2014年07月30日

介助日記007 介護学習の中で

介助日記007
介護の学習の中で
母を看取って、介助の反省のようなことが浮かんできていて、きちんと反省をしておきたいと、介護の講習に通っていました。介助論をとおした反障害論の深化という目的もあってのことです。
で、感じていることをいくつか書き置きます。
まず、母の介助が本格化する前に、介助の基本的なことを勉強しておけば良かったということです。中学のときに保健体育とか技術家庭のようなことがありました。実学といわれるようなことで、今になって、結構役に立つ知識がいろいろあり、生きるという上で大切なことで、このようなことをきちんと勉強しておくことではないかと思うのです。介助のようなことも、そのようなカリキュラムの中にいれるか、選択として成人になる前後に習得する車の免許のように習得しておく知識や技術の類ではないかと思うのです。介助だけでなく、生きるための知識としても。また、確実に母の介助が迫っていたときに勉強するなりしておくということも必要だったと、思います。わたしとしても、それなりに介護につながることは、障害関係から波及する読書の中で、それなりの知識は吸収していたのですが、自分の問題意識からの学習でしかありませんでした。基本的な介護のテキストとして学ぶこと、この社会の現在的な介護に関わる意識―学を知っておくことが、大切なのだと今改めて感じています。
もうひとつ、勉強していて、結構理念的に整理されていると思いました。新しい知識がたくさんあり、こういう理念的な学習を是非くぐっておく必要があると、その意義を感じてもいました。ただ、理念と現実の遊離のようなことがあり、それがどこから来ているのかの分析が必要なのだと思います。また、「障害者運動」サイドからのとらえ返しが高齢者介護にまだきちんと届いていないという思いもあります。学んだ場が高齢者介護を軸にした教室だったということがあり(むしろ、そういうところで学んでおきたいと選択したこともあったのですが)、「障害者」の講師がいないのです。
たとえば、介護のテキスト(介護の制度)で、キーワードになっている「尊厳」ということばがあります。「自律」や「自立」ということば、「自己決定」ということばとともにもっと深化してとらえる必要があるのではと思うのです。
先日脳死・臓器移植に反対するひとたちの集会に参加してきました。その中で、会場からの「どうしてそんなことばを使うのか」という質問に答えて、講演者から「ことばというのは分けるためにある(何らかの分ける必要があるからことばが生まれるという趣旨ですが)」という応答があったのです。このことは、ことばを使う限り差別から逃れられないという考えにつながって行くので、危ないなと感じていました。わたしは(わたしが思想的に多大な影響をうけた)廣松さんの「命名判断は価値判断を懐胎してなされる」という内容のテーゼを想起していました。わたしは反差別論をやっている過程で、価値付帯的でない命名判断、すなわち、上下に異化するのでない、水平に異化する命名判断的異化がありえるとしていました。話をもどし「尊厳」ということばでいえば、まさに「尊厳」ということばは価値付帯的な命名判断として異化しているのですが、(これも前述の学習会で別の講演者から出ていたことばですが)「かけがえのない(存在)」ということばには価値付帯的ではないことを感じます。だから、反差別運動的には「尊厳」という言葉を使うことによって、かえって障害差別やエイジズムを生み出してしまう。反差別という観点をもっている立場からは、そういう「差別を生産・再生産していくことばをちゃんとした批判なしに使うのはやめようよ」となると思います。
「自立」や「自己決定」にしても同じです。「自立」ということばには身辺自立ということにつながり、そこへ繰り返し引き戻すことがあることばで、それを「こころの自律」とか、「自己決定」として置き換えても、そこで「知的障害者」へのパーソン論的差別につながっていくことです。だから、そのことを押さえた上で、繰り返し注意喚起して使っていくことはあるとしても、不用意な使い方はできないと提起していくことが必要なのだと思います。
さて、思いがけない理論的な収穫として、介護の世界で、ICFが援助のあり方のツールとして使われていることを知りました。ICFが出てきたとき、こんなもの「障害者運動」的な立場から使えないとしていたのですが、そもそもICFを翻訳しているテキスト―日本語訳の序の中で、「医療・福祉の援助のツールとして使える」というような文言が出ていたのです。ですが、そもそもICIDHで、障害概念が混乱しているとして、「障害の社会モデル」からの批判も受けて、新しい障害概念を生みだそうとしてICIDH-2として議論されていたその目的はどこへ行ったのでしょう? 障害学で(たとえば読書メモ「川越敏司/川島聡/星加良司『障害学のリハビリテーション―障害の社会モデルその射程と限界』生活書院2013」の中で川島さんが)このICFへの、「ファクターを併記しているだけ」という批判を紹介した上で、それでも使えるとしているのですが、そもそもファクターとしていることの相互関係こそが問題になっているのです。そのことのとらえ返しがなければ、現実のそのひとの抱えている問題を列記していくだけでは、現実的にどう「援助」するのかということで何らかの役に立つことはあったとしても、そのことが「個人的に」解決できることでないかぎり、「障害者運動」的には使えません。その問題がいかなる問題であり、どう社会的に解決していくかが問題なのです。そういう意味で、とても使いようのない図式だといえるのではないかと思うのです。
さて、母の介助の反省として、わたしが介護の講習を受けて一番学んだことは、本人の気持ちを受けとめる必要と言うことです。なんでもいってくださいとしていったん受けとめる姿勢の必要ということです。そもそも母の考えは、この社会の差別的考えをとりくんでいて、反差別の立場に立つわたしからすると受け入れがたい考えだったのです。そこでそもそもそれをいちいち指摘していたら、母を否定するようなことになってしまうと、ときには指摘しつつも基本的に顔をしかめるなどの反応すまそうとしていました。しかし、反差別の運動家としてのスイッチが入って反応してしまうこともありました。それに加えて、わたしは、母の考え方を聞きながら、「そんな考えは、自分の首を絞めることになるよ」とか「そんな考えていたら、身体が動かなくなっていくともっとしんどくなるよ」という思いから、母の考えを批判していたこともありました。ですが、そもそもひとの考え方を変えることのむずかしさがあり、母の考えのおかしさを批判することは、母にとっては、自分の存在を否定されるようなこととしてあり、自分の意志を否定される抑圧としての差別としてあつたのです。このあたり、運動から政治というところで動いていたわたしは、そもそも政治が意志の押し付け合いでの勝敗の世界であり、そこに身を置いたところで、そういう押し付け合いをそもそも否定する立場でありながら、政治を否定する政治を生きる中で、そこに生きていたことで、大局的にはむしろ社会的意識に対するレジスタンス的な不可抗力的なこととしてやってしまっていたのかも知れません。母にとっては抑圧以外の何ものでもなかったのですが。
もうひとつ、母の老いということをとらえきれないこととしてあったのです。母は頼り切って生きていた父を送ってから、独り暮らしをしていて、そこでの生活のなかでの恐れというようなことと、老いということでの死へつながる恐れがあり、そこからかたくななさを作りあげていっていたのではと、介助が本格化する中で考え始めていました。そのあたりの老いの心理というようなことをとらえられない中で、わたしは今ひとつそういう母の心理をとらえられない中で、そのような心理からくるかたくななさを否定的に反応してしまっていたのです。で、それなりにとらえ返す中で、最期は怒らなくなれたのですが。
そのあたりは、老いや自分がのたれ死にする恐怖の様なことに対して、その恐怖の様なことを解いていくことが必要だったのだと思います。たとえば、「わたしがちゃんと看取るよ、わたしは介助はちっとも苦痛ではないよ、むしろ楽しいんだよ」という声かけをしていく事だったのですが、そもそも母と衝突していたときには、わたし自身がまだ介助に対する不安を抱えていたし、どうなっていくのかの見通しがたっていなかったのです。
そもそもわたしの生き方の問題として、うそはつかない誠実さを信条にしていて、ことばのもつうそっぽしさということでの、ことばで伝えることの苦手さがあったのです。そんな中で、それなりに「介助は苦にならないよ」ということを身をもって示そうとしていました。意識的に決して母の前で疲れた顔を見せないとか、否定的な態度は示さないと心がけていたのですが、現実的な疲労とか睡眠不足でどこまできちんとやれていたのかの自信もありません。誠実さは示しつつ、もっとちゃんとことば化していくことが必要だったと、これも悔い・反省として抱き続けています。
色んな思いがあります。親子だから、言いたいことをいうとか、逆にむしろ親子だから言わなくても伝わるとかあります。それから過去の色んな思いを引きずりつつの介助です。だから、むしろ他人介助がよい面もあるのかもしれません。
とにかく、もっと色んな声かけをしておけばという、今になっての思いを引きずっています。そんな思いを、これから介助していくひとに少しでも伝えておきたい、そして介助論を通した、ひととひとのあり方の論攷として、文にしていきます。


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2014年07月24日

介助日記005 母逝きて

介助日記005
母逝きて
 母を看取りました。
 母は四度の救急車での搬送を経験しました。それでもしっかり生き延びてきました。
 母の救急車での搬送の一度目は、マンションのベランダで草花に水やりをしていて、つたに足をひっかけて転倒です。わたしはこのときは月に半々の東京−関西生活で、留守にしていました。「助けて」と叫んでお隣のひとから娘を呼んでもらって救急車で搬送されました。この時、もう90を越えていたのですが、しっかりリハビリをして自力歩行をするまで回復しました。このとき、救急搬送されたのは完全看護の病院で、付き添いはしなくてもいいとのことで、わたしは退院するころにしっかり介助をするからと、東京にそのままいたのですが、譫妄状態に陥り、騒いで病院から家族付き添いをして欲しいとの電話があったと、妹から電話を受けて、急遽舞い戻り、約一ヶ月半の24時間付き添いを妹たちの「応援」もあってつけました。その後夜だけはひとりにする入院生活が二ヶ月。おかげで母にとっては、独りでの孤独な生活から抜け出せたせいか、一度も家に帰りたいとか言いませんでした。その後、あぶなかしい歩行の中でまた転倒し、肩のひび骨折をしました。これは通院でほぼ完治して、もう独りで歩かないとしたのですが、それでも何度言っても、歩いたりしていました。それから二度ほど転倒した後、完全に手引き歩行に移行しました。
二度目の救急車搬送は、昨年の5月風邪ぎみで寝ていたときに、母のお友達が来て頂き物の果物の食事介助をしていたときに(このときは、食事は小さく分けて口に運ぶ介助をしていました)、もういいと言うのに、「もう一口だけ」と言って口にいれたときに窒息して一時息が止まり、わたしは口をあけて詰まったものを取り出そうとし、母のお友達に救急車を呼んでもらっての搬送でした。実は風邪気味と思っていたのはどうも誤嚥性肺炎を起こしていたのではないかと、後になって気づきました。訪問看護師さんから、食べ物がのどを通りにくくなっているという話は出ていて、細かく切って食事介護し、将来的には流動食をという話は出ていたのですが、まだまだ先のこととタカをくくっていました。祖父母の老いを看取っていないわたしは老いのイメージがまったくつかめていなかったのです。後で病院でSTさんに嚥下検査をかねた、口腔摂取のリハビリの時に、「「もういい」と言うときには食事を勧めると誤飲の原因になる」と聞いたのですが、まさにしてはいけない見本のようなことをしていての窒息でした。このときは、救急隊員がきたときには、もう呼吸をしていて、「なぜ呼んだのか」と言われたのですが(実は最初きたのは救急車が出払っていて、消防車できた消防隊員で、その発言ですが)、救急車の中で様態が悪くなり、病院に着いたときには、「助かるかどうか半々」という情況になっていました。このときもしっかりと生き延びて、嚥下の検査をうけて口からの摂食は無理ということで、いろいろ選択肢を示されましたが、結局胃瘻という選択肢しかなく、胃瘻を創設し、三ヶ月の入院生活を経て、自宅とリハビリ入院のショートステイの繰り返しの生活にはいりました。
そして、三度目の救急車での搬送。三度目の時は様態が良くないから介護タクシーを手配して入院ということになったのですが、急な手配ができず、救急車を呼んだのですが、このときも救急車の中で様態が急変し、入院したときには、「家族を呼んでください」という情況でした。母の行きつけの病院は良心的な病院で差額ベットの個室がなく、重病のひとだけが個室に入れるのですが、10日間の個室生活、「いつ逝くかもしれない」ということでの家族の付き添いを経て、このときも驚異の回復力で、大部屋に移り、家に帰りたいとくり返す中で退院しました。
 四度目の入院は背中の褥瘡が悪化し、家で切れない中ということでの入院で、介護タクシーでは大変だからと救急車を呼び、また救急車の中で様態が悪くなり、また個室に入り24時間の付き添いになりました。また長期戦の構えをとろうとしたのですが、その日の内に、ゆらゆらゆれていたろうそくがすーっと消えるというような死を迎えました。
 こういうことを書いているとたいてい「大変だったのねー」という反応が返ってきます。
 確かに、大変さはありました。介助の非熟練で試行錯誤しながら、少しずつ介助というか、看護の技術を身につけていきました。特に、排泄介助の不慣れさと、母の体力が落ちていく中での独りでの介助は当初体力的・精神的な負担でした。また、看護に関することは判断の間違いが死に繋がるという緊張感もつらいものがありました。また、母の最後の頃は独りになるのをすごく不安に感じるようになり、30分以上独りにしないようにしていたので自分の時間というのがほとんどとれなくなりました。それと繋がり、誤嚥性肺炎のおそれから、痰の吸引の間隔がどんどん短くなり、慢性的睡眠不足に陥っていきました。
 しかし、そもそも元気な内は衝突を繰り返していたのですが、介助が必要になればなるほど、わたしは怒らなくなり、そして精神的には楽になり、また技術をそれなりに身につけて行くにつれて介助の楽しさのようなことを味わいながら付き添えました。
依存ということばがあります。否定的なニュアンスです。母はまだそれなりに元気な内から「ぽっくり死にたい」と言っていました。他者や子どもに「迷惑をかける」、依存する状態になる前に死にたいというようなことです。この社会でよくひとが口にする話で、「障害者運動」に関わってきたわたしは、「それって「障害者」の存在を否定する論理だよ、ひとって支え合って生きるものだよ」という話をしていたのです。実際に母は体が動かなくなっていく総体的に体力が落ちていく中でどのような思いを抱いていたのでしょうか? 依存ということばでなく、わたしは頼る−頼られるということばで表せる関係は楽しいものだという思いをもつようになって、介助に喜びさえ感じていたのですが、母は子どもがそんな思いをもちながら介助をしていたことを感じてくれて、何かしらの喜びを感じてくれたのでしょうか?
 まだ、手引き歩行をしているときに、ベッドまで連れて行き、寝る態勢になったときに、「いろいろお世話になったね、ありがとう」などと1週間に1回のペースで言ったりしていました。「そんなこと言うのは、まだ早いよーこれからが本番だよ」と返していました。また、歩けなくなってから、家で病院で何回か「ありがとう」のことばは出ていましたが、胃瘻のチューブをぐっとにぎっていたり、身体的な痛みがあるわけでもないのに「もういい」ということばがでてきたりしていました。胃瘻ということも含め一応確認はとりながらどうするか決めていたのですが、母の思いはどうだったのでしょうか? この社会に広くある「ぽっくり死にたい」という思いを持ち続けて、「みじめ」とか思っていたのでしょうか? わたしの思いを押し付けてしまったのでしょうか?
 「これからが本番」と思いながら介助していて、やっといろんなスキルを身につけ始め、母の負担を軽くする介助になっていくのではないかという思いをもってきていたところだったのです。そもそも元気な内の衝突の繰り返し、やむなしのことなのでしょうが、怒らないで介助をするようになっていたときからとらえ返すと、何とかもう少し穏やかに話せなかったのかという、後悔の思いばかりが湧いてきます。
 介助のスキルも後になってそれなりに身につけましたが、もっと体系的な習得をできなかったのか、という思いもでています。
何度も危ないと言われながら、生き延びてきていたので、「これからが本番、これからが本番」という思いを抱きながら、わたしの東京と関西での二重生活がかなりむずかしくなってきていて、母の実家の近くに東京の荷物を移し、長期戦の態勢をつくらなくてはならないかなと思い始めていました。
この介助日記ももっと日記的にオープンな形で、続けて書いていくことも考えていました。
そういう中での母の死、少しずつ弱って来ていたので、突然というわけでもなかったのですが、まだまだという思いにとらわれていたのです。
何かまだ思いを引きずって新しい態勢に入れないでいますが、わたしの生涯のテーマ「「障害の否定性」の否定」ということとリンクした「「老いの否定性」の否定」−介助労苦論批判として、介助−看護の中で考えていたこと文に残しておきたいと思っています。
そして何よりも、母が、母だけでなくこの「姥捨て山」的社会の高齢者がもってしまう「ぽっくり死にたい」という思いを持たないで生きれる社会をどう作っていくのかのことを、介助労苦論批判としてまとめてみようと思っています。
 母の「ヒロやん」ということばがまだ耳に残っている内に。

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2013年10月26日

介助日記004 後期高齢者医療制度の姥捨て山的性格

後期高齢者医療制度の姥捨て山的性格
 母が窒息しかけて、救急車で緊急入院しました。客観的な書き方をしてしまいましたが、嚥下がしにくくなっていて、訪問の看護師さんから嚥下がしにくくなっているというのを指摘されていたのに、頂き物の初物のメロンを勧めていて、「もういい」と母が言っているのに、「もう一口」と勧めて、のどに詰まらせたのです。歯をくいしばり息もしていなかったので、これは危ないと救急車を呼んだのです。そもそも発熱していて痰がからんでいたのです。それを風邪だと思っていたのですが、誤嚥性肺炎をおこしていたか、おこしかけていたのかもしれません。救急車の中で、血中酸素が40台まで落ちていて、酸素吸入してやっと80台まで戻っていたというかなり危ない状態でした。医者から助かる確率は五分五分と言われ(医者はそもそも危険度を高めにいうものですが)、人工呼吸器をつけるかどうかと訊かれました。それも一般的な自己決定や選択の延長としての家族の意向ではなく、お年寄りだからしんどいだけだと、つけないことを勧める・誘導するような訊き方なのです。何年か前から、デイサービスやショートステイで施設を利用するとき、「緊急時に人工呼吸器などの延命治療をしますか?」 というような書類作成が始まっていて、「後期高齢者の医療制度が「自己選択」の名の下に、「姥捨て山」的になっている」と言われていたし、わたしも感じていたのですが、まさに「もういいだろう」というような制度になっているのです。これは、人工呼吸器だけでなく、結局嚥下のテストをして口からの食事がとれないということで、栄養をどうとるのかという話になって、いろんな選択肢を示されたときに、かつては胃瘻ということが主流だったのに、「胃瘻はむやみに命をながらえるだけ」というようなところで、「胃瘻は余り薦められない」というような風潮がでていることにも現れています。選択肢のひとつは、「死んでもいいから食べたい」ということも入っていました。これって自殺幇助のようなことではないかと感じていました。結局、胃瘻をしないというのは、点滴の針が入りにくくなっている母の栄養がとれなくて餓死的状態になっていくということで、結局胃瘻という選択を通しました。このあたりは母の意志ということを訊きながらどうしたいのかも確認も必要だったのですが(そもそもこういう自己決定ということ自体にも疑問はあるにせよ)、母はむしろ「がんになっても告知しないで」というひとだったので、母の生きる意志ということをとらえ返した上での判断でした。
 さて、母の入院生活介助の中で感じていたのは、そもそも医療や介護制度が何かおかしいということです。どうも医療費の削減というのがあって、看護が届いていないのです。だから、それを補足しようと思うと、家族が補足するしかないのですが、大方の家族は生活に一杯一杯で付き添いはできないのです。在宅なり、「介護施設」のデイサービスやショートステイは看護が必要なひとは手が回らず看れないのです。病院が少し医療が必要なひとの介護の受け皿にならざるを得なくなってしまっている状態です。「在宅介護」が「介護保険制度」の枠内では医療的に使いづらくなっているので、家族がやるしかなくなり、身が持たなくなって、病院のレスパイト(チェック・リハビリ)入院を使うようになっています。そこでも看護の手が足りないという悪循環なのです。
そもそもこのような情況は、社会的な政治的な動きから来ているのです。経済成長という号令で、そもそも何のために、ひとは生きているのかということが本末転倒的になり、働くことが中心になって、「介護」や看護―ケアという、ひとが生きるのに最も必要とされることがなおざりにされているとしかとらえられないのです。自民党政権の復活以降、アベノミクスということの中にそれははっきり現れてきていて、高齢者の行き場がなくなっていくとしか思えないのです。消費税の増税がそもそも福祉のために使うと言いながら、どうもまたぞろお金に色はついていない風で公共投資に回されていっています。一体経済成長で潤うのはだれかということがはっきりとらえられてきているのに、一体どうしてこんなごまかしの政治にだまされていくのか、もう一度、ひとには何が必要なのかという問いから始めることでないかと思えるのです。 


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2013年05月12日

介助日記003 家族介助のジレンマ(1)

家族介助のジレンマ(1)
 わたしは介助の問題を「障害者」への介助問題から考え始めました。「障害者運動」において、自立生活運動は施設から出て地域で生きるということと、親元から離れて地域で生きるということが言われてきました。で、現在的には施設ということも施設自治会というようなところで、とらえ直しがでているのですが、一般的に「施設」に対する否定的な思いは継続しているようです。
 で、ここではわたしがやっている家族・肉親による介助の問題をここで取り上げます。「障害者」介助の問題と高齢者介助の共通性とその違いの問題を押さえておこうと思います。
それなりに何をどのような介助を求めているのか、肉親の場合はそれだけつきあう時間が長い・長かったわけで、より理解できるというところで、それなりの以上くみ取った介助はなしえるのですが、「障害者」の場合は親の子に対する「支配」の問題が出てきます。高齢者の場合はどうなのか、まず、それまでの親への思いというようなところでの感情的な衝突、それから親が介助される立場になっているのに、その立場が変化しているのに、その気持ちが転換できないという問題があります。親の子離れ、子の親離れというところができていないという問題にも通じることです。これはわたしが母の介助を始めたときに、そこで衝突していたことでした。わたしの場合は兄妹が多く、子どものころ、そんな構われ方をしなかったのに、親が家事をしなくなったところで、母の場合は「何もやることがなく」、子どもの世話に生き甲斐を再度見出していくというところで、干渉してくることがありました。こちらとしてはとっくに親離れしているのに、そして放任的に育てられてきたのに、子育てが好きではなかったのに、「今更親が干渉してくる」ことがたまらなくいやでした。そこで自分の生き甲斐を見出しているのだというところで「寛容に」なれればよかったのですが、わたしは生き方の問題として、「子どもの世話しか生き甲斐がない」というような母の生き方を反面教師的にとらえていましたから、なおさらでした。それから親の子どもに対する「支配」というようなことも感じ、反差別的にいやでした。もちろんフェミニズム的にとらえれば、そこに性差別の問題があることは理論的には「分かっていました」が、理論と実践の乖離のようなことで、結局分かっていないことで、だから何度も衝突していました。これは今は、母が一度「全面的依存状態」になったところで、その上で、生き甲斐、自分の存在感をもとめて子どものことに気を遣う親を「演じている」ところに、やっと「寛容」になれてきました。さきほどから「寛容」という言葉を使っていますが、介助者が被介助者をコントロールしようという意識性がそこにあり、肉親への思いというところで、特に睡眠とか食事とかをコントロールしようという意識にも繋がる「支配的」に働く意識ではないかと、その問題性をとらえ返しています。こういう概念がでてくること自体が、肉親介助の問題性だと思いつつ、あえてそのまま使います。
さて、なぜコントロールしようとするのかですが、これは母が骨折して入院していたときに、完全看護の病院だったのですが、母が「譫妄状態」になり大騒ぎして、家族で付き添うことになりました。で、昼間起こしておくようにと医者から言われ実行していたことに始まり、その延長として続いています。「譫妄がひどくなる」とか、「認知症になる」とか言われていて、それを防ぐこととしてやっていたのですが、それを介助がさらに必要になり、自分でベッドにいけなくなった中で、寝る時間も「誘導する」ようになっています。実はこれは母のためということもあるのですが、好きなときに寝て好きなときに起きるとなると睡眠が浅くなって、しかも、不安だからこちらを寝かせないで、ナースコールを押し続けるという事態を避けるという意味もあります。これは誰か常時起きていて付き添っていれば、解決できるのです。わたしはそもそも夜型なので、夜の間はわたしが起きていて、昼間にバトンタッチすればいいのです。ですが、現実にはそんな態勢はとてもできません。このあたりは肉親への愛情なのか、愛情という名のもとでの抑圧なのか、母がそもそも「自由」とか「譫妄」とか「認知症」とかをどうとらえ、自分がどうしていくのかということなのですが、母は結構自己主張するひとなので、基本「意志に沿う」としつつ、こちらの都合でコントロールのようなこともしてしまっているのではと、考え込んでいます。このあたりは家族介助の問題点で、むしろ他人介助の態勢で当人が周りのひとの意見も参照にしながら、自分で決めていくことなのではないかとは思っています。わたしが今一番抱えているのは、母の介助をしていて自分の時間がなくなる、睡眠不足になるという問題です。勿論、もっと多くの家族で介助の態勢が作れればこのことはそれなりに解決できることです。ですが、わたしの場合、近くに妹が二人もいて、むしろ恵まれている方で、母が骨折して入院したときには、わたしを軸に泊まり込み態勢を作りました。しかし、日常的に妹たちもそれぞれ家族を持ち仕事をもっていて、少なくともわたしはカネを稼ぐ仕事―労働の必要から解放されているので、わたしが家族介助ではほとんど母の介助をし、妹たちはそれを支えるという態勢になっています。で、現実、そこで「母の意志に沿う」ことと、こちらの都合を押し付けるせめぎ合いのようなことになっています。
これは、家族だけで介助をする場合の話です。実際には介護保険制度を使っていて、他人介助を入れています。こちらの方が肝心なのですが、ここには、他人介助を当人がどう受け止めるのかの問題もあります。
長くなったし、この文は思いつくままに書いていて、後で検証してまとめていく作業をしますので、次回にまた書き直し、書き加えて行きます。


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2013年02月26日

介助日記2 「子ども化」ということ

「子ども化」ということ
歳をとると子どもに帰るという言い方があり、わたしもそういうことを言ったり、書いたりしてきたのですが、母の介助をしながら、ちょっと違うのではと思い始めました。
子どもと高齢者の共通項があるとしたら、「依存的である」ということ、そして「認知の集積が少ない」−「認知の集積が減少していく」ことなのでしょう。そもそも「依存」という言葉自体が、「自立」なり「自律」なりの反対語で、ひとは自律すべし、できるだけ自分のことは自分でやる方がいい、というとろで、「依存」という言葉があるのだと思うのです。ですから、そもそもなぜ、「依存」ということばがあるのか、ということ自体をとらえ返さなければと思うのです。
このあたりは「身辺自立」という「障害者」差別的なことのみならず、西欧的近代的個我の論理やそれを背景にした「自己決定し得る者だけをひととして認める」というようなパーソン論などへの批判が必要ではないかとも思えるのです。
後者の「認知の少なさ」に関しては、そもそも「認知症」とか「知的障害者」の問題とその否定性にもつながっていきます。
「認知症」に関しては、わたしは何冊かの本をよんでいるのですが、そもそも「認知症」とは何かと考えていくと訳が分からなくなります。CTスキャンをとって、それで「認知症」とかいう診断を医者がしたときに公的には「認知症」ということになるのでしょう。ですが、そもそも「認知症の症状」といわれる「記憶障害」とか、「物とられ妄想」というのは「認知症」という診断を受けていないひとにもおきていることです。
ですから、「認知症」という診断があるかどうかという問題ではなく、実際の生きがたさを押さえ、それがどこからきているのかを押さえる作業が必要です。
この間NHKで「認知症」の母親の介助をしているひとが漫画とエッセーを描いているひとのドラマ仕立てのドキュメントのようなことをやっていました。
現実の介助のしんどさはあるけど、必ずしも「認知症」は否定的にはとらえられないというようなことを描いていました。
わたしの母の場合は、「認知症」の診断は受けていませんが、高齢者でそれなりに似通ったことはあります。でも、現実には介助の体勢が作れないなかでのしんどさがあるにせよ、それなりの楽しさも感じています。そのあたりのこと、もう少し具体的に書いていきたいと思っています。


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2013年01月27日

介助日記1 介助労苦論批判のために

介助日記001
介助労苦論批判のために
(はじめに)
 介助に関する本が何冊も出ていて、わたしもいくつか読んでいます。
 でも、どうも介助は大変だということが基調になっています。
 その「大変」さとは何かということを考えていました。
 朝日新聞の夕刊の「ニッポン人脈記」の認知症を特集にした連載の中で(「認知症のわたし」シリーズ7)「必要なのは認知症の人と向き合う人手であり、入院ではない。北欧などの病院や施設を視察して、思いは確信に変わった。」とありました。
人手というのは単に数の問題だけでなく、当然質も問題になっているのですが。
わたしは今、高齢の母の介助のまっただ中にいて、確かに、わたしも大変さを感じている立場なのですが、その大変さを解きほぐし、そのことを超えていく、介助の態勢ということを考えていきたいと思っています。
介助は快助の側面もあるという思いももちつつ、ひょとしたら、「やっぱり大変さという結論しか出てこないよ」、ということになるのかもしれませんが。
とにかくかなり赤裸々な体験を連載していきます。
赤裸々となれば、母のプライバシーの侵害という問題も出てきます。ですが、ペンネームを使っていて、しかも、わたしの文が母の周りのひとに届かないということを逆手にとって、そして何よりもわたしの理論先行で実践がおいつかず、母と衝突してしまう、そのことを少しでも緩和していく自己検証という意味も込めての、文にしていきたいと思っています。


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