2020年03月04日

レーニン「国家と革命」

たわしの読書メモ・・ブログ526
・レーニン「国家と革命」(『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
 この本は確か岩波文庫で読んでいた本(国民文庫だったかもしれません)。実はわたしが、「マルクス主義」関係で一番最初に読んだ本です。大学で学費値上げ阻止闘争があり、クラス討論に参加していた関係で、学生自治会と接触があり、その自治会メンバーから勧められた本です。すぐに、そのグループとは距離を置き、三浦つとむの『レーニンから疑え』とかの学習会に参加していました。で、レーニンに懐疑的な思いを抱き続けていたのですが、レーニン批判から「マルクス・レーニン主義」批判をしていく必要にせまられ、前回の第二次レーニン学習をしました。今回、前回メモに続いてレーニン第三次学習です。
 さて、レーニンの本を読んでいると、「ミイラ取りがミイラになる」ということに陥るような感覚にとらわれる思いも出てくるのです。レーニンは論争のひとで、現実的運動の中出の運動をもっと直裁にいえば革命をどう進めるかというところで、さまざまな的論争をし、学習も積み重ねたひとで、その論の鋭さは論敵にされたひとがたじろいでいく様が思い浮かぶようです。
 さて、この本は主要に二つの論点がでて来ます。それはマルクス/エンゲルスのアナーキストとの論争のなかでの国家を巡る論攷を踏まえて、国家の廃絶か国家の死滅かということ。とりわけ、「それまでの官僚組織をそのまま利用することはできない」ということを巡る議論。そして、プロレタリア独裁論です。
 レーニン批判は、マルクス/エンゲルスの文献的とらえ返しの中で、レーニンが読めていなかったところのマルクスの論攷からレーニン批判がいくつか出ています。ひとつは、レーニン国家論は国家とは官僚機構と軍・警察機構であるということなのですが、レーニンは『ドイツイデオロギー』を読めていず、マルクス/エンゲルスの国家=共同幻想というとらえ返しをしていることを知らなかったという批判があります。そのあたりを検証してみます。マルクス/エンゲルスが「まさしく特殊的利害と共同的利害のとのこの矛盾から、共同的利害は国家として、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる。」67P←ここにエンゲルスの書き込み「そして、同時に幻想的な共同性として」68P、「国家の内部における一切の闘争は、さまざまな階級間の現実的な闘争がそういう形態をとって行われるところの幻想的な諸形態にすぎない。」68P ←ここにエンゲルスの書き込み「そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ」69P、「従来の共同社会の代用物――国家その他――においては、人格的自由は、支配階級の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。これまで諸個人がそこへと結合した見掛け上の共同社会は、常に諸個人に対して自立化した。同時にまたそれは一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会であったばかりか、新たな桎梏でもあった。現実的な共同社会においては、諸個人は彼らの連合(アソツイアツイオーンのルビ)において、かつ連合によって、同時に彼らの自由を手に入れる。」175P(マルクス/エンゲルス(廣松渉訳/小林昌人補訳)『ドイツ・イデオロギー 新編輯版』2002岩波文庫、引用文は完成体で、実際は、書き込み、校正前の原稿、二人の書き込みの区別までしています。ちなみに廣松渉訳以前の岩波文庫の古在由重訳では、順に44P、114P、古在訳では、「共同社会」は「共同体」、こちらが古いので「国家=幻想共同体論」という言い方が流布しています。このあたりは廣松さんは物象化ということを問題にしているので「共同体」という物象化された表現の訳をもちいていないのではとわたしは考えています。ただし、物象化されたものとしてあらわれると言う意味では「共同体」という言い方もありなのかもしれませんが。レーニンは軍事的に反革命にどう対峙するのかというところも含んで武装蜂起論を立てているのですが、そのあたりは日常的な生活の中で資本主義的なイデオロギーにとらわれていくことをどうするのか、そして更に、民族という共同幻想(物象化)をその基礎をつくる土台から押さえたところの国家論をどうするのかという問題があります。国家という概念からいかに脱していくのかという反国家主義の問題も出てくるのです。
もうひとつは、発展史観といわれていることで、レーニンはこの本の中でも、共産主義は資本主義の後にくるものだというとらえ返しをしているのですが、マルクスは「資本論草稿」を書く中で、その中にも一部出てくるのですが、古代社会ノートとかアジア的生産様式論の研究をしながら、共産主義的なことを過去の歴史の中に探し出す作業をしていました。単線的発展史観の批判も出て来ているのです。
 さらに、レーニン時代は「資本主義的帝国主義」の時代で、植民地支配が世界を覆った時代だったのですが、今は、植民地が一応次から次に独立していき、グローバリゼーションが世界を覆った時代、それでも、国民国家が資本主義的支配のために民族排外主義を煽っていく時代、差別を資本主義の継続的本源的蓄積の中に組み込んでいる、その基礎にしている時代なのです。だから国家主義批判が、反差別論が必要になっている時代です。そこで、その国家という共同幻想を撃つことが必要になっているのだとも言いえます。レーニンの「国家と革命」は、国家権力の奪取ではなく粉砕の上で、それに代わる国家をうち立てるという論理なのですが、厳密に言うと、奪取する、即時的に粉砕なのです。奪取するだけなら、「それまでのできあいの官僚機構は廃棄する」というテーゼに反し、粉砕だけならアナーキズム批判ができなくなるのです。それにしても、なぜ、粉砕したことをなぜ、中味を変えるとしても新たにつくる必要があるのかという問題があります。そもそも国家に対置することとしてソヴィエトをつくったはずなのです。これがプロレタリア独裁の機関のはずだったのです。結局、ロシア革命はソヴィエトの機能を停止させました。それはレーニンの中央主権主義に合わないとしてだと思うのですが、それが党独裁につながり、結局中味が違うとしても、国家の建設というところに入っていけば、官僚的機構になっていきます。レーニンは、ブルジョア国家とは異なる「官僚」(官僚制とことなるプロ独的「官僚」)の原則を立てました。彼自身はその原則を守ろうとしていたようです。しかし、そもそもネップを導入し、資本主義経済の取り入れをすれば、ブルジョア的官僚制に収束していかざるをえなかったのではないでしょうか? それがスターリン的な官僚機構の水路になったのではないでしょうか?
 マルクスのプロ独論はスパンが短いものでした。そしてプロレタリア独裁国家という概念はなかったのではないでしょうか? レーニンは、かなり長い時間プロ独が必要だと押さえていたようです。もちろん、レーニンはスターリンとの明らかな違いとして、世界革命への連動として、国家が死滅していくには、世界革命が必要だとしていて、そもそも国家とは、他国との関係において国家としてあるのであって、一時的に一国的に定立して(レーニンは一国的なことをスターリンよりもはるかに短いスパンで考えていたようですが)いく必要を考えていたのかもしれません。
 ともかく、ロシア革命がねじ曲げたことの総括をどうするのかという問題が必要になっているのです。その総括を他の国でおきたことだとか、自分たちとは路線が違うといって総括をサボタージュして、綱領の中のことばを変えるだけでは、むしろ混迷を深めるだけなのです。
 さて、この本は未完の本なのです。続きのもくじが訳編集者によって上げられていますが、そこにはソヴィエトに関する論攷が含まれていたようです。この文が書かれたのは、まさに革命進行中の1917年の8月とき、これから蜂起に向かって多忙になる中で、続きは書かれなかったという注がついているのですが、ソヴィエトに対するレーニンの考えが変わるなかで、ソヴィエト自体が消滅し、続きは書かれなかったのではないかとわたしは押さえているのですが、何かレーニンの手紙なり、文が残っているのでしょうか? そこまでとても追えません。
 さて、この後、わたしのレーニン学習は哲学的論攷二冊に入っていきます。レーニンは、晩年のエンゲルスが「マルクス主義」のわかりやすい解説をしようと、図式化に陥り、「ヘーゲルへの先祖返り」に陥ったと批判されていて、その中で「対話による深化としての道行き」としての弁証法を、法則としての物象化に陥ってとらえ、弁証法の三法則とか出していて、それをレーニンも引き継いでいるのです。そのあたり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でとりあげているマッハ批判を書いていて、実は、わたしが哲学的にいろいろとりいれようとしている廣松渉さんが、マッハ哲学をニュートン力学から量子力学への架橋をしたひとりとして押さえていて、マッハの訳本に解説を書いています。そのあたりからのレーニンの哲学的なところへのとらえ返しもしてみたいと思っています。もう一冊は『哲学ノート』。
それから、差別の問題に関して、レーニンとローザ・ルクセンブルクの論争が有名で、これは一般的にはレーニンの民族自決権が正しいとレーニンに軍配が上がったとされているのですが、わたしはこの国家論なりレーニンの中央集権制なりから再度とらえ返しをしてみたいと思っています。そのためにローザ・ルクセンブルクの本に当たります。それから、コルシュや従属理論の積ん読している本を読み解いていきます。そこから、ドキュメント現代史で革命論の学習に戻ります。その間に障害問題の本やエコロジー関係の本を挟んでいきます。
さて、切り抜きを残しておきます。実は、この本は大切さを考えると、「レーニンノート」とか作り、そのなかで、この本の精細な切り抜きやコメントを書くことも考えたのですが、先を急ぎ時間がありません。簡単な切り抜きメモに留めます。
「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、そのあらわれなのだ。国家は、階級対立が客観的に和解しえなくなったとき、まさにその場所に、そのかぎりで、発生するのだ。逆に言えば、国家が存在しているということが、階級対立の非和解性の証明なのだ。」472P・・・非和解性は共同幻想によって粉飾されていて、民族差別による排外主義で、「国民統合」が図られるのですが、そのあたりの押さえがないのです。むしろレーニンも陥っている国家主義批判の必要性
「マルクスによれば、国家は階級の和解が可能ならば発生しえないものだし、もちこたえることもできないものなのだ。」「マルクスによれば、国家は階級支配の機関、一つの階級が他の階級を抑圧する機関、階級衝突を緩和しつつ階級抑圧を合法化し確固たるものにする「秩序」の創出そのものなのだ。」472P・・・国家の共同幻想的性格を押さえていません。「緩和」ということばにかろうじてそのニュアンスがあります。
「また、国家が社会の上にたち、「みずからをますます社会から疎外してゆく」権力であるとすれば、被抑圧階級の解放は暴力革命なしには不可能なばかりか、支配階級によってつくりだされ、そのなかにこの「疎外」を体現している国家権力機関をも廃絶することなしには不可能だという明白な点が、である。」473P・・・「上にたち」とは何を意味するのか?――「上部構造」?「支配する」という意味、後者ならば共同幻想的性格の欠落
「そして、あらゆる革命が、このような国家装置を破壊することによって、むきだしの階級闘争なるものをわれわれに見せてくれるのであり、支配階級がどんなに、自分に奉仕するように武装した人間の特殊部隊を復活しようと一所懸命になるものである。被抑圧階級がどんなに、搾取者にではなく被搾取者に特別奉仕するこの種の組織を新設しようと一所懸命になるものであるかを、まのあたりに示してくれるのである。」475-6P
「かくして、官吏の神聖不可侵をうたった特別法がいくつもつくりだされることになる。「最も下っぱの警察官」でさえ、クランの首長よりも高い「権威」をもっている。けれども、文明国家の軍司令官ですら、社会から「棒きれをふるって手に入れたわけではない尊敬」をかちえていたクランの長老を、うらやましく思わずにはいられまい。」477P
(エンゲルス)「しかし、例外的に、相闘う階級の力量が伯仲しているとき、国家権力は、一時的に、外見上の調停者となって、双方の階級に対し、ある程度の独立性をたもつ時期がある。」478P
「このように「富」の全能は、民主共和制のもとでいっそう確固たるものとなるのだ。」480P・・・「富」とはなにか? その「富」の共同幻想が国家の共同幻想の元になる。
「階級は、かつてその発生が不可避であったように、消滅もまた不可避となろう。この階級の消滅とともに、国家の消滅も不可避となろう。自由かつ平等な生産者の結合関係を基礎に新たに生産を組織する社会は、全国家機関を、そのばあい当然おかれるべき場所へ移しかえるであろう。すなわち、糸車や青銅の斧と並べて、考古博物館のなかへ。」481P
(エンゲルスの『反デューリング論』第三篇第二章からの長い引用の後)「このような目をみはるばかりに思想豊かなエンゲルスの考察のなかから、現代社会主義諸政党が社会主義思想の真の財産としてとりこんだものといえば、マルクスの国家は「死滅する」という点――無政府主義的な国家「廃止」説とは違う――だけに過ぎぬと断言できる。このようなマルクス主義の刈りこみは、マルクス主義を日和見主義へまでひきずりおろすことを意味する。なぜなら、このような刈り込み「解釈」をすればあとに残るものは、ただゆっくりとした起伏のない漸進的な変化、飛躍と激動の欠除、革命の脱落といった朦朧たる概念のみだからだ。世間一般に流布している、大衆的に――と言ってよければ――理解された国家の「死滅」節は、革命を否定しないまでも、革命をぼやかすことを意味していることは、疑問の余地がない。/この種の「解釈」は、ブルジョワジーにだけ有利な、粗雑きわまりないマルクス主義の歪曲であって、理論的に言えば、さきに全文を引用したエンゲルスの考察の「総括」において指摘されている、もっとも重要な事情や考慮を忘れさったことに由来するものなのだ。」483P――ここからその「総括」の内容が五点示されています――@「第一に、エンゲルスは、この考察の冒頭で、プロレタリアートは国家権力を掌握し、「それによって、国家としての国家を廃絶する」と述べている。」483P「ここでエンゲルスが語っているのは、じつは、プロレタリア革命によるブルジョワジーの国家の「廃絶」についてであって、「死滅」(Absterben)という言葉のほうは、社会主義革命後のプロレタリア国家組織の残存物に用いられているのである。エンゲルスによれば、ブルジョワ国家は「死滅」するのではなくて、革命のなかでプロレタリアートによって「廃絶される」のだ。一方、「死滅する」のは、この革命後のプロレタリア国家、あるいは半国家なのだ。」484PA「第二に、国家は「抑圧するための特殊な権力」だということである。」「ブルジョワジーがプロレタリアートを、つまり一握りの金持が数百万人の勤労者を「抑圧するための特殊な権力」に、プロレタリアートがブルジョワジーを「抑圧するための特殊な権力」がとってかわらなければならない[プロレタリアートの独裁]ということである。「国家としての国家の廃絶」とは、まさにこのことなのだ。」484PB「第三に、エンゲルスが国家の「死滅」と言ったり、その特徴をくっきりと浮かびあがらせて「眠りこみ」(Einschlafen)とさえ言っているのは、まったくの明白かつ正確に、「全社会の何おいて国家が生産手段を占取」してから後の時代、つまり社会主義革命後の時代についてなのである。/この時代の「国家」の政治形態こそ、最も完全な民主主義であることはだれでも知っている。・・・・・・このことが「わからない」者は、民主主義もまた国家であり、それゆえ国家が消滅するとき、民主主義もまた消滅するのだということを、ふかく考えてみたことのない人たちだけなのだ」484-5P・・・ここの民主主義は支配の一形態としての民主主義のこと、レーニンには区別がついているのだろうか? レーニンはプロレタリア国家(の暴力)による反革命の抑圧ということで、民主主義の否定にまで及んでいるようなのです。反革命を抑圧するのは国家ではなく民衆のはずなのです。そこに民主主義があるはずなのです。ここにレーニンの外部注入論的革命、民衆の革命性への懐疑もあり(レーニンはプロレタリアートの革命性を一方で述べていたのですが)、それはスターリンの徹底した懐疑からする管理国家形成へすすんでいったのではないでしょうか?C「第四に、エンゲルスは、「国家は死滅する」という有名な命題をかかげたあとで、つづけて、この命題は日和見主義者と無政府主義者に対して向けたものだということを具体的に明らかにしている。」485P「あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な権力」なのだ。だからあらゆる国家は非自由で非人民的なのだ。マルクスとエンゲルスは、「自由な人民国家」が流行のスローガンとなった一八七〇代に、党の同志たちに向かって、このことを何回となく説明している。」486PD「第五に、だれもが国家の死滅に関する考察のあることを想起するエンゲルスのこの同じ著作のなかに、暴力革命の意義に関する考察もある。エンゲルスにあっては、暴力革命の役割の歴史的評価は、暴力革命への心からの讃辞となっている。」「暴力とは、新しい社会をはらんでいるあらゆる旧社会の助産婦である。」486P
「暴力革命の不可避性についてのマルクスとエンゲルスの学説は、ブルジョワ国家に関してのことであることはすでに述べたが、以下の叙述でさらにくわしくそのことを示そう。/プロレタリア国家がブルジョワ国家にとってかわること、つまりプロレタリアートの独裁の創出は、「死滅」によっては不可能であり、それは一般的原則では、暴力革命によって初めて可能である。そしてエンゲルスが暴力革命にささげた讃辞は、マルクスの再三にわたる言明とも完全に一致しているのである[われわれは、暴力革命の不可避性を誇らしく公然と宣明した『哲学の貧困』と『共産党宣言』の結語を思いおこし、また、それからほぼ三十年後の一八七五年、ゴータ綱領の日和見主義に対するマルクスの仮借ない糾弾を思いおこす]。」488P
「ここに国家問題に関するマルクス主義の最も注目すべき、最も重要な思想の一つ、ほかならぬ「プロレタリアートの独裁」[マルクスとエンゲルスは、パリ・コミューン以後になって述べるようになった](ここに注がついている)の思想が定式化されているのを見るのであり、・・・・・・このうえなく興味ふかい、つぎのような国家の定義を見るのである。「国家とは、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートである。」」490P・・・プロレタリア独裁国家ということ、ただし? 492Pの二つ目の引用――(ここに注がついている)の注――「この挿入部分([ ]のなか)は、レーニンが『国家論ノート』のなかで、「マルクスとエンゲルスが、一八七一年以前に『プロレタリアートの独裁』ということを述べたことがあるかどうかをさがし、調べること。ない! と思われる。」ということに対応している。じつは、この第U章「国家と革命」第3節にあるように、マルクスはすでに一八五二年、ワイデマイヤーあての手紙のなかで「プロレタリアートの独裁」という言葉を使っていた。レーニンがこのことを知ったのは初版刊行後のことであり、そのために第二版でこのことに触れた説が付加されたわけである。」491P
「プロレタリアートにも国家が必要だ――あらゆる日和見主義者、社会排外主義者、カウツキー主義者はこうくりかえしている。彼らは、これこそマルクスの学説だと断言していながら、つぎのことをつけ加えるのを「忘れている」のだ。第一に、マルクスによれば、プロレタリアートにとって必要なのは、ただ死滅しはじめ、また死滅せざるをえないように構築された国家だけだということ。第Uに、勤労者にとって必要なのは「国家」(括弧付き「国家」)、「すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアート」だけということ。」490P
「マルクスが国家問題と社会主義革命の問題に適用した階級闘争の学説は、必然的に、プロレタリアートの政治的支配、プロレタリアートの独裁の承認に、つまり、権力がだれにも分有されておらず、ただ大衆の武装力にのみ依拠しているところの権力に承認にみちびく。」492P・・・被抑圧階級をプロレタリアートとしてだけとらえると、プロレタリアートの独裁が出てくるのですが、今日、マルチチュードとかサバルタンとか出さざるを得なくなった時代には「プロレタリアートの独裁」という論理は出せなくなっているのではないでしょうか? 差別というところから総体的にとらえ返していく必要が出てきているのです。
「プロレタリアートに必要なのは国家権力、すなわち、中央集権化された暴力装置であり、搾取者の反抗を弾圧し、また社会主義経済を「組織する」事業において、農民階級、小ブルジョワジー、半プロレタリアートという膨大な住民大衆を指導するための暴力組織なのだ。」492P・・・「指導するための暴力組織」?指導と暴力はアンチノミーのはずなのです。必要なのは「国家」で、国家なのではないのでは? それが国家になるのは、資本主義国家が存在するところにおいて、国家にならざるをえないのです。だから、レーニンも世界革命の必要性を主張していたはずなのです。逆に言えば、プロ独が国家として出てくるときには、世界革命的には敗北せざるを得なくなるということではないでしょうか?
「ブルジョワ社会に特有な中央集権化された国家権力は、絶対主義の没落期に発生した。そして、この国家機構にとっては最も特徴的なものは、つぎの二つの制度だった。すなわち、官僚制度と常備軍。」495-6P
「官僚制度と常備軍――これはブルジョワ社会のからだに宿る「寄生体」、ブルジョワ社会をひき裂く内的矛盾によって生み出された「寄生体」、しかも、まさに生命の毛穴を「ふさいでいる」寄生体だ。」496P
「マルクスがどの程度まで厳格に歴史的経験という事実的基礎の上に立っていたかは、彼がこの一八五二年には、まだ廃絶すべき国家機構に代えるに何をもってするかという問題を具体的に提起していないこともわかる。当時まだ、経験からは、このような問題を解決するための材料を得ることはできなかったのだ。そして、この問題が歴史によって日程にのぼることになったのは、それより後の一八七一年のことなのだ。一八五二年の段階において、マルクスが自然史を観察するような正確さで確認できたことといえば、プロレタリア革命が、国家権力に対して「破壊力のことごとくを集中する」任務に到達したこと、国家機構を「粉砕する」任務に到達したこと、これだけであった。」498P・・・これは前出の第二版の追加稿も参照
(「一九一九年発行の第二版ではじめてつけられた。」501Pの追加された節「3 一八五二年におけるマルクスの問題提起」500-2P・・・「マルクスの一八五二年三月五日付ワイデマイヤーあての手紙」500P――「(マルクス)「わたしが新しくやったことと言えば、次の諸点を証明したことだけなのだ。/(1)階級の存在は、生産の一定の歴史的発展段階[historische Entwicklungsphasen der Produktion]だけに結びついているということ。/(2)階級闘争は、必然的にプロレタリアートの独裁をもたらすということ。/(3)この独裁そのものは、あらゆる階級を廃絶し、階級のない社会へ達するたんなる過程にすぎないこと。……」/(ここからレーニン)これらの言葉によって、マルクスは、第一に、先進的で最も深遠な考えをもったブルジョワジー思想家の学説と自分の学説との根本的かつ主要な相違を、第二に、国家についての学説の核心を、驚くべき鮮明さで表現することに成功している。」500P
「マルクス主義者とは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまでおしひろげる者だけをさしていう呼称である。」501P・・・レーニンのマルクス主義の定義、このことによってマルクス――レーニン主義を定立したと言えるのではー
「日和見主義は、階級闘争の承認を、まさにその最も主要な点まで、つまり資本主義から共産主義への移行の時期まで、ブルジョワジーの打倒とブルジョワジーの完全な絶滅の時期にまで、おしひろげはしないのだ。/現実には、この時期は、階級闘争がかつてその例を見なかったほど激化することが避けられない時期であり、階級闘争がこのうえなく先鋭なかたちをとる時期なのだ。しかがつて、この時期の国家もまた、不可避的に、新しいやり方にしたがった[プロレタリアートと無産者一般にとって]民主主義的であるあるような国家、そして新しいやり方にしたがった[ブルジョワジーに反対して]独裁的であるような国家でなければならない。/さらに言おう。マルクスの国家学説の本質は、つぎのことを理解した人だけが、つまり一階級の独裁は、あらゆる階級一般にとって必要なだけでなく、ブルジョワジーを打倒したプロレタリアートにとって必要なだけではなく、資本主義を「階級のない社会」から、すなわち共産主義からへだてている歴史的時期の全体にとっても必要であるということを理解した者だけが、体得できたのだ、と。/ブルジョワ国家の形態はきわめてさまざまだけれども、しかし、その本質は一つ、これらの国家はすべて、その形態はどうであれ、結局のところ、かならずブルジョワジーの独裁だということだ。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、非常に豊富で多種多様な政治的形態をもたらさないわけにはいかない。しかし、そのさいでも、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁のみであろう。」501-2P
「マルクスは、コミューンにさきだつ数ヶ月前の一八七〇年秋、政府を打倒しようとする試みは向こう水の暴挙であるあることを証明して、パリの労働者に警告を発した。だが、一八七一年三月、決戦を無理じいされて、やむをえずこれにこたえて立ちあがったとき、つまり放棄が事実となったとき、マルクスは、このプロレタリア革命を、不吉な前兆があったにもかかわらず、心から感激して迎えたのだった。」502P
『共産党宣言』ドイツ語新版の序文(一八七一年六月二十四日付)で、二人は『共産党宣言』は「いまやところどころ時代遅れになっている」として、「……とりわけ、コミューン、次のことを証明した、すなわち、『労働者階級はできあいの国家機構をそのまま奪い取って、それを自分自身の目的にそって動かすことはできない』(この『』の中は、マルクスの『フランスの内乱』の中からの引用)……」503P・・・ロシア革命はそのことを履行していない――秘密警察、トロッキーの旧軍人の登用など、更にスターリンの旧官僚などの登用
「ブルジョワジーおよびブルジョワジーの反抗を抑圧することは、依然として必要である。コミューンにとってこのことはとくに必要だった。」「ところで、ひとたび人民の多数者が自分の抑圧者をみずから抑圧する段になると、抑圧のための「特殊な権力」は、もはや必要でなくなる! この意味で国家は死滅しはじめる。」509P・・・ロシア革命ではそうはならなかったのです。そのことが総括の核心(自分たちが主張していたことの否定)。
「すべての公務員が例外なく完全に選挙で選ばれ、いつでも解任できるものとなること、彼らの棒給をふつうの「労働者の賃金」なみに引き下げること・・・」510P・・・この原則がレーニンのこれまでの官僚制度と違うとおいたところの核心だったし、レーニン自身はそれを実行しようとしたけれど、そもそもネップで資本主義社会の論理を導入したら、それは崩壊する必然性、解任するのは誰か――民衆やプロレタリアートであれば、中央集権制を否定する民主主義が必要なはず――現実には党の機関になった――書記局の支配体制
「小ブルジョワジーの他の階層のなかからと同じように、農民階級のなかからも、とるにたらない少数者だけが、「なりあがり」、ブルジョワ的な意味で「出世をする」。つまり、金持になったり、ブルジョワに転化したり、あるいは地位を保証された特権的官吏に転化する。しかし、およそ農民が存在している資本主義国なら[大多数の資本主義国はそうなのだが]、どの国でも農民階級の圧倒的多数は政府によって抑圧されており、政府打倒と「安あがり」の政府とを待望している。これを実現しうるのはただプロレタリアートだけであって、プロレタリアートは、これを実現することによって、同時に国家の社会主義改造への第一歩を踏みだすのである。」511P・・・レーニンは、農民は土地の私的所有を求めるというところで、小ブルジョワジーと規定したのですが、土地の私的所有ではない、ミールの位置をどのようにととらえていたのでしょうか? また農民は階層であって階級ではないのです。土地所有というところで農民を階級として集約するのは、間違えていると言わざるをえません。農の持つ意味を押さえ損なっていたのでは、とも思ったりしていますーとりわけ今日的には、農の位置を押さえ直す必要も感じています。
「「コミューンは、議会的な団体ではなく、立法府であると同時に執行府でもある行動的な団体たるべきものであった」のだ。」512-3P・・・決定と執行の一致――全共闘運動にも
「前世紀七〇年代のある機知にとんだ社会民主党員は、郵便事業を社会主義経営の見本と呼んだ。まさにそのとおり、今日の郵便事業は、国家資本主義的独占の型にのっとって組織された経営である。」516P「国民経済全体を郵便事業ように組織すること、しかもそのさい、技術者、監督、簿記係を、すべての公務員と同じように、武装したプロレタリアートの統制と指導のもとに「労働者賃金」以下の俸給で組織すること――これこそ、われわれの当面の目標である。」517P・・・俸給を同じにしたら資本主義ではないし、資本主義の論理を用いる必要もないのです。俸給を同じにするなら、そもそも俸給という概念をなくして、ベーシックインカムにできることです。
「マルクスがプルードンともバクーニンともくい違っているのは、ほかならぬ連邦主義の問題についてなのだ[プロレタリアートの独裁については言うまでもない]。無政府主義の小ブルジョワ的見解からは、原理的に言って、連邦主義が出てくる。マルクスは中央集権主義者だ。」520P・・・?
「マルクスは将来の政治的諸形態の発見にとりかからなかった。」522P(プロ独は手紙の中では書いていたのです。その中で、パリ・コミューンが起きたのです。)――「コミューンこそブルジョワ国家機構を粉砕しようとするプロレタリア革命の最初の試みであり、粉砕されたものにとって代わることができ、また、とって代わらなければならぬ「ついに発見された」政治形態である。」522-3P・・・コミューンやソヴィエトがなぜ国家になったのかの問題、中央集権制や暴力装置の問題、暴力は革命の助産婦にすぎない、力むのは母親――民衆自身  レーニンの外部注入論や前衛論は、民衆の自然発生的革命性に依拠していないのです。党――後衛論
「しかし、この国家廃止という目標を達成するために、われわれは、搾取者に対して国家権力という道具、手段、方法を、一時的であれ、利用することが必要だと断固として主張するものである。」327P・・・ここで必要なのは、武力がまだ必要とするならば、国家ではなくて、武装せる民衆ではないでしょうか? 搾取者は私有せる生産手段をとりあげられた時点で、搾取者ではなくなるのです。
 エンゲルスの、反権威主義者の「われわれが代表者たちに授けているのは、権威などではなくて一定の委任なのだ」の言に対する応答と、レーニンのそれに対するコメント「このように、エンゲルスは、権威と自由とは相対的な概念にすぎず、この概念の適用範囲は社会発展のさまざまな段階に応じて変化すること、この概念を絶対的なものとして考えるはばかげていることを指摘し、・・・・・・」528P・・・これは官僚主義をうみださないための基本的概念であって、相対的に容認することではないはずです。権威は差別に関するキーワードなのです。
「公的諸機能が政治的なものから単なる管理機能へと転化する問題、「政治的国家」に関する問題等々。とくに、誤解をまねく恐れのある後者の表現は、国家の死滅する過程をさしているのである。つまり死滅しつつ国家は、死滅の一定の段階では、非政治的国家と呼ぶことができるということを表現しているのだ。」329P・・・政治性をなくした国家なるものはありえないのです。「政治性をうしないつつある」国家という意味では? これさえも国家というネーミングは違和があるのです。政治が消滅する以前に国家は消滅していることー
「無政府主義者は、ほかならぬ革命を、その発生と発展の見地から、暴力、権威、権力、国家に対する革命の諸任務という見地から、見たがらないのだ。」329P・・・「権威」の原語からの確認の必要があるのですが、これは「革命党の権威」というところでの党の物神化と独裁論に結びついていくこと、ここからのとらえ返しの必要。信頼と権威は違うのです。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「・・・・・・プロレタリアートが、まだ国家を必要とするあいだは、それは自由のためにではなく、自分の敵を抑圧するために必要とするのであり、自由について語ることができるようになれば、すぐに国家としての国家は存在することをやめるのです。それゆえ、わたしたちは、(綱領のなかで)国家と書いているところはどこもみんな、フランス語の『コミューン』にぴったりの、むかしからある美しいドイツ語、『共同社会』[Gemeinwesen]という言葉で置き換えるように提案したいと思います。」531P・・・どこで、コミューンやソヴィエトや共同社会が、国家にすり替わるのでしょうか?
「エンゲルスは、「人民国家」が、「自由な人民国家」と同様にナンセンスなものであり、社会主義からの逸脱でもあるというそのかぎりにおいて、無政府主義者の攻撃は正しいものだと認める。」532-3P――(ベーベルへ)「国家は、階級支配に立脚する国家から人民国家へと転化されなければならぬ。」533P・・・プロレタリア国家も同じ、これは労働者国家も同じ、ただし、労働者国家を標榜する労働者への抑圧国家は存在してしまったのです。
「さて、国家の問題にもどろう。エンゲルスは、ここで、とりわけ貴重な三つの指摘をしている。すなわち、第一に、共和制の問題について。第二に、民族問題と国家制度との問題について。そして第三に、地方自治について。」535P
(エンゲルス)「およそこの世に確固不同なものがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級が、民主共和制という政治形態のもとにおいてしか支配権をにぎれないということだ。」537P・・・スターリン主義の下、真逆なことになってしまったのです。
「エンゲルスは、マルクスと同様に、プロレタリアートとプロレタリア革命の見地から、民主主義的中央集権制をば、単一にして不可分な共和国をば主張している。彼は、連邦共和制は例外的なもの、発展の障害となるものと見なすか、さもなければ、君主制から中央集権的共和制への過渡として一定の特殊的条件のもとでの「一歩前進」と見なしている。そして、これら特殊諸条件のなかでは、民族問題が全面に出てくる。」538P・・・民主主義と中央集権制はアンチノミーのなるのではないでしょうか? 民族自決権と中央集権制もー
「地理的条件、原語の共通性、そして何百年にもわたる歴史をもつイギリスでは、個々の小区域の民族問題などは「かたづけ」てしまっているかに思われるけれども、このイギリスでさえも民族問題は過去のものとなっていない明白な事実をエンゲルスは考慮に入れ、それゆえに連邦共和制を「一歩前進」と認めているのである。」539P
「エンゲルスは、この民主主義的中央集権制という概念を、ブルジョワ・イデオロギーや無政府主義者も含む小ブルジョワ・イデオローグが使っているような官僚主義的意味合いで理解しているわけではけっしてない。エンゲルスの考えによると、中央集権制とは、コミューンと地方とによる国家統一の自発的な防衛のもとで、それとあらゆる官僚主義、上からのいっさいの「指導」の文句なしの追放を結びつけるような広範な自治制を排除するものではけっしてないのである。エンゲルスは、国家についてのマルクス主義の綱領的見解を発展させて、こう言っている。/「……だから、統一共和国ということになるのだ。・・・・・・」539P・・・世界革命的な実現があれば国家ということの消滅に向かうこと。なぜ、統一共和国という概念が必要になるのか。反差別論的に対峙している最大のことは「国家主義」ということです。これは、地産地消というところも含めた地方自治からせめあがる、しかも農業というサブシステンスの産業の、現在農協という、機械や種や農薬・化学肥料というところから資本に収奪されていく構図を打ち破る協同組合的再編がいまこそ問われているのではないでしょうか?  民族差別ということも含めて、個別差別に関してはもし、前衛――後衛ということがあるとしたら、個別差別の民衆運動が前衛なのですが、その反差別運動は他の差別をとらえきれないという限界性があり、だから、差別総体をとらえ返すというところに党の存在意義があるのです。ですが、そもそもマルクス派が差別ということをとらえきれなかった歴史性が続けられているわけで、そういう意味では、個別差別をつなぎ、反差別運動を支える後衛党として、とりあえず位置づけるしかないとも言いえます。レーニンのこのあたりの主張は中央主権制を一部否定しているようにも読み取れます。
「連邦共和制は中央集権的共和制より自由という見解は間違えている。」340P・・・連邦の個々の共和制の中味によるから、当然のこと
「(エンゲルスの『フランスの内乱』三版<1991年版>の序文)「コミューンはそもそものはじめから、つぎのことを承認しなければならなかった。すなわち、労働者階級は、ひとたび支配権を手に入れるや、古い国家機構をそのまま運営していくことはできないこと。そして労働者階級は、たったいま獲得したばかりの支配権をふたたび失わぬためには、一方で、それまで彼ら自身の圧迫に利用されてきた古い抑圧機構をいっさい除去すると同時に、他方で、彼ら自身の代議員や官吏に対して、一人の例外もなく、いつでも解任しうるものであることを宣言し、彼らから自分自身を安全にしておかねばならないこと。これらこそ労働者階級が承認しなければならなかったことなのだ。……」/エンゲルスは、君主制のもとにおいてだけでなく、民主共和制のもとにおいても国家は依然として国家としてとどまること、すなわち、国家は公務員、「社会の従僕」、社会の諸機関を社会の主人に転化される基本的特性を保持していることを、いくたびとなく強調している。」543-4P――エンゲルスの引用に戻り、「この転化をふせぐために、コミューンは二つのたしかな手段を採用した。第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位には、普通選挙権にもとづいて選ばれた者だけを任命し、しかも選挙民の決定によっていつでも彼らを解任できるように法律で規定したこと。第二に、地位の上下を問わず、すべての公務員に他の労働者に他の労働者が受けとっている額と同額の賃金しか支払わなかったこと。・・・・・・」544P・・・同一賃金にするためには、そもそも労働ということ自体を問い直す必要があり、資本主義の下ではなしえないのです。それは資本主義経済の否定ということのなかでしかなしえません。しかるにネップということを導入すれば、この原則は適用されなくなります。
「資本主義のもとではとことんまで徹底的な民主主義など実現不可能だし、社会主義のもとではどのような民主主義も死滅するだろうから。これはちょうど、髪の毛がもう一本だけ少なくなったら禿げ頭になるかならぬかという、古い笑話に類する詭弁にすぎない。」545P「民主主義をとことんまで発展させること、このような発展の諸形態をさがし求めること、これら諸形態を実践によって検証すること等々、すべてこうしたことは、社会革命をめざす闘争を構成する諸任務の一つだ。一つ一つをとれば、いかなる民主主義も社会主義ももたらしはしない。けれども実生活のなかでは、民主主義はけっして「一つ一つとられる」ものではなく、他のものと「いっしょにとられる」ものであり、それは経済に対しても影響を与え、その改革を促進するとともに、逆に経済的発展の影響もこうむる、等々。これこそ生きた歴史の弁証法というものだ。」・・・ここでいう「民主主義」は支配の形態としての民主主義のことです。対等な関係で議論し決定していく「民主主義」は(それを「民主主義」と表現するかどうかは別にして)、必要だし、そのような関係は作り上げていくことです。また、エンゲルス的な弁証法の法則化批判はともかく、問題は官僚制をどう脱構築するかということ。国家は軍事的統治機構と官僚的統治機構というところにおいて、官僚的統治機構が必要としても、それができあいの官僚機構ではないというところにおいて、選挙制と解任性ということがあり、それがいかに可能になるのでしょうか? レーニンよりもトロッキーの方が現実主義的になってしまっていて、ネップも軍事組織の旧軍隊からの登用をするなかで、できあいの国家機構は使えないという原則をくずしてしまったー選挙制や解任制は、党独裁というところですでにくずれてしまっています。これはレーニンの外部注入論的前衛党論からきています。民衆の革命性に依拠できない中で、党独裁に至ったこと自体が問題なのです。当時の民衆の革命性は、保守的だからこそ革命的だというところで、一時的なことでしかなかったことこそが問題なのです。むしろローザが民衆の革命性に依拠しようとしていたのです。けれど逆に自然発生性というところで、きちんとした「策略」をたてえず、虐殺されてしまいました。。歴史の背理。今日的には多様な道筋から、社会変革の途を策っていくしかないこと、このことについては、「社会変革への途」で書き進めます。
「国家とは、階級支配をめぐる闘争で勝利を得たプロレタリアートに、遺産としてひきつがれる害悪なのに。勝利を得たプロレタリアート、コミューンがやったように、この害悪の側面を即座に切りとらざるをえないだろう。」346P
「民主主義は、少数者が多数者に服従するという原則と同一のものではないのだ。民主主義は、少数者が多数者に服従することを承認する国家、すなわち、一階級の他の階級に対する、住民の一部分の他の部分に対する系統的な暴力行使のための組織なのだ。」549P・・・レーニンは民主主義という概念を整理できていないのです。支配の形態としての議会制民主主義、民衆の「自己決定権」というところで機能する支配の形態としての民主主義と、それでも行政・立法・司法機構の選挙制や解任制度というときの民主主義をごちゃまぜにしています。だから中央集権制や党の独裁がもたらされたのです。選挙制や解任制を具体的にどうするのかというところで、そのことが問われたのに、そのことをスポイルしてしまいました。自己決定権は幻想であっても、無視はできないのです。
「しかし、われわれは、社会主義に向かって努力しつつも、その社会主義が共産主義へと成長転化するであろうこと、このことと関連して、人間一般に対する暴力行使の、ある人間の他の人間への服従の、住民の一部分の他の部分への服従の必要はいっさい消滅するであろうことを確信する。なぜなら、人間は、暴力なしに、服従なしに、社会生活の根本的諸条件遵守する習慣がついてくるだろうから。」549P
「マルクスのほうがエンゲルスよりも「国家びいき」であ」550Pるように見えるところがある、が、何を主題に語っているかによって違いが起きているのであって――「エンゲルスは、ベーベルに向かって、国家に関するおしゃべりなどまったくやめ、国家と言う言葉を完全に放逐して、綱領から国家という言葉を完全に放逐して、それを「共同社会」という言葉に置き換えるようにすすめている。」550P・・・これだと今日的課題になる反国家主義が出てこなくなります。
「エンゲルスは、国家について流行している偏見[ラッサールも、すくなからずこの偏見にかぶれていた]がまったくばかげたものであることを、はっきりとするどく、太い線でベーベルに示すことを課題にしていたのであった。一方、マルクスは、他のテーマ、すなわち共産主義社会の発展という点に関心を集中していたので、エンゲルスのとりあげているこの問題については、ことのついでに触れているにすぎないのだ。」551P・・・エンゲルスとマルクスの違いについてはもう少し検証が必要
「マルクスには、ユートピアをつくりあげたり、知ることができないことがらについてむなしい推測をめぐらしたりする気配は、ひとかけらもない。」551P・・・?
(マルクスの「ゴータ綱領」に関して)「だから、『現代国家』とは虚構の概念にすぎない。」552P・・・レーニンは、マルクスの『ド・イデ』における国家の共同幻想の件を読んでいなかったとされるのですが、ここに同じような内容があります。問題は、差別排外主義による国家への国民統合ということ、そこから当然出てくる、国家主義批判が出てこないという問題を押さえねばならないと思うのです(スターリン主義として現れた一国社会主義建設路線による覇権主義の現実)。レーニン国家論が抜け落としていたことーそこから出てくる暴力装置を粉砕するという単純な暴力革命論に至るのではー
(承前)「『人民』という言葉と『国家』という言葉とを千回結びあわせたところで、蚤の一跳ねも問題の解決には近づきはしないのだ。」552P・・・「人民」と「国家」はアンチノミー
「日和見主義者たちによって現に忘れさられていること、それは、資本主義が共産主義に移行する特殊な段階あるいは特殊な時期が、歴史上、疑いもなく存在しなければならぬ、という事情である。」552P・・・問題はそのスパンであり、その時期は民主主義が否定されるのかという問題なのです。この民主主義は支配の形態としての民主主義ではなく、民衆の意思としての民主主義
「以前には、問題は、つぎのように提起されていた、すなわち、プロレタリアートは自己の解放をかちとるためにはブルジョワジーを打倒し、政治権力を奪取し、みずからの革命的独裁をうちたてなければならぬ、と。/いまや問題は、やや異なった形で提起されている。すなわち、共産主義へ向かって発展しつつある資本主義社会から共産主義への移行は、「政治上の過渡期」を経過しなくては不可能であり、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない、と。」553P・・・すべての株は、というより生産手段の私的所有は廃止されます。株式会社そのものがなくなります。労働者管理による生産組織に改編されます。自分や自分の家族や対等な関係における集団が管理できない土地や建物の占有は認められないのです。そもそもブルジョワジーはいなくなります。だからプロレタリアートという概念はなくなるので、プロレタリアートの独裁などもなくなります。そこまで至る期間は短期間になります。そもそも、現在社会でも、プロレタリアートという概念自体が崩壊してきています。それに代わることとして、マルチチュードという概念が出て来ています。だから、「独裁」という言葉が使われるのなら、被差別民衆による反差別独裁となるのです。この場合、そもそも「独裁」という概念は使われなくなるでしょうープロレタリアートという概念は、労働力の価値によって分断されている民衆、そこにマジョリティの問題はあったので、そのマジョリティは食品汚染や環境汚染にさらされている住民という概念でも、それは被差別者という概念に、マルチチュードということで含まれます。「独裁」ということは政治的概念で、政治は廃棄されていくとしても、暫くは続き、マルチチュードという概念での運動は長く続いていきます。それこそが永続革命的文化革命なのです。
「資本主義社会が最も順調な発展をとげる条件があるばあい、この社会は民主共和制という形で多かれ少なかれ完全な民主主義がある。しかし、この民主主義は、資本主義的搾取という狭い枠でたえずしめつけられているので本質的には、少数者だけの、有産階級のための、すなわち金持ちだけの民主主義に民主主義にとどまっている。・・・」553P・・・この後にギリシャの奴隷制とかとさほど変わりがないという話が出て来ます。しかし、普通選挙権が確立している国においては、むしろ「自己決定」とか「自己責任」とかいうごまかしが出て来ます。レーニンの時代の民主主義は、「本質的には」(根源的には)変わっていないのですが、いまだに王制なることが存続している国があり、それはいろんな形での「共同幻想」へのとらわれから来ているのです。その最たることが国家の「共同幻想」へのとらわれと言いえることではないかと思われます。だから、国家主義批判とさまざまな差別主義的イデオロギーとどう対峙していくかが問われているのです。
「とるにたらない少数者のための民主主義、金持ちのための民主主義・・・・・・」554P
「貧乏人に対するこうした制限、例外、除外、妨害は、ちょっとしたことのように思われる。・・・・・・だが、これらもろもろの制限が総計されると、貧乏人が政治から、民主主義への積極的参加から排除し、おしのけることになるのだ。」554P・・・まさに巧妙な情報隠蔽・改ざん・操作ということの日本の政治が民主主義に何をもたらしているのかという現実
「マルクスがコミューンの経験を分析して、被抑圧者は抑圧階級のどの代表者が議会で自分たちを代表し、自分たちを踏みにじることになるかの決定を数年に一度だけ許される!」554P
「搾取者=資本家の反抗を打ち砕くことは、プロレタリアート以外のだれにもできないし、また、独裁以外のどんな方法によってもできないからなのだ。」555P・・・ロボットが第二次産業を担う事態になってきて、労働の位置づけが変わってきて、更に環境問題とか「住民運動」が出てくるなかで、労働ということの位置づけが変わってきているのではないかとも思えるのです。むしろ矛盾はもっと総体的に広がり、そこでの運動が起きている中で、こういう考えも少し変わっているのではと言いえます。
「抑圧のあるところ、暴力のあるところ自由はなく、民主主義もないこと、これは明白だ。」555P・・・これは抑圧ということへの論理であって、それに対抗して運動する立場での民主主義は必要―これを取り違えると大変なことになります。それを取り違えたのがスターリン主義です。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「プロレタリアートは、自由のためでなく、自分の敵を抑圧するために国家を必要とします。そして自由について語りうるようになれば、たちまち国家は存在しなくなるでありましょう。」555P・・・もし、必要となるならば(反革命クーデターは常道的に起きますから)そこで必要になるとすれば、それは軍事力であって、国家ではないのではないでしょうか?
「「国家は死滅する」という表現は、はなはだ選択の妙をえた言葉だ。というのは、この表現は、過程の漸進性も過程の自然成長性もあらわしているから。そして、習慣だけがこのような作用をおよぼすことができるし、また、疑いもなくおよぼすであろう。」556P
「もし搾取というものがなければ、もし人間を憤怒させ、抗議や蜂起を呼び起こし、鎮圧の必要を生み出すものがなに一つなければ、人間は自分たちにとって必要な公共生活の規制を遵守することなどには、かんたんに慣れてゆくからだ。」556P
「搾取者が人民を抑圧するためには、当然のことながら、きわめて複雑な機構なくてはその任務を遂行するわけにはゆかない。ところが、人民は、きわめてかんたんな「機構」のもとでも、いやほとんど「機構」がなくとも、たんなる武装した大衆組織[さきまわりして言えば、労働者・兵士ソヴィエートのようなもの]によっても、搾取者を抑圧することができるのだ。」557P
「最後に、共産主義だけが国家を完全に不必要なものにする。なぜなら、抑圧すべきものがだれもいない、つまり階級という意味で、住民の一定部分との系統的な闘争という意味で「だれもいない」からである。」――過渡的な必要性とその消滅「第一に、これをおこなうのに、抑圧のための特別な機構、特殊な装置は必要でないのだ。武装した人民自身が、簡単かつ容易にこれをやってのけるであろう。・・・・・・第二に、我々は、公共生活の規則を破る不法行為の社会的根源が、大衆の搾取、彼らの困窮と貧困にあることを知っている。この主要な原因が排除されると同時に、不法行為は不可避的に「死滅し」はじめるだろう。それがどれくらい急速に、そしてどんな順序で死滅するかは知らない。しかし、それが死滅するであろうことは知っている。そして、それが死滅するとともに、国家もまた死滅するであろう。」557P・・・レーニンは国家の過渡的必要性も書いているのですが、ここからはそれは国家でなくてもいいとしか読み取れないのですー
(マルクスの『ゴータ綱領批判』の引用)「・・・・・・権利は平等である代わりに、不平等でなくてはならないであろう。……」560P・・・ベーシックインカム(基本所得保障)でなくて、基本生活保障
「マルクスは、人間の避けがたい不平等をこのうえなく正確に考慮しているばかりでない。同様にまた彼は、正確に考慮しているばかりではない。生産手段を社会全体の共有財産に移す[ふつうの用語法によれば「社会主義」]だけでは、まだ分配の欠陥と「ブルジョワ的権利」の不平等を除去するものではないこと、この権利は生産物が「労働に応じて」分配されるかぎり、支配しつづけることを考慮しているのだ。」560P
(マルクス承前)「……共産主義社会の高度の段階では・・・・・・社会はその旗にこう書くことができるであろう、『各人はその能力に応じて、各人にはその要求に応じて』と」562P・・・そもそも能力という概念自体が、変換していくでしょうー
(いろいろな日和見主義者が)「社会主義を「導入」する等不可能などとしゃべるとき、彼らが念頭においているのは、まさに共産主義の高度の段階もしくは局面であって、こういう段階を「導入すること」など、だれ一人として約束しなかったどころか、考えたこともないのである。なぜなら、こういう段階を「導入する」ことなど、一般にできないことなのだから。」564P
「マルクスの鮮明の偉大な意義は、彼がここでも唯物弁証法を、すなわち発展の学説を首尾一貫して適用し、共産主義を資本主義のなかから発展してきたものとして見なしている点にある。」565P・・・後期マルクスは『資本論』草稿の中で、単線的発展史観から脱していました。「なかから」ではない共産主義的社会の研究もしていました。ここの「唯物弁証法」というのはエンゲルスが弁証法を法則としてとらえ、それの物象化からきているのではないでしょうか?――検証
「民主主義とは平等を意味する。平等をめざすプロレタリアートの闘争と平等というスローガンとが、どんなに大きな意義をもっているかは、平等を階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明白である。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するだけである。そして、いったん生産手段の占有に関する社会の全成員の平等、つまり労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から事実上の平等に向かって、つまり「各人は能力に応じて」という原則の実現に向かって前進するという問題が、必然的に発生してくる。人類がこの最高の目標に到達する途上でどのような段階を通過するか、どのような実践的方策を講じるかは、われわれは知らないし、知ることもできない。」566P・・・これは一票の平等、形式民主主義の支配の形態から抜け出せない政治を語っています。民主主義とは民衆を主体にした、民衆のための政治、たしかに、政治が消滅すれば民主主義という概念もなくなることです。レーニンのエンゲルス弁証法の物象化的展開「量は質に転化する」
「民主主義とは国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、民主主義とは、あらゆる国家と同様に、人間に対して暴力を組織的かつ系統的に行使することである。これが楯の一面である。しかし、他の一面では、民主主義とは市民間の平等の形式的な承認を意味し、国家制度の決定とその統治に対する全市民の平等な権利の形式的な承認を意味する。このことが、またそれで、つぎのことと関連してくるのだ。すなわち、民主主義は一定の発展段階で、第一に、資本主義に反対する革命的階級、つまりプロレタリアートを団結させ、この階級がブルジョワ国家機構――たとえそれが共和制的なブルジョワ国家機構でも――を、常備軍を、警察を、官僚制度を打倒し、これをこっぱみじんに粉砕し、地上から一掃し、それらを、やはり国家機構にはちがいはないが、より民主主義的な、人民全体の民兵化へ移行しつつある武装せる労働大衆という形の国家機構ととりかえることができるようにするのだ。/ここで「量は質に転化する」。すなわち、民主主義のこのような段階は、ブルジョワ社会の社会主義的改造の開始と結合している。もしほんとうにすべての人が国家統治に参加するならば、資本主義などもはやもちこたえられないだろう。そして、資本主義の発展そのものが、またそれで、「すべての人」がほんとうに国家統治に参加できるための前提条件をつくりだすのだ。」566-7P
「計算と統制」567P・・・資本主義は教育ということを通して革命を準備します。同時に国家主義や競争原理などを通して差別主義も身につけさせます。その幻想をどう解体していくかの道筋も示す必要があります。
「だが、資本家に勝利し搾取者を打倒したプロレタリアートが、全社会にあまなくおしひろげんとするこの「工場」の規律は、けっしてわれわれの理想でもなければ、終局目標でもないのだ。それは、社会から資本主義的搾取の醜悪さ、悪辣さを根こそぎ一掃するために必要な、そしてさらに前進するために必要な、一小段階にすぎないのだ。/社会の全成員が、もしくはすくなくとも社会の圧倒的多数が、自分自身で国家を統治することを学び、この仕事を一手に引き受け、とるにたらぬ少数者である資本家や、資本家的習癖をもちつづけたがっている紳士諸君や、資本主義によって骨の髄まで腐り果ててしまった労働者に対する統制を「軌道に乗せた」瞬間、その瞬間から、いっさいの統治一般に対する必要性は消滅しはじめる。」568P
「労働者は、政権を把握するや、古い官僚機構を粉砕し、一物も残さないほど根こそぎに打ち砕いてしまう。そして、これを労働者と勤務員からなる新しい機構で置き換える。彼らが官僚に転化するのを防ぐために、マルクスとエンゲルスによってくわしく探求された方策が即刻とられるであろう。その方策とは、つぎのようなものだ。/(1)(官僚の)選挙制だけでなく、随時解任制/(2)官僚に対しては労働者の俸給をこえない俸給を。/(3)すべての人が統制と監督の機能を遂行し、すべての人がある期間「官僚」となり、そのことによって、だれもが「官僚」になれなくなるような状態へただちに移行すること。」576-7P・・・(3)は共産主義の高度な段階
「ところが、カウツキーは、マルクスの「コミューンは議会的な団体ではなく、立法府と執行府とを同時に兼ねそなえている行動団体であった」という言葉を深く考えていないのだ。/カウツキーには、[人民のためのものではない]民主主義と[反人民的な]官僚主義とを結合しているブルジョワ議会制度と、プロレタリア民主主義、すなわち官僚主義を根だやしにする諸方策を即座に採用し、これら諸方策をとことんまで、つまり官僚主義を完全に絶滅するまで、人民のための民主主義を完全に実施するまで遂行することができるであろうプロレタリア民主主義との違いが、全然理解できなかったのだ。」577P・・・ここで二つの民主主義の違いが出てくるのですが、実際ロシア革命において、それが現実に区別化できていたのでしょうか? 古い「官僚制」の粉砕はなしえたのかの問題 中央集権制とプロ民主主義の関係 党の独裁へと進む動き
(パンネクック)「プロレタリアートの闘争は、たんに国家権力を奪取するためブルジョワジーに対しておこなう闘いではなく、国家権力そのものに対する闘争なのだ。」379P・・・バンネクックとレーニンの違い――レーニンは国家はとりあえず必要←? 今日的にはむしろ国家主義批判の必要
「マルクス主義者と無政府主義者との違いは、つぎの点にあるのだ。/(1)マルクス主義者は、国家の完全な廃絶を目標においてはいるが、この目標は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅へとみちびく社会主義が確立されたその結果として、はじめて実現可能なものとなることを認める。ところが、無政府主義者は、国家を今日明日じゅうにでも完全に廃絶してしまおうと欲するが、この廃絶を実現する諸条件をば理解しない。/(2)マルクス主義者は、プロレタリアートが権力を奪取したのち、古い国家機構を完全に破壊し、それに代えるにコミューン型の、武装した労働者組織からなる新しい国家機構をもってすることが必要だと認める。ところが、無政府主義者は、国家機構の破壊を主張しながらも、破壊したあと、プロレタリアートは何をもってそれに代えるか、プロレタリアートはいかに革命権力を利用するかについて、まったく漠然とした考えしかもっていない。彼らは、革命的プロレタリアートによる国家権力の利用をば、プロレタリアートの革命的独裁をば、否定しさえする。/(3)マルクス主義者は、現代国家を利用することによって、プロレタリアートに対し革命の下準備にとりかかるよう要求する。ところが、無政府主義者は、これを否定する。」580P・・・なぜ武装した労働者組織が国家機構なのでしょうか?
「中央集権制は、古い国家機構をもってしても、新しい国家機構をもってしても、実現可能である。もし労働者が自発的に自分の武装力を一つに統合するならば、これは中央集権制であろう。しかし、この中央集権制は、中央集権的国家機関、常備軍、警察、官僚の「徹底的破壊」に基礎をおくであろう。」581P・・・破壊したものを、内容が違うとしても、なぜ同じ形態でつくるのか、意味不明。形態が内容を規定するという側面を押さえ損なっているのでは? ロシア革命からの検証も必要です。
「いま問題になっているのは、反政府派のことでも政治闘争一般のことでもない。革命そのものだ。革命とは、プロレタリアートが「行政機関」とすべての国家機関を粉砕して、それを武装した労働者からなる新しい機関で置き換えることにある。」582P・・・新しい機関がなぜ国家なのでしょうか?
「革命とは、新しい階級が古い国家機関の助けを借りて命令し統治することではない。古い国家機構を粉砕し、新しい国家機構の助けを借りて、命令し、統治することでなければならないのだ。」582P・・・なぜ国家機構にこだわり続けるのか? 軍をもち中央集権制で外部が存在するという設定からなのでしょうか?
「マルクスが、ほかならぬコミューンを例にとって示したように、社会主義のもとでは、官僚の選挙制を実施するだけでなく、さらに彼らに対する随時の解任劇をも実施し、さらにまた彼らの労賃を労働者の平均水準まで引き下げ、さらにまた議会制機関を「立法府であると同時に執行府でもある行動的機関」で置き換えることを実施するにつれて、役員は「官僚」であることをやめ、「官吏」であることをやめるのだ。」583P・・・三つのことがあれば官僚主義ならないけれど、問題はどのようにして三つを実現するのでしょうか?



posted by たわし at 00:46| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする