2020年06月17日

伊藤亜紗『記憶する体』

たわしの読書メモ・・ブログ535
・伊藤亜紗『記憶する体』春秋社2019
 伊藤さんの本、わたしの読書メモ3冊目です。これは障害問題総体に拡げた論攷になっています。ただ、いわゆる「中途障害者」が中心、「障害者」になる前の記憶(単に意識といわれることだけでなく、体の記憶)があるひとを中心にしています。それがこの本のタイトルになっています。ですが、「中途障害者」との対比で、生まれたときからの「障害者」には、「元の体――欠損された「障害」」の記憶のないひとも出て来ます。もうひとつ出てくるエピソードは、この著者で最初に取り上げた本のテーマの「吃音」の話も出て来ます。体と意識の乖離の問題です。だから、わたしサイドからトータルにとらえ返せば、いわゆる「マージナルパーソン」(註)の体論ということになります。ただし、表層的心理としては心理的マージナリティにあまり陥っていない、医学モデル的な意味での「マージナルパーソン」というところなのです。このあたりは、著者自身が、医学モデル的な「障害」を反転させて見る、そのようなひととのふれあいを「楽しんでいる」というところからきているのかもしれません。
 この本は11のエピソードと論考で成り立っています。
 目次をあげてみます。
プロローグ:究極のローカル・ルール
エビソード1 メモをとる全盲の女性
エピソード2 封印された色
エピソード3 器用が機能を補う
エピソード4 痛くないけど痛い脚
エピソード5 後天的な耳
エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
エピソード7 左手の記憶を持たない右手
エピソード8 「通電」の懐かしさ
エピソード9 分有される痛み
エピソード10 吃音のフラッシュバック
エピソード11 私を楽しみ直す
エピローグ:身体の考古学

わたし事として繰り返し書いているのですが、わたしはそもそも身体論的掘り下げを停止しています。わたしは、そもそも反差別論を最初に展開するとき、その差別の分類を、「身体的差異に基づく差別」と「非身体的差異での差別」という大きな分け方をしようとしていました。そこで、そもそも「身体とは何か」ということを考えていて、「身体とは関係性の分節である」というテーゼに出会いました。で、そこから、身体論的深化の必要性も出ていました。一般に身体論の必読書とされるメルロ・ポンティの本を読もうとしたのですが、解説書や廣松さん関係で、メルロ・ポンティに関する論攷や解説書、雑誌の特集などをあさっていました。その過程で、メルロ・ポンティを読むにはフッサールを先に読まなくてはいけないと思いました。で、哲学的な道行きを、ヘーゲルから青年ヘーゲル派に拡げる段でやりきれなくなっていました。実は身体論は、マッハの「感覚の束」というようなところとの対話も必要になってくるのですが、ともかくここで深みにはまると、本題に入る時間がないと、身体論の学習を停止した経緯があります。廣松さん自身が、身体論で医学的な文献も読みながらいろいろ展開していることを、「廣松ノート」としてなんとか残すに留めることで落ち着きそうです。
さて、この本との対話に話を戻します。幻肢と幻肢痛の話が出て来ます。痛みというところのとらえ返しに踏み込んでいくと、医学的突き詰めが必要になってきます。この本の著者は、幻肢痛を脳からの指令がブロックされるところでの痛みということになっています。ただ、脳と他の臓器や肢体は血管での血流やホルモン、神経ということでつながっているのですが、一方的な脳の支配ということでなく、双方向性の指摘もされています。その痛みがどこからくるのかというところでの、もっとくわしい分析のようなこと、この本の中には書かれていません。参考文献が挙げられているので、その中に書かれてるのかも知れませんが、それにリンクするような文は書かれていません。「痛み」そのものは医療の対象にされ、医学モデルに引きずられがちになります。それは医学モデル批判は、医療の否定ではないというようにわたしは一応押さえています。ただ、ただ、幻肢痛への対応は、むしろ医療的なところではなく、いろんなテクノロジー的な試行でおこなわれてもいるようです。ただ、テクノロジーということが得てして、「障害」そのものをなくすことに結びついていくことと、それが、この社会の価値観にとらわれないとして、この本に出てくるひとは、大方そんな生き方になっているのですが、深層心理的な「障害」をスティグマとするとらわれを呼び起こしていくのではないかとも言いえます。それがまさに、マージナルパーソンとして指摘されていることではないかとも言いえます。
 最初の読書メモで、この著者の二元論への賛同へ批判的なコメントをしたのですが、この本は、まさに心身二元論批判の書になっているのではないかとわたしは感じていました。
 さて、最後に共通の当事者問題の「吃音」に関してコメントしておきます。最後のエピローグで、吃音を治す薬があるとすれば、飲むか?という話がでています。著者が出会ったひとは「飲まない」と答えたそうですが、この話は、伊藤伸二『吃音者宣言―言友会運動十年』たいまつ社1976に出てくる話でもあるのですが、伊藤さんの発言ではありません。わたしはこの本を読んで、しかも「薬を飲まない」と言い切るひとの話に感銘して言友会にその宣言の10年後くらいに入会したのですが、言友会の中で、この話を引用して「薬を飲まない」という話をすると、「単なる強がりだ」という批判をされたものです。宣言的な生き方をとるというひとは多くでてきましたが、それでもそれは揺らぎのなかにあり、伊藤さん自身は、結局、「吃音を治す」から「吃音に対する気持ちの持ち方を変える」というマインドコントロール的活動に収束させました。わたしは、それは深層心理的なところで、体としてどもってはいけないと刻み込まれているので、理論的に表層的意識として、どもってはいけないという意識をもたないとしても、体が記憶しているのだと思います。それを解体していくには、「吃音」が否定的にとらえられているこの社会の共同主観的意識を、それを成り立たせている世界観、社会のなりたち自体を変えていくしかないと思っています。

註 「マージナルパーソン」というのは、差別と被差別の関係が存在するところで、被差別の側にいるひとが、差別する側の見当識(――価値観)にとらわれ、自らの被差別事項を隠す(――パスする)など、自らの存在を否定的にとらえ、心理的マージナリティという葛藤に陥るひとたちを指しています。以前は「マージナルマン」と言う形で論じられていました。わたしのホームページに載せている原稿を参照にしてください。(ホームページの表題は「マージナルパーソン」になっていますが、当時の意識性を残すために、原文は元のままの「マージナルマン」のままになっています。) http://taica.info/akbmmk.pdf


posted by たわし at 02:03| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする