2021年01月17日

ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積再論』

たわしの読書メモ・・ブログ551
・ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積再論』岩波書店(岩波文庫)1935
 ローザの学習16冊目です。ローザ自身の著作で、経済学書6冊目。
これはローザの全集原書で、『資本蓄積論』とセットにして出された著作、岩波文庫では別になっていて、この書の存在を知り古本で新しく購入して読んだ本です。これも随分前の発行で、旧漢字体の本、原語読み「ルクセンブルク」の最後がまだ英語読みの「グ」になっています。『資本蓄積論』の出版後のローザへの批判への反批判として出された書で、『資本蓄積論』のわかりやすい版としても位置付けられているようです。
さて、最初に目次を示しておきます。旧漢字体や旧かな使いが多いので、そこは一応新漢字体、かな使いで打ち込んでいます。
訳者例言
序(編者)
一、 問題の本質と亜流への反批判
二、 オットウ・バウエルへの反批判
一、 バウエルの表式操作と方法
二、 バウエルの人口理論
三、 バウエルの「人口」とは「労働者人口」である
四、 バウエルとマルクスとの対質
五、 バウエルの帝国主義論
 付録、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』の批評(エックシュタイン)

この著の「一、問題の本質と亜流への反批判」が、まさに『資本蓄積論』の入門書的な位置づけがされている、わかりやすい版になっているようなのです。批判への反批判としてさまざまなひとのことを取りあげています。その批判の最後に、「二、オットウ・バウエルへの反批判」でとりあげるオットウ・バウエルへの反批判をなし、同時に「付録、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』の批評(エックシュタイン)」で取りあげられているエックシュタイン批判がなされています。このひとたちは、どうもオーストリア・マルクス主義としてとらえられ、ドイツ社会民主党の中央派といわれるひとたちとつながっているようなのです。
「二、オットウ・バウエルへの反批判」は、オットウ・バウエルへの反批判の詳細。オットウ・バウエルは人口が資本蓄積を規定していくという押さえ方をしています。それに対して、ローザはそれを逆転させて資本蓄積が人口を規定していくというようなとらえ方をしています。バウエルのとらえ方は、ここでは出て来ないのですが、マルサス的なとらえ方です。どちらにしても因果論的なことで、因果論を近代知の地平として批判する(わたしが共鳴している)廣松理論の立場からすると、相作論的なところでの規定の主導性の問題として押さえ直すところです。このあたりはマルクスの唯物史観の「存在と意識の関係」を、規定の主導性として押さえ直す作業に通じることになります。何が、問題になっているのかというと、『資本論』第二巻の拡張再生産の表式をローザが矛盾している、この表式は定立しないと批判していることがあるのです。そもそも、『資本論』は、マルクス自身は病で執筆で半ばで書き上げられず、エンゲルスがマルクスの草稿とその指示を踏まえて編集して一応完成させたのです。それを、ローザはいろいろ不備のある未完の書として押さえています。それは、よく言われる、「(時代制約的なこともふくめて)マルクスには「帝国主義論」がない」と言われていたことにつながることです。その後、「さまざまな「帝国主義論」が出ています。レーニンの『帝国主義』は有名ですが、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』も「帝国主義論」になっています。要するに、「二、オットウ・バウエルへの反批判」、マルクスの拡張再生産の表式は、商品の販路(需要の拡大)をどこに求めるのかというところで、成立しないとローザは批判しています。その成立するかのような解答の一つが、バウエルの「二、オットウ・バウエルへの反批判」の「二、バウエルの人口理論」で問題になっている「人口増」なのです。そこで、ローザが批判しているように、マルクスの理論からしても、成立しません。ちなみに、バウエルは、マルクスの拡張再生産の表式は有効で、帝国主義的収奪はそれに上乗せしているだけだという批判をしています。ローザの主張は、商品の販路(需要)がない限り拡大再生産が成り立たないとしています。オットウ・バウエルの「人口増」以外にもいろいろ考えられるかもしれません。たとえば、イノベーションによる新しい商品の創出とかあるのですが、それも、そもそも労働者は、最低限の賃銀に落とし込められるというところでの、新しい欲求が起きようがない、資本家とその伴食者がそれを使うと再生産の資本が消費されます。そこで、ローザが指摘するのは、「外部」です。
そのひとつとして非資本主義社会という「外部」があります。これがローザの「帝国主義論」になっています。その「外部」は、ローザが『資本蓄積論』の「第二十七章 自然経済にたいする闘争/第二十八章 商品経済の導入/第二十九章 農民経済との闘争/第三十章 国際借款/第三十一章 保護関税と蓄積/第三十二章 資本蓄積の領域としての軍国主義」で、とりあげているところです。
さて、「外部」という概念。当時の植民地支配ということが焦点になっていたのですが、現在的なポストコロニアリズムの時代においては、公害企業の輸出や環境破壊の進行、労賃の格差というところでの資本輸出による収奪的搾取等が進んでいます。また、世界銀行やODAなどを通じた貸し付けなどで、一国内で食を維持していたところに資本主義経済を持ち込み・取り込み、地域の食を支える農業を破壊する中での先進的資本主義国のための単一作物のプランテーション的農業を創出、そのことによる飢餓が生み出される、また負債を通じたその国の経済破壊などが進んでいます。それらのことは、「後進国」のみならず、自然も「外部」としてその収奪、すなわち、「内部」の「外部化」ということ自体が進んでいます。それは未来の生きる環境を破壊するという未来世代からの収奪という事態も進んでいます。
それらのことなしに、拡大再生産を求める悪無限的利潤の追求を行う資本主義はなりたちえないことになります。すなわち、継続的本源的蓄積論なしには資本主義は継続し得ないとなります。
 このことから、わたしがなぜ、ローザの『資本蓄積論』とりわけ、継続的本源的蓄積論に留意しているかという問題にリンクしていきます。そもそも現在社会の矛盾はほとんど資本主義的矛盾としてあるのですが(註)、それでも資本主義が延命していく構造はどこにあるのか、そのことを押さえた上で、どう資本主義を廃棄できるかということを考えているからです。そこで、ローザの「外部」を読み解く作業として「差別」ということをキーワードにして読み解く作業をしています。わたしは、ローザに出会う前に、そもそも差別形態論として、差別の形態各論として「抹殺/隔離(分離)/排除/抑圧/融和/同化」という概念を出していました。継続的本源的蓄積として現れてくることを、ひとつひとつこれらの概念も用いて分析していく必要があると考えています。
 もうひとつ、ローザのマルクス批判は、第一巻の単純再生産の表式でも、貨幣ということをマルクスが二分類の中で、生産手段生産の方に入れたことを、ローザは、三つ目の別の様式を作ることとしたことがあります。ただし、こうすると、マルクスの生産手段の生産と消費財資料の生産がリンクしていたことが、貨幣の生産はリンクしなくなります。
貨幣を生産手段の生産に入れるというのは、貨幣の流通手段と支払い手段という側面では、事務費としては、まさに、生産手段の生産になるのでしょうが、触媒的にしか機能しないという意味で、それをどう扱うのかという問題、表式的には表せるのかという問題が出て来ます。ただし、貨幣の蓄積手段としては生活資料としての奢侈品の宝石と同じ扱いになります。そこで、ローザは別扱いとして第三表式を作ったのでしょう。ですが、それだと表式同士の関係が出てきません。
そもそも、表式は拡張再生産の表式で終わっているわけではなく、固定資本と流動資本の表式、とか利潤率の表式とかに進んでいったわけで、マルクスは、そのあたりをずっと進めていたのですが、帝国主義的な収奪の構造をどう表式化していくかというと、マルクスは、そこまでできていません。ローザも『資本蓄積論』で表式を使ってマルクスの論攷を追っていたのですが、この著では、表式は問題ではないと断念しています。
 さて、残る問題は、マルクスの拡張再生産の表式はローザがいうように誤りと断定できることなのか? ということです。これは前の『資本蓄積論』の読書メモで書いたように、マルクスの「抽象化」というところで、ここでは外部の問題を捨象したということで、後に、「外部」の問題も入れた表式を書ける可能性があったのか? というとらえ返しになります。ただ、そもそもまだ「帝国主義」的なことが熟成しない時代に「帝国主義論」が可能だったのかという問題もあります。『資本論』の中には「帝国主義論」的なことの萌芽はあったと押さえています。
わたしはそもそも運動というところで、読書――学習をしているので、マルクスが何を書いているのかという訓詁の学的ことは、これ以上の論考はやりえません。ローザの「継続的本源的蓄積論」の重要性ということを指摘してこのメモを終えます。
(註)
 例えば、被部落差別を封建遺制というとらえ方をするひとがいました。しかし、それは資本主義的に組み込まれているということで、現在的には、私有財産制を基礎にした家柄意識という形で「新身分制」ともいうべき体制が作られてきています。



posted by たわし at 18:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする