2021年03月17日

加藤一夫『アポリアとしての民族問題―ローザ・ルクセンブルクとインターナショナリズム』

たわしの読書メモ・・ブログ553
・加藤一夫『アポリアとしての民族問題―ローザ・ルクセンブルクとインターナショナリズム』社会評論社1991
 ローザの学習18冊目です。ローザの『民族問題と自治』の訳者の著作で、ローザ論の著。これも再読です。
 ローザの民族問題での論争の背景や、道行きのようなことを展開してくれています。ただ題名にもあるように「アポリア」=論難として、いろいろな矛盾を抜き出してくれているのですが、解決の道筋をしめしてはくれていません。わたしはこの道筋を反差別ということをキーワードにして、探っていく作業をしているのですが、まだきちんと提起できないまま、試行錯誤しています。この読書メモの最後に追記として、わたしなりの現在的とらえ返しを書き置きます。
 冒頭に書いているようにこの本は再読です。一回目に書いた時に、簡単なメモを最後に残していました。「民族問題、長期的利害と短期的利害の対立」「レーニン、従属論、手段論=道具論」「アポリア――アキレス腱」「民族問題=やっかいな問題」――左翼(社会変革を志向する集団)は、民族問題のみならず、差別の問題をやっかいや問題としてとらえたり、差別=階級支配の道具論に陥り、その裏返しの政治利用や切り捨てに陥ってきた歴史があります。そのことの総括が今問われています(長期的利害とは社会主義革命への課題で、短期的利害とは反民族差別の運動と規定できます)。
 この本は、著者が過去にいろんなところに掲載した論文を本にしたものです。したがって、各論攷はかなり独立性を持っています。ですので、各章・各節に沿った、コメントと切り抜きという形で進めます。ここでは、簡単に押さえる作業をします。この本を最初に読んだときに、第一章に留意していました。そして、第二章は、前の読書メモで訳者解説として掲載されていて、留意していた論攷。ですから、その2つには、かなり詳しいメモを残します。他は、歴史に関する事、歴史を押さえるときに必要になるのですが、民族問題の議論においては、歴史は背景的なことです。ということで、ここのところメモが尨大になっているので、かなりはしょります。
 最初に目次を上げます。レイアウトは変えています。
         目次
はしがき
序章 社会主義の転換とローザ・ルクセンブルク●ルクセンブルク思想の再検討
 1 ローザ・ルクセンブルク再検討のための課題
 2 組織と体制の民主主義をめぐって
 3 ルクセンブルクの民族問題は把握とインターナショナリズム
第一章 ローザ・ルクセンブルクと民族問題●民族問題論争史ノート
  はじめに
1 Nationについて
 2 マルクスとエンゲルスの民族問題把握
 3 ポーランド問題――論争の開始
 4 オーストリア・マルクス主義と民族自治
 5 「民族問題と自治」の論文について
 6 レーニンの反論――論争の展開
  むすびにかえて――若干の問題提起
第二章 ローザ・ルクセンブルクの民族理論●「民族問題と自治」をめぐって
  はじめに
 1 ポーランド社会主義運動の二つの潮流
 2 「ポーランド問題」論争
 3 一九〇五年革命と綱領問題
 4 「民族問題と自治」論文の執筆過程
 5 民族自決権の否定と国内自治の論理
 6 レーニンとの論争
 7 ルクセンブルクの民族論の悲劇
  結びにかえて
第三章 諸君とわれらの自由のために●ロシア革命とポーランドの解放
  はじめに
 1 革命的連帯思想(インターナショナリズム)の展開
 2 ロシア革命と国際主義者の活動
 3 「辺境問題」とポーランド解放
 4 国際主義の限界――結びにかえて
第四章 ポーランド史における自治●「連帯」運動の問題提起に即して
  はじめに
 1 シュラフタ共和制と自治――多元主義と分立主義の起源
 2 ポーランド解放闘争と自治――社会主義運動と独立・自治論争
 3 第二共和制における自治――地域的自治制の確立と破綻
 4 戦後ポーランドにおける自治――労働者自主管理と社会的自治の再生
 5 「連帯」運動が切り開いた自治の地平――自治共和国への展望
  結びにかえて
補論 ローザ・ルクセンブルクの「ポーランド」論
書評 1972-90

序章 社会主義の転換とローザ・ルクセンブルク●ルクセンブルク思想の再検討
 1 ローザ・ルクセンブルク再検討のための課題
 この著は、丁度、ソビエト連邦の崩壊時に書かれていて、著者は最初に、その「社会主義」と言われていることについてオーソドックスな批判的コメントをしています。14P・・・わたしはそもそもそれは括弧付きの「社会主義」であって、社会主義の定立に失敗したのだと押さえています。
 ローザ・ルクセンブルクは「マルクス――レーニン主義」の異端として、「マルクス――レーニン主義」を批判していました。その中身は@組織と体制の民主主義に関する批判A民族問題把握批判B「帝国主義論」に関する批判15-6P
 2 組織と体制の民主主義をめぐって
前節の後段の@について、『ロシア社会民主党の組織問題』での、レーニン組織論批判、『大衆ストライキ、党、労働組合』での、「大衆の自発性」の論攷20P
「ルクセンブルク自身は「大衆・民衆の政治参加」を強調しているのだが、その前提にある知の過剰、理論過剰に大きな問題があるように思われるからである。」22P・・・そもそも「参加」ではなくて革命主体の話なのですが、そもそもローザも革命的インテリゲンチャで、彼女自身がとりこまれた「前衛党論」はこの問題を抱えています。当時の知の格差ということがあったのですが、このことは、繰り返しおきてくることで、前衛党論自体からみなおしていく必要があるのだと思えます。
 3 ルクセンブルクの民族問題把握とインターナショナリズム
「ルクセンブルクにとって民族という概念を特定の経済的共同体とは考えず、言語・文学・芸術、習俗、宗教のような精神文化の諸特徴と財の総体と考えた。・・・・・・ルクセンブルクにとって、国民国家とはブルジョア国家に過ぎず、例えばロシア帝国やハプスブルグ王国に併合されている現在の少数民族が独立国家を形成することに反対した。国民(民族)国家なしの民族の自立、これがルクセンブルクの主張である。」24P
「ロシア革命以後、民族自決権と革命の利益は鋭く衝突した。」25P・・・中央集権主義的運動と民族自決権はアンチノミーになるということ。
「おそらく、彼女のインターナショナリズム思想の根底には、かつてのI・ドイッチャーが規定した「非ユダヤ人的ユダヤ人」の自意識というものが投影されているのではないだろうか?」29P
第一章 ローザ・ルクセンブルクと民族問題●民族問題論争史ノート
 この論攷は、著者の論攷のアウトラインを示す章になっています。ここでは、著者の論攷に直接沿う形ではなく、著者の論攷とのわたしの対話も含めて、わたしの自身の押さえも含んだ作業をしてみます。
  はじめに
1 Nationについて
「はじめに」とここの節で、いろいろ本文の中でも本の紹介がされています。この本は再読なのですが、最初にこの本を読んで、この本で紹介されている本を買い求め、読んでいったことを思い出していました。この民族問題も、学習半ばで棚上げにし、わたし自身のはっきりした民族問題の押さえをなしえていなかったのですが、この読書メモの最後のノート的な文で、中間的な押さえをしておきたいと思います。
 さて本題に入ります。
Nationの訳語は、民族、国民、国家ということ。で、民族の規定は、マルクス―レーニン主義では、ロシアでは、レーニンよりも「グルジア人」という少数民族の出であったスターリンの民族規定が先行したようです。そのスターリンの民族規定は、「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの歴史的に構成された人々の堅固な共同体である。」36Pとなっています。それで、著者は、この系譜は、マルクス/エンゲルス、カウツキー、レーニンの国民国家論――単一民族国家論的な展開になっていて、それとは別のオーストリア・マルクス主義者の複合民族国家論の系譜があり、ローザもこの系譜にあるとの指摘をしています。そして「前者が、西洋的な近代国家のイメージがあるが、後者は西欧外世界、「第三世界」の国家のイメージをもっている。」37-8Pと押さえています。
「単一民族などは、あくまで資本主義発展の理念型でしかなく、現実には存在したことはない。現在の西欧先進諸国においても、多くの外国人労働者を抱えており、ますます複雑な他民族国家の様相を強めている。」38P
「多民族国家意識から出発すること、これがルクセンブルク民族理論を明らかにする前提であり、それを解明する方法である。」38P
 2 マルクスとエンゲルスの民族問題把握
 マルクス/エンゲルスが「帝国」の植民地支配を、進歩の助長としてとらえる、進歩史観や発達史観と言われるところから民族の問題をとらえていたことがあります。それで、エンゲルスはその考えを維持し続けたという著者の主張ですが、マルクスは、単一的発展史観といわれることを修正していったということがあります。それらのことを、古代社会ノートやインドやロシアの共同体研究の中で、なしていったのです。ここで、著者は、マルクスの「アジア的」という語の差別性の話を書いているのですが、これは『資本論』草稿の中の「アジア的生産様式論」を指すのであれば、むしろ、逆で、そのことをつかむことによって、単一的発達史観から脱したと言われていることで、これは著者の勘違いのようなことです。
「マルクスもエンゲルスもNationについて厳密な検討もせず、明確なイメージももたず、単に、当時の西欧において支配的であった国民意識に、己の感性を合致させた思想を形成したとすれば、なおさら再検討を要する問題である。このことは、マルクス主義は解放の思想なのか、あるいは覇権の思想なのか、その初源において問うことを意味するからである。」42P
 3 ポーランド問題――論争の開始
マルクス/エンゲルスのポーランド論「ポーランドは、西欧ブルジョア民主主義革命にとって利用しうる価値がある、というという理由から評価されていたのであった。これが、いわゆるポーランド防壁論である。」44P・・・むしろ発達史観――進歩史観による、歴史の歯車を前に進めることを支持するというマルクス/エンゲルスの主張。
 ルクセンブルクのトルコに対するマルクス/エンゲルスと反対の主張――独立の旗を掲げるべき、ポーランドでの論争と逆48P・・・「資本主義的融合」や「資本主義的発展」の論理。スラヴとゲルマン――西欧のどちらの方に身を寄せていたかの違い。「オリエンタリズム」の問題も。
「ルクセンブルクにとって国民国家は、カウツキーが主張するように進歩的なものではなかった。それは、最初から他民族を抑圧するものでしかなかった。」48P
「ここから、彼女はその後、国民国家を形成する独立に反対する一方で、各民族の同権の保証を強調し、そこからポーランドの民族文化=民族性を擁護するというプロレタリアートの任務を、ポーランド自治論として提起し、展開していくことになる。」49P
 4 オーストリア・マルクス主義と民族自治
 オーストリアは多民族国家であり、その国家の維持のために、自治的な自由を求めるというオーストリア社会民主党の方針。
 カール・レンナーの民族的連邦主義とオットー・バウアーの文化共同体論(地域と言語を民族の構成要因にしない)
「このようなオーストリア・マルクス主義の提起した政策は、いわゆる民族的・文化的自治制として、ロシアや東欧の多民族国家の社会主義政党に大きな影響を与えた。中でも、ユダヤ人の労働者党ブントに大きな影響を与えることになった。バウアーは、地域や言語を問わぬ個人原理に立った文化共同体を民族だとして、ユダヤ人も民族として認知したのである。」52P
「カウツキーは、またバウアーの個人原理に反対し、地域を指標とする地域原理を対置した。さらに、彼は、何よりも民族にとって重要なのは、言語の共通性であると主張した。したがって、民族共同体とは、何よりも言語共同体なのである。これに地域の共有制と共通の経済圏という要素が加われば、ひとつの言語共同体に複数の民族が含まれることも可能となる。この言語と地域から、カウツキーは、ユダヤ人を民族とは見なさなかった。/カウツキーの思想は、マルクスとエンゲルスの民族国家形成の思想を継承し、また「経済外要因」としての言語の問題によって、これを発展させたといえるが、重要なこことは、この思想がまっすぐにレーニンとスターリンに継承されたということである。後にスターリンは、このカウツキーの主張を下敷きにして、自らの民族概念を引き出すことになる。」52-3P
 崩壊前のソ連邦では、カウツキー――レーニンの流れが建前になっていて、連邦主義的になっているという話53P・・・そもそもレーニンの自決権が建前――虚構でしかなかったのでは?
「さて、このような背景の下で、ローザ・ルクセンブルクは、今度はバウアーの理論の方に身を寄せて、自らの民族自治論を展開するのである。」53P
 5 「民族問題と自治」の論文について
 ローザの民族問題でのいろいろな矛盾を著者はここで取りあげています。確かに、ローザもレーニンと同じように民族解放闘争を階級闘争に従属させていますので、そのあたりから、他の民族問題でのいろいろな矛盾する論攷が出てくるようです。
「しかしながら、結論からいえば、彼女は結局、民族自決権を否定する論理と国内自治を要求する論理とを結びつけることはできなかった。なぜなら、国内自治が何らかの地域的区分を要求するとすれば、資本主義融合による一体化、すなわち、地域的区分の否定という前者の論理に矛盾してくるからである。民族を非政治的な文化概念にとどめたはずが、そこまでいくと政治的な役割を付与されてしまうからである。/また、ポーランドのみに地域を限定したことにより、リトアニア、ウクライナ、白ロシアの民族を否定することになったことも問題であった。これは、ある意味で、「文化なき民族」の主張で、別の見方からすると、民族性次元ではマルクスの「歴史なき民族」の再版になってしまう。結局、ルクセンブルクは、論理の内的な整合性を失って、この論文の完成は挫折してしまうのである。」58P
 6 レーニンの反論――論争の展開
 レーニンは、「われわれの綱領における民族問題」で、「民族問題を階級闘争の一環として捉えることを強調し、民族自決権を、この階級の利益に従属させることを要求した。さらに、彼は、問題をブルジョア民主主義の一環に位置づけて・・・・・・」59P
「当初、民族問題を当面する課題に位置づけて論じたのはスターリンであった。・・・・・・つまり彼(スターリン)は(『マルクス主義と民族問題』で)、バウアーの「民族的性格」を接木して「心理状態の性格」をつけ加えたのだった。」60P
 レーニンは「カウツキーの主張こそが正しい」としてローザの批判を「民族自決権について」で行う。その内容は@「民族問題を抽象的に捉えるのでなく、歴史的具体的に捉えねばならない」60-1PA「ルクセンブルクが民族自決を政治的自決としてみないで、経済的な自立にすり変えてしまっている」62PB「民族と階級の関係について。民族を階級に解体してしまった」62PC「ルクセンブルクの実際主義に対する批判」62P――「ここで、レーニンはもっぱらルクセンブルクの民族自決権否定の側面に焦点をあてている。ルクセンブルクの自治論には、なぜかまったく触れていない。」62-3P・・・レーニンの方が一般的には「実際的」、レーニンの自決権も階級闘争の従属論
 ローザは『資本蓄積論』で(植民地領有への批判として)「現代の「第三世界」と帝国主義本国との関係を先駆的に示唆した・・・・・・」64P――『資本蓄積論』からの引用「資本蓄積は資本主義的生産様式と前資本主義的生産様式とのあいだで行われる資本転換の過程である。前資本主義的生産様式なしには、資本の蓄積は実現されないが、しかし、蓄積はこの面からみれば同時に前資本主義的生産様式の咀嚼と同化によって実現される。」64-5P・・・部分引用、ここにはローザの傍点、傍点のあるところの切り抜き
「この問題意識は、今日の低開発理論との関係において重要である。なぜなら、A・G・フランクがいうように、現在の低開発は、資本主義の発展過程の数世紀にわたる関係の結果であり、低開発は、世界的発展そのものによって創出され、中枢部との絆が強いところほど、今日、最も低開発状態にあるからである。アメリカの民族問題家H・B・デーヴィスは、この点から、マルクス主義の民族理論を対象化したうえで、ルクセンブルクの理論が今日、より有効であるとしている。」65P
「(レーニンも)原則問題から現実的な政策問題になる中で、彼の「最後の闘争」として提起される連邦主義への妥協も、スターリンの「自治化案」に対する抵抗も、原則を一歩後退させたところの譲歩にすぎなかった。今日(この本が書かれた一九九〇年前後)、ソ連で発生している構成諸民族の運動が、レーニンのこの時の態度の動揺に関連しているといっていいであろう。長い民族問題論争で出されてきた多様な問題が、その後も未解決のままに投げ出されているのである。」65-6P・・・そもそもレーニンの自決権は、中央集権主義との関係で「建前」や虚構になっていくしかなかったこと。
  むすびにかえて――若干の問題提起
「民族の問題は、歴史を動かす主要な動力であるとともに、歴史的社会的諸矛盾の結節点でもある。今日、世界中のどこを見まわしても、この問題から自由な国はないといっていい。」66P
 著者の問題提起@「Nation意識の転換、すなわち、民族(国民)国家意識を他民族国家意識のなかで相対化すること。」68PA「民族問題を階級との関連で捉えること。」――「民族問題のなかにおける支配の構造を明らかにする重要性を指摘したい。階級の問題を無視するなということである。」68PB「以上の前提に立って、社会主義国における民族問題の再検討を行う必要がある。」69PC「民族自決権思想の現代的有効性を再検討する事。」69P――「帝国主義が建前として、形式として独立国家を維持させながら、経済的に従属させるという新しい支配と抑圧の様相が深まっている・・・・・・」70P(・・・「従属論」や今日的なグローバリゼーション論)D「民族自治論の再検討」――「ルクセンブルクの理論的挫折も、その意味や理由について詳しくみる必要があろう。彼女が提起した、資本蓄積論と民族問題との関連についても、現代的視点で捉え直すことが重要である。これについては最近の従属論の展開が期待されよう。」70P
第二章 ローザ・ルクセンブルクの民族理論●「民族問題と自治」をめぐって
 これは、『民族問題と自治』の邦訳の訳者解説として書かれていたものの掲載。
  はじめに
 ここは、原文からかなり書き改められています。
 1 ポーランド社会主義運動の二つの潮流
 マルクス/エンゲルス(民族問題では、独立志向のポーランド社会党の流れ)とポーランド社会主義者たち(ポーランド社会民主党の流れ)との認識の違い――一八三〇年一一月蜂起五〇周年記念集会へのマルクス/エンゲルスの連名での書簡で、「彼らは、ポーランドの蜂起と西欧における階級闘争との関係について、従来の見解を繰り返し、ポーランド独立再生を目指す闘いに支援を送ることを強調して、「古くからの叫び『ポーランド万歳!』を繰り返す一つのきっかけになるだろう」と結んでいた。」←「これに対して、ヴァリンスキは、「万国のプロレタリアート団結せよ!」というスローガンを、ブルジョアジーも引きつける「ポーランド万歳!」に結びつけるような政治的組み合わせは、しだいに意味を失いつつあり、ポーランド人の闘いは、国家再生ではなくて国際的な階級闘争の一環であるとして、「ポーランド万歳!」に「社会革命万歳!」を対置したのだった。彼によれば、自分たちは「ポーランドよりも、もっと不幸な『国民』であるプロレタリアートという『国民』のメンバー」なのであった。彼の主張は、ポーランドとロシアのプロレタリアートの革命的な連帯により、ロシア帝国全体の民主主義革命を遂行し、そこでポーランドの自治を獲得することであった。」75-6P・・・この流れが「プロレタリア党」から「社会民主党」の流れになっていきます。
 2 「ポーランド問題」論争
「争点が第二インターナショナルの場に持ち出された・・・・・・オーストリア社会民主党のブリュン(ブルーノ)綱領(一八八九年九月に採択)」――「重要な論点として、多民族国家の民族問題を、国家の枠組みを崩さずに具体的に解決する方向に関する提案があった。とりわけ、この問題を解決するために、K・レンナーやO・バウアーが提起した個人原理にもとづく「民族的・文化的自治」の論理は、その後、ロシアとポーランドの社会主義運動に決定的影響を与え、民族問題の重要な論点になっていった。」78P
 3 一九〇五年革命と綱領問題
ポーランドの社会民主党の流れの党の歴史
「このような状況の中で、ルクセンブルクは、党内におけるイデオロギーの調整と組織のあり方を再検討する必要に迫られることになった。これにはまず、「プロレタリアート党」以来、なお党内に残存している古い党のイデオロギーを克服しなければならなかった。このため彼女は、一九〇三年に、『社会民主主義評論』に、「『プロレタリアート党』の追憶に寄せて」という一文を書き、ヴァリンスキの国際主義思想を批判的に検討し、この党がマルクス主義とブランキズムとの接木であり、「政治綱領をもたぬ西欧の社会民主党であると同時に、農村共同体をもたぬロシアの『人民の意志』党であった」と総括した。」84P
「一九〇五年革命は新たな展望を切りひらいた。と同時に、この革命は、党とルクセンブルク自身にいくつかの贈り物を与えた。彼女自身もまた、この革命から多くを学んだ。何よりも重要であったのは、革命は東から起こるという可能性を確認させたことであった。しかし、この時でもまだ、ドイツの社会主義者たちは、ロシア革命の可能性を信じていなかった。」86P
 4 「民族問題と自治」論文の執筆過程
「一九〇七年、彼女(ローザ)は、やっとフィンランドからドイツにもどってきた。・・・・・・だが、この時、「民族問題と自治」が緊急の政治論文として浮上するようになった。その背景として」89P――@「一九〇五年の革命以後、事実上やりかけていて中断していた綱領問題を解決すること、特に、ポーランドの国内自治の内実を明確にする必要があったこと」89PA「これとの関係で、すでに全体党との組織的な関係を明らかにする必要があったこと」(特に、レーニンの無署名論文がでていたこと)89PB「一九〇七年八月の第二インターナショナル・シュトットガルト大会でこのレーニンと出会い、・・・・・・軍国主義と帝国主義に反対し・・・・・・修正案を共同で起草したこと」90P(・・・レーニンとの一定の共鳴)C「この時、次のような新たな民族問題論争が起きたこと」――「次の」内容、O・バウアー(「民族の本質を「運命共同体から生じた文化共同体および性格共同体」と規定」、「文化的共通性という「心理主義立場に立」つ」、「属人主義の原理」、「民族的・文化的自治」の論理の主張」90P)vsカウツキー(「バウアーが「言語や地域といった民族形成の重要な要因を無視している」ことに異論を立て」、「民族は何よりも、言語共同体からなる地域の共有性であるといういわゆる属地主義(・・・・・・)の原則に基づく地域共同体であると主張」、「バウアーの「民族的契機の過大評価と国際的契機の無視」について批判」、「民族文化ではなく国際文化の重要性を指摘」91P)。「このカウツキーの考えは、後にレーニン(そして、・・・・・・スターリン)の民族理論に引きつがれていく。」vs「ルクセンブルクは、この論争からは、どちらかというとバウアーのイメージに身を寄せて彼女の民族理論を展開していくのであるが(・・・ローザは誰よりもインターナショナリストだったから、必ずしもバウアーと共鳴していない。『資本蓄積再論』でのバウアー批判も)、いずれにしても、こうした背景を背にして大論文「民族問題と自治」を急遽執筆することになった。」91P
「しかしながら、彼女は、予想外にこの論文の執筆に苦しむことになった。それは、単に、その時作業中であった経済学の著作の執筆による時間不足だけではなかったように思われる。一九〇五年以来考え続けていた「自治」という難問に悪戦苦闘しなければならなかったからである。」92-3P
 5 民族自決権の否定と国内自治の論理
「一九世紀末のロシアや、中東諸国などの多民族国家で生まれつつあった様々な民族解放闘争には、ある共通するスローガンがある。民族自治のスローガンである。とりわけ、「諸民族の牢獄」といわれていたロシア帝国内の諸民族の動きのなかに、それが顕著にみられる。」93P
「ポーランドにおいても、初期の社会主義運動のなかに同じようなスローガンがみられる。だが、ポーランドの場合は、「歴史的民族」という使命をもち、国家の再生という課題を掲げてツアーリ帝国に挑戦した歴史的な経験と、一九世紀の七〇年代に始まる民族(国民)主義運動の広般な影響のもとにあったから、民族自治の問題をたんに非政治的・文化的な枠組みにとどめずに、政治的な課題として考察しなければならなかった。これは、国家独立を否定し、所与の国家の民主化=ブルジョア民主革命を目標に掲げた、国際主義の潮流に沿う社会主義運動が解決せねばならない難問であった。このために民族(国民)と国家、政治と文化の相克や相互関係を深く考察しなければならなかった。」93-4P
「いわば彼女は、ポーランド人の民族性を擁護しつつも、ポーランド革命ではなく、ロシア帝国全体の革命を、ロシアのプロレタリアートとともに遂行するという課題をそこで提起したのだった。逆からいえば、彼女の主張するポーランドとロシアの資本主義的な融合、ないしは、「有機的合体」の論理も、この戦略的な前提によって規定されて理論づけられていたともいえよう。だが、急いでつけ加えるならば、彼女はその論理だけを全体から切り離して強調したのではない。民族自治、ポーランドの国内自治との相互関係のなかでそれは提起されたのである。後年、この自決権否定の論理をもって彼女の民族理論の本質と評価されるが、これはまったくの一面的な評価でしかない、ということをここで強調しておかねばならない。」94P
 民族問題での論点@「民族ないし国民の概念についての規定」95P――「彼女は、民族をオーストリア・マルクス主義者の非政治的・文化的なイメージで捉え、カウツキーの政治概念としての国民とある程度区別していることが明らかになろう。」95PA「資本主義の発展と国民国家の問題である。」95P――「そこで、彼女は、国家的な分離=個々の国民国家の形成を求めずに、巨大国家の枠内で、その国家の民主化を目指し、諸民族の同権にもとづく政治的自由の獲得がプロレタリア国際主義の重要な課題となり、逆にトルコのように巨大国家へ向かう前提がないような国では、構成諸民族が独立して国民国家を形成すべきだと主張した。」96P(・・・ローザのブレ)B「自治の問題である」96P――「そして実際、すでに述べたように、SDKPiL第五回大会(一九〇六年九月)では、この綱領草案に沿って、それまで承認していたリトアニアの自治を否定している。なぜ国内自治は、ポーランドにのみ承認されるのか。おそらく彼女は、リトアニアの自治をポーランドと同じ理由で承認すれば、他の民族も同様な要求を出してくるにちがいない。そうすれば、彼女の「有機的合体」の論理が全面的に破綻する恐れがあると考えたのであろう。そこで、国内自治が成立する要件として、文化的自治という理由づけを使用することになったのである。」98PC「この民族文化が問題になる。」98PD「彼女の農民に対する把握そのものについて簡単に触れておく必要があるであろう。以前から彼女は、「農民層は、総じて何の政治的相貌ももっていない」と指摘していた。そして、農民世界の伝統、保守性、地域的閉鎖性などから、その文化を近代的なブルジョア文化とは無縁なものとみなしていた。」99-100P(・・・ローザの農民問題のとらえ方は、マルクスの流れの発達史観――進歩史観からきているととらえられます。)
「国内自治を具体的に実現していく過程で、独立国家否定の論理と明らかに矛盾する問題が生じ、しかも文化的な発展の論理によってポーランドだけに国内自治を限定したことによって、かつてエンゲルスが主張した「歴史なき民族」の存在を承認することになり、民族的同権と矛盾する差別の論理に行き着いてしまう。」100P
 ローザの僚友ヴァルスキーの提言「・・・・・・著者(ローザ)はそれに答えられなかったが、いずれにせよ、著者は、この問題を記憶から消そうと考えてしまったようである。・・・・・・」101P
 6 レーニンとの論争
 レーニン自体のゆらぎと変遷102P
「その後、レーニンの民族問題への関心は、オーストリア社会民主党のレンナーやバウアーが提起した「民族的・文化的自治」批判へと向けられた。・・・・・・彼は階級意識をもつ労働者の任務として、すべての民族的圧迫とすべての民族的特権に反対するとともに、すべての民族の労働者の統一と融合を主張することになった。そこから、カウツキーに依拠して、「われわれは、ブルジョア民主主義のスローガンのひとつとしての民族文化に反対する、われわれは、最後まで民主主義的で、また社会主義的プロレタリアートの国際文化を支持する」ことを強調した。」102-3P
「一九一四年四〜六月、同じ機関紙(四〜六号)に、レーニンは、今度はルクセンブルクを真っ向から批判する大論文を発表した。これが後に有名になる「民族自決権について」という論文である。」105P
「レーニンは、まずここで、「『民族自決』とは、ある民族が他の民族の連合体から国家的に分離することを意味して」いること、すなわち、「マルクス主義者の綱領における『民族の自決』は、歴史的=経済的見地からいって、政治的自決、国家的独立、民族国家の形成以外のどんな意味をももちえない」とはっきり断言することから始めている。そして、この視点から、彼は次のような批判の論拠を挙げている。」105P――@「民族問題は、ルクセンブルクのように抽象的かつ形而上学的に捉えるのでなく、歴史的・経済的かつ具体的に捉えねばならない。(著者の意見――この点から、レーニンはカウツキーと同様に、近代資本主義の発達が国民(民族)国家を必然的なものにするとみている。)」(・・・結局近代国家を前提にした民族問題にしてしまっている。)A「ルクセンブルクは、ブルジョア社会における諸民族の政治的自決、すなわち諸民族の国家的独立の問題を、経済上の独立や自立の問題とすりかえている。」(・・・レーニンも階級問題に従属する民族問題と置くことで、政治的自立を無にしている。)B「ロシアにおける民族問題の具体的特殊性を無視して、民族問題を一般的に階級の問題に解消している。」(・・・レーニンも階級問題に従属する民族問題にしている)C「民族問題における原則的な権利要求と、その実際的承認とは別の問題である。したがって、彼女の「実際主義」批判は当たっていない。レーニンはいう。「プロレタリアートにとって民族的要求は、階級闘争の利害に従属。ブルジョア民主主義を完成させるのが、ある民族の他の民族からの分離であるか、それとも、他の民族との同権であるかを理論的にまえもって断言することはできない」」(・・・「階級闘争の利害」への従属論では、虚構としての自決権にしかならない)106P
「民族自決権をめぐるレーニンの批判は、ルクセンブルクの否定の論理とまったく噛み合っていない。その主な理由は、二人の立場の違いからきているように思われる。すなわち、ルクセンブルクは、すでにこの時、「国民経済学」の批判的な検討を通して、帝国主義的発展の遠心的な方向を萌芽的にうち出し、そこから、「民族自決」の権利を否定的に論じているのに対して、レーニンは、まだブルジョア民主主義の権利の一つとして、それを肯定的に論じているからである。」106P・・・レーニンの民族自決権は、ブルジョア民主主義としての自決権、ローザの自治論は社会主義の理念としての自治論。民族問題における反差別は帝国主義の時代のブルジョア民主主義では成り立たない。
 レーニンの「自決に関する討論の決算」でのローザへの接近。107-8P
 7 ルクセンブルクの民族論の悲劇
 ローザはこの論文をきちんと煮詰め得なかったし、その後、いろいろな議論はあったが、この論争をきちんと煮詰める作業も出てこず、スターリンの支配の中で、ローザの理論は異端の位置に落とし込められた。
  結びにかえて
「一九八〇年の夏、バルト海に面する古い商工業都市グダンスクから起こった「連帯」(ソルダルノスチ)運動は、またたく間にポーランド全土に拡大し、体制を根本から揺り動かした。この運動は、八一年一二月の戒厳令によって圧殺され非合法化されてはいるが、運動は今なお、地下で生き続けており、地上への噴出を狙っている。/この運動が提起したのは、「自治(原語略)」の思想であり、「自治共和国」のユートピアであった。ある意味では、ルクセンブルクの思想にギリギリまで接近したといっていい。だが彼女の名前が、この運動のなかから公然と出ることはつい一度もなかったのである。」115P・・・これが第四章につながる文になっています。
「また、資本主義諸国でも、今、例えばフランスのような典型的な「国民国家」においてさえ、社会の地割れ現象が起こっており、地域主義の動きや少数民族の復権運動が高まっている。また、西ドイツでも「緑の人々」の運動のように、高度経済発展に伴う様々な歪みに対する批判や、中央集権的な管理体制に対する異議申し立ての動きが起こり、それは世界的な規模で拡大している。日本も例外ではないであろう。ルクセンブルクの民族論も、このような状況のなかで批判的に再吟味されるべきであろう。」115P 
[註]の最初の文は、「ローザにとつての民族問題」として辞書の項目になりそうな文です。
第三章 諸君とわれらの自由のために●ロシア革命とポーランドの解放
「ポーランド革命史」、とりわけ「ロシアとの関係においてのポーランド革命史」というような内容です。
  はじめに
「一八三〇年蜂起の敗北で、パリに逃れたポーランドの急進的な愛国者J・レレベルの一八三三年の「ロシア人への呼びかけ」の結びのことばの引用。
 1 革命的連帯思想(インターナショナリズム)の展開
 ローザのインターナショナリズムの背景にあるポーランド自体のインターナショナリズム。
 「さらに、重要なことは、彼ら(マルクスとエンゲルス)が、この時、「他民族を抑圧する民族は自由たりえない」という命題を確認したことであった。」137P
「革命的連帯を民族的責任の論理によって行動の中で獲得すること、これが彼(バクーニン)の主張であった。」138P
「ところで、ポーランドの分割についてふれる時、これが同時にウクライナの分割(ドニュプル右岸と東ガリツィア)とリトアニア・白ロシアの「統合」でもあることに注意しなければならない。・・・・・・連帯の思想とは、たんなる一般的な共闘のスローガンではない。民族と民族との間の具体的な関係に他ならない。シュラフタの蜂起の思想には、この点が欠落していたといえる。」139P
 ポーランドの社会主義運動の2つの流れ、リマノフスキ――社会党――ピウスツキvsヴァリンスキ――「プロレタリアート党」→社会民主党――ローザ・ルクセンブルク140-1P
「・・・・・・ローザ・ルクセンブルクは、彼女の生きている時代状況に基づいてマルクスやエンゲルスの見解を批判的に受け継ごうと考えた。そこで彼女は、ポーランドの位置に立って、「ポーランドにおける民族的努力のもつ内的社会的性格を、ヨーロッパにおける国際関係で果たすポーランドの役割に従って判断する」として、ポーランドの解放を、「社会的発展過程の物質的諸関係」の分析を通して提起した。」141-2P
「その(ローザ・ルクセンブルクの)理論の生みだした時代背景と理論との関係について簡単に触れるにとどめたい。」142P――@「先に述べた民族運動の特殊性とその規模の大きさである。具体的にはポーランド語をめぐる非合法的な文化運動がある。」142PA「次に移民問題がある。」143PB「一九〇五年に発生したロシア革命は、これまでの闘争の形態を根底から変えてしまった。」143PC「しかし、ポーランドの一九〇五年は、単なる工業プロレタリアートの革命運動ではなかった。民族主義者による広汎な学校ストライキ運動や農民運動の拡大など、いわば全国的な規模での社会の闘争であった。その意味では、ポーランドで「蜂起的様相」を呈していたといえる。この点からみると、ルクセンブルクやSDKPiLの評価は一面性を免れえない。」144PD「この時期には(一九〇五年革命後)、SDKPiLの活動家が国際主義者として、西欧やロシアで活躍していた。彼らは、「革命の使者」として、国際的な場で、その思想を実践活動に移していた。」144P
 2 ロシア革命と国際主義者の活動
 ロシア革命のなかで、「仲間集団」がロシア革命自体に内在し動いていくのですが、その独自的「仲間」集団がバラバラにされていく状況も書いています。
「しかしながらウクライナ問題から、この点に若干の変化が生じ始める。第三回ソヴィエト大会(一九一八年一月)で報告者のスターリンは、ウクライナの民族自決に関して、「民族ブルジョアジーでなく、勤労者大衆の自決として了解する必要がある」と述べた。この点と、西部ロシア諸国との関係はどうか、という質問に対して、彼は「ウクライナにはソヴィエトがあるが、リトアニアやポーランドにはない」と返答している。」150P
「民族自決権の原則にはある局面で矛盾が起こる可能性を確かに孕んでいた。レーニンもその点を意識していて、「民族自決権と社会主義を比較した場合は、社会主義の方が優先する」「社会主義の方が明らかに弱い時に、ソヴィエト社会主義共和国を帝国主義の打撃に委ねることは許されない」、それ故に即時の講和が必要なのだと強調していた。しかしロシアにいたSDKPiLは、一九一八年一月に声明を出し「民族自決権を勤労者の自決と解釈し」「プロレタリア・ロシアとポーランドの結合のために、革命戦争はあくまでも遂行する」のが正しいと主張して、ボリシェヴィキ内の同志たちに通告した。SDKPiLも同じ態度を明らかにした。」151P・・・レーニンの自決権は虚構になってしまった。
「しかも、レーニンの承認を受けたというチチェーリンの次の発言は重要な意味をもつていた。彼は、「労農国家」とドイツとの平和的な関係の重要さを指摘して、「体制の大きな相違にもかかわらず、常に、労農国家の目的であった両国人民の平和的な共存は、現在ドイツの支配階級にとっても同様に望ましいものである」と述べた。世界革命を志向しながらも、危機の状況の中では、「現実的な政策」をとらねばならないソヴィエト政府の矛盾がここには表現されている。/しかし、在ロシアのポーランド国際主義者たちは、自己の原則的な立場から、それはポーランドと西欧諸国のプロレタリアートを裏切ることになる、という危惧を明らかにした。すでに七月に、国際主義者の政治拠点である「委員部」は、「原因不明なままで」活動を停止していた。拠点を失った彼らは、ポーランド革命派の連帯活動に唯一の希望を託さねばならなかった。」154-5P
 3 「辺境問題」とポーランド解放
 ロシアの「辺境」のひとつとしてのポーランドと他の「辺境」地域との関係。
「辺境」の問題には、マージナル・パーソンの問題を孕んでいて、そこからポーランド論をとらえ返すことも必要。
「しかし、すでに述べたように、彼ら(在ロシア・ポーランド国際主義者)の政治的な拠点である「委員部」が活動を停止してからは、その活動の中心は、ソヴィエト赤軍と共同行動をとるポーランド軍隊の内部における活動であった。したがって、活動の範囲は限定されていた。/この間、顕著な動きを示したのは、ベールゴロド革命軍の解体後に生まれたワルシャワ赤色革命連隊であった。」155P「農民革命の中心であったこの地方に、「最も意識の高い」外人部隊である連帯を派遣して鎮圧にあたらせたことは大きな問題があろう。」156P
「ローザ・ルクセンブルク以来、党派間の共闘の場合も、国際主義者はポーランドの党の自立性を神経質なまでに強調していた。しかし一一月の臨時協議会で、彼らは革命ロシアを無条件に防衛するために、ソヴィエトの各機関に人民委員、軍事コミサール、非常委員会委員(チェーカー)、外交代表など一四〇人の活動家を送ること、ソヴィエト権力を防衛するために反革命を鎮圧することなどに無条件に協力することを決定した。」156P・・・そもそも何が革命で、何が反革命だったのか?
「すでに触れたように、この地域、特にリトアニア、白ロシア、ウクライナは、ポーランドとロシアの歴史的な係争地帯であるとともに、革命的連帯の躓きの石でもあった。この問題をめぐる両者の見解の違いの中にこそ、ポーランド社会主義運動の内部対立の根源があった。」157P
「国際主義者の祖ヴァリンスキは、一七七二年国境問題を、「労働者階級の民主的な権利を獲得する世界大の闘争」の過程で、「自然に解決する」問題だと位置づけた。彼の思想の多くを継承したと思われるルクセンブルクは、資本主義の発展過程から、この地域の後進性に注目しつつ、独自の歴史と文化については、かなり軽視的ないしは否定的な態度をとっていた。このため、国際主義者の辺境認識は、かなり薄いか、あるいは欠落していたといっていい。」157P
「他方レーニンは、かれの民族自決権理論を構築した時、この地域の複雑な民族構成を自己の中央集権的組織原理にどのように組み入れるか、という問題意識が常に念頭にあった。現に、彼に反対したのは、まさにこの地域を活動拠点にしていたユダヤ人組織(ブント)と国際主義者のSDKPiLであった。両者は、民族主義と国際主義という相反する方向を追求しながらも、被抑圧民族の視角から民族同士を結ぶ原理として自治を強調する点では一致していた。彼らは一様に「連邦主義」を唱えていた。これに対してレーニンは、抑圧者で自己の大ロシア人としての視角(レーニン自身、その出自はロシア人ではないといわれている)から、民族自決権を「分離の権利」として、中央集権的結合の不可欠な「例外」原理として主張した。ロシア革命の後に、この辺境地域の解放が現実の課題となってきた時、まさに、ソヴィエト政府は、この原理を反革命の攻勢という状況の中で適用しなければならなかった。この地域を、この原理に従って、「社会主義共和国」の中に、革命の側に引き入れるのか、あるいは、ピウスツキの「連邦主義」原理に従ってポーランド側に引き入れるのか。この対抗関係こそ、内戦後期の革命と反革命の対抗関係であり、一九二〇年のソヴィエト・ポーランド戦争の重要な論点でもあった。」157-8P・・・レーニンの苦闘、自決権の破綻。
「もっとも、彼(レーニン)は、行き過ぎには警戒していた。一一月末に赤軍司令部にあてた書簡の中で、彼は、国境地域にソヴィエトを作ることを強調し、そうしなければ、「ウクライナ、リトアニア、ラトビア、エストニアの排外主義者たちは、わが軍の攻勢を占領と受けとるだろう」とし、その場合、「何よりも、占領諸国における赤軍の立場は極めて悪くなり、住民は、わが軍を解放者として迎えないだろう」と注意を促している。「辺境地域」の解放は、いずれにせよ、軍事的な配慮が優先し、その解放にソヴィエト赤軍が決定的に重要な役割を果たすことになった。」160P
「リトアニアや白ロシアの解放にあっては、軍事的な戦略が民族問題の処理に優先したことを、ソ連の研究者も認めている。」161P
「こうして、ロシア革命とポーランドの解放を結びつけるという国際主義者の目的は達することができなかった。その後ソヴィエト・ロシアが一国社会主義の枠内に入った時、ポーランドの社会主義者たちは、広大なロシアの大地の彼方に姿を消してしまった。」162P
 4 国際主義の限界――結びにかえて
「すでに述べたように、国際主義(インターナショナリズム)とは、被抑圧階級の連帯の原理である。具体的には、その原理は、ある国家と他の国家との関係、一つの民族と他の民族との関係、ある人間と他の人間との関係、とのなかで生きている。ポーランドの国際主義者たちは、「プロレタリアート」の連帯を強調した。その場合、彼らのいう「プロレタリアート」とは、純化され理念化された歴史的主体を示していた。その主体は、彼らの見解によれば、資本主義の発展の程度に応じて形成される、というものであった。当然、そのために、彼らの目は西欧世界を向いていた。西欧諸国こそ、資本主義の最も発展している部分だった。ロシア革命との連帯も、ロシアが西欧を向いている限りにおいて成立するものであった。西欧を向かず、したがって経済的にも後進的民族からなる「辺境諸国」に対しては、冷淡にならざるを得なかった。なぜなら、そこには「プロレタリアート」なるものは存在していないからである。ここには、現に生きている「生身の人間としてのプロレタリアート」への認識は希薄であり、現実的な連帯の視点を欠いている。ここに、彼らの致命的な限界があるといえるかもしれない。」163P
「しかし、ロシア革命やポーランド解放において重要だったのは、辺境の地でうまれ。そこに住み、そこで死ぬ人々にとって国際主義とは何かという問題であった。例えば、ウクライナやアメリカに革命後に移住した農民たちの一般的な声はアメリカの社会学者の研究などから拾い出すことができるが、それは、ドイツ軍によって乱暴に奪われた土地をロシア革命が奪い返すものと期待していたが、赤軍もまたドイツ軍以上に乱暴にふるまったことにたいする疑問や不満である。彼らにとってロシアとは一体何であったのか。/現在、アジア諸国の民族解放闘争との関連で、ロシア革命の再検討と再評価が要求されているが、その重要な視点をこの問いに置かねばならないであろう。このような人々の素朴な対応を「反革命」だとか「反ソ的な空文句」だとして切り捨てるのではなく、現代に生きる人間の声として受けとめなければならないであろう。この点から、歴史の激動の中で見逃されてきた少数民族の解放、小民族国家の自立の問題も、その解放の内側から検討しなおす必要がある。」164P・・・国家は消滅させていくこと
第四章 ポーランド史における自治●「連帯」運動の問題提起に即して
 ここは、ローザの生きていた時代を超えて、ソヴィエト連邦の崩壊に至る過程のポーランドの歴史をとらえ返しています。有名な「連帯」の運動に関するコメントも出ています。
  はじめに
「一九八〇年八月の末から八一年一二月までの約一六カ月間にわたって展開されたポーランド「連帯」運動の突き出した重要な論点の一つに自治=自主管理の問題がある。八一年九〜一〇月に開かれた独立・自治労組「連帯」第一回大会で採択された綱領は、「自治共和国」を目標として掲げた。これは、すでに硬直化している社会主義体制を内側から変革し、下の方から市民社会の再組織化を目指す新しくユニークな戦略を示している。」166P・・・「社会主義体制」はそもそも定立に失敗した「社会主義」だった。
 自治のマルクス派的理念「ところで、自治とは一体何か。社会主義(マルクス主義)の理念からいえば、かつて、マルクスが一八七一年のパリ・コミューンのなかで発見した、支配する者とされる者、管理する者とされる者といった抑圧と従属の関係を取り払い、各人がすべての点で対等に生きることができ、おのれの経済的かつ文化的な生活を自立的に営むことができ、そして、それを通して国家の機能を規制し弱め解体し消滅させていくといった社会の原理が、イメージとしてまず浮かんでこよう。」166P・・・パリ・コミューンの社会主義のイメージ←著者は「しかしながら、今日、自治をこんなバラ色の理想のイメージで語ることはとてもできない。」166Pとしている。・・・このことの探求
 二〇世紀における自治――「ロシア革命におけるソヴィエト、挫折したドイツ革命のレーテやハンガリー革命のタナーチ」、「スペイン革命の中でも」――「ただし、それは制度として確立することなく、大部分は失敗するか空洞化し、あるいは国家体制の付属物となって終わっている。」166-7P
「そればかりではない。体制としての社会主義の歴史をみれば、民衆による自治の発展どころか、共産党独裁になって逆に自治が押さえ込まれていくという歩みを辿ってきた。そして、今や、社会主義体制なるものは、少数の政権党官僚による勤労大衆の抑圧。搾取システムとして完成しており、ソ連にみられるように異論をもつ人々を収容所や刑務所、精神病院に閉じ込めるという極めてネガティヴなイメージをわれわれに与えている。何が自治か、という疑問がわいてこざるをえない。」167P・・・「体制としての社会主義」などなかった。
「当然のことではあるが、いかなる国においても自治は、その国の歴史と伝統から無縁ではない。例えば、社会主義体制の枠内で、経済と社会を自治の原理で組織して、この間、世界の注目を集めてきたユーゴスラヴィアにおける自治=自主管理制度も、一九世紀末のセルビア、クロアチア、スロベニアにおける民族解放闘争と労働者運動の独自性、さらにそれを踏まえ第二次世界大戦時の反ナチス・パルチザン闘争の経験のなかから生まれてきたものであり、いわば歴史的伝統の蓄積が背景にあるのであって、単なる理論家や政治家の思いつきや、机上の白紙の上で生まれるものではない。ポーランドにおける自治の論理も同様である。ここでは他の国とは異なる歴史的経験としての挫折と敗北が累々と積み重なっている。」167-8P
この章の課題は(「はじめに」の最後に書かれている)「この章ではポーランドにおける「自治」の概念、その形成と展開、それに現在の問題について歴史的なパースペクティヴのなかで捉えてみることにしよう。」168P
 1 シュラフタ共和制と自治――多元主義と分立主義の起源
かつてロシアにつぐ第二の大国としてのポーランド168-9P
 ヨーロッパにおける絶対主義王制169P
絶対主義王制とは別の道をとったポーランド――シュラフタ共和制169-170P
「この国家体制のもつ特徴や問題的のいくつかを挙げ、当時の封建的自治の性格と、その歴史的な意味について考えてみよう。」170P――@「ポーランドの共和制国家の主体であるシュラフタ」、「一六世紀がシュラフタの全盛期で、・・・・・・・「黄金の自由」の謳歌」」、「当時、人口の八パーセントのシュラフタが、共和国の土地全面積の六〇パーセントを占有していた」170P、A「シュラフタの特権的地位を支えるのに重要な役割を演じた議会の存在」171P――「一五〇五年にはアレクサンデル国王が、「ニヒル・ノヴィ憲法」で、二院制議会の立法権を正式に承認し、国王の後継者も議会の承認なしに決定できないことになった。」、「ホーランドの選挙王制が確立」171P、「国王とシュラフタの対抗関係は、この時代のヨーロッパにあった身分制度と性格は同じである。」、「ポーランドの議会は、逆に国王を抑え込んでいった。したがって、国王中心の中央集権化をポーランドでは実現できなかった。」172P、B「この議会と密接に関連しながらも、その他の所属領地にあったシュラフタの特権である連名結成権」173P――「この権利は、もともと中世都市の自治のなかから生まれてきた各人の抵抗権で、一般的にはヨーロッパ各国で散見される。しかし通常、それは王権と協調的で、その後王権によって形成された自治という形をとっていくのに対して、ポーランドの連盟は、国王をチェックする役割を果たすことになった。」、「国王在位期に結成された連盟は、必然的に国王に対する反乱権という性格をもつた。これも合法的なものであった。連盟は、個々人の自発的な参加によって生まれ、一定の政治的な目標が掲げられていた。そして、その目標が達成されると解散されるのが普通であった。」173P、「現在の「ポーランド人民共和国」における「連帯」運動は、労働者の連盟であり、ある意味では連盟の現代版といえるかもしれない。」174P、C「ポーランドの国家連合的性格」174P――「一三八五年の「クレヴォ連合」によって、ポーランドはリトアニアと連合国家を形成した。さらにその後、ドイツ騎士団と戦うために、その連合関係を強め、一五六九年の「ルブリン連合」によって、リトアニアのみならず、ウクライナの一部を併合して、独自の諸民族複合国家を生み出すことになった。」174P、「当時の国際環境におけるポーランドの位置」174P――「ポーランドはイスラム教などの異教徒からキリスト教の世界を守る防壁の役割を果たしてきた。そこでは、単に軍事的な力だけでなく、西ヨーロッパ文化の流入やキリスト教文化の定着が重要な意味をもっていた。」174P
 一七世紀以後の動乱の時代175-6P――三回にわたる分割
 ルソーのポーランドに対する「連邦政府」構想177P
 2 ポーランド解放闘争と自治――社会主義運動と独立・自治論争
ポーランドの民族解放闘争のそのものの近代史の歴史の展開の節
 二つの方向と路線の相互に関連し合う歴史――二つの内容@「急進的なシュラフタを中心とする武装蜂起の路線である。」178PA「啓蒙・教育活動を通して、解放の主体を地道に形成していくという方向である。すなわち学問や芸術の振興を通して、ポーランド文化を民衆のなかに広め、ポーランドの民族性を確認してゆく運動である。」 (――一八七〇年代のポジティヴィズム運動、ポーランド近代史の「有機的運動」) 179P
 前述の二つの方向は、独立と自治、「理想主義」と「現実主義」(・・・これはとらえ方<例えば、国家主義批判の立場>によっては反転するのでは?)、ナショナリズムとインターナショナリズムとして対置される。179-180P
 分割して消滅した後の闘いの歴史
 フランスのナポレオンのもとでのポーランド軍団(実際には、傭兵となってハイチやスペインの民衆と敵対、ポーランド解放にはならない)、ナポレオンの敗退の後また分割されてウィーン体制の結び目としての位置、一八二五年のデカプリストの反乱で反ロシア蜂起、その後の一八四八年ヨーロッパ革命・一八七一年パリ・コミューンなどヨーロッパ革命の戦場を「革命の戦士」として生き抜く、一一月蜂起の指導者J・レベルの思想はマルクスとエンゲルスにも影響、一一月蜂起でロシアとの「革命的連帯」→ロシア革命に連動「諸君とわれらの自由のために」、一八六三年一月ロシアへの反旗、ポーランドの新しい道の模索としての「ポジティヴィズム運動」・同時に資本主義の隆起、二つの流れの形成・社会党と社会民主党180-6P
 著者のローザへの自治論のあいまい性への二つの批判@文化の非政治性――実際に政治性が含まれているA民族文化の把握の問題性――農民の切り捨てと他民族の切り捨て186-7P
 3 第二共和制における自治――地域的自治制の確立と破綻
 一九一八年社会党右派のピウスツキ政権での愛国主義と民族主義の奇妙な合同のなかでのポーランド国家の再生189P―――ポーランドとロシアとの「革命的連帯」とインターナショナリズムの敗北
「ラーダ運動は、結局、中央権力と対峙し、それを打倒する勢力にはならずに終わっている。」――「南部の炭鉱地帯ドンヴローヴァ」を例外、これも中央から派遣された軍隊に潰される190P
 共産主義労働者党(後にポーランド共産党と改名)の結成――ローザの影響が強く、民族問題と農民問題を欠落191P
 ポーランドと東欧諸国は「ベルサイユ国家」――ロシア革命の西欧への波及の防疫を担う国家191P
 ピウスツキ政治――独裁からファショ的政治→サナツィア体制――国際的ファシズム運動の影響←地方自治の構想(ファシズムの隆起、また古い地域主義の残存で機能せず)191-5P
ポーランド共産党の対ソ従属の教条主義への陥穽でサナツィア体制の外在的批判者にとどまる195P
 スターリン支配のなかで、ポーランド共産党(KPP)の解体で「ポーランドとソ連との革命的連帯の思想、革命的自治の思想、インターナショナリズムの思想が根底から一掃された・・・・・・」195P
 ナチスドイツのポーランド侵攻で、ポーランド第二共和国の崩壊196P
 4 戦後ポーランドにおける自治――労働者自主管理と社会的自治の再生
 一九四五年、ソ連軍によるナチスドイツからの解放、その後ソ連の後押しで、体制の再編196
「カチンの森事件」やワルシャワ蜂起でのソ連の「裏切り」197P
「自治の観点から、戦後体制の見直し」における問題点198-204P@「地域自治制の解体と統合の問題」A「労働者自主管理の発生・挫折・再生の問題」B「社会的発展を求める運動の発展」198P・・・中央集権的政治とのせめぎ合いと規定性
 自治の概念についていろいろ書かれているのですが、そもそも中央集権的支配に組み込まれた自治と、あらゆるひとのひとに対する支配――差別に反対する自治(社会主義の理念)とを区別すべきこと、勿論、過渡的な問題はあるにせよ、その方向性に向かうかどうかを検証すること。自治概念との議論を再度深化することきに、ここをとらえ返すこと。
 5 「連帯」運動が切り開いた自治の地平――自治共和国への展望
「連帯」の運動の中で出てきた、声明の中の一文「国家は私有財産制の存在と発展を保障する。」212P・・・まさに社会主義とは真逆の論理
「ところで、「連帯」運動の最終段階に現れた自治=自主管理の発展を支えた思想はなんであるのか。それはマルクス主義、社会主義ではなかった。・・・・・・ポーランドの民衆にとって、社会主義とは抑圧的な体制とそれを支えるイデオロギーでしかないのである。」213P・・・ブルジョア民主主義のなかにおける自治は、支配の構造のなかの自治であり、そもそも支配の構造のなかでの虚構の自治にしかならない。社会主義的自治は、共産主義――あらゆる支配関係の止揚、その一歩としての、共産主義に向かう社会主義的自治には、支配関係を止揚していこうということを含んでいる自治を考える事が必要
  結びにかえて
「社会主義共同体において、インターナショナリズムというのは建前にすぎず、実際には不要なものなのである。ここで現代社会主義の悲劇をみることができよう。」214P・・・そもそも「社会主義」で、社会主義ではなかった。
補論 ローザ・ルクセンブルクの「ポーランド」論
 これには副題「J・P・ネトルの所論に寄せて」が付いています。ネトルの本は一応読んでいるので、ここでは、著者のネトルから派生した、もしくは離れた「ポーランド論」を押さえる作業としてのメモを残します。この著者は、ここでかなりの独自的なローザの「ポーランド」論を展開しています。
[1] ネトルが突き出したこと
「しかし、ネトルの場合は、いわば、非政治的価値判断自由という学問的スタンスから史料を駆使し、複眼的視点と多角的な研究方法によって、これまでの政治的な把握を超えたルクセンブルクの全体像を描き出そうとしている。」218-9P
[2] ローザとポーランド
 ポーランド党派史のような文になっています。全部抜き出すと年表になるのですが、ここでは、全部を切り抜くのではなくて、注目すべき文だけメモします。
「(七〇年代)「有機的労働」の綱領を掲げたポジティヴィズム運動が起こってくる。・・・・・・この運動は、女性の平等やユダヤ人への差別反対などをスローガンに掲げていたが、初期のナロードニキ運動の実践も同時に影響しており、社会の底辺で労働すること、底辺の民衆、とりわけ農民の救済や啓蒙活動を通じて農村自治を確立することを主要な目標としていた。これは、また、従来のロマン主義的な民族蜂起の思想を否定し、実利を重視する現実主義的な改良=近代化を追求する試みであった。」220P
「しかしながら、分割諸国に対する極端に忠誠的な姿勢ゆえに、八〇年代以後になると、この運動を批判する二つの運動が登場してくる。民族主義運動と社会主義運動がそれである。/前者は(国民民主党の流れ)・・・・・・/・・・・・・その内部では少数の異質的なものを切り捨てて、多数の同質性を結集することによって、差別と抑圧の構造を形成・確立していったことに注意しなければならない。反ユダヤ主義思想と活動が、この運動のなかから発生していくのである。(・・・ナショナリズムは差別主義的になっていく傾向)。/後者の社会主義運動もこのような時代状況の産物であった。(社会党と社会民主党の二つの流れ、後者の前身の「プロレタリアート」)・・・・・・」221-2P・・・「プロレタリアート」結成者のL・ヴァリンスキの「・・・・・・われわれは『ポーランドよりももっと不幸な』国民であるプロレタリアートという国民の同胞であり、メンバーなのだ。」223P――民族と階級の相作的関係と、どちらがということで比べられない問題。時には、民族差別ということで顕在化する階級問題もある。
「歴史変革の運動において、ある時代状況を共有した世代の役割を軽視することはできない。とりわけ、ポーランドのように、東西ヨーロッパの谷間にあって多様な文化が交錯していた「辺境」ではそれが重要な意味をもっている。実際、多くの試みが、彼らの手でなされている。近代化運動のなかで推進された学問研究や教育活動、世界語の普及によって民族抗争を克服・解決せんとしたエスペラント運動、ユダヤ人解放運動の始まり、女性解放の自覚の深まりと発展、少数民族の覚醒、そしてもっとも重要なものとして、農民の闘争と農民の経済移民(エクソダス)の開始など……。ルクセンブルクの思想の芽は、このような時代の流動状況のなかで生じてきたものといえる。」223P
「それゆえ、私は、その一部を、彼女が強調している民主主義論によってみることにしたい。これは、ある意味で、彼女のなかに「ポーランド的なもの」あるいは「スラヴ的なもの」を発見する試みでもある。/彼女の民主主義の原理は、自発性と連合的な結合である。彼女にとって民主主義とは、単なる制度ではなく鼓動の思想、ないしは精神に近い。後のボリシェヴィキ批判の根本的な方法になっていく精神である。」224P・・・「真の」民主主義者としてのローザ・ルクセンブルク
「シュラフタ民主主義」224P――ルソーの「ポーランド統治論」におけるコメント――「ポーランド民衆蜂起(原語略)は、シュラフタの抵抗権の行使という意味を内包していた。この民主主義の理念の特徴は、国家(原語略、男と女の意味)とは、あらゆる構成部分の自発的な連合の総体であって、国家そのものが伸縮変形自在な人為的な創造物として意識されていた。さらにその場合、国家を構成し歴史を動かす主体であるシュラフタの権利の枠内ですべてが処理され、他の階層、とりわけ農民はまったく無縁な他者として意識されていた。特に前者については、たんにポーランド固有のものとしてよりも、スラブ民族の創意の結晶であるとしたM・バクーニンの連合思想に継承された部分でもある。彼はその思想によって、革命的汎スラブ主義からアナーキズムへと走り抜けたのだった。かれが主張したロシアとポーランドの革命的な連帯の核心にそれがあった。また、当時のナロードニキの思想家にも連合思想が「ロシア的なるもの」、あるいは、「スラブ」の論理として定着していた。」225-6P・・・古代ギリシャの奴隷制に支えられた「市民」を想起させる、ポーランドのシュラフタ。
[3] ローザの民族問題
「しかしここでは、ルクセンブルクの民族と国家にかんするイメージとそこからポーランド解放と世界革命のイメージは何かという視点で彼女の民族論そのものの中身をみてみたい。/東欧諸国における国家と民族の関係(いわゆるNation)は、西欧とは若干内容が異なっている。西欧では、フランス革命以後のブルジョア革命が資本主義の発展条件としての国民(民族)国家を形成していった。ここでは、民族と国家の区別はそれ程意識されることはなかった。そこでは国家に構成される人間集団と民族性を共有する人間集団との領域がある程度一致していたからである。ところが東欧諸国では民族と国家の領域が一致せず、国家の内部に多様な民族を包み込んだいわゆる多民族国家となっている。ここから民族問題という困難な課題が生まれてきた。ここからまた東欧諸国のマルクス主義者たちやその政党が、この問題を党の重要な方針としてとりあげねばならなかった必然性があった。」228P
「・・・・・・彼女は国家と民族とを区別して論じているように思われる。つまり、彼女は歴史の主体を、国家に構成された人間集団である人々(国民)とし、民族性を共有する人間集団である人々(民族)の役割は、非政治的で文化の次元にとどめておくべきものと考えた。/彼女にとって、国家とは歴史的な創造物であっても、形と内容は人為的にかえることのできるものであった。ところが民族とは自然的な属性を有する集団であり、人為的に変えうるのではなく、歴史によって乗り越えねばならないものであった。」229P・・・国家は物象化された「もの」。ローザ・ルクセンブルクにははっきり自覚的意識化されないまでも、そのような意識があったのではないでしょうか? ローザの論理を深化させれば、民族も結局は同じ。
「・・・・・・文化概念としてのポーランド問題におけるプロレタリアートの役割とは何か。/このことについて、彼女は、各民族の同権と民族文化=民族性の擁護としている。」230P
「しかし、彼女の場合はたんに、既存の国家の枠内で民族問題を解決しようとしたのではなかった。彼女の場合は、ポーランドの独立国家の再生を否定することによって、この問題をヨーロッパ革命のイメージと結びつけようとした。」230-1P
「周知のように、マルクスとエンゲルスは、ポーランドの独立を支持した。その論拠は、ポーランド民族は西欧の諸民族と同様に、国民国家=民族国家を形成できる権利と能力をもっていたこと、反動の牙城であるロシアに対する防壁として戦略的に重要であることなどであった。それが限定つきであったことは、五〇年代のエンゲルスの発言にあるように、ポーランド民族は「ひとつの手段としてしか役に立たないつまらない民族」であるとか、革命の瞬間から「何の存在価値もない民族」といったネガティヴな評価のなかに表れていた。」231P
「この論文(「ポーランドの産業的発展」)は、実は経済的手法で書かれた政治文書なのである。・・・・・・・マルクスとエンゲルスの「ポーランド論」に対して、ポーランドの内側から反論したのである。この点からみると独立は、両国の資本主義の発達を阻害する反動的なスローガンでしかない、と彼女は強調している。/ここから、彼女の民族自決権否定の論理が登場してくる。後になって、この論理をしばしば余りにも一般化したかのように批判される。確かにそのようにとれる部分もないではない。だが彼女は、あくまでもポーランドとロシアとの関係のなかで問題を一般化したのであって、それ以上に範囲を拡大したのではなかった。彼女にとっては、国民(民族)国家は、資本主義に適合する国家形態ではなかった。それは、大国家・征服国家であった。」232P・・・ネグリ/ハートの国民国家の過小評価と通底
ロシアに対するポーランドの自決権の否定。トルコにおける、南スラヴ民族の自決権の肯定232-3P
「ルクセンブルクにとっては民族自決権とは、すでに述べたように、Nationの概念に従って、本来的に国家構成された人々の自己決定権であって、そうであれば当然、同時に階級原理に従ってプロレタリア階級の自決をも意味することになる。これは当然ながら、資本主義では実現は不可能であって、社会主義国家においてのみ可能なものであった。彼女はレーニンのように、自決権を資本主義における民主主義的な諸権利の一つとしては承認しなかった。それは、あくまでも、歴史の具体的な状況のなかで出されるべき原則であった。」233P・・・この問題は、さらに、レーニンとローザ・ルクセンブルクがどこで決定権を問題にしているのか(レーニンはブルジョア民主主義、ローザは社会主義)の違いにまで及んでいくー
「ところが、一九〇六年になって彼女は、SDKPiLの綱領を検討する際に、ポーランドのみの自治を主張した。/この主張は、民族問題についての彼女の論理矛盾を露呈させた。国内自治を一般化すると、ロシア帝国のすべての民族がこれを要求するかもしれず、そうなると民族を政治的な国家の形成原理にしないという原則に反するし、ポーランドだけを例外にすると民族同権に反する。この論理矛盾をどのように解決すべきか、という点で、後者の立場で解決せんとして書かれたのが「民族問題と自治」論文であった。たがこの論文は、矛盾の迷路に迷い込んだままで終わっている。彼女はこの論文において、ポーランドを例外とする論理は、ポーランドの資本主義の発達から生まれた高度な文化発展ゆえであって、資本主義の発達が遅れている低文化地域は国内自治を保証する十分な基礎になりえないと主張している。/ここにはあきらかに差別の論理が出されている。これはルクセンブルクの民族理論の致命的な弱さを示すものと考えられる。」233-4P
「つまり彼女のイメージは、民族国家の独立を通して社会主義革命へというものではなく、既存の国家のなかのプロレタリア階級の結合をとおして、一挙になしうるものであって、その国家は、各民族のプロレタリアートの自治的な連合からなっており、その段階では民族問題はすべてが解決されるというものである。このイメージは、彼女がPPSとの対立のなかで否定した民族国家の連合を、プロレタリア・インターナショナリズムのなかで再生させたものということができるのである。」234P・・・国家を超える民衆の連帯のイメージ
「ルクセンブルクにとってプロレタリアートとは、アプリオリに国境を越えた存在であった。だが、実際には、プロレタリアートも資本主義の所産である以上、そこに民族性の問題が貼りついている。ルクセンブルクは、これを文化の次元にとどめた。だが、文化もまた政治と無縁ではない。/事実、ポーランドNDの活動は、この文化を政治的に組織することによって、近代ポーランド民族(国民)としての意識を形成する運動を展開していた。すでに述べた民族問題についての彼女の矛盾は、この文化概念そのものにも原因がありそうである。彼女もやはり、歴史的に規定された階級闘争の本質的な問題としてよりも、党の政策としての民族問題の解決という枠を出ていないように思われる。/さらに、ルクセンブルクは、民族問題の担い手としての民衆、とりわけ住民の多数を占める農民を完全に視野から切り落としている。(この点でもシュラフタ民主主義の理念と似ているともいえる)。この点が、現代のアジアにおける民族解放闘争との結びつきを極めて困難にしている。/・・・・・・彼女は民族の独立よりも、プロレタリアの革命を専攻させ、それによって民族問題を克服しようとしたのである。」235-6P・・・時として階級よりも、民族が差別的に顕在化することもある。そもそも民族と階級の相作性の問題もある。彼女の民族問題での対応の違いという矛盾は、マルクス派の流れのなかの発達史観――進歩史観から来ているのでは?
[4] ローザの「仲間集団」と「組織論」
「ネトルは、社会学的な方法によって、SDKPiLの 第一次集団的な組織の特徴を発見し、これを「ピア・グループ」(仲間集団)と名づけている(第七章)。/彼はこの集団の特徴を次のように規定する。すなわち、綱領を中心に機能的に組織に結合した人間集団ではなく、理念に燃えた同時代人の対等で自発的な協力から生じた統一体、特定の目的のためだけの協力体で、その構成員が進んで受けいれる以上のことは何も要求しない団体、内部に意見の対立があっても、外から攻撃されるような場合は、常に互いに防衛し合うという特徴をもった団体であり、「組織を動かす場合は、個人の創意と能力のみ依存し、組織内部の団結とは、規律とか、なんらかの意志に基づく自覚的な行為の問題ではなく、なんらかの重要な問題にかんする合意の産物であり、戦略や戦術については、単に一致しているということをこえて共通の行き方とでもいえるようなものであった」、・・・・・・」237P
「ネトルの最大の功績は、ヨギヘスを歴史の忘却の淵から救ったことだと私は思う。」237P
「これらの組織の行動のイメージにシュラフタ民主主義の「連合」の原理がかなりの程度継承されているということである。つまりこれは歴史の回路を通って形成された、民衆のポーランド的な存在様式の表れでもあった、といえるのではないだろうか。」238P
「ルクセンブルクは、自らの組織原理については、とりたてて発言しているわけではない。しかし、対ロシア統一党とSDKPiLとのなかで強調した両組織の自立的な結合の主張に、その原理が白明の前提として顔を出している。そして、この原理は、彼女の民主主義観の「自発性」の原理にも反映している。レーニンの組織論を批判したのは、この立場からであった。/ルクセンブルクの組織論の原則は、組織は単に人為的な形成物ではなく、階級闘争の歴史的な産物であり、その行動は、階級闘争のなかから必然的に生まれてくるという点にあった。この点から社会民主主義をロシアという絶対主義国家の内部で創造するという課題を背負っていた<ロシア社会民主労働党の原語、略>は、必然的に中央集権制を生まざるを得ないと主張した。/彼女はこの中央集権制そのものを批判したのではなかった。彼女の批判は、<ロシア社会民主労働党の原語、略>のレーニンの主張のなかにブランキ主義的な要素が復活していることの危険性に向けられたのである。組織は、労働者階級それ自身の運動のなかから生まれるが、組織そのものは常に保守的な存在でしかない。組織と大衆運動についても、運動の高揚は、すべて大衆の自発性から自然発生的に生ずるもので、組織が作り出すものではない。党組織の指導性はわずかな役割しか演じない。だから革命的な行動のための組織は、水のなかで水泳を学ぶように、革命のなかで学ばねばならない。/党の戦術も同じように運動によって作られる。それゆえ、党の個々の組織には十分な行動の自由が必要であり、それが当面の状況に対して闘争の高揚をもたらす革命的イニシアティヴを可能にするであろう。しかしレーニンの主張は、積極的な精神ではなく夜警根性によって支えられている。これは、組織の結実ではなく締めあげである。ルクセンブルクは、このように主張した。(第八章)」238-9P
「ルクセンブルクにとって、プロレタリアート独裁は民主主義の適用方法であって、かつ無制限の民主主義を伴う支配形態のことであった。この原則に基づいてのボリシェヴィキ批判は、そのままボリシェヴィキ党の運命を予言することになった。」240P・・・「民主主義」と「支配」ということの矛盾。支配は「反動」に対してとしても、どこで線を引けるのか?
「彼女が見たのは大衆そのもののダイナミックな動きそのものであって、その動きのなかで創られる実体ではなかった。それゆえ彼女には、その実体であるソヴィエトというものは重要ではなかった。大衆ストライキのダイナミズムこそが大衆運動の表現形態であった。」240-1P・・・実体主義ではない、モーメント的な内容。ただ、組織論がない。
「だが大衆は、様々な社会的条件に規定された状況のなかで主に行動する。大衆の自然発生的ダイナミズムに対する過剰な思い入れが、そこから規定された状況の枠を突破し、さらなる状況を創る階級形成に至る組織論にまで深められていないのである。このような大衆に対して、党組織による何らかの指導はやはり必要である。後のドイツにおいて、かのスパルタクス団がついに大衆を獲得しえなかった要因の一つに、この問題があるといっていいであろう(第一六章)。/そして、これこそが、彼女の悲劇の重要な原因となったのである。つまり彼女が虐殺されたのは、単に手を下した数人の反革命的な軍人だけでなく、背後にそれを承認し支持した大衆が存在していたのである。このヤヌスの双神のような大衆の顔を十分に凝視しなかったところに、ルクセンブルクが敗北した原因があるといっていい。」241P・・・組織論がない、ラーダの形成に至らなかった。果たしてローザは「大衆の顔を十分に凝視しなかった」のでしょうか?
[5] ネトルの「ローザの思想方法とその構造」分析の問題点
 ローザの実践のための理論。
「彼(ネトル)は、ルクセンブルクの個人生活と政治活動を一緒にした、生きた人間として彼女の全体をできるだけ完全に描き、ある問題や出来事に対してその態度を様々な角度と観点から考察したとして、・・・・・・」242P
「ところが、彼女の政治活動については、尨大な史料を使って、あらゆる方向から検討しているにもかかわらず、ルクセンブルクの主張の複雑な歴史状況を表面的に整理したという側面が強く、その主張のなかに彼女の生身の人間が十分に入り込んでいないという感じがする。これは一体どういうことなのだろうか。/問題は彼の方法にある、と私は思う。彼女の中心思想であるマルクス主義とは、学問レベルにおいても諸学問批判の方法であり、さらにいえば、ブルジョア社会に奉仕する諸学問を解体する武器であり、諸学問を綜合する方法では決してなかった。マルクス主義とは、もともと「野」の科学なのである。これが若いルクセンブルクの原点でもあった。研究者たちは「専門家」として、アカデミズムの高みから、いとも気軽にマルクス主義を云々するが、この原点を忘れると、ブルジョア諸学問の一味違うだけの学問として同一平面に並べられるだけだ、と彼女はいっているように思える。このことを意識的に追求することが彼女の方法論につながると私は考える。/ルクセンブルク自身、実際そのことを意識していた。・・・・・・・『国民経済学入門』は、ルクセンブルクが研究していた経済学の単なる「業績」ではなく、自己の実践活動を鍛えそれを理論家するための経済学批判なのである。ルクセンブルクは、このなかで「国民経済」概念「ブルジョアジーの利益を図る学問的欺瞞である」として懸命に否定して、これは「資本主義支配の学問的門衛」が「ブルジョア国家の使命に対する信仰から『国民国家』という彼らの牙城の門前に馳せ参じてこれを死守しようとする」ところから生まれたのだと述べている。/この本を、単に専門分化した経済学の立場で分析しても、彼女の魂に触れることはできないであろう。彼女にとって「国民経済」否定の論理こそ、プロレタリア国際主義の実践にとって必要不可欠なものであったのである。彼女にとって経済学とは、資本主義の発生と共に新興ブルジョアジーの思想的な武器として誕生し、社会主義の実現とともに終焉するものであったのである。」242-3P・・・実践からの理論・実践のための理論
「ルクセンブルクにとって、マルクス主義研究の自己完結は無意味であったし、また無縁でもあった。」244P
「ネトルの方法からは、対象への多様な「情報」が出てくるだけである。だが、その情報は多ければ多いほど、事実性は後退していく。自己と事実の間をも遠ざけてしまうことが多い。それは現在の社会状況をみれば明らかであろう。」244P
「ビスマルク以後のドイツ市民社会の合法性の枠内で拡大してきたSPDは、その相似形ゆえに、この社会の内部の主要構成要素となるという現実的な要請が必要であった。この要請を現実的な効果で測定することで、マルクス主義の理念を捨てたのがE・ベルンシュタインだったのである。」245P
「すなわち、行動する者の思想とは、一つの主張の選択が、それによって生命を捨てることもありうる、という生き方の選択であった。/しかし、ネトルの分析からは、論争の俯瞰図はみえてきても彼女の生き方は見えてこない。」246P・・・ネトルは社会主義的な活動に関わったひとではなかった。
「だが、彼(ネトル)にとってこの三国(ロシア、ポーランド、ドイツ)の関係は、横に同一平面上に並べられる対等の位相にある関係として描かれている。歴史の現実からみれば、ポーランドはロシアとドイツに分割され支配されており、当然ここに差別と抑圧の関係構造ができている。この構造は、そこで生きる人間にとっては自己のアイデンティティに関わる問題である。」246-7P・・・それをなぜ、ローザは実践的方針として提起しなかったのか? という問いに立ち戻る。
「彼女の思想と実践を、手慣れた職人的な歴史家(しかも専門分化された)の史料操作だけで解明するという歴史学的方法では、捉えることができない部分が非常に多い。彼女の思想は非常にパースペクティヴが長いからである。」247P
「それは彼女の方法と自己が連なる方法の発見によって始めて実現可能なものになる。それを可能にするのは、歴史の現場へと不断に関わる自己の当事者性の獲得にあるのではないか、と私は思う。そのことは、自己と自己とを取り巻く歴史の現状況と不断の緊張関係を保つことを意味するとともに、その状況に主体的にどう関わるかという姿勢の獲得でもある。」247-8P・・・実践の姿勢の立場からのとらえ返し
「つまり、ポーランドの重要性は、東西ヨーロッパを同時に対象化しうる位置におかれているということである。これは、単に、地理的かつ文化的な位置の問題ではない。歴史をつくりあげてきた人間主体の問題でもある。近代ヨーロッパ革命のなかで、ポーランドの革命家たちは、革命のバリケードのなかで闘い、そして倒れた。ルクセンブルクの実践もその伝統を継承している。彼女は、ポーランド固有の歴史的な役割を自覚しながら、プロレタリア革命によって東西のヨーロッパを結びつけようと努力した。その意味で、彼女の死は、同時にヨーロッパのその後の悲劇をも表現しているととることができる。/今日、彼女の思想の再評価は、これまで検討してきた思想の根であるポーランド論と民族論を起点に据えてヨーロッパ革命(もちろんロシア革命をも含み)を対象化する視点からと同時に現代のアジアにおける民族解放闘争の担い手の動きから再検討されねばならないだろう。ネトルの評伝は、その意味で貴重な参考書になっている。」248P
書評 1972-90
 この項の各著作の表式とわたしが今まで使ってきた表式が違うのですが、わたしの読書メモの表式に変更して表します。
 この書評を見ていると、読んでいない本の方が多く、ちゃんとローザ・ルクセンブルク論をやるならば、先は長いのですが、わたしは、社会主義論――共産主義論として、ローザに留意しているので、ローザ論は、時間が許せばまた帰ってくるというところで、予定通りの読書計画を進めます。
ここでは、特に注目すべき文だけ、切り抜きメモを残します。著作の太字は既読本です。
・アイザック・ドイッチャー/山西英一訳『レーニン伝への序章、その他遺稿集』岩波書店 1972
「一九二六年五月のピウスツキ・クーデター支持をめぐる「五月の誤謬」論争は、党内に泥沼的な状態をもたらしていたが、若きドイッチャーが入党し、ポーランドの革命運動に加わったのは、まさにこの時であった。」258-9P
「ドイッチャーのポーランド革命への視点で注目されるのは、ローザ・ルクセンブルクが提起した古典的命題を継承し、インターナショナルな社会主義への「有機的統合」を確認していることである。だが、現代ポーランドとソ連の関係をみる時、この理念との溝はあまりにも深い。/ロシア革命に対する彼の視線は、自己のこの体験に基づいた古典的なポーランド・マルクス主義者のそれであり、一九世紀末の彷える亡命革命家とパトスを共有している。そして、この点に彼の鋭さと共に限界がある。未完の革命に対する透徹した分析力と、それを人類史上に位置づける深い洞察力にもかかわらず、農民や被抑圧民族のエネルギーについては、その根源にまで立ち入ってはいない。中国革命への彼の評価を一面的なものにしているのはこの点である。」259-60P
「彼がスターリンの政治的評伝から三部作を構成したことは示唆的である。この政治的怪人物に勝利をもたらした現実主義の女神を、彼は自己の政治的体験を踏まえて冷静な眼で凝視している。しかし、トロツキーに対しては、中傷され、迫害され、誤解され、敗者として捨て去られる人間として、彼を歴史の正当な位置に引き戻そうとする止むに止まれぬ思念といったものが感じられる。この精神と意思とを、未来に向けて生き抜いた予言者トロツキーの悲劇的な生涯に、ポーランドの悲劇を背負って生きる自己とを重ね合わせている。」260P
・フリッツ・フィッシャー/村瀬興雄訳『世界強国への道――ドイツの挑戦、一九一四〜一九一八年 T』岩波書店 1972
「第一次世界大戦におけるドイツの戦争目的と、それに関連する戦争責任の所在をめぐって展開された、いわゆる「フィッシャー論争」がドイツそのものの把握について、貴重な問題提起を行い、大きな波紋を投じたことはよく知られている。/この本は、この論争の発火点たるF・フィッシャー自身の問題の書(ただし要約版、一九六七年)の前半部分の翻訳である。」260-1P
「すなわち、第一次世界大戦は、ドイツに「押し付けられた」、それゆえに防衛的な性格の戦争ではなく、また「ずるずるとはまり込んだ」戦争でもなく、一貫した戦争目的のもとで、ドイツが積極的で決定的な推進役を演じた侵略的性格の帝国主義戦争であったことを、著者は膨大な資料を駆使して明らかにしている。」161P
「私は、「中央ヨーロッパ」の理念を日本の「太平洋戦争の」政治目的たる「大東亜共栄圏」の理念と重ね合わせて本書を読んだ。」264P・・・ポーランド史と韓国史との対比
「今再び、新たな装いをもとってアジアへの進出が行われている時、フィッシャーの政治的前衛のイデオロギーに安易に身を寄せぬ、緻密に史料を駆使して権力構造を照射するストイックな態度に私は大きな感銘を受けた。それは、歴史を学び研究するものが、現実政治にどう係わるのか、あるいは係わらないのかという問題に関連している。わが国の歴史家たちも事後反省が改めて要求されているのではあるまいか。」264P
・J.P.ネットル(ネトル)/諫山正・川崎賢・宮島直機・湯浅赳男・米川紀夫訳『ローザ・ルクセンブルク 上・下』河出書房新社1974-5(たわしの読書メモ・・ブログ547)
「しかし、にもかかわらず、著者の目は、ルクセンブルクの個人生活と政治活動とを結合する思想の根にまで到達していないように思われる。その主な理由は、「諸学問の総合としてのマルクス主義」という著者の方法論にある。マルクス主義とは、単に様々な学問の総合でではなく、その批判的な論究の武器なのである。これは、ルクセンブルクの思想方法でもあった。修正主義論争において、彼女は理論を捨て現実の社会に同化することで勢力の拡張をめざした党に、自己の生き方の原則としてのマルクス主義を対置した。彼女こそ、真の意味でのマルクス主義の継承者なのである。/彼女の一貫した方法によって、後にロシア革命の変質をも的確に予言することができたのである。ネトルの把握は、概念的な次元の主張レベルで整理されており、その方法がルクセンブルクの方法と結びついていない。そのため、結局、彼女の思想の内部に入れきれず、外面を撫でたにとどまっている。」267P
・J・ジョル/池田清・衹園寺則夫訳『第二インター 一八八四――一九一四』木鐸社 1976 
「本書は、一九五五年の初版以来、小著ながら密度が濃く、研究者の間で信頼できると定評のある、J・ジョルの第二インター[ナショナル]通史の翻訳である。」268P
「この点に関して、レーニンのよく知られた評価がある。彼は、コミンテルンの成立という状況の中で、第一インターを「プロレタリアートの国際闘争の土台」とし、第二インターを「運動が多くの国で広範かつ大衆的に拡大する地盤を準備した時代」の産物だが、その後、日和見主義と排外主義の堕落によって、その革命的水準を低下させ、崩壊をもたらしたとして、第三インターこそが、これらの問題を克服することで「プロレタリアート独裁を実現し始めた」と位置づけたのだった。/しかしながら、本書は、こうした発展段階的な見方を排し、諸勢力や各系争点を相対化する観点から、第二インターそれ自体の固有の世界像を明らかにしている。ここには著者のリベラルな歴史観が貫かれている。」268-9P
「著者の視角から欠落ないし軽視」269-270P――四点
・B・ラジッチ/M・M・ドラコヴィチ/勝部元・飛田勘弐訳『コミンテルン人名辞典』至誠堂 1980
・いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義――コミンテルン全資料・解題』社会評論社 1980
1 はじめに、状況
「最近、コミンテルン(第二インターナショナル)についての関心が世界的に高まっている。」271P
「こうした問題状況の中で、出版されたのが、ここに取りあげるコミンテルン関係の二冊の訳書である。これはまた、コミンテルン結成六〇年を日本で記念する基本的な参考文献でもあるといえる。」272P
2 『コミンテルン人名辞典』
「この本は、コミンテルンだけでなく、各国の共産主義運動の動向を調べる者にとっても大いに活用できる便利な事典である。」273P
3 『民族・植民地問題と共産主義――コミンテルン全資料・解題』
「いいだもも編訳の『民族・植民地問題と共産主義』は、民族植民地問題からコミンテルンの活動を総括した資料集である。」273P
「そして、結論的にいえば、コミンテルン解散の真の原因が、ヨーロッパ革命の挫折やファシズムの台頭、それに、ソ連共産党内の権力闘争だけではなく、まさに、植民地従属国の民族解放闘争そのものにあったことを、本書から確認できるのである。」274P
「何といっても重要なのは、その創設理念の思想性と活動方針をめぐる論争であろう。創立大会でトロツキーが起草した宣言は、先進諸国の労働者国家権力を掌握した時にはじめて、植民地人民も独立の獲得と維持のチャンスがあるとして、「社会主義ヨーロッパが植民地に自己の技術、組織、精神的影響によって援助の手をさしのべる」と述べているが、これはヨーロッパ革命なしには植民地革命なしという思想性の表明であった。しかし、これが第二回大会(一九二〇年七月)の「民族・植民地についてのテーゼをめぐる論争と、民族問題論争の主要なテーマになるのである。/周知のように、レーニンの問題意識は、彼の民族自決権思想と帝国主義認識から出されているが、その核心は、すべての共産党が「植民地や後進国の革命運動(ブルジョア民主主義運動)を援助しなければならない」というものであった。これは、民族解放運動を支援するテーゼであって、指導するテーゼではない。その思想性は、トロツキーのそれと同じである。」274-5P←「ところが、これに対して、インドのM・N・ロイは「植民地で得られる超過利潤は、現代資本主義の頼みの綱である。そして、現代資本主義がこの超過利潤という頼みを剥奪されないかぎり、ヨーロッパ労働者階級にとって、資本主義秩序を転覆することは容易でないだろう」と反論した。ここは逆に、植民地革命なしに先進国革命なし、という思想性が提起されている。ロイの「補足テーゼ」から落ちた「植民地の諸民族は、経済的、工業的に立ちおくれているから必ずブルジョア民主主義段階を経過しなければならないという想定は誤りである」というセンテンスは、その後の革命運動の運命を予告しているかのようである。」275P
「レーニンのテーゼが、戦術的に植民地・後進国のブルジョア民主主義運動と一時的に提携したり同盟を結ぶという統一戦線の問題や、民族ブルジョアジーの役割評価をめぐる問題から、かの中国革命やトルコ革命の挫折という致命傷に結びついていくのだが、ロイの反論は一貫して、共産党が植民地革命を独自に組織することで、プロレタリアートのヘゲモニーを貫徹することにあった。」――「マヌイルスキーの「民族・植民地についての報告」とこれらに対するロイの批判と反論の中に、レーニンとロイの思想的相違が浮き彫りにされている。」275P
「本書の、もうひとつの重要な貢献は、中国、朝鮮、日本の共産主義運動を国際的に位置づけたことであろう。とりわけ、日本共産党結成の背景をより広い視野から明らかにしていて興味深い。」276P
「コミンテルンに関するこの二冊の本は、最近の無責任なマルクス主義批判を克服する意味でも、また「第三世界」の生きた動きを捉え、新たな闘いの方向を模索する実践的な指針を手に入れるためにも、大変貴重で基本的な参考文献である。」276-7P
・S・アミン/山崎カヲル訳『階級と民族』新評社 1983
 この本は、ずっと前に読んでいます。忘れることを得意にしているわたしの記憶がはっきりしないのですが、この本から、従属理論や世界システム論の存在を知ったのです。それは、ネグリ/ハートの『<帝国>』に繋がる道だったのです。当時はちゃんとしたメモをのこしていませんでした。
「S・アミンについては、一九六〇年代のいわゆる「従属論争」以来「第三世界」の周辺的視座から世界資本主義システムを確立したマルクス主義経済学者として世界で最も注目を集めており、今更多言を必要としないであろう。/わが国でも、彼の主著『世界的規模での蓄積』、『不均等発展』、『帝国主義と不均等発展』、『価値法則と史的唯物論』、『アラブ民族』など、大部分がすでに邦訳され、各分野に大きなインパクトを与えている。これらの著書でアミンは、A・G・フランクの従属理論を発展的に継承し、A・エマニュエルとの不等価交換論争を通して、世界資本主義の中枢・周辺部構造を壮大なパースペクティヴで捉え、独自の「周辺資本主義論」を打ち出したことは、よく知られている。」277P
「マルクス以来の中枢的視座に立つ西欧中心主義の単線的発展段階論を排し、周辺部の視座からまず社会編制態と生産様式を峻別しつつ、次のような複合的発展段階論を提示している。/・・・・・・」278P・・・複合的発展論の始まりは、マルクスのアジア的生産様式論であり、そのことを押さえる必要。レーニン――ロイ論争の飛び越しの問題も出ていない。
「しかし、本書では、一八〇〇年の「普遍的歴史」の誕生以来、中枢部資本制社会編制態の成立から現代まで、従来、個別的に論じられてきた民族問題の歴史を広い歴史的視野で俯瞰し、多元的かつ総合的に捉えており、一九世紀末以来の「民族問題論争」の世界的な位置づけがよく理解できるようになっている。この問題をアミンは、資本制中枢諸国の不均等発展とその後の帝国主義システム中枢・周辺構造の中で立体的に明らかにしており、本書の最大の価値は、まさにこの点にあるといえるであろう。」278-9P
 アミンの「民族」規定「歴史のあらゆる段階に現れる社会的現象」「共通な言語の使用によって強化され、その文化的表現によって確認される地理的に緊密な関係をもつといった基本的諸条件が重合しているだけでなく、国家的な中央機関を管理し、その共同体の生活における経済的統一性を保証する一階級が社会構成体の中に存在している時に現れる。」「民族現象は逆行もしうる過程である」279P(・・・これまでの民族規定論争を踏まえているとは思えません)「ここでは社会主義と民族の関係は、まだ依然として曖昧なままに残されている。」279P
「ソ連社会の本性についても「民族主義がソ連社会の基本的絆である」として「社会主義ではなく国家的生産様式」を基盤にした新しい官僚=テクノクラートによる新しい階級社会としただけで、その先については言及していない。」280P
「その点で評者は、アミンの理論を絶対的・体系化することではなく、例えば、アメリカの社会学・歴史学者E・ウォーラスティンが構築しつつある「世界システム論」との対比の上で相対化していくべきではないかと思う。いずれにしても、本書は、世界史認識の新たな転機転換を迫る問題提起の書であり、マルクス主義の再検討にとっても必読文献の一つである。」280P・・・その後、世界システム論から、ネグリ/ハートの『<帝国>』が出てきている。
・L・バッソ/伊藤成彦・他訳『ローザ・ルクセンブルク論集』河出書房新社 1984
「ローザ・ルクセンブルクの思想は、現代において果たして蘇るだろうか?」281P「本書は、こうした問いを前提にして、一九七三年にイタリアで開かれたルクセンブルクに関する国際会議の報告記録をまとめたものである。」281P
「報告者は、マルクスとエンゲルスの西欧中心の世界史像から、植民地領有を「進歩」と見なした歴史的な限界を鋭く指摘した上で、彼女が提起した資本主義と「非資本主義的社会環境」との関係を、現代の帝国主義的支配構造に関する総体的な見解の萌芽として評価している。」281P
「だが、その後の問題状況は、マルクス主義を、その祖マルクスの思想まで遡及して再検討しなければならないことを示している。」282P
「結論をいえば、本書は、ルクセンブルク思想の重要性を単に再確認したに過ぎない、だから、彼女本来の繊細な重層的な思想構造そのものに迫っていない。だが、これこそ、無用の体系化を拒否し革命的な大衆闘争の真っただ中でのみ生き、革命の死と共に死ぬという思想の特質ではなかろうか。」283P
「彼女の思想の再検討が同時に今日、社会主義体制のあり方をも、また帝国主義世界で重症の「議会主義的クレチン病(ママ)」にかかっている社会主義運動も不可避に対象化しよう。自己の存在基盤そのものを見つめ直すこの視点なしに、彼女の思想的蘇生はありえないであろう。」283P
・高梨純夫『民族問題とレーニン――民族自決権批判』BOC出版 1987
「一九八七年はロシア革命の七〇周年にあたる。すでに栄光ある輝きを失ってしまった感のあるこの革命を、今いかなる角度から捉え直すべきなのか。ロシア革命は、歴史の凡庸な一つのエピソードに過ぎなかったのだろうか。/まさに、この時期にロシア革命の再検討を、レーニンの民族理論の展開に即して試みたのが本書である。」284P
「著者の問題意識は、「あとがき」の「人類の解放の思想として登場したマルクス主義が僅々一五〇年を経る中で抑圧の思想に転化しつつあるとすれば――それはなぜか」という問いに明確に表現されている。」284P
「内容は、全体で六章からなり、・・・・・・問題点を究明している。」285P・・・各章の紹介
「ブルジョア民主主義的な権利の一つとして提示されたレーニンの民族自決権の思想は、・・・・・・」285P・・・レーニンは「ブルジョア民主主義的な権利の一つ」として自決権を突き出したのなら、ローザは社会主義的インターナショナリズムの中で「民族自治」を突き出した。そもそも前提が違って話がかみ合わなかった。結局ロシア革命は、社会主義を看板に掲げつつ、ブルジョア民主主義としての民族問題でしかなく、当然「民族自決権」は、社会主義の定立の失敗とともに破綻することになった?
「そして、レーニンの理論展開に大きな制約をもたらしたのは帝国主義認識の遅れであったと主張している。この他、前半では民族運動を階級闘争に従属させながらも、「政治的自決」と「経済的自立」とを区別するというレーニン民族論の二元的性格から生まれる矛盾、民族文化への認識不足などを鋭く分析している。」285P
「「レーニン・ロイ論争」では、植民地革命をめぐって双方に原則的な次元での対立が存在していたことを強調し、レーニンのヨーロッパ中心主義思想のもつ限界について指摘しながらも、この論争を通して「ブルジョア民主主義革命を経過せずして社会主義革命へ至る可能性」を展望する、新しい世界認識を獲得する主要な要因になったとして、高く評価している。」285P――「しかし、革命後の外交政策のなかで、・・・・・・」285-6P――民族問題に関する外交政策の失敗、「ソヴィエト・ポーランド戦争」「英ソ通商協定」「イランのギーラーン革命」「最後のグルジア問題」「カムチャツカ半島をめぐる問題」――著者が書き落としていると評者の指摘「ブレスト・リトフスク講和」――さらに評者も指摘し落としている革命直後の「ウクライナ侵攻」
「彼(レーニン)の「遺書」のなかでは、力点が「分離(独立)の自由」から「民族間の平等」へと移行していることに注目し、「レーニンの民族理論はここに至って、多民族国家内の結合を強調する民族間の平等へ変質していった」と述べている。これはたしかに重要な指摘であろう。なぜならレーニンおいても「革命の擁護」から「革命国家の擁護」へとしだいに重心が移り、社会主義の大義の実現よりも、「労働者の祖国ロシア」を守るという後年の「変質」がすでに萌芽的に準備されていたことを示唆しているからである。」286P・・・レーニンの国家論的とらえ返しの不備
・松岡利通『ローザ・ルクセンブルク――方法・資本主義・戦争』新評論 1988
「・・・・・・かつてローザ・ルクセンブルクが提起した資本主義批判と、その克服の理論を、どのように継承・発展させていくべきか、本書はこのような問題意識に沿ってまとめられた著者のルクセンブルク研究の集大成である。」288P
「内容は、序論、本論、補論の三部構成になっており、序論ではルクセンブルク研究の最新動向が丹念にフォローされている。特に、中国や東ドイツでの再評価が注目される。またユダヤ人としての観点、フェミニズム運動からの視角と、従来見過ごされてきた部分からの視点も重要であろう。」288P
「さて、本論の第T編は、ルクセンブルクの思想と方法について、その展開過程を歴史的に追求したもので、初期のポーランド問題論争における方法から、ドイツ社会民主党内の論争(マルクス・ラサール問題)をくぐり、理論と実践の統一の論理を組み立て、後期方法論を確立するまでのプロセスが明らかにされている。」――「当然ながら、彼女の問題関心は『資本論』との格闘であった。つまり、それを「原点」にして、マルクスを当時の状況の中で批判的に読み直し、マルクスを超えて、マルクス主義を深めていくことであった。徹底した自己批判に基づく歴史主体としてのプロレタリアート批判、非資本主義領域に住むアメリカ・インディアン(ママ)やアフリカ黒人などへのまなざしによって資本主義社会を歴史的に相対化するこの方法は、人民大衆の自発性に基づく「下からの革命」の問題提起、そして後の「ロシア革命論」草稿への理論的前提をなす重要な論点である。著者はここで、彼女の思想と方法における理論的一貫性を確認している。」288P
「第U編は、まさに本書のハイライトをなす部分で、ルクセンブルクの帝国主義論の生成過程の詳細な分析である。」――この後、各著作の流れとつながりを書いています。289P
「『資本蓄積論』も、今日の世界資本主義論や周辺部資本主義論から捉え直していかねばならないであろう。なぜなら、六〇年代末以後、ルクセンブルクの『資本蓄積論』を世界資本主義のトータルな把握として高く評価してきたのは、いわゆる「第三世界」の論者たちであったからである。」290P
・「丸山敬一『マルクス主義と民族自決権』(信山社 一九八九年)に寄せて」
 著者に宛てた手紙形式の書評です。
「ところで、すでに抑圧と虚偽の専制体制でしかない現存社会主義が崩壊しつつあるのですから、それ自体は喜ばしいことだと思いますが、でも、この革命は歴史の流れからみて、社会主義への新たな進展ではなく、むしろ脱社会主義、あるいは資本主義への回帰ともいえるものですね。つまり、マルクス主義の歴史発展の展望からみると「逆の流れ」のようにみえます。」292P・・・そもそも発達史観自体から批判していくこと
「・・・・・・一般的かつ絶対的権利としてこの原理(民族自決権)は提起されたのではなく、歴史的な状況の変化に応じて内容が変わっていることをマルクスやエンゲルス、レーニン、スターリンなどの民族理論から明らかにしたものですね。」293-4P
「民族自決権否定の一般化、ポーランドにのみ適用可能とした民族自治論の矛盾、帝国主義時代の民族戦争の否定など。でも、彼女の帝国主義論の論理の広がりに照らしてどうなのでしょうか。私自身ももう一度違う角度から調べ直す必要があるなという感じをもっています。」294P
「ただ、「プロレタリア・インターナショナリズムはいかに可能か」(補論2)で展開されている点についていえば、民族の自決権とプロレタリアートとの自決権が背景にある歴史的状況を捨象して画然と峻別できるものなのか。多少疑問も感じます。私自身もマルクス主義者と自己規定したことはありませんが、状況とのかかわりや運動や闘争の接点強調するマルクス主義の方法を採用するため、状況に密着し過ぎる傾向があります。今後は、その方法について考え直さねばと思っています。」295P
「つまり民族自決権の現時点における意味が展開されていないように思います。」295P・・・わたし自身にとっては、「障害者運動」の地平の「自己決定権」を巡る議論からもとらえ返すこと
「ロシア革命からすでに七三年、現在のゴルバチョフらの民族政策の理論的な核には何があるのか。私は、現在の民族政策は、レーニンでもなくバウアーでもなく、ましてルクセンブルクでもなく、やはりスターリンの影を引きずった場当たり主義的政策のような気がします。」296P


(追記) 民族問題に関するテーゼ
民族や人種ということ、そして付随する国家や自決権(自己決定)自体がきちんと定義されないまま論争があいまいになっています 。
(民族に関する定義)
民族問題は、国家の共同幻想規定につながること。しかし、幻想と言い切れない部分、それは階級問題とリンクすること、言語・文化の違い、これも共同幻想である宗教の違いなどがあります。それは、国家でも、官僚的・軍事的支配機構ということがあるということに通じています。

民族差別を受ける集団があれば、それが民族。(全障連の「「障害者」とは、「障害者」差別を受ける者である」という規定との共振)

スターリンの民族定義「みんなあてはまる必要」という規定は逆、どれかひとつでもあれば、民族として定立する場合もあり、それは差別ということに照らすこと。

民族概念そのものを(「虚構」として)とらえ返す三つの系譜。@共同幻想概念(吉本隆明共同幻想論、ただし、唯物史観とのリンクが必要)A構築主義――脱構築概念B物象化論(実体主義批判)

(「民族」に関係する概念の定義とそれと民族の関係)
現実的に民族問題が階級問題よりも顕在化的により浮かびあがる場合があり、しかし、民族問題が階級問題として転化していく構図もあります(民族の階級への従属論の誤り)。

民族を幻想や虚構として押さえるか、実体主義的なこととして押さえるかが、自決権論争の背景にあります。そして前者は、差別の構造というところからとらえ返し、どう反差別運動を展開していくのかということが問題になっていきます。

「自治」と「自決権」の違いは、後者が、国家という概念からでてきていて、国家主義的になっているという問題です。それはスターリンの一国社会主義建設の中で、幻想としての「自己決定」になっているということにつながっていきます。カウツキー/レーニン/スターリンの流れの属地主義は、空間的独立――国家主義につながっています。

階級支配があるがゆえに国家はあると言いえます。階級における非対称性のひとつとして、民族概念があるのです。  

民族問題は階級支配との関係で、さまざまな差別との関係も出てきます。

階級における「民族」の非対称性、階級的位階における非対称性のひとつとしての「民族」。すべての被差別事項は、階級の問題に収束していく傾向があります。(「キング牧師」の公民権法制定の後の「これからは貧困の問題」という提言。)

民族自決権は、レーニンの中央主権主義とアンチノミー。

(差別の問題としての民族)
民族の違いがゆえに差別されるのではなく、差別がなければ民族という概念はほぼない、と言いえます。そこに残るのは、言語・文化違い、それはそれとして解決の途は建てられます。

「差別があるから民族がある」というテーゼが建てられます。ユダヤ人差別はかならずしも経済的優位にあるものから劣位にあるものへの差別とはなっていません。歴史的に刻印されたスティグマとしての差別、差別の歴史による民族としての析出。

(民族問題の解決の方向性)
反差別と、反差別の連帯というところから、インターナショナリズム的に民族をとらえる必要。

多言語多民族多様性の「受楽」という意味での民族の継承。金太郎アメ的な同一性ではないのです。(デザインベービーに対するアンチ・ファシズム的な批判に通じること)

「自治」というローザが陥ったアポリアは、障害問題での「自己決定権」を巡る議論から解決の道筋を探ることができます。

民族問題で、階級問題には集約されない一番の問題は、言語の問題。そこにおける言語教育の必要性の問題は、その言語を第一言語にしているひとがいるのかどうかという問題。ただ、第一言語ではなくても、研究の補助は必要。

左翼(社会変革を志向する集団)は、民族問題のみならず、差別の問題をやっかいや問題としてとらえたり、差別=階級支配の道具論に陥り、その裏返しの政治利用や切り捨てに陥ってきた歴史があります。そのことの総括が今問われています。

差別されたくないというところから、個別利害にとらわれた差別する側になりたいということではなく、あらゆる差別をなくしていく、共産主義的反差別の立場に立つこと、それが共産主義的立場、その一歩としての社会主義の内容です。(内糾闘争における戦線の対立の図式の総括の必要)

一つ一つの差別問題をとりあげてくと個別被差別者同士の衝突が起きてくることがあるという問題は、反差別の総体的深化的とらえ返しから解決していくこと。

(ローザの民族問題に関する押さえ)
ローザの民族理論――自治論は、ポーランドの歴史にかなり規定されています。ローザは社会主義社会実現、社会主義(註 そもそも社会主義の規定が必要)への道に向かうかどうか、というところから、(当初のマルクス思想の流れで)進歩史観的に民族問題をとらえてしまいました。大きな国家への統一、資本主義の発展の方向、文化として残るか否か、というところから各民族自治の可能性を立てて、他の民族への抑圧の論理に陥っています。

ローザ・ルクセンブルクが民族自決権、さらに個別差別をとりあげなかった、強調しなかったのは、個別被差別における排外主義的なことを排するため? アンチにとどまる反差別は排外主義に陥る、これをどう止揚するか、ということが問題になっています(これは拒否権の綱領で救済可能?)

ローザの民衆の自然発生性への依拠の論理は、民衆主義とも言えることであり、これはローザの民主主義論であり、そこから、民主主義に対峙する国家主義の、国家なるものを否定しようという志向が生まれています。だから、国民国家の論理で進む民族自決権批判へと進んでいったのです。しかし、これらのことは潜在的にあったということであり、ローザははっきりとこのことを自覚していません。だから中央集権主義や国家権力の奪取からするプロ独論を維持しています。

(レーニンの民族自決権とローザ・ルクセンブルク)
レーニンの民族自決権をローザは、「レーニンの超中央集権主義と矛盾する」と批判していました。そもそもの農民問題での弱さも含めて、食料調達のためのウクライナへの、他民族部隊による侵攻というところで、レーニンの民族自決権は、すでに破綻を露呈していました。そもそも、民族問題の階級闘争への従属論では、民族自決権は虚構になってしまいます。

レーニンの民族自決権はブルジョア民主主義、ローザは社会主義の立場から、自決権を批判しました。それは、同時にレーニンは国家主義的なとらわれから、独立国家の必要性を出してしまいました。それは、国家の死滅へ向かう社会主義の理念に反しています。しかし、ローザも、進歩史観や西欧中心主義へのとらわれから、民族自治の問題で、民族抑圧的な立場にたってしまっています。

(ローザの誤り)・・・補追
民族自治論を立てたのに、それをすべての民族に適用するとたてませんでした。当初のマルクスの「歴史なき民族論」に通じる事です。

ローザも民族問題を階級闘争に従属するものとたて、階級闘争一元論的傾向に陥っています。そのことは、他の被差別事項にもあてはまります――共産主義、社会主義のイメージを描けなかったのです(特に反差別共産主義論として)。

反戦――反暴力の姿勢を、「政治とは権力の行使である」という政治の批判をなしきれませんでした。これも、マルクス的な流れでの国家権力の奪取としてのプロ独論からの脱却ができなかったのです。

マルクスの進歩史観的なとらわれから資本主義の発展図式、第一次産業→第二次産業→第三次産業というとらえ方をし、第一次産業−農業の意義・重要性を押さえ損なっていました。「農民の保守性」の問題も、トロツキーが『ロシア革命史』のなかで展開した、「保守」ということの革命性の問題も届いていません。それ故に、農民の表面的保守性を深化してとらえきれなかったのです。

ローザには組織論と反差別運動論がなかったのです。前者はソヴィエトやレーテやラーダなどの形成をしなかった問題としても現れています。


posted by たわし at 02:11| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする