2020年12月17日

NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件」

たわしの映像鑑賞メモ045
・NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件1 視線でつづった586日」2020.11.3
・NHKEテレ「ハートネットテレビ 京都ALS嘱託殺人事件2 “安楽死”をめぐって」2020.11.4
この番組は、043でとりあげた事件で、1で嘱託した当事者の心の軌跡と彼女と接触した周りのひとの反応を追い、2で“安楽死”ということからこの問題を当事者や学者、“安楽死”問題を「障害者」の親の立場から追いかけてきたフリーライター(註1)の話でつなげています。そして、「患者」や介護に関わるひと、一般のひとの意見も織りばめています。しかし、それは必ずしも、当事者が生きるという方向になっていないのです。
1で印象に残ったのは、テニス鑑賞の趣味でSNSで友達になって、死へ誘われている当事者をなんとか翻意させようとしていたひとがビデオで出ていました。そのひとが、当事者が亡くなった後で、SNSで「死ねて良かった」とそしていう投稿が出ていて、むしろそちらが多数派だったというようなこと話していました。この話は、そもそも、一般的に「延命処置を望むか?」というアンケートに8割のひとが「望まない」と答えることとか、介護資格を取得する民間の講座で、受講生に「延命処置を望むか?」と質問すると、8割のひとが「望まない」と答える話(註2)にもつながっています。要するに、「安楽死」ということばは、今回2の学者のひとの話として、そもそも死ぬときに安楽なのかというはなしが出ていた、あいまいな概念なのですが、それに変えて、「尊厳死」という更にごまかしの言葉も出ています。これは、そもそも、「障害者」の介助や高齢者の介護がきちんとなされないなかで「尊厳がない状態にされる」(註3)というところで、「尊厳死」などいう言葉が出てくるのではないかと思います。それに、そもそも「他者の世話になって生きる」こと自体を否定的にとらえる現代社会(資本主義社会)の否定的な考え方があります。「障害者」に対する差別的な観念がこの社会全体に広く行き渡っているのです。だから、生まれたときから「障害者」であったひとたちは、生きるために、そのような思想に対峙し開き直って生きる術を獲得していくひとも出てくるのですが、中途「障害者」たる、「患者」や高齢者は、この社会に広く行き渡っている、「身辺自立」とかQOL(生活の質)とかいう「健全者幻想」(註4)にとらわれて生きて来たことから転換することが容易ではありません。今回の嘱託殺人の「依頼者」当事者も、まさにそういった社会一般にある、人間像や世界観にとらわれたところで、「できない」――「できなくなる」ということを巡る優生思想的なところにとらわれたところでの「死にたい」という思いにとらわれたのだと思います。
わたしは「障害の社会モデル」のとらえ返しをしています(註5)。その考え方からすると、この社会に広がる優生思想的なところに殺されたのだということができます。
NHKは、そもそも政権擁護なのですが、福祉に関わることはそれなりに踏み込んではいますが、報道の中立性にとらわれ(註6)、両論併記で問題提起に留まっていて、出口のない閉塞感にとらわれる番組作りに終わっています。
 わたしは決して、出口がないとは思っていません。まず、「ALS」の当事者と家族の会は、喀痰吸引や胃瘻の注入が医療者や家族でないとできないとされていたことを、交渉を積み重ね、介護者の資格をもつひとに拡げました。ただ、制度を作っても、利用するひとの意識、介護をするひとの質量の保障がなければ、生きがたくなります。そもそも、この社会の「障害者」や「難病者」へのとらえ方が否定的であれば、そのことに、当事者も介助者も規定されていきます。
 そもそも、自死したいというひとがいて(註7)、実際に実行しているひともいます。この社会がそもそも多くのひとにとって生きがたい社会になっています。「中途障害者」の自死願望や高齢者の「ポックリ死にたい」という事が出て来るのは、その極としてあるのです。なぜ、そのような事が出てくるのかをとらえねばなりません。この社会、資本主義社会では労働力の生産・再生産に関わること自体がコストなのです。だから、福祉に関わることが切り捨てられ、抑えこまれるのです(註8)。だから、そもそも根本的に社会を変えようということの中でしか展望は出てこないのです。一時、オルターグロバリーゼーションということが叫ばれ、「もうひとつの世界は可能だ!」というスローガンが叫ばれ、反サミットということでいくらかの盛り上がりがありました。しかし、その運動はしぼんでいきました。なぜか、「もうひとつの世界」のイメージがつかめなかったからです。そもそも、資本主義批判の中で、マルクスが共産主義の概念を突き出しました。その流れが、ロシア・東欧、そして中国において「社会主義国家」を建設したとされていました。しかし、それはそもそもプロレタリア独裁が党の独裁になり、また社会主義への移行に失敗した国家資本主義に陥ったのです。それを「社会主義」と称して、それを維持するために監視社会、全体主義的な国家になってしまいました。それを「社会主義」として曲解することから、「社会主義」への幻滅が広がっていきました。そのような曲解の下で、出口のない厭世主義的な閉塞感が広がっていったのです。そのようなところを押さえたところで、きちんと社会変革運動の過去のとらえ返しをしながら、改めてきちんと情況をとらえ返して、社会変革の道筋を示していくことのなかにしか、閉塞感を脱する道はないのでと言いえます。わたし自身、微力ながらそのような作業に取り組んでいます(註9)。


1 児玉真美さん、自分の「障害児」の子どものことで本を出し、その後いくつの著作を出し(「読書メモ」 240,242,243,249にブログ)、ヨーロッパの安楽死――尊厳死の問題でインターネットで情報を発信続けています。
2 これは高齢の母を看取った後に、その反省と介助の勉強をしておきたいと通った、高齢者介護の講座で、実務者研修のコースでの講師の話。
3 昔の介護の研修では、講習生におむつの中で、排尿・排便をしてみる、という体験から、介護の必要性の自覚をさせるということをしていました。それが、現在では、講習では差し込み便器とか、尿瓶の講習もあるのですが、すでに介護の仕事をしている講習生から「現実にそんなことやっていない」という話も出ています。
4 「健全者幻想」とは、青い芝のひとたちが中心になって突き出した概念。そもそも殆どのひとが「健全」などない、理念的なことなのに、「障害」がないという幻想的なことを追い求めることを、「健全者幻想」と言います。それだけでなく「障害者」自身も子どもが生まれたとき、「五体満足」か、思わず見てしまう。自らの存在を否定する、内なる「健全者幻想」にとらわれてしまうもことを、問題にしてとらえ返しをしていました。
5 以前出した本(『反障害原論』)の中で書いて、その後「『反障害原論』への補足的断章」という形で文を書いています その一連の論攷は、次のURLから
  https://hiro3ads6.wixsite.com/adsshr-3/c
6 そもそも「中立幻想」ということがあります。「安楽死――尊厳死」を合法化する法律を作る運動があり、そのことをきちんと批判しないマスコミは、批判と推進の両論併記しようとする動きになってしまい、結局、このような事件のとき、結局、「死にたい」という思いがどこからきているのかを押さえた、それを抑止する報道はなしえません。
7 わたし自身、マージナルパーソン的な「障害者」当事者として、優生思想にとらわれる中で、「自死願望」にとらわれた思春期をおくりました。そのことの反省の中で、みずからもとらわれた優生思想への批判と、「障害者」の存在を否定する論攷への批判をなしきろうという試みの中で、文を書き連ねています。
8 このことは、マルクスが『資本論』を中心にした著作の中で、展開していたことです。これを、コストにしないためには、そもそも経済体制を変え、基本生活保障をきちんと確保する体制をつくらねばなりません。
9 これはよりよい社会を作ろうという社会変革志向の運動が陥った矛盾――ときには暴虐の歴史の総括なしにはなしえません。その運動はマルクスの思想の流れから、その踏み外しとして出てきています。それがどういうことなのかを押さえるためにも、マルクスの思想の流れの論攷を読み解く作業をしています。そこから、わたしとしては、その運動の端っこで参画していたにすぎないことですが、それでも主体性はもっていたところで、現代の運動の総括に進んでゆくつもりです。それがわたしの学習の一つの柱になっています。


posted by たわし at 04:43| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする