2019年09月18日

トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』

たわしの読書メモ・・ブログ508
・トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』岩波書店(岩波文庫) 2000 2001
この本は、トロツキー関係学習の6冊目です(分冊されているのを1冊として)。で、トロツキー学習だけでも、一生をかけても終わらないということがはっきりしてきました。そもそも、レーニンも第一次学習の際にかじっただけで、深く踏み入りませんでした。必要に迫られて第二次学習で何冊かやっと読みました。トロツキーは『ロシア革命史』だけで捨ておけるとしていたのです。ですが、奥が深いのです。運動史の核心的なことがここにも含まれているということを感じ始めています。でも、ひとがやることには限りがあります。とても、奥深くふみいれません。というところで、表面的になぞっただけで、論及的な文を残すこと自体とんでもないことなのですが、それでも、わたしには反差別共産主義論を生み出そうという立場があり、そこから、ドンキホーテと批判されようと書き記しておきたいという押さえがたい衝動が起きてきています。
 これはトロツキーの自伝ですが、そこにリンクして、この本だけでなく、これまでの本の内容から、トロツキーを過渡的にですが押さえておきたいと思います。
歴史学習の終わり頃に、また論考を少しでも深めた文を書き、その中でかなりの修正的文を書くことになるかもしれません。
そのようなところで、あくまで過渡的なところの文としてメモを残します。
 1903年の社会民主労働党大会で、トロツキーはレーニンの組織論―中央集権主義を批判して袂を分かったのですが、その後レーニンが正しかったと自己批判して、レーニンに合流します。レーニンは、トロツキーへの批判として、この組織論と「協調主義者」という批判を繰り返ししています。そもそもトロツキーの性格的には、組織論を批判したところと「協調主義」と言われていることの裏返しとして仲間への強い思いということがあります。そして、彼には文学志向があり、政治的なことへの嫌悪ということ、いわゆる権力闘争ということへの忌避があったのだと思います。一方で彼は、まさに革命運動に身を投じ、まさにそこに生きていました。そこでのジレンマがあったのだと言い得ます。結局彼が、初期の組織論を捨てたのは、まさにレーニンの中にロシア革命の可能性をとらえ、そこへ賭けるということで、武装蜂起的革命論者になり、レーニンはすべて正しい、正しかったというレーニン主義者になったのだとも言い得ます。スターリンはレーニンを神格化することによって、そこでレーニン主義の正当な継承者として、自らもカリスマ化しようとしました。それは右からのレーニン主義だったのですが、トロツキーもまさに「レーニンはいつも正しかった」としてカリスマ化することによってレーニンにかけて強力に革命を推進することによって、そこに永続革命の可能性をとらえたのではなかったのかととらえています。そこで現実的にレーニンとトロツキーの違いということは当然あり、むしろそこで自らをきちんと突き出さなかったところで、スターリン派のトロツキーとレーニンの違いということでの批判を許し、また、レーニンの中央集権主義によって、分派の禁止とか、問題があってもそこで一致団結していくということで、批判を躊躇していく構造が出てきてしまったのです。まさに、「左翼反対派」への弾圧の中で自死したヨッフェがトロツキーに宛てた遺書の中で、「トロツキーが正しかった。なぜ、レーニンのように一貫性をもって自らを突き出さなかったのか」という提言があったのです。他の旧ボリシェヴィキのメンバーは実務的なところではやりきれたとしても、大きな方針のようなところではきちんと方針を出せないで、レーニンの指導下で対立するか、従うようなところ、イエスマンにしかならなかったことに反して、トロツキーはきちんと一貫した方針が出せたのです。そして共鳴しながら時には不協和音になり、調整しつつ、基本的にはもっとも共鳴することとして意見を交わしながら動き得たのです。トロツキーはそもそも軍事的なところが好きで引き受けたわけでなく、レーニンから「他に誰がいるのだ」と言われて引き受けざるを得なかったのですが、トロツキーの軍事の責任者としての体験から、組合への軍事的献身の要求などを出し、中央集権化をまさに自らのものとしていくのです。軍事的な関係性を労働組合的なところに持ち込もうとして批判を受けたりしていたのです。それでも、トロツキーはひととひととの関係性を押さえる、初期の思想は消失はしていないのではないかと思えます。ですから、軍事的なところで、軍隊内の敵対行為に対する処刑やボリシェヴィキへのテロ殺害をやったエス・エルの処刑などにも、一刀両断的なところでやっていません。
 さて、レーニンの四月テーゼの内容が、トロツキーの1905年を前後して出された永続革命論とシンクロしていたことがありました。そこで、トロツキーはレーニン主義者になっていくのですが、レーニンはトロツキーの永続革命論の本は読んでいなかったようで、独自に到達したようです。トロツキーの永続革命論は二つの内容を持っています。ひとつは、プロレタリアートは農民の支持を得て(「依拠して」)権力を握りうる、そして、それが継続し得るには、もうひとつ、世界革命と連動していくことが必要であり、それは握った権力で、内からも連続した革命の推進をしていく、という内容の提起です。
 以後、基本的には共鳴しつつ、トロツキーとレーニンは互いに意見交換しつつ、共にどちらがいなくてもロシア革命はありえなかったと言える指導力を発揮します。トロツキーとレーニンの最大の衝突はブレスト・リトフスク条約を巡る対立です。これは永続革命論の他の国の革命運動との連結、ここではドイツ革命とのリンクの問題でした。互いに、世界革命とのリンクは捨てはしていないのですが、レーニンは現況をどうとらえ、それに合わせてどう方針を出していくのかということで、レーニンの全権大使トロツキーへの提起として、「ドイツには今革命的情況はないから、とりあえずは、ロシアの革命を守るというところでドイツ政府の要求を全面的に飲む」という内容の条約の締結をします。永続革命論の内の推進と外との連携ということでのレーニンとトロツキーのお互いのジグザグが、いくつかのことで出ていました。ポーランド革命戦争ではトロツキーとレーニンの立場は逆になります(これはここには書かれていないのですが、そもそも「民族自決権」の問題ともつながります)。白軍との攻防でペテログラードからの撤去ということでは、レーニンは他の者からも含んで説得されて「条件付き」死守に転じます。その他意見交換の中でいろいろ取り込んでいったこと、暗黙に了解していったこと多々、農民の評価問題、土地の分配、新経済政策、旧官僚の取り入れ、特に軍における旧将校のとりいれなど。
さて、きちんと書かれていないことで、大切なことがいくつかあります。ちょっととらえ返してみます。
まずは、クロンシュタットの反乱のことです。そもそも、クロンシュタットの反乱でどういう要求が出されていたのかその中身を押さえる必要があるのですが、これはボリシェヴィキも含んだ反乱だったようで、それを、この本の中では出てこないのですが、インターネットで検索するとトロツキーが「鉄の箒で一掃した」とか発言したよう、よく分かりません。トロツキーはロシア革命の過程でクロンシュタットに何度も出向き、そこで演説をしてクロンシュタットの革命拠点化を進めた立場がありました。そこからすると、トロツキーが出向き、反乱兵士を説得することではなかったかと、後世の立場から見るととらえられます。これは、ジノヴィエフが担当していたようですが、トロツキーはいろいろ抱えていて動き得なかったということもあったとは思いますが、この本の中では、どうもトロツキーは、左翼冒険主義という批判の下で現在的に経済的基盤がないということで、その基盤を作るためのネップの推進ということで、問題をトロツキー自身もすりかえたのではないかと推測しています。
 さて、もうひとつ「トロツキーは農民問題が欠落している」という批判が繰り返し出てきます。トロツキーも「農民から支持されたプロレタリアートの独裁」とか「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」というスローガンを出しています(「支持」と「依拠」は全然意味が違うのですがこれは翻訳の問題かどうか分かりません)。そもそも社会民主党は農民層に食い込んでいず、社会革命党が農民層に入り込んでいました。なぜ、社会民主党は当時8割を占める農民層の取り込みをないがしろにしたのかということでいえば、貧農や雇用農は別にしてとしつつ、「層としてはプチブル」規定をしていたことがあったのだと思います(そもそもレーニンの外部注入論自体がプチブルの思想という批判も出てきます)。このあたり、わたしはそもそもマルクスのロシアのナロードニキへの「ザスーリッチへの手紙」で書いた、ミールということをどうとらえていたのかの問題もあります。もうミール的なことは崩壊していたのでしょうか? 二月から十月にかけて農民の一揆的動きの中で、「土地はみんなのものだ」というスローガンが出ていました。これはミールの伝統の中で出てきたスローガンで、そこでミールということを活かす農地改革の余地がなかったのか、と考え込んでいたのですが。この問題に踏み込むには膨大な資料の読み込みが必要になり、とてもやれそうにありません。
さて、そもそも労農独裁ということでのソヴィエトの独裁ということが出ていました。ですが、そもそも1905年1917年二度にわたってペトログラード・ソヴィエトの議長だったトロツキーのロシア革命の総括で、そのソヴィエトのとらえ返しがでてきません。少なくとも、1905年はまだレーニンの中央集権的組織論を批判していたときで、その意味でソヴィエトという形態が大きな意味をもっていたはずです。そもそも、レーニンが推進した中央集権制でいくと、ボリシェヴィキへの純化ということになってしまいます。ボリシェヴィキは、二月革命以降は繰り返し民主主義批判を繰り返していきますから、他の党派を切り崩していく場としてのソヴィエトということしか見ていなかったのでしょうか? とにかく、農民層の支持をえていたエス・エルの左翼エス・エルが反乱を起こし排除され一党独裁になってしまったところで、ロシア革命は決定的な変節の道を進んでいきます。
 もうひとつの大きな問題は民族問題です。そもそも社会民主党建設初期から民族問題は大きな問題としてありました。各民族ごとで発言していくというスタイルも出ていたようです。そもそもレーニンの民族問題に関するテーゼ「民族自決権」の思想自体がフィクションだったという批判があります。わたしは民族問題が結局レーニンにとって、やっかいな対処しなければならない問題という域を超え得ず、そこにおける反差別の運動のエネルギーを見ようとしなかった、そもそも差別=階級支配の道具論は、そもそも階級自体を差別としてとらえられないということからきているとわたしは批判しています。そもそも中央集権制からすると、民族自決は中央集権に従属させられます。自決権の思想は、「自治共和国」作りとして進んだのですが、そもそも「自治国家」ということでおいても、連邦に従属させられる「自治国家」にしかなりません。永続革命的に国家が死滅しない限りですが。そもそも民族ということ自体が差別ということがあるから、民族があるというひとつの物象化なのです。ただし、差別がある限り、そのことは反差別として定立させる必要があります。そのあたりが、民族問題でのレーニンと論争を交わしたローザへの批判とはなります。そこで残る問題は、自分の選択した言語で教育を受ける、コミュニケーション言語として使用する「言語権」の問題と文化の独自性の尊重の問題です。長くなるので、これについては別稿で。
 民族問題は、スターリンがグルジアという少数民族の出ということがありました。しかもスターリンがレーニンの死の直前に自分の民族の自決権的なところで動く自治政府に対して、弾圧的なことをしたというところで、レーニンがスターリン書記長辞任を求める爆弾を仕掛けようとしていました。そして、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがユダヤ人だったということで、その差別を利用したスターリン、スターリン派の攻撃もありました。差別問題では、「自らの被差別の問題で戦い得ない者は、階級闘争を闘い得ない」というテーゼがあります。そして、逆に、自らのその「出自」の仲間に対しても差別的になっていく構図も出てきます。レーニンもその内容に通じることを話しています。スターリンの根の深い猜疑心の形成に、この民族問題をきちんととらえられなかったことがあります。トロツキーも、わたしはトロツキーの革命へのエネルギーはユダヤ人差別に対する潜在的怒りのようなことを感じているのですが、トロツキー自身は、正義感のようなことを突き出しています。それでいて、レーニンからの代表的なことに就任の提起に対して、方便的なニュアンスも出しているのですが、「自分はユダヤ人だから」として辞退しようとしていることが一度ならずあったとこの自伝で書いています。そのあたりの非対象化が、トロツキーが、革命の主導権をとりそこなかったことにあったのではないかとも、わたしはこの本を読みながら感じていました。
さて、トロツキーが革命の主導権を取り損ねたことでは、スターリンを甘く観ていた、スターリン主義ということで現れてくることをきちんととらえなかったこともありました。とにかく、スターリンの一国社会主義でも継続・批判の中で修正を生み出していけば永続革命につながるのではという客観主義的なところにとらわれていたのではとも思えるのです。疲れ果てていたとか、永続革命が外につながるところで見通しがつかなくなっていた、とかもあったのですが、権力闘争ということを外的にしか観ていない甘さがありました。誰がリーダーシップを握るかというところで、スターリンやジノヴィエフは前に出たのです。それがまさに権力闘争になった(むしろなぜそのようなことが起きるのかが問題ですが)、内なる権力闘争のようなことに意識性がなかったということもあります。
トロツキーは現場・現場できちんと方針を出し、そして皆を鼓舞しています。トロツキーは軍事を嫌いだったようですが、軍事会議議長専用列車を前戦近くまで出し、内戦での白軍との決定的場面では、敗走する軍の向きを敵に向けさせるために、馬に乗って「連隊長のような」ことまでしていました。通常軍の司令官は表に立ちません。かれがあえて、そのように表に立ちえたのは、レーニンとの一体感があったからだと言い得ます。10月の蜂起の準備のときも、レーニンは暗殺と逮捕を逃れるために地下に潜っていて、トロツキーが現場指揮の最高責任者でした。それなのに、スターリン派はトロツキーと反対左派に反レーニン主義の汚名をかぶせて排除していったのです。そして、スターリン派は自らが総体的方針を出せない中で、左派のみならず、後に同じく粛正していった反対派の方針をこっそりと取り入れていったのです。トロツキーも、未来への投棄として、反対派としてもスターリン・ロシアに方針を取り入れさせようとしたのですが、誰がこのスターリンの大粛正を予想し得たのでしょうか? 岩波文庫のトロツキー関係の本に、人物索引が付いているのですが、自死に追い込まれたひと、粛正で殺されたひとの記載が次から次に出てきます。ちゃんと生き延びたボリシェヴィキの方が極めて少数なのです。そこで、もうひとつの大きな疑念が出てきます。トロツキーは、この本自体が反対派の粛清に使われる可能性をどこまで考えたのでしょうか?
スターリンの一国社会主義の建設と粛正の歴史からするロシア革命自体は負の遺産しかないのです。そのことをどう総括するのか抜きにして、もうこれからの社会変革運動自体がなり立たなくなっています。その総括の中から、これからの運動に活かし得るさまざまな貴重な教訓も出てくるとは言い得ます。この本がスターリン派の粛正に使われた可能性の話を書きましたが、それでもこのトロツキーの本は、これからの運動のための総括のために貴重な資料になっています。勿論、ロシア専制時代のナロードニキのテロに始まるロシアの特殊性とレーニンとトロツキー理論自体の検証もなしつつです。
トロツキーのひとをとらえる鋭い感性、そして、そこにひとりひとりの生があった、というひとの息吹をこの本は描き出しています。それは、ある面協調主義として批判された中身でもないかと思えるのです。そのことをとらえ返しながら、多くの死した、殺されたひとたちの思いにはせながら、時には涙しながら、この本を読んでいました。
トロツキーの永続革命論はローザの継続的本源的蓄積論と相俟って、従属革命論や世界システム論、そしてネグリ/ハートの『<帝国>』につながる新自由主義的グロバリーゼーション批判論というところまで射程が伸びています。そこの底にある、反差別ということから論を形成していく歩みを続けて行きたいと思っています。

切り抜きメモ
(上)
「裕福な農場主の息子であった私は、被抑圧階級というよりはむしろ、特権階級に属していた。家族や家の者が話す言葉はロシア語とウクライナ語のちゃんぽんだった。ユダヤ人が学校に入るときには確かに一〇%枠があったし、そのために私は一年を棒に振ったのだが、その後、私はずっと首席を通したので、一〇%枠の弊害を直接には感じなかった。」188P・・・トロツキーはそもそもプチブルの出、しかし、民族問題でのエネルギーが潜在的にあったけど、それはエリート性で自覚的には出ていないー
「ポーランド人学生に対する歴史教師の偽装されたいやがらせ、ドイツ人学生に対するフランス語教師のビュナンドの卑劣な言いがかり、「ユダヤっ子か」と言って頭を振ったロシア正教の司祭の態度、これらはいずれも私の心を深く傷つけた。こうした民族的不公正はおそらく、私が現体制に不満を抱くことになる隠れた動因の一つであったろう。だが、この要因は、私の場合、社会的不公正の他の諸現象の中に溶け込んでしまっていて、主たる役割どころか、そもそも独立した役割さえ演じていなかった。/特殊よりも一般を、事実よりも法則を、個人的経験よりも理論を重視する感覚は、私の中に早くから芽生え、年とともにしだいに強固になっていった。」189P・・・無自覚的意識の形成、民族差別と性格の形成(客観化された意識の形成、潜在的な意識は強くなるけれど当事者としての主体性のなさにつながっていくー)
「一度ならずあまりにも性急で誤った一般化に陥った。」190P・・・レーニンとの対比もできる?
「私はかなりの長いあいだ史的唯物論に抵抗し、歴史的諸要因の多様性という理論に固執していた。周知のように、この理論は、今なお社会科学の諸理論に最も広く蔓延している。人間の社会活動のさまざまな側面を諸要因と呼び、この概念に超社会的な性格を付与し、その上で、自分たち自身の社会的活動をこれらの独立した諸力の相互作用の産物として迷信的に説明するのである。だが、これらの諸要因はどこから来たのか? すなわち、それらの諸要因は、人類の初期の社会からいかなる諸条件に影響されて発展してきたのか? こうした問題について公認の折衷主義者たちはほとんど論じていない。」246P・・・逆に、わたしは問題を感じてしまいます。マルクスのアジア的生産様式論での論攷は入っていたのだろうか、と。これは農民問題とリンクことです。
「私は、かつて革命に抵抗し、その次にマルクス主義に抵抗したように、そして後に何年にもわたってレーニンとその方法に抵抗したように、芸術に対しても抵抗したのであった。」296P
「私は自分を中央集権主義者だと思っていた。だが当時の私は、幾百万の大衆を旧社会との戦闘に引き入れるために、革命政党にとってどれほど厳格で有無を言わせぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかった。」323P・・・レーニン主義への転向としての自己批判
トロツキーがレーニンとの距離を置いている時代の、他者(クラーシン)を介しての共鳴341P
トロツキーの文学志向368-9P
「こうしたつきあい(オーストリアにおけるつきあいなど)を通じて私は、いかに異質な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして体系の一部を受動的に認識することと、その体系を総体として心理的に感得しその体系の精神で自己を再教育することとのあいだに、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。」406P
「他方、メンシェヴィキのその後の運命と党の組織的課題の評価に関しては、ウィーン『プラウダ』はレーニンの明晰さからはほど遠かった。私はなお、新しい革命が、一九〇五年と同様、メンシェヴィキを革命の道へと押しやるだろうと期待していた。私は、準備的なイデオロギー的淘汰作業と政治的訓練の意義を十分評価していなかった。党の内部発展の問題に関しては、私は一種の社会革命的運命論に陥っていた。これは誤った立場であった。それは現在のコミンテルンの陣営で私を批判している大多数の連中の特徴となっている無定見な官僚主義的運命論に比べればはるかにましである。」435P・・・協調主義への自己批判、それでもエピゴーネンたちからの擁護、協調主義と中央集権主義の再度のとらえ返し
(解説)
戦争と革命の「人格の絶対的価値」588P→(下)337P
「トロツキーは、本書二九章「権力の座」において「人類の革命的経験をできるだけ明確にしておくことは必要であった。いずれは他の人々がやってきて、われわれが計画し開始した事業に依拠して、新たに前進するであろう」、と書き遺していた。」594P・・・未来へ向けての現在の投企→(下)見つからず
(下)
「マルクス主義はみずからを無意識的な歴史過程の意識的表現であるとみなしている。しかし、心理的な意味ではなく、歴史哲学的な意味での「無意識的」過程がその意識的表現と一致するのは、それが絶頂に達したとき、すなわち大衆が自然発生的な圧力によって社会的因習の扉をたたきこわし、歴史発展の最も深い要請に対して勝利の表現を与えるときてだけである。こうした瞬間には、時代の最高の理論的意識は、理論から最も縁遠い最底辺の被抑圧大衆の直接行動と融合する。意識と無意識的なものとのこうした創造的結合こそ、普通霊感と呼ばれているところのものである。革命とは歴史のきわめて激しい霊感なのである。」98P・・・ローザの民衆の自然発生的革命性への依拠に通じる内容。ここで、霊感にはインスピレーションというルビがあり、これは、直感や第六感という漢字を当てることでは?
「まったく唐突にウラジーミル・イリイチが尋ねたことがあった。「もし、白衛軍が君と僕を殺したら、スヴェルドロフとブハーリンでやっていけるだろうか。」」104P・・・レーニンが後継者として考えていたこと→トロイカの怒り105P
トロツキーのユダヤ人での自分を表に出すことの躊躇108P
トロツキーがユダヤ人であるところで「マルクス主義を学んだことがこうした気分を掘り下げ、積極的な国際主義に変えた。」109P
(レーニンのトロツキーへの講和での説得の提言)「もし、われわれがドイツの革命の勝利のために破滅しなければならないとしたら、われわれはそうすべきであろう。ドイツ革命は、わが国の革命よりはるかに重要だからである。しかし、それがいつ起こるのかは、誰にも分からない。今のところはわが国の革命よりも重要なものは何もない。何が何でも、わが国の革命を危険から守らなければならない。」181P・・・世界革命への連携の思いと現実主義的提起
「成功のための最も重要な条件は、次のことであった。すなわち、何事も隠さないこと、特に自分の弱点を隠さないこと、大衆をだまさないこと、すべてのものを公然とその本来の名で呼ぶことである。」207-8P・・・運動の原則としての誠実さ
「ウラル地方における農民の生活を自分の目で観察した際の印象に動かされて、私が新経済政策への移行を執拗に求めたという事実である。」273P・・・トロツキーはネップの受動的容認者ではなかったということと、農民問題を軽視していなかったということの言明。
「無秩序なゲリラ主義は、革命の農民的な底流の現われであった。したがつて、ゲリラ主義に対する闘争は、プロレタリア国家体制を擁護するための闘争であり、その基礎を掘り崩しつつあった無政府主義的小ブルジョア的自然発生性との闘争であった。」274-5P・・・トロツキーがゲリラ部隊ではなく正規軍形成をやっていったことの理由? 「プロレタリア国家体制」?
(ポーランド革命戦争を巡るトロツキーのレーニンへの提言)戦争の情勢と運動の情勢とのズレと違いの押さえ310P
「この問題は戦時共産主義体制をとる限り不可避的に出てくるものであり、その意味で、私は労働組合の国家化を擁護したのである。」321P・・・戦時共産主義を脱して新経済政策をとった理由? しかし、国家の労働者への搾取ということを永続革命論的にどうとらえるのかの問題が出てくるのでは? 戦時共産主義の下で労働組合を軍隊化的に組織しようとして批判されたことのとらえ返しも必要。
「いわゆる「人格の絶対的価値」という見地からすれば、革命は、戦争と同じく「有罪」を宣告されてしかるべきである(もっとも人類の歴史全体もそうであるが)。しかし、個人の人格という概念そのものが革命の結果としてしか形成されなかったのであり、しかもこの過程も完結したと言うにはほど遠い。人格という概念が現実のものとなり、「大衆」という半ば軽蔑的な概念が「人格」という哲学的に特権を有する概念のアンチテーゼであることをやめるためには、大衆自身が、革命、より正確に言えば一連の革命というクレーンによって新しい歴史段階に引き上げられる必要があるのだ。この道が規範哲学の見地から見てよいものか悪いものか、私にはわからない。それに正直なところ、そんなことには興味がない。その代わり、この道がこれまでのところ人類が知っている唯一の道であるということなら、私は充分に心得ている。」338P・・・トロツキーの政治嫌い
「私にとって問題なのは、哲学的に正当化することではなく、政治的に説明することである。」338P・・・トロツキーの革命=政治と現実主義 ロシア革命の内実そのものの総括
「われれは、主観主義に陥るべきではない。また歴史が自らの事業を複雑で錯綜した形で進めても、すねたり腹を立てたりすべきではない。何が起きているかを理解することは、すでに勝利を半ば確保することを意味する。」420P・・・敗北的局面でどうするのかということでは客観主義に陥っているのでは?
(合同反対派形成の中でのジノヴィエフとカーメネフへのトロツキーの提言)「われわれは遠方に照準を定めなければならない。真剣で長期にわたる闘争の準備をしなければならない。」427-8P・・・?敗北主義、スターリンの粛正を予期できなかった
(ヨッフェとの永続革命論に関してのレーニンとの対話の中でのレーニンの言葉)「そうだ、トロツキーは正しかった。」450P
(左翼反対派への弾圧の中で自死したヨッフェのトロツキーへの遺書)「しかし、レーニン的な不屈さ、非妥協性、つまりいずれは多数派となり、この道の正しさがあらゆる人から認められることを予見して、たとえ一人でも、正しいと信じる道に踏みとどまる彼の覚悟が、あなたに不足していると私はいつも思っていました。」「しかし、あなたによって過大評価されている合意や妥協のために、あなたは自分の正しい見解をしばしば放棄しました。それは誤りです。繰り返して言います。あなたは政治的には常に正しかった。そして、今、これまでのどんなときよりも正しいのです。」454P(下線は原文濁点)
「もちろん、十月革命によって提起されたこの課題は、まだ解決されていない。しかし、この課題は、その本質上、数十年かかると見込まれている。しかも、十月革命は人類全体の最も新しい歴史の出発点とみなされるべきである。」537P・・・永続革命論を突き出したトロツキーの思想、けれどトロツキーも書いているように、誰が担うのかによって、全く違ってくる、スターリンが権力を握ることによって全く違った道に踏み込んでいってしまったのです。まさにヨッフェの批判で、トロツキーは自分が敗北することの意味を押さえ損なっていたことの総括の問題がそこにあるのです。
ローザとプルードンの引用540-2P


posted by たわし at 01:57| 差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする