2020年03月18日

『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』

たわしの読書メモ・・ブログ527
・『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』現代書館 2019
 定期購読している障害関係の雑誌です。また、少し遅れていますが、ここのところ読書
メモが膨大になってしまっています。逐一の紹介ではなくて、もくじ紹介と、気になった
文だけメモに切り替えます、としていたのですが、結局長くなってしまいました。さらに
最長記録を更新しそうな勢いです。
(編集者の付けた内容紹介)
「意思決定」が、障害者・高齢者・依存症者・引きこもりなど、立場の弱い人に自己責任を押し付けるための、免罪符のように使われている。しかし、よりよく生きるための選択肢は、出会いと経験、そして、人とのつながりの中から生まれるはず。求められているのは、「意思決定支援」ではなく、「つながりから生まれる経験知」を増やす支援ではないか。当事者・支援者とともに、パラダイム転換をはかる。
巻頭写真・文
[連載]インクルーシブに生きる「ふつう」の人 インタビュー:武本花奈
第一回 川合千那未
 写真が秀逸です。これだけ美しい笑顔が撮れるのだと、「笑顔の影に涙もある」のかもしれませんが、この笑顔が作れるようなところへの運動があるのかもしれないと思ったりしていました。
【特集 意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ】
● 「意思」と「支援」のパラダイム転換へ向けて 
池原毅和(日弁連)
これは、最後に編集者の文がのせられていて、この特集を組むのに、『福祉労働』163の
この著者の文がきっかけになっているとのこと(わたしの読書メモは513)、「意思」とか「自己決定権」を巡る貴重な文になっています。
これはパラダイム転換というところで、わたしも主張している障害関係論の地平へ繋が
る文書、いたく共鳴しながら読んでいました。
 今回も、文章ごとの抜き書きを残します。
「これらに共通するのは「意思」は個人のものだということである。法律が想定する「意思」も同様である。そして、「意思」が個人のものであるからこそ、その個人が「意思」に基づいて権利を取得し、義務を負担し、責任を負うことになるのである。しかし、本当に私個人だけに帰属する「意思」というものがあるのだろうか。自分という存在のどこにどのようなかたちで「意思」があるかを問われて明確に答えることのできる人はいるのだろうか?」8P・・・「個人」という実体に内自有化する「意思」という物象化
ジョルジュ・アガンベン「意思は西洋文化においてはもろもろの行為や所有している技術をある主体に所属するのを可能にする装置である。」8P・・・ここからパーソン論が出てきます。
国分功一郎「選択は過去の要因の総合として、あるいは、諸々の要素の相互作用の結果として出現する中動態的現象だが、意思はこれらの要因や要素から切り離され、能動的に何ごとかを始める能力と観念されており、何らかの行為を自ら開始したと想定されるとき、その人にその行為の結果が帰属することになる。逆に、当該行為の結果を特定の者に帰属させられるべきと考えられる場合に、その行為が意思に基づいたものとされる。」8-9P・・・物象化的錯認としてとらえられること。
「「意思」は、個人を社会の基礎単位とし、個人に権利や責任を帰属させるために社会的につくり出された構築物であり、「諸々の要素の相互作用」を捨象して、権利義務の帰属を単純化するための社会装置であって、私たちの内部に「意思」が存在しているわけではない。こうした考え方はあまりに新奇に感じられるかもしれないが、自分たちの日常や人生を振り返ったとき、純粋に試験管の中で起こる作用のように、他人や外部から一切の影響を受けずに、完全な自存と孤高の時空で、自己決定をした経験のある人はいるだろうか」9P・・・まだ、要素還元主義的実体主義的――
「障害とインクルージョンの研究者であるジョアンナ・ワトソンは、意思決定支援を被支援者と支援者との間の相互依存的・複合的・動的な決定過程として捉えている。決定を行おうとする者は言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)を使って意思と選好を表出し、それに対して支援者は無視とは対極の態度としての「受けとめ」(acknowledge)、「解釈」および「応動」(action)という反応を示す。双方の対話関係は、これが螺旋的に繰り返されていく動的(dynamic)過程を辿り、最終的な結論(未来像の形成・選択)が形成されていく。この過程は障害のある人に特有なものではなく、人間一般の決定の過程である。環境要素を切り離して個人のみに焦点を当てた認知技能(cognitive skill)の捉え方は人間の相互依存性という根源的な要素を見落としている。人間の相互依存性は非障害者の社会では認められているのに、むしろ障害のある人には別のルールが適用されていると指摘している。」9P・・・役割期待と役割遂行、「障害のある人」という表記は医学モデルです。関係論的立場のひとが使い続けているのはおかしいのでは?
「ロシアの哲学者バフチンは、人間の存在は本質的に対話的(dialogical)な存在であり、対話を抜きにして個人の内面に本源的な世界観や価値観が予め備わっているのではないことを指摘している。障害者権利条約(以下、権利条約)第十二条三項の意思決定支援方法の一つとされているピアサポート(「一般的意見第1号」パラグラフ一七)においても、相互依存性(interdependency)あるいは相互性(mutuality)が支援関係の前提である。」9-10P
「個人の内心にある「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の個人モデル)から「諸々の要素の相互作用」の結果としての「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の社会モデル)にパラダイムを転換すると、権利条約第十二条三項が求めているのは、障害のある人の意思決定の支援を特殊なものと考えるのではなく、むしろ、障害のある人は、それ以外の人がもっている社会的なネットワークから得るさまざまな支援が奪われていることに鑑みて、支援のための社会的ネットワークを再構築すべきことだと読むことができる。」10P
「権利条約第十二条三項は、障害のある人に対する社会的排除が人間に必要な相互作用的・相互的関係の形成を阻害し、それによって障害のある人の法的能力の行使が困難化しているという認識に基づいて、相互依存的・相互的関係の再構築(法的能力行使のための支援措置)を締結国の義務としたのである。したがってまた、権利条約第十二条と第十九条(自立した生活及び地域生活への包容)は相互に支えあう規定として理解することが必要である。」10-1P
「私たちは、重度の自閉症などのためにその「意思」が読み取りにくい状態にある人の心の奥底にも何か本人の「意思」があるに違いなく、その埋もれた「意思」を解明することが意思決定の支援であると理解しがちではないだろうか。しかし、「意思」が関係的現象の一部分であるとすれば、もともと、対話的で相互的な関係が形成されていないところに、「意思」があるわけではなく、「意思」は対話的で相互的な関係のなかから形成されていくものということになる。」11P・・・まさに関係論的なとらえ方
「ジョアンナも指摘するように「言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)」を駆使して対話することが重要であり、生命としての反応がある限り応答は成立し、対話と相互関係を形成することは可能である。」11P
「「支援」についてもう一つ重要なことは、それは単に「あれかこれか」を選ぶことを支援するのではなく、未来像を形成(formulate)し、しかも、それを実際に実現していく協働の過程を含んでいるということである。」12P
最後の小見出し「ユニバーサルな意志決定支援へ」12P・・・差別的関係を拡げていくグローバリゼーションンに対抗するユニバーサリーゼーション
● 津久井やまゆり園入所者への「意思決定支援」何のため? 誰のため?
三田優子(大阪府立大学准教授)
 津久井やまゆり園が閉園するにあたっての移行支援をとらえ返しながら、「意志決定支援」ということが、「自己決定支援」になっていないという批判を、そもそも意思はどのように形成されるのかのとらえ返しをしながら、押さえています。
 切り抜きメモ、この文は小見出しを見るだけでも得るところがあるので、最初に小見出しを出して、その中にある文を切り抜いてみます。太字が小見出しです。
「自己決定の主体は誰か」・・・パン喰い競争のパンの選択を巡って
「自己決定から「意志決定支援」への流れ」
「最近は、「意思決定支援」という言葉が流行っている。権利条約における“Supported Decision Making”と言う用語が「意思決定支援」「支援つき意思決定」などと訳されたこと、また二〇一一年四月に政府が提出した障害者基本法改正案では、「意思決定支援」という言葉のみ加わり(議員修正により)、成立した経緯がある。当時、障害者基本法改正で議論していた、障がい者制度改革推進会議(二〇一〇年設置)では、「自己決定の権利と保障」を盛り込むべきとし、また自己決定の支援についても言及していたにもかかわらず、である/以来、意思決定と自己決定との明確な差異を、国のガイドライン(「障害者福祉サービス等の提供に係わる意思決定支援ガイドライン」、二〇一七年三月)でも示しておらず、ただ「意思決定」が成年後見制度など法的な絡みで使用されていることから「自己決定」よりも重要な決定を指すかのような曖昧なイメージが定着しつつあると感じている。」15-6P・・・そもそも「自己決定」も「意思決定」も、生きる条件が整わないと機能しないー
「ある障害者の家族は「ずっと医師決定支援」だと思っていた」と話した。」16P・・・笑えない冗談の様な話、現場の実態
「グループホームありきの意思決定支援」
「様々な居住の場の絵を描くというよりはむしろ、入所施設を中心に、加えて入所施設と行き来できるグループホームが描かれた絵がまずあって、その整合性を担保するために意思決定支援を用いたのではないか、と勘ぐりたくなるような印象をもつ。/そして、最も疑問が残るのは、このやまゆり園の入所者にとって「意思決定支援」が最もふさわしいのだろうか、という点である。」17P
「事件で傷付いた心を無視した「意思決定」になっていないか」
「うまく説明できない「中動態」の思いのなかにこそ」・・・「中動態」という概念は、「能動態」か「受動態」かという二分法を超える関係論的な立場。
「ところで、私たちが慣れている能動態(〜する)・受動態(〜される・させられる)の図式ではなく、「中動態」という捉え方がかつてあったと国分功一郎氏(二〇一七)は紹介している。能動態と受動態の二分方式では表せない感情が私たちのなかにあること、そして実は、そこにこそ大事なものがあるのではないか、と問題提起をしているのである。」18P
「支援者の心が「揺れる」ことの重要性・・・当事者にも言えます。ただしんどいことなので、そのように働きかけることではないのですが、それが必ずしも否定的なことではないこととしてー
「障害が重いことを言い訳に「客体化」しない」
「国分氏の「意思決定支援ではなく、欲望支援を」という提案するのはこんな実例もあるからである。」25P
「欲望形成支援の前提は、すべての人が主体であり、欲望をもつことが当たり前である、ということである。いつまでも「障害があるから」「コミュニケーションができないから」などとラベルを貼って客体として扱うのであれば、障害者の苦しさは自分の中だけに蓄積され、意思決定どころか希望も見いだせず、ときとして自傷や暴言などの問題行動となってしまう。」25-6P
「最後に」
● 知的障害のある人の意思決定への関わりについて
中村和利(NPO法人特活! 風雷社中理事)
 この文も小見出しを太字であげて、その中で切り抜きメモを付けます。
「自立生活への経緯――ドキュメンタリーTransitYard げんちゃんの記録」より
「知的障害者のある人も常時介護を利用して一人暮らしができることを提案し、実施することになった。」28Pという実践とその中での提言になっています。
「まず体験、そして修正可能であることが大切」
「「本人が想定していない新しい体験を提案していく」際に重要だと思うことは二つあり、@本人との付き合いのなかで、「明らかに本人が好まない提案はしない。A提案するヘルパーが(自分にとって)好ましいと思う体験を提案することである。」30P
「しかし、周囲を囲む人間関係が「ヘルパー」という同一方向の関わりだけになることのリスクは過大だと考えている。同一方向からの関わりだけであると、視点の多様さに欠け、また本人主体を心がけていても「ヘルパーの都合」が生じてしまい、本人の示す不具合や提案の修正を図りにくくなることが憂慮される。この自立生活では、シェアで暮らす同居人やイベントスペースでの知人が、多彩さをもつコミュニティの可能性を与えてくれたと思っている。」30P
「日常のなかで感じる本人の気持ち」
「事細かに本人の意思を採る取り組みも必要なのだが、日常的に本人が示してくれる怒りや喜びを尊重できる心持ちを、ヘルパーが維持できるかが肝だろう。」31P
「知的障害のある人がなにかを決めていくために――知的障害者の自立生活についての声明文より」
 こここには太字で「声明文」から二つの文が引用されています。小見出しを太字にしたので、普通文字で引用文を載せます。
「知的障害のある人たちの周囲が家族と支援者だけになり、インフォーマルな状況が希薄となり、当事者がパワーレスとならないよう具体的な取り組みを持ちましょう。インフォーマルな関係性こそが人としての尊厳を守る力になります」31P・・・?能力論的なニュアンスが気になるのですが、基本的に共鳴し得る提起です。
「体験していないことを想像し判断することが苦手な知的障害のある人たちに対してなされる提案は、体験を踏まえた上で変更が可能なものであるべきであると考えます」32P
「げんちゃんとげんちゃんの家族や知り合いでのミーティング――FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の実践より」
「FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)」には注がついています。「本人を支えるコミュニティー(家族、友人、知人)を再構築することによって、一人では解決できなかった問題を解決できるようにする手法。この方法はニュージーランドやヨーロッパの成年後見 制度に代わる本人中心の意思決定の支援方法として実践されている。」35P
「意思決定への支援ではなく協力じゃん?」
「[資料]知的障害者への自立生活への声明文」
 前に引用している文とそれからグループホームの位置づけが書かれています。「グループホームの存在を必ずしも否定するものではありません。地域生活の可能性を検討する中で、本人に自立生活を含む、複数の選択肢が挙げられ、本人が主体的に選択することが可能な状況にすることが大切だと考えます。」34Pとあります。ただ、否定的な側面をいくつか(も)挙げています。

● 高齢者医療における「意思決定」、家族の役割、ガイドライン
横内正利(いずみクリニック委員長)
 この論攷は、母を看取ったわたしの立場で、対話したい貴重な論攷です。しかも著者も書いているように、現在的にますます自己決定という名で、医療の差し控え――わたしはそれを「死へ誘う医療」という情況まできていると思うのですが――が大きくなっている現状を医者の立場から的確に押さえてくれています。――というようなことを考えていたのですが、何かおかしいと思い始めていました。これは医療そのものから来ることではなく、医療の技術が進んで、平均寿命が延びていく中で、それに合わせて福祉政策や医療政策をきちんと立てないで、むしろ政治が福祉や医療のお金を削減していく、そういうなかで、医療や福祉の貧困が起きてくる、ひとの尊厳ということが逆に機能して、「尊厳死」などという言葉が出てくるのです。社会的関係が自然的関係として取り違えられる(マルクスが物象化ということで表現したことです)のです。たとえば、栄養補給がとれないからと頻繁に行われていた胃瘻が、医療報酬で、胃瘻を取るということに報酬がでるようになるなかで、胃瘻自体の差し控えなり、延命処置の差し控えというようなことさえ起きてくるのです。もっといえば、グローバリゼーションの進行のなかで、経済成長が頭打ちになっていくなかで、福祉とか医療費を如何に削減するのかというところに、焦点が当てられます。病院や施設は人件費を抑えないと経営が成り立たない、もうけが上がらないと、人件費を削減する・抑えるという中で、十全な尊厳のある生を保証できなくなるのです。そういうなかで、「ぽっくり死にたい」とかいう言説も広がっていくのです。この論攷は、表面的に動いていることを押さえているのですが、それがどこから来ているのか、ということまで分析してくれていません。こんなことを書きながら、わたし自身いつもの無い物ねだりをしていると反省してもいます。現実に進んでいることを押さえてくれているということで大切な資料なのです。ちょっと間をおいて、もう少しつっこんだ対話が必要なので、それを巻頭言でまとめました。ここではその情報的なことを中心にして、切り抜きメモを残します。
「元気な高齢者」――「弱い高齢者」37P・・・「弱く」している社会的関係――「弱い高齢者」の立場をとらえ返すという作業として
「たとえば、肺炎などで入院して点滴を受けなければならないとき、「わたしはもう十分生きてきた。このうえ点滴までして生き長らえたくない」と言って点滴を拒否する高齢者は少なくない。しかし、それが、その高齢者の確固たる人生観や生死観に根ざした意思表示であることは、少なくとも私の経験においては、きわめて少ない。要するに、「点滴は痛いから嫌」なのであって、決して病気が治らなくてもよいなどとは思っていない。その証拠に、説得して点滴を受けてもらい、疾患が治癒した後に当時のことを尋ねると、「いや、あのときは大人げなくて」と頭をかきながら言うのがオチである。/「弱い高齢者」は、ささいな動機で、入院拒否や治療拒否の意思表示をすることが多いが、一方、そのような意思はまた、ささいな状況の変化で一変してしまう。このような場合、意思は本人(ときには家族も)の願いが揺れ動くままに対応し、これを許容する以外にない。」38P・・・そもそも点滴や輸血を拒否するひとがいるのは極めて少数ではないでしょうか? それも延命処置になっていくのでしょうか? 著者も後に書いているのですが、生きづらい社会になっているとき、ひとはそもそも死へ誘われる、まして医療に生活にカネがかかるということで、しかも医療福祉の切り捨てが行われているのです。だから、死へ誘われている、そのことを押さえないで、まるでひとの自然的な意識として揺れ動いているかのうようにとらえていては、まさに死へ誘われるのです。
「平均寿命の延長とともに、単なる死亡年齢の延長よりもQOL(Quality of Life)が重視されるようになりつつあるが、QOLの維持・改善は医療本来の使命の一つである。一般に、医療には「現在」の視点と「未来」の視点二通りがある。たとえば、苦痛の除去や急性疾患の治療は「現在」の視点であり、疾患の予防や危機管理は「未来」の視点である。例えば、中等症以下の高血圧の治療は、心脳血管障害の予防という意味で、「未来」の視点によるものである。/どちらの視点で考えるかはケース・バイ・ケースであるが、「未来」に対して多くを望めない高齢者は、必然的に「現在」の重要性が増す。このことは、高齢になるほど、また、老化が進むほど顕著になる。」38-9P・・・「視点」を分けることは、高齢者差別の論理そのもの。「健康寿命」とか介護保険制度の「健康の義務規定」にもつながっていること。QOL概念は安楽死のときにも持ち出されること。中身をきちんと押さえ直す必要があります。まさに「障害者運動」がそのことを突き出してきたはずなのです。
「ところで、このような対応は見方を変えれば、次のようにも考えられる。すなわち、「弱い高齢者」に対しては、限られた範囲(治療法/場)内で、治療を試みるのがよいといという考え方である。筆者はこれを「限定医療」と呼び、高齢者医療に特徴的な選択肢だと考えている。/実際、これまでの高齢者医療では、治療法/場の選択について本人も家族も一定のレベルを超えた治療を望まず、このような「限定医療」が選択されることが多かった。/例えば、次の三つが挙げられる。/(1)入院はせず、住宅や施設で可能な医療の範囲内で治療してほしい/(2)手術など本人に多大な苦痛を与える治療をせず、保存的治療のみ希望する/(3)転院はせず入院中の病院で可能な範囲の医療でよい」39P・・・承前。こういう発想があるから、高齢者医療を分ける、すなわち、医療の差し控えという発想が起きてくるのでは? 限定医療は、そもそも医療に対するひとのとらえ方や人間観――世界観の中で発動されること
「ただ、ここで注意すべきことがある。自己決定の内容が、治療法の選択、医療を受ける場所の選択、死ぬことが運命付けられた段階での「死に場所の選択」であれば、問題は少ない。しかし、それが、実質的に「生か死かの選択」になる場合には、きわめて慎重な対応が必要である。やり直しが利かないからである。人間が生き物である以上、根源的に死を望むはずはないことを忘れてはならない。生命の尊厳は守らなければならない。終末期以外の場面では、たとえ自己意識であっても、医療者は「死の選択」は思いとどまるように説得すべきである。」40P
「死亡後に、死因不明のため「老衰死」と診断されることはある程度やむを得ないとしても、生前に、老衰を「死に至る病態」とみなすことは危険である。つまり、老衰の終末像は死でなく不可逆的な摂食困難である。」41P
「しかし、ここに重大な問題がある。摂食困難が不可逆的である確認することが非常に困難だということである。九〇歳を超え、認知症の終末期にある高齢者であってもなお、摂食困難は可逆的であることが少なくない。また、人工栄養を開始して数ヶ月を経過した後に再び食べられるようになる例も稀ではなく経験される。」41P
 摂食困難の三つの対応策(1)人工栄養@胃瘻A経鼻栄養B中心静脈栄養(2)補液のみ(3)補液もしない41-2P・・・(3)に類することとして、そもそも人工栄養をするのは誤飲による誤嚥性肺炎を起こすというところで、それでも経口摂取するという選択肢もありえる。これに関しては、そのひとの世界観や人間観の問題、イリイッチの『脱病院化社会』の自然志向、ただし自然とは何かという問題があります。
「筆者は人工栄養を実施すれば年余の生存が予想される段階で終末期として生を終わられることには強い違和感を覚える。しかし、本人・家族が人工栄養を拒否すけば、それに従う以外はない。」42P・・・むしろ人工栄養をしないように誘う医者が出て来ています。
高齢者の終末期と言われている筆者の指摘する三通り(1)「生命の末期」(2)「老化の末期(3)「みなし末期」42-3P――-「本当は終末期ではないが意図的に末期とみなそうとする「みなし末期」が存在すると筆者は考える。」43P
モーロイ(カナダの高齢者医療の専門家であるウィリアム・モーロイ)が挙げる四つの選択肢(1)緩和ケア(palliative care)(2)限定的治療(limited care)(3)手術的ケア(surgical care)(4)集中治療(intensive care) 43-4P
「このなかで、(「みなし末期」としての)緩和ケアは、治療につながる医療行為を実施しないので、治療の可能性を放棄することを意味する。つまり、緩和ケアを選択することは、終末期でないものを終末期とみなすことになるこのような段階での緩和ケアは日本ではきわめて選択肢となりにくい。なぜなら、(下血の原因である)消化管出血は治療可能な疾患による可能性が高いからである。/次のような見方もできる。ある疾患の発症に際して、その疾患が治癒する見込みがあるのに治癒しないのは、その疾患(ここでは消化管出血)が発症する以前の状態(ここではアルツハイマー病)が、「生きるに値しない」終末期状態であるという前提が必要である。つまり、アルツハイマー病は生きるに値しない、苦痛に満ちた状態であるという前提である。これこそが「みなし末期」の本質である。/また、高齢者の摂食困難に対しても、それが可逆的か不可逆的かの吟味をしないまま、不可逆的なものとみなして点滴などの医療を実施しないのは、延命治療の放棄ではなく、治療の可能性をも放棄することである。つまり、意図的に終末期とみなすことであり、これも「みなし末期」として治療を差し控えることと考えるべきである。/わが国では、この「みなし末期」はどの程度、国民に受け入れられるであろうか。筆者は十年以上前に、このような対応が容認されるかという疑問を提起したが、その時点では、医療関係者の間では容認するという意見はほとんどなかった。しかし、弱いものへの差別と「みなし末期」による看取りはすでに日常化し始めているという見方もある。/なお、前述した「限定医療」は「みなし末期」とは以て非なることに注意されたい。すなわち、「限定医療」では、治療する可能性が十分残され、かつ、治療のための努力が続けられる。この点が「みなし末期」とは決定的に異なっている。」44P・・・そもそも終末期というのは、後になって分かることという話もあります。そもそも、医療の方から規定するのはおかしいー
「多くの「弱い高齢者」では元気なときとは価値観・人生観が変わっている可能性がある。老いを受容した「弱い高齢者」の多くは、過去と決別し、新しい自己に生まれ変わっている。」45P
「老化の進んだ高齢者を理解するには、まず本人の身になって考えてみることが重要になる。」45P――表2「弱い高齢者」を理解するための四つの視点――(1)本人の視点(⇔他人の視点)、(2)現在の視点(⇔未来の視点)、(3)生活の視点(⇔疾患の視点)、(4)生き甲斐の視点(⇔リハビリの視点)
「事前指示書やリビングウィルがあってもそれを鵜呑みにすることは危険である。そして、その場合の家族の役割が重要になる。本人の意思を主体的に推測し決断するのは家族である。」45P・・・ただ、現在的な本人の意思よりも家族の意思を訊くという態勢の危険性を押さえておかねばなりません。家族は時には対立する利害関係者になる場合があります。(上野さん)
「本人の意思が不明かつ、家族の意向も不明な場合」――「(1)同様のケースで取られる多くの選択方法に準じて対応する/(2)生命尊重の立場で考える」――「判断に迷う場合は、生命尊重の立場を選択すべきである。」46P・・・そもそも生命尊重というのは当たり前で、それが揺らいでいるなかで、態勢に流されればどうなるのか、医療理念自体が崩壊しているのではないでしょうか?
三つのガイドライン(@日本医師会の「終末期医療に関するガイドライン」A日本老年学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン」B厚労省「人生の最終段階における医療・ケアのプロセスに関するガイドライン」)の要約と著者の意見46-8P――著者は、@については、チームケアの中のヒエラルヒーを問題にしていますAに関しては、AHN(人工的水分・栄養補給法)導入について書いていますBについては、「終末期医療」ということばを「最終段階」に代えたということで、言葉を代えただけで、結局、何か特別な医療にしてしまっていることを批判しています。そして@ABとも、医療に携わるものは情報を提供するのであって、方針の決定に介入しないという姿勢を示しています。・・・この部分と「まとめ」は全面引用して、そこで、逐一のコメントをつけることを考えていたのですが、前のところから、全面引用になってきているので要約にしました。この部分は医者の規範のようなことを提起しています。わたしは、これらのガイドラインの文面を見ると、特にAのAHNに関する文(*)は、医療の差し控えで、まさに「死へ誘う医療」になってきているとしか思えないのです。何のことかわからなくなるので、もう少し引用おきますがAで、「本人にとっての益と害という観点で評価し」「本人の人生にとって最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても考慮する」という文言がでてくるのですが、そもそも福祉や医療の切り捨てや、貧困層が拡大していく中で金がないとどうなるのか、「家族の事情とか生活環境」を考えると、「仕事や家事ができなくなると、こどものためにぽっくり死にたい」という心理に陥らされるのです。
(*)Aについて、大切なので、もう一段きちんと引用しておきます。「その中で、AHN(人工水分・栄養補給法、主として人工栄養を念頭に置いている)導入に関する意思決定プロセスに言及し、AHN導入および導入後の原料・中止について、医療・ケアチームは次の諸点に配慮すべきとしている。/(1)経口摂取の可能性を適切に評価し、AHN導入の必要性を確認する。/(2)AHN導入に関する諸選択肢(導入しないことも含む)を、本人の人生にとっての益と害という観点で評価し、目的を明確にしつつ、最善のものを見出す。/(3)本人の人生にとっての最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても配慮する。」47P・・・「自己決定」の名による「死への誘い」
「まとめ」48-9P・・・文章を読んでいると何かおかしいのです。「高齢者医療のあり方については、国民的合意が重要であるが・・・」「社会としてはどのような生も受け入れるべきである。」という言葉が出てくるのですが、自らが社会の一員として社会を構成してしまっている、構成させられている責任という観点が欠落して(投稿文のバザーリアの指摘する分業の問題に留意)、医者や医療関係者の倫理や規範を問題にしているようにしか思えないのです。もうひとつ書いておくと、確かに共同性は、ひとの生を支え合うために必要なのですが、社会や共同体がひとの生を死を決定することでないのです。著者は医者で、そこで医療関係者へ向けた文としてこれを書いているのでしょうが、そしてその範囲では、明らかに、医療を受けるひとの「真の利益」をおさえてとても共鳴できる文を書いてくれているのですが、いつもの「ないものねだり」のことを書いてしまいました。
● ALS患者として生死の意思決定をみつめて――人工呼吸器装着・尊厳死について 
岡部宏生(日本ALS協会理事)
「ALS」のひとたちの中でも、よく見掛けるダンディなひとです。人工呼吸器をつけるかどうか迷い、また「死にたい」という思いをながく持ち続け、NHKで「安楽死」のためにスイスに行ったドキュメンタリーの番組もとりあげ、自分は「死にたい」という思いから脱したところでも、「死にたい」という思いを簡単に否定できないということを書いています。どうしてそのようなところに陥るのかということも自分でちゃんと分析をしているのですが、またそのうちに、きちんと「死にたい」というところを否定するところでの対話ができるようになっていくのではとも、思春期に「障害者宣言」をなしえない中で、自死願望をもち続けていた立場から思ったりしています。そのあたりは、「ぽっくり死にたい」とか「障害はないにこしたことがない」というような感情的なところを含んだ論理、ソフトな優生思想に批判をなしきるなかから、抜け出せる途があるのではと思ったりしているのですが。
● ハームリダクション──構造的スティグマによる「意思」の蔑視への反論
古藤吾郎(日本薬物政策アドボカシーネットワーク)
 この著者は「(薬物を)どうしてやめなければいけないのか」58Pという、この社会の常識とされることへの問いかけをしています。この特集の「意思」ということにつながって、そこで先入見的な構造的スティグマを問題にしています。ハームリダクションとは「社会構造による害を減らし、人権や意思を尊重する手法」冒頭内容紹介文58P
以下、切り抜きです。
「やめなくていいと言いたいのではない。やめたいと望む人が、依存症からの回復のためのさまざまなプログラムにつながるのはとても重要なことである。ただし、それはひとつの側面であり、それがすべてという訳ではない。私が受けた質問に共通していたのは、「薬物をやめるべき」という前提から投げかけられていたことだった。そこだけを取り上げて話すことは、私にはどうしても難しい。」59P
「ルールを破ったことは犯罪行為として刑事司法で裁かれながら、やめさせる手段は、その犯罪行為が薬物依存症という病気に置き換えられ、病気に対する治療プログラムを強制的に受けさせるというシステムになっている。/何かをやめさせるために、その人が病気であると決めつけ、治療を受けさせるという取り組みでよくなった社会は、世界中に存在しない。日本も同様である。薬物に関連する問題はここ何十年を振り返っても良くなっていない。もしそれが効果的であるならば、アルコール依存やニコチン依存もそうすれば良いのかもしれないが、そうはしない。単にエビデンスがでていないからというだけの話ではない。そうした向き合い方が、本人の意思を、そして権利を蔑ろにする行為だからである。それなのに、違法薬物だと疑問ももたれずに適用されてしまう。それゆえ、こうした社会構造に対して世界中で異議申し立てが起きている。こうした流れのなかで、そうではないアプローチもまた世界各地で展開されている。それがハームリダクションである。」59-60P
「ハームリダクション(Harm Reduction)とは、害(harm)を減らすこと(reduction)という意味である。薬物使用、そし薬物政策・法令がもたらす害(ダメージ、悪影響とも言い換えられる)を最小限にすることを目指すプログラム、実践及び政策と定義づけられる。」62P
「最新のものでは、薬物依存症などの使用障害のある人は、薬物を使用する人のうち一三%と示している。」63P
「一方で。薬物使用がある人のなかには、その背景に摂食障害、発達障害、知的障害などを抱えていたり、あるいは暴力被害のトラウマなどを抱えていたりすることも相対される。さまざまな困難や傷つきがあり、薬物(覚せい剤や大麻だけでなく、アルコールや処方薬・市販薬など)を使うこともしながら、日々を乗り越えているような場合、司法により一定の期間だけ、特定の薬物の断薬を優先させることで、本人の健康状態や困難な生活に前向きな変化が起きると捉えることはなかなか難しいように思える。むしろ、そうした傷つきなどケアせずに、ただ無理矢理薬物をやめさせようとすることは、解決するというより事態を悪化させることになるのではないかとさえ懸念する。」64P
「構造的スティグマとは、規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている様々な構造的要素に宿っているスティグマである。」65P
「同じ薬物を摂取しても住む社会によって結果が違うということは、人生を台無しにしているのは薬物そのものではなく、薬物政策であることが証明される。」65-6P
「一方で効果があるというエビデンスがでているものもある。それらに共通するのは、刑事司法手続きに最初からのせない、あるいは入り口の段階で支援につなげているものである。」66P
「支援機関は薬物使用に限らず包括的なアセスメントを行い、本人が求める支援を提供できるように調整する。本人が何かしらのプログラムに参加するかどうかは一切強制されるものではない。必ずしも断薬を目指す支援を求めなければいけないというものでもない。ただ、こうした関わり方による再犯が減少しているのである。」66P
「ハームリダクションは当事者たちにより発展してきたアプローチである。当事者たちのアイデアがたくさん詰まっている。そのアイデアは、薬物を使用する人の健康と福祉を、そして命を守るものとして生み出され、実践されている。」67P
● つながりの貧困から考える「8050問題」
川北稔(愛知教育大准「教授)
 最初の内容要約に「「8050問題」とは、長期ひきこもりをはじめ、高齢化・未婚化の進展・雇用の変化によって生まれた、高齢の親と中年の子どもによる世帯の困難という意味。」68Pとあります。
高齢化・つながりの希薄化・ひきこもり、いろんな問題が重なるところで現れていることです。以下切り抜きメモ。
「内閣府が二〇一九年三月に発表した調査では、四〇歳から六四歳までの年齢のひきこもり状態にある人が全国で六一・三万人と推計された。」「二〇一五年の国勢調査では、四十代・五十代の未婚者で、親元に同居しながら非就業の状態にある人が七七・三万人だった(二〇〇五年には五一・九万人)。これは同年代の男性のうち二・八%、女性のうち一・七%に相当する。」68P
「子育てや介護の社会化が進んだ現代においても、成人以降まで育った子どもがつまずいたとき、その対応は親の責任になりがちである。人生前半の社会保障が手薄で、実際に若者が頼ることができる制度が乏しいこともあり、家族だけで問題を抱えざるを得ないのだ。」「ひきこもる人に直接働きかけるのは難しいので、支援はまず周囲の家族関係を調整すること(「家族支援」)にはじまり、やがて本人を対象にする「居場所型支援」「就労支援」へと向かうというアプローチを採用することが多い。ひきこもり状態が慢性化し、自室や自宅へのひきこもりが続いている場合には、家族の態度が変容することで本人の安心感や行動力が回復されることも確かだ。」69P
「ひきこもり経験者の勝山実は、ひきこもる自身の状況を「専業主婦」に対して「専業子ども」と表現していた。」70P
「親たちは、ひきこもる子たちに接する際に、「自立してほしい」と口で言いながら、実際は子どものために甲斐甲斐しく世話を焼きがちであると指摘される。こうした「二重基準」の背景に、上記のような近代家族的な親子観が関係しているのではないか。「大人であること」は就労自立などによって核家族の再生産に寄与できることに等しい。その資格のない子どもは、あくまで家族内で親に従属する依存的な存在として遇される。ここに欠けているのは、成人の子どもと、同じ家族として対等に接する姿勢や、就労自立に至らなくても家族から自立できるような社会制度である。」70-1P
「そのように個人に関する情報を包括的に集め、きめ細かく提案していくためには、伴走型支援と呼ばれるように個人を包括的・継続的に支える視点が欠かせない。それに対して従来の支援は、利用する人が制度の枠組みに合わせざるを得ず、たとえ形式的には制度が紹介されたとしても積極的な利用に結びつかないことも多かったと言える。/ひきこもり支援においては、「本人が同意しないので支援を開始できない」「親も子も、当座は現状の生活に満足しており、状況を変えたがらない」と言われることが多い。ここで考えたいのは、支援への「同意」と言われる場合、どのような意思が想定されているかということだ。」73P
熊谷晋一郎さんの有名な提起――「自立とは他者や制度に依存していないということであるという常識を反転し、むしろ多様な依存先をもっていることを自立とみなす考えを提起した。」73-4P――ここから「依存先を適切に分散するための方策を考えてみたい。」として「家族単位での支援のニーズを考えるのではなく、それぞれの個人を対象にニーズを幅広く探ることが必要であろう。」「日本の福祉制度は申請主義と言われるように、本人の申請がなければ支援が開始されない点にも限界がある。制度に人を合わせるのではなく、人に合わせた制度の紹介が柔軟に実施されなくてはならない。」「またフォーマルな制度の紹介だけではなく、ボランティアグループによる同行支援のように柔軟な支援メニューの導入も求められる。パーソナルな関係を築きながら相手のニーズを引き出すことも伴走型支援の役割となる。」「「本人の意思」は、他者や環境から切り離されたかたちで存在しているわけではない。「ひきこもり」などのカテゴリーのもとで意思を一般化したり、支援拒否というかたちで固定化したりするのではなく、意思そのものを多面的にとらえ育てていくような取り組みが求められている。」74-5P・・・「障害者運動」の中で語られてた支援のあり方の援用でもあり、まさに「「障害者」が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会」――障害概念の関係モデル的拡張
● 親の立場から「法人後見」を検証する――「法人後見」は「支援付き意思決定(障害者権利条約十二条)」に対応できるのか
東 京香
 成年後見人制度自体がいろいろ問題を指摘されていますが、「法人後見」はさらに多くの問題が出て来ている様です。親の立場からの検証です。以下切り抜きメモ。
「法人後見のメリットとして@継続的な後見業務が可能になること、A効率的な分業システムが可能であること、B後見登記には法人の名称と住所しか記載されず、構成員の名前が表にでないため、心理的負担が軽くなること等が挙げられる。」76P・・・いずれも同じ項目でデメリットがとらえられます。下の項目で一部書かれています。
「本人や家族からしたら、誰(個人名)が自分の後見人なのかもわからないような状況で施設に入れられたり、精神科病院に入院させられたり、家を売られたりする可能性があるのだ。「顔の見えない法人後見」は、ある意味では個人の後見よりも恐いかもしれない。」77P
「葬儀社が法人後見をやっている例もあると聞く」77P・・・一瞬躊躇があるのですが、営利主義的でなければ、看取りというところからつながるところかもしれないとは思います。
(厚生労働省文書によると)「法人後見の実態として、ほぼ面会に来ない(電話連絡はある)が一九・七%、ほぼ面会に来ない(電話連絡もない)が一四・八%となっている。そのなかには、面会にも来なければ預金通帳の管理すらしていない法人(営利法人)もあるという話である。こういった法人までもが、家裁によって専任されているというのが現状のようだ。79-80P
「個人情報の保護は、単なるプライバシー保護ではなく個人の人格の尊重の理念(第三条)に基づくものであり、事例Aの流れ作業のような「預金通帳の管理」も、事例Cの社協の「自治体の調査権を駆使した徹底的な事前調査と情報共有」も、人格尊重からは程遠い。」82P
「自分の知らない人が自分のことを知っているという気持ちの悪さ」82P
(大阪の意思決定支援研究会の「ガイドライン」をとらえ返した上での後見人制度の問題点)「問題なのは、制度を温存した上での、「意思決定支援」は、家族や支援者を排除するための装置になりかねないということだ。後見人や法人後見にとっての都合のいい本人の「意思」だけが尊重され、都合の悪い「意思」は、削除されかねないということである。」83P・・・32PのFGCにリンク
(条約関係文書の)「意思決定能力不足が法的能力の否定を正当化するものとして利用されてはならない。」としているのに対して、大阪の「意思決定支援……」は「意思決定能力」の有無を根幹にしている点も、大きな違いである。」83P・・・「能力」ということでの常道的分断、パーソン論批判の観点からのとらえ返しの必要も
「条約が重視しているのは、関係性における「支援」であって「意思」ではないと個人的には解釈する。/そして、成年後見制度も、法人後見も、残念ながら条約とは、目指す方向が違っていると受け止めざるを得ない。」83P
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インターチェンジ 交差点
行政の窓口 地域共生社会への取り組み――子ども生活・学習支援の現場から 千野慎一郎
切り抜きだけ。「制度は柔軟性に乏しく、物質的な給付のみでは様々なニーズに対応がで
きず、「制度の限界」「制度の狭間」が 顕在化しました。」・・・わたしは柔軟性の問題ではなく、むしろ福祉の根本理念に問題があるのではと思います。現場で、当事者の立場に立って活動しているひとと、国の「恩恵としての福祉」路線と衝突していくのです。
教室の中で ともに過ごす子どもたち  川口久雄
「バギーで過ごすAさんを迎えての初めての運動会。対応のコントロールが一番の課題で
したが、・・・・・・」86Pに始まる共に学び、育つ教育の実践の記録です。
街に生きて 自分の未来を切り拓く  山口和俊
 自営業の両親のもとで、「先天的プレクチン欠損症という障害により、表皮水疱諸と筋ジストロフィという二つの障害をもって生まれました。」88Pとあります。で、ビアカウンセリングに参加し、あちこち動き回り、自立生活に踏み込み、自ら自立生活センターをたちあげ、「障害者のエンパワーメントに基づく自立支援を中心に権利擁護、社会啓発のための講演など、いろいろな活動を行っています。どんなに重度の障害があっても、他人の助けを借りながら、「自立」して暮らせる社会は、誰にとっても安心して生きられる社会だと信じて、これからも、長崎から全国へ発信していきます。」89Pと文を結んでいますー
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障害学の世界から 第八十四回  長瀬 修
障害者権利条約の日本への事前質問事項――国際的な人権の取り組みの役割
「障害者権利委員会は、日本政府に対する事前質問事項を9月末にスイスのジュネーブで  採択した。」「本稿では、日本フォーラム(JDF)の一員としてブリーフィング・ロビーイングに携わった経験をもとに、国際的な人権の取り組みの役割について考えたい。」90Pとして提起されている連載文です。切り抜きを少し。
「事前質問事項を見る限り、災害と情報アクセスの問題を委員会は最重要視している。/しかし、他にも深刻な課題はある。例えば、分離された環境で学ぶ子どもたちが激増しているにもかかわらず、教育(第二十四条)に関する質問が三つしかないことは、私たち日本の市民社会の情報提供の努力が足りなかったことを如実に示している。」91P
 そして、アジアの国にはパラレルレポートの提出が困難な国があることを示しつつ、最後に「事前質問事項の採択を含め、障害者権利条約の審査過程は、こうした他国の人権の現実に接する機会でもある。障害分野も含め、日本の人権について課題が多いことを私たちはよく知っている。だからこそ障害者権利条約の実現を目指す際には、自国での人権の取り組みの延長線上として、他国の人権の状況にも関心をもち、可能な限り関与を続けたい。」91P・・・そもそも権利条約は、障害規定もきちんとなされないままに案が作られ、そして締結された条約で、いまだに障害の規定もきちんと整理されていません。それは、ひとつには、今の社会のしくみからする世界観を問題にせざるを得ないからです。社会の変革のなかで、そこへ向かう運動の中で、障害問題のパラダイム転換の中で、障害問題を真に解決し得る運動の方向性を示していく必要があるのではとも思っています。
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障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十六回  中西由起子
権利条約の政府報告J 第三十二条 国際協力
 これも連載文。「国際協力は特別な義務とされ、途上国にとっては支援の授与が第一義であるが、アジアの成長に伴い途上国間の協力も多く報告されている。いくつかの特徴的な活動をまとめてみる。」92Pとして書かれています
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季節風 
「舩後、木村両議員の国会における合理的配慮について」堀利和
 堀さんはかつて参議院議員でした。その立場から、先の参議院選挙で当選した、「れいわ新撰組」の木村、舩後さんの議員活動の課題をあげてくれています。
 さて、堀さんは課題を二つあげています。ひとつは、国会の中での介護保障の問題と、もうひとつは、時間的保障の問題です。前者に関して、二人の議員からは「重度訪問介護」を使わせるようにと提起していたのですが(これにはわたしも違和を感じていたのですがまとめきれないでいました)、堀さんは自分の議員としての経験から、国会の枠組みの中で今回特別に認めさせたことを、特別ということでなく、必要なひとには認めさせるということを提起しています。「労働者としての私と生活者としての私とでは、同じ「私」でも、明らかに立場は異なる。福祉と雇用の切れ目のない政策とはこのように継続した政策体系を構築することであると言える。以上のように財源をどこからひっぱってくるかかがきわめて重要なことである。」「結論としては、労働政策としての制度が未だ充分用意されていない現状を踏まえ、二人の議員の「介助」問題はすぐれて大きな問題となった。それを今後どう活かすかが問われている。」95Pとしています。・・・現実的問題としてはそうなるし、議員の活動での課題として、仕事で介助を無償でつけて仕事ができるような制度を作るということになるのだと思います。だが、そもそも障害問題のみならず、差別ということを考えるとき、どうして個人の生きる営為が、「個人的営為」と家事と労働に分けられ、労働第一主義的になっていくのかという今の社会のしくみ自体をとらええ返し批判していく必要があるとも言いえます。
 後者の時間問題ですが、そもそも今の議会主義的民主主義が死に体ともいうべき状態になっているのは、時間的制約で、時間が過ぎたら強行採決でおしまい、ということで、形式主義的に時間が過ぎるのを待つというようになっていてしか、質問にちゃんと答えないで、自分の好きなことをしゃべるという情況なっていることをおさえねばなりません。それでも、著者がいうように「合理的配慮」という文言が法律に入り(この言葉自体にも、理念のようなことにもわたしは批判があるのですが)、そのことを使っていくということで、「たとえば、視覚障害者にあっては、四〇年余り前から公務員採用や大学受験では試験時間が通常の一・五倍の延長が認められている。」97P。過去の運動と実例を使って、少しでも「必要に応じてとる」というところに持って行く必要があると言いえます。それがとりわけ、舩後さんの大きな課題としてあるのではとも思えます。
「第十九回障害児を普通学校へ全国連絡会 全国交流集会 inちば――「あたりまえにみんなのなかで〜勝手にきめないで、自分のことは自分で決めるから〜」橋本智子
 タイトルにあるように、全国連の報告文です。キャッチフレーズ的に印象に残ったことを抜き書きしておきます。
 熊谷晋一郎さんの講演の話が出ています。「熊谷さんは「意思決定支援」についても、@情報へのアクセス保障、A情報の知識化(情報を集めて、わかりやすく、検索しやすく整理する)、Bロールモデルと出会う機会の保障、Cお試し機会の保障、D本人の歴史やパターンをよく知る人が周りにいること、E依存先の分散、の六つの柱を中心にわかりやすく話してくださいました。」98P・・・わたしは特にBを中心に中身ということをきちんと押さえる必要があると思います。今のこの社会で、障害差別の根拠となる競争原理に乗って、この社会で成功するロールモデルということと、競争原理を批判する「障害者運動」主体として定立するロールモデルははっきり違うからです。「情報」ということの中身自体が問題になっていくのですー
「「いまいるここを、いいところに」「よけた石は子どもにあたる」。千葉の「会」で開催している就学相談会で参加者に伝えている言葉です。」「「何かをちゃんとできるから自立生活」ではなく、「何々が出来るようになったら何をしてみる」ではなく、全てが実践との考えだった。」99P・・・実践のなかでつかんだ言葉は響きますー
「地元に仲間がいなくても他地域の仲間に呼びかけ一緒に活動し、また、相談会や勉強会を開催して新たな仲間とつながることもできます。そして仲間と一緒に壁を越え道を切り開けば、後に続く人はより容易に壁を越え道を通ることができるようになっていきます。/障害の種類や程度に関係なく共に学び育つことが「あたりまえ」になるために今後も各地の仲間がつながり情報交換をして、一緒に声を上げ活動を続けていきましょう。」100P
「働きたくても働ける環境にない、全ての人へ――シゴトシンク北海道の取り組み」
清野侑亮
 障害問題に限定しないで、「働きたくても働く環境にない」ひとたちへの起業的新しい取り組みの話、とても刺激的な取り組みです。
 印象に残ることを切り抜きメモとして残します。
「市の指導監査課から来た連絡は「もしも障害者のための事業費で障害者ではない人の支援をしているのならば認められない」という信じ難い内容でした。見当違いな指摘をされたことに愕然としたものです。ですが、これがきっかけとなり市長と会って話すことで、シゴトバンクは正式に函館市の生活困窮者自立支援法における中間的就労の認定団体になることができました。」101P・・・「災い転じて福となる」「瓢箪から駒」のような話――実践の持つ意味、障害概念のとらえ返し
「生徒さんたちは、卒業を迎えるその日まで様々な手厚い支援を受けます。しかし、それでも就労へのモチベーションの上がらない生徒さんが存在している理由に、私たちは一つの仮説を立てました。それは「学校のカリキュラムでは、働いてお金を得る実感を得られていないから」というものです。」102P・・・お金を介さないでも、仕事の魅力で意欲は湧くのでは? 
「ともすれば「福祉的支援」と「お金」はどこかでつなげにくい雰囲気があるように感じます。ですが、お金が生きるために必要不可欠なものであることに変わりはありません。適切な働き方で対価を得るという体験を学生のうちに蓄積していただく機会の提供を、今後も発展させていきたいと考えています。」102P・・・必要なのは生活物資で、お金ではありません。お金が必要なのは、生活物資を手に入れるためにお金を必要とする社会のしくみゆえです。お金で関係がねじまがって行く経験をしていないのでしょうか?
「現在シゴトバンク北海道では就労支援型B型、就労困難者支援事業、児童自立援助ホーム、地域活動支援センターの四事業で活動しています。」102P
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車椅子で宇宙(うみ)をわたる(第二回)  安積宇宙
ひとり旅――わたしはどこにでも行けるという実感
「四年前から、ニュージーランドの大学でソーシャルワーカーになるべく学んでいる」著者が「卒業旅行のようなものだ」というアメリカへの旅行をした経験を綴った文です。
「子どもは親の背中をみて育つ」というのですが、それだけでなく、「わたしはどこにでも行ける」ということを、母親の遊歩さんを見て、実際にそれを自ら実践していく様子、アメリカへの旅行などを通じて学んでいくようすがとらえられます。「障害者」の未来を実践から切り拓いていく可能性を秘めた若いひとの存在をここに見ることができます。
 これも切り抜きメモをー
「そんなわけで、私の最初のひとり旅は、無事終わりを迎えるまでに一悶着あった。けれど、ひとりでも周りに人がいてくれれば、どこまでも行けるとわかった、とても貴重な体験だった。」「そして、アメリカの空港のカウンターにいたスタッフさんのように、横柄な態度をとってくるような人もいた。でも、それに対して小さくならず、「私はこうしたいん
だ!」と主張、交渉し、周りの人の手を借りることができれば、道が開けるということも学んだ。」109P
誰もが性的人間として生きる(第一回)  河東田博
知的障害者のある人の性への社会的圧力
 新しく始まった連載です。研究者としての「最後の仕事」に著者はこのテーマを選んだようです。ノーマライゼーションの理念として、「障害者」も非「障害者」と同じように生活するというテーマがあり、そのひとつに、性があります。優生手術がその極としてあるのでしょうが、先日国会で、自民党の女性議員が、夫婦別姓問題を提起している議員に「だったら、結婚しなくていい」とかヤジを飛ばしました。自民党のみならず、右翼的保守のひとたちが、性教育を進める「養護学校」に圧力をかけたとかいうこともありました(七生養護学校)。わたしとしては、むしろ差別的にならないようにと理念的にフェミニズムの学習をかさねてきたのですが、実践的にひいてしまった負の歴史をもつ立場のわたしとしては、その総括の問題があるのですが、・・・。
 連載なので最後にまとめたいと思いますが、これも印象に残ることの切り抜きメモを残します。
「キャリア人生「最後の仕事」として選びたいと思ったのが、長い間疎かにしてきた「知的障害者のある人たちの性」の問題だった。」110P
「わが国の知的障害のある人たちの性をめぐる問題と照らし合わせながら、「誰もが性的人間として生きる」と題して本連載を書き進めていきたいと思う。」111P
「シリーズ第一回目の今回は、知的障害のある人たちの性が如何に抑圧され、性を語ることさえ認められず、性的人間として生きることも認められないできたかを中心に記していくことにする。」111P
「しかし、知的障害のあるひとたちの性の問題は、いまに始まったことではなく、長い歴史的・社会的営みのなかで、特に意識的に時に無意識的に、社会によってつくり出されてきた差別的事象なのである。そこで、過去から現在に至るまで、どのように知的障害のある人たちの性が差別の対象とされてきたのかを見ていくことにする。」111P
「福祉国家を目指すスウェーデンでも、福祉国家建設に支障があると思われた障害のある人たちに「性的人間として生きる」ことを認めず、奪い去ってしまう法律を制定する動きを始めた。一九四一年制定の「生物学的に劣った人々の不妊・断種を認める法律」がそれである。その結果、この法律は一九七五年の「婚姻法」施行とともに廃止されたものの、一九三五年から一九七六年にかけ、六万二千人(推定)もの人たちに不妊・断種手術が行われていたという。一九九七年九月二日付の読売新聞では、一九〇七〜一九六〇年代のアメリカで六万人(推定)一九二九〜一九六七年のデンマークで一万一千人(推定)、一九三四〜一九七六年のノルウェーで二千〜一万五千人(推定)、一九三五〜一九七〇年のフィンランドで一万一千人(推定)もの障害のある人たちが強制的に不妊・断種手術を受けさせられていたことが報道されていた。いずれも福祉先進国でなされていた忌まわしい所業である。」112P
「歴史的・社会的経過のなかで意図的につくられていった知的障害のある人たちの性に対する偏見や社会的排除は、概ね次のような理由からだった。//・知的障害のある人たちは、身体が成長しても性的には成熟しない。/・もし仮に、性的に成熟しても、彼らには、性的成熟を統御できる力がない(または、弱い)。/・彼らには、結婚生活を維持する能力がない。/・彼らには、子どもを育てる能力がない。/・彼らに性の知識を与えると、性の加害者になるのではないか。」113P
「子宮摘出手術を正当化する医師や関係者・親・時に障害のある人たち自身の発言(仮に一部であっても)には、今日もまだ消えることなく残り続けている障害者排除の考え(社会的迷惑・病害論)、当事者主体を忘れた支援者中心の福祉(支援)のあり方、誤った解釈(代弁者中心)のインフォームド・コンセント、障害のある人たちが性的人間として生きることを妨げる社会的風潮と選択権・自己決定権の無視など、実に多くの問題が存在していたことを物語っている。」「このような私たちがもっている無意識の差別意識は、知的障害のない人の無知や偏見に起因することが多く、歴史的・社会的に犯してきた過ちであった。」113P・・・社会構造に根ざした差別の問題のとらえ返しも
「ノーマライゼーション原理は、誰もが性的人間として生きることを妨げられない社会理念だったのである。」115P
「例えば、一九七七年になされた大井―室橋論争が良い例である。これは、元特別支援学校(養護学校)長の室橋正明が知的障害のある人の結婚の四条件(@経済生活が確立されているかどうかA生活処理能力B性の問題C出産・育児の能力)を提示したのに対して、元東京学芸大学教授の大井清吉が新たな結婚の四条件(@精一杯働くことA社会的手だてによる援助B性教育と自然な感情の成長C妊娠中の配慮と子どもをもつことによる飛躍的成長発展への援助)を示したことを指している。今日では大井の考えに沿って社会的支援がなされるようになってきているが、周囲の無理解からいまなお深い闇のなかに置き去りにされている知的障害のある人もいる。」115P・・・そもそも「条件」などという議論のおかしさ
「(メディアから性的情報が流れてきているのに)一方親や関係者は、相変わらず過保護・心配性・過干渉で、リスクを冒す尊厳を妨げ、情報を遮断し、無知を再生産する役を担い続けている。何も伝えず無知のまま放置しておくが故に、理想と現実のギャップの中で様々な不安・悩み・葛藤を抱え、ますます情報処理ができなくなり、無知を再生産し、ゆがんだ性的人間像をつくりあげていってしまっているのが実態である。私たち支援者もコミュニケーションの仕方や人間関係のあり方を学ぶ機会が十分にできないまま知的障害のある人たちと接しているのが実態なのではないだろうか。」117P・・・「知的障害者」の問題を論じているのに、「無知」という言葉を使うこと自体のおかしさ、「「何にも染まらない状態」を設定している」ということの批判なのでしょうが。
「知的障害のある人たちの性に関する事柄は全ての人に関係する重要な問題であるにもかかわらず、偏見や誤解または情報不足から、これまであまり問題にされてこなかった。むしろ、無視され、時として迫害されてきた。しかし、時代は大きく変わってきた。知的障害のある人たちに対する否定的なものの考え方や性に対する物理的・心理的障壁と偏見や誤解を取り除き、性や結婚の権利を獲得していくことが早急に求められているのである。」118P
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「現場からのレポート」
● 公立福生病院透析中止事件と医療の変質──提訴についての弁護団の見解
冠木克彦(弁護団長)
 昨年八月に起きた「公立福生病院事件」のまもなく始まる裁判の弁護団長の著者の案内・解説の文です。わたしには「障害者関係裁判」支援のトラウマのようなことがあり、今ひとつきちんとかめていないのですが、それでもいろんな関わりからこの事件の集会などに何度か参加しているので、大体把握していた内容なのですが、カルテに関することがくわしく書かれていることが参考になりました。これは、医療が「死へ誘う医療」として出て来た「医療の荒廃」のようなこととして、母の介護の経験ともリンクして、とらえ返そうそうとしています。そしてわたしの中にいろいろ情報がすでに入っていて、メモが備忘録的性格としては、新しい情報に偏りそうなので、切り抜きメモを出すのは止めます。貴重な文なので、本文にあたってください。なお、この「通信」の巻頭言にリンクしています。一度、この事件については、わたしなりのまとめの文を書こうと思っているのですが、・・・。
● 事前質問事項採決に向けた国連障害者権利委員へのブリーフィングを経験して
曽田夏記
 これは、この号の長瀬さんの文とリンクしています。国連障害者権利委員会へのブリーフィングの体験記録です。ひとつ押さえておかねばならないことは、政府は人権に関する国連からの勧告をことごとく無視続けているということです。ですから、これは著者も書いていますが、国内でのその無視続ける政府への批判とリンクさせなければ、現実的な改革は不可能ということがあります。ですが、このブリーフィングに参加しているひとたちにとって、他の「障害者」の抱えている、抱えさせられている問題を学ぶ(著者には以前カナダ政府の審査をジュネーブで初傍聴して、そのときの感激の体験もあったようです)、また相手(委員)が何を考えているのかをとらえ働きかけるその手法を学ぶという意味があるようなのです。このあたりはわたしは論破型の対話に偏重していたことで、このひとたちの説得型の対話ということの意味ということを、この文から考えさせられました。わたしはそもそも障害と言う概念自体、ことば自体も様々なのに、「ワンチーム」と言っても、こちら側がまとまっているとはとても言えない情況で、どう相手を説得できるのか、そもそも説得する内容は何なのか、そのあたりの詰めが当然必要になっていると思うのです。繰り返し書きますが、障害ということの規定さえきちんとできていない情況をなんとかしなくてはとわたしは思っています。
 後は切り抜きメモを残しておきます。
「二〇一九年九月二十五日、ジュネーブでの会期前作業部会第十二会期において、日本政府に対する事前質問事項(List of Issues)が採択された。採択に先立ち、日本から障害者団体をはじめとする六つの団体が本会期に参加し、障害者権利委員へのブリーフィングを行った。筆者はDPI会議特別常任委員として、JDF(日本障害フォーラム)によるパラレルレポート作成に約二年間関わってきた。本稿では、@現地におけるブリーフィングの模様、Aブリーフィングが果たした役割と今後の課題について述べる。」「事前質問事項採択に向けた現地でのブリーフィングは、大別すると以下の二つであった。一つは、会期前作業部会のプログラムとして実施された、日本の市民社会から権利委員会へのブリーフィング。もう一つは、上記のいわば「正式」なブリーフィング時間外に各団体が個別に権利委員にアポイントをとって実施した個別ブリーフィングである。なお、今会期に参加し日本の事前質問事項採択に関わった権利委員は全六名であった。」131P
「日本という国の行政単位や精細な法制度にはじめて触れる権利委員にとって、レポートを読んだだけ、また一往復程度の質疑応答では、なかなか「本条項における日本の一番の課題は何か」「その課題を解決するためには、どのような勧告を出すべきか」「逆算して、(今回は)事前質問事項で何を聞くべきか」というところまで理解することは至難の業だろう。その意味でも、回答する障害者団体には、権利条約が求める内容や他国の法制度と比較し、日本の制度のどこを変えることが必要か、そのためにはどうすればよいか、を端的に回答する力が求められていると感じた。」132P
「ブリーフィングの直接的な役割は、良い事前質問事項・勧告を引き出すことだろう。ただし、より大切なことは、ブリーフィングの結果どんな勧告になったかではなく、その勧告を携えて具体的な制度改革につなげていけるかだと思う。」「市民社会によるインプットと権利委員会によるアウトプットは、必ずしも直接的な相関関係がある訳でもないと感じた。それは、権利委員会が短期間で全く未知の国の課題を的確に把握する作業の限界なのかもしれない。」134P
「市民社会によるブリーフィングは、一時期のイベントではなく、未来を見つめたプロセスである。「各国語の」のステージの運動も見据えて、私たちは二〇二〇年夏の「審査(建設的対話)に向けたブリーフィングの準備をしなければならないだろう。」135P
● 入所施設からの外出の現状――養護施設自治会ネットワークの外出アンケートから
松浦武夫
 そもそも外出以前に、政府も「地域で生きる」という方針を出しているのにどうして施設が増え続けているかの問題があるのですが、そのあたりは、外出しようという気持ち自体が、施設の中で生活するということのなかで削がれていくということがあると、思えるのです。だから、制度の問題として外出をきちんと要求できる制度を作るという意味はあるにせよ、そもそも施設が何をもたらすのかという分析が必要なのだと思います。著者も少しそのようなことは書いているのですが、まあ、施設の職員の立場から、みずからの存在自体を否定する内容を出すのは難しいとは思うのですが。
投稿
●フランコ・バザーリア/大内紀彦・鈴木鉄忠訳「バザーリア講演録」より「健康と労働」
 バザーリアはイタリアの精神病院解体の運動を進めたということで有名なひとです。これは、バザーリアがブラジル各地を講演して回った記録で、本(邦訳『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!――イタリア精神保健ことはじめ』)になっているところから外したものを掲載した原稿です。この講演はブラジルの労働組合の招請で、テーマが「健康と労働」となったようです。バザーリアは、まもなく亡くなっているので、「遺言」的な内容にもなっているとのことです。切り抜きメモを残します。
「まずはっきりさせておきたいのは、私は労働組合員ではなく、医師だということです。医師が仕事をしているのは分業体制を基本とする社会です。その社会では、分業が働き手の労働条件を理解するための重要な要素になっています。このことが、専門技術者を単なる技術者としてだけでなく、政治的な立場におくことにもなります。」143-4P――「専門技術者」に訳注「バザーリアは、専門的知識を備えたという側面と、社会に生きる一人の人間として、政治的な社会参加(「アンガージュマン」というルビ)を果たすべき存在という二つの側面から、医師などの「専門技術者」の役割について論じている。さらに、例えば医師が、薬の処方という専門技能を要する行為を通じて、結果的に不平等な社会秩序の維持に加担しうることに、バザーリアは警鐘を鳴らしている。」154P
「マニコミオで働く医師であり、精神科医でもある身として、私は患者たちの誰もが労働者であり、彼らは例外なく貧しいということを知っています。」144P――「マニコミオ」に訳注「「マニコミオ」は、「精神病院」を意味するイタリア語の俗語表現で、軽蔑的なニュアンスを含む。バザーリアは、精神病院が「治療の場」ではなく、入院患者の自由を奪う「施設化の場」であると考え、この表現をしばしば用いた。」154P
「患者たちの誰もが貧しく、彼らは病院という施設によって破壊されていますが、こうした事実について考えてみる必要はないのだろうか。こう問いかけてみると、医師はとたんに権力の問題に向き合わされることになります。しかし、こうした立場を誰もが受け容れているわけではありません。実際のところ、多くの専門技術者たちは、専門家として役割をこなしているだけで、それ以上のことを行っていません。」144P・・・専門性をもった自己の抑圧性の自覚
「この問題は、専門技術者にとってだけでなく、政治家や労働組合員にとってもいっそう深刻です。一般的に言って、政治家や労働組合員たちは、福祉の問題と労働の問題の関連を理解していません。・・・・・・なぜなら政治家にとって、福祉と政治の問題がどう関連しているか理解することは、とても困難だからです。」144P
「健康に関する問題は、労働組合と政党とは別の分野の運動の後押しがあったおかげで、明るみに出されたのです。こうしたうちの一つが、精神医療の領域に押し寄せてきた運動でした。/精神医療の施設や制度を変えるために、私たちは実践的な活動を展開してきました。やがて、この活動は重要な役割を担うようになりました。左翼政党と労働組合が、福祉という課題に責任をもつように、イタリア国内に刺激を与えたのです。/こうした活動は、根本的な考え方についての理解を促しました。それは、社会生活のありとあらゆるものが、分業によって決定されており、こうすることで権力は、私たちを巧みに奴隷化し続けているというものでした。[病院などの]施設や制度が機能しているメカニズムを検討してみると、私たちは分業体制を無批判に受け容れ、それに従いがちであることがわかります。だからこそ、私たちはこのメカニズムを自覚し、それを分析し理解する必要があるのです。」145P
「病人を抑圧して破壊していくマニコミオの論理を拒絶すれば、私たちは病人の暮らしの条件を変え、彼らに対して当たり前の生活環境を提供できるようになります。」146P
「この意味では、私たち医師は、病人にとっての「労働組合員」にあたるでしょう。」146P
「専門技術と政治といった分業体制を超えたころに、医師の仕事はあるのです。/このことを理解してはじめて、政治組織と労働組合との関係や、こうした組織の一員である人びととの関係変わっていきます。」147P
「私たちはいかなる革命も望んでいません。望んでいるのは、私たちを取り巻く関係性を抜本から変えることなのです。私が「私たち」と口にするときには、すべての仲間たちと労働組合員のことを言っているのであって、権力闘争を始めようとする専門技術者や労働者のことを言っているのではありません。」147P・・・バザーリアの政治革命批判、ただし抜本的変革は革命、イタリアの構造改革的革命論?
「ある意味では、わたしたちはマニコミオと同じような社会で生活していて、そのなかで自由を求めて闘う被収容者であると言えるかもしれません。それでも私たちは、救世主に望みを託すことはできません。救世主に頼るということは、私たちがまたしても囚われの身になることであり、抑圧されたままでいることだからです。それは、労働組合の指導部に労働者の解放を期待することなどできないという、労働者の辿った歴史と同じことなのです。戦いを続け、労働組合の幹部たちに、自分自身を解放させるための材料を与えなければならないのは、労働者本人です。」148P
「そして自分たちが何をしなければならないのかを、私たちは他の人たちと一緒に理解していかなければなりません。いかなる方法でも、他の人たちを管理・指導する必要などありません。もしそうなってしまえば、私たち自身が、新たな支配者になってしまうからです。」148P
「私の理解では、ブラジルでは精神病が大きなビジネスになっています。狂人たちを食い物にして生計をたてているプライベートの診療所があります。」149P――「狂人たち」に訳注「「狂人(「マット」のルビ)という表現は、理性的な判断ができない者を指す言葉として、本来は強い否定的意味合いをもつ。しかし、理性と狂気を合わせ持った存在が人間であり、両者を分離することはできないという考えのもと、バザーリアは狂人(「マット」のルビ)ということばを好んでも用いていた。」154P
「イタリアでは「施設の」改革は、「社会構造の」改革なしに、成し遂げられました。これは、私たちが「反施設化の」と名づけたものですが、「上部構造の」闘争とも言えるような、私たちの戦いの独自性だと思います。つまり、卵が先か、鶏が先かという問題です。」150P
「若者たちのために、そして私たち自身のために、新しい生き方を私たちが創造しなければならないのは明らかです。」152P
「ともかく、いつでも批判できる可能性が残されているかぎり、私は社会主義国の側に立つと言い続けたいと思います。」153P・・・「社会主義国」など存在しなかったし、自称「社会主義国」には「批判できる可能性」もなかった。
「社会主義の国々にも狂気は存在します。なぜなら狂気は、人間の条件だからです。理性が存在するのと同じように、「非理性」も存在するのです。狂気と闘うためのもっとも大切な治療法の一つは、もちろん自由であることです。」「家を一歩出てみると、私たちは、あちこちで家をもたない人びとに出くわします。社会の周辺(「マージナル」のルビ)に追いやられた人びとです。現在では日常のなかに狂気が存在しています。」153P
「私は共産主義者ですが、自己批判を行う共産主義者です。」153P・・・前衛の無謬性の論理にとらわれて自己批判をしない、「共産主義」の名に値しない。「共産主義者」や党が存在しています。
●八木智大「軽度障害「吃音」がつなぐマジョリティとマイノリティ」
 わたしと当事者性を同じくするひとの文です。「吃音者」の団体には、わたしがほとんど幽霊会員になっている言友会という団体があるのですが、かつて、そこで、「吃音者宣言」という文を出しました。何度もこの文については、コメントしてきたのですが、結局、この文を出した主旨は、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうーということだったのだと思っています。で、この「宣言」の一応の主導的推進者だった、この文の中にも出てくる伊藤伸二さんは、「吃音を治す」というところから、「吃音に対する気持ちの持ち方を変える」ということに換えただけで、結局そのために「○○療法」なり、いろんなアイデアを次から次に出していくということにとどまっているのです。結局、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうー」ということを別パターンで繰り返しているのに過ぎないのです。
 そのようなことも含めて、わたしの「吃音」に関する基調的な文は
   http://taica.info/ststpnote-3.pdf
 そして、「吃音」に関するいろんな文、今整理中なのですが、とりあえず、旧全言連事務局に宛てた一連の文(というより伊藤伸二さんに宛てた文)は、
   http://taica.info/ark.html
こんなことを書きながら、そもそもわたしがきちんと伝わるような文を書けていないし、また、ひとは論理的なところから、転換していくわけではないという意味において、結局同じような試行錯誤を繰り返していくしかないのかなとも、思ったりしています。
そういう意味で、この文はその試行錯誤の体験を綴った貴重な資料なのかもしれません。
 気になることをいくつか書き置きます。「軽度障害者」ということを書かれていますが、コミュニケーション障害というのは、決して軽くはないのです。いわゆる「重度障害者」は、開き直りを習得しますが、「軽度障害者」はそれがなかなかできません。だから葛藤に陥ります。その深刻さがあります。それは決して軽くはないのです。それは、言友会の中でも、「吃音が重いひとより、軽いひとの方が大変な面もあるのよね」とか語られていたことです。
もうひとつ、「マジョリティとマイノリティをつなぐ」という言葉が出ていますが、これは「吃音者」は「障害者」と「健常者」のどっちつかずの立場というようなことで、そんなことを言っている、「吃音者」で「障害者」団体の地域の会長をやっているひとがいました。「吃音者」は明らかに「障害者」差別を受けると言う意味で「障害者」です。そのようなあいまいな思いを持ってしまうひとたちを研究した「マージナル・パーソン」研究ということがあります。そのようなことを考えながら、きちんと「障害者」の立場に立った運動を進めていく必要を、この文を読みながら改めて強く思いました。
当事者仲間で、若いひとに期待しつつ、切り抜きメモは余計なことを書いてしまいそうで書くのは止めました。
編集後記
単独で編集を始めてから、二回目の編集後記でしたか、編集が替われば雑誌が替わると
いうことがあり、長く編集者を務めていた小林律子さんの退任で、一抹の不安も読者とし
て持っていたのですが、新しい編集者も少しずつ自分の味を出してきているようです。小
林さんも参議院議員の舩後さんの秘書になったようだし、何か、「人間万事塞翁が馬」のこ
とわざのように進んでいるようです。


posted by たわし at 06:04| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする