2019年10月17日

吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』

たわしの読書メモ・・ブログ510
・吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』社会評論社 2019
陳独秀は中国の中国共産党の建党のひとで、トロツキーに共鳴していったひとです。
 この本の情報は、トロツキーを学習している途中で入ってきて、しかも、前の読書メモの本の第三章とリンクしています。
 さて、章に沿って内容を押さえてみます。本の内容からかなり逸脱した、わたしのとらえ返しもしてみます。
第一部は「革命後一〇年間におけるゾビエト政権の変質過程――「スターリン政治体制」への移行」
ちょうどロシア革命史の学習過程でしたので、ロシア革命の総括的なところで、リンクしました。最後の「第四章 小括」で、著者のロシア革命の総括のようなことを5つにまとめています。それをこれまでの学習の過程でつかんだことと共鳴することが多く、わたしなりにその内容を押さえて抜き出してみます。@左翼日和見主義的傾向(?切り抜きメモでコメント)として、プロ独しかもボリシェヴィキに純化した独裁にしたことAレーニンが『国家と革命』で絶賛したパリ・コミューンと隔絶した独裁になったこと―共産党による代行性の問題B組織論、プロ独論と中央集権制の問題Cプロレタリア民衆の国家の死滅の運動に移行しなかったことDレーニンのマルクスの継承と隔絶の検証の問題。実はこれは、最後の「補論「いくつかの理論的問題」について」にリンクしています。「補論1 レーニンのプロレタリアート独裁論」、「補論2 プロレタリア政党の組織路線の再検討について」はまさにBの内容です。
第二部は「ソ連共産党・コミンテルン下での中国革命の指導路線」
いかにソ連共産党―コミンテルンが、中国への「指導」でひどいことをしたのかが分かります。中国共産党はコミンテルンの提起の中で作られています。しかも、ロシアで左翼反対派が排除されていく中で、その情報が入らず、陳独秀はトロツキーが除名された後になって、自分の考えと近いトロツキーの思想を知り接近していくのです。この本を読むと主流派のスターリン派のソ連に留学していた中国の留学生がトロツキーの影響を受け、そして弾圧を受けていく様が分かります。
第三部は「中国共産党のスターリン派と党内反対派への分裂」
反対派・トロツキー派の動きを押さえつつ、世界大戦・内戦期の革命史、権力奪取までを押さえてくれています。「延安整風」という毛沢東主義のひとつの柱、整風運動というところが、文化革命的なところにつながっていくことや、スターリン主義的な分派活動につながっていっているのではとも考えていました。このあたり、日本の連合赤軍の総括という名の粛正が中国派であった京浜安保共闘の方から起きていたことからも、整風運動―文革のとらえ返しが必要になるのではと考えたりしていました。
この本では余り詳しく書かれていないのですが、レーニンは農民のプチプル規定をして、労農ソヴィエトということを出しつつ、実質プロレタリアートの独裁に突き進みました。ですが、中国はまさに農民に依拠する革命だったわけで、農民に依拠する革命はできないとしたレーニンの押さえ方に疑問が出てきます。このあたりの押さえ直しが必要になります。
第四部は「社会主義への過渡期における中国共産党の路線・政策」
ここでは政権を取った後の動き、急速な工業化の中で、農民の生きる食料まで奪い、多くの餓死者が出た、食人まで起きた情況、実際に食料があるのに、備えとして拠出しなかったという、まさに失政というか、ひとをちゃんとみないスターリン主義的政治の情況を押さえています。食糧危機ということはロシアでもあったようです。調達ということへの批判としてトロツキーが新経済政策の導入をレーニンに提起していたということもこの本に書かれています。新経済政策は「戦時共産主義」から資本主義的市場経済への舞い戻りで、あくまで一時的処置として考えていたようなのですが、一時的ということが固定化して、経済は資本主義、政治は「社会主義」を唱えるという唯物史観的にありえないことをやろうとしているわけで、で、そこにあるのは、マルクス・レーニン主義や科学的社会主義という名の宗教的とりこみとイデオロギー的統制です。
この四部では、政権の奪取から文化革命から天安門事件までを押さえています。文化革命は、まさに整風運動の流れの中で起きている、一種の洗脳運動としか言いようがないことです。尤も、文化革命は実は二つの流れがあったようなのです。ひとつは毛沢東と四人組が進めた党内闘争というか権力闘争の手段としての運動、毛沢東語録をかかげたまさに宗派的な運動。もうひとつは、「省無連」のコミューン運動など、既製のスターリン主義的なことへの批判という内容もあったようなのです。ともかく、中国の整風運動的な党内闘争が民衆までに及ぶイデオロギー主義的(主意主義)に展開したという問題です。
第五部は「プロレタリア革命の新しい時代」
さて、ここでは現在中国論の押さえです。
ケ小平の改革開放路線は、「先富論」として端的にとらえられるのですが、わたしは「先富論」がでてきたときに、中国は「社会主義」を捨てたと思っていたのですが、ことは簡単ではないようです。これは右派に転向したブハーリンと同じ位相をもっているのではと思えます。「原始的蓄積」という収奪の構造、民族問題、環境問題、農業からの収奪の中における工業の推進、「軍産共同体と帝国主義的対外膨張政策―「一帯一路」」と、まさにスターリン主義的一国社会主義の推進の道を進んできているのです。宗派的イデオロギーによる恐怖統制的「社会主義」体制の維持をとりわけ、習近平体制以降突き出してきています。
補論「いくつかの理論的問題」について」
ここで、著者は中国革命の著者なりの総括と革命の展望のようなことを展開しています。共鳴することが多々あるのですが、わたしなりにとらえ返しをしてみます。
書かれていないことがあります。レーニンは『ド・イデ』が読めてなくて、そこにかかれている国家の共同幻想論が入っていなくて、権力の奪取からプロ独ということに迷いなく突き進んだという問題。トロツキーがレーニン主義的転向をしたのは、ロシアではレーニン的な革命でなければ、革命は起こし得ないという思いで、しかもレーニンのカリスマ性に依拠しようとしたこと。結局トロツキーは初期のレーニン批判の立場には戻らなかったようなのです。それは、まだスターリン的な革命でも継続的に変化していければ、永続革命の可能性はありえると見たのでしょうか? スターリンの粛正をどこまで予測していたのかがありますが、トロツキーの暗殺はスターリンのあらゆる反対派への粛正が大体終わった後、自らの死の間際に、まだレーニン主義者であり続けていたのかどうか、更に1991年のソビエト社会主義共和国連邦の崩壊まで行ったのをとらえると、どういう総括をするのでしょう? トロツキーはもちろんいません。それはわたしたちに引き継がれ、どう総括するのかという問題があります。有名なフレーズがあって、「「共産主義とは何か」と問われるとき、「パリ・コミューンを見よ」と言い得る」ということがあります。今日、「共産主義とは何か」と問われるとき、「ロシア革命を見よ」と言うひとは誰もいません。むしろ、負の遺産的にしかとらえられません。そこに何か残るとしたら、まさにこの本が主題にしている中国革命のなりゆきですが、中国はトロツキー派の弾圧も含んで、まさにスターリン主義の道を進み、覇権国家―「社会帝国主義」として立ち現れ、そこからトロツキーの永続革命的なことはとらえられません。
勿論、パリ・コミューンは敗北した革命です。そして、レーニンと運動論的・組織論的に論争を続けていた、ドイツのローザ・ルクセンブルクも暗殺されてドイツ革命は敗北に終わっています。さて、この連続学習は、ドイツ革命、スペイン革命、パリ・コミューンの学習に進み、もう一度、レーニンに立ち戻り、ローザ・ルクセンブルクを読んで、従属理論の学習を経て、現代資本主義論―革命論の模索に入っていきます。
 この本はレーニン主義からスターリン主義、トロツキーの永続革命論を押さえる作業、そしてもうひとつ、現代中国論の共同学習に使えるのではないかと思ったりしています。とても大切な本です。

切り抜き
「食料問題を解決するには、農民との関係を改善する必要があった。トロツキーは「戦時共産主義」の弊害をいちはやく見抜き、ゴスプラン(国家計画委員会) に権限を与え「新経済政策の策定を提案していた。しかし、レーニンの同意は得られなかった。/当時レーニンの考えていた国家資本主義策は、小規模で限定的(『穀物税について』参照)なもので、トロツキーのいう社会主義への過渡期全体を包含し貫徹する経済政策とのあいだにはまだ大きな差異があった。レーニンがトロツキーに同意するのは、もっと後のことである。」29P・・・新経済政策はトロツキー発、新経済政策や計画経済は一歩前進半歩後退の永続革命論の戦略で、永続革命論が葬り去られたときには、資本主義の固定化にしかならなかった。
分派禁止が持つ意味30P
「左翼日和見主義」49P・・・?これは強引に(「手段を選ばす」)革命を進めるという意味?日和見というのは、情況を見て行動を躊躇するといことでこれは当たらない。「左翼」は革命という方向性を持っているひとのグループで、「左翼」ということは、結局革命を進めることにならないということで、かっこにくくらざるを得ない、結局「左翼」強力主義ということになるのでは?
「野党の禁止は、次にはボルシェビキ党内のフラクション禁止令へとつながっていった。分派禁止令は、ボルシェヴィキ党の変質への一つの里程標とも言える。」49-50P・・・分派の禁止は運動の活性化を阻害することになるのでは?
民衆による国家の死滅策52P・・・そもそも外部注入論による代行主義から出てこない
複合発展論59P・・・新経済政策もここから出てくる?
「第二次大戦期のスターリン主義者の採った諸々の政策の本質は、すべて自国の利益を第一とし、帝国主義列強への工作では西側諸国の共産党勢力を利用し、自己の立場と利益を優先することにあった。」62P
「一九二八年からモスクワの中国共産主義者が群れをなして反対派に向かった主要要因は、中国とソ連の情勢がいずれも驚くべき速度で反対派の主張を実証したことである。」92P
「ここには、トロツキー自身における従来の党組織路線の総括の不充分性という問題もあった。トロツキーはレーニンの組織路線に対する批判をはやくから展開していたが、ボルシェビキ党への合流後はそれを留保していた。それはやむをえないことでもあった。それにトロツキー自身も「民主集中」制の両義性に幻惑され、その限界からまだ抜けきれていなかった。かれの真情は、新路線論争の青年への訴えに吐露されている。いづれにせよ組織路線は不充分なまま残され、それは後のトロツキズム運動の足かせとして残った。」102-3P
「民主主義の問題を正当な地位に引き上げ、民主主義獲得の闘争を社会主義をめざす闘争とかたく結びつけたことは、陳独秀の重要な功績であった。」110P・・・国家の死滅へと向かわないところでは、民主主義は支配の道具になっていく
「彼らは多数派とはボルシェビキだと思っていますが、実はボルシェビキは決してマルクス・エンゲルス主義ではなく、ロシアの急進的プチ・ブル階級であり、フランスのブランキ主義です。今のドイツのナチズムは、古いプロシャと新しいボルシェビキの混合物です。」112P・・・陳のボルシェビキ批判 ナチズムが「国家社会主義労働者党」として出発したことに留意  「マルクス・エンゲルス主義」?  ブランキ主義は一揆主義とも言われ、計画性がないので、ボルシェビキズムとは違うのでは?
陳「スターリンの罪悪はすべて、プロレタリア独裁のロジックが発展したものです。」116P
「かれ(陳)の一貫した立ち位置はあくまでもプロレタリア民衆の立場であった。かれは当代のもっとも優れた「マルクス・エンゲルス主義」者であったし、かれの見地は今日の時代にも継承されるべきものといえよう。」117P・・・・「マルクス・エンゲルス主義」?マルクスの「わたしはマルクス主義者ではない」という提言。スターリン主義者がレーニン主義の宣揚によって、反対派を排除していった歴史や毛沢東主義者の毛沢東語録を掲げた宗派的運動を踏まえて、教条主義批判やカリスマ性を突き出す運動が何をもたらすかをとらえ返したとき、ひとの名を冠した○○主義という言葉は、教条主義批判の否定的な脈絡としてしかわたしは使わないようにしています。
「スターリンの収容所列島もすさまじかったが、毛沢東の人民を相互に監視させる支配体制はより強度であったともいえよう。」126P
「スターリン主義者でも政権獲得ができる。中国共産党はこのことを実証した。ところで、政権獲得以後の社会主義への道は別の事柄である。社会主義への道は、前人未踏の道であり、プロレタリア民衆に依拠してプロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむかが大きな分水嶺になる。」130P・・・「スターリン主義者でも政権獲得ができる。」というのは、「プロ独ではなく農民に依拠した革命」という意味?「スターリンのような人格」でも政権獲得ができる、という意味? 後半の「プロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむか」は余計意味不明? 二つが分岐するのは、プロレタリア民主主義がブルジョア民主主義に収斂するときでは? 政権獲得と維持は強権的監視態勢でもやれたけど、革命―「社会主義」への道は逆戻りのまま
「整風運動には一つの法則が貫かれていた。誰もがこの整風から逃れることはできなかった。人々は、ある時は被害者になり、またある時は加害者となった。この運動の外に出ることは許されなかった。「批判」と「自己批判」は参加者全体を疑心暗鬼にさせ、互いに傷つけ合い、相互不信をつのらせるのである。「批判」と「自己批判」を発令した者だけが批判運動から免れるのである。」138P・・・連赤の永田洋子と森恒男の「総括」 いじめの構造にも似ています。
(命をかけて抵抗した知識人・謝韜のことば)「われわれはいつも党と人民のために少しでも貢献することばかり考えて、他のことを考えたためしがない」144-5P・・・一般党員は無私的に動く、スターリニスト「指導部」は自分のことしか考えない。
「文学・芸術は「政治に従属」し、その俗悪な政治の道具とされた。胡風事件はそのはしりであった。」145P
「毛沢東の「スターリン批判」への対応は次第に明確になってくる。まず国際的には、スターリン評価(成果七分、欠陥三分)にもとづいてポーランド、ハンガリーの民衆暴動を激しく非難し、二度の論文――「プロレタリア独裁の歴史的教訓」とその続き――によって中国共産党がスターリン主義を堅持することを表明した。」146P・・・「成果七分、欠陥三分」というのはスターリン主義から抜け出せていない共産党の流れから出てきていることではないでしょうか? わたしからするとスターリン主義は負の評価しかありません。
「毛沢東による全国書記局体制の掌握と中国版「ノーメンクラトーラ」(官僚特権階級)の形成と軌を一にしていた。」147P・・・まさにスターリン的手法
「中国は法治の国ではなく、人治の国であり、毛沢東の言うことが法律である。」147P・・・言わんとしていることは分かるのですが、「人治」の「人」が民衆なら、「法治」よりも良いのでは?
「学生たちは五・四運動を忘れておらず、「社会主義時代の五・四運動」として民主の旗を高く掲げた。」149P
「「真の社会主義」が1957年の中国の大学の民主化運動の綱領となっていたのである。」151P
「「大躍進」・「人民公社」運動の発動は、全国書記局体制の確立と連動していた。地方書記を通じて全国を支配するというスターリン主義的全国支配網の確立である。この支配体制下で、地方書記は毛沢東への無限の忠誠を誓うと同時に、地方における絶大な支配権を保証された。・・・全国の党書記たちは「上を向いて歩こう」出世主義者がほとんどであった。かれらは毛沢東が「大躍進」政策を発するや、ただちにこれに呼応して「食料増産計画」なるものを提出した。現実の生産能力を飛び越えた架空の「生産計画」である。毛沢東はこれを根拠にさらに現実離れした増産計画を提起した。/しかし、地方書記が提出した「増産計画」は、一年後にはかれらの肩にふりかかってきた。「増産計画」は実行を迫られた。全国の書記たちは、その責任を農民に転嫁したのであった。農民の食いぶちまで徴発し、数千万人もの農民がゴロゴロと路上で死ぬという惨状はこうして生まれたのであった。古代の奴隷は最低限の食いぶちは保障されていた。奴隷が死ねば、奴隷主は元手を失うからである。しかし、ここでは農民は生きる最低限の保障さえ奪われたのであった。」161P・・・あまりにもひどい政策と「下」からの出世主義的呼応
農民の1958-61年餓死者 二説 「千六百万―二千七百万人」164P、「三六〇〇万人」166P
「それは(大飢饉の理由は)「スターリン政治体制」がもたらした必然の結果であったが、直接的には、高速度・高ノルマを短時間に達成しそうとした毛沢東と共産党側の度はずれた要求にあった。」168P
「餓死者が最も多かった一九六〇年、国家にはなお数百万の食料備蓄があった。中国には古来より、飢饉の時には倉を開いて民衆を救う伝統があった。ところが当時の体制のもと、そうした行為は厳しく罰せられた。農民は、国家が大量に食料を備蓄した状況下で餓死した。」169P
「救わなかった理由は、国家が戦争に備えて食料を必要としたからであった。明確に見てとれるように富国強兵路線は、農民を犠牲にし、農民を餓死させる代価をいとわなかった。」170P
(民衆の決起の「星火」における向承鑑のことば)「中国史において整風と反右派は、重大な意義がある。それは党の変節点、人民を敵とする方向への転換点、ヒューマニズムを敵とする道への転換点だ。」179P・・・そもそもスターリン主義者は右だったはず、何でも反右派にする非論理性
(「星火」から張春元のことば)「真のマルクス主義という看板を掲げたある人物及び少数の政治家たちの思想と方法は、日増しに主観的迷信と反動へと変質し、もはや悲しむべき結果を来した」180P
「右派のある老女は、彼女が共産党に加わったとき、党がやがて非人間的な悪党たちの一団に乗っ取られるとは思いもしなかったと、あからさまな言葉で話してくれた。」193P・・・何が右なのか? かっこをつけて「右派」という表記にすること
紅衛兵の二つの流れ、四人組の一月207P、省無連の八月211P
(「探索」の代表者魏京生のエッセーから)「農民たちが『大躍進』をあたかも『この世の終わり』を語るような言葉で回顧するのを聞いたし、・・・・」201P
「プロ文革はとらえようのない抽象的文言から始まった。「魂に触れる革命」「上部構造における革命」等々。いくらか具体性をもったのは「パリ・コミューンを実行する」であった。」204-5P・・・マルクスの唯物史観をとらえられない主意主義、パリ・コミューンと真逆な運動
「この運動(プロ文革運動)が青少年の紅衛兵運動から始まったことである。青少年層には社会の諸矛盾への不満がうっ積していた。」205P
(「省無連」の文書から)「大衆が事実を暴露し、彼らに対する怒りを爆発させたことにより、《赤い》資本家階級が、完全な腐敗階級になって、歴史の進行を妨げていることが、はじめて知らされた。彼らと広範な人民との関係は、指導者と被指導者との関係から、支配者と被支配者という関係に、搾取者と被搾取者という関係にかわり、革命に平等に参加する関係ではなく、圧迫者と圧迫されるものへの関係へと変化していったのである。《赤い》資本家階級の特権と高い給料は、人民大衆に対する圧迫と搾取を基盤としたものであったのである。《中華人民公社》の実現をめざすためには、この階級は打倒されなければならない」214P
「天安門事件は、「スターリン政治体制」のどん詰りを示した。民主主義は天から降ってこない、それは民衆の汗と力でかちとらなければけっして手に入れることができないことを、はっきりと教えた。」224P
「まず、ブルジョアジーからの生産手段の没収が行われる。続いて、小所有者(農民や都市の小所有者)の社会的改造が行われる。農民など小所有者の改造は、実際上の利益と農民たちの自主性にもとづいて行われるべきというエンゲルスの忠告を考えると、ブルジョアからの生産手段の没収よりも長期の期間を要することがわかる――農民の集団化は、互助組からはじまっていくつかの段階を経て高級合作者に至る。しかし、集団的所有制はまだ全人民的共有制への過渡期段階であり、共有制への移行ではない。スターリン主義者は集団所有制への移行をもって、過渡期完了の指標としたのであった¬――。」256P
「マルクスは共同社会の発展について述べている。レーニンとの相違点についていえば、マルクスが資本主義社会と共産主義的社会との境界線を過渡期完了に二つの指標に置いたのにたいして、レーニンは高度な共産主義社会に置いていることである。プロ独裁国家は高度な共産主義社会に至るまで存在するという見解は、レーニン独自のものであり、マルクスにはまったくないのである。」259P・・・ブルジョアジーがいなくなれば、プロレタリアートという概念はなくなり、プロ独という概念はなくなるのでは?
「発端は、ソ連共産党が「全人民の国家」論をうち出し、その論拠をマルクスの『ゴータ綱領批判』における有名な文言『共産主義社会の将来の国家組織』に求めたからである。」264P・・・共産主義と国家はアンチノミー、国家組織にかっこをつけるか、「執行機関(決定と執行の統一としての運営機関)」とすること。
「ボルシェビキ党の組織路線は、中央集権主義と労働者民主主義を両義とする路線だといわれてきた。民主もあれば、集中もあるといわれてきた。しかし、この路線下では、経験が示すように、中央集権が本質であり、民主は飾り物にすぎない。両者の対立が鋭くなれば、必ず中央集権主義が党内民主主義を排除するのである。」267P・・・初期トロツキーのレーニン批判の中身、武装蜂起―軍事が問題になるとき、中央集権主義は避けられないとして、レーニン主義者になったのではないでしょうか? 弁証法的統一(?)は可能か? それとも軍事を排除した革命を目指すのか?


posted by たわし at 04:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロツキー/対馬忠行訳『トロツキー選集〈第4〉レーニン死後の第三インターナショナル 』

たわしの読書メモ・・ブログ509
・トロツキー/対馬忠行訳『トロツキー選集〈第4〉レーニン死後の第三インターナショナル 』現代思潮社 1961
前の読書メモの本と次の読書メモの本でトロツキー関係の本はおしまいにするつもりだったのですが、一連の読書過程で、第三インターナショナル関係の本を押さえておかなくてはと急遽入れ込みました。
 それにしても、コミンテルン(第三インターナショナルの別称)のジクザクはまさに国際「共産主義」運動をつぶすような意図をもっていたかのような方針を出し続けていたのではと思われるのです。レーニンの死とトロツキーらの左翼反対派の敗北の中で、ちゃんと方針を出せるひとがいなくなっていたのですが、それにしてもスターリンの一国社会主義路線で、ロシアに奉仕するということでの方針(もしくはきちんと情況を押さええず夢想の中で日和見的に出した方針)を、コミンテルンが各国におしつけ、さらに各国の指導者を粛正の対象にさえしてきた歴史は許しがたいことです。
 「たら・ればの」話をしても仕方がないのですが、情勢をきちんと押さえた的確な方針を出し得ていたら、世界の様相はどうなっていたのかと思わざるをえないのです。
訳者も書いているのですが、この本にはついている1936年版の註解が、それ自体を広げていけば一冊の本になるような解説で、きちんと整理したら辞書のように、また引用して繰り返し使えるのではと思っています。
急遽読書計画に入れ込んだところで、世界的な流れを多少とも押さええました。

 切り抜きメモです。
「従って、コミンテルンにおける諸党の任務は補助的な性格を帯びるようになる。すなわち、それらの使命はソ連邦を干渉から護ることで、権力獲得のために闘うことではなくなる。」62P
一国社会主義路線はコミンテルンを崩壊させるという内容72P・・・第二インターナショナルの崩壊の総括
 トロツキーの政治的時代区分85P
ブハーリンの独自の三段論法による「永続革命論」86P・・・論理の飛躍、主体条件の分析の欠落
エンゲルスの提起「エンゲルスは、革命的情勢を逸した党は長い間舞台から消え去るということを教えている。」112P→トロツキーの提起「機関手はカーヴでいかに働くかを説明することなしには、世界革命の成功が二、三日の闘争にかかっているというような情勢があるという真理を党内に教えこむことなしには、放置することはできないのである。」113P
「階段を上がるときには下るときとは違った運動が必要である。最も危険のは、消えた灯をもって、目の前の階段が下を向いているのに、上がろうとして足を上げる人の場合である。この場合は、転落、怪我、脱臼は避けられない。」114P
 スコラ哲学(ブハーリン)に支えられた経験主義(スターリン)124P
レーニン「農民が反動的ないし反プロレタリア的なものとしてたち現われる限りでは、われわれは、農民に不信をもって対し、農民とは別個に自らを組織し、農民と闘う用意をもつこと、これである。」136P・・・?なぜ、農民敵視論が出てくるのか?
「最も厳格な革命的秩序」145P・・・「革命的秩序」という名の官僚支配のヒエラルヒー
分派の必要悪的なとらえ方146P・・・必要悪なのか? むしろフラクション形成は運動の活性化に必要なのではないのか?
「レーニンの指導下の中央委員会によって解釈されるだろうこと。」147P・・・分派の禁止や統制委員会の設置など、反対派排除に使われていった。レーニンは自らの亡き後のことを想定できなかったのでは?
「鋏」論185P
「ソヴィエトの任務は、ただ単に反乱の呼びかけを発したり、それを遂行したりすることだけでなく、必要な段階を通って大衆を反乱へと導いて行くことである。」200P・・・段階論は手段論になっていくのでは? ソヴィエトのとらえ返しの必要!
第三章Y、Z 農民のプチブル性、従う「階級」・・・?プロ独による農民革命の代行主義?
「彼は(レーニンは)、もし政治的前提条件が欠除していたら中央集権主義は官僚主義に堕落するであろうということを恐れて、指導部の側における中央集権主義好みに一度ならず警告した。」238P・・・「指導部の側における」?相互性があること
官僚主義者たちのスローガン「富農をして社会主義へ成長せしめよ」「汝自身を富ませよ」「段階をとび超すな」244P
「もしもブルジョアジーが、新しい大きな歴史的時期を世界プロレタリアートから奪い取ることができるとすれば、ブルジョアジーはその技術、富、陸海軍の巨大な優勢さを土台にしてソヴィエト独裁を顛覆するであろう。彼らがこれを達成するのに経済的手段をもってするか、政治的手段をもってするか、政治的手段をもってするか、軍事的手段をもってするか、あるいは三つを兼ね合わせするかという問題は、第二義的な重要性しかもたない。」254-5P
「現在のジクザク運動が一貫してプロレタリア的なコースの方向に発達していく可能性を否定するのは正しくないのである。」291P・・・トロツキーは少しでも正しい方向へ修正とようと提起続しようとしたけれど、結局コミンテルンの指導は総体的に負の運動にしかならなかったー
「五年の間、プロレタリアートは「考えるな! 一番上にいる人々は諸君より頭がよいのだ」という古いよく知られているスローガンの下で生きてきた。これは最初は憤怒を、それから受動性を、そして最後に人々を政治的殻に引きこもらせる制限された生存を生み出した。あらゆる方向から労働者は教えこまれて、ついには自らに「おい君、今は一九一八年ではないのだ」といい聞かせるまでになった。」294P・・・民衆の意識形成
「機関」と呼ぶ官僚機構303P
「プロレタリア路線は鉄のような中央集権主義なしには考えられない。」304P・・・このこと自身のとらえ返しの必要!
註解のメモ
(8)ネップの主導はレーニン・・・トロツキーの立案
(12)インターナショナル大会の間隔
(14)第一インターナショナル(15)第二インターナショナル(16)第三インターナショナル
(17)無政府主義、革命的サンディカリズム、建設的社会主義、ギルド社会主義
(20)ブハーリンらのクーデター計画
(36)レーニンの遺書
(41)コミンテルンからの除名の世界的動き
(67)マノフ主義
(89)ジョージア(グルジア)の民族問題でのレーニンのスターリン批判

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日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」

たわしの映像鑑賞メモ035
・日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」2019.9.30 1:05〜1:35
今、進学校はまさに競争原理にとらわれ、ひとをいかに蹴落とすのかという論理の中にあるのでしょうが、不登校生はまさにそこからこぼれ落ちたひとたち、むしろその中にこそ人間性があるのだと思います。福岡の私立学校での密着取材、いろんな子どもがいて、LGBTの子ども、親から虐待を受けた子ども、競争的なところではドロップアウト的になっているのだけれど、その生徒を集めて、「君は君のままでいい」ということを掲げた学校、むしろそこにこそひとの生があり、ひとひととの関係をどう作って行くのかの展望があるのだと思います。
「君は君のままでいい」というのは「障害者」のスローガンでもあり、それこそ、いろんな問題を抱えさせられたこどもたちの可能性があるのだと思います。それが、いろんな問題を抱えさせられた世界を救うのだと思います。現実には、そこに落差があるのですが、そこにこそ、いろんな可能性があるのだと思います。


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日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」

たわしの映像鑑賞メモ034
・日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」2019.9.23 1:05〜1:35
2011年の福島原発事故で強制避難になった指定区域以外にも福島県内から避難したひとたちがいました。自主避難者と言われています。で、借り上げ住宅や他県も含めて公営住宅に無償で入れていたのですが、2017年3月で打ち切りになりました。で、そこを追い出されるか、住み続けるのなら新しい契約を結んで家賃を払えということになりました。で、そんな理不尽な話はありません。で、家賃を払うのを拒否していたら、裁判に訴えられたという話です。そもそも契約したのは福島県で、訴えたのが住宅の持ち主、そのことからおかしいとの主張もしたのですが、負けました。その記者会見で、被告の避難者が「ありをゾウが踏み潰すような行為だ」と話していたのです。その話をしたひとは、自宅に一時敵に帰ったときの映像があるのですが、除染した土をいれた土嚢がまだ庭につんであるのです。
このドキュメントでは、三人の子どもを連れて母子自主避難した家族も出てきます。生活が大変で、子どものためにと思って避難したところで、子どももストレスがたまり、結局父親が居る福島に戻ります。福島では、放射線被害の話ができない、福島に住む限りその話をすると生きていけない、という情況の中で、息苦しい様子が伝わってきます。外での遊びもセーブしていたのに、子どもがサッカーしたいと言いだし、水道水とか避難先でも注意していたのに、結局、公園での水道水も「飲んでもいい」とそれも押し流されていきます。その挫折感の中で生きていく様子が伝わってきます。
さて、福島で生活しているひとに、冒頭の裁判の結果についてインタビューしているのですが、その中で、赤ん坊を抱いた母親が「こういうことばあてはまるかどうかわからないですけど、自己責任だと思います」とかいう発言(正確ではなくてそういう趣旨)が出ていました。一方で子どもが放射線にもっとも敏感だとして避難したのに、子どもを抱えた母親が避難した母親を非難する、その構図はとてもつらいものがあります。
そもそも「自己責任」ということばが、つねに政権サイドから出てきます。これはこの社会を成り立たせている論理で、そこから批判していく必要があるのですが、ここでは、この問題に限ってこの「自己責任」という問題を考えてみます。
そもそも事故を起こしたのは東電です。そして原発の設置を国策として進めてきた国の責任なのです。避難者は被害者で「自己責任」などないのです。
もっとも、これに対してさえ、意味不明の発言をするひとがいました。差別の問題に関して数々の問題発言をしてわたしがまさに差別主義者として押さえている曾野綾子さんという作家が、「福島は原発の誘致をしたのだから自己責任だ」と言っていたのです。そもそも、電力会社も国も安全神話ということを作りだし、ごまかしてきました。また、過疎化の中で生きられないということの中で、雇用を生み出すというところで原発誘致させようとしてきたのです。それでも、反対運動をやって原発誘致を阻止してきた地域もあったのですが、敗北したところで原発が作られてきました。そもそも敗北した責任はあるにせよ、そんなことは過疎地域に原発を押しつけ、その電力を使ってきた首都圏の人間が、責任をいうことではないのです。責任は、ぬくぬくとその電力を使ってきた首都圏の人間にあるはずです。
原発の事故が起きたときに、自らが原子力に関する研究を始めつつ、やがてそれはとても危ない事業だとして反対の立場に転じ、反原発の活動をしてきた研究者の小出さんが、止め得なかった自分の責任ということで涙を流して反省をしていました。なのに、安全神話を作り出していた学者そして、マスコミに顔を出していたコメンテーター、そしてCMで桁違いのギャラを得ていたひとたち、だれひとり自分の責任を口にしません。それどころか、事故が起きた直後も、「放射線はからだにいい」とかテレビで発言していたのです。「からだにいい」と発言したひとは、放射線浴のために、福島の原発事故の処理に健康のためにでかければいいのです。これらのひとに、自己責任などという考えは毛頭ありません。
9月19日福島原発事故刑事責任で幹部三人が強制起訴されていた裁判での判決で無罪判決が出ました。原発震災関連死が二千人を越えているのに、津波の危険性が東電内部で出てきていたのに、それを経営の論理で握りつぶした会社の責任が問われなかったのです。二千人も殺して、誰も責任を問われないということがありえるのでしょうか?
甲状腺ガンの患者が二百人を越えています。それを、検査をしたから発見されたのだという本末転倒な論理を持ち出します。そんな話なら、そもそも甲状腺ガンはほっておいても大丈夫だと言う論理になるのでしょうか?
放射線被害には個人差があります。また因果論的科学の世界では、因果関係は認められないとなるのです。そもそも新しい世界観――科学、函数的確率論では、責任は明らかになります。未だ古い科学観で、因果関係が認められないとして、更に、そこに放射線安全神話による誘導が出てくるのです。原発の安全神話が放射線安全神話にすり替えられたのです(これは前述の小出さんの指摘です)。そもそも、原発の「誘致」なるものも、「仕事がなくて生活できないよりも、危険性はないとは言えないけど、死ぬ危険があるとしても、はっきり死ぬとは分からないから、座して死ぬよりも、仕事をしてみよう」というところで、仕事をしていくようになっていくのです。そういう、ひとの心の動きが浮かびあがって来るのです。先ほどのインタビューで「自己責任」ということばをあげた子どもを抱えた母親、そして避難したひと、そして一時敵避難を解消したひとたちに、それぞれの事情があり、避難したくても避難できないことを、自己合理化していく中で、避難したひとたちに「ねたみ」的なことも含めた批判的心理が働くのではないかと推測できるのです。
 今、ヨーロッパでは子どもたちが、自分たちの生きる環境を大人たちが奪っているという告発のデモが起きています。先日、国連でスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさん(16)が告発の怒りの演説をしました。わたしたち大人は、それを見守るとか支援するというのではなく、まさに「座して死ぬよりも闘って死のう」という決意をもって、まずはそういう情況を作り出した自己責任において、その総括をきちんとすることから、そして具体的な行動に少しでも踏み込んでいくことだと思うのです。


posted by たわし at 04:36| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBS1「ありのままの最期」

たわしの映像鑑賞メモ033
・NHKBS1「ありのままの最期」(再)2019.9.16 2:15-3:05
僧侶で医者の夫妻がホスピスを運営していて、患者さんたちがいかに心おだやかに死を迎えるのかを実践していて、夫ががんになるのです。それで、テレビクルーを入れて、自分の死に逝くさまをあるがままに撮影して欲しいとして、撮影が始まるのです。
実際にホスピスの様子は、患者会なども開き、まさに心穏やかに死を迎えるホスピスなのです。
最初は、医者の仕事もしながら闘病しているところで、まさにホスピスの医者だったのですが、途中から譫妄は始まるし、何を言っているのか分からないような情況もあり、そして、それまで妻の手も握ったことがなかったひとが、妻に抱きつき泣いたりするのです。そして、抱きついたまま歩行誘導しながら、ワルツを踊ったりしているのです。妻は笑いながら、「こんな患者今までいなかった」という情況。で、撮影クルーが、このまま撮影してもいいのか迷ったりもするのですが、それが当人の意志だったからとそのまま撮影が続きます。そして、医者として患者としての自分への医学的処置の指示を出していたのですが、最期の最期に鎮痛剤を投入してそのまま逝かせるということで、鎮痛剤の投与が始まるのですが、僧侶であり医者でもある妻が、「何もまだちゃんと話していない、このまま死なせられない」と、鎮痛剤の投与を途中で止めるのです。そして、亡くなります。死のときにはカメラは入っていなかったのですが、白い布を撮って死に顔を見て、撮影ディレクターが、「ほんとにありがとうございました」と声をかけます。おだやかなホスピスの医者や患者のような死に顔でした。妻の医者が「心臓の処に跡があるでしょう、注射してしまつた、指示をやぶったと怒られるわね」と、話していました。
そして、住職を継ぐために妻はバリカンで髪を落とします。生前に頼んでおいた友人の僧侶たちによる葬儀が始まって、焼き場に車が出るときに、妻の僧侶でもある医者は「わたしは焼き場に行けない」と泣き叫んでいました。撮影クルーは最期まで撮るということで、焼いた後に出てきた骨の映像までとっていました。
当人は悟りを開いた僧侶の死に方を見せようと、撮影を頼んだのかもしれません。でも、錯乱的になりました。それでもいい、いやむしろそれが良かったのだと、わたしは思ってしまいます。夫婦の間で心が通った最期のとき、妻は今後どう生きていくのか、わかりませんが、心通わせた最期のとき、それがひとの生と死なのだと思うのです。ひとは簡単に死んではいけないのです。


posted by たわし at 04:33| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする