2020年04月17日

レーニン『哲学ノート 上・下』

たわしの読書メモ・・ブログ530
・レーニン『哲学ノート 上・下』岩波書店(岩波文庫)1975
 これはまさにノートというより、メモのようなこと、ちゃんとした本にはなっていないこと、でもこれを、レーニンがとりあげている原典にあたりながら丁寧に読み解いていくと、吸収できることが多いのですが、とてもそこまでやれません。簡単なメモに留めます。
 さて、簡単な見取り図のようなことを示してみます。
<上>
これは、一冊まるごと「ヘーゲル『論理学』にかんするノート」です。
ヘーゲル『論理学』は、『大論理学』として出されているもの、そして、『エンチクロペディー』のなかの「論理学」、「自然哲学」「精神哲学」とセットになった「論理学」――『小論理学』と言われているものがあります。レーニンは、この『大論理学』に書かれているものを『小論理学』で検証しつつ、ノートを作っています。さて、レーニンはヘーゲルからヘーゲル弁証法を学びつつ、その客観主義的観念論をマルクス――エンゲルスにならって、逆立ちしているとして客観主義的、弁証法的唯物論を突き出します。その過程で、主観主義的観念論と批判しているカントの流れの不可知論者の批判もしています。さて、問題なのは逆立ちしているというとらえ返しだけではすまないということです。ヘーゲル弁証法は、存在論と認識論と論理学の三位一体的な弁証法なのです。ここで、存在論というのは、絶対精神の自己展開、疎外とか外化とか言われていることで、その批判をせねばなりません。このあたりは、近代哲学の陥ったアポリア(論難)の三項図式をどうとらえ、どう止揚していくのかが問われているのです。そのあたりのことが押さえられないところで、また後期エンゲルスは、マルクス理論のわかりやすい解説を試みるなかで、弁証法を図式化していくなかで弁証法を法則としてとらえ、反映論に陥りました。ヘーゲルの三位一体的弁証法への陥穽です。そしてまさに革命のひと、レーニンはそのエンゲルスの継承のなかで法則の絶対的真理を突き出しました。これでは、絶対精神へのとりこまれで、唯物論ではなく観念論に陥るのです。だから、その後の「マルクス―レーニン主義」の流れの運動は、ひとの名を冠したカリスマ性にひきづられる○○主義が陥る教条主義にとらわれ、まさに宗派的な活動に落ち込んでいったのです。このあたりが「共産主義的運動」の総括の核心のひとつとしてあることです。これについては、「社会変革への途」の主題になること、そちらでまた書きます。レーニンのこの<上>だけでなく、<下>をも貫いて、唯物論と弁証法についての論攷を進めています。哲学で体系的な論述を進めたのは、アリストテレスにはじまり、カント、ヘーゲルと続いています。マルクスにもそのような指向はあったようなのですが、結局経済学に軸を移し、まとまった論攷をのこしていません。わたしが認識論的に導かれた廣松渉さんが、『存在と意味』でそのような試みをしていましたが、三巻中二巻まで発刊したところで、亡くなっています。今後、そのような試みがでてくるのでしょうか?
さて、切り抜きメモですが、メモの切り抜きメモはあまり意味がないので、さらっと、次の張さんの『レーニンへ帰れ』の学習に役立てる、検索用のメモに留めます。
絶対精神の自己展開としての、存在論と認識論と論理学の三位一体性としてのヘーゲル弁証法21P
ヘーゲル「網」「結び目」21P――レーニン「網」「網の目」22P・・・廣松さんの「網」と「網の目」はここから?
論理展開と現実展開(存在論的展開)の同一性24P
「運動の弁証法」「否定」の弁証法28P
レーニン「(一)天―自然―精神。天をすてよ、そうしたら唯物論になる。」35P・・・絶対精神とその自己展開、そして絶対的なるもの(絶対的真理)をすてないと唯物論にはならない。
レーニン「ヘーゲルは逆立ちした唯物論(エンゲルスによると)であるから。すなわち、わたしは神とか、絶対者とか、純粋理念とかを大部分なげすてる。」37P・・・ただし、絶対的真理はなげすてなかった。
「哲学を「自我」から始めることはできない。「客観的運動(七一ページ)」がないから」38P・・・客観的運動は絶対精神に至るのでは?
 レーニン「物質的な過程の全面性およびこの過程の統一性を反映すると、それは弁証法であり、世界の不断の発展の正しい反映である。」49P・・・絶対精神の自己展開としてのヘーゲル弁証法の反映論
 レーニン「石でさえ進化する」50P・・・?意味不明
 矛盾の動態96P
 レーニン「本質的区別―対立」「生動態」97
 レーニンの注釈「同義反復の意味」101P
「法則とは現象における恒久的なもの(永続するもの)である。」111P・・・法則は、共同主観的に妥当するとされた真理に基づく仮説に過ぎないこと
レーニン「あらゆる法則は、せまくて、不完全で、近似的なものなのである。」112P・・・前ページの引用と矛盾
 ヘーゲル「かくして法則とは本質的な関係である」115P・・・構築主義的立場からする反本質主義との対話
レーニン「フェイエルバッハはこれに「結びついている」。神を去れ、すれば自然が残る。」119P・・・神は自然の物神化。自然の物象化は残る。
レーニン「ひっくりかえすこと――概念は、物質の最高の産物である頭脳の最高の産物である。」135P・・・医学モデル。脳一元論――脳の中にある小さな自己論。概念は共同主観的なところから生まれていくことを押さえていない。
レーニン「ヘーゲルはカントの観念論を、主観的観念論から客観的および絶対的観念論へ高めている」137P・・・絶対的観念論へは「高める」のではなく、「おとしめる」こと。マッハは相対的観念論と唯物論のとの間のゆらぎでは?
ヘーゲル「悟性」138P・・・悟性とは、実体化された「自我」のなかに内自有化された「(自己)意識」
レーニン「「概念」はまだ最高の概念ではない。より高いものは理念=概念と実在との統一である。」139P・・・理念とは共同主観的に妥当し反照された意識。「概念と実在との統一」は、実体主義と絶対化を生み出す。
ヘーゲルのカント批判142P・・・先験的演繹論を共同主観性論からとらえなおす
ヘーゲルの「純粋な真理」146P・・・絶対精神の自己展開――疎外・外化の弁証法
レーニン「マルクスは、ヘーゲルの弁証法を,その合理的な形で経済学に適用した。」153P・・・「法則」の適用なのか、論理学的高次化なのか
レーニン「概念の弁証法」196P・・・対話による高次化
レーニン「ヘーゲルにおいては、実践が鎖の一環として、しかも客観的(ヘーゲルでは「絶対的真理」)への移行として、認識過程の分析にうちに位置をしめているということである。」203P・・・ここでは、「客観的」と「絶対的」を分けている。
レーニン、弁証法の諸要素――概略3つ217P
レーニン、弁証法の諸要素――精細16個218-9P
レーニン「エンゲルスがヘーゲルの体系は逆立ちさせられた唯物論であると言ったのは正しい。」237P――注一〇九「『フェイルバッハ論』の第二章で・・・」285P
レーニン「ヘーゲルのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多いということである。これは「矛盾している」が、事実である!」238P
<下>
もくじを挙げておきます。
「ヘーゲル『歴史哲学講義』にかんするノート」
「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」
「ヘーゲル弁証法(論理学)の見取図」
「ラッサール『エフェソスの暗い人ヘラクレイトスの哲学』にかんするノート」
「アリストテレス『形而上学』にかんするノート」
「フェイエルバッハ『ライプニッツ哲学の叙述、展開、および批判』にかんするノート」
「弁証法の問題によせて」
「フェイエルバッハ『宗教の本質についての抗議』にかんするノート」
「マルクス、エンゲルス『神聖家族』にかんするノート」
ちょっとだけコメントを、「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」は、ギリシャ哲学にかんするヘーゲルの論攷とそれに対するレーニンのメモです。エピクロスの弁証法や詭弁学派のむしろ弁証術とでも言えるようなこと、むしろ対話という意味での弁証法から、ヘーゲルの弁証法にいたる過程をなぞることができるかもしれません。ギリシャ哲学には、その後の哲学的展開の縮図があるとされています。ギリシャ哲学に関しては、わたしは、シュヴェーグラー『西洋哲学史(上)(下)』岩波文庫で読みました。ヘーゲルと対比させたいという思いが湧いてきますが、とても無理です。縮図といえば、青年ヘーゲル派の内部論争が、まさに哲学の縮図にもなっていると言われています。ここで、フェイエルバッハにかんする2つのノートと、『神聖家族』でマルクス――エンゲルスのバウアー兄弟とその流れのひとたちへの批判をとりあげています。わたしもヘーゲルまではなぞって、その後青年ヘーゲル派の本と内部論争は、本だけ買って読めずしまいで、廣松渉さんの膨大な論攷をわたしなりに押さえただけに留まっています。とても、原典の訳書までは読めないにしても、これも「廣松ノート」を作るなかで再学習したいと思っています。
 ここ<下>でも<上>と同じようにメモを。
 理性の狡知26P
ヘーゲル「ここに(エレア学派)に弁証法の始め、・・・・・・」38P
レーニン「弁証法とは、一般的には、「概念における思考の純粋な運動」である」「特殊的には(ヘーゲル独特には)、弁証法とは、物自身、本質、実体と現象、「向他有」との対立の研究である」「本質は現象する。現象は本質的である。」39P「本来の意味においては、弁証法とは、対象本質そのものにおける矛盾の研究である。」40P・・・論理学、認識論というところでの弁証法から、存在論までに拡大したヘーゲルの弁証法。
 2つの弁証法41-2P
「概念の弁証法および認識の弁証法」43P
ゼノンの弁証法45P・・・弁証術、エンゲルスのりんごの例え、ただ「ひとはそれを知らずに行う」の類い
 レーニンのヘーゲルを通したマッハ批判63P・・・ただ批判がずれている
 キュレネ学派とマッハの近さ82P
レーニン「「外部に」なら、唯物論。「内部に」=観念論。ヘーゲルはアリストテレスの「外部に」という言葉を黙殺し、「受動性」という言葉によってこの外部にという言葉を別の意味に書き換えたのだ。つまり、受動性とはまさに外部にという意味だとするのである!!
ヘーゲルは、感覚の観念論を思考の観念論におきかえているが、観念論に変りはない。」98P
・・・外部――内部という設定の問題、間主観性――共同主観性の問題。
 ヘーゲル「感覚が外部にあるかわたしのうちにあるかは、どうでもいいことで、それは存在するのである……」―レーニン「唯物論からの言いのがれだ」98P・・・外部−内部の設定自体の問題、感覚の文化による規定性の問題も、レーニンのおかしさ
 レーニン「弁証法的唯物論だけが「始め」を続き(ママ・・・文がつながっていない)および終りと結びつけたのである。」106P・・・ヘーゲルのエピクロスとアリストテレス、およびレーニンのヘーゲル批判
「トロポイ−論式」120P
「ライプニッツがスピノザとちがう点は、ライプニッツにおいては、実体の概念に力の概念が加わること、・・・・・・」176P
 フェイエルバッハ204-32P・・・自然――神、物神化
 フェイエルバッハ「自然を神から導きだすのは、原型を模写、模像から導きだし、事物をその事物の思想から導きだそうとするに等しい。」「人間には「物をさかさまに見ること」抽象的なものを独立のものとするのがつきものである――例えば時間と空間。」「諸事物が空間と時間を前提とするのでなく、空間と時間が諸事物を前提とするのである。」214P
フェイエルバッハ「自分の本質を非我の自我と自我のない非我に分裂させ、前者を神と呼び、後者を自然と呼ぶ。」227P・・・他我――共同主観性がない、物神化の問題も
 唯物論者の歴史261-6P


posted by たわし at 04:59| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする