2020年11月17日

日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」

たわしの映像鑑賞メモ044
・日本テレビ「ドキュメント’20 見た目、見る目」2020.10.19
この番組は、「毛細血管で動脈と静脈が癒着する難病」で生まれてから何度も手術を繰り返し、「見た目」でいじめや差別にさらされ、「見る目」(斜文字になっているのは、番組では手書き的な文字、この文字で「見る」ということに差別的な意味を懐胎させているようにわたしはとらえていました)を感じてきたひとのドキュメント番組です。マスクなどしないで、自分を隠さないで、ずっと生きて来て、結婚して子どもが生まれて児童参観にでるようになる母親の立場になってマスクをするようにしたという話。一人芝居で、自分を「さらして」、子どもたちや親に、自分の問題―差別の問題をきちんと伝えていくことをやっているひとです。連れ合いのひとが、差別的なことをほとんど感じさせないひとで、むしろ、わたし自身も「ひとの美意識」って何だろうというようなことさえ感じていました。
 これを書いているのは、ひとつ前の「ALS」のひとたちの問題で、病気自体の負価値性からは抜け出せないような番組の作り方になっていたのですが、ちょっと達観したような感じのひとはいたのですが、言葉としてはでていませんでした。ひとつの達観や反転のような突き出しをしているひとの紹介ができなかったのだろうかと思ったりしていました。
この番組の語りで、もし病気がなかったらという思いにとらわれることもあるけれど、むしろ、この病気が自分の存在の意味という思いをもたせてくれた、という内容の話をしていていました。一種の反転のようなことで、このあたり、以前書いた、写真家でひとの命を切り取るような写真をとっていたひとが、確かパーキンソン病になって、それまでの自分と今をくらべて、ひとの痛みが分かるようになった、病気になって良かったというようなことを話していたり、オーストラリアのバリバリのエリート官僚のひとが、「どうして、一度にひとつのことしかできないのか」と他者批判していたひとが、「認知症」になって、一度は落ち込みつつも、むしろ、なって良かったという心境になっていく、そのような反転も本や映像になっています。
障害問題で、この反転のようなこと、もっと語っていく必要があるとの思いも持っています。
わたしたち、「吃音者」には「治す努力の否定」というような突き出し出ていました。この話をすると仲間内からは、強がりを言っているだけだとか、「障害者」の仲間からは、「(医学モデル的意味で)軽い障害だから」と言われるのですが、むしろ、「軽い」と言われるひとがより悩み葛藤に陥ることもあるし(これをわたしはマージナルパーソン論として展開しています)、「障害の重い――軽いをいうひとがいるけれど、差別に重い――軽いはない」という提言も出ていました。このあたりのことをきちんと押さえたところで、開き直るところでの仲間との交流と思想的深化を獲得していく方向性があります。これは簡単なことではなく、むしろ差別を生みだしてくる社会の構造自体を変える運動の実践のなかでのせめぎ合いになっていくのではとも思っています。


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NHKテレビ「クローズアップ現代 ALS当事者たちの“声”」

たわしの映像鑑賞メモ043
・NHKテレビ「クローズアップ現代 ALS当事者たちの“声”」2020.10.14
この番組は、京都で2019年11月30日「ALS患者」嘱託殺人事件があり、そのなかで、「ALS」のひとたちが「同病」のひとたちとつながることによって、生きることにつながる番組を作ろうという主旨で作られた番組とわたしは汲みとっていました。VTRで、いろいろな当事者の紹介があり、スタジオで、母親を介護し看取った川口有美子さん(註1)がインタビューを受けていました。今、「ALS」のひとたちは、人工呼吸器を付けるとかなり長くいきれるのですが、着けないままに亡くなるひとが7割という統計がでているそうです。それは、「周りの人たちに迷惑をかけるからなど」という説明になっています。以前、8割だったのですが、7割になったのは、当事者・家族による運動のはっきりした成果、ということができると思います。以前は、自宅での生活となると、家族の全面介護だったのが、今は家族介護をほとんどしなくても、2012年から介護職で研修を受ければ喀痰吸引や胃瘻の注入が出来る制度を作り、24時間介護体制が作られつつあります。地域格差があるので、制度的な整備もこれから進んでいくよう、ただ、そもそも福祉制度一般にいえることですが、「仏作って魂を入れず」ということばがあるように、介助のひとたちが集まらないという現状をどうするのかという、福祉の抑止・軽視という福祉政策の問題があります。これらのことも含めて、運動として前に進めて、資源にアクセスすること、「障害の社会モデル」的意味で、障害をとりのぞいていくこと必要だと思っています。
とにかく、この番組を見た当事者や「障害者」たちがつながっていく契機、生きるということにつながっていく契機になるのではと、この番組の意義深さを考えていました。
ただ、ペシミストのわたしは(註2)、何か心の重いものを感じています。そもそも「迷惑」とかいう発想、それから「など」ということの意味を考えていました。
以前、フェミニズム関係の連続学習をしているときに、上野千鶴子さんの本を読み込んでいました。上野さんは、コピーライターのような刺激的な言葉を紡ぎ出しています。その中に、「定年退職をしたら、男は産業廃棄物になる」ということばがありました。この言葉には、フェミニズムを勉強しているひとたちにとって、男をやり込める痛快さがありました。それと、この社会の労働崇拝――労働第一主義ともいえるところへの批判の意味ももっていたのです。ですが、わたしは母の高齢の介護をして、母の「ぽっくり死にたい」ということばへのやりとりとか、母が利用していた病院や高齢者施設のショートステイやデイサービスの利用の際に「リビングウィル」を求められているなかで、この上野さんのことばの恐ろしさを感じていました。今、統計では「延命処置をしない」と答えるひとが8割いるそうです。そして、母を看取った後、母の介護の反省と「障害者運動」での必要性も考え、そして介護学習の実態を知りたいという思いもあって、民間の商業ペースの講習会を受けたのですが、その中で、すでに介護を仕事にしているひとも含んだ「実務者コース」の講習会で、講師が講習生に「自分が延命処置を受けたくないひと」と手を上げさせたら、丁度8割でした。その講師の話では、毎年その質問をしてだいたい毎年8割だそうです(註3)。このことが、「など」というところの問題、この社会の一般的な価値観にとらわれていくことがあるのだと考えていました。
さて、この放送が終わった後、川口さんが自分のフェイスブックにこの番組の裏話を書いていました。「安楽死」という言葉を使わないで欲しいという提起があったとか、二回もリハーサルをしてから生本番に臨んだようです。いろいろ後で、視聴者から批判が出てくることを考えているのでしょうか?
この番組はテーマをはっきりさせて、そこに絞り込むというところで、それはそれで意義深い番組だったのですが、もっと掘り下げた番組も期待したいと思っています(註4)。いつものわたしのないものねだりです。


1 その看護記録、わたしの読書メモ85・川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』医学書院 2009
2 大江健三郎さんが、「さよなら原発」の集会で、「ペシミストの勧め」の話をしていました。運動をするひとは、現状を憂うるペシミストだからこそ、運動に参加しているのだという話です。
3 たまたまなのでしょうが、この8割という数字があちこちに出てきます。
4 次の映像鑑賞メモでこのあたりのこととりあげています。


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トニー・クリフ/浜田泰三・西田勲訳『ローザ・ルクセンブルク』

たわしの読書メモ・・ブログ546
・トニー・クリフ/浜田泰三・西田勲訳『ローザ・ルクセンブルク』現代思潮社1968
 ローザの学習8冊目です。これはローザ・ルクセンブルクへの評論2冊目。
 実は評論、この本がコンパクトにまとまった本で、こちらを先に読もうとしていたのですが、原書の出版順にしました。最初のフレーリヒの本は、ローザの足跡を追う伝記的なことも含めた本になっていて、理論的なこと、レーニンとの論争のようなことも押さえているので、もうこちらの本はさらっと流そうとしていたのですが、理論的には哲学的なことや経済学的なことを、こちらの方が掘り下げた論攷になっています。前の読書メモ、註に書き込みをしていく新しい手法をとったのですが、結局読みにくくなってしまったので、こちらは、章だけを目次であげて、切り抜きメモという形で、それにコメントを書き添えます。まだ、本格的な掘り下げは、後に回します。
  目次
第一章 ローザ・ルクセンブルク その伝記的スケッチ
第二章 社会改良か社会革命か
第三章 大衆ストライキと革命
第四章 帝国主義と戦争に対する闘い
第五章 自然発生性、意識と組織
第六章 ローザ・ルクセンブルクと民族問題
第七章 ローザ・ルクセンブルクの政権獲得後のボルシェヴィキに対する批判
第八章 資本蓄積論
第九章 ローザ・ルクセンブルクの歴史的位置
ローザ・ルクセンブルクの蓄積論/ラーヤ・ドゥナエフスカヤ
ローザ・ルクセンブルクとスパルタクス団/浜田泰三
訳者のことば

この本の著者は、「訳者のことば」でも紹介されていないのですが、インターネットで検索すると「トロツキスト」という表記が出てきます。訳者の浜田泰三さんの方が、ローザ・ルクセンブルクにより共鳴しているひとなのかもしれません。
いきなり切り抜きに入り、その中で対話を進めます。
第二章 社会改良か社会革命か
「しかし、ローザ・ルクセンブルクは、労働者たちが搾取と枠圧に対して、革命的暴力に頼らざるをえないことを理解しながらも、流される血の一滴ごとにはげしい痛みを味わったのだ。」29P
第三章 大衆ストライキと革命
「ローザ・ルクセンブルクは革命時代には、経済闘争は政治闘争へと成長すること、そして、その逆も同じことを明らかにした。「運動は、経済闘争から政治闘争へという一方通行ではなく、反対方向へも向う。あらゆる主要な政治的大衆行動は、その頂点に達すると、その経済的大衆ストライキを生む。そして、この法則は、単に個々の大衆ストライキに適合するだけでなく、革命全体についても適合する。」36-7P
第五章 自然発生性、意識と組織
「一八七一年、パリの労働者は、新しい形式の国家をうちたてた。――常備軍も官僚制度も持たず、すべての公務員の給与は労働者の平均賃金であり、またすべての公務員をリコールすることができる等々の新しい形を持った国家を。」55P・・・「国家」なのか?
ローザ「ここではまた、無意識が意識に先行し、客観的な歴史の発展の論理が、そのにない手の主観的論理より前にある。」56P
「(きわめて正当な話だが)労働階級の創造能力をこのように強調しながら、ローザ・ルクセンブルクは、必然的に結局、保守的な組織が大衆闘争に与えうる、遅延と妨害の効果を過小評価することに傾むいていった。」57P
「ローザ・ルクセンブルクの、組織の役割に対する過小評価の可能性と、または、自然発生性の役割の過大評価の可能性の根底を理解するには、彼女が働らいていた状況を見なければならない。」その内容@「何よりも、彼女は、ドイツ社会民主党の日和見主義と闘わなければならなかったのだ。」A「ローザ・ルクセンブルクが争わなければならなかった、いま一つの労働運動の一翼はポーランドPPSだった。PPSは愛国主義的組織であり、その公約はポーランド民族独立だった。」(・・・民族主義・愛国主義との争い)B「ローザ・ルクセンブルクの闘った三番目の労働運動の傾向は、労働組合におけるサンジカリズム、(その個人主義を除いて組織に過大な力点をおいた)アナーキズムとの混合物であった。」58-61P
「ローザ・ルクセンブルクが自然発生的要素の過大評価と組織的要素の過小評価をしたことの主な理由はおそらく、改良主義に対する火急の闘いで、すべての革命の第一歩としての自然発生性を強調する必要があったことにあろう。」61P・・・民衆の革命性への依拠
「彼女のもちつづけた強さは、歴史における労働者の主導性への完全な信頼のうちにひそんでいたので。//革命における自然発生性の指導性との間の連環をみつめる、ローザ・ルクセンブルクの位置に何らかの不充分さを指摘するにしても、革命運動内の彼女の批判者たち、なかでもレーニンが、あらゆる点で、彼女よりも正確な安定したマルクス主義的分析に近かったと結論を下すには、慎重であるべきだ。」64P・・・ローザは日和見主義と闘い、レーニンは無定型な経済主義と闘った
「スターリニストやそれにいわゆる非スターリニストの輩の、レーニンの数多いエピゴーネンどもは、発展段階がどうであろうが、すべての国のすべての運動に《まったく》適用しうるものとして、どんなにかしばしば、『何をなすべきか』『一歩前進二歩後退』を引用して来たことだろう。//レーニンは、それらのレーニン主義者どもとは大ちがいだ。一九〇三年にはもう、レーニンは、第二回ロシア社会民主党大会で『何をなすべきか』の所定式の、ある種の誇張を指摘している。/「いままでわれわれはみな、経済主義者が一方に曲げたことを知っている。棒をまっすぐに伸ばすためには、棒を他のがわに曲げかわす必要があった。そこで私はそうしたのである。」67P・・・レーニンは現実主義者であり、自らのジャコバン主義的なことからの離脱する傾向があり、レーニンはレーニン主義者ではなかった。
「労働者階級の解放が労働者自身の手によってしかもたらされないということを強調したのと同じように、ローザ・ルクセンブルクは、大衆運動と大衆組織からの脱落という形で現れる、あらゆるセクト主義的傾向に我慢できなかった。」72P
「一九一八年十二月二十九日、ドイツ革命の勃発後、はじめて、団はUSPDとの連携を断ち、独立政党――ドイツ共産党(スパルタクス)を樹立した。」75P
 レーニン「ローザ・ルクセンブルクは正しかった。彼女はずっと以前に、カウツキーが、党内多数派に奉仕する、要するに日和見主義に奉仕する、御用理論家であることをはっきりと覚っていたのだ。」79P・・・ローザとの論争でのレーニンの自批
「自然発生性と組織の関係を見つめるローザ・ルクセンブルクが立っていたところは、保守的な官僚主義によって支配されている労働運動に革命家たちを立ち向わせる、火急の必要の反映であり、レーニンの本来の――一九〇二年―四年の――立場は、おくれた半封建的専制体制下で、発展の第一段階の、生命力あふれた闘う革命運動が、明確な形をもたなかったことの反映なのだ。//進歩した工業国家におけるマルクシストたちには、レーニンの本来的立場は、ローザ・ルクセンブルクのそれが、自然発生性への過大評価をしているにもかかわらず、その指標として役立つほどには、役立てることができないのだ。」80-1P
第六章 ローザ・ルクセンブルクと民族問題
「彼女の姿勢は、民族問題についてマルクス、エンゲルスが教えたものの継承でもあり、また、その転換でもあった。そこで、それを適確に理解するめには、この問題に対するマルクス、エンゲルスの態度を――ごく簡単にでも――見ておくことが必要となる。//マルクス、エンゲルスは、ヨーロッパの資本主義の成長期、ブルジョア民主主義革命の時代に生きた。彼らによれば、ブルジョア民主主義の体制は民族国家であり、したがって、社会主義者の任務は、/「ブルジョアジーと同盟して、絶対専制主義に、封建的土地所有とプチ・ブルジョアに対して」闘うことだった。・・・・・・・」82-3P
「マルクス、エンゲルスは、ツァーリのロシアがからむあらゆる戦争で、中立の立場をとることも、相闘う陣営のどちらかに反対する立場をとることもせず、ロシアだけに対して好戦的な反対の立場をとった。」85P
「マルクス、エンゲルスのあとを追って、ローザ・ルクセンブルクは、主としてヨーロッパの民族主義運動を考察しており、アジア・アフリカの民族運動には、ほとんど重要性を与えなかった。彼女もまたマルクス、エンゲルスのように、民族独立闘争を判断する絶対的な基準などがあるとは信じなかった。だが、彼女は、科学的社会主義の創始者の言葉をくりかえすだけのエピゴーネンではなかった。/その政治的生活のごく始めの頃に、彼女は、一般的にはヨーロッパの、特殊的にはロシアの情勢が十九世紀末になって大きく変化し、ヨーロッパの民族運動に対するマルクス、エンゲルスの立場が支持しがたくなって来ている、ということを指摘していた。」87-8P
「つまり社会主義のもとでは、民族的抑圧はもうありえなくなって、人類の国際的結合が実現されることとなろうから、民族独立のスローガンをいれる余地はないことになる。こうして、資本主義下にはポーランドの真の独立は実現できず、また、それに向うどの段階も何ら進歩的な意義をもたない、一方、社会主義のもとではそんなスローガンの必要はなくなる。故に、労働階級はポーランド民族自決のための闘争を必要とせず、また、そのような闘争は事実、反動的闘争なのだ。労働階級の民族的スローガンは、その文化生活における民族性の自主性の要求に限定されるべきだ。」90P・・・ローザの民族問題の論攷は原理主義。国家主義批判からすると民族自決権の自治国家論はありえなくことに通じるのですが、それでも被抑圧性において、みずからの問題における拒否権の行使は必要になるのでは?
「民族問題におけるレーニンとローザ・ルクセンブルクの間の相違は次のように要約できよう。すなわち、一方でローザ・ルクセンブルクはポーランド民族主義に対する闘いから生じた結果として、民族問題についてややニヒリスチックな態度に傾いていったのに対して、レーニンは被抑圧者の立場と抑圧民族の間には違いがあり、同じ問題についての態度も異なるに違いないと、現実的に見ていた。このようにして、違った、相反する状況から出発して、彼らは反対の方向から国際的労働者の団結という同一点に近づいていったのだ。第二に、ローザ・ルクセンブルクは民族自決権問題を階級闘争と両立しないものとしていたが、レーニンは、それを階級闘争に従属させていた。(彼が他のあらゆる民主主義闘争を、全般的革命闘争の武器として利用したのと同じやり方だ。)ローザ・ルクセンブルクには欠けていた、民族問題へのレーニンのアプローチの源泉は、弁証法だった。彼は民族抑圧と従属という部分――民族独立闘争――から、全体――社会主義への国際的闘争――へという、対立の綜合を見ていたのだ。」94-5P・・・情況規定性、史的唯物論的なとらえ方。レーニンの差別=階級支配の道具論批判。ローザの階級闘争一元論批判。今日的な国家主義批判の立場からすると、反差別共産主義論として綜合して展開していくこと。
「バルカン諸民族の場合には、その民族闘争に対するローザ・ルクセンブルクの態度は、ポーランドの態度は、ポーランドに対するそれとは大いに違っていたのだった。//ローザの生き生きとした思考の独自性は、それにもかかわらず、すでに扱って来たいくつかの問題で見て来たように、自分の直截の経験から、それを他の労働運動にも、あまりに早く一般化してしまうその傾向のうちにひそむ弱点によって、弱められてしまうのだ。」96-7P
第七章 ローザ・ルクセンブルクの政権獲得後のボルシェヴィキに対する批判
「ローザ・ルクセンブルクは政権獲得後のボルシェヴィキが、次の諸点でその政策を誤ったと考えて批判を加えた。/1 土地問題、/2 民族問題、/3 憲法制定会議、/4 労働者の民主的権利。」102-3P・・・これはレーニンのローザ批判とほぼ重なっていて、ローザのレーニン批判の一部撤回にもつながっています。
第八章 資本蓄積論・・・付録のラーヤの論攷に詳しく展開されています。
「ローザ・ルクセンブルクが扱った問題は、次のようなものだった。拡大再生産すなわち増大していく生産なるものが、非資本主義国が存在しない、あるいは、資本家と労働者以外にいかなる階級も存在しないような、抽象的な、純粋な資本主義の諸条件のもとでありうるだろうかというものだった。」121P・・・これはマルクスの論理的抽象という手法の問題とそれを理解し得なかったローザという問題、さらに「マルクスには帝国主義論がなかった」という問題。
「資本主義の内部の矛盾の強調ないし緩和における、非資本主義的領域のもたらす効果と、そして、資本主義を帝国主義的拡張に押しやる諸要素との上に、新たな光を投じるかも知れない。」122P
「ローザ・ルクセンブルクは、資本主義が、制限された市場という、資本蓄積に対する絶対的障害から逃れうる要素は、資本主義産業の非資本主義的領域への侵入である、と主張したのであった。」146-7P・・・今日的には、グローバリゼーションの行き詰まりまで至りついていること。
第九章 ローザ・ルクセンブルクの歴史的位置・・・ロシアとドイツの違い、レーニンとロシアの違い
「中・西部ヨーロッパでは、保守の修正主義ははるかに深く根を張っており、労働者たちの思想や気分に、ずっと受けとり易い影響を与えていた。修正主義者どもの論証は、よりすぐれた論証によって答えられねばならなかった。そして、ここにおいて、ローザ・ルクセンブルクはすぐれていたのだ。これらの国々では、彼女の小刀の方が、レーニンの大槌よりもはるかに有効だったのだ。」156-7P
「革命的組織の構造についての、ローザ・ルクセンブルクの考え方――それは下から上に、一貫して民主主義的な基礎の上に作らなければならないという考え方――は、先進国の労働運動には、世界のスターリニストどもによって、官僚的なねじまげを与えられ加えられた、レーニンの一九〇二――四年の考え方よりも、はるかにぴったりとその必要に適している。」159P
「ローザ・ルクセンブルクは、社会主義の勝利が必然不可避なものだ、とは考えなかった。資本主義は、社会主義の控えの間でもあるし、また、追いつめられはバーバリズムともなりうる、と彼女は考えていた。」160P
「戦争と資本主義との間に結ばれた、断ち切ることのできない絆についての、ローザ・ルクセンブルクの明確な分析と、平和への闘いを社会主義への闘いから分つことはできない、という点に対する固執から、学びとるより以上のことはできないだろう。」161P
「マルクスの真の弟子として、彼女は、その師から独り立ちして、考え、行動することができた。・・・・・・彼女は、思想闘争を、真実に近づく方法として愛したのだ。」161-2P
「彼女のもっとも親しい友人として、クララ・ツェトキンは、その弔辞のなかに書いた。/「社会主義の理想こそ、ローザ・ルクセンブルクのなかでは、その心と頭脳の双方を支配する力強い情熱、やむことなく燃えつづけた真に創造的な情熱となっていました。この驚くべき女性の果たした大きな仕事と、圧倒的なねがいは、社会革命に至る道を整え、社会主義へと歴史がたどる路を明らかにすることでした。革命を経験し、その闘いを闘うこと――それが彼女にとって至高の幸福だったのです。言葉にいえない意志と決断と無私と献身をもって、彼女はその全生涯と全存在を社会主義に捧げました。彼女は社会主義をもたらすために、自分のすべてを与えたのです。その悲劇的な死においてだけではなく、何十年もの闘いを通じて、その毎日毎時間の全生涯を……。彼女は鋭い剣でした。革命の生きた焔でした。」」163-4P
ローザ・ルクセンブルクの蓄積論/ラーヤ・ドゥナエフスカヤ
 ラーヤ・ドゥナエフスカヤのローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論批判は、トニー・クリフが本文中で批判している内容をより詳しく展開した内容になっています。レーニンがローザの資本蓄積論を批判した内容とも重なっています。要するに、マルクスが『資本論』第二巻で展開した拡大再生産論をおさえそこなかったという話です。そのことをわたしサイドのとらえ返しも含めて押さえると、マルクスの『資本論』で展開している、「抽象」という作業をとらえられないで、それをそのまま現実の社会としてとらえ、不備を指摘したのですが、そもそも1章の価値形態論においても、その「抽象」の作業があり、要するに弁証法的な入れ子型の構造として展開していることです。これらのことは、レーニンが、『資本論』を真に理解するにはヘーゲルを理解する必要があると言ったことにもつながっています。要するに、第二巻の拡大再生産論はそのままにして、「その上にたって」と、いうことを重ねていく形で、むしろ別のところで、展開することだったという話で、その内容自体は、そのようなところで、大切な提起になっているのです。
「マルクスにとっては、資本主義社会の基本的衝突は、資本と労働とのあいだの衝突であって、そのほかの全ての要因は従属的なものなのだ。」167P・・・他の差別の問題の従属という理論
「一方、ルクセンブルクは次のように主張した。歴史からの「正確な証拠」が示すところによると、拡大再生産は、閉鎖された社会で行われたことはまた一度もなく、むしろ「非資本主義的階層や非資本主義社会」への分布やそれらの収奪を通じて行われた、と。ルクセンブルクは、まちがって、現実を理論に対置させた。彼女の批判は、理論的には、このひとつの基本的誤りからでてきたのだ。彼女は、そのころ進みつつあった帝国主義の強力な歴史的発展に欺かれて、資本と労働の関係の代わりに資本主義と非資本主義の関係をもってきた。そのために、彼女は閉ざされた社会というマルクスの前提を否定することになった。彼女が、ひとたび、マルクスの理論全体のこの基本的前提を放棄してしまうと、彼女には、もう交換と消費の領域に進む以外には道はまったく残されていなかった。」176-7P・・・「交換と消費の領域に進」んだのではない。別の領域の問題に飛躍してしまった。
「彼女の『蓄積論』のなかのいくつかの最もすぐれた記述は、彼女が「現実の」蓄積過程――・・・・・・・――について述べている部分にあらわれている。ルクセンブルクは、彼女の時代の強力な帝国主義的現象に目をくらまされ、それらすべてのことは『資本論』第二巻――それは、理想的な資本主義社会では剰余価値はどのようにして実現されるかということを扱っている――提出されている問題とはまったく関係がないということをみることができなかった。」177P・・・「理想的な」というより抽象的なという弁証法の問題。
「あとで見るように彼女は、すべてのブルジョア経済学と手をたずさえて、価値生産のすべての特徴を抹殺してしまうのだ。」178P・・・マルクスの「帝国主義論」的な不備を左から出しどころを間違え批判したことで、右からの批判と一緒にはできない。
「蓄積は二つの生産部門のあいだの内部的関係であるばかりではない。何よりもまず(下線ラーヤ)、資本主義的環境と非資本主義環境とのあいだの関係なのだ。」179P・・・「何よりもまず」ではなくて、論理的抽象の後にくること。そこからの最初のことへの規定性も考えていくこと。
「ここでもまた、ルクセンブルクは、彼女が出発点でおかした。ひとの、そしてただひとつの基本的まちがい――「現実」を理論に対置すること――のために、こんな姿勢に陥ったのだ。」190-1P・・・ここも同じ
「簡単に言うと、これらすべてのことは次のようにせんじつめることができる。つまり利潤率の低下は、可変資本に対する不変資本の優勢からからおこり、この資本=労働の関係を廃止することによってでなければ解決することができないか、でなければ、利潤率の低下は、外部の力、つまり有効需要からおこり、したがって、労働に対する資本の生産の外部で治療することができるか、のどちらかだ。」200P・・・継続的本源的蓄積は生産の外部だけでおきるのではない。別のルール(それは差別というところからとらえ返される)がプラスされる。
「いうまでもないことだが、ルクセンブルクは、資本主義を治療する方法をさがしていたわけではない。だが、彼女がひとたびマルクス主義の蓄積理論を否定すると、彼女は、どうしても最近のブルジョア的経済理論の先鞭をつけるような結論に達せざるをえなかったのだ。」201P・・・「蓄積理論を否定した」のか、『資本蓄積論』の読み直しをします。
「もっとも、ひとり(フレーリッヒ)だけは、大胆にも、次のように言った。彼女の蓄積理論は、「マルクスの巨大な力をさえ疲れ果てさせた」問題を解決した。そして、彼女の本によってはじめて、「社会主義の思想はユートピア主義の最後のあとかたを脱ぎ捨てた」と。」203P・・・「マルクスには帝国主義論がない」という問題の解決。
「ローザ・ルクセンブルクは革命家だった。運動に対する彼女の偉大な奉仕や、トロツキーが彼女の輝ける精神とよんだものは、第四インターナショナルの不滅の伝統として、いつまでも残るだろう。だが、まさにそのためにこそ、彼女の蓄積論でおかしたまちがいを、彼女の革命活動や彼女の改良主義反対闘争から解きはなすことは、必要だったのだ。彼女のまちがった理論をはっきり解明することによって、はじめて、われわれは、スターリン主義者がこの革命的殉教者のまちがいを彼ら自身の極悪な目的のために利用することを防げるだろう。」205P・・・まさに間違いの中味と、そこにおけるローザの意図を読み取る必要。
ローザ・ルクセンブルクとスパルタクス団/浜田泰三
「彼らのおかれた歴史的情況はぜひとも明らかにされていなければならない。それはたんに、これによって党組織論をめぐるレーニンとローザの論争の、より深い理解が可能になる、というだけの意味からではない。これに加えて、まぎれもなく、先進工業国家のうちに生きるわたしたちにとって、なによりもまず、SPDとその背後の労働者組織の強大な官僚主義と、その日和見主義的・没理想主義的指導とたたかわなければならなかった彼らの立場がけっして他人事として見過ごすことのできないものと考えられるからだ。帝国主義戦争の死の脅威の下で、革命によってこれを打倒しようとするプロレタリアートの前衛として、彼らは、まさに二重のたたかいを遂行しなければならなかった。」213P
「インターナショナリズムの堅持と大衆の力への依拠、それがスパルタクス・ブントの原則だった。」216P
「すでに述べたように、スパルタクス・ブントのおかれていた情況は、ボルシェヴィキのそれとは著しく異なっていた。強大な官僚的組織の下に、組織ボケ(ママ)していた党と労働組合を前に、彼らのなすべきことは、なによりも「全能の指導部と劣弱な大衆」という考え方」の徹底的粉砕であり、「改良主義に対する火急の闘い」において「すべての革命の第一歩としての自然発生性を強調する」ことだった。」217P
「この若い前衛党の敗北の原因は、もちろん単純ではない。が、その主要なひとつとして、USPD左派とのとりわけ、労働組織のなかから発生し着実に根を張っていたほとんど唯一のグループ「革命的オプロイテ」との結集に失敗したことをあげるのは(その理由は彼らがスパルタクス急進派の一揆主義を警戒したからだった)多くの論者の一致するところだ。」217-8P
「一九一八年末、ローザによって書かれた『ドイツ共産党(スパルタクス)のプログラム』は、つぎのようにいう。「スパルタクス団は、労働階級の上に立って、あるいは、労働階級によって、政権をとろうという政党ではない。スパルタクス団は、ただ、その目的をもっとも確信する労働階級の部分に過ぎない。それは広汎な労働運動を、画段階において、その歴史的任務に向ける部分なのだ。革命の全ての段階で、それは社会主義の究極の目的を明示し、また、すべての民族的問題のなかで、プロレタリア世界革命に役立つものを明らかにする。スパルタクス団は、ドイツ労働階級の大多数の明白な意志を通ずる以外にけっして政治的権威を僭取しない……スパルタクス団の勝利は始めにではなく、その終りにある。それは何百万の社会主義プロレタリアート大衆の勝利と同じい」」218P
「「ここでは、無意識が意識に先行し、客観的な歴史発展の論理が、そのにない手の主観的論理よりも前にある」とローザはいった。とすれば、前衛とは、その無意識を意識へ、客観的歴史発展の論理を主観的論理へと、行動のうちに展開させる任務を帯びた、大衆の部分、大衆とけっして分つことのできない部分にほかならない。そのような前衛として、彼女とリープクネヒトは、革命的大衆行動のさなかに「逃亡」することをみずからに許さなかった。二人を律したこの前衛の倫理は、みずからの少市民性を通じては、小市民的信義の名残りとみえる。そして、二人の理想主義的な、大衆の自然性への確信も、ブルジョア的リズムをもってすれば幻想以外のものとはみえはしない。/ローザの最後の文章はこう結ばれている。「『ベルリンの秩序は維持されている!』ほざくがよい、鈍感な権力の手先どもよ! おまえたちの秩序は砂の上の楼閣だ。あすにも革命は『物の具の音をとどろかせてふたたび立ち上り』トランペットを吹きならして、おまえたちの驚愕をしりめに、こう告げるだろう。Ich war,ich bin,ich werde sein!(わたしはかつて在り、いま在り、こんごも在るだろう)」と。/永久革命の確信を告げるその言葉と「革命の名誉」のためのその献身の行為において、ローザとスパルタクス・ブントの前衛の神話は、半世紀をへだてたいま、新たな衝撃をもってよみがえろうとしている。」220P


posted by たわし at 04:59| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パウル・フレーリヒ/伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』

たわしの読書メモ・・ブログ545
・パウル・フレーリヒ/伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』東邦出版社1974
 ローザの学習7冊目です。ここからローザ・ルクセンブルクへの評論に入ります。この本の著者は、ローザと共に、ドイツ革命に関わったひと、ただし、ローザの流れから直接出たひとではなく、むしろレーニンの影響下で、ドイツ革命に関わったラデックと一緒に動いていたひとです。ただ、ローザが斃れて、その後のドイツ共産党の流れの中で、ローザの思想的なことを引き継いでいくことがあり、ローザの未完の全集の編集を担ったりしています。この評論は、時代の流れ的なことを押さえ、同時に論点の整理をしようという意欲的な評論です。なお、これの読書メモを書いているのに併行して次の読書メモの本も読んでいたので、その内容をこの読書メモに混入させています。
 ローザの学習の最初にとりあげた、『ローザ・ルクセンブルクの手紙』の訳者の「解説」で、レーニンのローザの評価が引用されていたのですが、この本の「あとがき――パウル・フレーリヒの横顔――」でも、もっと詳しく引用されています。ちょっと長くなりますが、引用しておきます。
「「パウル・レヴィ(ローザとリープクネヒト亡き後にドイツ共産党を牽引したひと)は、いまローザ・ルクセンブルクがまちがいをおかしているまさにその著作を再版することによって――ブルジョワジーに、したがってその手先である第二および第二半インターナショナルにとくに奉仕しようとのぞんでいる。われわれはそれに対して、ロシアのある適切な寓話の一句でこたえておこう。それは、鷲は牝鶏よりひくくおりることもあるが、しかし牝鶏はけっして鷲のようには飛びあがれない、ということである。ローザ・ルクセンブルクはポーランド独立問題で誤りをおかし(註1)、一九〇三年にはメンシェヴィズムの評価で誤りをおかし(註2)、資本蓄積論の理論で誤りをおかし(註3)、一九一四年七月には、プレハーノフ、ヴァンデルヴェルデ、カウツキーその他とともに、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの統合を擁護するという誤りをおかし(註4)、一九一八年に獄中の著作で誤り(註5)をおかした(ただし、彼女自身、出獄後、一九一八年の終りから一九一九年の初めにかけて自分の誤りの大半を訂正した(註6))。しかしそうした誤りにもかかわらず、彼女はやはり鷲であったし、いまでも鷲である。そして彼女についての記憶が、つねに全世界の共産主義者にとって貴重であるだけでなく、彼女の伝記と、彼女の著作の全集(このことでは、ドイツの共産主義者は、がまんのできないほど立ちおくれており、ただ、彼らの苦難の闘争での前代未聞の多くの犠牲ということで、わずかにいくらか言いわけされるだけである)は、全世界の共産主義者の多くの世代を教育するうえに、もっとも有益な教訓となるであろう。<一九一四年八月四日以後、ドイツ社会民主党は悪臭紛々たる屍である>――ローザ・ルクセンブルクのこの名文句とともに、彼女の名は、世界労働運動の歴史にのこるであろう。」(「政論家の覚え書」、一九二二年二月末、『レーニン全集』第十三巻、大月書店)」431-2P
さて、レーニンの同時代人で、レーニンの批判を左派として批判し続けたひとは少なく、ローザがまさにそのひとりだったのですが、ここで、レーニンからのローザの批判が出ています。誤解のないように書いておきますが、ローザはかなり鋭くレーニンを批判しているし、レーニンもローザ批判をしています。ただ、ローザもレーニンも互いに評価し合っています。そして、大雑把にいえば、ローザの原則主義、レーニンの現実主義となる傾向が強いのでしょうが、互いに固い「主義」ではなく、相互入れ込みしています。そのようなレーニンとローザの比較が、この本は、ローザの時代的な、そしてテーマ的なローザの論考を追っているので、論点がかなり浮かびあがってくるのです。
ローザの『選集』の読書メモでは、抜き書きがほとんどだったのですが、ここでは、全体的構成をもくじを追って明らかにし、節でテーマが出ているので、それをテーマの抜き書きをしておきたいと思います。そのテーマに沿った掘り下げは、中途半端になるので、(註)で少し書きますが、ほとんどここではなしえず、一連のローザの評論の学習の終わった後か、ローザ学習の最後にか、まとめたいと思っています。
 で、目次と節を抜き書きし、注目すべき節――論点を下線を付けて(註 数字)で指摘し、「註」でコメントを付し、注目すべきところの概略を書きページ数を記しておきます。
   目次
第三版へのまえがき
凡例
第一章 青春
 1 生家で  2 闘争のはじまり 
第二章 ポーランドの運命
 1 チューリヒ  2 レオ・ヨギヘス  3 「プロレタリアート党」 4 ブランキズムに抗して  5 戦略問題としての民族問題(註7)  6 ポーランド社会民主党の設立
第三章 マルクスの遺産の継承
 1 ドイツ社会民主党の戦列に加わる  2 修正主義への台頭(註8)  3 ある世界像(註9)  4 改良と革命(註10)  5 拉致された資本主義  6 “シジフォスの労働”
第四章 政治権力の奪取
 1 議会主義の限界  2 入閣の実験  3 最後の手段(註11)  4 闘争のよろこび(註12)  5 論争
第五章 一九〇五年のロシア革命
 1 ロシアは目覚める  2 党の組織問題(註13)  3 レーニンとローザ・ルクセンブルク(註14)  4 一九〇五年の革命の本質  5 後方での小競りあい
第六章 前戦で
 1 ワルシャワ  2 武装蜂起(註15)  3 ポーランド社会民主党とポーランド社会党(註16)  4 ポーランドの獄中で  5 革命に対する批判
第七章 新しい武器
1 幻滅  2 政治的大衆ストライキ(註17)  3 『大衆ストライキ、党および労働組合』(註18) 4 ふさわしからぬ指導者たち  5 自然発生理論(註19)
第八章 資本主義の終焉をめぐって
 1 党学校(註20)  2 『国民経済学入門』  3 『資本蓄積論』  4 資本蓄積理論と帝国主義  5 エピゴーネンたちの攻撃
第九章 反帝国主義のたたかい
 1 政治的問題  2 帝国主義戦争の危機とたたかう 3 平等選挙をめぐる闘争
 4 司法権力の介入
第十章 両端の燃える蝋燭のように・・・ローザ像に絞った章です
 1 女性として(註21)  2 闘士  3 文体  4 演説
第十一章 世界大戦
 1 八月四日(註22)  2 反乱の旗の下に  3 雑誌『インターナチオナーレ』(註23)  4 婦人監獄の一年  5 『ユニウス・プロッシューレ』(註24)  
6 スパルタクス(註25)  7 パルニム街、ウロンケ、プレスラウ
第十二章 一九一七年のロシア
 1 最初の勝利  2 十月革命  3 ボルシェヴィキ批判(註26)
第十三章 ドイツ革命
 1 序幕  2 十一月(註27)  3 諸勢力の結果  4 革命のプログラム(註28)  5 反革命の攻撃(註29)  6 ドイツ共産党の設立
第十四章 死にいたる道
1 一月闘争  2 スパルタクス・ブントと一月闘争  3 人間狩り 4 虐殺
 5 エピローグ(註30)
ローザ・ルクセンブルクと現代(註31)
あとがき(註32)
ローザ・ルクセンブルクの著作と参考文献


1 これは、民族自決権の問題で、レーニンとローザの間で民族自決権を巡っての論争がありました。これについては註7で、詳しく論じます。
2 これは、主にローザのレーニンへの「超中央集権主義」批判として展開されたことで、この時のメンシェヴィキにはトロツキーも含まれていました。ただ、トロツキーはすぐにメンシェヴィキを離れ、1917年のロシア革命の頃には、ボルシェヴィキに合流しています。ローザの「ロシア革命論」の後のレーニンのいうローザの自己訂正(註6 参照)、そしてレーニン自体の、中央集権主義に対する変化も照らして(註13 参照)、これはとらえ直すことです。ローザも中央集権主義自体は必要としています。ただし、このことも情況規定的で、さらに現代的に弁証法的にとらえ返すことだとわたしは思っています。
3 これは、マルクスの『資本論』第二巻の拡大再生生産論の論理的抽象から上向していく手法をローザが読みとれず、マルクスの不備として、いきなり「帝国主義論」にリンクさせたことを指しているようなのです。しかし、ローザの「資本蓄積論」とレーニンの「帝国主義論」に関しては、レーニンの「帝国主義論」は、植民地支配時代の「帝国主義論」で、ローザの「資本蓄積論」の継続的本源的蓄積論は、今の社会でも、特に反差別共産主義論的観点から生きて使える理論になっているとわたしは押さえています。 
4 これは、レーニン自身が現実主義的にメンシェヴィキとの共闘は完全にきっていなかったので、そのことも含めて考えることです。
5 これは「ロシア革命論」です。ローザはこれを出すことに迷いがあったようで、しかも、なかで展開していたことを一部運動の中で撤回・修正しています。註6につながっています。運動の中での修正に関しては、註26参照。
6 何を撤回したのか、何を維持したのか細かい押さえが必要です。いずれにしても当時の運動の実践的なところで起きていたこと、一部は、ローザの押さえ損ないもあると押さえたところでの、現在の実践的なことに照らした検証も必要になることです。
7 これは註1で書いた民族問題です。ローザはインターナショナショナリズムで、ポーランドに関しては、独立運動的なことに否定的でした。このあたりはレーニンとの民族自決権を巡る論争で、レーニンは、抑圧する側の民族として被抑圧者の自決権を認めるということ、ローザは、抑圧される側の民族として、自国のブルジョアジーにからめとられるという批判があったようです。ただ、ローザのレーニンに対する超中央集権主義批判で、中央集権主義と民族自決権はアンチノミーになるという内容の批判をしています。ただ、ローザはインターナショナリズムの傾向が大きいのですが、階級闘争一元主義にも陥っているし、そもそもローザもレーニンも差別の階級支配の道具論に陥っていました。これは、ローザが個別差別の問題をとりあげないことにもつながっています。
著者のローザのポーランド問題への評価「ローザ・ルクセンブルクの方は、ポーランド問題ではまったく正しかったが、しかしポーランド民族問題の解決にのみ妥当なその方法を不当に一般化した点で誤っていた、というレーニンの総括的判断はまさに正鵠を射たものであった。」58Pがあります。ただ、レーニンの民族自決権は超中央集権主義に照らすと虚構になっていきます。その矛盾のなかで、スターリンの民族理論につながっていきます。ローザも必ずしも独立運動一般を批判したのではなく、むしろゆらぎというか、現実的なとらえ返しで、実際の利害をとらえ返し、インターナショナリズム的にどういう方針をだしていくかという観点があったようです。これは著者の次の文として示されています。「ローザ・ルクセンブルクはボーランド民族問題やトルコの抑圧のもとにあった諸国民の民族問題を解決することを通じて、マルクスの国際政策の命題をくつがえした。そしてそのことによって、彼女は自分がマルクスの本当の学徒であることを示した。というのは偉大な思想家のエピゴーネンと創造的な継承者を分つのは、前者が師の思想の既成の結果だけを金科玉条と墨守して、状況の変化に頑として逆らうのにたいし、後者は偉大な先達者の真の精神を学んで、既成の結果そのものにたいしても自由で批判的な眼をもち、師がしたのと同様に、その方法を異なった状況に適応させて変更させていくところにあるからである。」59P
8 これは、ドイツ社会民主党が古い歴史を持ち、それなりに民衆や労働組合にも足場をもっていた中で、逆に日和見主義との闘いが大きな問題になっていきました。そして、党内分派としてスパルクス・ブントを作り、結局、社民党から分離し独立社会民主党を中央派とともに作りました。更にそこから分離して、ドイツ共産党(スパルタクス)を作り、そこから、ローザとリープクネヒトも含めた多くの共産党員が殺されたというところの結末につながっていきます。レーニンは最初からメンシェヴィキと袂を分かつ傾向があったのに、ローザは社民党にとどまるという志向が強かったようです。このあたりは、その立場でロシアのメンシェヴィキ批判をしきれないという、註2と註4のレーニンの批判にもつながっています。このことはコミンテルンの反ファシズム統一戦線論と社民主要打撃論との右往左往――方針の誤りによる各国における打撃・運動の崩壊の問題にもつながっていきます。
 ここで、もうひとつおさえて置かねばならないのは、繰り返し出てくるのですが、エンゲルスのマルクスの書の『フランスにおける階級闘争』への1995年版への序文が、修正主義者たちによってエンゲルスの意向を無視して、「エンゲルスの遺言」として利用されたという問題があります。それは「改鼠された内容の承認を拒否して、公刊された「序文」の中に、たえずエンゲルスの真の意見をよみとろうとしたのはローザ・ルクセンブルクだけであった。」77Pとあります。ただ、そもそも後期エンゲルスの検証自体も、必要になっています。
9 これは唯物史観や、史的唯物論の話なのですが、このあたりは著者は、そのような言葉を使わないで論じていて、このあたりから自然発生生の問題につなげていく論考が必要になるのだと思います。
 ひとつだけ切り抜きを、「彼女はマルクスの科学的方法による社会主義の歴史的必然性の立証を確信していた。マルクスは資本主義崩壊の確実性を社会的な“自然法則”の結果として立証したからこそ、人はその思想を科学的社会主義とよぶことができるのだ、と彼女は主張した。」80P・・・“自然法則”は、教科書的には、史的唯物論とか言われていること。ローザは哲学的なところからは余り論を展開していないので、自然発生性の問題も唯物史観や史的唯物論というようなところの規定性としてとらえかえしていく必要があるのだと思います。
10 これは改良と革命のリンクというローザの運動論です。「しかも最終目標とは未来のあれこれの国家形態を想像することではなく、未来社会の形成に先だたねばならないこと、すなわち政治権力の奪取を意味しているのだ」85-6P・・・ローザの政治権力の奪取論
11 ローザの暴力論。「「暴力は労働者階級にとってはいつでも最後の手段であり、あるときは潜在的に、あるときは顕在的に力を発揮する階級闘争の最高の法である。そしてわれわれが議会活動やその他の活動によって頭脳を革命化しておけば、危急の際に革命は頭脳から拳にすすんでいくことが可能になる。」この点でもローザ・ルクセンブルクは改良主義者の見解を徹底的に検討し、もし改良主義の道をとればファシズムの妖怪が現れてこようと警告して、カッサンドラの叫び(訳者註略)をあげたのである。」107P
12 ローザの言葉の引用。「あなたは論争をやっかいな幕合だと思わずに、よろこびをもってしなければいけません。公衆というものはいつでも闘争者の気分を感じとるものですし、早々のよろこびは論争に明るい響きと道徳的な力をあたえるからです。」108P
「ローザ・ルクセンブルクにはマルクスの世界観が血肉となっていたために、自分の行動を正当化するためにマルクスやエンゲルスの権威を引き合いにだす必要もなく、自由に行動することができた。」109P
13 註2の内容です。この問題は、次の読書メモの本で、レーニンが、ローザから自分の「超中央集権主義」として批判さえてられている本の出版を、革命後は過去の論争過程の本として出版を渋ったという話にもつながっています。
14 この問題は、次の本の読書メモ、ドイツやポーランドとロシアの社民党の運動の歴史的違いの情況規定的な唯物史観的なとらえ返しから、違いを押さえていく作業が必要になります。またレーニンもローザも互いにリスペクトしていたという、二人とも実践的なひとで、そこからのとらえ返しが必要です。 
15 ローザはマルクスの流れで、武装蜂起、権力奪取、プロ独論も展開していたのですが、血を流すことには極めて慎重でした。自然発生性を唱えていたので、レーニンの十月革命が計画的武装蜂起を準備したこととの違いがあるし、弾圧と決定的武力衝突の局面の時にレーニンは地下に潜ったのに、ローザは(これも次の本の読書メモなのですが)、敵側として出てきている民衆との論争とかやっていたようです。自然発生性への依拠と拝跪という弁証法がまさに問題になっているのだと思います。
 以下切り抜き。「ローザ・ルクセンブルクは、蜂起をもって軍隊にたいする正攻法であるとは考えなかった。彼女の考えでは、煽動によって軍隊の内部崩壊を準備し、戦闘そのもののなかで、その内部崩壊を完全なものにすることが蜂起の前提条件であり、蜂起の勝利は、強力な部隊を革命的人民の側に移行させることにかかっていた。」156P「ローザは当初、大衆の自発的な行動をもっぱら重視していたが、モスクワの経験から意識的な組織や指導の意味をはじめてみとめるようになり、一方レーニンは、秘密結社的な考え方から出発して、その限界をみとめるにいたったのである。・・・・・・しかしいまやかれは、労働者たちが組織の頭上をこえて、ストライキから蜂起に移ったという事実の中に「ロシア革命の最大の成果」をみるにいたった。それゆえこの二人の思想家は、ほとんど見解の相違はないとみえるほどに接近した。しかし、それにもかかわらずやはりかれらの出発点はそれぞれ異なったものであり、その出発点の相違は、二人の政治思想の間のあるきわめて本質的な相違を特徴づけている。」157P
ロシア1905-6年革命、ロシア二月革命はローザ的な自然発生性、ロシア十月革命はレーニン的計画された蜂起157-8P
「彼女は新たな経験はつねに新たな認識をもたらし、新たな情勢はつねに新たな可能性と必然性をもたらすことを自覚したのである。そしてそれゆえに彼女は、宣伝にあたっては次の戦術目標を明らかにすることに、自分の活動を限定したのである。このようにして彼女は、自身の政治活動および運動の柔軟性を保ったのであった。」158P
16 ポーランド社会党は議会主義の改良主義で独立志向、ポーランド社民党はインターナショナリズムと革命志向というところで当初からせめぎ合いをしていた歴史があります。
「そしてこうした発展の直接的な結果して、一九〇六年春に、ポーランド社会民主党はロシア社会民主党に合体した。いまやロシア社会民主党による民族自決権の宣言は、ポーランドにおけるプロレタリアートの戦略にとって少しも危険なものではなくなった。というのは民族自決権の原則とポーランド労働者階級の政策は、いまや弁証法的(?)に統一するようになったからである。」164P
17 ドイツ社会民主党には政治的大衆ストライキという志向はなく、むしろ否定的だったのですが、ベルギーや1905年ロシア革命の中から、その評価が高まり、議論が始まります。
「とくに彼女には、ゼネラル・ストライキは強度の革命的性格をそなえた手段であると考えられた。ゼネラル・ストライキは、労働者大衆の高度の闘争準備を前提とするものであって、普通の闘争ルールにしたがって取り扱ってはならない。それは革命的な内容をはらんでいるのであって、その点を見落としてこれを取り扱うことは重大な敗北を喫する恐れがある、と。」186P
18 これは、ドイツの社民党や労働組合の組織の大きさというところで、しかも修正主義ということが出てくる中で、運動の実践の必要性を説いた論攷です。
「一方ローザ・ルクセンブルクは、将来のための解決策はあらかじめ何一つつくらなかった。彼女は階級対立の歴史過程を細かく研究し、同時にいつでもそれを総体的にとらえることによって、生きた経験から創造を行った。そしてその際に、彼女は想像力によって日常性から飛翔し、特殊な状況のためにたまたま起こった事がらをよりわけ、ある歴史段階に共通の要素を、現実の生きた姿の躍動するままにつかみだしてきた。」190-1Pローザ「闘争にスローガンと方向をあたえ、政治闘争の戦術をととのえて、プロレタリアートに内在する力や、すでにひきだされ活動している力がすべて、闘争のあらゆる局面や時点で発現されるようにすること、また社会民主党の戦術が、決断や鋭さの点でけっして現実の力関係を下まわらず、むしろこの力関係に先行するようにすることこそ、大衆ストライキの時期における指導のもっとも重要な任務である。そしてこの指導は、おのずからある程度までは技術的な指導に転化する。つまり社会民主党の断固として前進をめざす首尾一貫した戦術は、大衆の間に信頼感と自信と闘争意欲をよびさまし、プロレタリアートの力の過小評価にもとづいた動揺する弱々しい戦術は、大衆を混乱させ、意気消沈させてしまうであろう。前者の場合には、大衆ストライキは“ひとりでに”そしていつでも“時宣に適して”起こってくるし、後者の場合には、指導部がいくら大衆ストライキを直接呼びかけても効果がないのである。」196P
19 たぶんこの「自然発生性論」がローザ論の大きな課題になっていきます。ローザは民衆に対する信頼と運動の自然発生性を極めて評価していました。これは、唯物史観と決定論批判との関係、運動の主体性の問題とも関連していくのですが、まあ、現実的な運動の場面・場面で検証していくことでしかないこと。そもそも、レーニンも革命のまっただ中でジヨン・リード(『世界を揺るがした十日間』の著者)の質問に答えて、「ボルシェヴィキよりも、労働者の方が革命的だ」という主旨の発言をしていて、民衆の自然発生的エネルギーへの評価を出しています。まさにこれが自然発生性への依拠と拝跪の弁証法といいえることです。
「ちがいは、九〇年代の大衆ストライキが、闘争が尖鋭化し、労働者大衆のエネルギーが高度に集中された革命的情勢の中から生まれた自然発生的な運動であったところにある。しかしそれが、自然発生的であったということは、混沌とし、無計画、無制約、無指導であったという意味ではない。それどころか、あの二つのストライキにおいては、指導層は大衆と完全に一体となり、その先頭にたってすすみ、運動を完全に指導し、支配していたのであった。それは指導層が大衆の脈搏と完全に一致し、口先だけでなく、大衆の感情や意味を本当に汲みとって、すすんでそれに一致していったからであった。」202P「“大衆への絶望”などというのはいつでも政治指導者としての失格の証拠です。真の、偉大な指導者は、けっしてその戦術を大衆の一時的な気分に合わせたりせず、歴史の仕事が自助に成熟するのを待つものです。」204P・・・?依拠と拝跪の微妙な側面
20 ローザは最初党学校ということには否定的だったようですが、これをひきうけ、その講義録として、次の節のタイトルにもなっている『国民経済学入門』を出しています。ローザの講義は、的を得ていて分かりやすかったようです。その教え子であったエーベルトが、ローザ虐殺を行った政権に重き位置を占めて加担していたことは、歴史の皮肉としかいいようのないことです。ローザの教え方については「表面的には彼女はどこまでも学生の考え方に歩調を合わせ、その考えを最後までつきつめてみることを要求し、学生たちは気づかぬうちに望んでいた目標まで導かれていた。」「学生と一緒になって考えたために、だれもそれに圧倒されたという感じをもつものはなく、授業時間が終わって、彼女の魔力がとけ、彼女の卓抜さがひとりでにわかるまで、一度もそれに気がつくものがなかったほどであった。彼女は学生たちに、思考において科学的に不徹底であったり、憶病であったりするものへのふかい軽蔑と、一切の科学的行動への尊重の念をうえつけた。ローザ・ルクセンブルクとの共同学習は、学生たちを知的にゆたかにしたばかりでなく、道徳的にも向上させた。党学校にたいして偏見と企みをもってやってきたものも何人かいたが、彼女はかれらを異端者とはしなかった。」208P 
21 ローザには個別差別の問題では、民族問題でもインターナショナリズムを突きだして、独立運動的なことを批判したし、自決権批判もしています。他の差別もほとんどとりあげていません。性差別に関しても、この問題で主体的に動いていたクララ・ツェトキンと連係していたのかも知れませんが、ほとんど論攷を残していません。むしろ「男並みに対等に仕事が出来る女性」として戦っています。しかし、その感性の「ひと(いきもの)を傷つけたくない」「あらゆる命を尊ぶ」とか、被差別者側の感性をもったひとでした。このあたりのことを現代社会的には、反差別というところから、トータルな展開が必要になっていくと思えます。
 著者の(歴史的規定性なことなのですが、わたしとしてはそれとして済ませて欲しくない)差別性が出ているところ、「肉体的には、彼女はけっしてヒロインにふさわしくなかった。彼女は小さく、姿恰好もよくなかった。幼年時代の腰の病気のために、歩行もぎこちなかった。輪郭のはっきりした顔は典型的なユダヤ人の顔であって、並はずれた大胆さと決断の持ち主であることを示していた。」250P ローザの女性としての立場性の問題。「ローザ・ルクセンブルクは、鋭い理解力、行動力、大胆、決断力、自信など、男性的な面を数多くもっていた。しかし男性に伍することで有頂天になる青鞜派ではけっしてなかった。つねに自然、率直であるという点で彼女は完全な女性であった。女性――個性的な女性とは、彼女にとってはいわゆる“女傑”ではなく、“善良で心のしっかりした”女性のことであった。」257P・・・?著者の、そして社会的なジェンダー意識
22 八月四日はドイツ社会民主党の国会議員団が、それまでのインターナショナリズムを放棄して、戦争予算に全員賛成投票した日です。ローザはこのことにすごくショックを受けて、自死さえ考えたと、別の本に書かれていました。詰めかけた民衆を前にして、演説を促されても演説が出来なかったということがここでも278P書かれています。
23 レーニンとローザの違い。「レーニンは「平和」のスローガンを一切否定した。一方ローザは、「平和」を政治的活動の中心に据えた。」291P レーニンのスローガンは「戦争を内乱に転化せよ」。ローザは反戦のひと。
24 「社会民主党の危機」が内容を表した表題。
「また彼女は、労働者階級はその時代の大きな紛争に際しては、つねにその勝利が人類文化の進歩と国際プロレタリアートの利益をもたらす側にたて、という一九世紀においては決定的なものであったマルクスとエンゲルスの原則がもはや適用されなくなったことを指摘し、今日の帝国主義二大陣営は、両者ともに自由のためにたたかうものではなくして、征服と抑圧を目指すものであり、したがってそのいずれのグループの勝利も、世界の労働者階級に悪をもたらすであろう。それゆえに、労働者階級はこの二大勢力のいずれにも荷担すべきではなく、統一して国際的に帝国主義とたたかわねばならない、とのべた。」298-9P
25 スパルタクスの形成は、独立社会民主党の社会民主党からの分離ということもあったとはいえ、レーニンからとらえるとやっと分離し、独自的展開に入ったとなるのでしょう。
「以前から、彼女はしばしば他国の党の闘争に干渉するといって非難されてきた。しかしそれは彼女にとって当然のことであった。彼女の意識の中では、国際プロレタリアートは一個の統一した行動体であり、この統一を未来において実現することこそ、彼女の最大の目標だったからである。したがってこれに反対するものは、彼女とは違った立場にたつものであることを自ら証しだてていたのである。」305P・・・ローザのインターナショナリズム
26 これは「ロシア革命論」として展開されたこと、組織的問題性は後のスターリン主義的なことをローザが予見したとなるのでしょう。次の読書メモの本で論点を出しています。註5、註6参照。 
「このようにローザ・ルクセンブルクは、十月革命とその基本原則を最高級の言葉で称揚したが、しかし同時に、農地改革、民族自決権、民主主義とテロルの問題では、ボルシェヴィキの政策を批判した。」332P・・・次の読書メモの本では、四つ上げています。
ローザ「しかし、この独裁は民主主義の適用方法にあるのであって、その廃棄にあるのではない。ブルジョア社会において“正当に獲得された諸権利”や経済関係――これなしには社会主義変革は実現されえない――にたいする精力的な、断固たる侵害を意味するものではない。」「・・・・・・プロレタリアートはただちに、このうえなく精力的に断固して仮借なく社会主義政策に着手すべきであり、そうせざるをえない。つまり独裁を行なうのであるが、これは階級の独裁であって、政党や派閥の独裁ではない。階級の独裁、すなわち、無制限の民主主義の中で人民大衆が活発に、何ものにも妨げられずに参加するもっとも開放的な階級の独裁なのである。」337P・・・ローザの独裁論
 ローザ「われわれはつねにブルジョア民主主義の政治的形式から社会的核心を区別してきたこと、またつねに形式的平等や自由という甘い皮の下に、社会的不平等や不自由という苦い実があることを暴いてきたということにすぎず――それも自由と平等を投げ捨てるためにではなく、労働者階級をそれにむかって励まし、皮に満足せずに、政治権力を獲得することによって、これを新しい社会内容でみたすためであった。権力を握ったプロレタリアートの歴史的使命は、ブルジョア民主主義のかわりに社会主義的民主主義を創造することであって、一切の民主主義を廃棄することではない。」/著者「つまりローザ・ルクセンブルクにとってプロレタリア独裁とは、民主主義の縮小ではなくして拡大であった。それより高次の民主主義であった。」338P
「しかしまた、ローザ・ルクセンブルクは、古い社会秩序の解体に臨んで、膨大な課題をかかえ、しかも獲得した権力を維持するために、さまざまな敵とたたかわねばならぬボルシェヴィキにとっては、存在するあらゆる力を集中し、自由の制限によって目前の危険を排除し、必要な措置を上から指令することをせざるをえぬ、ということもよく知っていた。大衆の民主的活動の効用をのべた後に、彼女はつぎのようにつづけている。/「もし世界大戦や、ドイツ軍による占領や、これと結びついた一切の異常な困難というおそるべき状況下に苦しむことがなかったならば、ボルシェヴィキもまたかならずそうやったにちがいない。これらのおそるべき状況は、最善の意図もっとも美しい原則に満ちている社会主義政策のすべてを歪めずにはおかないのである。」340-1P・・・?そもそも苛酷な情況から規定されて、それだから起きたこと
「ただ、彼女が警告しようとしたことは、かれらが苦しまぎれにやったことを美徳にし、この宿命的な条件にしいられて仕方なくとった戦術を、すべて理論的に固定化して、社会主義戦術の模範として、国際プロレタリアートに模倣させようとすることであった。」341P
「ローザ・ルクセンブルクは、このロシア革命論の草稿を完成しなかった。その理由は、ただ時間がなかったためというだけのものであろうか? おそらくその他に、彼女自身、自分の意見が本質的な点で変わりつつあることに気づいていたこともあったのではなかろうか。いずれにせよ、その数週間後に、彼女は多くの重要な点を修正した。彼女のポーランド時代以来の同志であったアドルフ・ワルスキーは、一九一八年の十一末か十二月初めに、彼がボルシェヴィキの政策に疑念をのべると、ローザ・ルクセンブルクはつぎのように答えたと伝えている。/「・・・・・・あなたがもたれているような留保や不安を、わたしももっていましたが、もっとも重要な問題に関する不安はすててしまいました。・・・・・・したがって、ロシアのテロルは、なによりもヨーロッパ・プロレタリアートの弱さのあらわれなのです。たしかにいまつくりだされている農業関係は、ロシア革命にとってもっとも危険な、もっとも弱い点です。しかし、この場合にも、どれほど偉大な革命も、歴史の発展が許すことしかできないという真理があてはまるでしょう。この弱点を正しうるのもまたヨーロッパ革命だけです。そしてそれは起こるでしょう!」(A・ワルスキー『革命の戦術的問題にたいするローザ・ルクセンブルクの態度』一九二二年 ハンブルク)」342-3P
27 オプロイテのブランキズム批判として、自然発生性の問題と武装蜂起について「革命は“作られる”ものではなくして、情勢が熟せば大衆の中からうまれてくるものであり、頭からひねりだした第一撃の技術的準備はけっして成功しないばかりか、ときに決定的な時期を失するおそれさえある、というローザ・ルクセンブルクの考えは、ここでもまた実証されたのである。」352P・・・ドイツのブランキズム批判としては妥当としても、ロシアの十月革命では?
28 ローザの反暴力主義は、非暴力主義ではない、とわたしは押さえています。「それゆえに、今日、問題なのは、デモクラシーか独裁か、ということではない。歴史の日程にのぼっている問題は、ブルジョア・デモクラシーか社会主義デモクラシーか、という問題である。なぜならプロレタリアートの独裁とは、社会主義的な意味でのデモクラシーにほかならぬからだ。プロレタリアートの独裁とは、けっして資本主義的利潤の代理人たちが意識的に捩じまげていうような、投弾や、暴動や、騒乱や、“アナーキー”ではなく、プロレタリアートの革命的多数決という意味で、またその意志により、したがって社会主義デモクラシーの精神において、全政治権力を社会主義の実現のために、資本家階級の財産没収のために行使することだからである。」363-4P「ブルジョア革命においては、流血やテロルや政治的殺戮は、上昇してきた階級にとって手離すことのできない武器であった。しかしプロレタリア革命は、その目的にためにはいかなるテロルも必要とせず、人間の殺戮を嫌い、憎む。プロレタリア革命は、これらの闘争手段を必要としない。なぜなら、闘争し合うのは個人ではなくして制度であり、素朴な幻想に導かれて闘争場にたつことはなく、したがって幻滅に血をもって報いる必要もないからである。プロレタリア革命は、けっして、世界を暴力によって自分の理想に従わせようとする少数の絶望的なこころみではなく、歴史的任務を果たし、歴史的必然性を現実のものとする使命を負った、数百万人民の行動だからである。」365Pローザ「これらはすべての抵抗は、一歩一歩、鉄拳をもって容赦なくうち砕かねばならない。ブルジョア反革命の暴力にたいしては、プロレタリアートの革命的暴力をもってたちむかねばならない。」366Pローザ「スパルタクス・ブントは、全ドイツのプロレタリア大衆の大多数の明確な意志による以外は、そしてまた、スパルタクス・ブントの意図、目的、闘争方法をはっきりしたうえでの同意による以外には、けっして政治権力を手にしない。」367P
29 後半に大衆ストライキの問題について。「しかも、このストライキは決してたんなる賃上げ運動ではなかった。これは革命の一部であったというだけでなく、ストライキの目標として、企業権の獲得と精算の本当の社会主義化が公然と掲げられていたのである。」372P
ローザ「革命期になれば、ドイツでも、組合闘争の性格は一変し、それにくらべれば現在の労働組合のゲリラ戦などは児戯にひとしいほどに強力なものとなろう。そして、この基本的な経済的大衆ストライキの嵐の中から、政治闘争もまたたえず新しい力と活力をくみとることになろう。したがってプロレタリアートの革命行動の、いわゆる自動調整機構である経済闘争と政治闘争の相互作用は、ドイツにおいてもまた状況そのもののなかから、自然に生まれてくることになるであろう。」/著者「この予言は、かかれた当時ドイツではまったく理解されなかったが、いまや現実によって十分に実証された。というのは、嵐のような大衆ストライキが、意識的に社会主義経済の実現をその最終目標に掲げるにいたったからである。」373P
「しかしこの動きは、時流におされて社会の底辺で起こっていることであって、そのままただちに、政治的諸関係のうえにはあらわれてはこなかった。経済闘争と政治闘争の歯車のかみ合いも、順調にいっていなかった。特に評議会の構成は、大衆の発展にくらべていちじるしくおくれていた。」374P
30 この書の著者の本文での最後のフレーズ、「野蛮の勝利の行進は、やがてその終焉を迎えることになろう。社会進歩と人間の自由への運動は、アキレスのようにふたたび蘇ってくるであろう。そして人類解放のためのたたかいの勝利者は、ローザ・ルクセンブルクの精神の中からたち現れてくることであろう。」410P
31 この本の著者のローザの思想の現在的な意味をとらえ返した文を付録として付けています。ただ、この文は絶筆でフレーリヒが亡くなったのが一九五三年。かなり前です、その後、スターリン死去の後、スターリン主義批判が起こり、ロシア革命から七〇年余でソ連邦は解体し、マルクス葬送が叫ばれるようになりました。「ドイツ革命の敗北」の過程で虐殺されたローザは「勝利したロシア革命」を牽引したレーニンと比較され、分が悪いのです。レーニンを批判した数少ない左派のひと、レーニンもそれなりに評価したローザは歴史のなかに埋もれがちなのですが、今、むしろ、ローザの理論は、現在の状況下で、あらゆる観点から注目され、評価し直していく必要があるとわたしは思っています。それについては、もう少し、読書を続けてからか、一連のローザ学習の最後にまとめようと思います。ここでは、フレーリヒのここでの文を引用しておきます。
「彼女はあるがままの人生を愛し、そしてどのようなものとしてやってこようとも、人生を愛した。彼女は悦びを求めて、その悦びを太陽の光に、咲き開く花に、鳥の声に、研究に、芸術に、芸術創造に見出した。こうして彼女は不断に悦びを自覚的に、徹底的に、そして人が自分の本性に従うように自然に味わいつくした。思考、願望、行動、才能、趣向は彼女においては一つに融け合って創造的な統一体をなしていたるそこに彼女の個性の強さがあった。傭われた殺し屋は彼女の生命を終らせることはできた。しかし、彼女の思想はなおも生きつづけ、現代のために、さらに実りゆたかにされることを待っている。」423-4P・・・わたし自身もはばかりながらその作業の小さな一翼を担おうとしています。
32 最初に書いたようにこの「あとがき」には、「パウル・フレーリヒの横顔」という副題がついていて、フレーリヒの波瀾万丈の活動歴と、著作活動が紹介されています。この本は、まさに運動を担った立場でのローザのとらえ返しになっています。かなり、ローザの思いは受け継いでいますが、批判的な観点も書き記しています。さて、最後に、「あとがき」にこの本の著者に関する訳者のコメントで、印象に残る文がありますので、引用しておきます。「以上が本書の著者パウル・フレーリヒの横顔である。そしてこのつたない素描によって、本書がけっしてたんなる研究所ではなく、戦争――革命――戦争という二十世紀前半の激動の時代を背景に、搾取と抑圧をもたらす資本主義、帝国主義の打倒と、民衆の創意、自発性、個性の全面的な展開をもたらす自由な社会としての社会主義をめざしたローザ・ルクセンブルクの思想と情熱を自己の血肉として生きぬいた一人のマルクス主義者の、苦悩の時代の刻印を負った現代への呼びかけの書であることが伝えられたならば、訳者・解説者としてこれにすぎる悦びはない。」442-3P


posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする