2020年04月17日

レーニン『哲学ノート 上・下』

たわしの読書メモ・・ブログ530
・レーニン『哲学ノート 上・下』岩波書店(岩波文庫)1975
 これはまさにノートというより、メモのようなこと、ちゃんとした本にはなっていないこと、でもこれを、レーニンがとりあげている原典にあたりながら丁寧に読み解いていくと、吸収できることが多いのですが、とてもそこまでやれません。簡単なメモに留めます。
 さて、簡単な見取り図のようなことを示してみます。
<上>
これは、一冊まるごと「ヘーゲル『論理学』にかんするノート」です。
ヘーゲル『論理学』は、『大論理学』として出されているもの、そして、『エンチクロペディー』のなかの「論理学」、「自然哲学」「精神哲学」とセットになった「論理学」――『小論理学』と言われているものがあります。レーニンは、この『大論理学』に書かれているものを『小論理学』で検証しつつ、ノートを作っています。さて、レーニンはヘーゲルからヘーゲル弁証法を学びつつ、その客観主義的観念論をマルクス――エンゲルスにならって、逆立ちしているとして客観主義的、弁証法的唯物論を突き出します。その過程で、主観主義的観念論と批判しているカントの流れの不可知論者の批判もしています。さて、問題なのは逆立ちしているというとらえ返しだけではすまないということです。ヘーゲル弁証法は、存在論と認識論と論理学の三位一体的な弁証法なのです。ここで、存在論というのは、絶対精神の自己展開、疎外とか外化とか言われていることで、その批判をせねばなりません。このあたりは、近代哲学の陥ったアポリア(論難)の三項図式をどうとらえ、どう止揚していくのかが問われているのです。そのあたりのことが押さえられないところで、また後期エンゲルスは、マルクス理論のわかりやすい解説を試みるなかで、弁証法を図式化していくなかで弁証法を法則としてとらえ、反映論に陥りました。ヘーゲルの三位一体的弁証法への陥穽です。そしてまさに革命のひと、レーニンはそのエンゲルスの継承のなかで法則の絶対的真理を突き出しました。これでは、絶対精神へのとりこまれで、唯物論ではなく観念論に陥るのです。だから、その後の「マルクス―レーニン主義」の流れの運動は、ひとの名を冠したカリスマ性にひきづられる○○主義が陥る教条主義にとらわれ、まさに宗派的な活動に落ち込んでいったのです。このあたりが「共産主義的運動」の総括の核心のひとつとしてあることです。これについては、「社会変革への途」の主題になること、そちらでまた書きます。レーニンのこの<上>だけでなく、<下>をも貫いて、唯物論と弁証法についての論攷を進めています。哲学で体系的な論述を進めたのは、アリストテレスにはじまり、カント、ヘーゲルと続いています。マルクスにもそのような指向はあったようなのですが、結局経済学に軸を移し、まとまった論攷をのこしていません。わたしが認識論的に導かれた廣松渉さんが、『存在と意味』でそのような試みをしていましたが、三巻中二巻まで発刊したところで、亡くなっています。今後、そのような試みがでてくるのでしょうか?
さて、切り抜きメモですが、メモの切り抜きメモはあまり意味がないので、さらっと、次の張さんの『レーニンへ帰れ』の学習に役立てる、検索用のメモに留めます。
絶対精神の自己展開としての、存在論と認識論と論理学の三位一体性としてのヘーゲル弁証法21P
ヘーゲル「網」「結び目」21P――レーニン「網」「網の目」22P・・・廣松さんの「網」と「網の目」はここから?
論理展開と現実展開(存在論的展開)の同一性24P
「運動の弁証法」「否定」の弁証法28P
レーニン「(一)天―自然―精神。天をすてよ、そうしたら唯物論になる。」35P・・・絶対精神とその自己展開、そして絶対的なるもの(絶対的真理)をすてないと唯物論にはならない。
レーニン「ヘーゲルは逆立ちした唯物論(エンゲルスによると)であるから。すなわち、わたしは神とか、絶対者とか、純粋理念とかを大部分なげすてる。」37P・・・ただし、絶対的真理はなげすてなかった。
「哲学を「自我」から始めることはできない。「客観的運動(七一ページ)」がないから」38P・・・客観的運動は絶対精神に至るのでは?
 レーニン「物質的な過程の全面性およびこの過程の統一性を反映すると、それは弁証法であり、世界の不断の発展の正しい反映である。」49P・・・絶対精神の自己展開としてのヘーゲル弁証法の反映論
 レーニン「石でさえ進化する」50P・・・?意味不明
 矛盾の動態96P
 レーニン「本質的区別―対立」「生動態」97
 レーニンの注釈「同義反復の意味」101P
「法則とは現象における恒久的なもの(永続するもの)である。」111P・・・法則は、共同主観的に妥当するとされた真理に基づく仮説に過ぎないこと
レーニン「あらゆる法則は、せまくて、不完全で、近似的なものなのである。」112P・・・前ページの引用と矛盾
 ヘーゲル「かくして法則とは本質的な関係である」115P・・・構築主義的立場からする反本質主義との対話
レーニン「フェイエルバッハはこれに「結びついている」。神を去れ、すれば自然が残る。」119P・・・神は自然の物神化。自然の物象化は残る。
レーニン「ひっくりかえすこと――概念は、物質の最高の産物である頭脳の最高の産物である。」135P・・・医学モデル。脳一元論――脳の中にある小さな自己論。概念は共同主観的なところから生まれていくことを押さえていない。
レーニン「ヘーゲルはカントの観念論を、主観的観念論から客観的および絶対的観念論へ高めている」137P・・・絶対的観念論へは「高める」のではなく、「おとしめる」こと。マッハは相対的観念論と唯物論のとの間のゆらぎでは?
ヘーゲル「悟性」138P・・・悟性とは、実体化された「自我」のなかに内自有化された「(自己)意識」
レーニン「「概念」はまだ最高の概念ではない。より高いものは理念=概念と実在との統一である。」139P・・・理念とは共同主観的に妥当し反照された意識。「概念と実在との統一」は、実体主義と絶対化を生み出す。
ヘーゲルのカント批判142P・・・先験的演繹論を共同主観性論からとらえなおす
ヘーゲルの「純粋な真理」146P・・・絶対精神の自己展開――疎外・外化の弁証法
レーニン「マルクスは、ヘーゲルの弁証法を,その合理的な形で経済学に適用した。」153P・・・「法則」の適用なのか、論理学的高次化なのか
レーニン「概念の弁証法」196P・・・対話による高次化
レーニン「ヘーゲルにおいては、実践が鎖の一環として、しかも客観的(ヘーゲルでは「絶対的真理」)への移行として、認識過程の分析にうちに位置をしめているということである。」203P・・・ここでは、「客観的」と「絶対的」を分けている。
レーニン、弁証法の諸要素――概略3つ217P
レーニン、弁証法の諸要素――精細16個218-9P
レーニン「エンゲルスがヘーゲルの体系は逆立ちさせられた唯物論であると言ったのは正しい。」237P――注一〇九「『フェイルバッハ論』の第二章で・・・」285P
レーニン「ヘーゲルのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多いということである。これは「矛盾している」が、事実である!」238P
<下>
もくじを挙げておきます。
「ヘーゲル『歴史哲学講義』にかんするノート」
「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」
「ヘーゲル弁証法(論理学)の見取図」
「ラッサール『エフェソスの暗い人ヘラクレイトスの哲学』にかんするノート」
「アリストテレス『形而上学』にかんするノート」
「フェイエルバッハ『ライプニッツ哲学の叙述、展開、および批判』にかんするノート」
「弁証法の問題によせて」
「フェイエルバッハ『宗教の本質についての抗議』にかんするノート」
「マルクス、エンゲルス『神聖家族』にかんするノート」
ちょっとだけコメントを、「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」は、ギリシャ哲学にかんするヘーゲルの論攷とそれに対するレーニンのメモです。エピクロスの弁証法や詭弁学派のむしろ弁証術とでも言えるようなこと、むしろ対話という意味での弁証法から、ヘーゲルの弁証法にいたる過程をなぞることができるかもしれません。ギリシャ哲学には、その後の哲学的展開の縮図があるとされています。ギリシャ哲学に関しては、わたしは、シュヴェーグラー『西洋哲学史(上)(下)』岩波文庫で読みました。ヘーゲルと対比させたいという思いが湧いてきますが、とても無理です。縮図といえば、青年ヘーゲル派の内部論争が、まさに哲学の縮図にもなっていると言われています。ここで、フェイエルバッハにかんする2つのノートと、『神聖家族』でマルクス――エンゲルスのバウアー兄弟とその流れのひとたちへの批判をとりあげています。わたしもヘーゲルまではなぞって、その後青年ヘーゲル派の本と内部論争は、本だけ買って読めずしまいで、廣松渉さんの膨大な論攷をわたしなりに押さえただけに留まっています。とても、原典の訳書までは読めないにしても、これも「廣松ノート」を作るなかで再学習したいと思っています。
 ここ<下>でも<上>と同じようにメモを。
 理性の狡知26P
ヘーゲル「ここに(エレア学派)に弁証法の始め、・・・・・・」38P
レーニン「弁証法とは、一般的には、「概念における思考の純粋な運動」である」「特殊的には(ヘーゲル独特には)、弁証法とは、物自身、本質、実体と現象、「向他有」との対立の研究である」「本質は現象する。現象は本質的である。」39P「本来の意味においては、弁証法とは、対象本質そのものにおける矛盾の研究である。」40P・・・論理学、認識論というところでの弁証法から、存在論までに拡大したヘーゲルの弁証法。
 2つの弁証法41-2P
「概念の弁証法および認識の弁証法」43P
ゼノンの弁証法45P・・・弁証術、エンゲルスのりんごの例え、ただ「ひとはそれを知らずに行う」の類い
 レーニンのヘーゲルを通したマッハ批判63P・・・ただ批判がずれている
 キュレネ学派とマッハの近さ82P
レーニン「「外部に」なら、唯物論。「内部に」=観念論。ヘーゲルはアリストテレスの「外部に」という言葉を黙殺し、「受動性」という言葉によってこの外部にという言葉を別の意味に書き換えたのだ。つまり、受動性とはまさに外部にという意味だとするのである!!
ヘーゲルは、感覚の観念論を思考の観念論におきかえているが、観念論に変りはない。」98P
・・・外部――内部という設定の問題、間主観性――共同主観性の問題。
 ヘーゲル「感覚が外部にあるかわたしのうちにあるかは、どうでもいいことで、それは存在するのである……」―レーニン「唯物論からの言いのがれだ」98P・・・外部−内部の設定自体の問題、感覚の文化による規定性の問題も、レーニンのおかしさ
 レーニン「弁証法的唯物論だけが「始め」を続き(ママ・・・文がつながっていない)および終りと結びつけたのである。」106P・・・ヘーゲルのエピクロスとアリストテレス、およびレーニンのヘーゲル批判
「トロポイ−論式」120P
「ライプニッツがスピノザとちがう点は、ライプニッツにおいては、実体の概念に力の概念が加わること、・・・・・・」176P
 フェイエルバッハ204-32P・・・自然――神、物神化
 フェイエルバッハ「自然を神から導きだすのは、原型を模写、模像から導きだし、事物をその事物の思想から導きだそうとするに等しい。」「人間には「物をさかさまに見ること」抽象的なものを独立のものとするのがつきものである――例えば時間と空間。」「諸事物が空間と時間を前提とするのでなく、空間と時間が諸事物を前提とするのである。」214P
フェイエルバッハ「自分の本質を非我の自我と自我のない非我に分裂させ、前者を神と呼び、後者を自然と呼ぶ。」227P・・・他我――共同主観性がない、物神化の問題も
 唯物論者の歴史261-6P


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NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」

たわしの映像鑑賞メモ039
・NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」20.3.22
SNSで話題になっていた番組です。どうして検査態勢が進まないのか、進めようとしないのか、分からなかったのですが、この番組は国営放送NHKの特権と言えるようなことで対策本部を取材してできた番組で、やっと輪郭がつかめました。
この番組のキーパーソンは、専門家会議のメンバーでクラスター対策班で陣頭指揮をとっている東北大学大学院の押谷仁さん、WHOでサーズ対策に携わったひととのことです。そのひとがインタビューに答えていろいろ語っていました。
要するにクラスター対策を未だにやっているのです。そもそも、注目されたクルーズ船の入港から、水際作戦ということをやっていて、それがクラスター対策として引き継がれているのです。これはクルーズ船の乗員を感染症の対象者にしないで、乗客の世話をさせたとか、症状がでていないひとを別なところにとりあえず隔離するということをしないで、感染者を増やしてしまったという失敗がありました。その後アメリカは、これを教訓化して、クルーズ船を寄港させるときには下船させ隔離する対策をとりました。日本でも、帰国者のチャーター便の対策はうまく行ったようです。ですが、そもそも中国の武漢からの直行便も含めた観光客が日本に来ていて、すでに感染は広がっていたのです。さて、どういうわけか、日本では欧米のような爆発的重症者や死者の広がりがでていませんでした。なぜ、日本は死者数がそんなに少ないのか、握手とかキスとかハグとか濃厚接触の文化がないとか、マスク文化とか、BCG接種の効果とかいろいろ語られています。
イギリスなどの検査をきちんとしない国も、すぐに切り替え、世界のほとんどの国が検査をちゃんとする方向に方針を変えました。もし、日本で、このまま爆発的感染がおきなければ、それは幸いなことですが、そもそも押谷さん自身がギリギリのところだとか語っています。これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろうとかいうようなことを話しているのですが、世界は日本方式は崩壊するだろうとみています。これは一種のギャンブルのようなことです。政治的なところでギャンブルなんかされたらたまったものではありません。誰が責任をとるのでしょうか?
さて、クラスター対策をしても、検査は検査で別に進めればそれでいいのですが、なぜ、しないのかも分かりません。オリンピック中止(延期)をさけるとか経済的落ち込みをさけるために感染者数を増やさないということがあったのだと思いますが、どうも未だにそれは続いているようなのです。東京都の広報紙では記載が変わっているのですが、どうも未だに、保健所窓口ということが続いていて、「4日―2日」のしばりが亡霊のように生きているようなのです。
検査を増やさない論理として出ていること、ひとつ例を挙げます。
朝日新聞20.3.25「正しく知るPCR検査」で、聖路加国際病院QIセンター感染管理マネージャー・看護師坂本史衣さんがインタビューに答えた発言、「ただ、早く見つけても重症化を防げるわけではなく、早く病院へ行くメリットはないのです。」――意味不明で、まさに運命論者のような話なのですが、これは医療の論理ではありません。医療現場では、なんとか救う試みをしているはずです。重症化しないために、早期治療の必要性を訴えているはずなのです。検査を受けないまま亡くなっている現実をどうするのでしょうか?
どうしてこんなおかしな話になっているのかと考えると、わたしは医療の論理のなかに感染症対策の論理が組み込まれないで、「感染症対策」がひとり歩きしているのではないかと思えるのです。この「感染症対策」いかに感染者数と死亡者を抑えるのかという数の論理です。これには、感染研への現場の医療サイドから批判が起きています。医療の論理は、目の前にいる患者さんをどう救うのかという一分の一の論理です。もちろん、医療崩壊がおきると一分の一の死者も増えるから、それを防がなければなりません。しかし、死者の数をふやさないために、検査をしないで亡くなる数がある程度でるのは仕方がない、というのは医療の論理ではなくて、全体主義の発想なのです。そもそも出口をどうするのかというところで解決していくことだという話として現場の医療関係者から提起があり、現実にやっと動き始めています。どうみても、一ヶ月遅れなのだとしか思えません。感染研も、ちゃんと医療の論理のなかで感染症対策を立て直す必要があるのだと思います。
そもそも情報が錯綜しています。たとえば、「マスクが足りない」という話がでると、「マスクは予防効果はない」とかいう話が出たりします。多分に、政権擁護の専門家サイドの忖度のようなニュアンスさえ出ています。これは、「市販のマスクは移されるのを防ぐ効果ということでは万全ではないけれど、ある程度の効果はあるし、移すということを防ぐ効果はそれなりにある」と言い換えることです。「若年層は重症化しない」というような言い方が出ていました。これは日本でも北海道で20代のひとの重篤化の事例がでているのに、重症化しないという話は誤情報ではないかとわたしは思っていました。きちんと、「確率的には重症化することは少ないことはあるけれど、「若いひとが重症化しない」というのは誤りである」というメッセージに変えることです。また、3密のはなしも、3つの条件がそろわないと大丈夫というような話をするひとがいて、しかも、自粛解除のニュアンスの発言を首相がして、3月の三連休のときに、原宿・渋谷の繁華街が若者が繰り出しました。「3密は3つの条件がそったところが一番危ないということで、1つだけでもうつる可能性がないわけでない」というきちんとした発信に変えることです。とにかく情報の整理と、それからテレビに出て発言するひとはきちんとした発信をすることが必要ですし、誤ったことを言ってしまったときはすぐに訂正なり、翌日自分が出演しないでも、訂正のコメントを寄せることですし、あいまいな誤解される発言をしたときも同じだと思います。そもそも、安倍首相自身が「意味不明の決断」で、誤ったメッセージを出し続けているのですが、きちんとした情報の整理と発信が必要だと考えています。
さて話を番組に戻します。この番組のなかで感染のしくみのはなしがためになりました。飛沫感染、マイクロ飛沫感染(前にエアゾル感染と言っていたこと)、接触感染(飛沫のあとでのそれを接触することによる感染)というようなこと、何に気をつけどう予防していくのかに参考になる話でした。 
 もうひとつ有益な話は、台湾の取り組みの話です。
台湾では、中央感染症指揮センターの指揮官陳時中さんが、首相級の権限をもって陣頭指揮にあたり、毎日会見を開き、2時間くらい、質問には全部答えているとのこと。NHKのインタビューに応えて、情報公開と信頼関係が大切だという話になっていました。
学校は、一人出たら学級閉鎖、二人でたら学校休校という明確な方針を立てて、校門のところで非接触式の体温計で熱を測り、教室でもう一回測る、発熱していたら、別の教室に移し、親に電話して旅行の有無とかを尋ねている様子がながされていました。確かに今回のウィルスでは発症していなくても移す可能性はあるのですが、子どもたちから教育を奪うという弊害と感染のリスクのバランスをとっているようです。オンライン学習とかの試みもなされているようです。また、カードを使ってマスク管理をしていて、一週間に大人三枚子ども五枚配り、アプリなどを使ってコンビニでも受けとれるようにしているとかで、トイレットペーパーの買い占めの防止も、それでやっているようです。
世界はIT時代に入ってきているのだと実感させられました。アベノミクスとか大企業の内部留保を保障して、民衆の生活暮らしを大切にするという観点が欠落している間に、アナログ大国になってしまったようです。
さてカードを使って管理というと、日本でのマイナンバー制度を想起させられます。マイナンバー制度は日本では広がりません。なぜかというと、そもそも金持ち優遇で、タックスヘブンとかの抜け道を塞がないし、累進課税も少なくし法人税も減税し、金持ち大企業優遇を進めているから税に関する民衆の同意も得られないのです。そして、共謀罪とか特定秘密保護法とか国家主義的管理を進めているからです。最期のセフティネットさえ、アクセスを拒むことが続いています。その上に、政府に対して批判的なマスコミへの圧力も続けています。おまけに、コロナウィルスの問題がおきたときは、情報隠蔽・文書改ざん-破棄、歪曲の問題で追及の真っ最中でした。台湾の責任者の情報公開と信頼関係が大切だということの真逆のことを政権がやっていたのです。今、コロナウィルスの問題で大変だから、政府批判を控えようとかいうことを与党側のひとが言っていますが、簡単な解決策があります。「責任をとって首相も議員も辞める」と言っていたことを実行すればいいのです。危機管理は信頼関係がないとなりたちません。それとも、クーデター的に戒厳令でもひいて、戦車でも繰り出すのでしょうか? そういえば、昔、安倍首相は戦車帽をかぶって嬉しそうに写真をとらせていました。そんなことを想起してしまいました。
今の政権の後手後手の対応や、右往左往をみていると、不安感しか湧いてこないのです。
今、安倍首相ができる最大のことは、首相を辞めて、新しいもう少し信頼を得るひとに首相になってもらって、合意形成のできる、コロナウィルスのちゃんとした感染症対策を進めることだと思っています。
(追記)ここまではだいぶ前に書いた文、この文を編集しているときに、インターネットで、押谷さんをインタビューした映像が流れていました。どうも、「これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろう」という話は、失敗に終わったと当人も自覚しているようです。それを、まだ検査の不完全さの批判にすり替えていました。その話は、もう不完全でもそれを押さえてやっていくしかないということで、いろんなひとが語っていて、世界ではその方式で進んできているのです。きちんと反省して、方針転換していくことなのに、非を認めないで、まだ、クラスター対策を軸にするということから転換ができていないので、検査がなかなか進まないのです。何が肝要なのか押さええず、名誉心のようなことで動き、責任――反省という概念のなさがなにをもたらすかということを押さえようとしないことが、安倍政権に関わるひとの特徴になっているのでしょうか?

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2020年04月03日

廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』

たわしの読書メモ・・ブログ529
・廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』岩波書店 1997
 レーニンの「唯物論と経験批判論」のマッハ批判を読んでいて、マッハ理解をするためにマッハに関する廣松さんの文があるので、表題の著作集の中のマッハに関する論攷を中心に再読しました。丁度、後半部分417-592Pにあたります。途中でやはり、この巻の最初から読んでいくこと、さらにマッハの本そのものの読書、さらには物理学の学習の必要も感じていました。ですが、とてもそこまでは掘り下げられません。わたしの人生の最後の方で、「廣松ノート」を作るつもりです。その中で、この3巻の最初から読み直し、ノートを残したいと思っています。わたしは、この著作集が出たとき、予約販売で、確か月一ペースで発刊されて、その中の未読の文、解説だけを読んでいきました。その他のところは、単行本ででたときにほとんど読んでいました。
 今回再読した論攷を挙げておきます。
V.「相対性理論の哲学」の中の「第二章 マッハの哲学と相対性理論」
 これは、「第一章 相対性理論の哲学的次元」を先に再読することでした。明らかに失敗です。ですが、そもそも物理学の基礎知識のようなこともないと、読み飛ばしになります。以前単行本で読んだときも、そのようなところで読んだのです。認識論的なところにつなげる、ところで物理的なところの表面をなぞる、結局、そこに行き着くのですが。
W. 「マッハの哲学――紹介と解説に代えて」「マッハの幻想主義と意味形象」「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」
解説 野家啓一
解題 小林昌人
 さて、そもそもマッハに踏み入ったのは、マッハの何が問題になっているのかということです。それは、ひとつ前の読書メモで先取り的に少し書いたのですが、わたしが影響を受けた廣松さんがマッハからの影響を受けて、物理学を専攻しようとしていたことがあります。そして、廣松さんの論攷にマッハの影響もとらえられます。そのあたりを少し押さえてみます。
 マッハの人物辞典的解説は526Pに書かれています。全面的に書き写したい心境に駆られますが、禁欲しておきます。
マッハの研究は多肢にわたります。わたしが留意したのは、ゲシュタルト心理学の先駆をなした538Pということや、諸要素の函数連関536Pということなど、それでも主なフィールドは物理学と言えるようです。マッハは、ニュートン力学の絶対空間、絶対時間という概念を、観測者の問題から批判していき、相対性理論を生み出したアインシュタインが、真空の中での光速が一定であるいう実験がマッハの若いときに出ていたら、マッハが相対性理論を生み出しただろうということを書いています。
わたしはマッハの認識論を問題にしているので、そこにしぼります。
近代哲学は、中世の神というところからの演繹から、デカルトの精神と物質、精神と肉体の二元論に陥り、そこから、意識作用――意識内容――意識対象という三項図式ということが生まれ、いかにして認識は可能なのかという問題が生じてきました。そういう中で、不可知論が生まれてきます。それは一つは、カントの物自体論です。もうひとつは、ヒュームの懐疑論です。そういう中で不可知論を退け、マッハは要素一元論ということを突き出します。マッハが想定していたのは、主客未分な、生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界です。529Pそれは、結局、三項図式でのアポリア(論難)は解決しえていません。それは、結局、マッハの図式で言えば「要素ABC……を他人ともそのまま共有化しうる与件とみなすことにおいて、マッハとしては、実は単なる感性的要素としてではなく、共同主観的に同一なものとして先行的了解される意味形象として措定してしまっているということである。」545P、これは、結局「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)512P・532Pということが、意識対象としたことにはおよばない図式になっています。「マッハは、認識主観の本質的な同型制を暗黙の前提にしてしまっている。」549Pという他我問題が解決できていないこととならんで、この「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)ということを、廣松さんは、「それ以上のもの」――「それ以外のもの」として、マッハが押さえ損なっている他我問題も押さえたところで、四肢構造論として突き出しています。
 三項図式の論難を解決しようとしてしたひとつの流れ、フッサールの現象学は、本質直感として解決しようとしていたのですが、結局失敗しています。547-8P「フッサールが特殊な直感の対象として考えたところの契機、広義の「意味的諸契機」は、物象化的錯視であることを指摘しなければならない。」548Pと廣松さんは指摘しています。
 マッハの認識論に関する廣松さんの要約的なところ「近代哲学のかの二元論的構図と主客図式とを内在的に批判する構えに一応はなっているけれども、感性的「要素」の超個人的・超歴史的な実体化、認識主体のアプリオリな同型化、この両極の中項としてαβγ……すなわち意識内容としての表象を立てる構図になっており、本質的には近代哲学の地平を超出しえていない。けだし、マッハの哲学が、近代哲学に対する即時的な自己批判の構えになっている限りでは真摯な再評価と再検討に値するとはいえ、所詮は抜本的止揚の一与件たるにすぎないと評さるべき所以である・・・・・・」549P
マッハが廣松さんとリンクしているところでわたしが留意しているのは、「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)と函数的連関という関係主義的とらえ返しではないかと押さえています。
この著作集では、『事的世界観の前哨』を分割して内容的に各巻に割り振っています。この3巻に「U.物的世界観の問題論的構成」(今回再読せず)と「マッハの幻想主義と意味形象」が掲載されています。この本は廣松さんの道行き的に大切な道程で、編集者の廣松シェーレのひとたちの分割したことの意図がちょっとつかめないでいます。
マッハへの廣松さんへの思いのようなこと「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」に書かれています。ここでは、レーニンの「唯物論と経験批判論」をとらえ返すという学習からマッハに関する論攷を再読したところ、コメントを省きますが、ただひとつだけ気になったところ、廣松さんがマッハを読んで「もはや狂(ママ)信的な「マルクス・レーニン主義者ではありえなくなっていた。」552Pと書いているところ、結局廣松さんは、哲学的なところでレーニンの批判はしても、その批判は根底的な、運動論的な「マルクス―レーニン主義」批判までおよんでいないように思われるのです。もうひとつ、廣松さんは、マッハにかなりのめり込んでいて、マッハ主義者というような規定も受けていたようなのですが、自分は決してマッハ主義者ではないと書いていること、むしろ現象学の方に近いというようなことを書いています。ただ、廣松さんを「現象学」の枠内でとらえようという論攷も見たのですが、フッサール批判の論攷を見ていると、これも違うのではないかと押さええるのです。
 さて、最後の処、野家啓一さんの解説は秀逸で、これを読むだけで、この本の内容の概略はつかめます。今回の読書で落としている、廣松さんの量子力学との対話を押さえてくれているところ、改めて、忘れていたことを思い出していました。また小林昌人さんは廣松さんの文献的研究に身を投じていて、また編集的なところで力を発揮しているひと、廣松学とでもいうところで、学究していくひとたちのとって貴重な存在、導き手です。
 最初に書いたように、廣松ノートを作る予定です。廣松さんは膨大な知識の上に論攷を進めています。わたしは廣松さんが引用しているひとたちの原典もほとんど読めないまま表面的にかじっているだけ、そのようなところは、学的なこととして許されることではないのですが、ただ、廣松さんの本を手にするきっかけになればとメモを残しました。

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レーニン「唯物論と経験批判論」

たわしの読書メモ・・ブログ528
・レーニン「唯物論と経験批判論」 (『レーニン10巻選集 別巻2―レーニン生誕100年記念』大月書店1966所収)
 レーニンの著作をあたっていて、とりわけ、『国家と革命』を読んでいると、まさに、レーニンこそが、今前衛党的なことを維持している政党・党派の理論、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと押さえられるのです。
 それは、実は、後期エンゲルスが、マルクスの理論のわかりやすい解説ということのなかで、弁証法を法則としてとらえるようなことに陥り、ヘーゲルへ「先祖帰り」し、弁証法を法則、しかも物神化された法則としてとらえるようになった、そのことをレーニンが吸収して、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと言えることではないかと思ったりしています。ヘーゲル弁証法は逆立ちしていると言われています。それは絶対精神の自己展開、疎外――外化としての現実世界という内容を持っているのですが、実は、レーニン革命論は、「マルクス―レーニン主義」の弁証法の現実世界への適用という意味をもっていて、そのことは「マルクス―レーニン主義」に理論武装された前衛党による革命という図式にもなっていきます。そもそも、弁証法というのは、対話による論的な深化の道行きなのですが、それをヘーゲルの絶対精神によって逆転させる・逆立ちさせたのが絶対精神の外化としての法則としての弁証法としてとらえたことなのです。まさに、ヘーゲルの逆転した弁証法の法則化は、神を想定している事なのですが、同じく、弁証法を法則としてとらえた、「マルクス―レーニン主義者」やその党派は、まさに宗派として登場せざるをえなくなるのです。このあたりのことをこれまでのレーニン学習から仮説として押さえたのですが、レーニンの哲学的論攷の学習として、裏付けようという試みとして、レーニンのこの本、そして『哲学ノート』の読み込みをします。この本は、マッハ批判としても有名です。まえにも書きましたが、わたしが哲学的に影響を受けた、廣松渉さんは、物理学の知識も踏まえた上でマッハの理論をそれなりに評価しています。そして、後期エンゲルスの批判も書いています。後期エンゲルス論については、わたしの理論学習の終活的ことの一つとして「廣松ノート」をつくろうという思いがあり、後に回しますが、マッハに関する廣松さんの論攷を、『哲学ノート』の学習の前に読んで、読書メモを残します。ここまでは、読書に入る前に書いたことです。
ここからが、正規の読書メモです。
 経験批判論の論者とは、主にマッハとアヴェナリウスを指しています。これはカントの物自体論の不可知論やヒュームらの経験主義の不可知論を右から批判するというレーニンの押さえです。レーニンはマルクス、むしろエンゲルスですが、その唯物論は左から批判すると称しています。その立場、唯物論の立場でのマッハ主義の批判なのです。レーニンはまさに革命家で論争のひとでした。ロシアにはマッハ主義的なところとマルクス唯物論を結び付けるひとがいました。筆頭はボグダーノフなのでしょうが、そのひとたちを論破するために、そして唯物論を宣揚するためにこの書を書いています。革命家にもいろいろなタイプのひとがいるのですが、レーニンは異なる意見の者を徹底的に論破して、自分の方針を突き通すという性格のひとのようでした。そこで、絶対的真理なるものを突き出します。それはまさに神学の世界なのです。これがどこから出て来たのかというと、エンゲルスがマルクス主義のわかりやすい説明ということを模索する中で、弁証法を論じていくのですが、その「弁証法」が問題なのです。ヘーゲルが弁証法概念を突き出したのですが、それはひとつは対話ということによる論的深化という意味と、もうひとつの絶対精神の外化なり疎外としての展開ということとしての弁証法があります。後者は法則としてとらえられるのですが、絶対精神ですからの法則の絶対化に陥ってしまっているのです。もちろん、エンゲルスは神なるものは否定していますから、絶対精神の自己展開のようなことは批判します。しかし、弁証法を法則としてとらえるところからは、その法則――弁証法を図式化していく過程で、ヘーゲル的な絶対精神の自己展開の枠内に留まってしまいます。そこから反映論なり模写論という突き出しになっています。それは、精神の自己展開という図式に嵌まっていて、まさに、青年ヘーゲル派としてヘーゲル批判から出て来て観念論を超克したところから逆戻りしてしまうことになっています。レーニンは、まさにエンゲルスの弁証法的唯物論をとりいれるときに、まさにヘーゲルの観念論的な弁証法にとらわれたのです。ですから、その影響を受けたレーニンは、この書の中でも、まさに神の言い換えに過ぎない「絶対的真理」なる言説を突き出しています。だから、それはまさにヘーゲル的観念論に嵌まってしまっているのです。
 さて、何が問題になっているのかというと、神学の世界から抜け出したデカルト以来の精神と肉体――物質の分離以降、近代哲学は常に、三項図式(意識作用<主体>―意識内容―意識対象)のアポリア(論難)をどう解決するのかという問題に直面してきたのです。そして、神学の世界に絶対精神をもって復帰したヘーゲル以外は(神とは自然の物神化にすぎないことで、その存在は否定されることで、ヘーゲルはそれなりに論理的ですが、その前提自体が間違えています)、このアポリアを解決できていませんでした。だからエンゲルス――レーニンも同じ図式に嵌まってしまっているのです。
 カントの物自体論もヒュームの経験主義的不可知論もそして、マッハの経験批判論もそのことを巡る試行錯誤です。そして、エンゲルスの反映論もこのアポリアを、ヘーゲル帰りしているのですから、解決できていません。
 さて、読書メモから少し外れるのですが、わたしのこの三項図式に関する押さえを書いておきます。マルクスの思想の流れから出て来た廣松渉というひとが三項図式のアポリアの解決を一応なしているのではという思いがわたしにはあります。実は、わたしがマッハを知ったのも、廣松さんがレーニンのマッハ批判のこの書をおかしいと論じていることからです。マッハは物理学者でもありました。音速の単位に名が付いています。そして、アインシュタインの相対性理論の道を拓いたひととしても有名になっています。さて、廣松さんはこの三項図式をどう止揚しようとしていたのでしょうか。それはカントが物自体をおいたところの先験的演繹論を現象学派を援用しての共同主観性論として置き換え、その共同主観性の形成を言語の生成における命名判断というところから、異化の構造、それにはマルクスの物象化概念を異化の次元からとらえ返す(廣松物象化論ともいわれていること)という作業があるのですが、そこから、社会学の役割理論(役割期待―役割遂行という過程でのサンクションをとおした)認識の形成、そこで、(廣松)四肢構造論という三項図式を超える論理を出しています。わたしは一応これらのいろんな哲学との対話のなかで形成されたことは、単なるパッチワークでなくて、ヘーゲル弁証法の対話的意味において、当事者意識――第三者的意識の入れ子型の認識の高次化の中で論理的に統一された、整合性をもっていると押さえています。個々の精細な批判はいくらか出ていますが、哲学的なところでは、大枠を否定する論理はまだ見ていません。もう少し書いておきますと、レーニンは唯物論を単純化しています。その唯物論のもっとも単純化した言い方は、定式化された「ものをあるがままに見る」ということですが、ひとは共同主観性の中で言語を獲得し、すでに物事を色眼鏡をとおしてしか見れないのです。これは、むしろ生まれたばかりの赤ん坊のとらえられる世界はいかようかという話としてのとらえ返しになります。これは次の廣松さんのマッハに関する学習の中で出てくることを、先取り的に書きますが、「マッハの世界はこの赤ん坊がとらえた世界ではないか」という話にもつながります。さて、もうひとつ、ものごとをありのままに見ている可能性のあるひとたちの存在を廣松さんが指摘していました。それは、この書の中で、レーニンが書いている「精神障害者」のひとたちです。翻訳の問題もあるのでしょうが、レーニンが、論争の中で、差別語で「きちがいであるまいし」とか論敵を何度も罵倒しているのですが、むしろ自我――他我の未分性とかの例を出して書いていることこそが、「ものごとをあるがままに見る」ことの可能性があるのかも知れません。
さて、レーニンに話を戻します。レーニンは革命家で強力なリーダーシップを発揮するひとでした。だから、自分の言っていることを絶対的真理として突き出す論理に乗ったのでしょうーでも、それはマルクスの思想の宗派的な展開になってしまうのです。今日、スターリン批判はかなり広がっているというか、多くのひとが受け入れていることですが、左翼の間ではレーニン批判にまではなかなか及んでいません。まだ存在している党派は「マルクス―レーニン主義」の言葉を使うかどうかを別にして、内容的にはそこへとらわれています。スターリン批判の中身としていろいろ批判されていたこと、「自然弁証法の基礎に立つ史的唯物論という論理はおかしい」とかいうことは、そもそもスターリンがレーニンからの引き継いだこととして、この書を読んでいる中でとらえられます(尤も、このレーニン選集がスターリン的改鋳にさらされている可能性もあるのですが)。今、一度レーニンとマッハの対話の中の読み解きから、「マルクス―レーニン主義」の総括が必要になっているのだと思っています。
 廣松さんのノートは、まだ先になりますが、とりあえず、次の読書メモとして、廣松さんのマッハに関する論攷の再読とメモ取りをやっておきたいと思います。
 さて、いつもの切り抜きメモは、レーニンの言葉自体がかなり図式化した教条主義的になっているので、逐一批判しても消耗なので、索引的にページを当たれる程度に留めます。レーニンは論争のひとで、哲学から物理学で広範な資料を読み解き、逐一批判していっています。ここで、それを精細にとりあげることは難しいので、レーニンとの対話に必要なところをとりあげて、メモを残すことにします。

 弁証法的唯物論11P・・・対話としての弁証法と法則としての弁証法
一九〇八年の「マルクス主義者」――-ボグダーノフらと一七一〇年の観念論者――バークリの唯物論批判15-7P
「物自体」16P・・・廣松さんの<そのもの>からのとらえかえし
エンゲルスの反映論22P・・・レーニンの「エンゲルス主義」へ陥り
 反映論と因果論24P
「因果性の問題における二つの哲学的上の流派が、われわれの前にある」バークリの批判する唯物論(記号論に媒介されて)24P−バークリとマッハ? むしろバークリとカント? 
 バークリによる空想と現実の違い24P――「因果性」神のみしるし
 バークリの主観的観念論25P・・・バークリの共同主観性は精霊? カントの先験的認識論の読み込みにおける「共同主観性」論との関係
「マッハは一八七二年につぎのように書いた「科学の任務たりうるのはつぎのことだけである。一、表象相互の連関の法則を探求すること(心理学)。二、感覚(知覚)相互の連関の法則を発見すること(物理学)。三、感覚と表象のあいだの連関をあきらかにすること(精神物理学)。」これはまったくはっきりしている。」33P
マッハ「感覚は『物の記号』でさえもない。むしろ『物』とは、相対的な安定性をもつ感覚の複合をあらわすための思想上の記号である。物(物体)ではなくて、色、音、圧力、空間、時間(われわれが普通に感覚と呼んでいるもの)が世界の本来の要素である。」33P
レーニン「物質は第一次的なものであり、思考、意識、感覚はきわめて高度の発達の所産である。これが唯物論的認識であって、自然科学は自然発生的にそれに立脚している。」67P・・・スターリンの自然弁証法の基礎の上に立つ史的唯物論という発想はここから。学的にはおかしい、との批判。そこには、法則の物神化も。法則は仮説として、法則の意識的適用という技術論。
人間存在以前の地球70P・・・自分の存在しない別の空間という話に通じていく
意識から独立して存在しているものの存在76P・・・懐疑論批判として出てくる<そのもの>の論理、ソシュール言語論、当事者意識と第三者意識の弁証法
エンゲルス「「思考する脳における」自然過程の反映、等々。」――レーニン「アヴェナリウスはこの唯物論的観点を否認して、「脳が思考するということ」を「自然科学の物神崇拝」と呼んでいる。」80P・・・協同作業や共同主観性というところからとらえ返す
レーニンのアヴェナリウス批判「「精神と身体の二元論」の観念的除去(すなわち観念論的一元論)とは、精神は身体の機能ではなく、したがって、精神は第一次的なものであり、「環境」と「自我」とは同一の「要素の複合」の不可分の結合のうちにのみ存在する、ということにある。」82-3P・・・「要素」を共同主観性から読み解いていくことによる、四肢構造論につながる可能性
 マッハの唯我論86P・・・廣松共同主観性論からの批判
「マルクスをエンゲルスに対立させる試み」91P・・・とりわけ、後期における違いを押さえる必要
エンゲルス「唯物論は、自然を第一次的なもの、精神を第二次的なものとみなし・・・・・・」91P・・・むしろ、二分法自体の批判の必要
「ヘーゲルは、現実の世界をある世界以前の「絶対的理念」の実現とみなす、そして人間の精神は、現実の世界をただしく認識することによって、そのなかに、かつそれを通じて、「絶対的理念」を認識するとみなしているのである。」92P・・・レーニンは「絶対的理念」なるものは否定しても、「絶対的」なることへの批判が欠落していくのでは?
「・・・・・・・われわれのそとに、われわれから独立して、対象、物、物体が存在し、われわれの感覚は外界の像である、ということである、・・・・・・」96P・・・反映論、三項図式のアポリアは、「絶対的精神」を肯定しない限り解けないのです。
レヴィー「なにが君に翻訳の正確さを保証するのか? 人間の思考が君に客観的真理をあたえるということを、なにが君に証明するのか? マルクスが第二テーゼでこたえているのは、この抗議に対してである。・・・・・・」――レーニン「さて、レヴィーが、マルクスが物自体の存在を承認している、ということを、一刻もうたがっていないのを、諸君はおわかりになったであろう!」99P・・・レヴィーは三項図式を問題にしていて、マルクスの第二テーゼは、「ひとは知らずにそれを行う」ということを言っているにすぎず、認識論的にはこの問題を解いてはいないのです。レーニンは、三項図式のアポリア自体が対象化できていないのではないでしょうか?
「しかし、果たして諸君は(マッハ主義者)、エンゲルスにあっては不可知論者も同様に「これらの物そのもの」のかわりに「印象」をおいている、ということに気がつかなかったのだろうか? つまり、事がらの本質上、不可知論者もまた物理的な「印象」と心理的な「印象」とを区別しているのだ! 差異はまたしても、もっぱら述語のなかにある。マッハが、物体は感覚の複合である、と言うとき、マッハはバークリー主義者である。マッハが、「要素」(感覚)は一つの連関においては物理的なものであり、他の連関においては心理的なものでありうる、と「訂正する」というとき、マッハは不可知論者、ヒューム主義者である。」100-1P・・・三項図式のアポリアの迷路、「要素」は廣松さんのいう<そのもの>、意識作用と意識内容をつなぎ、意識対象に対峙する「感覚」という概念、ただし三項図式は解けていないのでは?
「エンゲルスは論文のはじめで公然とかつきっぱりとその唯物論を不可知論に対置しているのであるが・・・・・・」101P
 エンゲルスの実践的適用、仮定が間違っていれば結果として出てくる類いのこと102P・・・法則の実践的適用も同じ、<そのもの>をとらえているわけではない、不可知論を批判し切れていない
「感性的観念はわれわれのそとに存在する現実性ではなくて、この現実性の像に過ぎないのであるから・・・・・・」「ドイツ語の原文をとってみれば、君は《stimmen nit》すなわち照応する、声を合わせる[調和する]ということばを見るだろう・・・・・・《stimmen nit》ということばは「同一のものである」という意味での一致を意味することはできない。」「エンゲルスが、いつも、その考察の始めから終りまで一貫して「感性的観念」をわれわれのそとに存在する現実性の像(Abbild)と解釈していること、・・・・・・」107P・・・像と現実の関係、正しく反映されているという担保はないのでは? ここは、「像」――「反映」でなく、「妥当すると共同主観的にとらえられる」ということでは?
 ボクダーノフのエンゲルスを折衷主義という批判115P・・・むしろ、ヘーゲル帰り
 ボグダーノフの客観的真理はありえないというとらえ返し116P・・・客観的真理とは共同主観的に妥当な認識 レーニンのボグダーノフ批判は、絶対的真理に収束して、ヘーゲル帰り
「このうたがいもなく普遍的に妥当する、・・・・・・」118P・・・「普遍的に妥当する」ということは、「共同主観的な妥当」性の弁証法的とらえ返し
「自然科学だけが外界を人間の「経験」のなかに反映させることによってわれわれに客観的真理をあたえることができるとすれば、・・・・・・」118P・・・そもそも反映論が「真理」を担保できないので、自然科学を別格扱いすることはできないのでは?
「感覚は物体、外界の像」119P・・・マッハは意識作用と意識内容を区別しない、従って像ということは出てこない、これはエンゲルス――レーニンの反映論
「すべての知識は経験、感覚、知覚から生じる。」120P・・・「感覚」は意識作用に近く、「知覚」は意識内容に近い、ただし、マッハは区別していない
「諸君(経験批判論者)が物自体の認識可能性、時間、空間、因果性の客観性を否定しようと(カントにしたがって)、それとも物自体にかんする思想をもみとめないであろうと(ヒュームにしたがって)、まったく同じことである。諸君の経験論、諸君の経験の哲学が首尾一貫していないことは、この場合には、諸君が経験のなかの意識内容を、経験のなかの客観的真理を、否定しているという点にある。」120P・・・レーニンは、マッハの物理学が、ニュートンの絶対的空間、絶対的時間概念を批判することら始まったという、物理学のパラダイム転換の内容を孕んでいることを知り得ていなかった。
 レーニンの経験批判論批判「「一方では、物体は感覚の複合であり(純粋な主観主義、純粋のバークリ主義)、一方では、感覚を改名して要素にすれば、われわれの感覚器官から独立したその存在を考えることができる、と!」「彼らはわれわれの感覚器官を十分に信頼せず、感覚論を徹底していないのであるから。」「彼らはわれわれの感覚の証言を完全に信頼する哲学者であり、彼らは、世界を現実にそれがわれわれに見えるとおりのもの、音、色、等々にみちたものとみなしている・・・・・・・」「反対に唯物論者にとっては、世界はその見えるままのものよりも、いっそう豊富で、いきいきとしていて、多様である。」121P・・・「独立した」は間違い、むしろマッハは未分なものとして押さえています。マッハの「見えるとおりのもの」とは、生まれたばかりの共同主観性にとらわれていない赤ん坊のとらえる世界なのです(→レーニンの「子どもの片言」122P)。エンゲルス―レーニンの反映論では、「その見えるままのものよりは」は出てこないのです。むしろマッハの「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)のなかに、そのようなとらえ返しがでています。唯物論でいう「現実をあるがままにとらえる」ということ自体が、物象化にさらされていない生まれたばかりの赤ん坊や、一部のレーニンが差別的に論じる「精神障害者」以外は、なしえないのです。
「物質の概念をうけいれるか、それても否認するかの問題は、人間の感覚器官の証言を人間が信頼するかどうかの問題であり、・・・・・・」122P・・・共同主観性のなかで、ひとはすでに、感覚器官がとらえたものを「それ以上のもの」「それ以外のもの」としてとらえているのです。
レーニンのシュヴェーグラーへの唯物論への共鳴「感性的なものだけが存在する。」123P・・・抽象ということの否定、物象化された世界にはありえないこと。
ボグダーノフのエンゲルスの折衷主義(ヘーゲル帰り)批判124P
 ボグダーノフ「「徹底したマルクス主義は」永遠の真理というような「そういう独断論やそういう静学をゆるさない」と」←レーニン「これは混乱である」130P・・・混乱はレーニンの方、レーニンは絶対的真理――絶対精神を措定してしまっているのでは?
「われわれは、マルクスが一八四五年に、エンゲルスが一八八八年と一八九二年に、唯物論の認識論の基礎に実践の基準を導入しているのを見た。」130P→注三四「レーニンが念頭においているのは、マルクスの『フェイルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年)、エンゲルスの『フェイルバッハ論』(一八八八年)および『史的唯物論について』(『空想から科学への社会主義の発展』の英語版への序文)( 一八九二年)である。」363P
マッハ「概念は『物理学的作業仮説』である」132P・・・「概念」は「法則」にも適用可能
 フェイルバッハ「人間は抽象的自我ではなく、男であるかまたは女である。」134P・・・これ自体がもはや真理とは言いえないのです。
 「マルクスの理論の道にそってすすめば、われわれはますます客観的真理に近づくであろう(けっしてこの真理を汲みつくすことはないが)、ところがあらゆる他の道にそってすすめば、われわれは混乱と虚偽以外のなにものにも到達することができない、ということである。」136P・・・「信じる者は救われる」、マルクスの理論を宗教的真理と同等にとらえていること、ここから教条主義も宗派も生まれ出でること。
「気ちがい(ママ)病院の住人以外にはなんびともその存在をうたがわないもの」138P・・・生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界と一部の「精神障害者」の「あるがままにものごとをとらえる」世界から、<そのもの>をとらえ返す廣松さんの作業、精神病院に政治犯を収容していく態勢はレーニンの論敵を「障害者」差別的概念で批判することから始まっているのでは?
「経験批判論」の「経験」にかんするレーニンの論攷141P・・・言語のある世界の経験、命名判断される以前の異化しない状態の経験と認識をレーニンはとらえていないのでは?役割遂行のなかにおける共同主観性――認識の獲得という問題から経験をとらえ返すことー
「自然の客観的合法則性と人間の脳におけるこの合法則性の近似的に正確な反映とを承認することは、唯物論である。」148P・・・ヘーゲルの絶対精神の自己展開をもってこないと、反映論は正当化できないのでは? 
「エンゲルは原因と結果とについてとくに弁証法的見方を強調している、・・・・・・」→エンゲルス「そこでは、原因と結果とはたえずその位置をかえ、いま、あるいはここで結果であったものが、あそこ、あるいはつぎには原因になり、またその逆もおこなわれる。」149P・・・原因と結果――因果論的概念で語れないこと、対話ということでの高次化としての弁証法になってはいるけれど、そもそも原因と結果という概念を持ちだしたことが誤りと言えることなのでは?
「エンゲルスは、唯物論の周知の命題をとくに説明することを必要とみなさないで、たえず「自然法則」、「自然の必然性」(Naturnotwendigkeit)について語っている。」149P・・・自然の物神化を神としてとらえたとき、まさに「自然法則」「自然の必然性」も神として立ち現れます。客観的妥当性の根拠を示す必要がないこと――神
 アヴェナリウス「必然性とは、したがって、結果の到達が期待される確率[確からしさ]の一定の度合をあらわすものである。」151P マッハ「函数という概念が「要素相互依存関係」を比較的正確に表現できるのは、研究の成果をはかることのできる量で表現する可能性が得られた場合だけであるが、・・・・・・」152P・・・「(確率)函数」という新カント派的概念との共振
「これらの連関についてのわれわれの認識の源泉は、自然の客観的合法則性であるのか、それとも、われわれの心の性質、つまり、一定の先天的真理、等々を認識するところの、心に内属する能力であるのか、という点にある。これこそが、唯物論者フェイルバッハ、マルクス、エンゲルスを、不可知論者(ヒューム主義者)アヴェナリウス、マッハから終局的にわかつものである。」152-3P・・・極めて図式化したとらえ方、少なくともマルクスとマッハのとらえ方は間違えているとしか言いようがありません。
「そのさいにポアンカレは、普遍妥当的なもの、多数の人々、またはすべての人々によって認められているものを客観的と呼んでいる――すなわちすべてのマッハ主義者と同様に、純粋に主観主義的やり方で客観的真理を絶滅している、――・・・・・・」158P・・・ポアンカレの件は、言葉の厳密性を検討することがあるとしても、客観的妥当性ということはまさに然りで、レーニンの方がおかしいとしかとらえられません。まさに神学。
「エンゲルスが、重要なことは、あれこれの哲学者が唯物論または観念論の多数の学派のどれにくみしているか、ということにあるのではなく、自然、外界、運動している物質を第一次的なものとみるか、それとも、精神、理性、意識、等々を第一次的なものとみるか、ということにある、と言ったのはただしかったのである。」159P・・・デカルト以来の近代哲学の精神と物質の二元論への舞い戻り
 自由と必然性180-3P
 アヴェナリウス――経験論的不可知論への共鳴、右からのカント批判190P
「カントの基本的特徴は、唯物論と観念論との和解、両者のあいだの妥協であり、種類のちがった、対立しあっている哲学的流派を一つの体系のなかでむすびつけていることである。」191P
 ボグダーノフ「(1)「要素」の混沌(要素というこのちょっとしたことばのかげには、感覚以外のいかなる人間的概念もかくされていない、ということをわれわれは知っている。)、/(2)人々の心理的経験/(3)人々の物理的経験/(4)「それからうまれる認識。」」221P・・・(1)〜(3)はまさに三項図式。
 レーニン「(2)心理的なもの、意識等々は物質(物理的なもの)の最高の産物であり、人間の脳と呼ばれるとくに複雑な塊の機能である。」222P・・・これでは人間機械論になってしまいます。意識ということが如何に生まれるのかということが出て来ません。
「つまり、自然のそとに、しかもそのうえさらに、自然を発生させるなにかあるものが存在している、ということになる。ロシア語では[哲学者流の特別なことばではなく、普通の人のつかうことばでは]これは神(ルビ、ボク)と呼ばれている。」223P・・・神学では外、哲学では、外である必要はなく、自然を物象化し絶対化したものが神。自然は如何にしてひとの認識に反映し得るのか、理性の狡知、絶対精神の自己展開という神。
「個人の意識を人類の意識ととりかえ、・・・・・・」224P・・・実はこれは廣松四肢構造論の、主体の二肢という問題があるのではないでしょうか?
 ボグダーノフの変遷225-6P
「記号」227P・・・言語論につながる――ソシュール
 ラウ「・・・・・・事物がわれわれのうちに引き起こす感覚は、事物の本質の模写である、・・・・・・」230P・・・模写論はいかにして可能になるのか、とらえられない。
「原因」――「結果」、「法則」、「力」231P・・・すべて物象化に陥っている。法則の物神化
 ビュヒナーとその一派の三つの「狭隘性」――力学の尺度の適用、反弁証法的(「エンゲルスの弁証法の認識論への適用(絶対的真理と相対的真理)にかんしては、まるっきりなにごとも理解しなかったのである。」)、「社会科学の領域で観念論が保持されていること、史的唯物論が理解されていない」234-5P・・・絶対的真理なるものの設定
レーニンの反語的な「形而上学的な反弁証法的唯物論が不充分である。」という批判239P・・・結局、デカルト以来の精神と物質の分離という近代哲学の枠内から抜け出せていない、ということを示しているのでは? ここから三項図式も生まれ出ずるー
 レイ「物理学の現実の危機」250P・・・これは、物理学におけるパラダイム転換として起きていることを、レイもレーニンも押さえていないということではないでしょうか?
「客観的実在の存在」251P・・・実体主義
 ウィルヴィーグ「物質は存在するか?」253P・・・「実体主義的物質は存在するか?」という問いに変えることー
「浴槽から水といっしょに赤ん坊までながしだしてしまった。」256P・・・レーニンは、マッハ主義を批判しようとして絶対的真理、「客観的実在の存在」を持ち出し、唯物論をながしてしまった。
レイ「物理学の一般的精神の観点からして他のすべての考察よりも勝っているのは、その方法、その理論、および経験にたいするその関係の概念が、機械論の概念と、ルネッサンス以来の物理学の概念と絶対的に同一のままである、ということである。」259P・・・レイとそれに共鳴するレーニンは、当時起きてきている物理学のパラダイム転換ということを知らなかった。
「エーテル」274P・・・絶対空間概念のなかで出て来た概念
「電気は観念論の協力者だといわれる、というのは、それは古い物質構造理論を破壊し、原子を分解し、・・・・・・」277P・・・まさに、量子力学につながるパラダイム転換的なこと
「数学者による物質の忘却」301P・・・「数学は自然科学の言語である」という規定をレーニンは押さえていないようです。それどころが、物質と言語の関係も。
「物理学の古い真理は、あらそう余地のないかつ不動のものとみなされているものにいたるまで、相対的真理であることがわかる、――つまり、人類から独立したいかなる客観的真理もありえない。すべてのマッハ主義ばかりでなく、すべての「物理学的」観念論は一般にこう論じている。」302P・・・絶対的真理をかかげるレーニン
「エンゲルスは(スタッロとはちがって)ヘーゲルの観念論をなげすて、しかもヘーゲル弁証法の天才的な真理の粒を理解することができた。エンゲルスは、主観主義にころがりおちる相対主義のためにではなく、弁証法的唯物論のために、古い、形而上学的唯物論を拒否したのであった。」303P・・・絶対的真理をかかげることは形而上学的唯物論に陥るのではないでしょうか? 「弁証法的」とは何か? 法則性なのか、対話による高次化の道行きなのか? 相対主義は主観主義なのか、関係主義としてあるのでは?
 唯物論的弁証法303P・・・絶対精神・絶対的真理の反映としての法則性?
プライのマルクス批判――六つ310-1P
「意識は一般に存在を反映する」316P・・・これは「存在は意識を規定する」と言われていたこと、なぜ「反映」になったのか、因果論的陥り
 マルサス主義321P・・・生物学的決定論
「マルクスとエンゲルスが自分の諸著作で、弁証法的唯物論よりも弁証法的唯物論をより多く強調し、史的唯物論よりも史的唯物論をいっそう強く主張した。」322P・・・検証する必要―強調というより、そもそも意味が違っているのではないでしょうか? レーニンはとらえていないのでしょうが、絶対的真理・法則としての弁証法と対話や相対主義的ニュアンス
「われわれはつねに、例外なしに哲学上の問題の解決の二つの基本的な路線、二つの基本的な方向を見て出したのであった。自然、物質、物理的なもの、外界を第一次的なものと認め、意識、精神、感覚(現代普及している術語によれば、経験)、心理的なもの、等々を二次的なものとみなすかどうか――これこそ、事実上いまもひきつづいて哲学者を二大陣営にわけている根本問題である。」327P・・・これは唯物論と観念論のみならず、自然科学と社会科学の分離ということにも通じる、では哲学は?
「ヘーゲルへの方向転換」330P・・・レーニンも、絶対的真理を設定することによって「ヘーゲルへの方向転換」に陥ったのでは?
「しかし、この物質以外には、「物理的なもの」、だれもが知っている外界以外には、なにものも存在できないのである。」336P・・・?そもそも、意識は存在しない?
「・・・・・・そして無限に拡大された、抽象的な、神のように生命のない「心理的なもの一般」を、物理的自然全体に置き換えることによって、すでに「最高の人間能力」を神格化しているのである。」338P・・・レーニンは、自然的なものを唯物弁証法におきかえ、絶対的真理を持ち出すことによって、唯物論をヘーゲル的観念論に置き換えた。
「唯物論的仮定は物理学的探求ではまったく避けがたい(unescapable)のである。」「星雲の仮説、光をはこぶエーテル、原子論、およびすべてのこのようなものは、便宜的な『作業仮説』にすぎないかもしれないが、・・・・・・そして無限」345P・・・レーニンはこのようなことを絶対的真理の論理から否定しているけれど、まさに法則とは作業仮説
 メーリング「ヘッケルは、唯物論者であり、一元論者であるが、史的唯物論者ではなく、自然科学的唯物論者である。」347P
「結語」348-9P・・・よくまとまったレーニン経験批判論批判四点
 チェルヌィシェフスキー350-2P
posted by たわし at 04:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする