2021年05月17日

NHKスペシャル「家族が最期を決めるとき〜脳死移植 命をめぐる日々〜」

たわしの映像鑑賞メモ048 
・NHKスペシャル「家族が最期を決めるとき〜脳死移植 命をめぐる日々〜」21.4.11 21:00-21:50
この番組の情報を流してくれたひとがいて、見ることができました。
レシピエント(臓器移植を受けるひと)の情報はかなり出てくるのですが、ドナー(臓器を提供するひと)の情報は余りでてきません。この番組は、ドナー側のしかも、今日改訂臓器移植法の制定で、家族の判断で臓器の提供ができることになったなかで、残される家族の死者への思いから揺れ動く心情をとらえた番組です。
三つの話からなっています。ひとつは子どもが交通事故で亡くなり、脳死が宣言されて、父親が移植によって臓器が他のひとの中で生きることによって子どもが生き続けるということを母親に提起して、母親は迷いつつそれを受けいれていき、そして子どもの同級生の卒業式で、臓器移植をした話を母親がしていく場面が出てきます。
もうひとつは、生き甲斐をもっていた職場が変わり、そのことに悩んでいた父親が子どもに当たるようになって別居していたところ、父親が自死して、母親が贖罪の意識にかられていたところ、母親が父親が臓器移植の意志表示していたことを思いだし、臓器の提供をしたという話です。
三つ目は、実は、バランスをとろうとしたのか、子どもを交通事故で亡くした母親の、臓器移植しなかった話です。これは、死に関してよく言われること、「ひとは二度死ぬ、ひとつは肉体的な死であり、もうひとつは、周りのひとの記憶からそのひとが亡くなるときだ」ということで、母親の思いのなかで子どもが生き続けていることなのですが。わたしはねこれがそもそもオーソドックスな死者への思いだったのだと思っていました。
さて、脳死臓器移植のそもそもの問題点は、そもそも臓器移植のために「脳死をひとの死」と規定していくことから始まっています。体がまだ温かいのに、臓器を取り出し、ドナーに死をもたらします。そもそもは、心臓の停止、呼吸の停止、脳波の停止、細胞が死に向かって壊死していくそのことをもって死とされていたのを、脳死を軸に据えて、いくつかのテスト(それ自体が死をもたらすことも含めて)や準備作業が死をもたらすことも含めて、臓器移植が進められていくということがあります。そもそも、脳死判定をされたひとが生き「帰り」、生き続けている事態がいくつも出ているのに、なぜ脳死臓器移植が進められるのか、どうしても理解できません。
そして家族の臓器移植の承諾・決定を生み出していく言説があります。それは、「いのちのリレー」とか「子どもの臓器が他のひとのなかで生きていくことによって、亡くなったひとが生きていく」というような錯覚とか言い様がないことが、いったい誰が言い始めたのか、わたしはつかめていないのですが、そのような非論理的な話にドナーの家族がとらわれていくということです。
これから先の話、講演会とか本とか読む中でわたしが得た知識、ほんとは文献を示しつつ、どこまでがその文献の話で、どこからがわたしの意見なのかをはっきり区別して書いていくことですが、そもそもこのようなことあいまいなまま、新たに論を形成していくことなので、あえて、わたしの現在の考えとして書いていきます。
そもそも身体(註1)の部位は、身体総体の分節です。切り離した場合、新たなホメオタシスを形成し身体が生き続ける場合もありますが、その部位がなくなることによって身体総体の死を迎えることもあります。その部位は、身体総体の死のなかで部位も死んでいきます。ところが、それを「医学の進歩」と称して、他の身体のなかに移植する技術を創り出しました。他の身体の部位を移植すると、移植された身体はその新しい部位を拒絶する免疫機能を働かせます。それを抑制する、免疫抑制剤を創り出すことによって移植を可能にしたとされます。
そこで、「命のリレー」とか「臓器移植で、そのひとのなかで死者が生き続ける」ということはどういうことを意味するのでしょうか? その論理が成立するには、移植された臓器が、人格をもっているということでしかありません。移植される臓器も生命体ですが、それは人格であるとか「その人格の分節である」(「人格の分節」などいう概念は実は存在しえないのでしょうが)であるなどということ、そのようなことに近い論理が成立するのは、元の身体の一部であることが必要であるわけで、元の身体から切り離された部位に人格があるとは思えません。もし、そのようなことがありえると仮定したら移植された部位が、移植された先の身体を乗っ取ろうとする、そしてそれに対して乗っ取られる恐れがある身体がそれを拒否しようとすることが免疫機能だという恐ろしい話になっていきます。そんな仮定が成立するなら、臓器移植は許されるはずもないことです。これらのことには、「仮定は否定である」というヘーゲルの規定を適用せざるをえないことですが。
仮定の話から外れて、現実の話を書きます。移植される臓器も生命体ですが、実はその臓器をモノ化することによって可能になるのです。これは、実はその実態がまだ体系的に明らかになっては来ていませんが、現実に進んでいる臓器売買の話、すなわち臓器の商品化というモノ化ということによって明らかになってきています。その臓器のモノ化は、そのことを通して、ひとそのもののモノ化になってしまっているのです。だから、そのようなことの批判を避けるために、臓器の売買、商品化を禁止しているのです。
さて、この番組の話に戻るところですが、わたしはその家族思いの分析をしたくありません。問題はおかしな言説を広めた臓器移植を推進するひとたちの言説の批判なのです。
さて、この番組は家族の決定を問題にしています。そもそも自己決定ということで、これ自体も欺瞞なのですが、進められてきたことを更に、本人の自己決定も無視して、家族の決定にすり替えています。以前、朝日新聞のコラムで、フェミニズム社会学の上野千鶴子さんが、高齢者が介護保険を使って老後の生活を送ろうとするとき、障害になることがある。それは家族だ。というようなことを書いていました(註2)。家族は、まさに利害関係者なのです。
誤解のないように書いておきますが、この番組に出てくるひとたちに、このような家族内のエゴイズムというようなことがあったわけではありません。しかし、現実に臓器移植をめぐる家族の決定ということが、何をもたらすかをきちんと考えておくことが必要だと思えるのです。
この番組は、かなり問題点をとらえようとしているのですが、やはり、ジャーナリズムの中立性にとらわれて、問題を掘り下げていません。その問題を掘り下げるために一石を投じておきたいと、文を起こしました。


1 身体論も勉強し始めていたのですが、「身体とは関係の分節である」という提言に出会って、それに納得したまま、多くの課題ととともに棚上げしてしまいました。身体ということばを使うと、精神と身体という対比なのですが、わたしは身体を「肉体と精神との統一としての身体」としてとらえています。
2 上野さんは介護保険制度や福祉制度を過大評価していると感じています。実際に、それだけで、「文化的に生き」、もしくはそもそも生き得るようにはなっていません。


posted by たわし at 00:27| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする