2020年11月17日

パウル・フレーリヒ/伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』

たわしの読書メモ・・ブログ545
・パウル・フレーリヒ/伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』東邦出版社1974
 ローザの学習7冊目です。ここからローザ・ルクセンブルクへの評論に入ります。この本の著者は、ローザと共に、ドイツ革命に関わったひと、ただし、ローザの流れから直接出たひとではなく、むしろレーニンの影響下で、ドイツ革命に関わったラデックと一緒に動いていたひとです。ただ、ローザが斃れて、その後のドイツ共産党の流れの中で、ローザの思想的なことを引き継いでいくことがあり、ローザの未完の全集の編集を担ったりしています。この評論は、時代の流れ的なことを押さえ、同時に論点の整理をしようという意欲的な評論です。なお、これの読書メモを書いているのに併行して次の読書メモの本も読んでいたので、その内容をこの読書メモに混入させています。
 ローザの学習の最初にとりあげた、『ローザ・ルクセンブルクの手紙』の訳者の「解説」で、レーニンのローザの評価が引用されていたのですが、この本の「あとがき――パウル・フレーリヒの横顔――」でも、もっと詳しく引用されています。ちょっと長くなりますが、引用しておきます。
「「パウル・レヴィ(ローザとリープクネヒト亡き後にドイツ共産党を牽引したひと)は、いまローザ・ルクセンブルクがまちがいをおかしているまさにその著作を再版することによって――ブルジョワジーに、したがってその手先である第二および第二半インターナショナルにとくに奉仕しようとのぞんでいる。われわれはそれに対して、ロシアのある適切な寓話の一句でこたえておこう。それは、鷲は牝鶏よりひくくおりることもあるが、しかし牝鶏はけっして鷲のようには飛びあがれない、ということである。ローザ・ルクセンブルクはポーランド独立問題で誤りをおかし(註1)、一九〇三年にはメンシェヴィズムの評価で誤りをおかし(註2)、資本蓄積論の理論で誤りをおかし(註3)、一九一四年七月には、プレハーノフ、ヴァンデルヴェルデ、カウツキーその他とともに、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの統合を擁護するという誤りをおかし(註4)、一九一八年に獄中の著作で誤り(註5)をおかした(ただし、彼女自身、出獄後、一九一八年の終りから一九一九年の初めにかけて自分の誤りの大半を訂正した(註6))。しかしそうした誤りにもかかわらず、彼女はやはり鷲であったし、いまでも鷲である。そして彼女についての記憶が、つねに全世界の共産主義者にとって貴重であるだけでなく、彼女の伝記と、彼女の著作の全集(このことでは、ドイツの共産主義者は、がまんのできないほど立ちおくれており、ただ、彼らの苦難の闘争での前代未聞の多くの犠牲ということで、わずかにいくらか言いわけされるだけである)は、全世界の共産主義者の多くの世代を教育するうえに、もっとも有益な教訓となるであろう。<一九一四年八月四日以後、ドイツ社会民主党は悪臭紛々たる屍である>――ローザ・ルクセンブルクのこの名文句とともに、彼女の名は、世界労働運動の歴史にのこるであろう。」(「政論家の覚え書」、一九二二年二月末、『レーニン全集』第十三巻、大月書店)」431-2P
さて、レーニンの同時代人で、レーニンの批判を左派として批判し続けたひとは少なく、ローザがまさにそのひとりだったのですが、ここで、レーニンからのローザの批判が出ています。誤解のないように書いておきますが、ローザはかなり鋭くレーニンを批判しているし、レーニンもローザ批判をしています。ただ、ローザもレーニンも互いに評価し合っています。そして、大雑把にいえば、ローザの原則主義、レーニンの現実主義となる傾向が強いのでしょうが、互いに固い「主義」ではなく、相互入れ込みしています。そのようなレーニンとローザの比較が、この本は、ローザの時代的な、そしてテーマ的なローザの論考を追っているので、論点がかなり浮かびあがってくるのです。
ローザの『選集』の読書メモでは、抜き書きがほとんどだったのですが、ここでは、全体的構成をもくじを追って明らかにし、節でテーマが出ているので、それをテーマの抜き書きをしておきたいと思います。そのテーマに沿った掘り下げは、中途半端になるので、(註)で少し書きますが、ほとんどここではなしえず、一連のローザの評論の学習の終わった後か、ローザ学習の最後にか、まとめたいと思っています。
 で、目次と節を抜き書きし、注目すべき節――論点を下線を付けて(註 数字)で指摘し、「註」でコメントを付し、注目すべきところの概略を書きページ数を記しておきます。
   目次
第三版へのまえがき
凡例
第一章 青春
 1 生家で  2 闘争のはじまり 
第二章 ポーランドの運命
 1 チューリヒ  2 レオ・ヨギヘス  3 「プロレタリアート党」 4 ブランキズムに抗して  5 戦略問題としての民族問題(註7)  6 ポーランド社会民主党の設立
第三章 マルクスの遺産の継承
 1 ドイツ社会民主党の戦列に加わる  2 修正主義への台頭(註8)  3 ある世界像(註9)  4 改良と革命(註10)  5 拉致された資本主義  6 “シジフォスの労働”
第四章 政治権力の奪取
 1 議会主義の限界  2 入閣の実験  3 最後の手段(註11)  4 闘争のよろこび(註12)  5 論争
第五章 一九〇五年のロシア革命
 1 ロシアは目覚める  2 党の組織問題(註13)  3 レーニンとローザ・ルクセンブルク(註14)  4 一九〇五年の革命の本質  5 後方での小競りあい
第六章 前戦で
 1 ワルシャワ  2 武装蜂起(註15)  3 ポーランド社会民主党とポーランド社会党(註16)  4 ポーランドの獄中で  5 革命に対する批判
第七章 新しい武器
1 幻滅  2 政治的大衆ストライキ(註17)  3 『大衆ストライキ、党および労働組合』(註18) 4 ふさわしからぬ指導者たち  5 自然発生理論(註19)
第八章 資本主義の終焉をめぐって
 1 党学校(註20)  2 『国民経済学入門』  3 『資本蓄積論』  4 資本蓄積理論と帝国主義  5 エピゴーネンたちの攻撃
第九章 反帝国主義のたたかい
 1 政治的問題  2 帝国主義戦争の危機とたたかう 3 平等選挙をめぐる闘争
 4 司法権力の介入
第十章 両端の燃える蝋燭のように・・・ローザ像に絞った章です
 1 女性として(註21)  2 闘士  3 文体  4 演説
第十一章 世界大戦
 1 八月四日(註22)  2 反乱の旗の下に  3 雑誌『インターナチオナーレ』(註23)  4 婦人監獄の一年  5 『ユニウス・プロッシューレ』(註24)  
6 スパルタクス(註25)  7 パルニム街、ウロンケ、プレスラウ
第十二章 一九一七年のロシア
 1 最初の勝利  2 十月革命  3 ボルシェヴィキ批判(註26)
第十三章 ドイツ革命
 1 序幕  2 十一月(註27)  3 諸勢力の結果  4 革命のプログラム(註28)  5 反革命の攻撃(註29)  6 ドイツ共産党の設立
第十四章 死にいたる道
1 一月闘争  2 スパルタクス・ブントと一月闘争  3 人間狩り 4 虐殺
 5 エピローグ(註30)
ローザ・ルクセンブルクと現代(註31)
あとがき(註32)
ローザ・ルクセンブルクの著作と参考文献


1 これは、民族自決権の問題で、レーニンとローザの間で民族自決権を巡っての論争がありました。これについては註7で、詳しく論じます。
2 これは、主にローザのレーニンへの「超中央集権主義」批判として展開されたことで、この時のメンシェヴィキにはトロツキーも含まれていました。ただ、トロツキーはすぐにメンシェヴィキを離れ、1917年のロシア革命の頃には、ボルシェヴィキに合流しています。ローザの「ロシア革命論」の後のレーニンのいうローザの自己訂正(註6 参照)、そしてレーニン自体の、中央集権主義に対する変化も照らして(註13 参照)、これはとらえ直すことです。ローザも中央集権主義自体は必要としています。ただし、このことも情況規定的で、さらに現代的に弁証法的にとらえ返すことだとわたしは思っています。
3 これは、マルクスの『資本論』第二巻の拡大再生生産論の論理的抽象から上向していく手法をローザが読みとれず、マルクスの不備として、いきなり「帝国主義論」にリンクさせたことを指しているようなのです。しかし、ローザの「資本蓄積論」とレーニンの「帝国主義論」に関しては、レーニンの「帝国主義論」は、植民地支配時代の「帝国主義論」で、ローザの「資本蓄積論」の継続的本源的蓄積論は、今の社会でも、特に反差別共産主義論的観点から生きて使える理論になっているとわたしは押さえています。 
4 これは、レーニン自身が現実主義的にメンシェヴィキとの共闘は完全にきっていなかったので、そのことも含めて考えることです。
5 これは「ロシア革命論」です。ローザはこれを出すことに迷いがあったようで、しかも、なかで展開していたことを一部運動の中で撤回・修正しています。註6につながっています。運動の中での修正に関しては、註26参照。
6 何を撤回したのか、何を維持したのか細かい押さえが必要です。いずれにしても当時の運動の実践的なところで起きていたこと、一部は、ローザの押さえ損ないもあると押さえたところでの、現在の実践的なことに照らした検証も必要になることです。
7 これは註1で書いた民族問題です。ローザはインターナショナショナリズムで、ポーランドに関しては、独立運動的なことに否定的でした。このあたりはレーニンとの民族自決権を巡る論争で、レーニンは、抑圧する側の民族として被抑圧者の自決権を認めるということ、ローザは、抑圧される側の民族として、自国のブルジョアジーにからめとられるという批判があったようです。ただ、ローザのレーニンに対する超中央集権主義批判で、中央集権主義と民族自決権はアンチノミーになるという内容の批判をしています。ただ、ローザはインターナショナリズムの傾向が大きいのですが、階級闘争一元主義にも陥っているし、そもそもローザもレーニンも差別の階級支配の道具論に陥っていました。これは、ローザが個別差別の問題をとりあげないことにもつながっています。
著者のローザのポーランド問題への評価「ローザ・ルクセンブルクの方は、ポーランド問題ではまったく正しかったが、しかしポーランド民族問題の解決にのみ妥当なその方法を不当に一般化した点で誤っていた、というレーニンの総括的判断はまさに正鵠を射たものであった。」58Pがあります。ただ、レーニンの民族自決権は超中央集権主義に照らすと虚構になっていきます。その矛盾のなかで、スターリンの民族理論につながっていきます。ローザも必ずしも独立運動一般を批判したのではなく、むしろゆらぎというか、現実的なとらえ返しで、実際の利害をとらえ返し、インターナショナリズム的にどういう方針をだしていくかという観点があったようです。これは著者の次の文として示されています。「ローザ・ルクセンブルクはボーランド民族問題やトルコの抑圧のもとにあった諸国民の民族問題を解決することを通じて、マルクスの国際政策の命題をくつがえした。そしてそのことによって、彼女は自分がマルクスの本当の学徒であることを示した。というのは偉大な思想家のエピゴーネンと創造的な継承者を分つのは、前者が師の思想の既成の結果だけを金科玉条と墨守して、状況の変化に頑として逆らうのにたいし、後者は偉大な先達者の真の精神を学んで、既成の結果そのものにたいしても自由で批判的な眼をもち、師がしたのと同様に、その方法を異なった状況に適応させて変更させていくところにあるからである。」59P
8 これは、ドイツ社会民主党が古い歴史を持ち、それなりに民衆や労働組合にも足場をもっていた中で、逆に日和見主義との闘いが大きな問題になっていきました。そして、党内分派としてスパルクス・ブントを作り、結局、社民党から分離し独立社会民主党を中央派とともに作りました。更にそこから分離して、ドイツ共産党(スパルタクス)を作り、そこから、ローザとリープクネヒトも含めた多くの共産党員が殺されたというところの結末につながっていきます。レーニンは最初からメンシェヴィキと袂を分かつ傾向があったのに、ローザは社民党にとどまるという志向が強かったようです。このあたりは、その立場でロシアのメンシェヴィキ批判をしきれないという、註2と註4のレーニンの批判にもつながっています。このことはコミンテルンの反ファシズム統一戦線論と社民主要打撃論との右往左往――方針の誤りによる各国における打撃・運動の崩壊の問題にもつながっていきます。
 ここで、もうひとつおさえて置かねばならないのは、繰り返し出てくるのですが、エンゲルスのマルクスの書の『フランスにおける階級闘争』への1995年版への序文が、修正主義者たちによってエンゲルスの意向を無視して、「エンゲルスの遺言」として利用されたという問題があります。それは「改鼠された内容の承認を拒否して、公刊された「序文」の中に、たえずエンゲルスの真の意見をよみとろうとしたのはローザ・ルクセンブルクだけであった。」77Pとあります。ただ、そもそも後期エンゲルスの検証自体も、必要になっています。
9 これは唯物史観や、史的唯物論の話なのですが、このあたりは著者は、そのような言葉を使わないで論じていて、このあたりから自然発生生の問題につなげていく論考が必要になるのだと思います。
 ひとつだけ切り抜きを、「彼女はマルクスの科学的方法による社会主義の歴史的必然性の立証を確信していた。マルクスは資本主義崩壊の確実性を社会的な“自然法則”の結果として立証したからこそ、人はその思想を科学的社会主義とよぶことができるのだ、と彼女は主張した。」80P・・・“自然法則”は、教科書的には、史的唯物論とか言われていること。ローザは哲学的なところからは余り論を展開していないので、自然発生性の問題も唯物史観や史的唯物論というようなところの規定性としてとらえかえしていく必要があるのだと思います。
10 これは改良と革命のリンクというローザの運動論です。「しかも最終目標とは未来のあれこれの国家形態を想像することではなく、未来社会の形成に先だたねばならないこと、すなわち政治権力の奪取を意味しているのだ」85-6P・・・ローザの政治権力の奪取論
11 ローザの暴力論。「「暴力は労働者階級にとってはいつでも最後の手段であり、あるときは潜在的に、あるときは顕在的に力を発揮する階級闘争の最高の法である。そしてわれわれが議会活動やその他の活動によって頭脳を革命化しておけば、危急の際に革命は頭脳から拳にすすんでいくことが可能になる。」この点でもローザ・ルクセンブルクは改良主義者の見解を徹底的に検討し、もし改良主義の道をとればファシズムの妖怪が現れてこようと警告して、カッサンドラの叫び(訳者註略)をあげたのである。」107P
12 ローザの言葉の引用。「あなたは論争をやっかいな幕合だと思わずに、よろこびをもってしなければいけません。公衆というものはいつでも闘争者の気分を感じとるものですし、早々のよろこびは論争に明るい響きと道徳的な力をあたえるからです。」108P
「ローザ・ルクセンブルクにはマルクスの世界観が血肉となっていたために、自分の行動を正当化するためにマルクスやエンゲルスの権威を引き合いにだす必要もなく、自由に行動することができた。」109P
13 註2の内容です。この問題は、次の読書メモの本で、レーニンが、ローザから自分の「超中央集権主義」として批判さえてられている本の出版を、革命後は過去の論争過程の本として出版を渋ったという話にもつながっています。
14 この問題は、次の本の読書メモ、ドイツやポーランドとロシアの社民党の運動の歴史的違いの情況規定的な唯物史観的なとらえ返しから、違いを押さえていく作業が必要になります。またレーニンもローザも互いにリスペクトしていたという、二人とも実践的なひとで、そこからのとらえ返しが必要です。 
15 ローザはマルクスの流れで、武装蜂起、権力奪取、プロ独論も展開していたのですが、血を流すことには極めて慎重でした。自然発生性を唱えていたので、レーニンの十月革命が計画的武装蜂起を準備したこととの違いがあるし、弾圧と決定的武力衝突の局面の時にレーニンは地下に潜ったのに、ローザは(これも次の本の読書メモなのですが)、敵側として出てきている民衆との論争とかやっていたようです。自然発生性への依拠と拝跪という弁証法がまさに問題になっているのだと思います。
 以下切り抜き。「ローザ・ルクセンブルクは、蜂起をもって軍隊にたいする正攻法であるとは考えなかった。彼女の考えでは、煽動によって軍隊の内部崩壊を準備し、戦闘そのもののなかで、その内部崩壊を完全なものにすることが蜂起の前提条件であり、蜂起の勝利は、強力な部隊を革命的人民の側に移行させることにかかっていた。」156P「ローザは当初、大衆の自発的な行動をもっぱら重視していたが、モスクワの経験から意識的な組織や指導の意味をはじめてみとめるようになり、一方レーニンは、秘密結社的な考え方から出発して、その限界をみとめるにいたったのである。・・・・・・しかしいまやかれは、労働者たちが組織の頭上をこえて、ストライキから蜂起に移ったという事実の中に「ロシア革命の最大の成果」をみるにいたった。それゆえこの二人の思想家は、ほとんど見解の相違はないとみえるほどに接近した。しかし、それにもかかわらずやはりかれらの出発点はそれぞれ異なったものであり、その出発点の相違は、二人の政治思想の間のあるきわめて本質的な相違を特徴づけている。」157P
ロシア1905-6年革命、ロシア二月革命はローザ的な自然発生性、ロシア十月革命はレーニン的計画された蜂起157-8P
「彼女は新たな経験はつねに新たな認識をもたらし、新たな情勢はつねに新たな可能性と必然性をもたらすことを自覚したのである。そしてそれゆえに彼女は、宣伝にあたっては次の戦術目標を明らかにすることに、自分の活動を限定したのである。このようにして彼女は、自身の政治活動および運動の柔軟性を保ったのであった。」158P
16 ポーランド社会党は議会主義の改良主義で独立志向、ポーランド社民党はインターナショナリズムと革命志向というところで当初からせめぎ合いをしていた歴史があります。
「そしてこうした発展の直接的な結果して、一九〇六年春に、ポーランド社会民主党はロシア社会民主党に合体した。いまやロシア社会民主党による民族自決権の宣言は、ポーランドにおけるプロレタリアートの戦略にとって少しも危険なものではなくなった。というのは民族自決権の原則とポーランド労働者階級の政策は、いまや弁証法的(?)に統一するようになったからである。」164P
17 ドイツ社会民主党には政治的大衆ストライキという志向はなく、むしろ否定的だったのですが、ベルギーや1905年ロシア革命の中から、その評価が高まり、議論が始まります。
「とくに彼女には、ゼネラル・ストライキは強度の革命的性格をそなえた手段であると考えられた。ゼネラル・ストライキは、労働者大衆の高度の闘争準備を前提とするものであって、普通の闘争ルールにしたがって取り扱ってはならない。それは革命的な内容をはらんでいるのであって、その点を見落としてこれを取り扱うことは重大な敗北を喫する恐れがある、と。」186P
18 これは、ドイツの社民党や労働組合の組織の大きさというところで、しかも修正主義ということが出てくる中で、運動の実践の必要性を説いた論攷です。
「一方ローザ・ルクセンブルクは、将来のための解決策はあらかじめ何一つつくらなかった。彼女は階級対立の歴史過程を細かく研究し、同時にいつでもそれを総体的にとらえることによって、生きた経験から創造を行った。そしてその際に、彼女は想像力によって日常性から飛翔し、特殊な状況のためにたまたま起こった事がらをよりわけ、ある歴史段階に共通の要素を、現実の生きた姿の躍動するままにつかみだしてきた。」190-1Pローザ「闘争にスローガンと方向をあたえ、政治闘争の戦術をととのえて、プロレタリアートに内在する力や、すでにひきだされ活動している力がすべて、闘争のあらゆる局面や時点で発現されるようにすること、また社会民主党の戦術が、決断や鋭さの点でけっして現実の力関係を下まわらず、むしろこの力関係に先行するようにすることこそ、大衆ストライキの時期における指導のもっとも重要な任務である。そしてこの指導は、おのずからある程度までは技術的な指導に転化する。つまり社会民主党の断固として前進をめざす首尾一貫した戦術は、大衆の間に信頼感と自信と闘争意欲をよびさまし、プロレタリアートの力の過小評価にもとづいた動揺する弱々しい戦術は、大衆を混乱させ、意気消沈させてしまうであろう。前者の場合には、大衆ストライキは“ひとりでに”そしていつでも“時宣に適して”起こってくるし、後者の場合には、指導部がいくら大衆ストライキを直接呼びかけても効果がないのである。」196P
19 たぶんこの「自然発生性論」がローザ論の大きな課題になっていきます。ローザは民衆に対する信頼と運動の自然発生性を極めて評価していました。これは、唯物史観と決定論批判との関係、運動の主体性の問題とも関連していくのですが、まあ、現実的な運動の場面・場面で検証していくことでしかないこと。そもそも、レーニンも革命のまっただ中でジヨン・リード(『世界を揺るがした十日間』の著者)の質問に答えて、「ボルシェヴィキよりも、労働者の方が革命的だ」という主旨の発言をしていて、民衆の自然発生的エネルギーへの評価を出しています。まさにこれが自然発生性への依拠と拝跪の弁証法といいえることです。
「ちがいは、九〇年代の大衆ストライキが、闘争が尖鋭化し、労働者大衆のエネルギーが高度に集中された革命的情勢の中から生まれた自然発生的な運動であったところにある。しかしそれが、自然発生的であったということは、混沌とし、無計画、無制約、無指導であったという意味ではない。それどころか、あの二つのストライキにおいては、指導層は大衆と完全に一体となり、その先頭にたってすすみ、運動を完全に指導し、支配していたのであった。それは指導層が大衆の脈搏と完全に一致し、口先だけでなく、大衆の感情や意味を本当に汲みとって、すすんでそれに一致していったからであった。」202P「“大衆への絶望”などというのはいつでも政治指導者としての失格の証拠です。真の、偉大な指導者は、けっしてその戦術を大衆の一時的な気分に合わせたりせず、歴史の仕事が自助に成熟するのを待つものです。」204P・・・?依拠と拝跪の微妙な側面
20 ローザは最初党学校ということには否定的だったようですが、これをひきうけ、その講義録として、次の節のタイトルにもなっている『国民経済学入門』を出しています。ローザの講義は、的を得ていて分かりやすかったようです。その教え子であったエーベルトが、ローザ虐殺を行った政権に重き位置を占めて加担していたことは、歴史の皮肉としかいいようのないことです。ローザの教え方については「表面的には彼女はどこまでも学生の考え方に歩調を合わせ、その考えを最後までつきつめてみることを要求し、学生たちは気づかぬうちに望んでいた目標まで導かれていた。」「学生と一緒になって考えたために、だれもそれに圧倒されたという感じをもつものはなく、授業時間が終わって、彼女の魔力がとけ、彼女の卓抜さがひとりでにわかるまで、一度もそれに気がつくものがなかったほどであった。彼女は学生たちに、思考において科学的に不徹底であったり、憶病であったりするものへのふかい軽蔑と、一切の科学的行動への尊重の念をうえつけた。ローザ・ルクセンブルクとの共同学習は、学生たちを知的にゆたかにしたばかりでなく、道徳的にも向上させた。党学校にたいして偏見と企みをもってやってきたものも何人かいたが、彼女はかれらを異端者とはしなかった。」208P 
21 ローザには個別差別の問題では、民族問題でもインターナショナリズムを突きだして、独立運動的なことを批判したし、自決権批判もしています。他の差別もほとんどとりあげていません。性差別に関しても、この問題で主体的に動いていたクララ・ツェトキンと連係していたのかも知れませんが、ほとんど論攷を残していません。むしろ「男並みに対等に仕事が出来る女性」として戦っています。しかし、その感性の「ひと(いきもの)を傷つけたくない」「あらゆる命を尊ぶ」とか、被差別者側の感性をもったひとでした。このあたりのことを現代社会的には、反差別というところから、トータルな展開が必要になっていくと思えます。
 著者の(歴史的規定性なことなのですが、わたしとしてはそれとして済ませて欲しくない)差別性が出ているところ、「肉体的には、彼女はけっしてヒロインにふさわしくなかった。彼女は小さく、姿恰好もよくなかった。幼年時代の腰の病気のために、歩行もぎこちなかった。輪郭のはっきりした顔は典型的なユダヤ人の顔であって、並はずれた大胆さと決断の持ち主であることを示していた。」250P ローザの女性としての立場性の問題。「ローザ・ルクセンブルクは、鋭い理解力、行動力、大胆、決断力、自信など、男性的な面を数多くもっていた。しかし男性に伍することで有頂天になる青鞜派ではけっしてなかった。つねに自然、率直であるという点で彼女は完全な女性であった。女性――個性的な女性とは、彼女にとってはいわゆる“女傑”ではなく、“善良で心のしっかりした”女性のことであった。」257P・・・?著者の、そして社会的なジェンダー意識
22 八月四日はドイツ社会民主党の国会議員団が、それまでのインターナショナリズムを放棄して、戦争予算に全員賛成投票した日です。ローザはこのことにすごくショックを受けて、自死さえ考えたと、別の本に書かれていました。詰めかけた民衆を前にして、演説を促されても演説が出来なかったということがここでも278P書かれています。
23 レーニンとローザの違い。「レーニンは「平和」のスローガンを一切否定した。一方ローザは、「平和」を政治的活動の中心に据えた。」291P レーニンのスローガンは「戦争を内乱に転化せよ」。ローザは反戦のひと。
24 「社会民主党の危機」が内容を表した表題。
「また彼女は、労働者階級はその時代の大きな紛争に際しては、つねにその勝利が人類文化の進歩と国際プロレタリアートの利益をもたらす側にたて、という一九世紀においては決定的なものであったマルクスとエンゲルスの原則がもはや適用されなくなったことを指摘し、今日の帝国主義二大陣営は、両者ともに自由のためにたたかうものではなくして、征服と抑圧を目指すものであり、したがってそのいずれのグループの勝利も、世界の労働者階級に悪をもたらすであろう。それゆえに、労働者階級はこの二大勢力のいずれにも荷担すべきではなく、統一して国際的に帝国主義とたたかわねばならない、とのべた。」298-9P
25 スパルタクスの形成は、独立社会民主党の社会民主党からの分離ということもあったとはいえ、レーニンからとらえるとやっと分離し、独自的展開に入ったとなるのでしょう。
「以前から、彼女はしばしば他国の党の闘争に干渉するといって非難されてきた。しかしそれは彼女にとって当然のことであった。彼女の意識の中では、国際プロレタリアートは一個の統一した行動体であり、この統一を未来において実現することこそ、彼女の最大の目標だったからである。したがってこれに反対するものは、彼女とは違った立場にたつものであることを自ら証しだてていたのである。」305P・・・ローザのインターナショナリズム
26 これは「ロシア革命論」として展開されたこと、組織的問題性は後のスターリン主義的なことをローザが予見したとなるのでしょう。次の読書メモの本で論点を出しています。註5、註6参照。 
「このようにローザ・ルクセンブルクは、十月革命とその基本原則を最高級の言葉で称揚したが、しかし同時に、農地改革、民族自決権、民主主義とテロルの問題では、ボルシェヴィキの政策を批判した。」332P・・・次の読書メモの本では、四つ上げています。
ローザ「しかし、この独裁は民主主義の適用方法にあるのであって、その廃棄にあるのではない。ブルジョア社会において“正当に獲得された諸権利”や経済関係――これなしには社会主義変革は実現されえない――にたいする精力的な、断固たる侵害を意味するものではない。」「・・・・・・プロレタリアートはただちに、このうえなく精力的に断固して仮借なく社会主義政策に着手すべきであり、そうせざるをえない。つまり独裁を行なうのであるが、これは階級の独裁であって、政党や派閥の独裁ではない。階級の独裁、すなわち、無制限の民主主義の中で人民大衆が活発に、何ものにも妨げられずに参加するもっとも開放的な階級の独裁なのである。」337P・・・ローザの独裁論
 ローザ「われわれはつねにブルジョア民主主義の政治的形式から社会的核心を区別してきたこと、またつねに形式的平等や自由という甘い皮の下に、社会的不平等や不自由という苦い実があることを暴いてきたということにすぎず――それも自由と平等を投げ捨てるためにではなく、労働者階級をそれにむかって励まし、皮に満足せずに、政治権力を獲得することによって、これを新しい社会内容でみたすためであった。権力を握ったプロレタリアートの歴史的使命は、ブルジョア民主主義のかわりに社会主義的民主主義を創造することであって、一切の民主主義を廃棄することではない。」/著者「つまりローザ・ルクセンブルクにとってプロレタリア独裁とは、民主主義の縮小ではなくして拡大であった。それより高次の民主主義であった。」338P
「しかしまた、ローザ・ルクセンブルクは、古い社会秩序の解体に臨んで、膨大な課題をかかえ、しかも獲得した権力を維持するために、さまざまな敵とたたかわねばならぬボルシェヴィキにとっては、存在するあらゆる力を集中し、自由の制限によって目前の危険を排除し、必要な措置を上から指令することをせざるをえぬ、ということもよく知っていた。大衆の民主的活動の効用をのべた後に、彼女はつぎのようにつづけている。/「もし世界大戦や、ドイツ軍による占領や、これと結びついた一切の異常な困難というおそるべき状況下に苦しむことがなかったならば、ボルシェヴィキもまたかならずそうやったにちがいない。これらのおそるべき状況は、最善の意図もっとも美しい原則に満ちている社会主義政策のすべてを歪めずにはおかないのである。」340-1P・・・?そもそも苛酷な情況から規定されて、それだから起きたこと
「ただ、彼女が警告しようとしたことは、かれらが苦しまぎれにやったことを美徳にし、この宿命的な条件にしいられて仕方なくとった戦術を、すべて理論的に固定化して、社会主義戦術の模範として、国際プロレタリアートに模倣させようとすることであった。」341P
「ローザ・ルクセンブルクは、このロシア革命論の草稿を完成しなかった。その理由は、ただ時間がなかったためというだけのものであろうか? おそらくその他に、彼女自身、自分の意見が本質的な点で変わりつつあることに気づいていたこともあったのではなかろうか。いずれにせよ、その数週間後に、彼女は多くの重要な点を修正した。彼女のポーランド時代以来の同志であったアドルフ・ワルスキーは、一九一八年の十一末か十二月初めに、彼がボルシェヴィキの政策に疑念をのべると、ローザ・ルクセンブルクはつぎのように答えたと伝えている。/「・・・・・・あなたがもたれているような留保や不安を、わたしももっていましたが、もっとも重要な問題に関する不安はすててしまいました。・・・・・・したがって、ロシアのテロルは、なによりもヨーロッパ・プロレタリアートの弱さのあらわれなのです。たしかにいまつくりだされている農業関係は、ロシア革命にとってもっとも危険な、もっとも弱い点です。しかし、この場合にも、どれほど偉大な革命も、歴史の発展が許すことしかできないという真理があてはまるでしょう。この弱点を正しうるのもまたヨーロッパ革命だけです。そしてそれは起こるでしょう!」(A・ワルスキー『革命の戦術的問題にたいするローザ・ルクセンブルクの態度』一九二二年 ハンブルク)」342-3P
27 オプロイテのブランキズム批判として、自然発生性の問題と武装蜂起について「革命は“作られる”ものではなくして、情勢が熟せば大衆の中からうまれてくるものであり、頭からひねりだした第一撃の技術的準備はけっして成功しないばかりか、ときに決定的な時期を失するおそれさえある、というローザ・ルクセンブルクの考えは、ここでもまた実証されたのである。」352P・・・ドイツのブランキズム批判としては妥当としても、ロシアの十月革命では?
28 ローザの反暴力主義は、非暴力主義ではない、とわたしは押さえています。「それゆえに、今日、問題なのは、デモクラシーか独裁か、ということではない。歴史の日程にのぼっている問題は、ブルジョア・デモクラシーか社会主義デモクラシーか、という問題である。なぜならプロレタリアートの独裁とは、社会主義的な意味でのデモクラシーにほかならぬからだ。プロレタリアートの独裁とは、けっして資本主義的利潤の代理人たちが意識的に捩じまげていうような、投弾や、暴動や、騒乱や、“アナーキー”ではなく、プロレタリアートの革命的多数決という意味で、またその意志により、したがって社会主義デモクラシーの精神において、全政治権力を社会主義の実現のために、資本家階級の財産没収のために行使することだからである。」363-4P「ブルジョア革命においては、流血やテロルや政治的殺戮は、上昇してきた階級にとって手離すことのできない武器であった。しかしプロレタリア革命は、その目的にためにはいかなるテロルも必要とせず、人間の殺戮を嫌い、憎む。プロレタリア革命は、これらの闘争手段を必要としない。なぜなら、闘争し合うのは個人ではなくして制度であり、素朴な幻想に導かれて闘争場にたつことはなく、したがって幻滅に血をもって報いる必要もないからである。プロレタリア革命は、けっして、世界を暴力によって自分の理想に従わせようとする少数の絶望的なこころみではなく、歴史的任務を果たし、歴史的必然性を現実のものとする使命を負った、数百万人民の行動だからである。」365Pローザ「これらはすべての抵抗は、一歩一歩、鉄拳をもって容赦なくうち砕かねばならない。ブルジョア反革命の暴力にたいしては、プロレタリアートの革命的暴力をもってたちむかねばならない。」366Pローザ「スパルタクス・ブントは、全ドイツのプロレタリア大衆の大多数の明確な意志による以外は、そしてまた、スパルタクス・ブントの意図、目的、闘争方法をはっきりしたうえでの同意による以外には、けっして政治権力を手にしない。」367P
29 後半に大衆ストライキの問題について。「しかも、このストライキは決してたんなる賃上げ運動ではなかった。これは革命の一部であったというだけでなく、ストライキの目標として、企業権の獲得と精算の本当の社会主義化が公然と掲げられていたのである。」372P
ローザ「革命期になれば、ドイツでも、組合闘争の性格は一変し、それにくらべれば現在の労働組合のゲリラ戦などは児戯にひとしいほどに強力なものとなろう。そして、この基本的な経済的大衆ストライキの嵐の中から、政治闘争もまたたえず新しい力と活力をくみとることになろう。したがってプロレタリアートの革命行動の、いわゆる自動調整機構である経済闘争と政治闘争の相互作用は、ドイツにおいてもまた状況そのもののなかから、自然に生まれてくることになるであろう。」/著者「この予言は、かかれた当時ドイツではまったく理解されなかったが、いまや現実によって十分に実証された。というのは、嵐のような大衆ストライキが、意識的に社会主義経済の実現をその最終目標に掲げるにいたったからである。」373P
「しかしこの動きは、時流におされて社会の底辺で起こっていることであって、そのままただちに、政治的諸関係のうえにはあらわれてはこなかった。経済闘争と政治闘争の歯車のかみ合いも、順調にいっていなかった。特に評議会の構成は、大衆の発展にくらべていちじるしくおくれていた。」374P
30 この書の著者の本文での最後のフレーズ、「野蛮の勝利の行進は、やがてその終焉を迎えることになろう。社会進歩と人間の自由への運動は、アキレスのようにふたたび蘇ってくるであろう。そして人類解放のためのたたかいの勝利者は、ローザ・ルクセンブルクの精神の中からたち現れてくることであろう。」410P
31 この本の著者のローザの思想の現在的な意味をとらえ返した文を付録として付けています。ただ、この文は絶筆でフレーリヒが亡くなったのが一九五三年。かなり前です、その後、スターリン死去の後、スターリン主義批判が起こり、ロシア革命から七〇年余でソ連邦は解体し、マルクス葬送が叫ばれるようになりました。「ドイツ革命の敗北」の過程で虐殺されたローザは「勝利したロシア革命」を牽引したレーニンと比較され、分が悪いのです。レーニンを批判した数少ない左派のひと、レーニンもそれなりに評価したローザは歴史のなかに埋もれがちなのですが、今、むしろ、ローザの理論は、現在の状況下で、あらゆる観点から注目され、評価し直していく必要があるとわたしは思っています。それについては、もう少し、読書を続けてからか、一連のローザ学習の最後にまとめようと思います。ここでは、フレーリヒのここでの文を引用しておきます。
「彼女はあるがままの人生を愛し、そしてどのようなものとしてやってこようとも、人生を愛した。彼女は悦びを求めて、その悦びを太陽の光に、咲き開く花に、鳥の声に、研究に、芸術に、芸術創造に見出した。こうして彼女は不断に悦びを自覚的に、徹底的に、そして人が自分の本性に従うように自然に味わいつくした。思考、願望、行動、才能、趣向は彼女においては一つに融け合って創造的な統一体をなしていたるそこに彼女の個性の強さがあった。傭われた殺し屋は彼女の生命を終らせることはできた。しかし、彼女の思想はなおも生きつづけ、現代のために、さらに実りゆたかにされることを待っている。」423-4P・・・わたし自身もはばかりながらその作業の小さな一翼を担おうとしています。
32 最初に書いたようにこの「あとがき」には、「パウル・フレーリヒの横顔」という副題がついていて、フレーリヒの波瀾万丈の活動歴と、著作活動が紹介されています。この本は、まさに運動を担った立場でのローザのとらえ返しになっています。かなり、ローザの思いは受け継いでいますが、批判的な観点も書き記しています。さて、最後に、「あとがき」にこの本の著者に関する訳者のコメントで、印象に残る文がありますので、引用しておきます。「以上が本書の著者パウル・フレーリヒの横顔である。そしてこのつたない素描によって、本書がけっしてたんなる研究所ではなく、戦争――革命――戦争という二十世紀前半の激動の時代を背景に、搾取と抑圧をもたらす資本主義、帝国主義の打倒と、民衆の創意、自発性、個性の全面的な展開をもたらす自由な社会としての社会主義をめざしたローザ・ルクセンブルクの思想と情熱を自己の血肉として生きぬいた一人のマルクス主義者の、苦悩の時代の刻印を負った現代への呼びかけの書であることが伝えられたならば、訳者・解説者としてこれにすぎる悦びはない。」442-3P


posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする