2020年06月17日

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

たわしの読書メモ・・ブログ534
・伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社(光文社新書)2015
 「目が見えない」ということを著者は必ずしも否定的なこととしてとらえない、というより反転さえして見せているということと、見えないことによって他の感覚がとぎすまされるというようなことを書いています。わたしは「「障害の否定性」を否定する」ということをライフワークのひとつにしているので、この著者の指向のひとつとして、悲劇的にみないで、むしろ面白さを感じるということのプラス思考のようなことに一部共鳴していました。「一部」と書いたのは、「面白さ」と言っても、悩み真っ只中の当事者にとっては、非当事者の「面白さ」ということはむしろ怒りの対象になるからです。
 わたしは他の「障害」についての深いとらえ返しや、踏み込んだ交流のようなことは、ろう者の世界以外はあまり押さええていません。障害問題から演繹した、表面的なとらえ返しをそれなりにやってきたのですが、なかなか個別の「障害」のとらえ返しをなしえていません。「視覚障害者」の問題もそのひとつです。まったく、接触がないわけではなく、何人かの知り合いがいるのですが、そのひとたちは、自分の個別問題を超えて、障害問題総体に関わってきているので、いろいろ質問しているのですが、なかなか答えてくれません。他者のことを言えた義理ではありません。わたし自身も、みずからの当事者性の「吃音」ということをさておいて、障害問題の論考を進めています。ここでは、この著者との対話で、今、著者は著者のホームページを見ると、「視覚障害者」問題だけでなく、「聴覚障害者」の問題を対象化しようとしているようなので、「視覚障害者」とわたしがそれなりに対象化してきた「聴覚障害者」の対比ということも含んで著者との対話を試みます。
 さて、反転させて見せるというようなことはわたしもやっているし、否定性に乗らないと言う意味で、「どうでもいいじゃん」ということを突き出してもいます。ただ、この著者は「福祉」ということをさておいてと、論攷を進めています。「福祉」という言い方自体が曖昧さを持っています。今の社会の福祉は、結局「恩恵としての福祉」に収束させられる傾向をもっているからです。今、学の世界で死語になりつつ感のある‘差別’と言う言葉をはっきり使ってとらえ返しの作業をしていかないと、論考は進まない深化しないのではないかと思っています。これについて、一つ前の読書メモに書いた、わたしの本やホームページを見てください。
 別の世界というようなとらえ方をしていくと、まさにここでも二元論になっていくのですが、現実的には、「障害者」と規定されるあるひとたちの存在を無視して非対称的に社会を構成していっているというところで、アクセスの障害が形成されているという問題があります。そのことは社会的歴史的関係なのですが、それを自然的関係と取り違えているのです。たとえば、「ろう文化宣言」を出した木村晴美さんは、「ろう文化」という別の世界があるということを強調するなかで、電車のなかで車内放送を通訳したり降りる駅のことをいちいち指摘したりする聴者がいるけど、余計なことだ、一駅くらい乗り越しとしても、どうでもいいことだと語ったりしています。これは「障害者文化」としての「ゆっくり」の基調の話にも通じる事ですが、二元的世界でない以上、運動的なところで「はやく」ということも求められていることも出て来ます。青い芝の横塚さんの「はやく、ゆつくり」ということばにそれは表れています。「ろう文化宣言」は「文化」宣言になっているのですが、それは本末転倒的な、「ろう者は政治が嫌いなのだ」というような話まで出ていました。何か勘違いのような事が起きているのですが、政治は好き嫌いの問題ではありません。現実の政治が生活をときには命さえ規定していくから問題にせざるを得ないのです。わたしは政治志向にならざるをえないところで、政治的になっているのですが、「政治を否定するための政治」ということを突き出しています。
「障害学」では、医学モデルの枠内の「欠損モデル」ということがあります。この本でも、4本足の椅子に対する3本足の椅子の話が出て来ます。「中途障害者」の場合も(新しいホメオタシスの形成というようなことですが)、生まれたときから「障害者」の場合は、「標準的な」とされる感覚が「ない」「機能しにくい」ひとたちに比べて、もっとスムーズに他の感覚が研ぎ澄まされていく話が出て来ます。このあたり、「サリドマイドの障害者」として「典子は今」という映画のなかの典子さんが足を使って何でもやっていくこと、「乙武現象」ということまで言われた、乙武さんがテレビでスポットライトをあびたこと、勿論本人の努力ということもあるのですが、「なければ、他の方法でやっていく」類いのことで、それが注目されたのは、この社会の「障害者」に対する「努力して障害を乗り越える障害者像」という同化型の差別からきていることです。著者は、二元論批判を根底的にやっていく作業をなしえないなかで、価値観にとらわれないということでニュートラルな突き出しをしようとして(要するに反差別ということをとりあげない中で)そのことを別の世界として描きがちになっています。過渡として「どうでもいいじゃん」とか、多様性とか、異化を突き出すことは意味があるにせよ、そもそも異化ということ自体をとらえ返すことも必要になっていくのだと思います。
 ちょっと各論的なところにもコメントしておきます。
 皆で見る絵画鑑賞の話は興味深いことがありました。このあたりは、車いすの「障害者」がハリアフリーということで、エレベーター設置が進む中で、そのことを車いすの階段昇降介助という形での交流がなくなると指摘していたことにも通じることがあるのかもしれません。
著者が書いてる、「視覚障害者」のなかでみんなが点字ができるわけではないということは、「聴覚障害者」のなかでもみんなが手話ができるわけではないということと対比できると思います。ただ、ろう文化の核としての手話というところでと、点字はちょっと位相が違うのかも知れません。
 さて、最後の各論から本論につながる話として、著者がとりあげている「障害の社会モデル」の話で対話を試みます。
 著者も指摘しているように、‘障害’の ‘害’ の字を‘障がい’と表記していくおかしさは、「障害の社会モデル」という考え方からわたしも批判しているのですが、いろんなひとがそういう指摘をし、NHKでさえ、視聴者からひらがな表記して欲しいという要望に、「障害の社会モデルの考えでひらがな表記しない」と答えているという話もあるのに、このひらがな表記は未だに続いています。非論理的な情緒性へのとらわれなのですが、いちおう「科学的」を志向する政党が総体的にひらがな表記を続けている非論理性、それを正し得ない学の貧困といえるようなことだと嘆いています。ただ、それはそもそも「障害の社会モデル」自体の混迷から来ています。最初に、「社会モデル」を言葉化しておきます。イギリスの「障害の社会モデル」です。わたしのオリジナリティも含めて「障害とは社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁と抑圧である」となります。著者は「改正障害者基本法」を社会モデルを導入したと書いています。この法律を作る際に案を提出した官僚も「障害の社会モデルに基づく法案」と称していました。ですが、わたしは一度、その法律の中で使われていることば‘障害’を逐一おさえる作業をしたことがあります。そもそも、‘障害’(ことばとしての 障害 )以外は、障害は医学モデル(わたしは「障害」と表記しています)、障壁が社会モデルとなっています。そもそも、これは「障害者権利条約」とその前のWHOのICFとして結実したICIDH−2の議論から来ています。これで、個人モデルと社会モデルの統合とか相互浸透とか突き出したのですが、そもそもイギリス障害学の「社会モデル」の提起のとき、これにはパラダイム転換を孕んでいると指摘されていたことがあります。パラダイム転換のわかりやすい例は、天動説から地動説へのコペルニックス的転換です。天動説と地動説は統合できません。だから、パラダイム転換と言われるのです。ICFの個人要因、環境要因はまさに二元論なっていて、その関係があいまいなままです。この話を展開していくと読書メモから外れていくので、前の読書メモに書いた本とホームページを読んでください。
 で、この本に話を戻します。著者は「体」という概念を使って、問題を読み解こうとしています。で、実は、わたしが「医学モデル」と書いているところを、著者は「個人モデル」と書いています。で、実は「体」論を展開していくと、生物学・医学モデルに陥る危険性を孕んでいるのですが、というより、一般にきちんと身体論を展開しないと、身体なり、体という概念を使っていくと読者は、医学生物学モデルでの「身体」というところでとらえてしまいます。実は、わたしは身体論に分け入っていません。「関係性の分節としての身体」として押さえたところで、それなりに納得して、後の学習課題の一つとして先延ばししています。改めて、押さえ直す作業を、わたしの「廣松ノート」(註)作成過程で、脇道に逸れて、身体論の文献も読みいって行きたいとも思っています。
 さて、目次を章だけあげておきます(ちょっとわたし的な編集しています)。切り抜きメモは、この著者のきらめきのある文をせめてキーワード的に紹介したいとの思いがあるのですが、このところ、一冊に時間がかかり、先に進まなくなっているので迷っています。もう一冊の本を読んだ後にどうするか決めます。
目の見えない人は世界をどう見ているのか * 目次
まえがき
《本書に登場する人々》
序章  見えない世界を見る方法
第1章 空間――見える人は二次元、見えない人は三次元?
第2章 感覚――読む手、眺める耳
第3章 運動――見えない人の体の使い方
第4章 言葉――他人の目で見る
第5章 ユーモア――生き抜くための武器
謝辞

 さて、今回は切り抜きメモは止めにします。「第5章 ユーモア――生き抜くための武器」を読んでいて、自らの体験から思い巡らせていたことを書き添えて起きます。
 これは、ひとつ前の『どもる体』の読書メモに追加して書くことなのですが、わたしの高校時代に「吃音者」の同級生がいました。彼は道化を演じながらその笑いのなかに自らの「吃音」への笑いを昇華させていました。わたしは一度だけ彼をまねようとしたのですが、わたしには演じることが合いませんでした。この本の中に書かれている、「障害者」プロレスとか「障害者」のお笑い芸人にも通じる事があります。わたしは思春期に自死願望を募らせながら、太宰治の「道化の華」を読んでいました。笑われる――傷つくことの恐怖を道化を演じることによる笑いの昇華を自ら引き出すという手法です。わたしは、「吃音」自体を笑われた経験は少なく、むしろ「笑ってはいけない」という倫理的沈黙が起きることが恐怖でした。ユーモアということは道化を演じることとはニュアンスが少し違いますが、そこに通じることがあります。

註 「廣松ノート」の「廣松」とは、廣松渉という哲学者の論攷をわたしは追いかけていて、わたしの思想的形成の基礎的なところで影響を受けたひとです。博学のひとで、廣松物象化論、廣松四肢構造論など独自の哲学理論を形成しています。そのひとの本を図書館でいろんな辞書を手元に置きながら、読み込んでいきました。その当時は、パソコンなどなく、まだ読書メモもとっていませんでした。一連の学習の集大成的に、もう一度読み込み、「廣松ノート」を残すということがわたしの学習計画のひとつの柱になっています。


posted by たわし at 02:01| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする