2020年06月17日

伊藤亜紗『記憶する体』

たわしの読書メモ・・ブログ535
・伊藤亜紗『記憶する体』春秋社2019
 伊藤さんの本、わたしの読書メモ3冊目です。これは障害問題総体に拡げた論攷になっています。ただ、いわゆる「中途障害者」が中心、「障害者」になる前の記憶(単に意識といわれることだけでなく、体の記憶)があるひとを中心にしています。それがこの本のタイトルになっています。ですが、「中途障害者」との対比で、生まれたときからの「障害者」には、「元の体――欠損された「障害」」の記憶のないひとも出て来ます。もうひとつ出てくるエピソードは、この著者で最初に取り上げた本のテーマの「吃音」の話も出て来ます。体と意識の乖離の問題です。だから、わたしサイドからトータルにとらえ返せば、いわゆる「マージナルパーソン」(註)の体論ということになります。ただし、表層的心理としては心理的マージナリティにあまり陥っていない、医学モデル的な意味での「マージナルパーソン」というところなのです。このあたりは、著者自身が、医学モデル的な「障害」を反転させて見る、そのようなひととのふれあいを「楽しんでいる」というところからきているのかもしれません。
 この本は11のエピソードと論考で成り立っています。
 目次をあげてみます。
プロローグ:究極のローカル・ルール
エビソード1 メモをとる全盲の女性
エピソード2 封印された色
エピソード3 器用が機能を補う
エピソード4 痛くないけど痛い脚
エピソード5 後天的な耳
エピソード6 幻肢と義肢のあいだ
エピソード7 左手の記憶を持たない右手
エピソード8 「通電」の懐かしさ
エピソード9 分有される痛み
エピソード10 吃音のフラッシュバック
エピソード11 私を楽しみ直す
エピローグ:身体の考古学

わたし事として繰り返し書いているのですが、わたしはそもそも身体論的掘り下げを停止しています。わたしは、そもそも反差別論を最初に展開するとき、その差別の分類を、「身体的差異に基づく差別」と「非身体的差異での差別」という大きな分け方をしようとしていました。そこで、そもそも「身体とは何か」ということを考えていて、「身体とは関係性の分節である」というテーゼに出会いました。で、そこから、身体論的深化の必要性も出ていました。一般に身体論の必読書とされるメルロ・ポンティの本を読もうとしたのですが、解説書や廣松さん関係で、メルロ・ポンティに関する論攷や解説書、雑誌の特集などをあさっていました。その過程で、メルロ・ポンティを読むにはフッサールを先に読まなくてはいけないと思いました。で、哲学的な道行きを、ヘーゲルから青年ヘーゲル派に拡げる段でやりきれなくなっていました。実は身体論は、マッハの「感覚の束」というようなところとの対話も必要になってくるのですが、ともかくここで深みにはまると、本題に入る時間がないと、身体論の学習を停止した経緯があります。廣松さん自身が、身体論で医学的な文献も読みながらいろいろ展開していることを、「廣松ノート」としてなんとか残すに留めることで落ち着きそうです。
さて、この本との対話に話を戻します。幻肢と幻肢痛の話が出て来ます。痛みというところのとらえ返しに踏み込んでいくと、医学的突き詰めが必要になってきます。この本の著者は、幻肢痛を脳からの指令がブロックされるところでの痛みということになっています。ただ、脳と他の臓器や肢体は血管での血流やホルモン、神経ということでつながっているのですが、一方的な脳の支配ということでなく、双方向性の指摘もされています。その痛みがどこからくるのかというところでの、もっとくわしい分析のようなこと、この本の中には書かれていません。参考文献が挙げられているので、その中に書かれてるのかも知れませんが、それにリンクするような文は書かれていません。「痛み」そのものは医療の対象にされ、医学モデルに引きずられがちになります。それは医学モデル批判は、医療の否定ではないというようにわたしは一応押さえています。ただ、ただ、幻肢痛への対応は、むしろ医療的なところではなく、いろんなテクノロジー的な試行でおこなわれてもいるようです。ただ、テクノロジーということが得てして、「障害」そのものをなくすことに結びついていくことと、それが、この社会の価値観にとらわれないとして、この本に出てくるひとは、大方そんな生き方になっているのですが、深層心理的な「障害」をスティグマとするとらわれを呼び起こしていくのではないかとも言いえます。それがまさに、マージナルパーソンとして指摘されていることではないかとも言いえます。
 最初の読書メモで、この著者の二元論への賛同へ批判的なコメントをしたのですが、この本は、まさに心身二元論批判の書になっているのではないかとわたしは感じていました。
 さて、最後に共通の当事者問題の「吃音」に関してコメントしておきます。最後のエピローグで、吃音を治す薬があるとすれば、飲むか?という話がでています。著者が出会ったひとは「飲まない」と答えたそうですが、この話は、伊藤伸二『吃音者宣言―言友会運動十年』たいまつ社1976に出てくる話でもあるのですが、伊藤さんの発言ではありません。わたしはこの本を読んで、しかも「薬を飲まない」と言い切るひとの話に感銘して言友会にその宣言の10年後くらいに入会したのですが、言友会の中で、この話を引用して「薬を飲まない」という話をすると、「単なる強がりだ」という批判をされたものです。宣言的な生き方をとるというひとは多くでてきましたが、それでもそれは揺らぎのなかにあり、伊藤さん自身は、結局、「吃音を治す」から「吃音に対する気持ちの持ち方を変える」というマインドコントロール的活動に収束させました。わたしは、それは深層心理的なところで、体としてどもってはいけないと刻み込まれているので、理論的に表層的意識として、どもってはいけないという意識をもたないとしても、体が記憶しているのだと思います。それを解体していくには、「吃音」が否定的にとらえられているこの社会の共同主観的意識を、それを成り立たせている世界観、社会のなりたち自体を変えていくしかないと思っています。

註 「マージナルパーソン」というのは、差別と被差別の関係が存在するところで、被差別の側にいるひとが、差別する側の見当識(――価値観)にとらわれ、自らの被差別事項を隠す(――パスする)など、自らの存在を否定的にとらえ、心理的マージナリティという葛藤に陥るひとたちを指しています。以前は「マージナルマン」と言う形で論じられていました。わたしのホームページに載せている原稿を参照にしてください。(ホームページの表題は「マージナルパーソン」になっていますが、当時の意識性を残すために、原文は元のままの「マージナルマン」のままになっています。) http://taica.info/akbmmk.pdf


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伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

たわしの読書メモ・・ブログ534
・伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社(光文社新書)2015
 「目が見えない」ということを著者は必ずしも否定的なこととしてとらえない、というより反転さえして見せているということと、見えないことによって他の感覚がとぎすまされるというようなことを書いています。わたしは「「障害の否定性」を否定する」ということをライフワークのひとつにしているので、この著者の指向のひとつとして、悲劇的にみないで、むしろ面白さを感じるということのプラス思考のようなことに一部共鳴していました。「一部」と書いたのは、「面白さ」と言っても、悩み真っ只中の当事者にとっては、非当事者の「面白さ」ということはむしろ怒りの対象になるからです。
 わたしは他の「障害」についての深いとらえ返しや、踏み込んだ交流のようなことは、ろう者の世界以外はあまり押さええていません。障害問題から演繹した、表面的なとらえ返しをそれなりにやってきたのですが、なかなか個別の「障害」のとらえ返しをなしえていません。「視覚障害者」の問題もそのひとつです。まったく、接触がないわけではなく、何人かの知り合いがいるのですが、そのひとたちは、自分の個別問題を超えて、障害問題総体に関わってきているので、いろいろ質問しているのですが、なかなか答えてくれません。他者のことを言えた義理ではありません。わたし自身も、みずからの当事者性の「吃音」ということをさておいて、障害問題の論考を進めています。ここでは、この著者との対話で、今、著者は著者のホームページを見ると、「視覚障害者」問題だけでなく、「聴覚障害者」の問題を対象化しようとしているようなので、「視覚障害者」とわたしがそれなりに対象化してきた「聴覚障害者」の対比ということも含んで著者との対話を試みます。
 さて、反転させて見せるというようなことはわたしもやっているし、否定性に乗らないと言う意味で、「どうでもいいじゃん」ということを突き出してもいます。ただ、この著者は「福祉」ということをさておいてと、論攷を進めています。「福祉」という言い方自体が曖昧さを持っています。今の社会の福祉は、結局「恩恵としての福祉」に収束させられる傾向をもっているからです。今、学の世界で死語になりつつ感のある‘差別’と言う言葉をはっきり使ってとらえ返しの作業をしていかないと、論考は進まない深化しないのではないかと思っています。これについて、一つ前の読書メモに書いた、わたしの本やホームページを見てください。
 別の世界というようなとらえ方をしていくと、まさにここでも二元論になっていくのですが、現実的には、「障害者」と規定されるあるひとたちの存在を無視して非対称的に社会を構成していっているというところで、アクセスの障害が形成されているという問題があります。そのことは社会的歴史的関係なのですが、それを自然的関係と取り違えているのです。たとえば、「ろう文化宣言」を出した木村晴美さんは、「ろう文化」という別の世界があるということを強調するなかで、電車のなかで車内放送を通訳したり降りる駅のことをいちいち指摘したりする聴者がいるけど、余計なことだ、一駅くらい乗り越しとしても、どうでもいいことだと語ったりしています。これは「障害者文化」としての「ゆっくり」の基調の話にも通じる事ですが、二元的世界でない以上、運動的なところで「はやく」ということも求められていることも出て来ます。青い芝の横塚さんの「はやく、ゆつくり」ということばにそれは表れています。「ろう文化宣言」は「文化」宣言になっているのですが、それは本末転倒的な、「ろう者は政治が嫌いなのだ」というような話まで出ていました。何か勘違いのような事が起きているのですが、政治は好き嫌いの問題ではありません。現実の政治が生活をときには命さえ規定していくから問題にせざるを得ないのです。わたしは政治志向にならざるをえないところで、政治的になっているのですが、「政治を否定するための政治」ということを突き出しています。
「障害学」では、医学モデルの枠内の「欠損モデル」ということがあります。この本でも、4本足の椅子に対する3本足の椅子の話が出て来ます。「中途障害者」の場合も(新しいホメオタシスの形成というようなことですが)、生まれたときから「障害者」の場合は、「標準的な」とされる感覚が「ない」「機能しにくい」ひとたちに比べて、もっとスムーズに他の感覚が研ぎ澄まされていく話が出て来ます。このあたり、「サリドマイドの障害者」として「典子は今」という映画のなかの典子さんが足を使って何でもやっていくこと、「乙武現象」ということまで言われた、乙武さんがテレビでスポットライトをあびたこと、勿論本人の努力ということもあるのですが、「なければ、他の方法でやっていく」類いのことで、それが注目されたのは、この社会の「障害者」に対する「努力して障害を乗り越える障害者像」という同化型の差別からきていることです。著者は、二元論批判を根底的にやっていく作業をなしえないなかで、価値観にとらわれないということでニュートラルな突き出しをしようとして(要するに反差別ということをとりあげない中で)そのことを別の世界として描きがちになっています。過渡として「どうでもいいじゃん」とか、多様性とか、異化を突き出すことは意味があるにせよ、そもそも異化ということ自体をとらえ返すことも必要になっていくのだと思います。
 ちょっと各論的なところにもコメントしておきます。
 皆で見る絵画鑑賞の話は興味深いことがありました。このあたりは、車いすの「障害者」がハリアフリーということで、エレベーター設置が進む中で、そのことを車いすの階段昇降介助という形での交流がなくなると指摘していたことにも通じることがあるのかもしれません。
著者が書いてる、「視覚障害者」のなかでみんなが点字ができるわけではないということは、「聴覚障害者」のなかでもみんなが手話ができるわけではないということと対比できると思います。ただ、ろう文化の核としての手話というところでと、点字はちょっと位相が違うのかも知れません。
 さて、最後の各論から本論につながる話として、著者がとりあげている「障害の社会モデル」の話で対話を試みます。
 著者も指摘しているように、‘障害’の ‘害’ の字を‘障がい’と表記していくおかしさは、「障害の社会モデル」という考え方からわたしも批判しているのですが、いろんなひとがそういう指摘をし、NHKでさえ、視聴者からひらがな表記して欲しいという要望に、「障害の社会モデルの考えでひらがな表記しない」と答えているという話もあるのに、このひらがな表記は未だに続いています。非論理的な情緒性へのとらわれなのですが、いちおう「科学的」を志向する政党が総体的にひらがな表記を続けている非論理性、それを正し得ない学の貧困といえるようなことだと嘆いています。ただ、それはそもそも「障害の社会モデル」自体の混迷から来ています。最初に、「社会モデル」を言葉化しておきます。イギリスの「障害の社会モデル」です。わたしのオリジナリティも含めて「障害とは社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁と抑圧である」となります。著者は「改正障害者基本法」を社会モデルを導入したと書いています。この法律を作る際に案を提出した官僚も「障害の社会モデルに基づく法案」と称していました。ですが、わたしは一度、その法律の中で使われていることば‘障害’を逐一おさえる作業をしたことがあります。そもそも、‘障害’(ことばとしての 障害 )以外は、障害は医学モデル(わたしは「障害」と表記しています)、障壁が社会モデルとなっています。そもそも、これは「障害者権利条約」とその前のWHOのICFとして結実したICIDH−2の議論から来ています。これで、個人モデルと社会モデルの統合とか相互浸透とか突き出したのですが、そもそもイギリス障害学の「社会モデル」の提起のとき、これにはパラダイム転換を孕んでいると指摘されていたことがあります。パラダイム転換のわかりやすい例は、天動説から地動説へのコペルニックス的転換です。天動説と地動説は統合できません。だから、パラダイム転換と言われるのです。ICFの個人要因、環境要因はまさに二元論なっていて、その関係があいまいなままです。この話を展開していくと読書メモから外れていくので、前の読書メモに書いた本とホームページを読んでください。
 で、この本に話を戻します。著者は「体」という概念を使って、問題を読み解こうとしています。で、実は、わたしが「医学モデル」と書いているところを、著者は「個人モデル」と書いています。で、実は「体」論を展開していくと、生物学・医学モデルに陥る危険性を孕んでいるのですが、というより、一般にきちんと身体論を展開しないと、身体なり、体という概念を使っていくと読者は、医学生物学モデルでの「身体」というところでとらえてしまいます。実は、わたしは身体論に分け入っていません。「関係性の分節としての身体」として押さえたところで、それなりに納得して、後の学習課題の一つとして先延ばししています。改めて、押さえ直す作業を、わたしの「廣松ノート」(註)作成過程で、脇道に逸れて、身体論の文献も読みいって行きたいとも思っています。
 さて、目次を章だけあげておきます(ちょっとわたし的な編集しています)。切り抜きメモは、この著者のきらめきのある文をせめてキーワード的に紹介したいとの思いがあるのですが、このところ、一冊に時間がかかり、先に進まなくなっているので迷っています。もう一冊の本を読んだ後にどうするか決めます。
目の見えない人は世界をどう見ているのか * 目次
まえがき
《本書に登場する人々》
序章  見えない世界を見る方法
第1章 空間――見える人は二次元、見えない人は三次元?
第2章 感覚――読む手、眺める耳
第3章 運動――見えない人の体の使い方
第4章 言葉――他人の目で見る
第5章 ユーモア――生き抜くための武器
謝辞

 さて、今回は切り抜きメモは止めにします。「第5章 ユーモア――生き抜くための武器」を読んでいて、自らの体験から思い巡らせていたことを書き添えて起きます。
 これは、ひとつ前の『どもる体』の読書メモに追加して書くことなのですが、わたしの高校時代に「吃音者」の同級生がいました。彼は道化を演じながらその笑いのなかに自らの「吃音」への笑いを昇華させていました。わたしは一度だけ彼をまねようとしたのですが、わたしには演じることが合いませんでした。この本の中に書かれている、「障害者」プロレスとか「障害者」のお笑い芸人にも通じる事があります。わたしは思春期に自死願望を募らせながら、太宰治の「道化の華」を読んでいました。笑われる――傷つくことの恐怖を道化を演じることによる笑いの昇華を自ら引き出すという手法です。わたしは、「吃音」自体を笑われた経験は少なく、むしろ「笑ってはいけない」という倫理的沈黙が起きることが恐怖でした。ユーモアということは道化を演じることとはニュアンスが少し違いますが、そこに通じることがあります。

註 「廣松ノート」の「廣松」とは、廣松渉という哲学者の論攷をわたしは追いかけていて、わたしの思想的形成の基礎的なところで影響を受けたひとです。博学のひとで、廣松物象化論、廣松四肢構造論など独自の哲学理論を形成しています。そのひとの本を図書館でいろんな辞書を手元に置きながら、読み込んでいきました。その当時は、パソコンなどなく、まだ読書メモもとっていませんでした。一連の学習の集大成的に、もう一度読み込み、「廣松ノート」を残すということがわたしの学習計画のひとつの柱になっています。


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伊藤亜紗『どもる体 (シリーズ ケアをひらく)』

たわしの読書メモ・・ブログ533
・伊藤亜紗『どもる体 (シリーズ ケアをひらく)』医学書院2018
 「吃音」(*註1)はわたしの活動の原点で、もっとも根底的なエネルギーです。それにも関わらず、わたしが余り学習してこなかった分野でもあるのです。なぜかというと、わたしは「吃音」を差別の問題からとらえ返す作業をしていて、他にそのような観点から作業をしていったひとを見出し得ず、ほとんど本を読んでいません。自分の問題だから、解説してもらわなくてもわかる側面があることもありました。「吃音」に関する事に本はあまり読まないとしても、それでもいろいろ考えてきたのは、矢野武貞『「吃音」の本質―話行為の構造と病理』弓立社1975という本があり、その本からインパクトを受けたことがありました。そして、「吃音者」の団体の役員から、彼と連絡をとってみないかと勧められ、実際に会い、そして公開の往復書簡で「吃音」を巡る議論をしていきました(*註2)。その矢野さんから、時々思い出したように電話がかかってきていたのですが、つい最近の電話での話が、この本のことだったのです。矢野さんは前述の本を出してから、自分の本の共鳴者、そしてその理論を引き継いでくれるひとを探していました。そのことはわたしも位相が違うのですが同じ思いを抱えていて、彼とわたしも、そのような論攷が見いだせないという、嘆きでの共鳴の電話になっていました。で、今回、珍しく彼がちょっと弾んだ感じで、この本の話をしてきたのです。
 実は、わたしもこの本はすでに購入していました。確か、障害関係の本の問屋のメーリングリストに載っていて、「吃音」関係の本はたいてい購入してしまうのですが、ちらっと目次だけ読んで、ちょっと今までの「吃音」関係の本とは違うなと感じつつ、不覚にも押さえ損なっていたのですが、この本はまさに矢野さんの系譜――流れの本だったのです。
 わたしなりの押さえ方をすると、矢野さんの流れというのは「「吃音」のメカニズムを解明する」、こういう言い方をすると機械論的になります。「吃音の存在構造」、これも少しズレていきます。吃音の起こるその場のありよう、ということになるのでしょうか?
 さて、この本の著者の専攻は美学と現代アートということで、しかもコンピユーター関係の知識ともリンクさせていく指向があり、この本の中でも、「連発性の吃音」をバグ、「難発性の吃音」をフリージング、そして語音のつながりをモーフィングというコンピューター用語を使って説明しています。ちなみにモーフィングと言われていることは、吃音の因論の指向を放棄したわたし自身も、前述した矢野さんとの議論の中で、語音の移行の過程で移行のしにくさというところでの、「吃音」の起きやすさというようなことを考えていた事がありました。そういう意味で、わたし自身も当事者としてこの本に書かれていることにはかなり共鳴していました。
 この本を読みながら感じていたことは、かなり矢野ワールドと共鳴する世界だということです。矢野さん自身、吉本隆明さんの世界観と共鳴しているひとで、意識論の分野に分け入っています。そういう意味でも、著者の美学や現代アートという分野との共鳴もでてくるのかもしれません。このあたりの論は、まさに意識論や表現論というところでの探究心のようなことで、残念ながらわたしが持ちえなかった「遊び」の世界です。「遊び」こそが意味ある世界だというところでの「遊び」なのです。残念ながら、わたしは反差別という処から、政治社会への踏み込みの中で、矢野さんとの応答もきちんとできないままでした。著者には、矢野さんの論攷は届いているのでしょうか? 願わくば、二人の対話の中で、新しい展開が生み出し得たらと願っています。
 読書メモというところからかなり離れた文になっています。
 本の紹介として、「目次」を出版社が作ったものから引用しておきます。小見出しは、逐一改行しているのですが、ここで「/」で、コンパクトに収めています。
【目次】
序章 身体論としての「どもる」
コントロールを外れた体/モンローもキャロルも角栄も/「どもる言葉」でなく「どもる体」/治るのか治らないのか/「うまくいかない」は二元論、他
第1章 あなたはなぜしゃべれるのか
「しんぶん」ってどう読む?/「ん」は準備している/マニュアル制御からオートマ制御に/発声器官のモーフィング/「かんだ(神田)さん」と「かただ(堅田)さん」/なぜ一語だとどもらないか/初音ミクはこうして吃音を克服した! 他
第2章 連発――タガが外れた体
tの三〇連打! /言葉の代わりに体が伝わってしまう/どもる自分に笑ってしまう/一か八かの「挑戦」/他人事感覚/「次、言えるかな」の手さぐり感、他
第3章 難発――緊張する体
連発から難発へのメカニズム/対処法としての症状/バグを避けようとしてフリーズする/連発は乖離、難発は拒絶/扉の鍵がない!/吃音スイッチ/逃れようのない期待の前で/なぜ独り言だとどもらないのか、他
第4章 言い換え――体を裏切る工夫
三単語先にあいつが来る/なかば自動の言い換え/類語辞典系と国語辞典系の言い換え/自分の名前でモジモジ/音読は奴隷の仕事!/ドッグトレーナーと犬/言い換え自体に意味がある、他
第5章 ノる――なぜ歌うときはどもらないのか
衝撃のバリバラ、ラストシーン/「刻む」には「待ち」が必要/リズムとは「新しくなく」すること/不確実性減少装置としてのリズム/運動の部分的アウトソーシング/韻を踏むたび外に連れ出される/「波づくり」の作業/別人のような音読/パターンの使用としての演技/「ノる」とは「降りる」こと/自己から「匿名態」への移行、他
第6章 乗っ取られる――工夫の逆襲
なぜ実生活では使えないのか/いつの間にか自分が犬になっている/「うまくいく方法」が「私」を乗っ取る/二重スパイ/乗っ取りからの決別/どもれるようになるまで、他
第7章 ゆらぎのある私
「生理的エラー」と「工夫の誤作動」/工夫→乗っ取り→自動化/言い換え警戒派と言い換え共存派/思考はしゃべると同時にわくものだ/運動が運動を生み出す次元/体との関係が変質するプロセス/吃音という謎とともに生きる、他
あとがき

さて、蛇足になると思いつつも、いくつかの違和について書き置きます。
まず、「二元論」の表記が出て来ます。これは著者に於いては、身体と精神(意志)との乖離としての二元論というような内容になっています。ですが、そもそも二元論で有名なのは、デカルトですが、デカルトの二元論は中世のキリスト教的な精神の支配への批判として出て来ていることで、そもそも二元論はいろいろなところで批判されています。著者は「乖離」ということを出していますが、精神と肉体は関係を断ち切る事ができるというような事ではないはずです。もうひとつ書いておくと、「吃音」は、「精神障害」なのか「身体障害」なのかという二元論に乗った問いかけがあります。そもそも、「吃音」もそうですが、「精神障害」においても、「脳の障害」や遺伝子研究という素因論への引きずられが出て来ます。身体論自体が「関係の分節としての身体」という論攷が出て来ます。そもそもデリダの脱構築論は二元論自体の総体の批判として展開されています。著者のこの本の中で進められている論攷を見ていて、とても二元論になっているとは思えません。
もうひとつ、これは矢野理論へ共鳴した内容の一つなのですが、矢野さんは、必ずしも「吃音」を否定的にとらえないというところで論攷をすすめていることがあり、そのことにわたしは共鳴していたのですが、この本の著者も、原因論も治療法も問題にしないというところで論攷を進めていて、また、連発→難発→言い換えと一般的に進む「吃音の進行」を逆向きに進めようとするひとを取り上げています。わたしは「「吃音の否定性」の否定」、「「障害の否定性」の否定」(*註3)をテーマにして論攷を進めてきました。だから著者の「吃音の否定性」にとらわれない論攷に共鳴していました。ですが、実は、「エラー」とかいう言葉が出て来ます。そのあたり、矢野さんとの対話(*註4)の中でも出したことなのです。この本の著者にも、脱構築論のようなことがあるのではとの思いがあり、そのあたりの脱構築のやりきれなさのようなことを感じてしまいました。
「吃音者」の当事者団体言友会の事が出て来ます。わたしは幽霊会員的になっていて、そして言友会の中で異端的存在になっていて、言友会のことを何か語れるような立場にいるわけではないのですが、あえて個人的な思いを書き置きます。言友会のことで、著者が書いていることは、わたしが、それなりに押さえているところとかなりズレでいます。具体的に書くと、言友会が何かひとつの方向として進んでいるようにとらえられているのですが、著者の文の章の最後の「ゆらぎ」という言葉のように、まさに当事者団体の言友会はまさに揺らぎの中にあったのです。「吃音者宣言」の「治す努力の否定」にしても、「宣言」を強引に推進した伊藤さん自身が「治す努力の否定」を、「振り子の原理」で過渡的に強調しただけだ、という文を書くに到っています。わたしは、そもそも「治す努力の否定」を突き出したのは伊藤伸二さん自身ではないとも思っています。さらに、伊藤さんは、「○○療法」なることを手を変え品を変え、出してきています。わたしは。これは「吃音の否定性」とらわれている、「吃音」を治すということにとらわれているのではないかと、直に会って問いかけたことがあります。要するに、「治す努力の否定性」ということの中にあった、「吃音の否定性」を否定する、ということにおいて、伊藤伸二さんは「ゆらぎ」から抜け出せなかったのです。障害学において、生存学という形で一大拠点を形成している立命館大学大学院先端研の立岩真也さんが「障害はないにこしたことがないのか」という問いかけで、この社会にある「障害の否定性」を問い返す作業をしていて、わたしも独自にそのテーマを追い続けて共鳴しているのですが、そのようなラジカルな問いかけが、不徹底なところに収束しているのです。
さて、「ゆらぎ」の話の一つとして、言友会では現在的に「吃音=発達障害論」という動きが出ています。そもそも、「発達障害」という概念自体が、障害の医学モデル(註5)に陥っているのですが、そもそも「発達障害とはなにか」という規定さえあいまいなまま、ICD(国際疾病分類)10の錯綜した「発達障害の一つとしての吃音」というところを手がかりにして、「障害者福祉」を受けようとする動き、それは「障害者雇用枠」で就職しようということともリンクした動きが出ています。これはむしろ、一般就労している「吃音者」が「障害者雇用枠」に落とし込められる可能性という諸刃の剣的なことを意味しています。まさに、実際的利害や行動ということにおいても「ゆらぎ」の中にあるのです。
かなり話が脱線しています。話をこの本に戻します。すでに書いたように、わたしが主題にしてきたテーマとの違いはあるにせよ、興味深い論攷を進めているひとです。この書にはきらめきを感じています。著者の本を二冊買っています。また読書メモを残したいと思っています。  
さて、わたしはいつも切り抜きメモを残しているのですが、意識論とか芸術関係、表現論関係の文には、切り抜きする弊害のようなことを感じています。で、今回は省略しようかと思っていたのですが、このメモは備忘録の意味ももっているので、やはり、簡単に書き置きます。「吃音」のことをよく知らないというひとの理解やインパクトという面では、むしろこの本は「吃音者」へのインタビューなどを使って論攷を進めていて、「吃音」の実際のありようということを具体的に展開している、わたしが切り抜いていない他のところが分かりやすいということが多々あります。ですが、わたしの中にすでにある知識としては、わたしにとってはインパクトが薄いので、切り抜きしていません。そういう意味でも、是非この本を読んでください。
以下切り抜きメモです。
序章 身体論としての「どもる」
「思ったのと違う仕方で、言葉が体から出てくるのです。」「体がはぐれていく」11P
「彼らは「思ったらすぐに言葉が出る」話者たちとはちょっと違う仕方で、言葉を体から発しています。」「たしかに、コントロールできないことは、「困ったこと」です。/体に限らず、そもそも私たちは「コントロールできないこと」をたいへん恐れていています。」12P・・・括弧がついているように必ずしも「困ったこと」でもないのでは? 「どうでもいいじゃん」のこととして。「どうでもよくない」――「恐れ」る問題はそこに差別があるから。
「「コントロールされた領域」のすぐそばに、「コントロールされていないもの」があることも私たちは知っています。」「・・・・・・大枠は「随意」です。けれども関節を曲げる角度や口の開き具合、あるいは体重のかけ方について、からだの細部にわたった逐一命令を出しているわけではありません。その多くは、体の物理的な構造と習慣の産物による自動化した動きであって、意識的にコントロールされたものではないのです。そうした「体が勝手にやってくれていること」にかなりの部分を依存して、私たちは生活しています。」13P・・・「意識は脳に宿り、その脳からの指令によって動く」という図式=「脳の中の小さな自己」図式批判の必要。「認知症」と言われていることで、一番記憶が残るのは「体が覚えている」ということ。
「本書で「どもる」と呼んでいるのは、まさにこの「体のコントロールを外れたところ」に生起する経験です。」16P
「吃音は曖昧な障害です。まず、症状の個人差が非常に大きい。/目に見える症状(バグ系)と、目に見えない症状(フリーズ系)のどちらが出やすいのかが人によって異なります。」21P・・・‘障害’が「症状」という医学モデルになっています。フリーズ系も言い換えをしない限り体に表れている――見えることです。むしろ、「見えない」ではなく「聞こえない」
「ものすごくどもっていて、症状としては重い人でも、全然気にせずしゃべっている人もいます。その一方で、先にもお話ししたように、隠れ吃音で見た目の症状は軽いにもかかわらず、悩んでいるひともいる。言葉としてはどもっていなくても、体がどもっている人です。」22P・・・言友会でよく言われていたこと。マージナルパーソン論とリンク。
「現在では、吃音の世界にも、遺伝子解析技術や脳科学が入り込み、さまざまな観点から原因の研究が進められています。遺伝なのか、脳の機能障害なのか、環境的な要因なのか。原因はひとつとは限りませんが、その解明にはまだ至っていません。」「原因探しも、治療法の提案も、本書では行いません。」26P・・・そもそも、「脳の障害」とか「遺伝」とか素因論と言われているようなことは、この本で書かれている内容と合っているとは思えないのですが。
「本書の記述は、多分に心身二元論的な視点に立っています。「心身二元論」とは、デカルトに代表される、心と体を二つの別々の実体としてとらえる哲学的な立場のこと。」「(心身二元論がいろいろな批判にさらされている)にもかかわらず本書は、そうした先人たちの議論があることを踏まえたうえで、あえて心身二元論に固執します。」30P・・・「意識は脳に宿り、その脳からの指令によって動く」という図式ということでの、意識と身体の乖離を言っているのにすぎないことで、この本の内容はそもそも心身二元論にはあたりません。「意識は脳に宿り、その脳からの指令によって動く」という図式自体を批判していく必要があります。もうひとつこの本で書かれている内容は関係論的なことで、それを実体主義批判としてはっきりさせていくと、そもそも二元論の身体と精神の実体主義的二元論は破棄されることです。
「心と体が切断された「乖離」、意図がはねつけられる「拒絶」、タガが外れた体を心が俯瞰している「放任」、心がその主体性を失う「乗っ取り」……。心と体が分離しているからといって、かならずしも苦痛を伴うわけでなく、心が体を手放すことを「楽だ」と感じるケースもあるでしょう?」31P・・・12Pの切り抜きとの矛盾。乖離は実体主義的に切断されるということではなく、ズレではないでしょうか?
第1章 あなたはなぜしゃべれるのか
「日本語環境で育った赤ちゃんは、生後一〇か月くらいまで[r]と[l]を問題なく聞き分けられますが、一歳の誕生日くらいになると、日本語の音素のカテゴリーになじんでその区別ができなくなるそうです。」42P・・・言語環境からの規定性。発達概念自体のとらえ返し、ある局面では、「後退」ということもありえること。
「針の糸通しが「マニュアル制御」だとすれば、しゃべることは「オートマ制御」でと言えます。」46P
「内部モデル」「内部反転モデル」47P
「パターンは意識の代用品」49P
「私たちがしゃべる運動とは、@肺からの空気の出し入れ、A声帯の振動の有無、そして何よりB声道の形状、をなめらかに微調整し続ける、極めて複雑な運動です。」「これらのしゃべることにかかわる漸次的な調整のプロセスを、本書では「発声器官のモーフイング」と呼びたいと思います。/「モーフィング」とは、コンピユーター・グラフィクスの技術のひとつで、あるものをなめらかに別のものへと変形させていく手法。」55P
「吃音がモーフィングに生じたアイドリングであることは、・・・・・・」58P
第2章 連発――タガが外れた体
「連発は「する運動」ではなく「なってしまう運動」であり、「私の運動」でありながら、「私のものではない運動」です。わざと連発をすることは不可能なのです。」70P・・・一応ヴァンライパーの「随意吃」
「「連発」は、厳密に言うなら、単に「コントロールが外れること」ではなくて、「意識的にコントロールしなくてもうまくいくはずだった運動」が、「うまくいっている状態から外れること」です。」72P
「連発は、あくまで「ミス」ではなく「エラー」です。「ミス」が「意図したのにできなかった」状態であるのに対して、エラーは「意図していないのにそうなってしまった。」状態です。」72P・・・ただし、「エラー」という概念自体が共同主観的な否定性にとらわれているのでは?
 ギャラガー「物語語り的な自己」――「最小限の自己」、「最小限の自己」を構成するものとして、「自己所有感」(「これを経験しているのは私である」)と「自己主体感」(「この動作を引き起こしている、あるいは生みだしているのは私である」)、「吃音に当てはめるなら、自分の体験自分の体験であると分かっている以上、吃音の経験にも「自己所有感」はあります。一方「それは自分の生みだしたものではない」と感じられる点で、「自己主体感」が失われた状態にあると考えられます。」75P・・・意図して生みだしていないとしても、それは自分が生み出したもの
「たとえば、藤岡さんは、先にあげた「すべる系の連発」ほかに「つまる系の連発」があると指摘しています。」85P・・・「連発」から「難発」への過渡としての「つまる系の連発」?
「吃音は、しゃべるという運動そのものを促すような万能の介助法がない障害です。」87P・・・「しゃべる」ということを意志を伝えるということに拡げれば、手話の世界に踏み入り、手話通訳を使うという介助法はあり得ます。「吃音」とは、@ひとは音声言語で意思を伝えるものだ、A一定のなめらかさでつたえねばならない、というこの社会の言語規範の共同主観性において否定的にとらえられる「障害」なのです。
第3章 難発――緊張する体
「こと、どもる体においては、「身体運動としての側面」と「社会的行為としての側面」は、無関係なものではなく、むしろぶつかり合うことが多いからです。身体運動としては合理的だけど、社会的行為としてはNG、あるいはその逆ということが起こるのです。/「しゃべる」という一つの営みが、「身体運動」と「社会的行為」という二つの基準のあいだで板挟みになる。吃音は、ダブルスタンダードな障害です。どこを落としどころとするかは、吃音当事者によってまちまち。」97P
「しゃべり方の自覚がただちに難発につながるわけではなく、連発を回避するために、ひとつの対処法として難発が生み出されていく。その生み出し方は、誰かに教わるというわけでなく、多くの場合小学生くらいの年齢のときに、おのずと見につけていくのです。」100P
「つまり難発は、一般には吃音の「症状」として紹介されていますが、同時に連発を回避するための「対処法」でもあるのです。」100P・・・医学モデルとしての「吃音」=「症状」
「つまり吃音においては、連発にせよ、難発にせよ、ひとつの現象が「症状」であり、かつ「対処法」でもあるという二面性を持つのです。」101P
「ある対処法が確立されても、それが症状としての側面を見せるようになると、次の対処法=症状を生みだしていく。このダイナミックなプロセスが吃音にはあります。しかも、そのたびに前の対処法=症状が引き継がれていくため、吃音の全体像自体が多層化していくことになります。」102P・・・回避行動や随伴行動が否定的「症状」的になること
「連発が「乖離」であるのに対して、難発は「拒絶」です。どちらも意識と体が分離している二元論であるという意味では同じです。でも、その分離の仕方が違う。」104P・・・「乖離」も「拒絶」も意思と体の関係であり、関係の切断ではないというところにおいて、二元論ではないと言いえること。
「たとえば「歩く」のような単純な身体の不具合であれば、できるものはできる、できないはできない、とはっきり線引きがなされるでしょう。ところが「しゃべる」の場合は、そうはいきません。社会的な行為という側面がくわわってくるために、できる/できないの境界線が状況依存的に変動することになります。」110P・・・「歩く」においても、見つめられているとき、動きがチクハグになることがあります
「要するに、期待が高すぎても、低すぎても、吃音スイッチは入りうるのです。」「「良くも悪くも、相手に引きずられる」体」115P
第4章 言い換え――体を裏切る工夫
「ちなみに吃音の教科書などに見られる一般的な記述では、「連発」と「難発」(と伸発)は症状、「言い換え」は対処法として、別々のカテゴリーに分類されています。けれども「対処法が症状でもある」という吃音の特徴を踏まえるならば、そのような分類はあまり意味がないのではないかと思います。」121P・・・共同主観的標準像からの「逸脱」というところでの「症状」。対処法も「逸脱」としてとらえられると「症状」になる。ただし、共同主観的なところのインプットされた当事者の意識が対処法も「症状」としての「逸脱」になりうる。
「この言葉を、「これを言うぞ」と準備した身体感覚に対して「予感」しているのであって、「言語」として判断しているわけではありません。第1章でお話したように、何らかの運動をするとき、私たちはすでに獲得した「内部モデル(または内部反転モデル)」を利用しています。ある言葉が難発になりそうだなと感じることは、この「内部モデル」の発動を通じて、「予感」されていると考えられます。」126P・・・共同主観的な意識のインプットと対応する身体論的な「内部モデル」
「難発が対処法でありながら自分からするものではなかったように、言い換えも「代案の言葉」が出てくるのは自動的です。」127P
「このことは、吃音が、単なる音の問題だけでは済まないということを示唆しています。しゃべる内容と自分の距離感が、吃音の出方を変えることがある。」140P
第5章 ノる――なぜ歌うときはどもらないのか
「リズムと演技。どもりが出にくいこの二つのシュチュエーションに共通しているのは、それに没頭しているあいだ、彼らが「ノっている」ということです。「ノる」とは単にハイテンションになることではありません。「ノる」は、意図と体の間に生まれる独特の関係のことであり、この関係が運動をたやすくするのです。」149P
「一瞬先にはどうなるか分からない、そのような不確定要素を含んだものが生であるならば、それはたしかにリズムの規則性と相容れないものとなるでしょう。」154P
「バフチンがリズムを批判して「生はリズムでは表現されず、リズムを恥じる」と言ったのも、まさにこの点に理由があります。バフチンは、リズムを「意味的な絶望性」と呼びます。「現実の、運命を左右する、危機をはらんだ絶望的な未来は、リズムによって克服される。過去と未来(そしてもちろん現在)のあいだの境界そのものが、過去を利するかたちで克服される」」159P
「こんなふうにリズムとは、「新しくなくすること」です。」160P
「ひとつのモデルが、そのつど変奏されながら、何度も繰り返しあらわれること。そこにあらわれるのは通常とは少し異なる時間のあり方です。なぜならリズムにおいては、「継起的」と「同時的」の区別が曖昧になるからです。時間はもはや、過去から未来へと進む一方向の流れではなくなります。流れが折りたたまれ、現在の上に過去や未来が重ね合わされるのがリズムの時間だからです。」162P・・・そもそも時間論での物象化批判
「先ほど保留した「勢い」とは、まさにパターンを繰り返し使うことによって生じる、推進力のようなものだと考えられます。運動が単純に継起するのではなく、現在の運動のうちに過去の運動が含まれ、さらには未来の運動が予感されている。これが「勢い」です。」165P
「それは決められているという意味では「絶望」かもしれませんが、運動そのものは、なかば「法則任せ」にできる。」165P
「つまりリズムにおいては、運動を部分的にアウトソーシングできる、と言うことができるでしょう。リズムがあれば、人はその法則性に依存して運動することができるのです。これこそ、リズムの持つ「介助する力」です。」165P
「通常、障害の分野では、運動が一人でできないときには、介助者という他者が介入して、その運動を助けることになります。でも吃音の場合はちょっと違う。リズムなどの運動を推進させる構造そのものが、介助者になるのです。「ともに運動する」という意味では通常の介助と同じですが、吃音においては、それが運動の構造として純化されていると言えます。」166P
「自分が考えるのではなく脚韻が考えている。脚韻は、「規則が思考に対して周期的に与える暴力」だからこそ、「なじみの発想」とは違うものを生み出す創造性を持っています。そんな「安心して自分を手放せる力」がリズムにあります。」167P・・・159Pの切り抜きとの非整合性というか、二面性?
「すでにお気づきのとおり、ここには(「演じること」)リズムと同じ構造があります。先に、リズムは「新しくなくすること」であるという話をしました。同じ幅の単位がずっと反復されていくため、一つのパターンを使いながら、それを応用するという形で今を乗り切ることができる。リズムとは「過去をモデルとして現在に向かうこと」です。法則性に依存し、それとともに運動しているから、楽になる。この「運動を部分的にアウトソーシングしている状態」が「ノる」でした。」177P
「この「狙ったわけではないのに解消されている」という棚ボタ感は、「リズム」の場合と同じです。」179P
「「ノる」が「降りる」であるとは、端的に言って、能動と受動が混じり合うような事態が生じていることを意味しています。」「このような能動も受動も問えない、「気づいたらノっていた」状態について、哲学者のエマニュエル・レヴィナスはこう語っています。「リズムは、同意や引き受けや主導権や自由を語ることのできないような比類ない状況を表している」。」180P・・・中動態概念との対話
「匿名態とは、この「無意識ではないけど自分でコントロールしているわけでもない状態」を指します。」181P
「ところが「ノる」においては、パターンという第三項があります。」「第1章で、パターンとは意識の代用品である、というお話をしました。ここではまさに、パターンが意識と体のあいだをつないでいます。体のオートマ制御でも、意識のマニュアル制御でもない、両者の中間形態としての「ノる」。ノる=匿名態とは「パターン制御」にほかなりません。」181P
第6章 乗っ取られる――工夫の逆襲
「「ノる」とは、「既存のパターンを使いながら動く」ということです。そうすることによって自分がゼロから運動を組み立てるよりも、運動の不確定性の度合いを下げることができるのです。/うまくやろうとするとうまくいかない。他方で、うまくやろうとしないことによってうまくいく。意識は、体が行う運動の主人公では決してありません。リズムに合わせて話すとき、あるいは特定の人格になりきってしゃべるとき、私は私の運動の主人公であることから部分的に「降りて」います。」184P
「なにしろ、「自分の運動の主人としての地位を手放す」とは、要するに「モノ」に近づくことを意味しているのですから。」185P
「一方的な操作でなく、あくまで共同作業として進めないことには、被介助者の尊厳が踏みにじられてしまいます。/同じ事がリズムや演技においても起こります。」185P
「その「ノる」から「乗っ取られる」への反転はどのようにして起こるのか」186P
「吃音の当事者と話していると、「乗っ取り」が起きるのを避けるために、彼らがさまざまな「微調整」をしていることが分かります。それはいわば、「自分が機械にならないための工夫」です。」192P
「吃音者当事者が行う「演技」の場合には、社会的な印象が、運動上の工夫の副産物として生じることになるので、自分では制御できないところで、自分の印象が形づくられることになる。」「自分の運動を助けるために、望んでいないにもかかわらず、ある印象を人に与える演技をせざるをえない状態。それは否応なくその人格を演じることを「選択させられてしまっている」状態です。」199P・・・コンプレックスという共通項での、太宰治の「道化の華」の世界
「まさにそれが「今の出来事」に対応する力を奪っていくのです。」202P
「無意識であるにせよ、同じ比喩がまったく逆の仕方で用いられていることは、まさに「ノる」と「乗っ取られる」の反転を示す兆候です。扱われているのは「言い換え」と「演技」という異なる工夫ですが、重要なのはこの工夫の種類の差異ではなく、工夫がそもそも乗っ取りを生み出すという構造そのものです(あとでお話しするように、「言い換え」に「乗っ取られる」というケースもあります)。」203P
「そのようなある程度自覚的な「対処法」「工夫」であったとしても、度を超えてしまうと、それもまた「症状」になるのです。パターンに「ノっている」つもりがパターンに「依存する」ようになり、やがて「乗っ取られ」ていく。薬と毒の関係にも似たこの奇妙な反転が起こることが、吃音のとてつもないおもしろさであり、また付き合うことを難しくしている点です。」204P
「もちろん「見る」「立つ」「歩く」だって、足場の状況などに応じてやり方を調整する臨機応変さは必要でしょう。とはいえ、意外だったとしても状況それ自体は安定しています。「しゃべる」が相手にする状況はそうではありません。刻一刻と状況する、はるかに変動の度合いが大きい状況なのです。」205P
「「パターン」に依存し、「今」に背を向けたしゃべり。これが先にもあげた「言葉を言うのに必死で相手が見えていない」という自閉的な状況です。乗っ取られた人が機械に接近するのはこの点においてです。/相手の存在や状況を受け止められないまま、ただしゃべること。それはつまり、行為ではなく運動の遂行です。」206P
「自分がいったい何のためにこの人格を演じているのか分からなくなってしまっている状態が『二重スパイ』です。」(山田さんのことば)206P
「もちろん、この「治った」は、言葉レベルのこと。言葉としてはどもっていなくても、工夫で対処しなければいけないほど、体はどもり続けています。」211P・・・「どもらなくなった吃音者」
「「選択肢を選べること」は「工夫させられている」という乗っ取られの状態とは対極です。」217P
第7章 ゆらぎのある私
「ここまで見てきたように、吃音とは、単に言葉のレベルでエラーが生じることでありません。その本質は、体のレベルで、さまざまな「意志していない出来事」が起こることにあります。」「言葉の代わりに間違って体が伝わってしまう」220P
「思いから切断された動き」の二つのレベル@「身体運動そのものに生じるエラー」――「それは発声器官の筋肉の動きそのものに生じるエラー」「生理的エラー」A「工夫として始めたことに「乗っ取られる」場合」――「工夫の誤作動」222P
「思ったのとは違うことを言う自分もまた自分である。裏を返せば、ここにあるのは、「自分とは、そもそもそのようにズレていくものである。」という感覚でしょう。」230P
「「転がり出ることによってのみ生成する」というところがポイントでしょう。運動がいったん始まると、みずからの続きを次から次へと生みだしていく。まさに「思考がしゃべると同時にわく」次元です。」234P
「私たちは、ひとつの体であると同時に、一人の社会的な存在でもあります。すでに演技との関連でお話ししたことですが、体の理屈としては「思いから切断された言葉や振る舞い」であったとしても、社会的には「意志の表明」と見なされ、責任を問われる。しゃべることが本質的に「ズレ」を生み出すものであるとすれば、その両者のあいだでひき裂かれることは、おそらくは私たちが社会のなかで体をもって生きる限り避けられない、ひとつの宿命でしょう。」236P・・・「宿命」ととらえてしまうのは、この社会とその言語規範を固定的にとらえてしまうからではないでしょうか? たとえば手話の世界への参入
「なるべく過去のパターンを適用しつつ、それを微調整することで時々の状況に対応している。自動化することは、体を効率的に動かすためには絶対必要なことです。」238P
「吃音の場合に特殊なのは、生成によって獲得された運動が、ある評価基準から見たとき、必ずしも好ましいものとは言えない、とうことです。人によっては身についてしまった運動を否定的にとらえ、さらなる工夫=症状を生み出すようになる。この運動に対する事後的な「評価」が、生成を複雑化します。/自動化した運動に対処するために新たな工夫が生まれ、するとそれがまた自動化し、場合によってはさらに工夫が生まれ……。対処法=症状の進化はこうして起こります。」240P・・・「必ずしもこのましいものとは言えない」ではなく、むしろこの社会では一般的に否定的にとらえられていることです。蟻地獄のようなこと。
「意識的な介入さえも飲み込んで生成していく体と付き合うこと。どもるとは、このもどかしさ、ままならなさに絶えず引き戻されることを意味します。コントロールを旨とする社会のなかでは、このもどかしさ、ままならなさはたしかに具合が悪い。でもそもそも私たちの体とは、そのような全貌を知ることのできない生成によってつくり出されています。」240-1P
「どもる体を抱えて生きるとは、常に私を越えて生きていく体という存在のおもしろさに、いつでも誠実であることなのかもしれません。」242P・・・達観の世界。しかし、「吃音の否定性」のなかで生きて来て、この社会に「吃音の否定性」が存在している限り、深層心理的には「吃音者」当事者はその否定性から逃れ得ないのではないでしょうか? だからわたしは運動指向でありつづけるのです。
あとがき
「なんだか後出しじゃんけんみたいになりますが、私自身にも吃音があります。」247P
「要するに、必要なのは「他者ではなく」、「他人」だったのです。私に共感してくれる「他者」との親密な対話ではなく、会ったこともない「他人」によるマイペースな解釈。それが私の経験を開いてくれたのです。」251P
「願わくばこの本も、もっともパーソナルな経験に鏡を差し向ける、よき「他人」であって欲しいと思っています。人には話したことのない体のうごめきに、名刺を与えること。吃音者の当事者であってもなくても、そんな仕方で、体との付き合いが開かれますように。」253P

*註
1 この本では「どもり」という言葉が使われていますが、この言葉には、差別の蓄積の中で、他の「障害者」差別語とその差別から回避する手段と同じように、「吃音」ということばに置き変えられています。勿論、当事者が開き直り的に使うときには、これも他の「障害者」の場合と同じように「どもり」という言葉を使います。著者は、「あとがき」の最初に自分は「隠れ吃音者」ということを書いています。その当事者の立場からとして、この本のタイトルがあるのだと思います。ちなみに、タイトルのもうひとつの「体」ということに関しては、わたしは言友会とも接点があった竹内敏晴さんの「からだ」論との対話をしていけば、論攷が深まっていくのではないかとも思ったりしています。
2 これは、何人かの言友会の会員のひとたちを立会人的になってもらって何往復もしたのですが、そもそも問題の関心領域のズレのようなことで、結局終息しました。わたしはむしろ、この本の著者と矢野さんの間でしたら、対話がちゃんと成立し、互いの論考が深まっていくのではと、著者の本を読みながら感じていました。
3 この「「障害の否定性」の否定」というのは、「障害」が「障害者」が持っているものとして異化する構造自体を問題にし、批判していくということです。これは、「障害の医学モデル」批判と、そのなかで出て来た「障害の社会モデル」について、註5で書いているので参照してください。
4 これは何らかの形でできたらオープンにしたいと思っていますが、相手があることです。とりあえず、わたしの「「吃音――吃音者とは?」ノート」の「(付録)」「吃音の素因論」批判 −矢野「吃音」理論の意義の再確認と新しい展開のための一試論−」を参照ください。http://taica.info/ststpnote-3.pdf
5 従来の「障害者が障害をもっている」とする「障害の医学モデル」から、「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁である」というイギリス障害学の「障害の社会モデル」が突き出されました。これ自体がまだきちんと整理されず、「ゆらぎ」の中にあるのですが、わたしはそれを、「障害の関係モデル」としてパラダイム転換をなしとげることを提起しています。これに関しては、わたしの本三村洋明『反障害原論――障害問題のパラダイム転換のために――』世界書院2010とそれに続く、「『反障害原論』への補説的断章」の草稿群https://hiro3ads6.wixsite.com/adsshr-3/cを参照ください。


posted by たわし at 01:57| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青木美希『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』

たわしの読書メモ・・ブログ532
・青木美希『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』講談社(講談社現代新書)世界書院2018
 この本は、フクシマ原発事故の現在というところで、よくまとまった読みやすい本で、また政治が弱い立場のひとたちにしわ寄せしていく被害者の切り捨ての政策というところの焦点がクロスして重なった、お薦め本です。後者に関しては、ブログ292の山口研一郎/編・著『国策と犠牲 ―原爆、原発 そして現代医療のゆくえ』社会評論社2014という本があります。今、取り上げている青木さんの本は、青木さん自身が朝日新聞の記者で、原発震災の問題に焦点を絞った、しかも、ジャーナリスト魂というようなことを鍛え上げていく過程で、インタビューと「裏を取る」作業を取りながら、丁寧に書き上げた本です。まさに章それぞれがその作業の記録なのです。とかく新聞記者というと、客観的なというところから客観主義的な記事を書いてしまいがちですが、青木さんはひと味もふた味も違う、というより何か根本的に違うのです。SNSでフォロワーになっているのですが、投稿の文のなかで、自分の子ども時代の貧困の問題とか家庭の問題とか書いていて、自分のジャーナリストとしての活動のエネルギーがそこにあることを押さえているところから、他者の痛みへの共感で、それでも感情に押しながされないで、論理的な詰めをしていく、その文を読んでいくと、わたし自身多分に老いも伴って涙もろくなっているせいもあるのですが、まさに棄民的なところに追い込まれている被害者の件は幾度となく涙してしまっていました。
この本を読み、この文を書いているのは、丁度、新型コロナウィルス対策の失政の中で、まさに検査を受けられないで死んでいくいるひとの話が出て来ていました。その中でも、娘さんが、父親がコロナウィルスにかかって亡くなったのですが、父親が例の「基準」なるもので、基準を守ろうと母親を止める中で、母親が保健所に泣いて検査をして欲しいと頼んで断られていて、結局容態が悪化してから、検査を受けて陽性になったという話、どうして、こんなおかしな「基準」なるものを作ったのか、憤りと悲しさが交差していきます。とうして、政治はひとりひとりのいのちや生活をちゃんと大切にしないのか、まさにひとが数になっていく、しかもその数が隠蔽され操作されていく構図が、原発問題と交差していきます。
この本に話を戻します。もっと細かいことを記述していきたいのですが、この本は是非手に取って読んでもらいたいので、目次と、印象に残った文の切り抜きに留めます。
目次は章だけ抜き出します。
はじめに
序章 「すまん」原発事故のために見捨てた命
第1章 声を上げられない東電現地採用者
第2章 なぜ捨てるのか、除染の欺瞞
第3章 帰還政策は国防のため
第4章 官僚たちの告白
第5章 「原発いじめ」の真相
第6章 捨てられた避難者たち
エピローグ
切り抜きメモは印象に残った文を切り抜いておきます。もっとあるのですが、実際本を読んでもらうために、ちょっとだけ。
「私は7年間、福島第一原子力発電所事故を追い続けている。/この間、避難者に向けられる目は次々に変わった。当初は憐れみ向けられ、次に偏見、差別、そしていまや、最も恐ろしい「無関心」だ。話題を耳にすることが激減した。/関心が薄れたところで、政府は支援を打ち切り、人々は苦しんでいる。」3P・・・必ずしも「無関心」ではありません。ずっと、反原発の運動は粘り強く続いています。わたしも母の介護で参加が遅れましたが、母を看取って東京に戻り参加してずっと継続しています。
「福島第一原発事故は、私たち一人一人が、チェックなきままの原発政策を許してきた結果だ。この教訓生かさなければ、再び過ちはくり返される。/少しでも耳を傾けて欲しい。/政府の都合で弱者を、声の小さい者を切り捨てていいとする社会にしてはならない。/次に切り捨てられるのは、私やあなたかもしれない。/新聞不信の中で、落ち込み、萎縮することもある。けれどインターネットなどで受けのいい記事だけでなく、たとえ世間が忘れ去ろうとしても、伝えるべき事実を伝えるという新聞記者の果たすべき役割がまだあるはずだ、とも思う。/痛烈な自己反省を込めて、私は「不都合な事実」をここに記そうと思う。」5P・・・「はじめに」の最後のフレーズ、まさに新聞記者魂、ここにあり。 
「13年6月に「いじめ防止対策推進法」が議員立法で制定された。」206P――その中身「・・・・・・本人が嫌な思いをした場合にはとにかくいじめとして調査する。・・・・・・」231P・・・嫌な思い、痛みというところをとらえ返すこと、それがこの著者の原点であり、そこからの活動のエネルギー――わたし自身が「障害者」として差別をとらえ返し、いじめ・体罰(虐待)関係裁判の支援に関わってきた立場での共鳴
「「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語の看板が双葉町の道路から撤去された。あとには何もないまち。名前をなくすまち。/安全だと言われ、鵜呑みにしていた私たち社会の過信が生んだ悲劇だ。/その姿は、私たちに奢りへの猛省を促し、一人ひとり、自ら判断して立ちなさいと言っているかのように見える。」284p・・・最後のフレーズ、この本の表題にリンク


posted by たわし at 01:54| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」

たわしの映像鑑賞メモ041
・LITALICO研究所OPENLAB第4回「わたしたちは何を「見て」いるのか ユニークな自己肯定(伊藤亜紗さん篇)」2019.10.31
本三冊を読んで、インターネットで伊藤亜紗さんのビデオを探していて、このビデオにヒットしました。当事者としての話として、本人は「隠れ吃音者」を自認しているのですが、外国に行ったとき、英語をしゃへるときに思いっきり連発の「吃音」が出たという話をしていました。わたしは「隠れ」ではありませんし、とくに学生時代英語の音読は言葉が出ませんでした。それから、新しく仕入れた日本音声言語――書記言語の単語の時も、言葉が出ないということがありました。でも「吃音者」にはいろんなタイプのひとがいて、英語の先生をしているひとがいて、英語の時はスムーズに言葉が出るという話をしていました。「どもった記憶がない」というところの話かなと思っています。
実は、ビデオはいくつか観たのですが、このビデオの話がわたしの関心領域とヒットしました。
伊藤さんはレジメ的文を出していろいろ話をしていたのですが、細かい説明文を省くと
@ 医学モデル(産業革命――1970s)
A 社会モデル(1970s――)
B 美学や当事者研究によるアプローチ(2010s――?)
という内容です。
これは、障害学における一般的な押さえ方としては食い違っています。「社会モデル」の話が出たのは、イギリス障害学における当事者からの突き出しと言われています。でも、あながち間違いとは言えません。日本の「障害者運動」の中でも、「自分たちを変えるのではなく社会を変える」という言葉が出ていました。ですが、その当時は医学モデルの変形の発達保障論があり、それと個人モデルの範囲内の「障害個性論」が対峙していました。社会モデルや関係モデル的なことは埋もれていたのです。
伊藤さんの美学的なところでのBの突き出しを、わたしは関係論として突き出しています。丁度、2010年を前後してですが、それよりもすでにずつと前に1970sに「障害とは関係性の問題である」という関係論的なテーゼもでていました。ですが、日本の「障害者運動」には1980sを境にして断絶があります。理論的にきちんとした整理がなされないままに、とりわけ哲学的な掘り下げがないなかで、アメリカの自立生活運動のながれや、WHOの障害規定を巡る議論で、そしてイギリス障害学やアメリカ障害学の議論が入ってきて、そこでの議論に収束されました。問題はイギリス障害学の「社会モデル」の突き出しの中で、それを第1世代として、第2世代の批判が起きたことです。それがフェミニズム障害学を僭称して余計に混乱に拍車をかけました。伊藤さんは、このビデオの中で、社会モデルは大切だけど、それだけでは足りない、というはなしをされています。その話がわたしの中ではフェミニズム障害学のモリスの話にリンクしていきます。これを伊藤さん的にアレンジして押さえると、「体の問題が抜け落ちている」となります。そこで、身体論的には肉体と精神の二元論を批判する「身体とは関係性の分節である」ところからする関係論として突き出せることではないかと思っています。すでに書いてるように身体論の詰めができていないので、そこをなんとかしなくてはいけないのですが。障害学では、もうひとつ、「文化モデル」という表出もでています。伊藤さんのBとも少し重なるのですが、これははっきりズレています。文化というのは一位相ですから。
さて、医学モデルのところの伊藤さんの説明で、産業革命の頃に確立した標準的人間像の話が出ていました。これによって「障害者」が出て来たのだという話です。このあたり、WHOのICFが未だに「標準的人間像」から障害規定をしていて医学モデルに収束している現実をとらえると、そして各国の障害規定も医学モデルから抜け出せていない現実をとらえると、ひとつの大切な提起だと思っています。


posted by たわし at 01:49| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKEテレ「スイッチ・インタビュー 柳家喬太郎×伊藤亜紗」

たわしの映像鑑賞メモ040
・NHKEテレ「スイッチ・インタビュー 柳家喬太郎×伊藤亜紗」20.5.2(再)
読書メモの前出の『どもる体』の話をしていた矢野さんに、このビデオを送ってもらい観ました。
これはNHKのスイッチ・インタビューのシリーズのひとつのようです。他の番組を観ていないのですが、スイッチというのは、ふたりの対談者が質問する側と答える側をスイッチを切り替えて、インタビューする番組です。今回の場合は、場所も切り替えています。
柳家さんは新作落語で名を馳せたひとのようで、伊藤さんは東工大での教員の美学者です。かなり異色の組み合わせです。当人たちもどういうやりとりになるかちょっと不安感をもって出会っているのですが、かなり「面白い」やりとりになっています。最初は伊藤さんが聞き手です。場所は柳家さんの新作落語の課題にしているウルトラマン関係の飲食店のよう、店は閉まっているところでのインタビュー、ウルトラマン関係と言っても反語的で正義の味方は入店禁止になっているようです。
柳家さんの話も面白いので、もし観れたらぜひ観て欲しいのですが、このビデオはわたし自身では探し出せませんでした。とにかく、このビデオは伊藤さん絡みで観たので、柳家さんの話は、ほぼはしょらせてもらいます。伊藤さんはよい聞き手なのですが、そのなかで、自分の意見のようなことを述べているところを書き置きます。正確な起こしにはなっていません。断片的なメモ的な発言を書き置きます。
「障害をもつ人の話を聞くことは、私にとって小説を読むのと同じ」・・・伊藤さんの美学は「面白さ」知的好奇心・探究心としての学。「障害をもつ人」の表記は(伊藤さんの体論からきているのでしょうが)医学モデルそのもの
「みんなで鑑賞すると絵が変わって、名画になる」
「落語はみんなで温泉につかっている感がある」
「落語はバッド・エンドが多い。私は動物映画が好きで、そこは弱肉強食の世界、しかし、爽やか感がある。」
「ミジンコになりたい」(二人とも共鳴)
「樹になりたい」(伊藤さんは幹や枝葉、柳家さんは根のイメージ)
「「障害をもつ人」に、同じだよ、仲間なんだというのはない」「多様性というのではなく、持ち場がある、ということ」「「障害をもつ人」だけのことではない」

後半は、伊藤さんの仕事場の東工大キャンバスでの、柳家さんが聞き手になってのインタビューです。落語家ですから、ときどき面白い突っ込みも入るのですがこれもはしょらせてもらいます。主に伊藤さんの、余り正確ではない文字起こしです。(音声の起こしなので「」の付け方はわたしの感覚)
「美術における哲学――美学」「美学は哲学のきょうだい」
「言葉には体の葛藤が乗っていない。普通の言葉は「健常者」用にできているので言葉で表せない」「小説を読むように聞く」「体のもっている可能性」
「「障害」は欠除ではなく、基準が違うだけ」
 さて、ビデオでは大学でのワークショップ的授業の様子がながされています。
 一つ目は、ボックスティシュを箱ごと渡して「ボックスティシュを否定せよ」というテーマ、ボックスティシュの機能から一番遠い機能にすることということ。いろんな作品が学生ら出ていました。モップ、鼻にもじった生け華・・・
 さて二人で構内を動きながら対話を続けて行きます。そのなかでの発言。
「見えている側がうまく言えない」――「見えているからこそ見えていない」
 非「視覚障害者」にとって視覚優位の感覚なのですが、石のはられているところの境の話や陰から出て陽のあたるところは「視覚障害者」にとっては陽のあったかさの感覚とか、「見えちゃっているからこそ捨てちゃっている情報がある」
「視覚障害者」でもどういう感覚を使うがマチマチで、中には柵を聴覚的な情報として、音の跳ね返りからバ―コード的にとらえる感覚の話が出ていました。
 ワークショップの二つ目の映像は、ダイアログ・イン・ザ・ダークの話です。
「これを経験すると人間関係が変わる」「恐いからつ初対面の人にでもつかまる」「伝わるではなく、伝わっていく感覚。私にとって心地よい」
 ワークショップの三つ目は「視覚のない国があったら」というテーマでの意見の出し合いです。
「「見えない人」の世界では、「身の回りのもの」という感覚がない。共有物が増える」←柳家さんから「死角」とか「盲点」ということなどないという話も出ていました。・・・「障害者」の立場からのいろいろな可能性がとらえられます。
 この後半の話で、伊藤さんから、前半の落語の話の続きで、「新作は古典。古典も新作。」という話が出て、柳家さんから「なるほど、いい話が聞けました」と共鳴しているシーンがありました。

さて、個人的な感想のようなことも含めてもう少し書き置きます。
本での著者紹介で、美学者ということばがありました。美学ということがいまひとつ、わたしにはとらえられません。というのは、そもそもわたしはおよそ文化・芸術、自己表現的なことに疎いひとでした。音楽は音感がなく、スポーツはまるでだめ、絵も野外スケッチで絵を描いていると、そこに家があったのに、書いている間にうまく筆先か使えず塗りつぶしてしまうという有様です。演劇は「芝居」ということでの想像性が働かず、嘘くさい世界のようにとらえてしまいます。カメラとか映画ということが唯一の受け手的なところでの感性はわずかながらも、かろうじてあったのですが、わたしは運動人間で、そちらの方に走り、「文化を語れない朴念仁」を自称してきていました。だから、確かヘーゲルが「美学」という論攷を書いているのですが、そちらはそういう本があったというに留めている次第です。だから、およそ「吃音」つながりや「障害」問題のつながりがなければ、美学などという領域の本には出会えなかったのです。まさに一期一会なのです。
そもそも、運動の論理からその運動が自己表現活動的に歪められてくことを批判していたのです。それでも、乗りかかった船的に、美学ということにコメントしていくなら、これは美ということ、いわば知的探究心というようなところで追い求めていく、自己表現的活動のことではないかと思うのです。まさに、その世界に踏み入っていけば「面白い」こで、まさに伊藤さんのキーワードはこの「面白い」を楽しむことにあるのだと思います。誤解のないように書き置きますが、わたしはそもそも、みんなが自己表現的な世界を楽しめるようになることが、新しい社会像だと思っています。ですが、今、わたしにはそんな余裕も生き方もできようにありません。楽しめるひとは楽しめばいい、というより楽しんで欲しいのですが、少なくともわたしにはできないので、わたしの途を進むしかありません。かなり情緒的な意味不明の文を書いてしまいました。


posted by たわし at 01:46| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする