2020年01月18日

A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』

たわしの読書メモ・・ブログ523
・A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店 2018
この著者は、「フェミニスト社会学の第一人者」で、リベラルな学者なのですが、南部の共和党支持者がどうして、共和党右派を支持するのかということを探りに、つてを頼ってルイジアナ州レイクチャールズ市を中心とする現地にでかけ、芋ずる式につてを頼り、インタビュウや参加観察という手法で、分析をしてなした著書です。丁度、研究をしているときに、トランプの選挙戦が始まっているとき、どうしてトランプ政権が成立し得たのかということの分析にもなり、アメリカの中でもかなりの評価を受けている書なのです。
 ルイジアナ州は石油関連施設が作られ、一方では有数の貧困州、アメリカ中央政府から州の予算の44%の支援が入っているのですが、小さな政府という共和党の支持をしている赤い州(ちなみに民主党の支持の州は青い州と呼ばれています)なのです。そして、石油関連施設を州政府が誘致して、そこで大規模な地盤沈下、環境汚染が起きているのです。ここでは「がん回廊」と呼ばれるほど、がんが多発しているのです。また遊泳禁止や釣り禁止の立て看を立てて規制するところなのですが、この規制を住民が嫌い、「がんにならないような魚の調理法」とかいう本末転倒のことが流布していくなどのことが書かれています。これを著者は(環境破壊という)鍵穴から地域社会見るという概念でとらえ返そうとしていて、一部のひとはそこから訴訟とか起こし、自らの右派の地盤を揺るがしてはいるのですが、それでも資本誘致や優遇政策を州政府が進めていて、共和党支持者はそれに乗り、批判がちゃんと起きないのです。それで、福祉を受給する人たちへの批判が「列を乱す者」として出てくるのです。
 この本の、キー概念は、ディープ・ストーリーです。この地域には、ケイディアンという、カナダのフランス系ひとたちが、イギリスのカナダ支配の中でカナダを追われて、たどり着いたひとたちがかなりいて、差別の中でいきてきて、アメリカン・ドリームを夢見て生きる、そしてそれなりに地位を得たひとたちが、もっと下層のひとたちが福祉を受けることを批判する差別構造の中で、小さな政府の共和党支持をしていくということがあるのです。また、南北戦争の南部連合の北軍・中央政府への批判もその深層にあるという、論理ではない、感情的なことが表面に出てくる、ディープ・ストーリーなのです。さらに、現実の問題に向き合うことの中で、保守ではないリベラルな思考が出てくるのですが、そこは、キリスト教的なすべてを「神の思し召し」ということや、神の国での幸せを願うというところで、現状改革を回避していく思考が出てくるのです。
 著者はこのひとたちのディープ・ストーリーをつかむ中で、そのひとたちの心性をつかみ、リベラルな思想は維持しつつ、その心性をとらえ返しているのです。
さて、この本を読みながら、日本にも同じような事が起きているとの思いを抱きました。たとえば、環境破壊について語らないようにしている共和党支持者は、フクシマにおける放射線被害を語らない中で、保守志向を維持していくこと。福音派のテイーバーティと国家神道の日本会議の対比をしていました。「列を乱す者」という批判は、部落解放運動の中での特別処置法への「ねたみ差別」に呼応するヘイト発言にもつながっています。
反差別論をやっているわたしの立場からすると、被差別者が差別に対峙しえず、差別的心性にとらわれていく情況をさぐる貴重な書です。まさに論理にならない感情的なところで、出口が塞がれてていると感じて、そこからあらゆる差別的な心性にとらわれていく構造があるのです。差別されるひとが、さらに差別するひとを探し差別を転化していく構図があります。それは、結局大きな差別の構造の中で、自分自身の不利益にしかならないのですが、それは論理の問題で、感情的なところで差別するひとを探す、いわゆるスケープ・ゴート的な差別の転化の構図がそこにあるのです。そもそも、この書でもあるのですが、差別ということを、きちんと言葉化して、差別の構造そのものに対峙する、分断を超える運動を作り出していくことがいまこそ必要なのです。
この本はおすすめの本です。読む習慣があるひとは、ぜひ、図書館でも探して・リクエストして読んでみてください。
あとは、キーワード的な切り抜きメモの中で、コメントを残します。
「わたしたちは、川の “向こう側”の人に共感すれば明快な分析ができなくなると思い込んでいるが、それは誤りだ。ほんとうは、橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれるのだ。」xiP
「共感を阻む壁」8P
「今では人種より、“愛党心”と呼ばれるもののほうが、対立につながる偏見を生みやすくなっている。」10P
「大きなパラドックス」9-25P
ルイジアナ州は多くの苦難にさらされている州、連邦政府の支援も大きいのに、連邦政府(当時は民主党)批判、大きな政府批判の立場14-15P
青い州―赤い州16P
「メディケイド[困窮者と身障者を対象とする医療扶助制度]やフードスタンプ[食料購入費の給付制度]を必要とする赤い州の住民たちは、これらの仕組みを歓迎するが、投票には行かない。しかし少し上の階層[マクギリスは一、二段階上としている]にあたる白人保守派はこうした制度を必要とせず、必ず選挙に行く。そして、貧困層のために公的資金を使うことに反対票を投じるのだ。」16P
「政府のサービスに反対票を投じる当の富裕層が、そのサービスを利用している」17P
「あるんだから、使わない手はないだろう?」というティパーティー支持者17P
「マクギリスは、投票者は純粋に自分の利益のためだけに行動するのだと述べている。」17P・・・?自分の利益をどこに見ているのかということによって違ってくるはず、保守派には言える。
「わたしは本書のテーマの核心に通じる“鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)”とも言うべき問題にたどり着いた。それは環境汚染だ。」18P
「近年右派の台頭が著しい地域は、ほとんどすべてがメイソン=ディクソン線[一八世紀に植民地間の領有権紛争を解決するために定められた境界線。のちに米国を南北に分かつ境界線になった]以南に位置している。南北戦争時に南部連合に参加した州を含む地域で、米国の人口の三分の一を占める人々がここに暮らしている。」18P
南部の人口は増え、南部の白人が民主党から共和党支持に移行し、全国的にも白人の共和党支持が増えている。「だから右派を理解したければ、南部の白人を知る必要があると思ったのだ。」18P
「米国議会下院のティパーティー議員連盟に加入しているルイジアナ州選出議員の数は、サウスカロライナ州に次いで二番目に多い。」18-9P
「がん回廊」21P、353P
「どういう経緯そんなこと(企業の利益の論理や富の集中の論理、エリート主義への批判)になるのだろう。頭の回転がよくて、疑問に思うことは必ず確かめ、情報収集を怠らない人でも欺かれるのだろうか。」22P
(ウッダード)「わたしたちが所属する小集団には、しはしば政治と地理を結び付ける特殊な統治文化が反映される。」22P――「もちろんウッダードの言うほど流動性を欠いたものではない。」23P
「右派の倫理観を指摘する見解もある。・・・・社会学者のシーダ・スコチポルとヴァネッサ・ウイルアムソンは、それは複数の状況――下地となる要素と、促進する要素――が独特の形で影響し合って生まれるものだとしている。後者のおもなものは、二〇〇八年の大不況と政府の対策、バラク・オバマ政権、それにFOXニュースだったという。」23P
「どの研究もたいへん参考になったが、わたしにはひとつだけ、どの研究にもないものを見つけた。それは、政治における感情というものの理解だ。」23P・・・わたしは感情を差別的心性というところから読み解こうとしています。
「いまは左派でも右派でも、“感情のルール”が働いている。」24P
「わたしは、その人にとって真実と感じられる物語――これを“ディープストーリー”とよぶことにする――・・・」24P
「ディープストーリーはわたしを、「持つべき」感情と「持つべきではない」感情との向き合い方、さらに、人々の心の核にあって、カリスマ的指導者に動かされる感情に、目を開かせてくれた。これからご紹介するように、誰もがディープストーリーを持っているのである。」25P
「ティーパーティは単に公認された政治集団ではなく、ひとつの文化なのだと気づいた。」30P
「わたしが話を聞いた人はみんな、クリーンな政府を望んでいた。だがルイジアナでは、大きなパラドックスが真正面からわたしをにらみつけてきた――そこでは、深刻な公害に苦しむ人々が、その公害を撒き散らす張本人を規制することに猛反対していたのだ。」32P
「マドンナ(ゴスペル歌手のマドンナ・マッシー)はリベラルが自分や祖先に投げつけてくる侮辱の数々を、リンボー(リベラル批判のコメンテーター)が強固な壁となって跳ね返してくれたように感じたのだ。」36P・・・被差別のディープストーリーが反差別とならず、単なる被害者意識にとどまるところからくる差別へ転化する感情
「ティパーティーの支持者は、三つのルートを通じて、連邦政府きらいになるようだ。ひとつ目は、信仰(彼らは政府が教会を縮小したと感じている)、ふたつ目は、税金への嫌悪感(あまりに高すぎ、累進的すぎると思っている)、そして、三つ目は、これから見ていくように、名誉を失ったショックだ。」51P・・・公務員と生活保護を受けているひとをスケープ・ゴートにする批判へと向かっていく
「じつは、(「列をみだすひと」を批判している勢力にいる)リーとミス・ボビーは社会保障年金で暮らしていて、・・」52P
「右派の人々を強く動かす関心事は、税金、信仰、名誉の三つであるらしい。」67P・・・プライドということの差別に働く心性をとらえ返す
「みんな、このあたりには“釣り遊泳禁ず”という看板すら立ててほしくないんです」69P・・・福島で、フクシマの放射線被害が語られなくなっていることに通じる事
「ノスタルジア[望郷、郷愁]」70P・・・これに非常に強力にとらわれた過去の歴史、それだけ強い思い、ディープストーリー
「町では、いたるところで、環境と自然のどちらを取るかということが話題になっていた。」73P・・・本来、二者択一になることではないことがなるというところで、批判に向かわない情況
「構造的忘却[structural amnesia]」73P・・・ある特定のことを忘れ、別のある特定のことを記憶すること→「社会の成り立ちに関係している」「記憶は、権力による間接的な発言」74P
「階層の上に行くほど、処罰を免れる確率が高くなり、下に行くほど低くなる。環境規制はそのようにできているらしい。」75P
「わたしは、見えないものに気づくことにより、自分が見たい状況に深く切り込もうとしていた。それはネガを調べて、写真を理解しようとするのに似ていた。わたしは、人が覚えていることや感心を示すこと、言葉にしたことではなく、彼らが忘れたことや無視していること、口にしないことに焦点を置いた。わたしは自分が“ディープストーリー”と呼ぶ物語へと手を伸ばし、人の意識の中にしまい込まれたものに光をあてようとしていた。」81P
「健康が損なわれることや人生が台無しにされることなどを問題にしないで「その男性は、働かない者――何ももらう資格のない者――にただで税金をくれてやるのはいやだと感じていたのだった。」87P・・・さらに、健康を破壊する企業に優遇処置をするのはかまわないというとんでもない考え。
「この亀裂(前のこと)が感情の引火点であることに何度も気づかされることになった。」88P
「おもに白人男性の好むもの(酒、銃、オートバイのヘルメットなど)については、規制がかなりゆるい。しかし女性や黒人男性に対する規制はもっと厳しい。」99P
「だがここの人々が規制について腹立たしげに語るときには、中絶クリニックや刑務所のことを思い浮かべているのではないのだ。彼らの頭にあるのは、政府が買えと言っているもの(蛍光電球やLED電球など)のことだ。」100P
(共和党関係の集会で)「わたしは自由という言葉を頻繁に耳にした。車を運転しながら携帯電話で通話をする自由とか、ストロー付きのダイキリをドライブスルーで買う自由とか、装填した銃を携帯して出かける自由といった意味で言及される“自由”だ。しかし、銃暴力や、自動車事故や有毒物質による環境汚染からの“自由”はまったく話題にのぼらなかった。」103P
「わたしは、汚染浄化を訴える“声なき声”を聞き取ろうとしすぎていて、仕事が第一だとはっきり叫んでいる大きな声を聞いていなかった。」104P
 地元の利益という幻想106-112P
「おそらく、ルイジアナ州の石油は、保守派が牽引してきた経済成長戦略――社会学者のキャロライン・ヘインリーとマイケル・T・ダグラスが「邪道」の戦略と呼んだもの――の象徴だったのだろう。」111P
「アメリカでは仕事かきれいな環境か、どちらかひとつしか選べないという考え方――よい仕事に恵まれるかどうか不安に思う右派の無理からぬ気持ちにつけ込むような刷り込み――」111-2P
「規制の厳しい経済圏ほど、多くの就職口があることがわかったのだ。」112P
寄付というごまかし112-3P
「二〇一〇年のデータでは、有毒物質による汚染が深刻な郡に暮らす人ほど、アメリカ人は環境汚染を「心配しすぎている」と考え、国は「十分すぎるほどの」対策をとっていると信じる傾向が顕著だった。」114P
「わたしが全体像をのぞき見るための鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)としたテーマ――全国の汚染問題――でも、それが立ち現れた。米国全体のストーリーを見ても、ルイジアナ州は決して変わり種などではなかったのだ。」115P
「「住民にとって望ましくない土地利用」にあまり抵抗を示さない地域を見つけ出す」116P
→パウエルの描き出した「抵抗する可能性が最も低い住民特性」――・南部か中西部の小さな町に古くから暮らしている。/・学歴は高卒まで。/・カトリック。/・社会問題に関心がなく、直接行動に訴える文化を持たない。/・採鉱、農耕、牧畜に従事(報告書では「天然資源を利用する職業」と呼ばれている) 。/・保守的。/・共和党を支持。 /・自由主義を擁護。」116-7P
「彼らを取り囲み、彼らに影響を与えている社会的地勢に、何かほかの方法で身を置いてみる必要があった。そうした地勢を形づくつている要素には、産業、州政府、教会、報道機関が含まれる。」118P
「そもそもわたしたちは、アメリカ化学協会が約束しているような新しいブラスチックをほんとうに必要としているのだろうか。」131P
6章――ハーディー・ウエストレイク市長・・・アメリカンドリームののし上がり、地域ボス
7章――バイユーコーンのシンクホール(陥没穴)
「お金のことしか頭にないのだ。」155P
「産業が州当局に守られてしかるべきだという文化」156P・・・住民への援助が嫌いなのに、企業への援助は可という信じられない文化
州のひとつの部局者の文書――汚染されている可能性のある魚の食の規制ではなく、調理法を書いている157-8P
「お困りのことがあるんですか。慣れてください。」158P
 公務員をスケープゴート的に批判しているひとが、公務員の仕事についてのコメント――「わたしだったら、とてもあんなふうに生きられない。」159P・・・公務員の仕事が大変だという主旨
「市場の自由が完全に保証された世界と、地元のコミュニティとかうまく共存できるものだろうか。」――「ジンダル(州知事)は公共サービスを削減し、環境保護費を減額して、産業びいきの“保護策”をうち姿立てた。州政府は、バイユーコーンの住民を守る機能をまったく果たさなかった。」159P
「さまざまな側面を探索したわたしは、よい政府のあるべき姿がはっきり見えたと思った。しかしわたしの新しい友人、マイクは、汚染された魚の処理方法を助言したところにより小さい政府のあるべき姿をはっきりと見ていた。」160P
「社会学者のソースタイン・ヴェブレン[一八五七―一九二九]も、貧困からの距離は名誉につながると述べている。」162P・・・昔の学者の考え
「社会層には言及せず、黒人のことをできるだけ遠まわしにぼかして話そうという細やかな気遣いはするが、不安をまじえてイスラム教徒の話をするときにはあからさまにずけずけとものを言う。」163P
「右派の目には、連邦政府が一丸となって、誤った――裏切り者の――側に加勢しているように見えるのだろうか。」164P・・・裏切り者――後に出てくる「列を乱す者」やリベラル派
「それでも、マドンナの世界観では、財産は警察が守ってくれて、プライドはラッシュ・リンボーが守ってくれ、そのほかのことは神さまがまとめて面倒を見てくれるらしい。」173P
「でももし、アメリカンドリームとカメのどちらかを選ばなくちゃならないとしたら、むろん、わたしはアメリカンドリームをとるわ。」173P・・・アメリカンドリームはまだ生きている? 二者択一の思考?
「米国福音派教会は、アメリカの有権者の四分の一を占めるキリスト教徒三〇〇〇万人の声を代表する。政治的な主張を持った宗教的右派の主導組織だ[特定の宗派ではなく、保守派のプロテスタントによって構成される]。」174P
「バイスナー(アクトン宗教・自由研究所非常勤研究員、福音派のスポークスマン)は、旧約聖書の創世記第一章第二八節を引用した。「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて他を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」」と。」175P
「携挙」(――携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。<ウィキペディア>)176P・・・これを信じるなら政治的議論はおよそ成立しない
「オートメーションと企業による自社業務の海外移管が進んだことにより、高卒のアメリカ人男性の実質賃金は、一九七〇年に比べて四〇パーセントも減少している。労働者の九〇パーセントに関しては、平均賃金が一九八〇年以降横ばいのままだ。年配の白人男性の多くは希望を失っている。」178P
「FOXニュースを家族のように思っている人もいる。」179P
「そのティパーティーの支持者には、クリスティアン・アーマンプール[CNNの国際特派員を務めるイラン系イギリス人ジャーナリスト]が暗に自分を責めているように感じられたのだ。どんな人を気の毒に思うべきか、リベラルの感情ルールを押し付けようとしている、と。」182P
「しかもわたしたちは誰もが、自分のディープストーリーを持っているのだ。」183P・・・深層心理的感情的思い、対話が難しい
「彼らの経済を支配している産業は、明らかに矛盾した物語を提示しているのだ。・・・・彼らは犠牲者としての言葉を持たない犠牲者なのだ。」186-7P
「でもわたしはそうした問題をでっちあげようとしていたわけではない。そこにあったのだ。環境汚染が。健康問題が。そして教育問題と貧困が。」187P
「すべての根っこは、構造的忘却にあるのかもしれない。」187P・・・「構造的忘却」という、これもキーワード
「ディープストーリーとは、“あたかもそのように感じられる”物語のことだ。」191P・・・感情的物語
「わたしは話を聞いた人々の希望、恐怖、プライド、屈辱、怒り、不安を――暗喩として――あぶり出すために、このディープストーリーを描いてみた。」192P
「列に割り込む人々」194-7P・・・「ねたみ差別」に通じる
「一九五〇年以降に生まれた人は、そうはいかなかった。それどころか、経済学者のフィリップ・ロングマンが言うように、彼らはアメリカ史上はじめて、生涯にわたって下降移動続けた世代となった。」200P
左派、「上位一パーセントの最富裕層と残り九九パーセントとの闘いに焦点を置く」212P
右派、「税金を“払う者”と“奪う者”という文脈で“不当”が語られる。」213P
「左派の怒りの発火点は、社会階層の上部(最富裕層とその他の層のあいだ)にあるが、右派の場合はもっと下の、中間層と貧困層のあいだにあるわけだ。左派の怒りの矛先は民間セクターに向けられるが、右派の場合は公共セクターである。皮肉なことに、双方とも、まじめに働いたぶんの報酬をきちんともらいたいと、訴えている。」213P
「彼らにとっては自由市場は、アメリカンドリームに通じる列に並んでいる善良な市民の揺るぎない同盟国であり、連邦政府は、不当に「割り込んでくる」連中に加勢する敵国だったのである。」213P
「企業が力をつけたことで、労働組合や政府の抵抗も少なくなった。そこで彼らは、誰はばかることなく、最高幹部や大株主に利益を多く還元し、労働者に少なく配分できるようになったのだ。」213-4P
「皮肉なことに、大手独占企業のために苦境に陥る可能性が最も高い経済セクターは、中小企業なのだ。しかもその多くは、ティパーティーを支持する人々によって経営されている。」214P・・・利益共同という共同幻想
「この“耐える自分”の表れ方に三つの明確なパターンがあることを発見しつつあった。わたしはそれぞれのタイプを、“ゲームプレイヤー” “信奉者” “カウボーイ”と名付けようと思う。」220P
「誰もが彼女のように懸命に働くのが、よりよい社会なのだと思っている。」224P・・・右派の考え
「連邦政府がおもに貧困者救済用として、ルイジアナ州の予算の四四パーセントを負担していることについては、むしろ返してしまいたいくらいだと言う。」227P・・・右派の考え
「ルイジアナが人間開発指数では五〇州中の四九位、健康全般では五〇位にランクされることと、右派が連邦政府の支援に抵抗を感じることのあいだには、なんの矛盾もないのだ。働かない者は、それなりのランクに甘んじればいいのだから。」237P・・・右派の考え
「その彼か彼女がね、もし偏見を経験していなければ、もっと楽に成長期を過ごせただろうと言ったときに、わたしは、チャズに自分の生き方を押し付けられたと思ったのよ。」231P
・・・異なる意見の表明を「押しつけられる」と感じる図式
「メーカーはわたしたちが必要とするものを作っている。ソーダのボトルや、ゴム底の靴や、歯磨き粉は必需品よ」231P――@ほんとうに必要なものなのかA代替え品(方法)はないのかB環境汚染を防いで作る方法はなかったのか(たいていは金儲け主義で、対策をケチったことで起きていること) ・・・フクシマのときの電気の話
「人は、アメリカンドリームに向かう次のステップを強く望みすぎてはいけない。」248P・・・現実的願望をあおりたて、宗教心で抑制する構図
「ひとつの願いをあきらめれば、もっと大きな願いがかなうことに、ジャッキーは気づいた。」250P・・・そういう場合もあるという話だけ、宗教によるごまかし
「われわれに必要な真の強さは、企業と全知全能の“ドル”に立ち向かうことだ。」269P
・・・フロンティアスピリッツ的なカウボーイからの転身
 三つのディープストーリーの体験371P
「しかしわたしは、ルイジアナ州南西部に暮らす年配の白人保守層――チームプレイヤー、信奉者、カウボーイ――は紛れもない犠牲者だと思う。」271P
「環境汚染に対しては、カウボーイのように耐えてはならない、と言いたいようだ。カウボーイのように闘え、と。」276P
「企業が一般住宅の前庭に、自由にメタンガスを噴出させている状態で、人々にどれほどの自由があるというのだろう。ティパーティーはこの問いにどう答えるだろう。マイクはこの疑問に直面していた。」277P
環境破壊のすさまじさ――がんの多発289P
「「アメリカの政治文化においては風土的とも言うべき大衆の衝動が高揚し表現される」現象が何度も生まれてきた。ティパーティー運動はそのひとつなのだ。一九世紀、二〇世紀には、政教分離論や現代性、人種統合、専門家文化に抵抗して、さまざまな運動が起こった。しかしティパーティーほど強力に、進歩的改革への反対、連邦政府の排除というふたつの目標を掲げた運動――ディープストーリーを反映した活動――はなかった。」293P
「年配の白人男性の居場所はどこに残っているだろう。理念としての公正さは、彼らには無縁のものと思われたのだ。」303P
「しかし――忘れられてはいるが――連邦政府のお金は途切れることなく北部から南部へと流れているのだ。」306P
「トランプは“感情に訴える候補者”だ。」319P
「“自国に暮らす異邦人”」からの脱出320P・・・トランプに呼応する保守派の心理
(エミール・デュルケーム)「集合的沸騰」320P・・・トランプに呼応する保守派の集合心理
「デュルケームの目で見れば、ドナルド・トランプを取り巻いて興奮する集会のほんとうの機能は、「列の前方に割り込む人々」がとんでもないアメリカを作ろうとしていると恐れる福音派の熱心な信徒をひとつにまとめることなのだ。」320P・・・デュルケームのいう「トーテムの機能」
「わたしは、感情的利益――自国にいながら異邦人であると感じる感覚からの、めくるめく解放感――がきわめて重要であることを発見した。」324P
「わたしのティパーティー支持派の友人たちは、決して自分たちを“犠牲者”と呼びたがらない。「かわいそうなわたし」にはなりたくないのだ。」329P
「しかし、左派の人々とあなたがたとのあいだには、意外なほど共通点があるかもしれません。なぜなら、左派の多くもまた、自分の国に暮らしていながら、異邦人であるかのような感覚を味わっているからです。」334P・・・右派のひとたちに手紙を書くとしたらと想定した手紙の最後の文面、資本主義の矛盾がそもそもの原因だから、次のメモ参照
「左派はと右派は、たがいに異なるディープストーリーを持ち、異なる葛藤に苦しみつつ、それぞれの状況下で自分は不当に扱われていると感じているのだ。左派は民間セクターの最富裕層を形成する一パーセントと、最下層生み出しつつある九九パーセントに目を向ける。リベラルにとっての発火点ここだ。右派は公共セクターを、増加の一途をたどる怠け者の“受給者”のサービス窓口だとみている。ロバート・ライシュは、せめぎあいは別のところにも――小企業が動かしているメインストリート資本主義とグローバル資本主義とのあいだに、自由競争的資本主義と独占資本主義とのあいだに――存在すると述べている。「従来、アメリカの政治にとって重要な断層線は、民主党と共和党のあいだを走っていたが、今後は、エスタブリッシュメント[既得権を持つ上流層]と反エスタブリッシュメントのあいだへと移行するだろう」この線はいずれ「ゲームに不正があるとみる人々と、そう思わない人々とを」分断するだろう。」335P
「付記B 政治と環境汚染――TOXMAPからわかったこと」
「その結果、極めて興味深いことがいくつかわかった。相対的危険度の高い郡の住民ほど、「人類の進歩が環境を損なうことについて、人々は心配しすぎている」という設問に同意する傾向が強かった。つまり、環境汚染への曝露量が高い地域ほど、個々の住民がそのことに不安を感じていなかったのだ――そして、「強力に共和党を支持する」と答える傾向が顕著であった」358P・・・パラドックス
「結局、赤い州のほうが青い州より汚染が深刻だった。投票する、しないにかかわらず、保守派で共和党を支持する人は、環境など問題ではないと一蹴し、その影響に苦しみながら、高レベルの汚染にさらされて暮らす傾向にある。全国で見られるこの政治と環境をめぐるパラドックスが、ルイジアナ州では、極端な形で表れていたのだった。」358-9P
「付記C 右派の共通認識を検証する」・・・右派の予断と偏見――12項目
▼「政府は福祉[生活保護費を指す]にお金をたくさん使っている」
▼「福祉給付金の受給者が増えている。受給者は働いていない」
▼「福祉給付金の受給者は、われわれ納税者の金に全面的に頼って生活している」
▼「貧しい人はみんな給付金をもらっている」
▼「黒人女性は白人女性よりもたくさんの子を産む」
▼「多くの人――四〇パーセントくらい――が連邦政府や州政府で働いている」
▼「公務員は給料をもらいすぎている」
▼「環境規制が厳しいほど、雇用は減少する」
▼「経済的優遇措置を準備し、規制をゆるめないと、石油・ガス産業はどこかよその地域に拠点を移してしまう」
▼「州が産業に助成金を出すことは、雇用拡大に役立つ」
▼「石油がほかの分野の経済を刺激する」
▼「共和党大統領のほうが絶対に経済は良好だ」
 メモ、「ファストフード業界で働く人」「保育士」「介護ヘルパー」で給付金受給を受けるひと、いずれも五〇パーセン前後→「“企業助成金”と呼ぶ人もいる。」361P
「訳者あとがき」
「事実であるかどうかはともかく、本人がこうだと感じている、彼らの人生の物語が浮かび上がってきたのだ。著者はそれを“ディープストーリー”と名付けた。まじめに働きさえすれば、いつかは自分もアメリカンドリームをかなえられると信じ、辛抱強く列に並んで待っていたのに、現実はそうではなかった。産業のグローバル化、自動化が進んで働き口が減り、勤めていても給料は横ばい。そこへ次々と列の前に割り込む者が現れた……。」370P
「ページの端々から、人に出会い、つながる喜び、友人たちの思いを届けたいと願う静かな熱意が伝わってくる。著者自身がしなやかに壁を越えてみせているのだ。/考え方は異なっていても、共感を阻む壁をはさんで言葉を交わすことはできる。手をとりあうことさえできるかもしれない。希望を捨てずに対話を続けてほしいと、この本は語りかけている。」371P・・・そんな簡単なことではないことは著者自身がわかっていると思うのですが。
「原注」
 いろいろ資料的に押さえておくことがあるのですが、ひとつだけ。
「ノルウェーでは、「石油企業は国の天然資源確保に貢献するが、石油は最終的に国のものだ」という前提で、すべてが運営されていると説明する。」45P(注は、後ろからのページ)・・・資源はみんなのものという当たり前の論理が、なぜ企業所有になっていくのか?


posted by たわし at 02:01| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』

たわしの読書メモ・・ブログ522
・『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』情況出版 2019
最近、「反緊縮」というところでの経済理論が出て来ていています。異端としてとらえられていたようなのですが、あちこちで目にするようになってきました。で、雑誌で特集を組んでいたので、一応押さえておきたいと、特集をだいたい読みました。今回のメモは、読書メモというよりは、そこからかなり離れたこの理論に対するわたしの対話です。
 資本主義社会の法律概念では、「基本人権」ということがあり、これはお金がないということで「基本的人権」に関わることにお金出さないとか、削減することはあってはならないはずで、だからこそ、「基本的人権」というのだと思います。こういう意味での「反緊縮」ということには大賛成です。
 「緊縮」といえば、小泉構造改革を想起します。ここでは、「聖域なき構造改革」で、福祉削減にまで手を出しました。アベ政治では真逆のアベノミクスなる経済成長戦略を出したのですが、福祉に関する事だけは、切り捨て、削減、頭打ちを続けています。真っ先にやったのが最後のセフティネットと言われる「生活保護の見直し」でした。一方で、「異次元の金融緩和政策」をやり、福祉は切り詰めるという、まさに、お金持ち・大企業優先政策をやっているのです。こういうアンビバレントな政治であるということを押さえねばなりません。もちろん、「反緊縮」ということで想起され反発されるのは、かつての「土建国家」と言われたような公共事業への、まさに企業のための事業を企画し、一度お金が付くと(後でいろいろ問題点がはっきりしてきても)止まらないというようなことをやってきたわけで、それが長く自民党政治を支えてきたという側面がありました。アベノミクスの「金融緩和政策」でも、結局、トリクルダウンとか言いつつ、いろいろ操作したあげく、実質賃金はあがらず、大企業が内部留保を貯めたという事に収束しています。
アベノミクス効果などということを言っていますが、財政出動をすればそれなりに経済が上向くのは当たり前で、逆にいうと、それだけ出動したのに、効果がほとんど上がっていないのです。雇用率が上がったという話をしていますが、それは専業主婦ということが一部お金持ち以外にありえず、子育て支援をしてこなかった結果少子高齢化をもたらし、若年層の労働者が減り、高齢者になっても仕事を続けざるをえなくなっているという総体的相対的貧困情況が生み出されている結果としかわたしには思えません。
 小泉構造改革で財政赤字削減と謳っていたのはアベ政権でどうなったのか、危機の先送り蓄積というようにしかわたしにはとらえられないのです。この特集で軸にしているMMT理論は、危機―デフォルト(債務不履行)は起こらないとしているのですが、その論拠がきちんと出されているとは思えないのです。
 デフレが続いているということ、すなわち経済成長がないということを諸悪の根源のように言うひとがいるのですが、そもそもグロバリーゼーションが行き渡った世界において、それでも資本は飽くなき利潤を追い求める、そして経済成長を求めることなしに資本主義は維持できないという根底的矛盾に陥っているわけで、デフレが続いているというのは、持続可能な資本主義体制という側面から出て来ているのではないでしょうか? 議員立法であの悪法―「障害者支援法」を作るときに掲げられたのは、「持続可能な福祉制度」でした。で、アベノミクスで経済成長戦略が掲げられたのですから、「持続可能な福祉制度」から「必要な支援をなしえる福祉制度」に変わるべきところ、こと福祉に関する事だけは「持続可能な福祉制度」どころか、あらゆる領域で切り捨て・切り詰めが続いていくという状態です。新グロバリーゼーションのキーワードである「自己決定」・「自己責任」の名の元に、「労働能力」がないとされるひとたちへの「死への誘導」さえ始まっています。
 どうも金を刷ってばらまくなり、国債を発行してお金をばらまけば、経済成長するような幻想をもっている「経済学の専門家」といわれるひとがいるようなのですが、商品が売れないないなら企業は商品を作らないし、設備投資もしないのです。だから、企業は内部留保をため込んでいくのです。グロバリーゼーションの時代には、経済成長を求めると、格差の拡大という方向に進むしかないという問題もあるのです。
 こんなことを考えながら、この特集を読んでいました。
 この特集のメイン論文は二つ、ひとつは、薔薇マークキャンペーンをやっている松尾匡さんの「薔薇マークキャンペーンと安倍政権を倒す経済政策」と石塚良次さんの「異端の経済学MMTを読み解く―現代資本主義と貨幣理論―金融緩和論の陥穽」です。松尾さんは消費税増税反対の論拠で使おうというところで、注目されているようです。ただ、政治―選挙分析をすべて経済政策分析でなしえるわけではないということや、講演録ということもあるのですが、およそ、これまでの経済理論との対話がきちんとなしえていず、粗い議論にしかなっていないのではという思いがあります。経済が破綻すると台頭するのは極右だとかいう話を書いていますが、左翼もでてくるのです。このひとは、資本主義が永遠続くこととして理論をたてて、その中で経済政策論理をしています。フランスの極右ルペンが福祉政策を立てているという話を書いていますが、それはヒットラーが国家社会主義労働者党と労働者の立場を出していたことと同じ構図です。そもそも、どんどん財政支出してもいいんだということは、エネルギーの永久機関などないことと同じで、どう考えてもありえません。たぶん、デフレの間はどんどん財政支出してもいいんだという主旨なのでしょうが、デフレからインフレに移行する潮目ということがつかめえるのでしょうか? 資本主義社会は株式ということがあり、その操作で金儲けをしようというファンドがあり、そこで急激に金を動かすのです。そのひとたちにいかに経済を安定させることに貢献するか、という倫理など求めようもないのです。だから、恐慌とか起きるのです。
 石塚さんの論文は、マルクス派貨幣論の深化という内容をもっているようで(「内生的貨幣理論」ということがキーワードになっているようです)、現在の資本主義の貨幣理論、そこから経済学的分析を深化していく必要を感じていました。マルクスの理論は原理論的な理論で、そこからこまかいところへもっと下降していくことも必要なのだと思います。たぶん、ここで問題になっているのは、ケインズ理論との対話です。ただし、イギリスの「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策がグロバリーゼーションにのみこまれていったことや、北欧の福祉国家的なところでのブレとか、スウェーデンで優生手術がおこなわれていたことや、福祉の先進国といわれるところが安楽死・尊厳死が広がっていっていることをとらえると、これは結局近代合理主義の突き詰めの範囲の福祉政策で、わたしはケインズ理論は破綻しているのではと思ったりしています。(反緊縮派を支える理論として、これは松尾理論の紹介のようですが@MMT(近代貨幣理論という訳も出ています)AニューケイジリアンB信用創造廃止・ヘリコプターマネー理論とあげています。(これは「註1」の中に書かれています。) 58P
さて、この特集でひとつだけ読み切れなかった。塚本恭章「いま読んでおきたい経済・経済学の本55冊」があります。膨大な文献があげられています。いろいろなことに手を出しているわたしにはとても、こちらの方に踏み込めません。それで、この分野にはコメントしないとすることなのですが、それでも、一応表面的でも少しはマルクス経済学の流れをかじった立場からあえてコメントを試みました。
そもそも、問題の焦点は、現在的に「反緊縮」といっているひとたちは、財政破綻する可能性にきちんと向き合っていないということです。そもそも、所得税の累進課税の軽減とか法人税減税がどういう論理からでてきていて、それをどう批判していくのかということがまったく出て来ません。国際競争力というところが出させていたのです。そもそも、企業が多国籍化しているときに、資本が海外に出ていくことを止められないのですが、タックス・ヘブンとかも含めて規制の方法を考えることもあるのですが、お金もち・大企業のための政権はそもそもそんなことはやりません。そこで、国際競争力が落ちるとして、しわ寄せを、中間層の下層への没落、下層のひとたちへの福祉を削り、弱い人たちへますます生きずらい社会をつくっていきます。だから、一般民衆にとって、ますます生きづらくなり、資本主義の矛盾はますます拡大していきます。だから、資本主義を止めようよと突き出すことなのに、どうしたら資本主義を救えるかという話をマルクス派だったはずの経済学者まで、そのことに飲み込まれているのです。そして、左翼のはずのひとたちも、そこに飲み込まれている現状があるのです。
 もうひとつ、書き足しておきますが、障害学でもベーシックインカムの話がでてきているのですが、これは、そもそも、基本生活保障の話につづけていくことなのですが、資本主義経済の枠内でどうするのかということでは論理矛盾に陥っています。構造改革的革命論として出していくのなら、可なのだと思います。
 読書メモ的なところで、他の文でも少し書いておくと、「移民問題の最前線 入管という現場から――織田朝日さんインタビュー」が参考になりました。小見出しに「在特会とヘイトの親玉・入管」206Pとありますが、まさに、入管が、排外主義的ナショナリズムの機関として機能している、日本の外交政策の酷さが出て来ているようです。そもそも司法的なこと総体での日本の非民主主義なこともあるのですが。民主党が野党の時代には、入管問題でいろいろ支援をしていたのに、政権をとったら、引いていったという話も出ていました。
その他、いろいろコラム的なことが盛りだくさんで、また特集関係の論攷、特にMMT理論から「反緊縮」をかかげる山本太郎さんの文も出ているのですが、コメントは禁欲しておきます。
 もうひとつ、友常勉「書評論『マルクスと商品語』」、『資本論』の版によって違いがあること、訳語の問題とか出ていて、細かい学習に踏み込んでいく、筋道をひとつ示してくれています。廣松さんの名も出ているのですが、『資本論』を物象化論から読み込んでいくというところとの対話はありません。むしろ、「私的労働」という概念がでてくるところとか、実体主義に陥っているのではと感じていました。改めて、廣松学習をしていくなかで、対話する機会があればと思っていました。
とりあえずここまでです。


posted by たわし at 01:58| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小松美彦『対論 人は死んではならない』

たわしの読書メモ・・ブログ521
・小松美彦『対論 人は死んではならない』春秋社 2002
この本は、小松美彦さんの対談本です。
「内容(「BOOK」データベースより)」があります。わたしのパソコンでちゃんとでていないので、一部編集して貼り付けます。
「死の自己決定権、脳死・臓器移植、安楽死など現代的な死の諸相を第一線の論客と徹底討議。多様なる死の可能性が剥奪された現代にあって、ラディカルな批判を展開し続ける著者の、初の対論集。」
目次
まえがき(小松美彦)
プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
第3部 死の共同性をどう評価するのか
「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)

わたしは小松さんの単行本はだいたい読んでいたのですが、この本は対談本ということもあり、読み落としてしまっていました。改めて感じているのですが、対談本というのは、ちょっと違った思想をもったひとの理論や思想をしるきっかけになり、そして対論をしている著者の理論・思想を他者から照射することによって深めることができるのです。
小松さんの文や発言は、いつもながら感じるのは、エッセー的な「共鳴する文体」になっています。また、死の強制や死への誘いを許さないという強い意志に貫かれた文になっていて、わたしも共鳴していて、追っかけている著者です。
余談的にわたしごとを書いておきますが、わたしは読書計画をもっているのですが、何か講演会があるとき、その講演者の著書を予習的に急遽挟むことをやっています。前回までの、読書メモは、「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」年二回の講演会で、天笠啓祐さんの「活性化する新たな臓器作り、その問題点とは?」というテーマの講演会があり、それに合わせた予習という意味をもっていました。もっとも、バイオテクノロジー関係の学習課題は優生思想とからめて以前から早く読まなくてはと、どこかで入れ込む予定でいました。講演会の告知があって、そこにたどりついたということです。で、その連続学習の中で読んだ、前の読書メモでとりあげた小松さんの本に続いて、長く積ん読しておいた本を引っ張り出したのです。これは、丁度12月15日のシンポジウム「安楽死・尊厳死問題を考える―公立福生病院事件と反延命主義」の予習という意味を持っています。司会が小松さん、そして、この本の中で、対論をしている市野川さんが、「特定発言者」になっています。
この対論は本のタイトルになっているように、「人は死んではならない」という著者の思いをテーマにした対論になっていて、別の言い方では著者の別の本のタイトルになっている「死は共鳴する」という内容も持っています。これは、福島さんとの対論の中で出てくる、「人は死んだら人の心の中にゆくんだ」という言葉にも共鳴しています。
さて、具体的中身を、目次にそって押さえて、キーワード的に抜き出してみます。
◇まえがき(小松美彦)
小松さんの文は、初めて読むと、いろいろ思いも湧き、コメントも出していくことになるのですが、追っかけをしているので、ここではキーワード的切り抜きだけ。
 日本的な「延命息災」というプラス的なイメージがあったところへアメリカ由来のマイナスシメージのprolongationの「延命」―「いたずらな延命」「無駄な延命」「もうけ主義の延命」が入ってきた。@P
 アメリカから輸入の生命倫理学―「生身の人間のこととして血の通った議論になっていることは多くはない。」CP
◇プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
「従来の心臓死の場合、死と死の判定基準はあくまでも別個の存在として把握されていたのである。」7P
「このとき「死」は、死を死者にのみ封じ込め、われわれ周囲の者を置き去りにし、死とわれわれとの間に横たわるさまざまな事柄を切り捨てるものとなるのである。」7P
 一九九二年一月二二日「脳死臨時調査会」―「「人とは一つの有機的統合体であり、その統合体を司るのは大脳である。よって大脳による統合機能が失われた場合、それは人の生とはいえない」7-8P・・・脳も他の臓器から規定されているということを押さえていないという問題があります。
「「共鳴する死」―「自己閉塞する死」」「「死人」は「死」と共に存在を始める」「「死人」を物として見る「脳死体」」8P
 科学としての死と「自己閉塞する死」11P
「「共鳴する死」とは、単に<関係の中での死>ということではない、<人は死んではならない>という願いを大前提にした思想」14P―「共鳴する死」の危うさ→共鳴する生―「人は死んではならない」 
「脳死・臓器移植の実態は、「二つの死よりも一つの生を」いった標語に象徴されるように、実はゴリゴリの功利主義」16P―ヒューマニズムの装いをこらす
 ドナー―レシピエントの関係は、対の関係だけでない社会的影響17P
 自殺者のヒューマニズム―ファシズムの芽18P
「患者の扱い方のマニュアル化ということ自体が問われる」18P
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
◇脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
 『あしたのジョー』の話は、以前講演会ででていました。その時に、「本にしてください」という話をしたのですが、すでに一部でていたのですね。小松さんの文に関しては、後で、もう一度まとめて対話することにして、ここでは、切り抜きに留めます。
(アラン・シューモン<アメリカ・UCLA>1998からのデーター)「これまでの世界の脳死者およそ一万人のうち一七五人の心臓が少なくとも一週間は動きつづけていたことが判明した。最長のケースは何と一四・五年で論文公表時にもまだ生きつづけている。他に、二・七年と五・一年という場合も示されている。」30P
「脳死」という規定自体の作為性、従来の脳死の概念、@脳の形が崩れた、腐敗が始まった時点で脳死とする立場A機能不全というという意味(「脳不全」)31P
厚生省の脳死判定基準―@深昏睡A瞳孔拡大B脳幹反射の消失C平坦脳派D自発呼吸の停止E@からDの検査がクリアされた後に,六時間して再検査して、再度クリア32P
立花隆「脳死=脳血流の停止」の提起―従来の心臓死の判断と同じ→却下34P
脳死・臓器移植は医療の名を借りた殺人35P
ヒポクラテスの誓い―「医師は患者に対して害悪を与えてはならない。最善をつくさねばならない」→著者「患者を相互に比べてはならない」「絶対に目の前の患者だけを独立させて考えよ」―「脳死・臓器移植法の登場で、二つの命を両天秤にかけるようになった。」37P
脳死・臓器移植の問題―@臓器移植における経済的格差の問題(臓器売買の恐れと実際)Aレシピエントの問題(イ.正負の効果・他の治療の可能性ロ.薬を飲み続ける必要・副作用ハ.感染症の恐れニ.移植された臓器の有効持続期間)B「脳死」とされるひとの治療可能性の問題(脳低温療法など)38-9P
「自己閉塞した死」と「共鳴する死」40P
「このような思い(混沌として湧き上がる思い)と関係の総体がゆっくり変革していく時間的な流れが死なのです。」41P・・・「関係の総体」という理論的・思想的キーワード、「関係性の総体」として深化・展開していく必要性
「死の自己決定権」―「自己閉塞した死」43P・・・近代的個我の論理と新自由主義的グロバリーゼーションの「自己責任の論理」の増幅共鳴
「日本の今後の経済的な流れなどを勘案した場合、「死の自己決定権」は非民主的な脳死一元化に帰着する可能性があるということです。この事態は、民主的な仮面を被ってやってくる新たなファシズムではないかとすら、私には思えます。」46P
相互自己主張と議論、「問題なのは、自己主張するための情報がそもそも少ないし、しばしば操作されているということです。」48P・・・現政権の情報隠蔽と操作
(サミュエル・ベケット)「想像力は死んだ、想像せよ」50P
「(『あしたのジョー』の)ジョーと力石のような関係は、こういう腐敗した社会の中ではなかなか実現できません。けれども、少しでも生み出し、そして拡げていきたいというのが、私の思いです。換言するなら、それが「個人閉塞した死」から「共鳴する死」への転換なのです。これは、つまり、自閉的に生きる<私>から、人との関係性を共存する<私>への転換なのです。」52P・・・著者のエッセー的思い。(ただ、<自閉>もまたあり、とのわたしの思いも―ドナ・ウイリアムズの世界)
◇脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
 医者を辞めて医療問題を論じる永井さんとの対論です。
永井―輸血や胎児というところからの「臓器移植と非自己」の問題のとらえ返しを、「免疫抑制剤の必要」という違いからとらえる57P
 永井―感染症と抗生物質のせめぎ合い→揺り返しとしてのエイズ・院内感染57P
小松―移植推進派の小柳仁(東京女子医大)「日本で移植が可能になれば、毎年ジャンボジェット一杯分の心臓病患者が救われる」発言―移植医の心性59P・・・ひとの物化の極
 小松―移植コーディネーターの中立幻想、これをマスコミがとりあげない64P
 小松―「脳死・臓器移植にかぎらず、既成事実にマスコミが弱い」67P
 永井―「専門家集団としての医者というものが問題提起能力も自浄作用も失っている」69P
 永井―「僕の経験からは医学部教授という人種が言う「患者のために」という言葉は、ほとんど信じられない。そういう人が医局という伏魔殿で生き残っていくということです。」「六〇年代後半に若い医師達が指摘した医学部の問題点は、・・・(中略)・・・しかし実際にはほとんど何も変わっていない。そういう土壌の上で今度の臓器移植も行われたわけです。」71P
 永井―「人類という種は衰亡に向かっている。種としての活力を失ってきているという感じがしてなりません。その端的な現れが、生命体存続の入り口と出口を積極的にいじり始めたということです。」74P
永井―「まあ、僕の場合、考えることは言いますが、決めるのは世間だからしょうがないと思っちゃうんです。ただ、世間の人々が移植を選択するのなら、人類にとって臓器移植というのは素晴らしいということを、本当に納得したうえで、そうしていただきたい。そして、後になって「こんなはずじゃなかった」と思ったときに、素直に「間違った、どこで間違ったのだろうと思っていただきたいんです。」74-5P・・・「世間」まかせのことなかれ主義、それで何が進んできたのか、実際に多くのひとが犠牲になっていくこと、なってきたのかの歴史をとらえかえす必要。
           ↑
 小松―「僕はいま永井さんのおっしゃった「世間」というのが気に入らないのですがね(笑)・・・・・」75P
小松―「死も技術によって操作されていますが、現場では残された者の悲しみだとか安堵感だとか方針状態だとか、そういう気持ちをともなって残された者と死んだ者との関係のもとに成立している死があるということを忘れないようにしなければならない。」75P
小松―「最初から負けるのは分かっているのですけれども、・・・」76P・・・?
◇生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
 小俣和一郎さんは医者で、その立場での倫理をとらえようとしているひとです。
小松―「プレッソの夢」(出生前に人間を淘汰する)の現実化81P
小松―過去の優生学と現在の優生学の違い―個人の「自己決定権」に根ざしている82P
 小松―「優生政策や法律には「本人同意」≒「自己決定権」がもりこまれていた・・・」84P
 小松―「自己決定権」の問題点@勝手主義になるA知識の差で「専門家」の誘導になるB優生政策を免れ得るものにはならない86P
小松―ラザロ徴候88P
小俣―「和田移植には、戦後日本における一種の体質というのが関係している」(←七三一部隊の免責など)「七三一体質」@パターナリズムA官僚体質B大学医学部における軍隊組織体質89-90P
小松―「医師が権力者になっても、患者が権力者になっても、どちらもまずい。」92P・・「患者が権力者になっても」・・・?クレイマー&お客様
 小松―コーレマンスさんの安楽死の要求のとりさげ←孫娘の率直な提起97P←小俣―「誤まてる自己決定」への反旗98P
小松―臨床現場におけるコミュニケーションと相互批判の必要性101P
小俣―「インフォームド・コンセントや告知などは一方通行であってはいけない」―うそや隠蔽は疑心暗鬼を生み出す101P
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
◇人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
 この対論は、認識論―哲学的に掘り下げた議論になっていて、興味深く読めました。ただ、宮崎さんの論攷は実存主義的になっているところで、ズレは感じているのですが。この議論は、まるで「空中戦」のようなのですが、実は、哲学の根底的焦点になるはずであろう、実体主義とその批判が焦点になっているのだとわたしは理解しています。これを小松さんは押さえて議論をしているのですが、相手にどこまで伝わっているのか、議論のむずかしさです。
かなり、わたしなりのとらえ返しも入れてメモしているので、できたら本文にあたってください。
 宮崎―「私は死にゆく者の実在論を認めることはできません」、「本来の自分」の設定は「宗教」的理念の正当化、「そういう先験性をどこまでも拒絶し、人生をこの現世のみと捉えたとき、初めて人は家族や社会に、あるいは世界に真摯にコミットでき、言葉に責任をもてると思うのです。」106P・・・第3部との関係や対話、鼎談などをすると、いろいろ、問題をほりさげ面白い議論になるのではと思ってしまいました。
 宮崎―「「個人閉塞した死」は、死の、死を巡る人間関係の物化のプロセスから生まれたということですね。これは近代社会科学―なかんずく近代経済学―が見出した利己的個人という概念に照応すると思われます。」108P
小松―「近代において、一人ひとりの個人は、それぞれ特有な顔、固有の生活、あるいはさまざまな差違があるにもかかわらず、商品交換者と一律に規定されて、初めて独立で自由で平等な存在ということになったのと同様の事態だと思います。」108P
 小松―臓器移植の問題点@階層化A医学的に一元化・平板化B臓器・人体の資源化・モノ化110P
 小松―安楽死の論理におけるねじれ、「尊厳のない苦痛に満ちた生」に対置されるのは「尊厳のある安楽な生」113P
 小松―死の短絡の背景@緩和医療の貧困A「家族関係」から社会関係の問題113P
小松―「自己決定」の問題性@コミュニケーションがなく直接本人の決意に行くA「自己決定の能力のない」とされるひとたちの問題114P
 小松―医療費削減→環境の悪化→慈悲殺という構図115P
 宮崎―「死は自己決定の対象適格に欠ける」116P
         ↓
 小松―「生の向こう側にあるはずの死を否定することになる」「自己決定を権利として祭り上げるというところに問題がある」117P
         ↓
 宮崎―「一般的権利として制度化、法律化されることが問題」117P
小松―「「共鳴する死」というのは、いかに生きていくかという“思想”であって、「死」と言う言葉が使われていますが、実は生の問題なのです。それに対して国家によるそれは死に向かうもの(「共同体閉塞した死」・・引用者挿入)であって、方向性がまったく逆なのです。/近代は個人主義と共同主義という二本の足で支えられている。共同体というのは、たとえば、国家、社会、あるいは村落がそうだろうし、家族もそれに数えられる。」118P
・・・共同幻想としての国家、社会、共同体と共同性を区別していく
 宮崎―「個から国家へ向かうとされる同心円」批判、個が直接国家に包摂されていく、「近代の基本シェーマは「国家と個人」の相互依拠」。しかし、国家は抽象的機能体(共同幻想)、だからマスメディアと学校で包摂する機能を作る119P・・・?近代的個我の論理へのとらわれ
 宮崎―実在の共同体は「家族」119P・・・これにも幻想がつきまとう、近代家族の分析の必要性
 小松―「もともと共同体の存在を前提にして、そこから具体的問題を考えていくのか。それとも私の場合のように、まず個人的相互関係から拡げていくと、それがやがて共同体と呼ばれるものになっていくのか。その方向の差は決定的違いのように思えます。」120P・・・共同体というところでの実体主義への陥穽、共同性というところで押さえうるのでは?
宮崎―「私は「共鳴する生」の宿る場所が、共同体ではないかと思うのです。」120P
 宮崎―「共同体の実在を前提にしているのではないのですが、個が存立する初期条件であると考えています。たとえば、人は家族の中に生まれ落ちるのであり、生まれ落ちてからの環境が家族に「成る」わけでもないように思いますが。また所属する家族や地域をもたない人といえども、やはりなにがしらの家族的、地域的な、共同性の中に住まっているのです。あるいは、かつての共同性の記憶を「自我」の宿る辺としているのです。こうした共同性をも否定する人間観こそが「負荷なき自我」論と呼ばれるものです。」121P・・・「共同体」「個」「家族」の実体化、「共同性」と「共同体」のすりかえ、区別を付けていない。「共同体」を実体主義批判として押さえ直す必要。
小松―「私の場合には、仮に共同体という語を用いるなら、共鳴関係が成り立っているときに、とりあえずそれを「共同体」と呼ぶことになります。私が「共同体」とか「共同体的」という言葉を避けるのは、実体としての近代的共同体とか、中性的な共同体と私のいう共鳴関係(態)が混同されるといけないと思っているからです。」121P・・・実体主義批判の立場性
 宮崎―「そこで小松さんのおっしゃる個人とは、ア・ブリオリな実体なのですか。」122P
       ↓
 小松―「いや、生活過程の中で振り返ってみたら個人が存在する、ということです。」122P
 小松―「今までの近代的世界観・人間観では、最初に共同体から始めるか、あるいはそれとは対極にある個人から始めるか、いずれにせよ結局はそれ自体を裸の独立自存体として想定し、理論づけている。私は死の問題を契機にして、個人と「共同体」が同時に生起するものとして考えつつあります。」122P・・・網と網の目
 宮崎―「“裂開”」、ジャン・リュック「無為の共同体」モーリス・ブランショ「共同体なき共同体」←小松―木前利秋「“悲哀”の過去と現在」123P
宮崎―選択不可能な外部条件が現存する―人生の初発に設定される家族関係と母語123P

 小松―変革可能性は?・・・宮崎さんの答え?
 宮崎―「私は生命至上主義者ではないのですが、・・・そこで個体間接触の場、フェィス・トゥ・フェイスの交わりを温めあう場としての共同体の維持、発展が求められているのだと思います。」124P・・・この「共同体」は結局、幻想共同体になってしまっているのではないでしょうか?
◇「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
 市野川さんは、優生思想関係の研究をしていて、雑誌でその関係での特集が組まれたときには必ずといっていいほど文を寄せているひとです。ですから、雑誌でいくつかの文を読み、特に社会学関係の論攷や文献の紹介をしてもらっていて、社会学の基礎学習を踏まえていないわたしの立場で、一度、きちんと読んで置かなくてはと市野川さんの本も買っているのですが、未だに読書を果たせずにいます。知識としては得ることがあるにしても、何か掘り下げられていないという思いがあるのです。実は、障害学会が立ち上がる前に、障害学研究会ということがあり、その中で、学者のひとたちが順に担当して講演会をやっているときに、市野川さんも担当したときがありました。そのとき、丁度、イギリスの「障害の社会モデル」の第一世代への批判が日本にも入ってきているという背景があったというとき(わたしはまだそのあたりの事情は知りませんでした)、「障害の否定性は、百メートル走で少しでも早く走りたいという思いがみんなにあり、そのようなところから来ているのではないか」と市野川さんが話をしたので、わたしは「それは、小学校の時に運動会で徒競走ということがあり、生物学的にいう「刷り込み」のようなことが起きたからではないか」という問いかけをしました。そのあたりのことは、モンゴルの遊牧民なら「馬を早く駆けさせたい」とかなるだろうし、セパタクロウとかガバディとか、知らないスポーツを巧くなりたいとか日本ではほとんどのひとが思わないし、剣玉をみんなが巧くなりたいとかうわけではない・・という論攷とかにもつなげているのですが、ともかく、市野川さんには固定観念へのとらわれのようなことを感じていたし、ここでは、そもそも自己とは何か、自我とか何かという認識論的な論考が感じられないのです。先に書いたように、いろいろな紹介などは吸収させてもらっているし、真面目に読み込まなくてはとの思いはもっているのですが。
 小松―(ジョルジュ・カギレム)「すべての医師は、医学において人は震えながら実験をするということ、つまり震えながら治療をするということを自らに言い聞かせ、かつ他の人々にそう知らせねばならない135P
市野川―「われわれは常に他者を透明で見ているわけではない。われわれの側の先入観をもって他者を見ているわけです。そういう先入観を突き崩して他者を発見していくときに、他者の自己決定を尊重するという配慮は必要だし、その意味でなら宮台さんの主張も頷けます。」138P・・・どうやって突き崩すのか、そこにおける思想性の問題。自己決定を巡る立ち位置は、宮台さんと小松さんの間に市野川さんは位置してしまっているのでは?
市野川―「逆にいえば彼女たちは、生まれたときからこういう状況に置かれている人たちをこれまで認めてこなかっただろうと思うんです。そういう自分の他者に対する態度が、逆に今の自分を否定する形ではたらいてしまう。」140P
小松―「脳死・臓器移植とは、現代の医療現場からの特攻兵士にほかなりません。」143P
◇自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
 笠井さんについては、野間易道さんとの共著の本の紹介の『図書新聞』での記事を読書メモ351で書き、後で読書メモ358で、その本の読書メモも残しました。笠井さんは昔新左翼の活動家だったのですが、「左翼なき革命論」という論理矛盾の中にあるのではないかとわたしサイドではとらえ返しています。どうして、こういうひとと対論をすることになったのか不思議なのですが、この対論の中で、もっとも対立する意見の応酬になっています。笠井さんは、「自己決定権」と国家の「個人の自己決定権の尊重」というところでなしてくる優生思想的な政策が重なるところで、ファシズムが湧きあがってくるという構図をとらえていないのではと感じています。
 小松―「まず原理的なことについてですが、死と死亡を分けます。」「死亡は、・・・「点的な判断です。」149P・・・「死亡は医学的な点的判断」――死は関係性の中でとらえ返す概念
 笠井―「やはり死というのは持続的な自己統覚意識の喪失というのが大きな基準」150P・・・パーソン論になる
 笠井―「近代的な「私」などには内実はないのですが、その建前を一応相互に尊重するということ以外に歯止めになるものは他にはない」151P・・・結局「近代的個我の論理」による自己決定権の尊重になってしまう。「歯止め」は新しい関係性の構築―脱左翼宣言をした笠井さんにはない
 小松―「僕の主張の一番の問題点だと思っているのは、死と死亡との存在論的関係がつめられていないということです。」153P・・・?すでにでているのでは?
 笠井―「「死は共鳴する」といいすぎるとハイデッガーのはまった罠に落ちる危険性がある。」154P

 小松―「ですから、自己弁明的に僕の本の最後の方に、「共鳴する死の枠組みを拡げていくと、国家にまでいってしまう危険性がある」と書いた。」154P・・・共同体と共同性を区別すること、「共同性において死は共鳴する」とたてること。
 笠井―「その人間の権利要求に対して第三者はどのように答えるべきかという問題をたてれば、「分かりました。そうしましょう」ということが妥当だとどうしても思います。」154P・・・近代的個我の論理による共同性の否定、脳死・臓器移植の容認の論理 
 笠井―「「私は私である」ということはフィクションであり、事実として物があるように「私がある」わけではない。しかし、それを何らかの形で、あたかも在るかのように虚構化しないと成立しない。」156P・・・「成立しない」のは資本主義社会、「資本主義社会」の擁護論
 小松―「あくまでも個人というものをどんどん祭り上げて、大文字の個人なり自己決定権にまで高めて、そこから演繹的に一つの問題に下降してくるというのは、笠井さんが批判されているナチズムとスターリニズムという、二つの全体主義と同じになる可能性があるのではないか。」158P・・・下降? 演繹論は上向法では?
 笠井―(優生手術にかんするところで)「僕はそれは社会的に決定されると思う。」160P
・・・国家が決めるのではなく、社会が決めるという論理、しかし、社会と国家の関係を押さえていない
 小松―「仮に強制という言葉を使わなくても、実際に社会への浸透力をもつてしまう。」165P・・・・社会にある優生思想・競争原理・近代的個我の論理との言説の「共振」拡散
 笠井―「まず一般的にいうと、ナチス的優生政策を唱えること自体を政治権力が禁止することはできないということが一つ。次に僕個人のことについていうと、優生学的発想にはなりません。優生学である以上は、個人の意識だけでなく個人の存在も含んだ恣意性を何らかの形で統制しようという発想が前提にあるが、そのような前提を僕は拒否している。」166P・・・殺人教唆を禁止できないのでしょうか? 優生学や思想は統制や強制だけでなく、ソフトなところから浸透していく、「障害はないにこしたことがない」とか、競争原理とか、労働能力とか、だから市場原理も含めて批判してく必要(わたしの立岩さん批判)。
小松―「制度的な強制へ向かっていく優生思想が個人の自己決定権を前面に掲げるところから始まってきた歴史的事実のことです。」167P・・・優生思想と自己決定権のつながりは、「ぽっくり死にたい」ということのひろがりの中に見いだせるのでは? 「青い芝」の内なる優生思想批判
 小松―「そもそもパターナリズムか個人主義かという二元的な発想を問題視しているのです。」180P
◇自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
 この話は、読書メモ518の利光恵子さんの本で、一応対立の構図は解けているのではとも思えます。そこには、筆者の「自己決定権は幻想である」という観点からのとらえかえしもあるのだと思います。
「自己決定と自己決定権とは弁別すべきだと思います。」「日常生活の中で他者との関係で不断に自己決定している」「自己決定権という他者排除の理念」183P
「共鳴する死とは人は死んではならないという願いを大原則とする」186P
「現在そうであるように自己決定権を原理とするのではなく、「国家には出産・中絶に介入する権利はない」といったい類いの条文を盛り込み、既存の状態の解除・解体を図るべきです。」190P
第3部 死の共同性をどう評価するのか
◇「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
 福島さんは仏教の住職、「短歌の絶叫コンサート」とかもやっていて、かなり破天荒なひとで、日本では、西洋文明を希求する面があるのですが、むしろ東洋思想のとらえ返しの面白さを感じさせる対論になっています。わたしとしては、廣松さんの対論『仏教と事的世界観』を想起していました。
小松―「エンバルミング」(遺体切開して防腐剤を挿入して身体の内部から痛まないようにする技術)が広がっている205P
小松―「個人主義的な死と共同体主義的な死はセットで成り立っていて、その意味で死者まで蹂躙され、支配される方向へ向かっています。」←(小松さんは関係主義)「関係主義にはそもそも枠組みがない。「死者との連帯」が波紋のように広がる可能性がそこにはあるんです。」212-3P
 小松―「死は共鳴する」−「ひとは二度死ぬ」の内容216P
 福島―利他行224P
 福島―(中井)人は死んだら人の心の中にゆくんだ」226P
 小松―「完全な死体になる」230P(←胎児の死―ひとの生誕)
 福島―利他行というごまかし232P
◇「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
 最首さんは、実はわたしの本を世界書院から出してもらった時に、その社長が編集長をやっている雑誌『情況』で、「障害者解放運動の今」という特集を組んでもらい、最首さんにわたしの本のコメントをもらっています。その前に読書メモで最首さんの『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』を取り上げていたのですが、余りにもラジカルな批判を書いてしまい。親ということで、「身内意識」が働き、しかもその上に前述のコメントをもらったので、唯一お蔵入りしているメモにしています。最首さんは東大全共闘を担ったひとりで、そこでの運動の行き詰まりの総括で悶々としているときに、「障害者」の娘が生まれ、問題をスライドさせて、総括の作業を放り投げ、論考を掘り下げていくこともなしえていなのではとの思いをもってしまっています。この対論でも、問題の掘り下げをなそうとしないところが、垣間見えるのです。
小松―キヴォーキアン「死刑囚の遺体の活用etc」とハードウィック「死の義務」237-9P
最首―義務ということの歴史的社会的違い240P・・・運命論的になっているのでは
 小松―ヘヤー・インディアンやアボリニジや姥捨て山の話からする「死の義務」のような話、「そうした援用は、現実の当該問題への肉薄を遮り、それを仕方がないものとしてかたづける方向に機能しがちです。」243P・・・社会的歴史的極限の援用は、それも関係性の中で起きてきていることで、そのことの分析なしに一般化する運命論になっています。
小松―予算の話「森を見せることは、木を見せないことなのです。」247P・・・そもそも社会構造を固定的にとらえて、予算がないとしているだけ。
 最首―「もし、社会に余裕がなくなったら、星子を抹殺するのは、たぶん、僕だろうと思う。」248P・・・昔、社会に余裕がないときに「障害者」が殺されたのは差別ではないと書いた「障害者」当事者がいたけれど、その時代の当事者意識(フェア・ウンス)としてそうであっても、第三者意識としては差別そのもの。だいたい青い芝の親の「障害者」殺しを告発してきた運動をどうとらえていたのでしょう? そもそも「障害の否定性」がどこからきているのかというとらえ返しをしていない。
 最首―「しかし現実には社会に、その力はない。結局、「できるだけ多くの人が生きられるように」したいという思いは、感じたか、機械化の中では実現しないという地点に私たちはいる、それは事実だということだけが言いたいことです。」251P・・・客観主義的に語ることを止めたところに運動があつたのではないでしょうか? 余裕がないというのは、二つ、@考える余裕がない―実は考えないようにしているだけAお金がない−大嘘 (総括をなしえぬままに、問題をずらしたところで)社会を変えようというところの意志の欠落
 小松―「人は死んでならない」というのは、本人にというよりもむしろ、「そうした人々を取り巻く人々に対して向けられているんです。」253P
 小松―「ところがそれが逆転してしまって、「人は死んでもいい」ということが、いとも簡単に掲げられてきている。それは結局上のほうからであるにもかかわらず、「死の自己決定権」や「死の義務」などの美辞麗句によって、自発的なものに思い込まされてしまっている。」254P
最首―「重さが足りない」255P・・・小松さんは自分の責任の範囲で話をしているだけ。意味不明。自分の引き写しをしようとしているのでは?
 最首―「極端に弱いものにすがっているかぎり、すがり甲斐がないわけだから、自分が強くなることはない。」264P・・・そもそも「すがる」という発想が分からない。「弱い」とされていること自体を問題にすることなのに、意志をなくして「すがる」生き方をしているひとにはそれがない。「星子」を「護符」(誰かの言)にしているのでは?
 小松―「最首さんが今おっしゃった、権利や義務を個人の中に入れ込まずに場として考えたい・・・」266P・・・場の理論、関係論的観点からの小松さんの読み込み。ただ、権利とか義務という概念のとらえ返しも必要
 小松―「関係性からくるのであって、制度の問題ではない・・」267P・・・関係性⊃制度ということでは?
 最首―「勝負してもあまり甲斐はないんじゃないか。」269P・・・なぜ、議論をするのか、理論に関わるのか?
 小松―「最首さんの、書き手としての主語である「私」がまずないんですよね。」273P
◇キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
 わたしはカトリックの幼児洗礼を受け、キリスト教の教えに子どもの時にさらされていたので、その矛盾のようなこと、この対論でも小松さんが感じていることに同調すること多々ありました。
小松―「生身の関係性を最重視する姿勢・・・」277P・・・隣人愛の話に繋がっていく
 土井―「憐れ」の語源は「はらわたがちぎれるような痛みを覚える」ということにつながる281P
小松―「具体的場面で目の前の人に対して、内臓がちぎれるような思いが自然に湧き上がってくること、それが隣人愛なんですね。」281P
土井―移植コーディネーターが介在することによって「憐れ」が働かない構図281P
土井―「移植に必要なものは愛でなく、臓器であるわけです」282P・・・愛という名のごまかし
 土井―「善意」と「隣人愛」283P←小松―一般・抽象と個別・具体
 土井―「個別的なものが一般的になっていくプロセス」―「すべき」になった愛他精神は隣人愛ではない(小松さんとの対話の中で)284-5P
小松―「生命の尊厳の捉え返しなり、隣人愛の捉え直しということも、結局は資本主義批判、貨幣経済批判、数量還元主義批判であり、ひいては近代合理主義批判になっていますよね。」290-1P
小松―「巧妙に誘導したのが「脳死」という“秀逸”な命名」292P・・・「脳不全」という言い方になるところを言い換えていること
 土井―「「ある」「ない」という形での議論の対象になるになる神は、もはや神でない」302P・・・しかし、そもそも神があるという証明はない 神は自然の物神化
 小松―「第三者がなかなか口出しできないというのは、気持ちとして十二分に分かるのですが、問題は紅茶を飲むか烏龍茶を飲むかといった選択でなく死の選択であって、しかも、その誰かが死んでしまう前にかたらなければならない。」306P・・・他者一般を規定する法律の問題として議論になっていること
 小松―「死の苦渋を代行し緩和するように機能している宗教や神もまた、それらがそのように機能する以上、個人個人の関係性を薄めているのではないのか」308P・・・そもそも架空の話として進むこと、そこに入り込めるのかという問題があり、そして少なくとも「この世」の問題の解決の道にはならない
◇エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)
お母さんの他者への「死への共鳴」ということでのエピローグです。小松さんの「共鳴しえる感性」のようなこと、実はお母さんからも来ているのだと感じていました。わたしはむしろキリスト教的欺瞞の世界を反面教師的に理論・思想を練り上げようとしているのですが、深層心理的なところの自らの保守性や差別性におそれおののいています。
「死者との連帯」312Pということも出て来ます。
さて、「人は死んではならない」の提言に対して、わたしは基本的に共鳴しつつ、違和というかズレのようなことも感じていました。「死んではならない」ということばは、「死んで生きる」というところで、死を賭して運動を担うという側面をどうするのか、という問題があります。そこに「死者との連帯」ということがあるはずなのです。
生きた結果、生きようとした結果として死ぬ、死に様(これは実は生き様ですが)さらして死ぬというときに、それは必ずしも「死の否定性」にはならない。それは、「ひとは二度死ぬ」ということばがあります。60年安保のとき警察に殺された樺美智子さんは、同時代を生きたひとたち、そして少なくとも、70年世代のひとたちの中で生き続けています。そして、歴史に名を刻んだひとは生き続けるのではとの思いも持っています。

この対論を読みながら、わたしとしては、「関係性の総体」という概念が浮かび上がっていました。共同体のための死ということは、幻想としての共同体に誘われるのですが、そうでない関係、共同性というところでの生と死ということを考えていました。


posted by たわし at 01:54| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSTBS「報道1930」

たわしの映像鑑賞メモ038
・BSTBS「報道1930」12月26日19:30〜21:00
 いつものメンバー以外のコメンテーターとして、森永卓郎(獨協大学教授)、藻谷浩介(日本統合研究所主任研究員)、鎌田靖(ジャーナリスト)
い前回のメモ037につながることなのですが、地方での取り組み、「ダムをたんぼや森の復活へ」(森永)とかコンパクトシティ構想(鎌田)とか、いろんな可能性の話が出ていました。要するに、地方から変えていくというところでの取り組みで、たとえば、今地方では車がないと生活できないような公共交通機関の崩壊が進んできているのですが、地域内で幹線に交通機関を通しその近辺に移住を進めるとかの実践もでてきているようです。そのあたりは、もっと自動運転システムとか、ドローンとかいろいろ可能性はでてくるのだとも思いますが、それなりに合理性というようなこと、むしろ、わたしは、晴耕雨読のようなことで地産地消の農の取り組みが起きていることに留目していました。藻谷さんがこれからは農が成長産業だという話も出ていました(資本主義の枠内ではそんなことはないとわたしは思っていますが)。このあたりは、「社会変革への途」でも取り上げていこうと思っています。
 余談になるのですが、読書メモで取り上げている「反緊縮」のこと、「どんどんお金を刷ればいい」という話を最初にわたしが聞いたのは、ここで出てくる森永さんの話でした。今回の話のなかで、むしろ逆の経済危機の話をしていました。ちゃんと落ち着くところに落ち着いたのだととらえ返していました。

posted by たわし at 01:49| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』

たわしの読書メモ・・ブログ345
・高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』「要約報告書」七つ森書館1998
MOX燃料に関するかなり専門的本です。とりあえず、「要約報告書」の部分だけ読みました。MOX燃料、その材料のプルトニウムの危険性について、そして経済性においても、再処理したものの輸送の大変さ、危険さ、あらゆる面で使えないものなのに、それでも使おうとしていて、一部実際に使っているのです。その背景には、プルトニウムがナガサキの原爆の核兵器の材料として使われたということがあります。自民党の石破元幹事長の「いつでも核兵器を作れるようにしておくために原発は必要」という発言とつながっています。そしてプルトニウムが核兵器の材料となるということで、国際的な監視と規制を受ける中で、燃料として使うのだ、ということを示すために、再処理リサイクル計画を捨てようとしないし、世界的に技術的に困難だとして、そしてたびたびの事故が起きる中で、放棄された、高速増殖炉や再処理計画を捨てようとしないのです。それでどれだけの意味のないお金がつぎ込まれているのか?
まさに核兵器―戦争と原発は密接につながっているのです。核兵器が戦争抑止力になるという、危険性をますます増加させるどうしようもない論理をふりかざすことと、そもそもお湯を沸かすのに核エネルギーを使うというどうしようもない考えを批判しつぶしていかないと、わたしたちは爆弾を抱えて毎日を暮らすという危険な状態から脱することができないのです。そもそもフクシマを経験した国でなぜ原発が再稼働し得るのかどうしても理解できないのです。きちんと、そのことを周りのひとに伝え、反原発・脱原発の世論を作りだしていかねばと改めて思うのです。
posted by たわし at 01:40| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』

たわしの読書メモ・・ブログ40
・最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房 1998
 この本はいろんなところでかなり話題になっていた本。掲載されている文をどこかで観たような気もします。で、一度読んでおきたいと思いつつ、何か違和を感じつつ、またもう絶版になっていると思ってそのままにしていたのですが、『図書新聞』で全共闘関係のインタビュー連載をしていて、その中で最首さんへのインタビューの中で娘さんの星子さんにコメントしている発言を読みました。で、やはり障害関係文献に入れなくてはと思い、古本でも探そうとしたのですが見つからず、もしかしてまだ絶版になっていなかもと探して見つかった本です。
 「障害の反転」なりコベルニックス的展開が随所に展開されています。ただ、ぶれがありそのことが整理されていないようですし、個人主義−実体主義的な世界観から抜け出せて居ず、今「障害者運動」の中で問題になっている医学モデルから「社会モデル」へのパラダイム転換ということも全く届いていないようです。
 そして東洋的な思想、老荘の思想的な諦観というか、悟りの世界のような話になってきますし、ガレー船に掲げられていた「自由」という文字の話などは、反差別の立場からは、アフリカンアメリカンの解放闘争で批判されていたアンクルトムの物語に落ち込んでしまう危険性さえあると思わざるをえません。最首さんのエッセー的なところからは、少なくとも反差別の「障害者運動」は起きてこないだろうという思いにとらわれてしまいました。
 もう少し細かく書きますが、「重度の」というところにとらわれたところで医学モデル的なところに陥り、差別ということをぬきにしても抱えざるをえない問題として語ってしまっています。それに現実に家族で抱え込んでいくというところを相対化しえず、それをそもそも抱え込まざるをえないこととして、自然性と社会性の区別がつかず、とりわけ母子関係というジェンダー的なところにも陥りつつ、その話は抱え込めなくなったら結局施設へという、自分の関わっている運動の前提を崩すような話まで出てきてしまっているように感じてしまいます。
 差別がなくなった中でそれでも障害といわれることが何かあるとしたら、彼の東洋思想的な悟りのような世界は意味があるのかもしれませんが、どうも悪しき全共闘世代の代表格、革命の意志が挫折したところでの東洋的な諸行無常の世界に陥っているようです。理論的なことでいえば、物象化ということをとらえられない中で、(そのような純然たる自然などないとエンゲルスが語った「純然たる自然」に陥っているところでの)「自然的な共生」へという中での差別への諦観への陥りのように思えてなりません。
 「障害」の負価値性からの反転を随所にかなり鋭くなしているのですが、結局反転に失敗しているとしか思えません。このあたりは意識性の問題だけで反転を試みようとしている、すなわちマルクスの唯物史観の意味をとらえ返せていないことからきているのかもしれません。
吉本隆明さんの論述と同じように部分的には観ること多々あり、ただ、論理性なり根本的思想として違和を抱いてしまう。そんな本です。
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2020年01月06日

小松美彦『「自己決定権」という罠』

たわしの読書メモ・・ブログ520
・小松美彦『「自己決定権」という罠』言視社 2018
この本は、ブログ126の小松 美彦『自己決定権は幻想である』洋泉社新書2004という絶版になっていた本の増補改訂版です。
で、最初から読み直そうとも思ったのですが、もう積み上げた本に追われているので、既稿は原則そのままということ、補注だけ読んで、「増補1章 「自己決定権」をめぐる二〇一八年の状況」と「増補2章 鏡としての「相模原障害者殺傷事件」を読みました。
 その後の、臓器移植問題、「尊厳死」問題、「終末」医療問題と続き、ナチスの思想の「障害者」殺し、民族のホロコーストの背景になった思想を歴史的に押さえ、そして、「いる」と「ある」の違いというところから、脳死状態で生きた子どもと家族の生とことばの中に、新しいひとの生の哲学を生み直そうという、著者の「生の哲学」とも言い得ることを突き出しています。
 もうひとつの、相模原殺傷事件の問題では、事件を起こしたところの思想的なとろを押さえ直す作業をしていて、そのひとつが増補1章でも書いた「世界人権宣言」の「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性と良心を授けられており・・」というところで「尊厳という罠」ともいいえることにリンクさせています。この論攷を読みながら、意思をもたない、示せない者をひとでないとするパーソン論の論理というのは、実はキリスト教文化圏の天地創造の物語と進化論の高等―下等生物という位階制、そして精神労働と肉体労働の分業の中での精神労働の優位性、能力の内自有化というところが絡み合った、資本主義の文化そのものから来ているというような思いを抱きました。
 実は、このあたりの話は著者の大著『生権力の歴史―脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』青土社2012 (ブログ229)の中にも取り上げられていたアリストテレスの「只の生」のはなしにもつながっていきます。  
 わたしもこの事件に書いています。わが内なる優生思想というところから、「わたしもUだ」ということまで書いてしまったので、不評でした。まさに、優生思想にとらわれ、自死への思いをつのらせていた思春期から、そこから一応脱して、それを自己批判的に脱構築なり止揚するなりの論攷を積み重ねているとは言え、深層心理的なところでは、脱しえていないところで、そのような表現になってしまったのですが。
この著者は、優生思想や障害問題での思想的なところで、わたしが最も共鳴できる論者です。だいたい追っているのですが、次の読書メモで、1冊読み落としている対談本を読み、メモを残します。
後は、切り抜きメモで。
改訂臓器移植法で、「自己決定権」が、まさに幻想になってしまった。@脳死がひとの死か否かをドナーが選ぶことが、脳死はひとの死と一律に決めるAドナー本人か意思表示していないときは、親の意思でも移植ができる210P→実は@は、その後の法解釈で、これ自体があいまいにされた(法体系―福祉総体の変更が迫られるとしての)「厚労省見解」で、ひっくりかえっているところが、そのあいまい性―両またぎでその法律が「脳死はひとの死」と規定しているという思い込みがひろまってしまっている。224P
WHOの臓器移植売買と移植ツアーリズムの禁止の後者を「移植渡航の禁止」という誤訳・ねつ造によって、改訂臓器移植法を作り上げた。214P
「WHO指針原案・WHO決議案・ルーク・ノエル氏発言」という虚構で「渡航移植の大幅制限」ということをねつ造した217P
WHO新基準―臓器売買の禁止・移植ツアーリズムの禁止・生体移植の厳格化217P
移植渡航のデポジット(「頭金」「手付金」)による待機患者の順番の繰り上げの可能性221P
 日本救急医学会のアンケート「あなたはこういう患者が救急車で搬送されてきたら治療しますか」@「末期がん患者A「重度の大火傷」B「脳死状態と診断された人」C「身寄りのない認知症のお年寄り」D「不法就労していた外国人」(CDは結局外される)227P・・・まさに差別的誘導
「終末医療」という概念229P・・・そもそも後になって「終末」だったと分かることに過ぎない
「尊厳」―「無益な医療」とのリンク229P
診療報酬改定で胃瘻の位置づけを変える232P・・・人工呼吸器・胃瘻・人工透析がターゲットになっている
「終末期」―「人生の最後」―「医療を行わない」というリンク234P
尊厳死法、一旦成立すれば「自己決定権」が「骨抜き」になる←「臓器移植法」から推定237P
「セルフ・メディケーション」―自己責任論239P
アガンベンのホモ・サケル―「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」の区分け―線引きの理由の解明を置き去り(フーコーも)248P・・・著者の「人間の尊厳」からの切り込み―生資本主義を支える力249P・・・労働力の価値という概念からする資本主義の文化―標準的人間像
ピコの諸物の価値付け―キリスト教神学「人間は基本的に動植物と惑星の間に位置します。」「人間には動物にも植物にもない「理性・精神」(とそれによる自由意志)が備わっている。」−フランシス・ベーコン、デカルト、パスカル、ロック、ディドロ、ルソー、カント、ハイデガーにつながっている250P
国家有機体→ヒットラーの民族有機体252P
「世界人権宣言」の罠―「人間の尊厳」―「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」←「やまゆり」事件植松加害者が引用255P
「人間の尊厳」「無益な延命処置」「コスト」という三点セット257P
「戦後世界は、「人間の尊厳」が蹂躙されたことを省み、「人間の尊厳」を掲げるところから出発しました。しかし、それはまったく倒錯した認識だったのです。ナチスにあっても、現代においても、「人間の尊厳」を重視しようとすればするほど、逆説的にも対極の自体が生じたのであり、そして今もなお生じているのです。」259P
「「生資本主義」の基本発想がそうであるように、表面的な個人主義の背後には全体主義がどっしりと鎮座している。具体的には、経済政策のもとに、医療・福祉・社会保障の削減と安楽死・尊厳死の推進が並行してなされてきたことを、想起すればよいでしょう。つまりは、全体を守るために、個人主義を持ち上げ、「自己決定権」を利用しているにすぎない。」260P
「間に、はじめて尊厳なるものが立ち現れる」264P
 存在の事実265P・・・アリストテレスの「只の生」
ドイツ語Seinにはない、「ある」と「いる」の区別266P・・・過去・現在・未来をつなぐ「いる」
 「間に立ち現れた共鳴関係」268P・・・互いに思い合うこと、そこの間にある尊厳。間の尊厳と内自有化された尊厳
 尊厳死協会と植松の近似性295P
「相模原障害者殺傷事件」は、日本社会の全体動向の巧まざる鏡」302P
「駅の職員に礼を述べていると感じられることはほとんどないのです。」306P・・・バリアフリーが進む中での公的な場における協働的介助の消失―援助があたり前のようになることへの著者の危惧のようなこと・・・?そもそも駅員がいて何かするという自体バリアフリーが実現していないこと、バリアを作ったのは誰?このような話は以前にも話があって、「ありがとう」「ごめんなさい」と言い続けていると卑屈になっていくこと、わたしが「「ごめなさい」「ありがとう」は障害者運動の禁句」として突き出したこと むしろ、「ありがとう」と言えるところまで関係を作って行くこと
 「人権」311P・・・?人権という概念自体が架空の議論、更に、「もっている」というところで、能力の内自有化ともつながり、むしろ、ここから否定すること
究極の線引きとしての死刑制度313P・・・死刑は責任のリセットでもある
植松被告の遺族への謝意―遺族にとって大切な存在ということが分かっていた→尊厳がある存在ということになる 彼の中で論理化できていない318P


posted by たわし at 02:09| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』

たわしの読書メモ・・ブログ519
・利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』立命館大学生存学研究センター 2016
優生手術の問題が裁判になり、超党派の議員連盟での補償の法案ができました。国の責任を明記しないとか、補償が低い(責任を重く受けとめていない)ということで、まだ裁判は続いていて、解決はされていません。
そもそも優生思想そのものの優生保護法下で起きていたこと、前の読書メモでとりあげた出生前診断・受精卵以前に公然となされていました。被害者の3人のひとへとその周りにいたひとへのインビューとか過去の発言などをとりあげ文を書いています。そのうち最後のひとりの周辺の危うくなされそうになったひとと、周りのひとへ集団インタビューもしています。これは、いわゆるブックレット―冊子ですが読み応えのある、繰り返しつつ丁寧に論攷していく貴重な資料です。
最初は「知的障害者」ということで(実は貧困問題とのつながっている「障害」の話です。この「障害」の括弧は、いつも使っている医学モデルという意味だけでなく、貧困による「学力不振」なのか、医学モデルの「知的障害」ということでも?という意味です)、だまされて本人の意志を無視して優生手術を受けさせられたひと、このひとは裁判の原告です。次は「脳性麻痺の障害者」が施設に入るためということで、優生手術では違法な子宮へのコバルト照射をされたひと。このひとは後に、「自立生活運動」に入っていきます。もう故人になっています。3番目は、これも施設の介助態勢の不備という中で、「自ら」子宮摘出を申しでて手術を受けたという話です。
みんなその後、手術の影響で、体調不調になって、精神的にもダメージを受けています。臓器移植問題とも絡んでくるのですが、臓器は互いの働きかけあいの中にあり、ひとつの臓器をとれば、いろいろ関係性の中での変調がおきてくるものだと思います。もちろん、新しい形でのホメオスタシス(恒常性)を獲得しようとするのでしょうが、そういう総体的関係性を無視して、人為的に臓器を摘出したり、機能を奪うなどということはなしてはならないことなのだと言い得ます。
3番目に掲載されていること、ずっと前に、女性の「障害者」の集まりに参加した女性が子宮摘出を受けた体験を語り、子宮摘出の勧めをしたというショッキングな話がありました。それがこの本の中にも書かれています。その話がこの話とつながっています。当時の情況、そして現実に自分の周りの介助者が生理の介助でいやな顔をされる、当然のこととしてやってくれないという中で、「自立」的生活のためには、必要だと「自己決定」して、子宮摘出を受けたのですが、そのことの意味を後でとらえ返し、それが他のひとが続くことになり、苦悩に陥っている様子がとらえられます。そもそも、「自立」という概念のあいまいさも起因しているのだと言い得ます。いまだに「自立生活センター」という名での活動があります。与党政党の多くのひとや現政治の枠組みは、「自立」ということを、身辺自立、経済的自立の意味で使い、運動サイドの自立は「自己決定」という意味で使っているのですが、この話は、すでに読んでいる次のブログの「自己決定」ともリンクしてます。そこからきちんと押さえ直す必要があり、わたしは「自立生活センター」という名称自体を「地域共生センター」と変えていく必要を感じています(もっとも、政権与党への働きかけが、このあいまい性に依拠して(「現実主義」的に「同情するなら金をくれ」式になりたっている)ことがあるのかとも思ったりしていますが)。
切り抜きメモに入ります。
優生保護法の最初の提案(審議未了)は社会党8P―社会党衆議院議員加藤シズエ、福田昌子。太田典礼44P・・・世界的に初期の優生思想の推進者の中に社会主義者がいたこととリンク
宮城県が突出して優生手術が多かったことの論理「人口資質向上」―「よい結婚のすすめ」「人口資質の劣悪化を防ぐために精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めて」17P
宮城県突出した地域ぐるみの「知的障害者」に対する優生手術、60年代に優生手術のピーク―全国的には50年代18P
池田内閣1962年厚生省人口問題審議会「人口資質向上決議」―「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である。」18P・・・「資質」という名による、ひとの資源化―モノ化、国策としての優生手術
「優生政策の主たる目標は、『民族復興』から『経済成長』にシフト」18P
貧困、障害差別、女性差別のからみあい41P
優生手術で放射線照射は禁止されていた44P―「レントゲン照射による先天異常への懸念から」45P― 「子宮摘出」「放射線照射」が現実的に行われていた46P・・・?「先天異常」
施設入所、生理処置が自分でできることが条件48P
後遺症49P
「当時(1965年前後)、政府側は経済開発のための人口資質向上と福祉の充実を一体的に捉えており、両者を結びつけていたのが「社会開発」という概念であったと述べている。」80P
「いいことしたんじゃから」85P・・・歪められた主体性の獲得と顕示
集会1979年「車いす全国集会女性障害者問題分科会」87P―堤愛子さんの提言
自分の後に子宮摘出手術を受ける者が続いたという罪悪感―女性ではなくなったという観念へのとらわれ97P―それを越えていく方向としての自らがとらわれたところのとらえ返しとそれを運動につなげていくこと
子宮摘出に到る理由@周りの生理介助での否定的態度A生理のつらさB身辺自立概念へのとらわれ(運動的「自立」概念のあいまいさとその罠)116-7P
瀬山さんの指摘―「自己決定したというところで自己を責める―自分が主体的に動いたというところでの自負心のようなことのせめぎあいのようなこと」119P・・・共同主観的なところへのとらわれた「自己決定」の論理へのとらわれ、次の読書メモの小松さんの論攷につながること
おわりに121-3P・・・簡潔なみごとなまとめ


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利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』

たわしの読書メモ・・ブログ518
・利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』生活書院 2012
一連のバイオテクノロジー・優生思想関係第三次(くらい?)集中学習の三冊目です。
かつて、「産む、産まないは女が決める」という女性解放運動のスローガンがあり、そのことに対して親の相次ぐ「障害者」殺しへの批判の運動を展開していた「障害者」団体が、「障害児」が生まれると分かったところでの中絶を、親の「障害者」殺しの構図と同じだと批判したことがあり、そこから、議論が始まり優生保護法の改悪の動きの中で共闘を組み、そこから優生思想的なところから出てくる「受精卵診断と出生前診断」への共同の取り組みとして「優生思想を問うネットワーク」という団体を形成し、この問題が日本産科婦人科学会という団体の自主規制に任されていたところで、この団体間のせめぎあいに入っていったとのことです。そのことが、時代区分をして、いろんな資料を駆使してとらえ返されています。貴重な資料として、これから使われていくであろう大切な本です。
ちょっと本の内容からずれるのですが、わたしはこの本から、かねてから障害問題とフェミニズムの対立というところの問題が、この本の中ですっきりしてきました。そのことを書いておきます。
「障害者」の中には、未だに「産む―産まないは女が決める」というスローガンのまま女性団体が動いていると錯覚して、女性団体と「障害者」の間の解決できないような矛盾としてとらえているひともいるのですが、これは優生思想にとらわれた女性とそのことを批判する「障害者」間の対立なのです。ネットワークでは、すでに「子どもを産むか産まないか、そして何人産むかは「女が決める」」としても、その子どもの質を選ぶことは許されない」と定式化しています。問題は、その優生思想が、さまざまな日常生活の中でそれと知らず取り込まれ、それ(共同主観的に形成された意識)を自己の自由意志や自己決定のように勘違いしていくことが始まります。この「自己決定の論理」は、「受精卵診断と出生前診断」を学会の規制を逸脱して推進しているひとたちの文言でも出てきます。自己決定権とか人権という言葉さえ使っています。ですが、優生思想は、そもそも「障害者」のホロコーストの思想で、そんな思想に基づく、人権や自己決定は、「ひとを殺したい時殺していいのだ」という論理になっていきます。臓器移植や生命倫理関係で論を担っている小松美彦さんが、『自己決定権は幻想である』(洋泉社2004)という本を書いています。そもそも、ひとは共同主観性の中でいき、ことばの獲得というところから始まり、教育、社会化というこの中で、そして日々の活動の中で共同主観的意識に規定されて「自己」を形成しているのです。そのようなとらえ返しを欠落させて、純粋な自己(実体主義的自己)など、まさに幻想なのです。もちろん、「個人の意志」を無視することは出来ないのですが、あくまで、いろんな刷り込みがなされているところで、ひとの対話の中での意志というところで、「自己決定」そのものを繰り返し問い返していくことが必要なのです。
で、結局、女性が子どもの「質」を選ぶということは、女性自身が選別される存在になっていくことになります。すなわち、この技術の行き着く先は、どのような受精卵、ひいては卵子を選ぶのかという問題があります。そして、総体的な関係性の中のひと、ひとの総体的からだということ、ひとの総体的な遺伝子、それらのことをどんどん実体主義的に切り詰め、物のようにきりとり、操作していくことは、ひとの物化以外の何ものでもないのです。この技術は「不妊治療」という言説の中でも進行・侵攻しているのですが、その中で「代理母」とかいうことも出ているのですが、女性の中で「自分の卵子をつかってもいいひと」―「子どもを子宮の中でそだててもいいひと」−「妊娠に関わってはいけないひと」というカーストのようなことさえ生み出す恐れを感じているのはわたしだけでしょうか? では、自分はそのようなところで上位の立場に立ちえるからいいのだというひとがでて来るかもしれません。ひとの物化の中でエリートと呼ばれる支配的な立場にたつひとも、そんな殺伐とした社会に幸せを感じることができるでしょうか?
更に、総体的関係性の中にあるということを捨象していくことは、その中で何が起きてくるのかを予想できなくなります。ヒトという種の絶滅のおそれさえ出てきます。すでに、ウィルスや細菌が、ひとが作った化学薬品に対して耐性をもってくる事態が起きています。ヒトという種を絶滅させるのは「スーバー・ウィルス」ではないかという話も出ています。遺伝子操作ということは更に、何が起きるか分からない世界です。「遺伝子操作は、原子炉溶融より恐ろしい」ということばが、遺伝子工学に関わったひとから出ています。原子力技術はもはや未来がない、危険な技術という認識が広まっています。この技術にも未来があるとは思えません。
さて、もっとこの本から離れていくのですが、もう一つの対立の図式を解いておきたいと思います。
それは公害問題と障害問題の対立の図式です。「水俣病」で、病気になった、「障害者」になったということで、その被害を訴えるとき、その被害を強調するとき、それが「障害者」の存在を否定する論理になっているという話がありました。とりわけ「胎児性水俣病」という「障害者」に焦点が当てられていました。もうひとつは、フクシマ原発事故のとき、高校生が「障害児が生まれる」と発言したことです。そもそも、「障害者」は被害がなくても生まれます。そこで、「障害者」が生まれること自体を否定的にとらえるということへの批判が「障害者」サイドからあります。ですが、問題の論点がずれているのです。被害を訴えているのは不利益を被ったというはなしです。それは、今の社会が「障害者」であることが不利益な社会だから、被害を被ったという話になるのです。たとえば、すべてのひとに必要な生活保障がなされるとしたら、そもそも「損害賠償」なる概念はなくなります。それでも、お金はできるだけ多く得たいのだという反論がでてくると思いますが、そもそも必要な生活保障がなされる社会というのは貨幣がなくなった社会で、そんな発想次第がなくなります。それでも、原理的にも残る問題があります。それは、企業の金儲け主義やそれを擁護する国策で作られた情況の中で、「強いられた」ということへの批判の問題です。  責任を認めようとしない、謝罪しないということで、お金の問題ではなくても、損害賠償や慰謝料という形でしか、責任をとらせる、ちゃんと謝罪させる手段がないということで、裁判を起こすという内容であります。
先に、「胎児性水俣病」の話を書きましたが、ユージン・スミスが撮った「胎児性水俣病」の子どもと母親が入浴している写真を巡って議論が起きていました。その写真を「悲惨さ」訴える写真としてとらえて、そのような写真を載せることへの批判が出ていました。わたしも、以前そのような思いも持ったことがあったのですが、実際に、自分自身が「障害者」宣言をして、運動に関わるようになってちょっと違うのではないかと思い始めました。また、ユージン・スミスの他の写真が出ています。またドキュメンタリーの番組など見ていると、彼は戦争の中にも子どもの生活があり、そこで笑っている写真を撮ったりしています。「そこに生がある」という写真を撮っているひとです。もうひとつ、書き置くことは、その被写体になったひとのことが映像でも出て来ていて、地域で「障害者運動」を始めて、自らが「否定的存在でない」ことを突き出しているようにわたしは観ていました。
で、この本の話に戻るのですが、この問題も含めて、バイオテクノロジーの技術に走るひとは、「不幸な障害者がうまれないように」という思いでやっているのですが、そもそも「障害者」サイドからは、「「障害者」が不幸なのではなく、社会が「障害者」を不幸にしているのだ」ということを突き出して来たのです。今日、外国から「障害の社会モデル」の考え方が出て来て、それを利用しようとしているのですが(実際に政治をやっているひとは、この「社会モデル」をほとんど理解できていません)、そもそも、日本でも、同じ内容のことが運動としてあったのです。
本を読んでいると、そこでの対話の中から、過去のいろんな対話(実際のひととの対話や本での対話)とリンクしていろんな思いが湧いてきます。ひとの意識もそのようなところで形成され、変わっていけるのだと思うのです。
さて、切り抜きメモです。今回は特に、自分の備忘録的メモになってしまいます。
まえがき・・・アウトライン的文です。
議論の対象としての日本産科婦人科学会の存在14P
受精卵診断の三つの交叉する倫理的問題「受精卵診断の倫理的問題は、障害をもつものの出生を回避すると同時に障害をもたないものを蘇生させるという差別にかかわる側面、女性の身体への侵襲に関わる側面、生命の人為的操作につながる側面が交叉するところに位置する。」14P――「中絶のもつ倫理問題にも重なる・・・」
「異常」ということは括弧付き18P・・・変異という表現の方が妥当(少しはまし)
欧米では、一応介入という批判はあるが、女性(カップル)の「自発的選択」というこ
とで流され、優生学批判が機能しにくいる傾向。日本では、むしろ個人的レベルの問題にされて、なし崩し的に導入されていく傾向61P・・・安楽死などの問題とリンク
「日本の人口政策をあらわす「魔のトライアングル」」を見いだした」→「魔のトライアングル」とは、基本的に中絶は禁止、妊娠したら必ず産めといのが堕胎罪、堕胎罪の例外条項として障害がある子は産んではいけないというのが優生保護法、そして次世代を担う健全な労働力を産むための母体保護が母子保険法であり、この三つが互いに補い連携しつつ人口の量と質を管理している構造をあらわした言葉である。そして、「この三つの法律によって、女は『産むべき女』と『産んではいけない女』に分けられ、また女のからだを通して『生まれるべき子』と『生まれてはいけない子』をふるいわけようとしている」・・というのがそれである。彼女らは、これ以降、折にふれてこの三角形を図示しながら、国による生殖の規制における女性と障害者の位置を確認している。」85-6P
子どもを産みたい≠どんな子どもを産むか118P
「重篤だからといって、なぜ、受精卵の段階で生まれないようにしていいのか」125P→「障害児」であると知って中絶する権利−生まれてくる子を親が選別する権利―親自らが選別されることにつながる128P
WHO「遺伝医療に関するガイドライン草案」―「個人・カップルの自発的選択により
実施される限り、出生前診断・選別的中絶も優生学とは無関係であるとの主張がなされ、影響力をもつようになった。」「母親が、できれば次に健康な児を持ちたいという願うことを差し止めるのは、個人のリプロダクティブ・ヘルス/ライツの侵害になるのではないかと思われる」130P・・・人間が選別される「権利」は権利とは言えない
「予防は優生学ではない」「自発的選択や個人・家族の利益の優生」140P・・・障害は病
気と一応区別されている、病気の予防という論理を持ち出せない。予防は感染症対策に限定すること。自己決定の論理のまやかし―近代的個我の論理のおかしさ
 「江原は、「子どもの品質管理」に「女性の自己決定権」という主張が荷担するかのような効果を発揮してしまうのは、その主張が『身体の自己所有』を前提とした主張と読み替えられてしまうからであり、それが『生殖は女性の責任』という家父長制的社会のジェンダー・バイアスを含んだ身体観を強化してしまうからである。」141P
米津「子どもを産むか産まないかを決める権利は女にはある。だけど子どもを選ぶ権利
はない」「障害をもつ胎児の中絶は、障害者の差別であるとともに、女性のリプロダクティブ・ライツを侵害する」132P→「荻野は、選別的中絶について米日を比較した論考の中で、この米津の発言を、「リブから始まった日本での選別中絶を巡る思考が今、どこまで到達しているのかを示すすぐれたマニフェスト」であるとして詳しく紹介している」141P・・・「障害者」の存在の否定を通した、女性自身が選別される、自己の存在のそのものの否定
ふたつの受精卵診断149P
筋ジストロフィー協会の方針158-9P・・・実質的に推進的役割も担っている?
疾患遺伝子による選別は遺伝子中心主義167P
自主規制の限界―危うさ178P
「日本における受精卵診断技術導入の経緯を見ると、アクター間の力学を通してテクノ
ロジーに付与された意味が変化し、その文脈の中で新たな社会的欲望が喚起され強められ正当化される。その結果、さらなるテクノロジーの拡大が促されたということができるだろう。」189P・・・自己決定というまやかし
受精卵診断を受けるひとの苦痛190P→ちゃんとインフォームドコンセントがなされてい
るのか? という問題も。
技術の有効性−金儲けのための医療?
「生まれる可能性をもつ胚は眼中にない」194P・・・廃棄される胚―使われる胚との表
裏の命の侵害
強力な人口政策ツール206P
(「フィレージの会」鈴木)「不妊が少子化の枠組みで論じられることに違和感がある。治
療を受けない選択の自由や、子どものいない人を支援する視点がない」「少子化対策に不妊が位置づけられる、治療してでも子どもを持つべきだという社会の圧力をさらに強める」213P
そもそも技術自体のあいまいさ、困難さ、技術自体への疑問219P
「『障害を持っていても安心して生きられる』そのような環境をつくっていき、親が安心
してこどもを生めるようにしていくのが理想」・・として、社会的障壁とともに文化抑圧の除去目指すことを訴える」223P・・・「障害の社会モデル」の考え
「べき」論228P・・・生まれてくるべきではない存在ということにつながっている
患者の自己決定論243P・・・社会にある「生まれてくるべきではない存在」という考え
をなくさないと自己決定にならない
「染色体変異は、生物の多様なあり様を示しているのであり決して「異常」を意味しな
い。」245P
 フーコーの有名な提言「古い君主の権利「死なせるか生きるままにしておく」→近代「生きさせるか死の中に廃棄する」」247P
 「・・・のより積極的な意味づけを提示しえなかったことが、2004年以降の批判勢力としての弱体化につながったとも考えられる。」253P・・・共同主観性総体からの批判、それの土台からもとらえ返す
 「『変異』を、あるいは『逸脱』を常に生み出し続ける自然の力」256P・・・それを「症」として異化する共同主観的構造


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天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』

たわしの読書メモ・・ブログ517
・天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』緑風出版 2017
一連のバイオテクノロジー学習の第二弾です。この本は、ゲノム操作・遺伝子組み換え食品について解説し、その争点を整理した本です。
研究が、自然の関係性総体を押さええず、一部を切り取って因果論的世界観で試行錯誤的なことで進められている様子が分かります。そこに、どういう社会を作って行くのかという未来図がなく、多国籍企業の金儲け主義による自然環境の破壊と、人間社会、ヒトという種の未来をも奪うような研究や企業活動の跋扈、各国政府への働きかけが見られます。勿論、それに反対する民衆の運動も起きてきているので、そこへの期待もあるのですが、全体的な流れを見ているとわたしは、「資本主義やめますか、ヒト絶滅の道に進みますか」という標語を出さざるを得ないとも思ったりしています。
そこまで行かないまでも、「地域活性化」の話ともつながるのですが、今の政府の農業が、食料自給率をどんどん減らし、お金持ちのための贅沢品を作るような流れも出ています。一方でIターンやUターンの話も出ていて、農というところから、根底的なビジョンをもった取り組みが必要になっていると思います。そこに社会変革の可能性もあるのではないかと思ったりしています。
細かいコメントは、キーワード・切り抜きメモで若干書きます。
三つの神話(ウソ)「ゲノム編集技術は間違いを起し難い」「ゲノム編集技術は精密に制御されている」「DNAの機能は変更が予測可能である」30-1P
ゲノム編集技術の問題点「@生物の大事な機能を殺いでしまうA狙った遺伝子以外を切断(オフターゲット作用)する可能性が高いB複雑な遺伝子の働きをかき乱すCDNAを切断するだけだと跡が残らないため、操作したどうかが分からなくなり、悪用が可能になる。D簡単な操作ででき、操作の簡単さと結果の重大さの間にギャップがあるE軍事技術への転用が容易F遺伝子を操作するため、次世代以降に影響が受け継がれるケースが多い。G特許争いで開発が過熱化しているH簡単にオンラインで注文できるI民主的手続きや市民参加の仕組みがないままに進行している」33P・・・わたしサイドから付け加えるなら、「優生思想や差別を再生産・拡大していく」
市民の遺伝子権利章典42P
「人間の遺伝子の仕組みは大変複雑である。その遺伝子の複雑さ、生命活動の複雑さ、奥行きの深さをもたらしているのは、実はRNAであることが、最近よくわかってきたのである。しかしRNAに関する研究は、あまり行われてこなかったのである」64P・・・因果論的世界観や要素還元主義的な研究、平衡論的研究、そして成果主義では、関係の総体を押さえていく作業としてのRNA研究には進まないのではないか?
「人工生命の誕生のニュースは、世界中を驚かせた。環境や人体に及ぼす影響は予測がつかず、封じ込められた環境中での使用以外認めるべきではない、という意見が相次ぐなど、その反響は大きかった。」70P
(遺伝子ドライブの技術の停止の決議2016年)「(多くの科学者からのメッセージ)この技術は基本的に種の絶滅を目指す技術である。」82P
遺伝子組み換え1980年代前半―規制は1990年から86P
大豆畑トラスト運動―民衆運動90P
「カルタヘナ議定書」というバイオセーフティ議定書2000年 90P
政府から独立した「食の安全監視市民委員会」93P
「食の安全、食品表示などを検討して、基準や規格を決めていく国際組織コーデックス委員会」94P
「遺伝子組み換え作物栽培規制条例」北海道2005年→さまざまな条例の先駆け97P
GMO(遺伝子組み換え生物)フリーゾーン運動98P
バイエル・クロップサイエンス社の「LLライス」裁判→七億五千万の賠償で和解125P
ゴールデンライスでの人体実験130P―「トロイの木馬」131P―他の野菜から摂取できる、本末転倒の開発思想131P
規制を求める運動の小売り業者へ働きかける民衆運動141P
GM鮭の問題@資源・生態系の破壊A不妊B肉食強く他の野生種の絶滅のおそれC他種との交配可D毒性の吸収で摂取したときの蓄積Eガンの発生F種自体に敗血症の恐れ143P
除草剤耐性作物に用いられるラウンドアップの主成分―グリホサートを巡る攻防162-6P
「緑の革命」→遺伝子革命→種苗法・特許(知的所有権)→多国籍企業支配170P
高収量品種―飢餓がなくなる→逆に飢餓が増える、貧富の拡大172P・・・スーザン・ジョージのIMF、世界銀行批判
種子の企業支配→品種が少なくなる→ウィルス・細菌による絶滅の恐れ(→品種の保存運動も)173P
UPOV(植物の新品種保護のための国際条約)174P
日本の種子関係の動き177P
「知的所有権強化では、企業の権利は強化されるが、市民の権利は制限が進む。」190P・・・そもそも特許制度―知的所有権の思想自体のおかしさ→207P
ゲノムコホート研究192P コホート−大規模調査
「・・・生命現象の全体像をとらえようとすると、とてつもない膨大な未知の領域が存在している。/現代のバイオテクノロジーは、DNAやRNAだけ見て、生命全体を見ようとしてこなかった。そこにこそ、現代のバイオテクノロジーの最大の問題がある。しかもその生命操作は、経済の論理で動いている。金もうけのために原発を動かし、放射能汚染を引き起こし、市民を苦しめてきたのと同じ論理で生命操作を進めている。結局、最終的に負の結果を負わされ、被害を受けるのは市民なのだ。」196P
「飢餓をなくす最適な方法は、種子への特許権の設定を廃止し、家族経営による小規模農業を拡大することである。食料主権を確立して、食料輸出を抑制することである。遺伝子組み換えやゲノム編集、RNAiといった最新技術に依存せず、有機農業をベースにした安全で安心できる食料生産を広げることである。二〇〇八年に世界銀行が提案したように「エコロジカルな農業によって、世界の人々への持続可能な食料供給をもたらすことができる。」のである。」207P・・・地産地消の共同体の創出。世銀が「後進国」で単一作物の作付けによる「緑の革命」を推進して、「後進国」の債務を膨らませ、飢餓を生み出した責任の問題も押さえておく必要。


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粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』

たわしの読書メモ・・ブログ516
・粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』青土社 2012
この本は、最初はバイオテクノロジー関係に特化して準備されていたようなのですが、フクシマが起きて、急遽、二つの核、細胞核と原子核というつながりから、そこで何が起きているのかというところで、できた本です。
 構成は「はじめに」「序章 3・11“以前”、科学“以外”」「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」「第7章 市民のバイオ化 原発事故」「おわりに」となっています。
 この著者はいわゆるサイエンス・ライター(最後にコメント)と言われであろう立場で、エビデンス−科学知の突き詰めによる、科学倫理の追究の書というテーマになるのでしよう。
 わたしは運動の立場から文を書いているので、そもそも科学の名によって何が行われてきたのか、という批判の観点をもっています。そしてエビデンスと言われていること自体に疑いを持っています。原子力村の安全神話を作り出したのも科学者です。勿論、肩書きを振り回す似而非科学だったのですが、著者はきちんとそのことを検証していこうとしているのだとは思いますが。
 さて、今回は章ごとにコメントを残しつつ、キーワード的切り抜きもしてみます。この本は目次を見ているだけでも、著者がかなりバイオ化ということでとらえようとしていることが分かります。著者のバイオ化という概念は、わたしにとって、マルクスの物象化という概念と重なってとらえられます。
「はじめに」
ここが全体を眺めるのに大切ですが、後と重複していきますので、ここでは省きます。
[キーワード]二つの核、バイオ化 生-権力 バイオ・キャピタル
「序章 3・11“以前”、科学“以外”」
 冒頭に書いたように、フクシマの事故が起きて、この著書は大きな編集転換をしました。で、この章と7章が挟まれたようです。ここで問題にしているのは、人災と天災の境目と実際の被害の線引きの問題です。著者は、フクシマ後に現地に入り、ちょっと移動する中で被害の差に大きさがあると気づきます。それは他の天災と言われていることの外国の文献からも引用されています。それは「個人の」とされる貧困などの問題、行政の防災対策の貧困などの人災であることなのですが、差別が天災の中で現れされるということで、ここでは書かれていませんが、アメリカのハリケーン被害のときに語られていたことでもありました。
原子核でいえば、原子力船「むつ」や高速増殖炉「もんじゅ」は破綻しました。原子力発電自体も、スリーマイル、チェルノブイリと続き、そしてフクシマが起きました。いくつかの国は、原発からの撤退を宣言しました。当の事故を起こした国の日本は、再稼働を進めています。首相自らが原発輸出の売り込みをやっていました。とても信じられないのです。
[キーワード・切り替え] 切れ目22P 「被災地には線が引かれている」25P 「問題は「自然」でなく「社会」の側にある」30P 
「東日本大震災の発生前にまとめられた「平成22年防災白書」は、近年の自然災害の死者数の六六パーセントが低所得国(発展途上国)、二八パーセントが中所得国で生じており、高所得国ではわずか五パーセントしか生じて居ない・・」30P
「ハザードが起こりうるリスクと脆弱性をかけたものが被害に相当する。」34P
この章の表題の意味ですが「3・11“以前”に、そして科学“以外”に着目せよ。」37P・・“以前”というのは、事故が起きる前の差別的情況が事故によって顕在化するということ、“以外”というのは、問題は科学(自然科学)、自然災害でなく、社会問題だという提起だとわたしは理解しました。
「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」
生殖補助医療はいろんな問題を抱えています。「不妊治療」ということを、本文の中五点で示しています。@「女性は子どもを産んで一人前」ということでの抑圧A「不妊治療」というけど、治療の内容がないごまかしB女性に負担を非対称的に負わせていることC優生学的な問題を孕んでいたことD商業的に行われる中で、いろんな差別の問題を引き起こすこと。わたしが感じていることを付け加えると、生殖医療というところで三つの階層化が起きる危惧があるのです。それは遺伝子を残す階層とそれを人工授精して腹に宿す代理母の階層、そして子どもを作ることを禁じられる階層です。まさに優生思想につながることの恐ろしさを感じざるを得ないのです。
「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」
 遺伝子編集と出生前診断の話は、まさに優生思想そのもののおそろしさを感じています。
[キーワード・切り抜き]遺伝子よりも環境・生活環境の方が大きい72P 放射線照射というところから遺伝子研究が始まった、放射線によるDNAの損傷という原子核と細胞核の交叉79P ABCCは調査はするが、治療はしなかったこと・・「植民地科学」81P・・・科学の冷徹さ /遺伝子治療 成果に疑問視 副作用による死者 白血病になる例84P 「人の評価」―「属性」と「能力」、「属性本位」(遺伝子研究)と「業績本位」93P・・・どちらにしても能力の内自有化という物象化 /「GATTACA」という「デザインベイビー」をテーマにした映画から波及した、著者のコメント「「GATTACA」の世界は、能力格差と自己責任を是とするネオリベラリズムが席巻する現実社会と、それほどの違いはないだろう。」94-5P・・・どちらかという問題ではなく、属性主義と能力主義を合体させたのがデザインベイビーではないでしょうか? どちらもおかしいです。 /ダウン症の出生前診断「九二パーセントはその妊娠を終わらせる」98P 「英語圏のメディアでは、ダウン症などの先天性障害児を出産する可能性自体が「リスク」として記述されることがしばしばある。」―「リスク」として表現すること自体のおかしさ102P 代理母−出生前診断で、子どもが製品としてとらえられる商品経済的ひと(赤ん坊)のもの化106P
「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」
 この章は、このメモと一緒に映像鑑賞メモで取り上げている山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組とリンクさせて、読書メモというには少し逸脱したメモとして残します。もうひとつの核研究として細胞核の研究です。ES細胞研究を「万能細胞」とする研究からはじまったのですが、倫理的に女性の身体に負担をかけるようなことをすべきではない、また、命や命のもとになることを壊してはならないということで、ES細胞研究からの撤退の動きがあったようです。で、iPS細胞にはそのような倫理的問題から逃れるとして、スポットライトを浴びています。しかし、山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組を見ていると、当の山中伸弥さんが危機感を抱いているようです。まさに分水嶺に立っているのです。
またiPS細胞を豚の体内で培養し、ヒトに戻すということは、豚のウィルスの感染症のみならず、豚の脳とその臓器の関係はどうなっているのか、そもそも何が起きるのか、というところで、承認されるのでしょうか? iPS細胞で精子卵子を作ることができるということは、ヒト概念を危うくすることで、そんな科学は否定されることしかわたしには思えないのですが。病気の治療ということで、個々の切実な利害というところを無視するのかということを、全体主義批判というところで出てくる可能性があります。ただ、臓器移植の問題と同じように、ひとの犠牲になり立つ科学は否定されることです。そのことには、ヒトという種の概念を危うくするという、根底的危機も当然含まれるのです。
[キーワード・切り抜き]著者の幹細胞問題での論旨112P ひとりのヒトから卵子・精子が作れる−ひとが作れる122P iPS細胞の英語原語 induced pluripotent stem cell 128P 「できる(できそうだ)けどやらない」という選択肢138P 規制の緩い国−経済格差、政策格差、倫理格差139P 「身体的・精神的負担やリスク」は「社会問題」142P
フーコーの「生-権力」−著者「「切れ目」を入れる」というところからのとらえ返し143P
「「万能細胞」は・・・決して、社会的に万能なものではない」146P
「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」
そもそも臓器は体内の中で単なるもの―機械として存在しているのではなく、生命体のネットワークの中で機能しているのです。そのようなことをきちんと押さえないことから臓器移植の問題も起きています。まして豚の体内で臓器を培養して、ひとに移植するということで、何が起きるかわたしは想像もできません。近代知の因果論的世界観では、部分的に切り取り、そこで総体的な関係性からとらえ返すことをネグレクトしているのです。自然科学のみならず、パラダイム転換ということが起きているのですが、自然科学をやっているひとはそのようなパラダイム転換とは無縁の研究をやっているのでしょうか? そこではリスクが総体的にとらえられなくなっているのではないでしょうか?
 また脳の中に、そのことの人格があるような、脳の中の小さな自分というようなイメージで、脳の特権化の様なことが起きて、そこから脳死臓器移植の論理のようなことも起きてきているのですが、実際は、神経細胞の双方向性ということも含めて、脳が一方的に指令を出しているわけではないのです。このあたりは、今回著者が文献の中で紹介だけに留めている、脳死臓器移植の問題とも関わっています。
[キーワード・切り抜き]嘘発見技術の開発などは「私たちは、私たちが考えていることでなく、私たちが行なうことについて説明責任を持っているという原則に対して、挑戦するかもしれないこと。」156P・・・共謀罪の成立・施行 /「「腰痛は脳の勘違いだった」と主張する(元)患者もいる」158P どんな最先端の科学テクノロジーを使ったとしても、そこで脳内現象として視覚化されているのは、心的できごとと単に相関性をもった脳活動に過ぎない。ある心的できごとAが起きているときには、それにともなって脳内現象Bがいつも生じているという観察結果を積み上げたとしても、それはAがBと同一であることも、BがAを生み出しているということも説明することはできない。」158-9P」・・・因果論的世界観の否定←廣松渉さんの論攷 /信頼と不信159-162P
「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」
 自死(著者は「自殺」という表記)ということでうつとの関係がかなりあるということで、抗鬱剤との関係も含めて論じています。
[キーワード・切り抜き]高い自殺率は「集合的な疾患」166P・・・?バイオ化された表現、社会問題 /「社会的殺人」168P・・・殺人ならば自殺ではなく、自死という表現に/「自殺とうつ病との間には根深い関係があると考えられている。」169P 「うつ病を発症する可能性のある遺伝子の研究175P・・・まさにバイオ化 /ブラセボ効果176P アメリカFDA(食品医薬品局)「うつ病は脳の病気ではなく、化学物質はそれを治療しない」178P デンマーク「抗うつ薬は、中年や高齢者の自殺率低下のうち一〇パーセントにしか役立っていないと分かった。」180P 「(治療の効果を)信じる者は救われる、しかし信じないものは救われない、ということだろう。」182P 「生物医療化という現象または社会的変容には、医療化よりも「脱医療化」と呼びたくなる側面がある。」183P 「うつ病の「個人化」」「社会的なるものの個人化は、抗うつ薬と心理療法、どちらにもあてはまる。」187P・・・内自有化、障害の個人モデル
「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」
著者自身の当事者問題での腰痛問題で、ひろまっている知識の、医療者も含めた曖昧性−非科学性というところを科学的に明らかにしていくということを著者をやっているのですが、そこでも、統一性をなしえていない、そういうエビデンスって一体何だろうと思っているのです。科学ってそんなものなのかという話です。で、そういうところで、ひとの、人類の未来を左右するようなことを勝手にやろうとしている、先ほど書いた山中さんのインタビューで、たかがひとがつかんでいるのは一割か二割に過ぎない、そういうこととして謙虚さが必要ということを話していたのです。そんなことを感じてしまいました。
[キーワード・切り抜き]痛みという社会問題191P・・・「痛みの社会モデル」 /生物心理社会的疼痛症候群202P 「腰痛概念の「生物物理構造モデル」から「生物心理社会モデル」への転換」203P・・・後者に生物を入れるとバイオ化になる。障害学の知見から「個人モデルから「社会モデル」への転換」 /「レッドフラッグを「生物学的(物理・構造的)危険因子」、イエローフラッグを「社会心理的危険因子」と呼び変えることもできる。」204P
「身体的痛みにおいても、社会的な断絶によって生じる社会的痛みにおいても、脳の同じ領域――二次体性感覚領野と背側後部島皮質――が働くことがわかった。」208P・・・アドレナリン分泌と感情の関係も /「痛みのバイオ化は、バイオ化の限界をも示しているのだ。」209P 「しはしば「心身二元論」の提唱者と呼ばれるデカルトの議論においてもなお、快感は喜びと、苦痛は悲しみと重複するものなのである。デカルトのいう「苦痛」は本章でいう「身体的な痛み」に、「悲しみ」は同じく「社会的痛み」に置き換えられると思われる。」210P・・・「悲しみで胸が締め付けられる」という感覚や痛みが生じるということや、アドレナリン分泌から感情の区別はできないという問題や、著者のそもそもこれまで論じてきた社会問題ということで矛盾する論攷になっているのでは?
「第7章 市民のバイオ化 原発事故」
 この章では、原発事故の問題から、幅広い社会問題を自然的、問題としてとらえるバイオ化の批判をしています。そのことは、わたしは、フェミニズムと「障害者」の対立とか、 公害問題と障害問題の対立とかの問題に広がつていきます。しかし、それは社会を固定的にみているから起きてきていることです。公害はひと総体をあやうくするのです。公害とか、損害賠償について、「障害者」差別がなくなったら、告発することはないということを書いているのですが、少し違うと思います。他者からある生き方を「強いられる」ということを問題にしているのです。現在は「障害者」差別があるから、強いられたこと以上にそこで不利益を被ることを問題にして裁判など、損害賠償という形で責任を問います。差別がない社会では、基本生活保障というようなこともきちんとなしえることなので、損害賠償などする必要もないのですが、「強いる」ということの告発はなさねばなりません。しかも、それはおそらく、自然破壊やひとの営みを危うくするという人類に対する罪のようなことです。
[キーワード・切り抜き]確定的影響→確率的影響という観点で科学を考える231P 生物学的市民性237P(・・・高木さんの市民の科学)→出発は原発事故238P 科学者と対等なパートナーシップ238P・・・規制が必要になる研究には主体性は「市民」 /「もし世界が、いや日本社会が、障害差別がなく、もちろん優生思想的な考えを持つ誰一人としていなくて、社会福祉が完備されている、というありえない社会=ユートピアだとすれば?」242P・・・これは当然実現すべきこと、それを「ありえない社会=ユートピア」とすることがありえないと思うのですが。これは差別のない社会をユートピアとして彼岸においているのではないでしょうか? もし差別の問題を解決できないとして押さえるなら、この論攷自体が何のために書かれているのでしょう? /(チェルノブイリの被害と「される」写真を見ての)「「恐怖の対象」、「あってはならないもの」(と感じる)243P→「内なる優生思想」247P・・・ユージン・スミスの「水俣」の写真についても語られていたこと、そのひとの世界観・思想性によって、感じ方が変わってくるのではないか?
「おわりに」
「患者の利益」ということで科学技術の使用の可能性を書いているのですが、ひとつはES細胞研究も使う可能性、もうひとつは原発も使う可能性です。「治療できる見込みの高いES細胞を拒否して、見込みの低いiPS細胞を選ぶというのは、本末転倒とまではいわないにしろ、患者の利益にはならないであろう。同じように、仮に“より安全な”原子力と、“より危険な”再生可能エネルギーがあるとしたら、前者を拒否して後者を選ぶというのは、賢明な態度とはいえないはずだ。」258P・・・もっと総体的に人類の利益という問題も考えなければなりません。この本の中では、著者は臓器移植の問題を書いていません。誰かを、何かを犠牲にして成り立つようなことをやってはいけない、ということで、単に患者の利益ということでは論じられないということが、この臓器移植でははっきりしているのです。幹細胞の問題では、山中さん自身がこの技術が人類を滅ぼす可能性という危うさを語っています。著者はエビデンスということを追い求めています。確かに科学を批判するのに、エビデンスなき批判は感情論になります。しかし、科学知の論理にとらわれています。科学知は客観主義的にあるものではないと言い得ます。「原発の技術は、安全性を担保して使う」という論理自体が、もはや使い物にならない技術として明らかになっています。そして自然エネルギーにも危険性があるにしろ、それを取り除きつつ追い求めていく、というのがより良い道だというのが、エビデンスになっているのではないでしようか? 著者は「痛点」という観点をもっています。その「痛点」ということをもっと総体的なとらえ返しが必要になっていると思うのです。


posted by たわし at 01:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBS1「あなたの隣の奇跡」

たわしの映像鑑賞メモ037
・NHKBS1「あなたの隣の奇跡」2019.11.1 0:55〜2:34
最近テレビを付けっぱなしにして、パソコンを打ったりしていて、思わず面白い番組に出会うことがあります。これもそのひとつ。
今、地方で「限界集落」とか過疎化の話があるのですが、部分的に逆にひとが集まってきているところがあるという話です。IターンやUターンの話も出ています。ひとつは、政府がTPPとかに見られるように、ひとが生きるためのもっとも必要な農業の切り捨て的な政策を取っています。そういう中でも、地方創生とかベンチャー的な農業とかの推奨をしていることがあります。この番組の中でも一個数万円のいちごとか、4合で60万の値が付くお酒とか、お金持ちのための高級嗜好品の農業ということがひとつあるのです。こういうことは、確かに、技術としては面白くて、みんながそのようなところを楽しめるような社会になればいいのですが、実際は、むしろ食料の自給率をさげ、格差の広がりを生み、サブシステンス的なことと逆な動きになるので、わたしとしては余り共感できませんでした。
それでも、活かせる話は、タブレットを使った、仲介資本を介さないで、産地直送の販売とか、町長が100人委員会とか名目で、町民のアイデアを募り、それを事業化していくこととか、自然に親しむ、民泊して農業体験をして、そこで過ごしたひとが、家族ごと引っ越ししてくる、夫婦で引っ越ししてきて子どもを作り、そんな感じで、地域の子どもの七割がIターンの家族の子どもというような地域も出てきているという話です。外国からの観光客が民泊して観光し、そば作りとか楽しみ、リピーターとなって友人とまた来る、そんな地域の活性化のようなことも起きているようです。
自然を楽しみながら子育てする、また、もっと農業に注目しながら、地域から日本を再生していく力のようなことが生まれてくるかのかもしれません。そんなことを考えていました。


posted by たわし at 01:46| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」

映像鑑賞メモ 
たわしの映像鑑賞メモ036
・NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」2019.10.16 21:00〜22:30
今、iPS細胞で脚光を浴びている山中伸弥さんへのインタビュー番組です。iPS細胞の話を知った最初のときから危うさを感じていました。山中さんの話では、彼もその危うさを感じていたとのこと、しかも、優生思想とつながっていることも理解していて、ゲノム編集の危うさと並行して自分の研究の危うさを理解しているのです。皮膚から、精子、卵子を作れる技術なのですが、そこから受精卵にして、ひとが作れるということなのです。「ヒトを作る」ということに踏み込むという技術を手に入れたという話なのです。ひとの概念自体を危うくさせる技術です。
わたしが以前フェミニズム関係の本を読んでいた時、S.ファイアストーンの『性の弁証法』評論社1972という本がありました。その中で、女性が差別されるのは子どもを産む性ということにあるのだから、女性が解放されるには試験管ベービーの技術が開発されることが必要、というようなことを書いていました。まさに「社会的関係を自然的な関係と取り違える錯認(マルクスのいう物象化そのもの)」なのです。当時、そのような話はSF小説の社会の話でした。SFといえば、昔観た映画で、ある建物の中に入っていくと、「人工子宮」の容器の中で、ヒトの「胎児」が栄養補給を受け育っている場面がありました。どこまで映画で観たのか、わたしがその後夢を見たのかもうはっきりしなくなっているのですが、ぞっとした思いがあります。
何でも晩生のわたしがパソコンを始めたのは2000年頃、そのころは本の中に書き込みをするだけで、読書メモも取っていませんでした。ちょうど、そのころ遺伝子操作関係の第一次まとめ読みをしていたので、どこにその記述があったのか探し出せないのですが、「遺伝子操作は原子炉溶融より恐ろしい」という記述がありました。遺伝子操作関係の本の中にメイワン・ホー/小沢 元彦訳『遺伝子を操作する―ばら色の約束が悪夢に変わるとき』三交社 2000という本もあります。
最初に日本でノーベル賞を受けた湯川秀樹さんは、自分の研究が原子爆弾製造に使われたということで、晩年平和運動に尽力しました。原子核―原子力研究をしていて、その恐ろしさを自覚した高木仁三郎さんや元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは反原発運動に転じました。その実験所、「熊取六人衆」と言われる反原発の研究者を生み出しています。山中さんは、自分の研究室と並行する倫理委員会を作ったようです。どうも自分が中心になってその倫理研究をやるのではなく、別のひとがそれを担当するようです。どうも分業になっているようなのです。
ですが、自分の責任を他者に委任するようなこと、そんな分業はありえるのでしょうか? 
山中さんは優生学の歴史とかも押さえ、そして政治が自国ファーストになっている(自分ファースト)になっている現状をも押さえています。山中さんは臨床医として病気を治すというところの自分のビジョンをもっていました。けれど、この研究にはいってくるひとは必ずしも、そうでないひともいます。論文を書く、研究費を得るというところで成果を求めるひとがいることをも押さえています。そして、自ら分水嶺に立っていると、危機感ももっているのです。
山中さんは、iPSの技術を確立したときに、文科省に行って倫理委員会をつくって欲しいと要望したそうです。
[わたしの感想]
人類の歴史で、原子核の研究から原爆の開発に進み、そこから核の平和利用ということが現在どうなっているのか、核保有国が広がり、核禁止条約さえ締結しないような国に政治に任せることなどできはしません。原発は大きな事故が三度も起き、その被害の悲惨さも認識しているのに、フクシマ後、他の国で原発からの離脱を決める国も出てきたのに、事故を起こした当の国が再稼働を進め、原発の安全神話から、放射線の安全神話に切り替え、首相自ら原発の輸出をすすめようという「死の商人」の国になって行ったのです。「我が亡き後に洪水は来たれ」という誰も責任をとらない技術を使い続けようとしています。そんな倫理亡き国に、倫理など問題にできるのでしょうか?
そもそも原子力船「むつ」も高速増殖炉「もんじゅ」も破綻しました。原子力技術は、それを封印する技術としてしか未来はないと思っています。
ES細胞から続く、iPS細胞技術、山中さんは、マラソンで例えると中間点、登山では五合目と話していました。当然、後になるほど、上にいくほどリタイヤの可能性が強くなるとも言っています。そして、科学者には謙虚さが必要なのだとも言っています。ひとが知り得ることは、一割か二割にも満たないであろうという話も出ていました。高木仁三郎さんは、ひとは「自然に適う」生き方しかできないのだと書いています。そして、山中さんは、この技術の延長で人類滅亡につながるかもしれないとも自覚しているのです。
そもそも最初から議論のし直しをすることではないかと思っています。
科学の進歩は止められないとか言っていますが、それならば人類が滅びることを止められないとするのでしょうか? 科学者自身も声をあげることです。

 さて、このNHKの番組だいたい反響が大きい番組は再放送されるのですが、今度は録画しようと気にかけていたのですが、まだ再放送されていないようです。いろいろ議論すべき大切な内容です。それで、オンデマンドで購入して視聴しながらメモをとりました。再視聴できる期間が短かったので、再度見れませんでした。かなり長い番組で、わたしの関心領域に限ってのメモとりで、校正もしないままです。とりあえずのメモにすぎません。
[視聴メモ]
きき手 出山知樹
2012年 ノーベル医学・生理学賞
 Vision and Work hard
叡智として、ひとは本当に賢くなっているのか
今、分水嶺に立っている
京都大学iPS細胞研究所
登山で五合目 マラソンで中間点・・・今動物実験から、臨床実験の入り口 これまで12年で今後20年30年  これからが大変、マラソンでも登山でも 終わり頃リタイヤが多い 失敗するリスクが大きくなる
父が輸血で肝炎 ウィルス 医者になって一年でなくなる 両親は町工場の技術者
神戸大学医学部整形で臨床医 →大阪市立大学医学部大学院で基礎研究に入る
アメリカでトレーニング 動物実験で予想できない事態で関心を抱く・・血圧上げる薬で逆に下がる
グラッドストーン研究所三年半
いろんなボス 基礎研究
長期目標 考え方
ロバート・マーレー所長(今は名誉所長)の「君のビジョンは」VWhard(Vision and Work hard)というといかけに・・・「今は治せない病気を治したい」と答えた 
  研究者には研究費をとるとか論文を書くとかいう答えが多い
 日本人にはビジョンがないWhardだけ
奈良先端科学技術研究所 三人の部下をもって始める 皮膚から万能細胞
六年で6つの遺伝子特定
毎年 サンフランシスコに通って生命科学基礎研究
京大iPS細胞研究所 臨床医としての治したいとのビジョン
研究者が転職10〜20年でなんとか臨床に結びつけたい
アメリカでは「ハート・ワーク」という形で寄付が集まる
未来ビジョン 50年〜100年後
キャス9タンパクで酵素をきる ゲノム編集
  スタンフォード大学中内啓光 マウスからラットへ膵臓移植
パーキンソン 認知症 心臓病 糖尿 ガン
100年後にはiPSは過去の技術になっているかも その方がうれしい
科学には完成形はない→もっといい方法がでてくるのではないか 自分の身体の中で 進化してなくなった自然治癒力で、自然の再生能力を使う技術
外科やiPS は外から  薬で再生力とか病気にならない予防とかの
「さみしくないか」という問いに、「次の、次の次の世代の踏み台」
科学は連続 病気を治す 患者の負担のないように
100年後臓器が作れるかも
今は、動物の体内で臓器を作る段階・・どこまで生命倫理的に許される臓器移植か
待っている人がいいというのか 動物でいいのか
動物で感染症の問題 動物の中のウィルスがヒトに移る
人類をおびやかす 想定外のこと
実用面・倫理面慎重に一歩一歩
どこまで模倣していいのか 
倫理的・宗教的面いろんな議論を
科学者は進めたい(中には慎重なひともいる)
集約するのはむずかしい、一緒に考えていく、正解がない
人類と地球をよくする可能性を追い求める 逆に不幸にする 最悪滅亡
最悪例 原子力 武器 平和利用としても何万にも及ぶ被害・影響を及ぼす 逆効果
真摯な思い、慎重な態度
科学の進歩は止められない・・・?
人間がどう使うかが問題
100年前遺伝子 進化ということが受け入れられた その50年前ダーウィン メンデル
遺伝 進化ということで優生学が興った 自然に起こっている
すぐれた遺伝子残そう 比較的最近まで優生思想の法律があった
そのときも 自国ファースト ポピュリズムが起きている
科学においても倫理が心配
100年後の今も 自国ファースト ポピュリズム
100年前と違って 今は一日でゲノム解読ができ、ゲノム編集で書き直すことができる
ゲノム編集で書き換えれば
背の高さ・・・才能の遺伝子を書き換えられる 100年前の優生学のときと同じ議論が起きている
科学は進んでいるが、叡智としては進んでいるのか心配
全生物を滅ぼすことが一週間で書きかえができる
恐いと感じる
わたしたちが10年後20年後どうなるか、
政治が進み方を決める岐路に立たされている・・・政治に放り投げている
中国の研究者のゲノム編集の問題
iPS細胞研究所内に生命倫理を研究する部門を作った 藤田みさお教授
次世代まで影響が及ぶ、人類が進んでいると信じたい
政治を見ると不安 科学者を見ると不安・・100年前の優生学
透明性 自由に発言できる
最初はながれ弱い   流れ出したら止められなくなるかも
上流で研究を検証  大きな流れになったら止められない

マウス皮膚から精子・卵子も作れる
不妊症の原因を解明研究にも使える・・新しい治療の方法
その技術 新しい生命を作るにも使える 技術的に可能→むずかしい議論 100年前の優生思想  更に遺伝子操作も
知性的に冷静に考える 100年前間違えていた 同じ議論が
iPS細胞どう使うか 人間の欲望がからむ 線引きがむずかしい 
健康になりたい→より健康になりたい、より美しくなりたい
医学はどこまで医学 どこまで使っていいのか?
どこまで病気なのか?
病気というより個性というとらえ方もある
ある人は病気といい、無理矢理治そうとする
かつて子どもを作ってはならないとした
いろんな技術がある
ひきょうかも知れないが自分で決められない
病気―難病は許されると思う 人類にプラスになることは
踏み込んだ技術はどうなのか 自分で自問自答している
ES細胞は倫理的に問題があった、iPS細胞を作ったときこれで倫理的問題は解決できたと思った、次の瞬間 精子卵子を作れる、新しい生命を作れる。もっと大きな生命倫理的課題を作ってしまった
その時に国の文科省にいって倫理上の問題があるから、議論を進めてくださいと言った
そのとき10年20年かかると思ったけど、科学の進み方早くなっている。一刻も早い議論が必要
初期化ということで、高齢者も若返りも可能になる ひとの寿命が延びる 究極手塚治虫の「火の鳥」の様な話になる 永遠の生命というような話まででてくる 人間はそれでいいのか?
健康寿命−寿命の間を縮めるということでの医学と寿命自体を延ばすというのは違う
今はせいぜい120歳まで 150-200歳まで生きて、個人、人類、地球の平和につながるのか、幸せなのか
このことを含めて岐路にたっている
幸福とは何か 謙虚になるということ
人類史上最高の技術、過去と同じ過ちを繰り返さない、歴史から過去から学ぶ謙虚さが必要
科学者には謙虚さが必要、人間・医者は一割二割知っているだけ、その謙虚さが必要、それは医者だけでなく、一般のひとにも
倫理哲学面では変わっていない 技術を乱用しない
わたしたちの家を守れるだけで、人だけを考えて地球を壊そうとしているのかも
明日、一年後、100年後に幸せになるように

100年後のひとたちに
自分たちのやっていることが正しいのか 100年後のみなさんが幸せであることを心から願っています。


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