2020年06月17日

LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」

たわしの映像鑑賞メモ041
・LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」2019.10.31
本三冊を読んで、インターネットで伊藤亜紗さんのビデオを探していて、このビデオにヒットしました。当事者としての話として、本人は「隠れ吃音者」を自認しているのですが、外国に行ったとき、英語をしゃへるときに思いっきり連発の「吃音」が出たという話をしていました。わたしは「隠れ」ではありませんし、とくに学生時代英語の音読は言葉が出ませんでした。それから、新しく仕入れた日本音声言語――書記言語の単語の時も、言葉が出ないということがありました。でも「吃音者」にはいろんなタイプのひとがいて、英語の先生をしているひとがいて、英語の時はスムーズに言葉が出るという話をしていました。「どもった記憶がない」というところの話かなと思っています。
実は、ビデオはいくつか観たのですが、このビデオの話がわたしの関心領域とヒットしました。
伊藤さんはレジメ的文を出していろいろ話をしていたのですが、細かい説明文を省くと
@ 医学モデル(産業革命――1970s)
A 社会モデル(1970s――)
B 美学や当事者研究によるアプローチ(2010s――?)
という内容です。
これは、障害学における一般的な押さえ方としては食い違っています。「社会モデル」の話が出たのは、イギリス障害学における当事者からの突き出しと言われています。でも、あながち間違いとは言えません。日本の「障害者運動」の中でも、「自分たちを変えるのではなく社会を変える」という言葉が出ていました。ですが、その当時は医学モデルの変形の発達保障論があり、それと個人モデルの範囲内の「障害個性論」が対峙していました。社会モデルや関係モデル的なことは埋もれていたのです。
伊藤さんの美学的なところでのBの突き出しを、わたしは関係論として突き出しています。丁度、2010年を前後してですが、それよりもすでにずつと前に1970sに「障害とは関係性の問題である」という関係論的なテーゼもでていました。ですが、日本の「障害者運動」には1980sを境にして断絶があります。理論的にきちんとした整理がなされないままに、とりわけ哲学的な掘り下げがないなかで、アメリカの自立生活運動のながれや、WHOの障害規定を巡る議論で、そしてイギリス障害学やアメリカ障害学の議論が入ってきて、そこでの議論に収束されました。問題はイギリス障害学の「社会モデル」の突き出しの中で、それを第1世代として、第2世代の批判が起きたことです。それがフェミニズム障害学を僭称して余計に混乱に拍車をかけました。伊藤さんは、このビデオの中で、社会モデルは大切だけど、それだけでは足りない、というはなしをされています。その話がわたしの中ではフェミニズム障害学のモリスの話にリンクしていきます。これを伊藤さん的にアレンジして押さえると、「体の問題が抜け落ちている」となります。そこで、身体論的には肉体と精神の二元論を批判する「身体とは関係性の分節である」ところからする関係論として突き出せることではないかと思っています。すでに書いてるように身体論の詰めができていないので、そこをなんとかしなくてはいけないのですが。障害学では、もうひとつ、「文化モデル」という表出もでています。伊藤さんのBとも少し重なるのですが、これははっきりズレています。文化というのは一位相ですから。
さて、医学モデルのところの伊藤さんの説明で、産業革命の頃に確立した標準的人間像の話が出ていました。これによって「障害者」が出て来たのだという話です。このあたり、WHOのICFが未だに「標準的人間像」から障害規定をしていて医学モデルに収束している現実をとらえると、そして各国の障害規定も医学モデルから抜け出せていない現実をとらえると、ひとつの大切な提起だと思っています。


posted by たわし at 01:49| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする