2021年01月17日

TBS報道特集

たわしの映像鑑賞メモ047
・TBS報道特集20.1.9 17:30-19:00
特番で、コロナ対策に成功している国の一つの台湾のことを報道していました。コロナ対策が巧く行ったのは、政治に肝心なこととしての徹底した情報公開による政府と民衆との信頼関係ということでした。現場の指揮にあたっている陳時中・衛生福利部長(衛生福利相)が毎日質問がなくなるまで記者会見に応じ、自らの責任感において、時には涙しながら答える、というような映像を流していました。この感染症対策で、マスクを売っているお店情報でITを有効に使っているのですが、そのシステムを作ったIT担当大臣はトランスジェンダーのオードリー・タンさんで、これも民主主義の肝要なひとつの「多様性を尊重する」ことらからきていて、蔡英文女性総統の下でなしとげたこと。それらが、台湾の「ひまわり運動」の流れからきているのではないかというような話も出ていました。
 コロナ感染が起きたときに、日本は真逆な政治が進んできていました。安倍政権は、現首相になった菅官房長官と共に、内閣人事局による官僚支配による忖度政治を進めながら、特定秘密保護法、戦争法(安全保障関連法)を強行採決し、共謀罪まで作りました。
 そして、感染症対策も、経済とオリンピックのことに固執し、感染症対策の医療的なことを基礎にして押さえ込まないと、経済も破綻するという、イロハも分からない政治を進め、判断を誤り、感染の波がだんだん大きくなるという事態になっています。菅首相は「一年間で学んだ」と言っていますが、学んだどころではなく、そもそも感染症対策の基礎も未だ押さえていないことが露呈したのです。早期対策、最初に大きな網をかけるということと、真逆の後手・後手の追加対策いうことを繰り返しているのです。
 そして、もつと恐ろしいことは、きっと周りから、「シブ顔の官房長官」から首相になったときに「もっと笑顔を」と助言されたのでしょうか? 感染が広まる最中のインターネット番組で、「ガースーです」と冗談を飛ばしたり、報道ステーションに質問し、「今後感染が広まったときにどうしますか?」と質問された際に、ごまかしの決まり文句の「仮定の質問には答えられません」(註1)と、したり顔の笑顔で答えを返したりするのを見ると、失政の責任からする反省など微塵もなく、自分の失敗で被害を与えることに涙する台湾の担当相とは真逆の、そもそも人間としてのまっとうな感性さえ持ちえていないのだと思わざるをえません。そして、忖度専門家の忖度発言に責任を転化し、小池都知事との間で責任のなすりつけあいをする、どうしようもない政治を行っています。とうとう二度目の緊急事態宣言の発動になったのですが、後手・後手の対策やイロハも分からないような対策、感染がおさまってからやるはずだったGoToキャンペーンをまだ下がりきらないうちに始めて感染を拡げ(註2)、感染対策をゆるめるなどの失政のお詫びから、まず始めることです。もっとも有効な手段は、「ご飯論法」の加藤官房長官をはじめ、ごまかしの政治しかやってこなかった政治家たちを一掃するしかありません。
 丁度、この番組のときに、トランプが煽動した連邦議事堂の占拠事件が起きました。この番組で台湾の「ひまわり運動」の議事堂占拠も流していました。前者はファシズム的クーデターですが、後者は直接民主主義運動という真逆なことです。この「ひまわり運動」は、結局議事場の占拠を解かれ「敗北した」とされ、日本で「アベ政治を許さない」という一連の運動が起きたときに、香港の雨傘運動の「敗北」とともに、その教訓として、「実力闘争はしない」と語られていたのですが、台湾のコロナ対策の成功が、民主化というところからがつながっていたとしたら、それは「敗北のなかの勝利」と言いえることではないでしょうか?
 日本には、一揆的な運動はあったのですが、民衆の力で体制を変革するような運動はいままで起きていません。どのような回路でそれを作り出せるのか、考えていく必要があると思っています。
(註)
1 これは詭弁の類いのことです。そもそも、科学とは、法則という仮説をたてて、それを実証していくという方法をとるわけで、仮説なしに科学などありえないのですが、仮定法の問題性があるにしても、そもそも、想定なしに政治などなりたたないわけです。「仮定の話はしない」というなら、「想定」というところはやっているわけで、質問者はそこで攻めていけることだと思います。
2 「GoToトラベルで感染が拡がったという科学的根拠はない」ということを忖度専門家の言葉尻を引用して、菅首相は言っているのですが、「GoToトラベルでは、感染が拡がらないエビデンスもない」もないわけで、そもそもこれは菅政権が継承するとした安倍首相が詭弁に使った「悪魔の方程式」では、「ないという証明はできない」のです。そもそも、何ら実証しようとしないで、勝手なごまかしの「論理」――詭弁を弄しているにすぎないことです。



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NHKGテレ「NHKスペシャル 患者が“命を終えたい”と言ったとき」

たわしの映像鑑賞メモ046
・NHKGテレ「NHKスペシャル 患者が“命を終えたい”と言ったとき」2020.12.27
テレビの番組欄には「命の終わりを望む患者 そのとき医師は家族は 京都ALS事件の衝撃 命をめぐる葛藤の記録」とありました。NHKは京都ALS嘱託殺人事件を追っているのですが、それを医療の側から、とりわけ「鎮静」という、緩和医療と「安楽死」の境界線のようなことをとらえ返した番組です。
SNSで、この番組について事前にコメントしていたひと、わたしのSNSの「友達」は「障害者運動関係者」がほとんどなので、どういう番組になるか不安を訴えていました。途中、顔をしかめながら観ていたのですが、一応最後は、「生ききるということに向かい合う」ということでまとめていたので、それ自体は「生ききる」側に傾いているのですが、やはり、マスコミの両論の併記の中立性で、そうなると、だいたい世論調査にでている。「8割のひとが延命処置をもとめない」というところに引きずれるのではないかと思ってしまいました。
そもそも「葛藤」ということが、障害問題を考えてきた立場から分からないのです。「患者に引き込まれる」という話が出ていたのですが、医療の「ひとを生かせるのが医療で、死なせる医療など医療の存在矛盾だ」ということで、余計なことを考えないで、医療の論理に徹すれば、迷いとか葛藤とか生じることではないのです。まあ、医療という空間は真空空間ではないので、結局「世間」に拡がった意識に引きずられたりします。吉本隆明というひとが「自立」という概念を突き出していました。わたしは吉本さんに余り共鳴はしていないのですが、それでも「自立」の概念は使ええて、この社会の「命の軽視」ということから「自立」した考えをもつことを主張できます。だから「余計なことを考えざるを得ない」というところでは、もっと徹底的に考えることから「自立」を求めていくしかありません。それはとりわけ「障害者運動」が突き出していたことをとらえ返していけば、それが可能になるのです。それはイギリス障害学の「社会モデル」とか、日本においても、「青い芝の会」が突き出したこととか、「障害者運動」が突き出した優生思想批判のことを是非押さえて欲しいと思うのです。わたしはなぜ、医療従事者がなぜ迷いや葛藤に陥るのか、分からないのです。
(追記)
ただし、そもそも障害を巡る議論自体の混乱も起きています。その例は、障害モデルを巡る議論があります。イギリス障害学の「障害の社会モデル」――「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁である」というフレーズで示しえます――が出てきて、「障害者」に開き直り方の途を示しました。ですが、そもそもこれは医学モデルのアンチテーゼ的な提起で、煮詰められていませんでした。ですから、揺り戻しや転換のやりきれなさも出てきました。それは、「障害者」の表記を、‘障がい者’‘障碍者’という表記に置き換えるひとが出ていて、そういう置き換えをするひとは「社会モデル」を知らないひとだという提起が出ている中でも、以前として、そのような表記が出続けています。そのようなことにもその混乱が示されていました。
この障害のモデルの話、わたしが『反障害原論――障害問題のパラダイム転換のために』世界書院2010で、パラデイム転換論として転換をなしきろうとしてきたこと。このとき、そもそもアウトラインを示していたし、不備も自覚して、とりあえず「社会モデル」への転換を提起していたのですが、そもそも直裁に、「障害関係論」として突き出すべきだったと反省しています。そのことを、今『障害関係論原論』としてまとめようとしています。そのような理論的な深化と広がりのなかで、葛藤や迷いのようなことから脱していくことが、今改めて必要になっています。

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2020年12月17日

NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件」

たわしの映像鑑賞メモ045
・NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件1 視線でつづった586日」2020.11.3
・NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件2 “安楽死”をめぐって」2020.11.4
この番組は、043でとりあげた事件で、1で嘱託した当事者の心の軌跡と彼女と接触した周りのひとの反応を追い、2で“安楽死”ということからこの問題を当事者や学者、“安楽死”問題を「障害者」の親の立場から追いかけてきたフリーライター(註1)の話でつなげています。そして、「患者」や介護に関わるひと、一般のひとの意見も織りばめています。しかし、それは必ずしも、当事者が生きるという方向になっていないのです。
1で印象に残ったのは、テニス鑑賞の趣味でSNSで友達になって、死へ誘われている当事者をなんとか翻意させようとしていたひとがビデオで出ていました。そのひとが、当事者が亡くなった後で、SNSで「死ねて良かった」とそしていう投稿が出ていて、むしろそちらが多数派だったというようなこと話していました。この話は、そもそも、一般的に「延命処置を望むか?」というアンケートに8割のひとが「望まない」と答えることとか、介護資格を取得する民間の講座で、受講生に「延命処置を望むか?」と質問すると、8割のひとが「望まない」と答える話(註2)にもつながっています。要するに、「安楽死」ということばは、今回2の学者のひとの話として、そもそも死ぬときに安楽なのかというはなしが出ていた、あいまいな概念なのですが、それに変えて、「尊厳死」という更にごまかしの言葉も出ています。これは、そもそも、「障害者」の介助や高齢者の介護がきちんとなされないなかで「尊厳がない状態にされる」(註3)というところで、「尊厳死」などいう言葉が出てくるのではないかと思います。それに、そもそも「他者の世話になって生きる」こと自体を否定的にとらえる現代社会(資本主義社会)の否定的な考え方があります。「障害者」に対する差別的な観念がこの社会全体に広く行き渡っているのです。だから、生まれたときから「障害者」であったひとたちは、生きるために、そのような思想に対峙し開き直って生きる術を獲得していくひとも出てくるのですが、中途「障害者」たる、「患者」や高齢者は、この社会に広く行き渡っている、「身辺自立」とかQOL(生活の質)とかいう「健全者幻想」(註4)にとらわれて生きて来たことから転換することが容易ではありません。今回の嘱託殺人の「依頼者」当事者も、まさにそういった社会一般にある、人間像や世界観にとらわれたところで、「できない」――「できなくなる」ということを巡る優生思想的なところにとらわれたところでの「死にたい」という思いにとらわれたのだと思います。
わたしは「障害の社会モデル」のとらえ返しをしています(註5)。その考え方からすると、この社会に広がる優生思想的なところに殺されたのだということができます。
NHKは、そもそも政権擁護なのですが、福祉に関わることはそれなりに踏み込んではいますが、報道の中立性にとらわれ(註6)、両論併記で問題提起に留まっていて、出口のない閉塞感にとらわれる番組作りに終わっています。
 わたしは決して、出口がないとは思っていません。まず、「ALS」の当事者と家族の会は、喀痰吸引や胃瘻の注入が医療者や家族でないとできないとされていたことを、交渉を積み重ね、介護者の資格をもつひとに拡げました。ただ、制度を作っても、利用するひとの意識、介護をするひとの質量の保障がなければ、生きがたくなります。そもそも、この社会の「障害者」や「難病者」へのとらえ方が否定的であれば、そのことに、当事者も介助者も規定されていきます。
 そもそも、自死したいというひとがいて(註7)、実際に実行しているひともいます。この社会がそもそも多くのひとにとって生きがたい社会になっています。「中途障害者」の自死願望や高齢者の「ポックリ死にたい」という事が出て来るのは、その極としてあるのです。なぜ、そのような事が出てくるのかをとらえねばなりません。この社会、資本主義社会では労働力の生産・再生産に関わること自体がコストなのです。だから、福祉に関わることが切り捨てられ、抑えこまれるのです(註8)。だから、そもそも根本的に社会を変えようということの中でしか展望は出てこないのです。一時、オルターグロバリーゼーションということが叫ばれ、「もうひとつの世界は可能だ!」というスローガンが叫ばれ、反サミットということでいくらかの盛り上がりがありました。しかし、その運動はしぼんでいきました。なぜか、「もうひとつの世界」のイメージがつかめなかったからです。そもそも、資本主義批判の中で、マルクスが共産主義の概念を突き出しました。その流れが、ロシア・東欧、そして中国において「社会主義国家」を建設したとされていました。しかし、それはそもそもプロレタリア独裁が党の独裁になり、また社会主義への移行に失敗した国家資本主義に陥ったのです。それを「社会主義」と称して、それを維持するために監視社会、全体主義的な国家になってしまいました。それを「社会主義」として曲解することから、「社会主義」への幻滅が広がっていきました。そのような曲解の下で、出口のない厭世主義的な閉塞感が広がっていったのです。そのようなところを押さえたところで、きちんと社会変革運動の過去のとらえ返しをしながら、改めてきちんと情況をとらえ返して、社会変革の道筋を示していくことのなかにしか、閉塞感を脱する道はないのでと言いえます。わたし自身、微力ながらそのような作業に取り組んでいます(註9)。


1 児玉真美さん、自分の「障害児」の子どものことで本を出し、その後いくつの著作を出し(「読書メモ」 240,242,243,249にブログ)、ヨーロッパの安楽死――尊厳死の問題でインターネットで情報を発信続けています。
2 これは高齢の母を看取った後に、その反省と介助の勉強をしておきたいと通った、高齢者介護の講座で、実務者研修のコースでの講師の話。
3 昔の介護の研修では、講習生におむつの中で、排尿・排便をしてみる、という体験から、介護の必要性の自覚をさせるということをしていました。それが、現在では、講習では差し込み便器とか、尿瓶の講習もあるのですが、すでに介護の仕事をしている講習生から「現実にそんなことやっていない」という話も出ています。
4 「健全者幻想」とは、青い芝のひとたちが中心になって突き出した概念。そもそも殆どのひとが「健全」などない、理念的なことなのに、「障害」がないという幻想的なことを追い求めることを、「健全者幻想」と言います。それだけでなく「障害者」自身も子どもが生まれたとき、「五体満足」か、思わず見てしまう。自らの存在を否定する、内なる「健全者幻想」にとらわれてしまうもことを、問題にしてとらえ返しをしていました。
5 以前出した本(『反障害原論』)の中で書いて、その後「『反障害原論』への補足的断章」という形で文を書いています その一連の論攷は、次のURLから
  https://hiro3ads6.wixsite.com/adsshr-3/c
6 そもそも「中立幻想」ということがあります。「安楽死――尊厳死」を合法化する法律を作る運動があり、そのことをきちんと批判しないマスコミは、批判と推進の両論併記しようとする動きになってしまい、結局、このような事件のとき、結局、「死にたい」という思いがどこからきているのかを押さえた、それを抑止する報道はなしえません。
7 わたし自身、マージナルパーソン的な「障害者」当事者として、優生思想にとらわれる中で、「自死願望」にとらわれた思春期をおくりました。そのことの反省の中で、みずからもとらわれた優生思想への批判と、「障害者」の存在を否定する論攷への批判をなしきろうという試みの中で、文を書き連ねています。
8 このことは、マルクスが『資本論』を中心にした著作の中で、展開していたことです。これを、コストにしないためには、そもそも経済体制を変え、基本生活保障をきちんと確保する体制をつくらねばなりません。
9 これはよりよい社会を作ろうという社会変革志向の運動が陥った矛盾――ときには暴虐の歴史の総括なしにはなしえません。その運動はマルクスの思想の流れから、その踏み外しとして出てきています。それがどういうことなのかを押さえるためにも、マルクスの思想の流れの論攷を読み解く作業をしています。そこから、わたしとしては、その運動の端っこで参画していたにすぎないことですが、それでも主体性はもっていたところで、現代の運動の総括に進んでゆくつもりです。それがわたしの学習の一つの柱になっています。


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2020年11月17日

日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」

たわしの映像鑑賞メモ044
・日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」2020.10.19
この番組は、「毛細血管で動脈と静脈が癒着する難病」で生まれてから何度も手術を繰り返し、「見た目」でいじめや差別にさらされ、「見る目」(斜文字になっているのは、番組では手書き的な文字、この文字で「見る」ということに差別的な意味を懐胎させているようにわたしはとらえていました)を感じてきたひとのドキュメント番組です。マスクなどしないで、自分を隠さないで、ずっと生きて来て、結婚して子どもが生まれて児童参観にでるようになる母親の立場になってマスクをするようにしたという話。一人芝居で、自分を「さらして」、子どもたちや親に、自分の問題―差別の問題をきちんと伝えていくことをやっているひとです。連れ合いのひとが、差別的なことをほとんど感じさせないひとで、むしろ、わたし自身も「ひとの美意識」って何だろうというようなことさえ感じていました。
 これを書いているのは、ひとつ前の「ALS」のひとたちの問題で、病気自体の負価値性からは抜け出せないような番組の作り方になっていたのですが、ちょっと達観したような感じのひとはいたのですが、言葉としてはでていませんでした。ひとつの達観や反転のような突き出しをしているひとの紹介ができなかったのだろうかと思ったりしていました。
この番組の語りで、もし病気がなかったらという思いにとらわれることもあるけれど、むしろ、この病気が自分の存在の意味という思いをもたせてくれた、という内容の話をしていていました。一種の反転のようなことで、このあたり、以前書いた、写真家でひとの命を切り取るような写真をとっていたひとが、確かパーキンソン病になって、それまでの自分と今をくらべて、ひとの痛みが分かるようになった、病気になって良かったというようなことを話していたり、オーストラリアのバリバリのエリート官僚のひとが、「どうして、一度にひとつのことしかできないのか」と他者批判していたひとが、「認知症」になって、一度は落ち込みつつも、むしろ、なって良かったという心境になっていく、そのような反転も本や映像になっています。
障害問題で、この反転のようなこと、もっと語っていく必要があるとの思いも持っています。
わたしたち、「吃音者」には「治す努力の否定」というような突き出し出ていました。この話をすると仲間内からは、強がりを言っているだけだとか、「障害者」の仲間からは、「(医学モデル的意味で)軽い障害だから」と言われるのですが、むしろ、「軽い」と言われるひとがより悩み葛藤に陥ることもあるし(これをわたしはマージナルパーソン論として展開しています)、「障害の重い――軽いをいうひとがいるけれど、差別に重い――軽いはない」という提言も出ていました。このあたりのことをきちんと押さえたところで、開き直るところでの仲間との交流と思想的深化を獲得していく方向性があります。これは簡単なことではなく、むしろ差別を生みだしてくる社会の構造自体を変える運動の実践のなかでのせめぎ合いになっていくのではとも思っています。


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NHKテレビ「クローズアップ現代 ALS当事者たちの“声”」

たわしの映像鑑賞メモ043
・NHKテレビ「クローズアップ現代 ALS当事者たちの“声”」2020.10.14
この番組は、京都で2019年11月30日「ALS患者」嘱託殺人事件があり、そのなかで、「ALS」のひとたちが「同病」のひとたちとつながることによって、生きることにつながる番組を作ろうという主旨で作られた番組とわたしは汲みとっていました。VTRで、いろいろな当事者の紹介があり、スタジオで、母親を介護し看取った川口有美子さん(註1)がインタビューを受けていました。今、「ALS」のひとたちは、人工呼吸器を付けるとかなり長くいきれるのですが、着けないままに亡くなるひとが7割という統計がでているそうです。それは、「周りの人たちに迷惑をかけるからなど」という説明になっています。以前、8割だったのですが、7割になったのは、当事者・家族による運動のはっきりした成果、ということができると思います。以前は、自宅での生活となると、家族の全面介護だったのが、今は家族介護をほとんどしなくても、2012年から介護職で研修を受ければ喀痰吸引や胃瘻の注入が出来る制度を作り、24時間介護体制が作られつつあります。地域格差があるので、制度的な整備もこれから進んでいくよう、ただ、そもそも福祉制度一般にいえることですが、「仏作って魂を入れず」ということばがあるように、介助のひとたちが集まらないという現状をどうするのかという、福祉の抑止・軽視という福祉政策の問題があります。これらのことも含めて、運動として前に進めて、資源にアクセスすること、「障害の社会モデル」的意味で、障害をとりのぞいていくこと必要だと思っています。
とにかく、この番組を見た当事者や「障害者」たちがつながっていく契機、生きるということにつながっていく契機になるのではと、この番組の意義深さを考えていました。
ただ、ペシミストのわたしは(註2)、何か心の重いものを感じています。そもそも「迷惑」とかいう発想、それから「など」ということの意味を考えていました。
以前、フェミニズム関係の連続学習をしているときに、上野千鶴子さんの本を読み込んでいました。上野さんは、コピーライターのような刺激的な言葉を紡ぎ出しています。その中に、「定年退職をしたら、男は産業廃棄物になる」ということばがありました。この言葉には、フェミニズムを勉強しているひとたちにとって、男をやり込める痛快さがありました。それと、この社会の労働崇拝――労働第一主義ともいえるところへの批判の意味ももっていたのです。ですが、わたしは母の高齢の介護をして、母の「ぽっくり死にたい」ということばへのやりとりとか、母が利用していた病院や高齢者施設のショートステイやデイサービスの利用の際に「リビングウィル」を求められているなかで、この上野さんのことばの恐ろしさを感じていました。今、統計では「延命処置をしない」と答えるひとが8割いるそうです。そして、母を看取った後、母の介護の反省と「障害者運動」での必要性も考え、そして介護学習の実態を知りたいという思いもあって、民間の商業ペースの講習会を受けたのですが、その中で、すでに介護を仕事にしているひとも含んだ「実務者コース」の講習会で、講師が講習生に「自分が延命処置を受けたくないひと」と手を上げさせたら、丁度8割でした。その講師の話では、毎年その質問をしてだいたい毎年8割だそうです(註3)。このことが、「など」というところの問題、この社会の一般的な価値観にとらわれていくことがあるのだと考えていました。
さて、この放送が終わった後、川口さんが自分のフェイスブックにこの番組の裏話を書いていました。「安楽死」という言葉を使わないで欲しいという提起があったとか、二回もリハーサルをしてから生本番に臨んだようです。いろいろ後で、視聴者から批判が出てくることを考えているのでしょうか?
この番組はテーマをはっきりさせて、そこに絞り込むというところで、それはそれで意義深い番組だったのですが、もっと掘り下げた番組も期待したいと思っています(註4)。いつものわたしのないものねだりです。


1 その看護記録、わたしの読書メモ85・川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』医学書院 2009
2 大江健三郎さんが、「さよなら原発」の集会で、「ペシミストの勧め」の話をしていました。運動をするひとは、現状を憂うるペシミストだからこそ、運動に参加しているのだという話です。
3 たまたまなのでしょうが、この8割という数字があちこちに出てきます。
4 次の映像鑑賞メモでこのあたりのこととりあげています。


posted by たわし at 05:02| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月02日

三上智恵/大矢英代共同監督「沖縄スパイ戦史」

たわしの映像鑑賞メモ042
・三上智恵/大矢英代共同監督「沖縄スパイ戦史」2018
この映画は、劇場公開のときに両監督のアフタートーク付きで観ました。そもそもこの映像鑑賞メモのはじまりは三上さんの劇場公開第一作映画「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」2015(映像鑑賞メモ001)で、その後の劇場公開の映画を観続けています。(三上さん関係の映像鑑賞メモは後004、006)しかし、この映画劇場上映の時は、昼夜逆的になっていて、朝一番の回で睡眠不足で観たこともあったのですが、何かもやもやとしたことがあって、よく内容をつかめませんでした。で、メモを残せなかったのです。で、今回はケーブルテレビの「日本映画チャンネル」で放映したのでやっと再度観れました。
この映画は二冊の本になっているので、その本を読んでメモを残しています(読書メモ、536・537 「反障害通信」96)。
この映画はインタビューを元に構成されているドキュメンタリー映画で、戦争の被害と加害が交差する映画です。話の内容は、墓場まで持って行きたいような語り難い内容で、三上さんの本の中で、書かれていた証言をするひとたちの「明るさ」のようなこと、それが何か、というような心の機微のようなことを映像から読み取ろうとしました。結局、それ自体で一本のドキュメンタリー映画が作れるようなことです。とてもつかみきれないのですが、自分が他者から注目されるということでの晴れがましさのようなことも少しはあるのでしょうが、それよりも、重い思いを背負ってきた立場を生き抜いてきたところで、そこから反転するような明るさなのかもしれません。
「もやもや」ということを書いたのですが、今回テレビで見ていても、そのもやもや観にとらわれていました。8月は原爆忌、終戦ということがあり、悲しい体験が語られるとき、そのことを封印したいという思いに駆られます。そんなことがあるのかも知れません。
戦争ということのとらえ返しは、三上さんが本のなかで素敵な文で書かれているので、ぜひそれを読んでもらいたいと思っています。わたしとしては、なぜ国家などという幻想にとらわれていくのか、今、世界のリーダーたちがまさに国家主義的なところで対立を煽っていく現状で、わたしたちはこの国家主義と対峙しているのだと思いをもち、そこから起きる戦争や、そもそもなぜ軍隊などもとうとするのか、というようなことまでこの映画を観ながら思いを馳せていました。
この映画は、いろんな賞を取っています。そして、異例的にケーブルテレビにもとりあげています。そして、ケーブルテレビを見れないひとは、劇場映画館で再上映も決まっているようです。関東圏は、「ポレポレ東中野」8/22(土)〜9/4(金) 時間帯調整中 『沖縄スパイ戦史』
劇場のホームページをhttp://www.mmjp.or.jp/pole2/を確認して、観に行ってください。


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2020年06月17日

LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」

たわしの映像鑑賞メモ041
・LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」2019.10.31
本三冊を読んで、インターネットで伊藤亜紗さんのビデオを探していて、このビデオにヒットしました。当事者としての話として、本人は「隠れ吃音者」を自認しているのですが、外国に行ったとき、英語をしゃへるときに思いっきり連発の「吃音」が出たという話をしていました。わたしは「隠れ」ではありませんし、とくに学生時代英語の音読は言葉が出ませんでした。それから、新しく仕入れた日本音声言語――書記言語の単語の時も、言葉が出ないということがありました。でも「吃音者」にはいろんなタイプのひとがいて、英語の先生をしているひとがいて、英語の時はスムーズに言葉が出るという話をしていました。「どもった記憶がない」というところの話かなと思っています。
実は、ビデオはいくつか観たのですが、このビデオの話がわたしの関心領域とヒットしました。
伊藤さんはレジメ的文を出していろいろ話をしていたのですが、細かい説明文を省くと
@ 医学モデル(産業革命――1970s)
A 社会モデル(1970s――)
B 美学や当事者研究によるアプローチ(2010s――?)
という内容です。
これは、障害学における一般的な押さえ方としては食い違っています。「社会モデル」の話が出たのは、イギリス障害学における当事者からの突き出しと言われています。でも、あながち間違いとは言えません。日本の「障害者運動」の中でも、「自分たちを変えるのではなく社会を変える」という言葉が出ていました。ですが、その当時は医学モデルの変形の発達保障論があり、それと個人モデルの範囲内の「障害個性論」が対峙していました。社会モデルや関係モデル的なことは埋もれていたのです。
伊藤さんの美学的なところでのBの突き出しを、わたしは関係論として突き出しています。丁度、2010年を前後してですが、それよりもすでにずつと前に1970sに「障害とは関係性の問題である」という関係論的なテーゼもでていました。ですが、日本の「障害者運動」には1980sを境にして断絶があります。理論的にきちんとした整理がなされないままに、とりわけ哲学的な掘り下げがないなかで、アメリカの自立生活運動のながれや、WHOの障害規定を巡る議論で、そしてイギリス障害学やアメリカ障害学の議論が入ってきて、そこでの議論に収束されました。問題はイギリス障害学の「社会モデル」の突き出しの中で、それを第1世代として、第2世代の批判が起きたことです。それがフェミニズム障害学を僭称して余計に混乱に拍車をかけました。伊藤さんは、このビデオの中で、社会モデルは大切だけど、それだけでは足りない、というはなしをされています。その話がわたしの中ではフェミニズム障害学のモリスの話にリンクしていきます。これを伊藤さん的にアレンジして押さえると、「体の問題が抜け落ちている」となります。そこで、身体論的には肉体と精神の二元論を批判する「身体とは関係性の分節である」ところからする関係論として突き出せることではないかと思っています。すでに書いてるように身体論の詰めができていないので、そこをなんとかしなくてはいけないのですが。障害学では、もうひとつ、「文化モデル」という表出もでています。伊藤さんのBとも少し重なるのですが、これははっきりズレています。文化というのは一位相ですから。
さて、医学モデルのところの伊藤さんの説明で、産業革命の頃に確立した標準的人間像の話が出ていました。これによって「障害者」が出て来たのだという話です。このあたり、WHOのICFが未だに「標準的人間像」から障害規定をしていて医学モデルに収束している現実をとらえると、そして各国の障害規定も医学モデルから抜け出せていない現実をとらえると、ひとつの大切な提起だと思っています。


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NHKEテレ「スイッチ・インタビュー 柳家喬太郎×伊藤亜紗」

たわしの映像鑑賞メモ040
・NHKEテレ「スイッチ・インタビュー 柳家喬太郎×伊藤亜紗」20.5.2(再)
読書メモの前出の『どもる体』の話をしていた矢野さんに、このビデオを送ってもらい観ました。
これはNHKのスイッチ・インタビューのシリーズのひとつのようです。他の番組を観ていないのですが、スイッチというのは、ふたりの対談者が質問する側と答える側をスイッチを切り替えて、インタビューする番組です。今回の場合は、場所も切り替えています。
柳家さんは新作落語で名を馳せたひとのようで、伊藤さんは東工大での教員の美学者です。かなり異色の組み合わせです。当人たちもどういうやりとりになるかちょっと不安感をもって出会っているのですが、かなり「面白い」やりとりになっています。最初は伊藤さんが聞き手です。場所は柳家さんの新作落語の課題にしているウルトラマン関係の飲食店のよう、店は閉まっているところでのインタビュー、ウルトラマン関係と言っても反語的で正義の味方は入店禁止になっているようです。
柳家さんの話も面白いので、もし観れたらぜひ観て欲しいのですが、このビデオはわたし自身では探し出せませんでした。とにかく、このビデオは伊藤さん絡みで観たので、柳家さんの話は、ほぼはしょらせてもらいます。伊藤さんはよい聞き手なのですが、そのなかで、自分の意見のようなことを述べているところを書き置きます。正確な起こしにはなっていません。断片的なメモ的な発言を書き置きます。
「障害をもつ人の話を聞くことは、私にとって小説を読むのと同じ」・・・伊藤さんの美学は「面白さ」知的好奇心・探究心としての学。「障害をもつ人」の表記は(伊藤さんの体論からきているのでしょうが)医学モデルそのもの
「みんなで鑑賞すると絵が変わって、名画になる」
「落語はみんなで温泉につかっている感がある」
「落語はバッド・エンドが多い。私は動物映画が好きで、そこは弱肉強食の世界、しかし、爽やか感がある。」
「ミジンコになりたい」(二人とも共鳴)
「樹になりたい」(伊藤さんは幹や枝葉、柳家さんは根のイメージ)
「「障害をもつ人」に、同じだよ、仲間なんだというのはない」「多様性というのではなく、持ち場がある、ということ」「「障害をもつ人」だけのことではない」

後半は、伊藤さんの仕事場の東工大キャンバスでの、柳家さんが聞き手になってのインタビューです。落語家ですから、ときどき面白い突っ込みも入るのですがこれもはしょらせてもらいます。主に伊藤さんの、余り正確ではない文字起こしです。(音声の起こしなので「」の付け方はわたしの感覚)
「美術における哲学――美学」「美学は哲学のきょうだい」
「言葉には体の葛藤が乗っていない。普通の言葉は「健常者」用にできているので言葉で表せない」「小説を読むように聞く」「体のもっている可能性」
「「障害」は欠除ではなく、基準が違うだけ」
 さて、ビデオでは大学でのワークショップ的授業の様子がながされています。
 一つ目は、ボックスティシュを箱ごと渡して「ボックスティシュを否定せよ」というテーマ、ボックスティシュの機能から一番遠い機能にすることということ。いろんな作品が学生ら出ていました。モップ、鼻にもじった生け華・・・
 さて二人で構内を動きながら対話を続けて行きます。そのなかでの発言。
「見えている側がうまく言えない」――「見えているからこそ見えていない」
 非「視覚障害者」にとって視覚優位の感覚なのですが、石のはられているところの境の話や陰から出て陽のあたるところは「視覚障害者」にとっては陽のあったかさの感覚とか、「見えちゃっているからこそ捨てちゃっている情報がある」
「視覚障害者」でもどういう感覚を使うがマチマチで、中には柵を聴覚的な情報として、音の跳ね返りからバ―コード的にとらえる感覚の話が出ていました。
 ワークショップの二つ目の映像は、ダイアログ・イン・ザ・ダークの話です。
「これを経験すると人間関係が変わる」「恐いからつ初対面の人にでもつかまる」「伝わるではなく、伝わっていく感覚。私にとって心地よい」
 ワークショップの三つ目は「視覚のない国があったら」というテーマでの意見の出し合いです。
「「見えない人」の世界では、「身の回りのもの」という感覚がない。共有物が増える」←柳家さんから「死角」とか「盲点」ということなどないという話も出ていました。・・・「障害者」の立場からのいろいろな可能性がとらえられます。
 この後半の話で、伊藤さんから、前半の落語の話の続きで、「新作は古典。古典も新作。」という話が出て、柳家さんから「なるほど、いい話が聞けました」と共鳴しているシーンがありました。

さて、個人的な感想のようなことも含めてもう少し書き置きます。
本での著者紹介で、美学者ということばがありました。美学ということがいまひとつ、わたしにはとらえられません。というのは、そもそもわたしはおよそ文化・芸術、自己表現的なことに疎いひとでした。音楽は音感がなく、スポーツはまるでだめ、絵も野外スケッチで絵を描いていると、そこに家があったのに、書いている間にうまく筆先か使えず塗りつぶしてしまうという有様です。演劇は「芝居」ということでの想像性が働かず、嘘くさい世界のようにとらえてしまいます。カメラとか映画ということが唯一の受け手的なところでの感性はわずかながらも、かろうじてあったのですが、わたしは運動人間で、そちらの方に走り、「文化を語れない朴念仁」を自称してきていました。だから、確かヘーゲルが「美学」という論攷を書いているのですが、そちらはそういう本があったというに留めている次第です。だから、およそ「吃音」つながりや「障害」問題のつながりがなければ、美学などという領域の本には出会えなかったのです。まさに一期一会なのです。
そもそも、運動の論理からその運動が自己表現活動的に歪められてくことを批判していたのです。それでも、乗りかかった船的に、美学ということにコメントしていくなら、これは美ということ、いわば知的探究心というようなところで追い求めていく、自己表現的活動のことではないかと思うのです。まさに、その世界に踏み入っていけば「面白い」こで、まさに伊藤さんのキーワードはこの「面白い」を楽しむことにあるのだと思います。誤解のないように書き置きますが、わたしはそもそも、みんなが自己表現的な世界を楽しめるようになることが、新しい社会像だと思っています。ですが、今、わたしにはそんな余裕も生き方もできようにありません。楽しめるひとは楽しめばいい、というより楽しんで欲しいのですが、少なくともわたしにはできないので、わたしの途を進むしかありません。かなり情緒的な意味不明の文を書いてしまいました。


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2020年04月17日

NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」

たわしの映像鑑賞メモ039
・NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」20.3.22
SNSで話題になっていた番組です。どうして検査態勢が進まないのか、進めようとしないのか、分からなかったのですが、この番組は国営放送NHKの特権と言えるようなことで対策本部を取材してできた番組で、やっと輪郭がつかめました。
この番組のキーパーソンは、専門家会議のメンバーでクラスター対策班で陣頭指揮をとっている東北大学大学院の押谷仁さん、WHOでサーズ対策に携わったひととのことです。そのひとがインタビューに答えていろいろ語っていました。
要するにクラスター対策を未だにやっているのです。そもそも、注目されたクルーズ船の入港から、水際作戦ということをやっていて、それがクラスター対策として引き継がれているのです。これはクルーズ船の乗員を感染症の対象者にしないで、乗客の世話をさせたとか、症状がでていないひとを別なところにとりあえず隔離するということをしないで、感染者を増やしてしまったという失敗がありました。その後アメリカは、これを教訓化して、クルーズ船を寄港させるときには下船させ隔離する対策をとりました。日本でも、帰国者のチャーター便の対策はうまく行ったようです。ですが、そもそも中国の武漢からの直行便も含めた観光客が日本に来ていて、すでに感染は広がっていたのです。さて、どういうわけか、日本では欧米のような爆発的重症者や死者の広がりがでていませんでした。なぜ、日本は死者数がそんなに少ないのか、握手とかキスとかハグとか濃厚接触の文化がないとか、マスク文化とか、BCG接種の効果とかいろいろ語られています。
イギリスなどの検査をきちんとしない国も、すぐに切り替え、世界のほとんどの国が検査をちゃんとする方向に方針を変えました。もし、日本で、このまま爆発的感染がおきなければ、それは幸いなことですが、そもそも押谷さん自身がギリギリのところだとか語っています。これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろうとかいうようなことを話しているのですが、世界は日本方式は崩壊するだろうとみています。これは一種のギャンブルのようなことです。政治的なところでギャンブルなんかされたらたまったものではありません。誰が責任をとるのでしょうか?
さて、クラスター対策をしても、検査は検査で別に進めればそれでいいのですが、なぜ、しないのかも分かりません。オリンピック中止(延期)をさけるとか経済的落ち込みをさけるために感染者数を増やさないということがあったのだと思いますが、どうも未だにそれは続いているようなのです。東京都の広報紙では記載が変わっているのですが、どうも未だに、保健所窓口ということが続いていて、「4日―2日」のしばりが亡霊のように生きているようなのです。
検査を増やさない論理として出ていること、ひとつ例を挙げます。
朝日新聞20.3.25「正しく知るPCR検査」で、聖路加国際病院QIセンター感染管理マネージャー・看護師坂本史衣さんがインタビューに答えた発言、「ただ、早く見つけても重症化を防げるわけではなく、早く病院へ行くメリットはないのです。」――意味不明で、まさに運命論者のような話なのですが、これは医療の論理ではありません。医療現場では、なんとか救う試みをしているはずです。重症化しないために、早期治療の必要性を訴えているはずなのです。検査を受けないまま亡くなっている現実をどうするのでしょうか?
どうしてこんなおかしな話になっているのかと考えると、わたしは医療の論理のなかに感染症対策の論理が組み込まれないで、「感染症対策」がひとり歩きしているのではないかと思えるのです。この「感染症対策」いかに感染者数と死亡者を抑えるのかという数の論理です。これには、感染研への現場の医療サイドから批判が起きています。医療の論理は、目の前にいる患者さんをどう救うのかという一分の一の論理です。もちろん、医療崩壊がおきると一分の一の死者も増えるから、それを防がなければなりません。しかし、死者の数をふやさないために、検査をしないで亡くなる数がある程度でるのは仕方がない、というのは医療の論理ではなくて、全体主義の発想なのです。そもそも出口をどうするのかというところで解決していくことだという話として現場の医療関係者から提起があり、現実にやっと動き始めています。どうみても、一ヶ月遅れなのだとしか思えません。感染研も、ちゃんと医療の論理のなかで感染症対策を立て直す必要があるのだと思います。
そもそも情報が錯綜しています。たとえば、「マスクが足りない」という話がでると、「マスクは予防効果はない」とかいう話が出たりします。多分に、政権擁護の専門家サイドの忖度のようなニュアンスさえ出ています。これは、「市販のマスクは移されるのを防ぐ効果ということでは万全ではないけれど、ある程度の効果はあるし、移すということを防ぐ効果はそれなりにある」と言い換えることです。「若年層は重症化しない」というような言い方が出ていました。これは日本でも北海道で20代のひとの重篤化の事例がでているのに、重症化しないという話は誤情報ではないかとわたしは思っていました。きちんと、「確率的には重症化することは少ないことはあるけれど、「若いひとが重症化しない」というのは誤りである」というメッセージに変えることです。また、3密のはなしも、3つの条件がそろわないと大丈夫というような話をするひとがいて、しかも、自粛解除のニュアンスの発言を首相がして、3月の三連休のときに、原宿・渋谷の繁華街が若者が繰り出しました。「3密は3つの条件がそったところが一番危ないということで、1つだけでもうつる可能性がないわけでない」というきちんとした発信に変えることです。とにかく情報の整理と、それからテレビに出て発言するひとはきちんとした発信をすることが必要ですし、誤ったことを言ってしまったときはすぐに訂正なり、翌日自分が出演しないでも、訂正のコメントを寄せることですし、あいまいな誤解される発言をしたときも同じだと思います。そもそも、安倍首相自身が「意味不明の決断」で、誤ったメッセージを出し続けているのですが、きちんとした情報の整理と発信が必要だと考えています。
さて話を番組に戻します。この番組のなかで感染のしくみのはなしがためになりました。飛沫感染、マイクロ飛沫感染(前にエアゾル感染と言っていたこと)、接触感染(飛沫のあとでのそれを接触することによる感染)というようなこと、何に気をつけどう予防していくのかに参考になる話でした。 
 もうひとつ有益な話は、台湾の取り組みの話です。
台湾では、中央感染症指揮センターの指揮官陳時中さんが、首相級の権限をもって陣頭指揮にあたり、毎日会見を開き、2時間くらい、質問には全部答えているとのこと。NHKのインタビューに応えて、情報公開と信頼関係が大切だという話になっていました。
学校は、一人出たら学級閉鎖、二人でたら学校休校という明確な方針を立てて、校門のところで非接触式の体温計で熱を測り、教室でもう一回測る、発熱していたら、別の教室に移し、親に電話して旅行の有無とかを尋ねている様子がながされていました。確かに今回のウィルスでは発症していなくても移す可能性はあるのですが、子どもたちから教育を奪うという弊害と感染のリスクのバランスをとっているようです。オンライン学習とかの試みもなされているようです。また、カードを使ってマスク管理をしていて、一週間に大人三枚子ども五枚配り、アプリなどを使ってコンビニでも受けとれるようにしているとかで、トイレットペーパーの買い占めの防止も、それでやっているようです。
世界はIT時代に入ってきているのだと実感させられました。アベノミクスとか大企業の内部留保を保障して、民衆の生活暮らしを大切にするという観点が欠落している間に、アナログ大国になってしまったようです。
さてカードを使って管理というと、日本でのマイナンバー制度を想起させられます。マイナンバー制度は日本では広がりません。なぜかというと、そもそも金持ち優遇で、タックスヘブンとかの抜け道を塞がないし、累進課税も少なくし法人税も減税し、金持ち大企業優遇を進めているから税に関する民衆の同意も得られないのです。そして、共謀罪とか特定秘密保護法とか国家主義的管理を進めているからです。最期のセフティネットさえ、アクセスを拒むことが続いています。その上に、政府に対して批判的なマスコミへの圧力も続けています。おまけに、コロナウィルスの問題がおきたときは、情報隠蔽・文書改ざん-破棄、歪曲の問題で追及の真っ最中でした。台湾の責任者の情報公開と信頼関係が大切だということの真逆のことを政権がやっていたのです。今、コロナウィルスの問題で大変だから、政府批判を控えようとかいうことを与党側のひとが言っていますが、簡単な解決策があります。「責任をとって首相も議員も辞める」と言っていたことを実行すればいいのです。危機管理は信頼関係がないとなりたちません。それとも、クーデター的に戒厳令でもひいて、戦車でも繰り出すのでしょうか? そういえば、昔、安倍首相は戦車帽をかぶって嬉しそうに写真をとらせていました。そんなことを想起してしまいました。
今の政権の後手後手の対応や、右往左往をみていると、不安感しか湧いてこないのです。
今、安倍首相ができる最大のことは、首相を辞めて、新しいもう少し信頼を得るひとに首相になってもらって、合意形成のできる、コロナウィルスのちゃんとした感染症対策を進めることだと思っています。
(追記)ここまではだいぶ前に書いた文、この文を編集しているときに、インターネットで、押谷さんをインタビューした映像が流れていました。どうも、「これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろう」という話は、失敗に終わったと当人も自覚しているようです。それを、まだ検査の不完全さの批判にすり替えていました。その話は、もう不完全でもそれを押さえてやっていくしかないということで、いろんなひとが語っていて、世界ではその方式で進んできているのです。きちんと反省して、方針転換していくことなのに、非を認めないで、まだ、クラスター対策を軸にするということから転換ができていないので、検査がなかなか進まないのです。何が肝要なのか押さええず、名誉心のようなことで動き、責任――反省という概念のなさがなにをもたらすかということを押さえようとしないことが、安倍政権に関わるひとの特徴になっているのでしょうか?

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2020年01月18日

BSTBS「報道1930」

たわしの映像鑑賞メモ038
・BSTBS「報道1930」12月26日19:30〜21:00
 いつものメンバー以外のコメンテーターとして、森永卓郎(獨協大学教授)、藻谷浩介(日本統合研究所主任研究員)、鎌田靖(ジャーナリスト)
い前回のメモ037につながることなのですが、地方での取り組み、「ダムをたんぼや森の復活へ」(森永)とかコンパクトシティ構想(鎌田)とか、いろんな可能性の話が出ていました。要するに、地方から変えていくというところでの取り組みで、たとえば、今地方では車がないと生活できないような公共交通機関の崩壊が進んできているのですが、地域内で幹線に交通機関を通しその近辺に移住を進めるとかの実践もでてきているようです。そのあたりは、もっと自動運転システムとか、ドローンとかいろいろ可能性はでてくるのだとも思いますが、それなりに合理性というようなこと、むしろ、わたしは、晴耕雨読のようなことで地産地消の農の取り組みが起きていることに留目していました。藻谷さんがこれからは農が成長産業だという話も出ていました(資本主義の枠内ではそんなことはないとわたしは思っていますが)。このあたりは、「社会変革への途」でも取り上げていこうと思っています。
 余談になるのですが、読書メモで取り上げている「反緊縮」のこと、「どんどんお金を刷ればいい」という話を最初にわたしが聞いたのは、ここで出てくる森永さんの話でした。今回の話のなかで、むしろ逆の経済危機の話をしていました。ちゃんと落ち着くところに落ち着いたのだととらえ返していました。

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2020年01月06日

NHKBS1「あなたの隣の奇跡」

たわしの映像鑑賞メモ037
・NHKBS1「あなたの隣の奇跡」2019.11.1 0:55〜2:34
最近テレビを付けっぱなしにして、パソコンを打ったりしていて、思わず面白い番組に出会うことがあります。これもそのひとつ。
今、地方で「限界集落」とか過疎化の話があるのですが、部分的に逆にひとが集まってきているところがあるという話です。IターンやUターンの話も出ています。ひとつは、政府がTPPとかに見られるように、ひとが生きるためのもっとも必要な農業の切り捨て的な政策を取っています。そういう中でも、地方創生とかベンチャー的な農業とかの推奨をしていることがあります。この番組の中でも一個数万円のいちごとか、4合で60万の値が付くお酒とか、お金持ちのための高級嗜好品の農業ということがひとつあるのです。こういうことは、確かに、技術としては面白くて、みんながそのようなところを楽しめるような社会になればいいのですが、実際は、むしろ食料の自給率をさげ、格差の広がりを生み、サブシステンス的なことと逆な動きになるので、わたしとしては余り共感できませんでした。
それでも、活かせる話は、タブレットを使った、仲介資本を介さないで、産地直送の販売とか、町長が100人委員会とか名目で、町民のアイデアを募り、それを事業化していくこととか、自然に親しむ、民泊して農業体験をして、そこで過ごしたひとが、家族ごと引っ越ししてくる、夫婦で引っ越ししてきて子どもを作り、そんな感じで、地域の子どもの七割がIターンの家族の子どもというような地域も出てきているという話です。外国からの観光客が民泊して観光し、そば作りとか楽しみ、リピーターとなって友人とまた来る、そんな地域の活性化のようなことも起きているようです。
自然を楽しみながら子育てする、また、もっと農業に注目しながら、地域から日本を再生していく力のようなことが生まれてくるかのかもしれません。そんなことを考えていました。


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NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」

映像鑑賞メモ 
たわしの映像鑑賞メモ036
・NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」2019.10.16 21:00〜22:30
今、iPS細胞で脚光を浴びている山中伸弥さんへのインタビュー番組です。iPS細胞の話を知った最初のときから危うさを感じていました。山中さんの話では、彼もその危うさを感じていたとのこと、しかも、優生思想とつながっていることも理解していて、ゲノム編集の危うさと並行して自分の研究の危うさを理解しているのです。皮膚から、精子、卵子を作れる技術なのですが、そこから受精卵にして、ひとが作れるということなのです。「ヒトを作る」ということに踏み込むという技術を手に入れたという話なのです。ひとの概念自体を危うくさせる技術です。
わたしが以前フェミニズム関係の本を読んでいた時、S.ファイアストーンの『性の弁証法』評論社1972という本がありました。その中で、女性が差別されるのは子どもを産む性ということにあるのだから、女性が解放されるには試験管ベービーの技術が開発されることが必要、というようなことを書いていました。まさに「社会的関係を自然的な関係と取り違える錯認(マルクスのいう物象化そのもの)」なのです。当時、そのような話はSF小説の社会の話でした。SFといえば、昔観た映画で、ある建物の中に入っていくと、「人工子宮」の容器の中で、ヒトの「胎児」が栄養補給を受け育っている場面がありました。どこまで映画で観たのか、わたしがその後夢を見たのかもうはっきりしなくなっているのですが、ぞっとした思いがあります。
何でも晩生のわたしがパソコンを始めたのは2000年頃、そのころは本の中に書き込みをするだけで、読書メモも取っていませんでした。ちょうど、そのころ遺伝子操作関係の第一次まとめ読みをしていたので、どこにその記述があったのか探し出せないのですが、「遺伝子操作は原子炉溶融より恐ろしい」という記述がありました。遺伝子操作関係の本の中にメイワン・ホー/小沢 元彦訳『遺伝子を操作する―ばら色の約束が悪夢に変わるとき』三交社 2000という本もあります。
最初に日本でノーベル賞を受けた湯川秀樹さんは、自分の研究が原子爆弾製造に使われたということで、晩年平和運動に尽力しました。原子核―原子力研究をしていて、その恐ろしさを自覚した高木仁三郎さんや元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは反原発運動に転じました。その実験所、「熊取六人衆」と言われる反原発の研究者を生み出しています。山中さんは、自分の研究室と並行する倫理委員会を作ったようです。どうも自分が中心になってその倫理研究をやるのではなく、別のひとがそれを担当するようです。どうも分業になっているようなのです。
ですが、自分の責任を他者に委任するようなこと、そんな分業はありえるのでしょうか? 
山中さんは優生学の歴史とかも押さえ、そして政治が自国ファーストになっている(自分ファースト)になっている現状をも押さえています。山中さんは臨床医として病気を治すというところの自分のビジョンをもっていました。けれど、この研究にはいってくるひとは必ずしも、そうでないひともいます。論文を書く、研究費を得るというところで成果を求めるひとがいることをも押さえています。そして、自ら分水嶺に立っていると、危機感ももっているのです。
山中さんは、iPSの技術を確立したときに、文科省に行って倫理委員会をつくって欲しいと要望したそうです。
[わたしの感想]
人類の歴史で、原子核の研究から原爆の開発に進み、そこから核の平和利用ということが現在どうなっているのか、核保有国が広がり、核禁止条約さえ締結しないような国に政治に任せることなどできはしません。原発は大きな事故が三度も起き、その被害の悲惨さも認識しているのに、フクシマ後、他の国で原発からの離脱を決める国も出てきたのに、事故を起こした当の国が再稼働を進め、原発の安全神話から、放射線の安全神話に切り替え、首相自ら原発の輸出をすすめようという「死の商人」の国になって行ったのです。「我が亡き後に洪水は来たれ」という誰も責任をとらない技術を使い続けようとしています。そんな倫理亡き国に、倫理など問題にできるのでしょうか?
そもそも原子力船「むつ」も高速増殖炉「もんじゅ」も破綻しました。原子力技術は、それを封印する技術としてしか未来はないと思っています。
ES細胞から続く、iPS細胞技術、山中さんは、マラソンで例えると中間点、登山では五合目と話していました。当然、後になるほど、上にいくほどリタイヤの可能性が強くなるとも言っています。そして、科学者には謙虚さが必要なのだとも言っています。ひとが知り得ることは、一割か二割にも満たないであろうという話も出ていました。高木仁三郎さんは、ひとは「自然に適う」生き方しかできないのだと書いています。そして、山中さんは、この技術の延長で人類滅亡につながるかもしれないとも自覚しているのです。
そもそも最初から議論のし直しをすることではないかと思っています。
科学の進歩は止められないとか言っていますが、それならば人類が滅びることを止められないとするのでしょうか? 科学者自身も声をあげることです。

 さて、このNHKの番組だいたい反響が大きい番組は再放送されるのですが、今度は録画しようと気にかけていたのですが、まだ再放送されていないようです。いろいろ議論すべき大切な内容です。それで、オンデマンドで購入して視聴しながらメモをとりました。再視聴できる期間が短かったので、再度見れませんでした。かなり長い番組で、わたしの関心領域に限ってのメモとりで、校正もしないままです。とりあえずのメモにすぎません。
[視聴メモ]
きき手 出山知樹
2012年 ノーベル医学・生理学賞
 Vision and Work hard
叡智として、ひとは本当に賢くなっているのか
今、分水嶺に立っている
京都大学iPS細胞研究所
登山で五合目 マラソンで中間点・・・今動物実験から、臨床実験の入り口 これまで12年で今後20年30年  これからが大変、マラソンでも登山でも 終わり頃リタイヤが多い 失敗するリスクが大きくなる
父が輸血で肝炎 ウィルス 医者になって一年でなくなる 両親は町工場の技術者
神戸大学医学部整形で臨床医 →大阪市立大学医学部大学院で基礎研究に入る
アメリカでトレーニング 動物実験で予想できない事態で関心を抱く・・血圧上げる薬で逆に下がる
グラッドストーン研究所三年半
いろんなボス 基礎研究
長期目標 考え方
ロバート・マーレー所長(今は名誉所長)の「君のビジョンは」VWhard(Vision and Work hard)というといかけに・・・「今は治せない病気を治したい」と答えた 
  研究者には研究費をとるとか論文を書くとかいう答えが多い
 日本人にはビジョンがないWhardだけ
奈良先端科学技術研究所 三人の部下をもって始める 皮膚から万能細胞
六年で6つの遺伝子特定
毎年 サンフランシスコに通って生命科学基礎研究
京大iPS細胞研究所 臨床医としての治したいとのビジョン
研究者が転職10〜20年でなんとか臨床に結びつけたい
アメリカでは「ハート・ワーク」という形で寄付が集まる
未来ビジョン 50年〜100年後
キャス9タンパクで酵素をきる ゲノム編集
  スタンフォード大学中内啓光 マウスからラットへ膵臓移植
パーキンソン 認知症 心臓病 糖尿 ガン
100年後にはiPSは過去の技術になっているかも その方がうれしい
科学には完成形はない→もっといい方法がでてくるのではないか 自分の身体の中で 進化してなくなった自然治癒力で、自然の再生能力を使う技術
外科やiPS は外から  薬で再生力とか病気にならない予防とかの
「さみしくないか」という問いに、「次の、次の次の世代の踏み台」
科学は連続 病気を治す 患者の負担のないように
100年後臓器が作れるかも
今は、動物の体内で臓器を作る段階・・どこまで生命倫理的に許される臓器移植か
待っている人がいいというのか 動物でいいのか
動物で感染症の問題 動物の中のウィルスがヒトに移る
人類をおびやかす 想定外のこと
実用面・倫理面慎重に一歩一歩
どこまで模倣していいのか 
倫理的・宗教的面いろんな議論を
科学者は進めたい(中には慎重なひともいる)
集約するのはむずかしい、一緒に考えていく、正解がない
人類と地球をよくする可能性を追い求める 逆に不幸にする 最悪滅亡
最悪例 原子力 武器 平和利用としても何万にも及ぶ被害・影響を及ぼす 逆効果
真摯な思い、慎重な態度
科学の進歩は止められない・・・?
人間がどう使うかが問題
100年前遺伝子 進化ということが受け入れられた その50年前ダーウィン メンデル
遺伝 進化ということで優生学が興った 自然に起こっている
すぐれた遺伝子残そう 比較的最近まで優生思想の法律があった
そのときも 自国ファースト ポピュリズムが起きている
科学においても倫理が心配
100年後の今も 自国ファースト ポピュリズム
100年前と違って 今は一日でゲノム解読ができ、ゲノム編集で書き直すことができる
ゲノム編集で書き換えれば
背の高さ・・・才能の遺伝子を書き換えられる 100年前の優生学のときと同じ議論が起きている
科学は進んでいるが、叡智としては進んでいるのか心配
全生物を滅ぼすことが一週間で書きかえができる
恐いと感じる
わたしたちが10年後20年後どうなるか、
政治が進み方を決める岐路に立たされている・・・政治に放り投げている
中国の研究者のゲノム編集の問題
iPS細胞研究所内に生命倫理を研究する部門を作った 藤田みさお教授
次世代まで影響が及ぶ、人類が進んでいると信じたい
政治を見ると不安 科学者を見ると不安・・100年前の優生学
透明性 自由に発言できる
最初はながれ弱い   流れ出したら止められなくなるかも
上流で研究を検証  大きな流れになったら止められない

マウス皮膚から精子・卵子も作れる
不妊症の原因を解明研究にも使える・・新しい治療の方法
その技術 新しい生命を作るにも使える 技術的に可能→むずかしい議論 100年前の優生思想  更に遺伝子操作も
知性的に冷静に考える 100年前間違えていた 同じ議論が
iPS細胞どう使うか 人間の欲望がからむ 線引きがむずかしい 
健康になりたい→より健康になりたい、より美しくなりたい
医学はどこまで医学 どこまで使っていいのか?
どこまで病気なのか?
病気というより個性というとらえ方もある
ある人は病気といい、無理矢理治そうとする
かつて子どもを作ってはならないとした
いろんな技術がある
ひきょうかも知れないが自分で決められない
病気―難病は許されると思う 人類にプラスになることは
踏み込んだ技術はどうなのか 自分で自問自答している
ES細胞は倫理的に問題があった、iPS細胞を作ったときこれで倫理的問題は解決できたと思った、次の瞬間 精子卵子を作れる、新しい生命を作れる。もっと大きな生命倫理的課題を作ってしまった
その時に国の文科省にいって倫理上の問題があるから、議論を進めてくださいと言った
そのとき10年20年かかると思ったけど、科学の進み方早くなっている。一刻も早い議論が必要
初期化ということで、高齢者も若返りも可能になる ひとの寿命が延びる 究極手塚治虫の「火の鳥」の様な話になる 永遠の生命というような話まででてくる 人間はそれでいいのか?
健康寿命−寿命の間を縮めるということでの医学と寿命自体を延ばすというのは違う
今はせいぜい120歳まで 150-200歳まで生きて、個人、人類、地球の平和につながるのか、幸せなのか
このことを含めて岐路にたっている
幸福とは何か 謙虚になるということ
人類史上最高の技術、過去と同じ過ちを繰り返さない、歴史から過去から学ぶ謙虚さが必要
科学者には謙虚さが必要、人間・医者は一割二割知っているだけ、その謙虚さが必要、それは医者だけでなく、一般のひとにも
倫理哲学面では変わっていない 技術を乱用しない
わたしたちの家を守れるだけで、人だけを考えて地球を壊そうとしているのかも
明日、一年後、100年後に幸せになるように

100年後のひとたちに
自分たちのやっていることが正しいのか 100年後のみなさんが幸せであることを心から願っています。


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2019年11月16日

若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」

たわしの映像鑑賞メモ025
・若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」2008
この映画は、ビデオ・オンデマンドで観ました。
連合赤軍の同志殺しは、当時社会変革運動を担っていたひとたちに大きなショックを与えました。この映画は67年10.8から、当時の新左翼運動のうごきを押さえ、内部粛清−同志殺しを、資料をもとに精細に描いています。
ブント(共産主義者同盟)内の党内闘争、党派闘争の発端とも言える、関西派のさらぎ議長へのテロと、その逆の関西派の塩見議長らの監禁事件をも押さえています。
そもそもは赤軍派の前段階武装論を出した情況認識の間違いがあり、中国派の京浜安保共闘との武力闘争という一点での「連合」というところでの、組織内の元の二つの組織間の勢力争い−対立のようなことも含み、起きています。先に同士殺しをしたのは京浜安保共闘の離脱者の殺人です。これは後に書く、スターリン主義の総括の問題ともからんでいます。
問題は二つ、ひとつは、党内闘争、党派闘争で暴力の行使など許されないという作風をつくるところ、なぜ議論すべきところで暴力が振るわれたのかということ、もうひとつは、組織の物神化というところで、組織を守るということが革命を守る―遂行するとイコールにされ、さらに、それが指導部の自己保身として機能したことです。
そもそも、その粛正を主導した2人の、日和見主義を自己保身的に覆い隠すための、他者攻撃、自己批判の要求としての粛正だったのです。赤軍の森恒男さんは、大衆的武闘闘争からの逃亡。京浜安保の永田洋子さんは自らが受けたレイプを告発できなかったという日和見主義です。
そもそも、大量内部粛清が行われたのは、ロシアにおいてです。ロシア革命の後に、反革命的干渉戦争が起き、それの防衛から、さらにスターリンが一国社会主義建設は可能だとする一国社会主義革命論を出します(このあたりはレーニンまでさかのぼれるというひとがいるのですが、レーニンはあくまで、世界革命の展望を模索していたようです)。そして、新経済政策(これはレーニンも容認して責任があります)という資本主義経済の論理を導入します。そこで、唯物史観からすると経済の土台は資本主義、思想は「共産主義」という矛盾を来たし、イデオロギー的統制が必要になるのです。で、一党独裁をなし、言論の自由の封殺をすることになります。
そもそも、なぜこのような粛清が起きたのかは、革命闘争−組織を守るという名目においてです。共産主義はつねに改革を進めていく思想で、守るものではありません。それを一国社会主義の防衛という国家主義に陥ったところで、「国家」の防衛というところに陥るのです。その「防衛」が何をもたらすのかということを押さえねばなりません。それがスターリン主義の総括の核心なことです。
その総括が、コミンテルンで一緒に動いて、指示さえ受けていた団体にも必要だったのですが、ひとり、スターリンの性格のようなことでことを片付けて、多くのマルクス・レーニン主義を名乗る、なかでも、スターリン主義もとなえていた政党・党派がその総括をなしえていません。だから、一国主義的なところでの対応や、国家主義へのからめとられが起きるのです。過去の歴史の総括を怠り、清算しているのです。
スターリン主義思想をひきずっている党の末端のひとは、未だに新左翼(もう「新」ではありませんが)排除で、新左翼諸党派のひとたちを一括してトロと呼びます。トロの反対語、対語は何でしょうか、スタです。未だにスターリン主義を総括していないのです。
ウーマン・リブの田中美津さんは、連合赤軍が出てきたとき、「わたしは永田洋子だ」と発しました。これは、別に田中さんが、粛正とか暴力をふるったという意味ではないと思います。自らの自己防衛的他者攻撃とか、その発想とかに、永田洋子と通じることを、自己批判的にとらえ返した言葉です。民衆の運動の方が、きちんととらえ返しているのです。このことは、そもそも現実の政治には直接的なところではほとんど関わりのないとされるところでの、ひととひとの関係にも及ぶことです。いじめの問題で、いじめがどのようにして起こるのかというところにもつながっているようなこと、そしてプライドということが、ひととひととの関係をいかにゆがめていくのかの問題もあります。
で、前衛を名乗る党が、むしろ、そのようなきちんとしたとらえ返しもできないままに、自分たちには関係ないところで起きたことだとして、「過激派を泳がせている」と政府に取り締まりを要請していたことは、今日、その趣旨に沿った「共謀罪」が作られて、どのような思いでいるのでしょうか?
また、「尖閣は日本の領土だということは証明できる」と言い、「政府もちゃんとやるべきだ」と、政府の反中国というところで危機を煽るアベ政治と共鳴しています。これこそが、まさに一国主義的なスターリン主義総括の核心で、「共産主義には国境は無い」というマルクスの共産主義の思想に真っ向から反対する主張です。もっとも、「ソ連や中国が、共産党の名でやったことは迷惑で、わたしたちは違う」のだと世界的なレベルでのマルクスの流れの運動の総括をネグレクトしているのです。
 この映画は、粛正のときのそのひとの心理を資料を踏まえて、実に丁寧に描こうとしています。それを、見る人がどこまできちんと観れるのか、この映画を観て、むしろ反共的なことが広がっていくかとの、一抹の不安があるのですが、とにかく今のこの悲惨な政治情況を変えて行くには、過去の総括をきちんとやりきらねばなりません。
兎に角、これまでの運動の総括のための貴重な資料になっています。ひとつだけ疑問が出されたことがあります。あさま山荘で銃撃戦をやっている中で、兄殺しに加担させられた少年が「なぜこんなことをやったのだ」と告発するシーンが出てきます。それを、銃撃戦をやっている最中にそんな発言がでるわけがない、というコメントがインターネット上で出ていました。この映画のテロップの中で、これは資料に基づくドキュメントですが、一部フィクションがあります。と書いています。実は、他の資料を見ると、この発言は兄が死んだ直後に山岳キャンプで発せられた言葉のようです。
この作品は、若松さんが、私財を投じて作った渾身の作品だと言い得るでしょう。




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2019年10月17日

日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」

たわしの映像鑑賞メモ035
・日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」2019.9.30 1:05〜1:35
今、進学校はまさに競争原理にとらわれ、ひとをいかに蹴落とすのかという論理の中にあるのでしょうが、不登校生はまさにそこからこぼれ落ちたひとたち、むしろその中にこそ人間性があるのだと思います。福岡の私立学校での密着取材、いろんな子どもがいて、LGBTの子ども、親から虐待を受けた子ども、競争的なところではドロップアウト的になっているのだけれど、その生徒を集めて、「君は君のままでいい」ということを掲げた学校、むしろそこにこそひとの生があり、ひとひととの関係をどう作って行くのかの展望があるのだと思います。
「君は君のままでいい」というのは「障害者」のスローガンでもあり、それこそ、いろんな問題を抱えさせられたこどもたちの可能性があるのだと思います。それが、いろんな問題を抱えさせられた世界を救うのだと思います。現実には、そこに落差があるのですが、そこにこそ、いろんな可能性があるのだと思います。


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日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」

たわしの映像鑑賞メモ034
・日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」2019.9.23 1:05〜1:35
2011年の福島原発事故で強制避難になった指定区域以外にも福島県内から避難したひとたちがいました。自主避難者と言われています。で、借り上げ住宅や他県も含めて公営住宅に無償で入れていたのですが、2017年3月で打ち切りになりました。で、そこを追い出されるか、住み続けるのなら新しい契約を結んで家賃を払えということになりました。で、そんな理不尽な話はありません。で、家賃を払うのを拒否していたら、裁判に訴えられたという話です。そもそも契約したのは福島県で、訴えたのが住宅の持ち主、そのことからおかしいとの主張もしたのですが、負けました。その記者会見で、被告の避難者が「ありをゾウが踏み潰すような行為だ」と話していたのです。その話をしたひとは、自宅に一時敵に帰ったときの映像があるのですが、除染した土をいれた土嚢がまだ庭につんであるのです。
このドキュメントでは、三人の子どもを連れて母子自主避難した家族も出てきます。生活が大変で、子どものためにと思って避難したところで、子どももストレスがたまり、結局父親が居る福島に戻ります。福島では、放射線被害の話ができない、福島に住む限りその話をすると生きていけない、という情況の中で、息苦しい様子が伝わってきます。外での遊びもセーブしていたのに、子どもがサッカーしたいと言いだし、水道水とか避難先でも注意していたのに、結局、公園での水道水も「飲んでもいい」とそれも押し流されていきます。その挫折感の中で生きていく様子が伝わってきます。
さて、福島で生活しているひとに、冒頭の裁判の結果についてインタビューしているのですが、その中で、赤ん坊を抱いた母親が「こういうことばあてはまるかどうかわからないですけど、自己責任だと思います」とかいう発言(正確ではなくてそういう趣旨)が出ていました。一方で子どもが放射線にもっとも敏感だとして避難したのに、子どもを抱えた母親が避難した母親を非難する、その構図はとてもつらいものがあります。
そもそも「自己責任」ということばが、つねに政権サイドから出てきます。これはこの社会を成り立たせている論理で、そこから批判していく必要があるのですが、ここでは、この問題に限ってこの「自己責任」という問題を考えてみます。
そもそも事故を起こしたのは東電です。そして原発の設置を国策として進めてきた国の責任なのです。避難者は被害者で「自己責任」などないのです。
もっとも、これに対してさえ、意味不明の発言をするひとがいました。差別の問題に関して数々の問題発言をしてわたしがまさに差別主義者として押さえている曾野綾子さんという作家が、「福島は原発の誘致をしたのだから自己責任だ」と言っていたのです。そもそも、電力会社も国も安全神話ということを作りだし、ごまかしてきました。また、過疎化の中で生きられないということの中で、雇用を生み出すというところで原発誘致させようとしてきたのです。それでも、反対運動をやって原発誘致を阻止してきた地域もあったのですが、敗北したところで原発が作られてきました。そもそも敗北した責任はあるにせよ、そんなことは過疎地域に原発を押しつけ、その電力を使ってきた首都圏の人間が、責任をいうことではないのです。責任は、ぬくぬくとその電力を使ってきた首都圏の人間にあるはずです。
原発の事故が起きたときに、自らが原子力に関する研究を始めつつ、やがてそれはとても危ない事業だとして反対の立場に転じ、反原発の活動をしてきた研究者の小出さんが、止め得なかった自分の責任ということで涙を流して反省をしていました。なのに、安全神話を作り出していた学者そして、マスコミに顔を出していたコメンテーター、そしてCMで桁違いのギャラを得ていたひとたち、だれひとり自分の責任を口にしません。それどころか、事故が起きた直後も、「放射線はからだにいい」とかテレビで発言していたのです。「からだにいい」と発言したひとは、放射線浴のために、福島の原発事故の処理に健康のためにでかければいいのです。これらのひとに、自己責任などという考えは毛頭ありません。
9月19日福島原発事故刑事責任で幹部三人が強制起訴されていた裁判での判決で無罪判決が出ました。原発震災関連死が二千人を越えているのに、津波の危険性が東電内部で出てきていたのに、それを経営の論理で握りつぶした会社の責任が問われなかったのです。二千人も殺して、誰も責任を問われないということがありえるのでしょうか?
甲状腺ガンの患者が二百人を越えています。それを、検査をしたから発見されたのだという本末転倒な論理を持ち出します。そんな話なら、そもそも甲状腺ガンはほっておいても大丈夫だと言う論理になるのでしょうか?
放射線被害には個人差があります。また因果論的科学の世界では、因果関係は認められないとなるのです。そもそも新しい世界観――科学、函数的確率論では、責任は明らかになります。未だ古い科学観で、因果関係が認められないとして、更に、そこに放射線安全神話による誘導が出てくるのです。原発の安全神話が放射線安全神話にすり替えられたのです(これは前述の小出さんの指摘です)。そもそも、原発の「誘致」なるものも、「仕事がなくて生活できないよりも、危険性はないとは言えないけど、死ぬ危険があるとしても、はっきり死ぬとは分からないから、座して死ぬよりも、仕事をしてみよう」というところで、仕事をしていくようになっていくのです。そういう、ひとの心の動きが浮かびあがって来るのです。先ほどのインタビューで「自己責任」ということばをあげた子どもを抱えた母親、そして避難したひと、そして一時敵避難を解消したひとたちに、それぞれの事情があり、避難したくても避難できないことを、自己合理化していく中で、避難したひとたちに「ねたみ」的なことも含めた批判的心理が働くのではないかと推測できるのです。
 今、ヨーロッパでは子どもたちが、自分たちの生きる環境を大人たちが奪っているという告発のデモが起きています。先日、国連でスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさん(16)が告発の怒りの演説をしました。わたしたち大人は、それを見守るとか支援するというのではなく、まさに「座して死ぬよりも闘って死のう」という決意をもって、まずはそういう情況を作り出した自己責任において、その総括をきちんとすることから、そして具体的な行動に少しでも踏み込んでいくことだと思うのです。


posted by たわし at 04:36| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBS1「ありのままの最期」

たわしの映像鑑賞メモ033
・NHKBS1「ありのままの最期」(再)2019.9.16 2:15-3:05
僧侶で医者の夫妻がホスピスを運営していて、患者さんたちがいかに心おだやかに死を迎えるのかを実践していて、夫ががんになるのです。それで、テレビクルーを入れて、自分の死に逝くさまをあるがままに撮影して欲しいとして、撮影が始まるのです。
実際にホスピスの様子は、患者会なども開き、まさに心穏やかに死を迎えるホスピスなのです。
最初は、医者の仕事もしながら闘病しているところで、まさにホスピスの医者だったのですが、途中から譫妄は始まるし、何を言っているのか分からないような情況もあり、そして、それまで妻の手も握ったことがなかったひとが、妻に抱きつき泣いたりするのです。そして、抱きついたまま歩行誘導しながら、ワルツを踊ったりしているのです。妻は笑いながら、「こんな患者今までいなかった」という情況。で、撮影クルーが、このまま撮影してもいいのか迷ったりもするのですが、それが当人の意志だったからとそのまま撮影が続きます。そして、医者として患者としての自分への医学的処置の指示を出していたのですが、最期の最期に鎮痛剤を投入してそのまま逝かせるということで、鎮痛剤の投与が始まるのですが、僧侶であり医者でもある妻が、「何もまだちゃんと話していない、このまま死なせられない」と、鎮痛剤の投与を途中で止めるのです。そして、亡くなります。死のときにはカメラは入っていなかったのですが、白い布を撮って死に顔を見て、撮影ディレクターが、「ほんとにありがとうございました」と声をかけます。おだやかなホスピスの医者や患者のような死に顔でした。妻の医者が「心臓の処に跡があるでしょう、注射してしまつた、指示をやぶったと怒られるわね」と、話していました。
そして、住職を継ぐために妻はバリカンで髪を落とします。生前に頼んでおいた友人の僧侶たちによる葬儀が始まって、焼き場に車が出るときに、妻の僧侶でもある医者は「わたしは焼き場に行けない」と泣き叫んでいました。撮影クルーは最期まで撮るということで、焼いた後に出てきた骨の映像までとっていました。
当人は悟りを開いた僧侶の死に方を見せようと、撮影を頼んだのかもしれません。でも、錯乱的になりました。それでもいい、いやむしろそれが良かったのだと、わたしは思ってしまいます。夫婦の間で心が通った最期のとき、妻は今後どう生きていくのか、わかりませんが、心通わせた最期のとき、それがひとの生と死なのだと思うのです。ひとは簡単に死んではいけないのです。


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2019年08月18日

NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」

たわしの映像鑑賞メモ032
・NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」2019.8.6 1:35-2:24
マンザナーとは第二次世界大戦中に米・日系人の強制収容所があったところです。今、アメリカはトランプ政権下で移民排斥、人種差別を煽る発言を繰り返しています。そういう中で、それに合わせたような銃乱射殺人事件が起きています。アメリカはレーガン政権下、1988年に強制収容に対する謝罪と補償をしました。それなのに、またトランプ政権はという批判の意味をこめた番組です。
謝罪を生み出すために動いた日系人のジョージ・タケイさんの存在を紹介しながら、収容所生活の過酷さの話、忠誠再登録という国家主義的抑圧とかの批判を織り込んでいます。「マンザナー」を語り継ぐ活動をしている日系三世の紹介もしています。「日本人」という範疇でいくと被害の問題なのですが、戦争と差別の悲劇を語る中から、日本もあらためて、加害の問題としてきちんと謝罪と反省を継続していく、語りついでいく必要があるのだと改めて思いました。


posted by たわし at 02:27| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」

たわしの映像鑑賞メモ031
・NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」2019.8.6 0:45-1:35
 ユージン・スミスは「水俣」で有名になったひとですが、若き日に第二次世界大戦の太平洋戦争に戦場カメラマンとして活躍し、戦場の悲惨さを訴えた写真を撮っていたのです。最初は、死んでいった兵士や民間人の犠牲者の写真を撮っていたのですが、米軍の検閲で写真がとりあげられないこともあって、戦争下の捕虜になった民間人の写真をとっていたのですが、米軍の検閲で、過酷な情況の写真が没になっていく、軍の検閲の批判のようなこともこのドキュメンタリーで取り上げています。で、沖縄であるひとりの兵士をクローズアップした同行写真を撮っている中で負傷し、本国に送還されます。
これは実は、再放送だと思います。SNSで沖縄の反基地の映像を撮り続けている三上智恵監督がこの映画の中でインタビュアーとして声だけ出演していることで、この映像の紹介をしていたので、以前観ていたのです。戦争の悲惨さや検閲の問題などの批判とともに、映像作家の人生がどのように変遷していくのか、というところでも興味深いドキュメンタリーです。

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藤井道人監督「新聞記者」

たわしの映像鑑賞メモ030
・藤井道人監督「新聞記者」2019
 これは現実に進んでいる情報隠蔽・操作をテーマにして、新聞記者が闇を暴く作業をしていく内に知り合った官僚とりわけ内閣調査室の職員とのやりとりのフィクションです。フィクションなのですが、現実にあったレイプ事件を官邸サイドに近いところからの圧力でもみ消した事件とかも映像の中にとりこんでいますし、ふたりの主人公のひとりの新聞記者がスクープしようとする内容が、首相のお友達の大学の優先認可事件とか、それを巡る官僚の自死とかの重なりを想起させる事が多々。そして、対談シーンとしてバックグランド式に流されているのが、菅官房長官に記者会見でくいさがる質問を続けて有名になっている東京新聞記者の望月さんと元文部科学省事務次官で官邸の意向に従わず辞めさせられた前川喜平さん他の対談も出ています。で、アベ政治の「もり・かけ」とか、現実とリンクしていきます。しかし、どこまで事実関係にリンクしているのか分かりません。特に闇中の闇の内調に関することは。しかし、確実に今の官僚の官邸に忖度していく情況・構造とリンクした映画になっています。
 さて、この国の闇としてどのようなことが進んでいるのかと言うことで、忖度や情報隠蔽・歪曲、文書改ざんがなぜなされていくのか、この映画の中で、主人公のひとりである外務省から出向している内調の官僚が先輩に「昔、わたしたちは国民に奉仕するものだと教わった」と話しているのに、その先輩が自嘲的に、返答をさけて、その後その先輩が自死するということがあります。また、その内調の職員が、上司から「民主主義はかたちだけでいいんだ」と言われるシーンもあります。
 これは、SNSのFBで「良かった」いう感想が載っていたので、観に行ったのですが、一定のスクープはなされたけれど、むしろ闇に押しつぶされていくようなところで、内部告発する、しようとする官僚が権力からいかにおさえこまれていくのか、ということで終わっています。スクープで内閣が倒れたというところにはいかないのです。むしろ、そのあたりで終わったからこそ、現実味のある映画になっただろうし、社会運動をしているひとたちには活動していくエネルギーを得るのでしょう。たぶん、そういうストーリーにしないと、権力側から圧力がかかったかもしれません。

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2019年06月18日

NHKスペシャル「彼女は安楽死した…日本女性が海外で死を選ぶまでの1ヶ月密着・迷い決断・家族の葛藤」

たわしの映像鑑賞メモ028
・NHKスペシャル「彼女は安楽死した…日本女性が海外で死を選ぶまでの1ヶ月密着・迷い決断・家族の葛藤」2019.6.2 21:00〜21:50
 フェイスブックとメーリングリストで情報が流れてきて録画してみました。
最近「延命処置をしない」という消極的安楽死が広がってきているのですが、このドキュメンタリは、難病になった女性が、日本では認められていない、医療の薬物による積極的安楽死制度があるスイスまで、実姉ふたりと行って、安楽死をしたというドキュメンタリです。巻頭言に書いている集会で、なぜ欧米で安楽死が行われているのかという質問が会場からでたという話を紹介しましたが、まさに、それを映像にした番組で、しかもこれまでそういうことをとりあげた番組は何回か見たのですが、こんなにリアルに死にゆく場面まで収めた番組は初めて見ました。
なぜ、安楽死を選択していくのかという道行きがはっきり見えるのです。欧米で安楽死が法制度として作られていくというのは、ひとつには近代的個我の論理で自己決定権の尊重ということがあり、さらにパーソン論という差別的な障害観へのとらわれがあるからです。「ひとは意思表明できて初めてひとである」という「知的障害者」や「遷延性意識障害者」に対する差別意識があるのです。そもそもコミュニケーションはことばだけでとるものではありません。手を握り肌の暖かさを感じるその中にもコミュニケーションはあります。死の寸前の人はことばを発しなくても声が聞こえるとかいうはなしもあります。そんなことがとらえられないところで、安楽死など出てくるのです。
今回の映像を見ていてはっきりと分かったのは、その当事者がバリバリに仕事ができるひとだったことで、当人が差別的な障害観や人間観をもっていたところで、そこから転換していく可能性もある前に死を選択したということです。自己決定ということでいえば、この映像の中でも出ていた、子どもも連れ合いもいない中で、姉妹に迷惑をかけたくないというところで、死を選択するということです。「姉妹に迷惑をかける」という発想になる医療や介護の制度の問題がそこにはっきりあります。「自己決定というのはごまかしである」という指摘がいろんなひとから語られてきました。「迷惑」ということに、周りのひとが、どう「そうではない」というメッセージを出せるのか、わたし自身母の介護をしていて、まだ結構元気なうちに、障害差別的なことや「ぱっくり死にたい」と言うので、「そんな考えおかしいし、そんなこと言っていたら、動けなくなったときに自分が苦しくなるよ」とけんかしていました。そんな世界観のようなことを言っていないで、「わたしがちゃんと最後まで世話するから、そんな話止めて」ということをいえば良かったのですが、本格的介護に入る前にはちゃんとやれるという自信もなかったので、特に最初は衝突してばかりでした。そんな母との関係を振り返りながら、ちゃんと「生きようよ」と言うメッセージが出せる関係性、制度を作って行くことだと思っていました。


posted by たわし at 23:41| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする