2020年05月16日

張一兵『レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読』

たわしの読書メモ・・ブログ531
・張一兵『レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読』世界書院2016
 これは張さんの「帰れ」シリーズの一作。わたしにとっては、『マルクスへ帰れ』に続く、2冊目の本です。「帰れ」ということは、レーニンは正しいから、レーニンに立ちかえって、レーニンを押さえ直そうという意味ではかならずしもありません。レーニンの神格化された部分も、文献学的に押さえ直す、しかもポストテクストロジー的に押さえ直す作業ということです。ポストテクノロジーという新しい概念ですが、わたしはテキストクリティーク、自分でテキストを作り出すが如く読み解く作業、として言われていることを押さえ返し読み解いていました。「かならずしもありません」ということをわざわざ書いたのは、著者はレーニンの神格化批判はしているけれど、レーニンとの対話――批判が、わたしからとらえると不充分だとの思いがあるのです。全体として、レーニンへの基本的共鳴になっています。批判的なほりさげが足りないのです。
 これは、レーニンの唯物論と弁証法、いわゆる「弁証法的唯物論」のとらえ返しの作業を哲学的のところまで踏み込んだレーニンの文献学的とらえ返しの作業の本です。これは文献学的に貴重な資料となる本です。いろんな新しい概念を突き出しつつ、そのことをテコにして、レーニンの『哲学ノート』を読み解き、そこに関わる文献も読み解いていきます。レーニンの自筆の原稿のコピーを入手して、まるでタイムマシンに乗って、レーニンの側に居て対話するように、細かい心理学的な、分析までやっています。残念ながら、それを検証しうる力は、わたしには程遠く持ち合わせていません。ですが、極めて興味深い読み解きになっています。
 レーニンは、唯物史観の定式をした『ドイツイデオロギー』も『経済学批判要綱』も読めなかったと言われていて、そもそも唯物論の掘り下げが不充分だと言われています。また、その弁証法は、エンゲルスの図式化した弁証法概念で、とりわけエンゲルスの反映論にとりこまれています。それは何かというと、「ヘーゲルの絶対精神の、自己展開・疎外・外化」という論理にからめとられているということです。そこで何がおきるのかというと、レーニンが弁証法で繰り返しだしているのは、認識論と弁証法と論理学の統一ということで、そこで三分類として、なぜ、弁証法がはいるのかということがあります。弁証法はそもそも、全部を統括していることです。さて、わたしが認識論的に学んだ廣松さんが提起しているのは、ヘーゲル弁証法の存在論と認識論と論理学の三位一体的統一ということを批判し、存在論を切り離しています。存在論を入れると、ヘーゲルの絶対精神の、自己展開・疎外・外化という論理に陥ってしまうのです。弁証法は、認識論と論理学においては、ヘーゲルが突き出した、いろんな概念が有効です。当事者意識と第三者意識の入れ型の認識の深化の方法論や網と網の目の関係とか、ヘーゲル自体も関係論的な観点があり、そこからいろんな弁証法概念が出ていました。レーニン自体は、絶対精神を観念論として退けています。だから、絶対的真理ということも批判しています。ですが、それが論争過程で、それがレーニン自身のことばか、ひょっとしたら改ざんの可能性もあるのですが、ところどころ、「絶対的真理」という内容が出て来ます。それがレーニンの教条主義化とリンクしています。そもそもは、エンゲルスの「反映論」です。反映論というのは、三項図式のアポリアをヘーゲル的にこえたところで出て来ているので、「ヘーゲルの先祖返り」と言われることになっています。張さんは、この「ヘーゲルの先祖返り」的な批判を批判していますが、レーニンの認識論、弁証法、論理学という分け方に共鳴していて、しかも、三項図式のアポリアをどうレーニンや自分が超えるのかを何も書いていません。結局反映論がどういう意味をもつのか、そこで弁証法の図式化ということが、法則の物象化・物神化になっていく構図を押さえていません。法則なり真実ということは、共同主観的な妥当性とその第三者的なとらえかえし、それこそが弁証法的深化という意味での照射ということにあり、法則とは実践における仮説の援用という意味しか持たないと言いえます。そのあたりの相対性をマッハあたりが展開していたのですが、レーニンがそのことを批判していたのは、結局絶対的真理のようなことを設定することになっているとしか思えないのですが、レーニン自体は揺らぎつつも、ヘーゲル批判の中身として、一応「絶対的」という論理は退けているようですが、エンゲルスの反映論を宣揚しているので、結局ヘーゲルの弁証法を受け入れてしまっています。三項図式をどう超えていくのかということでの論考が必要になっているのです。このあたりは、廣松さんが論攷をすすめていること、ですから、この本を読んだところで、廣松さんのエンゲルス論や弁証法に関する論攷をここで読んでおきたいのです。「唯物論と経験論批判」の読書メモの後に、廣松さんの著作集を読んだように、ここでも読んでおきたいのですが、今そこまでやりきれません。ここで、問題になっているのは、張さんが『マルクスへ帰れ』で廣松さんとの対話部分です。張さんは、廣松物象化論を物象化ではなく事物化ということで置き換えることだと批判しています。ですが、廣松物象化論は、そもそも物的世界観から事的世界観へのパラダイム転換ということで突き出していることで、その意味と意義を押さえているとは思えないのです。この物象化論の中身は実体主義批判です。レーニンにも張さんにもこの実体主義批判ということは出て来ません。ここで、押さえておくことは、漢字文化ということで、漢字の共通性ということでの翻訳で、中国語としての漢字を翻訳しないで、そのまま引き出していることでの、押さえにくさが出ている可能性があると思えます。とくに、とこの物象化ということの中国語のニュアンスと日本で使われている物象化概念にずれが生じているのかもしれません。それは、文献学的読み解きのキーワードとして使っている言葉などのことにも現れています。このあたり、「廣松ノート」の作成に入るときに、廣松さんの論攷から対話をしていくこととして先送りせざるをえません。廣松さんの本のみならず、ここでわたしの学習は、レーニンが示している文献の読み直し、とりわけ、エンゲルスの弁証法の押さえも必要になっています。課題は多く、時間は限られています。廣松さんの学習の際にできたら、もう一度この本との対話に踏み込みたいのですが、とてもそこまでやれそうにありません。
 もう一点、「弁証法的唯物論」の押さえの問題、「弁証法的唯物論」というのは、法則を物象化している類いで、ヘーゲル弁証法へ取り込まれこまれとして、マルクス派のなかからも批判が出ているのですが、認識論的に深化していく対話としての弁証法という意味ではありだとは言いえます。ただ、この本の中でも、そしてレーニンも法則の物象化・物神化に陥ったところで、このことばを使っているのでそのことは批判していく必要はあるかなと思っています。レーニンは、実践のひとで革命家として、哲学まで踏み込みました。だから、弁証法もまさに「実践の弁証法」と押さえ展開していきました。そこにレーニンの真骨頂があったのです。レーニンの本とされることは多分に、マルクス――レーニン主義として教条化していったひとたちから歪曲され、かなり改ざんもおきているようです。そのあたりも押さえながら、レーニンを読み解いていく必要もあるのではと思ったりしています。
 この読書メモも、切り抜きメモを作るべく、本に書き込みをしていたのですが、中途半端なメモにしかならないので、どうしようか迷っていたのですが、とりあえず章ごとの簡単な切り抜きメモにとどめつつも、文字化しておきます。
出版説明
 この本は「鳳凰文庫」の中に収められているので、鳳凰出版委員会の文が冒頭に載せられています。それがまさにスターリン主義的国家主義的民族主義的な文になっています。こういうことこそ今批判が必要だと感じていました。
日本の読者へ
 事物(Sache)へ帰れ19P・・・「帰れ」の現象学的還元とのリンク
スターリンの絶対的真理やテキストのなかにおける絶対性に対する著者の批判20P・・・レーニンには「絶対的真理」ということにとらわれていたのか、抜け出していたのか、反映論やヘーゲル弁証法へのとりこまれのなかでは、逃れ得ているとは言えないのでは?
「それは、伝統的な研究中では「見えなかった」ものとは、テキストという「物」(Ding)の中に存在するのではなく、テキストの背後の「事物」(Sache)に存在するということである。」20P
 ベルンノートの重要性21P
「テキストの構造環境方式による解読」「思想構造環境論」21P
「ポストテクストロジー的解読」22P
「マルクスの史的唯物論の現代的解釈として、私は、四つのカテゴリを用いて構造環境論モデルの解明をあらためて行った。すなわち、それは、主体が向き合う物質的存在と彼自身による「労働による造形」(formating)、主体と造形されたものとが一定の効用関係の中でシステム化される「関係構造式」(configurating)、主体が生産と社会活動の中の特定の歴史条件を通して、物的存在と社会的存在を組織化する「秩序の生産」(ordering)、人間の社会的実践・個人的営為・言語活動の中で機能的に構築および脱―構築される日常生活と社債的存在の「構造モデルの形成」(modeling)の四つである。そして、この後に、はじめて存在の上層たる現実生活と思想の構造環境(situating)が位置付けられるのである。」23P
序言
『マルクスへ帰れ』との関係――「フッサール――ハイデッガーによる現象学的意味での「事象そのものに帰れ」という論理方法を借用したものにほかならない」27P
著者の哲学ノートとの関わり28-9P
レーニン自体の転換――変化と発展のプロセス29P
「(かつて)私はレーニンの弁証法思想がそれぞれの時期にそれぞれの質を示していることを指摘したに過ぎず、その中に含まれる論理の道筋を真の意味では発掘できなかったのである。」30P・・・後に、ベルンノートにおける途中での転換をつかむ
「テキスト学的幻像」30P
「レーニンが如何に哲学的唯物論立場を把握し、続いて、困難を重ねつつ徐々にヘーゲルという巨大建築物に入って行き、しかる後ヘーゲル論理の頂点に立ち、マルクスと肩を並べ、最終的には、実践的弁証法の要諦総体の論理を獲得していったか」31P   
「私が研究方法やレーニンの哲学思想の総体的認識の上で非常に重要な新しい収穫を得たことである。」32P――その内容@レーニンの「哲学ノート」は一冊の本と言えるものではない。32-3P「(レーニンは)論壇に登場したときからマルクス主義者だった」33Pレーニンの思想の深度を「ベルンノート」だけの孤立化と偏重から見ると「非科学的な非同質性論理の強要が現れる」33PAそれぞれの特別な思考コンテキスト――レーニンの哲学思想の変化、発展、場合によっては重大な認識上の飛躍33-4P――「社会歴史の発展が「自然の歴史過程」であるという認識を突出させたのである。」34P(・・・ヘーゲル――エンゲルスの系譜からの外化の弁証法、自然弁証法の基礎に立つ史的唯物論という流れ)「この時のレーニンは真の革命的な歴史弁証法の指導を必要としていたのである。」「ヘーゲル哲学の研究過程があったからこそ、ヘーゲルの『論理学』の読解を通じて、レーニンは、マルクスの現実を変え、「存在を消滅させる」という実践的弁証法の概念を一歩進んで深く理解し、最終的にロシア十月革命を指導しそれに勝利した哲学上の理論的武器を獲得できたと、私は気づいたのである。」34P(・・・客体次元――主体次元――実践弁証法)B「ヘーゲル哲学の原初のコンテキストとの対比性分析・レーニンの読書過程における思想転換についてのミクロ的な考証。レーニン最期の思想的総括と思考などについては、かなり新しい進展が見られた。」34PCテキストの構造的環境の上に立った方法による解読35-8P 「晩期バルトのあの「テキストの解読は本質的に復元ではなく創造的な生産である」35P(・・・テキストクリティーク)――その具体的内容35-8P(その一)テキスト自体の問題性――自らの理解自体の検証(その二)テキストの四分類(@)二次的テキスト(読書ノート、抜き書き、心得)(A)生成中のテキスト(B)完成された、公開されたテキスト(C)疑似テキスト、構成されたテキスト(人為的なテキストの再構成――「読解自身に対する再解読と再読解」)――4つの分類の上で構造環境理論という方法論(その三)成果がどのようにもたらされたか――教条主義批判
「構造環境理論は人間の存在についての東洋的な私の総体的観点である。」37P
「構造環境の存在こそが同時に構築と脱構築の原因となっている」「当然歴史事実の中では、構造環境の存在は通常他者性の鏡像と偽りの構造環境(幻像)の同体共存として現れる。」37P
「レーニンの理解度はマルクスの歴史的弁証法の思想の深度には到底及ばないことを明らかにしている。」39P
注16スターリン教条主義の深層言語鏡像、18ラカンと共同主観性、19ラカン/アルチュセール/ボードリヤールとの対話、20先験的理性の枠組みによる総括論の典型
序論・・・全体の要約的な内容
「思想構造環境論」45P
 第一期1894-1907年、プレハーノフと第二インターナショナルの理論家に依拠47P
「他者性鏡像」49P
 第二期1906-13年『唯物論と経験批判論』と「ベルンノート」の断絶問題50P
 第三期1914-「『ベルンノート』の中に見られるレーニンの不断に変化する飛躍的な哲学的思考」「マルクスとエンゲルスが弁証法ついて議論する時いつもヘーゲルを話題」「プレハーノフなどの解釈の言葉の中にある他者性の鏡像を打ちこわし、一種の自主的な思想構造環境の中でさらに深くマルクス主義哲学の実践的弁証法という革命的本質を把握」「レーニンの『ベルンノート』におけるマルクスの実践的弁証法の論理に対する理解のコンテキストと、マルクスの史的唯物論と歴史弁証法の論理との間にはまだ一定の歴史的距離があったということである。」51P
 他の著作との関係52P
 同質ではない、同質性から論理を導き出すのは誤り、レーニンの著作、そのときの真実に近い思想53P
 歴史的論理の枠組み56P
 時系列に沿った編集という提起59P
記号の位置付け67P
 今も尚続くレーニンの誤読――「哲学ノート」の同質性、絶対的成熟度、西洋レーニン学、「「哲学ノート」はヘーゲルの観念論に依拠した宣言であり、『唯物論と経験批判論』に存在する唯物論的な観念の枠組みを直接解消」、二人のレーニン68P
 思想系譜学 知の考古学68P
構造環境――抑圧構造73P
マルクス――レーニンの同一視批判76P
 ケドロフ77P
 プラン構想論批判78P
「六、思考回路を替える」80-96P
イデオロギー 同一のレーニンという思い込み81P
 いくつかの問題で超えたに過ぎない83P
 環境構造論83P
 「私は単純な反映論には反対する。」84P・・・「単純」? 反映論になぜ反対するのかという、論点が出ていない
ポストテキスト学84P
テキスト構造環境理論84P
 マルクスをイデオロギーから解放し現在に活かす89P
 テキスト解釈の進展過程@記号テキスト次元の解釈A相互に関係し合う意味の場の理解B生産的なテキスト解読の思想構造環境90P
解読は復元でなく創造的生産91P
 思想家の理論形成  他者性の鏡像空間――自主的な思想構造環境――独創的な思想構造環境92P
「ベルンノート」は学習ノート97P
「ベルンノート」の歴史的段階4つ@他者性の鏡像のコンテキスト下A思想矛盾の時代B自主的思考の時代C思想的要約97-98P→精細100-9P
方法論的問題4つ98-100P@事前に他者性の読解の枠組みを作っていたことA最初の単純な基本的判断とその後の接近と理解Bマルクス主義哲学に対する理解C系統的な哲学研究の真の実践的趣旨
他者性の鏡像という認知状況の中身@マルエンの転倒説Aフェイエルバッハ、ディーツゲンの哲学的唯物論Bプレハーノフの援用から再構築された程度の高くない理論98P
 方法論のAで、「ヘーゲル弁証法の論理状況はレーニン自身の思想の中に重大な認識論的転換が起こった後はじめて真の意味で活性化され、同時に実践的唯物論による変形と転喩を経た後、マルクスの哲学のコンテキストに対する新たな認知と活性化にも到った」「レーニンのヘーゲル哲学への認識について、それぞれ異なる認知の枠組みに基づいた二つの完全に異なる思想理論空間が現れた」99P・・・レーニンと著者も押さえ切れていないもうひとつ別の空間も
「実体論の弁証法」105P・・・これは「存在論」と置き換えるところ
「人々のよく知る弁証法、認識論、論理学という「三位一体」の再確認」106P・・・「弁証法」のところは「存在論」
注11コルシュの『唯物論と経験批判論』に対する「無意識のヘーゲル主義の著作」という批判は「「ベルンノート」を読んでいない」という著者の批判120P
注132 民族精神・・・?
上篇 哲学の聖殿へ向かうレーニン
第1章 革命実践中の青年レーニンと歴史の主体・客体次元
1894年頃のレーニン「社会の運動を、人間の意志や意図に依存しないばかりか、むしろ逆に、人間の意志や意識や意図を規定する諸法則にしたがう、一つの自然史的過程として観察する」133P・・・まさにスターリン主義
マルクスの『共産党宣言』ロシア語版第2版序言「もし、ロシアの革命が西洋のプロレタリア革命に対する合図となって両者がたがいに補い合うなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義発展の出発点となることができる。」135P
「上部構造を経済的土台の外皮と見るのは明らかに不正確であろう。」137P・・・誤り
 ヘーゲル弁証法の全否定の時期140P
 プレハーノフの誤り――地理環境決定論、抽象的な観念論的弁証法143P
 プレハーノフへの哲学的批判は「ベルンノート」の大論理学の抜き書きの中から144P
「聖家族」ノートの時期の青年レーニンのマルクス・エンゲルスの思想の基本的認識@『聖家族』は過渡的なものA人民大衆の社会歴史発展における地位に心を寄せていることBフランスの唯物論=哲学的唯物論批判153-8P
 レーニンのマルクスの思想転換の押さえ@社会主義への転換A人間主義・人間的押さえB社会的生産関係C労働価値説への接近153P
 レーニンは、マルクスの過程的な人間主義的な内容を押さえていない154P
 世界観と政治思想とのリンクがない158P
 発展の法則というところでのヘーゲル評価159P・・・晩期マルクスの発展の法則への押さえ
「レーニンの現実的革命実践の論理の中の自主的な変化」159P
「聖家族」のなかの「「歴史はなにごともおこなわ」ず、人間こそが一切を想像する」という言葉のレーニンに与えた影響160P・・・革命の主体性
 レーニン「労働者の資本主義制度に対する不満を自覚的な政治闘争に転化しなければならず、かつこの転化は「われわれがもちこまねばならない」」――経済主義から政治闘争へ163P・・・外部注入論
 レーニンのロシア資本主義論への著者の「議論の余地がある」という押さえ163P
著者の「マッハ主義という反動的ブルジョア学説」164P
 哲学的なところでのレーニンの当時のプレハーノフの評価165P
当時のヘーゲル弁証法の評価「マルクス主義がうけついで、正しくすえなおした偉大なヘーゲル弁証法」165P
第2章 レーニン・プレハーノフと哲学的唯物論
「レーニンが不正確にも史的唯物論を哲学的唯物論の歴史領域への適用と見ていた」184P
 哲学的唯物論――フェイエルバッハとディーツゲン←後のレーニンの史的唯物論の中の実践的弁証法186P
 プレハーノフにとってフェイエルバッハ(非歴史性から出発)とマルクスは分離していなかった191P
 疑似テキスト、解読コメントの解読方法「知識情報の伝達は単純な発信と受信の線形の過程ではなく、同質の相互的構造化の整合過程であり、人々は、自分の理解できるものだけが見え、自分の認知論理構造と合わない情報を排除するか、あるいはそれが根本的に見えない(見ても見えない)」192P
 史的唯物論の基礎は哲学的唯物論であるというプレハーノフへの著者の批判196P
 スピノザ主義196P
 プレハーノフのマルクスの「フェイエルバッハに関するテーゼ」からの引用は実践的弁証法になっていてレーニンと合致――プレハーノフの地理的決定論と矛盾197P
 プレハーノフの「飛躍は存在せず」199P・・・メンシェビキの政治思想の象徴
付論1 物・関係・物神性 忘れ去られた思想闘争――1908年のプレハーノフとボグダーノフとの哲学論戦
 ボグダーノフはマッハの思想を批判もせずに受け入れ205P・・・マッハの思想の意義をとらえ返す必要
 ボグダーノフは物神崇拝から社会を読み解く――マッハとマルクスの結合の試み――後の西洋マルクス主義とリンク209P
 著者のボグダーノフ批判「彼は科学認識の中の新しい事物を正視したけれども、客観的物質的存在を自然観の中に存在する「物神崇拝」として否定し去ったのである。」209P
「マルクスの実践関係実体論からこっそりとマッハの関係実体論へ行こうしようとするものであった。」209P・・・?実体主義批判を著者はとらえ切れていないのではないか
 ボグダーノフの「物」210P・・・ハイデッガーの「用在」
マルクス『ワグナー教科書評注』とボクダーノフ210P
ボグダーノフ『組織形態学』と「フェイエルバッハに関するテーゼ」11条210P
 外的存在としての物211P・・・「主観的見方」が共同主観性論とリンクする可能性
 著者の、ボクダーノフはマルクスがとらえていた「社会的存在」や「社会関係的存在」をとらえそこなっていた、という押さえ211P
「ボクダーノフは、プレハーノフとレーニンはともにマルクスの物神崇拝理論、すなわち事物化関係の物神崇拝批判唯物論批判にほかならないということを認識できなかったと言いたいのである」213P・・・著者はそもそも「物象化」ということを「事物化」という言葉に言い換えているので、「物神化」と言う概念がだせなくなっています。このボグダーノフついて著者は、はっきりした評価を下していないのですが、一定妥当だとわたしは押さえています。このあたりが論点になっています。
「プレハーノフとレーニンは、政治経済学の理論の部門についてはともにボグダーノフより、ずっと精通していたが、二人とも経済学の範囲を守りそれを越えて哲学的批判の論理を提起することはなかった」213P・・・当初のレーニン、ヘーゲル論理学まで到る学習、ただし、ヘーゲル弁証法へのからめとられ
 ボグダーノフの押さえ――「マッハ主義の関係実体論とマルクスの関係実体論の同質性」214P・・・そもそも実体主義批判の必要性
 ボグダーノフ「マッハが認識過程と社会労働過程の関連について描写した部分では、彼の観点とマルクスの思想の符号は時には驚くべきところがある」219P
「プレハーノフが個々で指摘したマルクスの「経済的唯物論」なるものは実際に存在しないものである」「第2インター理論家たちの誤った解釈」216P・・・メンシェビキズムのタダモノ的決定論とも共通性
第3章 レーニンとディーツゲンの哲学的唯物論
 ディーツゲン「マルクスとフェイエルバッハの間には根本的な異質性が存在していることに彼は気がついていなかった」225P
「マルクスは伝統的な哲学的唯物論(経験論からの帰納による実在論)を社会生活に運用したことはなく、まずもって社会生活の実践の中で、史的唯物論という「歴史科学」を確立し、ここからすべての哲学的世界観に根本的な革命をはじめてもたらしたからである。」225P
 ディーツゲンの誤り「古い唯物論を社会主義と直接結び付けてしまったことである。」225P
 レーニンの党派性はディーツゲンの影響、1908年の『唯物論と経験批判論』の中に現れる党派性232P
 ディーツゲンが突き出した弁証法的唯物論「この概念は、プレハーノフ、レーニン、スターリンの認定を経て、後に、20世紀のすべてのマルクス主義哲学の実体論、認識論のキーポイントとなる名称の一つとなった。」235P・・・著者は実体主義批判がないので、存在論とするところを実体論と表している
 ディーツゲンの転換――形而上学、機械的唯物論の批判から弁証法的唯物論へ236P
 ディーツゲン「両者(観念論と形而上学的唯物論)はともに精神と物質の区別を付けすぎた」236P
第4章 レーニンの現代西洋哲学に対する初歩的理解
 虚構のレーニン像と真相を隠すことのなかで「非歴史的に歴史を作りあげる」245P
「シュリャチコフは、何人かのマルクス主義者が政治――哲学二元分立の観点を持っていることについて批判をしている。」245P
 レーニンは歴史的限界性のなかで「マッハ――レイの誤った思想の中に含まれていた関係実体論の中の合理的成分を透視も理解もできなかった」253P・・・「関係実体論」は「関係存在論」と読み解くこと 関係が存在を規定するという意味?
「いかなる時期の科学的認識も、一定の社会的実践水準の中で到達できる外部存在についての有限の認識としてしかあり得ず、それは客観的な物質的実在の直接的反映とは等しくないからである。」253P・・・「外部」と反映論の批判をしたところで、そもそも認識の構成において、「それ以上のもの」「それ以外のもの」として進む認識
「絶対的実在論(=史的唯物論)」256P・・・レーニンはこの時期「絶対的」という概念を使っていた
レーニン「レイの認識論=恥ずかしがり屋の唯物論」――レーニンの他者性の鏡像のなかでのエンゲルスの不可知論の批判256P
レイ「科学の歴史は、われわれに一つの進化の生成にある真理をしめしてくれる。真理は作り終えられることはなくつねに作られつつある。真理はおそらくけっして作り終えられことはないであろうし、つねにますます作られるであろう」――レーニンの共鳴「真理と誤謬(弁証法的唯物論の途上での)」257P・・・認識論的深化の弁証法
第5章 レーニンのフェイエルバッハ哲学についての抜書きノート
 フェイエルバッハ、物質的なものと精神的なものの統一ということにレーニンは批判的で、「統一」という概念を当時のレーニンはとらえれていなかった266P
 マルクスの主体的能動性と客観的対象とを統一する革命的感性的活動という押さえへの転換266-7P――レーニンがヘーゲル理解後に「実践ということを深く理解できるようになり。かつ、この感性的実践的活動を通じて、実践的弁証法の秘密を深く把握できるようになった。」267P
 レーニンは、人間の問題、疎外の問題――「フェイエルバッハを含む総体の人間主義的哲学に対しては、レーニンは熱心に取り組もうとしなかった。」267P・・・「人間」をくぐっていない、レーニンの冷徹さ
 フェイエルバッハは「自然界と人間」、レーニンは自然界だけ―レーニンの人間の軽視268P
 フェイエルバッハは自然は基礎、人間中心―レーニンの無理解268P
レーニンは『論理学』学習の前半まで、哲学的唯物論というところでとらえようとしていた268P
 エゴイズム――実体論(存在論)の意味での自己愛
 他者性の鏡像272P
「レーニンのこの時の他者性の参照系はエンゲルスである。」272P
 レーニンのフェイエルバッハの押さえ@「哲学的前提としての第一次性を持つ自然物質の存在」A「フェイエルバッハの客観性についての哲学的規定を確認」――「哲学的唯物論のこのような客観性についての規定、史的唯物論による反省規定を経ていない」274PB「フェイエルバッハの唯物論における認識論の問題」――「レーニンは、人間が自然の性質を認識する程度がまさに歴史的実践の水準に由来することを、いまだ認識していなかった」(・・・文化規定性)275PC「フェイエルバッハの精神現象の本質に対する唯物論的観点」272-6P
「インド人は、インドを離れれば、インド人でなくなる」277P・・・差別の問題があるからなくならない
「フェイエルバッハは物神崇拝の問題について論議しているが、レーニンはこの問題に留意していないようである。」277P
 レーニンのフェイエルバッハ批判「人間学的原理というのも自然主義というのも、唯物論の不正確な、弱い記述にすぎない」「フェイエルバッハの深層の論理は、依然として隠れた観念論的史観だからである」280P
第6章 ロシアの思想家 依然として唯物論を
「デボーリンの議論は、常に先験――経験――感覚についての問題をめぐって行われていたからである。」284P
「フェイエルバッハは確かに自然主義唯物論と人間主義を結合させたのであり、しかも、自然主義的唯物論の基礎はまさに当時の自然科学の「一般的結論」であった。」293P
「フェイエルバッハの弟子であるチェルヌィシェフスキー」293P
第7章 マルクス主義を全面的に理解し宣伝する
「レーニンが、(この1909-13年の時期)はじめて理論上から歴史弁証法の主体次元と客体次元を統一しようとし、進んでは、ロシア資本主義の社会的経済的発展(客体次元)はプロレタリア革命(主体次元)の重要な現実的基礎であることを正確に強調した・・・・・・・」302P
「レーニンがマルクス主義学説の歴史的本質をはじめて明確に打ち出したことである。」302P
「この時のレーニンは、史的唯物論はマルクスが哲学的唯物論を「人間社会の認識へとおしひろげたものである」というように、依然として誤った認識をしている・・・・・・・」303P
「カール・マルクス」は『グラナート百科事典』の原稿303P
 レーニンの当時のマルクスの押さえと限界性304-8P――@哲学的唯物論へのとらわれ――ただし、古い唯物論とマルクスの唯物論の区別はしていて、古い唯物論の批判(@)機械性(A)「発展の見地を首尾一貫して全面的に貫いていなかった」305P(B)社会的関係の総体という概念がない――「レーニンが依然として史的唯物論を弁証的唯物論の歴史領域への適用と見ていた」305PA弁証法思想の記述が出てくる、連係(連関)という概念がない――「ここでの言説の中には、後のスターリン主義的体系が含まれているということである。例えば、個々で使用されている「最も全面的な」、「最も深い」、「最大の成就」などの絶対性(※)の断言である。」エンゲルス「弁証法こそが「外部世界と人類の思惟運動についての一般的法則の学説である」「弁証法の実質は発展に関する観念にほかならない」306P(・・・まさにヘーゲル弁証法にからめとられたエンゲルス)弁証法の三概念「カール・マルクス」からの引用306PB弁証法的唯物論の独自性のとらえかえしがない、革命の主体性のとらえ返しが足りない――マルクス「物質が観念を生み出すのではなく、人間の社会歴史の進展、とりわけ人間の生活自身こそが、それぞれの歴史時期の精神的観念の基礎であると認識しているわけである。」「それは(科学技術は)歴史的な実践活動の中で変化させられた物質的存在の人間の観念への反映なのである。」307P(・・・反映論への批判が必要)マルクス「もしおよそ唯物論が意識を存在から説明するものであって、その逆でないなら、人間の社会生活に適用された唯物論は、社会的意識を社会的存在から説明することを要求していた」、「(マルクスは)社会生活の実践的変革の中に新しい唯物論の真の基礎を見て取った。だが、この生成の論理は(ディーツゲンに従ったレーニンにおいては)ひっくりかえされてしまった。」307P「マルクス主義経済学理論の論述の際、三大物神性に対するマルクスの批判はレーニンにおいて無視されている」(・・・ボクダーノフの批判、ルカーチの物象化)「実際には、ボルシェビキの革命的実践のために、主体的能動性の理論基礎をやはり探し求めていたのである。」308P
マルクスのフェイエルバッハとヘーゲルへの批判「前者が能動的な革命的実践から出発せず、世界を変える感性的活動という観点から物質的存在を理解しなかったこと、後者が能動的主体を誤って精神活動に一面化したこと」308P・・・ヘーゲルの三位一体的弁証法概念の批判が欠落している
レーニンは、マルクスの「一次転換論」の立場309P・・・「経・哲」までと「ドイデ」、「資本論草稿」の押さえ・・・少なくとも二つ、三次目は模索
レーニンのマルクス主義への論者の3種への分類@「本質上マルクスの見地に立っているマルクス主義者」A「実質上マルクス主義に敵対的なブルジョア著作家」B「マルクス主義のあれこれの原則を承認しているようによそおいながら、その実マルクス主義をブルジョア的見解とおきかえている修正主義者」、文献自体の精細な分析@マルクスの伝記Aマルクス主義哲学と史的唯物論Bマルクスの経済学説C第2インターとロシアに関する文献311P
レーニンとエンゲルス313P・・・エンゲルスの検証
レーニンのヘーゲル学習の結論「ヘーゲルの『大論理学』がわからなければ、真の意味で『資本論』を理解することができない。」313P
第8章 『マルクス・エンゲルス往復書簡集』解読ノート
レーニンの発見「『マルクス・エンゲルスの往復書簡集』の中で、弁証法について言及されるたびにヘーゲルが登場し、ヘーゲル哲学を理解できるか否かが、弁証法を理解できるか否かの外的なメルクマールになっていることである。」317P
「レーニンのこの時の思想構造環境とマルクス・エンゲルスの書簡中の構造環境は、直接「融合」させることはできず、仰視的な論理角度のものとして表現されることになる。」318P
 レーニンにとってマルクスの説明が予想を超えるものだった。その理由@ヘーゲル哲学の重視Aマルクスがヘーゲル哲学を論述に使っているBヘーゲルの『大論理学』を、「通俗的に、科学的に論述したいと語った」322P
「私は、この時のレーニンは、まだマルクスのオリジナルの思想構造環境に入っていくことはできなかったと見ている。」――その理由@抽象という概念が哲学的唯物論においては精神的活動A非歴史的哲学的唯物論の反映論にとらわれていたので、ヘーゲル――マルクスの実践的歴史的社会認識を深くは理解していなかったので、歴史的抽象というものが理解できていなかったB1859年のマルクスのエンゲルスへの手紙の中にあるこの重要な問題についての論述を読んだときにコメントしていない324P
「第4巻はレーニンのノートの第2ステップである。解読を始めてすぐ、レーニンは、常に弁証法と一体となっているヘーゲルにまた出会う。」325P
「ヘーゲル思弁哲学の「外面」としての三段方式を知ることになったのである。」「マルクスのこの言い方(「シュタインはヘーゲル的カテゴリーの外面である三段方式を積み重ねているにすぎない」)に依拠してこう区分をつけたのである――「弁証法 正しいのか?死んだ三分法(シュタインの)」と。」326P
「(マルクス)人類の言語というものは、実際には人々の交通の中で形成された各種の社会関係の結果」327P
マルクス「ドイツ語や北欧語のdas Allgemeine[一般]が意味しているものは、共同地にほかならずdas Sundre,Besondre[特殊]が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならない」327P
マルクス史的唯物論の観点「人々の言語観念は、ヘーゲルのあの絶対的論理の中から生まれたものでなく、また古い唯物論の言うような思惟は物質の反映ということでもなく、観念の本質は、人間の現実の生活に由来するという観点」327-8P
「(マルクス)言語が具体的に指すものが、経済的交通関係から生まれたものにすぎないことを体得した」328P・・・「経済」ということをなぜ付けたのか、規定性はあるにせよ「経済」だけではあるまい
ソシュール「言語が対象を指すということは、符号間の差異の体系から生まれる主張」328P
レーニン「ヘーゲルは、抽象的概念が我々の交通から生まれたことを見ていない」――しかしレーニンもまだ哲学的唯物論の鏡像から抜け出せていなかった328P
マルクスのディーツゲン批判、「ヘーゲルを読んでいない」330P
「マルクス・エンゲルスにあっては、弁証法の登場はいつもヘーゲルと関連付けられているばかりでなく、弁証法に通じることによって、意外にも、唯物論哲学者の問題点(先の部分ではフェイエルバッハとディーツゲンである)も見てとることができる・・・・・・・」330P
 レーニンはシュティルナーに関心がない332-3P・・・個我の論理に関心が希薄
 大論理学――抽象から具体に、小論理学――特有のテーマを用いて弁証法的飛躍334P
下篇 『ベルンノート』哲学の巨人の肩に立つレーニン
「理論構造環境論」341P・・・この概念で、理論が如何に歪曲されているかを読み解けるとしている
 ケドロフのプラン構想論批判342P(←77P)
 レーニンのヘーゲル学習四段階@「否定的な観念でヘーゲルに向き合った認識段階」A「それぞれ異なる論理的認知の枠組みが激しく衝突した思想的矛盾の時期」B「レーニンの哲学思想の中に重大な変化と論理的軌道転換が発生した段階」C「自身の哲学研究に対する思想的整理の時期」343P
「ある独立したテキストではなく、テキストと我々の関係なのである。我々の読解と研究が背負っている歴史的な視界が、すでにそこに浸透しているのだ。」343P
第9章 ヘーゲル哲学解読の最初の視界
「ベルンノート」の思想的背景3つ@「カール・マルクス」の項の原稿依頼A第2インターの堕落の中での批判の必要性B論戦での掘り下げの必要性347-50P
レーニンの読解の枠組みにおける他者性の鏡像の理論的視点@「ひっくり返す」――観念論的弁証法を唯物弁証法に変える(ただしこの意味をきちんとつかめていなかった、神を自然と物質に置き換えただけ)Aマルクス、エンゲルス、プレハーノフの他者性の鏡像から自らを形成していく作業354-5P
「彼は(レーニンは)、マルクスが唯物論的にヘーゲルの弁証法を転倒したのは、ヘーゲルの「絶対観念」、「神」の類いの概念的言葉を外在的に「物質」、「自然」などの同質性の主観的な言葉に置き換えたという意味ではないということを理解できなかったわけである。」358P・・・著者自身がこの意味をどこまで深化できているのか、実践的唯物論で置き換えただけ、三位一体的弁証法の枠内
「まさに工業的実践という現実の構造秩序の場こそが、我々の「周囲世界」を構築し、同時に我々の主観的認知秩序と構造も構築するというわけである。」358P
「コルシュは、レーニンの「ヘーゲル観念論哲学に対する『唯物論的転倒』は、多く見積もっても一種の術語上の変化に及ぶだけであって、いわゆる『物質』という絶対的存在によっていわゆる『精神』という存在に取って代えたものにすぎない」と述べているのだ。」359P
「論理は思惟の外在的形式だけではなく客観的法則の反映でもあるという観点に相対するものである。」370P・・・精神の外化としての反映というヘーゲル弁証法
「Schein」の訳――「映像」、「仮象」371P・・・ヘーゲル的には「外化」?
「レーニンは、ヘーゲルの哲学的論述を比較的多く肯定し始めたのである。」371P・・・認識論的には踏み外し始めた
「弁証法の角度から(ヘーゲルのように)マッハ主義の批判を深める」372P・・・?
「レーニンのこの時のコンテキストの中では、ヘーゲルの弁証法論理(観念論ではない)は、マルクスの史的唯物論やダーウィンの進化論と同一の思考回路にすでに置かれている」373-4P・・・これは結局観念論としてのヘーゲル弁証法、絶対精神や法則の自己展開としての弁証法 進化論批判の必要性
 ドゥナエフスカヤ「レーニンは「ヘーゲルに回帰した」」374P・・・著者はこれを批判しているのですが、むしろエンゲルスと同じ陥穽
 レーニンの法則の絶対化批判376P
「法則は人間の認識段階だというのは、ヘーゲル式の観念論の論理なのだ。」376P・・・意味不明、法則は実践的活動のための認識論的仮説で、むしろ著者の論理がヘーゲル的観念論
「彼は(レーニンは)「ヘーゲルは、歴史をまったく因果性のうちに入れ、そして因果性というものを、こんにちの無数の『学者たち』よりも千倍も深く豊かに理解している」と書いている。」379P・・・因果論自体を近代知の地平にあるものとして批判する必要、これこそが「絶対精神」の自己展開に陥っている
第10章  まったく新たな解読枠組みの突然の出現と理論的軌道転換
「問題は、レーニンが、ヘーゲルの論理学が、実は彼の観念実体論であるということを根本的に理解できなかったことにあるのだ。」388P・・・実体論自体の批判の必要
「また別の思想的飛躍、すなわち認識論、弁証法、論理学三者の同一性に関する観点を引き起こしたということである。」388P・・・ヘーゲル的陥穽に陥った、弁証法は存在論に置き換え、切り離す必要
「マルクスとエンゲルスがその手紙の中で語った、『資本論』第1章の総体の論理的枠組みはすべてヘーゲル弁証法の論理を運用しているという言葉を連想しているのである。」391P
「マルクス・エンゲルスの「転倒論」の中の仮性の否定」394P
ドゥナエフスカヤが気づいたレーニンの矛盾とは「人間から離れて実在する物質実体だけに関心を示す哲学的唯物論と能動的な実践的放射線とのズレであり、経済的力が決定的であることを前提とする客体次元とプロレタリアの革命的実践の創造性を強調する主体的次元との矛盾である。」395P
「私は、そこで発生した一度目の思想的飛躍は、3つのまったく新しい理論の質点によって内在的に構成されていると見ている。」@ヘーゲルの価値の認識Aヘーゲル――マルクス関係を深く理解B弁証法の角度からカント――マッハ主義への批判を深めた396P
「レーニンは、マルクス・エンゲルスによるヘーゲル観念論的弁証法の改造は、語句上の転倒ではなく、総体的論理の転倒であることを、ついに発見したのである。」396P・・・根本的欠落
「ヘーゲルにあっては、概念は普遍的なものであるが、この普遍性は空虚な抽象ではなく、ヘーゲルは、これを先に展開した「有」と「本質の統一」と見ているのである。」397P
認識上の突破の3つの「重要な意義」399-405P@カントやマッハ主義批判の問題に関する反省A「真にヘーゲルを理解することを通じてマルクスの弁証法的思惟を科学的に把握するという意味においては、「マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった!!」Bヘーゲル哲学(『大論理学』)の意義として「連関と諸移行[連関もまた移行である]の叙述」がヘーゲルの課題であり、「ヘーゲルは実際に、論理学上の処刑式および諸法則が空虚な外殻ではなくて客観的世界の反映であることを証明した。」404P・・・まさに反映論的陥穽への陥り、三項図式をとらえ返し、カント先験論の持つ意味をとらえ返すこと
第11章 実践を本質とする唯物弁証法
『ベルンノート』の前期にヘーゲル弁証法に対するレーニンの理解の着眼点@ミクロ的な建築構造A弁証法の本質と論理構造についてのヘーゲルの総体的把握411P
 レーニンの理解のポイント411-2P@「常に、いかなることをしても弁証法の客観的基礎を探し出そうとしたものであった。」――哲学的唯物論へのとらわれの中でA主観的弁証法――「ヘーゲルの観念的弁証法の肯定になる。しかし、レーニンは、当然にも、この絶対的観念としての自己意識の主観的弁証法を転倒して外部の客観的弁証法の反映と見なした。」
「客観的な対象には、いわゆる現象と本質の区別はないということを見ることになろう。この区別なるものは、主体[カント――フッサールの意味での『我々にとって』(for us)](・・・これはヘーゲルのfür es――für unsの認識の入れ子型の高次化の弁証法に通じる)に対して成立するのである。」411-2P
 ラカン、ジジェクの「やぶにらみ(ママ)」413P・・・フィヒテの「色眼鏡」
「彼は(レーニンは)、ヘーゲルは「法則という概念の絶対化、この概念は単純化、この概念の物神化と格闘」し、かつ「現代物理学のために注意せよ」と警告していたことを見てとったからである。」414P・・・レーニンは絶対性を否定しようとしつつ、否定し切れていない
「ヘーゲルは、反対に、このような客観的法則と観念主体とは相互に関連すると見ていたところである。」415P
 このときのレーニンがまだ理解できていなかったマルクスの考え(という著者の押さえ)「これらの「本質」や「法則」は、すべて我々が一定の歴史的段階の上で、実践を通じて形成した外部対象(本質と法則)の一定の反映だからである。」415P
 レーニン「現象の世界も即自的な世界も、人間による自然認識の契機であり、(認識の)段階、変化あるいは深化であるということである。」415P
「実践は、実体論としての弁証法としての基礎として登場したわけである――これは、レーニンのヘーゲル哲学理解の過程での二度目の理論的軌道転換のキーポイントになった。」416P・・・実体論批判からとらえ返しの必要
「この思想構造環境が現れた時点のキーポイントは、人間の実践と自然界の関係は、ヘーゲルの言うような精神と物質との関係ではなくて、現実に客観的に存在する過程であるということを、レーニンがすでに意識していたという点である。」417P
「人間の目的をもっている活動」418P
 主体という精神を物質に変えただけでなく、人間の実践というところに変えた――実践的唯物論418P
「ヘーゲルの史的唯物論の萌芽」419P
 ヘーゲルは絶対的理念の立場で、個人主体をたかだか有限な目的者としてか見ていず、むしろ現実に起きていることを、「理性の狡知」の結果としてしか見ていない。419P
「マルクスが確立した史的唯物論は、いわゆる弁証法的唯物論の歴史分野への拡張・運用ではなく、実践を論理化とする史的唯物論の世界観こそが、まさにマルクス・エンゲルスの世界観の「実体」にほかならないということを。しかし、同時に、レーニンはこの点も深く探求はしなかった。」420P
 コルシュ、ルカーチの「社会歴史存在実体論」への著者の批判422P
「彼らは、ある種の絶対的実在を設定しようとは絶対にしなかったのである。」422P
「実践的弁証法の根本的基礎は、史的唯物論と歴史弁証法なのである。」――レーニンは『ド・イデ』を読んでいなかったので理解できなかった422P
 デボーリン「(マルクス・エンゲルスが確立した世界観の特徴は)その主要なものは歴史に向き合うことである」423P
フラニッキ「レーニンは、実践を我々の思惟を構成するすべての連鎖の基礎と見なしている」424P
「生命は、もはや一般的な自然生命体ではなく、人間の現実的社会的存在(「具体的主観」)と理解されており、・・・・・・」426P
「ヘーゲルにあっては、「生命は精神の衝動・・・・・・」426P
 ヘーゲル「具体的でもあれば抽象的でもあり、現象でもあれば本質でもあり、瞬間でもあれば関係でもある」427P
 ヘーゲル「真理が同時にまた真理であるべきではないという真理の矛盾」428P
レーニン「認識の行程が認識を客観的真理へ導く」428P
レーニン「実践は(理論的)認識より高い、なぜなら、実践はたんに普遍性という品位をもつだけでなく、直接的な現実性という品位をもっているからである」429P
「レーニンは、カント、ヘーゲルの誤りは、物質を転倒して観念に変えたゆえに生まれたのではなく、まさに人間の実践的活動を主観的推理に変え、客観的行為の構造(実践の論理)を思弁的な先験的観念の論理に変えた結果であると、気づいたのである。」431P・・・ただし、カントの先験的観念の論理を共同主観性論として読み解く
レーニンの主体と客体との関係に含まれる3つの次元の意味@「善なる目的(主観的目的)対現実性(『外的現実性』)A「外的手段(道具)、(客観的なもの)」B「主観的なものと客観的なものとの一致」431P
「レーニンが、まさに、この実践的弁証法の革命的能動性に対する深い理解の中で、マルクスの哲学思想中最大のキーポイントとなる論理的支点を見つけ出し、これによって十月革命の現実的合理性を確認したことである。」432p
付論2 ある削除されたテキストの存在:マルクス哲学コンテキスト中の歴史概念――デボーリン「マルクス主義と歴史」の解読
 デボーリンが受けさせられたいろいろな修正
 デボーリンが「ド・イデ」を読んで、(読んでいない)レーニン以上に獲得したこと、いろいろな変遷、その中における弾圧の中での変遷
 生活実践的活動と生活という観点 さまざまな混乱
第12章 論理学、認識論、主観的弁証法の客観的実践的弁証法における統一
 著者の推断@「三者一致」(主観的弁証法、認識論、弁証法的論理学)の押さえは、レーニンが意図的につかんだことではないAマルクスが資本主義経済構造に運用したことB当初は拒絶的立場をとっていて、後になってつかんだこと475-6P・・・「主観的弁証法、認識論、弁証法的論理学」というのは、そもそも、存在論、認識論、論理学の三位一体的統一といわれてることで、この著者の押さえ方ではヘーゲル弁証法の枠内に落ちてしまいます。ヘーゲル弁証法の存在論ということは、絶対精神の自己展開と言われていることを承認してしまうことになります。唯物弁証法からきりはなすことで、そこでの認識論と論理学の弁証法として活かせることになります。
「レーニンがヘーゲル哲学の枠組みに入ろうとした時に、背後にあったあの他者性の解読の枠組みの上に、人々に軽視されてきた付帯意識という基礎的背景があったからである。」458P・・・「付帯意識」?
「すなわち、認識論と哲学の実体論構造上の方法論(弁証法)との厳格な区分線があったのである。弁証法は認識の対象であり、両者は同一のものではないというわけである。」458P・・・弁証法は廣松理論的には対象ではなく、むしろ認識論と論理学方法論で、実体構造上の方法論というのは法則の物象化、反映論からすると絶対精神へのとりこまれになっていくこと
 ポランニーの付帯意識(subsidiary awareness)「ポランニーの哲学の枠組みにおいては、認知構造の環境は、総じて主体の集中的な意識(focal awareness)と付帯意識共同によって形作られ、付帯意識は主体の認知過程で重要な背後の負荷となるのである。」458P・・・「付帯意識」と「主体の集中的意識」との関係が並列関係になっていないのか? その関係こそが問題、「付帯意識」ということを共同主観性と個の意識の関係でとらえ返すこと
 ヘーゲル「この網の目の所々にもう一つ固い結節が結ばれるのであるが、この結節こそ網(精神)の生命と意識の支柱になり・・・・・・」459P・・・ヘーゲルを脱構築して、網と網の目の関係として押さえる。対象の異化と言語の関係としても。
「この時のレーニンは、この結節点が、畢竟外部世界に存在するのか、それとも人間の実践構造に依拠するのかは知ることがなかった。」459P・・・三項図式と廣松四肢構造論の押さえから実践的活動を読み解く
「論理学、弁証法、認識論」460P・・・ヘーゲルとしても、これ自体がおかしい、弁証法は、存在論、認識論、論理学を貫いて三位一体的統一の下にある
レーニンが当初もっていた他者性の鏡像「認識論と対象性の弁証法をはっきり分けるというもの」と『大論理学』が相容れなかった460P
「思惟のカテゴリー」460P・・・言語と同じで生活実践のなかで共同主観性とともに形成されていくこと
 ヘーゲルが『大論理学』の中の本質に関する三次元の論理規定@本質の単純で即自的な仮象(Shein)A即自としての現象(Erscheinung)B現象と本質の合一、すなわち現実性(Wirklichkeit)」461P
「明らかに、レーニンの哲学的唯物論の鏡像の中では、ヘーゲルの観念論的論理構造環境はひっくり返すことはできないのである。」462P・・・そもそも反映論の枠組みでもひっくり返すことはできない
「「反照」は、観念的な自己認識」462P・・・「反照」は共同主観性的認識からの検証
 ヘーゲルは認識論と論理学をいつも結び付けている463P
「人間が直面している「法則」や「本質」は、実際には一定の歴史条件下での外部世界の運動の我々の有限な相対的反映にすぎない」レーニン「法則は、あらゆる法則は、狭くて、不完全で、近似的である。」465P・・・反映論の陥穽、現象の世界、反照された対自性
「レーニンがこの時すでにヘーゲル立場に立って思考している・・・・・・」465P・・・ヘーゲルにからめとられたレーニン(エンゲルスも)
「弁証法」465P・・・ヘーゲルの存在論的弁証法
「実際には、これは二者一致のことではなく、三者一致のことである。」465P・・・まさにヘーゲル
 ヘーゲル「自然界を論理的理念と精神を繋ぐ媒介と称している」466P・・・絶対精神のより具現としての自然
レーニン「永久にそれに接近していくことができるだけ」466P・・・枝分かれ
 レーニン「認識論は人間に対する自然の反映についての学説であり、論理学は認識についての学説」466P・・・「自然の反映」? 社会は?
3項の関係の変更@自然界A人間の認識B自然が人間の認識に反映する関係(論理)466P・・・B?
レーニンの獲得物@「論理学と認識論は一致するのだ。なぜなら、論理学は認識の構造だからである。」A実践的唯物論466-7P
基礎の自然が二次的なものになる、「自然、認識、論理」から「自然、実践、認識(論理)」に467P
「レーニンは、またヘーゲルの思考回路にしたがって、重要な認識論的カテゴリー間の関係を打ち出した。すなわち、論理的カテゴリーと人間の実践との関係である。人間の認知構造自身の構成の問題について注意し始めたのである。この少し前までは、レーニンはまだそれを自然と認識の媒介と見なし、論理を認識を構成する抽象的道具と見なしていたのであった。」467P
 3つの要点@認識の主観と客観の一致A認識自身は人間と客観との関係Bこの関係性の中では、人間の主観性はこの主観・客観の対立を消滅させる衝動468P
認識の直観性から関係性へ468P
「まず主観と客観があって、しかる後関係があるわけだが、関係の主導権はまた人間の能動性にあるのである。」469P・・・「後に関係がある」?
レーニンのテキストの状況@「「理念(人間の認識――と読め)は概念と客観性(『普遍的なもの』)との合一(一致)」A理念は対自的主観性と客観性の関係――主観性は理念と客観性の分離をなくそうとする(止揚しようとする)衝動470P
「私の環境に対する私の関係が私の意識である。」(『ド・イデ』)469P
「人間という主体から出発した実践関係」470P
 レーニン「人間の思想における自然の反映は、『死んだ』、『抽象的な』、運動を欠いた、矛盾のないものとして理解してはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない」470P
「歴史的な実践の弁証法の進展を通じてのみ、人間は、はじめて不断に客体の本質を認知でき、不断に客観的真理に近づいていくというのである。この時のレーニンから見ると、客観的真理の実質は実践的な弁証法の運動にあるということになるのだ。」470P
「理念は[人間の]認識と衝動(意欲)である・・・・・・・」471P
 実践の進展のなかで連関を把握できる471P
客観的弁証法と主観的弁証法472P
認識と実践の結合472P
第13章 脱聖化 レーニンの弁証法と認識論の「16の要素」
「主観的弁証法の構造と認識の構造(論理学)の同一性」475P
「16の要素」の中に実践的弁証法の直接的反映は見られない475P
弁証法と認識論についての「16の要素」に関する著者の三つの新しい考え@「16の要素」の連体修飾語として「弁証法と認識論の」の文言をいれるべきAレーニンのすでに獲得した唯物弁証法のレーニンの帰納、しかも主観的弁証法に関する帰納にすぎす、唯物弁証法の総体の理論体系についての意識的な構築物ではないB「16の要素」の内容の多くは、ヘーゲルの弁証法思想の概括であり、レーニンのオリジナルではない475-6P
「16の要素」は「ヘーゲル『大論理学』研究の最後の段階の「絶対的理念」を土台とした理論的要約にすぎない」476P
「レーニンも、ヘーゲルが弁証法の論理について総括しているのを借りて、自分の理解した主観的弁証法の論理について思想実験的な説明を行ったのである。」476P
 ケドロフのレーニンの「16の要素」の弁証法の専門書を書くための「第一のプラン」という誤ったとらえ方476P
1条、 事物そのものを考察する(ヘーゲル概念即自体)――その諸関係とその発露 2条、
事物そのものにある矛盾性 3条、分析と綜合との結合・・・・・・478-83P
「この「16の要素」は、一気に完成されたものではなく、それぞれ異なる思想構造環境の内在的連関を経て、また、何度もの思想実験を慎重にくり返してから、やっと完成したものである。」479P
 ヘーゲル「それぞれの物を即自かつ向自的に考察すること、つまり一方では、これをその普遍性において考察しようとしたのであり、他方においては、物から離れて、諸々の状況、比較によってこれをつかむことをせずに、ひたすら物そのものに目を向け、物の中に内在的にあるものを縊死することを要求した」
テキストから、まるで、身近で見ているかのような論断的テキストクリティーク483-495P
「二、「16の要素」の弁証法認識論の思想」の16の抜き書きとコメント483-495P
「全面的でない概括にすぎない」496P
 なぜ、実践の論理にまったく言及していないのか496P・・ヘーゲル弁証法の概括だから
「マルクスのテーゼは「実践的唯物論」であるのに対し、レーニンの「16の要素」は「物質実体論の弁証法的唯物論」だ」496P
「このまとめ(「16の要素」)が、意識的に唯物弁証法の理論体系を正面から構築するために書かれたプランではなく、自身の読書過程でもっとも印象が深かったものに対する心得、とくに弁証法(と認識論)の基本的観点に限定したもの、を展開簡単に概括したものであるがゆえに・・・・・・・」「『大論理学』を読み終わって、レーニンはヘーゲル哲学研究開始の時点で持っていた観念とはちょうど正反対のような結論を出した」「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多い。」497P
「しかし、レーニンは、最終的にエンゲルスのこの言葉が理解できたのである――『ヘーゲルの体系は逆立ちさせられた唯物論である』ということの言葉を。これよりマルクス主義的唯物弁証法は、単に言葉の上での転倒されたヘーゲルにはとどまらず、実践主体から出発して論理的に転倒された「ヘーゲルの体系」にもなったのである」497P・・・これではヘーゲル「絶対精神」へのとりこまれになってしまうー
第14章 ヘーゲル哲学研究の総括
 この章は、ヘーゲルの哲学と、『哲学ノート』を対比しながら、廣松さんの、ヘーゲル関係の論攷、弁証法関係の論攷、エンゲルス論関係の論攷を押さえながら読み解いていくこと、これは、「廣松ノート」を作るときになしていきたいと思っていますーなしえる時間があるかどうかが問題ですが・・・
「ヘーゲル哲学史を読んだ時のレーニンの思考と関心の的は、依然として弁証法であった。」502P
「ヘーゲルは、エレア学派の哲学思想は「弁証法の始原である」と見ていた。」503P
「彼は(レーニンは)ヘーゲルのこの弁証法思想についての思想の「断片」は、「観念論の神秘主義をぬきにして」以下のように言いあらわすことができると書いているのだ。」503-4P@「人間の諸概念は不動のものではなくて、永遠に運動し、相互に移行しあい、相互に流動しあっている、・・・・・・明らかにレーニンは、この時すでに、ヘーゲルの弁証法、認識論、論理学の三者合一という観念を受け入れている。」A「「特殊的には、弁証法は即自的に有る物(An sich)、本質、基体、実体と――現象、『対他有』との対立の研究である。・・・・・・人間の思惟は不断に現象から本質に、言わば第一次の本質から第二次の本質へと、その他等々と、限りなく深まっていく。・・・・・・とくに注目する価値があるのは、レーニンが、客観的事物の存在とそれが実践――認識を通じて我々の前に現れる形式とは完全には一致しないということをすでに認識していたということである。」(・・・「それ以上のあるもの」「それ以外のあるもの」)「現象から初級段階の本質へ、そして、再び止揚された二次的現象としての初級の本質から二次的本質へと向かっていく限りない道――これは、極めて深い弁証法的な認識である。」B「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」「この後、レーニンは、この概念の弁証法は、単純に自然の物質から来るものではないことをさらに深く注意するに到った。」「この現実の歴史とは、マルクスが言う実践的な社会生活にほかならない。この認識は、レーニンが少し前に獲得した実践の弁証法と同じ構造を持つものである。」
「レーニンは、それを概括して、弁証法の二つの総体的な原理、すなわち「発展の原理」と「統一の原理」としている。この二つの原理は、後の人々によって連関と発展の原理と書き換えられた。」504P
「ヘーゲルが古代ギリシャ哲学者の弁証法思想を評論した基準は、普遍的なものの先在性だったが、レーニンは、かえって、この古代の弁証法を運動と変化の観念として解読したというものである。」「ヘーゲルの目は、確かに、ピタゴラスの「数」、エレア学派の万物流転中の不変のあの「一なるもの」(大文字の「一」)などに向けられていた。ヘラクレイトスのあの非感性的な「火」さえも含まれるだろう。」505P
「客観的認識のための運動は、つねに弁証法的にしか進みえない:いっそう正確にあてるために後に退き――reculer mieux sauter (savoir?)。合したり離れたりしている線:たがいに触れあう円。Knotenpunkt(接点、結節点)=人間と人間の歴史のとの実践。(実在的なものの無限な諸側面のうちの一つの合致の基準(実践=))」507P・・・微分的な概念?
「我々は、レーニンのここでの思考の起点が、主体から出発して(「客観への認識の運動」)おり、この観点がマルクスの『フェイエルバッハに関するテーゼ』の第1条と関連していることを見て知ることができる。同時に、この運動は「弁証法的にしか進みえ」ず、哲学的唯物論者の断言のように、直接客体と一致することはないと言っているのもわかるだろう。」507P
「レーニンのこの段階での論理構造環境の中では、実践を基本的理論回路とする思想空間はすでに構築されており、実質的な物質的存在は、関係的な実践という媒介にその席を譲った、そして、Knotenpunktとして出現した実践は、新しい弁証法思想の構造環境を形作ったのである。/同じくここにおいて、我々は、レーニンが、唯物弁証法理論の構造を確定したことも見て取ることができる。それは、人間の主観的弁証法と客体的弁証法が、運動している実践の弁証法という媒介の下で、特定の基本的論理の枠組みを構成するというものである。ここにおいては、主観的弁証法は、客体的弁証法と直接には同様の構造にはならず、実践の弁証法の構造と歩みを同じくする。かつ、具体的、現実的、歴史的な人類の実践を通じて「実在的なものの無限な諸側面のうちの一つの合致」が実現されるのである。この「一つの合致」が指すものは、一定の社会的実践の歴史的次元の度合とその深さの一つであり、これにより、主観的弁証法と客体的弁証法は、はじめて歴史的な接触点(「Knotenpunkt」)を持つ「たがいに触れあう円」を生み出すわけである。」508P
「この時のレーニンの論理構造環境の中では、この単純な反映論の関係は、反対に、複式の関係システムという状況環境の形で出現すると。」509P
「レーニンから見ると、主観的弁証法は、直接客体的弁証法を写すものではなく、不断に発展する実践の弁証法(「技術、歴史」)を通じて、また、一定の歴史的条件下にある実践の機能性度の中で、人々は、はじめて、認識の「一定の契機」のもとで客体的弁証法の一定の性質を反映させることができるということになる。」509P
「レーニンは、一つの重要な思想を打ち出している。すなわち、人間の認識は、主体に向き合っている「直接的な諸現象のうちに」不断にその本質をあばきだす過程であるという思想である。」「彼は、「有」を実践を通じて歴史的に現れる直接的現象だと規定しているのである。」「人間の認識(主観的弁証法)は、もはや、単純に直接対象と一致するというようなものではなくなり、矛盾に満ちた弁証法的な運動となるわけである。レーニンは、ヘーゲルの弁証法が、まさにこの思想発展の表現、すなわち、人類のすべての思想史についての真実の論理構造と通時的な手がかりの鍛造物であることに気づいたのである。」511P
「思想史は大体において思惟諸法則と合致しなければならない」511P・・・これもヘーゲル弁証法
「レーニンは、我々が直面している世界は、哲学的唯物論の言うような直感の中の静止した対象物ではなく、実践関係の中の存在と非存在(無)の統一であり、この統一は客観的世界の弁証法的な運動の発展過程でもあることを発見した。」513P
「我々は、批判的にヘーゲルを改造しなければならないのであり、絶対に再び、この主観的な認知構造を客体構造それ自体だと直接語ってはならず、主体の中において、主観的な認知構造の真の基礎をあらためて確定しなければならない。この基礎こそが実践なのだ。」515P
「マルクスの論理の中では具体的には、反対に抽象的な無として設定されている。マルクスによれば、商品は物ではなく、見えざる(「無」)特定の社会経済関係であるゆえに、商品は実物の事物の様相上の神秘性を持っているのである。」516P
「レーニンが、ついに、ディーツゲンやプレハーノフを後追いして、マルクス主義の歴史的生成過程を「先に弁証法的唯物論を確立し、しかる後、それを社会歴史領域に適用する中で史的唯物論を作った」とはもはや言わなくなったことである。今や、レーニンは、マルクスは、フェイエルバッハを越えた後、直接「史的(弁証法的)唯物論」に向かって行ったと指摘しているのである。すなわち、史的唯物論と弁証法的唯物論は二つのものではないということである。」517P
「レーニンは、マルクスがその哲学革命を実現したキーポイントは、実践規定の確立にあると意識するに到ったのである。」518P
「三、「弁証法の問題について」弁証法のおもな収穫」518-526P@「レーニンは、弁証法と認識論に対する「16の要素」を書いた時にすでに発見した重要な問題を突出させて解明している。すなわち、対立物の統一の学説が弁証法理論の実質であり、核心であるという問題である。」519P――「レーニンは、彼らが、矛盾現象を「認識の法則(および客観的世界の法則)と解」していないと批判しているのだ。」520P(・・・弁証法を法則としてとらえるエンゲルスからの流れ)「レーニンから見ると、事物と現象という対立物の統一についての研究は、「自然(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、互いに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。・・・・・・」521PA「レーニンは観察の問題の角度に話題を転換する。すなわち、事物の発展の過程性から出発して思考しようとするのである。彼は、一歩進んで「発展は対立物の『闘争』である」と指摘する。」521P「レーニンは、歴史上常に見られる発展観には次の二つの種類があると述べている。」(@)「減少および増大としての、反復としての発展」という観点であり、かつ、この観点では、発展の源泉と原動力が「外部に――神、主観等々にうつされる」レーニンから見ると、これは、「死んだ、生気のない、ひからびた」発展観ということになる。」521P(A)「発展は対立物の統一である」。という観点である。この発展観の「おもな注意はまさに『自己』運動の源泉の認識に向けられる」。事実上、この事物の運動の源泉と発展の原動力としてのいわゆる「自己」運動とは、事物内部に存在する矛盾にほかならない。同じく「対立物の統一(合致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、総体的である。互いに排除し合う対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」とも、レーニンは述べている。そして、こうした基礎の上に立ってこそ、はじめて、「すべての存在する物の『自己運動』を理解する鍵をあたえる:それだけが、『飛躍』、『漸次性の中断』、『対立物への転化』、古いものの消滅と新しいものの出現、理解する鍵をあたえる。」521-2P「人間の認識、とくに本質性と法則性に対する認識は、往々にして、対象内部の複雑な矛盾関係に対する暴露の形になるという次元である。」522PB「これも、マルクスの『資本論』の例としてではあるが、レーニンは、また「弁証法一般(というのは、マルクスでのブルジョア社会の弁証法は、弁証法の特殊な場合にすぎないからである)の叙述(あるいは研究)の方法も、またこのようなものでなければならない。もっとも単純なもの、もっとも普遍的なもの、もっとも大量的なもの、等々からはじめること」522-3P――「偶然性と現象性を放棄して、必然的で本質的なものに向かうのである。これこそが弁証法的認識論にほかならないと。」523PC「レーニンは、この弁証法と同一の認識論が、思想史上必然的に「一系列の円」をなすことを発見した。」523P「(レーニン)人間の認識は直線ではなく(あるいは直接をえがいてすすむものではなく)、一系列の円へ、螺旋へ無限に近づいていく曲線である。この曲線のどの断片、破片、一片も、独立の、まったくの直線に転化する(一面的に転化する)ことができる、・・・・・・」524P「「学[論理学、哲学]は自分の中に回帰する円環の姿を呈する。即ちそこでは媒介は終末を、この円環は多くの円環の中の一つの円環である」と。レーニンは、このヘーゲルの言葉を全文書き抜きし、その横に「科学は多くの環からなる一つの環なのである」とコメントしている。」524P「レーニンは、また、観念論は、根拠のないものではなく、それは「あだ花であるが、しかしそれは、生きいきとした、実をむすぶ、真の、強力な、全能な、客観的な、絶対的な人間認識の、生きた木についたあだ花なのである」とも指摘している。これが、レーニンのヘーゲル哲学に対する最終的評価なのである。」524P
「この弁証法についての短文では、「16の要素」のときの議論と同様に、研究中に発見した実践的弁証法についてやはり言及しなかったのかという問題である。」524-5P
付録1 否定の否定学説に内在する論理構造
 著者の修士論文の第一部分。著者自身の論文。
 そもそも、弁証法の存在論的法則的とらえ返しになっているので、そこから批判していく必要があるので、抜き書きしようがありません。改めて批判していくことにして、ここではとりあえず、節と項を記しておきます。
一、 肯定状態中のすべての真実の規定
1.事物の直接的肯定 質
2.肯定の本質的規定 矛盾と否定性
3.事物の系統的な肯定 連関
4.事物が否定へと向かう過度 自身の運動の漸進的な過程と質の変化
二、事物の否定が発生する客観的な過程
1. 否定の直接的な規定 旧事物の破壊
2. 否定の間接的な規定 連関の契機の止揚
3. 否定の創造的な規定 否定は新しい肯定である
4. 否定自身の解消 否定の否定への移行
三、否定の否定(発展)の内在的本質およびその具体的特性の
1. 事物の発展過程の一般的規定
2. 否定の否定の内在的構造 対立物の統一の規定の歴時的展開
3. 発展過程の特徴 否定の否定の具体的規定
 先に書いたように、弁証法を法則としてとらえるヘーゲル弁証法の枠内にあるのですが、最期にそれ自体を否定するような論攷が出て来ます。そこだけ切り抜いておきます。
「総じて言えば、唯物弁証法の否定の否定の学説は、我々に次のことを求めている――いかなるものであろうと、抽象的で生命のない「三段階方式」を用いて、真実の実物の運動過程を覆ってはならない。事物の発展をある特徴の表れとしてしか見なしてはならない。単線的な考察、一つの矛盾の手がかりだけで否定の否定を把握してはならない。そうでなく、具体的な系統の発展という観点から事物を考察し、否定の否定の内在的本質から出発して、発展の各項の規定を理解し各停しなければならないと。そうすることによってこそ、我々は、はじめて、否定の否定の系統的なすべての論理規定を真に獲得できるのである。」557P
付録2 『ベルンノート』の意義――『レーニン文稿』第9巻序言 デボーリン
 ヘーゲル弁証法の三位一体性をレーニンも引き継いでいる
付録3 ネフスキー「弁証法的唯物論と硬直化した反動派の哲学」に関するレーニンとブハーリンのメモのやりとり
後書き
「それは、独立した創造的批判精神によって取って代わらなければならない。」589P
「訳者」の言葉
「著者が、これら(複数形であるべきだ)の『ノート』のテキスト解読に関して、ポストモダン流の手法に学んでいるという点である。」591P・・・反本質主義がない、物象化批判もない

                 
posted by たわし at 04:07| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする