えないか、といったことを弁別的に覚知している。このさい、男性か女性か、大人か子供かといった弁別的認知でさえ、単なる種別的認知なのではなく、応対的実践的な関心性が一般には籠っている。溯っては、そもそも、当の与件が、犬・猫……樹・岩……等々との示差的区別性において、ヒト個体(人物)として覚知される場面で既に実践的対処の態度・関心の構えが見られる。強そうか弱そうか、危険そうか安全そうか……といった判別的覚知に至っては兪々(いよいよ)そうであろう。これらの弁別的な規定性は、それ自身ではなるほどまだ役割存在規定性ではないが、実践的自他関係の具体的な在り方に関わる関心的規定性であることは見易い。――現実問題としては、初めて出会う人物といっても、帽子・髪型・服装・持物・風采・態度・面貌・動静……など、地位・役柄・職業といった、社会的規定性の判別徴標を即自的に色々と具えており、装束・制服・徴章など制度化されたシンボルを身に帯びている場合さえもある。――日常生活の場という“舞台”に登場する人物は、その役柄存在規定がよしんばまだ不明・未知であっても、即自的には既に“協演”者として了解され、その心算で対処される。」123-4P
(対話A)「日常的生活実践の既成的場面においては、剰(「あまつさ」のルビ)え概しては、既知の人物は既に一定の役柄的存在規定相で、しかも一般には然々の人格的特性を具えた個性的人物として現認されるのが常態になっている。」124P
(対話B)「爰では、行論を簡略化する便宜上、人格形成の発生論的機序の分析(これには次章第二節を当てる)を跳び越し、また、共互的役割行動そのことの内部的構制や編制の分析(次篇)に先廻りすることも辞さず、用在的世界という“人生劇場”における登場者達の人格的規定を構造的に一瞥しておくことが課題である。」124P
第二段落――役割(役柄)存在認知の発生論的経緯の最小限度配視 124-32P
(対話@)「偖、役割(役柄)存在認知の発生論的経緯を最小限度配視するところから始めよう。嬰児は、泣けばあの顔(母親)が現われるとか、ダッコーと言えば抱き上げられるとか、他人の行動を期待・予科するようになる。それだけでなく、早期から、他人の行動相(自分に向けられるもの以外をも含む)に関してディスポジショナルに覚知するようになる。すなわち、他人が一定の舞台的情況で一定の用在的道具を携えて動作を開始するや、彼はああやってああやるであろうという予科的予期(所作態と終局的状景の即自的な予期的予科)を泛かべるようになる。この局面ではまだ、予想とはいっても記憶的再生に類し、経過的予期なるものが既往における同一的過程の再生記憶と相即するものである限り、そして当の記憶的記銘が当該行動様態の恒同的反復の目撃に因るものである限り、この成立条件からして、予期的な予科はおおむね違(「たが」のルビ)わずに実現する。こうして、他人たちが一定の舞台的情況で一定の道具的用在を使用しつつ恒同的に反復する行動様態が分化・記銘され、当該諸行動の予兆や端初を視認したとたんに、現出するであろう所作相から終局相までの予期的な予科が生ずる次第となる。このさい、ディスポジショナルな予期的予科というものは、それが外(「はず」のルビ)れると失望感や不快感が生ずることに鑑みても、単なる予想ではなくして一種の期待としての性格を帯びているのが普通である。という次第で、自分に対して直接向けられたものではない他人たちの各種行動に関しても、舞台的・用具的布置に即応しつつ恒同的に反復するたぐいの行動様態について、所与の場面的情況に応じた一定の所作態と結末相を予期的に期待する心態が極めて早期から形成される。」124-5P
(対話A)「右に謂う予期的な予科は、成立の機序からして、当事者嬰児の意識(für es)にも、種別的に分化している。それはゲシュタルト的同一態(メロディなどもそうであるごとき継起性の所謂「時間的ゲシュタルト」)の相で覚知される。従って、それは、同一人物の行動において反復的に現認されるだけでなく、別の人物の行動に関しても同一のゲシュタルト的認知を生じうる。卑俗に言えば、同じパターンの行動様態が、特定の一人物に必ずしも固有というわけでなく、いろいろな人物たちにおいて認められる場合があるわけである。こうして、同じ行動様態(すなわち、「ゲシュタルト的に同一」な行動様態、この意味で同型的・同種的な「所作−結末」経過相)が、いろいろな人物の行動場において、若干の個性的な差異こそ伴いつつも、斉しく生起することが体験される。例えば食事とか入浴とか、身辺の人物たちが皆、ほぼ同じように現出する行動が現に多数ある。」125-6P
(対話B)「幼児の眼にとって、身辺の人物たちの誰もが時によって体現する行動様態でありながら、特定の人物においてはそれが日常茶飯に見られるのに、別の人物においては滅多に見られないたぐいのものもある。(例えば、ブザーが鳴ると母親は飛んで行くのに、父親は滅多に動こうとしない。母親が家に居る限り父親はまず自分で出ることはない。母親が留守の時だけしぶしぶと出て行く。)中には、特定の人物たちにしか現出しない行動の様態、裏返して言えば、或る人物たちには一度も現出しない行動の様態、裏返して言えば、或る人物たちには一度も現出したことのない行動の種類もある。――観察的認知から反(「ひるが」のルビ)えって自分に対する行動を期待する場合、所求の様態的行動の遂行を期待できる相手と仮令(「たとい」のルビ)期待しても叶わない相手とのあることに、幼児は気がつく。(例えば、ハイシ・ドードーを期待してオウマーと言うと、相手が父親であれば四匍いになって背に乗せてくれるが、母親は決して馬になってくれない。)同じ相手でも状況次第で期待が叶う場合と叶わない場合があること、つまり、舞台的情況や自他の条件次第によって、同じ相手でも期待通りに動いてくれる時と拒絶される時とがあること、このことをも幼児は体験する。(例えば、オンモーと言うと、祖母は大抵の場合戸外へ連れ出してくれるのだが、雨が降っているとといくら駄々をこねても相手にされないし、お客さんが来ている時や忙しい時には構(「かま」のルビ)って貰えない。また、自分が風邪で咳をしているような時にもオンもには連れ出して貰えない。等々。) ――再び観察の目に映ずるところでは、ゴハンの仕度はママ、オニワの手入れはパパ、オ仏壇の世話はオバーチャンというように、特定の種類のオ仕事は、誰か定(「さだ」のルビ)まった人物が専(「もっぱ」のルビ)らしていることが目につく。一括してゴハンの仕度といっても、それは(オ米を磨ぐ、オ釜で炊く、オミオツケを作る、オコウコウを刻む、……オ茶碗やオ皿を洗う……といった台所の仕事だけでなく、八百屋サンや魚屋サンや肉屋サンに買物に行く……といった)多種多様な行為から成っている。そういう多種多様な諸行為から成る(例えばゴハンの仕度という)オ仕事を(例えばママという)特定の人物が遂行していることが幼児にも理解される。」126-7P ・・・この件は、まさにジェンダー的(性別役割分業的)観点で書かれていて、廣松さんは特に性差別に関しては対象化できていなかったということが如実に表れているところです。マルクスの流れの中に、反差別ということを基底に据える作業をしようとしている、しているわたしにとっては、苦々しい件です。以下、同じ指摘ができる文が続きます。但し、これはあくまで差別的関係において起きている役割行動で、これを固定化することではないのです。後で、弁証法的に「錯認」の指摘が出て来ますが、それでも、ちゃんと、差別ということの指摘がなされていないことの不備は指摘せざるを得ないのです。
(対話C)「こうして、学知的見地から(für uns)規定して言えば、幼児はかなり早い時期から、大人たちが各種の役割(役柄)行為を分掌していることを認識する。」127P
(対話D)「人物に即して把え返せば、例えばママは、ゴハンの仕度のほか、オ洗濯やオ掃除、子供の世話といった一群の仕事を一身でおこなっており、パパは会社に行き、自動車の運転をし、庭の手入れをし、犬を散歩に連れて行き、……というように定った“仕事”をしている。新聞屋さんは新聞を配って来る人であり、郵便屋さんは郵便を持って来る人であり、八百屋さんは野菜を売る人、魚屋さんは魚を売る人である。翻って、ママとはゴハンの仕度、洗濯、掃除、子供の世話……という仕事をする人であり、パパとは朝早く会社に出かけ、夕方に帰って来、お休みの日に庭の手入れをし、犬を散歩に連れて行き……という仕事をする人である。パパ、ママ、郵便屋さん、八百屋さんといった人物は、それぞれ一定の仕事(役柄行動として一括される諸々の行動の一総体)を担掌する個体として認知される。」127P
(対話E)「以上で一端を指摘してきたごとき体験・観察を通じて、幼児は人々の役柄行動相での在り方を覚識する。――或る舞台的情況で或る用在的配備においておこなわれる各種行為(一定の様式で一定の結末へと至る各種行為)が、単なる個別的・並存的な諸行為として分類的に認知されるのではなく、あれこれの人物に対してのみ期待的に予期されうる行為種の一総体に錯分節化して覚識される。個体的人物甲は、斯々の際にしかじかの所作態でしかじかの結末相へと到るAという種類の行為をおこない、亦、然々の際にはかくかの所作態でかくかくの結末相へと到るBという種類の行為をもおこない、亦C・Dという種類の行為をもおこなうことをも期待できる(sich erwarten lassen)能作的人物として、個体的人物乙はK・L・Mという行為をおこなう人物として、丙はL・M・S・Tという行為を期待できる人物として……というように、ひとまずそれら諸行為の能作体の人物的一箇同一性を統合軸にして(謂うなれば同一個体の“諸性状”の如き相で)、A・B・C・D、K・L・M、L・M・S・T……が錯分節的に統轄される。この統轄された諸行為の一総体が、われわれの謂う「役柄」にほかならない。――こうして、ひとまずは、あれこれの、個体的人物への属人相において、一定の舞台的情況・用在的配備の場で特定の人物に期待できる「所作態−結末相」の錯分子的統轄態としての「役柄」行為なるものが幼児に現識される所以となる。」127-8P
(対話F)「「役柄」なるものがこうして一旦は属人相で成立したところで、今度は役柄の“脱人化”が生じうる。例えば、郵便屋さんは人物が代ってもやはり郵便屋さんであり、大工さんは別人でもやはり大工さんである。(このさい、同じ「郵便屋」さん、「大工」さんという詞で呼ばれるという言語使用上の事実も反照的に絡むことであろう。が、仕事の類同性の直接的な現認がさしあたっては要件をなす。)ママは、ウチのママも○○チャンのママも同様な役柄行動を演じていることが子供にも判るようになる。こうして、同じ役柄がいろいろな人物(といっても、そこには非常な限定があり、誰でもよいというわけではないのだが、ともあれ特定個体への属人性を離脱して、別の人物)によって演ぜられうることの現識が生じ、「役柄」なるものが謂うなればあれこれの人物の纏(「まと」のルビ)うことのできる装束にも譬えうべき相に脱肉化される。――なるほど、幼児の眼には、ママはいつもママであり、仮令風呂の中でもママ装束のままである。ウチのママと誰チャンのママとが同じママの装束を着(「つ」のルビ)けるといっても、それは謂うなれば、お揃いの服を着(「き」のルビ)ているようなので、一枚の上衣を貸借して着るような具合ではない。観察的認知の準位では、ママがママの装束を脱ぐこと、一般に個体的人物が役柄を脱いだ相で現認されることはありえないのであって、たかだか同じ役割(役柄)存在者が複数存在することに気づくという域を出ない。ところが、しかし、実践的関心の場においては、自分に対向しておこなわれる相手の行動の場合は特にそうであるが、幼児といえども屢々、眼前の行動当事者たるあの身の視座からの動態を覚識する。自分に対向しておこなわれる行動でなくても、或る種の場合、上述の「一体化的同一視」の機制で他人の身と“合体”した地歩での体験も生じうる。これらの場合、謂うなれば、あの身と“合一”した相と、この身の視座から観察する相との、複眼的相で「所作態−結末状景」を予期的展相で意識するのであって、それは後述の「観念的扮技」の構制になっている。この扮技にあっては「役柄」という統轄的“装束”を纏ったあの身と“合体”する限りにおいて、謂うなればあの“装束”へとこの身を置き入れ、そして扮技の終了後に、あの“装束”から身を脱ぎ離す。茲では、そこへと身を置き入れ、そこから身を脱け出させる“装束”的な役柄が既成的=自存的な相で覚識される。(人格的実体なるものと役柄なるものとが存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断して意識されるようになるのは後段においてのことであり、今の段階ではまだ“装束”的な役柄が“脱殻(「ぬけがら」のルビ)”の相で脱肉化されることはないが、しかし、現にあの身で充実されている相での時によってはこの身がそれと“合一”しているあの身によって充実されている相での“装束”が、あの身自体とは別の、既成相でひとまず意識されうる。)別の比喩で言えば、既成的な「役柄」なるものが、そこへと入り込んだり、そこから脱け出たりすることのできる“位置的場所”(position)、“場所的位置”(status)の相で覚識される態勢が爰に現成する。」128-9P
(対話G)「惟うに、幼児のいわゆるゴッコ遊ビが成立しうるのも斯かる態勢を前梯にしてのことであろう。――既成的「役柄」“装束”の現認というとき、パパ、ママ、郵便屋さん、八百屋さん、――といった役柄存在とならんで、学理的第三者の見地からすれば、パパ、ママにとってのコドモという役柄も慥かに存立しはする。がしかし、幼児本人がコドモという自分の役柄存在を自覚するようになるのは、他人の役柄存在の認知よりもかなり遅れてのことであろうかと思われる。成人においてすら、外部(「はた」のルビ)から見れば実に立派に役をこなしている場合でも、自己の“着装”している「役柄」を十全な相では現識していないのが普通であり、彼はその都度の対向的な他者の期待に応えてその都度の役割行動を円滑に遂行しているという域(しかも、その都度の役割行動さえ、役割行動としての十全な自意識なしにルーティーンにおこなっているという域)をなかなか出ない。況(「ま」のルビ)してや幼児においてをやであろう。幼児がコドモという役柄を自覚するのは、却ってママゴトという劇においてのことかもしれない。(ママゴトにおいて、コドモ役を担掌することにおいてというよりも、ママ役やパパ役を演ずることにおいて共軛的なコドモの役柄を対象化して認知するようになり、その役柄を実生活においても対自化するという過程が先行するであろう。コドモ役も一定の発達準位以降は自覚的にコドモとしての役柄を取得するようになりうるが、コドモ役として辛うじて遊ビに加えてもらえるようになる原初期の年少者は、相手役によるその都度の期待・督促に応じて何とか役割行動を遂行していても、そしてそのさい相手の「役柄」については了解していても、コドモ役という役柄相はまだ把えきれないように見受けられる。) ――ゴッコ遊ビが成立しうるためには、相応の「役柄」が既成相で分節的に現識されていることを前梯的要件とする。ゴッコ劇は日常生活の直接的な模造的再現というより、子供の世界内での伝承劇という趣きが強いにせよ、ゴッコ劇の役柄行動が理解され上演されるにあたり、実生活における役柄行動体験が前梯的な成立条件として大いに関与していることまでは否むべくもあるまい。役柄的行動のノウ・ハウが、全面的でこそなけれ、或る範囲と程度においては現識されていること、ゴッコ遊ビの成立は是を前梯的要件としている。」129-30P
(対話H)「ところで、「役柄」を現識しているとは、分析的に規定するとき、如何なる覚識が成立していることの謂いであるか? 役柄の現識とは、役柄なるものを明晰判明な対象知の相で、知識化していることを必ずしも必要としない。とはいえ、その都度その都度に現に期待されている行動を察知して即応するという域を超え出て、何々役とは斯々然々の行為をする役廻りであること、そのことのおおよそがあの“装束”にも譬えうる既成相で覚識されていることを含蓄する。尤も、自分の役柄をまだ役柄として十全に意識するに至らず、他人の演ずる役柄に関してのみ辛うじて“装束”的既成相で覚知している段階もありうる。が、その場合でも、他者たちの役柄に関しては、役柄の共軛的相関性に即自的には気づいているであろう。役柄の現識という態勢は役割行為の相関的共軛性の覚識を含意しているのである。」130P
(対話I)「「役柄」は、単に示差的な区別相で並存しているのではなく、ネットワークを形成している。――このネットワークが地位体系の相で現認されるのは反省的・学知的な見地においてのことであり、当事者の日常的意識においては必ずしもネットワークが十分に現識されているわけではない。とはいえ、役割的行為の共軛的相関性の構制は日常的意識においても逸せらるべくもない。なるほど、日常的に現識される役割相関性は、反省的・分析的な見地から見れば、極めて限局されており、視野狭窄(ママ)的ではあろう。しかし、その埓内で、「役柄」はかにかくにも対他相関性において分節化されている。錯分子的に統轄される分子的種別相での「役割」行為は、余程(「よほど」のルビ)高級な行為か余程低級な一人遊ビの如きででもなければ、一定の舞台的情況で一定の用在的配備において対向的当事他者との共軛的行動として遂行される。そして、単独者的行為の場合でも、それが苟くも役柄的行為に算入されるほどのものであるかぎり、(インプリシットな対他者性は今措くべきだとしても)少なくとも爾他の役柄との反照規定性において分節化して意識されるのが普通である。――従って、役柄は他の役柄と相関的・反照的に措定されている“装束”、そこへと諸々の人物が現に入り込んでいる(乃至は、そこへと入り込んだり、そこから脱け出したりすることが“可能”な)あのポジション(部署)の相で配位的に現認される所以となる。」130-1P
(小さなポイントの但し書き)「――斯くの如く、相関的配位相で既成態として覚識される「役柄」、それが「部署」であり、亦、いわゆる「地位」にほかならない。発生論的にも存立構造論的にも、その都度の期待的察知に呼応しての行為、すなわち、われわれの謂う「役割行動」が先件であり、役割的行動の特種的綜合(synthèse sui generis)において「役柄」なるものが覚識されるようになるのであるが、役柄なるものが既成態の相で意識されるようになると、当事者たちの直接的意識においては、往々、地位的役柄から役割期待が生まれるかのような倒錯視で形成される。われわれの看るところ、この倒錯視も謂われなしとしない。他者が役柄存在者の相在で現認されるようになると(元来、彼がその役柄存在者の相で現識されるに至った経緯からすれば、斯々然々の際には斯々然々の行為を彼に期待できることの経験的蓄積に負う予料的予期に俟つものであるにもかかわらず、当の既往的媒介過程は当事者の直接的意識には上ることなく)、彼に対しては、彼がまさに斯々の役柄存在者(斯々の部署・地位に在る者)であるが故に斯々の行為を期待することができるという具合に人は意識しがちである。併せて亦、彼は斯々の部署・地位に在る者なるが故に、他人(彼にとっての他人、従って、この自分もそこに含まれる)に対して、然々の情況下では斯々の対向的行為を期待して当然であるという具合に人々は意識しがちとなる。(ママはママなのだからママに対しては斯々の行為を期待でき、ママはママだからで、ママが他人に然々の行為を期待するのはママがママだからだ、という具合である。) ――これはわれわれの見地から見れば一種の倒錯なのであるが、当事者の日常的意識ゃそれを追認してしまう一部社会学者においては、既存的な「部署」「地位」に一定の役割期待が附属する相で意識され、あまつさえ、当の地位には一定の「権限」が附帯しているというように思念される。この錯認にもとづいて人々が行為することにおいて現行的社会生活が保たれている次第について、後に制度的物象化を論ずる際に立帰って論議する予定である。」131-2P・・・ここにおいて、先にわたしがコメントしたことに対する、それからのことが「錯認」−「倒錯」である旨がでてくるのですが、「性別役割」における差別(的錯認)の指摘は出て来ません。
第三段落――役柄存在相とそれを演ずる人物の個性的規定相、これら二相性、二肢的二重性を視野に入れて実践的主体の対他対自的関係規定性を分析する 132-9P
(対話@)「現実問題として、兎にも角にも、日常生活の舞台的場においては――幼児期以来の体験を介してそれが現成するのだが、当人たちにはそのことが自覚されぬまま――、登場する他人は先ず大抵は役柄存在者の相で覚知される。尤も、同じ種類の役柄存在者であっても、個性的な差異が見られる。同じ役柄を演じる諸人物の行為は同種的ではあれ、能為的主体人物誰某毎のいわゆる人格的特性が現に認められる。」132P
(対話A)「茲に、われわれとしては、役柄存在相とそれを演ずる人物の個性的規定相、これら二相性、二肢的二重性を視野に入れて実践的主体の対他対自的関係規定性を分析しなければならない。」132P
(小さなポイントの但し書き)「この作業に立進む前に、以下の立論にとって前梯となる以上での見方に対する、或る根本的疑義、ありうべき別見に応接しておくべきかもしれない。/応接を要する疑義・別見というのは、「人々の日常的意識においては、既知の他者の覚知はまずは固有名的覚知としておこなわれるのであって、役柄存在者としての覚知が直截におこなわれるわけではない」「子供が、あれはママ、あれはパパ、……あれは郵便屋サン、あれは八百屋のオバサン……と覚知するさい、子供本人にとっては、ママ、パパ、郵便屋サン、八百屋のオバサン……というのは、あの人物、一種の固有名詞なのであって、役柄存在規定ではない」という異見である。/これは、人物に関しては「何」(was)ではなく、「誰」(wer)ということが第一次的に認知的関心の的(「まと」のルビ)になるという議論、仰山に言い立てて行けば、人物に関しては「本質」ならずして「実存」が第一次的な関心事だ、という議論にも通じる。/哲学上の問題史的経緯との絡みで之は顚から無視するわけにも参らない。その限りで、また後論への伏線ともなる限りで、搦手からではあるが、敢て若干の応接を茲に挿んでおく次第である。/人物を現認する際、まっさきに氏名を内語的に泛かべるかたちで、「あ、○○さんだ」という認知が直覚的に現成するむきが慥かにある。だがしかし、それは当の人物が視覚野に新登場する瞬間の話であって、例えば、オフィス内での仕事仲間の姿が見えるその都度毎に名前が泛かぶわけではない。人物の認知が常に固有名的認知であるかのように考えるのはおよそ実態に合わない。/一般に、新規のものが知覚野内に登場した瞬間、例えば、オフィスに誰かが花束を抱えて入来した瞬間とか小鳥が迷い込んで来た瞬間とか、「あ、花だ」「あ、小鳥だ」というように、そのものの名前が泛かぶ、知覚野に新登場した物の覚知は、一般に命名判断(Benennungsurteil)を伴う。が、見慣れてしまうと、例えばオフィス内の机・椅子・窓……など、見る度毎に名前が泛かぶようなことはない。いつもは在った物がたまたま無くなったりすると、その時には「あ、○○が無い」という具合に、その不在のものがそれの名前を伴って意識される。但し、その物が運び出される(不在化する)のを目撃している場合には、そのことをすっかり忘れていた場合などを別とすれば、ことさらに「○○が無い」という現識も生じない。/右の一般的構制では事物の場合も同様であるにしても、しかし、事物に関わる覚知と人物に関わる覚知とでは決定的に相違するのではないか? 現に、物の場合には普通名詞が泛かぶのに対して、人の場合には「あ、人間だ」などと普通名詞が泛かぶのではなく、「あ、○○さんだ」という固有名詞が泛かぶ。これは大きな相違ではないのか?/結論から先に言えば、人物の場合には固有名詞が泛かぶという事実を以って事物認知と人物認知との決定的な相違の証拠だと見做すのは誤りである。事物については、本質的認知がおこなわれ、人物については実存的認知がおこなわれるなどと言い立て、その証拠として固有名詞的覚知を持出すなどもってのほかと卻けざるをえない。/理由はこうである。――事物には一々固有名が付けられないのに対して、人物には各々固有名が付けられており、人物の場合、その固有名を知らなければその人物と知り合ったという気にならないのは慥かである。ここには生活関心の向けられかたが、事物的個体に対する場合と人物的個体に対する場合とで相違することが確かに顕われてもいる。が、人々が生活圏内に在る山や河、神社や仏閣などにも固有名を付けて呼び分けていることを思い合わせるとき(ペットに固有名を付けるのは一種の擬人化的手法かもしれないが)、事物であるから、人物であるから、という存在上の種別が直接に名付けかたを別(「わか」のルビ)ったわけではない。雑草とか雑魚(「ざこ」のルビ)だとか一括して呼ぶか、種類ごとに呼び分けるか、雪といって一括するか、エスキモーのように三十何種類にも雪を分けて名付けるか、このこととも相通ずるたぐいの生活関心の向けられかたに応じての命名なのである。/もう少し敷衍(ふえん)しておこう。日常的な標準的言語活動レヴェル、日常的な言語活動レヴェルにおける分類・命名というものは、学理的・専門的その他、特殊的な関心からする分類や命名とは異なった体系をなす。学理的・論理的に分析すれば、なるほど固有名と種別名とはレヴェルを異にし、鶏・鴨・鳩……といった種別名と小鳥といった種別名、鯉・鮒・鮎……といった種別名と雑魚といった“類別名”とはレヴェルを異にする。それらを恰かも同レヴェルの“分類名”であるかのように並列的に使用するのは論理的には混乱ということになろう。しかし、日常的意識にあっては、種別名と或る種の“類別名”、それにまた、山や河などの固有名、こういったものが謂わば同位的な“標準的分類”名として並列的に用いられている。――そもそも命名ということは他者への伝達(これ自身、生活関心上の要件)のために成立したものであり、伝達の関心レヴェルによって決まってくる。普通の事物について普通には“種別名”で間に合い、特定個物を指定したいときには「確定記述」流の方式を採れば済む。これで以って特に不便を生じないというより、もしも普通の事物に一々固有名を付けていたら却って不便きわまりない筈である。ところが、生活圏内の山や河、特定の樹や岩など、固有名がないと日常的に不便にすぎるものもある。生活態勢・生活関心に便宜的必需に見合うかたちで標準的・基幹的な“部類名”の体系がおのずと成立する。そして、この日常的にスタンダードな“分類名”体系は、論理的に分析してみれば、“種別名”“類別名”の混淆的並列化ばかりか、謂うなれば固有名の混入をすら孕むかたちのものになっている次第なのである。――以上は標準的な次元に即しての議論であって、アクチュアルな呼称は、その場での具体的な関心レヴェルによっておこなわれる。一箇同一の与件であっても、犬と呼ぶか、哺乳動物と呼ぶか、脊椎動物と呼ぶか、動物と呼ぶか、生物と呼ぶか、反(「ひるが」のルビ)えっては亦、ブルドッグと呼ぶか、ポチと呼ぶか、関心の準位に応じて、認知的呼称がさまざまに岐れうる所以ともなる。/著者としては、こうして、人物に関しては固有名的覚知がまず直截におこなわれるという一部論者の主張(以って事物に関する種別的覚知との決定的相違性を唱える主張)を卻ける。/だが、誤解しないで頂き度い。著者としても、“標準的”な関心の向けられかたが、相手が事物の場合には種別的規定レヴェルの域にとどまりがちであるのに対して、相手が人物の場合には個体的分別(「ぶんべつ」のルビ)レヴェルに達する場合が多い、という事実は認めないではない。(“標準的”“普通には”という先刻来の言い方はケースを明確に規定しないかぎり論理的にはナンセンスに通じかねない。が、論趣は伝わっていると思うので、暫くこのままで押し通すことにしたい。)それは、しかし、あくまで生活関心レヴェルの在り方によるものであって、事物と人物との“存在論的別異性”とやらに照応するものではない。現に、群衆に目を向ける際などには個体的分別などおこなわれはしないのである。要は、関心の向けられかたの“標準的”な在り方の差異に懸っている。/人は、爰で動物心理学の知見を持出して、猿でさえ、異種の動物たるイヌ・ブタ……などには種別的認知反応、自分と同種のサルに対しては個体的弁別的反応を示すという事実(N.K.Humphrey)を指摘するかもしれない。なるほど、論理的に概念化すれば、別種の動物に対しては種別認知反応、自分と同種のサルに対しては個体的弁別的反応、と括ることのできる観察データではある。がしかし、反応の具体的内容に即すれば、種的認知/個的認知ということがポイントなのではない。関心的反応の在り方が異種の個体に対する場合と同種の他個体に対する場合とでは相違する、ということなのである。ヒトの場合も多分同断であろう。しかも、日常的生活の現場においては、認知反応といっても、観照ではなく、実践的な対他的関わりの構造内的契機なのである。/それでは、“標準的”な関心の在り方が、ヒトにおける対人物の場合、いかなる含みで個体的分別的になっているのか? 発生論的過程は姑く棚上げとしたまま、直截に、成人における既成的な対人物場面での関心の向けられかたを観てみよう。/成人の知覚野の内に未知の他人が登場した場合、その登場人物はいちはやく注意・関心を惹く。一般に、視野風景界に新登場するものは注意を惹くが(正確には、むしろ、注視の対象になることによって「地」ならざる「図」となって分節化するのだが)、与件が自分と同種の動物たるヒトである場合、天敵が登場した場合に劣らず、格別な注意・関心を惹く。そこには生得的にビルト・インされている機制が作(「はた」のルビ)らくもののごとくである。そのさい、新登場した与件=人物は、個体的分節相で知覚されることは勿論であるが、それは単なる一つの「図」=個物として分劃されるという域を超えて、男性か女性か、老人か若者か、といったことの弁別をも即自的に含んでおり、時によっては、強そうか弱そうか、危険そうか安全そうか……といったことの即自的な判定すら瞬時的に含まれている。この瞬時的な瞥見的“判別”を謂うなれば第一階梯として、そこで第二次的な対応(無関心に遣り過ごしてしまうという態度決定反応をも含めて)が継起する。/既知の他人が視野に登場した場合はどうか? 再認の覚識を伴うことは言うまでもない。(正確には、むしろ再認の覚識を伴うかぎりで、当事者にとってその人物が既知と言われうる。) が、再認知内容は既知性程度やその場の関心的情況などに応じ、勿論一様ではない。再認意識の最低限ともなれば、「どこかで見たことがある」という域を出ない。とはいえ、苟くも再認の名に値しうべき程の場合、その人物の氏名ぐらいは知って(憶えて)いて、再認と同時にその氏名が内語的に泛かぶ。つまり、上述の“固有名詞的覚知”の相で登場人物が現認される。――この再認の覚識を伴う“固有名詞的覚知”は、単なる一つの「図」=個物として再認的覚知、そしてその分劃的与件=個物のへの命名にすぎないであろうか? 断じて否である。嚮に未知の人物が視野に登場したさいの認知意識に即して述べたところのかなりの部分が、ここでも見出される。固有名での内語的呼称を伴って覚知されるからといって、与件が単なる一個物として認知されているにすぎないわけではない。ヒトという種の一個体として弁別されており、その一人物(ヒトたる一個体)が固有名という副表象を伴って覚知されているのである。記号としての固有名なるものは種別名よりも意味的に貧弱かもしれないが、“固有名的覚知”と呼ばれる意識事態は啻なる“種別的覚知”よりも豊富な規定内容を有っている。――なるほど、固有名的覚知が現成する場合、与件が果たしてヒトであるか、男性か女性か、危険そうか安全そうか、……といったことは、殊更に意識に上(「のぼ」のルビ)らないのが実情かもしれない。諸々の判別的規定性が謂うなれば固有名的把捉に統合されてしまう看があり、命名的覚知で要件が尽きたかの趣がある。だが、聊か反省してみれば、“固有名的覚知”が単なる個物呼称より以上の規定内容を有つ意識事態であることは容易に認められよう。/われわれは嚮に未知の人物を目撃した際に当初瞬時的に現成する“第一階梯の判別”を云々しておいたのであったが、既知の人物が知覚野に(それまで不在だったところ、突如として)現出した際の“第一階梯の分別”、それが謂うところの“固有名的覚知”にほかならない。われわれとしては把え返して斯う言うことができよう。/先刻来ひとまず認知的場面を問題にしたかぎりで、「知覚野への登場」という言い方を選んだ。がしかし、精確には、それは単なる「知覚野」「視界」ではなく「舞台的場」(舞台的意識空間)と言わねばならない。知覚野と舞台的場とは範囲的に重なって場合も慥かにある。だが、範囲的に重なる場合でさえ、認知的視角で抽出される知覚野と、実践的関心に展らける舞台的場とでは、分節態とその編制や意義性に相違がある。明識的知覚においては地化されている部分も舞台的場としては格別な有意義性を有ちうるし、況してや、準地的=準図的とも謂うべき相にある分節肢においてをやである。しかも、一般には、知覚野と舞台的場とは範囲的にもそのまま重なりはしない。知覚野の周縁部は舞台の袖にすぎないのが普通であり、反面では亦、舞台は狭義の知覚野の外部(例えば、自分の背後、物蔭など)にまで拡がっていることがある。舞台場は、狭義の知覚場から外(「は」のルビ)み出していても、そこに道具や俳優の現存することが既定の了解として現識されているかぎり、現在的舞台場なのである。――嚮に「知覚野への新登場」と呼んだのは精確には「舞台場への新登場」なのであり、例えば、未知の人物が視界に登場したとしても、それが遙か遠方で舞台的場の外部であれば格別な注意・関心は惹かない。(正確には、むしろ、人物が目撃されても殆んど注意・関心を惹かないような場面である場合、そこには舞台場の外部だと規定されるのが実態であって、事前に舞台場の線引きが自覚的・明識的におこなわれているわけではない。)逆に亦、例えば機械等の蔭で作業中と了解している仕事仲間は、狭義の知覚野の外部ではあれ、舞台場内に現存し続けている。従って、彼が機械等の蔭から視界内に出て来たとしても、それは舞台場への新登場でなく、殊更に“固有名的覚知”が生じたりはしない。――/曩(「さき」のルビ)に、「日常的生活実践の場における既成意識態においては既知の他人はまずもって一定の役柄存在者の相で覚知される」という提題を掲げ、そして、“固有名的覚知”の先行性という論件を閉却しえない限りでこの件に溯って脇を固める作業を挿んできた。が、今やこの脇固め踏んで言えば、未知の人物に関わる“第一階梯の判別”や既知の人物に関わる固有名的覚知という“第一階梯の分別”は、当の人物の「舞台的場への新登場・参入」の現認にほかならないのである。/本節の初めの個所で誌しておいた通り、未知の人物の舞台的場への出現を目撃して、男性であるか女性であるか、老人であるか若者であるか……を判定的に覚知する営みからして、すでに、単なる観照的認識ではない。それは実践的対処の仕方を決めるための実践的予備作業とも謂うべきものである。――舞台に登場・参入するに至っている人物は、畢竟するに、その役柄存在規定がよしんばまだ不明・未知であっても、即自的には既に“協演”者として了解され、その心算で実践的に対処される。/斯うして、われわれが応接の必要性を認めた疑義・異見、すなわち「子供が、あれはママ、あれは郵便屋サン、あれは八百屋サン……と覚知するさい、一種の固有名詞なのであって、役柄存在規定ではないのではないか」というありうべき見方に関して、“固有名的覚知”の場合もあることを顚から認めないわけでこそないが、与件が人物の場合でも、「第一次的には単なる誰(wer)ではなく、やはり、一種の「何(was)」、しかも実践的関心性に即してのSoseinの相で覚知される旨を反定立すべき所以となる。――日常的生活世界という舞台場への登場人物は、個性的特質も問題になるにせよ、殊に役割存在規定が要諦をなすのであって、著者としては嚮の提題を安んじて維持しうると念う。」133-9P
第四段落――個性的特質−各自的特有性 139-42P
(対話@)「日常的生活の場に登場する人物は、役柄存在規定で現出してはいても、各々個性的差異を呈する。この構制における個性的特質なるものに今や目を向ける段である。――――個性的特質には、初めから役柄的存在規定とは別の(謂わば役柄的存在規定と並存的な)個々人的特徴の相で覚知されるものもあれば、同種的役柄存在者(同じくパパとか、同じく郵便屋さんとか、同じく課長とか)でありながら演行様態に個人的差異があるという相で覚知されるものもある。が、いずれにしても、これら個性的特質は、“装束的”役柄を“装着”している生身の当人本人の特有性と見られる。では、当の各自的特有性とは何か、これが爰での論件にほかならない。」139-40P
(対話A)「偖、役柄存在規定性には“納まり切れない”個々人的特性は数多(「あまた」のルビ)認知されるが、爰では「役柄存在規定を身に纏う内自的各主体」という相で思念されるものに焦点を絞りながら検討を進めて行くことにしよう。――人生劇場に登場する人物は多重的な役柄存在規定性を纏っているのが普通であるから、当の人物の規定性が特定単一の役柄規定性に“納まり切れない”のは当然であるが、それら“外(「は」のルビ)み出している規定性”がそれ自身も別の役柄存在規定性である限りでは、今爰での直接的な論件ではない。けだし、今問題の焦点になるのは、役柄的存在規定性とは端的に別異な“内自的主体”の存在規定だからである。翻って亦、行動というものは“一回起”的であるから、同一人物の同一の役柄行為といっても、特個的規定性を帯びている。が、今問題にしたい個性的特徴はそういう次元での一回起的特徴ではない。それは、むしろ一箇同一の人物の諸行動を通じて“普遍的”“恒常的”に見出されるたぐいの傾向性・特性なのである。」140P
(対話B)「構図を見易くする一具として、野球監督の役柄行動を例にとってみよう。監督としての役柄行動の個性的特徴は、監督某氏という個体的人物の流儀・癖として一往は押さえられうる。――役柄遂行方式上のこの個体的特徴、傾向的特性が“既定的・既在的”であるからこそ、当事他者たちや観戦者たちは、所与の場面におけるその監督の采配振りを予想することができる(時としては裏をかかれる)わけである。この流儀的個性は、「役柄」を装束・衣服に譬(「たと」のルビ)えるとき、@同じく監督の衣服といっても衣服そのものに若干の個性差がある、A衣服そのものは斉同的であるが着る人物に個性差がある、という二様の仕方で説かれうる。人々は「役柄何々」という概念を立てるにしても、その内部に種差を持込む場合もあり、顚から@を排除するわけではない。とはいえ、一般には、人々はAの方式で説きたがる。そこでは、特定の同じ制服を着たとしても、着る人物の個性差が顕われる、という説き方になる。この次元で“着る人物の個性”というとき、彼が重役兼任であるとか、現役時代には捕手であったとか、彼が帯びている別の役柄規定性や社会的規定性も算入されうる。勝義での人物特性・人物的個性なるものは、しかし、もう一歩押進めた次元で立てられるのが通念であろう。――それは、一切の役柄規定性を、延いては、一切の社会的規定性を“脱ぎ棄てた”“真裸の”人物の内自的特性・内自的個性という次元での固有性として思念される。以下、右に謂う“真裸の内自的主体の固有性”という次元で「人格的特性」という詞を暫く用いることにしよう。」140-1P
(対話C)「「人格的特性」は右の含意で暫定的に規定される限り、一切の役柄的・社会的規定性を捨象してなお残留する特性なのであるから、要するに、一種の自然的規定性ということになる。(人物の内具するこの「自然的規定性」は、俗見的な思念では、肉体的および/ないし精神的(「プシヒッシュ」のルビ)なものとされる。) ――ところで、人格的な特性は、それが性質や機能であると見做される限り、伝統的な存在観の発想に則れば、それら自身で独立自存することは不可能であって、必ず一定の基体=実体に担われているのなければならない。視角を変えて言えば、性質や機能は必ず実体に内属・附帯しているのでなければならない。ここにおいて、「人格的特性」を担う基体たる“人格的実体”なるものが立てられる所以ともなる。」141P
(対話D)「われわれ自身の理論的見地からは、右の思念相をそのまま追認しうるものではない。だが、今暫く、この思念相に仮託する流儀で議論を進めておこう。――本節の頭初に断った通り、本来であれば前梯をなす筈の事項の若干を次章以下での論脈内に持越す便法を採っている。このため、右に謂う“人格的実体”なるものの実相、溯っては「自然的規定性」(肉体および/ないし精神的な内自的特性)なるものの実態、これらを爰ではまだ直截に究明してみせうる段にはない。このことを諒とされたい。――」141P
(対話E)「嚮に叙べた線で、人格的な特性が「人物の具象的な現相在から一切の役柄存在的規定性・社会的対他存在規定性を捨象・剥奪してもなお残留する当該人物の非社会的=自然的特性」として思念されるからには、“人格的実体”を姑く棚上げとしても、「人格的特性」は「役柄規定の束」に還元さるべくもない。――後に立帰って示す結論を先取して言っておけば、われわれ自身の理路からしても人格的特性は役柄存在規定に還元し尽せるものではない。――」142P
(対話F)「茲に、用在世界の既成的“舞台場”に登場する人物は固有の人格的特性を具えた内自的主体(能為的誰某)が役柄的存在規定を帯びている者(役柄者或者)の相で現前する、という構制になる。“舞台場”の登場人物は斯かる二相的統合体の相で対他対自的に現存在しつつ相関わるのである。――われわれは、内自的存在規定と役柄的存在規定とを、対自的と対他的とに振り当てる者ではない。両既定ともそれぞれ対他対自的である。が、これを見定める作業は次章第二節に譲り、爰では慌(「あわただ」のルビ)しく「二相性」の構制そのことと両契機の存在性格に限って必要な確認を済ませておこう。」142P
第五段落――二相性」の構制そのことと両契機の存在性格 142-3P
(対話@)「役柄存在は、それが一種の“ゲシュタルト的同一態”であることに鑑みれば、イデアールな存在性格を有つ。役柄存在規定は、認知論的視角においてはイデアールな存在性格の「所識」であるが、役割(役柄)が興発的/当為的/期成的……価値性を“本具”することに徴して、価値的規定であること、このことは絮言を俟つものでもなく容易に了解されよう。もう一方の内自的人物主体なるものは如何? 用在世界の一切の与件が価値附帯的・財態的であるという論考準位で言えば勿論“裸の実在”ではないが、役割(役柄)存在規定との二肢的二層的な関係性に即して定位すれば、先刻の仮託的理路において、「自然的存在」と見做される内自的主体が「実在」の項(役柄的「価値」に対する「実在」の項)に立っていることが容易に追認される筈である。」142P
(対話A)「用在的世界の既成的“舞台場”に登場する人格的主体は、「実在的人物=価値的役柄」の二肢的二重態、斯かる一種の財態として現相在する。」143P
(対話B)「われわれは、爰で役柄存在の範型的イデアリテートに即して「慣行様態理念型(der habituelle Idealtypus)」を論じること、亦、人格的特性という(一回起的特個性ならざる) “普遍的・恒常的”な人物特性について「人物特性理念型(der charakterologische Idealtypus)」を云々すること、この途を撰ぶことで、人格的主体の二相性、そこにおける「実在=価値」の二肢的二重性に関して稍々立入って見極めることもできないではない。が、しかし、これの論定に実質的具象性をも賦(「そな」のルビ)え、方法論的概念装置としての有効的活用に資するためにも、敢て期する所あって後論へ持越すことにした論件を今や主題とするのが順路であろうかと思う。仍(「すなわ」のルビ)ち、此処では「人格的主体の二相性」の構図を図式的に見定めたところで率爾(「そつじ」のルビ)乍(「なが」のルビ)ら一区切りとしておきたい。」143P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(7)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第三節 人格的主体の二相性
(この節の問題設定−長い標題)「対他対自的関係性の場において現認される主体、すなわち、人格的存在者は、役柄存在者の相に既成化されつつも各々個性的特質を“内自的に”有つ能為者として了解され、一種独特の二肢的二重性を呈する。――人格的主体は「能為者誰某以上の役柄的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態、しかも、多重的な「実在−価値」成態の相で現存在する。」123P
第一段落――用在的世界という“人生劇場”における登場者達の人格的規定の構造的一瞥 123-4P
(対話@)「人は日常的生活の場において、他人を個体的人物として認知はしてもそのこと以上に一定の役割行動を期待したり、役柄存在基底で認識したりはしない(しえない)場合も現にある。われわれは「他者認知というものは恒に必ず役割(役柄)存在基底を伴っておこなわれる」と強弁するつもりはない。がしかし、役割(役柄)的存在規定相で現認しない場合ですら、当の人物が、男性であるか女性であるか、大人であるか子供であるか、老人であるか青年であるか、といったことを弁別的に認知しており、また、安全そうか警戒すべきか、一定のコミットメントを要するか無関与的に遣り過ごして差支えないか、といったことを弁別的に覚知している。このさい、男性か女性か、大人か子供かといった弁別的認知でさえ、単なる種別的認知なのではなく、応対的実践的な関心性が一般には籠っている。溯っては、そもそも、当の与件が、犬・猫……樹・岩……等々との示差的区別性において、ヒト個体(人物)として覚知される場面で既に実践的対処の態度・関心の構えが見られる。強そうか弱そうか、危険そうか安全そうか……といった判別的覚知に至っては兪々(いよいよ)そうであろう。これらの弁別的な規定性は、それ自身ではなるほどまだ役割存在規定性ではないが、実践的自他関係の具体的な在り方に関わる関心的規定性であることは見易い。――現実問題としては、初めて出会う人物といっても、帽子・髪型・服装・持物・風采・態度・面貌・動静……など、地位・役柄・職業といった、社会的規定性の判別徴標を即自的に色々と具えており、装束・制服・徴章など制度化されたシンボルを身に帯びている場合さえもある。――日常生活の場という“舞台”に登場する人物は、その役柄存在規定がよしんばまだ不明・未知であっても、即自的には既に“協演”者として了解され、その心算で対処される。」123-4P
(対話A)「日常的生活実践の既成的場面においては、剰(「あまつさ」のルビ)え概しては、既知の人物は既に一定の役柄的存在規定相で、しかも一般には然々の人格的特性を具えた個性的人物として現認されるのが常態になっている。」124P
(対話B)「爰では、行論を簡略化する便宜上、人格形成の発生論的機序の分析(これには次章第二節を当てる)を跳び越し、また、共互的役割行動そのことの内部的構制や編制の分析(次篇)に先廻りすることも辞さず、用在的世界という“人生劇場”における登場者達の人格的規定を構造的に一瞥しておくことが課題である。」124P
第二段落――役割(役柄)存在認知の発生論的経緯の最小限度配視 124-32P
(対話@)「偖、役割(役柄)存在認知の発生論的経緯を最小限度配視するところから始めよう。嬰児は、泣けばあの顔(母親)が現われるとか、ダッコーと言えば抱き上げられるとか、他人の行動を期待・予科するようになる。それだけでなく、早期から、他人の行動相(自分に向けられるもの以外をも含む)に関してディスポジショナルに覚知するようになる。すなわち、他人が一定の舞台的情況で一定の用在的道具を携えて動作を開始するや、彼はああやってああやるであろうという予科的予期(所作態と終局的状景の即自的な予期的予科)を泛かべるようになる。この局面ではまだ、予想とはいっても記憶的再生に類し、経過的予期なるものが既往における同一的過程の再生記憶と相即するものである限り、そして当の記憶的記銘が当該行動様態の恒同的反復の目撃に因るものである限り、この成立条件からして、予期的な予科はおおむね違(「たが」のルビ)わずに実現する。こうして、他人たちが一定の舞台的情況で一定の道具的用在を使用しつつ恒同的に反復する行動様態が分化・記銘され、当該諸行動の予兆や端初を視認したとたんに、現出するであろう所作相から終局相までの予期的な予科が生ずる次第となる。このさい、ディスポジショナルな予期的予科というものは、それが外(「はず」のルビ)れると失望感や不快感が生ずることに鑑みても、単なる予想ではなくして一種の期待としての性格を帯びているのが普通である。という次第で、自分に対して直接向けられたものではない他人たちの各種行動に関しても、舞台的・用具的布置に即応しつつ恒同的に反復するたぐいの行動様態について、所与の場面的情況に応じた一定の所作態と結末相を予期的に期待する心態が極めて早期から形成される。」124-5P
(対話A)「右に謂う予期的な予科は、成立の機序からして、当事者嬰児の意識(für es)にも、種別的に分化している。それはゲシュタルト的同一態(メロディなどもそうであるごとき継起性の所謂「時間的ゲシュタルト」)の相で覚知される。従って、それは、同一人物の行動において反復的に現認されるだけでなく、別の人物の行動に関しても同一のゲシュタルト的認知を生じうる。卑俗に言えば、同じパターンの行動様態が、特定の一人物に必ずしも固有というわけでなく、いろいろな人物たちにおいて認められる場合があるわけである。こうして、同じ行動様態(すなわち、「ゲシュタルト的に同一」な行動様態、この意味で同型的・同種的な「所作−結末」経過相)が、いろいろな人物の行動場において、若干の個性的な差異こそ伴いつつも、斉しく生起することが体験される。例えば食事とか入浴とか、身辺の人物たちが皆、ほぼ同じように現出する行動が現に多数ある。」125-6P
(対話B)「幼児の眼にとって、身辺の人物たちの誰もが時によって体現する行動様態でありながら、特定の人物においてはそれが日常茶飯に見られるのに、別の人物においては滅多に見られないたぐいのものもある。(例えば、ブザーが鳴ると母親は飛んで行くのに、父親は滅多に動こうとしない。母親が家に居る限り父親はまず自分で出ることはない。母親が留守の時だけしぶしぶと出て行く。)中には、特定の人物たちにしか現出しない行動の様態、裏返して言えば、或る人物たちには一度も現出しない行動の様態、裏返して言えば、或る人物たちには一度も現出したことのない行動の種類もある。――観察的認知から反(「ひるが」のルビ)えって自分に対する行動を期待する場合、所求の様態的行動の遂行を期待できる相手と仮令(「たとい」のルビ)期待しても叶わない相手とのあることに、幼児は気がつく。(例えば、ハイシ・ドードーを期待してオウマーと言うと、相手が父親であれば四匍いになって背に乗せてくれるが、母親は決して馬になってくれない。)同じ相手でも状況次第で期待が叶う場合と叶わない場合があること、つまり、舞台的情況や自他の条件次第によって、同じ相手でも期待通りに動いてくれる時と拒絶される時とがあること、このことをも幼児は体験する。(例えば、オンモーと言うと、祖母は大抵の場合戸外へ連れ出してくれるのだが、雨が降っているとといくら駄々をこねても相手にされないし、お客さんが来ている時や忙しい時には構(「かま」のルビ)って貰えない。また、自分が風邪で咳をしているような時にもオンもには連れ出して貰えない。等々。) ――再び観察の目に映ずるところでは、ゴハンの仕度はママ、オニワの手入れはパパ、オ仏壇の世話はオバーチャンというように、特定の種類のオ仕事は、誰か定(「さだ」のルビ)まった人物が専(「もっぱ」のルビ)らしていることが目につく。一括してゴハンの仕度といっても、それは(オ米を磨ぐ、オ釜で炊く、オミオツケを作る、オコウコウを刻む、……オ茶碗やオ皿を洗う……といった台所の仕事だけでなく、八百屋サンや魚屋サンや肉屋サンに買物に行く……といった)多種多様な行為から成っている。そういう多種多様な諸行為から成る(例えばゴハンの仕度という)オ仕事を(例えばママという)特定の人物が遂行していることが幼児にも理解される。」126-7P ・・・この件は、まさにジェンダー的(性別役割分業的)観点で書かれていて、廣松さんは特に性差別に関しては対象化できていなかったということが如実に表れているところです。マルクスの流れの中に、反差別ということを基底に据える作業をしようとしている、しているわたしにとっては、苦々しい件です。以下、同じ指摘ができる文が続きます。但し、これはあくまで差別的関係において起きている役割行動で、これを固定化することではないのです。後で、弁証法的に「錯認」の指摘が出て来ますが、それでも、ちゃんと、差別ということの指摘がなされていないことの不備は指摘せざるを得ないのです。
(対話C)「こうして、学知的見地から(für uns)規定して言えば、幼児はかなり早い時期から、大人たちが各種の役割(役柄)行為を分掌していることを認識する。」127P
(対話D)「人物に即して把え返せば、例えばママは、ゴハンの仕度のほか、オ洗濯やオ掃除、子供の世話といった一群の仕事を一身でおこなっており、パパは会社に行き、自動車の運転をし、庭の手入れをし、犬を散歩に連れて行き、……というように定った“仕事”をしている。新聞屋さんは新聞を配って来る人であり、郵便屋さんは郵便を持って来る人であり、八百屋さんは野菜を売る人、魚屋さんは魚を売る人である。翻って、ママとはゴハンの仕度、洗濯、掃除、子供の世話……という仕事をする人であり、パパとは朝早く会社に出かけ、夕方に帰って来、お休みの日に庭の手入れをし、犬を散歩に連れて行き……という仕事をする人である。パパ、ママ、郵便屋さん、八百屋さんといった人物は、それぞれ一定の仕事(役柄行動として一括される諸々の行動の一総体)を担掌する個体として認知される。」127P
(対話E)「以上で一端を指摘してきたごとき体験・観察を通じて、幼児は人々の役柄行動相での在り方を覚識する。――或る舞台的情況で或る用在的配備においておこなわれる各種行為(一定の様式で一定の結末へと至る各種行為)が、単なる個別的・並存的な諸行為として分類的に認知されるのではなく、あれこれの人物に対してのみ期待的に予期されうる行為種の一総体に錯分節化して覚識される。個体的人物甲は、斯々の際にしかじかの所作態でしかじかの結末相へと到るAという種類の行為をおこない、亦、然々の際にはかくかの所作態でかくかくの結末相へと到るBという種類の行為をもおこない、亦C・Dという種類の行為をもおこなうことをも期待できる(sich erwarten lassen)能作的人物として、個体的人物乙はK・L・Mという行為をおこなう人物として、丙はL・M・S・Tという行為を期待できる人物として……というように、ひとまずそれら諸行為の能作体の人物的一箇同一性を統合軸にして(謂うなれば同一個体の“諸性状”の如き相で)、A・B・C・D、K・L・M、L・M・S・T……が錯分節的に統轄される。この統轄された諸行為の一総体が、われわれの謂う「役柄」にほかならない。――こうして、ひとまずは、あれこれの、個体的人物への属人相において、一定の舞台的情況・用在的配備の場で特定の人物に期待できる「所作態−結末相」の錯分子的統轄態としての「役柄」行為なるものが幼児に現識される所以となる。」127-8P
(対話F)「「役柄」なるものがこうして一旦は属人相で成立したところで、今度は役柄の“脱人化”が生じうる。例えば、郵便屋さんは人物が代ってもやはり郵便屋さんであり、大工さんは別人でもやはり大工さんである。(このさい、同じ「郵便屋」さん、「大工」さんという詞で呼ばれるという言語使用上の事実も反照的に絡むことであろう。が、仕事の類同性の直接的な現認がさしあたっては要件をなす。)ママは、ウチのママも○○チャンのママも同様な役柄行動を演じていることが子供にも判るようになる。こうして、同じ役柄がいろいろな人物(といっても、そこには非常な限定があり、誰でもよいというわけではないのだが、ともあれ特定個体への属人性を離脱して、別の人物)によって演ぜられうることの現識が生じ、「役柄」なるものが謂うなればあれこれの人物の纏(「まと」のルビ)うことのできる装束にも譬えうべき相に脱肉化される。――なるほど、幼児の眼には、ママはいつもママであり、仮令風呂の中でもママ装束のままである。ウチのママと誰チャンのママとが同じママの装束を着(「つ」のルビ)けるといっても、それは謂うなれば、お揃いの服を着(「き」のルビ)ているようなので、一枚の上衣を貸借して着るような具合ではない。観察的認知の準位では、ママがママの装束を脱ぐこと、一般に個体的人物が役柄を脱いだ相で現認されることはありえないのであって、たかだか同じ役割(役柄)存在者が複数存在することに気づくという域を出ない。ところが、しかし、実践的関心の場においては、自分に対向しておこなわれる相手の行動の場合は特にそうであるが、幼児といえども屢々、眼前の行動当事者たるあの身の視座からの動態を覚識する。自分に対向しておこなわれる行動でなくても、或る種の場合、上述の「一体化的同一視」の機制で他人の身と“合体”した地歩での体験も生じうる。これらの場合、謂うなれば、あの身と“合一”した相と、この身の視座から観察する相との、複眼的相で「所作態−結末状景」を予期的展相で意識するのであって、それは後述の「観念的扮技」の構制になっている。この扮技にあっては「役柄」という統轄的“装束”を纏ったあの身と“合体”する限りにおいて、謂うなればあの“装束”へとこの身を置き入れ、そして扮技の終了後に、あの“装束”から身を脱ぎ離す。茲では、そこへと身を置き入れ、そこから身を脱け出させる“装束”的な役柄が既成的=自存的な相で覚識される。(人格的実体なるものと役柄なるものとが存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断して意識されるようになるのは後段においてのことであり、今の段階ではまだ“装束”的な役柄が“脱殻(「ぬけがら」のルビ)”の相で脱肉化されることはないが、しかし、現にあの身で充実されている相での時によってはこの身がそれと“合一”しているあの身によって充実されている相での“装束”が、あの身自体とは別の、既成相でひとまず意識されうる。)別の比喩で言えば、既成的な「役柄」なるものが、そこへと入り込んだり、そこから脱け出たりすることのできる“位置的場所”(position)、“場所的位置”(status)の相で覚識される態勢が爰に現成する。」128-9P
(対話G)「惟うに、幼児のいわゆるゴッコ遊ビが成立しうるのも斯かる態勢を前梯にしてのことであろう。――既成的「役柄」“装束”の現認というとき、パパ、ママ、郵便屋さん、八百屋さん、――といった役柄存在とならんで、学理的第三者の見地からすれば、パパ、ママにとってのコドモという役柄も慥かに存立しはする。がしかし、幼児本人がコドモという自分の役柄存在を自覚するようになるのは、他人の役柄存在の認知よりもかなり遅れてのことであろうかと思われる。成人においてすら、外部(「はた」のルビ)から見れば実に立派に役をこなしている場合でも、自己の“着装”している「役柄」を十全な相では現識していないのが普通であり、彼はその都度の対向的な他者の期待に応えてその都度の役割行動を円滑に遂行しているという域(しかも、その都度の役割行動さえ、役割行動としての十全な自意識なしにルーティーンにおこなっているという域)をなかなか出ない。況(「ま」のルビ)してや幼児においてをやであろう。幼児がコドモという役柄を自覚するのは、却ってママゴトという劇においてのことかもしれない。(ママゴトにおいて、コドモ役を担掌することにおいてというよりも、ママ役やパパ役を演ずることにおいて共軛的なコドモの役柄を対象化して認知するようになり、その役柄を実生活においても対自化するという過程が先行するであろう。コドモ役も一定の発達準位以降は自覚的にコドモとしての役柄を取得するようになりうるが、コドモ役として辛うじて遊ビに加えてもらえるようになる原初期の年少者は、相手役によるその都度の期待・督促に応じて何とか役割行動を遂行していても、そしてそのさい相手の「役柄」については了解していても、コドモ役という役柄相はまだ把えきれないように見受けられる。) ――ゴッコ遊ビが成立しうるためには、相応の「役柄」が既成相で分節的に現識されていることを前梯的要件とする。ゴッコ劇は日常生活の直接的な模造的再現というより、子供の世界内での伝承劇という趣きが強いにせよ、ゴッコ劇の役柄行動が理解され上演されるにあたり、実生活における役柄行動体験が前梯的な成立条件として大いに関与していることまでは否むべくもあるまい。役柄的行動のノウ・ハウが、全面的でこそなけれ、或る範囲と程度においては現識されていること、ゴッコ遊ビの成立は是を前梯的要件としている。」129-30P
(対話H)「ところで、「役柄」を現識しているとは、分析的に規定するとき、如何なる覚識が成立していることの謂いであるか? 役柄の現識とは、役柄なるものを明晰判明な対象知の相で、知識化していることを必ずしも必要としない。とはいえ、その都度その都度に現に期待されている行動を察知して即応するという域を超え出て、何々役とは斯々然々の行為をする役廻りであること、そのことのおおよそがあの“装束”にも譬えうる既成相で覚識されていることを含蓄する。尤も、自分の役柄をまだ役柄として十全に意識するに至らず、他人の演ずる役柄に関してのみ辛うじて“装束”的既成相で覚知している段階もありうる。が、その場合でも、他者たちの役柄に関しては、役柄の共軛的相関性に即自的には気づいているであろう。役柄の現識という態勢は役割行為の相関的共軛性の覚識を含意しているのである。」130P
(対話I)「「役柄」は、単に示差的な区別相で並存しているのではなく、ネットワークを形成している。――このネットワークが地位体系の相で現認されるのは反省的・学知的な見地においてのことであり、当事者の日常的意識においては必ずしもネットワークが十分に現識されているわけではない。とはいえ、役割的行為の共軛的相関性の構制は日常的意識においても逸せらるべくもない。なるほど、日常的に現識される役割相関性は、反省的・分析的な見地から見れば、極めて限局されており、視野狭窄(ママ)的ではあろう。しかし、その埓内で、「役柄」はかにかくにも対他相関性において分節化されている。錯分子的に統轄される分子的種別相での「役割」行為は、余程(「よほど」のルビ)高級な行為か余程低級な一人遊ビの如きででもなければ、一定の舞台的情況で一定の用在的配備において対向的当事他者との共軛的行動として遂行される。そして、単独者的行為の場合でも、それが苟くも役柄的行為に算入されるほどのものであるかぎり、(インプリシットな対他者性は今措くべきだとしても)少なくとも爾他の役柄との反照規定性において分節化して意識されるのが普通である。――従って、役柄は他の役柄と相関的・反照的に措定されている“装束”、そこへと諸々の人物が現に入り込んでいる(乃至は、そこへと入り込んだり、そこから脱け出したりすることが“可能”な)あのポジション(部署)の相で配位的に現認される所以となる。」130-1P
(小さなポイントの但し書き)「――斯くの如く、相関的配位相で既成態として覚識される「役柄」、それが「部署」であり、亦、いわゆる「地位」にほかならない。発生論的にも存立構造論的にも、その都度の期待的察知に呼応しての行為、すなわち、われわれの謂う「役割行動」が先件であり、役割的行動の特種的綜合(synthèse sui generis)において「役柄」なるものが覚識されるようになるのであるが、役柄なるものが既成態の相で意識されるようになると、当事者たちの直接的意識においては、往々、地位的役柄から役割期待が生まれるかのような倒錯視で形成される。われわれの看るところ、この倒錯視も謂われなしとしない。他者が役柄存在者の相在で現認されるようになると(元来、彼がその役柄存在者の相で現識されるに至った経緯からすれば、斯々然々の際には斯々然々の行為を彼に期待できることの経験的蓄積に負う予料的予期に俟つものであるにもかかわらず、当の既往的媒介過程は当事者の直接的意識には上ることなく)、彼に対しては、彼がまさに斯々の役柄存在者(斯々の部署・地位に在る者)であるが故に斯々の行為を期待することができるという具合に人は意識しがちである。併せて亦、彼は斯々の部署・地位に在る者なるが故に、他人(彼にとっての他人、従って、この自分もそこに含まれる)に対して、然々の情況下では斯々の対向的行為を期待して当然であるという具合に人々は意識しがちとなる。(ママはママなのだからママに対しては斯々の行為を期待でき、ママはママだからで、ママが他人に然々の行為を期待するのはママがママだからだ、という具合である。) ――これはわれわれの見地から見れば一種の倒錯なのであるが、当事者の日常的意識ゃそれを追認してしまう一部社会学者においては、既存的な「部署」「地位」に一定の役割期待が附属する相で意識され、あまつさえ、当の地位には一定の「権限」が附帯しているというように思念される。この錯認にもとづいて人々が行為することにおいて現行的社会生活が保たれている次第について、後に制度的物象化を論ずる際に立帰って論議する予定である。」131-2P・・・ここにおいて、先にわたしがコメントしたことに対する、それからのことが「錯認」−「倒錯」である旨がでてくるのですが、「性別役割」における差別(的錯認)の指摘は出て来ません。
第三段落――役柄存在相とそれを演ずる人物の個性的規定相、これら二相性、二肢的二重性を視野に入れて実践的主体の対他対自的関係規定性を分析する 132-9P
(対話@)「現実問題として、兎にも角にも、日常生活の舞台的場においては――幼児期以来の体験を介してそれが現成するのだが、当人たちにはそのことが自覚されぬまま――、登場する他人は先ず大抵は役柄存在者の相で覚知される。尤も、同じ種類の役柄存在者であっても、個性的な差異が見られる。同じ役柄を演じる諸人物の行為は同種的ではあれ、能為的主体人物誰某毎のいわゆる人格的特性が現に認められる。」132P
(対話A)「茲に、われわれとしては、役柄存在相とそれを演ずる人物の個性的規定相、これら二相性、二肢的二重性を視野に入れて実践的主体の対他対自的関係規定性を分析しなければならない。」132P
(小さなポイントの但し書き)「この作業に立進む前に、以下の立論にとって前梯となる以上での見方に対する、或る根本的疑義、ありうべき別見に応接しておくべきかもしれない。/応接を要する疑義・別見というのは、「人々の日常的意識においては、既知の他者の覚知はまずは固有名的覚知としておこなわれるのであって、役柄存在者としての覚知が直截におこなわれるわけではない」「子供が、あれはママ、あれはパパ、……あれは郵便屋サン、あれは八百屋のオバサン……と覚知するさい、子供本人にとっては、ママ、パパ、郵便屋サン、八百屋のオバサン……というのは、あの人物、一種の固有名詞なのであって、役柄存在規定ではない」という異見である。/これは、人物に関しては「何」(was)ではなく、「誰」(wer)ということが第一次的に認知的関心の的(「まと」のルビ)になるという議論、仰山に言い立てて行けば、人物に関しては「本質」ならずして「実存」が第一次的な関心事だ、という議論にも通じる。/哲学上の問題史的経緯との絡みで之は顚から無視するわけにも参らない。その限りで、また後論への伏線ともなる限りで、搦手からではあるが、敢て若干の応接を茲に挿んでおく次第である。/人物を現認する際、まっさきに氏名を内語的に泛かべるかたちで、「あ、○○さんだ」という認知が直覚的に現成するむきが慥かにある。だがしかし、それは当の人物が視覚野に新登場する瞬間の話であって、例えば、オフィス内での仕事仲間の姿が見えるその都度毎に名前が泛かぶわけではない。人物の認知が常に固有名的認知であるかのように考えるのはおよそ実態に合わない。/一般に、新規のものが知覚野内に登場した瞬間、例えば、オフィスに誰かが花束を抱えて入来した瞬間とか小鳥が迷い込んで来た瞬間とか、「あ、花だ」「あ、小鳥だ」というように、そのものの名前が泛かぶ、知覚野に新登場した物の覚知は、一般に命名判断(Benennungsurteil)を伴う。が、見慣れてしまうと、例えばオフィス内の机・椅子・窓……など、見る度毎に名前が泛かぶようなことはない。いつもは在った物がたまたま無くなったりすると、その時には「あ、○○が無い」という具合に、その不在のものがそれの名前を伴って意識される。但し、その物が運び出される(不在化する)のを目撃している場合には、そのことをすっかり忘れていた場合などを別とすれば、ことさらに「○○が無い」という現識も生じない。/右の一般的構制では事物の場合も同様であるにしても、しかし、事物に関わる覚知と人物に関わる覚知とでは決定的に相違するのではないか? 現に、物の場合には普通名詞が泛かぶのに対して、人の場合には「あ、人間だ」などと普通名詞が泛かぶのではなく、「あ、○○さんだ」という固有名詞が泛かぶ。これは大きな相違ではないのか?/結論から先に言えば、人物の場合には固有名詞が泛かぶという事実を以って事物認知と人物認知との決定的な相違の証拠だと見做すのは誤りである。事物については、本質的認知がおこなわれ、人物については実存的認知がおこなわれるなどと言い立て、その証拠として固有名詞的覚知を持出すなどもってのほかと卻けざるをえない。/理由はこうである。――事物には一々固有名が付けられないのに対して、人物には各々固有名が付けられており、人物の場合、その固有名を知らなければその人物と知り合ったという気にならないのは慥かである。ここには生活関心の向けられかたが、事物的個体に対する場合と人物的個体に対する場合とで相違することが確かに顕われてもいる。が、人々が生活圏内に在る山や河、神社や仏閣などにも固有名を付けて呼び分けていることを思い合わせるとき(ペットに固有名を付けるのは一種の擬人化的手法かもしれないが)、事物であるから、人物であるから、という存在上の種別が直接に名付けかたを別(「わか」のルビ)ったわけではない。雑草とか雑魚(「ざこ」のルビ)だとか一括して呼ぶか、種類ごとに呼び分けるか、雪といって一括するか、エスキモーのように三十何種類にも雪を分けて名付けるか、このこととも相通ずるたぐいの生活関心の向けられかたに応じての命名なのである。/もう少し敷衍(ふえん)しておこう。日常的な標準的言語活動レヴェル、日常的な言語活動レヴェルにおける分類・命名というものは、学理的・専門的その他、特殊的な関心からする分類や命名とは異なった体系をなす。学理的・論理的に分析すれば、なるほど固有名と種別名とはレヴェルを異にし、鶏・鴨・鳩……といった種別名と小鳥といった種別名、鯉・鮒・鮎……といった種別名と雑魚といった“類別名”とはレヴェルを異にする。それらを恰かも同レヴェルの“分類名”であるかのように並列的に使用するのは論理的には混乱ということになろう。しかし、日常的意識にあっては、種別名と或る種の“類別名”、それにまた、山や河などの固有名、こういったものが謂わば同位的な“標準的分類”名として並列的に用いられている。――そもそも命名ということは他者への伝達(これ自身、生活関心上の要件)のために成立したものであり、伝達の関心レヴェルによって決まってくる。普通の事物について普通には“種別名”で間に合い、特定個物を指定したいときには「確定記述」流の方式を採れば済む。これで以って特に不便を生じないというより、もしも普通の事物に一々固有名を付けていたら却って不便きわまりない筈である。ところが、生活圏内の山や河、特定の樹や岩など、固有名がないと日常的に不便にすぎるものもある。生活態勢・生活関心に便宜的必需に見合うかたちで標準的・基幹的な“部類名”の体系がおのずと成立する。そして、この日常的にスタンダードな“分類名”体系は、論理的に分析してみれば、“種別名”“類別名”の混淆的並列化ばかりか、謂うなれば固有名の混入をすら孕むかたちのものになっている次第なのである。――以上は標準的な次元に即しての議論であって、アクチュアルな呼称は、その場での具体的な関心レヴェルによっておこなわれる。一箇同一の与件であっても、犬と呼ぶか、哺乳動物と呼ぶか、脊椎動物と呼ぶか、動物と呼ぶか、生物と呼ぶか、反(「ひるが」のルビ)えっては亦、ブルドッグと呼ぶか、ポチと呼ぶか、関心の準位に応じて、認知的呼称がさまざまに岐れうる所以ともなる。/著者としては、こうして、人物に関しては固有名的覚知がまず直截におこなわれるという一部論者の主張(以って事物に関する種別的覚知との決定的相違性を唱える主張)を卻ける。/だが、誤解しないで頂き度い。著者としても、“標準的”な関心の向けられかたが、相手が事物の場合には種別的規定レヴェルの域にとどまりがちであるのに対して、相手が人物の場合には個体的分別(「ぶんべつ」のルビ)レヴェルに達する場合が多い、という事実は認めないではない。(“標準的”“普通には”という先刻来の言い方はケースを明確に規定しないかぎり論理的にはナンセンスに通じかねない。が、論趣は伝わっていると思うので、暫くこのままで押し通すことにしたい。)それは、しかし、あくまで生活関心レヴェルの在り方によるものであって、事物と人物との“存在論的別異性”とやらに照応するものではない。現に、群衆に目を向ける際などには個体的分別などおこなわれはしないのである。要は、関心の向けられかたの“標準的”な在り方の差異に懸っている。/人は、爰で動物心理学の知見を持出して、猿でさえ、異種の動物たるイヌ・ブタ……などには種別的認知反応、自分と同種のサルに対しては個体的弁別的反応を示すという事実(N.K.Humphrey)を指摘するかもしれない。なるほど、論理的に概念化すれば、別種の動物に対しては種別認知反応、自分と同種のサルに対しては個体的弁別的反応、と括ることのできる観察データではある。がしかし、反応の具体的内容に即すれば、種的認知/個的認知ということがポイントなのではない。関心的反応の在り方が異種の個体に対する場合と同種の他個体に対する場合とでは相違する、ということなのである。ヒトの場合も多分同断であろう。しかも、日常的生活の現場においては、認知反応といっても、観照ではなく、実践的な対他的関わりの構造内的契機なのである。/それでは、“標準的”な関心の在り方が、ヒトにおける対人物の場合、いかなる含みで個体的分別的になっているのか? 発生論的過程は姑く棚上げとしたまま、直截に、成人における既成的な対人物場面での関心の向けられかたを観てみよう。/成人の知覚野の内に未知の他人が登場した場合、その登場人物はいちはやく注意・関心を惹く。一般に、視野風景界に新登場するものは注意を惹くが(正確には、むしろ、注視の対象になることによって「地」ならざる「図」となって分節化するのだが)、与件が自分と同種の動物たるヒトである場合、天敵が登場した場合に劣らず、格別な注意・関心を惹く。そこには生得的にビルト・インされている機制が作(「はた」のルビ)らくもののごとくである。そのさい、新登場した与件=人物は、個体的分節相で知覚されることは勿論であるが、それは単なる一つの「図」=個物として分劃されるという域を超えて、男性か女性か、老人か若者か、といったことの弁別をも即自的に含んでおり、時によっては、強そうか弱そうか、危険そうか安全そうか……といったことの即自的な判定すら瞬時的に含まれている。この瞬時的な瞥見的“判別”を謂うなれば第一階梯として、そこで第二次的な対応(無関心に遣り過ごしてしまうという態度決定反応をも含めて)が継起する。/既知の他人が視野に登場した場合はどうか? 再認の覚識を伴うことは言うまでもない。(正確には、むしろ再認の覚識を伴うかぎりで、当事者にとってその人物が既知と言われうる。) が、再認知内容は既知性程度やその場の関心的情況などに応じ、勿論一様ではない。再認意識の最低限ともなれば、「どこかで見たことがある」という域を出ない。とはいえ、苟くも再認の名に値しうべき程の場合、その人物の氏名ぐらいは知って(憶えて)いて、再認と同時にその氏名が内語的に泛かぶ。つまり、上述の“固有名詞的覚知”の相で登場人物が現認される。――この再認の覚識を伴う“固有名詞的覚知”は、単なる一つの「図」=個物として再認的覚知、そしてその分劃的与件=個物のへの命名にすぎないであろうか? 断じて否である。嚮に未知の人物が視野に登場したさいの認知意識に即して述べたところのかなりの部分が、ここでも見出される。固有名での内語的呼称を伴って覚知されるからといって、与件が単なる一個物として認知されているにすぎないわけではない。ヒトという種の一個体として弁別されており、その一人物(ヒトたる一個体)が固有名という副表象を伴って覚知されているのである。記号としての固有名なるものは種別名よりも意味的に貧弱かもしれないが、“固有名的覚知”と呼ばれる意識事態は啻なる“種別的覚知”よりも豊富な規定内容を有っている。――なるほど、固有名的覚知が現成する場合、与件が果たしてヒトであるか、男性か女性か、危険そうか安全そうか、……といったことは、殊更に意識に上(「のぼ」のルビ)らないのが実情かもしれない。諸々の判別的規定性が謂うなれば固有名的把捉に統合されてしまう看があり、命名的覚知で要件が尽きたかの趣がある。だが、聊か反省してみれば、“固有名的覚知”が単なる個物呼称より以上の規定内容を有つ意識事態であることは容易に認められよう。/われわれは嚮に未知の人物を目撃した際に当初瞬時的に現成する“第一階梯の判別”を云々しておいたのであったが、既知の人物が知覚野に(それまで不在だったところ、突如として)現出した際の“第一階梯の分別”、それが謂うところの“固有名的覚知”にほかならない。われわれとしては把え返して斯う言うことができよう。/先刻来ひとまず認知的場面を問題にしたかぎりで、「知覚野への登場」という言い方を選んだ。がしかし、精確には、それは単なる「知覚野」「視界」ではなく「舞台的場」(舞台的意識空間)と言わねばならない。知覚野と舞台的場とは範囲的に重なって場合も慥かにある。だが、範囲的に重なる場合でさえ、認知的視角で抽出される知覚野と、実践的関心に展らける舞台的場とでは、分節態とその編制や意義性に相違がある。明識的知覚においては地化されている部分も舞台的場としては格別な有意義性を有ちうるし、況してや、準地的=準図的とも謂うべき相にある分節肢においてをやである。しかも、一般には、知覚野と舞台的場とは範囲的にもそのまま重なりはしない。知覚野の周縁部は舞台の袖にすぎないのが普通であり、反面では亦、舞台は狭義の知覚野の外部(例えば、自分の背後、物蔭など)にまで拡がっていることがある。舞台場は、狭義の知覚場から外(「は」のルビ)み出していても、そこに道具や俳優の現存することが既定の了解として現識されているかぎり、現在的舞台場なのである。――嚮に「知覚野への新登場」と呼んだのは精確には「舞台場への新登場」なのであり、例えば、未知の人物が視界に登場したとしても、それが遙か遠方で舞台的場の外部であれば格別な注意・関心は惹かない。(正確には、むしろ、人物が目撃されても殆んど注意・関心を惹かないような場面である場合、そこには舞台場の外部だと規定されるのが実態であって、事前に舞台場の線引きが自覚的・明識的におこなわれているわけではない。)逆に亦、例えば機械等の蔭で作業中と了解している仕事仲間は、狭義の知覚野の外部ではあれ、舞台場内に現存し続けている。従って、彼が機械等の蔭から視界内に出て来たとしても、それは舞台場への新登場でなく、殊更に“固有名的覚知”が生じたりはしない。――/曩(「さき」のルビ)に、「日常的生活実践の場における既成意識態においては既知の他人はまずもって一定の役柄存在者の相で覚知される」という提題を掲げ、そして、“固有名的覚知”の先行性という論件を閉却しえない限りでこの件に溯って脇を固める作業を挿んできた。が、今やこの脇固め踏んで言えば、未知の人物に関わる“第一階梯の判別”や既知の人物に関わる固有名的覚知という“第一階梯の分別”は、当の人物の「舞台的場への新登場・参入」の現認にほかならないのである。/本節の初めの個所で誌しておいた通り、未知の人物の舞台的場への出現を目撃して、男性であるか女性であるか、老人であるか若者であるか……を判定的に覚知する営みからして、すでに、単なる観照的認識ではない。それは実践的対処の仕方を決めるための実践的予備作業とも謂うべきものである。――舞台に登場・参入するに至っている人物は、畢竟するに、その役柄存在規定がよしんばまだ不明・未知であっても、即自的には既に“協演”者として了解され、その心算で実践的に対処される。/斯うして、われわれが応接の必要性を認めた疑義・異見、すなわち「子供が、あれはママ、あれは郵便屋サン、あれは八百屋サン……と覚知するさい、一種の固有名詞なのであって、役柄存在規定ではないのではないか」というありうべき見方に関して、“固有名的覚知”の場合もあることを顚から認めないわけでこそないが、与件が人物の場合でも、「第一次的には単なる誰(wer)ではなく、やはり、一種の「何(was)」、しかも実践的関心性に即してのSoseinの相で覚知される旨を反定立すべき所以となる。――日常的生活世界という舞台場への登場人物は、個性的特質も問題になるにせよ、殊に役割存在規定が要諦をなすのであって、著者としては嚮の提題を安んじて維持しうると念う。」133-9P
第四段落――個性的特質−各自的特有性 139-42P
(対話@)「日常的生活の場に登場する人物は、役柄存在規定で現出してはいても、各々個性的差異を呈する。この構制における個性的特質なるものに今や目を向ける段である。――――個性的特質には、初めから役柄的存在規定とは別の(謂わば役柄的存在規定と並存的な)個々人的特徴の相で覚知されるものもあれば、同種的役柄存在者(同じくパパとか、同じく郵便屋さんとか、同じく課長とか)でありながら演行様態に個人的差異があるという相で覚知されるものもある。が、いずれにしても、これら個性的特質は、“装束的”役柄を“装着”している生身の当人本人の特有性と見られる。では、当の各自的特有性とは何か、これが爰での論件にほかならない。」139-40P
(対話A)「偖、役柄存在規定性には“納まり切れない”個々人的特性は数多(「あまた」のルビ)認知されるが、爰では「役柄存在規定を身に纏う内自的各主体」という相で思念されるものに焦点を絞りながら検討を進めて行くことにしよう。――人生劇場に登場する人物は多重的な役柄存在規定性を纏っているのが普通であるから、当の人物の規定性が特定単一の役柄規定性に“納まり切れない”のは当然であるが、それら“外(「は」のルビ)み出している規定性”がそれ自身も別の役柄存在規定性である限りでは、今爰での直接的な論件ではない。けだし、今問題の焦点になるのは、役柄的存在規定性とは端的に別異な“内自的主体”の存在規定だからである。翻って亦、行動というものは“一回起”的であるから、同一人物の同一の役柄行為といっても、特個的規定性を帯びている。が、今問題にしたい個性的特徴はそういう次元での一回起的特徴ではない。それは、むしろ一箇同一の人物の諸行動を通じて“普遍的”“恒常的”に見出されるたぐいの傾向性・特性なのである。」140P
(対話B)「構図を見易くする一具として、野球監督の役柄行動を例にとってみよう。監督としての役柄行動の個性的特徴は、監督某氏という個体的人物の流儀・癖として一往は押さえられうる。――役柄遂行方式上のこの個体的特徴、傾向的特性が“既定的・既在的”であるからこそ、当事他者たちや観戦者たちは、所与の場面におけるその監督の采配振りを予想することができる(時としては裏をかかれる)わけである。この流儀的個性は、「役柄」を装束・衣服に譬(「たと」のルビ)えるとき、@同じく監督の衣服といっても衣服そのものに若干の個性差がある、A衣服そのものは斉同的であるが着る人物に個性差がある、という二様の仕方で説かれうる。人々は「役柄何々」という概念を立てるにしても、その内部に種差を持込む場合もあり、顚から@を排除するわけではない。とはいえ、一般には、人々はAの方式で説きたがる。そこでは、特定の同じ制服を着たとしても、着る人物の個性差が顕われる、という説き方になる。この次元で“着る人物の個性”というとき、彼が重役兼任であるとか、現役時代には捕手であったとか、彼が帯びている別の役柄規定性や社会的規定性も算入されうる。勝義での人物特性・人物的個性なるものは、しかし、もう一歩押進めた次元で立てられるのが通念であろう。――それは、一切の役柄規定性を、延いては、一切の社会的規定性を“脱ぎ棄てた”“真裸の”人物の内自的特性・内自的個性という次元での固有性として思念される。以下、右に謂う“真裸の内自的主体の固有性”という次元で「人格的特性」という詞を暫く用いることにしよう。」140-1P
(対話C)「「人格的特性」は右の含意で暫定的に規定される限り、一切の役柄的・社会的規定性を捨象してなお残留する特性なのであるから、要するに、一種の自然的規定性ということになる。(人物の内具するこの「自然的規定性」は、俗見的な思念では、肉体的および/ないし精神的(「プシヒッシュ」のルビ)なものとされる。) ――ところで、人格的な特性は、それが性質や機能であると見做される限り、伝統的な存在観の発想に則れば、それら自身で独立自存することは不可能であって、必ず一定の基体=実体に担われているのなければならない。視角を変えて言えば、性質や機能は必ず実体に内属・附帯しているのでなければならない。ここにおいて、「人格的特性」を担う基体たる“人格的実体”なるものが立てられる所以ともなる。」141P
(対話D)「われわれ自身の理論的見地からは、右の思念相をそのまま追認しうるものではない。だが、今暫く、この思念相に仮託する流儀で議論を進めておこう。――本節の頭初に断った通り、本来であれば前梯をなす筈の事項の若干を次章以下での論脈内に持越す便法を採っている。このため、右に謂う“人格的実体”なるものの実相、溯っては「自然的規定性」(肉体および/ないし精神的な内自的特性)なるものの実態、これらを爰ではまだ直截に究明してみせうる段にはない。このことを諒とされたい。――」141P
(対話E)「嚮に叙べた線で、人格的な特性が「人物の具象的な現相在から一切の役柄存在的規定性・社会的対他存在規定性を捨象・剥奪してもなお残留する当該人物の非社会的=自然的特性」として思念されるからには、“人格的実体”を姑く棚上げとしても、「人格的特性」は「役柄規定の束」に還元さるべくもない。――後に立帰って示す結論を先取して言っておけば、われわれ自身の理路からしても人格的特性は役柄存在規定に還元し尽せるものではない。――」142P
(対話F)「茲に、用在世界の既成的“舞台場”に登場する人物は固有の人格的特性を具えた内自的主体(能為的誰某)が役柄的存在規定を帯びている者(役柄者或者)の相で現前する、という構制になる。“舞台場”の登場人物は斯かる二相的統合体の相で対他対自的に現存在しつつ相関わるのである。――われわれは、内自的存在規定と役柄的存在規定とを、対自的と対他的とに振り当てる者ではない。両既定ともそれぞれ対他対自的である。が、これを見定める作業は次章第二節に譲り、爰では慌(「あわただ」のルビ)しく「二相性」の構制そのことと両契機の存在性格に限って必要な確認を済ませておこう。」142P
第五段落――二相性」の構制そのことと両契機の存在性格 142-3P
(対話@)「役柄存在は、それが一種の“ゲシュタルト的同一態”であることに鑑みれば、イデアールな存在性格を有つ。役柄存在規定は、認知論的視角においてはイデアールな存在性格の「所識」であるが、役割(役柄)が興発的/当為的/期成的……価値性を“本具”することに徴して、価値的規定であること、このことは絮言を俟つものでもなく容易に了解されよう。もう一方の内自的人物主体なるものは如何? 用在世界の一切の与件が価値附帯的・財態的であるという論考準位で言えば勿論“裸の実在”ではないが、役割(役柄)存在規定との二肢的二層的な関係性に即して定位すれば、先刻の仮託的理路において、「自然的存在」と見做される内自的主体が「実在」の項(役柄的「価値」に対する「実在」の項)に立っていることが容易に追認される筈である。」142P
(対話A)「用在的世界の既成的“舞台場”に登場する人格的主体は、「実在的人物=価値的役柄」の二肢的二重態、斯かる一種の財態として現相在する。」143P
(対話B)「われわれは、爰で役柄存在の範型的イデアリテートに即して「慣行様態理念型(der habituelle Idealtypus)」を論じること、亦、人格的特性という(一回起的特個性ならざる) “普遍的・恒常的”な人物特性について「人物特性理念型(der charakterologische Idealtypus)」を云々すること、この途を撰ぶことで、人格的主体の二相性、そこにおける「実在=価値」の二肢的二重性に関して稍々立入って見極めることもできないではない。が、しかし、これの論定に実質的具象性をも賦(「そな」のルビ)え、方法論的概念装置としての有効的活用に資するためにも、敢て期する所あって後論へ持越すことにした論件を今や主題とするのが順路であろうかと思う。仍(「すなわ」のルビ)ち、此処では「人格的主体の二相性」の構図を図式的に見定めたところで率爾(「そつじ」のルビ)乍(「なが」のルビ)ら一区切りとしておきたい。」143P
2025年09月16日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(6)
たわしの読書メモ・・ブログ711[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(6)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第二節 役割的行動と人格化
(この節の問題設定−長い標題)「能為的主体の他の能為的主体の期待に応えての行動を役割的行動と呼ぶ。役割的行動の場で、能期待者および所期待者の行為の理解、以って他己理解ならびに自己理解が進捗する。――役割的行為における対他対自的関係の在り方に応じて当事主体は共軛的な各々の人称性を帯びる。人称的対他対自関係の主体を人格と謂う。」99-100P
第一段落――「役割行動」 100-7P
(対話@)「能為的主体は、常に必ずしも、顕在意識的に他者の期待に応えつつ行動しているわけではない。当事者に即すれば、自発的に慾求的行動をおこなったり、自律的に期成的行為をおこなったりするのが寧ろ普通である。しかしながら、第三者的・学知的な見地から規定すれば(そして、当事者も反省的にはそのことを追認できるのだが)、人間の行動というものは殆んどが他者(達)の期待に応えてのものになっている。尤も、他者(達)の期待といっても、当の他者(達)自身は“当然的・自然的”な余り、自分が期待を差向けていることを顕在的には意識していない場合をも含みうる。(爰では勿論まだ、非人称的・匿名的な他人、いわゆる世間・世人(「ひと」のルビ)の“期待”に応えての行動といった高次的場面は論域外であり、対向的ないし環視的に近在する具身的他者の期待が専ら論件である。) ――学知的見地から見て、能期待者の期待に応えての、所期待者の応対的行動という構制が認められるかぎり、当の行動を「役割的行動」と呼ぶことにしたい。」100P
(小さなポイントの但し書き)「著者は嘗って次のように述べたことがある。/「他者」の興発的価値性の現前に呼応して発動される行動を、それが当事的他者ないし環視的第三者によって「期待(「エクスペクト」のルビ)」されている。様式的行動と(少なくともフェア・ウンスに)認めうる場合、筆者としては、それを当事他者に対向する「役割演技(「ロールプレイング」のルビ)」という概念に包摂したいと思う。<他者によって期待されている行動の−解発的(「アウスレーゼン」のルビ)に現前(「フォルコメン」のルビ)する当事他者に対向しての−呼応的遂行>、この間主体的に共軛的な関係性における実践を「役割行動」と呼ぶことにしたいのである。このさい、筆者としては、ステイタスやポジションを前梯にしてロールを云為する一部社会学者とは異なり、直接的・基底的な自他関係に即して「役割」という概念を規定していることに留意ねがいたいのであって、筆者に言わせれば、「地位(「ステイタス」のルビ)」や「部署(「ポジション」のルビ)」というものは、役割行動の機能的編制態が物象化され、一種の“制度化”をこうむることによって事後的に成立する。尤も、日常的現実においては「地位」ないし「部署」が既成的に確立している部面が多く、この既成性を前梯にしてしかるべき行動の期待がおこなわれるのがむしろ普通になっているのも確かである。このことを勘案して、「地位」ないし、「部署」の既成化に照応する次元での役割演技を特に「役柄」扮技と呼ぶことにし、必要なさいには「役割」一般から「役柄」を次元的に区別することに致したい、云々。/右の定式には規定不十分な暫定的表現ばかりか論件先取的ないし循環規定的な表現すらも孕まれており、これを以って最終的な規定とする心算はないが、著者の謂う「役割行動」なるものを暫定的に表象して頂く縁(「よすが」のルビ)になりうるかと念う。/著者の謂う「役割行動」は相手側(「パートナー」のルビ)の役割期待という意識的契機が存在し、且つ亦、その期待に対する即応性が存在する限り――実は、第三者によって、直接には第二者に対向しての一定の行動が期待されているような場合もあるのだが――、遂行者当人はそのこと[右に挙げた両契機の存在]に無自覚であるがごとき行動をも含みうる。それゆえ、全くの無意識的な共振的同調のごときこそ除外さるべきだとしても、共鳴的同調行動に属する或る種の位層から逸早く「役割的行動」に算入されうる。けだし、「役割行動」と著者の呼ぶ「共−互」的(mit-einander)な規定態は、発生論的には既に、信号的送受、対応的即応、模倣的協応の場面において存立するものである以上、行動発達論的な論脈においては、前節で言及したイナイイナイバーや遣り取り以前的な局面から早くも見られる。」100-1P
(対話A)「役割行動の具体相、それの成立機序や存立構造などの分析は次篇(わけてもその第二章「役割行為の共互的構造と協働的態勢」)中で履行する段取りであるが、爰では、期待され遂行される役割行為の対自的理解、当事相手の遂行的行為・所業的行為の所謂“意味理解”など、必要最小限の論究を試み、次節(「人格的主体の二相性」)の論考にとって須要な限りで、実践的主体の人格的主体性、人称性の問題の一端まで論及しておく段である。」101P
(対話B)「読者が已に賢察しておられるであろうように「役割」「役柄」と謂うとき、著者は演劇モデルで人間行為を概念的に把握しようと企てている。けだし、演劇は人間行為一般の構制的特質を増幅して看取し易い形になっている所以である。尤も、演劇といっても、爰ではむしろ即興劇を主として念頭におき、“筋書”や“舞台装置”や“演技”様式が既成化して「役柄」的に固定化している名作劇のたぐいが恰当(こうとう)なモデルとなる次元は後論に譲る運びとする。」101-2P
第二段落――役割行動に対する地位の先行性という錯誤 102-7P
(対話@)「役割行為の典型的なケースが、能期待者の側が顕在意識的に期待を差向け、且つ、所期待者側も期待されている所業的行為とその様態を自覚しているようなケースであることは言うまでもない。しかるに、嚮に誌した極めて広義の役割的概念では、例えば、初生児の泣声を聞いて授乳の期待と察し母親が授乳するとか、母親のあやしかけに応じて嬰児が微笑(「ほほえ」のルビ)み返すとか、このたぐいの反応行動さえ(無条件反射や単なる条件反射の域を超えるや)逸早く役割行動に算入される。茲に却って、役割行動に対する地位の先行性という考え、今の例で言えば、「母−子」という「地位」関係の先行性という考えが使嗾(「しそう」のルビ)されかねない。」102P
(対話A)「一部社会学者は「役割(「ロール」のルビ)」の概念を「地位(「ステイタス」のルビ)」概念から導出しようとし、一部哲学者は、“我と汝との役割行為関係”をすら「我−汝」の実体的「地位」関係から導出とようとする。著者としても、既成的日常場面では相互的地位の了解が先行する形で役割期待・役割遂行が現におこなわれる場合が多いことを進んで認める。とあれば、役割が先か地位が先かということに余り拘泥する必要はないように思われるかもしれない。がしかし、役割行動と地位体系のどちらを原初・原理に据えるかは、物象化論にとって重大な岐路であるのみならず、同じく役割理論(「ロール・セオリー」のルビ)と呼ばれても、本質的な相違を生ぜしめうる。」102P
(対話B)「この故に、われわれは次々篇の論脈内(出されたものはない)において、役割行動の物象化によって地位なるものの既成化が成立する発生論的機序をも見る予定であるが、本章内で後論する「我」と「汝」、「自我」と「他我」の人称性の問題とも関わるので、此処で傍白を挿む流儀で「地位と役割」を堯(「めぐ」のルビ)る問題の一端に言及しておこう。」102-3P
(小さなポイントの但し書き)「読者の中にも、既成理論の影響の下、「役割」に対する「地位」の先行性を密かに想定されるむきもあろうかと惧れる。時に、更(「あらた」のルビ)めて言うまでもなく、地位の先在性を主張する論者にとって最後の拠点とも謂うべきものが、実体主義的な想念での「我」と「汝」もさることながら、親と子、わけても「母」と「子」の間の関係性である。それ故、卑俗をも憚らず、この論材へのコミットメントから始めることを恕(「ゆる」のルビ)されたい。/「母」と「子」というのは、一見、子が産まれた瞬間には既成化しているように見え、共互的な実践関与とは関わりなしに前定(「フォルベンシュテイメン」のルビ)されている「地位」であるかのように考えられ易い。なるほど生物学的には、懐妊せる実体的個体とその胎内に存在するもう一つの実体的個体とを措定し、分娩・誕生という事件を機に、一者を母、他者を子と規定するのが常套であろう。しかしながら、社会関係論的規定においては、義母・養子、継母・継子の場合をも含みうることを引合いに出すまでもなく、母と子というのは単なる生物学的な生母子関係の謂いではない。しかるに、母なる者と子なる者とを実体化して発想するさいには、生物学上の母子関係に立つ両項的“実体”がそのまま社会関係上の母子関係に立つケースが標準的・通例的であるため、人々はとかく両規定を混淆してしまう。だが、われわれが間主体性論の論脈で問題にする母子関係は固(「もと」のルビ)よりのこと、発達心理学者や社会科学者たちが論題とする母子関係も、さしあたっては社会的関係としての母子関係である。ところが社会的関係としての母子関係といっても、ここでもまた、共互的な実践とは無関係に、むしろそれに先立って、母・子の地位が既定的であるように思える場合が現にある。養子縁組や継母子関係がもっぱら法律上の形式的手続きによって成立し、事後的にアクチュアル共互行動がおこなわれる場合がそれである。だがしかし、養母子、継母子の関係が「実の母子関係」の法的擬制であることは絮言するまでもあるまい。では、「実の母子関係」とは何か? 実体主義的に発想する人々にあっては生物学上の母子の関係(いわゆる「生みの母子関係」)と二重写しにされがちであるにせよ、それはいわゆる「育ての母子関係」を本質的な一規定性とするであろう。しかるに、この「育ての母子関係」たるや共互的・呼応的な一種の実践的な役割関係である。けだし、役割行為を俟って甫めて“母子という地位関係”も成立すると言う所以である。/だが、と反問するむきもありえよう。母という地位にあればこそ子という地位にある者を養育するのであって、母子の地位関係にない他所の幼児との間では「育て」の役割行動は遂行さるべくもないのではないか。慥かに、母・子としての社会的認知は養育行動の開始に先立って与えられうる。が、当事者間においては地位の相互承認が先行するわけではないということは今措くとしても、母・子としての社会的認知なるものからして、生物学的規定ならざる社会関係規定としては、両者間に母子的役割行動がおこなわれることを前提にしているのであり、論理的には所期的役割行動が先件をなしている。このことが納得(「なっとく」のルビ)されよう。/論者の中には、しかし、――母子関係の場合には、子の側の役割行動が子という地位の自己認識に基づくものではない限りで、母の側はともかく、子の側に即すれば確かに地位ないし部署を先件として役割行動を云々するのは不可能であることを認めたうえで――なおも、成人間(「かん」のルビ)における役割行動については地位の相互的承認が役割行動に対して前梯となっている旨を主張する者もありうる。/帝王と臣下、上司と部下といった上下の地位関係にしろ、商人と顧客、投手と捕手といった対等な部署的関係にしろ、およそ社会的関係らしい社会的人間関係というものは、一般に地位・部署が前定的であり、その既定的な地位・部署に応じてそれにふさわしい振舞(役割行動)が遂行されるのが実情ではないか? 「帝王が帝王であるがゆえに臣下たる自分は臣従するのだと人は思い込んでいるが、実は、人々が臣従するかぎりでのみ帝王たり臣下たるのだ」とはマルクスの援用する警句であるが、しかし、仮令(「たとい」のルビ)夫子(「ふし」のルビ)が臣従しなかったとしても、帝王は依然として帝王としてありつづけ、夫子は、臣従を強制されるのではないか? 拒否すれば、帝王は夫子を処刑することで君臣の実を実証するのではないか? これはありうべき想念であり、地位関係の先行性という当事者的思念を象徴的・寓意的に表出している。一部社会学者が地位を前定にして役割行動をそれに附帯させるのも、これと同根の思念に基づくものと忖度できる。/此の見解に対して、嚮に用いた表現で言えば、<他者によって期待される行動の−解発的に現前する当事他者に対向しての−呼応的遂行>、すなわち、役割行動が、発生論的にも論理構制上も先であることを論定し、「役割行動」の概念規定を明晰にするためには、発達論的には遙か後段に属する場面をも視野に引入れることを辞すことなく、「役割」「役柄」と「部署」「地位」との関係について一端を叙べる必要に迫られる。――われわれは、これまで、実践的な人間関係を論件にしてきたとはいえ、方法論的自己限定のもとに、さしづめ二個体間のその都度その都度の共互的な行動だけに止目する埓にあった。しかし、部署や地位という概念に関説するからには、単なるその都度の瞬時的な行動だけに止目したのでは不可であり、また、単なる二主体間の直接的な行為連関に留目しただけでは不全である。けだし、部署や地位についての主題的な立論は後論に委ねつつも、論脈を紊(みだ)すことをも憚らず、ここで若干の言及を追補しておく所以である。/扨(「さて」のルビ)、帝王と臣下、商人と顧客……の関係は、単なる二主体だけの関係ではなく、亦、当の関係を成立せしめる行為も一回起的なものではない。一定様式の行為の反復的出現が既定的に見込まれる事態、この既成性を前提にしてはじめて「地位」的関係が云々される。そして、事実、特定の個人が或る折りに<他者によって期待される行動の−解発的に現前する当事他者に対向しての−呼応的遂行>つまり「役割行動」を隅々実行しなかったとしても、地位関係という既成態は存続するのが普通である。特定個人が“何ぞ帝王ならんず乎”と意気がってみたところで、それだけでは「帝王−臣下」という既成的地位関係が消失するわけではない。がしかし、それは他の人々が(ないしは当人自身も他の折りには)臣従することに因(「よ」のルビ)る。皆が一斉に臣従的行為を断じておこなわなくなれば「帝王−臣下」という地位の成態も最早存在しえない。地位・部署というものが恰かも役割行動の実行・不実行からは独立に自存するかのように見えるのは、特個的な役割行動からの相対的自立性なのであって、そのさいは他の者の(ないし他の折における当人自身の可能的な)役割行動実行が地位・部署の存立を支えている。総体としてみれば、役割行動が地位・部署なるものを存立せしめており、役割行動あっての地位・部署なのである。(一本や二本髪が抜けてもハゲにはならないが、それは他の髪あるからなのと同趣の機制である!・・・ママ) ――地位・部署というものは、役割行動の単なる束ではないが、相補的・共軛的な役割配備の函数態とも謂うべきものであって“役割行為”の具体的な“演者”は入れ替わりうるにせよ、“役割行為”の遂行が端的に存在しなければ、地位・部署なるものは存立すべくもない。地位・部署とは“役割行為”の独自成類的な函数態的一綜合(une fonctionnelle synthèse sui generis)なのである。(尚、ここに“役割行為”“役割配備”と記したものは、精確に言えば、「地位ないし部署の既成化に照応する次元での役割」すなわち「役柄」の次元になっている)。そして謂う所の「独自成類性」は、後論において見定めるように、「物象化」の機制にもとづく一種の「制度化」に負うものにほかならない。/長大に亘った憾(うら)みこそあれ、以上の傍白を挿んだことで、今や捷径(しょうけい)的に議論を運ぶことが可能になっている。」103-6P
(対話C)「われわれは原理的には「役割的行動」の「役柄・部署・地位」への先行性を主張するが、用在世界という“人生劇場”における日常的・既成的な場面では殆んどありとあらゆる行動が社会学者流に言えばstatus and role(地位と役柄)に応じた役割演技として営なまれているのが現実である。――「役割(役柄)」演技というものは、啻(「ただ」のルビ)に共軛的なのではなく、複雑なネットワークを形成している。俳優たちが皆一斉に同じ役を演じたのでは舞台劇が成立せず、或る者はハムレット役を、或る者はオフェリヤ役を、或る者はホレーショ役を……それぞれ演じることにおいて甫めて劇が成立するという事情は“人生劇”においても同断である。父役が父役であるのは、母役・子役・老婆役……の共演においてであり、人生劇は味方役ばかりか敵方役をも含むネットワークを成し、個々の「役割(役柄)」なるものはネットワークの反照的規定態として存在する。――現実問題として、いわゆる経済活動や政治活動の具体的・現場的な営為がstatus and roleに応じた役割演技として営なまれていることは言わずもがな、挨拶などの日常的な儀礼行為からして演技であり、食事の仕方や排泄の仕方のごときまで、人間行動の様式は文化共同体に内属する他人たちによって期待されている行為方式に応ずる役割演技の構制になっており、まさに「呼吸(「いき」のルビ)の整え方」から「箸の上げ下ろし」に至るまで、人間行動は悉く役割行動として営なまれていると言っても過言ではない。」106-7P
(対話D)「当座の議論としては、しかし、右の事実を念頭に置きつつも、基礎的な問題場面に溯り、そもそも、役割期待・役割理解とは如何なる構制の事態であるのか、これを見定めておくことが先決要求である。」107P
第三段落――役割行為の構制要件を成す「能期待者」の(差向ける)「期待」に応えての「呼応的行為」 107-15P
(対話@)「役割行為の構制要件を成す「能期待者」の(差向ける)「期待」に応えての「呼応的行為」と一口に言っても、実際には多種多様に別(「わか」のルビ)れる。能期待者は、一人の対向的相手のこともあれば、協演を求めている複数の仲間や敵方のこともあれば、期待的に見守っている環視者のこともあれば、非人称的な世人のこともある。期待にも、単なる期求的期待のほかに当為的期待もあり、期待されている事態には、例えば問答の場合などのようにもっぱら所期待者の側での応答だけで全幅が尽きるケースから、例えば協力して岩石を運び移そうと求められている場合などのように、舞台的・手段的・対象的な物的要因をも絡む状況的変化のケース、さらには、例えばチームプレーの場合などのように個々の所期待者は臨機のパートを占めるにすぎない全一的な動態的進行といったケースまである。期待される呼応的行為の実質的内容が千差万別であることは述べ立てるまでもない。――眼前の人物の動静に関して、御当人からもさることながら、第三者から然るべき応待(助力・傍観・阻止・賞罰・等々)を期待されているので、第三者がどう期待する筈であるかを識るためにも、眼前の人物の動静、それの“意味”を理解することが要件になる。自分に如何なる行動(無為も含めて)が期待されているかを識るためには“舞台”上(広義の)登場している他者たち各々の“行為の意味”の理解が不断に必要とされている次第である。――期待の諸相や内実を周到に枚挙・分類することは爰での課題ではない。爰では、役割期待・役割理解の一般的構制を見据え、そこでの構造的要件をなす限りで、いわゆる“行為の意味理解”を論件としつつ、論究すべき案件の所在を確認する途に就けば差当たり足ろうかと念う。」107-8P
(対話A)「偖、期待察知・期待理解とは――前節で叙べた「“あの身”の視座から視る機制」や「この視座とあの視座との“区別化的統一=統一化的区別”」の機制、以って亦、「いわゆる“意識現象”(註)の“あの身”への帰属化」の機制に上乗せする流儀でひとまず記せば――理解者の側が期待者の側との件(「くだん」のルビ)の視座的“区別化的統一”の機制に俟って、一定の“意識事態”(これは期求的督促感を伴って表象されている一定の未決的状景であり、当の企投的未来状景とそこへ到る過程は“この身”[所期待者]を、そして場合によっては他の能為的主体との所作態をも、構造的契機として含む相で表象されている)を“あの身”(能期待者)に帰属化させる態勢の現成である。」108P
(註) ”が付いていないのを、つけました。
(対話B)「斯かる“期待察知”“期待理解”は、理解者の側での“勝手な思い込み”にすぎず、誤解の場合もありうるのではないか? 勿論、誤解の場合もある。だが、当面の論考の場面では、誤解であったことに(直接にであれ第三者の指摘を介してであれ)気が付き、“役割理解”が是正され、呼応的行動(役割行動が)が円滑に進行しうれば宜(「よ」のルビ)い。――その場合でも超越的な第三者(譬えば“神の眼”)から見れば全くの誤解の連続であって、落語の「コンニャク問答」に類する可能性を直ちには排却できない。が、他己認知・他者認識ということの原理的な権利づけ(「レヒトフェルティゲン」のルビ)に関わるこの問題次元については、次章最終節さらには本巻最終節の論脈に譲り、今爰では差当たり、仮令「(「たとい」のルビ)コンニャク問答」に類する始末あれ、兎にも角にも当事者達においては役割理解・役割行動が齟齬なく進展してるものと信じ込まれている事態に即して姑(「しばら」のルビ)く議論を進めておこう。このさい、誤解の是正が折々におこなわれうるということも、そのことの認識論的機制や権利は棚上げにしたまま、これまたひとまず前提的含意とする。――」108P
(対話C)「役割理解・役割行動の円滑な進行というとき、能期待者は対向相手とは限らないのであって、上述の通り環視的第三者や非人称的世人が能期待者の場合もある。特にこのような場合には、期待されている役割行動を実行する直接の相手は、能期待者とは別の登場人物である場合が多い。それ故、期待されている役割行動を齟齬なく遂行するためには、直接に応対すべき相手当人は別段当方に期待を差向けていない場合であっても、相手すべきその人物の動静、その行為の“意味”を(望むらくは第三者的能期待者の認知と合致する相で)理解できなければならない。」108-9P
(対話D)「ここにおいて、役割行動の齟齬なき遂行が可能なためには、他人の行為一般を理解することが要件になる。つまり、或る他人が直接に当方に対する能期待者である場合だけでなく、当の他人は第三者の懐く期待の構造内的一要因たるにすぎない場合にも、当該他人の動静、彼の“行為の意味”を理解することが必要とされる。という事情から、われわれは他人の行為の意味理解という問題に直面する。が、惟えば、役割行動の場では、他人によって理解されている自分の行為の対自的理解も折々に必要とされるので、自分の行為の意味理解も逸せない。茲に、能為的主体によって遂行される行為一般の理解が論攷課題となる。」109P
(対話E)「ところで、行為理解とは多肢多様な要因を含む極めて複雑な事象であって、一気に論じ去ることは到底期し難い。今爰では、当座の行論にとって最小必要限の論件に絞ることにしよう。――この限定下にあっても論件は相当に複雑多肢となる。行為の理解というとき、マックス・ウェーバーの謂う当事者の「主観的思念せる意味」の理解が論件になるが、われわれとしては、当事者の意識には必ずしも上っていない部面まで含めて行為の意味を理解する必要がある。」109P
(対話F)「行為とは、学知的(「フェア・ウンス」のルビ)に規定すれば、一定の未来的状景という目標の実現に向かう能作的所作=所作的能作であるが、目標状景は能為的主体の終局的所作態には尽きずいわゆる物的な要因をも含む諸多の契機から成る。そして、謂う所の「終局的所作態」すなわち「所業的行為」(actum,Handlung)へと到る能作的所作=所作的能作、すなわち、「遂行的行為」(actio,Handeln)は、それ自体多種多様な所業的行為の一つ一つに関してさえ多肢多様性を呈しうる。が、以下では暫く、目標状景の種別には立入ることなく、また、実現目標と達成目的という実在と価値との区別性・二肢性を主題化することなく、期求感を伴って未来完了時制的に表象された目標(目的)を行為の目標(目的)性動機と総称する。(このさい、謂う所の「期求感」の慾動的/当為的といった種別や「未来完了時制的な表象」がフェア・ジッヒであるかアン・ジッヒ=フェア・ウンスにすぎないかという区別は、ブラック・ボックスのままとしておく。)そして、行為の企投(すなわち、一定の未来的状景を期求感を伴って未来完了時制的に表象すること)そのことを動機づけた(と対自的にであれ即自的にであれ認定される)過去完了時制的に先行する事象を行為の理由性動機と呼ぶ。(尚、企投がフェア・ジッヒではなく、企投的行為の構制がフェア・ウンスに認定されるにすぎない場合、すなわち、狭義の「行動」Verhaltenの場合にも推及して、必要な場合には、行動の理由性動機と呼び分ける。) ――行為の意味を周到に理解するためには、目標実現へと到る遂行的行為そのことの分析を要するが、以下暫くは、目標性動機を恰かも遂行的行為の所作的終局(所業的行為)に矮小化するかの如くに、そして、遂行的行為はそれを実現する単なる手段にすぎないかの如くに、夫々を遇する便法を恕(「ゆる」のルビ)されたいと念う。尚、行為の意味というとき、当人の企図を遙かに超え出たり、当人たちの企図に全く反したりする社会的・歴史的な意味まで含まれる(例えば、コロンブスの新大陸への到着とかバスチーユ襲撃とか、ヒットラーのソ連侵攻とか)。このことの勘考をも要するが、所業的行為に関する意義評価や遂行的行為に関する価値評価という次元は(「目的価値−手段価値」の一部分を除いては)後論に委ね、爰では能期待者・所期待者にとっての行為の意味理解という次元に限定する心算である。」109-10P
(対話G)「われわれの当面の主題をなす「行為の意味」の理解、こうして、さしあたってはまず、行為の目標(目的)性動機の理解および理由性動機の理解を焦点とすることになる。――第一巻において、記号的意味の理解に即して、「叙示(指示かつ述定)的意味」の理解、「喚起的意味」の理解ということに論及しておいたが、以下での議論は「叙示的意味」の内容はブラックボックスに収めたまま、「表出的意味」の一部と「喚起的意味」の一部とに関わる意味理解を問題にする所以ともなるであろう。」110-1P
(小さなポイントの但し書き)「識者は先刻来、著者がアルフレート・シュッツがウェーバーのそれを批判しつつ展開した「動機」理解理論を強く意識しつつ立論しようとしていることを察知しておられることと思う。慥かに、著者はシュッツとの接点を設けようと図っている。成程、シュッツには、他者による期待・期待察知・期待理解に縁(「よ」のルビ)る役割行動、という視角が存在せず、彼にはそもそも役割行為論という視点が存在しない一事を鑑みただけでも、彼と著者とは立場を大きく異にする。しかし、それにもかかわらず、「行為の意味」理解論、「動機」理解論に関しては、彼の業績は批判的継承を図るに値する。/今爰ではシュッツの当該業績を詳しく紹介したり批判したりする意趣はないが、(この作業には独立の一書『現象学的社会学の祖型――A・シュッツ研究ノート』青土社、一九九一年刊、を既に当てておいた)、しかし、継承点と批判点とを明示的に誌しておくことが無用の誤解を防遏し、捷径的に議論を運ぶ便となる限りで、ここで若干のコメントを挿んでおこう。/ウェーバーの理解社会学は、周知の通り、行為者(たち)によって「主観的に思念(「マイネン」のルビ)された意味」の理解を標榜する。ウェーバーは、意味理解を、(一)「直接的(aktuell)な理解」すなわち「行為(表出をも含む)の思念された意味の現認的(「アクチュエール」のルビ)理解」と、 (二)「説明的(erklärend)な理解」すなわち「動機に則した(motivationsmäßig)=動機順拠的」理解とに分けて論じたのであった。/(一)は、(イ)想念(「ゲダンケ」のルビ)の合理的・直接的理解、 (ロ)感情の非合理的・直接的理解、 (ハ)行為の合理的・直接的理解、に岐れる。――(イ)は、例えば2×2=4という命題の意味の理解、(ロ)は、例えば、顔面表情や怒声や動作に表われる怒りといった感情の理解、(ハ)は、木を伐っている人の行動とか、銃を構えている人の行動とか、こういった振舞いの理解。/(二)は、動機の合理的/非合理的に応じて、(イ)合理的・動機順拠的理解と(ロ)非合理的・動機順拠的理解とに分けうる。――われわれは、2×2=4と言ったり書いたりしたひとが、商売上の勘定をしているのか、科学上の証明をしているのか、技術上の計算をしているのかを……動機順拠的にも理解する。木を伐っている男が、賃金のためにその行為をしているのか、自家利用のためにそうしているのか、リクレーションとしてやっているのか(以上なら合理的)、それとも、激情に駆られて切りつけているのか(非合理的)、或るいはまた、射とうとしている男が、銃殺命令ないし攻撃命令でそうしているのか(合理的)、それとも復讐の念に駆られて狙っているのか(感情的、従ってこの意味での非合理的)、これを知るとき動機順拠的に理解することになる。/シュッツとしては、ウェーバーにおいては「意味」なるものが種別こそあれ謂わば単層的に扱われていることを見咎めて、「意味」を五層に分けてみせ、また、「行為者が行為に結びつけている意味」と一口に言っても、その都度の脈絡的情況に応じた機械的意味と、謂わば辞典的標準的な範型的意味との区別があり、これに応じて意味理解の在り方が岐れることを指摘する。彼は、ウェーバーに対する批判的指摘を踏まえて積極的に自説を展開するためにもウェーバーにあっては稍々安置に前提されている憾(「うらみ」のルビ)のある他我認知・他者理解ということの原理的可能性に溯って哲学的論攷を開陳している。とはいえ、著者の看るところ、遺憾ながら、シュッツの他我認知論・他者理解論は原理的に失敗に終っており(この間の次第については前掲別著における詳細かつ内在的な分析の参照を願うに留め)、爰では紹介・検討に立入るには及ぶまい。また、ウェーバーの謂う「直接的理解」は、われわれの謂う叙示的意味の理解の次元に属したり、表情感得的理解の次元に属したり、大部分は当面の論域外であって、配視を必須とする部分は僅少である。という次第で、爰では主として、「動機順拠的理解」を問題にしておけば足ろうかと思う。/偖、そこで、動機順拠的理解についてであるが、ウェーバーは「動機」とは「行為者(たち)自身に、或いは観察者に、行動の有意味的<根拠>とみなされている意味聯関態」の謂いとしていた。シュッツの見るところでは、しかし、ウェーバーにあっては、動機ということで二様のものが(自覚的に区別されることなく)考えられている。「○○のために」という目的性の動機(das Umzu-Motiv)と「○○だから」という理由性の動機(das Weil-Motiv)がそれである。――例えば、友人を訪問した動機を問われて、「借金をするために」と回答・説明することも、「借金しようと念ったから」と回答・説明することもある。このような場合、形式的には、一方は目的性動機を、他方は理由性動機を述べてはいるが、実質的には大差がないとも言える。現に、日常的な言語活動の場では、このような場合のUmzu-SatzとWeil- Satzとは、実質的な意味を変ずることなく互換的に書換えが可能である。ところが、例えば、「叫んだのは怒ったからだ」「殴ったのはムシャクシャしていたからだ」といった理由文は目的文に書換えることができない。この相違は奈辺(「どこ」のルビ)から来るのか? 理由動機が別種であることに由来する。先のケースでは「借金」という目的、この「目的投企(借金しようとの投企)」そのことが理由とされている。それにひきかえ、後(「あと」のルビ)のケースでは「叫喚」「殴打」という行為を「投企した(ことの)理由」が述べられている。要言すれば、前者では「投企そのこと」が説明理由とされているのに対して、後者では「投企を生ぜしめた原因」が説明根拠とされている。シュッツは、前者すなわち、形式的には理由性動機を述べる形になっていても目的文に書換えのきくような場合、「仮性の理由性動機」(das unechte Weil-Motiv)と呼び、後者、すなわち、目的文への書換えを許さないものを「真性の理由性の動機」(das echte Weil-Motiv)と呼んで、内容上区別する。――/われわれとしても、シュッツを踏んで、目的性動機と理由性動機とを区別しつつ、猶且つ、彼の現象学的社会学の立場的限界性、それに因由する彼の理説の欠陥を克服しつつ、行為の意味の動機順拠的理解の実態を見ておこうという算段である。」111-3P
第四段落――理解(解釈)される対象的意味諸契機に留目し、そこでの内部的・構造的な聯関を構図的に見定める 114-7P
(対話@)「行為の意味の理解(延いては説明)という認知的営為においては、理解(説明)者の持合わせている「意味聯関態」(Sinnzusammenhang)が解釈(説明)図式として動因されるのであり、周到に論ずる際には、当の意味聯関態や解釈図式の先行的/並行的な形成をも究明することが課題になるのであるが、爰では、この部面は脇に置いて、もっぱら理解(解釈)される対象的意味諸契機に留目し、そこでの内部的・構造的な聯関を構図的に見定める流儀で行論を急ぐことにしたいと念う。」114P
(対話A)「行為の説明的理解に際しては、行為(遂行的ないし/および所業的な行為)の事象的諸現相の認知に基づいて、目的性動機または/および理由性動機に則って、理解(説明)がおこなわれる。行為の事象的現相の認知そのことの諸層や認識論的構制・権利といった問題次元(この件の一端には次節で立帰る)には今は立入ることなく議論を急ぎたいのだが、説明的理解は所与の行為事象を目的または/および動因と関連づけるという構制になる。――このさい、目的や動因は、一般に既知でなく、一般には、所与の行為事象を手掛りにしてあれこれと思い泛かべられ、それら可能的目的または可動的動因の特定のものに確信的に絞り込まれる、という仕方で認識される。しかも、一般には、現与の所与的事象から直接に推察されるのではなく、企投の場面に溯って(この企投をフェア・ジッヒと解するにせよ、フェア・ウンスな構制と自覚するにせよ)企投の目的/および動因が思い描かれる。この作業は瞬時的に完結することもあれば、試行錯誤的な逡巡過程を経てなかなか終結しないこともある。が、ともあれ、企投の目的/動因の“確定的”意識化=認識が成立し、所与的行為事象がそれと反照的に関連づけられる。――そして、じつは、企投目的との反照的関連づけにおいてはじめて所与の「能為的主体の能作的所作=所作的能作」現相が「遂行的行為」として理解される所以となる次第なのである。(そもそも、企投から目標実現まで[正しくは目的達成まで]の経過事象、この一全体が「単位的行為」の基本である。なるほど、当座の「企投−目的達成」がより遠大な「企投−目的達成」の「手段」的行為であり、当座の目標は中間的目標[手段的目標]として位置づけられる場合がある。その場合には「行為」が錯構造を呈する。が、単位的行為はあくまで「企投−目的達成」の過程的一全態であることが銘記されねばならない。)」114-5P
(対話B)「ところで、シュッツは、目的性動機とは「遂行的行為によって成就さるべきものとして、未来完了時制的に径行され了った相で想像されている所業的行為」の謂いであるとし、真性の理由性動機とは「投企そのものを動機づけた、過去完了時制的な体験」の謂いであるとする。未来完了時制的(modo future exaccti)、過去完了時制的(modo plusquam perfecti)というのは宜しい。しかし、彼の場合、成就さるべき目標事態が「所業的行為」(Handlung)に局定されているのがまず頂けない。われわれは、企投される目標的終局状景は、企投者当人の所業的行為に局定されるものではなく、所期待者たる他人の所業的行為やいわゆる物的状態などをも構造的に含みうるものとする。この相違は措くとしても、何よりも問題なのはシュッツがわれわれの謂う「実現目標」という実在性と「達成目的」という価値性とを区別していないことである。彼は彼の謂う「所業的行為」を「目標」(Ziel)とも「目的」(Zweck)とも呼ぶが、事実性と価値性との区別に無自覚である。われわれとしては、目標概念を拡充し、且つ、実在的目標と価値的目的との区別性・二肢性を明識しつつ事に当らねばならない。シュッツの理由性動機概念にもこれまた本質的な限界・難点が孕まれている。彼は、現象学的意識分析主義の立場に禍いされて、企投そのことを動機づけた先行的体験、つまり理由性動機なるものを、当人が内省的に回顧できる表層的意識体験の枠内に限っている。彼の場合ベルグソンを踏んで、企投的意志発動の場での決定論的な因果連鎖を棄却する意想ともそれは関連しており、われわれとしても企投的起動を安直に身心因果論的・神経生理学的連鎖で説こうとすることには警戒を要するが、表層意識に上(「のぼ」のルビ)る過去的体験だけではとうてい企投を生じた動因・理由を十全に理解することには覚束ない。加うるに亦、彼は殺人教唆といった例すら挙げておりながら、他人による期待的督促、役割期待ということを企投の動機・動因として配視してはいない。われとしては、企投を生ぜしめた理由性動機として、いわゆる“深層的体験”や“深層的機制”をも勘案し、表層的意識にも上る理由性動機の重要な一斑をなす役割期待の察知、期待への呼応を配視しなければならない。」115-6P
(小さなポイントの但し書き・・・この文章は小さなポイントですが、頭下げがなされていません。内容的には但し書きになっているので、「小さなポイントの但し書き」にしました)「――論者の中には、行為の説明的理解、学理的な説明に際しては、「当事者の主観的に思念せる意味」など事実上無視しても差支えない、と主張するむきもある。学理的説明においては、行動を惹起せしめた客観的原因と、行為のもつ客観的意味を解明すれば足る、というわけである。これは存外と有力な理説でもある。著者は、論者たちの謂う“客観的原因”や“客観的意味”の配視を否む者ではなく、その次元をも勘案すべきことを積極的に主張する者ではあるが、しかし、当事者たちの主観的に思念せる意味を“内在的”に理解することも有意義であると考える。著者が有意義性をそれに認める理由については別著『哲学の越境――行為論の領野へ(勁草書房、一九九二年刊)を参看願いたいと念う。」116P
(対話C)「日常的生活の場において、人々は他人の行為を不断に目的性動機/および理由性動機と反照的に関連づけるという構制で意味理解している。そこでは、深層的動機にまで掘り下げて理解することこそ稀であるにせよ、表層的理由動機は現認的に理解されており、往々に、差向けられた期待的督促、役割期待が動機をなしていることが認知される。目的性動機、これには期待された役割行動を達成しようという動機の場合が多々あるのだが、遂行的行為がそこでの目的との反照において手段的価値性を帯びた相で理解され、実現された所業的行為もそれの帯びる目的価値性と反照的に了解される。目的の企投が、対自的であれ、即自的であれ、また、原発的な慾求的/期成的/当為的な動機に由るものであれ、期待の察知を動機とするものであれ、所与行為について企投目的と反照的に関連づけて理解するという構制では斉(「ひと」のルビ)しい。行為の意味理解とは、当座の論脈では、こうして(さまざまな動機を顧慮しつつも)企投目的との反照的理解の謂いとなる。」116P
(対話D) 「行為の意味理解には、機会的特個性における理解ばかりでなく、軈てそれを通じて成立するようになる、範型的一般性における理解(これにあっては目的との反照的規定性が所与行為に謂わば内自化された相にある)も存在する。周到な理解には、翻って亦いわゆる人格的特性の勘考も必要とされる。が、これらの事項を視野に入れた他者理解論は次章まで持越すことにして、爰では稍々性急に“略画”を閉じる運びとしよう。(尚、前掲『哲学の越境』の第十章においては、身体行動現相を行為として認知する構制という本書では割愛した論点、行為理解、行為の意味理解を論考するに当って本来なら関説して然るべき論点にも一応は触れておいた。就いては、爰での行文を聊か補全するものとして、茲にあらためて参照を乞い度い。)」116-7P
第五段落――役割的行為という対他対自的関係態において占める布置に即して能為主体どうしの人称的関係が成立 117-23P
(対話@)「能為的主体は他の能為的主体の意向・行為を理解することでしかるべき即応的な行為(無為を含めて)を遂行する。この役割的行為という対他対自的関係態において占める布置に即して能為主体どうしの人称的関係が成立する。」117P
(対話A)「第一巻(第一篇第二章第二節)において、人称性の問題に予告的に言及し、著者としては通常の文法的人称規定とは稍々異なる視角から扱う旨を述べ、「対象的指示称」「自他的共軛称」「我々的協同称」という概念的図式を提示しておいた。――「対象的指示称」というのは、人称の第一類型というよりもむしろ前梯と呼んでしかるべきむきもあるのだが、人称的帰属性が反省的に明識化された場合に狭義の第三人称「誰かにとってソレ」を現出せしめる構制を具えている限りで一類型として挙げたものであった。これにおける「誰か」は反省的には必ず「私」とは限らず「汝(等)」や「彼(等)」でもありえ、「ソレ」も事物的個体には限られず、他人や、対象的個体相で意識されている場合の自身でもありうる。「自他的共軛称」というのは、人称的分極化の原基形態であって、認知的には或る事態の自他的不共属の態勢、すなわち、対他的帰属かつ対自的不帰属、または、対自的帰属かつ対他的不帰属という“対他−対自”関係が覚識されている場合に照応する。が、ここでの自他は“この身”“あの身”の次元でのそれであり、“あの身”他者は後の段階での「汝」と「彼」を未分化的に包括する。「我々的協同称」というのは、自他の共軛性において能為的役割主体としての相互的承認を遂げつつしかも自他の協同的一致が対自化されている場合に順応する。――是を承ける形で議論を進めることにしよう。尤も、前梯たる「対象的指示称」の準位は既に前節の行論中で、“発生論的”に見ておいたので、爰では「自他的共軛称」を役割行為的場面で捉え返しつつ、「自我−他我」の分極化と他我の「汝」「彼」区別化の場面から論述すれば足ろうかと念う。」117-8P
(対話B)「発達論的に見るとき、言語活動と相即的に人称的分化が進捗することは確かだとしても、嬰児は言語使用的発話を開始する以前において既に、「対象的指示称」ばかりか「自他的共軛称」の構制を覚知する域に達していると目される。言語的活動は役割行為の一種にほかならないが、嬰児は言語活動以前的な役割行動の場で、不十全ではあれ、自他的共軛の構制を覚知する域に至っているものと忖度される。――チンパンジーは、聾唖者用の「手話」(身振言語)などを用いてヒトとの対話を訓練すると、一人称代名詞(I)、二人称代名詞(you)、それに一人称複数の代名詞(we=I and you)まで使いこなす由である。自然状態においても、マウンティングや毛ヅクロイなどの“役割行動”に鑑みるとき、“自他共軛称”的構制程度は覚知しているのではないかと思われる。――」118P
(対話C)「役割行動が「能期待者−所期待者」構制の覚知にもとづいて遂行されるようになっている場面、すなわち、「役割期待」の「察知にもとづいた呼応的活動がおこなわれる場面では、前節で叙べたところを想起して頂けば済むであろうように、“あの身”“この身”が既に「能為的主体」相で覚知されるに至っており、第三者的見地からは「他我−自我」の対向的分極化を云為することが早くも許されるであろう。「我(Ego)」という詞を(代名詞的にではなく)名詞的意味で用いるとき、能為的主体(能知的かつ能動的な主体)を「我」と呼び、「あの能知的主体−この能知的主体」を「あの我−この我」(「他我−自我」)と呼ぶのは、日常的用語法をほぼ追認したにすぎないからである。」118P
(対話D)「問題は、今や「他我」の人称的分化、ならびに、それとの共軛性における「自我」の人称関係的“分化”である。発達論的には、この分化も代名詞の言語的使用以前から実質的には始っていると考えられる。」118-9P
(対話E)「無用の混乱を招かぬようここで言葉を挿んでおきたいことがある。W・フンボルト以来、多くの論者によって、人称代名詞は位置関係を示す「近称−遠称」の副詞/代名詞から派生したものであることが指摘されている。現存するものだけでも少なくとも数千種に上るといわれる地球上の諸言語について、それが一般的に妥当するものかどうか審(「つまび」のルビ)らかでない。が、日本語の場合についても「ココモト・ソコモト」、「テマエ・オマエ」といった表現があり、位置関係的表現と人称的表現とのあいだに関係性のあることまでは認められる。では、「ワレ・ナレ・カレ」という人称的関係を「近−遠」称的関係に還元して済ませうるのか? そこに近遠性の意識契機が存在することは認められるにしても、それに還元することは不可能であろう。近遠性といっても人称的関係性の場でのそれは、物理空間内的位置の「近−遠」というより、或る種の心理的な近密・疎遠であるように見受けられる。(呼び掛けている遠方の人物がナレで、中間で右往左往している人物がカレであるような場合さえもある。)われわれとしては、このことをも勘案しつつ規定しなければなるまい。――翻って、言語活動の場においては、「発話当事者・相手聴取者・話内被言及者」が「我・汝・彼」という人称代名詞で指称されるが、しかし、このことから逆に「我・汝・彼」とは「発話当事者・相手聴取者・話内被言及者」の謂いとするわけにはいかない。それでは狭すぎて、そこには納まり切れないケースが多々生じてしまう。――因みに亦、古代中国(支那)式の「彼−我」は、われわれの謂う「自他的共軛性」と構制上共通する部面もあるようで、そこでの「彼」は、欧語式での第三人称者ではなく、第二人称者と第三人称者とを未分化的に一括するものであるのだが、強いて言うならば寧ろ第二人称者に近いものの如くである。そこでの「我」は、個人というより、自分がそこに内属するグループ・集団・共同体・国家といったものであり、「彼」はその内集団に対する外集団であるが(人間(「ひと」のルビ)という集合から「我」とい集合を差引いた単なる“補集合”的残余といったものではなく)、敵対的であれ、「我」との対向的関係で意識されている“他者達”であり、の意味において、強いて言うならば寧ろ“汝等”に近いものを指し表わす。――尚、欧語式説明ではweとはI and youの謂いとされがちであるが、I and youがweの場合などもあり、速断に陥らぬように心して掛からねばなるまい。」119-20P
(対話F)「偖、図式的に言えば「自他的共軛称」から「我−汝」「我−彼」「我−我」の人称的分化が成立すると言って間違いではないのだが、しかし単なる「能期待者−所期待者」としての期待の差向け合いや「呼応的行動」の進行だけでは、自他的共軛称の埓を超えず、いわゆる第二人称/第三人称の分化は生じ難いであろう。共軛的他者が直接・無媒介的に汝として(または彼として)認知されるわけではない。(勿論、一旦、この人称的な分化が成立してしまえば、自他両人間の直接的な関係でも汝/彼が区別されうる。が、今は、原初的な分化の場面と機制が問題である)。いわゆる第二人称者/第三人称者の分化的区別が意識されるようになる原初的場面では、自他的共軛称関係における「他者」が一個体ではなく、二個体(またはそれ以上)であることを必要とするであろう。(話を簡単にするため、以下では暫くの間、他者が二人のケースに即して議論を進めることにしたい。精確には、「他者」は能為的主体と見做されている者であればよく、必ずしも人間個体とは限らないのだが、短絡的に二人の“人物”としておく。)但し、他者が二人登場しているからといって、直接・無媒介的に、その中の一人が汝もう一人が彼として、人称的に分化するわけではない。(二人が汝等になる場合もあれば彼等になる場合もある。時には、他者であった者が取込まれて我々を形成することさえもある。)では、他者が汝/彼という規定性を帯び、自他的共軛性における単なる他者以上のいわゆる第二人称者/第三人称者と成るのは如何にしてであるのか? 登場している二人の他者の中の一方に対する関わり方と他方に対する関わり方、この関わり方の相違に即しての筈である。それは如何なる関わり方、如何なる相違であるのか。」120P
(対話G)「要点だけに絞って記せば、登場している二人の他者の中、一方が対向的に即応する役割的行為の相手当事者であり(ここに謂う役割的行動には、当然、対話的言語活動をも含み、相手は単なる受動的対象者ではなく、可能的/現実的な役割行動者の相で覚知されているものとする)、そしてもう一方は、(α)単なる「対象的指示称」の構制での人物、または、(β)「能期待者」ではあるが、当人に直接的に対向する行為ではなくして別人に対向する行為を期待している者(これの極限的ケースがいわゆる傍観者)、または、(γ)「所期待者」ではあるが、(自分に対してでも、もう一人の人物に対してでもなく)別の人物に対向しての行為を期待されていて、しかも、その行為が自分または/およびもう一人の人物との並行的協働ではない人物、または、 (δ)もう一人の人物にとっての対向的即応者である者(但しその対向的即応者が自分ではなく、また、自分にとっての対向的即応者でも並行的協働者でもない者)、または、 (ε)もう一人の人物にとっての(α)、(β) 、(γ)である者(但し、(β)での「別人」がこの自分である場合を除く)の場合、この対照性において、且つ、自分との関係において、前者の人物を「汝」、後者の人物を「彼」と謂い、そこでの汝または/および彼との関係において自分を「我(「わたし」のルビ)」と謂う。――如上の要件を充たす「汝」「彼」が複数存在するときに「汝等」「彼等」と呼ぶ。(「彼等」については後述。)」120-1P
(小さなポイントの但し書き・・・この文章は小さなポイントですが、頭下げがなされていません。内容的には但し書きになっているので、「小さなポイントの但し書き」にしました)「蛇足をも憚らず若干のコメントを加えておけば、俗説流には「汝の汝」は直ちに「我」とされがちであるが、(δ)における「もう一人の人物」が汝である場合、その対向(註)的即応者」つまり「汝の汝」は、「彼」になる。(δ)での括弧内の限定の含みは、「我では」はなく「汝でも」「我々の片割れでも」なく、ということにある。この限定を外した一般的条件の下では、「汝の汝」は、「我」であったり、「(我にとってもやはり)汝」であったり、「我々の片割れ」であったり、そしてまた「(我にとっての彼) 」であったり、様々でありうる。――(γ)で「並行的協働者」を除いたのは、言うまでもなく「我々の片割れ」や「汝等または彼等の中の一人」である場合を排除するための措置である。――「我」「汝」以外の第三者の人物が「彼」とは限らず、もう一人の「汝」であったり、「我々の片割れ」であったりしうること、また、「自他的共軛称」の構制を元(「もと」のルビ)にした人称的分化を介して「対象的指示称」が反照的に分化し、「我」「汝」「彼」の区別化的指示も成立しうること、このことを記銘しておこう。」121-2P
(註)
「対抗」となっているところ、誤植と思われ直しました。蛇足になることを惧れつつ。
(対話H)「いわゆる一人称複数、すなわち「我々」という人称的意識の成立が、代名詞的意味での「我(「われ」のルビ)」(つまり、名詞的意味でのEgoではなく、「汝」または/および「彼」との区別性における「我」) の現識を前提することは、通念通りであろう。(ある種の論者は、「根源的な我々」意識なるものを主張するが、この見解には与みし難い。なるほど、第三者的にみれば、後に「我−我」や「我−汝」「我−彼」に分化する“巨きなこの身”、例えば、母子融合態といったものの先行的体験意識態が認められるかもしれない。しかし、それはフェア・ジッヒにはまだ「我々」とは言えまい。――翻って、論者の中には、例えばサルトルのように、“客体我々”は認めても“主観我々”を原理的に認めない立場の者もある。だが、客体我々ばかりでなく、主体我々ということが存在論的にも認められうると著者は思う。そして、ここでも、人称性意識的には「我」が先行する。) ――当初“自分”とされていたものが錯分節化して「我々」として把え返される場合が現にあるとしても、そのためには、単なる“他者−自分”の共軛ではなく、「汝−我」「彼−我」の人称的な分化が要件をなす。そして、「汝と我」/「彼と我」が、第三者から一括して、「汝(等)」または「彼(等)」として眼差されたり、役割行為を期待されたり、第三・第四者から役割行為を仕掛けられたりしていることの覚識を俟って、「我と汝」または/および「我と彼」が「我々」として対自化される段となる。尤も、この対自化は、まずは「客体我々」の相で成立するのであり、「主体我々」の現成には、単に「我−我」が共同的目的に向って、ないし、共同の第三者に対向して、並行的協働をおこなっていることの対自化だけでは不十分であって、我と汝との「相互承認」が前件となる。そして、実は、この相互承認と相即的に「主体汝」と「主体我」とが「人格」として現成するのであり、そのことを介して「主体彼」もまた「人格」として現認されるに及ぶのである。」122P
(対話I)「「我々的協同称」の確立を見定め、以って「我・汝・彼」(我等・汝等・彼等)という人称的・人格的な分極化を論結するための前件をなす「相互承認」論は、それ自身猶幾つかの先決要求を伴う。これら前梯に応える作業は次節以下の論脈内に持越すことにし、爰では、嚮に見た「我」「汝」「彼」への人称的分化相にある能為的諸主体が之復(「ま」のルビ)た役割的行為の場で相互承認を遂げることを通じて「人格」的主体化を現成するということ、この構図と機制を述べたところでひとまず節を閉じる形にしておこう。」123P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(6)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第二節 役割的行動と人格化
(この節の問題設定−長い標題)「能為的主体の他の能為的主体の期待に応えての行動を役割的行動と呼ぶ。役割的行動の場で、能期待者および所期待者の行為の理解、以って他己理解ならびに自己理解が進捗する。――役割的行為における対他対自的関係の在り方に応じて当事主体は共軛的な各々の人称性を帯びる。人称的対他対自関係の主体を人格と謂う。」99-100P
第一段落――「役割行動」 100-7P
(対話@)「能為的主体は、常に必ずしも、顕在意識的に他者の期待に応えつつ行動しているわけではない。当事者に即すれば、自発的に慾求的行動をおこなったり、自律的に期成的行為をおこなったりするのが寧ろ普通である。しかしながら、第三者的・学知的な見地から規定すれば(そして、当事者も反省的にはそのことを追認できるのだが)、人間の行動というものは殆んどが他者(達)の期待に応えてのものになっている。尤も、他者(達)の期待といっても、当の他者(達)自身は“当然的・自然的”な余り、自分が期待を差向けていることを顕在的には意識していない場合をも含みうる。(爰では勿論まだ、非人称的・匿名的な他人、いわゆる世間・世人(「ひと」のルビ)の“期待”に応えての行動といった高次的場面は論域外であり、対向的ないし環視的に近在する具身的他者の期待が専ら論件である。) ――学知的見地から見て、能期待者の期待に応えての、所期待者の応対的行動という構制が認められるかぎり、当の行動を「役割的行動」と呼ぶことにしたい。」100P
(小さなポイントの但し書き)「著者は嘗って次のように述べたことがある。/「他者」の興発的価値性の現前に呼応して発動される行動を、それが当事的他者ないし環視的第三者によって「期待(「エクスペクト」のルビ)」されている。様式的行動と(少なくともフェア・ウンスに)認めうる場合、筆者としては、それを当事他者に対向する「役割演技(「ロールプレイング」のルビ)」という概念に包摂したいと思う。<他者によって期待されている行動の−解発的(「アウスレーゼン」のルビ)に現前(「フォルコメン」のルビ)する当事他者に対向しての−呼応的遂行>、この間主体的に共軛的な関係性における実践を「役割行動」と呼ぶことにしたいのである。このさい、筆者としては、ステイタスやポジションを前梯にしてロールを云為する一部社会学者とは異なり、直接的・基底的な自他関係に即して「役割」という概念を規定していることに留意ねがいたいのであって、筆者に言わせれば、「地位(「ステイタス」のルビ)」や「部署(「ポジション」のルビ)」というものは、役割行動の機能的編制態が物象化され、一種の“制度化”をこうむることによって事後的に成立する。尤も、日常的現実においては「地位」ないし「部署」が既成的に確立している部面が多く、この既成性を前梯にしてしかるべき行動の期待がおこなわれるのがむしろ普通になっているのも確かである。このことを勘案して、「地位」ないし、「部署」の既成化に照応する次元での役割演技を特に「役柄」扮技と呼ぶことにし、必要なさいには「役割」一般から「役柄」を次元的に区別することに致したい、云々。/右の定式には規定不十分な暫定的表現ばかりか論件先取的ないし循環規定的な表現すらも孕まれており、これを以って最終的な規定とする心算はないが、著者の謂う「役割行動」なるものを暫定的に表象して頂く縁(「よすが」のルビ)になりうるかと念う。/著者の謂う「役割行動」は相手側(「パートナー」のルビ)の役割期待という意識的契機が存在し、且つ亦、その期待に対する即応性が存在する限り――実は、第三者によって、直接には第二者に対向しての一定の行動が期待されているような場合もあるのだが――、遂行者当人はそのこと[右に挙げた両契機の存在]に無自覚であるがごとき行動をも含みうる。それゆえ、全くの無意識的な共振的同調のごときこそ除外さるべきだとしても、共鳴的同調行動に属する或る種の位層から逸早く「役割的行動」に算入されうる。けだし、「役割行動」と著者の呼ぶ「共−互」的(mit-einander)な規定態は、発生論的には既に、信号的送受、対応的即応、模倣的協応の場面において存立するものである以上、行動発達論的な論脈においては、前節で言及したイナイイナイバーや遣り取り以前的な局面から早くも見られる。」100-1P
(対話A)「役割行動の具体相、それの成立機序や存立構造などの分析は次篇(わけてもその第二章「役割行為の共互的構造と協働的態勢」)中で履行する段取りであるが、爰では、期待され遂行される役割行為の対自的理解、当事相手の遂行的行為・所業的行為の所謂“意味理解”など、必要最小限の論究を試み、次節(「人格的主体の二相性」)の論考にとって須要な限りで、実践的主体の人格的主体性、人称性の問題の一端まで論及しておく段である。」101P
(対話B)「読者が已に賢察しておられるであろうように「役割」「役柄」と謂うとき、著者は演劇モデルで人間行為を概念的に把握しようと企てている。けだし、演劇は人間行為一般の構制的特質を増幅して看取し易い形になっている所以である。尤も、演劇といっても、爰ではむしろ即興劇を主として念頭におき、“筋書”や“舞台装置”や“演技”様式が既成化して「役柄」的に固定化している名作劇のたぐいが恰当(こうとう)なモデルとなる次元は後論に譲る運びとする。」101-2P
第二段落――役割行動に対する地位の先行性という錯誤 102-7P
(対話@)「役割行為の典型的なケースが、能期待者の側が顕在意識的に期待を差向け、且つ、所期待者側も期待されている所業的行為とその様態を自覚しているようなケースであることは言うまでもない。しかるに、嚮に誌した極めて広義の役割的概念では、例えば、初生児の泣声を聞いて授乳の期待と察し母親が授乳するとか、母親のあやしかけに応じて嬰児が微笑(「ほほえ」のルビ)み返すとか、このたぐいの反応行動さえ(無条件反射や単なる条件反射の域を超えるや)逸早く役割行動に算入される。茲に却って、役割行動に対する地位の先行性という考え、今の例で言えば、「母−子」という「地位」関係の先行性という考えが使嗾(「しそう」のルビ)されかねない。」102P
(対話A)「一部社会学者は「役割(「ロール」のルビ)」の概念を「地位(「ステイタス」のルビ)」概念から導出しようとし、一部哲学者は、“我と汝との役割行為関係”をすら「我−汝」の実体的「地位」関係から導出とようとする。著者としても、既成的日常場面では相互的地位の了解が先行する形で役割期待・役割遂行が現におこなわれる場合が多いことを進んで認める。とあれば、役割が先か地位が先かということに余り拘泥する必要はないように思われるかもしれない。がしかし、役割行動と地位体系のどちらを原初・原理に据えるかは、物象化論にとって重大な岐路であるのみならず、同じく役割理論(「ロール・セオリー」のルビ)と呼ばれても、本質的な相違を生ぜしめうる。」102P
(対話B)「この故に、われわれは次々篇の論脈内(出されたものはない)において、役割行動の物象化によって地位なるものの既成化が成立する発生論的機序をも見る予定であるが、本章内で後論する「我」と「汝」、「自我」と「他我」の人称性の問題とも関わるので、此処で傍白を挿む流儀で「地位と役割」を堯(「めぐ」のルビ)る問題の一端に言及しておこう。」102-3P
(小さなポイントの但し書き)「読者の中にも、既成理論の影響の下、「役割」に対する「地位」の先行性を密かに想定されるむきもあろうかと惧れる。時に、更(「あらた」のルビ)めて言うまでもなく、地位の先在性を主張する論者にとって最後の拠点とも謂うべきものが、実体主義的な想念での「我」と「汝」もさることながら、親と子、わけても「母」と「子」の間の関係性である。それ故、卑俗をも憚らず、この論材へのコミットメントから始めることを恕(「ゆる」のルビ)されたい。/「母」と「子」というのは、一見、子が産まれた瞬間には既成化しているように見え、共互的な実践関与とは関わりなしに前定(「フォルベンシュテイメン」のルビ)されている「地位」であるかのように考えられ易い。なるほど生物学的には、懐妊せる実体的個体とその胎内に存在するもう一つの実体的個体とを措定し、分娩・誕生という事件を機に、一者を母、他者を子と規定するのが常套であろう。しかしながら、社会関係論的規定においては、義母・養子、継母・継子の場合をも含みうることを引合いに出すまでもなく、母と子というのは単なる生物学的な生母子関係の謂いではない。しかるに、母なる者と子なる者とを実体化して発想するさいには、生物学上の母子関係に立つ両項的“実体”がそのまま社会関係上の母子関係に立つケースが標準的・通例的であるため、人々はとかく両規定を混淆してしまう。だが、われわれが間主体性論の論脈で問題にする母子関係は固(「もと」のルビ)よりのこと、発達心理学者や社会科学者たちが論題とする母子関係も、さしあたっては社会的関係としての母子関係である。ところが社会的関係としての母子関係といっても、ここでもまた、共互的な実践とは無関係に、むしろそれに先立って、母・子の地位が既定的であるように思える場合が現にある。養子縁組や継母子関係がもっぱら法律上の形式的手続きによって成立し、事後的にアクチュアル共互行動がおこなわれる場合がそれである。だがしかし、養母子、継母子の関係が「実の母子関係」の法的擬制であることは絮言するまでもあるまい。では、「実の母子関係」とは何か? 実体主義的に発想する人々にあっては生物学上の母子の関係(いわゆる「生みの母子関係」)と二重写しにされがちであるにせよ、それはいわゆる「育ての母子関係」を本質的な一規定性とするであろう。しかるに、この「育ての母子関係」たるや共互的・呼応的な一種の実践的な役割関係である。けだし、役割行為を俟って甫めて“母子という地位関係”も成立すると言う所以である。/だが、と反問するむきもありえよう。母という地位にあればこそ子という地位にある者を養育するのであって、母子の地位関係にない他所の幼児との間では「育て」の役割行動は遂行さるべくもないのではないか。慥かに、母・子としての社会的認知は養育行動の開始に先立って与えられうる。が、当事者間においては地位の相互承認が先行するわけではないということは今措くとしても、母・子としての社会的認知なるものからして、生物学的規定ならざる社会関係規定としては、両者間に母子的役割行動がおこなわれることを前提にしているのであり、論理的には所期的役割行動が先件をなしている。このことが納得(「なっとく」のルビ)されよう。/論者の中には、しかし、――母子関係の場合には、子の側の役割行動が子という地位の自己認識に基づくものではない限りで、母の側はともかく、子の側に即すれば確かに地位ないし部署を先件として役割行動を云々するのは不可能であることを認めたうえで――なおも、成人間(「かん」のルビ)における役割行動については地位の相互的承認が役割行動に対して前梯となっている旨を主張する者もありうる。/帝王と臣下、上司と部下といった上下の地位関係にしろ、商人と顧客、投手と捕手といった対等な部署的関係にしろ、およそ社会的関係らしい社会的人間関係というものは、一般に地位・部署が前定的であり、その既定的な地位・部署に応じてそれにふさわしい振舞(役割行動)が遂行されるのが実情ではないか? 「帝王が帝王であるがゆえに臣下たる自分は臣従するのだと人は思い込んでいるが、実は、人々が臣従するかぎりでのみ帝王たり臣下たるのだ」とはマルクスの援用する警句であるが、しかし、仮令(「たとい」のルビ)夫子(「ふし」のルビ)が臣従しなかったとしても、帝王は依然として帝王としてありつづけ、夫子は、臣従を強制されるのではないか? 拒否すれば、帝王は夫子を処刑することで君臣の実を実証するのではないか? これはありうべき想念であり、地位関係の先行性という当事者的思念を象徴的・寓意的に表出している。一部社会学者が地位を前定にして役割行動をそれに附帯させるのも、これと同根の思念に基づくものと忖度できる。/此の見解に対して、嚮に用いた表現で言えば、<他者によって期待される行動の−解発的に現前する当事他者に対向しての−呼応的遂行>、すなわち、役割行動が、発生論的にも論理構制上も先であることを論定し、「役割行動」の概念規定を明晰にするためには、発達論的には遙か後段に属する場面をも視野に引入れることを辞すことなく、「役割」「役柄」と「部署」「地位」との関係について一端を叙べる必要に迫られる。――われわれは、これまで、実践的な人間関係を論件にしてきたとはいえ、方法論的自己限定のもとに、さしづめ二個体間のその都度その都度の共互的な行動だけに止目する埓にあった。しかし、部署や地位という概念に関説するからには、単なるその都度の瞬時的な行動だけに止目したのでは不可であり、また、単なる二主体間の直接的な行為連関に留目しただけでは不全である。けだし、部署や地位についての主題的な立論は後論に委ねつつも、論脈を紊(みだ)すことをも憚らず、ここで若干の言及を追補しておく所以である。/扨(「さて」のルビ)、帝王と臣下、商人と顧客……の関係は、単なる二主体だけの関係ではなく、亦、当の関係を成立せしめる行為も一回起的なものではない。一定様式の行為の反復的出現が既定的に見込まれる事態、この既成性を前提にしてはじめて「地位」的関係が云々される。そして、事実、特定の個人が或る折りに<他者によって期待される行動の−解発的に現前する当事他者に対向しての−呼応的遂行>つまり「役割行動」を隅々実行しなかったとしても、地位関係という既成態は存続するのが普通である。特定個人が“何ぞ帝王ならんず乎”と意気がってみたところで、それだけでは「帝王−臣下」という既成的地位関係が消失するわけではない。がしかし、それは他の人々が(ないしは当人自身も他の折りには)臣従することに因(「よ」のルビ)る。皆が一斉に臣従的行為を断じておこなわなくなれば「帝王−臣下」という地位の成態も最早存在しえない。地位・部署というものが恰かも役割行動の実行・不実行からは独立に自存するかのように見えるのは、特個的な役割行動からの相対的自立性なのであって、そのさいは他の者の(ないし他の折における当人自身の可能的な)役割行動実行が地位・部署の存立を支えている。総体としてみれば、役割行動が地位・部署なるものを存立せしめており、役割行動あっての地位・部署なのである。(一本や二本髪が抜けてもハゲにはならないが、それは他の髪あるからなのと同趣の機制である!・・・ママ) ――地位・部署というものは、役割行動の単なる束ではないが、相補的・共軛的な役割配備の函数態とも謂うべきものであって“役割行為”の具体的な“演者”は入れ替わりうるにせよ、“役割行為”の遂行が端的に存在しなければ、地位・部署なるものは存立すべくもない。地位・部署とは“役割行為”の独自成類的な函数態的一綜合(une fonctionnelle synthèse sui generis)なのである。(尚、ここに“役割行為”“役割配備”と記したものは、精確に言えば、「地位ないし部署の既成化に照応する次元での役割」すなわち「役柄」の次元になっている)。そして謂う所の「独自成類性」は、後論において見定めるように、「物象化」の機制にもとづく一種の「制度化」に負うものにほかならない。/長大に亘った憾(うら)みこそあれ、以上の傍白を挿んだことで、今や捷径(しょうけい)的に議論を運ぶことが可能になっている。」103-6P
(対話C)「われわれは原理的には「役割的行動」の「役柄・部署・地位」への先行性を主張するが、用在世界という“人生劇場”における日常的・既成的な場面では殆んどありとあらゆる行動が社会学者流に言えばstatus and role(地位と役柄)に応じた役割演技として営なまれているのが現実である。――「役割(役柄)」演技というものは、啻(「ただ」のルビ)に共軛的なのではなく、複雑なネットワークを形成している。俳優たちが皆一斉に同じ役を演じたのでは舞台劇が成立せず、或る者はハムレット役を、或る者はオフェリヤ役を、或る者はホレーショ役を……それぞれ演じることにおいて甫めて劇が成立するという事情は“人生劇”においても同断である。父役が父役であるのは、母役・子役・老婆役……の共演においてであり、人生劇は味方役ばかりか敵方役をも含むネットワークを成し、個々の「役割(役柄)」なるものはネットワークの反照的規定態として存在する。――現実問題として、いわゆる経済活動や政治活動の具体的・現場的な営為がstatus and roleに応じた役割演技として営なまれていることは言わずもがな、挨拶などの日常的な儀礼行為からして演技であり、食事の仕方や排泄の仕方のごときまで、人間行動の様式は文化共同体に内属する他人たちによって期待されている行為方式に応ずる役割演技の構制になっており、まさに「呼吸(「いき」のルビ)の整え方」から「箸の上げ下ろし」に至るまで、人間行動は悉く役割行動として営なまれていると言っても過言ではない。」106-7P
(対話D)「当座の議論としては、しかし、右の事実を念頭に置きつつも、基礎的な問題場面に溯り、そもそも、役割期待・役割理解とは如何なる構制の事態であるのか、これを見定めておくことが先決要求である。」107P
第三段落――役割行為の構制要件を成す「能期待者」の(差向ける)「期待」に応えての「呼応的行為」 107-15P
(対話@)「役割行為の構制要件を成す「能期待者」の(差向ける)「期待」に応えての「呼応的行為」と一口に言っても、実際には多種多様に別(「わか」のルビ)れる。能期待者は、一人の対向的相手のこともあれば、協演を求めている複数の仲間や敵方のこともあれば、期待的に見守っている環視者のこともあれば、非人称的な世人のこともある。期待にも、単なる期求的期待のほかに当為的期待もあり、期待されている事態には、例えば問答の場合などのようにもっぱら所期待者の側での応答だけで全幅が尽きるケースから、例えば協力して岩石を運び移そうと求められている場合などのように、舞台的・手段的・対象的な物的要因をも絡む状況的変化のケース、さらには、例えばチームプレーの場合などのように個々の所期待者は臨機のパートを占めるにすぎない全一的な動態的進行といったケースまである。期待される呼応的行為の実質的内容が千差万別であることは述べ立てるまでもない。――眼前の人物の動静に関して、御当人からもさることながら、第三者から然るべき応待(助力・傍観・阻止・賞罰・等々)を期待されているので、第三者がどう期待する筈であるかを識るためにも、眼前の人物の動静、それの“意味”を理解することが要件になる。自分に如何なる行動(無為も含めて)が期待されているかを識るためには“舞台”上(広義の)登場している他者たち各々の“行為の意味”の理解が不断に必要とされている次第である。――期待の諸相や内実を周到に枚挙・分類することは爰での課題ではない。爰では、役割期待・役割理解の一般的構制を見据え、そこでの構造的要件をなす限りで、いわゆる“行為の意味理解”を論件としつつ、論究すべき案件の所在を確認する途に就けば差当たり足ろうかと念う。」107-8P
(対話A)「偖、期待察知・期待理解とは――前節で叙べた「“あの身”の視座から視る機制」や「この視座とあの視座との“区別化的統一=統一化的区別”」の機制、以って亦、「いわゆる“意識現象”(註)の“あの身”への帰属化」の機制に上乗せする流儀でひとまず記せば――理解者の側が期待者の側との件(「くだん」のルビ)の視座的“区別化的統一”の機制に俟って、一定の“意識事態”(これは期求的督促感を伴って表象されている一定の未決的状景であり、当の企投的未来状景とそこへ到る過程は“この身”[所期待者]を、そして場合によっては他の能為的主体との所作態をも、構造的契機として含む相で表象されている)を“あの身”(能期待者)に帰属化させる態勢の現成である。」108P
(註) ”が付いていないのを、つけました。
(対話B)「斯かる“期待察知”“期待理解”は、理解者の側での“勝手な思い込み”にすぎず、誤解の場合もありうるのではないか? 勿論、誤解の場合もある。だが、当面の論考の場面では、誤解であったことに(直接にであれ第三者の指摘を介してであれ)気が付き、“役割理解”が是正され、呼応的行動(役割行動が)が円滑に進行しうれば宜(「よ」のルビ)い。――その場合でも超越的な第三者(譬えば“神の眼”)から見れば全くの誤解の連続であって、落語の「コンニャク問答」に類する可能性を直ちには排却できない。が、他己認知・他者認識ということの原理的な権利づけ(「レヒトフェルティゲン」のルビ)に関わるこの問題次元については、次章最終節さらには本巻最終節の論脈に譲り、今爰では差当たり、仮令「(「たとい」のルビ)コンニャク問答」に類する始末あれ、兎にも角にも当事者達においては役割理解・役割行動が齟齬なく進展してるものと信じ込まれている事態に即して姑(「しばら」のルビ)く議論を進めておこう。このさい、誤解の是正が折々におこなわれうるということも、そのことの認識論的機制や権利は棚上げにしたまま、これまたひとまず前提的含意とする。――」108P
(対話C)「役割理解・役割行動の円滑な進行というとき、能期待者は対向相手とは限らないのであって、上述の通り環視的第三者や非人称的世人が能期待者の場合もある。特にこのような場合には、期待されている役割行動を実行する直接の相手は、能期待者とは別の登場人物である場合が多い。それ故、期待されている役割行動を齟齬なく遂行するためには、直接に応対すべき相手当人は別段当方に期待を差向けていない場合であっても、相手すべきその人物の動静、その行為の“意味”を(望むらくは第三者的能期待者の認知と合致する相で)理解できなければならない。」108-9P
(対話D)「ここにおいて、役割行動の齟齬なき遂行が可能なためには、他人の行為一般を理解することが要件になる。つまり、或る他人が直接に当方に対する能期待者である場合だけでなく、当の他人は第三者の懐く期待の構造内的一要因たるにすぎない場合にも、当該他人の動静、彼の“行為の意味”を理解することが必要とされる。という事情から、われわれは他人の行為の意味理解という問題に直面する。が、惟えば、役割行動の場では、他人によって理解されている自分の行為の対自的理解も折々に必要とされるので、自分の行為の意味理解も逸せない。茲に、能為的主体によって遂行される行為一般の理解が論攷課題となる。」109P
(対話E)「ところで、行為理解とは多肢多様な要因を含む極めて複雑な事象であって、一気に論じ去ることは到底期し難い。今爰では、当座の行論にとって最小必要限の論件に絞ることにしよう。――この限定下にあっても論件は相当に複雑多肢となる。行為の理解というとき、マックス・ウェーバーの謂う当事者の「主観的思念せる意味」の理解が論件になるが、われわれとしては、当事者の意識には必ずしも上っていない部面まで含めて行為の意味を理解する必要がある。」109P
(対話F)「行為とは、学知的(「フェア・ウンス」のルビ)に規定すれば、一定の未来的状景という目標の実現に向かう能作的所作=所作的能作であるが、目標状景は能為的主体の終局的所作態には尽きずいわゆる物的な要因をも含む諸多の契機から成る。そして、謂う所の「終局的所作態」すなわち「所業的行為」(actum,Handlung)へと到る能作的所作=所作的能作、すなわち、「遂行的行為」(actio,Handeln)は、それ自体多種多様な所業的行為の一つ一つに関してさえ多肢多様性を呈しうる。が、以下では暫く、目標状景の種別には立入ることなく、また、実現目標と達成目的という実在と価値との区別性・二肢性を主題化することなく、期求感を伴って未来完了時制的に表象された目標(目的)を行為の目標(目的)性動機と総称する。(このさい、謂う所の「期求感」の慾動的/当為的といった種別や「未来完了時制的な表象」がフェア・ジッヒであるかアン・ジッヒ=フェア・ウンスにすぎないかという区別は、ブラック・ボックスのままとしておく。)そして、行為の企投(すなわち、一定の未来的状景を期求感を伴って未来完了時制的に表象すること)そのことを動機づけた(と対自的にであれ即自的にであれ認定される)過去完了時制的に先行する事象を行為の理由性動機と呼ぶ。(尚、企投がフェア・ジッヒではなく、企投的行為の構制がフェア・ウンスに認定されるにすぎない場合、すなわち、狭義の「行動」Verhaltenの場合にも推及して、必要な場合には、行動の理由性動機と呼び分ける。) ――行為の意味を周到に理解するためには、目標実現へと到る遂行的行為そのことの分析を要するが、以下暫くは、目標性動機を恰かも遂行的行為の所作的終局(所業的行為)に矮小化するかの如くに、そして、遂行的行為はそれを実現する単なる手段にすぎないかの如くに、夫々を遇する便法を恕(「ゆる」のルビ)されたいと念う。尚、行為の意味というとき、当人の企図を遙かに超え出たり、当人たちの企図に全く反したりする社会的・歴史的な意味まで含まれる(例えば、コロンブスの新大陸への到着とかバスチーユ襲撃とか、ヒットラーのソ連侵攻とか)。このことの勘考をも要するが、所業的行為に関する意義評価や遂行的行為に関する価値評価という次元は(「目的価値−手段価値」の一部分を除いては)後論に委ね、爰では能期待者・所期待者にとっての行為の意味理解という次元に限定する心算である。」109-10P
(対話G)「われわれの当面の主題をなす「行為の意味」の理解、こうして、さしあたってはまず、行為の目標(目的)性動機の理解および理由性動機の理解を焦点とすることになる。――第一巻において、記号的意味の理解に即して、「叙示(指示かつ述定)的意味」の理解、「喚起的意味」の理解ということに論及しておいたが、以下での議論は「叙示的意味」の内容はブラックボックスに収めたまま、「表出的意味」の一部と「喚起的意味」の一部とに関わる意味理解を問題にする所以ともなるであろう。」110-1P
(小さなポイントの但し書き)「識者は先刻来、著者がアルフレート・シュッツがウェーバーのそれを批判しつつ展開した「動機」理解理論を強く意識しつつ立論しようとしていることを察知しておられることと思う。慥かに、著者はシュッツとの接点を設けようと図っている。成程、シュッツには、他者による期待・期待察知・期待理解に縁(「よ」のルビ)る役割行動、という視角が存在せず、彼にはそもそも役割行為論という視点が存在しない一事を鑑みただけでも、彼と著者とは立場を大きく異にする。しかし、それにもかかわらず、「行為の意味」理解論、「動機」理解論に関しては、彼の業績は批判的継承を図るに値する。/今爰ではシュッツの当該業績を詳しく紹介したり批判したりする意趣はないが、(この作業には独立の一書『現象学的社会学の祖型――A・シュッツ研究ノート』青土社、一九九一年刊、を既に当てておいた)、しかし、継承点と批判点とを明示的に誌しておくことが無用の誤解を防遏し、捷径的に議論を運ぶ便となる限りで、ここで若干のコメントを挿んでおこう。/ウェーバーの理解社会学は、周知の通り、行為者(たち)によって「主観的に思念(「マイネン」のルビ)された意味」の理解を標榜する。ウェーバーは、意味理解を、(一)「直接的(aktuell)な理解」すなわち「行為(表出をも含む)の思念された意味の現認的(「アクチュエール」のルビ)理解」と、 (二)「説明的(erklärend)な理解」すなわち「動機に則した(motivationsmäßig)=動機順拠的」理解とに分けて論じたのであった。/(一)は、(イ)想念(「ゲダンケ」のルビ)の合理的・直接的理解、 (ロ)感情の非合理的・直接的理解、 (ハ)行為の合理的・直接的理解、に岐れる。――(イ)は、例えば2×2=4という命題の意味の理解、(ロ)は、例えば、顔面表情や怒声や動作に表われる怒りといった感情の理解、(ハ)は、木を伐っている人の行動とか、銃を構えている人の行動とか、こういった振舞いの理解。/(二)は、動機の合理的/非合理的に応じて、(イ)合理的・動機順拠的理解と(ロ)非合理的・動機順拠的理解とに分けうる。――われわれは、2×2=4と言ったり書いたりしたひとが、商売上の勘定をしているのか、科学上の証明をしているのか、技術上の計算をしているのかを……動機順拠的にも理解する。木を伐っている男が、賃金のためにその行為をしているのか、自家利用のためにそうしているのか、リクレーションとしてやっているのか(以上なら合理的)、それとも、激情に駆られて切りつけているのか(非合理的)、或るいはまた、射とうとしている男が、銃殺命令ないし攻撃命令でそうしているのか(合理的)、それとも復讐の念に駆られて狙っているのか(感情的、従ってこの意味での非合理的)、これを知るとき動機順拠的に理解することになる。/シュッツとしては、ウェーバーにおいては「意味」なるものが種別こそあれ謂わば単層的に扱われていることを見咎めて、「意味」を五層に分けてみせ、また、「行為者が行為に結びつけている意味」と一口に言っても、その都度の脈絡的情況に応じた機械的意味と、謂わば辞典的標準的な範型的意味との区別があり、これに応じて意味理解の在り方が岐れることを指摘する。彼は、ウェーバーに対する批判的指摘を踏まえて積極的に自説を展開するためにもウェーバーにあっては稍々安置に前提されている憾(「うらみ」のルビ)のある他我認知・他者理解ということの原理的可能性に溯って哲学的論攷を開陳している。とはいえ、著者の看るところ、遺憾ながら、シュッツの他我認知論・他者理解論は原理的に失敗に終っており(この間の次第については前掲別著における詳細かつ内在的な分析の参照を願うに留め)、爰では紹介・検討に立入るには及ぶまい。また、ウェーバーの謂う「直接的理解」は、われわれの謂う叙示的意味の理解の次元に属したり、表情感得的理解の次元に属したり、大部分は当面の論域外であって、配視を必須とする部分は僅少である。という次第で、爰では主として、「動機順拠的理解」を問題にしておけば足ろうかと思う。/偖、そこで、動機順拠的理解についてであるが、ウェーバーは「動機」とは「行為者(たち)自身に、或いは観察者に、行動の有意味的<根拠>とみなされている意味聯関態」の謂いとしていた。シュッツの見るところでは、しかし、ウェーバーにあっては、動機ということで二様のものが(自覚的に区別されることなく)考えられている。「○○のために」という目的性の動機(das Umzu-Motiv)と「○○だから」という理由性の動機(das Weil-Motiv)がそれである。――例えば、友人を訪問した動機を問われて、「借金をするために」と回答・説明することも、「借金しようと念ったから」と回答・説明することもある。このような場合、形式的には、一方は目的性動機を、他方は理由性動機を述べてはいるが、実質的には大差がないとも言える。現に、日常的な言語活動の場では、このような場合のUmzu-SatzとWeil- Satzとは、実質的な意味を変ずることなく互換的に書換えが可能である。ところが、例えば、「叫んだのは怒ったからだ」「殴ったのはムシャクシャしていたからだ」といった理由文は目的文に書換えることができない。この相違は奈辺(「どこ」のルビ)から来るのか? 理由動機が別種であることに由来する。先のケースでは「借金」という目的、この「目的投企(借金しようとの投企)」そのことが理由とされている。それにひきかえ、後(「あと」のルビ)のケースでは「叫喚」「殴打」という行為を「投企した(ことの)理由」が述べられている。要言すれば、前者では「投企そのこと」が説明理由とされているのに対して、後者では「投企を生ぜしめた原因」が説明根拠とされている。シュッツは、前者すなわち、形式的には理由性動機を述べる形になっていても目的文に書換えのきくような場合、「仮性の理由性動機」(das unechte Weil-Motiv)と呼び、後者、すなわち、目的文への書換えを許さないものを「真性の理由性の動機」(das echte Weil-Motiv)と呼んで、内容上区別する。――/われわれとしても、シュッツを踏んで、目的性動機と理由性動機とを区別しつつ、猶且つ、彼の現象学的社会学の立場的限界性、それに因由する彼の理説の欠陥を克服しつつ、行為の意味の動機順拠的理解の実態を見ておこうという算段である。」111-3P
第四段落――理解(解釈)される対象的意味諸契機に留目し、そこでの内部的・構造的な聯関を構図的に見定める 114-7P
(対話@)「行為の意味の理解(延いては説明)という認知的営為においては、理解(説明)者の持合わせている「意味聯関態」(Sinnzusammenhang)が解釈(説明)図式として動因されるのであり、周到に論ずる際には、当の意味聯関態や解釈図式の先行的/並行的な形成をも究明することが課題になるのであるが、爰では、この部面は脇に置いて、もっぱら理解(解釈)される対象的意味諸契機に留目し、そこでの内部的・構造的な聯関を構図的に見定める流儀で行論を急ぐことにしたいと念う。」114P
(対話A)「行為の説明的理解に際しては、行為(遂行的ないし/および所業的な行為)の事象的諸現相の認知に基づいて、目的性動機または/および理由性動機に則って、理解(説明)がおこなわれる。行為の事象的現相の認知そのことの諸層や認識論的構制・権利といった問題次元(この件の一端には次節で立帰る)には今は立入ることなく議論を急ぎたいのだが、説明的理解は所与の行為事象を目的または/および動因と関連づけるという構制になる。――このさい、目的や動因は、一般に既知でなく、一般には、所与の行為事象を手掛りにしてあれこれと思い泛かべられ、それら可能的目的または可動的動因の特定のものに確信的に絞り込まれる、という仕方で認識される。しかも、一般には、現与の所与的事象から直接に推察されるのではなく、企投の場面に溯って(この企投をフェア・ジッヒと解するにせよ、フェア・ウンスな構制と自覚するにせよ)企投の目的/および動因が思い描かれる。この作業は瞬時的に完結することもあれば、試行錯誤的な逡巡過程を経てなかなか終結しないこともある。が、ともあれ、企投の目的/動因の“確定的”意識化=認識が成立し、所与的行為事象がそれと反照的に関連づけられる。――そして、じつは、企投目的との反照的関連づけにおいてはじめて所与の「能為的主体の能作的所作=所作的能作」現相が「遂行的行為」として理解される所以となる次第なのである。(そもそも、企投から目標実現まで[正しくは目的達成まで]の経過事象、この一全体が「単位的行為」の基本である。なるほど、当座の「企投−目的達成」がより遠大な「企投−目的達成」の「手段」的行為であり、当座の目標は中間的目標[手段的目標]として位置づけられる場合がある。その場合には「行為」が錯構造を呈する。が、単位的行為はあくまで「企投−目的達成」の過程的一全態であることが銘記されねばならない。)」114-5P
(対話B)「ところで、シュッツは、目的性動機とは「遂行的行為によって成就さるべきものとして、未来完了時制的に径行され了った相で想像されている所業的行為」の謂いであるとし、真性の理由性動機とは「投企そのものを動機づけた、過去完了時制的な体験」の謂いであるとする。未来完了時制的(modo future exaccti)、過去完了時制的(modo plusquam perfecti)というのは宜しい。しかし、彼の場合、成就さるべき目標事態が「所業的行為」(Handlung)に局定されているのがまず頂けない。われわれは、企投される目標的終局状景は、企投者当人の所業的行為に局定されるものではなく、所期待者たる他人の所業的行為やいわゆる物的状態などをも構造的に含みうるものとする。この相違は措くとしても、何よりも問題なのはシュッツがわれわれの謂う「実現目標」という実在性と「達成目的」という価値性とを区別していないことである。彼は彼の謂う「所業的行為」を「目標」(Ziel)とも「目的」(Zweck)とも呼ぶが、事実性と価値性との区別に無自覚である。われわれとしては、目標概念を拡充し、且つ、実在的目標と価値的目的との区別性・二肢性を明識しつつ事に当らねばならない。シュッツの理由性動機概念にもこれまた本質的な限界・難点が孕まれている。彼は、現象学的意識分析主義の立場に禍いされて、企投そのことを動機づけた先行的体験、つまり理由性動機なるものを、当人が内省的に回顧できる表層的意識体験の枠内に限っている。彼の場合ベルグソンを踏んで、企投的意志発動の場での決定論的な因果連鎖を棄却する意想ともそれは関連しており、われわれとしても企投的起動を安直に身心因果論的・神経生理学的連鎖で説こうとすることには警戒を要するが、表層意識に上(「のぼ」のルビ)る過去的体験だけではとうてい企投を生じた動因・理由を十全に理解することには覚束ない。加うるに亦、彼は殺人教唆といった例すら挙げておりながら、他人による期待的督促、役割期待ということを企投の動機・動因として配視してはいない。われとしては、企投を生ぜしめた理由性動機として、いわゆる“深層的体験”や“深層的機制”をも勘案し、表層的意識にも上る理由性動機の重要な一斑をなす役割期待の察知、期待への呼応を配視しなければならない。」115-6P
(小さなポイントの但し書き・・・この文章は小さなポイントですが、頭下げがなされていません。内容的には但し書きになっているので、「小さなポイントの但し書き」にしました)「――論者の中には、行為の説明的理解、学理的な説明に際しては、「当事者の主観的に思念せる意味」など事実上無視しても差支えない、と主張するむきもある。学理的説明においては、行動を惹起せしめた客観的原因と、行為のもつ客観的意味を解明すれば足る、というわけである。これは存外と有力な理説でもある。著者は、論者たちの謂う“客観的原因”や“客観的意味”の配視を否む者ではなく、その次元をも勘案すべきことを積極的に主張する者ではあるが、しかし、当事者たちの主観的に思念せる意味を“内在的”に理解することも有意義であると考える。著者が有意義性をそれに認める理由については別著『哲学の越境――行為論の領野へ(勁草書房、一九九二年刊)を参看願いたいと念う。」116P
(対話C)「日常的生活の場において、人々は他人の行為を不断に目的性動機/および理由性動機と反照的に関連づけるという構制で意味理解している。そこでは、深層的動機にまで掘り下げて理解することこそ稀であるにせよ、表層的理由動機は現認的に理解されており、往々に、差向けられた期待的督促、役割期待が動機をなしていることが認知される。目的性動機、これには期待された役割行動を達成しようという動機の場合が多々あるのだが、遂行的行為がそこでの目的との反照において手段的価値性を帯びた相で理解され、実現された所業的行為もそれの帯びる目的価値性と反照的に了解される。目的の企投が、対自的であれ、即自的であれ、また、原発的な慾求的/期成的/当為的な動機に由るものであれ、期待の察知を動機とするものであれ、所与行為について企投目的と反照的に関連づけて理解するという構制では斉(「ひと」のルビ)しい。行為の意味理解とは、当座の論脈では、こうして(さまざまな動機を顧慮しつつも)企投目的との反照的理解の謂いとなる。」116P
(対話D) 「行為の意味理解には、機会的特個性における理解ばかりでなく、軈てそれを通じて成立するようになる、範型的一般性における理解(これにあっては目的との反照的規定性が所与行為に謂わば内自化された相にある)も存在する。周到な理解には、翻って亦いわゆる人格的特性の勘考も必要とされる。が、これらの事項を視野に入れた他者理解論は次章まで持越すことにして、爰では稍々性急に“略画”を閉じる運びとしよう。(尚、前掲『哲学の越境』の第十章においては、身体行動現相を行為として認知する構制という本書では割愛した論点、行為理解、行為の意味理解を論考するに当って本来なら関説して然るべき論点にも一応は触れておいた。就いては、爰での行文を聊か補全するものとして、茲にあらためて参照を乞い度い。)」116-7P
第五段落――役割的行為という対他対自的関係態において占める布置に即して能為主体どうしの人称的関係が成立 117-23P
(対話@)「能為的主体は他の能為的主体の意向・行為を理解することでしかるべき即応的な行為(無為を含めて)を遂行する。この役割的行為という対他対自的関係態において占める布置に即して能為主体どうしの人称的関係が成立する。」117P
(対話A)「第一巻(第一篇第二章第二節)において、人称性の問題に予告的に言及し、著者としては通常の文法的人称規定とは稍々異なる視角から扱う旨を述べ、「対象的指示称」「自他的共軛称」「我々的協同称」という概念的図式を提示しておいた。――「対象的指示称」というのは、人称の第一類型というよりもむしろ前梯と呼んでしかるべきむきもあるのだが、人称的帰属性が反省的に明識化された場合に狭義の第三人称「誰かにとってソレ」を現出せしめる構制を具えている限りで一類型として挙げたものであった。これにおける「誰か」は反省的には必ず「私」とは限らず「汝(等)」や「彼(等)」でもありえ、「ソレ」も事物的個体には限られず、他人や、対象的個体相で意識されている場合の自身でもありうる。「自他的共軛称」というのは、人称的分極化の原基形態であって、認知的には或る事態の自他的不共属の態勢、すなわち、対他的帰属かつ対自的不帰属、または、対自的帰属かつ対他的不帰属という“対他−対自”関係が覚識されている場合に照応する。が、ここでの自他は“この身”“あの身”の次元でのそれであり、“あの身”他者は後の段階での「汝」と「彼」を未分化的に包括する。「我々的協同称」というのは、自他の共軛性において能為的役割主体としての相互的承認を遂げつつしかも自他の協同的一致が対自化されている場合に順応する。――是を承ける形で議論を進めることにしよう。尤も、前梯たる「対象的指示称」の準位は既に前節の行論中で、“発生論的”に見ておいたので、爰では「自他的共軛称」を役割行為的場面で捉え返しつつ、「自我−他我」の分極化と他我の「汝」「彼」区別化の場面から論述すれば足ろうかと念う。」117-8P
(対話B)「発達論的に見るとき、言語活動と相即的に人称的分化が進捗することは確かだとしても、嬰児は言語使用的発話を開始する以前において既に、「対象的指示称」ばかりか「自他的共軛称」の構制を覚知する域に達していると目される。言語的活動は役割行為の一種にほかならないが、嬰児は言語活動以前的な役割行動の場で、不十全ではあれ、自他的共軛の構制を覚知する域に至っているものと忖度される。――チンパンジーは、聾唖者用の「手話」(身振言語)などを用いてヒトとの対話を訓練すると、一人称代名詞(I)、二人称代名詞(you)、それに一人称複数の代名詞(we=I and you)まで使いこなす由である。自然状態においても、マウンティングや毛ヅクロイなどの“役割行動”に鑑みるとき、“自他共軛称”的構制程度は覚知しているのではないかと思われる。――」118P
(対話C)「役割行動が「能期待者−所期待者」構制の覚知にもとづいて遂行されるようになっている場面、すなわち、「役割期待」の「察知にもとづいた呼応的活動がおこなわれる場面では、前節で叙べたところを想起して頂けば済むであろうように、“あの身”“この身”が既に「能為的主体」相で覚知されるに至っており、第三者的見地からは「他我−自我」の対向的分極化を云為することが早くも許されるであろう。「我(Ego)」という詞を(代名詞的にではなく)名詞的意味で用いるとき、能為的主体(能知的かつ能動的な主体)を「我」と呼び、「あの能知的主体−この能知的主体」を「あの我−この我」(「他我−自我」)と呼ぶのは、日常的用語法をほぼ追認したにすぎないからである。」118P
(対話D)「問題は、今や「他我」の人称的分化、ならびに、それとの共軛性における「自我」の人称関係的“分化”である。発達論的には、この分化も代名詞の言語的使用以前から実質的には始っていると考えられる。」118-9P
(対話E)「無用の混乱を招かぬようここで言葉を挿んでおきたいことがある。W・フンボルト以来、多くの論者によって、人称代名詞は位置関係を示す「近称−遠称」の副詞/代名詞から派生したものであることが指摘されている。現存するものだけでも少なくとも数千種に上るといわれる地球上の諸言語について、それが一般的に妥当するものかどうか審(「つまび」のルビ)らかでない。が、日本語の場合についても「ココモト・ソコモト」、「テマエ・オマエ」といった表現があり、位置関係的表現と人称的表現とのあいだに関係性のあることまでは認められる。では、「ワレ・ナレ・カレ」という人称的関係を「近−遠」称的関係に還元して済ませうるのか? そこに近遠性の意識契機が存在することは認められるにしても、それに還元することは不可能であろう。近遠性といっても人称的関係性の場でのそれは、物理空間内的位置の「近−遠」というより、或る種の心理的な近密・疎遠であるように見受けられる。(呼び掛けている遠方の人物がナレで、中間で右往左往している人物がカレであるような場合さえもある。)われわれとしては、このことをも勘案しつつ規定しなければなるまい。――翻って、言語活動の場においては、「発話当事者・相手聴取者・話内被言及者」が「我・汝・彼」という人称代名詞で指称されるが、しかし、このことから逆に「我・汝・彼」とは「発話当事者・相手聴取者・話内被言及者」の謂いとするわけにはいかない。それでは狭すぎて、そこには納まり切れないケースが多々生じてしまう。――因みに亦、古代中国(支那)式の「彼−我」は、われわれの謂う「自他的共軛性」と構制上共通する部面もあるようで、そこでの「彼」は、欧語式での第三人称者ではなく、第二人称者と第三人称者とを未分化的に一括するものであるのだが、強いて言うならば寧ろ第二人称者に近いものの如くである。そこでの「我」は、個人というより、自分がそこに内属するグループ・集団・共同体・国家といったものであり、「彼」はその内集団に対する外集団であるが(人間(「ひと」のルビ)という集合から「我」とい集合を差引いた単なる“補集合”的残余といったものではなく)、敵対的であれ、「我」との対向的関係で意識されている“他者達”であり、の意味において、強いて言うならば寧ろ“汝等”に近いものを指し表わす。――尚、欧語式説明ではweとはI and youの謂いとされがちであるが、I and youがweの場合などもあり、速断に陥らぬように心して掛からねばなるまい。」119-20P
(対話F)「偖、図式的に言えば「自他的共軛称」から「我−汝」「我−彼」「我−我」の人称的分化が成立すると言って間違いではないのだが、しかし単なる「能期待者−所期待者」としての期待の差向け合いや「呼応的行動」の進行だけでは、自他的共軛称の埓を超えず、いわゆる第二人称/第三人称の分化は生じ難いであろう。共軛的他者が直接・無媒介的に汝として(または彼として)認知されるわけではない。(勿論、一旦、この人称的な分化が成立してしまえば、自他両人間の直接的な関係でも汝/彼が区別されうる。が、今は、原初的な分化の場面と機制が問題である)。いわゆる第二人称者/第三人称者の分化的区別が意識されるようになる原初的場面では、自他的共軛称関係における「他者」が一個体ではなく、二個体(またはそれ以上)であることを必要とするであろう。(話を簡単にするため、以下では暫くの間、他者が二人のケースに即して議論を進めることにしたい。精確には、「他者」は能為的主体と見做されている者であればよく、必ずしも人間個体とは限らないのだが、短絡的に二人の“人物”としておく。)但し、他者が二人登場しているからといって、直接・無媒介的に、その中の一人が汝もう一人が彼として、人称的に分化するわけではない。(二人が汝等になる場合もあれば彼等になる場合もある。時には、他者であった者が取込まれて我々を形成することさえもある。)では、他者が汝/彼という規定性を帯び、自他的共軛性における単なる他者以上のいわゆる第二人称者/第三人称者と成るのは如何にしてであるのか? 登場している二人の他者の中の一方に対する関わり方と他方に対する関わり方、この関わり方の相違に即しての筈である。それは如何なる関わり方、如何なる相違であるのか。」120P
(対話G)「要点だけに絞って記せば、登場している二人の他者の中、一方が対向的に即応する役割的行為の相手当事者であり(ここに謂う役割的行動には、当然、対話的言語活動をも含み、相手は単なる受動的対象者ではなく、可能的/現実的な役割行動者の相で覚知されているものとする)、そしてもう一方は、(α)単なる「対象的指示称」の構制での人物、または、(β)「能期待者」ではあるが、当人に直接的に対向する行為ではなくして別人に対向する行為を期待している者(これの極限的ケースがいわゆる傍観者)、または、(γ)「所期待者」ではあるが、(自分に対してでも、もう一人の人物に対してでもなく)別の人物に対向しての行為を期待されていて、しかも、その行為が自分または/およびもう一人の人物との並行的協働ではない人物、または、 (δ)もう一人の人物にとっての対向的即応者である者(但しその対向的即応者が自分ではなく、また、自分にとっての対向的即応者でも並行的協働者でもない者)、または、 (ε)もう一人の人物にとっての(α)、(β) 、(γ)である者(但し、(β)での「別人」がこの自分である場合を除く)の場合、この対照性において、且つ、自分との関係において、前者の人物を「汝」、後者の人物を「彼」と謂い、そこでの汝または/および彼との関係において自分を「我(「わたし」のルビ)」と謂う。――如上の要件を充たす「汝」「彼」が複数存在するときに「汝等」「彼等」と呼ぶ。(「彼等」については後述。)」120-1P
(小さなポイントの但し書き・・・この文章は小さなポイントですが、頭下げがなされていません。内容的には但し書きになっているので、「小さなポイントの但し書き」にしました)「蛇足をも憚らず若干のコメントを加えておけば、俗説流には「汝の汝」は直ちに「我」とされがちであるが、(δ)における「もう一人の人物」が汝である場合、その対向(註)的即応者」つまり「汝の汝」は、「彼」になる。(δ)での括弧内の限定の含みは、「我では」はなく「汝でも」「我々の片割れでも」なく、ということにある。この限定を外した一般的条件の下では、「汝の汝」は、「我」であったり、「(我にとってもやはり)汝」であったり、「我々の片割れ」であったり、そしてまた「(我にとっての彼) 」であったり、様々でありうる。――(γ)で「並行的協働者」を除いたのは、言うまでもなく「我々の片割れ」や「汝等または彼等の中の一人」である場合を排除するための措置である。――「我」「汝」以外の第三者の人物が「彼」とは限らず、もう一人の「汝」であったり、「我々の片割れ」であったりしうること、また、「自他的共軛称」の構制を元(「もと」のルビ)にした人称的分化を介して「対象的指示称」が反照的に分化し、「我」「汝」「彼」の区別化的指示も成立しうること、このことを記銘しておこう。」121-2P
(註)
「対抗」となっているところ、誤植と思われ直しました。蛇足になることを惧れつつ。
(対話H)「いわゆる一人称複数、すなわち「我々」という人称的意識の成立が、代名詞的意味での「我(「われ」のルビ)」(つまり、名詞的意味でのEgoではなく、「汝」または/および「彼」との区別性における「我」) の現識を前提することは、通念通りであろう。(ある種の論者は、「根源的な我々」意識なるものを主張するが、この見解には与みし難い。なるほど、第三者的にみれば、後に「我−我」や「我−汝」「我−彼」に分化する“巨きなこの身”、例えば、母子融合態といったものの先行的体験意識態が認められるかもしれない。しかし、それはフェア・ジッヒにはまだ「我々」とは言えまい。――翻って、論者の中には、例えばサルトルのように、“客体我々”は認めても“主観我々”を原理的に認めない立場の者もある。だが、客体我々ばかりでなく、主体我々ということが存在論的にも認められうると著者は思う。そして、ここでも、人称性意識的には「我」が先行する。) ――当初“自分”とされていたものが錯分節化して「我々」として把え返される場合が現にあるとしても、そのためには、単なる“他者−自分”の共軛ではなく、「汝−我」「彼−我」の人称的な分化が要件をなす。そして、「汝と我」/「彼と我」が、第三者から一括して、「汝(等)」または「彼(等)」として眼差されたり、役割行為を期待されたり、第三・第四者から役割行為を仕掛けられたりしていることの覚識を俟って、「我と汝」または/および「我と彼」が「我々」として対自化される段となる。尤も、この対自化は、まずは「客体我々」の相で成立するのであり、「主体我々」の現成には、単に「我−我」が共同的目的に向って、ないし、共同の第三者に対向して、並行的協働をおこなっていることの対自化だけでは不十分であって、我と汝との「相互承認」が前件となる。そして、実は、この相互承認と相即的に「主体汝」と「主体我」とが「人格」として現成するのであり、そのことを介して「主体彼」もまた「人格」として現認されるに及ぶのである。」122P
(対話I)「「我々的協同称」の確立を見定め、以って「我・汝・彼」(我等・汝等・彼等)という人称的・人格的な分極化を論結するための前件をなす「相互承認」論は、それ自身猶幾つかの先決要求を伴う。これら前梯に応える作業は次節以下の論脈内に持越すことにし、爰では、嚮に見た「我」「汝」「彼」への人称的分化相にある能為的諸主体が之復(「ま」のルビ)た役割的行為の場で相互承認を遂げることを通じて「人格」的主体化を現成するということ、この構図と機制を述べたところでひとまず節を閉じる形にしておこう。」123P
2025年09月02日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(5)
たわしの読書メモ・・ブログ710[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(5)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
(この節の問題設定−長い標題)「用在的世界にはわれわれが“能為的主体”と呼ぶ分節肢も特異な様態で現前する。能為的主体は、個体的客体としてはもとより「実在−価値」成態の一つであるが、用在世界の爾余の諸肢節とのあいだに、一種独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは客体的一個体以上の或る者、しかも単なる能知的主体以上の或る者(実践的主体)である。それは未在的状態を企投しつつ、期求・駆動する主体であり、他の実践的主体と相互に期待を差向ける者(能期待者)、期待を差向けられる者として、特異な共軛的関係性を呈し、対他対自的な規定性を負う。」81P
第一段落――「能為的主体」の現相的な現前様態の初次的な一端 81-6P
(対話@)「能為的主体が用在世界の爾余の諸肢節との間に有つ「独特の関係性」はわれわれが後論において「舞台的情況への実践的関与性」と呼ぶものであり、また、実践的主体の対他対自的な共軛的規定性は後論において「役割」規定と呼ぶものであって、「実践的当事主体」の実態は「内自的主体−役割的主体」の二肢的二重性の現認を俟って甫めて見定められるのであるが、議論の順序として、爰では前梯的に「能為的主体」の現相的な現前様態の初次的な一端を見ておこう。」81P
(対話A)「われわれが“能為的主体”と呼ぶ分凝態は、表情性を帯びた現相体(つまり“情動興発的・行動誘起的な現前体”(註1))の一種である限りでは、別段、特権的な存在ではない。――発生論的には、乳児にとってfür sichに分凝する最初の「図」(心理学に謂う「地」との区別におけるFigur)は母親の顔面表情であろうと言われる。顔面表情を覚知するというのは、決して、顔を物体の相で知覚し、そこに或る図形的性状を視認したり、そこに生じる形状的変化を物在的(「フォルハンデン」のルビ)に看取したりすることの謂いではない。原初的体験の場面にあっては、まさに表情が端的に感得されるのである。顔面表情が直截に「図」として“自体的に”現出するというここでの様子は、さながら、不思議の国のアリスの目撃した「チェシャ猫の笑い」の如くである! 発生論的には、顔という物体状の輪郭体や母親の体駆(註2)という輪郭体がそのようなものとして独自に分節されるのは、況してや“当の物体状のものが表情を帯びている”という相で覚知されるようになるのは、後段でのことである。そして母親の体躯がそのような相で現認されるに至ったとしても、当の表情的現相体は特権的な存在というわけではない。発生論的には、また、自身が「其れ(「エス」のルビ)」として覚知されるようになるのは後(「のち」のルビ)に至ってである。成程、第三者的に見るとき、嬰児は早期から体感や情動を感じてはいよう。が、そのことは自身(身体的自我)を直ちに分節的に覚知せしめるものではない。後述(次篇)の通り、嬰児においては、当初にはむしろ、“母子融合的”な態勢にある。自身が分節的に覚知されるようになっても、それが直ちに特権的な存在と見做されるわけではない。――とはいえ、能為的主体は現相的に已(「すで」のルビ)に或る特異性を示す。逆倒した言い方を是正して言い直せば、当の特異性の故に爾他の現相体から能為的主体が分出するのである。」81-2P
(対話B)「能為的主体が爾他の現相体から区別的に覚知されるようになる発生論的経緯を辿ることは今爰での課題ではない。――われわれは第一巻第一篇第二章において、已に、身体的自我に即した論攷をおこない、“あの身”“この身”の対向といった次元ばかりでなく、能知的主体について論じ、いわゆる意識現象の主体帰属性といった事項をも討究しておいた。尤も、そこでは、元来は実践的な場面で現成する契機の若干を“論件先取”した点などもあり、発生論上の論議が已(「すで」のルビ)に完結しているわけではない。このかぎりで、われわれは本巻において第一巻での先取や落丁を埋める課題を負う。がしかし、この課題には論脈内で適宜に溯りつつ折々に次篇にかけて応えていく予定である。爰では、“あの身”が“体駆的個体相”で覚知される場面(発生論的にはかなり進展した段階)から敢えて唐突に議論を始めることにしよう。」82-3P
(註)
1 閉じのダブルコロンがないので、一応ここに付けました。
2 以下、体駆・体躯・体軀といういろいろな表現があり、微妙にニュアンスが違うともとらえられるのですが、一部誤植の可能性も考えられます。著者が使っているままに載せています。
(対話C)「体躯的個体相で“あの身”が分出的に覚知される機縁は、一定の輪郭体が一纏(「ひとまとま」のルビ)りに動くこと(背景的状景の正視・不動とのコントラスト)において「図」として顕出することに存するであろう。しかるに、嬰児の場合、それが飼犬や飼猫のこともあるにせよ、まずもって当の条件を充たす動体は身近かに見られる人物、すなわち、母親、父親、兄姉といった家族成員の人物である。そして、それらは特異な表情性にも富む。尤も、表情性に富む身近な動体は人物やペットとばかりは限らない。ガラガラの如きでもありうる。一纏りに動く輪郭体ということは個体的分節化の重要な機縁であっても、そのことだけではいずれにせよ“主体”的存在として分立せしめるには足りない。苟(「いやし」のルビ)くも個体的分節相で覚識される物は、まず大抵が、一纏まりに動く輪郭体の相で何らかの折りに現認される。“主体”的存在として異立せしめる機縁は、接触的体験の場で覚知されるそれの“自動”性であろう。人間(「ヒト」のルビ)に限らず動物は、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているのとの区別、一般に、能動的能知感と受動的被触感との区別、これを早期から感受しうる。(著者が第一巻において批判的に卻けたカメラモデルでの知覚観、すなわち、今猶鞏固な常識的ドグマをなしている知覚観によれば、圧す場合も圧される場合も衝迫力の末梢的な受容は同じ[受ける力の大きさと方向が同じ]なのであるから、そこに生じる感覚も同じ筈だとされる。だが、これは体験に合わないばかりでなく、神経生理学的知見にも合わない。能動的触知の場合と自動的被蝕の場合とでは神経パルスの様態が別異になる。この件に関する専門的知見の著者なりの紹介は、別著『共同主観性の現象学』第一部第四章「本具的触発と生理的機構」特に一四八頁以下の参看を願い、再唱は省くが、神経系を具えた生体にとって能動的触知感と受動的被蝕感との区別は本具的・生得的(「インネイト」のルビ)である――猶、自身が四囲に対して動いているのか、対象物が自身に対して動いてあるのか、この視覚運動は元来、非人称帰属的である。自身の運動は初めから自己帰属相で意識されるように思われるかもしれないが、例えば自分の乗っている電車が動き出したのに対抗ホームの電車が発車したように錯視することなどを、想われたい。)そこで、同じく動体といっても、圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物(圧すと圧される物)とが区別される。物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来る。そのことに気がつく。これだけでは、まだ“主体”的存在としての分出的異立には不充分であるが、嚮(「さき」のルビ)に“自動”性と記したのは、差当たり、先方自体が圧す、ないし、圧し返すというディスポジションの謂いである。この“自動”性というディスポジショナルな覚知が前梯になって或る種の動体的分節体が軈(「や」のルビ)がて“主体”的存在として分出するようになる。」83-4P
(対話D)「“主体”的存在として認知にとって“自動”体として触感されたり、この触感的体験を前梯にして“自動”性の籠った相で視認されることが必要条件であるにしても、そのことだけでは勿論まだ不足である。その自動体が“今からどのような動静を呈しそうであるか”のディスポジショナルな予期・予科が泛(「う」のルビ)かぶようになっても、まだ不十分である。がしかし、自動体の動静の予料・予期は、それが慾求や期待と結合することにおいて、新展開の緒(「いとぐち」のルビ)になる。――発生論的には、慾求の覚識が、他身の自動体的覚知とは独立に、それ以前にいちはやく成立するであろうことは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。乳児は空腹時に泣くといった局面から、慾求感を即自的に体験しているものと思われる。が、斯かる発生論的初次局面については後論に委ね、爰ではあの自動体の動静の予料・予期がすでに成立するようになっている局面に止目することにしよう。――動態の予期・予料が外(「はず」のルビ)れると一種の失望感めいたものが感じられるという事実に徴して、予期・予料には一種の慾求が籠っていると見做されうるかもしれないのだが、爰では、この次元をもパスして、フェア・ジッヒな慾求的期待の構制を直截に論件としたい。」84P
(対話E)「慾求というとき、論者たちはとかく、対象物の獲得ということに留目しがちである。しかし、嚮に前節の論脈内でも述べたように、慾求というのは、むしろ、一定の(現状とは異相の)未来的状態の現有化を期求するものであって、現有化を期求されている状態(表象される終局的状景ならびにそれの現有化過程)には、いわゆる対象物のみならず、“あの身”または/および“この身”も構造内契機として含まれうる。」85P
(対話F)「偖、フェア・ジッヒな慾求といっても、発達論上の中間的な階梯にあっては、第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)に認定して、他身ないし/および自身の行動が構造内的契機をなしていると謂われうるにせよ、当人にとっては、“あの身”と“この身”とが十全にまだ分立化されていなかったり、時によっては“あの身”と“この身”とか謂うなれば“融合的”であったりもしうる。また、あの身とこの身との体躯的個体相での区別的覚知が成立する段階に至って以後も、例えば友達の行動を見凝めているような場合、第三者的見地で俗流的に言えば“この身”を“あの身”に“置き入れる”とでもいうか、心理学に謂う「一体化的同一視」が往々にして生じうる。(後述の通り、この身のあの身への“置き入れ”というところにアクセントがあるのではなく、“あの身の場所に即しての体験”がポイントである。) ――大人でさえ、例えば熱中してボクシングを観戦しているような場合、思わず自身でパンチを繰り出してしまったりもする。一体化的同一視が生じていると呼ばれる事態にあっては、あの身の運動態勢とこの身の(大抵は潜勢的な)運動態勢とが相同的になっていると言えよう。但し、無論、このようなことは発達途上にある子供当人の自覚(「フェア・ジッヒ」のルビ)するところではない。――事実の問題として、まだ“この身”が十全に分劃化される以前の局面から、嬰児は“あの身”を構造的契機とする慾求(第三者的見地から記述すれば、“あの身にかくかくのことをして貰いたい”という慾求)を懐きうるし、また、一定の慾求感を伴いつつ“あの身”の動静に即した予期・予料を懐きうる。この局面においてもいちはやくあの「一体化的同一視」の機制が作(「はた」のルビ)らきうるのであって、嬰児は母親、父親、兄姉など身近かな者の行動を視て、当の行動が予期的・未来的な(といっても当初はプロテンツィオナールな)状態を体現すべく期求感に導れている運動態勢にあるものと覚識する。(フェア・ウンスには、これは「目標的期求状景を企投し、それを実現しようとする行動」を「当事主体が遂行している」ことの認知という構制になる。が、勿論、嬰児はまだそのような他者認識の域に自覚的に達しているわけではない。)この運動(行動)の覚識は、しかし、「一体化的同一視」の機制が作らいているため、単なる運動体の視認とは異なり、“内在的駆動感”がそこに籠っている。“あの身”の行動は、それが運動である限り、メロディなども共通する時間性ゲシュタルトの相にあり、位相的継起の相で覚知されているわけであるが、単なる位相的継起でなくして“あの身”の“駆動的変様”として覚識される。ここにおいて、第三者的に記述すれば、持続的に自己同一的な能作体が継時的に変様する所作態を呈するという構制、“内発的・駆動的な能作体が位相継起的に所作態を体現して行く”という構制、能作体と所作態とのこの区別化的統一が、概念化的把握以前的ではあるが、いちはやく嬰児期的体験意識にのぼる段となる。」85-6P
(対話G)「所期の未来的状態を期求的に表象し、その状態を実現すべく駆動的に行動する能作体、このような相で覚知される体軀的個体、それが著者の謂う「能為的主体」の原基形態にほかならない。(この「能為的主体」の原基形態は、人物とだけは限られない。狼に育てられたタマラにあっては、それは狼であったろう。普通の幼児においても、飼犬や飼猫なども「能為的主体」と見做されるのがむしろナチュラルな過程であろう。成人にあっても、アニミズムを云々するまでもなく、文化圏に応じて「能為的主体」の広袤(「こうぼう」のルビ)は可塑(「かそ」のルビ)的である。このことは、しかしながら、後論が示す通り「能為的主体と見做すかどうかは恣意的な思い入れにすぎない」という主張に与(「く」のルビ)みすべきことを意味するものではない。差当り銘記さるべきは、「能為的主体」としての“認知”は、その原基的構制に徴する限り、人物だけに局定される謂われはない、ということまでである。)」86P
第二段落――発達心理学の実証的知見の一斑を援用 87-91P
(対話@)「議論に多少とも具体性をもたせるべく、発達心理学の実証的知見の一斑を援用し、それを論材としつつ立論を次のステップへと進める運びとしよう。」87P
(対話A)「久保田正人氏の報告されるところによれば、「生後六か月三週のg男に半割のレモンをなめさせたら大変すっぱそうな顔をした。その後三分くらいして、一メートル半くらい前にいる人(母親ではない)が何気なくそのレモンをなめようと口にあてると、乳児はそれをはらはらした様子で見ていたが、やがて自分もいかにもすっぱそうに顔をしかめ口をすぼめた。その場で二回確かめて見たが、そのたびにすっぱそうな顔をした。(このさい、レモンをなめた婦人は、別にすっぱそうな顔はしていなかった)。なおg男はその晩になるともはやすっぱそうな顔はしなかった。」(講座『現代の心理学』小学館、第五巻、一九八二年刊、一八六頁。)」87P
(対話B)「この現象は、眼前で自分の子供が転んだのを目撃して“あの膝(「ひざ」のルビ)の個所”に痛みを(親が)感じる現象などと同じ構制であろう。これは、盲人が杖先で感受したり、ドライバーがマイカーの車体で擦(「こす」のルビ)った塀を感じたりするのとも相通ずるところがあり、身体的自我の“皮膚的界面を超えての”伸長の機制に見合うものと言えるかもしれない。が、g男のケースでは、よしんば“この身”が体軀的個体相で十全には分劃されない段階にあるとしても、すでにあの「一体化的同一視」の機制が作らいているように観ぜられる。――この現象の可能性の条件(Bedinggung der Möglichkeit)については別稿「役割理論の再構築のために」の第二章第一節の第三項における所説を参看願うことにして今爰では立入らないが、g男はいちはやく“あの身”に“酸(「す」のルビ)っぱさ”(という感覚現相)や“舐める”行動を“帰属化”させるに至っており、以って“あの身”を一種の能知的主体として、のみならず“能為的主体”として覚知している所以となる。」87P
(対話C)「人間(「ヒト」のルビ)は、かかるプリミティヴな局面に発して、体軀的個体相にある“あの身”に一定の企投的意識性を帯びる行動を帰属化させ、“あの身”を能為的一主体の相で覚知するに及ぶ。“あの身”が一定の未来的状態の実現を企投しつつ対象的活動(それが“この身”に向けられている場合もある)をおこなうのを予期・予料し、以って“あの身”を能為的一主体の相で覚知する域には比較器早期に達するにしても、しかし、(第三者的に見ればなるほど嬰児は早期から能為的主体として行為しているのではあるが)、“この身”を体軀的個体相で現認し、且つ、“この身”をフェア・ジッヒに能為的一主体として自認するようになるのは、かなり後(「おく」のルビ)れてのことと思われる。――人間(「ヒト」のルビ)は、いわゆる本能的な慾求的期求行動の域を超えて、“あの身”を能為的主体として覚知し、当の相手にかくかくの行動を期待するようになっても、自分の側が相手からしかじかの行動を期待されていることを意識できるようになるには径庭がある。とはいえ、期待されていることの察知、および、期待に応えての行動が開始されるのは、“この身”の個体的体軀相での明確な現識や“この身”の個体的体軀相での明確な現識や“この身”の能為的主体としての自覚より先立つ時点でのことと忖度される。」87-8P
(対話D)「嬰児は、親が両手を差伸べると、ダッコして貰うべく身を乗り出す。これは慾求行動であっても、両手の差伸べを機縁とする限りでは、一種の条件反射であろう。オツムテンテンも、当初は、犬にオスワリを躾(「しつ」のルビ)けるたぐいの条件反射の域を出ないものと思われる。その点、イナイイナイバー(Fort-da,peek-a-boo)ともなると、これまた条件反射に発するものであれ、期待の察知にもとづく即応的反応行動の域にいちはやく達しているものと言えよう。オチョウダイへの応答が期待の察知にもとづくものであることは誰しも認める筈である。」88P
(対話E)「久保田氏のg男の場合を見てみよう。「大人がちょうだいと手を出すと、g男の場合、五か月ではまだこれに応じなかった(ただし、大人がさし出す積木などは手にとった)が、七か月では大人の手のひらに置き、しかも自分からは手ばなさなかった。九か月では、このような場合、手ばなすようになっていた。同時に、大人が口をあけて食べ物をねだると、パンを口に入れてくれるようになった。十か月近くでは、初対面の六か月児の口に食べ物を入れてやり、ねだるのに応じてまたお菓子を口に入れてやった。」(仝前、一九八頁)。」88-9P
(対話F)「g男は、嚮に紹介しておいたように、既に六か月三週の時点において、他人がレモンを舐めるのを目撃して酸っぱそうな顔をするようになっており、そこでの意味構制をわれわれなりに分析すれば、自他の<舐める>行動を“同立”する域に達してした。そのg男が、生後九か月の時点では、大人や初対面の「六か月児」が口を開けて<ねだる>行為をまさにねだる行為として受け留め、それに応ずる行動をするようになっている。しかもこの時点が、大人のお頂戴の動作に対して、相手の掌に物を置いて手放すようになった時点ともほぼ同時である。――自分のねだる行動と他人のねだる行動との“射映的な見え姿”はおよそ異貌であるにもかかわらず、それら“ねだる”行動が均しく<ねだる>行動という“ゲシュタルト的同一性”をもった所識相で覚知される構制がそこで成立している。射映的には異貌であるにもかかわらず“同立”される構制では<レモンを舐める>自他の行動の同立の場合とも共通する。――尤も、<ねだる>行動の認知といっても、g男は無論まだ、ねだるという概念態を認識してわけではない。がしかし、g男が相手のねだる送信的行動を受信してそれに即応する行動をおこなうようになっていることは紛れもない。」89P ・・・“ ”と < >の使い方に留目
(対話G)「ところで、他人の開けた口に対して食物を入れてやるという行動は、育児期の母親ならいさしらず、乳児に生得的・本能的に具っている反射的行動(無条件反射)とは考え難い。g男が初対面の六か月児の<ねだり>に応じて与えた即応的行動にあっては<ねだり>という期求的意識態勢のの覚知、そのかぎりで、“ねだられていることの察知”とも呼びうる態勢が成立していた筈である。――他人がレモンを<舐める>のを見て自分の顔を顰(「しか」のルビ)めるとき、かつて体験したスッパサを憶い出してその記憶を類推的に移入しているのではなく、端的に“あの部位でのスッパサ”を感知するのである。が、これの成立条件として、自身でレモンを舐めてスッパサを感じた体験が前梯をなす。これと同一の構制が<ねだり>の覚知の場面にも存立し、自分でねだった体験が先行的必要条件をなすであろう。嬰児が“あの身”のねだる動作を<ねだる>動作として覚知し、自分の<ねだる>動作と“同一のゲシュタルト的所識態”で覚識するとき、嬰児は何も動作パターンの同一性を純粋認識的に認知しているのではなく、自分でねだるさいに現識する希求的・期待的・督促的な情動的意識態を(端的にスッパサを“あの個所”に感じるのと同じ具合に)体験していると目される。」89-90P
(対話H)「このモメントを認めるかぎりで“g男は相手のねだりに応じて……”と云為するのであり、そのかぎりで<ねだり>という期待の察知を云々する。<ねだり>の察知とは、単なる動作態の近く的現認ではなく、それをも構造内的継起とする一種の表情性感得であり、“希求的・期待的・督促的な意識態勢”の現成と相即する。」90P
(対話I)「この場面では、しかし、希求・期待・督促といっても、誰が誰に対してということが構造化されて自覚されているには及ばない。誰が誰に対してという認識的分節化を俟たずに反応行動が発現しうる。誰が誰に対してという構造は、例えばオチョウダイにおいて、差出されている手の側とそれに向けて調整さるべき自身の側との分節化といった次元から始まるのであって、最初から体軀的全一体相での“希求する主体”と“期待される主体”という相で分節化するというわけのものではあるまい。(サンクションの問題は次篇に譲るが、一言だけしておけば、お頂戴に応じて即応的に行動を遂行すると、大人が頭を撫でてくれるとか、大人の嬉しそうな表情が機縁で自分も共鳴的・共振的に嬉しくなるとか、このたぐいのプラスのサンクション[報賞]が与えられ、これが強化刺戟となって条件反応が強化される所以となる。)」90P
(対話J)「時に、期待の察知、以って亦、“あの身”への期待意識の帰属化(当方に対する希求的・督促的な意識の“あの身”への帰属化)の成立にさいして、イナイイナイバーのたぐいや“事物の授受”と並んで、言語的交信が重要な契機をなすことは言を俟たない。――嬰児は、ねだりに応じて事物を与えうるようになる少し前から大人の発する若干の音声と対象物とを“シグナンス−シグナートゥム”として結合する域に達していて、自分では発語できなくても、大人が「○○は?」と問うと、その事物の方を向いたり指差(「ゆびさ」のルビ)したりできるようになっていることが観察的・実証的に知られている。ここでは、第三者的な言い方をすれば、質問という質態値をもった“希求・期待・督促”の察知が可能になっていて、とりあえず“指示”という仕方での応答まではできるようになっている、と言えよう。そこでは、音声の“あの身”への音源的帰属化、音声と象徴的に結合している意味の帰属化、以って、“あの身”を能知的主体相で認知するに留まらず、期待意識の帰属・内属する主体として認知する所以となっている次第である。――」90-1P
第三段落――体軀的固体相での自身の対自的な覚知が成立するには、かなり複雑な被媒介的発達過程が介在すること 91-6P
(対話@)「ところで、“あの身”を能為的主体(未来的一定状態の実現に向けて駆動相にある体軀的固体)の相で覚知し、且つ亦、当の主体を“期待を差向けている者”の相で認知する態勢に到達しても、発達過程の初次的段階にあっては、“この身”はまだ明確な体軀的個体相で分劃的に覚知される域にすら達していないであろう。期待の察知、大抵はまず(第二者の第三者への期待ではなく)当方へ差向けられている期待の察知が現成し、そのかぎりで“期待されている”という覚知は成立しても、期待されている側、自身の側が、期待されている者(“所期待者”)としては体軀的主体の相で直ちに自覚化されているわけではない。所期待的主体としての自覚はおろか、体軀的固体相での自身の対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)な覚知が成立するには、かなり複雑な被媒介的発達過程が介在する。」91P
(小さなポイントの但し書き)「人は、自身像・自己像の成立にとって鏡映体験が決定的に重要である旨を云為する。なるほど、金属鏡や硝子鏡の発明・製作は人類史的にみて後代の出来事ではあれ、人類(「ヒト」のルビ)は旧い時代から“水鏡”に映る自身の姿を見る体験の機会を持ってきたことであろう。だが、鏡映体験を俟って初めて自己像が成立するとする見解には直ちに与みしえない。――第一巻でも引証したように、実験心理学的知見によれば、孤絶して育てられたサル、つまり、他の個体との社会的接触を経験したことのないサルは、鏡映像をついに自身としてアイデンティファイできない。普通に育ったサル、つまり、他の個体との社会的接触を経験しつつ育ったサルが、極めて容易に鏡映像を自分自身として認知でるという他方の事実と照らし合わせるとき、鏡映像の自己認知のためにも他個体との現実的交流の場での或る種の経験が前梯的必要条件をなすのである。われわれとしては、自己像の形成に関わる発達論上の経緯を周到に跡づけようと図るさいには、当の前梯的経験に溯って検討する必要がある。それは、われわれの謂う対抗的即応(動物においてはジャレ合いという形での格闘型の対抗的即応をも含む)や模倣的協応などの共互的行動の溯向的分析とも相即する。この課題に、必要最小限は次篇の論脈内で応える予定であるから、爰では前梯的局面を敢えて跨ぎ越して、期待の察知(これは一定の発達段階以後の、つまり反射的応対や単なる条件反射の域を超えた段階での、対抗的即応や模倣的協応にとっても契機をなす)に即する構制に留目しつつ、稍々性急に構図的な立言を進めておくことにしたい。――/尚、この場を藉(か)りて事前に指摘しておけば、或る種の論者たちは、鏡映体験がおこなわれ、そこで自己像が形成され、内的体験とそれとが結合されることで、心身統一的な自我像が形成され、この自我像の投入/類推によって他我像が成立する、という順序で考えている。がしかし、自身の現物と鏡像との直截な比較において両者の同型的同一性が無媒介的・直接的に認知され、アイデンティフィケイションが成立する、という議論は妥当しない。それは、論理的にみて論件先取を犯しているばかりでなく、発達心理学的事実知見にも合わない。鏡映によってはじめて自己像が形成される旨を主張する論者(つまり“鏡映によってはじめて自分の姿を意識する”“鏡映以前には自分の姿を知らない”と主張する論者)は、鏡像を元(「もと」のルビ)にして自己についての像を構成すると言うべきであろうから(自分の顔の具体相などについては確かにそうである!)、自己像の形成に先立って「鏡像と自身とが同型な筈だ」ということを先取的に(鏡映体験者当人が)知っている、という論理に陥る。論者は、“直接に見える自身の諸部分と鏡像とを比較して両者の同型性を現認できる”といって反論するかもしれない。だが、直接に見える部分の姿や動きと、鏡像とを比較してみるがよい。手足や腹の直接的な見え姿と鏡像とはおよそ異貌ではないか!(鏡像は他人の見え姿とは同型的であっても、“自身”の直接的な見え姿とはおよそ異貌であり、鏡像を他人だと見做すほうがナチュラルであろう。現に鳥などは、鏡像を他個体だと見做して攻撃し続ける。)尤も、“自身”が座れば鏡像も座るとか、“自身”が立てば鏡像も立つとか、このような点では確かに対応的・同一的である。(そして、他人の場合は必ずしもそうはいかない。――この行動的“同一性”が確かに重要な契機ではありえよう。)とはいえ、右手を挙げると鏡像は“左手”を挙げ、左を向けば鏡像は“右”を向くというような点では、およそ反対の動きを示す。“比較してみれば同一的・同型的だ”などと簡単には言えない道理である。――惟えば亦、他人対して対抗的即応や模倣的協応をおこなうのと、鏡像に対してそれをおこなうとでは、甚だ様子が違う。鏡像に対してはどうしても左右反対になってしまい、そもそも模倣的に相同的動作をおこなうことが不可能である。(“鏡像は他人とは様子が違う。故に、鏡像は俺だ”という推論が短絡的におこなわれる道理にもなるまい!。)論者たちの、見える実物部分と鏡映像との同型性という主張に対しては、敢えて右の事実を指摘しておかねばならない。」91-3P
(対話A)「翻(「ひるがえ」のルビ)って、他人たちとの対抗的即応行動や模倣的協応行動を通じて、相手“あの身”と同型的な“この身”像が形成されているとすると、その自己像は謂うなれば他人の視座から視た姿になっている筈である。(或る種の論者は、他人の視座から視るなどということは不可能だと主張する。が、この件については既に第一巻で論定しておいた。論者たちは、それはたかだか想像にすぎないと言うかもしれない。宜しい。想像にすぎないものを当人はさながら知覚のように錯覚しているだけだ、と譲ってもよい。がしかし、現実の体験においては、純然たる知覚、つまり、“記憶や想像の全然混入していない純粋な知覚”など殆んど存在しない。われわれの当座の議論にとっては[神経生理学的な知覚論の見地からはそれが錯認であろうとも]、ともあれ、当人が宛然(「えんぜん」のルビ)“知覚相”でそれを覚知していれば足りる。)しかるに、実際鏡映像は、まさしく、この“他人の視座から視た自身の姿”と同型なのである。――鏡像のアイデンティフィケイションには諸々の要因が参与している筈であるから、右の同型性だけで(事前にもっていた自己像と、鏡像とが)直截にアイデンティファイされるとは言わない。が、鏡像的自己認知が成立しうるためにも、対抗的即応行動や模倣的協応行動という場での“他者鏡”への“鏡映”とも謂うべき体験が前梯的必要条件をなすこと、このことが銘記されねばならない所以である。」93-4P
(対話B)「偖、期待の察知が現成している場面(それは事実の問題として、一定準位での対抗的即応行動や模倣的協応行動の場面である)においては、常に必ずというわけではないが、往々にして、「相手の視座から(“この身”)を視る覚知態勢」(これの機制については第一巻第一篇第二章第二節参照)になる。ここで即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には自身の側が“所期待者”の相で覚知される構制が成立しているにしても、「能期待者−所期待者」が対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に共軛化されるためには、尠(「すくな」のルビ)くとも次の如き体験的媒介過程が要件をなすであろう。」94P
(対話C)「対抗的即応行動や模倣的協応行動は、初次的には無条件反射や条件反応として、無自覚的に起始するにせよ、一定段階に達すると期待察知を介した行動となり、延(「ひ」のルビ)いては“あの身”が体駆的個体相での能為的主体として覚知されているばかりでなく、「相手の視座から“視る”相での“この身”」も“体駆的個体相”で錯分節化的統一態で覚識されるに及ぶ。――大人が嬰児に「お耳は? お鼻は? お眼(「めめ」のルビ)は?」と質問して指示的応答を促すことが、当初は条件反応ではあれ、嬰児が自身において触知する部位と他身において視認する部位とを“ゲシュタルト的同一態”で覚知する媒介になるかもしれない。がしかし、サルはおろかイヌなどでも鏡映的自己認知が可能なのであるから、自己像の形成や鏡映像の自己認知にとって、件(「くだん」のルビ)の質問・応答は必要条件ではない。手足や(直接に見えない)顔面部・頭部を具えた自身像の形成は、対抗的即応行動や模倣的協応行動の場で進捗するものと思われる。尚、相手の視座から“視る”という機制は、対象が“この身”ではなく、第三者である場合にも作動しうることは言うまでもあるまい。――サルにおけるマウンティングや毛ヅクロイなどの行動に徴するとき、或る局面以降でのイナイイナイバーや遣り取りなどにおいては、体駆的個体相での“あの身”に期待意識を帰属させているばかりでなく、期待の差向けられている“この身”の自身像も相応に分劃か・分節化していると忖度される。だが、第三者的見地からはいちはやく、“能期待者−所期待者”の共軛性や、期待に応える“この身”の“能為的主体”としての自己覚知の機制がそこに観取されようとも、当人においてはあながちそのことが自覚されているわけではあるまい。相手の期待にそのままに応じ、且つ、応待的な行動が円滑に進行・終了する場合には、当の自覚は容易には成立しないであろう。ところが、期待されている行動相と実行している行動相との相違に気づく場合(これには“失敗”の場合もあれば“反抗”の場合もある)、“この身”の所作態と“区別化的に統一”されている能作体、つまり“所作態的能作体=能作体的所作態”、この“あの視座からとこの視座からと区別化的統一相で視えている自身像”が強く覚知される。尠くとも斯かる体験を介して、能期待者相手と所期待者自分との対向的分極性が覚識されるようになり、更には亦、当方の期待通りには先方が行動しないことの体験を介して、所期待者相手と能期待者自分との対向的分立性、総じて、「所期待者−能期待者」の共軛的な対他対自=対自対他性が覚識されるに及ぶ。」94-5P
(対話D)「今や、体駆的個体相での“あの身”他己および“この身”自己は、時に応じて能期待者または所期待者として共軛的に対向しつつ、一定の未来的状態を予料・希求して“内発”“駆動”する能作体的所作態=所作態的能作体としての能為的主体(=実践的主体)の相で現認される。人間(「ヒト」のルビ)の場合、「能期待者−所期待者」の共軛的覚知の成立過程においても、亦それの形成後においても、言語的発信・受信による質問・理解・応答の活動が重要な位置を占める。用在的世界に登場する主体は、一定の発達段階以降、“言語活動主体”にもほかならない。言語活動主体は、一定の「現相的所与−意味的所識」態が(記号的音声の音源的帰属を介して)帰属する能知的主体という域を超えて、能期待者かつ所期待者でもあり、発信および受信の活動主体であることにおいて已(「すで」のルビ)に能為的主体である。(高次の期待察知は言語的表明の理解を必須の要件としさえもする。)さりとて、しかし、人間(「ホモ」のルビ)を「言語を持つ動物(「ゾーオン・ロゴン・エコン」のルビ)」と定義するのは宜しいとはしても、言語を俟って甫めて能知的・能為的な主体として認知されるとする理説には与みしがたい。人間(「ヒト」のルビ)は、言語活動開始以前の段階から、或る種の対抗的即応行動や模倣的協応行動の場で、他己・自己像の分劃的覚知や能期待者・所期待者との覚識、能知的主体・能為的主体としての他己・自己の認知に達しうる。――」95-6P
第四段落――ここまでの所説は、自己投入説ではないこと、また“自己からの類推”説でもないこと 96-9P
(対話@)「発生論的により周到な議論は後論に持越ししつつも、われわれが以上で構図的に略述した所説は、自己投入説ではないこと、また“自己からの類推”説でもないこと、念のためにこのことを銘記しておきたい。――著者は、いわゆる“自己投入”や“自己からの類推”が時としておこなわれることを顚から否認する者ではない。但し、他我認識論上の投入説や類推説、つまり自我認識が先行的・原初的に成立して、そこから投入や類推によって“他我”構成が事後的におこなわれると主張する理説、これは厳しく卻ける。著者に言わせれば、自己像の形成に先立って“他己像”の方がまず形成されるのであり、その“他己像”との共軛的反照(対抗的即応や模倣的協応の場での)においてはじめて“自己像”がようやく形成されるのである。自己投入や自己からの類推が可能となるのは事前に“他己像”が形成され、それとの共軛的反照に負う“自己像”の形成を俟ってのことにすぎない。他己像が形成されるや、或る他己から別の他己への投入的移入や類推的移入もおこなわれ、“この身”への“投入”や“類推”もおこなわれうるようになる。そして、一旦「自己像」が形成されるに至るや(これの原初的形成は“他己像の自己移入”や“他己像からの類推”ではないのだが)、自己の場合からの類推や投入も現におこなわれる。一定の発達段階以後での他己認知・他者理解と呼ばれる現象の多くは、或る他己から別の他己への投入的移入や類推的移入に多くを負うているばかりでなく、自己の場合からの投入や類推に多くを負うものである。一定水準以上の言語的活動の場での理解は(論者たちがそれが一種の投入や類推の機制になっていることを見落としがちだが、発話者自身に聞こえている音声と聴取者に聞こえる音声とが一応は別々であり、その点では、表情・身振の表出者自身にとっての覚知相と観察者の側での[相手の表情や身振についての]覚知層とが別々であるのと同断であることに留目すれば)いわゆる感情移入や類推の機制になっているのが常態だ、と言っても過言ではない程であろう。それは何も言語活動の場における認知構造だけには限られない。一定段階以後の他己認知・他者理解に際しては汎通的に看られる。だがしかし、繰り返して記さるべきことに、決して「自己投入」や「自己からの類推」によって初めて他己認知・他者理解が成立するのではなく、“他己像”の形成のほうが先行するのである。――」96-7P
(対話A)「われわれは、成程、いわゆる「一体化的同一視」の機制の作動を媒辞として、それは俗流的見地では“この身”を“あの身”に“置き移す”と謂われる機制であることを誌したうえで議論を運んできた。しかしながら、発達心理学・幼児心理学に謂う「一体化的同一視」なる機制は、われわれの見地から正確に言えば、「この身をあの身に置き入れる」ものではない。そして、実際、われわれの行論は(いわゆる「一体化的同一視」という事態を指摘する方便としては一旦“置き移し”を云為したにせよ)、決して“この身”自己像から出発して他己像の形成を説く構制は採らなかった。実際の行論は、“他己像”の形成から説き起こし、その“他己像”の形成との共軛的反照体験に即しつつ“自己像”の事後的形成を説く形になっていた。」97P
(対話B)「読者の中には、この事実を認めたうえでも、しかし、いわゆる「一体化的同一視」は、やはり「この身からの置き入れ」ではないか、当人は無自覚でも第三者的にはあくまで「この身の置き移し」にすぎまい、と考えられるむきもあるかもしれない。“あの身”に意識現象を帰属化させるのは(レモンを舐めてのスッパサの帰属化といった次元であれ、一定の希求的・期待的・督促的・駆動的な意識態の帰属化といった次元であれ)、自身での“内部体験”を投入ないし類推の機制で「あの身に置き移す」機制に因ってではないのか? 先行的に「自身において」既に体験しているのでなければ、“あの身”への帰属層での当該の体験も生じ得ない筈ではないか? これは検討に値しうべき見解である。だが、この見解は、第三者的・理論的見地からのものであって、当人に即すれば決して「自身において」「内部的に」体験するのではなく、たかだか斯々の場所で(それが第三者的には“自分の身体の口”とか“自分の身体内部”とか呼ばれようとも、当人にとっては「自分の身体」なるものが未分節のまま)感知されるにすぎず、そして、“あの個所でスッパサを感じ”たり、“あの身(の場所)で期待・督促・駆動感を感じ”たりする原体験にあっては、端的に“あの場所”にそれを感知するのである。――第一巻において、いわゆる意識現象は「常に必ず能知的主体に人称的に内属する」という臆見を卻けWelt weltet am bestimmten Ort (世界が求められた場所に世界す)を論定しておいたので、今爰では、いわゆる意識現象のJemeinigkeit (各私性)というドグマにまで溯って再批判するには及ばないであろう。――第三者的理論の見地からはよしんば“自身内部的体験の先行性”が云為されようとも、著者にとっては、当人には(「フェア・エス」のルビ)「自身」なるものが先行的に覚知されていてそこからの転位が体験されるわけではないこと、当人には端的に“あの場所”への帰属相で体験されること、(従って、当人の意識に即すれば「自身からの投出・投入ではない」こと)、このことさえ認められれば、当座の議論に支障・不都合はない。けだし、現相的体験においては「自身からの置き移し」が妥当せず、(第一巻で論定したいわゆる意識現象の本源的な前人称帰属性・非人称性という原理的な命題は姑く棚上げしても)、臆見的な「投入説」や「類推説」という形での他我認識形成論を排却できる所以である。」97-8P
(対話C)「われわれの謂う「一体化的同一視」は、自身を他身に置き入れて合体化するものではなく、第三者的見地から「自身に即した体験」と呼ばれるものの先行的経験がそこに介在しているにせよ、当事者的体験においては、謂うなれば単に“あの身(の個所)で体験する事態”の謂いになる。尤も、“あの身での体験”といっても、“あの身”は初次的な局面においてすら、単なる“当方の視座からの射映的知覚相”という在り方をしているわけではない。相手を能期待者として覚知する段ともなると、相手は(当方の視座からの)あの身でありながら且つ亦(当方を向いている)あの視座に即した相でもあり、謂わば“当方からの見え姿と当人の視座からの姿との統一”相にある。――翻って亦、当方を所期待者として自覚するときにも、そこでの当方は、謂うなれば“この視座からの自身でありながら能期待者の視座からの姿でもある”如き相にある。――このような相での「一体的」体験が他・自の分極的対向の感知、自己像の覚知、所期待者かつ能期待者としての主体的自己の覚識……が対自化されていく。そして、一定の発達段階に達してからの反省において、無自覚裡に行動していた自分も既に能為主体の構制にあったこと、殊更に意識せずに行動している他者にあっても既に能為的主体の構制にあること、等々が認知されるに及ぶ。」98-9P
第五段落――まとめ−相互共軛性 99P
(対話@)「用在世界に現前・登場する諸主体は、単なる体躯相での個体、単なる自動体として認知されるのではなく、亦単なる“見たり聞いたりする能知主体”や“発話したり理解したりする言語主体”の域に留まる者でもなく、能期待者かつ所期待者として相互共軛的に関わり合う者、一定の未来的状態を予期的・希求的・督促的に企投しつつ内発・駆動する能為的主体、対他対自的=対自対他的に能作体的所作態=所作態的能作体である他己および自己であること、……このような覚知相で現前する。」99P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(5)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
(この節の問題設定−長い標題)「用在的世界にはわれわれが“能為的主体”と呼ぶ分節肢も特異な様態で現前する。能為的主体は、個体的客体としてはもとより「実在−価値」成態の一つであるが、用在世界の爾余の諸肢節とのあいだに、一種独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは客体的一個体以上の或る者、しかも単なる能知的主体以上の或る者(実践的主体)である。それは未在的状態を企投しつつ、期求・駆動する主体であり、他の実践的主体と相互に期待を差向ける者(能期待者)、期待を差向けられる者として、特異な共軛的関係性を呈し、対他対自的な規定性を負う。」81P
第一段落――「能為的主体」の現相的な現前様態の初次的な一端 81-6P
(対話@)「能為的主体が用在世界の爾余の諸肢節との間に有つ「独特の関係性」はわれわれが後論において「舞台的情況への実践的関与性」と呼ぶものであり、また、実践的主体の対他対自的な共軛的規定性は後論において「役割」規定と呼ぶものであって、「実践的当事主体」の実態は「内自的主体−役割的主体」の二肢的二重性の現認を俟って甫めて見定められるのであるが、議論の順序として、爰では前梯的に「能為的主体」の現相的な現前様態の初次的な一端を見ておこう。」81P
(対話A)「われわれが“能為的主体”と呼ぶ分凝態は、表情性を帯びた現相体(つまり“情動興発的・行動誘起的な現前体”(註1))の一種である限りでは、別段、特権的な存在ではない。――発生論的には、乳児にとってfür sichに分凝する最初の「図」(心理学に謂う「地」との区別におけるFigur)は母親の顔面表情であろうと言われる。顔面表情を覚知するというのは、決して、顔を物体の相で知覚し、そこに或る図形的性状を視認したり、そこに生じる形状的変化を物在的(「フォルハンデン」のルビ)に看取したりすることの謂いではない。原初的体験の場面にあっては、まさに表情が端的に感得されるのである。顔面表情が直截に「図」として“自体的に”現出するというここでの様子は、さながら、不思議の国のアリスの目撃した「チェシャ猫の笑い」の如くである! 発生論的には、顔という物体状の輪郭体や母親の体駆(註2)という輪郭体がそのようなものとして独自に分節されるのは、況してや“当の物体状のものが表情を帯びている”という相で覚知されるようになるのは、後段でのことである。そして母親の体躯がそのような相で現認されるに至ったとしても、当の表情的現相体は特権的な存在というわけではない。発生論的には、また、自身が「其れ(「エス」のルビ)」として覚知されるようになるのは後(「のち」のルビ)に至ってである。成程、第三者的に見るとき、嬰児は早期から体感や情動を感じてはいよう。が、そのことは自身(身体的自我)を直ちに分節的に覚知せしめるものではない。後述(次篇)の通り、嬰児においては、当初にはむしろ、“母子融合的”な態勢にある。自身が分節的に覚知されるようになっても、それが直ちに特権的な存在と見做されるわけではない。――とはいえ、能為的主体は現相的に已(「すで」のルビ)に或る特異性を示す。逆倒した言い方を是正して言い直せば、当の特異性の故に爾他の現相体から能為的主体が分出するのである。」81-2P
(対話B)「能為的主体が爾他の現相体から区別的に覚知されるようになる発生論的経緯を辿ることは今爰での課題ではない。――われわれは第一巻第一篇第二章において、已に、身体的自我に即した論攷をおこない、“あの身”“この身”の対向といった次元ばかりでなく、能知的主体について論じ、いわゆる意識現象の主体帰属性といった事項をも討究しておいた。尤も、そこでは、元来は実践的な場面で現成する契機の若干を“論件先取”した点などもあり、発生論上の論議が已(「すで」のルビ)に完結しているわけではない。このかぎりで、われわれは本巻において第一巻での先取や落丁を埋める課題を負う。がしかし、この課題には論脈内で適宜に溯りつつ折々に次篇にかけて応えていく予定である。爰では、“あの身”が“体駆的個体相”で覚知される場面(発生論的にはかなり進展した段階)から敢えて唐突に議論を始めることにしよう。」82-3P
(註)
1 閉じのダブルコロンがないので、一応ここに付けました。
2 以下、体駆・体躯・体軀といういろいろな表現があり、微妙にニュアンスが違うともとらえられるのですが、一部誤植の可能性も考えられます。著者が使っているままに載せています。
(対話C)「体躯的個体相で“あの身”が分出的に覚知される機縁は、一定の輪郭体が一纏(「ひとまとま」のルビ)りに動くこと(背景的状景の正視・不動とのコントラスト)において「図」として顕出することに存するであろう。しかるに、嬰児の場合、それが飼犬や飼猫のこともあるにせよ、まずもって当の条件を充たす動体は身近かに見られる人物、すなわち、母親、父親、兄姉といった家族成員の人物である。そして、それらは特異な表情性にも富む。尤も、表情性に富む身近な動体は人物やペットとばかりは限らない。ガラガラの如きでもありうる。一纏りに動く輪郭体ということは個体的分節化の重要な機縁であっても、そのことだけではいずれにせよ“主体”的存在として分立せしめるには足りない。苟(「いやし」のルビ)くも個体的分節相で覚識される物は、まず大抵が、一纏まりに動く輪郭体の相で何らかの折りに現認される。“主体”的存在として異立せしめる機縁は、接触的体験の場で覚知されるそれの“自動”性であろう。人間(「ヒト」のルビ)に限らず動物は、圧(「お」のルビ)しているのと圧されているのとの区別、一般に、能動的能知感と受動的被触感との区別、これを早期から感受しうる。(著者が第一巻において批判的に卻けたカメラモデルでの知覚観、すなわち、今猶鞏固な常識的ドグマをなしている知覚観によれば、圧す場合も圧される場合も衝迫力の末梢的な受容は同じ[受ける力の大きさと方向が同じ]なのであるから、そこに生じる感覚も同じ筈だとされる。だが、これは体験に合わないばかりでなく、神経生理学的知見にも合わない。能動的触知の場合と自動的被蝕の場合とでは神経パルスの様態が別異になる。この件に関する専門的知見の著者なりの紹介は、別著『共同主観性の現象学』第一部第四章「本具的触発と生理的機構」特に一四八頁以下の参看を願い、再唱は省くが、神経系を具えた生体にとって能動的触知感と受動的被蝕感との区別は本具的・生得的(「インネイト」のルビ)である――猶、自身が四囲に対して動いているのか、対象物が自身に対して動いてあるのか、この視覚運動は元来、非人称帰属的である。自身の運動は初めから自己帰属相で意識されるように思われるかもしれないが、例えば自分の乗っている電車が動き出したのに対抗ホームの電車が発車したように錯視することなどを、想われたい。)そこで、同じく動体といっても、圧せばそのまま動く物と、圧せば圧し返して来る物(圧すと圧される物)とが区別される。物によっては、先方から圧して来て、当方が圧すと圧し返して来る。そのことに気がつく。これだけでは、まだ“主体”的存在としての分出的異立には不充分であるが、嚮(「さき」のルビ)に“自動”性と記したのは、差当たり、先方自体が圧す、ないし、圧し返すというディスポジションの謂いである。この“自動”性というディスポジショナルな覚知が前梯になって或る種の動体的分節体が軈(「や」のルビ)がて“主体”的存在として分出するようになる。」83-4P
(対話D)「“主体”的存在として認知にとって“自動”体として触感されたり、この触感的体験を前梯にして“自動”性の籠った相で視認されることが必要条件であるにしても、そのことだけでは勿論まだ不足である。その自動体が“今からどのような動静を呈しそうであるか”のディスポジショナルな予期・予科が泛(「う」のルビ)かぶようになっても、まだ不十分である。がしかし、自動体の動静の予料・予期は、それが慾求や期待と結合することにおいて、新展開の緒(「いとぐち」のルビ)になる。――発生論的には、慾求の覚識が、他身の自動体的覚知とは独立に、それ以前にいちはやく成立するであろうことは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。乳児は空腹時に泣くといった局面から、慾求感を即自的に体験しているものと思われる。が、斯かる発生論的初次局面については後論に委ね、爰ではあの自動体の動静の予料・予期がすでに成立するようになっている局面に止目することにしよう。――動態の予期・予料が外(「はず」のルビ)れると一種の失望感めいたものが感じられるという事実に徴して、予期・予料には一種の慾求が籠っていると見做されうるかもしれないのだが、爰では、この次元をもパスして、フェア・ジッヒな慾求的期待の構制を直截に論件としたい。」84P
(対話E)「慾求というとき、論者たちはとかく、対象物の獲得ということに留目しがちである。しかし、嚮に前節の論脈内でも述べたように、慾求というのは、むしろ、一定の(現状とは異相の)未来的状態の現有化を期求するものであって、現有化を期求されている状態(表象される終局的状景ならびにそれの現有化過程)には、いわゆる対象物のみならず、“あの身”または/および“この身”も構造内契機として含まれうる。」85P
(対話F)「偖、フェア・ジッヒな慾求といっても、発達論上の中間的な階梯にあっては、第三者的(「フェア・ウンス」のルビ)に認定して、他身ないし/および自身の行動が構造内的契機をなしていると謂われうるにせよ、当人にとっては、“あの身”と“この身”とが十全にまだ分立化されていなかったり、時によっては“あの身”と“この身”とか謂うなれば“融合的”であったりもしうる。また、あの身とこの身との体躯的個体相での区別的覚知が成立する段階に至って以後も、例えば友達の行動を見凝めているような場合、第三者的見地で俗流的に言えば“この身”を“あの身”に“置き入れる”とでもいうか、心理学に謂う「一体化的同一視」が往々にして生じうる。(後述の通り、この身のあの身への“置き入れ”というところにアクセントがあるのではなく、“あの身の場所に即しての体験”がポイントである。) ――大人でさえ、例えば熱中してボクシングを観戦しているような場合、思わず自身でパンチを繰り出してしまったりもする。一体化的同一視が生じていると呼ばれる事態にあっては、あの身の運動態勢とこの身の(大抵は潜勢的な)運動態勢とが相同的になっていると言えよう。但し、無論、このようなことは発達途上にある子供当人の自覚(「フェア・ジッヒ」のルビ)するところではない。――事実の問題として、まだ“この身”が十全に分劃化される以前の局面から、嬰児は“あの身”を構造的契機とする慾求(第三者的見地から記述すれば、“あの身にかくかくのことをして貰いたい”という慾求)を懐きうるし、また、一定の慾求感を伴いつつ“あの身”の動静に即した予期・予料を懐きうる。この局面においてもいちはやくあの「一体化的同一視」の機制が作(「はた」のルビ)らきうるのであって、嬰児は母親、父親、兄姉など身近かな者の行動を視て、当の行動が予期的・未来的な(といっても当初はプロテンツィオナールな)状態を体現すべく期求感に導れている運動態勢にあるものと覚識する。(フェア・ウンスには、これは「目標的期求状景を企投し、それを実現しようとする行動」を「当事主体が遂行している」ことの認知という構制になる。が、勿論、嬰児はまだそのような他者認識の域に自覚的に達しているわけではない。)この運動(行動)の覚識は、しかし、「一体化的同一視」の機制が作らいているため、単なる運動体の視認とは異なり、“内在的駆動感”がそこに籠っている。“あの身”の行動は、それが運動である限り、メロディなども共通する時間性ゲシュタルトの相にあり、位相的継起の相で覚知されているわけであるが、単なる位相的継起でなくして“あの身”の“駆動的変様”として覚識される。ここにおいて、第三者的に記述すれば、持続的に自己同一的な能作体が継時的に変様する所作態を呈するという構制、“内発的・駆動的な能作体が位相継起的に所作態を体現して行く”という構制、能作体と所作態とのこの区別化的統一が、概念化的把握以前的ではあるが、いちはやく嬰児期的体験意識にのぼる段となる。」85-6P
(対話G)「所期の未来的状態を期求的に表象し、その状態を実現すべく駆動的に行動する能作体、このような相で覚知される体軀的個体、それが著者の謂う「能為的主体」の原基形態にほかならない。(この「能為的主体」の原基形態は、人物とだけは限られない。狼に育てられたタマラにあっては、それは狼であったろう。普通の幼児においても、飼犬や飼猫なども「能為的主体」と見做されるのがむしろナチュラルな過程であろう。成人にあっても、アニミズムを云々するまでもなく、文化圏に応じて「能為的主体」の広袤(「こうぼう」のルビ)は可塑(「かそ」のルビ)的である。このことは、しかしながら、後論が示す通り「能為的主体と見做すかどうかは恣意的な思い入れにすぎない」という主張に与(「く」のルビ)みすべきことを意味するものではない。差当り銘記さるべきは、「能為的主体」としての“認知”は、その原基的構制に徴する限り、人物だけに局定される謂われはない、ということまでである。)」86P
第二段落――発達心理学の実証的知見の一斑を援用 87-91P
(対話@)「議論に多少とも具体性をもたせるべく、発達心理学の実証的知見の一斑を援用し、それを論材としつつ立論を次のステップへと進める運びとしよう。」87P
(対話A)「久保田正人氏の報告されるところによれば、「生後六か月三週のg男に半割のレモンをなめさせたら大変すっぱそうな顔をした。その後三分くらいして、一メートル半くらい前にいる人(母親ではない)が何気なくそのレモンをなめようと口にあてると、乳児はそれをはらはらした様子で見ていたが、やがて自分もいかにもすっぱそうに顔をしかめ口をすぼめた。その場で二回確かめて見たが、そのたびにすっぱそうな顔をした。(このさい、レモンをなめた婦人は、別にすっぱそうな顔はしていなかった)。なおg男はその晩になるともはやすっぱそうな顔はしなかった。」(講座『現代の心理学』小学館、第五巻、一九八二年刊、一八六頁。)」87P
(対話B)「この現象は、眼前で自分の子供が転んだのを目撃して“あの膝(「ひざ」のルビ)の個所”に痛みを(親が)感じる現象などと同じ構制であろう。これは、盲人が杖先で感受したり、ドライバーがマイカーの車体で擦(「こす」のルビ)った塀を感じたりするのとも相通ずるところがあり、身体的自我の“皮膚的界面を超えての”伸長の機制に見合うものと言えるかもしれない。が、g男のケースでは、よしんば“この身”が体軀的個体相で十全には分劃されない段階にあるとしても、すでにあの「一体化的同一視」の機制が作らいているように観ぜられる。――この現象の可能性の条件(Bedinggung der Möglichkeit)については別稿「役割理論の再構築のために」の第二章第一節の第三項における所説を参看願うことにして今爰では立入らないが、g男はいちはやく“あの身”に“酸(「す」のルビ)っぱさ”(という感覚現相)や“舐める”行動を“帰属化”させるに至っており、以って“あの身”を一種の能知的主体として、のみならず“能為的主体”として覚知している所以となる。」87P
(対話C)「人間(「ヒト」のルビ)は、かかるプリミティヴな局面に発して、体軀的個体相にある“あの身”に一定の企投的意識性を帯びる行動を帰属化させ、“あの身”を能為的一主体の相で覚知するに及ぶ。“あの身”が一定の未来的状態の実現を企投しつつ対象的活動(それが“この身”に向けられている場合もある)をおこなうのを予期・予料し、以って“あの身”を能為的一主体の相で覚知する域には比較器早期に達するにしても、しかし、(第三者的に見ればなるほど嬰児は早期から能為的主体として行為しているのではあるが)、“この身”を体軀的個体相で現認し、且つ、“この身”をフェア・ジッヒに能為的一主体として自認するようになるのは、かなり後(「おく」のルビ)れてのことと思われる。――人間(「ヒト」のルビ)は、いわゆる本能的な慾求的期求行動の域を超えて、“あの身”を能為的主体として覚知し、当の相手にかくかくの行動を期待するようになっても、自分の側が相手からしかじかの行動を期待されていることを意識できるようになるには径庭がある。とはいえ、期待されていることの察知、および、期待に応えての行動が開始されるのは、“この身”の個体的体軀相での明確な現識や“この身”の個体的体軀相での明確な現識や“この身”の能為的主体としての自覚より先立つ時点でのことと忖度される。」87-8P
(対話D)「嬰児は、親が両手を差伸べると、ダッコして貰うべく身を乗り出す。これは慾求行動であっても、両手の差伸べを機縁とする限りでは、一種の条件反射であろう。オツムテンテンも、当初は、犬にオスワリを躾(「しつ」のルビ)けるたぐいの条件反射の域を出ないものと思われる。その点、イナイイナイバー(Fort-da,peek-a-boo)ともなると、これまた条件反射に発するものであれ、期待の察知にもとづく即応的反応行動の域にいちはやく達しているものと言えよう。オチョウダイへの応答が期待の察知にもとづくものであることは誰しも認める筈である。」88P
(対話E)「久保田氏のg男の場合を見てみよう。「大人がちょうだいと手を出すと、g男の場合、五か月ではまだこれに応じなかった(ただし、大人がさし出す積木などは手にとった)が、七か月では大人の手のひらに置き、しかも自分からは手ばなさなかった。九か月では、このような場合、手ばなすようになっていた。同時に、大人が口をあけて食べ物をねだると、パンを口に入れてくれるようになった。十か月近くでは、初対面の六か月児の口に食べ物を入れてやり、ねだるのに応じてまたお菓子を口に入れてやった。」(仝前、一九八頁)。」88-9P
(対話F)「g男は、嚮に紹介しておいたように、既に六か月三週の時点において、他人がレモンを舐めるのを目撃して酸っぱそうな顔をするようになっており、そこでの意味構制をわれわれなりに分析すれば、自他の<舐める>行動を“同立”する域に達してした。そのg男が、生後九か月の時点では、大人や初対面の「六か月児」が口を開けて<ねだる>行為をまさにねだる行為として受け留め、それに応ずる行動をするようになっている。しかもこの時点が、大人のお頂戴の動作に対して、相手の掌に物を置いて手放すようになった時点ともほぼ同時である。――自分のねだる行動と他人のねだる行動との“射映的な見え姿”はおよそ異貌であるにもかかわらず、それら“ねだる”行動が均しく<ねだる>行動という“ゲシュタルト的同一性”をもった所識相で覚知される構制がそこで成立している。射映的には異貌であるにもかかわらず“同立”される構制では<レモンを舐める>自他の行動の同立の場合とも共通する。――尤も、<ねだる>行動の認知といっても、g男は無論まだ、ねだるという概念態を認識してわけではない。がしかし、g男が相手のねだる送信的行動を受信してそれに即応する行動をおこなうようになっていることは紛れもない。」89P ・・・“ ”と < >の使い方に留目
(対話G)「ところで、他人の開けた口に対して食物を入れてやるという行動は、育児期の母親ならいさしらず、乳児に生得的・本能的に具っている反射的行動(無条件反射)とは考え難い。g男が初対面の六か月児の<ねだり>に応じて与えた即応的行動にあっては<ねだり>という期求的意識態勢のの覚知、そのかぎりで、“ねだられていることの察知”とも呼びうる態勢が成立していた筈である。――他人がレモンを<舐める>のを見て自分の顔を顰(「しか」のルビ)めるとき、かつて体験したスッパサを憶い出してその記憶を類推的に移入しているのではなく、端的に“あの部位でのスッパサ”を感知するのである。が、これの成立条件として、自身でレモンを舐めてスッパサを感じた体験が前梯をなす。これと同一の構制が<ねだり>の覚知の場面にも存立し、自分でねだった体験が先行的必要条件をなすであろう。嬰児が“あの身”のねだる動作を<ねだる>動作として覚知し、自分の<ねだる>動作と“同一のゲシュタルト的所識態”で覚識するとき、嬰児は何も動作パターンの同一性を純粋認識的に認知しているのではなく、自分でねだるさいに現識する希求的・期待的・督促的な情動的意識態を(端的にスッパサを“あの個所”に感じるのと同じ具合に)体験していると目される。」89-90P
(対話H)「このモメントを認めるかぎりで“g男は相手のねだりに応じて……”と云為するのであり、そのかぎりで<ねだり>という期待の察知を云々する。<ねだり>の察知とは、単なる動作態の近く的現認ではなく、それをも構造内的継起とする一種の表情性感得であり、“希求的・期待的・督促的な意識態勢”の現成と相即する。」90P
(対話I)「この場面では、しかし、希求・期待・督促といっても、誰が誰に対してということが構造化されて自覚されているには及ばない。誰が誰に対してという認識的分節化を俟たずに反応行動が発現しうる。誰が誰に対してという構造は、例えばオチョウダイにおいて、差出されている手の側とそれに向けて調整さるべき自身の側との分節化といった次元から始まるのであって、最初から体軀的全一体相での“希求する主体”と“期待される主体”という相で分節化するというわけのものではあるまい。(サンクションの問題は次篇に譲るが、一言だけしておけば、お頂戴に応じて即応的に行動を遂行すると、大人が頭を撫でてくれるとか、大人の嬉しそうな表情が機縁で自分も共鳴的・共振的に嬉しくなるとか、このたぐいのプラスのサンクション[報賞]が与えられ、これが強化刺戟となって条件反応が強化される所以となる。)」90P
(対話J)「時に、期待の察知、以って亦、“あの身”への期待意識の帰属化(当方に対する希求的・督促的な意識の“あの身”への帰属化)の成立にさいして、イナイイナイバーのたぐいや“事物の授受”と並んで、言語的交信が重要な契機をなすことは言を俟たない。――嬰児は、ねだりに応じて事物を与えうるようになる少し前から大人の発する若干の音声と対象物とを“シグナンス−シグナートゥム”として結合する域に達していて、自分では発語できなくても、大人が「○○は?」と問うと、その事物の方を向いたり指差(「ゆびさ」のルビ)したりできるようになっていることが観察的・実証的に知られている。ここでは、第三者的な言い方をすれば、質問という質態値をもった“希求・期待・督促”の察知が可能になっていて、とりあえず“指示”という仕方での応答まではできるようになっている、と言えよう。そこでは、音声の“あの身”への音源的帰属化、音声と象徴的に結合している意味の帰属化、以って、“あの身”を能知的主体相で認知するに留まらず、期待意識の帰属・内属する主体として認知する所以となっている次第である。――」90-1P
第三段落――体軀的固体相での自身の対自的な覚知が成立するには、かなり複雑な被媒介的発達過程が介在すること 91-6P
(対話@)「ところで、“あの身”を能為的主体(未来的一定状態の実現に向けて駆動相にある体軀的固体)の相で覚知し、且つ亦、当の主体を“期待を差向けている者”の相で認知する態勢に到達しても、発達過程の初次的段階にあっては、“この身”はまだ明確な体軀的個体相で分劃的に覚知される域にすら達していないであろう。期待の察知、大抵はまず(第二者の第三者への期待ではなく)当方へ差向けられている期待の察知が現成し、そのかぎりで“期待されている”という覚知は成立しても、期待されている側、自身の側が、期待されている者(“所期待者”)としては体軀的主体の相で直ちに自覚化されているわけではない。所期待的主体としての自覚はおろか、体軀的固体相での自身の対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)な覚知が成立するには、かなり複雑な被媒介的発達過程が介在する。」91P
(小さなポイントの但し書き)「人は、自身像・自己像の成立にとって鏡映体験が決定的に重要である旨を云為する。なるほど、金属鏡や硝子鏡の発明・製作は人類史的にみて後代の出来事ではあれ、人類(「ヒト」のルビ)は旧い時代から“水鏡”に映る自身の姿を見る体験の機会を持ってきたことであろう。だが、鏡映体験を俟って初めて自己像が成立するとする見解には直ちに与みしえない。――第一巻でも引証したように、実験心理学的知見によれば、孤絶して育てられたサル、つまり、他の個体との社会的接触を経験したことのないサルは、鏡映像をついに自身としてアイデンティファイできない。普通に育ったサル、つまり、他の個体との社会的接触を経験しつつ育ったサルが、極めて容易に鏡映像を自分自身として認知でるという他方の事実と照らし合わせるとき、鏡映像の自己認知のためにも他個体との現実的交流の場での或る種の経験が前梯的必要条件をなすのである。われわれとしては、自己像の形成に関わる発達論上の経緯を周到に跡づけようと図るさいには、当の前梯的経験に溯って検討する必要がある。それは、われわれの謂う対抗的即応(動物においてはジャレ合いという形での格闘型の対抗的即応をも含む)や模倣的協応などの共互的行動の溯向的分析とも相即する。この課題に、必要最小限は次篇の論脈内で応える予定であるから、爰では前梯的局面を敢えて跨ぎ越して、期待の察知(これは一定の発達段階以後の、つまり反射的応対や単なる条件反射の域を超えた段階での、対抗的即応や模倣的協応にとっても契機をなす)に即する構制に留目しつつ、稍々性急に構図的な立言を進めておくことにしたい。――/尚、この場を藉(か)りて事前に指摘しておけば、或る種の論者たちは、鏡映体験がおこなわれ、そこで自己像が形成され、内的体験とそれとが結合されることで、心身統一的な自我像が形成され、この自我像の投入/類推によって他我像が成立する、という順序で考えている。がしかし、自身の現物と鏡像との直截な比較において両者の同型的同一性が無媒介的・直接的に認知され、アイデンティフィケイションが成立する、という議論は妥当しない。それは、論理的にみて論件先取を犯しているばかりでなく、発達心理学的事実知見にも合わない。鏡映によってはじめて自己像が形成される旨を主張する論者(つまり“鏡映によってはじめて自分の姿を意識する”“鏡映以前には自分の姿を知らない”と主張する論者)は、鏡像を元(「もと」のルビ)にして自己についての像を構成すると言うべきであろうから(自分の顔の具体相などについては確かにそうである!)、自己像の形成に先立って「鏡像と自身とが同型な筈だ」ということを先取的に(鏡映体験者当人が)知っている、という論理に陥る。論者は、“直接に見える自身の諸部分と鏡像とを比較して両者の同型性を現認できる”といって反論するかもしれない。だが、直接に見える部分の姿や動きと、鏡像とを比較してみるがよい。手足や腹の直接的な見え姿と鏡像とはおよそ異貌ではないか!(鏡像は他人の見え姿とは同型的であっても、“自身”の直接的な見え姿とはおよそ異貌であり、鏡像を他人だと見做すほうがナチュラルであろう。現に鳥などは、鏡像を他個体だと見做して攻撃し続ける。)尤も、“自身”が座れば鏡像も座るとか、“自身”が立てば鏡像も立つとか、このような点では確かに対応的・同一的である。(そして、他人の場合は必ずしもそうはいかない。――この行動的“同一性”が確かに重要な契機ではありえよう。)とはいえ、右手を挙げると鏡像は“左手”を挙げ、左を向けば鏡像は“右”を向くというような点では、およそ反対の動きを示す。“比較してみれば同一的・同型的だ”などと簡単には言えない道理である。――惟えば亦、他人対して対抗的即応や模倣的協応をおこなうのと、鏡像に対してそれをおこなうとでは、甚だ様子が違う。鏡像に対してはどうしても左右反対になってしまい、そもそも模倣的に相同的動作をおこなうことが不可能である。(“鏡像は他人とは様子が違う。故に、鏡像は俺だ”という推論が短絡的におこなわれる道理にもなるまい!。)論者たちの、見える実物部分と鏡映像との同型性という主張に対しては、敢えて右の事実を指摘しておかねばならない。」91-3P
(対話A)「翻(「ひるがえ」のルビ)って、他人たちとの対抗的即応行動や模倣的協応行動を通じて、相手“あの身”と同型的な“この身”像が形成されているとすると、その自己像は謂うなれば他人の視座から視た姿になっている筈である。(或る種の論者は、他人の視座から視るなどということは不可能だと主張する。が、この件については既に第一巻で論定しておいた。論者たちは、それはたかだか想像にすぎないと言うかもしれない。宜しい。想像にすぎないものを当人はさながら知覚のように錯覚しているだけだ、と譲ってもよい。がしかし、現実の体験においては、純然たる知覚、つまり、“記憶や想像の全然混入していない純粋な知覚”など殆んど存在しない。われわれの当座の議論にとっては[神経生理学的な知覚論の見地からはそれが錯認であろうとも]、ともあれ、当人が宛然(「えんぜん」のルビ)“知覚相”でそれを覚知していれば足りる。)しかるに、実際鏡映像は、まさしく、この“他人の視座から視た自身の姿”と同型なのである。――鏡像のアイデンティフィケイションには諸々の要因が参与している筈であるから、右の同型性だけで(事前にもっていた自己像と、鏡像とが)直截にアイデンティファイされるとは言わない。が、鏡像的自己認知が成立しうるためにも、対抗的即応行動や模倣的協応行動という場での“他者鏡”への“鏡映”とも謂うべき体験が前梯的必要条件をなすこと、このことが銘記されねばならない所以である。」93-4P
(対話B)「偖、期待の察知が現成している場面(それは事実の問題として、一定準位での対抗的即応行動や模倣的協応行動の場面である)においては、常に必ずというわけではないが、往々にして、「相手の視座から(“この身”)を視る覚知態勢」(これの機制については第一巻第一篇第二章第二節参照)になる。ここで即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)には自身の側が“所期待者”の相で覚知される構制が成立しているにしても、「能期待者−所期待者」が対自的(「フェア・ジッヒ」のルビ)に共軛化されるためには、尠(「すくな」のルビ)くとも次の如き体験的媒介過程が要件をなすであろう。」94P
(対話C)「対抗的即応行動や模倣的協応行動は、初次的には無条件反射や条件反応として、無自覚的に起始するにせよ、一定段階に達すると期待察知を介した行動となり、延(「ひ」のルビ)いては“あの身”が体駆的個体相での能為的主体として覚知されているばかりでなく、「相手の視座から“視る”相での“この身”」も“体駆的個体相”で錯分節化的統一態で覚識されるに及ぶ。――大人が嬰児に「お耳は? お鼻は? お眼(「めめ」のルビ)は?」と質問して指示的応答を促すことが、当初は条件反応ではあれ、嬰児が自身において触知する部位と他身において視認する部位とを“ゲシュタルト的同一態”で覚知する媒介になるかもしれない。がしかし、サルはおろかイヌなどでも鏡映的自己認知が可能なのであるから、自己像の形成や鏡映像の自己認知にとって、件(「くだん」のルビ)の質問・応答は必要条件ではない。手足や(直接に見えない)顔面部・頭部を具えた自身像の形成は、対抗的即応行動や模倣的協応行動の場で進捗するものと思われる。尚、相手の視座から“視る”という機制は、対象が“この身”ではなく、第三者である場合にも作動しうることは言うまでもあるまい。――サルにおけるマウンティングや毛ヅクロイなどの行動に徴するとき、或る局面以降でのイナイイナイバーや遣り取りなどにおいては、体駆的個体相での“あの身”に期待意識を帰属させているばかりでなく、期待の差向けられている“この身”の自身像も相応に分劃か・分節化していると忖度される。だが、第三者的見地からはいちはやく、“能期待者−所期待者”の共軛性や、期待に応える“この身”の“能為的主体”としての自己覚知の機制がそこに観取されようとも、当人においてはあながちそのことが自覚されているわけではあるまい。相手の期待にそのままに応じ、且つ、応待的な行動が円滑に進行・終了する場合には、当の自覚は容易には成立しないであろう。ところが、期待されている行動相と実行している行動相との相違に気づく場合(これには“失敗”の場合もあれば“反抗”の場合もある)、“この身”の所作態と“区別化的に統一”されている能作体、つまり“所作態的能作体=能作体的所作態”、この“あの視座からとこの視座からと区別化的統一相で視えている自身像”が強く覚知される。尠くとも斯かる体験を介して、能期待者相手と所期待者自分との対向的分極性が覚識されるようになり、更には亦、当方の期待通りには先方が行動しないことの体験を介して、所期待者相手と能期待者自分との対向的分立性、総じて、「所期待者−能期待者」の共軛的な対他対自=対自対他性が覚識されるに及ぶ。」94-5P
(対話D)「今や、体駆的個体相での“あの身”他己および“この身”自己は、時に応じて能期待者または所期待者として共軛的に対向しつつ、一定の未来的状態を予料・希求して“内発”“駆動”する能作体的所作態=所作態的能作体としての能為的主体(=実践的主体)の相で現認される。人間(「ヒト」のルビ)の場合、「能期待者−所期待者」の共軛的覚知の成立過程においても、亦それの形成後においても、言語的発信・受信による質問・理解・応答の活動が重要な位置を占める。用在的世界に登場する主体は、一定の発達段階以降、“言語活動主体”にもほかならない。言語活動主体は、一定の「現相的所与−意味的所識」態が(記号的音声の音源的帰属を介して)帰属する能知的主体という域を超えて、能期待者かつ所期待者でもあり、発信および受信の活動主体であることにおいて已(「すで」のルビ)に能為的主体である。(高次の期待察知は言語的表明の理解を必須の要件としさえもする。)さりとて、しかし、人間(「ホモ」のルビ)を「言語を持つ動物(「ゾーオン・ロゴン・エコン」のルビ)」と定義するのは宜しいとはしても、言語を俟って甫めて能知的・能為的な主体として認知されるとする理説には与みしがたい。人間(「ヒト」のルビ)は、言語活動開始以前の段階から、或る種の対抗的即応行動や模倣的協応行動の場で、他己・自己像の分劃的覚知や能期待者・所期待者との覚識、能知的主体・能為的主体としての他己・自己の認知に達しうる。――」95-6P
第四段落――ここまでの所説は、自己投入説ではないこと、また“自己からの類推”説でもないこと 96-9P
(対話@)「発生論的により周到な議論は後論に持越ししつつも、われわれが以上で構図的に略述した所説は、自己投入説ではないこと、また“自己からの類推”説でもないこと、念のためにこのことを銘記しておきたい。――著者は、いわゆる“自己投入”や“自己からの類推”が時としておこなわれることを顚から否認する者ではない。但し、他我認識論上の投入説や類推説、つまり自我認識が先行的・原初的に成立して、そこから投入や類推によって“他我”構成が事後的におこなわれると主張する理説、これは厳しく卻ける。著者に言わせれば、自己像の形成に先立って“他己像”の方がまず形成されるのであり、その“他己像”との共軛的反照(対抗的即応や模倣的協応の場での)においてはじめて“自己像”がようやく形成されるのである。自己投入や自己からの類推が可能となるのは事前に“他己像”が形成され、それとの共軛的反照に負う“自己像”の形成を俟ってのことにすぎない。他己像が形成されるや、或る他己から別の他己への投入的移入や類推的移入もおこなわれ、“この身”への“投入”や“類推”もおこなわれうるようになる。そして、一旦「自己像」が形成されるに至るや(これの原初的形成は“他己像の自己移入”や“他己像からの類推”ではないのだが)、自己の場合からの類推や投入も現におこなわれる。一定の発達段階以後での他己認知・他者理解と呼ばれる現象の多くは、或る他己から別の他己への投入的移入や類推的移入に多くを負うているばかりでなく、自己の場合からの投入や類推に多くを負うものである。一定水準以上の言語的活動の場での理解は(論者たちがそれが一種の投入や類推の機制になっていることを見落としがちだが、発話者自身に聞こえている音声と聴取者に聞こえる音声とが一応は別々であり、その点では、表情・身振の表出者自身にとっての覚知相と観察者の側での[相手の表情や身振についての]覚知層とが別々であるのと同断であることに留目すれば)いわゆる感情移入や類推の機制になっているのが常態だ、と言っても過言ではない程であろう。それは何も言語活動の場における認知構造だけには限られない。一定段階以後の他己認知・他者理解に際しては汎通的に看られる。だがしかし、繰り返して記さるべきことに、決して「自己投入」や「自己からの類推」によって初めて他己認知・他者理解が成立するのではなく、“他己像”の形成のほうが先行するのである。――」96-7P
(対話A)「われわれは、成程、いわゆる「一体化的同一視」の機制の作動を媒辞として、それは俗流的見地では“この身”を“あの身”に“置き移す”と謂われる機制であることを誌したうえで議論を運んできた。しかしながら、発達心理学・幼児心理学に謂う「一体化的同一視」なる機制は、われわれの見地から正確に言えば、「この身をあの身に置き入れる」ものではない。そして、実際、われわれの行論は(いわゆる「一体化的同一視」という事態を指摘する方便としては一旦“置き移し”を云為したにせよ)、決して“この身”自己像から出発して他己像の形成を説く構制は採らなかった。実際の行論は、“他己像”の形成から説き起こし、その“他己像”の形成との共軛的反照体験に即しつつ“自己像”の事後的形成を説く形になっていた。」97P
(対話B)「読者の中には、この事実を認めたうえでも、しかし、いわゆる「一体化的同一視」は、やはり「この身からの置き入れ」ではないか、当人は無自覚でも第三者的にはあくまで「この身の置き移し」にすぎまい、と考えられるむきもあるかもしれない。“あの身”に意識現象を帰属化させるのは(レモンを舐めてのスッパサの帰属化といった次元であれ、一定の希求的・期待的・督促的・駆動的な意識態の帰属化といった次元であれ)、自身での“内部体験”を投入ないし類推の機制で「あの身に置き移す」機制に因ってではないのか? 先行的に「自身において」既に体験しているのでなければ、“あの身”への帰属層での当該の体験も生じ得ない筈ではないか? これは検討に値しうべき見解である。だが、この見解は、第三者的・理論的見地からのものであって、当人に即すれば決して「自身において」「内部的に」体験するのではなく、たかだか斯々の場所で(それが第三者的には“自分の身体の口”とか“自分の身体内部”とか呼ばれようとも、当人にとっては「自分の身体」なるものが未分節のまま)感知されるにすぎず、そして、“あの個所でスッパサを感じ”たり、“あの身(の場所)で期待・督促・駆動感を感じ”たりする原体験にあっては、端的に“あの場所”にそれを感知するのである。――第一巻において、いわゆる意識現象は「常に必ず能知的主体に人称的に内属する」という臆見を卻けWelt weltet am bestimmten Ort (世界が求められた場所に世界す)を論定しておいたので、今爰では、いわゆる意識現象のJemeinigkeit (各私性)というドグマにまで溯って再批判するには及ばないであろう。――第三者的理論の見地からはよしんば“自身内部的体験の先行性”が云為されようとも、著者にとっては、当人には(「フェア・エス」のルビ)「自身」なるものが先行的に覚知されていてそこからの転位が体験されるわけではないこと、当人には端的に“あの場所”への帰属相で体験されること、(従って、当人の意識に即すれば「自身からの投出・投入ではない」こと)、このことさえ認められれば、当座の議論に支障・不都合はない。けだし、現相的体験においては「自身からの置き移し」が妥当せず、(第一巻で論定したいわゆる意識現象の本源的な前人称帰属性・非人称性という原理的な命題は姑く棚上げしても)、臆見的な「投入説」や「類推説」という形での他我認識形成論を排却できる所以である。」97-8P
(対話C)「われわれの謂う「一体化的同一視」は、自身を他身に置き入れて合体化するものではなく、第三者的見地から「自身に即した体験」と呼ばれるものの先行的経験がそこに介在しているにせよ、当事者的体験においては、謂うなれば単に“あの身(の個所)で体験する事態”の謂いになる。尤も、“あの身での体験”といっても、“あの身”は初次的な局面においてすら、単なる“当方の視座からの射映的知覚相”という在り方をしているわけではない。相手を能期待者として覚知する段ともなると、相手は(当方の視座からの)あの身でありながら且つ亦(当方を向いている)あの視座に即した相でもあり、謂わば“当方からの見え姿と当人の視座からの姿との統一”相にある。――翻って亦、当方を所期待者として自覚するときにも、そこでの当方は、謂うなれば“この視座からの自身でありながら能期待者の視座からの姿でもある”如き相にある。――このような相での「一体的」体験が他・自の分極的対向の感知、自己像の覚知、所期待者かつ能期待者としての主体的自己の覚識……が対自化されていく。そして、一定の発達段階に達してからの反省において、無自覚裡に行動していた自分も既に能為主体の構制にあったこと、殊更に意識せずに行動している他者にあっても既に能為的主体の構制にあること、等々が認知されるに及ぶ。」98-9P
第五段落――まとめ−相互共軛性 99P
(対話@)「用在世界に現前・登場する諸主体は、単なる体躯相での個体、単なる自動体として認知されるのではなく、亦単なる“見たり聞いたりする能知主体”や“発話したり理解したりする言語主体”の域に留まる者でもなく、能期待者かつ所期待者として相互共軛的に関わり合う者、一定の未来的状態を予期的・希求的・督促的に企投しつつ内発・駆動する能為的主体、対他対自的=対自対他的に能作体的所作態=所作態的能作体である他己および自己であること、……このような覚知相で現前する。」99P
2025年08月17日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(4)
たわしの読書メモ・・ブログ706[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(4)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
第三節 財態の第二肢的価値
(この節の問題設定−長い標題)「財態の第二肢たる「意義的価値」は、あくまで「実在−価値」関係の「項」なのであり、それは「実在的所与」が「単なるそれ以上の或るものとして妥当する」という関係規定においてのみ「意義的価値」なのである。この第二肢的価値は、第一肢的実在とは端的に存在性格を異にし、非実在的(「イルレアール」のルビ)=理念的(「イデアール」のルビ)な或るものとしか差当り言いようのないのだが、財態を財態たらしめる所以の対象的規定性として存立する。――価値の所識は、間主観的非実在的=理念的存在性格の或るものとしては意味的所識の一部類であるとはいえ、実践的関心性の構えに対して現前するものであり、積極的(「ポジティヴ」のルビ)または消極的(「ネガティヴ」のルビ)である。」44P
第一段落――「主観−客観」図式に仮託するかたちで、価値の正負双極性の問題や、価値的所識の非実在的=理念的存在性格の問題の暫定的な討究 44-5P
(対話@)「意義的価値についての十全な論攷は第三巻(「文化的世界の存在構造」)に持ち越さざるをえないが、実践的世界の存在構造を見定めるうえで必要最小限の議論を本巻内の幾つかの節で適宜暫定的に試みておかねばならない。」44P
(対話A)「本節においては、既成理論と接点を有たせつつ、後論において内在的にそれを批判・止揚するための方略という含みもあって、「主観−客観」図式(さしあたり「価値意識作用−価値意識対象」という図式)に仮託するかたちで、ひとまず議論を進め、価値の正負双極性(積極・消極の反対方向的性格規定性)の問題や、価値的所識の非実在的=理念的存在性格の問題を暫定的に討究しておこう。」44P
(対話B)「価値と一口に括っても多種である。価値について論考するにあたっては、一定の分類的整序も当然必要になってくる。が、学説史上の実際を慮るに、真・善・美・聖といった直截な種別だけでは処理しきれず、例えば、心情価値・行為価値・人格価値……といった価値の担い手(「トレーガー」のルビ)に即した分類や、生命価値・効利価値……といった機能性に即した分類や、その他さまざまな視角からの分類が併せておこなわれてきた。われわれ自身、後論において価値の分類的整序を企てる際には、幾つかの副次的な視軸をも持込むことによって、旧来の分類との離・接を見え易くする予定である。また、価値の正反・大小・高低ばかりでなく、強弱(軽重)の関係をも扱い、価値判断や価値判断性推理を扱う場面では、肯定・否定と積極・消極とを単純に対応づけるのではなく、排中関係の処理に関連して“価値中立的なゾーン”をも導入する予定である。われわれは、価値に関しても「様相」の問題の勘案をすら要する。」44-5P
(対話C)「爰での当座の議論においては、しかし、財態の構造内的契機をなす価値の固有性を顕揚し、実在的な所与とは端的に区別さるべき価値の存在性格を確認しておくことが、喫緊の課題である。われわれとしては、この課題に応えるに当り、実践的関心態度・評価作用の位層的区分との対向的に価値対象性の位層的区分を設ける流儀で、概観するところから始めよう。――本節では、ひとまず現象学派の謂う「志向的意識作用−志向的価値対象」の構制に略々仮託する手法で議論を運んでおきたいと念う。(後論に至って「志向作用−志向対象」という構制そのことの孕む物象化的錯認を剔抉し、価値の非実在的=理念的存在性格なるものの謎解きをもおこなう。が、そのためにも、まずは物象化的錯認に陥っている日常的価値体験に即した記述的分析を先立てておくのが順路である。)」45P
第二段落――物象化的錯認に陥っている日常的価値体験に即した記述的分析の表示風提示 45-6P
(対話@)「(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭)/(2)較認的価値評価(撰取−貶置)/(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥)/(4)当為的価値応対(促迫−禁制)/(5)期成的価値企投(追求−忌避)/(6)照会的価値判定(適盈(「じゅう」のルビ)−反虧(「か」のルビ))/(7)述定的価値判断(承認−否認)」45-6P
(対話A)「右を一覧頂ければ大凡の構案は察知されよう。但し、これは必ずしも価値の分類ではない。また、価値の発生論的順序と厳密に対応するものではない。」46P
第三段落――(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭) 46P
(この項の標題)「(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭)」46P
(対話@)「世界現相は、第一節で指摘したように、汎通的に表情価(情動興発価・行動誘発価)を帯びた相貌で現前している。謂う所の「情動興発価・行動誘発価」を一括して「興発的価値」と略称する。興発的と謂うのは情動的覚識や行動的性向を興発することに徴してであるが、しかし、この興発そのことは実在的事件たるにすぎず、生理・心理学的な見地からは一種の因果的事象たるにすぎない。この因果的・実在的な事象は、価値なるものが惹き起こすわけではなく、生理心理学的な見地で言えば、与件的財態の実在的所与契機と実在的主体との反応において成立する事件であって、それ自体は価値的ではない。(「情動興起価」「行動誘発価」なるものは、正規に言えば、情動や行動を興発する価値ではなく、一定の情動興発態勢や行動誘起態勢において現認される価値の謂いである。但し、価値感得を感受して仮託する記すさいには、宛かも価値なるものが触発するかのごとき表現になることもやむをえないであろう。)また、情動的覚識や行動的性向は、単なる主体内部的実在状態と目される限りでは、第二節において主観価値説を検討する論脈で指摘したところから知られるように、これまたそれ自体では価値的ではない。情動や性向の視向対象(より詳しく言えば情動的覚識や行動的性向を興起・誘発する認知的視向対象)が、一定の評価作用を受けることによってはじめて、情動・性向の質や評価の作用性質に見合う価値性を“受け取る”のである。尤も、価値性の“取得”とか“帯有”とか、言葉に窮してこのような表現を仮りに採ってはいるが、それは決して価値なるもののレアールな授受の謂いではない。情動・性向が歓好的または嫌厭的な視向態勢(「ツーヴェンドウング」のルビ)においてあることにおいて甫めて(より剴切に言い換えれば、歓好的または嫌厭的な視向態勢の相で感得されることにおいて甫めて)当該の視向対象が積極(正) (「ポジティヴ」のルビ)または消極(負) (「ネガティヴ」のルビ)の価値を帯びていると言われうるのである。このさい、しかし、歓好的または嫌厭的な視向態勢での感得において甫めてとは言っても、二段階の意識意識過程が継起的に生ずると言うのではない。評価が第二段階として累加される場合もあるが、今問題の表情性感得の場面においては、概して歓好的ないし嫌厭的視向相での感得が直截に現成している。しかも、ここでは、外なる与件的対象と内なる情感的内容といった“空間的”分離性は現識されておらず、所与現相が直截に歓好的ないし嫌厭的な種々の情感性において感得される。このような感得相にある現相を、分析的記述の見地から、興発的価値性を帯有していると謂い、そこでの歓好的・嫌厭的な志向対象性を興発的価値と呼ぶ。」46-7P
(対話A)「尚、表情価を帯びる現相は、いわゆる知覚性現相ばかりでなく、表象でもありうるし、一定の準反省的態度や反省的態勢においては、いわゆる気分・感情・情動のごとき心態もそれ自身が歓好的・嫌厭的な視向対象たりえ、以って興発的価値性を負荷(「トラーゲン」のルビ)しうる。」47P
(小さなポイントの但し書き)「歓好的・嫌厭的という奇異な用語(著者の真意からすれば、「歓向的・嫌退的」ないし「歓進的・厭退的」とでも表記したいところ、それでは奇態に過ぎるため「歓好的・嫌厭的」という用語法を採っているのだが)、この概念の内容と身分についてコメントを挿んでおこう。/学説史上、情動の分類の位置づけは諸家の苦心の種(「たね」のルビ)であった。W・ヴントLust (快)Unlust (不快)という“単純感情”成分を基底に据えようとしたことは有名で有るが、H・シュロスバークの今では古典的な三次元軸は@pleasant-unpleasant(快−不快)、Aattention-rejection(注意−拒斥)、Bsleep-tention(休止−緊張)となっている。この例に限らず心理学者たちが、情動を「快−不快」のスペクトルに配位できると考えていることが概して察せられる。快または不快が各種の情動に“成分”的に含まれているのか、快でも不快でもない中立的なゾーンをも認めるのか、快・不快はむしろ“随伴的”に感受されるだけなのか、この件に関しては見解が岐れうる。しかし、多くの論者たちが、情動を「快−不快」の座標軸上に配位できると考えていることまでは確かなように見受けられる。(日本語の語感で言えば、忿怒、恐怖、悲哀といった情動でさえ直ちに「不快」とは言えそうにない。が、おそらく、pleasant-unpleasant,lustig(楽)-unlustigという欧語の概念は、日本語の「快−不快」よりも広義なのであろう)。――翻って、F・ブレンターノは、彼の有名な表象・判断・情意という新三分類において、情意の志向的作用を(用語法に若干の動揺はあれ、基本的には)「愛−憎」という対立性で特徴づけている。この「愛−憎」も広義であって、英語のlike-disgust、好く−嫌うに庶いと言えるかもしれない。/われわれとしても、いずれにせよ、広義のpleasant-unpleasant且つ亦、like-disgustの情動的意識態に見合う“志向作用”を立てることで当座の議論を運んでおきたい次第なのである。われわれの場合は、しかも、情動興起性と行動誘発性とは、反省的には分離しうるにせよ、如実の体験的事実性においては融合的一態相にあると看ずるのであるから、当の融合的一態相に即してそこでの志向的態勢を表わしたい。但し、“志向”といっても“純粋な意識作用”とやらではなく、生体的主体の“反応性向”とも謂うべき次元でそれを立てる。この要請に応えるべきものが「歓好−嫌厭」(より剴切には「歓向−厭退」の視向態勢であり、これの対向する(被)視向対象)性として興発的価値という位層での正価値(積極的価値)と反価値(消極的価値)が措定される。/後論において、われわれは自ら、ここで仮託している「志向作用−志向対象」という構図を自己止揚するが、さしあたっては、正負の興発的価値対象性が“現前”していて「歓好−嫌厭」の“志向的作用関心性向”がそれへと関わるのであるかのように遇しておきたい。」47-9P
(対話B)「興発的価値と茲に呼ぶものは、好(「す」のルビ)く又は逆に嫌うという態度の対象項の相で覚知されるものであって、歓(「よろこば」のルビ)しい又は逆に厭(「いとわ」のルビ)しいという情動的覚識態そのことではない。対象項の相で覚知されるのが一種の物象化的錯認であろうとも、当事者の直接的意識においては、それは対象における「好(「よ」のルビ)さ」又は「好(「よ」のルビ)くなさ」(広義の良・不良、この意味での「良さ」「悪さ」)として感得される。尤も、興発的価値は視向対象における「好さ=良さ」「好くなさ=悪さ」として感得されるとは言っても、それは後述の価値判断(良否概念による述定的価値判断)とは異なり、単なる良さ又は単なる悪さの純粋感得ではなく、各種の規定性を具有する相での良さ悪さの感得である。(正確に言えば、現実に成立しているのは各種具体相における感得なのであって、それら諸々の具体的規定性での感得を「歓好」または/および「嫌厭」という視向的態度(情動的反応態勢)の共通点で括ることで「良さ」「悪さ」の感得と総称しているのである)。歓好・嫌厭される対象項としての興発的価値は、具体的・現実的には、単なる(純然たる)良さ悪さではなく、諸々の表情性・情調性、ひいてはまた、美醜・浄穢・善悪・聖俗といった特権的規定態での「好き=良さ」「好くなさ=悪さ」なのである。(但し、美・浄・粋・わび・さび・善・聖……という価値やそれらの反価値として括られるもの全てが興発的価値に属する、と言うのではない。後述の「照会的価値」や「述定的価値」の次元に属する“部分”“分肢”もある)。――附言しておけば、財態は多重的に価値を負荷しうる次第であるが、一つの財態が種々の(時としての正負“矛盾”“葛藤”する)興発的諸価値を併せて負荷せる相で現前する場合もありうる。」49P
(対話C)「尚、興発的価値は視向対象項における各種の「好き=良さ」「好くなさ=悪さ」として(物象化して)感得されると言う際、視向対象項はいわゆる身体外部的知覚対象とは限らない。いわゆる内部知覚や体感は勿論のこと、いわゆる心象風景、回想や想像の表象態のごときも視向対象項たりうる。そして、一定の準反省的・反省的な態勢にあっては、情緒・感情・情調のたぐいも歓好的・嫌厭的な視向対象たりえ、以って興発的価値性がそこにおいて感得される場合がある。」50P
(対話D)「興発的価値は表情価に尽きるものではないが、その基底層は表情現相においていちはやく見られるところであり(K・レヴィンの要求特性AufforderungscharakterやJ・ギブソンのアフォーダンスのごときも、歓向・厭退の対象性として、興発的価値性に算入できよう)、この興発的価値性は、舞台情況的有意義性の基層をなすことに鑑みて、実践論にとって重要であるのみならず、歓好的志向と嫌厭的志向の対立性が価値評価の正負対立性の原基形態をなすことに徴して価値論的にも重要である。とはいえ、しかし、価値論的にはこれは所詮最低位層をなすものにすぎない。(興発的価値の基底層は、発生論的にも最も初次のものである。但し、興発的価値の全てが発生論的に初次というわけではない。当人は直截に感得し、その歓好的ないし嫌厭的な覚知の被媒介的な機序に無自覚であろうとも、興発的価値の多くは被媒介的であり文化被拘束的でもある。興発的価値のうちには、発生論的には後次のものが、その被媒介性を自覚されぬままに、当人の直接的体験相では直覚的に感得されるようになっているものもある)。」50P
(対話E)「興発的価値の存在性格やそれの物象化される機序など、われわれはまだこの価値について論及すべき多くの課題を遺しているが、この課題に応える前に、議論の順序として、視野と論域を拡充しておかねばならない。」50P
第四段落――(2)較認的価値評価(撰取−貶置) 50-4P
(この項の標題)「(2)較認的価値評価(撰取−貶置)」50P
(対話@)「人々は、日常、歓好または嫌厭という視向態勢と相即的に正負の価値を区別するだけでなく、正価値であれ負価値であれ、価値どうしをおのずと比較している。無自覚裡の比較もあれば、自覚的な比較もある。が、価値の比較は、実在的規定性の認知的比較とは様態を異にする。なるほど、後述の「照会的価値判定」や「述定的価値判断」の位層にあっては認知的比較と共通な構制も見られるとはいえ、低位層の価値比較においては、撰取(「フォルツイーエン」のルビ)または貶置(「ナハビッツェン」のルビ)という視向態勢を介して対象的価値比較が現成する。」51P
(対話A)「価値の比較には、反省的に分別するとき、異種の価値間の優劣的高低の較認の場合と、同種の価値間の度量的大小の較認の場合とがある。撰取・貶置される価値が、異種の場合、撰取される価値をより高い価値、貶置される価値をより低い価値と呼び、同種の場合、撰取される価値をより大きい価値、貶置される価値をより小さい価値と呼ぶ。(異種の価値の比較とは言っても、価値という同類のものどうしの比較、この意味で類的には同質なものどうしの比較なのであるから、価値的高低の較認も一種の量的比較であると言うこともできる。)両項のいずれも撰取・貶置されることなく謂わば均衡するとき、異種の当該二価値は同等な価値、同種の二価値は同量の価値であると言う。」51P
(小さなポイントの但し書き)「撰取・貶置という詞の説明に借口しつつ若干の敷衍をも挿んでおこう。撰取・貶置という詞は、マックス・シェーラーやニコライ・ハルトマンなどのVorziehen−Nachsetzenの用法を踏んでの術語の心算である。字義に即して訳すれば「先に引寄せる」「後に置く」であろうが、敢えて「撰取」「貶置」と“訳”する。/先述の歓好・嫌厭は、それぞれがいわば独立に成立するのに対して、「撰取/貶置」はあくまで雙関的比較の視向態勢であり、常に形影相伴う。但し、撰取と貶置とが常に必ず雙関的両項の相で併存的に明識されていると言うのではない。比較の与件的対象二項は併存的に明識されていても、それの一方が撰取される際には、他方は(論理上は貶置されていることになるにせよ)必ずしも明識的に貶置されるわけではない。逆に亦、一方が貶置される際には、他方は(論理上は撰取されていることになるが)必ずしも明識的に撰取されるわけではない。つまり、比較対象的な二項は明識されていても、一方の項に関わる撰取(または貶置)の視向態勢(「ツーヴェンドウング」のルビ)だけしか明識されない場合がありうる。・・・「地」の無自覚化/撰取とはより強く歓好することであり、貶置とはより強く嫌厭することである、と一応は言うこともできよう。だが、しかし、「撰取/貶置」はあくまで雙関的比較態勢なのであるから、貶置される項は必ずしも嫌厭される必要はないし、また、撰取される項も必ずしも歓好される必要はない。「撰取/貶置」は「より強く歓好/より弱く歓好」のこともあれば、「より弱く嫌厭/より強く嫌厭」のこともありうる。/尚、いかに実践的関心性の具現であるとはいえ、さしあたり較認的な価値評価なのであって、撰取される価値(高い価値、大きい価値)の獲得とか、貶置される価値(低い価値、小さい価値)の改良とかいうような、狭義の実践を直ちに伴うわけではない。」51-2P
(対話B)「較認的価値評価は、発生論上の初次局面では知覚的に現与の両(「ふた」のルビ)つの財態(個数的には三つ以上の場合もありうる)に即しておこなわれる。――現与の視向対象財態は、勿論、いわゆる“外物”には限られず、現在的体験心態のごときでもありうる。――が、やがて、一方の項は回想的・想像的な表象態である場合、ひいては両方の項が表象態である場合でさえそれが成立するようになる。」52P
(対話C)「あまつさえ、論理構制上はあくまで両項的比較・較認の筈であるにもかかわらず、比較対照項が明識的意識野から欠落したまま、単一の与件的財態に関して、それの有(「も」のルビ)つ価値の度合(謂わば濃淡の度、盈虧(「じゅうか」のルビ))が直截に評価されるようにさえなりうる。――この価値度合・盈虧の認定の高次位層は後述の「照会的価値判定」の一斑に属させてしかるべきであるが、それの発生論的一前梯として、如上の事態を今問題の較認的価値評価の変様的一形態として茲に誌しておくことが許されると念う。――この機制によって、「立派な絵だ」「立派な字だ」「高級な宝石だ」と直截に評価したり、技倆の巧拙を直截に看取して「腕利(「き」のルビ)きだ」「ファインプレーだ」と評価したりする。更に言えば「高い価値」「大きい価値」ないしは逆に「低い価値」「小さい価値」という較認的評価価値である筈のものが個別単一財に謂わば“内自化”されて、「彼女は美人だ」「彼女は醜女(「ブス」のルビ)だ」(ママ)とか、「彼は大物だ」「彼は小物だ」(ママ)といった評価が直截におこなわれる。(これは実在的規定性に関して、例えば象を見ただけで「大きい動物」と見做し、紅雀を見ただけで「小さい鳥」と見做すたぐいと同趣の、比較関係規定の物象化的内自有化の一現象である。)」52-3P
(対話D)「人々は、日常、「彼女は女ではない」(ママ)「あの大臣は政治家ではない」というたぐいの言い方をする。――このたぐいの認定、すなわち、存在上はAである主語対象が価値上はAではない(非Aである)という型式の認定、これの高次位層は後述する「照会的価値判定」や「述定的価値判断」に属するであろう。が、それの低次的位層は、発生論的にみて、較認的価値評価の一変様形態、すなわち、価値性の度合・盈虧の評価の一斑であるように思われる。――このさい、当の認定者は、彼女が女であること、大臣は政治家であることを承知しておりながら、女ではない(ママ)、政治家ではない、と認定しているわけである。これは一見“矛盾”“詭弁”のように見えようとも、実態においては矛盾でも詭弁でもない。けだし、そこでは、存在と価値とが、(すなわち、存在規定上の女・政治家と価値規定上の女・政治家とが)峻別されているからである。」53P
(対話E)「それでは、存在と価値とがどのように峻別されているのか、存在との区別における価値とはいかなるものであるのか、溯っては、価値の物象化的内自有化とはいかなる機制であるのか、更に溯って、そもそも、価値の比較とはいかなる構制であり、そこではいかなる構成要件が前提されているか。(読者は、茲に前節において経済学上の価値比較に即して論考したところを想起されるであろう。)」53-4P
(対話F)「これを検覈するためにも、しかし、今暫く、視野と論域を拡充する作業を先立てねばならない。」54P
第五段落――(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥) 54-8P
(この項の標題)「(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥)」54P
(対話@)「人は、対象的財態に対して、歓好・嫌厭の視向態勢や撰取・貶置の評価態度で関わるばかりでなく、渇仰・抑斥の希求態勢でも関わる。渇仰/抑斥の希求的対象評価を慾動的価値と名づける。――慾動という概念を、爰では広義に用い、いわゆる欲動(beson)、欲求(want)、意欲(Wollen)を包括する詞として用いる。」54P
(対話A)「慾動といえば、多くの論者たちにおいて、対象物を獲得しようとする希求という構図で(より詳しく記せば、既在してはいるが未獲得の対象物を獲得しようとする、乃至は亦、未在の対象物を産出的に獲得しようとする、この意味において、自己にとって欠如しているものを取得・充当・現有化しようとする情動的希求という構図で)考えられている。そして希求されている当の対象物は当人にとって望ましい(desirable)ものという価値性を帯びている、とされる。慾動は、慥かに、欲しい対象性と、獲得したいという願望的希求性と、獲得しようとする意慾的傾動性との、三契機から成っているように思える。」54P
(対話B)「だが、獲得・現有(actually have)を希求されているのは、唯単なる対象的事物財ではない。他人の一定の行動が慾動的希求対象性をなす場合もあれば、自分自身の一定行動が慾動的に希求される場合もある。尤も、今茲で言おうとしているのは、慾動的希求対象性は、事物財以外の場合もあるとか、行動の場合もあるとか、この次元のことではない。或る一定の(現状とは異相の)未来的状態という一全態が欲求されるのであり、当の状態を現有化しようとする意慾的傾動性が見られるのであって、単なる事物や単なる身体行動が希求されるのではない。例えば、俗に“リンゴを欲する”という場合、希求されているのはリンゴを現有化している状態なのであり(慾求されている現有化の具体相が単なる所持・所有であれ、食べるという行動的状態であれ)、唯単なる対象物の希求ではない。獲得・現有化という実現される状態から切り離して、対象物だけが欲求されているかのように看ずるのは短見であると言わざるをえない。(単なる情動興起・行動誘発性であれば、興発的価値性の域に属する。)但し、日常的意識においては慾動的希求価値が対象物に内自有化されがちであることは確かであり、われわれとしてはこの物象化の機制をも勘案しつつ議論を進める必要があろう。」54-5P
(対話C)「偖、現有化を希求されている一全態としての状態は、渇仰という消極的希求の場合であれ、未在の一状態である。なるほど、例えば眼前に既在するリンゴを慾しがるというような場合、リンゴという対象物は既在であるがしかし、現有化を希求されている対象的財態たる一全態としての状態は未在であり、その未在的状態の現有化が希求されているのである。また、例えば、眼前の猛犬が消えて慾しいとか悪行をやめて慾しいとか、抑斥的な希求の場合、構造的契機をなす猛犬や悪行は既在するにしても、現有化を希求されている状態は未在であり、その未在的な状態の現有化が希求されているわけである。渇仰と抑斥とは、俗には、未在状態の有化と既在状態の無化という対比を許すにしても、謂うところの有化も無化も未在的状態の将来的現有化であることに、留意を要する。」55P
(対話D)「現有化の慾動的希求は意慾的傾動性を構造的契機としており、現有化を希求される状態(およびその状態の現有化過程)には、他者の行動のまたは自分の行動または自他双方の行動が構造的契機をなす。(但し、他者は、未定的他者でもありえ、非人格的エージェントでもありえる。そして、この構造内的他者が非人称的・抽象的な場合、Sein-Wollenの相になる)。――他者にしかじかの未在的状態を現有化して慾しいと希求すること、および、自分でしかじかの未在的状態を現有化しようと希求すること、これらが役割行為論および意志行為論の論脈で重要な意味をもつことは予告するまでもない。――」55-6P
(対話E)「渇仰または抑斥の志向的価値対象性、すなわち慾動的的希求価値は、言うまでもなく、現有化を希求される状態の“帯びている”価値である。希求されている状態は物理的には未在でありながら価値を帯びている。そして、当の価値は、希求状態が物理的に実現しようと実現しまいと、渇仰または抑斥の希求態勢において存立する。その限りで希求価値は希求局面において既存する。希求されている状態は、物理的には未在であるが、希求局面において表象されてアル。とはいえ、この表象されてアル状態像がそのまま希求価値なのではない。希求価値はこの表象されてアル物理的には未在の状態像の“帯びている”価値であり、それは当の表象されてアル状態が現有化した場合にそこでの現有的状態が“帯びる”価値とも不二である。希求価値は、希求されている状態そのものでもなければ現有化された状態そのものでもなく(これら状態は財態なのであってそのまま価値なのではない)、当の状態を現有化することそのことである。」56P
(対話F)「尚、慾動的希求にあっては、渇仰/抑斥と、価値的高/低や価値的大/小とは必ずしも一致はしない。いわゆる下劣・卑劣な慾動のケースに見られるように、較認上は低い価値であることや小さい価値であることを承知しながら渇仰したり、高い価値であることや大きい価値であることを承知しながら抑斥したりする場合が現にある。」57P
(対話G)「この場を借りて価値中立性の問題に一言触れておけば、興発的価値性に関わる価値的中立(註)性、すなわち「歓好−嫌厭」に中立的な態勢は「無関心」、較認的価値性に関わる価値的中立(註)性、すなわち「撰取−貶置」に中立的な態度は「均衡」であり(「無関心」や「均衡」も別の視角から規定すれば一種の価値性を帯びるにしても),ことさら説述するまでもないであろう。ところが、慾動的価値に関わる価値的中立(註)性、「渇仰−抑斥」に中立的な態勢的態度となると、分析的説明をいささか要しそうである。――未在的な状態の現有化希求するということは(俗に謂う“未在的状態の有化”希求であれ、“既在的状態の無化”希求であれ)、現状とは異相な或る状態の実現を慾求しているわけであって、現状に対する不満と相即する。このことから反照して言えば、渇仰的希求も抑斥的希求も現成しない中立的態勢は、現状に対してこれといった不満のないこと、この消極的な意味で一種の満足の態勢にあることを意味する。(「満足−不満」は興発的価値感得の一種であるから、「渇仰−抑斥」に中立的な態勢は一種の興発的正価値の感得に見合うと言うことができる。が、このことは価値の分類的規定上の難点にはならない。或る分類視角では価値中立的と見做される態勢が別の分類視角での特定の価値性を帯びているというケースは、例えば、道徳的には価値中立的な行動が美的価値を帯びるというように、日常茶飯に見られる。これは一個の財態、溯っては一個の実在に、諸々の種類の価値が多重的に“附帯”しうるという構成の一斑にすぎないのである。)」57-8P
第六段落――(4)当為的価値応対(促迫−禁制) 57-60P
(この項の標題)「(4)当為的価値応対(促迫−禁制)」57P
(対話@)「人は――慾動的希求にあっては現状とは異相の或る一定の未在的状態の現有化を慾求するのであったが、そして、そこでは他者または/および自分の一定行動も構造内的契機をなしえたのであるが――、自分または/および他者の或る一定の将来的行為(「ハンデルン」のルビ)を促迫・禁制の応対態勢でも“冀求”する。この促迫(「べし」のルビ)/禁制(「べからず」のルビ)のの応対態勢がいわゆる当為的意識(「ゾレン・ベヴストザイン」のルビ)態勢であり、ここでの冀求価値を当為的価値と呼ぶ。(禁制は将来的行為ならざる現在的行為を禁ずるもののように思われるかもしれないが、禁ぜられるのは未完了の場面、つまり将来的遂行を残している場面のことであって、現在的に完結している場合には「為べきではなかった」といって批難されても、徒為(「イン・ヴェイン」のルビ)に禁制されはしない。)」57P
(対話A)「当為意識、当(「まさ」のルビ)に為(「す」のルビ)べしということの意識は、一種の強制(「ゲッヴンゲン」のルビ)の意識であり、必然(「ノートヴェンディッヒ」のルビ)の意識である謂われるのだが、いわゆる事実必然性(「ミュッセン」のルビ)の意識とは異なって、それと反対の行為を為すことも可能であるという意識を蔵する。――この強制の意識は、発生論的には他者達による強制の“内面化(「インタナライゼイション」のルビ)”に因るものであって、自発的な慾動とは様態を異にし、為(「せ」のルビ)ざるをえないという意識、漢語で言えば、不可不でこそなけれ不許不の意識である。当為的冀求と慾動的希求とは、“義理と人情の板挟み”という形に恒になるわけではないにせよ、一般には合致しない。けだし、自発的・内発的な慾動にもとづくたぐいの行動で且つ当為にも適っている場合には殊更に他者による強制を被むることはないので、その類いの行動は他者達による強制の内面化つまり当為意識の形成の埒外にあり、その一方、慾動的希求が当為に不適合なたぐいの行動は制裁(「サンクション」のルビ)によって禁圧され別様の行動を強制されるため、もっぱらこのたぐいの行為、すなわち、慾動的希求とは合致しないたぐいの行為が当為的意識を伴って志向される次第となるのであろう。尤も、当為的冀求と慾動的希求とは、恒に必ず背反すると言うつもりはない。賞罰(「サンクション」のルビ)の内面化に因って、発生論的に言えば一種の“自己欺瞞”の機制で、当為的行為を“感動的に希求”するように人は成りうるからである。翻って、しかし、当為に適うように行動を命令・強制されるにしても、命令・強制に服従しない行為が自他において現に出来(「しゅったい」のルビ)しうる事実を人は体験している。この体験が屈折して“内面化”に“参入”するため、謂うところの当為的必然性の意識には、“それに反する行為も可能”という意識が蔵されるのであろう。蓋し、不可不ならずしてたかだか不許不の意識態となる所以である。――」57-8P
(対話B)「当為的応対における積極(正) /消極(負)、すなわち促迫/禁制の意識にあっては、これまた発生論的経緯の“内面化”に負うものと思われるのだが、促迫はそれと反対の行為の禁制意識を相補的に伴い、禁制はそれ以外の或る行為の促迫意識を相補的に伴う。尤もルーティン化すると、所与の舞台的情況では或る一定行為が直截に促迫または禁制され、相補項の意識が薄れる。」58P
(対話C)「当為意識というものは、元来は特定主体に対して或る一定の遂行的行為(Handeln)を促迫/禁制する意識なのであるが、所与の舞台的情況で当為的に“冀求”される行為が定常化すると、誰であれ当の一定行為を遂行すべきことから、促迫/禁制の向けられる主体が非人称化・脱人称化されて、もっぱら斯々の行為が当為とされるようになる。更には、主体的行為というよりもむしろ一定の在り方が当為的必然とされ、斯く在るべし(「ザイン・ゾレン」のルビ)という相にまで推及されるに至る。が、当在(Sein-Sollen)はあくまでも当為(Tun-Sollen)における行為主体の“無化”ならびに行為様式ないし行為所産の“内自有的相在化”に因るものであって、元来は、当為から独立的に当在が存立するわけではない。――或る種の論者たちは、当在を当為とは独立に存在するものと考え、甚しきに至っては、当在から当為を導出しようと試みさえもする。茲は此説の批判的検討に詳しく立入るべき場所ではないが、以下の指摘だけは挿んでおこう。当在とされる例えば“高潔たるべし”“善人たるべし”“美しかるべし”“有効たるべし”“正義たるべし”などが、恰当(こうとう)な論材になる。高潔たるべしと謂うのは、高潔と評価・判定・判断されるような行為(内面的行為を含む)を為(「な」のルビ)すべしの謂いにほかなるまい。善人たるべしと謂うのは、もっぱら善行をなし善行が“習い性となる”ように為(「す」のルビ)べしの謂い、乃至は、善行がいわゆる人格的特性に成るように為べしの謂いであろう。美しかるべしと謂うのは、美しかるべき当体が能動的主体の場合は嚮の高潔たるべしと類同的な相で自己陶冶行為をすべしの謂いであり、美しかるべき当体が客体の場合は誰かがそれを美しく仕立てるように行為すべしの謂い、乃至は当該行為所産が美しく成るように為べし謂いであろう。有効たるべしは、或る目的にとって有効であるように設営さるべしの謂い、乃至、無効なものは排却さるべしの謂いにほかなるまい。正義たるべしと謂うのは、正義に適うように行為すべし、乃至は、実現される事態が正義になるよう行為すべしの謂いとなろう。畢竟(ひっきょう)するに、当在とは当為の相在化的物象化の機制に俟つもののように看ぜられる。――」59P
(対話D)「当為的価値は、促迫/禁制される将来的行為の体現する価値でありつつ、しかも、当為的応対の現局面で既に志向されてある限りで、“未在的に既存する或るもの”という点では慾動的価値と類同的であるが、当事者にとって(für es)、渇仰/抑斥の慾動的希求とは別種の当為的な視向の対象性であり、しかも、個々人の主観に単に内属するものではなくして、客観的に存立・妥当する或るものとして現識されている。学理的見地からするとき(für uns)この客観的・自存的存立性というのは物象化的錯認であるにせよ、当事者の応対態勢にあっては、当為的価値は、たとい慾動的希求には背馳しようとも、将(「まさ」のルビ)に為さるべき行為が“未在的既存相”で具有する或るもの、将来的行為という実在態(正確には財態)に依って体現されて然(「しか」のルビ)るべき或るものである。実在態としての将来的行為の具体相は多種多様であるが、実在態以上・以外の当の或るもの、すなわち「所期の将来的行為に依って体現されて然るべきもの」は、意義的価値の一種たる当為的価値として同種である。」60P
(対話E)「尚、当為的促迫と当為的禁制とは排中的ではなく、為(「し」のルビ)ても宜(「よ」のルビ)いが為なくても宜い可能的行為群の中立的ゾーン、すなわち、許容(メーゲン」のルビ)という中間帯を有つ。所与の舞台的情況にあっては、当為的に促迫される(must)一定行為、当為的に禁制される(must not)一群の可能的行為、その中間に、為ても為なくても宜(「よろし」のルビ)い(may)可能的行為群がある。この中世的ゾーンに属する諸行為は、端的に没価値的なのではなく、諸多の価値を附帯しうるが、当該の舞台的情況下では正負の当為的価値に関して価値中立的である。但し、当の“同じ”行為といえども、別の舞台的情況下では正/負の当為的価値を帯びることは絮言するまでもない。――更に附言しておけば、当為的価値の正/負は、興発的価値の正/負と必ずしも合致しないばかりでなく、較認的価値の高/低や大/小とも必ずしも合致しない。この間の事情については、嚮に慾動的覚知との背馳可能性に関説した所論を参照して容易に理解されることと念う。」60P
第七段落――(5)期成的価値企投(追求−忌避) 61P
(この項の標題)「(5)期成的価値企投(追求−忌避)」61P
(対話@)「期成的企投は、一定状景を表象し、その状景を実現することにおいて、或る目的を達成しようとする態勢である。爰に謂う表象されてアル状景、すなわち、それを実現すべく企図される状景を「目標」と謂い、目標の実現において達成される期成的価値を「目的」と呼ぶ。(目標の実現は、負の期成的企投すなわち忌避的企投の場合、或る状景を物理的に生成させないようにすること、乃至は亦、既在の或る状態を消失させること、――そのような“欠如的状景”を実現させること――之を内実としうる。)」61P
(対話A)「一定状景を表象し、その状景を実現しようと図る企投は、「或る未在的状態を実現することを期す」という構制に留目すれば、慾動的希求や当為的冀求とも共通する。そして、場合によっては、或る一定状態の現有化を希求する慾動に衝き動かされて目標を企投することもあれば、当の目標達成が当為なるが故に企投することもある。しかしながら、為度(「した」のルビ)くないのだが、つまり慾動的希求に反して、また当為(「べし」のルビ)というわけでもないのだが、つまり当為的応対とは関係なく、期成的企投をおこなう場合もある。(例えば、高次目的のための手段的中間目標として一定状景を暫定的に実現しておこうとする場合など。)時によっては亦、当為に反することを自覚しつつ期成的企投を敢行する場合さえもある。――要するに、慾動的希求や当為的応対とは無関係に、場合によっては慾動や当為に反してさえ、期成的企投がおこなわれうる。という次第で期成的価値企投(追求−忌避)は、慾動的価値希求(渇仰−抑斥)とも当為的価値応対(促迫−禁制)とも、別種独自の態勢なのである。(期成的企投における決意的意識性が薄れ、P・ブルデューの謂うハビトゥスに近い層になりうることについては次篇の論脈内で考察する。)」61P
(対話B)「実現を企図される「目標」と達成を企投される「目的」との関係について、爰で簡略にコメントしておこう。実現を企図される目標は(実際に実現する場合もあれば失敗して実現しない場合もあるが、いずれにせよ) 期成的価値を“担う”実在態である。(当の目標は諸々の価値を“担い”“帯びている”のが常態であるから、その意味では裸の実在でなく財態であることは勿論である。だが、期成的目的価値との関係においては、目的価値という第二肢を“帯びる”第一肢的実在態に位する。)例えば、人は計画的殺人という目標実現において復讐という期成的目的を達成する。亦例えば、野球において守備側の先取は、打球を空中で捕球することでバッターをアウトにするという目的を達成する。これらの例は誰しも認めるであろう。だが、論者の中には、達成目的が復讐や打者をアウトにすることであることは認めても、殺人や捕球は手段と見做すべきであって目標と見做すべきではない、と主張するむきもあろうかと思われる。これはむしろ定義に属する事柄であるから本質的に争う心算はない。がしかし、「手段−目的」と謂うとき、手段的行為は目的達成に対して時間的に先行するのが一般的ではないか。殺人の場合、剣で突く、銃で射つ、毒を盛る、といった行為は、殺人という目標実現に時間的に先行する手段的行為であり、目標に対する手段と認めうる。野球の場合、ボールの落下点の方へ移動する、グラブを差伸べる、摑みに掛る、といった行為は、これまた捕球という目標実現に時間的にに先行する手段的行為であり、目標に対する手段と認めうる。それにひきかえ、殺人や捕球は、復讐や打者をアウトにするという目的達成に対して時間的に先行するわけではない。手段的行為と目標実現とのあいだには、時間的先後の関係があるだけでなく、因果的事象連鎖の関係がある。しかるに、殺人と復讐の間には、また捕球とアウトとの間には、因果的事象連鎖があるわけではない。殺人の実現が復讐達成という意識をもち、捕球の実現がアウト達成という意義をもつのである。このような相違を承知の上でもなおかつ、殺人や捕球を復讐や捕殺の手段と定義する途も成程ありうるかもしれない。だが、著者としては、目標に対して時間的先後の因果的な事象連関関係を持つものに限って手段と呼ぶことにしたい。そして、この「手段的機能−目標実現」関係にある手段は、当の目標実現において同時相即的に達成される目的に対して「手段的機能−目的達成」関係にあるものと認める。要諦は、実現目標を達成目的に対する手段から括り出して、殺人実現が復讐達成としての意義をもつ、捕球実現が捕殺達成としての意義をもつ、というように「実在−意義的価値」の二肢的二重性の構制で把えることにある。(当座の実現目標が高次的目標に対する手段に位する場合、裏返して言えば、或る目標にとっての手段が暫定的な低次的目標に位する場合が存在しうることは言うまでもない。が、その場合でも、高次目的にとって低次目標がそのまま手段なのではなく、当の高次目的を同時相即的に“担う”高次目標にとっての手段であることを介して間接的・被媒介的に手段なのである。)」61-3P
(対話C)「目標の実現において達成される「実現目標以上・以外の或るもの」を、如上のこの含意で、既成的価値(目的価値)と呼ぶ次第であるが、達成されるこの或るものが実現目標に内属する性質のごときものでないことは殊更に述べたてるまでもあるまい。――例えば、同じ殺人でも、或いは復讐、或いは処刑、或いは安楽死、――といった(同時並存的には相容れざる)意義的価値の達成たりうる。また、実現目標が如何なる達成目的としての価値を帯びうるかは、歴史社会的な文化価値体系のコンテクストによって反照的に制約・規定される。嚮に挙げた野球における捕殺の例のごときは、ゲームのルール(これは規範的規則の卑俗的一例の心算(「つもり」のルビ)なのだが)との反照において当の期成的価値性が存立するのである。――目的価値なるものは独立自存するのではなく、目標の実現において達成しようと企投される限りで、しかも当の企投が既成の価値体系との反照において妥当性をもつ限りで、甫(「はじ」のルビ)めて“現成”する。」63P
(対話D)「目標、すなわち、企図的に表象される状景(実際に実現することも失敗して実現しないこともある)は、例えば船の建造とか建物の破壊とか、一般にかくかくの製品の生産・獲得、しかじかの状況の回避・廃滅というように、客体的要因をも構造内的契機とする主体的活動の成果的終局状景である。が、この終局状景は、客体的要因を謂うなれば“脱肉化”することにおいて「(船の)建造」「(建物の)破壊」「(人物の)殺害」といった「所業」と謂われ、以って、企図的に表象される実現的終局状景が所業的行為(Handlung)と呼ばれ、所業的行為が投企されるのだと唱されるに及ぶ。“脱肉化”が更に進捗すると、例えば、勝利を追求するとか、敗北を忌避するとか、(幸福・善人等々に成ることを追求し、不幸・悪人に成ることを忌避するとか) 期成的目的は明確であるにもかかわらず、終局状景たる目標の表象は漠然としておよそ描像を結ばない程になりうる。但し、それでも、目的達成が現成するのは具象的な目標実現状景においてであることには変りない。――附言するまでもなく、例えば復讐という行為(「ハンドリング」のルビ)、この財態が「名誉の保持」といった、更なる意義的価値を多階的に帯びうる。このような場合、日常的には「復讐することによって名誉を保持する」というように、恰かも「手段・目的」関係のように表現するが、著者としては、時間的先後の因果的事象連鎖関係のないこのようなケースに関しては、上述の通り「手段−目的」とは呼ばない。飽く迄、復讐行為が名誉の保持という意義的価値をもつのであって、殺害の実行において名誉の保持という目的を達成するのである。(これは定義の問題にすぎないが、「手段−目的」という用語法の混乱を防遏する含みで、敢てこの旨を誌しておく。)」63-4P
(対話E)「尚、一定状景が表象されたからといって、常に必ずしもそれの実現が企投(追求−忌避)されるわけではない。追求も忌避もされることなく、謂うなれば放置・捨象される場合が多々ある。(これは、後述する「企投のハビトゥス化に伴う決意性の稀薄」とは質的に別である)。この放置的捨象が企投という態度・態勢にとっての中立的なゾーンを形成し、当の表象されただけの状景は仮令所業的行為の相で表象されようとも、期成的価値に関しては中性的(「ニュートラル」のルビ)である。」64P
第八段落――(6)照会的価値判定(適盈−反虧) 64-7P
(この項の標題)「(6)照会的価値判定(適盈−反虧)」64P
(対話@)「既定的価値基準への照会・照合によって適盈−反虧を認定する照会的価値判定照会的価値判定照会的価値判定照会的価値判定には多種多様なものがあり、周到に論ずる際には討究すべき課題が重畳している。――真実的事態なるものを照会的価値基準の一種と認め、以って、真偽(真理性/虚偽性)を価値に算入するかどうか、このたぐいのことからして本来は論件の一部をなす。亦、既成的価値基準なるものがアプリオリに存在するのか、アポステリオリに形成されるのか、もし後天的に形成されるのであれば、それの成立機序の如何、これも一大論究課題である。が、今爰では、著者としては多くの価値論学派と共通に、真偽をも価値に算入すること、価値判断基準はアポステリオリに形成されると諒解すること、この旨を断言的に誌すに留める。爰では、価値判定の種類の周到な枚挙を期すことなく、照会的価値判定基準には、(イ)真実的事態、(ロ)規範的規則、(ハ)理想的亀鑑、のほかに、(ニ)範型的標準や(ホ)高低的序列、そしてまた、(へ)目的的尺度、などの部類があることを挙げておくが、当座の行論にとって最低必要限と思われる範囲に議論を局限する。尚、照会的価値判定には、価値の具体的な種別に応じて、中立ゾーンの広いものもあれば、殆んど排中関係が成立するほど中立ゾーンの狭いものもあるが、このことも予め一言誌しておくに留めよう。」64-5P
(対話A)「偖、実践論の広範な場面で特段の論件となる照会的価値判定は、就中、当為的応対の場での規範的照会的価値判定規制への照会、および、期成的投企の場での手段の価値性に関わる目的的尺度への照会である。が、このうち、前者については後論(特に次篇第三章第二〜三節)で立入る予定もあるので、今ここでは、後者についてのみ若干の論述をおこなうことで次善としたい。」65P
(対話B)「前節における行論の途次、いわゆる効用的価値性について、或る目的の達成に有効に機能するという反照的・照会的な被媒介的規定性を論述しておいた。なるほど、或る種の効用財(すなわち、或る目的への照会において有用・有効・有益と判定される財)は、興発的価値性や慾動的価値性を(目的への照会的判定とは独立に)帯びていることもある。また、効用財が(手段選択の場合などにおいて)撰取−貶置の較認的評価の対象となることもある。翻って亦、期成的価値(目的)が抽象的であり、それに伴って手段的機能性も抽象的で、目的への照会的判定の意識が稀薄な場合もある。がしかし、いわゆる効用的価値が効用的価値であるのは、飽く迄、一定目的の達成に役立つ手段的効能性においてである。――有用性・有益性・効用性は、狭義の道具類の場合などには手段的価値性が割合い明瞭であるが、場合によっては自立的な価値性であるかのように思念され易い。そのような場合でも、しかし、省察してみれば、期成的価値(目的価値)への反照において甫めて当該の効用的価値性が成立しているのであり、唯、期成的価値が例えば幸福とか生存とかいうように抽象的であり、しかも、期成的企投の決意性が殊更に明識されていないだけのことである。」65-6P
(対話C)「照会的判定価値性の一例として効用的価値性を挙げ、ここでの判定基準として目的的尺度を上述したが、「目的的尺度」という言い方は誤解を招きかねないことを惧れないではない。精確には、目的−手段効能関係の照会的判定であり、むしろ「手段的効能尺度」と言うべきかもしれない。このことを承知の上で、しかし、本書では「目的的尺度」という詞を敢えて用いることにしたいと念う。――手段的・効用的価値性は、前節の論脈中で既述したように、所与財の一定の実在的規定性(目標実現への促進[/阻害]的機能性)に担われて甫めて成立しうるのであって、目的への反照によって無条件的・恣意的に成立しうるものではない。そのためもあって、日常的意識においてはとかく、効用的価値性なるものが一定財に既成的具っていてそれが目的に照会されるのであるかのように思念され易い。がしかし、原理的・本来的には一定目的への手段的効能性の判定に俟って甫めて当の効用的価値性が“現成”するのであること、このことは絮言を須(「もち」のルビ)いないであろう。」66P
(対話D)「一般に、照会的判定における価値基準(すなわち、真実的事態・規範的規則・理想的亀鑑・範型的標準・高低的序列など)に照合される与件は、照合に先立って基準と同種・同質の価値を具えているもののごとくに思念され易い。実際、述定的価値判断によって両項の同質・同種性が事前的ないし同時的に確認される場合もないわけではない。だがしかし、価値基準は(興発的価値感得・較認的価値評価・慾動的価値希求・当為的価値応対・期成的価値企投などの先行的な経験過程を通じて)既成的・既定的であれ、与件の照会的判定価値は、本源的には飽く迄、価値基準への適盈/反虧の照会的判定に俟って甫めて成立するものである。」66-7P
第九段落――(7)述定的価値判断(承認−否認) 67-8P
(この項の標題)「(7)述定的価値判断(承認−否認)」67P
(対話@)「既成の価値概念を述語として、述定的価値判断が遂行されうる。――ここに謂う「述語」には、通常の文法的主語述語構造(SハPナリ)における述語の位置に立つものばかりでなく、超(「メタ」のルビ)文法的主述構造における第一述語(すなわち、コレハSナリという述定詞S、つまり、通常の文法構造では主語概念と呼ばれるもの)をも含める。従って亦、「述定的価値判断」とは言っても、通常の文法形式では存在判断(Sガアル)と呼ばれているものをも含む。――」67P
(対話A)「われわれは、このさい、実質上の価値概念の多くが、日常的には、存在概念と同じ詞で表記されているという言語現象事実に注意しなければならない。人々は日常、例えば、彼女は女ではない(ママ)とか、あの大臣は政治家ではないとか、存在概念上はAデアル与件について価値概念上はAデナイと判断・表明する。(肯定判断の形で、彼女はまさに女であるとか、あの大臣は政治家であるとか、存在概念上Aデアル与件について価値概念上もAデアルことを判断・主張する場合もある。) ――実際問題としては、このたぐいの認定は、較認的価値評価の次元でいちはやく成立しうるし、理想的亀鑑ないし範型的標準への照会的価値判定の次元でも成立する。が、述語に立つ価値概念が既成化していて、その価値概念の“適用”という形で述定的価値判断が遂行される場合も現に屢々(しばしば)見られる。」67P
(対話B)「ところで、判断的決定(承認/否認)というものは、第一巻第二篇において分析・確認した通り、命題的事態に関しておこなわれるのであり、価値判断の場合、価値命題的事態に関して承認または否認がおこなわれる。このことについては詳説を要しないと念う。――唯、承認/否認に中立的な態度の場合については一言しておくべきかもしれない。判断一般の範に漏れず、この中立的な場合はA・マイノングの謂う意味でのAnnehmen(仮設・仮定)になるが、この場合でも対境はやはり価値概念を構造内的契機とする価値命題的事態(「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重性成態)であって、没価値的な単なる事実命題的事態が仮設・仮定されるわけではない。この件は価値推理論の場面で重要な論件になる事項であるが、今爰では立入るには及ばないであろう。」67-8P
(対話C)「溯って、そもそも、価値概念なるものが如何にして形成されるのであるか、価値概念の成立機序を究明することが価値論にとって課題の一斑をなす。がしかし、この件についても爰で主題的な討究に移ることは須要ではあるまいと思う。」68P
(対話D)「爰では、既成的価値概念を“用いて”述定的価値判断という価値志向的態度も存在するということ、この事実を謂わば登記するに留めておく。」68P
第十段落――(1)〜(7)に分けて論じてきたことのまとめ 68-77P
(対話@)「われわれは、以上、(1)〜(7)に分けて、いわゆる価値志向的な態勢・態度を簡略に見てきた。――(1)〜(7)は価値志向的態勢・態度の“分類”ではあっても、志向的価値種類の分類ではない。現に、例えば興発的感得の志向価値が、較認的評価の志向対象価値たりえ、慾動的希求の対象価値でもありえ、照会的判定や述定的判断の与件的対象でもありうる所以である。――縦観するところ、価値志向において志向される価値なるもの(ここでの「もの」は対象的性質であっても可)は、それが対象的に既存するものとすれば、実在的存在(「レアリタス」のルビ)とは端的に存在性格を異にする、イルレアール=イデアールな或るものと見做されざるをえない。財態の第一肢たる実在的与件が変易的・定場所的な(つまり、一定の時と所に定在する、この意味で時空間的な)実在であるのにひきかえ、第二肢的な価値は、対象的に既存するものとされるかぎり、不易的・超場所的な(つまり、一定の時と所を超えて存立する、この意味で超時空的な)存立であると見做されざるをえなくなる。」68-9P
(対話A)「先廻りをして結論的・予告的に言えば、われわれはイルレアール=イデアールな存在性格の価値なるものが、実在的与件から独立に、超時空間的に自存するとは認めない。イルレアール=イデアールな価値なる対象性が自存すると見做されるのは、一種の物象化的錯認にほかならないことをわれわれは自覚する。さりとて、しかし、われわれは主観価値説の流儀で価値を感情という心態に還元したり、主観的評価意識作用や主観的価値意識内容に還元したりすることもできない。実在的与件と区別して意義的価値なる項を立て、この項自身の存在性格を検討する限りでは、財態(「実在−価値」二肢成態)の意義的価値項はイルレアール=イデアールな存在性格を呈すると一応は立言せざるをえないが、それは意義的価値項自身という方法的截断によって“自存”化させることに因由するものであり、原理的には当の截断的自存化が悖理(「はいり」のルビ)なのである。――差当っては、しかし、財態なるものを価値志向の対象性として定位し、財態を「実在的所与−意義的価値」二肢的二重態として扱う限りで、意義的価値はイルレアール=イデアールな存在性格を呈する旨を暫定的に揚言する。そして、軈(「や」のルビ)がて、これが如何なる構制での物象化的錯認であるかを対自化することにおいて、自己止揚する運びとする。」69P
(対話B)「意義的価値なるものが、この項自身の存在性格を追究するとき、認識論的・存在論的な論脈においてイルレアール=イデアールな存在性格を呈するということ、すなわち――特個的・変易的・定場所的な実在とは異って――普遍的・不易的・超場所的な或るものという存在性格を呈するということ、このことは意義的価値が意味的所識の一斑である以上、已(「すで」のルビ)に第一巻において意味的所識の存在性格について分析・論究した条りの想起を求めれば済むことかと念う。それ故、茲で第一巻(第一篇第一章第三節その他)での論議を再掲する流儀での詳論は省くことにしたい。」69P
(対話C)「偖、行論の便宜上、先の(1)〜(7)とは順序が逆になることをも憚らずに言えば、述定的価値判断において述定される価値(価値概念によって述定的に包摂される価値)、つまりは、価値概念によって指し表わされる意味(被指的・被表的意味)がイデアールな存在性格を呈することは喋々するまでもない。価値概念の適用される与件は特個的・変易的・定場所的な実在であっても、価値概念の「指し表わす意味」そのものは普遍的・不易的・超場所的、つまり、イデアール(プラトンの謂うイデアに類する様)な存在性格の或るものであること、このことは第一巻における概念の意味についての所論を想起して直ちに認められよう。また、価値判断における対境的事態、すなわち、価値命題的事態の存在性格も同断であることは、第一巻での命題的事態論攷に照らして容易に認められることと念う。照会的判定における価値についても、価値基準たる真実的事態は価値命題的事態の一斑であること、範型的標準や理想的亀鑑は価値概念的意味に類すること、これを思い、且つ、照会される与件と価値基準との価値的同質性を思えば、これまた存在性格上イデアリテートを認められる筈である。一般論として、価値概念が価値概念であり、価値が価値であるかぎり、いかなる種類の価値であっても、価値概念の指し表わす意味=価値に所属するのであるから、価値概念的意味のイデアリテートが認められれば、価値全般がイデアールな存在性格の或るものであることが認められる所以となる。価値概念の意味は、普遍概念の意味が一般にそうであるように、その概念の適用される実在(正しくは財態)的与件が生成・変様・消滅といった時間的変化を呈してもそれにつれて変化するわけでなく不易的であり(但し硬直的不変性ではなく謂うなれば“函数的自同性”を保つという意味での不易性)、別々の場所に在る複数個の与件群において斉しく同じ価値的意味であり(特定場所に局定されてはいないという意味で超場所的)、特個的でなくして普遍的であり、畢竟するにプラトンのイデアに類する様な存在性格を呈する。「概念の指し表わす意味なるもの」が「ある」とする理路を採るかぎり、普遍概念の意味(価値概念の場合は価値的意味)のイデア性は否まれ難い。この理路を採るかぎりは、価値という普遍概念が存在するからには、これで指し表わされるありとあらゆる価値がイデアールな存在性格のものということになる次第である。」70-1P
(対話D)「但し、「概念の指し表わす意味なるもの」が「ある」わけではない、と主張する余地があり、この主張が正当であれば、イデアールな存在性格の価値なるものがあるという議論が根底から崩れる。翻って、概念(「ベグリッツ」のルビ)の意味というのは、対象的本質規定性を指し表わすものではなく、その実は把握(「ベグライツェン」のルビ)仕方(という意識作用の性格ないしそれの発現仕方)の本質的示差を劃定するものにすぎない、という観方もありうる。」71P
(対話E)「議論の進め方としては、しかし、この別見を今直ちに主題化するのではなく、そのための準備をも兼ねて、先述の(1)〜(6) (順序を逆にして(6)〜(1))に多少とも即するかたちで問題点の所在を事前に確認しておかねばなるまい。」71P
(対話F)「照会的価値判定における価値のうち、述定的価値に類するものについては価値概念に即して既に述べたので絮言は省く。また目的的尺度は期成的企投に、規範的規則は当為的応対に、高低的序列は較認的評価に、夫々関係する。それゆえ、これらに関わる判定価値については当該の論脈に繰り込むことにしよう。」71P
(対話G)「期成的価値(目的価値)は実現目標以上の或るものとして意識されていることは確かであるが、客観的な実現目標にレアールには何ら累加されはしない。達成目標は実現目標に意義づけされるものにすぎないとも言える。だが、意義づけは主観的な作(「はた」のルビ)らきだとしても、意義づけられる価値は、謂うなれば実現目標に付着され、目標の帯びるものであって、主観的作用それ自身ではない。主観的作用が必須の要因だとしても、目的として意義づけられる価値は、活動態での作用ではなく、謂うなれば作用が投射・投入されて目標に付着・凝結した相にある。と言ってみたところで、レアールな成分が付着したり凝結したりしているわけでない。「より以上」の当の或るもの、意義的価値は、投射・投入の所産だとしても、レアールナ累加的成分でなく、イルレアールな或るものとしか言いようがない。意義づけの作用はレアールな心理的作用であるにせよ、“投射・投入”の初産とも言うべき、付着・凝結している価値、意義づけられている価値は、イルレアール=イデアールな存在性格を呈すると“認め”ざるをえない。――目的的尺度と照会的に判定される手段的価値=効用的価値についても同趣である。目的価値との反照における手段的価値の現成も、やはり意義づけであって、レアールに存在するのは目標実現に促進(/阻害)的な因果的にレアールな機能・効能であり、手段的・効用的と意義づけられたからといって、別段レアールな成分が累加されるわけではない。それにもかかわらず、単なる実在的与件以上の価値を帯びた相に“成って”おり、意義づけられている当の価値はイルレアール=イデアールな存在性格を呈する。」71-2P
(対話H)「当為的価値についても同趣であることが容易に認められよう。遂行すべき行為と、遂行すべくして現に遂行される行為とは、レアールな与件的事実としては変わらない。レアールには何ものも累加されはしないのである。――遂行すべき行為と、当為に反して実際に遂行されてしまう行為とでは、勿論レアールな行為部面でも異なる。だが、これは別次元の問題である。「実在的与件−意義的価値」という今問題の構制においては、「(遂行すべくして実際に)遂行する行為」と「遂行すべき行為」との関係、および、「(遂行さるべからずして実際には)遂行される行為」と「遂行さるべからざる(当の)行為」との関係、これら両関係における夫々の両項が比較されねばならない。別々の関係における実在的所与項どうしを比較してレアールな相違を指摘しても反論にはなるべくもない所以である。――レアールには与件自体に何ものも累加されないにもかかわらず、「(単なる)遂行する行為」と「遂行すべき行為」とは意義的価値において異なり、後者は前者以上である。この相違は意義づけの相違であり、「より以上」であるのは意義づけが加わったせいである、と一応は言うこともできよう。そして、加えられる意義づけという作用はレアールな心的作用かもしれない。だが、遂行されるべきという当為的価値は、謂うなれば行為に付着した相にあるのであって、意義づけという心的活動そのことの謂いではない。敢えて言いたければ、意義づけの作用が投射・投入されて遂行的行為に付着・凝結した相にあるのが当為的価値である。とはいえ、レアールな成分が付着したり凝結したりしているわけではなく、「より以上」である以上所以の当為的価値はイルレアール=イデアールな存在性格の或るものと“認め”ざるをえまい。あまつさえ、当事者たちの日常的意識にあっては、当為的価値は主観的意義づけの所産どころか、当該の行為を命令したり禁止したり、促迫/禁制を呼び掛ける外在的・既存的な或るものの相で意識されさえもする。(規範的規制の場合、この外部的拘束性の覚識が著しい。規範的規則の存在性格のイデアリテートについては当為的価値については当為的価値について上述したところに俟てば、爰で駄目押しするには及ぶまい)。」72-3P
(対話I)「慾動的に希求される価値の場合はどうか。慾動的に希求される現有化したい状景と現有化される状景とは対象的には同一不二である。慾動的価値希求に際しては強烈な希求的慾動が現存するとしても、このレアールな慾求的情動という心態がそのまま慾動的価値なのではない。希求的視向対象たる現有化したい状景は望ましさ(/望ましくなさ)を“具え”ており、所求の対象的状景の“具有”するこの望ましさが慾動的価値対象性である。この慾動的価値は慾求的情動の“投射”、“凝結”と見做したとしても、望ましさ(/望ましくなさ)という自体は実在的成分ではなく、あれこれの実在的性質が望ましさ(/望ましくなさ)という価値性を帯びるのであって、存在性格を検討してみればこれまたイルレアール=イデアールである。しかも、当事者たちの日常的意識にあっては、希求的情動の投射どころか、外在的・既存的な当の望ましさ/望ましくなさが渇仰/抑斥の情動的反応を惹起する理由・原因であるという相で現識されている。」73P
(対話J)「較認的価値評価の場合、評価される価値というものが対象的に既存する相で日常的に意識されていることは誰しも認めるであろう。――高低的価値序列、大小的価値配列、これらは評価作用を介して形成されるものだと意識されているとしても、それは序列づけ・配列づけに関してであって、序列・配列の配位はあくまで既存的価値を与件としておこなわれるものと諒解されているのが日常的意識事実であるように見受けられる。――われわれは日常的意識事実をそのまま追認してしまうの愚を警戒しなければならない。が、しかし、比較ということの論理構制を分析してみるとき、比較される与件が対象的に与えられていることが要件をなす。――対象的所与というのは事物的所与の謂いではない。例えば、評価作用といったものどうしの比較も現におこなわれる。が、そのさいでも、比較される評価作用という与件が比較のための対象として与えられていなければならない。――ところで、前節の行文中、経済学上の評価比較に関説したさいに確認しておいた通り、比較ということは比較される対象的与件の(“具えている”“性質”の)同質性を論理構制上前提する。価値比較は、異種の価値に関して(高低・優劣の比較というかたちで)おこなわれるが、しかし、それが価値比較たる限り、種の次元では異種であっても、価値という類の次元では同類(類的同質)のものどうしの比較なのであって、同質性の要件を充たしている。評価的撰取/貶置は(財態に即しつつも、財の“帯び”ている)価値という(少なくとも類次元での)対象的同質与件に関して現成するのである。しかるに、財態において見出される較認的評価の与件的対象は、臆断を憚らずに言い切っておけば、財態の実在的諸性質とは端的に異質な或るものである。較認的評価の与件的対象にはありとあらゆる評価が供されうる。そのうち、述定的価値、照会的価値(これについてはまだ全域を論じていない限りで、既述の範囲のものに限定しておいても可であるが、残している高低的序列という基準に照会される価値なるものは、較認的評価対象と同様、ありとあらゆる価値たりうるのであるから、実質的にはここでの限定は無用である)、期成的価値、当為的価値、慾動的価値、以上の全てについて、存在性格上のイデアリテート=イルレアリテートを既に見ておいた。」73-4P
(対話K)「興発的に感得される価値、今や唯一残している興発的価値の検討に移る段である。興発的な価値とわれわれが呼ぶものには高位の価値に位置づけられるもの(貴/賤、崇高/卑猥、聖/俗、等々)の基層も包摂されるが、これのうち基底的なものは、学説史上、感情にすぎないと称されることが多かった。興発的価値(のうち少なくとも基底的な層に属すると見做されるもの)が、知性との区別における感性によって感得されるという見方には尤もなところがある。(われわれは感性と知性との二元論には慎重でなければならないが、ひとまずこの区別を容認する流儀で述べておいても後論には響かない。) 興発的価値(の基底層)が感性的に感得されるという覚識が現認されるにせよ、感性なるものを感覚と感情とに常套的な流儀で二大別するとすれば(実はこの区別には曖昧なところもあり、いずれにせよ単純に追認するわけにはいかないが)、感覚と感情とは不可分的に結びついているのが普通であれ、興発的価値は単なる感覚には尽きない。興発的価値(の基底層)を直ちに感情にほかならないと見做してしまうのは速断であるが、興発的価値感得と呼ばれる態勢にあってはいわゆる感情も見出されるのが常態である。このことまでは認められてよい。――論者たちは、感覚とは対象的性質の感知、感情とは主体内状態の感受という具合に分け、価値は感情なりと称するとはいっても、当人の意識において、価値が主体内部的状態の感受という相で明識される、と主張するわけではない。論者たちも、当人の意識においては、価値はむしろ一種の対象的性質であるかのように意識されること、しかも、この価値的な性質が対象的に既存していて感情(行動性向を伴う情動)の誘発原因であるかのように思念されること、この主観的事実までは進んで認知する。だが、論者たちはこの当事者的思念は一種の錯覚にすぎないと断ずる。その論拠は、感覚というものは、色・形・音・香・味などの感覚や、温・冷・圧・痛・痒などの感覚に限られているものとし、他方、感情というものは感受される質がそれら感覚とは直覚的にも別であることに留目し、且つ、感情とはそもそも主体内状態の感受なりという命題を持出し、価値が感情の対象的相関項として既在するかのように感じられるのは錯覚にほかならない、ということにあるのであろう。価値=感情説の元来のポイントは、しかし、感覚との区別というところにあるのではなく、価値は、第一性質のごとき客観的性質でないばかりか、第二性質のごとき客観的性質との対応性(“正常的にはほぼ一義的と見做しうる”対応性)すらなく、主観の側の心理的状態次第の(およそ客観性に欠ける)代物にすぎない、という主張にある。このことを承知のうえで、われわれとしては、論者たちといえども“価値が内部的心態の相で覚知されるのではなく当事者においてはむしろ一種の客観的性質であるかのように意識されているというフェノメナルな現相的事実”を認めていること、価値はいわゆる感覚とは種的に異質であり、しかも、対象的与件(いわゆる心的状態も準反省的態勢においていちはやく対象的与件たりうる)の具えている性質であるかの相で感得されること(この対象的性質の相で感得されるという点で、現識されるいわゆる感情的心態そのものとも別異であること)、この事実に即すればひとまず足りる。興発的価値、例えば美しさは、色・音・形などレアールにはおよそ異質で共通性のない諸対象財において斉しく感得(“見出”)され、裡なる感情としては感受されない。それは、感覚や感情というレアールな心態とは端的に異質である。複数の諸対象に例えば美という同じ価値が臨在しえ(普遍性)、例えば美人という財が実在的には死亡・消滅しても美という価値は死亡・消滅するわけではない(不易性)というように、興発的価値とはいえども哲学者たちの謂う意味での「超時空的」な存在性格、イルレアール=イデアールな存在性格の或るものとして“存立”する。」74-6P
(対話L)「或る種の論者はここで一歩を進めて次の旨を主張する。価値は、感覚によって感知される対象(的性質)でもなければ、感情によって感受される対象(的性質)でもない。が、それは思考の産物でも、単なる思考対象でもない。価値が対象物に感得されるのは厳然たる事実であり、この感得は一種の直観である。但し、直観とは言っても、感性的直観(感覚)ではないのであるから、一種独得の高次的直観である。そして、この高次的直観によって価値自体(Wert als solcher)が観取される次第であるが、この高次的直観といえども直観であるからには観取される対象が既在するのでなければならない。レアールな感性的直観とは別種の高次的直観の既在的対象、それがイデアールな対象であり、価値はそういうイデアールな直観対象の一種にほかならない、云々。」76-7P
(対話M)「われわれは、上来、価値はレアールな実在とは存在性格を端的に異にするイルレアール=イデアールな或るものとして“存立”することを“確認”してきた。それでは、われわれとしても、右の論者の理路でレアールな感性的直観とは別種の高次的直観とやらを承認し、高次的直観の既在的対象としてイデアールな価値なるものの自体的存立を積極的に主張しなければならないのであろうか? 結論から先に述べれば、否である。――行文中、これまで折々に、イルレアール=イデアールな価値なるものが自存するかのように見做すのは一種の物象化的錯認であることを陳べ、イデアールな存在性格の価値的対象性なるものの“存立”を“認め”ざるをえなくなるのは「実在的所与」から截断して「意義的価値」項を“自存化”させる限りにおいてであることを断ってきた。」77P
(対話N)「今や、これまでの行論で但書・断書の形で消極的に記してきた条項を積極的に開陳し、以って、当事者的意識態における物象化的錯認への“追認”的“仮託”を止揚しなければならない。」77P
第十一段落――これまでの当事者的意識態における物象化的錯認への“追認”的“仮託”の止揚 77-80P
(対話@)「価値が現認されている態勢(これは俗に意識態勢と呼ばれるにせよ、主客分離を前提した“主観的意識態勢”ではなく、フェノメナルな分節態勢)にあっては、情感や行動性向を伴いつつ、視向対象が現前化している。(情感や性向がこれといって感じられない場合でも、実践的関心態度に展らけるこの現相態勢は、認識論的射影における“単なる認知態勢”より以上である。)」77P
(対話A)「偖、この価値現認的態勢は、いかに特個的であれ、その都度一定の“質態”“度合”“趨勢”での現識であり、人はその意識態勢の“判別徴標的規定性”(それが“当の意識態勢であって別の意識態勢ではない”所以の規定性、すなわち“別の意識態勢”(註)と比較・区別しうる所以の特性)を即自的には覚識している。人は、弁別的特性を概念化して明識することはいずれにしても稀であるが、少なくとも第三者的・学知的(「フェア・ウンス」のルビ)に省察してみれば、その都度における意識態勢を(他の意識態から)“示差的に区別”している。まさにそのことにおいて、現在的意識態勢をその意識態勢として現識しているわけである。」77-8P
(対話B)「人々は、反省以前的に、現在の意識態勢の、“示差的区別”規定性を覚知するようになる。現相的分節態の(端的な或るものetwas schlechthinからの)「図(「フィグール」のルビ)」化、情感や性向の“質態”“度合”“趨勢”の感知、態勢・態度の(歓好/嫌厭、撰取/貶置、渇仰/抑斥、促迫/禁制、追求/忌避、……等々の)現識化がおのずと生じ、現在的意識態勢がそのような現識相で自覚される。」78P
(対話C)「この日常的体験意識態勢においては第一巻で分析したように、所知と能知との区別もいちはやく形成される。――所知項は意識態勢全態にとって“部分”的構造契機にすぎないし、情感、性向、態度も“項”的に意識化されるかぎり、体験的意識全態より“過少”であって、体験的意識全体は諸“項”の“合算”には尽きない。――」78P
(対話D)「所知と能知とが、区分的に意識されるようになっている場面では、視向的態勢が(興発的感得・較認的評価・慾動的希求・当為的応対・期成的企投……等々)如何様にあれ、嚮に見た通り、視向的な所知項が“価値を帯びている”相で意識されるのが体験的事実である。そして、それら諸価値という所識が種別化や類同化をおのずと受ける。」78P
(対話E)「ところで、種別化や類同化ということは、論理構制上、特個態に共通な類種的普遍性、種類毎(「ごと」のルビ)の本質的同一性を前提する。本質的同一性ということは、個別態が多少変様しても自己同一性を維持するという不易性(いわゆる超時間性)を含意する。しかるに、論理的に要求・前提される普遍性や不易性ということは、特個的で変易的な実在(「レアリタス」のルビ)とは端的に存在性格を異にすることが“認め”られざるをえない。茲に、財態の種別化・類同化を可能ならしめる価値的所識なるものは実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にするイルレアール=イデアールな或るもので“なければならない”ことになる。――剰え、“価値は所知的対象であり、しかも直覚的に認識される”という理路で、価値は特異な直観(本質直観)の対象として既在的に自存する、という主張が生まれるに及ぶ。」78-9P
(対話F)「価値というイルレアール=イデアールな或るものが自存するというこの理路は、能知と所知とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断し、価値が所知項に具って意識されるという“体験的事実”を追認し、そのうえで価値の種別化・類同化の存在根拠を所知項自体に求めようとするとき、殆んど論理必然的である。」79P
(対話G)「われわれに言わせれば、しかし、この理説は、論理的に誤てる前提からの帰結であり、事柄に即すれば、一種の物象化的錯認にほかならない。」79P
(対話H)「それでは、価値とは、所知項ならずして、能知項の状態ないし作用性質(の投射されたもの)であるのか? これまた否である。」79P
(対話I)「われわれは、所知と能知との存在的截断そのことを卻けてかかる。――如実の価値現認態勢、この全態的な態勢が準反省的・反省的に示差的に区別される。(aという全態的態勢、bという全態的態勢、cという全態的態勢、……等々。)が、あくまで全態的態勢の示差的区別である。なるほど、態勢a、b、c……の区別をもちらす契機は、所知項と能知項とを区分するとき、所知項の側にも能知項の側にも存するであろう。しかし、双方が絡んでいるのであって、a、b、c……の差異が、もっぱら所知項側の[A]、[B]、[C]……という規定性に因るとか、もっぱら能知側のA、B、C……という規定性に因るとか、一方の項に帰して考えるのでは実態を逸する。関係規定態の全態的規定性を項に内自有化させるのは物象化的錯認である。そして、この物象化的な錯認の機制に俟って、上述の論理的構制において、イルレアール=イデアールな価値なるものの存立が主張されるのであること、このことをわれわれは対自化する。」79P
(対話J)「原理的には、是に鑑み、実際に存在するのは価値現認態勢だけであることを自覚し、イルレアール=イデアールな意義的価値なるものが自存的に存立するわけではないことをわれわれは承知している。が、行論に際しては、以下においても猶暫く、恰かもイデアールな価値なるものが存立するかのように遇しつつ、それの間主観的形成や、それに因る実践の規制、それに拠る実践的諸契機の評価、等々を討究する運びとするであろう。」80P
第五段落(対話G)57-8Pの(註)
ここのところ、‘中立性’‘中性’と両表記になっていて、‘立’を落とした誤植だと思って‘立’を赤文字でいれたのですが、これは実体主義的にとらえられる概念には、‘中立性’とし、そうでないところは‘中性’としているのでないかと思い始めています。後の検証課題にすることですが、本来なら原文通りに赤文字を消去するところですが、後の検証する課題としてあえて赤文字をそのままにしています。(『著作集』でも同じ)
第十一段落(対話A)77-8Pの(註)
「人はその意識態勢の“判別徴標的規定性”(それが“当の意識態勢であって別の意識態勢ではない”所以の規定性、すなわち“別の意識態勢”と比較・区別しうる所以の特性)を即自的には覚識している。」のところ‘”’は原文では入っていません。“ ”の“の受けがないのです。仮にここにいれて起きました。(『著作集』でも同じ)
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(4)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
第三節 財態の第二肢的価値
(この節の問題設定−長い標題)「財態の第二肢たる「意義的価値」は、あくまで「実在−価値」関係の「項」なのであり、それは「実在的所与」が「単なるそれ以上の或るものとして妥当する」という関係規定においてのみ「意義的価値」なのである。この第二肢的価値は、第一肢的実在とは端的に存在性格を異にし、非実在的(「イルレアール」のルビ)=理念的(「イデアール」のルビ)な或るものとしか差当り言いようのないのだが、財態を財態たらしめる所以の対象的規定性として存立する。――価値の所識は、間主観的非実在的=理念的存在性格の或るものとしては意味的所識の一部類であるとはいえ、実践的関心性の構えに対して現前するものであり、積極的(「ポジティヴ」のルビ)または消極的(「ネガティヴ」のルビ)である。」44P
第一段落――「主観−客観」図式に仮託するかたちで、価値の正負双極性の問題や、価値的所識の非実在的=理念的存在性格の問題の暫定的な討究 44-5P
(対話@)「意義的価値についての十全な論攷は第三巻(「文化的世界の存在構造」)に持ち越さざるをえないが、実践的世界の存在構造を見定めるうえで必要最小限の議論を本巻内の幾つかの節で適宜暫定的に試みておかねばならない。」44P
(対話A)「本節においては、既成理論と接点を有たせつつ、後論において内在的にそれを批判・止揚するための方略という含みもあって、「主観−客観」図式(さしあたり「価値意識作用−価値意識対象」という図式)に仮託するかたちで、ひとまず議論を進め、価値の正負双極性(積極・消極の反対方向的性格規定性)の問題や、価値的所識の非実在的=理念的存在性格の問題を暫定的に討究しておこう。」44P
(対話B)「価値と一口に括っても多種である。価値について論考するにあたっては、一定の分類的整序も当然必要になってくる。が、学説史上の実際を慮るに、真・善・美・聖といった直截な種別だけでは処理しきれず、例えば、心情価値・行為価値・人格価値……といった価値の担い手(「トレーガー」のルビ)に即した分類や、生命価値・効利価値……といった機能性に即した分類や、その他さまざまな視角からの分類が併せておこなわれてきた。われわれ自身、後論において価値の分類的整序を企てる際には、幾つかの副次的な視軸をも持込むことによって、旧来の分類との離・接を見え易くする予定である。また、価値の正反・大小・高低ばかりでなく、強弱(軽重)の関係をも扱い、価値判断や価値判断性推理を扱う場面では、肯定・否定と積極・消極とを単純に対応づけるのではなく、排中関係の処理に関連して“価値中立的なゾーン”をも導入する予定である。われわれは、価値に関しても「様相」の問題の勘案をすら要する。」44-5P
(対話C)「爰での当座の議論においては、しかし、財態の構造内的契機をなす価値の固有性を顕揚し、実在的な所与とは端的に区別さるべき価値の存在性格を確認しておくことが、喫緊の課題である。われわれとしては、この課題に応えるに当り、実践的関心態度・評価作用の位層的区分との対向的に価値対象性の位層的区分を設ける流儀で、概観するところから始めよう。――本節では、ひとまず現象学派の謂う「志向的意識作用−志向的価値対象」の構制に略々仮託する手法で議論を運んでおきたいと念う。(後論に至って「志向作用−志向対象」という構制そのことの孕む物象化的錯認を剔抉し、価値の非実在的=理念的存在性格なるものの謎解きをもおこなう。が、そのためにも、まずは物象化的錯認に陥っている日常的価値体験に即した記述的分析を先立てておくのが順路である。)」45P
第二段落――物象化的錯認に陥っている日常的価値体験に即した記述的分析の表示風提示 45-6P
(対話@)「(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭)/(2)較認的価値評価(撰取−貶置)/(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥)/(4)当為的価値応対(促迫−禁制)/(5)期成的価値企投(追求−忌避)/(6)照会的価値判定(適盈(「じゅう」のルビ)−反虧(「か」のルビ))/(7)述定的価値判断(承認−否認)」45-6P
(対話A)「右を一覧頂ければ大凡の構案は察知されよう。但し、これは必ずしも価値の分類ではない。また、価値の発生論的順序と厳密に対応するものではない。」46P
第三段落――(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭) 46P
(この項の標題)「(1)興発的価値感得(歓好−嫌厭)」46P
(対話@)「世界現相は、第一節で指摘したように、汎通的に表情価(情動興発価・行動誘発価)を帯びた相貌で現前している。謂う所の「情動興発価・行動誘発価」を一括して「興発的価値」と略称する。興発的と謂うのは情動的覚識や行動的性向を興発することに徴してであるが、しかし、この興発そのことは実在的事件たるにすぎず、生理・心理学的な見地からは一種の因果的事象たるにすぎない。この因果的・実在的な事象は、価値なるものが惹き起こすわけではなく、生理心理学的な見地で言えば、与件的財態の実在的所与契機と実在的主体との反応において成立する事件であって、それ自体は価値的ではない。(「情動興起価」「行動誘発価」なるものは、正規に言えば、情動や行動を興発する価値ではなく、一定の情動興発態勢や行動誘起態勢において現認される価値の謂いである。但し、価値感得を感受して仮託する記すさいには、宛かも価値なるものが触発するかのごとき表現になることもやむをえないであろう。)また、情動的覚識や行動的性向は、単なる主体内部的実在状態と目される限りでは、第二節において主観価値説を検討する論脈で指摘したところから知られるように、これまたそれ自体では価値的ではない。情動や性向の視向対象(より詳しく言えば情動的覚識や行動的性向を興起・誘発する認知的視向対象)が、一定の評価作用を受けることによってはじめて、情動・性向の質や評価の作用性質に見合う価値性を“受け取る”のである。尤も、価値性の“取得”とか“帯有”とか、言葉に窮してこのような表現を仮りに採ってはいるが、それは決して価値なるもののレアールな授受の謂いではない。情動・性向が歓好的または嫌厭的な視向態勢(「ツーヴェンドウング」のルビ)においてあることにおいて甫めて(より剴切に言い換えれば、歓好的または嫌厭的な視向態勢の相で感得されることにおいて甫めて)当該の視向対象が積極(正) (「ポジティヴ」のルビ)または消極(負) (「ネガティヴ」のルビ)の価値を帯びていると言われうるのである。このさい、しかし、歓好的または嫌厭的な視向態勢での感得において甫めてとは言っても、二段階の意識意識過程が継起的に生ずると言うのではない。評価が第二段階として累加される場合もあるが、今問題の表情性感得の場面においては、概して歓好的ないし嫌厭的視向相での感得が直截に現成している。しかも、ここでは、外なる与件的対象と内なる情感的内容といった“空間的”分離性は現識されておらず、所与現相が直截に歓好的ないし嫌厭的な種々の情感性において感得される。このような感得相にある現相を、分析的記述の見地から、興発的価値性を帯有していると謂い、そこでの歓好的・嫌厭的な志向対象性を興発的価値と呼ぶ。」46-7P
(対話A)「尚、表情価を帯びる現相は、いわゆる知覚性現相ばかりでなく、表象でもありうるし、一定の準反省的態度や反省的態勢においては、いわゆる気分・感情・情動のごとき心態もそれ自身が歓好的・嫌厭的な視向対象たりえ、以って興発的価値性を負荷(「トラーゲン」のルビ)しうる。」47P
(小さなポイントの但し書き)「歓好的・嫌厭的という奇異な用語(著者の真意からすれば、「歓向的・嫌退的」ないし「歓進的・厭退的」とでも表記したいところ、それでは奇態に過ぎるため「歓好的・嫌厭的」という用語法を採っているのだが)、この概念の内容と身分についてコメントを挿んでおこう。/学説史上、情動の分類の位置づけは諸家の苦心の種(「たね」のルビ)であった。W・ヴントLust (快)Unlust (不快)という“単純感情”成分を基底に据えようとしたことは有名で有るが、H・シュロスバークの今では古典的な三次元軸は@pleasant-unpleasant(快−不快)、Aattention-rejection(注意−拒斥)、Bsleep-tention(休止−緊張)となっている。この例に限らず心理学者たちが、情動を「快−不快」のスペクトルに配位できると考えていることが概して察せられる。快または不快が各種の情動に“成分”的に含まれているのか、快でも不快でもない中立的なゾーンをも認めるのか、快・不快はむしろ“随伴的”に感受されるだけなのか、この件に関しては見解が岐れうる。しかし、多くの論者たちが、情動を「快−不快」の座標軸上に配位できると考えていることまでは確かなように見受けられる。(日本語の語感で言えば、忿怒、恐怖、悲哀といった情動でさえ直ちに「不快」とは言えそうにない。が、おそらく、pleasant-unpleasant,lustig(楽)-unlustigという欧語の概念は、日本語の「快−不快」よりも広義なのであろう)。――翻って、F・ブレンターノは、彼の有名な表象・判断・情意という新三分類において、情意の志向的作用を(用語法に若干の動揺はあれ、基本的には)「愛−憎」という対立性で特徴づけている。この「愛−憎」も広義であって、英語のlike-disgust、好く−嫌うに庶いと言えるかもしれない。/われわれとしても、いずれにせよ、広義のpleasant-unpleasant且つ亦、like-disgustの情動的意識態に見合う“志向作用”を立てることで当座の議論を運んでおきたい次第なのである。われわれの場合は、しかも、情動興起性と行動誘発性とは、反省的には分離しうるにせよ、如実の体験的事実性においては融合的一態相にあると看ずるのであるから、当の融合的一態相に即してそこでの志向的態勢を表わしたい。但し、“志向”といっても“純粋な意識作用”とやらではなく、生体的主体の“反応性向”とも謂うべき次元でそれを立てる。この要請に応えるべきものが「歓好−嫌厭」(より剴切には「歓向−厭退」の視向態勢であり、これの対向する(被)視向対象)性として興発的価値という位層での正価値(積極的価値)と反価値(消極的価値)が措定される。/後論において、われわれは自ら、ここで仮託している「志向作用−志向対象」という構図を自己止揚するが、さしあたっては、正負の興発的価値対象性が“現前”していて「歓好−嫌厭」の“志向的作用関心性向”がそれへと関わるのであるかのように遇しておきたい。」47-9P
(対話B)「興発的価値と茲に呼ぶものは、好(「す」のルビ)く又は逆に嫌うという態度の対象項の相で覚知されるものであって、歓(「よろこば」のルビ)しい又は逆に厭(「いとわ」のルビ)しいという情動的覚識態そのことではない。対象項の相で覚知されるのが一種の物象化的錯認であろうとも、当事者の直接的意識においては、それは対象における「好(「よ」のルビ)さ」又は「好(「よ」のルビ)くなさ」(広義の良・不良、この意味での「良さ」「悪さ」)として感得される。尤も、興発的価値は視向対象における「好さ=良さ」「好くなさ=悪さ」として感得されるとは言っても、それは後述の価値判断(良否概念による述定的価値判断)とは異なり、単なる良さ又は単なる悪さの純粋感得ではなく、各種の規定性を具有する相での良さ悪さの感得である。(正確に言えば、現実に成立しているのは各種具体相における感得なのであって、それら諸々の具体的規定性での感得を「歓好」または/および「嫌厭」という視向的態度(情動的反応態勢)の共通点で括ることで「良さ」「悪さ」の感得と総称しているのである)。歓好・嫌厭される対象項としての興発的価値は、具体的・現実的には、単なる(純然たる)良さ悪さではなく、諸々の表情性・情調性、ひいてはまた、美醜・浄穢・善悪・聖俗といった特権的規定態での「好き=良さ」「好くなさ=悪さ」なのである。(但し、美・浄・粋・わび・さび・善・聖……という価値やそれらの反価値として括られるもの全てが興発的価値に属する、と言うのではない。後述の「照会的価値」や「述定的価値」の次元に属する“部分”“分肢”もある)。――附言しておけば、財態は多重的に価値を負荷しうる次第であるが、一つの財態が種々の(時としての正負“矛盾”“葛藤”する)興発的諸価値を併せて負荷せる相で現前する場合もありうる。」49P
(対話C)「尚、興発的価値は視向対象項における各種の「好き=良さ」「好くなさ=悪さ」として(物象化して)感得されると言う際、視向対象項はいわゆる身体外部的知覚対象とは限らない。いわゆる内部知覚や体感は勿論のこと、いわゆる心象風景、回想や想像の表象態のごときも視向対象項たりうる。そして、一定の準反省的・反省的な態勢にあっては、情緒・感情・情調のたぐいも歓好的・嫌厭的な視向対象たりえ、以って興発的価値性がそこにおいて感得される場合がある。」50P
(対話D)「興発的価値は表情価に尽きるものではないが、その基底層は表情現相においていちはやく見られるところであり(K・レヴィンの要求特性AufforderungscharakterやJ・ギブソンのアフォーダンスのごときも、歓向・厭退の対象性として、興発的価値性に算入できよう)、この興発的価値性は、舞台情況的有意義性の基層をなすことに鑑みて、実践論にとって重要であるのみならず、歓好的志向と嫌厭的志向の対立性が価値評価の正負対立性の原基形態をなすことに徴して価値論的にも重要である。とはいえ、しかし、価値論的にはこれは所詮最低位層をなすものにすぎない。(興発的価値の基底層は、発生論的にも最も初次のものである。但し、興発的価値の全てが発生論的に初次というわけではない。当人は直截に感得し、その歓好的ないし嫌厭的な覚知の被媒介的な機序に無自覚であろうとも、興発的価値の多くは被媒介的であり文化被拘束的でもある。興発的価値のうちには、発生論的には後次のものが、その被媒介性を自覚されぬままに、当人の直接的体験相では直覚的に感得されるようになっているものもある)。」50P
(対話E)「興発的価値の存在性格やそれの物象化される機序など、われわれはまだこの価値について論及すべき多くの課題を遺しているが、この課題に応える前に、議論の順序として、視野と論域を拡充しておかねばならない。」50P
第四段落――(2)較認的価値評価(撰取−貶置) 50-4P
(この項の標題)「(2)較認的価値評価(撰取−貶置)」50P
(対話@)「人々は、日常、歓好または嫌厭という視向態勢と相即的に正負の価値を区別するだけでなく、正価値であれ負価値であれ、価値どうしをおのずと比較している。無自覚裡の比較もあれば、自覚的な比較もある。が、価値の比較は、実在的規定性の認知的比較とは様態を異にする。なるほど、後述の「照会的価値判定」や「述定的価値判断」の位層にあっては認知的比較と共通な構制も見られるとはいえ、低位層の価値比較においては、撰取(「フォルツイーエン」のルビ)または貶置(「ナハビッツェン」のルビ)という視向態勢を介して対象的価値比較が現成する。」51P
(対話A)「価値の比較には、反省的に分別するとき、異種の価値間の優劣的高低の較認の場合と、同種の価値間の度量的大小の較認の場合とがある。撰取・貶置される価値が、異種の場合、撰取される価値をより高い価値、貶置される価値をより低い価値と呼び、同種の場合、撰取される価値をより大きい価値、貶置される価値をより小さい価値と呼ぶ。(異種の価値の比較とは言っても、価値という同類のものどうしの比較、この意味で類的には同質なものどうしの比較なのであるから、価値的高低の較認も一種の量的比較であると言うこともできる。)両項のいずれも撰取・貶置されることなく謂わば均衡するとき、異種の当該二価値は同等な価値、同種の二価値は同量の価値であると言う。」51P
(小さなポイントの但し書き)「撰取・貶置という詞の説明に借口しつつ若干の敷衍をも挿んでおこう。撰取・貶置という詞は、マックス・シェーラーやニコライ・ハルトマンなどのVorziehen−Nachsetzenの用法を踏んでの術語の心算である。字義に即して訳すれば「先に引寄せる」「後に置く」であろうが、敢えて「撰取」「貶置」と“訳”する。/先述の歓好・嫌厭は、それぞれがいわば独立に成立するのに対して、「撰取/貶置」はあくまで雙関的比較の視向態勢であり、常に形影相伴う。但し、撰取と貶置とが常に必ず雙関的両項の相で併存的に明識されていると言うのではない。比較の与件的対象二項は併存的に明識されていても、それの一方が撰取される際には、他方は(論理上は貶置されていることになるにせよ)必ずしも明識的に貶置されるわけではない。逆に亦、一方が貶置される際には、他方は(論理上は撰取されていることになるが)必ずしも明識的に撰取されるわけではない。つまり、比較対象的な二項は明識されていても、一方の項に関わる撰取(または貶置)の視向態勢(「ツーヴェンドウング」のルビ)だけしか明識されない場合がありうる。・・・「地」の無自覚化/撰取とはより強く歓好することであり、貶置とはより強く嫌厭することである、と一応は言うこともできよう。だが、しかし、「撰取/貶置」はあくまで雙関的比較態勢なのであるから、貶置される項は必ずしも嫌厭される必要はないし、また、撰取される項も必ずしも歓好される必要はない。「撰取/貶置」は「より強く歓好/より弱く歓好」のこともあれば、「より弱く嫌厭/より強く嫌厭」のこともありうる。/尚、いかに実践的関心性の具現であるとはいえ、さしあたり較認的な価値評価なのであって、撰取される価値(高い価値、大きい価値)の獲得とか、貶置される価値(低い価値、小さい価値)の改良とかいうような、狭義の実践を直ちに伴うわけではない。」51-2P
(対話B)「較認的価値評価は、発生論上の初次局面では知覚的に現与の両(「ふた」のルビ)つの財態(個数的には三つ以上の場合もありうる)に即しておこなわれる。――現与の視向対象財態は、勿論、いわゆる“外物”には限られず、現在的体験心態のごときでもありうる。――が、やがて、一方の項は回想的・想像的な表象態である場合、ひいては両方の項が表象態である場合でさえそれが成立するようになる。」52P
(対話C)「あまつさえ、論理構制上はあくまで両項的比較・較認の筈であるにもかかわらず、比較対照項が明識的意識野から欠落したまま、単一の与件的財態に関して、それの有(「も」のルビ)つ価値の度合(謂わば濃淡の度、盈虧(「じゅうか」のルビ))が直截に評価されるようにさえなりうる。――この価値度合・盈虧の認定の高次位層は後述の「照会的価値判定」の一斑に属させてしかるべきであるが、それの発生論的一前梯として、如上の事態を今問題の較認的価値評価の変様的一形態として茲に誌しておくことが許されると念う。――この機制によって、「立派な絵だ」「立派な字だ」「高級な宝石だ」と直截に評価したり、技倆の巧拙を直截に看取して「腕利(「き」のルビ)きだ」「ファインプレーだ」と評価したりする。更に言えば「高い価値」「大きい価値」ないしは逆に「低い価値」「小さい価値」という較認的評価価値である筈のものが個別単一財に謂わば“内自化”されて、「彼女は美人だ」「彼女は醜女(「ブス」のルビ)だ」(ママ)とか、「彼は大物だ」「彼は小物だ」(ママ)といった評価が直截におこなわれる。(これは実在的規定性に関して、例えば象を見ただけで「大きい動物」と見做し、紅雀を見ただけで「小さい鳥」と見做すたぐいと同趣の、比較関係規定の物象化的内自有化の一現象である。)」52-3P
(対話D)「人々は、日常、「彼女は女ではない」(ママ)「あの大臣は政治家ではない」というたぐいの言い方をする。――このたぐいの認定、すなわち、存在上はAである主語対象が価値上はAではない(非Aである)という型式の認定、これの高次位層は後述する「照会的価値判定」や「述定的価値判断」に属するであろう。が、それの低次的位層は、発生論的にみて、較認的価値評価の一変様形態、すなわち、価値性の度合・盈虧の評価の一斑であるように思われる。――このさい、当の認定者は、彼女が女であること、大臣は政治家であることを承知しておりながら、女ではない(ママ)、政治家ではない、と認定しているわけである。これは一見“矛盾”“詭弁”のように見えようとも、実態においては矛盾でも詭弁でもない。けだし、そこでは、存在と価値とが、(すなわち、存在規定上の女・政治家と価値規定上の女・政治家とが)峻別されているからである。」53P
(対話E)「それでは、存在と価値とがどのように峻別されているのか、存在との区別における価値とはいかなるものであるのか、溯っては、価値の物象化的内自有化とはいかなる機制であるのか、更に溯って、そもそも、価値の比較とはいかなる構制であり、そこではいかなる構成要件が前提されているか。(読者は、茲に前節において経済学上の価値比較に即して論考したところを想起されるであろう。)」53-4P
(対話F)「これを検覈するためにも、しかし、今暫く、視野と論域を拡充する作業を先立てねばならない。」54P
第五段落――(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥) 54-8P
(この項の標題)「(3)慾動的価値希求(渇仰−抑斥)」54P
(対話@)「人は、対象的財態に対して、歓好・嫌厭の視向態勢や撰取・貶置の評価態度で関わるばかりでなく、渇仰・抑斥の希求態勢でも関わる。渇仰/抑斥の希求的対象評価を慾動的価値と名づける。――慾動という概念を、爰では広義に用い、いわゆる欲動(beson)、欲求(want)、意欲(Wollen)を包括する詞として用いる。」54P
(対話A)「慾動といえば、多くの論者たちにおいて、対象物を獲得しようとする希求という構図で(より詳しく記せば、既在してはいるが未獲得の対象物を獲得しようとする、乃至は亦、未在の対象物を産出的に獲得しようとする、この意味において、自己にとって欠如しているものを取得・充当・現有化しようとする情動的希求という構図で)考えられている。そして希求されている当の対象物は当人にとって望ましい(desirable)ものという価値性を帯びている、とされる。慾動は、慥かに、欲しい対象性と、獲得したいという願望的希求性と、獲得しようとする意慾的傾動性との、三契機から成っているように思える。」54P
(対話B)「だが、獲得・現有(actually have)を希求されているのは、唯単なる対象的事物財ではない。他人の一定の行動が慾動的希求対象性をなす場合もあれば、自分自身の一定行動が慾動的に希求される場合もある。尤も、今茲で言おうとしているのは、慾動的希求対象性は、事物財以外の場合もあるとか、行動の場合もあるとか、この次元のことではない。或る一定の(現状とは異相の)未来的状態という一全態が欲求されるのであり、当の状態を現有化しようとする意慾的傾動性が見られるのであって、単なる事物や単なる身体行動が希求されるのではない。例えば、俗に“リンゴを欲する”という場合、希求されているのはリンゴを現有化している状態なのであり(慾求されている現有化の具体相が単なる所持・所有であれ、食べるという行動的状態であれ)、唯単なる対象物の希求ではない。獲得・現有化という実現される状態から切り離して、対象物だけが欲求されているかのように看ずるのは短見であると言わざるをえない。(単なる情動興起・行動誘発性であれば、興発的価値性の域に属する。)但し、日常的意識においては慾動的希求価値が対象物に内自有化されがちであることは確かであり、われわれとしてはこの物象化の機制をも勘案しつつ議論を進める必要があろう。」54-5P
(対話C)「偖、現有化を希求されている一全態としての状態は、渇仰という消極的希求の場合であれ、未在の一状態である。なるほど、例えば眼前に既在するリンゴを慾しがるというような場合、リンゴという対象物は既在であるがしかし、現有化を希求されている対象的財態たる一全態としての状態は未在であり、その未在的状態の現有化が希求されているのである。また、例えば、眼前の猛犬が消えて慾しいとか悪行をやめて慾しいとか、抑斥的な希求の場合、構造的契機をなす猛犬や悪行は既在するにしても、現有化を希求されている状態は未在であり、その未在的な状態の現有化が希求されているわけである。渇仰と抑斥とは、俗には、未在状態の有化と既在状態の無化という対比を許すにしても、謂うところの有化も無化も未在的状態の将来的現有化であることに、留意を要する。」55P
(対話D)「現有化の慾動的希求は意慾的傾動性を構造的契機としており、現有化を希求される状態(およびその状態の現有化過程)には、他者の行動のまたは自分の行動または自他双方の行動が構造的契機をなす。(但し、他者は、未定的他者でもありえ、非人格的エージェントでもありえる。そして、この構造内的他者が非人称的・抽象的な場合、Sein-Wollenの相になる)。――他者にしかじかの未在的状態を現有化して慾しいと希求すること、および、自分でしかじかの未在的状態を現有化しようと希求すること、これらが役割行為論および意志行為論の論脈で重要な意味をもつことは予告するまでもない。――」55-6P
(対話E)「渇仰または抑斥の志向的価値対象性、すなわち慾動的的希求価値は、言うまでもなく、現有化を希求される状態の“帯びている”価値である。希求されている状態は物理的には未在でありながら価値を帯びている。そして、当の価値は、希求状態が物理的に実現しようと実現しまいと、渇仰または抑斥の希求態勢において存立する。その限りで希求価値は希求局面において既存する。希求されている状態は、物理的には未在であるが、希求局面において表象されてアル。とはいえ、この表象されてアル状態像がそのまま希求価値なのではない。希求価値はこの表象されてアル物理的には未在の状態像の“帯びている”価値であり、それは当の表象されてアル状態が現有化した場合にそこでの現有的状態が“帯びる”価値とも不二である。希求価値は、希求されている状態そのものでもなければ現有化された状態そのものでもなく(これら状態は財態なのであってそのまま価値なのではない)、当の状態を現有化することそのことである。」56P
(対話F)「尚、慾動的希求にあっては、渇仰/抑斥と、価値的高/低や価値的大/小とは必ずしも一致はしない。いわゆる下劣・卑劣な慾動のケースに見られるように、較認上は低い価値であることや小さい価値であることを承知しながら渇仰したり、高い価値であることや大きい価値であることを承知しながら抑斥したりする場合が現にある。」57P
(対話G)「この場を借りて価値中立性の問題に一言触れておけば、興発的価値性に関わる価値的中立(註)性、すなわち「歓好−嫌厭」に中立的な態勢は「無関心」、較認的価値性に関わる価値的中立(註)性、すなわち「撰取−貶置」に中立的な態度は「均衡」であり(「無関心」や「均衡」も別の視角から規定すれば一種の価値性を帯びるにしても),ことさら説述するまでもないであろう。ところが、慾動的価値に関わる価値的中立(註)性、「渇仰−抑斥」に中立的な態勢的態度となると、分析的説明をいささか要しそうである。――未在的な状態の現有化希求するということは(俗に謂う“未在的状態の有化”希求であれ、“既在的状態の無化”希求であれ)、現状とは異相な或る状態の実現を慾求しているわけであって、現状に対する不満と相即する。このことから反照して言えば、渇仰的希求も抑斥的希求も現成しない中立的態勢は、現状に対してこれといった不満のないこと、この消極的な意味で一種の満足の態勢にあることを意味する。(「満足−不満」は興発的価値感得の一種であるから、「渇仰−抑斥」に中立的な態勢は一種の興発的正価値の感得に見合うと言うことができる。が、このことは価値の分類的規定上の難点にはならない。或る分類視角では価値中立的と見做される態勢が別の分類視角での特定の価値性を帯びているというケースは、例えば、道徳的には価値中立的な行動が美的価値を帯びるというように、日常茶飯に見られる。これは一個の財態、溯っては一個の実在に、諸々の種類の価値が多重的に“附帯”しうるという構成の一斑にすぎないのである。)」57-8P
第六段落――(4)当為的価値応対(促迫−禁制) 57-60P
(この項の標題)「(4)当為的価値応対(促迫−禁制)」57P
(対話@)「人は――慾動的希求にあっては現状とは異相の或る一定の未在的状態の現有化を慾求するのであったが、そして、そこでは他者または/および自分の一定行動も構造内的契機をなしえたのであるが――、自分または/および他者の或る一定の将来的行為(「ハンデルン」のルビ)を促迫・禁制の応対態勢でも“冀求”する。この促迫(「べし」のルビ)/禁制(「べからず」のルビ)のの応対態勢がいわゆる当為的意識(「ゾレン・ベヴストザイン」のルビ)態勢であり、ここでの冀求価値を当為的価値と呼ぶ。(禁制は将来的行為ならざる現在的行為を禁ずるもののように思われるかもしれないが、禁ぜられるのは未完了の場面、つまり将来的遂行を残している場面のことであって、現在的に完結している場合には「為べきではなかった」といって批難されても、徒為(「イン・ヴェイン」のルビ)に禁制されはしない。)」57P
(対話A)「当為意識、当(「まさ」のルビ)に為(「す」のルビ)べしということの意識は、一種の強制(「ゲッヴンゲン」のルビ)の意識であり、必然(「ノートヴェンディッヒ」のルビ)の意識である謂われるのだが、いわゆる事実必然性(「ミュッセン」のルビ)の意識とは異なって、それと反対の行為を為すことも可能であるという意識を蔵する。――この強制の意識は、発生論的には他者達による強制の“内面化(「インタナライゼイション」のルビ)”に因るものであって、自発的な慾動とは様態を異にし、為(「せ」のルビ)ざるをえないという意識、漢語で言えば、不可不でこそなけれ不許不の意識である。当為的冀求と慾動的希求とは、“義理と人情の板挟み”という形に恒になるわけではないにせよ、一般には合致しない。けだし、自発的・内発的な慾動にもとづくたぐいの行動で且つ当為にも適っている場合には殊更に他者による強制を被むることはないので、その類いの行動は他者達による強制の内面化つまり当為意識の形成の埒外にあり、その一方、慾動的希求が当為に不適合なたぐいの行動は制裁(「サンクション」のルビ)によって禁圧され別様の行動を強制されるため、もっぱらこのたぐいの行為、すなわち、慾動的希求とは合致しないたぐいの行為が当為的意識を伴って志向される次第となるのであろう。尤も、当為的冀求と慾動的希求とは、恒に必ず背反すると言うつもりはない。賞罰(「サンクション」のルビ)の内面化に因って、発生論的に言えば一種の“自己欺瞞”の機制で、当為的行為を“感動的に希求”するように人は成りうるからである。翻って、しかし、当為に適うように行動を命令・強制されるにしても、命令・強制に服従しない行為が自他において現に出来(「しゅったい」のルビ)しうる事実を人は体験している。この体験が屈折して“内面化”に“参入”するため、謂うところの当為的必然性の意識には、“それに反する行為も可能”という意識が蔵されるのであろう。蓋し、不可不ならずしてたかだか不許不の意識態となる所以である。――」57-8P
(対話B)「当為的応対における積極(正) /消極(負)、すなわち促迫/禁制の意識にあっては、これまた発生論的経緯の“内面化”に負うものと思われるのだが、促迫はそれと反対の行為の禁制意識を相補的に伴い、禁制はそれ以外の或る行為の促迫意識を相補的に伴う。尤もルーティン化すると、所与の舞台的情況では或る一定行為が直截に促迫または禁制され、相補項の意識が薄れる。」58P
(対話C)「当為意識というものは、元来は特定主体に対して或る一定の遂行的行為(Handeln)を促迫/禁制する意識なのであるが、所与の舞台的情況で当為的に“冀求”される行為が定常化すると、誰であれ当の一定行為を遂行すべきことから、促迫/禁制の向けられる主体が非人称化・脱人称化されて、もっぱら斯々の行為が当為とされるようになる。更には、主体的行為というよりもむしろ一定の在り方が当為的必然とされ、斯く在るべし(「ザイン・ゾレン」のルビ)という相にまで推及されるに至る。が、当在(Sein-Sollen)はあくまでも当為(Tun-Sollen)における行為主体の“無化”ならびに行為様式ないし行為所産の“内自有的相在化”に因るものであって、元来は、当為から独立的に当在が存立するわけではない。――或る種の論者たちは、当在を当為とは独立に存在するものと考え、甚しきに至っては、当在から当為を導出しようと試みさえもする。茲は此説の批判的検討に詳しく立入るべき場所ではないが、以下の指摘だけは挿んでおこう。当在とされる例えば“高潔たるべし”“善人たるべし”“美しかるべし”“有効たるべし”“正義たるべし”などが、恰当(こうとう)な論材になる。高潔たるべしと謂うのは、高潔と評価・判定・判断されるような行為(内面的行為を含む)を為(「な」のルビ)すべしの謂いにほかなるまい。善人たるべしと謂うのは、もっぱら善行をなし善行が“習い性となる”ように為(「す」のルビ)べしの謂い、乃至は、善行がいわゆる人格的特性に成るように為べしの謂いであろう。美しかるべしと謂うのは、美しかるべき当体が能動的主体の場合は嚮の高潔たるべしと類同的な相で自己陶冶行為をすべしの謂いであり、美しかるべき当体が客体の場合は誰かがそれを美しく仕立てるように行為すべしの謂い、乃至は当該行為所産が美しく成るように為べし謂いであろう。有効たるべしは、或る目的にとって有効であるように設営さるべしの謂い、乃至、無効なものは排却さるべしの謂いにほかなるまい。正義たるべしと謂うのは、正義に適うように行為すべし、乃至は、実現される事態が正義になるよう行為すべしの謂いとなろう。畢竟(ひっきょう)するに、当在とは当為の相在化的物象化の機制に俟つもののように看ぜられる。――」59P
(対話D)「当為的価値は、促迫/禁制される将来的行為の体現する価値でありつつ、しかも、当為的応対の現局面で既に志向されてある限りで、“未在的に既存する或るもの”という点では慾動的価値と類同的であるが、当事者にとって(für es)、渇仰/抑斥の慾動的希求とは別種の当為的な視向の対象性であり、しかも、個々人の主観に単に内属するものではなくして、客観的に存立・妥当する或るものとして現識されている。学理的見地からするとき(für uns)この客観的・自存的存立性というのは物象化的錯認であるにせよ、当事者の応対態勢にあっては、当為的価値は、たとい慾動的希求には背馳しようとも、将(「まさ」のルビ)に為さるべき行為が“未在的既存相”で具有する或るもの、将来的行為という実在態(正確には財態)に依って体現されて然(「しか」のルビ)るべき或るものである。実在態としての将来的行為の具体相は多種多様であるが、実在態以上・以外の当の或るもの、すなわち「所期の将来的行為に依って体現されて然るべきもの」は、意義的価値の一種たる当為的価値として同種である。」60P
(対話E)「尚、当為的促迫と当為的禁制とは排中的ではなく、為(「し」のルビ)ても宜(「よ」のルビ)いが為なくても宜い可能的行為群の中立的ゾーン、すなわち、許容(メーゲン」のルビ)という中間帯を有つ。所与の舞台的情況にあっては、当為的に促迫される(must)一定行為、当為的に禁制される(must not)一群の可能的行為、その中間に、為ても為なくても宜(「よろし」のルビ)い(may)可能的行為群がある。この中世的ゾーンに属する諸行為は、端的に没価値的なのではなく、諸多の価値を附帯しうるが、当該の舞台的情況下では正負の当為的価値に関して価値中立的である。但し、当の“同じ”行為といえども、別の舞台的情況下では正/負の当為的価値を帯びることは絮言するまでもない。――更に附言しておけば、当為的価値の正/負は、興発的価値の正/負と必ずしも合致しないばかりでなく、較認的価値の高/低や大/小とも必ずしも合致しない。この間の事情については、嚮に慾動的覚知との背馳可能性に関説した所論を参照して容易に理解されることと念う。」60P
第七段落――(5)期成的価値企投(追求−忌避) 61P
(この項の標題)「(5)期成的価値企投(追求−忌避)」61P
(対話@)「期成的企投は、一定状景を表象し、その状景を実現することにおいて、或る目的を達成しようとする態勢である。爰に謂う表象されてアル状景、すなわち、それを実現すべく企図される状景を「目標」と謂い、目標の実現において達成される期成的価値を「目的」と呼ぶ。(目標の実現は、負の期成的企投すなわち忌避的企投の場合、或る状景を物理的に生成させないようにすること、乃至は亦、既在の或る状態を消失させること、――そのような“欠如的状景”を実現させること――之を内実としうる。)」61P
(対話A)「一定状景を表象し、その状景を実現しようと図る企投は、「或る未在的状態を実現することを期す」という構制に留目すれば、慾動的希求や当為的冀求とも共通する。そして、場合によっては、或る一定状態の現有化を希求する慾動に衝き動かされて目標を企投することもあれば、当の目標達成が当為なるが故に企投することもある。しかしながら、為度(「した」のルビ)くないのだが、つまり慾動的希求に反して、また当為(「べし」のルビ)というわけでもないのだが、つまり当為的応対とは関係なく、期成的企投をおこなう場合もある。(例えば、高次目的のための手段的中間目標として一定状景を暫定的に実現しておこうとする場合など。)時によっては亦、当為に反することを自覚しつつ期成的企投を敢行する場合さえもある。――要するに、慾動的希求や当為的応対とは無関係に、場合によっては慾動や当為に反してさえ、期成的企投がおこなわれうる。という次第で期成的価値企投(追求−忌避)は、慾動的価値希求(渇仰−抑斥)とも当為的価値応対(促迫−禁制)とも、別種独自の態勢なのである。(期成的企投における決意的意識性が薄れ、P・ブルデューの謂うハビトゥスに近い層になりうることについては次篇の論脈内で考察する。)」61P
(対話B)「実現を企図される「目標」と達成を企投される「目的」との関係について、爰で簡略にコメントしておこう。実現を企図される目標は(実際に実現する場合もあれば失敗して実現しない場合もあるが、いずれにせよ) 期成的価値を“担う”実在態である。(当の目標は諸々の価値を“担い”“帯びている”のが常態であるから、その意味では裸の実在でなく財態であることは勿論である。だが、期成的目的価値との関係においては、目的価値という第二肢を“帯びる”第一肢的実在態に位する。)例えば、人は計画的殺人という目標実現において復讐という期成的目的を達成する。亦例えば、野球において守備側の先取は、打球を空中で捕球することでバッターをアウトにするという目的を達成する。これらの例は誰しも認めるであろう。だが、論者の中には、達成目的が復讐や打者をアウトにすることであることは認めても、殺人や捕球は手段と見做すべきであって目標と見做すべきではない、と主張するむきもあろうかと思われる。これはむしろ定義に属する事柄であるから本質的に争う心算はない。がしかし、「手段−目的」と謂うとき、手段的行為は目的達成に対して時間的に先行するのが一般的ではないか。殺人の場合、剣で突く、銃で射つ、毒を盛る、といった行為は、殺人という目標実現に時間的に先行する手段的行為であり、目標に対する手段と認めうる。野球の場合、ボールの落下点の方へ移動する、グラブを差伸べる、摑みに掛る、といった行為は、これまた捕球という目標実現に時間的にに先行する手段的行為であり、目標に対する手段と認めうる。それにひきかえ、殺人や捕球は、復讐や打者をアウトにするという目的達成に対して時間的に先行するわけではない。手段的行為と目標実現とのあいだには、時間的先後の関係があるだけでなく、因果的事象連鎖の関係がある。しかるに、殺人と復讐の間には、また捕球とアウトとの間には、因果的事象連鎖があるわけではない。殺人の実現が復讐達成という意識をもち、捕球の実現がアウト達成という意義をもつのである。このような相違を承知の上でもなおかつ、殺人や捕球を復讐や捕殺の手段と定義する途も成程ありうるかもしれない。だが、著者としては、目標に対して時間的先後の因果的な事象連関関係を持つものに限って手段と呼ぶことにしたい。そして、この「手段的機能−目標実現」関係にある手段は、当の目標実現において同時相即的に達成される目的に対して「手段的機能−目的達成」関係にあるものと認める。要諦は、実現目標を達成目的に対する手段から括り出して、殺人実現が復讐達成としての意義をもつ、捕球実現が捕殺達成としての意義をもつ、というように「実在−意義的価値」の二肢的二重性の構制で把えることにある。(当座の実現目標が高次的目標に対する手段に位する場合、裏返して言えば、或る目標にとっての手段が暫定的な低次的目標に位する場合が存在しうることは言うまでもない。が、その場合でも、高次目的にとって低次目標がそのまま手段なのではなく、当の高次目的を同時相即的に“担う”高次目標にとっての手段であることを介して間接的・被媒介的に手段なのである。)」61-3P
(対話C)「目標の実現において達成される「実現目標以上・以外の或るもの」を、如上のこの含意で、既成的価値(目的価値)と呼ぶ次第であるが、達成されるこの或るものが実現目標に内属する性質のごときものでないことは殊更に述べたてるまでもあるまい。――例えば、同じ殺人でも、或いは復讐、或いは処刑、或いは安楽死、――といった(同時並存的には相容れざる)意義的価値の達成たりうる。また、実現目標が如何なる達成目的としての価値を帯びうるかは、歴史社会的な文化価値体系のコンテクストによって反照的に制約・規定される。嚮に挙げた野球における捕殺の例のごときは、ゲームのルール(これは規範的規則の卑俗的一例の心算(「つもり」のルビ)なのだが)との反照において当の期成的価値性が存立するのである。――目的価値なるものは独立自存するのではなく、目標の実現において達成しようと企投される限りで、しかも当の企投が既成の価値体系との反照において妥当性をもつ限りで、甫(「はじ」のルビ)めて“現成”する。」63P
(対話D)「目標、すなわち、企図的に表象される状景(実際に実現することも失敗して実現しないこともある)は、例えば船の建造とか建物の破壊とか、一般にかくかくの製品の生産・獲得、しかじかの状況の回避・廃滅というように、客体的要因をも構造内的契機とする主体的活動の成果的終局状景である。が、この終局状景は、客体的要因を謂うなれば“脱肉化”することにおいて「(船の)建造」「(建物の)破壊」「(人物の)殺害」といった「所業」と謂われ、以って、企図的に表象される実現的終局状景が所業的行為(Handlung)と呼ばれ、所業的行為が投企されるのだと唱されるに及ぶ。“脱肉化”が更に進捗すると、例えば、勝利を追求するとか、敗北を忌避するとか、(幸福・善人等々に成ることを追求し、不幸・悪人に成ることを忌避するとか) 期成的目的は明確であるにもかかわらず、終局状景たる目標の表象は漠然としておよそ描像を結ばない程になりうる。但し、それでも、目的達成が現成するのは具象的な目標実現状景においてであることには変りない。――附言するまでもなく、例えば復讐という行為(「ハンドリング」のルビ)、この財態が「名誉の保持」といった、更なる意義的価値を多階的に帯びうる。このような場合、日常的には「復讐することによって名誉を保持する」というように、恰かも「手段・目的」関係のように表現するが、著者としては、時間的先後の因果的事象連鎖関係のないこのようなケースに関しては、上述の通り「手段−目的」とは呼ばない。飽く迄、復讐行為が名誉の保持という意義的価値をもつのであって、殺害の実行において名誉の保持という目的を達成するのである。(これは定義の問題にすぎないが、「手段−目的」という用語法の混乱を防遏する含みで、敢てこの旨を誌しておく。)」63-4P
(対話E)「尚、一定状景が表象されたからといって、常に必ずしもそれの実現が企投(追求−忌避)されるわけではない。追求も忌避もされることなく、謂うなれば放置・捨象される場合が多々ある。(これは、後述する「企投のハビトゥス化に伴う決意性の稀薄」とは質的に別である)。この放置的捨象が企投という態度・態勢にとっての中立的なゾーンを形成し、当の表象されただけの状景は仮令所業的行為の相で表象されようとも、期成的価値に関しては中性的(「ニュートラル」のルビ)である。」64P
第八段落――(6)照会的価値判定(適盈−反虧) 64-7P
(この項の標題)「(6)照会的価値判定(適盈−反虧)」64P
(対話@)「既定的価値基準への照会・照合によって適盈−反虧を認定する照会的価値判定照会的価値判定照会的価値判定照会的価値判定には多種多様なものがあり、周到に論ずる際には討究すべき課題が重畳している。――真実的事態なるものを照会的価値基準の一種と認め、以って、真偽(真理性/虚偽性)を価値に算入するかどうか、このたぐいのことからして本来は論件の一部をなす。亦、既成的価値基準なるものがアプリオリに存在するのか、アポステリオリに形成されるのか、もし後天的に形成されるのであれば、それの成立機序の如何、これも一大論究課題である。が、今爰では、著者としては多くの価値論学派と共通に、真偽をも価値に算入すること、価値判断基準はアポステリオリに形成されると諒解すること、この旨を断言的に誌すに留める。爰では、価値判定の種類の周到な枚挙を期すことなく、照会的価値判定基準には、(イ)真実的事態、(ロ)規範的規則、(ハ)理想的亀鑑、のほかに、(ニ)範型的標準や(ホ)高低的序列、そしてまた、(へ)目的的尺度、などの部類があることを挙げておくが、当座の行論にとって最低必要限と思われる範囲に議論を局限する。尚、照会的価値判定には、価値の具体的な種別に応じて、中立ゾーンの広いものもあれば、殆んど排中関係が成立するほど中立ゾーンの狭いものもあるが、このことも予め一言誌しておくに留めよう。」64-5P
(対話A)「偖、実践論の広範な場面で特段の論件となる照会的価値判定は、就中、当為的応対の場での規範的照会的価値判定規制への照会、および、期成的投企の場での手段の価値性に関わる目的的尺度への照会である。が、このうち、前者については後論(特に次篇第三章第二〜三節)で立入る予定もあるので、今ここでは、後者についてのみ若干の論述をおこなうことで次善としたい。」65P
(対話B)「前節における行論の途次、いわゆる効用的価値性について、或る目的の達成に有効に機能するという反照的・照会的な被媒介的規定性を論述しておいた。なるほど、或る種の効用財(すなわち、或る目的への照会において有用・有効・有益と判定される財)は、興発的価値性や慾動的価値性を(目的への照会的判定とは独立に)帯びていることもある。また、効用財が(手段選択の場合などにおいて)撰取−貶置の較認的評価の対象となることもある。翻って亦、期成的価値(目的)が抽象的であり、それに伴って手段的機能性も抽象的で、目的への照会的判定の意識が稀薄な場合もある。がしかし、いわゆる効用的価値が効用的価値であるのは、飽く迄、一定目的の達成に役立つ手段的効能性においてである。――有用性・有益性・効用性は、狭義の道具類の場合などには手段的価値性が割合い明瞭であるが、場合によっては自立的な価値性であるかのように思念され易い。そのような場合でも、しかし、省察してみれば、期成的価値(目的価値)への反照において甫めて当該の効用的価値性が成立しているのであり、唯、期成的価値が例えば幸福とか生存とかいうように抽象的であり、しかも、期成的企投の決意性が殊更に明識されていないだけのことである。」65-6P
(対話C)「照会的判定価値性の一例として効用的価値性を挙げ、ここでの判定基準として目的的尺度を上述したが、「目的的尺度」という言い方は誤解を招きかねないことを惧れないではない。精確には、目的−手段効能関係の照会的判定であり、むしろ「手段的効能尺度」と言うべきかもしれない。このことを承知の上で、しかし、本書では「目的的尺度」という詞を敢えて用いることにしたいと念う。――手段的・効用的価値性は、前節の論脈中で既述したように、所与財の一定の実在的規定性(目標実現への促進[/阻害]的機能性)に担われて甫めて成立しうるのであって、目的への反照によって無条件的・恣意的に成立しうるものではない。そのためもあって、日常的意識においてはとかく、効用的価値性なるものが一定財に既成的具っていてそれが目的に照会されるのであるかのように思念され易い。がしかし、原理的・本来的には一定目的への手段的効能性の判定に俟って甫めて当の効用的価値性が“現成”するのであること、このことは絮言を須(「もち」のルビ)いないであろう。」66P
(対話D)「一般に、照会的判定における価値基準(すなわち、真実的事態・規範的規則・理想的亀鑑・範型的標準・高低的序列など)に照合される与件は、照合に先立って基準と同種・同質の価値を具えているもののごとくに思念され易い。実際、述定的価値判断によって両項の同質・同種性が事前的ないし同時的に確認される場合もないわけではない。だがしかし、価値基準は(興発的価値感得・較認的価値評価・慾動的価値希求・当為的価値応対・期成的価値企投などの先行的な経験過程を通じて)既成的・既定的であれ、与件の照会的判定価値は、本源的には飽く迄、価値基準への適盈/反虧の照会的判定に俟って甫めて成立するものである。」66-7P
第九段落――(7)述定的価値判断(承認−否認) 67-8P
(この項の標題)「(7)述定的価値判断(承認−否認)」67P
(対話@)「既成の価値概念を述語として、述定的価値判断が遂行されうる。――ここに謂う「述語」には、通常の文法的主語述語構造(SハPナリ)における述語の位置に立つものばかりでなく、超(「メタ」のルビ)文法的主述構造における第一述語(すなわち、コレハSナリという述定詞S、つまり、通常の文法構造では主語概念と呼ばれるもの)をも含める。従って亦、「述定的価値判断」とは言っても、通常の文法形式では存在判断(Sガアル)と呼ばれているものをも含む。――」67P
(対話A)「われわれは、このさい、実質上の価値概念の多くが、日常的には、存在概念と同じ詞で表記されているという言語現象事実に注意しなければならない。人々は日常、例えば、彼女は女ではない(ママ)とか、あの大臣は政治家ではないとか、存在概念上はAデアル与件について価値概念上はAデナイと判断・表明する。(肯定判断の形で、彼女はまさに女であるとか、あの大臣は政治家であるとか、存在概念上Aデアル与件について価値概念上もAデアルことを判断・主張する場合もある。) ――実際問題としては、このたぐいの認定は、較認的価値評価の次元でいちはやく成立しうるし、理想的亀鑑ないし範型的標準への照会的価値判定の次元でも成立する。が、述語に立つ価値概念が既成化していて、その価値概念の“適用”という形で述定的価値判断が遂行される場合も現に屢々(しばしば)見られる。」67P
(対話B)「ところで、判断的決定(承認/否認)というものは、第一巻第二篇において分析・確認した通り、命題的事態に関しておこなわれるのであり、価値判断の場合、価値命題的事態に関して承認または否認がおこなわれる。このことについては詳説を要しないと念う。――唯、承認/否認に中立的な態度の場合については一言しておくべきかもしれない。判断一般の範に漏れず、この中立的な場合はA・マイノングの謂う意味でのAnnehmen(仮設・仮定)になるが、この場合でも対境はやはり価値概念を構造内的契機とする価値命題的事態(「実在的所与−意義的価値」の二肢的二重性成態)であって、没価値的な単なる事実命題的事態が仮設・仮定されるわけではない。この件は価値推理論の場面で重要な論件になる事項であるが、今爰では立入るには及ばないであろう。」67-8P
(対話C)「溯って、そもそも、価値概念なるものが如何にして形成されるのであるか、価値概念の成立機序を究明することが価値論にとって課題の一斑をなす。がしかし、この件についても爰で主題的な討究に移ることは須要ではあるまいと思う。」68P
(対話D)「爰では、既成的価値概念を“用いて”述定的価値判断という価値志向的態度も存在するということ、この事実を謂わば登記するに留めておく。」68P
第十段落――(1)〜(7)に分けて論じてきたことのまとめ 68-77P
(対話@)「われわれは、以上、(1)〜(7)に分けて、いわゆる価値志向的な態勢・態度を簡略に見てきた。――(1)〜(7)は価値志向的態勢・態度の“分類”ではあっても、志向的価値種類の分類ではない。現に、例えば興発的感得の志向価値が、較認的評価の志向対象価値たりえ、慾動的希求の対象価値でもありえ、照会的判定や述定的判断の与件的対象でもありうる所以である。――縦観するところ、価値志向において志向される価値なるもの(ここでの「もの」は対象的性質であっても可)は、それが対象的に既存するものとすれば、実在的存在(「レアリタス」のルビ)とは端的に存在性格を異にする、イルレアール=イデアールな或るものと見做されざるをえない。財態の第一肢たる実在的与件が変易的・定場所的な(つまり、一定の時と所に定在する、この意味で時空間的な)実在であるのにひきかえ、第二肢的な価値は、対象的に既存するものとされるかぎり、不易的・超場所的な(つまり、一定の時と所を超えて存立する、この意味で超時空的な)存立であると見做されざるをえなくなる。」68-9P
(対話A)「先廻りをして結論的・予告的に言えば、われわれはイルレアール=イデアールな存在性格の価値なるものが、実在的与件から独立に、超時空間的に自存するとは認めない。イルレアール=イデアールな価値なる対象性が自存すると見做されるのは、一種の物象化的錯認にほかならないことをわれわれは自覚する。さりとて、しかし、われわれは主観価値説の流儀で価値を感情という心態に還元したり、主観的評価意識作用や主観的価値意識内容に還元したりすることもできない。実在的与件と区別して意義的価値なる項を立て、この項自身の存在性格を検討する限りでは、財態(「実在−価値」二肢成態)の意義的価値項はイルレアール=イデアールな存在性格を呈すると一応は立言せざるをえないが、それは意義的価値項自身という方法的截断によって“自存”化させることに因由するものであり、原理的には当の截断的自存化が悖理(「はいり」のルビ)なのである。――差当っては、しかし、財態なるものを価値志向の対象性として定位し、財態を「実在的所与−意義的価値」二肢的二重態として扱う限りで、意義的価値はイルレアール=イデアールな存在性格を呈する旨を暫定的に揚言する。そして、軈(「や」のルビ)がて、これが如何なる構制での物象化的錯認であるかを対自化することにおいて、自己止揚する運びとする。」69P
(対話B)「意義的価値なるものが、この項自身の存在性格を追究するとき、認識論的・存在論的な論脈においてイルレアール=イデアールな存在性格を呈するということ、すなわち――特個的・変易的・定場所的な実在とは異って――普遍的・不易的・超場所的な或るものという存在性格を呈するということ、このことは意義的価値が意味的所識の一斑である以上、已(「すで」のルビ)に第一巻において意味的所識の存在性格について分析・論究した条りの想起を求めれば済むことかと念う。それ故、茲で第一巻(第一篇第一章第三節その他)での論議を再掲する流儀での詳論は省くことにしたい。」69P
(対話C)「偖、行論の便宜上、先の(1)〜(7)とは順序が逆になることをも憚らずに言えば、述定的価値判断において述定される価値(価値概念によって述定的に包摂される価値)、つまりは、価値概念によって指し表わされる意味(被指的・被表的意味)がイデアールな存在性格を呈することは喋々するまでもない。価値概念の適用される与件は特個的・変易的・定場所的な実在であっても、価値概念の「指し表わす意味」そのものは普遍的・不易的・超場所的、つまり、イデアール(プラトンの謂うイデアに類する様)な存在性格の或るものであること、このことは第一巻における概念の意味についての所論を想起して直ちに認められよう。また、価値判断における対境的事態、すなわち、価値命題的事態の存在性格も同断であることは、第一巻での命題的事態論攷に照らして容易に認められることと念う。照会的判定における価値についても、価値基準たる真実的事態は価値命題的事態の一斑であること、範型的標準や理想的亀鑑は価値概念的意味に類すること、これを思い、且つ、照会される与件と価値基準との価値的同質性を思えば、これまた存在性格上イデアリテートを認められる筈である。一般論として、価値概念が価値概念であり、価値が価値であるかぎり、いかなる種類の価値であっても、価値概念の指し表わす意味=価値に所属するのであるから、価値概念的意味のイデアリテートが認められれば、価値全般がイデアールな存在性格の或るものであることが認められる所以となる。価値概念の意味は、普遍概念の意味が一般にそうであるように、その概念の適用される実在(正しくは財態)的与件が生成・変様・消滅といった時間的変化を呈してもそれにつれて変化するわけでなく不易的であり(但し硬直的不変性ではなく謂うなれば“函数的自同性”を保つという意味での不易性)、別々の場所に在る複数個の与件群において斉しく同じ価値的意味であり(特定場所に局定されてはいないという意味で超場所的)、特個的でなくして普遍的であり、畢竟するにプラトンのイデアに類する様な存在性格を呈する。「概念の指し表わす意味なるもの」が「ある」とする理路を採るかぎり、普遍概念の意味(価値概念の場合は価値的意味)のイデア性は否まれ難い。この理路を採るかぎりは、価値という普遍概念が存在するからには、これで指し表わされるありとあらゆる価値がイデアールな存在性格のものということになる次第である。」70-1P
(対話D)「但し、「概念の指し表わす意味なるもの」が「ある」わけではない、と主張する余地があり、この主張が正当であれば、イデアールな存在性格の価値なるものがあるという議論が根底から崩れる。翻って、概念(「ベグリッツ」のルビ)の意味というのは、対象的本質規定性を指し表わすものではなく、その実は把握(「ベグライツェン」のルビ)仕方(という意識作用の性格ないしそれの発現仕方)の本質的示差を劃定するものにすぎない、という観方もありうる。」71P
(対話E)「議論の進め方としては、しかし、この別見を今直ちに主題化するのではなく、そのための準備をも兼ねて、先述の(1)〜(6) (順序を逆にして(6)〜(1))に多少とも即するかたちで問題点の所在を事前に確認しておかねばなるまい。」71P
(対話F)「照会的価値判定における価値のうち、述定的価値に類するものについては価値概念に即して既に述べたので絮言は省く。また目的的尺度は期成的企投に、規範的規則は当為的応対に、高低的序列は較認的評価に、夫々関係する。それゆえ、これらに関わる判定価値については当該の論脈に繰り込むことにしよう。」71P
(対話G)「期成的価値(目的価値)は実現目標以上の或るものとして意識されていることは確かであるが、客観的な実現目標にレアールには何ら累加されはしない。達成目標は実現目標に意義づけされるものにすぎないとも言える。だが、意義づけは主観的な作(「はた」のルビ)らきだとしても、意義づけられる価値は、謂うなれば実現目標に付着され、目標の帯びるものであって、主観的作用それ自身ではない。主観的作用が必須の要因だとしても、目的として意義づけられる価値は、活動態での作用ではなく、謂うなれば作用が投射・投入されて目標に付着・凝結した相にある。と言ってみたところで、レアールな成分が付着したり凝結したりしているわけでない。「より以上」の当の或るもの、意義的価値は、投射・投入の所産だとしても、レアールナ累加的成分でなく、イルレアールな或るものとしか言いようがない。意義づけの作用はレアールな心理的作用であるにせよ、“投射・投入”の初産とも言うべき、付着・凝結している価値、意義づけられている価値は、イルレアール=イデアールな存在性格を呈すると“認め”ざるをえない。――目的的尺度と照会的に判定される手段的価値=効用的価値についても同趣である。目的価値との反照における手段的価値の現成も、やはり意義づけであって、レアールに存在するのは目標実現に促進(/阻害)的な因果的にレアールな機能・効能であり、手段的・効用的と意義づけられたからといって、別段レアールな成分が累加されるわけではない。それにもかかわらず、単なる実在的与件以上の価値を帯びた相に“成って”おり、意義づけられている当の価値はイルレアール=イデアールな存在性格を呈する。」71-2P
(対話H)「当為的価値についても同趣であることが容易に認められよう。遂行すべき行為と、遂行すべくして現に遂行される行為とは、レアールな与件的事実としては変わらない。レアールには何ものも累加されはしないのである。――遂行すべき行為と、当為に反して実際に遂行されてしまう行為とでは、勿論レアールな行為部面でも異なる。だが、これは別次元の問題である。「実在的与件−意義的価値」という今問題の構制においては、「(遂行すべくして実際に)遂行する行為」と「遂行すべき行為」との関係、および、「(遂行さるべからずして実際には)遂行される行為」と「遂行さるべからざる(当の)行為」との関係、これら両関係における夫々の両項が比較されねばならない。別々の関係における実在的所与項どうしを比較してレアールな相違を指摘しても反論にはなるべくもない所以である。――レアールには与件自体に何ものも累加されないにもかかわらず、「(単なる)遂行する行為」と「遂行すべき行為」とは意義的価値において異なり、後者は前者以上である。この相違は意義づけの相違であり、「より以上」であるのは意義づけが加わったせいである、と一応は言うこともできよう。そして、加えられる意義づけという作用はレアールな心的作用かもしれない。だが、遂行されるべきという当為的価値は、謂うなれば行為に付着した相にあるのであって、意義づけという心的活動そのことの謂いではない。敢えて言いたければ、意義づけの作用が投射・投入されて遂行的行為に付着・凝結した相にあるのが当為的価値である。とはいえ、レアールな成分が付着したり凝結したりしているわけではなく、「より以上」である以上所以の当為的価値はイルレアール=イデアールな存在性格の或るものと“認め”ざるをえまい。あまつさえ、当事者たちの日常的意識にあっては、当為的価値は主観的意義づけの所産どころか、当該の行為を命令したり禁止したり、促迫/禁制を呼び掛ける外在的・既存的な或るものの相で意識されさえもする。(規範的規制の場合、この外部的拘束性の覚識が著しい。規範的規則の存在性格のイデアリテートについては当為的価値については当為的価値について上述したところに俟てば、爰で駄目押しするには及ぶまい)。」72-3P
(対話I)「慾動的に希求される価値の場合はどうか。慾動的に希求される現有化したい状景と現有化される状景とは対象的には同一不二である。慾動的価値希求に際しては強烈な希求的慾動が現存するとしても、このレアールな慾求的情動という心態がそのまま慾動的価値なのではない。希求的視向対象たる現有化したい状景は望ましさ(/望ましくなさ)を“具え”ており、所求の対象的状景の“具有”するこの望ましさが慾動的価値対象性である。この慾動的価値は慾求的情動の“投射”、“凝結”と見做したとしても、望ましさ(/望ましくなさ)という自体は実在的成分ではなく、あれこれの実在的性質が望ましさ(/望ましくなさ)という価値性を帯びるのであって、存在性格を検討してみればこれまたイルレアール=イデアールである。しかも、当事者たちの日常的意識にあっては、希求的情動の投射どころか、外在的・既存的な当の望ましさ/望ましくなさが渇仰/抑斥の情動的反応を惹起する理由・原因であるという相で現識されている。」73P
(対話J)「較認的価値評価の場合、評価される価値というものが対象的に既存する相で日常的に意識されていることは誰しも認めるであろう。――高低的価値序列、大小的価値配列、これらは評価作用を介して形成されるものだと意識されているとしても、それは序列づけ・配列づけに関してであって、序列・配列の配位はあくまで既存的価値を与件としておこなわれるものと諒解されているのが日常的意識事実であるように見受けられる。――われわれは日常的意識事実をそのまま追認してしまうの愚を警戒しなければならない。が、しかし、比較ということの論理構制を分析してみるとき、比較される与件が対象的に与えられていることが要件をなす。――対象的所与というのは事物的所与の謂いではない。例えば、評価作用といったものどうしの比較も現におこなわれる。が、そのさいでも、比較される評価作用という与件が比較のための対象として与えられていなければならない。――ところで、前節の行文中、経済学上の評価比較に関説したさいに確認しておいた通り、比較ということは比較される対象的与件の(“具えている”“性質”の)同質性を論理構制上前提する。価値比較は、異種の価値に関して(高低・優劣の比較というかたちで)おこなわれるが、しかし、それが価値比較たる限り、種の次元では異種であっても、価値という類の次元では同類(類的同質)のものどうしの比較なのであって、同質性の要件を充たしている。評価的撰取/貶置は(財態に即しつつも、財の“帯び”ている)価値という(少なくとも類次元での)対象的同質与件に関して現成するのである。しかるに、財態において見出される較認的評価の与件的対象は、臆断を憚らずに言い切っておけば、財態の実在的諸性質とは端的に異質な或るものである。較認的評価の与件的対象にはありとあらゆる評価が供されうる。そのうち、述定的価値、照会的価値(これについてはまだ全域を論じていない限りで、既述の範囲のものに限定しておいても可であるが、残している高低的序列という基準に照会される価値なるものは、較認的評価対象と同様、ありとあらゆる価値たりうるのであるから、実質的にはここでの限定は無用である)、期成的価値、当為的価値、慾動的価値、以上の全てについて、存在性格上のイデアリテート=イルレアリテートを既に見ておいた。」73-4P
(対話K)「興発的に感得される価値、今や唯一残している興発的価値の検討に移る段である。興発的な価値とわれわれが呼ぶものには高位の価値に位置づけられるもの(貴/賤、崇高/卑猥、聖/俗、等々)の基層も包摂されるが、これのうち基底的なものは、学説史上、感情にすぎないと称されることが多かった。興発的価値(のうち少なくとも基底的な層に属すると見做されるもの)が、知性との区別における感性によって感得されるという見方には尤もなところがある。(われわれは感性と知性との二元論には慎重でなければならないが、ひとまずこの区別を容認する流儀で述べておいても後論には響かない。) 興発的価値(の基底層)が感性的に感得されるという覚識が現認されるにせよ、感性なるものを感覚と感情とに常套的な流儀で二大別するとすれば(実はこの区別には曖昧なところもあり、いずれにせよ単純に追認するわけにはいかないが)、感覚と感情とは不可分的に結びついているのが普通であれ、興発的価値は単なる感覚には尽きない。興発的価値(の基底層)を直ちに感情にほかならないと見做してしまうのは速断であるが、興発的価値感得と呼ばれる態勢にあってはいわゆる感情も見出されるのが常態である。このことまでは認められてよい。――論者たちは、感覚とは対象的性質の感知、感情とは主体内状態の感受という具合に分け、価値は感情なりと称するとはいっても、当人の意識において、価値が主体内部的状態の感受という相で明識される、と主張するわけではない。論者たちも、当人の意識においては、価値はむしろ一種の対象的性質であるかのように意識されること、しかも、この価値的な性質が対象的に既存していて感情(行動性向を伴う情動)の誘発原因であるかのように思念されること、この主観的事実までは進んで認知する。だが、論者たちはこの当事者的思念は一種の錯覚にすぎないと断ずる。その論拠は、感覚というものは、色・形・音・香・味などの感覚や、温・冷・圧・痛・痒などの感覚に限られているものとし、他方、感情というものは感受される質がそれら感覚とは直覚的にも別であることに留目し、且つ、感情とはそもそも主体内状態の感受なりという命題を持出し、価値が感情の対象的相関項として既在するかのように感じられるのは錯覚にほかならない、ということにあるのであろう。価値=感情説の元来のポイントは、しかし、感覚との区別というところにあるのではなく、価値は、第一性質のごとき客観的性質でないばかりか、第二性質のごとき客観的性質との対応性(“正常的にはほぼ一義的と見做しうる”対応性)すらなく、主観の側の心理的状態次第の(およそ客観性に欠ける)代物にすぎない、という主張にある。このことを承知のうえで、われわれとしては、論者たちといえども“価値が内部的心態の相で覚知されるのではなく当事者においてはむしろ一種の客観的性質であるかのように意識されているというフェノメナルな現相的事実”を認めていること、価値はいわゆる感覚とは種的に異質であり、しかも、対象的与件(いわゆる心的状態も準反省的態勢においていちはやく対象的与件たりうる)の具えている性質であるかの相で感得されること(この対象的性質の相で感得されるという点で、現識されるいわゆる感情的心態そのものとも別異であること)、この事実に即すればひとまず足りる。興発的価値、例えば美しさは、色・音・形などレアールにはおよそ異質で共通性のない諸対象財において斉しく感得(“見出”)され、裡なる感情としては感受されない。それは、感覚や感情というレアールな心態とは端的に異質である。複数の諸対象に例えば美という同じ価値が臨在しえ(普遍性)、例えば美人という財が実在的には死亡・消滅しても美という価値は死亡・消滅するわけではない(不易性)というように、興発的価値とはいえども哲学者たちの謂う意味での「超時空的」な存在性格、イルレアール=イデアールな存在性格の或るものとして“存立”する。」74-6P
(対話L)「或る種の論者はここで一歩を進めて次の旨を主張する。価値は、感覚によって感知される対象(的性質)でもなければ、感情によって感受される対象(的性質)でもない。が、それは思考の産物でも、単なる思考対象でもない。価値が対象物に感得されるのは厳然たる事実であり、この感得は一種の直観である。但し、直観とは言っても、感性的直観(感覚)ではないのであるから、一種独得の高次的直観である。そして、この高次的直観によって価値自体(Wert als solcher)が観取される次第であるが、この高次的直観といえども直観であるからには観取される対象が既在するのでなければならない。レアールな感性的直観とは別種の高次的直観の既在的対象、それがイデアールな対象であり、価値はそういうイデアールな直観対象の一種にほかならない、云々。」76-7P
(対話M)「われわれは、上来、価値はレアールな実在とは存在性格を端的に異にするイルレアール=イデアールな或るものとして“存立”することを“確認”してきた。それでは、われわれとしても、右の論者の理路でレアールな感性的直観とは別種の高次的直観とやらを承認し、高次的直観の既在的対象としてイデアールな価値なるものの自体的存立を積極的に主張しなければならないのであろうか? 結論から先に述べれば、否である。――行文中、これまで折々に、イルレアール=イデアールな価値なるものが自存するかのように見做すのは一種の物象化的錯認であることを陳べ、イデアールな存在性格の価値的対象性なるものの“存立”を“認め”ざるをえなくなるのは「実在的所与」から截断して「意義的価値」項を“自存化”させる限りにおいてであることを断ってきた。」77P
(対話N)「今や、これまでの行論で但書・断書の形で消極的に記してきた条項を積極的に開陳し、以って、当事者的意識態における物象化的錯認への“追認”的“仮託”を止揚しなければならない。」77P
第十一段落――これまでの当事者的意識態における物象化的錯認への“追認”的“仮託”の止揚 77-80P
(対話@)「価値が現認されている態勢(これは俗に意識態勢と呼ばれるにせよ、主客分離を前提した“主観的意識態勢”ではなく、フェノメナルな分節態勢)にあっては、情感や行動性向を伴いつつ、視向対象が現前化している。(情感や性向がこれといって感じられない場合でも、実践的関心態度に展らけるこの現相態勢は、認識論的射影における“単なる認知態勢”より以上である。)」77P
(対話A)「偖、この価値現認的態勢は、いかに特個的であれ、その都度一定の“質態”“度合”“趨勢”での現識であり、人はその意識態勢の“判別徴標的規定性”(それが“当の意識態勢であって別の意識態勢ではない”所以の規定性、すなわち“別の意識態勢”(註)と比較・区別しうる所以の特性)を即自的には覚識している。人は、弁別的特性を概念化して明識することはいずれにしても稀であるが、少なくとも第三者的・学知的(「フェア・ウンス」のルビ)に省察してみれば、その都度における意識態勢を(他の意識態から)“示差的に区別”している。まさにそのことにおいて、現在的意識態勢をその意識態勢として現識しているわけである。」77-8P
(対話B)「人々は、反省以前的に、現在の意識態勢の、“示差的区別”規定性を覚知するようになる。現相的分節態の(端的な或るものetwas schlechthinからの)「図(「フィグール」のルビ)」化、情感や性向の“質態”“度合”“趨勢”の感知、態勢・態度の(歓好/嫌厭、撰取/貶置、渇仰/抑斥、促迫/禁制、追求/忌避、……等々の)現識化がおのずと生じ、現在的意識態勢がそのような現識相で自覚される。」78P
(対話C)「この日常的体験意識態勢においては第一巻で分析したように、所知と能知との区別もいちはやく形成される。――所知項は意識態勢全態にとって“部分”的構造契機にすぎないし、情感、性向、態度も“項”的に意識化されるかぎり、体験的意識全態より“過少”であって、体験的意識全体は諸“項”の“合算”には尽きない。――」78P
(対話D)「所知と能知とが、区分的に意識されるようになっている場面では、視向的態勢が(興発的感得・較認的評価・慾動的希求・当為的応対・期成的企投……等々)如何様にあれ、嚮に見た通り、視向的な所知項が“価値を帯びている”相で意識されるのが体験的事実である。そして、それら諸価値という所識が種別化や類同化をおのずと受ける。」78P
(対話E)「ところで、種別化や類同化ということは、論理構制上、特個態に共通な類種的普遍性、種類毎(「ごと」のルビ)の本質的同一性を前提する。本質的同一性ということは、個別態が多少変様しても自己同一性を維持するという不易性(いわゆる超時間性)を含意する。しかるに、論理的に要求・前提される普遍性や不易性ということは、特個的で変易的な実在(「レアリタス」のルビ)とは端的に存在性格を異にすることが“認め”られざるをえない。茲に、財態の種別化・類同化を可能ならしめる価値的所識なるものは実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にするイルレアール=イデアールな或るもので“なければならない”ことになる。――剰え、“価値は所知的対象であり、しかも直覚的に認識される”という理路で、価値は特異な直観(本質直観)の対象として既在的に自存する、という主張が生まれるに及ぶ。」78-9P
(対話F)「価値というイルレアール=イデアールな或るものが自存するというこの理路は、能知と所知とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断し、価値が所知項に具って意識されるという“体験的事実”を追認し、そのうえで価値の種別化・類同化の存在根拠を所知項自体に求めようとするとき、殆んど論理必然的である。」79P
(対話G)「われわれに言わせれば、しかし、この理説は、論理的に誤てる前提からの帰結であり、事柄に即すれば、一種の物象化的錯認にほかならない。」79P
(対話H)「それでは、価値とは、所知項ならずして、能知項の状態ないし作用性質(の投射されたもの)であるのか? これまた否である。」79P
(対話I)「われわれは、所知と能知との存在的截断そのことを卻けてかかる。――如実の価値現認態勢、この全態的な態勢が準反省的・反省的に示差的に区別される。(aという全態的態勢、bという全態的態勢、cという全態的態勢、……等々。)が、あくまで全態的態勢の示差的区別である。なるほど、態勢a、b、c……の区別をもちらす契機は、所知項と能知項とを区分するとき、所知項の側にも能知項の側にも存するであろう。しかし、双方が絡んでいるのであって、a、b、c……の差異が、もっぱら所知項側の[A]、[B]、[C]……という規定性に因るとか、もっぱら能知側のA、B、C……という規定性に因るとか、一方の項に帰して考えるのでは実態を逸する。関係規定態の全態的規定性を項に内自有化させるのは物象化的錯認である。そして、この物象化的な錯認の機制に俟って、上述の論理的構制において、イルレアール=イデアールな価値なるものの存立が主張されるのであること、このことをわれわれは対自化する。」79P
(対話J)「原理的には、是に鑑み、実際に存在するのは価値現認態勢だけであることを自覚し、イルレアール=イデアールな意義的価値なるものが自存的に存立するわけではないことをわれわれは承知している。が、行論に際しては、以下においても猶暫く、恰かもイデアールな価値なるものが存立するかのように遇しつつ、それの間主観的形成や、それに因る実践の規制、それに拠る実践的諸契機の評価、等々を討究する運びとするであろう。」80P
第五段落(対話G)57-8Pの(註)
ここのところ、‘中立性’‘中性’と両表記になっていて、‘立’を落とした誤植だと思って‘立’を赤文字でいれたのですが、これは実体主義的にとらえられる概念には、‘中立性’とし、そうでないところは‘中性’としているのでないかと思い始めています。後の検証課題にすることですが、本来なら原文通りに赤文字を消去するところですが、後の検証する課題としてあえて赤文字をそのままにしています。(『著作集』でも同じ)
第十一段落(対話A)77-8Pの(註)
「人はその意識態勢の“判別徴標的規定性”(それが“当の意識態勢であって別の意識態勢ではない”所以の規定性、すなわち“別の意識態勢”と比較・区別しうる所以の特性)を即自的には覚識している。」のところ‘”’は原文では入っていません。“ ”の“の受けがないのです。仮にここにいれて起きました。(『著作集』でも同じ)
2025年08月02日
廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』(3)
たわしの読書メモ・・ブログ706[廣松ノート(8)]
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(3)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
第二節 財態の第一肢的実在
(この節の問題設定−長い標題)「財態の第一肢たる「実在的所与」は、あくまで「実在−価値」関係の「項」なのであり、それが「単なるそれ以上の意義的価値として妥当する」という関係規定性においてのみ「実在的所与」なのである。この第一肢的実在を自足的な存在体の如くに扱うとき、窮境的には、それは或る価値負荷可能なもの(etwas Wert-tragbares)であるが、この脱価値的(「エンドヴェールテット」のルビ)な実在といえども、認知的には“裸の質料”ではなく、已(「すで」のルビ)に「現相的所与−意味的所識」成態である。従って、それは認知的実在としての各種規定性を既に帯有している。「実在的所与」は「意義的価値」との相関的規定項であるというまさにその存在規定からして、それ自身すでに、より基底的な次元に即しての「実在−価値」成体であることを妨げられない。換言すれば、或る次元での「実在的所与−意義的価値」成体(用在態=財)が高次の価値に対して「所与」の位置に立つことがあり得る。」16-7P
第一段落――所与性と価値性とは“一体的に融合”していることと価値の錯分子構造 17-8P
(対話@)「「実在的所与」という第一肢的与件が在ってそれが意義的価値を負荷(「トラーゲン」のルビ)すると表現する場合、実在的所与なる(端的に没価値的な)ものがまず認知されていて、それに価値認知が累加されるのであるかのように受取られかねない。が、それは実態に合わない。――われわれは表現の便宜上、「実在的所与と意義的価値の二肢的二重性」という標記法を採るとはいえ、如実の体験においては、対象はその都度すでに価値性を“帯びて”いるのであって、乃至(ないし)は寧ろ、所与性と価値性とは“一体的に融合”しているのであって、「実在的所与」なるものは却って分析的に認定されるというのが実情である。」17P
(対話A)「成程、人々は理論的に身構えて世界を観ずるとき、とかく、対象界を脱価値的な物在的事物の相で見てしまいがちである。そこでは、脱価値的な実在が直截に現前するかのように思念されている。だが、この既成的な観方は如実の体験相ではない。それは体験相に捨象的知的操作を施した所産なのであって、直接的体験に即すれば、決して第一次的に物在相での認知が現成するわけではない。――尤(「もっと」のルビ)も、人がもし、意義的価値という概念を特殊・高級な価値だけに限局するとすれば、その場合には当然、対象界中の多くのものは“没価値的”ということになる。現に、人々は往々、そういう狭義での価値との対比において与件的実在を云々する。がしかし、われわれとしては表情価のごときをも含む極めて広義の価値概念を採るのであるから、没価値的な“裸の”実在的与件が直截に現前するというとことはありえない。」17P
(対話B)「われわれの見地からすれば、最低次級の価値性に関しては、森羅万象が価値を皆“帯びて”いるのが常態である。高級・特別な価値に関しては、それを帯びる実在は特殊なものに限られるとしても、低位・中位の価値は非常に多くの現相が帯びうる。――尤も、最下層の価値を帯びる第一肢的与件は“純然たる実在”であるにせよ、第二層以上の価値を帯びるのは、既に下層の価値を帯びる低次の財態である。財態に更なる価値が負荷されることにおいて新しい(“高次の”)財態が現成する。われわれの謂う「実在的所与」はあくまで「意義的価値」との二肢的構造の契機なのであって、低次の財態(すなわち「実在的所与−低次の意義的価値」成体)が高次の意義的価値に対する第一肢(実在的所与)の位置に立ちうる。既に財態であるところのものを、高次の価値に対してではあれ、実在的所与と呼ぶことは用語法上の混乱の因(「もと」のルビ)になりかねない。がしかし、財態は純粋価値ではなくして、必ず実在的所与契機を含むという構制を示さんがために、敢えて「低次の財態が高次の価値に対する実在的所与の位置に立つ」という言い方が許されたいと念う。(尚、ここではとりあえず上層・下層という言い方をしているが、文字通りの積層構造をなすわけではない。また、追加的に負荷される価値が恒に必ず所与財態が既に帯びている価値よりも高級とは限らない。財態に更なる価値負荷がおこなわれるということが差当っての論点である。)」17-8P・・・錯分子構造
(対話C)「茲に、われわれの立場においては、ありとあらゆる世界現相が価値を“担う”実在的所与たりうる所以となる。最低層の価値ともなれば森羅万象が悉く担いうる。いわゆる物質的なものであれ精神的なものであれ、物件的なものであれ人格的なものであれ、事象的なものであれ行為的なものであれ、事態的なものであれ命題的なものであれ、凡そありとあらゆるものごとがあれこれの価値を担う実在的所与たりうる。(以って、物質的財態・精神的財態、物件的財態・人格的財態、事象的財態・行為的財態、事態的財態・命題的財態、等々、等々、有形無形の各種財態が形成される。)」18P
第二段落――実在と価値が一体性としても、ひとまず実在と価値を截然と区別する論法で進めること 18-20P
(対話@)「読者の中には爰に却って重大な疑義を懐かれるむきもありえよう。世界現相の一切合切が財態であるのだとしたら、財態とは別に実在態を立てる謂われがなくなるのではないか? 成程、最低次の財態に関しては、価値を担う“裸の実在的与件”が在るとされるが、それは「実在−価値」の二肢的構制を普遍化しようとすることに由る論理的要請であって、現実には“裸の実在態”が現前しないのも道理であろう。この疑問は応接に値する。――曩(「さき」のルビ)に前節の冒頭部で認めておいた通り、現実に存在するのは財態であって、「単なる認知的関心の構えに対して展らける世界相」つまり“裸の純然たる実在態”なるものは、実践的関心性を捨象することにおいて方法論的に措定されるものにすぎない。だが、学史上の経緯もあって、世界の存在構造について方法論的手順を踏んで論攷しようと図る場合、哲学界の現状においては、実在と価値とを一旦は峻別するかのごとき流儀でアプローチするのが上策であろうと思われる。後論においてわれわれ自身、実在と価値との二元的峻別を止揚する(それにともなって実在態と財態との二元的峻別も止揚される)が、当座の行論においては姑くの間、ひとまず実在と価値とを截然と区別する論法を許されたいと念う。」18-9P
(対話A)「学説史に通じている読者は、右の提言から直ちに、著者が実在の種別に対応づけて価値の種別を分類しようと企てているのであろうとの速断的予想を懐かれるかもしれない。だが、著者としては、実在の種別に対応づけて価値を分類する心算はない。――慥かに、或る種の価値は特定種類の実在だけが帯びるという事実が見られる。しかし、同一種類の価値が多種多様な種類の実在によって担われるケースも多いのであって、実在の種別に基づけて価値を分類することは一般に期し難い。著者は旧来の手法とは別の方途によって価値の分類的規定を試みようとしている。――」19P
(対話B)「翻って、或る種の論者は、著者が採ろうとしている理路では、価値は所詮一種の実在的規定になり了(「おわ」のルビ)るであろうと想いかねない。著者の場合、世界を実在界と財態界とに二元的・領域的に区分するのではなく、現実世界は悉皆財態界であるとするのであるから、財態(実在プラス価値)における「価値」は、通常の実在とは別種であれ、一種独特の実在的存在であっても差支えないのではないか。成程、この場合でも、実在と価値とは全く別異だとする余地はありえようが、しかし、一括して実在的規定性と称されるものの内実は甚だ異質なものを多種多様に含んでいるのであって、終局的には、価値をも特別なその一種に算入するほうがナチュラルというものであろう。云々 ――このありうべき思念に対しても自ずと応える次序とすべく、当座の行文としては、価値を実在の一種に還元して扱う理路を(形而上学的な価値実在論は次元を異にするので当面は無視し、茲では、価値=情動説、および、経済学上の価値論、の二つに即して)検覈(「けんかく」のルビ)しておく段である。価値とは何であるかの積極的規定は次節に俟たねばならないが、以下では暫く、価値とは何でないかを消極的に示すことで、価値を“帯びる” 第一肢的与件たる実在的所与の広袤を追認識しつつ、価値なるものの積極的に規定するための前段的作業を調えておこう。」19-20P
第三段落――価値なるものを積極的に規定するための前段的作業(1)−主観的価値説の一つの価値=情動説 20-6P
(対話@)「財態の価値性を実在に還元しようとする理説のうち、爰で第一に検討しておきたいのは価値=情動説である。これは客観価値説との対立における主観価値説であり、価値とは一種の情動(「エモーション」のルビ)・感情(「フィーリング」のルビ)にすぎないと説く。――尤も、此説といえども、日常的意識においては価値が客観的対象性、対象的規定性の相で意識されるという事実を否認するわけではない。むしろ、当の日常的な意識事実を認めたうえで、それが一種の錯認であることを指摘し、“価値の実態は主観的情動にすぎないことを剔抉(「てっけつ」のルビ)”してみせようとするのが此説であると言っても宜(「よ」のルビ)い。此説は、色、音、香、等のいわゆる第二性質が日常的には客観的対象性の相で意識されようとも“実は主観的な感覚にすぎない”のと類比的に、日常的意識には客観的に映現する価値対象性や価値性質というものは“実は主観的な感情・情動にほかならない”と説く。――価値を以って情動にすぎないと見做す此説を「価値を実在に還元する理路」に算入するのは、用語法上、可笑(「おか」のルビ)しいと思われるかもしれない。成程、日常用語では「実在」とは「物(「レス」のルビ)」的存在に限られ、主観的感情・情動のたぐいは実在とは呼ばないであろう。だが、第一巻このかた、哲学上の諸流派と共通に一定の時と所に定在する特個的存在を実在的(「レアール」のルビ)存在と呼んで、イルレアール=イデアールな存立(超時空的で普遍的な存在)と区別する用語法を採っている。この用語法に徴するとき、ここでの言い方は当然許される筈である。」20-1P
(対話A)「偖、価値=情動説、この主観価値説によれば、意識外の対象は価値評価の与件や機縁であっても、対象そのものは価値性を有たず、価値はあくまで主観内部の特殊な心的状態にすぎない、とされる。この心的状態(価値意識)は、伝統的な知情意の三分法における「情」(感情・情動)の一種にほかならないものと位置づけられる。それは、快感・不快感、好感・嫌悪感、愉楽感・苦痛感、満足感・不満感、幸福感・不幸感、……ごときから、良・否感、真・贋感、正・邪感、善・悪感、美・醜感、貴・賤感、浄・穢感、聖・俗感のごときまでを含み、更には、当為・禁止感、正義・不義感……等々、多種多様であるとされるが、いずれにせよ、感情・情動の部類に属するものであって、主観内部の心的状態にすぎないと見做される。――此説においては価値は主観的な情感にほかならないとされるのであるから百人百様でありうる。とはいえ、価値意識が、外的対象性の相で意識されようと内部感知性の相で意識されようと、人々のあいだで共通性をもつ可能性もあながち否認されるわけではない。当の意識状態の成立には、対象からの刺戟や他人からの影響など、諸他の外的条件が介在しているのであって、その結果、条件が同一であれば、価値意識も斉同的になりうるものとされる。」21P
(対話B)「論者たちによれば、価値とは所詮、良・否感、真・贋感、善・悪感、美・醜感、聖・俗感……といった情感にすぎないと主張されるが、しかし、仮りに主観内在説を“認め”たとしてさえ、論者たちの謂う価値が果たして単なる心的与件状態としての感情ないし情動それ自体であるかどうか、これは大いに疑問である。論者たち自身、感情や情動のすべてがそのまま価値だと唱するのでなく、いみじくも快感・不快、好・悪、真・贋、善・悪、美・醜、聖・俗……というように、正・負(積極(「ポジティヴ」のルビ)・消極(「ネガティヴ」のルビ)) の対立様相を孕(「はら」のルビ)んだものだけに限定している。このことは何事を意味しているであろうか? 感情や情動は与件ないし素材であって、それに評価作用(これに正・負の認定的規定性が具っている)が加わるかたちになっているのではないのか? 成程、意識内容と意識作用とか代数的に加減されるわけではない。そもそも、意識内容と意識作用とに“成分”的に分けるかのごとき意識観は、われわれの最終的には採り得ないものである。が、論点を見え易くする方便として、内容と作用とを分ける臆見に仮託する流儀で言えば、論者たちは感情や情動という与件的・素材的な“内容”と価値評価性の“作用”との離接不全を犯しているのではないかと疑わせる。」21-2P
(対話C)「現実の感情や情動においては“内容”はそのつど一定の“作用”に“浸透”されている。しかし、同一内容が恒に必ず同一作用と“組”になるわけではない。同一の内容に別種の作用が加わることも、別種の内容に同一の作用が加わることもありうる。内容と作用とを分ける「内容−作用」観の道具立てにあっては、このことが前提的に含意されている。この道具立てを藉(「か」のルビ)りて分析するとき、論者たちの謂う価値=情動的心態は、感情ないし情動の“素材的与件”と“評価的作用”とから成っていると見做せそうである。価値的に全く中性的な感情や情動が存在するか否かは意見の岐れるところであるが、常識的には、感情的興奮という素材に評価作用が事後的に加わるように内省される場合が認められよう。シャクター説のように、そもそも情動とは生体的興奮・覚醒プラス貼付ラベルによって成立するものだとする有力な理論もある。成程、感情のすべてが内容プラス作用という相で実感・体験されるわけではない。例えば不快感や苦痛観の基底的なものは、単質的・単層的なもののように思われ、素材的内容と評価的作用との合在という感じはしない。だが、それでも、現に、不快感や苦痛感を感じてもよさそうな状況下に置かれておりながら、それが実感されないとか、却って逆に快感や愉楽感が感じられるとか、このような場合もある。この事実を説明する一方式として、現実の情感は素材的内容に評価的作用が加わることで現成するという見方も、無礙(「むげ」のルビ)には斥(「しりぞ」のルビ)けられないであろう。」22-3P
(対話D)「このように、評価的作用と与件的・素材的な内容とを分けて考えることに理があるとすれば、主観価値説の埓内に留ってすら、素材的・与件的な内容は感情や情動だけに限定する必要はなくなってくる。感覚的素材、つまり、色・音・香・味……といった“主観内部の”第二性質はもとより、形などの第一性質に見合う観念、それにまた、記憶・想像などの表象、このような“意識内容”もやはり評価的作用の与件・素材になりうると考えられる。論者たちが情感的心態と称する美・醜感、貴・賤感、浄・穢感、聖・俗感のごときは、純然たる感情ないし情動ではなく、そこに認知的な知覚的成分ないし表象的成分も介在しているのではないか? それらは感情・情動の成分をも伴うにせよ、主要にはむしろ、認知的成分に評価作用が加わることにおいて現成すると考えるべきではないのか?」23P
(対話E)「われわれ自身は、先に断った通り、素材的内容に評価的作用が累加されるという見方を積極的に採る者ではない。(因みに、或る種の学派においては、評価的志向作用は、意識内部の素材に関わるというよりも、むしろ、意識内容を貫通・超出して外的対象と直(「じ」のルビ)かに関わる旨が主張される。そこにあっては、評価作用の与件は意識外の対象自体でという議論になる。が、われわれはこの学派の見解に遽(「にわ」のルビ)かに与する者でもない。)このことを断ったうえで、そしてかつ、主観価値説の大枠に妥協したうえで、さしあたり次のことまでは指摘できる。」23P
(対話F)「主観価値説は価値とは一種の情感的心態にほかならない(価値=情動)と主張するが、論者たちの謂う情感的心態は、われわれの見地から結論的に言えば、既に一種の財態、すなわち「実在的所与−意義的価値」成態になっている。論者たちが主観的価値と称するものの真諦は、単なる感情や情動ではなくして、感情や情動の“素材的意識内容”(加之、現実には、知覚的成分や表象的成分などの“認知的意識内容”も介在する)がそれ以上の或るもの(etwas Mehr)として評価される所以の特異な構造的契機なのである。このことの正規の究明は後論に俟たねばならないが、とりあえず“素材的与件内容プラス評価的作用”という臆見的構図に即したまま、暫定的なコメントを誌しておこう。素材的内容に評価的作用が加わることにおいて、一定の価値性情感が成立すると謂われる際、そこでの評価作用は、(イ)或る評価基準に照らしての判定なのであれ、(ロ)価値概念による一種の述定なのであれ、 (ハ)一定の価値性格を具えた作用の発動なのであれ、いずれであっても、評価の与件たる素材的内容において特定の価値性質が認知されることを要件とするであろう。(イ)の場合、当の価値基準に合う(合わない)と判定される与件はそれ自身において当該の価値性契機を見出されることが要件であり、 (ロ)の場合、当の価値概念に包摂される(されない)と認定される与件はそれ自身当該の価値性契機を具有・含有していることが要件をなす。 (ハ)の場合、どういう種類の評価作用が発動されるかは全く偶然的・恣意的であると強弁するのでない限り、そして、価値がよしんば内的であれともかく対象性の相で現識されるという事実に即する限り、これまて、例えば美醜の評価作用が発動されるか善悪の評価作用が発動されるか、……聖俗の評価作用が発動されるか、この発動される評価作用の種類は、与件的素材の側における価値性契機(美醜的価値性、善悪的価値性、……聖俗的価値性)に照応するものと考えらるべきであろう。こうして、主観価値説の立場に立って、意識内容に評価作用が加わることによって主観的価値=一定種類の情動(価値性情感)が成立すると考える場合、省察してみれば、情動がそのまま価値なのではなく、与件的・素材的な意識内容の具有・含有する価値性契機こそが要訣なのである。(爰に謂う価値性契機を具有するものとしないものとの別があるために、情動のすべてがそのまま価値なのではなく、情動のうちの特定の一部だけが論者たちの謂う価値=主観的価値ということにもなる。)」23-4P
(対話G)「われわれは、以上で、とりあえず、価値=情動説において主観的価値と称されるものの真諦は、情動そのままではなくして、謂う所の情動的心態に“含有”されている価値性契機でなければならないこと、のことまでを指摘した。だが、如上では、価値なるものを「実在」(論者たちの場合、情動という実在的(「レアール」のルビ)な心態)に還元しようとする理路そのものを閉ざす所以には未だなっていない。けだし、“含有・具有される価値性契機”なるものが若しレアールな存在性格のものであるとすれば、論者たちは価値を実在に還元する理路をひとまずは保持していることになる道理だからである。われわれとしては、そこで、謂う所の価値性契機なるものの存在性格を問い返すべき次序となる。また、論者たちが嚮の(イ)(ロ)(ハ)のいずれを採るかに応じて、(イ)価値の判断基準は主観的な意識内容にすぎないのか、(ロ)価値概念はレアールな意識内容であるのか、(ハ)評価作用の種類を別(「わ」のルビ)かつ作用性質はレアールな内在的規定性であるのか、このことをもわれわれは問い詰めねばならない。そして若(「も」のルビ)しそれらがイルレアール=イデアールな存在性格を呈する或るものであることが彰らかになれば、そのときわれわれは論者たちの理路を閉ざす所以となる。――これに応ずる作業を遂行するためには、しかし、視圏を事前に拡充しておくほうが好便であり、それゆえ当の作業は次節まで持越すことにし、以下では姑く論域の拡充を事とすることにしよう。」24-5P
(対話H)「尚、嚮(「さき」のルビ)の行文では、価値=情動説を「現与の情動的意識内容プラス評価的作用」という構図に解析して論じたのであったが、この構図をシフトさせて「認知的意識内容プラス特定種類の情動」という構図を立て、之に即して価値=情動説を唱える途も残されている。是にあっては、認知的意識内容にプラスされ、「特定種類の情動」がそのまま価値にほかならない旨が主張され、いかなる種類の情動が発現するかは(先与的意識内容の価値性契機に応じるのではなく)認知的意識の内容を契機にして自(「おの」のルビ)ずと決まる旨が主張されうる。このタイプの価値=情動説においては、評価作用なる特別な意識作用が在るわけではないとされ、従って、それに照らして判定される価値基準とか、それが述定される価値概念とか、どの評価的意識作用が発動するかの起因となる与件の側での価値性質とか、このたぐいのものが先在・既在するわけではないと立論されうる。――このタイプの価値=情動説に対しては、論者たちが情動のすべてならずして特定種類の情動だけが価値であると立言する所以の特定性、つまり、価値性のものと非価値性のものとを別(「わ」のルビ)かつ所以の特性は何であるのか、これの明示的規定が要求されねばならない。われわれはこの要求を突きつけることを通じて論者たちが結局は評価作用という契機を窃(「ひそ」のルビ)かに立てていると否とに拘りなく、此説を自己止揚に追い込むことができる。が、この件も次節ひいては次々章での論脈に委ねることにし、茲ではひとまず論件の所在と構案を登記するに留めておく。」25-6P
第四段落――価値なるものを積極的に規定するための前段的作業(2)− 主観的価値説の一つの経済学上の価値論26-30P
(対話@)「爰(「ここ」のルビ)で配視しておきたいのが経済学上の価値論である。経済学的価値論は、概して、財態の価値性を「実在(「レアーレス」のルビ)」の領界内に置いている。――価値という概念が発祥したのも、価値というものに関する省察が起始したのも、経済的財貨に即してであった。しかるに、哲学者たちの価値論においては、財貨の価値や、経済学的価値は殆んど無視されかねない風情である。これには歴史的事由と経緯があったにせよ、われわれとしては経済学的価値を顚(「てん」のルビ)から無視する流儀で論じ去るわけにはいかない。財貨の価値に関する省察は、哲学的価値論にとっても、論件の所在や問題論的構制について訓(「おし」のルビ)えるところが多い。蓋し爰に配視しておく所以である。」26P
(対話A)「アリストテレスは既に「物には二つの用がある。……例えば靴には穿くという用と、交換品としての用がある。両者は、いずれも靴の用である」と述べている。(『政治学』第一巻、第九章1257a。)彼は、このように直接に使用する「固有の用」と、交換に供することで他の財を得る「交換品としての用」とを区別しただけでなく、交換財との同等性(等価性)の何たるかについても検討している。(『ニコマコス倫理学』第五巻、第五章、1133a。) ――われわれは、いまアリストテレスの“価値論”の内実にまで立入るつもりはないが、財貨の価値というとき「使用における価値」(value in use)と「交換における価値」(value in exchange)とを区別して論考しなければならない。」26-7P
(対話B)「使用価値をまず検討しよう。使用価値とは、さしづめ、各財貨の具えている効用(効用的属性)の謂いである。――効用と呼ばれるものは種々様々であり、肉体的生存にとって直接に役立つといった次元のものから、精神的生活にとって役立つといった次元のものまでを含む。また、日常的語義での道具的有用性のごときばかりでなく、つきつめれば、人生の幸福にとっての有効性とでも言うしかないたぐいのものをも含みうる。――効用という概念は、しかし、いかに広義に使用されるにせよ、何らかの目的に役立つという手段性を含意していることは動かないであろう。食用になるとか生存に役立つとかいう場合でも、食べることや生きることが、最終の目的でこそなけれ、一応の目的とされ、その目的にとっての手段的有用性が含意されている。効用性を以って価値(の一種)とする見方(「アウツファッスング」のルビ)は、目的なるものを双関的に措定し、その目的への手段的効用性において効用的価値(使用価値)を規定している所以となる。」27P
(対話C)「効用と呼ばれるものは実在的対象の具有する機能的属性であると見做されるにしても、それが効用的とされるのは一定目的の達成にとって有効であることからの反照においてである。しかるに、目的というのは、単なる因果的連鎖の終局状態の謂いではなく、目的達成として認知されて甫(「はじ」のルビ)めて目的である。そしてかつ、達成目的との機能的関連において甫めて或る属性が効用的である(効用的でない)と判定されるのであるから、当の判定的認知(実は一種の評価)を抜きにしては効用性なる価値は現認されない。」27P
(対話D)「評価的判定を抜きにしては効用的価値が現認されないという“当然の”事実を認めたうえで、しかし、経済学者は一般に「効用的価値属性それ自体は客観的性質である」と見做している。経済学上の主観価値説を採る論者たち、すなわち、交換的等価性に関しては主観価値説を採る論者たちにあってさえ、使用価値(効用的価値)に関しては一種の客観性を認めているのが普通である。(但し、主体の置かれている情況に応じて、同一の客観的与件であっても、それについての主観的価値評価は勿論変動しうる、とされる。)」27-8P
(対話E)「ところで、効用的属性なるものの存在性格は如何? それらは唯単なる実在的な性質なのであろうか? 例えば、食品の効用は、美味、不味といった“副次的”なこと以前に、何を措いても生体維持機能にあり、刃物の効用は切断機能にあり、カーの効用は運送機能にあり、新聞の効用は情報機能にあり、映画の効用は娯楽機能にある。これら効用的機能は、物理的属性に支えられているにしても、単なる物理的効能ではなく、それ以上の或るものとみとめられよう。このさい、「より以上」と言っても物理成分的に何物かが加わっているというわけではない。では、「より以上」である所以のものは何か? それが目的との反照において成立する規定性であることまでは確かである。という次第で、茲に、目的との反照的規定性なるものの機序的実態が省察されねばならない。」28P
(対話F)「惟えば、目的への手段的機能性、此処における「手段−目的」関係は、単なる“原因−結果”の因果的連鎖関係ではない。実現目標という結果的状態へ向けて促進的(阻止的)に作(「はた」のルビ)らくということは、手段性にとって必要条件であるが、促進的作用性のすべてがそのまま効用と認められるわけではない。結果的状態が単なる物理的状態としてしか認知されない場合には、例えば、火が燃え拡って野原が焼けたというような場合、当の結果を媒介的にもたらした原因には、作用効果は認められても、効用性は云為されない。ところが、物理的視点から見れば全く同一の事件でも、人が野焼きをしようとしている場合には、実現目標たる当の帰結的状態を結果としてもたらし以って目的達成に有効に機能する媒介因に、手段的効用性が認められる。――こうして、効用性というのは、唯単なる一定結果をもたらす作用効果性ではなく、目的達成に資する手段的有用性の謂いであると了解される。」28P
(対話G)「では、物理的観点から見れば一個同一の因果連鎖事件にすぎないのに、単なる「原因−結果実現」関連と見做し、単なる作用効果性としか認めない場合と、「手段−目的達成」関連と見做し、この関連性からの反照規定として、手段的効用性を認める場合との、差異は奈辺に存するのであるか? 作用的能因が人間の有意的行為であるかどうかということは、食品の栄養的効用、住居の防雨的効用などを慮(「おもい」のルビ)みるまでもなく、効用性・使用価値性にとって構成要件ではない。問題の鍵は達成される「目的」の側にある。このさい、単なる実現目標と達成目的との区別と連関が明識されねばならない。(後論が闡明するように、唯単なる実現目標は実在性のものであるのに対して、達成目的は価値性のものである。)目的という(望ましい・成就したい・有るべき)価値性との反照において、当の価値を負荷する「目標」という「実現される結果的状態」の現実化に有効に機能する効能が、効用と認められる次第である。」28-9P
(対話H)「更に、目的価値性との反照における認定ということの構制が問題となる。効用性として認定される与件は、しかじかの作用的機能性を呈する物理的実在性格の属性(これを具えた財貨)であって、当の属性それ自体は(つまり、目的価値性との反照を抜きにしては)必ずしも望ましいもの・得たいもの・有るべきものではない。すなわち、効用的と認定される対象的与件自体は、物理的実在性格のものにすぎず、それ自身で価値的であるわけではない。(より正確に言えば、それ自体で審美的・稀少的といった価値性を具えていることはありえても、それ自身で効用価値的であるわけではない。)だとすれば、目的価値性との反照的関係づけという“主観的認知意識作用”“評価作用”によって、効用価値性なるものが謂わば“投射的に貼付”されるのであろうか。もしそうだとすれば、一定の作用的効能・機能性は財貨が具えている客観的属性であるとしても、効用価値性なるものは、単なる主観的情感でこそなけれ、やはり一種の主観的なものということになろう。そして、この“主観的なもの”が所詮は一定の“心理的状態”にほかならないとすれば、それが如何に日常的意識には客観的性質の相で映現しようとも、“実態においては意識内在的”ということになる。」29P
(対話I)「経済学者たちは、使用価値・効用的価値は一種の客観的価値であるものと了解しているのが普通であるが、如上の理路で省察するとき、効用的価値はむしろ“一種の主観的価値”と言わざるをえない仕儀に陥る。」30P
(対話J)「この理路にあっては、詮ずる所、効用的価値なるものは、目的との反照的心態の構造内部的契機が財貨事物に“投射・貼付”されて当事者たちの直接的意識にとっては客観的価値対象性の相で映現しているものであって、存在性格上はいずれにしてもレアールな存在態であるという主張が“維持”される。」30P
(対話K)「われわれとしては、行論の途次で仮言的に“認め”ておいた一連の論点を抜本的に再考することを通じて、茲でのテーゼを止揚する。が、その作業は、先に登記しておいた価値・情動説という型の主観価値説の止揚と一括的に遂行することにして、議論の順序としては、次に経済学上の「交換における価値」について検討しておく段である。」30P
第五段落――経済学上の「交換における価値」 30-1P
(対話@)「「交換における価値」という概念は、一つには、例えばこの衣装は、牛一頭分、米十俵分、金(「きん」のルビ)一ポンド三オンス分であって、二五〇〇ドル、三〇万円であるというように「価値(「プライス」のルビ)」の意味で謂われる場合と、もう一つには、財貨が対等(「エキヴァレント」のルビ)とされる内実、この意味での「内在的交換価値」(valeur intrinsèque)、つまり、価額で表現される当体の意味で謂われる場合、この二つの場合がある。今ここで問題にするのは、価値表現・現象形態たる前者の「内在的交換価値」(valeur intrinsèque)ではなく、後者の意味での「商品価値」(Warenwelt)である。」30P
(対話A)「経済学理論は、財貨の商品価値――つまり、使用価値・効用的価値とは別種の「内在的交換価値」――の本質規定を堯(「めぐ」のルビ)って、主観価値(すなわち、価値は主観的なものにすぎないとする立場)と客観価値(すなわち、価値は一種の客観的対象性であるとする立場)とに岐れる。が、分岐の淵源をなす説明課題は、いわゆる「等価交換」という事態、正常的・対当的交換比率とされる事態、これをどう説明するかにある。」30P
(対話B)「二財abの等価交換と認められる事態、そこにおいては、価値の何たるかはブラック・ボックスのままであっても、ともあれ論理上(さしあたってはあくまで論理上)、相等しい価値どうしの交換であることが含意されている。相等とはさしあたり同量の謂いである。が、同量ということ、一般に量的比較ということは、比較される両項の同質性を論理上前提している。質的比較なら異質項のあいだでも成立しうるにせよ、量的比較は同質項どうしでしか論理上成立しえない。(長さ同士の比較や重さ同士の比較はおこなわれうるが、長さと重さという異質の規定性のあいだの量的比較は成立しうべくもない。けだし、量とはそもそも同質態の内部的規定概念だからである。)という次第で、等価交換されるさいの「相等なもの」は「同質かつ同量の或るもの」ということになる。――こうして等価交換ということは、「等しい価値」の交換を意味する以上、そこでの価値とは「同質(かつ同量)の或るもの」を論理上意味する。」31P
(対話C)「では、等値されているその「同質(かつ同量)の或るもの」とは何か? 財貨abは、それらが経済的財たる所以の「使用価値」(効用)を当然“具えて”いる。しかし、今等値されているのは、使用価値ではない。(後述の限界効用学説を慮ってより正確に言えば、「使用価値それ自身」ではない。)全く同一の使用価値財どうしを市場で交換するなどという酔狂(ママ)者はよもや居るまい。a財とb財とは使用価値としては異質の財貨であるからこそ交換されるのである。――こうして、交換的に等値される「同質かつ同量の或るもの」たる「価値」は、使用価値とは別種の価値である。」31P
(対話D)「果たして、そのような価値、すなわち「使用価値とは別種」でかつ「使用価値財に共通」な商品価値なるものが財貨に内在するであろうか? 経済学理論はこの件を堯(「めぐ」のルビ)って二大陣営に分裂・対立する。一方は、商品価値が財貨それ自体に客観的に内在すると主張し、他方は商品価値なるものが財貨それ自体に内在することを否認し、等価性ということを主観の側の満足度で説明する。」31P
第六段落――経済学上の主観価値説(限界効用学説) 32-5P
(対話@)「学説史上の成立順序には悖るが、経済学上の主観価値説(限界効用学説)から先に見ておこう。」32P
(対話A)「当座の論脈に即する形で第三者的に整理して言えば、財貨abの交換的等値が「同質かつ同量の或るもの」の存在を論理上含意することは此説も否認しない。また、財貨abの効用(使用価値)が異質であること、これら異質の使用価値どうしを直接的に量的に比較できないことをも此説は認める。しかし、使用価値が具ってさえいれば、それとは別に“内在的交換価値”などというものが客観的に実在することなくしても、等価性の評価に基く交換(等価交換)が立派に成立しうる。この旨を此説は説く。」32P
(対話B)「論者たちの説明を聞こう。財貨abを所有していて交換活動に従事している両人物をA氏・B氏と呼ぶことにする。A氏の側が相手の財貨bに対して抱く欲求と、B氏の側が相手の財貨aに対して抱く欲求とが、つまり、双方の欲求の大きさが釣合うとき、交換が成立する。視角を変えて言い換えれば、双方の満足の度合いが相等になるような交換がいわゆる等価交換なのである、云々。――敷衍(ふえん)して言えば、相手商品が自分にとってもつ「欲しさ」(desirability)が互いに相等しくなるのであって、等価交換という概念が論理上要求する「同質かつ同量の或るもの」は、財貨に内在する必要はなく、交換当事者にとっての「欲しさ」「満足」であれば足り、現にそれしか実在しない、というわけである。(desirabilityという質に即して同質、かつまた、満足の度合いという量に即して同量、こうして「同質かつ同量の或るもの」の存在という論理的要求が充たされる構制になる。) ――論者たちは、効用(使用価値)に関しても一種の主観価値説を執(「と」のルビ)る。(客観的効用価値と交換的等値価値とを独特の仕方で結びつける「限界効用」という論者たち自身の概念について此処でコメントする必要はあるまい。)」32P
(対話C)「限界効用説は、交換的等価性を主観的な満足度に帰着させるとはいえ、その主観的な満足を全く恣意的なものとするわけではない。どの準位で満足が均衡するかは、諸々の主観的・客観的な諸条件によって決まるものとされる。そのさい、欲求的・評価的主体としての万人同型性(homo oeconomicusという同型的人間)が前提されている限りでは、標準的状況における満足的平衡準位はむしろ客観的諸条件によって定まるという了解になっているとさえ言えよう。主観的な価値評価の平準が効用性に関わる客観的な諸要因の均衡の投影であるとする構制に鑑みれば、此説は単純な主観価値説ではなく、却って価値評価準位の“客観性”を説く配備にもなっている。このことまでは認めうる。――われわれは、此処では、此説の方法論的個人主義そのことへの批判のごときは姑く留保しても宜(「よ」のルビ)かろう。また、謂うところの万人同型性は、社会的交通を通じて間主体的に形成された所産的同型化を前提的に先取する倒錯であること、この件の批判をも措くことにしよう。このように譲って内在的に検討する場合でさえ、しかし、次の点は見咎(「みとが」のルビ)めざるをえない。」32-3P
(対話D)「論者たちは、「欲しさ」「満足」が相等になる準位で“等価交換”が成立すると言うが、当事者自身は自他の満足の相等性を直接に認知するわけではあるまい。「欲しさ」の均衡とか「満足」の相等とか、これは商談・交換が成立したという事実を事後的に説明する理屈であっても、当事者たち自身の価値評価意識の自覚的現実ではない。当事者たち自身は、満足が均衡したから等価だと思うのではない。逆であろう。普通の場面では、等価(と思う)交換だから満足するのである。つまり、交換に先立って自他の財貨(の所定量どうし)を問うかだと認知したうえで、そこで取引を完了し、そこではじめて満足する次序となる。論者たちの議論では、当事者たちが“標準的・正常的”“客観的な等価性”として意識する価値評価(満足意識)の成立機序を説明する所以にはなっていない。」33P
(対話E)「限界効用学派は、当事者たちの主観的な価値評価の心理的分析をするつもりはないと嘯(「うそぶ」のルビ)くかもしれない。交換が成立するさい何が均衡しているのかを、学理的・第三者的に分析・確定することがもっぱらの問題なのだと。もしそうなのであれば、「満足」などといういかにも当事者の心理的な要因を持出すには及ばない筈ではないか。当事者の主観的価値評価を説明原理とするからには、よしんばそれが客観化的・物象化的な錯視であろうとも、当事者たち自身は“両財貨自体の等価性”(少なくとも、その場面的情況では当の交換比率が“妥当な線”であるということ)を意識しているのが普通だということ、この心理的事実を踏まえねばなるまい。(因みに、砂漠で一杯の水と一握のダイヤモンドとを交換して“満足が均衡”するような特殊例外的な場合でさえ、当事者たち自身は“これは本当は不等価交換だ”と意識している筈である。) ――当事者が“これでは高すぎる”“これでは損だ”というように不等価性意識する場合にも、つまり、商談的均衡がおこなわれる場面でも、以って不等価と意識させる所以の基準をなす“客観的な”等価の準位を意識している道理であろう。そして、欲求の度とか満足の度とかが商品取引にさいして意識されるとすれば、それはなるほど効用との絡みにおいてではあるのだが、それをそのまま等価性の基準としてのことではなく、却って、俗に謂う“足許を見る”流儀においてであろう。すなわち、客観的等価性の準位はしかじかであり、標準的な交換比率はしかじかなのだが、今の特殊的情況下で相手の欲求水準が異常に高いので敢えてかくかくの(“客観的価値水準”より以上の)値であっても、“満足”が得られる筈だから、……云々。ここにあっては、欲求の満足という要因は、等価性そのことではなくして、寧ろ逆に、不等価的取引を成立せしめる一要因、つまり、客観的な等価水準とはズレた取引が成立しうる一因として勘案それるのである!――こうして、等価交換として意識される場合であれ、不等価交換として意識される場合であれ、当事者自身においては“客観的な等価性”準位がとにもかくにも意識されているというのが心理的実情をなす。」33-4P
(対話F)「茲に、財貨自体の等価性ないし交換比率の客観妥当性という相で“物象化されて(?)”意識される或るものが問題になる。それは効用自体ではないし、また、主観的欲求・満足の直接的投影像でもない。それは、むしろ、論者たちの謂う「満足」の平常的場面での成立“原因”ないし存在条件をなす或るものである。当の或るもの、それが論者たちの理説に謂う「評価準位がそれの投影」であるところの「客観的諸要因の均衡」に照応する構制になっているのではないか。ともあれ、等価性が“物象化”されて意識されるという事実、および、それの成立機序を説明する必要があろう。当事者たち自身にとって、一体、何がどのような屈折を介して、対象的・客観的な等価性、依って亦、財貨に内属する客観的な価値対象性という相で映現するのか?」34-5P
(対話G)「この問題を経済学的に踏み込んで討究するさいには、需要・供給による変動、単純商品市場と資本制的市場、利潤率ひいては生産価格といった諸事項に関説することが要件になる。が、爰ではそれを措いて、客観価値説に眼を転じ、経済学上の客観価値説によるこの件への回答・説明を一瞥しておこう。」35P
第七段落――経済学上の客観価値説、労働価値説 35-42P
(対話@)「経済学上の客観価値説、労働価値説は、アダム・スミスにまで溯って謂えば、財貨はそれの生産に必要な労働量が相等になる割合いで交換されるとき、等価交換が成立すると説く。スミスは労働を労苦(toil and trouble)と看じており、労働の量は労苦の量と相即する。――労苦が一種の情感であるとすれば、労苦の量の相等性という着眼は、満足の度の相等性という主観価値説(限界効用学説)の着眼と“共通面”をもつことになる。後者は満足という正(「プラス」のルビ)に評価される情感の量に留目し、前者は労苦という負(「マイナス」のルビ)に評価される情感の量に留目する。この正負の相違こそあれ、いずれも“主観的な”情感の対当性(「エキヴァレンツ」のルビ)に着目することでは共通する。とはいえ、しかし、スミスは労苦という情感の量がそのまま価値量だと言うのではなく、財貨の価値量はそれの生産に必要な労働量であると考える。(スミスの場合、“投下労働価値説”と“支配労働価値説”との“混在”と謂われる事情があり、また、商品経済の或る発展局面以降はもはや単純に等労働量交換がおこなわれるわけではないことを認識しているが、ここでは棚上げとする。)」35P
(対話A)「ところで、等労働生産物と言うとき、「労働」という概念の二義性に留意しなければならない。労働はさしあたり、農耕労働、織布労働、縫靴労働、製陶労働……といった具体的な有用労働である。が、こういう具体的な有用労働は財貨の特種的効用(使用価値)を産出する営為であって、それぞれ異種的・異質的な労働であると言うべきであろう。しかるに、交換的に等値される商品価値なるものは、上述の通り、使用価値(効用的価値)とは別異であり、各種使用財に共通な或る同質なものという論理的要求を充たすものでなければならない。従って、かかる同質的商品価値を生産する労働は、これまて、各種有用労働を通ずる或る同質的なものであることが論理上要求される。それは各種有用労働の具体的規定性を論理的に捨象しただけの抽象概念(抽象化された有用労働)であっては要件を充たさない。けだし、単にそのような意味での労働であれば、たかだか抽象化された有用労働(抽象化された使用価値生産労働)でしかないからである。労働価値説の要件を充たすべき労働は、使用価値とは端的に異質な商品価値と成って結実するごとき労働、つまり、使用価値生産労働とは別義での労働でなければならない。」36P
(対話B)「果たして、右に謂う価値生産的労働なるものが実在するのか? それは、使用価値生産労働(具体的有用労働)とは別次元の労働でありながら、具体的有用諸労働に共通な同質的規定性の労働の筈である。」36P
(対話C)「学説史上の経緯に則して述べれば、如何なる種類の効用財を産出するにせよ、斉しくトイル・アンド・トラブル(労苦)である人間活動ということに止目して当の労働概念が立てられたのであった。この人間労働力の支出=労働は、“人間の生理的(肉体的・頭脳的)エネルギーの注入”といった描像を許すかもしれない。」36P・・・「トイル・アンド・トラブル(労苦)論」という物象化批判
(対話D)「この抽象的人間労働の量は、労働時間に比例するものと考えられる限り、労働時間を測度として度量される。だが、同じ時間働いても、熟練者の労働の量と未熟練者の労働の量とは同じではあるまいし、また、勤勉な労働と怠惰な労働とでも同じではあるまい。それゆえ、物理的には同一時間の労働であっても、労働の生産性や強度を勘案して、しかるべく換算を要する。という次第で、価値生産的労働の量、所求の労働時間の量なるものは、ストップウォッチで単純に計量できるようなものではない。剰(「あまつさ」のルビ)え、直接に計量できないのには次のような事情もある。異時点の生産物(例えば昨年度の製品と今年度の製品)でありながら全く同一規格の製品が市場に出されているものとし、但し、その期間内に生産性が向上したため、旧製品の生産に比べて、新製品の生産は所要時間が短縮しているものとする。このような場合、投下された物理的労働量(物理的な所要労働時間)は旧製品のほうが新製品より大きいが、市場では前者のほうが高額で取引されるというわけではない。全くの同一規格品なのである以上は、市場価格は同一である。投下労働量(所要労働時間)というものは、製品の現実的生産にさいして実際にどれだけの労働量を要したか(実際にどれだけの労働時間を要したか)ではなく、現時点で生産するとすればどれだけ要するか、正確に言えば、現時点で当の製品を再生産するとしたらどれだけ要するか、これに換算して算定される。これは物理的計測ではなく、一種の社会的評価なのである。いくら生理的エネルギーを傾注して作製しても、不良品を帰結した場合には生産的労働には算入されない。このことに鑑みても、投下労働量は、物理的に、物理的に直接的に計測されるようなものでなく、一種の社会的評価によって秤量(しょうりょう・ひょうりょう)されるものなのである。――価値生産的労働というものは、現実の使用価値生産労働、具体的有用労働という実在的活動を離れて独立自存するものではないが、価値生産的労働の量は、具体的有用労働の所要時間でそのまま計るわけにはいかない道理である。」36-7P
(対話E)「茲において、労働価値説は、投下交換とは等労働生産物どうしの交換であると主張するにも拘らず、交換財のそれぞれが一体どれだけの労働量の生産物であるのかが直接には不明であり、従って、交換当事者たちは商議に際して、等労働生産物であるかどうか判定しようがない、という事実に直面する。――労働価値説は、当初、使用価値生産労働(具体的有用労働)と価値生産的労働(抽象的人間労働)との二義性の離接が曖昧であったこともあり、トイル・アンド・トラブルの量ということに象徴されるように、各商品の生産に必要な労働量が交換に先立って既知であるものと思念し、そのことを前提として労働生産物の交換・等価交換という主張を立てていた。その段階では、商品価値なるものは、各種効用産出労働を通ずる人間労働という“同質的なもの”、このレアールな活動が財貨中に対象化されているもの(謂わば人間活動が凝固したもの)と考えることもできた。この限りで、当初の労働価値説=客観価値説は、商品価値を一種の「実在(「レアーレス」のルビ)」に還元する立場を採っていた。今や、しかし、労働の二義性が明別され、価値生産労働なるものについての省察が深められるに及んで、もはや然(「そ」のルビ)ういう単純で素朴な労働価値説は自己止揚される段となる。リカードを経て、マルクスの労働価値説がそれを体現している。」37-8P
(対話F)「等価交換とは等労働量生産物の交換であると学問的に学理的に規定されうるにしても、交換当事者たちは、他者の所有財についてはもちろんのこと自己の所有財についても、生産に必要な労働量を事前に知悉(ちしつ)していて交換に臨むというわけではない。」38P
(対話G)「マルクスから引用しよう。「人々は彼等の労働生産物を互いに価値として関連させ合うが、それは、これら物象(「ザッヘ」のルビ)が彼らにとって同種的人間労働の物象的外皮として妥当するが故にではない。逆である。彼らは、彼らの異種の生産物どうしを交換において価値として等値することで、彼らの種々な労働どうしを人間労働として等値するのである。彼らはそのことを知らないが、それをおこなう。」(『資本論』第一巻、第二版Neue MEGA.U.6,S.104f.)」38P
(対話H)「見られるように、マルクスにあっては、当事者たちが投下労働量を直接に知って、それを評価基準にして、交換がおこなわれるとされるのではない。逆である。当事者たちは物件(「ザッヘ」のルビ)どうしを直截に価値として等値し合う、という事態に定位されている。この等値は、質的かつ量的な等値である。人々は、生産物を価値として等値し合うことで、それら生産物の「価値」に結実した労働を――現実の労働は異質の具体的有用労働であるが、価値という同質物を生産する労働として――同質的人間労働として等値し、且つ同時に、その所要同質的労働の量を(現実の投下労働の物理的所要時間は不等だったとしても)同量の人間労働として等値する所以となる。」38-9P
(対話I)「このように「価値的等値」ということから間接的に「等労働性」を認定する論理では、労働価値説という立場の自殺にはならないか? 否である。成程、それは素朴な投下労働価値説の自己止揚ではあるが、労働価値説という立場の自殺にはならない。けだし、労働価値説というものは、商品価値の評価(評価という限りではいわゆる主観的評価作用による評定)が単なる恣意的な主観的評価ではなく、客観的根拠を有っているということ、その客観的根拠とは窮境的には社会的労働配分関係の均衡に存すること、これを主張するものであって、マルクスの商品価値論はまさにこの要件を充たすものだからである。(ここは経済学的に詳しくは立入る場ではないので、右の断言で上記の疑義を卻けるに留める。論拠については、廣松編『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店、一九八六年刊を見られたい。)」39P
(対話J)「ところで、「人々は生産物を価値として等値し合う」とマルクスが言うとき、当事者たちの眼に「価値」とその「分量」が恰(「あた」のルビ)かも現象学派の謂う“本質直観”の流儀で“丸見え”だと言うのであるか? 勿論、否である。」39P
(対話K)「マルクスの考えでは、「単位に換算される割合」は「生産者たちの背後で一つの社会的過程を通じて決まるのであり、依って、当事者たちには慣習(Herkommen)によって与えられているもののように思える。」価値もその大きさも、直截にありありと見えるというものではない。――等価・対当として意識される準位がおのずと確定する過程、マルクスの謂う「当事者たちの背後での一つの社会過程」なるものは、生産物の供給量と需要量との動態的関係、市場的競争という要因を含むが、これに尽きない。各商品それぞれの需給が均衡している場面における商品種類毎の価値準位(因みに需給関係ということは同一種類の使用価値物間で成立することであって、異種類の商品間では効かないため、例えば卵の需給が均衡し且つ靴の需給も均衡している場合でも、卵一個と靴一足とが等価になるわけではなく)、これがどう決まるかということこそが肝心な問題だからである。等価性・対当性、つまりは価値の大きさという一種の社会的評価は交換の場でおこなわれるわけだが、交換の場での当の評価は、恣意的なものでなく、生産・流通の社会的総過程によって規制されている。この間の事情とそのメカニズムを論ずるためには、単純商品社会と、資本利潤率が規制的原理に介入する資本制社会の場合とを、区別と関連の下に討究する必要がある。ここでは、しかし、そこまで立入るには及ばないであろう。当面の議論は、当事者の意識態勢に定位して進めておくことができる。――」39-40P
(対話L)「交換当事者は、価値とその大きさなるものを直截に現認しているわけではないにも拘らず、財貨商品が内在的・客観的に評価を具えているものと思念し、且つ、その価値の大きさは客観的に既定的であると思念している。まさしくこの思念が前提になって、この価額では損であるとか得であるとか、まさに“客観的等価な取引”だとか、その都度の具体的な評価がおこなわれるのである。」40P
(対話M)「それでは、当事者たちが商品体に客観的に内在しているものと思念している価値なるものは、一体如何なる対象性であるのか? 当人たちは明識的に現認しているわけではないので、第三者的に分析してみよう。」40P
(対話N)「交換当事者たちが商品体に内在しているものと思念している等価価値は、マルクスが説く通り、「商品の幾何学的、物理学的、化学的、その他の、自然的属性ではありうべくもない。」(Ib.S.71.)。「商品の物体的諸属性は商品を使用価値たらしめる」規定性であろうが、価値は使用価値とは全く別種の或るものである。「価値対象性には、自然物の一分子だに入り込んでいない。」(Ib.S.80.)。――常識的に考えても、例えば、コンピューターのソフトウェアと石油と鉄といったものの価値が比較される場合、その価値なるものが感性的・自然的に実在する共通者でありえないこと、そのような共通的な自然的成分は実在しないこと、これは明らかであろう。労働生産物という共通性があると言っても、その労働たるや上述の如き社会的評価・換算に俟つ「抽象的・人間労働」でしかない。ここにおいて、人は、価値対象性なるものは自然的実在ではない以上、たかだか主観的・心理的なものでしかありえないと考え、主観価値説を採りたがることにもなる。だが、マルクスは安易に主観価値説を採るようなことはしない。けだし、人々が客観的等価性の意識を懐いているという厳然たる事実があるばかりでなく、その意識態勢の現存においてはじめて交換という実践的営為、ひいては、経済活動・経済体制が成立しているのであって、当の“等価交換”の存立構制を究明することが要件だからである。――」40-1P
(対話O)「マルクスとしては、それでは、価値対象性をいかなるものとして措定するのか? 彼は、人々が交換的等値にさいして財貨に内属しているものと思念している価値対象性は、それの存在性格を分析するとき何と「超感性的」(übersinnlich)「超自然的」(übernatürlich)な或るものである旨を対自化する。(Vgl.Ib.S.89,102.103etc.)。――唯物論者とあろう者が!と人は驚くかもしれない。超感性的・超自然的な存在とは、哲学者たちが形而上学的存在を特徴づけて言う科白(「せりふ」のルビ)にもほかならないではないか! 懸念は無用である。マルクスは、超感性的・超自然的な価値対象性なるものが形而上学的に(?)実在するなどということをそのまま追認してしまうわけではない。彼は当該の物象化的錯認の構制を剔抉してみせる。――彼は有名な「商品の物神的性格とその秘密」の節において、「商品は、分析してみると、形而上学的詭計に充ち、神学的な意地悪さで一杯」という自覚のもとに、商品(つまり「使用価値−価値」の二要因的統一財態)が「感性的・超感性的な事物」(ein sinnlich übersinnliches Ding)として映現する謎を解いてみせる。マルクスの労働価値説は、以って、価値なるものを感性的・自然的な実在(「レアリタス」のルビ)と見做す理路を止揚する所以のものとなっている。」41P
(対話P)「われわれとしては、しかし、爰では差当り、マルクスの価値論において、価値対象性がおよそ実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にする「超感性的・超自然的」な一種独特の客観的対象性の相で映現するという事態が対自化されるに至ったことの確認で一段落としよう。」41-2P
第八段落――この節のまとめ 42-3P
(対話@)「われわれは、以上、本節の直接的課題を超えることを厭わぬかの風情で――本節の本来的課題からすれば、財態の第一肢的与件項には森羅万象が(意義的価値を負荷する限り)悉く立ちうること、意義的価値を更(「あらた」のルビ)めて負荷する与件項たる限りそれ自身すでに財態たりうること、この旨を陳べ、併せて亦、われわれの用語法では、財態の第一肢的与件を「実在的所与」と敢て呼ぶこと、この間の事情を誌せば足る筈のところ――価値=情動説(という哲学上の価値論の一陣営)および経済学上の価値論に聊か関説するに及んだ。それは、価値とは何でないかを消極的に示すことで、価値を負荷する第一肢的与件たる実在的所与の広袤を追認識しつつ、旁々(「かたがた」のルビ)、価値なるものを実在(「レアリタス」のルビ)(心態的実在であれ物態的実在であれ)に還元しようとする企図の隘路を見定め、価値を積極的に規定するための前段的作業を図ってのことであった。」42P
(対話A)「今茲で論旨を復唱することはしない。が、経済学上の価値に即した論議を想起すれば、善(悪)にせよ、美(醜)にせよ、聖(俗)にせよ、一般に価値が認知・比較される場合――善い、より善い、悪い、より悪い、美しい、より一層美しい、等々――此処には、単なる情感といった主観内部的事件には尽きない“客観的価値対象性”の存立が構成要件になっていることが容易に知られる。その際、しかも、当の客観的対象性は実在的(「レアール」のルビ)所与性ではありえない。例えば草花、音楽、彫刻、文芸、舞踊……を斉しく「美しい」と評価するとき、乃至は亦、そこでの美の程度を比較するとき、諸対象に共通な実在的成分は現存しない。(そこで、実在的成分での共通性を言おうとする論者たちは、主観価値説に傾いて、共通な感情・情動といった心理的実在成分を述べ立てることにもなる。だが、嚮に主観価値説を検討して際に確認した通り、情動的意識内容成分それ自体が価値なのではない。)人が、「評価される対象的価値−評価する志向的意識作用」という構図で考える限り、志向される対象的価値なるものはおよそ実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にするのであって、それはマルクス式に言えば、「超感性的」「超自然的」或るもの、つまりは、現象学派の本質直観説に謂う本質の如きイデアールな存在性格を呈する。従って、人が、価値自体を実在的与件に帰着させようとし、以って、財態を単なる実在的所与に還元しようと企てても相叶わぬ仕儀なのである。」42-3P
(対話B)「斯くて、われわれは、未だ価値自体の積極的規定は遺したままであるとはいえ、差当り、財態の価値性を実在的与件(心的であれ物的であれ、ともかく単なる実在)に還元しようとする理説の不可なること、財態はあくまで「実在的所与−非実在的存在性格の意義的価値」の二肢的二重性の構制をもつこと、これを論定することにおいて、財態の第一肢的与件=実在的所与を立てることが必須である事情を間接的に闡明した所以となる。」43P
(対話C)「翻って惟みるに、しかし、われわれは主観価値説中、情感という意識内容そのものを価値と見做す謬説は卻けたにしても、評価的志向作用を以って価値とするありうべき分脈は預りとしてきた。これの検討は次節(さらには亦本第一篇第三章第一節)での論攷に繰り入れる。尚、そのさい、評価的志向作用が意識内容を謂わば貫き通して意識外の対象へと投出・投入されるという見解をも勘案することになる筈である。この見解は、具体的有用労働(という使用価値性を帯びた主体的活動)が対象化されることで財貨の使用価値が客観的に現成するという発想と、論理構造上、相通ずるところがある。次節(および第三章第一節)での論攷は、本節では検覈に及ばなかった右の発想の把え返しをも含意するものとなるであろう。それはまた、「価値」なるものが「超感性的」「超自然的」な或るものの相に物象化されて映現する機序をも批判的に究明するものとなる筈である。」43P
・廣松渉『存在と意味2―事的世界観の定礎』岩波書店1993(3)
第一篇 用在的世界の四肢構造
第一章 用在的分節態の現前と財態の二要因
第二節 財態の第一肢的実在
(この節の問題設定−長い標題)「財態の第一肢たる「実在的所与」は、あくまで「実在−価値」関係の「項」なのであり、それが「単なるそれ以上の意義的価値として妥当する」という関係規定性においてのみ「実在的所与」なのである。この第一肢的実在を自足的な存在体の如くに扱うとき、窮境的には、それは或る価値負荷可能なもの(etwas Wert-tragbares)であるが、この脱価値的(「エンドヴェールテット」のルビ)な実在といえども、認知的には“裸の質料”ではなく、已(「すで」のルビ)に「現相的所与−意味的所識」成態である。従って、それは認知的実在としての各種規定性を既に帯有している。「実在的所与」は「意義的価値」との相関的規定項であるというまさにその存在規定からして、それ自身すでに、より基底的な次元に即しての「実在−価値」成体であることを妨げられない。換言すれば、或る次元での「実在的所与−意義的価値」成体(用在態=財)が高次の価値に対して「所与」の位置に立つことがあり得る。」16-7P
第一段落――所与性と価値性とは“一体的に融合”していることと価値の錯分子構造 17-8P
(対話@)「「実在的所与」という第一肢的与件が在ってそれが意義的価値を負荷(「トラーゲン」のルビ)すると表現する場合、実在的所与なる(端的に没価値的な)ものがまず認知されていて、それに価値認知が累加されるのであるかのように受取られかねない。が、それは実態に合わない。――われわれは表現の便宜上、「実在的所与と意義的価値の二肢的二重性」という標記法を採るとはいえ、如実の体験においては、対象はその都度すでに価値性を“帯びて”いるのであって、乃至(ないし)は寧ろ、所与性と価値性とは“一体的に融合”しているのであって、「実在的所与」なるものは却って分析的に認定されるというのが実情である。」17P
(対話A)「成程、人々は理論的に身構えて世界を観ずるとき、とかく、対象界を脱価値的な物在的事物の相で見てしまいがちである。そこでは、脱価値的な実在が直截に現前するかのように思念されている。だが、この既成的な観方は如実の体験相ではない。それは体験相に捨象的知的操作を施した所産なのであって、直接的体験に即すれば、決して第一次的に物在相での認知が現成するわけではない。――尤(「もっと」のルビ)も、人がもし、意義的価値という概念を特殊・高級な価値だけに限局するとすれば、その場合には当然、対象界中の多くのものは“没価値的”ということになる。現に、人々は往々、そういう狭義での価値との対比において与件的実在を云々する。がしかし、われわれとしては表情価のごときをも含む極めて広義の価値概念を採るのであるから、没価値的な“裸の”実在的与件が直截に現前するというとことはありえない。」17P
(対話B)「われわれの見地からすれば、最低次級の価値性に関しては、森羅万象が価値を皆“帯びて”いるのが常態である。高級・特別な価値に関しては、それを帯びる実在は特殊なものに限られるとしても、低位・中位の価値は非常に多くの現相が帯びうる。――尤も、最下層の価値を帯びる第一肢的与件は“純然たる実在”であるにせよ、第二層以上の価値を帯びるのは、既に下層の価値を帯びる低次の財態である。財態に更なる価値が負荷されることにおいて新しい(“高次の”)財態が現成する。われわれの謂う「実在的所与」はあくまで「意義的価値」との二肢的構造の契機なのであって、低次の財態(すなわち「実在的所与−低次の意義的価値」成体)が高次の意義的価値に対する第一肢(実在的所与)の位置に立ちうる。既に財態であるところのものを、高次の価値に対してではあれ、実在的所与と呼ぶことは用語法上の混乱の因(「もと」のルビ)になりかねない。がしかし、財態は純粋価値ではなくして、必ず実在的所与契機を含むという構制を示さんがために、敢えて「低次の財態が高次の価値に対する実在的所与の位置に立つ」という言い方が許されたいと念う。(尚、ここではとりあえず上層・下層という言い方をしているが、文字通りの積層構造をなすわけではない。また、追加的に負荷される価値が恒に必ず所与財態が既に帯びている価値よりも高級とは限らない。財態に更なる価値負荷がおこなわれるということが差当っての論点である。)」17-8P・・・錯分子構造
(対話C)「茲に、われわれの立場においては、ありとあらゆる世界現相が価値を“担う”実在的所与たりうる所以となる。最低層の価値ともなれば森羅万象が悉く担いうる。いわゆる物質的なものであれ精神的なものであれ、物件的なものであれ人格的なものであれ、事象的なものであれ行為的なものであれ、事態的なものであれ命題的なものであれ、凡そありとあらゆるものごとがあれこれの価値を担う実在的所与たりうる。(以って、物質的財態・精神的財態、物件的財態・人格的財態、事象的財態・行為的財態、事態的財態・命題的財態、等々、等々、有形無形の各種財態が形成される。)」18P
第二段落――実在と価値が一体性としても、ひとまず実在と価値を截然と区別する論法で進めること 18-20P
(対話@)「読者の中には爰に却って重大な疑義を懐かれるむきもありえよう。世界現相の一切合切が財態であるのだとしたら、財態とは別に実在態を立てる謂われがなくなるのではないか? 成程、最低次の財態に関しては、価値を担う“裸の実在的与件”が在るとされるが、それは「実在−価値」の二肢的構制を普遍化しようとすることに由る論理的要請であって、現実には“裸の実在態”が現前しないのも道理であろう。この疑問は応接に値する。――曩(「さき」のルビ)に前節の冒頭部で認めておいた通り、現実に存在するのは財態であって、「単なる認知的関心の構えに対して展らける世界相」つまり“裸の純然たる実在態”なるものは、実践的関心性を捨象することにおいて方法論的に措定されるものにすぎない。だが、学史上の経緯もあって、世界の存在構造について方法論的手順を踏んで論攷しようと図る場合、哲学界の現状においては、実在と価値とを一旦は峻別するかのごとき流儀でアプローチするのが上策であろうと思われる。後論においてわれわれ自身、実在と価値との二元的峻別を止揚する(それにともなって実在態と財態との二元的峻別も止揚される)が、当座の行論においては姑くの間、ひとまず実在と価値とを截然と区別する論法を許されたいと念う。」18-9P
(対話A)「学説史に通じている読者は、右の提言から直ちに、著者が実在の種別に対応づけて価値の種別を分類しようと企てているのであろうとの速断的予想を懐かれるかもしれない。だが、著者としては、実在の種別に対応づけて価値を分類する心算はない。――慥かに、或る種の価値は特定種類の実在だけが帯びるという事実が見られる。しかし、同一種類の価値が多種多様な種類の実在によって担われるケースも多いのであって、実在の種別に基づけて価値を分類することは一般に期し難い。著者は旧来の手法とは別の方途によって価値の分類的規定を試みようとしている。――」19P
(対話B)「翻って、或る種の論者は、著者が採ろうとしている理路では、価値は所詮一種の実在的規定になり了(「おわ」のルビ)るであろうと想いかねない。著者の場合、世界を実在界と財態界とに二元的・領域的に区分するのではなく、現実世界は悉皆財態界であるとするのであるから、財態(実在プラス価値)における「価値」は、通常の実在とは別種であれ、一種独特の実在的存在であっても差支えないのではないか。成程、この場合でも、実在と価値とは全く別異だとする余地はありえようが、しかし、一括して実在的規定性と称されるものの内実は甚だ異質なものを多種多様に含んでいるのであって、終局的には、価値をも特別なその一種に算入するほうがナチュラルというものであろう。云々 ――このありうべき思念に対しても自ずと応える次序とすべく、当座の行文としては、価値を実在の一種に還元して扱う理路を(形而上学的な価値実在論は次元を異にするので当面は無視し、茲では、価値=情動説、および、経済学上の価値論、の二つに即して)検覈(「けんかく」のルビ)しておく段である。価値とは何であるかの積極的規定は次節に俟たねばならないが、以下では暫く、価値とは何でないかを消極的に示すことで、価値を“帯びる” 第一肢的与件たる実在的所与の広袤を追認識しつつ、価値なるものの積極的に規定するための前段的作業を調えておこう。」19-20P
第三段落――価値なるものを積極的に規定するための前段的作業(1)−主観的価値説の一つの価値=情動説 20-6P
(対話@)「財態の価値性を実在に還元しようとする理説のうち、爰で第一に検討しておきたいのは価値=情動説である。これは客観価値説との対立における主観価値説であり、価値とは一種の情動(「エモーション」のルビ)・感情(「フィーリング」のルビ)にすぎないと説く。――尤も、此説といえども、日常的意識においては価値が客観的対象性、対象的規定性の相で意識されるという事実を否認するわけではない。むしろ、当の日常的な意識事実を認めたうえで、それが一種の錯認であることを指摘し、“価値の実態は主観的情動にすぎないことを剔抉(「てっけつ」のルビ)”してみせようとするのが此説であると言っても宜(「よ」のルビ)い。此説は、色、音、香、等のいわゆる第二性質が日常的には客観的対象性の相で意識されようとも“実は主観的な感覚にすぎない”のと類比的に、日常的意識には客観的に映現する価値対象性や価値性質というものは“実は主観的な感情・情動にほかならない”と説く。――価値を以って情動にすぎないと見做す此説を「価値を実在に還元する理路」に算入するのは、用語法上、可笑(「おか」のルビ)しいと思われるかもしれない。成程、日常用語では「実在」とは「物(「レス」のルビ)」的存在に限られ、主観的感情・情動のたぐいは実在とは呼ばないであろう。だが、第一巻このかた、哲学上の諸流派と共通に一定の時と所に定在する特個的存在を実在的(「レアール」のルビ)存在と呼んで、イルレアール=イデアールな存立(超時空的で普遍的な存在)と区別する用語法を採っている。この用語法に徴するとき、ここでの言い方は当然許される筈である。」20-1P
(対話A)「偖、価値=情動説、この主観価値説によれば、意識外の対象は価値評価の与件や機縁であっても、対象そのものは価値性を有たず、価値はあくまで主観内部の特殊な心的状態にすぎない、とされる。この心的状態(価値意識)は、伝統的な知情意の三分法における「情」(感情・情動)の一種にほかならないものと位置づけられる。それは、快感・不快感、好感・嫌悪感、愉楽感・苦痛感、満足感・不満感、幸福感・不幸感、……ごときから、良・否感、真・贋感、正・邪感、善・悪感、美・醜感、貴・賤感、浄・穢感、聖・俗感のごときまでを含み、更には、当為・禁止感、正義・不義感……等々、多種多様であるとされるが、いずれにせよ、感情・情動の部類に属するものであって、主観内部の心的状態にすぎないと見做される。――此説においては価値は主観的な情感にほかならないとされるのであるから百人百様でありうる。とはいえ、価値意識が、外的対象性の相で意識されようと内部感知性の相で意識されようと、人々のあいだで共通性をもつ可能性もあながち否認されるわけではない。当の意識状態の成立には、対象からの刺戟や他人からの影響など、諸他の外的条件が介在しているのであって、その結果、条件が同一であれば、価値意識も斉同的になりうるものとされる。」21P
(対話B)「論者たちによれば、価値とは所詮、良・否感、真・贋感、善・悪感、美・醜感、聖・俗感……といった情感にすぎないと主張されるが、しかし、仮りに主観内在説を“認め”たとしてさえ、論者たちの謂う価値が果たして単なる心的与件状態としての感情ないし情動それ自体であるかどうか、これは大いに疑問である。論者たち自身、感情や情動のすべてがそのまま価値だと唱するのでなく、いみじくも快感・不快、好・悪、真・贋、善・悪、美・醜、聖・俗……というように、正・負(積極(「ポジティヴ」のルビ)・消極(「ネガティヴ」のルビ)) の対立様相を孕(「はら」のルビ)んだものだけに限定している。このことは何事を意味しているであろうか? 感情や情動は与件ないし素材であって、それに評価作用(これに正・負の認定的規定性が具っている)が加わるかたちになっているのではないのか? 成程、意識内容と意識作用とか代数的に加減されるわけではない。そもそも、意識内容と意識作用とに“成分”的に分けるかのごとき意識観は、われわれの最終的には採り得ないものである。が、論点を見え易くする方便として、内容と作用とを分ける臆見に仮託する流儀で言えば、論者たちは感情や情動という与件的・素材的な“内容”と価値評価性の“作用”との離接不全を犯しているのではないかと疑わせる。」21-2P
(対話C)「現実の感情や情動においては“内容”はそのつど一定の“作用”に“浸透”されている。しかし、同一内容が恒に必ず同一作用と“組”になるわけではない。同一の内容に別種の作用が加わることも、別種の内容に同一の作用が加わることもありうる。内容と作用とを分ける「内容−作用」観の道具立てにあっては、このことが前提的に含意されている。この道具立てを藉(「か」のルビ)りて分析するとき、論者たちの謂う価値=情動的心態は、感情ないし情動の“素材的与件”と“評価的作用”とから成っていると見做せそうである。価値的に全く中性的な感情や情動が存在するか否かは意見の岐れるところであるが、常識的には、感情的興奮という素材に評価作用が事後的に加わるように内省される場合が認められよう。シャクター説のように、そもそも情動とは生体的興奮・覚醒プラス貼付ラベルによって成立するものだとする有力な理論もある。成程、感情のすべてが内容プラス作用という相で実感・体験されるわけではない。例えば不快感や苦痛観の基底的なものは、単質的・単層的なもののように思われ、素材的内容と評価的作用との合在という感じはしない。だが、それでも、現に、不快感や苦痛感を感じてもよさそうな状況下に置かれておりながら、それが実感されないとか、却って逆に快感や愉楽感が感じられるとか、このような場合もある。この事実を説明する一方式として、現実の情感は素材的内容に評価的作用が加わることで現成するという見方も、無礙(「むげ」のルビ)には斥(「しりぞ」のルビ)けられないであろう。」22-3P
(対話D)「このように、評価的作用と与件的・素材的な内容とを分けて考えることに理があるとすれば、主観価値説の埓内に留ってすら、素材的・与件的な内容は感情や情動だけに限定する必要はなくなってくる。感覚的素材、つまり、色・音・香・味……といった“主観内部の”第二性質はもとより、形などの第一性質に見合う観念、それにまた、記憶・想像などの表象、このような“意識内容”もやはり評価的作用の与件・素材になりうると考えられる。論者たちが情感的心態と称する美・醜感、貴・賤感、浄・穢感、聖・俗感のごときは、純然たる感情ないし情動ではなく、そこに認知的な知覚的成分ないし表象的成分も介在しているのではないか? それらは感情・情動の成分をも伴うにせよ、主要にはむしろ、認知的成分に評価作用が加わることにおいて現成すると考えるべきではないのか?」23P
(対話E)「われわれ自身は、先に断った通り、素材的内容に評価的作用が累加されるという見方を積極的に採る者ではない。(因みに、或る種の学派においては、評価的志向作用は、意識内部の素材に関わるというよりも、むしろ、意識内容を貫通・超出して外的対象と直(「じ」のルビ)かに関わる旨が主張される。そこにあっては、評価作用の与件は意識外の対象自体でという議論になる。が、われわれはこの学派の見解に遽(「にわ」のルビ)かに与する者でもない。)このことを断ったうえで、そしてかつ、主観価値説の大枠に妥協したうえで、さしあたり次のことまでは指摘できる。」23P
(対話F)「主観価値説は価値とは一種の情感的心態にほかならない(価値=情動)と主張するが、論者たちの謂う情感的心態は、われわれの見地から結論的に言えば、既に一種の財態、すなわち「実在的所与−意義的価値」成態になっている。論者たちが主観的価値と称するものの真諦は、単なる感情や情動ではなくして、感情や情動の“素材的意識内容”(加之、現実には、知覚的成分や表象的成分などの“認知的意識内容”も介在する)がそれ以上の或るもの(etwas Mehr)として評価される所以の特異な構造的契機なのである。このことの正規の究明は後論に俟たねばならないが、とりあえず“素材的与件内容プラス評価的作用”という臆見的構図に即したまま、暫定的なコメントを誌しておこう。素材的内容に評価的作用が加わることにおいて、一定の価値性情感が成立すると謂われる際、そこでの評価作用は、(イ)或る評価基準に照らしての判定なのであれ、(ロ)価値概念による一種の述定なのであれ、 (ハ)一定の価値性格を具えた作用の発動なのであれ、いずれであっても、評価の与件たる素材的内容において特定の価値性質が認知されることを要件とするであろう。(イ)の場合、当の価値基準に合う(合わない)と判定される与件はそれ自身において当該の価値性契機を見出されることが要件であり、 (ロ)の場合、当の価値概念に包摂される(されない)と認定される与件はそれ自身当該の価値性契機を具有・含有していることが要件をなす。 (ハ)の場合、どういう種類の評価作用が発動されるかは全く偶然的・恣意的であると強弁するのでない限り、そして、価値がよしんば内的であれともかく対象性の相で現識されるという事実に即する限り、これまて、例えば美醜の評価作用が発動されるか善悪の評価作用が発動されるか、……聖俗の評価作用が発動されるか、この発動される評価作用の種類は、与件的素材の側における価値性契機(美醜的価値性、善悪的価値性、……聖俗的価値性)に照応するものと考えらるべきであろう。こうして、主観価値説の立場に立って、意識内容に評価作用が加わることによって主観的価値=一定種類の情動(価値性情感)が成立すると考える場合、省察してみれば、情動がそのまま価値なのではなく、与件的・素材的な意識内容の具有・含有する価値性契機こそが要訣なのである。(爰に謂う価値性契機を具有するものとしないものとの別があるために、情動のすべてがそのまま価値なのではなく、情動のうちの特定の一部だけが論者たちの謂う価値=主観的価値ということにもなる。)」23-4P
(対話G)「われわれは、以上で、とりあえず、価値=情動説において主観的価値と称されるものの真諦は、情動そのままではなくして、謂う所の情動的心態に“含有”されている価値性契機でなければならないこと、のことまでを指摘した。だが、如上では、価値なるものを「実在」(論者たちの場合、情動という実在的(「レアール」のルビ)な心態)に還元しようとする理路そのものを閉ざす所以には未だなっていない。けだし、“含有・具有される価値性契機”なるものが若しレアールな存在性格のものであるとすれば、論者たちは価値を実在に還元する理路をひとまずは保持していることになる道理だからである。われわれとしては、そこで、謂う所の価値性契機なるものの存在性格を問い返すべき次序となる。また、論者たちが嚮の(イ)(ロ)(ハ)のいずれを採るかに応じて、(イ)価値の判断基準は主観的な意識内容にすぎないのか、(ロ)価値概念はレアールな意識内容であるのか、(ハ)評価作用の種類を別(「わ」のルビ)かつ作用性質はレアールな内在的規定性であるのか、このことをもわれわれは問い詰めねばならない。そして若(「も」のルビ)しそれらがイルレアール=イデアールな存在性格を呈する或るものであることが彰らかになれば、そのときわれわれは論者たちの理路を閉ざす所以となる。――これに応ずる作業を遂行するためには、しかし、視圏を事前に拡充しておくほうが好便であり、それゆえ当の作業は次節まで持越すことにし、以下では姑く論域の拡充を事とすることにしよう。」24-5P
(対話H)「尚、嚮(「さき」のルビ)の行文では、価値=情動説を「現与の情動的意識内容プラス評価的作用」という構図に解析して論じたのであったが、この構図をシフトさせて「認知的意識内容プラス特定種類の情動」という構図を立て、之に即して価値=情動説を唱える途も残されている。是にあっては、認知的意識内容にプラスされ、「特定種類の情動」がそのまま価値にほかならない旨が主張され、いかなる種類の情動が発現するかは(先与的意識内容の価値性契機に応じるのではなく)認知的意識の内容を契機にして自(「おの」のルビ)ずと決まる旨が主張されうる。このタイプの価値=情動説においては、評価作用なる特別な意識作用が在るわけではないとされ、従って、それに照らして判定される価値基準とか、それが述定される価値概念とか、どの評価的意識作用が発動するかの起因となる与件の側での価値性質とか、このたぐいのものが先在・既在するわけではないと立論されうる。――このタイプの価値=情動説に対しては、論者たちが情動のすべてならずして特定種類の情動だけが価値であると立言する所以の特定性、つまり、価値性のものと非価値性のものとを別(「わ」のルビ)かつ所以の特性は何であるのか、これの明示的規定が要求されねばならない。われわれはこの要求を突きつけることを通じて論者たちが結局は評価作用という契機を窃(「ひそ」のルビ)かに立てていると否とに拘りなく、此説を自己止揚に追い込むことができる。が、この件も次節ひいては次々章での論脈に委ねることにし、茲ではひとまず論件の所在と構案を登記するに留めておく。」25-6P
第四段落――価値なるものを積極的に規定するための前段的作業(2)− 主観的価値説の一つの経済学上の価値論26-30P
(対話@)「爰(「ここ」のルビ)で配視しておきたいのが経済学上の価値論である。経済学的価値論は、概して、財態の価値性を「実在(「レアーレス」のルビ)」の領界内に置いている。――価値という概念が発祥したのも、価値というものに関する省察が起始したのも、経済的財貨に即してであった。しかるに、哲学者たちの価値論においては、財貨の価値や、経済学的価値は殆んど無視されかねない風情である。これには歴史的事由と経緯があったにせよ、われわれとしては経済学的価値を顚(「てん」のルビ)から無視する流儀で論じ去るわけにはいかない。財貨の価値に関する省察は、哲学的価値論にとっても、論件の所在や問題論的構制について訓(「おし」のルビ)えるところが多い。蓋し爰に配視しておく所以である。」26P
(対話A)「アリストテレスは既に「物には二つの用がある。……例えば靴には穿くという用と、交換品としての用がある。両者は、いずれも靴の用である」と述べている。(『政治学』第一巻、第九章1257a。)彼は、このように直接に使用する「固有の用」と、交換に供することで他の財を得る「交換品としての用」とを区別しただけでなく、交換財との同等性(等価性)の何たるかについても検討している。(『ニコマコス倫理学』第五巻、第五章、1133a。) ――われわれは、いまアリストテレスの“価値論”の内実にまで立入るつもりはないが、財貨の価値というとき「使用における価値」(value in use)と「交換における価値」(value in exchange)とを区別して論考しなければならない。」26-7P
(対話B)「使用価値をまず検討しよう。使用価値とは、さしづめ、各財貨の具えている効用(効用的属性)の謂いである。――効用と呼ばれるものは種々様々であり、肉体的生存にとって直接に役立つといった次元のものから、精神的生活にとって役立つといった次元のものまでを含む。また、日常的語義での道具的有用性のごときばかりでなく、つきつめれば、人生の幸福にとっての有効性とでも言うしかないたぐいのものをも含みうる。――効用という概念は、しかし、いかに広義に使用されるにせよ、何らかの目的に役立つという手段性を含意していることは動かないであろう。食用になるとか生存に役立つとかいう場合でも、食べることや生きることが、最終の目的でこそなけれ、一応の目的とされ、その目的にとっての手段的有用性が含意されている。効用性を以って価値(の一種)とする見方(「アウツファッスング」のルビ)は、目的なるものを双関的に措定し、その目的への手段的効用性において効用的価値(使用価値)を規定している所以となる。」27P
(対話C)「効用と呼ばれるものは実在的対象の具有する機能的属性であると見做されるにしても、それが効用的とされるのは一定目的の達成にとって有効であることからの反照においてである。しかるに、目的というのは、単なる因果的連鎖の終局状態の謂いではなく、目的達成として認知されて甫(「はじ」のルビ)めて目的である。そしてかつ、達成目的との機能的関連において甫めて或る属性が効用的である(効用的でない)と判定されるのであるから、当の判定的認知(実は一種の評価)を抜きにしては効用性なる価値は現認されない。」27P
(対話D)「評価的判定を抜きにしては効用的価値が現認されないという“当然の”事実を認めたうえで、しかし、経済学者は一般に「効用的価値属性それ自体は客観的性質である」と見做している。経済学上の主観価値説を採る論者たち、すなわち、交換的等価性に関しては主観価値説を採る論者たちにあってさえ、使用価値(効用的価値)に関しては一種の客観性を認めているのが普通である。(但し、主体の置かれている情況に応じて、同一の客観的与件であっても、それについての主観的価値評価は勿論変動しうる、とされる。)」27-8P
(対話E)「ところで、効用的属性なるものの存在性格は如何? それらは唯単なる実在的な性質なのであろうか? 例えば、食品の効用は、美味、不味といった“副次的”なこと以前に、何を措いても生体維持機能にあり、刃物の効用は切断機能にあり、カーの効用は運送機能にあり、新聞の効用は情報機能にあり、映画の効用は娯楽機能にある。これら効用的機能は、物理的属性に支えられているにしても、単なる物理的効能ではなく、それ以上の或るものとみとめられよう。このさい、「より以上」と言っても物理成分的に何物かが加わっているというわけではない。では、「より以上」である所以のものは何か? それが目的との反照において成立する規定性であることまでは確かである。という次第で、茲に、目的との反照的規定性なるものの機序的実態が省察されねばならない。」28P
(対話F)「惟えば、目的への手段的機能性、此処における「手段−目的」関係は、単なる“原因−結果”の因果的連鎖関係ではない。実現目標という結果的状態へ向けて促進的(阻止的)に作(「はた」のルビ)らくということは、手段性にとって必要条件であるが、促進的作用性のすべてがそのまま効用と認められるわけではない。結果的状態が単なる物理的状態としてしか認知されない場合には、例えば、火が燃え拡って野原が焼けたというような場合、当の結果を媒介的にもたらした原因には、作用効果は認められても、効用性は云為されない。ところが、物理的視点から見れば全く同一の事件でも、人が野焼きをしようとしている場合には、実現目標たる当の帰結的状態を結果としてもたらし以って目的達成に有効に機能する媒介因に、手段的効用性が認められる。――こうして、効用性というのは、唯単なる一定結果をもたらす作用効果性ではなく、目的達成に資する手段的有用性の謂いであると了解される。」28P
(対話G)「では、物理的観点から見れば一個同一の因果連鎖事件にすぎないのに、単なる「原因−結果実現」関連と見做し、単なる作用効果性としか認めない場合と、「手段−目的達成」関連と見做し、この関連性からの反照規定として、手段的効用性を認める場合との、差異は奈辺に存するのであるか? 作用的能因が人間の有意的行為であるかどうかということは、食品の栄養的効用、住居の防雨的効用などを慮(「おもい」のルビ)みるまでもなく、効用性・使用価値性にとって構成要件ではない。問題の鍵は達成される「目的」の側にある。このさい、単なる実現目標と達成目的との区別と連関が明識されねばならない。(後論が闡明するように、唯単なる実現目標は実在性のものであるのに対して、達成目的は価値性のものである。)目的という(望ましい・成就したい・有るべき)価値性との反照において、当の価値を負荷する「目標」という「実現される結果的状態」の現実化に有効に機能する効能が、効用と認められる次第である。」28-9P
(対話H)「更に、目的価値性との反照における認定ということの構制が問題となる。効用性として認定される与件は、しかじかの作用的機能性を呈する物理的実在性格の属性(これを具えた財貨)であって、当の属性それ自体は(つまり、目的価値性との反照を抜きにしては)必ずしも望ましいもの・得たいもの・有るべきものではない。すなわち、効用的と認定される対象的与件自体は、物理的実在性格のものにすぎず、それ自身で価値的であるわけではない。(より正確に言えば、それ自体で審美的・稀少的といった価値性を具えていることはありえても、それ自身で効用価値的であるわけではない。)だとすれば、目的価値性との反照的関係づけという“主観的認知意識作用”“評価作用”によって、効用価値性なるものが謂わば“投射的に貼付”されるのであろうか。もしそうだとすれば、一定の作用的効能・機能性は財貨が具えている客観的属性であるとしても、効用価値性なるものは、単なる主観的情感でこそなけれ、やはり一種の主観的なものということになろう。そして、この“主観的なもの”が所詮は一定の“心理的状態”にほかならないとすれば、それが如何に日常的意識には客観的性質の相で映現しようとも、“実態においては意識内在的”ということになる。」29P
(対話I)「経済学者たちは、使用価値・効用的価値は一種の客観的価値であるものと了解しているのが普通であるが、如上の理路で省察するとき、効用的価値はむしろ“一種の主観的価値”と言わざるをえない仕儀に陥る。」30P
(対話J)「この理路にあっては、詮ずる所、効用的価値なるものは、目的との反照的心態の構造内部的契機が財貨事物に“投射・貼付”されて当事者たちの直接的意識にとっては客観的価値対象性の相で映現しているものであって、存在性格上はいずれにしてもレアールな存在態であるという主張が“維持”される。」30P
(対話K)「われわれとしては、行論の途次で仮言的に“認め”ておいた一連の論点を抜本的に再考することを通じて、茲でのテーゼを止揚する。が、その作業は、先に登記しておいた価値・情動説という型の主観価値説の止揚と一括的に遂行することにして、議論の順序としては、次に経済学上の「交換における価値」について検討しておく段である。」30P
第五段落――経済学上の「交換における価値」 30-1P
(対話@)「「交換における価値」という概念は、一つには、例えばこの衣装は、牛一頭分、米十俵分、金(「きん」のルビ)一ポンド三オンス分であって、二五〇〇ドル、三〇万円であるというように「価値(「プライス」のルビ)」の意味で謂われる場合と、もう一つには、財貨が対等(「エキヴァレント」のルビ)とされる内実、この意味での「内在的交換価値」(valeur intrinsèque)、つまり、価額で表現される当体の意味で謂われる場合、この二つの場合がある。今ここで問題にするのは、価値表現・現象形態たる前者の「内在的交換価値」(valeur intrinsèque)ではなく、後者の意味での「商品価値」(Warenwelt)である。」30P
(対話A)「経済学理論は、財貨の商品価値――つまり、使用価値・効用的価値とは別種の「内在的交換価値」――の本質規定を堯(「めぐ」のルビ)って、主観価値(すなわち、価値は主観的なものにすぎないとする立場)と客観価値(すなわち、価値は一種の客観的対象性であるとする立場)とに岐れる。が、分岐の淵源をなす説明課題は、いわゆる「等価交換」という事態、正常的・対当的交換比率とされる事態、これをどう説明するかにある。」30P
(対話B)「二財abの等価交換と認められる事態、そこにおいては、価値の何たるかはブラック・ボックスのままであっても、ともあれ論理上(さしあたってはあくまで論理上)、相等しい価値どうしの交換であることが含意されている。相等とはさしあたり同量の謂いである。が、同量ということ、一般に量的比較ということは、比較される両項の同質性を論理上前提している。質的比較なら異質項のあいだでも成立しうるにせよ、量的比較は同質項どうしでしか論理上成立しえない。(長さ同士の比較や重さ同士の比較はおこなわれうるが、長さと重さという異質の規定性のあいだの量的比較は成立しうべくもない。けだし、量とはそもそも同質態の内部的規定概念だからである。)という次第で、等価交換されるさいの「相等なもの」は「同質かつ同量の或るもの」ということになる。――こうして等価交換ということは、「等しい価値」の交換を意味する以上、そこでの価値とは「同質(かつ同量)の或るもの」を論理上意味する。」31P
(対話C)「では、等値されているその「同質(かつ同量)の或るもの」とは何か? 財貨abは、それらが経済的財たる所以の「使用価値」(効用)を当然“具えて”いる。しかし、今等値されているのは、使用価値ではない。(後述の限界効用学説を慮ってより正確に言えば、「使用価値それ自身」ではない。)全く同一の使用価値財どうしを市場で交換するなどという酔狂(ママ)者はよもや居るまい。a財とb財とは使用価値としては異質の財貨であるからこそ交換されるのである。――こうして、交換的に等値される「同質かつ同量の或るもの」たる「価値」は、使用価値とは別種の価値である。」31P
(対話D)「果たして、そのような価値、すなわち「使用価値とは別種」でかつ「使用価値財に共通」な商品価値なるものが財貨に内在するであろうか? 経済学理論はこの件を堯(「めぐ」のルビ)って二大陣営に分裂・対立する。一方は、商品価値が財貨それ自体に客観的に内在すると主張し、他方は商品価値なるものが財貨それ自体に内在することを否認し、等価性ということを主観の側の満足度で説明する。」31P
第六段落――経済学上の主観価値説(限界効用学説) 32-5P
(対話@)「学説史上の成立順序には悖るが、経済学上の主観価値説(限界効用学説)から先に見ておこう。」32P
(対話A)「当座の論脈に即する形で第三者的に整理して言えば、財貨abの交換的等値が「同質かつ同量の或るもの」の存在を論理上含意することは此説も否認しない。また、財貨abの効用(使用価値)が異質であること、これら異質の使用価値どうしを直接的に量的に比較できないことをも此説は認める。しかし、使用価値が具ってさえいれば、それとは別に“内在的交換価値”などというものが客観的に実在することなくしても、等価性の評価に基く交換(等価交換)が立派に成立しうる。この旨を此説は説く。」32P
(対話B)「論者たちの説明を聞こう。財貨abを所有していて交換活動に従事している両人物をA氏・B氏と呼ぶことにする。A氏の側が相手の財貨bに対して抱く欲求と、B氏の側が相手の財貨aに対して抱く欲求とが、つまり、双方の欲求の大きさが釣合うとき、交換が成立する。視角を変えて言い換えれば、双方の満足の度合いが相等になるような交換がいわゆる等価交換なのである、云々。――敷衍(ふえん)して言えば、相手商品が自分にとってもつ「欲しさ」(desirability)が互いに相等しくなるのであって、等価交換という概念が論理上要求する「同質かつ同量の或るもの」は、財貨に内在する必要はなく、交換当事者にとっての「欲しさ」「満足」であれば足り、現にそれしか実在しない、というわけである。(desirabilityという質に即して同質、かつまた、満足の度合いという量に即して同量、こうして「同質かつ同量の或るもの」の存在という論理的要求が充たされる構制になる。) ――論者たちは、効用(使用価値)に関しても一種の主観価値説を執(「と」のルビ)る。(客観的効用価値と交換的等値価値とを独特の仕方で結びつける「限界効用」という論者たち自身の概念について此処でコメントする必要はあるまい。)」32P
(対話C)「限界効用説は、交換的等価性を主観的な満足度に帰着させるとはいえ、その主観的な満足を全く恣意的なものとするわけではない。どの準位で満足が均衡するかは、諸々の主観的・客観的な諸条件によって決まるものとされる。そのさい、欲求的・評価的主体としての万人同型性(homo oeconomicusという同型的人間)が前提されている限りでは、標準的状況における満足的平衡準位はむしろ客観的諸条件によって定まるという了解になっているとさえ言えよう。主観的な価値評価の平準が効用性に関わる客観的な諸要因の均衡の投影であるとする構制に鑑みれば、此説は単純な主観価値説ではなく、却って価値評価準位の“客観性”を説く配備にもなっている。このことまでは認めうる。――われわれは、此処では、此説の方法論的個人主義そのことへの批判のごときは姑く留保しても宜(「よ」のルビ)かろう。また、謂うところの万人同型性は、社会的交通を通じて間主体的に形成された所産的同型化を前提的に先取する倒錯であること、この件の批判をも措くことにしよう。このように譲って内在的に検討する場合でさえ、しかし、次の点は見咎(「みとが」のルビ)めざるをえない。」32-3P
(対話D)「論者たちは、「欲しさ」「満足」が相等になる準位で“等価交換”が成立すると言うが、当事者自身は自他の満足の相等性を直接に認知するわけではあるまい。「欲しさ」の均衡とか「満足」の相等とか、これは商談・交換が成立したという事実を事後的に説明する理屈であっても、当事者たち自身の価値評価意識の自覚的現実ではない。当事者たち自身は、満足が均衡したから等価だと思うのではない。逆であろう。普通の場面では、等価(と思う)交換だから満足するのである。つまり、交換に先立って自他の財貨(の所定量どうし)を問うかだと認知したうえで、そこで取引を完了し、そこではじめて満足する次序となる。論者たちの議論では、当事者たちが“標準的・正常的”“客観的な等価性”として意識する価値評価(満足意識)の成立機序を説明する所以にはなっていない。」33P
(対話E)「限界効用学派は、当事者たちの主観的な価値評価の心理的分析をするつもりはないと嘯(「うそぶ」のルビ)くかもしれない。交換が成立するさい何が均衡しているのかを、学理的・第三者的に分析・確定することがもっぱらの問題なのだと。もしそうなのであれば、「満足」などといういかにも当事者の心理的な要因を持出すには及ばない筈ではないか。当事者の主観的価値評価を説明原理とするからには、よしんばそれが客観化的・物象化的な錯視であろうとも、当事者たち自身は“両財貨自体の等価性”(少なくとも、その場面的情況では当の交換比率が“妥当な線”であるということ)を意識しているのが普通だということ、この心理的事実を踏まえねばなるまい。(因みに、砂漠で一杯の水と一握のダイヤモンドとを交換して“満足が均衡”するような特殊例外的な場合でさえ、当事者たち自身は“これは本当は不等価交換だ”と意識している筈である。) ――当事者が“これでは高すぎる”“これでは損だ”というように不等価性意識する場合にも、つまり、商談的均衡がおこなわれる場面でも、以って不等価と意識させる所以の基準をなす“客観的な”等価の準位を意識している道理であろう。そして、欲求の度とか満足の度とかが商品取引にさいして意識されるとすれば、それはなるほど効用との絡みにおいてではあるのだが、それをそのまま等価性の基準としてのことではなく、却って、俗に謂う“足許を見る”流儀においてであろう。すなわち、客観的等価性の準位はしかじかであり、標準的な交換比率はしかじかなのだが、今の特殊的情況下で相手の欲求水準が異常に高いので敢えてかくかくの(“客観的価値水準”より以上の)値であっても、“満足”が得られる筈だから、……云々。ここにあっては、欲求の満足という要因は、等価性そのことではなくして、寧ろ逆に、不等価的取引を成立せしめる一要因、つまり、客観的な等価水準とはズレた取引が成立しうる一因として勘案それるのである!――こうして、等価交換として意識される場合であれ、不等価交換として意識される場合であれ、当事者自身においては“客観的な等価性”準位がとにもかくにも意識されているというのが心理的実情をなす。」33-4P
(対話F)「茲に、財貨自体の等価性ないし交換比率の客観妥当性という相で“物象化されて(?)”意識される或るものが問題になる。それは効用自体ではないし、また、主観的欲求・満足の直接的投影像でもない。それは、むしろ、論者たちの謂う「満足」の平常的場面での成立“原因”ないし存在条件をなす或るものである。当の或るもの、それが論者たちの理説に謂う「評価準位がそれの投影」であるところの「客観的諸要因の均衡」に照応する構制になっているのではないか。ともあれ、等価性が“物象化”されて意識されるという事実、および、それの成立機序を説明する必要があろう。当事者たち自身にとって、一体、何がどのような屈折を介して、対象的・客観的な等価性、依って亦、財貨に内属する客観的な価値対象性という相で映現するのか?」34-5P
(対話G)「この問題を経済学的に踏み込んで討究するさいには、需要・供給による変動、単純商品市場と資本制的市場、利潤率ひいては生産価格といった諸事項に関説することが要件になる。が、爰ではそれを措いて、客観価値説に眼を転じ、経済学上の客観価値説によるこの件への回答・説明を一瞥しておこう。」35P
第七段落――経済学上の客観価値説、労働価値説 35-42P
(対話@)「経済学上の客観価値説、労働価値説は、アダム・スミスにまで溯って謂えば、財貨はそれの生産に必要な労働量が相等になる割合いで交換されるとき、等価交換が成立すると説く。スミスは労働を労苦(toil and trouble)と看じており、労働の量は労苦の量と相即する。――労苦が一種の情感であるとすれば、労苦の量の相等性という着眼は、満足の度の相等性という主観価値説(限界効用学説)の着眼と“共通面”をもつことになる。後者は満足という正(「プラス」のルビ)に評価される情感の量に留目し、前者は労苦という負(「マイナス」のルビ)に評価される情感の量に留目する。この正負の相違こそあれ、いずれも“主観的な”情感の対当性(「エキヴァレンツ」のルビ)に着目することでは共通する。とはいえ、しかし、スミスは労苦という情感の量がそのまま価値量だと言うのではなく、財貨の価値量はそれの生産に必要な労働量であると考える。(スミスの場合、“投下労働価値説”と“支配労働価値説”との“混在”と謂われる事情があり、また、商品経済の或る発展局面以降はもはや単純に等労働量交換がおこなわれるわけではないことを認識しているが、ここでは棚上げとする。)」35P
(対話A)「ところで、等労働生産物と言うとき、「労働」という概念の二義性に留意しなければならない。労働はさしあたり、農耕労働、織布労働、縫靴労働、製陶労働……といった具体的な有用労働である。が、こういう具体的な有用労働は財貨の特種的効用(使用価値)を産出する営為であって、それぞれ異種的・異質的な労働であると言うべきであろう。しかるに、交換的に等値される商品価値なるものは、上述の通り、使用価値(効用的価値)とは別異であり、各種使用財に共通な或る同質なものという論理的要求を充たすものでなければならない。従って、かかる同質的商品価値を生産する労働は、これまて、各種有用労働を通ずる或る同質的なものであることが論理上要求される。それは各種有用労働の具体的規定性を論理的に捨象しただけの抽象概念(抽象化された有用労働)であっては要件を充たさない。けだし、単にそのような意味での労働であれば、たかだか抽象化された有用労働(抽象化された使用価値生産労働)でしかないからである。労働価値説の要件を充たすべき労働は、使用価値とは端的に異質な商品価値と成って結実するごとき労働、つまり、使用価値生産労働とは別義での労働でなければならない。」36P
(対話B)「果たして、右に謂う価値生産的労働なるものが実在するのか? それは、使用価値生産労働(具体的有用労働)とは別次元の労働でありながら、具体的有用諸労働に共通な同質的規定性の労働の筈である。」36P
(対話C)「学説史上の経緯に則して述べれば、如何なる種類の効用財を産出するにせよ、斉しくトイル・アンド・トラブル(労苦)である人間活動ということに止目して当の労働概念が立てられたのであった。この人間労働力の支出=労働は、“人間の生理的(肉体的・頭脳的)エネルギーの注入”といった描像を許すかもしれない。」36P・・・「トイル・アンド・トラブル(労苦)論」という物象化批判
(対話D)「この抽象的人間労働の量は、労働時間に比例するものと考えられる限り、労働時間を測度として度量される。だが、同じ時間働いても、熟練者の労働の量と未熟練者の労働の量とは同じではあるまいし、また、勤勉な労働と怠惰な労働とでも同じではあるまい。それゆえ、物理的には同一時間の労働であっても、労働の生産性や強度を勘案して、しかるべく換算を要する。という次第で、価値生産的労働の量、所求の労働時間の量なるものは、ストップウォッチで単純に計量できるようなものではない。剰(「あまつさ」のルビ)え、直接に計量できないのには次のような事情もある。異時点の生産物(例えば昨年度の製品と今年度の製品)でありながら全く同一規格の製品が市場に出されているものとし、但し、その期間内に生産性が向上したため、旧製品の生産に比べて、新製品の生産は所要時間が短縮しているものとする。このような場合、投下された物理的労働量(物理的な所要労働時間)は旧製品のほうが新製品より大きいが、市場では前者のほうが高額で取引されるというわけではない。全くの同一規格品なのである以上は、市場価格は同一である。投下労働量(所要労働時間)というものは、製品の現実的生産にさいして実際にどれだけの労働量を要したか(実際にどれだけの労働時間を要したか)ではなく、現時点で生産するとすればどれだけ要するか、正確に言えば、現時点で当の製品を再生産するとしたらどれだけ要するか、これに換算して算定される。これは物理的計測ではなく、一種の社会的評価なのである。いくら生理的エネルギーを傾注して作製しても、不良品を帰結した場合には生産的労働には算入されない。このことに鑑みても、投下労働量は、物理的に、物理的に直接的に計測されるようなものでなく、一種の社会的評価によって秤量(しょうりょう・ひょうりょう)されるものなのである。――価値生産的労働というものは、現実の使用価値生産労働、具体的有用労働という実在的活動を離れて独立自存するものではないが、価値生産的労働の量は、具体的有用労働の所要時間でそのまま計るわけにはいかない道理である。」36-7P
(対話E)「茲において、労働価値説は、投下交換とは等労働生産物どうしの交換であると主張するにも拘らず、交換財のそれぞれが一体どれだけの労働量の生産物であるのかが直接には不明であり、従って、交換当事者たちは商議に際して、等労働生産物であるかどうか判定しようがない、という事実に直面する。――労働価値説は、当初、使用価値生産労働(具体的有用労働)と価値生産的労働(抽象的人間労働)との二義性の離接が曖昧であったこともあり、トイル・アンド・トラブルの量ということに象徴されるように、各商品の生産に必要な労働量が交換に先立って既知であるものと思念し、そのことを前提として労働生産物の交換・等価交換という主張を立てていた。その段階では、商品価値なるものは、各種効用産出労働を通ずる人間労働という“同質的なもの”、このレアールな活動が財貨中に対象化されているもの(謂わば人間活動が凝固したもの)と考えることもできた。この限りで、当初の労働価値説=客観価値説は、商品価値を一種の「実在(「レアーレス」のルビ)」に還元する立場を採っていた。今や、しかし、労働の二義性が明別され、価値生産労働なるものについての省察が深められるに及んで、もはや然(「そ」のルビ)ういう単純で素朴な労働価値説は自己止揚される段となる。リカードを経て、マルクスの労働価値説がそれを体現している。」37-8P
(対話F)「等価交換とは等労働量生産物の交換であると学問的に学理的に規定されうるにしても、交換当事者たちは、他者の所有財についてはもちろんのこと自己の所有財についても、生産に必要な労働量を事前に知悉(ちしつ)していて交換に臨むというわけではない。」38P
(対話G)「マルクスから引用しよう。「人々は彼等の労働生産物を互いに価値として関連させ合うが、それは、これら物象(「ザッヘ」のルビ)が彼らにとって同種的人間労働の物象的外皮として妥当するが故にではない。逆である。彼らは、彼らの異種の生産物どうしを交換において価値として等値することで、彼らの種々な労働どうしを人間労働として等値するのである。彼らはそのことを知らないが、それをおこなう。」(『資本論』第一巻、第二版Neue MEGA.U.6,S.104f.)」38P
(対話H)「見られるように、マルクスにあっては、当事者たちが投下労働量を直接に知って、それを評価基準にして、交換がおこなわれるとされるのではない。逆である。当事者たちは物件(「ザッヘ」のルビ)どうしを直截に価値として等値し合う、という事態に定位されている。この等値は、質的かつ量的な等値である。人々は、生産物を価値として等値し合うことで、それら生産物の「価値」に結実した労働を――現実の労働は異質の具体的有用労働であるが、価値という同質物を生産する労働として――同質的人間労働として等値し、且つ同時に、その所要同質的労働の量を(現実の投下労働の物理的所要時間は不等だったとしても)同量の人間労働として等値する所以となる。」38-9P
(対話I)「このように「価値的等値」ということから間接的に「等労働性」を認定する論理では、労働価値説という立場の自殺にはならないか? 否である。成程、それは素朴な投下労働価値説の自己止揚ではあるが、労働価値説という立場の自殺にはならない。けだし、労働価値説というものは、商品価値の評価(評価という限りではいわゆる主観的評価作用による評定)が単なる恣意的な主観的評価ではなく、客観的根拠を有っているということ、その客観的根拠とは窮境的には社会的労働配分関係の均衡に存すること、これを主張するものであって、マルクスの商品価値論はまさにこの要件を充たすものだからである。(ここは経済学的に詳しくは立入る場ではないので、右の断言で上記の疑義を卻けるに留める。論拠については、廣松編『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店、一九八六年刊を見られたい。)」39P
(対話J)「ところで、「人々は生産物を価値として等値し合う」とマルクスが言うとき、当事者たちの眼に「価値」とその「分量」が恰(「あた」のルビ)かも現象学派の謂う“本質直観”の流儀で“丸見え”だと言うのであるか? 勿論、否である。」39P
(対話K)「マルクスの考えでは、「単位に換算される割合」は「生産者たちの背後で一つの社会的過程を通じて決まるのであり、依って、当事者たちには慣習(Herkommen)によって与えられているもののように思える。」価値もその大きさも、直截にありありと見えるというものではない。――等価・対当として意識される準位がおのずと確定する過程、マルクスの謂う「当事者たちの背後での一つの社会過程」なるものは、生産物の供給量と需要量との動態的関係、市場的競争という要因を含むが、これに尽きない。各商品それぞれの需給が均衡している場面における商品種類毎の価値準位(因みに需給関係ということは同一種類の使用価値物間で成立することであって、異種類の商品間では効かないため、例えば卵の需給が均衡し且つ靴の需給も均衡している場合でも、卵一個と靴一足とが等価になるわけではなく)、これがどう決まるかということこそが肝心な問題だからである。等価性・対当性、つまりは価値の大きさという一種の社会的評価は交換の場でおこなわれるわけだが、交換の場での当の評価は、恣意的なものでなく、生産・流通の社会的総過程によって規制されている。この間の事情とそのメカニズムを論ずるためには、単純商品社会と、資本利潤率が規制的原理に介入する資本制社会の場合とを、区別と関連の下に討究する必要がある。ここでは、しかし、そこまで立入るには及ばないであろう。当面の議論は、当事者の意識態勢に定位して進めておくことができる。――」39-40P
(対話L)「交換当事者は、価値とその大きさなるものを直截に現認しているわけではないにも拘らず、財貨商品が内在的・客観的に評価を具えているものと思念し、且つ、その価値の大きさは客観的に既定的であると思念している。まさしくこの思念が前提になって、この価額では損であるとか得であるとか、まさに“客観的等価な取引”だとか、その都度の具体的な評価がおこなわれるのである。」40P
(対話M)「それでは、当事者たちが商品体に客観的に内在しているものと思念している価値なるものは、一体如何なる対象性であるのか? 当人たちは明識的に現認しているわけではないので、第三者的に分析してみよう。」40P
(対話N)「交換当事者たちが商品体に内在しているものと思念している等価価値は、マルクスが説く通り、「商品の幾何学的、物理学的、化学的、その他の、自然的属性ではありうべくもない。」(Ib.S.71.)。「商品の物体的諸属性は商品を使用価値たらしめる」規定性であろうが、価値は使用価値とは全く別種の或るものである。「価値対象性には、自然物の一分子だに入り込んでいない。」(Ib.S.80.)。――常識的に考えても、例えば、コンピューターのソフトウェアと石油と鉄といったものの価値が比較される場合、その価値なるものが感性的・自然的に実在する共通者でありえないこと、そのような共通的な自然的成分は実在しないこと、これは明らかであろう。労働生産物という共通性があると言っても、その労働たるや上述の如き社会的評価・換算に俟つ「抽象的・人間労働」でしかない。ここにおいて、人は、価値対象性なるものは自然的実在ではない以上、たかだか主観的・心理的なものでしかありえないと考え、主観価値説を採りたがることにもなる。だが、マルクスは安易に主観価値説を採るようなことはしない。けだし、人々が客観的等価性の意識を懐いているという厳然たる事実があるばかりでなく、その意識態勢の現存においてはじめて交換という実践的営為、ひいては、経済活動・経済体制が成立しているのであって、当の“等価交換”の存立構制を究明することが要件だからである。――」40-1P
(対話O)「マルクスとしては、それでは、価値対象性をいかなるものとして措定するのか? 彼は、人々が交換的等値にさいして財貨に内属しているものと思念している価値対象性は、それの存在性格を分析するとき何と「超感性的」(übersinnlich)「超自然的」(übernatürlich)な或るものである旨を対自化する。(Vgl.Ib.S.89,102.103etc.)。――唯物論者とあろう者が!と人は驚くかもしれない。超感性的・超自然的な存在とは、哲学者たちが形而上学的存在を特徴づけて言う科白(「せりふ」のルビ)にもほかならないではないか! 懸念は無用である。マルクスは、超感性的・超自然的な価値対象性なるものが形而上学的に(?)実在するなどということをそのまま追認してしまうわけではない。彼は当該の物象化的錯認の構制を剔抉してみせる。――彼は有名な「商品の物神的性格とその秘密」の節において、「商品は、分析してみると、形而上学的詭計に充ち、神学的な意地悪さで一杯」という自覚のもとに、商品(つまり「使用価値−価値」の二要因的統一財態)が「感性的・超感性的な事物」(ein sinnlich übersinnliches Ding)として映現する謎を解いてみせる。マルクスの労働価値説は、以って、価値なるものを感性的・自然的な実在(「レアリタス」のルビ)と見做す理路を止揚する所以のものとなっている。」41P
(対話P)「われわれとしては、しかし、爰では差当り、マルクスの価値論において、価値対象性がおよそ実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にする「超感性的・超自然的」な一種独特の客観的対象性の相で映現するという事態が対自化されるに至ったことの確認で一段落としよう。」41-2P
第八段落――この節のまとめ 42-3P
(対話@)「われわれは、以上、本節の直接的課題を超えることを厭わぬかの風情で――本節の本来的課題からすれば、財態の第一肢的与件項には森羅万象が(意義的価値を負荷する限り)悉く立ちうること、意義的価値を更(「あらた」のルビ)めて負荷する与件項たる限りそれ自身すでに財態たりうること、この旨を陳べ、併せて亦、われわれの用語法では、財態の第一肢的与件を「実在的所与」と敢て呼ぶこと、この間の事情を誌せば足る筈のところ――価値=情動説(という哲学上の価値論の一陣営)および経済学上の価値論に聊か関説するに及んだ。それは、価値とは何でないかを消極的に示すことで、価値を負荷する第一肢的与件たる実在的所与の広袤を追認識しつつ、旁々(「かたがた」のルビ)、価値なるものを実在(「レアリタス」のルビ)(心態的実在であれ物態的実在であれ)に還元しようとする企図の隘路を見定め、価値を積極的に規定するための前段的作業を図ってのことであった。」42P
(対話A)「今茲で論旨を復唱することはしない。が、経済学上の価値に即した論議を想起すれば、善(悪)にせよ、美(醜)にせよ、聖(俗)にせよ、一般に価値が認知・比較される場合――善い、より善い、悪い、より悪い、美しい、より一層美しい、等々――此処には、単なる情感といった主観内部的事件には尽きない“客観的価値対象性”の存立が構成要件になっていることが容易に知られる。その際、しかも、当の客観的対象性は実在的(「レアール」のルビ)所与性ではありえない。例えば草花、音楽、彫刻、文芸、舞踊……を斉しく「美しい」と評価するとき、乃至は亦、そこでの美の程度を比較するとき、諸対象に共通な実在的成分は現存しない。(そこで、実在的成分での共通性を言おうとする論者たちは、主観価値説に傾いて、共通な感情・情動といった心理的実在成分を述べ立てることにもなる。だが、嚮に主観価値説を検討して際に確認した通り、情動的意識内容成分それ自体が価値なのではない。)人が、「評価される対象的価値−評価する志向的意識作用」という構図で考える限り、志向される対象的価値なるものはおよそ実在(「レアリタス」のルビ)とは存在性格を異にするのであって、それはマルクス式に言えば、「超感性的」「超自然的」或るもの、つまりは、現象学派の本質直観説に謂う本質の如きイデアールな存在性格を呈する。従って、人が、価値自体を実在的与件に帰着させようとし、以って、財態を単なる実在的所与に還元しようと企てても相叶わぬ仕儀なのである。」42-3P
(対話B)「斯くて、われわれは、未だ価値自体の積極的規定は遺したままであるとはいえ、差当り、財態の価値性を実在的与件(心的であれ物的であれ、ともかく単なる実在)に還元しようとする理説の不可なること、財態はあくまで「実在的所与−非実在的存在性格の意義的価値」の二肢的二重性の構制をもつこと、これを論定することにおいて、財態の第一肢的与件=実在的所与を立てることが必須である事情を間接的に闡明した所以となる。」43P
(対話C)「翻って惟みるに、しかし、われわれは主観価値説中、情感という意識内容そのものを価値と見做す謬説は卻けたにしても、評価的志向作用を以って価値とするありうべき分脈は預りとしてきた。これの検討は次節(さらには亦本第一篇第三章第一節)での論攷に繰り入れる。尚、そのさい、評価的志向作用が意識内容を謂わば貫き通して意識外の対象へと投出・投入されるという見解をも勘案することになる筈である。この見解は、具体的有用労働(という使用価値性を帯びた主体的活動)が対象化されることで財貨の使用価値が客観的に現成するという発想と、論理構造上、相通ずるところがある。次節(および第三章第一節)での論攷は、本節では検覈に及ばなかった右の発想の把え返しをも含意するものとなるであろう。それはまた、「価値」なるものが「超感性的」「超自然的」な或るものの相に物象化されて映現する機序をも批判的に究明するものとなる筈である。」43P

