2020年04月03日

レーニン「唯物論と経験批判論」

たわしの読書メモ・・ブログ528
・レーニン「唯物論と経験批判論」 (『レーニン10巻選集 別巻2―レーニン生誕100年記念』大月書店1966所収)
 レーニンの著作をあたっていて、とりわけ、『国家と革命』を読んでいると、まさに、レーニンこそが、今前衛党的なことを維持している政党・党派の理論、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと押さえられるのです。
 それは、実は、後期エンゲルスが、マルクスの理論のわかりやすい解説ということのなかで、弁証法を法則としてとらえるようなことに陥り、ヘーゲルへ「先祖帰り」し、弁証法を法則、しかも物神化された法則としてとらえるようになった、そのことをレーニンが吸収して、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと言えることではないかと思ったりしています。ヘーゲル弁証法は逆立ちしていると言われています。それは絶対精神の自己展開、疎外――外化としての現実世界という内容を持っているのですが、実は、レーニン革命論は、「マルクス―レーニン主義」の弁証法の現実世界への適用という意味をもっていて、そのことは「マルクス―レーニン主義」に理論武装された前衛党による革命という図式にもなっていきます。そもそも、弁証法というのは、対話による論的な深化の道行きなのですが、それをヘーゲルの絶対精神によって逆転させる・逆立ちさせたのが絶対精神の外化としての法則としての弁証法としてとらえたことなのです。まさに、ヘーゲルの逆転した弁証法の法則化は、神を想定している事なのですが、同じく、弁証法を法則としてとらえた、「マルクス―レーニン主義者」やその党派は、まさに宗派として登場せざるをえなくなるのです。このあたりのことをこれまでのレーニン学習から仮説として押さえたのですが、レーニンの哲学的論攷の学習として、裏付けようという試みとして、レーニンのこの本、そして『哲学ノート』の読み込みをします。この本は、マッハ批判としても有名です。まえにも書きましたが、わたしが哲学的に影響を受けた、廣松渉さんは、物理学の知識も踏まえた上でマッハの理論をそれなりに評価しています。そして、後期エンゲルスの批判も書いています。後期エンゲルス論については、わたしの理論学習の終活的ことの一つとして「廣松ノート」をつくろうという思いがあり、後に回しますが、マッハに関する廣松さんの論攷を、『哲学ノート』の学習の前に読んで、読書メモを残します。ここまでは、読書に入る前に書いたことです。
ここからが、正規の読書メモです。
 経験批判論の論者とは、主にマッハとアヴェナリウスを指しています。これはカントの物自体論の不可知論やヒュームらの経験主義の不可知論を右から批判するというレーニンの押さえです。レーニンはマルクス、むしろエンゲルスですが、その唯物論は左から批判すると称しています。その立場、唯物論の立場でのマッハ主義の批判なのです。レーニンはまさに革命家で論争のひとでした。ロシアにはマッハ主義的なところとマルクス唯物論を結び付けるひとがいました。筆頭はボグダーノフなのでしょうが、そのひとたちを論破するために、そして唯物論を宣揚するためにこの書を書いています。革命家にもいろいろなタイプのひとがいるのですが、レーニンは異なる意見の者を徹底的に論破して、自分の方針を突き通すという性格のひとのようでした。そこで、絶対的真理なるものを突き出します。それはまさに神学の世界なのです。これがどこから出て来たのかというと、エンゲルスがマルクス主義のわかりやすい説明ということを模索する中で、弁証法を論じていくのですが、その「弁証法」が問題なのです。ヘーゲルが弁証法概念を突き出したのですが、それはひとつは対話ということによる論的深化という意味と、もうひとつの絶対精神の外化なり疎外としての展開ということとしての弁証法があります。後者は法則としてとらえられるのですが、絶対精神ですからの法則の絶対化に陥ってしまっているのです。もちろん、エンゲルスは神なるものは否定していますから、絶対精神の自己展開のようなことは批判します。しかし、弁証法を法則としてとらえるところからは、その法則――弁証法を図式化していく過程で、ヘーゲル的な絶対精神の自己展開の枠内に留まってしまいます。そこから反映論なり模写論という突き出しになっています。それは、精神の自己展開という図式に嵌まっていて、まさに、青年ヘーゲル派としてヘーゲル批判から出て来て観念論を超克したところから逆戻りしてしまうことになっています。レーニンは、まさにエンゲルスの弁証法的唯物論をとりいれるときに、まさにヘーゲルの観念論的な弁証法にとらわれたのです。ですから、その影響を受けたレーニンは、この書の中でも、まさに神の言い換えに過ぎない「絶対的真理」なる言説を突き出しています。だから、それはまさにヘーゲル的観念論に嵌まってしまっているのです。
 さて、何が問題になっているのかというと、神学の世界から抜け出したデカルト以来の精神と肉体――物質の分離以降、近代哲学は常に、三項図式(意識作用<主体>―意識内容―意識対象)のアポリア(論難)をどう解決するのかという問題に直面してきたのです。そして、神学の世界に絶対精神をもって復帰したヘーゲル以外は(神とは自然の物神化にすぎないことで、その存在は否定されることで、ヘーゲルはそれなりに論理的ですが、その前提自体が間違えています)、このアポリアを解決できていませんでした。だからエンゲルス――レーニンも同じ図式に嵌まってしまっているのです。
 カントの物自体論もヒュームの経験主義的不可知論もそして、マッハの経験批判論もそのことを巡る試行錯誤です。そして、エンゲルスの反映論もこのアポリアを、ヘーゲル帰りしているのですから、解決できていません。
 さて、読書メモから少し外れるのですが、わたしのこの三項図式に関する押さえを書いておきます。マルクスの思想の流れから出て来た廣松渉というひとが三項図式のアポリアの解決を一応なしているのではという思いがわたしにはあります。実は、わたしがマッハを知ったのも、廣松さんがレーニンのマッハ批判のこの書をおかしいと論じていることからです。マッハは物理学者でもありました。音速の単位に名が付いています。そして、アインシュタインの相対性理論の道を拓いたひととしても有名になっています。さて、廣松さんはこの三項図式をどう止揚しようとしていたのでしょうか。それはカントが物自体をおいたところの先験的演繹論を現象学派を援用しての共同主観性論として置き換え、その共同主観性の形成を言語の生成における命名判断というところから、異化の構造、それにはマルクスの物象化概念を異化の次元からとらえ返す(廣松物象化論ともいわれていること)という作業があるのですが、そこから、社会学の役割理論(役割期待―役割遂行という過程でのサンクションをとおした)認識の形成、そこで、(廣松)四肢構造論という三項図式を超える論理を出しています。わたしは一応これらのいろんな哲学との対話のなかで形成されたことは、単なるパッチワークでなくて、ヘーゲル弁証法の対話的意味において、当事者意識――第三者的意識の入れ子型の認識の高次化の中で論理的に統一された、整合性をもっていると押さえています。個々の精細な批判はいくらか出ていますが、哲学的なところでは、大枠を否定する論理はまだ見ていません。もう少し書いておきますと、レーニンは唯物論を単純化しています。その唯物論のもっとも単純化した言い方は、定式化された「ものをあるがままに見る」ということですが、ひとは共同主観性の中で言語を獲得し、すでに物事を色眼鏡をとおしてしか見れないのです。これは、むしろ生まれたばかりの赤ん坊のとらえられる世界はいかようかという話としてのとらえ返しになります。これは次の廣松さんのマッハに関する学習の中で出てくることを、先取り的に書きますが、「マッハの世界はこの赤ん坊がとらえた世界ではないか」という話にもつながります。さて、もうひとつ、ものごとをありのままに見ている可能性のあるひとたちの存在を廣松さんが指摘していました。それは、この書の中で、レーニンが書いている「精神障害者」のひとたちです。翻訳の問題もあるのでしょうが、レーニンが、論争の中で、差別語で「きちがいであるまいし」とか論敵を何度も罵倒しているのですが、むしろ自我――他我の未分性とかの例を出して書いていることこそが、「ものごとをあるがままに見る」ことの可能性があるのかも知れません。
さて、レーニンに話を戻します。レーニンは革命家で強力なリーダーシップを発揮するひとでした。だから、自分の言っていることを絶対的真理として突き出す論理に乗ったのでしょうーでも、それはマルクスの思想の宗派的な展開になってしまうのです。今日、スターリン批判はかなり広がっているというか、多くのひとが受け入れていることですが、左翼の間ではレーニン批判にまではなかなか及んでいません。まだ存在している党派は「マルクス―レーニン主義」の言葉を使うかどうかを別にして、内容的にはそこへとらわれています。スターリン批判の中身としていろいろ批判されていたこと、「自然弁証法の基礎に立つ史的唯物論という論理はおかしい」とかいうことは、そもそもスターリンがレーニンからの引き継いだこととして、この書を読んでいる中でとらえられます(尤も、このレーニン選集がスターリン的改鋳にさらされている可能性もあるのですが)。今、一度レーニンとマッハの対話の中の読み解きから、「マルクス―レーニン主義」の総括が必要になっているのだと思っています。
 廣松さんのノートは、まだ先になりますが、とりあえず、次の読書メモとして、廣松さんのマッハに関する論攷の再読とメモ取りをやっておきたいと思います。
 さて、いつもの切り抜きメモは、レーニンの言葉自体がかなり図式化した教条主義的になっているので、逐一批判しても消耗なので、索引的にページを当たれる程度に留めます。レーニンは論争のひとで、哲学から物理学で広範な資料を読み解き、逐一批判していっています。ここで、それを精細にとりあげることは難しいので、レーニンとの対話に必要なところをとりあげて、メモを残すことにします。

 弁証法的唯物論11P・・・対話としての弁証法と法則としての弁証法
一九〇八年の「マルクス主義者」――-ボグダーノフらと一七一〇年の観念論者――バークリの唯物論批判15-7P
「物自体」16P・・・廣松さんの<そのもの>からのとらえかえし
エンゲルスの反映論22P・・・レーニンの「エンゲルス主義」へ陥り
 反映論と因果論24P
「因果性の問題における二つの哲学的上の流派が、われわれの前にある」バークリの批判する唯物論(記号論に媒介されて)24P−バークリとマッハ? むしろバークリとカント? 
 バークリによる空想と現実の違い24P――「因果性」神のみしるし
 バークリの主観的観念論25P・・・バークリの共同主観性は精霊? カントの先験的認識論の読み込みにおける「共同主観性」論との関係
「マッハは一八七二年につぎのように書いた「科学の任務たりうるのはつぎのことだけである。一、表象相互の連関の法則を探求すること(心理学)。二、感覚(知覚)相互の連関の法則を発見すること(物理学)。三、感覚と表象のあいだの連関をあきらかにすること(精神物理学)。」これはまったくはっきりしている。」33P
マッハ「感覚は『物の記号』でさえもない。むしろ『物』とは、相対的な安定性をもつ感覚の複合をあらわすための思想上の記号である。物(物体)ではなくて、色、音、圧力、空間、時間(われわれが普通に感覚と呼んでいるもの)が世界の本来の要素である。」33P
レーニン「物質は第一次的なものであり、思考、意識、感覚はきわめて高度の発達の所産である。これが唯物論的認識であって、自然科学は自然発生的にそれに立脚している。」67P・・・スターリンの自然弁証法の基礎の上に立つ史的唯物論という発想はここから。学的にはおかしい、との批判。そこには、法則の物神化も。法則は仮説として、法則の意識的適用という技術論。
人間存在以前の地球70P・・・自分の存在しない別の空間という話に通じていく
意識から独立して存在しているものの存在76P・・・懐疑論批判として出てくる<そのもの>の論理、ソシュール言語論、当事者意識と第三者意識の弁証法
エンゲルス「「思考する脳における」自然過程の反映、等々。」――レーニン「アヴェナリウスはこの唯物論的観点を否認して、「脳が思考するということ」を「自然科学の物神崇拝」と呼んでいる。」80P・・・協同作業や共同主観性というところからとらえ返す
レーニンのアヴェナリウス批判「「精神と身体の二元論」の観念的除去(すなわち観念論的一元論)とは、精神は身体の機能ではなく、したがって、精神は第一次的なものであり、「環境」と「自我」とは同一の「要素の複合」の不可分の結合のうちにのみ存在する、ということにある。」82-3P・・・「要素」を共同主観性から読み解いていくことによる、四肢構造論につながる可能性
 マッハの唯我論86P・・・廣松共同主観性論からの批判
「マルクスをエンゲルスに対立させる試み」91P・・・とりわけ、後期における違いを押さえる必要
エンゲルス「唯物論は、自然を第一次的なもの、精神を第二次的なものとみなし・・・・・・」91P・・・むしろ、二分法自体の批判の必要
「ヘーゲルは、現実の世界をある世界以前の「絶対的理念」の実現とみなす、そして人間の精神は、現実の世界をただしく認識することによって、そのなかに、かつそれを通じて、「絶対的理念」を認識するとみなしているのである。」92P・・・レーニンは「絶対的理念」なるものは否定しても、「絶対的」なることへの批判が欠落していくのでは?
「・・・・・・・われわれのそとに、われわれから独立して、対象、物、物体が存在し、われわれの感覚は外界の像である、ということである、・・・・・・」96P・・・反映論、三項図式のアポリアは、「絶対的精神」を肯定しない限り解けないのです。
レヴィー「なにが君に翻訳の正確さを保証するのか? 人間の思考が君に客観的真理をあたえるということを、なにが君に証明するのか? マルクスが第二テーゼでこたえているのは、この抗議に対してである。・・・・・・」――レーニン「さて、レヴィーが、マルクスが物自体の存在を承認している、ということを、一刻もうたがっていないのを、諸君はおわかりになったであろう!」99P・・・レヴィーは三項図式を問題にしていて、マルクスの第二テーゼは、「ひとは知らずにそれを行う」ということを言っているにすぎず、認識論的にはこの問題を解いてはいないのです。レーニンは、三項図式のアポリア自体が対象化できていないのではないでしょうか?
「しかし、果たして諸君は(マッハ主義者)、エンゲルスにあっては不可知論者も同様に「これらの物そのもの」のかわりに「印象」をおいている、ということに気がつかなかったのだろうか? つまり、事がらの本質上、不可知論者もまた物理的な「印象」と心理的な「印象」とを区別しているのだ! 差異はまたしても、もっぱら述語のなかにある。マッハが、物体は感覚の複合である、と言うとき、マッハはバークリー主義者である。マッハが、「要素」(感覚)は一つの連関においては物理的なものであり、他の連関においては心理的なものでありうる、と「訂正する」というとき、マッハは不可知論者、ヒューム主義者である。」100-1P・・・三項図式のアポリアの迷路、「要素」は廣松さんのいう<そのもの>、意識作用と意識内容をつなぎ、意識対象に対峙する「感覚」という概念、ただし三項図式は解けていないのでは?
「エンゲルスは論文のはじめで公然とかつきっぱりとその唯物論を不可知論に対置しているのであるが・・・・・・」101P
 エンゲルスの実践的適用、仮定が間違っていれば結果として出てくる類いのこと102P・・・法則の実践的適用も同じ、<そのもの>をとらえているわけではない、不可知論を批判し切れていない
「感性的観念はわれわれのそとに存在する現実性ではなくて、この現実性の像に過ぎないのであるから・・・・・・」「ドイツ語の原文をとってみれば、君は《stimmen nit》すなわち照応する、声を合わせる[調和する]ということばを見るだろう・・・・・・《stimmen nit》ということばは「同一のものである」という意味での一致を意味することはできない。」「エンゲルスが、いつも、その考察の始めから終りまで一貫して「感性的観念」をわれわれのそとに存在する現実性の像(Abbild)と解釈していること、・・・・・・」107P・・・像と現実の関係、正しく反映されているという担保はないのでは? ここは、「像」――「反映」でなく、「妥当すると共同主観的にとらえられる」ということでは?
 ボクダーノフのエンゲルスを折衷主義という批判115P・・・むしろ、ヘーゲル帰り
 ボグダーノフの客観的真理はありえないというとらえ返し116P・・・客観的真理とは共同主観的に妥当な認識 レーニンのボグダーノフ批判は、絶対的真理に収束して、ヘーゲル帰り
「このうたがいもなく普遍的に妥当する、・・・・・・」118P・・・「普遍的に妥当する」ということは、「共同主観的な妥当」性の弁証法的とらえ返し
「自然科学だけが外界を人間の「経験」のなかに反映させることによってわれわれに客観的真理をあたえることができるとすれば、・・・・・・」118P・・・そもそも反映論が「真理」を担保できないので、自然科学を別格扱いすることはできないのでは?
「感覚は物体、外界の像」119P・・・マッハは意識作用と意識内容を区別しない、従って像ということは出てこない、これはエンゲルス――レーニンの反映論
「すべての知識は経験、感覚、知覚から生じる。」120P・・・「感覚」は意識作用に近く、「知覚」は意識内容に近い、ただし、マッハは区別していない
「諸君(経験批判論者)が物自体の認識可能性、時間、空間、因果性の客観性を否定しようと(カントにしたがって)、それとも物自体にかんする思想をもみとめないであろうと(ヒュームにしたがって)、まったく同じことである。諸君の経験論、諸君の経験の哲学が首尾一貫していないことは、この場合には、諸君が経験のなかの意識内容を、経験のなかの客観的真理を、否定しているという点にある。」120P・・・レーニンは、マッハの物理学が、ニュートンの絶対的空間、絶対的時間概念を批判することら始まったという、物理学のパラダイム転換の内容を孕んでいることを知り得ていなかった。
 レーニンの経験批判論批判「「一方では、物体は感覚の複合であり(純粋な主観主義、純粋のバークリ主義)、一方では、感覚を改名して要素にすれば、われわれの感覚器官から独立したその存在を考えることができる、と!」「彼らはわれわれの感覚器官を十分に信頼せず、感覚論を徹底していないのであるから。」「彼らはわれわれの感覚の証言を完全に信頼する哲学者であり、彼らは、世界を現実にそれがわれわれに見えるとおりのもの、音、色、等々にみちたものとみなしている・・・・・・・」「反対に唯物論者にとっては、世界はその見えるままのものよりも、いっそう豊富で、いきいきとしていて、多様である。」121P・・・「独立した」は間違い、むしろマッハは未分なものとして押さえています。マッハの「見えるとおりのもの」とは、生まれたばかりの共同主観性にとらわれていない赤ん坊のとらえる世界なのです(→レーニンの「子どもの片言」122P)。エンゲルス―レーニンの反映論では、「その見えるままのものよりは」は出てこないのです。むしろマッハの「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)のなかに、そのようなとらえ返しがでています。唯物論でいう「現実をあるがままにとらえる」ということ自体が、物象化にさらされていない生まれたばかりの赤ん坊や、一部のレーニンが差別的に論じる「精神障害者」以外は、なしえないのです。
「物質の概念をうけいれるか、それても否認するかの問題は、人間の感覚器官の証言を人間が信頼するかどうかの問題であり、・・・・・・」122P・・・共同主観性のなかで、ひとはすでに、感覚器官がとらえたものを「それ以上のもの」「それ以外のもの」としてとらえているのです。
レーニンのシュヴェーグラーへの唯物論への共鳴「感性的なものだけが存在する。」123P・・・抽象ということの否定、物象化された世界にはありえないこと。
ボグダーノフのエンゲルスの折衷主義(ヘーゲル帰り)批判124P
 ボグダーノフ「「徹底したマルクス主義は」永遠の真理というような「そういう独断論やそういう静学をゆるさない」と」←レーニン「これは混乱である」130P・・・混乱はレーニンの方、レーニンは絶対的真理――絶対精神を措定してしまっているのでは?
「われわれは、マルクスが一八四五年に、エンゲルスが一八八八年と一八九二年に、唯物論の認識論の基礎に実践の基準を導入しているのを見た。」130P→注三四「レーニンが念頭においているのは、マルクスの『フェイルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年)、エンゲルスの『フェイルバッハ論』(一八八八年)および『史的唯物論について』(『空想から科学への社会主義の発展』の英語版への序文)( 一八九二年)である。」363P
マッハ「概念は『物理学的作業仮説』である」132P・・・「概念」は「法則」にも適用可能
 フェイルバッハ「人間は抽象的自我ではなく、男であるかまたは女である。」134P・・・これ自体がもはや真理とは言いえないのです。
 「マルクスの理論の道にそってすすめば、われわれはますます客観的真理に近づくであろう(けっしてこの真理を汲みつくすことはないが)、ところがあらゆる他の道にそってすすめば、われわれは混乱と虚偽以外のなにものにも到達することができない、ということである。」136P・・・「信じる者は救われる」、マルクスの理論を宗教的真理と同等にとらえていること、ここから教条主義も宗派も生まれ出でること。
「気ちがい(ママ)病院の住人以外にはなんびともその存在をうたがわないもの」138P・・・生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界と一部の「精神障害者」の「あるがままにものごとをとらえる」世界から、<そのもの>をとらえ返す廣松さんの作業、精神病院に政治犯を収容していく態勢はレーニンの論敵を「障害者」差別的概念で批判することから始まっているのでは?
「経験批判論」の「経験」にかんするレーニンの論攷141P・・・言語のある世界の経験、命名判断される以前の異化しない状態の経験と認識をレーニンはとらえていないのでは?役割遂行のなかにおける共同主観性――認識の獲得という問題から経験をとらえ返すことー
「自然の客観的合法則性と人間の脳におけるこの合法則性の近似的に正確な反映とを承認することは、唯物論である。」148P・・・ヘーゲルの絶対精神の自己展開をもってこないと、反映論は正当化できないのでは? 
「エンゲルは原因と結果とについてとくに弁証法的見方を強調している、・・・・・・」→エンゲルス「そこでは、原因と結果とはたえずその位置をかえ、いま、あるいはここで結果であったものが、あそこ、あるいはつぎには原因になり、またその逆もおこなわれる。」149P・・・原因と結果――因果論的概念で語れないこと、対話ということでの高次化としての弁証法になってはいるけれど、そもそも原因と結果という概念を持ちだしたことが誤りと言えることなのでは?
「エンゲルスは、唯物論の周知の命題をとくに説明することを必要とみなさないで、たえず「自然法則」、「自然の必然性」(Naturnotwendigkeit)について語っている。」149P・・・自然の物神化を神としてとらえたとき、まさに「自然法則」「自然の必然性」も神として立ち現れます。客観的妥当性の根拠を示す必要がないこと――神
 アヴェナリウス「必然性とは、したがって、結果の到達が期待される確率[確からしさ]の一定の度合をあらわすものである。」151P マッハ「函数という概念が「要素相互依存関係」を比較的正確に表現できるのは、研究の成果をはかることのできる量で表現する可能性が得られた場合だけであるが、・・・・・・」152P・・・「(確率)函数」という新カント派的概念との共振
「これらの連関についてのわれわれの認識の源泉は、自然の客観的合法則性であるのか、それとも、われわれの心の性質、つまり、一定の先天的真理、等々を認識するところの、心に内属する能力であるのか、という点にある。これこそが、唯物論者フェイルバッハ、マルクス、エンゲルスを、不可知論者(ヒューム主義者)アヴェナリウス、マッハから終局的にわかつものである。」152-3P・・・極めて図式化したとらえ方、少なくともマルクスとマッハのとらえ方は間違えているとしか言いようがありません。
「そのさいにポアンカレは、普遍妥当的なもの、多数の人々、またはすべての人々によって認められているものを客観的と呼んでいる――すなわちすべてのマッハ主義者と同様に、純粋に主観主義的やり方で客観的真理を絶滅している、――・・・・・・」158P・・・ポアンカレの件は、言葉の厳密性を検討することがあるとしても、客観的妥当性ということはまさに然りで、レーニンの方がおかしいとしかとらえられません。まさに神学。
「エンゲルスが、重要なことは、あれこれの哲学者が唯物論または観念論の多数の学派のどれにくみしているか、ということにあるのではなく、自然、外界、運動している物質を第一次的なものとみるか、それとも、精神、理性、意識、等々を第一次的なものとみるか、ということにある、と言ったのはただしかったのである。」159P・・・デカルト以来の近代哲学の精神と物質の二元論への舞い戻り
 自由と必然性180-3P
 アヴェナリウス――経験論的不可知論への共鳴、右からのカント批判190P
「カントの基本的特徴は、唯物論と観念論との和解、両者のあいだの妥協であり、種類のちがった、対立しあっている哲学的流派を一つの体系のなかでむすびつけていることである。」191P
 ボグダーノフ「(1)「要素」の混沌(要素というこのちょっとしたことばのかげには、感覚以外のいかなる人間的概念もかくされていない、ということをわれわれは知っている。)、/(2)人々の心理的経験/(3)人々の物理的経験/(4)「それからうまれる認識。」」221P・・・(1)〜(3)はまさに三項図式。
 レーニン「(2)心理的なもの、意識等々は物質(物理的なもの)の最高の産物であり、人間の脳と呼ばれるとくに複雑な塊の機能である。」222P・・・これでは人間機械論になってしまいます。意識ということが如何に生まれるのかということが出て来ません。
「つまり、自然のそとに、しかもそのうえさらに、自然を発生させるなにかあるものが存在している、ということになる。ロシア語では[哲学者流の特別なことばではなく、普通の人のつかうことばでは]これは神(ルビ、ボク)と呼ばれている。」223P・・・神学では外、哲学では、外である必要はなく、自然を物象化し絶対化したものが神。自然は如何にしてひとの認識に反映し得るのか、理性の狡知、絶対精神の自己展開という神。
「個人の意識を人類の意識ととりかえ、・・・・・・」224P・・・実はこれは廣松四肢構造論の、主体の二肢という問題があるのではないでしょうか?
 ボグダーノフの変遷225-6P
「記号」227P・・・言語論につながる――ソシュール
 ラウ「・・・・・・事物がわれわれのうちに引き起こす感覚は、事物の本質の模写である、・・・・・・」230P・・・模写論はいかにして可能になるのか、とらえられない。
「原因」――「結果」、「法則」、「力」231P・・・すべて物象化に陥っている。法則の物神化
 ビュヒナーとその一派の三つの「狭隘性」――力学の尺度の適用、反弁証法的(「エンゲルスの弁証法の認識論への適用(絶対的真理と相対的真理)にかんしては、まるっきりなにごとも理解しなかったのである。」)、「社会科学の領域で観念論が保持されていること、史的唯物論が理解されていない」234-5P・・・絶対的真理なるものの設定
レーニンの反語的な「形而上学的な反弁証法的唯物論が不充分である。」という批判239P・・・結局、デカルト以来の精神と物質の分離という近代哲学の枠内から抜け出せていない、ということを示しているのでは? ここから三項図式も生まれ出ずるー
 レイ「物理学の現実の危機」250P・・・これは、物理学におけるパラダイム転換として起きていることを、レイもレーニンも押さえていないということではないでしょうか?
「客観的実在の存在」251P・・・実体主義
 ウィルヴィーグ「物質は存在するか?」253P・・・「実体主義的物質は存在するか?」という問いに変えることー
「浴槽から水といっしょに赤ん坊までながしだしてしまった。」256P・・・レーニンは、マッハ主義を批判しようとして絶対的真理、「客観的実在の存在」を持ち出し、唯物論をながしてしまった。
レイ「物理学の一般的精神の観点からして他のすべての考察よりも勝っているのは、その方法、その理論、および経験にたいするその関係の概念が、機械論の概念と、ルネッサンス以来の物理学の概念と絶対的に同一のままである、ということである。」259P・・・レイとそれに共鳴するレーニンは、当時起きてきている物理学のパラダイム転換ということを知らなかった。
「エーテル」274P・・・絶対空間概念のなかで出て来た概念
「電気は観念論の協力者だといわれる、というのは、それは古い物質構造理論を破壊し、原子を分解し、・・・・・・」277P・・・まさに、量子力学につながるパラダイム転換的なこと
「数学者による物質の忘却」301P・・・「数学は自然科学の言語である」という規定をレーニンは押さえていないようです。それどころが、物質と言語の関係も。
「物理学の古い真理は、あらそう余地のないかつ不動のものとみなされているものにいたるまで、相対的真理であることがわかる、――つまり、人類から独立したいかなる客観的真理もありえない。すべてのマッハ主義ばかりでなく、すべての「物理学的」観念論は一般にこう論じている。」302P・・・絶対的真理をかかげるレーニン
「エンゲルスは(スタッロとはちがって)ヘーゲルの観念論をなげすて、しかもヘーゲル弁証法の天才的な真理の粒を理解することができた。エンゲルスは、主観主義にころがりおちる相対主義のためにではなく、弁証法的唯物論のために、古い、形而上学的唯物論を拒否したのであった。」303P・・・絶対的真理をかかげることは形而上学的唯物論に陥るのではないでしょうか? 「弁証法的」とは何か? 法則性なのか、対話による高次化の道行きなのか? 相対主義は主観主義なのか、関係主義としてあるのでは?
 唯物論的弁証法303P・・・絶対精神・絶対的真理の反映としての法則性?
プライのマルクス批判――六つ310-1P
「意識は一般に存在を反映する」316P・・・これは「存在は意識を規定する」と言われていたこと、なぜ「反映」になったのか、因果論的陥り
 マルサス主義321P・・・生物学的決定論
「マルクスとエンゲルスが自分の諸著作で、弁証法的唯物論よりも弁証法的唯物論をより多く強調し、史的唯物論よりも史的唯物論をいっそう強く主張した。」322P・・・検証する必要―強調というより、そもそも意味が違っているのではないでしょうか? レーニンはとらえていないのでしょうが、絶対的真理・法則としての弁証法と対話や相対主義的ニュアンス
「われわれはつねに、例外なしに哲学上の問題の解決の二つの基本的な路線、二つの基本的な方向を見て出したのであった。自然、物質、物理的なもの、外界を第一次的なものと認め、意識、精神、感覚(現代普及している術語によれば、経験)、心理的なもの、等々を二次的なものとみなすかどうか――これこそ、事実上いまもひきつづいて哲学者を二大陣営にわけている根本問題である。」327P・・・これは唯物論と観念論のみならず、自然科学と社会科学の分離ということにも通じる、では哲学は?
「ヘーゲルへの方向転換」330P・・・レーニンも、絶対的真理を設定することによって「ヘーゲルへの方向転換」に陥ったのでは?
「しかし、この物質以外には、「物理的なもの」、だれもが知っている外界以外には、なにものも存在できないのである。」336P・・・?そもそも、意識は存在しない?
「・・・・・・そして無限に拡大された、抽象的な、神のように生命のない「心理的なもの一般」を、物理的自然全体に置き換えることによって、すでに「最高の人間能力」を神格化しているのである。」338P・・・レーニンは、自然的なものを唯物弁証法におきかえ、絶対的真理を持ち出すことによって、唯物論をヘーゲル的観念論に置き換えた。
「唯物論的仮定は物理学的探求ではまったく避けがたい(unescapable)のである。」「星雲の仮説、光をはこぶエーテル、原子論、およびすべてのこのようなものは、便宜的な『作業仮説』にすぎないかもしれないが、・・・・・・そして無限」345P・・・レーニンはこのようなことを絶対的真理の論理から否定しているけれど、まさに法則とは作業仮説
 メーリング「ヘッケルは、唯物論者であり、一元論者であるが、史的唯物論者ではなく、自然科学的唯物論者である。」347P
「結語」348-9P・・・よくまとまったレーニン経験批判論批判四点
 チェルヌィシェフスキー350-2P
posted by たわし at 04:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする