2020年05月16日

張一兵『レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読』

たわしの読書メモ・・ブログ531
・張一兵『レーニンへ帰れ―『哲学ノート』のポストテクストロジー的解読』世界書院2016
 これは張さんの「帰れ」シリーズの一作。わたしにとっては、『マルクスへ帰れ』に続く、2冊目の本です。「帰れ」ということは、レーニンは正しいから、レーニンに立ちかえって、レーニンを押さえ直そうという意味ではかならずしもありません。レーニンの神格化された部分も、文献学的に押さえ直す、しかもポストテクストロジー的に押さえ直す作業ということです。ポストテクノロジーという新しい概念ですが、わたしはテキストクリティーク、自分でテキストを作り出すが如く読み解く作業、として言われていることを押さえ返し読み解いていました。「かならずしもありません」ということをわざわざ書いたのは、著者はレーニンの神格化批判はしているけれど、レーニンとの対話――批判が、わたしからとらえると不充分だとの思いがあるのです。全体として、レーニンへの基本的共鳴になっています。批判的なほりさげが足りないのです。
 これは、レーニンの唯物論と弁証法、いわゆる「弁証法的唯物論」のとらえ返しの作業を哲学的のところまで踏み込んだレーニンの文献学的とらえ返しの作業の本です。これは文献学的に貴重な資料となる本です。いろんな新しい概念を突き出しつつ、そのことをテコにして、レーニンの『哲学ノート』を読み解き、そこに関わる文献も読み解いていきます。レーニンの自筆の原稿のコピーを入手して、まるでタイムマシンに乗って、レーニンの側に居て対話するように、細かい心理学的な、分析までやっています。残念ながら、それを検証しうる力は、わたしには程遠く持ち合わせていません。ですが、極めて興味深い読み解きになっています。
 レーニンは、唯物史観の定式をした『ドイツイデオロギー』も『経済学批判要綱』も読めなかったと言われていて、そもそも唯物論の掘り下げが不充分だと言われています。また、その弁証法は、エンゲルスの図式化した弁証法概念で、とりわけエンゲルスの反映論にとりこまれています。それは何かというと、「ヘーゲルの絶対精神の、自己展開・疎外・外化」という論理にからめとられているということです。そこで何がおきるのかというと、レーニンが弁証法で繰り返しだしているのは、認識論と弁証法と論理学の統一ということで、そこで三分類として、なぜ、弁証法がはいるのかということがあります。弁証法はそもそも、全部を統括していることです。さて、わたしが認識論的に学んだ廣松さんが提起しているのは、ヘーゲル弁証法の存在論と認識論と論理学の三位一体的統一ということを批判し、存在論を切り離しています。存在論を入れると、ヘーゲルの絶対精神の、自己展開・疎外・外化という論理に陥ってしまうのです。弁証法は、認識論と論理学においては、ヘーゲルが突き出した、いろんな概念が有効です。当事者意識と第三者意識の入れ型の認識の深化の方法論や網と網の目の関係とか、ヘーゲル自体も関係論的な観点があり、そこからいろんな弁証法概念が出ていました。レーニン自体は、絶対精神を観念論として退けています。だから、絶対的真理ということも批判しています。ですが、それが論争過程で、それがレーニン自身のことばか、ひょっとしたら改ざんの可能性もあるのですが、ところどころ、「絶対的真理」という内容が出て来ます。それがレーニンの教条主義化とリンクしています。そもそもは、エンゲルスの「反映論」です。反映論というのは、三項図式のアポリアをヘーゲル的にこえたところで出て来ているので、「ヘーゲルの先祖返り」と言われることになっています。張さんは、この「ヘーゲルの先祖返り」的な批判を批判していますが、レーニンの認識論、弁証法、論理学という分け方に共鳴していて、しかも、三項図式のアポリアをどうレーニンや自分が超えるのかを何も書いていません。結局反映論がどういう意味をもつのか、そこで弁証法の図式化ということが、法則の物象化・物神化になっていく構図を押さえていません。法則なり真実ということは、共同主観的な妥当性とその第三者的なとらえかえし、それこそが弁証法的深化という意味での照射ということにあり、法則とは実践における仮説の援用という意味しか持たないと言いえます。そのあたりの相対性をマッハあたりが展開していたのですが、レーニンがそのことを批判していたのは、結局絶対的真理のようなことを設定することになっているとしか思えないのですが、レーニン自体は揺らぎつつも、ヘーゲル批判の中身として、一応「絶対的」という論理は退けているようですが、エンゲルスの反映論を宣揚しているので、結局ヘーゲルの弁証法を受け入れてしまっています。三項図式をどう超えていくのかということでの論考が必要になっているのです。このあたりは、廣松さんが論攷をすすめていること、ですから、この本を読んだところで、廣松さんのエンゲルス論や弁証法に関する論攷をここで読んでおきたいのです。「唯物論と経験論批判」の読書メモの後に、廣松さんの著作集を読んだように、ここでも読んでおきたいのですが、今そこまでやりきれません。ここで、問題になっているのは、張さんが『マルクスへ帰れ』で廣松さんとの対話部分です。張さんは、廣松物象化論を物象化ではなく事物化ということで置き換えることだと批判しています。ですが、廣松物象化論は、そもそも物的世界観から事的世界観へのパラダイム転換ということで突き出していることで、その意味と意義を押さえているとは思えないのです。この物象化論の中身は実体主義批判です。レーニンにも張さんにもこの実体主義批判ということは出て来ません。ここで、押さえておくことは、漢字文化ということで、漢字の共通性ということでの翻訳で、中国語としての漢字を翻訳しないで、そのまま引き出していることでの、押さえにくさが出ている可能性があると思えます。とくに、とこの物象化ということの中国語のニュアンスと日本で使われている物象化概念にずれが生じているのかもしれません。それは、文献学的読み解きのキーワードとして使っている言葉などのことにも現れています。このあたり、「廣松ノート」の作成に入るときに、廣松さんの論攷から対話をしていくこととして先送りせざるをえません。廣松さんの本のみならず、ここでわたしの学習は、レーニンが示している文献の読み直し、とりわけ、エンゲルスの弁証法の押さえも必要になっています。課題は多く、時間は限られています。廣松さんの学習の際にできたら、もう一度この本との対話に踏み込みたいのですが、とてもそこまでやれそうにありません。
 もう一点、「弁証法的唯物論」の押さえの問題、「弁証法的唯物論」というのは、法則を物象化している類いで、ヘーゲル弁証法へ取り込まれこまれとして、マルクス派のなかからも批判が出ているのですが、認識論的に深化していく対話としての弁証法という意味ではありだとは言いえます。ただ、この本の中でも、そしてレーニンも法則の物象化・物神化に陥ったところで、このことばを使っているのでそのことは批判していく必要はあるかなと思っています。レーニンは、実践のひとで革命家として、哲学まで踏み込みました。だから、弁証法もまさに「実践の弁証法」と押さえ展開していきました。そこにレーニンの真骨頂があったのです。レーニンの本とされることは多分に、マルクス――レーニン主義として教条化していったひとたちから歪曲され、かなり改ざんもおきているようです。そのあたりも押さえながら、レーニンを読み解いていく必要もあるのではと思ったりしています。
 この読書メモも、切り抜きメモを作るべく、本に書き込みをしていたのですが、中途半端なメモにしかならないので、どうしようか迷っていたのですが、とりあえず章ごとの簡単な切り抜きメモにとどめつつも、文字化しておきます。
出版説明
 この本は「鳳凰文庫」の中に収められているので、鳳凰出版委員会の文が冒頭に載せられています。それがまさにスターリン主義的国家主義的民族主義的な文になっています。こういうことこそ今批判が必要だと感じていました。
日本の読者へ
 事物(Sache)へ帰れ19P・・・「帰れ」の現象学的還元とのリンク
スターリンの絶対的真理やテキストのなかにおける絶対性に対する著者の批判20P・・・レーニンには「絶対的真理」ということにとらわれていたのか、抜け出していたのか、反映論やヘーゲル弁証法へのとりこまれのなかでは、逃れ得ているとは言えないのでは?
「それは、伝統的な研究中では「見えなかった」ものとは、テキストという「物」(Ding)の中に存在するのではなく、テキストの背後の「事物」(Sache)に存在するということである。」20P
 ベルンノートの重要性21P
「テキストの構造環境方式による解読」「思想構造環境論」21P
「ポストテクストロジー的解読」22P
「マルクスの史的唯物論の現代的解釈として、私は、四つのカテゴリを用いて構造環境論モデルの解明をあらためて行った。すなわち、それは、主体が向き合う物質的存在と彼自身による「労働による造形」(formating)、主体と造形されたものとが一定の効用関係の中でシステム化される「関係構造式」(configurating)、主体が生産と社会活動の中の特定の歴史条件を通して、物的存在と社会的存在を組織化する「秩序の生産」(ordering)、人間の社会的実践・個人的営為・言語活動の中で機能的に構築および脱―構築される日常生活と社債的存在の「構造モデルの形成」(modeling)の四つである。そして、この後に、はじめて存在の上層たる現実生活と思想の構造環境(situating)が位置付けられるのである。」23P
序言
『マルクスへ帰れ』との関係――「フッサール――ハイデッガーによる現象学的意味での「事象そのものに帰れ」という論理方法を借用したものにほかならない」27P
著者の哲学ノートとの関わり28-9P
レーニン自体の転換――変化と発展のプロセス29P
「(かつて)私はレーニンの弁証法思想がそれぞれの時期にそれぞれの質を示していることを指摘したに過ぎず、その中に含まれる論理の道筋を真の意味では発掘できなかったのである。」30P・・・後に、ベルンノートにおける途中での転換をつかむ
「テキスト学的幻像」30P
「レーニンが如何に哲学的唯物論立場を把握し、続いて、困難を重ねつつ徐々にヘーゲルという巨大建築物に入って行き、しかる後ヘーゲル論理の頂点に立ち、マルクスと肩を並べ、最終的には、実践的弁証法の要諦総体の論理を獲得していったか」31P   
「私が研究方法やレーニンの哲学思想の総体的認識の上で非常に重要な新しい収穫を得たことである。」32P――その内容@レーニンの「哲学ノート」は一冊の本と言えるものではない。32-3P「(レーニンは)論壇に登場したときからマルクス主義者だった」33Pレーニンの思想の深度を「ベルンノート」だけの孤立化と偏重から見ると「非科学的な非同質性論理の強要が現れる」33PAそれぞれの特別な思考コンテキスト――レーニンの哲学思想の変化、発展、場合によっては重大な認識上の飛躍33-4P――「社会歴史の発展が「自然の歴史過程」であるという認識を突出させたのである。」34P(・・・ヘーゲル――エンゲルスの系譜からの外化の弁証法、自然弁証法の基礎に立つ史的唯物論という流れ)「この時のレーニンは真の革命的な歴史弁証法の指導を必要としていたのである。」「ヘーゲル哲学の研究過程があったからこそ、ヘーゲルの『論理学』の読解を通じて、レーニンは、マルクスの現実を変え、「存在を消滅させる」という実践的弁証法の概念を一歩進んで深く理解し、最終的にロシア十月革命を指導しそれに勝利した哲学上の理論的武器を獲得できたと、私は気づいたのである。」34P(・・・客体次元――主体次元――実践弁証法)B「ヘーゲル哲学の原初のコンテキストとの対比性分析・レーニンの読書過程における思想転換についてのミクロ的な考証。レーニン最期の思想的総括と思考などについては、かなり新しい進展が見られた。」34PCテキストの構造的環境の上に立った方法による解読35-8P 「晩期バルトのあの「テキストの解読は本質的に復元ではなく創造的な生産である」35P(・・・テキストクリティーク)――その具体的内容35-8P(その一)テキスト自体の問題性――自らの理解自体の検証(その二)テキストの四分類(@)二次的テキスト(読書ノート、抜き書き、心得)(A)生成中のテキスト(B)完成された、公開されたテキスト(C)疑似テキスト、構成されたテキスト(人為的なテキストの再構成――「読解自身に対する再解読と再読解」)――4つの分類の上で構造環境理論という方法論(その三)成果がどのようにもたらされたか――教条主義批判
「構造環境理論は人間の存在についての東洋的な私の総体的観点である。」37P
「構造環境の存在こそが同時に構築と脱構築の原因となっている」「当然歴史事実の中では、構造環境の存在は通常他者性の鏡像と偽りの構造環境(幻像)の同体共存として現れる。」37P
「レーニンの理解度はマルクスの歴史的弁証法の思想の深度には到底及ばないことを明らかにしている。」39P
注16スターリン教条主義の深層言語鏡像、18ラカンと共同主観性、19ラカン/アルチュセール/ボードリヤールとの対話、20先験的理性の枠組みによる総括論の典型
序論・・・全体の要約的な内容
「思想構造環境論」45P
 第一期1894-1907年、プレハーノフと第二インターナショナルの理論家に依拠47P
「他者性鏡像」49P
 第二期1906-13年『唯物論と経験批判論』と「ベルンノート」の断絶問題50P
 第三期1914-「『ベルンノート』の中に見られるレーニンの不断に変化する飛躍的な哲学的思考」「マルクスとエンゲルスが弁証法ついて議論する時いつもヘーゲルを話題」「プレハーノフなどの解釈の言葉の中にある他者性の鏡像を打ちこわし、一種の自主的な思想構造環境の中でさらに深くマルクス主義哲学の実践的弁証法という革命的本質を把握」「レーニンの『ベルンノート』におけるマルクスの実践的弁証法の論理に対する理解のコンテキストと、マルクスの史的唯物論と歴史弁証法の論理との間にはまだ一定の歴史的距離があったということである。」51P
 他の著作との関係52P
 同質ではない、同質性から論理を導き出すのは誤り、レーニンの著作、そのときの真実に近い思想53P
 歴史的論理の枠組み56P
 時系列に沿った編集という提起59P
記号の位置付け67P
 今も尚続くレーニンの誤読――「哲学ノート」の同質性、絶対的成熟度、西洋レーニン学、「「哲学ノート」はヘーゲルの観念論に依拠した宣言であり、『唯物論と経験批判論』に存在する唯物論的な観念の枠組みを直接解消」、二人のレーニン68P
 思想系譜学 知の考古学68P
構造環境――抑圧構造73P
マルクス――レーニンの同一視批判76P
 ケドロフ77P
 プラン構想論批判78P
「六、思考回路を替える」80-96P
イデオロギー 同一のレーニンという思い込み81P
 いくつかの問題で超えたに過ぎない83P
 環境構造論83P
 「私は単純な反映論には反対する。」84P・・・「単純」? 反映論になぜ反対するのかという、論点が出ていない
ポストテキスト学84P
テキスト構造環境理論84P
 マルクスをイデオロギーから解放し現在に活かす89P
 テキスト解釈の進展過程@記号テキスト次元の解釈A相互に関係し合う意味の場の理解B生産的なテキスト解読の思想構造環境90P
解読は復元でなく創造的生産91P
 思想家の理論形成  他者性の鏡像空間――自主的な思想構造環境――独創的な思想構造環境92P
「ベルンノート」は学習ノート97P
「ベルンノート」の歴史的段階4つ@他者性の鏡像のコンテキスト下A思想矛盾の時代B自主的思考の時代C思想的要約97-98P→精細100-9P
方法論的問題4つ98-100P@事前に他者性の読解の枠組みを作っていたことA最初の単純な基本的判断とその後の接近と理解Bマルクス主義哲学に対する理解C系統的な哲学研究の真の実践的趣旨
他者性の鏡像という認知状況の中身@マルエンの転倒説Aフェイエルバッハ、ディーツゲンの哲学的唯物論Bプレハーノフの援用から再構築された程度の高くない理論98P
 方法論のAで、「ヘーゲル弁証法の論理状況はレーニン自身の思想の中に重大な認識論的転換が起こった後はじめて真の意味で活性化され、同時に実践的唯物論による変形と転喩を経た後、マルクスの哲学のコンテキストに対する新たな認知と活性化にも到った」「レーニンのヘーゲル哲学への認識について、それぞれ異なる認知の枠組みに基づいた二つの完全に異なる思想理論空間が現れた」99P・・・レーニンと著者も押さえ切れていないもうひとつ別の空間も
「実体論の弁証法」105P・・・これは「存在論」と置き換えるところ
「人々のよく知る弁証法、認識論、論理学という「三位一体」の再確認」106P・・・「弁証法」のところは「存在論」
注11コルシュの『唯物論と経験批判論』に対する「無意識のヘーゲル主義の著作」という批判は「「ベルンノート」を読んでいない」という著者の批判120P
注132 民族精神・・・?
上篇 哲学の聖殿へ向かうレーニン
第1章 革命実践中の青年レーニンと歴史の主体・客体次元
1894年頃のレーニン「社会の運動を、人間の意志や意図に依存しないばかりか、むしろ逆に、人間の意志や意識や意図を規定する諸法則にしたがう、一つの自然史的過程として観察する」133P・・・まさにスターリン主義
マルクスの『共産党宣言』ロシア語版第2版序言「もし、ロシアの革命が西洋のプロレタリア革命に対する合図となって両者がたがいに補い合うなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義発展の出発点となることができる。」135P
「上部構造を経済的土台の外皮と見るのは明らかに不正確であろう。」137P・・・誤り
 ヘーゲル弁証法の全否定の時期140P
 プレハーノフの誤り――地理環境決定論、抽象的な観念論的弁証法143P
 プレハーノフへの哲学的批判は「ベルンノート」の大論理学の抜き書きの中から144P
「聖家族」ノートの時期の青年レーニンのマルクス・エンゲルスの思想の基本的認識@『聖家族』は過渡的なものA人民大衆の社会歴史発展における地位に心を寄せていることBフランスの唯物論=哲学的唯物論批判153-8P
 レーニンのマルクスの思想転換の押さえ@社会主義への転換A人間主義・人間的押さえB社会的生産関係C労働価値説への接近153P
 レーニンは、マルクスの過程的な人間主義的な内容を押さえていない154P
 世界観と政治思想とのリンクがない158P
 発展の法則というところでのヘーゲル評価159P・・・晩期マルクスの発展の法則への押さえ
「レーニンの現実的革命実践の論理の中の自主的な変化」159P
「聖家族」のなかの「「歴史はなにごともおこなわ」ず、人間こそが一切を想像する」という言葉のレーニンに与えた影響160P・・・革命の主体性
 レーニン「労働者の資本主義制度に対する不満を自覚的な政治闘争に転化しなければならず、かつこの転化は「われわれがもちこまねばならない」」――経済主義から政治闘争へ163P・・・外部注入論
 レーニンのロシア資本主義論への著者の「議論の余地がある」という押さえ163P
著者の「マッハ主義という反動的ブルジョア学説」164P
 哲学的なところでのレーニンの当時のプレハーノフの評価165P
当時のヘーゲル弁証法の評価「マルクス主義がうけついで、正しくすえなおした偉大なヘーゲル弁証法」165P
第2章 レーニン・プレハーノフと哲学的唯物論
「レーニンが不正確にも史的唯物論を哲学的唯物論の歴史領域への適用と見ていた」184P
 哲学的唯物論――フェイエルバッハとディーツゲン←後のレーニンの史的唯物論の中の実践的弁証法186P
 プレハーノフにとってフェイエルバッハ(非歴史性から出発)とマルクスは分離していなかった191P
 疑似テキスト、解読コメントの解読方法「知識情報の伝達は単純な発信と受信の線形の過程ではなく、同質の相互的構造化の整合過程であり、人々は、自分の理解できるものだけが見え、自分の認知論理構造と合わない情報を排除するか、あるいはそれが根本的に見えない(見ても見えない)」192P
 史的唯物論の基礎は哲学的唯物論であるというプレハーノフへの著者の批判196P
 スピノザ主義196P
 プレハーノフのマルクスの「フェイエルバッハに関するテーゼ」からの引用は実践的弁証法になっていてレーニンと合致――プレハーノフの地理的決定論と矛盾197P
 プレハーノフの「飛躍は存在せず」199P・・・メンシェビキの政治思想の象徴
付論1 物・関係・物神性 忘れ去られた思想闘争――1908年のプレハーノフとボグダーノフとの哲学論戦
 ボグダーノフはマッハの思想を批判もせずに受け入れ205P・・・マッハの思想の意義をとらえ返す必要
 ボグダーノフは物神崇拝から社会を読み解く――マッハとマルクスの結合の試み――後の西洋マルクス主義とリンク209P
 著者のボグダーノフ批判「彼は科学認識の中の新しい事物を正視したけれども、客観的物質的存在を自然観の中に存在する「物神崇拝」として否定し去ったのである。」209P
「マルクスの実践関係実体論からこっそりとマッハの関係実体論へ行こうしようとするものであった。」209P・・・?実体主義批判を著者はとらえ切れていないのではないか
 ボグダーノフの「物」210P・・・ハイデッガーの「用在」
マルクス『ワグナー教科書評注』とボクダーノフ210P
ボグダーノフ『組織形態学』と「フェイエルバッハに関するテーゼ」11条210P
 外的存在としての物211P・・・「主観的見方」が共同主観性論とリンクする可能性
 著者の、ボクダーノフはマルクスがとらえていた「社会的存在」や「社会関係的存在」をとらえそこなっていた、という押さえ211P
「ボクダーノフは、プレハーノフとレーニンはともにマルクスの物神崇拝理論、すなわち事物化関係の物神崇拝批判唯物論批判にほかならないということを認識できなかったと言いたいのである」213P・・・著者はそもそも「物象化」ということを「事物化」という言葉に言い換えているので、「物神化」と言う概念がだせなくなっています。このボグダーノフついて著者は、はっきりした評価を下していないのですが、一定妥当だとわたしは押さえています。このあたりが論点になっています。
「プレハーノフとレーニンは、政治経済学の理論の部門についてはともにボグダーノフより、ずっと精通していたが、二人とも経済学の範囲を守りそれを越えて哲学的批判の論理を提起することはなかった」213P・・・当初のレーニン、ヘーゲル論理学まで到る学習、ただし、ヘーゲル弁証法へのからめとられ
 ボグダーノフの押さえ――「マッハ主義の関係実体論とマルクスの関係実体論の同質性」214P・・・そもそも実体主義批判の必要性
 ボグダーノフ「マッハが認識過程と社会労働過程の関連について描写した部分では、彼の観点とマルクスの思想の符号は時には驚くべきところがある」219P
「プレハーノフが個々で指摘したマルクスの「経済的唯物論」なるものは実際に存在しないものである」「第2インター理論家たちの誤った解釈」216P・・・メンシェビキズムのタダモノ的決定論とも共通性
第3章 レーニンとディーツゲンの哲学的唯物論
 ディーツゲン「マルクスとフェイエルバッハの間には根本的な異質性が存在していることに彼は気がついていなかった」225P
「マルクスは伝統的な哲学的唯物論(経験論からの帰納による実在論)を社会生活に運用したことはなく、まずもって社会生活の実践の中で、史的唯物論という「歴史科学」を確立し、ここからすべての哲学的世界観に根本的な革命をはじめてもたらしたからである。」225P
 ディーツゲンの誤り「古い唯物論を社会主義と直接結び付けてしまったことである。」225P
 レーニンの党派性はディーツゲンの影響、1908年の『唯物論と経験批判論』の中に現れる党派性232P
 ディーツゲンが突き出した弁証法的唯物論「この概念は、プレハーノフ、レーニン、スターリンの認定を経て、後に、20世紀のすべてのマルクス主義哲学の実体論、認識論のキーポイントとなる名称の一つとなった。」235P・・・著者は実体主義批判がないので、存在論とするところを実体論と表している
 ディーツゲンの転換――形而上学、機械的唯物論の批判から弁証法的唯物論へ236P
 ディーツゲン「両者(観念論と形而上学的唯物論)はともに精神と物質の区別を付けすぎた」236P
第4章 レーニンの現代西洋哲学に対する初歩的理解
 虚構のレーニン像と真相を隠すことのなかで「非歴史的に歴史を作りあげる」245P
「シュリャチコフは、何人かのマルクス主義者が政治――哲学二元分立の観点を持っていることについて批判をしている。」245P
 レーニンは歴史的限界性のなかで「マッハ――レイの誤った思想の中に含まれていた関係実体論の中の合理的成分を透視も理解もできなかった」253P・・・「関係実体論」は「関係存在論」と読み解くこと 関係が存在を規定するという意味?
「いかなる時期の科学的認識も、一定の社会的実践水準の中で到達できる外部存在についての有限の認識としてしかあり得ず、それは客観的な物質的実在の直接的反映とは等しくないからである。」253P・・・「外部」と反映論の批判をしたところで、そもそも認識の構成において、「それ以上のもの」「それ以外のもの」として進む認識
「絶対的実在論(=史的唯物論)」256P・・・レーニンはこの時期「絶対的」という概念を使っていた
レーニン「レイの認識論=恥ずかしがり屋の唯物論」――レーニンの他者性の鏡像のなかでのエンゲルスの不可知論の批判256P
レイ「科学の歴史は、われわれに一つの進化の生成にある真理をしめしてくれる。真理は作り終えられることはなくつねに作られつつある。真理はおそらくけっして作り終えられことはないであろうし、つねにますます作られるであろう」――レーニンの共鳴「真理と誤謬(弁証法的唯物論の途上での)」257P・・・認識論的深化の弁証法
第5章 レーニンのフェイエルバッハ哲学についての抜書きノート
 フェイエルバッハ、物質的なものと精神的なものの統一ということにレーニンは批判的で、「統一」という概念を当時のレーニンはとらえれていなかった266P
 マルクスの主体的能動性と客観的対象とを統一する革命的感性的活動という押さえへの転換266-7P――レーニンがヘーゲル理解後に「実践ということを深く理解できるようになり。かつ、この感性的実践的活動を通じて、実践的弁証法の秘密を深く把握できるようになった。」267P
 レーニンは、人間の問題、疎外の問題――「フェイエルバッハを含む総体の人間主義的哲学に対しては、レーニンは熱心に取り組もうとしなかった。」267P・・・「人間」をくぐっていない、レーニンの冷徹さ
 フェイエルバッハは「自然界と人間」、レーニンは自然界だけ―レーニンの人間の軽視268P
 フェイエルバッハは自然は基礎、人間中心―レーニンの無理解268P
レーニンは『論理学』学習の前半まで、哲学的唯物論というところでとらえようとしていた268P
 エゴイズム――実体論(存在論)の意味での自己愛
 他者性の鏡像272P
「レーニンのこの時の他者性の参照系はエンゲルスである。」272P
 レーニンのフェイエルバッハの押さえ@「哲学的前提としての第一次性を持つ自然物質の存在」A「フェイエルバッハの客観性についての哲学的規定を確認」――「哲学的唯物論のこのような客観性についての規定、史的唯物論による反省規定を経ていない」274PB「フェイエルバッハの唯物論における認識論の問題」――「レーニンは、人間が自然の性質を認識する程度がまさに歴史的実践の水準に由来することを、いまだ認識していなかった」(・・・文化規定性)275PC「フェイエルバッハの精神現象の本質に対する唯物論的観点」272-6P
「インド人は、インドを離れれば、インド人でなくなる」277P・・・差別の問題があるからなくならない
「フェイエルバッハは物神崇拝の問題について論議しているが、レーニンはこの問題に留意していないようである。」277P
 レーニンのフェイエルバッハ批判「人間学的原理というのも自然主義というのも、唯物論の不正確な、弱い記述にすぎない」「フェイエルバッハの深層の論理は、依然として隠れた観念論的史観だからである」280P
第6章 ロシアの思想家 依然として唯物論を
「デボーリンの議論は、常に先験――経験――感覚についての問題をめぐって行われていたからである。」284P
「フェイエルバッハは確かに自然主義唯物論と人間主義を結合させたのであり、しかも、自然主義的唯物論の基礎はまさに当時の自然科学の「一般的結論」であった。」293P
「フェイエルバッハの弟子であるチェルヌィシェフスキー」293P
第7章 マルクス主義を全面的に理解し宣伝する
「レーニンが、(この1909-13年の時期)はじめて理論上から歴史弁証法の主体次元と客体次元を統一しようとし、進んでは、ロシア資本主義の社会的経済的発展(客体次元)はプロレタリア革命(主体次元)の重要な現実的基礎であることを正確に強調した・・・・・・・」302P
「レーニンがマルクス主義学説の歴史的本質をはじめて明確に打ち出したことである。」302P
「この時のレーニンは、史的唯物論はマルクスが哲学的唯物論を「人間社会の認識へとおしひろげたものである」というように、依然として誤った認識をしている・・・・・・・」303P
「カール・マルクス」は『グラナート百科事典』の原稿303P
 レーニンの当時のマルクスの押さえと限界性304-8P――@哲学的唯物論へのとらわれ――ただし、古い唯物論とマルクスの唯物論の区別はしていて、古い唯物論の批判(@)機械性(A)「発展の見地を首尾一貫して全面的に貫いていなかった」305P(B)社会的関係の総体という概念がない――「レーニンが依然として史的唯物論を弁証的唯物論の歴史領域への適用と見ていた」305PA弁証法思想の記述が出てくる、連係(連関)という概念がない――「ここでの言説の中には、後のスターリン主義的体系が含まれているということである。例えば、個々で使用されている「最も全面的な」、「最も深い」、「最大の成就」などの絶対性(※)の断言である。」エンゲルス「弁証法こそが「外部世界と人類の思惟運動についての一般的法則の学説である」「弁証法の実質は発展に関する観念にほかならない」306P(・・・まさにヘーゲル弁証法にからめとられたエンゲルス)弁証法の三概念「カール・マルクス」からの引用306PB弁証法的唯物論の独自性のとらえかえしがない、革命の主体性のとらえ返しが足りない――マルクス「物質が観念を生み出すのではなく、人間の社会歴史の進展、とりわけ人間の生活自身こそが、それぞれの歴史時期の精神的観念の基礎であると認識しているわけである。」「それは(科学技術は)歴史的な実践活動の中で変化させられた物質的存在の人間の観念への反映なのである。」307P(・・・反映論への批判が必要)マルクス「もしおよそ唯物論が意識を存在から説明するものであって、その逆でないなら、人間の社会生活に適用された唯物論は、社会的意識を社会的存在から説明することを要求していた」、「(マルクスは)社会生活の実践的変革の中に新しい唯物論の真の基礎を見て取った。だが、この生成の論理は(ディーツゲンに従ったレーニンにおいては)ひっくりかえされてしまった。」307P「マルクス主義経済学理論の論述の際、三大物神性に対するマルクスの批判はレーニンにおいて無視されている」(・・・ボクダーノフの批判、ルカーチの物象化)「実際には、ボルシェビキの革命的実践のために、主体的能動性の理論基礎をやはり探し求めていたのである。」308P
マルクスのフェイエルバッハとヘーゲルへの批判「前者が能動的な革命的実践から出発せず、世界を変える感性的活動という観点から物質的存在を理解しなかったこと、後者が能動的主体を誤って精神活動に一面化したこと」308P・・・ヘーゲルの三位一体的弁証法概念の批判が欠落している
レーニンは、マルクスの「一次転換論」の立場309P・・・「経・哲」までと「ドイデ」、「資本論草稿」の押さえ・・・少なくとも二つ、三次目は模索
レーニンのマルクス主義への論者の3種への分類@「本質上マルクスの見地に立っているマルクス主義者」A「実質上マルクス主義に敵対的なブルジョア著作家」B「マルクス主義のあれこれの原則を承認しているようによそおいながら、その実マルクス主義をブルジョア的見解とおきかえている修正主義者」、文献自体の精細な分析@マルクスの伝記Aマルクス主義哲学と史的唯物論Bマルクスの経済学説C第2インターとロシアに関する文献311P
レーニンとエンゲルス313P・・・エンゲルスの検証
レーニンのヘーゲル学習の結論「ヘーゲルの『大論理学』がわからなければ、真の意味で『資本論』を理解することができない。」313P
第8章 『マルクス・エンゲルス往復書簡集』解読ノート
レーニンの発見「『マルクス・エンゲルスの往復書簡集』の中で、弁証法について言及されるたびにヘーゲルが登場し、ヘーゲル哲学を理解できるか否かが、弁証法を理解できるか否かの外的なメルクマールになっていることである。」317P
「レーニンのこの時の思想構造環境とマルクス・エンゲルスの書簡中の構造環境は、直接「融合」させることはできず、仰視的な論理角度のものとして表現されることになる。」318P
 レーニンにとってマルクスの説明が予想を超えるものだった。その理由@ヘーゲル哲学の重視Aマルクスがヘーゲル哲学を論述に使っているBヘーゲルの『大論理学』を、「通俗的に、科学的に論述したいと語った」322P
「私は、この時のレーニンは、まだマルクスのオリジナルの思想構造環境に入っていくことはできなかったと見ている。」――その理由@抽象という概念が哲学的唯物論においては精神的活動A非歴史的哲学的唯物論の反映論にとらわれていたので、ヘーゲル――マルクスの実践的歴史的社会認識を深くは理解していなかったので、歴史的抽象というものが理解できていなかったB1859年のマルクスのエンゲルスへの手紙の中にあるこの重要な問題についての論述を読んだときにコメントしていない324P
「第4巻はレーニンのノートの第2ステップである。解読を始めてすぐ、レーニンは、常に弁証法と一体となっているヘーゲルにまた出会う。」325P
「ヘーゲル思弁哲学の「外面」としての三段方式を知ることになったのである。」「マルクスのこの言い方(「シュタインはヘーゲル的カテゴリーの外面である三段方式を積み重ねているにすぎない」)に依拠してこう区分をつけたのである――「弁証法 正しいのか?死んだ三分法(シュタインの)」と。」326P
「(マルクス)人類の言語というものは、実際には人々の交通の中で形成された各種の社会関係の結果」327P
マルクス「ドイツ語や北欧語のdas Allgemeine[一般]が意味しているものは、共同地にほかならずdas Sundre,Besondre[特殊]が意味しているものは共同地から分離した個別所有地にほかならない」327P
マルクス史的唯物論の観点「人々の言語観念は、ヘーゲルのあの絶対的論理の中から生まれたものでなく、また古い唯物論の言うような思惟は物質の反映ということでもなく、観念の本質は、人間の現実の生活に由来するという観点」327-8P
「(マルクス)言語が具体的に指すものが、経済的交通関係から生まれたものにすぎないことを体得した」328P・・・「経済」ということをなぜ付けたのか、規定性はあるにせよ「経済」だけではあるまい
ソシュール「言語が対象を指すということは、符号間の差異の体系から生まれる主張」328P
レーニン「ヘーゲルは、抽象的概念が我々の交通から生まれたことを見ていない」――しかしレーニンもまだ哲学的唯物論の鏡像から抜け出せていなかった328P
マルクスのディーツゲン批判、「ヘーゲルを読んでいない」330P
「マルクス・エンゲルスにあっては、弁証法の登場はいつもヘーゲルと関連付けられているばかりでなく、弁証法に通じることによって、意外にも、唯物論哲学者の問題点(先の部分ではフェイエルバッハとディーツゲンである)も見てとることができる・・・・・・・」330P
 レーニンはシュティルナーに関心がない332-3P・・・個我の論理に関心が希薄
 大論理学――抽象から具体に、小論理学――特有のテーマを用いて弁証法的飛躍334P
下篇 『ベルンノート』哲学の巨人の肩に立つレーニン
「理論構造環境論」341P・・・この概念で、理論が如何に歪曲されているかを読み解けるとしている
 ケドロフのプラン構想論批判342P(←77P)
 レーニンのヘーゲル学習四段階@「否定的な観念でヘーゲルに向き合った認識段階」A「それぞれ異なる論理的認知の枠組みが激しく衝突した思想的矛盾の時期」B「レーニンの哲学思想の中に重大な変化と論理的軌道転換が発生した段階」C「自身の哲学研究に対する思想的整理の時期」343P
「ある独立したテキストではなく、テキストと我々の関係なのである。我々の読解と研究が背負っている歴史的な視界が、すでにそこに浸透しているのだ。」343P
第9章 ヘーゲル哲学解読の最初の視界
「ベルンノート」の思想的背景3つ@「カール・マルクス」の項の原稿依頼A第2インターの堕落の中での批判の必要性B論戦での掘り下げの必要性347-50P
レーニンの読解の枠組みにおける他者性の鏡像の理論的視点@「ひっくり返す」――観念論的弁証法を唯物弁証法に変える(ただしこの意味をきちんとつかめていなかった、神を自然と物質に置き換えただけ)Aマルクス、エンゲルス、プレハーノフの他者性の鏡像から自らを形成していく作業354-5P
「彼は(レーニンは)、マルクスが唯物論的にヘーゲルの弁証法を転倒したのは、ヘーゲルの「絶対観念」、「神」の類いの概念的言葉を外在的に「物質」、「自然」などの同質性の主観的な言葉に置き換えたという意味ではないということを理解できなかったわけである。」358P・・・著者自身がこの意味をどこまで深化できているのか、実践的唯物論で置き換えただけ、三位一体的弁証法の枠内
「まさに工業的実践という現実の構造秩序の場こそが、我々の「周囲世界」を構築し、同時に我々の主観的認知秩序と構造も構築するというわけである。」358P
「コルシュは、レーニンの「ヘーゲル観念論哲学に対する『唯物論的転倒』は、多く見積もっても一種の術語上の変化に及ぶだけであって、いわゆる『物質』という絶対的存在によっていわゆる『精神』という存在に取って代えたものにすぎない」と述べているのだ。」359P
「論理は思惟の外在的形式だけではなく客観的法則の反映でもあるという観点に相対するものである。」370P・・・精神の外化としての反映というヘーゲル弁証法
「Schein」の訳――「映像」、「仮象」371P・・・ヘーゲル的には「外化」?
「レーニンは、ヘーゲルの哲学的論述を比較的多く肯定し始めたのである。」371P・・・認識論的には踏み外し始めた
「弁証法の角度から(ヘーゲルのように)マッハ主義の批判を深める」372P・・・?
「レーニンのこの時のコンテキストの中では、ヘーゲルの弁証法論理(観念論ではない)は、マルクスの史的唯物論やダーウィンの進化論と同一の思考回路にすでに置かれている」373-4P・・・これは結局観念論としてのヘーゲル弁証法、絶対精神や法則の自己展開としての弁証法 進化論批判の必要性
 ドゥナエフスカヤ「レーニンは「ヘーゲルに回帰した」」374P・・・著者はこれを批判しているのですが、むしろエンゲルスと同じ陥穽
 レーニンの法則の絶対化批判376P
「法則は人間の認識段階だというのは、ヘーゲル式の観念論の論理なのだ。」376P・・・意味不明、法則は実践的活動のための認識論的仮説で、むしろ著者の論理がヘーゲル的観念論
「彼は(レーニンは)「ヘーゲルは、歴史をまったく因果性のうちに入れ、そして因果性というものを、こんにちの無数の『学者たち』よりも千倍も深く豊かに理解している」と書いている。」379P・・・因果論自体を近代知の地平にあるものとして批判する必要、これこそが「絶対精神」の自己展開に陥っている
第10章  まったく新たな解読枠組みの突然の出現と理論的軌道転換
「問題は、レーニンが、ヘーゲルの論理学が、実は彼の観念実体論であるということを根本的に理解できなかったことにあるのだ。」388P・・・実体論自体の批判の必要
「また別の思想的飛躍、すなわち認識論、弁証法、論理学三者の同一性に関する観点を引き起こしたということである。」388P・・・ヘーゲル的陥穽に陥った、弁証法は存在論に置き換え、切り離す必要
「マルクスとエンゲルスがその手紙の中で語った、『資本論』第1章の総体の論理的枠組みはすべてヘーゲル弁証法の論理を運用しているという言葉を連想しているのである。」391P
「マルクス・エンゲルスの「転倒論」の中の仮性の否定」394P
ドゥナエフスカヤが気づいたレーニンの矛盾とは「人間から離れて実在する物質実体だけに関心を示す哲学的唯物論と能動的な実践的放射線とのズレであり、経済的力が決定的であることを前提とする客体次元とプロレタリアの革命的実践の創造性を強調する主体的次元との矛盾である。」395P
「私は、そこで発生した一度目の思想的飛躍は、3つのまったく新しい理論の質点によって内在的に構成されていると見ている。」@ヘーゲルの価値の認識Aヘーゲル――マルクス関係を深く理解B弁証法の角度からカント――マッハ主義への批判を深めた396P
「レーニンは、マルクス・エンゲルスによるヘーゲル観念論的弁証法の改造は、語句上の転倒ではなく、総体的論理の転倒であることを、ついに発見したのである。」396P・・・根本的欠落
「ヘーゲルにあっては、概念は普遍的なものであるが、この普遍性は空虚な抽象ではなく、ヘーゲルは、これを先に展開した「有」と「本質の統一」と見ているのである。」397P
認識上の突破の3つの「重要な意義」399-405P@カントやマッハ主義批判の問題に関する反省A「真にヘーゲルを理解することを通じてマルクスの弁証法的思惟を科学的に把握するという意味においては、「マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった!!」Bヘーゲル哲学(『大論理学』)の意義として「連関と諸移行[連関もまた移行である]の叙述」がヘーゲルの課題であり、「ヘーゲルは実際に、論理学上の処刑式および諸法則が空虚な外殻ではなくて客観的世界の反映であることを証明した。」404P・・・まさに反映論的陥穽への陥り、三項図式をとらえ返し、カント先験論の持つ意味をとらえ返すこと
第11章 実践を本質とする唯物弁証法
『ベルンノート』の前期にヘーゲル弁証法に対するレーニンの理解の着眼点@ミクロ的な建築構造A弁証法の本質と論理構造についてのヘーゲルの総体的把握411P
 レーニンの理解のポイント411-2P@「常に、いかなることをしても弁証法の客観的基礎を探し出そうとしたものであった。」――哲学的唯物論へのとらわれの中でA主観的弁証法――「ヘーゲルの観念的弁証法の肯定になる。しかし、レーニンは、当然にも、この絶対的観念としての自己意識の主観的弁証法を転倒して外部の客観的弁証法の反映と見なした。」
「客観的な対象には、いわゆる現象と本質の区別はないということを見ることになろう。この区別なるものは、主体[カント――フッサールの意味での『我々にとって』(for us)](・・・これはヘーゲルのfür es――für unsの認識の入れ子型の高次化の弁証法に通じる)に対して成立するのである。」411-2P
 ラカン、ジジェクの「やぶにらみ(ママ)」413P・・・フィヒテの「色眼鏡」
「彼は(レーニンは)、ヘーゲルは「法則という概念の絶対化、この概念は単純化、この概念の物神化と格闘」し、かつ「現代物理学のために注意せよ」と警告していたことを見てとったからである。」414P・・・レーニンは絶対性を否定しようとしつつ、否定し切れていない
「ヘーゲルは、反対に、このような客観的法則と観念主体とは相互に関連すると見ていたところである。」415P
 このときのレーニンがまだ理解できていなかったマルクスの考え(という著者の押さえ)「これらの「本質」や「法則」は、すべて我々が一定の歴史的段階の上で、実践を通じて形成した外部対象(本質と法則)の一定の反映だからである。」415P
 レーニン「現象の世界も即自的な世界も、人間による自然認識の契機であり、(認識の)段階、変化あるいは深化であるということである。」415P
「実践は、実体論としての弁証法としての基礎として登場したわけである――これは、レーニンのヘーゲル哲学理解の過程での二度目の理論的軌道転換のキーポイントになった。」416P・・・実体論批判からとらえ返しの必要
「この思想構造環境が現れた時点のキーポイントは、人間の実践と自然界の関係は、ヘーゲルの言うような精神と物質との関係ではなくて、現実に客観的に存在する過程であるということを、レーニンがすでに意識していたという点である。」417P
「人間の目的をもっている活動」418P
 主体という精神を物質に変えただけでなく、人間の実践というところに変えた――実践的唯物論418P
「ヘーゲルの史的唯物論の萌芽」419P
 ヘーゲルは絶対的理念の立場で、個人主体をたかだか有限な目的者としてか見ていず、むしろ現実に起きていることを、「理性の狡知」の結果としてしか見ていない。419P
「マルクスが確立した史的唯物論は、いわゆる弁証法的唯物論の歴史分野への拡張・運用ではなく、実践を論理化とする史的唯物論の世界観こそが、まさにマルクス・エンゲルスの世界観の「実体」にほかならないということを。しかし、同時に、レーニンはこの点も深く探求はしなかった。」420P
 コルシュ、ルカーチの「社会歴史存在実体論」への著者の批判422P
「彼らは、ある種の絶対的実在を設定しようとは絶対にしなかったのである。」422P
「実践的弁証法の根本的基礎は、史的唯物論と歴史弁証法なのである。」――レーニンは『ド・イデ』を読んでいなかったので理解できなかった422P
 デボーリン「(マルクス・エンゲルスが確立した世界観の特徴は)その主要なものは歴史に向き合うことである」423P
フラニッキ「レーニンは、実践を我々の思惟を構成するすべての連鎖の基礎と見なしている」424P
「生命は、もはや一般的な自然生命体ではなく、人間の現実的社会的存在(「具体的主観」)と理解されており、・・・・・・」426P
「ヘーゲルにあっては、「生命は精神の衝動・・・・・・」426P
 ヘーゲル「具体的でもあれば抽象的でもあり、現象でもあれば本質でもあり、瞬間でもあれば関係でもある」427P
 ヘーゲル「真理が同時にまた真理であるべきではないという真理の矛盾」428P
レーニン「認識の行程が認識を客観的真理へ導く」428P
レーニン「実践は(理論的)認識より高い、なぜなら、実践はたんに普遍性という品位をもつだけでなく、直接的な現実性という品位をもっているからである」429P
「レーニンは、カント、ヘーゲルの誤りは、物質を転倒して観念に変えたゆえに生まれたのではなく、まさに人間の実践的活動を主観的推理に変え、客観的行為の構造(実践の論理)を思弁的な先験的観念の論理に変えた結果であると、気づいたのである。」431P・・・ただし、カントの先験的観念の論理を共同主観性論として読み解く
レーニンの主体と客体との関係に含まれる3つの次元の意味@「善なる目的(主観的目的)対現実性(『外的現実性』)A「外的手段(道具)、(客観的なもの)」B「主観的なものと客観的なものとの一致」431P
「レーニンが、まさに、この実践的弁証法の革命的能動性に対する深い理解の中で、マルクスの哲学思想中最大のキーポイントとなる論理的支点を見つけ出し、これによって十月革命の現実的合理性を確認したことである。」432p
付論2 ある削除されたテキストの存在:マルクス哲学コンテキスト中の歴史概念――デボーリン「マルクス主義と歴史」の解読
 デボーリンが受けさせられたいろいろな修正
 デボーリンが「ド・イデ」を読んで、(読んでいない)レーニン以上に獲得したこと、いろいろな変遷、その中における弾圧の中での変遷
 生活実践的活動と生活という観点 さまざまな混乱
第12章 論理学、認識論、主観的弁証法の客観的実践的弁証法における統一
 著者の推断@「三者一致」(主観的弁証法、認識論、弁証法的論理学)の押さえは、レーニンが意図的につかんだことではないAマルクスが資本主義経済構造に運用したことB当初は拒絶的立場をとっていて、後になってつかんだこと475-6P・・・「主観的弁証法、認識論、弁証法的論理学」というのは、そもそも、存在論、認識論、論理学の三位一体的統一といわれてることで、この著者の押さえ方ではヘーゲル弁証法の枠内に落ちてしまいます。ヘーゲル弁証法の存在論ということは、絶対精神の自己展開と言われていることを承認してしまうことになります。唯物弁証法からきりはなすことで、そこでの認識論と論理学の弁証法として活かせることになります。
「レーニンがヘーゲル哲学の枠組みに入ろうとした時に、背後にあったあの他者性の解読の枠組みの上に、人々に軽視されてきた付帯意識という基礎的背景があったからである。」458P・・・「付帯意識」?
「すなわち、認識論と哲学の実体論構造上の方法論(弁証法)との厳格な区分線があったのである。弁証法は認識の対象であり、両者は同一のものではないというわけである。」458P・・・弁証法は廣松理論的には対象ではなく、むしろ認識論と論理学方法論で、実体構造上の方法論というのは法則の物象化、反映論からすると絶対精神へのとりこまれになっていくこと
 ポランニーの付帯意識(subsidiary awareness)「ポランニーの哲学の枠組みにおいては、認知構造の環境は、総じて主体の集中的な意識(focal awareness)と付帯意識共同によって形作られ、付帯意識は主体の認知過程で重要な背後の負荷となるのである。」458P・・・「付帯意識」と「主体の集中的意識」との関係が並列関係になっていないのか? その関係こそが問題、「付帯意識」ということを共同主観性と個の意識の関係でとらえ返すこと
 ヘーゲル「この網の目の所々にもう一つ固い結節が結ばれるのであるが、この結節こそ網(精神)の生命と意識の支柱になり・・・・・・」459P・・・ヘーゲルを脱構築して、網と網の目の関係として押さえる。対象の異化と言語の関係としても。
「この時のレーニンは、この結節点が、畢竟外部世界に存在するのか、それとも人間の実践構造に依拠するのかは知ることがなかった。」459P・・・三項図式と廣松四肢構造論の押さえから実践的活動を読み解く
「論理学、弁証法、認識論」460P・・・ヘーゲルとしても、これ自体がおかしい、弁証法は、存在論、認識論、論理学を貫いて三位一体的統一の下にある
レーニンが当初もっていた他者性の鏡像「認識論と対象性の弁証法をはっきり分けるというもの」と『大論理学』が相容れなかった460P
「思惟のカテゴリー」460P・・・言語と同じで生活実践のなかで共同主観性とともに形成されていくこと
 ヘーゲルが『大論理学』の中の本質に関する三次元の論理規定@本質の単純で即自的な仮象(Shein)A即自としての現象(Erscheinung)B現象と本質の合一、すなわち現実性(Wirklichkeit)」461P
「明らかに、レーニンの哲学的唯物論の鏡像の中では、ヘーゲルの観念論的論理構造環境はひっくり返すことはできないのである。」462P・・・そもそも反映論の枠組みでもひっくり返すことはできない
「「反照」は、観念的な自己認識」462P・・・「反照」は共同主観性的認識からの検証
 ヘーゲルは認識論と論理学をいつも結び付けている463P
「人間が直面している「法則」や「本質」は、実際には一定の歴史条件下での外部世界の運動の我々の有限な相対的反映にすぎない」レーニン「法則は、あらゆる法則は、狭くて、不完全で、近似的である。」465P・・・反映論の陥穽、現象の世界、反照された対自性
「レーニンがこの時すでにヘーゲル立場に立って思考している・・・・・・」465P・・・ヘーゲルにからめとられたレーニン(エンゲルスも)
「弁証法」465P・・・ヘーゲルの存在論的弁証法
「実際には、これは二者一致のことではなく、三者一致のことである。」465P・・・まさにヘーゲル
 ヘーゲル「自然界を論理的理念と精神を繋ぐ媒介と称している」466P・・・絶対精神のより具現としての自然
レーニン「永久にそれに接近していくことができるだけ」466P・・・枝分かれ
 レーニン「認識論は人間に対する自然の反映についての学説であり、論理学は認識についての学説」466P・・・「自然の反映」? 社会は?
3項の関係の変更@自然界A人間の認識B自然が人間の認識に反映する関係(論理)466P・・・B?
レーニンの獲得物@「論理学と認識論は一致するのだ。なぜなら、論理学は認識の構造だからである。」A実践的唯物論466-7P
基礎の自然が二次的なものになる、「自然、認識、論理」から「自然、実践、認識(論理)」に467P
「レーニンは、またヘーゲルの思考回路にしたがって、重要な認識論的カテゴリー間の関係を打ち出した。すなわち、論理的カテゴリーと人間の実践との関係である。人間の認知構造自身の構成の問題について注意し始めたのである。この少し前までは、レーニンはまだそれを自然と認識の媒介と見なし、論理を認識を構成する抽象的道具と見なしていたのであった。」467P
 3つの要点@認識の主観と客観の一致A認識自身は人間と客観との関係Bこの関係性の中では、人間の主観性はこの主観・客観の対立を消滅させる衝動468P
認識の直観性から関係性へ468P
「まず主観と客観があって、しかる後関係があるわけだが、関係の主導権はまた人間の能動性にあるのである。」469P・・・「後に関係がある」?
レーニンのテキストの状況@「「理念(人間の認識――と読め)は概念と客観性(『普遍的なもの』)との合一(一致)」A理念は対自的主観性と客観性の関係――主観性は理念と客観性の分離をなくそうとする(止揚しようとする)衝動470P
「私の環境に対する私の関係が私の意識である。」(『ド・イデ』)469P
「人間という主体から出発した実践関係」470P
 レーニン「人間の思想における自然の反映は、『死んだ』、『抽象的な』、運動を欠いた、矛盾のないものとして理解してはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程のうちにあるものとして理解しなければならない」470P
「歴史的な実践の弁証法の進展を通じてのみ、人間は、はじめて不断に客体の本質を認知でき、不断に客観的真理に近づいていくというのである。この時のレーニンから見ると、客観的真理の実質は実践的な弁証法の運動にあるということになるのだ。」470P
「理念は[人間の]認識と衝動(意欲)である・・・・・・・」471P
 実践の進展のなかで連関を把握できる471P
客観的弁証法と主観的弁証法472P
認識と実践の結合472P
第13章 脱聖化 レーニンの弁証法と認識論の「16の要素」
「主観的弁証法の構造と認識の構造(論理学)の同一性」475P
「16の要素」の中に実践的弁証法の直接的反映は見られない475P
弁証法と認識論についての「16の要素」に関する著者の三つの新しい考え@「16の要素」の連体修飾語として「弁証法と認識論の」の文言をいれるべきAレーニンのすでに獲得した唯物弁証法のレーニンの帰納、しかも主観的弁証法に関する帰納にすぎす、唯物弁証法の総体の理論体系についての意識的な構築物ではないB「16の要素」の内容の多くは、ヘーゲルの弁証法思想の概括であり、レーニンのオリジナルではない475-6P
「16の要素」は「ヘーゲル『大論理学』研究の最後の段階の「絶対的理念」を土台とした理論的要約にすぎない」476P
「レーニンも、ヘーゲルが弁証法の論理について総括しているのを借りて、自分の理解した主観的弁証法の論理について思想実験的な説明を行ったのである。」476P
 ケドロフのレーニンの「16の要素」の弁証法の専門書を書くための「第一のプラン」という誤ったとらえ方476P
1条、 事物そのものを考察する(ヘーゲル概念即自体)――その諸関係とその発露 2条、
事物そのものにある矛盾性 3条、分析と綜合との結合・・・・・・478-83P
「この「16の要素」は、一気に完成されたものではなく、それぞれ異なる思想構造環境の内在的連関を経て、また、何度もの思想実験を慎重にくり返してから、やっと完成したものである。」479P
 ヘーゲル「それぞれの物を即自かつ向自的に考察すること、つまり一方では、これをその普遍性において考察しようとしたのであり、他方においては、物から離れて、諸々の状況、比較によってこれをつかむことをせずに、ひたすら物そのものに目を向け、物の中に内在的にあるものを縊死することを要求した」
テキストから、まるで、身近で見ているかのような論断的テキストクリティーク483-495P
「二、「16の要素」の弁証法認識論の思想」の16の抜き書きとコメント483-495P
「全面的でない概括にすぎない」496P
 なぜ、実践の論理にまったく言及していないのか496P・・ヘーゲル弁証法の概括だから
「マルクスのテーゼは「実践的唯物論」であるのに対し、レーニンの「16の要素」は「物質実体論の弁証法的唯物論」だ」496P
「このまとめ(「16の要素」)が、意識的に唯物弁証法の理論体系を正面から構築するために書かれたプランではなく、自身の読書過程でもっとも印象が深かったものに対する心得、とくに弁証法(と認識論)の基本的観点に限定したもの、を展開簡単に概括したものであるがゆえに・・・・・・・」「『大論理学』を読み終わって、レーニンはヘーゲル哲学研究開始の時点で持っていた観念とはちょうど正反対のような結論を出した」「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多い。」497P
「しかし、レーニンは、最終的にエンゲルスのこの言葉が理解できたのである――『ヘーゲルの体系は逆立ちさせられた唯物論である』ということの言葉を。これよりマルクス主義的唯物弁証法は、単に言葉の上での転倒されたヘーゲルにはとどまらず、実践主体から出発して論理的に転倒された「ヘーゲルの体系」にもなったのである」497P・・・これではヘーゲル「絶対精神」へのとりこまれになってしまうー
第14章 ヘーゲル哲学研究の総括
 この章は、ヘーゲルの哲学と、『哲学ノート』を対比しながら、廣松さんの、ヘーゲル関係の論攷、弁証法関係の論攷、エンゲルス論関係の論攷を押さえながら読み解いていくこと、これは、「廣松ノート」を作るときになしていきたいと思っていますーなしえる時間があるかどうかが問題ですが・・・
「ヘーゲル哲学史を読んだ時のレーニンの思考と関心の的は、依然として弁証法であった。」502P
「ヘーゲルは、エレア学派の哲学思想は「弁証法の始原である」と見ていた。」503P
「彼は(レーニンは)ヘーゲルのこの弁証法思想についての思想の「断片」は、「観念論の神秘主義をぬきにして」以下のように言いあらわすことができると書いているのだ。」503-4P@「人間の諸概念は不動のものではなくて、永遠に運動し、相互に移行しあい、相互に流動しあっている、・・・・・・明らかにレーニンは、この時すでに、ヘーゲルの弁証法、認識論、論理学の三者合一という観念を受け入れている。」A「「特殊的には、弁証法は即自的に有る物(An sich)、本質、基体、実体と――現象、『対他有』との対立の研究である。・・・・・・人間の思惟は不断に現象から本質に、言わば第一次の本質から第二次の本質へと、その他等々と、限りなく深まっていく。・・・・・・とくに注目する価値があるのは、レーニンが、客観的事物の存在とそれが実践――認識を通じて我々の前に現れる形式とは完全には一致しないということをすでに認識していたということである。」(・・・「それ以上のあるもの」「それ以外のあるもの」)「現象から初級段階の本質へ、そして、再び止揚された二次的現象としての初級の本質から二次的本質へと向かっていく限りない道――これは、極めて深い弁証法的な認識である。」B「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」「この後、レーニンは、この概念の弁証法は、単純に自然の物質から来るものではないことをさらに深く注意するに到った。」「この現実の歴史とは、マルクスが言う実践的な社会生活にほかならない。この認識は、レーニンが少し前に獲得した実践の弁証法と同じ構造を持つものである。」
「レーニンは、それを概括して、弁証法の二つの総体的な原理、すなわち「発展の原理」と「統一の原理」としている。この二つの原理は、後の人々によって連関と発展の原理と書き換えられた。」504P
「ヘーゲルが古代ギリシャ哲学者の弁証法思想を評論した基準は、普遍的なものの先在性だったが、レーニンは、かえって、この古代の弁証法を運動と変化の観念として解読したというものである。」「ヘーゲルの目は、確かに、ピタゴラスの「数」、エレア学派の万物流転中の不変のあの「一なるもの」(大文字の「一」)などに向けられていた。ヘラクレイトスのあの非感性的な「火」さえも含まれるだろう。」505P
「客観的認識のための運動は、つねに弁証法的にしか進みえない:いっそう正確にあてるために後に退き――reculer mieux sauter (savoir?)。合したり離れたりしている線:たがいに触れあう円。Knotenpunkt(接点、結節点)=人間と人間の歴史のとの実践。(実在的なものの無限な諸側面のうちの一つの合致の基準(実践=))」507P・・・微分的な概念?
「我々は、レーニンのここでの思考の起点が、主体から出発して(「客観への認識の運動」)おり、この観点がマルクスの『フェイエルバッハに関するテーゼ』の第1条と関連していることを見て知ることができる。同時に、この運動は「弁証法的にしか進みえ」ず、哲学的唯物論者の断言のように、直接客体と一致することはないと言っているのもわかるだろう。」507P
「レーニンのこの段階での論理構造環境の中では、実践を基本的理論回路とする思想空間はすでに構築されており、実質的な物質的存在は、関係的な実践という媒介にその席を譲った、そして、Knotenpunktとして出現した実践は、新しい弁証法思想の構造環境を形作ったのである。/同じくここにおいて、我々は、レーニンが、唯物弁証法理論の構造を確定したことも見て取ることができる。それは、人間の主観的弁証法と客体的弁証法が、運動している実践の弁証法という媒介の下で、特定の基本的論理の枠組みを構成するというものである。ここにおいては、主観的弁証法は、客体的弁証法と直接には同様の構造にはならず、実践の弁証法の構造と歩みを同じくする。かつ、具体的、現実的、歴史的な人類の実践を通じて「実在的なものの無限な諸側面のうちの一つの合致」が実現されるのである。この「一つの合致」が指すものは、一定の社会的実践の歴史的次元の度合とその深さの一つであり、これにより、主観的弁証法と客体的弁証法は、はじめて歴史的な接触点(「Knotenpunkt」)を持つ「たがいに触れあう円」を生み出すわけである。」508P
「この時のレーニンの論理構造環境の中では、この単純な反映論の関係は、反対に、複式の関係システムという状況環境の形で出現すると。」509P
「レーニンから見ると、主観的弁証法は、直接客体的弁証法を写すものではなく、不断に発展する実践の弁証法(「技術、歴史」)を通じて、また、一定の歴史的条件下にある実践の機能性度の中で、人々は、はじめて、認識の「一定の契機」のもとで客体的弁証法の一定の性質を反映させることができるということになる。」509P
「レーニンは、一つの重要な思想を打ち出している。すなわち、人間の認識は、主体に向き合っている「直接的な諸現象のうちに」不断にその本質をあばきだす過程であるという思想である。」「彼は、「有」を実践を通じて歴史的に現れる直接的現象だと規定しているのである。」「人間の認識(主観的弁証法)は、もはや、単純に直接対象と一致するというようなものではなくなり、矛盾に満ちた弁証法的な運動となるわけである。レーニンは、ヘーゲルの弁証法が、まさにこの思想発展の表現、すなわち、人類のすべての思想史についての真実の論理構造と通時的な手がかりの鍛造物であることに気づいたのである。」511P
「思想史は大体において思惟諸法則と合致しなければならない」511P・・・これもヘーゲル弁証法
「レーニンは、我々が直面している世界は、哲学的唯物論の言うような直感の中の静止した対象物ではなく、実践関係の中の存在と非存在(無)の統一であり、この統一は客観的世界の弁証法的な運動の発展過程でもあることを発見した。」513P
「我々は、批判的にヘーゲルを改造しなければならないのであり、絶対に再び、この主観的な認知構造を客体構造それ自体だと直接語ってはならず、主体の中において、主観的な認知構造の真の基礎をあらためて確定しなければならない。この基礎こそが実践なのだ。」515P
「マルクスの論理の中では具体的には、反対に抽象的な無として設定されている。マルクスによれば、商品は物ではなく、見えざる(「無」)特定の社会経済関係であるゆえに、商品は実物の事物の様相上の神秘性を持っているのである。」516P
「レーニンが、ついに、ディーツゲンやプレハーノフを後追いして、マルクス主義の歴史的生成過程を「先に弁証法的唯物論を確立し、しかる後、それを社会歴史領域に適用する中で史的唯物論を作った」とはもはや言わなくなったことである。今や、レーニンは、マルクスは、フェイエルバッハを越えた後、直接「史的(弁証法的)唯物論」に向かって行ったと指摘しているのである。すなわち、史的唯物論と弁証法的唯物論は二つのものではないということである。」517P
「レーニンは、マルクスがその哲学革命を実現したキーポイントは、実践規定の確立にあると意識するに到ったのである。」518P
「三、「弁証法の問題について」弁証法のおもな収穫」518-526P@「レーニンは、弁証法と認識論に対する「16の要素」を書いた時にすでに発見した重要な問題を突出させて解明している。すなわち、対立物の統一の学説が弁証法理論の実質であり、核心であるという問題である。」519P――「レーニンは、彼らが、矛盾現象を「認識の法則(および客観的世界の法則)と解」していないと批判しているのだ。」520P(・・・弁証法を法則としてとらえるエンゲルスからの流れ)「レーニンから見ると、事物と現象という対立物の統一についての研究は、「自然(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、互いに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。・・・・・・」521PA「レーニンは観察の問題の角度に話題を転換する。すなわち、事物の発展の過程性から出発して思考しようとするのである。彼は、一歩進んで「発展は対立物の『闘争』である」と指摘する。」521P「レーニンは、歴史上常に見られる発展観には次の二つの種類があると述べている。」(@)「減少および増大としての、反復としての発展」という観点であり、かつ、この観点では、発展の源泉と原動力が「外部に――神、主観等々にうつされる」レーニンから見ると、これは、「死んだ、生気のない、ひからびた」発展観ということになる。」521P(A)「発展は対立物の統一である」。という観点である。この発展観の「おもな注意はまさに『自己』運動の源泉の認識に向けられる」。事実上、この事物の運動の源泉と発展の原動力としてのいわゆる「自己」運動とは、事物内部に存在する矛盾にほかならない。同じく「対立物の統一(合致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、総体的である。互いに排除し合う対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である」とも、レーニンは述べている。そして、こうした基礎の上に立ってこそ、はじめて、「すべての存在する物の『自己運動』を理解する鍵をあたえる:それだけが、『飛躍』、『漸次性の中断』、『対立物への転化』、古いものの消滅と新しいものの出現、理解する鍵をあたえる。」521-2P「人間の認識、とくに本質性と法則性に対する認識は、往々にして、対象内部の複雑な矛盾関係に対する暴露の形になるという次元である。」522PB「これも、マルクスの『資本論』の例としてではあるが、レーニンは、また「弁証法一般(というのは、マルクスでのブルジョア社会の弁証法は、弁証法の特殊な場合にすぎないからである)の叙述(あるいは研究)の方法も、またこのようなものでなければならない。もっとも単純なもの、もっとも普遍的なもの、もっとも大量的なもの、等々からはじめること」522-3P――「偶然性と現象性を放棄して、必然的で本質的なものに向かうのである。これこそが弁証法的認識論にほかならないと。」523PC「レーニンは、この弁証法と同一の認識論が、思想史上必然的に「一系列の円」をなすことを発見した。」523P「(レーニン)人間の認識は直線ではなく(あるいは直接をえがいてすすむものではなく)、一系列の円へ、螺旋へ無限に近づいていく曲線である。この曲線のどの断片、破片、一片も、独立の、まったくの直線に転化する(一面的に転化する)ことができる、・・・・・・」524P「「学[論理学、哲学]は自分の中に回帰する円環の姿を呈する。即ちそこでは媒介は終末を、この円環は多くの円環の中の一つの円環である」と。レーニンは、このヘーゲルの言葉を全文書き抜きし、その横に「科学は多くの環からなる一つの環なのである」とコメントしている。」524P「レーニンは、また、観念論は、根拠のないものではなく、それは「あだ花であるが、しかしそれは、生きいきとした、実をむすぶ、真の、強力な、全能な、客観的な、絶対的な人間認識の、生きた木についたあだ花なのである」とも指摘している。これが、レーニンのヘーゲル哲学に対する最終的評価なのである。」524P
「この弁証法についての短文では、「16の要素」のときの議論と同様に、研究中に発見した実践的弁証法についてやはり言及しなかったのかという問題である。」524-5P
付録1 否定の否定学説に内在する論理構造
 著者の修士論文の第一部分。著者自身の論文。
 そもそも、弁証法の存在論的法則的とらえ返しになっているので、そこから批判していく必要があるので、抜き書きしようがありません。改めて批判していくことにして、ここではとりあえず、節と項を記しておきます。
一、 肯定状態中のすべての真実の規定
1.事物の直接的肯定 質
2.肯定の本質的規定 矛盾と否定性
3.事物の系統的な肯定 連関
4.事物が否定へと向かう過度 自身の運動の漸進的な過程と質の変化
二、事物の否定が発生する客観的な過程
1. 否定の直接的な規定 旧事物の破壊
2. 否定の間接的な規定 連関の契機の止揚
3. 否定の創造的な規定 否定は新しい肯定である
4. 否定自身の解消 否定の否定への移行
三、否定の否定(発展)の内在的本質およびその具体的特性の
1. 事物の発展過程の一般的規定
2. 否定の否定の内在的構造 対立物の統一の規定の歴時的展開
3. 発展過程の特徴 否定の否定の具体的規定
 先に書いたように、弁証法を法則としてとらえるヘーゲル弁証法の枠内にあるのですが、最期にそれ自体を否定するような論攷が出て来ます。そこだけ切り抜いておきます。
「総じて言えば、唯物弁証法の否定の否定の学説は、我々に次のことを求めている――いかなるものであろうと、抽象的で生命のない「三段階方式」を用いて、真実の実物の運動過程を覆ってはならない。事物の発展をある特徴の表れとしてしか見なしてはならない。単線的な考察、一つの矛盾の手がかりだけで否定の否定を把握してはならない。そうでなく、具体的な系統の発展という観点から事物を考察し、否定の否定の内在的本質から出発して、発展の各項の規定を理解し各停しなければならないと。そうすることによってこそ、我々は、はじめて、否定の否定の系統的なすべての論理規定を真に獲得できるのである。」557P
付録2 『ベルンノート』の意義――『レーニン文稿』第9巻序言 デボーリン
 ヘーゲル弁証法の三位一体性をレーニンも引き継いでいる
付録3 ネフスキー「弁証法的唯物論と硬直化した反動派の哲学」に関するレーニンとブハーリンのメモのやりとり
後書き
「それは、独立した創造的批判精神によって取って代わらなければならない。」589P
「訳者」の言葉
「著者が、これら(複数形であるべきだ)の『ノート』のテキスト解読に関して、ポストモダン流の手法に学んでいるという点である。」591P・・・反本質主義がない、物象化批判もない

                 
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2020年04月17日

レーニン『哲学ノート 上・下』

たわしの読書メモ・・ブログ530
・レーニン『哲学ノート 上・下』岩波書店(岩波文庫)1975
 これはまさにノートというより、メモのようなこと、ちゃんとした本にはなっていないこと、でもこれを、レーニンがとりあげている原典にあたりながら丁寧に読み解いていくと、吸収できることが多いのですが、とてもそこまでやれません。簡単なメモに留めます。
 さて、簡単な見取り図のようなことを示してみます。
<上>
これは、一冊まるごと「ヘーゲル『論理学』にかんするノート」です。
ヘーゲル『論理学』は、『大論理学』として出されているもの、そして、『エンチクロペディー』のなかの「論理学」、「自然哲学」「精神哲学」とセットになった「論理学」――『小論理学』と言われているものがあります。レーニンは、この『大論理学』に書かれているものを『小論理学』で検証しつつ、ノートを作っています。さて、レーニンはヘーゲルからヘーゲル弁証法を学びつつ、その客観主義的観念論をマルクス――エンゲルスにならって、逆立ちしているとして客観主義的、弁証法的唯物論を突き出します。その過程で、主観主義的観念論と批判しているカントの流れの不可知論者の批判もしています。さて、問題なのは逆立ちしているというとらえ返しだけではすまないということです。ヘーゲル弁証法は、存在論と認識論と論理学の三位一体的な弁証法なのです。ここで、存在論というのは、絶対精神の自己展開、疎外とか外化とか言われていることで、その批判をせねばなりません。このあたりは、近代哲学の陥ったアポリア(論難)の三項図式をどうとらえ、どう止揚していくのかが問われているのです。そのあたりのことが押さえられないところで、また後期エンゲルスは、マルクス理論のわかりやすい解説を試みるなかで、弁証法を図式化していくなかで弁証法を法則としてとらえ、反映論に陥りました。ヘーゲルの三位一体的弁証法への陥穽です。そしてまさに革命のひと、レーニンはそのエンゲルスの継承のなかで法則の絶対的真理を突き出しました。これでは、絶対精神へのとりこまれで、唯物論ではなく観念論に陥るのです。だから、その後の「マルクス―レーニン主義」の流れの運動は、ひとの名を冠したカリスマ性にひきづられる○○主義が陥る教条主義にとらわれ、まさに宗派的な活動に落ち込んでいったのです。このあたりが「共産主義的運動」の総括の核心のひとつとしてあることです。これについては、「社会変革への途」の主題になること、そちらでまた書きます。レーニンのこの<上>だけでなく、<下>をも貫いて、唯物論と弁証法についての論攷を進めています。哲学で体系的な論述を進めたのは、アリストテレスにはじまり、カント、ヘーゲルと続いています。マルクスにもそのような指向はあったようなのですが、結局経済学に軸を移し、まとまった論攷をのこしていません。わたしが認識論的に導かれた廣松渉さんが、『存在と意味』でそのような試みをしていましたが、三巻中二巻まで発刊したところで、亡くなっています。今後、そのような試みがでてくるのでしょうか?
さて、切り抜きメモですが、メモの切り抜きメモはあまり意味がないので、さらっと、次の張さんの『レーニンへ帰れ』の学習に役立てる、検索用のメモに留めます。
絶対精神の自己展開としての、存在論と認識論と論理学の三位一体性としてのヘーゲル弁証法21P
ヘーゲル「網」「結び目」21P――レーニン「網」「網の目」22P・・・廣松さんの「網」と「網の目」はここから?
論理展開と現実展開(存在論的展開)の同一性24P
「運動の弁証法」「否定」の弁証法28P
レーニン「(一)天―自然―精神。天をすてよ、そうしたら唯物論になる。」35P・・・絶対精神とその自己展開、そして絶対的なるもの(絶対的真理)をすてないと唯物論にはならない。
レーニン「ヘーゲルは逆立ちした唯物論(エンゲルスによると)であるから。すなわち、わたしは神とか、絶対者とか、純粋理念とかを大部分なげすてる。」37P・・・ただし、絶対的真理はなげすてなかった。
「哲学を「自我」から始めることはできない。「客観的運動(七一ページ)」がないから」38P・・・客観的運動は絶対精神に至るのでは?
 レーニン「物質的な過程の全面性およびこの過程の統一性を反映すると、それは弁証法であり、世界の不断の発展の正しい反映である。」49P・・・絶対精神の自己展開としてのヘーゲル弁証法の反映論
 レーニン「石でさえ進化する」50P・・・?意味不明
 矛盾の動態96P
 レーニン「本質的区別―対立」「生動態」97
 レーニンの注釈「同義反復の意味」101P
「法則とは現象における恒久的なもの(永続するもの)である。」111P・・・法則は、共同主観的に妥当するとされた真理に基づく仮説に過ぎないこと
レーニン「あらゆる法則は、せまくて、不完全で、近似的なものなのである。」112P・・・前ページの引用と矛盾
 ヘーゲル「かくして法則とは本質的な関係である」115P・・・構築主義的立場からする反本質主義との対話
レーニン「フェイエルバッハはこれに「結びついている」。神を去れ、すれば自然が残る。」119P・・・神は自然の物神化。自然の物象化は残る。
レーニン「ひっくりかえすこと――概念は、物質の最高の産物である頭脳の最高の産物である。」135P・・・医学モデル。脳一元論――脳の中にある小さな自己論。概念は共同主観的なところから生まれていくことを押さえていない。
レーニン「ヘーゲルはカントの観念論を、主観的観念論から客観的および絶対的観念論へ高めている」137P・・・絶対的観念論へは「高める」のではなく、「おとしめる」こと。マッハは相対的観念論と唯物論のとの間のゆらぎでは?
ヘーゲル「悟性」138P・・・悟性とは、実体化された「自我」のなかに内自有化された「(自己)意識」
レーニン「「概念」はまだ最高の概念ではない。より高いものは理念=概念と実在との統一である。」139P・・・理念とは共同主観的に妥当し反照された意識。「概念と実在との統一」は、実体主義と絶対化を生み出す。
ヘーゲルのカント批判142P・・・先験的演繹論を共同主観性論からとらえなおす
ヘーゲルの「純粋な真理」146P・・・絶対精神の自己展開――疎外・外化の弁証法
レーニン「マルクスは、ヘーゲルの弁証法を,その合理的な形で経済学に適用した。」153P・・・「法則」の適用なのか、論理学的高次化なのか
レーニン「概念の弁証法」196P・・・対話による高次化
レーニン「ヘーゲルにおいては、実践が鎖の一環として、しかも客観的(ヘーゲルでは「絶対的真理」)への移行として、認識過程の分析にうちに位置をしめているということである。」203P・・・ここでは、「客観的」と「絶対的」を分けている。
レーニン、弁証法の諸要素――概略3つ217P
レーニン、弁証法の諸要素――精細16個218-9P
レーニン「エンゲルスがヘーゲルの体系は逆立ちさせられた唯物論であると言ったのは正しい。」237P――注一〇九「『フェイルバッハ論』の第二章で・・・」285P
レーニン「ヘーゲルのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多いということである。これは「矛盾している」が、事実である!」238P
<下>
もくじを挙げておきます。
「ヘーゲル『歴史哲学講義』にかんするノート」
「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」
「ヘーゲル弁証法(論理学)の見取図」
「ラッサール『エフェソスの暗い人ヘラクレイトスの哲学』にかんするノート」
「アリストテレス『形而上学』にかんするノート」
「フェイエルバッハ『ライプニッツ哲学の叙述、展開、および批判』にかんするノート」
「弁証法の問題によせて」
「フェイエルバッハ『宗教の本質についての抗議』にかんするノート」
「マルクス、エンゲルス『神聖家族』にかんするノート」
ちょっとだけコメントを、「ヘーゲル『哲学史講義』にかんするノート」は、ギリシャ哲学にかんするヘーゲルの論攷とそれに対するレーニンのメモです。エピクロスの弁証法や詭弁学派のむしろ弁証術とでも言えるようなこと、むしろ対話という意味での弁証法から、ヘーゲルの弁証法にいたる過程をなぞることができるかもしれません。ギリシャ哲学には、その後の哲学的展開の縮図があるとされています。ギリシャ哲学に関しては、わたしは、シュヴェーグラー『西洋哲学史(上)(下)』岩波文庫で読みました。ヘーゲルと対比させたいという思いが湧いてきますが、とても無理です。縮図といえば、青年ヘーゲル派の内部論争が、まさに哲学の縮図にもなっていると言われています。ここで、フェイエルバッハにかんする2つのノートと、『神聖家族』でマルクス――エンゲルスのバウアー兄弟とその流れのひとたちへの批判をとりあげています。わたしもヘーゲルまではなぞって、その後青年ヘーゲル派の本と内部論争は、本だけ買って読めずしまいで、廣松渉さんの膨大な論攷をわたしなりに押さえただけに留まっています。とても、原典の訳書までは読めないにしても、これも「廣松ノート」を作るなかで再学習したいと思っています。
 ここ<下>でも<上>と同じようにメモを。
 理性の狡知26P
ヘーゲル「ここに(エレア学派)に弁証法の始め、・・・・・・」38P
レーニン「弁証法とは、一般的には、「概念における思考の純粋な運動」である」「特殊的には(ヘーゲル独特には)、弁証法とは、物自身、本質、実体と現象、「向他有」との対立の研究である」「本質は現象する。現象は本質的である。」39P「本来の意味においては、弁証法とは、対象本質そのものにおける矛盾の研究である。」40P・・・論理学、認識論というところでの弁証法から、存在論までに拡大したヘーゲルの弁証法。
 2つの弁証法41-2P
「概念の弁証法および認識の弁証法」43P
ゼノンの弁証法45P・・・弁証術、エンゲルスのりんごの例え、ただ「ひとはそれを知らずに行う」の類い
 レーニンのヘーゲルを通したマッハ批判63P・・・ただ批判がずれている
 キュレネ学派とマッハの近さ82P
レーニン「「外部に」なら、唯物論。「内部に」=観念論。ヘーゲルはアリストテレスの「外部に」という言葉を黙殺し、「受動性」という言葉によってこの外部にという言葉を別の意味に書き換えたのだ。つまり、受動性とはまさに外部にという意味だとするのである!!
ヘーゲルは、感覚の観念論を思考の観念論におきかえているが、観念論に変りはない。」98P
・・・外部――内部という設定の問題、間主観性――共同主観性の問題。
 ヘーゲル「感覚が外部にあるかわたしのうちにあるかは、どうでもいいことで、それは存在するのである……」―レーニン「唯物論からの言いのがれだ」98P・・・外部−内部の設定自体の問題、感覚の文化による規定性の問題も、レーニンのおかしさ
 レーニン「弁証法的唯物論だけが「始め」を続き(ママ・・・文がつながっていない)および終りと結びつけたのである。」106P・・・ヘーゲルのエピクロスとアリストテレス、およびレーニンのヘーゲル批判
「トロポイ−論式」120P
「ライプニッツがスピノザとちがう点は、ライプニッツにおいては、実体の概念に力の概念が加わること、・・・・・・」176P
 フェイエルバッハ204-32P・・・自然――神、物神化
 フェイエルバッハ「自然を神から導きだすのは、原型を模写、模像から導きだし、事物をその事物の思想から導きだそうとするに等しい。」「人間には「物をさかさまに見ること」抽象的なものを独立のものとするのがつきものである――例えば時間と空間。」「諸事物が空間と時間を前提とするのでなく、空間と時間が諸事物を前提とするのである。」214P
フェイエルバッハ「自分の本質を非我の自我と自我のない非我に分裂させ、前者を神と呼び、後者を自然と呼ぶ。」227P・・・他我――共同主観性がない、物神化の問題も
 唯物論者の歴史261-6P


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NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」

たわしの映像鑑賞メモ039
・NHKスペシャル「“パンデミック”との闘い――感染拡大は封じ込められるか――」20.3.22
SNSで話題になっていた番組です。どうして検査態勢が進まないのか、進めようとしないのか、分からなかったのですが、この番組は国営放送NHKの特権と言えるようなことで対策本部を取材してできた番組で、やっと輪郭がつかめました。
この番組のキーパーソンは、専門家会議のメンバーでクラスター対策班で陣頭指揮をとっている東北大学大学院の押谷仁さん、WHOでサーズ対策に携わったひととのことです。そのひとがインタビューに答えていろいろ語っていました。
要するにクラスター対策を未だにやっているのです。そもそも、注目されたクルーズ船の入港から、水際作戦ということをやっていて、それがクラスター対策として引き継がれているのです。これはクルーズ船の乗員を感染症の対象者にしないで、乗客の世話をさせたとか、症状がでていないひとを別なところにとりあえず隔離するということをしないで、感染者を増やしてしまったという失敗がありました。その後アメリカは、これを教訓化して、クルーズ船を寄港させるときには下船させ隔離する対策をとりました。日本でも、帰国者のチャーター便の対策はうまく行ったようです。ですが、そもそも中国の武漢からの直行便も含めた観光客が日本に来ていて、すでに感染は広がっていたのです。さて、どういうわけか、日本では欧米のような爆発的重症者や死者の広がりがでていませんでした。なぜ、日本は死者数がそんなに少ないのか、握手とかキスとかハグとか濃厚接触の文化がないとか、マスク文化とか、BCG接種の効果とかいろいろ語られています。
イギリスなどの検査をきちんとしない国も、すぐに切り替え、世界のほとんどの国が検査をちゃんとする方向に方針を変えました。もし、日本で、このまま爆発的感染がおきなければ、それは幸いなことですが、そもそも押谷さん自身がギリギリのところだとか語っています。これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろうとかいうようなことを話しているのですが、世界は日本方式は崩壊するだろうとみています。これは一種のギャンブルのようなことです。政治的なところでギャンブルなんかされたらたまったものではありません。誰が責任をとるのでしょうか?
さて、クラスター対策をしても、検査は検査で別に進めればそれでいいのですが、なぜ、しないのかも分かりません。オリンピック中止(延期)をさけるとか経済的落ち込みをさけるために感染者数を増やさないということがあったのだと思いますが、どうも未だにそれは続いているようなのです。東京都の広報紙では記載が変わっているのですが、どうも未だに、保健所窓口ということが続いていて、「4日―2日」のしばりが亡霊のように生きているようなのです。
検査を増やさない論理として出ていること、ひとつ例を挙げます。
朝日新聞20.3.25「正しく知るPCR検査」で、聖路加国際病院QIセンター感染管理マネージャー・看護師坂本史衣さんがインタビューに答えた発言、「ただ、早く見つけても重症化を防げるわけではなく、早く病院へ行くメリットはないのです。」――意味不明で、まさに運命論者のような話なのですが、これは医療の論理ではありません。医療現場では、なんとか救う試みをしているはずです。重症化しないために、早期治療の必要性を訴えているはずなのです。検査を受けないまま亡くなっている現実をどうするのでしょうか?
どうしてこんなおかしな話になっているのかと考えると、わたしは医療の論理のなかに感染症対策の論理が組み込まれないで、「感染症対策」がひとり歩きしているのではないかと思えるのです。この「感染症対策」いかに感染者数と死亡者を抑えるのかという数の論理です。これには、感染研への現場の医療サイドから批判が起きています。医療の論理は、目の前にいる患者さんをどう救うのかという一分の一の論理です。もちろん、医療崩壊がおきると一分の一の死者も増えるから、それを防がなければなりません。しかし、死者の数をふやさないために、検査をしないで亡くなる数がある程度でるのは仕方がない、というのは医療の論理ではなくて、全体主義の発想なのです。そもそも出口をどうするのかというところで解決していくことだという話として現場の医療関係者から提起があり、現実にやっと動き始めています。どうみても、一ヶ月遅れなのだとしか思えません。感染研も、ちゃんと医療の論理のなかで感染症対策を立て直す必要があるのだと思います。
そもそも情報が錯綜しています。たとえば、「マスクが足りない」という話がでると、「マスクは予防効果はない」とかいう話が出たりします。多分に、政権擁護の専門家サイドの忖度のようなニュアンスさえ出ています。これは、「市販のマスクは移されるのを防ぐ効果ということでは万全ではないけれど、ある程度の効果はあるし、移すということを防ぐ効果はそれなりにある」と言い換えることです。「若年層は重症化しない」というような言い方が出ていました。これは日本でも北海道で20代のひとの重篤化の事例がでているのに、重症化しないという話は誤情報ではないかとわたしは思っていました。きちんと、「確率的には重症化することは少ないことはあるけれど、「若いひとが重症化しない」というのは誤りである」というメッセージに変えることです。また、3密のはなしも、3つの条件がそろわないと大丈夫というような話をするひとがいて、しかも、自粛解除のニュアンスの発言を首相がして、3月の三連休のときに、原宿・渋谷の繁華街が若者が繰り出しました。「3密は3つの条件がそったところが一番危ないということで、1つだけでもうつる可能性がないわけでない」というきちんとした発信に変えることです。とにかく情報の整理と、それからテレビに出て発言するひとはきちんとした発信をすることが必要ですし、誤ったことを言ってしまったときはすぐに訂正なり、翌日自分が出演しないでも、訂正のコメントを寄せることですし、あいまいな誤解される発言をしたときも同じだと思います。そもそも、安倍首相自身が「意味不明の決断」で、誤ったメッセージを出し続けているのですが、きちんとした情報の整理と発信が必要だと考えています。
さて話を番組に戻します。この番組のなかで感染のしくみのはなしがためになりました。飛沫感染、マイクロ飛沫感染(前にエアゾル感染と言っていたこと)、接触感染(飛沫のあとでのそれを接触することによる感染)というようなこと、何に気をつけどう予防していくのかに参考になる話でした。 
 もうひとつ有益な話は、台湾の取り組みの話です。
台湾では、中央感染症指揮センターの指揮官陳時中さんが、首相級の権限をもって陣頭指揮にあたり、毎日会見を開き、2時間くらい、質問には全部答えているとのこと。NHKのインタビューに応えて、情報公開と信頼関係が大切だという話になっていました。
学校は、一人出たら学級閉鎖、二人でたら学校休校という明確な方針を立てて、校門のところで非接触式の体温計で熱を測り、教室でもう一回測る、発熱していたら、別の教室に移し、親に電話して旅行の有無とかを尋ねている様子がながされていました。確かに今回のウィルスでは発症していなくても移す可能性はあるのですが、子どもたちから教育を奪うという弊害と感染のリスクのバランスをとっているようです。オンライン学習とかの試みもなされているようです。また、カードを使ってマスク管理をしていて、一週間に大人三枚子ども五枚配り、アプリなどを使ってコンビニでも受けとれるようにしているとかで、トイレットペーパーの買い占めの防止も、それでやっているようです。
世界はIT時代に入ってきているのだと実感させられました。アベノミクスとか大企業の内部留保を保障して、民衆の生活暮らしを大切にするという観点が欠落している間に、アナログ大国になってしまったようです。
さてカードを使って管理というと、日本でのマイナンバー制度を想起させられます。マイナンバー制度は日本では広がりません。なぜかというと、そもそも金持ち優遇で、タックスヘブンとかの抜け道を塞がないし、累進課税も少なくし法人税も減税し、金持ち大企業優遇を進めているから税に関する民衆の同意も得られないのです。そして、共謀罪とか特定秘密保護法とか国家主義的管理を進めているからです。最期のセフティネットさえ、アクセスを拒むことが続いています。その上に、政府に対して批判的なマスコミへの圧力も続けています。おまけに、コロナウィルスの問題がおきたときは、情報隠蔽・文書改ざん-破棄、歪曲の問題で追及の真っ最中でした。台湾の責任者の情報公開と信頼関係が大切だということの真逆のことを政権がやっていたのです。今、コロナウィルスの問題で大変だから、政府批判を控えようとかいうことを与党側のひとが言っていますが、簡単な解決策があります。「責任をとって首相も議員も辞める」と言っていたことを実行すればいいのです。危機管理は信頼関係がないとなりたちません。それとも、クーデター的に戒厳令でもひいて、戦車でも繰り出すのでしょうか? そういえば、昔、安倍首相は戦車帽をかぶって嬉しそうに写真をとらせていました。そんなことを想起してしまいました。
今の政権の後手後手の対応や、右往左往をみていると、不安感しか湧いてこないのです。
今、安倍首相ができる最大のことは、首相を辞めて、新しいもう少し信頼を得るひとに首相になってもらって、合意形成のできる、コロナウィルスのちゃんとした感染症対策を進めることだと思っています。
(追記)ここまではだいぶ前に書いた文、この文を編集しているときに、インターネットで、押谷さんをインタビューした映像が流れていました。どうも、「これが巧くいったら、日本方式として世界から注目を受けるだろう」という話は、失敗に終わったと当人も自覚しているようです。それを、まだ検査の不完全さの批判にすり替えていました。その話は、もう不完全でもそれを押さえてやっていくしかないということで、いろんなひとが語っていて、世界ではその方式で進んできているのです。きちんと反省して、方針転換していくことなのに、非を認めないで、まだ、クラスター対策を軸にするということから転換ができていないので、検査がなかなか進まないのです。何が肝要なのか押さええず、名誉心のようなことで動き、責任――反省という概念のなさがなにをもたらすかということを押さえようとしないことが、安倍政権に関わるひとの特徴になっているのでしょうか?

posted by たわし at 04:55| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月03日

廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』

たわしの読書メモ・・ブログ529
・廣松渉『廣松渉著作集3 「科学哲学」』岩波書店 1997
 レーニンの「唯物論と経験批判論」のマッハ批判を読んでいて、マッハ理解をするためにマッハに関する廣松さんの文があるので、表題の著作集の中のマッハに関する論攷を中心に再読しました。丁度、後半部分417-592Pにあたります。途中でやはり、この巻の最初から読んでいくこと、さらにマッハの本そのものの読書、さらには物理学の学習の必要も感じていました。ですが、とてもそこまでは掘り下げられません。わたしの人生の最後の方で、「廣松ノート」を作るつもりです。その中で、この3巻の最初から読み直し、ノートを残したいと思っています。わたしは、この著作集が出たとき、予約販売で、確か月一ペースで発刊されて、その中の未読の文、解説だけを読んでいきました。その他のところは、単行本ででたときにほとんど読んでいました。
 今回再読した論攷を挙げておきます。
V.「相対性理論の哲学」の中の「第二章 マッハの哲学と相対性理論」
 これは、「第一章 相対性理論の哲学的次元」を先に再読することでした。明らかに失敗です。ですが、そもそも物理学の基礎知識のようなこともないと、読み飛ばしになります。以前単行本で読んだときも、そのようなところで読んだのです。認識論的なところにつなげる、ところで物理的なところの表面をなぞる、結局、そこに行き着くのですが。
W. 「マッハの哲学――紹介と解説に代えて」「マッハの幻想主義と意味形象」「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」
解説 野家啓一
解題 小林昌人
 さて、そもそもマッハに踏み入ったのは、マッハの何が問題になっているのかということです。それは、ひとつ前の読書メモで先取り的に少し書いたのですが、わたしが影響を受けた廣松さんがマッハからの影響を受けて、物理学を専攻しようとしていたことがあります。そして、廣松さんの論攷にマッハの影響もとらえられます。そのあたりを少し押さえてみます。
 マッハの人物辞典的解説は526Pに書かれています。全面的に書き写したい心境に駆られますが、禁欲しておきます。
マッハの研究は多肢にわたります。わたしが留意したのは、ゲシュタルト心理学の先駆をなした538Pということや、諸要素の函数連関536Pということなど、それでも主なフィールドは物理学と言えるようです。マッハは、ニュートン力学の絶対空間、絶対時間という概念を、観測者の問題から批判していき、相対性理論を生み出したアインシュタインが、真空の中での光速が一定であるいう実験がマッハの若いときに出ていたら、マッハが相対性理論を生み出しただろうということを書いています。
わたしはマッハの認識論を問題にしているので、そこにしぼります。
近代哲学は、中世の神というところからの演繹から、デカルトの精神と物質、精神と肉体の二元論に陥り、そこから、意識作用――意識内容――意識対象という三項図式ということが生まれ、いかにして認識は可能なのかという問題が生じてきました。そういう中で、不可知論が生まれてきます。それは一つは、カントの物自体論です。もうひとつは、ヒュームの懐疑論です。そういう中で不可知論を退け、マッハは要素一元論ということを突き出します。マッハが想定していたのは、主客未分な、生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界です。529Pそれは、結局、三項図式でのアポリア(論難)は解決しえていません。それは、結局、マッハの図式で言えば「要素ABC……を他人ともそのまま共有化しうる与件とみなすことにおいて、マッハとしては、実は単なる感性的要素としてではなく、共同主観的に同一なものとして先行的了解される意味形象として措定してしまっているということである。」545P、これは、結局「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)512P・532Pということが、意識対象としたことにはおよばない図式になっています。「マッハは、認識主観の本質的な同型制を暗黙の前提にしてしまっている。」549Pという他我問題が解決できていないこととならんで、この「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)ということを、廣松さんは、「それ以上のもの」――「それ以外のもの」として、マッハが押さえ損なっている他我問題も押さえたところで、四肢構造論として突き出しています。
 三項図式の論難を解決しようとしてしたひとつの流れ、フッサールの現象学は、本質直感として解決しようとしていたのですが、結局失敗しています。547-8P「フッサールが特殊な直感の対象として考えたところの契機、広義の「意味的諸契機」は、物象化的錯視であることを指摘しなければならない。」548Pと廣松さんは指摘しています。
 マッハの認識論に関する廣松さんの要約的なところ「近代哲学のかの二元論的構図と主客図式とを内在的に批判する構えに一応はなっているけれども、感性的「要素」の超個人的・超歴史的な実体化、認識主体のアプリオリな同型化、この両極の中項としてαβγ……すなわち意識内容としての表象を立てる構図になっており、本質的には近代哲学の地平を超出しえていない。けだし、マッハの哲学が、近代哲学に対する即時的な自己批判の構えになっている限りでは真摯な再評価と再検討に値するとはいえ、所詮は抜本的止揚の一与件たるにすぎないと評さるべき所以である・・・・・・」549P
マッハが廣松さんとリンクしているところでわたしが留意しているのは、「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)と函数的連関という関係主義的とらえ返しではないかと押さえています。
この著作集では、『事的世界観の前哨』を分割して内容的に各巻に割り振っています。この3巻に「U.物的世界観の問題論的構成」(今回再読せず)と「マッハの幻想主義と意味形象」が掲載されています。この本は廣松さんの道行き的に大切な道程で、編集者の廣松シェーレのひとたちの分割したことの意図がちょっとつかめないでいます。
マッハへの廣松さんへの思いのようなこと「マッハとわたし」「哲学の功徳――マッハ外伝」「マッハ主義」に書かれています。ここでは、レーニンの「唯物論と経験批判論」をとらえ返すという学習からマッハに関する論攷を再読したところ、コメントを省きますが、ただひとつだけ気になったところ、廣松さんがマッハを読んで「もはや狂(ママ)信的な「マルクス・レーニン主義者ではありえなくなっていた。」552Pと書いているところ、結局廣松さんは、哲学的なところでレーニンの批判はしても、その批判は根底的な、運動論的な「マルクス―レーニン主義」批判までおよんでいないように思われるのです。もうひとつ、廣松さんは、マッハにかなりのめり込んでいて、マッハ主義者というような規定も受けていたようなのですが、自分は決してマッハ主義者ではないと書いていること、むしろ現象学の方に近いというようなことを書いています。ただ、廣松さんを「現象学」の枠内でとらえようという論攷も見たのですが、フッサール批判の論攷を見ていると、これも違うのではないかと押さええるのです。
 さて、最後の処、野家啓一さんの解説は秀逸で、これを読むだけで、この本の内容の概略はつかめます。今回の読書で落としている、廣松さんの量子力学との対話を押さえてくれているところ、改めて、忘れていたことを思い出していました。また小林昌人さんは廣松さんの文献的研究に身を投じていて、また編集的なところで力を発揮しているひと、廣松学とでもいうところで、学究していくひとたちのとって貴重な存在、導き手です。
 最初に書いたように、廣松ノートを作る予定です。廣松さんは膨大な知識の上に論攷を進めています。わたしは廣松さんが引用しているひとたちの原典もほとんど読めないまま表面的にかじっているだけ、そのようなところは、学的なこととして許されることではないのですが、ただ、廣松さんの本を手にするきっかけになればとメモを残しました。

posted by たわし at 04:26| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「唯物論と経験批判論」

たわしの読書メモ・・ブログ528
・レーニン「唯物論と経験批判論」 (『レーニン10巻選集 別巻2―レーニン生誕100年記念』大月書店1966所収)
 レーニンの著作をあたっていて、とりわけ、『国家と革命』を読んでいると、まさに、レーニンこそが、今前衛党的なことを維持している政党・党派の理論、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと押さえられるのです。
 それは、実は、後期エンゲルスが、マルクスの理論のわかりやすい解説ということのなかで、弁証法を法則としてとらえるようなことに陥り、ヘーゲルへ「先祖帰り」し、弁証法を法則、しかも物神化された法則としてとらえるようになった、そのことをレーニンが吸収して、「マルクス―レーニン主義」をうち立てたのだと言えることではないかと思ったりしています。ヘーゲル弁証法は逆立ちしていると言われています。それは絶対精神の自己展開、疎外――外化としての現実世界という内容を持っているのですが、実は、レーニン革命論は、「マルクス―レーニン主義」の弁証法の現実世界への適用という意味をもっていて、そのことは「マルクス―レーニン主義」に理論武装された前衛党による革命という図式にもなっていきます。そもそも、弁証法というのは、対話による論的な深化の道行きなのですが、それをヘーゲルの絶対精神によって逆転させる・逆立ちさせたのが絶対精神の外化としての法則としての弁証法としてとらえたことなのです。まさに、ヘーゲルの逆転した弁証法の法則化は、神を想定している事なのですが、同じく、弁証法を法則としてとらえた、「マルクス―レーニン主義者」やその党派は、まさに宗派として登場せざるをえなくなるのです。このあたりのことをこれまでのレーニン学習から仮説として押さえたのですが、レーニンの哲学的論攷の学習として、裏付けようという試みとして、レーニンのこの本、そして『哲学ノート』の読み込みをします。この本は、マッハ批判としても有名です。まえにも書きましたが、わたしが哲学的に影響を受けた、廣松渉さんは、物理学の知識も踏まえた上でマッハの理論をそれなりに評価しています。そして、後期エンゲルスの批判も書いています。後期エンゲルス論については、わたしの理論学習の終活的ことの一つとして「廣松ノート」をつくろうという思いがあり、後に回しますが、マッハに関する廣松さんの論攷を、『哲学ノート』の学習の前に読んで、読書メモを残します。ここまでは、読書に入る前に書いたことです。
ここからが、正規の読書メモです。
 経験批判論の論者とは、主にマッハとアヴェナリウスを指しています。これはカントの物自体論の不可知論やヒュームらの経験主義の不可知論を右から批判するというレーニンの押さえです。レーニンはマルクス、むしろエンゲルスですが、その唯物論は左から批判すると称しています。その立場、唯物論の立場でのマッハ主義の批判なのです。レーニンはまさに革命家で論争のひとでした。ロシアにはマッハ主義的なところとマルクス唯物論を結び付けるひとがいました。筆頭はボグダーノフなのでしょうが、そのひとたちを論破するために、そして唯物論を宣揚するためにこの書を書いています。革命家にもいろいろなタイプのひとがいるのですが、レーニンは異なる意見の者を徹底的に論破して、自分の方針を突き通すという性格のひとのようでした。そこで、絶対的真理なるものを突き出します。それはまさに神学の世界なのです。これがどこから出て来たのかというと、エンゲルスがマルクス主義のわかりやすい説明ということを模索する中で、弁証法を論じていくのですが、その「弁証法」が問題なのです。ヘーゲルが弁証法概念を突き出したのですが、それはひとつは対話ということによる論的深化という意味と、もうひとつの絶対精神の外化なり疎外としての展開ということとしての弁証法があります。後者は法則としてとらえられるのですが、絶対精神ですからの法則の絶対化に陥ってしまっているのです。もちろん、エンゲルスは神なるものは否定していますから、絶対精神の自己展開のようなことは批判します。しかし、弁証法を法則としてとらえるところからは、その法則――弁証法を図式化していく過程で、ヘーゲル的な絶対精神の自己展開の枠内に留まってしまいます。そこから反映論なり模写論という突き出しになっています。それは、精神の自己展開という図式に嵌まっていて、まさに、青年ヘーゲル派としてヘーゲル批判から出て来て観念論を超克したところから逆戻りしてしまうことになっています。レーニンは、まさにエンゲルスの弁証法的唯物論をとりいれるときに、まさにヘーゲルの観念論的な弁証法にとらわれたのです。ですから、その影響を受けたレーニンは、この書の中でも、まさに神の言い換えに過ぎない「絶対的真理」なる言説を突き出しています。だから、それはまさにヘーゲル的観念論に嵌まってしまっているのです。
 さて、何が問題になっているのかというと、神学の世界から抜け出したデカルト以来の精神と肉体――物質の分離以降、近代哲学は常に、三項図式(意識作用<主体>―意識内容―意識対象)のアポリア(論難)をどう解決するのかという問題に直面してきたのです。そして、神学の世界に絶対精神をもって復帰したヘーゲル以外は(神とは自然の物神化にすぎないことで、その存在は否定されることで、ヘーゲルはそれなりに論理的ですが、その前提自体が間違えています)、このアポリアを解決できていませんでした。だからエンゲルス――レーニンも同じ図式に嵌まってしまっているのです。
 カントの物自体論もヒュームの経験主義的不可知論もそして、マッハの経験批判論もそのことを巡る試行錯誤です。そして、エンゲルスの反映論もこのアポリアを、ヘーゲル帰りしているのですから、解決できていません。
 さて、読書メモから少し外れるのですが、わたしのこの三項図式に関する押さえを書いておきます。マルクスの思想の流れから出て来た廣松渉というひとが三項図式のアポリアの解決を一応なしているのではという思いがわたしにはあります。実は、わたしがマッハを知ったのも、廣松さんがレーニンのマッハ批判のこの書をおかしいと論じていることからです。マッハは物理学者でもありました。音速の単位に名が付いています。そして、アインシュタインの相対性理論の道を拓いたひととしても有名になっています。さて、廣松さんはこの三項図式をどう止揚しようとしていたのでしょうか。それはカントが物自体をおいたところの先験的演繹論を現象学派を援用しての共同主観性論として置き換え、その共同主観性の形成を言語の生成における命名判断というところから、異化の構造、それにはマルクスの物象化概念を異化の次元からとらえ返す(廣松物象化論ともいわれていること)という作業があるのですが、そこから、社会学の役割理論(役割期待―役割遂行という過程でのサンクションをとおした)認識の形成、そこで、(廣松)四肢構造論という三項図式を超える論理を出しています。わたしは一応これらのいろんな哲学との対話のなかで形成されたことは、単なるパッチワークでなくて、ヘーゲル弁証法の対話的意味において、当事者意識――第三者的意識の入れ子型の認識の高次化の中で論理的に統一された、整合性をもっていると押さえています。個々の精細な批判はいくらか出ていますが、哲学的なところでは、大枠を否定する論理はまだ見ていません。もう少し書いておきますと、レーニンは唯物論を単純化しています。その唯物論のもっとも単純化した言い方は、定式化された「ものをあるがままに見る」ということですが、ひとは共同主観性の中で言語を獲得し、すでに物事を色眼鏡をとおしてしか見れないのです。これは、むしろ生まれたばかりの赤ん坊のとらえられる世界はいかようかという話としてのとらえ返しになります。これは次の廣松さんのマッハに関する学習の中で出てくることを、先取り的に書きますが、「マッハの世界はこの赤ん坊がとらえた世界ではないか」という話にもつながります。さて、もうひとつ、ものごとをありのままに見ている可能性のあるひとたちの存在を廣松さんが指摘していました。それは、この書の中で、レーニンが書いている「精神障害者」のひとたちです。翻訳の問題もあるのでしょうが、レーニンが、論争の中で、差別語で「きちがいであるまいし」とか論敵を何度も罵倒しているのですが、むしろ自我――他我の未分性とかの例を出して書いていることこそが、「ものごとをあるがままに見る」ことの可能性があるのかも知れません。
さて、レーニンに話を戻します。レーニンは革命家で強力なリーダーシップを発揮するひとでした。だから、自分の言っていることを絶対的真理として突き出す論理に乗ったのでしょうーでも、それはマルクスの思想の宗派的な展開になってしまうのです。今日、スターリン批判はかなり広がっているというか、多くのひとが受け入れていることですが、左翼の間ではレーニン批判にまではなかなか及んでいません。まだ存在している党派は「マルクス―レーニン主義」の言葉を使うかどうかを別にして、内容的にはそこへとらわれています。スターリン批判の中身としていろいろ批判されていたこと、「自然弁証法の基礎に立つ史的唯物論という論理はおかしい」とかいうことは、そもそもスターリンがレーニンからの引き継いだこととして、この書を読んでいる中でとらえられます(尤も、このレーニン選集がスターリン的改鋳にさらされている可能性もあるのですが)。今、一度レーニンとマッハの対話の中の読み解きから、「マルクス―レーニン主義」の総括が必要になっているのだと思っています。
 廣松さんのノートは、まだ先になりますが、とりあえず、次の読書メモとして、廣松さんのマッハに関する論攷の再読とメモ取りをやっておきたいと思います。
 さて、いつもの切り抜きメモは、レーニンの言葉自体がかなり図式化した教条主義的になっているので、逐一批判しても消耗なので、索引的にページを当たれる程度に留めます。レーニンは論争のひとで、哲学から物理学で広範な資料を読み解き、逐一批判していっています。ここで、それを精細にとりあげることは難しいので、レーニンとの対話に必要なところをとりあげて、メモを残すことにします。

 弁証法的唯物論11P・・・対話としての弁証法と法則としての弁証法
一九〇八年の「マルクス主義者」――-ボグダーノフらと一七一〇年の観念論者――バークリの唯物論批判15-7P
「物自体」16P・・・廣松さんの<そのもの>からのとらえかえし
エンゲルスの反映論22P・・・レーニンの「エンゲルス主義」へ陥り
 反映論と因果論24P
「因果性の問題における二つの哲学的上の流派が、われわれの前にある」バークリの批判する唯物論(記号論に媒介されて)24P−バークリとマッハ? むしろバークリとカント? 
 バークリによる空想と現実の違い24P――「因果性」神のみしるし
 バークリの主観的観念論25P・・・バークリの共同主観性は精霊? カントの先験的認識論の読み込みにおける「共同主観性」論との関係
「マッハは一八七二年につぎのように書いた「科学の任務たりうるのはつぎのことだけである。一、表象相互の連関の法則を探求すること(心理学)。二、感覚(知覚)相互の連関の法則を発見すること(物理学)。三、感覚と表象のあいだの連関をあきらかにすること(精神物理学)。」これはまったくはっきりしている。」33P
マッハ「感覚は『物の記号』でさえもない。むしろ『物』とは、相対的な安定性をもつ感覚の複合をあらわすための思想上の記号である。物(物体)ではなくて、色、音、圧力、空間、時間(われわれが普通に感覚と呼んでいるもの)が世界の本来の要素である。」33P
レーニン「物質は第一次的なものであり、思考、意識、感覚はきわめて高度の発達の所産である。これが唯物論的認識であって、自然科学は自然発生的にそれに立脚している。」67P・・・スターリンの自然弁証法の基礎の上に立つ史的唯物論という発想はここから。学的にはおかしい、との批判。そこには、法則の物神化も。法則は仮説として、法則の意識的適用という技術論。
人間存在以前の地球70P・・・自分の存在しない別の空間という話に通じていく
意識から独立して存在しているものの存在76P・・・懐疑論批判として出てくる<そのもの>の論理、ソシュール言語論、当事者意識と第三者意識の弁証法
エンゲルス「「思考する脳における」自然過程の反映、等々。」――レーニン「アヴェナリウスはこの唯物論的観点を否認して、「脳が思考するということ」を「自然科学の物神崇拝」と呼んでいる。」80P・・・協同作業や共同主観性というところからとらえ返す
レーニンのアヴェナリウス批判「「精神と身体の二元論」の観念的除去(すなわち観念論的一元論)とは、精神は身体の機能ではなく、したがって、精神は第一次的なものであり、「環境」と「自我」とは同一の「要素の複合」の不可分の結合のうちにのみ存在する、ということにある。」82-3P・・・「要素」を共同主観性から読み解いていくことによる、四肢構造論につながる可能性
 マッハの唯我論86P・・・廣松共同主観性論からの批判
「マルクスをエンゲルスに対立させる試み」91P・・・とりわけ、後期における違いを押さえる必要
エンゲルス「唯物論は、自然を第一次的なもの、精神を第二次的なものとみなし・・・・・・」91P・・・むしろ、二分法自体の批判の必要
「ヘーゲルは、現実の世界をある世界以前の「絶対的理念」の実現とみなす、そして人間の精神は、現実の世界をただしく認識することによって、そのなかに、かつそれを通じて、「絶対的理念」を認識するとみなしているのである。」92P・・・レーニンは「絶対的理念」なるものは否定しても、「絶対的」なることへの批判が欠落していくのでは?
「・・・・・・・われわれのそとに、われわれから独立して、対象、物、物体が存在し、われわれの感覚は外界の像である、ということである、・・・・・・」96P・・・反映論、三項図式のアポリアは、「絶対的精神」を肯定しない限り解けないのです。
レヴィー「なにが君に翻訳の正確さを保証するのか? 人間の思考が君に客観的真理をあたえるということを、なにが君に証明するのか? マルクスが第二テーゼでこたえているのは、この抗議に対してである。・・・・・・」――レーニン「さて、レヴィーが、マルクスが物自体の存在を承認している、ということを、一刻もうたがっていないのを、諸君はおわかりになったであろう!」99P・・・レヴィーは三項図式を問題にしていて、マルクスの第二テーゼは、「ひとは知らずにそれを行う」ということを言っているにすぎず、認識論的にはこの問題を解いてはいないのです。レーニンは、三項図式のアポリア自体が対象化できていないのではないでしょうか?
「しかし、果たして諸君は(マッハ主義者)、エンゲルスにあっては不可知論者も同様に「これらの物そのもの」のかわりに「印象」をおいている、ということに気がつかなかったのだろうか? つまり、事がらの本質上、不可知論者もまた物理的な「印象」と心理的な「印象」とを区別しているのだ! 差異はまたしても、もっぱら述語のなかにある。マッハが、物体は感覚の複合である、と言うとき、マッハはバークリー主義者である。マッハが、「要素」(感覚)は一つの連関においては物理的なものであり、他の連関においては心理的なものでありうる、と「訂正する」というとき、マッハは不可知論者、ヒューム主義者である。」100-1P・・・三項図式のアポリアの迷路、「要素」は廣松さんのいう<そのもの>、意識作用と意識内容をつなぎ、意識対象に対峙する「感覚」という概念、ただし三項図式は解けていないのでは?
「エンゲルスは論文のはじめで公然とかつきっぱりとその唯物論を不可知論に対置しているのであるが・・・・・・」101P
 エンゲルスの実践的適用、仮定が間違っていれば結果として出てくる類いのこと102P・・・法則の実践的適用も同じ、<そのもの>をとらえているわけではない、不可知論を批判し切れていない
「感性的観念はわれわれのそとに存在する現実性ではなくて、この現実性の像に過ぎないのであるから・・・・・・」「ドイツ語の原文をとってみれば、君は《stimmen nit》すなわち照応する、声を合わせる[調和する]ということばを見るだろう・・・・・・《stimmen nit》ということばは「同一のものである」という意味での一致を意味することはできない。」「エンゲルスが、いつも、その考察の始めから終りまで一貫して「感性的観念」をわれわれのそとに存在する現実性の像(Abbild)と解釈していること、・・・・・・」107P・・・像と現実の関係、正しく反映されているという担保はないのでは? ここは、「像」――「反映」でなく、「妥当すると共同主観的にとらえられる」ということでは?
 ボクダーノフのエンゲルスを折衷主義という批判115P・・・むしろ、ヘーゲル帰り
 ボグダーノフの客観的真理はありえないというとらえ返し116P・・・客観的真理とは共同主観的に妥当な認識 レーニンのボグダーノフ批判は、絶対的真理に収束して、ヘーゲル帰り
「このうたがいもなく普遍的に妥当する、・・・・・・」118P・・・「普遍的に妥当する」ということは、「共同主観的な妥当」性の弁証法的とらえ返し
「自然科学だけが外界を人間の「経験」のなかに反映させることによってわれわれに客観的真理をあたえることができるとすれば、・・・・・・」118P・・・そもそも反映論が「真理」を担保できないので、自然科学を別格扱いすることはできないのでは?
「感覚は物体、外界の像」119P・・・マッハは意識作用と意識内容を区別しない、従って像ということは出てこない、これはエンゲルス――レーニンの反映論
「すべての知識は経験、感覚、知覚から生じる。」120P・・・「感覚」は意識作用に近く、「知覚」は意識内容に近い、ただし、マッハは区別していない
「諸君(経験批判論者)が物自体の認識可能性、時間、空間、因果性の客観性を否定しようと(カントにしたがって)、それとも物自体にかんする思想をもみとめないであろうと(ヒュームにしたがって)、まったく同じことである。諸君の経験論、諸君の経験の哲学が首尾一貫していないことは、この場合には、諸君が経験のなかの意識内容を、経験のなかの客観的真理を、否定しているという点にある。」120P・・・レーニンは、マッハの物理学が、ニュートンの絶対的空間、絶対的時間概念を批判することら始まったという、物理学のパラダイム転換の内容を孕んでいることを知り得ていなかった。
 レーニンの経験批判論批判「「一方では、物体は感覚の複合であり(純粋な主観主義、純粋のバークリ主義)、一方では、感覚を改名して要素にすれば、われわれの感覚器官から独立したその存在を考えることができる、と!」「彼らはわれわれの感覚器官を十分に信頼せず、感覚論を徹底していないのであるから。」「彼らはわれわれの感覚の証言を完全に信頼する哲学者であり、彼らは、世界を現実にそれがわれわれに見えるとおりのもの、音、色、等々にみちたものとみなしている・・・・・・・」「反対に唯物論者にとっては、世界はその見えるままのものよりも、いっそう豊富で、いきいきとしていて、多様である。」121P・・・「独立した」は間違い、むしろマッハは未分なものとして押さえています。マッハの「見えるとおりのもの」とは、生まれたばかりの共同主観性にとらわれていない赤ん坊のとらえる世界なのです(→レーニンの「子どもの片言」122P)。エンゲルス―レーニンの反映論では、「その見えるままのものよりは」は出てこないのです。むしろマッハの「附け足して考える」(ヒンツーデンケン)のなかに、そのようなとらえ返しがでています。唯物論でいう「現実をあるがままにとらえる」ということ自体が、物象化にさらされていない生まれたばかりの赤ん坊や、一部のレーニンが差別的に論じる「精神障害者」以外は、なしえないのです。
「物質の概念をうけいれるか、それても否認するかの問題は、人間の感覚器官の証言を人間が信頼するかどうかの問題であり、・・・・・・」122P・・・共同主観性のなかで、ひとはすでに、感覚器官がとらえたものを「それ以上のもの」「それ以外のもの」としてとらえているのです。
レーニンのシュヴェーグラーへの唯物論への共鳴「感性的なものだけが存在する。」123P・・・抽象ということの否定、物象化された世界にはありえないこと。
ボグダーノフのエンゲルスの折衷主義(ヘーゲル帰り)批判124P
 ボグダーノフ「「徹底したマルクス主義は」永遠の真理というような「そういう独断論やそういう静学をゆるさない」と」←レーニン「これは混乱である」130P・・・混乱はレーニンの方、レーニンは絶対的真理――絶対精神を措定してしまっているのでは?
「われわれは、マルクスが一八四五年に、エンゲルスが一八八八年と一八九二年に、唯物論の認識論の基礎に実践の基準を導入しているのを見た。」130P→注三四「レーニンが念頭においているのは、マルクスの『フェイルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年)、エンゲルスの『フェイルバッハ論』(一八八八年)および『史的唯物論について』(『空想から科学への社会主義の発展』の英語版への序文)( 一八九二年)である。」363P
マッハ「概念は『物理学的作業仮説』である」132P・・・「概念」は「法則」にも適用可能
 フェイルバッハ「人間は抽象的自我ではなく、男であるかまたは女である。」134P・・・これ自体がもはや真理とは言いえないのです。
 「マルクスの理論の道にそってすすめば、われわれはますます客観的真理に近づくであろう(けっしてこの真理を汲みつくすことはないが)、ところがあらゆる他の道にそってすすめば、われわれは混乱と虚偽以外のなにものにも到達することができない、ということである。」136P・・・「信じる者は救われる」、マルクスの理論を宗教的真理と同等にとらえていること、ここから教条主義も宗派も生まれ出でること。
「気ちがい(ママ)病院の住人以外にはなんびともその存在をうたがわないもの」138P・・・生まれたばかりの赤ん坊のとらえる世界と一部の「精神障害者」の「あるがままにものごとをとらえる」世界から、<そのもの>をとらえ返す廣松さんの作業、精神病院に政治犯を収容していく態勢はレーニンの論敵を「障害者」差別的概念で批判することから始まっているのでは?
「経験批判論」の「経験」にかんするレーニンの論攷141P・・・言語のある世界の経験、命名判断される以前の異化しない状態の経験と認識をレーニンはとらえていないのでは?役割遂行のなかにおける共同主観性――認識の獲得という問題から経験をとらえ返すことー
「自然の客観的合法則性と人間の脳におけるこの合法則性の近似的に正確な反映とを承認することは、唯物論である。」148P・・・ヘーゲルの絶対精神の自己展開をもってこないと、反映論は正当化できないのでは? 
「エンゲルは原因と結果とについてとくに弁証法的見方を強調している、・・・・・・」→エンゲルス「そこでは、原因と結果とはたえずその位置をかえ、いま、あるいはここで結果であったものが、あそこ、あるいはつぎには原因になり、またその逆もおこなわれる。」149P・・・原因と結果――因果論的概念で語れないこと、対話ということでの高次化としての弁証法になってはいるけれど、そもそも原因と結果という概念を持ちだしたことが誤りと言えることなのでは?
「エンゲルスは、唯物論の周知の命題をとくに説明することを必要とみなさないで、たえず「自然法則」、「自然の必然性」(Naturnotwendigkeit)について語っている。」149P・・・自然の物神化を神としてとらえたとき、まさに「自然法則」「自然の必然性」も神として立ち現れます。客観的妥当性の根拠を示す必要がないこと――神
 アヴェナリウス「必然性とは、したがって、結果の到達が期待される確率[確からしさ]の一定の度合をあらわすものである。」151P マッハ「函数という概念が「要素相互依存関係」を比較的正確に表現できるのは、研究の成果をはかることのできる量で表現する可能性が得られた場合だけであるが、・・・・・・」152P・・・「(確率)函数」という新カント派的概念との共振
「これらの連関についてのわれわれの認識の源泉は、自然の客観的合法則性であるのか、それとも、われわれの心の性質、つまり、一定の先天的真理、等々を認識するところの、心に内属する能力であるのか、という点にある。これこそが、唯物論者フェイルバッハ、マルクス、エンゲルスを、不可知論者(ヒューム主義者)アヴェナリウス、マッハから終局的にわかつものである。」152-3P・・・極めて図式化したとらえ方、少なくともマルクスとマッハのとらえ方は間違えているとしか言いようがありません。
「そのさいにポアンカレは、普遍妥当的なもの、多数の人々、またはすべての人々によって認められているものを客観的と呼んでいる――すなわちすべてのマッハ主義者と同様に、純粋に主観主義的やり方で客観的真理を絶滅している、――・・・・・・」158P・・・ポアンカレの件は、言葉の厳密性を検討することがあるとしても、客観的妥当性ということはまさに然りで、レーニンの方がおかしいとしかとらえられません。まさに神学。
「エンゲルスが、重要なことは、あれこれの哲学者が唯物論または観念論の多数の学派のどれにくみしているか、ということにあるのではなく、自然、外界、運動している物質を第一次的なものとみるか、それとも、精神、理性、意識、等々を第一次的なものとみるか、ということにある、と言ったのはただしかったのである。」159P・・・デカルト以来の近代哲学の精神と物質の二元論への舞い戻り
 自由と必然性180-3P
 アヴェナリウス――経験論的不可知論への共鳴、右からのカント批判190P
「カントの基本的特徴は、唯物論と観念論との和解、両者のあいだの妥協であり、種類のちがった、対立しあっている哲学的流派を一つの体系のなかでむすびつけていることである。」191P
 ボグダーノフ「(1)「要素」の混沌(要素というこのちょっとしたことばのかげには、感覚以外のいかなる人間的概念もかくされていない、ということをわれわれは知っている。)、/(2)人々の心理的経験/(3)人々の物理的経験/(4)「それからうまれる認識。」」221P・・・(1)〜(3)はまさに三項図式。
 レーニン「(2)心理的なもの、意識等々は物質(物理的なもの)の最高の産物であり、人間の脳と呼ばれるとくに複雑な塊の機能である。」222P・・・これでは人間機械論になってしまいます。意識ということが如何に生まれるのかということが出て来ません。
「つまり、自然のそとに、しかもそのうえさらに、自然を発生させるなにかあるものが存在している、ということになる。ロシア語では[哲学者流の特別なことばではなく、普通の人のつかうことばでは]これは神(ルビ、ボク)と呼ばれている。」223P・・・神学では外、哲学では、外である必要はなく、自然を物象化し絶対化したものが神。自然は如何にしてひとの認識に反映し得るのか、理性の狡知、絶対精神の自己展開という神。
「個人の意識を人類の意識ととりかえ、・・・・・・」224P・・・実はこれは廣松四肢構造論の、主体の二肢という問題があるのではないでしょうか?
 ボグダーノフの変遷225-6P
「記号」227P・・・言語論につながる――ソシュール
 ラウ「・・・・・・事物がわれわれのうちに引き起こす感覚は、事物の本質の模写である、・・・・・・」230P・・・模写論はいかにして可能になるのか、とらえられない。
「原因」――「結果」、「法則」、「力」231P・・・すべて物象化に陥っている。法則の物神化
 ビュヒナーとその一派の三つの「狭隘性」――力学の尺度の適用、反弁証法的(「エンゲルスの弁証法の認識論への適用(絶対的真理と相対的真理)にかんしては、まるっきりなにごとも理解しなかったのである。」)、「社会科学の領域で観念論が保持されていること、史的唯物論が理解されていない」234-5P・・・絶対的真理なるものの設定
レーニンの反語的な「形而上学的な反弁証法的唯物論が不充分である。」という批判239P・・・結局、デカルト以来の精神と物質の分離という近代哲学の枠内から抜け出せていない、ということを示しているのでは? ここから三項図式も生まれ出ずるー
 レイ「物理学の現実の危機」250P・・・これは、物理学におけるパラダイム転換として起きていることを、レイもレーニンも押さえていないということではないでしょうか?
「客観的実在の存在」251P・・・実体主義
 ウィルヴィーグ「物質は存在するか?」253P・・・「実体主義的物質は存在するか?」という問いに変えることー
「浴槽から水といっしょに赤ん坊までながしだしてしまった。」256P・・・レーニンは、マッハ主義を批判しようとして絶対的真理、「客観的実在の存在」を持ち出し、唯物論をながしてしまった。
レイ「物理学の一般的精神の観点からして他のすべての考察よりも勝っているのは、その方法、その理論、および経験にたいするその関係の概念が、機械論の概念と、ルネッサンス以来の物理学の概念と絶対的に同一のままである、ということである。」259P・・・レイとそれに共鳴するレーニンは、当時起きてきている物理学のパラダイム転換ということを知らなかった。
「エーテル」274P・・・絶対空間概念のなかで出て来た概念
「電気は観念論の協力者だといわれる、というのは、それは古い物質構造理論を破壊し、原子を分解し、・・・・・・」277P・・・まさに、量子力学につながるパラダイム転換的なこと
「数学者による物質の忘却」301P・・・「数学は自然科学の言語である」という規定をレーニンは押さえていないようです。それどころが、物質と言語の関係も。
「物理学の古い真理は、あらそう余地のないかつ不動のものとみなされているものにいたるまで、相対的真理であることがわかる、――つまり、人類から独立したいかなる客観的真理もありえない。すべてのマッハ主義ばかりでなく、すべての「物理学的」観念論は一般にこう論じている。」302P・・・絶対的真理をかかげるレーニン
「エンゲルスは(スタッロとはちがって)ヘーゲルの観念論をなげすて、しかもヘーゲル弁証法の天才的な真理の粒を理解することができた。エンゲルスは、主観主義にころがりおちる相対主義のためにではなく、弁証法的唯物論のために、古い、形而上学的唯物論を拒否したのであった。」303P・・・絶対的真理をかかげることは形而上学的唯物論に陥るのではないでしょうか? 「弁証法的」とは何か? 法則性なのか、対話による高次化の道行きなのか? 相対主義は主観主義なのか、関係主義としてあるのでは?
 唯物論的弁証法303P・・・絶対精神・絶対的真理の反映としての法則性?
プライのマルクス批判――六つ310-1P
「意識は一般に存在を反映する」316P・・・これは「存在は意識を規定する」と言われていたこと、なぜ「反映」になったのか、因果論的陥り
 マルサス主義321P・・・生物学的決定論
「マルクスとエンゲルスが自分の諸著作で、弁証法的唯物論よりも弁証法的唯物論をより多く強調し、史的唯物論よりも史的唯物論をいっそう強く主張した。」322P・・・検証する必要―強調というより、そもそも意味が違っているのではないでしょうか? レーニンはとらえていないのでしょうが、絶対的真理・法則としての弁証法と対話や相対主義的ニュアンス
「われわれはつねに、例外なしに哲学上の問題の解決の二つの基本的な路線、二つの基本的な方向を見て出したのであった。自然、物質、物理的なもの、外界を第一次的なものと認め、意識、精神、感覚(現代普及している術語によれば、経験)、心理的なもの、等々を二次的なものとみなすかどうか――これこそ、事実上いまもひきつづいて哲学者を二大陣営にわけている根本問題である。」327P・・・これは唯物論と観念論のみならず、自然科学と社会科学の分離ということにも通じる、では哲学は?
「ヘーゲルへの方向転換」330P・・・レーニンも、絶対的真理を設定することによって「ヘーゲルへの方向転換」に陥ったのでは?
「しかし、この物質以外には、「物理的なもの」、だれもが知っている外界以外には、なにものも存在できないのである。」336P・・・?そもそも、意識は存在しない?
「・・・・・・そして無限に拡大された、抽象的な、神のように生命のない「心理的なもの一般」を、物理的自然全体に置き換えることによって、すでに「最高の人間能力」を神格化しているのである。」338P・・・レーニンは、自然的なものを唯物弁証法におきかえ、絶対的真理を持ち出すことによって、唯物論をヘーゲル的観念論に置き換えた。
「唯物論的仮定は物理学的探求ではまったく避けがたい(unescapable)のである。」「星雲の仮説、光をはこぶエーテル、原子論、およびすべてのこのようなものは、便宜的な『作業仮説』にすぎないかもしれないが、・・・・・・そして無限」345P・・・レーニンはこのようなことを絶対的真理の論理から否定しているけれど、まさに法則とは作業仮説
 メーリング「ヘッケルは、唯物論者であり、一元論者であるが、史的唯物論者ではなく、自然科学的唯物論者である。」347P
「結語」348-9P・・・よくまとまったレーニン経験批判論批判四点
 チェルヌィシェフスキー350-2P
posted by たわし at 04:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』

たわしの読書メモ・・ブログ527
・『季刊 福祉労働165号 特集:意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ』現代書館 2019
 定期購読している障害関係の雑誌です。また、少し遅れていますが、ここのところ読書
メモが膨大になってしまっています。逐一の紹介ではなくて、もくじ紹介と、気になった
文だけメモに切り替えます、としていたのですが、結局長くなってしまいました。さらに
最長記録を更新しそうな勢いです。
(編集者の付けた内容紹介)
「意思決定」が、障害者・高齢者・依存症者・引きこもりなど、立場の弱い人に自己責任を押し付けるための、免罪符のように使われている。しかし、よりよく生きるための選択肢は、出会いと経験、そして、人とのつながりの中から生まれるはず。求められているのは、「意思決定支援」ではなく、「つながりから生まれる経験知」を増やす支援ではないか。当事者・支援者とともに、パラダイム転換をはかる。
巻頭写真・文
[連載]インクルーシブに生きる「ふつう」の人 インタビュー:武本花奈
第一回 川合千那未
 写真が秀逸です。これだけ美しい笑顔が撮れるのだと、「笑顔の影に涙もある」のかもしれませんが、この笑顔が作れるようなところへの運動があるのかもしれないと思ったりしていました。
【特集 意思ってなんだろう――つながりから生まれる経験知へ】
● 「意思」と「支援」のパラダイム転換へ向けて 
池原毅和(日弁連)
これは、最後に編集者の文がのせられていて、この特集を組むのに、『福祉労働』163の
この著者の文がきっかけになっているとのこと(わたしの読書メモは513)、「意思」とか「自己決定権」を巡る貴重な文になっています。
これはパラダイム転換というところで、わたしも主張している障害関係論の地平へ繋が
る文書、いたく共鳴しながら読んでいました。
 今回も、文章ごとの抜き書きを残します。
「これらに共通するのは「意思」は個人のものだということである。法律が想定する「意思」も同様である。そして、「意思」が個人のものであるからこそ、その個人が「意思」に基づいて権利を取得し、義務を負担し、責任を負うことになるのである。しかし、本当に私個人だけに帰属する「意思」というものがあるのだろうか。自分という存在のどこにどのようなかたちで「意思」があるかを問われて明確に答えることのできる人はいるのだろうか?」8P・・・「個人」という実体に内自有化する「意思」という物象化
ジョルジュ・アガンベン「意思は西洋文化においてはもろもろの行為や所有している技術をある主体に所属するのを可能にする装置である。」8P・・・ここからパーソン論が出てきます。
国分功一郎「選択は過去の要因の総合として、あるいは、諸々の要素の相互作用の結果として出現する中動態的現象だが、意思はこれらの要因や要素から切り離され、能動的に何ごとかを始める能力と観念されており、何らかの行為を自ら開始したと想定されるとき、その人にその行為の結果が帰属することになる。逆に、当該行為の結果を特定の者に帰属させられるべきと考えられる場合に、その行為が意思に基づいたものとされる。」8-9P・・・物象化的錯認としてとらえられること。
「「意思」は、個人を社会の基礎単位とし、個人に権利や責任を帰属させるために社会的につくり出された構築物であり、「諸々の要素の相互作用」を捨象して、権利義務の帰属を単純化するための社会装置であって、私たちの内部に「意思」が存在しているわけではない。こうした考え方はあまりに新奇に感じられるかもしれないが、自分たちの日常や人生を振り返ったとき、純粋に試験管の中で起こる作用のように、他人や外部から一切の影響を受けずに、完全な自存と孤高の時空で、自己決定をした経験のある人はいるだろうか」9P・・・まだ、要素還元主義的実体主義的――
「障害とインクルージョンの研究者であるジョアンナ・ワトソンは、意思決定支援を被支援者と支援者との間の相互依存的・複合的・動的な決定過程として捉えている。決定を行おうとする者は言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)を使って意思と選好を表出し、それに対して支援者は無視とは対極の態度としての「受けとめ」(acknowledge)、「解釈」および「応動」(action)という反応を示す。双方の対話関係は、これが螺旋的に繰り返されていく動的(dynamic)過程を辿り、最終的な結論(未来像の形成・選択)が形成されていく。この過程は障害のある人に特有なものではなく、人間一般の決定の過程である。環境要素を切り離して個人のみに焦点を当てた認知技能(cognitive skill)の捉え方は人間の相互依存性という根源的な要素を見落としている。人間の相互依存性は非障害者の社会では認められているのに、むしろ障害のある人には別のルールが適用されていると指摘している。」9P・・・役割期待と役割遂行、「障害のある人」という表記は医学モデルです。関係論的立場のひとが使い続けているのはおかしいのでは?
「ロシアの哲学者バフチンは、人間の存在は本質的に対話的(dialogical)な存在であり、対話を抜きにして個人の内面に本源的な世界観や価値観が予め備わっているのではないことを指摘している。障害者権利条約(以下、権利条約)第十二条三項の意思決定支援方法の一つとされているピアサポート(「一般的意見第1号」パラグラフ一七)においても、相互依存性(interdependency)あるいは相互性(mutuality)が支援関係の前提である。」9-10P
「個人の内心にある「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の個人モデル)から「諸々の要素の相互作用」の結果としての「意思」あるいは「自己決定」という見方(意思の社会モデル)にパラダイムを転換すると、権利条約第十二条三項が求めているのは、障害のある人の意思決定の支援を特殊なものと考えるのではなく、むしろ、障害のある人は、それ以外の人がもっている社会的なネットワークから得るさまざまな支援が奪われていることに鑑みて、支援のための社会的ネットワークを再構築すべきことだと読むことができる。」10P
「権利条約第十二条三項は、障害のある人に対する社会的排除が人間に必要な相互作用的・相互的関係の形成を阻害し、それによって障害のある人の法的能力の行使が困難化しているという認識に基づいて、相互依存的・相互的関係の再構築(法的能力行使のための支援措置)を締結国の義務としたのである。したがってまた、権利条約第十二条と第十九条(自立した生活及び地域生活への包容)は相互に支えあう規定として理解することが必要である。」10-1P
「私たちは、重度の自閉症などのためにその「意思」が読み取りにくい状態にある人の心の奥底にも何か本人の「意思」があるに違いなく、その埋もれた「意思」を解明することが意思決定の支援であると理解しがちではないだろうか。しかし、「意思」が関係的現象の一部分であるとすれば、もともと、対話的で相互的な関係が形成されていないところに、「意思」があるわけではなく、「意思」は対話的で相互的な関係のなかから形成されていくものということになる。」11P・・・まさに関係論的なとらえ方
「ジョアンナも指摘するように「言語や表情、身振り、心理・社会的反応(例えば、脈拍や呼吸の変化など)の様々なコミュニケーション様式(modalities)」を駆使して対話することが重要であり、生命としての反応がある限り応答は成立し、対話と相互関係を形成することは可能である。」11P
「「支援」についてもう一つ重要なことは、それは単に「あれかこれか」を選ぶことを支援するのではなく、未来像を形成(formulate)し、しかも、それを実際に実現していく協働の過程を含んでいるということである。」12P
最後の小見出し「ユニバーサルな意志決定支援へ」12P・・・差別的関係を拡げていくグローバリゼーションンに対抗するユニバーサリーゼーション
● 津久井やまゆり園入所者への「意思決定支援」何のため? 誰のため?
三田優子(大阪府立大学准教授)
 津久井やまゆり園が閉園するにあたっての移行支援をとらえ返しながら、「意志決定支援」ということが、「自己決定支援」になっていないという批判を、そもそも意思はどのように形成されるのかのとらえ返しをしながら、押さえています。
 切り抜きメモ、この文は小見出しを見るだけでも得るところがあるので、最初に小見出しを出して、その中にある文を切り抜いてみます。太字が小見出しです。
「自己決定の主体は誰か」・・・パン喰い競争のパンの選択を巡って
「自己決定から「意志決定支援」への流れ」
「最近は、「意思決定支援」という言葉が流行っている。権利条約における“Supported Decision Making”と言う用語が「意思決定支援」「支援つき意思決定」などと訳されたこと、また二〇一一年四月に政府が提出した障害者基本法改正案では、「意思決定支援」という言葉のみ加わり(議員修正により)、成立した経緯がある。当時、障害者基本法改正で議論していた、障がい者制度改革推進会議(二〇一〇年設置)では、「自己決定の権利と保障」を盛り込むべきとし、また自己決定の支援についても言及していたにもかかわらず、である/以来、意思決定と自己決定との明確な差異を、国のガイドライン(「障害者福祉サービス等の提供に係わる意思決定支援ガイドライン」、二〇一七年三月)でも示しておらず、ただ「意思決定」が成年後見制度など法的な絡みで使用されていることから「自己決定」よりも重要な決定を指すかのような曖昧なイメージが定着しつつあると感じている。」15-6P・・・そもそも「自己決定」も「意思決定」も、生きる条件が整わないと機能しないー
「ある障害者の家族は「ずっと医師決定支援」だと思っていた」と話した。」16P・・・笑えない冗談の様な話、現場の実態
「グループホームありきの意思決定支援」
「様々な居住の場の絵を描くというよりはむしろ、入所施設を中心に、加えて入所施設と行き来できるグループホームが描かれた絵がまずあって、その整合性を担保するために意思決定支援を用いたのではないか、と勘ぐりたくなるような印象をもつ。/そして、最も疑問が残るのは、このやまゆり園の入所者にとって「意思決定支援」が最もふさわしいのだろうか、という点である。」17P
「事件で傷付いた心を無視した「意思決定」になっていないか」
「うまく説明できない「中動態」の思いのなかにこそ」・・・「中動態」という概念は、「能動態」か「受動態」かという二分法を超える関係論的な立場。
「ところで、私たちが慣れている能動態(〜する)・受動態(〜される・させられる)の図式ではなく、「中動態」という捉え方がかつてあったと国分功一郎氏(二〇一七)は紹介している。能動態と受動態の二分方式では表せない感情が私たちのなかにあること、そして実は、そこにこそ大事なものがあるのではないか、と問題提起をしているのである。」18P
「支援者の心が「揺れる」ことの重要性・・・当事者にも言えます。ただしんどいことなので、そのように働きかけることではないのですが、それが必ずしも否定的なことではないこととしてー
「障害が重いことを言い訳に「客体化」しない」
「国分氏の「意思決定支援ではなく、欲望支援を」という提案するのはこんな実例もあるからである。」25P
「欲望形成支援の前提は、すべての人が主体であり、欲望をもつことが当たり前である、ということである。いつまでも「障害があるから」「コミュニケーションができないから」などとラベルを貼って客体として扱うのであれば、障害者の苦しさは自分の中だけに蓄積され、意思決定どころか希望も見いだせず、ときとして自傷や暴言などの問題行動となってしまう。」25-6P
「最後に」
● 知的障害のある人の意思決定への関わりについて
中村和利(NPO法人特活! 風雷社中理事)
 この文も小見出しを太字であげて、その中で切り抜きメモを付けます。
「自立生活への経緯――ドキュメンタリーTransitYard げんちゃんの記録」より
「知的障害者のある人も常時介護を利用して一人暮らしができることを提案し、実施することになった。」28Pという実践とその中での提言になっています。
「まず体験、そして修正可能であることが大切」
「「本人が想定していない新しい体験を提案していく」際に重要だと思うことは二つあり、@本人との付き合いのなかで、「明らかに本人が好まない提案はしない。A提案するヘルパーが(自分にとって)好ましいと思う体験を提案することである。」30P
「しかし、周囲を囲む人間関係が「ヘルパー」という同一方向の関わりだけになることのリスクは過大だと考えている。同一方向からの関わりだけであると、視点の多様さに欠け、また本人主体を心がけていても「ヘルパーの都合」が生じてしまい、本人の示す不具合や提案の修正を図りにくくなることが憂慮される。この自立生活では、シェアで暮らす同居人やイベントスペースでの知人が、多彩さをもつコミュニティの可能性を与えてくれたと思っている。」30P
「日常のなかで感じる本人の気持ち」
「事細かに本人の意思を採る取り組みも必要なのだが、日常的に本人が示してくれる怒りや喜びを尊重できる心持ちを、ヘルパーが維持できるかが肝だろう。」31P
「知的障害のある人がなにかを決めていくために――知的障害者の自立生活についての声明文より」
 こここには太字で「声明文」から二つの文が引用されています。小見出しを太字にしたので、普通文字で引用文を載せます。
「知的障害のある人たちの周囲が家族と支援者だけになり、インフォーマルな状況が希薄となり、当事者がパワーレスとならないよう具体的な取り組みを持ちましょう。インフォーマルな関係性こそが人としての尊厳を守る力になります」31P・・・?能力論的なニュアンスが気になるのですが、基本的に共鳴し得る提起です。
「体験していないことを想像し判断することが苦手な知的障害のある人たちに対してなされる提案は、体験を踏まえた上で変更が可能なものであるべきであると考えます」32P
「げんちゃんとげんちゃんの家族や知り合いでのミーティング――FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の実践より」
「FGC(ファミリーグループ・カンファレンス)」には注がついています。「本人を支えるコミュニティー(家族、友人、知人)を再構築することによって、一人では解決できなかった問題を解決できるようにする手法。この方法はニュージーランドやヨーロッパの成年後見 制度に代わる本人中心の意思決定の支援方法として実践されている。」35P
「意思決定への支援ではなく協力じゃん?」
「[資料]知的障害者への自立生活への声明文」
 前に引用している文とそれからグループホームの位置づけが書かれています。「グループホームの存在を必ずしも否定するものではありません。地域生活の可能性を検討する中で、本人に自立生活を含む、複数の選択肢が挙げられ、本人が主体的に選択することが可能な状況にすることが大切だと考えます。」34Pとあります。ただ、否定的な側面をいくつか(も)挙げています。

● 高齢者医療における「意思決定」、家族の役割、ガイドライン
横内正利(いずみクリニック委員長)
 この論攷は、母を看取ったわたしの立場で、対話したい貴重な論攷です。しかも著者も書いているように、現在的にますます自己決定という名で、医療の差し控え――わたしはそれを「死へ誘う医療」という情況まできていると思うのですが――が大きくなっている現状を医者の立場から的確に押さえてくれています。――というようなことを考えていたのですが、何かおかしいと思い始めていました。これは医療そのものから来ることではなく、医療の技術が進んで、平均寿命が延びていく中で、それに合わせて福祉政策や医療政策をきちんと立てないで、むしろ政治が福祉や医療のお金を削減していく、そういうなかで、医療や福祉の貧困が起きてくる、ひとの尊厳ということが逆に機能して、「尊厳死」などという言葉が出てくるのです。社会的関係が自然的関係として取り違えられる(マルクスが物象化ということで表現したことです)のです。たとえば、栄養補給がとれないからと頻繁に行われていた胃瘻が、医療報酬で、胃瘻を取るということに報酬がでるようになるなかで、胃瘻自体の差し控えなり、延命処置の差し控えというようなことさえ起きてくるのです。もっといえば、グローバリゼーションの進行のなかで、経済成長が頭打ちになっていくなかで、福祉とか医療費を如何に削減するのかというところに、焦点が当てられます。病院や施設は人件費を抑えないと経営が成り立たない、もうけが上がらないと、人件費を削減する・抑えるという中で、十全な尊厳のある生を保証できなくなるのです。そういうなかで、「ぽっくり死にたい」とかいう言説も広がっていくのです。この論攷は、表面的に動いていることを押さえているのですが、それがどこから来ているのか、ということまで分析してくれていません。こんなことを書きながら、わたし自身いつもの無い物ねだりをしていると反省してもいます。現実に進んでいることを押さえてくれているということで大切な資料なのです。ちょっと間をおいて、もう少しつっこんだ対話が必要なので、それを巻頭言でまとめました。ここではその情報的なことを中心にして、切り抜きメモを残します。
「元気な高齢者」――「弱い高齢者」37P・・・「弱く」している社会的関係――「弱い高齢者」の立場をとらえ返すという作業として
「たとえば、肺炎などで入院して点滴を受けなければならないとき、「わたしはもう十分生きてきた。このうえ点滴までして生き長らえたくない」と言って点滴を拒否する高齢者は少なくない。しかし、それが、その高齢者の確固たる人生観や生死観に根ざした意思表示であることは、少なくとも私の経験においては、きわめて少ない。要するに、「点滴は痛いから嫌」なのであって、決して病気が治らなくてもよいなどとは思っていない。その証拠に、説得して点滴を受けてもらい、疾患が治癒した後に当時のことを尋ねると、「いや、あのときは大人げなくて」と頭をかきながら言うのがオチである。/「弱い高齢者」は、ささいな動機で、入院拒否や治療拒否の意思表示をすることが多いが、一方、そのような意思はまた、ささいな状況の変化で一変してしまう。このような場合、意思は本人(ときには家族も)の願いが揺れ動くままに対応し、これを許容する以外にない。」38P・・・そもそも点滴や輸血を拒否するひとがいるのは極めて少数ではないでしょうか? それも延命処置になっていくのでしょうか? 著者も後に書いているのですが、生きづらい社会になっているとき、ひとはそもそも死へ誘われる、まして医療に生活にカネがかかるということで、しかも医療福祉の切り捨てが行われているのです。だから、死へ誘われている、そのことを押さえないで、まるでひとの自然的な意識として揺れ動いているかのうようにとらえていては、まさに死へ誘われるのです。
「平均寿命の延長とともに、単なる死亡年齢の延長よりもQOL(Quality of Life)が重視されるようになりつつあるが、QOLの維持・改善は医療本来の使命の一つである。一般に、医療には「現在」の視点と「未来」の視点二通りがある。たとえば、苦痛の除去や急性疾患の治療は「現在」の視点であり、疾患の予防や危機管理は「未来」の視点である。例えば、中等症以下の高血圧の治療は、心脳血管障害の予防という意味で、「未来」の視点によるものである。/どちらの視点で考えるかはケース・バイ・ケースであるが、「未来」に対して多くを望めない高齢者は、必然的に「現在」の重要性が増す。このことは、高齢になるほど、また、老化が進むほど顕著になる。」38-9P・・・「視点」を分けることは、高齢者差別の論理そのもの。「健康寿命」とか介護保険制度の「健康の義務規定」にもつながっていること。QOL概念は安楽死のときにも持ち出されること。中身をきちんと押さえ直す必要があります。まさに「障害者運動」がそのことを突き出してきたはずなのです。
「ところで、このような対応は見方を変えれば、次のようにも考えられる。すなわち、「弱い高齢者」に対しては、限られた範囲(治療法/場)内で、治療を試みるのがよいといという考え方である。筆者はこれを「限定医療」と呼び、高齢者医療に特徴的な選択肢だと考えている。/実際、これまでの高齢者医療では、治療法/場の選択について本人も家族も一定のレベルを超えた治療を望まず、このような「限定医療」が選択されることが多かった。/例えば、次の三つが挙げられる。/(1)入院はせず、住宅や施設で可能な医療の範囲内で治療してほしい/(2)手術など本人に多大な苦痛を与える治療をせず、保存的治療のみ希望する/(3)転院はせず入院中の病院で可能な範囲の医療でよい」39P・・・承前。こういう発想があるから、高齢者医療を分ける、すなわち、医療の差し控えという発想が起きてくるのでは? 限定医療は、そもそも医療に対するひとのとらえ方や人間観――世界観の中で発動されること
「ただ、ここで注意すべきことがある。自己決定の内容が、治療法の選択、医療を受ける場所の選択、死ぬことが運命付けられた段階での「死に場所の選択」であれば、問題は少ない。しかし、それが、実質的に「生か死かの選択」になる場合には、きわめて慎重な対応が必要である。やり直しが利かないからである。人間が生き物である以上、根源的に死を望むはずはないことを忘れてはならない。生命の尊厳は守らなければならない。終末期以外の場面では、たとえ自己意識であっても、医療者は「死の選択」は思いとどまるように説得すべきである。」40P
「死亡後に、死因不明のため「老衰死」と診断されることはある程度やむを得ないとしても、生前に、老衰を「死に至る病態」とみなすことは危険である。つまり、老衰の終末像は死でなく不可逆的な摂食困難である。」41P
「しかし、ここに重大な問題がある。摂食困難が不可逆的である確認することが非常に困難だということである。九〇歳を超え、認知症の終末期にある高齢者であってもなお、摂食困難は可逆的であることが少なくない。また、人工栄養を開始して数ヶ月を経過した後に再び食べられるようになる例も稀ではなく経験される。」41P
 摂食困難の三つの対応策(1)人工栄養@胃瘻A経鼻栄養B中心静脈栄養(2)補液のみ(3)補液もしない41-2P・・・(3)に類することとして、そもそも人工栄養をするのは誤飲による誤嚥性肺炎を起こすというところで、それでも経口摂取するという選択肢もありえる。これに関しては、そのひとの世界観や人間観の問題、イリイッチの『脱病院化社会』の自然志向、ただし自然とは何かという問題があります。
「筆者は人工栄養を実施すれば年余の生存が予想される段階で終末期として生を終わられることには強い違和感を覚える。しかし、本人・家族が人工栄養を拒否すけば、それに従う以外はない。」42P・・・むしろ人工栄養をしないように誘う医者が出て来ています。
高齢者の終末期と言われている筆者の指摘する三通り(1)「生命の末期」(2)「老化の末期(3)「みなし末期」42-3P――-「本当は終末期ではないが意図的に末期とみなそうとする「みなし末期」が存在すると筆者は考える。」43P
モーロイ(カナダの高齢者医療の専門家であるウィリアム・モーロイ)が挙げる四つの選択肢(1)緩和ケア(palliative care)(2)限定的治療(limited care)(3)手術的ケア(surgical care)(4)集中治療(intensive care) 43-4P
「このなかで、(「みなし末期」としての)緩和ケアは、治療につながる医療行為を実施しないので、治療の可能性を放棄することを意味する。つまり、緩和ケアを選択することは、終末期でないものを終末期とみなすことになるこのような段階での緩和ケアは日本ではきわめて選択肢となりにくい。なぜなら、(下血の原因である)消化管出血は治療可能な疾患による可能性が高いからである。/次のような見方もできる。ある疾患の発症に際して、その疾患が治癒する見込みがあるのに治癒しないのは、その疾患(ここでは消化管出血)が発症する以前の状態(ここではアルツハイマー病)が、「生きるに値しない」終末期状態であるという前提が必要である。つまり、アルツハイマー病は生きるに値しない、苦痛に満ちた状態であるという前提である。これこそが「みなし末期」の本質である。/また、高齢者の摂食困難に対しても、それが可逆的か不可逆的かの吟味をしないまま、不可逆的なものとみなして点滴などの医療を実施しないのは、延命治療の放棄ではなく、治療の可能性をも放棄することである。つまり、意図的に終末期とみなすことであり、これも「みなし末期」として治療を差し控えることと考えるべきである。/わが国では、この「みなし末期」はどの程度、国民に受け入れられるであろうか。筆者は十年以上前に、このような対応が容認されるかという疑問を提起したが、その時点では、医療関係者の間では容認するという意見はほとんどなかった。しかし、弱いものへの差別と「みなし末期」による看取りはすでに日常化し始めているという見方もある。/なお、前述した「限定医療」は「みなし末期」とは以て非なることに注意されたい。すなわち、「限定医療」では、治療する可能性が十分残され、かつ、治療のための努力が続けられる。この点が「みなし末期」とは決定的に異なっている。」44P・・・そもそも終末期というのは、後になって分かることという話もあります。そもそも、医療の方から規定するのはおかしいー
「多くの「弱い高齢者」では元気なときとは価値観・人生観が変わっている可能性がある。老いを受容した「弱い高齢者」の多くは、過去と決別し、新しい自己に生まれ変わっている。」45P
「老化の進んだ高齢者を理解するには、まず本人の身になって考えてみることが重要になる。」45P――表2「弱い高齢者」を理解するための四つの視点――(1)本人の視点(⇔他人の視点)、(2)現在の視点(⇔未来の視点)、(3)生活の視点(⇔疾患の視点)、(4)生き甲斐の視点(⇔リハビリの視点)
「事前指示書やリビングウィルがあってもそれを鵜呑みにすることは危険である。そして、その場合の家族の役割が重要になる。本人の意思を主体的に推測し決断するのは家族である。」45P・・・ただ、現在的な本人の意思よりも家族の意思を訊くという態勢の危険性を押さえておかねばなりません。家族は時には対立する利害関係者になる場合があります。(上野さん)
「本人の意思が不明かつ、家族の意向も不明な場合」――「(1)同様のケースで取られる多くの選択方法に準じて対応する/(2)生命尊重の立場で考える」――「判断に迷う場合は、生命尊重の立場を選択すべきである。」46P・・・そもそも生命尊重というのは当たり前で、それが揺らいでいるなかで、態勢に流されればどうなるのか、医療理念自体が崩壊しているのではないでしょうか?
三つのガイドライン(@日本医師会の「終末期医療に関するガイドライン」A日本老年学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン」B厚労省「人生の最終段階における医療・ケアのプロセスに関するガイドライン」)の要約と著者の意見46-8P――著者は、@については、チームケアの中のヒエラルヒーを問題にしていますAに関しては、AHN(人工的水分・栄養補給法)導入について書いていますBについては、「終末期医療」ということばを「最終段階」に代えたということで、言葉を代えただけで、結局、何か特別な医療にしてしまっていることを批判しています。そして@ABとも、医療に携わるものは情報を提供するのであって、方針の決定に介入しないという姿勢を示しています。・・・この部分と「まとめ」は全面引用して、そこで、逐一のコメントをつけることを考えていたのですが、前のところから、全面引用になってきているので要約にしました。この部分は医者の規範のようなことを提起しています。わたしは、これらのガイドラインの文面を見ると、特にAのAHNに関する文(*)は、医療の差し控えで、まさに「死へ誘う医療」になってきているとしか思えないのです。何のことかわからなくなるので、もう少し引用おきますがAで、「本人にとっての益と害という観点で評価し」「本人の人生にとって最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても考慮する」という文言がでてくるのですが、そもそも福祉や医療の切り捨てや、貧困層が拡大していく中で金がないとどうなるのか、「家族の事情とか生活環境」を考えると、「仕事や家事ができなくなると、こどものためにぽっくり死にたい」という心理に陥らされるのです。
(*)Aについて、大切なので、もう一段きちんと引用しておきます。「その中で、AHN(人工水分・栄養補給法、主として人工栄養を念頭に置いている)導入に関する意思決定プロセスに言及し、AHN導入および導入後の原料・中止について、医療・ケアチームは次の諸点に配慮すべきとしている。/(1)経口摂取の可能性を適切に評価し、AHN導入の必要性を確認する。/(2)AHN導入に関する諸選択肢(導入しないことも含む)を、本人の人生にとっての益と害という観点で評価し、目的を明確にしつつ、最善のものを見出す。/(3)本人の人生にとっての最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても配慮する。」47P・・・「自己決定」の名による「死への誘い」
「まとめ」48-9P・・・文章を読んでいると何かおかしいのです。「高齢者医療のあり方については、国民的合意が重要であるが・・・」「社会としてはどのような生も受け入れるべきである。」という言葉が出てくるのですが、自らが社会の一員として社会を構成してしまっている、構成させられている責任という観点が欠落して(投稿文のバザーリアの指摘する分業の問題に留意)、医者や医療関係者の倫理や規範を問題にしているようにしか思えないのです。もうひとつ書いておくと、確かに共同性は、ひとの生を支え合うために必要なのですが、社会や共同体がひとの生を死を決定することでないのです。著者は医者で、そこで医療関係者へ向けた文としてこれを書いているのでしょうが、そしてその範囲では、明らかに、医療を受けるひとの「真の利益」をおさえてとても共鳴できる文を書いてくれているのですが、いつもの「ないものねだり」のことを書いてしまいました。
● ALS患者として生死の意思決定をみつめて――人工呼吸器装着・尊厳死について 
岡部宏生(日本ALS協会理事)
「ALS」のひとたちの中でも、よく見掛けるダンディなひとです。人工呼吸器をつけるかどうか迷い、また「死にたい」という思いをながく持ち続け、NHKで「安楽死」のためにスイスに行ったドキュメンタリーの番組もとりあげ、自分は「死にたい」という思いから脱したところでも、「死にたい」という思いを簡単に否定できないということを書いています。どうしてそのようなところに陥るのかということも自分でちゃんと分析をしているのですが、またそのうちに、きちんと「死にたい」というところを否定するところでの対話ができるようになっていくのではとも、思春期に「障害者宣言」をなしえない中で、自死願望をもち続けていた立場から思ったりしています。そのあたりは、「ぽっくり死にたい」とか「障害はないにこしたことがない」というような感情的なところを含んだ論理、ソフトな優生思想に批判をなしきるなかから、抜け出せる途があるのではと思ったりしているのですが。
● ハームリダクション──構造的スティグマによる「意思」の蔑視への反論
古藤吾郎(日本薬物政策アドボカシーネットワーク)
 この著者は「(薬物を)どうしてやめなければいけないのか」58Pという、この社会の常識とされることへの問いかけをしています。この特集の「意思」ということにつながって、そこで先入見的な構造的スティグマを問題にしています。ハームリダクションとは「社会構造による害を減らし、人権や意思を尊重する手法」冒頭内容紹介文58P
以下、切り抜きです。
「やめなくていいと言いたいのではない。やめたいと望む人が、依存症からの回復のためのさまざまなプログラムにつながるのはとても重要なことである。ただし、それはひとつの側面であり、それがすべてという訳ではない。私が受けた質問に共通していたのは、「薬物をやめるべき」という前提から投げかけられていたことだった。そこだけを取り上げて話すことは、私にはどうしても難しい。」59P
「ルールを破ったことは犯罪行為として刑事司法で裁かれながら、やめさせる手段は、その犯罪行為が薬物依存症という病気に置き換えられ、病気に対する治療プログラムを強制的に受けさせるというシステムになっている。/何かをやめさせるために、その人が病気であると決めつけ、治療を受けさせるという取り組みでよくなった社会は、世界中に存在しない。日本も同様である。薬物に関連する問題はここ何十年を振り返っても良くなっていない。もしそれが効果的であるならば、アルコール依存やニコチン依存もそうすれば良いのかもしれないが、そうはしない。単にエビデンスがでていないからというだけの話ではない。そうした向き合い方が、本人の意思を、そして権利を蔑ろにする行為だからである。それなのに、違法薬物だと疑問ももたれずに適用されてしまう。それゆえ、こうした社会構造に対して世界中で異議申し立てが起きている。こうした流れのなかで、そうではないアプローチもまた世界各地で展開されている。それがハームリダクションである。」59-60P
「ハームリダクション(Harm Reduction)とは、害(harm)を減らすこと(reduction)という意味である。薬物使用、そし薬物政策・法令がもたらす害(ダメージ、悪影響とも言い換えられる)を最小限にすることを目指すプログラム、実践及び政策と定義づけられる。」62P
「最新のものでは、薬物依存症などの使用障害のある人は、薬物を使用する人のうち一三%と示している。」63P
「一方で。薬物使用がある人のなかには、その背景に摂食障害、発達障害、知的障害などを抱えていたり、あるいは暴力被害のトラウマなどを抱えていたりすることも相対される。さまざまな困難や傷つきがあり、薬物(覚せい剤や大麻だけでなく、アルコールや処方薬・市販薬など)を使うこともしながら、日々を乗り越えているような場合、司法により一定の期間だけ、特定の薬物の断薬を優先させることで、本人の健康状態や困難な生活に前向きな変化が起きると捉えることはなかなか難しいように思える。むしろ、そうした傷つきなどケアせずに、ただ無理矢理薬物をやめさせようとすることは、解決するというより事態を悪化させることになるのではないかとさえ懸念する。」64P
「構造的スティグマとは、規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている様々な構造的要素に宿っているスティグマである。」65P
「同じ薬物を摂取しても住む社会によって結果が違うということは、人生を台無しにしているのは薬物そのものではなく、薬物政策であることが証明される。」65-6P
「一方で効果があるというエビデンスがでているものもある。それらに共通するのは、刑事司法手続きに最初からのせない、あるいは入り口の段階で支援につなげているものである。」66P
「支援機関は薬物使用に限らず包括的なアセスメントを行い、本人が求める支援を提供できるように調整する。本人が何かしらのプログラムに参加するかどうかは一切強制されるものではない。必ずしも断薬を目指す支援を求めなければいけないというものでもない。ただ、こうした関わり方による再犯が減少しているのである。」66P
「ハームリダクションは当事者たちにより発展してきたアプローチである。当事者たちのアイデアがたくさん詰まっている。そのアイデアは、薬物を使用する人の健康と福祉を、そして命を守るものとして生み出され、実践されている。」67P
● つながりの貧困から考える「8050問題」
川北稔(愛知教育大准「教授)
 最初の内容要約に「「8050問題」とは、長期ひきこもりをはじめ、高齢化・未婚化の進展・雇用の変化によって生まれた、高齢の親と中年の子どもによる世帯の困難という意味。」68Pとあります。
高齢化・つながりの希薄化・ひきこもり、いろんな問題が重なるところで現れていることです。以下切り抜きメモ。
「内閣府が二〇一九年三月に発表した調査では、四〇歳から六四歳までの年齢のひきこもり状態にある人が全国で六一・三万人と推計された。」「二〇一五年の国勢調査では、四十代・五十代の未婚者で、親元に同居しながら非就業の状態にある人が七七・三万人だった(二〇〇五年には五一・九万人)。これは同年代の男性のうち二・八%、女性のうち一・七%に相当する。」68P
「子育てや介護の社会化が進んだ現代においても、成人以降まで育った子どもがつまずいたとき、その対応は親の責任になりがちである。人生前半の社会保障が手薄で、実際に若者が頼ることができる制度が乏しいこともあり、家族だけで問題を抱えざるを得ないのだ。」「ひきこもる人に直接働きかけるのは難しいので、支援はまず周囲の家族関係を調整すること(「家族支援」)にはじまり、やがて本人を対象にする「居場所型支援」「就労支援」へと向かうというアプローチを採用することが多い。ひきこもり状態が慢性化し、自室や自宅へのひきこもりが続いている場合には、家族の態度が変容することで本人の安心感や行動力が回復されることも確かだ。」69P
「ひきこもり経験者の勝山実は、ひきこもる自身の状況を「専業主婦」に対して「専業子ども」と表現していた。」70P
「親たちは、ひきこもる子たちに接する際に、「自立してほしい」と口で言いながら、実際は子どものために甲斐甲斐しく世話を焼きがちであると指摘される。こうした「二重基準」の背景に、上記のような近代家族的な親子観が関係しているのではないか。「大人であること」は就労自立などによって核家族の再生産に寄与できることに等しい。その資格のない子どもは、あくまで家族内で親に従属する依存的な存在として遇される。ここに欠けているのは、成人の子どもと、同じ家族として対等に接する姿勢や、就労自立に至らなくても家族から自立できるような社会制度である。」70-1P
「そのように個人に関する情報を包括的に集め、きめ細かく提案していくためには、伴走型支援と呼ばれるように個人を包括的・継続的に支える視点が欠かせない。それに対して従来の支援は、利用する人が制度の枠組みに合わせざるを得ず、たとえ形式的には制度が紹介されたとしても積極的な利用に結びつかないことも多かったと言える。/ひきこもり支援においては、「本人が同意しないので支援を開始できない」「親も子も、当座は現状の生活に満足しており、状況を変えたがらない」と言われることが多い。ここで考えたいのは、支援への「同意」と言われる場合、どのような意思が想定されているかということだ。」73P
熊谷晋一郎さんの有名な提起――「自立とは他者や制度に依存していないということであるという常識を反転し、むしろ多様な依存先をもっていることを自立とみなす考えを提起した。」73-4P――ここから「依存先を適切に分散するための方策を考えてみたい。」として「家族単位での支援のニーズを考えるのではなく、それぞれの個人を対象にニーズを幅広く探ることが必要であろう。」「日本の福祉制度は申請主義と言われるように、本人の申請がなければ支援が開始されない点にも限界がある。制度に人を合わせるのではなく、人に合わせた制度の紹介が柔軟に実施されなくてはならない。」「またフォーマルな制度の紹介だけではなく、ボランティアグループによる同行支援のように柔軟な支援メニューの導入も求められる。パーソナルな関係を築きながら相手のニーズを引き出すことも伴走型支援の役割となる。」「「本人の意思」は、他者や環境から切り離されたかたちで存在しているわけではない。「ひきこもり」などのカテゴリーのもとで意思を一般化したり、支援拒否というかたちで固定化したりするのではなく、意思そのものを多面的にとらえ育てていくような取り組みが求められている。」74-5P・・・「障害者運動」の中で語られてた支援のあり方の援用でもあり、まさに「「障害者」が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会」――障害概念の関係モデル的拡張
● 親の立場から「法人後見」を検証する――「法人後見」は「支援付き意思決定(障害者権利条約十二条)」に対応できるのか
東 京香
 成年後見人制度自体がいろいろ問題を指摘されていますが、「法人後見」はさらに多くの問題が出て来ている様です。親の立場からの検証です。以下切り抜きメモ。
「法人後見のメリットとして@継続的な後見業務が可能になること、A効率的な分業システムが可能であること、B後見登記には法人の名称と住所しか記載されず、構成員の名前が表にでないため、心理的負担が軽くなること等が挙げられる。」76P・・・いずれも同じ項目でデメリットがとらえられます。下の項目で一部書かれています。
「本人や家族からしたら、誰(個人名)が自分の後見人なのかもわからないような状況で施設に入れられたり、精神科病院に入院させられたり、家を売られたりする可能性があるのだ。「顔の見えない法人後見」は、ある意味では個人の後見よりも恐いかもしれない。」77P
「葬儀社が法人後見をやっている例もあると聞く」77P・・・一瞬躊躇があるのですが、営利主義的でなければ、看取りというところからつながるところかもしれないとは思います。
(厚生労働省文書によると)「法人後見の実態として、ほぼ面会に来ない(電話連絡はある)が一九・七%、ほぼ面会に来ない(電話連絡もない)が一四・八%となっている。そのなかには、面会にも来なければ預金通帳の管理すらしていない法人(営利法人)もあるという話である。こういった法人までもが、家裁によって専任されているというのが現状のようだ。79-80P
「個人情報の保護は、単なるプライバシー保護ではなく個人の人格の尊重の理念(第三条)に基づくものであり、事例Aの流れ作業のような「預金通帳の管理」も、事例Cの社協の「自治体の調査権を駆使した徹底的な事前調査と情報共有」も、人格尊重からは程遠い。」82P
「自分の知らない人が自分のことを知っているという気持ちの悪さ」82P
(大阪の意思決定支援研究会の「ガイドライン」をとらえ返した上での後見人制度の問題点)「問題なのは、制度を温存した上での、「意思決定支援」は、家族や支援者を排除するための装置になりかねないということだ。後見人や法人後見にとっての都合のいい本人の「意思」だけが尊重され、都合の悪い「意思」は、削除されかねないということである。」83P・・・32PのFGCにリンク
(条約関係文書の)「意思決定能力不足が法的能力の否定を正当化するものとして利用されてはならない。」としているのに対して、大阪の「意思決定支援……」は「意思決定能力」の有無を根幹にしている点も、大きな違いである。」83P・・・「能力」ということでの常道的分断、パーソン論批判の観点からのとらえ返しの必要も
「条約が重視しているのは、関係性における「支援」であって「意思」ではないと個人的には解釈する。/そして、成年後見制度も、法人後見も、残念ながら条約とは、目指す方向が違っていると受け止めざるを得ない。」83P
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インターチェンジ 交差点
行政の窓口 地域共生社会への取り組み――子ども生活・学習支援の現場から 千野慎一郎
切り抜きだけ。「制度は柔軟性に乏しく、物質的な給付のみでは様々なニーズに対応がで
きず、「制度の限界」「制度の狭間」が 顕在化しました。」・・・わたしは柔軟性の問題ではなく、むしろ福祉の根本理念に問題があるのではと思います。現場で、当事者の立場に立って活動しているひとと、国の「恩恵としての福祉」路線と衝突していくのです。
教室の中で ともに過ごす子どもたち  川口久雄
「バギーで過ごすAさんを迎えての初めての運動会。対応のコントロールが一番の課題で
したが、・・・・・・」86Pに始まる共に学び、育つ教育の実践の記録です。
街に生きて 自分の未来を切り拓く  山口和俊
 自営業の両親のもとで、「先天的プレクチン欠損症という障害により、表皮水疱諸と筋ジストロフィという二つの障害をもって生まれました。」88Pとあります。で、ビアカウンセリングに参加し、あちこち動き回り、自立生活に踏み込み、自ら自立生活センターをたちあげ、「障害者のエンパワーメントに基づく自立支援を中心に権利擁護、社会啓発のための講演など、いろいろな活動を行っています。どんなに重度の障害があっても、他人の助けを借りながら、「自立」して暮らせる社会は、誰にとっても安心して生きられる社会だと信じて、これからも、長崎から全国へ発信していきます。」89Pと文を結んでいますー
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障害学の世界から 第八十四回  長瀬 修
障害者権利条約の日本への事前質問事項――国際的な人権の取り組みの役割
「障害者権利委員会は、日本政府に対する事前質問事項を9月末にスイスのジュネーブで  採択した。」「本稿では、日本フォーラム(JDF)の一員としてブリーフィング・ロビーイングに携わった経験をもとに、国際的な人権の取り組みの役割について考えたい。」90Pとして提起されている連載文です。切り抜きを少し。
「事前質問事項を見る限り、災害と情報アクセスの問題を委員会は最重要視している。/しかし、他にも深刻な課題はある。例えば、分離された環境で学ぶ子どもたちが激増しているにもかかわらず、教育(第二十四条)に関する質問が三つしかないことは、私たち日本の市民社会の情報提供の努力が足りなかったことを如実に示している。」91P
 そして、アジアの国にはパラレルレポートの提出が困難な国があることを示しつつ、最後に「事前質問事項の採択を含め、障害者権利条約の審査過程は、こうした他国の人権の現実に接する機会でもある。障害分野も含め、日本の人権について課題が多いことを私たちはよく知っている。だからこそ障害者権利条約の実現を目指す際には、自国での人権の取り組みの延長線上として、他国の人権の状況にも関心をもち、可能な限り関与を続けたい。」91P・・・そもそも権利条約は、障害規定もきちんとなされないままに案が作られ、そして締結された条約で、いまだに障害の規定もきちんと整理されていません。それは、ひとつには、今の社会のしくみからする世界観を問題にせざるを得ないからです。社会の変革のなかで、そこへ向かう運動の中で、障害問題のパラダイム転換の中で、障害問題を真に解決し得る運動の方向性を示していく必要があるのではとも思っています。
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障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十六回  中西由起子
権利条約の政府報告J 第三十二条 国際協力
 これも連載文。「国際協力は特別な義務とされ、途上国にとっては支援の授与が第一義であるが、アジアの成長に伴い途上国間の協力も多く報告されている。いくつかの特徴的な活動をまとめてみる。」92Pとして書かれています
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季節風 
「舩後、木村両議員の国会における合理的配慮について」堀利和
 堀さんはかつて参議院議員でした。その立場から、先の参議院選挙で当選した、「れいわ新撰組」の木村、舩後さんの議員活動の課題をあげてくれています。
 さて、堀さんは課題を二つあげています。ひとつは、国会の中での介護保障の問題と、もうひとつは、時間的保障の問題です。前者に関して、二人の議員からは「重度訪問介護」を使わせるようにと提起していたのですが(これにはわたしも違和を感じていたのですがまとめきれないでいました)、堀さんは自分の議員としての経験から、国会の枠組みの中で今回特別に認めさせたことを、特別ということでなく、必要なひとには認めさせるということを提起しています。「労働者としての私と生活者としての私とでは、同じ「私」でも、明らかに立場は異なる。福祉と雇用の切れ目のない政策とはこのように継続した政策体系を構築することであると言える。以上のように財源をどこからひっぱってくるかかがきわめて重要なことである。」「結論としては、労働政策としての制度が未だ充分用意されていない現状を踏まえ、二人の議員の「介助」問題はすぐれて大きな問題となった。それを今後どう活かすかが問われている。」95Pとしています。・・・現実的問題としてはそうなるし、議員の活動での課題として、仕事で介助を無償でつけて仕事ができるような制度を作るということになるのだと思います。だが、そもそも障害問題のみならず、差別ということを考えるとき、どうして個人の生きる営為が、「個人的営為」と家事と労働に分けられ、労働第一主義的になっていくのかという今の社会のしくみ自体をとらええ返し批判していく必要があるとも言いえます。
 後者の時間問題ですが、そもそも今の議会主義的民主主義が死に体ともいうべき状態になっているのは、時間的制約で、時間が過ぎたら強行採決でおしまい、ということで、形式主義的に時間が過ぎるのを待つというようになっていてしか、質問にちゃんと答えないで、自分の好きなことをしゃべるという情況なっていることをおさえねばなりません。それでも、著者がいうように「合理的配慮」という文言が法律に入り(この言葉自体にも、理念のようなことにもわたしは批判があるのですが)、そのことを使っていくということで、「たとえば、視覚障害者にあっては、四〇年余り前から公務員採用や大学受験では試験時間が通常の一・五倍の延長が認められている。」97P。過去の運動と実例を使って、少しでも「必要に応じてとる」というところに持って行く必要があると言いえます。それがとりわけ、舩後さんの大きな課題としてあるのではとも思えます。
「第十九回障害児を普通学校へ全国連絡会 全国交流集会 inちば――「あたりまえにみんなのなかで〜勝手にきめないで、自分のことは自分で決めるから〜」橋本智子
 タイトルにあるように、全国連の報告文です。キャッチフレーズ的に印象に残ったことを抜き書きしておきます。
 熊谷晋一郎さんの講演の話が出ています。「熊谷さんは「意思決定支援」についても、@情報へのアクセス保障、A情報の知識化(情報を集めて、わかりやすく、検索しやすく整理する)、Bロールモデルと出会う機会の保障、Cお試し機会の保障、D本人の歴史やパターンをよく知る人が周りにいること、E依存先の分散、の六つの柱を中心にわかりやすく話してくださいました。」98P・・・わたしは特にBを中心に中身ということをきちんと押さえる必要があると思います。今のこの社会で、障害差別の根拠となる競争原理に乗って、この社会で成功するロールモデルということと、競争原理を批判する「障害者運動」主体として定立するロールモデルははっきり違うからです。「情報」ということの中身自体が問題になっていくのですー
「「いまいるここを、いいところに」「よけた石は子どもにあたる」。千葉の「会」で開催している就学相談会で参加者に伝えている言葉です。」「「何かをちゃんとできるから自立生活」ではなく、「何々が出来るようになったら何をしてみる」ではなく、全てが実践との考えだった。」99P・・・実践のなかでつかんだ言葉は響きますー
「地元に仲間がいなくても他地域の仲間に呼びかけ一緒に活動し、また、相談会や勉強会を開催して新たな仲間とつながることもできます。そして仲間と一緒に壁を越え道を切り開けば、後に続く人はより容易に壁を越え道を通ることができるようになっていきます。/障害の種類や程度に関係なく共に学び育つことが「あたりまえ」になるために今後も各地の仲間がつながり情報交換をして、一緒に声を上げ活動を続けていきましょう。」100P
「働きたくても働ける環境にない、全ての人へ――シゴトシンク北海道の取り組み」
清野侑亮
 障害問題に限定しないで、「働きたくても働く環境にない」ひとたちへの起業的新しい取り組みの話、とても刺激的な取り組みです。
 印象に残ることを切り抜きメモとして残します。
「市の指導監査課から来た連絡は「もしも障害者のための事業費で障害者ではない人の支援をしているのならば認められない」という信じ難い内容でした。見当違いな指摘をされたことに愕然としたものです。ですが、これがきっかけとなり市長と会って話すことで、シゴトバンクは正式に函館市の生活困窮者自立支援法における中間的就労の認定団体になることができました。」101P・・・「災い転じて福となる」「瓢箪から駒」のような話――実践の持つ意味、障害概念のとらえ返し
「生徒さんたちは、卒業を迎えるその日まで様々な手厚い支援を受けます。しかし、それでも就労へのモチベーションの上がらない生徒さんが存在している理由に、私たちは一つの仮説を立てました。それは「学校のカリキュラムでは、働いてお金を得る実感を得られていないから」というものです。」102P・・・お金を介さないでも、仕事の魅力で意欲は湧くのでは? 
「ともすれば「福祉的支援」と「お金」はどこかでつなげにくい雰囲気があるように感じます。ですが、お金が生きるために必要不可欠なものであることに変わりはありません。適切な働き方で対価を得るという体験を学生のうちに蓄積していただく機会の提供を、今後も発展させていきたいと考えています。」102P・・・必要なのは生活物資で、お金ではありません。お金が必要なのは、生活物資を手に入れるためにお金を必要とする社会のしくみゆえです。お金で関係がねじまがって行く経験をしていないのでしょうか?
「現在シゴトバンク北海道では就労支援型B型、就労困難者支援事業、児童自立援助ホーム、地域活動支援センターの四事業で活動しています。」102P
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車椅子で宇宙(うみ)をわたる(第二回)  安積宇宙
ひとり旅――わたしはどこにでも行けるという実感
「四年前から、ニュージーランドの大学でソーシャルワーカーになるべく学んでいる」著者が「卒業旅行のようなものだ」というアメリカへの旅行をした経験を綴った文です。
「子どもは親の背中をみて育つ」というのですが、それだけでなく、「わたしはどこにでも行ける」ということを、母親の遊歩さんを見て、実際にそれを自ら実践していく様子、アメリカへの旅行などを通じて学んでいくようすがとらえられます。「障害者」の未来を実践から切り拓いていく可能性を秘めた若いひとの存在をここに見ることができます。
 これも切り抜きメモをー
「そんなわけで、私の最初のひとり旅は、無事終わりを迎えるまでに一悶着あった。けれど、ひとりでも周りに人がいてくれれば、どこまでも行けるとわかった、とても貴重な体験だった。」「そして、アメリカの空港のカウンターにいたスタッフさんのように、横柄な態度をとってくるような人もいた。でも、それに対して小さくならず、「私はこうしたいん
だ!」と主張、交渉し、周りの人の手を借りることができれば、道が開けるということも学んだ。」109P
誰もが性的人間として生きる(第一回)  河東田博
知的障害者のある人の性への社会的圧力
 新しく始まった連載です。研究者としての「最後の仕事」に著者はこのテーマを選んだようです。ノーマライゼーションの理念として、「障害者」も非「障害者」と同じように生活するというテーマがあり、そのひとつに、性があります。優生手術がその極としてあるのでしょうが、先日国会で、自民党の女性議員が、夫婦別姓問題を提起している議員に「だったら、結婚しなくていい」とかヤジを飛ばしました。自民党のみならず、右翼的保守のひとたちが、性教育を進める「養護学校」に圧力をかけたとかいうこともありました(七生養護学校)。わたしとしては、むしろ差別的にならないようにと理念的にフェミニズムの学習をかさねてきたのですが、実践的にひいてしまった負の歴史をもつ立場のわたしとしては、その総括の問題があるのですが、・・・。
 連載なので最後にまとめたいと思いますが、これも印象に残ることの切り抜きメモを残します。
「キャリア人生「最後の仕事」として選びたいと思ったのが、長い間疎かにしてきた「知的障害者のある人たちの性」の問題だった。」110P
「わが国の知的障害のある人たちの性をめぐる問題と照らし合わせながら、「誰もが性的人間として生きる」と題して本連載を書き進めていきたいと思う。」111P
「シリーズ第一回目の今回は、知的障害のある人たちの性が如何に抑圧され、性を語ることさえ認められず、性的人間として生きることも認められないできたかを中心に記していくことにする。」111P
「しかし、知的障害のあるひとたちの性の問題は、いまに始まったことではなく、長い歴史的・社会的営みのなかで、特に意識的に時に無意識的に、社会によってつくり出されてきた差別的事象なのである。そこで、過去から現在に至るまで、どのように知的障害のある人たちの性が差別の対象とされてきたのかを見ていくことにする。」111P
「福祉国家を目指すスウェーデンでも、福祉国家建設に支障があると思われた障害のある人たちに「性的人間として生きる」ことを認めず、奪い去ってしまう法律を制定する動きを始めた。一九四一年制定の「生物学的に劣った人々の不妊・断種を認める法律」がそれである。その結果、この法律は一九七五年の「婚姻法」施行とともに廃止されたものの、一九三五年から一九七六年にかけ、六万二千人(推定)もの人たちに不妊・断種手術が行われていたという。一九九七年九月二日付の読売新聞では、一九〇七〜一九六〇年代のアメリカで六万人(推定)一九二九〜一九六七年のデンマークで一万一千人(推定)、一九三四〜一九七六年のノルウェーで二千〜一万五千人(推定)、一九三五〜一九七〇年のフィンランドで一万一千人(推定)もの障害のある人たちが強制的に不妊・断種手術を受けさせられていたことが報道されていた。いずれも福祉先進国でなされていた忌まわしい所業である。」112P
「歴史的・社会的経過のなかで意図的につくられていった知的障害のある人たちの性に対する偏見や社会的排除は、概ね次のような理由からだった。//・知的障害のある人たちは、身体が成長しても性的には成熟しない。/・もし仮に、性的に成熟しても、彼らには、性的成熟を統御できる力がない(または、弱い)。/・彼らには、結婚生活を維持する能力がない。/・彼らには、子どもを育てる能力がない。/・彼らに性の知識を与えると、性の加害者になるのではないか。」113P
「子宮摘出手術を正当化する医師や関係者・親・時に障害のある人たち自身の発言(仮に一部であっても)には、今日もまだ消えることなく残り続けている障害者排除の考え(社会的迷惑・病害論)、当事者主体を忘れた支援者中心の福祉(支援)のあり方、誤った解釈(代弁者中心)のインフォームド・コンセント、障害のある人たちが性的人間として生きることを妨げる社会的風潮と選択権・自己決定権の無視など、実に多くの問題が存在していたことを物語っている。」「このような私たちがもっている無意識の差別意識は、知的障害のない人の無知や偏見に起因することが多く、歴史的・社会的に犯してきた過ちであった。」113P・・・社会構造に根ざした差別の問題のとらえ返しも
「ノーマライゼーション原理は、誰もが性的人間として生きることを妨げられない社会理念だったのである。」115P
「例えば、一九七七年になされた大井―室橋論争が良い例である。これは、元特別支援学校(養護学校)長の室橋正明が知的障害のある人の結婚の四条件(@経済生活が確立されているかどうかA生活処理能力B性の問題C出産・育児の能力)を提示したのに対して、元東京学芸大学教授の大井清吉が新たな結婚の四条件(@精一杯働くことA社会的手だてによる援助B性教育と自然な感情の成長C妊娠中の配慮と子どもをもつことによる飛躍的成長発展への援助)を示したことを指している。今日では大井の考えに沿って社会的支援がなされるようになってきているが、周囲の無理解からいまなお深い闇のなかに置き去りにされている知的障害のある人もいる。」115P・・・そもそも「条件」などという議論のおかしさ
「(メディアから性的情報が流れてきているのに)一方親や関係者は、相変わらず過保護・心配性・過干渉で、リスクを冒す尊厳を妨げ、情報を遮断し、無知を再生産する役を担い続けている。何も伝えず無知のまま放置しておくが故に、理想と現実のギャップの中で様々な不安・悩み・葛藤を抱え、ますます情報処理ができなくなり、無知を再生産し、ゆがんだ性的人間像をつくりあげていってしまっているのが実態である。私たち支援者もコミュニケーションの仕方や人間関係のあり方を学ぶ機会が十分にできないまま知的障害のある人たちと接しているのが実態なのではないだろうか。」117P・・・「知的障害者」の問題を論じているのに、「無知」という言葉を使うこと自体のおかしさ、「「何にも染まらない状態」を設定している」ということの批判なのでしょうが。
「知的障害のある人たちの性に関する事柄は全ての人に関係する重要な問題であるにもかかわらず、偏見や誤解または情報不足から、これまであまり問題にされてこなかった。むしろ、無視され、時として迫害されてきた。しかし、時代は大きく変わってきた。知的障害のある人たちに対する否定的なものの考え方や性に対する物理的・心理的障壁と偏見や誤解を取り除き、性や結婚の権利を獲得していくことが早急に求められているのである。」118P
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「現場からのレポート」
● 公立福生病院透析中止事件と医療の変質──提訴についての弁護団の見解
冠木克彦(弁護団長)
 昨年八月に起きた「公立福生病院事件」のまもなく始まる裁判の弁護団長の著者の案内・解説の文です。わたしには「障害者関係裁判」支援のトラウマのようなことがあり、今ひとつきちんとかめていないのですが、それでもいろんな関わりからこの事件の集会などに何度か参加しているので、大体把握していた内容なのですが、カルテに関することがくわしく書かれていることが参考になりました。これは、医療が「死へ誘う医療」として出て来た「医療の荒廃」のようなこととして、母の介護の経験ともリンクして、とらえ返そうそうとしています。そしてわたしの中にいろいろ情報がすでに入っていて、メモが備忘録的性格としては、新しい情報に偏りそうなので、切り抜きメモを出すのは止めます。貴重な文なので、本文にあたってください。なお、この「通信」の巻頭言にリンクしています。一度、この事件については、わたしなりのまとめの文を書こうと思っているのですが、・・・。
● 事前質問事項採決に向けた国連障害者権利委員へのブリーフィングを経験して
曽田夏記
 これは、この号の長瀬さんの文とリンクしています。国連障害者権利委員会へのブリーフィングの体験記録です。ひとつ押さえておかねばならないことは、政府は人権に関する国連からの勧告をことごとく無視続けているということです。ですから、これは著者も書いていますが、国内でのその無視続ける政府への批判とリンクさせなければ、現実的な改革は不可能ということがあります。ですが、このブリーフィングに参加しているひとたちにとって、他の「障害者」の抱えている、抱えさせられている問題を学ぶ(著者には以前カナダ政府の審査をジュネーブで初傍聴して、そのときの感激の体験もあったようです)、また相手(委員)が何を考えているのかをとらえ働きかけるその手法を学ぶという意味があるようなのです。このあたりはわたしは論破型の対話に偏重していたことで、このひとたちの説得型の対話ということの意味ということを、この文から考えさせられました。わたしはそもそも障害と言う概念自体、ことば自体も様々なのに、「ワンチーム」と言っても、こちら側がまとまっているとはとても言えない情況で、どう相手を説得できるのか、そもそも説得する内容は何なのか、そのあたりの詰めが当然必要になっていると思うのです。繰り返し書きますが、障害ということの規定さえきちんとできていない情況をなんとかしなくてはとわたしは思っています。
 後は切り抜きメモを残しておきます。
「二〇一九年九月二十五日、ジュネーブでの会期前作業部会第十二会期において、日本政府に対する事前質問事項(List of Issues)が採択された。採択に先立ち、日本から障害者団体をはじめとする六つの団体が本会期に参加し、障害者権利委員へのブリーフィングを行った。筆者はDPI会議特別常任委員として、JDF(日本障害フォーラム)によるパラレルレポート作成に約二年間関わってきた。本稿では、@現地におけるブリーフィングの模様、Aブリーフィングが果たした役割と今後の課題について述べる。」「事前質問事項採択に向けた現地でのブリーフィングは、大別すると以下の二つであった。一つは、会期前作業部会のプログラムとして実施された、日本の市民社会から権利委員会へのブリーフィング。もう一つは、上記のいわば「正式」なブリーフィング時間外に各団体が個別に権利委員にアポイントをとって実施した個別ブリーフィングである。なお、今会期に参加し日本の事前質問事項採択に関わった権利委員は全六名であった。」131P
「日本という国の行政単位や精細な法制度にはじめて触れる権利委員にとって、レポートを読んだだけ、また一往復程度の質疑応答では、なかなか「本条項における日本の一番の課題は何か」「その課題を解決するためには、どのような勧告を出すべきか」「逆算して、(今回は)事前質問事項で何を聞くべきか」というところまで理解することは至難の業だろう。その意味でも、回答する障害者団体には、権利条約が求める内容や他国の法制度と比較し、日本の制度のどこを変えることが必要か、そのためにはどうすればよいか、を端的に回答する力が求められていると感じた。」132P
「ブリーフィングの直接的な役割は、良い事前質問事項・勧告を引き出すことだろう。ただし、より大切なことは、ブリーフィングの結果どんな勧告になったかではなく、その勧告を携えて具体的な制度改革につなげていけるかだと思う。」「市民社会によるインプットと権利委員会によるアウトプットは、必ずしも直接的な相関関係がある訳でもないと感じた。それは、権利委員会が短期間で全く未知の国の課題を的確に把握する作業の限界なのかもしれない。」134P
「市民社会によるブリーフィングは、一時期のイベントではなく、未来を見つめたプロセスである。「各国語の」のステージの運動も見据えて、私たちは二〇二〇年夏の「審査(建設的対話)に向けたブリーフィングの準備をしなければならないだろう。」135P
● 入所施設からの外出の現状――養護施設自治会ネットワークの外出アンケートから
松浦武夫
 そもそも外出以前に、政府も「地域で生きる」という方針を出しているのにどうして施設が増え続けているかの問題があるのですが、そのあたりは、外出しようという気持ち自体が、施設の中で生活するということのなかで削がれていくということがあると、思えるのです。だから、制度の問題として外出をきちんと要求できる制度を作るという意味はあるにせよ、そもそも施設が何をもたらすのかという分析が必要なのだと思います。著者も少しそのようなことは書いているのですが、まあ、施設の職員の立場から、みずからの存在自体を否定する内容を出すのは難しいとは思うのですが。
投稿
●フランコ・バザーリア/大内紀彦・鈴木鉄忠訳「バザーリア講演録」より「健康と労働」
 バザーリアはイタリアの精神病院解体の運動を進めたということで有名なひとです。これは、バザーリアがブラジル各地を講演して回った記録で、本(邦訳『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!――イタリア精神保健ことはじめ』)になっているところから外したものを掲載した原稿です。この講演はブラジルの労働組合の招請で、テーマが「健康と労働」となったようです。バザーリアは、まもなく亡くなっているので、「遺言」的な内容にもなっているとのことです。切り抜きメモを残します。
「まずはっきりさせておきたいのは、私は労働組合員ではなく、医師だということです。医師が仕事をしているのは分業体制を基本とする社会です。その社会では、分業が働き手の労働条件を理解するための重要な要素になっています。このことが、専門技術者を単なる技術者としてだけでなく、政治的な立場におくことにもなります。」143-4P――「専門技術者」に訳注「バザーリアは、専門的知識を備えたという側面と、社会に生きる一人の人間として、政治的な社会参加(「アンガージュマン」というルビ)を果たすべき存在という二つの側面から、医師などの「専門技術者」の役割について論じている。さらに、例えば医師が、薬の処方という専門技能を要する行為を通じて、結果的に不平等な社会秩序の維持に加担しうることに、バザーリアは警鐘を鳴らしている。」154P
「マニコミオで働く医師であり、精神科医でもある身として、私は患者たちの誰もが労働者であり、彼らは例外なく貧しいということを知っています。」144P――「マニコミオ」に訳注「「マニコミオ」は、「精神病院」を意味するイタリア語の俗語表現で、軽蔑的なニュアンスを含む。バザーリアは、精神病院が「治療の場」ではなく、入院患者の自由を奪う「施設化の場」であると考え、この表現をしばしば用いた。」154P
「患者たちの誰もが貧しく、彼らは病院という施設によって破壊されていますが、こうした事実について考えてみる必要はないのだろうか。こう問いかけてみると、医師はとたんに権力の問題に向き合わされることになります。しかし、こうした立場を誰もが受け容れているわけではありません。実際のところ、多くの専門技術者たちは、専門家として役割をこなしているだけで、それ以上のことを行っていません。」144P・・・専門性をもった自己の抑圧性の自覚
「この問題は、専門技術者にとってだけでなく、政治家や労働組合員にとってもいっそう深刻です。一般的に言って、政治家や労働組合員たちは、福祉の問題と労働の問題の関連を理解していません。・・・・・・なぜなら政治家にとって、福祉と政治の問題がどう関連しているか理解することは、とても困難だからです。」144P
「健康に関する問題は、労働組合と政党とは別の分野の運動の後押しがあったおかげで、明るみに出されたのです。こうしたうちの一つが、精神医療の領域に押し寄せてきた運動でした。/精神医療の施設や制度を変えるために、私たちは実践的な活動を展開してきました。やがて、この活動は重要な役割を担うようになりました。左翼政党と労働組合が、福祉という課題に責任をもつように、イタリア国内に刺激を与えたのです。/こうした活動は、根本的な考え方についての理解を促しました。それは、社会生活のありとあらゆるものが、分業によって決定されており、こうすることで権力は、私たちを巧みに奴隷化し続けているというものでした。[病院などの]施設や制度が機能しているメカニズムを検討してみると、私たちは分業体制を無批判に受け容れ、それに従いがちであることがわかります。だからこそ、私たちはこのメカニズムを自覚し、それを分析し理解する必要があるのです。」145P
「病人を抑圧して破壊していくマニコミオの論理を拒絶すれば、私たちは病人の暮らしの条件を変え、彼らに対して当たり前の生活環境を提供できるようになります。」146P
「この意味では、私たち医師は、病人にとっての「労働組合員」にあたるでしょう。」146P
「専門技術と政治といった分業体制を超えたころに、医師の仕事はあるのです。/このことを理解してはじめて、政治組織と労働組合との関係や、こうした組織の一員である人びととの関係変わっていきます。」147P
「私たちはいかなる革命も望んでいません。望んでいるのは、私たちを取り巻く関係性を抜本から変えることなのです。私が「私たち」と口にするときには、すべての仲間たちと労働組合員のことを言っているのであって、権力闘争を始めようとする専門技術者や労働者のことを言っているのではありません。」147P・・・バザーリアの政治革命批判、ただし抜本的変革は革命、イタリアの構造改革的革命論?
「ある意味では、わたしたちはマニコミオと同じような社会で生活していて、そのなかで自由を求めて闘う被収容者であると言えるかもしれません。それでも私たちは、救世主に望みを託すことはできません。救世主に頼るということは、私たちがまたしても囚われの身になることであり、抑圧されたままでいることだからです。それは、労働組合の指導部に労働者の解放を期待することなどできないという、労働者の辿った歴史と同じことなのです。戦いを続け、労働組合の幹部たちに、自分自身を解放させるための材料を与えなければならないのは、労働者本人です。」148P
「そして自分たちが何をしなければならないのかを、私たちは他の人たちと一緒に理解していかなければなりません。いかなる方法でも、他の人たちを管理・指導する必要などありません。もしそうなってしまえば、私たち自身が、新たな支配者になってしまうからです。」148P
「私の理解では、ブラジルでは精神病が大きなビジネスになっています。狂人たちを食い物にして生計をたてているプライベートの診療所があります。」149P――「狂人たち」に訳注「「狂人(「マット」のルビ)という表現は、理性的な判断ができない者を指す言葉として、本来は強い否定的意味合いをもつ。しかし、理性と狂気を合わせ持った存在が人間であり、両者を分離することはできないという考えのもと、バザーリアは狂人(「マット」のルビ)ということばを好んでも用いていた。」154P
「イタリアでは「施設の」改革は、「社会構造の」改革なしに、成し遂げられました。これは、私たちが「反施設化の」と名づけたものですが、「上部構造の」闘争とも言えるような、私たちの戦いの独自性だと思います。つまり、卵が先か、鶏が先かという問題です。」150P
「若者たちのために、そして私たち自身のために、新しい生き方を私たちが創造しなければならないのは明らかです。」152P
「ともかく、いつでも批判できる可能性が残されているかぎり、私は社会主義国の側に立つと言い続けたいと思います。」153P・・・「社会主義国」など存在しなかったし、自称「社会主義国」には「批判できる可能性」もなかった。
「社会主義の国々にも狂気は存在します。なぜなら狂気は、人間の条件だからです。理性が存在するのと同じように、「非理性」も存在するのです。狂気と闘うためのもっとも大切な治療法の一つは、もちろん自由であることです。」「家を一歩出てみると、私たちは、あちこちで家をもたない人びとに出くわします。社会の周辺(「マージナル」のルビ)に追いやられた人びとです。現在では日常のなかに狂気が存在しています。」153P
「私は共産主義者ですが、自己批判を行う共産主義者です。」153P・・・前衛の無謬性の論理にとらわれて自己批判をしない、「共産主義」の名に値しない。「共産主義者」や党が存在しています。
●八木智大「軽度障害「吃音」がつなぐマジョリティとマイノリティ」
 わたしと当事者性を同じくするひとの文です。「吃音者」の団体には、わたしがほとんど幽霊会員になっている言友会という団体があるのですが、かつて、そこで、「吃音者宣言」という文を出しました。何度もこの文については、コメントしてきたのですが、結局、この文を出した主旨は、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうーということだったのだと思っています。で、この「宣言」の一応の主導的推進者だった、この文の中にも出てくる伊藤伸二さんは、「吃音を治す」というところから、「吃音に対する気持ちの持ち方を変える」ということに換えただけで、結局そのために「○○療法」なり、いろんなアイデアを次から次に出していくということにとどまっているのです。結局、「吃音者」はどうして同じようなことを何十年にもわたって、いや何千年もわたってくりかえしてきたのだろうー」ということを別パターンで繰り返しているのに過ぎないのです。
 そのようなことも含めて、わたしの「吃音」に関する基調的な文は
   http://taica.info/ststpnote-3.pdf
 そして、「吃音」に関するいろんな文、今整理中なのですが、とりあえず、旧全言連事務局に宛てた一連の文(というより伊藤伸二さんに宛てた文)は、
   http://taica.info/ark.html
こんなことを書きながら、そもそもわたしがきちんと伝わるような文を書けていないし、また、ひとは論理的なところから、転換していくわけではないという意味において、結局同じような試行錯誤を繰り返していくしかないのかなとも、思ったりしています。
そういう意味で、この文はその試行錯誤の体験を綴った貴重な資料なのかもしれません。
 気になることをいくつか書き置きます。「軽度障害者」ということを書かれていますが、コミュニケーション障害というのは、決して軽くはないのです。いわゆる「重度障害者」は、開き直りを習得しますが、「軽度障害者」はそれがなかなかできません。だから葛藤に陥ります。その深刻さがあります。それは決して軽くはないのです。それは、言友会の中でも、「吃音が重いひとより、軽いひとの方が大変な面もあるのよね」とか語られていたことです。
もうひとつ、「マジョリティとマイノリティをつなぐ」という言葉が出ていますが、これは「吃音者」は「障害者」と「健常者」のどっちつかずの立場というようなことで、そんなことを言っている、「吃音者」で「障害者」団体の地域の会長をやっているひとがいました。「吃音者」は明らかに「障害者」差別を受けると言う意味で「障害者」です。そのようなあいまいな思いを持ってしまうひとたちを研究した「マージナル・パーソン」研究ということがあります。そのようなことを考えながら、きちんと「障害者」の立場に立った運動を進めていく必要を、この文を読みながら改めて強く思いました。
当事者仲間で、若いひとに期待しつつ、切り抜きメモは余計なことを書いてしまいそうで書くのは止めました。
編集後記
単独で編集を始めてから、二回目の編集後記でしたか、編集が替われば雑誌が替わると
いうことがあり、長く編集者を務めていた小林律子さんの退任で、一抹の不安も読者とし
て持っていたのですが、新しい編集者も少しずつ自分の味を出してきているようです。小
林さんも参議院議員の舩後さんの秘書になったようだし、何か、「人間万事塞翁が馬」のこ
とわざのように進んでいるようです。


posted by たわし at 06:04| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月04日

レーニン「国家と革命」

たわしの読書メモ・・ブログ526
・レーニン「国家と革命」(『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
 この本は確か岩波文庫で読んでいた本(国民文庫だったかもしれません)。実はわたしが、「マルクス主義」関係で一番最初に読んだ本です。大学で学費値上げ阻止闘争があり、クラス討論に参加していた関係で、学生自治会と接触があり、その自治会メンバーから勧められた本です。すぐに、そのグループとは距離を置き、三浦つとむの『レーニンから疑え』とかの学習会に参加していました。で、レーニンに懐疑的な思いを抱き続けていたのですが、レーニン批判から「マルクス・レーニン主義」批判をしていく必要にせまられ、前回の第二次レーニン学習をしました。今回、前回メモに続いてレーニン第三次学習です。
 さて、レーニンの本を読んでいると、「ミイラ取りがミイラになる」ということに陥るような感覚にとらわれる思いも出てくるのです。レーニンは論争のひとで、現実的運動の中出の運動をもっと直裁にいえば革命をどう進めるかというところで、さまざまな的論争をし、学習も積み重ねたひとで、その論の鋭さは論敵にされたひとがたじろいでいく様が思い浮かぶようです。
 さて、この本は主要に二つの論点がでて来ます。それはマルクス/エンゲルスのアナーキストとの論争のなかでの国家を巡る論攷を踏まえて、国家の廃絶か国家の死滅かということ。とりわけ、「それまでの官僚組織をそのまま利用することはできない」ということを巡る議論。そして、プロレタリア独裁論です。
 レーニン批判は、マルクス/エンゲルスの文献的とらえ返しの中で、レーニンが読めていなかったところのマルクスの論攷からレーニン批判がいくつか出ています。ひとつは、レーニン国家論は国家とは官僚機構と軍・警察機構であるということなのですが、レーニンは『ドイツイデオロギー』を読めていず、マルクス/エンゲルスの国家=共同幻想というとらえ返しをしていることを知らなかったという批判があります。そのあたりを検証してみます。マルクス/エンゲルスが「まさしく特殊的利害と共同的利害のとのこの矛盾から、共同的利害は国家として、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる。」67P←ここにエンゲルスの書き込み「そして、同時に幻想的な共同性として」68P、「国家の内部における一切の闘争は、さまざまな階級間の現実的な闘争がそういう形態をとって行われるところの幻想的な諸形態にすぎない。」68P ←ここにエンゲルスの書き込み「そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ」69P、「従来の共同社会の代用物――国家その他――においては、人格的自由は、支配階級の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。これまで諸個人がそこへと結合した見掛け上の共同社会は、常に諸個人に対して自立化した。同時にまたそれは一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会であったばかりか、新たな桎梏でもあった。現実的な共同社会においては、諸個人は彼らの連合(アソツイアツイオーンのルビ)において、かつ連合によって、同時に彼らの自由を手に入れる。」175P(マルクス/エンゲルス(廣松渉訳/小林昌人補訳)『ドイツ・イデオロギー 新編輯版』2002岩波文庫、引用文は完成体で、実際は、書き込み、校正前の原稿、二人の書き込みの区別までしています。ちなみに廣松渉訳以前の岩波文庫の古在由重訳では、順に44P、114P、古在訳では、「共同社会」は「共同体」、こちらが古いので「国家=幻想共同体論」という言い方が流布しています。このあたりは廣松さんは物象化ということを問題にしているので「共同体」という物象化された表現の訳をもちいていないのではとわたしは考えています。ただし、物象化されたものとしてあらわれると言う意味では「共同体」という言い方もありなのかもしれませんが。レーニンは軍事的に反革命にどう対峙するのかというところも含んで武装蜂起論を立てているのですが、そのあたりは日常的な生活の中で資本主義的なイデオロギーにとらわれていくことをどうするのか、そして更に、民族という共同幻想(物象化)をその基礎をつくる土台から押さえたところの国家論をどうするのかという問題があります。国家という概念からいかに脱していくのかという反国家主義の問題も出てくるのです。
もうひとつは、発展史観といわれていることで、レーニンはこの本の中でも、共産主義は資本主義の後にくるものだというとらえ返しをしているのですが、マルクスは「資本論草稿」を書く中で、その中にも一部出てくるのですが、古代社会ノートとかアジア的生産様式論の研究をしながら、共産主義的なことを過去の歴史の中に探し出す作業をしていました。単線的発展史観の批判も出て来ているのです。
 さらに、レーニン時代は「資本主義的帝国主義」の時代で、植民地支配が世界を覆った時代だったのですが、今は、植民地が一応次から次に独立していき、グローバリゼーションが世界を覆った時代、それでも、国民国家が資本主義的支配のために民族排外主義を煽っていく時代、差別を資本主義の継続的本源的蓄積の中に組み込んでいる、その基礎にしている時代なのです。だから国家主義批判が、反差別論が必要になっている時代です。そこで、その国家という共同幻想を撃つことが必要になっているのだとも言いえます。レーニンの「国家と革命」は、国家権力の奪取ではなく粉砕の上で、それに代わる国家をうち立てるという論理なのですが、厳密に言うと、奪取する、即時的に粉砕なのです。奪取するだけなら、「それまでのできあいの官僚機構は廃棄する」というテーゼに反し、粉砕だけならアナーキズム批判ができなくなるのです。それにしても、なぜ、粉砕したことをなぜ、中味を変えるとしても新たにつくる必要があるのかという問題があります。そもそも国家に対置することとしてソヴィエトをつくったはずなのです。これがプロレタリア独裁の機関のはずだったのです。結局、ロシア革命はソヴィエトの機能を停止させました。それはレーニンの中央主権主義に合わないとしてだと思うのですが、それが党独裁につながり、結局中味が違うとしても、国家の建設というところに入っていけば、官僚的機構になっていきます。レーニンは、ブルジョア国家とは異なる「官僚」(官僚制とことなるプロ独的「官僚」)の原則を立てました。彼自身はその原則を守ろうとしていたようです。しかし、そもそもネップを導入し、資本主義経済の取り入れをすれば、ブルジョア的官僚制に収束していかざるをえなかったのではないでしょうか? それがスターリン的な官僚機構の水路になったのではないでしょうか?
 マルクスのプロ独論はスパンが短いものでした。そしてプロレタリア独裁国家という概念はなかったのではないでしょうか? レーニンは、かなり長い時間プロ独が必要だと押さえていたようです。もちろん、レーニンはスターリンとの明らかな違いとして、世界革命への連動として、国家が死滅していくには、世界革命が必要だとしていて、そもそも国家とは、他国との関係において国家としてあるのであって、一時的に一国的に定立して(レーニンは一国的なことをスターリンよりもはるかに短いスパンで考えていたようですが)いく必要を考えていたのかもしれません。
 ともかく、ロシア革命がねじ曲げたことの総括をどうするのかという問題が必要になっているのです。その総括を他の国でおきたことだとか、自分たちとは路線が違うといって総括をサボタージュして、綱領の中のことばを変えるだけでは、むしろ混迷を深めるだけなのです。
 さて、この本は未完の本なのです。続きのもくじが訳編集者によって上げられていますが、そこにはソヴィエトに関する論攷が含まれていたようです。この文が書かれたのは、まさに革命進行中の1917年の8月とき、これから蜂起に向かって多忙になる中で、続きは書かれなかったという注がついているのですが、ソヴィエトに対するレーニンの考えが変わるなかで、ソヴィエト自体が消滅し、続きは書かれなかったのではないかとわたしは押さえているのですが、何かレーニンの手紙なり、文が残っているのでしょうか? そこまでとても追えません。
 さて、この後、わたしのレーニン学習は哲学的論攷二冊に入っていきます。レーニンは、晩年のエンゲルスが「マルクス主義」のわかりやすい解説をしようと、図式化に陥り、「ヘーゲルへの先祖返り」に陥ったと批判されていて、その中で「対話による深化としての道行き」としての弁証法を、法則としての物象化に陥ってとらえ、弁証法の三法則とか出していて、それをレーニンも引き継いでいるのです。そのあたり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でとりあげているマッハ批判を書いていて、実は、わたしが哲学的にいろいろとりいれようとしている廣松渉さんが、マッハ哲学をニュートン力学から量子力学への架橋をしたひとりとして押さえていて、マッハの訳本に解説を書いています。そのあたりからのレーニンの哲学的なところへのとらえ返しもしてみたいと思っています。もう一冊は『哲学ノート』。
それから、差別の問題に関して、レーニンとローザ・ルクセンブルクの論争が有名で、これは一般的にはレーニンの民族自決権が正しいとレーニンに軍配が上がったとされているのですが、わたしはこの国家論なりレーニンの中央集権制なりから再度とらえ返しをしてみたいと思っています。そのためにローザ・ルクセンブルクの本に当たります。それから、コルシュや従属理論の積ん読している本を読み解いていきます。そこから、ドキュメント現代史で革命論の学習に戻ります。その間に障害問題の本やエコロジー関係の本を挟んでいきます。
さて、切り抜きを残しておきます。実は、この本は大切さを考えると、「レーニンノート」とか作り、そのなかで、この本の精細な切り抜きやコメントを書くことも考えたのですが、先を急ぎ時間がありません。簡単な切り抜きメモに留めます。
「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、そのあらわれなのだ。国家は、階級対立が客観的に和解しえなくなったとき、まさにその場所に、そのかぎりで、発生するのだ。逆に言えば、国家が存在しているということが、階級対立の非和解性の証明なのだ。」472P・・・非和解性は共同幻想によって粉飾されていて、民族差別による排外主義で、「国民統合」が図られるのですが、そのあたりの押さえがないのです。むしろレーニンも陥っている国家主義批判の必要性
「マルクスによれば、国家は階級の和解が可能ならば発生しえないものだし、もちこたえることもできないものなのだ。」「マルクスによれば、国家は階級支配の機関、一つの階級が他の階級を抑圧する機関、階級衝突を緩和しつつ階級抑圧を合法化し確固たるものにする「秩序」の創出そのものなのだ。」472P・・・国家の共同幻想的性格を押さえていません。「緩和」ということばにかろうじてそのニュアンスがあります。
「また、国家が社会の上にたち、「みずからをますます社会から疎外してゆく」権力であるとすれば、被抑圧階級の解放は暴力革命なしには不可能なばかりか、支配階級によってつくりだされ、そのなかにこの「疎外」を体現している国家権力機関をも廃絶することなしには不可能だという明白な点が、である。」473P・・・「上にたち」とは何を意味するのか?――「上部構造」?「支配する」という意味、後者ならば共同幻想的性格の欠落
「そして、あらゆる革命が、このような国家装置を破壊することによって、むきだしの階級闘争なるものをわれわれに見せてくれるのであり、支配階級がどんなに、自分に奉仕するように武装した人間の特殊部隊を復活しようと一所懸命になるものである。被抑圧階級がどんなに、搾取者にではなく被搾取者に特別奉仕するこの種の組織を新設しようと一所懸命になるものであるかを、まのあたりに示してくれるのである。」475-6P
「かくして、官吏の神聖不可侵をうたった特別法がいくつもつくりだされることになる。「最も下っぱの警察官」でさえ、クランの首長よりも高い「権威」をもっている。けれども、文明国家の軍司令官ですら、社会から「棒きれをふるって手に入れたわけではない尊敬」をかちえていたクランの長老を、うらやましく思わずにはいられまい。」477P
(エンゲルス)「しかし、例外的に、相闘う階級の力量が伯仲しているとき、国家権力は、一時的に、外見上の調停者となって、双方の階級に対し、ある程度の独立性をたもつ時期がある。」478P
「このように「富」の全能は、民主共和制のもとでいっそう確固たるものとなるのだ。」480P・・・「富」とはなにか? その「富」の共同幻想が国家の共同幻想の元になる。
「階級は、かつてその発生が不可避であったように、消滅もまた不可避となろう。この階級の消滅とともに、国家の消滅も不可避となろう。自由かつ平等な生産者の結合関係を基礎に新たに生産を組織する社会は、全国家機関を、そのばあい当然おかれるべき場所へ移しかえるであろう。すなわち、糸車や青銅の斧と並べて、考古博物館のなかへ。」481P
(エンゲルスの『反デューリング論』第三篇第二章からの長い引用の後)「このような目をみはるばかりに思想豊かなエンゲルスの考察のなかから、現代社会主義諸政党が社会主義思想の真の財産としてとりこんだものといえば、マルクスの国家は「死滅する」という点――無政府主義的な国家「廃止」説とは違う――だけに過ぎぬと断言できる。このようなマルクス主義の刈りこみは、マルクス主義を日和見主義へまでひきずりおろすことを意味する。なぜなら、このような刈り込み「解釈」をすればあとに残るものは、ただゆっくりとした起伏のない漸進的な変化、飛躍と激動の欠除、革命の脱落といった朦朧たる概念のみだからだ。世間一般に流布している、大衆的に――と言ってよければ――理解された国家の「死滅」節は、革命を否定しないまでも、革命をぼやかすことを意味していることは、疑問の余地がない。/この種の「解釈」は、ブルジョワジーにだけ有利な、粗雑きわまりないマルクス主義の歪曲であって、理論的に言えば、さきに全文を引用したエンゲルスの考察の「総括」において指摘されている、もっとも重要な事情や考慮を忘れさったことに由来するものなのだ。」483P――ここからその「総括」の内容が五点示されています――@「第一に、エンゲルスは、この考察の冒頭で、プロレタリアートは国家権力を掌握し、「それによって、国家としての国家を廃絶する」と述べている。」483P「ここでエンゲルスが語っているのは、じつは、プロレタリア革命によるブルジョワジーの国家の「廃絶」についてであって、「死滅」(Absterben)という言葉のほうは、社会主義革命後のプロレタリア国家組織の残存物に用いられているのである。エンゲルスによれば、ブルジョワ国家は「死滅」するのではなくて、革命のなかでプロレタリアートによって「廃絶される」のだ。一方、「死滅する」のは、この革命後のプロレタリア国家、あるいは半国家なのだ。」484PA「第二に、国家は「抑圧するための特殊な権力」だということである。」「ブルジョワジーがプロレタリアートを、つまり一握りの金持が数百万人の勤労者を「抑圧するための特殊な権力」に、プロレタリアートがブルジョワジーを「抑圧するための特殊な権力」がとってかわらなければならない[プロレタリアートの独裁]ということである。「国家としての国家の廃絶」とは、まさにこのことなのだ。」484PB「第三に、エンゲルスが国家の「死滅」と言ったり、その特徴をくっきりと浮かびあがらせて「眠りこみ」(Einschlafen)とさえ言っているのは、まったくの明白かつ正確に、「全社会の何おいて国家が生産手段を占取」してから後の時代、つまり社会主義革命後の時代についてなのである。/この時代の「国家」の政治形態こそ、最も完全な民主主義であることはだれでも知っている。・・・・・・このことが「わからない」者は、民主主義もまた国家であり、それゆえ国家が消滅するとき、民主主義もまた消滅するのだということを、ふかく考えてみたことのない人たちだけなのだ」484-5P・・・ここの民主主義は支配の一形態としての民主主義のこと、レーニンには区別がついているのだろうか? レーニンはプロレタリア国家(の暴力)による反革命の抑圧ということで、民主主義の否定にまで及んでいるようなのです。反革命を抑圧するのは国家ではなく民衆のはずなのです。そこに民主主義があるはずなのです。ここにレーニンの外部注入論的革命、民衆の革命性への懐疑もあり(レーニンはプロレタリアートの革命性を一方で述べていたのですが)、それはスターリンの徹底した懐疑からする管理国家形成へすすんでいったのではないでしょうか?C「第四に、エンゲルスは、「国家は死滅する」という有名な命題をかかげたあとで、つづけて、この命題は日和見主義者と無政府主義者に対して向けたものだということを具体的に明らかにしている。」485P「あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な権力」なのだ。だからあらゆる国家は非自由で非人民的なのだ。マルクスとエンゲルスは、「自由な人民国家」が流行のスローガンとなった一八七〇代に、党の同志たちに向かって、このことを何回となく説明している。」486PD「第五に、だれもが国家の死滅に関する考察のあることを想起するエンゲルスのこの同じ著作のなかに、暴力革命の意義に関する考察もある。エンゲルスにあっては、暴力革命の役割の歴史的評価は、暴力革命への心からの讃辞となっている。」「暴力とは、新しい社会をはらんでいるあらゆる旧社会の助産婦である。」486P
「暴力革命の不可避性についてのマルクスとエンゲルスの学説は、ブルジョワ国家に関してのことであることはすでに述べたが、以下の叙述でさらにくわしくそのことを示そう。/プロレタリア国家がブルジョワ国家にとってかわること、つまりプロレタリアートの独裁の創出は、「死滅」によっては不可能であり、それは一般的原則では、暴力革命によって初めて可能である。そしてエンゲルスが暴力革命にささげた讃辞は、マルクスの再三にわたる言明とも完全に一致しているのである[われわれは、暴力革命の不可避性を誇らしく公然と宣明した『哲学の貧困』と『共産党宣言』の結語を思いおこし、また、それからほぼ三十年後の一八七五年、ゴータ綱領の日和見主義に対するマルクスの仮借ない糾弾を思いおこす]。」488P
「ここに国家問題に関するマルクス主義の最も注目すべき、最も重要な思想の一つ、ほかならぬ「プロレタリアートの独裁」[マルクスとエンゲルスは、パリ・コミューン以後になって述べるようになった](ここに注がついている)の思想が定式化されているのを見るのであり、・・・・・・このうえなく興味ふかい、つぎのような国家の定義を見るのである。「国家とは、すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアートである。」」490P・・・プロレタリア独裁国家ということ、ただし? 492Pの二つ目の引用――(ここに注がついている)の注――「この挿入部分([ ]のなか)は、レーニンが『国家論ノート』のなかで、「マルクスとエンゲルスが、一八七一年以前に『プロレタリアートの独裁』ということを述べたことがあるかどうかをさがし、調べること。ない! と思われる。」ということに対応している。じつは、この第U章「国家と革命」第3節にあるように、マルクスはすでに一八五二年、ワイデマイヤーあての手紙のなかで「プロレタリアートの独裁」という言葉を使っていた。レーニンがこのことを知ったのは初版刊行後のことであり、そのために第二版でこのことに触れた説が付加されたわけである。」491P
「プロレタリアートにも国家が必要だ――あらゆる日和見主義者、社会排外主義者、カウツキー主義者はこうくりかえしている。彼らは、これこそマルクスの学説だと断言していながら、つぎのことをつけ加えるのを「忘れている」のだ。第一に、マルクスによれば、プロレタリアートにとって必要なのは、ただ死滅しはじめ、また死滅せざるをえないように構築された国家だけだということ。第Uに、勤労者にとって必要なのは「国家」(括弧付き「国家」)、「すなわち、支配階級として組織されたプロレタリアート」だけということ。」490P
「マルクスが国家問題と社会主義革命の問題に適用した階級闘争の学説は、必然的に、プロレタリアートの政治的支配、プロレタリアートの独裁の承認に、つまり、権力がだれにも分有されておらず、ただ大衆の武装力にのみ依拠しているところの権力に承認にみちびく。」492P・・・被抑圧階級をプロレタリアートとしてだけとらえると、プロレタリアートの独裁が出てくるのですが、今日、マルチチュードとかサバルタンとか出さざるを得なくなった時代には「プロレタリアートの独裁」という論理は出せなくなっているのではないでしょうか? 差別というところから総体的にとらえ返していく必要が出てきているのです。
「プロレタリアートに必要なのは国家権力、すなわち、中央集権化された暴力装置であり、搾取者の反抗を弾圧し、また社会主義経済を「組織する」事業において、農民階級、小ブルジョワジー、半プロレタリアートという膨大な住民大衆を指導するための暴力組織なのだ。」492P・・・「指導するための暴力組織」?指導と暴力はアンチノミーのはずなのです。必要なのは「国家」で、国家なのではないのでは? それが国家になるのは、資本主義国家が存在するところにおいて、国家にならざるをえないのです。だから、レーニンも世界革命の必要性を主張していたはずなのです。逆に言えば、プロ独が国家として出てくるときには、世界革命的には敗北せざるを得なくなるということではないでしょうか?
「ブルジョワ社会に特有な中央集権化された国家権力は、絶対主義の没落期に発生した。そして、この国家機構にとっては最も特徴的なものは、つぎの二つの制度だった。すなわち、官僚制度と常備軍。」495-6P
「官僚制度と常備軍――これはブルジョワ社会のからだに宿る「寄生体」、ブルジョワ社会をひき裂く内的矛盾によって生み出された「寄生体」、しかも、まさに生命の毛穴を「ふさいでいる」寄生体だ。」496P
「マルクスがどの程度まで厳格に歴史的経験という事実的基礎の上に立っていたかは、彼がこの一八五二年には、まだ廃絶すべき国家機構に代えるに何をもってするかという問題を具体的に提起していないこともわかる。当時まだ、経験からは、このような問題を解決するための材料を得ることはできなかったのだ。そして、この問題が歴史によって日程にのぼることになったのは、それより後の一八七一年のことなのだ。一八五二年の段階において、マルクスが自然史を観察するような正確さで確認できたことといえば、プロレタリア革命が、国家権力に対して「破壊力のことごとくを集中する」任務に到達したこと、国家機構を「粉砕する」任務に到達したこと、これだけであった。」498P・・・これは前出の第二版の追加稿も参照
(「一九一九年発行の第二版ではじめてつけられた。」501Pの追加された節「3 一八五二年におけるマルクスの問題提起」500-2P・・・「マルクスの一八五二年三月五日付ワイデマイヤーあての手紙」500P――「(マルクス)「わたしが新しくやったことと言えば、次の諸点を証明したことだけなのだ。/(1)階級の存在は、生産の一定の歴史的発展段階[historische Entwicklungsphasen der Produktion]だけに結びついているということ。/(2)階級闘争は、必然的にプロレタリアートの独裁をもたらすということ。/(3)この独裁そのものは、あらゆる階級を廃絶し、階級のない社会へ達するたんなる過程にすぎないこと。……」/(ここからレーニン)これらの言葉によって、マルクスは、第一に、先進的で最も深遠な考えをもったブルジョワジー思想家の学説と自分の学説との根本的かつ主要な相違を、第二に、国家についての学説の核心を、驚くべき鮮明さで表現することに成功している。」500P
「マルクス主義者とは、階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまでおしひろげる者だけをさしていう呼称である。」501P・・・レーニンのマルクス主義の定義、このことによってマルクス――レーニン主義を定立したと言えるのではー
「日和見主義は、階級闘争の承認を、まさにその最も主要な点まで、つまり資本主義から共産主義への移行の時期まで、ブルジョワジーの打倒とブルジョワジーの完全な絶滅の時期にまで、おしひろげはしないのだ。/現実には、この時期は、階級闘争がかつてその例を見なかったほど激化することが避けられない時期であり、階級闘争がこのうえなく先鋭なかたちをとる時期なのだ。しかがつて、この時期の国家もまた、不可避的に、新しいやり方にしたがった[プロレタリアートと無産者一般にとって]民主主義的であるあるような国家、そして新しいやり方にしたがった[ブルジョワジーに反対して]独裁的であるような国家でなければならない。/さらに言おう。マルクスの国家学説の本質は、つぎのことを理解した人だけが、つまり一階級の独裁は、あらゆる階級一般にとって必要なだけでなく、ブルジョワジーを打倒したプロレタリアートにとって必要なだけではなく、資本主義を「階級のない社会」から、すなわち共産主義からへだてている歴史的時期の全体にとっても必要であるということを理解した者だけが、体得できたのだ、と。/ブルジョワ国家の形態はきわめてさまざまだけれども、しかし、その本質は一つ、これらの国家はすべて、その形態はどうであれ、結局のところ、かならずブルジョワジーの独裁だということだ。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、非常に豊富で多種多様な政治的形態をもたらさないわけにはいかない。しかし、そのさいでも、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁のみであろう。」501-2P
「マルクスは、コミューンにさきだつ数ヶ月前の一八七〇年秋、政府を打倒しようとする試みは向こう水の暴挙であるあることを証明して、パリの労働者に警告を発した。だが、一八七一年三月、決戦を無理じいされて、やむをえずこれにこたえて立ちあがったとき、つまり放棄が事実となったとき、マルクスは、このプロレタリア革命を、不吉な前兆があったにもかかわらず、心から感激して迎えたのだった。」502P
『共産党宣言』ドイツ語新版の序文(一八七一年六月二十四日付)で、二人は『共産党宣言』は「いまやところどころ時代遅れになっている」として、「……とりわけ、コミューン、次のことを証明した、すなわち、『労働者階級はできあいの国家機構をそのまま奪い取って、それを自分自身の目的にそって動かすことはできない』(この『』の中は、マルクスの『フランスの内乱』の中からの引用)……」503P・・・ロシア革命はそのことを履行していない――秘密警察、トロッキーの旧軍人の登用など、更にスターリンの旧官僚などの登用
「ブルジョワジーおよびブルジョワジーの反抗を抑圧することは、依然として必要である。コミューンにとってこのことはとくに必要だった。」「ところで、ひとたび人民の多数者が自分の抑圧者をみずから抑圧する段になると、抑圧のための「特殊な権力」は、もはや必要でなくなる! この意味で国家は死滅しはじめる。」509P・・・ロシア革命ではそうはならなかったのです。そのことが総括の核心(自分たちが主張していたことの否定)。
「すべての公務員が例外なく完全に選挙で選ばれ、いつでも解任できるものとなること、彼らの棒給をふつうの「労働者の賃金」なみに引き下げること・・・」510P・・・この原則がレーニンのこれまでの官僚制度と違うとおいたところの核心だったし、レーニン自身はそれを実行しようとしたけれど、そもそもネップで資本主義社会の論理を導入したら、それは崩壊する必然性、解任するのは誰か――民衆やプロレタリアートであれば、中央集権制を否定する民主主義が必要なはず――現実には党の機関になった――書記局の支配体制
「小ブルジョワジーの他の階層のなかからと同じように、農民階級のなかからも、とるにたらない少数者だけが、「なりあがり」、ブルジョワ的な意味で「出世をする」。つまり、金持になったり、ブルジョワに転化したり、あるいは地位を保証された特権的官吏に転化する。しかし、およそ農民が存在している資本主義国なら[大多数の資本主義国はそうなのだが]、どの国でも農民階級の圧倒的多数は政府によって抑圧されており、政府打倒と「安あがり」の政府とを待望している。これを実現しうるのはただプロレタリアートだけであって、プロレタリアートは、これを実現することによって、同時に国家の社会主義改造への第一歩を踏みだすのである。」511P・・・レーニンは、農民は土地の私的所有を求めるというところで、小ブルジョワジーと規定したのですが、土地の私的所有ではない、ミールの位置をどのようにととらえていたのでしょうか? また農民は階層であって階級ではないのです。土地所有というところで農民を階級として集約するのは、間違えていると言わざるをえません。農の持つ意味を押さえ損なっていたのでは、とも思ったりしていますーとりわけ今日的には、農の位置を押さえ直す必要も感じています。
「「コミューンは、議会的な団体ではなく、立法府であると同時に執行府でもある行動的な団体たるべきものであった」のだ。」512-3P・・・決定と執行の一致――全共闘運動にも
「前世紀七〇年代のある機知にとんだ社会民主党員は、郵便事業を社会主義経営の見本と呼んだ。まさにそのとおり、今日の郵便事業は、国家資本主義的独占の型にのっとって組織された経営である。」516P「国民経済全体を郵便事業ように組織すること、しかもそのさい、技術者、監督、簿記係を、すべての公務員と同じように、武装したプロレタリアートの統制と指導のもとに「労働者賃金」以下の俸給で組織すること――これこそ、われわれの当面の目標である。」517P・・・俸給を同じにしたら資本主義ではないし、資本主義の論理を用いる必要もないのです。俸給を同じにするなら、そもそも俸給という概念をなくして、ベーシックインカムにできることです。
「マルクスがプルードンともバクーニンともくい違っているのは、ほかならぬ連邦主義の問題についてなのだ[プロレタリアートの独裁については言うまでもない]。無政府主義の小ブルジョワ的見解からは、原理的に言って、連邦主義が出てくる。マルクスは中央集権主義者だ。」520P・・・?
「マルクスは将来の政治的諸形態の発見にとりかからなかった。」522P(プロ独は手紙の中では書いていたのです。その中で、パリ・コミューンが起きたのです。)――「コミューンこそブルジョワ国家機構を粉砕しようとするプロレタリア革命の最初の試みであり、粉砕されたものにとって代わることができ、また、とって代わらなければならぬ「ついに発見された」政治形態である。」522-3P・・・コミューンやソヴィエトがなぜ国家になったのかの問題、中央集権制や暴力装置の問題、暴力は革命の助産婦にすぎない、力むのは母親――民衆自身  レーニンの外部注入論や前衛論は、民衆の自然発生的革命性に依拠していないのです。党――後衛論
「しかし、この国家廃止という目標を達成するために、われわれは、搾取者に対して国家権力という道具、手段、方法を、一時的であれ、利用することが必要だと断固として主張するものである。」327P・・・ここで必要なのは、武力がまだ必要とするならば、国家ではなくて、武装せる民衆ではないでしょうか? 搾取者は私有せる生産手段をとりあげられた時点で、搾取者ではなくなるのです。
 エンゲルスの、反権威主義者の「われわれが代表者たちに授けているのは、権威などではなくて一定の委任なのだ」の言に対する応答と、レーニンのそれに対するコメント「このように、エンゲルスは、権威と自由とは相対的な概念にすぎず、この概念の適用範囲は社会発展のさまざまな段階に応じて変化すること、この概念を絶対的なものとして考えるはばかげていることを指摘し、・・・・・・」528P・・・これは官僚主義をうみださないための基本的概念であって、相対的に容認することではないはずです。権威は差別に関するキーワードなのです。
「公的諸機能が政治的なものから単なる管理機能へと転化する問題、「政治的国家」に関する問題等々。とくに、誤解をまねく恐れのある後者の表現は、国家の死滅する過程をさしているのである。つまり死滅しつつ国家は、死滅の一定の段階では、非政治的国家と呼ぶことができるということを表現しているのだ。」329P・・・政治性をなくした国家なるものはありえないのです。「政治性をうしないつつある」国家という意味では? これさえも国家というネーミングは違和があるのです。政治が消滅する以前に国家は消滅していることー
「無政府主義者は、ほかならぬ革命を、その発生と発展の見地から、暴力、権威、権力、国家に対する革命の諸任務という見地から、見たがらないのだ。」329P・・・「権威」の原語からの確認の必要があるのですが、これは「革命党の権威」というところでの党の物神化と独裁論に結びついていくこと、ここからのとらえ返しの必要。信頼と権威は違うのです。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「・・・・・・プロレタリアートが、まだ国家を必要とするあいだは、それは自由のためにではなく、自分の敵を抑圧するために必要とするのであり、自由について語ることができるようになれば、すぐに国家としての国家は存在することをやめるのです。それゆえ、わたしたちは、(綱領のなかで)国家と書いているところはどこもみんな、フランス語の『コミューン』にぴったりの、むかしからある美しいドイツ語、『共同社会』[Gemeinwesen]という言葉で置き換えるように提案したいと思います。」531P・・・どこで、コミューンやソヴィエトや共同社会が、国家にすり替わるのでしょうか?
「エンゲルスは、「人民国家」が、「自由な人民国家」と同様にナンセンスなものであり、社会主義からの逸脱でもあるというそのかぎりにおいて、無政府主義者の攻撃は正しいものだと認める。」532-3P――(ベーベルへ)「国家は、階級支配に立脚する国家から人民国家へと転化されなければならぬ。」533P・・・プロレタリア国家も同じ、これは労働者国家も同じ、ただし、労働者国家を標榜する労働者への抑圧国家は存在してしまったのです。
「さて、国家の問題にもどろう。エンゲルスは、ここで、とりわけ貴重な三つの指摘をしている。すなわち、第一に、共和制の問題について。第二に、民族問題と国家制度との問題について。そして第三に、地方自治について。」535P
(エンゲルス)「およそこの世に確固不同なものがあるとすれば、それは、わが党と労働者階級が、民主共和制という政治形態のもとにおいてしか支配権をにぎれないということだ。」537P・・・スターリン主義の下、真逆なことになってしまったのです。
「エンゲルスは、マルクスと同様に、プロレタリアートとプロレタリア革命の見地から、民主主義的中央集権制をば、単一にして不可分な共和国をば主張している。彼は、連邦共和制は例外的なもの、発展の障害となるものと見なすか、さもなければ、君主制から中央集権的共和制への過渡として一定の特殊的条件のもとでの「一歩前進」と見なしている。そして、これら特殊諸条件のなかでは、民族問題が全面に出てくる。」538P・・・民主主義と中央集権制はアンチノミーのなるのではないでしょうか? 民族自決権と中央集権制もー
「地理的条件、原語の共通性、そして何百年にもわたる歴史をもつイギリスでは、個々の小区域の民族問題などは「かたづけ」てしまっているかに思われるけれども、このイギリスでさえも民族問題は過去のものとなっていない明白な事実をエンゲルスは考慮に入れ、それゆえに連邦共和制を「一歩前進」と認めているのである。」539P
「エンゲルスは、この民主主義的中央集権制という概念を、ブルジョワ・イデオロギーや無政府主義者も含む小ブルジョワ・イデオローグが使っているような官僚主義的意味合いで理解しているわけではけっしてない。エンゲルスの考えによると、中央集権制とは、コミューンと地方とによる国家統一の自発的な防衛のもとで、それとあらゆる官僚主義、上からのいっさいの「指導」の文句なしの追放を結びつけるような広範な自治制を排除するものではけっしてないのである。エンゲルスは、国家についてのマルクス主義の綱領的見解を発展させて、こう言っている。/「……だから、統一共和国ということになるのだ。・・・・・・」539P・・・世界革命的な実現があれば国家ということの消滅に向かうこと。なぜ、統一共和国という概念が必要になるのか。反差別論的に対峙している最大のことは「国家主義」ということです。これは、地産地消というところも含めた地方自治からせめあがる、しかも農業というサブシステンスの産業の、現在農協という、機械や種や農薬・化学肥料というところから資本に収奪されていく構図を打ち破る協同組合的再編がいまこそ問われているのではないでしょうか?  民族差別ということも含めて、個別差別に関してはもし、前衛――後衛ということがあるとしたら、個別差別の民衆運動が前衛なのですが、その反差別運動は他の差別をとらえきれないという限界性があり、だから、差別総体をとらえ返すというところに党の存在意義があるのです。ですが、そもそもマルクス派が差別ということをとらえきれなかった歴史性が続けられているわけで、そういう意味では、個別差別をつなぎ、反差別運動を支える後衛党として、とりあえず位置づけるしかないとも言いえます。レーニンのこのあたりの主張は中央主権制を一部否定しているようにも読み取れます。
「連邦共和制は中央集権的共和制より自由という見解は間違えている。」340P・・・連邦の個々の共和制の中味によるから、当然のこと
「(エンゲルスの『フランスの内乱』三版<1991年版>の序文)「コミューンはそもそものはじめから、つぎのことを承認しなければならなかった。すなわち、労働者階級は、ひとたび支配権を手に入れるや、古い国家機構をそのまま運営していくことはできないこと。そして労働者階級は、たったいま獲得したばかりの支配権をふたたび失わぬためには、一方で、それまで彼ら自身の圧迫に利用されてきた古い抑圧機構をいっさい除去すると同時に、他方で、彼ら自身の代議員や官吏に対して、一人の例外もなく、いつでも解任しうるものであることを宣言し、彼らから自分自身を安全にしておかねばならないこと。これらこそ労働者階級が承認しなければならなかったことなのだ。……」/エンゲルスは、君主制のもとにおいてだけでなく、民主共和制のもとにおいても国家は依然として国家としてとどまること、すなわち、国家は公務員、「社会の従僕」、社会の諸機関を社会の主人に転化される基本的特性を保持していることを、いくたびとなく強調している。」543-4P――エンゲルスの引用に戻り、「この転化をふせぐために、コミューンは二つのたしかな手段を採用した。第一に、行政、司法、教育上のいっさいの地位には、普通選挙権にもとづいて選ばれた者だけを任命し、しかも選挙民の決定によっていつでも彼らを解任できるように法律で規定したこと。第二に、地位の上下を問わず、すべての公務員に他の労働者に他の労働者が受けとっている額と同額の賃金しか支払わなかったこと。・・・・・・」544P・・・同一賃金にするためには、そもそも労働ということ自体を問い直す必要があり、資本主義の下ではなしえないのです。それは資本主義経済の否定ということのなかでしかなしえません。しかるにネップということを導入すれば、この原則は適用されなくなります。
「資本主義のもとではとことんまで徹底的な民主主義など実現不可能だし、社会主義のもとではどのような民主主義も死滅するだろうから。これはちょうど、髪の毛がもう一本だけ少なくなったら禿げ頭になるかならぬかという、古い笑話に類する詭弁にすぎない。」545P「民主主義をとことんまで発展させること、このような発展の諸形態をさがし求めること、これら諸形態を実践によって検証すること等々、すべてこうしたことは、社会革命をめざす闘争を構成する諸任務の一つだ。一つ一つをとれば、いかなる民主主義も社会主義ももたらしはしない。けれども実生活のなかでは、民主主義はけっして「一つ一つとられる」ものではなく、他のものと「いっしょにとられる」ものであり、それは経済に対しても影響を与え、その改革を促進するとともに、逆に経済的発展の影響もこうむる、等々。これこそ生きた歴史の弁証法というものだ。」・・・ここでいう「民主主義」は支配の形態としての民主主義のことです。対等な関係で議論し決定していく「民主主義」は(それを「民主主義」と表現するかどうかは別にして)、必要だし、そのような関係は作り上げていくことです。また、エンゲルス的な弁証法の法則化批判はともかく、問題は官僚制をどう脱構築するかということ。国家は軍事的統治機構と官僚的統治機構というところにおいて、官僚的統治機構が必要としても、それができあいの官僚機構ではないというところにおいて、選挙制と解任性ということがあり、それがいかに可能になるのでしょうか? レーニンよりもトロッキーの方が現実主義的になってしまっていて、ネップも軍事組織の旧軍隊からの登用をするなかで、できあいの国家機構は使えないという原則をくずしてしまったー選挙制や解任制は、党独裁というところですでにくずれてしまっています。これはレーニンの外部注入論的前衛党論からきています。民衆の革命性に依拠できない中で、党独裁に至ったこと自体が問題なのです。当時の民衆の革命性は、保守的だからこそ革命的だというところで、一時的なことでしかなかったことこそが問題なのです。むしろローザが民衆の革命性に依拠しようとしていたのです。けれど逆に自然発生性というところで、きちんとした「策略」をたてえず、虐殺されてしまいました。。歴史の背理。今日的には多様な道筋から、社会変革の途を策っていくしかないこと、このことについては、「社会変革への途」で書き進めます。
「国家とは、階級支配をめぐる闘争で勝利を得たプロレタリアートに、遺産としてひきつがれる害悪なのに。勝利を得たプロレタリアート、コミューンがやったように、この害悪の側面を即座に切りとらざるをえないだろう。」346P
「民主主義は、少数者が多数者に服従するという原則と同一のものではないのだ。民主主義は、少数者が多数者に服従することを承認する国家、すなわち、一階級の他の階級に対する、住民の一部分の他の部分に対する系統的な暴力行使のための組織なのだ。」549P・・・レーニンは民主主義という概念を整理できていないのです。支配の形態としての議会制民主主義、民衆の「自己決定権」というところで機能する支配の形態としての民主主義と、それでも行政・立法・司法機構の選挙制や解任制度というときの民主主義をごちゃまぜにしています。だから中央集権制や党の独裁がもたらされたのです。選挙制や解任制を具体的にどうするのかというところで、そのことが問われたのに、そのことをスポイルしてしまいました。自己決定権は幻想であっても、無視はできないのです。
「しかし、われわれは、社会主義に向かって努力しつつも、その社会主義が共産主義へと成長転化するであろうこと、このことと関連して、人間一般に対する暴力行使の、ある人間の他の人間への服従の、住民の一部分の他の部分への服従の必要はいっさい消滅するであろうことを確信する。なぜなら、人間は、暴力なしに、服従なしに、社会生活の根本的諸条件遵守する習慣がついてくるだろうから。」549P
「マルクスのほうがエンゲルスよりも「国家びいき」であ」550Pるように見えるところがある、が、何を主題に語っているかによって違いが起きているのであって――「エンゲルスは、ベーベルに向かって、国家に関するおしゃべりなどまったくやめ、国家と言う言葉を完全に放逐して、綱領から国家という言葉を完全に放逐して、それを「共同社会」という言葉に置き換えるようにすすめている。」550P・・・これだと今日的課題になる反国家主義が出てこなくなります。
「エンゲルスは、国家について流行している偏見[ラッサールも、すくなからずこの偏見にかぶれていた]がまったくばかげたものであることを、はっきりとするどく、太い線でベーベルに示すことを課題にしていたのであった。一方、マルクスは、他のテーマ、すなわち共産主義社会の発展という点に関心を集中していたので、エンゲルスのとりあげているこの問題については、ことのついでに触れているにすぎないのだ。」551P・・・エンゲルスとマルクスの違いについてはもう少し検証が必要
「マルクスには、ユートピアをつくりあげたり、知ることができないことがらについてむなしい推測をめぐらしたりする気配は、ひとかけらもない。」551P・・・?
(マルクスの「ゴータ綱領」に関して)「だから、『現代国家』とは虚構の概念にすぎない。」552P・・・レーニンは、マルクスの『ド・イデ』における国家の共同幻想の件を読んでいなかったとされるのですが、ここに同じような内容があります。問題は、差別排外主義による国家への国民統合ということ、そこから当然出てくる、国家主義批判が出てこないという問題を押さえねばならないと思うのです(スターリン主義として現れた一国社会主義建設路線による覇権主義の現実)。レーニン国家論が抜け落としていたことーそこから出てくる暴力装置を粉砕するという単純な暴力革命論に至るのではー
(承前)「『人民』という言葉と『国家』という言葉とを千回結びあわせたところで、蚤の一跳ねも問題の解決には近づきはしないのだ。」552P・・・「人民」と「国家」はアンチノミー
「日和見主義者たちによって現に忘れさられていること、それは、資本主義が共産主義に移行する特殊な段階あるいは特殊な時期が、歴史上、疑いもなく存在しなければならぬ、という事情である。」552P・・・問題はそのスパンであり、その時期は民主主義が否定されるのかという問題なのです。この民主主義は支配の形態としての民主主義ではなく、民衆の意思としての民主主義
「以前には、問題は、つぎのように提起されていた、すなわち、プロレタリアートは自己の解放をかちとるためにはブルジョワジーを打倒し、政治権力を奪取し、みずからの革命的独裁をうちたてなければならぬ、と。/いまや問題は、やや異なった形で提起されている。すなわち、共産主義へ向かって発展しつつある資本主義社会から共産主義への移行は、「政治上の過渡期」を経過しなくては不可能であり、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない、と。」553P・・・すべての株は、というより生産手段の私的所有は廃止されます。株式会社そのものがなくなります。労働者管理による生産組織に改編されます。自分や自分の家族や対等な関係における集団が管理できない土地や建物の占有は認められないのです。そもそもブルジョワジーはいなくなります。だからプロレタリアートという概念はなくなるので、プロレタリアートの独裁などもなくなります。そこまで至る期間は短期間になります。そもそも、現在社会でも、プロレタリアートという概念自体が崩壊してきています。それに代わることとして、マルチチュードという概念が出て来ています。だから、「独裁」という言葉が使われるのなら、被差別民衆による反差別独裁となるのです。この場合、そもそも「独裁」という概念は使われなくなるでしょうープロレタリアートという概念は、労働力の価値によって分断されている民衆、そこにマジョリティの問題はあったので、そのマジョリティは食品汚染や環境汚染にさらされている住民という概念でも、それは被差別者という概念に、マルチチュードということで含まれます。「独裁」ということは政治的概念で、政治は廃棄されていくとしても、暫くは続き、マルチチュードという概念での運動は長く続いていきます。それこそが永続革命的文化革命なのです。
「資本主義社会が最も順調な発展をとげる条件があるばあい、この社会は民主共和制という形で多かれ少なかれ完全な民主主義がある。しかし、この民主主義は、資本主義的搾取という狭い枠でたえずしめつけられているので本質的には、少数者だけの、有産階級のための、すなわち金持ちだけの民主主義に民主主義にとどまっている。・・・」553P・・・この後にギリシャの奴隷制とかとさほど変わりがないという話が出て来ます。しかし、普通選挙権が確立している国においては、むしろ「自己決定」とか「自己責任」とかいうごまかしが出て来ます。レーニンの時代の民主主義は、「本質的には」(根源的には)変わっていないのですが、いまだに王制なることが存続している国があり、それはいろんな形での「共同幻想」へのとらわれから来ているのです。その最たることが国家の「共同幻想」へのとらわれと言いえることではないかと思われます。だから、国家主義批判とさまざまな差別主義的イデオロギーとどう対峙していくかが問われているのです。
「とるにたらない少数者のための民主主義、金持ちのための民主主義・・・・・・」554P
「貧乏人に対するこうした制限、例外、除外、妨害は、ちょっとしたことのように思われる。・・・・・・だが、これらもろもろの制限が総計されると、貧乏人が政治から、民主主義への積極的参加から排除し、おしのけることになるのだ。」554P・・・まさに巧妙な情報隠蔽・改ざん・操作ということの日本の政治が民主主義に何をもたらしているのかという現実
「マルクスがコミューンの経験を分析して、被抑圧者は抑圧階級のどの代表者が議会で自分たちを代表し、自分たちを踏みにじることになるかの決定を数年に一度だけ許される!」554P
「搾取者=資本家の反抗を打ち砕くことは、プロレタリアート以外のだれにもできないし、また、独裁以外のどんな方法によってもできないからなのだ。」555P・・・ロボットが第二次産業を担う事態になってきて、労働の位置づけが変わってきて、更に環境問題とか「住民運動」が出てくるなかで、労働ということの位置づけが変わってきているのではないかとも思えるのです。むしろ矛盾はもっと総体的に広がり、そこでの運動が起きている中で、こういう考えも少し変わっているのではと言いえます。
「抑圧のあるところ、暴力のあるところ自由はなく、民主主義もないこと、これは明白だ。」555P・・・これは抑圧ということへの論理であって、それに対抗して運動する立場での民主主義は必要―これを取り違えると大変なことになります。それを取り違えたのがスターリン主義です。
(エンゲルスのベーベルへの手紙)「プロレタリアートは、自由のためでなく、自分の敵を抑圧するために国家を必要とします。そして自由について語りうるようになれば、たちまち国家は存在しなくなるでありましょう。」555P・・・もし、必要となるならば(反革命クーデターは常道的に起きますから)そこで必要になるとすれば、それは軍事力であって、国家ではないのではないでしょうか?
「「国家は死滅する」という表現は、はなはだ選択の妙をえた言葉だ。というのは、この表現は、過程の漸進性も過程の自然成長性もあらわしているから。そして、習慣だけがこのような作用をおよぼすことができるし、また、疑いもなくおよぼすであろう。」556P
「もし搾取というものがなければ、もし人間を憤怒させ、抗議や蜂起を呼び起こし、鎮圧の必要を生み出すものがなに一つなければ、人間は自分たちにとって必要な公共生活の規制を遵守することなどには、かんたんに慣れてゆくからだ。」556P
「搾取者が人民を抑圧するためには、当然のことながら、きわめて複雑な機構なくてはその任務を遂行するわけにはゆかない。ところが、人民は、きわめてかんたんな「機構」のもとでも、いやほとんど「機構」がなくとも、たんなる武装した大衆組織[さきまわりして言えば、労働者・兵士ソヴィエートのようなもの]によっても、搾取者を抑圧することができるのだ。」557P
「最後に、共産主義だけが国家を完全に不必要なものにする。なぜなら、抑圧すべきものがだれもいない、つまり階級という意味で、住民の一定部分との系統的な闘争という意味で「だれもいない」からである。」――過渡的な必要性とその消滅「第一に、これをおこなうのに、抑圧のための特別な機構、特殊な装置は必要でないのだ。武装した人民自身が、簡単かつ容易にこれをやってのけるであろう。・・・・・・第二に、我々は、公共生活の規則を破る不法行為の社会的根源が、大衆の搾取、彼らの困窮と貧困にあることを知っている。この主要な原因が排除されると同時に、不法行為は不可避的に「死滅し」はじめるだろう。それがどれくらい急速に、そしてどんな順序で死滅するかは知らない。しかし、それが死滅するであろうことは知っている。そして、それが死滅するとともに、国家もまた死滅するであろう。」557P・・・レーニンは国家の過渡的必要性も書いているのですが、ここからはそれは国家でなくてもいいとしか読み取れないのですー
(マルクスの『ゴータ綱領批判』の引用)「・・・・・・権利は平等である代わりに、不平等でなくてはならないであろう。……」560P・・・ベーシックインカム(基本所得保障)でなくて、基本生活保障
「マルクスは、人間の避けがたい不平等をこのうえなく正確に考慮しているばかりでない。同様にまた彼は、正確に考慮しているばかりではない。生産手段を社会全体の共有財産に移す[ふつうの用語法によれば「社会主義」]だけでは、まだ分配の欠陥と「ブルジョワ的権利」の不平等を除去するものではないこと、この権利は生産物が「労働に応じて」分配されるかぎり、支配しつづけることを考慮しているのだ。」560P
(マルクス承前)「……共産主義社会の高度の段階では・・・・・・社会はその旗にこう書くことができるであろう、『各人はその能力に応じて、各人にはその要求に応じて』と」562P・・・そもそも能力という概念自体が、変換していくでしょうー
(いろいろな日和見主義者が)「社会主義を「導入」する等不可能などとしゃべるとき、彼らが念頭においているのは、まさに共産主義の高度の段階もしくは局面であって、こういう段階を「導入すること」など、だれ一人として約束しなかったどころか、考えたこともないのである。なぜなら、こういう段階を「導入する」ことなど、一般にできないことなのだから。」564P
「マルクスの鮮明の偉大な意義は、彼がここでも唯物弁証法を、すなわち発展の学説を首尾一貫して適用し、共産主義を資本主義のなかから発展してきたものとして見なしている点にある。」565P・・・後期マルクスは『資本論』草稿の中で、単線的発展史観から脱していました。「なかから」ではない共産主義的社会の研究もしていました。ここの「唯物弁証法」というのはエンゲルスが弁証法を法則としてとらえ、それの物象化からきているのではないでしょうか?――検証
「民主主義とは平等を意味する。平等をめざすプロレタリアートの闘争と平等というスローガンとが、どんなに大きな意義をもっているかは、平等を階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明白である。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するだけである。そして、いったん生産手段の占有に関する社会の全成員の平等、つまり労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から事実上の平等に向かって、つまり「各人は能力に応じて」という原則の実現に向かって前進するという問題が、必然的に発生してくる。人類がこの最高の目標に到達する途上でどのような段階を通過するか、どのような実践的方策を講じるかは、われわれは知らないし、知ることもできない。」566P・・・これは一票の平等、形式民主主義の支配の形態から抜け出せない政治を語っています。民主主義とは民衆を主体にした、民衆のための政治、たしかに、政治が消滅すれば民主主義という概念もなくなることです。レーニンのエンゲルス弁証法の物象化的展開「量は質に転化する」
「民主主義とは国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、民主主義とは、あらゆる国家と同様に、人間に対して暴力を組織的かつ系統的に行使することである。これが楯の一面である。しかし、他の一面では、民主主義とは市民間の平等の形式的な承認を意味し、国家制度の決定とその統治に対する全市民の平等な権利の形式的な承認を意味する。このことが、またそれで、つぎのことと関連してくるのだ。すなわち、民主主義は一定の発展段階で、第一に、資本主義に反対する革命的階級、つまりプロレタリアートを団結させ、この階級がブルジョワ国家機構――たとえそれが共和制的なブルジョワ国家機構でも――を、常備軍を、警察を、官僚制度を打倒し、これをこっぱみじんに粉砕し、地上から一掃し、それらを、やはり国家機構にはちがいはないが、より民主主義的な、人民全体の民兵化へ移行しつつある武装せる労働大衆という形の国家機構ととりかえることができるようにするのだ。/ここで「量は質に転化する」。すなわち、民主主義のこのような段階は、ブルジョワ社会の社会主義的改造の開始と結合している。もしほんとうにすべての人が国家統治に参加するならば、資本主義などもはやもちこたえられないだろう。そして、資本主義の発展そのものが、またそれで、「すべての人」がほんとうに国家統治に参加できるための前提条件をつくりだすのだ。」566-7P
「計算と統制」567P・・・資本主義は教育ということを通して革命を準備します。同時に国家主義や競争原理などを通して差別主義も身につけさせます。その幻想をどう解体していくかの道筋も示す必要があります。
「だが、資本家に勝利し搾取者を打倒したプロレタリアートが、全社会にあまなくおしひろげんとするこの「工場」の規律は、けっしてわれわれの理想でもなければ、終局目標でもないのだ。それは、社会から資本主義的搾取の醜悪さ、悪辣さを根こそぎ一掃するために必要な、そしてさらに前進するために必要な、一小段階にすぎないのだ。/社会の全成員が、もしくはすくなくとも社会の圧倒的多数が、自分自身で国家を統治することを学び、この仕事を一手に引き受け、とるにたらぬ少数者である資本家や、資本家的習癖をもちつづけたがっている紳士諸君や、資本主義によって骨の髄まで腐り果ててしまった労働者に対する統制を「軌道に乗せた」瞬間、その瞬間から、いっさいの統治一般に対する必要性は消滅しはじめる。」568P
「労働者は、政権を把握するや、古い官僚機構を粉砕し、一物も残さないほど根こそぎに打ち砕いてしまう。そして、これを労働者と勤務員からなる新しい機構で置き換える。彼らが官僚に転化するのを防ぐために、マルクスとエンゲルスによってくわしく探求された方策が即刻とられるであろう。その方策とは、つぎのようなものだ。/(1)(官僚の)選挙制だけでなく、随時解任制/(2)官僚に対しては労働者の俸給をこえない俸給を。/(3)すべての人が統制と監督の機能を遂行し、すべての人がある期間「官僚」となり、そのことによって、だれもが「官僚」になれなくなるような状態へただちに移行すること。」576-7P・・・(3)は共産主義の高度な段階
「ところが、カウツキーは、マルクスの「コミューンは議会的な団体ではなく、立法府と執行府とを同時に兼ねそなえている行動団体であった」という言葉を深く考えていないのだ。/カウツキーには、[人民のためのものではない]民主主義と[反人民的な]官僚主義とを結合しているブルジョワ議会制度と、プロレタリア民主主義、すなわち官僚主義を根だやしにする諸方策を即座に採用し、これら諸方策をとことんまで、つまり官僚主義を完全に絶滅するまで、人民のための民主主義を完全に実施するまで遂行することができるであろうプロレタリア民主主義との違いが、全然理解できなかったのだ。」577P・・・ここで二つの民主主義の違いが出てくるのですが、実際ロシア革命において、それが現実に区別化できていたのでしょうか? 古い「官僚制」の粉砕はなしえたのかの問題 中央集権制とプロ民主主義の関係 党の独裁へと進む動き
(パンネクック)「プロレタリアートの闘争は、たんに国家権力を奪取するためブルジョワジーに対しておこなう闘いではなく、国家権力そのものに対する闘争なのだ。」379P・・・バンネクックとレーニンの違い――レーニンは国家はとりあえず必要←? 今日的にはむしろ国家主義批判の必要
「マルクス主義者と無政府主義者との違いは、つぎの点にあるのだ。/(1)マルクス主義者は、国家の完全な廃絶を目標においてはいるが、この目標は、社会主義革命によって階級が廃絶された後、国家の死滅へとみちびく社会主義が確立されたその結果として、はじめて実現可能なものとなることを認める。ところが、無政府主義者は、国家を今日明日じゅうにでも完全に廃絶してしまおうと欲するが、この廃絶を実現する諸条件をば理解しない。/(2)マルクス主義者は、プロレタリアートが権力を奪取したのち、古い国家機構を完全に破壊し、それに代えるにコミューン型の、武装した労働者組織からなる新しい国家機構をもってすることが必要だと認める。ところが、無政府主義者は、国家機構の破壊を主張しながらも、破壊したあと、プロレタリアートは何をもってそれに代えるか、プロレタリアートはいかに革命権力を利用するかについて、まったく漠然とした考えしかもっていない。彼らは、革命的プロレタリアートによる国家権力の利用をば、プロレタリアートの革命的独裁をば、否定しさえする。/(3)マルクス主義者は、現代国家を利用することによって、プロレタリアートに対し革命の下準備にとりかかるよう要求する。ところが、無政府主義者は、これを否定する。」580P・・・なぜ武装した労働者組織が国家機構なのでしょうか?
「中央集権制は、古い国家機構をもってしても、新しい国家機構をもってしても、実現可能である。もし労働者が自発的に自分の武装力を一つに統合するならば、これは中央集権制であろう。しかし、この中央集権制は、中央集権的国家機関、常備軍、警察、官僚の「徹底的破壊」に基礎をおくであろう。」581P・・・破壊したものを、内容が違うとしても、なぜ同じ形態でつくるのか、意味不明。形態が内容を規定するという側面を押さえ損なっているのでは? ロシア革命からの検証も必要です。
「いま問題になっているのは、反政府派のことでも政治闘争一般のことでもない。革命そのものだ。革命とは、プロレタリアートが「行政機関」とすべての国家機関を粉砕して、それを武装した労働者からなる新しい機関で置き換えることにある。」582P・・・新しい機関がなぜ国家なのでしょうか?
「革命とは、新しい階級が古い国家機関の助けを借りて命令し統治することではない。古い国家機構を粉砕し、新しい国家機構の助けを借りて、命令し、統治することでなければならないのだ。」582P・・・なぜ国家機構にこだわり続けるのか? 軍をもち中央集権制で外部が存在するという設定からなのでしょうか?
「マルクスが、ほかならぬコミューンを例にとって示したように、社会主義のもとでは、官僚の選挙制を実施するだけでなく、さらに彼らに対する随時の解任劇をも実施し、さらにまた彼らの労賃を労働者の平均水準まで引き下げ、さらにまた議会制機関を「立法府であると同時に執行府でもある行動的機関」で置き換えることを実施するにつれて、役員は「官僚」であることをやめ、「官吏」であることをやめるのだ。」583P・・・三つのことがあれば官僚主義ならないけれど、問題はどのようにして三つを実現するのでしょうか?



posted by たわし at 00:46| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」

たわしの読書メモ・・ブログ525
・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」(『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
この本は「マルクス主義」関係で最初に読んだ2冊目の本、一冊目は次の読書メモでとりあげる『国家と革命』です。この2冊はほぼ同時期に読んだのですが、読んでしばらくして、日本でスターリン批判をしたひとのひとり(日本のスターリン主義批判は世界に先駆けていたという話もあります)、三浦つとむの『レーニンから疑え』を読み、そもそもわたしは全共闘的な「自己否定の論理」のようなところで、インテリゲンチャの前衛党論のようなところへの違和があり、「レーニンなんか」という思いを持ってしまいました。で、その後のレーニン学習は、差別の問題関係の学習過程で、「民族自決権」に関する本を2冊読んではいたのですが、とりわけレーニン主義の核心的なと言われ、運動論的組織論的論攷は読まずじまいでいました。で、そもそも現在的な社会変革志向の運動の衰退は、過去の運動の総括をきちんとなしえていないからだという思いを強くし、そして、日本の左翼的政治党派のほとんどがとらわれた「マルクス―レーニン主義」ということへの批判が必要ではないかという思いを抱き始め、レーニンの第二次学習をしていました。読書メモ423〜433あたりです。で、まだ結論的なことを書かかぬまま、第三次学習です。で、レーニンの必読書とされる本、2冊の再読です。ちょっと誤解をうみそうなことを書いたので、断り書きをしておきますが、わたしはサルトルやデリダも言っているように、「マルクスの思想は現代社会(資本主義社会)で乗り越え不可能な思想」と思っています。ですので、わたしの思想のベースにマルクスがあるとは自認しています。だから、「わたしはマルクス派」という言い方はします。ですが、ひとをカリスマ的にもちあげる、ひとの名前を冠した○○主義という言い方は、批判的な意味を込めるときにしか使わないようにしています。マルクスとレーニンは一応切り離すことですが、左翼のほとんどの党が、「マルクス―レーニン主義」を自称するかその流れの中にありました。ですから、批判的な意味をこめて「マルクス―レーニン主義」と言う言葉は使っています。
さて、話をこの本に戻します。再読と書きましたが、最初読んだのは岩波文庫の『帝国主義―資本主義の最高の段階としての』か、国民文庫です。今回、岩波文庫で読もうとしていたのですが、タイトルにあるように、『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966を使いました。リード文を書いた江口朴カさん(ブログ423・江口朴郎「レーニンと現代の課題」 (『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収))が文の最後に、「後記」として岩波や国民文庫は第四版で、この訳は第五版で、「スターリンの時代に出された第四版の欠陥を改め、新たに多くの資料をおぎなった、現在見られる最も完全な版である。」52Pと書いています。スターリンは、反対派との論争過程で、原書を改ざんしたということは有名なことです。で、これを使いました。
さて、そもそも「帝国主義」ということば自体の使い方が、変わってきています。レーニン自体が、この本の中でも、「資本主義的帝国主義」という言葉で、「帝国主義」という言葉が別の使われ方があるというニュアンスを出しています。ひとつ前の読書メモの本の共著者のウォーラーステインが「世界システム論」の中で、「帝国主義」ということをアジア的専制国家の侵略的支配という脈絡に限定した使い方を提起しています。そのことがかなり浸透して、先進資本主義(世界システム論では「中枢国」)の後進国 (同じく「周辺国」)支配という意味では「帝国主義」ということばは使われなくなっています。更にネグリ/ハートは、訳語ですが‘<帝国>’という表記を使い出して、さらに「帝国主義」という言葉が使われなくなってきています。
そもそも、レーニンの評価の一つとして、マルクスはその時代の制約性として「資本主義の最高段階として帝国主義」ということを押さえていなかった不備を、レーニンは、補足し新しく展開したのだという事がありました。ですが、今日的にとらえると、レーニンの「帝国主義論」は、侵略と植民地時代の支配の形態で、戦後の民族解放闘争の中で、ほとんどの国が植民地支配を脱し(「新植民地主義」という言葉を出すひとはいますが)、グローバリゼーションンというところで、多国籍企業という形の資本の輸出が、もはや「輸出」という概念を解体するほどますます進み、レーニンの時代は金融―銀行支配ということがあったのですが、株式会社の金集めの形態も多様化し、多国籍企業自体が大きくふくらみ、ヘッジファンドというところでの株式操作も出て来、そして国家が金利の操作や、年金などの公的資金を株価操作や公債の売買に使うという禁じ手も使い出すほど、「レーニンの「帝国主義論」も古い」となっているのだと思います。もちろん、レーニンがマルクスの不備ということで指摘していたこともマルクスは一応出していたこと、それと同じように、レーニンがこの著の中で出していたことは、基本的枠組みとしてまた有効性があることはあるのですが、「帝国主義」的なことと別の可能性を当時としてはありえないとしていたことが、現在的に進行している面もあるようです。さて、レーニンにはそもそもロシア的な資本主義の発展を押さえたブログ433でとりあげた・レーニン『ロシアにおける資本主義の発展 (上)(中)(下)』岩波書店(岩波文庫) 1978-81があります。この本は、そこからさらに展開し、カルテル――シンジケート――トラストという「独占」をとらえ、侵略戦争と植民地支配という「帝国主義」を押さえた論攷です。
さて、ここで押さえておきたいことは、レーニンの「帝国主義論」と同時代的に出された、ローザ・ルクセンブルクのレーニンの「帝国主義論」に対置された、「資本蓄積論」の「継続的本源的蓄積論」です。そこから、世界システム論やネグリ/ハートの『<帝国>』あたりにつながっていっているのですが、ネグリ/ハートは国民国家の過小評価に陥っています。それらのことをわたしは反差別論として読み解こうとしていています。とても、現代経済学の本格的学習まで手をひろげられそうにはないのですが、誰も反差別論からの掘り下げたコミットメントをしてくれません。ともかく、基礎的対話くらいはなしえたいとは考えたりしています。
さて、切り抜きメモを残し、その中でもう少し対話を試みます。
「この国では、大工業における独占の誕生に集荷がおよぼす影響は、結晶体のような純粋さであらわれている」293-4P→これには訳者注がついていて、注(1)時代とともに変化する歴史社会の法則に対して、恒久不変の法則をさす。」295P・・・これは社会的関係と自然的関係としてとらえかえすことができて、まさに「社会的関係を自然的関係としてとらえる」という錯認としてのマルクス的な物象化論の指摘とつながっている、とわたしサイドで読み込みました。
「独占体の歴史を基本的に総括すると、結局つぎのとおりとなる。/(1) 一八六〇年代と一八七〇年代――自由競争の発展の頂点。独占体は、かろうじて認めうる萌芽でしかない。/(2) 一八七三年の恐慌以後。長期にわたるカルテルの発展期だが、カルテルはなお例外的存在である。それはなお、永続的なものではなく、一時的な現象である。/(3)十九世紀末の紅葉と一九〇〇〜〇三年の恐慌。カルテルは、経済的生活全体の基礎の一つになっていく。資本主義は、帝国主義に転化した。」296P
「独占者の団体が「組織」づくりに用いる現代的な、最新の、文明的な闘争手段の一覧表を、ざっとでも見ておくと、教えられることが多い。/(1)原料の剥奪 /(2)「同盟」による労働力の剥奪/(3)輸送の剥奪/(4)販路の剥奪/(5)もっぱらカルテルとのみ取引きするという、購買者との協定/(6)計画的な価格引き下げ/(7)信用の剥奪/(8)ボイコットの宣言」(注解省略)300P
「細かい網の目のような水路が、国中をおおい、すべての資本と貨幣収入を集中し、数千数万の分散した経営を単一の全国民的な資本主義経済へと、さらには、世界資本主義経済へと、転化させつつある」306P・・・銀行資本の支配の水路
「銀行が幾人かの資本家のために当座勘定の口座をひらくのは、純然たる技術的な業務、あるいは、もっぱら補助的な業務をおこなうことであるかのようだ。だが、この業務が巨大な規模にまで成長すると、全資本主義社会の商工業取引きが、一握りの独占者に従属させられることになる。」308P
「自由競争の支配する古い資本主義に独占の支配する新しい資本主義がとって代わったことは、一つには、証券取引所の意義が低下したことにあらわれている。」312P・・・これは銀行支配ということなのですが、現在的には株式による株の持ち合いとか、ヘッジファンドの登場とか、巨大な多国籍企業の登場とか、国による公的資金の株株式への投入、金利操作とか、銀行支配という側面は、レーニンの時代に比べてすくなくなっているのではと思えるのですが。
「銀行と産業との「人的結合」を補っているのは、これらの銀行や会社と政府との「人的結合」だ。・・・・・・したがって、資本主義的大独占をいわばつくりだし、仕上げるのは、あらゆる「自然的」および「超自然的」な方法によって全速力で進められているのだ。」316P
・・・「自然的」――まさに物象化論的把握
「資本の輸出国は、比喩的な意味では、世界を自分たちのあいだで分割した。しかし金融資本は、まさに世界の直接的分割をもたらしたのだ。」140P
「X 資本家団体による世界の分割」340-9P・・・電気と石油、そして運輸、鉄道からレール製鉄業
「資本主義国の植民地政策化がわが地球上のあいている土地の侵略を完了したという意味だ。だから、このあとに来るのは再分割だけだ。」350P・・・再分割として二度の帝国主義間戦争としての世界大戦、そして植民地支配からの独立闘争を経ての「帝国主義論」から世界システム論への転換やネグリ/ハートの「<帝国>」概念の登場
「したがって、独占資本主義段階への、金融資本への資本主義の移行が、世界分割をめぐる闘争の激化と結びついているということは疑いのない事実だ。」351-2P
「われわれは、ここから一八七六年をとる。これはすこぶる選択の当を得た時点だ。なぜなら、全体として見れば、まさにこの時期までに、独占以前の段階の西ヨーロッパ資本主義の発展は完了した、と見ることができるからだ。」354P
「こうして、第14表(354P)のような総括表が得られる。/この表からは、十九世紀と二十世紀の境に世界の分割が「完了した」のが一目瞭然である。」355P
「植民地政策と帝国主義は、資本主義の最新の段階以前にも存在したし、資本主義以前も存在した。奴隷制に立脚したローマは、植民地政策を推進して帝国主義を実現した。しかし、社会経済的構成体の根本的な相違を忘れたり、それを軽視して、帝国主義について「一般的」に論じるなら、「大ローマと大ブリテン」を比較するというような、空疎このうえない俗論や駄ぼらになってしまうのは避けられない。資本主義の従来の諸段階の資本主義的植民地政策でさえ、金融資本の植民地政策とは本質的に異なっている。」356-7P・・・資本主義以前の帝国主義と資本主義的植民地支配の帝国主義、金融資本支配下の植民地主義的帝国主義と、植民地からの独立後のグローバリゼーションン下の「帝国主義」――これは、世界システム論では、(アジア的)帝国主義、グローバリゼーション下の中枢国―周辺国という二分法になっています。ネグリ/ハートの「<帝国>」概念は、これらを架橋する概念。
訳注(1)「レーニンは、『帝国主義ノート』(第四版、三十九巻、七〇〇ページ)で、世界の国々を、(1)金銭的にも政治的にも自立した国、(2)金銭的には自立していないが、政治的には自立している国、(3)半植民地、(4)植民地と政治的従属国、の四つのグループに分けている。第一のグループにはイギリス、ドイツ、フランス、アメリカがあげられているが、第二のグループにはロシア、オーストリア、トルコ、西ヨーロッパの小国、日本、中南米の一部があげられている。だから、ここではアルゼンチンとかポルトガルが出されているが、ほんとうはロシアのことを頭においているのである。」361P
(帝国主義のついてのまとめ)「帝国主義は、資本主義一般の基本的属性の発展、その直接の継続として成長した。しかし、資本主義がついに資本主義的帝国主義になったのは、その発展の、きわめて高度な一定の段階でのことであって、資本主義のいくつかの基本的属性がその対立物に転化しはじめ、資本主義からより高次の社会経済的制度へ移る過渡期の諸特徴があらゆる面で形成され、表面化したときのことである。/この過程において経済面で基本的なことは、資本主義的独占が資本的自由競争にとって代わったことである。自由競争は資本主義と商品生産一般の基本的属性であり、独占は自由競争の直接の対立物である。ところが、この自由競争が、われわれの眼前で独占に転化しはじめた。すなわち、大規模生産をつくりだして小生産を駆逐し、大規模生産を巨大規模の生産で置き換え、生産と資本の集積を推し進め、そこから独占体が、つまり、カルテル、シンジケート、トラスト、そしてこれらと融合し数十億の金を動かしている十行かそこらの銀行の資本が、成長したし、いまも成長しつつあるところまで到達させたのだ。そして同時に、独占は、自由競争のなかから成長しながらも自由競争を排除せず、自由競争のうえに、これと並んで存在し、このことによって一連の、とくに鋭くはげしい矛盾、摩擦、衝突を生みだしている。独占は、資本主義からより高次の体制への過渡なのである。/もし帝国主義をできるだけかんたんに定義する必要があるとすれば、帝国主義とは資本主義の独占段階のことだと言うべきだろう。この定義には、最も主要なものが含まれている。というのは、一方では、金融資本とは、産業家の独占団体の(産業)資本と融合した、独占的に少数の巨大銀行の銀行資本だからであり、他方では、世界の分割とは、まだどの資本主義強国によっても侵略されていない領域へ自由に拡張される植民政策から、くまなく分割しつくした地球上の領土を独占的に領有する植民地政策への移行だからである。」362P
「あらゆる定義一般のもつ条件つきで相対的意義を忘れずに、つぎの五つの基本的標識を含むような、帝国主義の提起を与えねばならない。/(1)生産と資本の集積が高度の発展段階に達して、経済生活で決定的役割を演じる独占体をつくりだしたこと。/(2)銀行資本が産業資本と融合し、この「金融資本」を基礎として金融寡頭制がつくりだされたこと。/(3)商品輸出と区別される資本輸出が、とくに重要な意義をおびること。/(4)資本家の国際的独占団体が形成され、世界を分割していくこと。/(5)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了したこと。/帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立し、資本輸出がきわだった意義をおびるにいたり、国際的トラストによる世界の分割が始まり、最大の資本主義諸国による地球の全領土分割が完了した、という発展段階の資本主義のことである。」363P
「もし基本的な純経済的概念[いま述べた(前の文章)定義はこれに限定したものである]だけでなく、資本主義一般に対して資本主義のこの段階が占める歴史的な位置とか、労働運動における二つの基本的な傾向と帝国主義との関係とかを考慮に入れるならば、帝国主義にはこれとは異なる定義を下すことができるし、下さなければならない。ただ、ここでは、右に(横書きでは上に)指摘した意味で理解される帝国主義が、疑いもなく、資本主義の特殊な発展段階をなすということに、注意しておかねばならない。」363P
「帝国主義にとってまさに特徴なのは産業資本主義ではなくて、金融資本主義なのだ。」364P
「カウツキーが帝国主義の政治を帝国主義の経済から切り離して、領土併合を金融資本の「好む」政策だと解説し、それに対置される別のブルジョワ的政策が同じ金融資本の土台に立っても可能であるかのように主張している点にあるのだ。そういうことなら、経済における独占は、政治における独占ではない、暴力的ではない、侵略的ではない行動様式と両立しうるということになる。つまりは、まさに金融資本の時代に完了し、最大の資本主義国家間の競争の現代の形態の独自性基礎をなしている地球の領土的分割は、帝国主義的でない政策と、両立しうるということになるのだ。」366-7P・・・カウツキーの分析はその時代には間違えていたとしても、植民地が独立した現代のグローバリゼーションンの時代の経済体制ということでは、当てはまることがあるのでは?――単一の中枢国による植民地ではなくて、グローバリゼーションンの時代の多国籍企業の支配も含んだ経済従属体制というところでの政治的従属関係となっている。
「ところが、二十世紀の初めにあたる歴史=具体的な時代としての金融資本の時代の「純経済的」条件について語るのならば、「超帝国主義」という死んだ抽象[これはもっぱら、存在している諸矛盾の深刻さから注意をそらすという極反動の目的に役だつものだ]に対する最良の答えは、現代社会の具体的=経済的現実をそれに対置することである。」368P・・・前のメモと同じ
「金利生活者の収入が、この世界一の「商業国」(「大英帝国」)の貿易収入を五倍も上まわっている! ここにこそ、帝国主義と帝国主義的寄生性の本質があるのだ。/「金利生活者国家[Rentnerstaat]あるいは高利貸国家という概念が、帝国主義に関する経済的文献のなかで一般的に用いられるようになりつつあるのは、このためである。世界は一握りの高利貸国家と圧倒的多数の債務者国家とに分裂した。」374P
「この著者(ホブスン)の見解によれば、つぎの2種類の事情が旧来の諸帝国の力を弱めてきた。すなわち、/(1)「経済的寄生性」/(2)従属的諸民族からなる軍隊の編成/である。」376P
「帝国主義本国(中枢国)」の第一産業と第二次産業の空洞化377P
「ヨーロッパ合衆国」378P――訳注(1)「大戦の初期にボリシェヴィキのなかで「共和制的ヨーロッパ合衆国」というスローガン出された。レーニンもはじめはそれを支持したが、一九一五年なかばになり、資本主義、帝国主義に手をふれないでヨーロッパ合衆国を追求するのは誤りだと、これをしりぞけた。レーニンは「社会主義的世界合衆国」を考えている。」379P・・・そのようなことが成立したら、国家という概念ではなくなるのでは?
「ここでは、原因と結果がはっきりと指摘されている。/原因は、(1)この国による全世界の搾取、(2)世界市場におけるその独占的地位、(3)その植民地独占、である。/結果は、(1)イギリス・プロレタリアートの一部のブルジョワ化、(2)プロレタリアートの一部がブルジョワジーに買収されているか、すくなくとも彼らから金をもらっている連中の指導に甘んじていること、である。」382P
「だから日和見主義は、こんにちでは、十九世紀後半のイギリスで勝利を得たように、数十年の長きに渡って一国の労働運動を完全に支配することはできない。しかし、日和見主義は、幾多の国で、成熟しきって熟しすぎ、さらには腐りはて、社会排外主義となって、ブルジョワ政治と完全に融合してしまったのである。」382P・・・レーニンの時代の「中枢国」では、「融合」は可能だったとしても、グローバリゼーションンの時代には、「融合」は可能なのか? 「労働貴族」の没落
「現在のいわゆるドイツ「社会民主」党の幹部は、正当にも「社会帝国主義者」――すなわち、口先では社会主義者、実際は帝国主義者――という名前で呼ばれているが、ホブスンは、速くも一九〇二年に、イギリスには日和見主義的な「フェビアン協会」に属する「フェビアン帝国主義者が存在している、と指摘していた。」383-4P・・・いろいろな「帝国主義者」
「外国の支配下にあるアジア・アフリカ・ヨーロッパの諸民族の代表者が集まって、一九一〇年六月二十八〜三十日にひらかれた従属民族人種会議」384P――訳注(3)「ロンドンのウェストミンスターで開かれた。エジプト、インド、モロッコ、グルジア、アフリカの黒人、南米のインディオ、アイルランド、ポーランドの代表が集まった。」385P・・・この時代から反「帝国主義」運動が始まっていることに留意―
「帝国主義の諸矛盾を分析してその深刻さをあばきだすのではなく、これらの諸矛盾を回避し、言いのがれをしようという改良主義的な「無邪気な願望」――これが、われわれの見る唯一のものなのだ。」386-7P
「輸出の上昇はまぎれもなく金融資本の詐欺的行為と結びついているのであり、この金融資本はブルジョワ道徳などすこしも気にせず、一頭の牛からも二枚の皮をはぐのである。つまり、最初は、借款から利益を得、つぎは、借款がクルップの製品や製鋼シンジケートの鉄道用材の買いつけ等々にあてられるとき、その同じ借款から利益を得るわけである。」391P・・・ODAとか、世銀支配とかにも繋がる常套手段
「帝国主義は金融資本と独占の時代であり、この金融資本と独占は、いたるところに、自由を求める渇望ではなく、支配を求める渇望をもってまわる。」395P
「ここでとくに、問題としているこの時代の特徴をなす独占の主要な四つの現象を、指摘しておかねばならない。」――「第一に、独占は、生産の集積のひじょうに高度な発展の段階において生産の集積のなかから成長した。これは、資本家たちの独占団体――カルテル、シンジケート、トラストである。」――「第二に、独占体は、最も重要な原料資源の略奪を強化させた。」――「第三に、独占は銀行から成長した。銀行はひかえめな仲介者的企業から金融資本の独占者に転化した。」――「第四に、独占は植民地政策から成長した。」397-8P
「この点で何よりも危険なのは、帝国主義との闘争は、日和見主義との闘争と切っても切れないように結びつけられていなければ、空虚な、偽りの空文句にすぎないということを、理解したがらない人々である。」400P
「この点で示唆ぶかいのは、「からみあい」や「や「孤立性の欠如」等々が、最新の資本主義について記述しているブルジョワ経済学者たちの流行語となっている。」――「それでは、この「からみあい」という言葉は何をあらわしているのか。それは、われわれの眼前で進行している過程の最も目につく特徴だけをつかんでいるにすぎない。それは、観察者が木を見て森を見ないことを示している。それは、外面的なもの、偶然的なもの、無秩序なものを、ただそのまま書き写していただけのことだ。それは、素材に圧倒されて、その意味も重要性もさっぱりわかっていない人間であるあることを暴露している。」――「このようなときには、われわれの眼前にあるものは、生産の社会化なのであって、たんなる「からみあい」などではけっしてないということ、私経済的関係および私的所有者的関係は、もはやその内容にそぐわない外皮をなしていること、そしてこの外皮はこれを取り除くのが人為的に引き延ばされるばあいにはかならず腐敗するということ、それは比較的長期間[最悪のばあい、日和見主義の腫れものを治してしまうのが遅れるばあいには]腐敗状態のままでいることがあるが、それでもやはり、結局はかならず取り除かれるであろうということが、明白になるのである。」401-2P・・・ブルジョワ・イデオローグ達の無理解と、ものごとをあいまいにさせる目くらまし的虚言


posted by たわし at 00:43| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月17日

イマニュエル・ウォーラーステイン他/若森章孝他訳『資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ』

たわしの読書メモ・・ブログ524
・イマニュエル・ウォーラーステイン他/若森章孝他訳『資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ』唯学書房 2019
この本は、「歴史社会学」の五人の共著です。この本も新聞の書評欄で見て買い求めた新しい本です。著者の最初に名前が出てくるイマニュエル・ウォーラーステインは、「世界システム論」で有名で、一時期まとめ読みをしました。かなり、刺激を受けていたのですが、客観主義的な分析と予想というところでの論攷で、何か違うという思いをもつて離れて行ったのです。今年8月末に亡くなったという情報が入り、かつ、この本の書評が新聞に載っていて、タイトルが丁度関心事と重なって買い求めました。
 これは一応「世界システム論」的なところを軸にして共著です。ただ、マンは「システム」という言葉に違和をもっているようで、そもそも「システム」ということを機能的にとらえるのか、実体主義的にとらえるのかの問題があります。このあたりの哲学的な押さえが書かれていないので、議論の深化がなしえていません。これは、「世界システム」を関係性の総体というところでとらえたところで、実体主義批判から押さえていくのか、国民国家やその関係の総体を実体主義的にとらえるのかの、認識論的なとらえ返し―パラダイム転換的なとらえ返しが必要になっているのだと思います。そのあたりから、対話自体を深化させていく必要も感じています。
 もう一つは、五人の内のひとりは、旧ソ連邦出身者なのですが、「共産主義国家」という概念を出しています。共産主義と国家はアンチノミーのはずなのですが、この共著者の共通の概念として、ソ連邦と東欧の「社会主義」は崩壊した後、資本主義の次に「社会主義国」がくるという未来図がなくなった、という押さえです。そもそもソ連邦を「社会主義国」として定立したという押さえが間違えているのだと思います。ロシア革命は、ソビエト独裁としてのプロ独の段階で、党の独裁になり、また他国の革命との連動の途が閉ざされ、新経済政策(ネップ)の導入の時点で、更にスターリンの一国社会主義建設路線で、明らかに「国家資本主義」になったのであり、それをどうも、この共著は「国家社会主義」と押さえるところで、そもそも間違えているのだとわたしは押さえています。そのあたりの定式化はかなり進んできていると思っていたのですが、この共著者たちは、そのような情勢をどのように対話しているのでしょうか?
 改めて、共産主義とは何かというところから議論を起こし深化していく必要性を感じています。
反差別共産主義論という論攷をしていこうというわたしの立場からすると、ウォーラーステインは余りにも学者的・客観主義的だととらえるようになっていたのですが、この著は最晩年の著で、未来を想うというところで、かなり社会の動態を押さえようとしていて、刺激的な本になっているのですが、もっと運動的観点からの提起が必要になっているのだと思います。もちろん、過去の運動の総括の中ですが。
ですが、やはりこれは未来社会の予想、しかも、はっきりしなくなったという予想で、運動サイドからすると、問題はこの社会の矛盾がどこにあり、それをどう解決していけるかということなので、そもそも学者のひとたちと問題意識が違っていて、何か実りのない議論になっているとしか感じられないのです。もちろん、分析は分析として、批判しつつ使えるところは使っていくということになるのだとは思うのですが。
 さて、ちょっと各章で冒頭コメントを挟みつつも、いきなり切り抜きという形でメモを残します。キーワード的メモにしようとしていたのですが、結局文のコピー的な引用が多くなりました。わたしにはマルクスやウォーラーステインのことがそれなりに入っています。で、そのあたりですでにつかんでいたことは読み流しています。新しくつかんだ情報や異論のあるところを中心にしたメモになってしまっています。むしろ、そのあたりの基礎的なことが必要なひとがいて、切り抜きが恣意的だと批判されるかもしれません。そのあたりは、実際に本をよんでもらうしかないとも思います。
なお、「序章 5人の連名「次の大きな転換」」と本の書名と同じタイトルを付けた「訳者あとがき」は、省きます。大体の内容紹介になっています。訳者の「あとがき」とか解説は、よくまとまった俯瞰図になっているので、わたしはいつも最初に読んでから本文を読むようにしています。ただ、今回は訳者と著者の間であまり対話を深化させているようには思えないので、直接わたし自身の著者へのとらえ返しも含んだメモにして、この部分へのコメントは省きます。
第1章 イマニュエル・ウォーラーステイン「構造的危機―なぜ資本家はもはや資本主義に報酬を見いだせないのか」
 ニューヨーク生まれ。世界システム論というひとつの流れを作った中心人物です。
「私の分析は二つの前提に基づいている。第一の前提は、資本主義はシステムであるが、総てのシステムには寿命があり決して永遠のものではない、ということである。第二の前提は、ほぼ五〇〇年間にわたる存続を通じて一連の独自のルールで作動してきたがゆえに資本主義はシステムである、ということである。」16P
(イリア・プリゴジンを援用して)「すべてのシステムは、質的に異なる三つの期間――存在を生み出す期間、「正常な」寿命を通じてそれが機能する期間(最も長い期間)、存在が消滅期間(構造的危機) ――から構成されるものとして分析されなければならない。」16P
「歴史システムが資本主義システムと見なされるには、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――がその主要な決定的特徴でなければならない。」18P
(コンドラチェフ循環)「システムの「正常な」機能の期間として私たちが思いつくのは、均衡に戻ろうとする圧力の方が均衡から離れようとする圧力よりも大きい時期である。」19P――「市場が国家の関与から「自由」でない場合にのみ準独占が存在しうるのである。」「実質的な利益を得ようとすれば、自由市場に対する制限、すなわち準独占が必要になる。」20P・・・[「均衡に戻る」⊃「均衡から離れる」]ところで、「正常な機能」――「世界経済の全域で「成長」の拡大が引き続き起こる。」20P・・・利益的には「覇権的循環(ヘゲモニー・サイクル)」⊃「コンドラチェフ循環」(ただし、一時的では?)
「国家は、このような準独占を作り出しそれを保護するために多くのことができる。例えば、特許制度やその他のいわゆる知的財産権を保護する形態で準独占を合法化することもできるし、研究開発において準独占産業に直接的な援助を行うこともできる。また、往々にして国家は、引き上げられた価格で買う主要な購買者になりうる。さらに国家は、地政学的強みを利用して、他国の生産者と思われる者による準独占の侵害を阻止しようと試みることもできる。」21P・・・最後のところ、トランプのファーウェイ排除
「企業家が無限の資本蓄積を遂行できるのは、ただ、資本家が「世界経済」――その内部にはさまざまな国家がある――の中に位置する場合だけなのである。/このことはまた、コンドラチェフ循環よりもかなり長いサイクルである、いわゆる覇権循環がなぜ存在するのか、ということについて説明する。世界経済における 覇権(ヘゲモニー)とは、一つの国家が――世界システムに相対的秩序があるようにするために――他のすべての国家の活動に一連のルールを押しつける力を意味する。」25P
「地政学的大国の準独占」26P
地政学的大国の準独占は解消に向かう、その理由@勝利の限定性A出費の拡大による国内的矛盾B他の国の台頭26-7P
 循環の説明27-8P
「冷戦構造」を作ったヤルタ協定の「三つの要素」@ソ連の軍事力で境界線A経済的分離B冷戦体制30P
 第三世界の台頭32P
 アメリカ一国準独占のほころび――競合者の台頭33P
 一九七〇代に始まる構造的危機@際限のない蓄積の破綻A中道リベラル派による支配の危機的終焉34P
「三つの異なった水準で働く人びと」35P――@未熟練・半熟練労働者A熟練労働者および幹部B首脳経営陣35P
費用の外部化@有毒廃棄物の処理A原材料の再生B輸送・通信に必要なインフラの建設に要するコスト37P
 大きな変化@「グリーン」「有機栽培」環境問題への関心A再生可能な資源への関心Bインフラの整備C課税の上昇37-9P
「生産の三つの基本的費用が上昇して、システムは五〇〇年にわたって機能してきた多様なメカニズムでは均衡に復帰できないような漸近線に近づいている、・・・・・・」40P
「資本主義的生産者にとっての利潤の圧縮はとてつもなく大きな文化的変化によって悪化したが、これは地政文化における中道主義的自由主義の終焉を意味する。」40P
一九六八年の運動の三つのテーマ@覇権権力に関する事A旧左翼に関する事B忘れられた人びとに関する事(差別の問題)43-4P
 中道主義自由主義の終焉46P
「一九六八年の世界革命は、途方もない政治的成功であるとともに大きな政治的失敗でもあった。」46P
「旧左翼の運動は、何らかの根本な変革の担い手としては解体されることになった。」46P
「BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)」50P
「ブローバック(外交政策が原因となって自国に引き起こされる、テロ行為などの予期できない負の結末)」50-1P
 刷新の不可避性――新しいシステムへの移行52P
「ダボスの精神」と「ポルトアレグレの精神」54P
「システムはつねに均衡から離れている。これが構造的危機の定義である。」――「バタフライ効果」54P
 四つの集団55-6P
 システムの混沌と変革の混沌55P
「相対的民主主義と相対的平等主義」56P
「後に来るシステムを巡って闘争が展開される構造的危機のなかに生きているのである。」57P
「私たちにできるのは、歴史的選択肢を分析して、望ましい結果をもたらすような道徳的選択をし、そこに至る最適な政治的戦術を評価することである。」57P・・・「評価」?問題は変革することー
第2章 ランドル・コリンズ「中産階級の仕事の消滅―もはや逃げ道はない」
 テネシー州生まれ。ソヴィエト連邦の崩壊を予想したということで有名になったひとの様です。巻末の著者紹介に「現代の代表的なマクロ歴史社会学および紛争理論の研究者」とあります。中産階級の没落と失業問題から資本主義の終焉を押さえようとしています。
「結局のところ私は経済危機の結果としての国家奪取の理論でも、それ自体、革命の理論でもなく、革命の原因に関して社会学者が何を学んできたのかを議論することになるだろう。それは社会主義の未来について考えるものではあるが、社会主義の理論ではない。また、社会主義を過去においてよりもうまく未来に機能させようとするものでもない。それは何よりも危機の理論である。」62P・・・結局資本主義の枠組みでの議論になってしまっているのではないでしょうか?
「ここで、私が強調したいのは、技術的な労働代替を通じての資本主義の最終的崩壊など存在しないということである。マルクスとエンゲルスは労働の技術的代替を強調したけれど、ホワイトカラーの被雇用者や管理労働者、高学歴の専門職といった大量の中産階級の出現を予想しなかった。」62-3P・・・マルクスとエンゲルスが主に強調したのは、生産力の発達と生産様式の間の矛盾では?
「地球規模または国家間規模におけるこのようなメカニズムの自由主義的解釈が近代化理論または開発理論である。」70P
「世界システム論における中心/半周辺/周辺というパターンは、覇権の交代によって複雑になる。覇権の交代は、大きな戦争によって画期づけられ、世界市場の相対的な拡大と停滞というコンドラチェフ長期波動と連動する。しかし、連続的な覇権の循環――スペイン、オランダ、イギリス、アメリカ。それに中国が続く、と想定されている――は、周辺部が枯渇して地球のすべての地域が完全に資本主義市場に移動すれば、論理的に終焉する。もはや、安全弁も搾取のための地域も存在しなくなり、資本主義の利潤は枯渇することになる。」71P・・・後は格差拡大と排外主義、中心部における収奪の強化という差別による体制の維持が図られる
「私が強調したいのは、市場のグローバリゼーションが今や中産階級の職を奪っていることである。」71P
「金融のメタ市場がさらにピラミッド化していけばいくほど、それらはより不安定になって危機を招きやすくなり、低レベルでの物質的経済で生じていることとまったく釣り合わなくなって急騰と暴落が生じる。」76P
「すべてが自動化される未来に、あらゆる人びとが金融投資家、つまり賭博人生のギャンブラー予備軍として生涯を過ごすということなど、考えられるだろうか。すべての人が投資家として人生を送りカネを儲け続けることなど、できはしない。」78P・・・そもそも、投資という資本主義の枠組みで論を進めること事態への疑問
「基準失業率が三倍ないし五倍にもなりうるコンビューター化された未来についても考察しなければならない。大量失業の危機という状況に対して政府は福祉国家的な道で対応することを選んだが、その道への障害については容易に推察できる。」82P――「反税運動」「失業者と不安定就業者の要求」83P・・・そもそも「福祉国家」も能力主義から抜け出せていないという矛盾
「教育の内実は、主に技術的要請によって決定されるのではない。最先端のスキルを含むほとんどの技術スキルは、仕事をするなかで、あるいは暗黙のネットワークを通して学習されるのであって、教育の官僚的組織は、せいぜい、確信されたスキルを一般的に標準化しようとするだけである。」88P
「福祉国家がイデオロギー的に不人気なところでは、教育神話が隠された福祉国家を推進する。初等教育、中等教育、高等教育の数百万の教師と彼らの管理者を増やすなら、教育インフレという隠されたケインズ主義が資本主義を実際に浮揚し続けることになる、と言ってもいいだろう。」89P
「教育の膨張は・・・・・・ハイテクと能力主義という旗印のもとで膨張していくのである。」89P
「教育を通しての救済が次第に政府によって維持されるようになるなら、教育という名のもとでの社会主義に到達する可能性が出てくる。自由主義政府が、さもなければ失業してしまう人びとを養うために教育システムの拡大を維持し、それをケインズ主義的安全弁、および、被雇用者の減少しつつある部門や資本からの移転支出の形態として用いる、ということが考えられるからである。しかし、そのような政府が持てるようになるには、おそらく資本主義に対する革命的と言えるほどの幻滅感が必要とされるだろう。」92-3P・・・教育に対する過大な位置づけ、実際は愛国心教育や、競争主義的なところで、資本主義的イデオロギーを注入していく場になっている。
「失業率が労働可能人口五〇%あるいは七〇%に達するとき、資本主義システムは、過少消費と政治的動揺の両面から、維持できないような圧力のもとに置かれるに違いない。」94P・・・「失業率増大革命論」? そもそも産業構造の大きな変化という中で、失業率は増大しないで、構造変革的な革命に至るのでは?
「一九七〇年代以来、革命論は大きくつくり変えられている。スコチポル[Skocpol,1979]やゴールドストーン[Goldstone,1991]、ティリー[Tilly,1995]などの著者は、国家体制の盛衰に関する比較研究を通して、国家崩壊的革命論と呼びうるものを確立した。」95P
「歴史は多様な要因によって動かされており、未来は、五つのサイコロが同時に六という数字になるのを待つ中国のゲームのヤッツィーのように、複数のサイコロを転がすゲームに似ている。つまり、国家の崩壊と戦争の敗北、技術代替による世界の至るところでの失業という三者の絶妙な組み合わせを通して、全般的な反資本主義革命が未来のある時点で生じうるのである。」97P・・・ヤッツィーのような確率なのか? 実体的独立項ではないのではないか?
「民主主義的ポスト資本主義と比べてファシスト的解決の試みが実現する可能性がとれほどなのか私たちには分からないが、ウォーラーステインはフィフティ・フィフティになるだろうと推測している。」98P
 構造的危機の複雑的展開@グローバルな不均衡A他の次元の闘争のために資本主義的危機が曖昧になることB戦争C環境的危機99-107P→この@に関しては、「このようなシナリオ(覇権国の介入など)は、もっと大きなプロセスのなかではあまり大きな意味を持たなくなる。資本主義の構造的危機は普遍的傾向なのであり、たとえ地域的な滞りが生じるとしても、あらゆる種類の労働のコンピュータ化と排除の進展は至るところで続いていくだろう。このような条件のもとでは、資本主義的な覇権国が長く生き残ることはできない。」101PAについて「宗教的問題」「人種的/民族的/国民的アイデンティティに関する問題」102P「構造的危機をさらに重要なものにするのは、それが構造的だということであり、そのことは、社会的生活の存続の物的・組織的基板に影響を与える制度的配置をめぐる不可避的な争いに関係する。構造的問題は、スキャンダルと違って立ち消えにはならず、しばらくの間無視されることがあってもその影響をもたらしていくのである。」102P「民族的、宗教的、ライフスタイル的な闘争、そしてその他のあらゆる闘争は(ジェンダーに関する闘争も)、ポスト資本主義的な移行期が問題を解決する危機を、動員された政治的勢力が最終的に結集するまで引き延ばすのであり、移行が起きるかどうかではなく、移行にどれくらい時間がかかるかということが長期的問題になるのである。」103P・・・わたしは差別の問題としてとらえ返すB「戦争は概して、とりわけ敗北した側で革命を促進させる。」「戦争のシナリオは、ポスト資本主義的移行を遅らせるだけである。」104PC「環境的危機が資本主義危機とからみ合うことはありえるが、環境危機が資本主義の生き残りを助けるというオルタナティブの可能性はとても考えられない。」105P「環境危機に関する周到な予測によれば、二一〇〇年頃に人間の居住の大きな破壊が起き、この時、海面はゼロメートルの沿岸地域を水没させるほど上昇する。そして、大きな人口密集地では農業が衰退し、水不足が差し迫ったものになる。しかし、資本主義の危機の到来はもっと早く二〇三〇年から二〇五〇年になるだろうと予測され、それは環境危機よりも影響力が大きいと考えられる。というのも、資本主義の危機の方が最初に深刻化するからである。」106-7P・・・コリンズの「予想」
「ポスト資本主義的制度は、おそらく国家社会主義による二〇世紀の古典的実験よりも分極化された形態で形成されると思われる。」107P「私たちが二〇世紀におけるさまざまな社会主義体制の歴史から学んだことは、それらの体制には固有の闘争が内包されているのであまり多くを期待してはならないということである。」108P・・・「社会主義国」なるものは、人類の歴史上未だに存在したことがない、プロレタリア独裁から「社会主義」への移行に失敗し、「一国社会主義建設」という理論的にありえない誤った道に迷い込み、党の独裁――監視国家――全体主義国家を形成した、すなわち「社会主義国」(「共産主義国」)を標榜する、国家の名の下に労働者を搾取する、国家資本主義の国だった。
「未来の世紀は資本主義的形態と社会主義的な形態との間の一連の揺れを経験することになるだろう。」108P・・・「社会主義」を「共産主義の初期的段階」と規定するならば、そこへ踏み入る事が出来たら、資本主義への揺り戻しなど起きようがないと思われます。
第3章 マイケル・マン「終わりは近いかもしれないが、誰にとっての終わりなのか」
 イギリス・マンチェスター生まれでアメリカに移ってきたひと、巻末紹介「英語圏で最も影響力のある歴史社会学者の一人」とあります。この著者の中では、ウォーラーステインの「世界システム論」とはちょっと距離がある、というより、なぜこの共著者となっているのか疑問を感じさせるひとです。たぶん、「世界システム」という概念はほりさげないというところで、成立したのだと思いますが。マンの議論は、絶望の出口なき議論になっています。
「マルクス主義者やシステムの理論家にとって予言の困難性はだ一つ、資本主義の後をつぐものは何かという問いのなかにある(なぜなら、彼らの多くが、将来は社会主義であるという信念を失ってしまったからである)。」117P・・・そもそも「社会主義」は成立していないのだから、信念の中味が間違っていた、にしか過ぎないこと。
「私は、楽観的であれ悲観的であれ、これらの確信に満ちた未来に関するビジョンをできるならば共有したいと思うが、そうできない三つの理由がある。」117P――@「第一に、人間社会についての私の一般的モデルである。私は社会をシステムとしてではなく、多様に重なり合うネットワークの相互作用として把握している。その中で最も重要なのはイデオロギー的力関係、経済的力関係、軍事的力関係、政治的力関係という四つのネットワークである。そしてこれらの四つに、地政学的関係を・・・・・・付け加えることができる。」117-8P
「これらの動態は相互に作用するけれども、システムを形成する仕方で作用し合うわけではない。」118P・・・そもそも「相互作用論」の間違いA「第二に、お互いにかなり異なる諸国民国家とマクロ的地域がきわめて大きな地球という惑星のなかに存在しているという事実によって複雑さが高まる。」119PB「核兵器の出現に、諸国家やマクロ的地域の間のいかなる敵対関係も戦争では解決できないだろうということが、世界の歴史において初めてはっきりした。と言っても、戦争が起こりえないわけではなく、そのことが第三の複雑さを提起する。」119P
(小見出し)「システムと循環」120-5P・・・ウォーラーステインへの批判
(小見出し)「大恐慌」126-9P「二〇〇八年の景気大後退」129-138P「アメリカの覇権とアメリカの悩み」138-143P・・・マンの分析
「これまで私は、資本主義にはシステム的危機をもたらす一般的「運動法則」があるという考え方に疑問を呈してきた。」143P・・・?景気循環の否定
地球が経済的市場の限界に達するというモデルへのマンの批判145P・・・?グロバリーゼーションは貧富の格差を広げるし、周辺国の需要は伸びない
コリンズ批判として経済的拡大は続いている147-8P・・・?成長率は頭打ちになってきている
「コリンズによる悲観的想定は正しい。この想定には資本主義の崩壊よりありうると思われる。」149P――二つのオルタナティブの未来を生み出す可能性@「第一は、構造的失業が高いままで「三分の一/三分の二」社会が実現するようなかなり悲観的な資本主義のシナリオである。」149P・・・そのようなことはありえない。あくまで資本主義の枠組みで考えている(どうしようもない学者の思考)、そのようになる前に資本主義は崩壊するA「第二のオルタナティブのシナリオは、もつと楽観的である。それは資本主義市場が地球を埋め尽くすことで利潤と成長率が低下するだろうということに同意する。そして利潤と低成長率の低下は持続的低成長率の資本主義として安定する、・・・・・・」151P・・・資本主義は悪無限的利潤の追求を求め、各国間の各国内の格差の拡大によって利益を追い求めようとする、そのことをどのように否定しうるのか? 資本主義に倫理などない(倫理をつきだすごまかしはあるにせよ)、そのことが矛盾の拡大をもたらす、変革の可能性もー
「革命的変革を妨げるものは、まだある。資本主義のオルタナティブとしての共産主義革命とファシズム革命は、大惨事を引き起こした。」152P(・・・基本的認識の間違い――共産主義革命どころか、社会主義革命もなかったー)――「反資本主義革命運動は、規模を問わず世界に存在しておらず、革命はありそうもないシナリオのように思われる。終焉が近いのは、実際のところ、革命的社会主義の方なのである。」153P・・・なんという客観主義
アメリカの破綻と相対的地位の低下154P
グローバルな脅威@核戦争の軍事的脅威A環境破壊154-6P
「人類が温室効果ガスの排出を大幅に削減する行動に立ち上がろうとするなら、過去一〇〇年を通じて大きな成功を達成してきた三つの大きな制度[資本主義、国民国家、消費者の市民権]に根本的異議を唱え、それらを改革する必要がある。」156P・・・変わらないといいつつ、このような提起は、出口のない議論として絶望しかもたらさない、それともサルトル的に「絶望からすべてが始まる」とするのか?
「国家社会主義」156P・・・ヒトラーの「第三帝国」を指す? 「社会主義」の提起をきちんとなしていく必要、「共産主義の初期的段階としての社会主義」という意味では、ソ連は社会主義ではなかった。
「消費の市民権」158P・・・資本主義的悪無限的欲望による消費活動
「新しいタイプの市場から国家への揺れであるそれは、社会主義的なものでなくて、新しい形態の市場規制的な超国家集産主義である。しかし、そのようなことが生じる可能性は薄いように思われる。」159P・・・何をいわんとしているのかよく分からないのですが、国民国家とその連合としての国際機関において、「市場規制的な超国家集産主義」などそもそも起きないのではないでしょうか?
「これら(「新しいグリーンテクノロジーを中心とする創造的破壊の段階」)の可能性の兆しは見えていない。」160P・・・若い人たちの環境問題での大人への告発が起きている
「そう(楽観的なシナリオとして、規制が働くことに)ならない場合には、さまざまな悲惨なシナリオ――北の相対的に恵まれた諸国家と裕福な諸国家による「要塞資本主義」の大きな障壁の構築、「要塞社会主義」、世界の他の地域に敵対する「環境ファシズム」、大量の難民の飢え、資源戦争(核保有国間の戦争ではないだろうが)――が予想される>」161P
「何より私が主張したいのは、近代社会と近代資本主義はシステムでないということである。」161P・・・マンへの最初のコメント、なぜ、マンはこの本の共著者になっているのかの疑問につながる文
「これは、人口の一〇%から二〇%程度の、排除されたマイノリティの階級を伴うことを除けば、世界にとってかなり幸福な展望であろう。」162P・・・「程度の」と言って、切り捨て得る論理の恐ろしさ
「通常私たちは、短期的には合理的に行動するが、時として、感情的に、またイデオロギー的に、非合理的行動をする。」165P・・・ここの「感情的に」は差別的な利益の追求として読み解くところ
第4章 ゲオルギ・デルルギアン「共産主義とは何であったか」
 ソ連邦・北コーカサス生まれ。まだソ連邦が存在しているときにKGBの目をかすめ、ソ連では禁書の著者ウォーラーステインと連絡を取り、世界システム論を吸収した歴史社会学者です。
「共産主義国家」166P・・・「共産主義」と「国家」はアンチノミー
「ソヴィエト連邦は、終わりに近づくにつれ、本質的には企業の新興財閥(オリガーキー)に支配される高度産業社会になっていったのだが、このことから、発達した西欧資本主義の崩壊が起きるとすればどのような類似性があるのか、経験的な知識に基づいて問題を議論することができるだろう。とりわけ仮定上の反資本主義革命が一九一七年の古典的パターンを辿っていくのか、それともむしろ、一九八九年の市民動員型に似た展開をすることになるのか。」167P・・・この論者のこの共著への関わりの動因。「高度産業社会」というあいまいな表現。むしろ資本主義的純化と表すところ。
「この本の著者であるイマニュエル・ウォーラーステインとランドル・コリンズの二人は共に、現在の時点で資本主義の終焉を予想しているが、彼らが一九七〇年代にそれぞれ異なる理論からソヴィエト連邦における共産主義の没落を予測していたことは、特筆に値する。」167P・・・繰り返しになりますが、「共産主義」ではありません。
「アメリカの生え抜きの外交官の息子でもあるランドル・コリンズは、この文脈のなかで核軍縮とデタントの継続を主張したのであった。しかし、この優雅な勧告は、単なる理想主義的な平和主義から生まれたのではなく、マックス・ヴェーバーが初めて発展させた地政学理論に由来していた。」169P――ここから177Pまで地政学的論攷
(小見出し)「要塞社会主義」177-186P
「転換を指導したのは、ノーメンクラツーラと呼ばれる、特殊な任命登録名簿に基づく党幹部であった。ノーメンクラツーラという呼び名は、最終的には鈍感な官僚制に対する蔑称となったが、その最初の世代は、百戦錬磨の若い人民委員や革命的カリスマ、そして意欲的な精神に満ちた非常事態の管理者から構成されていた。」181P
「要するにロシアの革命派は、前例のないカリスマ的な官僚制になることで戦闘に勝利したのであった。・・・・・・それは高度の個人崇拝と繋がることになった。」182P
「ソヴィエトはアファーマティブ・アクション[弱者集団の不利な状況を是正するための優遇策]のパイオニアであり、開発と広範な包摂によってそのパイオニアであることを実際に証明したのであった。」185P・・・ロシアのアファーマティブ・アクションは、主に民族自決権から出て来ているのですが、他の差別の問題から根源的にとらえ返していくと、差別の解消に向かっていくことではないと考えています。
「コリンズの地政学的過剰拡大と、ウォーラーステインの資本主義世界システムの構造的要請がそれであるが、二人の予測は、興味深い仕方で互いを強化し合っていた。」187P
「イマニュエル・ウォーラーステインは長い間(物議を醸しだしながら)、共産主義国を、ストライキ中に労働組合が押収した工場と比較してきた。」188P・・・余り良い例ではない、ロシアでは現実に労働組合が闘うべき相手は「共産主義国家」になっていたのではないか?勿論それは、「共産主義」ではないがゆえに。
「しかし、生まれつつある民主化が専制的なノーメンクラツーラを圧倒するには、さらに第三の、明らかに政治的な条件が必要であった。それは自由主義的なインテリゲンチャと、新たに能力を付与された労働力を有する専門家集団との同盟あった。」194P
「だが、成熟した産業社会における階級対立は、古典的マルクス主義の表現と違って、二大陣営的な対立ではなく、むしろ、ソヴィエトの企業経営陣営、自由主義的インテリゲンチャ、労働者というトライアングルのなかで展開されていた。それゆえ、ノーメンクラツーラにとって最善の選択は、インテリゲンチャを犠牲にして労働者を買収することであった。」195P
「ソヴィエトでは数十年もの長きにわたって政策論争が抑圧されてきたために、極端で激しいイデオロギー的な二極対立が生み出されていて、儀式主義的で生彩のない党の議論と、それに異議を唱える人びととの抽象的なヒューマニズムとの間に、理念や実践的解決の空洞が存在していた。」197P
「しかしながら、指導者パーソナリティや彼らの政治スタイルに見られる中国とソヴィエトとの相違は、共産主義のあり方に由来するものではない。両者には多くの構造的相違があったが、それらの大部分は歴史的に継承された経路依存的なものであって、共産主義にそのものとは概して無関係だったのである。」198-9P・・・著者の地政学的観点。ただし、そもそもそれらが共産主義革命ではなかったが故に、共産主義と「無関係だったのである」という話。
「ケ小平のような人たちにとっては、権力が銃からまれるという観念は単なる比喩ではなかったのだった。」200P
「世評によれば、ゴルバチョフは情報公開(グラスノスチ)にも内部機関における策略にも極めて熟達しており、ソヴィエト体制の三つの制度的柱である共産党・中央官庁・秘密警察を融合させてそれらの機能を停止させた。」202P
「ノーメンクラツーラは、(民族自治を含む)領域的政府、経済部門の中央官庁、秘密警察および党のイデオロギー的「尋問」の中央統制機構という、三つの交差する階層性のなかで生きていた。」203P
「ソヴィエトの工業資産は、何らかの法律を通して民営化が認可される前に、各種の残酷で単純な政府計画による私的統制(明らかに盗まれたということの穏健な言い方である)によって強奪されてしまった。」204P
「世界資本主義に関するマクロ的見方に立っているウォーラーステインの理論は、基本的には正しかったが、マクロ的な見方であるがゆえに、ソヴィエトのエリート自身の最善の歴史的機会を求める共同的行動が困惑した政治的失敗に終わることなど予期できなかった。」208P
「実際、二人のアプローチを結びつけることで、中国の共産主義からの幸運な脱出の構造的要因がうまく説明できる。」209P・・・「幸運」?――習近平路線は?
「それでも帝国の中国は、主に地政学的理由から、歴史において最初の資本主義的列強にはならなかったのだが、それは第一に、帝国が永続的に内的調和を維持して遊牧民の攻撃を防ぐことに大きな関心を抱いていたからである。ローマ帝国の崩壊後の西側では新しく帝国が生まれることはなく、そのため西欧の資本家は、当初は都市国家間のシステムとして、後には近代国民国家として自らを保護し強化するように強制されることになった。」209P
「農民を犠牲とするソヴィエト方式の工業化を立ち上げようとした毛沢東の試みは大飢饉をもたらし、党の秩序内の政治内紛の一〇年を引き起こすことになった。」209P
「さらに、中国の市場経済への方向転換は、忠実で適切に義務を遂行するクライアントを腐敗・汚職への公的粛正から免除する一方で、個人的利得の機会を提供する支援を通じて地方の幹部を巧みに制御するのに役立つ、ということは明らかだった。中国では共産主義が崩壊しなかったどころか、公式の共産主義イデオロギーさえもが「穏やかな」バージョンで生き残っている。」210・・・唯物史観と矛盾する国家資本主義の土台の上の「共産主義」
「このことは、共産主義者が、外国資本と国内労働との実用主義的媒介者として世界資本主義を喜んで受け入れるだろうというイマニュエル・ウォーラーステインの長期的予測を実現するものだった。」210-1P・・・少し古くなった分析
(小見出し)「資本主義とその二〇世紀の挑戦」211-7P・・・いくつもの分析がズレているー
「もう一度強調するが、共産主義は、マルクスの思想から生まれたものでも、ロシアや中国の土着の伝統から生まれたものでもない。それは特定の左翼の潮流であるロシアのボリシェビキ党の成果である。」212P・・・何度目かの強調になるのですが、ロシア革命が生み出したものは、ソヴィエト独裁からプロレタリアの一時的独裁までであり、それはボリシェヴィキ――共産党の独裁であり、共産主義のみならず社会主義にも至らなかったー
「イラン革命」の評価――その結果生まれたのは、中世的なカリフ体制[予言者ムハマンドの後継者を意味するカリフによって統治される、政教一体の体制]というより、むしろソヴィエト型の体制に酷似した本質的に近代的な革命国家であった。」212P・・・?イスラム原理主義国家が、なぜ近代的革命国家なのか?
「彼ら(アルカイダ)の戦略が思い起こさせるのは、ボリシェビキではなく、おそらく一九世紀のロシアのナロードニキであろう。」213P・・・テロリズムという共通性はあっても、ロシア専制君主制に対する闘いは一応左派の行動であり、アルカイダ系の自爆テロは宗教的な右派で、表層にとらわれて分析を間違えているー
「経済計画や大量消費、警察の監視がある程度まで共有されていたこの傾向は、比較的寛大であるスカンジナビアの社会民主主義体制やアングロ・アメリカ[アメリカとカナダ]の自由主義的民主主義にも含まれていた。」214P・・・資本主義体制は階級社会であり、当然監視社会的傾向はもつし、能力主義社会であり、優生思想にもとらわれる社会であるー
「ファシズムと共産主義は、ナショナリズムと社会主義という一九世紀の二つの対抗的な政治潮流が、第一次世界大戦の激動の経験により解き放たれて急激に拡大したことを意味した。」214P
「社会的平等としての正義と人類の統一性は、通常社会主義と呼ばれてきたが、偉大な知的伝統と持続的な魅力を享受しているのは、言うまでもなくオリジナルな啓蒙主義の理想である。しかし、政治のレベルでは、このプログラムは容易に維持されることは決してなかった。」215P・・・そもそも啓蒙思想の人権論は架空の理論であり、ブルジョア民主主義を支える理論でしかなかったー
「共産主義とファシズムは、二〇世紀初頭の帝国主義的・産業主義的戦争から生まれたイデオロギー的対立者であり、道徳的敵対者であった。共産主義もファシズムも、よく知られているそのような形態で再浮上することはないだろう。」215P・・・?何を根拠に
「不快な移民排訴運動」「全面的強制と監視機構」×「リベラルな左派のプログラム結集する政治連合」216-7P
「戦争を回避できるならば、二一世紀はおそらく極左や極右の暴力革命も独裁も避けることができるだろう。」217P・・・言葉の使い方があいまい、極左という言葉は革命をなしえない戦略の左派でしかない、自分で極左を名乗る党派はない。極右はファシズム勢力として登場してくる可能性は否定できないー
「以上の分析が正しいなら、一九一七年のボリシェビキ革命は幸いに、資本主義の終わりがどうなるかを予測するのにあまり適していない。むしろ、一九六八年のプラハの春のような大衆的市民蜂起や、一九八九年に頂点に達したソヴィエトのペレストロイカの方が参考になるだろう。」217P・・・「プラハの春」も「ペレストロイカ」も敗北の「革命」、総括なしには対置できないー
「未来について責任をもつて大胆に考えることには、大きな危機に直面する過渡期の不確実性を最小化できるような政治的・経済的プログラムや、連合と妥協の可能性についての考察が含まれている。究極的には、このことが共産主義の最も有益な教訓となりうると思われる。」217P
第5章 クレイグ・カルフーン「いま資本主義を脅かしているものは何か」
 イリノイ州生まれ。社会学者。この著では総体的俯瞰図的なことを書いています。全体的に資本主義の延命論的になっているし、現代資本主義論に収束してしまっている感じが否めません。世界システム論の「予想学」的な側面が出ている論攷です。
「決定的に重要なことは、資本主義は市場の大きな混乱や過度のリスクテイキング、あるいは銀行の管理の不十分さだけでなく、戦争とか、環境破壊や気候変動、社会的連帯や福祉の機器にも影響されやすいということである。」221P
「資本主義の実際の現実は、つねに非資本主義的な経済活動や政治的、社会的、文化的要因との接合を含んでいるのである。」221P・・・?グロバリーゼーションの進行の中で外部の内部化も進んで行っているー
「資本主義の長期的未来が保障されているわけではない」理由@「システム危機の問題、および金融と他の経済部門とのバランスの問題・・・・・・」A「資本主義の収益性は、その活動の費用――人間的、環境的、金融的費用――を外部化することに依存しているから・・・・・・」B「資本主義は、経済内部の要因や制度的要因によってばかりか、気候変動や戦争のような外的要因によっても傷つけられやすいから・・・・・・」222P
「しかし、ソヴィエトが社会主義とは別物であり、それゆえ資本主義と何らかの直接的類似性があることを認識しなくてはならない。ソヴィエトはもっと独特の秩序のものなのである。」224P・・・ここで言う「ソヴィエト」はソヴィエト連邦を指しているのか、それともソヴィエト(評議会)運動を指しているのか? そもそもソヴィエト連邦は名前だけで、ソヴィエト独裁からボリシェビキ――共産党の独裁になってしまった。
「この統合された組織における基本単位は国民国家であり、経済主体は政治権力によって提供される関係と条件に決定的に依存している。」224-5P・・・国民国家の位置をネグリ/ハートよりも押さえている。
「諸国家は、企業と市場に法的および貨幣的基礎を提供するだけでなく、さまざまな企業や産業や部門の間の相互依存関係を管理したり、それを管理するための環境を整えたりする。いかに不完全であっても時おりであっても、市場を規制し文化的・社会的相互信頼の構造を組織することによって、諸国家は労働力や消費者市場や信頼を組織する。「国民国家」という用語は「政治と社会文化的相互信頼を国民国家の観点から組織する努力」の省略的表現にすぎないと思われるが、資本主義の時代と国民国家の時代とは一個同一であった。」225P・・・国民国家の定義と機能、ナショナリズムが機能するところ
「これら(OECD)の諸国は、過去の「福祉国家」制度を空洞化させ、費用を削減して直接的競争力を追求する一方で、住民の長期的な福祉や保障、将来の経済的参加を可能にする集合的投資を無視してきたのであった。」226P・・・「福祉国家」も資本主義から逃れ得ていない。
「にもかかわらず、私は資本主義か崩壊する可能性は高いとは考えない。」227P
「封建制が崩壊し、その過程において近代資本主義が生み出されたという言い方――『共産党宣言』で示された定式――は、あまり現実的ではない。というのも、第一に、封建制は近代資本主義と同じような意味で「システム的」ではないからであり、第二に、封建制的関係あるいはそれと関連する制度が崩壊した特定の時期というものは存在しなかったからである。」227P
「資本主義時代の終焉が起きるとすれば、それはかなり厳しく不均等に、また、途中では識別することが難しい仕方で到来するだろう。そして、取引や生産や投機を中止する必要のない、おそらくかなり多くの企業を含むさまざまな事業団体が存続することになるだろう。」228P・・・緩やかな変革、構造主義的革命論?
(小見出し)「資本主義一般と金融主導型資本主義の特殊性」228-235P
「ここで言う危機とは、過剰生産や過少消費といった「古典的」な資本主義危機ではない。それは、製造業や消費のような「実物」経済に広範な影響を及ぼす危機であり、何よりも金融危機であった。」230P
「これらの問題が完全に取り除かれるなら、私たちが知っているような資本主義は終わりを迎えることになるだろう。資本がより大きな収益を求めて諸投資の間を移動することができなくなれば、そして、イノベーションと蓄積を推進する生産性上昇をめざした再投資への需要がなくなれば、資本主義はもはや存在しなくなるだろう。」234P
(小見出し)「危機から考える」235-246P・・・世界の俯瞰図的情勢分析
「そして、救済措置の利得がどれだけ金融産業や大きな資本資産を持つ人びとの手に入っているのかを忘れてしまっている。」238P
EUの情況分析――民衆運動は「不満を新しい政治プログラムに転換させていく道をまだ見出せておらず、単に古いものに抗議しているにすぎないのである。」「右派のポピリズムは、移民敗訴的な、また他の反動的なプログラムでチャンスをつかんだ・・・・・・」240-1P・・・学者的客観主義的分析
「ソブリン債務」243P
「重要なのは、何らかの経済危機の影響だけでは資本主義がそう簡単に終わりそうにないということである。資本主義をもっとも脅かすものは経済的危機と政治的危機が交差することであり、成長の追求において人びとが社会あるいは環境への破壊を受け入れる暗黙の妥協が崩壊することである。ヨーロッパは成長なき資本主義――これはほとんど形容矛盾である――という妖怪を生み出しているが、それにどのように対処するのかははっきりしていない。」245P
「資本主義はそれが依存するいずれの条件に対しても破壊的であるが、極端な金融化と新自由主義はこのような傾向をさらに激化させる。資本主義が未来において生き残る可能性は、資本主義を廃絶することなく、こういった破壊的傾向を制限したり逆転させたりする方法を見出すことができるのかどうか、ということにかかっている。」246P
「すなわち、環境的・社会的費用は企業だけの負担にならず、インフラ投資に必要な費用の大部分が政府によって支払われるのである。」247P
「資本主義は巨大な富を産出するけれども、つねに深刻な「悪」(汚染され貧困に打ちひしがれた一九世紀のイングランドにおいて、ジヨン・ラスキンが用いた用語)を副産物として生み出している。資本主義は、悪が許される限りでのみ富を算出し続けることができるのである。国家は富と貧困とのトレードオフを管理しようと努めるが、資本主義にその費用を支払うだけの課税を課せば、国際競争力を低下させて資本主義の富を生み出すダイナミズムを潜在的に排除することになる。」247-8P
「カール・ポランニーが二〇世紀の不況と競争の最中に、一九世紀を振り返りながら未来を見つめて議論したように、暴走する資本主義の発展は、その存続の社会的諸条件と社会全体の利益をつねに破壊してきた。新しい制度的支援を構築する努力は、資本主義システムを安定させ、資本主義的成長の収益のより効果的な分かち合いを支えることを可能にするのである。」250P・・・「持続可能な資本主義論」
「この一九七〇年代以後の自由主義は、一九世紀の自由主義に多くを負っているが、大きな違いは、自由主義の後続版である新自由主義が、成熟資本主義の構成要素として設置された一連の社会的保護と経済的配置を破壊しようとしていることである。」252P
「これまでの四五〇年を通じて国家資本主義は例外であったが、それより一般的なものになっていくように資本主義が変容していく可能性がある。すでにソヴィエトの共産主義が国家資本主義的なものを伴っていたことはほぼ間違いないし、ファシズムは確かにそうであった。」254P・・・「ソヴィエトの共産主義」は、共産主義ではなかった。「伴っていた」のでなく、むしろ国家資本主義そのものであった。
「軍事的安全保障(または優位)を確保することや社会保障を提供することは、国家主導の資本投資や、それをもっともらしいモデルにするための、グローバル市場における緩衝装置が持つ利点と結びついている。」254P
(小見出し)「希少資源と自然環境の劣化」255-260P
「環境的・気候的課題への取り組みは、「自然」のこれまでの理解のされ方によって困難になっている。自然は長い間、とりわけ西側で、また西側以外の人間社会においても、征服されるべき障害として見なされてきたが、そのことは、私たちもまた自然的存在であって自然の一部として生きる他ないという事実を覆い隠してきた。まさに「自然」を資源と考えてきたことこそが、資本主義的興隆を特徴づけるものであった。これまでの自然は資本主義に利用され搾取されるべきものとして存在してきたが、そのような自然の搾取の例は、森から水に至るまで枚挙にいとまがない。」255P
「冷戦の四五年は、さまざまな意味で、地政学的な紛争と再構築の長い歴史の幕間として現れることになる。」260P・・・「幕間」?戦争は続いていた、冷戦下の代理戦争的な意味ももってー
(小見出し)「インフォーマル・セクターと非合法資本主義261-5P・・・マフィア、ボランティア、闇市、講・結い、起業
インフォーマル・セクターを含んだ資本主義の脆弱性264-5P
「これまでのところ、資本主義的金融機関を守るために緊縮政策を課する国家を打倒できるような社会運動が現れる兆しはほとんどない。」267-8P・・・必ずしも緊縮政策だけではない(アベノミクス・・・現在の資本主義経済を知らない論外の誤政策?)、学者の客観主義的ペシミズムは救いようがないが、ペシミズムのなかからこそ民衆の運動は立ち上がるー
「最初に主張したように、資本主義が数世代の間に見分けがつかない形で転換していくことは少なくとも確かだろう。」270P・・・どのような転換なのか何も語っていない、わたしには資本主義に資本主義としての出口はないとしか思えませんー
終章 5人連名「目を覚ませ」
 さて、討論してまとめた終章なのですが、意見の違いはそのままで、誰がまとめる作業をして、この文を書いたのか明らかにしていません。まあ、最終確認をして出しているので、内容的には異論がないのかもしれませんが、もっと対話、そして他の流れのひとたちとの対話も必要になっていると感じていました。
「何十年も続くと思われる波乱に満ちた暗い時代に世界が入ったということにおいては、執筆者たちの意見は一致している。」274P
「私たちはみな、マクロ的歴史社会学の分野で蓄積された学問――大まかに言えば、社会的力と社会紛争の構造を明らかにしようとするマルクス的・ヴェーバー的伝統を継承する、過去と現在の比較研究――に基づいて議論しているからである。因果関係のさまざまに次元に敏感な私たちは、資本主義や国家政治、軍事的地政学、イデオロギーが作用する仕方の多様な特徴について同意しているが、意見の違いは、主に因果関係の多様な次元が交差するところで生じる。」275P・・・因果論的思考なのか? 地政学は、梅棹『文明の生態史観』と、それに論及した廣松の『生態史観と唯物史観』参照
「この終章では、第一に、現在のグローバリゼーションの起源とそのありうるべき未来を描写するマクロ社会学的方法の要点を述べる。後半の部分では、ほとんど行き詰まった現状にある社会科学と、近い将来により有効になっていくその可能性について述べる。換言すれば、ここで描こうとしているのは、世界のもっと現実的な描写であり、これについて議論する方法として執筆者たちが考えていることである。」275P
「良き時代は、一九七〇年代に突然崩壊した。」278P
「旧左翼の革命的民兵とは反対に、ニューレフトの比較できないほど平和的で市民的な戦術は、国家安全保障組織を暴力対決の標的にすることを否定したのかもしれない。」281P・・・事実認識が間違えている。二一世紀の現在はという話、しかしそれをニューレフトと呼ぶのか、という問題がー
「政治的反動はアイデンティティの旗を掲げたが、アイデンティティの問題は非妥協的で交渉の余地がなくなる傾向があるために、敵意ある激しい攻撃を政治に持ち込むことになったからである。ニューライトは、実践のうえではしはしば融合している二つのアイデンティティの色をまとって現れた。民族愛国的ないし宗教愛国的原理主義と自由主義的市場原理主義がそれである。」283P・・・アイデンティティ論の危うさ――「精神障害者」への抑圧性と民族・人種差別の動因
「しかし、歴史が示すように、自由市場の理想型はいかなる経験的状況においても見られない。それはイデオロギー的な幻想なのであり、私たちは、フェルナンド・ブローデルとヨーゼフ・シュンペーターの資本主義観に従って、持続的な利潤はある程度の国家保護と市場独占を必要とする、と主張する」284P
「この新しい規律訓練制度[フーコの概念]のリストには、タックス・ヘイブン[租税回避地]として機能するマイクロ管轄権を有する、世界各地に存在する群島を通じたマネーロンダリングの非合法な機会が付け加えられるべきだろう。少数の残存する不従順で非妥協的な「ならずもの国家」は悪の枢軸として追放されて、極悪な他者としてのイデオロギー的機能を首尾よく果たしたのだった。」286P
「民主化は、過去の二世紀にわたって動かし難い傾向ではなかったけれども現実であり、現在秩序に極めて忠誠な人びとを含む大多数の国民が自分たちの人生に三つのことを期待するようになったことを意味する。その第一は長期の教育、第二は安定した適度な報酬のある雇用、そして第三は、老齢年金である。この期待リストに住宅を加えることもできるが、・・・・・・」288P・・・この「住宅」の「・・・・・・」は現在の若者にほとんど夢になったという話が続く
「グローバリゼーションは何よりも、国民国家という規制された領域を超える大量の資本の脱出を意味した。大多数の政府には、資本の脱出と課税収入への圧力に対して三つの不愉快な選択が残されているだけだった。通貨の増刷、負債の増大、直接的な警察暴力と穏やかな経済緊縮政策による抑圧の拡大、がそれである。」289P
「資本主義拡大の自己限定というウォーラーステインの理論は、地政学的拡大の今日の限界というマンの議論と歩調を合わせている。」290P
(小見出し)「システムの限界か、あるいは資本主義の際限のない強化か」295-306P・・・5人の意見の違いから、見出しに沿った展開をしています。
 マンとカルフーンは環境危機の先行、ウォーラーステインとコリンズは資本主義の危機の先行297-8P
「彼(マン)は、気候変動を生み出す三つの悪者――資本主義のみならず、国民国家、および大量消費をする普通の市民を含む――を指摘し、これらの三つの要因を抑制して改革することが危機に対する解決策になるだろう、と主張するのである。」298P
「マンによれば、環境危機はすべての人を終わりに導いていくのであって、極端に言えば、二つのオルタナティブではなく、三つの危機について考えなければならない。つまり、世界システムとしての資本主義の最終的危機、古い資本主義的覇権国の衰退と新しい覇権国による交代、地球規模の環境的衝撃がそれであり、それらから生じる転換を描いていく必要があるのだ。」299P
「資本主義には、すべての複雑なシステムと同じように、関連する諸構造や動態があり、それゆえ、その最終的な限界があるはずである。」299P・・・世界システム論の「システム」はやはり実体主義に陥っているのではないでしょうか?
「マンの予想(あるいは未来の見積もり)とコリンズやウォーラーステインの予想との違いは、進化論的人類学者が開発した人間社会の動態的発展モデルの二つの側面に照応している。専門用語で言えば、それは、人類生態学の「人口支持力」[各生態系、具体的にはその土地に居住できる人口の限界]と「生物生産力の上昇」との対立である。このモデルによれば、これまで存在した人間社会すべてには、結局のところ、彼らの環境または環境の人口支持力を枯渇させてしまう傾向があった。これらの限界から生じる危機はまったく異なる三つの可能性がある。」300P――@単純な死A多様化――開発「第二の可能性は多様化であり、それは、北極のツンドラや熱帯諸島、草原地帯や砂漠、山岳、森林に至るまで人類が地球の隅々に新しい地理的フロンティアを発見し、適応して移住できるよう、私たちの祖先を導いてきた。」301PBイノベーション「第三の可能性は、一般に進歩と呼ばれるもの(すなわち、技術的手段の質的な強化・増大)で、人間が資源からさらに多くのものを獲得できるようにすることである。進歩と言われるこのような破局からの脱出は、人間社会の進化的イノベーションの主要な原動力であった。」301P
「同じことは、世界的流行病にも妥当するように見える。多くの病気を鎮圧したと思われる、ここ一〇〇年ほどの世界の医学の途方もない全身は、また同時に、古くからの人類の敵である病原菌が生き残るための新しい道を見つけるに違いない事態をつくり出している。私たちの知識は卓越しているように見えてもトータルに考えれば実は惨めなほど小さい、ということがここで再認識される。私たちは、時間との戦いにおいていかに速く学習し、また、生き残るためにどれほど多くの誤りを捨てて学び直さなければならないのだろうか。」304P
「執筆者全員が同意している一つの大問題は、世界の政治経済の慣れ親しんだ構図が、これから数十年のうちに、まだはっきりしていないが重要な仕方で変化せざるをえないだろう。」306P
「異議を申し立ててきた人は相変わらず腹立たしく感じているだろうが、しかし、誰に抗議すべきか、何を要求すればいいのか、どのように組織するのか、誰と連帯していくのか、彼らは確信を持てないだろう。」306P・・・客観主義
「私たちは、「国家」はもちろん「世界国家」をより良い未来の政治構造と呼ぶことに躊躇している。」312P・・・そもそも「国家は死滅していくもの――させるもの」で、「世界国家」など存在のしようがないー
「現存する国際組織がより良い未来の構造のプロトタイプ[原型]になるだろうとは、本書の著者たちのほとんど誰も思っていない。」313P・・・現存する国際諸組織は、資本主義国家――国民国家の同盟であるから言わずもが、のことですー
「私たちは誰も、無政府主義をきわめて現実的な戦略とは考えていない。それでも、左派であろうと右派であろうと、一九六八年の既成体制打破の精神が無政府主義のもっとも持続的な精神が無政府主義のもっとも持続的な依存の一つを明らかにしたことを認めねばならない。」313P――ここから民衆の下からのいろいろな取り組み、地域における共同性の話も出てくる、これらのことが反政府や国家主義批判があるとしても、それは無政府主義としてあるわけではないー
「社会理論はしはしば、私たち人間の行動の型を識別させるさまざまにカットされたレンズと結びついている。レンズがただ一つの信条を正しいと確認し、それに対立するものを何でも非難するようにカットされているのであれば、そこから生まれるビジョンはきわめてイデオロギー的になる。そのようなレンズは、一般に政治と公的論争によって擦り切れてしまい、目隠しのように機能するようになる。」315P・・・「ひとは色眼鏡を通してしか世界を見れない」、だから、弁証法という対話――批判という手法で議論を深めていくことなのだと思うのですー
「私たちは、方法論的多元主義であるが、だからといって完全に相対主義であるわけではない。」315P・・・いろいろな観点のひとたちと対話を通じて論を深めていくということは、「方法論的多元主義」なのでしょうか?
「ポストモダニズムの運動は、多くの停滞していた水をかき混ぜたものの、それを濁ったまま放置してしまった。」218P・・・ポストモダニズムは文化運動で政治的な運動にはなりえない、イデオロギーのせめぎ合いに過ぎない、しかし、固定観念を突き崩すというところでは貢献しているー
 新古典派経済学と中世の占星術との対比――資本家の不安(「資本家の心配事は、不確実な投資の選択や市場の乱高下、彼らの企業活動が時々生み出す民衆の犯行から生じる」)に応答すると言う意味において318P
「売買することができない土地、貨幣、人間の生命のような「擬制商品」に関するカール・ポランニーの考えを、私たちは真剣に受け止めている。二一世紀において、「土地」は広く環境を意味し、「貨幣」はグローバル金融を、そして「人間の生命」は適切で入手可能なヘルスケアや教育、住宅、年金、とりわけ都市の物理的安全などを通しての社会的再生産の費用の国際化を表している。」319-320P
「資本主義の終わりは、究極的には希望が持てる未来像である。しか、資本主義が終わるということにはそれ固有の危険が伴っている。私たちは、危機に対する反資本主義的オルタナティブを育成しようとする二〇世紀初頭の試みが全体主義的傾向を発展させて官僚主義的惰性に終わったことについて、思い出さなければならない。」322P
「ポスト資本主義が死のような停滞の時代を招き入れていると心配する人びとは、おそらく間違えている。ポスト資本主義が固有の危機もなく永続的な楽園を与えると喜んでいる人びとも、また同じように間違えている。危機の後――執筆者の何人かが予測したように、二一世紀中頃のポスト資本主義的移行期の後に――、きわめて多くのことが起きるだろう。うまくいけば、多くが良いことであるだろうが、それについてはまもなく分かるだろう。」322-3P

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2020年01月18日

A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』

たわしの読書メモ・・ブログ523
・A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店 2018
この著者は、「フェミニスト社会学の第一人者」で、リベラルな学者なのですが、南部の共和党支持者がどうして、共和党右派を支持するのかということを探りに、つてを頼ってルイジアナ州レイクチャールズ市を中心とする現地にでかけ、芋ずる式につてを頼り、インタビュウや参加観察という手法で、分析をしてなした著書です。丁度、研究をしているときに、トランプの選挙戦が始まっているとき、どうしてトランプ政権が成立し得たのかということの分析にもなり、アメリカの中でもかなりの評価を受けている書なのです。
 ルイジアナ州は石油関連施設が作られ、一方では有数の貧困州、アメリカ中央政府から州の予算の44%の支援が入っているのですが、小さな政府という共和党の支持をしている赤い州(ちなみに民主党の支持の州は青い州と呼ばれています)なのです。そして、石油関連施設を州政府が誘致して、そこで大規模な地盤沈下、環境汚染が起きているのです。ここでは「がん回廊」と呼ばれるほど、がんが多発しているのです。また遊泳禁止や釣り禁止の立て看を立てて規制するところなのですが、この規制を住民が嫌い、「がんにならないような魚の調理法」とかいう本末転倒のことが流布していくなどのことが書かれています。これを著者は(環境破壊という)鍵穴から地域社会見るという概念でとらえ返そうとしていて、一部のひとはそこから訴訟とか起こし、自らの右派の地盤を揺るがしてはいるのですが、それでも資本誘致や優遇政策を州政府が進めていて、共和党支持者はそれに乗り、批判がちゃんと起きないのです。それで、福祉を受給する人たちへの批判が「列を乱す者」として出てくるのです。
 この本の、キー概念は、ディープ・ストーリーです。この地域には、ケイディアンという、カナダのフランス系ひとたちが、イギリスのカナダ支配の中でカナダを追われて、たどり着いたひとたちがかなりいて、差別の中でいきてきて、アメリカン・ドリームを夢見て生きる、そしてそれなりに地位を得たひとたちが、もっと下層のひとたちが福祉を受けることを批判する差別構造の中で、小さな政府の共和党支持をしていくということがあるのです。また、南北戦争の南部連合の北軍・中央政府への批判もその深層にあるという、論理ではない、感情的なことが表面に出てくる、ディープ・ストーリーなのです。さらに、現実の問題に向き合うことの中で、保守ではないリベラルな思考が出てくるのですが、そこは、キリスト教的なすべてを「神の思し召し」ということや、神の国での幸せを願うというところで、現状改革を回避していく思考が出てくるのです。
 著者はこのひとたちのディープ・ストーリーをつかむ中で、そのひとたちの心性をつかみ、リベラルな思想は維持しつつ、その心性をとらえ返しているのです。
さて、この本を読みながら、日本にも同じような事が起きているとの思いを抱きました。たとえば、環境破壊について語らないようにしている共和党支持者は、フクシマにおける放射線被害を語らない中で、保守志向を維持していくこと。福音派のテイーバーティと国家神道の日本会議の対比をしていました。「列を乱す者」という批判は、部落解放運動の中での特別処置法への「ねたみ差別」に呼応するヘイト発言にもつながっています。
反差別論をやっているわたしの立場からすると、被差別者が差別に対峙しえず、差別的心性にとらわれていく情況をさぐる貴重な書です。まさに論理にならない感情的なところで、出口が塞がれてていると感じて、そこからあらゆる差別的な心性にとらわれていく構造があるのです。差別されるひとが、さらに差別するひとを探し差別を転化していく構図があります。それは、結局大きな差別の構造の中で、自分自身の不利益にしかならないのですが、それは論理の問題で、感情的なところで差別するひとを探す、いわゆるスケープ・ゴート的な差別の転化の構図がそこにあるのです。そもそも、この書でもあるのですが、差別ということを、きちんと言葉化して、差別の構造そのものに対峙する、分断を超える運動を作り出していくことがいまこそ必要なのです。
この本はおすすめの本です。読む習慣があるひとは、ぜひ、図書館でも探して・リクエストして読んでみてください。
あとは、キーワード的な切り抜きメモの中で、コメントを残します。
「わたしたちは、川の “向こう側”の人に共感すれば明快な分析ができなくなると思い込んでいるが、それは誤りだ。ほんとうは、橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれるのだ。」xiP
「共感を阻む壁」8P
「今では人種より、“愛党心”と呼ばれるもののほうが、対立につながる偏見を生みやすくなっている。」10P
「大きなパラドックス」9-25P
ルイジアナ州は多くの苦難にさらされている州、連邦政府の支援も大きいのに、連邦政府(当時は民主党)批判、大きな政府批判の立場14-15P
青い州―赤い州16P
「メディケイド[困窮者と身障者を対象とする医療扶助制度]やフードスタンプ[食料購入費の給付制度]を必要とする赤い州の住民たちは、これらの仕組みを歓迎するが、投票には行かない。しかし少し上の階層[マクギリスは一、二段階上としている]にあたる白人保守派はこうした制度を必要とせず、必ず選挙に行く。そして、貧困層のために公的資金を使うことに反対票を投じるのだ。」16P
「政府のサービスに反対票を投じる当の富裕層が、そのサービスを利用している」17P
「あるんだから、使わない手はないだろう?」というティパーティー支持者17P
「マクギリスは、投票者は純粋に自分の利益のためだけに行動するのだと述べている。」17P・・・?自分の利益をどこに見ているのかということによって違ってくるはず、保守派には言える。
「わたしは本書のテーマの核心に通じる“鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)”とも言うべき問題にたどり着いた。それは環境汚染だ。」18P
「近年右派の台頭が著しい地域は、ほとんどすべてがメイソン=ディクソン線[一八世紀に植民地間の領有権紛争を解決するために定められた境界線。のちに米国を南北に分かつ境界線になった]以南に位置している。南北戦争時に南部連合に参加した州を含む地域で、米国の人口の三分の一を占める人々がここに暮らしている。」18P
南部の人口は増え、南部の白人が民主党から共和党支持に移行し、全国的にも白人の共和党支持が増えている。「だから右派を理解したければ、南部の白人を知る必要があると思ったのだ。」18P
「米国議会下院のティパーティー議員連盟に加入しているルイジアナ州選出議員の数は、サウスカロライナ州に次いで二番目に多い。」18-9P
「がん回廊」21P、353P
「どういう経緯そんなこと(企業の利益の論理や富の集中の論理、エリート主義への批判)になるのだろう。頭の回転がよくて、疑問に思うことは必ず確かめ、情報収集を怠らない人でも欺かれるのだろうか。」22P
(ウッダード)「わたしたちが所属する小集団には、しはしば政治と地理を結び付ける特殊な統治文化が反映される。」22P――「もちろんウッダードの言うほど流動性を欠いたものではない。」23P
「右派の倫理観を指摘する見解もある。・・・・社会学者のシーダ・スコチポルとヴァネッサ・ウイルアムソンは、それは複数の状況――下地となる要素と、促進する要素――が独特の形で影響し合って生まれるものだとしている。後者のおもなものは、二〇〇八年の大不況と政府の対策、バラク・オバマ政権、それにFOXニュースだったという。」23P
「どの研究もたいへん参考になったが、わたしにはひとつだけ、どの研究にもないものを見つけた。それは、政治における感情というものの理解だ。」23P・・・わたしは感情を差別的心性というところから読み解こうとしています。
「いまは左派でも右派でも、“感情のルール”が働いている。」24P
「わたしは、その人にとって真実と感じられる物語――これを“ディープストーリー”とよぶことにする――・・・」24P
「ディープストーリーはわたしを、「持つべき」感情と「持つべきではない」感情との向き合い方、さらに、人々の心の核にあって、カリスマ的指導者に動かされる感情に、目を開かせてくれた。これからご紹介するように、誰もがディープストーリーを持っているのである。」25P
「ティーパーティは単に公認された政治集団ではなく、ひとつの文化なのだと気づいた。」30P
「わたしが話を聞いた人はみんな、クリーンな政府を望んでいた。だがルイジアナでは、大きなパラドックスが真正面からわたしをにらみつけてきた――そこでは、深刻な公害に苦しむ人々が、その公害を撒き散らす張本人を規制することに猛反対していたのだ。」32P
「マドンナ(ゴスペル歌手のマドンナ・マッシー)はリベラルが自分や祖先に投げつけてくる侮辱の数々を、リンボー(リベラル批判のコメンテーター)が強固な壁となって跳ね返してくれたように感じたのだ。」36P・・・被差別のディープストーリーが反差別とならず、単なる被害者意識にとどまるところからくる差別へ転化する感情
「ティパーティーの支持者は、三つのルートを通じて、連邦政府きらいになるようだ。ひとつ目は、信仰(彼らは政府が教会を縮小したと感じている)、ふたつ目は、税金への嫌悪感(あまりに高すぎ、累進的すぎると思っている)、そして、三つ目は、これから見ていくように、名誉を失ったショックだ。」51P・・・公務員と生活保護を受けているひとをスケープ・ゴートにする批判へと向かっていく
「じつは、(「列をみだすひと」を批判している勢力にいる)リーとミス・ボビーは社会保障年金で暮らしていて、・・」52P
「右派の人々を強く動かす関心事は、税金、信仰、名誉の三つであるらしい。」67P・・・プライドということの差別に働く心性をとらえ返す
「みんな、このあたりには“釣り遊泳禁ず”という看板すら立ててほしくないんです」69P・・・福島で、フクシマの放射線被害が語られなくなっていることに通じる事
「ノスタルジア[望郷、郷愁]」70P・・・これに非常に強力にとらわれた過去の歴史、それだけ強い思い、ディープストーリー
「町では、いたるところで、環境と自然のどちらを取るかということが話題になっていた。」73P・・・本来、二者択一になることではないことがなるというところで、批判に向かわない情況
「構造的忘却[structural amnesia]」73P・・・ある特定のことを忘れ、別のある特定のことを記憶すること→「社会の成り立ちに関係している」「記憶は、権力による間接的な発言」74P
「階層の上に行くほど、処罰を免れる確率が高くなり、下に行くほど低くなる。環境規制はそのようにできているらしい。」75P
「わたしは、見えないものに気づくことにより、自分が見たい状況に深く切り込もうとしていた。それはネガを調べて、写真を理解しようとするのに似ていた。わたしは、人が覚えていることや感心を示すこと、言葉にしたことではなく、彼らが忘れたことや無視していること、口にしないことに焦点を置いた。わたしは自分が“ディープストーリー”と呼ぶ物語へと手を伸ばし、人の意識の中にしまい込まれたものに光をあてようとしていた。」81P
「健康が損なわれることや人生が台無しにされることなどを問題にしないで「その男性は、働かない者――何ももらう資格のない者――にただで税金をくれてやるのはいやだと感じていたのだった。」87P・・・さらに、健康を破壊する企業に優遇処置をするのはかまわないというとんでもない考え。
「この亀裂(前のこと)が感情の引火点であることに何度も気づかされることになった。」88P
「おもに白人男性の好むもの(酒、銃、オートバイのヘルメットなど)については、規制がかなりゆるい。しかし女性や黒人男性に対する規制はもっと厳しい。」99P
「だがここの人々が規制について腹立たしげに語るときには、中絶クリニックや刑務所のことを思い浮かべているのではないのだ。彼らの頭にあるのは、政府が買えと言っているもの(蛍光電球やLED電球など)のことだ。」100P
(共和党関係の集会で)「わたしは自由という言葉を頻繁に耳にした。車を運転しながら携帯電話で通話をする自由とか、ストロー付きのダイキリをドライブスルーで買う自由とか、装填した銃を携帯して出かける自由といった意味で言及される“自由”だ。しかし、銃暴力や、自動車事故や有毒物質による環境汚染からの“自由”はまったく話題にのぼらなかった。」103P
「わたしは、汚染浄化を訴える“声なき声”を聞き取ろうとしすぎていて、仕事が第一だとはっきり叫んでいる大きな声を聞いていなかった。」104P
 地元の利益という幻想106-112P
「おそらく、ルイジアナ州の石油は、保守派が牽引してきた経済成長戦略――社会学者のキャロライン・ヘインリーとマイケル・T・ダグラスが「邪道」の戦略と呼んだもの――の象徴だったのだろう。」111P
「アメリカでは仕事かきれいな環境か、どちらかひとつしか選べないという考え方――よい仕事に恵まれるかどうか不安に思う右派の無理からぬ気持ちにつけ込むような刷り込み――」111-2P
「規制の厳しい経済圏ほど、多くの就職口があることがわかったのだ。」112P
寄付というごまかし112-3P
「二〇一〇年のデータでは、有毒物質による汚染が深刻な郡に暮らす人ほど、アメリカ人は環境汚染を「心配しすぎている」と考え、国は「十分すぎるほどの」対策をとっていると信じる傾向が顕著だった。」114P
「わたしが全体像をのぞき見るための鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)としたテーマ――全国の汚染問題――でも、それが立ち現れた。米国全体のストーリーを見ても、ルイジアナ州は決して変わり種などではなかったのだ。」115P
「「住民にとって望ましくない土地利用」にあまり抵抗を示さない地域を見つけ出す」116P
→パウエルの描き出した「抵抗する可能性が最も低い住民特性」――・南部か中西部の小さな町に古くから暮らしている。/・学歴は高卒まで。/・カトリック。/・社会問題に関心がなく、直接行動に訴える文化を持たない。/・採鉱、農耕、牧畜に従事(報告書では「天然資源を利用する職業」と呼ばれている) 。/・保守的。/・共和党を支持。 /・自由主義を擁護。」116-7P
「彼らを取り囲み、彼らに影響を与えている社会的地勢に、何かほかの方法で身を置いてみる必要があった。そうした地勢を形づくつている要素には、産業、州政府、教会、報道機関が含まれる。」118P
「そもそもわたしたちは、アメリカ化学協会が約束しているような新しいブラスチックをほんとうに必要としているのだろうか。」131P
6章――ハーディー・ウエストレイク市長・・・アメリカンドリームののし上がり、地域ボス
7章――バイユーコーンのシンクホール(陥没穴)
「お金のことしか頭にないのだ。」155P
「産業が州当局に守られてしかるべきだという文化」156P・・・住民への援助が嫌いなのに、企業への援助は可という信じられない文化
州のひとつの部局者の文書――汚染されている可能性のある魚の食の規制ではなく、調理法を書いている157-8P
「お困りのことがあるんですか。慣れてください。」158P
 公務員をスケープゴート的に批判しているひとが、公務員の仕事についてのコメント――「わたしだったら、とてもあんなふうに生きられない。」159P・・・公務員の仕事が大変だという主旨
「市場の自由が完全に保証された世界と、地元のコミュニティとかうまく共存できるものだろうか。」――「ジンダル(州知事)は公共サービスを削減し、環境保護費を減額して、産業びいきの“保護策”をうち姿立てた。州政府は、バイユーコーンの住民を守る機能をまったく果たさなかった。」159P
「さまざまな側面を探索したわたしは、よい政府のあるべき姿がはっきり見えたと思った。しかしわたしの新しい友人、マイクは、汚染された魚の処理方法を助言したところにより小さい政府のあるべき姿をはっきりと見ていた。」160P
「社会学者のソースタイン・ヴェブレン[一八五七―一九二九]も、貧困からの距離は名誉につながると述べている。」162P・・・昔の学者の考え
「社会層には言及せず、黒人のことをできるだけ遠まわしにぼかして話そうという細やかな気遣いはするが、不安をまじえてイスラム教徒の話をするときにはあからさまにずけずけとものを言う。」163P
「右派の目には、連邦政府が一丸となって、誤った――裏切り者の――側に加勢しているように見えるのだろうか。」164P・・・裏切り者――後に出てくる「列を乱す者」やリベラル派
「それでも、マドンナの世界観では、財産は警察が守ってくれて、プライドはラッシュ・リンボーが守ってくれ、そのほかのことは神さまがまとめて面倒を見てくれるらしい。」173P
「でももし、アメリカンドリームとカメのどちらかを選ばなくちゃならないとしたら、むろん、わたしはアメリカンドリームをとるわ。」173P・・・アメリカンドリームはまだ生きている? 二者択一の思考?
「米国福音派教会は、アメリカの有権者の四分の一を占めるキリスト教徒三〇〇〇万人の声を代表する。政治的な主張を持った宗教的右派の主導組織だ[特定の宗派ではなく、保守派のプロテスタントによって構成される]。」174P
「バイスナー(アクトン宗教・自由研究所非常勤研究員、福音派のスポークスマン)は、旧約聖書の創世記第一章第二八節を引用した。「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて他を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」」と。」175P
「携挙」(――携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。<ウィキペディア>)176P・・・これを信じるなら政治的議論はおよそ成立しない
「オートメーションと企業による自社業務の海外移管が進んだことにより、高卒のアメリカ人男性の実質賃金は、一九七〇年に比べて四〇パーセントも減少している。労働者の九〇パーセントに関しては、平均賃金が一九八〇年以降横ばいのままだ。年配の白人男性の多くは希望を失っている。」178P
「FOXニュースを家族のように思っている人もいる。」179P
「そのティパーティーの支持者には、クリスティアン・アーマンプール[CNNの国際特派員を務めるイラン系イギリス人ジャーナリスト]が暗に自分を責めているように感じられたのだ。どんな人を気の毒に思うべきか、リベラルの感情ルールを押し付けようとしている、と。」182P
「しかもわたしたちは誰もが、自分のディープストーリーを持っているのだ。」183P・・・深層心理的感情的思い、対話が難しい
「彼らの経済を支配している産業は、明らかに矛盾した物語を提示しているのだ。・・・・彼らは犠牲者としての言葉を持たない犠牲者なのだ。」186-7P
「でもわたしはそうした問題をでっちあげようとしていたわけではない。そこにあったのだ。環境汚染が。健康問題が。そして教育問題と貧困が。」187P
「すべての根っこは、構造的忘却にあるのかもしれない。」187P・・・「構造的忘却」という、これもキーワード
「ディープストーリーとは、“あたかもそのように感じられる”物語のことだ。」191P・・・感情的物語
「わたしは話を聞いた人々の希望、恐怖、プライド、屈辱、怒り、不安を――暗喩として――あぶり出すために、このディープストーリーを描いてみた。」192P
「列に割り込む人々」194-7P・・・「ねたみ差別」に通じる
「一九五〇年以降に生まれた人は、そうはいかなかった。それどころか、経済学者のフィリップ・ロングマンが言うように、彼らはアメリカ史上はじめて、生涯にわたって下降移動続けた世代となった。」200P
左派、「上位一パーセントの最富裕層と残り九九パーセントとの闘いに焦点を置く」212P
右派、「税金を“払う者”と“奪う者”という文脈で“不当”が語られる。」213P
「左派の怒りの発火点は、社会階層の上部(最富裕層とその他の層のあいだ)にあるが、右派の場合はもっと下の、中間層と貧困層のあいだにあるわけだ。左派の怒りの矛先は民間セクターに向けられるが、右派の場合は公共セクターである。皮肉なことに、双方とも、まじめに働いたぶんの報酬をきちんともらいたいと、訴えている。」213P
「彼らにとっては自由市場は、アメリカンドリームに通じる列に並んでいる善良な市民の揺るぎない同盟国であり、連邦政府は、不当に「割り込んでくる」連中に加勢する敵国だったのである。」213P
「企業が力をつけたことで、労働組合や政府の抵抗も少なくなった。そこで彼らは、誰はばかることなく、最高幹部や大株主に利益を多く還元し、労働者に少なく配分できるようになったのだ。」213-4P
「皮肉なことに、大手独占企業のために苦境に陥る可能性が最も高い経済セクターは、中小企業なのだ。しかもその多くは、ティパーティーを支持する人々によって経営されている。」214P・・・利益共同という共同幻想
「この“耐える自分”の表れ方に三つの明確なパターンがあることを発見しつつあった。わたしはそれぞれのタイプを、“ゲームプレイヤー” “信奉者” “カウボーイ”と名付けようと思う。」220P
「誰もが彼女のように懸命に働くのが、よりよい社会なのだと思っている。」224P・・・右派の考え
「連邦政府がおもに貧困者救済用として、ルイジアナ州の予算の四四パーセントを負担していることについては、むしろ返してしまいたいくらいだと言う。」227P・・・右派の考え
「ルイジアナが人間開発指数では五〇州中の四九位、健康全般では五〇位にランクされることと、右派が連邦政府の支援に抵抗を感じることのあいだには、なんの矛盾もないのだ。働かない者は、それなりのランクに甘んじればいいのだから。」237P・・・右派の考え
「その彼か彼女がね、もし偏見を経験していなければ、もっと楽に成長期を過ごせただろうと言ったときに、わたしは、チャズに自分の生き方を押し付けられたと思ったのよ。」231P
・・・異なる意見の表明を「押しつけられる」と感じる図式
「メーカーはわたしたちが必要とするものを作っている。ソーダのボトルや、ゴム底の靴や、歯磨き粉は必需品よ」231P――@ほんとうに必要なものなのかA代替え品(方法)はないのかB環境汚染を防いで作る方法はなかったのか(たいていは金儲け主義で、対策をケチったことで起きていること) ・・・フクシマのときの電気の話
「人は、アメリカンドリームに向かう次のステップを強く望みすぎてはいけない。」248P・・・現実的願望をあおりたて、宗教心で抑制する構図
「ひとつの願いをあきらめれば、もっと大きな願いがかなうことに、ジャッキーは気づいた。」250P・・・そういう場合もあるという話だけ、宗教によるごまかし
「われわれに必要な真の強さは、企業と全知全能の“ドル”に立ち向かうことだ。」269P
・・・フロンティアスピリッツ的なカウボーイからの転身
 三つのディープストーリーの体験371P
「しかしわたしは、ルイジアナ州南西部に暮らす年配の白人保守層――チームプレイヤー、信奉者、カウボーイ――は紛れもない犠牲者だと思う。」271P
「環境汚染に対しては、カウボーイのように耐えてはならない、と言いたいようだ。カウボーイのように闘え、と。」276P
「企業が一般住宅の前庭に、自由にメタンガスを噴出させている状態で、人々にどれほどの自由があるというのだろう。ティパーティーはこの問いにどう答えるだろう。マイクはこの疑問に直面していた。」277P
環境破壊のすさまじさ――がんの多発289P
「「アメリカの政治文化においては風土的とも言うべき大衆の衝動が高揚し表現される」現象が何度も生まれてきた。ティパーティー運動はそのひとつなのだ。一九世紀、二〇世紀には、政教分離論や現代性、人種統合、専門家文化に抵抗して、さまざまな運動が起こった。しかしティパーティーほど強力に、進歩的改革への反対、連邦政府の排除というふたつの目標を掲げた運動――ディープストーリーを反映した活動――はなかった。」293P
「年配の白人男性の居場所はどこに残っているだろう。理念としての公正さは、彼らには無縁のものと思われたのだ。」303P
「しかし――忘れられてはいるが――連邦政府のお金は途切れることなく北部から南部へと流れているのだ。」306P
「トランプは“感情に訴える候補者”だ。」319P
「“自国に暮らす異邦人”」からの脱出320P・・・トランプに呼応する保守派の心理
(エミール・デュルケーム)「集合的沸騰」320P・・・トランプに呼応する保守派の集合心理
「デュルケームの目で見れば、ドナルド・トランプを取り巻いて興奮する集会のほんとうの機能は、「列の前方に割り込む人々」がとんでもないアメリカを作ろうとしていると恐れる福音派の熱心な信徒をひとつにまとめることなのだ。」320P・・・デュルケームのいう「トーテムの機能」
「わたしは、感情的利益――自国にいながら異邦人であると感じる感覚からの、めくるめく解放感――がきわめて重要であることを発見した。」324P
「わたしのティパーティー支持派の友人たちは、決して自分たちを“犠牲者”と呼びたがらない。「かわいそうなわたし」にはなりたくないのだ。」329P
「しかし、左派の人々とあなたがたとのあいだには、意外なほど共通点があるかもしれません。なぜなら、左派の多くもまた、自分の国に暮らしていながら、異邦人であるかのような感覚を味わっているからです。」334P・・・右派のひとたちに手紙を書くとしたらと想定した手紙の最後の文面、資本主義の矛盾がそもそもの原因だから、次のメモ参照
「左派はと右派は、たがいに異なるディープストーリーを持ち、異なる葛藤に苦しみつつ、それぞれの状況下で自分は不当に扱われていると感じているのだ。左派は民間セクターの最富裕層を形成する一パーセントと、最下層生み出しつつある九九パーセントに目を向ける。リベラルにとっての発火点ここだ。右派は公共セクターを、増加の一途をたどる怠け者の“受給者”のサービス窓口だとみている。ロバート・ライシュは、せめぎあいは別のところにも――小企業が動かしているメインストリート資本主義とグローバル資本主義とのあいだに、自由競争的資本主義と独占資本主義とのあいだに――存在すると述べている。「従来、アメリカの政治にとって重要な断層線は、民主党と共和党のあいだを走っていたが、今後は、エスタブリッシュメント[既得権を持つ上流層]と反エスタブリッシュメントのあいだへと移行するだろう」この線はいずれ「ゲームに不正があるとみる人々と、そう思わない人々とを」分断するだろう。」335P
「付記B 政治と環境汚染――TOXMAPからわかったこと」
「その結果、極めて興味深いことがいくつかわかった。相対的危険度の高い郡の住民ほど、「人類の進歩が環境を損なうことについて、人々は心配しすぎている」という設問に同意する傾向が強かった。つまり、環境汚染への曝露量が高い地域ほど、個々の住民がそのことに不安を感じていなかったのだ――そして、「強力に共和党を支持する」と答える傾向が顕著であった」358P・・・パラドックス
「結局、赤い州のほうが青い州より汚染が深刻だった。投票する、しないにかかわらず、保守派で共和党を支持する人は、環境など問題ではないと一蹴し、その影響に苦しみながら、高レベルの汚染にさらされて暮らす傾向にある。全国で見られるこの政治と環境をめぐるパラドックスが、ルイジアナ州では、極端な形で表れていたのだった。」358-9P
「付記C 右派の共通認識を検証する」・・・右派の予断と偏見――12項目
▼「政府は福祉[生活保護費を指す]にお金をたくさん使っている」
▼「福祉給付金の受給者が増えている。受給者は働いていない」
▼「福祉給付金の受給者は、われわれ納税者の金に全面的に頼って生活している」
▼「貧しい人はみんな給付金をもらっている」
▼「黒人女性は白人女性よりもたくさんの子を産む」
▼「多くの人――四〇パーセントくらい――が連邦政府や州政府で働いている」
▼「公務員は給料をもらいすぎている」
▼「環境規制が厳しいほど、雇用は減少する」
▼「経済的優遇措置を準備し、規制をゆるめないと、石油・ガス産業はどこかよその地域に拠点を移してしまう」
▼「州が産業に助成金を出すことは、雇用拡大に役立つ」
▼「石油がほかの分野の経済を刺激する」
▼「共和党大統領のほうが絶対に経済は良好だ」
 メモ、「ファストフード業界で働く人」「保育士」「介護ヘルパー」で給付金受給を受けるひと、いずれも五〇パーセン前後→「“企業助成金”と呼ぶ人もいる。」361P
「訳者あとがき」
「事実であるかどうかはともかく、本人がこうだと感じている、彼らの人生の物語が浮かび上がってきたのだ。著者はそれを“ディープストーリー”と名付けた。まじめに働きさえすれば、いつかは自分もアメリカンドリームをかなえられると信じ、辛抱強く列に並んで待っていたのに、現実はそうではなかった。産業のグローバル化、自動化が進んで働き口が減り、勤めていても給料は横ばい。そこへ次々と列の前に割り込む者が現れた……。」370P
「ページの端々から、人に出会い、つながる喜び、友人たちの思いを届けたいと願う静かな熱意が伝わってくる。著者自身がしなやかに壁を越えてみせているのだ。/考え方は異なっていても、共感を阻む壁をはさんで言葉を交わすことはできる。手をとりあうことさえできるかもしれない。希望を捨てずに対話を続けてほしいと、この本は語りかけている。」371P・・・そんな簡単なことではないことは著者自身がわかっていると思うのですが。
「原注」
 いろいろ資料的に押さえておくことがあるのですが、ひとつだけ。
「ノルウェーでは、「石油企業は国の天然資源確保に貢献するが、石油は最終的に国のものだ」という前提で、すべてが運営されていると説明する。」45P(注は、後ろからのページ)・・・資源はみんなのものという当たり前の論理が、なぜ企業所有になっていくのか?


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『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』

たわしの読書メモ・・ブログ522
・『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』情況出版 2019
最近、「反緊縮」というところでの経済理論が出て来ていています。異端としてとらえられていたようなのですが、あちこちで目にするようになってきました。で、雑誌で特集を組んでいたので、一応押さえておきたいと、特集をだいたい読みました。今回のメモは、読書メモというよりは、そこからかなり離れたこの理論に対するわたしの対話です。
 資本主義社会の法律概念では、「基本人権」ということがあり、これはお金がないということで「基本的人権」に関わることにお金出さないとか、削減することはあってはならないはずで、だからこそ、「基本的人権」というのだと思います。こういう意味での「反緊縮」ということには大賛成です。
 「緊縮」といえば、小泉構造改革を想起します。ここでは、「聖域なき構造改革」で、福祉削減にまで手を出しました。アベ政治では真逆のアベノミクスなる経済成長戦略を出したのですが、福祉に関する事だけは、切り捨て、削減、頭打ちを続けています。真っ先にやったのが最後のセフティネットと言われる「生活保護の見直し」でした。一方で、「異次元の金融緩和政策」をやり、福祉は切り詰めるという、まさに、お金持ち・大企業優先政策をやっているのです。こういうアンビバレントな政治であるということを押さえねばなりません。もちろん、「反緊縮」ということで想起され反発されるのは、かつての「土建国家」と言われたような公共事業への、まさに企業のための事業を企画し、一度お金が付くと(後でいろいろ問題点がはっきりしてきても)止まらないというようなことをやってきたわけで、それが長く自民党政治を支えてきたという側面がありました。アベノミクスの「金融緩和政策」でも、結局、トリクルダウンとか言いつつ、いろいろ操作したあげく、実質賃金はあがらず、大企業が内部留保を貯めたという事に収束しています。
アベノミクス効果などということを言っていますが、財政出動をすればそれなりに経済が上向くのは当たり前で、逆にいうと、それだけ出動したのに、効果がほとんど上がっていないのです。雇用率が上がったという話をしていますが、それは専業主婦ということが一部お金持ち以外にありえず、子育て支援をしてこなかった結果少子高齢化をもたらし、若年層の労働者が減り、高齢者になっても仕事を続けざるをえなくなっているという総体的相対的貧困情況が生み出されている結果としかわたしには思えません。
 小泉構造改革で財政赤字削減と謳っていたのはアベ政権でどうなったのか、危機の先送り蓄積というようにしかわたしにはとらえられないのです。この特集で軸にしているMMT理論は、危機―デフォルト(債務不履行)は起こらないとしているのですが、その論拠がきちんと出されているとは思えないのです。
 デフレが続いているということ、すなわち経済成長がないということを諸悪の根源のように言うひとがいるのですが、そもそもグロバリーゼーションが行き渡った世界において、それでも資本は飽くなき利潤を追い求める、そして経済成長を求めることなしに資本主義は維持できないという根底的矛盾に陥っているわけで、デフレが続いているというのは、持続可能な資本主義体制という側面から出て来ているのではないでしょうか? 議員立法であの悪法―「障害者支援法」を作るときに掲げられたのは、「持続可能な福祉制度」でした。で、アベノミクスで経済成長戦略が掲げられたのですから、「持続可能な福祉制度」から「必要な支援をなしえる福祉制度」に変わるべきところ、こと福祉に関する事だけは「持続可能な福祉制度」どころか、あらゆる領域で切り捨て・切り詰めが続いていくという状態です。新グロバリーゼーションのキーワードである「自己決定」・「自己責任」の名の元に、「労働能力」がないとされるひとたちへの「死への誘導」さえ始まっています。
 どうも金を刷ってばらまくなり、国債を発行してお金をばらまけば、経済成長するような幻想をもっている「経済学の専門家」といわれるひとがいるようなのですが、商品が売れないないなら企業は商品を作らないし、設備投資もしないのです。だから、企業は内部留保をため込んでいくのです。グロバリーゼーションの時代には、経済成長を求めると、格差の拡大という方向に進むしかないという問題もあるのです。
 こんなことを考えながら、この特集を読んでいました。
 この特集のメイン論文は二つ、ひとつは、薔薇マークキャンペーンをやっている松尾匡さんの「薔薇マークキャンペーンと安倍政権を倒す経済政策」と石塚良次さんの「異端の経済学MMTを読み解く―現代資本主義と貨幣理論―金融緩和論の陥穽」です。松尾さんは消費税増税反対の論拠で使おうというところで、注目されているようです。ただ、政治―選挙分析をすべて経済政策分析でなしえるわけではないということや、講演録ということもあるのですが、およそ、これまでの経済理論との対話がきちんとなしえていず、粗い議論にしかなっていないのではという思いがあります。経済が破綻すると台頭するのは極右だとかいう話を書いていますが、左翼もでてくるのです。このひとは、資本主義が永遠続くこととして理論をたてて、その中で経済政策論理をしています。フランスの極右ルペンが福祉政策を立てているという話を書いていますが、それはヒットラーが国家社会主義労働者党と労働者の立場を出していたことと同じ構図です。そもそも、どんどん財政支出してもいいんだということは、エネルギーの永久機関などないことと同じで、どう考えてもありえません。たぶん、デフレの間はどんどん財政支出してもいいんだという主旨なのでしょうが、デフレからインフレに移行する潮目ということがつかめえるのでしょうか? 資本主義社会は株式ということがあり、その操作で金儲けをしようというファンドがあり、そこで急激に金を動かすのです。そのひとたちにいかに経済を安定させることに貢献するか、という倫理など求めようもないのです。だから、恐慌とか起きるのです。
 石塚さんの論文は、マルクス派貨幣論の深化という内容をもっているようで(「内生的貨幣理論」ということがキーワードになっているようです)、現在の資本主義の貨幣理論、そこから経済学的分析を深化していく必要を感じていました。マルクスの理論は原理論的な理論で、そこからこまかいところへもっと下降していくことも必要なのだと思います。たぶん、ここで問題になっているのは、ケインズ理論との対話です。ただし、イギリスの「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策がグロバリーゼーションにのみこまれていったことや、北欧の福祉国家的なところでのブレとか、スウェーデンで優生手術がおこなわれていたことや、福祉の先進国といわれるところが安楽死・尊厳死が広がっていっていることをとらえると、これは結局近代合理主義の突き詰めの範囲の福祉政策で、わたしはケインズ理論は破綻しているのではと思ったりしています。(反緊縮派を支える理論として、これは松尾理論の紹介のようですが@MMT(近代貨幣理論という訳も出ています)AニューケイジリアンB信用創造廃止・ヘリコプターマネー理論とあげています。(これは「註1」の中に書かれています。) 58P
さて、この特集でひとつだけ読み切れなかった。塚本恭章「いま読んでおきたい経済・経済学の本55冊」があります。膨大な文献があげられています。いろいろなことに手を出しているわたしにはとても、こちらの方に踏み込めません。それで、この分野にはコメントしないとすることなのですが、それでも、一応表面的でも少しはマルクス経済学の流れをかじった立場からあえてコメントを試みました。
そもそも、問題の焦点は、現在的に「反緊縮」といっているひとたちは、財政破綻する可能性にきちんと向き合っていないということです。そもそも、所得税の累進課税の軽減とか法人税減税がどういう論理からでてきていて、それをどう批判していくのかということがまったく出て来ません。国際競争力というところが出させていたのです。そもそも、企業が多国籍化しているときに、資本が海外に出ていくことを止められないのですが、タックス・ヘブンとかも含めて規制の方法を考えることもあるのですが、お金もち・大企業のための政権はそもそもそんなことはやりません。そこで、国際競争力が落ちるとして、しわ寄せを、中間層の下層への没落、下層のひとたちへの福祉を削り、弱い人たちへますます生きずらい社会をつくっていきます。だから、一般民衆にとって、ますます生きづらくなり、資本主義の矛盾はますます拡大していきます。だから、資本主義を止めようよと突き出すことなのに、どうしたら資本主義を救えるかという話をマルクス派だったはずの経済学者まで、そのことに飲み込まれているのです。そして、左翼のはずのひとたちも、そこに飲み込まれている現状があるのです。
 もうひとつ、書き足しておきますが、障害学でもベーシックインカムの話がでてきているのですが、これは、そもそも、基本生活保障の話につづけていくことなのですが、資本主義経済の枠内でどうするのかということでは論理矛盾に陥っています。構造改革的革命論として出していくのなら、可なのだと思います。
 読書メモ的なところで、他の文でも少し書いておくと、「移民問題の最前線 入管という現場から――織田朝日さんインタビュー」が参考になりました。小見出しに「在特会とヘイトの親玉・入管」206Pとありますが、まさに、入管が、排外主義的ナショナリズムの機関として機能している、日本の外交政策の酷さが出て来ているようです。そもそも司法的なこと総体での日本の非民主主義なこともあるのですが。民主党が野党の時代には、入管問題でいろいろ支援をしていたのに、政権をとったら、引いていったという話も出ていました。
その他、いろいろコラム的なことが盛りだくさんで、また特集関係の論攷、特にMMT理論から「反緊縮」をかかげる山本太郎さんの文も出ているのですが、コメントは禁欲しておきます。
 もうひとつ、友常勉「書評論『マルクスと商品語』」、『資本論』の版によって違いがあること、訳語の問題とか出ていて、細かい学習に踏み込んでいく、筋道をひとつ示してくれています。廣松さんの名も出ているのですが、『資本論』を物象化論から読み込んでいくというところとの対話はありません。むしろ、「私的労働」という概念がでてくるところとか、実体主義に陥っているのではと感じていました。改めて、廣松学習をしていくなかで、対話する機会があればと思っていました。
とりあえずここまでです。


posted by たわし at 01:58| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小松美彦『対論 人は死んではならない』

たわしの読書メモ・・ブログ521
・小松美彦『対論 人は死んではならない』春秋社 2002
この本は、小松美彦さんの対談本です。
「内容(「BOOK」データベースより)」があります。わたしのパソコンでちゃんとでていないので、一部編集して貼り付けます。
「死の自己決定権、脳死・臓器移植、安楽死など現代的な死の諸相を第一線の論客と徹底討議。多様なる死の可能性が剥奪された現代にあって、ラディカルな批判を展開し続ける著者の、初の対論集。」
目次
まえがき(小松美彦)
プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
第3部 死の共同性をどう評価するのか
「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)

わたしは小松さんの単行本はだいたい読んでいたのですが、この本は対談本ということもあり、読み落としてしまっていました。改めて感じているのですが、対談本というのは、ちょっと違った思想をもったひとの理論や思想をしるきっかけになり、そして対論をしている著者の理論・思想を他者から照射することによって深めることができるのです。
小松さんの文や発言は、いつもながら感じるのは、エッセー的な「共鳴する文体」になっています。また、死の強制や死への誘いを許さないという強い意志に貫かれた文になっていて、わたしも共鳴していて、追っかけている著者です。
余談的にわたしごとを書いておきますが、わたしは読書計画をもっているのですが、何か講演会があるとき、その講演者の著書を予習的に急遽挟むことをやっています。前回までの、読書メモは、「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」年二回の講演会で、天笠啓祐さんの「活性化する新たな臓器作り、その問題点とは?」というテーマの講演会があり、それに合わせた予習という意味をもっていました。もっとも、バイオテクノロジー関係の学習課題は優生思想とからめて以前から早く読まなくてはと、どこかで入れ込む予定でいました。講演会の告知があって、そこにたどりついたということです。で、その連続学習の中で読んだ、前の読書メモでとりあげた小松さんの本に続いて、長く積ん読しておいた本を引っ張り出したのです。これは、丁度12月15日のシンポジウム「安楽死・尊厳死問題を考える―公立福生病院事件と反延命主義」の予習という意味を持っています。司会が小松さん、そして、この本の中で、対論をしている市野川さんが、「特定発言者」になっています。
この対論は本のタイトルになっているように、「人は死んではならない」という著者の思いをテーマにした対論になっていて、別の言い方では著者の別の本のタイトルになっている「死は共鳴する」という内容も持っています。これは、福島さんとの対論の中で出てくる、「人は死んだら人の心の中にゆくんだ」という言葉にも共鳴しています。
さて、具体的中身を、目次にそって押さえて、キーワード的に抜き出してみます。
◇まえがき(小松美彦)
小松さんの文は、初めて読むと、いろいろ思いも湧き、コメントも出していくことになるのですが、追っかけをしているので、ここではキーワード的切り抜きだけ。
 日本的な「延命息災」というプラス的なイメージがあったところへアメリカ由来のマイナスシメージのprolongationの「延命」―「いたずらな延命」「無駄な延命」「もうけ主義の延命」が入ってきた。@P
 アメリカから輸入の生命倫理学―「生身の人間のこととして血の通った議論になっていることは多くはない。」CP
◇プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
「従来の心臓死の場合、死と死の判定基準はあくまでも別個の存在として把握されていたのである。」7P
「このとき「死」は、死を死者にのみ封じ込め、われわれ周囲の者を置き去りにし、死とわれわれとの間に横たわるさまざまな事柄を切り捨てるものとなるのである。」7P
 一九九二年一月二二日「脳死臨時調査会」―「「人とは一つの有機的統合体であり、その統合体を司るのは大脳である。よって大脳による統合機能が失われた場合、それは人の生とはいえない」7-8P・・・脳も他の臓器から規定されているということを押さえていないという問題があります。
「「共鳴する死」―「自己閉塞する死」」「「死人」は「死」と共に存在を始める」「「死人」を物として見る「脳死体」」8P
 科学としての死と「自己閉塞する死」11P
「「共鳴する死」とは、単に<関係の中での死>ということではない、<人は死んではならない>という願いを大前提にした思想」14P―「共鳴する死」の危うさ→共鳴する生―「人は死んではならない」 
「脳死・臓器移植の実態は、「二つの死よりも一つの生を」いった標語に象徴されるように、実はゴリゴリの功利主義」16P―ヒューマニズムの装いをこらす
 ドナー―レシピエントの関係は、対の関係だけでない社会的影響17P
 自殺者のヒューマニズム―ファシズムの芽18P
「患者の扱い方のマニュアル化ということ自体が問われる」18P
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
◇脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
 『あしたのジョー』の話は、以前講演会ででていました。その時に、「本にしてください」という話をしたのですが、すでに一部でていたのですね。小松さんの文に関しては、後で、もう一度まとめて対話することにして、ここでは、切り抜きに留めます。
(アラン・シューモン<アメリカ・UCLA>1998からのデーター)「これまでの世界の脳死者およそ一万人のうち一七五人の心臓が少なくとも一週間は動きつづけていたことが判明した。最長のケースは何と一四・五年で論文公表時にもまだ生きつづけている。他に、二・七年と五・一年という場合も示されている。」30P
「脳死」という規定自体の作為性、従来の脳死の概念、@脳の形が崩れた、腐敗が始まった時点で脳死とする立場A機能不全というという意味(「脳不全」)31P
厚生省の脳死判定基準―@深昏睡A瞳孔拡大B脳幹反射の消失C平坦脳派D自発呼吸の停止E@からDの検査がクリアされた後に,六時間して再検査して、再度クリア32P
立花隆「脳死=脳血流の停止」の提起―従来の心臓死の判断と同じ→却下34P
脳死・臓器移植は医療の名を借りた殺人35P
ヒポクラテスの誓い―「医師は患者に対して害悪を与えてはならない。最善をつくさねばならない」→著者「患者を相互に比べてはならない」「絶対に目の前の患者だけを独立させて考えよ」―「脳死・臓器移植法の登場で、二つの命を両天秤にかけるようになった。」37P
脳死・臓器移植の問題―@臓器移植における経済的格差の問題(臓器売買の恐れと実際)Aレシピエントの問題(イ.正負の効果・他の治療の可能性ロ.薬を飲み続ける必要・副作用ハ.感染症の恐れニ.移植された臓器の有効持続期間)B「脳死」とされるひとの治療可能性の問題(脳低温療法など)38-9P
「自己閉塞した死」と「共鳴する死」40P
「このような思い(混沌として湧き上がる思い)と関係の総体がゆっくり変革していく時間的な流れが死なのです。」41P・・・「関係の総体」という理論的・思想的キーワード、「関係性の総体」として深化・展開していく必要性
「死の自己決定権」―「自己閉塞した死」43P・・・近代的個我の論理と新自由主義的グロバリーゼーションの「自己責任の論理」の増幅共鳴
「日本の今後の経済的な流れなどを勘案した場合、「死の自己決定権」は非民主的な脳死一元化に帰着する可能性があるということです。この事態は、民主的な仮面を被ってやってくる新たなファシズムではないかとすら、私には思えます。」46P
相互自己主張と議論、「問題なのは、自己主張するための情報がそもそも少ないし、しばしば操作されているということです。」48P・・・現政権の情報隠蔽と操作
(サミュエル・ベケット)「想像力は死んだ、想像せよ」50P
「(『あしたのジョー』の)ジョーと力石のような関係は、こういう腐敗した社会の中ではなかなか実現できません。けれども、少しでも生み出し、そして拡げていきたいというのが、私の思いです。換言するなら、それが「個人閉塞した死」から「共鳴する死」への転換なのです。これは、つまり、自閉的に生きる<私>から、人との関係性を共存する<私>への転換なのです。」52P・・・著者のエッセー的思い。(ただ、<自閉>もまたあり、とのわたしの思いも―ドナ・ウイリアムズの世界)
◇脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
 医者を辞めて医療問題を論じる永井さんとの対論です。
永井―輸血や胎児というところからの「臓器移植と非自己」の問題のとらえ返しを、「免疫抑制剤の必要」という違いからとらえる57P
 永井―感染症と抗生物質のせめぎ合い→揺り返しとしてのエイズ・院内感染57P
小松―移植推進派の小柳仁(東京女子医大)「日本で移植が可能になれば、毎年ジャンボジェット一杯分の心臓病患者が救われる」発言―移植医の心性59P・・・ひとの物化の極
 小松―移植コーディネーターの中立幻想、これをマスコミがとりあげない64P
 小松―「脳死・臓器移植にかぎらず、既成事実にマスコミが弱い」67P
 永井―「専門家集団としての医者というものが問題提起能力も自浄作用も失っている」69P
 永井―「僕の経験からは医学部教授という人種が言う「患者のために」という言葉は、ほとんど信じられない。そういう人が医局という伏魔殿で生き残っていくということです。」「六〇年代後半に若い医師達が指摘した医学部の問題点は、・・・(中略)・・・しかし実際にはほとんど何も変わっていない。そういう土壌の上で今度の臓器移植も行われたわけです。」71P
 永井―「人類という種は衰亡に向かっている。種としての活力を失ってきているという感じがしてなりません。その端的な現れが、生命体存続の入り口と出口を積極的にいじり始めたということです。」74P
永井―「まあ、僕の場合、考えることは言いますが、決めるのは世間だからしょうがないと思っちゃうんです。ただ、世間の人々が移植を選択するのなら、人類にとって臓器移植というのは素晴らしいということを、本当に納得したうえで、そうしていただきたい。そして、後になって「こんなはずじゃなかった」と思ったときに、素直に「間違った、どこで間違ったのだろうと思っていただきたいんです。」74-5P・・・「世間」まかせのことなかれ主義、それで何が進んできたのか、実際に多くのひとが犠牲になっていくこと、なってきたのかの歴史をとらえかえす必要。
           ↑
 小松―「僕はいま永井さんのおっしゃった「世間」というのが気に入らないのですがね(笑)・・・・・」75P
小松―「死も技術によって操作されていますが、現場では残された者の悲しみだとか安堵感だとか方針状態だとか、そういう気持ちをともなって残された者と死んだ者との関係のもとに成立している死があるということを忘れないようにしなければならない。」75P
小松―「最初から負けるのは分かっているのですけれども、・・・」76P・・・?
◇生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
 小俣和一郎さんは医者で、その立場での倫理をとらえようとしているひとです。
小松―「プレッソの夢」(出生前に人間を淘汰する)の現実化81P
小松―過去の優生学と現在の優生学の違い―個人の「自己決定権」に根ざしている82P
 小松―「優生政策や法律には「本人同意」≒「自己決定権」がもりこまれていた・・・」84P
 小松―「自己決定権」の問題点@勝手主義になるA知識の差で「専門家」の誘導になるB優生政策を免れ得るものにはならない86P
小松―ラザロ徴候88P
小俣―「和田移植には、戦後日本における一種の体質というのが関係している」(←七三一部隊の免責など)「七三一体質」@パターナリズムA官僚体質B大学医学部における軍隊組織体質89-90P
小松―「医師が権力者になっても、患者が権力者になっても、どちらもまずい。」92P・・「患者が権力者になっても」・・・?クレイマー&お客様
 小松―コーレマンスさんの安楽死の要求のとりさげ←孫娘の率直な提起97P←小俣―「誤まてる自己決定」への反旗98P
小松―臨床現場におけるコミュニケーションと相互批判の必要性101P
小俣―「インフォームド・コンセントや告知などは一方通行であってはいけない」―うそや隠蔽は疑心暗鬼を生み出す101P
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
◇人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
 この対論は、認識論―哲学的に掘り下げた議論になっていて、興味深く読めました。ただ、宮崎さんの論攷は実存主義的になっているところで、ズレは感じているのですが。この議論は、まるで「空中戦」のようなのですが、実は、哲学の根底的焦点になるはずであろう、実体主義とその批判が焦点になっているのだとわたしは理解しています。これを小松さんは押さえて議論をしているのですが、相手にどこまで伝わっているのか、議論のむずかしさです。
かなり、わたしなりのとらえ返しも入れてメモしているので、できたら本文にあたってください。
 宮崎―「私は死にゆく者の実在論を認めることはできません」、「本来の自分」の設定は「宗教」的理念の正当化、「そういう先験性をどこまでも拒絶し、人生をこの現世のみと捉えたとき、初めて人は家族や社会に、あるいは世界に真摯にコミットでき、言葉に責任をもてると思うのです。」106P・・・第3部との関係や対話、鼎談などをすると、いろいろ、問題をほりさげ面白い議論になるのではと思ってしまいました。
 宮崎―「「個人閉塞した死」は、死の、死を巡る人間関係の物化のプロセスから生まれたということですね。これは近代社会科学―なかんずく近代経済学―が見出した利己的個人という概念に照応すると思われます。」108P
小松―「近代において、一人ひとりの個人は、それぞれ特有な顔、固有の生活、あるいはさまざまな差違があるにもかかわらず、商品交換者と一律に規定されて、初めて独立で自由で平等な存在ということになったのと同様の事態だと思います。」108P
 小松―臓器移植の問題点@階層化A医学的に一元化・平板化B臓器・人体の資源化・モノ化110P
 小松―安楽死の論理におけるねじれ、「尊厳のない苦痛に満ちた生」に対置されるのは「尊厳のある安楽な生」113P
 小松―死の短絡の背景@緩和医療の貧困A「家族関係」から社会関係の問題113P
小松―「自己決定」の問題性@コミュニケーションがなく直接本人の決意に行くA「自己決定の能力のない」とされるひとたちの問題114P
 小松―医療費削減→環境の悪化→慈悲殺という構図115P
 宮崎―「死は自己決定の対象適格に欠ける」116P
         ↓
 小松―「生の向こう側にあるはずの死を否定することになる」「自己決定を権利として祭り上げるというところに問題がある」117P
         ↓
 宮崎―「一般的権利として制度化、法律化されることが問題」117P
小松―「「共鳴する死」というのは、いかに生きていくかという“思想”であって、「死」と言う言葉が使われていますが、実は生の問題なのです。それに対して国家によるそれは死に向かうもの(「共同体閉塞した死」・・引用者挿入)であって、方向性がまったく逆なのです。/近代は個人主義と共同主義という二本の足で支えられている。共同体というのは、たとえば、国家、社会、あるいは村落がそうだろうし、家族もそれに数えられる。」118P
・・・共同幻想としての国家、社会、共同体と共同性を区別していく
 宮崎―「個から国家へ向かうとされる同心円」批判、個が直接国家に包摂されていく、「近代の基本シェーマは「国家と個人」の相互依拠」。しかし、国家は抽象的機能体(共同幻想)、だからマスメディアと学校で包摂する機能を作る119P・・・?近代的個我の論理へのとらわれ
 宮崎―実在の共同体は「家族」119P・・・これにも幻想がつきまとう、近代家族の分析の必要性
 小松―「もともと共同体の存在を前提にして、そこから具体的問題を考えていくのか。それとも私の場合のように、まず個人的相互関係から拡げていくと、それがやがて共同体と呼ばれるものになっていくのか。その方向の差は決定的違いのように思えます。」120P・・・共同体というところでの実体主義への陥穽、共同性というところで押さえうるのでは?
宮崎―「私は「共鳴する生」の宿る場所が、共同体ではないかと思うのです。」120P
 宮崎―「共同体の実在を前提にしているのではないのですが、個が存立する初期条件であると考えています。たとえば、人は家族の中に生まれ落ちるのであり、生まれ落ちてからの環境が家族に「成る」わけでもないように思いますが。また所属する家族や地域をもたない人といえども、やはりなにがしらの家族的、地域的な、共同性の中に住まっているのです。あるいは、かつての共同性の記憶を「自我」の宿る辺としているのです。こうした共同性をも否定する人間観こそが「負荷なき自我」論と呼ばれるものです。」121P・・・「共同体」「個」「家族」の実体化、「共同性」と「共同体」のすりかえ、区別を付けていない。「共同体」を実体主義批判として押さえ直す必要。
小松―「私の場合には、仮に共同体という語を用いるなら、共鳴関係が成り立っているときに、とりあえずそれを「共同体」と呼ぶことになります。私が「共同体」とか「共同体的」という言葉を避けるのは、実体としての近代的共同体とか、中性的な共同体と私のいう共鳴関係(態)が混同されるといけないと思っているからです。」121P・・・実体主義批判の立場性
 宮崎―「そこで小松さんのおっしゃる個人とは、ア・ブリオリな実体なのですか。」122P
       ↓
 小松―「いや、生活過程の中で振り返ってみたら個人が存在する、ということです。」122P
 小松―「今までの近代的世界観・人間観では、最初に共同体から始めるか、あるいはそれとは対極にある個人から始めるか、いずれにせよ結局はそれ自体を裸の独立自存体として想定し、理論づけている。私は死の問題を契機にして、個人と「共同体」が同時に生起するものとして考えつつあります。」122P・・・網と網の目
 宮崎―「“裂開”」、ジャン・リュック「無為の共同体」モーリス・ブランショ「共同体なき共同体」←小松―木前利秋「“悲哀”の過去と現在」123P
宮崎―選択不可能な外部条件が現存する―人生の初発に設定される家族関係と母語123P

 小松―変革可能性は?・・・宮崎さんの答え?
 宮崎―「私は生命至上主義者ではないのですが、・・・そこで個体間接触の場、フェィス・トゥ・フェイスの交わりを温めあう場としての共同体の維持、発展が求められているのだと思います。」124P・・・この「共同体」は結局、幻想共同体になってしまっているのではないでしょうか?
◇「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
 市野川さんは、優生思想関係の研究をしていて、雑誌でその関係での特集が組まれたときには必ずといっていいほど文を寄せているひとです。ですから、雑誌でいくつかの文を読み、特に社会学関係の論攷や文献の紹介をしてもらっていて、社会学の基礎学習を踏まえていないわたしの立場で、一度、きちんと読んで置かなくてはと市野川さんの本も買っているのですが、未だに読書を果たせずにいます。知識としては得ることがあるにしても、何か掘り下げられていないという思いがあるのです。実は、障害学会が立ち上がる前に、障害学研究会ということがあり、その中で、学者のひとたちが順に担当して講演会をやっているときに、市野川さんも担当したときがありました。そのとき、丁度、イギリスの「障害の社会モデル」の第一世代への批判が日本にも入ってきているという背景があったというとき(わたしはまだそのあたりの事情は知りませんでした)、「障害の否定性は、百メートル走で少しでも早く走りたいという思いがみんなにあり、そのようなところから来ているのではないか」と市野川さんが話をしたので、わたしは「それは、小学校の時に運動会で徒競走ということがあり、生物学的にいう「刷り込み」のようなことが起きたからではないか」という問いかけをしました。そのあたりのことは、モンゴルの遊牧民なら「馬を早く駆けさせたい」とかなるだろうし、セパタクロウとかガバディとか、知らないスポーツを巧くなりたいとか日本ではほとんどのひとが思わないし、剣玉をみんなが巧くなりたいとかうわけではない・・という論攷とかにもつなげているのですが、ともかく、市野川さんには固定観念へのとらわれのようなことを感じていたし、ここでは、そもそも自己とは何か、自我とか何かという認識論的な論考が感じられないのです。先に書いたように、いろいろな紹介などは吸収させてもらっているし、真面目に読み込まなくてはとの思いはもっているのですが。
 小松―(ジョルジュ・カギレム)「すべての医師は、医学において人は震えながら実験をするということ、つまり震えながら治療をするということを自らに言い聞かせ、かつ他の人々にそう知らせねばならない135P
市野川―「われわれは常に他者を透明で見ているわけではない。われわれの側の先入観をもって他者を見ているわけです。そういう先入観を突き崩して他者を発見していくときに、他者の自己決定を尊重するという配慮は必要だし、その意味でなら宮台さんの主張も頷けます。」138P・・・どうやって突き崩すのか、そこにおける思想性の問題。自己決定を巡る立ち位置は、宮台さんと小松さんの間に市野川さんは位置してしまっているのでは?
市野川―「逆にいえば彼女たちは、生まれたときからこういう状況に置かれている人たちをこれまで認めてこなかっただろうと思うんです。そういう自分の他者に対する態度が、逆に今の自分を否定する形ではたらいてしまう。」140P
小松―「脳死・臓器移植とは、現代の医療現場からの特攻兵士にほかなりません。」143P
◇自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
 笠井さんについては、野間易道さんとの共著の本の紹介の『図書新聞』での記事を読書メモ351で書き、後で読書メモ358で、その本の読書メモも残しました。笠井さんは昔新左翼の活動家だったのですが、「左翼なき革命論」という論理矛盾の中にあるのではないかとわたしサイドではとらえ返しています。どうして、こういうひとと対論をすることになったのか不思議なのですが、この対論の中で、もっとも対立する意見の応酬になっています。笠井さんは、「自己決定権」と国家の「個人の自己決定権の尊重」というところでなしてくる優生思想的な政策が重なるところで、ファシズムが湧きあがってくるという構図をとらえていないのではと感じています。
 小松―「まず原理的なことについてですが、死と死亡を分けます。」「死亡は、・・・「点的な判断です。」149P・・・「死亡は医学的な点的判断」――死は関係性の中でとらえ返す概念
 笠井―「やはり死というのは持続的な自己統覚意識の喪失というのが大きな基準」150P・・・パーソン論になる
 笠井―「近代的な「私」などには内実はないのですが、その建前を一応相互に尊重するということ以外に歯止めになるものは他にはない」151P・・・結局「近代的個我の論理」による自己決定権の尊重になってしまう。「歯止め」は新しい関係性の構築―脱左翼宣言をした笠井さんにはない
 小松―「僕の主張の一番の問題点だと思っているのは、死と死亡との存在論的関係がつめられていないということです。」153P・・・?すでにでているのでは?
 笠井―「「死は共鳴する」といいすぎるとハイデッガーのはまった罠に落ちる危険性がある。」154P

 小松―「ですから、自己弁明的に僕の本の最後の方に、「共鳴する死の枠組みを拡げていくと、国家にまでいってしまう危険性がある」と書いた。」154P・・・共同体と共同性を区別すること、「共同性において死は共鳴する」とたてること。
 笠井―「その人間の権利要求に対して第三者はどのように答えるべきかという問題をたてれば、「分かりました。そうしましょう」ということが妥当だとどうしても思います。」154P・・・近代的個我の論理による共同性の否定、脳死・臓器移植の容認の論理 
 笠井―「「私は私である」ということはフィクションであり、事実として物があるように「私がある」わけではない。しかし、それを何らかの形で、あたかも在るかのように虚構化しないと成立しない。」156P・・・「成立しない」のは資本主義社会、「資本主義社会」の擁護論
 小松―「あくまでも個人というものをどんどん祭り上げて、大文字の個人なり自己決定権にまで高めて、そこから演繹的に一つの問題に下降してくるというのは、笠井さんが批判されているナチズムとスターリニズムという、二つの全体主義と同じになる可能性があるのではないか。」158P・・・下降? 演繹論は上向法では?
 笠井―(優生手術にかんするところで)「僕はそれは社会的に決定されると思う。」160P
・・・国家が決めるのではなく、社会が決めるという論理、しかし、社会と国家の関係を押さえていない
 小松―「仮に強制という言葉を使わなくても、実際に社会への浸透力をもつてしまう。」165P・・・・社会にある優生思想・競争原理・近代的個我の論理との言説の「共振」拡散
 笠井―「まず一般的にいうと、ナチス的優生政策を唱えること自体を政治権力が禁止することはできないということが一つ。次に僕個人のことについていうと、優生学的発想にはなりません。優生学である以上は、個人の意識だけでなく個人の存在も含んだ恣意性を何らかの形で統制しようという発想が前提にあるが、そのような前提を僕は拒否している。」166P・・・殺人教唆を禁止できないのでしょうか? 優生学や思想は統制や強制だけでなく、ソフトなところから浸透していく、「障害はないにこしたことがない」とか、競争原理とか、労働能力とか、だから市場原理も含めて批判してく必要(わたしの立岩さん批判)。
小松―「制度的な強制へ向かっていく優生思想が個人の自己決定権を前面に掲げるところから始まってきた歴史的事実のことです。」167P・・・優生思想と自己決定権のつながりは、「ぽっくり死にたい」ということのひろがりの中に見いだせるのでは? 「青い芝」の内なる優生思想批判
 小松―「そもそもパターナリズムか個人主義かという二元的な発想を問題視しているのです。」180P
◇自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
 この話は、読書メモ518の利光恵子さんの本で、一応対立の構図は解けているのではとも思えます。そこには、筆者の「自己決定権は幻想である」という観点からのとらえかえしもあるのだと思います。
「自己決定と自己決定権とは弁別すべきだと思います。」「日常生活の中で他者との関係で不断に自己決定している」「自己決定権という他者排除の理念」183P
「共鳴する死とは人は死んではならないという願いを大原則とする」186P
「現在そうであるように自己決定権を原理とするのではなく、「国家には出産・中絶に介入する権利はない」といったい類いの条文を盛り込み、既存の状態の解除・解体を図るべきです。」190P
第3部 死の共同性をどう評価するのか
◇「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
 福島さんは仏教の住職、「短歌の絶叫コンサート」とかもやっていて、かなり破天荒なひとで、日本では、西洋文明を希求する面があるのですが、むしろ東洋思想のとらえ返しの面白さを感じさせる対論になっています。わたしとしては、廣松さんの対論『仏教と事的世界観』を想起していました。
小松―「エンバルミング」(遺体切開して防腐剤を挿入して身体の内部から痛まないようにする技術)が広がっている205P
小松―「個人主義的な死と共同体主義的な死はセットで成り立っていて、その意味で死者まで蹂躙され、支配される方向へ向かっています。」←(小松さんは関係主義)「関係主義にはそもそも枠組みがない。「死者との連帯」が波紋のように広がる可能性がそこにはあるんです。」212-3P
 小松―「死は共鳴する」−「ひとは二度死ぬ」の内容216P
 福島―利他行224P
 福島―(中井)人は死んだら人の心の中にゆくんだ」226P
 小松―「完全な死体になる」230P(←胎児の死―ひとの生誕)
 福島―利他行というごまかし232P
◇「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
 最首さんは、実はわたしの本を世界書院から出してもらった時に、その社長が編集長をやっている雑誌『情況』で、「障害者解放運動の今」という特集を組んでもらい、最首さんにわたしの本のコメントをもらっています。その前に読書メモで最首さんの『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』を取り上げていたのですが、余りにもラジカルな批判を書いてしまい。親ということで、「身内意識」が働き、しかもその上に前述のコメントをもらったので、唯一お蔵入りしているメモにしています。最首さんは東大全共闘を担ったひとりで、そこでの運動の行き詰まりの総括で悶々としているときに、「障害者」の娘が生まれ、問題をスライドさせて、総括の作業を放り投げ、論考を掘り下げていくこともなしえていなのではとの思いをもってしまっています。この対論でも、問題の掘り下げをなそうとしないところが、垣間見えるのです。
小松―キヴォーキアン「死刑囚の遺体の活用etc」とハードウィック「死の義務」237-9P
最首―義務ということの歴史的社会的違い240P・・・運命論的になっているのでは
 小松―ヘヤー・インディアンやアボリニジや姥捨て山の話からする「死の義務」のような話、「そうした援用は、現実の当該問題への肉薄を遮り、それを仕方がないものとしてかたづける方向に機能しがちです。」243P・・・社会的歴史的極限の援用は、それも関係性の中で起きてきていることで、そのことの分析なしに一般化する運命論になっています。
小松―予算の話「森を見せることは、木を見せないことなのです。」247P・・・そもそも社会構造を固定的にとらえて、予算がないとしているだけ。
 最首―「もし、社会に余裕がなくなったら、星子を抹殺するのは、たぶん、僕だろうと思う。」248P・・・昔、社会に余裕がないときに「障害者」が殺されたのは差別ではないと書いた「障害者」当事者がいたけれど、その時代の当事者意識(フェア・ウンス)としてそうであっても、第三者意識としては差別そのもの。だいたい青い芝の親の「障害者」殺しを告発してきた運動をどうとらえていたのでしょう? そもそも「障害の否定性」がどこからきているのかというとらえ返しをしていない。
 最首―「しかし現実には社会に、その力はない。結局、「できるだけ多くの人が生きられるように」したいという思いは、感じたか、機械化の中では実現しないという地点に私たちはいる、それは事実だということだけが言いたいことです。」251P・・・客観主義的に語ることを止めたところに運動があつたのではないでしょうか? 余裕がないというのは、二つ、@考える余裕がない―実は考えないようにしているだけAお金がない−大嘘 (総括をなしえぬままに、問題をずらしたところで)社会を変えようというところの意志の欠落
 小松―「人は死んでならない」というのは、本人にというよりもむしろ、「そうした人々を取り巻く人々に対して向けられているんです。」253P
 小松―「ところがそれが逆転してしまって、「人は死んでもいい」ということが、いとも簡単に掲げられてきている。それは結局上のほうからであるにもかかわらず、「死の自己決定権」や「死の義務」などの美辞麗句によって、自発的なものに思い込まされてしまっている。」254P
最首―「重さが足りない」255P・・・小松さんは自分の責任の範囲で話をしているだけ。意味不明。自分の引き写しをしようとしているのでは?
 最首―「極端に弱いものにすがっているかぎり、すがり甲斐がないわけだから、自分が強くなることはない。」264P・・・そもそも「すがる」という発想が分からない。「弱い」とされていること自体を問題にすることなのに、意志をなくして「すがる」生き方をしているひとにはそれがない。「星子」を「護符」(誰かの言)にしているのでは?
 小松―「最首さんが今おっしゃった、権利や義務を個人の中に入れ込まずに場として考えたい・・・」266P・・・場の理論、関係論的観点からの小松さんの読み込み。ただ、権利とか義務という概念のとらえ返しも必要
 小松―「関係性からくるのであって、制度の問題ではない・・」267P・・・関係性⊃制度ということでは?
 最首―「勝負してもあまり甲斐はないんじゃないか。」269P・・・なぜ、議論をするのか、理論に関わるのか?
 小松―「最首さんの、書き手としての主語である「私」がまずないんですよね。」273P
◇キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
 わたしはカトリックの幼児洗礼を受け、キリスト教の教えに子どもの時にさらされていたので、その矛盾のようなこと、この対論でも小松さんが感じていることに同調すること多々ありました。
小松―「生身の関係性を最重視する姿勢・・・」277P・・・隣人愛の話に繋がっていく
 土井―「憐れ」の語源は「はらわたがちぎれるような痛みを覚える」ということにつながる281P
小松―「具体的場面で目の前の人に対して、内臓がちぎれるような思いが自然に湧き上がってくること、それが隣人愛なんですね。」281P
土井―移植コーディネーターが介在することによって「憐れ」が働かない構図281P
土井―「移植に必要なものは愛でなく、臓器であるわけです」282P・・・愛という名のごまかし
 土井―「善意」と「隣人愛」283P←小松―一般・抽象と個別・具体
 土井―「個別的なものが一般的になっていくプロセス」―「すべき」になった愛他精神は隣人愛ではない(小松さんとの対話の中で)284-5P
小松―「生命の尊厳の捉え返しなり、隣人愛の捉え直しということも、結局は資本主義批判、貨幣経済批判、数量還元主義批判であり、ひいては近代合理主義批判になっていますよね。」290-1P
小松―「巧妙に誘導したのが「脳死」という“秀逸”な命名」292P・・・「脳不全」という言い方になるところを言い換えていること
 土井―「「ある」「ない」という形での議論の対象になるになる神は、もはや神でない」302P・・・しかし、そもそも神があるという証明はない 神は自然の物神化
 小松―「第三者がなかなか口出しできないというのは、気持ちとして十二分に分かるのですが、問題は紅茶を飲むか烏龍茶を飲むかといった選択でなく死の選択であって、しかも、その誰かが死んでしまう前にかたらなければならない。」306P・・・他者一般を規定する法律の問題として議論になっていること
 小松―「死の苦渋を代行し緩和するように機能している宗教や神もまた、それらがそのように機能する以上、個人個人の関係性を薄めているのではないのか」308P・・・そもそも架空の話として進むこと、そこに入り込めるのかという問題があり、そして少なくとも「この世」の問題の解決の道にはならない
◇エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)
お母さんの他者への「死への共鳴」ということでのエピローグです。小松さんの「共鳴しえる感性」のようなこと、実はお母さんからも来ているのだと感じていました。わたしはむしろキリスト教的欺瞞の世界を反面教師的に理論・思想を練り上げようとしているのですが、深層心理的なところの自らの保守性や差別性におそれおののいています。
「死者との連帯」312Pということも出て来ます。
さて、「人は死んではならない」の提言に対して、わたしは基本的に共鳴しつつ、違和というかズレのようなことも感じていました。「死んではならない」ということばは、「死んで生きる」というところで、死を賭して運動を担うという側面をどうするのか、という問題があります。そこに「死者との連帯」ということがあるはずなのです。
生きた結果、生きようとした結果として死ぬ、死に様(これは実は生き様ですが)さらして死ぬというときに、それは必ずしも「死の否定性」にはならない。それは、「ひとは二度死ぬ」ということばがあります。60年安保のとき警察に殺された樺美智子さんは、同時代を生きたひとたち、そして少なくとも、70年世代のひとたちの中で生き続けています。そして、歴史に名を刻んだひとは生き続けるのではとの思いも持っています。

この対論を読みながら、わたしとしては、「関係性の総体」という概念が浮かび上がっていました。共同体のための死ということは、幻想としての共同体に誘われるのですが、そうでない関係、共同性というところでの生と死ということを考えていました。


posted by たわし at 01:54| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSTBS「報道1930」

たわしの映像鑑賞メモ038
・BSTBS「報道1930」12月26日19:30〜21:00
 いつものメンバー以外のコメンテーターとして、森永卓郎(獨協大学教授)、藻谷浩介(日本統合研究所主任研究員)、鎌田靖(ジャーナリスト)
い前回のメモ037につながることなのですが、地方での取り組み、「ダムをたんぼや森の復活へ」(森永)とかコンパクトシティ構想(鎌田)とか、いろんな可能性の話が出ていました。要するに、地方から変えていくというところでの取り組みで、たとえば、今地方では車がないと生活できないような公共交通機関の崩壊が進んできているのですが、地域内で幹線に交通機関を通しその近辺に移住を進めるとかの実践もでてきているようです。そのあたりは、もっと自動運転システムとか、ドローンとかいろいろ可能性はでてくるのだとも思いますが、それなりに合理性というようなこと、むしろ、わたしは、晴耕雨読のようなことで地産地消の農の取り組みが起きていることに留目していました。藻谷さんがこれからは農が成長産業だという話も出ていました(資本主義の枠内ではそんなことはないとわたしは思っていますが)。このあたりは、「社会変革への途」でも取り上げていこうと思っています。
 余談になるのですが、読書メモで取り上げている「反緊縮」のこと、「どんどんお金を刷ればいい」という話を最初にわたしが聞いたのは、ここで出てくる森永さんの話でした。今回の話のなかで、むしろ逆の経済危機の話をしていました。ちゃんと落ち着くところに落ち着いたのだととらえ返していました。

posted by たわし at 01:49| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』

たわしの読書メモ・・ブログ345
・高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』「要約報告書」七つ森書館1998
MOX燃料に関するかなり専門的本です。とりあえず、「要約報告書」の部分だけ読みました。MOX燃料、その材料のプルトニウムの危険性について、そして経済性においても、再処理したものの輸送の大変さ、危険さ、あらゆる面で使えないものなのに、それでも使おうとしていて、一部実際に使っているのです。その背景には、プルトニウムがナガサキの原爆の核兵器の材料として使われたということがあります。自民党の石破元幹事長の「いつでも核兵器を作れるようにしておくために原発は必要」という発言とつながっています。そしてプルトニウムが核兵器の材料となるということで、国際的な監視と規制を受ける中で、燃料として使うのだ、ということを示すために、再処理リサイクル計画を捨てようとしないし、世界的に技術的に困難だとして、そしてたびたびの事故が起きる中で、放棄された、高速増殖炉や再処理計画を捨てようとしないのです。それでどれだけの意味のないお金がつぎ込まれているのか?
まさに核兵器―戦争と原発は密接につながっているのです。核兵器が戦争抑止力になるという、危険性をますます増加させるどうしようもない論理をふりかざすことと、そもそもお湯を沸かすのに核エネルギーを使うというどうしようもない考えを批判しつぶしていかないと、わたしたちは爆弾を抱えて毎日を暮らすという危険な状態から脱することができないのです。そもそもフクシマを経験した国でなぜ原発が再稼働し得るのかどうしても理解できないのです。きちんと、そのことを周りのひとに伝え、反原発・脱原発の世論を作りだしていかねばと改めて思うのです。
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最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』

たわしの読書メモ・・ブログ40
・最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房 1998
 この本はいろんなところでかなり話題になっていた本。掲載されている文をどこかで観たような気もします。で、一度読んでおきたいと思いつつ、何か違和を感じつつ、またもう絶版になっていると思ってそのままにしていたのですが、『図書新聞』で全共闘関係のインタビュー連載をしていて、その中で最首さんへのインタビューの中で娘さんの星子さんにコメントしている発言を読みました。で、やはり障害関係文献に入れなくてはと思い、古本でも探そうとしたのですが見つからず、もしかしてまだ絶版になっていなかもと探して見つかった本です。
 「障害の反転」なりコベルニックス的展開が随所に展開されています。ただ、ぶれがありそのことが整理されていないようですし、個人主義−実体主義的な世界観から抜け出せて居ず、今「障害者運動」の中で問題になっている医学モデルから「社会モデル」へのパラダイム転換ということも全く届いていないようです。
 そして東洋的な思想、老荘の思想的な諦観というか、悟りの世界のような話になってきますし、ガレー船に掲げられていた「自由」という文字の話などは、反差別の立場からは、アフリカンアメリカンの解放闘争で批判されていたアンクルトムの物語に落ち込んでしまう危険性さえあると思わざるをえません。最首さんのエッセー的なところからは、少なくとも反差別の「障害者運動」は起きてこないだろうという思いにとらわれてしまいました。
 もう少し細かく書きますが、「重度の」というところにとらわれたところで医学モデル的なところに陥り、差別ということをぬきにしても抱えざるをえない問題として語ってしまっています。それに現実に家族で抱え込んでいくというところを相対化しえず、それをそもそも抱え込まざるをえないこととして、自然性と社会性の区別がつかず、とりわけ母子関係というジェンダー的なところにも陥りつつ、その話は抱え込めなくなったら結局施設へという、自分の関わっている運動の前提を崩すような話まで出てきてしまっているように感じてしまいます。
 差別がなくなった中でそれでも障害といわれることが何かあるとしたら、彼の東洋思想的な悟りのような世界は意味があるのかもしれませんが、どうも悪しき全共闘世代の代表格、革命の意志が挫折したところでの東洋的な諸行無常の世界に陥っているようです。理論的なことでいえば、物象化ということをとらえられない中で、(そのような純然たる自然などないとエンゲルスが語った「純然たる自然」に陥っているところでの)「自然的な共生」へという中での差別への諦観への陥りのように思えてなりません。
 「障害」の負価値性からの反転を随所にかなり鋭くなしているのですが、結局反転に失敗しているとしか思えません。このあたりは意識性の問題だけで反転を試みようとしている、すなわちマルクスの唯物史観の意味をとらえ返せていないことからきているのかもしれません。
吉本隆明さんの論述と同じように部分的には観ること多々あり、ただ、論理性なり根本的思想として違和を抱いてしまう。そんな本です。
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2020年01月06日

小松美彦『「自己決定権」という罠』

たわしの読書メモ・・ブログ520
・小松美彦『「自己決定権」という罠』言視社 2018
この本は、ブログ126の小松 美彦『自己決定権は幻想である』洋泉社新書2004という絶版になっていた本の増補改訂版です。
で、最初から読み直そうとも思ったのですが、もう積み上げた本に追われているので、既稿は原則そのままということ、補注だけ読んで、「増補1章 「自己決定権」をめぐる二〇一八年の状況」と「増補2章 鏡としての「相模原障害者殺傷事件」を読みました。
 その後の、臓器移植問題、「尊厳死」問題、「終末」医療問題と続き、ナチスの思想の「障害者」殺し、民族のホロコーストの背景になった思想を歴史的に押さえ、そして、「いる」と「ある」の違いというところから、脳死状態で生きた子どもと家族の生とことばの中に、新しいひとの生の哲学を生み直そうという、著者の「生の哲学」とも言い得ることを突き出しています。
 もうひとつの、相模原殺傷事件の問題では、事件を起こしたところの思想的なとろを押さえ直す作業をしていて、そのひとつが増補1章でも書いた「世界人権宣言」の「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性と良心を授けられており・・」というところで「尊厳という罠」ともいいえることにリンクさせています。この論攷を読みながら、意思をもたない、示せない者をひとでないとするパーソン論の論理というのは、実はキリスト教文化圏の天地創造の物語と進化論の高等―下等生物という位階制、そして精神労働と肉体労働の分業の中での精神労働の優位性、能力の内自有化というところが絡み合った、資本主義の文化そのものから来ているというような思いを抱きました。
 実は、このあたりの話は著者の大著『生権力の歴史―脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』青土社2012 (ブログ229)の中にも取り上げられていたアリストテレスの「只の生」のはなしにもつながっていきます。  
 わたしもこの事件に書いています。わが内なる優生思想というところから、「わたしもUだ」ということまで書いてしまったので、不評でした。まさに、優生思想にとらわれ、自死への思いをつのらせていた思春期から、そこから一応脱して、それを自己批判的に脱構築なり止揚するなりの論攷を積み重ねているとは言え、深層心理的なところでは、脱しえていないところで、そのような表現になってしまったのですが。
この著者は、優生思想や障害問題での思想的なところで、わたしが最も共鳴できる論者です。だいたい追っているのですが、次の読書メモで、1冊読み落としている対談本を読み、メモを残します。
後は、切り抜きメモで。
改訂臓器移植法で、「自己決定権」が、まさに幻想になってしまった。@脳死がひとの死か否かをドナーが選ぶことが、脳死はひとの死と一律に決めるAドナー本人か意思表示していないときは、親の意思でも移植ができる210P→実は@は、その後の法解釈で、これ自体があいまいにされた(法体系―福祉総体の変更が迫られるとしての)「厚労省見解」で、ひっくりかえっているところが、そのあいまい性―両またぎでその法律が「脳死はひとの死」と規定しているという思い込みがひろまってしまっている。224P
WHOの臓器移植売買と移植ツアーリズムの禁止の後者を「移植渡航の禁止」という誤訳・ねつ造によって、改訂臓器移植法を作り上げた。214P
「WHO指針原案・WHO決議案・ルーク・ノエル氏発言」という虚構で「渡航移植の大幅制限」ということをねつ造した217P
WHO新基準―臓器売買の禁止・移植ツアーリズムの禁止・生体移植の厳格化217P
移植渡航のデポジット(「頭金」「手付金」)による待機患者の順番の繰り上げの可能性221P
 日本救急医学会のアンケート「あなたはこういう患者が救急車で搬送されてきたら治療しますか」@「末期がん患者A「重度の大火傷」B「脳死状態と診断された人」C「身寄りのない認知症のお年寄り」D「不法就労していた外国人」(CDは結局外される)227P・・・まさに差別的誘導
「終末医療」という概念229P・・・そもそも後になって「終末」だったと分かることに過ぎない
「尊厳」―「無益な医療」とのリンク229P
診療報酬改定で胃瘻の位置づけを変える232P・・・人工呼吸器・胃瘻・人工透析がターゲットになっている
「終末期」―「人生の最後」―「医療を行わない」というリンク234P
尊厳死法、一旦成立すれば「自己決定権」が「骨抜き」になる←「臓器移植法」から推定237P
「セルフ・メディケーション」―自己責任論239P
アガンベンのホモ・サケル―「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」の区分け―線引きの理由の解明を置き去り(フーコーも)248P・・・著者の「人間の尊厳」からの切り込み―生資本主義を支える力249P・・・労働力の価値という概念からする資本主義の文化―標準的人間像
ピコの諸物の価値付け―キリスト教神学「人間は基本的に動植物と惑星の間に位置します。」「人間には動物にも植物にもない「理性・精神」(とそれによる自由意志)が備わっている。」−フランシス・ベーコン、デカルト、パスカル、ロック、ディドロ、ルソー、カント、ハイデガーにつながっている250P
国家有機体→ヒットラーの民族有機体252P
「世界人権宣言」の罠―「人間の尊厳」―「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」←「やまゆり」事件植松加害者が引用255P
「人間の尊厳」「無益な延命処置」「コスト」という三点セット257P
「戦後世界は、「人間の尊厳」が蹂躙されたことを省み、「人間の尊厳」を掲げるところから出発しました。しかし、それはまったく倒錯した認識だったのです。ナチスにあっても、現代においても、「人間の尊厳」を重視しようとすればするほど、逆説的にも対極の自体が生じたのであり、そして今もなお生じているのです。」259P
「「生資本主義」の基本発想がそうであるように、表面的な個人主義の背後には全体主義がどっしりと鎮座している。具体的には、経済政策のもとに、医療・福祉・社会保障の削減と安楽死・尊厳死の推進が並行してなされてきたことを、想起すればよいでしょう。つまりは、全体を守るために、個人主義を持ち上げ、「自己決定権」を利用しているにすぎない。」260P
「間に、はじめて尊厳なるものが立ち現れる」264P
 存在の事実265P・・・アリストテレスの「只の生」
ドイツ語Seinにはない、「ある」と「いる」の区別266P・・・過去・現在・未来をつなぐ「いる」
 「間に立ち現れた共鳴関係」268P・・・互いに思い合うこと、そこの間にある尊厳。間の尊厳と内自有化された尊厳
 尊厳死協会と植松の近似性295P
「相模原障害者殺傷事件」は、日本社会の全体動向の巧まざる鏡」302P
「駅の職員に礼を述べていると感じられることはほとんどないのです。」306P・・・バリアフリーが進む中での公的な場における協働的介助の消失―援助があたり前のようになることへの著者の危惧のようなこと・・・?そもそも駅員がいて何かするという自体バリアフリーが実現していないこと、バリアを作ったのは誰?このような話は以前にも話があって、「ありがとう」「ごめんなさい」と言い続けていると卑屈になっていくこと、わたしが「「ごめなさい」「ありがとう」は障害者運動の禁句」として突き出したこと むしろ、「ありがとう」と言えるところまで関係を作って行くこと
 「人権」311P・・・?人権という概念自体が架空の議論、更に、「もっている」というところで、能力の内自有化ともつながり、むしろ、ここから否定すること
究極の線引きとしての死刑制度313P・・・死刑は責任のリセットでもある
植松被告の遺族への謝意―遺族にとって大切な存在ということが分かっていた→尊厳がある存在ということになる 彼の中で論理化できていない318P


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利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』

たわしの読書メモ・・ブログ519
・利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』立命館大学生存学研究センター 2016
優生手術の問題が裁判になり、超党派の議員連盟での補償の法案ができました。国の責任を明記しないとか、補償が低い(責任を重く受けとめていない)ということで、まだ裁判は続いていて、解決はされていません。
そもそも優生思想そのものの優生保護法下で起きていたこと、前の読書メモでとりあげた出生前診断・受精卵以前に公然となされていました。被害者の3人のひとへとその周りにいたひとへのインビューとか過去の発言などをとりあげ文を書いています。そのうち最後のひとりの周辺の危うくなされそうになったひとと、周りのひとへ集団インタビューもしています。これは、いわゆるブックレット―冊子ですが読み応えのある、繰り返しつつ丁寧に論攷していく貴重な資料です。
最初は「知的障害者」ということで(実は貧困問題とのつながっている「障害」の話です。この「障害」の括弧は、いつも使っている医学モデルという意味だけでなく、貧困による「学力不振」なのか、医学モデルの「知的障害」ということでも?という意味です)、だまされて本人の意志を無視して優生手術を受けさせられたひと、このひとは裁判の原告です。次は「脳性麻痺の障害者」が施設に入るためということで、優生手術では違法な子宮へのコバルト照射をされたひと。このひとは後に、「自立生活運動」に入っていきます。もう故人になっています。3番目は、これも施設の介助態勢の不備という中で、「自ら」子宮摘出を申しでて手術を受けたという話です。
みんなその後、手術の影響で、体調不調になって、精神的にもダメージを受けています。臓器移植問題とも絡んでくるのですが、臓器は互いの働きかけあいの中にあり、ひとつの臓器をとれば、いろいろ関係性の中での変調がおきてくるものだと思います。もちろん、新しい形でのホメオスタシス(恒常性)を獲得しようとするのでしょうが、そういう総体的関係性を無視して、人為的に臓器を摘出したり、機能を奪うなどということはなしてはならないことなのだと言い得ます。
3番目に掲載されていること、ずっと前に、女性の「障害者」の集まりに参加した女性が子宮摘出を受けた体験を語り、子宮摘出の勧めをしたというショッキングな話がありました。それがこの本の中にも書かれています。その話がこの話とつながっています。当時の情況、そして現実に自分の周りの介助者が生理の介助でいやな顔をされる、当然のこととしてやってくれないという中で、「自立」的生活のためには、必要だと「自己決定」して、子宮摘出を受けたのですが、そのことの意味を後でとらえ返し、それが他のひとが続くことになり、苦悩に陥っている様子がとらえられます。そもそも、「自立」という概念のあいまいさも起因しているのだと言い得ます。いまだに「自立生活センター」という名での活動があります。与党政党の多くのひとや現政治の枠組みは、「自立」ということを、身辺自立、経済的自立の意味で使い、運動サイドの自立は「自己決定」という意味で使っているのですが、この話は、すでに読んでいる次のブログの「自己決定」ともリンクしてます。そこからきちんと押さえ直す必要があり、わたしは「自立生活センター」という名称自体を「地域共生センター」と変えていく必要を感じています(もっとも、政権与党への働きかけが、このあいまい性に依拠して(「現実主義」的に「同情するなら金をくれ」式になりたっている)ことがあるのかとも思ったりしていますが)。
切り抜きメモに入ります。
優生保護法の最初の提案(審議未了)は社会党8P―社会党衆議院議員加藤シズエ、福田昌子。太田典礼44P・・・世界的に初期の優生思想の推進者の中に社会主義者がいたこととリンク
宮城県が突出して優生手術が多かったことの論理「人口資質向上」―「よい結婚のすすめ」「人口資質の劣悪化を防ぐために精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めて」17P
宮城県突出した地域ぐるみの「知的障害者」に対する優生手術、60年代に優生手術のピーク―全国的には50年代18P
池田内閣1962年厚生省人口問題審議会「人口資質向上決議」―「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である。」18P・・・「資質」という名による、ひとの資源化―モノ化、国策としての優生手術
「優生政策の主たる目標は、『民族復興』から『経済成長』にシフト」18P
貧困、障害差別、女性差別のからみあい41P
優生手術で放射線照射は禁止されていた44P―「レントゲン照射による先天異常への懸念から」45P― 「子宮摘出」「放射線照射」が現実的に行われていた46P・・・?「先天異常」
施設入所、生理処置が自分でできることが条件48P
後遺症49P
「当時(1965年前後)、政府側は経済開発のための人口資質向上と福祉の充実を一体的に捉えており、両者を結びつけていたのが「社会開発」という概念であったと述べている。」80P
「いいことしたんじゃから」85P・・・歪められた主体性の獲得と顕示
集会1979年「車いす全国集会女性障害者問題分科会」87P―堤愛子さんの提言
自分の後に子宮摘出手術を受ける者が続いたという罪悪感―女性ではなくなったという観念へのとらわれ97P―それを越えていく方向としての自らがとらわれたところのとらえ返しとそれを運動につなげていくこと
子宮摘出に到る理由@周りの生理介助での否定的態度A生理のつらさB身辺自立概念へのとらわれ(運動的「自立」概念のあいまいさとその罠)116-7P
瀬山さんの指摘―「自己決定したというところで自己を責める―自分が主体的に動いたというところでの自負心のようなことのせめぎあいのようなこと」119P・・・共同主観的なところへのとらわれた「自己決定」の論理へのとらわれ、次の読書メモの小松さんの論攷につながること
おわりに121-3P・・・簡潔なみごとなまとめ


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利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』

たわしの読書メモ・・ブログ518
・利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』生活書院 2012
一連のバイオテクノロジー・優生思想関係第三次(くらい?)集中学習の三冊目です。
かつて、「産む、産まないは女が決める」という女性解放運動のスローガンがあり、そのことに対して親の相次ぐ「障害者」殺しへの批判の運動を展開していた「障害者」団体が、「障害児」が生まれると分かったところでの中絶を、親の「障害者」殺しの構図と同じだと批判したことがあり、そこから、議論が始まり優生保護法の改悪の動きの中で共闘を組み、そこから優生思想的なところから出てくる「受精卵診断と出生前診断」への共同の取り組みとして「優生思想を問うネットワーク」という団体を形成し、この問題が日本産科婦人科学会という団体の自主規制に任されていたところで、この団体間のせめぎあいに入っていったとのことです。そのことが、時代区分をして、いろんな資料を駆使してとらえ返されています。貴重な資料として、これから使われていくであろう大切な本です。
ちょっと本の内容からずれるのですが、わたしはこの本から、かねてから障害問題とフェミニズムの対立というところの問題が、この本の中ですっきりしてきました。そのことを書いておきます。
「障害者」の中には、未だに「産む―産まないは女が決める」というスローガンのまま女性団体が動いていると錯覚して、女性団体と「障害者」の間の解決できないような矛盾としてとらえているひともいるのですが、これは優生思想にとらわれた女性とそのことを批判する「障害者」間の対立なのです。ネットワークでは、すでに「子どもを産むか産まないか、そして何人産むかは「女が決める」」としても、その子どもの質を選ぶことは許されない」と定式化しています。問題は、その優生思想が、さまざまな日常生活の中でそれと知らず取り込まれ、それ(共同主観的に形成された意識)を自己の自由意志や自己決定のように勘違いしていくことが始まります。この「自己決定の論理」は、「受精卵診断と出生前診断」を学会の規制を逸脱して推進しているひとたちの文言でも出てきます。自己決定権とか人権という言葉さえ使っています。ですが、優生思想は、そもそも「障害者」のホロコーストの思想で、そんな思想に基づく、人権や自己決定は、「ひとを殺したい時殺していいのだ」という論理になっていきます。臓器移植や生命倫理関係で論を担っている小松美彦さんが、『自己決定権は幻想である』(洋泉社2004)という本を書いています。そもそも、ひとは共同主観性の中でいき、ことばの獲得というところから始まり、教育、社会化というこの中で、そして日々の活動の中で共同主観的意識に規定されて「自己」を形成しているのです。そのようなとらえ返しを欠落させて、純粋な自己(実体主義的自己)など、まさに幻想なのです。もちろん、「個人の意志」を無視することは出来ないのですが、あくまで、いろんな刷り込みがなされているところで、ひとの対話の中での意志というところで、「自己決定」そのものを繰り返し問い返していくことが必要なのです。
で、結局、女性が子どもの「質」を選ぶということは、女性自身が選別される存在になっていくことになります。すなわち、この技術の行き着く先は、どのような受精卵、ひいては卵子を選ぶのかという問題があります。そして、総体的な関係性の中のひと、ひとの総体的からだということ、ひとの総体的な遺伝子、それらのことをどんどん実体主義的に切り詰め、物のようにきりとり、操作していくことは、ひとの物化以外の何ものでもないのです。この技術は「不妊治療」という言説の中でも進行・侵攻しているのですが、その中で「代理母」とかいうことも出ているのですが、女性の中で「自分の卵子をつかってもいいひと」―「子どもを子宮の中でそだててもいいひと」−「妊娠に関わってはいけないひと」というカーストのようなことさえ生み出す恐れを感じているのはわたしだけでしょうか? では、自分はそのようなところで上位の立場に立ちえるからいいのだというひとがでて来るかもしれません。ひとの物化の中でエリートと呼ばれる支配的な立場にたつひとも、そんな殺伐とした社会に幸せを感じることができるでしょうか?
更に、総体的関係性の中にあるということを捨象していくことは、その中で何が起きてくるのかを予想できなくなります。ヒトという種の絶滅のおそれさえ出てきます。すでに、ウィルスや細菌が、ひとが作った化学薬品に対して耐性をもってくる事態が起きています。ヒトという種を絶滅させるのは「スーバー・ウィルス」ではないかという話も出ています。遺伝子操作ということは更に、何が起きるか分からない世界です。「遺伝子操作は、原子炉溶融より恐ろしい」ということばが、遺伝子工学に関わったひとから出ています。原子力技術はもはや未来がない、危険な技術という認識が広まっています。この技術にも未来があるとは思えません。
さて、もっとこの本から離れていくのですが、もう一つの対立の図式を解いておきたいと思います。
それは公害問題と障害問題の対立の図式です。「水俣病」で、病気になった、「障害者」になったということで、その被害を訴えるとき、その被害を強調するとき、それが「障害者」の存在を否定する論理になっているという話がありました。とりわけ「胎児性水俣病」という「障害者」に焦点が当てられていました。もうひとつは、フクシマ原発事故のとき、高校生が「障害児が生まれる」と発言したことです。そもそも、「障害者」は被害がなくても生まれます。そこで、「障害者」が生まれること自体を否定的にとらえるということへの批判が「障害者」サイドからあります。ですが、問題の論点がずれているのです。被害を訴えているのは不利益を被ったというはなしです。それは、今の社会が「障害者」であることが不利益な社会だから、被害を被ったという話になるのです。たとえば、すべてのひとに必要な生活保障がなされるとしたら、そもそも「損害賠償」なる概念はなくなります。それでも、お金はできるだけ多く得たいのだという反論がでてくると思いますが、そもそも必要な生活保障がなされる社会というのは貨幣がなくなった社会で、そんな発想次第がなくなります。それでも、原理的にも残る問題があります。それは、企業の金儲け主義やそれを擁護する国策で作られた情況の中で、「強いられた」ということへの批判の問題です。  責任を認めようとしない、謝罪しないということで、お金の問題ではなくても、損害賠償や慰謝料という形でしか、責任をとらせる、ちゃんと謝罪させる手段がないということで、裁判を起こすという内容であります。
先に、「胎児性水俣病」の話を書きましたが、ユージン・スミスが撮った「胎児性水俣病」の子どもと母親が入浴している写真を巡って議論が起きていました。その写真を「悲惨さ」訴える写真としてとらえて、そのような写真を載せることへの批判が出ていました。わたしも、以前そのような思いも持ったことがあったのですが、実際に、自分自身が「障害者」宣言をして、運動に関わるようになってちょっと違うのではないかと思い始めました。また、ユージン・スミスの他の写真が出ています。またドキュメンタリーの番組など見ていると、彼は戦争の中にも子どもの生活があり、そこで笑っている写真を撮ったりしています。「そこに生がある」という写真を撮っているひとです。もうひとつ、書き置くことは、その被写体になったひとのことが映像でも出て来ていて、地域で「障害者運動」を始めて、自らが「否定的存在でない」ことを突き出しているようにわたしは観ていました。
で、この本の話に戻るのですが、この問題も含めて、バイオテクノロジーの技術に走るひとは、「不幸な障害者がうまれないように」という思いでやっているのですが、そもそも「障害者」サイドからは、「「障害者」が不幸なのではなく、社会が「障害者」を不幸にしているのだ」ということを突き出して来たのです。今日、外国から「障害の社会モデル」の考え方が出て来て、それを利用しようとしているのですが(実際に政治をやっているひとは、この「社会モデル」をほとんど理解できていません)、そもそも、日本でも、同じ内容のことが運動としてあったのです。
本を読んでいると、そこでの対話の中から、過去のいろんな対話(実際のひととの対話や本での対話)とリンクしていろんな思いが湧いてきます。ひとの意識もそのようなところで形成され、変わっていけるのだと思うのです。
さて、切り抜きメモです。今回は特に、自分の備忘録的メモになってしまいます。
まえがき・・・アウトライン的文です。
議論の対象としての日本産科婦人科学会の存在14P
受精卵診断の三つの交叉する倫理的問題「受精卵診断の倫理的問題は、障害をもつものの出生を回避すると同時に障害をもたないものを蘇生させるという差別にかかわる側面、女性の身体への侵襲に関わる側面、生命の人為的操作につながる側面が交叉するところに位置する。」14P――「中絶のもつ倫理問題にも重なる・・・」
「異常」ということは括弧付き18P・・・変異という表現の方が妥当(少しはまし)
欧米では、一応介入という批判はあるが、女性(カップル)の「自発的選択」というこ
とで流され、優生学批判が機能しにくいる傾向。日本では、むしろ個人的レベルの問題にされて、なし崩し的に導入されていく傾向61P・・・安楽死などの問題とリンク
「日本の人口政策をあらわす「魔のトライアングル」」を見いだした」→「魔のトライアングル」とは、基本的に中絶は禁止、妊娠したら必ず産めといのが堕胎罪、堕胎罪の例外条項として障害がある子は産んではいけないというのが優生保護法、そして次世代を担う健全な労働力を産むための母体保護が母子保険法であり、この三つが互いに補い連携しつつ人口の量と質を管理している構造をあらわした言葉である。そして、「この三つの法律によって、女は『産むべき女』と『産んではいけない女』に分けられ、また女のからだを通して『生まれるべき子』と『生まれてはいけない子』をふるいわけようとしている」・・というのがそれである。彼女らは、これ以降、折にふれてこの三角形を図示しながら、国による生殖の規制における女性と障害者の位置を確認している。」85-6P
子どもを産みたい≠どんな子どもを産むか118P
「重篤だからといって、なぜ、受精卵の段階で生まれないようにしていいのか」125P→「障害児」であると知って中絶する権利−生まれてくる子を親が選別する権利―親自らが選別されることにつながる128P
WHO「遺伝医療に関するガイドライン草案」―「個人・カップルの自発的選択により
実施される限り、出生前診断・選別的中絶も優生学とは無関係であるとの主張がなされ、影響力をもつようになった。」「母親が、できれば次に健康な児を持ちたいという願うことを差し止めるのは、個人のリプロダクティブ・ヘルス/ライツの侵害になるのではないかと思われる」130P・・・人間が選別される「権利」は権利とは言えない
「予防は優生学ではない」「自発的選択や個人・家族の利益の優生」140P・・・障害は病
気と一応区別されている、病気の予防という論理を持ち出せない。予防は感染症対策に限定すること。自己決定の論理のまやかし―近代的個我の論理のおかしさ
 「江原は、「子どもの品質管理」に「女性の自己決定権」という主張が荷担するかのような効果を発揮してしまうのは、その主張が『身体の自己所有』を前提とした主張と読み替えられてしまうからであり、それが『生殖は女性の責任』という家父長制的社会のジェンダー・バイアスを含んだ身体観を強化してしまうからである。」141P
米津「子どもを産むか産まないかを決める権利は女にはある。だけど子どもを選ぶ権利
はない」「障害をもつ胎児の中絶は、障害者の差別であるとともに、女性のリプロダクティブ・ライツを侵害する」132P→「荻野は、選別的中絶について米日を比較した論考の中で、この米津の発言を、「リブから始まった日本での選別中絶を巡る思考が今、どこまで到達しているのかを示すすぐれたマニフェスト」であるとして詳しく紹介している」141P・・・「障害者」の存在の否定を通した、女性自身が選別される、自己の存在のそのものの否定
ふたつの受精卵診断149P
筋ジストロフィー協会の方針158-9P・・・実質的に推進的役割も担っている?
疾患遺伝子による選別は遺伝子中心主義167P
自主規制の限界―危うさ178P
「日本における受精卵診断技術導入の経緯を見ると、アクター間の力学を通してテクノ
ロジーに付与された意味が変化し、その文脈の中で新たな社会的欲望が喚起され強められ正当化される。その結果、さらなるテクノロジーの拡大が促されたということができるだろう。」189P・・・自己決定というまやかし
受精卵診断を受けるひとの苦痛190P→ちゃんとインフォームドコンセントがなされてい
るのか? という問題も。
技術の有効性−金儲けのための医療?
「生まれる可能性をもつ胚は眼中にない」194P・・・廃棄される胚―使われる胚との表
裏の命の侵害
強力な人口政策ツール206P
(「フィレージの会」鈴木)「不妊が少子化の枠組みで論じられることに違和感がある。治
療を受けない選択の自由や、子どものいない人を支援する視点がない」「少子化対策に不妊が位置づけられる、治療してでも子どもを持つべきだという社会の圧力をさらに強める」213P
そもそも技術自体のあいまいさ、困難さ、技術自体への疑問219P
「『障害を持っていても安心して生きられる』そのような環境をつくっていき、親が安心
してこどもを生めるようにしていくのが理想」・・として、社会的障壁とともに文化抑圧の除去目指すことを訴える」223P・・・「障害の社会モデル」の考え
「べき」論228P・・・生まれてくるべきではない存在ということにつながっている
患者の自己決定論243P・・・社会にある「生まれてくるべきではない存在」という考え
をなくさないと自己決定にならない
「染色体変異は、生物の多様なあり様を示しているのであり決して「異常」を意味しな
い。」245P
 フーコーの有名な提言「古い君主の権利「死なせるか生きるままにしておく」→近代「生きさせるか死の中に廃棄する」」247P
 「・・・のより積極的な意味づけを提示しえなかったことが、2004年以降の批判勢力としての弱体化につながったとも考えられる。」253P・・・共同主観性総体からの批判、それの土台からもとらえ返す
 「『変異』を、あるいは『逸脱』を常に生み出し続ける自然の力」256P・・・それを「症」として異化する共同主観的構造


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天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』

たわしの読書メモ・・ブログ517
・天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』緑風出版 2017
一連のバイオテクノロジー学習の第二弾です。この本は、ゲノム操作・遺伝子組み換え食品について解説し、その争点を整理した本です。
研究が、自然の関係性総体を押さええず、一部を切り取って因果論的世界観で試行錯誤的なことで進められている様子が分かります。そこに、どういう社会を作って行くのかという未来図がなく、多国籍企業の金儲け主義による自然環境の破壊と、人間社会、ヒトという種の未来をも奪うような研究や企業活動の跋扈、各国政府への働きかけが見られます。勿論、それに反対する民衆の運動も起きてきているので、そこへの期待もあるのですが、全体的な流れを見ているとわたしは、「資本主義やめますか、ヒト絶滅の道に進みますか」という標語を出さざるを得ないとも思ったりしています。
そこまで行かないまでも、「地域活性化」の話ともつながるのですが、今の政府の農業が、食料自給率をどんどん減らし、お金持ちのための贅沢品を作るような流れも出ています。一方でIターンやUターンの話も出ていて、農というところから、根底的なビジョンをもった取り組みが必要になっていると思います。そこに社会変革の可能性もあるのではないかと思ったりしています。
細かいコメントは、キーワード・切り抜きメモで若干書きます。
三つの神話(ウソ)「ゲノム編集技術は間違いを起し難い」「ゲノム編集技術は精密に制御されている」「DNAの機能は変更が予測可能である」30-1P
ゲノム編集技術の問題点「@生物の大事な機能を殺いでしまうA狙った遺伝子以外を切断(オフターゲット作用)する可能性が高いB複雑な遺伝子の働きをかき乱すCDNAを切断するだけだと跡が残らないため、操作したどうかが分からなくなり、悪用が可能になる。D簡単な操作ででき、操作の簡単さと結果の重大さの間にギャップがあるE軍事技術への転用が容易F遺伝子を操作するため、次世代以降に影響が受け継がれるケースが多い。G特許争いで開発が過熱化しているH簡単にオンラインで注文できるI民主的手続きや市民参加の仕組みがないままに進行している」33P・・・わたしサイドから付け加えるなら、「優生思想や差別を再生産・拡大していく」
市民の遺伝子権利章典42P
「人間の遺伝子の仕組みは大変複雑である。その遺伝子の複雑さ、生命活動の複雑さ、奥行きの深さをもたらしているのは、実はRNAであることが、最近よくわかってきたのである。しかしRNAに関する研究は、あまり行われてこなかったのである」64P・・・因果論的世界観や要素還元主義的な研究、平衡論的研究、そして成果主義では、関係の総体を押さえていく作業としてのRNA研究には進まないのではないか?
「人工生命の誕生のニュースは、世界中を驚かせた。環境や人体に及ぼす影響は予測がつかず、封じ込められた環境中での使用以外認めるべきではない、という意見が相次ぐなど、その反響は大きかった。」70P
(遺伝子ドライブの技術の停止の決議2016年)「(多くの科学者からのメッセージ)この技術は基本的に種の絶滅を目指す技術である。」82P
遺伝子組み換え1980年代前半―規制は1990年から86P
大豆畑トラスト運動―民衆運動90P
「カルタヘナ議定書」というバイオセーフティ議定書2000年 90P
政府から独立した「食の安全監視市民委員会」93P
「食の安全、食品表示などを検討して、基準や規格を決めていく国際組織コーデックス委員会」94P
「遺伝子組み換え作物栽培規制条例」北海道2005年→さまざまな条例の先駆け97P
GMO(遺伝子組み換え生物)フリーゾーン運動98P
バイエル・クロップサイエンス社の「LLライス」裁判→七億五千万の賠償で和解125P
ゴールデンライスでの人体実験130P―「トロイの木馬」131P―他の野菜から摂取できる、本末転倒の開発思想131P
規制を求める運動の小売り業者へ働きかける民衆運動141P
GM鮭の問題@資源・生態系の破壊A不妊B肉食強く他の野生種の絶滅のおそれC他種との交配可D毒性の吸収で摂取したときの蓄積Eガンの発生F種自体に敗血症の恐れ143P
除草剤耐性作物に用いられるラウンドアップの主成分―グリホサートを巡る攻防162-6P
「緑の革命」→遺伝子革命→種苗法・特許(知的所有権)→多国籍企業支配170P
高収量品種―飢餓がなくなる→逆に飢餓が増える、貧富の拡大172P・・・スーザン・ジョージのIMF、世界銀行批判
種子の企業支配→品種が少なくなる→ウィルス・細菌による絶滅の恐れ(→品種の保存運動も)173P
UPOV(植物の新品種保護のための国際条約)174P
日本の種子関係の動き177P
「知的所有権強化では、企業の権利は強化されるが、市民の権利は制限が進む。」190P・・・そもそも特許制度―知的所有権の思想自体のおかしさ→207P
ゲノムコホート研究192P コホート−大規模調査
「・・・生命現象の全体像をとらえようとすると、とてつもない膨大な未知の領域が存在している。/現代のバイオテクノロジーは、DNAやRNAだけ見て、生命全体を見ようとしてこなかった。そこにこそ、現代のバイオテクノロジーの最大の問題がある。しかもその生命操作は、経済の論理で動いている。金もうけのために原発を動かし、放射能汚染を引き起こし、市民を苦しめてきたのと同じ論理で生命操作を進めている。結局、最終的に負の結果を負わされ、被害を受けるのは市民なのだ。」196P
「飢餓をなくす最適な方法は、種子への特許権の設定を廃止し、家族経営による小規模農業を拡大することである。食料主権を確立して、食料輸出を抑制することである。遺伝子組み換えやゲノム編集、RNAiといった最新技術に依存せず、有機農業をベースにした安全で安心できる食料生産を広げることである。二〇〇八年に世界銀行が提案したように「エコロジカルな農業によって、世界の人々への持続可能な食料供給をもたらすことができる。」のである。」207P・・・地産地消の共同体の創出。世銀が「後進国」で単一作物の作付けによる「緑の革命」を推進して、「後進国」の債務を膨らませ、飢餓を生み出した責任の問題も押さえておく必要。


posted by たわし at 01:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』

たわしの読書メモ・・ブログ516
・粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』青土社 2012
この本は、最初はバイオテクノロジー関係に特化して準備されていたようなのですが、フクシマが起きて、急遽、二つの核、細胞核と原子核というつながりから、そこで何が起きているのかというところで、できた本です。
 構成は「はじめに」「序章 3・11“以前”、科学“以外”」「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」「第7章 市民のバイオ化 原発事故」「おわりに」となっています。
 この著者はいわゆるサイエンス・ライター(最後にコメント)と言われであろう立場で、エビデンス−科学知の突き詰めによる、科学倫理の追究の書というテーマになるのでしよう。
 わたしは運動の立場から文を書いているので、そもそも科学の名によって何が行われてきたのか、という批判の観点をもっています。そしてエビデンスと言われていること自体に疑いを持っています。原子力村の安全神話を作り出したのも科学者です。勿論、肩書きを振り回す似而非科学だったのですが、著者はきちんとそのことを検証していこうとしているのだとは思いますが。
 さて、今回は章ごとにコメントを残しつつ、キーワード的切り抜きもしてみます。この本は目次を見ているだけでも、著者がかなりバイオ化ということでとらえようとしていることが分かります。著者のバイオ化という概念は、わたしにとって、マルクスの物象化という概念と重なってとらえられます。
「はじめに」
ここが全体を眺めるのに大切ですが、後と重複していきますので、ここでは省きます。
[キーワード]二つの核、バイオ化 生-権力 バイオ・キャピタル
「序章 3・11“以前”、科学“以外”」
 冒頭に書いたように、フクシマの事故が起きて、この著書は大きな編集転換をしました。で、この章と7章が挟まれたようです。ここで問題にしているのは、人災と天災の境目と実際の被害の線引きの問題です。著者は、フクシマ後に現地に入り、ちょっと移動する中で被害の差に大きさがあると気づきます。それは他の天災と言われていることの外国の文献からも引用されています。それは「個人の」とされる貧困などの問題、行政の防災対策の貧困などの人災であることなのですが、差別が天災の中で現れされるということで、ここでは書かれていませんが、アメリカのハリケーン被害のときに語られていたことでもありました。
原子核でいえば、原子力船「むつ」や高速増殖炉「もんじゅ」は破綻しました。原子力発電自体も、スリーマイル、チェルノブイリと続き、そしてフクシマが起きました。いくつかの国は、原発からの撤退を宣言しました。当の事故を起こした国の日本は、再稼働を進めています。首相自らが原発輸出の売り込みをやっていました。とても信じられないのです。
[キーワード・切り替え] 切れ目22P 「被災地には線が引かれている」25P 「問題は「自然」でなく「社会」の側にある」30P 
「東日本大震災の発生前にまとめられた「平成22年防災白書」は、近年の自然災害の死者数の六六パーセントが低所得国(発展途上国)、二八パーセントが中所得国で生じており、高所得国ではわずか五パーセントしか生じて居ない・・」30P
「ハザードが起こりうるリスクと脆弱性をかけたものが被害に相当する。」34P
この章の表題の意味ですが「3・11“以前”に、そして科学“以外”に着目せよ。」37P・・“以前”というのは、事故が起きる前の差別的情況が事故によって顕在化するということ、“以外”というのは、問題は科学(自然科学)、自然災害でなく、社会問題だという提起だとわたしは理解しました。
「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」
生殖補助医療はいろんな問題を抱えています。「不妊治療」ということを、本文の中五点で示しています。@「女性は子どもを産んで一人前」ということでの抑圧A「不妊治療」というけど、治療の内容がないごまかしB女性に負担を非対称的に負わせていることC優生学的な問題を孕んでいたことD商業的に行われる中で、いろんな差別の問題を引き起こすこと。わたしが感じていることを付け加えると、生殖医療というところで三つの階層化が起きる危惧があるのです。それは遺伝子を残す階層とそれを人工授精して腹に宿す代理母の階層、そして子どもを作ることを禁じられる階層です。まさに優生思想につながることの恐ろしさを感じざるを得ないのです。
「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」
 遺伝子編集と出生前診断の話は、まさに優生思想そのもののおそろしさを感じています。
[キーワード・切り抜き]遺伝子よりも環境・生活環境の方が大きい72P 放射線照射というところから遺伝子研究が始まった、放射線によるDNAの損傷という原子核と細胞核の交叉79P ABCCは調査はするが、治療はしなかったこと・・「植民地科学」81P・・・科学の冷徹さ /遺伝子治療 成果に疑問視 副作用による死者 白血病になる例84P 「人の評価」―「属性」と「能力」、「属性本位」(遺伝子研究)と「業績本位」93P・・・どちらにしても能力の内自有化という物象化 /「GATTACA」という「デザインベイビー」をテーマにした映画から波及した、著者のコメント「「GATTACA」の世界は、能力格差と自己責任を是とするネオリベラリズムが席巻する現実社会と、それほどの違いはないだろう。」94-5P・・・どちらかという問題ではなく、属性主義と能力主義を合体させたのがデザインベイビーではないでしょうか? どちらもおかしいです。 /ダウン症の出生前診断「九二パーセントはその妊娠を終わらせる」98P 「英語圏のメディアでは、ダウン症などの先天性障害児を出産する可能性自体が「リスク」として記述されることがしばしばある。」―「リスク」として表現すること自体のおかしさ102P 代理母−出生前診断で、子どもが製品としてとらえられる商品経済的ひと(赤ん坊)のもの化106P
「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」
 この章は、このメモと一緒に映像鑑賞メモで取り上げている山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組とリンクさせて、読書メモというには少し逸脱したメモとして残します。もうひとつの核研究として細胞核の研究です。ES細胞研究を「万能細胞」とする研究からはじまったのですが、倫理的に女性の身体に負担をかけるようなことをすべきではない、また、命や命のもとになることを壊してはならないということで、ES細胞研究からの撤退の動きがあったようです。で、iPS細胞にはそのような倫理的問題から逃れるとして、スポットライトを浴びています。しかし、山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組を見ていると、当の山中伸弥さんが危機感を抱いているようです。まさに分水嶺に立っているのです。
またiPS細胞を豚の体内で培養し、ヒトに戻すということは、豚のウィルスの感染症のみならず、豚の脳とその臓器の関係はどうなっているのか、そもそも何が起きるのか、というところで、承認されるのでしょうか? iPS細胞で精子卵子を作ることができるということは、ヒト概念を危うくすることで、そんな科学は否定されることしかわたしには思えないのですが。病気の治療ということで、個々の切実な利害というところを無視するのかということを、全体主義批判というところで出てくる可能性があります。ただ、臓器移植の問題と同じように、ひとの犠牲になり立つ科学は否定されることです。そのことには、ヒトという種の概念を危うくするという、根底的危機も当然含まれるのです。
[キーワード・切り抜き]著者の幹細胞問題での論旨112P ひとりのヒトから卵子・精子が作れる−ひとが作れる122P iPS細胞の英語原語 induced pluripotent stem cell 128P 「できる(できそうだ)けどやらない」という選択肢138P 規制の緩い国−経済格差、政策格差、倫理格差139P 「身体的・精神的負担やリスク」は「社会問題」142P
フーコーの「生-権力」−著者「「切れ目」を入れる」というところからのとらえ返し143P
「「万能細胞」は・・・決して、社会的に万能なものではない」146P
「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」
そもそも臓器は体内の中で単なるもの―機械として存在しているのではなく、生命体のネットワークの中で機能しているのです。そのようなことをきちんと押さえないことから臓器移植の問題も起きています。まして豚の体内で臓器を培養して、ひとに移植するということで、何が起きるかわたしは想像もできません。近代知の因果論的世界観では、部分的に切り取り、そこで総体的な関係性からとらえ返すことをネグレクトしているのです。自然科学のみならず、パラダイム転換ということが起きているのですが、自然科学をやっているひとはそのようなパラダイム転換とは無縁の研究をやっているのでしょうか? そこではリスクが総体的にとらえられなくなっているのではないでしょうか?
 また脳の中に、そのことの人格があるような、脳の中の小さな自分というようなイメージで、脳の特権化の様なことが起きて、そこから脳死臓器移植の論理のようなことも起きてきているのですが、実際は、神経細胞の双方向性ということも含めて、脳が一方的に指令を出しているわけではないのです。このあたりは、今回著者が文献の中で紹介だけに留めている、脳死臓器移植の問題とも関わっています。
[キーワード・切り抜き]嘘発見技術の開発などは「私たちは、私たちが考えていることでなく、私たちが行なうことについて説明責任を持っているという原則に対して、挑戦するかもしれないこと。」156P・・・共謀罪の成立・施行 /「「腰痛は脳の勘違いだった」と主張する(元)患者もいる」158P どんな最先端の科学テクノロジーを使ったとしても、そこで脳内現象として視覚化されているのは、心的できごとと単に相関性をもった脳活動に過ぎない。ある心的できごとAが起きているときには、それにともなって脳内現象Bがいつも生じているという観察結果を積み上げたとしても、それはAがBと同一であることも、BがAを生み出しているということも説明することはできない。」158-9P」・・・因果論的世界観の否定←廣松渉さんの論攷 /信頼と不信159-162P
「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」
 自死(著者は「自殺」という表記)ということでうつとの関係がかなりあるということで、抗鬱剤との関係も含めて論じています。
[キーワード・切り抜き]高い自殺率は「集合的な疾患」166P・・・?バイオ化された表現、社会問題 /「社会的殺人」168P・・・殺人ならば自殺ではなく、自死という表現に/「自殺とうつ病との間には根深い関係があると考えられている。」169P 「うつ病を発症する可能性のある遺伝子の研究175P・・・まさにバイオ化 /ブラセボ効果176P アメリカFDA(食品医薬品局)「うつ病は脳の病気ではなく、化学物質はそれを治療しない」178P デンマーク「抗うつ薬は、中年や高齢者の自殺率低下のうち一〇パーセントにしか役立っていないと分かった。」180P 「(治療の効果を)信じる者は救われる、しかし信じないものは救われない、ということだろう。」182P 「生物医療化という現象または社会的変容には、医療化よりも「脱医療化」と呼びたくなる側面がある。」183P 「うつ病の「個人化」」「社会的なるものの個人化は、抗うつ薬と心理療法、どちらにもあてはまる。」187P・・・内自有化、障害の個人モデル
「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」
著者自身の当事者問題での腰痛問題で、ひろまっている知識の、医療者も含めた曖昧性−非科学性というところを科学的に明らかにしていくということを著者をやっているのですが、そこでも、統一性をなしえていない、そういうエビデンスって一体何だろうと思っているのです。科学ってそんなものなのかという話です。で、そういうところで、ひとの、人類の未来を左右するようなことを勝手にやろうとしている、先ほど書いた山中さんのインタビューで、たかがひとがつかんでいるのは一割か二割に過ぎない、そういうこととして謙虚さが必要ということを話していたのです。そんなことを感じてしまいました。
[キーワード・切り抜き]痛みという社会問題191P・・・「痛みの社会モデル」 /生物心理社会的疼痛症候群202P 「腰痛概念の「生物物理構造モデル」から「生物心理社会モデル」への転換」203P・・・後者に生物を入れるとバイオ化になる。障害学の知見から「個人モデルから「社会モデル」への転換」 /「レッドフラッグを「生物学的(物理・構造的)危険因子」、イエローフラッグを「社会心理的危険因子」と呼び変えることもできる。」204P
「身体的痛みにおいても、社会的な断絶によって生じる社会的痛みにおいても、脳の同じ領域――二次体性感覚領野と背側後部島皮質――が働くことがわかった。」208P・・・アドレナリン分泌と感情の関係も /「痛みのバイオ化は、バイオ化の限界をも示しているのだ。」209P 「しはしば「心身二元論」の提唱者と呼ばれるデカルトの議論においてもなお、快感は喜びと、苦痛は悲しみと重複するものなのである。デカルトのいう「苦痛」は本章でいう「身体的な痛み」に、「悲しみ」は同じく「社会的痛み」に置き換えられると思われる。」210P・・・「悲しみで胸が締め付けられる」という感覚や痛みが生じるということや、アドレナリン分泌から感情の区別はできないという問題や、著者のそもそもこれまで論じてきた社会問題ということで矛盾する論攷になっているのでは?
「第7章 市民のバイオ化 原発事故」
 この章では、原発事故の問題から、幅広い社会問題を自然的、問題としてとらえるバイオ化の批判をしています。そのことは、わたしは、フェミニズムと「障害者」の対立とか、 公害問題と障害問題の対立とかの問題に広がつていきます。しかし、それは社会を固定的にみているから起きてきていることです。公害はひと総体をあやうくするのです。公害とか、損害賠償について、「障害者」差別がなくなったら、告発することはないということを書いているのですが、少し違うと思います。他者からある生き方を「強いられる」ということを問題にしているのです。現在は「障害者」差別があるから、強いられたこと以上にそこで不利益を被ることを問題にして裁判など、損害賠償という形で責任を問います。差別がない社会では、基本生活保障というようなこともきちんとなしえることなので、損害賠償などする必要もないのですが、「強いる」ということの告発はなさねばなりません。しかも、それはおそらく、自然破壊やひとの営みを危うくするという人類に対する罪のようなことです。
[キーワード・切り抜き]確定的影響→確率的影響という観点で科学を考える231P 生物学的市民性237P(・・・高木さんの市民の科学)→出発は原発事故238P 科学者と対等なパートナーシップ238P・・・規制が必要になる研究には主体性は「市民」 /「もし世界が、いや日本社会が、障害差別がなく、もちろん優生思想的な考えを持つ誰一人としていなくて、社会福祉が完備されている、というありえない社会=ユートピアだとすれば?」242P・・・これは当然実現すべきこと、それを「ありえない社会=ユートピア」とすることがありえないと思うのですが。これは差別のない社会をユートピアとして彼岸においているのではないでしょうか? もし差別の問題を解決できないとして押さえるなら、この論攷自体が何のために書かれているのでしょう? /(チェルノブイリの被害と「される」写真を見ての)「「恐怖の対象」、「あってはならないもの」(と感じる)243P→「内なる優生思想」247P・・・ユージン・スミスの「水俣」の写真についても語られていたこと、そのひとの世界観・思想性によって、感じ方が変わってくるのではないか?
「おわりに」
「患者の利益」ということで科学技術の使用の可能性を書いているのですが、ひとつはES細胞研究も使う可能性、もうひとつは原発も使う可能性です。「治療できる見込みの高いES細胞を拒否して、見込みの低いiPS細胞を選ぶというのは、本末転倒とまではいわないにしろ、患者の利益にはならないであろう。同じように、仮に“より安全な”原子力と、“より危険な”再生可能エネルギーがあるとしたら、前者を拒否して後者を選ぶというのは、賢明な態度とはいえないはずだ。」258P・・・もっと総体的に人類の利益という問題も考えなければなりません。この本の中では、著者は臓器移植の問題を書いていません。誰かを、何かを犠牲にして成り立つようなことをやってはいけない、ということで、単に患者の利益ということでは論じられないということが、この臓器移植でははっきりしているのです。幹細胞の問題では、山中さん自身がこの技術が人類を滅ぼす可能性という危うさを語っています。著者はエビデンスということを追い求めています。確かに科学を批判するのに、エビデンスなき批判は感情論になります。しかし、科学知の論理にとらわれています。科学知は客観主義的にあるものではないと言い得ます。「原発の技術は、安全性を担保して使う」という論理自体が、もはや使い物にならない技術として明らかになっています。そして自然エネルギーにも危険性があるにしろ、それを取り除きつつ追い求めていく、というのがより良い道だというのが、エビデンスになっているのではないでしようか? 著者は「痛点」という観点をもっています。その「痛点」ということをもっと総体的なとらえ返しが必要になっていると思うのです。


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