2020年11月17日

日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」

たわしの映像鑑賞メモ044
・日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」2020.10.19
この番組は、「毛細血管で動脈と静脈が癒着する難病」で生まれてから何度も手術を繰り返し、「見た目」でいじめや差別にさらされ、「見る目」(斜文字になっているのは、番組では手書き的な文字、この文字で「見る」ということに差別的な意味を懐胎させているようにわたしはとらえていました)を感じてきたひとのドキュメント番組です。マスクなどしないで、自分を隠さないで、ずっと生きて来て、結婚して子どもが生まれて児童参観にでるようになる母親の立場になってマスクをするようにしたという話。一人芝居で、自分を「さらして」、子どもたちや親に、自分の問題―差別の問題をきちんと伝えていくことをやっているひとです。連れ合いのひとが、差別的なことをほとんど感じさせないひとで、むしろ、わたし自身も「ひとの美意識」って何だろうというようなことさえ感じていました。
 これを書いているのは、ひとつ前の「ALS」のひとたちの問題で、病気自体の負価値性からは抜け出せないような番組の作り方になっていたのですが、ちょっと達観したような感じのひとはいたのですが、言葉としてはでていませんでした。ひとつの達観や反転のような突き出しをしているひとの紹介ができなかったのだろうかと思ったりしていました。
この番組の語りで、もし病気がなかったらという思いにとらわれることもあるけれど、むしろ、この病気が自分の存在の意味という思いをもたせてくれた、という内容の話をしていていました。一種の反転のようなことで、このあたり、以前書いた、写真家でひとの命を切り取るような写真をとっていたひとが、確かパーキンソン病になって、それまでの自分と今をくらべて、ひとの痛みが分かるようになった、病気になって良かったというようなことを話していたり、オーストラリアのバリバリのエリート官僚のひとが、「どうして、一度にひとつのことしかできないのか」と他者批判していたひとが、「認知症」になって、一度は落ち込みつつも、むしろ、なって良かったという心境になっていく、そのような反転も本や映像になっています。
障害問題で、この反転のようなこと、もっと語っていく必要があるとの思いも持っています。
わたしたち、「吃音者」には「治す努力の否定」というような突き出し出ていました。この話をすると仲間内からは、強がりを言っているだけだとか、「障害者」の仲間からは、「(医学モデル的意味で)軽い障害だから」と言われるのですが、むしろ、「軽い」と言われるひとがより悩み葛藤に陥ることもあるし(これをわたしはマージナルパーソン論として展開しています)、「障害の重い――軽いをいうひとがいるけれど、差別に重い――軽いはない」という提言も出ていました。このあたりのことをきちんと押さえたところで、開き直るところでの仲間との交流と思想的深化を獲得していく方向性があります。これは簡単なことではなく、むしろ差別を生みだしてくる社会の構造自体を変える運動の実践のなかでのせめぎ合いになっていくのではとも思っています。


posted by たわし at 05:09| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする