2020年03月18日

『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』

たわしの読書メモ・・ブログ527
・『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』現代書館 2019
 定期購読している障害関係の雑誌です。また、少し遅れていますが、ここのところ読書
メモが膨大になってしまっています。逐一の紹介ではなくて、もくじ紹介と、気になった
文だけメモに切り替えます、としていたのですが、結局長くなってしまいました。さらに
最長記録を更新しそうな勢いです。
(編集者の付けた内容紹介)
「意思決定」が、障害者・高齢者・依存症者・引きこもりなど、立場の弱い人に自己責任を押し付けるための、免罪符のように使われている。しかし、よりよく生きるための選択肢は、出会いと経験、そして、人とのつながりの中から生まれるはず。求められているのは、「意思決定支援」ではなく、「つながりから生まれる経験知」を増やす支援ではないか。当事者・支援者とともに、パラダイム転換をはかる。
巻頭写真・文
[連載]インクルーシブに生きる「ふつう」の人 インタビュー:武本花奈
第一回 川合千那未
 写真が秀逸です。これだけ美しい笑顔が撮れるのだと、「笑顔の影に涙もある」のかもしれませんが、この笑顔が作れるようなところへの運動があるのかもしれないと思ったりしていました。
【特集 意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ】
● 「意思」と「支援」のパラダイム転換へ向けて 
池原毅和(日弁連)
これは、最後に編集者の文がのせられていて、この特集を組むのに、『福祉労働』163の
この著者の文がきっかけになっているとのこと(わたしの読書メモは513)、「意思」とか「自己決定権」を巡る貴重な文になっています。
これはパラダイム転換というところで、わたしも主張している障害関係論の地平へ繋が
る文書、いたく共鳴しながら読んでいました。
 今回も、文章ごとの抜き書きを残します。
「これらに共通するのは「意思」は個人のものだということである。法律が想定する「意思」も同様である。そして、「意思」が個人のものであるからこそ、その個人が「意思」に基づいて権利を取得し、義務を負担し、責任を負うことになるのである。しかし、本当に私個人だけに帰属する「意思」というものがあるのだろうか。自分という存在のどこにどのようなかたちで「意思」があるかを問われて明確に答えることのできる人はいるのだろうか?」8P・・・「個人」という実体に内自有化する「意思」という物象化
ジョルジュ・アガンベン「意思は西洋文化においてはもろもろの行為や所有している技術をある主体に所属するのを可能にする装置である。」8P・・・ここからパーソン論が出てきます。
国分功一郎「選択は過去の要因の総合として、あるいは、諸々の要素の相互作用の結果として出現する中動態的現象だが、意思はこれらの要因や要素から切り離され、能動的に何ごとかを始める能力と観念されており、何らかの行為を自ら開始したと想定されるとき、その人にその行為の結果が帰属することになる。逆に、当該行為の結果を特定の者に帰属させられるべきと考えられる場合に、その行為が意思に基づいたものとされる。」8-9P・・・物象化的錯認としてとらえられること。
「「意思」は、個人を社会の基礎単位とし、個人に権利や責任を帰属させるために社会的につくり出された構築物であり、「諸々の要素の相互作用」を捨象して、権利義務の帰属を単純化するための社会装置であって、私たちの内部に「意思」が存在しているわけではない。こうした考え方はあまりに新奇に感じられるかもしれないが、自分たちの日常や人生を振り返ったとき、純粋に試験管の中で起こる作用のように、他人や外部から一切の影響を受けずに、完全な自存と孤高の時空で、自己決定をした経験のある人はいるだろうか」9P・・・まだ、要素還元主義的実体主義的――
「障害とインクルージョンの研究者であるジョアンナ・ワトソンは、意思決定支援を被支援者と支援者との間の相互依存的・複合的・動的な決定過程として捉えている。決定を行おうとする者は言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)を使って意思と選好を表出し、それに対して支援者は無視とは対極の態度としての「受けとめ」(acknowledge)、「解釈」および「応動」(action)という反応を示す。双方の対話関係は、これが螺旋的に繰り返されていく動的(dynamic)過程を辿り、最終的な結論(未来像の形成・選択)が形成されていく。この過程は障害のある人に特有なものではなく、人間一般の決定の過程である。環境要素を切り離して個人のみに焦点を当てた認知技能(cognitive skill)の捉え方は人間の相互依存性という根源的な要素を見落としている。人間の相互依存性は非障害者の社会では認められているのに、むしろ障害のある人には別のルールが適用されていると指摘している。」9P・・・役割期待と役割遂行、「障害のある人」という表記は医学モデルです。関係論的立場のひとが使い続けているのはおかしいのでは?
「ロシアの哲学者バフチンは、人間の存在は本質的に対話的(dialogical)な存在であり、対話を抜きにして個人の内面に本源的な世界観や価値観が予め備わっているのではないことを指摘している。障害者権利条約(以下、権利条約)第十二条三項の意思決定支援方法の一つとされているピアサポート(「一般的意見第1号」パラグラフ一七)においても、相互依存性(interdependency)あるいは相互性(mutuality)が支援関係の前提である。」9-10P
「個人の内心にある「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の個人モデル)から「諸々の要素の相互作用」の結果としての「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の社会モデル)にパラダイムを転換すると、権利条約第十二条三項が求めているのは、障害のある人の意思決定の支援を特殊なものと考えるのではなく、むしろ、障害のある人は、それ以外の人がもっている社会的なネットワークから得るさまざまな支援が奪われていることに鑑みて、支援のための社会的ネットワークを再構築すべきことだと読むことができる。」10P
「権利条約第十二条三項は、障害のある人に対する社会的排除が人間に必要な相互作用的・相互的関係の形成を阻害し、それによって障害のある人の法的能力の行使が困難化しているという認識に基づいて、相互依存的・相互的関係の再構築(法的能力行使のための支援措置)を締結国の義務としたのである。したがってまた、権利条約第十二条と第十九条(自立した生活及び地域生活への包容)は相互に支えあう規定として理解することが必要である。」10-1P
「私たちは、重度の自閉症などのためにその「意思」が読み取りにくい状態にある人の心の奥底にも何か本人の「意思」があるに違いなく、その埋もれた「意思」を解明することが意思決定の支援であると理解しがちではないだろうか。しかし、「意思」が関係的現象の一部分であるとすれば、もともと、対話的で相互的な関係が形成されていないところに、「意思」があるわけではなく、「意思」は対話的で相互的な関係のなかから形成されていくものということになる。」11P・・・まさに関係論的なとらえ方
「ジョアンナも指摘するように「言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)」を駆使して対話することが重要であり、生命としての反応がある限り応答は成立し、対話と相互関係を形成することは可能である。」11P
「「支援」についてもう一つ重要なことは、それは単に「あれかこれか」を選ぶことを支援するのではなく、未来像を形成(formulate)し、しかも、それを実際に実現していく協働の過程を含んでいるということである。」12P
最後の小見出し「ユニバーサルな意志決定支援へ」12P・・・差別的関係を拡げていくグローバリゼーションンに対抗するユニバーサリーゼーション
● 津久井やまゆり園入所者への「意思決定支援」何のため? 誰のため?
三田優子(大阪府立大学准教授)
 津久井やまゆり園が閉園するにあたっての移行支援をとらえ返しながら、「意志決定支援」ということが、「自己決定支援」になっていないという批判を、そもそも意思はどのように形成されるのかのとらえ返しをしながら、押さえています。
 切り抜きメモ、この文は小見出しを見るだけでも得るところがあるので、最初に小見出しを出して、その中にある文を切り抜いてみます。太字が小見出しです。
「自己決定の主体は誰か」・・・パン喰い競争のパンの選択を巡って
「自己決定から「意志決定支援」への流れ」
「最近は、「意思決定支援」という言葉が流行っている。権利条約における“Supported Decision Making”と言う用語が「意思決定支援」「支援つき意思決定」などと訳されたこと、また二〇一一年四月に政府が提出した障害者基本法改正案では、「意思決定支援」という言葉のみ加わり(議員修正により)、成立した経緯がある。当時、障害者基本法改正で議論していた、障がい者制度改革推進会議(二〇一〇年設置)では、「自己決定の権利と保障」を盛り込むべきとし、また自己決定の支援についても言及していたにもかかわらず、である/以来、意思決定と自己決定との明確な差異を、国のガイドライン(「障害者福祉サービス等の提供に係わる意思決定支援ガイドライン」、二〇一七年三月)でも示しておらず、ただ「意思決定」が成年後見制度など法的な絡みで使用されていることから「自己決定」よりも重要な決定を指すかのような曖昧なイメージが定着しつつあると感じている。」15-6P・・・そもそも「自己決定」も「意思決定」も、生きる条件が整わないと機能しないー
「ある障害者の家族は「ずっと医師決定支援」だと思っていた」と話した。」16P・・・笑えない冗談の様な話、現場の実態
「グループホームありきの意思決定支援」
「様々な居住の場の絵を描くというよりはむしろ、入所施設を中心に、加えて入所施設と行き来できるグループホームが描かれた絵がまずあって、その整合性を担保するために意思決定支援を用いたのではないか、と勘ぐりたくなるような印象をもつ。/そして、最も疑問が残るのは、このやまゆり園の入所者にとって「意思決定支援」が最もふさわしいのだろうか、という点である。」17P
「事件で傷付いた心を無視した「意思決定」になっていないか」
「うまく説明できない「中動態」の思いのなかにこそ」・・・「中動態」という概念は、「能動態」か「受動態」かという二分法を超える関係論的な立場。
「ところで、私たちが慣れている能動態(〜する)・受動態(〜される・させられる)の図式ではなく、「中動態」という捉え方がかつてあったと国分功一郎氏(二〇一七)は紹介している。能動態と受動態の二分方式では表せない感情が私たちのなかにあること、そして実は、そこにこそ大事なものがあるのではないか、と問題提起をしているのである。」18P
「支援者の心が「揺れる」ことの重要性・・・当事者にも言えます。ただしんどいことなので、そのように働きかけることではないのですが、それが必ずしも否定的なことではないこととしてー
「障害が重いことを言い訳に「客体化」しない」
「国分氏の「意思決定支援ではなく、欲望支援を」という提案するのはこんな実例もあるからである。」25P
「欲望形成支援の前提は、すべての人が主体であり、欲望をもつことが当たり前である、ということである。いつまでも「障害があるから」「コミュニケーションができないから」などとラベルを貼って客体として扱うのであれば、障害者の苦しさは自分の中だけに蓄積され、意思決定どころか希望も見いだせず、ときとして自傷や暴言などの問題行動となってしまう。」25-6P
「最後に」
● 知的障害のある人の意思決定への関わりについて
中村和利(NPO法人特活! 風雷社中理事)
 この文も小見出しを太字であげて、その中で切り抜きメモを付けます。
「自立生活への経緯――ドキュメンタリーTransitYard げんちゃんの記録」より
「知的障害者のある人も常時介護を利用して一人暮らしができることを提案し、実施することになった。」28Pという実践とその中での提言になっています。
「まず体験、そして修正可能であることが大切」
「「本人が想定していない新しい体験を提案していく」際に重要だと思うことは二つあり、@本人との付き合いのなかで、「明らかに本人が好まない提案はしない。A提案するヘルパーが(自分にとって)好ましいと思う体験を提案することである。」30P
「しかし、周囲を囲む人間関係が「ヘルパー」という同一方向の関わりだけになることのリスクは過大だと考えている。同一方向からの関わりだけであると、視点の多様さに欠け、また本人主体を心がけていても「ヘルパーの都合」が生じてしまい、本人の示す不具合や提案の修正を図りにくくなることが憂慮される。この自立生活では、シェアで暮らす同居人やイベントスペースでの知人が、多彩さをもつコミュニティの可能性を与えてくれたと思っている。」30P
「日常のなかで感じる本人の気持ち」
「事細かに本人の意思を採る取り組みも必要なのだが、日常的に本人が示してくれる怒りや喜びを尊重できる心持ちを、ヘルパーが維持できるかが肝だろう。」31P
「知的障害のある人がなにかを決めていくために――知的障害者の自立生活についての声明文より」
 こここには太字で「声明文」から二つの文が引用されています。小見出しを太字にしたので、普通文字で引用文を載せます。
「知的障害のある人たちの周囲が家族と支援者だけになり、インフォーマルな状況が希薄となり、当事者がパワーレスとならないよう具体的な取り組みを持ちましょう。インフォーマルな関係性こそが人としての尊厳を守る力になります」31P・・・?能力論的なニュアンスが気になるのですが、基本的に共鳴し得る提起です。
「体験していないことを想像し判断することが苦手な知的障害のある人たちに対してなされる提案は、体験を踏まえた上で変更が可能なものであるべきであると考えます」32P
「げんちゃんとげんちゃんの家族や知り合いでのミーティング――FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の実践より」
「FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)」には注がついています。「本人を支えるコミュニティー(家族、友人、知人)を再構築することによって、一人では解決できなかった問題を解決できるようにする手法。この方法はニュージーランドやヨーロッパの成年後見 制度に代わる本人中心の意思決定の支援方法として実践されている。」35P
「意思決定への支援ではなく協力じゃん?」
「[資料]知的障害者への自立生活への声明文」
 前に引用している文とそれからグループホームの位置づけが書かれています。「グループホームの存在を必ずしも否定するものではありません。地域生活の可能性を検討する中で、本人に自立生活を含む、複数の選択肢が挙げられ、本人が主体的に選択することが可能な状況にすることが大切だと考えます。」34Pとあります。ただ、否定的な側面をいくつか(も)挙げています。

● 高齢者医療における「意思決定」、家族の役割、ガイドライン
横内正利(いずみクリニック委員長)
 この論攷は、母を看取ったわたしの立場で、対話したい貴重な論攷です。しかも著者も書いているように、現在的にますます自己決定という名で、医療の差し控え――わたしはそれを「死へ誘う医療」という情況まできていると思うのですが――が大きくなっている現状を医者の立場から的確に押さえてくれています。――というようなことを考えていたのですが、何かおかしいと思い始めていました。これは医療そのものから来ることではなく、医療の技術が進んで、平均寿命が延びていく中で、それに合わせて福祉政策や医療政策をきちんと立てないで、むしろ政治が福祉や医療のお金を削減していく、そういうなかで、医療や福祉の貧困が起きてくる、ひとの尊厳ということが逆に機能して、「尊厳死」などという言葉が出てくるのです。社会的関係が自然的関係として取り違えられる(マルクスが物象化ということで表現したことです)のです。たとえば、栄養補給がとれないからと頻繁に行われていた胃瘻が、医療報酬で、胃瘻を取るということに報酬がでるようになるなかで、胃瘻自体の差し控えなり、延命処置の差し控えというようなことさえ起きてくるのです。もっといえば、グローバリゼーションの進行のなかで、経済成長が頭打ちになっていくなかで、福祉とか医療費を如何に削減するのかというところに、焦点が当てられます。病院や施設は人件費を抑えないと経営が成り立たない、もうけが上がらないと、人件費を削減する・抑えるという中で、十全な尊厳のある生を保証できなくなるのです。そういうなかで、「ぽっくり死にたい」とかいう言説も広がっていくのです。この論攷は、表面的に動いていることを押さえているのですが、それがどこから来ているのか、ということまで分析してくれていません。こんなことを書きながら、わたし自身いつもの無い物ねだりをしていると反省してもいます。現実に進んでいることを押さえてくれているということで大切な資料なのです。ちょっと間をおいて、もう少しつっこんだ対話が必要なので、それを巻頭言でまとめました。ここではその情報的なことを中心にして、切り抜きメモを残します。
「元気な高齢者」――「弱い高齢者」37P・・・「弱く」している社会的関係――「弱い高齢者」の立場をとらえ返すという作業として
「たとえば、肺炎などで入院して点滴を受けなければならないとき、「わたしはもう十分生きてきた。このうえ点滴までして生き長らえたくない」と言って点滴を拒否する高齢者は少なくない。しかし、それが、その高齢者の確固たる人生観や生死観に根ざした意思表示であることは、少なくとも私の経験においては、きわめて少ない。要するに、「点滴は痛いから嫌」なのであって、決して病気が治らなくてもよいなどとは思っていない。その証拠に、説得して点滴を受けてもらい、疾患が治癒した後に当時のことを尋ねると、「いや、あのときは大人げなくて」と頭をかきながら言うのがオチである。/「弱い高齢者」は、ささいな動機で、入院拒否や治療拒否の意思表示をすることが多いが、一方、そのような意思はまた、ささいな状況の変化で一変してしまう。このような場合、意思は本人(ときには家族も)の願いが揺れ動くままに対応し、これを許容する以外にない。」38P・・・そもそも点滴や輸血を拒否するひとがいるのは極めて少数ではないでしょうか? それも延命処置になっていくのでしょうか? 著者も後に書いているのですが、生きづらい社会になっているとき、ひとはそもそも死へ誘われる、まして医療に生活にカネがかかるということで、しかも医療福祉の切り捨てが行われているのです。だから、死へ誘われている、そのことを押さえないで、まるでひとの自然的な意識として揺れ動いているかのうようにとらえていては、まさに死へ誘われるのです。
「平均寿命の延長とともに、単なる死亡年齢の延長よりもQOL(Quality of Life)が重視されるようになりつつあるが、QOLの維持・改善は医療本来の使命の一つである。一般に、医療には「現在」の視点と「未来」の視点二通りがある。たとえば、苦痛の除去や急性疾患の治療は「現在」の視点であり、疾患の予防や危機管理は「未来」の視点である。例えば、中等症以下の高血圧の治療は、心脳血管障害の予防という意味で、「未来」の視点によるものである。/どちらの視点で考えるかはケース・バイ・ケースであるが、「未来」に対して多くを望めない高齢者は、必然的に「現在」の重要性が増す。このことは、高齢になるほど、また、老化が進むほど顕著になる。」38-9P・・・「視点」を分けることは、高齢者差別の論理そのもの。「健康寿命」とか介護保険制度の「健康の義務規定」にもつながっていること。QOL概念は安楽死のときにも持ち出されること。中身をきちんと押さえ直す必要があります。まさに「障害者運動」がそのことを突き出してきたはずなのです。
「ところで、このような対応は見方を変えれば、次のようにも考えられる。すなわち、「弱い高齢者」に対しては、限られた範囲(治療法/場)内で、治療を試みるのがよいといという考え方である。筆者はこれを「限定医療」と呼び、高齢者医療に特徴的な選択肢だと考えている。/実際、これまでの高齢者医療では、治療法/場の選択について本人も家族も一定のレベルを超えた治療を望まず、このような「限定医療」が選択されることが多かった。/例えば、次の三つが挙げられる。/(1)入院はせず、住宅や施設で可能な医療の範囲内で治療してほしい/(2)手術など本人に多大な苦痛を与える治療をせず、保存的治療のみ希望する/(3)転院はせず入院中の病院で可能な範囲の医療でよい」39P・・・承前。こういう発想があるから、高齢者医療を分ける、すなわち、医療の差し控えという発想が起きてくるのでは? 限定医療は、そもそも医療に対するひとのとらえ方や人間観――世界観の中で発動されること
「ただ、ここで注意すべきことがある。自己決定の内容が、治療法の選択、医療を受ける場所の選択、死ぬことが運命付けられた段階での「死に場所の選択」であれば、問題は少ない。しかし、それが、実質的に「生か死かの選択」になる場合には、きわめて慎重な対応が必要である。やり直しが利かないからである。人間が生き物である以上、根源的に死を望むはずはないことを忘れてはならない。生命の尊厳は守らなければならない。終末期以外の場面では、たとえ自己意識であっても、医療者は「死の選択」は思いとどまるように説得すべきである。」40P
「死亡後に、死因不明のため「老衰死」と診断されることはある程度やむを得ないとしても、生前に、老衰を「死に至る病態」とみなすことは危険である。つまり、老衰の終末像は死でなく不可逆的な摂食困難である。」41P
「しかし、ここに重大な問題がある。摂食困難が不可逆的である確認することが非常に困難だということである。九〇歳を超え、認知症の終末期にある高齢者であってもなお、摂食困難は可逆的であることが少なくない。また、人工栄養を開始して数ヶ月を経過した後に再び食べられるようになる例も稀ではなく経験される。」41P
 摂食困難の三つの対応策(1)人工栄養@胃瘻A経鼻栄養B中心静脈栄養(2)補液のみ(3)補液もしない41-2P・・・(3)に類することとして、そもそも人工栄養をするのは誤飲による誤嚥性肺炎を起こすというところで、それでも経口摂取するという選択肢もありえる。これに関しては、そのひとの世界観や人間観の問題、イリイッチの『脱病院化社会』の自然志向、ただし自然とは何かという問題があります。
「筆者は人工栄養を実施すれば年余の生存が予想される段階で終末期として生を終わられることには強い違和感を覚える。しかし、本人・家族が人工栄養を拒否すけば、それに従う以外はない。」42P・・・むしろ人工栄養をしないように誘う医者が出て来ています。
高齢者の終末期と言われている筆者の指摘する三通り(1)「生命の末期」(2)「老化の末期(3)「みなし末期」42-3P――-「本当は終末期ではないが意図的に末期とみなそうとする「みなし末期」が存在すると筆者は考える。」43P
モーロイ(カナダの高齢者医療の専門家であるウィリアム・モーロイ)が挙げる四つの選択肢(1)緩和ケア(palliative care)(2)限定的治療(limited care)(3)手術的ケア(surgical care)(4)集中治療(intensive care) 43-4P
「このなかで、(「みなし末期」としての)緩和ケアは、治療につながる医療行為を実施しないので、治療の可能性を放棄することを意味する。つまり、緩和ケアを選択することは、終末期でないものを終末期とみなすことになるこのような段階での緩和ケアは日本ではきわめて選択肢となりにくい。なぜなら、(下血の原因である)消化管出血は治療可能な疾患による可能性が高いからである。/次のような見方もできる。ある疾患の発症に際して、その疾患が治癒する見込みがあるのに治癒しないのは、その疾患(ここでは消化管出血)が発症する以前の状態(ここではアルツハイマー病)が、「生きるに値しない」終末期状態であるという前提が必要である。つまり、アルツハイマー病は生きるに値しない、苦痛に満ちた状態であるという前提である。これこそが「みなし末期」の本質である。/また、高齢者の摂食困難に対しても、それが可逆的か不可逆的かの吟味をしないまま、不可逆的なものとみなして点滴などの医療を実施しないのは、延命治療の放棄ではなく、治療の可能性をも放棄することである。つまり、意図的に終末期とみなすことであり、これも「みなし末期」として治療を差し控えることと考えるべきである。/わが国では、この「みなし末期」はどの程度、国民に受け入れられるであろうか。筆者は十年以上前に、このような対応が容認されるかという疑問を提起したが、その時点では、医療関係者の間では容認するという意見はほとんどなかった。しかし、弱いものへの差別と「みなし末期」による看取りはすでに日常化し始めているという見方もある。/なお、前述した「限定医療」は「みなし末期」とは以て非なることに注意されたい。すなわち、「限定医療」では、治療する可能性が十分残され、かつ、治療のための努力が続けられる。この点が「みなし末期」とは決定的に異なっている。」44P・・・そもそも終末期というのは、後になって分かることという話もあります。そもそも、医療の方から規定するのはおかしいー
「多くの「弱い高齢者」では元気なときとは価値観・人生観が変わっている可能性がある。老いを受容した「弱い高齢者」の多くは、過去と決別し、新しい自己に生まれ変わっている。」45P
「老化の進んだ高齢者を理解するには、まず本人の身になって考えてみることが重要になる。」45P――表2「弱い高齢者」を理解するための四つの視点――(1)本人の視点(⇔他人の視点)、(2)現在の視点(⇔未来の視点)、(3)生活の視点(⇔疾患の視点)、(4)生き甲斐の視点(⇔リハビリの視点)
「事前指示書やリビングウィルがあってもそれを鵜呑みにすることは危険である。そして、その場合の家族の役割が重要になる。本人の意思を主体的に推測し決断するのは家族である。」45P・・・ただ、現在的な本人の意思よりも家族の意思を訊くという態勢の危険性を押さえておかねばなりません。家族は時には対立する利害関係者になる場合があります。(上野さん)
「本人の意思が不明かつ、家族の意向も不明な場合」――「(1)同様のケースで取られる多くの選択方法に準じて対応する/(2)生命尊重の立場で考える」――「判断に迷う場合は、生命尊重の立場を選択すべきである。」46P・・・そもそも生命尊重というのは当たり前で、それが揺らいでいるなかで、態勢に流されればどうなるのか、医療理念自体が崩壊しているのではないでしょうか?
三つのガイドライン(@日本医師会の「終末期医療に関するガイドライン」A日本老年学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン」B厚労省「人生の最終段階における医療・ケアのプロセスに関するガイドライン」)の要約と著者の意見46-8P――著者は、@については、チームケアの中のヒエラルヒーを問題にしていますAに関しては、AHN(人工的水分・栄養補給法)導入について書いていますBについては、「終末期医療」ということばを「最終段階」に代えたということで、言葉を代えただけで、結局、何か特別な医療にしてしまっていることを批判しています。そして@ABとも、医療に携わるものは情報を提供するのであって、方針の決定に介入しないという姿勢を示しています。・・・この部分と「まとめ」は全面引用して、そこで、逐一のコメントをつけることを考えていたのですが、前のところから、全面引用になってきているので要約にしました。この部分は医者の規範のようなことを提起しています。わたしは、これらのガイドラインの文面を見ると、特にAのAHNに関する文(*)は、医療の差し控えで、まさに「死へ誘う医療」になってきているとしか思えないのです。何のことかわからなくなるので、もう少し引用おきますがAで、「本人にとっての益と害という観点で評価し」「本人の人生にとって最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても考慮する」という文言がでてくるのですが、そもそも福祉や医療の切り捨てや、貧困層が拡大していく中で金がないとどうなるのか、「家族の事情とか生活環境」を考えると、「仕事や家事ができなくなると、こどものためにぽっくり死にたい」という心理に陥らされるのです。
(*)Aについて、大切なので、もう一段きちんと引用しておきます。「その中で、AHN(人工水分・栄養補給法、主として人工栄養を念頭に置いている)導入に関する意思決定プロセスに言及し、AHN導入および導入後の原料・中止について、医療・ケアチームは次の諸点に配慮すべきとしている。/(1)経口摂取の可能性を適切に評価し、AHN導入の必要性を確認する。/(2)AHN導入に関する諸選択肢(導入しないことも含む)を、本人の人生にとっての益と害という観点で評価し、目的を明確にしつつ、最善のものを見出す。/(3)本人の人生にとっての最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても配慮する。」47P・・・「自己決定」の名による「死への誘い」
「まとめ」48-9P・・・文章を読んでいると何かおかしいのです。「高齢者医療のあり方については、国民的合意が重要であるが・・・」「社会としてはどのような生も受け入れるべきである。」という言葉が出てくるのですが、自らが社会の一員として社会を構成してしまっている、構成させられている責任という観点が欠落して(投稿文のバザーリアの指摘する分業の問題に留意)、医者や医療関係者の倫理や規範を問題にしているようにしか思えないのです。もうひとつ書いておくと、確かに共同性は、ひとの生を支え合うために必要なのですが、社会や共同体がひとの生を死を決定することでないのです。著者は医者で、そこで医療関係者へ向けた文としてこれを書いているのでしょうが、そしてその範囲では、明らかに、医療を受けるひとの「真の利益」をおさえてとても共鳴できる文を書いてくれているのですが、いつもの「ないものねだり」のことを書いてしまいました。
● ALS患者として生死の意思決定をみつめて――人工呼吸器装着・尊厳死について 
岡部宏生(日本ALS協会理事)
「ALS」のひとたちの中でも、よく見掛けるダンディなひとです。人工呼吸器をつけるかどうか迷い、また「死にたい」という思いをながく持ち続け、NHKで「安楽死」のためにスイスに行ったドキュメンタリーの番組もとりあげ、自分は「死にたい」という思いから脱したところでも、「死にたい」という思いを簡単に否定できないということを書いています。どうしてそのようなところに陥るのかということも自分でちゃんと分析をしているのですが、またそのうちに、きちんと「死にたい」というところを否定するところでの対話ができるようになっていくのではとも、思春期に「障害者宣言」をなしえない中で、自死願望をもち続けていた立場から思ったりしています。そのあたりは、「ぽっくり死にたい」とか「障害はないにこしたことがない」というような感情的なところを含んだ論理、ソフトな優生思想に批判をなしきるなかから、抜け出せる途があるのではと思ったりしているのですが。
● ハームリダクション──構造的スティグマによる「意思」の蔑視への反論
古藤吾郎(日本薬物政策アドボカシーネットワーク)
 この著者は「(薬物を)どうしてやめなければいけないのか」58Pという、この社会の常識とされることへの問いかけをしています。この特集の「意思」ということにつながって、そこで先入見的な構造的スティグマを問題にしています。ハームリダクションとは「社会構造による害を減らし、人権や意思を尊重する手法」冒頭内容紹介文58P
以下、切り抜きです。
「やめなくていいと言いたいのではない。やめたいと望む人が、依存症からの回復のためのさまざまなプログラムにつながるのはとても重要なことである。ただし、それはひとつの側面であり、それがすべてという訳ではない。私が受けた質問に共通していたのは、「薬物をやめるべき」という前提から投げかけられていたことだった。そこだけを取り上げて話すことは、私にはどうしても難しい。」59P
「ルールを破ったことは犯罪行為として刑事司法で裁かれながら、やめさせる手段は、その犯罪行為が薬物依存症という病気に置き換えられ、病気に対する治療プログラムを強制的に受けさせるというシステムになっている。/何かをやめさせるために、その人が病気であると決めつけ、治療を受けさせるという取り組みでよくなった社会は、世界中に存在しない。日本も同様である。薬物に関連する問題はここ何十年を振り返っても良くなっていない。もしそれが効果的であるならば、アルコール依存やニコチン依存もそうすれば良いのかもしれないが、そうはしない。単にエビデンスがでていないからというだけの話ではない。そうした向き合い方が、本人の意思を、そして権利を蔑ろにする行為だからである。それなのに、違法薬物だと疑問ももたれずに適用されてしまう。それゆえ、こうした社会構造に対して世界中で異議申し立てが起きている。こうした流れのなかで、そうではないアプローチもまた世界各地で展開されている。それがハームリダクションである。」59-60P
「ハームリダクション(Harm Reduction)とは、害(harm)を減らすこと(reduction)という意味である。薬物使用、そし薬物政策・法令がもたらす害(ダメージ、悪影響とも言い換えられる)を最小限にすることを目指すプログラム、実践及び政策と定義づけられる。」62P
「最新のものでは、薬物依存症などの使用障害のある人は、薬物を使用する人のうち一三%と示している。」63P
「一方で。薬物使用がある人のなかには、その背景に摂食障害、発達障害、知的障害などを抱えていたり、あるいは暴力被害のトラウマなどを抱えていたりすることも相対される。さまざまな困難や傷つきがあり、薬物(覚せい剤や大麻だけでなく、アルコールや処方薬・市販薬など)を使うこともしながら、日々を乗り越えているような場合、司法により一定の期間だけ、特定の薬物の断薬を優先させることで、本人の健康状態や困難な生活に前向きな変化が起きると捉えることはなかなか難しいように思える。むしろ、そうした傷つきなどケアせずに、ただ無理矢理薬物をやめさせようとすることは、解決するというより事態を悪化させることになるのではないかとさえ懸念する。」64P
「構造的スティグマとは、規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている様々な構造的要素に宿っているスティグマである。」65P
「同じ薬物を摂取しても住む社会によって結果が違うということは、人生を台無しにしているのは薬物そのものではなく、薬物政策であることが証明される。」65-6P
「一方で効果があるというエビデンスがでているものもある。それらに共通するのは、刑事司法手続きに最初からのせない、あるいは入り口の段階で支援につなげているものである。」66P
「支援機関は薬物使用に限らず包括的なアセスメントを行い、本人が求める支援を提供できるように調整する。本人が何かしらのプログラムに参加するかどうかは一切強制されるものではない。必ずしも断薬を目指す支援を求めなければいけないというものでもない。ただ、こうした関わり方による再犯が減少しているのである。」66P
「ハームリダクションは当事者たちにより発展してきたアプローチである。当事者たちのアイデアがたくさん詰まっている。そのアイデアは、薬物を使用する人の健康と福祉を、そして命を守るものとして生み出され、実践されている。」67P
● つながりの貧困から考える「8050問題」
川北稔(愛知教育大准「教授)
 最初の内容要約に「「8050問題」とは、長期ひきこもりをはじめ、高齢化・未婚化の進展・雇用の変化によって生まれた、高齢の親と中年の子どもによる世帯の困難という意味。」68Pとあります。
高齢化・つながりの希薄化・ひきこもり、いろんな問題が重なるところで現れていることです。以下切り抜きメモ。
「内閣府が二〇一九年三月に発表した調査では、四〇歳から六四歳までの年齢のひきこもり状態にある人が全国で六一・三万人と推計された。」「二〇一五年の国勢調査では、四十代・五十代の未婚者で、親元に同居しながら非就業の状態にある人が七七・三万人だった(二〇〇五年には五一・九万人)。これは同年代の男性のうち二・八%、女性のうち一・七%に相当する。」68P
「子育てや介護の社会化が進んだ現代においても、成人以降まで育った子どもがつまずいたとき、その対応は親の責任になりがちである。人生前半の社会保障が手薄で、実際に若者が頼ることができる制度が乏しいこともあり、家族だけで問題を抱えざるを得ないのだ。」「ひきこもる人に直接働きかけるのは難しいので、支援はまず周囲の家族関係を調整すること(「家族支援」)にはじまり、やがて本人を対象にする「居場所型支援」「就労支援」へと向かうというアプローチを採用することが多い。ひきこもり状態が慢性化し、自室や自宅へのひきこもりが続いている場合には、家族の態度が変容することで本人の安心感や行動力が回復されることも確かだ。」69P
「ひきこもり経験者の勝山実は、ひきこもる自身の状況を「専業主婦」に対して「専業子ども」と表現していた。」70P
「親たちは、ひきこもる子たちに接する際に、「自立してほしい」と口で言いながら、実際は子どものために甲斐甲斐しく世話を焼きがちであると指摘される。こうした「二重基準」の背景に、上記のような近代家族的な親子観が関係しているのではないか。「大人であること」は就労自立などによって核家族の再生産に寄与できることに等しい。その資格のない子どもは、あくまで家族内で親に従属する依存的な存在として遇される。ここに欠けているのは、成人の子どもと、同じ家族として対等に接する姿勢や、就労自立に至らなくても家族から自立できるような社会制度である。」70-1P
「そのように個人に関する情報を包括的に集め、きめ細かく提案していくためには、伴走型支援と呼ばれるように個人を包括的・継続的に支える視点が欠かせない。それに対して従来の支援は、利用する人が制度の枠組みに合わせざるを得ず、たとえ形式的には制度が紹介されたとしても積極的な利用に結びつかないことも多かったと言える。/ひきこもり支援においては、「本人が同意しないので支援を開始できない」「親も子も、当座は現状の生活に満足しており、状況を変えたがらない」と言われることが多い。ここで考えたいのは、支援への「同意」と言われる場合、どのような意思が想定されているかということだ。」73P
熊谷晋一郎さんの有名な提起――「自立とは他者や制度に依存していないということであるという常識を反転し、むしろ多様な依存先をもっていることを自立とみなす考えを提起した。」73-4P――ここから「依存先を適切に分散するための方策を考えてみたい。」として「家族単位での支援のニーズを考えるのではなく、それぞれの個人を対象にニーズを幅広く探ることが必要であろう。」「日本の福祉制度は申請主義と言われるように、本人の申請がなければ支援が開始されない点にも限界がある。制度に人を合わせるのではなく、人に合わせた制度の紹介が柔軟に実施されなくてはならない。」「またフォーマルな制度の紹介だけではなく、ボランティアグループによる同行支援のように柔軟な支援メニューの導入も求められる。パーソナルな関係を築きながら相手のニーズを引き出すことも伴走型支援の役割となる。」「「本人の意思」は、他者や環境から切り離されたかたちで存在しているわけではない。「ひきこもり」などのカテゴリーのもとで意思を一般化したり、支援拒否というかたちで固定化したりするのではなく、意思そのものを多面的にとらえ育てていくような取り組みが求められている。」74-5P・・・「障害者運動」の中で語られてた支援のあり方の援用でもあり、まさに「「障害者」が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会」――障害概念の関係モデル的拡張
● 親の立場から「法人後見」を検証する――「法人後見」は「支援付き意思決定(障害者権利条約十二条)」に対応できるのか
東 京香
 成年後見人制度自体がいろいろ問題を指摘されていますが、「法人後見」はさらに多くの問題が出て来ている様です。親の立場からの検証です。以下切り抜きメモ。
「法人後見のメリットとして@継続的な後見業務が可能になること、A効率的な分業システムが可能であること、B後見登記には法人の名称と住所しか記載されず、構成員の名前が表にでないため、心理的負担が軽くなること等が挙げられる。」76P・・・いずれも同じ項目でデメリットがとらえられます。下の項目で一部書かれています。
「本人や家族からしたら、誰(個人名)が自分の後見人なのかもわからないような状況で施設に入れられたり、精神科病院に入院させられたり、家を売られたりする可能性があるのだ。「顔の見えない法人後見」は、ある意味では個人の後見よりも恐いかもしれない。」77P
「葬儀社が法人後見をやっている例もあると聞く」77P・・・一瞬躊躇があるのですが、営利主義的でなければ、看取りというところからつながるところかもしれないとは思います。
(厚生労働省文書によると)「法人後見の実態として、ほぼ面会に来ない(電話連絡はある)が一九・七%、ほぼ面会に来ない(電話連絡もない)が一四・八%となっている。そのなかには、面会にも来なければ預金通帳の管理すらしていない法人(営利法人)もあるという話である。こういった法人までもが、家裁によって専任されているというのが現状のようだ。79-80P
「個人情報の保護は、単なるプライバシー保護ではなく個人の人格の尊重の理念(第三条)に基づくものであり、事例Aの流れ作業のような「預金通帳の管理」も、事例Cの社協の「自治体の調査権を駆使した徹底的な事前調査と情報共有」も、人格尊重からは程遠い。」82P
「自分の知らない人が自分のことを知っているという気持ちの悪さ」82P
(大阪の意思決定支援研究会の「ガイドライン」をとらえ返した上での後見人制度の問題点)「問題なのは、制度を温存した上での、「意思決定支援」は、家族や支援者を排除するための装置になりかねないということだ。後見人や法人後見にとっての都合のいい本人の「意思」だけが尊重され、都合の悪い「意思」は、削除されかねないということである。」83P・・・32PのFGCにリンク
(条約関係文書の)「意思決定能力不足が法的能力の否定を正当化するものとして利用されてはならない。」としているのに対して、大阪の「意思決定支援……」は「意思決定能力」の有無を根幹にしている点も、大きな違いである。」83P・・・「能力」ということでの常道的分断、パーソン論批判の観点からのとらえ返しの必要も
「条約が重視しているのは、関係性における「支援」であって「意思」ではないと個人的には解釈する。/そして、成年後見制度も、法人後見も、残念ながら条約とは、目指す方向が違っていると受け止めざるを得ない。」83P
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インターチェンジ 交差点
行政の窓口 地域共生社会への取り組み――子ども生活・学習支援の現場から 千野慎一郎
切り抜きだけ。「制度は柔軟性に乏しく、物質的な給付のみでは様々なニーズに対応がで
きず、「制度の限界」「制度の狭間」が 顕在化しました。」・・・わたしは柔軟性の問題ではなく、むしろ福祉の根本理念に問題があるのではと思います。現場で、当事者の立場に立って活動しているひとと、国の「恩恵としての福祉」路線と衝突していくのです。
教室の中で ともに過ごす子どもたち  川口久雄
「バギーで過ごすAさんを迎えての初めての運動会。対応のコントロールが一番の課題で
したが、・・・・・・」86Pに始まる共に学び、育つ教育の実践の記録です。
街に生きて 自分の未来を切り拓く  山口和俊
 自営業の両親のもとで、「先天的プレクチン欠損症という障害により、表皮水疱諸と筋ジストロフィという二つの障害をもって生まれました。」88Pとあります。で、ビアカウンセリングに参加し、あちこち動き回り、自立生活に踏み込み、自ら自立生活センターをたちあげ、「障害者のエンパワーメントに基づく自立支援を中心に権利擁護、社会啓発のための講演など、いろいろな活動を行っています。どんなに重度の障害があっても、他人の助けを借りながら、「自立」して暮らせる社会は、誰にとっても安心して生きられる社会だと信じて、これからも、長崎から全国へ発信していきます。」89Pと文を結んでいますー
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障害学の世界から 第八十四回  長瀬 修
障害者権利条約の日本への事前質問事項――国際的な人権の取り組みの役割
「障害者権利委員会は、日本政府に対する事前質問事項を9月末にスイスのジュネーブで  採択した。」「本稿では、日本フォーラム(JDF)の一員としてブリーフィング・ロビーイングに携わった経験をもとに、国際的な人権の取り組みの役割について考えたい。」90Pとして提起されている連載文です。切り抜きを少し。
「事前質問事項を見る限り、災害と情報アクセスの問題を委員会は最重要視している。/しかし、他にも深刻な課題はある。例えば、分離された環境で学ぶ子どもたちが激増しているにもかかわらず、教育(第二十四条)に関する質問が三つしかないことは、私たち日本の市民社会の情報提供の努力が足りなかったことを如実に示している。」91P
 そして、アジアの国にはパラレルレポートの提出が困難な国があることを示しつつ、最後に「事前質問事項の採択を含め、障害者権利条約の審査過程は、こうした他国の人権の現実に接する機会でもある。障害分野も含め、日本の人権について課題が多いことを私たちはよく知っている。だからこそ障害者権利条約の実現を目指す際には、自国での人権の取り組みの延長線上として、他国の人権の状況にも関心をもち、可能な限り関与を続けたい。」91P・・・そもそも権利条約は、障害規定もきちんとなされないままに案が作られ、そして締結された条約で、いまだに障害の規定もきちんと整理されていません。それは、ひとつには、今の社会のしくみからする世界観を問題にせざるを得ないからです。社会の変革のなかで、そこへ向かう運動の中で、障害問題のパラダイム転換の中で、障害問題を真に解決し得る運動の方向性を示していく必要があるのではとも思っています。
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障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十六回  中西由起子
権利条約の政府報告J 第三十二条 国際協力
 これも連載文。「国際協力は特別な義務とされ、途上国にとっては支援の授与が第一義であるが、アジアの成長に伴い途上国間の協力も多く報告されている。いくつかの特徴的な活動をまとめてみる。」92Pとして書かれています
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季節風 
「舩後、木村両議員の国会における合理的配慮について」堀利和
 堀さんはかつて参議院議員でした。その立場から、先の参議院選挙で当選した、「れいわ新撰組」の木村、舩後さんの議員活動の課題をあげてくれています。
 さて、堀さんは課題を二つあげています。ひとつは、国会の中での介護保障の問題と、もうひとつは、時間的保障の問題です。前者に関して、二人の議員からは「重度訪問介護」を使わせるようにと提起していたのですが(これにはわたしも違和を感じていたのですがまとめきれないでいました)、堀さんは自分の議員としての経験から、国会の枠組みの中で今回特別に認めさせたことを、特別ということでなく、必要なひとには認めさせるということを提起しています。「労働者としての私と生活者としての私とでは、同じ「私」でも、明らかに立場は異なる。福祉と雇用の切れ目のない政策とはこのように継続した政策体系を構築することであると言える。以上のように財源をどこからひっぱってくるかかがきわめて重要なことである。」「結論としては、労働政策としての制度が未だ充分用意されていない現状を踏まえ、二人の議員の「介助」問題はすぐれて大きな問題となった。それを今後どう活かすかが問われている。」95Pとしています。・・・現実的問題としてはそうなるし、議員の活動での課題として、仕事で介助を無償でつけて仕事ができるような制度を作るということになるのだと思います。だが、そもそも障害問題のみならず、差別ということを考えるとき、どうして個人の生きる営為が、「個人的営為」と家事と労働に分けられ、労働第一主義的になっていくのかという今の社会のしくみ自体をとらええ返し批判していく必要があるとも言いえます。
 後者の時間問題ですが、そもそも今の議会主義的民主主義が死に体ともいうべき状態になっているのは、時間的制約で、時間が過ぎたら強行採決でおしまい、ということで、形式主義的に時間が過ぎるのを待つというようになっていてしか、質問にちゃんと答えないで、自分の好きなことをしゃべるという情況なっていることをおさえねばなりません。それでも、著者がいうように「合理的配慮」という文言が法律に入り(この言葉自体にも、理念のようなことにもわたしは批判があるのですが)、そのことを使っていくということで、「たとえば、視覚障害者にあっては、四〇年余り前から公務員採用や大学受験では試験時間が通常の一・五倍の延長が認められている。」97P。過去の運動と実例を使って、少しでも「必要に応じてとる」というところに持って行く必要があると言いえます。それがとりわけ、舩後さんの大きな課題としてあるのではとも思えます。
「第十九回障害児を普通学校へ全国連絡会 全国交流集会 inちば――「あたりまえにみんなのなかで〜勝手にきめないで、自分のことは自分で決めるから〜」橋本智子
 タイトルにあるように、全国連の報告文です。キャッチフレーズ的に印象に残ったことを抜き書きしておきます。
 熊谷晋一郎さんの講演の話が出ています。「熊谷さんは「意思決定支援」についても、@情報へのアクセス保障、A情報の知識化(情報を集めて、わかりやすく、検索しやすく整理する)、Bロールモデルと出会う機会の保障、Cお試し機会の保障、D本人の歴史やパターンをよく知る人が周りにいること、E依存先の分散、の六つの柱を中心にわかりやすく話してくださいました。」98P・・・わたしは特にBを中心に中身ということをきちんと押さえる必要があると思います。今のこの社会で、障害差別の根拠となる競争原理に乗って、この社会で成功するロールモデルということと、競争原理を批判する「障害者運動」主体として定立するロールモデルははっきり違うからです。「情報」ということの中身自体が問題になっていくのですー
「「いまいるここを、いいところに」「よけた石は子どもにあたる」。千葉の「会」で開催している就学相談会で参加者に伝えている言葉です。」「「何かをちゃんとできるから自立生活」ではなく、「何々が出来るようになったら何をしてみる」ではなく、全てが実践との考えだった。」99P・・・実践のなかでつかんだ言葉は響きますー
「地元に仲間がいなくても他地域の仲間に呼びかけ一緒に活動し、また、相談会や勉強会を開催して新たな仲間とつながることもできます。そして仲間と一緒に壁を越え道を切り開けば、後に続く人はより容易に壁を越え道を通ることができるようになっていきます。/障害の種類や程度に関係なく共に学び育つことが「あたりまえ」になるために今後も各地の仲間がつながり情報交換をして、一緒に声を上げ活動を続けていきましょう。」100P
「働きたくても働ける環境にない、全ての人へ――シゴトシンク北海道の取り組み」
清野侑亮
 障害問題に限定しないで、「働きたくても働く環境にない」ひとたちへの起業的新しい取り組みの話、とても刺激的な取り組みです。
 印象に残ることを切り抜きメモとして残します。
「市の指導監査課から来た連絡は「もしも障害者のための事業費で障害者ではない人の支援をしているのならば認められない」という信じ難い内容でした。見当違いな指摘をされたことに愕然としたものです。ですが、これがきっかけとなり市長と会って話すことで、シゴトバンクは正式に函館市の生活困窮者自立支援法における中間的就労の認定団体になることができました。」101P・・・「災い転じて福となる」「瓢箪から駒」のような話――実践の持つ意味、障害概念のとらえ返し
「生徒さんたちは、卒業を迎えるその日まで様々な手厚い支援を受けます。しかし、それでも就労へのモチベーションの上がらない生徒さんが存在している理由に、私たちは一つの仮説を立てました。それは「学校のカリキュラムでは、働いてお金を得る実感を得られていないから」というものです。」102P・・・お金を介さないでも、仕事の魅力で意欲は湧くのでは? 
「ともすれば「福祉的支援」と「お金」はどこかでつなげにくい雰囲気があるように感じます。ですが、お金が生きるために必要不可欠なものであることに変わりはありません。適切な働き方で対価を得るという体験を学生のうちに蓄積していただく機会の提供を、今後も発展させていきたいと考えています。」102P・・・必要なのは生活物資で、お金ではありません。お金が必要なのは、生活物資を手に入れるためにお金を必要とする社会のしくみゆえです。お金で関係がねじまがって行く経験をしていないのでしょうか?
「現在シゴトバンク北海道では就労支援型B型、就労困難者支援事業、児童自立援助ホーム、地域活動支援センターの四事業で活動しています。」102P
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車椅子で宇宙(うみ)をわたる(第二回)  安積宇宙
ひとり旅――わたしはどこにでも行けるという実感
「四年前から、ニュージーランドの大学でソーシャルワーカーになるべく学んでいる」著者が「卒業旅行のようなものだ」というアメリカへの旅行をした経験を綴った文です。
「子どもは親の背中をみて育つ」というのですが、それだけでなく、「わたしはどこにでも行ける」ということを、母親の遊歩さんを見て、実際にそれを自ら実践していく様子、アメリカへの旅行などを通じて学んでいくようすがとらえられます。「障害者」の未来を実践から切り拓いていく可能性を秘めた若いひとの存在をここに見ることができます。
 これも切り抜きメモをー
「そんなわけで、私の最初のひとり旅は、無事終わりを迎えるまでに一悶着あった。けれど、ひとりでも周りに人がいてくれれば、どこまでも行けるとわかった、とても貴重な体験だった。」「そして、アメリカの空港のカウンターにいたスタッフさんのように、横柄な態度をとってくるような人もいた。でも、それに対して小さくならず、「私はこうしたいん
だ!」と主張、交渉し、周りの人の手を借りることができれば、道が開けるということも学んだ。」109P
誰もが性的人間として生きる(第一回)  河東田博
知的障害者のある人の性への社会的圧力
 新しく始まった連載です。研究者としての「最後の仕事」に著者はこのテーマを選んだようです。ノーマライゼーションの理念として、「障害者」も非「障害者」と同じように生活するというテーマがあり、そのひとつに、性があります。優生手術がその極としてあるのでしょうが、先日国会で、自民党の女性議員が、夫婦別姓問題を提起している議員に「だったら、結婚しなくていい」とかヤジを飛ばしました。自民党のみならず、右翼的保守のひとたちが、性教育を進める「養護学校」に圧力をかけたとかいうこともありました(七生養護学校)。わたしとしては、むしろ差別的にならないようにと理念的にフェミニズムの学習をかさねてきたのですが、実践的にひいてしまった負の歴史をもつ立場のわたしとしては、その総括の問題があるのですが、・・・。
 連載なので最後にまとめたいと思いますが、これも印象に残ることの切り抜きメモを残します。
「キャリア人生「最後の仕事」として選びたいと思ったのが、長い間疎かにしてきた「知的障害者のある人たちの性」の問題だった。」110P
「わが国の知的障害のある人たちの性をめぐる問題と照らし合わせながら、「誰もが性的人間として生きる」と題して本連載を書き進めていきたいと思う。」111P
「シリーズ第一回目の今回は、知的障害のある人たちの性が如何に抑圧され、性を語ることさえ認められず、性的人間として生きることも認められないできたかを中心に記していくことにする。」111P
「しかし、知的障害のあるひとたちの性の問題は、いまに始まったことではなく、長い歴史的・社会的営みのなかで、特に意識的に時に無意識的に、社会によってつくり出されてきた差別的事象なのである。そこで、過去から現在に至るまで、どのように知的障害のある人たちの性が差別の対象とされてきたのかを見ていくことにする。」111P
「福祉国家を目指すスウェーデンでも、福祉国家建設に支障があると思われた障害のある人たちに「性的人間として生きる」ことを認めず、奪い去ってしまう法律を制定する動きを始めた。一九四一年制定の「生物学的に劣った人々の不妊・断種を認める法律」がそれである。その結果、この法律は一九七五年の「婚姻法」施行とともに廃止されたものの、一九三五年から一九七六年にかけ、六万二千人(推定)もの人たちに不妊・断種手術が行われていたという。一九九七年九月二日付の読売新聞では、一九〇七〜一九六〇年代のアメリカで六万人(推定)一九二九〜一九六七年のデンマークで一万一千人(推定)、一九三四〜一九七六年のノルウェーで二千〜一万五千人(推定)、一九三五〜一九七〇年のフィンランドで一万一千人(推定)もの障害のある人たちが強制的に不妊・断種手術を受けさせられていたことが報道されていた。いずれも福祉先進国でなされていた忌まわしい所業である。」112P
「歴史的・社会的経過のなかで意図的につくられていった知的障害のある人たちの性に対する偏見や社会的排除は、概ね次のような理由からだった。//・知的障害のある人たちは、身体が成長しても性的には成熟しない。/・もし仮に、性的に成熟しても、彼らには、性的成熟を統御できる力がない(または、弱い)。/・彼らには、結婚生活を維持する能力がない。/・彼らには、子どもを育てる能力がない。/・彼らに性の知識を与えると、性の加害者になるのではないか。」113P
「子宮摘出手術を正当化する医師や関係者・親・時に障害のある人たち自身の発言(仮に一部であっても)には、今日もまだ消えることなく残り続けている障害者排除の考え(社会的迷惑・病害論)、当事者主体を忘れた支援者中心の福祉(支援)のあり方、誤った解釈(代弁者中心)のインフォームド・コンセント、障害のある人たちが性的人間として生きることを妨げる社会的風潮と選択権・自己決定権の無視など、実に多くの問題が存在していたことを物語っている。」「このような私たちがもっている無意識の差別意識は、知的障害のない人の無知や偏見に起因することが多く、歴史的・社会的に犯してきた過ちであった。」113P・・・社会構造に根ざした差別の問題のとらえ返しも
「ノーマライゼーション原理は、誰もが性的人間として生きることを妨げられない社会理念だったのである。」115P
「例えば、一九七七年になされた大井―室橋論争が良い例である。これは、元特別支援学校(養護学校)長の室橋正明が知的障害のある人の結婚の四条件(@経済生活が確立されているかどうかA生活処理能力B性の問題C出産・育児の能力)を提示したのに対して、元東京学芸大学教授の大井清吉が新たな結婚の四条件(@精一杯働くことA社会的手だてによる援助B性教育と自然な感情の成長C妊娠中の配慮と子どもをもつことによる飛躍的成長発展への援助)を示したことを指している。今日では大井の考えに沿って社会的支援がなされるようになってきているが、周囲の無理解からいまなお深い闇のなかに置き去りにされている知的障害のある人もいる。」115P・・・そもそも「条件」などという議論のおかしさ
「(メディアから性的情報が流れてきているのに)一方親や関係者は、相変わらず過保護・心配性・過干渉で、リスクを冒す尊厳を妨げ、情報を遮断し、無知を再生産する役を担い続けている。何も伝えず無知のまま放置しておくが故に、理想と現実のギャップの中で様々な不安・悩み・葛藤を抱え、ますます情報処理ができなくなり、無知を再生産し、ゆがんだ性的人間像をつくりあげていってしまっているのが実態である。私たち支援者もコミュニケーションの仕方や人間関係のあり方を学ぶ機会が十分にできないまま知的障害のある人たちと接しているのが実態なのではないだろうか。」117P・・・「知的障害者」の問題を論じているのに、「無知」という言葉を使うこと自体のおかしさ、「「何にも染まらない状態」を設定している」ということの批判なのでしょうが。
「知的障害のある人たちの性に関する事柄は全ての人に関係する重要な問題であるにもかかわらず、偏見や誤解または情報不足から、これまであまり問題にされてこなかった。むしろ、無視され、時として迫害されてきた。しかし、時代は大きく変わってきた。知的障害のある人たちに対する否定的なものの考え方や性に対する物理的・心理的障壁と偏見や誤解を取り除き、性や結婚の権利を獲得していくことが早急に求められているのである。」118P
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「現場からのレポート」
● 公立福生病院透析中止事件と医療の変質──提訴についての弁護団の見解
冠木克彦(弁護団長)
 昨年八月に起きた「公立福生病院事件」のまもなく始まる裁判の弁護団長の著者の案内・解説の文です。わたしには「障害者関係裁判」支援のトラウマのようなことがあり、今ひとつきちんとかめていないのですが、それでもいろんな関わりからこの事件の集会などに何度か参加しているので、大体把握していた内容なのですが、カルテに関することがくわしく書かれていることが参考になりました。これは、医療が「死へ誘う医療」として出て来た「医療の荒廃」のようなこととして、母の介護の経験ともリンクして、とらえ返そうそうとしています。そしてわたしの中にいろいろ情報がすでに入っていて、メモが備忘録的性格としては、新しい情報に偏りそうなので、切り抜きメモを出すのは止めます。貴重な文なので、本文にあたってください。なお、この「通信」の巻頭言にリンクしています。一度、この事件については、わたしなりのまとめの文を書こうと思っているのですが、・・・。
● 事前質問事項採決に向けた国連障害者権利委員へのブリーフィングを経験して
曽田夏記
 これは、この号の長瀬さんの文とリンクしています。国連障害者権利委員会へのブリーフィングの体験記録です。ひとつ押さえておかねばならないことは、政府は人権に関する国連からの勧告をことごとく無視続けているということです。ですから、これは著者も書いていますが、国内でのその無視続ける政府への批判とリンクさせなければ、現実的な改革は不可能ということがあります。ですが、このブリーフィングに参加しているひとたちにとって、他の「障害者」の抱えている、抱えさせられている問題を学ぶ(著者には以前カナダ政府の審査をジュネーブで初傍聴して、そのときの感激の体験もあったようです)、また相手(委員)が何を考えているのかをとらえ働きかけるその手法を学ぶという意味があるようなのです。このあたりはわたしは論破型の対話に偏重していたことで、このひとたちの説得型の対話ということの意味ということを、この文から考えさせられました。わたしはそもそも障害と言う概念自体、ことば自体も様々なのに、「ワンチーム」と言っても、こちら側がまとまっているとはとても言えない情況で、どう相手を説得できるのか、そもそも説得する内容は何なのか、そのあたりの詰めが当然必要になっていると思うのです。繰り返し書きますが、障害ということの規定さえきちんとできていない情況をなんとかしなくてはとわたしは思っています。
 後は切り抜きメモを残しておきます。
「二〇一九年九月二十五日、ジュネーブでの会期前作業部会第十二会期において、日本政府に対する事前質問事項(List of Issues)が採択された。採択に先立ち、日本から障害者団体をはじめとする六つの団体が本会期に参加し、障害者権利委員へのブリーフィングを行った。筆者はDPI会議特別常任委員として、JDF(日本障害フォーラム)によるパラレルレポート作成に約二年間関わってきた。本稿では、@現地におけるブリーフィングの模様、Aブリーフィングが果たした役割と今後の課題について述べる。」「事前質問事項採択に向けた現地でのブリーフィングは、大別すると以下の二つであった。一つは、会期前作業部会のプログラムとして実施された、日本の市民社会から権利委員会へのブリーフィング。もう一つは、上記のいわば「正式」なブリーフィング時間外に各団体が個別に権利委員にアポイントをとって実施した個別ブリーフィングである。なお、今会期に参加し日本の事前質問事項採択に関わった権利委員は全六名であった。」131P
「日本という国の行政単位や精細な法制度にはじめて触れる権利委員にとって、レポートを読んだだけ、また一往復程度の質疑応答では、なかなか「本条項における日本の一番の課題は何か」「その課題を解決するためには、どのような勧告を出すべきか」「逆算して、(今回は)事前質問事項で何を聞くべきか」というところまで理解することは至難の業だろう。その意味でも、回答する障害者団体には、権利条約が求める内容や他国の法制度と比較し、日本の制度のどこを変えることが必要か、そのためにはどうすればよいか、を端的に回答する力が求められていると感じた。」132P
「ブリーフィングの直接的な役割は、良い事前質問事項・勧告を引き出すことだろう。ただし、より大切なことは、ブリーフィングの結果どんな勧告になったかではなく、その勧告を携えて具体的な制度改革につなげていけるかだと思う。」「市民社会によるインプットと権利委員会によるアウトプットは、必ずしも直接的な相関関係がある訳でもないと感じた。それは、権利委員会が短期間で全く未知の国の課題を的確に把握する作業の限界なのかもしれない。」134P
「市民社会によるブリーフィングは、一時期のイベントではなく、未来を見つめたプロセスである。「各国語の」のステージの運動も見据えて、私たちは二〇二〇年夏の「審査(建設的対話)に向けたブリーフィングの準備をしなければならないだろう。」135P
● 入所施設からの外出の現状――養護施設自治会ネットワークの外出アンケートから
松浦武夫
 そもそも外出以前に、政府も「地域で生きる」という方針を出しているのにどうして施設が増え続けているかの問題があるのですが、そのあたりは、外出しようという気持ち自体が、施設の中で生活するということのなかで削がれていくということがあると、思えるのです。だから、制度の問題として外出をきちんと要求できる制度を作るという意味はあるにせよ、そもそも施設が何をもたらすのかという分析が必要なのだと思います。著者も少しそのようなことは書いているのですが、まあ、施設の職員の立場から、みずからの存在自体を否定する内容を出すのは難しいとは思うのですが。
投稿
●フランコ・バザーリア/大内紀彦・鈴木鉄忠訳「バザーリア講演録」より「健康と労働」
 バザーリアはイタリアの精神病院解体の運動を進めたということで有名なひとです。これは、バザーリアがブラジル各地を講演して回った記録で、本(邦訳『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!――イタリア精神保健ことはじめ』)になっているところから外したものを掲載した原稿です。この講演はブラジルの労働組合の招請で、テーマが「健康と労働」となったようです。バザーリアは、まもなく亡くなっているので、「遺言」的な内容にもなっているとのことです。切り抜きメモを残します。
「まずはっきりさせておきたいのは、私は労働組合員ではなく、医師だということです。医師が仕事をしているのは分業体制を基本とする社会です。その社会では、分業が働き手の労働条件を理解するための重要な要素になっています。このことが、専門技術者を単なる技術者としてだけでなく、政治的な立場におくことにもなります。」143-4P――「専門技術者」に訳注「バザーリアは、専門的知識を備えたという側面と、社会に生きる一人の人間として、政治的な社会参加(「アンガージュマン」というルビ)を果たすべき存在という二つの側面から、医師などの「専門技術者」の役割について論じている。さらに、例えば医師が、薬の処方という専門技能を要する行為を通じて、結果的に不平等な社会秩序の維持に加担しうることに、バザーリアは警鐘を鳴らしている。」154P
「マニコミオで働く医師であり、精神科医でもある身として、私は患者たちの誰もが労働者であり、彼らは例外なく貧しいということを知っています。」144P――「マニコミオ」に訳注「「マニコミオ」は、「精神病院」を意味するイタリア語の俗語表現で、軽蔑的なニュアンスを含む。バザーリアは、精神病院が「治療の場」ではなく、入院患者の自由を奪う「施設化の場」であると考え、この表現をしばしば用いた。」154P
「患者たちの誰もが貧しく、彼らは病院という施設によって破壊されていますが、こうした事実について考えてみる必要はないのだろうか。こう問いかけてみると、医師はとたんに権力の問題に向き合わされることになります。しかし、こうした立場を誰もが受け容れているわけではありません。実際のところ、多くの専門技術者たちは、専門家として役割をこなしているだけで、それ以上のことを行っていません。」144P・・・専門性をもった自己の抑圧性の自覚
「この問題は、専門技術者にとってだけでなく、政治家や労働組合員にとってもいっそう深刻です。一般的に言って、政治家や労働組合員たちは、福祉の問題と労働の問題の関連を理解していません。・・・・・・なぜなら政治家にとって、福祉と政治の問題がどう関連しているか理解することは、とても困難だからです。」144P
「健康に関する問題は、労働組合と政党とは別の分野の運動の後押しがあったおかげで、明るみに出されたのです。こうしたうちの一つが、精神医療の領域に押し寄せてきた運動でした。/精神医療の施設や制度を変えるために、私たちは実践的な活動を展開してきました。やがて、この活動は重要な役割を担うようになりました。左翼政党と労働組合が、福祉という課題に責任をもつように、イタリア国内に刺激を与えたのです。/こうした活動は、根本的な考え方についての理解を促しました。それは、社会生活のありとあらゆるものが、分業によって決定されており、こうすることで権力は、私たちを巧みに奴隷化し続けているというものでした。[病院などの]施設や制度が機能しているメカニズムを検討してみると、私たちは分業体制を無批判に受け容れ、それに従いがちであることがわかります。だからこそ、私たちはこのメカニズムを自覚し、それを分析し理解する必要があるのです。」145P
「病人を抑圧して破壊していくマニコミオの論理を拒絶すれば、私たちは病人の暮らしの条件を変え、彼らに対して当たり前の生活環境を提供できるようになります。」146P
「この意味では、私たち医師は、病人にとっての「労働組合員」にあたるでしょう。」146P
「専門技術と政治といった分業体制を超えたころに、医師の仕事はあるのです。/このことを理解してはじめて、政治組織と労働組合との関係や、こうした組織の一員である人びととの関係変わっていきます。」147P
「私たちはいかなる革命も望んでいません。望んでいるのは、私たちを取り巻く関係性を抜本から変えることなのです。私が「私たち」と口にするときには、すべての仲間たちと労働組合員のことを言っているのであって、権力闘争を始めようとする専門技術者や労働者のことを言っているのではありません。」147P・・・バザーリアの政治革命批判、ただし抜本的変革は革命、イタリアの構造改革的革命論?
「ある意味では、わたしたちはマニコミオと同じような社会で生活していて、そのなかで自由を求めて闘う被収容者であると言えるかもしれません。それでも私たちは、救世主に望みを託すことはできません。救世主に頼るということは、私たちがまたしても囚われの身になることであり、抑圧されたままでいることだからです。それは、労働組合の指導部に労働者の解放を期待することなどできないという、労働者の辿った歴史と同じことなのです。戦いを続け、労働組合の幹部たちに、自分自身を解放させるための材料を与えなければならないのは、労働者本人です。」148P
「そして自分たちが何をしなければならないのかを、私たちは他の人たちと一緒に理解していかなければなりません。いかなる方法でも、他の人たちを管理・指導する必要などありません。もしそうなってしまえば、私たち自身が、新たな支配者になってしまうからです。」148P
「私の理解では、ブラジルでは精神病が大きなビジネスになっています。狂人たちを食い物にして生計をたてているプライベートの診療所があります。」149P――「狂人たち」に訳注「「狂人(「マット」のルビ)という表現は、理性的な判断ができない者を指す言葉として、本来は強い否定的意味合いをもつ。しかし、理性と狂気を合わせ持った存在が人間であり、両者を分離することはできないという考えのもと、バザーリアは狂人(「マット」のルビ)ということばを好んでも用いていた。」154P
「イタリアでは「施設の」改革は、「社会構造の」改革なしに、成し遂げられました。これは、私たちが「反施設化の」と名づけたものですが、「上部構造の」闘争とも言えるような、私たちの戦いの独自性だと思います。つまり、卵が先か、鶏が先かという問題です。」150P
「若者たちのために、そして私たち自身のために、新しい生き方を私たちが創造しなければならないのは明らかです。」152P
「ともかく、いつでも批判できる可能性が残されているかぎり、私は社会主義国の側に立つと言い続けたいと思います。」153P・・・「社会主義国」など存在しなかったし、自称「社会主義国」には「批判できる可能性」もなかった。
「社会主義の国々にも狂気は存在します。なぜなら狂気は、人間の条件だからです。理性が存在するのと同じように、「非理性」も存在するのです。狂気と闘うためのもっとも大切な治療法の一つは、もちろん自由であることです。」「家を一歩出てみると、私たちは、あちこちで家をもたない人びとに出くわします。社会の周辺(「マージナル」のルビ)に追いやられた人びとです。現在では日常のなかに狂気が存在しています。」153P
「私は共産主義者ですが、自己批判を行う共産主義者です。」153P・・・前衛の無謬性の論理にとらわれて自己批判をしない、「共産主義」の名に値しない。「共産主義者」や党が存在しています。
●八木智大「軽度障害「吃音」がつなぐマジョリティとマイノリティ」
 わたしと当事者性を同じくするひとの文です。「吃音者」の団体には、わたしがほとんど幽霊会員になっている言友会という団体があるのですが、かつて、そこで、「吃音者宣言」という文を出しました。何度もこの文については、コメントしてきたのですが、結局、この文を出した主旨は、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうーということだったのだと思っています。で、この「宣言」の一応の主導的推進者だった、この文の中にも出てくる伊藤伸二さんは、「吃音を治す」というところから、「吃音に対する気持ちの持ち方を変える」ということに換えただけで、結局そのために「○○療法」なり、いろんなアイデアを次から次に出していくということにとどまっているのです。結局、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうー」ということを別パターンで繰り返しているのに過ぎないのです。
 そのようなことも含めて、わたしの「吃音」に関する基調的な文は
   http://taica.info/ststpnote-3.pdf
 そして、「吃音」に関するいろんな文、今整理中なのですが、とりあえず、旧全言連事務局に宛てた一連の文(というより伊藤伸二さんに宛てた文)は、
   http://taica.info/ark.html
こんなことを書きながら、そもそもわたしがきちんと伝わるような文を書けていないし、また、ひとは論理的なところから、転換していくわけではないという意味において、結局同じような試行錯誤を繰り返していくしかないのかなとも、思ったりしています。
そういう意味で、この文はその試行錯誤の体験を綴った貴重な資料なのかもしれません。
 気になることをいくつか書き置きます。「軽度障害者」ということを書かれていますが、コミュニケーション障害というのは、決して軽くはないのです。いわゆる「重度障害者」は、開き直りを習得しますが、「軽度障害者」はそれがなかなかできません。だから葛藤に陥ります。その深刻さがあります。それは決して軽くはないのです。それは、言友会の中でも、「吃音が重いひとより、軽いひとの方が大変な面もあるのよね」とか語られていたことです。
もうひとつ、「マジョリティとマイノリティをつなぐ」という言葉が出ていますが、これは「吃音者」は「障害者」と「健常者」のどっちつかずの立場というようなことで、そんなことを言っている、「吃音者」で「障害者」団体の地域の会長をやっているひとがいました。「吃音者」は明らかに「障害者」差別を受けると言う意味で「障害者」です。そのようなあいまいな思いを持ってしまうひとたちを研究した「マージナル・パーソン」研究ということがあります。そのようなことを考えながら、きちんと「障害者」の立場に立った運動を進めていく必要を、この文を読みながら改めて強く思いました。
当事者仲間で、若いひとに期待しつつ、切り抜きメモは余計なことを書いてしまいそうで書くのは止めました。
編集後記
単独で編集を始めてから、二回目の編集後記でしたか、編集が替われば雑誌が替わると
いうことがあり、長く編集者を務めていた小林律子さんの退任で、一抹の不安も読者とし
て持っていたのですが、新しい編集者も少しずつ自分の味を出してきているようです。小
林さんも参議院議員の舩後さんの秘書になったようだし、何か、「人間万事塞翁が馬」のこ
とわざのように進んでいるようです。


posted by たわし at 06:04| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月04日

レーニン「国家と革命」

たわしの読書メモ・・ブログ526
・レーニン「国家と革命」(『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
 この本は確か岩波文庫で読んでいた本(国民文庫だったかもしれません)。実はわたしが、「マルクス主義」関係で一番最初に読んだ本です。大学で学費値上げ阻止闘争があり、クラス討論に参加していた関係で、学生自治会と接触があり、その自治会メンバーから勧められた本です。すぐに、そのグループとは距離を置き、三浦つとむの『レーニンから疑え』とかの学習会に参加していました。で、レーニンに懐疑的な思いを抱き続けていたのですが、レーニン批判から「マルクス・レーニン主義」批判をしていく必要にせまられ、前回の第二次レーニン学習をしました。今回、前回メモに続いてレーニン第三次学習です。
 さて、レーニンの本を読んでいると、「ミイラ取りがミイラになる」ということに陥るような感覚にとらわれる思いも出てくるのです。レーニンは論争のひとで、現実的運動の中出の運動をもっと直裁にいえば革命をどう進めるかというところで、さまざまな的論争をし、学習も積み重ねたひとで、その論の鋭さは論敵にされたひとがたじろいでいく様が思い浮かぶようです。
 さて、この本は主要に二つの論点がでて来ます。それはマルクス/エンゲルスのアナーキストとの論争のなかでの国家を巡る論攷を踏まえて、国家の廃絶か国家の死滅かということ。とりわけ、「それまでの官僚組織をそのまま利用することはできない」ということを巡る議論。そして、プロレタリア独裁論です。
 レーニン批判は、マルクス/エンゲルスの文献的とらえ返しの中で、レーニンが読めていなかったところのマルクスの論攷からレーニン批判がいくつか出ています。ひとつは、レーニン国家論は国家とは官僚機構と軍・警察機構であるということなのですが、レーニンは『ドイツイデオロギー』を読めていず、マルクス/エンゲルスの国家=共同幻想というとらえ返しをしていることを知らなかったという批判があります。そのあたりを検証してみます。マルクス/エンゲルスが「まさしく特殊的利害と共同的利害のとのこの矛盾から、共同的利害は国家として、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる。」67P←ここにエンゲルスの書き込み「そして、同時に幻想的な共同性として」68P、「国家の内部における一切の闘争は、さまざまな階級間の現実的な闘争がそういう形態をとって行われるところの幻想的な諸形態にすぎない。」68P ←ここにエンゲルスの書き込み「そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ」69P、「従来の共同社会の代用物――国家その他――においては、人格的自由は、支配階級の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。これまで諸個人がそこへと結合した見掛け上の共同社会は、常に諸個人に対して自立化した。同時にまたそれは一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会であったばかりか、新たな桎梏でもあった。現実的な共同社会においては、諸個人は彼らの連合(アソツイアツイオーンのルビ)において、かつ連合によって、同時に彼らの自由を手に入れる。」175P(マルクス/エンゲルス(廣松渉訳/小林昌人補訳)『ドイツ・イデオロギー 新編輯版』2002岩波文庫、引用文は完成体で、実際は、書き込み、校正前の原稿、二人の書き込みの区別までしています。ちなみに廣松渉訳以前の岩波文庫の古在由重訳では、順に44P、114P、古在訳では、「共同社会」は「共同体」、こちらが古いので「国家=幻想共同体論」という言い方が流布しています。このあたりは廣松さんは物象化ということを問題にしているので「共同体」という物象化された表現の訳をもちいていないのではとわたしは考えています。ただし、物象化されたものとしてあらわれると言う意味では「共同体」という言い方もありなのかもしれませんが。レーニンは軍事的に反革命にどう対峙するのかというところも含んで武装蜂起論を立てているのですが、そのあたりは日常的な生活の中で資本主義的なイデオロギーにとらわれていくことをどうするのか、そして更に、民族という共同幻想(物象化)をその基礎をつくる土台から押さえたところの国家論をどうするのかという問題があります。国家という概念からいかに脱していくのかという反国家主義の問題も出てくるのです。
もうひとつは、発展史観といわれていることで、レーニンはこの本の中でも、共産主義は資本主義の後にくるものだというとらえ返しをしているのですが、マルクスは「資本論草稿」を書く中で、その中にも一部出てくるのですが、古代社会ノートとかアジア的生産様式論の研究をしながら、共産主義的なことを過去の歴史の中に探し出す作業をしていました。単線的発展史観の批判も出て来ているのです。
 さらに、レーニン時代は「資本主義的帝国主義」の時代で、植民地支配が世界を覆った時代だったのですが、今は、植民地が一応次から次に独立していき、グローバリゼーションが世界を覆った時代、それでも、国民国家が資本主義的支配のために民族排外主義を煽っていく時代、差別を資本主義の継続的本源的蓄積の中に組み込んでいる、その基礎にしている時代なのです。だから国家主義批判が、反差別論が必要になっている時代です。そこで、その国家という共同幻想を撃つことが必要になっているのだとも言いえます。レーニンの「国家と革命」は、国家権力の奪取ではなく粉砕の上で、それに代わる国家をうち立てるという論理なのですが、厳密に言うと、奪取する、即時的に粉砕なのです。奪取するだけなら、「それまでのできあいの官僚機構は廃棄する」というテーゼに反し、粉砕だけならアナーキズム批判ができなくなるのです。それにしても、なぜ、粉砕したことをなぜ、中味を変えるとしても新たにつくる必要があるのかという問題があります。そもそも国家に対置することとしてソヴィエトをつくったはずなのです。これがプロレタリア独裁の機関のはずだったのです。結局、ロシア革命はソヴィエトの機能を停止させました。それはレーニンの中央主権主義に合わないとしてだと思うのですが、それが党独裁につながり、結局中味が違うとしても、国家の建設というところに入っていけば、官僚的機構になっていきます。レーニンは、ブルジョア国家とは異なる「官僚」(官僚制とことなるプロ独的「官僚」)の原則を立てました。彼自身はその原則を守ろうとしていたようです。しかし、そもそもネップを導入し、資本主義経済の取り入れをすれば、ブルジョア的官僚制に収束していかざるをえなかったのではないでしょうか? それがスターリン的な官僚機構の水路になったのではないでしょうか?
 マルクスのプロ独論はスパンが短いものでした。そしてプロレタリア独裁国家という概念はなかったのではないでしょうか? レーニンは、かなり長い時間プロ独が必要だと押さえていたようです。もちろん、レーニンはスターリンとの明らかな違いとして、世界革命への連動として、国家が死滅していくには、世界革命が必要だとしていて、そもそも国家とは、他国との関係において国家としてあるのであって、一時的に一国的に定立して(レーニンは一国的なことをスターリンよりもはるかに短いスパンで考えていたようですが)いく必要を考えていたのかもしれません。
 ともかく、ロシア革命がねじ曲げたことの総括をどうするのかという問題が必要になっているのです。その総括を他の国でおきたことだとか、自分たちとは路線が違うといって総括をサボタージュして、綱領の中のことばを変えるだけでは、むしろ混迷を深めるだけなのです。
 さて、この本は未完の本なのです。続きのもくじが訳編集者によって上げられていますが、そこにはソヴィエトに関する論攷が含まれていたようです。この文が書かれたのは、まさに革命進行中の1917年の8月とき、これから蜂起に向かって多忙になる中で、続きは書かれなかったという注がついているのですが、ソヴィエトに対するレーニンの考えが変わるなかで、ソヴィエト自体が消滅し、続きは書かれなかったのではないかとわたしは押さえているのですが、何かレーニンの手紙なり、文が残っているのでしょうか? そこまでとても追えません。
 さて、この後、わたしのレーニン学習は哲学的論攷二冊に入っていきます。レーニンは、晩年のエンゲルスが「マルクス主義」のわかりやすい解説をしようと、図式化に陥り、「ヘーゲルへの先祖返り」に陥ったと批判されていて、その中で「対話による深化としての道行き」としての弁証法を、法則としての物象化に陥ってとらえ、弁証法の三法則とか出していて、それをレーニンも引き継いでいるのです。そのあたり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でとりあげているマッハ批判を書いていて、実は、わたしが哲学的にいろいろとりいれようとしている廣松渉さんが、マッハ哲学をニュートン力学から量子力学への架橋をしたひとりとして押さえていて、マッハの訳本に解説を書いています。そのあたりからのレーニンの哲学的なところへのとらえ返しもしてみたいと思っています。もう一冊は『哲学ノート』。
それから、差別の問題に関して、レーニンとローザ・ルクセンブルクの論争が有名で、これは一般的にはレーニンの民族自決権が正しいとレーニンに軍配が上がったとされているのですが、わたしはこの国家論なりレーニンの中央集権制なりから再度とらえ返しをしてみたいと思っています。そのためにローザ・ルクセンブルクの本に当たります。それから、コルシュや従属理論の積ん読している本を読み解いていきます。そこから、ドキュメント現代史で革命論の学習に戻ります。その間に障害問題の本やエコロジー関係の本を挟んでいきます。
さて、切り抜きを残しておきます。実は、この本は大切さを考えると、「レーニンノート」とか作り、そのなかで、この本の精細な切り抜きやコメントを書くことも考えたのですが、先を急ぎ時間がありません。簡単な切り抜きメモに留めます。
「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、そのあらわれなのだ。国家は、階級対立が客観的に和解しえなくなったとき、まさにその場所に、そのかぎりで、発生するのだ。逆に言えば、国家が存在しているということが、階級対立の非和解性の証明なのだ。」472P・・・非和解性は共同幻想によって粉飾されていて、民族差別による排外主義で、「国民統合」が図られるのですが、そのあたりの押さえがないのです。むしろレーニンも陥っている国家主義批判の必要性
「マルクスによれば、国家は階級の和解が可能ならば発生しえないものだし、もちこたえることもできないものなのだ。」「マルクスによれば、国家は階級支配の機関、一つの階級が他の階級を抑圧する機関、階級衝突を緩和しつつ階級抑圧を合法化し確固たるものにする「秩序」の創出そのものなのだ。」472P・・・国家の共同幻想的性格を押さえていません。「緩和」ということばにかろうじてそのニュアンスがあります。
「また、国家が社会の上にたち、「みずからをますます社会から疎外してゆく」権力であるとすれば、被抑圧階級の解放は暴力革命なしには不可能なばかりか、支配階級によってつくりだされ、そのなかにこの「疎外」を体現している国家権力機関をも廃絶することなしには不可能だという明白な点が、である。」473P・・・「上にたち」とは何を意味するのか?――「上部構造」?「支配する」という意味、後者ならば共同幻想的性格の欠落
「そして、あらゆる革命が、このような国家装置を破壊することによって、むきだしの階級闘争なるものをわれわれに見せてくれるのであり、支配階級がどんなに、自分に奉仕するように武装した人間の特殊部隊を復活しようと一所懸命になるものである。被抑圧階級がどんなに、搾取者にではなく被搾取者に特別奉仕するこの種の組織を新設しようと一所懸命になるものであるかを、まのあたりに示してくれるのである。」475-6P
「かくして、官吏の神聖不可侵をうたった特別法がいくつもつくりだされることになる。「最も下っぱの警察官」でさえ、クランの首長よりも高い「権威」をもっている。けれども、文明国家の軍司令官ですら、社会から「棒きれをふるって手に入れたわけではない尊敬」をかちえていたクランの長老を、うらやましく思わずにはいられまい。」477P
(エンゲルス)「しかし、例外的に、相闘う階級の力量が伯仲しているとき、国家権力は、一時的に、外見上の調停者となって、双方の階級に対し、ある程度の独立性をたもつ時期がある。」478P
「このように「富」の全能は、民主共和制のもとでいっそう確固たるものとなるのだ。」480P・・・「富」とはなにか? その「富」の共同幻想が国家の共同幻想の元になる。
「階級は、かつてその発生が不可避であったように、消滅もまた不可避となろう。この階級の消滅とともに、国家の消滅も不可避となろう。自由かつ平等な生産者の結合関係を基礎に新たに生産を組織する社会は、全国家機関を、そのばあい当然おかれるべき場所へ移しかえるであろう。すなわち、糸車や青銅の斧と並べて、考古博物館のなかへ。」481P
(エンゲルスの『反デューリング論』第三篇第二章からの長い引用の後)「このような目をみはるばかりに思想豊かなエンゲルスの考察のなかから、現代社会主義諸政党が社会主義思想の真の財産としてとりこんだものといえば、マルクスの国家は「死滅する」という点――無政府主義的な国家「廃止」説とは違う――だけに過ぎぬと断言できる。このようなマルクス主義の刈りこみは、マルクス主義を日和見主義へまでひきずりおろすことを意味する。なぜなら、このような刈り込み「解釈」をすればあとに残るものは、ただゆっくりとした起伏のない漸進的な変化、飛躍と激動の欠除、革命の脱落といった朦朧たる概念のみだからだ。世間一般に流布している、大衆的に――と言ってよければ――理解された国家の「死滅」節は、革命を否定しないまでも、革命をぼやかすことを意味していることは、疑問の余地がない。/この種の「解釈」は、ブルジョワジーにだけ有利な、粗雑きわまりないマルクス主義の歪曲であって、理論的に言えば、さきに全文を引用したエンゲルスの考察の「総括」において指摘されている、もっとも重要な事情や考慮を忘れさったことに由来するものなのだ。」483P――ここからその「総括」の内容が五点示されています――@「第一に、エンゲルスは、この考察の冒頭で、プロレタリアートは国家権力を掌握し、「それによって、国家としての国家を廃絶する」と述べている。」483P「ここでエンゲルスが語っているのは、じつは、プロレタリア革命によるブルジョワジーの国家の「廃絶」についてであって、「死滅」(Absterben)という言葉のほうは、社会主義革命後のプロレタリア国家組織の残存物に用いられているのである。エンゲルスによれば、ブルジョワ国家は「死滅」するのではなくて、革命のなかでプロレタリアートによって「廃絶される」のだ。一方、「死滅する」のは、この革命後のプロレタリア国家、あるいは半国家なのだ。」484PA「第二に、国家は「抑圧するための特殊な権力」だということである。」「ブルジョワジーがプロレタリアートを、つまり一握りの金持が数百万人の勤労者を「抑圧するための特殊な権力」に、プロレタリアートがブルジョワジーを「抑圧するための特殊な権力」がとってかわらなければならない[プロレタリアートの独裁]ということである。「国家としての国家の廃絶」とは、まさにこのことなのだ。」484PB「第三に、エンゲルスが国家の「死滅」と言ったり、その特徴をくっきりと浮かびあがらせて「眠りこみ」(Einschlafen)とさえ言っているのは、まったくの明白かつ正確に、「全社会の何おいて国家が生産手段を占取」してから後の時代、つまり社会主義革命後の時代についてなのである。/この時代の「国家」の政治形態こそ、最も完全な民主主義であることはだれでも知っている。・・・・・・このことが「わからない」者は、民主主義もまた国家であり、それゆえ国家が消滅するとき、民主主義もまた消滅するのだということを、ふかく考えてみたことのない人たちだけなのだ」484-5P・・・ここの民主主義は支配の一形態としての民主主義のこと、レーニンには区別がついているのだろうか? レーニンはプロレタリア国家(の暴力)による反革命の抑圧ということで、民主主義の否定にまで及んでいるようなのです。反革命を抑圧するのは国家ではなく民衆のはずなのです。そこに民主主義があるはずなのです。ここにレーニンの外部注入論的革命、民衆の革命性への懐疑もあり(レーニンはプロレタリアートの革命性を一方で述べていたのですが)、それはスターリンの徹底した懐疑からする管理国家形成へすすんでいったのではないでしょうか?C「第四に、エンゲルスは、「国家は死滅する」という有名な命題をかかげたあとで、つづけて、この命題は日和見主義者と無政府主義者に対して向けたものだということを具体的に明らかにしている。」485P「あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な権力」なのだ。だからあらゆる国家は非自由で非人民的なのだ。マルクスとエンゲルスは、「自由な人民国家」が流行のスローガンとなった一八七〇代に、党の同志たちに向かって、このことを何回となく説明している。」486PD「第五に、だれもが国家の死滅に関する考察のあることを想起するエンゲルスのこの同じ著作のなかに、暴力革命の意義に関する考察もある。エンゲルスにあっては、暴力革命の役割の歴史的評価は、暴力革命への心からの讃辞となっている。」「暴力とは、新しい社会をはらんでいるあらゆる旧社会の助産婦である。」486P
「暴力革命の不可避性についてのマルクスとエンゲルスの学説は、ブルジョワ国家に関してのことであることはすでに述べたが、以下の叙述でさらにくわしくそのことを示そう。/プロレタリア国家がブルジョワ国家にとってかわること、つまりプロレタリアートの独裁の創出は、「死滅」によっては不可能であり、それは一般的原則では、暴力革命によって初めて可能である。そしてエンゲルスが暴力革命にささげた讃辞は、マルクスの再三にわたる言明とも完全に一致しているのである[われわれは、暴力革命の不可避性を誇らしく公然と宣明した『哲学の貧困』と『共産党宣言』の結語を思いおこし、また、それからほぼ三十年後の一八七五年、ゴータ綱領の日和見主義に対するマルクスの仮借ない糾弾を思いおこす]。」488P
「ここに国家問題に関するマルクス主義の最も注目すべき、最も重要な思想の一つ、ほかならぬ「プロレタリアートの独裁」[マルクスとエンゲルスは、パリ・コミューン以後になって述べるようになった](ここに注がついている)の思想が定式化されているのを見るのであり、・・・・・・このうえなく興味ふかい、つぎのような国家の定義を見るのである。「国家とは、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートである。」」490P・・・プロレタリア独裁国家ということ、ただし? 492Pの二つ目の引用――(ここに注がついている)の注――「この挿入部分([ ]のなか)は、レーニンが『国家論ノート』のなかで、「マルクスとエンゲルスが、一八七一年以前に『プロレタリアートの独裁』ということを述べたことがあるかどうかをさがし、調べること。ない! と思われる。」ということに対応している。じつは、この第U章「国家と革命」第3節にあるように、マルクスはすでに一八五二年、ワイデマイヤーあての手紙のなかで「プロレタリアートの独裁」という言葉を使っていた。レーニンがこのことを知ったのは初版刊行後のことであり、そのために第二版でこのことに触れた説が付加されたわけである。」491P
「プロレタリアートにも国家が必要だ――あらゆる日和見主義者、社会排外主義者、カウツキー主義者はこうくりかえしている。彼らは、これこそマルクスの学説だと断言していながら、つぎのことをつけ加えるのを「忘れている」のだ。第一に、マルクスによれば、プロレタリアートにとって必要なのは、ただ死滅しはじめ、また死滅せざるをえないように構築された国家だけだということ。第Uに、勤労者にとって必要なのは「国家」(括弧付き「国家」)、「すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアート」だけということ。」490P
「マルクスが国家問題と社会主義革命の問題に適用した階級闘争の学説は、必然的に、プロレタリアートの政治的支配、プロレタリアートの独裁の承認に、つまり、権力がだれにも分有されておらず、ただ大衆の武装力にのみ依拠しているところの権力に承認にみちびく。」492P・・・被抑圧階級をプロレタリアートとしてだけとらえると、プロレタリアートの独裁が出てくるのですが、今日、マルチチュードとかサバルタンとか出さざるを得なくなった時代には「プロレタリアートの独裁」という論理は出せなくなっているのではないでしょうか? 差別というところから総体的にとらえ返していく必要が出てきているのです。
「プロレタリアートに必要なのは国家権力、すなわち、中央集権化された暴力装置であり、搾取者の反抗を弾圧し、また社会主義経済を「組織する」事業において、農民階級、小ブルジョワジー、半プロレタリアートという膨大な住民大衆を指導するための暴力組織なのだ。」492P・・・「指導するための暴力組織」?指導と暴力はアンチノミーのはずなのです。必要なのは「国家」で、国家なのではないのでは? それが国家になるのは、資本主義国家が存在するところにおいて、国家にならざるをえないのです。だから、レーニンも世界革命の必要性を主張していたはずなのです。逆に言えば、プロ独が国家として出てくるときには、世界革命的には敗北せざるを得なくなるということではないでしょうか?
「ブルジョワ社会に特有な中央集権化された国家権力は、絶対主義の没落期に発生した。そして、この国家機構にとっては最も特徴的なものは、つぎの二つの制度だった。すなわち、官僚制度と常備軍。」495-6P
「官僚制度と常備軍――これはブルジョワ社会のからだに宿る「寄生体」、ブルジョワ社会をひき裂く内的矛盾によって生み出された「寄生体」、しかも、まさに生命の毛穴を「ふさいでいる」寄生体だ。」496P
「マルクスがどの程度まで厳格に歴史的経験という事実的基礎の上に立っていたかは、彼がこの一八五二年には、まだ廃絶すべき国家機構に代えるに何をもってするかという問題を具体的に提起していないこともわかる。当時まだ、経験からは、このような問題を解決するための材料を得ることはできなかったのだ。そして、この問題が歴史によって日程にのぼることになったのは、それより後の一八七一年のことなのだ。一八五二年の段階において、マルクスが自然史を観察するような正確さで確認できたことといえば、プロレタリア革命が、国家権力に対して「破壊力のことごとくを集中する」任務に到達したこと、国家機構を「粉砕する」任務に到達したこと、これだけであった。」498P・・・これは前出の第二版の追加稿も参照
(「一九一九年発行の第二版ではじめてつけられた。」501Pの追加された節「3 一八五二年におけるマルクスの問題提起」500-2P・・・「マルクスの一八五二年三月五日付ワイデマイヤーあての手紙」500P――「(マルクス)「わたしが新しくやったことと言えば、次の諸点を証明したことだけなのだ。/(1)階級の存在は、生産の一定の歴史的発展段階[historische Entwicklungsphasen der Produktion]だけに結びついているということ。/(2)階級闘争は、必然的にプロレタリアートの独裁をもたらすということ。/(3)この独裁そのものは、あらゆる階級を廃絶し、階級のない社会へ達するたんなる過程にすぎないこと。……」/(ここからレーニン)これらの言葉によって、マルクスは、第一に、先進的で最も深遠な考えをもったブルジョワジー思想家の学説と自分の学説との根本的かつ主要な相違を、第二に、国家についての学説の核心を、驚くべき鮮明さで表現することに成功している。」500P
「マルクス主義者とは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまでおしひろげる者だけをさしていう呼称である。」501P・・・レーニンのマルクス主義の定義、このことによってマルクス――レーニン主義を定立したと言えるのではー
「日和見主義は、階級闘争の承認を、まさにその最も主要な点まで、つまり資本主義から共産主義への移行の時期まで、ブルジョワジーの打倒とブルジョワジーの完全な絶滅の時期にまで、おしひろげはしないのだ。/現実には、この時期は、階級闘争がかつてその例を見なかったほど激化することが避けられない時期であり、階級闘争がこのうえなく先鋭なかたちをとる時期なのだ。しかがつて、この時期の国家もまた、不可避的に、新しいやり方にしたがった[プロレタリアートと無産者一般にとって]民主主義的であるあるような国家、そして新しいやり方にしたがった[ブルジョワジーに反対して]独裁的であるような国家でなければならない。/さらに言おう。マルクスの国家学説の本質は、つぎのことを理解した人だけが、つまり一階級の独裁は、あらゆる階級一般にとって必要なだけでなく、ブルジョワジーを打倒したプロレタリアートにとって必要なだけではなく、資本主義を「階級のない社会」から、すなわち共産主義からへだてている歴史的時期の全体にとっても必要であるということを理解した者だけが、体得できたのだ、と。/ブルジョワ国家の形態はきわめてさまざまだけれども、しかし、その本質は一つ、これらの国家はすべて、その形態はどうであれ、結局のところ、かならずブルジョワジーの独裁だということだ。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、非常に豊富で多種多様な政治的形態をもたらさないわけにはいかない。しかし、そのさいでも、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁のみであろう。」501-2P
「マルクスは、コミューンにさきだつ数ヶ月前の一八七〇年秋、政府を打倒しようとする試みは向こう水の暴挙であるあることを証明して、パリの労働者に警告を発した。だが、一八七一年三月、決戦を無理じいされて、やむをえずこれにこたえて立ちあがったとき、つまり放棄が事実となったとき、マルクスは、このプロレタリア革命を、不吉な前兆があったにもかかわらず、心から感激して迎えたのだった。」502P
『共産党宣言』ドイツ語新版の序文(一八七一年六月二十四日付)で、二人は『共産党宣言』は「いまやところどころ時代遅れになっている」として、「……とりわけ、コミューン、次のことを証明した、すなわち、『労働者階級はできあいの国家機構をそのまま奪い取って、それを自分自身の目的にそって動かすことはできない』(この『』の中は、マルクスの『フランスの内乱』の中からの引用)……」503P・・・ロシア革命はそのことを履行していない――秘密警察、トロッキーの旧軍人の登用など、更にスターリンの旧官僚などの登用
「ブルジョワジーおよびブルジョワジーの反抗を抑圧することは、依然として必要である。コミューンにとってこのことはとくに必要だった。」「ところで、ひとたび人民の多数者が自分の抑圧者をみずから抑圧する段になると、抑圧のための「特殊な権力」は、もはや必要でなくなる! この意味で国家は死滅しはじめる。」509P・・・ロシア革命ではそうはならなかったのです。そのことが総括の核心(自分たちが主張していたことの否定)。
「すべての公務員が例外なく完全に選挙で選ばれ、いつでも解任できるものとなること、彼らの棒給をふつうの「労働者の賃金」なみに引き下げること・・・」510P・・・この原則がレーニンのこれまでの官僚制度と違うとおいたところの核心だったし、レーニン自身はそれを実行しようとしたけれど、そもそもネップで資本主義社会の論理を導入したら、それは崩壊する必然性、解任するのは誰か――民衆やプロレタリアートであれば、中央集権制を否定する民主主義が必要なはず――現実には党の機関になった――書記局の支配体制
「小ブルジョワジーの他の階層のなかからと同じように、農民階級のなかからも、とるにたらない少数者だけが、「なりあがり」、ブルジョワ的な意味で「出世をする」。つまり、金持になったり、ブルジョワに転化したり、あるいは地位を保証された特権的官吏に転化する。しかし、およそ農民が存在している資本主義国なら[大多数の資本主義国はそうなのだが]、どの国でも農民階級の圧倒的多数は政府によって抑圧されており、政府打倒と「安あがり」の政府とを待望している。これを実現しうるのはただプロレタリアートだけであって、プロレタリアートは、これを実現することによって、同時に国家の社会主義改造への第一歩を踏みだすのである。」511P・・・レーニンは、農民は土地の私的所有を求めるというところで、小ブルジョワジーと規定したのですが、土地の私的所有ではない、ミールの位置をどのようにととらえていたのでしょうか? また農民は階層であって階級ではないのです。土地所有というところで農民を階級として集約するのは、間違えていると言わざるをえません。農の持つ意味を押さえ損なっていたのでは、とも思ったりしていますーとりわけ今日的には、農の位置を押さえ直す必要も感じています。
「「コミューンは、議会的な団体ではなく、立法府であると同時に執行府でもある行動的な団体たるべきものであった」のだ。」512-3P・・・決定と執行の一致――全共闘運動にも
「前世紀七〇年代のある機知にとんだ社会民主党員は、郵便事業を社会主義経営の見本と呼んだ。まさにそのとおり、今日の郵便事業は、国家資本主義的独占の型にのっとって組織された経営である。」516P「国民経済全体を郵便事業ように組織すること、しかもそのさい、技術者、監督、簿記係を、すべての公務員と同じように、武装したプロレタリアートの統制と指導のもとに「労働者賃金」以下の俸給で組織すること――これこそ、われわれの当面の目標である。」517P・・・俸給を同じにしたら資本主義ではないし、資本主義の論理を用いる必要もないのです。俸給を同じにするなら、そもそも俸給という概念をなくして、ベーシックインカムにできることです。
「マルクスがプルードンともバクーニンともくい違っているのは、ほかならぬ連邦主義の問題についてなのだ[プロレタリアートの独裁については言うまでもない]。無政府主義の小ブルジョワ的見解からは、原理的に言って、連邦主義が出てくる。マルクスは中央集権主義者だ。」520P・・・?
「マルクスは将来の政治的諸形態の発見にとりかからなかった。」522P(プロ独は手紙の中では書いていたのです。その中で、パリ・コミューンが起きたのです。)――「コミューンこそブルジョワ国家機構を粉砕しようとするプロレタリア革命の最初の試みであり、粉砕されたものにとって代わることができ、また、とって代わらなければならぬ「ついに発見された」政治形態である。」522-3P・・・コミューンやソヴィエトがなぜ国家になったのかの問題、中央集権制や暴力装置の問題、暴力は革命の助産婦にすぎない、力むのは母親――民衆自身  レーニンの外部注入論や前衛論は、民衆の自然発生的革命性に依拠していないのです。党――後衛論
「しかし、この国家廃止という目標を達成するために、われわれは、搾取者に対して国家権力という道具、手段、方法を、一時的であれ、利用することが必要だと断固として主張するものである。」327P・・・ここで必要なのは、武力がまだ必要とするならば、国家ではなくて、武装せる民衆ではないでしょうか? 搾取者は私有せる生産手段をとりあげられた時点で、搾取者ではなくなるのです。
 エンゲルスの、反権威主義者の「われわれが代表者たちに授けているのは、権威などではなくて一定の委任なのだ」の言に対する応答と、レーニンのそれに対するコメント「このように、エンゲルスは、権威と自由とは相対的な概念にすぎず、この概念の適用範囲は社会発展のさまざまな段階に応じて変化すること、この概念を絶対的なものとして考えるはばかげていることを指摘し、・・・・・・」528P・・・これは官僚主義をうみださないための基本的概念であって、相対的に容認することではないはずです。権威は差別に関するキーワードなのです。
「公的諸機能が政治的なものから単なる管理機能へと転化する問題、「政治的国家」に関する問題等々。とくに、誤解をまねく恐れのある後者の表現は、国家の死滅する過程をさしているのである。つまり死滅しつつ国家は、死滅の一定の段階では、非政治的国家と呼ぶことができるということを表現しているのだ。」329P・・・政治性をなくした国家なるものはありえないのです。「政治性をうしないつつある」国家という意味では? これさえも国家というネーミングは違和があるのです。政治が消滅する以前に国家は消滅していることー
「無政府主義者は、ほかならぬ革命を、その発生と発展の見地から、暴力、権威、権力、国家に対する革命の諸任務という見地から、見たがらないのだ。」329P・・・「権威」の原語からの確認の必要があるのですが、これは「革命党の権威」というところでの党の物神化と独裁論に結びついていくこと、ここからのとらえ返しの必要。信頼と権威は違うのです。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「・・・・・・プロレタリアートが、まだ国家を必要とするあいだは、それは自由のためにではなく、自分の敵を抑圧するために必要とするのであり、自由について語ることができるようになれば、すぐに国家としての国家は存在することをやめるのです。それゆえ、わたしたちは、(綱領のなかで)国家と書いているところはどこもみんな、フランス語の『コミューン』にぴったりの、むかしからある美しいドイツ語、『共同社会』[Gemeinwesen]という言葉で置き換えるように提案したいと思います。」531P・・・どこで、コミューンやソヴィエトや共同社会が、国家にすり替わるのでしょうか?
「エンゲルスは、「人民国家」が、「自由な人民国家」と同様にナンセンスなものであり、社会主義からの逸脱でもあるというそのかぎりにおいて、無政府主義者の攻撃は正しいものだと認める。」532-3P――(ベーベルへ)「国家は、階級支配に立脚する国家から人民国家へと転化されなければならぬ。」533P・・・プロレタリア国家も同じ、これは労働者国家も同じ、ただし、労働者国家を標榜する労働者への抑圧国家は存在してしまったのです。
「さて、国家の問題にもどろう。エンゲルスは、ここで、とりわけ貴重な三つの指摘をしている。すなわち、第一に、共和制の問題について。第二に、民族問題と国家制度との問題について。そして第三に、地方自治について。」535P
(エンゲルス)「およそこの世に確固不同なものがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級が、民主共和制という政治形態のもとにおいてしか支配権をにぎれないということだ。」537P・・・スターリン主義の下、真逆なことになってしまったのです。
「エンゲルスは、マルクスと同様に、プロレタリアートとプロレタリア革命の見地から、民主主義的中央集権制をば、単一にして不可分な共和国をば主張している。彼は、連邦共和制は例外的なもの、発展の障害となるものと見なすか、さもなければ、君主制から中央集権的共和制への過渡として一定の特殊的条件のもとでの「一歩前進」と見なしている。そして、これら特殊諸条件のなかでは、民族問題が全面に出てくる。」538P・・・民主主義と中央集権制はアンチノミーのなるのではないでしょうか? 民族自決権と中央集権制もー
「地理的条件、原語の共通性、そして何百年にもわたる歴史をもつイギリスでは、個々の小区域の民族問題などは「かたづけ」てしまっているかに思われるけれども、このイギリスでさえも民族問題は過去のものとなっていない明白な事実をエンゲルスは考慮に入れ、それゆえに連邦共和制を「一歩前進」と認めているのである。」539P
「エンゲルスは、この民主主義的中央集権制という概念を、ブルジョワ・イデオロギーや無政府主義者も含む小ブルジョワ・イデオローグが使っているような官僚主義的意味合いで理解しているわけではけっしてない。エンゲルスの考えによると、中央集権制とは、コミューンと地方とによる国家統一の自発的な防衛のもとで、それとあらゆる官僚主義、上からのいっさいの「指導」の文句なしの追放を結びつけるような広範な自治制を排除するものではけっしてないのである。エンゲルスは、国家についてのマルクス主義の綱領的見解を発展させて、こう言っている。/「……だから、統一共和国ということになるのだ。・・・・・・」539P・・・世界革命的な実現があれば国家ということの消滅に向かうこと。なぜ、統一共和国という概念が必要になるのか。反差別論的に対峙している最大のことは「国家主義」ということです。これは、地産地消というところも含めた地方自治からせめあがる、しかも農業というサブシステンスの産業の、現在農協という、機械や種や農薬・化学肥料というところから資本に収奪されていく構図を打ち破る協同組合的再編がいまこそ問われているのではないでしょうか?  民族差別ということも含めて、個別差別に関してはもし、前衛――後衛ということがあるとしたら、個別差別の民衆運動が前衛なのですが、その反差別運動は他の差別をとらえきれないという限界性があり、だから、差別総体をとらえ返すというところに党の存在意義があるのです。ですが、そもそもマルクス派が差別ということをとらえきれなかった歴史性が続けられているわけで、そういう意味では、個別差別をつなぎ、反差別運動を支える後衛党として、とりあえず位置づけるしかないとも言いえます。レーニンのこのあたりの主張は中央主権制を一部否定しているようにも読み取れます。
「連邦共和制は中央集権的共和制より自由という見解は間違えている。」340P・・・連邦の個々の共和制の中味によるから、当然のこと
「(エンゲルスの『フランスの内乱』三版<1991年版>の序文)「コミューンはそもそものはじめから、つぎのことを承認しなければならなかった。すなわち、労働者階級は、ひとたび支配権を手に入れるや、古い国家機構をそのまま運営していくことはできないこと。そして労働者階級は、たったいま獲得したばかりの支配権をふたたび失わぬためには、一方で、それまで彼ら自身の圧迫に利用されてきた古い抑圧機構をいっさい除去すると同時に、他方で、彼ら自身の代議員や官吏に対して、一人の例外もなく、いつでも解任しうるものであることを宣言し、彼らから自分自身を安全にしておかねばならないこと。これらこそ労働者階級が承認しなければならなかったことなのだ。……」/エンゲルスは、君主制のもとにおいてだけでなく、民主共和制のもとにおいても国家は依然として国家としてとどまること、すなわち、国家は公務員、「社会の従僕」、社会の諸機関を社会の主人に転化される基本的特性を保持していることを、いくたびとなく強調している。」543-4P――エンゲルスの引用に戻り、「この転化をふせぐために、コミューンは二つのたしかな手段を採用した。第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位には、普通選挙権にもとづいて選ばれた者だけを任命し、しかも選挙民の決定によっていつでも彼らを解任できるように法律で規定したこと。第二に、地位の上下を問わず、すべての公務員に他の労働者に他の労働者が受けとっている額と同額の賃金しか支払わなかったこと。・・・・・・」544P・・・同一賃金にするためには、そもそも労働ということ自体を問い直す必要があり、資本主義の下ではなしえないのです。それは資本主義経済の否定ということのなかでしかなしえません。しかるにネップということを導入すれば、この原則は適用されなくなります。
「資本主義のもとではとことんまで徹底的な民主主義など実現不可能だし、社会主義のもとではどのような民主主義も死滅するだろうから。これはちょうど、髪の毛がもう一本だけ少なくなったら禿げ頭になるかならぬかという、古い笑話に類する詭弁にすぎない。」545P「民主主義をとことんまで発展させること、このような発展の諸形態をさがし求めること、これら諸形態を実践によって検証すること等々、すべてこうしたことは、社会革命をめざす闘争を構成する諸任務の一つだ。一つ一つをとれば、いかなる民主主義も社会主義ももたらしはしない。けれども実生活のなかでは、民主主義はけっして「一つ一つとられる」ものではなく、他のものと「いっしょにとられる」ものであり、それは経済に対しても影響を与え、その改革を促進するとともに、逆に経済的発展の影響もこうむる、等々。これこそ生きた歴史の弁証法というものだ。」・・・ここでいう「民主主義」は支配の形態としての民主主義のことです。対等な関係で議論し決定していく「民主主義」は(それを「民主主義」と表現するかどうかは別にして)、必要だし、そのような関係は作り上げていくことです。また、エンゲルス的な弁証法の法則化批判はともかく、問題は官僚制をどう脱構築するかということ。国家は軍事的統治機構と官僚的統治機構というところにおいて、官僚的統治機構が必要としても、それができあいの官僚機構ではないというところにおいて、選挙制と解任性ということがあり、それがいかに可能になるのでしょうか? レーニンよりもトロッキーの方が現実主義的になってしまっていて、ネップも軍事組織の旧軍隊からの登用をするなかで、できあいの国家機構は使えないという原則をくずしてしまったー選挙制や解任制は、党独裁というところですでにくずれてしまっています。これはレーニンの外部注入論的前衛党論からきています。民衆の革命性に依拠できない中で、党独裁に至ったこと自体が問題なのです。当時の民衆の革命性は、保守的だからこそ革命的だというところで、一時的なことでしかなかったことこそが問題なのです。むしろローザが民衆の革命性に依拠しようとしていたのです。けれど逆に自然発生性というところで、きちんとした「策略」をたてえず、虐殺されてしまいました。。歴史の背理。今日的には多様な道筋から、社会変革の途を策っていくしかないこと、このことについては、「社会変革への途」で書き進めます。
「国家とは、階級支配をめぐる闘争で勝利を得たプロレタリアートに、遺産としてひきつがれる害悪なのに。勝利を得たプロレタリアート、コミューンがやったように、この害悪の側面を即座に切りとらざるをえないだろう。」346P
「民主主義は、少数者が多数者に服従するという原則と同一のものではないのだ。民主主義は、少数者が多数者に服従することを承認する国家、すなわち、一階級の他の階級に対する、住民の一部分の他の部分に対する系統的な暴力行使のための組織なのだ。」549P・・・レーニンは民主主義という概念を整理できていないのです。支配の形態としての議会制民主主義、民衆の「自己決定権」というところで機能する支配の形態としての民主主義と、それでも行政・立法・司法機構の選挙制や解任制度というときの民主主義をごちゃまぜにしています。だから中央集権制や党の独裁がもたらされたのです。選挙制や解任制を具体的にどうするのかというところで、そのことが問われたのに、そのことをスポイルしてしまいました。自己決定権は幻想であっても、無視はできないのです。
「しかし、われわれは、社会主義に向かって努力しつつも、その社会主義が共産主義へと成長転化するであろうこと、このことと関連して、人間一般に対する暴力行使の、ある人間の他の人間への服従の、住民の一部分の他の部分への服従の必要はいっさい消滅するであろうことを確信する。なぜなら、人間は、暴力なしに、服従なしに、社会生活の根本的諸条件遵守する習慣がついてくるだろうから。」549P
「マルクスのほうがエンゲルスよりも「国家びいき」であ」550Pるように見えるところがある、が、何を主題に語っているかによって違いが起きているのであって――「エンゲルスは、ベーベルに向かって、国家に関するおしゃべりなどまったくやめ、国家と言う言葉を完全に放逐して、綱領から国家という言葉を完全に放逐して、それを「共同社会」という言葉に置き換えるようにすすめている。」550P・・・これだと今日的課題になる反国家主義が出てこなくなります。
「エンゲルスは、国家について流行している偏見[ラッサールも、すくなからずこの偏見にかぶれていた]がまったくばかげたものであることを、はっきりとするどく、太い線でベーベルに示すことを課題にしていたのであった。一方、マルクスは、他のテーマ、すなわち共産主義社会の発展という点に関心を集中していたので、エンゲルスのとりあげているこの問題については、ことのついでに触れているにすぎないのだ。」551P・・・エンゲルスとマルクスの違いについてはもう少し検証が必要
「マルクスには、ユートピアをつくりあげたり、知ることができないことがらについてむなしい推測をめぐらしたりする気配は、ひとかけらもない。」551P・・・?
(マルクスの「ゴータ綱領」に関して)「だから、『現代国家』とは虚構の概念にすぎない。」552P・・・レーニンは、マルクスの『ド・イデ』における国家の共同幻想の件を読んでいなかったとされるのですが、ここに同じような内容があります。問題は、差別排外主義による国家への国民統合ということ、そこから当然出てくる、国家主義批判が出てこないという問題を押さえねばならないと思うのです(スターリン主義として現れた一国社会主義建設路線による覇権主義の現実)。レーニン国家論が抜け落としていたことーそこから出てくる暴力装置を粉砕するという単純な暴力革命論に至るのではー
(承前)「『人民』という言葉と『国家』という言葉とを千回結びあわせたところで、蚤の一跳ねも問題の解決には近づきはしないのだ。」552P・・・「人民」と「国家」はアンチノミー
「日和見主義者たちによって現に忘れさられていること、それは、資本主義が共産主義に移行する特殊な段階あるいは特殊な時期が、歴史上、疑いもなく存在しなければならぬ、という事情である。」552P・・・問題はそのスパンであり、その時期は民主主義が否定されるのかという問題なのです。この民主主義は支配の形態としての民主主義ではなく、民衆の意思としての民主主義
「以前には、問題は、つぎのように提起されていた、すなわち、プロレタリアートは自己の解放をかちとるためにはブルジョワジーを打倒し、政治権力を奪取し、みずからの革命的独裁をうちたてなければならぬ、と。/いまや問題は、やや異なった形で提起されている。すなわち、共産主義へ向かって発展しつつある資本主義社会から共産主義への移行は、「政治上の過渡期」を経過しなくては不可能であり、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない、と。」553P・・・すべての株は、というより生産手段の私的所有は廃止されます。株式会社そのものがなくなります。労働者管理による生産組織に改編されます。自分や自分の家族や対等な関係における集団が管理できない土地や建物の占有は認められないのです。そもそもブルジョワジーはいなくなります。だからプロレタリアートという概念はなくなるので、プロレタリアートの独裁などもなくなります。そこまで至る期間は短期間になります。そもそも、現在社会でも、プロレタリアートという概念自体が崩壊してきています。それに代わることとして、マルチチュードという概念が出て来ています。だから、「独裁」という言葉が使われるのなら、被差別民衆による反差別独裁となるのです。この場合、そもそも「独裁」という概念は使われなくなるでしょうープロレタリアートという概念は、労働力の価値によって分断されている民衆、そこにマジョリティの問題はあったので、そのマジョリティは食品汚染や環境汚染にさらされている住民という概念でも、それは被差別者という概念に、マルチチュードということで含まれます。「独裁」ということは政治的概念で、政治は廃棄されていくとしても、暫くは続き、マルチチュードという概念での運動は長く続いていきます。それこそが永続革命的文化革命なのです。
「資本主義社会が最も順調な発展をとげる条件があるばあい、この社会は民主共和制という形で多かれ少なかれ完全な民主主義がある。しかし、この民主主義は、資本主義的搾取という狭い枠でたえずしめつけられているので本質的には、少数者だけの、有産階級のための、すなわち金持ちだけの民主主義に民主主義にとどまっている。・・・」553P・・・この後にギリシャの奴隷制とかとさほど変わりがないという話が出て来ます。しかし、普通選挙権が確立している国においては、むしろ「自己決定」とか「自己責任」とかいうごまかしが出て来ます。レーニンの時代の民主主義は、「本質的には」(根源的には)変わっていないのですが、いまだに王制なることが存続している国があり、それはいろんな形での「共同幻想」へのとらわれから来ているのです。その最たることが国家の「共同幻想」へのとらわれと言いえることではないかと思われます。だから、国家主義批判とさまざまな差別主義的イデオロギーとどう対峙していくかが問われているのです。
「とるにたらない少数者のための民主主義、金持ちのための民主主義・・・・・・」554P
「貧乏人に対するこうした制限、例外、除外、妨害は、ちょっとしたことのように思われる。・・・・・・だが、これらもろもろの制限が総計されると、貧乏人が政治から、民主主義への積極的参加から排除し、おしのけることになるのだ。」554P・・・まさに巧妙な情報隠蔽・改ざん・操作ということの日本の政治が民主主義に何をもたらしているのかという現実
「マルクスがコミューンの経験を分析して、被抑圧者は抑圧階級のどの代表者が議会で自分たちを代表し、自分たちを踏みにじることになるかの決定を数年に一度だけ許される!」554P
「搾取者=資本家の反抗を打ち砕くことは、プロレタリアート以外のだれにもできないし、また、独裁以外のどんな方法によってもできないからなのだ。」555P・・・ロボットが第二次産業を担う事態になってきて、労働の位置づけが変わってきて、更に環境問題とか「住民運動」が出てくるなかで、労働ということの位置づけが変わってきているのではないかとも思えるのです。むしろ矛盾はもっと総体的に広がり、そこでの運動が起きている中で、こういう考えも少し変わっているのではと言いえます。
「抑圧のあるところ、暴力のあるところ自由はなく、民主主義もないこと、これは明白だ。」555P・・・これは抑圧ということへの論理であって、それに対抗して運動する立場での民主主義は必要―これを取り違えると大変なことになります。それを取り違えたのがスターリン主義です。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「プロレタリアートは、自由のためでなく、自分の敵を抑圧するために国家を必要とします。そして自由について語りうるようになれば、たちまち国家は存在しなくなるでありましょう。」555P・・・もし、必要となるならば(反革命クーデターは常道的に起きますから)そこで必要になるとすれば、それは軍事力であって、国家ではないのではないでしょうか?
「「国家は死滅する」という表現は、はなはだ選択の妙をえた言葉だ。というのは、この表現は、過程の漸進性も過程の自然成長性もあらわしているから。そして、習慣だけがこのような作用をおよぼすことができるし、また、疑いもなくおよぼすであろう。」556P
「もし搾取というものがなければ、もし人間を憤怒させ、抗議や蜂起を呼び起こし、鎮圧の必要を生み出すものがなに一つなければ、人間は自分たちにとって必要な公共生活の規制を遵守することなどには、かんたんに慣れてゆくからだ。」556P
「搾取者が人民を抑圧するためには、当然のことながら、きわめて複雑な機構なくてはその任務を遂行するわけにはゆかない。ところが、人民は、きわめてかんたんな「機構」のもとでも、いやほとんど「機構」がなくとも、たんなる武装した大衆組織[さきまわりして言えば、労働者・兵士ソヴィエートのようなもの]によっても、搾取者を抑圧することができるのだ。」557P
「最後に、共産主義だけが国家を完全に不必要なものにする。なぜなら、抑圧すべきものがだれもいない、つまり階級という意味で、住民の一定部分との系統的な闘争という意味で「だれもいない」からである。」――過渡的な必要性とその消滅「第一に、これをおこなうのに、抑圧のための特別な機構、特殊な装置は必要でないのだ。武装した人民自身が、簡単かつ容易にこれをやってのけるであろう。・・・・・・第二に、我々は、公共生活の規則を破る不法行為の社会的根源が、大衆の搾取、彼らの困窮と貧困にあることを知っている。この主要な原因が排除されると同時に、不法行為は不可避的に「死滅し」はじめるだろう。それがどれくらい急速に、そしてどんな順序で死滅するかは知らない。しかし、それが死滅するであろうことは知っている。そして、それが死滅するとともに、国家もまた死滅するであろう。」557P・・・レーニンは国家の過渡的必要性も書いているのですが、ここからはそれは国家でなくてもいいとしか読み取れないのですー
(マルクスの『ゴータ綱領批判』の引用)「・・・・・・権利は平等である代わりに、不平等でなくてはならないであろう。……」560P・・・ベーシックインカム(基本所得保障)でなくて、基本生活保障
「マルクスは、人間の避けがたい不平等をこのうえなく正確に考慮しているばかりでない。同様にまた彼は、正確に考慮しているばかりではない。生産手段を社会全体の共有財産に移す[ふつうの用語法によれば「社会主義」]だけでは、まだ分配の欠陥と「ブルジョワ的権利」の不平等を除去するものではないこと、この権利は生産物が「労働に応じて」分配されるかぎり、支配しつづけることを考慮しているのだ。」560P
(マルクス承前)「……共産主義社会の高度の段階では・・・・・・社会はその旗にこう書くことができるであろう、『各人はその能力に応じて、各人にはその要求に応じて』と」562P・・・そもそも能力という概念自体が、変換していくでしょうー
(いろいろな日和見主義者が)「社会主義を「導入」する等不可能などとしゃべるとき、彼らが念頭においているのは、まさに共産主義の高度の段階もしくは局面であって、こういう段階を「導入すること」など、だれ一人として約束しなかったどころか、考えたこともないのである。なぜなら、こういう段階を「導入する」ことなど、一般にできないことなのだから。」564P
「マルクスの鮮明の偉大な意義は、彼がここでも唯物弁証法を、すなわち発展の学説を首尾一貫して適用し、共産主義を資本主義のなかから発展してきたものとして見なしている点にある。」565P・・・後期マルクスは『資本論』草稿の中で、単線的発展史観から脱していました。「なかから」ではない共産主義的社会の研究もしていました。ここの「唯物弁証法」というのはエンゲルスが弁証法を法則としてとらえ、それの物象化からきているのではないでしょうか?――検証
「民主主義とは平等を意味する。平等をめざすプロレタリアートの闘争と平等というスローガンとが、どんなに大きな意義をもっているかは、平等を階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明白である。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するだけである。そして、いったん生産手段の占有に関する社会の全成員の平等、つまり労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から事実上の平等に向かって、つまり「各人は能力に応じて」という原則の実現に向かって前進するという問題が、必然的に発生してくる。人類がこの最高の目標に到達する途上でどのような段階を通過するか、どのような実践的方策を講じるかは、われわれは知らないし、知ることもできない。」566P・・・これは一票の平等、形式民主主義の支配の形態から抜け出せない政治を語っています。民主主義とは民衆を主体にした、民衆のための政治、たしかに、政治が消滅すれば民主主義という概念もなくなることです。レーニンのエンゲルス弁証法の物象化的展開「量は質に転化する」
「民主主義とは国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、民主主義とは、あらゆる国家と同様に、人間に対して暴力を組織的かつ系統的に行使することである。これが楯の一面である。しかし、他の一面では、民主主義とは市民間の平等の形式的な承認を意味し、国家制度の決定とその統治に対する全市民の平等な権利の形式的な承認を意味する。このことが、またそれで、つぎのことと関連してくるのだ。すなわち、民主主義は一定の発展段階で、第一に、資本主義に反対する革命的階級、つまりプロレタリアートを団結させ、この階級がブルジョワ国家機構――たとえそれが共和制的なブルジョワ国家機構でも――を、常備軍を、警察を、官僚制度を打倒し、これをこっぱみじんに粉砕し、地上から一掃し、それらを、やはり国家機構にはちがいはないが、より民主主義的な、人民全体の民兵化へ移行しつつある武装せる労働大衆という形の国家機構ととりかえることができるようにするのだ。/ここで「量は質に転化する」。すなわち、民主主義のこのような段階は、ブルジョワ社会の社会主義的改造の開始と結合している。もしほんとうにすべての人が国家統治に参加するならば、資本主義などもはやもちこたえられないだろう。そして、資本主義の発展そのものが、またそれで、「すべての人」がほんとうに国家統治に参加できるための前提条件をつくりだすのだ。」566-7P
「計算と統制」567P・・・資本主義は教育ということを通して革命を準備します。同時に国家主義や競争原理などを通して差別主義も身につけさせます。その幻想をどう解体していくかの道筋も示す必要があります。
「だが、資本家に勝利し搾取者を打倒したプロレタリアートが、全社会にあまなくおしひろげんとするこの「工場」の規律は、けっしてわれわれの理想でもなければ、終局目標でもないのだ。それは、社会から資本主義的搾取の醜悪さ、悪辣さを根こそぎ一掃するために必要な、そしてさらに前進するために必要な、一小段階にすぎないのだ。/社会の全成員が、もしくはすくなくとも社会の圧倒的多数が、自分自身で国家を統治することを学び、この仕事を一手に引き受け、とるにたらぬ少数者である資本家や、資本家的習癖をもちつづけたがっている紳士諸君や、資本主義によって骨の髄まで腐り果ててしまった労働者に対する統制を「軌道に乗せた」瞬間、その瞬間から、いっさいの統治一般に対する必要性は消滅しはじめる。」568P
「労働者は、政権を把握するや、古い官僚機構を粉砕し、一物も残さないほど根こそぎに打ち砕いてしまう。そして、これを労働者と勤務員からなる新しい機構で置き換える。彼らが官僚に転化するのを防ぐために、マルクスとエンゲルスによってくわしく探求された方策が即刻とられるであろう。その方策とは、つぎのようなものだ。/(1)(官僚の)選挙制だけでなく、随時解任制/(2)官僚に対しては労働者の俸給をこえない俸給を。/(3)すべての人が統制と監督の機能を遂行し、すべての人がある期間「官僚」となり、そのことによって、だれもが「官僚」になれなくなるような状態へただちに移行すること。」576-7P・・・(3)は共産主義の高度な段階
「ところが、カウツキーは、マルクスの「コミューンは議会的な団体ではなく、立法府と執行府とを同時に兼ねそなえている行動団体であった」という言葉を深く考えていないのだ。/カウツキーには、[人民のためのものではない]民主主義と[反人民的な]官僚主義とを結合しているブルジョワ議会制度と、プロレタリア民主主義、すなわち官僚主義を根だやしにする諸方策を即座に採用し、これら諸方策をとことんまで、つまり官僚主義を完全に絶滅するまで、人民のための民主主義を完全に実施するまで遂行することができるであろうプロレタリア民主主義との違いが、全然理解できなかったのだ。」577P・・・ここで二つの民主主義の違いが出てくるのですが、実際ロシア革命において、それが現実に区別化できていたのでしょうか? 古い「官僚制」の粉砕はなしえたのかの問題 中央集権制とプロ民主主義の関係 党の独裁へと進む動き
(パンネクック)「プロレタリアートの闘争は、たんに国家権力を奪取するためブルジョワジーに対しておこなう闘いではなく、国家権力そのものに対する闘争なのだ。」379P・・・バンネクックとレーニンの違い――レーニンは国家はとりあえず必要←? 今日的にはむしろ国家主義批判の必要
「マルクス主義者と無政府主義者との違いは、つぎの点にあるのだ。/(1)マルクス主義者は、国家の完全な廃絶を目標においてはいるが、この目標は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅へとみちびく社会主義が確立されたその結果として、はじめて実現可能なものとなることを認める。ところが、無政府主義者は、国家を今日明日じゅうにでも完全に廃絶してしまおうと欲するが、この廃絶を実現する諸条件をば理解しない。/(2)マルクス主義者は、プロレタリアートが権力を奪取したのち、古い国家機構を完全に破壊し、それに代えるにコミューン型の、武装した労働者組織からなる新しい国家機構をもってすることが必要だと認める。ところが、無政府主義者は、国家機構の破壊を主張しながらも、破壊したあと、プロレタリアートは何をもってそれに代えるか、プロレタリアートはいかに革命権力を利用するかについて、まったく漠然とした考えしかもっていない。彼らは、革命的プロレタリアートによる国家権力の利用をば、プロレタリアートの革命的独裁をば、否定しさえする。/(3)マルクス主義者は、現代国家を利用することによって、プロレタリアートに対し革命の下準備にとりかかるよう要求する。ところが、無政府主義者は、これを否定する。」580P・・・なぜ武装した労働者組織が国家機構なのでしょうか?
「中央集権制は、古い国家機構をもってしても、新しい国家機構をもってしても、実現可能である。もし労働者が自発的に自分の武装力を一つに統合するならば、これは中央集権制であろう。しかし、この中央集権制は、中央集権的国家機関、常備軍、警察、官僚の「徹底的破壊」に基礎をおくであろう。」581P・・・破壊したものを、内容が違うとしても、なぜ同じ形態でつくるのか、意味不明。形態が内容を規定するという側面を押さえ損なっているのでは? ロシア革命からの検証も必要です。
「いま問題になっているのは、反政府派のことでも政治闘争一般のことでもない。革命そのものだ。革命とは、プロレタリアートが「行政機関」とすべての国家機関を粉砕して、それを武装した労働者からなる新しい機関で置き換えることにある。」582P・・・新しい機関がなぜ国家なのでしょうか?
「革命とは、新しい階級が古い国家機関の助けを借りて命令し統治することではない。古い国家機構を粉砕し、新しい国家機構の助けを借りて、命令し、統治することでなければならないのだ。」582P・・・なぜ国家機構にこだわり続けるのか? 軍をもち中央集権制で外部が存在するという設定からなのでしょうか?
「マルクスが、ほかならぬコミューンを例にとって示したように、社会主義のもとでは、官僚の選挙制を実施するだけでなく、さらに彼らに対する随時の解任劇をも実施し、さらにまた彼らの労賃を労働者の平均水準まで引き下げ、さらにまた議会制機関を「立法府であると同時に執行府でもある行動的機関」で置き換えることを実施するにつれて、役員は「官僚」であることをやめ、「官吏」であることをやめるのだ。」583P・・・三つのことがあれば官僚主義ならないけれど、問題はどのようにして三つを実現するのでしょうか?



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レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」

たわしの読書メモ・・ブログ525
・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」(『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
この本は「マルクス主義」関係で最初に読んだ2冊目の本、一冊目は次の読書メモでとりあげる『国家と革命』です。この2冊はほぼ同時期に読んだのですが、読んでしばらくして、日本でスターリン批判をしたひとのひとり(日本のスターリン主義批判は世界に先駆けていたという話もあります)、三浦つとむの『レーニンから疑え』を読み、そもそもわたしは全共闘的な「自己否定の論理」のようなところで、インテリゲンチャの前衛党論のようなところへの違和があり、「レーニンなんか」という思いを持ってしまいました。で、その後のレーニン学習は、差別の問題関係の学習過程で、「民族自決権」に関する本を2冊読んではいたのですが、とりわけレーニン主義の核心的なと言われ、運動論的組織論的論攷は読まずじまいでいました。で、そもそも現在的な社会変革志向の運動の衰退は、過去の運動の総括をきちんとなしえていないからだという思いを強くし、そして、日本の左翼的政治党派のほとんどがとらわれた「マルクス―レーニン主義」ということへの批判が必要ではないかという思いを抱き始め、レーニンの第二次学習をしていました。読書メモ423〜433あたりです。で、まだ結論的なことを書かかぬまま、第三次学習です。で、レーニンの必読書とされる本、2冊の再読です。ちょっと誤解をうみそうなことを書いたので、断り書きをしておきますが、わたしはサルトルやデリダも言っているように、「マルクスの思想は現代社会(資本主義社会)で乗り越え不可能な思想」と思っています。ですので、わたしの思想のベースにマルクスがあるとは自認しています。だから、「わたしはマルクス派」という言い方はします。ですが、ひとをカリスマ的にもちあげる、ひとの名前を冠した○○主義という言い方は、批判的な意味を込めるときにしか使わないようにしています。マルクスとレーニンは一応切り離すことですが、左翼のほとんどの党が、「マルクス―レーニン主義」を自称するかその流れの中にありました。ですから、批判的な意味をこめて「マルクス―レーニン主義」と言う言葉は使っています。
さて、話をこの本に戻します。再読と書きましたが、最初読んだのは岩波文庫の『帝国主義―資本主義の最高の段階としての』か、国民文庫です。今回、岩波文庫で読もうとしていたのですが、タイトルにあるように、『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966を使いました。リード文を書いた江口朴カさん(ブログ423・江口朴郎「レーニンと現代の課題」 (『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収))が文の最後に、「後記」として岩波や国民文庫は第四版で、この訳は第五版で、「スターリンの時代に出された第四版の欠陥を改め、新たに多くの資料をおぎなった、現在見られる最も完全な版である。」52Pと書いています。スターリンは、反対派との論争過程で、原書を改ざんしたということは有名なことです。で、これを使いました。
さて、そもそも「帝国主義」ということば自体の使い方が、変わってきています。レーニン自体が、この本の中でも、「資本主義的帝国主義」という言葉で、「帝国主義」という言葉が別の使われ方があるというニュアンスを出しています。ひとつ前の読書メモの本の共著者のウォーラーステインが「世界システム論」の中で、「帝国主義」ということをアジア的専制国家の侵略的支配という脈絡に限定した使い方を提起しています。そのことがかなり浸透して、先進資本主義(世界システム論では「中枢国」)の後進国 (同じく「周辺国」)支配という意味では「帝国主義」ということばは使われなくなっています。更にネグリ/ハートは、訳語ですが‘<帝国>’という表記を使い出して、さらに「帝国主義」という言葉が使われなくなってきています。
そもそも、レーニンの評価の一つとして、マルクスはその時代の制約性として「資本主義の最高段階として帝国主義」ということを押さえていなかった不備を、レーニンは、補足し新しく展開したのだという事がありました。ですが、今日的にとらえると、レーニンの「帝国主義論」は、侵略と植民地時代の支配の形態で、戦後の民族解放闘争の中で、ほとんどの国が植民地支配を脱し(「新植民地主義」という言葉を出すひとはいますが)、グローバリゼーションンというところで、多国籍企業という形の資本の輸出が、もはや「輸出」という概念を解体するほどますます進み、レーニンの時代は金融―銀行支配ということがあったのですが、株式会社の金集めの形態も多様化し、多国籍企業自体が大きくふくらみ、ヘッジファンドというところでの株式操作も出て来、そして国家が金利の操作や、年金などの公的資金を株価操作や公債の売買に使うという禁じ手も使い出すほど、「レーニンの「帝国主義論」も古い」となっているのだと思います。もちろん、レーニンがマルクスの不備ということで指摘していたこともマルクスは一応出していたこと、それと同じように、レーニンがこの著の中で出していたことは、基本的枠組みとしてまた有効性があることはあるのですが、「帝国主義」的なことと別の可能性を当時としてはありえないとしていたことが、現在的に進行している面もあるようです。さて、レーニンにはそもそもロシア的な資本主義の発展を押さえたブログ433でとりあげた・レーニン『ロシアにおける資本主義の発展 (上)(中)(下)』岩波書店(岩波文庫) 1978-81があります。この本は、そこからさらに展開し、カルテル――シンジケート――トラストという「独占」をとらえ、侵略戦争と植民地支配という「帝国主義」を押さえた論攷です。
さて、ここで押さえておきたいことは、レーニンの「帝国主義論」と同時代的に出された、ローザ・ルクセンブルクのレーニンの「帝国主義論」に対置された、「資本蓄積論」の「継続的本源的蓄積論」です。そこから、世界システム論やネグリ/ハートの『<帝国>』あたりにつながっていっているのですが、ネグリ/ハートは国民国家の過小評価に陥っています。それらのことをわたしは反差別論として読み解こうとしていています。とても、現代経済学の本格的学習まで手をひろげられそうにはないのですが、誰も反差別論からの掘り下げたコミットメントをしてくれません。ともかく、基礎的対話くらいはなしえたいとは考えたりしています。
さて、切り抜きメモを残し、その中でもう少し対話を試みます。
「この国では、大工業における独占の誕生に集荷がおよぼす影響は、結晶体のような純粋さであらわれている」293-4P→これには訳者注がついていて、注(1)時代とともに変化する歴史社会の法則に対して、恒久不変の法則をさす。」295P・・・これは社会的関係と自然的関係としてとらえかえすことができて、まさに「社会的関係を自然的関係としてとらえる」という錯認としてのマルクス的な物象化論の指摘とつながっている、とわたしサイドで読み込みました。
「独占体の歴史を基本的に総括すると、結局つぎのとおりとなる。/(1) 一八六〇年代と一八七〇年代――自由競争の発展の頂点。独占体は、かろうじて認めうる萌芽でしかない。/(2) 一八七三年の恐慌以後。長期にわたるカルテルの発展期だが、カルテルはなお例外的存在である。それはなお、永続的なものではなく、一時的な現象である。/(3)十九世紀末の紅葉と一九〇〇〜〇三年の恐慌。カルテルは、経済的生活全体の基礎の一つになっていく。資本主義は、帝国主義に転化した。」296P
「独占者の団体が「組織」づくりに用いる現代的な、最新の、文明的な闘争手段の一覧表を、ざっとでも見ておくと、教えられることが多い。/(1)原料の剥奪 /(2)「同盟」による労働力の剥奪/(3)輸送の剥奪/(4)販路の剥奪/(5)もっぱらカルテルとのみ取引きするという、購買者との協定/(6)計画的な価格引き下げ/(7)信用の剥奪/(8)ボイコットの宣言」(注解省略)300P
「細かい網の目のような水路が、国中をおおい、すべての資本と貨幣収入を集中し、数千数万の分散した経営を単一の全国民的な資本主義経済へと、さらには、世界資本主義経済へと、転化させつつある」306P・・・銀行資本の支配の水路
「銀行が幾人かの資本家のために当座勘定の口座をひらくのは、純然たる技術的な業務、あるいは、もっぱら補助的な業務をおこなうことであるかのようだ。だが、この業務が巨大な規模にまで成長すると、全資本主義社会の商工業取引きが、一握りの独占者に従属させられることになる。」308P
「自由競争の支配する古い資本主義に独占の支配する新しい資本主義がとって代わったことは、一つには、証券取引所の意義が低下したことにあらわれている。」312P・・・これは銀行支配ということなのですが、現在的には株式による株の持ち合いとか、ヘッジファンドの登場とか、巨大な多国籍企業の登場とか、国による公的資金の株株式への投入、金利操作とか、銀行支配という側面は、レーニンの時代に比べてすくなくなっているのではと思えるのですが。
「銀行と産業との「人的結合」を補っているのは、これらの銀行や会社と政府との「人的結合」だ。・・・・・・したがって、資本主義的大独占をいわばつくりだし、仕上げるのは、あらゆる「自然的」および「超自然的」な方法によって全速力で進められているのだ。」316P
・・・「自然的」――まさに物象化論的把握
「資本の輸出国は、比喩的な意味では、世界を自分たちのあいだで分割した。しかし金融資本は、まさに世界の直接的分割をもたらしたのだ。」140P
「X 資本家団体による世界の分割」340-9P・・・電気と石油、そして運輸、鉄道からレール製鉄業
「資本主義国の植民地政策化がわが地球上のあいている土地の侵略を完了したという意味だ。だから、このあとに来るのは再分割だけだ。」350P・・・再分割として二度の帝国主義間戦争としての世界大戦、そして植民地支配からの独立闘争を経ての「帝国主義論」から世界システム論への転換やネグリ/ハートの「<帝国>」概念の登場
「したがって、独占資本主義段階への、金融資本への資本主義の移行が、世界分割をめぐる闘争の激化と結びついているということは疑いのない事実だ。」351-2P
「われわれは、ここから一八七六年をとる。これはすこぶる選択の当を得た時点だ。なぜなら、全体として見れば、まさにこの時期までに、独占以前の段階の西ヨーロッパ資本主義の発展は完了した、と見ることができるからだ。」354P
「こうして、第14表(354P)のような総括表が得られる。/この表からは、十九世紀と二十世紀の境に世界の分割が「完了した」のが一目瞭然である。」355P
「植民地政策と帝国主義は、資本主義の最新の段階以前にも存在したし、資本主義以前も存在した。奴隷制に立脚したローマは、植民地政策を推進して帝国主義を実現した。しかし、社会経済的構成体の根本的な相違を忘れたり、それを軽視して、帝国主義について「一般的」に論じるなら、「大ローマと大ブリテン」を比較するというような、空疎このうえない俗論や駄ぼらになってしまうのは避けられない。資本主義の従来の諸段階の資本主義的植民地政策でさえ、金融資本の植民地政策とは本質的に異なっている。」356-7P・・・資本主義以前の帝国主義と資本主義的植民地支配の帝国主義、金融資本支配下の植民地主義的帝国主義と、植民地からの独立後のグローバリゼーションン下の「帝国主義」――これは、世界システム論では、(アジア的)帝国主義、グローバリゼーション下の中枢国―周辺国という二分法になっています。ネグリ/ハートの「<帝国>」概念は、これらを架橋する概念。
訳注(1)「レーニンは、『帝国主義ノート』(第四版、三十九巻、七〇〇ページ)で、世界の国々を、(1)金銭的にも政治的にも自立した国、(2)金銭的には自立していないが、政治的には自立している国、(3)半植民地、(4)植民地と政治的従属国、の四つのグループに分けている。第一のグループにはイギリス、ドイツ、フランス、アメリカがあげられているが、第二のグループにはロシア、オーストリア、トルコ、西ヨーロッパの小国、日本、中南米の一部があげられている。だから、ここではアルゼンチンとかポルトガルが出されているが、ほんとうはロシアのことを頭においているのである。」361P
(帝国主義のついてのまとめ)「帝国主義は、資本主義一般の基本的属性の発展、その直接の継続として成長した。しかし、資本主義がついに資本主義的帝国主義になったのは、その発展の、きわめて高度な一定の段階でのことであって、資本主義のいくつかの基本的属性がその対立物に転化しはじめ、資本主義からより高次の社会経済的制度へ移る過渡期の諸特徴があらゆる面で形成され、表面化したときのことである。/この過程において経済面で基本的なことは、資本主義的独占が資本的自由競争にとって代わったことである。自由競争は資本主義と商品生産一般の基本的属性であり、独占は自由競争の直接の対立物である。ところが、この自由競争が、われわれの眼前で独占に転化しはじめた。すなわち、大規模生産をつくりだして小生産を駆逐し、大規模生産を巨大規模の生産で置き換え、生産と資本の集積を推し進め、そこから独占体が、つまり、カルテル、シンジケート、トラスト、そしてこれらと融合し数十億の金を動かしている十行かそこらの銀行の資本が、成長したし、いまも成長しつつあるところまで到達させたのだ。そして同時に、独占は、自由競争のなかから成長しながらも自由競争を排除せず、自由競争のうえに、これと並んで存在し、このことによって一連の、とくに鋭くはげしい矛盾、摩擦、衝突を生みだしている。独占は、資本主義からより高次の体制への過渡なのである。/もし帝国主義をできるだけかんたんに定義する必要があるとすれば、帝国主義とは資本主義の独占段階のことだと言うべきだろう。この定義には、最も主要なものが含まれている。というのは、一方では、金融資本とは、産業家の独占団体の(産業)資本と融合した、独占的に少数の巨大銀行の銀行資本だからであり、他方では、世界の分割とは、まだどの資本主義強国によっても侵略されていない領域へ自由に拡張される植民政策から、くまなく分割しつくした地球上の領土を独占的に領有する植民地政策への移行だからである。」362P
「あらゆる定義一般のもつ条件つきで相対的意義を忘れずに、つぎの五つの基本的標識を含むような、帝国主義の提起を与えねばならない。/(1)生産と資本の集積が高度の発展段階に達して、経済生活で決定的役割を演じる独占体をつくりだしたこと。/(2)銀行資本が産業資本と融合し、この「金融資本」を基礎として金融寡頭制がつくりだされたこと。/(3)商品輸出と区別される資本輸出が、とくに重要な意義をおびること。/(4)資本家の国際的独占団体が形成され、世界を分割していくこと。/(5)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了したこと。/帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立し、資本輸出がきわだった意義をおびるにいたり、国際的トラストによる世界の分割が始まり、最大の資本主義諸国による地球の全領土分割が完了した、という発展段階の資本主義のことである。」363P
「もし基本的な純経済的概念[いま述べた(前の文章)定義はこれに限定したものである]だけでなく、資本主義一般に対して資本主義のこの段階が占める歴史的な位置とか、労働運動における二つの基本的な傾向と帝国主義との関係とかを考慮に入れるならば、帝国主義にはこれとは異なる定義を下すことができるし、下さなければならない。ただ、ここでは、右に(横書きでは上に)指摘した意味で理解される帝国主義が、疑いもなく、資本主義の特殊な発展段階をなすということに、注意しておかねばならない。」363P
「帝国主義にとってまさに特徴なのは産業資本主義ではなくて、金融資本主義なのだ。」364P
「カウツキーが帝国主義の政治を帝国主義の経済から切り離して、領土併合を金融資本の「好む」政策だと解説し、それに対置される別のブルジョワ的政策が同じ金融資本の土台に立っても可能であるかのように主張している点にあるのだ。そういうことなら、経済における独占は、政治における独占ではない、暴力的ではない、侵略的ではない行動様式と両立しうるということになる。つまりは、まさに金融資本の時代に完了し、最大の資本主義国家間の競争の現代の形態の独自性基礎をなしている地球の領土的分割は、帝国主義的でない政策と、両立しうるということになるのだ。」366-7P・・・カウツキーの分析はその時代には間違えていたとしても、植民地が独立した現代のグローバリゼーションンの時代の経済体制ということでは、当てはまることがあるのでは?――単一の中枢国による植民地ではなくて、グローバリゼーションンの時代の多国籍企業の支配も含んだ経済従属体制というところでの政治的従属関係となっている。
「ところが、二十世紀の初めにあたる歴史=具体的な時代としての金融資本の時代の「純経済的」条件について語るのならば、「超帝国主義」という死んだ抽象[これはもっぱら、存在している諸矛盾の深刻さから注意をそらすという極反動の目的に役だつものだ]に対する最良の答えは、現代社会の具体的=経済的現実をそれに対置することである。」368P・・・前のメモと同じ
「金利生活者の収入が、この世界一の「商業国」(「大英帝国」)の貿易収入を五倍も上まわっている! ここにこそ、帝国主義と帝国主義的寄生性の本質があるのだ。/「金利生活者国家[Rentnerstaat]あるいは高利貸国家という概念が、帝国主義に関する経済的文献のなかで一般的に用いられるようになりつつあるのは、このためである。世界は一握りの高利貸国家と圧倒的多数の債務者国家とに分裂した。」374P
「この著者(ホブスン)の見解によれば、つぎの2種類の事情が旧来の諸帝国の力を弱めてきた。すなわち、/(1)「経済的寄生性」/(2)従属的諸民族からなる軍隊の編成/である。」376P
「帝国主義本国(中枢国)」の第一産業と第二次産業の空洞化377P
「ヨーロッパ合衆国」378P――訳注(1)「大戦の初期にボリシェヴィキのなかで「共和制的ヨーロッパ合衆国」というスローガン出された。レーニンもはじめはそれを支持したが、一九一五年なかばになり、資本主義、帝国主義に手をふれないでヨーロッパ合衆国を追求するのは誤りだと、これをしりぞけた。レーニンは「社会主義的世界合衆国」を考えている。」379P・・・そのようなことが成立したら、国家という概念ではなくなるのでは?
「ここでは、原因と結果がはっきりと指摘されている。/原因は、(1)この国による全世界の搾取、(2)世界市場におけるその独占的地位、(3)その植民地独占、である。/結果は、(1)イギリス・プロレタリアートの一部のブルジョワ化、(2)プロレタリアートの一部がブルジョワジーに買収されているか、すくなくとも彼らから金をもらっている連中の指導に甘んじていること、である。」382P
「だから日和見主義は、こんにちでは、十九世紀後半のイギリスで勝利を得たように、数十年の長きに渡って一国の労働運動を完全に支配することはできない。しかし、日和見主義は、幾多の国で、成熟しきって熟しすぎ、さらには腐りはて、社会排外主義となって、ブルジョワ政治と完全に融合してしまったのである。」382P・・・レーニンの時代の「中枢国」では、「融合」は可能だったとしても、グローバリゼーションンの時代には、「融合」は可能なのか? 「労働貴族」の没落
「現在のいわゆるドイツ「社会民主」党の幹部は、正当にも「社会帝国主義者」――すなわち、口先では社会主義者、実際は帝国主義者――という名前で呼ばれているが、ホブスンは、速くも一九〇二年に、イギリスには日和見主義的な「フェビアン協会」に属する「フェビアン帝国主義者が存在している、と指摘していた。」383-4P・・・いろいろな「帝国主義者」
「外国の支配下にあるアジア・アフリカ・ヨーロッパの諸民族の代表者が集まって、一九一〇年六月二十八〜三十日にひらかれた従属民族人種会議」384P――訳注(3)「ロンドンのウェストミンスターで開かれた。エジプト、インド、モロッコ、グルジア、アフリカの黒人、南米のインディオ、アイルランド、ポーランドの代表が集まった。」385P・・・この時代から反「帝国主義」運動が始まっていることに留意―
「帝国主義の諸矛盾を分析してその深刻さをあばきだすのではなく、これらの諸矛盾を回避し、言いのがれをしようという改良主義的な「無邪気な願望」――これが、われわれの見る唯一のものなのだ。」386-7P
「輸出の上昇はまぎれもなく金融資本の詐欺的行為と結びついているのであり、この金融資本はブルジョワ道徳などすこしも気にせず、一頭の牛からも二枚の皮をはぐのである。つまり、最初は、借款から利益を得、つぎは、借款がクルップの製品や製鋼シンジケートの鉄道用材の買いつけ等々にあてられるとき、その同じ借款から利益を得るわけである。」391P・・・ODAとか、世銀支配とかにも繋がる常套手段
「帝国主義は金融資本と独占の時代であり、この金融資本と独占は、いたるところに、自由を求める渇望ではなく、支配を求める渇望をもってまわる。」395P
「ここでとくに、問題としているこの時代の特徴をなす独占の主要な四つの現象を、指摘しておかねばならない。」――「第一に、独占は、生産の集積のひじょうに高度な発展の段階において生産の集積のなかから成長した。これは、資本家たちの独占団体――カルテル、シンジケート、トラストである。」――「第二に、独占体は、最も重要な原料資源の略奪を強化させた。」――「第三に、独占は銀行から成長した。銀行はひかえめな仲介者的企業から金融資本の独占者に転化した。」――「第四に、独占は植民地政策から成長した。」397-8P
「この点で何よりも危険なのは、帝国主義との闘争は、日和見主義との闘争と切っても切れないように結びつけられていなければ、空虚な、偽りの空文句にすぎないということを、理解したがらない人々である。」400P
「この点で示唆ぶかいのは、「からみあい」や「や「孤立性の欠如」等々が、最新の資本主義について記述しているブルジョワ経済学者たちの流行語となっている。」――「それでは、この「からみあい」という言葉は何をあらわしているのか。それは、われわれの眼前で進行している過程の最も目につく特徴だけをつかんでいるにすぎない。それは、観察者が木を見て森を見ないことを示している。それは、外面的なもの、偶然的なもの、無秩序なものを、ただそのまま書き写していただけのことだ。それは、素材に圧倒されて、その意味も重要性もさっぱりわかっていない人間であるあることを暴露している。」――「このようなときには、われわれの眼前にあるものは、生産の社会化なのであって、たんなる「からみあい」などではけっしてないということ、私経済的関係および私的所有者的関係は、もはやその内容にそぐわない外皮をなしていること、そしてこの外皮はこれを取り除くのが人為的に引き延ばされるばあいにはかならず腐敗するということ、それは比較的長期間[最悪のばあい、日和見主義の腫れものを治してしまうのが遅れるばあいには]腐敗状態のままでいることがあるが、それでもやはり、結局はかならず取り除かれるであろうということが、明白になるのである。」401-2P・・・ブルジョワ・イデオローグ達の無理解と、ものごとをあいまいにさせる目くらまし的虚言


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