2020年04月03日

廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』

たわしの読書メモ・・ブログ529
・廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』岩波書店 1997
 レーニンの「唯物論と経験批判論」のマッハ批判を読んでいて、マッハ理解をするためにマッハに関する廣松さんの文があるので、表題の著作集の中のマッハに関する論攷を中心に再読しました。丁度、後半部分417-592Pにあたります。途中でやはり、この巻の最初から読んでいくこと、さらにマッハの本そのものの読書、さらには物理学の学習の必要も感じていました。ですが、とてもそこまでは掘り下げられません。わたしの人生の最後の方で、「廣松ノート」を作るつもりです。その中で、この3巻の最初から読み直し、ノートを残したいと思っています。わたしは、この著作集が出たとき、予約販売で、確か月一ペースで発刊されて、その中の未読の文、解説だけを読んでいきました。その他のところは、単行本ででたときにほとんど読んでいました。
 今回再読した論攷を挙げておきます。
V.「相対性理論の哲学」の中の「第二章 マッハの哲学と相対性理論」
 これは、「第一章 相対性理論の哲学的次元」を先に再読することでした。明らかに失敗です。ですが、そもそも物理学の基礎知識のようなこともないと、読み飛ばしになります。以前単行本で読んだときも、そのようなところで読んだのです。認識論的なところにつなげる、ところで物理的なところの表面をなぞる、結局、そこに行き着くのですが。
W. 「マッハの哲学――紹介と解説に代えて」「マッハの幻想主義と意味形象」「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」
解説 野家啓一
解題 小林昌人
 さて、そもそもマッハに踏み入ったのは、マッハの何が問題になっているのかということです。それは、ひとつ前の読書メモで先取り的に少し書いたのですが、わたしが影響を受けた廣松さんがマッハからの影響を受けて、物理学を専攻しようとしていたことがあります。そして、廣松さんの論攷にマッハの影響もとらえられます。そのあたりを少し押さえてみます。
 マッハの人物辞典的解説は526Pに書かれています。全面的に書き写したい心境に駆られますが、禁欲しておきます。
マッハの研究は多肢にわたります。わたしが留意したのは、ゲシュタルト心理学の先駆をなした538Pということや、諸要素の函数連関536Pということなど、それでも主なフィールドは物理学と言えるようです。マッハは、ニュートン力学の絶対空間、絶対時間という概念を、観測者の問題から批判していき、相対性理論を生み出したアインシュタインが、真空の中での光速が一定であるいう実験がマッハの若いときに出ていたら、マッハが相対性理論を生み出しただろうということを書いています。
わたしはマッハの認識論を問題にしているので、そこにしぼります。
近代哲学は、中世の神というところからの演繹から、デカルトの精神と物質、精神と肉体の二元論に陥り、そこから、意識作用――意識内容――意識対象という三項図式ということが生まれ、いかにして認識は可能なのかという問題が生じてきました。そういう中で、不可知論が生まれてきます。それは一つは、カントの物自体論です。もうひとつは、ヒュームの懐疑論です。そういう中で不可知論を退け、マッハは要素一元論ということを突き出します。マッハが想定していたのは、主客未分な、生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界です。529Pそれは、結局、三項図式でのアポリア(論難)は解決しえていません。それは、結局、マッハの図式で言えば「要素ABC……を他人ともそのまま共有化しうる与件とみなすことにおいて、マッハとしては、実は単なる感性的要素としてではなく、共同主観的に同一なものとして先行的了解される意味形象として措定してしまっているということである。」545P、これは、結局「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)512P・532Pということが、意識対象としたことにはおよばない図式になっています。「マッハは、認識主観の本質的な同型制を暗黙の前提にしてしまっている。」549Pという他我問題が解決できていないこととならんで、この「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)ということを、廣松さんは、「それ以上のもの」――「それ以外のもの」として、マッハが押さえ損なっている他我問題も押さえたところで、四肢構造論として突き出しています。
 三項図式の論難を解決しようとしてしたひとつの流れ、フッサールの現象学は、本質直感として解決しようとしていたのですが、結局失敗しています。547-8P「フッサールが特殊な直感の対象として考えたところの契機、広義の「意味的諸契機」は、物象化的錯視であることを指摘しなければならない。」548Pと廣松さんは指摘しています。
 マッハの認識論に関する廣松さんの要約的なところ「近代哲学のかの二元論的構図と主客図式とを内在的に批判する構えに一応はなっているけれども、感性的「要素」の超個人的・超歴史的な実体化、認識主体のアプリオリな同型化、この両極の中項としてαβγ……すなわち意識内容としての表象を立てる構図になっており、本質的には近代哲学の地平を超出しえていない。けだし、マッハの哲学が、近代哲学に対する即時的な自己批判の構えになっている限りでは真摯な再評価と再検討に値するとはいえ、所詮は抜本的止揚の一与件たるにすぎないと評さるべき所以である・・・・・・」549P
マッハが廣松さんとリンクしているところでわたしが留意しているのは、「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)と函数的連関という関係主義的とらえ返しではないかと押さえています。
この著作集では、『事的世界観の前哨』を分割して内容的に各巻に割り振っています。この3巻に「U.物的世界観の問題論的構成」(今回再読せず)と「マッハの幻想主義と意味形象」が掲載されています。この本は廣松さんの道行き的に大切な道程で、編集者の廣松シェーレのひとたちの分割したことの意図がちょっとつかめないでいます。
マッハへの廣松さんへの思いのようなこと「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」に書かれています。ここでは、レーニンの「唯物論と経験批判論」をとらえ返すという学習からマッハに関する論攷を再読したところ、コメントを省きますが、ただひとつだけ気になったところ、廣松さんがマッハを読んで「もはや狂(ママ)信的な「マルクス・レーニン主義者ではありえなくなっていた。」552Pと書いているところ、結局廣松さんは、哲学的なところでレーニンの批判はしても、その批判は根底的な、運動論的な「マルクス―レーニン主義」批判までおよんでいないように思われるのです。もうひとつ、廣松さんは、マッハにかなりのめり込んでいて、マッハ主義者というような規定も受けていたようなのですが、自分は決してマッハ主義者ではないと書いていること、むしろ現象学の方に近いというようなことを書いています。ただ、廣松さんを「現象学」の枠内でとらえようという論攷も見たのですが、フッサール批判の論攷を見ていると、これも違うのではないかと押さええるのです。
 さて、最後の処、野家啓一さんの解説は秀逸で、これを読むだけで、この本の内容の概略はつかめます。今回の読書で落としている、廣松さんの量子力学との対話を押さえてくれているところ、改めて、忘れていたことを思い出していました。また小林昌人さんは廣松さんの文献的研究に身を投じていて、また編集的なところで力を発揮しているひと、廣松学とでもいうところで、学究していくひとたちのとって貴重な存在、導き手です。
 最初に書いたように、廣松ノートを作る予定です。廣松さんは膨大な知識の上に論攷を進めています。わたしは廣松さんが引用しているひとたちの原典もほとんど読めないまま表面的にかじっているだけ、そのようなところは、学的なこととして許されることではないのですが、ただ、廣松さんの本を手にするきっかけになればとメモを残しました。

posted by たわし at 04:26| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする