2019年11月16日

山内明編『ドキュメント現代史〈7〉スペイン革命』

たわしの読書メモ・・ブログ513
・山内明編『ドキュメント現代史〈7〉スペイン革命』平凡社 1973
スペイン革命は、フランコ・ファシズムのクーデターからの内戦から起きます。反ファシズムの戦線は、アナーキスト、スターリン・コミンテルン派の共産党、社会党、そして、反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党POUM、などなど、またそれぞれの労働運動組織といろんなグループがあり、そして現実に対立していきます。ここで、押さえておかねばならないのは、労働運動組織自体が、コミューン的性格を持っているということです。
この本の編集者は、POUMとアナーキスト勢力を中心にしてこの本を編集したようです。スペインの特徴はアナーキスト勢力が強かったということがありました。そのあたりはパリ・コミューンにも通じる事です。ですが、アナーキズムは、マルクス派のプロ独批判があったのですが、コミューン的なところでの農や工業でも集産的なところでコミューンを形成します。で、プロ独的なことが現実的に必要になり、それなりにマルクス派へのPOUMとの共闘的なことも進んだようです。丁度、ロシアではスターリンの粛正が進んでいたとき、同じことがスペインでも起きてきます。ここでも、スターリン・コミンテルンの人民戦線戦術という、革命ではなく共和主義の防衛に走るという方針の誤りの中で、革命的勢力のPOUMの排除に始まり、アナーキスト、社会党、と排除を進め、結局、ファシストの圧力の中で、共和主義者から自分たちが排除されるというどうしようもない結果に陥っていきます。
さて、もう一つ、POUMとその中心にいたニンの動きの問題、元々ロシアでも活動しトロツキーの側近だったひと、で、トロツキーと袂を分かったようなのですが、このあたり、トロツキーのニンへの批判の中で、アナーキストを自由主義者としてとらえているのですが、このあたり、スペインのアナーキスト勢力の強さとか、プロ独批判をしつつも、プロ独的なことにも踏み込んでいくという性格を押さえ損なっているのではという疑問も出てきます。それに、初期トロツキーのレーニン批判の視角があれば、アナーキストを自由主義者としてとらえることなどないと思えるのです。もう一つは、共和国の閣僚に入るなどの問題、トロツキー自体のレーニン主義者的なところでの批判の問題とか、もっと踏み込んで資料を押さえ、考え込んでいかないと、よく分かりません。プロ独の問題での、ニンのアナーキスト批判の文あたりが、これからの整理として進めていく課題として浮かび上がって来ました。武装蜂起型革命では、結局プロ独が必要ということになるのかもしれません。これは20世紀型の革命理論なのですが、21世紀以降のことにも続いていくのか、いろいろ学習が必要です。古本で、「ドキュメント現代史」全16冊、買いました。読める時間があるのか、ですが。
 もっといろいろ書くことがあるのですが、整理できていません。切り抜きメモで少し、コメントを残すに留めます。
 訳者の「まえがき」が、この本で問題にしていることを明らかにしてくれています。
「現代史の転換点と言われる一九三〇年代の末期を飾ったスペインの事件には、さまざまな争点が絡みついている。反共十字軍の大義を展開するフランコ型国家主義のナショナリスタ運動。革命状況を簒奪して体制の維持を唱導する人民戦線路線。国際政治の干渉をまねいて世界大戦の前哨戦と化した内戦の顛末。人民戦線の神話化に加担する左翼知識人やファシズムに駆逐された亡命活動家を吸収したコミンテルンの国際義勇軍作戦。コミュニストがコミューン破壊の急先鋒になり、アナキストが国家権力の代行者となるという事実によって裁かれた既成イデオロギーの崩壊。こうした局面のいずれを選択したとしても、社会思想や政治理論の領域を賑わす論題をめぐって、一巻のアンソロジー編むことができるかもしれない。ところで、いまのわたしを強くとらえている関心は、スペインの近代史を彩る革命的昂揚を不断に噴出した民衆運動に、かくも長い休止と深い沈黙を刻印することになった歴史の謎である。」@P
「いまコミューンの運命を綴って思うことは、それが体制の暴力によって挟まれた束の間の人間解放だったという時事である。七月革命のプロローグであったアストゥリアスの虐殺、エピローグになったバルセロナの五月事件、両者の暴力に共通する因子は体制の反民衆的意思であり、そこに掲げられた大義は秩序と能率であった。この暴力に対決した民衆がコミューンに託した希望、それが反権威すなわち自立にあったのも不思議はない。ところがそのコミューンを結実させた民衆運動の内部にも、体制的権威と反体制的自立の両極に収斂する亀裂がたちまち始まっていた。その契機になったのはまたしても秩序と能率である。コミューンの破滅をもたらしたこれらの争点を、ここでは権力、集産化、民兵の三つの局面にまとめてみた。その後の歴史は、少なくとも民衆運動の次元に立つかぎり、これらの主題に未だ解決をあたえていないように思われる。」A-BP
「アナキスト独裁と同義の無政府共産主義か、人民戦線各派との協調を意味する民主主義か」25P・・・・アナーキストから独裁概念は出てこないはず、そこがアナーキズムの理論破綻になっていくこと
「給料は一日十ペセタで、幹部と兵士の差別はなかった。」27P
「こうした民衆の自然発生的創意や組織に最初から敵対したのは、内戦開始後に政治路線を急転させた共産党であった。かつての「労働者農民の独裁」の主張は彼らの声明から姿を消し、人民戦線への忠誠と共和制の擁護がスローガンになった。」29P
JLC(カタロニア無政府主義青年団)「ファシズムか民主主義かがジレンマなのではない。ちがう。真の選択は、第一インターナショナルがそうだったように、国家か革命かなのである。」36P
「社会党員とアナキストの同志は、委員会から共産党員を排除するよう、わたしに主張した。」50P
「革命委員会の段階では、事実上、何らかの意見の不一致はなかったが、正統派の共産党の同志によるセクト主義の兆候がふたたび現れ始めていた。」57P
「アナキストは新しい社会組織のへの過渡的な体制としてのプロレタリアート独裁という考え方を一貫して拒否する。」67P「革命期のなかで、厳格な指導と鉄の規律が必要なときがやってきて、正しい革命的行動が要請されるようになると、かくも長い年月の間無政府共産主義の名においてプロレタリア独裁を攻撃し続けていたアナキストが、革命行動のなかで、プロレタリア独裁の必要性の完全な理解者になったのであった。」67-8P
「帝国主義間戦争で消耗し尽くさなかったスペインが、それにもかかわらず現在ヨーロッパの他の諸国に比べて相対的劣悪な状態にある。」「スペインが今日呈する光景は、まるで破産整理中の会社のようである。」88P
「寄生的な資本主義と警察国家」「「スペインは、衰弱しつつある肉体であり、人民の腐敗である。」「死滅に瀕した資本主義と肥大化した国家」「企業と国家に奉仕する国か、国民に奉仕する経済と国家か。」104P・・・国家はそもそも階級支配のためにあり、そこから脱するときは、死滅し始めるはず。
アナキストのプチブルのとりこみのための秩序の形成137P
兵士の平等144P
メアリ・ロウ―「売春婦」の問題150Pと軍隊の階級化の指摘152P・・・革命の棚上げ
無政府共産主義のジレンマ(破産?)157P・・・アナキズムは政治運動たりえるのか?
「銀行だけがそうした一連の処置から免れ、ヘネラリタート政府の自由になった。」168P
・・・パリ・コミューンの敗北と、その教訓化としてのロシア革命? スペイン革命は先行する蜂起に習っていない
「スターリンに従属した共産主義者は、共和国が西欧民主主義から完全に見離されるのではないかと恐れて、革命的達成を是か非でも後退させなければならいない、という脅迫観
念をもつようになった。」169P
アナキストの政権参加は、自派の労働運動組織CNTとして172P
アンドレス・ニンの権力問題(プロ独)に関するマルクス理解の七項目177P・・・重要権力の掌握のためにはプロ独が必要という主旨←このことが焦点的論理
 ニンの社共批判とアナキストへの期待178-9P←トロツキーの批判(アナキスト=自由主義者と規定していること? 政権参加と政権への懇願批判、他の潮流批判をきちんとして自力で権力を取ろうしないこと)181-2P・・・トロツキーのスペインにおけるアナキスト勢力とそのアナキスト分析は?
 集産化がラバサイレス(農民組合)の抵抗にあったこと185P・・・現代日本における農業協同体の保守性の問題とリンク
「スペインのブルジョアジーは封建遺制を捨てきることができなかった。」186P・・・帝国的国家主義としての先発性から資本主義的転換の後発性
集産制の中の個人経営の認可188P「誰をも搾取しないという条件」193P
 男女賃金格差194P・・・?
「どんなものを買う場合でも、貨幣を用いることはない。」197P
「政府が土地を農民に支給したのではないということはわたしも肯定できますし、だれでも知っていることです。農民は政府の決定を待ったりしませんでした。彼らは大農場や耕作可能な土地を自分で手に入れたのです。」209P
集産化による連帯心と生産性向上217Pによるファシズムとの対抗218P
「集産化のすばらしい成果が、いま反革命に脅かされている。すでにカタロニアの多くの村では、スターリニストが集産体の一部に侵入して、集産体の解体と農地の旧所有者への返還を宣言している。」221P・・・ポンセティの合理化
 「ファブレガス自身、この政令(集産化令)が社会主義という目的のための手段に過ぎぬことを常に強調していた。しかし彼のいう社会主義を正確に理解できた者はだれもいなかった。」228P・・・ヘネタリアート(地方政府)にいたファブレガスの集産化の曖昧化というより解体をもたらしたこと→「集産化令では、「新しいブルジョアジー」の創設が暗に意図されていた」229P・・・アナルコサンジカリスムの行き着く先?
集産化令がもたらしたこと三つ@業種間の格差A負債の不払いB小ブルのサボタージュ230-1P
バクーニンのパリ・コミューンにおける「社会主義を求める本能」231P
 ポンセティの集産化とロシアのネップとの類比234P
「雇用主や経営者や株主の大部分が、ファシストかファシストの同調者であると自称し、フランコの勝利を待望していたのである。」235P「(残った)雇用主は労働者と同列の地位に引き下げられ、同一の賃金を支給された。」236P・・・ブルジョアジーの逃亡による労働者の自主管理とコミューン的情況の創出
 (集産化は)「実際には社会主義を簒奪するものであった。」理由三つ@小企業だけA経済省への組み込まれB私的商業制度を残したまま競争の継続と強化237P・・・資本主義的競争のための集産化なのか?
 集産体の原理と教訓―18項目241-7P・・・コミューン的内容をももつこととして重要・検討
 軍隊の無規律と軍事的見識のなさや各潮流の対立259-263P
「これは(無政府主義者の入閣は)、無政府主義運動の反政府的信条ばかりか、彼らの反軍隊的原則の放棄を意味していた。」270P・・・無政府主義もいろんな流れがあるが、原理的には反政治・反軍隊となるのでは?
「たしかにマドリードのアナルコサンジカリスト民兵は、たんに政治的な考慮やマドリード周辺での戦闘のきびしさに影響を受けたばかりでなく、国際旅団の先例によっても影響を受けていた。国際旅団はその効率的な軍事組織によって、民兵制度よりも優れていることをやがて明らかにしたのである。」274-5P
 アナキストの指導者オリベルの活動の中における「優秀さ」の獲得284P・・ある面アナキストとしての変節
「中部戦線のアナルコサンジカリスト部隊の将校は給与の半分以上をCNNマドリード防衛委員会に引き渡し、この金が農業集産体のために用いられたことは注目に値する。」285P
「マドリードは民主主義共和制を擁護した。バルセロナは勝利したプロレタリア革命を代表した。革命的勢力である労働者階級と民族問題がカタロニアに存在し、その軍隊は彼らの勝利の保証であった。反革命改良主義勢力は共和政府の周囲に集まった。その二つはまったく異なった権力であり、軍隊であり、社会概念であった。スペイン革命のもっとも重要な問題の一つが、いずれこの二重性をめぐって究明されるのは必至であった。」297-8P
サラミ戦術・・・「共産党は最近の同盟者を次々に切り捨てた。」355P


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H.ルフェーヴル『パリ・コミューン〈上〉〈下〉』

たわしの読書メモ・・ブログ512
・H.ルフェーヴル『パリ・コミューン〈上〉〈下〉』岩波書店 1967 1968
この著書は、単なる歴史書ではなくて、著者ルフェーヴルの歴史科学書というべき著書です。ルフェーヴルはマルクスの疎外論・「人間主義的マルクス主義」あたりからスターリン主義批判をなしていく流れにあると押さえています。タダモノ論批判というところから、ひとの意思あたりに留意しつつ、「祭りとしてのパリ・コミューン」というようなとらえ方も出ています。パリ・コミューンは、いろんな流れのグループがあったようです。ひととひととの基本的関係を政治にも反映させようというプルードン派の理念、強力に進めようとする推進力を担ったブランキ派、マルクス派も含むインターナショナル派、ジャコバン派、陰謀的に動くバクーニン派、それらのベクトルの合成として、運動が進んでいく様がとらえられます。パリ・コミューンには、著者はそのような論理も批判(対話)しているのですが、さまざまな判断を間違えなければ、パリ・コミューンは勝利するとまでは言えないとしても、もう少し長く持ちこたえたのではという思いを抱いてしまうのですが、そもそもフランス革命総体が、「資本主義への道を掃き清めた」という性格、逆にいえば、プロレタリア革命に至るまでは資本主義は発達していなかったとも言い得ます。
 さて、ロシア革命との対比をしてしまうのですが、奇しくも、どちらもドイツとの戦争のさなかに起きた革命で、そしてロシア革命がソヴィエトの独裁ということで進んだのに対して、それにあたる国民衛兵中央委員会があります。もっとも、それは選挙によるコミューン形成へ席を譲りつつ、これはその関係での軋轢も生じるのですが、これはロシアでは逆にボリシェヴィキ革命に純化していきます。ロシア革命を見ていると、同じようなことが起きていて、しかも同じような対応、けれど、このパリ・コミューン敗北の総括から、違った対応をしていくことともあります。レーニンやトロツキーはパリ・コミューンの敗北の総括を活かし、パリ・コミューンの組織形成の総括もなしつつ、活かせることは取り入れるという形でロシア革命を引っ張ったのではとも思えます。そもそも、レーニンの党組織論の中央集権主義や党のイニシャティブというようなことはパリ・コミューンの推進的存在のブランキ派への批判としてのメンシェヴィキからの批判、それに対するボリシェヴィキからのプルードン主義批判の中からのメンシェヴィキ批判とか、とにかく前衛党による系統的な統一的な強力な指導ということが出てきたのではとも思えます。パリ・コミューンもロシア・ソヴィエト革命も自然発生性という性格が強く、この「自然発生性に依拠する」ということと、そのレーニン主義による批判との対話が必要になっています。ローザ・ルクセンブルクとの対話も経ながら進めたいと思っています。
 この著者は、必ずしも敗北としてのパリ・コミューンというとらえ方はしていません。エンゲルスの「パリ・コミューンは、プロレタリア独裁とは何かということを示している」という言を引きながら、敗北のなかにこそ、勝利の芽があるというとらえ方をしています。今日、エンゲルスの提言は、「共産主義とはなにか、パリ・コミューンを見よ」という展開にも進んでいます。ただ、敗北した革命を、無前提には評価できないとしても、です。ロシア革命に関しては「共産主義とはなにか、ロシア革命を見よ」とは言い得ません。
この本には人物索引がありません。いろんな登場人物が系統的に押さえられないのです。それに著者は、歴史科学ということにかなり力を注いでいるので、「歴史を歴史として客観的に押さえる」には、別の著者の本も読んでいく必要があります。そもそも、わたしがこのあたりのことを最初に学習したのは、マルクスのフランス革命三部作『フランスの階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』『フランスの内乱』です。このあたりの読み直しも必要になってきます。また、この本の中にも引用が出てくるのですが、マルクスの書簡も読み込んでいく必要があります。また、マルクスとプルードンの間での相互浸透があったようなので、そのようなことの押さえの必要、マルクスのプルードン批判『哲学の貧困』の再度の読み込みもやってみたいと思います。いつものように、1冊の本を読むと、数冊の読むべき本が増えるという状態で、とてもやりきれません。とりあえず、先の学習計画に沿った学習を進めます。  
 パリ・コミューンが敗北したことでの、いくつかの論点・総括点を著者が書いていることにわたしのとらえ返しも含んで押さえてみます。
 判断を間違えたこと、@銀行や郵便局をおさえなかったことA国民衛兵という形で軍を形成し正規軍の掌握をしなかったことBヴェルサイユへの進軍をしなかったことC議会主義−合法主義にとらわれたことDパリに限定したこと、そしてその中でも地区的に分散したこと
 パリ・コミューンの理念としては、プルードンとマルクスの相互浸透というようなこと
があり、分権制と中央集権主義、レーテやソヴィエト論にそれが出ているのではとも思え
ます。
これから整理すべきこと
マルクスの「国家の廃絶」という国家論は、パリ・コミューンを経過して出てきたとい
う著者の主張があるのですけれど、『ド・イデ』の中に、共同幻想としての国家という規定があるところで、そこから国家という共同幻想から自立するということが出てくることで、必ずしも、パリ・コミューンを経由したわけではないと言い得るのでは?
 語弊をうむことですが、きわめて図式的に表すと、パリ・コミューンは、理念はプルードン派、行動はブランキ派(マルクス主義派)として進んだ?
いろんな弁証法 飛躍と連続 中央集権主義と分権主義(これは二者択一やアンチノミーなのか、それとも弁証法的に止揚できることなのか)
この著者の思想自体との対話が必要なのですが、疎外革命論的なところとちょっとわたしとはズレているので、わたしはこの本から歴史を抽出して読んでしまいました。著者は、この本の中で、パリ・コミューンの総括のようなことを出していて、その部分との対話が必要なのですが、これまでの歴史学習の中での論点のようなことがわたしの中で浮かび上がっていて、そこでのもう少し掘り下げたとらえ返しを著者が書いてくれているのではないので、またわたしもきちんとまだ整理できていません。で、著者の書いていることにこれまで以上の内容で、批判や対話がなしえません。で、著者の思想との対話も含めて、後日機会があれば、試みたいと思っています。

切り抜きメモ今回は割愛しようかと思っていたのですが、やはりいつもよりは簡略化したメモを残します。上下に分かれているのですが、通し番号になっているので、そのままページ数をつけます。先に書いたように、総括のようなまとめに関しては、ページ数や章の案内に留めます。
訳者の序 キー概念的にとらえると、祭り、弁証法、プルードンの理論 実践 (評議会運動的な)国民衛兵中央委員会 
フランス革命は資本主義への道を掃き清めた3P
「われわれは枠組みおよび素描とみなされるマルクスのこの仕事を補充することによって、必然と偶然、決定論と偶発性、予見しうるものと予見しえないものの混淆を分することができるであろう。」4P
フランス−祭り ドイツ−哲学 ロシア−党(意志)
「・・・とくにマルクス主義の名において、人間による人間の生=産(人間による、自然および彼自身の自然の占有)を、経済的生産に還元する知的態度に終止符をうつべきである。」29P・・・著者のタダモノ論批判、ただし、主体的唯物論的主意主義、疎外革命論の系譜−唯物史観の否定になっているのでは?
「マルクスの初期の著作以後、萌芽状態にあった国家の死滅についての彼の理論は、コミューンの経験の結果としてうまれたのであって、それに先行したのではないということである。」33P・・・「萌芽」というのはド・イデの国家=共同幻想論?
「中央委員会の創設者たち――なかんずく「もっとも穏和な精神」に出会っておどろかされるが――彼らは、何ら確定的な計画ももたず、いかなる指導集団も組織しなかった。」60P・・・自然発生性への拝跪
「自然発生的運動の命題と組織的運動の命題――左翼によるこうした解釈に、われわれはすぐあとで出会うことになる――のどちらかを、われわれは選ばなければならないのであろうか。」62P・・・中央主権主義と分権主義や自然発生性への依拠は二律背反なのか?
 「権力の二重性」67P・・・レーテや評議会運動が持つ意味
 「ルペルチェにとって、二〇世紀の共和制フランスは、コミューンがなければ存在しなかったであろう。」70P←著者のルペルチェとの対話「一九七一年三月における大衆の純粋で単純な自然発生性の命題を、留保なしにルペルチェにあてはめることはできない。なぜなら、彼は先行物と歴史的連続性、イデオロギーと革命的計画をその命題に付加しているからである。」71P・・・意識とそれを規定する情況、とりわけ土台との関係、唯物史観
 「レーニンにとってと同じくトロツキーにとって、国民衛兵中央委員会は、事実、実践において「ソヴィエト」であり、しかもそれは武装した労働者の代表と同時に小ブルジョアジーの代表を含むものであった。」74P・・・ソヴィエトと軍事委員会の関係と、中央委員会とパリ・コミューンの関係の違いと相似
 1917年十月革命(西暦11月7日)とパリ・コミューンの1971年3月18日・・・トロツキーの比較、革命の指揮権の能動性、民主主義ではやれない76P・・・1971年3月18日はロシア2月革命と同じような、というよりむしろ反革命クーデターに対する対処から起きた革命
「回顧的照明」79P
「条件法で歴史を書き直すこと――過去の名において現実を弁護すること」への批判80P・・二つの表裏性
 上記の一例「マルクス主義を知っていたら」の話80P・・・マルクス派とアナーキストとのせめぎ合い、理論・理念においてはプルードン派、実行力・軍事におけるブランキ派
「コミューンの《マルクス主義者たち》セライやフランケルは一定の役割を果たした。とくに、後者はそうであるが、しかし、彼らは大きな重要性をもつことはなかった。」81P
 マルクスの『ルイ・ボナパルトのブルュメール一八日』における農民は階級を形成しないという否定的評価105P・・・中国革命からの検証の必要
第二章 国家の役割115-125P・・・ちょっと違和、検証しなおす・・・それぞれの立場で国家ということのとらえ方が違うのでは?
ボナパルティズム115P→註(2)124P
 フランスのボナパルティズム122P
「コミューンは、この国家を破壊する上での本質的な重要事件となるだろうし、それは自由主義的ブルジョアジーとジャコバン的共和派と革命的プロレタリアートを国家に抗して立ちあがらせる。」123P・・・アナーキスト諸派についての論及がない?
「コミューンがこの既存の国家を攻撃しつつある国家を建設するためでしかなかったけれども・・・」123P
「生きられた歴史の雰囲気」130P
 「哲学者の用語を用いるなら、われわれは原因よりも理由を捉えようとするものだといえよう。ここでは合理性は、因果性を包含するけれども、・・・」132P・・・原因という因果論から関係論へ
 国家と軍隊とボナパルティズム133P
 国民衛兵133P
 「六〇年代のあいだ共和政が非武装と同意語であった・・・」136P
 イデオロギーの悪循環とその止揚156-9P
「男らしくもあり・・・・」164P・・・マルクス主義者の性差別
 祭りとマニ教的観点165-6P・・・唯物史観との対話
具象化171P・・・物象化との関係
 女性の果たした役割と革命性172P
 パリ・コミューンを担った各派の方向性183-4P「国家の建設」・・・共同体の建設であっても国家の建設であるのか?
 対立するカオス的意識186P
 M・ドマンジェ「コミューンは、事物であると同時に合言葉であり、現実であると同時に表象であり、事実であると同時にイデオロギーであった。」186P
パリ・コミューンはプロレタリアの独裁といわれるけれど、実際は「プロレタリア、職人層、中小商人層、いいかえると、労働者階級と小ブルジョアジーおよび中産階級の一部との間で結成される」187P
国家死滅の理論は、マルクスによって一八七一年の経験から188P
 百科全書派のディドロのパリ・コミューンに関する項目190P
 「共同体および共同所有的な伝統は、いわゆる原始共産主義から受けとった諸要素を持ち運ぶものであり、その残存物と記憶は源流となって、継起的な生産関係や様式を貫いて流れ、資本主義やマルクス理論まで達する。」195P
 「あらゆる危機の時期に、バリの民衆は「コミューン」と叫んだ。」197P・・・コミューンの分権制と中央集権制のカオス、コミューンの独特の意味
 「バクーニン的アナーキストは、国家の即時廃止のためにたたかう。プルードン派は、地域的な特殊な集団の自己管理をめざす。彼らはマルクスが新しい型の国家、すなわち本質的に死滅しつつある国家をうち立てるべき時期として正確に規定したところでのプロレタリア独裁の歴史的時期をとびこえるのである。」207P
 ブランキ派「技術としての蜂起」210P
 ブランキ派の再評価、労働者の組織化215P
 「スチルナーとバクーニンの弟子たるアナーキストは、インターナショナルに加わった。彼らは、リヨンやマルセイユなどの大都会の労働者のエリートや労働組合をインターナショナルに参加させるのに貢献する。」221P
 パリ・コミューンに先行する分権主義的なリヨンとマルセイユの蜂起とその破産223P
 国民衛兵中央委員会は(民主)中央集権主義252P
ブランキ派とインターナショナル派の連帯264P
 反対派の動き265P
 「沸騰状態にある大衆は、ここでは前=構造化の段階とでも呼ぶことのできる段階を越えている。」271P
 「コミューンが実現しようと試みるだろう独自の政治組織の原型を提供する。すなわち、連合主義、直接民主主義の強調を伴う民主集権主義である。」271P
 マルクスの当初のパリ・コミューン蜂起への慎重姿勢340P
 女性たちの説得力と勇敢さ347P
 ピカール広場が1871.3.18の唯一の戦闘370P
 中央委員会のただひとつの命令――バリケードを築くこと372P
 「蜂起はすでに全パリを支配している。それなのに、誰一人としてそれに気づかない。政府でも、中央委員会でも、各地区でも。」374P・・・自然発生性
 「これらの人々(地区のスケールで活躍していたひとたち)が蜂起や三月一八日の事件を準備したのであろうか。明らかに、だが先ず何よりも、それは地区レヴェルのものであり、ゆっくりと忍耐強い努力によって準備され、種々の地区委員会との協力をとおして、大衆(彼らは当時、真に人民大衆である)によって自然発生的に支持されたのである。」406P
「中央委員会は三月一八日を準備はしたが、まだよく組織されていなかったので、ことが起きるのを望まなかったのである。」407P
 「中央委員会は、その場の状況に押されて、政令を出す。だが、その時、委員会は、自分が何を望み、何であるかを、自分自身でまだ判っていない。つまり、衛兵の指揮者、パリの市当局、新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、委員会は選挙を決定する。そして戒厳令を解除する。/しかしながら、《コミューン》という言葉は布告の中には現われない。その上、中央委員会は、革命的現実と、それが依拠し、かつ悩まされている合法性との間の矛盾を解決していなかった。」411P
 「人間疎外の終末を、一挙に実践化する。」420P・・・著者の「人間疎外論」の思想性
 「家賃および手形支払期限の猶予」−「これらの措置だけが資本主義の至聖な基礎、所有権にふれたものであった。これらの措置だけが中央委員会の側の反資本主義的意図を証明するものであった。」452P
 「感銘的に文書を終わらせるきまり文句である単一不可分の共和国というジャコバン的思想と、連合の原則との間に、少なくとも潜在的矛盾はないであろうか。それらの問題は提起されることはなかった。」454P・・・この問題はレーニンの中央集権主義とその批判ということで引き継がれています。
パリに限定する傾向、これはマルクスも批判していた459P・・・これさえも、地区の枠にとらわれる
 「燃えるような美しいレトリック、それはしばしば、それほど美しくない政治的に軽率なレトリックに変わる。」460P
 20区委員会の革命性466P
 中央委員会の革命に対する自己認識の欠如――合法性を求める475P
 「暗に同意している連合主義を別にすれば、委員会はイデオロギーをもたない。」475P
 「中央委員会の合法性は、形式的には常に異論の余地があり、革命的で独裁的な新たな行為によってのみ、確認されるものとなるだろう。」476P
 「パリの新政府の指導者たちが常に擁護してきたのは、革命的連合主義の到来である。」477P
 パリ・コミューンの軍事的失敗499P・・・正規軍を持たない、働きかけをしなかったことの問題も→トロツキーの赤軍の形成
第6部6章 地方の運動
 地域のコミューン マルセイユ1870.11.1 509P・・・地方の敗北は革命主体の形成がないこと、地方分権主義に投げ込まれたこと、地方分権計画の曖昧性516P
 コミューンの派閥529-530P
 祭り532P
第7部2章――著者のまとめ パリ・コミューンの総括
   3章――「可能性と現実」という弁証法598P
パリ・コミューンの敗北がレーニンに教えたこと「蜂起は一つの技術であり、政治は他の手段による戦争の継続であるということ、いいかえると、政治は、――あたえられた条件、的がいまだにきわめて強力であるという条件の下では――狡知、妥協、厳しさと同時に力強さ、戦術、戦略を前提とすることである。」603P
「本質上、政党は権力を欲するが、他方、コミューンの人々は権力の廃止を欲したのである。」605P
 原因と結果の弁証法606P


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野村修編『ドキュメント現代史〈2〉ドイツ革命』

たわしの読書メモ・・ブログ511
・野村修編『ドキュメント現代史〈2〉ドイツ革命』平凡社 1972
レーニンとトロツキーはドイツ革命との連動から、世界革命を期待していました。結局、ドイツ革命は敗北し連動しない中で、レーニンの死の中で、スターリンの「一国社会主義国家の建設」という名のロシア革命の歪曲をもたらします。
 で、なぜドイツ革命は敗北したのか、「たら・れば」の話をしても仕方がないことなのですが、これは担った人たちの判断の間違いから来ているのか、それとも、そもそも情勢的に敗北の道に進むしかなかったのかも押さえ、そして、ロシア革命の歪曲とドイツ革命の理念的検証をしてみたいと思います。
この本は、そのうち歴史研究をするときにと、かなり前に買って積ん読していた本です。やっと読めました。
 これは「ドキュメント現代史」というシリーズ本の一冊です。それぞれ編者を代えて、16巻出ています。全部とはいわないまでも、興味深い巻があり、一挙に読んでみたいという思いもちらっと湧いているのですが、すでに古本で購入していた「スペイン革命」をこの連続学習の中で読むことにして、とりあえず先に進めます。このシリーズは、二冊しか手元にないのですが、編集者が歴史的なことを解説しつつ、論争の当事者たちの論文や資料を引用していくという手法で、議論を煮詰めるということの中で、その歴史をとらえ返す作業をしています。いろんな視角から切り込んでみるというやり方になっています。最後に文献を掲載しているので、そこから更に学習を深めていってくださいとなっています。わたしとしては、いつものように、「はーっ」とため息をついて、とりあえず棚上げしてしまうのですが、百五十まで生きれたら、この学習にも手が出せるかもしれません。
さて、本題に戻ります。結局主題の、ドイツ革命は可能だったのかという問題意識に対する答えは見いだせませんでした。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺されなかったら、との思いはありますが、そもそもレーニンは七月に地下潜行したのですが、二人はそういうことはしていません。それは、レーニンとローザの間での多方面にわたる論争があり、多分レーニン主義者からすると、ローザの「革命的自然発生性に依拠する」という革命論の限界という批判が出てくるという話があり、それを、この編者はローザの「自然発生性に依拠する」という思想のとらえ損ないという指摘もしています。このあたりは、歴史学習の後で、レーニンの第三次学習とローザの第二次学習でちょっと論考をしてみます。
 さて、このシリーズの特徴として、簡単に歴史を押さえて、論点は引用した文に語らせるという手法ですが、そもそも何を引用するかで引用者の考え・論拠が出ているのですが、もうひとつ、文献に対してのコメントの中でかなり編集者の意見を出しています。そのあたりも含めて、とても勉強になる本でした。
 うまくまとめきれません。具体的なコメントは切り抜きメモでやります。
 ひとつ、ドイツ革命とロシア革命の違いは、ドイツ社会民主党が政権を握るようなところにあった上で、それが反革命的に対応してきたというところ、ロシアではメンシェヴィキは権力掌握的なところまで至らず、ボリシェヴィキが主導してソヴィエトで権力掌握したというところだということ、すなわちドイツでは党派闘争での敗北が革命の敗北に直接つながったということではないかと思います。
 もうひとつ、最後のコルシュの文について書き置きます。ロシア革命との対比の中で、出てきているレーテ論に関わることです。コルシュの押さえとしては、ソヴィエト論なり、レーテ論は、パリ・コミューンから出てきていること、パリ・コミューンはバークーニン派の影響が強かったこと、マルクス/エンゲルスは、そもそも中央集権主義的志向が強かったのに、パリ・コミューンを契機に、コミューン的志向に入ったこと、それがその後マルクス/エンゲルスの中でどうなったかですが、ともかくその後のアナーキストの流れとの対抗関係での主導権、というところでのパリ・コミューンという実際の運動からくるモデル的なことを否定できないところで、コミューン論的なことがあったという押さえです。で、ここからコルシュの論考を押さえたところでの、わたしの論考を少しやってみます。レーニンも、マルクスのパリ・コミューン以後の流れの中で、「全権力をソヴィエトへ」と突き出していますが、そもそもそれはソヴィエトが権力を握るまでで、すぐにボリシェヴィキの独裁で動き始めます。レーニンは、そもそも中央主権主義者だったわけで、そこから一党独裁体制に入り込んでいったということがあります。スターリン主義の責任はレーニンの中央集権主義の中にもあるという話です。トロツキーはそもそもレーニンの中央主権主義を批判していました。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長も1905年、1917年二度にわたって担っています。ですが、結局、レーニン主義者になることで革命の展望を見ることによって、ソヴィエトの意義ということをこれもないがしろにして行っています。国の名前に名を残していますが、ソヴィエト論なりというのは、ロシア革命では消えてしまったのです。もうひとつの論点は、プロレタリアートの独裁論の中身、そもそもロシア革命のボリシェヴィキの方針は最初は労農ソヴィエの独裁でした。ソヴィエト論はプロレタリアートの独裁論に変わったのですが、これはレーニンはソヴィエトを過渡的・一時的なこととしておいていた、権力掌握の手段論的にとらえていたのではとの推測が湧いてきます。それは差別の問題でも、レーニンが「階級支配の道具」規定していることにつながっています。実はこのあたりは国家論的な問題にもつながっていきます。スターリンは一国社会主義路線に陥りましたが、そもそもソヴィエトによる国家権力の掌握ということ自体が国家の廃絶に進んでいくこととしてあったのだと思います。そこにソヴィエト論の意義があったのだと思うのです。ソヴィエト論がきえたところで、プロ独がプロレタリアート国家的になっていく構図になっていくのだと思います。そこで、即、国家権力の奪取か国家の廃絶かという二分法にはならないとしても、ソヴィエト的なところ、レーテ的なところで、国家的なところ、官僚主義統治機能に陥っていくことを抑止しつつ、新しい関係性を築いていく、そんな運動論としてソヴィエト論―レーテ論があったはずだと思うのです。このあたりは、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の中の「国家とは共同幻想である」という国家論をレーニンが読んでいなかったと言われる問題があり、だからこそ、レーニンが国家権力の奪取というところに収束していく志向が強いことも、ソヴィエト論―レーテ論が消えてしまった背景のひとつとしてあったのではと思います。このあたり、もう少し勉強を進めます。次の本はこのあたりの趣旨に沿って、繰り上げて『パリ・コミューン』にします。
 ロシア革命の学習の中でソヴィエトの位置づけがよく分からなかったのですが、それがこの本の「Y レーテ運動論」の中で、展開されています。歴史学習の最期にローザとコルシュを読んで、またこのあたりを考えたいと思っています。
 さて、後は切り抜きメモの中でのこの本との対話です。
(ドイミヒの演説)「レーテ体制のなかには独裁がある。という声がある。いったい、もう何十年にわたって、特に戦時中、民衆の血と汗からごっそりと富をかきあつめてきた連中にたいして、いいかげんにしろ、今度は、おまえたちに圧迫され搾取されてきた者たちの番だ! ということが、そんなに困ったことなのか? これは世界的審判の一幕にすぎず、思うに、独裁うんぬんの愚痴などによって引きさがってはいられぬものである。・・」76P
(ローザの発言)「われわれスパルタクス・ブント、ドイツ共産党だけが、ドイツの全政党のうちで、ストライキをもって闘う労働者側に立っている。」「けっきょく、革命の第二段階では、ストライキが、しだいに拡大するだけでなく、革命の中心に、革命を左右する地点に立つことになって、たんに政治的なだけの問題をわきへ押しのけることになるだろう。そこで当然、経済闘争の局面はすごく先鋭の度を加えてくる。」96P・・・ここは、「革命の転換点」について論じているところ、転換点では政治が全面に出るところ、ストライキをいかにデモ−街頭闘争につなげていくかが問題になるのではないでしょうか?
(ローザの発言のレーテ論)「われわれはまず大衆に熟知させねばならない。労働者・兵士レーテこそが国家機構を自在に動かすべきであること、レーテこそがいっさいの力を手中に収めて、それを残らず社会主義革命の水路へ集注しなければならないことを。」98P
(クルト・トゥホルスキー)「まさにそれらをぼくらは拒否し、それが影もかたちもなくなるまでたたかう、国家内の国家としての人間集団の結集、汚点がないと自称する徴章――その裏面のきたなさは誰もが知っている――への自負、協同の能力をもたぬ連中の命令・従属関係、要するに兵営、それがなくなるまで。」134-5P・・・繰り返される軍の蛮行
(レヴィネの言)「圧倒的敵によってレーテ共和国が滅ばされても、それが真のものならば、それは労働者の脳裡に深く根づいて、圧迫が除かれるやいなや、ほとんど自動的に再生してくる。」170P・・・革命的敗北主義?
(レヴィネの言)レーニンの蜂起の諸前提三つとそれに照らしたドイツの三月行動時の情況260-1P・・・ロシアの七月の情況とも対比
三月行動に対するコミンテルン第三回大会時の三月行動へのレーニン、トロツキーからの否定的態度268P
1923年10月蜂起のトロツキー、ブハーリンの賛成287P・・・ロシア革命への連動の最期の願望?
「こういう武装闘争(ハンブルグ蜂起)は、ハンブルグのように住民の多数の共感に迎えられ、大衆運動の支持を受ける場合ですら、孤立したままならば、そしてその地域事態のレーテ運動によって――ハンブルグでは何よりこれが欠けていた――になわれていないならば、挫折せざるをえないことである。」294P
「かれ(リューレ)が自分の目で見たソヴィエト・ロシアは幻滅でしかなかった。そこではレーテ(ソヴィエト)は「党独裁の官僚体制をかくすいちじくの葉」になりさがっていた。」政党人として古い経験をもつかれのこの末路(晩年の孤独な内に亡命生活をおくったこと)は、見方によっては哀れな自己撞着と映るかもしれない。しかし、政党人としてのかれの自己否定は、一一月革命のレーテ思想にあくまで忠実であったことの証左である」「かれの主張する「革命は党の仕事ではない」・・・「レーテなしには社会主義建設も、共産主義もありえない」と。「レーテ共産主義」呼ばれるこの立場によって・・・・リューレに対する関心が今日のヨーロッパの若い世代の中で高まっていると聞く。」317P・・・レーテ運動に対する評価の核心的なこと
ブルジョア社会と同じように陥る腐敗のメンタリティ322P
党の否定はアナルコ・サンディカリスムと批判されることからのリューレとの対話の必要317-324P
ドイミヒ「レーテ組織がもっとも強力に出現するのは、プロレタリア対象が明らかに社会主義的目標を獲得すべくたたかうところにおいてである。それゆえレーテ思想を正当に扱うためには、その革命的起源をけっして忘れてはならない。」327P
党の規律に従うというところにおいて、リコールの原則も通用しなくなっていったし、「労働者レーテが存在しているところでは、ここかしこで一種の官僚的レーテが、いやそれどころかしはしば腐敗的レーテが生まれた。」334P・・・労働運動の党的な歪曲の問題として現在的にもとらえ返すこと
「プロレタリア大衆を基礎にせず、少数のプロレタリアのみに頼って打ち建てられ、その支配を軍事的暴力手段によってのみ維持しているような独裁は、そもそも初めからみずからの中に崩壊の種子を孕んでいるのである。」335P・・・民衆に依拠しない軍事展開の腐敗
「この観点(レーテ運動は社会主義の実現という政治的な内容をもっているということ)から出発して階級意識に目覚めた革命的プロレタリアートの上級の指導層はいまや、まず生産過程の土壌の上に打ち建てられるレーテ体制を建設することを試みている。」336P
「ローゼンベルグやコルシュも指摘している通り、マルクス=レーニン主義の基本原理には本来革命的コミューンやソヴィエト(=レーテ)体制への指向は含まれていなかった。コミューンもレーテも革命期の人民大衆が自然発生的に作り出した闘争機関であった。レーニンはソヴィエトが革命に果たす重要な役割を正しく見抜き、自身の革命戦術に重要な修正を加えて、「全権力をソヴィエトに」というスローガンをかかげ、労働者政権の樹立に成功した。しかしレーニンはその後戦時共産主義の困難な時代に、権力をソヴィエトの形式でなく、その基本思想にのっとって構築すべきところを、逆にボルシェヴィキの一党独裁による中央集権的な国家権力を作りあげ、形骸化したソヴィエト制度をそのいちじくの葉に引き下げてしまつた。」346P・・・レーニンの手段論
「コルシュの、このような深い洞察と問題意識は、いまなおそのアクチュアルな意味を失っておらず、むしろ数十年の歳月の後、かれの理論は、資本主義国ばかりではなく、社会主義諸国、なかんずくユーゴスラヴィアでの労働者の自主管理の実験においても、その有効性を、まざまざと示しつつあるといえよう。」347P
エンゲルスのことば「さて諸君、この独裁がどういうものか、諸君は知りたいのか? パリ・コミューンを見たまえ、あれがプロレタリアートの独裁だったのだ。」354P
「客観的条件がこのように変化しているとき、われわれ、全世界の革命的プロレタリア階級の戦闘者が、ソヴィエト思想の革命的意義についての、また半世紀前にパリのコミューン戦士によって「発見された」プロレタリア独裁の政治形態としてのソヴィエト政権の革命的性格についての、従来の信念を、なんの吟味もなく、なんの変更も加えずに固持することは、もはや主体的にも許されない。」356-7P・・・マルチュチュードやサヴァルタン概念から、更に民衆の反差別運動からのとらえ返し
「ゲーテが「ファウスト」で語ったことば――きのうの善行が今日の悪行になる――を実現してゆく革命的弁証法は、あてはまることを、われわれは認識しなければならない。同じことをカール・マルクスはもっと明晰に、もっと明確に、こう表現している。革命的な行動や意識の発展のあらゆる歴史形態は、その発展上の特定の時点で、それらを発展させる形態から桎梏へと転化する、と。」358P
「ひとつの革命行動の――この革命行動の本質的目標は、もはやなんらかの国家的支配形態を維持したり、ましてある新たな「高次の国家類型」を産出したりするところなどになく、むしろ、国家そのものの死滅のための物質的前提を創出するところにある――政治形態となる。「この最期の条件を欠くならば、コミューン体制は虚妄であり、詐欺であった」と、マルクスは以上の点に関連して、この上なくはっきりと言いきっている。」364P
「フランス大革命の国民議会によって実現された革命的ブルジョア独裁の中央集権体制を、熱烈に賛美していたマルクスとエンゲルスは、どうして、この体制とまったく対極的な位置にあると見える「コミューン」を、ブロレタリアートの革命的独裁の「政治形態」と見なすようになったのか?」365P・・・ここから先は、パリ・コミューンの運動が実はブランキ派の影響が強かったことなど、そこでの自由連合的な性格など、マルクスからレーニンに至る中央集権的な流れを批判しています。このあたり、本文にも書いたように最期にコルシュにあたって、論考を深めます。
「文献案内」から
「1918年のドイツ革命は、多くの点で、1948年のフランス二月革命と、おどろくほどに類似している。」377-8P
「しかし、指導部と大衆の関係を固定的に捉える著者(篠原一『ドイツ革命史序説』)の把握のしかたには、疑念が残る。著者は指導という概念をも、またスターリニズムによって歪められた(ローザ・ルクセンブルクなどの)「自然発生性」概念をも無批判に前提にしているのだ。」379P
「これらのなかでルカーチは、三月行動を一揆主義的であると否定しきる考え方に反対し、問題は大衆の自発的革命的エネルギーを正しく指導しえなかった前衛党の弱さにある、とする。」386P


posted by たわし at 23:03| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」

たわしの映像鑑賞メモ025
・若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」2008
この映画は、ビデオ・オンデマンドで観ました。
連合赤軍の同志殺しは、当時社会変革運動を担っていたひとたちに大きなショックを与えました。この映画は67年10.8から、当時の新左翼運動のうごきを押さえ、内部粛清−同志殺しを、資料をもとに精細に描いています。
ブント(共産主義者同盟)内の党内闘争、党派闘争の発端とも言える、関西派のさらぎ議長へのテロと、その逆の関西派の塩見議長らの監禁事件をも押さえています。
そもそもは赤軍派の前段階武装論を出した情況認識の間違いがあり、中国派の京浜安保共闘との武力闘争という一点での「連合」というところでの、組織内の元の二つの組織間の勢力争い−対立のようなことも含み、起きています。先に同士殺しをしたのは京浜安保共闘の離脱者の殺人です。これは後に書く、スターリン主義の総括の問題ともからんでいます。
問題は二つ、ひとつは、党内闘争、党派闘争で暴力の行使など許されないという作風をつくるところ、なぜ議論すべきところで暴力が振るわれたのかということ、もうひとつは、組織の物神化というところで、組織を守るということが革命を守る―遂行するとイコールにされ、さらに、それが指導部の自己保身として機能したことです。
そもそも、その粛正を主導した2人の、日和見主義を自己保身的に覆い隠すための、他者攻撃、自己批判の要求としての粛正だったのです。赤軍の森恒男さんは、大衆的武闘闘争からの逃亡。京浜安保の永田洋子さんは自らが受けたレイプを告発できなかったという日和見主義です。
そもそも、大量内部粛清が行われたのは、ロシアにおいてです。ロシア革命の後に、反革命的干渉戦争が起き、それの防衛から、さらにスターリンが一国社会主義建設は可能だとする一国社会主義革命論を出します(このあたりはレーニンまでさかのぼれるというひとがいるのですが、レーニンはあくまで、世界革命の展望を模索していたようです)。そして、新経済政策(これはレーニンも容認して責任があります)という資本主義経済の論理を導入します。そこで、唯物史観からすると経済の土台は資本主義、思想は「共産主義」という矛盾を来たし、イデオロギー的統制が必要になるのです。で、一党独裁をなし、言論の自由の封殺をすることになります。
そもそも、なぜこのような粛清が起きたのかは、革命闘争−組織を守るという名目においてです。共産主義はつねに改革を進めていく思想で、守るものではありません。それを一国社会主義の防衛という国家主義に陥ったところで、「国家」の防衛というところに陥るのです。その「防衛」が何をもたらすのかということを押さえねばなりません。それがスターリン主義の総括の核心なことです。
その総括が、コミンテルンで一緒に動いて、指示さえ受けていた団体にも必要だったのですが、ひとり、スターリンの性格のようなことでことを片付けて、多くのマルクス・レーニン主義を名乗る、なかでも、スターリン主義もとなえていた政党・党派がその総括をなしえていません。だから、一国主義的なところでの対応や、国家主義へのからめとられが起きるのです。過去の歴史の総括を怠り、清算しているのです。
スターリン主義思想をひきずっている党の末端のひとは、未だに新左翼(もう「新」ではありませんが)排除で、新左翼諸党派のひとたちを一括してトロと呼びます。トロの反対語、対語は何でしょうか、スタです。未だにスターリン主義を総括していないのです。
ウーマン・リブの田中美津さんは、連合赤軍が出てきたとき、「わたしは永田洋子だ」と発しました。これは、別に田中さんが、粛正とか暴力をふるったという意味ではないと思います。自らの自己防衛的他者攻撃とか、その発想とかに、永田洋子と通じることを、自己批判的にとらえ返した言葉です。民衆の運動の方が、きちんととらえ返しているのです。このことは、そもそも現実の政治には直接的なところではほとんど関わりのないとされるところでの、ひととひとの関係にも及ぶことです。いじめの問題で、いじめがどのようにして起こるのかというところにもつながっているようなこと、そしてプライドということが、ひととひととの関係をいかにゆがめていくのかの問題もあります。
で、前衛を名乗る党が、むしろ、そのようなきちんとしたとらえ返しもできないままに、自分たちには関係ないところで起きたことだとして、「過激派を泳がせている」と政府に取り締まりを要請していたことは、今日、その趣旨に沿った「共謀罪」が作られて、どのような思いでいるのでしょうか?
また、「尖閣は日本の領土だということは証明できる」と言い、「政府もちゃんとやるべきだ」と、政府の反中国というところで危機を煽るアベ政治と共鳴しています。これこそが、まさに一国主義的なスターリン主義総括の核心で、「共産主義には国境は無い」というマルクスの共産主義の思想に真っ向から反対する主張です。もっとも、「ソ連や中国が、共産党の名でやったことは迷惑で、わたしたちは違う」のだと世界的なレベルでのマルクスの流れの運動の総括をネグレクトしているのです。
 この映画は、粛正のときのそのひとの心理を資料を踏まえて、実に丁寧に描こうとしています。それを、見る人がどこまできちんと観れるのか、この映画を観て、むしろ反共的なことが広がっていくかとの、一抹の不安があるのですが、とにかく今のこの悲惨な政治情況を変えて行くには、過去の総括をきちんとやりきらねばなりません。
兎に角、これまでの運動の総括のための貴重な資料になっています。ひとつだけ疑問が出されたことがあります。あさま山荘で銃撃戦をやっている中で、兄殺しに加担させられた少年が「なぜこんなことをやったのだ」と告発するシーンが出てきます。それを、銃撃戦をやっている最中にそんな発言がでるわけがない、というコメントがインターネット上で出ていました。この映画のテロップの中で、これは資料に基づくドキュメントですが、一部フィクションがあります。と書いています。実は、他の資料を見ると、この発言は兄が死んだ直後に山岳キャンプで発せられた言葉のようです。
この作品は、若松さんが、私財を投じて作った渾身の作品だと言い得るでしょう。




posted by たわし at 22:54| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする