2021年02月17日

ローザ・ルクセンブルグ/加藤一夫・川名隆史訳『民族問題と自治』

たわしの読書メモ・・ブログ552

・ローザ・ルクセンブルグ/加藤一夫・川名隆史訳『民族問題と自治』論創社1984

 ローザの学習17冊目です。ローザ自身の著作で、ローザが論争の対象になった民族問題の書。これは再読です。加藤一夫さんの訳者解説で「この論文は、彼女が主導していたポーランド王国・リトアニア社会民主党の理論機関誌『社会民主主義評論』(一九〇八――一九〇九年)に、六回にわたって連載されたもの・・・・・・」318Pとあり、またローザ自身はこれを本にしていないし、後でこれについてコメントすることもなかったようなのです。ローザは反戦というからみで、民族問題を論じていますが、日本語版の選集にも民族問題そのものを論じた文は少ないようです。わたし自身、ずっと、ローザは、いろんな被差別事項を抱えているとされる立場(女性、「障害者」、ユダヤ人、ポーランド人)で、なぜ個別差別の問題を取りあげなかったのかということを、一つの課題としてローザを読み解いているのですが、確かに、レーニンと同様に「差別=階級支配の手段論――道具論」に陥っているということ、そこから来る階級闘争一元論的なことへのとらわれているとも言いえるのですが、それよりも、反戦・インターナショナリズムと、そこからする差別を越えた連帯という志向をもっていた故なのだと言いえます。ローザの「原始的蓄積論」を、「継続的本源的蓄積論」として読み解くなかで、今日的<帝国>的グローバリゼーションとか新自由主義的グローバリゼーションと言われていることをテコとして差別ということが大きな位置をしめ、それに対抗するためにも反差別運動の必要性が問題になってきます。また、社会主義革命主体をプロレタリアートだけでなく、マルチチュードやサヴァルタンということからすなわち「被差別民衆」的な概念で押さえる作業も出てくるなかで、プロレタリアートの問題も、被差別事項で唯一のマジョリティということなのですが(数的にはほぼ同数の「女性」――「男性」関係がありますが)、生産手段の所有からの排除と労働力の価値ということでの序列化――差別というところでプロレタリアートの問題も読み解いていく必要があると思います。わたしはこのことを反差別共産主義論――運動論としてまとめようとしています。

 さて、この本の第一章に当たるところで、そもそも民族自決権論争ということがあり、ローザは民族自決権の批判をしているのですが、レーニンがその批判を反批判しています。それはマルクス――レーニン主義の定式では、レーニン正しく、ローザの民族自決権批判はおかしいとされています。

 さて、この自決権、ローザのレーニン批判は、レーニンが中央集権制を主張していることと矛盾しているのではないかという批判があります。そもそも、この批判は、レーニンが社会民主労働党の綱領として、組織論としての中央集権制として突き出したのですが、それは「国家機構」としての中央集権制にも、当てはめて議論されることで、後者に関しては、ローザの批判は及んでいず、むしろ同じような主張する論攷もあります。レーニンの党の組織問題から「国家機構」に及ぶ中央集権制を、ローザは超中央集権主義として批判しています。確かにそのローザの「矛盾している」という批判はあたっていて、レーニンの自決権はまやかしでしかないのです。だから、レーニン主義を引き継いだとするスターリンが民族問題で、レーニンの生前にさえおかしなことをしていて、レーニンがスターリンを排除しようとして果たせず、遺書を残したことがあります。それも実行されなかったのですが。

 その自決権、わたしは差別の問題を障害問題を軸にして考え、その中における「自己決定権」を巡るごまかしとして指摘する議論に当たりました。「安楽死――尊厳死」の問題、延命処置をするかしないかというところで、「リビングウィル」とか「ACP」とか「人生会議」とかいろんな形でのごまかしの論理で、医療・福祉の切り捨てがなされます。「自己決定」という名目で、死なせることへの取り込まれ、「死へ誘う医療」さえ行われているのです。そのことは、延命処置をしないと希望するひとが8割を占めるという世論調査に端的に表れています。そもそも、この社会の労働崇拝的なイデオロギーで、「仕事や家事ができなくなったら、他者に迷惑をかけないでポックリ死にたい」というような広く行き渡っているイデオロギーが、ひとの命を救うための存在である医者を含めて、死への誘いを招いているのです。

 さて、わたしが手話を勉強しているときに、手話通訳者として活躍しているひとの講演会がありました。手話通訳ということは専門性が必要で、その専門性に特化したひとが多数派なのでしょうが、その講演者は問題を掘り下げた話をしてくれました。「自己決定ということはおかしいのでないか、むしろそれは自治として押さえることではないか」という話です。もうひとつ、「自決権」ということで、「障害者運動」の流れででている議論として押さえておくことは、「わたしたちのことを、わたしたち抜きに決めるな」という突き出しのことです。これは、そうさせないためのシステム作りが必要になってきます。これは一般に言われる「自治」――地方自治という概念ではなく、また障害差別だけでなく、あらゆる被差別の問においても当てはまることで、それは議員選出におけるクォーター制導入とか、また党組織における被差別者集団の拒否権の問題とかで議論されていたことがあります。

 さて、この話を思い出したのは、ローザがまさに「自己決定権」を形而上学的なことして、この本の中でも批判していることがあります(第一章)。そもそも、「自己決定権」のベースにあるのはルソー的な人権論で、これはキリスト教的な文化圏での、「天賦人権論」から来ているのです。サイードが「オリエンタリズム」論で、欧米中心主義のその差別性を批判していることにも通じます。

 さて、実はローザは「自決論」を批判しつつ、この本の最終章で、「自治」という概念を出しています。「自治」を否定しているわけでなく、その「自治」の中味を具体的に展開しています。これは、第六章で展開されています。ですが、「自治」ということでも、中央集権国家や中枢――周辺という概念が存在するところで、解決の途は見いだせません。だからこそ、ローザはインターナショナリズムと社会主義の実現ということに解決を見いだそうとしたのだと言いえます。

 さて、マルクス批判の中で、「マルクスには人権思想がない」という論説が出ています。これはそもそもマルクスの思想が、フランスの啓蒙思想批判として出てきていることを押さええない曲解と言いえることです。このことは、「人権」概念は差別のない社会の物象化といいえることで、人権という概念自体も幻想に過ぎないことというしかありません。勿論、現在の法体系の中で人権という概念が、反差別ということでそれなりの有効性を持っていると言うことの中で、使えるものは使うということを妨げる事ではないのですが。すでに、差別主義者たちが、「人権とは幻想である」ということを突き出してきているわけで、その批判をするためには、人権論に依拠して反批判はできません。人権という概念から出てきている「自己決定」という概念のとらえ返しが必要になります。ただ、被差別者の当事者主体ということがあり、「自己決定」を蔑ろにすることは、抑圧となりかねません。それらのことのとらえ返しも含めて、改めて、反差別論というところからきちんと批判していく必要が出ています。

 さて、もうひとつこの総論的なところで押さえておくことは、この時代のマルクスの流れとして、生産力の発達が、生産様式の変換をもたらすというところで、マルクスが晩年はそのことに疑問ももった単線的発達史観や進歩史観への疑問が現在的に出てきています。ローザも、マルクス学徒として、単純にマルクスをそのまま受けいれたわけではなく、むしろ、マルクス――エンゲルスの批判もなしつつも、マルクスの流れからする発達史観や進歩史観ということへ依拠しています。そのことから産業の進歩ということへの無前提な評価ということも出ているし、特に、農業から工業への産業の移動という事への資本主義的進歩としての受け入れのようなことも書いています。またそこから農業ということへの軽視もでて来ています。それは科学の発達ということへの評価の問題にも出ています。今日、農業ということをサブシステンス概念からとらえ返す作業も起きていることや、公害ということやエコロジー的な観点から、科学ということのとらえ返しの作業も出てきています。そのようなことも含めて、今日的にローザの論攷をとらえ返す必要があります。

 マルクス――エンゲルスの民族問題の論攷は歴史を前に進めるという進歩史観や発達史観の上に立って、「民族紛争」を押さえるという作業をしている感があり、ローザもそのような押さえ方をしているのですが、ローザは反戦ということでの、そして時代的な流れの中で出てくる帝国主義間戦争批判で「民族紛争」を押さえています。戦争で、どちらの国を支持するかという観点で論じていません。ローザの論争を一歩進めると、今日的には国家主義批判としての民主主義――民衆主義ということが出てくるのではと思えます。このあたりは、そもそもマルクスの思想形成において、アナーキズム各派との論争があり、そこから、国家主義批判に至り着かなかったとも言いえるかもしれません。このあたり、後に読む予定のグラムシの読み込みの中で整理してみたいと思っています。

 さて、最初に目次を出しておきます。

第一章 諸国民の自決権

第二章 国民国家とプロレタリアート

第三章 連邦制、中央集権制、地方分立制

第四章 中央集権制と自治

第五章 民族と自治

第六章 ポーランド王国の自治

 訳注

 訳者解説 ローザ・ルクセンブルクの民族理論 加藤一夫

 あとがき


 ここで、各章ごとにコメントをしつつ、切り抜きメモを、わたしの問題意識に沿って、になってしまい、かなりまだら模様になってしまうのですが、極めて簡単に残します。(<編集後追記>また、増えてしまいました。)

第一章 諸国民の自決権

この文は、レーニンが民族自決権というところで、批判した文です。なぜ、「民族」ではなく、「諸国民」という言葉を使ったのかを考えます。そもそも「民族」は被差別の中での共同幻想としてあるのではないかというイメージが出てきます。そもそも、「国家」もマルクスが『ド・イデ』の中で、共同幻想規定しているのですが。ローザが実際にどこまで、それらのことを意識化していたかは分からないのですが、そのようなところへ展開していく可能性を考えさせる論攷になっています。

T 

「ロシア帝国における革命は、とりわけ民族問題を討議の場に引き出した。これまでこの問題はヨーロッパ諸国家のなかでは、オーストリア・ハンガリーでのみ差し迫った問題であった。だが、今やロシアでも現実的な問題となった。」2P

 ロシア社会民主労働党における民族問題に関する綱領の条項3P

 一八九六年のロンドンの国際社会主義労働者大会の決議8P

「(ロンドン大会の)決議の前半部で定式化されている諸国民の自決権という原則は、国際社会主義の原則と目的を実現する過程で初めて、また窮極目標が達成された後になって(?)初めて実現されうるということが明確に強調されている。」9P

「だが、民族の抑圧に抗議し、それと闘うという義務は、プロレタリアートの階級政党にとって、決して特別な「諸国民の権利」などから引き出されるものではない。・・・・・・一言でいうならば、社会主義の原則的な立場そのものから引き出されるものである。・・・・・・いかなる形態の民族抑圧をも打破しなければいけないという義務は、・・・・・・一言でいえば、「諸国民の自決権」という公式は、結局のところ、民族問題における政治的かつ綱領的な指針ではなく、ある種の問題の回避でしかない。」11-2P・・・人権論から発生する「権利」ではなく、「義務」という概念からとらえ返す。

U

「あらゆる国、あらゆる時に一律に適用できるような「諸国民の権利」などというものは、「人権」とか「市民権」といった類いの形而上学的な空文句以外の何ものでもない。」12P・・・マルクスの流れはフランス啓蒙主義の「人権論」批判を押さえていて、そもそも「人権」概念は、差別のない関係性の物象化、共同幻想に過ぎない。「形而上学」という概念を「共同幻想」や「物象化」という概念からとらえかえす。

「さらに、史的唯物論は、これらの「永遠の」真理だとか権利だとか公式とかの本当の内容をそのつど決定するのは、常に、ある所与の状況、所与の歴史的時代の物質的な社会的関係に他ならない、ということをわれわれに教えている。」12P

「一八四八年の革命期に、マルクスとエンゲルスがチェコとポーランドの国民的要求にまさに正反対の立場をとったことは、この点(「自決権」を支持するかどうか)についてのもうひとつの例を提供している。・・・・・・マルクスによれば、チェコは死滅しつつあり、かつまもなく死滅する運命にある民族であったから、・・・・・・/マルクスが、この革命期の民族問題を、一切の感傷的態度とも無縁な冷徹な現実主義で考察したことは、まさに彼のポーランドとチェコの問題の扱い方に示されている。」17P――「今日の事態は、六〇年前にチェコ民族の滅亡を予言したマルクスが、今やその生命力によって、オーストリアがますます窮地に陥っていることからみて、どれほど誤っていたか――また反対に、マルクスが当時始まっていたポーランドの内的発展によって没落へと運命づけられていたポーランド民族主義の国際的な意義を過大に評価したことで、どれほど誤っていたかを明らかにしている。だが、この歴史的な誤謬は、マルクスの方法そのものの価値を少しも減じるものではない。・・・・・・・しかし、まさにマルクスやエンゲルスが、かつて、チェコ人やポーランド人の民族運動について、またトルコや南スラヴ人の問題でとっていた立場こそ、これらの科学的社会主義の創始者たちが、あらゆる民族問題をひとつのモデルを使用したり、あらかじめ用意されたひとつの決まり文句にしたがって解決することなど、全然考えもしなかったことを示しており、また彼等がヨーロッパの発展の具体的な物質的諸問題の方が重要だと見なしていたから、諸国民の形而上学的な「権利」などにまったく心をまどわされることがなかったということを示している。」20-1P・・・教条主義的受け売りではない、ローザのマルクスのとらえ返し。形而上学批判と唯物史観的なとらえ返し。

「最後に、近代の社会主義政策の創始者たちによって、民族問題がどのように取り扱われたかを示すもっとはっきりした例として、すでに純粋に歴史的なものになっていて、現実の政治の様相や情熱などにはまったく影響されない評価、すなわち一四世紀のエルヴェシア人の解放運動に対する彼らの評価をとりあげてみよう。」21P――「彼ら(マルクスとエンゲルス)は、この二つの場合に、当然マジャール人よりもエルヴェシア人に多く味方するはずの「諸国民の自決権」の公式を用いて自分の立場を決めたのではなく、もっぱら、歴史的・政治的視点から運動を現実的に分析することによって立場を決めたのである。」23P・・・その中身としての「歴史的進歩の要因」23P――マルクスのイギリスのインド支配を、「文明化」と押さえたことへのサイードの批判――社会主義への定式というところを越えて、反差別というところから社会主義概念をとらえ返す必要→これに関しては、ローザが「V」の冒頭でコメントを書いています。

V

「ところで、このような立場をとっているマルクスとエンゲルスは、外見的には、党派エゴイズムあるいは階級エゴイズムに忠誠を誓い、かつすべての国民を西欧民主主義の要請と展望の犠牲に供したように見えるかも知れないが、実際は決してそうではなかった。/もちろん社会主義者が、現実に今、抑圧されているすべての国民に対して普遍的かつ全世界的に自由のための大赦を呼びかけるならば、それはひどく高潔な響きをもち、それ以上に若い「インテリゲンチャ」の賑やかな空想に、自由とか平等とか、またその類いの幸せを手に入れる権利を、机上で気前よく与えたがる性癖は、まさに社会主義運動の幼年期のものであり、せいぜいのところ無政府主義の空虚な大言壮語を特徴づけるものでしかない。/近代労働者階級の社会主義、すなわち社会的科学主義は、社会問題や民族問題の解決方法について、できるだけ急進的で高邁な響きをもった方がいいなどとは考えておらず、何よりもまず、これらの課題の現実主義的な諸条件を分析するのである。」24P・・・少なくとも、ローザはサイード的な批判を押さえていなかったわけではないのですが、ただし、その原則主義ではアナーギズム批判の論理に陥り、現実的に解決の途にはならないとして退けています。ここで、ローザはレーニン的現実主義批判をしつつ、それでも現実主義の立場をとっています。

「すべての民族問題を、資本主義のもとで、全ての民族、人種、種族に「自決」の可能性をもたらしたり、保証したりすることによって解決しようとする希望も、同様にまったくのユートピアである。」27P・・・ここでは、原則主義に陥っています。原則主義と現実主義の弁証法から検証の必要。このことは、ローザも批判しつつ、反差別論というところから原則主義に立ち返るということになっていくのではないでしょうか? それがアナーキズム的に見えるとしても、アナーキズムではない途になるのではと考えています。

「われわれはかなり以前から、南スラヴ人に関するマルクスの見解には与しなくなってしまったが、歴史的発展、とりわけ、現代の資本主義的発展が、あらゆる民族に自立した存在をもたらすのではなく、むしろその逆の方向に進んでいるという一般的事実は『新ライン新聞』の時代とまったく同じように、今日でもはっきりと認められている。」29P・・・しかし、この後、時代的に大きな「民族独立運動」が起きています。ただし、独立しても従属関係が変わりはないという意味では、この論攷の正当性はあります。

「資本主義発展の擁護者で、自己の経済的・政治的自立の維持に不可欠な物質的・精神的な手段を保持しているいくつかのきわめて強大な国民とならんで、弱小な国民が「自決」し、自立した存在を維持することなど、幻想であるし、今後ますますそうなるであろう。」33P

「だから、一見例外でしかないように見えるものでも、より注意深く分析してみると、結局は、近代の資本主義発展は、すべての民族の実際の独立とは決して一致することができないという結論を確認することになる。」38P

「すなわち、現存の制度のもとで、この「権利」の実現を望むことは、社会民主党がその存在の基盤おいている資本主義的発展の傾向に、まさに真向から対立するユートピアだということである。なぜなら、現存のあらゆる国家をすべて民族単位に分割し、それらを大小の国民国家の形に裁断することは、まったく見込みのない、歴史的にみて反動的な企てだからである。」39P

W

「「諸国民の自決権」について語る時、われわれは、「国民」という概念を、ひとつの全体として、統一的な社会的・政治的単位として使用している。だが、「国民」についてそのような概念は、まさにブルジョア・イデオロギーの範疇のひとつであって、マルクス主義の理論は、これを徹底的に再検討して、「市民的自由」だとか、「法の前の平等」などの概念と同様に、薄いヴェールをまとったなかに、いつでもまったく特定の歴史的内容が潜んでいることを明らかにしたのである。/階級社会には、社会的・政治的統一的な全体としての「国民」などは存在せず、反対に、おのおのの国民のなかに、敵対的な利害と「諸権利」を持った諸階級が存在している。」40P・・・「国民」概念を(――そこから「国家」概念も当然)問い直す志向のあるローザ

「社会科学と哲学の領域でも、ブルジョア的な諸学派とプロレタリアートの立場を代表する学派は、互いにはっきりと対立していて、有産階級とその世界観は、観念論、形而上学、神秘主義、折衷主義を代表し、近代プロレタリアートは、自分の学説――弁証法的唯物論――をもっている。」40-1P

「このように形造られている社会の中では、集約された統一的な意思とか、「国民」の自決など問題になりえない。われわれは、近代社会の歴史の中に、「国民」運動とか「国民的利益」のための闘争を見るが、通常それらは、ある程度まで他の階層の人々の利益を代表しえたブルジョアジーの支配層の階級運動であり、しかも、それは、彼らが「国民的利益」という形で、歴史的発展の進歩的な形態を擁護する限りにおいて、また、労働する階級がまだ、このブルジョアジーによって指導されている「国民」大衆から、自立的な意識をもつ政治的な階級へと分離していない限りにおいてなされたことである。」41P

「一言でいえば、社会は、その経済生活とその生産の諸条件について意識的に決定できるようになって初めて、自身の国民生活に関して事実上自由に決定できるようになるのである。人間社会が、その社会過程を統御するようになった時、「諸国民」も自身の歴史的な存在を統御するのである。」44P・・・過渡の問題をどうするのかということも立てる必要があります。

「結社、集会、言論、出版などの権利とは、ブルジョア社会の、法的に形造られた成熟した存在形態である。これに対して、「諸国民の自決権」は、ブルジョア社会においてはまったく実現不可能なものであって、社会主義体制という基盤の上でのみ実現可能な理念を形而上学的に定式化したものにすぎない。/しかし、今日の実践においては、社会主義は、あらゆる神秘的で「高貴な」「美しい」要求の貯水池などではなく、まったく特定の諸条件の、すなわち近代プロレタリアートの、ブルジョアジーの支配に対する階級闘争の政治的な表現であり、また今日の生産形態を廃棄する目的でプロレタリア階級の独裁を導入しようとする要求の政治的表現なのである。これこそが、プロレタリアートの党である社会主義政党にとって主要な指針的な課題であり、それが社会生活の個々の問題のすべてに対して、党のとる立場を決定するのである。」44-5P

「「国民」が自決の「権利」をもつべきだとしてみよう。だが、「国民」とはいったい誰なのか。誰が「国民」とその意思を代弁できるのか。・・・・・・」46P

「したがって、「国民意思」とか国民の多数者とかいうのは、社会民主党にとっては、その前にひざまずくような崇拝の対象などではまったくなく、反対に、社会民主党の歴史的使命とは、何よりも、「国民」、つまりその勤労人民の多数者の意思を作りあげ革命化することにある。だがブルジョア社会のなかで、国民の多数、したがって勤労する諸階級も含めて、その多数が示している意識の伝統的形態は、通常は、社会主義の理想や要求に敵対するブルジョア的な意識形態である。」48P

X

「ここから、以下のようなかなり奇妙な結論が引き出される。つまり、ロシア社会民主労働党はポーランド問題の解決をポーランド「国民」に委ねるが、ポーランド社会主義者はそうしてはならず、全力をあげてプロレタリアートの利益と意思にもとづいてこの問題を解決するように努力しなければならない、という結論である。」53P・・・レーニンの被差別側の民族自決権として押さえる必要があるとの論理を押さえる必要。

「(ロシア社会民主党は)次の二つのどちらかをとることになるであろう。まずひとつは、ロシア社会民主党にとっては、「諸国民の自決権」が、事の本質からして、民族問題に関する当該の民族のプロレタリアートの決定、すなわち、当該の民族の社会民主党の民族綱領と一致していなければならないという態度である。だが、この場合には、ロシアの党綱領のなかの「諸国民の権利」という公式は、階級的な立場を言い換えて人をけむに巻くものでしかない。もうひとつは、ロシア・プロレタリアートが、それにふさわしく、実際にロシアによって抑圧されている民族の国民的多数派の意思のみを――たとえその党外の「諸国民」のプロレタリアートが、自身の階級綱領を持ち、その多数派の意思に反対しているとしても――ひたすらに承認し、尊重しなければならないという態度である。だが、この場合、それは奇妙な政治的二元主義となり、帝国全体の労働者の立場と、それを構成する個々の民族の党との間の確執という形で、「国民的な」立場と階級的な立場との不一致をすっかりさらけ出してしまうことになるであろう。」55-6P

「他方、このような立場は、科学的社会主義の創始者たちが、民族問題を考察するに際して唯一の指針と見なしたプロレタリアートの階級利害と社会の革命的発展の擁護という、社会民主党の本来の使命と衝突することになる。」59-60P

「そして、このプロレタリアートの階級闘争の利益こそ、全体党においても、その構成部分である諸党においても、党の立場を統一し、一貫したものにしうる唯一の観点なのである。」60P・・・これでは、民族問題は、反差別運動は、階級闘争の従属論になってしまいます。階級と民族の対立の図式。

第二章 国民国家とプロレタリアート

 この章は、階級闘争と「国民国家」というところでの民族概念との関係を論じている章です。

T この問題での総論

「(カウツキーの言葉の引用)「全ヨーロッパで、近代国家の成立に伴って」登場した(カウツキーの言葉の引用)「近代的な国民理念の根源」をなす三つの要因とは(カウツキーの 言葉の引用)「まず、自らの商品生産のために国内の販売市場を確保しようとするブルジョアジーの願望、次いで、政治的自由と民主主義への願望、最後に、国民文学と国民教育の一般人民層への普及」である」66-7P

「だがここでは、政治生活の一現象、いわゆる国民国家形成の衝動の一現象としての国民運動が問題なのであるから、この運動がブルジョア時代と結びついていることに関しては、疑問の余地はない。」67P

「一八三〇――四〇年代に、「国民的再生」の基礎を、逆にブルジョア的発展の諸要素、つまり工業や商業、それに「国内市場」の理論に求めたのである。一八三〇――四〇年代に、ドイツでかくも強力な政治、学問、哲学、文学の思潮を生み出したこの愛国主義運動の物質的基礎となったのは、とりわけ数十もの封建的小国家に細分され、関税や租税の障壁で切り刻まれていたドイツ領域を、大機械工業生産のための充分に幅広い基礎とすべく、一つの大きな統合的な資本主義的「祖国」にまとめ上げる要請であった。」68P

「しかし、近代のブルジョア的な「国民理念」の本質は、まさに、どの国のブルジョアジーもが、何よりもまず「自国民」、「自分の祖国」を商品販売の場として、生まれながらにしてブルジョアジーに奉仕すべく運命づけられ、そのような使命を持った、あたかもマーキュリー神に指定された一人占めできる世襲財産のようなものだと考えている点にある。」69P・・・ブルジョア的理念としての「国民国家」

「カウツキーの定式を文字通りに、すなわち、近代の国民運動の物質的基盤とは、大雑把に言って、「自国の」商品販売に対する産業ブルジョアジーの欲望に他ならないという意味でとらえるならば、それは誤りであろう。資本主義ブルジョアジーは、この販売市場以外に、それと密接に関連するのだが、次のような多くの条件をも必要とする。それは、この「祖国」が不可侵であるための保障としての、また全世界の市場に道をひらくための武器としての強力な軍国主義、さらに、一定の適切な対外関税政策、適切な形態の行政、交通、司法、教育、および適切な財政政策である。一言でいえば、資本主義は、その然るべき発展のためには販売市場ばかりではなく、近代資本主義国家の装置のすべてを必要としている。」69P・・・ここで挙げていることを、六章で自治の要件として、その中身を論じています。

「以上のすべてのことから、ブルジョアジーの階級的利害に合致した国民的要求の特殊な形態とは、国家的独立であるという結論が引き出される。」70P

「ブルジョア的愛国主義は、様々な民族の利害の一致ではなく、その対立に依存するが、その奇妙な両刃的性格は、近代のブルジョア的国民運動の歴史的基層を成しているのがブルジョアジーの階級支配の欲求に他ならず、この欲求が現われる特殊な社会形態こそこそ近代資本主義国家であり、それは、ある特定の民族のブルジョアジーの、国家の[民族的に――訳者注]雑多な住民の全体に対する専横的な支配という意味でまさに「国民的」なのだということを考慮して初めて理解されるのである。・・・・・・このように、国家的な独立とか統一といったものが、ブルジョアジーの国民運動の本来の軸をなしているのである。/この問題はプロレタリアートの利害の観点から見るとまったく異なった様相を呈している。・・・・・・」72P

「ブルジョアジーの歴史的・階級的使命、課題とは、近代的な「国民」国家の創出であり、これに対し、プロレタリアートの歴史的任務は、社会主義制度を導入するために、プロレタリアート自らが意識ある階級として生を享けた資本主義の政治形態であるこの国家を廃絶することである。」73-4P・・・ローザは「国家の廃絶」ということを明確に突き出しています。

「だから、このような側面から見ると、異民族に対する支配と征服の装置としての「国民」国家は、ブルジョアジーにとって必要不可欠でこそあれ、プロレタリアートの階級利害にとっては何の意味もない。/それゆえ、カウツキーが挙げたあの「近代的な国民理念の三つの根源」のうち、階級としてのプロレタリアートにとって原則的に重要なのは、次の二つ、つまり民主主義の諸制度と普通教育だけである。」75P

「さらに、方法の点からしても、前述の推論には、他にもう一つの歴史的な誤解が含まれている。独立した国民国家がいずれにせよ民族としての存在と発展にとっての「最良の」保障だとする推論は、国民国家の概念をまったく抽象的な範疇としての取り扱うことを意味している。もっぱら民族という視点から観察され、また、もっぱら自由と独立の保証・権化とされる国民国家とはすなわち、一九世紀前半のドイツ、イタリア、ハンガリーなど中部ヨーロッパ全体の、とっくに腐敗しきった市民的イデオロギーから引っ張り出した使い古しのボロ雑巾、ブルジョアジー自由主義の腐った宝箱から取り出した空文句である。」76P・・・「抽象的」――むしろ、共同幻想としての「国家」・「民族」

「つまり、近代国家の内容と本質を成しているのは、「民族」の自由でも独立でもなく、単にブルジョアジーの階級支配、関税政策、間接税、軍国主義、戦争、征服にすぎない。国民国家のこの凶暴な歴史的実体を薄いイデオロギーのヴェールで、すなわち「民族の自由と独立」というスローガンのまったく否定的なおめでたさで隠蔽することが、ブルジョア・イデオロギーのもっともな、当時としては実入りの多い階級的な傾向であった。だが、まさにそれゆえに、この瞞着の歴史的・社会的基盤を心に溜めさえすれば、それがプロレタリアートの可能な、またあるべき階級的立場と真向から対立していることがたちどころに理解されるであろう。/他の多くの場合と同様に、ここでも、見かけはブルジョア自由主義に敵対している無政府主義が、実際にはその実子であることを曝露している。」77P・・・無政府主義すべてが敵対しているのでしょうか?

「・・・・・・「国民国家」は、今日では、非民族的な征服国家と同じく、ブルジョアジーの階級支配の道具であり、その形態なのである。そして、そのようなものとして「国民国家」は、まさに征服、戦争、抑圧に向かう傾向、つまり「非民族的なもの」になる傾向を持っている。・・・・・・ブルジョア的発展の要請が「国民国家」をも決定し、無政府主義者に崇拝され、理想化された共和国の形をとった「国民意思」が、征服の有能な道具として資本主義の利害に貢献したのである。」79P

「ここで、われわれの興味をひくのは、すでに独立した「国民」国家となっているこれらの諸国のその後の政治史、「国民的自由」と「人民の意思」という無政府主義な空辞の色鮮やかな実例としてのその歴史である。」79-80P

「このように、ブルジョアジーの階級利害と資本主義の要請という観点からすると、民族問題は、ブルジョア階級にとっては、事の性質上、政治的独立という形態、すなわち国民国家の形態をとるようになる。なぜなら、それがまさに支配と征服の誂え向きの道具だからである。そしてそれだけに、民族問題の文化的な側面と民主主義的な側面が、したがってまた、国民生活のこれらの側面の自由な発展を保証するような政治形態が、労働者階級の利害と原則的に一致することになる。つまり、攻撃的な民族政策という手段を使わず、純粋に防衛的な方法で、歴史的に一つのブルジョア国家に結合された様々な民族が友愛的な共同生活を送れるように国民生活の発展を保障するような政治形態である。諸民族の市民的同権と民族的・文化的発展を保障する政治制度、これこそ、一般的な形をとったプロレタリアートの自然の階級綱領であり、それはブルジョア民主主義とは異なり、プロレタリアートの階級的立場から生ずるものである。」82P

U ポーランド問題

「わがポーランドの国民理念は、ブルジョアジーの階級理念であったことは一度もなく、もっぱらシュラフタのそれであった。」82P

「有機的労働」83P・・・註(10)304P

「ポーランド民族主義は、伝統によって聖化された出来合いのポーランドの社会反動の型式となり、国民理念は、シュラフタ、ブルジョア層、小ブルジョア層などのブルジョア諸階級の陣営全体の反動的欲求を満たす共通のイデオロギー的な旗印となった。ここでも、歴史の弁証法は、「諸国民の権利」などという抽象の砂漠で思惑に耽る政治家たちの紋切り型の硬直した精神よりは、はるかに才気煥発で、柔軟で、多様性にも適用しうるものだということが明らかになった。」87P

第三章 連邦制、中央集権制、地方分立制

 これは後に出てくる「自治」の概念の中味として、連邦制、中央集権制、地方分立制(今日的な概念としては地方自治)を巡る論攷です。

T 連邦制

 冒頭リード文「続いて、民族問題を解決するももう一つの形態である連邦制を考察しなければならない。」94P

U 中央集権制

 冒頭リード文「あらゆる国の資本主義発展の顕著な傾向となっているのは、誰の眼にも明らかなように、内政、経済および資本主義の中央集権化、つまり、経済、立法、行政、司法、軍事などの面で、国家領域をひとつの全体に集中、結合する傾向である。」97P

「絶対主義が、近代の国家中央集権主義の最初の主要な推進者であったという歴史的事情の結果、中央集権主義を一般に絶対主義と、したがって反動と同一視する悲壮な傾向が生じた。絶対主義は、実際には中世末期に封建的分散性や地方分立主義と闘っており、その限りでは、疑いもなく歴史的進歩の表明であった。」98P・・・そもそも「マルクス的な」とされる進歩史観のとらえ返しの必要。絶対主義の歴史の中でのとらえ返しの必要。

「一言でいえば、社会生活のあらゆる分野で、出来るだけ強力に中央集権化するというのが、資本主義の顕著や方向となっている。」99-100P・・・地方の保守性の時代から、逆に現在的な農業の破壊からする革新性の芽や地産地消の革新性のとらえ方、進歩史観批判との同じ根

「それゆえ、資本主義発展の正嫡子(ママ、そもそも?)である近代社会主義運動も、ブルジョア社会やブルジョア国家と同じく、顕著な中央集権化傾向を内包している。したがって、社会民主党は、どこの国でも、地方分立主義にも連邦主義にも断乎反対するのである。」101P

V 地方分立制

 各国の地方分立制――スイス102-4P、アメリカ合衆国104-6P、オーストリア106-115P、ノルウェー115-6P

「連邦主義や政治的分離主義は、実際は民族的欲求の表現でなかったばかりか、まさにその単なる否定、公然たる放棄であった。」110P

W 全ロシア連邦主義者グループ会議に集まった各民族と「会議」の内実

冒頭リード文「連邦制の理念は、すでに六〇年も前に、バクーニンやその他の無政府主義者が、民族問題の解決法として、また一般に国際関係における政治秩序の「理想」として掲げていた。この理念が、今、ロシアの一連の社会主義グループにかくまわれている。この理念と、その今日のプロレタリアートの階級闘争への関わりを如実に示しているのが、最近、革命の最中に開かれた全ロシア連邦主義者グループ会議である。この会議での議論は、詳細な議事録として出版された。/とりわけ興味深いのは、これらのグループの政治的相貌と、その主張する「社会主義」が特異なことである。会議には、グルジア人、アルメニア人、白ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人の連邦主義者が参加した。」116P――グルジア人116-8P、アルメニア人118-9P、白ロシア人119P、ユダヤ人120-1P、「ポーランド社会党「革命」派とロシア革命党という二つの組織がまだ残っているが、これらの党は、その素姓や性格からして十分に知れ渡っており、敢えてここで言及するまでもないであろう。」120P、「連邦主義者会議」の内実120-4P「ここではっきりと証明されているのは、あらゆる民族を和解させるという連邦主義の理念など空辞にすぎないこと、そして、これらの雑多な民族主義グループが何ら歴史的な基礎にもとづいていないという、まさにそのような理由から、それら諸グループの間には、利害対立を解消するための基礎を生み出し、根本からこれらの諸グループを一致させる理念など何ら存在しないということである。」122P

「その本質と歴史的内容からして反動的な連邦主義の理念は、今では、帝国全体のプロレタリアートの団結した革命的な階級闘争への反動をなす小ブルジョア的民族主義の疑似革命的な後盾となっている。」124P

第四章 中央集権制と自治

 そもそもローザの民族問題への論考は、中央集権制と民族自決権は矛盾すると立てていて、自治の概念を出して、中央集権制と自治の関係をここで展開しているのです。

T ブルジョア国家の中の地方自治

冒頭リード文「資本主義の全般的な中央集権化傾向にもとづき、それと同時に、ブルジョア社会の客観的発展そのものとその要請から、ブルジョア国家の中に地方自治が生まれてくる。/ブルジョア経済は、国家の全域にわたって、立法、司法、行政、教育制度などが、また可能ならば国際関係さえもが出来るだけ画一化されることを必要とする。だが、このブルジョア経済は、これらの国際機能の行使にあたっては、画一性ばかりでなく精密性や効率性をも必要とする。こうして、近代国家の中央集権主義は、必然的に官僚制と結びつくのである。・・・・・・そうではあるが、他方、中央集権的官僚主義は、このブルジョア経済の側から見ると、重大な欠陥も持っている。販売条件も、また生産条件さえも、無数の社会的影響によって、絶えず、動揺や変化を引き起す。資本主義的な生産と交換の特徴は、それが社会的影響と結びついた不断の変化に対し、最高度の感受性、柔軟性、即応力を持つばかりか、それ自身が変化する能力さえ持つことに示されている。それゆえ、ブルジョア経済は、それが公的機能によって運営される際には、もともと融通のきかない紋切り型の中央集権的官僚主義ではどうにもならないような繊細さと適応力とを必要としている。すでに、ここから、近代国家の中央集権主義の矯正として、住民代表に委ねられる立法と並んで、地域自治が、自然の傾向として、中央集権主義と共にブルジョア社会に生まれてくる。この地域自治は、その地域の多様性な諸条件を考慮し、また、社会が公的な機能に直接影響を及ぼしたり、参加したりすることで、国家装置が様々な社会的要請により良く対処しうる可能性を与える。」128-9P

「・・・・・・資本主義経済は、大量工場生産が支配的になって以来、早急に満たす必要のある、まったく新たな一連の社会的要請を生み出した。とりわけ、大資本と賃労働制の出現によって、伝統的な社会構造全体が動揺し破壊され、プロレタリアートの増大と切り離せない大量失業と大衆貧困という、未曾有の疫病を生み出した。資本の要請である予備労働力の確保のためにも、公共の安寧のためにも、生活手段も働く術も完全に奪われているプロレタリア大衆を、逃げないように縛りつけておく目的で面倒を見ることが、社会にとってどうしても必要なこととなった。こうして、資本主義生産にもとづく社会的機能として、近代的な公共の福祉が発生する。」130P・・・経済的なことが政治の必要性を生み出す。

「この国家の領域の分化と、新しい社会的中心地の形成とが、新たな社会的要請から生み出される近代的な地域自治の枠組を用意した。地域自治や自治体の自治は、特殊なこれらの社会的有機体の要請に対処するのに不可欠なものであって、また、経済的に農村と都市の対抗に依存する資本主義が、一方では近代的な都市を、他方では農村を、このような有機体に作り変えたのである。」132-3P

「このような近代的自治はすべて、決して国家中央集権主義の廃止ではなく、それへの補足にすぎない。そして、この両者が結びついて初めて、ブルジョア国家を余すところなく特徴づけることになる。」132P

「近代のブルジョア的制度から生じる地域自治は、中世の過去から受け継がれた連邦主義や地方分立主義と何も共通なものがないばかりか、まさにそれらに敵対さえしている。中世的な地方分立主義や連邦主義が、国家の政治的機能の分散を意味していたのに対して、現代の自治は、機能を地方的な要請にも対応させること、また住民がそれに参加することを意味しているだけである。したがって、バクーニンの理想である地方分立主義や共同体(「コミューン」のルビ)連合主義が、大国の領域を大なり小なり独立した小領域へと分割する傾向を持つのに対して、今日の自治は、中央集権化された大国の民主化の型式にすぎない。現代の主要国で、古い地方分立主義の墓の上に、それとはっきり敵対して発生した近代的自治の歴史が、このことを最も明瞭に示している。」132P

U 各国の情況

 フランス133-145P、イギリス146-154P、ドイツとオーストリア154-5P、ロシア155-7P、ポーランドとリトアニア157-8P

(イギリス)「これとまったく異なった道をたどったのが、イギリスの自治の歴史である。ここに見られるのは、中世から近代社会への革命的な転換ではなく、反対に、封建的遺物を救い、今日に至るまでそれを保存させた、すでに早期に交わされた妥協である。古い型式を破壊するのではなく、それに少しずつ新しい内容を盛りこむことで、ブルジョア的イギリスは中世的イギリスの中に自らの場を切りひらいてきた。そしておそらく、地域自治の領域ほど、この過程が典型的で興味深い領域はないであろう。月並みな言い方だが、一見して明らかなように、イギリスは、最古の地方自治を持つ国、いやむしろ自治の発祥地であり、古典的な祖国であったから、大陸の自由主義もその要求の模範をイギリスに求めたのだった。」146P

「したがって、もしイギリスの大昔の自治(selfgovernment)を一種の「自治」と見做すことが出来るとすれば、それは州の公的権力を手中に収めた土地貴族の無制限の自治の制度という意味でのみそう言えるのである。/この中世的な行政制度が初めて土台を掘り崩されたのは、エリザベスの時代であった。それは、農村の所有諸関係を動揺させ、イギリスに資本主義時代の幕開けを告げた、あの革命の時代にあたっている。貴族が大規模に農民から土地を強制的に収用したこと、牧羊が農業を駆逐したこと、教会財産が世俗化され、続いて貴族が私物化したこと、それらの結果、突然、巨大な農村プロレタリアートが出現し、続いて、貧乏人、乞食、追剥が現われるに至る。資本の最初の勝利は社会全体の基盤を揺り動かし、イギリスは、大衆貧困という新たな恐怖に直面せねばならなかった。そこで開始されたのが、浮浪者、乞食、泥棒に対する撲滅運動で、これは、血で汚れた一筋の糸のように一九世紀半ばまで続く。だが、牢屋も焼き印も、また絞首台さえ、この新たな疫病にはまったく効き目のない薬であることが判明したため、イギリスには、即決裁判とともに、「公共の福祉活動」が始まり、辻の絞首台のそばに、教区の「救貧院」が作られることになる。」147-8P・・・本源的蓄積と公共的福祉の始まり

「この税の徴収と管理、および扶助組織や救貧組織のために、教区公務の新たな組織が生まれた。さらに、勃興しつつある資本主義経済の要請から生じるもうひとつの重要な公的義務として、道路監督という職務が、まもなくそれに加えられた。以後、この組織は、首席の牧師の他に、教区から選出される二名の教会監督官、治安判事の任命する福祉監督官(overseers of the poor)、同じく治安判事の任命する一名の道路監督官(surveyor of highways)から成っていた。見ての通り、これは、旧来の自治(selfgovernment)の装置を近代の要請に適応させただけのものであった。」148-9P

「トーリー党の政治的特権を打破した一八三二年の選挙制改革は、同時に、近代的意味でのイギリスの自治が始まった日付ともなった。それは、地域行政への住民参加と、中央当局の支配と統制のもとで住民の意志を遂行する役割をもつ有給で責任のある官吏とにもとづく自治であった。国家を州と教区に分ける中世のやり方は、中世的な治安判事職や教区議会と同様、今や新たな編成を示している住民や、地域的な要請と利害にはほとんど対応しなかった。だが、フランスの革命的自由主義が、国土から古くさい州を一掃して、新行政区分を持つ統一的フランスを打ち建てたのに対し、イギリスの保守的な自由主義は、古い区分を形式的にも廃棄せず、その内部に、それと並んで、それと交錯して、新たな行政網を漸進的に作り上げたにすぎなかった。イギリスの自治の特徴は、伝統的な自治(selfgovernment)の枠組があまりに不適格であって最後まで使い尽くすことが出来なかったので、新しい種類の基礎、すなわち、自治の基本的問題をそれぞれ個別に解決するための住民による特別の地域団体を創設したことである。」151P

「イギリスでは、後の整序され近代化された諸関係の時代に「人手」(hands)という要を得た表現が労働者と同義となったように、一九世紀半ばまでは、「貧民」(the poor)が公式に労働者と同義であった。」153P

V カウツキーの自治の問題に関する引用と自治の概念の煮詰め

「この論証を貫く基本思想、つまり、近代の国家中央集権主義を行政のそれと立法のそれに分けること、そして前者を否定し、後者を無条件に承認すること、これらはかなり形式主義的な、あまり顕密でない問題把握であるように思われる。地域自治――州、都市、自治体の自治――は、決して、行政の中央集権主義を廃止はしない。全体としての国家の統治が、スイスのような民主的な国家でさえ、たえず自身の権能を拡大しようとする中央権力の手に留まるのに対し、地域自治は、厳密に地方的な問題のみを担当するのである。」161P 「とにかく、地域の代表機関と行政機関との絶えざる争いの軸になっているのは、被選出機関の立法の権能を絶えず拡大し、被任命機関の行政の機能を絶えず制限しようとする民主的な努力なのである。」163P

「したがって、立法の機能を行政の機能から形式的に区別することよりも、むしろ、資本主義経済やブルジョア的大国家の核を成す社会生活の一定の領域を地域的利害の範囲から区別することによってこそ、国家中央集権制の分野を地方自治の分野から、また同時に、近代的自治を封建的、あるいは小ブルジョア的な地方分立主義から切り離すことが出来るのだとするのがわれわれの見解である。」」164P

「だが、あらゆる資本主義国で、近代的な地域自治が生長してくるのとまさに同じ土台から、特定の諸条件のもとで、内部立法を伴う民族自治が生長してくる。これは、近代の社会発展の自発的表明として現出するのであり、今日の都市会議がハンザ同盟の議会とはまったくの別物であるとの同様に、これも、中世の地方分立主義と何ら共通するものを持たないのである。」164P 

第五章 民族と自治

T 資本主義における民族と階級と文化

冒頭リード文「資本主義は、社会的存在やその形態を、物質的基礎から頂点の精神的な思考形態に至るまで作り変える。」168P

「国内自治は、帝国全体の政治的自由の一部分であり、一言でいえば、ポーランドのブルジョア支配の最も成熟した政治形態なのである。/まさにこういう理由から、自治は、ポーランドのプロレタリア階級にとっても欠くことのできない要求となる。ブルジョアジーの支配が成熟した形をとればとるほど、またそれがあらゆる社会的機能に、そして多肢にわたる精神生活の諸領域へと確実に浸透すればするほど、プロレタリアートの階級闘争はますます戦域を拡大し、その攻撃目標をましていく。また、ブルジョア社会が順調に効率よく進展すればするほど、プロレタリアートの階級意識や政治的成熟度、それに階級的団結も、ますます力強く確実に進んでいく。」176P

「ポーランドのプロレタリアートは、階級闘争のために精神文化のすべての条件を必要とする。また、とりわけ基本的に諸民族の連帯を頼みとし、それを追求するポーランドのプロレタリアートの利害は、民族的抑圧の廃棄と社会的発展を通じて生み出されるこの抑圧から身を守るための保証を必要とする。・・・・・・つまり資本主義発展の進歩的傾向、およびプロレタリアートの階級利害から、この綱領の細目として国内自治は生まれてくるのである。」176P

U 民族の自治

「民族主義の理論家は、通常、民族を一般に社会発展の外にある生まれたままの不変の現象として、また保守的で、いかなる歴史的運命にも抗う現象として理解する。こうした見解に従い、ブルジョア民族主義は、民族の生命力や力の主な源泉を近代的な歴史構成体であるブルジョア的で都市的な文化の中にではなく、もっぱら農村住民の伝統的な生活様式の中に見出している。」177P

「すなわち、それ自身の産業、それ自身の大都市生活、それ自身の「民族」ブルジョアジー、それ自身のインテリゲンチャを持つ固有のブルジョア的な発展がひとたび発生すると――例えばチェコで起こったように――いかに、それが、抵抗力のある民族政治、および、それと関連する活発な政治生活のための基礎となりうるか、ということの例になっているのである。」180P

「これに対し、自治の概念を、このユートピア的・イデオロギー的な基礎から歴史的な基盤に移し、それを、一定の環境のもとにおける資本主義経済に特有の必然的帰結として、また、ブルジョア社会と、その民主的発展の要請とから生ずる一定の社会的機能――物質的かつ精神的な機能――を充足させる形式としてとらえるならば、近代の立憲国家のもとでの国内自治の機能は、その国家の政治的発展の総体、および近代のブルジョア生活の諸形態と離れがたく結びつくことになる。」182P、

他民族から押さえる作業をしています。ユダヤ人184-5P、リトアニア185-191P

「したがって、一般的に言って、ここでは、民族間の関係は、同時に社会階級の関係となっている。」192P・・・逆に、階級の問題が民族的なこととして現れる側面。

「このように、リトアニアをポーランド王国の自治領域に接合したり、あるいは、リトアニアとルーシ地方を、ポーランド人が優位に立つのは避けられないような、ひとつの自治地域に区分したりするのは、民族的な観点からしても、社会民主党にとっては、徹底的に駆逐しなければならない構想なのである。それに、このような形のリトアニアの民族自治の構想は、当該の諸民族間の数的かつ社会的な諸関係からしてユートピア的なものであって、たいていは破産するであろう。」192-3P・・・ここは、ローザが「歴史なき民族」論に陥っているとして批判されているところ。

V カフカスの混在する民族問題

「したがって、ある民族の他の残りの民族に対する支配などなく、あらゆる民族に文化的に生きる自由を保障する民主的な精神、また、カフカスの人種的境界など斟酌しない近代的発展の真の社会的な要請の精神にのっとったカフカスの民族問題の唯一の解決法とは、リトアニアの場合と同様、広汎な地方自治の適用、すなわち、特定の民族の性格を持たない、いかなる民族にも特権を与えない、農村、都市、郡、県の自治を適用することである。このような自治のみが、種々の民族が結集して、その地域の経済的・社会的利害を共同で解決することを可能にし、また他方、各郡、各自治体で諸民族間の多様な関係を自然な仕方で考量することを可能にするのである。」198P

「つまり、一定の最小限以上の人口を持つ少数民族は、その基準に従って、自治体、郡、県に、民族語に依る学校の設置を義務づけるための基礎となり、また、その言語を、地域の公共機関、行政、司法などで、当該の土地で優勢な民族の言語や国家語と併存させるための基礎となるのである。もし、資本主義体制の枠内で、またこういう歴史的諸条件のもとでも、入り組んだ民族問題の解決が一般に可能だとすれば、地方自治の一般原則を特別の立法手段に組み合わせたこのような解決法こそ、各民族の文化的発展の利害や各民族の同権を彼らの密な共存状態の中で満足させるための保障を与えるものであって、彼らを民族自治という障壁で互いに隔絶させることでは、この保障は得られないのである。」199P

W フォルツナートフの構想

「明らかに著者(フォルツナートフ)は、この図表(各国・各地域における各民族の分布の図表)を作成する際、歴史的なものを考えようとしておらず、経済的諸関係、つまり、近代的発展や自然条件によって形成される生産と通商の領域もまつたく無視してかかっている。この種の平板な見方は、敢えて言うまでもないが、マルクスの「教義」である唯物論的世界観に心魂を傾ける人々が政治的に結集するのを妨げるくらいのものだろう。」203P

「フォルツナートフの構想は、根本的には民族性原理の単なる否定であるが、それだけに、無政府主義的な方法の結末を示す興味深い見本となっている。すなわち、こういう客観的な社会発展をまったく無視した民族主義の無政府主義的な方法は、横柄に浮世をのさばり歩いた後に、結局、「直してやろう」と思い立った、まさにその醜悪な現実の歴史と瓜二つの結果、すなわち、「民族の権利」とか民族の平等とかを次から次へと犯す結末を迎えてしまうのである。自由主義や無政府主義のイデオロギーの浸みこんだ民族の「権利」の蹂躙が、それ自体の内面的意義と――最も重要なことだが――革命的弁証法を持つ歴史の発展過程の結果なのだということと、社会的に融合したものを夢中でひきはがしたり、社会的に接合しないものを無理矢理接合したりする革命的民族主義の下手くそな小細工が、結局のところ、もっぱら、政治的な悪ふざけに浮かれた何の意味もない衒学ぶりゆえに、自ら信奉していた民族の「権利」の蹂躙に進んでしまうこととの間には、大きな違いがある。」206P

第六章 ポーランド王国の自治

 ここでは、ポーランドの自治ということで、自治の具体的中身について論じています。これを読んでいくと、ローザは自治そのものを否定しているのではなく、関係の中での自治は、「自決権」という概念にはならないということを論証し、社会主義革命の必要性を論じているのだということが明らかになってきます。

T 総論

 冒頭リード文「これまでに考察した例から次のことが明らかになる。すなわち、民族の自治は、唯一の、そしてすべての民族集団に適用される政治形態でもないし、また社会主義であれば、どんな条件のもとででも目指すであろう純粋に自由な理想でもない、ということである。リトアニアの例が証明しているように、ある場合には、自治の適用が自由と民主主義に反する結果に行きつくこともあり得るのである。住民の民族構成が雑多であるのに、この存在形態を国家組織の基盤として普遍的に適用しようとする考えがいかに幻想的であるかは、将来の自由なロシアにおける自治制度に関するあの「社会革命党」の構想が証明している。・・・・・・近代的発展が、ある与えられた領域の経済的利益を、ある程度まで独自にまとめあげることもなく、また、その民族の独自のブルジョア文化の形成に導くこともないところでは、あるいはまた、様々な民族が地域的・社会的に融合しているために各民族を地域的に区切ることができないようなところでは、それはまったく不可能である。・・・・・・この様な場合には――被抑圧民族の不利益のためにではなく、まさにその民族を守るために――市民的同権と特別な全国家的な言語の権利とを広汎な地域自治に結合することが、ブルジョア社会の諸関係がおよそこのような条件のもとでも諸民族の対立を軽減し緩和させうるとする限りでは、唯一の解決策なのである。」210-1P

「まさにこのような点から、自治は、ポーランドの革命的プロレタリアートの綱領的な要求となる。もちろん、意識あるわが国のプロレタリアートは、このスローガンを表明しつつもわが国のブルジョア諸政党とは反対の見方でそれを表明しているのである。ポーランドの有産階級にとって国内自治とは、何よりも、階級支配のすぐれた道具として願ってもない目標なのである。使い古しの愛国主義的な空辞には、革命期のプロレタリアートの行動に憤激した大地主、工場主、親方、僧侶、それに彼らのイデオロギー的追従者たちが、都市や農村で闘っている労働者と素直に「民族的」で「親密な」話し合いをしたいという露骨な願望が、ただもう稚拙に隠蔽されているにすぎない。」211P

「・・・・・・すでに今日の社会の諸条件のもとでの自治の客観的な内容は、それがとりわけ階級支配の道具以外の何ものでもなく、また何ものでもありえないようにせしめているのである。・・・・・・ヨーロッパ大陸での最初の近代的な憲法で身を飾った「自由・平等・友愛」という崇高な三つのスローガンが、プロレタリアートにとっては――マルクスの言葉によると――「歩兵・騎兵・砲兵」という何の変哲もないものに転化したのと同じである。」212P・・・階級支配の道具論とフランス啓蒙思想批判

「だが、科学的社会主義の冷徹な分析によって、自己を前衛として意識しているわが国のプロレタリアートにとっては、自治の本来の内容についてのどんな幻想も、そのどんな民族主義的理想化も無縁なものでなければならないとすれば、プロレタリアートは、同時に、ブルジョア的発展への無政府主義的な幻滅や無関心とも無縁でなければならない。・・・・・・ただ、それら(「社会民主党は、どの国でも、すべての「ブルジョア的」自由や民主的な制度を最も精力的に主張している」こと)が、この搾取と階級性を持つ形態をより成熟させ進歩したものにし、プロレタリアートを闘争へと啓蒙し組織化するのを容易にし、必然的な勝利を促進するからである。」212-3P・・・進歩史観へのとりこまれ。民主主義の主張は必ずしも「ブルジョア的民主主義」ではないはず。そのあたりのとりちがえが、アナーキズム批判と進歩史観がリンクしているのでは? 次の切り抜きとのリンク

「ここから、プロレタリアートの階級政党にとって、自治とは、何よりも、ロシア全体の民主的な制度を部分的に適用したものとして、全国家的な諸条件の革命的大改革とはほとんど離れがたく結びついているひとつの細目だということになる。国内自治の要求は、社会民主党の綱領のなかでは、帝国全体における共和制の要求と切り離すことはできない。なぜなら、ポーランド王国の自治は、革命が最終的に勝利し、絶対主義的な秩序の全体が崩壊した時にのみ実現可能となるばかりでなく、それとの関連でのみ、自ら国内で社会的発展と進歩の道具となることができるからである。」214-5P・・・道具論と進歩史観とのリンク、反差別論からのとらえ返し

「国家全体の憲法制定会議による国家全体の共和主義的・民主主義的体制の確立を要求しつつ、社会民主党は、この政治体制の原則を細部に至るまで発展させ、完全なものにする立法、したがって、市民の人格的不可侵と法の前の平等、さらに集会、結社、言論と出版、自治体(「グミナ」のルビ)と地方の自治に関する立法をも、国家の全領域の人民代表制もとにおくよう一貫して要求するのである。」216P

「次に、現代の議会立法の確固たる内容を構成している政治生活の現実的な問題を見ると、ただちに、社会民主党のこの原則的な立場から、資本主義経済と今日の階級国家の生きた基盤を成している経済的・政治的な諸問題が中央立法のもとに置かれねばならない、という結論がでてくる。その問題とは、関税・通商政策、近代的な交通・通信手段(鉄道、郵便、電話)、軍制、税制、民法と刑事・訴訟法、および公教育の一般的な基礎である。それではこれらの問題をそれぞれ順に検討することにしよう」216-7P

U 自治の具体的中身――課題

これの内容は、Tの最後のセンテンスにだいたい書かれています。ただし、現実に書かれているのは6つの項目、@関税・通称障壁217-221PA近代的な交通・通信手段221-230PB軍制問題230-4PC国家財政の問題234-240PD公教育240-7PE民法と刑事・訴訟法247-252P

Aの切り抜き「・・・・・・雇用者とは資本主義国家そのもの・・・・・・」229P・・・現在的には、新自由主義的グローバリゼーションの中で、民営化という形で進んでいる

Dの切り抜き「公教育とその方向は、今日の社会では、国政の最も重要な柱のひとつであり、階級支配の最も重要な属性のひとつとなっている。他方、公教育は、ブルジョア社会では、国民文化的な生活の主要領域のひとつでもある。プロレタリアートの階級闘争の代表者としての社会民主党の利害は、この二つの視角からこの問題を調整することを要求している。」240-1P「民族的な特性を考慮に入れても、これと同じ結論となる。民族的平等の利益、自らの社会的条件が国内自治をなすのに十分な基礎となっていない民族の文化的利益の防衛、そして、帝国全域で少数民族の利益の区分のない防衛、これらは言語問題での、またとりわけ教育制度問題での普遍的原則的な調整を必要としている。・・・・・・それゆえ、王国の公教育の問題を帝国全体のそれから完全に切り離すことなど実行不可能であるし、ましてそれは、文化領域における民族的平等を守る闘いが、本来、帝国のプロレタリアート階級全体の統一した圧力の対象でなければならないという、もうひとつの最も重要な観点を無視している。」241P

V 具体的課題@労働者保護立法

 冒頭リード文「労働者保護立法は、プロレタリアート自身にとってばかりではなく、一般に社会の自己保存的利害にとってもぜひ必要なものとして、資本主義経済の基礎の上に生まれる。それは、資本主義の略奪的な経済の破壊的作用のもとにある勤労大衆を、肉体的かつ精神的頽廃から守るための不可欠の保障であり、またプロレタリアートを物質的かつ精神的に再生させ、彼らに階級闘争への能力を発揮させるために必要な槓杆である。・・・・・・だが、この移民と、その結果であるプロレタリアートの間の国際競争は、その時代に達成しうる最高の生活水準を維持し広めていくために、次のことを不可欠なものにしている。すなわち、例えば、労働時間が法的に規制されておらず、いかなる国家保障もない国の労働者が、すでに組合闘争によって九時間労働日や疾病、労災事故などに対する法的な保障を手に入れている国に流入して、その国の労働条件を低下させたりすることのないように、保護立法をすべての資本主義国で均一なものにしようとすることである。最後に、国際的な保護立法によって保証された、あらゆる国のプロレタリアートの出来るだけ均一で、また出来るだけ高い生活水準は、国際的な道でのみ可能になる可能になる社会主義の実現というプロレタリアートの闘争の最終目標の観点からしても不可欠である。」253-4P・・・グローバリゼーションの時代の今日的な労働力の流入を見越したような提言

W 具体的課題A公教育

 冒頭リード文「国内自治の日常の自然の領域を成す分野にすすもうとするならば、まず最初に公教育の全体を考えなければならない。資本主義社会の進歩的な発展の立場からしても、またプロレタリアートの階級的立場からしても必要不可欠である近代的な教育の一般原則を持ち出すまでもなく、公教育の創出、発達、育成といったすべての課題は、当然、国内自治の機能に属しているが、それは次のような二つの決定的な理由によってである。すなわち、第一に、あらゆる文化国家の長年にわたる経験は、ブルジョア社会が不可欠なものとして要請する公教育が、利害関係のある住民の最も積極的な関与のもとで、上から下まで完全に自治的な機関によって行われる以外には、然るべき形で組織されることはできないのだということを証明している。例えば、鉄道のような近代的交通手段の建設が国家の中心から広大な地域へと普及していくのに適しているのに対し、公教育の課題は、当該の社会集団の活発で不断の参加なしには、どうしようもない問題である。第二に、公教育は、民族生活を織りなす横糸、つまり、それぞれの民族の独自の言語や精神文化と解き難く結びついている。したがって、公教育が、当該のそれぞれの民族の積極的な関与にしには創出されないことは明白である。」261-2P

「これがわが国における教育の百年以上にわたる独特な歴史の最終的な結果である。ポーランドの農民に経済的貧困とともに精神的貧困――完全な無知蒙昧――もたらしてきた僧侶とシュラフタの中世的な支配の下から、ポーランドは、絶対主義官僚の厚顔無知な支配の下に入った。・・・・・・その制度の内容とは、すなわち、絶対主義の特殊な財政制度によってもたらされた物質手段の欠如、絶対主義官僚制の全般的な精神的愚鈍(ママ)と徹底的な反啓蒙主義、国内自治、都市自治、農村自治といったあらゆる自治制度の欠如、そして最後に何よりもましてツァーリズムのロシア化傾向である。/このように、公教育の分野、特に初等教育の分野には、とりわけ、帝国の国家機構における全般的な民主主義的変革の上に作られる国内自治が解決すべき大きな焦眉の課題がある。わが国では、自治的な立法と権力は、公教育に関しては――ツァーリーの役人の漫画的な産物が除去された後には――まったくの白紙状態(「タブララサ」のルビ)のもとに置かれるだろう。そして、その上に初めて、土台から先端に至るまで――広汎な人民大衆の直接の参加のもとで――公教育の全体系が建設されなければならない。国内議会は、帝国全体の憲法と立法が確定するはずの、帝国全体に効力を持つ初頭教育の普遍的な原則にもとづいて、民主的で同時に民族的な公教育のあらゆる機関を創出しなければならないだろう。すなわち、普通教育や社会の要請に合致する専門教育の初等、中等、高等の各学校だけでなく、絶対主義の政治によって完全に無視されてき精神文化のすべての機関、つまり、図書館や公共読書室、研究施設や実験施設、研究活動への援助機関、美術学校や美術館などを作り出さなければならない。」283-5P

X 具体的課題B農業、林業、鉱業、水陸交通、医療と公共衛生――文化

ページ数を挙げておくと@農業285-290P、A林業290-1P、B鉱業291-2P、C水陸交通292-4P、D医療と公共衛生――文化294P

@ の冒頭リード文「公教育に続いて、自治議会の機能に属する対象となるはずのものは、

農業問題における調整立法である。帝国全体の所有関係の根本的な改革は、勝利した革命のみが行なえることであって、この場合の対象ではない。国内自治の権限を確定するに際して考慮しなければならないのは、社会生活の継続している日常的な利害である。農業経営の領域では、当然、それは工業生産と比べて一般的にかなり異なっている。」285-6P

「どこの国でも、工業生産は迅速に資本主義的な特徴を身につけ、市場競争によってそれをさらに拡大しながら、生産関係の平均化と、それに続いて出来るだけ広い範囲にわたる経済的な利害の統合と集中を目指している。これに対して農業は、一般に、生産と所有の伝統的な形態を保持し、それによって地方的独自性を広く保存しようとする、はるかに大きな保守性を示している。」286P

「この点で決定的なのは、農業が、食料を生産する抽出生産であり、一方では工業生産のもたらす道具の生産に依存し、また同時に自然条件とも結びついているという事情である。そして、農業のためのこの自然条件の改造――潅漑、沼沢の干拓、化学肥料、水力と電力の利用、そして交通・通信――も工業技術とその進歩に依存している。ここから、工業生産が社会経済の自立的で専門化した一部門として分離した時から、一般に農業生産を特徴づけている受動性と緩慢な発展速度が理解される。また、その時以来、経済的な進歩のあらゆるイニシアティヴがこの工業生産の側から生まれ、さらに、社会的な諸関係における変革がもたらされ、その結果として初めて変革が農業にも波及する。・・・・・・さらに一部では――こういう言い方が許されるとすれば――農業の工業化という直接的な形態をとりつつある。次に、農業生産が現在の世界市場で圧倒的な影響力と意義とを行使しているのに対し、この市場は逆に、これまで農業生産そのものの構造や運命には、それが工業生産の運命に対して作用するのとは比較にならないほど弱い作用しかしていないということを、確認しておかねばならない。世界市場における競争や変革が、個々の国の工業部門を形成したり、破滅させたり、迅速に再建したりして、結局は自らの影響力で最も厚い関税境界の壁を突破するのに対し、農業経営は、少なくともこれまでヨーロッパ諸国では、全体的に見てはるかに強力に世界交易や世界の穀物生産からの影響に対抗しえた。この証明となるのは、例えば、消費者的な性格のドイツや生産者的な性格のロシアという穀物交易に強く依存している二つの国では、ドイツには巨大な、ロシアにもかなり強力な資本主義的工業発展があるにもかかわらず、プロイセンの東エルベの諸関係とか、二〇世紀の革命が始まってやっと解体が終わるロシアの「農村共同体(「オプシチナ」のルビ)」のようなかなりの中世的遺物が保存されているという事実である。この二つの場合とも、明らかに国家が反動的な遺物の保存に強力に寄与したのであるが、この国家という政治的要因の果す役割については、部分的に、農業の生産諸関係そのもののなかで説明される。農業生産のこの相対的な持続性と外面的な不動性は、もちろん、農業においては、日常だれもが必要とし、ほとんど変わることもなく、代用品で置き代えることもできない最も必要不可欠な食料物質が生産されているという事情と関連している。つまり、資料品、家財道具、労働用具、装飾品が文化的な発達に応じて、その形態、素材、普及度に関してかなりの変化をこうむったし、今もそうであるのに対し、消費の基礎としての穀物や肉などの役割については、何千年もの間、何の変化もないままなのである。」286-7P・・・ローザは農業の軽視に陥っているという批判がなされています。むしろ負の変化ということも含めて、多くの変化が農業にこそもたらされているのでは? その軽視という意味も込めて(必要性ということは押さえていても、資本主義的生産制の発達というところに引きずられていて)、ローザも陥っている発達史観は(そのことは、後期マルクスがとらえ返そうとしていたオプシチナを、反動とか中世の遺物ととらえていることに端的に表れています)、ひとの生きるということの最も基本的な農業の軽視ということから来ていて、科学の環境破壊ということをもたらしたことへの批判とともに、サブシステンスという概念とともに現在的なとらえ返しが必要になっています。

A の冒頭リード文「農業と最も密接な関係にあるのは林業であるが、これもまた自治立法

と自治行政による調整を必要としている。」290P

B の冒頭リード文「農業や林業ととともに、当然鉱業も国内の自治権力の権限に属さね

ばならない・・・・・・」291P

「ただ、できるだけ広い意味での技術的・社会的な進歩と発展の傾向を助成することが問題なのである。」292P・・・発達史観的とらえ方

C の冒頭リード文「さらに、工業発展や農業の利害にとっても、また文化的発展全般の点

からも決定的な意味を持つのが水陸交通の問題である。この分野は、その性格からして地域的な問題に属しており、どこの国でもとりわけ広汎な自治機関の側からの保護とイニシアティヴを必要としている。だが、これまで、わが国でも、帝国全体でも、民主的な地方自治の欠如と巨大な全体主義的官僚装置による統治の全体的な性格の必然的な結果として、無視され、破滅の渕に沈み込んでいる。」292P

D の全文「これまで述べてきた諸領域に、公共衛生の立法と、病院やあらゆる種類の医療

機関を包括する公共衛生の領域を付け加えると、自治立法や自治行政の然るべき活動領域として、本来の文化、つまり経済的、社会的、精神的な文化の広汎で多様な分野が出そろうことになる。この文化は、その本質からして、どこでも最も地域的かつ民族的な性格を有し、全住民の日常的な利害に最も直接的に関わっている。この物質的かつ精神的な文化の広汎な利害を、できる限り、革命的な社会発展の立場で、また勤労者人民大衆の立場で処理することが、わが国の自治機構の本来の任務であり、ポーランド王国の労働者階級は、それと連帯した帝国全体のプロレタリアートの階級政党とともに、意識的にこれを掲げねばならない。」294P・・・中央集権化と資本主義的化が発達史感――進歩史観とリンクしていて、それへの批判がないのです。今日的に、環境問題や医療・衛生ということが大きな焦点になってきていて(ローザも「最も直接的に関わっている」と書いていますが)、そのことのとらえ返しが必要になります。

 訳注

 訳者解説 ローザ・ルクセンブルクの民族理論 加藤一夫

 この論攷はリードの文を除き、次に読む予定の加藤さんの本に収められています。そこでメモを残します。とても参考になる文。

 あとがき


(追記)

A 「ろう文化宣言」と(ローザ的な)民族問題把握

「ろう文化宣言」は、手話を音声言語とは別のろう者の言語とするなかで、民族問題からろう者の受ける差別を問題にしたのですが、そこで、内在的に孕んでいる「ろう者の国作り」や自治やコミュニティづくりの問題が出てきます。日本では「ろう者の国作り」の議論は起きていないのですが、「ろう者の国作り」に関しては、グローバリゼーションの時代に自治を獲得しても、下位――従属的関係に組み込まれる、というところでその方法の実現不利性――困難性の指摘があります。このことは、ローザが社会主義というところの必要性を強調して、分離的なナショナリズムを批判したいたことにもつながります。で、わたしは個別課題をそこへ集約しようとするローザの主張を障害概念での議論からもとらえ返ししようとしているのですが、むかし、ある手話通訳者(前述の通訳者とは別のひとです)が、「国際障害者年」の中で突き出されている「完全参加と平等」というスローガンに疑問を呈していたこととわたしの中でリンクしていました。「言葉が逆になっている、平等のないところに完全参加はない」という話です。わたしも「平等」のない参加は同化という抑圧型の差別を招くと押さえています。「ろう文化宣言」も、同化ということを批判しています。でも、そこで分離志向のデフナショナリズム的なことが出てくることも、わたしは批判しています。ただし、「手話は言語であり、情報・コミュニケーション保障はきちんとなさねばならない」という原則の貫徹を主張しています。このあたりのことで、「自己決定」や「自治」という議論が交叉していきます。

B 民族概念のとらえ返し

そもそも民族概念自体のとらえ返しの必要性。民族とは@言語を核とした文化A宗教B人種概念、を変数とする函数的概念。民族や自治概念で、特に必要になるのは、言語と文化の問題。宗教は「自然の不可解性」の物神化。人種は、格差や奴隷制や植民地支配の歴史や経済的収奪の中で起きてくる差別のマルクス的「物象化」概念からとらえ返すことが必要です。

C 社会主義革命と革命のための組織化としての反差別運動

 個別差別を解決するには、社会主義革命が必要であるということと、社会主義革命のためには、その民衆が生きて生活していく必要があり、また革命の組織化のためには個別運動が必要になるという、相作論的な弁証法がそこにあると言いえるでしょう。そのような内容を孕んだ民族自決権とその批判(弁証法では、「批判」は「対話」という原義からきているとされています)が必要です。結局、原則主義と現実主義の対話の中で、方針をだしていくしかないこと。



posted by たわし at 14:48| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする