2022年01月17日

ローザ・ルクセンブルク/伊藤成彦・丸山敬一訳『ロシア革命論』

たわしの読書メモ・・ブログ577
・ローザ・ルクセンブルク/伊藤成彦・丸山敬一訳『ロシア革命論』論創社1985
この本は、選集の中の第4巻に収められていた「ロシア革命論」の別の編集版の翻訳と、ローザの他のロシア革命に関する論攷を掲載し、訳者の伊藤成彦さんの解説を三点セットとして本にしたものです。この本の存在は知っていたのですが、「ロシア革命論」は選集で読んでいたのと、他の論攷が入っているということを押さえていなかったので、パスしていました。
 最初に目次をあげておきます。

はしがき
第T部 ロシア革命論――獄中書簡から
 1 ロシア革命のために
 2 戦争、民族問題、革命についての断片
第U部 ロシア革命論説――『カンプ』『スパルタクス書簡』から
 1 ロシア革命
 2 ロシアの革命
 3 ロシアの問題
 4 老いたるもぐら
 5 二つの復活祭教書
 6 焦眉の時局問題
  T 戦争と平和
  U プロレタリアートの独裁
  V ストックホルム
  W 二者択一
 7 歴史的責任
 8 破局に向かって
 9 ロシアの悲劇
第V部 ローザ・ルクセンブルクとロシア革命 伊藤成彦
 1 二月革命の報せ
 2 二つの復活祭教書について
 3 労働者、水兵の反応
 4 ローザ・ルクセンブルク救出計画
 5 十月革命前夜
 6 「ロシア革命論」草稿
 7 社会主義民主主義の原則

 さて、「第T部 ロシア革命論――獄中書簡から」は、これまでのレヴィ版は草稿の写しから編集したもので、「かなりの誤りや脱落個所があった。」(「はしがき」)@P、それをおぎなったヴァイルの完全版は、「本文とノートの区別がつかなかった。」APものであり、東ドイツの「マルクス・レーニン主義研究所」編集1974の版が、この訳の底本になっているとのこと、「なお、この東ドイツ版には、草稿に関する注と、草稿の中の事項や主張に関する編集者の注とが一緒につけられているが、翻訳にあたっては性格を異にする二種類の注を分離して、草稿に関する注は本文中に収め、事項や主張に関する注は、参考として草稿の後に付してある。」APとあります。で、図らずもか、図ったのか、「編集者」の注が、「マルクス・レーニン主義研究所」らしく、マルクス・レーニン主義的な注になっていて、それを検討すること自体が、レーニンとローザの論争の検証になるのではと思ったりしています。
 さて、目次に沿って、読書メモを簡単に残します。まず、ロシア革命論草稿の「第T部 ロシア革命論――獄中書簡から 1 ロシア革命のために」ですが、これは、伊藤さんが「第V部 ローザ・ルクセンブルクとロシア革命」の「6 「ロシア革命論」草稿」の中で、「「ロシア革命論」草稿でローザ・ルクセンブルクがボリシェヴィキの政策の誤り、あるいは歪みとして具体的に指摘したのは、農地改革・農民政策、民族自決・講和問題、制憲議会の解散の三点であった。」204Pとしていますが、わたしはレーニンとローザの論点を七点抜き出しました。
@ 土地分配問題
A 民族自決権
B 憲法制定議会の解散
C プロレタリア独裁論の中身――民衆が革命の中から学び発展していくこと40P・・・自然発生性への依拠
D 強制や命令でなく民衆の創造性への依拠(これはレーニンも書いていた)40P
E 政治生活の抑圧25Pと一握りの政治家たちの独裁46Pの進行批判――独裁と民主主義の対立図式(カウツキーも同じ)の批判――カウツキーはブルショア民主主義、レーニンとトロツキーはブルジョア的独裁46P――プロレタリア独裁の規定「階級の独裁とは、つまり、もっとも広く公開され、人民大衆がこの上なく活発、自由に参加する、何の制限もない民主主義の独裁である。」47P――社会主義的民主主義48P――階級の仕事=一握りの政治家たちの仕事ではない
F 情況規定性からの負の制約を正当化することへの批判49P――奇蹟は起こせないとして、レーニン/トロツキーの一定の擁護と、ドイツ国際的運動の自己批判50P――問題はロシアだけで解決できない、国際的に解決51P
わたしの付記、@もAも他党派の関係やそこにおける民衆の要求のとりあげとして出てきたこと、レーニンの現実主義。ただ、Aは英語のnationの民族と国家という両義的な意味における国家主義批判として押さえ直すこと(民族主義は国家主義にからめとられることへの批判)が、肝要。
 ローザも「歴史なき民族」論にとらわれていた58P
 この草稿に関しては、とりわけ民族自決権について、「第V部 ローザ・ルクセンブルクとロシア革命 伊藤成彦」の「6 「ロシア革命論」草稿」で、伊藤さんがレーニンを引用しつつコメントしています。「(レーニン)社会主義の利益が民族自決の利益に優先することを否定することはできないだろう。」208P「むしろその後のポーランド戦争から最近のアフガニスタン侵攻までの歴史を考えるとき、ロシア社会主義の歴史の中で、レーニンの民族自決の原則が果たして本当の意味で守られたことがあったのか、という問題こそが 問われなければならない。」209P・・・民族自決権の虚構とそもそも中味のない「社会主義」、社会主義は定立していなかった。
 さて、ローザのレーニン批判が、変遷しているのか、一貫しているのかという論争があるのですが、レーニンの現実主義的な決定を、そのように追いこまれていくことを理解しつつ、でも、それが未来に何を残すか、またその定式を他の国や地域にも適用するとどうなるのかというところで、原則主義的な批判をしつつ(まさにその論争は、現実主義と原則主義の弁証法なのですが(註)、自分たちのとりわけドイツにおける革命を起こさねば、それぞれの国や地域での連動する革命をおこさねば、ソヴィエト・ロシアは崩壊すると押さえていたようです。これは、ローザの運動家としての基本姿勢ですが、繰り返し自分たちの責任ということを強調していたのです。また、レーニンとも思いを共通していたのですが、それはローザの予測がことごとく当たっていたのです。ただ、スターリンの反民主主義の全体主義的独裁体制が70年も続くとは想起していなかったようです。レーニンも死の直前には、スターリン体制の行き着く先を想起し、スターリン排除を試みる最後の闘争に踏み込むのですが、果たせぬままに亡くなります。時は、70年を経て、「社会主義国」が崩壊したという説もあるのですが、「社会主義国家」と自称していたのは、「国家資本主義」だったということが左派の間で、そして右派の間でも定説化されてきているようです。わたしは、そもそも「プロ独」から社会主義の移行に失敗した、未だ果たせ得なかった「社会主義革命」だったのだ、言いえるのではないかと押さえています。レーニンは、「民主主義的なことをやっていたのでは、革命をやるには百年かかる」と言っていたのですが、むしろ百年経って、あのロシア革命は、むしろ社会変革運動の桎梏になっているのではないかとさえわたしには思えるのです。改めて、ロシア革命を初めとするこれまでの社会変革運動の総括が必要になっているのではないでしようか?
 さて、U部以降は、1から6までが二月革命から十月革命までに書かれた文書、7から9が十月革命を経て書かれた文書です。ローザの姿勢は一貫していて、ボリシェヴィキの方向で進め行くと、必ず矛盾を抱え込んでしまうという批判と、それでもそうせざるを得ないことに追いこんでいる、ドイツを初めとする国際的運動の責任を問うて、ロシア革命との連帯を訴えるものです。いくつかの注目すべき個所だけメモを残します。
「第U部 ロシア革命論説――『カンプ』『スパルタクス書簡』から」
「4 老いたるもぐら」は、ほとんどアジ文です。老いたるモグラとはドイツ社会民主党の主流派批判の揶揄のようです。「国際ブルジョアジーとロシア・プロレタリアートの間の葛藤は、世界状勢の現段階を次のような二者択一として表現しているのである。全般的な出血死に至るまでの世界戦争か、プロレタリア革命か――帝国主義か社会主義か。」93P「老いたるもぐら、歴史よ。お前は立派に仕事をした! この瞬間において、国際プロレタリアートの上に、ドイツ・プロレタリアートの上に、世界史の転換期の偉大な時のみがもたらしうるあのスローガン、あの警告叫び声が鳴り響く。帝国主義か社会主義か! 戦争か革命か! 第三の道はないのだ!」94P
「5 二つの復活祭教書」この文書は、ドイツで進む議会主義的な動向に対する批判の文書です。「ベルリンの「協同作業団」(カウツキーらの独立社会民主党右派)の復活祭教書は、プロイセン選挙法改革に関する皇帝の復活祭教書とあまりにもぴったりと符合している。両者とも、かびくさい気の抜けた政治感覚の産物であって、世界戦争と世界的激動にもかかわらず、何ものにも学ばす、何ものも忘れなかったことだけを真に誇っているのである。」100P
「6 焦眉の時局問題」は、「T 戦争と平和」で戦争の解決にはプロレタリア革命が必要であり、それは「U プロレタリアートの独裁」として成し遂げられる、そして「V ストックホルム」でなされている議論、元の状態への復帰とか民族自決権をめぐっての議論に、ローザは民族自決権批判をなしてきた立場で批判し「民族自決権は資本主義国家の領域内、その支配下では決して実現されない。民族自決のための唯一の現実的前提は、社会主義革命、すなわち、あらゆる民族に本来の大衆としての労働者階級の政治的・経済的自決である。」117P。最後に「W 二者択一」で、「戦争か革命か! 帝国主義か社会主義か!」123Pと二者択一的な提起をしています。
「7 歴史的責任」は、ロシアとドイツの単独講和批判の話です。ですが、それを情況規定的とも押さえ、「全面講和は、ドイツにおける支配権力の打倒なしには達成されえない。」131Pとしています。もうひとつ、ボリシェヴィキを「ペテルスブルクのジャコバン派」129Pと規定しているところにも留目。
「8 破局に向かって」は、ドイツの「帝国主義的発展」と崩壊を押さえています。その論攷は、ナチズムの隆起と次の世界大戦を予期させるような文にもなっています。
「9 ロシアの悲劇」は、単独講和の批判なのですが、「いかなる過失も犯さない革命など存在しはしないのである!」145Pとして(レーニンもローザの過ちを指摘しているので、その対話の深化が必要なのですが)、情況規定性を押さえ「ボリシェヴィキの過ちに対する責任は、結局のところ国際プロレタリアート、ドイツ社会民主党の比類なき卑劣さにある。」147P「ロシア革命の名誉を救うことは、この運命の時において、ドイツ・プロレタリアートの名誉と国際社会主義の名誉を救うことに等しいのである。」148P
「第V部 ローザ・ルクセンブルクとロシア革命 伊藤成彦」
「1 二月革命の報せ」では、ローザが二月革命をどう押さえたのかということで、三点上げています。@「第一の特徴は、二月革命を一九〇五年――七年のロシア革命の継続、発展と見たことである。」156P「したがって、ローザ・ルクセンブルクが一九一七年二月に始まったロシア革命を一九〇五年――七年の革命の継続とみたということは、二月革命を「ヨーロッパでこれからはじまる一連の新しいプロレタリア革命の先駆者」とみたということであり、この革命では「階級意識をもったプロレタリアートが指導的で推進的な要素」をなしている、とみたということを意味するものにほかならない。」157PA「ロシア・プロレタリアートへの動向への注目」157P――「ツァー打倒以後の革命の発展は、戦争遂行に利益を求めるブルジョアジーと帝国主義戦争の終結を求めるプロレタリアート先鋭的な対立にすすまずにおかない、と彼女は展望した。」158PB「ローザ・ルクセンブルクは、このようなロシア革命の分析と展望に基づいて、参戦国のプロレタリアート、とりわけドイツ・プロレタリアートのロシア革命に対する重大な責任を指摘した。」158P
「2 二つの復活祭教書について」は、ロシア二月革命の隆起のなかで、ドイツで起きた動きを押さえた文です。「ロシア革命の報せを受けたドイツ国内で、ロシア革命の影響を受けて起こった際立った動きとしては、次の三つの事柄を挙げることができる。第一には、一九一四年八月四日以来「城内平和」政策によって帝制と一体化してきた社会民主党指導部への批判を強めていた党内反対派による独立社会民主党の結成(一九一七年四月六日――八日)、第二に、プロイセンの三級選挙法の廃止と直接・秘密選挙制の導入等の戦後の改革を宣言したヴィルヘルム二世の復活祭教書(四月八日)、第三に、ベルリンとライプツィヒの軍事産業の金属労働者を中心に三十万人が参加して行われた四月ストライキ(四月十六日――二十三日)の三つを。」162P「ここでローザ・ルクセンブルクは、勅令を発したドイツ帝制を「中世からのかかし」と皮肉るとともに、どこまでも議会主義に立ってスパルタクス集団に反対する協同作業集団を「何と見事な議会主義的クレチン病(ママ)の精華」とからかい、とくに後者に対して、「ロシア革命をただ老朽化したツァーリズムに対するブルジョア自由主義的修正だとみなして、これが同時に世界史的な影響力をもった最初の過渡的プロレタリア革命であることなど思いも及ばないのだ」と批判した。ローザ・ルクセンブルクのこの批判は、勅令と協同作業団の行動綱領という“二つの復活祭教書”の本質を見事に射抜いて、ロシア革命がドイツに波及せずにはおかないことを、当時、もっとも鋭く見通したものであった。/しかし同時にこの時ローザ・ルクセンブルクは、「ドイツのプロレタリアートも全体としてはまた呆然として、革命がロシアで起こった、これは隣国におけるよろこばしくもためになる見世物だ、くらいにしか思っていない」と書いていたが、おそらくこの時獄中のローザ・ルクセンブルクは、四月ストライキに向けての労働者の動きをまだ知らなかったのであろう。ではロシア革命に対してドイツの労働者階級はどのように反応したか。」169-70P
「3 労働者、水兵の反応」は、前の「2」の最後のところを精細に展開した文です。
「4 ローザ・ルクセンブルク救出計画」では、ローザが体調を崩していることもあって、早く獄中から出そうという動きを書いているのですが、ローザが獄中からいろんな手段を用いて、連絡をとろうとしていることがあって、その中で、獄中のローザに当てられた秘密文書を掲載しています。
「5 十月革命前夜」は、「U」の「6」から「9」の解説文です。
「6 「ロシア革命論」草稿」は、最初の「T」の解説文。ローザとレーニンの対話ですが、すでに「T」の読書メモで挙げていた内の、二点「農地改革・農民政策、民族自決・講和問題」について展開しています。「農」の問題は、なぜ、そのように陥ったかを、ローザも押さえていないわけではないのですが、農業問題に対するボリシェヴィキの弱さがあり(ローザ自身もそうですが)、それで社会革命党が農民・農業問題に取り組んでいて、そこで労・農ソヴィエトを作ったことから、社会革命党の要求をのまざるをえなかったということです。民族自決権については、「T」の本文中に書きました。
「7 社会主義民主主義の原則」では、前の三点の残りの一つ「制憲議会の解散」問題です。この問題はプロ独の中身の問題につながっています。「(ボリシェヴィキの論理)革命の利益は憲法制定議会の形式的権利に優先する。」216P(・・・これはすべてに当てはまり、現実的必要性で、原則が踏みにじられることになってしまいます。)「つまり、ローザ・ルクセンブルクがここで問題にしていたのは、単なる制憲議会の解散の可否ではなく、社会主義による民主主義の新しい発展であった。制憲議会の解散からエス・エルの弾圧にいたるボリシェヴィキの一党独裁をすすめるものではないか、とローザ・ルクセンブルクは見たのである。そしてこのような誤りの根源を、彼女は独裁と民主主義を対立させる「レーニン・トロツキーの理論」に求めた。エーベルト、シャイデマンからハーゼ、カウツキーにいたるドイツの社会民主主義者たちは、独裁と民主主義を対立させることによって独裁、つまり社会主義革命を否定し、一方レーニン、トロツキーは等しく誤った問題の立て方をすることによって民主主義の否定に陥っているのではないか。しかし「プロレタリアートの歴史的使命は、権力を握った時に、ブルジョア民主主義の代わりに社会主義的民主主義を創始することであって、あらゆる民主主義を廃棄してしまうことではない」――「社会主義的民主主義こそはプロレタリアートの独裁にほかならない」――「それは大衆の積極的な参加すら一歩一歩生まれ、大衆の積極的な影響下にあり、全公衆の統制をうけ、人民大衆の政治的練習のたかまりの中から生まれてくるものでなければならない」。これがローザ・ルクセンブルクが懐いていた社会民主主義の原則であった。そして社会主義革命に対するローザ・ルクセンブルクのこの原則的な考え方は、ドイツ革命の中でもいささかも変わらなかった。」217-8P(・・・ローザの原則主義)「このように社会主義革命における大衆の自立性、自発性、創造性とそのための自己変革を強く主張したローザ・ルクセンブルクが同時に強く否定したのは、指導者と大衆の二元論に立って大衆を客体視、手段視する考え方であった。政党の綱領としてはまことに異色のものであろうが、「スパルタクスブントは何を求めるか?」の終りに、彼女は「スパルタクスブントは労働者大衆を超えて、あるいは労働者大衆によって支配しようとする党ではない」(傍点(線)は伊藤)と書いて、つねに労働者大衆とともにあることを公約していたのである。」219P
 ここの最後には、「T」の文の出版に関する議論について書かれています。そもそも、最初にこの『ロシア革命論』を公開したレヴィは、ロシア革命に打撃を与えるから出すべきではないとローザを説得したという話があります。伊藤さんは「「ロシア革命論草稿」は、ロシア革命に対する否定的批判ではなく、肯定的、積極的な批判だったからである。」222Pとして、ローザが出す必要を訴えていたことが正しかったとしています。

 レーニンがローザを現実的で自分が原則的だと、批判していることもあるのです。それは民族自決権をめぐる論争です。ただそのレーニンの民族自決権は、中央集権主義や、差別の階級支配の道具論や、社会主義革命の優先論よって、空論になっています。だから原則主義ではなくて、空論的理念主義なのです。


posted by たわし at 01:50| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKETV特集「写真は小さな声である〜ユージン・スミスの水俣〜」

たわしの映像鑑賞メモ063
・NHKETV特集「写真は小さな声である〜ユージン・スミスの水俣〜」2021.10.31
これは062で取り上げた映画「MINAMAT――ミナマタ――」が日本公開されるのに合わせるかのように、「たわしの映像鑑賞メモ031/・NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」2019.8.6 0:45-1:35」に書いたドキュメンタリーとセットにして、BS1で再放送された映像です。今回取り上げている映像は、ユージン・スミス没後40年の2018年11月に放送された番組の再放送なのです。
031のドキュメンタリーで、戦場写真家であったユージン・スミスさんが、戦闘場面から離れて兵士の日常や、避難したり収用された子どもたちの写真を撮っていたように、ユージン・スミスさんは、水俣で三年間にわたり、生活を共にしながら、患者さんたちや、近代化の中で失われていく日本の原風景を撮っていたのです。撮ることに悩みながら。ユージン・スミスさんは写真を撮ることによって患者さんや家族を傷つけているのでは? と撮ることを恐れながら、自問を続けていました。写真を撮る上で二つの責任をとらえていたようです。ひとつは、被写体への責任、もうひとつは、写真を目にするひとへの責任です。
前の(062の)鑑賞メモで書いた、美の話に繋がるのですが、ユージンが「わたしの知るもっとも美しいひとりだ」という少女の写真を1000枚くらい撮りながら、2枚だけ写真集にいれたのですが、それでも全部失敗作だとしています。生きることを壊されている「声なき叫びを撮れていない」と言っていたのです。彼の写真のテーマは「人間として人間らしく生きれているか」ということのようです。
あの有名になった「入浴する智子と母」の写真、家族から、展示や掲載をしないで欲しいと言われ長く封印していたのを、このドキュメンタリーや「MINAMAT――ミナマタ――」の映画で解いて使ったようです。
ユージン・スミスさんは72年1月にチッソの社員から暴行を受けた傷や沖縄戦での負傷の傷もあって、3年で水俣を去らねばならなくなり、78年に亡くなっています。三年間で50人の患者さんの写真を撮ったとのこと。このドキュメンタリーの中で、何人かの患者さんの昔の写真や、今現在の様子や発言を描いています。智子さんは21歳で亡くなり、「「胎児性患者」のひとも殆ど亡くなった」との話もありました。また、いろんな関係したひとたちも出ていて、連れ合いのアイリーンさんも出ていて、ユージンさんのことや思い出を語っています。
このドキュメンタリーの最後のナレーションと字幕で写真集の最後の文を流していました。
「写真集はせいぜい小さな声にすぎない/しかし、ときたまほんとのときたま/1枚の写真がわれわれの意識を/呼び覚ますことができる/写真はちいさな声だ/私の生活の重要な声である/私は写真を信じている/写真はときにものを言う/それが私そしてアイリーンが水俣で写真をとる理由である」


posted by たわし at 01:43| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アンドリュー・レヴィタス監督「MINAMAT――ミナマタ――」

たわしの映像鑑賞メモ062
・アンドリュー・レヴィタス監督「MINAMAT――ミナマタ――」2020
日本で2021年に公開された映画、ビデオオンデマンドで観ました。
水俣病を世界に知らしめた写真家のユージン・スミスさん、闘いの中でスミスさんと結婚した(註)アイリーンさんと水俣病の患者さんの闘いを描いた映画です。ユージン・スミスさんを演じた俳優のジョニー・デップさんが制作にも関わったということで話題を集めていました。
水俣病は、有機水銀を含んだ排水で魚を汚染し、食物連鎖で、それを食べた猫が「踊る」などなどが出て、早くからひとにも被害が出ていたのに、海水で薄められるから大丈夫といって、御用学者たちが会社の擁護をし、会社の工場の労働者がピケを張り暴行をするなどの、典型的な企業の悪を露呈した「公害」問題でした。
 わたしはこの時代を生きていました。丁度教育学園闘争がもりあがっていて、しかも、わたしは応用化学を専攻しようとして大学に入り、まさにこの問題で、「加害者側になるのか」、ということを突きつけられていました。そして、わたしの大学には公害研があり、この映画にも出てくる「怨」の文字を記したのぼり旗の「水俣病を告発する会」があり、この映画で描かれている自主交渉グループの東京本社への実力闘争の取り組みに、その会の提起で支援で参画しました。ちょうど真冬で、会社の中で座り込んで、夜になって毛布が一枚ずつ配られ、それに身をくるんで寝ようとしていた時に、会社が交渉に応じると約束したということで、ビルを出て深夜喫茶で夜を明かしました。
わたしは、専門の授業には一番前に座って熱心にノートを取り、授業を休んだ同級生がノートを借りに来るという生徒だったのですが、そもそも教育学園闘争の中で、自己否定の論理が出ていて、すでに卒業して抑圧的な立場に立つこと自体を否定する方向に向いていたので、この闘争の支援で、入学当時自分が専攻しようとしていた自然科学の道を捨てました。そして、集めていた参考書の類いを後輩に全部安く譲りました。今になって思えば、そしてもう少し時代がずれれば、科学批判の学に進める可能性もあったかも知れないとは思ったりしています。
さて、この映画で話題になっていたことがあります。それは、ユージン・スミスさんの写真は一般的に、水俣病の「悲惨さ」を訴える写真ということで広まったのですが、その「悲惨さ」を訴えることが障害差別的なことになりかねないという批判がでていたことです。
実は、この映画のなかで、ユージン・スミスさんが生活の中での写真を撮らせて欲しいと提起し、手を挙げてくれたひとの家族の写真を撮っていくのですが、その「水俣」で一番有名な写真、母が「胎児性水俣病患者・障害者」との入浴シーンの写真を取るシーンがあります。ユージンさんが暴行を受けて包帯をまいたまだよく動かない手で、アイリーンさんの手助けの中で写真を撮るシーンがあります。その時、ジョニー・デップさん演じるユージンさんが「美しい」とおもわずつぶやくのです。
さて、わたしがこの写真を最初にみたときには、「美しい」という心境ではあり得ませんでした。わたしは「吃音者」で「吃音」や「言語障害」があるCP者が喋っているときに、眼を伏せていました。「吃音者」として視線恐怖にも陥っていました。わたし自身が、「吃音者宣言=障害者宣言」をなしえたのは、それから10余年後です。そして、「障害者」をさまざまな場面で「美しい」と感じるようにもなっています。ユージン・スミスさんの水俣の写真も「美しい」のです。
実は、これはずっと「公害問題」と「障害者運動」の対立の構造といわれていることにも通じていきます。公害問題で会社を告発するとき、「悲惨さ」を訴えかけるとき、それが障害差別になっていくという矛盾が指摘されています。このことを解決する鍵のひとつが「美しい」なのです。
実は、それを「悲惨」とだけとらえるのは、受けとる側の差別的な美意識なのです。こんなことを書くと、「悲惨でないならなぜ補償を求めるのか」という話がでてくるのですが、それはそれまでやっていた仕事ができなくなる生活が保障されないと生きられない、介助が十全に得られないと生きられない状態に会社・国にさせられたからです。また受けたショックから立ち直るために必要なのです。
補償を受けると、今の社会のゲゼルシャフト(利害社会)的地域からねたみ差別のようなことが起きてきます。これは、実は社会変革志向の「障害者運動」が突き出している「すべてのひとに基本生活保障を」ということで解決していくことなのです。もっとも社会変革志向の「障害者運動」自体が危うくなっています。まだ理論的な整理もなされていない情況があります。わたしはその一翼を担っていきたいと動いています。そのようなわたしの、ひとつのきっかけでもあった「水俣」を改めてわたしの中で確認できた貴重な映画でした。
(註)
 次のメモのドキュメンタリー映像では、アメリカで結婚して日本にきたとなっています。


posted by たわし at 01:38| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月18日

ナオミ・クライン『貧困と不正を生む資本主義を潰せ 企業によるグローバル化の悪を糾弾する人々の記録』

たわしの読書メモ・・ブログ575
・ナオミ・クライン『貧困と不正を生む資本主義を潰せ 企業によるグローバル化の悪を糾弾する人々の記録』はまの出版2003
ナオミ・クラインさんの本、環境破壊――気候変動問題で、「読書メモ570・ナオミ・クライン/幾島幸子・荒井雅子訳『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動 上・下』岩波書店2017」を読んでいます。この本は、そこから波及して買ったというわけではなく、スーザン・ジョージさんの本の連続学習をしているときに買っていた本です。積ん読していたのですが、わたしの蔵書をチェックしていて発見し、読んでおこうと引っ張り出しました。この著者は、ジャーナリスト的に動く中で、運動的にも参画していったひとです。この本はまさに、新自由主義的グロバリーゼーションの進行の中でまさに資本主義の矛盾が激化していくなかで、その矛盾に対して立ちあがった、反サミットやさまざまな企業や資本側の国際機関の会議への反対運動が20世紀末から起きました。その闘いの記録のような本です。前に読んだ本は、その中から、気候変動問題を見ないようにしていたことがあり、そこから転換して、気候変動問題に留目して書いた本です。それ以前は、幅広く反新自由主義的グローバリゼーション批判をやっていたのです。
 さて、スーザン・ジョージさんの本は、経済学的なところを押さえながら、新自由主義的グローバリゼーションとか<帝国>的グローバリゼーションとかいわれることの批判を展開して、それを「オルター・グロバリーゼーション」ということで突き出し、「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを突き出しもしています。この本の中で、この本の著者は、ATTACというグループを引っ張って動いていたスーザン・ジョージさんをマルクス主義のインテリゲンチャという規定をしています。わたしは、スーザン・ジョージさんの本の学習の中で、「もうひとつの世界は可能だ」という突き出しをしても、そのイメージが湧いてこない、むしろ1990年を前後するソ連邦の崩壊と東欧の「社会主義」を自称する「衛星国」の崩壊の中で、マルクス葬送の流れが出てくる中で「マルクス主義」隠しをしているのではないか、というようなことを書き、ちゃんと「マルクス主義」の流れから出てきた運動の総括が必要だというようなことを書きました。
 さて、この著者は経済学的な押さえは、スーザン・ジョージさんより弱いのですが、運動的なことを紹介している本なので、スーザン・ジョージさんの本を読んでいてわからなかった運動的なことをこの本で押さええました。
 まず、あの時期に、二〇〇一年「9・11」起きたのです。丁度、この本はそれを挟んで雑誌に書かれた原稿を集めた本なのです。ですから、わたしは反サミット運動がどうしてしぼんでいったのか、よくつかめなかったのですが、「9・11」後の「テロとの戦い」の中で、この運動の実力闘争的展開自体をテロ規定をして、戒厳令的に強権的につぶしていったという過程がこの本から明らかになります。著者のこの本の論攷にも、「テロとの戦い」という名目に誤魔化されているような、引きずられさも出てきています。
 さて、この反サミット的運動の特徴は、いろいろな団体がいろんなテーマを掲げて活動しているということです。この本の中で、メキシコのサヴァニスタの運動が取り上げられています。マルコス副司令官(「副」です)はマスクをして匿名的に動き、しかも政権を倒したら身を引くというようなスタイルです。これまでの、国家権力の奪取という運動形態を否定しています。確かに、必ず反革命的巻き返しが起きることがあり、それをどうするのかという問題があるのですが、そもそも、以前の権力奪取型の運動ではない運動として突き出しています。そのあたりは、同時に、政治中枢の制度要求的な運動と、草の根的な運動の相作論的な運動の展開として、新しい可能性がそこにあると思います。
このあたりは、「議会制民主主義は支配の一形態」というエンゲルスの規定で、民主主義批判があったのですが、「民主主義とは国家主義の反対語」というところでの、民主主義の意義を見出していくというわたし自身の変遷や、インターネットによる直接民主主義への道というところでの、新たな民主主義論の展開をわたしは考えています。
なお、この本の原著のタイトルは「Fences and Windows」です。かなり隠喩的、文学的表現で、それが本文中にも出てくるのですが、残念なことにそれが消し去られています。それらを、「資本主義を潰せ」という展開にしているのですが、内容的にそうなっているかどうか、もう少し、「資本主義」ということの内容展開からする、反資本主義的展開もと、いつものないものねだりです。


posted by たわし at 02:24| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

椎名重明『農学の思想―マルクスとリービヒ』

たわしの読書メモ・・ブログ574
・椎名重明『農学の思想―マルクスとリービヒ』東京大学出版会1976
この本は、エコロジー関係の本を読んでいたときに、何人かの著者が引用したり、参考文献にあげていた本です。そしてリービヒは前の読書メモの本の斎藤さんも触れています。
 リービヒの「物質代謝」という概念は、エコロジー的にキー概念になっています。また、農業による土地の肥沃の掠奪という概念は、マルクスが自然概念や土地問題や資本家の労働者・民衆からの搾取・収奪概念ともリンクさせて、『資本論』やその他の著作、書簡などで引用していることがあります。そのことをこの著者も指摘しています。また使用価値ということが商品生産活動だけから生まれるのではない、土地の自然の使用価値ということから、ひとのよって立つ基盤のようなところから、私有財産制の止揚ということにも繋がっていきます。リービヒの理論自体が自然科学だけではなく、自然科学と社会科学をリンクさせた科学として注目されているのです。リービヒは有機質説に対置させて無機質説を突き出し、ミネラルというところで鉱物的なところに留意したのですが、そのあたり、現代農学からとらえかえしてどうなるのか、リービヒ自体は19世紀のひとです。今日の生態学的な観点に通じる事もあり、また有機農法的なところからリービヒをどうとらえ返すか、現代農学を押さえて置きたいとの思いも出てきます(思いに終わるでしょうが)。そして、自分に対する批判を、水車を回す水に譬えて、対話の中で論的深化に進んで行く、その学的な姿勢のようなこともとても参照されることです。
 目次を出しておきます。
まえがき
序章 日本の農業と西洋の農業
 一 ドイツ人のみた幕末の日本農業
 二 日本式「有機農業」の問題点
第一章 リービヒの農学――その思想と科学
 一 リービヒの再評価
 二 自然の循環に関するリービヒの思想
 三 無機質説
 四 合理的農業論
 五 有機説批判
 六 窒素説批判
 七 資本主義農業批判
第二章 ローズおよびギルバートに代表される近代農業論
 一 農業の基本的性格
 二 ロザムステッドにおける実験
 三 近代的農業のイデオロギー
 四 イギリスのリービヒ
 五 アメリカのリービヒ
 六 日本のリービヒ
第三章 国民経済学的地力概念――J・コンラートのリービヒ批判
第四章 土地に関する思想――歴史的考察
 一 土地囲い込みの自由――近代的自由の消極面に関連して
 二 農村共同体と自然
 三 改良農業と資本主義の精神
 四 農学と地力概念――歴史的概観
第五章 マルクスとリービヒ
 一 思想と科学
 二 人間と自然との物質代謝
 三 土地の自然力と経済的肥沃度
 四 洗練された掠奪農業
 五 資本主義と自然力
 [補論T] モンショットの物質代謝概念について
 [補論U] 玉野井芳郎氏のダヴィッド的・ポランニー的物質代謝について

 さて、ここでは、主に生態学的観点や、マルクスとの関係に留意して、切り抜きメモを残しておきます。
「つまり自然界の生命現象は人間を含む「動物と植物との物質代謝」Stoffwechselの過程であり、「人間がいなくても存続する」とはいえ、「人間の加わりうる巨大な循環」ein großer Kreislauf をなしている。したがって、「補充の法則――すなわち、諸現象はそのための諸条件が回帰し同じ状態を保持するばあいにのみ永続するということ――こそ、自然法則のなかで最も普遍的なものである。」15-6P
「すなわち当時の「フムス説」が無機質と区別された有機質肥料の効用をいっていたのではなく、すぐれた農学者シュヴェルツSchwerzですら「ときほぐせないゴルディウスの結び目gordischer Knotenであり、自然科学の限界である」といっていたように、有機質肥料の効用を「不思議でわからないもの」としていたのに対し、リービヒは化学的「無機質説」を展開しなおかつその観点から有機肥料の重要性を説いたといってよい。」34P
「マルクスのいうように、「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である」ばかりか、「労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない」。いいかえるならば、「自然を人間の所有物として取り扱うかぎりでのみ、人間の労働は使用価値の源泉となり、したがって富の源泉となる」のであって、労働をすべての富の源泉とするのは、はじめから「労働がそれに必要な対象と手段をもっておこなわれる、と仮定する……ブルジョア的な言い方」にすぎない。」52P(マルクス『ゴータ綱領批判』)
「つまり、リービヒの批判は、土地――その自然力――は国民の富の源泉であり或いは人類の財産であるとする彼の基本的立場に立脚するものであったし、彼がそのような立場にたつことを可能ならしめたものは、自然を人間の所有物として取り扱う経済学や法学の立場をはなれ、人間が加わらなくても継続する自然の巨大な循環の中に、自然的存在としての人間をおくという彼の科学的思想だったのである。」54P
「しかし、「合理的農業」というばあい、自然科学的合理性および経済的合理性を問題にせざるをえないように、農学なるものは、自然科学と社会科学――経済学――という二つの異なる科学による基礎づけをもって成立するものといわなければならない。/そもそも農業においては、対象たる自然が、耕地とか牧草地、或いは改良された穀物とか家畜というように、すでに「人間化された自然」であると同時にそれらに働きかける人間が一定の社会関係のもとにある「類的存在」としての人間である以上、それは当然であろう。/ところでまた、農業においては、自然科学的に合理的であることが必ずしも経済的に合理的ではない以上、農学は科学をこえる思想としての性格をもたざるをえない。農学の思想は、農学において二つの科学が統一せしめられるかなめであり、さまざまな理論取捨選択――価値判断――の基準をなす。」59-60P
「「自由とは、他人を害しない限りは何をしてもよい、ということにある」というのは、フランス革命の人権宣言の中核をなす部分である。そしてそのばあい、「自由」の主体的意味は、「人間の自然に備わった諸権利の行使」の自由を意味するのであった。」113P
「たとえば、近代プロレタリアートの「二重の意味における自由というのは、本来は自然的・類的存在である人間が、土地から切り離され、共同体から自由となって「無保護なプロレタリア」vogelfreier Proletarierと化した状態をいうものにほかならない。なぜなら、近代的プロレタリアートのいわゆる「人格的・身分的自由」(=封建的支配・隷属関係からの自由)というのは、とりもなおさず資本の自由の歴史的前提であり、或いは、資本のもとに包摂された労働力の社会的存在状態を表現するものであるにすぎないのであって、したがって彼らが「無保護」であるのは、彼らが共同体から自由であると同時に「生産手段――なかんずく土地――から自由」であることに基づいているからである。」113-4P
 フランス革命における「人権宣言」批判114-7P
「市民社会の奴隷制……の外見が「自由」にほかならない。」117P(マルクス『聖家族』)
「人間は、自然に働きかけ自然をかえることによってみずからの自然をかえてきたのであって、そのかぎりでは、自然からの自由(=自然法則すなわち必然の洞察)は人類の歴史の一面をなす。しかし、自然との絶えざる交流の中でのみ生きうる人間は、自然から切り離され、自然の破壊によってみずからの自然力が失われようとするとき、自分が自然的存在であることを意識する。土地の囲い込みや共同地の収奪に対する共同体農民の反抗に現れた自然法的土地共有思想や、社会の変革期(たとえばイギリス革命、フランス革命、十九世紀末「大不況」、ロシア革命等々)に際して、くりかえしあらわれた、自然法思想に基礎づけられた土地公有論は、まさにそのような意味での「自然からの自由」に対する批判という面をもっていたのであった。」117-8P
「そして実は、「土地は本来人類の共同財産である」という自然法思想に基礎をおく土地公有論には――それぞれの時代におけるイデオロギー的夾雑物をはらいのけてみれば――、資本主義或いは近代的市民社会における生産諸力のあり方(とりわけ、土地や人間の諸自然力が資本の生産力としてあらわれるという仕組み)に対する批判という面が一貫していることがわかる。すなわち、生産手段(なかんずく土地)と結合した直接生産者たちが、自己の労働の生産物を交換し合う共同体社会という理念(ある種の農工結合体理念)には、時代逆行的な消極面と同時に、近代批判という積極面があったのであって、その意味では、それは、社会変革の過程でやぶれ去った少数派の思想という次元にとじ込めてしまうわけにはいかないものである。」118-9P
 エンクロウジャー批判119-122P
「そして、近代農業における技術的発展が多かれ少なかれ土地の自然力を奪うためのものであったように、農業における資本の自由は、結局のところは地力掠奪の自由――すなわち共同体や地主的規制からの自由と自然法則からの自由(=自然法則の無視) ――にほかならなかった。」121-2P
「人間が対象たる自然を変えることによってみずからの自然を変えるということは、簡単にいえば、人間と自然――とりわけ土地――とのかかわり合い方の変化は、人と人との関係の変化をもたらしながら、人間自身の自然観をも変化させるということである。」124P
「生産の「人間的側面」と「自然的側面」との分裂が、「私的所有の最初の結果」であるというならば、資本主義的所有とは、他人の労働にもとづく「剰余価値」の取得であり分配であって、資本の能力としてあらわれる自然の諸力は、すべて資本家自身のものであるということが前提されている。だから「労働はすべて富の源泉である」という「ブルジョア的な言い方」が可能となる。」125P
「実際、ロシアの「偉大な未来のために役立たせることのできる諸制度(注・農村共同体)を救う」ことを意図したマルクスやエンゲルスやナロードニキ、エス・エルの構想は、プレハーノフやストルーヴェ等よってのみならず、レーニンやスターリンによっても「ユートピア」視された。」145P・・・「ユートピア」として切り捨てられたけれど、マルクスの進歩史観的なところからの転換としての意味はもっています。やっと、現在的に晩期マルクスの転換としてとらえ返しの作業がなされています。
「そのような改良農業が、各地の多くの人びとによって、収穫増大のためのすぐれた農耕方法であるというように確認されたとき、農学は、いわば経験科学的なものとして、その歩みを開始したといってよい。」150P
「フランドルやブランバン地方からイギリスに導入され、そこで発展せしめられた後フランスやドイツがイギリス経由で自国に導入したものは、資本制農業であり、その技術的基礎をなした「新穀草式」農法および「輪栽式」農法であった。したがって「改良農業」とは、資本主義的価値判断とそれに適合的地力概念と密接不可分のものであり、そのようなものとしての農学に導かれて発展したということができる。」151P
「第一に、いずれのばあいであれ、「改良」とは収益の増大にほかならなかったし、したがって第二に、あらゆる改良は土地の囲込み=土地利用の自由に結びついていた。」152P・・・収穫の自由と囲い込み  
「「自然科学の立場からの近代農業の消極的側面の展開は、リービヒの不朽の功績の一つである」というのは、『資本論』のなかのマルクスの言葉であるが、このようなマルクス(およびエンゲルス)の評価とはまったく対照的に、科学者や農業経済学者、歴史家たちは、十九世紀半ば以降今日にいたるまで、ほとんど一様にリービヒを非難しつづけてきた。」167P
「マルクスが、「人間と自然との間の物質代謝Stoffweehsel」というとき、それは、人間が自然的・類的・意識的存在として自然との不断の交流過程のなかで生きるということであり、したがって、動物のばあいとは異なって人間のばあいには、単に彼の肉体的生活が自然とつながっているだけではなく、彼の「精神的生活が自然と連関」しているということ、そしてさらに、自然とのかかわり合いそのものが「労働過程」を媒介として行なわれるということを意味している。」171P
「マルクスにとっては、社会的生産のいずれの「歴史的形態からも独立させ」て、「諸使用価値の生産」過程として「抽象的に考察された」労働過程論は、「労働の……社会的な生産諸力と同様、その自然によって制約された生産諸力も……資本の生産力として現象する」資本制生産様式そのものの理論的・歴史的解明のために必要であったのであるが、そればかりではない。それは、彼の人間解放の思想にとっての基本的資格を与えるものでもあった。そのことはたとえば、労働過程は「人間と自然との物質代謝の一般的条件であり人間生活の永遠的な自然条件」であるという彼の言葉、あるいは、そうした物質代謝過程をもって結びついている人間の自然力(=労働力)と土地の自然力こそは人類の永遠の「富の源泉」なのであって、したがって、労働のみが「すべての富の源泉である」というようにいうことは、「人間があらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉たる自然にたいして、はじめから所有者として対し、この自然を人間の所有物として取り扱う」「ブルジョワ的ないい方」にすぎないという彼の批判にあらわれている。」173P
「人間にとっての自然と人間自身の自然が、人間の歴史のなかでどのように生成してきたのか、そしてどのように生成していくのかという点の把握が彼の人間解放の思想の基本的立脚点であったとすれば、そのような彼の自然認識において、とりわけ人間と土地との物質代謝の把握において、リービヒの思想と科学が充分に生かされるのであった。」174P
「いいかえれば、リービヒにおいては、自然は人間を含む動物と植物との物質代謝過程として「生きている自然」であり、そのような意味で、「人間がいなくても継続する」とはいえ「人間が加わりうる巨大な循環ein großer Kreislauf」として把握される。したがって、「自然諸法則のなかで最も普遍的なもの」である「補充の法則」Gesetz des Ersatzes――すなわち「諸現象はそのための諸条件が回帰し同じ状態を保持するばあいのみ永続しうるという法則」――こそは、人間と自然との物質代謝過程とりわけ人間と土地との物質代謝過程の根幹をなす農業のあるべき姿を判断する準拠をなす、ということになる。/マルクスが「リービヒの不朽の功績の一つ」とした「近代農業の消極的側面の展開」――すなわち資本主義農業の自然科学的批判――は、すでに述べたように、リービヒと彼の論敵との激しい論争の過程で次第に明確化してゆくのであるが、しかし、上述のような、人間および動物、植物の生命諸条件の完全な循環=補充という彼の農学に一貫している基本的思想からすれば、そうなる必然性は初めからあったといってよい。」175P
「すなわちリービヒは、自然の循環に基礎をおく彼の思想を、「すべて経験主義的」に、したがって、「処方箋だけで作用の説明がない」東洋的な形で展開するのではなくて、科学的裏づけをもって展開するのであった。」176P
「リービヒのばあいは、それを「有機質的自然と無機質的自然との間に存在」する「驚異的な連関」――つまり自然の循環――の謎をとく鍵として位置づけ、しかも、そのようなものとしての「植物栄養の化学的過程」に関する理論をもって、当時支配的であった肥料の効用に関する「腐敗説」Humustheorie――およびそれに代わって登場してきた「窒素説」Stickstofftheoric――を科学的に批判するのであった。」179-80P
「つまり、「私の水車に対する最大の給水源は私の論敵の方にある」というリービヒにとっては、一〇年以上にもわたる論争およびそれにともなう実験が、彼の「無機質説」の内容を豊富にし明確にする結果になったと同時に、ある種の肥料をもって収穫とりわけ利潤の増大のみを計り、土地の自然力の荒廃などには関心をもたない近代的農業者への批判としての性格を明確にする結果にもなったのである。なぜなら、人間と土地との物質代謝が「無機質論」的に明確にされるということは、当然のことながら「合理的農業」論の「無機質論」的展開を意味するものであったからである。そして、リービヒの「合理的農業論」を基準とする現状認識が、資本制農業批判として展開されたとすれば、彼の歴史認識が過去の農業――とりわけ休閑とか輪作とか厩肥――に対する批判となってあらわれるのであった。」182-3P
「実際、リービヒのいう「収穫漸減の法則」とは、彼の「最小養分律」――すなわち、土壌中の各種植物栄養素のうち、それぞれの必要量に対して最小量しか存在しない栄養素が「収穫の量および収穫可能年数を規定する」――と密接に関連している自然科学的性格のものであり、「二倍の労働は二倍の養分を吸収可能にするわけではない」ということなのであった。」183-4P
「それゆえ、リービヒによれば、土地の肥沃度は「特定作物の生育に必要な植物栄養素のすべての量に比例」するものであり、したがって肥料は土壌と作物の性質に応じて適正な比率をもって配合される必要があるし、農産物の販売によって失われるそれぞれの養分の量と各種肥料の必要量とを「経営管理のうまくいっている工場の会計簿のように……正確に記録」しておきさえすれば――そのために化学者と農業経営者が協力すれば――「合理的農業に到達しうる」ことになる。」184P
「・・・・・・さきの個所でマルクスが引用しているリービヒの言葉――「さらに細かく粉砕し、繰り返し犁耕することによって、有孔性土壌内部での空気の流通は助長され、空気の作用をうける土壌面は拡大され更新されるが、しかし、容易に理解されるように、耕地の収穫増大は充用される労働に比例するものでありえず、ずっと小さい割合で増加するにすぎない」という指摘――は、むしろマルクスが同じ個所の本文でのべていること――すなわち、「資本制農業のあらゆる進歩は、ただ労働者から掠奪する技術における進歩であるだけでなく、同時に土地から掠奪する技術の進歩であり、また、ある与えられた期間内に土地の豊沃度を高めるためのあらゆる進歩は、同時に豊沃度の耐久的源泉を破壊せしめるための進歩である」といういわばリービヒ思想の真髄――につながるものであることがわかる。」184-5P
 ロシアの土壌学者のリービヒ無理解185P・・・マルクス・レーニン主義者的無理解?
「有機質論」=「フムス説」188P――必ずしも否定ではない195P註(5)
「したがって、リービヒ流儀にいえば、「三圃制」とは三年分の収穫を二年でとることであり、「厩肥農業」Stallmistbetriebは、農産物を販売せず、人間および家畜の糞尿、麦わらなどをすべて肥料として土地にかえす自給自足の経営を前提するかぎりにおいては、完全に「合理的経営」たりうる――すなわち 完全に地力を維持できる――性格のものである。」189P・・・自給自足的でないと、「合理的農業」たりえない?
「――すなわち、収穫高だけで肥料の効用をはかる――「実際的農業者」や多くの化学者たちが、ますます窒素肥料万能論的傾向を強めていくからであった。」191P・・・窒素肥料万能論批判
「彼ら(ローズおよびギルバート――リービヒの論敵、「風車の水」)にとっての唯一の現実である資本主義的農業にとっては、誰がつくったものでもない――したがって、経済学的な意味における価値をもたない――自然力が計算に入らないのは当然だったからである。」193P
「そしてマルクスは、すでに見たようにリービヒの「農業史に関する概観に……卓見」を見出すと同時に、とりわけ彼のこのような「近代農業の消極的側面の展開」を「リービヒの不朽の功績の一つ」とし、さらに『資本論』の草稿を書きおえた後においてもなお、「鉱物肥料論者と窒素肥料論者とのあいだの論争」のその後の経過に関心をよせたのであった。それはいうまでもなく、リービヒの農業史に関する概観が、ラスパイレスのいうような意味で「唯物史観」的だったからではなく、人間と土地との物質代謝という観点からする彼の農業の発展過程に関する把握をマルクスが評価したからであり、そしてまた、同じ観点からするリービヒの資本主義的農業の現状認識が、『経済学・哲学草稿』以来の――とりわけ『資本論』における――マルクスの資本主義批判あるいは経済学批判の基本的視角に通じる面をもっていたからであった。」193P・・・マルクスのリービヒ評価のまとめ的文
「・・・・・・「自然にたいしてはじめから所有者として対し、この自然を人間の所有物として扱う」のが、ブルジョワ的な自然把握だからである。」196P
「テナント・ライト(tenant right)の補償」197P
「ところで、人間と自然との物質代謝そのものが商品形態をもって行われるというところに資本制生産の基本的特徴があるというならば、その基礎をなす「都市と農村との分離」は、「人間と土地との間の物質代謝を……攪乱する」第一の要因であるばかりか、ひいては「都市労働者の肉体的健康と農業労働者の精神生活を破壊する」ことになる。」198P――203P註(16)エンゲルス「人間の解放は都市と農村の対立が廃止されてはじめて完全となる」
「それは要するに、農業そのものを人間と土地との間の物質代謝過程として把握するリービヒの「無機質論」が、論争と実験を通じて行われた現実とのかかわり合いのなかで、土地――その自然力――は人類全体の財産であるという視点を獲得したとき、いわばその必然的な結論として展開することになった資本主義的農業の消極的側面に対する自然科学的批判であったといえる。」200P
「公害や自然破壊の深刻化とともに、人びとはいま「有機農業」を再認識し、エコロジーに再び関心をよせている。第二次世界大戦中における食料増産その他による牧草地の開墾や輪栽式農業(すなわちヨーロッパ的「有機農業」)破壊に対する反省がエコロジーの発展となったとすれば、「フムス論」的有機農業論も、それ自体資本主義批判のあらわれであるにちがいない。しかし、公害等の本質的批判のためには、リービヒを引用しつつマルクスが、平均労働時間を一〇時間に制限したイギリスの工場法(一八五〇年法)をグアノ肥料にたとえたことを思い出してみる必要があるであろう。」201-2P――註(26) 「工場労働の制限は、イギリスの耕地にグワノ肥料を注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一方の場合には土地を疲弊させたその同じ盲目(ママ)的な掠奪欲が、他方では国民の生命力の根源を侵してしまった」204P


posted by たわし at 02:19| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TBS報道特集「「強制連行」を巡って追悼碑撤去の波紋」

たわしの映像鑑賞メモ061
・TBS報道特集「「強制連行」を巡って追悼碑撤去の波紋」 2021.12.11 17:30〜18:41
太平洋戦争の時、朝鮮半島のひとたちや中国人捕虜を「強制連行」して日本で働かせたという歴史があり、その追悼碑が日本のあちこちにあるのですが、「強制連行」という文字があったり、その碑を作ったひとたちが「強制連行」という言葉を使っているとか言って、それを撤去させようという「運動」が起きている、という報道特集です。「強制連行」の話は、「従軍慰安婦」の問題でもあるのですが、この徴用工の問題は「強制連行」はあったという資料もきちんとあり、この番組でも流されていました。それを、なかったことにしようという、いわゆる「歴史修正主義」の動きです。ドイツでもネオナチのひとたちが「アウシュビッツはなかった」ということまで言い出し、日本でも「従軍慰安婦」もいなかったという右翼の主張も出ています。そのようなところで検定教科書の改変も出てきています。論点をすり替え、一部自ら進んできたひともいた(これさえも植民地支配のなかで追いこまれている側面もあるのです)という話を、「強制連行はなかった」という話にすり替えています。
 恐ろしいのは、日本維新の会が、「強制連行はあったのか」という質問書を出し、「「強制連行」という言葉は使わない」と閣議決定したという話です。それが撤去運動とシンクロしているのです。日本維新の会で共同代表になった馬場議員がインタビューに答えていたのですが、「みんなが強制連行で連れてこられたわけではない」と意味不明のことを言っていました。碑に「みんなが強制連行で連れてこられた」と書いているわけではないのです。一部違うひとがいるのを強調して、その問題自体がなかったことにする右翼の常套手段なのです。
 これまでの「侵略と植民地支配」やこれらの問題での「謝罪」が出ていて、一方で自民党右派から、「いつまで、謝ればいいのだ」という文言が出ているのですが、およそ、そのような発言は、謝罪の意味も分からない、謝罪をリセットする動きで、今回の閣議決定自体が、謝罪をリセットすることだということが分からないのでしょうか?
日本維新の会は自分たちがシンクロしていた自民党右派の安倍元首相とそれを継承する菅政権が崩壊し、保守岸田政権になって、野党色を出してきています。これは、今回(「反障害通信」114号)の巻頭言に書いた、まさにファシズム的な動きなのです。
 維新の会は政権与党には名目的にはなっていません。だから対右翼政党として批判していくことです。ですが、最も謝罪のリセットの一つである靖国参拝を政権与党の自民党議員が繰り返していて、なにが「いつまであやまればいいのだ」ということが言えるのでしょう。閣議決定をとりけし、靖国参拝する与党国会議員は自らの政党から除名することです。安倍元首相は首相を辞めた途端、靖国参拝しました。およそ、責任の概念のない、政治家の資格がないとしかいいようがありません。こんな政治をいつまでゆるしているのでしょうか?



posted by たわし at 02:05| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TBS報道特集「徹底検証!「旭川いじめ」学校はなぜ認めないのか」

たわしの映像鑑賞メモ060
・TBS報道特集「徹底検証!「旭川いじめ」学校はなぜ認めないのか」 2021.11.27 16:30〜17:51
旭川の中学校で、女子生徒がいじめられた苦しみから逃れられず自死しました。いじめがあったのは明々白々なのに、学校・教育委委員会が認めず、雪の中に薄着で出ていって公園の中で凍死したのです。発見されたのは雪が解けてから。これは、表面的には自死ですが、他殺と対語の自殺ではなく、いじめた子どもたちといじめを阻止しなかった・認めようとしなかった学校・教育関係者による殺人です。
お母さんが学校側と交渉している中で、教頭が「(いじめた側の)10人と1人とどちらが大切か、10人を守る」などと言っていたという話も出ていました。ひとの命を数の問題にしているようです。どっちが加害者でどっちが被害者なのでしょうか? それに、そのいじめは他にも起きます。いじめをしていた子どもたちの将来を考えたら、ぞっとするのはわたしだけでしょうか? きちんと反省させるように導くのが教育なのではないでしょうか? いじめをしている子どもたちも救わねばならないのです。結局、学校と組織と自分(たち)を守るための詭弁です。その他のいじめ事件も取り上げていました。学校は腐りきっているのです。金平キャスターが、「子どもの世界は大人の世界の合わせ鏡」という話をしていました。まさに、今の社会も腐りきっているのです。
どうしていじめが起きるのかということをもっと掘り下げて、教育を、社会を変えていく道筋を見出していかなくてはならないのです。


posted by たわし at 02:00| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月17日

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

たわしの読書メモ・・ブログ573
・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020
この本は、インターネットで話題になっていて、この著者はときどきテレビに出ています。経済学者の森永卓郎さんが、学術会議任命拒否事件が起きていたときに、「かつて、経済学には近経とマル経という二大潮流があったのだけど、マル経が大学の講座から消えてしまった」という話をしていたのですが、このひとはまさにマル経で、大学の教員をしていて、しかも、マルクスの『資本論』を冠したこの本が30万部以上も売れ、しかも、テレビにまで出ています。流れが変わってきているのでしょうか?
 この読書、急遽情況への発言として対話的に、急遽挟み込む読書として、当初の予定から、前々回の上野さんのミソニジー論、吉留さんの中国で粛正された朝鮮人革命家の話に続いて読んだのです。実は、上野さんの本は挟み込んだと言えるのですが、それでも、マルクスの思想を切り捨てたらどうなるのか、というところで繋がっています。もちろん反差別というところでは、基底的に繋がっていきます。今、エコロジーというところからとらえ返す作業をしていて、3回前のナオミ・クラインの本とこの斎藤さんの本は、ダイレクトに繋がっています。実際、斎藤さんのこの本の中で、ナオミ・クラインさんの本を紹介しています。そして、前回の吉留さんの文の読書メモにも書きましたが、吉留さんは文の最後に、この斎藤さんの本を紹介しています。まさに、マルクスの読み直しの必要性として。
 マルクスは、晩期にその主著『資本論』の執筆にあたりつつ、1巻を出しただけで、自ら完成し得ませんでした。その間に、膨大なメモと、学習ノートを残しています。これまでに『マルクス=エンゲルス全集』というものがあり、日本語訳も出されていたのですが、それは実は、『全集』とは言い難い、『著作集』に過ぎないもので、今新しいMEGAと略称される全集の編集作業が国際的に行われていて、この著者も参加しています。この国際的な作業に、もうひとり、この読書メモで「物象化論」というところから切りこんでいるととりあげた佐々木隆治さんも、参画を書いていました。この本の中でもそのことが紹介されていました。この作業で、今、日本語に翻訳されているのは、『資本論草稿集』があります。そこに収められている、「経済学批判要綱」とかその中にある『資本主義に先行する諸形態』とかは、もうずっと前に翻訳されていました。
さて、著者が書いているように、なぜ、マルクスが『資本論』執筆に集中しなかったのかというと、まさに自然科学的なことを含めた膨大な学習のノートがあり、晩期マルクスの中で転換のようなことが起きていたということで、作業の遅れと未完成があったと著者は指摘しています。さて、斎藤さんの編集作業への参画は主に、切り抜きメモなどの研究ノートの部分を担当しているようです。
さて、晩期マルクスの転換の指摘は、すでにいろんなひとからなされています。まず、著者がこの本の中でも展開していることを指摘しておけば、インドやロシアの農村共同体研究、「ザスーリッチへの手紙」の中でのロシアの共同体ミールの評価、そして、ここでは書かれていないこととしては、『資本論草稿集』に載せられていて、文庫本ですでに出されている『資本主義に先行する諸形態』で押さえられていたアジア的生産様式論の発見による単線的発達史観の止揚。「共産党宣言」や書簡などに書かれていた、イギリスのインド支配を「野蛮の文明化」というようなところでとらえていたことを、その共同体が資本主義的発展を経ないでも、社会主義への道とリンクしえるのではないかと考えたこと。また、この本の中では書かれていないのですが、アメリカの先住民の研究からなされたモーガンの『古代社会』を中心とする古代社会の研究からする、マルクスの「古代社会ノート」(これは旧「全集」にもあります)で、古代社会の共産主義的な内容を押さえていました。それらのことから、そして「野蛮の文明化」とか「歴史なき民族」というとらえ方からする、民族植民地問題をとらえられなかったことから、アイルランド問題を押さえることによっても、マルクスのなかで、『資本論』の執筆過程で、単線的発達史観、進歩史観のようなことから脱することとして、あったのだと言いえます。
さて、話をこの本に戻します。このタイトルにある「人新世」ということ、不勉強なわたしには初めて知ったのですが、「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世(「ひとしんせい」のルビ)」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。」4Pとあります。経済学的に言えば、グロバリーゼーションということにリンクすることなのです。
この本のキーワードは、「脱成長のコミュニズム」という突き出しなのですが、マルクスは直接的には、脱成長ということは言っていません。そもそも、マルクスは生産力の発展の中で生産様式との矛盾、そして利潤率の低下法則からする資本主義の崩壊を想起し、論攷していました。そこで、生産力の発展が共産主義革命につながるということでの生産力至上主義に陥っていたのです。それはまだ、マルクスの時代は、「帝国主義的」植民地支配がまだ進行途中であったときで、「帝国主義論」的なことはまだきちんと展開するに及んでいません。マルクスは、資本主義の発生時の本源的蓄積論を取り上げていましたが、「帝国主義」時代の継続的本源的蓄積論を押さえていたのか、著者はそれはマルクスにはあったとしているのですが、確かに、マルクスにも「帝国主義論」的な展開の指向は出ていたのですが、充分には展開し得ていません。マルクスが自ら『資本論』を完成できなかったことも、そこからくるひとつのゆえんではないかとも言いえます。そのあたりのことを展開したのが、ローザ・ルクセンブルクの「継続的本源的蓄積論」です。そのながれから従属理論や世界システム論、そしてネグリ/ハートの『<帝国>』も出ています。そして、植民地の独立運動の中で、新しいシステムとしてのグローバリゼーションということが出てきます。グローバリゼーションの時代は、経済成長ということを追い求めると、「後進国」からの収奪の激化、矛盾を「後進国」といわれるところに転化するしかありません。それだけでなく、国内的にも貧富の拡大、収奪の激化、そして差別主義的なことの激化しかもたらしません。そのことのひとつが、とりわけ、「後進国」や貧しいひとたちに被害を集中化させる気候変動問題や環境問題として現れているのです。ですから、この本の冒頭に書かれているSDGsということも、「持続可能な開発」なり「持続可能な経済成長」という意味では、そもそも「経済成長」などは、より矛盾を激化させるものでしかなく、破綻していく代物でしかないのです。
この本の中で、著者がマルクスの押さえとして出しているのは、生産力至上主義のようなこと、それまでの進歩史観的なことからの転換なのです。
 資本主義の精神は、この本の中でも書かれていますが、「洪水よ、我が亡き後に来たれ」ということなのです。今、気候変動問題で若いひとたちが立ちあがっています。自分たちの生きる社会がなくなってしまうという危機にさらされているからです。そもそも、資本主義は私有財産制の相続で成り立っているので、「洪水よ、我が亡き後に来たれ」ということでは何のために、金儲けするのかという意味を問われるのですが、資本主義とは同時に「人格の消失」でもあるのです。この本に書かれている、コロナということでも環境破壊の中でおきていることや、惨事便乗資本主義などなど(SDGsということもその一端に過ぎないのですが)、資本主義の矛盾の極大化を読んでいると、わたしには「資本主義止めますか、人間止めますか」との標語が浮かんできます。
気候変動の問題とか、社会は変わらないという絶望から考えないようにするという指向が働きます。「今だけ、ここだけ、自分だけ」で余計な事は考えないという指向が働きます。それは、過去の運動の否定的なことがきちんと総括もなされないまま残っているからです。若いひとたちにはそんなとらわれはないのかもしれませんが、運動の行き詰まりや議論過程でそんなことが出てきます。この本の最後のまとめがオプティズムに陥ってしまっていると感じてしまいました。この本は気候問題や環境問題から資本主義そのものの矛盾を批判しているのですが、運動の総括から運動の展望のようなことも示さないと、結局絶望に陥っていきます。それで、前の読書メモとリンクしていきます。今こそ、運動的な総括が問われてもいるのです。
さて、著者は気候変動や環境問題に焦点をあてて、マルクスの読み直しから、新しい社会像を模索しているのですが、マルクスの読み直しはいろんなベクトルからなされています。物象化論的に脱構築論的に既成の考え方を問題にしていく、国家主義的なところや差別ということから権力にとりこまれていく構図があり、そこからの脱出の模索もあります。わたしは、障害問題を軸に反差別論的にマルクスをとらえ返す作業をしています。競争原理批判や優生思想批判というところから著者の「脱成長コミュニズム」と共鳴していくのです。
 この本は資料的に貴重で、更に学習を深めていく文献の紹介をしています。ですから、索引的にキーワード的に抜き書きをしようかという思いも出ていました。とても、そんな時間は作れそうもありません。ですから、キーワード的なことを書き置き、それに簡単なコメントを付けるに留めます。この本は、大切な本です。世界観が変わるようなこともあるかという貴重な本です。また学習会などに使える本、読んで欲しいと思います。
 リービッヒ156P・・・次回の最初の読書メモとリンク
カール・フラース162P
「資本主義が「科学主義との闘争状態」にある」――「西洋社会において資本主義が「闘争状態」にある科学とは、リービッヒやフラースのように環境へのまなざしをもった「科学」のことである。つまり、エコロジーだ。」188P・・・むしろ科学(技術)が資本主義的収奪・搾取に使われてきた側面も押さえる必要。科学主義と人間主義の対立は、進歩史観と倫理主義の対立という意味ももってしまっている。
脱成長コミュニズム198P
「マルクスは自分の理論的転換があまりにも大きすぎたために、死期までに『資本論』を完成できなくなったしまった。」204P
 加速主義207P
アンドレ・ゴルツの「開放的技術」と「閉鎖的技術」226P
「潤沢さ」230P
「ローダデールのパラドックス」――「私財(private riches)の増大は。公財(public wealth)の減少によって生じる」――「「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。」224P・・・希少性を創り出す――資本になる
「他人を犠牲にして私腹を肥やす」245P・・・資本主義の精神
「新自由主義の緊縮経済は近いうちに終わるかもしれない。しかし、新自由主義であろうがなかろうが、資本主義が続く限り、「本源的蓄積」は継続する。」250P・・ローザの継続的本源的蓄積論、逆に言えば、継続的本源的蓄積がなければ、資本主義は破綻する。差別はその中身のひとつ、反差別運動の持つ意味。
惨事便乗型資本主義252P
コモンの再建258P
「<市民>営化」259P
 ワーカーズ・コープ262P
「私たちは、十分に生産していないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから、貧しいのだ。これが「価値と使用価値との対立」である。」――「人工的希少性に依拠した資本主義」268-9P
「自己抑制」という罠276P
「クーロンやゲノム編集もやりすぎてしまえば、・・・・・・」275P・・・?科学主義的。これらはひとの存在を危うくする技術で封印すること。「通信」112巻頭言参照。
「マルクスは社会的生産・再生産の次元にこそ焦点を当てたのである。」292P・・・再分配の問題ではなく
 人新世時代のマルクスのアップデート5点「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャル・ワークの重視」299P
加速主義ではなくて、減速主義で300P
「労働の廃棄」「労働からの解放」批判306P・・・?マルクスの労働概念をとらえ直した今村仁司さんの「労働から仕事への転換論参照、ジョブやラヴァーとワークの違い?
「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)vs.エッセンシャル・ワーク」314P・・・サブシステンス概念からも
「ブエン・ビビール(良く生きる)」321P
「ファイアレス・シティ」328P
「気候正義」336P
「従来の地方自治が閉鎖的であったのと対照的に国際的に開かれた自治体主義」――「ミュニシパリズム」338P
「息ができない」のつながり347P
「革命の「梃子」はアイルランドにある」348P・・・マルクスの民族・植民地問題の転換もアイルランド問題から
「グローバル・サウスから学ぶ」349P
  政治、経済、環境の三位一体性355P
「三・五%」362P・・・変革の発端・始まり


posted by たわし at 18:26| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

吉留 昭弘「『アリランの歌』再考」

たわしの読書メモ・・ブログ572
・吉留 昭弘「『アリランの歌』再考」(『反戦情報』所収)2020-1
この本は中国のスターリン主義への反対派のひとたちを取り上げた、「たわしの読書メモ・・ブログ510・吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』社会評論社 2019」の著者の『反戦情報』という雑誌に9回に渡って連載された論攷です。コピーをもらって読みました。
『アリランの歌』は、ニム・ウェールズ(エドガー・スノーのつれあい)が、中国革命に参加した朝鮮人のキム・サン(ニム・ウェールズが付けたニックネーム、本名:張志楽)にインタビューして書いた共著本です。そもそも中国共産党の傘下にあったひとにインタビューできたのは、毛沢東とエドガー・スノーの関係があったからのようですが、このインタビューをした後、共著本が出される前に、キム・サンは粛正にあっています。スターリンの反対派への粛正の中で、その余波が中国にも及び、そういう中での常套的でっち上げ的粛正だったのですが、この論攷を読みながら、わたしが想起したのは、ロシア革命やドイツ革命に参画したポーランドの社会主義者のことです。ひとつ違いを感じたのは、ポーランドのひとたちは、それなりに、位置を占めたし、ドイツ革命においては主導したのですが、朝鮮人革命家たちは使い捨て的な待遇にあっているということです。ポーランド人たちも、多くはスターリンの粛正から逃れ得なかったのですが。
 さて、この連載は、単にキム・サンのことだけでなく、その背景としてのロシアでの党内闘争な粛正を押さえ、中国内の整風運動という名で行われた粛正、さらに文化革命や天安門事件まで押さえています。前に書いた吉留さんの本の読書メモの中で、だいたい押さえていることがよく整理されていました。そもそもロシア革命、中国革命とはなんであったのか、その負の遺産のようなことを感じざるをえません。
 この論攷の文は、たまたま丁度次の読書メモの本を読んでいる間に挟んで読んだのですが、その本の紹介がこの文の最後にされていました。斎藤幸平『人新世の『資本論』』です。その本の中で、マルクスのとらえ直し、晩期マルクスが進歩史観的なところから脱していくことを、気候変動・環境破壊問題とからめてマルクスの読み直しの作業を展開しているのです。わたしはそのマルクスのとらえ返しとリンクさせて、スターリンや毛沢東の粛正を、単に個人的な性格の問題として押さえるのではなく、スターリン主義や毛沢東主義のみならず、レーニンやトロッキーやローザ、他の革命家たちとの論争にまで遡った運動の総括のようなことがいまこそ必要になっているのだと思えます。トロツキーやローザが、そもそも、レーニンの中央集権制論を批判していたこと、その中央集権制論の延長線上にレーニンの「分派の禁止」という方針提起と党の決定が出てきて、まさにスターリンの粛正の道を拓いたこと。また同時に、レーニンの民族自決権も虚構になり、レーニンのそのあたりの押さえ切れなさがスターリンの民族自治国家論での自治潰しを招いたこと。プロ独論がなぜ党の独裁に変節したのか、そこにおける国家論との関係、すなわちマルクスが『ゴーター綱領批判』で、社会主義への転換を国家の死滅への道を歩み始めることとしていたのに、レーニンは国家は社会主義でも継続していくとしたことがスターリンの一国社会主義の建設論につながり、党の独裁の道を進んだこと。ローザがコミンテルンの形成がロシア共産党・ボルシェヴィキの路線の押しつけになると反対していたこと。まさにそれらの当初議論していた「レーニン主義」の集大成として、スターリン主義への道を招いてしまったこと。
 今、共産党や共産主義・社会主義を名乗る党や党派がいまだに、マルクス・レーニン主義の運動論や革命論の総括がなされていないことこそが問題なのだと思えるのです。その作業をなしえないことには、未来社会の展望が切り開けないのだと思うのです。


posted by たわし at 18:23| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上野千鶴子『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』

たわしの読書メモ・・ブログ571
・上野千鶴子『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』紀伊國屋書店2010
 この本はずっと積読していた本です。小田急電鉄で傷害事件(註1)が起きて、それに「小田急フェミサイド」という批判が女性たちから起きていました。「フェミサイド」というのは、フェミニスト・フェミニズムのフェミとジェノサイドをくっつけた造語で、サイドには殺害という意味があるようです。かつて、フェミニズムの学習をしたひとからは、「ミソジニー」という言葉も出ていました。その時に、江原由美子さんから「ミソジニーは、女嫌いではない」という解説も出ていたのです(註2)。わたしの記憶と認識では、「ミソジニー=女嫌い」で、しかもこの言葉が広がったのは、確か上野千鶴子さんが、「ミソジニー」をタイトルにした本を出したからという認識がありました。上野さんと江原さんの間では、かつて大昔前ですが、上野さんからの文化主義批判での論争がありました(註3)。何故、江原さんが上野さんの本のコメントもしないで「ミソジニーは、女嫌いではない」という解説を出したのか、そもそも上野さんはかの本の中で、何を書いていたのか確かめねばと、急遽、読書計画の中に入れ込みました。
 わたしが反差別論の学習の中で、フェミニズム・女性学の学習をしなければと、一時期はわたしの被差別の当事者性の障害問題よりも、多くの本を読んでいました。勿論、差別の総体的学習で性差別の問題を外せないということがあったのですが、わたしは元々自らの総体的差別性を自覚していて、すくなくともその差別性を実践から克服できないまでも、理論的に押さえて置かねばと性差別の問題の学習に取りかかっていたのです。そういう中で、その学習の導き手が上野さんでした。上野さんは、コピーライターのような刺激的なことばを紡ぎ出し、歯に衣着せない鋭さの批判をしていました。勿論、学者世界のルールから逸脱はしないのですが、それでも、「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」というタイトルの本が出るくらいでした。
 上野さんはマルクス主義フェミニズムの日本における紹介者でした。自身もマルクス主義フェミニズムの流れの中にあることを自認していました。ですが、「私はマルクス主義者ではない」という主張もしていました。そもそも「私はマルクス主義者ではない」という主張は、あちこちで起きていました。@ひとの名を冠した○○主義ということばが、ひとのカリスマ性を強調するドグマとなる傾向がありそれに対する批判としてA「マルクス主義」が学問の世界で排撃されていく中で、「マルクス主義」を名乗ることの不利益性としてBそもそも「マルクス主義」名乗るひとや集団が差別の問題をとらえていないというところで、マルクス主義批判の脈絡にて。わたし事を書いておきますが、わたしは@とBにおいて、わたしも「わたしはマルクス主義者ではない」ということを書いたりしています。ただし、わたしは学者ではないのでAの立場は関係ないので、わたしはマルクスの思想に影響を受け、マルクスの思想を全否定するとわたしの思想は成立しないという意味で、「マルクス派」ということは自認しています。
 さて、何故こんなことを書くのかというと、サルトルやデリダが「マルクスの思想は現在社会(資本主義社会)では乗り越え不可能な思想」と突き出したことと繋がっていきます。わたしは上野さんの出される本をずっと追っていました。その勢いで行くと、過去の絶版になっている本も探しだし、そして雑誌に掲載された文も追うつもりだったのですが、何かおかしいと感じ始めました。それは論考の掘り下げが止まっているということに気付いたのです。それは、先のAのことから来ているのではと思っていたのです。それで、後に上野さん自身から構築主義関係の本が出されるに及んで、わたしは、上野さんのことを「マルクス主義フェミニズムと構築主義フェミニズムの二つの土台に足をかけてフェミニズムの旗を振っている」というイメージを持ち続けていた(二つの立場でフェミニズム理論を展開していると押さえ続けていた)のです。ところが、その押さえの間違いに気づいたのは、インターネット上のシールズの若者との対談で、「資本主義はなくならない」「市場経済はなくならない」ということで共鳴し合っていたのを読んで驚愕したことから始まります。「驚愕した」「始まります」という言葉は適当ではないかもしれません。わたしは、上野さんの論攷が、すでに近代合理主義的リベラリズムに陥っているのではないか、不合理・不条理な差別は許さないというところで性差別をとらえることに陥っている、不徹底な反差別に陥っていると考えだしていました。先に、上野さんの本を追おうとしていたと書きましたが、あるときから違和を感じ始めていました。それは、論考が心理学的ミクロの分析の展開になってきたからです。この本を買って積読してしまったのも、それから何冊か買うのもパスしたのも、そのようなところからで、今からとらえ返すと、先に書いた上野――江原論争で文化主義批判をしていたのに、心理学的・文化的論攷に上野さん自身が陥っていったのではないでしょうか? この本も、文芸評論、文化批評的な展開になっています。
 そもそもマルクス主義フェミニズムは、家事労働(家事を労働としてとらえるのはこれもまさに物象化なのですが、これまでの定式化されたマルクス主義フェミニズムでは家事を家事労働としてとらえています)を労働力の生産・再生産過程としてとらえています。そして、家事を担うのを主に女性とすることによって、そして労働第一主義の中で、そのことから規定されて性差別が発動します。さて、ここで上野さんがマルクス否定に陥ったところで、近代合理主義的リベラリズムに陥ったと先に書いたのですが、そのことは中身的に何かというと、競争原理へのとらわれなのです。ここで、やっとこの本に戻って来れました。
 この本でミソジニーとして展開されていることの分析が上野さんでは、フロイト的心理学主義に陥りがちです。そもそもフロイトの心理学は生物学的性欲ということに規定されるひとの行動になっているのですが、そもそも他の生物には、フロイト的心理学は適用されません。近親相姦を避けるということはあるにしてもそれは本能の類いです。心理的という概念は出て来ません。
 ミソジニーで何が問題になっているのか、上野さんがいまひとつ、ミソジニーを押さえ切れていないというのは、それは競争原理を前提にして論を進めている、競争原理自体を脱構築しようとしていないことなのです(競争原理の物象化批判)。断っておきますが、上野さんはマルクスを潜っていますから、物象化概念がないわけではありません。そのことは、「男の欲望は断片化(「パーツ」のルビ)された女の記号にたやすく反応してしまえるほど、自動機械のようなフェティシズムを身体化しているように見える。誤解を避けるために付け加えれば、フェティシズムとは、動物的なものではなく、高度に文化的なものだ、高度に文化的なものだ。「パブロフの犬」でさえ、お約束を「学習」した結果なのだから。」9P(註4)「性を科学にまでおしあげたのはフロイトだが、フロイトこそは、同性愛を「病理化」し、ペニスの有無という解剖学的偶然を「宿命」に変換した張本人だった。だからこそ、フェミニストはこの「解剖学的宿命(Anatomy is destiny)」と闘わなければならなかったのだ。」113Pという文がまさに物象化という意味だということで表し得ます。ところが、ここでマルクスを否定した上野さんは、「マルクス(の物象化)」という言葉は出て来ません。ですから、物象化というところから論を貫き通して展開するということは生まれようがないのです。そういうことの一つとしてホモソーシャルという概念が出てきます。これは主に男同士が互いに認めあうということが、「欲望の三角形」260Pにまで及ぶのですが、この規定に男同士の競い合う――認め合うという競争原理があるのです。その競争原理の物象化批判(脱構築)がなされていません。然して、ミソジニー論が掘り下げられず、ミソジニーということ、性差別ということが、結局ひとのもつ宿命というようなことに収束していくのです。「資本主義はなくならない」「市場経済はなくならない」とおいたことの帰結がここにも及ぶのです。
 一つだけ誤解のないように書いておきますが、競争原理ということは資本主義にそれが極的に展開されるのですが、それ以前からありました。これも、マルクスが共産主義を「分業と私有財産制の止揚」とおいたこと、すなわちあらゆる差別が「分業と私有財産制」から発していること、そのことと相即的に競争原理も出て来ることを押さえられることです。マルクスを否定するとそのことが出てきません。マルクスを否定すると、その批判は資本主義の分析とその批判から論攷を進めるという道を閉ざしてしまうことになります。そして、まさに物象化にとらわれ、宿命論に陥っていくのです。
 この本が出されて十年経っています。まだまだ総体的相対的に差別の構造の根強さはありますが(それは資本主義的さらには分業と私有財産制から来る競争原理から逃れない限り、逃れる道に踏み出さない限り離脱不能なことだとも言いえます)、その間に、LGBTQの問題が性の多様性の突き出しという中で、少なくともリベラルの段階まで認めあうこととなってきていますし、上野さんがこの本の中で「ブス」という言葉を多用しているのですが、そのことをルッキズムと批判する突き出しがフェミニストから出ています。そしてシスターフッド的な女性同士の連帯も顕著になってきていて、それに共鳴する男性も出てきていると思います(わたしもそのひとりです(註5))。また、遅れてきた反差別運動、障害問題からのとらえ返しも出てきます。たとえば、上野さんは「コミニケーションスキルを磨け」というような突き出しをして、批判されたことに反批判されていますが、コミュニケーション障害と規定される「障害者」の存在を考えているのでしょうか?(註6) そもそも、上野さんはフェミニズムの立場から、反差別ということで「個人的努力は止めよう」と提起していたのです。それに、わたしは「障害者運動」の理念として突き出されていた「わたしたちが変わるのではなく、社会を変えよう」という突き出しとの共鳴を見、上野さんの論攷に惹かれていたのですが、それがどこで変わったのでしょう? また、『構築主義とは何か』という本を出された後に、中西正司さんと『当事者主権』岩波新書2003という共著本を出されているのですが、その時にはすでに「障害概念の脱構築」という意味ももった「障害の社会モデル」が出ていたのですが、そのようなことが共著本には皆無ということもありました。
 上野さんは、今、高齢者の当事者性のなかで、介護の問題に踏み込まれているのですが、この問題でも、資本主義自体の批判はしないという立場なのか、介護の先進的とりくみばかりに眼を向けられ、また中産階級的な一定程度お金のあるひとの介護保険制度というところで問題を楽観的にとらえられていて、この資本主義社会では介護や医療や福祉はコストであり、いかに切り詰め得るかというところで進んでいるシステムをとらえようとされていません。わたしは「いつもないものねだりをしている」と笑われているのですが、いまいちどマルクス主義批判も含めマルクスに立ち返って、論攷の立て直しをされることを願ってしまいます。
さて、いろいろ否定的なことを書いたのですが、先に書いたように上野さんのコピーライターのようなひらめきがこの書の中にも出て来ます。そのことをもう一段掘り下げることをわたしは提起しているのですが、それでも現象的な押さえでも、意味をもつているので、いくつかキーワード的にメモを残して置きます。
最初にこの本のタイトルになっているミソジニーに関する上野さんの冒頭の規定として、長目の切り抜き「ミソジニー。「女性嫌悪」と訳される。「女ぎらい」とも。ミソジニーの男には、女好きが多い。「女ぎらい」なのに「女好き」とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。「女性蔑視」である。・・・・・・/性別二元性のジェンダー秩序に深くふかく埋め込まれた核が、ミソジニーだ。このシステムもとで男になり女になる者のなかで、ミソジニーから逃れられる者はいない(?註7)。・・・・・・/だが、ミソジニーは男女にとって非対称的に働く。男にとっては「女性蔑視」、女にとっては「自己嫌悪」。・・・・・・」7-8P・・・女好きの、女性蔑視の女性嫌悪の表出――ミソジニー
女を描きながら実は男である自分を描く18-9P
非対称性20P
女性の男に従属した覇権ゲーム24P
ホモソーシャル24P
ホモソーシャリティ――ホモフォビア――ミソジニー29P
「・・・・・・「第三の性」とまちがって呼ばれているカテゴリーは、男と女の中間にある性ではなく、性別二元制のもとでのサブカテゴリーだということだ。男だけが「第三の性」に移行することがありえ、女が「第三の性」に移行することがないのは、逆に性別二元制がいかに強固であるかを証明する。・・・・・・」30P・・・Das Manという概念、共同主観性の形成における排除性 これはドゥールズ、ガタリの「n個の性」からの論攷、LGBTQの問題からのとらえ返しが出てこない?
男語り33P
男の性的主体性――ミソジニー42P
母の特別視と二重規範――聖女と娼婦43P
コミュニケーション・スキルの勧め56P・・・?障害差別
欠性対立88P
ミソジニーとホモフォビア――コインの裏表90P
 女は関係を求め、男は所有を求める107P
復縁殺人108P
 シンボルとしてのファロス122P
「家父長制とは、自分の股から生まれた息子を自分自身を侮辱すべく育てあげるシステムのことである。」「家父長制とは、言いかえれば、女と子どもの所属を決めるルールのことである。」128P
「・・・・・・わたしは、日本版近代家族を「みじめな父」「いらだつ母」「ふがいない息子」「不機嫌な娘」からなる関係として記述した。」131P・・・近代家族のジレンマ的矛盾の極限 あまりにもジレンマ的な側面を強調しすぎ
「そのカテゴリーから「遅れて登場する」人々」139P・・・被差別者として規定される被差別者の有り様
「ミソジニーから出発しなかったフェミニストはいない。」「「女」という強制されたカテゴリーを、選択に変える――そのなかに、「解放」の鍵があるだろう。」139P
「そして「承認を与える者」の背理は、「承認を求める者」に深く依存せざるをえないということにある。ミソジニーとは、その背理を知り抜いた男の、女に対する憎悪の代名詞でなくてなんだろうか。」223P
「ブス」225P・・・現在的にルッキズムという差別の指摘と批判
 神話と神と自然「ここで「神話」というのは「根拠のない信念の集合」の別名である。性を「自然化(naturalization)」したこともまた、セクシュアリティの近代の主要な特徴だった。それは「神」に代わって、「神」の座に「自然」を代入する近代の帰結だったからである。」243P・・・神はむしろ自然の物神化から出てきたこと
 性の私秘化242P
プライバシー244P・・・?
フーコのセクシュアリティの歴史化、脱自然化249P
ジェンダーが権力関係の用語249P
民法772条の意味256P・・・?逆になっている
「守る」という言葉の「権力のエロス化」254P
 ミソジニーとホモフォビアの「権力のエロス化」255P・・・変え得る、変わってきているのでは?
「男になる」――「女になる」の非対称性257P
イヴ・セジウィックのホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーの三点セット258P
 ジェンダーのカテゴリー化259P
尊敬・愛着・競争――「欲望の主体」260P・・・いずれも自然性ではなく物象化されたもの、特に競争の物象化批判
ルネ・ジラール「欲望の三角形」260P・・・むしろ、Das Manから来る共同主観性の問題からのとらえ返しの必要
「女同士のホモソーシャルな絆は、あったとしても脆弱なものとなるだろう。」262P・・・むしろ、シスターフッドとしての強固さ
 フェミニストのミソジニー266P・・・?フェミニストとは内なるミソジニーも含めて、ミソジニーと闘うひとであるという運動的観点
 デカルト的肉体と精神の二分法からくる男の身体嫌悪268P・・・男の自己嫌悪は競争原理へのとらわれから起きてくるのでは?
「フェミニズムは女にとって自分自身と和解する道だった。男にとっても自分自身と和解する道がないわけではないだろう。それは女性と同じく、「自己嫌悪」と闘うことのはずだ。そしてその道を示すのは、もはや女の役割ではない。」272P・・・?「和解」?闘いだったのでは? それこそ男の役割と女の役割はコインの裏表の相作的なこと。共に闘うのは競争原理。


1 小田急線刺傷事件(おだきゅうせんししょうじけん)は、2021年8月6日に小田急電鉄小田原線車内で発生した無差別刺傷事件である 。乗客の20歳の女子大生が重傷を負ったほか、合わせて10人が怪我をした 。加害者の男が「幸せそうな女性を見ると殺してやりたい」などと発言していることから、「ミソジニー犯罪」や「女性へのヘイトクライム」、「フェミサイド」の可能性が指摘されている 。(インターネットの記事)
 これは、後から出ている記事を読んでいると、この事件を起こしたひとも被差別者であり、要するに差別の反作用としての事件のようです。これはたとえば、コロナウィルス感染症の広がりの中でトランプ大統領が嫌中的なことを煽り、それからアジア系住民に対する暴力事件が頻発した問題で、それが防犯カメラの映像をテレビで流しているのを3件ほど見たのですが、何れも加害者はアフリカ系のひとのようでした。要するに被差別者が他の被差別者をヘイト・差別する構図なのです。プアーホワイトのひとたちが、往々にして人種差別的だと言われることにも通じます。
 小田急刺傷事件も、記事が適格であるとすればなのですが、性差別的なところで、男よりも下にいるべき女性が上にいるようなことを許せないというような差別的心理が読み取れるのです。それはまさにミソジニーのひとつのパターン――「ねたみ」差別なのです。
2 SNSで引用されていた江原さんの発言ですが、よく内容がわかりませんでした。上野さんも、「女好きの女ぎらい」というようなことを書いているので、単なる、女嫌いではないという意味かと押さえていたのですが。
3 上野さんは当時、マルクス主義フェミニズムの立場だったので、唯物史観的なところで、フェミニズムを押さえようとしていて、現象学的文化や心理のような処で論を展開していた江原さんを批判していました。今日的に、上野さんが文芸評論や心理的な評論を書いているのを見ると、あれは何だったのだろうと思うのですが。
4 「パブロフの犬」も動物の話なので、この最後のセンテンスはまさに蛇足だとわたしは思うのです。
5 「オカマ」と自称するひとの女性に対するシスターフッド的関係もあります。わたしは、恋愛関係的なところから降りるなり、競争原理的なところから降りたところでは(降りきることができるかどうかはあるのですが)、男女関係なく「友情的」な関係が作り得るのではと思うのですが。そのあたり実体験のようなこと書いてみようかと思ったりしています。
6 わたし自身、「言語障害者」と規定される立場で、コミュニケーション障害の当事者です。「障害者」と規定されるのは、努力ではその立場がなくなるわけではないから、「障害者」と規定されるのです。今日、「コミ障」という言葉が出てきているのですが、要するに「空気が読めないひと」という意味ですが、それはエゴイズム的なところから来るひともいて、そのことをどうするのかという問題と、「役割期待――役割遂行」を苦手にしていて「発達障害者」と規定されるひともいるのです。そのあたりの障害問題を上野さんは抜け落としているのです。
7 すでに本文中に書きましたが、上野さんはざっくりすっきりわかりやすい文を書くので、そこで響く文を書けるのですが、そうでない当てはまらないひとの存在を無視しています。これは競争原理から降りたひとにはあてはまりません。わたしたちは競争社会の中で生きて来たので、どこまで降りきれるのかということがあります。そんなところも加味して文を書かないと、論理的厳密性に欠けるのです。尤も、そんな文を書いているから、読みにくく伝わらない文になるのだと、反批判されるのかもしれませんが。


posted by たわし at 18:18| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSTBS報道1930「コロナ後の世界を覆うエネルギー価格急騰……日本の財政は危機に?」

たわしの映像鑑賞メモ059
・BSTBS報道1930「コロナ後の世界を覆うエネルギー価格急騰……日本の財政は危機に?」 2021.10.22 19:30〜21:00
出演者は藤巻健史経済評論家と森永卓郎経済アナリストです。森永卓郎さんは、以前からテレビに出て、反緊縮の立場でカネをどんどん刷ればいいという発言をしていたのですが、テレビでは「論外的な提起」としてとらえられていたのか、それに対する反論のようなことがないまま流されていました。実は、わたしは見逃していたのですが、この番組で以前もこと二人の議論があったようなのです。
 森永さんのような話は、実はMMT理論として最近話題になっています。れいわ新撰組の山本太郎代表が自分の目玉政策として突き出しています。麻生太郎前財務大臣がそもそも、財務省の方針やこれまで自分が大臣として言っていたこととは違うこととして、同じようなことを言っていました。麻生太郎というひとはポピュリズム的な「受け狙いで」さまざまな問題発言を繰り返していたのです(往々にして当人の差別主義的なところが出ていて批判されていました。わたしも批判していました)。自民党の総裁選で高市早苗前総務大臣がMMTを採り入れるようなことを言っていました。これは右派ポピュリズムなのです(註1)。財務省の事務次官が、反緊縮のようなことに対して、雑誌に論文を発表して批判しています。問題なのは、一部左派も福祉の拡大政策としての反緊縮としてこれに乗ろうとしていることです。他のところの予算、とりわけ軍事費などを削って回すとか、累進課税や法人税を元に戻して福祉予算に回すという方針でなくて、なぜ反緊縮なのか、そしてMMTなのか、どうしても分からないままです。徹底的に議論をして決着をつけないのか不思議に思っていたところでのこの番組との出逢いです。
 さて、論点を整理してみます。このMMTは、近代貨幣理論と訳されるのでしょうか? 松尾匡というひとがあちこちの雑誌とか新聞に文書を載せ、対談などをしていて、この理論が注目されています。もともとマルクス経済学をやっていたのですが、近代経済学の方に転換したような論理です。一種の資本主義的経済成長戦略のひとつです。アベノミクスの「経済成長戦略」とシンクロしていたのです。わたしにはどうしても分からないのです。そもそもグローバリゼーションが世界的に行き渡った時代に経済成長戦略などありえるのかということがあります。アベノミクスも破綻しました。それにマルクスをくぐったひとが当然もっている恐慌論がないのです。マルクス経済学をやっているひとたちがなぜちゃんと批判しないのでしょうか?
さて、話をこの番組に戻します。森永さんの主張は「恐慌などもう起きない」という話です。なぜ、そんな主張が出来るのか分かりません。近くはリーマンショックやアジア通貨危機など恐慌は起きています。いつから起きなくなったのでしょうか? 確かに、政府が公的資金を使い株価の操作や、為替市場への介入などしていて、株式操作政権と言われている情況があり、それなりに株式操作ではうまくいっていることがあります(註2)。MMTでも、無制限に金をすればいいと言っているわけではなく、「デフレの間は」とか、「物価の上昇率2%を超えるまでは」いう線引きはあるようです。ですが、そもそも、株式投資は化学実験のスポイトで液体を注入するような投資ではありません。ヘッジファンドとかハイエナファンドといわれるような、投資家集団もあり、そのようなひとは持続可能な資本主義などいう概念はありません。まさに資本主義の「我が亡き後に洪水よ来たれ」という精神で金儲けに走ります。そのようなところで株式の大暴落から恐慌へということが起きてきた歴史があったのではないでしょうか?
さて、森永さんのおかしな論理がもうひとつ議論の中で出ていました。それは、議論に詰まって「ハイパーインフレというのは必ずしも否定的なものでなく、金持ちからカネを取り上げる手段にもなる」というような話を持ち出したことです。そもそも、大金持たちは、自分たちの金の運用でシンクタンクを抱えていて、それなりに資産の分散化をしていて、被害を少なくする手段を講じています。そこで取り上げられるのは中産階級の資産だけです。そもそも、根底的社会変革が起きれば話は別ですが、MMTの理論家たちは、そもそも近代経済学の範疇で議論をしているので、そんな議論は成立しないと思ってもいます。
もっときちんとした議論を深めていくことが必要なのだと思っています。


1 ポピュリズムをめぐる混乱は、アメリカ大統領候補として名乗り出ていたサンダース議員に対して左派ポピュリズムという概念を持ち出すことにも現れています。ポピュリズムというのは「大衆」の意識に合わせて、人気取り、票集めのために政策を変更していく、時には差別的な感情に乗っかり煽るというようなこともする、非論理的な主張もしていくこととわたしは押さえています。左派というからには、ちゃんとした政策があるから左派というのです。民衆の意識をちゃんとつかんで政策を出していくということをポピュリズムと規定するのは誤りです。ポピュリズムというのは権力掌握願望にとらわれているひとが、無思想的なところで(もしくは思想的なことは隠して)論理的なことをきちんと突きつめないまま、おかしな理論にも飛びついていくことから生まれます。それが今回のMMTなのです。
2 公的資金の株式への投入は、資本主義社会に一応ある公平公正な競争原理への逸脱であり、禁じ手であるとわたしは思っています。それにこれは情報を特定のひとに流すことによって蓄財していくインサイダー取引の禁止にも違反し、大不正の温床にもなります。なぜ、それをマスコミや学者が批判しないのか分かりません。


posted by たわし at 18:10| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKクローズアップ現代+「検証・ワクチン副反応 因果関係不明はなぜ?」

たわしの映像鑑賞メモ058
・NHKクローズアップ現代+「検証・ワクチン副反応 因果関係不明はなぜ?」 2021.10.21 22:00〜22:30
厚生労働省のワクチン副反応のホームページ新型コロナワクチンの副反応疑い報告について|厚生労働省 (mhlw.go.jp)を見ていて、ずっと不思議に思っていたことがあったのです。その問題で論点が浮き彫りになることがテレビを見ていたら、出ていました。
この日はBSフジの「プライムニュース」がお休みだったか、面白くなくてか、珍しくNHKニュース9を見ていて、チャンネルを切り替えようとしていたら、画面に次の番組の紹介として、上記タイトルが出ていて急遽録画しました。
「不思議」というのは、ワクチン接種後の死者が、かなり出ているのに、それが「評価不能」という表記になっていて、それをマスコミがちゃんと取り上げていないということです。
この番組はまさにそのことを取り上げようとした番組なのです。
この番組の最初は、親族が突然死して遺品整理していて、その死がコロンワクチン接種の翌日であったことで、厚生労働省のホームページにその親族の記述を見出し、疑問をもった話から始まります。γの記載、すなわち「因果関係評価不能」となっていて、「何を調べた結果評価できないとしたのか」という疑問なのです。この番組では、ワクチン接種後死者1190人、そのうち 99.3%がγという数字を出しています。そして、そんな数が出ているのに、なぜ、「評価不能」のままにしているのかという話を突きつめようという主旨から作られた番組のようです。このホームページでは、最初は「評価中」という記載がされていたのに、途中から「評価不能」という表記に変わりました。「評価中」となると、「評価が出るまで接種を見合わせるべき」という意見が出てくることを考慮して、「評価不能」としたのではないかとわたしは推測していました。でも、それもおかしな話です。「評価不能」という表記自体が、評価をこれ以上できないとしていてその作業を諦めて停止しているとか思えないのです。実は、この番組はそのことを説明するような構成になっています。実は副反応を調べている部署PMDA(医薬品医療機器総合機構)があって、電話などしているシーンがあり、調査しているようのですが、そもそもワクチン接種後死者は「事件性がないと解剖はほとんどされない」し、そもそも「死後解剖しても分かるかどうか」という話になっています。ですが、アメリカではVSD(ワクチン安全データリンク)という機関があり、接種したひとと接種しないひととの間で接種後の死者や副反応の比較的データー蓄積がなされているということが出ていました。それで、心筋炎の副反応が発見されたこともあったとこのことです。日本はいつの間にか「科学後進国」になっていて、厚生労働省は日本版VCDについて、「アメリカのVSDは有効な仕組みの一つだと考えている/迅速・効率的に副反応情報を収集・評価できるシステムの構築に努めていく」という対応です。そもそも、役所の「努力する」という文言がどういう意味をもっているかという霞ヶ関用語の分析があるのですが、PCR検査の拡大の必要性をやるやるといってやってこなかった「口だけ政治」を見ていると、やる気があるのか疑問です。
そもそも副反応がはっきりすると補償しなくてはいけなくなることがあります。実際にファイザーのワクチンのアナフィラキシーで補償を認可したという話が出ていますが、今、日本では忖度政治がはびこっているようで、できるだけ補償をしないようにするというところで、副反応は出来るだけ認めたくないという心理が役人たちに働くことを考えるのはわたしだけでしょうか? そういう中での、「評価不能」にもつながっているという思いも懐いてしまいます。こういうデーターのシスタム作りには個人情報の取得と蓄積において「国民的合意」が必要なのですが、この間政府がやってきたのは、情報の収集はするけど開示はしないという情報の隠蔽や文書の改竄などなど、また「特定秘密保護法」とか「共謀罪」とか真逆の法律作成を「国民世論の反対」が多数を占めることを強行採決によってなしてきた、「国民的合意」とは真逆のことをやってきた歴史があります。
 さて、どうしても「分からない」問題が、もうひとつの「分からない」問題とリンクしていきます。それは、フクシマ原発事故の放射線被害の一つとして甲状腺癌の被害が出ていることです。それを、政府は「因果関係は認められてない」としています。これは、前述したVSDのデーター比較の手法と同じく、平時のデーターと事故後のデーターを比較することで、はっきりした有意差が認められるのです。平時の百万人あたりの甲状腺癌が1人か2人位なのに、その数十倍以上の発生が出ているのです。それを御用学者というか忖度学者は、いつもは検査しないのに検査するから発見されたのだということを言い出してます(註1)。そんな、論理が成り立つためには、発見しなくても何のその後の生活に変化はなかったということの立証が必要です。手術などをしたのは過剰医療だという話にもなっていきます。「名誉毀損」のようなことにもなりかねません。徹底的に議論して決着を着けることです。
さて、そもそも学者のひとたちは、因果関係は現時点では認められないとか、留保言辞を付けて問題を曖昧化、誤魔化します。これは、将来「認められる」ことがあるかも知れないときの責任逃れの言辞なのです。「因果論」というのは、ニュートン力学時代の近代知の論理で、そこからパラダイム転換した量子力学の時代には使えない代物です。現代では、前述したVSDのデーター比較にも見られるように確率函数的なところで分析をしていっています(註2)。なぜ、近代知と現代知を混在させるのでしょうか? そもそもこの「因果関係」という言葉が出てくるときは、何かを誤魔化そうとしていると押さえることだと、わたしはそもそも「因果論」とかいう、現代知的には非科学的な言葉は役所の文書や発言からは封印すべきだと思っています(註3)。前の058映像鑑賞メモに続いて、ずっと疑問に思っていたことの問題点がそれなりにはっきりすることになった番組でした。


1 これは実は、量子力学のいう「観測者の問題」と言われることに通じています。ここで、近代知ではない論理を持ち出しているのですが、本文中に書いたように、その論理が成り立つためには、ほっておいても大丈夫なひとを過剰な医療を施したということを立証する必要があります。
2 実はわたしは被害を数の問題の問題にしていくことを批判してきました。ひとりひとりにとって、そしてその関係者にとって被害者は1分の1だということで。ですが、ここで問題にしているのは、被害は立証されないという論理に対して、確率函数的なとらえ返しによって、データーの比較で有意差が示されているのです。そもそもひとりひとりの被害を見ないということは、補償を如何にしないようにするのかという立場でなされることで、データー比較で被害をとらえるというのは、むしろ逆に補償ということ、さらに、ひとりひとりの生きる保障をどうしていくのかという問題なのです。そんな補償や保障をしていたら、経済が成り立たないという反論が出てくるのですが、その経済というのは資本主義経済で、成り立たないなら資本主義経済を止めることです。こんな話をすると可能性の問題で批判が出てくるのですが、それこそわたしが一貫して追い求めている可能性なのです。
3 近代知の地平としての因果論の批判をしているのは廣松渉というひとです。トーマス・クイーンが、中世的キリスト教的世界観からプトレマイオス・アリストテレスの天動説からコペルニクス・ガリレオの地動説の転換をパラダイム転換(認識の枠組みからの転換)ということで押さえました。そのことは宇宙観だけでなく、中世のキリスト教的な哲学から、デカルトらの近代知の地平の成立まで及んでいます。廣松さんは、その転換はもう一度起きていて、近代知の地平から新しいパラダイム転換が、物理学においては、ニュートン力学から量子力学の転換、そして哲学においてもさまざまな転換が起きているとしています。それを、わたしが以前出した本のなかで廣松さんの本から引用しています。
それは、認識論的な射影においては従前の「主観―客観」図式に代えて四肢構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。(これは論理の次元でいうならば、同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えることを意味し、また成素的複合型に対して函数的聯関型の構制を立てる存在観となり、因果論的説明原理に対して相作論的記述原理を立てる所以となる。……(略)……)……(略)……。
 そこにおいては、いわゆる存在論的・認識論的・論理学的諸契機が統一態をなしている。
(廣松渉『事的世界観への前哨―物象化論の認識論的=存在論的位相』勁草書房1975年「序文」A)


posted by たわし at 18:07| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月17日

ナオミ・クライン/幾島幸子・荒井雅子訳『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動 上・下』

たわしの読書メモ・・ブログ570
・ナオミ・クライン/幾島幸子・荒井雅子訳『これがすべてを変える――資本主義vs.気候変動 上・下』岩波書店2017
 この本は、勧められて買って、ずっと気になりつつも、積ん読していた本です。エコロジー関係の本に入ってきて、やっと読めました。
 読み始めて確認したのですが、この著者の本は、スーザン・ジョージの本を読んでいたときに、一冊買っていました。新自由主義的グロバリーゼーション批判の本です(ちょっと間を置きますが、後で読んで、読書メモを残します)。この著者は、この本を出すまで、気候変動については見ないようにしていたというようなことをこの本の中で書いています。わたしもそうだったのですが、これについては後に書きます。
 そもそもフランシス・ベーコン以来の人間の自然の支配や、自然の征服ということが生み出した環境破壊や、そのことから引き起こされている気候変動ということが、新自由主義的グローバリゼーションの進行の中で、まさに地球の危機と言われる情況が生まれています。そういう中で、各国政府もやっと動き始めているのですが、ほとんど有効な対策をなしえないままです。資本家・企業家は、それをビジネスチャンス的にとらえて動く者、そしてパフォーマンス的に動くひとが出てきていますが、後者は言行不一致の態のままです。環境問題には右も左もないという言い方がされます。ただ、右、資本主義の論理に陥るひとたちには、経済成長と環境問題がアンチノミーになっていきます。そもそも資本主義は、「今、ここで」という悪無限的利潤追求の精神で、未来のことなど知らないということなのです。この本のキーワードになっている言葉で表せば、「搾取/搾取主義」なのです。だからこそ、こういう環境の危機的情況を生みだして来たのです。かつて、禁煙グッズのコマーシャルのなかで出されていたキャッチコピーを援用すると、まさに「資本主義止めますか、人間止めますか」ということなのですが、政治家たちは相も変わらず、本格的にとりくもうとしていません。日本にいたっては、自分の権力の維持や政治生命のことしか考えていず、口だけ政治で人気取り的に環境問題に取り組むふりをしているだけです。企業は環境問題での規制をなんとか逃れようとやっきになるか、最近SDGsということがスローガン的に出て来ているように、「持続可能な開発」なり、「持続可能な資本主義」ということで、経済成長を維持しつつ環境問題も考えていくという姿勢です。そもそも自分たちの生きる基盤自体があやうくなっているのですから、環境問題を中心に据えて、経済も考えるという転換が最低限必要なのですが、逆転したままで、そういうところで進んでいたのでは、環境問題・気候変動の問題は解決できないということが明らかになってきているのです。
 そもそも、世界観が問題になっているのです。人間は自然の一部です。その一部が、総体としての自然を支配するというのは背理なのです。不老不死とかエネルギーの永久機関とか、絶対という概念などあり得ないということと共に、そんな「自然の支配」という背理を背理としてとらえるところからしか、未来社会像は描けないのです。
 さて、そのことは、社会変革ということで動いていた運動も同様でした。マルクス/エンゲルスが突き出した「科学的社会主義」という言葉があります。これは主に社会科学での言葉なのですが、生産力の発達によって、生産様式と生産力の矛盾から革命が起こるという図式の中で、生産力第一主義や至上主義のようなことに、「マルクス主義」を標榜するひとたちもとらわれていきました。実は「社会主義」ではなく、国家資本主義に陥っていたのですが、中国が資本主義に追いつくと称して生産力至上主義のなかで、地球温暖化の産業構造を推進していたという事実もあります。すでに、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出て、そして「科学の名による差別と偏見」ということが問題になり、科学主義批判が出ていたにもかかわらず、スターリン主義者たちは相も変わらず「科学的社会主義」を唱えていたのです。
 さて、ここで、科学主義批判をするとき、わたしが影響を受けた廣松渉さんのことにコメントせざるをえません。廣松さんは、「科学主義と人間主義の二項対立図式」を批判していました。この二項対立図式は、ポスト構造主義の脱構築論ともシンクロしているのですが、そこからこの本との対話を試みます。人間主義批判の中身は、実は倫理主義批判なのです。この本の中でも倫理ということばが出てきて、人間主義的な流れで出てきている本ととらえがちです。ゲゼルシャフトの社会は、「ひとは倫理で動かない、利害をめぐって動く」社会ということで、その「利害」というところから、それをどう指し示せるかということが問題なのです。この本でも著者がとらえ返しているように、目先の利益にとらわれ、環境問題や気候変動問題ということが、長期的課題や他人事として、自分の問題としてとらえられないまま、まず生きねばならないというところからのとらわれの指摘をしています。著者はこのあたりの問題もとらえて、方針を提起して行かねばならないとしています。著者は倫理を問題にもしていますが、この利害の問題を押さえているところで、倫理主義には陥ってはいません。
 さて、前に後述すると書いていたこと、著者もかつてそうであったように、わたし自身も気候変動問題・環境破壊問題を、まだ猶予があるとしてとらえて、諸悪の根源たるまず資本主義を止めなければならないというところで、運動課題として取り上げないようにしていたひとりなのです。勿論二者択一的なことでなく、同時並行的にとらえていたのですが、結局、政治闘争まっただ中では、蔑ろにしていました。フクシマ原発事故でやっと、わたしの原点の差別の問題とリンクする形で とらえ直しをし始めました。それでもまだ、ちゃんとしたとらえ返しには至っていませんでした。わたしは、「反障害通信」で「社会変革への道」を書き始めていたのですが、何か抜け落としているピースがあると感じていて、それが気候変動問題ということを通した変革ということで、それが構造改革的革命論ということにもリンクする、単に資本主義か社会主義ということを超えての革命となるのです。ただ、スーザン・ジョージがオルター・グローバリゼーション、「もうひとつの世界は可能だ」という主張をしているのですが、ではどういう世界なのかということで、気候変動問題から地産地消の草の根運動で、それは消費を煽る社会ではなく、「自然に適う」(原子力の研究者から反原発に転じた高木仁三郎さんの言)生き方への転換ということがあるのですが、そもそもその経済体制はどうなるのか、マルクスの唯物史観からする、共産主義というイメージはどうするのか、そういったことをとらえ返したときに、マルクスが突き出したことをきちんと押さえ直し、更に、その流れから出てきた「マルクス・レーニン主義」なる運動の総括が今必要になっているのだと言いえます。このあたり、中央集権的な法制度による規制と草の根の抵抗運動と共同性をもった生産活動とのリンクによる、構造改革的、世界観の転換的改革になっていくのだろうと言いえます。実は、この「構造改革的」なことに関しては、まだ考えている最中なのです。これに関しては、後にまとめます。
 さて、話をこの本に戻します。
著者は新自由主義的グローバリゼーション批判から出発し、環境問題・気候変動問題化とそのことがリンクし、さらに著者自身の不妊や流産・出産ということともそのことが結びつく中で、自分の考え方自体を問い返す中で、世界観を変えるというところにまで、提起するに至っています。それは「母なる大地」という言葉とつながります。それはジェンダー的であるというところの批判や、また産まない・産めない女性に対する抑圧性を指摘しつつも、生む――産むということが、内なるエコロジーとして内包し互いに反転しつつ、環境的自然とリンクしていることの気づきから、世界観の転換的なことが起きてきます。
また、環境問題は絶望的に陥りがちなのです。大江健三郎さんが、「さよなら原発」の集会の中で「ペシミズムの勧め」を説いたように、ペシミズムこそが現実をきちんととらえられるというところで、暗い運動になりがちなのですが。著者は、この本は三部構成で、最初の二部はこれでもかこれでもかと、資本主義の新自由主義的グローバリゼーションの陥っていく矛盾を描き出していて、本を読んでいても辛くなるのですが、最後は、単に「ノー」の運動ではなく、「イエス」の運動を提起する、そしてファースト・ネーションと呼ぶ先住民の自然に適う生き方に学ぶことや、更に再生エネルギーの起業など、現実に色々な模索が起きていることを書いています。ですから、暗い中での光のようなこともとらえられます。それは、ひとつの可能性として「構造改革革命論」的な展望にもつながるのかもしれません。
この本はかなり厚い本なので、なかなか読みづらいということはあるのでしょうが、この本の中で紹介されているもはや環境問題の古典になっている本(たわしの読書メモ・・ブログ183・レイチェル・カーソン『沈黙の春』新潮社(新潮文庫)1974)に並ぶ本、また、その「搾取/搾取主義」の展開はかつて読んだスーザン・ジョージの本とリンクし、また環境破壊の破滅的進行の中でもトランプ政権を生み出す基盤となる、アメリカ中西部の右派の動きを押さえた本(たわしの読書メモ・・ブログ523・A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店 2018
)とも、わたしの中でリンクしていきました。
この本は、環境問題の必読書のひとつに加えられる貴重な本です。
 

posted by たわし at 04:59| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小松美彦・市野川容孝・堀江宗正編著『<反延命>主義の時代――安楽死・透析中止・トリアージ』

たわしの読書メモ・・ブログ569
・小松美彦・市野川容孝・堀江宗正編著『<反延命>主義の時代――安楽死・透析中止・トリアージ』現代書館2021
 この本は、「福生病院透析中止事件」を契機に議論が起きていて、シンポジウムとかも開かれていました。その流れの中で作られた本です。そして、さまざまな角度から「<反延命>主義」について論じています。
 以下、目次を揚げておきます。
はじめに …………小松美彦
第一部 〈反延命〉主義の現在
序章 〈反延命〉主義とは何か…………堀江宗正
第1章 〈反延命〉主義の現在と根源――ドキュメンタリー番組《彼女は安楽死を選んだ》の批判的検討…………小松美彦
第2章 公立福生病院事件の闇…………高草木光一
第3章 安楽死・「無益な治療」論・臓器移植そして「家族に殺させる社会」……………………………………児玉真美
第4章 多としてのトリアージ…………美馬達哉
【鼎談】分ける社会がもたらす命の選別――相模原事件、福生病院事件、ナチス安楽死計画    木村英子×雨宮処凛×市野川容孝
第二部 〈反延命〉主義を問う
第5章 医療者として意思決定支援を考える――ACP・生命維持治療について(聞き手・堀江宗正)…………川島孝一郎
第6章 小児科医の問いと希望――共に在る者として、子どものいのちの代弁を考える――……………………笹月桃子
第7章文学で描かれてきた「よい死」――安楽死・尊厳死の拡大、浸透、定着のなかで……………………原朱美
第8章 死ぬ権利を問いなおす──ドイツの動向から…………市野川容孝
おわりに(小松美彦)
 さて、いきなり核心となる議論を出してみます。そもそも「<反延命>主義」の「延命」というのは、そもそも「生命維持」のことなのですが、ですから、医療もそれから介助も、命を助ける、ひとりひとりの被介助の生活を支えるという単純なことが、いわゆる優生思想的なところで、まさに妨げられているのです。そこから、「<反延命>主義」ということが生まれてくるのです。ところで、優生思想なり、「<反延命>主義」ということがどこから出てくるのか、そのことの歴史は語られているのですが、その掘り下げが今ひとつなされていないのです。
 この本の中で、「<反延命>主義」にとらわれるひとの中で、左派と言われるひとやリベラルと言われるひとが多いという話が2人の著者から出ていますが、それは初期の優生思想の論者に社会主義者が少なからずいたという話に繋がっています。
 それは、初期の社会主義の思想として、資本家階級に対して、「働かざるもの食うべからず」という「障害者」に対する差別的論を突き出していたことにも関連していきます。ここで、資本主義社会では、「働く」とは、労働・商品生産活動を指しています。どのような「働く」が商品生産になるのか、ということを考えていくと、「障害者」や「障害者運動」関係者が突き出している「生きているだけで意味がある」というときの「生きている」が「働き」になるのですが、資本主義社会=商品社会では商品にはなりません。それを言葉化する作業が必要になります。そして、欧米での自分の意見をちゃんと表明していくことが良いとされる文化の中では、「パーソン論」という「ひとは自分の意見をはっきり表明できて初めてひとである」というような障害差別的な論理にとらわれていきます(別に、自分で言葉化する必要もないのですが、障害差別的な身辺自立の論理にもとらわれているのです)。
さて、もう一つの問題、左翼(社会変革志向の集団)は、運動の現実的有効性の論理にとらわれていきます。そこで、効率的運動を担えないひとたちや現実的有効性をもてない理論を切り捨ててしまう傾向を持ってしまいます。しかも、政治とは力であるという政治の論理にとらわれていきます。そのひとつの現れが、マルクスもとらわれた、武装蜂起・国家権力の奪取――プロレタリア独裁論です。マルクスは国家を共同幻想としてとらえ、国家の死滅を説いていました。過渡的なところでは、プロレタリア独裁が必要としていました。そこでは力の論理から抜け出せません。もう一つの問題は、「マルクスの労働価値説」と生産力第一主義の問題があります。「マルクスの労働価値説」というのは、マルクスの『資本論』をどのように読み解いていくのかの問題があります。前述した「働かざる者食うべからず」という論理は、「労働が価値を生み出す」というところから来ているのですが、『資本論』の読み方として「『資本論』を物象化論を視軸にして読む」というところでは、「労働が価値を生み出す」は物象化的錯認と言えることです。これは物象化論的には「資本主義社会では、労働が価値を生み出すかのように現れる」と読み解くのです。とにかく、労働崇拝に陥り、労働力の価値が総体的相対的に低いとされる(さらに「労働力の価値がない」とされる)ことから「障害者」と規定されるひとたちへの差別が正当化されるのです。これはマルクスの読み違えです。これらのことを押さえるには、サルトルやデリダが「マルクスの思想は現代社会(資本主義社会)では、乗り越え不可能な思想」というマルクスをちゃんとくぐらないといけないのです。しかも、「マルクス主義」自体が資本主義的に歪められているという現実があるということです。だから、マルクスを掘り下げないと分析が出来ない、ということが出てきてしまうのです。
 さて、もうひとつ、わたしが興味深くこの本を読んだのは、この本の編著者になっている小松美彦さんと市野川容孝さんの間で「小松――市野川論争」とも言うべきことがあり、その論争のゆくえということでした。2人の間では、小松さんが「自己決定権の罠」という提起があり、市野川さんには「自己決定の尊重」という指向があり、それで何かかみあわなさを感じていました。実は、「自己決定」と「自己決定権」ということは違うのです。何が違うかというと、自己決定権というのは、人権論の枠組みのなかにあり、そもそも「人権」ということがキリスト教文化圏の天賦人権という神という差別の構造を前提にした架空の理論で、神を死なしめても、差別のない関係性の物象化という、一種の錯認です。自己決定権という名の下に、差別的関係に絡め取られていくのです。さて、何が問題になっているのかというと、小松さんに影響を与えたひとに廣松渉さんがいます。その廣松理論の一つとして、「廣松共同主観性論」があります。これは現象学派の間主観性、相互主観性、共同主観性というところからの対話から生み出された廣松理論なのですが、具体的な例から説明すると、共同主観的意識として、今、8割と言われるひとたちが、「延命処置を望まない」という統計が出ています。逆にいうと、そういう中で、8割のひとがそういう共同主観性にとらわれているのです。その時、自己決定とは共同主観的意識から無縁でなされるわけではないのです。更に、なぜ、「延命処置を望まない」という意識が生まれるのでしょうか? それは、労働が価値を生み出すとか、そして、労働賃金の差ということがあり、能力に応じて賃金が違ってくるという日常的に生活していることの中で、それを当然のこととしてとらわれていく構造があります。スターリンが「能力が違うのだから、賃金が違うのは当たり前だ」という、およそ資本主義の論理でしかないことを平然と言い放っていたということは、まさにソヴィエト・ロシアがまさに国家資本主義になっていたことの証左でもあるのです。
 ひとの生命観自体が、資本主義的経済という土台から規定されているという、マルクスの唯物史観からする意識のありようとして生まれているわけです。そもそも、優生思想とは、ひとの命に序列をつける思想なのですが、それは労働力の物象化という中で、労働力の価値の差異ということで、序列化が起きているその日常的意識から相作性をもって生まれていることで、そのことからきちんと批判していかないと、共同主観的にみんなが、優生思想にとらわれていくのです。極端な抹殺論的なところの動きだけを批判しても、ソフトな優生思想はとらえられなくなります。そこから問題にしていかないと、なぜ、はっきりした優生思想として現れる思想・事件や「<反延命>主義」が出てくるのかがとらえられないのです。日常的なルーティン化された行動自体が無自覚的差別意識を形成していくこともあります。
 逆に問題を立ててみます。今、ベーシックインカム(基本所得保障)の議論が起きていますが、それが福祉の切り捨ての論理でない限り、すなわち基本生活保障として実現されたとしたら、「<反延命>主義」の思想はどうなるでしょうか? 全体主義的発想に陥らない限り、共同主観性の意識の変革が起きます。逆に言うと、資本主義が資本主義である限り、基本生活保障はなしえないのです。基本生活保障は資本主義を崩壊させる論理になり得ます。
 この本を読みながら、こんなことを想起していました。
この本は共著本ですが、総体的にからみあっていて、実に絶妙な構成になっています。
 さて、具体的にこの本との対話を各章のなかでの簡単なコメントという形で残して、後は本に引いた傍線参照とします、としようとしたのですが、この本の著者たちのひとりひとりの思いのこもった文を、どうしても切り抜いておきたいと、各章ひとつずつ、特に印象に残ったところを切り抜きメモとして書き置きます。一部、よく分からないままのところもあるのですが、その中には、余計なことを考えることによって、優生思想的なところへのとりこまれる、もしくはその恐れのようなことも感じてしまっていました。今回は、斜文字でのコメントは付けないままです。

はじめに …………小松美彦
 医療の原点――「救命に徹し、余計な事をしてはならない」を押さえ直す論攷です。
「現在は「〈反延命〉主義」と呼びうる時代に突入したと思われるのである。」7P
第一部 〈反延命〉主義の現在
序章 〈反延命〉主義とは何か…………堀江宗正
 〈反延命〉主義ということで、この本のアウトラインを描き出している論攷です。
「パンデミックという非常事態のなかで高齢者や慢性疾患者の切り捨てが当然のようにおこなわれた後に、われわれはそもそも〈反延命〉主義が問題だと思えるような感性を持っているだろうか。こうした非人間的な事態に人間的であろうと抗うことが必要な時代、それが〈反延命〉主義の時代である。」40-1P
第1章 〈反延命〉主義の現在と根源――ドキュメンタリー番組《彼女は安楽死を選んだ》の批判的検討…………小松美彦
 NKKで放送されたスイスへの自死旅行のドキュメンタリーの話です。さすが小松さんと思える、実に細かい分析です。このドキュメンタリーとナチスドイツの宣伝映画になった「私は告発する」との類似性も展開して見せてくれています。
ただ、小松さんは、安楽死と「自殺幇助」をわけて、この事件は「自殺幇助」と考えるべきと主張しています。確かに、事件としては「自殺幇助」事件ですが、これは当事者の立場を第三者的にとらえると安楽死になるのではと思っていました。実は、わたしも、これを観て「映像鑑賞メモ」を残したのですが、母の介護への反省的思いから、問題の掘り下げをなしえませんでした。小松さんのほりさげに共鳴していました。
「私たちにとって何よりも肝要なのは、「いかなる状態でいるか、ではなく、「いること」それ自体であろう。」85-6P
第2章 公立福生病院事件の闇…………高草木光一
この本ができるきっかけになった「公立福生病院事件」に関する詳しい闇を暴こうとい
う論攷です。DNRとかDNAR(Do Not Attempt Resuscitation)という、そもそも心肺蘇生をしないことの拡大解釈として、この事件でも延命処置をしないことから、治療をしない看取りのようなことが起きているということを明らかにしています。その事件はインフォームドコンセントの在り方をめぐって争われていくのでしょうが、一時期インフォームドチョイスという言葉も出ていました。わたしはこれはそもそも医療提供サイドの概念で、医療ユーザーとしては、情報開示(提供)と相談――当事者の自己決定というようにとらえ返すことではないかと思ったりします。高木さんがACP(アドバンス・ケア・プラン)ではなく、アドバンス・ライフ・プランということを突き出しています。よき死ではなく、よき生という議論ともリンクしていきます。
「おそらく、われわれは、いつの間にかディストピアのとば口に立たされている。」112P
第3章 安楽死・「無益な治療」論・臓器移植そして「家族に殺させる社会」……………………………………児玉真美
 イギリスを中心に、安楽死・尊厳死の実状を「障害児」の親の立場を出発点にして追い続けている児玉さんの論攷。児玉さんの文にはいつも子どもが存在を否定されることから発する「障害者」の存在の否定への否定の強い思いを感じ、共鳴しつつ文を読ませてもらっています。
「「死ぬ権利」や「安楽死」をめぐる議論の外側にも広く深く眼を向けて、問題が重層的に絡まりあう複雑さの中で考えなければ、素朴な善意からの「死なせてあげよう」という短絡的な発言は、そんな恐ろしい社会への後押しともなりかねない。」134P
第4章 多としてのトリアージ…………美馬達哉
 今、コロナ禍でトリアージが話題に上がってきています。そもそも災害時の緊急医療の問題で、医療崩壊でトリアージが起きる、医療体制と感染症対策の失政を批判しなくてはならないのですが、そもそもトリアージには救命というところで、いかに助けうるかという問題で、他の属性で判断してはならないという原則があるのですが、現実には、優生思想的なことが出てくるという問題があるのです。そのあたりのことを展開してくれています。
「本論攷に結論があるとすれば、それはトリアージとは多であり、その複数の歴史は迷路であるという事態の確認だ。そして、例外状態の思考実験という生命倫理学者の十八番は、そのすべてに通底するわけではないが、COVID-19に関わるトリアージを形作る主旋律と考えられる。」163P
【鼎談】分ける社会がもたらす命の選別――相模原事件、福生病院事件、ナチス安楽死計画   木村英子×雨宮処凛×市野川容孝
「障害者」当事者で国会議員になった木村さんと、相模原事件裁判の傍聴を続け、この問題をつかもうと文を書き続けている雨宮処凛さんと、優生思想を取り上げてきた市野川さんとの鼎談。
第二部 〈反延命〉主義を問う
第5章 医療者として意思決定支援を考える――ACP・生命維持治療について(聞き手・堀江宗正)…………川島孝一郎
 そもそも「〈反延命〉主義」の〈反延命〉という概念が出てきたこと自体からの批判をしています。それは「生命維持治療」なのです。そもそもACP(アドバンス・ケア・プラン)とか「人生会議」とか手を代え品を代え出してきているのですが、少なくとも医療や福祉施設に利用者に意見を求めること自体が、医療や福祉の原則を逸脱しているとしか思えないのです。「ピンピンコロリ幻想」のはなしも出てきます。わたしは「ポックリ死にたい願望」と呼んできました (註)。きちんと思想的なところからの押さえと、現実的対応の問題で方針を出していくことだと思います。
「・・・・・・何でも自由意思がのさばる世界ではないと私は思ってます。たとえ、本人が死にたいと言ったからといって、それでいい、と私は思ってません。」199P
第6章 小児科医の問いと希望――共に在る者として、子どものいのちの代弁を考える――……………………笹月桃子
 小児科医として、子どもを代弁しようという親の思いと、医療の救命原則との衝突、また社会的な医療に対する共同主観的規定の中で、答えのない実践をしている立場からの逡巡を含めた文書です。「答えのない」ということ、わたしは「共同主観性批判」として答えは自ずから出てくると思うのですが、現実的対峙ということで、「答えがない」という現象は出てくるとは思います。わたしは、「医療は医療の論理で」ということで、答えは出てくるのだと思います。ただ、優生思想的なことにとらわれているところで、「答え」がなくなるのだと、優生思想は、資本主義的競争原理や優劣の思想に深層心理的無自覚的にとらわれるところで(フロイトの無意識)、ソフトな優生思想、日常的ルーティン化された資本主義的行動のなかで、資本主義的意識にとらわれ、そこから優生思想にとらわれてもいくのだと思うのです。
「希望とは雄勁なものでも、手に触れられるものでもない。何らかの答えや結果とつながっているものでもない。それを超えるものであり、未来そのものである。医療により、希望がもたらされるとしたら、それは医療の持てる力の限りを尽くすことから始まる。繰り返しになるが、ここで医療を尽くすとは、医療ですべてを解決することではない。精一杯尽くしたその先、謙虚に、かつ誇りをもって手放す、託す、委ねる。それを受けて社会は、人々は、引き続き、その人の尊厳か守られ、尊ばれる社会、世界を創生していく。それが私の考える医療と、そして希望である。」230P
第7章 文学で描かれてきた「よい死」――安楽死・尊厳死の拡大、浸透、定着のなかで……………………原朱美
 三つの文学作品(有吉佐和子『恍惚の人』1972、佐江衆一『黄落』1995、羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』2015)で、とりわけ認知症の問題での取り上げをしています。文学作品の著者の現実的思いと、現実の波及ということのズレの問題もあるのですが、これらの文学作品がもたらした「よい死――悪い生」という意識を拡大させた位置ということがとらえられます。そして、ひとつの屈折を読み解くことによってとらえられことが違ってくるということもありつつ、著者の「生きていること自体に価値がある」ということばでまとめています。
「私たちはみな、言葉で語ることができるようになる以前からこの世界に存在していたのだった。そしてこの先、多くは老いて徐々に心身が弱り、例外なく死を迎える。この連続した時間の流れ、いつのまにかこの世界に在りやがて言葉を失って消えていく、という一連の過程こそがいのちであろう。この流れにおいては、私たちはみな生から死へとひとまとまりの道筋をたどるのであって、誰のいのちであろうと――言葉を与えられていようと、与えられていまいと――ある一時点だけを意図的に取り出し、「よい」「悪い」と語ることによって評価を下すことはできないはずだ。あるいは、あえて価値という語を使うならば、私たちが生きていること自体に価値がある。私たち一人ひとりがそう考えることが、〈反延命〉主義に抗うための第一歩となる。」258P
第8章 死ぬ権利を問いなおす──ドイツの動向から…………市野川容孝
優生思想を追い続け批判しようとしている市野川さんのヨーロッパを中心にした貴重な
情報提供です。ただ、本文にも書きましたが、掘り下げが充分になしえているとはわたし
の立場からは思えず、「批判しようとしている」という表記になってしまいます。
「死ぬ権利や積極的安楽死についても、私たちは、いかに不快であっても、認知的不協和を消去するのではなく、それに耐えるべきなのである。それはナチの安楽死計画もまた死ぬ権利や自己決定による死という理屈と親和的だったという事実を認めることだが、そうした不協和こそがおそらく私たちを最もよく諫めるのである。」295-6P
おわりに(小松美彦)
 会社のホームページの目次にはあったのですが、この著書にはこの文章ありません。

 わたしは母への介護で現実的には失敗したのですが、その介護の反省記は
sofutunnko2.pdf (taica.info)
その最終的な反省と結論は、自分が介護を受けるようになったときの介護者への働きかけとしてなしていくことだとも思っています。そういう意味で、わたしは「ポックリ死」んではいけないのだとも。


posted by たわし at 04:55| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青木美希『いないことにされる私たち―福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』

たわしの読書メモ・・ブログ568
・青木美希『いないことにされる私たち―福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』朝日新聞出版2021
 この本を悲しさと怒りから何度も涙しながら読みました。
この本が出たのは、今年の4月頃、学習計画に沿った集中学習のまっただ中で、フェイスブックで話題になっていて、何回も増刷されているよう、早く読みたいと思いつつ読めないままに、あの悪夢のようなオリンピックがやっと終わった頃に読みました。
この2020東京オリンピックは、「復興五輪」と位置づけられました。意味不明なのです。原子力緊急事態宣言がまだ出されているのに、それを解除しないで何故「復興」などと言えるのでしょう? 7年8ヶ月続いた(民主主義の破綻と破綻したアベノミクスという)政治空白の安倍政権と、それを継承するとした菅政権は、要するに、歴史を忘却し・歪曲する歴史修正主義政権です。事故を起こしたその国が、その原因究明も反省もなく、原発を再稼働させるために、過去を忘却するためのスローガンだったのです。そういう中で、「復興」を形だけでも整えようと被曝という被害をないことにして帰還政策を進め、その帰還政策のためにも、補償を切り捨ててきました。その反省や補償をちゃんとしない政治は、現在のコロナウィルス感染症対策にもはっきりと現れています。そもそもオリンピックは、フクシマ原発の「アンダーコントロール」という大嘘から始まったのですが、そのオリンピック開催や経済優先で対策を誤り、結局1年延期という感染症対策の失政と広がりの見通しさえも誤り、「コロナに打ち勝った証しとしてのオリンピック」というスローガンを出しました。いずれも、「オリンピック憲章」が否定する政治利用のスローガンだったのです。
さらに、「命と生活が一番大切」という菅政権発足時のスローガンがこれも大嘘だったことを証明する、感染症の専門家や世論の反対も押し切りオリンピックを強行開催しました。結局、安倍――菅政権として一環しているのは、民衆のひとりひとりの被害や苦しみをちゃんととらえようとしないということです。
さて、この本に話を戻します。この本は2章からなります。最初の「第1章 消される避難者」は、いわき市に生活していて、大阪に母子避難したひと(森安さん)を中心にした記録、原発事故が起きるまではそもそも放射線被害ということが何も分からないままに生活していて、医者の夫から危険性を指摘され、大阪で母子で避難生活を送るようになります。そして、その避難の実態をきちんと捉えようとしない、むしろ被害を小さく見せようとし、補償を打ち切ろうとしていく構図が浮かび上がってきます。このひとは大阪の訴訟団の代表になり、避難するひとたちの補償を勝ち取るための運動に参画しています。
「第2章 少年は死を選んだ」は南相馬から新潟に避難したひと、補償の打ち切りで生活が切り詰められ、仕事をするために家族が離ればなれになり、そして当時中3の長男の自死、精神的に苦しくなり体調も崩して、長男の後を追おうという思いにとらわれています。著者が自ら訪問して、次の約束をすることで、なんとか自死を思いとどまらせようとし、精神的ケアをする医療とつないで、支えています。そして、長男の自死が災害関連死にカウントさえされないことを知り、また他の同じようなひとたちのことも含めて、役所との交渉で、記録――データをちゃんと出させる交渉や運動をしていきます。
著者は朝日新聞の記者です。以前北海道新聞の記者時代に道警の裏金資金問題でスクープをして、朝日新聞に移り、「プロメテウスの罠」プロジェクトの一員として活躍したひとです。現場にいたいという思いを断ち切られて苦悩しているようなのですが、ジャーナリストは往々にして、記事を書く、スクープをとるということに一生懸命になって、被害者を傷つけることをしでかすのですが、このひとは、被害者の思いに共鳴しつつ、ジャーナリストとして真実を追い求めていくという稀有のひとです。わたし自身も反差別論をやってきて、その原点は被差別者の悲しみと痛みへの共感ですから、勿論、当事者の悲しみそのもの、痛みそのものを共有化はしえないとしても、その幾分かは共鳴的にとらえ返したところで動いていく立場をとろうとします。わたしは、ジャーナリストには、先ず必要なことはひととしての感性だと思うのですが、そのような思いを抱いていると思われる著者の姿勢に、エールを送りたい、その思いを共有化したいと思うのです。
コロナ感染症対策でも、現在の政治の構造が明らかになってきています。政治がやっているふりをすることに終始し、民衆のサイドに立った政治でなく、お金にむらがる資本のための政治となっている情況があります。著者がSNSで補償の問題で発信をすると、ねたみ的なところでの応答が出てくる話を書いています。役人の「いつまで、どこまでやるんだ」とか「補償の平等」のようなところの話がでてくるとかいう話も書かれています。「補償の平等」が「非補償の平等」になってきているのです。わたしは、このような政治は、「政治とはだますことである」という思いを強くしています。
ねたみというのは、きちんと補償が行き届かないところからきていることで、必要な補償がないところでは、運動を起こしていくことです。運動サイドも、すでに部分的に獲得しているところは、未補償のひとたちと連帯して運動を広げていくという意味で、情報交換と互いに支え合うことが必要になっていきます。これは、総てのひとに基本生活保障をという運動に結びついていくことです。
この本はすでに増刷されていると思うのですが、そのようなこととして広く読み継がれていくことを願ってこの読書メモも、その広がりの一端を担えたらと願っています。
今後資料的に使えるところの切り抜きメモを記して置きます。
はじめに
「棄民」10P
キノコや山菜の汚染は遠く離れたところ(富士山の麓)でも続いていること10-1P
自分たちは事故を起こさないという根拠なき言説の連鎖――チェルノブイリの後「日本は・・・」、フクシマの後九州電力の社員「自分たちの会社は・・・」13P
第1章 消される避難者
「――何の保護も与えられないので、私たちは「自力避難」と言っています。命や健康ほど大切にしなければならないものはありません。避難の権利を与えてほしい。/(「Thanks & Dream(サンドリ)」代表・森松明希子氏)」17P
復興庁の「避難者数の数え方」に関する各都道府県への事務連絡22-4P
「森安さんは、冷静さを保とうと、必死だった。後になって、森松さんは自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう「正常性バイアス」という言葉を知り、この時の自分はまさにこの正常性バイアスに陥っていたのでは、と思った。」32P・・・最初に放射線被害を過小評価していたことの反省として。
森安さんの川柳「復興庁 避難者消したら 復興か」44P
「国策が原因で起きた事故。被災で奪われた生活を少しでもよくするために、被災者が訴えるべき相手は政府だ。相手を見誤ってはならない。私は、両者の気持ちを少しでもつなぐ役割ができればいいと思いながら、取材を続けている/被災者どうしが憎み合うのは、離ればなれになった被災者が互いのつらさに気づきにくくなっていることが一因だと思うからだ。/それぞれの立場から被害の実相を伝えることで、誰のために、何のためにこの苦しみがあるのか、と振り返って頂けるきっかけになればと願っている。」51P・・・被害者同士の対立の構図を越えるために
「森安さんは、数を直すのに1年もかかったことに「こうやって避難者は消されていくんだ」と恐ろしさを感じた。避難者が減れば、政府が助けなければならない人も減ったことになり、復興が進んだように見える。いったい、どれくらいの人が消されているのだろう、と。」58P
「浪江町が町外への県内避難者として把握しているのは21年1月末時点で1万2937人。一方で県が浪江町からの県内避難者として発表しているのは326人。40分の1だ。復興庁は、自ら定義した「避難者」を数えていない福島県の集計結果を公表し、「避難者は減った」と復興の証しとして使っている。/「数値のごまかし、そうやって、避難民はいなくなっているんだ」/今野さんは憤りをこめて私につぶやいた。」70P
「――避難者数、実数と復興庁の発表数が相当離れていますよ。福島県の市町村が公表している避難者数を足すと、現在国が公表している避難者数「4万人」の倍近くの7万人になりますよ。/(復興庁の参事官補佐)「そうですね。2021年3月で10年になるのに合わせて検討できればと思っています」/復興庁は見直しをはじめるが対象は福島県外避難者という。すでに統計から消された人たちがとりこぼされないよう、取材を続けていこうと思った。」71P
第2章 少年は死を選んだ
「――国が原発再稼働を進めるたびに、原発事故で避難した人たちは胸をかきむしられる。「何で自分たちの苦労がありながらまた再稼働するんだ。自分たちが生きてきたことが否定される思いがある。とてもつらい」と。/(精神科医・蟻塚亮二氏)」75P
「庄司さんは、国や東電に対する怒りを繰り返し口に出していた。住宅提供打ち切りの謝罪、そのために息子が死んだことへの謝罪、人生を狂(ママ)わされた謝罪、何もない。謝られていないので、苦しみ続けている。」155P
「それでも、国は各地で原発の再稼働を推し進め、そのたびに被災者の心は疲弊していく。/政府が原発事故を謝罪しないどころか、支援を打ち切っていくことが、避難者をさらに苦しめている。それでもなお、政府は2021年以降さらに支援を縮小する。/政府は当初定めた復興期間が20年度で終わるとして、19年12月に「復興・創生期間後における東日本大震災からの復興の基本方針」を閣議決定。予算は20年度までの10年間の31兆3千億円から、21年度からの5年間で1兆6千億円と大幅に減額される。うち3千億円は復興事業のために発行している国債(復興債)の償還などに充てる。/年平均では約3兆円から、3千億円ほどと10分の1になる。復興交付金を廃止し、中小企業再建や、宮城、福島、岩手で被災者の心の相談に応じる心のケアセンターなど各支援を縮小する予定だ。支援団体からは「今後活動が続けられるのだろうか」との不安の声が上がっている。」156-7P
「(蟻塚さんの話)「10年で終わったという国の発想は間違い。沖縄戦によるPTSDは60年、70年経ってから出ています。国は福島県の人たちのメンタルの実態調査すらしない。調査をしたうえで、今後50年のメンタルヘルスの追跡計画をたてるべきです。」/(著者の文)国は被害者の実態調査すらしない。私はこれまで何度も復興庁になぜ実態調査をしないのか、質問してきたが、全国26拠点で相談を受けている、という回答が繰り返されてきた。/実体をつかませず、うやむやに終わらせる。それが狙いなのだろうか。/(蟻塚さんの話)「沖縄とは、違いがあります。福島では『話せない』ということです。沖縄で戦争を語るのは多数派ですが、福島で震災を語るのはマイノリティで、言っちゃいけない。『がんばろう福島』ばかりでしょう。これを掲げるのは、まるで日本が第二次世界大戦が終わったときに、自分たちがどんなトラウマを負ったか、外国の人にどんなトラウマを与えたかに向き合おうとしないで経済成長に走ったことと同じです。国は戦争に向き合うことから逃げたように、原発事故に向き合うことから逃げている。」」157P・・・自民党嫌韓議員の「いつまで謝罪すればいいんだ」という、謝罪というひととしての基本的なことも分からない政治家の発言と通じる事。沖縄でも語れない問題はあった。
「辻内教授が調べた海外の論文によると、PTSDの発症率は、自然災害による発症率が4〜30%なのに対し、人為災害は15〜75%と高いSSN(震災支援ネットワーク埼玉)による首都圏の避難者への調査ではPTSDの可能性が高い人の割合は、12年には41・0%、16年37・7%と徐々に下がってきたところ、住宅提供打ち切りがあった17年に46・8%と上がり、19年は41・1%となった。/身体疾患でも、避難生活で「持病の悪化」が認められた人が46・1%、「震災後に新たな疾患を患った」人が62・6%で、「医療費の負担を感じている」人は31%にもなった。/医療費免除が打ち切られれば大変なことになると、SSNは復興庁に打ち切りをしないように要望することを決めた。」174-5P
「いや、むしろ国策に起因した事故ゆえに、被害実態をつかまずに、終わらせようとしているのかもしれない。」182P
おわりに
「小貫さんの言葉に、鈴木氏(元原子力委員会委員長代理)は「申し訳ありません」と謝罪し、涙した。/そして鈴木氏は、21年1月私の取材に「原子力が必要という話はとてもじゃないけどできない。やめるべきだと思う」とはっきり言った。」187P・・・役人の「良心的」転換
「原発事故から10年。忘却は、政府の最大の武器で、私たちの最大の弱点だ。」187P
「世界のマグニチュード6以上の地震の2割が日本周辺で起きている。地震は未知の部分が多く、絶対的な安全対策は取りようがない。それなのに政府は舵を切って再エネに重点的に予算をあてるどころか、原発に回帰しようとする。政官業学メディアの五角形(小出五郎氏、12年3月2日付「朝日新聞」夕刊から)が原子力村をつくり、原発を推進してきたと言われる。事故が起こってからでは遅い(そもそも、もう起こったこと)。事前に防ぐのも、また私たちだ。私たちに何ができるのか。知ること、忘れないこと、声をあげることだと思う。/問題はこれからだというのに、報道が減り、さらに長く取材を続けるジャーナリスト仲間が減っていくことが懸念される。原稿を買ってくれる出版社がなければ生活できない。アルバイトをしながら続けている人たちも多く、頭が下がる。報じ続けるのはますます困難になる。私もどうなるか、わからない。しかし、精いっぱい、努力を続けるしかない。」190-1P


posted by たわし at 04:48| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSフジ プライムニュース「総裁選争点・・・経済政策 アトキンソンが生直言 井手英策×斎藤幸平ほか」

たわしの映像鑑賞メモ057
・BSフジ プライムニュース「総裁選争点・・・経済政策 アトキンソンが生直言 井手英策×斎藤幸平ほか」 2021.9.23 20:00〜21:55
今、テレビ局やマスコミは、政府批判的な局・マスコミと政府御用的な局・マスコミとに二分化しています。フジ・産経グループは、御用局・マスコミです。わたしは最近、ニュース・報道番組をハシゴしていて、平日はTBSBSの報道1930を観て、NHKESの手話ニュースを観て、それからBSフジの「プライムニュース」を観ます。この番組は、共鳴できるから観るのではなく、右派が何を考えているのか、また自民党内部で何が起きているかの情報を得るために観るのです。いつも観るわけではなく、日本会議の桜井よしこ極右論者とか橋下徹元大阪府知事・大阪市長とか出ていると、NHKニュースウオッチ9に切り替えてしまうのです。この日は、TBSBSの報道1930がプロ野球放送のためお休みでした。プライムニュースはほぼお休みはないのですが、TBSBSの報道1930は経営陣とおそらく政府からの圧力のせめぎ合いの中でやっている番組のようなので、ときどきスポーツ番組などでお休みになるようなのです。この日は、料理をしていてプライムニュースが始まってから、しばらくしてから、見始めました。実は新聞のテレビの番組表は見ていませんでした。誰が出演しているか知らなかったのです。アトキンソンさんが熱く語っているときに引きで全体を写したときに、あれっと思えるひとの姿が見えたのです。斎藤幸平さんでないかしらと思ったのですが、まさかマルクス経済学者の斎藤さんがフジ・産経グループの番組に出るわけがないと思ったのです。アトキンソンさんは中小企業の経営の立て直しで活躍してきて、その立場から政府の経済諮問会議などの委員をしているひとです。話している時間はアトキンソンが長いのですが、司会の反町キャスターはそれなりに参加者に意見を訊きます。で、「斎藤さん」と声をかけました。それでアップされたら、やはり斎藤幸平さんでした。アトキンソンさんは新自由主義者の範疇に入るのですが、最低賃金をあげて、中小企業の淘汰・生き残り戦略を進めるべきだという考え、この参加者は、それぞれの立場でその内容は違うのですが、討論参加者が経済成長戦略などありえないという論で一致していたのです。さて、アトキンソンさんは、斎藤さんの富裕税とか税制改革の提案に関して、イギリスの税制改革で、イギリスの資本家が海外に逃げたとかいう話をしていました。そもそもは、そんな話は資本主義を前提にした話で、斎藤さんは資本主義を否定するところで、それでも、グリーン産業とかいう分野での経済成長の可能性あるという話をしていたのですが、それは「資本主義が延命するためには・・・」という話をしているに過ぎないのですが、アトキンソンさんは、どうもそもそも斎藤さんがどういうひとか知らないで話をしている風でした。最後に、斎藤さんが「わたしがフジ・産経グループの番組に参加したのは、・・・・・・」という話をして、アトキンソンさんはやっと斎藤さんがどういうひとが分かった感じがしたのですが、その時の顔のアップでもしてもらったら、ことの真意が分かったのですが。この番組で以前から、番組のプロデューサーの番組の作り方なり、キャスターの反町さんの質問の仕方を見ているとどう考えても右派の反町さんが、意見の違うひとに議論をさせて、ときどき右派の方向へ引っ張ろうとしますが、その議論の成り行きを楽しむ風もあるのです。今回も、そのあたりの遊び的な楽しみで成立した議論・番組のようなのです。それにしても、経済学者の森永卓郎さんが、マルクス経済学というのは大学から消えたと言っていた情況があるのですが、マル経の学者の斎藤さんの本『人新世の「資本論」』が30万部超えのベストセラーになり、テレビにしかも、右派の番組に出て堂々と持論を展開する、事態が起きているのです。そういう資本主義の矛盾がもうどうしようもないところに来ているのかなと思ったりしています。これは、オプティズム的なとらえ方で、逆のとらえ方もできます。遊び的に企画したということでは、まだ、緊迫していない、右派の余裕や誤算かもしれません。
 さて話がずれますが、最近マルクス経済学の理論を一応押さえているはずのひとやグループが、おかしな理論をもちあげている現状も出ています。
 そもそもマルクス経済学から出発したらしいひと(わたしはまだちゃんと押さえていませんが、松尾匡さんがその筆頭のようです)が、MTT理論など持ち出しています。以前から、まるでアベノミクス応援団だとわたしは押さえていたのですが、今回の自民党の総裁選で、高市早苗前総務相がその「MMT理論を採用した」サナエノミクスなるものを突き出しています。そもそもMMT理論なるものは、恐慌論をどう押さえているのか疑問だし、現在資本主義のグローバリゼーション論を押さえていないとしかとらえられないのです。グローバリゼーションの時代には、経済成長戦略をとれば、更なる収奪、差別の拡大しかもたらさないということがなぜ、分からないのでしょうか? アベノミクスの経済成長戦略でトリクルダウンなどと言っていた竹中平蔵新自由主義者が、「トリクルダウンなど起きない」と明言したことで、アベノミクスの破綻は明確になったのです。これに関しては、松尾さんが共著で出している本を一度読んで、改めて批判の読書メモを残そうと思っています。


posted by たわし at 04:42| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月17日

天笠啓祐『ゲノム操作と人権 新たな優生学の時代を迎えて』

たわしの読書メモ・・ブログ567
・天笠啓祐『ゲノム操作と人権 新たな優生学の時代を迎えて』解放出版社2020
 天笠さんの本の連続学習。これで一応一段落です。
この本はわたしの反差別という問題意識に重なることが最も大きかった本です。わたしは本を読むときに特に留意するところに鉛筆で線を引いているのですが、この本は全体に線を引きたいような本です。
この本は丁度コロナウィルス感染症が広がっていく最中に出版された本、最後に(「あとがきにかえて」)医療政策の失敗やワクチンとか治療薬のことへの疑問も出ていて、ビビッドにこれらの問題の核心が伝わってきます。
遺伝子操作は「ひとが「神の領域」に手をかけた」ということが言われるのですが、キリスト教文化圏でなぜ、そのようなことが進んで行くのか、「もはや、神は死んだ」ということを証明しているようなことです。むしろ、この本にも対談(「科学技術に張りつくもの」)で書かれているように、精神と肉体とを分けて、肉体をモノ化することから来ているのでしょうか? ひと総体を構成している細胞も遺伝子もヒトの中にあるもので、ひとを離れて自然的には存在し得ないことです。いわば外なる生態系と同様に内なる生態系を構成していて、外の生態系を壊すとどうなるのか、さまざまな荒廃や自然災害としておきていること、内なる生態系はヒトのなかにあって共生しているウイルスとともに細胞やその細胞からなる臓器など、そもそもその一部として構成していること、それをモノ化して切り離そうとしたりしています。また、遺伝子操作したワクチンや抗ウイルス抗生物質治療薬などは、ひとと共生している他のウイルスやバクテリアにどのような影響を与えるのか、著者はいろいろな疑問というか、未知数のことにむやみやたらに手をかけることに警鐘をならしています。
いずれにしても、遺伝子操作ということは、遺伝子をモノ化していることで、そのことを通してひとをモノ化していくことになります。
ひとがどのように変異が起きてもひととひととの間に生まれた子どもはひとであるというところで、反差別ということが定立することで、ひとと動物のキメラができたら、それはどうなるのか、差別の問題を考えると、それは被差別の側に置かれてしまうのですが、差別の極と言われる情況を作りだしてしまいます。ひとの種の概念を壊すことはしてはならないのです。それはひとの生物性を否定するモノ化になってしまうのです。
そもそも、ひとのモノ化は資本主義社会において、ひとが、資本の論理の中で、労働力商品として取り扱われるということに根ざしています。「人工人間」を作るようなことさえ、想起させる展開も出てきています。ギリシャの市民社会が奴隷制度に支えられていたことがありました。現代は一応奴隷制度は否定されています。巧妙な賃金奴隷制度と言われる体制ではありますが、ひとは誰かの所有物であることは否定されています。ですが、ひとが作ったロボットが所有物になるように、「人工人間」も所有物化されるのでしょうか? そこでは、労働力としての「人工人間」に支えられる「真人」というようなことになります。そこでは、ひと総体は、デザイナー・ベイビーとして操作されことに及んでいきます。「真人」など存在しなくなるのです。そこには、恋愛とか性愛とかいうようなことが絵空事になってしまう世界ではないでしょうか? SFで自分たちが作り上げたAIに支配されるひとを描いた映画があるのですが、現在のビックデータのシステムの延長線上にシステムにひとが支配されていく構図が浮かび上がってきます。
「神の領域」という話を書いたのですが、「神が死んだ」と言われる時代に生きているわたしたちは、それを、ひとは生物であり、生物であることを止めてモノとしていきることになってしまうことと押さえます。
著者も書いているように、完全とか絶対とかいうことを追い求めて何かを生み出していくこと自体うまくは行きはしないのです。それは自然の背理なのです。神はそもそも自然の物神化としてあり、「神の領域」という警句は、ひとは自然の枠組みを超えられないという意味なのです。そのような試みはことこどく結局失敗に終わることでしかないし、また、そのような試みに手をかけるということは、そこにあるのは、優生思想に更にとらわれた、荒廃した社会を生み出すだけなのだと言いえるのです。
 この本も繰り返し資料的に使っていくことになります。この本には、遺伝子操作の色々な事例や問題点を、それを指摘する研究者の名前をあげて記してくれています。わたしには、それを逐一研究するための基礎学習の蓄積もなく、また時間もないのですが、それを専門にして研究するための資料になっていくと思います。この本も、そういうところで貴重な資料になる本です。
先に書いたように全面的なきりぬきなど出来ないので、関心をもたれる方は、というより、とても大切な本なので、読んでもらえればと願っています。関心をもってもらえるように目次だけ出版社のホームページから抜き出して貼りつけて置きます。

 はじめに  一線を越えた
第1章 ゲノム編集がもたらした社会的衝撃
 遺伝子組み換えとゲノム編集/開発が進むゲノム操作食品/日本政府が邁進する開発競争/多国籍企業の特許戦略
第2章 遺伝子と優生学
 ゲノム編集とそれが作り出す思想と社会/分子生物学的人間像/米国での遺伝子決定論をめぐる論争
第3章 人体改造の時代と優生工学
 筋肉の盛り上がった人体への改造/ドーピングの世界/遺伝子データバンクへ/優生工学
第4章 人の受精卵にまで及んだゲノム操作
 まずは中国で始まった/米国でも行われる/この受精卵への実験への反応は?/タブーに踏み込む
第5章 ゲノム操作赤ちゃん誕生の衝撃
 中国での最初の赤ちゃん誕生/賀副教授、懲役3年の判決/どのような遺伝子操作か?/何が問題か?/次はロシアでも/さらに分かってきた新たな問題
第6章 政府や企業はゲノム編集推進一辺倒
 欧州司法裁判所が規制を求める判決/環境省は規制せず/厚労省も規制せず/国際的な動き/有機農業をめぐる動き
第7章 ゲノム編集、iPS細胞、動物利用が変える臓器移植
 活発化する臓器移植/豚の臓器を人間に移植へ/新たな形の臓器移植/iPS細胞について
第8章 人間と動物の雑種づくりを容認
 動物性集合胚にゴーサイン/動物性集合胚の種類は?/臓器づくりに動きだす
第9章 ゲノム編集がもたらす生命へのダメージ
 ブラジルがゲノム編集牛導入を中止/壊してよい遺伝子などない/クリスパー・キャス9の登場で容易な操作に/オフターゲットは必ず起きる/切断箇所に起きる大きな変化/ゲノム編集で発がん性が示される
第10章 遺伝子ドライブ技術・合成生物学・RNA干渉法
 種の絶滅をもたらす遺伝子トライブ/科学者による重大な懸念/合成生物学/RNA干渉法/RNA干渉ジャガイモ
第11章 ビッグデータ時代のゲノム情報
 AIが家族より先に妊娠を知る/遺伝子商売/広がる遺伝子差別/インフォームド・コンセントの中身/100万人ゲノムコホート研究が始まる/ゲノム情報とマイナンバーが連結する/デザイナー・ベイビーと新たな優生学
第12章 生命操作の推進役、生命特許・遺伝子特許
 経済の知的所有権依存強まる/生命特許が成立する/遺伝子も特許に/ジョン・ムーア事件が起きる/乳がんの遺伝子特許が投げかけた波紋/デザイナー・ベイビーも特許に
第13章 日本における健康帝国づくりと優生学時代
 国家戦略としての医療・健康/健康・医療国家戦略の源流/ライフコースデータとビッグデータ利用/健康・医療戦略が企業や医師を高圧的にする/生殖医療・臓器移植も歯止めがかからなくなる/ゲノム編集技術の登場/新たな優生学時代へ
dialogue 科学技術に張りつくもの 天笠敬祐×佐々木和子
 大学で科学技術に疑問を持ちました/人間にとって科学技術とは?/科学技術も「いまだけ、カネだけ、自分だけ」
あとがきにかえて パンデミック禍のゲノム編集と医療崩壊
 パンデミック禍の差別と偏見/いのちの選別に反対して声を上げる/国が潰してきた感染症対策―ゲノム編集推進と保健所半減


posted by たわし at 00:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天笠啓祐『ゲノム操作・遺伝子組み換え食品入門 (プロブレムQ&A)』

たわしの読書メモ・・ブログ566
・天笠啓祐『ゲノム操作・遺伝子組み換え食品入門 (プロブレムQ&A)』緑風出版2019
 天笠さんの本の連続学習。この本のタイトルでの、Q&A方式での入門書とも言える本です。前の本の読書より、こちらを先に読んで、概略をつかんだ方が良かったのかも知れませんが、出版された順番という意味で、著者の「遺伝組み換え食品」の害の強調というところが、増していくことも分かって来ます。
 この本は遺伝子操作が何をもたらすか、というところでその概略をつかむ資料としても使えます。今、遺伝子操作して作ったコロナウィルスワクチンの話で、「ワクチンを打ってコロナウィルスを抑え込みましょう」というようなキャンペーンのようなことが起きていて、ワクチンの危うさの指摘を「デマ」として政府・マスコミが「デマ狩り」のようなことが起きているのですが、遺伝子操作植物・動物、そしてその技術の使用の中で、何が起きているのかをこの本で読んでいくと、「デマ狩り」の中の言説こそがデマではないかと思えるのです。これはフクシマ原発事故の後の、放射線被害やその恐れを訴えるひとたちに、「風評被害」という言説で批判していくことにも通じることがあります。なぜ、同じことが繰り返されるのでしょうか?
 わたしは、わたしの読書計画の趣旨にそって分類しているところで、「エコロジー」としているのですが、エコロジー関係の本を読んでいると、憂鬱になってきます。自分の立っている基盤を危うくして人類が破滅への道を進んでいるとしか思えないのです。
 遺伝子操作は、ひとが「神の領域」に手をかけることだと言われます。これはキリスト教的な世界観で、無神論者のわたしからとらえ返すと、神は「物神化された自然」ということになります。「科学幻想」にとらわれたひとは、「自然の征服」とか「自然性の超越」とか言い始めたのですが、それは社会変革の運動をするひとたちも陥った罠です。エンゲルスも陥った(晩期マルクスにはそのことから脱しようとする志向は出ていたのですが)発達史観や進歩史観で「科学信仰」にとらわれ、「科学的社会主義」なることを宣揚し始めました。今日、公害や自然破壊の中で科学批判ということが起きているのに、「科学的」ということのとらえ返しはちゃんと進んでいません。ひとは生きものである限り、自然という枠組みから脱することはできません。原子力技術者から反原発の市民運動家に転じた高木仁三郎さんの言葉を借りると、ひとは「自然に適う」生き方しか出来ないのです。「自然との共生」というよく使われる言葉にも高木さんは疑問を呈していました。ひとは自然の中で生きているのであって、自然というところから脱した、自然と社会の並立的共生という概念は出てこないのです。そのことをないがしろにしていくことは、ひとが生きる基盤そのものを壊していくことになります。同時に、そのような技術を使っていくことは、ひと自身が生きる者から生きるモノになっていくことを意味します。
 今日、二つの技術は原子力技術とこの遺伝子操作技術は封印することではないかと思えるのです。
 さて、すでに書いたように、この本は概略として、いろんな指摘をしてくれているので、遺伝子操作の安全性を主張するひとたち、「科学信仰」に陥っているひとたちと論争することになったときに、「こういう指摘が出ています。これにきちんと反論してください。「危うい」と指摘される技術を使うときには、それが安全だということを立証する責任は、使う側にあるのです。」と、安全性を立証するデータを出させていく必要があるのだと思っています。
 この本は、Y章と56項目のQ&Aで構成されています。章だけ示します。

 T 遺伝子組み換え・ゲノム操作の基礎
 U 遺伝子組み換え・ゲノム編集がもたらす環境への影響
 V ゲノム操作作物・食品
 W 遺伝子組み換え・クーロン・ゲノム編集動物
 X 遺伝子組み換え・ゲノム操作食品の安全性
 Y 遺伝子組み換え・ゲノム操作食品の規制
 
この本は、実践的に使っていくこととして、データ的に使っていくこと、それを抜き出すと膨大になるので、特に、強調的に印象に残ったことだけにします。
T
「今日いわれているバイオ食品とは、それら従来の自然の法則を利用した食品づくりとは一線を画した、バイオテクノロジーを応用した食品です。「古いバイオ」は自然の摂理を利用したものです。それに対して「新しいバイオ」は、自然界では起きないことを人為的に起こしています。このように、バイオテクノロジーの最大の特徴は、自然界の仕組みではいくら工夫しても不可能なことを、可能にするところにあります。」19P
「遺伝子組み換えとは、@生命の基本である遺伝子を操作することであり、A他の生物種の遺伝子を導入することです。「組み換え」といっても、従来の遺伝子組み換えでは、言葉の意味の通りに組み換えることはできません。遺伝子を入れるだけの技術です。Bしかも、導入した遺伝子の動きを強化し、しかも四六時中働かせており、そのことがさまざまな問題を引き起こします。」22P
「・・・・・・種の壁を越えて遺伝子は移動しないのです。気の遠くなるような長い時間をかけて出来上がった、自然界を支配している絶対的秩序です。/その種の壁を超えて遺伝子を移動させる技術が、遺伝子組み換えです。種の壁を越えるということは、自然界の秩序に反することであり、そのため一九七〇年代中ごろまではできなかったのです。それを可能にしたのです。/しかも、通常ですと導入した遺伝子は、その生物には不要なモノですから働くことはできません。それを無理やり働かせ、しかも四六時中働かせるため、導入した生物に負担をかけるのです。それが生物多様性への影響や食の安全に影響してくるのです。/自然にも遺伝子組み換えが起きることがあります。・・・・・・」23P・・・最後のところは自然の中での自然な組み換え。
「遺伝子を切ったりつなげたりするのに酵素が必要です。着るのが制限酵素、つなげるのが連結酵素といわれるものです。遺伝子のノリとハサミの役割を果たしています。」26P
「生物は調和と一定の状態の維持で成り立っています。遺伝子は、その生命体に調和をもたらし、バランスをとるように働き、行き過ぎは制御する仕組みがあります。ですから、異常事態にならなくてすむのです。一方で成長を早める仕組みがあると思うと、他方で成長を抑える仕組みがあり、一定の状態を保つようになっています。そのような仕組みを「ホメオスタシス(定常性)」といいます。そり仕組みに介入すると、コントロールを失うため、このような操作が可能になりますが、しかし、生命のもっとも大切な仕組みを人為的に破壊してしまうことになるのです。このことが、この技術の最大の問題点といえます。」35P・・・ホメオスタシスは自然界の修復作用、それを超える介入は破滅への道
「遺伝子組み換え食品の現状は、@日本人が米国などの作付け国の人と並んで、世界でもっとも食べている、A食品としての安全性に疑問がある、B生態系(環境)に悪影響が出ている、C多国籍企業による種子独占(食料支配)をもたらしている、という四点に集約できます。」37P
「現在、除草剤に枯れない雑草の増加や、殺虫毒素で死なない害虫の増加で、この省力効果が大きく減少しており、社会問題化しています。」45P1・・・イタチごっこ
「・・・・・・ヨーロッパではこのバイエルンとモンサントの一体化を「悪魔の結婚」と呼ぶ人も多く、とても歓迎された買収とは言えません。」53P
「生命体を操作することは、その生命体に大変な負担を強いることになります。また生命の複雑な仕組みに介入するため、思いがけない問題が起きたりします。そのためうまくいかないのです。」55-6P・・・「内なる生態系」の破壊
U
 生態系の破壊・・・修復の機能とのイタチごっこ、パニシングポイントへ
W
 34――植民地主義的非人道的蚊での実験
 35――「予防原則」170P
X
 39――安全性・・・直接的被害と間接的被害という概念での分析、フクシマ原発震災での、「関連死」という概念
Y
 52――「消費者庁によって、消費者の権利が蹂躙されているのです。消費者庁がどこを向いているかというと、消費者のほうでないことだけは事実です。」254P・・・原子力規制委員会が推進委員会になっていることにも通じること
 54――「二〇〇八年に世界銀行が出した「これからどのような農業に投資をしていったらよいか」をまとめた調査報告書では、遺伝子組み換え作物に未来はなく、有機農業など環境保全型農業に投資すべきだと結論づけました。本来、米国政府や多国籍企業の味方のはずの世界銀行が、遺伝子組み換え作物を見限ったのです。」259P・・・炭素エネルギーを使った発電所にも通じて、原子力や遺伝子操作総体にも及んでいく、SGDsで問題になっていくこと。ただし、SGDsや世界銀行――資本主義の論理の枠内での限界も
カンタベリー大学のジャック・A・ハイネマンの遺伝子組み換え作物の評価六つ・・・良いことはない、悪いことばかり、解決策としてアセスメント四つ
 55――「GMOフリーゾーン」263P「スローフード運動」264P
 56――「大豆トラスト運動」


posted by たわし at 00:47| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天笠啓祐『遺伝子組み換え食品』

たわしの読書メモ・・ブログ565
・天笠啓祐『遺伝子組み換え食品』緑風出版1996
 天笠さんの本の連続学習。遺伝組み換え関係の本の最初の頃の本です。
実は、この本は二部構成で、一部が「食糧危機の構造」、二部が、この本のタイトルになっている、「遺伝子組み換え食品」で、著者自身が書いているように、2冊本に分けられることですが、これも著者が書いているように、逆に1冊にすることによって、農業変革の中で出てきている遺伝子組み換え技術の進展ということがとらえられます。一部は、一章から三章の世界の動向、四章から八章の日本の動向、九章・十章は世界の中の日本という内容になっています。一章から三章の世界の動向には、スーザン・ジョージの本や『沈黙の春』などの引用があり、わたしの過去の学習とリンクしていきます。まさに資本主義の論理で進む競争原理による開発がひとの生きる基盤を危うくしていて、「資本主義やめますか、人間やめますか」という思いを強くしています。第二部も含んで、ひとは自らの自然性を危うくする技術に踏み込んでいると、多くのひとが危機感を抱いているのに、どうして止められないのかと、恐ろしくなってきます。
 本の内容をだいたいつかんでもらうために、目次を章だけ書き抜きます。

まえがき
第一部 食糧危機の構造
第一章 アグリビジネスの世界戦略
第二章 緑の革命から“食糧危機”
第三章 第三世界をおおう債務と飢餓
第四章 高度経済成長期、基本法農政の下で
第五章 すすむ農業の合理化
第六章 国家による大規模開発と農業政策
第七章 新全総と三全総
第八章 食品産業・外食産業の肥大化
第九章 日米摩擦のなかでの食料
第十章 これからどうなる私たちの食卓
第二部 遺伝子組み換え食品
第一章 第二の緑の革命か?
第二章 コメ開発戦争
第三章 トリプトファン事件
第四章 繰り広げられた安全性論争
第五章 生命操作はどこまで進むか?
第六章 知的所有権紛争
おわりに

 いきなり、切り抜きメモに入ります。
 第一部の第一章は、戦争と植民地支配のなかでのアグリビジネスの進展ということ。
 倉庫や運輸業の「発展」という中でのアグリビジネスの進展
 援助という中での「農業の自立を奪われていった」16Pこと
 第二章、「緑の革命むということでの既成の農業の破壊でもたらされた食糧危機の問題
「PL四八〇号(農業貿易促進援助法)は、後に「平和のための食糧計画」と呼ばれるようになっていった。だが、“平和”という名前で行われることほど恐いものはない。/・・・・・・ジョンソン大統領は、ベトナム戦争で、「平和のための食糧計画」を戦争の武器にした。」27P
 第三章、マルサスの人口論を元にしたローククラブの『成長の限界』――問題のすりかえ39-40P
「債務の深刻度をはかる尺度がある。その尺度によると債務の返済額が輸出収益の二五パーセントを超えると危険とされている。一九八八年におけるアフリカ全体のこの割合は四〇パーセントだったという(国連アフリカ経済委員会)。危険な状態をはるかに超えている。」50P
 第五章、ナチス・ドイツの開発した毒ガスから農薬が生まれたこと――若月俊一(佐久間総合病院)はこの農薬を“ヒットラーの亡霊”と名付けた。」64P
「さらにまた、この肉や牛乳を侵食した人間の体にも蓄積していき、その慢性毒性、発ガン性、遺伝毒性などが問題になった。この残留性が世界的に問題になるや政府は、一九六九年七月に、DDT、BHCの新規許可をストップした。六九年十二月にメーカーは“自主規制”で製造をストップした。さんざん作られたあとの措置であった。」66P
「農薬は、生産現場では労働災害となって工場の労働者の健康を蝕み、工場周辺住民には公害となって被害をもたらし、それを使用する農家の人たちの体を壊し、食べものの中に入って消費者の健康に脅威をもたらす。まさにジェノサイトの技術である。」67P
第六章、そのひとつとしての三里塚空港
 第七章、企業の利権として進む「開発」112P
 第九章、七〇年代以降の「ハイテク分野で世界の先端を走る」――「“ジャパン・アズ・ナンバーワン”」134P・・・情況の変化
 アメリカ農業の構造的変化@「輸出用穀物へと農業生産物生産の転換がはかられていったことである。」A「中小の農家を中心とした農業から、大規模な農場経営者による農業へと変わっていったのである。」B「高収量品種の開発の結果、限定された品種による量産化が進行したのである。」135-6P
「レーガンの行った経済政策、いわゆるレーガノミックスは、それまでアメリカが抱えていた経済矛盾を一挙に拡大した。」137-8P・・・アベノミクスも
「前川レポート」「新前川レポート」――日本の農業破壊と資本の輸出143-4P
 四全総の中身@「道路網、通信網の建設、拡充である。」A「農業の近代化路線をおし進め、とくに都市近郊農家から土地を放出させ、公的機関によるニュータウンなどの宅地開発、建設省が進める新都市拠点整備事業など大規模開発を進めようとするものである。」B「知識型産業の立地を押し進めようとするものである。」C「四全総の目玉として打ち出されたのがリゾート開発である。」146-8P
 第十章、日本の農業の行き先@「輸出食品が増大していくことである。」A「アグリビジネスは、バイオ技術やハイテク農業の開発を行っている。そういう先端技術の開発合戦が進み、技術依存型農業が広がっていくだろう。そこでは“食べものは生命を育むもの”という考え方は失われ、他の工業製品と同じ位置づけで生産が行われるようになる。」B「企業経営は、スケールメリットを追求する。大規模化は、化学化・機械化を加速させる。とくに農薬や化学肥料の大量投入は、食品の科学的汚染を深刻化させる。安全性がより脅かされる。」C「大規模化、市場原理導入は、コストの論理を前面に出してくる。このコストの論理に抵抗してきた自立した農業が“もうひとつの運動”をどこまで継続・発展できるか。大変な試練に立たされる恐れがある。それは消費者運動にとっても試練である。」158-9P
 Cの前に書かれている“もうひとつの運動”の中身としての「一部の農家の間では自立した運動が、これまでも近代化路線に抵抗して、行われてきた。大野和興はそれを民衆農業運動と呼んだ。」159P
「日本では四次に及ぶ総合開発計画が中心になって、埋め立て等で漁場を潰し、漁業権を放棄させ、農地を潰し、山林を伐採して、工場用地とし、道路を作り、団地や空港を作り、環境を壊してきた。いまその環境破壊は地球規模まで広がった。/日本の風景の原基は、日本の農業、それも日本型の家庭経営の小規模農業によってつくられてきた。その風景は都市部から崩壊し、都市近郊、工業地帯、基幹道路沿い、山間地という順番に崩れていった。その日本の風景がいま、一挙に崩壊する道程に入ったといえる。/だがこれは日本だけの問題ではないことはいうまでもない。一番ダメージを受け続けたのは第三世界の国々である。貿易自由化の論理は強国の論理である。強ければ強いほど自由化によって得るものが大きい。いま強国間の取引きによって、この自由化への道がつけられつつある。」166-7P
WTOの「内政干渉に等しい」動き167-8P・・・スーザン・ジョージも書いていたこと。
「もっと大きな問題は、この自由流通の論理は、食糧自給を放棄する考え方の上に成り立っているところにある。日本の農産物は価格ではまったく太刀打ちできない。私たちの食卓はやがて輸入食品で占拠されてしまうだろう。このことは、安全性の問題もさることながら、貿易赤字国に転落した時には、食べものが食卓から消えることを意味する。」168P
第二部、第一章は、「この技術(遺伝子組み換え技術)は遺伝子そのものを操作することから、長い間、人間そのものの遺伝子組み換えと、食品として日常的に摂取するものに適用することだけは、タブーとされてきた。生命の基本を操作することから、一方で、倫理的に超えなければならない壁があり、他方で、安全性でも未知な部分が大きいことが理由である。/しかし、人間そのものの遺伝子組み換えが、九五年八月、遺伝子治療という形で始まった。また遺伝子治療の始まりと軌を一にして、遺伝子組み換え食品もまた、タブーがはずされてしまった。」172P
「ハイブリッド化は、F1化ともいい、雑種一代目のことを指す。メンデルの遺伝の方村のひとつに「優性の法則」がある。雑種一代目では両方の親の優性な形質のみが現れるというものである。二代目(F2)の世代になると劣勢な形質が現れ、バラバラになってしまう。」179-80P
「ところがハイブリッド種を開発するためには、多様な組み合わせをただひたすら掛け合わせつづけなければならない。その成果を見ていくため、画期的な品種ができるまで一〇年以上はかかるといわれるほど、この分野の仕事は根気と忍耐が求められてきた。しかしバイオテクノロジーはその期間を一挙に短縮できる技術であった。そのため、これまで種子産業に参入をはかってこなかった穀物メジャー、化学企業、食品企業等、技術力をもった巨大企業が参入を始めた。しかも手っ取り早い方法として種子企業の買収を繰り広げたのである。」180P――「種子戦争」181P
「このような形で急激にハイブリッド化が進んだことで、さまざまな矛盾も広がった。土地を酷使することから土壌の荒廃が広がった。」183P
「F1化によって作物の多くは、人間に頼らなければ生きていかれないものが増えている。F1化はモノカルチャー化であると同時に脆弱化でもある。トウモロコシがそのよい例である。今やトウモロコシは人の手に頼らないと生きていかれなくなった。わずかな品種が地球上を覆うとき、生物の多様性は失われ、ある日突然壊滅的な打撃を受けて全滅する危険性を孕むことになる。このような脆弱化を克服しようとしてバイオテクノロジーで強化がはかられることになる。しかしこれは、作物の人工化をさらに進め、さらに人の手によらないと生きていかれない作物を増やすという、悪循環を形成している。」183-4P
 第二章、「植物には人間の免疫に似た「干渉作用」というものがある。病原体の毒素を薄めて接種するとその病原体への抵抗力をもつという性格である。組織培養の際にあらかじめ弱毒を培地の中に入れて、その病原体への抵抗力をもたせたりしている。その干渉作用を遺伝子組み換え技術を用いて、人為的につくり出すのが、このウイルス抵抗性イネ開発の目的である。」189-90P
第三章、「遺伝子組み換え食品には大きく分けて二つの種類がある。/一つは食品をつくる手段に遺伝子組み換え体を利用するものである。例えば微生物を利用してつくるような食品で、その微生物に遺伝子を入れて、その微生物を増殖させて遺伝子も増幅させることで、目的とするアミノ酸や蛋白質を大量に生産させるのである。現在は食品というよりも、もっぱら食品添加物としての酵素づくりに用いられている。・・・・・・もう一つは遺伝子組み替え体そのものを食べる食品である。・・・・・・」197-8P
「後者の遺伝子組み換え食品で、組み換えでもたらす性格としては、遺伝子組み換え米でみた、「干渉作用」を利用した耐病性のものが多い。/そのほかに、遺伝子の動きを押(ママ)さえてしまう、マイナスの遺伝子組み換えも行われている。これがすでに述べたアンチセンス法である。」198P
アンチセンス法199-200P
「除草剤耐性の場合は、現在は二つの方法が行われている。一つは、除草剤を分解する酵素をつくる遺伝子を導入する方法である。もう一つは、除草剤が食物を枯らす作用そのものに介入する遺伝子を導入する方法である。・・・・・・/耐虫性の場合は、微生物農薬のBT(バチルス・チューリンゲンシス)の殺虫成分をつくる遺伝子を導入する。・・・・・・」200P  
トリプトファン事件204-6P
第四章、「遺伝子組み換え技術は、これまで自然界にはなかった生物をつくるなど、生命の基本を操作するという、「神の領域」に人間が手をつけたことを意味する。」207P・・・自然の物神化としての神、自らの存在基盤としての自然の破壊という意味
「その論争は主に二つの問題で争われた。一つは、人間はどこまで生命に介入できるのか、という倫理的な側面であり、もう一つは、安全性についてだった。」208P
 アメリカのバイオハザードをめぐる議論とイギリスでの事故をめぐる議論208P
「一九七四年にバーグによって、安全性が確認されるまで実験は一時中止すべきである、といういわゆる「ハーグ声明」が出され、それを受けて一九七五年に各国から科学者が集まり、この問題を討論する会議が開かれた。アメリカ・カリフォルニア州アシマロで開かれたことから、この会議は「アシマロ会議」と呼ばれた。/この会議で遺伝子組み換え実験の規制を二つの方向で行うことが決められた。一つは、実験の設備・施設に基準を設けて扱う生物が外に洩れでないようにしようというもので、これを物理的封じ込めといった。もう一つは、もし生物が外に洩れ出たとしても環境中で生き延びられないものを使おうというもので、これを生物学的封じ込めといった。その上でさらに、DNA供給体には人間及び人間に近いものは使わないという原則が打ち出された。」208P・・・すでに原則は壊れている?
「応用段階の指針による規制は、実験段階のそれとは比較にならないほど緩やかである。このように科学者の圧力によって規制緩和が進められていく一方で、遺伝子組み換えに伴う「危険性」も明らかになってきた。/その代表例がフランス・パスツール研究所で起きた、がん多発事件である。」210P
「一九九五年、世界で最初の組み換え体そのものをたべる遺伝子組み換え食品が市場に登場した。カルジーン社が開発した遺伝子組み換えトマト「フレーバー・セイバー」である。」210P
「組み換えトマトの「フレーバー・セイバー」に並んで、長い間安全性が議論されたのがウシ成長ホルモン(bST)だった。」212P
「遺伝子を組み換えることで、その生物でそれまで考えられていたこととは異なる振る舞いをすることが起こり得る。そのような事例がウイルスの世界ではいくつか報告されている。導入した遺伝子や、マーカーとして用いられる抗生物質耐性遺伝子の産物が、これまで人間に対して考えられなかったような悪影響、未知の毒性をもっていたり、新しいアレルゲンになることが懸念されている。/また抗生物質の多用は、耐性をもったバクテリアを増やすことになりかねない。最近は汚染物質の増大にともない、アレルギー病の人が増えている。新しい未知の物質を食品の中にいれることで、アレルギー病を増加させるおそれもある。野放しの開発は、予測できないものまで含めて、さまざまな物質が食品の中に入ってくる危険性を増幅させる。/また作物をつくる過程での環境への悪影響も懸念されている。最も恐れられている影響は、生態系の破壊である。これまで自然になかった改造生物が持ち込まれたとき、その改造生物自体が異常に増えたり、飛散した花粉によって他の生物と交雑して増えたりして、生態系に影響を及ぼす危険が指摘されている。/そして、もう一つの危険性は、干渉作用を高めるためにウイルスの一部を導入した際に、その遺伝子と新しく感染したウイルスの間で遺伝子交換が起き、そのウイルスが、これまで考えられなかった病害性をもってしまうことである。」214-5P――タバコ植物の病害性保有、トリプトファン事件
 規制指針が利用指針に転換218P・・・原子力規制委員会が「推進委員会」へ
「指針に基づく規制は、このようにいずれも実効性に乏しく、安全性よりも経済性を優先したものになっているのである。」219P
 第五章、「家畜の生命操作は、人工授精・体外授精技術を利用した生殖操作が多い。借腹・貸腹、精子銀行・胚銀行、受精卵凍結、受精卵移植、受精卵分割などが行われている。それらはすべて家畜に応用された後、人間にも用いられている。」230P
 第六章、「収集する生物は、遺伝子中心に近いものである。」235P
「遺伝子資源の権利を掲げる第三世界と、知的所有権を守ろうとする先進国の間で激しい対立が生じた。」237P
「これらはなし崩し的に(生物多様性)条約の効力を無くそうとする動きにほかならなかった。」237P
「アメリカはまた、GATTウルグアイ・ラウンドにトレード・シークレット(営業秘密)のような、従来知的所有権とは考えられなかったものまで議論の中に持ち込んだ。トレード・シークレットとは、コカコーラの原液の秘密に代表される企業秘密・営業秘密で、研究データ、設計図、顧客名簿、販売マニュアルなどが当たる。特許が権利の保護と引き替えに公開するのに対して、トレード・シークレットは非公開の保護を前提にしており、従来の知的所有権の考え方とは相入れないものだった。それまでも戦略に導入したのである。」242P
「きっかけになったのが、チャクバーティー裁判で、一九七二年アメリカGE社は、石油汚染除去のために改造したバクテリアを特許申請した。それがシュードモナス属の細菌を改造したチャクバーティーだった。特許庁は生物に特許を認めないという理由でこれを拒否した。GE社はそれに納得せず、裁判に持ち込んだ。その結果、一九八〇年六月に連邦最高裁判所は、このチャクバーティーを特許として認めるという判決を下した。/このチャクバーティーは微生物であり、UPOV(植物の保護に関する国際条約)とは関係がなかったが、これがきっかけになって、生物も特許になるという考え方が定着した。」243P
 UPOV改正の内容@「適用範囲を農作物にだけ限定せず全植物まで広げる。」A「適用範囲を種苗の販売だけでなく、収穫物や販売物にまで広げる。」B「自家採種は認めない。」C「登録をバイオテクノロジーに絡んで細胞一個にまで広げる。」D「イミテーションを排除するため、植物品種権を強化するとともに、仮保護制度を導入してスピードアップをはかる。」E「保護期間を基本的に一五年から二〇年に延長する。」F「植物新品種保護制度と特許制度の二重保護を認める。」245P
「世界の企業がバイオテクノロジーを中心に新品種開発競争を展開し、実際にものをつくっている人達の権利はますます縮小していくという事態が訪れている。企業支配が第三世界の飢餓・砂漠化の最大の原因となってきた。このまま放置しておいては、地球規模での環境悪化は、拍車がかかることになる。」246P
おわりに、「この企業の権利強化、農家の権利縮小は、国際的には分業化の進行となって進むものと思われる。研究・開発の段階、応用の段階、実際に作物をつくる段階での、三つの分担化が進むものと思われる。/研究・開発の段階は、ゲノム解読などの基礎研究で成果を上げ、主要な知的所有権を押さえていくアメリカが主役となる。それにヨーロッパが続き、日本が遅れてついていく。応用によって新品種を開発していくのは、日米欧三者横並びの状態になるものと思われる。/実際に作物を作る主体は、第三世界の低賃金国へと移行していくことになる。また米仏のように大規模化・高効率化を達成できた国との二極分解が起きることになる。このように第三世界を食糧生産の手足として位置づける考え方が進み、かなりの先進国で中小農家は全滅に近い状態になり、企業栄え、農家滅びるという状況が現出する。/しかし、このようなことがやがて第三世界の人達の生活破壊につながることになる。第三世界の大土地所有制と農作物の換金作物化は改善されるどころか、企業支配の強化にともなって、さらに拍車がかかることになる。しかも利益の大半を多国籍企業がおさえ、慢性的な低賃金状態が固定化するため、農業を離れ都市に出ていく人が後を絶たないことになる。スラムもまた、劇的に拡大していくことになる。」250-1P・・・グローバリゼーションの進行、各勢力圏の変遷も
「第二の緑の革命の延長線上にあるものは、日本の農業の崩壊の日であった。」252P


posted by たわし at 00:40| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天笠啓祐『生物多様性と食・農』

たわしの読書メモ・・ブログ564
・天笠啓祐『生物多様性と食・農』緑風出版2009
 この本は、天笠さんのエコロジー的論攷の基調的な本です。そして、エコロジー関係を学ぶひとには是非読んで欲しい本です。
生態学という学があるのですが、まさに自然的関係性総体の中で、ひとがありひとが形成した「社会」なることがあります。その中で、ひとつの種が絶滅する(ひとが絶滅させる)、また自然にないものを自然界に放出させると、生態系自体に大きな変動をもたらします。著者はそれを砂の山の砂粒を取り除くと砂の山が崩れる例えを出していますが、わたしはむしろ場合によってはグラスタワーのひとつのグラスを取り除くとタワーが崩壊する例の方が危機感が伝わるかと思います。誇張しすぎになるのでしょうか? サクセッションということがあり、また新たな恒常性を創り出すこともあるのですが、どこかでヒトという種の絶滅にも繋がりかねないことになるのではという思いを抱いています。
 資本主義の進展の中で、ひとは「自然性の克服」とか、「自然の征服」とか言い出しました。そのことの中で環境ということに注意を払わない経済成長第一主義の中で、「公害」ということを生みだし、地球温暖化――「自然災害」の過酷化などを生み出しています。また、自然の総体的調和としての生物多様性ということを無視した、農作物や畜産業の化学物質(農薬・化学肥料)の投入、さらにはバイオテクノロジーということさえ使い始めました。かつて、「神の領域」とされた、生命をひとが生み出すことにさえ手をかけてきています。そもそも神なるものはひとが作りだしたものですが、これは自然への畏怖から生まれた「自然の物神化」と言われることです。宗教の否定性をさておくと、それはひとつの「自然に適う」(原子力技術の研究者から反原発に転じた高木仁三郎さんのことば)生き方の人類が継承すべき知恵だったのです。ひとの生きる基盤を切り崩して、ヒトという種は存続し得るのでしょうか?
 この本の中で、生物多様性条約とカタルヘナ議定書の話が出て来ます。生物多様性条約というのは生態学的な観点からする生物多様性の重要さで作られた条約なのです。わたしは、天笠さんの講演に何度か参加し、ビデオも観たりしていますが、そのなかで、バイオテクノロジー批判の観点での講演に参加しながら、ふと思いが湧いてきて、天笠さんに問いかけたことがあります。それは、生態学というのは、ひとつの種であるひとと「外」的とされる「環境」との関係なのですが、ひとの「内」とされる体内でおきる総体的関係の中における、それもひとつの「生態系」としてとらえられるようなことの変化の問題なのではないかということです。「外」と「内」の関係が、生物多様性条約とカタルヘナ議定書で、この本の中に書かれているコインの裏表なのではないでしょうか?
 この本のなかで、著者は、そもそもこれまでのより大きなものを求めていくところから、環境負荷の小さい、地産地消的なところへの小さなことへの転換、「自然に適う」というところへの転換を訴えています。
 バイオテクノロジーの使用に関しては歯止めをかける動きも出て来ます。ですが、悪無限的利潤を求め続ける資本主義の論理で歯止めが効くのでしょうか? わたしは、「資本主義やめますか、人間やめますか」という時期にさしかかっているのではと思えるのです。
 さて、この本のアウトラインの紹介のために、もくじの「部」と「章」を抜き書きしておきます。
 はじめに
第1部 生物多様性条約とカルタヘナ議定書
第1章 生物多様性とは?
第2章 生物多様性条約の争点
第3章 カルタヘナ議定書とその争点
第2部 遺伝子組み換え生物と生物多様性
第1章 遺伝子組み換え作物はどのように生物多様性を破壊するか
第2章 遺伝子汚染を防ぐことは可能か?
第3章 遺伝子組み換え動物が食品に
第4章 体細胞クーロン家畜
第3部 生命特許とグリーン・ニューディール政策と地球環境
第1章 生命特許・遺伝子特許
第2章 オバマ政権とバイオ燃料
第3章 グリーン・ニューディール政策と地球環境
第4部 生物多様性を守る取り組み
第1章 市民による遺伝子組み換えナタネ自生調査
第2章 拡大するGMOフリーゾーン(GM作物のない地域)
第3章 自治体の遺伝子組み換え作物栽培規制の条例化
おわりに

切り抜きメモを少し。
「生物多様性は、よく砂山に譬えられる。一つ一つの砂粒が生物種を意味する。円錐形をした砂山の下の方の砂を指でほんのわずか取り去るだけで崩れ始め、頂点まで影響が及ぶ。」14P・・・むしろ、砂粒の譬えは、食物連鎖以外の、個体生物の取り除きでは?
「生物多様性条約とカルタヘナ議定書は、ちょうどコインの裏表の関係にある。開発などによって外側からいのちの連鎖が壊されていくのを阻止しようというのが、生物多様性条約である。それに対して、GM技術など生命操作技術によって内部からいのちが壊されていくのを阻止しようというのが、カルタヘナ議定書である。この条約の調印を米国政府は拒否した。もちろん議定書もサインしていない。」18P
「バイオ・パイラシー(生物学的海賊行為)」36-41P
「現在作付けされているGM(遺伝子組み換え)作物は、主に大豆、トウモロコシ、綿、ナタネの四作物である。遺伝子組み換え作物の開発が始まって三〇年近くがたち、栽培が始まって十数年経過しているが、作物の種類は少ない。また、導入した遺伝子がもたらしている性質は、作物自体に殺虫毒素を作らせるようにした殺虫性作物と、植物をすべて枯らす農薬にも枯れないようにした除草剤耐性作物の二種類である。」58P
「インドで、Bt(殺虫性)綿を栽培していると、土壌微生物や有益な酵素を大幅に減少させる、という報告が発表された。この報告をまとめたのは、科学技術エコロジー研究財団で、・・・・・・同団体は、このままBt綿の栽培がつづくと、土壌生物が死滅し、土地は耕作不能に陥ると警告を発した・・・・・・。」66P「米国では除草剤耐性作物の栽培面積が拡大するにともなって、ラウンドアップの使用量や散布回数が増えつづけている。」67P・・・負のスパイラル
「除草剤使用量増大で、人々の間で健康障害が広がっている。二〇〇二年、コルドバ州の人口五〇〇〇人の町イトゥザインゴ・アネクソにおいて、白血病や皮膚の潰瘍、内出血や遺伝障害などが多く発生し、緊急事態宣言が発せられた。「イトゥザインゴの母親たち」の依頼で科学者が行った調査結果を受けて、自治体当局が住民避難勧告を出したが、それでも住民はその地にとどまらざるを得なかった。生物多様性研究センターなどが二〇〇六年一月にサンタフェで行った調査によると、多くの町で全国平均の一〇倍以上の肝臓がん、三倍に達する胃がん、精巣がんが見つかっている・・・・・・。」70P
「・・・・・・生態系に限界を超えたストレスがかかっていると指摘する・・・・・・」71P
「では実際にGM作物を飼料として食べている家畜への影響はどうだろうか。米国では、Btコーンを餌に用いた豚の繁殖率が激減することが報告されている。アイオワ州農務省の担当者によれば、ある農家の豚の場合、約八〇%が妊娠しないし、この傾向は他の農家でも現れているという、Btコーンを与えると偽装妊娠が起き、やめると偽装妊娠もなくなるという・・・・・・。」78P
「GM技術によって生命力が強められたり、弱められたりすることによる影響も、予測不能の問題を引き起こす可能性がある。例えば、GM技術で大量乳を出す牛が開発されたとしよう。この場合、生命力が搾取されるため、確実に寿命が縮まり、生殖能力も衰える可能性がある。また成長ホルモン剤で示されたように、成長を早めたり、乳量を増やすために細胞分裂を活発にさせると、細胞分裂を促進する蛋白質が増え、それが癌細胞を刺激して「癌の促進効果」を招く危険性もある。/食品ではないが、人間への臓器移植用に開発されている、心臓提供用豚の場合、動物のウイルスが人間に感染する、人畜共通感染症の拡大を招く可能性が指摘され、開発が頓挫している。」98P
 クローン羊「ドリー」104P――「ドリーには三頭の母羊がいる。」104P・・・ひとの「不妊治療」でも同じことが起きている。
「BSE感染牛」106P
「体細胞クローン家畜には異常が多い。」107P・・・「異常」?――障害差別的で「変異」として、わたしは押さえ直します。
「受精は、精子と卵子の結合である。受精卵では基本的に、父親からもらった遺伝子と母親からもらった遺伝子の両方から働くことになる。しかし、いくつかの遺伝子は、父親からのものか母親からのものか、どちらかしか働かない。この遺伝子群では実に奇妙な現象が起きる。受精の際、いったい情報が消去された後、どちらの遺伝子が働くのか刷り込まれていくのである。この刷り込みのことをゲノム・インプリンティングという。なぜ、いったん消去され、改めて刷り込まれていくのかまだその理由は分かっていないものの、環境の変化などに対応して生き残るための知恵ではないかと考えられている。体細胞クローン動物は、生殖を経ないため、この消去され刷り込まれるという現象がないまま、次の世代が作られてしまう。そのため、この遺伝子に異常が多い。それが体細胞クローン動物の異常の多さにつながっていると思われる。受精という、多様性をもたらす出来事は、同時に環境の変化に対応する仕組みでもある。それがないため、異常が多くなるということになる。」107-8P「異常」?――変異 ひとのウイルスの母親から子どもへの引き継ぎ問題での出産の際の胎道でのウイルス「感染」
「食品として安全か否かという問題以前に、生命あるものに対する冒瀆であり、粗雑な実験の域を出ていないとしか言い様がなく、このまま体細胞クローン家畜がつくられ、その子孫が増えていけば、間違いなく生物多様性に重大な脅威をもたらすことになる。」111P
「特許は知的所有権のひとつである。知的所有権は知的財産権ともいうが、特許以外に、商標、著作権など人間の知的活動の成果を権利として保護する仕組みである。」118P・・・資本主義を成り立たせる必須としての特許制度とその存在矛盾
「この包括貿易法改正は米国の保護貿易主義の復活であり、中でも世界が注目したのがスーパー三〇一条といわれるものだった。/この条項は、不公正貿易を慣行としていると判断した国に対して、米国への輸入を止めるなどの制裁を可能にした。」119P
「この米国の知的所有権戦略をバックアップしてきたのが、一九九五年一月一日に設立されたWTO(世界貿易機関)である。」119P――「WTOの前身のGATT(関税貿易等一般協定)」120P
「・・・・・エネルギーが地産地消できるようになることが、大切である。それこそが未来の環境と共生するエネルギー生産のありかただといえる。それは中央管理型でも、巨大集中型でもなく、分散型である。単一のものではなく、多様性を大切にする在り方である。専門家によるものではなく民衆的なもので、化石燃料多消費型ではなく、再生可能で持続可能で方法を用いる。自然を支配するのではなく、自然と共生するものである。」143P・・・「共生」という概念は、関係性の総体のなかのひと、ということになっていないのでは?――「自然に適う」
「地球規模で取り組む課題として、一九八〇年代、六つのテーマが同時に提起された。温暖化、熱帯雨林破壊、酸性雨、オゾン層破壊、飢餓・砂漠化、そして放射能汚染である。」145P
「現在、世の中を最も根底で腐らせているのが、市場経済である。」――項のタイトル「カネで環境を買う思想」149P
「今の社会は、大量生産・大量流通・大量廃棄が限界に達したところにいる。そこに生物多様性や環境が破壊されている根源的な原因がある。それは経済優先・企業優先の姿勢がもたらしてきたものである。その構造をそのままにして、さらに新たな経済活性効果を狙ったものであり、けっして環境をよくしようというものではない。」151-2P・・・SDGsも、「持続可能な開発」という資本主義の論理で進む限り「けっして環境をよくしようというものではない」。
「自然エネルギーも、大量生産し、巨大化すれば負に転じる。」155P
「地域循環型社会」158P


posted by たわし at 00:37| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする