2021年01月17日

TBS報道特集

たわしの映像鑑賞メモ047
・TBS報道特集20.1.9 17:30-19:00
特番で、コロナ対策に成功している国の一つの台湾のことを報道していました。コロナ対策が巧く行ったのは、政治に肝心なこととしての徹底した情報公開による政府と民衆との信頼関係ということでした。現場の指揮にあたっている陳時中・衛生福利部長(衛生福利相)が毎日質問がなくなるまで記者会見に応じ、自らの責任感において、時には涙しながら答える、というような映像を流していました。この感染症対策で、マスクを売っているお店情報でITを有効に使っているのですが、そのシステムを作ったIT担当大臣はトランスジェンダーのオードリー・タンさんで、これも民主主義の肝要なひとつの「多様性を尊重する」ことらからきていて、蔡英文女性総統の下でなしとげたこと。それらが、台湾の「ひまわり運動」の流れからきているのではないかというような話も出ていました。
 コロナ感染が起きたときに、日本は真逆な政治が進んできていました。安倍政権は、現首相になった菅官房長官と共に、内閣人事局による官僚支配による忖度政治を進めながら、特定秘密保護法、戦争法(安全保障関連法)を強行採決し、共謀罪まで作りました。
 そして、感染症対策も、経済とオリンピックのことに固執し、感染症対策の医療的なことを基礎にして押さえ込まないと、経済も破綻するという、イロハも分からない政治を進め、判断を誤り、感染の波がだんだん大きくなるという事態になっています。菅首相は「一年間で学んだ」と言っていますが、学んだどころではなく、そもそも感染症対策の基礎も未だ押さえていないことが露呈したのです。早期対策、最初に大きな網をかけるということと、真逆の後手・後手の追加対策いうことを繰り返しているのです。
 そして、もつと恐ろしいことは、きっと周りから、「シブ顔の官房長官」から首相になったときに「もっと笑顔を」と助言されたのでしょうか? 感染が広まる最中のインターネット番組で、「ガースーです」と冗談を飛ばしたり、報道ステーションに質問し、「今後感染が広まったときにどうしますか?」と質問された際に、ごまかしの決まり文句の「仮定の質問には答えられません」(註1)と、したり顔の笑顔で答えを返したりするのを見ると、失政の責任からする反省など微塵もなく、自分の失敗で被害を与えることに涙する台湾の担当相とは真逆の、そもそも人間としてのまっとうな感性さえ持ちえていないのだと思わざるをえません。そして、忖度専門家の忖度発言に責任を転化し、小池都知事との間で責任のなすりつけあいをする、どうしようもない政治を行っています。とうとう二度目の緊急事態宣言の発動になったのですが、後手・後手の対策やイロハも分からないような対策、感染がおさまってからやるはずだったGoToキャンペーンをまだ下がりきらないうちに始めて感染を拡げ(註2)、感染対策をゆるめるなどの失政のお詫びから、まず始めることです。もっとも有効な手段は、「ご飯論法」の加藤官房長官をはじめ、ごまかしの政治しかやってこなかった政治家たちを一掃するしかありません。
 丁度、この番組のときに、トランプが煽動した連邦議事堂の占拠事件が起きました。この番組で台湾の「ひまわり運動」の議事堂占拠も流していました。前者はファシズム的クーデターですが、後者は直接民主主義運動という真逆なことです。この「ひまわり運動」は、結局議事場の占拠を解かれ「敗北した」とされ、日本で「アベ政治を許さない」という一連の運動が起きたときに、香港の雨傘運動の「敗北」とともに、その教訓として、「実力闘争はしない」と語られていたのですが、台湾のコロナ対策の成功が、民主化というところからがつながっていたとしたら、それは「敗北のなかの勝利」と言いえることではないでしょうか?
 日本には、一揆的な運動はあったのですが、民衆の力で体制を変革するような運動はいままで起きていません。どのような回路でそれを作り出せるのか、考えていく必要があると思っています。
(註)
1 これは詭弁の類いのことです。そもそも、科学とは、法則という仮説をたてて、それを実証していくという方法をとるわけで、仮説なしに科学などありえないのですが、仮定法の問題性があるにしても、そもそも、想定なしに政治などなりたたないわけです。「仮定の話はしない」というなら、「想定」というところはやっているわけで、質問者はそこで攻めていけることだと思います。
2 「GoToトラベルで感染が拡がったという科学的根拠はない」ということを忖度専門家の言葉尻を引用して、菅首相は言っているのですが、「GoToトラベルでは、感染が拡がらないエビデンスもない」もないわけで、そもそもこれは菅政権が継承するとした安倍首相が詭弁に使った「悪魔の方程式」では、「ないという証明はできない」のです。そもそも、何ら実証しようとしないで、勝手なごまかしの「論理」――詭弁を弄しているにすぎないことです。



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NHKGテレ「NHKスペシャル 患者が“命を終えたい”と言ったとき」

たわしの映像鑑賞メモ046
・NHKGテレ「NHKスペシャル 患者が“命を終えたい”と言ったとき」2020.12.27
テレビの番組欄には「命の終わりを望む患者 そのとき医師は家族は 京都ALS事件の衝撃 命をめぐる葛藤の記録」とありました。NHKは京都ALS嘱託殺人事件を追っているのですが、それを医療の側から、とりわけ「鎮静」という、緩和医療と「安楽死」の境界線のようなことをとらえ返した番組です。
SNSで、この番組について事前にコメントしていたひと、わたしのSNSの「友達」は「障害者運動関係者」がほとんどなので、どういう番組になるか不安を訴えていました。途中、顔をしかめながら観ていたのですが、一応最後は、「生ききるということに向かい合う」ということでまとめていたので、それ自体は「生ききる」側に傾いているのですが、やはり、マスコミの両論の併記の中立性で、そうなると、だいたい世論調査にでている。「8割のひとが延命処置をもとめない」というところに引きずれるのではないかと思ってしまいました。
そもそも「葛藤」ということが、障害問題を考えてきた立場から分からないのです。「患者に引き込まれる」という話が出ていたのですが、医療の「ひとを生かせるのが医療で、死なせる医療など医療の存在矛盾だ」ということで、余計なことを考えないで、医療の論理に徹すれば、迷いとか葛藤とか生じることではないのです。まあ、医療という空間は真空空間ではないので、結局「世間」に拡がった意識に引きずられたりします。吉本隆明というひとが「自立」という概念を突き出していました。わたしは吉本さんに余り共鳴はしていないのですが、それでも「自立」の概念は使ええて、この社会の「命の軽視」ということから「自立」した考えをもつことを主張できます。だから「余計なことを考えざるを得ない」というところでは、もっと徹底的に考えることから「自立」を求めていくしかありません。それはとりわけ「障害者運動」が突き出していたことをとらえ返していけば、それが可能になるのです。それはイギリス障害学の「社会モデル」とか、日本においても、「青い芝の会」が突き出したこととか、「障害者運動」が突き出した優生思想批判のことを是非押さえて欲しいと思うのです。わたしはなぜ、医療従事者がなぜ迷いや葛藤に陥るのか、分からないのです。
(追記)
ただし、そもそも障害を巡る議論自体の混乱も起きています。その例は、障害モデルを巡る議論があります。イギリス障害学の「障害の社会モデル」――「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁である」というフレーズで示しえます――が出てきて、「障害者」に開き直り方の途を示しました。ですが、そもそもこれは医学モデルのアンチテーゼ的な提起で、煮詰められていませんでした。ですから、揺り戻しや転換のやりきれなさも出てきました。それは、「障害者」の表記を、‘障がい者’‘障碍者’という表記に置き換えるひとが出ていて、そういう置き換えをするひとは「社会モデル」を知らないひとだという提起が出ている中でも、以前として、そのような表記が出続けています。そのようなことにもその混乱が示されていました。
この障害のモデルの話、わたしが『反障害原論――障害問題のパラダイム転換のために』世界書院2010で、パラデイム転換論として転換をなしきろうとしてきたこと。このとき、そもそもアウトラインを示していたし、不備も自覚して、とりあえず「社会モデル」への転換を提起していたのですが、そもそも直裁に、「障害関係論」として突き出すべきだったと反省しています。そのことを、今『障害関係論原論』としてまとめようとしています。そのような理論的な深化と広がりのなかで、葛藤や迷いのようなことから脱していくことが、今改めて必要になっています。

posted by たわし at 18:55| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積再論』

たわしの読書メモ・・ブログ551
・ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積再論』岩波書店(岩波文庫)1935
 ローザの学習16冊目です。ローザ自身の著作で、経済学書6冊目。
これはローザの全集原書で、『資本蓄積論』とセットにして出された著作、岩波文庫では別になっていて、この書の存在を知り古本で新しく購入して読んだ本です。これも随分前の発行で、旧漢字体の本、原語読み「ルクセンブルク」の最後がまだ英語読みの「グ」になっています。『資本蓄積論』の出版後のローザへの批判への反批判として出された書で、『資本蓄積論』のわかりやすい版としても位置付けられているようです。
さて、最初に目次を示しておきます。旧漢字体や旧かな使いが多いので、そこは一応新漢字体、かな使いで打ち込んでいます。
訳者例言
序(編者)
一、 問題の本質と亜流への反批判
二、 オットウ・バウエルへの反批判
一、 バウエルの表式操作と方法
二、 バウエルの人口理論
三、 バウエルの「人口」とは「労働者人口」である
四、 バウエルとマルクスとの対質
五、 バウエルの帝国主義論
 付録、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』の批評(エックシュタイン)

この著の「一、問題の本質と亜流への反批判」が、まさに『資本蓄積論』の入門書的な位置づけがされている、わかりやすい版になっているようなのです。批判への反批判としてさまざまなひとのことを取りあげています。その批判の最後に、「二、オットウ・バウエルへの反批判」でとりあげるオットウ・バウエルへの反批判をなし、同時に「付録、ローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』の批評(エックシュタイン)」で取りあげられているエックシュタイン批判がなされています。このひとたちは、どうもオーストリア・マルクス主義としてとらえられ、ドイツ社会民主党の中央派といわれるひとたちとつながっているようなのです。
「二、オットウ・バウエルへの反批判」は、オットウ・バウエルへの反批判の詳細。オットウ・バウエルは人口が資本蓄積を規定していくという押さえ方をしています。それに対して、ローザはそれを逆転させて資本蓄積が人口を規定していくというようなとらえ方をしています。バウエルのとらえ方は、ここでは出て来ないのですが、マルサス的なとらえ方です。どちらにしても因果論的なことで、因果論を近代知の地平として批判する(わたしが共鳴している)廣松理論の立場からすると、相作論的なところでの規定の主導性の問題として押さえ直すところです。このあたりはマルクスの唯物史観の「存在と意識の関係」を、規定の主導性として押さえ直す作業に通じることになります。何が、問題になっているのかというと、『資本論』第二巻の拡張再生産の表式をローザが矛盾している、この表式は定立しないと批判していることがあるのです。そもそも、『資本論』は、マルクス自身は病で執筆で半ばで書き上げられず、エンゲルスがマルクスの草稿とその指示を踏まえて編集して一応完成させたのです。それを、ローザはいろいろ不備のある未完の書として押さえています。それは、よく言われる、「(時代制約的なこともふくめて)マルクスには「帝国主義論」がない」と言われていたことにつながることです。その後、「さまざまな「帝国主義論」が出ています。レーニンの『帝国主義』は有名ですが、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』も「帝国主義論」になっています。要するに、「二、オットウ・バウエルへの反批判」、マルクスの拡張再生産の表式は、商品の販路(需要の拡大)をどこに求めるのかというところで、成立しないとローザは批判しています。その成立するかのような解答の一つが、バウエルの「二、オットウ・バウエルへの反批判」の「二、バウエルの人口理論」で問題になっている「人口増」なのです。そこで、ローザが批判しているように、マルクスの理論からしても、成立しません。ちなみに、バウエルは、マルクスの拡張再生産の表式は有効で、帝国主義的収奪はそれに上乗せしているだけだという批判をしています。ローザの主張は、商品の販路(需要)がない限り拡大再生産が成り立たないとしています。オットウ・バウエルの「人口増」以外にもいろいろ考えられるかもしれません。たとえば、イノベーションによる新しい商品の創出とかあるのですが、それも、そもそも労働者は、最低限の賃銀に落とし込められるというところでの、新しい欲求が起きようがない、資本家とその伴食者がそれを使うと再生産の資本が消費されます。そこで、ローザが指摘するのは、「外部」です。
そのひとつとして非資本主義社会という「外部」があります。これがローザの「帝国主義論」になっています。その「外部」は、ローザが『資本蓄積論』の「第二十七章 自然経済にたいする闘争/第二十八章 商品経済の導入/第二十九章 農民経済との闘争/第三十章 国際借款/第三十一章 保護関税と蓄積/第三十二章 資本蓄積の領域としての軍国主義」で、とりあげているところです。
さて、「外部」という概念。当時の植民地支配ということが焦点になっていたのですが、現在的なポストコロニアリズムの時代においては、公害企業の輸出や環境破壊の進行、労賃の格差というところでの資本輸出による収奪的搾取等が進んでいます。また、世界銀行やODAなどを通じた貸し付けなどで、一国内で食を維持していたところに資本主義経済を持ち込み・取り込み、地域の食を支える農業を破壊する中での先進的資本主義国のための単一作物のプランテーション的農業を創出、そのことによる飢餓が生み出される、また負債を通じたその国の経済破壊などが進んでいます。それらのことは、「後進国」のみならず、自然も「外部」としてその収奪、すなわち、「内部」の「外部化」ということ自体が進んでいます。それは未来の生きる環境を破壊するという未来世代からの収奪という事態も進んでいます。
それらのことなしに、拡大再生産を求める悪無限的利潤の追求を行う資本主義はなりたちえないことになります。すなわち、継続的本源的蓄積論なしには資本主義は継続し得ないとなります。
 このことから、わたしがなぜ、ローザの『資本蓄積論』とりわけ、継続的本源的蓄積論に留意しているかという問題にリンクしていきます。そもそも現在社会の矛盾はほとんど資本主義的矛盾としてあるのですが(註)、それでも資本主義が延命していく構造はどこにあるのか、そのことを押さえた上で、どう資本主義を廃棄できるかということを考えているからです。そこで、ローザの「外部」を読み解く作業として「差別」ということをキーワードにして読み解く作業をしています。わたしは、ローザに出会う前に、そもそも差別形態論として、差別の形態各論として「抹殺/隔離(分離)/排除/抑圧/融和/同化」という概念を出していました。継続的本源的蓄積として現れてくることを、ひとつひとつこれらの概念も用いて分析していく必要があると考えています。
 もうひとつ、ローザのマルクス批判は、第一巻の単純再生産の表式でも、貨幣ということをマルクスが二分類の中で、生産手段生産の方に入れたことを、ローザは、三つ目の別の様式を作ることとしたことがあります。ただし、こうすると、マルクスの生産手段の生産と消費財資料の生産がリンクしていたことが、貨幣の生産はリンクしなくなります。
貨幣を生産手段の生産に入れるというのは、貨幣の流通手段と支払い手段という側面では、事務費としては、まさに、生産手段の生産になるのでしょうが、触媒的にしか機能しないという意味で、それをどう扱うのかという問題、表式的には表せるのかという問題が出て来ます。ただし、貨幣の蓄積手段としては生活資料としての奢侈品の宝石と同じ扱いになります。そこで、ローザは別扱いとして第三表式を作ったのでしょう。ですが、それだと表式同士の関係が出てきません。
そもそも、表式は拡張再生産の表式で終わっているわけではなく、固定資本と流動資本の表式、とか利潤率の表式とかに進んでいったわけで、マルクスは、そのあたりをずっと進めていたのですが、帝国主義的な収奪の構造をどう表式化していくかというと、マルクスは、そこまでできていません。ローザも『資本蓄積論』で表式を使ってマルクスの論攷を追っていたのですが、この著では、表式は問題ではないと断念しています。
 さて、残る問題は、マルクスの拡張再生産の表式はローザがいうように誤りと断定できることなのか? ということです。これは前の『資本蓄積論』の読書メモで書いたように、マルクスの「抽象化」というところで、ここでは外部の問題を捨象したということで、後に、「外部」の問題も入れた表式を書ける可能性があったのか? というとらえ返しになります。ただ、そもそもまだ「帝国主義」的なことが熟成しない時代に「帝国主義論」が可能だったのかという問題もあります。『資本論』の中には「帝国主義論」的なことの萌芽はあったと押さえています。
わたしはそもそも運動というところで、読書――学習をしているので、マルクスが何を書いているのかという訓詁の学的ことは、これ以上の論考はやりえません。ローザの「継続的本源的蓄積論」の重要性ということを指摘してこのメモを終えます。
(註)
 例えば、被部落差別を封建遺制というとらえ方をするひとがいました。しかし、それは資本主義的に組み込まれているということで、現在的には、私有財産制を基礎にした家柄意識という形で「新身分制」ともいうべき体制が作られてきています。



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ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積論 上・中・下巻』

たわしの読書メモ・・ブログ550
・ローザ・ルクセンブルグ/長谷部文雄訳『資本蓄積論 上・中・下巻』岩波書店(岩波文庫)1934
 ローザの学習13〜5冊目です。ローザ自身の著作で、経済学書3〜5冊目。
これは再読です。随分前の発行で、旧漢字体の本、原語読み「ルクセンブルク」の最後がまだ英語読みの「グ」になっています。ローザの主著。ここから、反差別論のキー概念になる「継続的本源的蓄積論」が生まれたとも言いえる著作です。ローザへの批判で、ローザがマルクスの『資本論 第二巻』拡大再生産論の批判をしているところを巡る論争があります。マルクスの段階を追った抽象化の中での「上向法」的展開をとらえていないというローザ批判はあるにせよ、そのあたりが「マルクスには帝国主義論がない」と批判されていることにリンクする面があります。すなわち、「マルクス―エンゲルスには、資本主義の延命としての帝国主義ということがきちんと押さえられていなかった(一応の押さえはあります)」という批判も出ています。そこから、レーニンの『帝国主義論』もローザの『資本蓄積論』も書かれています。ただ、そこから、現在的には、グローバリゼーションという形でのポストコロニアリズムという展開があり、ここでは、植民地支配からの独立を多くの国・地域が果たす中での、世界資本主義の分析として、レーニンの『帝国主義論』ではなくて、ローザの『資本蓄積論』から出た継続的本源的蓄積論という処から読み解いていく流れが形成されてきています。ネグリ/ハートの『<帝国>』もそのような流れから出てきています。しかし、ネグリ/ハートも「国民国家」(国家主義の持つ意味とそれへの批判)というところの押さえや、マルチチュードという概念の突き出しにおいても、いまひとつ、反差別というところでの押さえが希薄になっています。そのあたりを、もうひとつ押さえ直す作業をしていく作業が今問われているのだと思います。
さて、経済学的な学習としては、マルクスの『資本論』の再読と『剰余価値学説史』(これはわたしは未読)と付き合わせて、しかも、マルクスの『資本論草稿』(一部を除いて未読)も読み込みながら、細かいノートをとっていくことなのですが、そこまでやる余裕はわたしにはありません。とりあえず、ローザの『資本蓄積論』を反差別論――共産主義論的意義としての押さえる作業を軸にして読み解いていきます。
まず、全体の目次を出しておきます。旧漢字体や旧かな使いが多いので、そこは一応新漢字体、かな使いで打ち込んでいます。
上巻
序文
第一篇 再生産の問題
 第一章 研究の対象
 第二章 ケネーおよびアダム・スミスにおける再生産過程の分析
第三章 スミスの分析の批判
第四章 マルクスの単純再生産の表式
第五章 貨幣流通
第六章 拡張再生産
第七章 マルクスの拡大再生産表式の分析
第八章 マルクスにおける困難解決の試み
第九章 流通過程の視角から見た困難
中巻
第二篇 問題の歴史的叙述
第一論戦 シスモンディ――マルサスと、セイ――リカアド――マカロックとの間の論争
第十章  シスモンディの再生産理論
第十一章 マカロック対シスモンディ
第十二章 リカアド対シスモンディ
第十三章 セイ対シスモンディ
第十四章 マルサス
第二論戦 ロードベルツスとフォン・キルヒマンとの間の論争
第十五章 フォン・キルヒマンの再生産理論
第十六章 ロードベルツスの古典学派批判
第十七章 ロードベルツスの再生産の分析
第三論戦 スツルーヴェ――ブルガコフ――ツガン・バラノフスキー対ウォロンツォフ――ニコライオン
第十八章 新版における問題
第十九章 ウォロンツォフ氏と彼の「過剰」説
第二十章 ニコライオン
第二十一章 スツルーヴェの「第三者」と世界の三大国
第二十二章 ブルガコフと彼によるマルクスの分析の補足
第二十三章 ツガン・バラノフスキー氏と「不均衡」説
第二十四章 ロシアの「合法的」マルクス主義の終焉
下巻
第三篇 蓄積の歴史的条件
第二十五章 拡張再生産表式の諸矛盾
第二十六章 資本の再生産とその環境
第二十七章 自然経済にたいする闘争
第二十八章 商品経済の導入
第二十九章 農民経済との闘争
第三十章  国際借款
第三十一章 保護関税と蓄積
第三十二章 資本蓄積の領域としての軍国主義

さて、各巻の押さえと篇・章に沿った押さえ、簡単な切り抜きメモに入ります。マルクス派の経済学書としては、一応『資本論』が前提としてあるので、それに沿ったローザの論攷は、読み流しているので、それに関してのメモは少なくなります。ローザは、マルクスを教条主義的にはとらえず、自らテキストクリティークする形で、『資本論』も『剰余価値学説史』も読み込んでいるので、その部分をとりわけ、わたしなりのとらえ返しをします。
上巻
序文
第一篇 再生産の問題
上巻・第一篇は問題のありようを展開しているところです。マルクスの『資本論 第二巻』、これは三巻とともに、マルクスは病の中で完成し得ず、マルクスは書き上げることを断念して、草稿と指示メモなど残していて、それを元にして、エンゲルスが編集したのですが、そもそもマルクス自身も拡張再生産論の論難を感じていて、拡張再生産した商品の販路(需要)はどこにあるのか、そのことが拡張再生産論の表式に書かれていないという問題です。これは、マルクスの第一巻の商品論の書き方からすると、第三巻や別の巻でまさに、「帝国主義論」として展開することで、それをレーニンやローザが書いたのです。これは前述したこと。アウトラインを押さえたところで、各章に入ります。ざっとの過程的論考として書き置きます。
第一章 研究の対象
需要――供給の問題、一致するとしたら価値と価格の一致22P・・・論理的抽象
数式の詰め26P・・・これには更にもう少し詰めが必要だと思っています。
拡張再生産の条件28-9P
  拡大再生産の可能性については、『資本蓄積再論』で、オットウ・バウエル(オットー・バウアー)への反批判の中で出てくる人口論の問題とか、イノベーションとか、いろいろ出てくるのですが、すでに、マルクスの理論、競争のなかでの利潤率の低下の法則の中でその批判ができるのですが、そもそもなぜ資本主義が現在的に延命し得るのかを、押さえ直す必要があります。その一つがグローバリゼーション論なのですが、そのことは、逆に現代革命論として押さえてゆく作業にもなります。
第二章 ケネーおよびアダム・スミスにおける再生産過程の分析
古典的経済学の押さえ
第三章 スミスの分析の批判
「リカアドが、ブルジョア経済に関する彼の一般的自然的な観方に相応はしく、価値を生むということをも、人間労働の・すなわち個々人の個別的具体的な労働の・自然的な一性質だと考えた点にある。」62P・・・マルクスの物象化概念からの批判が必要
「はじめてマルクスは、価値のうちに、一定の社会的諸条件の下で生ずる或る特殊な社会的関係を認識し、かくして、具体的個人的労働および無差別的社会的労働という商品生産労働の両方面を区別したのであって、・・・」63P・・・ローザはマルクスが「抽象的人間労働」と展開しているところを、「無差別的」という書き方をしています。ローザには、マルクスの「抽象的」という概念を押さえていないのでしょうか?
「マルクスは、資本主義経済の謎をとくために、古典派学者とは反対の演繹法をもって、すなわちブルジョア的生産方法の人間的正常性に対する信仰をもってする代りに、それの歴史的一次性への洞見もって、研究に着手せねばならなかった。すなわち彼は、古典派の形而上学的演繹法を、その反対物たる弁証法的演繹法に顛倒せねばならなかったのである。」64P・・・「上向法」といわれていることともリンク
第四章 マルクスの単純再生産の表式
「資本主義的生産の主要な特徴を、すなわち剰余価値の創造および獲得こそは資本主義的生産の本来の目的であり、推進的動機であるという事実を、表はしている。」78P
「単純再生産なるものが、ただに資本主義的生産の立場からしてのみならず、文化的発展一般の立場からしても、一の仮構にすぎないことを、証明するのである。この仮構そのものだけを正確に――表式において――表象するためにも、吾々は、その前提として、それ自身単純再生産には極限されえない・むしろすでに拡張再生産の方向をとった・過去の生産過程の結果を仮定せねばならぬ。」96P
 固定資本の補填の問題「その資本は、年々必要とされるよりも遙かに多くの機会を生産するであろう、というわけは、この消耗は、一定部分は観念的に存在するのであり、そして実在的には、ある一定程度の年数がたった後ちに初めて現物で填補される筈だからである。」99P・・・「観念的」は「抽象的」とも言いえるところ、「抽象的」がここでもない。
「社会は時々、固定資本の大投下をなすために、全体としての単純再生産の前提の下ですらも、周期的に拡張再生産を行わなければならぬのである。」100P・・・固定資本の填補は必ずしも拡大再生産の必要性を生み出さないのでは? 分割的に商品価値の中に織り込むというマルクスの表式。
第五章 貨幣流通
マルクスは貨幣の生産を生産手段の生産Tに含めていたけれど、ローザはVとして、T、Uに関係ないこととして別立てにした112P・・・貨幣は化学反応における触媒的役割では?
マルクスの原理@具体的有用労働と抽象的人間労働A不変資本――生産手段の生産vs可変資本――生活資料の生産120P
スミスとリカアド――ブルジョア的視野121P
「(ケネー)『経済表』と『資本論』第二巻のおける再生産様式とのあいだには、ただに時間的にのみならず、内容的にも、ブルジョア経済学の栄枯盛衰が横たわっているのである。」122P
第六章 拡張再生産
「剰余価値の一部分――しかも益々増加する一部分――を、資本家階級の個人的消費に・または・蓄蔵に・充てる代りに、生産目的に充てるということ、これこそは、資本主義的生産諸関係の下での拡張再生産の基礎である。」124P
第七章 マルクスの拡大再生産表式の分析
社会主義社会における拡張再生産154-8P――社会主義社会においては、窮乏から出発するのではないかぎり、拡張再生産は必要ない、労働を減らすか欲望を減らすかという問題はあるとしても
需要はどこから生じるか?159P――資本主義の外部をとりこんでいく・・・外部がなくなったとき、グローバリゼーションの今日的行き詰まり。競争原理による悪無限的利潤の追求の問題を押さえること。
販路(需要)が必要167-8P――植民地、外部
第八章 マルクスにおける困難解決の試み
蓄積機能としての貨幣169P
「蓄積問題においては、重要なのは、貨幣がどこから来るかということではなくて、蓄積された剰余価値から生ずる追加生産物に対する需要はどこから来るかということである。」182P
 金生産193P――資源の収奪・・・本源的蓄積とのリンク
第九章 流通過程の視角から見た困難
この章のリード文「分析がゆき悩んだのは、マルクスが問題を、「貨幣源泉」に関する問題という間違った形式で解答しようとしたからである(?)。しかし実際に問題なのは、事実上の需要であり、商品の使用であって、その支払のための貨幣源泉ではない。」194P
「だから問題は、剰余価値を実現するための貨幣は何所からくるか? ということではなくて、剰余価値に対する消費者は何所にいるか? ということでなければならない。」200P・・・182Pとリンク
「だが、かように提起された問題は、謂はゆる「原始的蓄積」(本源的蓄積)すなわち資本の歴史的発生に関する章に属するのであって、流通過程ならびに再生産過程の分析の埒外にあるのである。」204P・・・植民地支配の問題も単に経済ではなくて、政治の枠組みからとらえられる。単純――拡張再生産と継続的本源的蓄積。
「ただ二つしか存在しないこれらの社会階級以外での剰余価値の実現は、必要であると同様に不可能なように思われる。資本の蓄積は迷宮にはいった。『資本論』の第二巻では、吾々はどうしても問題の解決が見出せない。」210-1P・・・『資本蓄積論』の原点的疑問。冒頭に書いた内容。
「何よりもまず、『資本論』の第二巻は完結せる著作ではなくて、言葉なかばで中断された原稿だった、という事情が顧慮されねばならない。/殊に第二巻の最後の数章は、その外形を見ただけでも、それらは、読者を啓発するために仕上げられた結果ではなくて、むしろ、この思想家自身の理解のための覚え書だということがわかる。」211P
「かくて、蓄積という他の問題、すなわち、資本化の目的をもってする剰余価値の実現は、後方におしやられて、ついにマルクスによっては殆んど手をつけられなかったのである。」217P
中巻
第二篇 問題の歴史的叙述
この三巻本は古本で買って、中巻にだけ帯が付いていました。そこに「資本蓄積の問題は過去の経済学者たちによってどのように取り扱われてきたのか、三つの論争を取りあげて追究・批判する。」とあります。これは、マルクスの『剰余価値学説史』と重なる内容になっています。実際マルクスがどのように展開しているのか、積ん読したままで、マルクスが他の処で展開している以上は、確かめえていません。
第一論戦 シスモンディ――マルサスと、セイ――リカアド――マカロックとの間の論争
これは初期の拡張再生産の不可能性――不要性と可能性――必要性を巡る論争
第十章  シスモンディの再生産理論
冒頭リード文「資本主義的秩序の精神性にたいする最初の強い疑いは、一八一五年および一八一八――一九年における、イギリスの最初の恐慌の印象ののもとに、ブルジョア的経済学において頭をもたげた。」5P
「しかし、たとえばロシアのマルクス主義者イリインの如き、シスモンディの後年の批評家たちが、総生産物の価値分析におけるこの根本的誤謬を指摘することによって、シスモンディの全蓄積理論を維持されないものとし、「馬鹿(ママ)らしいもの」として、えらそうな嘲笑をもって片づけするものとして信じたとすれば、それによっては彼らはただ、シスモンディが重大視した本来の問題に彼等自身がまったく気づかなかったことを証明したにすぎない。」30P・・・シスモンディはマルクス以前の社会主義的理論家のひとり
 シスモンディの蓄積不可能性、セイ――リカアド――マカロックの無制限の可能性。いずれも不変資本を度外視30-1P
第十一章 マカロック対シスモンディ
冒頭リード文「ヨーロッパにおける資本支配の容赦なき拡張にたいするシスモンディの予言者(「カッサンドラ」のルビ)的叫びは、彼の相手として、三方面から激しい反対論、すなわちイギリスではリカアド学派、フランスではスミスを浅薄化せるJ・B・セイ、およびサン・シモン主義者を、呼び出した。」33P
第十二章 リカアド対シスモンディ
冒頭リード文「リカアドから見れば、シスモンディの理論的意義にたいするマカロックの答弁を以てしては、明らかに問題は解決されなかった。かの商売屋の「スコットランド生まれの大山師」――とマルクスは彼[マカロック]を呼んでいる――とは異なって、リカアドは真理を探究し、そして大思想家の真の節制を守った。」52P
「換言すれば、シスモンディは、後にマルクスが全世界市場をば、専ら資本主義的生産が行われる社会と見做して問題を提起したのと、すっかり同じ前提のもとに、彼の問題を提起したのである。」56P
第十三章 セイ対シスモンディ
冒頭リード文「『ルヴェ・アンシクロベティク』の一八二四年五月号における、リカアドに対するシスモンディの論文は、ついに、当時の「経済学の巨匠」たり、大陸におけるスミス学派の自称代表者たり相続者たり普及者たる、J・B・セイを舞台に誘い出した。」64P
第十四章 マルサス
冒頭リード文「シスモンディと同時にマルサスもまた、リカアド学派にたいする一の部分的論戦をやった。シスモンディは、彼の著述の第二版においても論戦においても、たびたびマルサスを自説の証人としてあげている。」77P
シスモンディは資本主義批判、マルサスは資本主義擁護――自然法則としてとらえる78P
「マルサスは、地代と官禄で食う資本主義的搾取のかの寄生者層の利益の代弁者であり、彼が弁護する目標は、剰余価値のできるだけ大きな割合を、この「不生産的消費者」に提供することである。シスモンディの一般的立場は、主として倫理的であり、社会改良的である、・・・・・・」79P
「最後に、シスモンディの批判の出発点は、再生産過程の分析であり、社会を標準としての資本と所得との関係であった。マルサスは、リカアドにたいするその駁論において、馬鹿(ママ)げた価値論と、それから誘導された俗悪な剰余価値論――これは、資本主義的利潤をば、商品の価値以上の価格つり上げから証明しようとする――とから、出発するのである。」79P
 シスモンディとマルサスの共通点と違い「一、両者とも、リカアド派やセイに反対して、消費と生産との間の予め設定された均衡に関する命題を拒否する。二、両者とも、ただに部分的恐慌のみならず一般的恐慌の可能性を主張する。/たが、共通なのは玆まででお仕舞だ。シスモンディが恐慌の原因を、低い賃銀状態と資本家たちの限られた消費能力とに求めるとき、マルサスは逆に、低い賃銀を人口増加という一の自然法則に転化するのであり、また、資本家たちの限られた消費については、その補いを、土地貴族や僧侶階級――富および奢侈品にたいする彼等の消化力には限りがない、教会の胃の腑は大したものである――の如き、剰余価値の寄生者の消費に見出すのである。」83P
「彼(マルサス)とリカアド学との間の論争においては、剰余価値の寄生者たちの不生産的消費が問題だったのであって、それは、剰余価値の分配に関する口論であり、資本主義的再生産の社会的基礎に関する論争ではなかった。」84-5P
第二論戦 ロードベルツスとフォン・キルヒマンとの間の論争
第一論戦の四半世紀後の同じテーマを巡る論戦
第十五章 フォン・キルヒマンの再生産理論
冒頭リード文「蓄積の問題に関する第二の論戦もまた、その刺激を現実の出来事から受けとった。シスモンディが、最初のイギリスの恐慌、およびこれによって惹起された労働者階級の苦悩に刺激されて、古典学派に抗議したとすれば、ロードベルツスは、殆んど二十五年後に、その間に起った革命的労働運動に刺激されて、資本主義的生産を批判したのである。」86P
「ロードベルツスとフォン・キルヒマンとの視角の相違は、まことに明白である。ロードベルツスは、害悪の根源を、国民生産物の分配の欠陥に見るのであり、フォン・キルヒマンはこれを資本主義生産の市場制限に見るのである。」90-1P
「かくて、以前にシスモンディによって日程にのぼされた問題をいま再びとりあげるのは、フォン・キルヒマンそのひとである。それにも拘わらず、フォン・キルヒマンは、シスモンディによる問題の吟味や解決には決して同意しないのであって、彼はむしろ、シスモンディの反対者の味方である。」91P
「要するにフォン・キルヒマンは、古典派学学者の足跡を追っているのであるが、・・・・・・」91P
「フォン・キルヒマンの秘法とは、曰く――奢侈である!」99P
「だが、資本家たちのこの不適当な節欲は、国民経済学によって誤って奨励されている不道徳から、すなわち、「生産的消費」のために節約せんとする傾向から、生ずるのだ。また曰く、恐慌は蓄積から生ずると、――これがフォン・キルヒマンの主要論綱(「テーゼ」のルビ)である。」100P
第十六章 ロードベルツスの古典学派批判
冒頭リード文「ロードベルツスはフォン・キルヒマンよりも一そう深く掘り下げる。彼は、害悪の根源を社会組織の基礎そのもののうちに求め、そして、支配的な自由貿易学派にたいし激しい戦を宣言する。」103P
 詩の引用「道徳は人知れず酒を飲み、人前では水を説く」106P
 生産性の上昇による労働者の困窮よらない生活の質の向上としての「国民生産物における労働者の分前をば一定不変の部分たらしめる法的規定、これである。彼の経済学的内容をそれ相当に評価するためには、ひとは、この珍奇な妙案によく思いを潜めねばならぬ。」123-4P
第十七章 ロードベルツスの再生産の分析
冒頭リード文「労働者たちの分前の減少は、「ただちに」過剰生産および商業恐慌を惹起するに違いないということは、なかんずく何を意味するものであるか? この見解は、ロードベルツスによっては「国民生産物」が、二つの部分から――労働者の分前と資本家の分前、すなわちv+mから―― なりたち、そしてその一方の部分が他方の部分と交換されるのだ、と考えられているものと前提してのみ、理解することができる。」125P
「だから、「賃銀部分の減少」を立法によって廃除しようとすることは、資本主義経済の存在動機を取り除き、その生命力を絶ち切ろうとするのと同じことである。」136P・・・賃金のベースアップや最低賃金法の問題にも通じること
 シスモンディとフォン・キルヒマンとロードベルツス138-9P
「不変資本という概念を彼(ロードベルツス)は猛烈に攻撃した。」142P
 プルードンとロードベルツス144P
「・・・・・・二つの極――すなわち、総じてただ個別的資本の見地からのみ見るセイ、マカロック流の俗流的見解と、ただ、労働過程の見地からから見る、プルードン、ロードベルツス流の見解と――のあいだを動揺している。そこで初めて、マルクスの単純再生産の表式によって如何に膨大な光明が全問題の上に投ぜられたかを評価することができる、――この表式においては、かの一切の見地が、それらの調和ならびにそれらの矛盾において組合わされ、また非常に錯雑せる無数の諸関係が、驚くほど簡単な二組の数列のうちに解消されているのである。」145P
「ところがロードベルツスは、実に、資本主義的領有を簡単に「略奪」だと説明し、・・・・・・」146P
「とにかくロードベルツスは、かつて「節約」に反対を唱えることによって、資本が剰余価値から発生することを理解しえなかったのと同様に、いまや「所有権」の見地から資本主義的領有に反対を唱えることによって、剰余価値が資本から発生することを理解しえなかったのである。」147P
 まとめ151-2P
第三論戦 スツルーヴェ――ブルガコフ――ツガン・バラノフスキー対ウォロンツォフ――ニコライオン
「最初の二つの論争とはまったく異なった歴史的枠内において、資本主義的蓄積の問題に関する第三の論争が演ぜられた。今度は、上演の時代は、八十年代の初めから九十年代の中頃までであり、その舞台はロシアであった。」153P・・・「異なった」の内容は158-9P
第十八章 新版における問題
「ロシア農民の土地共有制――有名な「オプシュトシナ」――・・・」156P
「今度の問題は、総じてもはや、マンチェスタア社会改良主義との間の討論ではなくて、社会主義の二つの変種の間の討論であった。資本主義的発展の可能性に関する懐疑論は、シスモンディおよび部分的にはロードベルツスの精神において、ロシア社会主義の小ブルジョア的な「人民主義的」=混乱的な変種――だがこれは、度々マルクスを楯にとった――によって代表され、楽観論は、ロシアにおけるマルクス学派によって代表された、かくて、舞台はまったく一変した。」158-9P・・・懐疑論の流れのロシア的な「人民主義」とのリンク
 第三論戦における人脈図159-60P
第十九章 ウォロンツォフ氏と彼の「過剰」説
冒頭リード文「ロシアにおける「人民主義的」理論の代表者たちを資本主義的再生産の問題に導いたものは、ロシアでは資本主義は見込がない、しかもそれは販売市場が欠けているからだ、という彼等の信念であった。W・ウォロンツォフは、・・・・・・」161P
「彼(ウォロンツォフ)は、ロシアの工業の或る種の部門における、資本主義的生産形態の発展の可能性については勿論のこと、外国市場へのロシアからの資本主義的輸出の可能性についてすら、何らの異論も唱えない。」162-3P・・・ウォロンツォフの懐疑論
「かくて、リカアド、マルクス、シスモンディおよびロードベルツスからなる混合料理は、次のような発見――すなわち、もし資本家たちが、剰余価値の資本家を断念して、剰余価値のうちの当該部分を労働者に贈与するならば、資本主義的生産は過剰生産から根本的に救われて、永遠に「繁栄し繁昌する」であろう、という発見をもって、お仕舞いとなる。」171P・・・贈与という善意――人倫による解決、倫理主義
 軍国主義――戦争と外国貿易による活路という矛盾――行き詰まり171-2P
第二十章 ニコライオン
冒頭リード文「「人民主義的」批判の第二の理論家たるニコライオンは、これとは異なった経済学的予備教育および専門知識をもって、仕事にとりかかっている。」173P
「すなわち彼(ニコライオン)の意見に従えば、ロシアを資本主義の洪水から救う唯一の救命板は旧来の「オプシュトシナ」――土地の共有に立脚する農村共同体なのである。これが、一の「社会化された」高度な生産形態の基礎として役だちうるためには、これの上に、――もちろん、依然としてニコライオンの秘法たる基準によって、――近代的大工業と近代的科学的技術との結果が接木されねばならぬ。ロシアは、資本主義的発展から後戻りするかさもなければ没落し死滅する、この二つに一つ以外には、選択の自由はないのである、と。」179-180P・・・単なる暴言ではない
 エンゲルスのニコライオンへの手紙180-1P
 エンゲルスの「オプシュトシナ」の押さえ――オプシュトシナは「とっくの昔にその全盛時代をすぎたのであって、どの現象から見てもその解消に近づいている。」183P
第二十一章 スツルーヴェの「第三者」と世界の三大国
「吾々は今や、ロシアのマルクス主義者によって与えられた、前述の諸見解の批判に眼を転じよう。/ペタル・フォン・スツルーヴェは、・・・・・・」185P
「だから、資本主義的発展の経過は、「人民主義者たち」がシスモンディを手本として描写したのとは、まさに正反対のものである、――――資本主義はその国内市場を破壊するどころか、それは、さしあたり先ず、貨幣経済の普及によって、国内市場をみずから作り出すのである。」186P
エンゲルスのスツルーヴェ批判――ロシアと合衆国の違い189P
「スツルーヴェが、余剰価値の蓄積のための支柱となすものは「第三者」である。・・・・・・それによって彼が、種々の私的および国家的使用人、自由職業、簡単に云えば、有名な「大衆(grand public)を意味していることが分かるのであるが、この大衆なるものは、ブルジョア的俗流経済学者たちが、窮してしまうと何時も怪しい身ぶりで学示するものであり、そしてマルクスによって、それは経済学者に対し、彼が他の方法では説明しえないものを説明する「お役」に立つものだ(ごまかしの論理としての「「お役」に立つもの」)、と云われたものである。・・・・・・これらの「第三者」のすべては、経済的には、大抵――彼等が部分的には労賃の伴食者でもあることが証明されないかぎりは――剰余価値の伴食者である。」189-90P
第二十二章 ブルガコフと彼によるマルクスの分析の補足
 冒頭リード文「「人民主義的」懐疑説の第二の批評家たるS・ブルガコフは、資本主義的蓄積の予備錨としてのスツルーヴェの「第三者」を、直ちに断乎として拒否する。」195P
「これらの人々――ことにウォロンツォフ――は、社会的全生産物は消費資料から成立つものと考え、そして消費は総じて資本主義的生産の目的であるという、間違った前提から出発した。」203P
「この矛盾からの逃げ路は、拡張される生産それ自体が、生産物の追加量のための市場をなす、ということである。「この内的矛盾は、生産の外的領域の拡張によって解決される。」(『資本論』第三巻、一八九頁。)(ここでブルガコフは、マルクスの一命題をまったく反対の意味で引用しているが、このことにはなお後に立ち帰るであろう。)如何にしてそれが可能であるかは、いま示されたばかりである。(ブルガコフは、拡張再生産の表式の分析のことを云っているのだ。)」205P
ブルガコフの引用「・・・・・・マルクスは、初めて、現実の関係の分析を与えた、すなわち彼は、たとえどんな「第三者」が発見されようとも、消費の増大は宿命的に生産の増大に遅れるのであり、また遅れねばならぬ、ということを示した。それゆえに、消費およびその規模は、決して、生産拡張の直接的な限界とは見做されない。資本主義的生産は、生産のこの真の目的[消費]からの乖離を償うに恐慌を以てするのであるが、しかしそれ[資本主義的生産]は消費とは無関係である。生産の拡張は、資本の規模のうちにのみその限界を見出すのであり、そして専らこの後者に依存している」206P・・・「第三者」ということは他にもある。
第二十三章 ツガン・バラノフスキー氏と「不均衡」説
「吾々はこの理論家(バラノフスキー)を最後に取扱う、――彼はその見解をロシア語ではすでに一八九四年に、スツルーヴェやブルガコフに先だって定式化してはいるのだが――、というわけは、一つには・・・・・・また一つには、彼は、最も詳細な結論を引き出しているからである。」215P
「ツガンは、シスモンディの「過小消費」説に立脚すると称せられるマルクスの恐慌理論を修正する、『人口の大多数をなす労働者の貧困は、たえず拡張される資本主義的生産の生産物の実現をば、需要の減退のゆえに不可能ならしめるという、ある程度まではマルクスによっても抱かれている普及した考えは、間違いだと言うことができる。・・・・・・社会的生産が計画的に組織されているならば、生産の指導者が需要に関する完全な知識と、労働および資本を自由に一生産部門から他の生産部門に移す力とを、有っているならば、社会的消費が如何に減退しようとも、商品の供給が需要を超過することはありえないであろう。』・・・・・・」217P・・・需要の無限的拡大性はグローバリゼーションの尽きるまで
「ツガンの証明は、ただもっぱら、拡張再生産に関するマルクスの表式にあるのだ。」219P
「かくて、マルクスが、剰余価値は人間のみが作るのであって機械でさえも作りはしないとか、人間の消費は資本主義的生産にたいする一制限をなすものであり、その結果、今日は周期的な恐慌が、明日は崩壊と終局とが、資本主義的経済の恐怖を伴って起らねばならぬとか、そんなことを考えたのは根本的に間違いであったということが、 明瞭に、正確に、測れるように現われる。・・・・・・この本質たるやマルクスによって理解されないで、ツガン・バラノフスキーによってついに幸いにして開明されたのである。」224P・・・ツガン(ローザも同調)のマルクス批判をひとつひとつとらえ返していく必要
「なお、拡張再生産は初めて資本主義とともにはじまるという主張も、この同じ著者(イリイン)のものである。イリインが前資本主義的生産方法のための法則だと考えた単純再生産を以てしては、吾々は恐らく、今日もなお、古石器時代の削刀の域を脱しなかっただろう、ということには 彼は気がつかなかった。」226P
第二十四章 ロシアの「合法的」マルクス主義の終焉
 冒頭リード文「マルクスの『資本論』第二巻における社会的再生産過程の分析と該過程の表式的説明とを、資本主義的蓄積に関する懐疑派との論戦において科学のために利用したことは、ロシアの「合法的」マルクス主義者の、および殊にツガン・バラノフスキーの、一功績である。だが、ツガン・バラノフスキーは、この表式的説明を問題の定式化とは見ないで、問題そのものの解決と見たので、彼は、マルクス学説の基礎そのものを攪乱せざるをえない結論に到達した。」235P
「すべて三人――スツルーヴェ、ブルガコフ、ツガン・バラノフスキーは、論戦に熱中して、証明さるべきであったよりも多くを証明した。問題は、資本主義は一般的に・また特にロシアにおいて・発展しうるか否かということであった、ところが前述のマルクス主義者たちは、この可能性を根本的に証明して、資本主義の永続の可能性すらも証明したのである。」236-7P
「だが、この多少朦朧たる慰安は、ブルガコフがみずから社会主義に差しのべたこの最後の救命板のことを忘れて、突然にツガン・バラノフスキーにたいし、利潤率の相対的低落は、大資本にとっては資本の絶対的増加によって相殺される、と教えるとき、彼自身によって遂に破られるのである。」238P
「前述の三人(スツルーヴェ、ブルガコフ、ツガン・バラノフスキー)のマルクス主義者は、すべて、彼等が新たに社会主義を基礎づけたかと思うと、もうこれに背を向けたことによって、社会主義の新たな基礎づけなるものが如何に薄弱で浅薄だったかということを、身をもって証明した。」239P
下巻
第三篇 蓄積の歴史的条件
これが、ローザの「帝国主義論」ともいいえるところです。ただし、ローザもあまり「帝国主義」という言葉を使っていません。それは、「アジア的帝国主義」が一般的概念としてすでにあったからで、レーニン的帝国主義は「資本主義的帝国主義」という言い方がされていました。「アジア的帝国主義」は租税や貢ぎ物を求めて、それ以外は自由にさせるという方針でした。「資本主義的帝国主義」は、経済にからめていろんな方式で搾り取るという違いがあります。今日、植民地支配から独立したポストコロニアリズムの時代において、「帝国主義」という概念が使われなくなり、ネグリ/ハートの『<帝国>』が出て以降、「帝国主義」概念が「アジア的帝国主義」ということに絞られて、「帝国主義」という言葉が使われなくなり、グローバリゼーションということで理論的に整理されてきました。そういう中で、継続的本源的(原始的)蓄積論が現在的にも生きる概念として使われています。今日、スーザン・ジョージが世界銀行やIMFを通じた、国際借款を通じた支配の構造の苛酷さを指摘していることは、まさにローザが描いた収奪の構造が、いまだかつて生きていることを明らかにしています。第二十七章から第三十二章にかけての論考が、資本蓄積を如何になしえるか、なしてきたのかの、具体的論考になっています。
第二十五章 拡張再生産表式の諸矛盾
冒頭リード文(これまでのまとめ)5-6P
「むしろ問題なのは、いったい資本家たちは、彼等みずから消費しないで「禁欲」すなわち蓄積する場合には、またそのかぎりでは、誰のために生産するのか? ということである。」13P・・・資本主義では悪無限的利潤の追求、競争の中での生き残りが求められ、拡大(拡張)再生産を求めざるを得ない。だから、資本家みずからのために、そして伴食者のために、生産する。
「では誰が、たえず増大する剰余価値を実現するか? 表式は答える、――資本家たち自身であり、そして彼等だけである、と。また、彼等はその増大する剰余価値をどうするのか? 表式は答える、――彼等はそれを、彼等の生産をますます拡張するために使用するのだ、と。かくてこの資本家たちは、生産拡張のための生産拡張の狂信者(ママ)である。彼等は、それをもって絶えず新たな機械を作るために、つねに新たな機械を作らせるのだ。だが、かかる仕方で吾々が得るもの、それは、資本蓄積なるものではなくて、何らの目的なしの生産手段の生産の増加である。そして、この倦まざる虚空の輪舞が資本主義的現実の忠実な一理論的映像であり、マルクス学説の現実の一結果たりうるものと考えるためには、ツガン・バラノフスキーの勇敢さと珍論癖とが必要である。」13-4P・・・「実現する」と「形成する」の違い
「吾々が『資本論』第二巻で見出すところの、始まるやいなや中絶せる拡張再生産の分析の草案の外に、マルクスは、資本主義的蓄積の特色ある経過に関する彼の一般的な見解をば、彼の全労作において、殊に第三巻において、極めて詳細且つ明白に書き下している。それで、第二巻の終りにおける表式の不充分さを容易に洞見するためには、ひとは、ただ、この見解に思いを潜めてみさえすればよいのである。/拡張再生産の表式をまさにマルクスの理論の見地から吟味するならば、ひとは、それが彼の理論と幾多の点で矛盾していることを、見出すに違いない。/何よりもまず、この表式は、労働の生産性の進展をまったく顧慮していない。・・・・・・」14-5P・・・マルクスは、「労働の生産性」は、絶対的剰余価値の増産に対する相対的剰余価値の増産という概念で別のところで論じている。これらは、ヘーゲルから受け継いだマルクスの弁証法的演繹法をローザがきちんと押さえ切れていないというところでの混乱。レーニンが「ヘーゲル弁証法を学んでいないと『資本論』は理解できない。」と言ったことを参照。
第二十六章 資本の再生産とその環境
この章が、この『資本蓄積論』のクライマックス。
冒頭リード文「だから、マルクスの拡張再生産表式は、蓄積の過程をば、それが現実において進行し、且つ歴史的に自らを貫徹するままには、吾々に説明することはできない。その原因は何か? 表式そのものの諸前提以外の何ものでもない。この表式は、資本家と労働者とが社会的消費の唯一の代表者だという前提のもとで、蓄積過程を説明しようとする。吾々はすでに、マルクスが首尾一貫して、且つ意識的に『資本論』全三巻における彼の分析の理論的前提として、資本主義的生産方法の一般的且つ排他的な支配を仮定していることを、見た。かかる条件のもとでは、もちろん、表式におけると同様に、資本家と労働者の外には何らの社会階級もない、――資本主義社会のすべての「第三者」、すなわち、官吏・自由職業者・僧侶・等は、消費者としては、かの両階級、殊に資本家階級に加算さるべきである。かかる前提は理論的応急手段である、――現実においては、資本主義的生産の排他的支配を伴う自給自足的な資本主義社会なるものは、どこにも存在しなかったし、存在してもいない。」33P
「蓄積の問題を分析したすべての理論家は、リカアドおよびシスモンディからマルクスに至るまで、奇妙にも、まさに、問題の解決を不可能ならしめたこの前提から出発したのである。剰余価値の実現のためには、「第三者」すなわち、資本主義的生産の直接的活動者たる労働者および資本家以外の消費者が、必要だという正しい感情は、その結果として、あらゆる遁辞を生じた。すなわち、マルサスにあっては封建的地主という人物に・ウォロンツォフにあっては軍国主義に・スツルーヴェにあっては「自由職業者」その他の資本家階級の従属者に・体化された「不生産的消費」なるものが現われ、さらに、シスモンディからニコライオンに至る、蓄積についてのすべての懐疑論者にあっては安全弁として優れた役割を演じたところの、外国貿易がもち出されるに至った。他面では、問題が解けないということは、その結果として、フォン・キルヒマンやロードベルツスにあっての如く、蓄積が断念され、あるいは少なくとも、シスモンディおよびロシアにおけるその亜流たる「人民主義者」にあっての如く、蓄積をできるだけ防止することが必要だと称されるに至った。」37-8P・・・中巻のまとめ的文にもなっている
「拡張再生産の表式は、詳しく注意すれば、それのあらゆる関連においてすら、それみずからを越えて、資本主義的生産および蓄積の外部に横たわる諸関係を指示しているのである。」38P
「すなわちまさに、資本主義的生産方法ではなくて前資本主義的生産方法の、その崩壊およびその解消の前進的過程における分泌物としての、非資本主義的諸関係から資本主義的諸関係への労働力の絶えざる移行を、――顧慮していない。だが、ただにヨーロッパの農民経済および手工業の瓦解のみならず、ヨーロッパ以外の国々における、種々様々の原始的生産=および社会形態の瓦解もまた、ここに属する。」54-5P・・・非資本主義的生産様式の資本主義的生産様式へのとりこまれ(とりわけ労働力も)
「マルクスの記述においては、ヨーロッパの資本による植民地諸国の掠奪が、産業資本の発生において顕著な役割を演じている。だが、これはすべて、よく注意をすべきことだが、ただ、謂わゆる「原始的蓄積」の視角のもとでの話である。上述の過程は、マルクスにあっては、ただ、資本の創生紀すなわち誕生時を例証するのみであり、それは、封建社会の胎内からの資本主義的生産方法の誕生に際しての、産みの苦しみを云い表わしているのだ。彼は、資本過程の理論的分析――生産ならびに流通――を与えるや否や、つねに、資本主義的生産の一般的且つ排他的な支配という、彼の前提に立ち帰えるのである。」59P・・・マルク賓スの原始(本源的)蓄積論
「だが、吾々の見るところでは、資本主義は、その十分な成熟においてさえも、あらゆる関連において、非資本主義的な層および社会の同時的な存在を頼りとしている。この関係は、「過剰生産物」にたいする販売市場という露骨な問題――この問題は、シスモンディおよびその後の、資本主義的蓄積の批判家および懐疑論者によって提出されたものだが――によって尽きるものではない。資本の蓄積過程は、その一切の価値的関係および物的関係、すなわち不変資本、可変資本、および剰余価値によって、非資本主義的生産諸形態に結びつけられているのだ。この後者は、かの過程の、与えられた歴史的環境をなしている。資本蓄積は、資本主義的生産方法の排他的且つ絶対的な支配という前提のもとでは、説明されないのであって、それはむしろ、非資本主義的環境なしには、どの点でも考えられないのである。」59-60P・・・ローザの原始(本源的)蓄積論
「だが、剰余価値の実現の条件と、その物的姿態における不変資本および可変資本の拡張の条件との間には、一の重要な差別が存する。資本は、全地球の生産手段および労働力なしにはやってゆけないのであって、その蓄積運動が故障なく発展するためには、資本は全地帯の自然的財寳および労働力を必要とする。」・・・ローザのインターナショナリズムの根拠と継続的本源的蓄積論の「差別」というタームが経済学概念とつながっていることを検証。
「これらのものは、事実上、非常に多く、前資本主義的生産諸形態の桎梏のうちに発見される――これは資本蓄積の歴史的環境である――から、その結果、かの地帯および社会を克服せんとする、資本の猛烈な熱望が生ずる。」・・・「植民地支配」の熱望
「だから、殆ど全一世紀間にわたって国民経済学上の論争の中心をなせるこの問題の解決は、二つの極のあいだに、すなわち、蓄積は不可能だと説明するシスモンディ、フォン・キルヒマン、ウォロンツォフ、ニコライオンの小ブルジョア的な懐疑論と、資本主義は無限に果実を生じうるものであり、したがって――一の理論的結果に外ならぬが――永久に存続するものとなす、リカアド、セイ、ツガン・バラノフスキーの粗雑な楽観論のあいだに、横たわっている。すなわちその解決は、マルクス学説の意味では、弁証法的矛盾――すなわち、資本主義的蓄積は、その運動のためにその環境としての非資本主義的社会組織を必要とし、後者とのたえざる物質代謝において前進し、そして、それがこの環境を見出すかぎりにおいてのみ存続しうるという、弁証法的矛盾のうちに横たわっているのである。」61-2P・・・学説間の押さえと、ローザの解答
「資本主義の国際的発展につれて、剰余価値の資本化がますます緊急且つ不確実となるとすれば、量としての不変資本および可変資本の広汎な基礎は、絶対的に、また剰余価値に比較して、ますますより巨大となる。だから、旧資本主義諸国は、相互にますます大きな販売市場をなし、相互にますます欠くべからざるものとなり、そして同時に、非資本主義諸国との関連における競争者として相互に、ますます嫉妬的に闘争する、という矛盾に充ちた現象が生ずる。剰余価値の実現の諸条件と、総資本の更新の諸条件とは、相互にますます矛盾するに至るのであるが、この矛盾は、とにかく、利潤率の低下という矛盾に充ちた法則の一反映に外ならぬ。」63P
第二十七章 自然経済にたいする闘争
冒頭リード文「資本主義は、歴史的には、非資本主義的な社会的環境のうちに、生まれいで、そして成長する。西ヨーロッパの諸国においては、資本主義は、まず、その胎内から資本主義が生まれた封建的環境――田舎では賦役経済、都市では同業組合的手工業――によって、つぎに、封建制度を脱却したのちには、主として農民的手工業的な環境、すなわち、農業ならびに工業におる単純な商品生産によって、とり囲まれた。ほかに、ヨーロッパの資本主義をとり囲んだものは、ヨーロッパ外の文化をもった巨大な地方であって、そこでは、放浪的な狩猟民たちからなる最も原始的な共産主義的群団から、農民的および手工業的な商品生産にいたるまでの、あらゆる種類の発展段階が見られた。かかる環境のただ中を、資本蓄積は進んできたのである。」64P・・・資本主義的蓄積の出発点
「そのさい、三つの段階が区別されねばならぬ、――資本の自然経済との闘争、商品経済との闘争、および、蓄積諸条件の残部をめぐる世界的舞台での資本の競争戦、がそれである。」64P
「資本主義は、その存在および進展のために、その環境としての非資本主義的生産形態を必要とする。だが、これらの形態のどれもが資本主義に奉仕したのではない。資本主義は、その剰余価値の販売市場として、その生産手段の注文先として、また、その賃銀制度のための労働力の貯蔵所として、非資本主義的な社会層を必要とする。これら一切の目的のためには、資本は、自然経済的生産形態をもってしては、どうすることもできない。」64-5P
「自然経済的社会との戦いにおける経済的目的は、個別的には次の如くである。/一、生産力の重要源泉、たとえば土地、原始林の猟獣。鉱物、宝石および鉱石、ゴムの如き異国植物の産物、を征服すること、二、労働力を「自由」ならしめ、資本のための労働に強制すること、三、商品経済を導入すること、四、農業を工業から分離すること、・・・・・・」66P
「資本は、ただにその創生記においてのみならず今日に至るまで、歴史的過程としての資本蓄積の唯一の恒常的方法たる、暴力以外には何らの問題解決も知らない。だが原始的な社会にとっては、かかる場合にはつねに存亡が問題なのであるから、すっかり力がつきるか剿滅されるまで、生死を賭して反抗し、戦う以外に方法はない。」68P
「だが、かかる社会から生産諸力および労働力を買うために、すなわち、それを商品購買者に転化するために、資本主義は、目的意識的に、独立的な社会的組織としてのかかる社会を破壊しようと努力する。この方法は、資本の見地からすれば最も合目的的な方法である、というわけは、それは最も急速にして同時に最も有利な方法だからである。この方法の他面は、軍国主義の反映であるが、蓄積にたいする軍国主義の意義については、他の関連においてなお後に述べる。」68-9P・・・「後に」は最終章 
「植民地での資本によるこの方法の適用の模範的な例は、インドにおけるイギリス人の政策、およびアルジェリアにおけるフランス人の政策が示している。」69P――インド69-78P、アルジェリア78-92P・・・植民地支配の苛酷さ
第二十八章 商品経済の導入
冒頭リード文「生産手段の獲得ならびに剰余価値の獲得ならびに剰余価値の実現のための、第二の最も重要な全体条件は、自然経済的諸団体の破壊の後およびその際に、それらを商品交易および商品経済の中にひき入れることである。すべての非資本的な層および社会は、資本のために商品購買者とならねばならぬ、そして、資本に自己の生産物を売らねばならぬ。・・・・・・だが、この変革の平和性はただの外観である。東インド会社の香料国との取引関係は、アメリカの資本家たちと彼等が毛皮を買うカナダ・インディアン(ママ)との関係、あるいは、アメリカ・ニグロ(ママ)にたいするドイツ商人の関係が今日そうであるのと同様に、取引の旗のもとでの盗奪、強請、および見えすいた詐偽であった。おくれた社会との、「おだやかな」そして「平和を愛する」商品取引の典型的例は、支那(ママ)の近代史であって、・・・・・・」94P・・・この後、アヘンを巡る幾重もの収奪とアヘン戦争の記述
第二十九章 農民経済との闘争
冒頭リード文「自然経済との闘争の重要な最後の一章は、農業の工業からの分離、農村工業の農民経済からの駆逐である。」107P
「資本主義は、商品経済を生み出した後、これと生産手段・労働力および販路を争うのである。目的は、最初には、生産者を孤立させ、彼をその保護期間たる共同体という団結から引離すことである、次いでは、農業を手工業から引離すことであったが、今や、小さな商品生産者をその生産手段から引離すことが、課題である。」117P
 アメリカ合衆国の場合108-128P カナダの場合128-131P
「世界的舞台における資本支配の行進・・・・・・」131-2P
「まったく別な歴史的範囲における――南アメリカにおける――同じ過程は、小商品生産者と資本家との競争の「平和的な諸方法」を、いっそう明瞭に示している。」132P 南アフリカの場合132-140P
「資本主義と単純な商品経済との間の闘争の一般的結果は、資本が自然経済に代えるに商品経済をもってした後で、資本みずからが単純な商品経済にとって代わるということ、これである。だから、もし資本主義が非資本主義的な構造によって生活しているとすれば、資本主義は、より厳密に云えば、これらの構造の没落によって生活しているのであり、また、もし資本主義が蓄積のために非資本主義的環境を無条件的に必要とするとすれば、資本主義はそれをば、それを犠牲とし、それを吸収することによって蓄積が行われるところの、培養土として必要とするのである。歴史的に把握すれば、資本蓄積は、資本主義的生産方法と前資本主義的生産方法との間で行われるところの、物質代謝の過程である。前資本主義的生産方法なしには資本の蓄積は行われないが、しかし蓄積なるものは、この方面から考えれば、前資本主義的生産方法の咀嚼であり、消化である。従って、資本蓄積は、非資本主義的構造が資本蓄積と両立しないのと同様に、非資本主義的構造なしには存立しえない。非資本主義的構造のたえざる前進的粉砕のうちにこそ、資本蓄積の存在条件が与えられているのである。」140-1P・・・第一章のコメントとのゼロサムではない関係
「だから、マルクスが彼の蓄積表式の前提として仮定したことは、マルクスが彼の蓄積表式の前提として仮定したことは、ただ、蓄積運動の客観的な歴史的傾向、およびその理論上の最後の結果とのみ、一致する。蓄積過程は、いたるところで自然経済に代えるに単純な商品経済をもってし、単純な商品経済に代うるに資本主義をもってし、唯一にして排他的な生産方法をば、すべての国々および部門において絶対的な支配者たらしめようとする、傾向をもっている。」141P
「だがここに袋町がはじまる。ひと度かの最後の結果が達成されると、――しかしこれは理論上の作りごとたるにとどまる、――蓄積は不可能事となる、すなわち剰余価値の実現および資本化は、解くべからざる課題と化する。マルクスの拡張再生産表式が現実と一致する瞬間に、この表式は、蓄積運動の終結すなわち歴史的局限を、かくして資本主義的生産の終局を、示す。蓄積が不可能だということは、資本主義的には、生産諸力のそれ以上の発展が不可能なことを、したがってまた、資本主義の崩壊の客観的な歴史的必然性を、意味する。その結果、資本の歴史的精算のお終いの時代としての、最後の、すなわち帝国主義的な段階の、矛盾に充ちた運動が生じる。」141-2P
「かくて、マルクスの拡張再生産様式は、蓄積が進展するかぎりは、蓄積の諸条件と一致しない。蓄積は、かの表式が定式化せる、社会的生産の二大部門(生産手段の部門と消費資料の部門)の間の固い相互関係および依存関係には、拘束されない。蓄積は、ただに、資本主義経済の両部門間の内部関係であるばかりでなくて、何よりもまず、資本と非資本主義的環境との間の関係であって、この非資本主義的環境においては、二大生産部門のいずれも、部分的には他部門ら独立して自力で、蓄積過程を経過することができるが、その際には、両部門の運動は、再び到るところで交差しあい、相互に縺れあうのである。そのことから生じる複雑な関係、すなわち、両部門の蓄積の進行における歩調や方向の多様性、非資本主義的生産諸形態との蓄積の物的関係や価値関係は、精確な表式で表現することはできない。マルクスの蓄積表式は、資本支配がその最後の限界に達する瞬間についての理論的表現に外ならぬのであって、その限りでは、それはまた、資本主義的生産の出発的を理論的に定式化する彼の単純再生産表式と同じく、科学上の擬制である。だが、外ならぬこの二つの擬制の間にこそ、資本蓄積およびその法則に関する、正確な認識が閉じ込められているのである。」142P
第三十章  国際借款
 借款を通じた支配の構造
冒頭リード文「資本蓄積の帝国主義的段階、あるいは資本の世界的競争の段階は、資本によっての、従来の更新諸国――すなわち、そこで資本が自己の剰余価値を実現した後進諸国――の工業化および資本主義的解放を含んでいる。この段階の特殊な作戦方法は、対外借款、鉄道敷設、革命、および戦争である。」143P・・・剰余価値の実現方法
「革命は、自然経済や単純な商品経済の時代から伝来せる・したがって時勢おくれとなった・国家形態を叩き毀して、資本主義的生産の目的に適した近代国家を作るために、後進国の資本主義的解放の過程で必要である。」143P・・・資本主義的生産様式(賃金奴隷制)へのとりこまれ
「帝国主義時代においては、対外借款は、若い資本主義諸国の独立の手段として、顕著な役割を演ずる。帝国主義的段階のありとあらゆる矛盾は、対外借款の近代的体制の諸矛盾のうちに、手をとるように現われている。」146P
「国際的借款体制のこれらの矛盾は、剰余価値の実現の条件とその資本化の条件とが、時間的にも場所的にも如何に甚だしくちぐはぐであるかということの、最も信頼すべき証拠である。」146-7P
「互いに縺れあっている三列の事実が、十九世紀の後半期におけるエジプトの内部的歴史を特色づけている、――・・・・・・」159P エジプトの歴史159-176P
「いまや農夫は、最後の一滴にいたるまで吸いとられた。エジプト国は、ヨーロッパ資本の手中で吸血器としての自己の機能を果たした。そして不用となった。総督イスマエルは免職された。資本は精算に着手することができた。」171P
「このことは、仮面を被らせる一切の介在物をとり除けて見れば、尨大な範囲にわたるエジプトの農民経済がヨーロッパ資本によって喰いつくされたという、簡単な事実に帰着する、――・・・・・・」173P
「東洋諸国は、熱病的な性急さをもって、自然経済から商品経済への・および商品経済から資本主義経済への・彼等の発展を経験している間に、国際資本によって、喰いつくされるのだ、というわけは、彼等は、国際資本に身を売ることなしには、変革をなし遂げることはできぬからである。」175P
「アジアトルコにおけるドイツ資本の商売は、最近のもう一つのよい例をなしている。すでに早くから、ヨーロッパ資本、ことにイギリス資本は、ヨーロッパとアジアとの間の世界貿易の古い道筋にあたっているこの地方を、征服しようと努力したのであった。」176P
 トルコ、小アジア、中東への支配の歴史176-186P
「商売の結果は、一方では、資本蓄積の進展と、トルコにおけるドイツ資本のなお一そうの政治的および経済的某地用の口実としての、「勢力範囲」の増大とであり、他方では、国家によるアジア的農民経済の急速な分解・破壊および苛斂誅求と、トルコ国家のヨーロッパ資本への金融的および政治的依存性の増大とを基礎としての、鉄道と商品交易とである。」186P
第三十一章 保護関税と蓄積
冒頭リード文「帝国主義は、まだ搾取されていない非資本主義的世界環境の残部をめぐる競争戦における、資本蓄積の過程の政治的表現である。」187P
「資本主義諸国の高度な発展と、ますます激しい競争とに際して、帝国主義は、非資本主義的世界にたいするその攻撃的行動においても、資本主義競争諸国の間の対立の激化においても、その精力と暴虐性とを増す。だが、帝国主義がより暴虐に、より精力的に、より根本的に、非資本主義的文化の没落を計れば計るほど、それはますます急速に、資本蓄積の依って立つ土台を奪うことになる。帝国主義は、資本の生存を延長させる一歴史的方法であると同様に、その生存を最も手早く客観的に抑止する最も確実な一方法でもある。といっても、この終点が杓子定規に達成されねばならぬ、というわけではない。だがすでに、資本主義的発展のこの窮極目標への傾向は、一の破局期への資本主義の最終段階を形成する諸形態となって、現われているのである。」187-8P 
 自由貿易主義と保護貿易主義との間での帝国主義の植民地支配の構造194P-
「ドイツならびにフランス、イタリーおよびロシアでは、保護関税への復帰は、軍備拡張と手に手をとって、そして軍備拡張のために、すなわち、同時に開始されたヨーロッパの軍事競争――初めには陸軍の、後には海軍の――の体制の基礎として遂行された。」196P・・・帝国主義は軍備拡張とともに
「ここでは形式上、平和、所有権および平等が支配的に行われる、だから、如何にして蓄積に際しては、所有権が他人の財産の獲得に変り、商品交換が搾取に変り、平等が階級支配に変るか、ということを曝露するためには、科学分析の鋭い弁証法が必要であった」196P・・・純資本主義(経済的資本主義)の搾取・支配の構造
「資本蓄積の他の一面は、資本と非資本主義的生産形態との間で遂行される。その舞台は世界劇場である。ここでは、植民地政策の方法として、国際的な借款体制、勢力範囲政策、戦争、が支配的に行われる。ここでは、まったく隠すところなく公然と、暴力、詐欺、圧迫、掠奪があからさまに行われる、そして、政治的な暴行や力試しのかかる混沌ののもとで、経済的過程の厳密な法則を発見するのは、骨の折れることである。/ブルジョア的自由主義的理論は、一方の面、すなわち「平和的競争」、技術上の脅威、および純粋な商品取引の領分のみを注目して、他の面、すなわち資本の物々しい暴行の領域を、「対外政策」の多かれ少なかれ偶然的な表現として、資本の経済的な領分から引離してしまう。/実際のところ、政治的暴力は、この場合にも、経済的過程の媒介者に外ならぬのであって、資本蓄積の両方面は、資本そのものの再生産諸条件によって、相互に結びつけられているのであり、それ等が一緒になって初めて、資本の歴史的生涯が生ずるのである。資本は、ただに、「頭から爪のさきまで、すべての毛孔から血と脂とを漏らしつつ」生まれ出るばかりではなく、かくしてまた、一歩一歩と自己を貫徹するのであり、ますます激しい痙攣を起しながら、それ自身の滅亡を準備しているのである。」196-7P
第三十二章 資本蓄積の領域としての軍国主義
植民地支配のところで、暴力――軍事支配の問題はすでに出ていた(69P)のですが、ローザのひとつの柱に、反戦ということがあり、これを最終章においたのは、ローザらしいまとめだととらえ返しています。
冒頭リード文「軍国主義は、資本の歴史において或る確かな機能を果たす。それは、蓄積のあらゆる歴史的段階において、蓄積の歩武につき従っている。いわゆる「原始的蓄積」の時代においては、すなわち、ヨーロッパ資本の端初においては、軍国主義は、新世界の・およびインドの香料産地の・侵略に際し、後には、近代的諸植民地の侵略・原始的諸社会の社会的結合の破壊・およびそれら社会の生産手段の占領・に際し、商品経済にとって障碍となるような社会的構造を有する諸地方における商品取引の強制に際し、土人(ママ)の暴力的プロレタリア化および諸植民地における賃労働の強制に際し、ヨーロッパ以外の領域におけるヨーロッパ資本の勢力範囲の形成および拡張に際し、後進諸国における鉄道利権の強要に際し、また、国際的借款から生ずるヨーロッパ資本の請求権の執行に際し、最後に、非資本主義的文化の領域をめぐっての資本主義諸国相互間の競争戦の手段として、決定的な役割を演ずる。」198P
「その上さらに、もう一つの重要な機能がある。軍国主義は、純経済的にも、資本にとっては、剰余価値を実現するための一流の手段、すなわち蓄積の一領域のように見える。」198P・・・「見える」だけ、軍事費はスペンディング経済に属する。
「寄生者」199P・・・軍事の関係者は伴食者のみならず、戦争を起こし、人を殺すとき、まさに人類の「寄生者」になる。
「いまや吾々は見る、――労働者から搾りとられた租税の、軍需品の生産への充当は、資本にたいし、一の新たな蓄積の可能性を与えるものなることを。」214P・・・軍事費として搾り取られる租税による軍事産業による搾取という重層化
まとめ「資本主義は、普及力をもった最初の経済形態、すなわち、世界に広がって他のすべての経済形態を駆逐する傾向をもった、他の経済形態の併存を許さない、一形態である。だが同時に、それは、独立しては・すなわちその環境およびその培養土としての他の経済形態なしには・存在しえないところの、最初の形態である。すなわちそれは、世界的形態たらんとする傾向をもつと同時に、その内部不可能性ゆえに、生産の世界的形態たりえない、最初の形態である。それは、それ自体において一個の歴史的矛盾であり、それの蓄積運動は、矛盾の表現であり、矛盾の絶えざる解決であると同時に強大化である。ある一定の発展程度に達すると、この矛盾は、社会主義の原理の適用によっての外には、決して解決されえない、――社会主義の経済形態は、もともと世界形態であると同時に、それ自体一の調和的体制である、けだしそれは、地上のあらゆる生産諸力を開発することによって、蓄積ではなしに、労働する人間そのものの生活欲望の充足を、目的とするであろうから。」219P・・・資本主義は他の経済形態を収奪して包含していく、社会主義は生活資料の充実を目的にする。
[追記]
いくつかの修正が必要、植民地支配ということをローザは余り押さえていないということを書いたのですが、この本の中で十分に展開しています。
ローザは、マルクスの『資本論』二巻での表式の矛盾を指摘していて、わたしはそれを別のところで展開することと批判していたのですが、ローザも一応別のところで展開することとしています。
 資本主義の延命の構造としての、人口増や科学技術の発展に関しては、次の読書メモ『再論』でローザ自体が批判しています。


posted by たわし at 18:45| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする