2022年06月16日

スザンナ・ニッキャレッリ監督「ミス・マルクス」

たわしの映像鑑賞メモ069
・スザンナ・ニッキャレッリ監督「ミス・マルクス」イタリア・ベルギー合作 2020
実は、この作品は日本の映画館で昨年の秋劇場公開されていたのですが、見逃してしまいました。実は前のメモ二つの映画がビデオオンデマンドにアップされているのを観ていて、これも見つけたのです。
これはマルクスの末娘エリノア・マルクスの半生を描いた映画です。
ウィキペディアでエリノア・マルクスの項目があり、父のマルクスやパートナー関係にあったエドワード・エイヴリングに「搾取された」とかいう言葉があったのですが、「搾取」という概念を使うのはズレているとは思います。ただ、当時の時代情況からして、マルクスの連れ合いのイェニーが秘書的な役割を担っていたのを引きついだ、というところで、何故「秘書」的な役割なのかという問題があります。理論的にも運動的にも姉妹の中で、マルクスの思想性を一番引き継げるようだったようです。そしてイェニーの亡き後、後を追うように長女のジェニーを亡くし、またマルクスも没したのですが、その後に、運動的にかなり表にでていくのですが、連れ合いのエドワード・エイヴリングが金銭感覚のない浪費家で性的なことにも問題のあったところでの葛藤とかも含めて、この映画はエリノアの独り言のような独白があるのですが、父からエドワード・エイヴリングからの抑圧のようなことを題材にしていて、まさに左派のフェミニズムの走りのひとだったことが描かれています。
また、この映画は、イェニーがマルクスと結婚するとき実家から連れてきた以来の家事と秘書的なことも担ったヘレーネ・デムートとの間に子どもを作っていたということを秘密裏にエンゲルスが里子に出していたこと、それがエンゲルスの子と噂されていたことを、死ぬ間際に事実を明かし、エリノアがショックを受けたという場面も出てきます。エンゲルスが死後散骨させた話もこの映画で出ていた自由人さがあったのですが、理論的にはマルクスが反差別論的には踏み込んでいく可能性を見せていたことと交叉のようなこと、いろいろ考えさせる映画にもなっています。
この映画は、ロック的なバッググランド・ミュージックがあり、エリノアのダンスシーンなどもあり、かなり創作的な要素が強かったのですが、それらのことも含めて制作側の特にフェミニズム的なところを突き出した映画になっています。
エリノアは自死したのですが、さて、この映画から離れるのですが、二女のラウラも「社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ」で連れ合いのポール・ラファルグと一緒に自死しています。このあたり、初期社会主義者が優生思想にとらわれ推進者になったりした、その死生観なり、人間観なりが、いまひとつ深化できえていない、今もまだそうなのですが、飛躍的なことが今必要になっているのではないでしょうか?
こんなことを書きながら、エリノアが、その連れ合い関係にあったエドワード・エイヴリングこと、周りのひとみんなから嫌われ、「分かれなさい」と言われているのに対し、彼のことを「道徳心がない」として、それは「目が見えないとか、耳が聞こえないということと同じだ」というようなことを発言していたことを違和感を抱いたこととリンクしていきます。たとえば、医学モデル的に「発達障害」という概念、実はこれは「役割期待――役割遂行」ということにおける「役割障害」ということでとらえれば、確かに「同じ」「障害」なのですが、そのあたりは、医学モデルではなく、関係論的な関係の結び直しを考えると、必ずしも「同じ」ではないのではとも思えます。エリノアの死は、そこまでとらえ返しができなかったところでの絶望的な死になってしまったのだと思えるのです。
この映画はエリノアがフェミニズム的課題を抱えさせられていて、フェミニズム的なところに一部踏み込んだその半生を描いたまさにフェミニズム映画です。
 

posted by たわし at 03:00| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ローザ・ルクセンブルク」

たわしの映像鑑賞メモ068
・マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ローザ・ルクセンブルク」ドイツ 1986
このビデオは、ローザ・ルクセンブルクの連続学習をしているころにその存在を知って、その時から探していて、間違って字幕のついていないビデオまで買ったのですが、よく分からないままでした。字幕版がビデオオンデマンドで上がっていて、やっと観れました。書簡や評伝的なことを読んでいて、いくつもの印象的な記述が、映像になっています。たとえば、刑務所内で観た、「野牛」がムチ打たれるシーンとか、第一次世界大戦突入で、ドイツ社民党国会議員が総崩れになって戦争公債に賛成票を投じたときに、その後の集会でショックで演説ができなかったというシーンなど。
 ローザは権力側からは「鉄の女」「血塗られたローザ」とか「魔女」的に描かれることがあったのですが、運動の原理・原則を貫くひとだったのですが、文化・芸術というところでは知識人的な小ブル文化へのとらわれもあり、迷い・悩みながら、そして体調を崩しながら、それでも、インターナショナリズムを貫く革命の闘士であり、そして革命のただ中で、虐殺されたのです。そんなローザを歴史資料に忠実に描こうとした作品です。
 だいたい得ている情報だったのですが、ひとつだけわたしの知らなかったことがあります。それはローザを虐殺した被告人の裁判の資料から出ている情報だと思うのですが、ローザは、銃座で殴られた後、銃殺されているのですが、その瞬間「殺さないで」とつぶやくようなシーンがあります。ローザは思想的にはインターナショナリズムを貫き通した信念のひとですが、それでも、迷いながら闘っていたという側面をもっていたのでしょうか?
 レーニンのローザ批判があり、そこではローザ自身が自己批判し訂正したというような記述もあるのですが、確かに「ロシア革命論」で展開していたボリシェヴィキ批判を、ドイツ革命の敗北的予期の中で、「成功したロシア革命と敗北が予期されるドイツ革命」という中で、自己批判的にとらえ返していたというようなことはあったようなのです。ですが、当のレーニンのローザ批判は、今日的に見ると、レーニンが批判しているような内容はことごとく覆されます。
ローザの原則主義的展開は、そもそもマルクスの突き出した共産主義概念に、今日の反差別的地平を織り込むと、わたしは共産主義とは何かというとき、@インターナショナリズムA運動の中での関係性が、目指す社会の関係性を示していることB差別的意識からの「自立」――離脱、という内容で提起できるのではないかと思います。これに照らすと、スターリンは元より、レーニン、トロツキーよりも、ブレがありつつもローザ・ルクセンブルクがより近い存在であり、とりわけその「継続的本源的蓄積論」が反差別共産主義論として取り込み得る内容をもっているのだとわたしは押さえています。
そういうことを改めて感じさせた映画でした。


posted by たわし at 02:54| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラウル・ペック監督「マルクス・エンゲルス」

たわしの映像鑑賞メモ067
・ラウル・ペック監督「マルクス・エンゲルス」フランス 2017
「マルクス・エンゲルス」は、四人が軸になって描かれている映画です。マルクスとパートナーのイェニー、エンゲルスとその恋人を人間的に浮き彫りにさせています。
1943年くらいから「共産党宣言」を出したころまでを時代情況とこれらのひとの思想性とその生活における葛藤のようなことも描いています。
尖ったつぎつぎに衝突を繰り返していくマルクスという評価があるのですが、マルクスは困窮生活の中で、思想的に煮詰めていく作業において、労働者階級に依拠するという立場性を獲得し、周りのひとびとと衝突せざるを得ない側面をわたしは読みとっていました。青年ヘーゲル派のブルーノ・バウアーへの「批判的批判」への批判、プルードンやルーゲ、正義者同盟(義人同盟)のヴァイトリングとの決別などいろんなエピソードが出てきます。
 書記的役割を担い、いろいろ提言していたイェニー像も出ていて、そもそも貴族階級の娘として生まれ、熱愛の中で、出身階級の予期される「退屈な生活」を棄てて、困窮の生活を送ることになるのですが、まさにマルクスのパートナーとして生きた生涯。次の次ぎの鑑賞メモの「ミス・マルクス」が課題にしているフェミニズム的観点とも繋がるような内容をもっているのですが、ここではフェミニズム的なことは出てきません。
 エンゲルスは、父親がブルジョアで、自分の出身階級と思想性の間の矛盾に苦しんでいたのですが、アイルランド人の労働者階級出身の恋人メアリー・バーンズとの関係もこの映画の中で描かれています。メアリー亡き後、エンゲルスとパートナー関係になる妹も登場しています。エンゲルスは、既成の観念のようなことから離脱しようという自由人的な雰囲気が出ています。
 マルクスとエンゲルスの関係は、最初エンゲルスの方がマルクスにさまざまな刺激を与えていたのですが、後に、マルクスが思想的深化を担い、エンゲルスが解説なり・広げる作業、そして新しい分野を対象化していくという分業のようなことが成立していました。このあたりは廣松渉さんの分析です。
エンゲルスは、自らの差別意識というところではかなり自由さ・差別的観念からも自由だったようなのですが、理論的には差別の構造から抜け出していく理論的深化をなしえないままでした。また、分かりやすく解説していく過程で図式化にも陥っています。
 この映画最初に見たときは、実像とかけ離れているというような感想をもってしまっていたのですが、マルクスの最初期の論文「木材窃盗取締法にかんする討論」を彷彿とさせる映像から始まります。それまでにあった入会権を奪うような私的所有権を前面押し出した民衆への弾圧を描き労働者のおかれている苛酷な情況から始まっているのです。さまざまな周りのひとたちとの論争の中で、自分たちの運動の流れを形成していく様が、丁度、このメモと同時掲載する読書メモの『哲学の貧困』の再読と重なり、トレースできました。
 社会変革運動のもっとも基調的なことを突き出したひとたちを描いた映画、その基調的なところの、読み直しと深化が問われている時、感慨深く見ていました。


posted by たわし at 02:49| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月17日

日本テレビ・ドキュメント’22「学校ってなんだろう?――私の居場所検証――」

たわしの映像鑑賞メモ066
・日本テレビ・ドキュメント’22「学校ってなんだろう?――私の居場所検証――」2022.5.2 00:55〜01:25
これは「不登校」と言われている子どもたちと親やフリースクール的なことの取り組みを取り上げた番組です。
この読書メモを載せている号の巻頭言で「そもそも 学校(――公教育)とは何だろ?」を書いていました。丁度そのときに、この番組が放映されたのです。巻頭言で、公教育批判をしつつ、それでも公教育に意義があるというようなことを書きつつ、でも、公教育に生きづらさを、居場所がないと感じているこどもがいるという思いをもっていました。たぶん、政府サイドでは、これらのことを障害の医学モデル的なところで(この番組ではそのような突き出しはしていません)、障害規定していく傾向があるのですが、「社会モデル」やわたしが突き出している関係モデルでは、この番組の中でも突き出されている、学校こそが問題なのだという論理になっていくのだと言いえます。
 この番組では、「なぜ不登校になるのか? 不登校問題が、往々にして学校に行かすことを前提にしている」という批判の観点を出しています。不登校ということを子どもの問題ではなく、むしろ学校の問題だという基調がでています。たとえば、いじめとかいうことは少なくとも表面に出ていないとして、それが何なのかをということを、「もやっとした」という子ども自身の言葉で表しています。それは、大人になって振り返って、何だったのかが明らかになる可能性もあるし、語れない何かがあるのかも知れないのですが、わたしは、学校教育における差別選別教育とか、競争原理に支配される空間だとか、そんな可能性を考えていました。
 わたしは、「不登校」の子どもたちや親の体験が、むしろこの矛盾に充ちた社会を変えていく可能性があるのでとは思ったりしています。この話は、この映像鑑賞メモの前のメモ、そして、巻頭言に返っての論考になります。


posted by たわし at 01:23| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TBS「報道特集――検証…戦争プロパガンダのウソ、インクルーシブ教育は今」

たわしの映像鑑賞メモ065
・TBS「報道特集――検証…戦争プロパガンダのウソ、インクルーシブ教育は今」2022.4.23 17:30〜18:50
この「報道特集」は、わたしが一番注目している番組です。たいてい、二つの特集を組んでいます。この日は二つとも印象的な番組でした。
「検証…戦争プロパガンダのウソ」
プーチン・ロシアのウクライナ侵攻のなかで、プーチン・ロシアのプロパガンダを担っているひとたちは、「欧米がロシアを批判しているのは、フェイクだ」という主張を繰り返しています。わたしたちは、トランプ・前アメリカ大統領の「フェイク」発言を繰り返し見てきて、まさにそれがファシズム的手法だと押さえてきました。
 今回のこの特集は、以前この「報道特集」で、駐日ロシア大使を金平キャスターがインタビュウしたのですが、そのときに、話していたロシア大使の「フェイク」だという話が、フェイクだったことを明らかにしています。ロシア軍が占領したときの遺体は、ウクライナ側がロシア軍が撤退した後にウクライナ側が置いたのだという主張、そもそも映像が通りが違う画像を出している、という話や、住民の証言を出して、反論していました。
 そもそも、TBSの系列の「報道1930」で、この駐日ロシア大使は、ロシア軍のウクライナ近郊でのロシアの(ベルラーシ軍との合同)軍事演習を世界のメディアがウクライナ侵攻の前兆だと報道しているのに対し、「フェイクだ」と主張していたのです。まさに、「うそつきはファシストのはじまり」なのです。そして、この軍事侵攻は、まさにプーチン・ロシアのファシズム戦争なのです。
「インクルーシブ教育は今」
 もうひとつの特集は、わたしが長年関心を持ち続けている問題――「障害児教育」で、前の週に予告されていたので、期待して観ました。政府は、世界的なインクルーシブ教育の主張と真逆な、インクルーシブ教育の概念を出しています。そもそもインクルーシブ教育は分けることは差別だという主張でなされていることがあります。それはアメリカの公民権運動での、「セパレート・バット・イコール」ということの否定があります。その流れの中で、インクルーシブ教育が突き出されたのです。それを、日本政府は特別支援学校で専門的な支援を得ることもインクルーシブだ、という、そもそもインクルーシブ教育の意味を押さええない非論理で、分離教育を維持・推進してきたのです。そういう中で、マスコミも政府の意向に忖度して、政府の主張を垂れ流すか、もしくは両論併記というところで曖昧化していたのですが、この特集では、インクルーシブ教育を世界的な流れの主張としてはっきり突き出しています。それを、実際的に、インクルーシブした生徒たちの実例を出して、とりあげていました。「発達・知的障害児」と規定されている生徒が、仲間から「アイドル」とか言われ、まさに生き生きと学び、そして、そのクラスメイトがむしろ彼がいることで、クラスの親密な仲間作りが進んで行くというような話も出ています。有名な豊中市の長年の教育取り組みも出ていました。わたしは、今、いじめや学級崩壊が起きている学校教育を救うのは、「障害児」の存在ではないかとさえ、この番組を観ていて思ったのです。
 勿論、いろんな反論もでてくるとは思います。また、現実に矛盾が深刻化している現状で、「障害児」がまさにいじめの対象になっている現実もあると思います。
そういうこととして、わたしは、この文を載せている号の巻頭言に「そもそも 学校(−−公教育)とは何だろ?」を書きました。参照ください。


posted by たわし at 01:20| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHK「忘れられゆく戦場〜ミャンマー泥沼の内戦〜」

たわしの映像鑑賞メモ064
・NHK「忘れられゆく戦場〜ミャンマー泥沼の内戦〜」2022.4.17 21:00
プーチン・ロシアのウクライナ侵攻の中で、難民の受け入れや、経済制裁に世界が動いている情況があります。一方で、ミャンマーの軍事政権の民衆への弾圧に対して、デモに銃をもって抑え込むところまで来ていて、ミャンマーの民衆の中から、少数民族の運動とつながり、内戦的情況になっていることをとりあげた番組です。平和的なデモをやっていたひとが、仲間が銃弾で倒れ、暴行をされるということの中で、医療的なところでですが、軍事的な展開のなかに身を投じたという話が出ていました。
 日本は、歴史的に難民問題への取り組みが「人権後進国」と批判されるように、そして入管施設での虐待という、排外主義的差別主義的な対応が問題になっています。明治維新以来の脱亜欧入的なことがまだあるようで、「大東亜共栄圏」という名における、実はアジアの国々への侵略と支配という差別主義的なところの総括がなされないままに、差別主義的な・排外主義的なところでしかない、利用することは利用するという労働力としての受けいれという、差別主義的な技能研修員制度ということをつくりあげ、世界的に「奴隷的労働」と批判されている情況もあります。
 そのような中でも、ミャンマー問題で、軍事クーダター以降も、ミャンマー軍の教育を日本で受けいれているという話もあります。経済制裁の議論もあるのですが、ちゃんとやっていず、結局、軍事政権を容認しているとしか、言い様のない情況です。
 わたしは反暴力主義という地平を突き出しているのですが、それは民主主義的なところで成り立つことで、それが否定されたらどうなるのか、という問題が、ミャンマーの問題で浮き上がってきます。今、マルクス・レーニン主義批判ということで、マルクスの再学習をしているのですが、『哲学の貧困』の最後の、ジョルジュ・サンドの文「戦いか然らずんば死。血みどろの闘争か然らずんば無。かくの如くに、問題は厳として課せられている。 ジョルジュ・サンド」に思いを寄せます。反暴力主義は暴力支配のなかで、原理・原則としての非暴力主義ではなくなるのです。


posted by たわし at 01:16| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月17日

NHKETV特集「写真は小さな声である〜ユージン・スミスの水俣〜」

たわしの映像鑑賞メモ063
・NHKETV特集「写真は小さな声である〜ユージン・スミスの水俣〜」2021.10.31
これは062で取り上げた映画「MINAMAT――ミナマタ――」が日本公開されるのに合わせるかのように、「たわしの映像鑑賞メモ031/・NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」2019.8.6 0:45-1:35」に書いたドキュメンタリーとセットにして、BS1で再放送された映像です。今回取り上げている映像は、ユージン・スミス没後40年の2018年11月に放送された番組の再放送なのです。
031のドキュメンタリーで、戦場写真家であったユージン・スミスさんが、戦闘場面から離れて兵士の日常や、避難したり収用された子どもたちの写真を撮っていたように、ユージン・スミスさんは、水俣で三年間にわたり、生活を共にしながら、患者さんたちや、近代化の中で失われていく日本の原風景を撮っていたのです。撮ることに悩みながら。ユージン・スミスさんは写真を撮ることによって患者さんや家族を傷つけているのでは? と撮ることを恐れながら、自問を続けていました。写真を撮る上で二つの責任をとらえていたようです。ひとつは、被写体への責任、もうひとつは、写真を目にするひとへの責任です。
前の(062の)鑑賞メモで書いた、美の話に繋がるのですが、ユージンが「わたしの知るもっとも美しいひとりだ」という少女の写真を1000枚くらい撮りながら、2枚だけ写真集にいれたのですが、それでも全部失敗作だとしています。生きることを壊されている「声なき叫びを撮れていない」と言っていたのです。彼の写真のテーマは「人間として人間らしく生きれているか」ということのようです。
あの有名になった「入浴する智子と母」の写真、家族から、展示や掲載をしないで欲しいと言われ長く封印していたのを、このドキュメンタリーや「MINAMAT――ミナマタ――」の映画で解いて使ったようです。
ユージン・スミスさんは72年1月にチッソの社員から暴行を受けた傷や沖縄戦での負傷の傷もあって、3年で水俣を去らねばならなくなり、78年に亡くなっています。三年間で50人の患者さんの写真を撮ったとのこと。このドキュメンタリーの中で、何人かの患者さんの昔の写真や、今現在の様子や発言を描いています。智子さんは21歳で亡くなり、「「胎児性患者」のひとも殆ど亡くなった」との話もありました。また、いろんな関係したひとたちも出ていて、連れ合いのアイリーンさんも出ていて、ユージンさんのことや思い出を語っています。
このドキュメンタリーの最後のナレーションと字幕で写真集の最後の文を流していました。
「写真集はせいぜい小さな声にすぎない/しかし、ときたまほんとのときたま/1枚の写真がわれわれの意識を/呼び覚ますことができる/写真はちいさな声だ/私の生活の重要な声である/私は写真を信じている/写真はときにものを言う/それが私そしてアイリーンが水俣で写真をとる理由である」


posted by たわし at 01:43| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アンドリュー・レヴィタス監督「MINAMAT――ミナマタ――」

たわしの映像鑑賞メモ062
・アンドリュー・レヴィタス監督「MINAMAT――ミナマタ――」2020
日本で2021年に公開された映画、ビデオオンデマンドで観ました。
水俣病を世界に知らしめた写真家のユージン・スミスさん、闘いの中でスミスさんと結婚した(註)アイリーンさんと水俣病の患者さんの闘いを描いた映画です。ユージン・スミスさんを演じた俳優のジョニー・デップさんが制作にも関わったということで話題を集めていました。
水俣病は、有機水銀を含んだ排水で魚を汚染し、食物連鎖で、それを食べた猫が「踊る」などなどが出て、早くからひとにも被害が出ていたのに、海水で薄められるから大丈夫といって、御用学者たちが会社の擁護をし、会社の工場の労働者がピケを張り暴行をするなどの、典型的な企業の悪を露呈した「公害」問題でした。
 わたしはこの時代を生きていました。丁度教育学園闘争がもりあがっていて、しかも、わたしは応用化学を専攻しようとして大学に入り、まさにこの問題で、「加害者側になるのか」、ということを突きつけられていました。そして、わたしの大学には公害研があり、この映画にも出てくる「怨」の文字を記したのぼり旗の「水俣病を告発する会」があり、この映画で描かれている自主交渉グループの東京本社への実力闘争の取り組みに、その会の提起で支援で参画しました。ちょうど真冬で、会社の中で座り込んで、夜になって毛布が一枚ずつ配られ、それに身をくるんで寝ようとしていた時に、会社が交渉に応じると約束したということで、ビルを出て深夜喫茶で夜を明かしました。
わたしは、専門の授業には一番前に座って熱心にノートを取り、授業を休んだ同級生がノートを借りに来るという生徒だったのですが、そもそも教育学園闘争の中で、自己否定の論理が出ていて、すでに卒業して抑圧的な立場に立つこと自体を否定する方向に向いていたので、この闘争の支援で、入学当時自分が専攻しようとしていた自然科学の道を捨てました。そして、集めていた参考書の類いを後輩に全部安く譲りました。今になって思えば、そしてもう少し時代がずれれば、科学批判の学に進める可能性もあったかも知れないとは思ったりしています。
さて、この映画で話題になっていたことがあります。それは、ユージン・スミスさんの写真は一般的に、水俣病の「悲惨さ」を訴える写真ということで広まったのですが、その「悲惨さ」を訴えることが障害差別的なことになりかねないという批判がでていたことです。
実は、この映画のなかで、ユージン・スミスさんが生活の中での写真を撮らせて欲しいと提起し、手を挙げてくれたひとの家族の写真を撮っていくのですが、その「水俣」で一番有名な写真、母が「胎児性水俣病患者・障害者」との入浴シーンの写真を取るシーンがあります。ユージンさんが暴行を受けて包帯をまいたまだよく動かない手で、アイリーンさんの手助けの中で写真を撮るシーンがあります。その時、ジョニー・デップさん演じるユージンさんが「美しい」とおもわずつぶやくのです。
さて、わたしがこの写真を最初にみたときには、「美しい」という心境ではあり得ませんでした。わたしは「吃音者」で「吃音」や「言語障害」があるCP者が喋っているときに、眼を伏せていました。「吃音者」として視線恐怖にも陥っていました。わたし自身が、「吃音者宣言=障害者宣言」をなしえたのは、それから10余年後です。そして、「障害者」をさまざまな場面で「美しい」と感じるようにもなっています。ユージン・スミスさんの水俣の写真も「美しい」のです。
実は、これはずっと「公害問題」と「障害者運動」の対立の構造といわれていることにも通じていきます。公害問題で会社を告発するとき、「悲惨さ」を訴えかけるとき、それが障害差別になっていくという矛盾が指摘されています。このことを解決する鍵のひとつが「美しい」なのです。
実は、それを「悲惨」とだけとらえるのは、受けとる側の差別的な美意識なのです。こんなことを書くと、「悲惨でないならなぜ補償を求めるのか」という話がでてくるのですが、それはそれまでやっていた仕事ができなくなる生活が保障されないと生きられない、介助が十全に得られないと生きられない状態に会社・国にさせられたからです。また受けたショックから立ち直るために必要なのです。
補償を受けると、今の社会のゲゼルシャフト(利害社会)的地域からねたみ差別のようなことが起きてきます。これは、実は社会変革志向の「障害者運動」が突き出している「すべてのひとに基本生活保障を」ということで解決していくことなのです。もっとも社会変革志向の「障害者運動」自体が危うくなっています。まだ理論的な整理もなされていない情況があります。わたしはその一翼を担っていきたいと動いています。そのようなわたしの、ひとつのきっかけでもあった「水俣」を改めてわたしの中で確認できた貴重な映画でした。
(註)
 次のメモのドキュメンタリー映像では、アメリカで結婚して日本にきたとなっています。


posted by たわし at 01:38| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月18日

TBS報道特集「「強制連行」を巡って追悼碑撤去の波紋」

たわしの映像鑑賞メモ061
・TBS報道特集「「強制連行」を巡って追悼碑撤去の波紋」 2021.12.11 17:30〜18:41
太平洋戦争の時、朝鮮半島のひとたちや中国人捕虜を「強制連行」して日本で働かせたという歴史があり、その追悼碑が日本のあちこちにあるのですが、「強制連行」という文字があったり、その碑を作ったひとたちが「強制連行」という言葉を使っているとか言って、それを撤去させようという「運動」が起きている、という報道特集です。「強制連行」の話は、「従軍慰安婦」の問題でもあるのですが、この徴用工の問題は「強制連行」はあったという資料もきちんとあり、この番組でも流されていました。それを、なかったことにしようという、いわゆる「歴史修正主義」の動きです。ドイツでもネオナチのひとたちが「アウシュビッツはなかった」ということまで言い出し、日本でも「従軍慰安婦」もいなかったという右翼の主張も出ています。そのようなところで検定教科書の改変も出てきています。論点をすり替え、一部自ら進んできたひともいた(これさえも植民地支配のなかで追いこまれている側面もあるのです)という話を、「強制連行はなかった」という話にすり替えています。
 恐ろしいのは、日本維新の会が、「強制連行はあったのか」という質問書を出し、「「強制連行」という言葉は使わない」と閣議決定したという話です。それが撤去運動とシンクロしているのです。日本維新の会で共同代表になった馬場議員がインタビューに答えていたのですが、「みんなが強制連行で連れてこられたわけではない」と意味不明のことを言っていました。碑に「みんなが強制連行で連れてこられた」と書いているわけではないのです。一部違うひとがいるのを強調して、その問題自体がなかったことにする右翼の常套手段なのです。
 これまでの「侵略と植民地支配」やこれらの問題での「謝罪」が出ていて、一方で自民党右派から、「いつまで、謝ればいいのだ」という文言が出ているのですが、およそ、そのような発言は、謝罪の意味も分からない、謝罪をリセットする動きで、今回の閣議決定自体が、謝罪をリセットすることだということが分からないのでしょうか?
日本維新の会は自分たちがシンクロしていた自民党右派の安倍元首相とそれを継承する菅政権が崩壊し、保守岸田政権になって、野党色を出してきています。これは、今回(「反障害通信」114号)の巻頭言に書いた、まさにファシズム的な動きなのです。
 維新の会は政権与党には名目的にはなっていません。だから対右翼政党として批判していくことです。ですが、最も謝罪のリセットの一つである靖国参拝を政権与党の自民党議員が繰り返していて、なにが「いつまであやまればいいのだ」ということが言えるのでしょう。閣議決定をとりけし、靖国参拝する与党国会議員は自らの政党から除名することです。安倍元首相は首相を辞めた途端、靖国参拝しました。およそ、責任の概念のない、政治家の資格がないとしかいいようがありません。こんな政治をいつまでゆるしているのでしょうか?



posted by たわし at 02:05| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TBS報道特集「徹底検証!「旭川いじめ」学校はなぜ認めないのか」

たわしの映像鑑賞メモ060
・TBS報道特集「徹底検証!「旭川いじめ」学校はなぜ認めないのか」 2021.11.27 16:30〜17:51
旭川の中学校で、女子生徒がいじめられた苦しみから逃れられず自死しました。いじめがあったのは明々白々なのに、学校・教育委委員会が認めず、雪の中に薄着で出ていって公園の中で凍死したのです。発見されたのは雪が解けてから。これは、表面的には自死ですが、他殺と対語の自殺ではなく、いじめた子どもたちといじめを阻止しなかった・認めようとしなかった学校・教育関係者による殺人です。
お母さんが学校側と交渉している中で、教頭が「(いじめた側の)10人と1人とどちらが大切か、10人を守る」などと言っていたという話も出ていました。ひとの命を数の問題にしているようです。どっちが加害者でどっちが被害者なのでしょうか? それに、そのいじめは他にも起きます。いじめをしていた子どもたちの将来を考えたら、ぞっとするのはわたしだけでしょうか? きちんと反省させるように導くのが教育なのではないでしょうか? いじめをしている子どもたちも救わねばならないのです。結局、学校と組織と自分(たち)を守るための詭弁です。その他のいじめ事件も取り上げていました。学校は腐りきっているのです。金平キャスターが、「子どもの世界は大人の世界の合わせ鏡」という話をしていました。まさに、今の社会も腐りきっているのです。
どうしていじめが起きるのかということをもっと掘り下げて、教育を、社会を変えていく道筋を見出していかなくてはならないのです。


posted by たわし at 02:00| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月17日

BSTBS報道1930「コロナ後の世界を覆うエネルギー価格急騰……日本の財政は危機に?」

たわしの映像鑑賞メモ059
・BSTBS報道1930「コロナ後の世界を覆うエネルギー価格急騰……日本の財政は危機に?」 2021.10.22 19:30〜21:00
出演者は藤巻健史経済評論家と森永卓郎経済アナリストです。森永卓郎さんは、以前からテレビに出て、反緊縮の立場でカネをどんどん刷ればいいという発言をしていたのですが、テレビでは「論外的な提起」としてとらえられていたのか、それに対する反論のようなことがないまま流されていました。実は、わたしは見逃していたのですが、この番組で以前もこと二人の議論があったようなのです。
 森永さんのような話は、実はMMT理論として最近話題になっています。れいわ新撰組の山本太郎代表が自分の目玉政策として突き出しています。麻生太郎前財務大臣がそもそも、財務省の方針やこれまで自分が大臣として言っていたこととは違うこととして、同じようなことを言っていました。麻生太郎というひとはポピュリズム的な「受け狙いで」さまざまな問題発言を繰り返していたのです(往々にして当人の差別主義的なところが出ていて批判されていました。わたしも批判していました)。自民党の総裁選で高市早苗前総務大臣がMMTを採り入れるようなことを言っていました。これは右派ポピュリズムなのです(註1)。財務省の事務次官が、反緊縮のようなことに対して、雑誌に論文を発表して批判しています。問題なのは、一部左派も福祉の拡大政策としての反緊縮としてこれに乗ろうとしていることです。他のところの予算、とりわけ軍事費などを削って回すとか、累進課税や法人税を元に戻して福祉予算に回すという方針でなくて、なぜ反緊縮なのか、そしてMMTなのか、どうしても分からないままです。徹底的に議論をして決着をつけないのか不思議に思っていたところでのこの番組との出逢いです。
 さて、論点を整理してみます。このMMTは、近代貨幣理論と訳されるのでしょうか? 松尾匡というひとがあちこちの雑誌とか新聞に文書を載せ、対談などをしていて、この理論が注目されています。もともとマルクス経済学をやっていたのですが、近代経済学の方に転換したような論理です。一種の資本主義的経済成長戦略のひとつです。アベノミクスの「経済成長戦略」とシンクロしていたのです。わたしにはどうしても分からないのです。そもそもグローバリゼーションが世界的に行き渡った時代に経済成長戦略などありえるのかということがあります。アベノミクスも破綻しました。それにマルクスをくぐったひとが当然もっている恐慌論がないのです。マルクス経済学をやっているひとたちがなぜちゃんと批判しないのでしょうか?
さて、話をこの番組に戻します。森永さんの主張は「恐慌などもう起きない」という話です。なぜ、そんな主張が出来るのか分かりません。近くはリーマンショックやアジア通貨危機など恐慌は起きています。いつから起きなくなったのでしょうか? 確かに、政府が公的資金を使い株価の操作や、為替市場への介入などしていて、株式操作政権と言われている情況があり、それなりに株式操作ではうまくいっていることがあります(註2)。MMTでも、無制限に金をすればいいと言っているわけではなく、「デフレの間は」とか、「物価の上昇率2%を超えるまでは」いう線引きはあるようです。ですが、そもそも、株式投資は化学実験のスポイトで液体を注入するような投資ではありません。ヘッジファンドとかハイエナファンドといわれるような、投資家集団もあり、そのようなひとは持続可能な資本主義などいう概念はありません。まさに資本主義の「我が亡き後に洪水よ来たれ」という精神で金儲けに走ります。そのようなところで株式の大暴落から恐慌へということが起きてきた歴史があったのではないでしょうか?
さて、森永さんのおかしな論理がもうひとつ議論の中で出ていました。それは、議論に詰まって「ハイパーインフレというのは必ずしも否定的なものでなく、金持ちからカネを取り上げる手段にもなる」というような話を持ち出したことです。そもそも、大金持たちは、自分たちの金の運用でシンクタンクを抱えていて、それなりに資産の分散化をしていて、被害を少なくする手段を講じています。そこで取り上げられるのは中産階級の資産だけです。そもそも、根底的社会変革が起きれば話は別ですが、MMTの理論家たちは、そもそも近代経済学の範疇で議論をしているので、そんな議論は成立しないと思ってもいます。
もっときちんとした議論を深めていくことが必要なのだと思っています。


1 ポピュリズムをめぐる混乱は、アメリカ大統領候補として名乗り出ていたサンダース議員に対して左派ポピュリズムという概念を持ち出すことにも現れています。ポピュリズムというのは「大衆」の意識に合わせて、人気取り、票集めのために政策を変更していく、時には差別的な感情に乗っかり煽るというようなこともする、非論理的な主張もしていくこととわたしは押さえています。左派というからには、ちゃんとした政策があるから左派というのです。民衆の意識をちゃんとつかんで政策を出していくということをポピュリズムと規定するのは誤りです。ポピュリズムというのは権力掌握願望にとらわれているひとが、無思想的なところで(もしくは思想的なことは隠して)論理的なことをきちんと突きつめないまま、おかしな理論にも飛びついていくことから生まれます。それが今回のMMTなのです。
2 公的資金の株式への投入は、資本主義社会に一応ある公平公正な競争原理への逸脱であり、禁じ手であるとわたしは思っています。それにこれは情報を特定のひとに流すことによって蓄財していくインサイダー取引の禁止にも違反し、大不正の温床にもなります。なぜ、それをマスコミや学者が批判しないのか分かりません。


posted by たわし at 18:10| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKクローズアップ現代+「検証・ワクチン副反応 因果関係不明はなぜ?」

たわしの映像鑑賞メモ058
・NHKクローズアップ現代+「検証・ワクチン副反応 因果関係不明はなぜ?」 2021.10.21 22:00〜22:30
厚生労働省のワクチン副反応のホームページ新型コロナワクチンの副反応疑い報告について|厚生労働省 (mhlw.go.jp)を見ていて、ずっと不思議に思っていたことがあったのです。その問題で論点が浮き彫りになることがテレビを見ていたら、出ていました。
この日はBSフジの「プライムニュース」がお休みだったか、面白くなくてか、珍しくNHKニュース9を見ていて、チャンネルを切り替えようとしていたら、画面に次の番組の紹介として、上記タイトルが出ていて急遽録画しました。
「不思議」というのは、ワクチン接種後の死者が、かなり出ているのに、それが「評価不能」という表記になっていて、それをマスコミがちゃんと取り上げていないということです。
この番組はまさにそのことを取り上げようとした番組なのです。
この番組の最初は、親族が突然死して遺品整理していて、その死がコロンワクチン接種の翌日であったことで、厚生労働省のホームページにその親族の記述を見出し、疑問をもった話から始まります。γの記載、すなわち「因果関係評価不能」となっていて、「何を調べた結果評価できないとしたのか」という疑問なのです。この番組では、ワクチン接種後死者1190人、そのうち 99.3%がγという数字を出しています。そして、そんな数が出ているのに、なぜ、「評価不能」のままにしているのかという話を突きつめようという主旨から作られた番組のようです。このホームページでは、最初は「評価中」という記載がされていたのに、途中から「評価不能」という表記に変わりました。「評価中」となると、「評価が出るまで接種を見合わせるべき」という意見が出てくることを考慮して、「評価不能」としたのではないかとわたしは推測していました。でも、それもおかしな話です。「評価不能」という表記自体が、評価をこれ以上できないとしていてその作業を諦めて停止しているとか思えないのです。実は、この番組はそのことを説明するような構成になっています。実は副反応を調べている部署PMDA(医薬品医療機器総合機構)があって、電話などしているシーンがあり、調査しているようのですが、そもそもワクチン接種後死者は「事件性がないと解剖はほとんどされない」し、そもそも「死後解剖しても分かるかどうか」という話になっています。ですが、アメリカではVSD(ワクチン安全データリンク)という機関があり、接種したひとと接種しないひととの間で接種後の死者や副反応の比較的データー蓄積がなされているということが出ていました。それで、心筋炎の副反応が発見されたこともあったとこのことです。日本はいつの間にか「科学後進国」になっていて、厚生労働省は日本版VCDについて、「アメリカのVSDは有効な仕組みの一つだと考えている/迅速・効率的に副反応情報を収集・評価できるシステムの構築に努めていく」という対応です。そもそも、役所の「努力する」という文言がどういう意味をもっているかという霞ヶ関用語の分析があるのですが、PCR検査の拡大の必要性をやるやるといってやってこなかった「口だけ政治」を見ていると、やる気があるのか疑問です。
そもそも副反応がはっきりすると補償しなくてはいけなくなることがあります。実際にファイザーのワクチンのアナフィラキシーで補償を認可したという話が出ていますが、今、日本では忖度政治がはびこっているようで、できるだけ補償をしないようにするというところで、副反応は出来るだけ認めたくないという心理が役人たちに働くことを考えるのはわたしだけでしょうか? そういう中での、「評価不能」にもつながっているという思いも懐いてしまいます。こういうデーターのシスタム作りには個人情報の取得と蓄積において「国民的合意」が必要なのですが、この間政府がやってきたのは、情報の収集はするけど開示はしないという情報の隠蔽や文書の改竄などなど、また「特定秘密保護法」とか「共謀罪」とか真逆の法律作成を「国民世論の反対」が多数を占めることを強行採決によってなしてきた、「国民的合意」とは真逆のことをやってきた歴史があります。
 さて、どうしても「分からない」問題が、もうひとつの「分からない」問題とリンクしていきます。それは、フクシマ原発事故の放射線被害の一つとして甲状腺癌の被害が出ていることです。それを、政府は「因果関係は認められてない」としています。これは、前述したVSDのデーター比較の手法と同じく、平時のデーターと事故後のデーターを比較することで、はっきりした有意差が認められるのです。平時の百万人あたりの甲状腺癌が1人か2人位なのに、その数十倍以上の発生が出ているのです。それを御用学者というか忖度学者は、いつもは検査しないのに検査するから発見されたのだということを言い出してます(註1)。そんな、論理が成り立つためには、発見しなくても何のその後の生活に変化はなかったということの立証が必要です。手術などをしたのは過剰医療だという話にもなっていきます。「名誉毀損」のようなことにもなりかねません。徹底的に議論して決着を着けることです。
さて、そもそも学者のひとたちは、因果関係は現時点では認められないとか、留保言辞を付けて問題を曖昧化、誤魔化します。これは、将来「認められる」ことがあるかも知れないときの責任逃れの言辞なのです。「因果論」というのは、ニュートン力学時代の近代知の論理で、そこからパラダイム転換した量子力学の時代には使えない代物です。現代では、前述したVSDのデーター比較にも見られるように確率函数的なところで分析をしていっています(註2)。なぜ、近代知と現代知を混在させるのでしょうか? そもそもこの「因果関係」という言葉が出てくるときは、何かを誤魔化そうとしていると押さえることだと、わたしはそもそも「因果論」とかいう、現代知的には非科学的な言葉は役所の文書や発言からは封印すべきだと思っています(註3)。前の058映像鑑賞メモに続いて、ずっと疑問に思っていたことの問題点がそれなりにはっきりすることになった番組でした。


1 これは実は、量子力学のいう「観測者の問題」と言われることに通じています。ここで、近代知ではない論理を持ち出しているのですが、本文中に書いたように、その論理が成り立つためには、ほっておいても大丈夫なひとを過剰な医療を施したということを立証する必要があります。
2 実はわたしは被害を数の問題の問題にしていくことを批判してきました。ひとりひとりにとって、そしてその関係者にとって被害者は1分の1だということで。ですが、ここで問題にしているのは、被害は立証されないという論理に対して、確率函数的なとらえ返しによって、データーの比較で有意差が示されているのです。そもそもひとりひとりの被害を見ないということは、補償を如何にしないようにするのかという立場でなされることで、データー比較で被害をとらえるというのは、むしろ逆に補償ということ、さらに、ひとりひとりの生きる保障をどうしていくのかという問題なのです。そんな補償や保障をしていたら、経済が成り立たないという反論が出てくるのですが、その経済というのは資本主義経済で、成り立たないなら資本主義経済を止めることです。こんな話をすると可能性の問題で批判が出てくるのですが、それこそわたしが一貫して追い求めている可能性なのです。
3 近代知の地平としての因果論の批判をしているのは廣松渉というひとです。トーマス・クイーンが、中世的キリスト教的世界観からプトレマイオス・アリストテレスの天動説からコペルニクス・ガリレオの地動説の転換をパラダイム転換(認識の枠組みからの転換)ということで押さえました。そのことは宇宙観だけでなく、中世のキリスト教的な哲学から、デカルトらの近代知の地平の成立まで及んでいます。廣松さんは、その転換はもう一度起きていて、近代知の地平から新しいパラダイム転換が、物理学においては、ニュートン力学から量子力学の転換、そして哲学においてもさまざまな転換が起きているとしています。それを、わたしが以前出した本のなかで廣松さんの本から引用しています。
それは、認識論的な射影においては従前の「主観―客観」図式に代えて四肢構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。(これは論理の次元でいうならば、同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えることを意味し、また成素的複合型に対して函数的聯関型の構制を立てる存在観となり、因果論的説明原理に対して相作論的記述原理を立てる所以となる。……(略)……)……(略)……。
 そこにおいては、いわゆる存在論的・認識論的・論理学的諸契機が統一態をなしている。
(廣松渉『事的世界観への前哨―物象化論の認識論的=存在論的位相』勁草書房1975年「序文」A)


posted by たわし at 18:07| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月17日

BSフジ プライムニュース「総裁選争点・・・経済政策 アトキンソンが生直言 井手英策×斎藤幸平ほか」

たわしの映像鑑賞メモ057
・BSフジ プライムニュース「総裁選争点・・・経済政策 アトキンソンが生直言 井手英策×斎藤幸平ほか」 2021.9.23 20:00〜21:55
今、テレビ局やマスコミは、政府批判的な局・マスコミと政府御用的な局・マスコミとに二分化しています。フジ・産経グループは、御用局・マスコミです。わたしは最近、ニュース・報道番組をハシゴしていて、平日はTBSBSの報道1930を観て、NHKESの手話ニュースを観て、それからBSフジの「プライムニュース」を観ます。この番組は、共鳴できるから観るのではなく、右派が何を考えているのか、また自民党内部で何が起きているかの情報を得るために観るのです。いつも観るわけではなく、日本会議の桜井よしこ極右論者とか橋下徹元大阪府知事・大阪市長とか出ていると、NHKニュースウオッチ9に切り替えてしまうのです。この日は、TBSBSの報道1930がプロ野球放送のためお休みでした。プライムニュースはほぼお休みはないのですが、TBSBSの報道1930は経営陣とおそらく政府からの圧力のせめぎ合いの中でやっている番組のようなので、ときどきスポーツ番組などでお休みになるようなのです。この日は、料理をしていてプライムニュースが始まってから、しばらくしてから、見始めました。実は新聞のテレビの番組表は見ていませんでした。誰が出演しているか知らなかったのです。アトキンソンさんが熱く語っているときに引きで全体を写したときに、あれっと思えるひとの姿が見えたのです。斎藤幸平さんでないかしらと思ったのですが、まさかマルクス経済学者の斎藤さんがフジ・産経グループの番組に出るわけがないと思ったのです。アトキンソンさんは中小企業の経営の立て直しで活躍してきて、その立場から政府の経済諮問会議などの委員をしているひとです。話している時間はアトキンソンが長いのですが、司会の反町キャスターはそれなりに参加者に意見を訊きます。で、「斎藤さん」と声をかけました。それでアップされたら、やはり斎藤幸平さんでした。アトキンソンさんは新自由主義者の範疇に入るのですが、最低賃金をあげて、中小企業の淘汰・生き残り戦略を進めるべきだという考え、この参加者は、それぞれの立場でその内容は違うのですが、討論参加者が経済成長戦略などありえないという論で一致していたのです。さて、アトキンソンさんは、斎藤さんの富裕税とか税制改革の提案に関して、イギリスの税制改革で、イギリスの資本家が海外に逃げたとかいう話をしていました。そもそもは、そんな話は資本主義を前提にした話で、斎藤さんは資本主義を否定するところで、それでも、グリーン産業とかいう分野での経済成長の可能性あるという話をしていたのですが、それは「資本主義が延命するためには・・・」という話をしているに過ぎないのですが、アトキンソンさんは、どうもそもそも斎藤さんがどういうひとか知らないで話をしている風でした。最後に、斎藤さんが「わたしがフジ・産経グループの番組に参加したのは、・・・・・・」という話をして、アトキンソンさんはやっと斎藤さんがどういうひとが分かった感じがしたのですが、その時の顔のアップでもしてもらったら、ことの真意が分かったのですが。この番組で以前から、番組のプロデューサーの番組の作り方なり、キャスターの反町さんの質問の仕方を見ているとどう考えても右派の反町さんが、意見の違うひとに議論をさせて、ときどき右派の方向へ引っ張ろうとしますが、その議論の成り行きを楽しむ風もあるのです。今回も、そのあたりの遊び的な楽しみで成立した議論・番組のようなのです。それにしても、経済学者の森永卓郎さんが、マルクス経済学というのは大学から消えたと言っていた情況があるのですが、マル経の学者の斎藤さんの本『人新世の「資本論」』が30万部超えのベストセラーになり、テレビにしかも、右派の番組に出て堂々と持論を展開する、事態が起きているのです。そういう資本主義の矛盾がもうどうしようもないところに来ているのかなと思ったりしています。これは、オプティズム的なとらえ方で、逆のとらえ方もできます。遊び的に企画したということでは、まだ、緊迫していない、右派の余裕や誤算かもしれません。
 さて話がずれますが、最近マルクス経済学の理論を一応押さえているはずのひとやグループが、おかしな理論をもちあげている現状も出ています。
 そもそもマルクス経済学から出発したらしいひと(わたしはまだちゃんと押さえていませんが、松尾匡さんがその筆頭のようです)が、MTT理論など持ち出しています。以前から、まるでアベノミクス応援団だとわたしは押さえていたのですが、今回の自民党の総裁選で、高市早苗前総務相がその「MMT理論を採用した」サナエノミクスなるものを突き出しています。そもそもMMT理論なるものは、恐慌論をどう押さえているのか疑問だし、現在資本主義のグローバリゼーション論を押さえていないとしかとらえられないのです。グローバリゼーションの時代には、経済成長戦略をとれば、更なる収奪、差別の拡大しかもたらさないということがなぜ、分からないのでしょうか? アベノミクスの経済成長戦略でトリクルダウンなどと言っていた竹中平蔵新自由主義者が、「トリクルダウンなど起きない」と明言したことで、アベノミクスの破綻は明確になったのです。これに関しては、松尾さんが共著で出している本を一度読んで、改めて批判の読書メモを残そうと思っています。


posted by たわし at 04:42| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月17日

アヤ・ドメーニグ「サイレント福島」

たわしの映像鑑賞メモ056
・アヤ・ドメーニグ「サイレント福島」2021公開
 これは特別無料公開されたドキュメント映画です。出てくるひとたちは、反原発で動いてるひとたち、粘り強く訴え続けて行く姿に感銘を受けました。わたしは、個別課題にのめり込むということが出来得ていません。障害問題での障害関係論の宣揚はやっていますが、そのことだけに集中はできません。むしろ反差別というところで、個別差別の問題をつなぐ、そして運動的な連携の模索をしています。ですから、ここで出てくるひとたちのようにひとつのことに焦点を絞って、取り組んでいるひとたちにあこがれというか、うらやましい思いを抱いてしまいます。ですが、それぞれがそれぞれの立場でやれることをやっていくしかないことなのです。とにかく、ここにひとがいて、運動があるという素敵な記録です。ホームページに貼りつけられた監督の文を転載しておきます。

11年前、私は原爆投下後、医師として広島赤十字病院で救護に携わった祖父に関する映
画を制作し始めました。

制作中に原爆投下後、広島の異なる病院で救護活動に従事していた肥田俊太郎医師と元看護師の内田千寿子さんに出会い、この二人は私のドキュメンタリー『太陽が落ちた日』の主要な主人公となりました。
福島の原発事故後も、自分たちの経験を人々に伝え、原子力の危険性を訴えるために全力を尽くしていた二人のたゆまぬ努力に、私は深く感銘を受けました。

私の新作『サイレント・フクシマ』の主人公たちは、肥田先生や内田さんの後継者だと思っています。 オシドリ・マコとケン、中筋純、アーサー・ビナード、土井敏邦らは、それぞれ独自の方法で、福島原発事故の事故処理をめぐる政治や社会の不始末に注意を喚起しようとしています。私は彼らの忍耐力と人間性に感銘を受けました。
この複雑な世界で一人の人間として何かを変えるのは不可能だと思う時も映画の主人公たちは私に勇気を与えてくれます。一般市民として目醒め、自分のできる範囲で介入しなければならないということを思い知らせてくれます。彼らの印象的な強いパーソナリティーによって、多くの人にインスピレーションを与えることができるのだと確信しています。

オリンピックが開催され、日本が福島のいわゆる「復興」を世界にアピールしようとしている今、一人でも多くの人にこの映画を見てもらえれば嬉しいです。 コロナウイルスの大流行にもかかわらず、日本国民の意思に反してオリンピックが開催されているという事実は、オリンピックが実際には誰のために開催されるのかということを、改めて明確に示しています。

権力者は、福島の被災者だけでなく、今や日本の大多数の人々を無視しているようです。日本の多くの人々がこの事実に気づき社会における連帯感が高まるならそれはとても理想的なことでしょう、忘却の影の中に置き去りにされてはならない福島の犠牲者との連帯感も強めて。
アヤ・ドメーニグ


posted by たわし at 00:26| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKEテレ「精神科病院×新型コロナ」

たわしの映像鑑賞メモ055
・NHKEテレ「精神科病院×新型コロナ」 2021.7.31 23:00〜24:00
 コロナウィルスでクラスターが発生しているところに劣悪な環境下で隔離・収用体制をひいている精神科病院があり、そこで、ちゃんとした治療も受けられないまま、死んでいったひとたちがいて、精神科医療自体の矛盾が指摘されています。
 この番組のなかで指摘されていたこと。世界の精神科病院に入院しているひとたちの二割を日本が占めていて、その数27万人とのことです。しかも、医療スタッフ精神科特例ということで他の病院の医者の数三分の一、看護は三分の二とのこと、この番組の中で、ひとつの部屋に大勢のひとが詰め込まれている様子や、その病院の劣悪な情況が出てきていて、しかも、今回のコロナで、南京錠を付けて監禁したという話も出ています。
 わたしがもっと驚愕したのは、精神科病院の全国組織のひとが、精神科病院は治安維持という役割を担ってきたのだから、精神科の待遇改善をすることだと言っていました。病院は治療をするところで、治安施設ではないはずです。何かとんでもない勘違いの元で精神科医療体制が作られてきたのです。また、医者が「このひとたちは、社会的差別のなかで、行くところがなくなっているから、精神科病院はなくせない」というような話をしているのです。そんな体制を自分たちが作ってきたという自覚と反省がないのです。世界の精神科病院をなくしていく動向も押さえていないし、ハンセン病療養所の隔離収容体制を誤りだと反省して、少なくとも強制隔離体制を解除して生活保障施設に変えていった歴史も押さえていません。
 この番組は、コロナウィルス感染のなかでの精神科病院の情況を暴き出したという意味では、有意義な番組ですが、その矛盾が何所にあるのかを押さえていません。このような番組は、かわいそうなひとたちということで、宿命論的なことで終わってしまいます。かわいそうな人たちにしてしまっているひとたち、それは医療関係者だけでなく、政治や一般民衆の責任なのです。運動をやっている当事者の協力を得て、あらためて、ちゃんと掘り下げた番組を作っていく必要があると思っています。


posted by たわし at 00:22| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月16日

中村桂子(JT生命誌研究館名誉館長)「「新型コロナウイルス」(67)コロナ後の社会」「新型コロナ・脱炭素(?)・SDGs〜戦いではなく新しい生き方(世界観)〜」

たわしの映像鑑賞メモ054
・中村桂子(JT生命誌研究館名誉館長)「「新型コロナウイルス」(67)コロナ後の社会」「新型コロナ・脱炭素(?)・SDGs〜戦いではなく新しい生き方(世界観)〜」日本記者クラブ講演・会見 2021.6.17
 偶然テンターネットで観れました。
中村さんは生物誌の学者です。生物学の立場からいろいろ興味深い話をしていました。わたしにとって特に印象深かった話を書いておきます。
 まずウイルスやバクテリアはそもそもヒトより前に地球上いて、ヒトの体の中にも無数いて、ひとが「私」というとき、ウイルスもバクテリアも含んだ体内自然としての「私」であること。
 中村さんの流れの日本の生命論的世界観とアメリカ的な機械論的世界観との対峙。
「私たちのなかの私」という考え方。
 進化論的扇図――高等・下等生物という考え方の否定とその図を上から見るようなことのおかしさ。ひとはその中に含まれている。・・・これは俯瞰図的になっているので、後から考えると、表現的にはちょっとおかしいと思うのですが。
 進化論の進化や発生を「展開」「絵巻を開く」としてとらえる――機械論的世界観ではこれは、進歩や開発という概念。
 生物は予測不能性・プリコラージュ(つきはぎ)・偶有性――工学は予測可能・論理・統計確率
 私たち――生き物たち、というつながり
 ウイルスは動く遺伝子、遺伝子は壊れやすいので蛋白質で覆われている
 遺伝子に固有性はない、その組み合わせが固有性をもつ
 生命の始まりは、単細胞で、それは分裂の繰り返しで死という概念はない、雄と雌ができて生殖するところから、唯一無二の固有性の概念が出来て、死という概念が出てきた(ただし、雌の方には細胞分裂での継続性がある)。機械的世界観では、不老不死を目指すことになる。
「脱炭素」ということには、ひとは炭水化物でできているので、違和を感じる
 一極集中型から分散型ということが生物学的にかなっている

 ウイルスやバクテリアということを含めた「わたし」というところから体内生態学というようなことも考えられるのではないかと考えていました。それと一般的な生態学の、からだというところでの内――外の対照的なようなことも。
生物学的なところのとらえ返しから、ひとの社会の在り方を考えていく面白さのようなことを感じた講演でした。


posted by たわし at 05:51| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NKKEテレ ハートネットTV「生きたいと言える社会へ(2)京都ALS嘱託殺人事件から一年 “あなた”に会う旅」

たわしの映像鑑賞メモ053
・NKKEテレ ハートネットTV「生きたいと言える社会へ(2)京都ALS嘱託殺人事件から一年 “あなた”に会う旅」2021年7月7日20:00〜20:30
このドキュメントに出てくる岡部宏生さんは、ALS関係の番組によく出て来ていて、京都ALS嘱託殺人事件のNHKの番組にも出ていました。ただ、その中の発言が、「わたしも迷っていた」くらいしかなく、それでは「生きよう」ということにつながらないのではと感じていたのですが、岡部さんは、日本のALS患者のひとたちの7割が付けないまま死んでいく情況で、自身も人口呼吸器をつけることを迷っているなかで、日本のALSのパイオニア的橋本操さんとの出逢いの中で、呼吸器を付けることを選び、今度は自分が日本一出歩くALS患者として、他の患者と会いに出かけ、そして看護のひとたちへの働きかけもしています。その中、言葉を失ったひとが、周りが必死に支えているという感じではなく、家族ヘルパーさんが明るい、本人が「ふわっとした感じ」と岡部さんがいう存在、このドキュメントの最初に出てくる「ひとは生きているだけで価値がある」ということが、つかめる感じなのです。他のひとたちも、いろいろ迷いながらも、ひとの生きるとは何かをつかんでいく、まさに哲学的な問いを突きつめるような生がそこにあると感じるのです。
「価値がある」ということ、「価値」云々を超えて、「ただ生きているだけ」がベースである社会こそが、もっともひとの生きやすい社会なのだと思えるのです。


posted by たわし at 05:49| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月16日

UPLAN天笠啓祐「一線を越えた生命操作〜新型コロナワクチン・ゲノム編集食品・RNA農薬〜」

たわしの映像鑑賞メモ052
・UPLAN天笠啓祐「一線を越えた生命操作〜新型コロナワクチン・ゲノム編集食品・RNA農薬〜」DNA問題研究会シンポジウム2021.6.13
 パソコンを操作していたら、パソコンの機能で、この動画の案内が出てきて、丁度ワクチン問題でのいろいろな議論に感じていることがあって、この動画を見ました。天笠さんの講演やシンポジウムには何回か参加していて、本も何冊か買い求めています。まだ、ほとんど積ん読状態ですが。遺伝子操作、さまざまなバイオテクノロジー技術の危うさということを指摘してくれているひとです。
 シンポというか、講演だったのですが、この話はサブタイトルにあるテーマに沿って話が進みました。かなり勉強していかないと、ついていけない内容なので、いつものように本にも書かれていくようですので、また買い求め読もうと思います。ここでは、コロナウィルスワクチンの問題で押さえて置きます。このワクチンは、多量の遺伝物質を投入し、通常七・八年から十年かかる基礎研究と動物実験、ヒト検証を経ないで、遺伝子毒性試験や後になって出てくる発がん性試験も経ないで作られた、ワクチンだということです。
 さて、この講演会を観ていて、そこで語られていたことを、コロナウィルスに論点をしぼる形でわたしサイドの意見としてまとめてみたいと思います。
 先ず、@安全性が立証できないことは、手を付けてはいけないという原則を確立することです。コロナウィルスワクチン、ちゃんと安全性が立証されているとは思えないのです。少なくとも手放しでワクチン接種推奨をすることではないと言いえます。次にAに、ファイザー社、モデルナ社のワクチンも何れも、mRNAを使ったワクチンです。「特例」と言うことで承認されているのですが、遺伝子操作ワクチンの使用はきちんとした検証が必要ですし、これを契機にして、遺伝子操作技術の歯止めのタガが外されることに警鐘を鳴らして行く必要があります。Bに、そもそもバイオテクノロジーの技術には、その行き着く先の、優生思想的な人間観や世界観、すなわち、デザイナーベービー的なところに至り着く、ひとのモノ化、生命の軽視、ヒトという種の絶滅につながりかねない恐ろしさを内包しています。そのようなことも含めて、人間観、世界観から、バイオテクノロジーということをとらえ返し、そこから現実的に起きてきていることをひとつひとつ検証していくことが必要になっているのではないでしょうか?


posted by たわし at 03:35| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSTBS「報道1930」6月11日19:30〜21:00「新しい「脱成長」の考え方」

たわしの映像鑑賞メモ051
・BSTBS「報道1930」6月11日19:30〜21:00「新しい「脱成長」の考え方」
大阪市立大学教員の斎藤幸平さんがゲストでした。このひとの書いた『人新世の「資本論」』集英社新書2020という著書が30万部を超えるベストセラー・ロングセラーになっているそうです。消費からの変革ということで、世界全体の2%の富裕層が排出炭素の40何%を占めているということを是正していく話をしていました。それだけでしたら、今流行のSDGsなのですが、このひとはSDGsも批判するのです。要するにSDGsというのは、持続可能な資本主義、持続可能な成長経済という論理なのですが、このひとは、成長ということを捨てるしかない、しかし、資本主義というのは成長なしに存続し得ない、従って、資本主義をやめるしかないというはなしまで展開しています。脱成長コモニズム――コミュニズムの話です。そして、バルセロナの女性市長の元で、車をチャットアウトした空間作りをしている話なども出していました。
この日は、アメリカ人(アメリカ国籍)の漫才師から転じて政治へのコメンテーターとして活躍しているパックンが出演していたのですが、斎藤さんに「なぜ、持続可能な資本主義ではいけないのか」という突っ込みをしていました。まあ、資本主義は経済成長なしには継続し得ない、新自由主義的グローバリゼーションは、格差の拡大と矛盾の民衆への転化という差別主義的政治を展開していくので、ますます矛盾が拡大していくというところで、資本主義終焉の主張になっているのですが。
とにかく、大学でマルクスの流れの学が踏み絵的に消えていっていて、もうずっとマルクスというところをとりあげることがテレビの番組でなくなっている時に、マルクス派の経済学者がテレビに出ていて、また本がベストセラーになっているとのこと、潮目が変わってきているのかもしれません。この本を買い求めました。読書メモでまた取りあげます。

posted by たわし at 03:31| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月16日

CS放送ビデオ・オンデマンド「ビリーブ 未来への逆転」

たわしの映像鑑賞メモ050
・CS放送ビデオ・オンデマンド「ビリーブ 未来への逆転」2008
 トランプ前大統領の時、リベラル派の女性の最高裁判事が亡くなり、その補充で右派の判事を選任した事が話題になっていました。その亡くなった判事は、ルース・ベイダー・キンズバーグというひとで、この映画の主人公です。このひとは、女性差別に対して法制度的なところで闘ったパイオニア的存在なのです。このひとは、そもそも大学の法学部が女性を差別していることがあったのですが、そのことに闘い、そして「優秀な成績」で卒業したにもかかわらず、弁護士事務所に入る壁を越えられず、大学の教員になるのですが、性差別の事件(男性に扶養手当が出ないという反転した性差別事件)で、人生のパートナーの弁護士と一緒に弁護をすることになり、様々な駆け引きや働きかけのなかで、裁判を起こします。ここからは法廷ドラマ的なせめぎ合いのドキドキわくわくのストーリーになっていて、ストーリー展開が映画自体としての魅力を感じさせます。判例や性差別的判事の圧力、慣例による差別という、さまざまな抑圧の中で、くじけそうになりそうなところから一転して、その意志と雄弁で勝利していきます。その後、さまざまな性差別の事件を担当することになり、法制度を変えていったのです。そして最高裁判事にまでなったのです。まさにパイオニア的なひとの意志と生き様を描いた映画でした。どのような分野にもパイオニア的にひとがいて、そこから運動が始まったということを改めて思い起こさせた映画でした。


posted by たわし at 17:11| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする