たわしの読書メモ・・ブログ690[廣松ノート](7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(8)
第二篇 省察的世界の問題構制
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
第二節 叙示成態と陳述様相
(この節の問題設定−長い標題) 「主語の指示する対象性に述語の表意する規定性を向妥当せしめた成態、すなわち「指示−述定」態を、それが「表出」の前梯的内容たるかぎりで、「叙示成態」と呼ぶ。叙示成態は、第一次的には単なる象徴的結合態としての単なる等値化的統一態であって、肯定・否定をはじめてとする陳述的措定を含まない。(但し、第二次的・派生的には、肯定的措定・否定的措定の“内自化”によって、叙示成態とその意味内容が積極形・消極形に岐かれる。) ――「陳述」は、「主語−述語」成態たる叙示態に関わるいわゆる“情意的”表出の一斑であって、叙示的内容の間主観的対妥当性・帰属性の覚識を構造内的契機としつつ、疑問・仮言・定言の別を含み、蓋然性・実然性・確然性、現実性・非現実性、可能性・必然性などの様相をもつ。」338-9P
第一段落――「叙示成態」と「判断成態」の区別の必要性 339-42P
(この項の問題設定)「叙示成態は――前節の論脈では「施詞措定態」と呼んだ「主語−述語」成態を「表出」機能の前梯的与件として把え返したものであって――原初的・原基的な「コレハA」という形のものはもとより、「SハPナリ」「SハPナラズ」という積極性・消極性を内自化された形のものであっても、あくまでその都度における判断的措定の前件として存立する。日常的な言語意識においては「叙示成態」と「判断成態」とが混淆されがちであるが、われわれとしては両者を明確に区別する必要がある。(われわれは行論の便宜上、前章において「判断成態」なるものを先に論じ、「命題的事態」にまで論及したのであったが、事柄としては「叙示成態」のほうが「判断成態」に先立つ。尤も、判断的措定の内自化が生じ、新規の判断措定にとっての前件たる叙示成態が先行的判断措定の媒介的所産である場合が現にあるのであるから、叙示成態の時間的先行性は原基的・原初的な場面に限られるのではあるが。)」339P
(対話@)「議論の前梯として確認しておけば、叙示成態の内在的契機をなす超文法的・文法的な述語規定性は叙示成態そのものの賓述的規定性ではない。「SハPナリ」つまり「コレハSナリ、SナルコレハPナリ」において、SもPも「SハPナリ(ということ)」の賓述的規定性ではない。「犬ハ動物デアル」は犬でもなければ動物でもない。「犬ハ走ル」や「犬ガ黒イ」は、犬でもなければ、また、走るわけでも黒いわけでもない。――後にもみる通り、事象の内的規定性をなし、従って叙示成態の内在的規定性をなす契機を表わすのと同じ詞が叙示成態についての賓述的規定詞となりうるケースも存在しはするが、それは反省的な述定、メタ・レベルでの述定が、偶々、叙示成態に内在する詞と“同一”の詞でおこなわれるだけで、叙示成態の構成契機となっている詞がそのまま叙示成態についての賓述的規定をおこなうわけではないのである。――叙示成態はSの規定性によってもPの規定性によっても賓述的に規定されない固有の成態である。」339-40P
(対話A)「偖、叙示成態に“累加”される陳述的表出を見定めるためにも、叙示成態そのものの劃定に資する作業から始めよう。――「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」という言明は、単なる超文法的賓述とか以上のものを含意する。例えば、「コレハ吠エル」と言明するとき、“怖い”“腹立たしい”とか“可愛らしい”とかいう感情価を伴っており、さらには“気をつけろ”というような行動喚起的な意義を帯びているのが普通であろう。主語対象性に述語規定性を向妥当せしめただけの叙示成態というのは現実の言明から「表出機能」や「喚起機能」を捨象し、従って「表出的意味」や「喚起的意味」を捨象した反省的な措定態なのである。われわれは、爰では表出機能に関しては陳述という契機に限ってとりあげ取り上げ、喚起機能に関しては一切立ち入らないことにするが、「指示−述定」成態としての叙示成態なるものが、現実的言明のもつ四重の機能のうち二者だけを抽離した抽象的指定態であるということが銘記されねばならない。――叙示成態は、狭義の感情価やシグナル価を捨象されているだけでなく、陳述価をも捨象されている。例えば、「コレハ吠エル」という叙示態は、断言的な言表であるかのように受け取られかねないが、「コレハ吠エルか?」「コレハ吠エルなら」「コレハ吠エルのだ」といった「疑問」「仮言」「定言」の“共通成分”をなしている。現実の言明においては、感情価に関わる表出機能やシグナル価に関わる喚起機能はもとより、陳述価に関わる機能も声調とか抑揚とかによって示差が表されており、機械的に“共通成分”を云々することは慥かに問題ではあるが、しかしともあれ、叙示成態なるものは「疑問」「仮言」「定言」といった陳述価を捨象して立てられた抽象的措定態なのである。叙示成態は、疑問価・仮言価・定言価がしかるべき仕方でそれに“累加”されることによって、疑問・仮言・定言の陳述となって現成する。叙示成態は、例えば、「犬ハ吠エル」というような形で標記すると、恰かも定言であるかのように、しかも発話者本人自身に積極的に帰属かるかのように錯認されかねないが、それ自身としては、疑問・仮言・定言以前的であり、積極的には人称的には帰属しない。(叙示成態のそれ自身としての没人称帰属性は、人称的帰属以前的であるケースと、肯定的・否定的措定という人称的帰属化の体験を経つつ、脱人称帰属化を蒙ったケースとの双方を含みうる。そして、後者のケースに俟って、叙示成態には積極形のものと消極形のものとが存立する。すなわち、叙示成態のうちには肯定性・否定性が“内自化”されているものもありうる。)」340-1P
(対話B)「叙示成態という没人称化されている成態、「コレハ何々デアル(デナイ)」「コレハ然々スル(シナイ)」「コレハ斯々シイ(シクナイ)」、一般に「SハPナリ(ナラズ)」の人称帰属化があらためて問題化する場面で「疑問」「仮言」「定言」の陳述価が岐かれる。――一般的懐疑は「疑問」とは別であって、これについては後述するが、さしあたり「疑問」としての疑問、肯否を問う質問に関して言えば、これは当該の叙示成態=施詞措定態が積極形であれ消極形であれ、質問の相手たる誰か(必ずしも具体的個人とは限らない)に対妥当するかどうか、すなわち、自分によって仮りに“主張”される言明内容が相手にとって肯定的=帰属的であるかそれとも否定的=不帰属的であるか、応答を求めるものにほかならならない。「仮言」すなわち「もし……ならば」というのは、当該の叙示成態が、具体的人称者であれ、不定的人称者であれ、ともあれ没人称的帰属の相から誰かしら(自分としての自分自身以外の或者)に帰属化される態勢にほかならない。(先に遺した一般的懐疑なるものは真・偽の問題を論考する場面まで持越さざるをえないとはいえ、ここで取り敢えず一言しておけば、一般的懐疑とは仮言的帰属化そのことすら懐疑的であることの謂いである)。「定言」とは「SハPナリ」という積極形であれ「SハPナラズ」という消極形であれ、当該叙示成態が自分に帰属的であることの表明であって、「まさしく! SハPナリ!」ないし「まさしく! SハPナラズ!」という態度の表明なのである。(叙示態という没人称的帰属態を前件的与件としておこなわれる「肯定的措定・否定的措定」であるにしても、そしてそのため肯定的・否定的な判断措定は対他者的な間主観的な場面での態度決定ではなくして対境的与件に対する直接的な態度決定であるかのように思念され易いが、「肯定的定言・否定的定言」は、一たん人称帰属的であった陳述が脱人称的帰属化された叙示成態を前件的与件とするものであって、人称帰属性的な他者の主張に対する態度決定に媒介されているし、間接的にはあくまで他者の提題に対する承認・ 拒斥 である。その点、人称的帰属以前的な原初的・原基的な叙示成態に対しての定言は、対他者的には即自的な肯定的判断であると言えるにしても、当人自身に即すればたかだか積極的な定言的陳述としか言えない。前節の末尾に誌したありうべき疑義に応える含みで、以上の点を茲で銘記しておこう。) 」341-2P
(対話C)「尚、「選言」についてここで一言しておかねばなるまい。「定言」や「仮言」という陳述価がある以上、「選言」という陳述価もあるかのように思えるかもしれない。しかしながら、「選言的疑問」「選言的仮言」「選言的定言」は存在するが、選言という固有の陳述価は存在しない。選言それ自身は陳述とは別次元の事柄なのである。そして、選言的疑問・選言的仮言・選言的定言は、それぞれ疑問・仮言・定言の陳述価で人称的に帰属化される。」342P
第二段落――陳述価のそれぞれは陳述様相をも持つ―蓋然・実然・確然の陳述様相を持ちうる 342-3P
(この項の問題設定)「陳述価のそれぞれは陳述様相をも持つ。同一の叙示成態を共通の“構成分”としつつ、疑問・仮言・定言の陳述価が岐かれるだけでなく、さらには、疑問・仮言・定言のそれぞれが相異った陳述様相を持ちうるのである。例えば、「コレハ犬デアル」という叙示態を“共通な構成分”として、「コレハ犬デアルかもしれない」という蓋然、「コレハ犬デアルこのとおりに」という実然、「コレハ犬デアルにちがいない」という確然、これらの陳述様相が岐かれる。疑問も仮言も定言も斉しくこれらの陳述様相をもちうることは見易いところである。「SハPデアルかもしれないか?」「SはこのとおりにPデアルか?」「SハPデアルにちがいないか?」――「SハPデアルかもしれないなら」「SハこのとおりにPデアルなら」「SハPデアルにちがいないなら」――「SハPデアルかもしれないのだ「SハこのとおりにPデアル」のだ」「SハPデアルにちがいないのだ」――このように、疑問・仮言・定言のそれぞれが蓋然・実然・確然の陳述様相を持ちうる。」342-3P
(対話@)「右には敢て「かもしれない」「このとおりに」「にちがいない」という形で標記したが、日常的言語活動においては、蓋然・実然・確然という陳述様相の区別は、大抵の場合、声調や抑揚などによって表出されるのが実情であろう。そして、陳述様相とは、SハPナリ(ナラズ)と述定するさいの確信の度合に応ずるものにすぎないかのように思われがちである。なるほど、陳述様相は叙示成態の帰属化される当事者の“主観的”な確信の度合と密接に関連してはいる。がしかし、当の確信を支える媒介的な構制が問題である。事情を見易くする一具として、「SハPデアルことは蓋然的(「ありそう」のルビ)である」「SハPデアルことは実然的(「このとおり」のルビ)である」「SハPデアルことは確然的(「かくじつ」のルビ)である」という方式で標記してみよう。「SハPデアルことは可能的である」「現実的である」「必然的である」と書き換えることも事によっては許されよう。尤も、蓋然性・実然性・確然性と可能性・現実性・必然性とを単純に等値するわけにはいかないし、陳述様相については、知覚現場的に判断する場合と概念思考的に判断する場合とを一応分けて考えなければならない。」343P
(対話A)「われわれは前章三節の論脈中で次のように註記しておいた。――同じく「SハPナリ(ナラズ)」と標記される成態であっても、Sが知覚現場的に、具体的な“個体的”対象たる被示的意味を指称している場合と、Sが概念思考的に「Sというもの」という被指的意味を指称しているにすぎない場合とを明確に区別する必要がある。前者の場合、Sと呼ばれる具体的な“個体的”対象が、単一であれ若干であれ全てであれ、(1)何々デアル(デナイ)、(2)然々スル(シナイ)、(3)斯々シイ(シクナイ)という具体的な(1)事実、(2)事件、(3)事況(われわれは事実・事件・事況を総称して「事象」と呼ぶ)を表わすのに対して、後者の場合、「或ル」と限定されるにせよ「凡ソ」であるにせよ、ともかく「SというものはPである(でない)」という事態を表わす云々。――叙示成態が“主語”の位置に立って、「SハPナリ(ナラズ)ハ蓋然的・実然的・確然的デアル(デナイ)」ないし「SハPナリ(ナラズ)ハ可能性・現実性・必然性ガアル(ナイ)」という述定を受けるべく、何事かを指示するさい、言語標記的には同じでも、「SハPナリ(ナラズ)」という事象を示す場合と、「SハPナリ(ナラズ)」という事態を指す場合とが岐かれる。前者すなわち事象は叙示成態のレアールな被示的意味、後者すなわち事態は叙示成態のイデアールな被指的意味として述定の対象的与件をなす。」343-4P
(対話B)「知覚現場的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述される場合、Pナリ(ナラズ)は、それが綜合判断的述定であるとき、実然的や確然的あるとはかぎらず、蓋然的でもありうる。が、ともあれ、Sで指示されるフェノメナルな対象的与件が一定の時と所に現前すること、P(非P)として述定として述定される対象的与件Sが一定の時と所にフェノメナルに現前すること、その意味で、当の事象が現実的であることが陳述されている。Sが果たして真にPデアルかどうかの確信度はさまざまでも、SハPナリ(ナラズ)で指示されている被示的事象が現実的にアル(ナイ)こと、現実的デアルことは確知・確言されている。議論の焦点を見え易くするには、Pナリの真理性をめぐる認識様相は蓋然的・実然的・確然的に岐れえても、Sアリの存在様相は現実的であるとして確言されている、という言い方もできよう。」344P
(小さなポイントの但し書き)「ここにあっては、「SハPナリ」が現実的にある以上は「SハPナラズ」があることは事実的に不可能であり、また、「SハPナラズ」が現実的にある以上は「SハPナリ」があることは事実的に不可能であって、「それの反対が不可能であること」という伝統的な「必然性」の定義にもとづいて、「SハPナリ(ナラズ)」が現実的であるとき「SハPナラズ(ナリ)」は事実的に必然的である、と言えるであろうか? 否である。一概には言えない。Pナリの認識様相とSアリの存在様相とは一応別事であるとはいえ、Pナリ(ナラズ)の認識様相に蓋然性が含まれているため、「SハPナリ(ナラズ)」の現実は一般には「SハPナラズ(ナリ)」の事実的可能性が含まれているのである。「Pナリ(ナラズ)」の認識様相が実然的ないし確然的である場合にかぎって「SハPナリ(ナラズ)」が現実的であるときに「SハPナラズ(ナリ)」が事実必然的であるにすぎない。」344-5P
(対話C)「右には、Pナリという述定が知覚現場的でしかも綜合判断的である場合について述べたのであったが、知覚現場的な判断的陳述でしかもPナリという述定が分析判断的である場合はどうか。ここでもSアリというという存在様相はもとより現実的である。そして、Pナリという述定的陳述の様相は論理必然的である。従って、「SハPナリ」という事象は、この場合、Pナリの認識様相の如何を問わず、現実的であり、且つ、論理的に必然的である。ところで、知覚的現場を離れつつも依然として被示的事象が問題である場合、「SハPナリ(ナラズ)」は、別の時と所に関しては何ら必然的な規定を受けないかぎりで、可能的である。――これを要言するに、知覚現場を離れて被示的事象が問題である場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は、認識様相の如何にかかわりなく、存在様相上現実的で且つ論理的に可能であり、知覚現場的な分析的判断の場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は論理必然的である。知覚現場的な綜合判断の場合には、「SハPナリ(ナラズ)」は、現実的であるとはいえ、Pナリ(ナラズ)という述定的陳述に関して蓋然的・実然的・確然的の様相が岐かれる。」345P
(対話D)「概念思考的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述される場合、疑問的であれ仮言的であれ定言的であれ、「SハPナリ(ナラズ)」という事態は「SなるものハPナリ(ナラズ)というコト」という時と所を“超越”したイデアールな形象であるから、およそ現実的ではない。(但し、事態の非現実性というのは妄念のたぐいの謂いではなく、あくまで、時と所の一定したレアールな事象性をそれ自身では持たないというだけの謂いである。叙示成態の被指的意味たる事態は、それ自身としては、イルレアール・イデアールな存在性格を呈するとはいえ、一定の被示的意味=事象に“受肉”した相で“現実化”する可能性を有っており、その意味で、可能的な存在であると言うことはできる。)」345-6P
(対話E)「概念思考的な場面での「SハPナリ(ナラズ)」は、存在様相のうえでは非現実的・可能的でありつつ、Pナリ(ナラズ)という述定が綜合判断的である場合、蓋然的・実然的・確然的の陳述様相に岐かれる。概念Sが概念Pの上位概念であるとき、「SハPナリ(ナラズ)」は、存在様相のうえでは非現実的であっても、認識様相の如何を問わず、論理的には可能的である。また、Pナリ(ナラズ)という述定が分析的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」という陳述は、認識様相にかかわりなく、論理必然的である。SとPとが離接の明確(「ディスジャンクティヴ」のルビ)な同位概念である場合には、「SハPナラズ」という陳述は論理必然的である。――これを要言するに、概念思考的に「SハPナリ(ナラズ)」と陳述されるさい、SとPとが同位概念である場合、「SハPナラズ」が必然性の様相で、SがPの上位概念である場合、「SハPナリ(ナラズ)」が可能性の様相で、それぞれ陳述される。そしてPナリ(ナラズ)という述定が分析的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」が必然性の様相で陳述され、Pナリ(ナラズ)という述定が綜合的判断である場合、「SハPナリ(ナラズ)」は存在様相のうえでは非現実的でありつつ、陳述様相が蓋然的・実然的・確然的に岐かれる。」346P
第三段落――陳述様相は存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含む 346-53P
(この項の問題設定)「われわれは、以上、「SハPナリ(ナラズ)」の存在様相を、Sアリの認定に関わる存在様相、Pナリ(ナラズ)の述定に関わる認識様相、SハPナリ(ナラズ)の判断に関わる論理様相、これら三つの契機の交錯に即して論じてきた。陳述様相は、その諸契機が明示的に言表されるかいなかは別にして、存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含むのである。」346P
(対話@――様相論の一端の展開)「ところで、存在様相・認識様相・論理様相とはそれぞれ何であり、また、それぞれが如何なる秩序体系をなすのか。様相論について最終的に論決するためには、第三巻第一篇の「学理的世界の存立構造」を俟たねばならないのであるが、当面の行論にとって必要なかぎりで、様相論の一端を茲で述べておこう。」347P
(対話A――認識様相)「順序を紊(「みだ」のルビ)すようであるが、認識様相から始めたいと念う。茲で認識様相と呼ぶのは蓋然的・実然的・確然的の謂いであって、一般には判断的措定の確信度を表わすものと思われている。――われわれは嚮に、蓋然的判断(probliematisch Urteil)、実然的判断(assertorisches U.)、確然的判断(apodiktisches U.)を「SハPデアルかもしれない」「SハPデアルこのとおりに」「SハPデアルにちがいない」という表現でそれぞれ標記した。(これを英語で言えばS may be P, S is P, S must be P. と標記することができよう。)」347P
(対話B)「実然的判断(assertorisches,assertive)といい、「このとおりに」といえば、日常用語ではかなり強い確信を表わすように思えるし、現にS may be P.で S is P, S must be P.を表意する場合もあるであろう。われわれとしては、しかし、様相論の通説的理解に随って、実然的判断というものは別段“確信”らしい確信を表わすものではなく、確実性の意識に関しては“中立的”“無記的”であるものとして処理することにしよう。このように処理するとき、蓋然的判断はS must be P.という措定に関する不確実性の意識を表出し、確然的判断はS must be P.という措定に関する確実性の意識を表出するものとされる。」347P
(小さなポイントの但し書き)「(通説的理解に随ってこのように処理するとき、実然的と確然的との区別をどうつけるか、どの程度で線を引くかという困難を回避できるが、日常的判断意識とのあいだに若干の乖離を生ずるという点は措くとしても、実然性が判断的措定の確信度に関して“中立的”“無記的”であるとすれば、実然性を一つの様相として挙げること自身に疑義を生じかねない。すなわち、判断様相は蓋然性と確然性との二つだけで済むのではないかという考えが登場しうる。実際、われわれの立場にとっては、認識様相を蓋然と確然の二つだけに限ったとしても特に不都合は生じない。がしかし、ここでは通説的な理解に沿う形で議論を進めよう。)」347-8P
(対話C)「判断的認識様相は、判断的措定に関する確信の度合、ないし、確実性・不確実性の意識を表出するものと“通説”では謂われるが、確信的意識の内実は何であるのか。それはさしあたり一定の心理的状態であるには違いない。とはいえ、それは認識論的には、単なる心理的状態以上の或るものである。謂う所の“確信”は、当該判断“真理性”いわゆる“客観的妥当性”の価値評価・価値判断(Beurteilung)に関わるものであろう。ここにおいて、真理性の価値判断とは何かという問題に直面する次第であるが、この問題は次節の主題であるので、ここでは判断的認識様相とは当該判断の真理性に関わる確実性・不確実性の覚識を表出するものであるということ、この点を銘記するにとどめて議論を一たん先に進めることにしよう。」348P
(対話D)「様相の整序はいずれにしも厄介であり、定説と呼べるものは存在しないにしても、さしあたり、蓋然性・実然性・確然性を拠点にして様相を配位するのが常套的手法である。われわれもとりあえず常套的手法に随ってみよう。――「SハPナリ」が蓋然的であるとすれば、「SハPナリ」ガアルこと、ないし「SハPナリ」デアルこと、これが可能的であるとして、蓋然性と可能性とが対応づけられる。「SハPナリ」が実然的であるとすれば、「SハPナリ」が現実的にアル、ないし、現実的に「SハPナリ」デアル、として、実然性と現実性とか対応づけられる。そして、「SハPナリ」が確然的であれば、「SハPナリ」ガアルこと、ないし、「SハPナリ」デアルことが必然的であるとして、確然性と必然性とが対応づけられる。――このようにして、可能性・現実性・必然性が定位されると、今度は、それぞれの否定的相関者として不可能性・非現実性・偶然性が立てられる。「可能性−不可能性」「現実性−非現実性」「必然性−偶然性」の組が、今や総じて「蓋然性」「実然性」「確然性」と対応づけられるわけである。」348P
(対話E)「右の整序には、しかし、早速に問題が生ずる。第一に、必然性の否定的相関者は果たして偶然性であるかという問題である。慥かに或る種の論脈では必然性と偶然性とが対立する。しかしながら、必然性が確然性と対応づけられるかぎり、必然性の否定的相関項は不可能性ではないかという考えが登場する。というのは、S must be P.という確然性の判断の否定は、初等英文法式にいって、S can not be P.になる。(must notという否定形は「禁止」を表わすので、SがPニ違イナイというS must be P.の否定、つまりSハPデアル筈ガナイはS can not be P.でなければならず、S must not be P. [SハPデアッテハイケナイ]とは言えない。)つまり、確然的必然の否定は「不可能」(can not)になる所以である。現に、初等英文法式の了解にも応ずるかのように、アリストテレス以来、「必然性」とは「それの反対が不可能になること」であると定義されてきた。この論脈では、必然性の否定的対立項は、偶然性ではなく、不可能性になる。――第二に生ずる問題は、「可能性と不可能性」「現実性と非現実性」「必然性と偶然性」という三つの組が同位的に対立するのではなく、これら六つの様相は謂わば一本の系列をなすのではないか、という問題である。存在(ガアルおよびデアル)の“強さ”ともいうべきものに留目するとき、次のような系列性が慥かに認められる。「斯様にアリ別様にアリ得ない」(必然性)、「斯様にアリ別様にナイ」(現実性)、「斯様にアリ別様にアリ得る」(偶然性)、「斯様にアリ得て別ににもアリ得る」(可能性)、「斯様にナイ」(非現実性)、「斯様にアリ得ない」(不可能性)。(ニコライ・ハルトマンが暫定的に整理してみせた序列に比べるとき、これは可能性と偶然性とが入れ替わった形になっているが、“存在の強さ”に即するかぎり、この配位のほうが妥当であろうと思う。)」349P
(対話F)「これら二つの問題のうち、前者は、判断的認識様相である確然性とそれとは別種の様相である必然性とを二重写しにするところから生ずるものであり、元来の必然性はあくまで偶然性の否定的相関項であると言い張ることで一応は“解消”する。また、後者は、別の分類視角ではそうなるというだけのことで、嚮の三組にベアづけることは妨げられないと主張すれば“解消”する。だが、前者について謂えば、嚮にはまさしく確然性と必然性とを二重写しにすることで必然性を導入したのであるから、“二重写し”を卻けるさいには別の仕方で必然性を定位することが要求される。後者について言えば、六つの様相をそもそも“存在の強さ”なる視角で整序できるのかどうか、このこと自身が問い返さねばならない。」349-50P
(対話G)「われわれ自身としては「可能性−現実性−必然性」を「蓋然性−実然性−確然性」と対応づけて導入する手続を積極的に採るものではないし、また、「可能性・不可能性・現実性・非現実性・必然性・偶然性」という六つの様相を初めから存在様相とみなしてしまうことにも批判的である。――われわれの見地では、「蓋然性−実然性−確然性」という様相を「認識様相」として上述のように認めたうえで、「現実性−非現実性」を本来的な「存在様相」として認める。本来的な存在様相という限定的な言い方をするのは、元来は「論理様相」であるところの「可能性−不可能性」「必然性−偶然性(=非必然性)」という四つの様相も或る物象化の構制によって第二次的に“存在様相”とされてしまい、そのかぎりで、広義の“存在様相”が他にも派生するからである。本来的な存在様相である現実性はフェノメナルに現認されること、視角をかえていえば、一定の時と所にレアールに実存することの謂いである。そして、非現実性は現実性の否定的相関者であって、端的な無の謂いではなく、広義の存在(有)の一斑でありつつも、フェノメナルに現認されないこと、視角をかえていえば、一定の時と所とを“超越”してイデアールに存在することの謂いである。――「可能−不可能」「必然−偶然(=非必然)」は、物象化によって“存在様相”とされるにせよ、本来的には「論理様相」である。「SハPナリ(ナラズ)」という判断措定が論理的に“許容”されるというのが「可能」であり、「SハPナリ(ナラズ)」という判断措定が論理的に当為(「ゾレン」のルビ)であって“強制”されるというのが「必然」である。」350P
(小さなポイントの但し書き)「(当の判断措定の当為的強制の覚識が、この論理的機制に即した必然性を、真理的妥当に即した確然性と二重写しにさせる。また、当の判断的措定が強制されはしないが許容されるという可能性の覚識と蓋然性の覚識とが二重写しになりがちである。このため、必然性という論理様相と確然性という認識様相、可能性という論理様相と蓋然性という認識様相とが、“対応”づけられるどころか、二重写しにされてしまう。日常的意識におけるこの事実は諒解できるとしても、しかし、われわれとしては真理性に即した認識論的妥当様相と論理性・規則性に即した論理的妥当様相とをまずは明確に区別してかからねばならない。)」350-1P
(対話H)「論理的“許容”の否定的相関者、すなわち、許容されない=禁示の覚識に応ずる論理的様相が不可能性であり、論理的“強制”の否定的相関者、すなわち、当為的強制ではない=別様でも宜しいという覚識に応ずる論理的様相が偶然性=非必然性である。――論理的に“許容”“強制”される(されない)とはいかなる謂いであるか。これに答えるためには、そもそも「論理」とは何ぞやということを規定せねばならず、最終的には第三巻第一篇に俟たねばならない。が、ここではとりあえず、次の点まで答えておこう。「論理」は“実践的な”「規則」の一斑であり、論理的・規則的に許容される(されない)とは、論理的規則(「ルール」のルビ)の埓内に納っている(いない)と判定される謂いである。論理的に強制される(されない)とは論理規則上当為(「ゾレン」のルビ)である(ない)と覚識される謂いである。但し、後に論ずる通り、逐一規則を直接的に省みるわけでなく、論理規則への反照的顧慮は実際には間接的である。」351P
(小さなポイントの但し書き)「尚、規則上そうすべきでないは「禁止」、つまり、「許容されない=不可能」になるため、当為的必然性の否定的相関者が不可能であるかのように思われる所以となる。しかし、当為の直接的な否定的相関者は「当為ではない(すべきであるとはかぎらない)」なのであって「すべからず」(禁止)ではないのである。「SハPナリ(ナラズ)」と判断措定「すべし」に対する「SハPナリ(ナラズ)」と判断措定「すべからず」は、排中関係を前提的了解として導入するとき、「SハPナラズ(ナリ)」と判断措定「すべし」に還元される。そのかぎりで、当為・必然性と禁止・不可能性が対立的相関項をなすが、このさいには「不可能性」もまた一種の「必然性」であると言わねばなるまい。因みに、この「必然性」には「非必然性=偶然性・可能性」が対立し、偶然性と可能性とが一括される。けだし、いずれも非必然性=非不可能性だからである。」351P
(対話I)「ところで、論理様相は“物象化”されて存在様相の相で覚識されるようになる。その機制について簡単にみておこう。――「SハPナリ(ナラズ)」と措定するさい、知覚的現場的には、論理的規則への反照的顧慮は一斑にはおこなわれず、Sアリの現実性の覚識を基礎にしつつ、もっぱら「SハPナリ(ナラズ)」の真理性が価値判断されるので、陳述様相は、現実性という存在様式のうえに認識様相の表出となる。なるほど、「SハPナリ(ナラズ)」はが分析的判断の公正に自覚的になっている場合には必然性という論理様相の覚識を伴いうるし、この論理様相が表出されるが、それはあくまで、確然性という存在様相と一体的にである。知覚的現場を離れても、「SハPナリ(ナラズ)」という事象=被示的意味が問題である場合には、可能性という論理様相が覚識されるとはいえ、主としてはやはり認識様相が表出されると言えよう。総じて、「SハPナリ(ナラズ)」という事象が志向されている場面では、認識様相の覚識が基調であって、論理様相は殊更に表出されることはない。ところが、概念思考的判断の場面になると一変する。――概念思考判断の場合、「SハPナリ(ナラズ)」という述定が綜合判断的であるときは、もっぱら認識様相が覚識されるとはいえ、「SハPナリ(ナラズ)」が分析判断的に措定されるときには、認識様相としての認識様相よりも、或る屈折を介して論理的妥当性が覚識される所以となる。分析判断的措定にあっては、SやPを含む概念体系への反照的顧慮がおこなわれるだけでなく「S−P」成態たる命題的成態・命題的事態の秩序体系への反照的顧慮もおこなわれる。この反照的顧慮のもとに「SハPナリ」ないし「SハPナラズ」という述定の論理的妥当価が認定される。ここでの論理的妥当価が論理様相にほかならない。論理的妥当価が、概念体系や命題体系との反照関係において決まるものであり、当の反照的認定は突き詰めていけば矛盾律といった論理的規則に照らしての“許容”“強制”の認定に行きつくのだが、現実問題としては既成の命題体系や概念体系への反照の場面で“許容”“強制”が覚知される。しかるに、既成の概念体系や命題体系というものが、前章で論考した通り、人々の思念的意識においては既存的に自存する相で覚識されている。そして、「SハPナリ(ナラズ)」の妥当価は、その既存的に自存する命題的事態の体系に即して既定的であるかのように覚識される。このため、判断の論理様相は既定的・既存的な事態そのものに属する契機の“模写的”追認であるかのように思念される所以となる。ここにおいて、論理様相が恰かも“模写的”に追認される対象的規定性・存在的規定性であるかの相に“物象化”されて覚識される次第なのである。こうして、「可能性−不可能性」「必然性−偶然性(=非必然性)」という元来は論理的規則との反照的認定の覚識に応ずる論理様相が一種の“存在様相”とみなされてしまう。(この間の事情については次篇の第二章第三節をも参照されたい。尚、そこでは存在様相の領域範疇化にもふれる予定である。)」352-3P
(対話J)「われわれの看るところ、こうして、論理様相が存在様相に“物象化”されることで「可能性−現実性−必然性」とその否定的相関者たる「不可能性−非現実性−偶然性」という都合六つから成る“存在様相”が形成され、しかも「可能性−現実性−必然性」と本来的な認識様相たる「蓋然性−実然性−確然性」とがしばしばオーヴァラップされてしまう。そのため陳述様相とはあたかも唯一種の様相であるかのように思われがちであるが、実態においては、以上を通じて論究したように、陳述様相は存在様相・認識様相・論理様相の三契機を含む複合的な覚識の表出なのである。――今やこれら三様相の相互媒介的統一をみるためにも「SハPナリ(ナラズ)」という叙示成態の間主観的妥当性と真理性を主題的に討究しなければならない。」353P
2025年03月17日
松波めぐみ『「社会モデで考える」ためのレッスン――障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』
たわしの読書メモ・・ブログ689
・松波めぐみ『「社会モデで考える」ためのレッスン――障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』生活書院2024
松波さんのこの本は、「社会モデル」の意義を宣揚し、それを広めていくというところで書かれています。「社会モデル」を運動的観点から取り上げた貴重な資料になっています。わたしも一時、「社会モデル」の考え方を広めようとしていました。で、本(三村洋明『反障害原論――障害概念のパラダイム転換のために――』世界書院2010)を出したとき、まさに「社会モデル」の意味で、「反障害」というタイトルをつけました。
松波さんのこの本の中で、「医学モデルから社会モデルへのパラダイム転換」という概念が出てきます。これも意義のある展開になっています。ただ、「パラダイム転換」という言葉をどう使っているかということで、いろいろな使い方があるのですが、ゲシュタルト心理学の「反転」的意味では、「障害者が障害をもっている」(厳密にいうと「「障害者」が「障害」をもっている」)というところから「社会が障害をもっている」(厳密にいうと、「「社会」が障害をもっている」)というまさに反転です。そういう意味では、パラダイム転換といえなくもないのですが、そもそもイギリス障害学の第二世代の第一世代への批判、「第一世代の「社会モデル」は、「社会が障害をもっている」というけれど、障害者個人が抱えている苦悩をとらえれていない」(わたしの要約です)ということに応え切れていない中で、イギリス障害学代第一世代の突き出した「社会モデル」が混乱的情況の中で(註1)、当時WHOの障害規定ICIDHの改定作業の中でとりあげられず、アメリカ障害学の「障害」概念が採用されました(これには、アメリカとイギリスの力関係、またどちらの「社会モデル」が、現在社会――資本主義社会にとって適合的な論理であるかというところで、アメリカ障害学の「社会モデル」が受け入れられたのですが)。それは、「障害者」という言葉が、イギリス障害学のdisabled peapleでなく、アメリカ障害学のpersons with disabilityという言葉が採用されたことに端的に表れています。直訳すると「障害をもつ人々」となります。まさに従来の医学モデルです。また、「個人」と「環境」(註2)という対立項をおいて「相互浸透」(註3)という概念が採用されました。松波さんの指摘ではそれはアメリカ障害学のとらえ方だということです(註4)。それで、個人と環境なり社会の関係をどう押さえるのかというと、それが曖昧になっています。それで、どうなったかというと、松波さんは「改定障害者基本法」に「社会モデル」の概念が織り込まれたとしているのですが、わたしは「社会モデル」ということを言い、「障壁」という言葉を織り込んだけれど、結局‘障害’という言葉をどう使っているかというと、従来の医学モデル的意味でしか使っていないのです。松波さんの言う意味でも、パラダイム転換になっていないのです。そもそもICIDHにだって、「社会的不利」という概念で、「社会モデル」的な内容はもっていなくはなく、結局、何が変わったのだろうという思いがあります。ひとつは、「合理的配慮」ということで、しかも「差別解消法」の改定作業の中で、努力義務から義務へとなり、一定の有効性をもってきているということがあります。ですが、そもそも原語のreasonable accommodationの翻訳の問題もあり、そのことを暗に松波さんは「正統な理由のある調整」と訳されていますが、法的条文では、「恩恵としての福祉」に落としこめる「配慮」という言葉を使い続けていますし、「合理的」という言葉には、「制限」する機能がついて回り、新自由主義的福祉の切り捨てにつながる「合理化」概念がついてまわります。それは、「中途障害者」である「高齢者福祉」で介護事業会社が潰れていく事態を引き起こしています。法整備で理念を謳っても、現実に福祉をになうひとが居なくなっては意味がないのです。
さて、パラダイム転換という概念自体からのとらえ返しを指摘しておきます。
この言葉は、クーンが、コペルニクスやガリレオガリレイが天動説から地動説への転換を果たしたことを、コペルニックス的転換ともいわれることにあらわされる「基本的認識の枠組み」の転換を指摘し、広めた言葉です。まさに、これは反転とも言えることです。で、それは天文学のみならず、哲学的には中世のキリスト教的世界観から、デカルトなどの近代知と言われる哲学にも及んでいます。それは有機的統一態から要素還元主義的な実体主義的な世界観への転換となっています。そして、そのような転換は、中世的世界観から近代的世界観だけでなく、近代的世界観から現代的世界観への転換にも顕れています。その端的な例とされるのが、ニュートン力学から量子力学への転換です。それは哲学的には要素還元主義的な実体主義的な世界観から関係主義的な世界観への転換となっていくのです。で、その近代から現代へのパラダイム転換(註5)というところから、「社会モデル」をとらえると、「社会が障害をもっている」と表現するのは、「社会」を実体主義的にとらえていると指摘できます。そこから、更に実体主義にからめとられる「社会」ではなくて、「関係性の総体」と関係主義的に押さえることが必要になる、となります。このあたりは、パラダイム転換を主張する廣松渉さんが、関係という網の結節態的にあらわれる網の目として「個人」をとらえる、網の目は網から離れて存在するわけではない、という押さえ方をしています。まさに従来の医学モデルが、「障害者が障害をもっている」としたのに対してイギリス障害学の「社会が障害をもっている」というのは、実体が属性をもっているという「実体―属性」という実体主義に陥っていると批判されることになります。
そこで関係主義的なところへの転換することによって、パラダイム転換を押さえるということになります。わたしが宣揚する関係論モデルの障害概念です。このパラダイム転換概念から、「社会モデル」をとらえると、物理学のニュートン力学から量子力学へのパラダイム転換と言われることの過程に、マッハの力学・哲学があり、アインシュタインの相対性理論があったとされることに類比されます。「社会モデル」は医学モデルから関係モデルへ転換する過渡の理論として位置づけられるのです。
関係モデルの考え方について、説明します。ゲシュタルト心理学に、「地」から「図」が浮かび上がるという概念があります。ここで「地」というのは、後に意識されることで、先にあるわけではないのです。直截には「図」が意識化され、後に「地」が意識化されます。「地」が関係態としてとらえられます。関係態のなかから「図」が浮かび上がるのです。で、医学モデル的「障害」がなぜ、「障害者」と規定されるひとがもっているものとして顕れるのか、ということのとらえ返しが必要になります。そもそも近代以前から、「障害者」が個別「障害」的に名付けられることがありました。今は差別語として使われなくなった、意味不明になるのであえて書きますが、「おし」「つんぼ」「めくら」「いざり」、総体的用語としては「不具」という語が後からでてきたのでしょうか?(文献的検証はしないまま先を急ぎます)。で、生産性が低いとか、搾取・収奪が苛酷な社会では、生まれた時に殺されるということもあったようなのですが、生きのびて、それなりに共同体の中で役割を担い、生きて来た歴史もあります。それが、資本主義社会になって、「障害者」という概念が出てきたのではないでしょうか? 「ケガレ」という概念で、反転して「障害者」が巫女やシャーマンとして反転して持ち上げられることも出ています。「障害児」殺しが、以前からあったとしても、ちょっと様相がちがっていたのではと指摘できます。さて、いろんな様相があり、その分析をしていかなくてはならないのですが、「障害者」概念が今の社会で拡がり固定化されていったことには、ある言葉で表し得ます。「標準的人間像」ということです。資本主義的生産様式は、機械制工場労働ということで広がりを持っていきました。そこで、ここで資本主義社会の分析を最も根源的になしたマルクス(註6)の『資本論』のなかに、「標準的人間労働」という概念があり、そこからこの社会の差別の論理を押さえることができるのです。この概念で、そこから外れることが、工場労働で協働することが「できない」として異化し、「障害」と浮かび上がり、それが「障害者」が持っているとして異化するのです。それがゲシュタルト心理学の「図」―「地」関係として示し得ます。その「図」として浮かび上がるのは、そもそもそれがどうして「できない」といけないのか、ひとりでできないといけないのか、「標準労働力」なるものがどうして設定されたのか、それは公教育の問題もからんできます。「標準的労働」力になるために、公教育で労働力に生産・再生産することを遂行する中で、「標準的労働力」という個人に内自化(註7)された―物象化された言いも生まれていくのです。
もうひとつ、松波さんの論攷の中で、分からないことが出てきます。差別する側の立場にいるひとを「特権をもっている」というとらえ方が、よく判りません。これは、ひとつの被差別事項での被差別当事者と非当事者の問題ですが、二項対立的にはなりません。およそ、被差別事項をひとつももっていない(何らかのスティグマやコンプレックスをもつていない)ひとはいません。で、もしもっていないひとがいるとしたら、他者の被差別の痛みを理解し得ないところで、孤立するというコンプレックスをもつことになります。そもそも、権利なり、人権という概念が法的なキー概念になってしまっているというところで、いろいろ問題がおきてきます。人権ということは、「天賦人権思想」からきていて、キリスト教文化圏からきています。そして、「帝国主義」の侵略の植民と支配が、資本とキリスト教と人権思想ということの輸出で時には武力を伴って、またそれを背景にしてなされてきた歴史を押さえるなら、そもそも人権思想自体をきちんととらえかえす必要があります。実際に人権概念は、「差別のない関係の物象化された概念」として、しかも法的拘束力をもっているので、反差別というところで使えるとされてきたのですが、現実には、人権を守るためにと称して、戦争という最大の「人権侵害」をしかけてきた歴史さえあります。(註8)
また、自民党の片山さつき参議院議員は「人権は架空の概念だ」という話をしています。そもそも神の与えたもうた平等の思想ということで、キリスト教的神がそもそも、非キリスト教圏では信じられない架空の話になります。それに人権思想では差別を総体的に扱えません。資本主義社会の生産力の所有からの排除(ここから来る資産の格差)や「労働能力」による差別も人権という概念でとらえられなくなります。だから人権概念を使うことの危うさがあるのです。だから、法律用語として使うことがあっても、反差別の論展開としては直截に、反差別という詞を使っていくことではないかと思うのです。
何か「ないものねだり」でごちゃごちゃ書いてしまいました。むしろこの本は現実的にある法や条約をどう使って現実をよりより方向に変えていくかという実践的な本としてきわめて判り易く、実践的な本です。そして、著者が活動していくきっかけやその経歴を書いていて、いろいろの思いのつまった本になっています。
全体の構成をとらえるために目次を挙げておきます。
目 次
はじめに
PART1 「社会モデルで考える」ためのレッスン
レッスン1 「特権」をもつ側であること
レッスン2 情報のバリアを放置してきた社会に気づく
レッスン3 「対話」はなぜ大事で、どんな時に難しいのか
レッスン4 文化的障壁(社会の慣行、価値観などのバリア)を考える
レッスン5 学びの場と合理的配慮@――学ぶ権利を保障する
レッスン6 学びの場と合理的配慮A――障害のある先生
レッスン7 研修、啓発のあり方を考える
レッスン8 複合差別を考える――幾重にも「マジョリティ中心」の社会の中で
レッスン9 社会モデルは障害のことだけじゃない
レッスン10 障害者バッシング
レッスン11 相模原障害者殺傷事件の後で
レッスン12 「うしろめたさ」とつきあう
PART2 「社会モデル」にまつわる個人史から
レッスン1 最初の出会い
レッスン2 なぜ人権教育に興味をもって進学したか
レッスン3 どうやって「社会モデル」を知り、納得したか
レッスン4 なぜ二〇〇六年夏に権利条約ができるところを見に行ったのか
レッスン5 なぜ「条例づくり」に興味を持ったのか(二〇〇八年秋の転機)
レッスン6 条例づくり運動で何を学んだのか
レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)
――障害者差別解消法のことを書いたり話したりする日々の中で
レッスン8 そして今――改正障害者差別解消法の施行も踏まえて
初出一覧
おわりに
さて、いつものように備忘録的にことばの切り抜き的メモを残して置きます。運動と関わり続ける中で生まれたすてきな文があり、また少しわたしが疑問に思ったことも指摘しておきます。
「・・・・・・「配慮」という日本語についてまる「思いやり」というイメージに引っ張られてしまうのだろうか、・・・・・・」23-4P・・・「合理的配慮」という訳語自体を批判することではないでしょうか? 実際、「正統な意義ある調整」155Pと出しています。「配慮」という語は、「恩恵としての福祉」というところにからめとられる概念なのです。
(注15)「学生に特権の話をしたら、実際こういうふうに書いてこられることがある。こういう「健康でよかった」というと感情は、思いやりの感情は喚起するかもしれないが、障害のある人の「見下し、あわれみ」」と紙一重だ。悪意はなくても、「障害」と「不幸」を直結させる優生思想的な考え方であり、「社会モデル」とは相容れない。」33P
「しかし、「障害の医学モデルから社会モデルへ」のパラダイム転換にしても、・・・・・・」45P――(注7)「医学モデルから社会モデルへの転換」については、レッスン9(一六六ページ)か、PART2(二二八〜二三二ページ)あたりを参照。」56P
「一つの鍵は、「これまで(歴史的、構造的に)権利を奪われてきた」への想像力をもてるかどうかではないか……・・・・・・」54P・・・「権利論」にいくとよけい分からなくなります。「生きる為の条件を非対象的に奪われてきた」として押さえる必要。
「「相手のことがわからないのは当然。ぎこちなくていいし、うまくいかないかもしれないけど、まずは対話しよう」とは教えられてこなかった。」68P
「・・・・・・なお、世間では「心のバリア」という語もよく使われているが、社会モデルの視点のないまま、「思いやり」のニュアンスで使われがちなので私は使わない。」95P
(冒頭のタイトルの見出し)「「魔法の杖」でなく、「対話を始める合図」として」96P
タブレットでの撮影の話100P――そもそも板書しなくてもいいようにレジメを出すというようになっていくのでは・・・
「この問いへの私の結論は、「障害者の権利(人権)」への理解である、というものだ。・・・・・・」125P・・・人権概念を出すと余計分からなくなる、差別の禁止ということになるのでは・・・。
(項のタイトル)「「理解」はらせん状に」127P――「・・・・・・出会うことなしの「理解」には限界がある。だが、「出会いさえすれば理解できる」などという甘いものでもない。一度きり、ステレオタイプを確認するだけの出会いなら、ないほうがいいのかもしれないとさえ思う。/出会いつつ、特性を知りつつ、権利を学びつつ……。いろんな学びが少しずつ積み重なって、はじめて少しだけ「理解」に近づくのだろう。少なくとも、「理解いっちょあがり」などということはないのだと肝に銘じている。」128P
「「感動ポルノ」」138P――(注5)「二〇二三年前期にお呼びしたゲスト(車いすユーザー)は、講義の最後に「お願いだから、『がんばっている』とか、『感動した』とか書かないでください。仕事で来ただけです」と釘を刺した。私は痛快だったが、それだけ本人はそういう「感想」にうんざりしているということだろう。」140P・・・この「仕事」は社会の中の役割分掌ということ。
(注1)「自治体によって、「障害、障がい、障碍」の表記はさまざまである。「どれが正しいのか」と質問を頻繁に受けるが、私は「障害の社会モデル」の考え方から、「社会が作っている障壁」の意味で「障害」を使い続けている。「障害」という語のネガティブな含意は、個人ではなく、健常者中心の社会に原因がある。」139P
「実は「合理的配慮」という語のルーツは障害者問題とは別のところにある。この語が一九九〇年にアメリカ障害者差別禁止法(ADA法)に入る前に、公民権法(一九六四年〜)の改正があった。具体的にどんな背景があったかというと、宗教的に少数者であるユダヤ教徒には戒律で「安息日」があるが、そのことが働く上で不利にならないように、という要請があった。マイノリティが自らの宗教の教義を実践することで仕事をクビになることがあってはならない。そのための「調整」の必要が認められ、それを「合理的配慮」(正当な理由のある調整reasonable accommodation)と呼んだのである。それが障害者にも適用されるようになったのがADA法だ。」155P・・・なぜ、「合理的配慮」という訳がおかしいと言わないのでしょう?
「マジョリティを前提にした社会であるからこそ、マイノリティの権利をとりもどすために合理的配慮が必要になる。」156P・・・「マジョリティを前提にした社会」などそれ自体が許されないと思うのですが。それと同様に「本来の人間」とか、「本来もっている権利」とか、「本来」という概念がおかしいのです。
(性の多様性(ダイバーシティ)について)「「多数者=フツウ?」と「少数者」がきれいに二つに分かれるわけではなく、現実はグラデーションだ。少数者のことを理解しましょう、と言われがちだが、多数者こそ勘違いしていて、自らの性に向き合えていなかったりする。」162-3P
「性の多様性とは、「めざすもの」ではない。今ここにいる子どもたち、先生たちの中にある、「現実」そのものであるはずだ。」164P
「性同一性障害」――「LGBTRQ」の併記165P→(注5)「性同一性障害」という表記の問題性の指摘171P
「運動の中でうまれた「まちに慣れる。まちが慣れる」という味わい深い言葉を思い出す。」200P――(注8)「牧口一二さんの言葉」・・・「まちが慣れる」は社会モデル的考え方
(項のタイトル)「わきあがる「うしろめたさ」」207P
「「障害の社会モデル」の考え方、「Nothing about us,without us!(私たち抜きで私たちのことを決めないで)」というスローガンのもとで障害者権利条約がつくられてきたこと・・・・・・」210P
「「うしろめたさ」は厄介な感情だが、人が一歩を踏み出すことを後押しもする。一歩踏み出す先が、より公平な社会へとつながっていくことを願って、私は種まきを続けたい。」216P
「「うしろめたさ」と「居心地の悪さ」は重なるけれど全く同じでもない気がする。」216P
「「自分は自分でいい」」226P
「基本法は、障害分野のいろんな法律をまとめる「憲法」のようなもの。そこに始めて「社会モデル」の考え方が入った。障害者の定義自体を「社会モデル」にすることによって、難病、発達障害、高次脳機能障害などが障害者として具体的に追加された。」257P――(注84)「「障害」の定義が変更され、“「社会的障壁」との関係で”という文言が入った。」(注85)「障害者基本法の改正では、「社会モデル」の考え方を踏まえ、障害者の定義が見直された(2条1号)。・・・・・・」298P・・・実際は冒頭に書いたように、「社会モデル」の‘障害’は‘障壁’という言葉に表されているだけで、他は医学モデルでしかなく、「障害」概念の拡張は医学モデルの拡張でしかないのでは?
「「てんかん患者」の「精神障害者と一緒にされたくない」という偏見」259P――「異なる団体が一緒に活動していけた理由」259P――「ひとことで言えば「権利条約があったから」ですね。」259P
(京都の「条例づくり」最初)「三五人の委員の中で女性はたった二人だけ、特に「障害のある女性」はゼロだったのです。」261P
(項のタイトル)「「障害女性への複合差別」を条例に! という運動(二〇一三〜一五年)」264P
「障害者差別についての自治体の条例としては全国で一〇番目ですが、「障害のある女性」という字句が入ったものは初めてでした。」270P
(章のタイトル)「レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)」273P
(改正障害者差別解消法の改正のポイント)「民間事業者も合理的配慮を行うのが、努力義務じゃなくて義務になったこと」283P・・・「合理的配慮」という概念における制限
「事業者は、自分がこれまで生きてきた環境の中で「いかにバリアを意識せず済んだか」に思いめぐらせてほしい。知らなくて済むのは、PART1のレッスン1のおわりで書いている通り、「特権」です。」284P・・・冒頭本文でコメント
「「社会モデルは障害のことだけじゃない」と思っていて、領域をこえて差別をなくすことにつながる実践もやっていきたいです。インターセクショナリティ(交差性)という言葉があるけども、障害のある性的マイノリティを含めた「複合差別」の問題に取り組むことも大事だし、「社会モデル的な考え方をもとに横断的な差別禁止法をつくっていく」ことにも興味があります。」285P
(本文最後の文)「ただほんと、「行ったり来たり」なんですよね。知識も認識もいっぺんに広がるわけじゃないから、「国連は……」みたいな話をした直後に、何十年も時計の針が戻ったような現実に引き合わされる。だからあまり風呂敷を広げず、ぼちぼちと。」286P
(註)
1 松波さんはコリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004の訳者のひとりで、このあたりの事情はつかんでいるはずなのですが、この混乱の指摘も、その解決の道筋もしめしていません(註9)。
2 「社会」ではなくなぜ「環境」という概念をもってきたのか、よく分かりません。例えば舗装されていない「自然 」的環境が、車いす使用者に障害になるというところで、「社会」だけでない「自然」という環境も障害になるということが考えられます。ただし、「社会化された自然」というところで、そういう「自然」も「社会」の中に含み得ます。そういうところで、一応「社会」という規定をした上で、関係論的に「社会」を実体主義化しない概念として「関係性総体」と押さえ直し、その関係性総体の中の実体主義化されない「個人」という押さえ方になっていきます。
3 そもそも二項対立図式批判は、構築主義でもマルクスの物象化批判の流れでもでてきているのに、まさに二項対立図式に陥っています(註10)。
4 わたしはアメリカ障害学については、杉野さんの紹介で押さえているだけで、その文献は読めていません。
5 『事的世界観への前哨』序文
それは、認識論的な射影においては従前の「主観―客観」図式に代えて四肢構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。(これは論理の次元でいうならば、同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えることを意味し、また成素的複合型に対して函数的聯関型の構制を立てる存在観となり、因果論的説明原理に対して相作論的記述原理を立てる所以となる。……(略)……)……(略)……。
そこにおいては、いわゆる存在論的・認識論的・論理学的諸契機が統一態をなしている。
(廣松渉『事的世界観への前哨―物象化論の認識論的=存在論的位相』勁草書房1975年「序文」A)
6 「現代社会では乗り越え不可能な思想」と、別な流れの哲学者、サルトルやデリダが提言しているように、マルクスは現代社会の分析に貢献を果たしてきました。逆に言うと、マルクスを棄てると、現代社会の分析ができなくなるのです。
7 ルビンの図形という白黒図形の境界線の内自化で、この実体への属性の内自化を押さええます。黒い杯が浮かび上がるのは、境界線を黒い杯に内自化したとき、白い向かい合った顔を浮かび上がるのは、境界線を白い向かい合った顔の方に内自化させたときです。この反転図形で、例えば、山本おさむさんが、『遙かなる甲子園』というろう学校高等部の野球部が、参加を高野連に参加を認められなかったところから、参加を果たしていくことを描く漫画を描くために、手話サークルに参加し手話を学び、「手話ができないという障害を克服しました」ということを発言していたことに、この反転を示し得ます。
8 これは例えば、日本的侵略において、「人権」概念に比する東洋的「家」概念から、「八紘一宇」という概念で、天皇の赤子というところで平等を装い、大東亜共栄圏形成として第二次世界大戦という戦争にふみこんで、現実の植民地支配の差別的な関係を作り出し、膨大な人殺しをしていった日本の侵略の歴史も押さえることができます。
9 この翻訳本の中で、オリバーが、医学モデルから反転させた社会モデルの概念を突き出しています。コリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004 47-48P
10 その相互浸透という論理は、エンゲルスの弁証法の三法則の一つを想起させます。ただ、エンゲルスの弁証法の三法則は、弁証法を法則としてとらえ物象化していると批判されることですし、対立物の相互浸透という概念は、各項を実体化していると批判しえます。実は、個人と対置しているのは「関係性の総体」といえることで、それは網の目と網の関係に譬えられます。これ自体が仮言で、網を実体化しないという前提で、ですが。
・松波めぐみ『「社会モデで考える」ためのレッスン――障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』生活書院2024
松波さんのこの本は、「社会モデル」の意義を宣揚し、それを広めていくというところで書かれています。「社会モデル」を運動的観点から取り上げた貴重な資料になっています。わたしも一時、「社会モデル」の考え方を広めようとしていました。で、本(三村洋明『反障害原論――障害概念のパラダイム転換のために――』世界書院2010)を出したとき、まさに「社会モデル」の意味で、「反障害」というタイトルをつけました。
松波さんのこの本の中で、「医学モデルから社会モデルへのパラダイム転換」という概念が出てきます。これも意義のある展開になっています。ただ、「パラダイム転換」という言葉をどう使っているかということで、いろいろな使い方があるのですが、ゲシュタルト心理学の「反転」的意味では、「障害者が障害をもっている」(厳密にいうと「「障害者」が「障害」をもっている」)というところから「社会が障害をもっている」(厳密にいうと、「「社会」が障害をもっている」)というまさに反転です。そういう意味では、パラダイム転換といえなくもないのですが、そもそもイギリス障害学の第二世代の第一世代への批判、「第一世代の「社会モデル」は、「社会が障害をもっている」というけれど、障害者個人が抱えている苦悩をとらえれていない」(わたしの要約です)ということに応え切れていない中で、イギリス障害学代第一世代の突き出した「社会モデル」が混乱的情況の中で(註1)、当時WHOの障害規定ICIDHの改定作業の中でとりあげられず、アメリカ障害学の「障害」概念が採用されました(これには、アメリカとイギリスの力関係、またどちらの「社会モデル」が、現在社会――資本主義社会にとって適合的な論理であるかというところで、アメリカ障害学の「社会モデル」が受け入れられたのですが)。それは、「障害者」という言葉が、イギリス障害学のdisabled peapleでなく、アメリカ障害学のpersons with disabilityという言葉が採用されたことに端的に表れています。直訳すると「障害をもつ人々」となります。まさに従来の医学モデルです。また、「個人」と「環境」(註2)という対立項をおいて「相互浸透」(註3)という概念が採用されました。松波さんの指摘ではそれはアメリカ障害学のとらえ方だということです(註4)。それで、個人と環境なり社会の関係をどう押さえるのかというと、それが曖昧になっています。それで、どうなったかというと、松波さんは「改定障害者基本法」に「社会モデル」の概念が織り込まれたとしているのですが、わたしは「社会モデル」ということを言い、「障壁」という言葉を織り込んだけれど、結局‘障害’という言葉をどう使っているかというと、従来の医学モデル的意味でしか使っていないのです。松波さんの言う意味でも、パラダイム転換になっていないのです。そもそもICIDHにだって、「社会的不利」という概念で、「社会モデル」的な内容はもっていなくはなく、結局、何が変わったのだろうという思いがあります。ひとつは、「合理的配慮」ということで、しかも「差別解消法」の改定作業の中で、努力義務から義務へとなり、一定の有効性をもってきているということがあります。ですが、そもそも原語のreasonable accommodationの翻訳の問題もあり、そのことを暗に松波さんは「正統な理由のある調整」と訳されていますが、法的条文では、「恩恵としての福祉」に落としこめる「配慮」という言葉を使い続けていますし、「合理的」という言葉には、「制限」する機能がついて回り、新自由主義的福祉の切り捨てにつながる「合理化」概念がついてまわります。それは、「中途障害者」である「高齢者福祉」で介護事業会社が潰れていく事態を引き起こしています。法整備で理念を謳っても、現実に福祉をになうひとが居なくなっては意味がないのです。
さて、パラダイム転換という概念自体からのとらえ返しを指摘しておきます。
この言葉は、クーンが、コペルニクスやガリレオガリレイが天動説から地動説への転換を果たしたことを、コペルニックス的転換ともいわれることにあらわされる「基本的認識の枠組み」の転換を指摘し、広めた言葉です。まさに、これは反転とも言えることです。で、それは天文学のみならず、哲学的には中世のキリスト教的世界観から、デカルトなどの近代知と言われる哲学にも及んでいます。それは有機的統一態から要素還元主義的な実体主義的な世界観への転換となっています。そして、そのような転換は、中世的世界観から近代的世界観だけでなく、近代的世界観から現代的世界観への転換にも顕れています。その端的な例とされるのが、ニュートン力学から量子力学への転換です。それは哲学的には要素還元主義的な実体主義的な世界観から関係主義的な世界観への転換となっていくのです。で、その近代から現代へのパラダイム転換(註5)というところから、「社会モデル」をとらえると、「社会が障害をもっている」と表現するのは、「社会」を実体主義的にとらえていると指摘できます。そこから、更に実体主義にからめとられる「社会」ではなくて、「関係性の総体」と関係主義的に押さえることが必要になる、となります。このあたりは、パラダイム転換を主張する廣松渉さんが、関係という網の結節態的にあらわれる網の目として「個人」をとらえる、網の目は網から離れて存在するわけではない、という押さえ方をしています。まさに従来の医学モデルが、「障害者が障害をもっている」としたのに対してイギリス障害学の「社会が障害をもっている」というのは、実体が属性をもっているという「実体―属性」という実体主義に陥っていると批判されることになります。
そこで関係主義的なところへの転換することによって、パラダイム転換を押さえるということになります。わたしが宣揚する関係論モデルの障害概念です。このパラダイム転換概念から、「社会モデル」をとらえると、物理学のニュートン力学から量子力学へのパラダイム転換と言われることの過程に、マッハの力学・哲学があり、アインシュタインの相対性理論があったとされることに類比されます。「社会モデル」は医学モデルから関係モデルへ転換する過渡の理論として位置づけられるのです。
関係モデルの考え方について、説明します。ゲシュタルト心理学に、「地」から「図」が浮かび上がるという概念があります。ここで「地」というのは、後に意識されることで、先にあるわけではないのです。直截には「図」が意識化され、後に「地」が意識化されます。「地」が関係態としてとらえられます。関係態のなかから「図」が浮かび上がるのです。で、医学モデル的「障害」がなぜ、「障害者」と規定されるひとがもっているものとして顕れるのか、ということのとらえ返しが必要になります。そもそも近代以前から、「障害者」が個別「障害」的に名付けられることがありました。今は差別語として使われなくなった、意味不明になるのであえて書きますが、「おし」「つんぼ」「めくら」「いざり」、総体的用語としては「不具」という語が後からでてきたのでしょうか?(文献的検証はしないまま先を急ぎます)。で、生産性が低いとか、搾取・収奪が苛酷な社会では、生まれた時に殺されるということもあったようなのですが、生きのびて、それなりに共同体の中で役割を担い、生きて来た歴史もあります。それが、資本主義社会になって、「障害者」という概念が出てきたのではないでしょうか? 「ケガレ」という概念で、反転して「障害者」が巫女やシャーマンとして反転して持ち上げられることも出ています。「障害児」殺しが、以前からあったとしても、ちょっと様相がちがっていたのではと指摘できます。さて、いろんな様相があり、その分析をしていかなくてはならないのですが、「障害者」概念が今の社会で拡がり固定化されていったことには、ある言葉で表し得ます。「標準的人間像」ということです。資本主義的生産様式は、機械制工場労働ということで広がりを持っていきました。そこで、ここで資本主義社会の分析を最も根源的になしたマルクス(註6)の『資本論』のなかに、「標準的人間労働」という概念があり、そこからこの社会の差別の論理を押さえることができるのです。この概念で、そこから外れることが、工場労働で協働することが「できない」として異化し、「障害」と浮かび上がり、それが「障害者」が持っているとして異化するのです。それがゲシュタルト心理学の「図」―「地」関係として示し得ます。その「図」として浮かび上がるのは、そもそもそれがどうして「できない」といけないのか、ひとりでできないといけないのか、「標準労働力」なるものがどうして設定されたのか、それは公教育の問題もからんできます。「標準的労働」力になるために、公教育で労働力に生産・再生産することを遂行する中で、「標準的労働力」という個人に内自化(註7)された―物象化された言いも生まれていくのです。
もうひとつ、松波さんの論攷の中で、分からないことが出てきます。差別する側の立場にいるひとを「特権をもっている」というとらえ方が、よく判りません。これは、ひとつの被差別事項での被差別当事者と非当事者の問題ですが、二項対立的にはなりません。およそ、被差別事項をひとつももっていない(何らかのスティグマやコンプレックスをもつていない)ひとはいません。で、もしもっていないひとがいるとしたら、他者の被差別の痛みを理解し得ないところで、孤立するというコンプレックスをもつことになります。そもそも、権利なり、人権という概念が法的なキー概念になってしまっているというところで、いろいろ問題がおきてきます。人権ということは、「天賦人権思想」からきていて、キリスト教文化圏からきています。そして、「帝国主義」の侵略の植民と支配が、資本とキリスト教と人権思想ということの輸出で時には武力を伴って、またそれを背景にしてなされてきた歴史を押さえるなら、そもそも人権思想自体をきちんととらえかえす必要があります。実際に人権概念は、「差別のない関係の物象化された概念」として、しかも法的拘束力をもっているので、反差別というところで使えるとされてきたのですが、現実には、人権を守るためにと称して、戦争という最大の「人権侵害」をしかけてきた歴史さえあります。(註8)
また、自民党の片山さつき参議院議員は「人権は架空の概念だ」という話をしています。そもそも神の与えたもうた平等の思想ということで、キリスト教的神がそもそも、非キリスト教圏では信じられない架空の話になります。それに人権思想では差別を総体的に扱えません。資本主義社会の生産力の所有からの排除(ここから来る資産の格差)や「労働能力」による差別も人権という概念でとらえられなくなります。だから人権概念を使うことの危うさがあるのです。だから、法律用語として使うことがあっても、反差別の論展開としては直截に、反差別という詞を使っていくことではないかと思うのです。
何か「ないものねだり」でごちゃごちゃ書いてしまいました。むしろこの本は現実的にある法や条約をどう使って現実をよりより方向に変えていくかという実践的な本としてきわめて判り易く、実践的な本です。そして、著者が活動していくきっかけやその経歴を書いていて、いろいろの思いのつまった本になっています。
全体の構成をとらえるために目次を挙げておきます。
目 次
はじめに
PART1 「社会モデルで考える」ためのレッスン
レッスン1 「特権」をもつ側であること
レッスン2 情報のバリアを放置してきた社会に気づく
レッスン3 「対話」はなぜ大事で、どんな時に難しいのか
レッスン4 文化的障壁(社会の慣行、価値観などのバリア)を考える
レッスン5 学びの場と合理的配慮@――学ぶ権利を保障する
レッスン6 学びの場と合理的配慮A――障害のある先生
レッスン7 研修、啓発のあり方を考える
レッスン8 複合差別を考える――幾重にも「マジョリティ中心」の社会の中で
レッスン9 社会モデルは障害のことだけじゃない
レッスン10 障害者バッシング
レッスン11 相模原障害者殺傷事件の後で
レッスン12 「うしろめたさ」とつきあう
PART2 「社会モデル」にまつわる個人史から
レッスン1 最初の出会い
レッスン2 なぜ人権教育に興味をもって進学したか
レッスン3 どうやって「社会モデル」を知り、納得したか
レッスン4 なぜ二〇〇六年夏に権利条約ができるところを見に行ったのか
レッスン5 なぜ「条例づくり」に興味を持ったのか(二〇〇八年秋の転機)
レッスン6 条例づくり運動で何を学んだのか
レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)
――障害者差別解消法のことを書いたり話したりする日々の中で
レッスン8 そして今――改正障害者差別解消法の施行も踏まえて
初出一覧
おわりに
さて、いつものように備忘録的にことばの切り抜き的メモを残して置きます。運動と関わり続ける中で生まれたすてきな文があり、また少しわたしが疑問に思ったことも指摘しておきます。
「・・・・・・「配慮」という日本語についてまる「思いやり」というイメージに引っ張られてしまうのだろうか、・・・・・・」23-4P・・・「合理的配慮」という訳語自体を批判することではないでしょうか? 実際、「正統な意義ある調整」155Pと出しています。「配慮」という語は、「恩恵としての福祉」というところにからめとられる概念なのです。
(注15)「学生に特権の話をしたら、実際こういうふうに書いてこられることがある。こういう「健康でよかった」というと感情は、思いやりの感情は喚起するかもしれないが、障害のある人の「見下し、あわれみ」」と紙一重だ。悪意はなくても、「障害」と「不幸」を直結させる優生思想的な考え方であり、「社会モデル」とは相容れない。」33P
「しかし、「障害の医学モデルから社会モデルへ」のパラダイム転換にしても、・・・・・・」45P――(注7)「医学モデルから社会モデルへの転換」については、レッスン9(一六六ページ)か、PART2(二二八〜二三二ページ)あたりを参照。」56P
「一つの鍵は、「これまで(歴史的、構造的に)権利を奪われてきた」への想像力をもてるかどうかではないか……・・・・・・」54P・・・「権利論」にいくとよけい分からなくなります。「生きる為の条件を非対象的に奪われてきた」として押さえる必要。
「「相手のことがわからないのは当然。ぎこちなくていいし、うまくいかないかもしれないけど、まずは対話しよう」とは教えられてこなかった。」68P
「・・・・・・なお、世間では「心のバリア」という語もよく使われているが、社会モデルの視点のないまま、「思いやり」のニュアンスで使われがちなので私は使わない。」95P
(冒頭のタイトルの見出し)「「魔法の杖」でなく、「対話を始める合図」として」96P
タブレットでの撮影の話100P――そもそも板書しなくてもいいようにレジメを出すというようになっていくのでは・・・
「この問いへの私の結論は、「障害者の権利(人権)」への理解である、というものだ。・・・・・・」125P・・・人権概念を出すと余計分からなくなる、差別の禁止ということになるのでは・・・。
(項のタイトル)「「理解」はらせん状に」127P――「・・・・・・出会うことなしの「理解」には限界がある。だが、「出会いさえすれば理解できる」などという甘いものでもない。一度きり、ステレオタイプを確認するだけの出会いなら、ないほうがいいのかもしれないとさえ思う。/出会いつつ、特性を知りつつ、権利を学びつつ……。いろんな学びが少しずつ積み重なって、はじめて少しだけ「理解」に近づくのだろう。少なくとも、「理解いっちょあがり」などということはないのだと肝に銘じている。」128P
「「感動ポルノ」」138P――(注5)「二〇二三年前期にお呼びしたゲスト(車いすユーザー)は、講義の最後に「お願いだから、『がんばっている』とか、『感動した』とか書かないでください。仕事で来ただけです」と釘を刺した。私は痛快だったが、それだけ本人はそういう「感想」にうんざりしているということだろう。」140P・・・この「仕事」は社会の中の役割分掌ということ。
(注1)「自治体によって、「障害、障がい、障碍」の表記はさまざまである。「どれが正しいのか」と質問を頻繁に受けるが、私は「障害の社会モデル」の考え方から、「社会が作っている障壁」の意味で「障害」を使い続けている。「障害」という語のネガティブな含意は、個人ではなく、健常者中心の社会に原因がある。」139P
「実は「合理的配慮」という語のルーツは障害者問題とは別のところにある。この語が一九九〇年にアメリカ障害者差別禁止法(ADA法)に入る前に、公民権法(一九六四年〜)の改正があった。具体的にどんな背景があったかというと、宗教的に少数者であるユダヤ教徒には戒律で「安息日」があるが、そのことが働く上で不利にならないように、という要請があった。マイノリティが自らの宗教の教義を実践することで仕事をクビになることがあってはならない。そのための「調整」の必要が認められ、それを「合理的配慮」(正当な理由のある調整reasonable accommodation)と呼んだのである。それが障害者にも適用されるようになったのがADA法だ。」155P・・・なぜ、「合理的配慮」という訳がおかしいと言わないのでしょう?
「マジョリティを前提にした社会であるからこそ、マイノリティの権利をとりもどすために合理的配慮が必要になる。」156P・・・「マジョリティを前提にした社会」などそれ自体が許されないと思うのですが。それと同様に「本来の人間」とか、「本来もっている権利」とか、「本来」という概念がおかしいのです。
(性の多様性(ダイバーシティ)について)「「多数者=フツウ?」と「少数者」がきれいに二つに分かれるわけではなく、現実はグラデーションだ。少数者のことを理解しましょう、と言われがちだが、多数者こそ勘違いしていて、自らの性に向き合えていなかったりする。」162-3P
「性の多様性とは、「めざすもの」ではない。今ここにいる子どもたち、先生たちの中にある、「現実」そのものであるはずだ。」164P
「性同一性障害」――「LGBTRQ」の併記165P→(注5)「性同一性障害」という表記の問題性の指摘171P
「運動の中でうまれた「まちに慣れる。まちが慣れる」という味わい深い言葉を思い出す。」200P――(注8)「牧口一二さんの言葉」・・・「まちが慣れる」は社会モデル的考え方
(項のタイトル)「わきあがる「うしろめたさ」」207P
「「障害の社会モデル」の考え方、「Nothing about us,without us!(私たち抜きで私たちのことを決めないで)」というスローガンのもとで障害者権利条約がつくられてきたこと・・・・・・」210P
「「うしろめたさ」は厄介な感情だが、人が一歩を踏み出すことを後押しもする。一歩踏み出す先が、より公平な社会へとつながっていくことを願って、私は種まきを続けたい。」216P
「「うしろめたさ」と「居心地の悪さ」は重なるけれど全く同じでもない気がする。」216P
「「自分は自分でいい」」226P
「基本法は、障害分野のいろんな法律をまとめる「憲法」のようなもの。そこに始めて「社会モデル」の考え方が入った。障害者の定義自体を「社会モデル」にすることによって、難病、発達障害、高次脳機能障害などが障害者として具体的に追加された。」257P――(注84)「「障害」の定義が変更され、“「社会的障壁」との関係で”という文言が入った。」(注85)「障害者基本法の改正では、「社会モデル」の考え方を踏まえ、障害者の定義が見直された(2条1号)。・・・・・・」298P・・・実際は冒頭に書いたように、「社会モデル」の‘障害’は‘障壁’という言葉に表されているだけで、他は医学モデルでしかなく、「障害」概念の拡張は医学モデルの拡張でしかないのでは?
「「てんかん患者」の「精神障害者と一緒にされたくない」という偏見」259P――「異なる団体が一緒に活動していけた理由」259P――「ひとことで言えば「権利条約があったから」ですね。」259P
(京都の「条例づくり」最初)「三五人の委員の中で女性はたった二人だけ、特に「障害のある女性」はゼロだったのです。」261P
(項のタイトル)「「障害女性への複合差別」を条例に! という運動(二〇一三〜一五年)」264P
「障害者差別についての自治体の条例としては全国で一〇番目ですが、「障害のある女性」という字句が入ったものは初めてでした。」270P
(章のタイトル)「レッスン7 なぜ「社会モデルの普及」がライフワークになったのか(二〇一四年〜)」273P
(改正障害者差別解消法の改正のポイント)「民間事業者も合理的配慮を行うのが、努力義務じゃなくて義務になったこと」283P・・・「合理的配慮」という概念における制限
「事業者は、自分がこれまで生きてきた環境の中で「いかにバリアを意識せず済んだか」に思いめぐらせてほしい。知らなくて済むのは、PART1のレッスン1のおわりで書いている通り、「特権」です。」284P・・・冒頭本文でコメント
「「社会モデルは障害のことだけじゃない」と思っていて、領域をこえて差別をなくすことにつながる実践もやっていきたいです。インターセクショナリティ(交差性)という言葉があるけども、障害のある性的マイノリティを含めた「複合差別」の問題に取り組むことも大事だし、「社会モデル的な考え方をもとに横断的な差別禁止法をつくっていく」ことにも興味があります。」285P
(本文最後の文)「ただほんと、「行ったり来たり」なんですよね。知識も認識もいっぺんに広がるわけじゃないから、「国連は……」みたいな話をした直後に、何十年も時計の針が戻ったような現実に引き合わされる。だからあまり風呂敷を広げず、ぼちぼちと。」286P
(註)
1 松波さんはコリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004の訳者のひとりで、このあたりの事情はつかんでいるはずなのですが、この混乱の指摘も、その解決の道筋もしめしていません(註9)。
2 「社会」ではなくなぜ「環境」という概念をもってきたのか、よく分かりません。例えば舗装されていない「自然 」的環境が、車いす使用者に障害になるというところで、「社会」だけでない「自然」という環境も障害になるということが考えられます。ただし、「社会化された自然」というところで、そういう「自然」も「社会」の中に含み得ます。そういうところで、一応「社会」という規定をした上で、関係論的に「社会」を実体主義化しない概念として「関係性総体」と押さえ直し、その関係性総体の中の実体主義化されない「個人」という押さえ方になっていきます。
3 そもそも二項対立図式批判は、構築主義でもマルクスの物象化批判の流れでもでてきているのに、まさに二項対立図式に陥っています(註10)。
4 わたしはアメリカ障害学については、杉野さんの紹介で押さえているだけで、その文献は読めていません。
5 『事的世界観への前哨』序文
それは、認識論的な射影においては従前の「主観―客観」図式に代えて四肢構造の範式となって現われ、存在論的な射影においては、対象界における「実体の第一次性」の了解に代えて「関係の第一次性」の対自化となって現われる。(これは論理の次元でいうならば、同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えることを意味し、また成素的複合型に対して函数的聯関型の構制を立てる存在観となり、因果論的説明原理に対して相作論的記述原理を立てる所以となる。……(略)……)……(略)……。
そこにおいては、いわゆる存在論的・認識論的・論理学的諸契機が統一態をなしている。
(廣松渉『事的世界観への前哨―物象化論の認識論的=存在論的位相』勁草書房1975年「序文」A)
6 「現代社会では乗り越え不可能な思想」と、別な流れの哲学者、サルトルやデリダが提言しているように、マルクスは現代社会の分析に貢献を果たしてきました。逆に言うと、マルクスを棄てると、現代社会の分析ができなくなるのです。
7 ルビンの図形という白黒図形の境界線の内自化で、この実体への属性の内自化を押さええます。黒い杯が浮かび上がるのは、境界線を黒い杯に内自化したとき、白い向かい合った顔を浮かび上がるのは、境界線を白い向かい合った顔の方に内自化させたときです。この反転図形で、例えば、山本おさむさんが、『遙かなる甲子園』というろう学校高等部の野球部が、参加を高野連に参加を認められなかったところから、参加を果たしていくことを描く漫画を描くために、手話サークルに参加し手話を学び、「手話ができないという障害を克服しました」ということを発言していたことに、この反転を示し得ます。
8 これは例えば、日本的侵略において、「人権」概念に比する東洋的「家」概念から、「八紘一宇」という概念で、天皇の赤子というところで平等を装い、大東亜共栄圏形成として第二次世界大戦という戦争にふみこんで、現実の植民地支配の差別的な関係を作り出し、膨大な人殺しをしていった日本の侵略の歴史も押さえることができます。
9 この翻訳本の中で、オリバーが、医学モデルから反転させた社会モデルの概念を突き出しています。コリン バーンズ/トム シェイクスピア/ジェフ マーサー『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店2004 47-48P
10 その相互浸透という論理は、エンゲルスの弁証法の三法則の一つを想起させます。ただ、エンゲルスの弁証法の三法則は、弁証法を法則としてとらえ物象化していると批判されることですし、対立物の相互浸透という概念は、各項を実体化していると批判しえます。実は、個人と対置しているのは「関係性の総体」といえることで、それは網の目と網の関係に譬えられます。これ自体が仮言で、網を実体化しないという前提で、ですが。
竹内章郎『いのちと平等をめぐる13章――優生思想の克服のために』
たわしの読書メモ・・ブログ688
・竹内章郎『いのちと平等をめぐる13章――優生思想の克服のために』生活思想社2020
竹内さんの本は以前読んで、「能力を個人がもつものと考えない」ということに共鳴し、繰り返し引用させて貰っています。そんなに長くないので、全文、掲載します。
――-ここから過去文の引用です――
たわしの読書メモ・・ブログ108
・竹内章郎『いのちの平等論―現代の優生思想に抗して』 岩波書店 2005
差別的論理を批判し尽くそうという意欲作です。しかも哲学的なところと対話をし、問題を掘り下げようとしています。
優生思想というところを「能力を個人がもつものと考えない」(わたし的に言えば能力の個への内自有化―実体主義批判)というようなところから批判していることもあり、かなり共鳴しつつ読んでいました。「能力に基づく差別ということの廃棄」というところまで踏み込んで、差別の問題をとらえようとしている、そしてそれが資本主義社会の差別の根源にあるというとらえ返し、まさに意を得たりという思いももてました。
ただし、発達信仰への批判はあるにせよ、どうも発達保障論にひきずられて、発達概念自体をほりさげてとらえていず、今一つ煮つめ得ていないとの思いがあります。もうひとつは差異論、筆者からも「物象化」という言葉も出てきて、かなり共鳴しつつ読んでいたのですが、結局差異論が煮つめ得ていないのです、とんでもない「ないものねだり」ですが、たぶん廣松さんあたりが入れば、・・・わたしがシンクロナイズしていくのだと思ったりしているのですが、結局、竹内さんの論攷は「障害をもつ」という論理に至りついています。
そして、さらにもうひとつ。そもそも筆者も倫理主義批判をしていたところから、倫理というところへ陥っていったよう。どうしてそこに至ったのかわたしとしては興味深いのですが、・・・。そのあたりで、マルクスには平等論がないという批判を出しています。以前、花崎さんがマルクスには人権論がないというようなことを書いていたこととリンクするのですが、そもそも、「自由、平等、博愛」というフランス啓蒙思想への批判を資本主義社会の論理から来ていることとしてマルクスが批判していたことをどうとらえるのかの問題であり、たぶん唯物史観あたりの問題なのではないかとわたしはあたりをつけているのですが。筆者は論文をあちこちに書いているので、そのあたりをあたっていきたいとの思いもあるのですが・・・。
ともかく優生思想の勉強会に使えば、そこからいろんな課題がとらえられ、論が深めていける貴重な資料だとも思っています。(赤字 今回校正)
――-ここまで過去文の引用終わり――
さて、今回の本(ブログ688の本)との対話の論点をいくつか出してみます。
(1)「能力を個人がもつものとは考えない」ということ
このあたりは、四半世紀くらい前に出会った文、「たわしの読書メモ・・ブログ174 /・中川 明『「原則統合」への道すじを探るV 《憲法26条にいう「能力に応じて」と「普通教育義務」とは?》』「障害児を普通学校へ・全国連絡会」制作編集(ブックレット・・なぜこの学校に行けないの?O)1999」を読み、そのころから、「能力を個人がもつとは考えない」ということを考えはじめたのです。
で、2010年に出した本(註1)の中で、「第10章 障害差別の根拠は何か/2節 能力とは?」にこの論攷への一文を書いています。
――-ここから過去文の引用です――
以前、運動関係の小さいパンフレットの中で、「えっ、すごい」と思うようなフレーズに出会いました。
それは「能力を個人のものと考えない」という一文です(註9)。
およそ、今の社会の世界観とは遊離した考えかたです。そして、この考えこそが近代知の個人―個性(実体―属性)というパラダイムを転換しうる内容ではないかと思ったのです。
さて「個人の能力」といわれることはどのようなこととしてあるのでしょうか?
ひとの「社会」は膨大な知を集積し、インフラを形成してきました。一人のひとはその一部に関与し、「社会化」ともいわれるいろいろな働きかけを受けながら、知識を「わがもの」にします。そしてその中で、協働作業の中でほんのわずかな新たな知のつみあげをなし「社会」に関与します。
ところで、協働作業の中で何か「これはわたしだけのものだ」と自己の占有を宣言しえることがあるのでしょうか? 芸術と言われることに「言えなくもない」ことはあるかもしれません(註2)。でも、それも一つの歴史の中の文化の中で、ひとつの環境や働きかけの中で育てられたことなしにはありえなかったと言いえるでしょう。
ところが、不思議なことに「特許」なるものがあります。
特許といわれることのベースは膨大な知の集積です。その上にほんのわずかな協働作業の積み上げがあります。それがなぜ、ときには何憶円で売買される特許になるのでしょうか?・・・・・・
ちなみに(註9)は、
★9 中川明『原則統合への道すじを探るV《憲法26条にいう「能力に応じて」と「普通義務教育」とは?》』障害児を普通学校へ・全国連絡会 1999年。ただ、今回再度読み直していて、この論考は認識論的に掘り下げた文というより、ロールズあたりの正義論―分配論として展開されていることで、認識論的にとらえ返しから問題にしているわたしの意識性とのズレも感じていました。
――-ここまで過去文の引用終わり――(註1) (註2)は今回の(註)
竹内さんの「ブログ108」の本を手に取ったのは、2010年の本を出版した後です。だから中川さんのパンフはわたしの本の献表に入っていますが、竹内さんの本は入っていません。
竹内さんの最初の読書メモ「ブログ108」で取り上げた本の、メモの中で、「筆者は論文をあちこちに書いているので、そのあたりをあたっていきたいとの思いもあるのですが・・・。」と書きつつ、「・・・」の意味でもあったのですが、わたしの倫理学批判志向のなかで、結局そのまま「あたってい」かないままでした。今回、ある論文のなかで参考文献に当の本をとり挙げていたので、対話の必要に駆られて、読んで読書メモを書いている次第です。
(2)「障害をもつ」について
この本との対話の核心は、「障害をもつ」――「能力をもつ」ということとの対話です。このあたりはわたしには「持つ」という概念に関わるパラダイム転換論と繋がるのですが、これは最後の(6)に書きます。
竹内さんは「障害をもつ」と「能力をもつ」というところで、前者は個人がもつと一応押さえるところから、それを関係論的とらえ方から、「分離論」を展開し、再規定しています。ここで「個性論的」な押さえが出てきます。
そもそも「個性論」と言っても色んな突きだしがありました。竹内さんの押さえは、「障がい」は個性のひとつであることで、それでそのひとを全規定するのはおかしい、という論理です。そのひとつの個性自体は否定的なことだけど、それは介助などで「できない」ことをなくせる、すなわち「分離できる」という、「分離」概念をつかった論理になっています。ですが、分離できないときにはどうするのかという問題が残ります(註3)。このあたりは、ちゃんと書かれていませんが、‘障害’の‘害’を‘がい’とひらがな表記したのは、「ひとつの個性自体は否定的なこと」というところで、‘害’という文字が否定的ニュアンスがあるので、ひらがな表記にしようという、一部「障害者」の主張を受け入れたことだと推測されます。
さて、もうひとつの「個性論」的突き出しは、「「ひとの個性」にマイナスとかプラスとか価値付けをするな」ということです。これは、そもそもひとの能力を価値付けする資本主義社会自体を批判する内容を孕んだラジカル(根源的)な突き出しでした。
さて、そもそも「能力を個人がもつものと考えない」とするなら、初めから、「障害」も個人がもつものと考えない、というように考えられないのでしょうか?
(3)「もつ」をめぐる障害規定の論議
ここで、障害規定の必要性に迫られます。そもそも過去の障害概念をめぐる議論をきちんととらえ返す必要に迫られるのですが、竹内さんのこの本の中には、イギリス障害学の「社会モデル」が出て来ません。杉野昭博さんの本が文献表にありますから、そこで、イギリス障害学の情報は押さえていると思います。イギリス障害学は、障害概念を反転させました。反転という概念は、ゲシュタルト心理学のルビンの図形を持ち出すと明らかになります。簡単にいうと、「「障害者」が「障害」をもっている(医学モデル)のではなく、社会が障害(障壁)をもっているのだ」(註4)ということになるのです。このあたりの話は、竹内さんが取り上げているICIDHの障害概念への批判が起こり、改定作業が始まったという歴史を押さえる必要があります。ICIDHが因果論になっているとして、それを「社会モデル」の概念を入れて廃棄・改定(止揚)していく作業に入りました。で、そのときに、イギリス障害学への批判が起きていて(註5)、結局整理に失敗したのです。一応、ICFという形にまとめられたのですが、整理されていないという自覚があったのでしょうか、「障害者権利条約」の議論のさいは、障害規定の議論をしていたのでは、条約の発効ができなくなるとして、規定をしないということで進んでしまいました(註6)。
ところで、わたしも、ICIDHの概念は使っています。それはimpairment(機能障害)が医学モデルとしての「障害」概念として、disability(能力障害)を「社会モデル」的障害概念としてです。ところで、handicap(社会的不利)は、イギリス障害学では使われていません。なぜなら、「社会モデル」では反転させたので、必要のない概念になったのです(註7)。
ちなみに、「社会モデル」は、「個性論」を否定することになります。「障害者が障害をもっている」という「医学モデル」で、「個性論」がでてきたのですから、「社会が障害をもっている」となると、「障害者」がもっている「個性」(――属性(註8))ではなくなります。
ところが、前述のひらがな表記に対しては、「社会モデル」からすると、障害――障壁はいけないことなので、悪いイメージをむしろ積極的に突きだすことです(註9)。そのような反転させた「障害の社会モデル」の意義をだいないしにする、表記になっています。
さて、先述した杉野さんは、アメリカ障害学も「社会モデル」として突き出しています(註10)。この錯認は、杉野さんのみならず、他のひとたちも囚われていて、そこで大勢がすすんで行っています。端的な例は、イギリス障害学の「障害者」表記は、disabled peapleでアメリカ障害学がpersons with disabilityです。ICFも「障害者権利条約」も英語でアメリカ障害学の障害規定を採用したのです。何が問題なのかというと、disabledは受動詞の形容詞的使用で、直訳すると「出来なくさせられている」という意味になります。すなわち、まさにイギリス社会学の反転させた、「社会が障害をもっている」ということに通じる表記だったのです。誤解の無いように書いておきますが、「障害の社会モデル」は障害関係論に転換しきるための過渡の理論として、わたしは押さえています。「個性論」は、「障害者」が「愛される障害者像」や「障害の克服」という概念にとからめとられている中で、反差別という観点をもって開き直り的に突き出した、「障害者運動」を進めるのにバネになった理論だったことと類比しえます。
竹内さんの「社会モデル」はどうも、イギリス障害学の「社会モデル」ではなくて、アメリカ障害学の「社会モデル」、もしくは、「社会モデル」を宣揚しつつ、結局医学モデルに舞い戻った曖昧模糊な「社会モデル」ではないでしょうか?
(4)ICFの障害規定の問題性
ICFは最初ICIDHが因果論になっていて、医学モデル的「障害」があるから、能力障害や社会的不利がおきて来るということをとらえ直す作業として、ICIDH―2として議論されていました。それを、ICFとしてまとめ直しました。そこで、医学モデルと「社会モデル」を統合したと称しているのですが、「社会モデル」は「社会が障害をもっている」として医学モデルを反転させたもので、どうして統合できるのでしょう? そこにはパラダイム転換的なことの胎動的内容(註11)をもっていたのです。パラダイム転換の例に出されるのは天動説から地動説への転換ですが、どうしたら天動説と地動説を統合できるのでしょう。また、現代化学における最大のパラダイム転換の例でいえば、ニュートン力学と量子力学へのパラダイム転換がありますが、ニュートン力学と量子力学の統合などという論議をわたしは知りません(註12)。
さて、それらの論考は、ICFの「個人」と「環境」との相互関係的とらえ方にも及んでいきます。そもそもICFの相互関係論は、「個人」と「環境」の相互関係の中身がとらえられません。そもそも二項対立図式が現代哲学(註13)で批判されてきたのに、見事に二項対立図式に陥っています。
竹内さんは相互関係論を展開されているのですが、それは個人と環境(もしくは社会)が別個に存立するという実体主義――物象化にとらわれているのではないでしょうか?(註14)。
(5)「垂直的発展―水平的展開」について
さて、この本の中で、竹内さんは極めてオリジナルな論展開をしています。13章の「出来事の理由、社会・文化の<垂直的発展>から<水平的展開>へ」です。実は、わたしはこれをこの本を読むきっかけになった論文の中でこの文字をみて、全障研の「縦への発達、横への発達」という概念とリンクしてしまいました。全障研は、発達保障論(註15)を突き出し、「個性論」、それを生み出した反差別的「障害者運動」の流れを「障害者運動の攪乱者」とまで批判し、当時制度化が進められる養護学校義務制を政府・自民党と一緒になって推進しようとしていました(註16)。竹内さんも「Segregate is not equal 」192Pという概念を使って批判している分離教育そのものなのです。で、「個性論」を批判を撤回する文(註17)やその支持協力関係にあるひとから、「個性論」がでるに及んで、発達保障論そのものは破綻したと思っていたのですが、まだSNS上で振り回すひととの議論から、改めて全障研の出版物にあたっていたら、「縦への発達、横への発達」という概念が出ていました。この「横への発達」ということは、「第二次性の障害」を取り除くなり、社会を変えるということを孕んだ概念の突き出しかなとも思えるのですが、そもそもの「発達保障論」の「縦への発達」の抑圧性の指摘をうけた総括、とりさげがなされていません。竹内さんのこの本の中では、発達保障論への言及がなされていません。無用な対立をさけるとか、影響を与えて、それなりに修正しているようで、それで良しとされたのかもしれません。で、直接問い合わせることかもしれませんが、とりあえず推測として、竹内さんの論攷「垂直的発展−水平的展開」を全障研のひとたちが、発達保障論の修正として取り込んだのかと思っています。
この論展開は、わたしは色んな形で応用できることかとも想ったりしています。たとえば、縦軸を生産力・技術の発達として、水平軸を反差別的関係性の構築として、より社会の構築へ向けて、と提起していく図として、考えられます。ただ、そもそも資本主義社会において、「生産力・技術の発達」がむしろ矛盾を深めていく構図をみると、資本主義社会を止揚した未来社会のあり方の図となるのかもしれません。
(6)認識論的押さえ――「なぜ@」の議論の必要性
著者は論展開の基本的姿勢に関わる文を残しています。「なぜ@」と「なぜA」という形で展開しています(238P)
これに照らすと、「なぜA」は倫理学、「なぜ@」は哲学的論考を含んだ認識論的掘り下げや社会学、と押さえられるのではとわたしはとらえていました。
そこで、あちこちにこの項への参照を求めていたのですが、とりわけ「ICFの個人―環境の関係」ということを押さえる作業をしておきます。
アリストテレスの「質料―形相」概念から近代知の地平では「実体―属性」概念へ変遷してきているのですが、これはICFの個人―環境の関係でいえば、環境ということは、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」にいう、「関係性の総体」の謂いで、わたしが認識論的に影響を受けた、廣松渉さんの言葉を借りれば「関係性(それを物象化したことが「社会」や「環境」(註18))という網の、網の目が個人」ということになります。旧来の認識論では、個人が寄り集まって社会を構成しているととらえられるのですが、そうではなくて、あくまでも関係性総体・網が先にあり、その結節態的網の目が「個人」としてとらえられることです。ここで、勿論、「網」といったら、それ自身物象化を避けられないので、「もの」的にとらえられる(註 構造主義の「構造の物象化」、それを避けようと「構造変動」という概念を持ちだしています)のですが、無限に拡がる網という言い方をしても尚、それを押さえたところで、「もの」的世界観から、「こと(関係態)」的世界観への転換が必要になります。
障害は「もの」ではなく、関係態の中で、「できないこと」が個人という物象化した「もの」―この場合は「者」に内自化する「属性」として「もの」的にとらえられるのです。
実体―属性という実体主義批判、物的世界観から事的世界観への転換という廣松渉さんのパラダイム転換論を説明するには本1冊でも終わらないので、別に展開せざるをえません。
ただ、私的所有論とつながる「もつ」という概念への論究を進めます。これは、ゲシュタルト心理学のルビンの白黒図形で、その境界線をどちらが「もつ」のか、すなわちどちらに内自化されるのかで、白黒反転がおきるのです。これは、「個人」と「社会」を実体化したところで、「属性」としての「障害」―障害をどちらがもっているとするのか、ということで反転が起きているととらえられます。この反転の事例は、たとえば、山本おさむさんが「遙かなる甲子園」というろう学校高等部が甲子園を目指して、その障害である、排除規定をとりのぞかせる運動やスポーツの奮闘を描く漫画を描くために、手話サークルに通い手話を学んだ経験から、「私は手話ができないという障害を克服しました」と語っている反転に示されています。また、そもそもゲシュタルト心理学の図―地関係で、ノーラ・エレン・グロース『みんなが手話で話した島』築地書館1991で聞こえないということが図として浮かび上がらない事例を示していることがあります。「障害」が浮かび上がらない関係ということは、竹内さんの「分離」以前に、どうしたら「障害」が「障害者」がもっている「もの」として浮かび上がらない世界を築けるのかということを考えることが必要なのです。
それはそもそも、ICFの障害規定の中に、「標準的」という言葉にその限界―論理破綻が示されているとわたしは感じています。これは、竹内さんの文献の中にマルクスの本が挙げられているので、そこにリンクしていくと、『資本論』のなかにある「標準的人間労働」という概念が出てきます。資本主義は機械制工場生産様式として進んで行く中で、「標準的人間労働」を獲得するために、公教育を推進し、「障害」規定も進めていきます。そこで、それまでの個別「できないこと」を表していた言葉(盲、ろう、「いざり」・・・)から「障害者」なる概念が形成されていったのです。空間的分離の中で、技術的なことで、「障害」が浮かびあがらないこともありえますが、資本主義社会の「標準的人間像」をなくさないがきり、資本主義社会の止揚なくして、障害規定そのものはなくなりません。
竹内さんの「それは個性の一部であり、それを切り離す」という分離論は一定の有効性はあるとしても、「標準的人間像」が在り続けるかぎり差別から逃れられないのです。
わたしが「吃音者」の団体で活動しているときに、そこでほとんど話をしないで聞いてるだけでしたが、一度だけ差別ということを語ったことがあります。そこで、大学生がいて、自分の体験を語ってくれました。その「吃音者」は練習をすればそれなりに言葉が出るひとだったのですが、卒業研究発表で、練習を積み重ねそれなりにうまくいったそうです。それで、またゼミか何かで、話をするときに「吃音」がかなり出たときに、教員から「君は努力すればできるのに、なぜ、また戻ったのか」と見放された、これは「ア・パート・ヘイト」(「アパルトヘイト」のもじり)なのだ、わたしの一部分を憎む(否定する)ことで、自分の存在が否定されるという話をして、「わたしは努力することによって自分で自分の首を絞めたのだ」という話をしてくれました。勿論、「吃音の啓蒙」とか竹内さんの分離という手段はいろいろあるし、そもそも「吃音」は二つの言語規範、ひとつは、ひとは音声言語で会話をすべきだ、もうひとつは、「音声言語には或る一定の流暢性が必要」というところで差別されることなので、たとえば手話の世界に入ると、「吃音」は浮かび上がらないし(註19)、在宅ワークでメールでやりとりをするときも、浮かび上がらないのです。だからだと言って、「標準的人間像」そのものはなくなったわけではないので、差別がなくなるわけではないのです。「吃音者」はマージナルパーソン的な存在なので、介助を日常的に必要とする「障害者」とは違うという意見もでるかもしれませんが、そもそも「標準的人間像」なることは、労働力の価値としてメニューなることがあって、しかもひとりできねばならない、とされているのです。それ自体が今の社会の差別の構造なのです。
(7)まとめ
さて、竹内さんは、「障害」そのものは否定的だけど、それは分離しえる場合があるとしています。わたしはそもそも、それ自体があやしいことだと思っています。たとえば、手話を学んだ聴者の中には、聞こえないひとに音楽の楽しさを教えてあげたいなどというとんでもないことを言い出すひとが居ます。そもそも、生まれた時から聞こえないひとは、音楽など楽しみたいとは、他者から刷り込まれない限り思いはしないのです。むしろ、歌いながら手話をする聴者の突きだしに抑圧性を感じ、「ストップ・ザ・ミュージック」という突きだしもなされています。手話の世界には、その文化の豊かさや楽しさがあるのです。また、「認知症」と規定されるようになった、オーストラリアのクリスティーン・ボーデン(『私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界』クリエイツかもがわ2003)は、「自分は官僚時代に、部下にどうして同時に二つのことができないのだと攻めるようなことを言っていた。そういう嫌な人間であったことを、認知症になることによって脱することができたことを喜ばしく思う」というようなことを言っていました。そのような語りは、「中途障害者」になったひとからも出ていますし、また、「障害児」をもった親からも、出産時に「障害児」になった直前には、否定的な思いをとらわれる中でも、そこから脱して、「生まれてきてくれてありがとう」というような思いに至る親もでてきます。これは所謂反転というようなことですが、『自閉症だったわたしへ』新潮社1993の著者ドナ・ウィリアムズは、その「自閉症者」の非「障害者」とは別の文化・世界を描いています。何かパラレルワールドということを想起させるのですが、わたしはむしろ、今の非「障害者」中心の世界が矛盾に充ちた世界で在り、それを是正することの水先案内人が「障害者」ではないかとさえ思えるのです。
さて、もうひとつ、この本の文献表を見ていて、不思議に思っていたことがあるのです。それは立岩真也さんの本がないのです。立岩さんは、倫理社会学とでも名付けるような分野で、竹内さんの論考と重なるところがあると思うのですが、なぜか、一つも文献としてあげられていません。彼は、「障害は、ないにしこしたことはないか」というところで論考を展開しています。わたしとしては、「「障害の否定性」を否定する」というところで共鳴していたのですが、彼の論考との対話の中で、竹内理論の更なる深化がかちとれるのではないかとも思えるのですが、どうなのでしょう?
もうひとつ、能力の問題で最近起きてきている事態があります。それは、コモンという概念の広がりです。新自由主義的合理化の推進の中で、公共事業を民営化しようという動きに対して、インフラをコモン(公共財)としてとらえ、それを守る中で、地域自治というところから、この矛盾に充ちた社会を変革していこうという動きがでています(註20)。わたしは、能力自体をコモンとしてとらえるところから、その道筋を示せるのではないかと考えたりしています。
(8)補論―「障害者運動とフェミニズムの二律背反的対立」について
わたしは「障害者運動」に関わってきたのですが、「障害者」の中には、親による「障害者」殺しや、フェミニストの「産む−産まないは女が決める」という標語で中絶の権利を突き出すことと、出生前診断で「障害児」と分かると、90%以上のひとが中絶するという事態があり、そこで対立の図式が生まれていることを、アンチノミーとしてとらえる事が出ています。他にも、遺伝子操作技術による「治療」とか、人工授精技術の普及とか、iPS細胞の技術なども出てきます。竹内さんは、この本の中でバイオテクノロジー関係のことは細かくはふれていませんが、それらのことは、この本の中で書かれている論攷から波及できるとしているのでが、「障害の否定性」はあながち否定できないとしているところや、「子どもを産める環境」論では解決できないとしていますし、それらのことをアンチノミー的にとらえているところからは、波及できません。押さえは、すでにフェミニズムと「障害者」運動側の議論として「「子どもの属性」を調べて(知って)選択的に中絶するということは許されない」というテーゼがでています。それをしていると、男か女かを知って、選択的に中絶することも許すことになります。そこにそもそもフェミニズムが問題にしてきた差別があるのです。また、フェミニスト自身も高齢になったときに、親族による(高齢で中途「障害者」になった時の)「障害者」殺しを容認することになりますし、そもそも遺伝子診断をして、精子や卵子に「障害因子」があると子を産むことが許されないとか、自分の子宮で子どもを大きくすることができるひととそうでないひとの分業のようなことが生殖技術の「進展」の中で起きてきていることも含め、更にデザイン・ベービーとか、遺伝子を残せるひととそれが「許されないひと」とかの分断が起きてくるのです。そもそもフェミニズムの運動が、人種・民族による分断にどう対処することを考えないと、運動は破綻しますし、その一端としての「能力」による差別を問題にせざるを得ないのです。その「能力」による差別の極として、障害問題があることを押さえれば、フェミニストは性差別だけを語るのだとしていたら、「能力」ということでむしろエリート女性が「あんたたちがそんなことを言っているから差別されるのよ」というような言説で性差別者として出てきてしまうし、性差別におけるマイノリティ問題のLGBTQで抑圧者として登場してしまう恐れさえでてくるのです。他にもアンチノミー的な論及がでているのですが、わたしはもっと深くとらえていくと、ほとんどアンチノミーは解けるのだと想っています。
すべり坂理論批判についてのコメントがあるのですが、それは情況分析概念として出てきているのであって、竹内さんにとって、それを止めるのが倫理だという話になるのでしょうが、マルクス派の押さえとして、マルクス倫理学ということは存在困難なのです。なぜならば、唯物史観的に社会科学的なところから、差別を語っていくからです。
さて、わたしはいつも批判ばかりしていると批判されることがあり、批判より共鳴的な論攷をとも思うのですが、わたしは自らの論の検証を求めて、論的深化を希求しているので、敢えて、否定的批判を書いています。
ここで、いつものように目次をあげ、共鳴的な部分をいつもの抜き書き的に書いておくことなのですが、余りにも厖大になっているし、パラダイムの違いのような話も多々あり、とても、書けません。機会があれば、この本を使って学習会などをするときに、そのようなことを果たせたらとも思っています。
(註)
1 三村洋明『反障害通信――障害問題のパラダイム転換のために――』世界書院2010
2 最近「通信」159号の「編集後記」で書いた文につながるとして補足転載します
――-ここから過去文の引用です――
およそ生産活動や労働力において、最も、「能力を個人がもっている」と「錯誤」してとらえられやすい事例は芸術的才能と言われることです。ピカソの才能なることで、『廣松渉著作集』の解説で、高橋さんが書いた文の中に、そのような文を見つけました。/「たとえば絵を画くという「力能」はピカソという人間に内具・内在しているのか、という問いを立てることができるであろう。答えは、もちろん否である。/まず第一に、絵画「力能」、具体的には@美意識や美的センス、ないし絵画形式で表現したいとピカソが思っている諸観念、Aそれを絵画形式で表現する技術などは、ピカソがそのつどの生の営みを行う中で形成されてきたものである。ピカソに限らず、誰の場合でもそうだが、「生の営み」ということの中には、多種多様な要素がギッシリと詰まっている。生きるということ自体、衣食住をはじめとして肉体的にも精神的にも「人々の対自然的かつ相互的な関係」の恩恵をこうむっており、生きるとは生きさせてもらっているということである。このような基本的真実はいま脇に置いて、当面の文脈で必要な最小限の要素だけを取り出しても、@ピカソ以前の時代の、あるいはピカソと同時代の画家たちの作品を鑑賞し研究して、そこからさまざまなものを学んだり摂取したりすること、Aそのつどの自然や社会のあり方、人間模様などを、つまりは世界を観察すること、こうした@見る眼とA見る対象からして、そのつど一定の(ピカソ自身に限っても何年何月何日に、どこそこで、だれと、どんな具合に、という、そのつどの特定性を帯びた、また、もっと大きくいえばブリューゲルの生きた時代や社会・生活環境、そして目にすることのできた絵画作品群など、とは違った)社会的諸関係に入り込みつつ絵画する者として生きる中で得られたものであり、つまりは「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産である。/表現技術にしても同様である。@師匠から教えを受ける場合、師匠が一人のときは、「人々の」対自然的かつ相互的な関係いう言い方はできないが、しかし、少なくとも、師匠が現に師匠としての「地位」を獲得し得ている事態をも考慮に入れると、その「地位」は人々による評価の積み重ねの所産として、やはりさまざまな形での「人々」の対自然的かつ相互的な関係の所産であるという理屈が成り立つ。Aたとえ師匠の教えを受けずに独力で表現技術を磨いたという場合でも、作品がそのつど受け手たちにどのように受け止められるかに応じて磨き方が違ってくるという意味で、そして受け手たちに評価されないような磨き方にいくら精出したところで表現技術としては無であるという意味でも、やはり「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産である。/第二に、右のような絵画「力能」が一定の歴史的・社会的・文化的な形成体(「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産)としてであれピカソという人間に「内具・内在する」に至ったと仮定しても、しかしそれを表出するには表出する手段(カンヴァス、絵の具、鉛筆などの画材)が必要である。表出されない「力能」は無であり、断じて「力能」などではない。それはちょうど、みずからの生産手段を所有しない賃金労働者の場合、その労働力は当の労働者が資本家に雇用されて生産手段と出会うまでは無であるのと同様である。画材はメーカーや職人たちの生産物であり、そして生産物を生産するには原材料が必要であることを考慮すればなおのこと、画材は「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産であることは明らかである。画材なしには絵画「力能」は表出しようがないから、それは「無」「力能」であり、やはり絵画「力能」はピカソという人間に内具・内在しているのではないということになる。/第三に、これらの諸要件が満たされてようやく作品が出来上がったとして、ではその作品が受け手にどのように受け止められるか、つまりピカソの当該作品に関する絵画「力能」がどのように評価されるかという段になるが、ここでもやはり、先ほども関説したように「人々の対自然的かつ相互的な関係」のあり方次第で「力能」の有無が岐れる。受け手たちに表されれば「力能」有りということになるし、そうでなければそうでない。しかも、評価の基準(「間主観的な美意識」)そのものも一定の歴史的・社会的・文化的な形成体である。つまり「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産であるいう事情が加わる。/このように多様な、幾重もの「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産として、三要件が揃ってはじめて絵画「力能」は存在する。けっして画家に内具・内在しているのではない。」425-7P(「解説 高橋洋児」(『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』岩波書店1996所収)
3 これは実は後述する発達保障論の論議と同様な疑問が出ているのです。そもそも分離以前に、そもそも、その否定的なものが歴然としてあるのか、という問いもでてきます。これも(6)で展開します。
4 イギリス障害学の「社会モデル」を明文化しないで論じることによって曖昧になっていることがあるので、わたしなりにとらえ返した文にしておくと、「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁(と抑圧)である」となります。「(と抑圧)」という文は直接は見出せないのですが、わたしが付け足したこと、なお日本の「障害者」でも同じようなことを言っているひとがいました。これは、「何々すべし」という「標準的人間像を描き、それに近づくべし」という論理でする抑圧です。なお、「社会が障害をもっている」というのは、オリバーが「個人が障害をもっている」ということを反転させてみせた論攷からきています。
5 これは、オリバーなどのイギリス障害学の第1世代に対して、モリスらの第2世代と言われるひとたちが、「第1世代のひとたちは、障害者の現実の生きがたさをとらえていない」と批判したことを指しています。ただ、わたしからとらえ返すと、「ひとはひとりで自立して生きて○○ができなければならないという標準的人間像に囚われている」というまさにマルクスのいう、物象化(「社会的関係を自然的関係としてとらえる」医学モデル的「障害」概念への逆戻り)に陥っているのです。
6 それで、結局は医学モデルに舞い戻ってしまったのです。確かに、「社会モデル」に不備はあったけど、それを関係モデルとしてパラダイム転換しきることだったとわたしは押さえています。
7 訳語は、一般的に使われてきた訳語を用いています。著者は新しい訳語を当てていますが、ICIDHはもはや使われていず、医学モデル的「障害」概念、「社会モデル」的障害概念とすれはいいだけだということで、訳語の更新の必要性は感じないのです。
‘障害’にあたる英語が多々あることについては、「障害ってなーに? 障害ということを根源的にとらえなおす」http://www.taica.info/wdl.pdf「9章 障害の医学モデルから「社会モデル」への転換」の「和英辞典からみる障害」の項参照。
8 これは(6)で展開する「実体――属性」論論件先取になっています。
9 そもそもは英語で表されるICIDHの障害三規定、バリアー、ハードル、それらを‘障害’という詞で表そうとして起きていることで、それを漢字の‘碍’とかひらがな表記で区別化しようとしているのですが、わたしはきちんと整理していく必要があると思っています。端的な例は、「点字ブロックの上に自転車を置くと、白状を使って歩くひとの障害になる」という表現です。これがまさに「社会モデル」的な考え方なのです。点字ブロックの上に自転車を置くことはいけないこと、悪いことなのです。わたしは「障害者」規定は他者(差別社会)規定で、規定されるひとという意味で「」を付けて「障害者」と表記しています。
10 杉野さんは、「障がい者制度改革推進会議」に出された意見書の中で、イギリス障害学の「社会モデル」とアメリカ障害学の「社会モデル」の違いを明確化されています。
11 パラダイム転換の例としてよく出されるニュートン力学から量子力学への転換においても、その過程でアインシュタインの相対性理論やマッハ哲学・物理学がありました。
「社会モデル」は医学モデルから障害関係論―障害の関係モデルへの転換の過渡としてわたしはとらえています。「「社会モデル」は、社会を実体化してしまっている」という実体主義批判の脈絡で批判し、パラダイム転換は関係モデルとして成しきることなのです。
12 大学の教養の物理学で、最初に「君たちが高校までに習った物理は全部わすれてください」といわれたことを闡明に憶えています。
13 構築主義やマルクスの流れの物象化批判として出ています。
14 エンゲルスの「弁証法の三法則」という図式化で「対立物の相互浸透」という概念があるのですが、まさにその論理なのです。これは法則ということの物象化です。これも論件先取になるのですが、まさに発達保障論の「発達の弁証法」という法則の物象化と同じパターンなのです。
15 発達保障論は、「障害者」に関係する学者・教員・親たちの集まりの全障研で、「障害児も無限の発達の可能性をもっている。それを保障するのが、周りのものの役割だ」として、その発達を「発達の弁証法」(法則の物象化・絶対化というヘーゲル弁証法への舞い戻り)として展開したところで、ほとんど「発達」ということで「変化がないとされる」ひとたちへの抑圧の論理になっていく、またもともと「何々すべし」という抑圧の論理になっていると、それを否定して「障害個性論」を突き出していく「障害者」運動関係団体と衝突していくことになりました。ここで、竹内さんは、まだ発達保障論を「縦への発達・横への発達」という概念で活かそうとしています。結局医学モデルから抜け出せていないことの一事例なのです。そもそも「社会モデル」や関係モデルでとらえるとどうなるのか、「縦への発達」があるかぎり抑圧の論理になるし、横への発達は、第二次障害への取り組みとして、社会を変えるという内容を孕んでいるとしても、医学モデルとの対峙をきちんとやりきれないと、「発達障害」と規定されるひとたちへの抑圧の論理になりかねません。
16 自民党政権は、分離教育をインクルーシブ教育とまで言い募っているのですが、発達保障論者は、同様に専門的教育が必要だと、分離は差別だという世界的インクルーシヴ教育の概念をそもそも踏み外しているのです。(誤解の無いように書いておきますが、教育言語の違いで分離する、たとえば手話による教育で、分離することは、また別問題です。)
17 茂木俊彦『障害児と教育』岩波書店(岩波新書)1990
18 これは「社会」と「自然」という二項対立の中で、「自然」という概念を持ち出すために、「環境」という言葉を使っているのでないかと推測されます。マルクスの「社会化された自然」概念でいえば、直接「社会」概念だけで済むことです。
19 わたしは、これは手話が言語あるとことの証左となると思うのですが、手話にも音声言語の「構音障害」「吃音−流暢性の障害」に類比しうることはあると思います。「吃音」という手話に似た手話ネームを持つろう者がいて、その手話を見ていると「手話の吃音」を思わせるのです。
20 「もの」ではなく「こと」 私的所有物ではなく、共有事として使っていくこと
・竹内章郎『いのちと平等をめぐる13章――優生思想の克服のために』生活思想社2020
竹内さんの本は以前読んで、「能力を個人がもつものと考えない」ということに共鳴し、繰り返し引用させて貰っています。そんなに長くないので、全文、掲載します。
――-ここから過去文の引用です――
たわしの読書メモ・・ブログ108
・竹内章郎『いのちの平等論―現代の優生思想に抗して』 岩波書店 2005
差別的論理を批判し尽くそうという意欲作です。しかも哲学的なところと対話をし、問題を掘り下げようとしています。
優生思想というところを「能力を個人がもつものと考えない」(わたし的に言えば能力の個への内自有化―実体主義批判)というようなところから批判していることもあり、かなり共鳴しつつ読んでいました。「能力に基づく差別ということの廃棄」というところまで踏み込んで、差別の問題をとらえようとしている、そしてそれが資本主義社会の差別の根源にあるというとらえ返し、まさに意を得たりという思いももてました。
ただし、発達信仰への批判はあるにせよ、どうも発達保障論にひきずられて、発達概念自体をほりさげてとらえていず、今一つ煮つめ得ていないとの思いがあります。もうひとつは差異論、筆者からも「物象化」という言葉も出てきて、かなり共鳴しつつ読んでいたのですが、結局差異論が煮つめ得ていないのです、とんでもない「ないものねだり」ですが、たぶん廣松さんあたりが入れば、・・・わたしがシンクロナイズしていくのだと思ったりしているのですが、結局、竹内さんの論攷は「障害をもつ」という論理に至りついています。
そして、さらにもうひとつ。そもそも筆者も倫理主義批判をしていたところから、倫理というところへ陥っていったよう。どうしてそこに至ったのかわたしとしては興味深いのですが、・・・。そのあたりで、マルクスには平等論がないという批判を出しています。以前、花崎さんがマルクスには人権論がないというようなことを書いていたこととリンクするのですが、そもそも、「自由、平等、博愛」というフランス啓蒙思想への批判を資本主義社会の論理から来ていることとしてマルクスが批判していたことをどうとらえるのかの問題であり、たぶん唯物史観あたりの問題なのではないかとわたしはあたりをつけているのですが。筆者は論文をあちこちに書いているので、そのあたりをあたっていきたいとの思いもあるのですが・・・。
ともかく優生思想の勉強会に使えば、そこからいろんな課題がとらえられ、論が深めていける貴重な資料だとも思っています。(赤字 今回校正)
――-ここまで過去文の引用終わり――
さて、今回の本(ブログ688の本)との対話の論点をいくつか出してみます。
(1)「能力を個人がもつものとは考えない」ということ
このあたりは、四半世紀くらい前に出会った文、「たわしの読書メモ・・ブログ174 /・中川 明『「原則統合」への道すじを探るV 《憲法26条にいう「能力に応じて」と「普通教育義務」とは?》』「障害児を普通学校へ・全国連絡会」制作編集(ブックレット・・なぜこの学校に行けないの?O)1999」を読み、そのころから、「能力を個人がもつとは考えない」ということを考えはじめたのです。
で、2010年に出した本(註1)の中で、「第10章 障害差別の根拠は何か/2節 能力とは?」にこの論攷への一文を書いています。
――-ここから過去文の引用です――
以前、運動関係の小さいパンフレットの中で、「えっ、すごい」と思うようなフレーズに出会いました。
それは「能力を個人のものと考えない」という一文です(註9)。
およそ、今の社会の世界観とは遊離した考えかたです。そして、この考えこそが近代知の個人―個性(実体―属性)というパラダイムを転換しうる内容ではないかと思ったのです。
さて「個人の能力」といわれることはどのようなこととしてあるのでしょうか?
ひとの「社会」は膨大な知を集積し、インフラを形成してきました。一人のひとはその一部に関与し、「社会化」ともいわれるいろいろな働きかけを受けながら、知識を「わがもの」にします。そしてその中で、協働作業の中でほんのわずかな新たな知のつみあげをなし「社会」に関与します。
ところで、協働作業の中で何か「これはわたしだけのものだ」と自己の占有を宣言しえることがあるのでしょうか? 芸術と言われることに「言えなくもない」ことはあるかもしれません(註2)。でも、それも一つの歴史の中の文化の中で、ひとつの環境や働きかけの中で育てられたことなしにはありえなかったと言いえるでしょう。
ところが、不思議なことに「特許」なるものがあります。
特許といわれることのベースは膨大な知の集積です。その上にほんのわずかな協働作業の積み上げがあります。それがなぜ、ときには何憶円で売買される特許になるのでしょうか?・・・・・・
ちなみに(註9)は、
★9 中川明『原則統合への道すじを探るV《憲法26条にいう「能力に応じて」と「普通義務教育」とは?》』障害児を普通学校へ・全国連絡会 1999年。ただ、今回再度読み直していて、この論考は認識論的に掘り下げた文というより、ロールズあたりの正義論―分配論として展開されていることで、認識論的にとらえ返しから問題にしているわたしの意識性とのズレも感じていました。
――-ここまで過去文の引用終わり――(註1) (註2)は今回の(註)
竹内さんの「ブログ108」の本を手に取ったのは、2010年の本を出版した後です。だから中川さんのパンフはわたしの本の献表に入っていますが、竹内さんの本は入っていません。
竹内さんの最初の読書メモ「ブログ108」で取り上げた本の、メモの中で、「筆者は論文をあちこちに書いているので、そのあたりをあたっていきたいとの思いもあるのですが・・・。」と書きつつ、「・・・」の意味でもあったのですが、わたしの倫理学批判志向のなかで、結局そのまま「あたってい」かないままでした。今回、ある論文のなかで参考文献に当の本をとり挙げていたので、対話の必要に駆られて、読んで読書メモを書いている次第です。
(2)「障害をもつ」について
この本との対話の核心は、「障害をもつ」――「能力をもつ」ということとの対話です。このあたりはわたしには「持つ」という概念に関わるパラダイム転換論と繋がるのですが、これは最後の(6)に書きます。
竹内さんは「障害をもつ」と「能力をもつ」というところで、前者は個人がもつと一応押さえるところから、それを関係論的とらえ方から、「分離論」を展開し、再規定しています。ここで「個性論的」な押さえが出てきます。
そもそも「個性論」と言っても色んな突きだしがありました。竹内さんの押さえは、「障がい」は個性のひとつであることで、それでそのひとを全規定するのはおかしい、という論理です。そのひとつの個性自体は否定的なことだけど、それは介助などで「できない」ことをなくせる、すなわち「分離できる」という、「分離」概念をつかった論理になっています。ですが、分離できないときにはどうするのかという問題が残ります(註3)。このあたりは、ちゃんと書かれていませんが、‘障害’の‘害’を‘がい’とひらがな表記したのは、「ひとつの個性自体は否定的なこと」というところで、‘害’という文字が否定的ニュアンスがあるので、ひらがな表記にしようという、一部「障害者」の主張を受け入れたことだと推測されます。
さて、もうひとつの「個性論」的突き出しは、「「ひとの個性」にマイナスとかプラスとか価値付けをするな」ということです。これは、そもそもひとの能力を価値付けする資本主義社会自体を批判する内容を孕んだラジカル(根源的)な突き出しでした。
さて、そもそも「能力を個人がもつものと考えない」とするなら、初めから、「障害」も個人がもつものと考えない、というように考えられないのでしょうか?
(3)「もつ」をめぐる障害規定の論議
ここで、障害規定の必要性に迫られます。そもそも過去の障害概念をめぐる議論をきちんととらえ返す必要に迫られるのですが、竹内さんのこの本の中には、イギリス障害学の「社会モデル」が出て来ません。杉野昭博さんの本が文献表にありますから、そこで、イギリス障害学の情報は押さえていると思います。イギリス障害学は、障害概念を反転させました。反転という概念は、ゲシュタルト心理学のルビンの図形を持ち出すと明らかになります。簡単にいうと、「「障害者」が「障害」をもっている(医学モデル)のではなく、社会が障害(障壁)をもっているのだ」(註4)ということになるのです。このあたりの話は、竹内さんが取り上げているICIDHの障害概念への批判が起こり、改定作業が始まったという歴史を押さえる必要があります。ICIDHが因果論になっているとして、それを「社会モデル」の概念を入れて廃棄・改定(止揚)していく作業に入りました。で、そのときに、イギリス障害学への批判が起きていて(註5)、結局整理に失敗したのです。一応、ICFという形にまとめられたのですが、整理されていないという自覚があったのでしょうか、「障害者権利条約」の議論のさいは、障害規定の議論をしていたのでは、条約の発効ができなくなるとして、規定をしないということで進んでしまいました(註6)。
ところで、わたしも、ICIDHの概念は使っています。それはimpairment(機能障害)が医学モデルとしての「障害」概念として、disability(能力障害)を「社会モデル」的障害概念としてです。ところで、handicap(社会的不利)は、イギリス障害学では使われていません。なぜなら、「社会モデル」では反転させたので、必要のない概念になったのです(註7)。
ちなみに、「社会モデル」は、「個性論」を否定することになります。「障害者が障害をもっている」という「医学モデル」で、「個性論」がでてきたのですから、「社会が障害をもっている」となると、「障害者」がもっている「個性」(――属性(註8))ではなくなります。
ところが、前述のひらがな表記に対しては、「社会モデル」からすると、障害――障壁はいけないことなので、悪いイメージをむしろ積極的に突きだすことです(註9)。そのような反転させた「障害の社会モデル」の意義をだいないしにする、表記になっています。
さて、先述した杉野さんは、アメリカ障害学も「社会モデル」として突き出しています(註10)。この錯認は、杉野さんのみならず、他のひとたちも囚われていて、そこで大勢がすすんで行っています。端的な例は、イギリス障害学の「障害者」表記は、disabled peapleでアメリカ障害学がpersons with disabilityです。ICFも「障害者権利条約」も英語でアメリカ障害学の障害規定を採用したのです。何が問題なのかというと、disabledは受動詞の形容詞的使用で、直訳すると「出来なくさせられている」という意味になります。すなわち、まさにイギリス社会学の反転させた、「社会が障害をもっている」ということに通じる表記だったのです。誤解の無いように書いておきますが、「障害の社会モデル」は障害関係論に転換しきるための過渡の理論として、わたしは押さえています。「個性論」は、「障害者」が「愛される障害者像」や「障害の克服」という概念にとからめとられている中で、反差別という観点をもって開き直り的に突き出した、「障害者運動」を進めるのにバネになった理論だったことと類比しえます。
竹内さんの「社会モデル」はどうも、イギリス障害学の「社会モデル」ではなくて、アメリカ障害学の「社会モデル」、もしくは、「社会モデル」を宣揚しつつ、結局医学モデルに舞い戻った曖昧模糊な「社会モデル」ではないでしょうか?
(4)ICFの障害規定の問題性
ICFは最初ICIDHが因果論になっていて、医学モデル的「障害」があるから、能力障害や社会的不利がおきて来るということをとらえ直す作業として、ICIDH―2として議論されていました。それを、ICFとしてまとめ直しました。そこで、医学モデルと「社会モデル」を統合したと称しているのですが、「社会モデル」は「社会が障害をもっている」として医学モデルを反転させたもので、どうして統合できるのでしょう? そこにはパラダイム転換的なことの胎動的内容(註11)をもっていたのです。パラダイム転換の例に出されるのは天動説から地動説への転換ですが、どうしたら天動説と地動説を統合できるのでしょう。また、現代化学における最大のパラダイム転換の例でいえば、ニュートン力学と量子力学へのパラダイム転換がありますが、ニュートン力学と量子力学の統合などという論議をわたしは知りません(註12)。
さて、それらの論考は、ICFの「個人」と「環境」との相互関係的とらえ方にも及んでいきます。そもそもICFの相互関係論は、「個人」と「環境」の相互関係の中身がとらえられません。そもそも二項対立図式が現代哲学(註13)で批判されてきたのに、見事に二項対立図式に陥っています。
竹内さんは相互関係論を展開されているのですが、それは個人と環境(もしくは社会)が別個に存立するという実体主義――物象化にとらわれているのではないでしょうか?(註14)。
(5)「垂直的発展―水平的展開」について
さて、この本の中で、竹内さんは極めてオリジナルな論展開をしています。13章の「出来事の理由、社会・文化の<垂直的発展>から<水平的展開>へ」です。実は、わたしはこれをこの本を読むきっかけになった論文の中でこの文字をみて、全障研の「縦への発達、横への発達」という概念とリンクしてしまいました。全障研は、発達保障論(註15)を突き出し、「個性論」、それを生み出した反差別的「障害者運動」の流れを「障害者運動の攪乱者」とまで批判し、当時制度化が進められる養護学校義務制を政府・自民党と一緒になって推進しようとしていました(註16)。竹内さんも「Segregate is not equal 」192Pという概念を使って批判している分離教育そのものなのです。で、「個性論」を批判を撤回する文(註17)やその支持協力関係にあるひとから、「個性論」がでるに及んで、発達保障論そのものは破綻したと思っていたのですが、まだSNS上で振り回すひととの議論から、改めて全障研の出版物にあたっていたら、「縦への発達、横への発達」という概念が出ていました。この「横への発達」ということは、「第二次性の障害」を取り除くなり、社会を変えるということを孕んだ概念の突き出しかなとも思えるのですが、そもそもの「発達保障論」の「縦への発達」の抑圧性の指摘をうけた総括、とりさげがなされていません。竹内さんのこの本の中では、発達保障論への言及がなされていません。無用な対立をさけるとか、影響を与えて、それなりに修正しているようで、それで良しとされたのかもしれません。で、直接問い合わせることかもしれませんが、とりあえず推測として、竹内さんの論攷「垂直的発展−水平的展開」を全障研のひとたちが、発達保障論の修正として取り込んだのかと思っています。
この論展開は、わたしは色んな形で応用できることかとも想ったりしています。たとえば、縦軸を生産力・技術の発達として、水平軸を反差別的関係性の構築として、より社会の構築へ向けて、と提起していく図として、考えられます。ただ、そもそも資本主義社会において、「生産力・技術の発達」がむしろ矛盾を深めていく構図をみると、資本主義社会を止揚した未来社会のあり方の図となるのかもしれません。
(6)認識論的押さえ――「なぜ@」の議論の必要性
著者は論展開の基本的姿勢に関わる文を残しています。「なぜ@」と「なぜA」という形で展開しています(238P)
これに照らすと、「なぜA」は倫理学、「なぜ@」は哲学的論考を含んだ認識論的掘り下げや社会学、と押さえられるのではとわたしはとらえていました。
そこで、あちこちにこの項への参照を求めていたのですが、とりわけ「ICFの個人―環境の関係」ということを押さえる作業をしておきます。
アリストテレスの「質料―形相」概念から近代知の地平では「実体―属性」概念へ変遷してきているのですが、これはICFの個人―環境の関係でいえば、環境ということは、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」にいう、「関係性の総体」の謂いで、わたしが認識論的に影響を受けた、廣松渉さんの言葉を借りれば「関係性(それを物象化したことが「社会」や「環境」(註18))という網の、網の目が個人」ということになります。旧来の認識論では、個人が寄り集まって社会を構成しているととらえられるのですが、そうではなくて、あくまでも関係性総体・網が先にあり、その結節態的網の目が「個人」としてとらえられることです。ここで、勿論、「網」といったら、それ自身物象化を避けられないので、「もの」的にとらえられる(註 構造主義の「構造の物象化」、それを避けようと「構造変動」という概念を持ちだしています)のですが、無限に拡がる網という言い方をしても尚、それを押さえたところで、「もの」的世界観から、「こと(関係態)」的世界観への転換が必要になります。
障害は「もの」ではなく、関係態の中で、「できないこと」が個人という物象化した「もの」―この場合は「者」に内自化する「属性」として「もの」的にとらえられるのです。
実体―属性という実体主義批判、物的世界観から事的世界観への転換という廣松渉さんのパラダイム転換論を説明するには本1冊でも終わらないので、別に展開せざるをえません。
ただ、私的所有論とつながる「もつ」という概念への論究を進めます。これは、ゲシュタルト心理学のルビンの白黒図形で、その境界線をどちらが「もつ」のか、すなわちどちらに内自化されるのかで、白黒反転がおきるのです。これは、「個人」と「社会」を実体化したところで、「属性」としての「障害」―障害をどちらがもっているとするのか、ということで反転が起きているととらえられます。この反転の事例は、たとえば、山本おさむさんが「遙かなる甲子園」というろう学校高等部が甲子園を目指して、その障害である、排除規定をとりのぞかせる運動やスポーツの奮闘を描く漫画を描くために、手話サークルに通い手話を学んだ経験から、「私は手話ができないという障害を克服しました」と語っている反転に示されています。また、そもそもゲシュタルト心理学の図―地関係で、ノーラ・エレン・グロース『みんなが手話で話した島』築地書館1991で聞こえないということが図として浮かび上がらない事例を示していることがあります。「障害」が浮かび上がらない関係ということは、竹内さんの「分離」以前に、どうしたら「障害」が「障害者」がもっている「もの」として浮かび上がらない世界を築けるのかということを考えることが必要なのです。
それはそもそも、ICFの障害規定の中に、「標準的」という言葉にその限界―論理破綻が示されているとわたしは感じています。これは、竹内さんの文献の中にマルクスの本が挙げられているので、そこにリンクしていくと、『資本論』のなかにある「標準的人間労働」という概念が出てきます。資本主義は機械制工場生産様式として進んで行く中で、「標準的人間労働」を獲得するために、公教育を推進し、「障害」規定も進めていきます。そこで、それまでの個別「できないこと」を表していた言葉(盲、ろう、「いざり」・・・)から「障害者」なる概念が形成されていったのです。空間的分離の中で、技術的なことで、「障害」が浮かびあがらないこともありえますが、資本主義社会の「標準的人間像」をなくさないがきり、資本主義社会の止揚なくして、障害規定そのものはなくなりません。
竹内さんの「それは個性の一部であり、それを切り離す」という分離論は一定の有効性はあるとしても、「標準的人間像」が在り続けるかぎり差別から逃れられないのです。
わたしが「吃音者」の団体で活動しているときに、そこでほとんど話をしないで聞いてるだけでしたが、一度だけ差別ということを語ったことがあります。そこで、大学生がいて、自分の体験を語ってくれました。その「吃音者」は練習をすればそれなりに言葉が出るひとだったのですが、卒業研究発表で、練習を積み重ねそれなりにうまくいったそうです。それで、またゼミか何かで、話をするときに「吃音」がかなり出たときに、教員から「君は努力すればできるのに、なぜ、また戻ったのか」と見放された、これは「ア・パート・ヘイト」(「アパルトヘイト」のもじり)なのだ、わたしの一部分を憎む(否定する)ことで、自分の存在が否定されるという話をして、「わたしは努力することによって自分で自分の首を絞めたのだ」という話をしてくれました。勿論、「吃音の啓蒙」とか竹内さんの分離という手段はいろいろあるし、そもそも「吃音」は二つの言語規範、ひとつは、ひとは音声言語で会話をすべきだ、もうひとつは、「音声言語には或る一定の流暢性が必要」というところで差別されることなので、たとえば手話の世界に入ると、「吃音」は浮かび上がらないし(註19)、在宅ワークでメールでやりとりをするときも、浮かび上がらないのです。だからだと言って、「標準的人間像」そのものはなくなったわけではないので、差別がなくなるわけではないのです。「吃音者」はマージナルパーソン的な存在なので、介助を日常的に必要とする「障害者」とは違うという意見もでるかもしれませんが、そもそも「標準的人間像」なることは、労働力の価値としてメニューなることがあって、しかもひとりできねばならない、とされているのです。それ自体が今の社会の差別の構造なのです。
(7)まとめ
さて、竹内さんは、「障害」そのものは否定的だけど、それは分離しえる場合があるとしています。わたしはそもそも、それ自体があやしいことだと思っています。たとえば、手話を学んだ聴者の中には、聞こえないひとに音楽の楽しさを教えてあげたいなどというとんでもないことを言い出すひとが居ます。そもそも、生まれた時から聞こえないひとは、音楽など楽しみたいとは、他者から刷り込まれない限り思いはしないのです。むしろ、歌いながら手話をする聴者の突きだしに抑圧性を感じ、「ストップ・ザ・ミュージック」という突きだしもなされています。手話の世界には、その文化の豊かさや楽しさがあるのです。また、「認知症」と規定されるようになった、オーストラリアのクリスティーン・ボーデン(『私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界』クリエイツかもがわ2003)は、「自分は官僚時代に、部下にどうして同時に二つのことができないのだと攻めるようなことを言っていた。そういう嫌な人間であったことを、認知症になることによって脱することができたことを喜ばしく思う」というようなことを言っていました。そのような語りは、「中途障害者」になったひとからも出ていますし、また、「障害児」をもった親からも、出産時に「障害児」になった直前には、否定的な思いをとらわれる中でも、そこから脱して、「生まれてきてくれてありがとう」というような思いに至る親もでてきます。これは所謂反転というようなことですが、『自閉症だったわたしへ』新潮社1993の著者ドナ・ウィリアムズは、その「自閉症者」の非「障害者」とは別の文化・世界を描いています。何かパラレルワールドということを想起させるのですが、わたしはむしろ、今の非「障害者」中心の世界が矛盾に充ちた世界で在り、それを是正することの水先案内人が「障害者」ではないかとさえ思えるのです。
さて、もうひとつ、この本の文献表を見ていて、不思議に思っていたことがあるのです。それは立岩真也さんの本がないのです。立岩さんは、倫理社会学とでも名付けるような分野で、竹内さんの論考と重なるところがあると思うのですが、なぜか、一つも文献としてあげられていません。彼は、「障害は、ないにしこしたことはないか」というところで論考を展開しています。わたしとしては、「「障害の否定性」を否定する」というところで共鳴していたのですが、彼の論考との対話の中で、竹内理論の更なる深化がかちとれるのではないかとも思えるのですが、どうなのでしょう?
もうひとつ、能力の問題で最近起きてきている事態があります。それは、コモンという概念の広がりです。新自由主義的合理化の推進の中で、公共事業を民営化しようという動きに対して、インフラをコモン(公共財)としてとらえ、それを守る中で、地域自治というところから、この矛盾に充ちた社会を変革していこうという動きがでています(註20)。わたしは、能力自体をコモンとしてとらえるところから、その道筋を示せるのではないかと考えたりしています。
(8)補論―「障害者運動とフェミニズムの二律背反的対立」について
わたしは「障害者運動」に関わってきたのですが、「障害者」の中には、親による「障害者」殺しや、フェミニストの「産む−産まないは女が決める」という標語で中絶の権利を突き出すことと、出生前診断で「障害児」と分かると、90%以上のひとが中絶するという事態があり、そこで対立の図式が生まれていることを、アンチノミーとしてとらえる事が出ています。他にも、遺伝子操作技術による「治療」とか、人工授精技術の普及とか、iPS細胞の技術なども出てきます。竹内さんは、この本の中でバイオテクノロジー関係のことは細かくはふれていませんが、それらのことは、この本の中で書かれている論攷から波及できるとしているのでが、「障害の否定性」はあながち否定できないとしているところや、「子どもを産める環境」論では解決できないとしていますし、それらのことをアンチノミー的にとらえているところからは、波及できません。押さえは、すでにフェミニズムと「障害者」運動側の議論として「「子どもの属性」を調べて(知って)選択的に中絶するということは許されない」というテーゼがでています。それをしていると、男か女かを知って、選択的に中絶することも許すことになります。そこにそもそもフェミニズムが問題にしてきた差別があるのです。また、フェミニスト自身も高齢になったときに、親族による(高齢で中途「障害者」になった時の)「障害者」殺しを容認することになりますし、そもそも遺伝子診断をして、精子や卵子に「障害因子」があると子を産むことが許されないとか、自分の子宮で子どもを大きくすることができるひととそうでないひとの分業のようなことが生殖技術の「進展」の中で起きてきていることも含め、更にデザイン・ベービーとか、遺伝子を残せるひととそれが「許されないひと」とかの分断が起きてくるのです。そもそもフェミニズムの運動が、人種・民族による分断にどう対処することを考えないと、運動は破綻しますし、その一端としての「能力」による差別を問題にせざるを得ないのです。その「能力」による差別の極として、障害問題があることを押さえれば、フェミニストは性差別だけを語るのだとしていたら、「能力」ということでむしろエリート女性が「あんたたちがそんなことを言っているから差別されるのよ」というような言説で性差別者として出てきてしまうし、性差別におけるマイノリティ問題のLGBTQで抑圧者として登場してしまう恐れさえでてくるのです。他にもアンチノミー的な論及がでているのですが、わたしはもっと深くとらえていくと、ほとんどアンチノミーは解けるのだと想っています。
すべり坂理論批判についてのコメントがあるのですが、それは情況分析概念として出てきているのであって、竹内さんにとって、それを止めるのが倫理だという話になるのでしょうが、マルクス派の押さえとして、マルクス倫理学ということは存在困難なのです。なぜならば、唯物史観的に社会科学的なところから、差別を語っていくからです。
さて、わたしはいつも批判ばかりしていると批判されることがあり、批判より共鳴的な論攷をとも思うのですが、わたしは自らの論の検証を求めて、論的深化を希求しているので、敢えて、否定的批判を書いています。
ここで、いつものように目次をあげ、共鳴的な部分をいつもの抜き書き的に書いておくことなのですが、余りにも厖大になっているし、パラダイムの違いのような話も多々あり、とても、書けません。機会があれば、この本を使って学習会などをするときに、そのようなことを果たせたらとも思っています。
(註)
1 三村洋明『反障害通信――障害問題のパラダイム転換のために――』世界書院2010
2 最近「通信」159号の「編集後記」で書いた文につながるとして補足転載します
――-ここから過去文の引用です――
およそ生産活動や労働力において、最も、「能力を個人がもっている」と「錯誤」してとらえられやすい事例は芸術的才能と言われることです。ピカソの才能なることで、『廣松渉著作集』の解説で、高橋さんが書いた文の中に、そのような文を見つけました。/「たとえば絵を画くという「力能」はピカソという人間に内具・内在しているのか、という問いを立てることができるであろう。答えは、もちろん否である。/まず第一に、絵画「力能」、具体的には@美意識や美的センス、ないし絵画形式で表現したいとピカソが思っている諸観念、Aそれを絵画形式で表現する技術などは、ピカソがそのつどの生の営みを行う中で形成されてきたものである。ピカソに限らず、誰の場合でもそうだが、「生の営み」ということの中には、多種多様な要素がギッシリと詰まっている。生きるということ自体、衣食住をはじめとして肉体的にも精神的にも「人々の対自然的かつ相互的な関係」の恩恵をこうむっており、生きるとは生きさせてもらっているということである。このような基本的真実はいま脇に置いて、当面の文脈で必要な最小限の要素だけを取り出しても、@ピカソ以前の時代の、あるいはピカソと同時代の画家たちの作品を鑑賞し研究して、そこからさまざまなものを学んだり摂取したりすること、Aそのつどの自然や社会のあり方、人間模様などを、つまりは世界を観察すること、こうした@見る眼とA見る対象からして、そのつど一定の(ピカソ自身に限っても何年何月何日に、どこそこで、だれと、どんな具合に、という、そのつどの特定性を帯びた、また、もっと大きくいえばブリューゲルの生きた時代や社会・生活環境、そして目にすることのできた絵画作品群など、とは違った)社会的諸関係に入り込みつつ絵画する者として生きる中で得られたものであり、つまりは「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産である。/表現技術にしても同様である。@師匠から教えを受ける場合、師匠が一人のときは、「人々の」対自然的かつ相互的な関係いう言い方はできないが、しかし、少なくとも、師匠が現に師匠としての「地位」を獲得し得ている事態をも考慮に入れると、その「地位」は人々による評価の積み重ねの所産として、やはりさまざまな形での「人々」の対自然的かつ相互的な関係の所産であるという理屈が成り立つ。Aたとえ師匠の教えを受けずに独力で表現技術を磨いたという場合でも、作品がそのつど受け手たちにどのように受け止められるかに応じて磨き方が違ってくるという意味で、そして受け手たちに評価されないような磨き方にいくら精出したところで表現技術としては無であるという意味でも、やはり「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産である。/第二に、右のような絵画「力能」が一定の歴史的・社会的・文化的な形成体(「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産)としてであれピカソという人間に「内具・内在する」に至ったと仮定しても、しかしそれを表出するには表出する手段(カンヴァス、絵の具、鉛筆などの画材)が必要である。表出されない「力能」は無であり、断じて「力能」などではない。それはちょうど、みずからの生産手段を所有しない賃金労働者の場合、その労働力は当の労働者が資本家に雇用されて生産手段と出会うまでは無であるのと同様である。画材はメーカーや職人たちの生産物であり、そして生産物を生産するには原材料が必要であることを考慮すればなおのこと、画材は「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産であることは明らかである。画材なしには絵画「力能」は表出しようがないから、それは「無」「力能」であり、やはり絵画「力能」はピカソという人間に内具・内在しているのではないということになる。/第三に、これらの諸要件が満たされてようやく作品が出来上がったとして、ではその作品が受け手にどのように受け止められるか、つまりピカソの当該作品に関する絵画「力能」がどのように評価されるかという段になるが、ここでもやはり、先ほども関説したように「人々の対自然的かつ相互的な関係」のあり方次第で「力能」の有無が岐れる。受け手たちに表されれば「力能」有りということになるし、そうでなければそうでない。しかも、評価の基準(「間主観的な美意識」)そのものも一定の歴史的・社会的・文化的な形成体である。つまり「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産であるいう事情が加わる。/このように多様な、幾重もの「人々の対自然的かつ相互的な関係」の所産として、三要件が揃ってはじめて絵画「力能」は存在する。けっして画家に内具・内在しているのではない。」425-7P(「解説 高橋洋児」(『廣松渉著作集 第十三巻 物象化論』岩波書店1996所収)
3 これは実は後述する発達保障論の論議と同様な疑問が出ているのです。そもそも分離以前に、そもそも、その否定的なものが歴然としてあるのか、という問いもでてきます。これも(6)で展開します。
4 イギリス障害学の「社会モデル」を明文化しないで論じることによって曖昧になっていることがあるので、わたしなりにとらえ返した文にしておくと、「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁(と抑圧)である」となります。「(と抑圧)」という文は直接は見出せないのですが、わたしが付け足したこと、なお日本の「障害者」でも同じようなことを言っているひとがいました。これは、「何々すべし」という「標準的人間像を描き、それに近づくべし」という論理でする抑圧です。なお、「社会が障害をもっている」というのは、オリバーが「個人が障害をもっている」ということを反転させてみせた論攷からきています。
5 これは、オリバーなどのイギリス障害学の第1世代に対して、モリスらの第2世代と言われるひとたちが、「第1世代のひとたちは、障害者の現実の生きがたさをとらえていない」と批判したことを指しています。ただ、わたしからとらえ返すと、「ひとはひとりで自立して生きて○○ができなければならないという標準的人間像に囚われている」というまさにマルクスのいう、物象化(「社会的関係を自然的関係としてとらえる」医学モデル的「障害」概念への逆戻り)に陥っているのです。
6 それで、結局は医学モデルに舞い戻ってしまったのです。確かに、「社会モデル」に不備はあったけど、それを関係モデルとしてパラダイム転換しきることだったとわたしは押さえています。
7 訳語は、一般的に使われてきた訳語を用いています。著者は新しい訳語を当てていますが、ICIDHはもはや使われていず、医学モデル的「障害」概念、「社会モデル」的障害概念とすれはいいだけだということで、訳語の更新の必要性は感じないのです。
‘障害’にあたる英語が多々あることについては、「障害ってなーに? 障害ということを根源的にとらえなおす」http://www.taica.info/wdl.pdf「9章 障害の医学モデルから「社会モデル」への転換」の「和英辞典からみる障害」の項参照。
8 これは(6)で展開する「実体――属性」論論件先取になっています。
9 そもそもは英語で表されるICIDHの障害三規定、バリアー、ハードル、それらを‘障害’という詞で表そうとして起きていることで、それを漢字の‘碍’とかひらがな表記で区別化しようとしているのですが、わたしはきちんと整理していく必要があると思っています。端的な例は、「点字ブロックの上に自転車を置くと、白状を使って歩くひとの障害になる」という表現です。これがまさに「社会モデル」的な考え方なのです。点字ブロックの上に自転車を置くことはいけないこと、悪いことなのです。わたしは「障害者」規定は他者(差別社会)規定で、規定されるひとという意味で「」を付けて「障害者」と表記しています。
10 杉野さんは、「障がい者制度改革推進会議」に出された意見書の中で、イギリス障害学の「社会モデル」とアメリカ障害学の「社会モデル」の違いを明確化されています。
11 パラダイム転換の例としてよく出されるニュートン力学から量子力学への転換においても、その過程でアインシュタインの相対性理論やマッハ哲学・物理学がありました。
「社会モデル」は医学モデルから障害関係論―障害の関係モデルへの転換の過渡としてわたしはとらえています。「「社会モデル」は、社会を実体化してしまっている」という実体主義批判の脈絡で批判し、パラダイム転換は関係モデルとして成しきることなのです。
12 大学の教養の物理学で、最初に「君たちが高校までに習った物理は全部わすれてください」といわれたことを闡明に憶えています。
13 構築主義やマルクスの流れの物象化批判として出ています。
14 エンゲルスの「弁証法の三法則」という図式化で「対立物の相互浸透」という概念があるのですが、まさにその論理なのです。これは法則ということの物象化です。これも論件先取になるのですが、まさに発達保障論の「発達の弁証法」という法則の物象化と同じパターンなのです。
15 発達保障論は、「障害者」に関係する学者・教員・親たちの集まりの全障研で、「障害児も無限の発達の可能性をもっている。それを保障するのが、周りのものの役割だ」として、その発達を「発達の弁証法」(法則の物象化・絶対化というヘーゲル弁証法への舞い戻り)として展開したところで、ほとんど「発達」ということで「変化がないとされる」ひとたちへの抑圧の論理になっていく、またもともと「何々すべし」という抑圧の論理になっていると、それを否定して「障害個性論」を突き出していく「障害者」運動関係団体と衝突していくことになりました。ここで、竹内さんは、まだ発達保障論を「縦への発達・横への発達」という概念で活かそうとしています。結局医学モデルから抜け出せていないことの一事例なのです。そもそも「社会モデル」や関係モデルでとらえるとどうなるのか、「縦への発達」があるかぎり抑圧の論理になるし、横への発達は、第二次障害への取り組みとして、社会を変えるという内容を孕んでいるとしても、医学モデルとの対峙をきちんとやりきれないと、「発達障害」と規定されるひとたちへの抑圧の論理になりかねません。
16 自民党政権は、分離教育をインクルーシブ教育とまで言い募っているのですが、発達保障論者は、同様に専門的教育が必要だと、分離は差別だという世界的インクルーシヴ教育の概念をそもそも踏み外しているのです。(誤解の無いように書いておきますが、教育言語の違いで分離する、たとえば手話による教育で、分離することは、また別問題です。)
17 茂木俊彦『障害児と教育』岩波書店(岩波新書)1990
18 これは「社会」と「自然」という二項対立の中で、「自然」という概念を持ち出すために、「環境」という言葉を使っているのでないかと推測されます。マルクスの「社会化された自然」概念でいえば、直接「社会」概念だけで済むことです。
19 わたしは、これは手話が言語あるとことの証左となると思うのですが、手話にも音声言語の「構音障害」「吃音−流暢性の障害」に類比しうることはあると思います。「吃音」という手話に似た手話ネームを持つろう者がいて、その手話を見ていると「手話の吃音」を思わせるのです。
20 「もの」ではなく「こと」 私的所有物ではなく、共有事として使っていくこと
2025年03月02日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(7)
たわしの読書メモ・・ブログ687[廣松ノート(7)
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(7)
第二篇 省察的世界の問題構制
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
第一節 判断的措定の帰属性
(この節の問題設定−長い標題) 「省察的認識の分子的単位をなす「判断」においては肯定的措定と否定的措定とが岐れる。肯定的・否定的な判断措定の本諦は、しかし、いわゆる「主語」と「述語」との関係づけの場面に存するのではなく、主語対象に述語規定を向妥当せしめた等値化的統一態たる「判断成態についての“態度決定”の場面に存する。肯定・否定の判断的態度決定は「判断成態」を対境として遂行されるとはいえ、判断成態のそのものに対する評価的態度決定ではなく、当該判断成態の間主観的な対妥当性に関しておこなわれるのである。自・他に帰属する判断意味成態の協和・背反が肯定・否定を岐かつのであって、他者に帰属する判断意味成態が対自己的にも妥当することの承認が肯定であり、他者に帰属する判断意味成態が対自己的にも妥当することの拒斥が否定である。判断措定における肯定および否定が判断意味成態に内自化されていわゆる積極形の命題的事態および消極形の命題的事態が形象化される。」318P
第一段落――肯定的・否定的な判断成態の構制とそれが命題的事態に“内自化”される構制の検討 318-27P
(この項の問題設定)「「肯定」および「否定」の判断的措定にとって本質的契機とみるかいなかは判断論上の立場に応じて相岐れる。とはいえ、謂うところの「判断論」の立場なるものが、実質上、「肯定」「否定」の取扱いと相即的に劃定される。このかぎりで、肯定・否定の処遇は判断論ひいては認識論にとって鍵鑰の一つをなすものである。――爰では、肯定的ならびに否定的な判断成態の構制を検討し、それが命題的事態に“内自化”される構制をも追覈(「ついかく」のルビ)しておこう。」318-9P
(対話@)「偖、肯定判断と否定判断とは同位・同格的に対立するものであるか、それとも、肯定判断が基礎であって否定判断は肯定判断に何事か累加されたものであるのか、肯定・否定に関する同位説と従位説との対立は、それ自身すでに判断的措定の内実に関する了解の差異に照応する。われわれ日本人の日常的意識においては「デアル」と「デナイ」とが同位的に対立し、そのことが「はい」「いいえ」の応じ方にも顕われていると言えよう。その点、インド・ヨーロッパ系の言語においては否定的判断は肯定的判断に否定辞を累加する形になることもあって、欧米人の日常的意識では肯定判断と否定判断とは同位的でなく、そのことが「イエス」「ノー」の応じ方にも顕われているものの如くである。学理的反省にあっては、無論、かかる日常的思念がそのまま追認されるわけではない。とはいえ、日常的既成観念影響力には端倪(「たんげい」のルビ)すべからざるものがあり、自戒を要する。われわれとしては、同位説・従位説の対立地平をも射程に収めつつ、肯定・否定の問題論的構制そのものを対自化するところから始めたいと念う。」319P
(対話A)「肯定・否定は、「主語」と「述語」との直接的な相互関係の場面で存立するのか? それとも、「主語−述語」成態に関する判断主観の“態度決定”の場面で成立するのか? 常識的には主語と述語との関係づけの場面で肯定・否定が岐れるかのように考えられてはいるか、われわれの結論から先に話せば、肯定・否定ということは主語と述語との直接的な関係づけとは別次元の事柄である。「肯定」「否定」は、すでに関係づけられている「主語−述語」成態を与件としつつ、この成態の間主観的な対妥当性をめぐる一種の態度決定として遂行されるのである。」319P
(対話B)「議論の順序として、ここでは、「肯定」「否定」の何たるかを積極的に論定する前梯を設えるべく、判断的態度決定の対境的与件とされるものの実態に目を向けておこう。――判断にさいしては、一見したところ、主語表象と述語表象との“結合”が必然的な契機をなしているかのように思われ易い。例えば、「或ル球ハ赤イ」という判断の場合、「球形」の表象と「赤色」との表象が結合され、「雪ハ白イ」という判断の場合、「雪」の表象と「白色」の表象とが結合されるのではないのか? さもなければ「ソノ球ハ赤イ?」「雪ハ白イ?」という疑問や「雪ガ白イとすれば」という仮定、「ソノ球ハ赤イかまたは赤クナイ」という選言などはもとより、そもそも「ソノ球ハ赤クナイ」という判断的否定すら成立しえない仕儀にならないか? なるほど、主語表象と述語表象とのこの“結合”は、それ自身ではまだ積極的な判断的肯定とは言えないかもしれない。しかし、ともあれ、判断的態度決定の少なくとも前件として、一定の表象的結合がおこなわれているということまでは認めざるをえないのではないか? 論者たちのうち一部の者は、主語表象と述語表象との“結合”を以ってとりも直さず肯定的判断措定であると主張する。そうでない論者たちにあってさえ、しばしば、定言判断的な肯定・否定の前件として“主語表象と述語表象との結合態”の現存が想定され、この“結合態”を俟ってはじめて「疑問」「仮想」「選言」なども可能になる旨が云々される。」319-20P
(小さなポイントの但し書き)「――右には“結合”という面を強調したが、論者によってはむしろ“分割”という面を強調する。例えば「雪ハ白イ」と判断するさい、主語表象「雪」は最初から「白色」の表象を含んでいたのであって、漠然たる主語表象が“分割”的に判明化されて「白イ」と認定されるのである云々。論者たちの謂う「主語表象−述語表象」成態は、いずれにせよ「結合的分節態=分節的結合態」であると言えよう。学史上は「結合」を強調する立場と「分割」を強調する立場とが鋭く対立してきたとはいえ、われわれの見地からはいずれにせよ大同小異である。」320P
(対話C)「偖、われわれとしても、論者たちの謂う「結合的分節表象」が或る種の場面で成立することを顚から無視するわけではない。がしかし、それは例外的な特殊ケースにすぎず、一般には、心理的事実の問題として、論者たちの想定する相での表象は現存しない。因みに「千角形ハ千ノ角ヲ持ツ」と判断するとき、「千角形」の表象が泛かび、それと「千ノ角」の表象が分節的に結合されるのであるか? そもそも「千角形」なる表象を泛かべることが心理的事実の問題として不可能であろう。判断にさいして、論者たちの謂う“表象結合”“表象分割”は一般にはおこなわれず、また、判断にとって“分節的結合表象”は必要条件ではないのである。現に、われわれは、抽象的な思考などの場合、“表象結合”や“表象分割”などをおこなうことなく円滑に判断を遂行している。それでは、論者たちが判断における肯定的・否定的な態度決定にとって少なくとも前件をなすものと称するところの“分節的結合表象”なるものは一体なにをどう誤認した代物であるのか? われわれとしては、まずはこれを積極的に解明し、事柄の実相を見定めておく必要がある。」320-1P
(対話D)「判断成態が「主語−述語」構造をもつかぎり、主語によって指称される対象と述語によって表示される規定性とが一定の関係におかるべきことは言を俟たない。が、問題は、主語対象および述語規定が果たしてそれぞれ「表象」のかたちで泛かべられるのかどうか、また、両者の関係づけの基底が果たして「表象結合」ないし「表象分割」というかたちになるのかどうか、この二点に関して論者たちは錯誤に陥っていると言わざるをえない。論者たちは、対象的意識とは対象性が「表象」のかたち与えられることであるという既成観念に禍いされて、そのかぎりで表象的与件を云々しようとする。(当面の文脈では「表象」という詞をいわゆる“知覚心像”をも含む広義に用いていることは言うまでもない)。だが、われわれに言わせれば、対象的意識とは、主語対象に関しても、述語規定に関しても、表象のかたちで泛かべる謂いではない。また、論者たちが主語と述語との原基的な関係相と称する“結合”“分割”は特殊的にすぎ、かつ、狭隘にすぎる。」321P
(小さなポイントの但し書き)「因みに「猫ハ犬デナイ」という“判断”の“前件”たるべきものを考えてみるがよい。“猫−犬”結合分節態という化物的な表象、“黒−白”結合分節態という縞紋様的ないし灰色的な表象がまず形成されて、それが否定的に“分離”されるとでもいうのか? 「猫ハ五足獣デナイ」「コノ猫ハ黒クナイ」といった否定的判断の場合は、しかるべき“実体−属性”の表象を泛かべたうえでそれを否定するという構制が一応考えられうる。剴切には、述語規定を分肢的な部分表象として含む“全体表象”を泛かべたうえで、その“分肢”を“分離的に排却”する構制を一応想定できる。しかしながら、実際問題としては、そのような“結合−分離”が普通に生起するとは思えないし、仮りに生起しうるとしても、それは主語と述語との関係が視覚的表象において“全体−部分”の関係相に立ちうる場合に限られるであろう。あまつさえ、この“全体−部分”の関係相がそのまま“主語−述語”関係と言えるのかどうか、それだけでは例えば人魚とかペガサスといった複合表象と同類のものにすぎないのではないかという疑義を防遏できまい。」322P
(対話E)「われわれは、今ここで“主語−述語”関係について嚮に論じておいた論点を復唱する心算はないが、「主語−述語」成態が判断的態度決定における直接的な与件的対境をなすと言われるかぎりで、論点の一端に稍々別の視角から触れておく次第である。」322P
(対話F)「判断の原基的形態は「(コレハ)何々(ダ)」「(コレハ)然々スル」「(コレハ)斯々シイ」といういわゆる一語文のものであると言えよう。尤も、「何々」「然々」「斯々」という詞は発語されるには及ばないのであって、いわゆる内語の域にとどまっていても差支えない。このような一語文的判断に先立って、現前する現相的与件が端的な或るもの(etwas schlechthin)として覚識されたり、それ(es)として覚識されたりする次元、すなわち“図”の相で覚知される次元がある。この次元での覚知ですら、現相的与件質料を単なるそれ以上の所識的意味形相として等値化的に統一するものであり、最広義においては“判断”と呼ぶこともできる。がしかし、われわれとしては、これは狭義の判断より以前の知覚的次元として扱い、言語の介在する場面から狭義の判断を云為する。」322P
(小さなポイントの但し書き)「ところで、人によっては、二本のタバコを単純に同立したり、タバコとマッチを単純に異立したりする場面、こういう単純同立・単純異立の場面においてすでに判断が存立すると言うかもしれない。慥かに、aとbとの単純同立や単純異立も言語的に表現すれば「aハbト同ジダ」「aハbト異ナル」という形になることであり、これを判断から排却してしまうべき謂われはない。旧来、同立や異立が判断の基礎的な機制と考えられてきた事情にも鑑み、われわれとしても同立判断や異立判断を判断のうちに算入する。但し、われわれが同立や異立を狭義の判断のうちに算入するのは、あくまで言語介在的な措定の場面からである。――」322-3P
(対話G)「偖、「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々しい」という知覚現場的判断は、実質的にはさしあたり、コレと指称される“図”的対象を「何々」「然々」「斯々」と命名する域をいくばくも出ないとしても、所与を「何々」「然々」「斯々」という詞の函数態的な被表的意味の“特定値”として認知しつつ、現相的所与に意味的所識を向妥当せしめる等値化的統一である。(この等値化的統一は前篇第三章第一節でみた通り「異」と「同」との一種独特の止揚的統一である)。このさい、所与の“図”的対象と「何々」「然々」「斯々」という詞との命名的結合は、言語的能記と指示対象との象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)であり、しかも、当の命名的呼称の対他者的・間主観的な妥当性の覚識を伴っている。われわれは所与対象と「何々」「然々」「斯々」という詞のとの象徴的結合態を「施詞措定態」と呼ぶことにしよう。知覚現場的な「コノSハPナリ」「SタルコレハPナリ」においても、Sと呼ばれるコレが「何々」「然々」「斯々」と象徴的に結合されており、ここでもやはり「SハP」という「施詞措定態」が存立する。謂うところの“主語−述語”成態とは、さしあたり、「施詞措定態」、すなわち主語の指示する所与対象と述語能記とを(前者に後者の表意する所識規定を向妥当せしめる等値化的統一と相即的に)象徴的に結合した成態にほかならない。この施詞的措定、すなわち「所与的現相と述語的所識との等値化的統一」と相即する「所与対象と述語能記との象徴的結合」は、それ自身としては判断措定ではなく、狭義の判断的措定(肯定的・否定的な判断措定)にとっての前件である。そして、施詞措定態が判断的態度決定の直接的対境をなすのである。」323P
(対話H)「施詞措定態は、知覚的現場にあっては、対象的与件を現相的(「フェノメナル」のルビ)に現前させており、述語的規定性もその特定値で現前しているところから、とかく知覚的次元での心象(いわゆる知覚的心像、知覚的表象)と二重写しに思念され易い。そして、ここでは、言語的能記は没却されて、施詞措定態の所記的契機、しかもレアールな現相的契機だけがクローズ・アップされる。その結果として“表象的結合態”、精確には“表象”の「結合的分節態=分節的結合態」なるものが泛かびあがり、これが判断的措定の直接的対境とされたり、時によっては、当の“結合”がとりもなおさず肯定的判断措定であるとされたりする。また、知覚現場を離れても、施詞措定態は一定の副表象を範例的に伴いうるところから、当の副表象的な「結合的分節態=分節的結合態」が施詞措定態の能記的契機から抽離された相で判断の直接的対境とみなされてしまう。それどころか、論者によっては、当の「結合的分節態=分節的結合態」の形成を以ってとりもなおさず肯定的判断措定であると思念する始末である。このようにして、判断論におけるいわゆる“表象結合”“表象分割”節が生ずる次第であるが、これが心理的事実としてもおよそ一般性をもちえないこと、せいぜい特殊ケースにしか妥当しないこと、これは先に指摘しておいた通りである。――施詞措定態は、知覚現場から離れて、概念的思考判断がおこなわれるような場面になると、「SというものはPなり」という相で命題化され「SハPナリというコト」という命題的事態の相に昇華されがちになる。われわれは、嚮には、施詞措定態を知覚現場的判断という基礎場面に定位しつつ定義した関係で、所与的現相と述語的所識との等値化的統一を云為したのであったが、主語対象と超文法的述語能記との象徴的結合が存立していれば、主語対象は被示的意味でなく被指的意味であっても差支えない。このように拡張するかぎりで、施詞措定態は「SというものはP」という相でもありうる。がしかし、施詞措定態はあくまでレアールな言語的能記(勿論、“内語”であっても可)を構造的契機とするのであって、決して単なる意味形象ではない。しかるに人々は、施詞措定態の意味的契機を自存化させ「SというものハPナリというコト」、この命題的事態を自存的な相で形象化させ、この命題的事態を以って判断的態度決定の直接的対境であるものと思念しがちである。(命題的事態は、前節でみておいた通り、存在性格上、レアール・イデアールな事象(事実・事件・事況)とは異なり、イルレアール・イデアールな存立態であって、リアリティーをもつ事象とは別異な“存在”である)。ここにおいて、判断論にいわゆる“命題的事態の自体的存立説”が生ずる次第であるが、われわれに言わせれば、此説は判断的成態の意味的契機を自存視する錯視にもとづく代物なのである。命題的事態を以って判断主観の能作から端的に独立自存するものと思念し、それが判断的能作にとって自存的な対境的与件となすものと思念する此説は、われわれの見地からみれば、判断成態の対他・対自的な帰属的妥当性をめぐる間主観的な関係を対境と主観との直接的な関係(「主観−客観」関係)であるかのように錯認したものにほかならない。しかし、この間の事情については追々に究明することにして、ここでは「施詞措定態」に議論を戻そう。」324-5P
(対話I)「われわれは、以上において、判断の直接的な対境的与件たる施詞措定態が二極的な仕方で錯認される経緯にまで触れてきた。施詞措定態が伴いうるレアールな表象的契機が能記的言語形象から遊離され、それ自身で現前するかのように覚識されるところから、判断的措定の直接的対境が“表象の分節的結合態”であるとする一方の極(いわゆる“表象結合態”説)が生じ、施詞措定態の表意するイデアールな意味的契機が能記的言語形象から遊離され、それ自身で現存するかのように覚識されるところから判断的措定の直接的対境が“自存的な命題事態”であるとする他方の極(いわゆる“自体存立説”)が生ずる。われわれは、判断の対境的与件をめぐるこれら二極的な錯認を卻けつつ、あくまで施詞措定態の如実相に定位さなければならない。――ところで、施詞措定態は「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」、一般に「SハPナリ」と標記されるとき、既に肯定判断に応ずる形になっているではないか。われわれは、施詞措定態を以って、肯定的・否定的な判断的措定の前件をなす対境的与件であると称しながら、論件先取(註)を犯しているのではないか? 翻ってまた、「コレハ何々デナイ」「コレハ然々シナイ」「コレハ斯々シクナイ」、一般に「SハPナラズ」と標記されるごとき施詞措定態は存在しないのか? 積極形の施詞措定態と消極形の施詞措定態とが同位的に存立するのではないのか? もしそうだとすればいよいよ論件先取(註)の疑義が深まる。――われわれは、積極形の施詞措定態と同位的に、消極形の施詞措定態もあることを認める。が、それは先行的判断の否定が施詞措定態に内自化されたものであって、先行的判断による媒介的所産がその都度の新規的判断措定にとっては対境的与件たりうるのである。(先行的判断における否定が内自化されることによって消極形の事実・事件・事況も成立しうるし、消極形の施詞措定態も存立する。)消極形の施詞措定態と同位的に、先行的判断の肯定が内自化された積極形の施詞措定態も存立する。がしかし、原初的・原基的な施詞措定態は、肯定的・否定的な判断措定に対する前件的な対境与件として、それ自身では積極形でも消極形でもなく、謂うなれば中性的である。なるほど、原基的・原初的施詞措定態といえども、日本語で標記しようとするかぎり、「コレハ何々(ダ)」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」という形、このかぎりでの積極形にせざるをえない。とはいえ、原基的・原初的な施詞措定は、対象的与件と詞との命名的結合・象徴的結合たるにすぎず、対象的与件と詞の被表的意味との等値化的統一、前者の後者「として」の命名的覚知たるにすぎないのである。これは、消極形の施詞措定態と同位的に対立するものではない。われわれは、以下、原基的・原初的な中性的施詞措定態、つまり、単なる等値化的統一と相即する命名的結合態・象徴的結合態を標記するさいには、必要な場合、紛らわしい積極形の標記は避けて「コレハS」ないしはまた「SハP」という形で誌すことにしよう。」325-6P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
(対話J)「今や、原基的・原初的な中性的施詞措定態「コレハS」を対境的与件としつつ、肯定的・否定的な狭義の判断的措定が如何なる構制で遂行されるのかを直接の主題とし、延いては、肯否の判断的措定が施詞措定態・事象・事象的命題・命題的事態に如何なる機制で内自化されるのかを見極めていかねばならない。」326-7P
第二段落――判断の肯定・否定という「質」をどの場面で規定するのかの先決問題 327-34P
(この項の問題設定)「われわれは判断論上のいわゆる「態度決定説」をそのまま追認するものではないが、「肯定」「否定」が一種の態度決定に照応することは確かである。――或る種の論者たちは、判断における承認・ 拒斥 の“心的作用”ないし“態度決定”という能作を極めて広い意味にとり、この能作そのものは動物における判断以前的な“態度決定”とも共通であるとみなす。論者たちによれば、動物ですら、好感的に受容したり、嫌悪的に拒絶反応を示したりするが、判断における能作はそれと共通のものだとされる。われわれとしては、しかし、動物の場合はさておき、人間の場合に限ったとしても、肯定的承認・否定的 拒斥 の能作が果たして好・悪、愛・憎といった情意的能作と共通かどうか、一種独特の能作ではないのか、この件をめぐって「作用心理学」的に分析してみても判断論にとっては殆んど意味がないと考える。というのは、好感しつつも否定的に 拒斥 せざるをえず、嫌悪しつつも肯定的に承認せざるをえぬ場合が現に経験されるのであるから、判断的能作はなるほど「意志」に通ずるにしても、判断的能作そのものが好・悪、愛・憎といった対立性をもっているとは思えないし、従って、能作そのものの質的対立性に拠って肯定・否定の分立を説明することはできそうにないからである。それでは、判断の“心的作用”“能作”そのものは肯定・否定の質的区別性をもたぬ謂わば“単色的”“単質的”なものであるのか? この借問に答えるためにも、判断の肯定・否定という「質」をどの場面で規定するのかが先決問題になる。」327P
(対話@)「議論を簡単にする便法として、次のような回答の場面を想定してみよう。/@「蝶は鳥ではないか?」と問われて、「マサニシカリ! 蝶ハ鳥デナイ」と答えるさい、この判断は肯定(マサニシカリ)なのか、それとも否定(鳥デナイ)なのか。/A「犬は動物でないか?」「イナ! 犬は動物デアル」。この判断は否定(イナ)なのか、それとも肯定(動物デアル)/なのか。B「蝶は鳥であるか?」「イナ! 蝶ハ鳥デナイ」。/C「犬は動物であるか?」「シカリ! 犬ハ動物デアル」。/右のBCは、否定・否定、肯定・肯定で一貫するので問題がないとしても、@Aは、日本語の場合には不一致を生ずる。この点、インド・ヨーロッパ語では、イエス・ノーの使い方に体現される“態度決定”の“質”が判断的成態内部の“肯定”“否定”形と一致するので(実際はしかく簡単ではないことを承知しているが、後論には響かないので初等文法の流儀でこう割切っておく)、肯定・否定の質をどの部面で規定するかという難題を生じない。ヨーロッパ人の場合、彼らの語法に即して、イエス・ノーという態度決定そのものの場面で質的な対立が岐れると立論することが勿論可能であるし、また、それとは別の意見として、判断的決意性そのものは質的にニュートラルとみなしたうえで、判断成態ないし対境的事態そのものに既に含まれている肯定性・否定性(積極・消極)を、イエス・ノーは単に強調(エンファサイズ)するだけだ、と主張することも可能である。」327-8P
(対話A)「日本人の場合、ヨーロッパ人たちのように簡単に割切って済ますわけにはいかない。判断の肯定・否定という質を「シカリ・イナ」という同意・不同意の場面で規定すべきなのか、それとも判断成態の内部における「デアル・デナイ」という対立性の場面で規定すべきなのか? これがまず大問題になる。前掲の@ABCを「設問−回答」のかたちから、「蝶ハ鳥デアル」「犬ハ動物デナイ」等々、誰かしらの主張とそれに対する応接のかたちに変えてみると有様(「ありよう」のルビ)が一層はっきりするのだが、日本語の場合、シカリ・イナの態度決定は「誰か或る者」(といっても、架空の想定人物や「非人称」的な“人物”であってもよい)の“主張”(これ自身すでに、デアル・デナイの質的対立性を帯びている)に対する同意・不同意(承認・不承認)であり、間主観的(inter-subjectiv)な事柄である。これにひきかえ、ヨーロッパ人の場合には、回答であれ応接であれ、命題全体としては否定形であっても、さしあたり「SハP(デアル)」という積極形の「主語−述語」成態を関心の直接的対境としつつ、この“積極的命題”に対してイエス・ノーと応じ、それに照応するかたちで肯定形・否定形を伴わせる。このさい、謂うところの“積極形の提題”を「誰か」の“主張”だとみなすことは、論理的には可能だとしても、心理的な意識実態に即するかぎり多分に困難であろう。従って、そこでは、誰化の主体的主張に対する同意・不同意の意識はみられず、もっぱら「SハP(デアル)」という対境的与件に対する態度決定(真・偽の判定)が発動するものと思念され易い。ヨーロッパ人の思念にあっては、こうして、「肯定・否定」は間主観的な同意・不同意ではなく、ひたすら、対境的事態に対する評価的判定とみなされてしまう。」328-9P
(対話B)「翻って、日本人の判断意識の場合、「誰か」の“主張”に対する同意・不同意(この場面での肯定・否定)と、対境的事態に関わるデアル・デナイという積極的措定・消極的措定(この場面での肯定・否定)とは、さしあたり別途のもの、別趣のものと考える余地がある。それでは、これら両つの場面で二重的に登場する「肯定」「否定」は、どのような関係にあるのか?」329P
(対話C)「われわれの見解では、肯定・否定は、原本的には、誰かの提題的“主張”に対する同意・不同意の場面で存立する。――このことはヨーロッパ人の日常的意識ではとかく覆われがちであるとしても、論理構制上は彼らの場合でもやはりそうであって、日本人の場合には、このことが偶々日常的意識にとっても認められ易いかたちになっているだけのことであろうと思う。――そして、この間主観的な場面での同意(肯定)・不同意(否定)が判断成態に“内自化”されることによって、「積極形の述定」「消極形の述定」が既成化し、その結果、肯定・否定はあたかも述定関係に内属する質的相違であるかのように覚識されたり、施詞措定態・事象・事象的事態・命題的事態がそれ自身で肯定性・否定性の質的対立性を帯びた相で現識されたりするようになる。この間の機制の究明を図りつつ、まずは同意・不同意の構制を把握しておこう。」329-30P
(対話D)「判断において、肯定的承認ないし否定的拒斥の直接的対境をなすのは、一部論者たちが思念するごとき“表象結合態”や“自存的事態”ではなく、施詞措定態であって、原初的には知覚的与件と詞とを命名的に結合した成態であり、原基的なそれは「(コレハ)A」という形で標記できよう。(このさい、Aは「何々(だ)」「然々する」「斯々しい」の謂いであって、名詞とは限らず、形容詞や動詞でもありうるが、特に必要のないかぎり、以下では名詞風に標記する。)上述の通り、言語以前的な知覚的次元での等値化的統一が現に成立しうるとはいえ、「コレハ何々・然々・斯々」と認知される場合、現実的問題として、何々・然々・斯々という認知は“内語”を伴うであろう。そして“内語”を伴う認知はすでに「コレハA」という命名的範式での施詞措定に算入される。」330P
(対話E)「偖、施詞措定態=命名的結合態は、発生論的には、当人自身が創造的・自発的に形成するのではなく、他人によって提示的に与えられる。なるほど、歴史上の発生的場面や新規命名の場面にかぎらず、日常的にもやがて当人自身が“内発的”に命名的結合・施詞的措定を遂行するようになるが、ここではひとまず幼児的体験の場を念頭におくと便利である。――所与の命名的結合には、発話者自身にとっては単なる命名・指称ではなく既にして判断の表明で場合もありうるにせよ、幼児的聴取者たる当人にとっては、さしあたり与件(コレ)と音声(A)との“結合”の域を出ない。当の命名的結合態は、しかも、原初的には、特定の誰彼に帰属するというよりも、むしろ、人称的帰属以前の相で、いわば“非”人称的“前人称的”な相で覚識される。つまり「コレハA」という施詞措定態=命名的結合態は、発話者たる相手に帰属するとも聴取者たる自分に帰属するとも明識化されることなく、謂うなれば与件的な事態として覚識されるに止まっている。このような命名的結合態の覚識が知覚的分節体制の分化や綜合を促しつつ進捗してゆき、知覚的分節肢が各々即自的に名称を“帯びる”状相になる。条件反射的結合のこの態勢の確立によって、所与の知覚的与件に対して自らも命名的発話をおこなうこと、および、所与の言語的形象を機縁にしてそれ以外の一定の対象的現相を志向的に覚識することが、殆んど“自動的”に“生起”するようになる。」330-1P
(対話F)「この態勢が或る程度まで形成され始めた局面を迎えると、誰かが与件a(Aと呼ばるべき対象)を指して「コレハB」と呼称するのを聞くと、それと対立的に「コレハA」という命名的結合態が“反射的に”覚識される場合を生ずる。また、自分で(誤って) aを「コレハB」と呼称して、誰かから「コレハA」という反対定立を受ける場合も生じ、こうして、「コレハA」と「コレハB」という両つの命名的結合態が併立的に覚識されるという情況を体験する所以となる。そして、この対立的区別の場面で、命名的結合態=施詞措定態の「対他者的「対自己的」な(人称的)帰属性が意識されるに及ぶ。――先には、施詞措定態=命名的結合態は原初的には人称帰属“以前”的である旨を述べたのであったが、その原初的な場面でも「A」という音声の発出者(音源的発話者)はもともと覚知されている。しかし、それはさしあたり“音源”であり、謂わば“場所”的に定位されているにすぎず、そのかぎりでは、発話する他人はまだ音を発する物体と選ぶところがない。その場面では、音声「A」そのものは他人(音源的発話者)に種属せしめられているとしても、「コレハA(デアル)」という覚識的事態はまだ「他者」に帰属されるわけではなく、人称帰属“以前”的である。――今や、しかし、与件aを指しながら「(コレハ) B」と他者が発話し、「(コレハ) A」と自己が発話するという「異」状な場面、ないしはまた、自己が「(コレハ) B」と発話し、他者が「(コレハ) A」と発話する対立的な場面において、施詞措定態をめぐる「彼−此」的区別相が覚識される。」331P
(対話G)「ここにおいて、もはや単なる音声「A」「B」の音源的帰属の域を超えて、「コレハA」「コレハB」という併立的に現識される二つの施詞措定態=命名的結合態が「彼−此」的な対向的区別性の相で「他者」と「自己」とに帰属せしめられる。こうして、対他者的に帰属する施詞措定態と対自己的に帰属する施詞措定態との分立性において「施詞措定態」の「人称帰属」化が成立する次第である。」331-2P
(対話H)「ところで、「コレハA」「コレハB」という二つの施詞措定態が他者と自己とに彼−此」的な対向的区別相で帰属化されるという情況、この対他−対自の対立性とそこにおける相違感は、それ自身ではまだ「不承認」の意識ではなく、況んや、そのままで判断的「否定」なのではない。」332P
(小さなポイントの但し書き)「――幼児的な体験期においては、「コレハA」と呼称する現実に直面すると、多くの場合、「コレハB」という思念がたちどころに消失して、あとから発せられて現に残響している「コレハA」という他者の呼称で置換されてしまい、自分でも「コレハA」と復唱するのが普通のように見受けられる。このような過程を通じてaと「A」、bと「B」等々、しかるべき与件と名辞との象徴的結合が鞏固になっていくが、それはaを「B」とか「C」とか呼んで矯正された体験の“内化”(er-innern=記憶)に支えられているため、そこでもし他者がaを指して「コレハB」と呼称する場面に直面すると、強烈な違和感を伴った拒絶的反応が裡に生ずる。」332P
(対話I)「――対他者的に帰属する「コレハB」に対して、「コレハA」という措定態を対自己的に帰属せしめつつ、違和感を以って「コレハB」という他者の提題に拒絶反応を呈すること、それが「不同意」であり、このような構造的態勢の契機となっている「コレハB」という施詞措定態に対する拒絶反応、それが「否定」的 拒斥 の原初的ケースだと思われる。ここには、第三者的に分析していえば、与件aを「B」と呼ぶ他者の立言を矯正的に置換して「コレハA」と呼ぶべきことの意識を見出せる。このかぎりで、「コレハB(デアル)」という提題に対する否定的 拒斥 は、「コレハBデナクAダ」というnot……butの意味構造を即自的に含意していると言うことができよう。」332P
(対話J)「翻って、他者と自分とがともに「コレハA」と発話する場合(自分の側は“内語”にとどまっても可であるが)、二つの命名的措定態は必ずしも他者と自己とに明確なかたちでは人称的に帰属しない傾向があり、殊に自分の側は内語にとどまる場合には二つの施詞措定態の併立というよりもむしろ融一的な相でしか意識されない傾向がある。否認的違和感と承認的同感とのいずれが発生論的に先であるかは微妙な問題であるが、しかしいずれにせよ、肯定的承認ということが当事主体本人にとって自覚的に明確化されるのはおそらく可成り屈折した場面においてであろうと忖度(「そんたく」のルビ)される。例えば、眼前の或る与件についてそれを何と呼称するのであったかなかなか想い出せない(ないしは逆に、或る言語記号のほうは憶えているのだがそれがどのような対象に応ずるのか想い出せない)といった場面において、他者が「コレハAだ」(ないしは「Aトハコレだ」) と発話するのを聞いて「ソウダ!」と同感(想起的な共鳴)の意識を喚起されるようなケース、それが所与の「施詞措定態」に関する「同意」「承認的肯定」の原初的な形態ではないかと思われる。そのほか、例えば、眼前にいる二人の人物のうち一方が与件aを指して「コレハB」と発話したのに対して、もう一方が「コレハA」と発言するような場面で、後者に帰属する「コレハAだ」という主張に「同感」(共鳴)するといったケースも、判断的同意・肯定の原初的な次元に属するのではないかと考えられる。さしあたり、この程度の次元にとどまるにせよ、施詞措定態の「対他者的・対自己的」な共同帰属性、「彼−此」的区別の上に立つ同一性が覚識される域に達し、所与の提題に関する他者帰属的主張の肯定的承認が対自化されるようになる。」332-3P
(対話K)「こうして、「肯定」的施詞措定(肯定的陳述態)が、「否定」的施詞措定(否定的陳述態)と並んで、対自己的・対他者的に帰属化される所以となる。――以上、原基的・原初的な場面に即してみたところ既にして顕われているように、判断的措定における肯定・否定は、施詞措定態を対境的与件としておこなわれるとはいえ、対境的与件に対する直接的な評価とか承服・拒絶とかではない。判断的肯定とは、誰か或る者に対他者的帰属する施詞措定態の対自己的な対妥当性の承認的措定にほかならず、判断的否定とは、誰か或る者に対他者的に帰属する施詞措定態の対自己的な対妥当性の拒斥的措定にほかならない。謂うところの他者=誰か或る者は、発生論的に原初的には施詞措定を現実に発話する具体的な他人であるが、やがて“脱肉化”“脱人称化”されて“誰か或るヒト”の相でしか泛かばなくなりうる。だが、施詞措定態の帰属する他者が“脱人称化”された場面でも、依然として、間主観的な態勢での態度決定という「肯定・否定の構制」は維持される。」333-4P
第三段落――「述定的陳述態」の「積極形」「消極形」の分化、それを支える「肯定的承認」「否定的拒斥」の対境的事態への“内自化”の機制 334-8P
(この項の問題設定)「われわれは、以上の行為においては、「(コレハ) A」という“命名的結合”“施詞措定”をそれ自身ではまだ肯定的措定“以前”的な謂わば“中性的”な前件として扱ってきた。それは、原初的には、他者による「陳述」として対自化される以前に、施詞的措定がとりあえず「叙示」の次元で受け留められることに照応する。やがては、しかし、否定的対立性・肯定的共鳴性の意識態の対自化と相即的に、当の「叙示態」は自他の「述定的陳述」という次元で覚識されるようになり、他者によるそのような「表出」に対して肯・否の態度決定がおこなわれる機序が成立する。――この間の事情について正規に論攷するためにはわれわれの謂う「言語の四重的機能」(指示・述定・表出・喚起)論を展開する必要があるのだが、爰では単に「述定的陳述態」の「積極形」「消極形」の分化、それを支える「肯定的承認」「否定的拒斥」の対境的事態への“内自化”の機制に限って摘記しておこう。」334P
(対話@)「判断的措定の既成化した場面においては、肯定的承認・否定的拒斥という元来は間主観的な「表出」次元での関係場における態度の執り方に関わる契機が「指示−述定の措定態」(叙示態)の内部的契機の相に“内自化”されており、判断的態度決定の対境的与件そのものが「肯定形」「否定形」を即自的に体現しているかのように映現する。あまつさえ、「SハPデアルというコト」「SハPデナイというコト」といった事態そのものが“真理性”“虚偽性”を自体的に帯びているかのように映現し、この対境的な自体的“真理性・虚偽性”が判断的措定における肯定的承認・否定的拒斥を当為的に必然ならしめるかのように感受させる。われわれとしては、この“物象化的錯認”を自覚的に剔抉しつつ、事柄の実相を把え返しておかねばならない。」334-5P
(対話A)「茲では、まず、肯定・否定が積極形・消極形の事態という相に“内自化”される機制の一斑をみるところから議論を進めよう。――先の“例”をもう一度ひきあいに出して記せば、眼前にいる二人の人物のうち、一方が「コレハB」と言い、他方が「コレハA」と言うのを聞いて、自分としては後者に共鳴する場面では、前者の「コレハB(デアル)」という表出に対して「不同意」「拒斥的否定」の態度をとり、後者の「コレハA(デアル)」という表出に対して「同意」「承認的肯定」の立場をとるわけであるが、ここで「否定」の態度に応ずる言語的表現様式の成立を勘考し、それがさしあたり「否、コレハBデナイ」という形をとるものとする。そこで、もし、あの眼前の二人の人物のうち後者が「否、コレハBデナイ」と発話するのを聞いて、自分もそれに共鳴したとすれば、「コレハBデナイ」という表出的事態へのこの肯定的賛同(「シカリ! コレハBデナイ」)は「コレハ非Bデアル」ことへの肯定的賛同と同値になる。こうして、他者に帰属する「コレハBデナイ」への肯定的同意は「コレハBデナイ(デアル)」への肯定的同意、つまり「コレハ非B(デアル)」への同意と同値になることから、「Bデナイ」が言語表現上「非B(デアル)」で置換されうることになり、現にそれが遂行される。そして、この「非」「不」という元来的には否定的陳述に照応した言語的表現が「非常に」「不満」といった例にみられるように、日常的な意識においては否定性の意識を事実上欠落させ、その点では“肯定的”表現と選ぶところがなくなってしまう。これに照応するかのように、「コレハ非B(デアル)」と同値の「コレハBデナイ」という“消極形”の措定態が「コレハBデアル」という“積極形”のそれと同位的な「コレハBデナイ」という“消極形”の措定態が「コレハBデアル」という“積極形”のそれと同位的な「施詞措定態」(叙示態)の相で現前するようになる。こうして、元来は対他者的な陳述(態度決定の表出)の次元に属した肯定性・否定性が「叙示態」(「指示−述定」関係態、いわゆる「主語−述語」関係態)の内部における肯定形述定・否定形述定の対立的形式として“内自的契機”に繰り込まれ、ここに(承認ないし拒斥という強烈な態度決定の意識を稀薄化せしめつつ)積極形命題・消極形命題が即自化された相で成立する。」335-6P
(対話B)「今や、このようにして「施詞措定態」には“肯定形”のものと“否定形”のものとの双方が存立することになり、「コレハAデアル」という積極形の表出に対して肯定・否定の応接が岐れるだけでなく、他者に帰属する「コレハAデナイ」という消極形の表出に関しても、あらためて、「マサニシカリ! コレハAデナイ」という肯定的同意の場合、および、「断ジテイナ! コレハAデアル」という否定的不同意の場合が相岐かれうる次序となる。(われわれは嚮に、肯定・否定の態度決定は、対境的与件の全体に関わるシカリ・イナの場面に存するのか、それとも、対境的与件の内的構造に関わるデアル・デナイの場面に関わるのか、この件を借問しておいたが、精確に言えば、肯定・否定の判断的態度決定は、施詞措定提題が積極形であれ消極形であれ、ともかく、或る他者の述定的表出=主張に対する「承認シカリ」・「拒斥イナ」として遂行されるのである。)」336P
(対話C)「ところで、「肯定・否定」が「叙示態」に“内自化”される過程は、事実的経過に即してみるとき、命名的結合態=施詞措定態が、人称帰属以前的な相から、一たん人称帰属性を明識される位相へと進捗したのち、人称性の意識がふたたび稀薄化する過程とも相即的に進行する。尤も、人称帰属性の稀薄化といっても、人称帰属“以前”的な相への単純な復帰ではありえない。それは、帰属される“人称的”主体の“脱”個性化の過程に負うものであって、むしろ「不人称(への帰属)化」とも呼ぶべき状相の現成である。――「コレハAナリ」「コレハAナラズ」といった次元にせよ、「SハPナリ」「SハPナラズ」といった次元にせよ、“同じ” 施詞措定が、さまざまな機会に、いろいろな人々によって、誰彼の別なく斉しく発話・提示される体験を通じて、それが(誰彼の具体的な人称的個体性のない)「(或る)ヒト」に帰属されるようになる。こうして、帰属者が不定人称的な相でのヒトという漠然たる“誰かしら”(etwer)になると、誰であってもよい不特定的な「ヒトが『SハPデアル』と言う」「ヒトが『SハPデナイ』と言う」といっても、「ヒトは……言う」の部分が意識から脱落し易くなり、「SハPデアル」「SハPデナイ」という施詞措定態・叙示態だけが“脱”人称的に現前しがちになる。」336-7P
(小さなポイントの但し書き)「(ここにおいて、「SハPナリというコト」「SハPナラズというコト」という積極形の命題的事態と消極形の命題的事態とが併存的に覚識される所以となる。われわれは消極的事態を以って積極的事態に消極性・否定性が累加されたものとは考えないのであって、両者を一応同位・同格的に扱う。これは、われわれが「肯定」と「否定」とを同位・同格的に扱うことにも照応するものである。原基的・原初的な施詞措定「コレハA」は、言語表現上は“肯定形”と言われようとも、第一次的には“中性的”であって、この第一次的な“中性的”施詞措定態=象徴的結合態に関しておこなわれる第一次的な肯定的・否定的な判断的態度決定は同位・同格的である。肯定は「否定の否定」ではなく、また、否定は「肯定の否定」ではなく、肯定も否定も、第一次的には斉しく“中性的”な対境的与件に関しておこなわれる。尤も、第二次的には、他者による否定判断的主張に対する反対定立=否定として肯定的判断措定が遂行されたり、他者による肯定判断的主張に対する反対定立=否定として否定的判断措定が遂行されたりするようになるし、延いては「他者」が“脱”人称化されるのに伴って、肯定形施詞措定態・否定形施詞措定態に関する肯否の判断的措定がおこなわれるようになるが。)」337P
(対話D)「実際問題としていえば、成人の日常的な思惟において判断的態度決定の対境となるのは、多くの場合、“脱”人称帰属化された相での施詞措定態、しかも、肯定性・否定性(積極性・消極性)を既に“内自化”された相での叙示態である、というのが実情である。――われわれが嚮に指摘しておいた判断の直接的対境に関する二様の錯認が生ずるのは、まさにかかる情況を基盤にしてのことである。直截には“脱”人称的な相で現識される「SハPナリ(ナラズ)」という対境的与件を「コレハSナリ、SナルコレハPナリ(ナラズ)」という仕方で分析的に覚識し(このさい、レアールに泛かぶ“表象”とそこに“受肉”している「意味」とを二重写しにしつつ)、対境的与件から能記的・言語的契機を捨象した“内容”を特個的な誰彼(この誰かは初めから自分自身でもありうる)に反省的に帰属化させ、この帰属態の“内容”を対自的に省察することにおいて「表象的結合説」の思念が生ずる。これとは逆のヴェクトルで「SハPナリ(ナラズ)」というコトの非特個的な帰属相を反省的に覚識し(このさい、命題的事態そのものはレアールな表象とは存在性格を異にするイデアールな存立態であることを省察しつつ)、対境的与件の所記的“内容”の“脱”人称帰属性を反省的に追認することにおいて「自体存立説」の思念が生ずる所以となる。」337-8P
(対話E)「翻って、しかし、知覚現場的に「コレハSナリ」「コレハSナラズ」と肯定的・否定的に措定するさい、対他者的帰属性などということはおよそ覚識されないのではないか? 肯定的否定的な判断措定は直截に「主語−述語」関係(「指示−述定」関係)の場で成立するのではないか? このような疑念があらためて擡頭しうるであろう。また、以上の立論は、日本語式の「はい」「いいえ」に定位したかたちになっており、インド・ヨーロッパ語圏の人々の日常的意識に鑑みるとき、到底普遍妥当性をもちえないのではないか? このような疑念すら生ずることかと思う。――この種の疑義に応えるためにも、今や述定的陳述とその様相という場面を主題化しなければならない。」338P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(7)
第二篇 省察的世界の問題構制
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
第一節 判断的措定の帰属性
(この節の問題設定−長い標題) 「省察的認識の分子的単位をなす「判断」においては肯定的措定と否定的措定とが岐れる。肯定的・否定的な判断措定の本諦は、しかし、いわゆる「主語」と「述語」との関係づけの場面に存するのではなく、主語対象に述語規定を向妥当せしめた等値化的統一態たる「判断成態についての“態度決定”の場面に存する。肯定・否定の判断的態度決定は「判断成態」を対境として遂行されるとはいえ、判断成態のそのものに対する評価的態度決定ではなく、当該判断成態の間主観的な対妥当性に関しておこなわれるのである。自・他に帰属する判断意味成態の協和・背反が肯定・否定を岐かつのであって、他者に帰属する判断意味成態が対自己的にも妥当することの承認が肯定であり、他者に帰属する判断意味成態が対自己的にも妥当することの拒斥が否定である。判断措定における肯定および否定が判断意味成態に内自化されていわゆる積極形の命題的事態および消極形の命題的事態が形象化される。」318P
第一段落――肯定的・否定的な判断成態の構制とそれが命題的事態に“内自化”される構制の検討 318-27P
(この項の問題設定)「「肯定」および「否定」の判断的措定にとって本質的契機とみるかいなかは判断論上の立場に応じて相岐れる。とはいえ、謂うところの「判断論」の立場なるものが、実質上、「肯定」「否定」の取扱いと相即的に劃定される。このかぎりで、肯定・否定の処遇は判断論ひいては認識論にとって鍵鑰の一つをなすものである。――爰では、肯定的ならびに否定的な判断成態の構制を検討し、それが命題的事態に“内自化”される構制をも追覈(「ついかく」のルビ)しておこう。」318-9P
(対話@)「偖、肯定判断と否定判断とは同位・同格的に対立するものであるか、それとも、肯定判断が基礎であって否定判断は肯定判断に何事か累加されたものであるのか、肯定・否定に関する同位説と従位説との対立は、それ自身すでに判断的措定の内実に関する了解の差異に照応する。われわれ日本人の日常的意識においては「デアル」と「デナイ」とが同位的に対立し、そのことが「はい」「いいえ」の応じ方にも顕われていると言えよう。その点、インド・ヨーロッパ系の言語においては否定的判断は肯定的判断に否定辞を累加する形になることもあって、欧米人の日常的意識では肯定判断と否定判断とは同位的でなく、そのことが「イエス」「ノー」の応じ方にも顕われているものの如くである。学理的反省にあっては、無論、かかる日常的思念がそのまま追認されるわけではない。とはいえ、日常的既成観念影響力には端倪(「たんげい」のルビ)すべからざるものがあり、自戒を要する。われわれとしては、同位説・従位説の対立地平をも射程に収めつつ、肯定・否定の問題論的構制そのものを対自化するところから始めたいと念う。」319P
(対話A)「肯定・否定は、「主語」と「述語」との直接的な相互関係の場面で存立するのか? それとも、「主語−述語」成態に関する判断主観の“態度決定”の場面で成立するのか? 常識的には主語と述語との関係づけの場面で肯定・否定が岐れるかのように考えられてはいるか、われわれの結論から先に話せば、肯定・否定ということは主語と述語との直接的な関係づけとは別次元の事柄である。「肯定」「否定」は、すでに関係づけられている「主語−述語」成態を与件としつつ、この成態の間主観的な対妥当性をめぐる一種の態度決定として遂行されるのである。」319P
(対話B)「議論の順序として、ここでは、「肯定」「否定」の何たるかを積極的に論定する前梯を設えるべく、判断的態度決定の対境的与件とされるものの実態に目を向けておこう。――判断にさいしては、一見したところ、主語表象と述語表象との“結合”が必然的な契機をなしているかのように思われ易い。例えば、「或ル球ハ赤イ」という判断の場合、「球形」の表象と「赤色」との表象が結合され、「雪ハ白イ」という判断の場合、「雪」の表象と「白色」の表象とが結合されるのではないのか? さもなければ「ソノ球ハ赤イ?」「雪ハ白イ?」という疑問や「雪ガ白イとすれば」という仮定、「ソノ球ハ赤イかまたは赤クナイ」という選言などはもとより、そもそも「ソノ球ハ赤クナイ」という判断的否定すら成立しえない仕儀にならないか? なるほど、主語表象と述語表象とのこの“結合”は、それ自身ではまだ積極的な判断的肯定とは言えないかもしれない。しかし、ともあれ、判断的態度決定の少なくとも前件として、一定の表象的結合がおこなわれているということまでは認めざるをえないのではないか? 論者たちのうち一部の者は、主語表象と述語表象との“結合”を以ってとりも直さず肯定的判断措定であると主張する。そうでない論者たちにあってさえ、しばしば、定言判断的な肯定・否定の前件として“主語表象と述語表象との結合態”の現存が想定され、この“結合態”を俟ってはじめて「疑問」「仮想」「選言」なども可能になる旨が云々される。」319-20P
(小さなポイントの但し書き)「――右には“結合”という面を強調したが、論者によってはむしろ“分割”という面を強調する。例えば「雪ハ白イ」と判断するさい、主語表象「雪」は最初から「白色」の表象を含んでいたのであって、漠然たる主語表象が“分割”的に判明化されて「白イ」と認定されるのである云々。論者たちの謂う「主語表象−述語表象」成態は、いずれにせよ「結合的分節態=分節的結合態」であると言えよう。学史上は「結合」を強調する立場と「分割」を強調する立場とが鋭く対立してきたとはいえ、われわれの見地からはいずれにせよ大同小異である。」320P
(対話C)「偖、われわれとしても、論者たちの謂う「結合的分節表象」が或る種の場面で成立することを顚から無視するわけではない。がしかし、それは例外的な特殊ケースにすぎず、一般には、心理的事実の問題として、論者たちの想定する相での表象は現存しない。因みに「千角形ハ千ノ角ヲ持ツ」と判断するとき、「千角形」の表象が泛かび、それと「千ノ角」の表象が分節的に結合されるのであるか? そもそも「千角形」なる表象を泛かべることが心理的事実の問題として不可能であろう。判断にさいして、論者たちの謂う“表象結合”“表象分割”は一般にはおこなわれず、また、判断にとって“分節的結合表象”は必要条件ではないのである。現に、われわれは、抽象的な思考などの場合、“表象結合”や“表象分割”などをおこなうことなく円滑に判断を遂行している。それでは、論者たちが判断における肯定的・否定的な態度決定にとって少なくとも前件をなすものと称するところの“分節的結合表象”なるものは一体なにをどう誤認した代物であるのか? われわれとしては、まずはこれを積極的に解明し、事柄の実相を見定めておく必要がある。」320-1P
(対話D)「判断成態が「主語−述語」構造をもつかぎり、主語によって指称される対象と述語によって表示される規定性とが一定の関係におかるべきことは言を俟たない。が、問題は、主語対象および述語規定が果たしてそれぞれ「表象」のかたちで泛かべられるのかどうか、また、両者の関係づけの基底が果たして「表象結合」ないし「表象分割」というかたちになるのかどうか、この二点に関して論者たちは錯誤に陥っていると言わざるをえない。論者たちは、対象的意識とは対象性が「表象」のかたち与えられることであるという既成観念に禍いされて、そのかぎりで表象的与件を云々しようとする。(当面の文脈では「表象」という詞をいわゆる“知覚心像”をも含む広義に用いていることは言うまでもない)。だが、われわれに言わせれば、対象的意識とは、主語対象に関しても、述語規定に関しても、表象のかたちで泛かべる謂いではない。また、論者たちが主語と述語との原基的な関係相と称する“結合”“分割”は特殊的にすぎ、かつ、狭隘にすぎる。」321P
(小さなポイントの但し書き)「因みに「猫ハ犬デナイ」という“判断”の“前件”たるべきものを考えてみるがよい。“猫−犬”結合分節態という化物的な表象、“黒−白”結合分節態という縞紋様的ないし灰色的な表象がまず形成されて、それが否定的に“分離”されるとでもいうのか? 「猫ハ五足獣デナイ」「コノ猫ハ黒クナイ」といった否定的判断の場合は、しかるべき“実体−属性”の表象を泛かべたうえでそれを否定するという構制が一応考えられうる。剴切には、述語規定を分肢的な部分表象として含む“全体表象”を泛かべたうえで、その“分肢”を“分離的に排却”する構制を一応想定できる。しかしながら、実際問題としては、そのような“結合−分離”が普通に生起するとは思えないし、仮りに生起しうるとしても、それは主語と述語との関係が視覚的表象において“全体−部分”の関係相に立ちうる場合に限られるであろう。あまつさえ、この“全体−部分”の関係相がそのまま“主語−述語”関係と言えるのかどうか、それだけでは例えば人魚とかペガサスといった複合表象と同類のものにすぎないのではないかという疑義を防遏できまい。」322P
(対話E)「われわれは、今ここで“主語−述語”関係について嚮に論じておいた論点を復唱する心算はないが、「主語−述語」成態が判断的態度決定における直接的な与件的対境をなすと言われるかぎりで、論点の一端に稍々別の視角から触れておく次第である。」322P
(対話F)「判断の原基的形態は「(コレハ)何々(ダ)」「(コレハ)然々スル」「(コレハ)斯々シイ」といういわゆる一語文のものであると言えよう。尤も、「何々」「然々」「斯々」という詞は発語されるには及ばないのであって、いわゆる内語の域にとどまっていても差支えない。このような一語文的判断に先立って、現前する現相的与件が端的な或るもの(etwas schlechthin)として覚識されたり、それ(es)として覚識されたりする次元、すなわち“図”の相で覚知される次元がある。この次元での覚知ですら、現相的与件質料を単なるそれ以上の所識的意味形相として等値化的に統一するものであり、最広義においては“判断”と呼ぶこともできる。がしかし、われわれとしては、これは狭義の判断より以前の知覚的次元として扱い、言語の介在する場面から狭義の判断を云為する。」322P
(小さなポイントの但し書き)「ところで、人によっては、二本のタバコを単純に同立したり、タバコとマッチを単純に異立したりする場面、こういう単純同立・単純異立の場面においてすでに判断が存立すると言うかもしれない。慥かに、aとbとの単純同立や単純異立も言語的に表現すれば「aハbト同ジダ」「aハbト異ナル」という形になることであり、これを判断から排却してしまうべき謂われはない。旧来、同立や異立が判断の基礎的な機制と考えられてきた事情にも鑑み、われわれとしても同立判断や異立判断を判断のうちに算入する。但し、われわれが同立や異立を狭義の判断のうちに算入するのは、あくまで言語介在的な措定の場面からである。――」322-3P
(対話G)「偖、「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々しい」という知覚現場的判断は、実質的にはさしあたり、コレと指称される“図”的対象を「何々」「然々」「斯々」と命名する域をいくばくも出ないとしても、所与を「何々」「然々」「斯々」という詞の函数態的な被表的意味の“特定値”として認知しつつ、現相的所与に意味的所識を向妥当せしめる等値化的統一である。(この等値化的統一は前篇第三章第一節でみた通り「異」と「同」との一種独特の止揚的統一である)。このさい、所与の“図”的対象と「何々」「然々」「斯々」という詞との命名的結合は、言語的能記と指示対象との象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)であり、しかも、当の命名的呼称の対他者的・間主観的な妥当性の覚識を伴っている。われわれは所与対象と「何々」「然々」「斯々」という詞のとの象徴的結合態を「施詞措定態」と呼ぶことにしよう。知覚現場的な「コノSハPナリ」「SタルコレハPナリ」においても、Sと呼ばれるコレが「何々」「然々」「斯々」と象徴的に結合されており、ここでもやはり「SハP」という「施詞措定態」が存立する。謂うところの“主語−述語”成態とは、さしあたり、「施詞措定態」、すなわち主語の指示する所与対象と述語能記とを(前者に後者の表意する所識規定を向妥当せしめる等値化的統一と相即的に)象徴的に結合した成態にほかならない。この施詞的措定、すなわち「所与的現相と述語的所識との等値化的統一」と相即する「所与対象と述語能記との象徴的結合」は、それ自身としては判断措定ではなく、狭義の判断的措定(肯定的・否定的な判断措定)にとっての前件である。そして、施詞措定態が判断的態度決定の直接的対境をなすのである。」323P
(対話H)「施詞措定態は、知覚的現場にあっては、対象的与件を現相的(「フェノメナル」のルビ)に現前させており、述語的規定性もその特定値で現前しているところから、とかく知覚的次元での心象(いわゆる知覚的心像、知覚的表象)と二重写しに思念され易い。そして、ここでは、言語的能記は没却されて、施詞措定態の所記的契機、しかもレアールな現相的契機だけがクローズ・アップされる。その結果として“表象的結合態”、精確には“表象”の「結合的分節態=分節的結合態」なるものが泛かびあがり、これが判断的措定の直接的対境とされたり、時によっては、当の“結合”がとりもなおさず肯定的判断措定であるとされたりする。また、知覚現場を離れても、施詞措定態は一定の副表象を範例的に伴いうるところから、当の副表象的な「結合的分節態=分節的結合態」が施詞措定態の能記的契機から抽離された相で判断の直接的対境とみなされてしまう。それどころか、論者によっては、当の「結合的分節態=分節的結合態」の形成を以ってとりもなおさず肯定的判断措定であると思念する始末である。このようにして、判断論におけるいわゆる“表象結合”“表象分割”節が生ずる次第であるが、これが心理的事実としてもおよそ一般性をもちえないこと、せいぜい特殊ケースにしか妥当しないこと、これは先に指摘しておいた通りである。――施詞措定態は、知覚現場から離れて、概念的思考判断がおこなわれるような場面になると、「SというものはPなり」という相で命題化され「SハPナリというコト」という命題的事態の相に昇華されがちになる。われわれは、嚮には、施詞措定態を知覚現場的判断という基礎場面に定位しつつ定義した関係で、所与的現相と述語的所識との等値化的統一を云為したのであったが、主語対象と超文法的述語能記との象徴的結合が存立していれば、主語対象は被示的意味でなく被指的意味であっても差支えない。このように拡張するかぎりで、施詞措定態は「SというものはP」という相でもありうる。がしかし、施詞措定態はあくまでレアールな言語的能記(勿論、“内語”であっても可)を構造的契機とするのであって、決して単なる意味形象ではない。しかるに人々は、施詞措定態の意味的契機を自存化させ「SというものハPナリというコト」、この命題的事態を自存的な相で形象化させ、この命題的事態を以って判断的態度決定の直接的対境であるものと思念しがちである。(命題的事態は、前節でみておいた通り、存在性格上、レアール・イデアールな事象(事実・事件・事況)とは異なり、イルレアール・イデアールな存立態であって、リアリティーをもつ事象とは別異な“存在”である)。ここにおいて、判断論にいわゆる“命題的事態の自体的存立説”が生ずる次第であるが、われわれに言わせれば、此説は判断的成態の意味的契機を自存視する錯視にもとづく代物なのである。命題的事態を以って判断主観の能作から端的に独立自存するものと思念し、それが判断的能作にとって自存的な対境的与件となすものと思念する此説は、われわれの見地からみれば、判断成態の対他・対自的な帰属的妥当性をめぐる間主観的な関係を対境と主観との直接的な関係(「主観−客観」関係)であるかのように錯認したものにほかならない。しかし、この間の事情については追々に究明することにして、ここでは「施詞措定態」に議論を戻そう。」324-5P
(対話I)「われわれは、以上において、判断の直接的な対境的与件たる施詞措定態が二極的な仕方で錯認される経緯にまで触れてきた。施詞措定態が伴いうるレアールな表象的契機が能記的言語形象から遊離され、それ自身で現前するかのように覚識されるところから、判断的措定の直接的対境が“表象の分節的結合態”であるとする一方の極(いわゆる“表象結合態”説)が生じ、施詞措定態の表意するイデアールな意味的契機が能記的言語形象から遊離され、それ自身で現存するかのように覚識されるところから判断的措定の直接的対境が“自存的な命題事態”であるとする他方の極(いわゆる“自体存立説”)が生ずる。われわれは、判断の対境的与件をめぐるこれら二極的な錯認を卻けつつ、あくまで施詞措定態の如実相に定位さなければならない。――ところで、施詞措定態は「コレハ何々ダ」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」、一般に「SハPナリ」と標記されるとき、既に肯定判断に応ずる形になっているではないか。われわれは、施詞措定態を以って、肯定的・否定的な判断的措定の前件をなす対境的与件であると称しながら、論件先取(註)を犯しているのではないか? 翻ってまた、「コレハ何々デナイ」「コレハ然々シナイ」「コレハ斯々シクナイ」、一般に「SハPナラズ」と標記されるごとき施詞措定態は存在しないのか? 積極形の施詞措定態と消極形の施詞措定態とが同位的に存立するのではないのか? もしそうだとすればいよいよ論件先取(註)の疑義が深まる。――われわれは、積極形の施詞措定態と同位的に、消極形の施詞措定態もあることを認める。が、それは先行的判断の否定が施詞措定態に内自化されたものであって、先行的判断による媒介的所産がその都度の新規的判断措定にとっては対境的与件たりうるのである。(先行的判断における否定が内自化されることによって消極形の事実・事件・事況も成立しうるし、消極形の施詞措定態も存立する。)消極形の施詞措定態と同位的に、先行的判断の肯定が内自化された積極形の施詞措定態も存立する。がしかし、原初的・原基的な施詞措定態は、肯定的・否定的な判断措定に対する前件的な対境与件として、それ自身では積極形でも消極形でもなく、謂うなれば中性的である。なるほど、原基的・原初的施詞措定態といえども、日本語で標記しようとするかぎり、「コレハ何々(ダ)」「コレハ然々スル」「コレハ斯々シイ」という形、このかぎりでの積極形にせざるをえない。とはいえ、原基的・原初的な施詞措定は、対象的与件と詞との命名的結合・象徴的結合たるにすぎず、対象的与件と詞の被表的意味との等値化的統一、前者の後者「として」の命名的覚知たるにすぎないのである。これは、消極形の施詞措定態と同位的に対立するものではない。われわれは、以下、原基的・原初的な中性的施詞措定態、つまり、単なる等値化的統一と相即する命名的結合態・象徴的結合態を標記するさいには、必要な場合、紛らわしい積極形の標記は避けて「コレハS」ないしはまた「SハP」という形で誌すことにしよう。」325-6P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
(対話J)「今や、原基的・原初的な中性的施詞措定態「コレハS」を対境的与件としつつ、肯定的・否定的な狭義の判断的措定が如何なる構制で遂行されるのかを直接の主題とし、延いては、肯否の判断的措定が施詞措定態・事象・事象的命題・命題的事態に如何なる機制で内自化されるのかを見極めていかねばならない。」326-7P
第二段落――判断の肯定・否定という「質」をどの場面で規定するのかの先決問題 327-34P
(この項の問題設定)「われわれは判断論上のいわゆる「態度決定説」をそのまま追認するものではないが、「肯定」「否定」が一種の態度決定に照応することは確かである。――或る種の論者たちは、判断における承認・ 拒斥 の“心的作用”ないし“態度決定”という能作を極めて広い意味にとり、この能作そのものは動物における判断以前的な“態度決定”とも共通であるとみなす。論者たちによれば、動物ですら、好感的に受容したり、嫌悪的に拒絶反応を示したりするが、判断における能作はそれと共通のものだとされる。われわれとしては、しかし、動物の場合はさておき、人間の場合に限ったとしても、肯定的承認・否定的 拒斥 の能作が果たして好・悪、愛・憎といった情意的能作と共通かどうか、一種独特の能作ではないのか、この件をめぐって「作用心理学」的に分析してみても判断論にとっては殆んど意味がないと考える。というのは、好感しつつも否定的に 拒斥 せざるをえず、嫌悪しつつも肯定的に承認せざるをえぬ場合が現に経験されるのであるから、判断的能作はなるほど「意志」に通ずるにしても、判断的能作そのものが好・悪、愛・憎といった対立性をもっているとは思えないし、従って、能作そのものの質的対立性に拠って肯定・否定の分立を説明することはできそうにないからである。それでは、判断の“心的作用”“能作”そのものは肯定・否定の質的区別性をもたぬ謂わば“単色的”“単質的”なものであるのか? この借問に答えるためにも、判断の肯定・否定という「質」をどの場面で規定するのかが先決問題になる。」327P
(対話@)「議論を簡単にする便法として、次のような回答の場面を想定してみよう。/@「蝶は鳥ではないか?」と問われて、「マサニシカリ! 蝶ハ鳥デナイ」と答えるさい、この判断は肯定(マサニシカリ)なのか、それとも否定(鳥デナイ)なのか。/A「犬は動物でないか?」「イナ! 犬は動物デアル」。この判断は否定(イナ)なのか、それとも肯定(動物デアル)/なのか。B「蝶は鳥であるか?」「イナ! 蝶ハ鳥デナイ」。/C「犬は動物であるか?」「シカリ! 犬ハ動物デアル」。/右のBCは、否定・否定、肯定・肯定で一貫するので問題がないとしても、@Aは、日本語の場合には不一致を生ずる。この点、インド・ヨーロッパ語では、イエス・ノーの使い方に体現される“態度決定”の“質”が判断的成態内部の“肯定”“否定”形と一致するので(実際はしかく簡単ではないことを承知しているが、後論には響かないので初等文法の流儀でこう割切っておく)、肯定・否定の質をどの部面で規定するかという難題を生じない。ヨーロッパ人の場合、彼らの語法に即して、イエス・ノーという態度決定そのものの場面で質的な対立が岐れると立論することが勿論可能であるし、また、それとは別の意見として、判断的決意性そのものは質的にニュートラルとみなしたうえで、判断成態ないし対境的事態そのものに既に含まれている肯定性・否定性(積極・消極)を、イエス・ノーは単に強調(エンファサイズ)するだけだ、と主張することも可能である。」327-8P
(対話A)「日本人の場合、ヨーロッパ人たちのように簡単に割切って済ますわけにはいかない。判断の肯定・否定という質を「シカリ・イナ」という同意・不同意の場面で規定すべきなのか、それとも判断成態の内部における「デアル・デナイ」という対立性の場面で規定すべきなのか? これがまず大問題になる。前掲の@ABCを「設問−回答」のかたちから、「蝶ハ鳥デアル」「犬ハ動物デナイ」等々、誰かしらの主張とそれに対する応接のかたちに変えてみると有様(「ありよう」のルビ)が一層はっきりするのだが、日本語の場合、シカリ・イナの態度決定は「誰か或る者」(といっても、架空の想定人物や「非人称」的な“人物”であってもよい)の“主張”(これ自身すでに、デアル・デナイの質的対立性を帯びている)に対する同意・不同意(承認・不承認)であり、間主観的(inter-subjectiv)な事柄である。これにひきかえ、ヨーロッパ人の場合には、回答であれ応接であれ、命題全体としては否定形であっても、さしあたり「SハP(デアル)」という積極形の「主語−述語」成態を関心の直接的対境としつつ、この“積極的命題”に対してイエス・ノーと応じ、それに照応するかたちで肯定形・否定形を伴わせる。このさい、謂うところの“積極形の提題”を「誰か」の“主張”だとみなすことは、論理的には可能だとしても、心理的な意識実態に即するかぎり多分に困難であろう。従って、そこでは、誰化の主体的主張に対する同意・不同意の意識はみられず、もっぱら「SハP(デアル)」という対境的与件に対する態度決定(真・偽の判定)が発動するものと思念され易い。ヨーロッパ人の思念にあっては、こうして、「肯定・否定」は間主観的な同意・不同意ではなく、ひたすら、対境的事態に対する評価的判定とみなされてしまう。」328-9P
(対話B)「翻って、日本人の判断意識の場合、「誰か」の“主張”に対する同意・不同意(この場面での肯定・否定)と、対境的事態に関わるデアル・デナイという積極的措定・消極的措定(この場面での肯定・否定)とは、さしあたり別途のもの、別趣のものと考える余地がある。それでは、これら両つの場面で二重的に登場する「肯定」「否定」は、どのような関係にあるのか?」329P
(対話C)「われわれの見解では、肯定・否定は、原本的には、誰かの提題的“主張”に対する同意・不同意の場面で存立する。――このことはヨーロッパ人の日常的意識ではとかく覆われがちであるとしても、論理構制上は彼らの場合でもやはりそうであって、日本人の場合には、このことが偶々日常的意識にとっても認められ易いかたちになっているだけのことであろうと思う。――そして、この間主観的な場面での同意(肯定)・不同意(否定)が判断成態に“内自化”されることによって、「積極形の述定」「消極形の述定」が既成化し、その結果、肯定・否定はあたかも述定関係に内属する質的相違であるかのように覚識されたり、施詞措定態・事象・事象的事態・命題的事態がそれ自身で肯定性・否定性の質的対立性を帯びた相で現識されたりするようになる。この間の機制の究明を図りつつ、まずは同意・不同意の構制を把握しておこう。」329-30P
(対話D)「判断において、肯定的承認ないし否定的拒斥の直接的対境をなすのは、一部論者たちが思念するごとき“表象結合態”や“自存的事態”ではなく、施詞措定態であって、原初的には知覚的与件と詞とを命名的に結合した成態であり、原基的なそれは「(コレハ)A」という形で標記できよう。(このさい、Aは「何々(だ)」「然々する」「斯々しい」の謂いであって、名詞とは限らず、形容詞や動詞でもありうるが、特に必要のないかぎり、以下では名詞風に標記する。)上述の通り、言語以前的な知覚的次元での等値化的統一が現に成立しうるとはいえ、「コレハ何々・然々・斯々」と認知される場合、現実的問題として、何々・然々・斯々という認知は“内語”を伴うであろう。そして“内語”を伴う認知はすでに「コレハA」という命名的範式での施詞措定に算入される。」330P
(対話E)「偖、施詞措定態=命名的結合態は、発生論的には、当人自身が創造的・自発的に形成するのではなく、他人によって提示的に与えられる。なるほど、歴史上の発生的場面や新規命名の場面にかぎらず、日常的にもやがて当人自身が“内発的”に命名的結合・施詞的措定を遂行するようになるが、ここではひとまず幼児的体験の場を念頭におくと便利である。――所与の命名的結合には、発話者自身にとっては単なる命名・指称ではなく既にして判断の表明で場合もありうるにせよ、幼児的聴取者たる当人にとっては、さしあたり与件(コレ)と音声(A)との“結合”の域を出ない。当の命名的結合態は、しかも、原初的には、特定の誰彼に帰属するというよりも、むしろ、人称的帰属以前の相で、いわば“非”人称的“前人称的”な相で覚識される。つまり「コレハA」という施詞措定態=命名的結合態は、発話者たる相手に帰属するとも聴取者たる自分に帰属するとも明識化されることなく、謂うなれば与件的な事態として覚識されるに止まっている。このような命名的結合態の覚識が知覚的分節体制の分化や綜合を促しつつ進捗してゆき、知覚的分節肢が各々即自的に名称を“帯びる”状相になる。条件反射的結合のこの態勢の確立によって、所与の知覚的与件に対して自らも命名的発話をおこなうこと、および、所与の言語的形象を機縁にしてそれ以外の一定の対象的現相を志向的に覚識することが、殆んど“自動的”に“生起”するようになる。」330-1P
(対話F)「この態勢が或る程度まで形成され始めた局面を迎えると、誰かが与件a(Aと呼ばるべき対象)を指して「コレハB」と呼称するのを聞くと、それと対立的に「コレハA」という命名的結合態が“反射的に”覚識される場合を生ずる。また、自分で(誤って) aを「コレハB」と呼称して、誰かから「コレハA」という反対定立を受ける場合も生じ、こうして、「コレハA」と「コレハB」という両つの命名的結合態が併立的に覚識されるという情況を体験する所以となる。そして、この対立的区別の場面で、命名的結合態=施詞措定態の「対他者的「対自己的」な(人称的)帰属性が意識されるに及ぶ。――先には、施詞措定態=命名的結合態は原初的には人称帰属“以前”的である旨を述べたのであったが、その原初的な場面でも「A」という音声の発出者(音源的発話者)はもともと覚知されている。しかし、それはさしあたり“音源”であり、謂わば“場所”的に定位されているにすぎず、そのかぎりでは、発話する他人はまだ音を発する物体と選ぶところがない。その場面では、音声「A」そのものは他人(音源的発話者)に種属せしめられているとしても、「コレハA(デアル)」という覚識的事態はまだ「他者」に帰属されるわけではなく、人称帰属“以前”的である。――今や、しかし、与件aを指しながら「(コレハ) B」と他者が発話し、「(コレハ) A」と自己が発話するという「異」状な場面、ないしはまた、自己が「(コレハ) B」と発話し、他者が「(コレハ) A」と発話する対立的な場面において、施詞措定態をめぐる「彼−此」的区別相が覚識される。」331P
(対話G)「ここにおいて、もはや単なる音声「A」「B」の音源的帰属の域を超えて、「コレハA」「コレハB」という併立的に現識される二つの施詞措定態=命名的結合態が「彼−此」的な対向的区別性の相で「他者」と「自己」とに帰属せしめられる。こうして、対他者的に帰属する施詞措定態と対自己的に帰属する施詞措定態との分立性において「施詞措定態」の「人称帰属」化が成立する次第である。」331-2P
(対話H)「ところで、「コレハA」「コレハB」という二つの施詞措定態が他者と自己とに彼−此」的な対向的区別相で帰属化されるという情況、この対他−対自の対立性とそこにおける相違感は、それ自身ではまだ「不承認」の意識ではなく、況んや、そのままで判断的「否定」なのではない。」332P
(小さなポイントの但し書き)「――幼児的な体験期においては、「コレハA」と呼称する現実に直面すると、多くの場合、「コレハB」という思念がたちどころに消失して、あとから発せられて現に残響している「コレハA」という他者の呼称で置換されてしまい、自分でも「コレハA」と復唱するのが普通のように見受けられる。このような過程を通じてaと「A」、bと「B」等々、しかるべき与件と名辞との象徴的結合が鞏固になっていくが、それはaを「B」とか「C」とか呼んで矯正された体験の“内化”(er-innern=記憶)に支えられているため、そこでもし他者がaを指して「コレハB」と呼称する場面に直面すると、強烈な違和感を伴った拒絶的反応が裡に生ずる。」332P
(対話I)「――対他者的に帰属する「コレハB」に対して、「コレハA」という措定態を対自己的に帰属せしめつつ、違和感を以って「コレハB」という他者の提題に拒絶反応を呈すること、それが「不同意」であり、このような構造的態勢の契機となっている「コレハB」という施詞措定態に対する拒絶反応、それが「否定」的 拒斥 の原初的ケースだと思われる。ここには、第三者的に分析していえば、与件aを「B」と呼ぶ他者の立言を矯正的に置換して「コレハA」と呼ぶべきことの意識を見出せる。このかぎりで、「コレハB(デアル)」という提題に対する否定的 拒斥 は、「コレハBデナクAダ」というnot……butの意味構造を即自的に含意していると言うことができよう。」332P
(対話J)「翻って、他者と自分とがともに「コレハA」と発話する場合(自分の側は“内語”にとどまっても可であるが)、二つの命名的措定態は必ずしも他者と自己とに明確なかたちでは人称的に帰属しない傾向があり、殊に自分の側は内語にとどまる場合には二つの施詞措定態の併立というよりもむしろ融一的な相でしか意識されない傾向がある。否認的違和感と承認的同感とのいずれが発生論的に先であるかは微妙な問題であるが、しかしいずれにせよ、肯定的承認ということが当事主体本人にとって自覚的に明確化されるのはおそらく可成り屈折した場面においてであろうと忖度(「そんたく」のルビ)される。例えば、眼前の或る与件についてそれを何と呼称するのであったかなかなか想い出せない(ないしは逆に、或る言語記号のほうは憶えているのだがそれがどのような対象に応ずるのか想い出せない)といった場面において、他者が「コレハAだ」(ないしは「Aトハコレだ」) と発話するのを聞いて「ソウダ!」と同感(想起的な共鳴)の意識を喚起されるようなケース、それが所与の「施詞措定態」に関する「同意」「承認的肯定」の原初的な形態ではないかと思われる。そのほか、例えば、眼前にいる二人の人物のうち一方が与件aを指して「コレハB」と発話したのに対して、もう一方が「コレハA」と発言するような場面で、後者に帰属する「コレハAだ」という主張に「同感」(共鳴)するといったケースも、判断的同意・肯定の原初的な次元に属するのではないかと考えられる。さしあたり、この程度の次元にとどまるにせよ、施詞措定態の「対他者的・対自己的」な共同帰属性、「彼−此」的区別の上に立つ同一性が覚識される域に達し、所与の提題に関する他者帰属的主張の肯定的承認が対自化されるようになる。」332-3P
(対話K)「こうして、「肯定」的施詞措定(肯定的陳述態)が、「否定」的施詞措定(否定的陳述態)と並んで、対自己的・対他者的に帰属化される所以となる。――以上、原基的・原初的な場面に即してみたところ既にして顕われているように、判断的措定における肯定・否定は、施詞措定態を対境的与件としておこなわれるとはいえ、対境的与件に対する直接的な評価とか承服・拒絶とかではない。判断的肯定とは、誰か或る者に対他者的帰属する施詞措定態の対自己的な対妥当性の承認的措定にほかならず、判断的否定とは、誰か或る者に対他者的に帰属する施詞措定態の対自己的な対妥当性の拒斥的措定にほかならない。謂うところの他者=誰か或る者は、発生論的に原初的には施詞措定を現実に発話する具体的な他人であるが、やがて“脱肉化”“脱人称化”されて“誰か或るヒト”の相でしか泛かばなくなりうる。だが、施詞措定態の帰属する他者が“脱人称化”された場面でも、依然として、間主観的な態勢での態度決定という「肯定・否定の構制」は維持される。」333-4P
第三段落――「述定的陳述態」の「積極形」「消極形」の分化、それを支える「肯定的承認」「否定的拒斥」の対境的事態への“内自化”の機制 334-8P
(この項の問題設定)「われわれは、以上の行為においては、「(コレハ) A」という“命名的結合”“施詞措定”をそれ自身ではまだ肯定的措定“以前”的な謂わば“中性的”な前件として扱ってきた。それは、原初的には、他者による「陳述」として対自化される以前に、施詞的措定がとりあえず「叙示」の次元で受け留められることに照応する。やがては、しかし、否定的対立性・肯定的共鳴性の意識態の対自化と相即的に、当の「叙示態」は自他の「述定的陳述」という次元で覚識されるようになり、他者によるそのような「表出」に対して肯・否の態度決定がおこなわれる機序が成立する。――この間の事情について正規に論攷するためにはわれわれの謂う「言語の四重的機能」(指示・述定・表出・喚起)論を展開する必要があるのだが、爰では単に「述定的陳述態」の「積極形」「消極形」の分化、それを支える「肯定的承認」「否定的拒斥」の対境的事態への“内自化”の機制に限って摘記しておこう。」334P
(対話@)「判断的措定の既成化した場面においては、肯定的承認・否定的拒斥という元来は間主観的な「表出」次元での関係場における態度の執り方に関わる契機が「指示−述定の措定態」(叙示態)の内部的契機の相に“内自化”されており、判断的態度決定の対境的与件そのものが「肯定形」「否定形」を即自的に体現しているかのように映現する。あまつさえ、「SハPデアルというコト」「SハPデナイというコト」といった事態そのものが“真理性”“虚偽性”を自体的に帯びているかのように映現し、この対境的な自体的“真理性・虚偽性”が判断的措定における肯定的承認・否定的拒斥を当為的に必然ならしめるかのように感受させる。われわれとしては、この“物象化的錯認”を自覚的に剔抉しつつ、事柄の実相を把え返しておかねばならない。」334-5P
(対話A)「茲では、まず、肯定・否定が積極形・消極形の事態という相に“内自化”される機制の一斑をみるところから議論を進めよう。――先の“例”をもう一度ひきあいに出して記せば、眼前にいる二人の人物のうち、一方が「コレハB」と言い、他方が「コレハA」と言うのを聞いて、自分としては後者に共鳴する場面では、前者の「コレハB(デアル)」という表出に対して「不同意」「拒斥的否定」の態度をとり、後者の「コレハA(デアル)」という表出に対して「同意」「承認的肯定」の立場をとるわけであるが、ここで「否定」の態度に応ずる言語的表現様式の成立を勘考し、それがさしあたり「否、コレハBデナイ」という形をとるものとする。そこで、もし、あの眼前の二人の人物のうち後者が「否、コレハBデナイ」と発話するのを聞いて、自分もそれに共鳴したとすれば、「コレハBデナイ」という表出的事態へのこの肯定的賛同(「シカリ! コレハBデナイ」)は「コレハ非Bデアル」ことへの肯定的賛同と同値になる。こうして、他者に帰属する「コレハBデナイ」への肯定的同意は「コレハBデナイ(デアル)」への肯定的同意、つまり「コレハ非B(デアル)」への同意と同値になることから、「Bデナイ」が言語表現上「非B(デアル)」で置換されうることになり、現にそれが遂行される。そして、この「非」「不」という元来的には否定的陳述に照応した言語的表現が「非常に」「不満」といった例にみられるように、日常的な意識においては否定性の意識を事実上欠落させ、その点では“肯定的”表現と選ぶところがなくなってしまう。これに照応するかのように、「コレハ非B(デアル)」と同値の「コレハBデナイ」という“消極形”の措定態が「コレハBデアル」という“積極形”のそれと同位的な「コレハBデナイ」という“消極形”の措定態が「コレハBデアル」という“積極形”のそれと同位的な「施詞措定態」(叙示態)の相で現前するようになる。こうして、元来は対他者的な陳述(態度決定の表出)の次元に属した肯定性・否定性が「叙示態」(「指示−述定」関係態、いわゆる「主語−述語」関係態)の内部における肯定形述定・否定形述定の対立的形式として“内自的契機”に繰り込まれ、ここに(承認ないし拒斥という強烈な態度決定の意識を稀薄化せしめつつ)積極形命題・消極形命題が即自化された相で成立する。」335-6P
(対話B)「今や、このようにして「施詞措定態」には“肯定形”のものと“否定形”のものとの双方が存立することになり、「コレハAデアル」という積極形の表出に対して肯定・否定の応接が岐れるだけでなく、他者に帰属する「コレハAデナイ」という消極形の表出に関しても、あらためて、「マサニシカリ! コレハAデナイ」という肯定的同意の場合、および、「断ジテイナ! コレハAデアル」という否定的不同意の場合が相岐かれうる次序となる。(われわれは嚮に、肯定・否定の態度決定は、対境的与件の全体に関わるシカリ・イナの場面に存するのか、それとも、対境的与件の内的構造に関わるデアル・デナイの場面に関わるのか、この件を借問しておいたが、精確に言えば、肯定・否定の判断的態度決定は、施詞措定提題が積極形であれ消極形であれ、ともかく、或る他者の述定的表出=主張に対する「承認シカリ」・「拒斥イナ」として遂行されるのである。)」336P
(対話C)「ところで、「肯定・否定」が「叙示態」に“内自化”される過程は、事実的経過に即してみるとき、命名的結合態=施詞措定態が、人称帰属以前的な相から、一たん人称帰属性を明識される位相へと進捗したのち、人称性の意識がふたたび稀薄化する過程とも相即的に進行する。尤も、人称帰属性の稀薄化といっても、人称帰属“以前”的な相への単純な復帰ではありえない。それは、帰属される“人称的”主体の“脱”個性化の過程に負うものであって、むしろ「不人称(への帰属)化」とも呼ぶべき状相の現成である。――「コレハAナリ」「コレハAナラズ」といった次元にせよ、「SハPナリ」「SハPナラズ」といった次元にせよ、“同じ” 施詞措定が、さまざまな機会に、いろいろな人々によって、誰彼の別なく斉しく発話・提示される体験を通じて、それが(誰彼の具体的な人称的個体性のない)「(或る)ヒト」に帰属されるようになる。こうして、帰属者が不定人称的な相でのヒトという漠然たる“誰かしら”(etwer)になると、誰であってもよい不特定的な「ヒトが『SハPデアル』と言う」「ヒトが『SハPデナイ』と言う」といっても、「ヒトは……言う」の部分が意識から脱落し易くなり、「SハPデアル」「SハPデナイ」という施詞措定態・叙示態だけが“脱”人称的に現前しがちになる。」336-7P
(小さなポイントの但し書き)「(ここにおいて、「SハPナリというコト」「SハPナラズというコト」という積極形の命題的事態と消極形の命題的事態とが併存的に覚識される所以となる。われわれは消極的事態を以って積極的事態に消極性・否定性が累加されたものとは考えないのであって、両者を一応同位・同格的に扱う。これは、われわれが「肯定」と「否定」とを同位・同格的に扱うことにも照応するものである。原基的・原初的な施詞措定「コレハA」は、言語表現上は“肯定形”と言われようとも、第一次的には“中性的”であって、この第一次的な“中性的”施詞措定態=象徴的結合態に関しておこなわれる第一次的な肯定的・否定的な判断的態度決定は同位・同格的である。肯定は「否定の否定」ではなく、また、否定は「肯定の否定」ではなく、肯定も否定も、第一次的には斉しく“中性的”な対境的与件に関しておこなわれる。尤も、第二次的には、他者による否定判断的主張に対する反対定立=否定として肯定的判断措定が遂行されたり、他者による肯定判断的主張に対する反対定立=否定として否定的判断措定が遂行されたりするようになるし、延いては「他者」が“脱”人称化されるのに伴って、肯定形施詞措定態・否定形施詞措定態に関する肯否の判断的措定がおこなわれるようになるが。)」337P
(対話D)「実際問題としていえば、成人の日常的な思惟において判断的態度決定の対境となるのは、多くの場合、“脱”人称帰属化された相での施詞措定態、しかも、肯定性・否定性(積極性・消極性)を既に“内自化”された相での叙示態である、というのが実情である。――われわれが嚮に指摘しておいた判断の直接的対境に関する二様の錯認が生ずるのは、まさにかかる情況を基盤にしてのことである。直截には“脱”人称的な相で現識される「SハPナリ(ナラズ)」という対境的与件を「コレハSナリ、SナルコレハPナリ(ナラズ)」という仕方で分析的に覚識し(このさい、レアールに泛かぶ“表象”とそこに“受肉”している「意味」とを二重写しにしつつ)、対境的与件から能記的・言語的契機を捨象した“内容”を特個的な誰彼(この誰かは初めから自分自身でもありうる)に反省的に帰属化させ、この帰属態の“内容”を対自的に省察することにおいて「表象的結合説」の思念が生ずる。これとは逆のヴェクトルで「SハPナリ(ナラズ)」というコトの非特個的な帰属相を反省的に覚識し(このさい、命題的事態そのものはレアールな表象とは存在性格を異にするイデアールな存立態であることを省察しつつ)、対境的与件の所記的“内容”の“脱”人称帰属性を反省的に追認することにおいて「自体存立説」の思念が生ずる所以となる。」337-8P
(対話E)「翻って、しかし、知覚現場的に「コレハSナリ」「コレハSナラズ」と肯定的・否定的に措定するさい、対他者的帰属性などということはおよそ覚識されないのではないか? 肯定的否定的な判断措定は直截に「主語−述語」関係(「指示−述定」関係)の場で成立するのではないか? このような疑念があらためて擡頭しうるであろう。また、以上の立論は、日本語式の「はい」「いいえ」に定位したかたちになっており、インド・ヨーロッパ語圏の人々の日常的意識に鑑みるとき、到底普遍妥当性をもちえないのではないか? このような疑念すら生ずることかと思う。――この種の疑義に応えるためにも、今や述定的陳述とその様相という場面を主題化しなければならない。」338P
白井聡『国体論 菊と星条旗』
たわしの読書メモ・・ブログ686
・白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社(集英社新書)2018
マルクスをとりあげるひと(例えば斎藤幸平さん)は、マスコミのテレビでも出ていますが、レーニンは稀有です。
さて、レーニンの著書で国家論といえば、『国家と革命』がありますが、これへの批判として、レーニンはマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』をまだ文献的整理がされていない中で出版化されていず、読んでいなかったという通説があります。その中で展開されている「国家=幻想共同体」規定をしらなかったとされています。実は、レーニンを対象化するために読んでいたら、レーニンはマルクスが往復書簡で国家=共同幻想体ということを書いていることを自分の文で引用しているのです。マルクスが出版化された本の中で書いていないこともあって無視したのです。それは、そもそも軍事・警察的暴力支配の体制にあったロシアで、共同幻想体論は意味がない、運動的に展開し得ないとして、無視したのではないかと、押さええます。
白井さんは読書メモ666『未完のレーニン <力>の思想を読む』の本の中で、国家=幻想共同体論を押さえています。この国体論でも「終 章」「1 国体の幻想的性格」があるのですが、国家主義との対峙ということがでていないように感じられます。レーニン的国家論への引きずられのように想えるのです。
「国体」というのは国家の制度的なところからの、国家主義的な取り込みというところでの概念と言い得るとわたしはとらえています。国家として残す、「護持」するということを通じた支配の体制の維持と強化として出てきている概念です。日本の場合、明治以降特に天皇制(ファシズム)と結びつく概念だったのです。
物象化概念で語れば国家という物象化の上にさらに、国家体制という二重の物象化というような押さえになると思います。そのようなわたしの押さえでは、「国体」という概念での展開・批判することの国家主義的なところに取り込まれていく惧れから、ストレートに「国家=共同幻想体(物象化的錯認態)」と押さえるところで、国家主義との対峙として論と運動を展開していくことが肝要になっていくのではないかと思えるのです。そうでないと民族主義的右翼との違いがなくなってしまいます。
このあたりの展開が、レーニン的なことに共鳴している白井さんにはからは出てこないようです。このあたりは、わたしのいつものないものねだりのようなこと、この本自体は、国家体制や天皇制の問題などの歴史的な押さえとして貴重な資料です。
最初に目次をあげておきます。
目 次
序――なぜ、いま、「国体」なのか
年表 反復する国体の歴史
第一章 「お言葉」はなにを語ったのか
1 「お言葉」の文脈
2 天皇の祈り
3 戦後レジームの危機と象徴天皇
第二章 国体は二度死ぬ
1 「失われた時代」としての平成
2 史劇は二度、繰り返される
3 戦前国体の三段階
4 戦後国体の三段階
5 天皇とアメリカ
第三章 近代国家の建設と国体の誕生
(戦前レジーム:形成期)
1 明治維新と国体の形成
2 明治憲法の二面性
3 明治の終焉
第四章 菊と星条旗の結合――「戦後の国体」の起源
(戦後レジーム:形成期@)
1 「理解と敬愛」の神話
2 天皇制民主主義
第五章 国体護持の政治神学
(戦後レジーム:形成期A)
1 ポツダム宣言受諾と国体の護持
2 「国体ハ毫モ変項セラレズ」
3 国体のフルモデルチェンジ
4 征夷するアメリカ
第六章 「理想の時代」とその蹉跌
(戦後レジーム:形成期B)
1 焼け跡・闇市から「戦後国体」の確立へ
2 政治的ユートピアの終焉
第七章 国体の不可視化から崩壊へ
(戦前レジーム:相対的安定期〜崩壊期)
1 戦前・戦後「相対的安定期」の共通性
2 明治レジームの動揺と挫折
3 「国民の天皇」という観念
4 天皇制とマルクス主義者
5 北一輝と「国民の天皇」
第八章「日本のアメリカ」――「戦後の国体」の終着点
(戦後レジーム:相対的安定期〜崩壊期)
1 衰退するアメリカ・偉大なるアメリカ
2 異様さを増す従属
3 隷属とその否認
4 ふたつのアイデンティティ
終 章 国体の幻想とその力
1 国体の幻想的性格
2 国体がもたらす破滅
3 再び「お言葉」をめぐって
註
備忘録的に切り抜きメモを書いておきます。
「だが、戦後の起点(敗戦・占領・天皇制の存続、新憲法の制定等)に立ち返れば当然合点がゆくことだが、新憲法を中核とする戦後民主主義は、象徴天皇制とワンセットのものとして生まれている。したがって、戦後民主主義が危機に瀕するということは、象徴天皇制も危機に瀕することを論理必然的に意味する。」23-4P・・・「象徴天皇制も危機」であって、象徴天皇制の定立によって民主主義の定立に失敗したと言えること。差別の象徴としての天皇制はむしろ廃止されること。
「この考えによれば、天皇の務めの本質は、共同体の霊的一体性をつくり上げ維持することにある。」31P
「今回強調され、想起せしめられた――そして憲法上の規定でもある――のは、天皇は「日本国の象徴」であるだけでなく、「国民統合の象徴」であるということだった。」31P・・・更に差別の象徴であり、さらに「継続的本源的蓄積論」的にとらえれば、国体(体制)維持の象徴
「なぜなら、国民が天皇の祈りによってもたらされる安寧と幸福を集団的に感じることができてはじめて、国民は互いに睦み合うことが可能になり、共同体は共同体たりうるからだ。」31-2P・・・まさに幻想共同体としての国家、国家神道のカルト性
「それ(大澤真幸の区分)によれば・、一九四五年からおよそ七〇年までが「理想の時代」、一九七〇年頃からオウム真理教事件の発生する一九九五年までが「虚構の時代」、一九九五年から現在までが「不可能性の時代」として定義される。/・・・・・・われわれにとってこの区分規定は示唆的である。というのも、「理想」「虚構」「不可能性」は、戦前・戦後両方にとって三つの時期を特徴づけるのにふさわしい概念なのである。」75P
「あれほど熱心に近代化を推し進め、近代化の推進力として西洋のあらゆる文明・思想・宗教等々を導入することに熱心だった社会は、受け入れに際してたったひとつの、しかし、きわめて重大な留保を伴っていた。/それが、「国体に抵触しない限りにおいて」という留保である。」86P
「戊辰戦争(一八六八〜六九年)を経て成立した明治政府にとって、イロハのイとなる課題は「暴力の独占」を実現することであった。」87P
「しばしば指摘されるように、国家神道として制度化される国体信仰は、公式には国家宗教の形態をとらないまま、実質的にはあらゆる宗教を超越したメタ信仰として機能し、日本人の内面を規制した。しかもそれは、国家による強制のみならず国民の自発的な服従によっても実現したという状況の原型を、この事件は与えている。」96-7P
「▼「国体」概念の内実――「国体と政体」の二元論」――「この時代に明確化された国体概念の特徴が幾つかあるが、本書では二つの点に着目する。/第一には、国体概念の原型と言うべき、「国体と政体」の二元論である。・・・・・・」97P――「実質的「権力」(政体)と精神的「権威」(国体)が分かれてある」98P――(「▼明治憲法の二面性――天皇は神聖皇帝か、立憲君主か」)「ゆえに第二に、戦前レジームの基礎的構造が固まったことを示した明治憲法において、国体の性格をどう現れたのかを見ておくべきだろう。」101P
「国家元首の盲目(ママ)的崇拝に基づく道徳(教育勅語)など道徳の名に値しない。これと同様に、憲法の内容(立憲主義=権力の制約)を憲法の形式(欽定憲法・神権政治=無制約の権力)が裏切っているのである。」107P
「してみれば、表面上の敬意と愛情と、その真の動機としての軽蔑・偏見・嫌悪を日米が相互に投射するという過程が、「天皇制民主主義」の成立過程の本質であった。そして、天皇制民主主義の成立とは、「国体護持」(変容を通過しつつも)そのものである。」135-6P
「そして、この判決(砂川事件判決)内容の意味も重い。なぜなら、統治行為論を援用することによって、日米安保条約に関わる法的紛争については、司法は憲法判断を回避すべきだという判例をつくってしまったからである。これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。」158P
「また、アメリカないしマッカーサーは、天皇の戦争責任追及よりも、より原理的な「国体の敵」から天皇を守った。その敵とは、共産主義である。」159P
「とはいえ、かつてファッショ体制を領導した政治家たちが「自由民主党」を名乗りながら、アメリカン・デモクラシーの何たるかを本気で理解しようとせず、外面的にそれに迎合してみせるだけで内心これを軽蔑・嫌悪することが許される、という程度の自由は現実に保障されてきたのである。」161P
「▼昭和天皇の「言葉のアヤ」発言」――「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」174-5P
「カール・マルクスの箴言にいわく「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのだ」(『ルイ・ボナパルトのブリューメル一八日』)。」176P・・・唯物史観も
「ここには、現代にも通じる「天皇制と闘う」ことの困難が全面的に現れ出て居る。なぜなら、天皇制もまた、福本の言う「階級意識」がありのままの無産者階級には存在しないのと同じ意味で、実在しないからである。実在性の次元では、個々の被搾取者の視線の先には、小作料を悪辣に取り立てる地主や高圧的な雇い主などがせいぜいいるだけであって、その視線から見れば、天皇は「いかにも上品な、何やらありがたい存在」にほかならない。」251-2P
「しかし、天皇制は支配機構の総体でありつつ、まさにこの社会に内在する敵対性の否認をそのイデオロギーの核心としていた『国体の本義』(一九三七年、文部省編)が宣言するように、大日本帝国は、万世一系の家長とその赤子が睦み合って構成される「永遠の家族」であるとされた(家族国家観)。つまりそれは、支配であることを否認する支配なのである。」252P
「その二重性とは、ほかならぬ本書で論じてきた、明治憲法における「天皇機関説の国体」と「天皇主権説の国体」である。前者は、国家を機構的側面からとらえることによって見出されるのに対して、後者は、三島の言葉では「道義国家としての擬制」である。/久野・鶴見は、前者を大日本帝国のエリート向けの「密教」、後者を大衆向けの「顕教」と呼んだ。明治憲法レジームはこの二重性の微妙なバランスの上に成り立っていたのだが、世界恐慌や対外危機といった社会的諸矛盾が昂進するなかで顕教(「天皇主権説の国体」)が密教(「天皇機関説の国体」)を圧服するのであり、統帥権干犯問題から天皇機関説事件、国体明徴声明へと至る流れは、その過程を表現している。/その結果、あらためて神聖化された国体は「道義」の名において(大東亜共栄圏、八紘一宇)、無謀きわまる戦争を決行し破滅する。」268P
「体現する道議が実質に優れているから天皇を獲得できるのではなく、「玉を握っている」ことそのものが道議の究極的根拠となるのである。」270P
「そして、そのような全面的頽廃は、正統性の源泉を天皇との「近さ」だけにしか認めず、天皇から離れて確立される道議を一切認めぬ「国体」がつくり出したものにほかならなかったのである。/敗戦後に太宰治はこう書いている。「東條の背後に、何かあるかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている」。その空っぽの場所は、埋められることを待っていた。「青い目の大君」が――すでに見たように、まさに天皇との距離を縮めることによって――それを果たしたのである。」273-4P
「したがって、結局のところ、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく、「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかった。/そして現在、「欧米人の仲間入り」の願いは、日本資本が対米進出を企てたバブル期に、アメリカのレイシズムの現実の前で挫かれ、経済的衰退と中国をはじめとするアジア諸国の台頭は、「アジアにおける唯一の一等国」という観念を無惨なほど根拠のなきものとしてしまった。・・・・・」305P
「現在の標準的な日本人はコンプレックスとレイシズムにまみれた「家畜人ヤプー」(沼正三)という戦後日本人のアイデンティティをもはや維持することができそうにないことをうっすら予感しつつも、それに代わるアイデンティティが「思い当たらない」ために、鏡に映った惨めな自分の姿としての安倍政権に消極的な支持を与えているわけである。この泥沼のような無気力から脱することに較べれば、安倍政権が継続するか否かなど、些細な問題である。」306P
「米軍によるグローバルな戦争遂行、それによる激しい悲しみと憎しみの喚起ということにおいて、日本が集団的自衛権の行使を認めようが認めまいが、われわれはすでに十分に、米軍の共犯者である。つまり、憲法九条は現実にわれわれを平和主義者にはしていない。」311・・・そもそも日米安保条約などなぜ維持しているのだろうか?
「このことから、たとえば、民俗学者の赤坂憲雄は天皇制は遠からず衰亡の道をたどらざるを得ないと結論している。いわく「わたしたちの生きている現在はたぶん、天皇制の宗教的かつ儀礼的な構造をささえてきた物質的な基盤が、やがて根こそぎに失われようとしている未曾有の時代である。天皇という制度は避けがたく形骸化してゆく」。」318P・・・資本主義は継続的本源的蓄積ということで維持される構造になっている、すなわち差別ということで体制を維持していく、いろんな差別がどれだけなくなったのでしょうか? 差別や差別の象徴としての天皇制はそんなに簡単になくならない。まずは反差別の運動から取り組み、資本主義を止揚していかねば、差別は、差別の象徴としての天皇制はなくならない。
「アメリカが失策を続けている中東の情勢や、激変しつつある東アジアの情勢に鑑みれば、パックス・アメリカーナの追求は、日本に利益をもたらすとは限らない。にもかかわらず、「パックス・アメリカーナへの助力」以外の選択肢が一切思い浮かばないのであるとすれば、それはパックス・アメリカーナが合理的判断から推論される望ましい秩序ではなく、八紘一宇としてとらえられていることを意味するであろう。」323-4P・・・いくらでも思い浮かぶ、安保条約の破棄、資本主義の止揚……。
「・・・・・・労働慣行の改革や司法制度改革、大学改革等々、「グローバル化への対応」を旗印とした一九九〇年代以降の制度改革において、ありうべきモデルの参照先はしばしばアメリカであった。つまり、「グローバル化への対応」は「平成の文明開化騒ぎ」の様相を呈し、その先頭に立つものとしてアメリカが引き合いに出されてきた。」324-5P
「・・・・・・そして、アメリカが実践してきた「平和主義」とは、世界に部隊を展開しつつ、現実的および潜在的敵を積極的に名指し、時には先制的にこれを叩き潰すことによって、自国の安全、つまり「自国民の平和」を獲得するという「平和主義」である。/そのように理解してみると、安倍政権の掲げてきた「積極的平和主義」の実質が正確に把握できる。すなわち、安倍をはじめとするいわゆる改憲派の主張によれば、戦後日本の九条平和主義は「消極的」なそれであり、これを「積極的」なそれに発展させなければならないのだという。・・・・・・」335-6P・・・「国体」という概念自体を、自国ファーストになっていく国家主義そのものを破棄していかねばならないのです。
「「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が、菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。・・・・・・」337P・・・日米安保条約破棄へ向けて、まずは核兵器禁止条約の締結に向けたオブザーバー参加、中国との「日中平和条約」の空文化していることを、外交パイプを創り出す作業、安保条約破棄の運動を背景にしての日米地位協定の改定、やるべきことは、できることは多々あります。
・白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社(集英社新書)2018
マルクスをとりあげるひと(例えば斎藤幸平さん)は、マスコミのテレビでも出ていますが、レーニンは稀有です。
さて、レーニンの著書で国家論といえば、『国家と革命』がありますが、これへの批判として、レーニンはマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』をまだ文献的整理がされていない中で出版化されていず、読んでいなかったという通説があります。その中で展開されている「国家=幻想共同体」規定をしらなかったとされています。実は、レーニンを対象化するために読んでいたら、レーニンはマルクスが往復書簡で国家=共同幻想体ということを書いていることを自分の文で引用しているのです。マルクスが出版化された本の中で書いていないこともあって無視したのです。それは、そもそも軍事・警察的暴力支配の体制にあったロシアで、共同幻想体論は意味がない、運動的に展開し得ないとして、無視したのではないかと、押さええます。
白井さんは読書メモ666『未完のレーニン <力>の思想を読む』の本の中で、国家=幻想共同体論を押さえています。この国体論でも「終 章」「1 国体の幻想的性格」があるのですが、国家主義との対峙ということがでていないように感じられます。レーニン的国家論への引きずられのように想えるのです。
「国体」というのは国家の制度的なところからの、国家主義的な取り込みというところでの概念と言い得るとわたしはとらえています。国家として残す、「護持」するということを通じた支配の体制の維持と強化として出てきている概念です。日本の場合、明治以降特に天皇制(ファシズム)と結びつく概念だったのです。
物象化概念で語れば国家という物象化の上にさらに、国家体制という二重の物象化というような押さえになると思います。そのようなわたしの押さえでは、「国体」という概念での展開・批判することの国家主義的なところに取り込まれていく惧れから、ストレートに「国家=共同幻想体(物象化的錯認態)」と押さえるところで、国家主義との対峙として論と運動を展開していくことが肝要になっていくのではないかと思えるのです。そうでないと民族主義的右翼との違いがなくなってしまいます。
このあたりの展開が、レーニン的なことに共鳴している白井さんにはからは出てこないようです。このあたりは、わたしのいつものないものねだりのようなこと、この本自体は、国家体制や天皇制の問題などの歴史的な押さえとして貴重な資料です。
最初に目次をあげておきます。
目 次
序――なぜ、いま、「国体」なのか
年表 反復する国体の歴史
第一章 「お言葉」はなにを語ったのか
1 「お言葉」の文脈
2 天皇の祈り
3 戦後レジームの危機と象徴天皇
第二章 国体は二度死ぬ
1 「失われた時代」としての平成
2 史劇は二度、繰り返される
3 戦前国体の三段階
4 戦後国体の三段階
5 天皇とアメリカ
第三章 近代国家の建設と国体の誕生
(戦前レジーム:形成期)
1 明治維新と国体の形成
2 明治憲法の二面性
3 明治の終焉
第四章 菊と星条旗の結合――「戦後の国体」の起源
(戦後レジーム:形成期@)
1 「理解と敬愛」の神話
2 天皇制民主主義
第五章 国体護持の政治神学
(戦後レジーム:形成期A)
1 ポツダム宣言受諾と国体の護持
2 「国体ハ毫モ変項セラレズ」
3 国体のフルモデルチェンジ
4 征夷するアメリカ
第六章 「理想の時代」とその蹉跌
(戦後レジーム:形成期B)
1 焼け跡・闇市から「戦後国体」の確立へ
2 政治的ユートピアの終焉
第七章 国体の不可視化から崩壊へ
(戦前レジーム:相対的安定期〜崩壊期)
1 戦前・戦後「相対的安定期」の共通性
2 明治レジームの動揺と挫折
3 「国民の天皇」という観念
4 天皇制とマルクス主義者
5 北一輝と「国民の天皇」
第八章「日本のアメリカ」――「戦後の国体」の終着点
(戦後レジーム:相対的安定期〜崩壊期)
1 衰退するアメリカ・偉大なるアメリカ
2 異様さを増す従属
3 隷属とその否認
4 ふたつのアイデンティティ
終 章 国体の幻想とその力
1 国体の幻想的性格
2 国体がもたらす破滅
3 再び「お言葉」をめぐって
註
備忘録的に切り抜きメモを書いておきます。
「だが、戦後の起点(敗戦・占領・天皇制の存続、新憲法の制定等)に立ち返れば当然合点がゆくことだが、新憲法を中核とする戦後民主主義は、象徴天皇制とワンセットのものとして生まれている。したがって、戦後民主主義が危機に瀕するということは、象徴天皇制も危機に瀕することを論理必然的に意味する。」23-4P・・・「象徴天皇制も危機」であって、象徴天皇制の定立によって民主主義の定立に失敗したと言えること。差別の象徴としての天皇制はむしろ廃止されること。
「この考えによれば、天皇の務めの本質は、共同体の霊的一体性をつくり上げ維持することにある。」31P
「今回強調され、想起せしめられた――そして憲法上の規定でもある――のは、天皇は「日本国の象徴」であるだけでなく、「国民統合の象徴」であるということだった。」31P・・・更に差別の象徴であり、さらに「継続的本源的蓄積論」的にとらえれば、国体(体制)維持の象徴
「なぜなら、国民が天皇の祈りによってもたらされる安寧と幸福を集団的に感じることができてはじめて、国民は互いに睦み合うことが可能になり、共同体は共同体たりうるからだ。」31-2P・・・まさに幻想共同体としての国家、国家神道のカルト性
「それ(大澤真幸の区分)によれば・、一九四五年からおよそ七〇年までが「理想の時代」、一九七〇年頃からオウム真理教事件の発生する一九九五年までが「虚構の時代」、一九九五年から現在までが「不可能性の時代」として定義される。/・・・・・・われわれにとってこの区分規定は示唆的である。というのも、「理想」「虚構」「不可能性」は、戦前・戦後両方にとって三つの時期を特徴づけるのにふさわしい概念なのである。」75P
「あれほど熱心に近代化を推し進め、近代化の推進力として西洋のあらゆる文明・思想・宗教等々を導入することに熱心だった社会は、受け入れに際してたったひとつの、しかし、きわめて重大な留保を伴っていた。/それが、「国体に抵触しない限りにおいて」という留保である。」86P
「戊辰戦争(一八六八〜六九年)を経て成立した明治政府にとって、イロハのイとなる課題は「暴力の独占」を実現することであった。」87P
「しばしば指摘されるように、国家神道として制度化される国体信仰は、公式には国家宗教の形態をとらないまま、実質的にはあらゆる宗教を超越したメタ信仰として機能し、日本人の内面を規制した。しかもそれは、国家による強制のみならず国民の自発的な服従によっても実現したという状況の原型を、この事件は与えている。」96-7P
「▼「国体」概念の内実――「国体と政体」の二元論」――「この時代に明確化された国体概念の特徴が幾つかあるが、本書では二つの点に着目する。/第一には、国体概念の原型と言うべき、「国体と政体」の二元論である。・・・・・・」97P――「実質的「権力」(政体)と精神的「権威」(国体)が分かれてある」98P――(「▼明治憲法の二面性――天皇は神聖皇帝か、立憲君主か」)「ゆえに第二に、戦前レジームの基礎的構造が固まったことを示した明治憲法において、国体の性格をどう現れたのかを見ておくべきだろう。」101P
「国家元首の盲目(ママ)的崇拝に基づく道徳(教育勅語)など道徳の名に値しない。これと同様に、憲法の内容(立憲主義=権力の制約)を憲法の形式(欽定憲法・神権政治=無制約の権力)が裏切っているのである。」107P
「してみれば、表面上の敬意と愛情と、その真の動機としての軽蔑・偏見・嫌悪を日米が相互に投射するという過程が、「天皇制民主主義」の成立過程の本質であった。そして、天皇制民主主義の成立とは、「国体護持」(変容を通過しつつも)そのものである。」135-6P
「そして、この判決(砂川事件判決)内容の意味も重い。なぜなら、統治行為論を援用することによって、日米安保条約に関わる法的紛争については、司法は憲法判断を回避すべきだという判例をつくってしまったからである。これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。」158P
「また、アメリカないしマッカーサーは、天皇の戦争責任追及よりも、より原理的な「国体の敵」から天皇を守った。その敵とは、共産主義である。」159P
「とはいえ、かつてファッショ体制を領導した政治家たちが「自由民主党」を名乗りながら、アメリカン・デモクラシーの何たるかを本気で理解しようとせず、外面的にそれに迎合してみせるだけで内心これを軽蔑・嫌悪することが許される、という程度の自由は現実に保障されてきたのである。」161P
「▼昭和天皇の「言葉のアヤ」発言」――「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」174-5P
「カール・マルクスの箴言にいわく「人間は自分自身の歴史をつくるが、自分が選んだ状況下で思うように歴史をつくるのではなく、手近にある、与えられ、過去から伝えられた状況下でそうするのである。死滅したすべての世代の伝統が、生きている者たちの脳髄に夢魔のようにのしかかっているのだ」(『ルイ・ボナパルトのブリューメル一八日』)。」176P・・・唯物史観も
「ここには、現代にも通じる「天皇制と闘う」ことの困難が全面的に現れ出て居る。なぜなら、天皇制もまた、福本の言う「階級意識」がありのままの無産者階級には存在しないのと同じ意味で、実在しないからである。実在性の次元では、個々の被搾取者の視線の先には、小作料を悪辣に取り立てる地主や高圧的な雇い主などがせいぜいいるだけであって、その視線から見れば、天皇は「いかにも上品な、何やらありがたい存在」にほかならない。」251-2P
「しかし、天皇制は支配機構の総体でありつつ、まさにこの社会に内在する敵対性の否認をそのイデオロギーの核心としていた『国体の本義』(一九三七年、文部省編)が宣言するように、大日本帝国は、万世一系の家長とその赤子が睦み合って構成される「永遠の家族」であるとされた(家族国家観)。つまりそれは、支配であることを否認する支配なのである。」252P
「その二重性とは、ほかならぬ本書で論じてきた、明治憲法における「天皇機関説の国体」と「天皇主権説の国体」である。前者は、国家を機構的側面からとらえることによって見出されるのに対して、後者は、三島の言葉では「道義国家としての擬制」である。/久野・鶴見は、前者を大日本帝国のエリート向けの「密教」、後者を大衆向けの「顕教」と呼んだ。明治憲法レジームはこの二重性の微妙なバランスの上に成り立っていたのだが、世界恐慌や対外危機といった社会的諸矛盾が昂進するなかで顕教(「天皇主権説の国体」)が密教(「天皇機関説の国体」)を圧服するのであり、統帥権干犯問題から天皇機関説事件、国体明徴声明へと至る流れは、その過程を表現している。/その結果、あらためて神聖化された国体は「道義」の名において(大東亜共栄圏、八紘一宇)、無謀きわまる戦争を決行し破滅する。」268P
「体現する道議が実質に優れているから天皇を獲得できるのではなく、「玉を握っている」ことそのものが道議の究極的根拠となるのである。」270P
「そして、そのような全面的頽廃は、正統性の源泉を天皇との「近さ」だけにしか認めず、天皇から離れて確立される道議を一切認めぬ「国体」がつくり出したものにほかならなかったのである。/敗戦後に太宰治はこう書いている。「東條の背後に、何かあるかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている」。その空っぽの場所は、埋められることを待っていた。「青い目の大君」が――すでに見たように、まさに天皇との距離を縮めることによって――それを果たしたのである。」273-4P
「したがって、結局のところ、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく、「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかった。/そして現在、「欧米人の仲間入り」の願いは、日本資本が対米進出を企てたバブル期に、アメリカのレイシズムの現実の前で挫かれ、経済的衰退と中国をはじめとするアジア諸国の台頭は、「アジアにおける唯一の一等国」という観念を無惨なほど根拠のなきものとしてしまった。・・・・・」305P
「現在の標準的な日本人はコンプレックスとレイシズムにまみれた「家畜人ヤプー」(沼正三)という戦後日本人のアイデンティティをもはや維持することができそうにないことをうっすら予感しつつも、それに代わるアイデンティティが「思い当たらない」ために、鏡に映った惨めな自分の姿としての安倍政権に消極的な支持を与えているわけである。この泥沼のような無気力から脱することに較べれば、安倍政権が継続するか否かなど、些細な問題である。」306P
「米軍によるグローバルな戦争遂行、それによる激しい悲しみと憎しみの喚起ということにおいて、日本が集団的自衛権の行使を認めようが認めまいが、われわれはすでに十分に、米軍の共犯者である。つまり、憲法九条は現実にわれわれを平和主義者にはしていない。」311・・・そもそも日米安保条約などなぜ維持しているのだろうか?
「このことから、たとえば、民俗学者の赤坂憲雄は天皇制は遠からず衰亡の道をたどらざるを得ないと結論している。いわく「わたしたちの生きている現在はたぶん、天皇制の宗教的かつ儀礼的な構造をささえてきた物質的な基盤が、やがて根こそぎに失われようとしている未曾有の時代である。天皇という制度は避けがたく形骸化してゆく」。」318P・・・資本主義は継続的本源的蓄積ということで維持される構造になっている、すなわち差別ということで体制を維持していく、いろんな差別がどれだけなくなったのでしょうか? 差別や差別の象徴としての天皇制はそんなに簡単になくならない。まずは反差別の運動から取り組み、資本主義を止揚していかねば、差別は、差別の象徴としての天皇制はなくならない。
「アメリカが失策を続けている中東の情勢や、激変しつつある東アジアの情勢に鑑みれば、パックス・アメリカーナの追求は、日本に利益をもたらすとは限らない。にもかかわらず、「パックス・アメリカーナへの助力」以外の選択肢が一切思い浮かばないのであるとすれば、それはパックス・アメリカーナが合理的判断から推論される望ましい秩序ではなく、八紘一宇としてとらえられていることを意味するであろう。」323-4P・・・いくらでも思い浮かぶ、安保条約の破棄、資本主義の止揚……。
「・・・・・・労働慣行の改革や司法制度改革、大学改革等々、「グローバル化への対応」を旗印とした一九九〇年代以降の制度改革において、ありうべきモデルの参照先はしばしばアメリカであった。つまり、「グローバル化への対応」は「平成の文明開化騒ぎ」の様相を呈し、その先頭に立つものとしてアメリカが引き合いに出されてきた。」324-5P
「・・・・・・そして、アメリカが実践してきた「平和主義」とは、世界に部隊を展開しつつ、現実的および潜在的敵を積極的に名指し、時には先制的にこれを叩き潰すことによって、自国の安全、つまり「自国民の平和」を獲得するという「平和主義」である。/そのように理解してみると、安倍政権の掲げてきた「積極的平和主義」の実質が正確に把握できる。すなわち、安倍をはじめとするいわゆる改憲派の主張によれば、戦後日本の九条平和主義は「消極的」なそれであり、これを「積極的」なそれに発展させなければならないのだという。・・・・・・」335-6P・・・「国体」という概念自体を、自国ファーストになっていく国家主義そのものを破棄していかねばならないのです。
「「平和主義」の意味内容の変遷は、「戦後の国体」の頂点を占める項が、菊から星条旗へと明示的に移り変わる過程を反映している。・・・・・・」337P・・・日米安保条約破棄へ向けて、まずは核兵器禁止条約の締結に向けたオブザーバー参加、中国との「日中平和条約」の空文化していることを、外交パイプを創り出す作業、安保条約破棄の運動を背景にしての日米地位協定の改定、やるべきことは、できることは多々あります。
2025年02月17日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(6)
たわしの読書メモ・・ブログ685[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(6)
第二篇 省察的世界の問題構制
第二章 判断的形象の意味構造と命題的事態
第一節 概念形成の論理構制
(この節の問題設定−長い標題) 「「概念」は古典的な認識理論においては「認識」の基本的・基礎的な単位として認証されてきたものである。しかしながら、認識の分子的基本単位はむしろ「判断」であって、概念は判断の構造的一契機が自存的な形象とみなされたものにすぎない。――われわれ自身の見地にとっては資料的与件と形相的所識との等値化的統一態である「判断」成態こそが基礎単位であるとはいえ、伝統的な思念を内在的に止揚するためにも、爰では「概念」の次元に留目するところから始め、いわゆる概念形成理論(帰納的抽象の理論)のアポリアを追認しつつ、イデアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)たる「概念」的内包の「函数的性格」を追認し、「概念」が既にして判断的構造成態であることを確説しておこう。」203P
第一段落――概念−判断成態の伝統的思念に溯って既成の理説をも配視する 263-7P
(この項の問題設定)「「概念」は伝統的想念においては、既成的に分節化している諸個体(“個体化”された“性質”をも含めて)から「帰納的抽象」(inductive abstraction)の手続によって抽出的に措定された普遍者(universal)であるものとみなされてきた。そして、そのような“概念”の結合(分離)によって判断としての判断が成立するものと思念それ、その意味において、概念こそが判断的認識の基礎単位であるものと了解されるのが常套であった。昨今では、しかし、「概念」は却って判断的措定の一結節ともいうべき第二次的成態とみなすのが学理的省察における“常識”であろうかと想われる。但し、概念の何たるかを積極的に規定する段になると論者ごとに岐れる部面が多く、定説を追認するという流儀で議論を運びうる情況にはない。茲では、それゆえ、既成理論を相対化しつつわれわれ自身の地歩表明するためにも、一旦は伝統的な思念にまで遡って既成の理説をも配視するという迂路を介したいと念う。」263-4P
(対話@)「偖、学理的省察の伝統を顧みるとき、類・種的な普遍者としての概念は、諸個体の分類的整序と相即的に、「帰納」的抽象によって抽出的に劃定されるものと思念されているが、果たして概念は「帰納」によって成立するものであろうか? そもそも、いわゆる「帰納」とは、果たして、個別的諸定在ないし個別的諸表象から普遍的概念を導出・形成する手続になっているであろうか? 結論から先に誌せば、いわゆる帰納は却って“抽出”さるべき当の概念的普遍態の既知性を論理的に前提するという循環的先取(註)を犯すものであり、概念は帰納的手続を通じて形成されるわけではない。――まず、いわゆる帰納的抽象の手続が、今から抽出すると称する概念内容(Inhalt=論理学に謂う概念の「内包」)を既に知ってしまっているという循環的先取を犯す所以となっていることを簡略に指摘しておこう。或る概念、例えば「果物」という概念を“帰納的に抽出”するためには、一群の個別的な対象的与件を比較校合して「共通にして且つ本質的な規定性」を抽出する作業、裏返して言えば、「特個にして偶有的・非本質的な規定性」を捨棄する作業が要件をなす。けだし、この抽象・捨象の作業を通じて概念内容をなす本質的規定性が確定・抽離される次第だからである。ところで、しかし、この比較校合の作業にとって与件たるべき一群の対象はどのようにして選定されたのであるか。任意の対象をアト・ランダムに寄せ集めて比較校合したのでは、果物なら果物という所求の概念的内容を確定しうる運びにはならない。果物という概念を“抽象”するためには、リンゴ、ナシ、イチゴ……という一定の対象群をあらかじめ選んでおいて、その選定された一定の対象群を比較校合するのでなければならない。では、当の選定的蒐集は何を規準にしておこなわれるのか。リンゴ、ナシ、イチゴ、パイナップル……を選取し、ダイコン、イシコロ、ネコ、テレビ……を排除して、比較校合、帰納的抽象のための与件群の一範囲を決定するという前段的作業において、既に果物であるものと果物でないものとの判別がおこなわれているのが実情であり、そのさいの選別基準はまさしく「果物」という唯今から帰納的に抽出・確定されるという触れ込みの「当の概念」なのである!」264-5P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。以下「取」は同じ。
(小さなポイントの但し書き)「ここにおいて論者たちは、比較的校合の対象を選定するに際して、暗黙の基準として既知なのは“果物”というものに関する漠然たる表象であって、それまだ明確な概念ではない、と言って弁解することであろう。成程、実情はそうかもしれない。だが、そうだとすると、概念形成の本趣は、比較校合による帰納的抽出というところにあるのではなく、既に持合わせている「漠然たる表象」(今の例でいえば“果物”という表象)を概念的に明確化・確定化することにある、という仕儀になろう。そこでは、比較校合は「漠然たる表象」というかたちで既に持合わせている“概念”を明確化・確定化するための副次的手段であって、“概念”そのものを形成するための基本的・本質的な手続ではないことになってしまう。溯って、そもそも、漠然たるかたちにおいてであれ、当の“概念”をいかにして形成したのであるか。論件はここに移行する。ここで、帰納的抽象による旨を云々しようとすれば、無限溯行に陥る。“漠然たるかたちで既知”と認めてしまったのでは、帰納的抽象によって概念が形成されるという論者たちの“概念形成論”が崩れてしまうのである。」265P・・・共同主観性論へ
(対話A)「帰納的抽象理論の論理構制では、こうして、帰納的に比較校合する与件群の選定という前段的作業場面において既に今から“抽出”さるべき“概念”の内容を“選別基準”としてあらかじめ持合わせていなければならないという先取的循環論法に陥る。このさい、論者たちは、果物なら果物と呼ばれる対象群(論理学に謂う「外延」Umfang)に「共通で本質的な規定性」を抽出しようというのであるから、共通性を確認・保証するために当該概念の全外延(今の例で言えば「果物」と呼ばれうるものの全範囲)を比較校合・抽象・帰納に先立ってあらかじめ知っているのでなければならないのであるが、帰納的作業に先立っての全外延の既知というこの要求については、ここでは深追いしないことにしよう。論者たちの先取的循環は、比較校合すべき外延的対象群の事前的選別という場面だけでなく、論者たちの謂う帰納的な抽象・捨象の手続そのものの場面においても存立する。今、或る概念、例えば「果物」の全外延が選定済みで、これから帰納的な抽出・捨棄の作業が遂行されるものとする。抽出されるのは、単なる共通規定ではなく、本質的な規定性でなければならない。ところで、対象において見出される或る規定性が、本質的なものであるかそれとも偶有的なものにすぎないか、つまり、抽出的に残留せしめらるべきものであるかそれとも捨棄的に排除さるべきものであるか、これの認定は何を基準にしておこなわれるのか。要言すれば、帰納的抽象は何を判断基準にして遂行されるのか。対象に見出されるあれこれの規定性は、それ自身をいかに精査しても、それ単独では、当面の脈絡において本質的であるか非本質的であるか、いずれとも判定しようがない。例えば、眼前に見出される同じ「赤い」という規定性であっても、「赤いリンゴ」という概念規定を抽出するさいには残留せしめらるべき本質的一規定性であるが、「リンゴ」とか「果物」とかいう概念を“帰納的に確定”するさいには排却して差支えない偶有的一規定である。本質的であるか偶有的であるか、抽出すべきか捨棄すべきか、これの判定は今どの概念を帰納・抽象しようとしているかに応じて変わるのであり、その判定基準なるものは結局のところ当該概念の内容(論理学に謂う「内包」Inhalt)そのものを措いては他にない。畢竟するに、概念の内包帰納的に抽出・確定しようとしているにもかかわらず、抽出・確定さるべき内包的規定性が帰納的選別の基準として先行的に既知でなければならないという先取的循環に陥ってしまうのである。こうして、概念の形成を「帰納的抽象」によって説こうとする伝統的な概念理論は、謂うところの“帰納的抽象”の外延の選定基準ならびに内包の選別基準として、抽出・確定さるべき当の概念を先行的に知っていなければならないという先取・循環を犯すものであり、論理構制上、概念形成理論としては妥当しえない。」265-6P
(対話B)「「概念」は、右にみた論理構制からして、いわゆる「機能的手続」によって形成されるものではない。概念はいわゆる機能的手続に先立って既に“形成”されている或るものなのである。概念的普遍態は、そもそも、機能的抽象によって、導出・形成されうるものではない。それでは、概念的普遍態の実態はいかなるものであるか? 帰納的抽象論者たちが“漠然たる表象”のかたちで既知とする“概念”の実態は何か――われわれは前篇での行論中、詞の「被表的意味」および「被示的意味」なるものについて論定しておいたが、基本的な大枠として言えば、「概念的内包」とは詞の「被表的意味」にほかならず、「概念的外延」とは詞の「被指的意味」にほかならない。帰納的抽象論者たちが“漠然たる一般表象”というかたちで思念するところのものは、単なる「表象」ではなくして、後述のゲシュタルト的意味形象ないしは日常的な詞の被表的意味というイデアールな「意味的所識」なのである。――なるほど、学理的概念と呼ばれるものは、日常的な詞の「被表的意味」とは概念内容を異にし、また、日常的詞の「被示的意味」とは外延を同じくしないのが通例である。しかしながら、学理的概念なるものは、日常的概念における内包的規定性中の特定諸契機を洞観的(einsichtlich)に顕揚しつつ、日常的概念を改鋳し、それを準縄として外延を規定し直すという仕方で形成されたものであり、日常的概念として上架されたものにすぎない。――われわれは勝義の「概念」は「言語的能記−言語的所記」成態の次元に属するものとして扱う。がしかし、概念の形成機序に留目するとき、ゲシュタルト次元で「較認」的同定される意味的所識態(前篇第一章第三節参照)をも一種の概念態として容認するに吝かでない。概念的意味形象はゲシュタルト的意味形象の一斑なのである。概念内包が「函数態的普遍」としての存在性格を呈するのも、それがゲシュタルト的な意味的所識態であることと相即する。」266-7P
第二段落――帰納的抽象理論の批判的“克服”の上に立つ理説を把え返し論判する 267-76P
(前項の復習)「概念(内包)は、対象群において見出される具象的な規定性のうちの或るものを抽出的に残留させ或るものを捨棄的に排却するという仕方で形成されたものではなく、対象的規定態をゲシュタルト的に較認・同定しつつ函数態的にイデアリジーレンする過程(この過程そのものは即自的・無自覚的でありうるが、既に言語的活動によって媒介されているのが実情である)を通じて形成されたもの(そして、それが言語的能記に対する所記となっている)であるが故に、函数的な可能性を有ち、被示的意味として呈示されうる与件に対する向妥当性(具体的な与件的対象に対するいわゆる適用性)を保有する。」267-8P
(この項の問題設定)「われわれは茲で、われわれ自身の概念観の特質を対自化する含みにおいても、帰納的抽象理論の批判的“克服”の上に立つ若干の理説を顧慮しつつ、われわれなりの論判を挿んでおこう。」268P
(対話@−第一に・最初に)「最初にまず、いわゆる「代表説」ならびに「使用説」に一顧を払っておくのが順序かと思う。「概念」が或る「普遍者」「一般者」(etwas Allgemeines)を表現するものと考え、その「普遍者」が「一般表象」(general idea)というかたちで保有されていると考える伝統的な想念に対する批判として「代表説」ならびに「使用説」が登場する。これらの理説は、一般表象なるものの存在を否認するだけでなく、普遍者なるものが客観的に存立することをも否認することにおいて、「帰納的抽象」理論といった概念形成論の難題を免れる。概念内容がいわゆる意識内容・心像・観念としての一般表象というかたちで現存しうるべくもないということは論者たちの指摘する通りである。例えば、<三角形>という普遍者(これは鋭角三角形・直角三角形・鈍角三角形といった特殊な形の三角形ではなく、鋭角三角形でも直角三角形でも鈍角三角形でもあるがごとき普遍者・普遍的な三角形でなければならない)が表象=心像として存在しえないことは明らかであって、心像=表象のかたちで現前する三角形は特定の形での鋭角三角形か直角三角形か鈍角三角形かのいずれかである。心像的観念の三角形はその都度特殊な三角形たらざるをえず、普遍的・一般的な三角形ではない。」268P
(小さなポイントの但し書き)「(概念内容に見合う一般表象が存在しないことは三角形の例に限らず一般的事実である。例えば「人間」という概念が表わす<人間>なる一般表象は存在せず、現前する表象は、よしんば個体的特徴が曖昧化されているにせよ、必ず男性か女性か、老人か若者か、……であって、男性でもあり女性でもあり老人でもあり若者でもある白人でもあり黒人でもあり……といった普遍的<人間>なるものは心像のかたちで表象すべくもない。この間の事情はあらゆる普遍概念に妥当する。)」268-9P・・・男と女の二分法は批判されています。
(対話A)「概念が普遍的・一般性をもつとはいっても概念内容に見合う「一般観念=普遍表象」は存在しないところから、そこで「代表説」は概念的記号と直接的に結合している表象=観念は特殊なものにすぎないことを認容しつつ、但し、当の「記号−表象」結合体が一群の対象を代表する旨を主張する。此説にあっては、概念の普遍性とは一群の対象(外延群)に対する代表機能の普遍性にほかならないとされる。これはなるほど、一つの理説ではある。此説は、例えば「“三角形”という記号+或る形態での<三角形>の表象」結合体があらゆる三角形を代表するのだと説く。しかしながら、或る特定の「記号+表象」結合体は特定の対象群だけを代表するのであって、別種の対象群は代表しない。では、なぜ一定の対象群だけを選別的に代表するのであるか。それは当の対象群の同種性・同類性に拠ってであろう。ところで、同種的・同類的ということは単なる類似性ではない。単なる類似性では「虎」が猫をも代表することになってしまおう。同種性・同類性は種的同一性・類的同一性を含意する。だが、種的同一性・類的同一性とはまさに種的普遍性・類的普遍性にほかならない。それゆえ、「代表説」は、第三者的にみれば、或る「記号−表象」結合体が一定の類種的普遍性(一定の普遍本質的な規定性の一総体)を具えた対象群を代表するという理説になっているわけである。それは、一定の「記号−表象」結合体が一定の類種的普遍性を表現すると言っているに等しい。ここにおいて「代表説」といえども、概念に対応する類種的普遍性・類種的普遍者の存立を前提にしている。しかるに、類種的普遍者なるものは一般的観念(心像というかたちでの「一般表象」)という仕方では表象化されえない。では、類種的普遍性が客観的規定性として対象群に共有されているのか。そうだとしても、それは一体どのような仕方で認識にもたらされるのか。普遍者の直接的認識(=表象化)を遮断している「代表説」にあっては、この設問には原理上答えることができない。かくして「代表説」は、それが元来は客観的な普遍者の存立をも否認するものでありながら、被代表群の同種性・同類性に即して普遍者の存立を要請してしまっているという自己矛盾は措くとしても、われわれの採りうるものではない。そこで、「使用説」が問題になる。此説は、概念記号は何らかの普遍者を表現するものではなく、譬えば音符(楽譜)がそうであるように、一定パターンの行動を指令するシグナルたるにすぎない、と主張する。此説は、概念内容に照応する一般表象はおろか対象群の同種性をも論外としつつ、もっぱら記号操作のルール的一定性に止目する。これが苦心の産物であることは認めうるにしても、しかし、行動のパターン的同一性、操作のルール的一定性という場面で、客観的同種性(当該行動・操作の他種の行動・操作に対しての同型性・同種性)の存立ということ、および、その同種性の認知ということ、この問題論的構制を免れうるものではない。概念が概念として機能するかぎり、単なる類似性という域を超えた同種性(普遍的規定に即しての同一性=普遍的同一者性)の存立とそれの認知ということが要件となる。この要件を回避した心算でおりながら実際にはそれを必須の契機としている「代表説」ならびに「使用説」が採用さるべくもない所以である。」269-70P
(対話B−第二に・次ぎに)「茲で、次に、「概念本具説」および「本質直観説」を一瞥しておこう。概念に照応する普遍者が客観的に存立し且つ認知されることが要件をなすにもかかわらず、さしあたり概念的普遍者の認知・認識が帰納的抽象という媒介的手続きによっては成立すべくもなく、帰納的手続にとってすら却って概念内容の先取的既知性が“前梯”をなすところから、概念的普遍態の知識がアプリオリに心性に具っているという「概念本具説」が登場する。本具説は顚からナンセンスだときめつけるわれにはいかない。嬰児の場合を持出してみても、論者たちは「心性に既に具っているのだが明瞭なかたちでそれが意識されるまでには至っていないのだ」と主張することであろう。では、どのような相で、普遍者たる概念内容が心性に具っているのか。普遍表象=一般的観念という心像のかたちで概念的表象が現存しえないことは、嚮に「代表説」に関連して確認しておいた通りである。<三項図式>における「意識内容(=心像=観念)」という定在の仕方では普遍概念は生得的にであれ獲得的にであれ存在しうべくもない。そこで、論者たちは、概念内容が心像のかたちで生得的=本具的であるという見解は撤回して、意識作用の発現する仕方がアプリオリにパターン化されている旨を説き、意識作用の定形化された発現のパターンがいわゆる本具概念にほかならないと主張する。では、概念の数と同数の殆んど無限に近い数のパターンが生得的に具っていると言うのか。そして、意識作用の概念的発動は与件的対象とは無関係に進行すると言うのか。論者たちは、実際問題としては、アプリオリな概念は基本的概念だけに限定しようとし、また、どのパターンで意識作用が発動するかは与件的対象によって機縁づけられるものと立論する。論者たちが、本具的概念と対象的与件とは無関係とするのであれば話は別になるが、苟も与件的対象に応じて発動される概念が別になると認めるかぎり、与件的対象群が対象的に具えている同種性が選別されていることが前提となっていよう。となれば、ここでも客観的な同種性(本質的同種性)とそれの認知という問題構制が付き纏う。そこで本具説のモチーフは継承しつつも、概念の生得論は棚上げするかたちで「本質直観説」が登場する段取りとなる。概念的把握においては与件的対象群の同種性・本質的同一性が認知されているとはいえ、その本質的共通態は帰納といった比量的手続を通じて抽出されるのではなく、個々の外延的対象に即して端的に覚知されていなければならない。(意識作用のアプリオリなパターンが発現するのだとしても、どのパターンで発動するかは対象的与件の種的特質=本質的徴標の認知を機縁としてであろう)。しかも、この端的な覚知は、一般表象といったレアールな心像の形成に負うものではない。それは一種独得な仕方での「意識作用」と「意識対象」との直接的な関わりであると論者たちは思念する。それは一種の“知的直観”と呼ぶこともできよう。だが、論者たちの場合、当の直観は実在的(「レアール」のルビ)な対象物の直観ではなくして、対象の種的本質を観取する直観である。この直観は、比量的(「ディスクルシーフ」のルビ)な認識ではなくして、直覚的な認知であるという点では、つまり、直証的な覚知であるという点では、感性的・経験的な直観とも同趣であり、故にこそ「直観」と呼ばれるのであるが、その対象が「本質」という格別な存在性格のものである点で際立っている。対象(群)の種的同一性を存立せしめる「本質」は、時間的・空間的・特個的な事実的実在とは存在性格を異にし、われわれが前篇第一章第三節で「意味的所識」に関してみておいたごとき超時間的・非空間的・普遍的な或るもの、イルレアール・イデアールな存在性格を呈する。論者たちの謂う「本質直観」とは、イデアールな「本質」を対象とする独得の「直観」なのである。論者たちは即自的には「本質」の「函数的性格」をも既に把握しており、対象においてまずはその本質を観取し、同一の本質を具有する対象をその都度に一定概念の外延に算入する、という仕方で「概念」とその体系の「成立」を説くこともできる。論者たちが、概念の「被表的意味」(内包)および「被指的意味」(外延)がレアールな存在ではなくして、イデアールな存立態であることを洞見している点にも共賛することができる。だがしかし、われわれに言わせれば、「本質」の「直観」などということは真実には存在しない。「本質直観」とは一種の錯視なのであり、われわれはその真実態に即さねばならない。論者たちは「本質」なるものが対象的に既存して、それを能知的主観の側が在りのままに観取するのだと称するが(但し、論者たちといえども、本質が恒に“まる見え”だと言うわけではなく、しかるべき媒介的・機縁的な操作を介してはじめて本質の観取が成就すると説く)、しかし、われわれに言わせれば、イデアールな本質なるものが対象的に自存していてそれが観取されるわけではない。実態は、レアールな射映的現相与件がそれ以上の或るもの(etwas Mehr)単なる与件以外の或るもの(etwas Anders)として覚識されるのである。このさい、与件以上の或るもの=「意味的所識」は、それが宛かも自存するものであるかのように見做して存在性格を追尋してみると、慥かにイルレアール・イデアールな存在性格を呈するが、それは「所与的所識−所識的所与」の所識的契機を“もの”化して自存視するかぎりのことにすぎず、当の或るものは本来は「所与−所識」の二肢的統一態を離れて独立自存するものではない。「意味的所識」たる或るものは射映的与件を統一的に或る同じもの(etwas Identisches=これには、いわゆる“実体的同一者”の場合も、いわゆる“本質的同一者”の場合もある)として覚識せしめる「虚焦点」(focus imaginarius)とも謂うべきものである。このさい、われわれに言わせれば、同一性の覚識相のもとでの把捉が第一次的に存立するのであって、対象的同一者の存在とそれの覚知が同一性の覚識を生むのではない。しかるに、「本質直観」説は、われわれの謂う「意味的所識」(のうちの或る種のもの)を独立自存する対象であるかのように錯認しつつ、この対象=本質の観取とやらを立論するのである。われわれは論者たちの錯認にしかるべき事情があることを諒とするし、意味的所識が物象化された地平においては論者たちの立論が構図的には妥当することを認めるにも吝かではない。が、如何せん、「本質直観」説は、自存する対象的本質の直観という当の了解そのものにおいて倒錯なのである。われわれとしては「本質直観説」に謂う「本質」ならびに「直観」を前篇で論定した四肢的存在構造の構図で把え返しつつ、此説を卻けるのである。」270-3P
(対話C−第三に、積極的展開を含んで)「われわれは、概念が表現すると目されている“本質的同一者”なるものの実態を見極めておくためにも、「補完説」ならびに「規則説」に論及する次序である。伝統的な概念観のもとでは、概念的内包は外延的対象の具有する本質的規定性をもっぱら表現するものと思念されており、外延的対象の具えている偶有的規定性は捨象されてしまうものと単純に考えられていた。ところが、「補完説」はいみじくも次のように指摘する。「概念を形成するにさいしての思惟の実際の活動は、旧来の抽象説が説いているような途を決して辿らない。というのも、思惟の活動は、普遍概念への移行に際して個別的徴標を補完(Ersatz=代替=置換)なしに棄てるようなことでは決して満足しないからである。われわれが金・銀・銅・鉛を総括してそこから金属という概念を形成するとき、このようにして生成する抽象的対象に対して、なるほどわれわれは金に特有の色彩や銀に特有の光沢や銅の重さや鉛の密度といったものを与えることはできない。しかし、だからといって、このようなあらゆる個別的規定の全体をその対象に関してただ単に比定しようというのであれば、それはとうてい許容しがたいことであろう。金属というものの性格規定のためには、それが赤くもなければ黄色くもないとか、あれこれの特定の重さや硬度や密度を持たないというような表象では明らかに不充分であって、ともかく何らかの色彩を帯び何らかの硬度や光沢を有しているという積極的な観念(「ゲダンケ」のルビ)が付与されるのでなければならない。……という次第で、p1p2、q1q2という相異なる種では相異なる徴標を単に省略することが規則をなすのではなく、省略された特殊的諸規定のところに、それの個別的種がp1p2やq1q2であるような、普遍的徴標PやQが代置されるのである。しかるに、単なる否定の手続では、ついには一切の規定性全般の無化に到ることになり、……そのさいには、概念がそれを意味することになる論理的無から具体的な特殊的諸ケースへの還を全く見出すことが出来ない始末になろう」。(H.Lotze:Logik,2.Aufl.1880,S.40f.)ロッツェは、いわゆる抽象・捨象とは、決して単なる残留・捨棄ではないこと、捨象の実態は個別的規定性を“変項”(所与の特個的規定性を“値”として持ちうるごとき“変項”)で「補完」していくことにほかならないということ、この事実を指摘しているのである。それでは、“変項”から成る“函数”ともいうべき概念的普遍態はいかなる仕方で存立するのか。それがレアールな心像でもレアールな対象的存在でもありえないことは明らかである。概念的普遍は、ロッチェの考えでは、存在するのではなく「妥当する」(gelten)のであって、心的存在でも物的存在でもない。それは「妥当」(Geltung)という独特の存在性格を呈する。われわれの見地から言えば、彼の謂う「妥当」とは、間主観的に妥当するイデアールな形象の謂いにほかならない。われわれとしては「妥当」をこのように把え返すことによって補完説を積極的に採る。ところで「妥当」という独得の存在性格を積極的に容認することなく、ロッチェの指摘した概念の「補完」性や“函数的性格”を踏襲する一つの試みとして、われわれの謂う「規則説」が登場する。「規則説」は、概念に照応する函数的普遍態が主観的観念のかたちでも客観的対象のかたちでもそれ自身としては存在しないことに鑑み、函数化的・普遍化的に対象的規定態を統握する概念は「特殊を統合する規則」にほかならないと主張する。論者たちによれば、概念の内包を取り出して敢て定式化しようとすればƒ (x,y,z……)という函数のかたちで表現せざるをえず、外延的対象群はこの“函数”の“変項”を特定値で“代入”したƒ (x1,y1,z1……), ƒ (x2,y2,z2……)等々のかたちで現存するということになるが、“函数”たる概念は対象的規定態の諸項どうしの規則的関連性を把え、関連する諸項を“変項”化することで統一的に定式化する「規則」を表現するものなのである。論者たちは、概念にみられるこの規則的な普遍化的統合の機能を「精神の根源的機能」たる「象徴機能」に基づける。われわれは此説に幾つかの点で共賛することができる。概念的内包が函数的普遍態であることは論者たちの指摘する通りであるし、われわれは当の函数的普遍態が「妥当する」(イデアールに存立する)旨を立言するとはいえ、妥当態それ自身は謂うなれば“虚焦点”のごときものであり、統合的把握にこそアクセントのあるかぎりでは、論者たちの謂う「統合規則」を肯んずることもできる。また、論者たちの謂う「象徴機能」がわれわれの謂う「等値化的統一」の機能として改釈できるかぎり、これにも異を唱えるには及ばない。しかしながら、「規則説」の「統合規則」観や「象徴機能」論を支える認識論上の前提的・基底的な了解を強く卻けざるをえないことは姑く措くとしても、また、「規則説」にあっては個々の概念が体現する「規則」の種的単一性が根拠づけられていない点も措くにせよ、われわれは概念の「外延」の取扱いに関して読者たちに与みしえない。」273-5P
(小さなポイントの但し書き)「概念の「外延」ということは、伝統的な概念理論においては混淆されてきたが、実は、二重性・三重性を帯びている。われわれのタームでいえば、詞の「被示的意味」と「被指的意味」との二義的である。この二義は明確に区別することを要する。(われわれは狭義における「外延」を「被指的意味」とするが、これとは別義であることを対自化しつつ、「被示的意味」の或る種のものをも「外延」として扱う、尤も、本節の行文では、これまで、伝統的な観念を検討する論脈であることに鑑み、「被示的意味」の或るものを「対象群」の名のもとに断りなく「外延」として扱ってきたのであるが。)謂うところの二義性は判断論の場面においては殊に重大となる。フッサールは正当にも次のように指摘している「個体的個別者と種体的個別者の相違に、個体的普遍者と種体(「スペチェス」のルビ)的普遍者の相違が対応している。これらの相違はそのまま判断の領域へと移される。……単称判断は『ソクラテスは人間なり』のような個体的単称判断と『二は偶数なり』のような種体的単称判断に岐かれ、全称判断は『すべての人間は可死的なり』のような個体的全称判断と『すべての解析関数は微分可能なり』のような種体的全称判断に岐れる。これらの相違は抹殺さるべきではない。……これらの相違はどのように言い換えてみても抹消さるべくもない。」(E.Husserl:Logishe Untersuchuungen,2.Bd.I.Teil.2.Aufl.S.111f.)。フッサール式にいえば、概念の外延を個体的個別者の次元で考えるか種体的的個別者の次元で考えるか、これは大きな相違である。しかも、われわれはフッサールが指摘する通り、これら両つの次元的相違は抹消できないと考える。従って、両つの次元での「外延」を勘案しなければならない。ところで、「規則説」は「本質直観説」が対象的に自存するかのように錯認する「本質」「種体(「スペチェス」のルビ)的単一態」の自体的存立を認めないことに伴って、「種体的個別者」「被指的意味」の次元での外延を逸してしまう。「種体的個別者」なるものが自存するとみなすのは慥かに錯視であるのだが、われわれは物象化された相で概念(外延)のヒエラルヒー、ひいては、判断(命題)の体系を取扱う場面では(そもそも概念の「外延」なるものが措定されるのはこのような物象化された視圏での事柄なのである)、「被指的意味」次元での外延を措定せざるをえない。」275-6P
(対話D)「「規則説」では概念の「外延」が「個体的個別者」「被示的意味」の次元に限られる所以となり「種体的個別者」「被指的意味」次元での外延が閉却される。この点において、われわれは「規則説」という形での概念理論を所詮は卻けざるをえぬ次第なのである。」276P
第三段落――分類的整序の構制に目を向け、概念的“函数態”の在り方を見定める 276-81P
(この項の問題設定)「われわれは、以上の行文では、概念の形成と性格をめぐる論議をもっぱら個々の概念に即するかたちで進めてきた。がしかし、概念というものは、元来、個別的に形成されるものではなく、分類的整序体系という“縦横”の反照関係のもとで形成されるものである。それゆえ、茲では今や分類的整序の構制に目を向け、概念的“函数態”の在り方を見定めて行くことにしよう。」276-7P
(対話@)「分類的に整序された体系というとき(イ)生物の分類体系、(ロ)組織の編制体系、(ハ)系統の分化体系、などが範型として思い泛かべられる。日常的な表象では、親族の血統体系とか化学の元素体系、数学の数論体系なども思い泛かぶし、分類といえば、一群の対象物に通し番号を打って一番から十番まで、十一番から二十番まで……という具合に“分類”する場合すらあり、一口に分類的整序といっても多様である。がしかし、われわれのみるところ、分類的整序の基本的型は、結論的に言い切っておけば(イ)のタイプの「類推型分類」(これに化学元素の分類体系や数の分類体系などをも含めうる)、(ロ)のタイプの「区劃的分類」(これに生物有機体の器官腑分体系や化学的化合物の成分分析体系などをも含めうる)、(ハ)のタイプの「系統的分類」(これに進化論的系譜分類体系や親族組織の血統体系などをも含めうる)、以上の三者によって一応尽くされる。」277P
(対話A)「これら(イ)「類推型分類」、(ロ)「区劃的分類」、(ハ)「系統的分類」は、一見したところおよそ別様の分類整序であるようにみえる。現に、伝統的な実体主義的存在観に支えられた旧套的概念理論においては、これら三者は全く別々の整序体系であるものと見做されるのほかなかった。しかしながら、“函数態”的概念観のもとでは、これら三者を統一的に把え返すことができる。」277P
(対話B−(イ))「まず、(イ)「類推型分類」の構制をみてみよう。伝統的な思念においては、一群の対象的諸個体のうち、共通の徴標をそなえているものを同類者として一括し、これら同類者をそれぞれのそなえている特異性に応じて下位区分して、その下位区分に属するものをそれぞれ同種者として一括する、という仕方で類種的分類がおこなわれるものとされている。ここでは、或る類に下属する諸々の種は、それらが同類たる所以の共通の規定性(性質)と各々が独立の種たる所以の特異な固有的規定性(種差的規定性)とを併せ持っているものと了解される。謂う所の「共通の規定性」が類概念の内包をなし、謂う所の「共通の規定性プラス固有の規定性」が種概念の内包をなすと謂われる。範式化して言えば、類概念の内包は単にK、種概念の内包は、KプラスA、KプラスB、KプラスC、……と表現することができよう。これに対して、“函数態”的概念観では、類概念の内包はƒ (k,x)という形で“変項”を含むこと、各種概念内包はこの類概念の“変項”が特定値で充当されたƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……であること、しかも“変項”xはそれ自身x=ƒ (u,v,……)といった“函数”であること(実はkも“変項”いな“函数”が特定値で定在しているものであること)、類概念の内包は“函数の函数”であること、このような構制を主張する。ここにあっては、類概念と種概念と(の内包どうし)の関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になる。従って、ここでは、類−種のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」277-8P
(対話C−(ロ))「次に、(ロ)「区劃的分類」の構制をみてみよう。伝統的な思念においては、或る全一体のうちで、ブロック的に纏っている諸部分を区分し、それら諸部分の特性を規定するという仕方で区劃的分類がおこなわれるものとされる。これら伝統的な思念における(イ)の「類推型分類」はおよそ別様な手続である。区劃された諸部分相互のあいだには、種の場合とは異って、Kといった共通“成分”があるわけではない。Aという特質をそなえた部分、Bという特質をそなえた部分、Cという特質をそなえた部分……が並存し、合すれば元の全一体を構成するというだけである。しかしながら、部分A、部分B、部分C……は共通成分としてこそKなる規定性を含まないとはいえ、斉しく一箇同一の全一体の部分であるという共通規定性をそなえている。この意味での共通規定性をKで表わすことにすれば、諸部分はKプラスAという規定性をそなえた部分、KプラスBという規定性をそなえた部分、KプラスCという規定性をそなえた部分……ということになる。そこで、これら諸部分をあらためてƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……と標記し、元の全一体をƒ (k,x)と標記することができる。こうして、区劃的分類の構制は、伝統的な思念での類種的分類とは異相であるにせよ、“函数態”的に把え返された類種的分類とは同趣の構制になっている。ここにあっては、元の全一体と区劃分体との関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になり、全一体−部分体のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」278-9P
(対話D− (ハ))「茲で、(ハ)「系統的分類」の構制に目を向けてみよう。伝統的な思念においては、或る元祖からの直接的に生じた後裔は同胞というグループをなしつつ各々その特性をもつが、先祖−後裔の関係と併せて各後裔の特性を規定するという仕方で系統的分類がおこなわれるものとされる。これは、伝統的な思念における(イ)の「類推型分類」とはもとよりのこと、伝統的な思念における(ロ)の「区劃的分類」とも別様な整序である。同胞的後裔群は必ずしも共通成分を含まないし、先祖の諸部分をなすわけでもない。Aという特質をそなえた後裔、Bという特質をそなえた後裔、Cという特質をそなえた後裔……が並存し、共通の先祖と発生関係上“結ばれて”いるだけである。しかしながら、後裔群は共通成分こそ含まないとはいえ、斉しく一箇同一の先祖から生じたという共通規定性をそなえており、この共通規定性をKで表わすことにすれば、後裔群はKプラスA、KプラスB、KプラスC、……という規定性をそなえたものということになる。そこで後裔群はƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……と標記とされうる。そして“変項”xの充当に発生論的転成の意味づけを与えることにして、元祖をƒ (k,x)で標記することができる。こうして、系統的分類の構制は、“函数態”的に把え返された類種的分類ならびに区劃的分類と同一の構制になっている。そして、ここでは、元祖と後裔との関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になり、先祖−子孫のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」279P
(対話E)「以上でみたように、(イ)「類推型分類」、(ロ)「区劃的分類」、(ハ)「系統的分類」は、伝統的な実体主義的概念観のもとでは全く別々の構制であるが、“函数態”的な概念観のもとでは同趣の構制に帰趨する。このさい併せて銘記さるべきことは、函数ƒ (k,x)は、伝統的な思念における類徴標Kが自足的な規定であったのと異なり、あくまで関係的規定態であるということである。ƒ (k,x)は、g(l,y)という(イ)別の類との、(ロ)別の全一体との、(ハ)別の祖親との、反照的区別化規定であり、またƒ (k,x)はkの契機において、(イ)同類の他種との、(ロ)同一の全一体との、 (ハ)同一の先祖との、反照的同一化規定である。ƒ (k,a), ƒ (k,b),……は、これでまた、x=ƒ (u,v,), u=ƒ (w,……)であることに鑑みれば、単なる一定値ではなく、それ自身可塑性をもった“函数”である。こうして、“函数態”なる概念は“縦”“横”の反照規定関係の謂うなれば“網の目”なのであり、しかも、“函数の函数”としてヒエラルヒーを形成する。概念の形成は「汎化」と「分化」のダイナミックな即自的過程に俟つものであるとはいえ、概念は、自己完結的に自存する実体に対応するのではなく、“分類的秩序体系”のしかるべき位置を占める“網の目”として形成され存立する。(このゆえに、概念は、概念体系という“網”が変様してもはや対他的な示差的区別性をもたなくなった場合には存立性を失うし、対他的な示差的区別性が必要になればその局所で創生される)。」280P
(対話F)「われわれは、以上、本節の行論では、概念の形成と存立をめぐる論理構制を外面的に擦ったことにとどまる。この作業は、既成の概念観と内在的に対質しておくことが要件たるかぎりで不可欠であったとはいえ、われわれ自身の概念理論にとっては所詮消極的な前梯以上のものではない。――概念そのものの何たるかを積極的に規定するためには、「判断」の存立機制をみなければならないのであるが、次節におけるこの作業を俟たずしても、とりあえず本節での行文から次の点までは確認しておくことができよう。概念は“自存化”して形象化すれば「詞−被表的意味」成態であり、そこでの被表的意味=内包はそもそも“ゲシュタルト的函数態”である。ところで、概念的内包は、最高類概念たるカテゴリーを姑く措くかぎり、その都度すでに“変項値”を与えられた“函数”的成態であって(われわれは“個体的”概念をも認める)、このことは、視角をかえていえば、概念が被示的意味たる質料的与件に被表的意味たる形相的所識を向妥当せしめることにおいて存立していることを表わす。しかるに、被示的意味に被表的意味を向妥当せしめること、これが次節以下でみる通り、判断的成態の形成にほかならない。それゆえ、“充当”された“函数的成態”たる概念は既にして一種の判断的構造成態なのである。――今や、判断成態を主題化しつつ、その意味構造に即して概念の存立実態についても規定し返すことがわれわれの論件である。」280-1P
第二節 判断成態の意味構造
(この節の問題設定−長い標題) 「判断とは、最広義においては、質料的所与に形相的所識を向妥当せしめ、そこに形成される「質料的所与−形相的所識」成態を対他・対自的に対妥当せしめることである。しかし、われわれの謂う狭義の「判断」は言語介在的であって、いわゆる「主語−述語」構造を呈する。――但し、判断は主語概念と述語概念とを結合・分離することの謂いではない。――判断主語は主題的対象を提示する機能を演じ、判断述語は事故の表わす内方的・被表的意味を主語対象について賓述する機能を演ずる。判断における主語対象と述語規定とは、しかし、必ずしも直接的に「質料−形相」の関係に立つのではなく、「主語対象ハかくかくの属性的契機に即してしかじかの反照関係において述語規定態ナリ」という構制のもとに、主語的契機と述語的規定とが等値化的に統一される。」281P
第一段落――判断成態の意味構造におけるこれまでの通説 281-P
(この項の問題設定)「「判断」は、「主語−述語」構造を呈するものと一般に了解されているが、伝統的判断観においては、判断における「主語−述語」関係は対象界における(イ)「実体−実体」関係、または、(ロ)「実体−属性」関係、または、(ハ)「属性−属性」関係のいずれかに照応するものと思念されてきた。」281-2P
(対話@)「「SハPナリ」という判断(例えば「犬ハ動物ナリ」)について、(イ)では主語Sの指示する犬という実体が述語Pの指示する動物という実体の範囲(外延・集合)に所属することの表明であるとされる。(この見地では「雪ハ白イ」のごときも「雪ハ白色ノものナリ」という仕方で、述語Pはその都度実体指示詞として扱われる)。 (ロ)では主語Sの指示する実体(犬や雪)が述語Pの表現する属性(動物性や白色性)を所有することの表明とされ、(ハ)では主語Sの表現する規定性(内包・属性)が述語Pの表現する規定性を含有することの表明とされる。(古典的な論理学では(ハ)は余り立論されない。というのも、普通の文法的な次元では「或ル動物ハ犬ナリ」というような形の特殊判断の場合、「或ル動物」なるものを主語の指示する対象的実体とみなせば、(イ) (ロ)はそのまま妥当するが、「或ル動物」が属性を表現することになる (ハ)は稍々無理を伴うといった事情がある所為であろう。しかしながら、後に論ずる通り、判断の意味構造をメタ・レベルにおいて分析する超文法的な「主語−述語」論の次元では、(ハ)も特に困難は生じない。――右には、判断の「量」、すなわち、全称・特称の区別を設けずに記しているが、当座の議論にとってこれが不都合を生じないことは容易にみとめられよう)。」282P
(対話A)「尚、「SハPナラズ」という否定形の判断についても、前記の「所属」「所有」「含有」の関係が「非所属」「非所有」「非含有」の関係に変わるだけで、やはり(イ) (ロ) (ハ)が主張される。」282P
(対話B)「右の(イ) (ロ) (ハ)は伝統的な思念においても相互に還元可能だと考えられている。われわれも(イ) (ロ)を順次 (ハ)へと一度還元したうえで議論を進めることにしよう。」282P
(対話C)「まず、(イ)において「SハPナリ」とは、Sが端的にPと同一の謂いではなく、SがPに所属することの表明であるとされるさい、実体S(犬、雪)が実体P(動物、白イもの)に所属するのは、実体Sが属性P(動物性、白色性)を所有するかぎりにおいての筈である。こうして(イ)の「実体−実体」の所有関係が基底になっている。」282-3P
(対話D)「そこで、(ロ)の「実体−属性」関係であるが、このさい「実体Sは諸々の属性をそなえているがそのうちの一つとしてPという属性を所有する」という了解になっていると言えよう。とすれば、SがPを所有するという事態は、Sの所有する属性のうちにPという属性が含有されているという事態と相即する。このかぎり、(ロ)の「実体−属性」所有関係は(ハ)の「属性−属性」含有関係と相即する次第である。」283P
(対話E)「こうして、今や(イ) (ロ)を (ハ)に還元して考えることが許される次第であるが、「Sの所有する属性のうちにPという属性が含有されている」という事態、換言すれば「Sの規定性が属性Pを含有する」という事態、これがもう少し立入って検討しておく必要がある。」283P
(対話F)「主語対象Sの所有する属性と述語規定Pという属性との(ハ)に謂う「属性−属性」含有関係は、これ自身また三通りに分けて考えることができる。」283P
(対話G−第一の考え方)「第一の考え方では、Sの所有する諸々の属性の“集合”のうちにPという属性もその“元”として含まれている、という具合に処理しようとする。例えば、雪(主語S)は、「冷たい」「結晶性」「白い」……といった一群の属性をそなえており、そのうちの一つとして「白い」(述語P)が含まれている、というわけである。(これは、先に「実体−実体」の所属関係として考えた(イ)の構図を要素的性質どうしの場面に適用したかたちのものになっている)。」283P
(対話H)「この考え方では、しかし、“属性”とされるものどうしの離接が明確な場合にはまだよいとしても、例えば「犬ハ脊椎動物ナリ」「犬ハ哺乳類ナリ」「犬ハ動物ナリ」「犬ハ生物ナリ」……といった事例で考えてみると判る通り、不都合な点を生ずる。というのは、実体たる犬の所有する属性の“集合”に「脊椎動物性」「哺乳類性」「動物性」ひいては「生物性」「存在性」……といった一群の性質が謂わば同位的な“元”として属することになってしまうからである。そこで、第二の見方が登場する。」283-4P
(対話I−第二の考え方)「第二の考え方では、Sの所有する或る属性にPという属性が下位的に所属する、という具合に処理しようとする。一般論として、SがPという属性を所有するかぎり、その都度SはPの上位概念にあたる属性を所有すると強弁することができる。例えば、Sが哺乳動物性という属性を所有するかぎり、Sは当のPに対して上位概念にあたる動物性とか生物性とかいう属性をもっていると強弁できる。そこで、Sの属性とPの属性とは同位的な“集合”を形成するのではなく、Sの属性がPという属性を下属せしめるのだ、と論者たちは主張する。つまり、「雪ハ白イ」とは「雪ノ色ハ白イ」の謂いであり、一般に「SハPナリ」とは「Sノ○○性ハPナリ」という意味構造になっていると強弁するわけである。ここでは、Sのそなえている属性○○とPという属性とは「普遍−特殊」の関係になり、視角をかえて言い換えれば、PはSの○○という“変項”の特定の“値”だという了解になっている。この見解は形のうえでは一応成立しうるし、後述の“概念思考的判断”の場合には多分に妥当性をもつかに思える。がしかし、判断における如実の事態、就中“知覚現場的判断”の場面においては無理を免れない。」284P
(小さなポイントの但し書き)「――読者は、此説は立ち入った検討を加えるまでもなく明白な謬説だといって顚から卻けられるであろうか? 判断は、普通、「犬ハ動物ナリ」とか「雪ハ白イものナリ」とか、主語のほうが特殊者で述語のほうが普遍者のかたちをとる。とはいえ、これを論拠にして論者たちの主張を卻けようとしたのでは却って足許をすくわれかねない。というのは、「或ル動物ハ犬ナリ」とか「或ル白イものハ雪ナリ」とか、論者たちに幸するかにみえる事例も日常茶飯に存在するからである。」284P
(対話J)「判断の現場に即して考えてみよう。雪ハ白イと判断するさい、雪の色彩性なるものが泛かんで、その普遍者(“変項”)が白色という特殊者(“値”)で充当されるわけではない。この点は論者たちも進んで認めるはずである。論者たちは論理的関係を問題にしているのであって、別段、心理的事実を云々しているわけではないので、この事実の承認は論者たちにとって何ら自殺にはならない。問題の焦点は、さしあたり、Sの所有する属性の如実相である。雪ハ白イというようなルーティーン化した事例、ことさら判断らしい判断をくださずにすむ事例で考えると聊か紛らわしいにせよ、知覚現場的に「コノ花ハ赤イ」と判断するような場面で考えてみると事態が明瞭になる。「コノ花ハ赤イ」というのは、論者式にいえば「コノ花ノ色ハ赤イ」ということにほかならない。しかし、「コノ花ノ色」というのは一般者としての色のことではなく、現に見えている特定の色彩である。言葉で表現するかぎりでは色という普遍詞を利用して「コノ色」としか言いようがないにしても、それは非常に限定された色であり、特殊な赤色である。「コノ花ノコノ色(コノ鮮紅色)」は、述語Pの表現する「赤」よりも特殊である。Sのそなえている属性とPの表現する属性との関係は、近く現場的判断においては、論者たちの主張とは逆に、前者のほうが特殊者で後者のほうが普遍者なのである。このことに定位して、「普遍−特殊」の下属関係を論者たちと逆転するとき、第三の考え方が成立する。」284-5P
(対話K−第三の考え方)「第三の考え方では、Sの所有する規定性がPの表現する普遍的(“変項”的)規定性の特定“値”として認定されること、それがかの(ハ)に謂う「属性−属性」関係の実態であると主張する。この考え方を採るとき、SハPナリという判断的措定は――今暫く「対他的妥当性」の契機は各個に入れて、「主語対象性と述語的規定性との意味関係」に話を限って謂えば――主語Sの指示する対象において見出される規定性(例えばAa+b)を述語Pの表現する函数的成態が特定の値で充当された定在(ƒ(a)=Aa+b)として覚知することを内実とする。尤も「Aa+b」をƒ(χ)=aχ+bの変項が特定の値(a)をとっている特殊態として認知するといっても現与のƒ(a)=Aa+bと別にƒ(χ)=aχ+bという一般者が表象されるというわけではない。レアールに表象されるのは、通常Aa+bに限られるというべきであろう。このかぎりでは「普遍−特殊」なのか「特殊−普遍」なのか、つまり、上記の「第二の考え方」とこの「第三の考え方」との対立は、いずれにせよ心理的事実次元のことではない。がしかし、Sの対象的規定性(この特定の赤色)とPの表現する規定性(赤色という部類)との関係を反省的に二肢化して覚識する場面では、前者(Aa+b)より後者(Ax+b)のほうが普遍的と認められる。この間の事情は「或ル動物ハ犬ナリ」といった事例についても、それが「或ルコノ動物ハ犬ナリ」というアクチュアルな判断場面であれば容易に看取できよう。」285-6P
(対話L)「われわれとしては、右に謂う「第三の考え方」を換骨奪胎する流儀で事を処理したいと念うのであるが、しかし、以上の議論では、アクチュアルな知覚現場的判断と称したものと、概念的秩序体系が既成化している場面での概念思考的判断――これとてやはり一種のアクチュアルな判断には違いないし、学理的判断・命題の体系は概してこの領界に納まる――との次元的差異が明示的ではないこと、そのうえ、所詮はまだ「実体−属性」という構図の埓内に止まっていること、この種の問題点がまだ残されたままである。」286P
(対話M)「翻って、そもそも、われわれが判断における「主辞−賓辞」関係を先の(ハ)、つまり「属性−属性」関係に一たん還元し、これに定位して議論を進めようとしていることを見咎めて、次のように借問されるかもしれない。主語Sと述語Pとの関係について、(イ) (ロ)を採るときには問題ないが、(ハ)の「属性−属性」説を採るとき、“真の主語”は“Sのもつ諸性質のうちの或る特定の性質”になってしまい、もはや「S」を主語とすること自体が不当になりはしないか? つまり、「花ガ赤イ」といっても、真の主語は「花ノ色」の謂いになり、それゆえ「花」を主語Sとして扱うのは失当というべきではないのか? 慥かに、或る種の場面では、SハPナリという判断の実態はSノ○○性ハPナリの謂いだと認め、主語は「Sノ○○性」である旨を承認せざるをえないこともある。しかしながら、一般には、「Sノ○○性に即してPナリ」というかたちで(「Sノ○○性」)ならざる) Sを主語としつづけることが許される、というのがわれわれの見地である。この見地を権利づけるためにも、そしてまた、「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」との次元的差異を闡明にするためにも、溯っては、以上では枠組みとして仮托した「実体−属性」図式の止揚を図るためにも(尤も、「実体−属性」図式そのものの排却は次章を俟たねばならないのだが)、次には、謂うところの文法的主語Sそのものの実態を検討しておくのが順路である。」286-7P
第二段落――文法的主語Sそのものの実態の検討 287-94P
(この項の問題設定)「「判断」における「主語」は、それについて賓述される主題的対象を指示・提示する機能を担うものと一般に了解されている。このかぎり、意味構造のうえでは、判断の真の主語は、主語概念ではなく、主辞の指示・提示する主題的対象(それについて何事かが、賓述される対象的与件)であることになる。ところが、主語に概念S(例えば「犬」)を立てるとき、主語概念Sは主題的対象たる或るもの(「犬」と呼ばれる或る対象的与件)を単に提示するだけでなく、その或るものがSであること(犬であること)をも表現してしまい、「SハPナリ」という判断は「Sデアルトコロノ或るものハPナリ」という意味構造を呈示する所以となる。「Sハ……」という提示は、「コレ(或る対象)ハSナリ、Sデアルところのソノモノハ……」という構制になってしまつている。という次第で、主語概念Sの設定は既にして「コレハSナリ」という判断的措定を含意し、「SハPナリ」という述定的判断の実態は「コレハSナリ、SナルソレハPナリ」という二重判断になっているわけである。そこで、判断の基幹的構造が「指示−賓述」の構制にあるものと了解するかぎり、判断の基底的構制は「コレハSナリ」という「純然たる指示−第一次賓述」の場面に即して討究されねばならない。――純粋に指し示された与件的指向対象(右の行文では便宜上「コレ」という記号で指示されている対象的与件)をわれわれはE・ラスクに倣って、「超文法的」(meta-grammatisch)な主語と呼ぶ。(このとき、文法的な主語Sは超文法的には第一次の述語ということになる)。」287P
(対話@)「偖、超文法的主語対象与件コレは、近く現場的な判断においては、知覚的に現前する一つの分節態たる「図」(心理学において「地」との対比でいうFigur)の相で与えられる。そして、この「図」はフェノメノンたるかぎりに既にして「質料的所与−形相的所識」の二肢的成態であり、射映的与件以上の或るものとして等値化的に統一されている。そこで、いま、射映的与件に意味的所識を向妥当せしめること一般を最広義の“判断”的措定と呼ぶとすれば、超文法的主語の現前が既にして一種の判断的措定と相即することになる。しかしながら、われわれとしては余程特別な文脈でないかぎり、等値化的統一一般を判断と呼ぶことはせず、「判断」という概念を詞が介在する場面から(精確には、そのことに加えて対他者的妥当性が問題になる場面から)用いることにする。それゆえ、われわれの用語法では、超文法的主語に超文法的第一次述語Sが賓述される場面から、「判断」が起始する。――超文法的主語コレ(「図」の相で現前する与件)は「判断」以前的に既に「射映的与件−意味的所識」の二肢的成態であるが、この成態が「所与的質料」の位置に立ち、詞Sと象徴的に結合されている「被表的意味」(S)が「所識的形相」として当の「所与的質料」に向妥当せしめられ、等値化的に統一される。(質料と形相とは相関概念であり多階的でありうること、低位の「質料−形相」成態が高位の形相に対してあらためて質料の位置に立ちうることを想起されたい)。平俗に謂えば、コレ(知覚的に分節化している「図」たる所与現相)が単なるそれ以上の (S) (詞Sの「被表的意味」) として覚識される。これが判断的措定の原基である。」287-8P
(対話A)「ところで、与件的対象コレを(S)として賓述・述定するというが、原基的には単なる命名的指称にすぎないのではないかとの疑義が生じえよう。われわれはこの疑念に応える作業を好便な通路としつつ判断的述定の意味構造を闡(あき)らかにして行くことができる。――予め留意を求めておけば、単なる命名的呼称と命名判断とは区別されなければならない。新生児に命名したり、新発見の対象に命名したりする場合、それは当該与件と一定名辞との象徴的結合であっても、それ自身としては判断ではない。また、「あれがレーガンです」「これがヒヤシンスです」というように、世間で使用されている名辞がどの対象を指称するのであるかを対他者的に伝える命名的呼称がおこなわれる場合、これはそれ自身では述定ではなく(これですら既に述定を前梯とするのが実情ではあるが)、むしろ言語記号の使い方、つまり、当の名辞がいかなる対象を指称するのに使われるのか、ないしは逆に、所与の対象が当該言語記号体系においてはいかなる名辞で指称されるのか、名辞の使い方を表明するものにすぎない。このような単なる命名的呼称と命名判断(Benennungsurteil)とは別である。尚、一般には、固有名はもっぱら指示的な機能をもつだけで述定的機能・述定的意味はもたないものと思念されている。この通念に従うとき、固有名による指称は賓述的述定にはならないことになる。それでは、われわれは第一次の賓述詞たるSから固有名を排除し、Sこのことによって「コレのSとしての述定」という提題を維持しようとするのか? 否である。われわれはもとより固有名と普遍詞とを混淆する者ではないが、前篇での行文中でも述べた通り、われわれの見地では固有名も被表的意味をもち一種の述定的機能を演じうるのであって、今問題のSから固有名を排除すべき謂われはない。ここでは、固有名による指称が既に一種の述定と相即することの闡明から始めよう。――命名的指称は現瞬間に与えられている射映的現相に即しておこなわれはするが、例えば、眼前の人物を「コレハ田中一郎君ダ」と呼称する場合、指称されている田中一郎というのは単なる射映相の謂いではない。射映相は変貌しても当の対象であるかぎり同じ名称で呼びうるということが命名的指称には含意されている。同一の固有名が諸々の射映的現相に対して(それらが同一対象の諸射映であるかぎり)指称的に用いられることが即自的に了解されている。しかし、射映的現相は様々でも一箇同一の対象であるということ、これは命名的指称以前的な「図」の認知次元のことではないのか? 或る意味では慥かにその通りである。だが、固有的名辞はまさにそういう「同一の図」=一箇同一の対象と象徴的に結合されているのである。裏返して先の例でいえば、その都度の射映的現相als solches(そのもの)が「田中一郎」と命名されるわけではない。「田中一郎」という固有名辞は、射映的与件以上の或るものを指し表わすのである。眼前の与件が写真であっても、また、その写真が正面からのものであれ横顔であれ、嬰児期のものであれ最近のものであれ、斉しく「コレハ田中一郎ダ」と指称されるのであって、「田中一郎」とは諸々の射映相で現相する或る同一者を表わす。固有名辞はその都度の射映的現相を指示しつつも、射映的現相以上の或る同一者、諸射映を通じての斉同者を表意するのである。このさい、謂う所の“同一者”“斉同者”は、とかく実体なるものとして思念されがちであるが、さしあたり、諸々の射映相をそれの特定の定在形態として統轄するような函数的単一態である。(次篇で究明する通り、この“函数的単一態”が物象化されて“実体”として思念されるのである。)そして、この函数態的所識が当の固有名辞の「被表的意味」にほかならない。茲で省みれば、眼前の射映的与件を「田中一郎」として認知・命名するということは、当の与件を当該名辞の被表的意味たる函数態的同一者が特定値をとっている一事例の相で覚識していることを意味する。命名的指称は(射映的所与を単なるそれ以上の函数態的所識として等値化的に統一することにおいて、質料的所与たる前者に形相的所識たる後者を向妥当せしめるのであるが、この後者は当該名辞を能記とする所記であり、当該名辞と象徴的に結合されている被表的意味であって)、こうして、質料的所与を被表的意味たる形相的所識と等値化的に統一しつつ、そのことを言表する所以の構制になっている。この構制が、すなわち、われわれの謂う述定にほかならない。従って、命名的指称は、それにさいし、射映的与件に対して被表的意味が対自的向妥当せしめられ、当の意味成態が対他的に対妥当せしめられるかぎり、固有名による場合も含めて、すでに一種の述定・陳述なのであり、命名的判断なのである。」288-90P
(対話B)「普遍詞による命名的指称の場合についてはもはや多くを語るには及ばないであろう。普遍詞(これは文法上のいわばいわゆる名詞・名詞句だけでなく、形容詞・形容詞句や動詞・動詞句をも含む)を用いて単なる命名、単なる命名的呼称がおこなわれるケースも存在することは嚮に認めた通りである。がしかし、普遍詞が一群の対象的与件を斉しくそれとして覚識せしめる所以の函数態的な被表的意味と象徴的に結合されていること、そして、普遍詞による命名的指称は一般に所与対象を当該名辞の被表的意味と等値化的に統一しつつその等値化的統一を言表すること、しかるに、これの等値化的統一は所与的質料に被表的意味たる所識的形相を向妥当せしめる構制にほかならないこと、このことに徴すれば、普遍詞による命名的指称は即自的にわれわれの謂う述定であり、命名的判断である。この間の事情そのものに関しては固有名に即して上述した構制から絮言を要せぬところであろうかと念うが、普遍詞を用いての述定に関しては格別に銘記さるべき論点が幾つか存在する。」290-1P
(対話C)「「コレハSナリ」という第一次的賓述において、超文法的述語たるSが固有名であれ普遍詞であれ、一般論として、「Sナリ」が言語的言表であるかぎり、論理構成上、対他者的妥当性が既に含意されていること、また、超文法的主語コレの指示する与件を質料とし、超文法的述語Sの表意する被表的意味を形相としつつ、質料的所与に形相的所識を向妥当せしめられること、しかも、超文法的主語たるコレの指示する対象的現相が超文法的述語たるSの表わす函数的成態(ƒ(χ))の特定値(ƒ(a), ƒ(b), ƒ(c),etc.)として認知されるということ、以上のことを念頭においたうえで、ここでは特に普遍詞による述定に関して次の点に留意したい。――“同一の”超文法的主語に関して、(a)「コレハ犬ナリ」、(b)「コレハ脊椎動物ナリ」、(c)「コレハ哺乳動物ナリ」、(d)「コレハ動物ナリ」、(e)「コレハ飼犬ナリ」、(f)「コレハ大キイ」、(g)「コレハ黒イ」、(h)「コレハ走っている」等々、一連の賓述をおこなうことができるし、現にこのたぐいの賓述がおこなわれる。判断の遂行にさいして、常識的には主語対象のそなえている規定性が述語規定のかたちで顕揚的に定立されるものと思念されており、この“顕在化的銘記”にとって所与の主語的対象以外のものは顚から慮外におかれがちである。がしかし、判断の実態はどうであろうか。前掲の(b) や(c)や (d)、さらには「コレハ生物ナリ」「コレハ物体ナリ」、「コレハ存在ナリ」といった判断をくだす場合、現前する対象を凝視していると「脊椎動物性」「哺乳動物性」「動物性」「生物性」「物体性」「存在性」といった性質が顕在的に泛かびあがってくるというのか? もしも、当の対象だけしか意識にのぼらないとしたら、とうていそれらの性質が覚識されることはありえないであろう。「脊椎動物性」……「存在性」といった“性質”が眼前の対象の“構成分”(?)として分析的に“見出される”わけではない。なるほど、判断の当事意識がつねに分類的対比の意識を明晰にもっているとは言えない。通常は直覚的に判断をくだしてしまい、そこには比較とか対比とかはもとより、分析の意識すら見出せないと言うべきであろうし、極言すれば、対象のそなえている諸々の規定性がどこまで明識されているかさえ疑問である。しかし、脊椎動物という規定は無脊椎動物との、哺乳動物という規定は同位的な他種の動物との、動物という規定は植物との、生物という規定は無生物との……という具合に同位的他者との反照的区別性においてまずは意識化されるのではないであろうか。そこで、次に脊椎動物という規定は別種の脊椎動物との、動物という規定は別種の動物との、生物という規定は別種の生物との……という具合に同位的他者との反照的類同性において意識化されるのではないか。所与の対象が、このような即自的な対他的反照においてそれの規定性を明識化され、そのことにおいてはじめて脊椎動物……動物……生物……存在……というたぐいの述定を生ずるのではないかと思われる。前掲の (e) (f) (g)についても同趣である。その点(h)や「コレハ死ンダ」というたぐいの判断は対比的な他者をもたないかのように思われかねないが、それは“他者”なるものを“別の実体”ないし“別の実体の性質”に限定するからのことで、“実体的”には同一の対象であっても、別様の状相との対比的反照のもとに措定されている点では、やはり同趣の構制になっていると言える――ところで、(a)つまり「コレハ犬ナリ」の場合、一般には「猫」とか「狼」とか「虎」とかいう同位的な分類胞族と対比されているわけではないのではないか? 慥かに、普通の場合、それは生物学的分類上の同位的胞族と対比的に反照されてはいない。そこでは対比的反照の意識が薄く、それだけにいよいよ、ソレがまさにそれ自体で犬デアルが故に「コレハ犬ナリ」と判断されるのだと思念されがちである。しかしながら、それは人々が日常生活において「物」的に分節した世界像に当面していること(この「物」的分節の基幹的な諸単位は歴史的・社会的・文化的に相対的であるとはいえ、われわれの場合、「犬」とか「机」とか「ペン」とか「リンゴ」とか「バラ」とか「テレビ」とか指称される次元での日常的準位での諸個体が基幹的単位になっていること)、そして基幹的な「物」的分節単位の準位では諸々の「物体」的分節体が同位的な胞族をなしており、従って「犬」は動物学的分類での準位でのように「猫」「狼」「虎」……と同位的な胞族をここでは形成していないこと、このような事情に因るものと思われる。分類的対比の意識がそのために弱くなるとはいえ、「犬」とか「机」とかいう次元での措定は、日常的分節・分類界における、諸「事物」という“同位的胞族”との示差的区別という対比的反照に支えられているのであり、ここでもやはり同趣の構制が存立している次第である。――右の行文においては、“同位的他者”なるものの分節化が既成化している場面に定位するかの風情で議論を運んだが、原初的には、コレハSナリという賓述における(S)の反照的異別化・反照的類同化と相即的に同位的他者との双項的(「ダイコトミック」のルビ)な分立が成立し、胞族的分化秩序(ひいては類種的分類秩序体系)が成立するのである。このような対他的反照・分類的照映における判断的措定という機能的関係態に即して超文法的賓辞Sの内包(S)が劃定されて行くのであり、それがまさに言語的能記“S”と象徴的に結合されている所記たることにおいて間主観的同調性(「コンフォーミズム」のルビ)をもった相に調整される。こうして、超文法的賓辞Sの内包(S)は、超文法的主辞コレの指示する与件的対象群に対する函数態的在り方を同位的な他者との反照において規定されつつ、同位的他者の相在をも反照的に規定する所以となる。間主観的同調相のもとでこのような機能的関係態を形成する超文法的次元における判断の普遍詞的賓辞Sを“もの”化して自存視したもの、それが「概念」にほかならない。「概念」は、しかも、超文法的賓述の構制を劃する対他的な異別化と類同化の構図に即して、それぞれ分類的秩序態の項として定位される。けだし、概念なるものは判断という機能的関係態の一結節というわるべき所以である。超文法的賓辞は(固有名の場合は与件的対象の個体化相の間主観的安定性を担うにとどまるが)、普遍詞の場合には、こうして、第一次的・基底的な超文法的判断という機能的関係相のもとで概念化される。」291-4P
第三段落――文法的「主辞賓辞」関係の次元に目を向ける 294-303P
(この項の問題設定)「われわれは爰で今や「SハPナリ」という形の文法的「主辞賓辞」関係の次元に目を向けねばならない。成程、「述定的判断」は超文法的にみれば「コレハSナリ、SナルコレハPナリ」という二重判断であり、基底的な構制は嚮にみた超文法的賓述の構制で尽きているとも言える。がしか、「Sナル」という限定的規定態たる「主語」とPという「述語」との関係について特別な討究が必要とされる。この作業は、いずれにしも超文法的な次元に亘らざるをえず、「コレハSナリ」という第一次の賓述に即して、超文法的主語対象の諸規定性と述語規定との関係を立入って討究するという仕方で半ばは遂行することもできたであろうが、その部面をも敢て茲に持越した次第なのである。(尚、「コレガ在ル」「Sが存在スル」という形のいわゆる「存在判断」については、次篇第三章の論脈で論究することにして、姑く措くことにしたい)。」294P
(対話@)「偖、「SハPナリ」においてSの指示する対象的与件(Sナルコレ)は幾つかの“属性”をそなえている。Sナルコレは一つの“図”として統一態でありながら謂うなれば下位的に分節化しているのであり“錯図”に譬えることもできよう。“図中の図”に譬えられる“属性”は、内自化された相で現前するとはいえ、存在論的に省察してみれば“関係規定の結節”であり、対他的関係性から独立自存するものではない。(この間の事情については次篇の第一章で論及する)。が、この関係性、例えば色という属性を当の色として現存せしめる関係規定態(光線の具合、視神経との関係、等々)は「判断」という反照的規定関係とは別次元である。茲では、行文の便宜上、主語対象において見出される特個的な“内属的性質”そのものは対他的関係から独立にそれ自身として対象に附属しているかのように姑く扱うことにしたい。――われわれは嚮に「主語−述語」関係に照応する対象的関係を(イ)「実体− 実体」関係、(ロ)「実体−属性」関係、(ハ)「属性−属性」関係として了解する旧来の思念に仮託しつつ、(イ) (ロ)を (ハ)に還元してみせたうえで、(ハ)の「属性−属性」関係についても三様の考え方がありうることを追認しておいた。それから三様の考え方のうち「第一の考え方」は問題外であるとしても、主語の属性のほうが述語の属性より上位的・普遍的であるとする「第二の考え方」は一応成り立ちうることを認めたうえで、われわれとしては、主語の属性が述語の属性に対して下位的・特殊的であるとする「第三の考え方」の線を採ったのであった。われわれは、ここでは再び「第三の考え方」に即しつつ、「第二の考え方」をも顧慮すべき次序である。――例えば、コノ犬ハ黒イと判断するとき、主語対象たる眼前の犬において見出される或る属性(暗褐色)を「黒イ」として覚識する。ここでは、与件的属性たる暗褐色という特殊態を「黒イ」というより普遍的で包括的な概念に下属せしめるわけである。「黒イ」という概念がさまざまな値をとりうる“変項”“函数”であることに鑑みれば、当の判断にあっては、主語において見出される特個的な属性を述語の表わす“変項”“函数”の特定値として認定する構制になっていると言えよう。コノ犬ハ脊椎ヲモツ、コノ犬ハ哺乳スル、といった判断においても構制は同趣であって、眼前の対象において見出される特殊的な属性的与件を、脊椎とか哺乳とかいう普遍的な概念に包摂し、述語“変項”“函数”の特定値として認定していると言える。ここにおいては、眼前の与件的属性が「黒」「脊椎」「哺乳」といった既成概念(単なる内包ではなく「能記−所記」成態としての)と反照的に関係づけられているわけであるが、既成概念とのこの反照は、当該与件をヒトがどう呼称するかの追認、当該与件をヒトがどの概念に包摂するかの判定にもほかならない。」294-5P
(小さなポイントの但し書き)「(否定判断については対他・対自の間主観的な場面に定位して後に論じるが、とりあえず次のように言い切っておこう。否定形の場合には、与件的属性を当の述語“函数”の特定値としては認知しないことの表明であり、ヒトが当該述詞では呼称しないことの追認である)。」295-6P
(対話A)「このさい、例えば「黒イ」という述定は「赤イ」「白イ」「青イ」……という同位的概念との区別性を即自的に含意し、「色」という上位概念に即した分類的定位を即自的に含意する。「脊椎ヲモツ」「哺乳スル」といった述定においてもその点では同断である。判断的述定は、一般的構制として、即自的には、同位概念との別様性の認知、ならびに、上位概念に即しての分類的な定位を含意するのである。」296P
(対話B)「以上では、嚮に謂う「第三の考え方」の線で論じたが、そこでの構制を範式化していえば「Sの○○という属性ハPナリ」という形になっている。このため、主語が、もはや「S」ではなく「Sの○○という属性」になってしまっているのではないかとの嫌疑が生じる。茲では、しかし、この嫌疑に応接する前に、嚮に謂う「第二の考え方」を顧慮しておこう。この考え方でも「Sの○○という属性ハPナリ」という形の構制になるが、但し、「第二の考え方」では「○○という属性」を賓概念Pよりも上位的普遍的であるものと見做す。例えば「コノ犬(の色という属性)ハ黒イ」というさい、謂う所の「色」は、暗褐色といった特殊的な規定性ではなく、色彩性という一般者・普遍者だというわけである。この考え方はあながち謂われなしとしない。主語対象が暗褐色という特殊な色を帯びているかぎり、それは色彩性を帯びている、ということができる。一般論として、或る特殊的規定性を主語対象が帯びている場合には、主語対象は当の特殊的規定の上位概念にあたる規定性を帯びている旨を立論できる。だが、暗褐色という属性を色彩性として覚知することは現に可能だとしても、主語対象が色彩性という属性を附帯していると言えるであろうか。対象が直接的に附帯しているのは暗褐色といった特個的な規定性と言うべきではないか。コノ犬の色彩性ハ黒イと謂うのは、コノ犬が現にそなえている属性(暗褐色)ハ色彩性という観点から反照的に言えば黒イ、という謂いにほかなるまい。色彩性という上位概念の規定性は、主語対象に直接的に附帯している属性なのではなく、反照的な観点に応ずるものなのである。このようにみてくるとき、主語対象のそなえている属性自身が述語の表わす属性よりも普遍的・上位的であるという提題は維持しがたい。がしかし、上位概念に応ずる観点から反照的に言えば……という構制は妥当する。この事実が謂う所の「第二の考え方」が一見妥当するかのように思わせる舞台裏である。顧みるに、「第三の考え方」の線で押しても、判断的述定は、述詞の同位概念との別種性の認知と併せて、上位概念に即しての分類的な定位を即自的に含意する構制になっている。「第二の考え方」は、この一般的構制における「上位概念に即しての即自的な分類的定位」を顕揚したものと言うこともできよう。 (後程この件に立帰って論ずる予定であるが、いわゆる「概念思考的判断」においてはこの顕揚が著しくなる。そのため、「概念思考的判断」にあっては「第二の考え方」が妥当性をもつかのように思われる次第なのである)。」296-7P
(対話C)「われわれは、茲で、いわゆる「綜合判断」と「分析判断」との区別について、後続の議論に必要なかぎりで、若干の討究を挿んでおこう。」297P
(対話D)「判断は、主概念のうちに既に含まれていた契機を述語概念のかたちで明示的に定位する場合「分析判断」であると言われ、主語概念にうちに含まれていなかった契機を述語概念のかたちで定位する場合「綜合判断」であると言われる。だが、「主語概念のうちに含まれている」とは如何なる謂いであるか? (イ)主語表象のうちに構成契機として含まれていることの謂いであるか、 (ロ)主語対象に附属する属性のうちに含まれていることの謂いであるか、 (ハ)主語概念の表わす意味のうちに契機として含まれていることの謂いであるか、(イ)の場合、或る事柄について熟知的にイメージ・アップしていた者にとっては“分析的”で、無知だった者にとっては“綜合的”ということになってしまおう。すなわち、論理的には同一の判断であっても、人によって“分析的”になったり“綜合的”になったりしてしまう。これでは、判断の種類的区別ではなく、心理的区別にしかならない。それゆえ、この次元での区別は判断論としての判断論にとって無用であろう。 (ロ)の場合、真なる判断に関するかぎり、肯定的判断はすべて分析的で、否定的判断はすべて綜合的ということになって、殊更に「分析判断」「綜合判断」という種別を設けるべき積極的な理由が認められないことになろう。(厳密にいえば、「含まれる」という詞の曖昧性の故に、この論断には問題が残るのであるが、後論にとって本質的には響かないので、このまま押し切っておく)。」297-8P
(対話E)「(ハ)の場合、これには事実上、(イ)または (ロ)の言い換えにすぎないたぐいのものも含まれるが、そうでないはずのものだけを検討しよう。次のような判断をくだしたものとする。(a)コノ赤イ花ハ赤イ、(b)コノ赤イ花ハ白クナイ、(c)パンダハ猫科ノ動物デアル、(d)パンダハ犬科ノ動物デハナイ。まず、(a)「コノ赤イ花ハ赤イ」において主語たる「(コノ)赤イ花」は述語たる「赤イ」の意味を既に含んでおり、従って、この判断は分析的判断であることになる。しかし、「赤イ花」という文法的主語は、これが二概念を含むものとみなされるかぎり、超文法的には「コレハ赤イ、赤イコレハ花ダ」ないし「コレハ花ダ、花タルコレハ赤イ」という二重判断の成態である。それゆえ、文法的述語「赤イ」による賓述は、超文法的次元での先行判断「コレハ赤イ」をトートロジカルに反復したものにすぎない。そして、そのかぎりにおいて分析的判断と呼ばれるのである。ところが超文法的主語「赤イ花」成立せしめる超文法的賓述たる「コレハ花ダ」にせよ「コレハ赤イ」にせよ、コレという主語は花や赤を意味的に含んでいない。それゆえ、当の超文法的賓述は綜合的判断ということになる。それはこの例に限ったことではない。超文法的主語は指示機能しかもたず、述語に何がこようとも、述語の意味を含んでいない。故に、超文法的判断はすべて綜合判断であるということになる。(b)「コノ赤イ花ハ白クナイ」はどうか。白クナイということは「赤イ花」という文法的主語には直接含まれていない。しかし、この文法的主語を成立させる超文法的賓述の一契機たる「コレハ赤イ」という判断が先にみておいたように、述詞の同位概念たる「白イ」「黒イ」「青イ」……との対他的反照・対他的異別性の認知を即自的には含意している。この超文法的異立「白クナイ」は綜合的であるが、それに俟って、「コノ赤イ花ハ非白デアル」という述定は分析的であるということになろう。(c)「パンダハ猫科ノ動物デアル」という判断は、既成の概念体系(類種的分類体系)において、下位概念を主語とし上位概念を述語とした形になっている。そこで、下位概念は、概念体系の意味構制上、上位概念を意味的に含むとすれば、この判断に限らず、一般に、下位概念を主語にし上位概念を述語にする判断は分析判断だということになる。(d)「パンダハ犬科ノ動物デハナイ」について言えば、これは「犬科」「熊科」……という同位概念への反照的区別性を即自的に含意しているかぎり、パンダはハ非犬科ノ動物ナリということは分析的判断であるということになろう。しかも、犬科の下位概念たるシェパード、ブルドッグ……を述詞とする判断、「パンダはシェパードデナイ」「パンダハブルドッグデナイ」……もまた、分析判断からの分析判断的帰結とした、これまた分析的判断ということになる道理である。翻って、(e)「コノ花ハ桜ダ」というように、ないしは、(f)「コノ動物ハ犬デナイ」というように上位概念を主語として下位概念を述語とした判断は、上位概念は意味構制上下位概念を意味的に含んでいないので綜合的判断ということになる。また、(g)「犬ハ猫デナイ」というような同位概念どうしを主語・述語とする否定形の判断は、超文法的異立の次元では綜合的であるが、「非猫デアル」の述定は分析的ということになろう。――われわれ自身の見地では「分析的判断」と「綜合的判断」との区別ということは、既成の概念的体系の意味構制なるものが問題的であることもあって、本質的な区別ではない。それゆえ、ここでは周到な分類は省くことにする。がしかし、以上を纏めるかたちで次のように言っておくことができる。分析的・綜合的ということを(イ)主語表象の表象的契機、ないし、(ロ)主語対象の属性的契機に定位して区別しようとする議論は実質的にナンセンスである、しかし、(ハ)主語概念と述語概念との含意関係に即する議論は一応成立しうる、そして、この(ハ)においては、(1)超文法的賓述判断はすべて綜合的である、(2)超文法的賓述を文法的賓述においてトートロジカルに反復する判断は分析的である、(3)或る主語に関する述語判断が即自的に含意している対他的反照肢を対自的に述定する判断は分析的である、(4)下位概念を主語とし上位概念を述語とする判断は分析的である、(5)上位概念を主語とし下位概念を述語とする判断は綜合的である。」298-300P
(対話F)「われわれは、爰で、嚮に「知覚的現場判断」と「概念思考的判断」と呼び分けたものの区別を明示的に規定することができる。――知覚的現場判断というのは、知覚的に現前する(精確には表象的現前でも可)対象的“図”について、それの“錯図”的、“属性”に即して、明晰判明化的におこなわれる判断である。“図”という現相的与件は“注視”しただけでおのずと“錯図”化し、明晰判明化することもあるが、賓述に先立つこの明晰判明化は、それ自身としては知覚過程に属するものであって、知覚現場的な判断ではない。“錯図”における“図中の図”の相で現前する“属性”に即して、それをPとして覚識することにおいて知覚現場的判断が成立する。このさい“属性”といっても純粋な現相的与件ではなく既に一定の意味的所識と等値化的に統一されているのであるが、われわれとしては言語的述詞が介在し、述詞の被表的意味が向妥当せしめられる場面から判断と呼ぶ次第なのである。尚“図”の“錯図”化といっても、これは所与対象が統一態を維持しつつも、規定性を分節化的に現相化せしめることの謂いであって、文字通りの錯図的分節化の謂いではない。」300P
(対話G)「ところで、対象的与件たる“図”が“注視”しただけでおのずと“錯図”的に分節した相で現前するようになる場合があるとはいえ、純然たる知覚的観察過程だけでの分節化の進捗は限られており、判断的態勢と相即的に“錯図”的分節化、規定性の明晰判明化が大いに進展するというのが実情である。判断的態勢に応じて、純然たる知覚過程だけではとうてい現前化しえなかったであろうような相での分節化や明晰判明化が実現する。所与の現相に対する判断的態勢において、いかなる述詞が泛かぶかは洞見的(einsichtlich)であり、論理的な必然性があるわけではないが、ともかく或る述詞が“外来的”に導入され、肯定的であれ否定的であれ賓述が生ずるのと相即的に、与件的対象の“錯図化”すなわち規定性の分化的現識が進捗する。この規定態の判明化は即自的には与件の対他的反照規定関係の覚知であると言えよう。知覚現場的判断は超文法的判断の場面にだけ限られるものでなく、対象的与件が文法的主辞によって指称されたもの(Sタルコレ)であることを妨げない。但し、知覚現場的判断においては、Sという概念の「内包」的意味(被表的意味)たる意味的所識が明晰判明化されるのではなく、あくまで対象的与件の現相的所与が“錯図”化・明晰判明化されて、当の所与的現相に即してPという賓述がおこなわれるのである。――概念思考的判断というのは、主語概念の指示する対象について、主語概念の内包的規定性に即して、明晰判明化的におこなわれる判断である。主語概念の表わす内包的規定性(被表的意味)はそれ自身を省察しただけでおのずと判断明晰化することもあるが、賓述に先立つこの明晰判明化は、それ自身としては主語概念に関する省察過程に属するものであって、概念思考的な判断ではない。省察的に覚識されるSの内包的規定性たる被表的意味ないしこれの“もの”化された被指的意味については、それの規定性を省察しただけでおのずと明晰化する場合があるとはいえ、純然たる内自的省察過程だけでの分節化は限られており、判断的態勢と相即的に規定性の分節化・明晰判明化が大いに進捗する。そもそも、主語概念の内包的規定性に関する省察なるものが大抵の場合すでに事実上判断過程に入っているというのが実態であろう。が、ともあれ、単なる省察過程ではとうてい分節的に覚識されなかったであろうような主語概念の内包的規定性の明晰判明化が、判断的態勢と即応して実現する。判断的態勢において、いかなる述詞が泛かぶかは洞見的であり、論理的な必然性がそれ自身としてあるわけではないが(論理的必然性が云々されうるのは事後的に主語概念と述語概念との包摂関係を反省する場面においてのことであって、述詞が洞見的に、時としては仮設的に泛かぶ場面ではおよそ論理的必然性はなく、たかだか心理的な蓋然性が認められるにすぎない)、しかしともあれ、或る述詞が“外来的”に導入され、肯定的であれ否定的であれ賓述が生ずるのと相即的に、主語対象の規定性(という相に“物性化”されている主語概念の被表的・内包的な意味規定性)の分節化的現識が進展する。規定態のこの判明化は即自的には主語対象性の対他的反照規定関係の覚識であると言えよう。概念的思考判断は抽象的思弁の場だけに限られるものではなく、具体例に即したものでもありうるし、特定のS(例えばコノ花) に即したものであることをも妨げない。但し、概念思考的判断においては、いかに具体例に即したものであれ、対象的与件の現相的与件が“錯図”化されるのではなく(仮りにこれが生じたとしてもそれは副表象的な一事例たるにすぎず)、あくまで主語概念Sの「内包」的意味(被表的意味)たる意味的所識が明晰判明化されて、当の被指的対象Sに即してPという賓述がおこなわれるのである。――「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」との相違は、詮ずるところ、前者が「主語の指し示す所与的現相」に対象的に関わる賓述であるのに対して、後者が「主語の言い表わす所識的意味」に対象的に関わる賓述であるという相違に存する。」300-2P
(対話H)「茲で、最後に、先刻来の懸案にも応えつつ、「判断の意味構造」を対自的に定式化しておかねばならない。懸案というのは、「判断」は、単なる命名的指称の場合とは異なり、主語対象の或る規定性に即して賓述がおこなわれる構制(謂うなれば「象ハ鼻ガ長イ」式の構制)になっている以上、真の主語は「Sノ○○性」(象ノ鼻)であって、Sそのものを主語と言うことは失当ではないか、という懸念への応答である。判断の過程においてSからSノ○○性へと主題が遷移する場合が慥かにあり、その場合にはなるほど「Sノ○○性」を以って「主語」としなければなるまい。しかしながら、判断にさいして一般には、○○性そのものが主題なのではなく、主題はあくまでSの指称する対象であり、対象Sハ○○に即して言えばPナリという賓述がおこなわれる。Sの指示する“対象”はSの表意する“函数”的統一態と等値化的に統一されている“単一態”であり、(なるほどこの単一態が錯図化している場合、実際的には)それの“項”的契機を質料的与件としつつ述詞の被表的意味が形相的契機として向妥当せしめられ(ここに成立する「質料−形相」成態が対妥当せしめられ)るとはいえ、判断的措定における志向的対象は一般にはあくまでSと指称される当の“単一態”なのである。「Sハ○○性に即してPナリ(Sノ○○性ハPナリ)」という構制態を日常的用語法では「SハPナリ」と称するのであって、Sが分節化を孕みつつも単一態の相で対象的・主題的に志向されているかぎり、われわれは単一態Sを主語と呼び続けることを許される。――翻って、Pナリという述定は、嚮にみておいた通り、概念Pの同位的諸概念との反照的別種性、概念Pの上位的概念との反照的同類性を即自的に含意する。判断成態「SハPナリ」は、かくして、「Sハ(○○に即して) (××への反照関係において)Pナリ」という意味構造を有つのである。」302-3P
第三節 命題的事態の存立性
(この節の問題設定−長い標題) 「「概念思考的判断」の意味成態は固有の存立性をもつものと思念され、階統的秩序体系を形成する命題的事態の相で自存視される。――命題的事態には、判断的肯定の内自化された「SハPナリ」という積極形と、判断的否定の「SハPナラズ」という消極形とがある。命題的事態は、判断における主語の「量」的規定に応じて、「此ノSハPナリ」(「此ノSハPナラズ」)という単称型、「或ルSハPナリ」(「或ルSハPナラズ」)という特称型、「凡ソSハPナリ」(「凡ソSハPナラズ」)という全称型に岐れる。――われわれは、命題的事態を「知覚現場的判断」の場面へと基底的に還元しつつ、命題の「量」的規定を検覈し、さらには、命題における被指態と叙示態との存立実態を把え返しておかねばならない。」303P
第一段落――命題(溯っては「判断」)の「量」的規定を討究する前梯として「Sというもの」の存立実態を把え返す 304-7P
(この項の問題設定)「判断成態は、判断のアクチュアルな場面における属性的契機への留目や対他的反照への顧慮が謂うなれば“奪胎”されて、「S(というもの)ハPナリ」「S(というもの)ハPナラズ」という命題的事態の相で自存するかのように思念される。命題的事態は、しかも、判断的措定に対して先行的な与件的対象性であるかのようにすら思念されがちである。われわれは、命題(溯っては「判断」)の「量」的規定、すなわち、単称命題・特称命題・全称命題の区別や存立構造を討究する前梯としても、爰でまずは「Sというもの」の存立実態からみておこう。」304P
(対話@)「命題の文法的主語が指称する「Sというもの」は、「コレハSナリ」「コレハSナラズ」という超文法的判断措定における賓述詞Sの意味が“もの”化されたものにほかならない。ところで、超文法的賓述詞Sはいわゆる「名詞」とは限らないのであって、超文法的賓述を類型化すれば次の三つに類別することができる。/(1)コレは何々(だ)。コレは何々でない。[基質認知]。例 コレハ犬(だ)。コレは犬でない。/ (2)コレは然々する。コレハ然々しない。[能相把握] 。例 コレは吠える。コレは吠えない。/ (3)コレは斯々しい。コレは斯々しくない。 [性質規定]。例 コレは大きい。コレは大きくない。」304P
(対話A)「右の類型において、(1)の「何々」つまり認知される基質を表現するのは文法にいわゆる「名詞」、 (2)の「然々する」つまり把握される能相を表現するのはいわゆる「動詞」、 (3)の「斯々しい」つまり規定される性状を表現するのはいわゆる「形容詞」におおむね照応する。尚、コレは<吠える>として覚知されたソレがさらに<犬>として認知されたり、ソレがさらにまた<大きい>として規定されたりする場合もありうる。そのさいには、コレハ<吠える犬(だ)>、コノ<吠える犬は大きい>という認知や規定が生じ、乃至はまた、<犬が吠える>、コノ<犬は大きい>、<大きい犬が吠える>といった多重的な把捉も生じうる。が、第一に銘記さるべきことは、いわゆる動詞や形容詞だけでなく、名詞もまた超文法的・第一次的には(1)の類型における述定詞だということである。――人々はしばしば文章の基本形式を「名詞+動詞」のかたちで考え、名詞というものは第一次的に主語に立つものであるかのように見做し、また形容詞というものは第一義的には名詞の修飾語であるかのように見做しがちであるが、いわゆる名詞も形容詞も、第一次的には、述定詞であることを念頭に収めておかねばならない。――成程、前掲の類型(1) (2) (3)における指示詞コレの位置に、基質述定詞たるいわゆる名詞「何々」はそのままのかたちで代入されうるのに対して、能相述定詞=動詞「然々する」および性質述定詞=形容詞「斯々しい」は代入にさいして一定の変形を要する。しかし、このような相違はあるにせよ、ともあれ、原基的には述定詞であるところのものが、二重的述定文たる「何々ハ云々」という形の文章において主語の位置に立ちうるということ、そして、まさしくこのことにおいていわゆる「名詞化」がおこなわれるのだということ、われわれはこのことを銘記して「SハPナリ」という命題的事態の分析的討究を進めることにしよう。」304-5P
(対話B)「嚮の三類型(1) (2) (3)において同じく「コレ」という超文法的主語で主題的与件が提示されるとはいえ、主題的与件と三類の述定詞との関係に種別的な差異がある。「犬(だ)!」「吠える!」「大きい!」という覚知が反省以前的に分節化した事態、すなわち、(1)コレは犬(だ)、(2)コレは吠える、(3)コレは大きい、という事態において、それぞれの「コレ」は当初の<犬(だ)ということ><吠えるということ><大きいということ>に対して或る別なもの(etwas Anderes)である。このetwas Anderesたる「コレ」は、(1)においては基質たる「犬」の本体であり、(2)においては能相たる「動き」の主体であり、(3)においては性質なる「大きい」の基体である、と呼ぶことができよう。このさい、(1)「本体−基質」、(2)「主体−能相」、(3)「基体−性質」、それぞれの分節化は共時的・共軛的に生じるのであって、全体としての述定態は、(1)「コレ(本体)は基質何々(犬)デアル」、(2)「コレ(主体)は能相然々(動き)ヲ為ス」、(3)「コレ(基体)は性質斯々(大きさ)ヲ有ツ」という自己分割的統一態(eine Sich-selbst-Ur-teilende-Einheit)として存立する。――「コレ」、つまり、本体・主体・基体は、それについて述定される、基質・能相・性質とはetwas Anderesとして区別性において意識されていると同時に、述定的統一性に留目していえば、(1)何々というときすでに本体の基質性に即してであり、(2) 然々というとき主体の能相性に即してであり、(3) 斯々というとき基体の性質性に即してである。視角をかえてみれば、知覚現場的には、「コレ」は、(1)基質何々デアル本体(犬デアルところのコレ)、(2)能作然々ヲ為ス主体(吠エルところのコレ)、(3)性質斯々ヲ有ツ基体(大キイところのコレ)である。」305-6P
(対話C)「知覚現場的には右の如くであるが、知覚現場を離れて、何々・然々・斯々と称するとき、つまり、超文法的賓述詞が“名詞化”されて文法的主辞と化した「S」を唱するとき、Sデアル当体・主体・基体は(犬デアル或ルモノ、吠エル或ルモノ、大キイ或ルモノといった)「Sナル或ルモノ」という相に“脱肉化”されてしまっているのが普通である。――知覚現場的に現認されている「犬デアルところのコレ」「吠エルところのコレ」「大キイところのコレ」とは異なり、「犬デアル或ルモノ」「吠エル或ルモノ」「大キイ或ルモノ」等々、つまり、「Sなる或ルモノ」は、たかだか範例的な副表象を伴う相で覚識されるにすぎない。われわれは、「Sなる此ノモノ」ないし「Sなる或ルモノ」が、知覚的であれ表象的であれ“個体”的な対象相で現相しつつ、詞Sで指し示されているかぎり、その“個体”的対象現相を詞Sの「被示的意味」と呼ぶ。詞Sのたる個体的現相は、概念Sの「被示的的意味」たる個体的現相は、概念Sの「内包的意味」すなわち詞Sの「被表的意味」たる“函数態” ƒ (x,y,……)が特定値ƒ (xi,yj,……)で定在しているものという構制を示す。――ところで、知覚的現場を離れると「被示的的意味」たる「Sなる或ルモノ」はたかだか表象の相でしか泛かばず、「SハPナリ」という判断は、副表象として泛かぶ被示的的意味を範例的に顧慮するとしても、Sの内包的意味そのものを判明化しつつ、前節に謂う「概念思考的判断」のかたちでおこなわれるのが普通になる。ここにあっては、Sの「被表的意味」たる“函数態” ƒ (x,y,……)がにもっぱら留目される。このさい、Sという主語はあくまで或る対象的与件を指示するものであるという構制が維持されているかぎりで、そして対象的に泛かぶ被示的的意味そのものは所詮範例的な副表象にすぎないものと了解されているかぎりで、Pという賓述にさいして留目されるSの被表的意味そのものが対象的な与件の相で覚識され、“対象化”される。このようにして“対象化”された「被表的意味」がわれわれの謂う「被指的意味」にほかならない。SハPナリという判断的述定が、もはやSの被示的的意味に即してではなく、Sの被指的意味についておこなわれるようになったもの、それが「SというものハPナリ」という概念思考的な判断的措定である。かくして、謂う所の「Sというもの」、それはSの被表的意味が賓述の対象として“もの”化されたイデアールな或るものなのである。」306-7P・・・「被示的意味」「被表的意味」「被指的意味」の規定
(対話D)「このようにして、主辞Sの被示的的意味が“奪胎”され。被指的意味そのものが対象的・主題的な被提示態となることを俟って、「S(というもの)ハPナリ」「S(というもの) ハPナラズ」といった命題的事態が存立するようになり、これら命題的事態が階統的に秩序づけられるに及ぶのであるが、議論の順序として、われわれはここで命題の「量」的規定に目を向けねばならない。」307P
第二段落――命題の「量」的規定の詳述 307-12P
(この項の問題設定)「命題の「量」規定は判断の「量」規定に俟つものである。が、「判断」の量的規定、すなわち、単称・特称・全称ということの区別的規定は、われわれの場合判断主語の「被示的意味」の次元と「被指的意味」の次元とに分けて、二重におこなう必要がある。」307P
(対話@)「まず、判断的主語Sの被示的意味に即する場合、単称判断は「一ツノSハPナリ(ナラズ)」、特称判断は「若干ノSハPナリ(ナラズ)」、全称判断は「全テノSハPナリ(ナラズ)」という形で標記されうるが、意味構制をみれば、単称判断においては「Sと呼ばれる一つの“個体的”対象はPなり(ならず)」、特称判断においては「Sと呼ばれる若干の“個体的”対象はPなり(ならず)」、「Sと呼ばれる全ての“個体的”対象はPなり(ならず)」という内容になっている。判断主語の被示的意味に即する場合、判断の「量」的規定は、Pナリ(ナラズ)という賓述がSと呼ばれる“個体的”対象(詞Sの被示的意味対象)の「一つ」についておこなわれるか、「若干」についておこなわれるか、「全て」についておこなわれるか、これに応じて岐れるのである。――伝説的な考え方にあっては、「固有名」は唯一つの個体的対象をもっぱら指示するものとみなされているので、固有名を主語にする判断は単称判断であるとされてきた。(尤も、固有名は外延的対象が唯一つに限られているので、その一つで全外延的対象が尽くされており、従って固有名を主語とする判断は実質的には全称判断でもあるとされてきたのではあるが。)われわれの場合、しかし、被示的意味たる“個体的”対象なるものを必ずしもいわゆる「実体」の意味にはとらない。われわれは、Sの被示的意味たる一つ一つの“与件的現相”を、それが“函数態”たるSの被表的意味の“特定値”的定在とみなされうるかぎり、“個体的”対象として扱うことができる。(諸々の“射映的諸現相”を単一の「実体」の諸相として把え返すかどうかはまた別次元での一判断なのであり、知覚現場的判断は、さしあたり現相する“個体的”対象についておこなわれるのであって、「実体」そのものという単一体についておこなわれるのではない。)従って、われわれの見地では、固有名を主語とする判断であるからといって、直ちに単称判断ということにならない。――」307-8P
(対話A)「ところで、全称判断がおこなわれる場合、果たして常に、主語で呼ばれる一つ一つの対象を枚挙的に主題化しつつ、文字通りに、Sと呼ばれる全ての“個体的”対象についてを賓述が遂行されるのであろうか。「此ノ部屋ニ居ル人間ハ全テ日本人ダ」と判断する場合など、文字通りに、主語で呼ばれるすべての“個体的”対象を枚挙的に主題化しつつ、全称的な判断が遂行されるケースも慥かにありうる。がしかし、例えば「全テノ第一族重金属元素ハ常温ニオイテハ固体ナリ」と判断する場合、主語で呼ばれる対象の具体相を逐一枚挙的に検討するのではなく、金と銀と銅という三つの“もの”だけがあるかのように扱って、金は常温において固体、銀も常温において固体、銅も常温において固体、故に、全ての第一族重金属元素は……という具合に判断するのが実情であろう。特称判断に関しても同趣である。「コノ部屋ニ居ル人間の若干ハ西洋人ダ」と判断する場合など、慥かに、主語で呼ばれる“個体的”対象群について判断がおこなわれる場合もある。しかし、例えば「若干ノ動物ハ肺デ呼吸スル」と判断する場合など、一匹一匹の動物を主題化するのではなく、鳥類、爬虫類、両棲類、魚類……といった幾つかの“もの”があってそのうちの若干肺呼吸することを認定するというのが実情であろう。では「金」「銀」「銅」とか、「哺乳類」「鳥類」「魚類」……とかいう“個体的対象”が存在するとでもいうのか。或る概念で呼ばれる対象とはその概念の「下位概念を“もの”化したもの」であるとでもいうのか。これはいかにも技巧的な強弁にすぎよう。人がもし、単称・特称・全称の区別性ということをあくまで判断的主語の指し示す“個体的”対象の次元だけで考えようとするとすれば、現実におこなわれている全称判断や特称判断の実態をカヴァーしきれないことは明らかである。このさい、敢て、或る概念の下位概念を“もの”化して、それが当該概念の“外延”であると強弁し、甚だしきに至っては、それが“個別的対象”の相で実在すると妄言したとしても、それはアド・ホックな弥縫(「びほう」のルビ)策でしかありえない。単称的・特称的・全称的な判断が、知覚現場的に、具体的な“個体的”対象(群)に即して遂行される場合が慥かにあるとはいえ、そして、“個体的”対象(群)に即した単称・特称・全称の区別が発生論的にみて基底的であることは慥かであるにせよ、われわれは現実に遂行されている単称判断・特称判断・全称判断のすべてが主語の指示する具体的。個別的な対象に即して岐れているものとは看じない。」308-9P
(対話B)「単称判断・特称判断・全称判断の区別は、建前上、窮局的には、主語で指称される“個体的”対象(群)に即しての区別、つまり、主語の被示的意味に即した次元での区別に帰趨する旨が主張されうるにしても、概念思考的判断の実際にあっては、被示的意味に定位したそれとは別途の構制で単称・特称・全称が区別されている。それは、主概念Sの被指的意味と賓概念Pの被表的意味との意味関係に定位した区別である。」309-10P
(対話C)「そこで、主概念の被指的意味と賓述概念の被表的意味との意味関係に定位した単称判断・特称判断・全称判断の区別に議論を進めよう。――概念の「被指的意味」は、嚮に誌した通り、当該概念の「被表的意味」が“もの”化されたものである。しかるに、被表的意味は一つの“函数態”という単一態であるから、これの“もの”化された当該の被指的意味も単一である。」310P
(小さなポイントの但し書き)「(或る概念の外延は、被示的意味たる“個体的”対象に即すれば複数個存在しうるが、そして、或る種の脈絡ではわれわれ自身、或る概念で指し示される被示的意味を当該概念の外延と呼ぶのではあるが、勝義における「外延」とはその概念の被指的意味の謂いであり、従って、勝義の「外延」は概念ごとに各一つだけである。尚、或る種の論脈では、概念はそれの同位的下位概念つまりそれに下属する同位的諸概念の被指的意味を“外延群”として有つかのように扱う場合もある。が、それは、被指的意味に即した判断・命題の量規定を被示的意味に即した量規定の構制になぞらえた特別の脈絡でのことであり、物象化的錯視に妥協した立論方式であって、われわれ自身の本意ではない。)」310P
(対話D)「概念は、こうして、いわゆる普遍詞であれ固有名であれ単一の被指的意味、単一の「外延」とかもたないのであるから、判断の量的規定を主語概念の外延的量的規定に即して云々することは不可能である。また、被指的意味に定位するとき、単称判断・単称命題と全称判断・全称命題とは実際上重なってしまう。これを「汎称」と呼ぶことにすれば、被指的意味に即した判断・命題の「量」区別は、「凡ソSハPナリ(ナラズ)」という汎称と「或ルSハPナリ(ナラズ)」という特称との二つに岐れる。――われわれは前々節において概念の分類的階統体系を論考した折りに、類的上位概念の内包を“擬似的な”函数態ƒ (k,a)……で標記したのであったが、ここでもこの標記法を踏襲することにしよう。主概念Sの内包的・被表的意味は嚮に誌したごとき経緯で“もの”化されて被指的意味になっているとはいえ、主概念Sの被指的意味と賓概念Pとの関係は帰するところ両概念の内包的・被表的意味どうしの関係である。そこで、主概念Sの被表的意味と賓概念Pの被表的意味との形式的な意味関係に即して(ここではまだ判断・命題の真偽とは無関係であって、あくまで形式的な“正当的”意味関係に即してのことであるが)、(一)の(イ) ƒ (k,a)とƒ (k,x) というように、Sの被表的意味がPの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(一)の(ロ) ƒ (k,a)とƒ (k,a)というように、SとPの被表的意味が完く同一である場合(これをトートロジーと謂う)、「凡ソSハPナリ」という「汎称肯定判断」が論理構制上「正当(「リヒティッヒ」のルビ)」におこなわれる。 (二)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (k,a)というようにPの被表的意味がSの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(二)の(ロ)「汎称肯定」が可能であるにもかかわらず敢て主概念を限定する場合「或ルSハPナリ」という「特称肯定判断」がおこなわれる。 (三)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (l,x)というように、Sの被表的意味とPの被表的意味函数とが別々の“定項”を含む場合(これを別類と謂う)、および、(三)の(ロ) ƒ (k,a)とƒ (k,b)というように、Sの被表的意味とPの被表的意味函数とが“同一函数”の“変項”が別々の“値”をとったかたちになっている場合(これを別種・別個と謂う)、「凡ソSハPナラズ」という「汎称否定判断」がおこなわれる。(四)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (k,a)というように、Pの被表的意味が函数がSの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(四)の(ロ)「汎称否定」が可能であるにもかかわらず敢て主概念を限定する場合、「或ルSハPナラズ」という「特称否定判断」がおこなわれる。――われわれは、これら汎称判断および特称判断を、主概念の“外延”ということを一種独特の仕方で規定することによって(つまり、主概念に下属する同位的諸概念の被指的意味を以って主概念の“外延”なりとみなすことによって)、主概念の被示的意味に即した単称・特称・全称の区別的構制になぞらえることも可能であるが、そして、現に、そのような構制で単称・特称・全称の判断が遂行される場合もあるのであるが、ここではその構制に立入るには及ぶまい。(念のために書き添えれば、われわれの謂う「汎称」と「特称」との区別は、実質的には、「SハPナリ(ナラズ)」は必然ナリ・可能ナリという様相的区別に還元さるべきものとも言える。敢て「量」的区別規定とするのは、伝統的な構制と日常的配備への妥協に基づくものである)。」310-2P
第三段落――知覚現場的指称と被指的意味を指称している場合との区別の必要 312-7P
(この項の問題設定)「われわれは、同じく「SハPナリ(ナラズ)」と標記される成態であっても、Sが知覚現場的に、具体的な“個体的”対象たる被示的意味を指称している場合と、Sが概念思考的に「Sというもの」という被指的意味を指称しているにすぎない場合とを明確に区別する必要がある。前者の場合、Sと呼ばれる具体的な“個体的”対象が、単一であれ若干であれ全てであれ、(1)何々デアル(デナイ)、(2)然々スル(シナイ)、(3)斯々シイ(シクナイ)という具象的な(1)事実、(2)事件、(3)事況を表わすのに対して、後者の場合、「或ル」と限定されるにせよ「凡ソ」であるにせよ、ともかく「SというものはPである(でない)」という事態を表わす。――事実・事件・事況は、Sと呼ばれるレアールな現相的所与にPで表わされるイデアールな意味的所識を向妥当せしめた、レアール・イデアールな成態である。それにひきかえ、命題的事態は、Sの指すイデアールな被指的意味に(Sの表わす被表的意味契機に即して) Pで表されるイデアールな意味的所識を向妥当せしめた、イルレアール・イデアールな成態である。勿論、イデアールな命題的事態が、命題成態から離れて、独立自存するわけではない。命題成態(判断成態)は、副表象を“肉化”の“場”とすることもあるし、そうでない場合にも、必ず「S−P」能記成態というレアールな与件を“肉化”の“場”とする。命題的事態というのは、命題成態の意味、つまり、「S−P」能記成態の表わす所記的意味成態なのであって、それ自身としてはあくまでイテアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)なのである。平俗に言えば、命題的事態とは(「SハPナリ(ナラズ)」というコト)である。――翻って、事実・事件・事況(われわれはこれを総称して「事象」と呼ぶ)であっても、命題式に標記すればやはり「SハPナリ(ナラズ)」というかたちになり、ここでも<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>が表わされていると言える。知覚現場的な「SハPナリ(ナラズ)」という事象、つまり(1)「Sタルコレハ何々(だ)」、(2)「Sタルコレハ然々する」、(3)「Sタルコレハ斯々しい」(および、何々でない、然々しない、斯々しくないという消極形)は、あくまでレアール・イデアールな成態たる事象であるが、しかし、<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>、この「事象的成態」はイデアールである。われわれは事象と命題とを区別し、事象的事態と狭義の命題的事態とを区別する者ではあるが、<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>という事態に定位するかぎりで、事象的事態をも広義の「命題的事態」のうちに算入する。」312-3P
(小さなポイントの但し書き)「(ここで敢て註記しておけば、われわれの謂う「事(「こと」のルビ)」と「事態」とは区別されねばならない。次篇で論考する通り、「事」は原基的な構造であり、「事象」よりも基礎的である。それに対して、「事態」すなわち<……というコト>は、事象に定位してはじめて存立しうる第三次的・第四次的な形象たるにすぎない。このさい、「事象」すなわち事実・事件・事況が「コレハ何時何処で現に何々・然々・斯々」という在り方で時間・空間的であるのに対して、「事態」はイルレアールな意味形象としての事象の時・空的規定性を免れているという相違性をも銘記しておきたい。詳しくは、次篇第二章第一節で論考する。尚、本書の行文中、これまでは「事実」および「事態」という詞を常識的に用いてきたが、以下ではこれら両語を術語的に用いる。)」313P
(対話@)「ところで、日常的な判断意識、わけても概念思考的判断の覚識においては、直截的な対境的与件の相で「事態」が覚識される。雪ハ白イということ、地球ハ丸イこと、三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアルこと、酒ハウマイこと、このような事態が客観的な対境をなすように思念される。――「事態」は、とかく、対象的な相で現識され、認識としての「判断」とは区別して覚識される。尤も、“客観的”な命題的事態と“主観的”な判断的成態とは必ずしも別々に“離在的相で”泛かぶわけではない。あまつさえ、“客観的事態”も、言語的に表現しようとすれば、同じく「SハPナリ(ナラズ)」「何々ハ云々デアル(デナイ)」という命題の形でしか言い表わしようがない。それにもかかわらず、「何々ハ云々」という命題的成態は、一方では“主観的判断”の相で覚識され、他方では“客観的事態”の相で覚識される。客観的な事態と主観的な判断とは区別して意識されるだけでなく、まさに両者の関係に即して判断的次元での「認識」ということが省察的に主題化されもする。――そして、命題的事態は客観的に存立する事態として固有の階統的秩序を形成しているように思念される。判断成態「SハPナリ」は「Sハ××への反照関係においてPナリ」という構制を即自的に含意し、Pの上位概念との反照的同類性、Pの同位概念との反照的別種性即自的に含意するが、この含意を対自化しつつ、命題的事態の両立性・非両立性が位階的に階統づけられる。また「凡ソSハPナリ」であれば「或ルSハPナリ」であること、等々、命題的事態の量的規定関係が整序される。さらには、命題的事態が「概念」の秩序体系と反照されて、「S1ハP1ナリ」と、S1の下位概念S0を主辞とする命題的事態やP1の上位概念P2を賓辞とする命題的事態との関係、等々が階統的に秩序づけられる。」313-4P
(対話A)「自体的・対境的に存立するものと思念され、階統的に秩序づけられるのは、積極的な(肯定形の)事態だけとは限られない。雪ハ白イこと、地球ハ自公転スルこと、三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアルこと、……これら積極型・肯定形の事態と並んで、雪ハ黒クナイこと、地球ハ静止シテイナイこと、三角形ノ内角ノ和ハ四直角デハナイこと、……このような消極型・否定形の事態も同様に存立するのではないか。積極的な事態にしか客観的な存立性を認めない立場もありうるにせよ、正・負の事態を同格的に認めるほうがナチュナルというものであろう。そこで、命題的事態の自体的存立性を思念する論者たちは、積極的・肯定的な正事態と消極的・否定的な負事態との同位・同格的な存立性を認めようとする。(われわれの見地から言えば、命題的事態なるものはそもそも判断成態の意味が自存視されたものであり、命題的事態の積極性・消極性は判断的措定における肯定・否定が事態に“内自化”されたものであり、命題的事態の自体的存立性ということは“物象化”的錯認である。この間の事情については次章において立帰って論及することにして、ここでは暫く、事態を自存視する論者たちの思念に沿って追跡しておこう。)」314-5P
(小さなポイントの但し書き)「論者たちにあっては、肯定性および否定性は、判断的措定に先立って、自体的に既存する客観的事態の構造であると見做される。すなわち、肯定・否定の判断的能作に先立って、客観的事態そのものの内的契機として、肯定性・否定性の構造が存立するものとされる。この見地においては、判断の真・偽という問題は次のように処理される。(因みに、正・負の事態の同位的な存立性を認めるこの見地は、日本人の日常的意識には適っていても、ヨーロッパ人のそれには適っていない。ヨーロッパ人の日常的においては、正が主位、負は従位というよりも、負の事態は正の事態に否定が累加されたと思念されている。この点で相違があるため、「イエス」「ノー」の使い方に彼我の差異を生ずる。が、ここでは幸い、日本語式になる。)肯定的事態(例えば雪ハ白イ)であれ、否定的事態(雪ハ黒クナイ)であれ、ともかく客観的に存立する事態を追認的に肯定・承認する判断は真であり、逆に、肯定的事態であれ否定的事態であれ、客観的に存立する事態を否定・ 拒斥する判断する偽である。このさい、例えば雪ハ白イということ、この一つの肯定的事態に対して、雪ハ黒クナイこと、赤クナイこと、青クナイこと、……という無数の否定的事態が客観的に存立し、非対称性と無限性を生ずるが、このこと自身は決して致命的な難点とは言えない。此説の場合、肯定・否定と真理・虚偽とがそのまま対応し、この点でエレガントな理説である。しかしながら、それは論者たちが「客観的」事態というとき、雪ハ黒イとか、三角形ハ円イとか、この種の“事態”をはじめから排却し、判断的措定における肯定・承認と否定・ 拒斥 が、それぞれ真理と虚偽とに対応するように論件先取を犯しているかぎりでのことにすぎない。事態が判断主観の認識行為から独立にそれ自身で対象的に(この意味で“客観的”に)存立するという思念においては、雪ハ黒イということ、三角形は丸イということ、このたぐいの“命題的事態”を顚から斥けてしまう謂われはない。」315-6P
(対話B)「命題的事態が自体的に(つまり、判断的能作から独立に)存立すると思念する論者たちは、論件先取に通ずる不当な制限を撤廃して、ここで、命題的事態としての形式的要件を充たしているかぎり、「SハPナリ」「SハPナラズ」という形の(コト)をすべて自体的に存立するものと認める仕儀になる。事態が判断の対境的与件として“判断行為に先立って”存立するということと、それが真なる事態であるか偽なる事態であるか、それが真実であるか虚偽であるか、この真偽価値性とは別である。事態の対境的存立性は、自体的存立説の立場からすれば、真偽の判定とは別途に、真偽の判定に先立って、認められてしかるべきである。」315-6P
(小さなポイントの但し書き)「――こうして、「何々ハ云々デアルというコト」「何々ハ云々デナイというコト」の一切を以って自存的に存立する「事態」として認めるに至った場合、もはや、肯定・否定と真理・虚偽との直接的な対応というエレガンスは維持できず、判断の真・偽は別様に処理する必要が生ずる。今や、雪ハ黒イということ、三角形ハ円デアルということ、太陽ガ地球ノ周リヲ廻ルこと、このたぐいをも含めて一切の命題的事態が判断的措定に先立って自存的に存立すると見做されるに至っている次第であるが、茲に、事態の正・負だけでなく、真・偽をも第一次的には対象的事態そのものに帰属しているものとし、それが第二次的に判断の真偽性をも決定する、と考えることができる。ここでは、「事態」は、真理的事態(Wahrheit an sich真理自体)と虚偽事態(Falschheit an sich 虚偽自体)との二種に分類され、判断の真偽性は次のように処理される。すなわち、「命題自体」(Satz an sich)が正・負いずれの形であるにせよ、真理的自体(例えば、雪ハ白イこと、雪ハ黒クナイこと)を日本語式に言って、肯定的に承認する判断、および、虚偽的事態(雪ハ黒イこと、雪ハ白クナイこと)を日本語式に言って、否定的に 拒斥する判断が 真であり、逆に、真理的事態を否定的に 拒斥 する判断、および、虚偽的事態を肯定的に承認する判断が偽である、云々。(このさい、肯定的承認・否定的 拒斥 といっても、判断的作用としてはさして強くない。それらは、謂うなれば“アンダーラインを引くこと”“抹消棒線を引くこと”になぞらえることもできよう)。此説は、こうして、それなりの仕方で判断的認識の真偽性を判別的に説きうるが、しかし、ここには重大な先決問題がある。それは、真理的事態および虚偽的事態の種別を伴う原措定、そこにおける対象的真偽性の基準である。この基準を明示して、一体なぜ雪ハ白イことは真理的事態であり、一体なぜ雪ハ黒イことは虚偽的事態であるのか、これを説明できなければ自体的説は認識論的に無効である。このさい、真理的事態と虚偽的事態とが分立する地平の奥に、根源的な“真理的存在”とやらを想定し、模写説流の方式でそれを“原像”と称しようと、また、構成説流の方式でそれを先験的構成の所産と称しようと、議論は循環に陥るばかりである。」316P
(対話C)「命名的事態を以って自体的に存立するものと思念するとき、こうして困難に陥る。そこで、省みて、虚偽的事態の存立を認めたのが失当の因と悔いて、真理的事態だけを認めようと試みても、遡っては、負の事態の存立を認めたのが失当の因と悔いて、正の事態だけを認めようと試みても、“正と負”“真と偽”はそれぞれ相補的であるし、虚偽的事態を排除して(虚偽的“事態”は単なる主観的成態にすぎないと貶しつつ)真理的事態だけを残そうと企てても、真・偽の撰別基準こそがまさに問題なのであるから、所詮は徒為に終る。事態の存立性を主張する以上は、正負・真偽を問わず、一切の事態の存立性を一たんは容認するのが整合的というものであろう。命題的事態が個々の判断的能作に先立って、判断的な肯・否の態度決定の対境的与件として存立するという思念は、慥かに、日常的覚識を追認したものであり、決して謂われなしとしないのであるが、この自体的存立観は、事態の積極性・消極性の分立する機制、および、事態の真理性・虚偽性の分立する機制、これを究明しえないかぎり、臆見たるにすぎない。――われわれは、今や、命題的事態の自体的存立という臆見・錯認が如何にして成立するのか、この“物象化”的錯視の秘密をも解明しつつ、命題的事態の積極性・消極性ならびに真理性・虚偽性が分立する機制を究明し、自体的に存立すると思念される命題的事態の階統的秩序体系にわれわれの立場から所を得せしめなければならない。」317P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(6)
第二篇 省察的世界の問題構制
第二章 判断的形象の意味構造と命題的事態
第一節 概念形成の論理構制
(この節の問題設定−長い標題) 「「概念」は古典的な認識理論においては「認識」の基本的・基礎的な単位として認証されてきたものである。しかしながら、認識の分子的基本単位はむしろ「判断」であって、概念は判断の構造的一契機が自存的な形象とみなされたものにすぎない。――われわれ自身の見地にとっては資料的与件と形相的所識との等値化的統一態である「判断」成態こそが基礎単位であるとはいえ、伝統的な思念を内在的に止揚するためにも、爰では「概念」の次元に留目するところから始め、いわゆる概念形成理論(帰納的抽象の理論)のアポリアを追認しつつ、イデアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)たる「概念」的内包の「函数的性格」を追認し、「概念」が既にして判断的構造成態であることを確説しておこう。」203P
第一段落――概念−判断成態の伝統的思念に溯って既成の理説をも配視する 263-7P
(この項の問題設定)「「概念」は伝統的想念においては、既成的に分節化している諸個体(“個体化”された“性質”をも含めて)から「帰納的抽象」(inductive abstraction)の手続によって抽出的に措定された普遍者(universal)であるものとみなされてきた。そして、そのような“概念”の結合(分離)によって判断としての判断が成立するものと思念それ、その意味において、概念こそが判断的認識の基礎単位であるものと了解されるのが常套であった。昨今では、しかし、「概念」は却って判断的措定の一結節ともいうべき第二次的成態とみなすのが学理的省察における“常識”であろうかと想われる。但し、概念の何たるかを積極的に規定する段になると論者ごとに岐れる部面が多く、定説を追認するという流儀で議論を運びうる情況にはない。茲では、それゆえ、既成理論を相対化しつつわれわれ自身の地歩表明するためにも、一旦は伝統的な思念にまで遡って既成の理説をも配視するという迂路を介したいと念う。」263-4P
(対話@)「偖、学理的省察の伝統を顧みるとき、類・種的な普遍者としての概念は、諸個体の分類的整序と相即的に、「帰納」的抽象によって抽出的に劃定されるものと思念されているが、果たして概念は「帰納」によって成立するものであろうか? そもそも、いわゆる「帰納」とは、果たして、個別的諸定在ないし個別的諸表象から普遍的概念を導出・形成する手続になっているであろうか? 結論から先に誌せば、いわゆる帰納は却って“抽出”さるべき当の概念的普遍態の既知性を論理的に前提するという循環的先取(註)を犯すものであり、概念は帰納的手続を通じて形成されるわけではない。――まず、いわゆる帰納的抽象の手続が、今から抽出すると称する概念内容(Inhalt=論理学に謂う概念の「内包」)を既に知ってしまっているという循環的先取を犯す所以となっていることを簡略に指摘しておこう。或る概念、例えば「果物」という概念を“帰納的に抽出”するためには、一群の個別的な対象的与件を比較校合して「共通にして且つ本質的な規定性」を抽出する作業、裏返して言えば、「特個にして偶有的・非本質的な規定性」を捨棄する作業が要件をなす。けだし、この抽象・捨象の作業を通じて概念内容をなす本質的規定性が確定・抽離される次第だからである。ところで、しかし、この比較校合の作業にとって与件たるべき一群の対象はどのようにして選定されたのであるか。任意の対象をアト・ランダムに寄せ集めて比較校合したのでは、果物なら果物という所求の概念的内容を確定しうる運びにはならない。果物という概念を“抽象”するためには、リンゴ、ナシ、イチゴ……という一定の対象群をあらかじめ選んでおいて、その選定された一定の対象群を比較校合するのでなければならない。では、当の選定的蒐集は何を規準にしておこなわれるのか。リンゴ、ナシ、イチゴ、パイナップル……を選取し、ダイコン、イシコロ、ネコ、テレビ……を排除して、比較校合、帰納的抽象のための与件群の一範囲を決定するという前段的作業において、既に果物であるものと果物でないものとの判別がおこなわれているのが実情であり、そのさいの選別基準はまさしく「果物」という唯今から帰納的に抽出・確定されるという触れ込みの「当の概念」なのである!」264-5P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。以下「取」は同じ。
(小さなポイントの但し書き)「ここにおいて論者たちは、比較的校合の対象を選定するに際して、暗黙の基準として既知なのは“果物”というものに関する漠然たる表象であって、それまだ明確な概念ではない、と言って弁解することであろう。成程、実情はそうかもしれない。だが、そうだとすると、概念形成の本趣は、比較校合による帰納的抽出というところにあるのではなく、既に持合わせている「漠然たる表象」(今の例でいえば“果物”という表象)を概念的に明確化・確定化することにある、という仕儀になろう。そこでは、比較校合は「漠然たる表象」というかたちで既に持合わせている“概念”を明確化・確定化するための副次的手段であって、“概念”そのものを形成するための基本的・本質的な手続ではないことになってしまう。溯って、そもそも、漠然たるかたちにおいてであれ、当の“概念”をいかにして形成したのであるか。論件はここに移行する。ここで、帰納的抽象による旨を云々しようとすれば、無限溯行に陥る。“漠然たるかたちで既知”と認めてしまったのでは、帰納的抽象によって概念が形成されるという論者たちの“概念形成論”が崩れてしまうのである。」265P・・・共同主観性論へ
(対話A)「帰納的抽象理論の論理構制では、こうして、帰納的に比較校合する与件群の選定という前段的作業場面において既に今から“抽出”さるべき“概念”の内容を“選別基準”としてあらかじめ持合わせていなければならないという先取的循環論法に陥る。このさい、論者たちは、果物なら果物と呼ばれる対象群(論理学に謂う「外延」Umfang)に「共通で本質的な規定性」を抽出しようというのであるから、共通性を確認・保証するために当該概念の全外延(今の例で言えば「果物」と呼ばれうるものの全範囲)を比較校合・抽象・帰納に先立ってあらかじめ知っているのでなければならないのであるが、帰納的作業に先立っての全外延の既知というこの要求については、ここでは深追いしないことにしよう。論者たちの先取的循環は、比較校合すべき外延的対象群の事前的選別という場面だけでなく、論者たちの謂う帰納的な抽象・捨象の手続そのものの場面においても存立する。今、或る概念、例えば「果物」の全外延が選定済みで、これから帰納的な抽出・捨棄の作業が遂行されるものとする。抽出されるのは、単なる共通規定ではなく、本質的な規定性でなければならない。ところで、対象において見出される或る規定性が、本質的なものであるかそれとも偶有的なものにすぎないか、つまり、抽出的に残留せしめらるべきものであるかそれとも捨棄的に排除さるべきものであるか、これの認定は何を基準にしておこなわれるのか。要言すれば、帰納的抽象は何を判断基準にして遂行されるのか。対象に見出されるあれこれの規定性は、それ自身をいかに精査しても、それ単独では、当面の脈絡において本質的であるか非本質的であるか、いずれとも判定しようがない。例えば、眼前に見出される同じ「赤い」という規定性であっても、「赤いリンゴ」という概念規定を抽出するさいには残留せしめらるべき本質的一規定性であるが、「リンゴ」とか「果物」とかいう概念を“帰納的に確定”するさいには排却して差支えない偶有的一規定である。本質的であるか偶有的であるか、抽出すべきか捨棄すべきか、これの判定は今どの概念を帰納・抽象しようとしているかに応じて変わるのであり、その判定基準なるものは結局のところ当該概念の内容(論理学に謂う「内包」Inhalt)そのものを措いては他にない。畢竟するに、概念の内包帰納的に抽出・確定しようとしているにもかかわらず、抽出・確定さるべき内包的規定性が帰納的選別の基準として先行的に既知でなければならないという先取的循環に陥ってしまうのである。こうして、概念の形成を「帰納的抽象」によって説こうとする伝統的な概念理論は、謂うところの“帰納的抽象”の外延の選定基準ならびに内包の選別基準として、抽出・確定さるべき当の概念を先行的に知っていなければならないという先取・循環を犯すものであり、論理構制上、概念形成理論としては妥当しえない。」265-6P
(対話B)「「概念」は、右にみた論理構制からして、いわゆる「機能的手続」によって形成されるものではない。概念はいわゆる機能的手続に先立って既に“形成”されている或るものなのである。概念的普遍態は、そもそも、機能的抽象によって、導出・形成されうるものではない。それでは、概念的普遍態の実態はいかなるものであるか? 帰納的抽象論者たちが“漠然たる表象”のかたちで既知とする“概念”の実態は何か――われわれは前篇での行論中、詞の「被表的意味」および「被示的意味」なるものについて論定しておいたが、基本的な大枠として言えば、「概念的内包」とは詞の「被表的意味」にほかならず、「概念的外延」とは詞の「被指的意味」にほかならない。帰納的抽象論者たちが“漠然たる一般表象”というかたちで思念するところのものは、単なる「表象」ではなくして、後述のゲシュタルト的意味形象ないしは日常的な詞の被表的意味というイデアールな「意味的所識」なのである。――なるほど、学理的概念と呼ばれるものは、日常的な詞の「被表的意味」とは概念内容を異にし、また、日常的詞の「被示的意味」とは外延を同じくしないのが通例である。しかしながら、学理的概念なるものは、日常的概念における内包的規定性中の特定諸契機を洞観的(einsichtlich)に顕揚しつつ、日常的概念を改鋳し、それを準縄として外延を規定し直すという仕方で形成されたものであり、日常的概念として上架されたものにすぎない。――われわれは勝義の「概念」は「言語的能記−言語的所記」成態の次元に属するものとして扱う。がしかし、概念の形成機序に留目するとき、ゲシュタルト次元で「較認」的同定される意味的所識態(前篇第一章第三節参照)をも一種の概念態として容認するに吝かでない。概念的意味形象はゲシュタルト的意味形象の一斑なのである。概念内包が「函数態的普遍」としての存在性格を呈するのも、それがゲシュタルト的な意味的所識態であることと相即する。」266-7P
第二段落――帰納的抽象理論の批判的“克服”の上に立つ理説を把え返し論判する 267-76P
(前項の復習)「概念(内包)は、対象群において見出される具象的な規定性のうちの或るものを抽出的に残留させ或るものを捨棄的に排却するという仕方で形成されたものではなく、対象的規定態をゲシュタルト的に較認・同定しつつ函数態的にイデアリジーレンする過程(この過程そのものは即自的・無自覚的でありうるが、既に言語的活動によって媒介されているのが実情である)を通じて形成されたもの(そして、それが言語的能記に対する所記となっている)であるが故に、函数的な可能性を有ち、被示的意味として呈示されうる与件に対する向妥当性(具体的な与件的対象に対するいわゆる適用性)を保有する。」267-8P
(この項の問題設定)「われわれは茲で、われわれ自身の概念観の特質を対自化する含みにおいても、帰納的抽象理論の批判的“克服”の上に立つ若干の理説を顧慮しつつ、われわれなりの論判を挿んでおこう。」268P
(対話@−第一に・最初に)「最初にまず、いわゆる「代表説」ならびに「使用説」に一顧を払っておくのが順序かと思う。「概念」が或る「普遍者」「一般者」(etwas Allgemeines)を表現するものと考え、その「普遍者」が「一般表象」(general idea)というかたちで保有されていると考える伝統的な想念に対する批判として「代表説」ならびに「使用説」が登場する。これらの理説は、一般表象なるものの存在を否認するだけでなく、普遍者なるものが客観的に存立することをも否認することにおいて、「帰納的抽象」理論といった概念形成論の難題を免れる。概念内容がいわゆる意識内容・心像・観念としての一般表象というかたちで現存しうるべくもないということは論者たちの指摘する通りである。例えば、<三角形>という普遍者(これは鋭角三角形・直角三角形・鈍角三角形といった特殊な形の三角形ではなく、鋭角三角形でも直角三角形でも鈍角三角形でもあるがごとき普遍者・普遍的な三角形でなければならない)が表象=心像として存在しえないことは明らかであって、心像=表象のかたちで現前する三角形は特定の形での鋭角三角形か直角三角形か鈍角三角形かのいずれかである。心像的観念の三角形はその都度特殊な三角形たらざるをえず、普遍的・一般的な三角形ではない。」268P
(小さなポイントの但し書き)「(概念内容に見合う一般表象が存在しないことは三角形の例に限らず一般的事実である。例えば「人間」という概念が表わす<人間>なる一般表象は存在せず、現前する表象は、よしんば個体的特徴が曖昧化されているにせよ、必ず男性か女性か、老人か若者か、……であって、男性でもあり女性でもあり老人でもあり若者でもある白人でもあり黒人でもあり……といった普遍的<人間>なるものは心像のかたちで表象すべくもない。この間の事情はあらゆる普遍概念に妥当する。)」268-9P・・・男と女の二分法は批判されています。
(対話A)「概念が普遍的・一般性をもつとはいっても概念内容に見合う「一般観念=普遍表象」は存在しないところから、そこで「代表説」は概念的記号と直接的に結合している表象=観念は特殊なものにすぎないことを認容しつつ、但し、当の「記号−表象」結合体が一群の対象を代表する旨を主張する。此説にあっては、概念の普遍性とは一群の対象(外延群)に対する代表機能の普遍性にほかならないとされる。これはなるほど、一つの理説ではある。此説は、例えば「“三角形”という記号+或る形態での<三角形>の表象」結合体があらゆる三角形を代表するのだと説く。しかしながら、或る特定の「記号+表象」結合体は特定の対象群だけを代表するのであって、別種の対象群は代表しない。では、なぜ一定の対象群だけを選別的に代表するのであるか。それは当の対象群の同種性・同類性に拠ってであろう。ところで、同種的・同類的ということは単なる類似性ではない。単なる類似性では「虎」が猫をも代表することになってしまおう。同種性・同類性は種的同一性・類的同一性を含意する。だが、種的同一性・類的同一性とはまさに種的普遍性・類的普遍性にほかならない。それゆえ、「代表説」は、第三者的にみれば、或る「記号−表象」結合体が一定の類種的普遍性(一定の普遍本質的な規定性の一総体)を具えた対象群を代表するという理説になっているわけである。それは、一定の「記号−表象」結合体が一定の類種的普遍性を表現すると言っているに等しい。ここにおいて「代表説」といえども、概念に対応する類種的普遍性・類種的普遍者の存立を前提にしている。しかるに、類種的普遍者なるものは一般的観念(心像というかたちでの「一般表象」)という仕方では表象化されえない。では、類種的普遍性が客観的規定性として対象群に共有されているのか。そうだとしても、それは一体どのような仕方で認識にもたらされるのか。普遍者の直接的認識(=表象化)を遮断している「代表説」にあっては、この設問には原理上答えることができない。かくして「代表説」は、それが元来は客観的な普遍者の存立をも否認するものでありながら、被代表群の同種性・同類性に即して普遍者の存立を要請してしまっているという自己矛盾は措くとしても、われわれの採りうるものではない。そこで、「使用説」が問題になる。此説は、概念記号は何らかの普遍者を表現するものではなく、譬えば音符(楽譜)がそうであるように、一定パターンの行動を指令するシグナルたるにすぎない、と主張する。此説は、概念内容に照応する一般表象はおろか対象群の同種性をも論外としつつ、もっぱら記号操作のルール的一定性に止目する。これが苦心の産物であることは認めうるにしても、しかし、行動のパターン的同一性、操作のルール的一定性という場面で、客観的同種性(当該行動・操作の他種の行動・操作に対しての同型性・同種性)の存立ということ、および、その同種性の認知ということ、この問題論的構制を免れうるものではない。概念が概念として機能するかぎり、単なる類似性という域を超えた同種性(普遍的規定に即しての同一性=普遍的同一者性)の存立とそれの認知ということが要件となる。この要件を回避した心算でおりながら実際にはそれを必須の契機としている「代表説」ならびに「使用説」が採用さるべくもない所以である。」269-70P
(対話B−第二に・次ぎに)「茲で、次に、「概念本具説」および「本質直観説」を一瞥しておこう。概念に照応する普遍者が客観的に存立し且つ認知されることが要件をなすにもかかわらず、さしあたり概念的普遍者の認知・認識が帰納的抽象という媒介的手続きによっては成立すべくもなく、帰納的手続にとってすら却って概念内容の先取的既知性が“前梯”をなすところから、概念的普遍態の知識がアプリオリに心性に具っているという「概念本具説」が登場する。本具説は顚からナンセンスだときめつけるわれにはいかない。嬰児の場合を持出してみても、論者たちは「心性に既に具っているのだが明瞭なかたちでそれが意識されるまでには至っていないのだ」と主張することであろう。では、どのような相で、普遍者たる概念内容が心性に具っているのか。普遍表象=一般的観念という心像のかたちで概念的表象が現存しえないことは、嚮に「代表説」に関連して確認しておいた通りである。<三項図式>における「意識内容(=心像=観念)」という定在の仕方では普遍概念は生得的にであれ獲得的にであれ存在しうべくもない。そこで、論者たちは、概念内容が心像のかたちで生得的=本具的であるという見解は撤回して、意識作用の発現する仕方がアプリオリにパターン化されている旨を説き、意識作用の定形化された発現のパターンがいわゆる本具概念にほかならないと主張する。では、概念の数と同数の殆んど無限に近い数のパターンが生得的に具っていると言うのか。そして、意識作用の概念的発動は与件的対象とは無関係に進行すると言うのか。論者たちは、実際問題としては、アプリオリな概念は基本的概念だけに限定しようとし、また、どのパターンで意識作用が発動するかは与件的対象によって機縁づけられるものと立論する。論者たちが、本具的概念と対象的与件とは無関係とするのであれば話は別になるが、苟も与件的対象に応じて発動される概念が別になると認めるかぎり、与件的対象群が対象的に具えている同種性が選別されていることが前提となっていよう。となれば、ここでも客観的な同種性(本質的同種性)とそれの認知という問題構制が付き纏う。そこで本具説のモチーフは継承しつつも、概念の生得論は棚上げするかたちで「本質直観説」が登場する段取りとなる。概念的把握においては与件的対象群の同種性・本質的同一性が認知されているとはいえ、その本質的共通態は帰納といった比量的手続を通じて抽出されるのではなく、個々の外延的対象に即して端的に覚知されていなければならない。(意識作用のアプリオリなパターンが発現するのだとしても、どのパターンで発動するかは対象的与件の種的特質=本質的徴標の認知を機縁としてであろう)。しかも、この端的な覚知は、一般表象といったレアールな心像の形成に負うものではない。それは一種独得な仕方での「意識作用」と「意識対象」との直接的な関わりであると論者たちは思念する。それは一種の“知的直観”と呼ぶこともできよう。だが、論者たちの場合、当の直観は実在的(「レアール」のルビ)な対象物の直観ではなくして、対象の種的本質を観取する直観である。この直観は、比量的(「ディスクルシーフ」のルビ)な認識ではなくして、直覚的な認知であるという点では、つまり、直証的な覚知であるという点では、感性的・経験的な直観とも同趣であり、故にこそ「直観」と呼ばれるのであるが、その対象が「本質」という格別な存在性格のものである点で際立っている。対象(群)の種的同一性を存立せしめる「本質」は、時間的・空間的・特個的な事実的実在とは存在性格を異にし、われわれが前篇第一章第三節で「意味的所識」に関してみておいたごとき超時間的・非空間的・普遍的な或るもの、イルレアール・イデアールな存在性格を呈する。論者たちの謂う「本質直観」とは、イデアールな「本質」を対象とする独得の「直観」なのである。論者たちは即自的には「本質」の「函数的性格」をも既に把握しており、対象においてまずはその本質を観取し、同一の本質を具有する対象をその都度に一定概念の外延に算入する、という仕方で「概念」とその体系の「成立」を説くこともできる。論者たちが、概念の「被表的意味」(内包)および「被指的意味」(外延)がレアールな存在ではなくして、イデアールな存立態であることを洞見している点にも共賛することができる。だがしかし、われわれに言わせれば、「本質」の「直観」などということは真実には存在しない。「本質直観」とは一種の錯視なのであり、われわれはその真実態に即さねばならない。論者たちは「本質」なるものが対象的に既存して、それを能知的主観の側が在りのままに観取するのだと称するが(但し、論者たちといえども、本質が恒に“まる見え”だと言うわけではなく、しかるべき媒介的・機縁的な操作を介してはじめて本質の観取が成就すると説く)、しかし、われわれに言わせれば、イデアールな本質なるものが対象的に自存していてそれが観取されるわけではない。実態は、レアールな射映的現相与件がそれ以上の或るもの(etwas Mehr)単なる与件以外の或るもの(etwas Anders)として覚識されるのである。このさい、与件以上の或るもの=「意味的所識」は、それが宛かも自存するものであるかのように見做して存在性格を追尋してみると、慥かにイルレアール・イデアールな存在性格を呈するが、それは「所与的所識−所識的所与」の所識的契機を“もの”化して自存視するかぎりのことにすぎず、当の或るものは本来は「所与−所識」の二肢的統一態を離れて独立自存するものではない。「意味的所識」たる或るものは射映的与件を統一的に或る同じもの(etwas Identisches=これには、いわゆる“実体的同一者”の場合も、いわゆる“本質的同一者”の場合もある)として覚識せしめる「虚焦点」(focus imaginarius)とも謂うべきものである。このさい、われわれに言わせれば、同一性の覚識相のもとでの把捉が第一次的に存立するのであって、対象的同一者の存在とそれの覚知が同一性の覚識を生むのではない。しかるに、「本質直観」説は、われわれの謂う「意味的所識」(のうちの或る種のもの)を独立自存する対象であるかのように錯認しつつ、この対象=本質の観取とやらを立論するのである。われわれは論者たちの錯認にしかるべき事情があることを諒とするし、意味的所識が物象化された地平においては論者たちの立論が構図的には妥当することを認めるにも吝かではない。が、如何せん、「本質直観」説は、自存する対象的本質の直観という当の了解そのものにおいて倒錯なのである。われわれとしては「本質直観説」に謂う「本質」ならびに「直観」を前篇で論定した四肢的存在構造の構図で把え返しつつ、此説を卻けるのである。」270-3P
(対話C−第三に、積極的展開を含んで)「われわれは、概念が表現すると目されている“本質的同一者”なるものの実態を見極めておくためにも、「補完説」ならびに「規則説」に論及する次序である。伝統的な概念観のもとでは、概念的内包は外延的対象の具有する本質的規定性をもっぱら表現するものと思念されており、外延的対象の具えている偶有的規定性は捨象されてしまうものと単純に考えられていた。ところが、「補完説」はいみじくも次のように指摘する。「概念を形成するにさいしての思惟の実際の活動は、旧来の抽象説が説いているような途を決して辿らない。というのも、思惟の活動は、普遍概念への移行に際して個別的徴標を補完(Ersatz=代替=置換)なしに棄てるようなことでは決して満足しないからである。われわれが金・銀・銅・鉛を総括してそこから金属という概念を形成するとき、このようにして生成する抽象的対象に対して、なるほどわれわれは金に特有の色彩や銀に特有の光沢や銅の重さや鉛の密度といったものを与えることはできない。しかし、だからといって、このようなあらゆる個別的規定の全体をその対象に関してただ単に比定しようというのであれば、それはとうてい許容しがたいことであろう。金属というものの性格規定のためには、それが赤くもなければ黄色くもないとか、あれこれの特定の重さや硬度や密度を持たないというような表象では明らかに不充分であって、ともかく何らかの色彩を帯び何らかの硬度や光沢を有しているという積極的な観念(「ゲダンケ」のルビ)が付与されるのでなければならない。……という次第で、p1p2、q1q2という相異なる種では相異なる徴標を単に省略することが規則をなすのではなく、省略された特殊的諸規定のところに、それの個別的種がp1p2やq1q2であるような、普遍的徴標PやQが代置されるのである。しかるに、単なる否定の手続では、ついには一切の規定性全般の無化に到ることになり、……そのさいには、概念がそれを意味することになる論理的無から具体的な特殊的諸ケースへの還を全く見出すことが出来ない始末になろう」。(H.Lotze:Logik,2.Aufl.1880,S.40f.)ロッツェは、いわゆる抽象・捨象とは、決して単なる残留・捨棄ではないこと、捨象の実態は個別的規定性を“変項”(所与の特個的規定性を“値”として持ちうるごとき“変項”)で「補完」していくことにほかならないということ、この事実を指摘しているのである。それでは、“変項”から成る“函数”ともいうべき概念的普遍態はいかなる仕方で存立するのか。それがレアールな心像でもレアールな対象的存在でもありえないことは明らかである。概念的普遍は、ロッチェの考えでは、存在するのではなく「妥当する」(gelten)のであって、心的存在でも物的存在でもない。それは「妥当」(Geltung)という独特の存在性格を呈する。われわれの見地から言えば、彼の謂う「妥当」とは、間主観的に妥当するイデアールな形象の謂いにほかならない。われわれとしては「妥当」をこのように把え返すことによって補完説を積極的に採る。ところで「妥当」という独得の存在性格を積極的に容認することなく、ロッチェの指摘した概念の「補完」性や“函数的性格”を踏襲する一つの試みとして、われわれの謂う「規則説」が登場する。「規則説」は、概念に照応する函数的普遍態が主観的観念のかたちでも客観的対象のかたちでもそれ自身としては存在しないことに鑑み、函数化的・普遍化的に対象的規定態を統握する概念は「特殊を統合する規則」にほかならないと主張する。論者たちによれば、概念の内包を取り出して敢て定式化しようとすればƒ (x,y,z……)という函数のかたちで表現せざるをえず、外延的対象群はこの“函数”の“変項”を特定値で“代入”したƒ (x1,y1,z1……), ƒ (x2,y2,z2……)等々のかたちで現存するということになるが、“函数”たる概念は対象的規定態の諸項どうしの規則的関連性を把え、関連する諸項を“変項”化することで統一的に定式化する「規則」を表現するものなのである。論者たちは、概念にみられるこの規則的な普遍化的統合の機能を「精神の根源的機能」たる「象徴機能」に基づける。われわれは此説に幾つかの点で共賛することができる。概念的内包が函数的普遍態であることは論者たちの指摘する通りであるし、われわれは当の函数的普遍態が「妥当する」(イデアールに存立する)旨を立言するとはいえ、妥当態それ自身は謂うなれば“虚焦点”のごときものであり、統合的把握にこそアクセントのあるかぎりでは、論者たちの謂う「統合規則」を肯んずることもできる。また、論者たちの謂う「象徴機能」がわれわれの謂う「等値化的統一」の機能として改釈できるかぎり、これにも異を唱えるには及ばない。しかしながら、「規則説」の「統合規則」観や「象徴機能」論を支える認識論上の前提的・基底的な了解を強く卻けざるをえないことは姑く措くとしても、また、「規則説」にあっては個々の概念が体現する「規則」の種的単一性が根拠づけられていない点も措くにせよ、われわれは概念の「外延」の取扱いに関して読者たちに与みしえない。」273-5P
(小さなポイントの但し書き)「概念の「外延」ということは、伝統的な概念理論においては混淆されてきたが、実は、二重性・三重性を帯びている。われわれのタームでいえば、詞の「被示的意味」と「被指的意味」との二義的である。この二義は明確に区別することを要する。(われわれは狭義における「外延」を「被指的意味」とするが、これとは別義であることを対自化しつつ、「被示的意味」の或る種のものをも「外延」として扱う、尤も、本節の行文では、これまで、伝統的な観念を検討する論脈であることに鑑み、「被示的意味」の或るものを「対象群」の名のもとに断りなく「外延」として扱ってきたのであるが。)謂うところの二義性は判断論の場面においては殊に重大となる。フッサールは正当にも次のように指摘している「個体的個別者と種体的個別者の相違に、個体的普遍者と種体(「スペチェス」のルビ)的普遍者の相違が対応している。これらの相違はそのまま判断の領域へと移される。……単称判断は『ソクラテスは人間なり』のような個体的単称判断と『二は偶数なり』のような種体的単称判断に岐かれ、全称判断は『すべての人間は可死的なり』のような個体的全称判断と『すべての解析関数は微分可能なり』のような種体的全称判断に岐れる。これらの相違は抹殺さるべきではない。……これらの相違はどのように言い換えてみても抹消さるべくもない。」(E.Husserl:Logishe Untersuchuungen,2.Bd.I.Teil.2.Aufl.S.111f.)。フッサール式にいえば、概念の外延を個体的個別者の次元で考えるか種体的的個別者の次元で考えるか、これは大きな相違である。しかも、われわれはフッサールが指摘する通り、これら両つの次元的相違は抹消できないと考える。従って、両つの次元での「外延」を勘案しなければならない。ところで、「規則説」は「本質直観説」が対象的に自存するかのように錯認する「本質」「種体(「スペチェス」のルビ)的単一態」の自体的存立を認めないことに伴って、「種体的個別者」「被指的意味」の次元での外延を逸してしまう。「種体的個別者」なるものが自存するとみなすのは慥かに錯視であるのだが、われわれは物象化された相で概念(外延)のヒエラルヒー、ひいては、判断(命題)の体系を取扱う場面では(そもそも概念の「外延」なるものが措定されるのはこのような物象化された視圏での事柄なのである)、「被指的意味」次元での外延を措定せざるをえない。」275-6P
(対話D)「「規則説」では概念の「外延」が「個体的個別者」「被示的意味」の次元に限られる所以となり「種体的個別者」「被指的意味」次元での外延が閉却される。この点において、われわれは「規則説」という形での概念理論を所詮は卻けざるをえぬ次第なのである。」276P
第三段落――分類的整序の構制に目を向け、概念的“函数態”の在り方を見定める 276-81P
(この項の問題設定)「われわれは、以上の行文では、概念の形成と性格をめぐる論議をもっぱら個々の概念に即するかたちで進めてきた。がしかし、概念というものは、元来、個別的に形成されるものではなく、分類的整序体系という“縦横”の反照関係のもとで形成されるものである。それゆえ、茲では今や分類的整序の構制に目を向け、概念的“函数態”の在り方を見定めて行くことにしよう。」276-7P
(対話@)「分類的に整序された体系というとき(イ)生物の分類体系、(ロ)組織の編制体系、(ハ)系統の分化体系、などが範型として思い泛かべられる。日常的な表象では、親族の血統体系とか化学の元素体系、数学の数論体系なども思い泛かぶし、分類といえば、一群の対象物に通し番号を打って一番から十番まで、十一番から二十番まで……という具合に“分類”する場合すらあり、一口に分類的整序といっても多様である。がしかし、われわれのみるところ、分類的整序の基本的型は、結論的に言い切っておけば(イ)のタイプの「類推型分類」(これに化学元素の分類体系や数の分類体系などをも含めうる)、(ロ)のタイプの「区劃的分類」(これに生物有機体の器官腑分体系や化学的化合物の成分分析体系などをも含めうる)、(ハ)のタイプの「系統的分類」(これに進化論的系譜分類体系や親族組織の血統体系などをも含めうる)、以上の三者によって一応尽くされる。」277P
(対話A)「これら(イ)「類推型分類」、(ロ)「区劃的分類」、(ハ)「系統的分類」は、一見したところおよそ別様の分類整序であるようにみえる。現に、伝統的な実体主義的存在観に支えられた旧套的概念理論においては、これら三者は全く別々の整序体系であるものと見做されるのほかなかった。しかしながら、“函数態”的概念観のもとでは、これら三者を統一的に把え返すことができる。」277P
(対話B−(イ))「まず、(イ)「類推型分類」の構制をみてみよう。伝統的な思念においては、一群の対象的諸個体のうち、共通の徴標をそなえているものを同類者として一括し、これら同類者をそれぞれのそなえている特異性に応じて下位区分して、その下位区分に属するものをそれぞれ同種者として一括する、という仕方で類種的分類がおこなわれるものとされている。ここでは、或る類に下属する諸々の種は、それらが同類たる所以の共通の規定性(性質)と各々が独立の種たる所以の特異な固有的規定性(種差的規定性)とを併せ持っているものと了解される。謂う所の「共通の規定性」が類概念の内包をなし、謂う所の「共通の規定性プラス固有の規定性」が種概念の内包をなすと謂われる。範式化して言えば、類概念の内包は単にK、種概念の内包は、KプラスA、KプラスB、KプラスC、……と表現することができよう。これに対して、“函数態”的概念観では、類概念の内包はƒ (k,x)という形で“変項”を含むこと、各種概念内包はこの類概念の“変項”が特定値で充当されたƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……であること、しかも“変項”xはそれ自身x=ƒ (u,v,……)といった“函数”であること(実はkも“変項”いな“函数”が特定値で定在しているものであること)、類概念の内包は“函数の函数”であること、このような構制を主張する。ここにあっては、類概念と種概念と(の内包どうし)の関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になる。従って、ここでは、類−種のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」277-8P
(対話C−(ロ))「次に、(ロ)「区劃的分類」の構制をみてみよう。伝統的な思念においては、或る全一体のうちで、ブロック的に纏っている諸部分を区分し、それら諸部分の特性を規定するという仕方で区劃的分類がおこなわれるものとされる。これら伝統的な思念における(イ)の「類推型分類」はおよそ別様な手続である。区劃された諸部分相互のあいだには、種の場合とは異って、Kといった共通“成分”があるわけではない。Aという特質をそなえた部分、Bという特質をそなえた部分、Cという特質をそなえた部分……が並存し、合すれば元の全一体を構成するというだけである。しかしながら、部分A、部分B、部分C……は共通成分としてこそKなる規定性を含まないとはいえ、斉しく一箇同一の全一体の部分であるという共通規定性をそなえている。この意味での共通規定性をKで表わすことにすれば、諸部分はKプラスAという規定性をそなえた部分、KプラスBという規定性をそなえた部分、KプラスCという規定性をそなえた部分……ということになる。そこで、これら諸部分をあらためてƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……と標記し、元の全一体をƒ (k,x)と標記することができる。こうして、区劃的分類の構制は、伝統的な思念での類種的分類とは異相であるにせよ、“函数態”的に把え返された類種的分類とは同趣の構制になっている。ここにあっては、元の全一体と区劃分体との関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になり、全一体−部分体のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」278-9P
(対話D− (ハ))「茲で、(ハ)「系統的分類」の構制に目を向けてみよう。伝統的な思念においては、或る元祖からの直接的に生じた後裔は同胞というグループをなしつつ各々その特性をもつが、先祖−後裔の関係と併せて各後裔の特性を規定するという仕方で系統的分類がおこなわれるものとされる。これは、伝統的な思念における(イ)の「類推型分類」とはもとよりのこと、伝統的な思念における(ロ)の「区劃的分類」とも別様な整序である。同胞的後裔群は必ずしも共通成分を含まないし、先祖の諸部分をなすわけでもない。Aという特質をそなえた後裔、Bという特質をそなえた後裔、Cという特質をそなえた後裔……が並存し、共通の先祖と発生関係上“結ばれて”いるだけである。しかしながら、後裔群は共通成分こそ含まないとはいえ、斉しく一箇同一の先祖から生じたという共通規定性をそなえており、この共通規定性をKで表わすことにすれば、後裔群はKプラスA、KプラスB、KプラスC、……という規定性をそなえたものということになる。そこで後裔群はƒ (k,a), ƒ (k,b), ƒ (k,c)……と標記とされうる。そして“変項”xの充当に発生論的転成の意味づけを与えることにして、元祖をƒ (k,x)で標記することができる。こうして、系統的分類の構制は、“函数態”的に把え返された類種的分類ならびに区劃的分類と同一の構制になっている。そして、ここでは、元祖と後裔との関係は“或る函数”と“その函数の特定値”との関係になり、先祖−子孫のヒエラルヒーは、函数とその特定値との位階的関係として把え返される。」279P
(対話E)「以上でみたように、(イ)「類推型分類」、(ロ)「区劃的分類」、(ハ)「系統的分類」は、伝統的な実体主義的概念観のもとでは全く別々の構制であるが、“函数態”的な概念観のもとでは同趣の構制に帰趨する。このさい併せて銘記さるべきことは、函数ƒ (k,x)は、伝統的な思念における類徴標Kが自足的な規定であったのと異なり、あくまで関係的規定態であるということである。ƒ (k,x)は、g(l,y)という(イ)別の類との、(ロ)別の全一体との、(ハ)別の祖親との、反照的区別化規定であり、またƒ (k,x)はkの契機において、(イ)同類の他種との、(ロ)同一の全一体との、 (ハ)同一の先祖との、反照的同一化規定である。ƒ (k,a), ƒ (k,b),……は、これでまた、x=ƒ (u,v,), u=ƒ (w,……)であることに鑑みれば、単なる一定値ではなく、それ自身可塑性をもった“函数”である。こうして、“函数態”なる概念は“縦”“横”の反照規定関係の謂うなれば“網の目”なのであり、しかも、“函数の函数”としてヒエラルヒーを形成する。概念の形成は「汎化」と「分化」のダイナミックな即自的過程に俟つものであるとはいえ、概念は、自己完結的に自存する実体に対応するのではなく、“分類的秩序体系”のしかるべき位置を占める“網の目”として形成され存立する。(このゆえに、概念は、概念体系という“網”が変様してもはや対他的な示差的区別性をもたなくなった場合には存立性を失うし、対他的な示差的区別性が必要になればその局所で創生される)。」280P
(対話F)「われわれは、以上、本節の行論では、概念の形成と存立をめぐる論理構制を外面的に擦ったことにとどまる。この作業は、既成の概念観と内在的に対質しておくことが要件たるかぎりで不可欠であったとはいえ、われわれ自身の概念理論にとっては所詮消極的な前梯以上のものではない。――概念そのものの何たるかを積極的に規定するためには、「判断」の存立機制をみなければならないのであるが、次節におけるこの作業を俟たずしても、とりあえず本節での行文から次の点までは確認しておくことができよう。概念は“自存化”して形象化すれば「詞−被表的意味」成態であり、そこでの被表的意味=内包はそもそも“ゲシュタルト的函数態”である。ところで、概念的内包は、最高類概念たるカテゴリーを姑く措くかぎり、その都度すでに“変項値”を与えられた“函数”的成態であって(われわれは“個体的”概念をも認める)、このことは、視角をかえていえば、概念が被示的意味たる質料的与件に被表的意味たる形相的所識を向妥当せしめることにおいて存立していることを表わす。しかるに、被示的意味に被表的意味を向妥当せしめること、これが次節以下でみる通り、判断的成態の形成にほかならない。それゆえ、“充当”された“函数的成態”たる概念は既にして一種の判断的構造成態なのである。――今や、判断成態を主題化しつつ、その意味構造に即して概念の存立実態についても規定し返すことがわれわれの論件である。」280-1P
第二節 判断成態の意味構造
(この節の問題設定−長い標題) 「判断とは、最広義においては、質料的所与に形相的所識を向妥当せしめ、そこに形成される「質料的所与−形相的所識」成態を対他・対自的に対妥当せしめることである。しかし、われわれの謂う狭義の「判断」は言語介在的であって、いわゆる「主語−述語」構造を呈する。――但し、判断は主語概念と述語概念とを結合・分離することの謂いではない。――判断主語は主題的対象を提示する機能を演じ、判断述語は事故の表わす内方的・被表的意味を主語対象について賓述する機能を演ずる。判断における主語対象と述語規定とは、しかし、必ずしも直接的に「質料−形相」の関係に立つのではなく、「主語対象ハかくかくの属性的契機に即してしかじかの反照関係において述語規定態ナリ」という構制のもとに、主語的契機と述語的規定とが等値化的に統一される。」281P
第一段落――判断成態の意味構造におけるこれまでの通説 281-P
(この項の問題設定)「「判断」は、「主語−述語」構造を呈するものと一般に了解されているが、伝統的判断観においては、判断における「主語−述語」関係は対象界における(イ)「実体−実体」関係、または、(ロ)「実体−属性」関係、または、(ハ)「属性−属性」関係のいずれかに照応するものと思念されてきた。」281-2P
(対話@)「「SハPナリ」という判断(例えば「犬ハ動物ナリ」)について、(イ)では主語Sの指示する犬という実体が述語Pの指示する動物という実体の範囲(外延・集合)に所属することの表明であるとされる。(この見地では「雪ハ白イ」のごときも「雪ハ白色ノものナリ」という仕方で、述語Pはその都度実体指示詞として扱われる)。 (ロ)では主語Sの指示する実体(犬や雪)が述語Pの表現する属性(動物性や白色性)を所有することの表明とされ、(ハ)では主語Sの表現する規定性(内包・属性)が述語Pの表現する規定性を含有することの表明とされる。(古典的な論理学では(ハ)は余り立論されない。というのも、普通の文法的な次元では「或ル動物ハ犬ナリ」というような形の特殊判断の場合、「或ル動物」なるものを主語の指示する対象的実体とみなせば、(イ) (ロ)はそのまま妥当するが、「或ル動物」が属性を表現することになる (ハ)は稍々無理を伴うといった事情がある所為であろう。しかしながら、後に論ずる通り、判断の意味構造をメタ・レベルにおいて分析する超文法的な「主語−述語」論の次元では、(ハ)も特に困難は生じない。――右には、判断の「量」、すなわち、全称・特称の区別を設けずに記しているが、当座の議論にとってこれが不都合を生じないことは容易にみとめられよう)。」282P
(対話A)「尚、「SハPナラズ」という否定形の判断についても、前記の「所属」「所有」「含有」の関係が「非所属」「非所有」「非含有」の関係に変わるだけで、やはり(イ) (ロ) (ハ)が主張される。」282P
(対話B)「右の(イ) (ロ) (ハ)は伝統的な思念においても相互に還元可能だと考えられている。われわれも(イ) (ロ)を順次 (ハ)へと一度還元したうえで議論を進めることにしよう。」282P
(対話C)「まず、(イ)において「SハPナリ」とは、Sが端的にPと同一の謂いではなく、SがPに所属することの表明であるとされるさい、実体S(犬、雪)が実体P(動物、白イもの)に所属するのは、実体Sが属性P(動物性、白色性)を所有するかぎりにおいての筈である。こうして(イ)の「実体−実体」の所有関係が基底になっている。」282-3P
(対話D)「そこで、(ロ)の「実体−属性」関係であるが、このさい「実体Sは諸々の属性をそなえているがそのうちの一つとしてPという属性を所有する」という了解になっていると言えよう。とすれば、SがPを所有するという事態は、Sの所有する属性のうちにPという属性が含有されているという事態と相即する。このかぎり、(ロ)の「実体−属性」所有関係は(ハ)の「属性−属性」含有関係と相即する次第である。」283P
(対話E)「こうして、今や(イ) (ロ)を (ハ)に還元して考えることが許される次第であるが、「Sの所有する属性のうちにPという属性が含有されている」という事態、換言すれば「Sの規定性が属性Pを含有する」という事態、これがもう少し立入って検討しておく必要がある。」283P
(対話F)「主語対象Sの所有する属性と述語規定Pという属性との(ハ)に謂う「属性−属性」含有関係は、これ自身また三通りに分けて考えることができる。」283P
(対話G−第一の考え方)「第一の考え方では、Sの所有する諸々の属性の“集合”のうちにPという属性もその“元”として含まれている、という具合に処理しようとする。例えば、雪(主語S)は、「冷たい」「結晶性」「白い」……といった一群の属性をそなえており、そのうちの一つとして「白い」(述語P)が含まれている、というわけである。(これは、先に「実体−実体」の所属関係として考えた(イ)の構図を要素的性質どうしの場面に適用したかたちのものになっている)。」283P
(対話H)「この考え方では、しかし、“属性”とされるものどうしの離接が明確な場合にはまだよいとしても、例えば「犬ハ脊椎動物ナリ」「犬ハ哺乳類ナリ」「犬ハ動物ナリ」「犬ハ生物ナリ」……といった事例で考えてみると判る通り、不都合な点を生ずる。というのは、実体たる犬の所有する属性の“集合”に「脊椎動物性」「哺乳類性」「動物性」ひいては「生物性」「存在性」……といった一群の性質が謂わば同位的な“元”として属することになってしまうからである。そこで、第二の見方が登場する。」283-4P
(対話I−第二の考え方)「第二の考え方では、Sの所有する或る属性にPという属性が下位的に所属する、という具合に処理しようとする。一般論として、SがPという属性を所有するかぎり、その都度SはPの上位概念にあたる属性を所有すると強弁することができる。例えば、Sが哺乳動物性という属性を所有するかぎり、Sは当のPに対して上位概念にあたる動物性とか生物性とかいう属性をもっていると強弁できる。そこで、Sの属性とPの属性とは同位的な“集合”を形成するのではなく、Sの属性がPという属性を下属せしめるのだ、と論者たちは主張する。つまり、「雪ハ白イ」とは「雪ノ色ハ白イ」の謂いであり、一般に「SハPナリ」とは「Sノ○○性ハPナリ」という意味構造になっていると強弁するわけである。ここでは、Sのそなえている属性○○とPという属性とは「普遍−特殊」の関係になり、視角をかえて言い換えれば、PはSの○○という“変項”の特定の“値”だという了解になっている。この見解は形のうえでは一応成立しうるし、後述の“概念思考的判断”の場合には多分に妥当性をもつかに思える。がしかし、判断における如実の事態、就中“知覚現場的判断”の場面においては無理を免れない。」284P
(小さなポイントの但し書き)「――読者は、此説は立ち入った検討を加えるまでもなく明白な謬説だといって顚から卻けられるであろうか? 判断は、普通、「犬ハ動物ナリ」とか「雪ハ白イものナリ」とか、主語のほうが特殊者で述語のほうが普遍者のかたちをとる。とはいえ、これを論拠にして論者たちの主張を卻けようとしたのでは却って足許をすくわれかねない。というのは、「或ル動物ハ犬ナリ」とか「或ル白イものハ雪ナリ」とか、論者たちに幸するかにみえる事例も日常茶飯に存在するからである。」284P
(対話J)「判断の現場に即して考えてみよう。雪ハ白イと判断するさい、雪の色彩性なるものが泛かんで、その普遍者(“変項”)が白色という特殊者(“値”)で充当されるわけではない。この点は論者たちも進んで認めるはずである。論者たちは論理的関係を問題にしているのであって、別段、心理的事実を云々しているわけではないので、この事実の承認は論者たちにとって何ら自殺にはならない。問題の焦点は、さしあたり、Sの所有する属性の如実相である。雪ハ白イというようなルーティーン化した事例、ことさら判断らしい判断をくださずにすむ事例で考えると聊か紛らわしいにせよ、知覚現場的に「コノ花ハ赤イ」と判断するような場面で考えてみると事態が明瞭になる。「コノ花ハ赤イ」というのは、論者式にいえば「コノ花ノ色ハ赤イ」ということにほかならない。しかし、「コノ花ノ色」というのは一般者としての色のことではなく、現に見えている特定の色彩である。言葉で表現するかぎりでは色という普遍詞を利用して「コノ色」としか言いようがないにしても、それは非常に限定された色であり、特殊な赤色である。「コノ花ノコノ色(コノ鮮紅色)」は、述語Pの表現する「赤」よりも特殊である。Sのそなえている属性とPの表現する属性との関係は、近く現場的判断においては、論者たちの主張とは逆に、前者のほうが特殊者で後者のほうが普遍者なのである。このことに定位して、「普遍−特殊」の下属関係を論者たちと逆転するとき、第三の考え方が成立する。」284-5P
(対話K−第三の考え方)「第三の考え方では、Sの所有する規定性がPの表現する普遍的(“変項”的)規定性の特定“値”として認定されること、それがかの(ハ)に謂う「属性−属性」関係の実態であると主張する。この考え方を採るとき、SハPナリという判断的措定は――今暫く「対他的妥当性」の契機は各個に入れて、「主語対象性と述語的規定性との意味関係」に話を限って謂えば――主語Sの指示する対象において見出される規定性(例えばAa+b)を述語Pの表現する函数的成態が特定の値で充当された定在(ƒ(a)=Aa+b)として覚知することを内実とする。尤も「Aa+b」をƒ(χ)=aχ+bの変項が特定の値(a)をとっている特殊態として認知するといっても現与のƒ(a)=Aa+bと別にƒ(χ)=aχ+bという一般者が表象されるというわけではない。レアールに表象されるのは、通常Aa+bに限られるというべきであろう。このかぎりでは「普遍−特殊」なのか「特殊−普遍」なのか、つまり、上記の「第二の考え方」とこの「第三の考え方」との対立は、いずれにせよ心理的事実次元のことではない。がしかし、Sの対象的規定性(この特定の赤色)とPの表現する規定性(赤色という部類)との関係を反省的に二肢化して覚識する場面では、前者(Aa+b)より後者(Ax+b)のほうが普遍的と認められる。この間の事情は「或ル動物ハ犬ナリ」といった事例についても、それが「或ルコノ動物ハ犬ナリ」というアクチュアルな判断場面であれば容易に看取できよう。」285-6P
(対話L)「われわれとしては、右に謂う「第三の考え方」を換骨奪胎する流儀で事を処理したいと念うのであるが、しかし、以上の議論では、アクチュアルな知覚現場的判断と称したものと、概念的秩序体系が既成化している場面での概念思考的判断――これとてやはり一種のアクチュアルな判断には違いないし、学理的判断・命題の体系は概してこの領界に納まる――との次元的差異が明示的ではないこと、そのうえ、所詮はまだ「実体−属性」という構図の埓内に止まっていること、この種の問題点がまだ残されたままである。」286P
(対話M)「翻って、そもそも、われわれが判断における「主辞−賓辞」関係を先の(ハ)、つまり「属性−属性」関係に一たん還元し、これに定位して議論を進めようとしていることを見咎めて、次のように借問されるかもしれない。主語Sと述語Pとの関係について、(イ) (ロ)を採るときには問題ないが、(ハ)の「属性−属性」説を採るとき、“真の主語”は“Sのもつ諸性質のうちの或る特定の性質”になってしまい、もはや「S」を主語とすること自体が不当になりはしないか? つまり、「花ガ赤イ」といっても、真の主語は「花ノ色」の謂いになり、それゆえ「花」を主語Sとして扱うのは失当というべきではないのか? 慥かに、或る種の場面では、SハPナリという判断の実態はSノ○○性ハPナリの謂いだと認め、主語は「Sノ○○性」である旨を承認せざるをえないこともある。しかしながら、一般には、「Sノ○○性に即してPナリ」というかたちで(「Sノ○○性」)ならざる) Sを主語としつづけることが許される、というのがわれわれの見地である。この見地を権利づけるためにも、そしてまた、「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」との次元的差異を闡明にするためにも、溯っては、以上では枠組みとして仮托した「実体−属性」図式の止揚を図るためにも(尤も、「実体−属性」図式そのものの排却は次章を俟たねばならないのだが)、次には、謂うところの文法的主語Sそのものの実態を検討しておくのが順路である。」286-7P
第二段落――文法的主語Sそのものの実態の検討 287-94P
(この項の問題設定)「「判断」における「主語」は、それについて賓述される主題的対象を指示・提示する機能を担うものと一般に了解されている。このかぎり、意味構造のうえでは、判断の真の主語は、主語概念ではなく、主辞の指示・提示する主題的対象(それについて何事かが、賓述される対象的与件)であることになる。ところが、主語に概念S(例えば「犬」)を立てるとき、主語概念Sは主題的対象たる或るもの(「犬」と呼ばれる或る対象的与件)を単に提示するだけでなく、その或るものがSであること(犬であること)をも表現してしまい、「SハPナリ」という判断は「Sデアルトコロノ或るものハPナリ」という意味構造を呈示する所以となる。「Sハ……」という提示は、「コレ(或る対象)ハSナリ、Sデアルところのソノモノハ……」という構制になってしまつている。という次第で、主語概念Sの設定は既にして「コレハSナリ」という判断的措定を含意し、「SハPナリ」という述定的判断の実態は「コレハSナリ、SナルソレハPナリ」という二重判断になっているわけである。そこで、判断の基幹的構造が「指示−賓述」の構制にあるものと了解するかぎり、判断の基底的構制は「コレハSナリ」という「純然たる指示−第一次賓述」の場面に即して討究されねばならない。――純粋に指し示された与件的指向対象(右の行文では便宜上「コレ」という記号で指示されている対象的与件)をわれわれはE・ラスクに倣って、「超文法的」(meta-grammatisch)な主語と呼ぶ。(このとき、文法的な主語Sは超文法的には第一次の述語ということになる)。」287P
(対話@)「偖、超文法的主語対象与件コレは、近く現場的な判断においては、知覚的に現前する一つの分節態たる「図」(心理学において「地」との対比でいうFigur)の相で与えられる。そして、この「図」はフェノメノンたるかぎりに既にして「質料的所与−形相的所識」の二肢的成態であり、射映的与件以上の或るものとして等値化的に統一されている。そこで、いま、射映的与件に意味的所識を向妥当せしめること一般を最広義の“判断”的措定と呼ぶとすれば、超文法的主語の現前が既にして一種の判断的措定と相即することになる。しかしながら、われわれとしては余程特別な文脈でないかぎり、等値化的統一一般を判断と呼ぶことはせず、「判断」という概念を詞が介在する場面から(精確には、そのことに加えて対他者的妥当性が問題になる場面から)用いることにする。それゆえ、われわれの用語法では、超文法的主語に超文法的第一次述語Sが賓述される場面から、「判断」が起始する。――超文法的主語コレ(「図」の相で現前する与件)は「判断」以前的に既に「射映的与件−意味的所識」の二肢的成態であるが、この成態が「所与的質料」の位置に立ち、詞Sと象徴的に結合されている「被表的意味」(S)が「所識的形相」として当の「所与的質料」に向妥当せしめられ、等値化的に統一される。(質料と形相とは相関概念であり多階的でありうること、低位の「質料−形相」成態が高位の形相に対してあらためて質料の位置に立ちうることを想起されたい)。平俗に謂えば、コレ(知覚的に分節化している「図」たる所与現相)が単なるそれ以上の (S) (詞Sの「被表的意味」) として覚識される。これが判断的措定の原基である。」287-8P
(対話A)「ところで、与件的対象コレを(S)として賓述・述定するというが、原基的には単なる命名的指称にすぎないのではないかとの疑義が生じえよう。われわれはこの疑念に応える作業を好便な通路としつつ判断的述定の意味構造を闡(あき)らかにして行くことができる。――予め留意を求めておけば、単なる命名的呼称と命名判断とは区別されなければならない。新生児に命名したり、新発見の対象に命名したりする場合、それは当該与件と一定名辞との象徴的結合であっても、それ自身としては判断ではない。また、「あれがレーガンです」「これがヒヤシンスです」というように、世間で使用されている名辞がどの対象を指称するのであるかを対他者的に伝える命名的呼称がおこなわれる場合、これはそれ自身では述定ではなく(これですら既に述定を前梯とするのが実情ではあるが)、むしろ言語記号の使い方、つまり、当の名辞がいかなる対象を指称するのに使われるのか、ないしは逆に、所与の対象が当該言語記号体系においてはいかなる名辞で指称されるのか、名辞の使い方を表明するものにすぎない。このような単なる命名的呼称と命名判断(Benennungsurteil)とは別である。尚、一般には、固有名はもっぱら指示的な機能をもつだけで述定的機能・述定的意味はもたないものと思念されている。この通念に従うとき、固有名による指称は賓述的述定にはならないことになる。それでは、われわれは第一次の賓述詞たるSから固有名を排除し、Sこのことによって「コレのSとしての述定」という提題を維持しようとするのか? 否である。われわれはもとより固有名と普遍詞とを混淆する者ではないが、前篇での行文中でも述べた通り、われわれの見地では固有名も被表的意味をもち一種の述定的機能を演じうるのであって、今問題のSから固有名を排除すべき謂われはない。ここでは、固有名による指称が既に一種の述定と相即することの闡明から始めよう。――命名的指称は現瞬間に与えられている射映的現相に即しておこなわれはするが、例えば、眼前の人物を「コレハ田中一郎君ダ」と呼称する場合、指称されている田中一郎というのは単なる射映相の謂いではない。射映相は変貌しても当の対象であるかぎり同じ名称で呼びうるということが命名的指称には含意されている。同一の固有名が諸々の射映的現相に対して(それらが同一対象の諸射映であるかぎり)指称的に用いられることが即自的に了解されている。しかし、射映的現相は様々でも一箇同一の対象であるということ、これは命名的指称以前的な「図」の認知次元のことではないのか? 或る意味では慥かにその通りである。だが、固有的名辞はまさにそういう「同一の図」=一箇同一の対象と象徴的に結合されているのである。裏返して先の例でいえば、その都度の射映的現相als solches(そのもの)が「田中一郎」と命名されるわけではない。「田中一郎」という固有名辞は、射映的与件以上の或るものを指し表わすのである。眼前の与件が写真であっても、また、その写真が正面からのものであれ横顔であれ、嬰児期のものであれ最近のものであれ、斉しく「コレハ田中一郎ダ」と指称されるのであって、「田中一郎」とは諸々の射映相で現相する或る同一者を表わす。固有名辞はその都度の射映的現相を指示しつつも、射映的現相以上の或る同一者、諸射映を通じての斉同者を表意するのである。このさい、謂う所の“同一者”“斉同者”は、とかく実体なるものとして思念されがちであるが、さしあたり、諸々の射映相をそれの特定の定在形態として統轄するような函数的単一態である。(次篇で究明する通り、この“函数的単一態”が物象化されて“実体”として思念されるのである。)そして、この函数態的所識が当の固有名辞の「被表的意味」にほかならない。茲で省みれば、眼前の射映的与件を「田中一郎」として認知・命名するということは、当の与件を当該名辞の被表的意味たる函数態的同一者が特定値をとっている一事例の相で覚識していることを意味する。命名的指称は(射映的所与を単なるそれ以上の函数態的所識として等値化的に統一することにおいて、質料的所与たる前者に形相的所識たる後者を向妥当せしめるのであるが、この後者は当該名辞を能記とする所記であり、当該名辞と象徴的に結合されている被表的意味であって)、こうして、質料的所与を被表的意味たる形相的所識と等値化的に統一しつつ、そのことを言表する所以の構制になっている。この構制が、すなわち、われわれの謂う述定にほかならない。従って、命名的指称は、それにさいし、射映的与件に対して被表的意味が対自的向妥当せしめられ、当の意味成態が対他的に対妥当せしめられるかぎり、固有名による場合も含めて、すでに一種の述定・陳述なのであり、命名的判断なのである。」288-90P
(対話B)「普遍詞による命名的指称の場合についてはもはや多くを語るには及ばないであろう。普遍詞(これは文法上のいわばいわゆる名詞・名詞句だけでなく、形容詞・形容詞句や動詞・動詞句をも含む)を用いて単なる命名、単なる命名的呼称がおこなわれるケースも存在することは嚮に認めた通りである。がしかし、普遍詞が一群の対象的与件を斉しくそれとして覚識せしめる所以の函数態的な被表的意味と象徴的に結合されていること、そして、普遍詞による命名的指称は一般に所与対象を当該名辞の被表的意味と等値化的に統一しつつその等値化的統一を言表すること、しかるに、これの等値化的統一は所与的質料に被表的意味たる所識的形相を向妥当せしめる構制にほかならないこと、このことに徴すれば、普遍詞による命名的指称は即自的にわれわれの謂う述定であり、命名的判断である。この間の事情そのものに関しては固有名に即して上述した構制から絮言を要せぬところであろうかと念うが、普遍詞を用いての述定に関しては格別に銘記さるべき論点が幾つか存在する。」290-1P
(対話C)「「コレハSナリ」という第一次的賓述において、超文法的述語たるSが固有名であれ普遍詞であれ、一般論として、「Sナリ」が言語的言表であるかぎり、論理構成上、対他者的妥当性が既に含意されていること、また、超文法的主語コレの指示する与件を質料とし、超文法的述語Sの表意する被表的意味を形相としつつ、質料的所与に形相的所識を向妥当せしめられること、しかも、超文法的主語たるコレの指示する対象的現相が超文法的述語たるSの表わす函数的成態(ƒ(χ))の特定値(ƒ(a), ƒ(b), ƒ(c),etc.)として認知されるということ、以上のことを念頭においたうえで、ここでは特に普遍詞による述定に関して次の点に留意したい。――“同一の”超文法的主語に関して、(a)「コレハ犬ナリ」、(b)「コレハ脊椎動物ナリ」、(c)「コレハ哺乳動物ナリ」、(d)「コレハ動物ナリ」、(e)「コレハ飼犬ナリ」、(f)「コレハ大キイ」、(g)「コレハ黒イ」、(h)「コレハ走っている」等々、一連の賓述をおこなうことができるし、現にこのたぐいの賓述がおこなわれる。判断の遂行にさいして、常識的には主語対象のそなえている規定性が述語規定のかたちで顕揚的に定立されるものと思念されており、この“顕在化的銘記”にとって所与の主語的対象以外のものは顚から慮外におかれがちである。がしかし、判断の実態はどうであろうか。前掲の(b) や(c)や (d)、さらには「コレハ生物ナリ」「コレハ物体ナリ」、「コレハ存在ナリ」といった判断をくだす場合、現前する対象を凝視していると「脊椎動物性」「哺乳動物性」「動物性」「生物性」「物体性」「存在性」といった性質が顕在的に泛かびあがってくるというのか? もしも、当の対象だけしか意識にのぼらないとしたら、とうていそれらの性質が覚識されることはありえないであろう。「脊椎動物性」……「存在性」といった“性質”が眼前の対象の“構成分”(?)として分析的に“見出される”わけではない。なるほど、判断の当事意識がつねに分類的対比の意識を明晰にもっているとは言えない。通常は直覚的に判断をくだしてしまい、そこには比較とか対比とかはもとより、分析の意識すら見出せないと言うべきであろうし、極言すれば、対象のそなえている諸々の規定性がどこまで明識されているかさえ疑問である。しかし、脊椎動物という規定は無脊椎動物との、哺乳動物という規定は同位的な他種の動物との、動物という規定は植物との、生物という規定は無生物との……という具合に同位的他者との反照的区別性においてまずは意識化されるのではないであろうか。そこで、次に脊椎動物という規定は別種の脊椎動物との、動物という規定は別種の動物との、生物という規定は別種の生物との……という具合に同位的他者との反照的類同性において意識化されるのではないか。所与の対象が、このような即自的な対他的反照においてそれの規定性を明識化され、そのことにおいてはじめて脊椎動物……動物……生物……存在……というたぐいの述定を生ずるのではないかと思われる。前掲の (e) (f) (g)についても同趣である。その点(h)や「コレハ死ンダ」というたぐいの判断は対比的な他者をもたないかのように思われかねないが、それは“他者”なるものを“別の実体”ないし“別の実体の性質”に限定するからのことで、“実体的”には同一の対象であっても、別様の状相との対比的反照のもとに措定されている点では、やはり同趣の構制になっていると言える――ところで、(a)つまり「コレハ犬ナリ」の場合、一般には「猫」とか「狼」とか「虎」とかいう同位的な分類胞族と対比されているわけではないのではないか? 慥かに、普通の場合、それは生物学的分類上の同位的胞族と対比的に反照されてはいない。そこでは対比的反照の意識が薄く、それだけにいよいよ、ソレがまさにそれ自体で犬デアルが故に「コレハ犬ナリ」と判断されるのだと思念されがちである。しかしながら、それは人々が日常生活において「物」的に分節した世界像に当面していること(この「物」的分節の基幹的な諸単位は歴史的・社会的・文化的に相対的であるとはいえ、われわれの場合、「犬」とか「机」とか「ペン」とか「リンゴ」とか「バラ」とか「テレビ」とか指称される次元での日常的準位での諸個体が基幹的単位になっていること)、そして基幹的な「物」的分節単位の準位では諸々の「物体」的分節体が同位的な胞族をなしており、従って「犬」は動物学的分類での準位でのように「猫」「狼」「虎」……と同位的な胞族をここでは形成していないこと、このような事情に因るものと思われる。分類的対比の意識がそのために弱くなるとはいえ、「犬」とか「机」とかいう次元での措定は、日常的分節・分類界における、諸「事物」という“同位的胞族”との示差的区別という対比的反照に支えられているのであり、ここでもやはり同趣の構制が存立している次第である。――右の行文においては、“同位的他者”なるものの分節化が既成化している場面に定位するかの風情で議論を運んだが、原初的には、コレハSナリという賓述における(S)の反照的異別化・反照的類同化と相即的に同位的他者との双項的(「ダイコトミック」のルビ)な分立が成立し、胞族的分化秩序(ひいては類種的分類秩序体系)が成立するのである。このような対他的反照・分類的照映における判断的措定という機能的関係態に即して超文法的賓辞Sの内包(S)が劃定されて行くのであり、それがまさに言語的能記“S”と象徴的に結合されている所記たることにおいて間主観的同調性(「コンフォーミズム」のルビ)をもった相に調整される。こうして、超文法的賓辞Sの内包(S)は、超文法的主辞コレの指示する与件的対象群に対する函数態的在り方を同位的な他者との反照において規定されつつ、同位的他者の相在をも反照的に規定する所以となる。間主観的同調相のもとでこのような機能的関係態を形成する超文法的次元における判断の普遍詞的賓辞Sを“もの”化して自存視したもの、それが「概念」にほかならない。「概念」は、しかも、超文法的賓述の構制を劃する対他的な異別化と類同化の構図に即して、それぞれ分類的秩序態の項として定位される。けだし、概念なるものは判断という機能的関係態の一結節というわるべき所以である。超文法的賓辞は(固有名の場合は与件的対象の個体化相の間主観的安定性を担うにとどまるが)、普遍詞の場合には、こうして、第一次的・基底的な超文法的判断という機能的関係相のもとで概念化される。」291-4P
第三段落――文法的「主辞賓辞」関係の次元に目を向ける 294-303P
(この項の問題設定)「われわれは爰で今や「SハPナリ」という形の文法的「主辞賓辞」関係の次元に目を向けねばならない。成程、「述定的判断」は超文法的にみれば「コレハSナリ、SナルコレハPナリ」という二重判断であり、基底的な構制は嚮にみた超文法的賓述の構制で尽きているとも言える。がしか、「Sナル」という限定的規定態たる「主語」とPという「述語」との関係について特別な討究が必要とされる。この作業は、いずれにしも超文法的な次元に亘らざるをえず、「コレハSナリ」という第一次の賓述に即して、超文法的主語対象の諸規定性と述語規定との関係を立入って討究するという仕方で半ばは遂行することもできたであろうが、その部面をも敢て茲に持越した次第なのである。(尚、「コレガ在ル」「Sが存在スル」という形のいわゆる「存在判断」については、次篇第三章の論脈で論究することにして、姑く措くことにしたい)。」294P
(対話@)「偖、「SハPナリ」においてSの指示する対象的与件(Sナルコレ)は幾つかの“属性”をそなえている。Sナルコレは一つの“図”として統一態でありながら謂うなれば下位的に分節化しているのであり“錯図”に譬えることもできよう。“図中の図”に譬えられる“属性”は、内自化された相で現前するとはいえ、存在論的に省察してみれば“関係規定の結節”であり、対他的関係性から独立自存するものではない。(この間の事情については次篇の第一章で論及する)。が、この関係性、例えば色という属性を当の色として現存せしめる関係規定態(光線の具合、視神経との関係、等々)は「判断」という反照的規定関係とは別次元である。茲では、行文の便宜上、主語対象において見出される特個的な“内属的性質”そのものは対他的関係から独立にそれ自身として対象に附属しているかのように姑く扱うことにしたい。――われわれは嚮に「主語−述語」関係に照応する対象的関係を(イ)「実体− 実体」関係、(ロ)「実体−属性」関係、(ハ)「属性−属性」関係として了解する旧来の思念に仮託しつつ、(イ) (ロ)を (ハ)に還元してみせたうえで、(ハ)の「属性−属性」関係についても三様の考え方がありうることを追認しておいた。それから三様の考え方のうち「第一の考え方」は問題外であるとしても、主語の属性のほうが述語の属性より上位的・普遍的であるとする「第二の考え方」は一応成り立ちうることを認めたうえで、われわれとしては、主語の属性が述語の属性に対して下位的・特殊的であるとする「第三の考え方」の線を採ったのであった。われわれは、ここでは再び「第三の考え方」に即しつつ、「第二の考え方」をも顧慮すべき次序である。――例えば、コノ犬ハ黒イと判断するとき、主語対象たる眼前の犬において見出される或る属性(暗褐色)を「黒イ」として覚識する。ここでは、与件的属性たる暗褐色という特殊態を「黒イ」というより普遍的で包括的な概念に下属せしめるわけである。「黒イ」という概念がさまざまな値をとりうる“変項”“函数”であることに鑑みれば、当の判断にあっては、主語において見出される特個的な属性を述語の表わす“変項”“函数”の特定値として認定する構制になっていると言えよう。コノ犬ハ脊椎ヲモツ、コノ犬ハ哺乳スル、といった判断においても構制は同趣であって、眼前の対象において見出される特殊的な属性的与件を、脊椎とか哺乳とかいう普遍的な概念に包摂し、述語“変項”“函数”の特定値として認定していると言える。ここにおいては、眼前の与件的属性が「黒」「脊椎」「哺乳」といった既成概念(単なる内包ではなく「能記−所記」成態としての)と反照的に関係づけられているわけであるが、既成概念とのこの反照は、当該与件をヒトがどう呼称するかの追認、当該与件をヒトがどの概念に包摂するかの判定にもほかならない。」294-5P
(小さなポイントの但し書き)「(否定判断については対他・対自の間主観的な場面に定位して後に論じるが、とりあえず次のように言い切っておこう。否定形の場合には、与件的属性を当の述語“函数”の特定値としては認知しないことの表明であり、ヒトが当該述詞では呼称しないことの追認である)。」295-6P
(対話A)「このさい、例えば「黒イ」という述定は「赤イ」「白イ」「青イ」……という同位的概念との区別性を即自的に含意し、「色」という上位概念に即した分類的定位を即自的に含意する。「脊椎ヲモツ」「哺乳スル」といった述定においてもその点では同断である。判断的述定は、一般的構制として、即自的には、同位概念との別様性の認知、ならびに、上位概念に即しての分類的な定位を含意するのである。」296P
(対話B)「以上では、嚮に謂う「第三の考え方」の線で論じたが、そこでの構制を範式化していえば「Sの○○という属性ハPナリ」という形になっている。このため、主語が、もはや「S」ではなく「Sの○○という属性」になってしまっているのではないかとの嫌疑が生じる。茲では、しかし、この嫌疑に応接する前に、嚮に謂う「第二の考え方」を顧慮しておこう。この考え方でも「Sの○○という属性ハPナリ」という形の構制になるが、但し、「第二の考え方」では「○○という属性」を賓概念Pよりも上位的普遍的であるものと見做す。例えば「コノ犬(の色という属性)ハ黒イ」というさい、謂う所の「色」は、暗褐色といった特殊的な規定性ではなく、色彩性という一般者・普遍者だというわけである。この考え方はあながち謂われなしとしない。主語対象が暗褐色という特殊な色を帯びているかぎり、それは色彩性を帯びている、ということができる。一般論として、或る特殊的規定性を主語対象が帯びている場合には、主語対象は当の特殊的規定の上位概念にあたる規定性を帯びている旨を立論できる。だが、暗褐色という属性を色彩性として覚知することは現に可能だとしても、主語対象が色彩性という属性を附帯していると言えるであろうか。対象が直接的に附帯しているのは暗褐色といった特個的な規定性と言うべきではないか。コノ犬の色彩性ハ黒イと謂うのは、コノ犬が現にそなえている属性(暗褐色)ハ色彩性という観点から反照的に言えば黒イ、という謂いにほかなるまい。色彩性という上位概念の規定性は、主語対象に直接的に附帯している属性なのではなく、反照的な観点に応ずるものなのである。このようにみてくるとき、主語対象のそなえている属性自身が述語の表わす属性よりも普遍的・上位的であるという提題は維持しがたい。がしかし、上位概念に応ずる観点から反照的に言えば……という構制は妥当する。この事実が謂う所の「第二の考え方」が一見妥当するかのように思わせる舞台裏である。顧みるに、「第三の考え方」の線で押しても、判断的述定は、述詞の同位概念との別種性の認知と併せて、上位概念に即しての分類的な定位を即自的に含意する構制になっている。「第二の考え方」は、この一般的構制における「上位概念に即しての即自的な分類的定位」を顕揚したものと言うこともできよう。 (後程この件に立帰って論ずる予定であるが、いわゆる「概念思考的判断」においてはこの顕揚が著しくなる。そのため、「概念思考的判断」にあっては「第二の考え方」が妥当性をもつかのように思われる次第なのである)。」296-7P
(対話C)「われわれは、茲で、いわゆる「綜合判断」と「分析判断」との区別について、後続の議論に必要なかぎりで、若干の討究を挿んでおこう。」297P
(対話D)「判断は、主概念のうちに既に含まれていた契機を述語概念のかたちで明示的に定位する場合「分析判断」であると言われ、主語概念にうちに含まれていなかった契機を述語概念のかたちで定位する場合「綜合判断」であると言われる。だが、「主語概念のうちに含まれている」とは如何なる謂いであるか? (イ)主語表象のうちに構成契機として含まれていることの謂いであるか、 (ロ)主語対象に附属する属性のうちに含まれていることの謂いであるか、 (ハ)主語概念の表わす意味のうちに契機として含まれていることの謂いであるか、(イ)の場合、或る事柄について熟知的にイメージ・アップしていた者にとっては“分析的”で、無知だった者にとっては“綜合的”ということになってしまおう。すなわち、論理的には同一の判断であっても、人によって“分析的”になったり“綜合的”になったりしてしまう。これでは、判断の種類的区別ではなく、心理的区別にしかならない。それゆえ、この次元での区別は判断論としての判断論にとって無用であろう。 (ロ)の場合、真なる判断に関するかぎり、肯定的判断はすべて分析的で、否定的判断はすべて綜合的ということになって、殊更に「分析判断」「綜合判断」という種別を設けるべき積極的な理由が認められないことになろう。(厳密にいえば、「含まれる」という詞の曖昧性の故に、この論断には問題が残るのであるが、後論にとって本質的には響かないので、このまま押し切っておく)。」297-8P
(対話E)「(ハ)の場合、これには事実上、(イ)または (ロ)の言い換えにすぎないたぐいのものも含まれるが、そうでないはずのものだけを検討しよう。次のような判断をくだしたものとする。(a)コノ赤イ花ハ赤イ、(b)コノ赤イ花ハ白クナイ、(c)パンダハ猫科ノ動物デアル、(d)パンダハ犬科ノ動物デハナイ。まず、(a)「コノ赤イ花ハ赤イ」において主語たる「(コノ)赤イ花」は述語たる「赤イ」の意味を既に含んでおり、従って、この判断は分析的判断であることになる。しかし、「赤イ花」という文法的主語は、これが二概念を含むものとみなされるかぎり、超文法的には「コレハ赤イ、赤イコレハ花ダ」ないし「コレハ花ダ、花タルコレハ赤イ」という二重判断の成態である。それゆえ、文法的述語「赤イ」による賓述は、超文法的次元での先行判断「コレハ赤イ」をトートロジカルに反復したものにすぎない。そして、そのかぎりにおいて分析的判断と呼ばれるのである。ところが超文法的主語「赤イ花」成立せしめる超文法的賓述たる「コレハ花ダ」にせよ「コレハ赤イ」にせよ、コレという主語は花や赤を意味的に含んでいない。それゆえ、当の超文法的賓述は綜合的判断ということになる。それはこの例に限ったことではない。超文法的主語は指示機能しかもたず、述語に何がこようとも、述語の意味を含んでいない。故に、超文法的判断はすべて綜合判断であるということになる。(b)「コノ赤イ花ハ白クナイ」はどうか。白クナイということは「赤イ花」という文法的主語には直接含まれていない。しかし、この文法的主語を成立させる超文法的賓述の一契機たる「コレハ赤イ」という判断が先にみておいたように、述詞の同位概念たる「白イ」「黒イ」「青イ」……との対他的反照・対他的異別性の認知を即自的には含意している。この超文法的異立「白クナイ」は綜合的であるが、それに俟って、「コノ赤イ花ハ非白デアル」という述定は分析的であるということになろう。(c)「パンダハ猫科ノ動物デアル」という判断は、既成の概念体系(類種的分類体系)において、下位概念を主語とし上位概念を述語とした形になっている。そこで、下位概念は、概念体系の意味構制上、上位概念を意味的に含むとすれば、この判断に限らず、一般に、下位概念を主語にし上位概念を述語にする判断は分析判断だということになる。(d)「パンダハ犬科ノ動物デハナイ」について言えば、これは「犬科」「熊科」……という同位概念への反照的区別性を即自的に含意しているかぎり、パンダはハ非犬科ノ動物ナリということは分析的判断であるということになろう。しかも、犬科の下位概念たるシェパード、ブルドッグ……を述詞とする判断、「パンダはシェパードデナイ」「パンダハブルドッグデナイ」……もまた、分析判断からの分析判断的帰結とした、これまた分析的判断ということになる道理である。翻って、(e)「コノ花ハ桜ダ」というように、ないしは、(f)「コノ動物ハ犬デナイ」というように上位概念を主語として下位概念を述語とした判断は、上位概念は意味構制上下位概念を意味的に含んでいないので綜合的判断ということになる。また、(g)「犬ハ猫デナイ」というような同位概念どうしを主語・述語とする否定形の判断は、超文法的異立の次元では綜合的であるが、「非猫デアル」の述定は分析的ということになろう。――われわれ自身の見地では「分析的判断」と「綜合的判断」との区別ということは、既成の概念的体系の意味構制なるものが問題的であることもあって、本質的な区別ではない。それゆえ、ここでは周到な分類は省くことにする。がしかし、以上を纏めるかたちで次のように言っておくことができる。分析的・綜合的ということを(イ)主語表象の表象的契機、ないし、(ロ)主語対象の属性的契機に定位して区別しようとする議論は実質的にナンセンスである、しかし、(ハ)主語概念と述語概念との含意関係に即する議論は一応成立しうる、そして、この(ハ)においては、(1)超文法的賓述判断はすべて綜合的である、(2)超文法的賓述を文法的賓述においてトートロジカルに反復する判断は分析的である、(3)或る主語に関する述語判断が即自的に含意している対他的反照肢を対自的に述定する判断は分析的である、(4)下位概念を主語とし上位概念を述語とする判断は分析的である、(5)上位概念を主語とし下位概念を述語とする判断は綜合的である。」298-300P
(対話F)「われわれは、爰で、嚮に「知覚的現場判断」と「概念思考的判断」と呼び分けたものの区別を明示的に規定することができる。――知覚的現場判断というのは、知覚的に現前する(精確には表象的現前でも可)対象的“図”について、それの“錯図”的、“属性”に即して、明晰判明化的におこなわれる判断である。“図”という現相的与件は“注視”しただけでおのずと“錯図”化し、明晰判明化することもあるが、賓述に先立つこの明晰判明化は、それ自身としては知覚過程に属するものであって、知覚現場的な判断ではない。“錯図”における“図中の図”の相で現前する“属性”に即して、それをPとして覚識することにおいて知覚現場的判断が成立する。このさい“属性”といっても純粋な現相的与件ではなく既に一定の意味的所識と等値化的に統一されているのであるが、われわれとしては言語的述詞が介在し、述詞の被表的意味が向妥当せしめられる場面から判断と呼ぶ次第なのである。尚“図”の“錯図”化といっても、これは所与対象が統一態を維持しつつも、規定性を分節化的に現相化せしめることの謂いであって、文字通りの錯図的分節化の謂いではない。」300P
(対話G)「ところで、対象的与件たる“図”が“注視”しただけでおのずと“錯図”的に分節した相で現前するようになる場合があるとはいえ、純然たる知覚的観察過程だけでの分節化の進捗は限られており、判断的態勢と相即的に“錯図”的分節化、規定性の明晰判明化が大いに進展するというのが実情である。判断的態勢に応じて、純然たる知覚過程だけではとうてい現前化しえなかったであろうような相での分節化や明晰判明化が実現する。所与の現相に対する判断的態勢において、いかなる述詞が泛かぶかは洞見的(einsichtlich)であり、論理的な必然性があるわけではないが、ともかく或る述詞が“外来的”に導入され、肯定的であれ否定的であれ賓述が生ずるのと相即的に、与件的対象の“錯図化”すなわち規定性の分化的現識が進捗する。この規定態の判明化は即自的には与件の対他的反照規定関係の覚知であると言えよう。知覚現場的判断は超文法的判断の場面にだけ限られるものでなく、対象的与件が文法的主辞によって指称されたもの(Sタルコレ)であることを妨げない。但し、知覚現場的判断においては、Sという概念の「内包」的意味(被表的意味)たる意味的所識が明晰判明化されるのではなく、あくまで対象的与件の現相的所与が“錯図”化・明晰判明化されて、当の所与的現相に即してPという賓述がおこなわれるのである。――概念思考的判断というのは、主語概念の指示する対象について、主語概念の内包的規定性に即して、明晰判明化的におこなわれる判断である。主語概念の表わす内包的規定性(被表的意味)はそれ自身を省察しただけでおのずと判断明晰化することもあるが、賓述に先立つこの明晰判明化は、それ自身としては主語概念に関する省察過程に属するものであって、概念思考的な判断ではない。省察的に覚識されるSの内包的規定性たる被表的意味ないしこれの“もの”化された被指的意味については、それの規定性を省察しただけでおのずと明晰化する場合があるとはいえ、純然たる内自的省察過程だけでの分節化は限られており、判断的態勢と相即的に規定性の分節化・明晰判明化が大いに進捗する。そもそも、主語概念の内包的規定性に関する省察なるものが大抵の場合すでに事実上判断過程に入っているというのが実態であろう。が、ともあれ、単なる省察過程ではとうてい分節的に覚識されなかったであろうような主語概念の内包的規定性の明晰判明化が、判断的態勢と即応して実現する。判断的態勢において、いかなる述詞が泛かぶかは洞見的であり、論理的な必然性がそれ自身としてあるわけではないが(論理的必然性が云々されうるのは事後的に主語概念と述語概念との包摂関係を反省する場面においてのことであって、述詞が洞見的に、時としては仮設的に泛かぶ場面ではおよそ論理的必然性はなく、たかだか心理的な蓋然性が認められるにすぎない)、しかしともあれ、或る述詞が“外来的”に導入され、肯定的であれ否定的であれ賓述が生ずるのと相即的に、主語対象の規定性(という相に“物性化”されている主語概念の被表的・内包的な意味規定性)の分節化的現識が進展する。規定態のこの判明化は即自的には主語対象性の対他的反照規定関係の覚識であると言えよう。概念的思考判断は抽象的思弁の場だけに限られるものではなく、具体例に即したものでもありうるし、特定のS(例えばコノ花) に即したものであることをも妨げない。但し、概念思考的判断においては、いかに具体例に即したものであれ、対象的与件の現相的与件が“錯図”化されるのではなく(仮りにこれが生じたとしてもそれは副表象的な一事例たるにすぎず)、あくまで主語概念Sの「内包」的意味(被表的意味)たる意味的所識が明晰判明化されて、当の被指的対象Sに即してPという賓述がおこなわれるのである。――「知覚現場的判断」と「概念思考的判断」との相違は、詮ずるところ、前者が「主語の指し示す所与的現相」に対象的に関わる賓述であるのに対して、後者が「主語の言い表わす所識的意味」に対象的に関わる賓述であるという相違に存する。」300-2P
(対話H)「茲で、最後に、先刻来の懸案にも応えつつ、「判断の意味構造」を対自的に定式化しておかねばならない。懸案というのは、「判断」は、単なる命名的指称の場合とは異なり、主語対象の或る規定性に即して賓述がおこなわれる構制(謂うなれば「象ハ鼻ガ長イ」式の構制)になっている以上、真の主語は「Sノ○○性」(象ノ鼻)であって、Sそのものを主語と言うことは失当ではないか、という懸念への応答である。判断の過程においてSからSノ○○性へと主題が遷移する場合が慥かにあり、その場合にはなるほど「Sノ○○性」を以って「主語」としなければなるまい。しかしながら、判断にさいして一般には、○○性そのものが主題なのではなく、主題はあくまでSの指称する対象であり、対象Sハ○○に即して言えばPナリという賓述がおこなわれる。Sの指示する“対象”はSの表意する“函数”的統一態と等値化的に統一されている“単一態”であり、(なるほどこの単一態が錯図化している場合、実際的には)それの“項”的契機を質料的与件としつつ述詞の被表的意味が形相的契機として向妥当せしめられ(ここに成立する「質料−形相」成態が対妥当せしめられ)るとはいえ、判断的措定における志向的対象は一般にはあくまでSと指称される当の“単一態”なのである。「Sハ○○性に即してPナリ(Sノ○○性ハPナリ)」という構制態を日常的用語法では「SハPナリ」と称するのであって、Sが分節化を孕みつつも単一態の相で対象的・主題的に志向されているかぎり、われわれは単一態Sを主語と呼び続けることを許される。――翻って、Pナリという述定は、嚮にみておいた通り、概念Pの同位的諸概念との反照的別種性、概念Pの上位的概念との反照的同類性を即自的に含意する。判断成態「SハPナリ」は、かくして、「Sハ(○○に即して) (××への反照関係において)Pナリ」という意味構造を有つのである。」302-3P
第三節 命題的事態の存立性
(この節の問題設定−長い標題) 「「概念思考的判断」の意味成態は固有の存立性をもつものと思念され、階統的秩序体系を形成する命題的事態の相で自存視される。――命題的事態には、判断的肯定の内自化された「SハPナリ」という積極形と、判断的否定の「SハPナラズ」という消極形とがある。命題的事態は、判断における主語の「量」的規定に応じて、「此ノSハPナリ」(「此ノSハPナラズ」)という単称型、「或ルSハPナリ」(「或ルSハPナラズ」)という特称型、「凡ソSハPナリ」(「凡ソSハPナラズ」)という全称型に岐れる。――われわれは、命題的事態を「知覚現場的判断」の場面へと基底的に還元しつつ、命題の「量」的規定を検覈し、さらには、命題における被指態と叙示態との存立実態を把え返しておかねばならない。」303P
第一段落――命題(溯っては「判断」)の「量」的規定を討究する前梯として「Sというもの」の存立実態を把え返す 304-7P
(この項の問題設定)「判断成態は、判断のアクチュアルな場面における属性的契機への留目や対他的反照への顧慮が謂うなれば“奪胎”されて、「S(というもの)ハPナリ」「S(というもの)ハPナラズ」という命題的事態の相で自存するかのように思念される。命題的事態は、しかも、判断的措定に対して先行的な与件的対象性であるかのようにすら思念されがちである。われわれは、命題(溯っては「判断」)の「量」的規定、すなわち、単称命題・特称命題・全称命題の区別や存立構造を討究する前梯としても、爰でまずは「Sというもの」の存立実態からみておこう。」304P
(対話@)「命題の文法的主語が指称する「Sというもの」は、「コレハSナリ」「コレハSナラズ」という超文法的判断措定における賓述詞Sの意味が“もの”化されたものにほかならない。ところで、超文法的賓述詞Sはいわゆる「名詞」とは限らないのであって、超文法的賓述を類型化すれば次の三つに類別することができる。/(1)コレは何々(だ)。コレは何々でない。[基質認知]。例 コレハ犬(だ)。コレは犬でない。/ (2)コレは然々する。コレハ然々しない。[能相把握] 。例 コレは吠える。コレは吠えない。/ (3)コレは斯々しい。コレは斯々しくない。 [性質規定]。例 コレは大きい。コレは大きくない。」304P
(対話A)「右の類型において、(1)の「何々」つまり認知される基質を表現するのは文法にいわゆる「名詞」、 (2)の「然々する」つまり把握される能相を表現するのはいわゆる「動詞」、 (3)の「斯々しい」つまり規定される性状を表現するのはいわゆる「形容詞」におおむね照応する。尚、コレは<吠える>として覚知されたソレがさらに<犬>として認知されたり、ソレがさらにまた<大きい>として規定されたりする場合もありうる。そのさいには、コレハ<吠える犬(だ)>、コノ<吠える犬は大きい>という認知や規定が生じ、乃至はまた、<犬が吠える>、コノ<犬は大きい>、<大きい犬が吠える>といった多重的な把捉も生じうる。が、第一に銘記さるべきことは、いわゆる動詞や形容詞だけでなく、名詞もまた超文法的・第一次的には(1)の類型における述定詞だということである。――人々はしばしば文章の基本形式を「名詞+動詞」のかたちで考え、名詞というものは第一次的に主語に立つものであるかのように見做し、また形容詞というものは第一義的には名詞の修飾語であるかのように見做しがちであるが、いわゆる名詞も形容詞も、第一次的には、述定詞であることを念頭に収めておかねばならない。――成程、前掲の類型(1) (2) (3)における指示詞コレの位置に、基質述定詞たるいわゆる名詞「何々」はそのままのかたちで代入されうるのに対して、能相述定詞=動詞「然々する」および性質述定詞=形容詞「斯々しい」は代入にさいして一定の変形を要する。しかし、このような相違はあるにせよ、ともあれ、原基的には述定詞であるところのものが、二重的述定文たる「何々ハ云々」という形の文章において主語の位置に立ちうるということ、そして、まさしくこのことにおいていわゆる「名詞化」がおこなわれるのだということ、われわれはこのことを銘記して「SハPナリ」という命題的事態の分析的討究を進めることにしよう。」304-5P
(対話B)「嚮の三類型(1) (2) (3)において同じく「コレ」という超文法的主語で主題的与件が提示されるとはいえ、主題的与件と三類の述定詞との関係に種別的な差異がある。「犬(だ)!」「吠える!」「大きい!」という覚知が反省以前的に分節化した事態、すなわち、(1)コレは犬(だ)、(2)コレは吠える、(3)コレは大きい、という事態において、それぞれの「コレ」は当初の<犬(だ)ということ><吠えるということ><大きいということ>に対して或る別なもの(etwas Anderes)である。このetwas Anderesたる「コレ」は、(1)においては基質たる「犬」の本体であり、(2)においては能相たる「動き」の主体であり、(3)においては性質なる「大きい」の基体である、と呼ぶことができよう。このさい、(1)「本体−基質」、(2)「主体−能相」、(3)「基体−性質」、それぞれの分節化は共時的・共軛的に生じるのであって、全体としての述定態は、(1)「コレ(本体)は基質何々(犬)デアル」、(2)「コレ(主体)は能相然々(動き)ヲ為ス」、(3)「コレ(基体)は性質斯々(大きさ)ヲ有ツ」という自己分割的統一態(eine Sich-selbst-Ur-teilende-Einheit)として存立する。――「コレ」、つまり、本体・主体・基体は、それについて述定される、基質・能相・性質とはetwas Anderesとして区別性において意識されていると同時に、述定的統一性に留目していえば、(1)何々というときすでに本体の基質性に即してであり、(2) 然々というとき主体の能相性に即してであり、(3) 斯々というとき基体の性質性に即してである。視角をかえてみれば、知覚現場的には、「コレ」は、(1)基質何々デアル本体(犬デアルところのコレ)、(2)能作然々ヲ為ス主体(吠エルところのコレ)、(3)性質斯々ヲ有ツ基体(大キイところのコレ)である。」305-6P
(対話C)「知覚現場的には右の如くであるが、知覚現場を離れて、何々・然々・斯々と称するとき、つまり、超文法的賓述詞が“名詞化”されて文法的主辞と化した「S」を唱するとき、Sデアル当体・主体・基体は(犬デアル或ルモノ、吠エル或ルモノ、大キイ或ルモノといった)「Sナル或ルモノ」という相に“脱肉化”されてしまっているのが普通である。――知覚現場的に現認されている「犬デアルところのコレ」「吠エルところのコレ」「大キイところのコレ」とは異なり、「犬デアル或ルモノ」「吠エル或ルモノ」「大キイ或ルモノ」等々、つまり、「Sなる或ルモノ」は、たかだか範例的な副表象を伴う相で覚識されるにすぎない。われわれは、「Sなる此ノモノ」ないし「Sなる或ルモノ」が、知覚的であれ表象的であれ“個体”的な対象相で現相しつつ、詞Sで指し示されているかぎり、その“個体”的対象現相を詞Sの「被示的意味」と呼ぶ。詞Sのたる個体的現相は、概念Sの「被示的的意味」たる個体的現相は、概念Sの「内包的意味」すなわち詞Sの「被表的意味」たる“函数態” ƒ (x,y,……)が特定値ƒ (xi,yj,……)で定在しているものという構制を示す。――ところで、知覚的現場を離れると「被示的的意味」たる「Sなる或ルモノ」はたかだか表象の相でしか泛かばず、「SハPナリ」という判断は、副表象として泛かぶ被示的的意味を範例的に顧慮するとしても、Sの内包的意味そのものを判明化しつつ、前節に謂う「概念思考的判断」のかたちでおこなわれるのが普通になる。ここにあっては、Sの「被表的意味」たる“函数態” ƒ (x,y,……)がにもっぱら留目される。このさい、Sという主語はあくまで或る対象的与件を指示するものであるという構制が維持されているかぎりで、そして対象的に泛かぶ被示的的意味そのものは所詮範例的な副表象にすぎないものと了解されているかぎりで、Pという賓述にさいして留目されるSの被表的意味そのものが対象的な与件の相で覚識され、“対象化”される。このようにして“対象化”された「被表的意味」がわれわれの謂う「被指的意味」にほかならない。SハPナリという判断的述定が、もはやSの被示的的意味に即してではなく、Sの被指的意味についておこなわれるようになったもの、それが「SというものハPナリ」という概念思考的な判断的措定である。かくして、謂う所の「Sというもの」、それはSの被表的意味が賓述の対象として“もの”化されたイデアールな或るものなのである。」306-7P・・・「被示的意味」「被表的意味」「被指的意味」の規定
(対話D)「このようにして、主辞Sの被示的的意味が“奪胎”され。被指的意味そのものが対象的・主題的な被提示態となることを俟って、「S(というもの)ハPナリ」「S(というもの) ハPナラズ」といった命題的事態が存立するようになり、これら命題的事態が階統的に秩序づけられるに及ぶのであるが、議論の順序として、われわれはここで命題の「量」的規定に目を向けねばならない。」307P
第二段落――命題の「量」的規定の詳述 307-12P
(この項の問題設定)「命題の「量」規定は判断の「量」規定に俟つものである。が、「判断」の量的規定、すなわち、単称・特称・全称ということの区別的規定は、われわれの場合判断主語の「被示的意味」の次元と「被指的意味」の次元とに分けて、二重におこなう必要がある。」307P
(対話@)「まず、判断的主語Sの被示的意味に即する場合、単称判断は「一ツノSハPナリ(ナラズ)」、特称判断は「若干ノSハPナリ(ナラズ)」、全称判断は「全テノSハPナリ(ナラズ)」という形で標記されうるが、意味構制をみれば、単称判断においては「Sと呼ばれる一つの“個体的”対象はPなり(ならず)」、特称判断においては「Sと呼ばれる若干の“個体的”対象はPなり(ならず)」、「Sと呼ばれる全ての“個体的”対象はPなり(ならず)」という内容になっている。判断主語の被示的意味に即する場合、判断の「量」的規定は、Pナリ(ナラズ)という賓述がSと呼ばれる“個体的”対象(詞Sの被示的意味対象)の「一つ」についておこなわれるか、「若干」についておこなわれるか、「全て」についておこなわれるか、これに応じて岐れるのである。――伝説的な考え方にあっては、「固有名」は唯一つの個体的対象をもっぱら指示するものとみなされているので、固有名を主語にする判断は単称判断であるとされてきた。(尤も、固有名は外延的対象が唯一つに限られているので、その一つで全外延的対象が尽くされており、従って固有名を主語とする判断は実質的には全称判断でもあるとされてきたのではあるが。)われわれの場合、しかし、被示的意味たる“個体的”対象なるものを必ずしもいわゆる「実体」の意味にはとらない。われわれは、Sの被示的意味たる一つ一つの“与件的現相”を、それが“函数態”たるSの被表的意味の“特定値”的定在とみなされうるかぎり、“個体的”対象として扱うことができる。(諸々の“射映的諸現相”を単一の「実体」の諸相として把え返すかどうかはまた別次元での一判断なのであり、知覚現場的判断は、さしあたり現相する“個体的”対象についておこなわれるのであって、「実体」そのものという単一体についておこなわれるのではない。)従って、われわれの見地では、固有名を主語とする判断であるからといって、直ちに単称判断ということにならない。――」307-8P
(対話A)「ところで、全称判断がおこなわれる場合、果たして常に、主語で呼ばれる一つ一つの対象を枚挙的に主題化しつつ、文字通りに、Sと呼ばれる全ての“個体的”対象についてを賓述が遂行されるのであろうか。「此ノ部屋ニ居ル人間ハ全テ日本人ダ」と判断する場合など、文字通りに、主語で呼ばれるすべての“個体的”対象を枚挙的に主題化しつつ、全称的な判断が遂行されるケースも慥かにありうる。がしかし、例えば「全テノ第一族重金属元素ハ常温ニオイテハ固体ナリ」と判断する場合、主語で呼ばれる対象の具体相を逐一枚挙的に検討するのではなく、金と銀と銅という三つの“もの”だけがあるかのように扱って、金は常温において固体、銀も常温において固体、銅も常温において固体、故に、全ての第一族重金属元素は……という具合に判断するのが実情であろう。特称判断に関しても同趣である。「コノ部屋ニ居ル人間の若干ハ西洋人ダ」と判断する場合など、慥かに、主語で呼ばれる“個体的”対象群について判断がおこなわれる場合もある。しかし、例えば「若干ノ動物ハ肺デ呼吸スル」と判断する場合など、一匹一匹の動物を主題化するのではなく、鳥類、爬虫類、両棲類、魚類……といった幾つかの“もの”があってそのうちの若干肺呼吸することを認定するというのが実情であろう。では「金」「銀」「銅」とか、「哺乳類」「鳥類」「魚類」……とかいう“個体的対象”が存在するとでもいうのか。或る概念で呼ばれる対象とはその概念の「下位概念を“もの”化したもの」であるとでもいうのか。これはいかにも技巧的な強弁にすぎよう。人がもし、単称・特称・全称の区別性ということをあくまで判断的主語の指し示す“個体的”対象の次元だけで考えようとするとすれば、現実におこなわれている全称判断や特称判断の実態をカヴァーしきれないことは明らかである。このさい、敢て、或る概念の下位概念を“もの”化して、それが当該概念の“外延”であると強弁し、甚だしきに至っては、それが“個別的対象”の相で実在すると妄言したとしても、それはアド・ホックな弥縫(「びほう」のルビ)策でしかありえない。単称的・特称的・全称的な判断が、知覚現場的に、具体的な“個体的”対象(群)に即して遂行される場合が慥かにあるとはいえ、そして、“個体的”対象(群)に即した単称・特称・全称の区別が発生論的にみて基底的であることは慥かであるにせよ、われわれは現実に遂行されている単称判断・特称判断・全称判断のすべてが主語の指示する具体的。個別的な対象に即して岐れているものとは看じない。」308-9P
(対話B)「単称判断・特称判断・全称判断の区別は、建前上、窮局的には、主語で指称される“個体的”対象(群)に即しての区別、つまり、主語の被示的意味に即した次元での区別に帰趨する旨が主張されうるにしても、概念思考的判断の実際にあっては、被示的意味に定位したそれとは別途の構制で単称・特称・全称が区別されている。それは、主概念Sの被指的意味と賓概念Pの被表的意味との意味関係に定位した区別である。」309-10P
(対話C)「そこで、主概念の被指的意味と賓述概念の被表的意味との意味関係に定位した単称判断・特称判断・全称判断の区別に議論を進めよう。――概念の「被指的意味」は、嚮に誌した通り、当該概念の「被表的意味」が“もの”化されたものである。しかるに、被表的意味は一つの“函数態”という単一態であるから、これの“もの”化された当該の被指的意味も単一である。」310P
(小さなポイントの但し書き)「(或る概念の外延は、被示的意味たる“個体的”対象に即すれば複数個存在しうるが、そして、或る種の脈絡ではわれわれ自身、或る概念で指し示される被示的意味を当該概念の外延と呼ぶのではあるが、勝義における「外延」とはその概念の被指的意味の謂いであり、従って、勝義の「外延」は概念ごとに各一つだけである。尚、或る種の論脈では、概念はそれの同位的下位概念つまりそれに下属する同位的諸概念の被指的意味を“外延群”として有つかのように扱う場合もある。が、それは、被指的意味に即した判断・命題の量規定を被示的意味に即した量規定の構制になぞらえた特別の脈絡でのことであり、物象化的錯視に妥協した立論方式であって、われわれ自身の本意ではない。)」310P
(対話D)「概念は、こうして、いわゆる普遍詞であれ固有名であれ単一の被指的意味、単一の「外延」とかもたないのであるから、判断の量的規定を主語概念の外延的量的規定に即して云々することは不可能である。また、被指的意味に定位するとき、単称判断・単称命題と全称判断・全称命題とは実際上重なってしまう。これを「汎称」と呼ぶことにすれば、被指的意味に即した判断・命題の「量」区別は、「凡ソSハPナリ(ナラズ)」という汎称と「或ルSハPナリ(ナラズ)」という特称との二つに岐れる。――われわれは前々節において概念の分類的階統体系を論考した折りに、類的上位概念の内包を“擬似的な”函数態ƒ (k,a)……で標記したのであったが、ここでもこの標記法を踏襲することにしよう。主概念Sの内包的・被表的意味は嚮に誌したごとき経緯で“もの”化されて被指的意味になっているとはいえ、主概念Sの被指的意味と賓概念Pとの関係は帰するところ両概念の内包的・被表的意味どうしの関係である。そこで、主概念Sの被表的意味と賓概念Pの被表的意味との形式的な意味関係に即して(ここではまだ判断・命題の真偽とは無関係であって、あくまで形式的な“正当的”意味関係に即してのことであるが)、(一)の(イ) ƒ (k,a)とƒ (k,x) というように、Sの被表的意味がPの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(一)の(ロ) ƒ (k,a)とƒ (k,a)というように、SとPの被表的意味が完く同一である場合(これをトートロジーと謂う)、「凡ソSハPナリ」という「汎称肯定判断」が論理構制上「正当(「リヒティッヒ」のルビ)」におこなわれる。 (二)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (k,a)というようにPの被表的意味がSの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(二)の(ロ)「汎称肯定」が可能であるにもかかわらず敢て主概念を限定する場合「或ルSハPナリ」という「特称肯定判断」がおこなわれる。 (三)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (l,x)というように、Sの被表的意味とPの被表的意味函数とが別々の“定項”を含む場合(これを別類と謂う)、および、(三)の(ロ) ƒ (k,a)とƒ (k,b)というように、Sの被表的意味とPの被表的意味函数とが“同一函数”の“変項”が別々の“値”をとったかたちになっている場合(これを別種・別個と謂う)、「凡ソSハPナラズ」という「汎称否定判断」がおこなわれる。(四)の(イ) ƒ (k,x)とƒ (k,a)というように、Pの被表的意味が函数がSの被表的意味函数の特定値になっている場合、および、(四)の(ロ)「汎称否定」が可能であるにもかかわらず敢て主概念を限定する場合、「或ルSハPナラズ」という「特称否定判断」がおこなわれる。――われわれは、これら汎称判断および特称判断を、主概念の“外延”ということを一種独特の仕方で規定することによって(つまり、主概念に下属する同位的諸概念の被指的意味を以って主概念の“外延”なりとみなすことによって)、主概念の被示的意味に即した単称・特称・全称の区別的構制になぞらえることも可能であるが、そして、現に、そのような構制で単称・特称・全称の判断が遂行される場合もあるのであるが、ここではその構制に立入るには及ぶまい。(念のために書き添えれば、われわれの謂う「汎称」と「特称」との区別は、実質的には、「SハPナリ(ナラズ)」は必然ナリ・可能ナリという様相的区別に還元さるべきものとも言える。敢て「量」的区別規定とするのは、伝統的な構制と日常的配備への妥協に基づくものである)。」310-2P
第三段落――知覚現場的指称と被指的意味を指称している場合との区別の必要 312-7P
(この項の問題設定)「われわれは、同じく「SハPナリ(ナラズ)」と標記される成態であっても、Sが知覚現場的に、具体的な“個体的”対象たる被示的意味を指称している場合と、Sが概念思考的に「Sというもの」という被指的意味を指称しているにすぎない場合とを明確に区別する必要がある。前者の場合、Sと呼ばれる具体的な“個体的”対象が、単一であれ若干であれ全てであれ、(1)何々デアル(デナイ)、(2)然々スル(シナイ)、(3)斯々シイ(シクナイ)という具象的な(1)事実、(2)事件、(3)事況を表わすのに対して、後者の場合、「或ル」と限定されるにせよ「凡ソ」であるにせよ、ともかく「SというものはPである(でない)」という事態を表わす。――事実・事件・事況は、Sと呼ばれるレアールな現相的所与にPで表わされるイデアールな意味的所識を向妥当せしめた、レアール・イデアールな成態である。それにひきかえ、命題的事態は、Sの指すイデアールな被指的意味に(Sの表わす被表的意味契機に即して) Pで表されるイデアールな意味的所識を向妥当せしめた、イルレアール・イデアールな成態である。勿論、イデアールな命題的事態が、命題成態から離れて、独立自存するわけではない。命題成態(判断成態)は、副表象を“肉化”の“場”とすることもあるし、そうでない場合にも、必ず「S−P」能記成態というレアールな与件を“肉化”の“場”とする。命題的事態というのは、命題成態の意味、つまり、「S−P」能記成態の表わす所記的意味成態なのであって、それ自身としてはあくまでイテアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)なのである。平俗に言えば、命題的事態とは(「SハPナリ(ナラズ)」というコト)である。――翻って、事実・事件・事況(われわれはこれを総称して「事象」と呼ぶ)であっても、命題式に標記すればやはり「SハPナリ(ナラズ)」というかたちになり、ここでも<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>が表わされていると言える。知覚現場的な「SハPナリ(ナラズ)」という事象、つまり(1)「Sタルコレハ何々(だ)」、(2)「Sタルコレハ然々する」、(3)「Sタルコレハ斯々しい」(および、何々でない、然々しない、斯々しくないという消極形)は、あくまでレアール・イデアールな成態たる事象であるが、しかし、<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>、この「事象的成態」はイデアールである。われわれは事象と命題とを区別し、事象的事態と狭義の命題的事態とを区別する者ではあるが、<「SハPナリ(ナラズ)」というコト>という事態に定位するかぎりで、事象的事態をも広義の「命題的事態」のうちに算入する。」312-3P
(小さなポイントの但し書き)「(ここで敢て註記しておけば、われわれの謂う「事(「こと」のルビ)」と「事態」とは区別されねばならない。次篇で論考する通り、「事」は原基的な構造であり、「事象」よりも基礎的である。それに対して、「事態」すなわち<……というコト>は、事象に定位してはじめて存立しうる第三次的・第四次的な形象たるにすぎない。このさい、「事象」すなわち事実・事件・事況が「コレハ何時何処で現に何々・然々・斯々」という在り方で時間・空間的であるのに対して、「事態」はイルレアールな意味形象としての事象の時・空的規定性を免れているという相違性をも銘記しておきたい。詳しくは、次篇第二章第一節で論考する。尚、本書の行文中、これまでは「事実」および「事態」という詞を常識的に用いてきたが、以下ではこれら両語を術語的に用いる。)」313P
(対話@)「ところで、日常的な判断意識、わけても概念思考的判断の覚識においては、直截的な対境的与件の相で「事態」が覚識される。雪ハ白イということ、地球ハ丸イこと、三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアルこと、酒ハウマイこと、このような事態が客観的な対境をなすように思念される。――「事態」は、とかく、対象的な相で現識され、認識としての「判断」とは区別して覚識される。尤も、“客観的”な命題的事態と“主観的”な判断的成態とは必ずしも別々に“離在的相で”泛かぶわけではない。あまつさえ、“客観的事態”も、言語的に表現しようとすれば、同じく「SハPナリ(ナラズ)」「何々ハ云々デアル(デナイ)」という命題の形でしか言い表わしようがない。それにもかかわらず、「何々ハ云々」という命題的成態は、一方では“主観的判断”の相で覚識され、他方では“客観的事態”の相で覚識される。客観的な事態と主観的な判断とは区別して意識されるだけでなく、まさに両者の関係に即して判断的次元での「認識」ということが省察的に主題化されもする。――そして、命題的事態は客観的に存立する事態として固有の階統的秩序を形成しているように思念される。判断成態「SハPナリ」は「Sハ××への反照関係においてPナリ」という構制を即自的に含意し、Pの上位概念との反照的同類性、Pの同位概念との反照的別種性即自的に含意するが、この含意を対自化しつつ、命題的事態の両立性・非両立性が位階的に階統づけられる。また「凡ソSハPナリ」であれば「或ルSハPナリ」であること、等々、命題的事態の量的規定関係が整序される。さらには、命題的事態が「概念」の秩序体系と反照されて、「S1ハP1ナリ」と、S1の下位概念S0を主辞とする命題的事態やP1の上位概念P2を賓辞とする命題的事態との関係、等々が階統的に秩序づけられる。」313-4P
(対話A)「自体的・対境的に存立するものと思念され、階統的に秩序づけられるのは、積極的な(肯定形の)事態だけとは限られない。雪ハ白イこと、地球ハ自公転スルこと、三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアルこと、……これら積極型・肯定形の事態と並んで、雪ハ黒クナイこと、地球ハ静止シテイナイこと、三角形ノ内角ノ和ハ四直角デハナイこと、……このような消極型・否定形の事態も同様に存立するのではないか。積極的な事態にしか客観的な存立性を認めない立場もありうるにせよ、正・負の事態を同格的に認めるほうがナチュナルというものであろう。そこで、命題的事態の自体的存立性を思念する論者たちは、積極的・肯定的な正事態と消極的・否定的な負事態との同位・同格的な存立性を認めようとする。(われわれの見地から言えば、命題的事態なるものはそもそも判断成態の意味が自存視されたものであり、命題的事態の積極性・消極性は判断的措定における肯定・否定が事態に“内自化”されたものであり、命題的事態の自体的存立性ということは“物象化”的錯認である。この間の事情については次章において立帰って論及することにして、ここでは暫く、事態を自存視する論者たちの思念に沿って追跡しておこう。)」314-5P
(小さなポイントの但し書き)「論者たちにあっては、肯定性および否定性は、判断的措定に先立って、自体的に既存する客観的事態の構造であると見做される。すなわち、肯定・否定の判断的能作に先立って、客観的事態そのものの内的契機として、肯定性・否定性の構造が存立するものとされる。この見地においては、判断の真・偽という問題は次のように処理される。(因みに、正・負の事態の同位的な存立性を認めるこの見地は、日本人の日常的意識には適っていても、ヨーロッパ人のそれには適っていない。ヨーロッパ人の日常的においては、正が主位、負は従位というよりも、負の事態は正の事態に否定が累加されたと思念されている。この点で相違があるため、「イエス」「ノー」の使い方に彼我の差異を生ずる。が、ここでは幸い、日本語式になる。)肯定的事態(例えば雪ハ白イ)であれ、否定的事態(雪ハ黒クナイ)であれ、ともかく客観的に存立する事態を追認的に肯定・承認する判断は真であり、逆に、肯定的事態であれ否定的事態であれ、客観的に存立する事態を否定・ 拒斥する判断する偽である。このさい、例えば雪ハ白イということ、この一つの肯定的事態に対して、雪ハ黒クナイこと、赤クナイこと、青クナイこと、……という無数の否定的事態が客観的に存立し、非対称性と無限性を生ずるが、このこと自身は決して致命的な難点とは言えない。此説の場合、肯定・否定と真理・虚偽とがそのまま対応し、この点でエレガントな理説である。しかしながら、それは論者たちが「客観的」事態というとき、雪ハ黒イとか、三角形ハ円イとか、この種の“事態”をはじめから排却し、判断的措定における肯定・承認と否定・ 拒斥 が、それぞれ真理と虚偽とに対応するように論件先取を犯しているかぎりでのことにすぎない。事態が判断主観の認識行為から独立にそれ自身で対象的に(この意味で“客観的”に)存立するという思念においては、雪ハ黒イということ、三角形は丸イということ、このたぐいの“命題的事態”を顚から斥けてしまう謂われはない。」315-6P
(対話B)「命題的事態が自体的に(つまり、判断的能作から独立に)存立すると思念する論者たちは、論件先取に通ずる不当な制限を撤廃して、ここで、命題的事態としての形式的要件を充たしているかぎり、「SハPナリ」「SハPナラズ」という形の(コト)をすべて自体的に存立するものと認める仕儀になる。事態が判断の対境的与件として“判断行為に先立って”存立するということと、それが真なる事態であるか偽なる事態であるか、それが真実であるか虚偽であるか、この真偽価値性とは別である。事態の対境的存立性は、自体的存立説の立場からすれば、真偽の判定とは別途に、真偽の判定に先立って、認められてしかるべきである。」315-6P
(小さなポイントの但し書き)「――こうして、「何々ハ云々デアルというコト」「何々ハ云々デナイというコト」の一切を以って自存的に存立する「事態」として認めるに至った場合、もはや、肯定・否定と真理・虚偽との直接的な対応というエレガンスは維持できず、判断の真・偽は別様に処理する必要が生ずる。今や、雪ハ黒イということ、三角形ハ円デアルということ、太陽ガ地球ノ周リヲ廻ルこと、このたぐいをも含めて一切の命題的事態が判断的措定に先立って自存的に存立すると見做されるに至っている次第であるが、茲に、事態の正・負だけでなく、真・偽をも第一次的には対象的事態そのものに帰属しているものとし、それが第二次的に判断の真偽性をも決定する、と考えることができる。ここでは、「事態」は、真理的事態(Wahrheit an sich真理自体)と虚偽事態(Falschheit an sich 虚偽自体)との二種に分類され、判断の真偽性は次のように処理される。すなわち、「命題自体」(Satz an sich)が正・負いずれの形であるにせよ、真理的自体(例えば、雪ハ白イこと、雪ハ黒クナイこと)を日本語式に言って、肯定的に承認する判断、および、虚偽的事態(雪ハ黒イこと、雪ハ白クナイこと)を日本語式に言って、否定的に 拒斥する判断が 真であり、逆に、真理的事態を否定的に 拒斥 する判断、および、虚偽的事態を肯定的に承認する判断が偽である、云々。(このさい、肯定的承認・否定的 拒斥 といっても、判断的作用としてはさして強くない。それらは、謂うなれば“アンダーラインを引くこと”“抹消棒線を引くこと”になぞらえることもできよう)。此説は、こうして、それなりの仕方で判断的認識の真偽性を判別的に説きうるが、しかし、ここには重大な先決問題がある。それは、真理的事態および虚偽的事態の種別を伴う原措定、そこにおける対象的真偽性の基準である。この基準を明示して、一体なぜ雪ハ白イことは真理的事態であり、一体なぜ雪ハ黒イことは虚偽的事態であるのか、これを説明できなければ自体的説は認識論的に無効である。このさい、真理的事態と虚偽的事態とが分立する地平の奥に、根源的な“真理的存在”とやらを想定し、模写説流の方式でそれを“原像”と称しようと、また、構成説流の方式でそれを先験的構成の所産と称しようと、議論は循環に陥るばかりである。」316P
(対話C)「命名的事態を以って自体的に存立するものと思念するとき、こうして困難に陥る。そこで、省みて、虚偽的事態の存立を認めたのが失当の因と悔いて、真理的事態だけを認めようと試みても、遡っては、負の事態の存立を認めたのが失当の因と悔いて、正の事態だけを認めようと試みても、“正と負”“真と偽”はそれぞれ相補的であるし、虚偽的事態を排除して(虚偽的“事態”は単なる主観的成態にすぎないと貶しつつ)真理的事態だけを残そうと企てても、真・偽の撰別基準こそがまさに問題なのであるから、所詮は徒為に終る。事態の存立性を主張する以上は、正負・真偽を問わず、一切の事態の存立性を一たんは容認するのが整合的というものであろう。命題的事態が個々の判断的能作に先立って、判断的な肯・否の態度決定の対境的与件として存立するという思念は、慥かに、日常的覚識を追認したものであり、決して謂われなしとしないのであるが、この自体的存立観は、事態の積極性・消極性の分立する機制、および、事態の真理性・虚偽性の分立する機制、これを究明しえないかぎり、臆見たるにすぎない。――われわれは、今や、命題的事態の自体的存立という臆見・錯認が如何にして成立するのか、この“物象化”的錯視の秘密をも解明しつつ、命題的事態の積極性・消極性ならびに真理性・虚偽性が分立する機制を究明し、自体的に存立すると思念される命題的事態の階統的秩序体系にわれわれの立場から所を得せしめなければならない。」317P
2025年02月01日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(5)
たわしの読書メモ・・ブログ684[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(5)
第二篇 省察的世界の問題構制
第一章 外界と内界の截断と認識理論の図式
第一節 外界と内界との截断
(この節の問題設定−長い標題) 「日常的省察の場面においては、対象的外物に対して自己の身体は特異な地歩を占めており、この身体の内には「心」が宿っているものと思念されている。「心」は固有の「内的世界」を形成し、これに対しては。皮膚的に劃された身体の外部に在る対象物のみならず、身体自身もまた「外的存在」とされ、茲において「外界」と「内界」とが二つの領界として区分される。「外界−内界」という構図での思念は「主観−客観」図式の淵源をなすものであるが、抑々(「そもそも」のルビ)「外界」ならびに「内界」なるものは、現相的世界に関する錯認的“解釈”にもとづいた存在規定にほかならない。――われわれとしては、「主観−客観」図式を内在的に克服し、この「図式」を前提として成立している旧来の認識論と論判するためにも、「外界」と「内界」との截断そのものの構制を爰で検討しておかねばならない。」203P
第一段落――フェノメナルな現相界が総じて“内界”として解釈され、これの外部に“物理的”“実在界”が措定される思念の構制を押さえる 203-11P
(この項の問題設定)「われわれは既に前篇第二章の論脈において、「身体的自我」の如実相を対自化しつつ、併せて「身体」が個体的な一存在として対象化され、その内部に「所知−能知」の構制が推及される経緯などについても一斑を見定めておいた。爰では既説の当該論点の復唱は省き、議論の焦点を、フェノメナルな現相界が総じて“内界”として解釈され、これの外部に“物理的”“実在界”が措定される思念の構制に向けることにしたいと念う。」203P
(対話@)「惟うに、対象的一個体の相で看ぜられる「身体」の内部に「心」という特異な存在を“内在”せしめる領界の構えが形成されるのは、基本的にみて、次の四つの脈絡においてであろう。/第一に――生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、意志行為の場面での内発的起動者の覚識を機縁にしつつ――身体の内部に能知的能動的な或るエージェントが宿っているように思念されること。/第二に――いわゆる(イ)体内感覚、(ロ)感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、――身体の内部に、外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の、格別な所知的与件が内在されているように覚知されること。/第三に――これは間主体的=間身体的な交渉の場面で対他・対自化されることであるが――身体的存在たる各人の内部に、各自固有の「内面的世界」が秘匿されているように覚識されること。/第四に――これは直接的に感知されることではなく、知覚をはじめとする認識事実を説明するために案出された想定なのだが――各人の内部に「心像」という内在的与件が存在するものと推論されること。」204P
(対話A)「いわゆる「心的存在」が措定されるのは、その機縁に徴するとき、強ち謂われなしとしない。右のうち、しかし、第一の論脈で思念される実体的霊魂ないし有意的エージェントとしての“内なるもの”は“外部的存在”に対して特異な一存在(身体内に宿る一存在)とされるにせよ、それ自身としては固有の“内なる世界”を形成するものとは必ずしも見做されない。それゆえ、この第一の論脈に立入ることは爰では割愛して(尚、われわれは次巻のしかるべき個所においてこの論件に主題的に関わることになろう)、第二以下の論脈を念頭におきながら批判的に討究することにしたい。」204P・・・霊魂なる宗教的観念
(対話B)「われわれの結論から言えば、知覚的であれ情意的であれ表象的であれ、人々が“直接的な内的与件”“内面的世界”“内なる心像”として思念しているところのものは、原基的には、フェノメナルな射映的現相(但し、これは“裸の質料”ではなくして形相的意味を既に“懐胎”している)にほかならない。では、フェノメナルな射映的現相が一体いかにして“内在的な直接的与件”“内在的な心像的与件”として改釈されるのであるか? 一言で答えれば、現相世界の二肢的二重性の構制を誤った仕方で解釈することによって当の改釈が生ずるのである。尤も、この誤てる解釈は日常的覚識にも深く根差しており、それの成立する機制も多分に複雑である。」204-5P
(対話C)「議論の順序として、知覚、それも所謂外部的知覚の場合にまずは眼を向け、“知覚心像”なるものが裡に想定される機序からみていこう。けだし、これこそが「外界」と「内界」との截断の鍵鑰をなすものであり、また、これに即した討究が後論にとって管制高地をなすものと予期されるからである。」205P
(対話D)「偖、知覚的現相は、前篇第二章の論脈でも指摘しておいたように、各種感覚様相(「センツリー・モダリティーズ」のルビ)の協応に俟っており、単なる視覚的現相以上のものであることは言うまでもないが、さしあたり視知覚的な空間的秩序構造を呈し、いわゆるパースペクティヴ(遠近法的配景)の構図で展ける。遠景は段々と先細りに小さく見えているが、しかし“見掛”と“実際”とはそのまま合致しはしないのであって、“実際には”しかじかの大きさであることが端的に覚識されている。遠方に“見掛上”蟻のように見えているのは“実際には”等身大の人物であること、“見掛”は先細りであるが“実際”は先細りではないこと、等々。(ここに謂う“見掛”相と“実際”相とは、われわれの見地から正しく規定すれば、フェノメナルな視覚的現相世界のパースペクティヴな覚識態における「射映的現相与件」と「意味的対象所識」の両契機にほかならないのであるが、人々の思念においては早くも“仮現相”と“実際相”という意味付け的な解釈が施される)。」205P
(対話E)「視覚的現相風景界においては、また、直接的な射映相で平面的にしか見えないものが立体視されており、射映的な“見掛”はかくかくでも“実際には”しかじかの形の対象であることが直截に覚識されている。向こうに“見掛上”六角形の形状を呈しているのは“実際には”直方体の箱であること、“見掛”は平面的であっても“実際”は立体的であること、等々このたぐいのことが、一般には反省以前的に、覚知されている。」205-6P
(対話F)「ところで、“見掛”は「身体」との布置的関係に応じて合規則的に変易することが軈(「やが」のルビ)て対自化される。パースペクティヴな構図のもとに立体視が既成化している現相的知覚世界にあっては、「この身体」がパースペクティヴな膨縮的編制の輻湊点になっており、「この身体」の移動に伴って現相的知覚世界の射映的相貌が変様する。「この身体」が接近して行くと、対象の視覚的射映のみならず聴覚的・嗅覚的射映も段々と大きくなっていき、布置的射映相も合規則的に変貌する。そのさい、しかし、変様するのは“見掛”だけであって、対象の“所識的実相”そのものは「この身体」との距離や布置の関係にかかわりなく、恒同的に一定のままであると覚識される。(尤も、“実相的”所知対象自身が変易相にあることが覚知される場合もあるが、その場合にあっても、“実相的”対象の変易と“仮現的”射映の変易とは別々のオーダーをなしていることが覚識される)。」206P
(対話G)「ここにおいて、“実際相”での対象は“独立自存”するのにひきかえ、“見掛相”たる射映的知覚は「この身体」との布置的関係に応じて連動的に変化することが対自化される次第である。さらに言えば、身体の向きを変えると今まで見えていた視覚風景が消失して新規の風景が現出するし、眼を閉じたり耳を覆ったりすると視覚的現相・聴覚的現相がそれぞれ消失するという具合に、「身体」における変位が知覚現相の生滅的な変化(有化・無化)をすら惹き起こすということが日常的に経験される。但し、知覚現相が消失したからといって所知対象自体も同時に消失したのだとは必ずしも思われない。身体的変位によって、生滅的な決定的変化を惹起されるのは射映的知覚現相だけであって、“実相的”所知対象そのものは、普遍・不動の相でそれ固有の空間的布置世界の中に存続している“独立自存”のものと覚識される。――」206P
(対話H)「このような体験が媒介になって、恒同的な固定的「空間」中に配位されている“実相的所知対象”とパースペクティヴな膨縮的構図に納まっている“射映的知覚現相”、これら二つの編制態がまずは区別・截断され、(前者すなわち“対象的実在”は視座的身体とは独立自存のものであるのにひきかえ)、後者すなわち<射映的知覚>は「身体」に依属的であると思念されるようになってくる。」206-7P
(対話I)「射映的現相のこの「身体依属性」の覚識は――“内なる心像的与件”ひいては“心的世界”の内在性という想念の成立にとって必須の媒介環をなすものであるが、しかし――それ自身では直ちに射映的知覚現相の“身体内在性”を思念せしめるものではない。現に、射映的知覚現相(“実相的対象”と区別された“見掛”)は、いかに身体依属的であることが覚識されるに至っているにせよ、依然として「身体」の外部に顕出している。では、知覚的射映現相が、単なる「身体依属性」という域をこえて、各自の身体に“内在的”であると思念されるに及び、いわゆる「内界」の想念が形成されるに至るのは如何にしてであるか? われわれの結論を予示して言えば、知覚的射映現相が“内なる与件”として改釈されるに及ぶのは、知覚現相の「対自−対他」的な間主体的「帰属性」の場における省察を介してである。」207P
(対話J)「われわれは前篇第二章の論脈内で、対象的知覚や感情などが知覚風景の内部において対他者的に「帰属」される事態とその構制を論じておいたが、人々は他人の表情や振舞や言表から他人が一定の知覚なり感情なりを感じていることまでは察知できても自分の側ではそれをたかだか表象的にしか泛かべることのできない場合を体験する。この場合には、身体的存在として他人そのものは知覚的風景(“実相”的世界と二重写しに了解されている知覚的対象世界)に登場しておりながら、彼に現前しているはずの一定の現相がこの知覚的風景界には現出しないわけである。一般論として、パースペクティヴな知覚現相の身体布置依属性の故に、他者にとってのパースペクティヴな射映的知覚現相は「この身体」視座からの知覚的風景には現出しない。」207P
(小さなポイントの但し書き)「他者にとっての射映的知覚現相は「あの視座的身体」を“置き移して”みる第二種の帰属がおこなわれるかぎりで、かつそのかぎりでのみ直截に覚知される。この機制によって、他者にとってしかじかの射映的現相が現前することが覚知される。がしかし、それは“身を置き移”した「あの身体視座」に即したものであって、それが「この身体視座」からの知覚的風景界にそのまま現出するわけではない。」208P
(対話K)「この事態の説明が日常的意識にも即自的に課せられる。「他人そのものは知覚的風景に登場しておりながら、彼に現前している射映的現相がこの知覚的世界には現出しない」という事態を“説明”するナチュナルな一方法として、「それは『他人に現前している現相』が当の他人の『内部』に収蔵されている所為(「せい」のルビ)だ」という“説明方式”がおのずと思い泛かぶ。知覚的風景世界に現出しているのは皮膚的界面までであり、問題の射映的現相は「身体」の内部に収蔵されているため(謂うなれば閉じた“箱”の内部に納まっているため)外部的な観察では現認できないという道理である。他人自身の記憶的・想像的な“表象”についても同断だとされる。こうして、他人にとっての知覚的現相ならびに表象的現相が、知覚的に現前する「あの身体」の内部に存在するものと了解されるに及ぶ。――この場面では、しかし、「あの身体」なる他者と「この身体」なる私とは同位・同権であるから、私にとっての知覚的現相や表象的現相もこれまた「私の身体」内部に存在するものとしなければ平仄(「ひょうそく」のルビ)が合わない。こうして、知覚的現相ならびに表象的現相は、すべて、それの現前する各人の内部に収蔵とれているものと見做される次第となる。(そして、この見地からあの「身体依属性」という事実も把え返されるようになる。)」208P
(対話L)「ところで、右の行文中においては「あの身体」および「この身体」なるものを恰かも自体的な実在であるかのように扱ったのであったが、考えてみれば、「あの身体」も「この身体」も私の知覚的現相風景の内部に“見掛”として現出しているのであるから、私にとっての知覚的現相たるにすぎず、従って、それら両「身体」は「私の身体」内部に収蔵されているはずである。嚮には、知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」が現相の収蔵庫であるかのように誌したが、真の収蔵庫たる“身体”は知覚的現相としてのそれではなく、“実相的空間世界”に自存する“実在的”な身体でなければならない。今や、こうして、知覚的・表象的な現相が“実在的身体”の内部に収蔵されているという思念が形成されるに至る。」208-9P
(対話M)「このようにして、知覚的現相ならびに表象的現相が(知覚的世界に登場する“見掛”的「身体」ではなくして) “実在的身体”の内部に収納されているという思念が形成されるに至ったとしても、しかし、“身体”への“内在化”それ自身では、まだ、当の“内在的存在”たる射映的現相が「心的な存在」と見做されるには及ばない。それは、さしあたり、外部的な観察では如実に覚知されないだけで、身体に内蔵されている一種の“物”的な存在とみなす余地を残している。とはいえ、もう一段省察が深まると、それは単なる身体内在的な“物”的存在とは端的に異質な別種の存在として了解されるようになる。――謂う所の“内在的”な知覚像表象像は、一口に“身体”の内部に在るといっても、その体内の場所はどこであるか? それは、また、とのような在り方をしているのか? 人は身体の内部に関しても、腹痛・胸痛・頭痛など、対象的に知覚する。そこで、もし、これら体内の感性的知覚にあっても、(知覚風景内で身体の外部に現前する対象に関する感性的知覚の場合と同趣的に)現相的知覚像が対象的所知から離在しつつしかも身体の内部に存在するのであれば、(この想定においては前篇第二章に謂う「視覚モデル」の構図が推及されているわけだが)、その場合には、体内感覚の知覚像の収蔵されている場所は、“内奥の一点”、すなわち、対象的に感受される身体内部のあらゆる諸点がそこに対しては“外”的であるような“内奥点”でなければならないことになる。そして、その内奥的が“内的与件”一般の収蔵個所だとするとき、知覚像や表象像は“点”という拡がり(延長性)のない局所に収蔵されているとせねばならず、座り具合はよくないが、しかし、ともかく、“内的与件”それ自身は「非延長的」な存在だとみなされ、延長性をもつ物体的・身体的な存在とは端的に別種の存在だと考えられる所以となる。――尤も、右の立論には「視覚モデル」の不当適用があり、さなきだに飛躍があるので、視角を変えて検討することを要する。人は自身の体内をも感知するとはいえ、全部位を感得することはできず、謂わば感知不能の空隙的ゾーンを内に秘めている可能性もある。もしそうだとすれば、そのゾーン内に“内的与件”が収蔵されていれはよいことになり、“内的与件”が一定の「延長性」をそなえていることも許されうる。が、その場合にも、内的与件が特異な存在であることには変わりがない。というのは、こうである。人は、身体内部をたとえ剖見してみたところで、知覚像や表象像という内的与件がどこかしらに収納されているのを観察的に実見できるわけではないことを承知している。つまり、“内的与件”は本人自身には現存し現識されるにしても、他人たちにとっては、よしんば体内を剖見してみてさえ観察的には現認できないことが了解されている。このさい、「観察的には現認できない」というのは、視たり聴いたり嗅いだり味わったり触ったり、要するに外部感覚的に知覚できないことの謂いである。“内的与件”は、他人によって観察できないだけでなく、たとい本人であれ、他者的視座を扮技する流儀での“外部的観察”によっては現認できない。この点で、“内的与件”は物体的・身体的存在(これは“外部観察的”な仕方で自他偕(「とも」のルビ)に現認できる)とはおよそ別異な存在で在ると認定される。」209-10P
(対話N)「こうして、“身体”に「内在」するとみなされた知覚像や表象像という“内的与件”は、直截に非延長的・非空間的存在とされるにせよ、“他者”によっては身体空間内で「観察的に現認できない」だけとされるにせよ、物体的・身体的な存在とは端的に別種の存在だとみなされ、しかも、それは当人自身にしか直接的には現存しない特異な存在として、――但し、当人自身にとっては一定のパースペクティヴな情景をなしつつ、所知的対象へと指向的・超出的に関わる“一世界”をなすものとして――「心的現象」「心的世界」と呼ばれるに及ぶ。そして、この心的世界が「内界」として、観察的に現認されるところの物的世界=「外界」と二元的に截断・対置される次第となる。」210-1P
第二段落――早速に確説しておくべき論件 211-7P
(この項の問題設定)「われわれは、以上において「外界」と「内界」との截断の論理構制のうち、いわゆる外部的知覚現相の“内在化”の機制に拘わる部面を主として縦観してきた。しかし、「内界」の措定には、いわゆる内部感覚や感情・意思、記憶・想像など、直接「内に」覚識される現象に定位する論脈もあり、また、感官生理・心理学における推論に定位する論脈もありで、これらに関しては別途の討究を要する。だが、行論の順序としては、そのための前梯も兼ねて、ここで早速に確説しておくべき論件がある。」211P
(対話@)「「外界」と「内界」との存在規定上の判別的特質を、前者は「延長的」で後者は「非延長的」であるとするにせよ、前者は「外部的観察可能」で後者は「外部的観察不可能」であるとするにせよ、果たして両者を「外部的−内部的」「外界−内界」という空間的布置関係で規定することが正当に許されるのか、端的に言えば、いわゆる“物的外界”といわゆる“心的内界”とは果たして真に「外界」と「内界」であるのか、後者は果たして前者の「内」部に存在するのか? われわれはこの件を問い返さざるを得ない。――ここでは、まず、仲介項となる「身体」の在り方に留目しつつ再検討の歩を進めることにしよう。」211P
(対話A)「“身体”が「外界」のうちに算入されるとしても、それは延長性とか外部的観察可能性とかからの単純な認定というにはとどまらない。そこには稍々複雑な構成が介在している。――身体は外界の一部をなすものとして「内界」を収容していると了解されるにせよ。謂うところの「内界」すなわち「心的現象界」は、少なくとも知覚的風景界の場合「この身体」の外部まで拡がっており、それはまた「あの身体」の外部まで展らけている。視角を変えて言い換えれば、謂う所の「心的世界」「内界」の内部に却って「あの身体」「この身体」が登場するのである。では、「あの身体」他者も「この身体」自分も、“私”の内なる単なる心的現象にすぎないのであるか? 事態を溯って把え返してみよう。――われわれの出発点はフェノメナルな知覚風景であった。知覚風景は、その都度、単なる射映的現相群以上の或るものとして覚識されており、そこにあっては“見掛”と“実相”とが区別して意識される。そして、さしあたり“見掛”すなわち“射映的現相”が「身体」依属的であることが対自化されたのであった。このさいの「身体」というのは、さしづめ、知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」にほかならなかった。そして“見掛”はいかに身体依属的であれ、あくまで「身体」の外部に現出するものだったのである。ところが、「あの身体」や「この身体」は、それらが知覚的射映現相であるかぎり、それらもまた“見掛”とされ、“見掛”である以上は“身体”の内部に収蔵されているものにすぎないということから、“収蔵庫”たる“身体”とは全く別々の存在であるかといえば、元来の含意では決してそうではないはずである。――知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」は、さしあたり射映的現相=“見掛”であるにせよ、それは単なる“見掛”“射映現相”より以上の或るもの=“実相”的“身体”と緊合していたはずなのである。とはいえ、「あの身体」「この身体」は、それらが“見掛”“射映的現相”であるかぎり、私の“この身体”に内在している。尤も、それはあくまで“見掛”たるかぎりでの「身体」のことであって、“実相”的“所知対象”としての“身体”は“私”に内蔵されているわけではないと考えられる。“あの身体”については、それが“実相”的に自存する“実在”たるかぎり“私の”“この身体”に内在することなく、外部に存在するとして話が一応済む。だが、“この身体”については厄介である。もし、これまた“実相”的“実在”として収蔵庫たる“私の”“この身体”の外部に在るとすれば、収蔵庫たる私の“この身体”のほかに、もう一つの“実在”としての“この身体”がそれの外部に在ることになってしまう。そこで、「この身体」が実相的実在としてはそれであるところの“この身体”と、収蔵庫たる私の“この身体”とは、一箇同一のものと考えられる。そして、自他の共軛的同権性からして、「あの身体」もそれが単なる射映相以上のものであるかぎり、彼にとっての射映的知覚現相の収蔵庫として認証される。――こうして、「あの身体」「この身体」は、「心的世界」内に射映的に現出しつつも、それ以上の実在的身体でもあるとして“実在的身体”と二重写しに把え返される。が、射映的現相としてはあくまでも内なるもの、所知的対象としては外なる実在的空間内に在るものとして、“射映的現相身体”と“自存的実在身体”とが「内」と「外」とにとりあえず空間的に分離される。」211-3P
(対話B)「ところで、しかし、自存的実在としての“あの身体”“この身体”の在り場所は何処であるのか? 物の在り場所、すなわち、空間的位置というものは、詳しくは次篇第一章第二節で論定するように、知覚的風景世界における事物の空間的な在り方はパースペクティヴな構図によって劃されており、“見掛”上の延長性(“見掛”上の大きさや距離)は“実際相”とそのままは合致しない。が、しかし、事物の在り場所(位置)は“見えて”いるその場所にほかならないものと即自的に思念される。対象的事物であれ、「あの身体」「この身体」であれ、“実際相”“実在的対象”としての在り場所は“見えて”いる場所と異なるわけではない、というのが即自的な思念である。(このさい謂うところの“見える”は“触知される”に推及され、痛みなどの場合には“感知される”に推及されるのであって、それは場所的規定性を伴って感性的に覚知されることの謂いである。)」213P
(対話C)「所謂実相的身体としての“あの身体”“この身体”の在り場所は、知覚風景に即すれば、まさしく「あの身体」「この身体」の在り場所にほかならないのである。裏返して言えば、「対象的事物」「あの身体」「この身体」の射映像は“この身体”に内在しているにせよ、実在的対象としての “この身体”は知覚風景上の「この身体」が“実際相”でそこに在るとされる当の場所に厳存するのであって、“あの身体”や“あの事物”も知覚風景上の“あの”場所、つまり“この身体”の外部に実在するものと思念される。」213-4P
(対話D)「ここにおいて、“この身体”内在的であるとされる「心的世界」を起点にして言えば、“実相的実在”たる“この身体”“あの身体”“あの事物”はことごとく外部にあることになり、茲に“事物”のみならず“身体”をも含む“実相的実在界”が、単に延長的な一存在とか外部的観察可能な一存在とかいう理由からではなく、それの“位置”規定に即して、「外界」に属するものと追認される。」214P
(対話E)「遡って惟うに、しかし、「心的世界」は“この身体”に「内在」するかぎり、“内奥の一点”に局在するという在り方をしているか、乃至は、“空隙的ゾーン”内に散在しつつも外部観察的にはその場所を認定できないという在り方をしているか、そのいずれかでなければならなかった。「心的世界」「内界」なるものの在り方を外部から空間的に規定しようとするかぎり、先に確認しておいた通り、われわれはこのようにしか言いようがない。ところで、「内界」なるものが一点に収斂しているとすれば、それはおよそ“世界”(つまり、「心的世界」とか「内的世界」とか)とは言えない道理であろう。しかも、当の局所的一点なるものが“身体”内部の何処に在るのか指定できない始末なのである。また、「内界」なるものが何処に在るか、観察的に現認することが原理上不可能であるとされるとき、それの位置を云々することは許されない道理ではないか。(このさい「内界」「心的世界」の位置ということと、例えば、痛みが対象的に感じられる位置、胸・頭・腹・歯・手足、等とを混淆してはならない。後論参照。)」214P
(対話F)「そもそもの話、「外界−内界」ということが有意味に言われうるかぎり、両界が共通=単一の空間内に所属するのでなければならない。しかるに、「延長的存在」と「非延長的存在」とが、乃至はまた、「観察可能的存在」と「観察不可能的存在」とが、共通=単一の空間に所属するとは事の原理上言えないはずである。「心的世界」は物理的“身体”内部の、ひいては“実在的空間”内部のどこに在るとも言えない。「内界」は「外界」の属する空間内のどこに存在するとも規定できない。とすれば、「物的世界」と「心的世界」とを「外部−内部」「外界−内界」という空間的関係で規定することが果たして許されるのか? それはナンセンスな規定ではないのか? 慥かに、「外界−内界」という構制にはナンセンスに通ずる空間概念の不当な適用が犯されている。」214-5P
(対話G)「更めて省みるに、人々が外部的知覚の射映的現相を身体に内在化させ、心的世界なるものを措定するのは(後述する「内感」「情意」「表象」の場合とは異なり)、「外在−内在」の布置関係を直接に認知することの基づくものではない。それは、他者にとっての射映的現相が「この身体」視座からする知覚的風景世界に直接的には現出しないという事実を“説明”すべく導入された配備であった。さしあたり確定的なのは射映的現相が他者および自分の“身体”に内在するかどうかではなく、他者たちにとっての射映的現相が自分の視座からは知覚的に現認できないという厳事実までである。この事実を説明するために、“内在化”をおこなうべき必然的な謂われはない。しかるに、身体という“ブラック・ボックス”への“内在”という“説明方式”を敢て採ろうとするところから、先に指摘したごとき空間概念の不当適用に陥るのである。」215P
(対話H)「翻って、「内的世界」「心的世界」なるものは“心象風景”ともいうべき固有の空間的秩序をそなえている。しかも、この「内的世界の空間的秩序」の枠組は、先述の通り「外的世界」の空間的秩序に内属するものではない。それでは、いわゆる「内的世界」「心的世界」に固有の空間的秩序は何に由来するのであるか? それはフェノメナルな射映的現相の呈するパースペクティヴな構図に由来する。それも当然である。というのは、そもそも「内的世界」なるものは各人の視座にとって展らけるフェノメナルな現相的情景を改釈して“内なるもの”と見做したものにほかならないからである。固有の空間的秩序をそなえた「心的世界」なるものは、嚮に指摘したところから闡(あき)らかな通り、“見掛”と“実相”との二肢的二重相にあるフェノメナルな風景に即して、謂うなれば“実相”をさしおいて“見掛”だけを“剥離”したものにほかならないのである。――“見掛”上の空間的秩序と“実相”上の空間秩序とは構図的には重ならない。このかぎりで、“見掛”上の空間秩序に由来する“内的世界”の空間的秩序は“固有”性をもつ。とはいえ、“見掛”上の空間と“実相”上の空間とは、先述の通り、位置的・場所的には二重写しにされるのが即自的な思念である。このかぎりで、「内的世界」と「外的世界」(いわゆる“実相的空間世界”)とは、位置的・場所的には、空間的に離在するわけではない。」215-6P
(対話I)「われわれの見地からすれば、こうして、いわゆる「外界」といわゆる「内界」とは、フェノメナルな世界がその空間的構制に関して“実相”と“見掛”との二肢的二重性において覚識される事態(射映的現相与件がそれ以上の或る“実際相”で所識されるという事態――尤も、日常的思念では、実相的実在が射映的見掛相で与えられるという顚倒した構図で覚識される――)、ここにおける両契機を特有の仕方で改釈したものにほかならないのであって、真実には、「外部−内部」という空間的布置関係にあるわけではないのである。いわゆる「外界」と「内界」とは、真実態おいては、およそ空間的に離在する自閉的・自己完結的な世界を形成するものではない。」216P
(小さなポイントの但し書き)「――前篇において縷説したところからして、更めて留意を求めるまでもないとは考えるが、われわれは“実相的空間世界”と“射映的空間世界”との二元主義的な“二世界”論を採るべくもない。既成の日常的思念において「内界」および「外界」として改釈的に見做されているものの原像たる“直接的”な「射映的現相与件」ならびに“実相的”な「意味的対象所識」は、あくまでフェノメナルな世界の構造的契機であって、独立自存するものではない。両契機はいずれも他から“剥離”して“自存化”せしめられては無(「ニヒツ」のルビ)である。しかるに、人々はとかく両者をそれぞれ“もの”化して自存視する。そのため、一者を“身体”に秘匿・収蔵して“内在”相で表象し、他者を独立自存の“外在”相で思念する仕儀に陥る。われわれとしては、この間の事態を自覚的に把え返し、原理的な場面においては、「外界」と「内界」との二元的截断を厳しく卻けつつ、恒にフェノメナルな世界の二肢的如実相に定位しなければならない。」216-7P
第三段落――われわれが既に確説したテーゼが妥当することの追認 217-24P
(この項の問題設定)「われわれの立論は、以上の範囲では、(イ)内感、(ロ)情意、(ハ)表象などに定位して“直接的に”覚識される「内界」の思念を勘案していない。今やこの欠を埋めつつ、これを勘案してもなおかつ、われわれが既に確説したテーゼが妥当することを追認することにしよう。」217P
(対話@)「人々をして身体の“内なる与件”という格別なものが現に存在するかのように覚識せしめる現象が慥かに認められる。われわれはこの現象的事実そのものを否認する者ではない。だが、人々が「内に覚識する」“与件”を以って“心的存在”ひいては“内なる世界”という格別な存在だと改釈的に措定することにわれわれは与(「く」のルビ)みしないのである。――尤も、“内なる直接的与件”なるものが存在するかのように“覚識”せしめる現象は幾つかのケースに岐れるので、それぞれに即しての検討を要する。」217P
(対話A−第一に)「第一に、いわゆる内部的感覚の場合である。人々は、頭部・胸部・腹部・足部など体内の特定部位に痛覚や存在感を感受する。このさいには、身体の内部に感性的与件が対象的に存在するように覚識される。――この場合、感知される“対象”が皮膚的界面の内部に定位されていることは確かであるが、しかし、それは、外部感覚たる視覚や聴覚の対象が皮膚的界面の外部に見出される発光体や音源態に定位されているのと同様な「“対象”の空間的・位置的な定位」であり、その位置が対象的空間内において皮膚より内側の個所を占めているということにすぎない。(いわゆる感覚が単なる質料的所与ではなく「所与−所識」成態であることは前篇で論究したところである。感覚が位置規定・位置値をもつのも「所与−所識」を俟ってである。)このさい、人がもし、いわゆる内部的・体性的感覚が皮膚的界面の内部に定位されているというフェノメナルな事実それ自体に即して“内なる与件”を云為するのであれば、それは認められてもよい。だが、単にそのかぎりでは、対象的与件をそれの見出される場所に応じて、体周半径何々メートルの外部と内部とに分類したり、腹の内部、口の内部という具合に分類整序したりするのと同趣的であり、「内なる心的与件」という格別な存在種や「内界」を措定せしめる所以とはなるまい。――ところが、視・聴・嗅覚といった外部的感覚の対象的与件は自分にとっても他人にとっても直截的に感知できる間主体的な与えられ方をしているように思えるのに対して、内部感覚は当人自身によって“内部から”しか感受できないという点で特異なな存在であるように覚識される。或る種の論者たちは、この覚識に立脚して、格別な「内なる与件」の存在を立論する。論者たちは、体性感覚が身体の内部という場所に感受されるという事実そのことに拠るのではなく、外部感覚の対象的与件が謂わば“外側から”間主体的に開かれた相で感受されるのにひきかえ、内部感覚は当人自身によってさえ“外側から”は感知できず、もつぱら“内側から”しか感知されないということを論拠にして「内なる与件」を云々するのである。いわゆる内部感覚がいわゆる外部感覚と様態を異にすることは確かである。だが、いわゆる内部感覚が“外側”から、つまり、視・聴・嗅・味・触覚の流儀で感受できないことは確かだとしても、それは果たして、語の正確な意味で“内側から”感受されるのであろうか? “内側から”という言い方は、さしあたっては、視・聴・嗅・味・触覚の場合との様態の相違を指称するものにすぎず、文字通りの意味で“内側”からではないはずである。――しかるに、論者たちは、われわれが前篇第二章第一節で排却した「視覚モデル」の「所知−能知」図式を秘かに持込むかぎりで、そのかぎりでのみ、“内的与件”を“内側から”“見る”という構図を立てている次第なのである。この誤てる構図の不当なる適用を卻けるとき、“内側から”という論者たちの主張は基盤が崩れる。――いわゆる内部感覚は、いわゆる外部感覚(視・聴・嗅・味・触覚)とは別の様態で感受されるということ、確かなのはここまでである。それはなるほど当人の体内という場所に感知されるが、この場所たるや対象的空間内での皮膚的界面の内部というだけであって、上述の通り、格別な意味での「内部」ではない。内部感覚は、また、当人の“視座”に定位された“射映”相で与えられており、他人の視座からは如実の射映相を知覚できないことも事実であるが(このさい“他人の視座”を扮技しての自己観察、つまり、自己の感覚を“外から”“眺める”という仕方によっては、如実の“射映相”を自分でも知覚できないことを含める)、これは何も内部感覚に限ったことではなく、本質的な構造においてはいわゆる外部知覚の場合も同断である。(射映的現相の身体布置依属性について上述したところを想起されたい。) ――こうして、いわゆる内部感覚・体性感覚は、いわゆる外部感覚の場合と感覚様態を異にする面があることは確かだとしても、格別な「内なる(心的)与件」の存在を論拠づけうるものではないのである。」217-9P
(対話B−第二に)「第二に、いわゆる感情や情緒、さらには情動や意志など、これらの「内に感じられる」現象が「内なる与件」ひいては「内面的世界」の存在という思念を使嗾する。――情意的ものが「内に感じられる」という場所的な規定性に関するかぎり、「内部感覚」について既述したところと同趣である。また、情意的なものが当人の“視座”に定位した“射映”相で現前し、他人の視座からはその如実の相を知覚できないという点についても、これは外部知覚や内部知覚とも同断であって、特筆すべき事柄ではない。ところで、情意的なものは、一方では「内に感じられ」つつ、他方では「外的」な対象と指向的関係づけられるという構制を明確に現示する場合があり、内部感覚のように身体の“内部で閉じ”てはいないという点に特質が認められる。しかも、情意が指向的関係づけられる「外なる対象」というのは、必ずしも外部知覚野に現前するものとは限らず、「内なる情意的所与−内なる指向的対象」が固有の“情意的世界”を形成するように覚識される。そこで、或る種の論者たちは、この“情意的世界”(それは身体の皮膚的界面の内部では閉じておらず、“外部”にまで拡がってはいるのだが、その“外部”が知覚的に現認される事物的な“実在的”外界とは別であるという特異な“世界”を形成している)を以って、格別な「内面的世界」と呼ぶ。だが、“情意的世界”が特別に「内的」な一世界と見做さるべき必然的な謂われが果たしてあるであろうか? なるほど、情意的なものが「内に」(すなわち、皮膚的界面の内部に)感得されるという事情が一方にあり、また、それが超出的・指向的に関わる領界が知覚的に現前する事物的な“実在的”外界とは別であるという事物が他方にあるかぎりで、“情意的世界”が“内面的世界”と呼ばれることには全く謂われがないわけではない。がしかし、それはさしあたり、“情意的世界”が「内部的感覚」とも「外部的感覚」とも別の状相で現前することを示すものであって、文字通りの意味で「内に在る」一世界の存在を主張せしめるものではないはずである。“情意的世界”は、いわゆる「外界」に対する「内界」を成すものではなく、フェノメナルな世界の一位層、知覚世界とは別の一位層たるにすぎない。」219-20P
(対話C−第三に)「第三に、いわゆる記憶や想像、さらには夢想や思考など、“内省的”に泛かんだり“創発的”に泛かんだりして、外部的知覚世界とは独立な“一世界”を形成するように覚識される現象があり、これが「内なる世界」という想念を機縁づける。――感性的知覚や感性的情意と区別して「表象」とか「観念」とか呼ばれるものが「内に泛かぶ」ように覚識されることは確かである。いわゆる「表象」「観念」は、外部的知覚を“閉ざし”、また、内なる感覚や感情や意志を“無化し”ている場合にも、現識され、しかも、それは「外部的世界」と指向的に関わっていることが覚識される。謂う所の「外部的世界」は、知覚的に現前化されうる“実在的”外界の場合もあれば、知覚的には現前しうべくもないことの了解を伴う固有の“仮想的”外界の場合もある。まず、表象が“仮想的”な“外界”と指向的に関係づけられて特有の“一世界”を形成している場合について謂えば、これは“情意的世界”について上述したところがmutatis mutandis (必要な変更を加えて)妥当するであろう。それゆえ、この場合、“表象的世界”が格別に「内なる」世界を形成するわけではないということの詳しい論定は割愛しても差支えあるまい。ところで、表象が知覚的に現前化されうる“実在的”外界と指向的に関わる場合については、茲で多少とも論及を要する。この場合には、表象とはいっても指向的な所識対象は知覚と共通であり、相違はもっぱら現相的与件が「表象」であるか「知覚」であるかに懸るように思われる。この相違の成立する基盤として、「表象的与件」と「知覚的与件」という二種のものが存在するのではないか? 人は、ここにおいて、「表象的心像」と「知覚的心像」なる二種の「内的与件」を想定し、それぞれが「外的対象」と指向的に関係づけられるという構制で表象と知覚との区別性を説こうとする。われわれの見地では、しかし、上述した通り、謂う所の「外部知覚」における「知覚心像」なるものはフェノメナルな射映的知覚現相を改釈して、“内在化”したものにほかならず、そのような知覚「心像」とかいう格別な与件が「内部」(身心の内部)に実在するわけではない。では、「表象的心像」なる「内的与件」については如何? これについても「知覚的心像」とパラレルに、フェノメナルな射映的表象現相を改釈して“内在化”したものにすぎないと主張するのであるか? もしそうであれば、フェノメナルな知覚現相とフェノメナルな表象現相との区別性が奈辺に存するのか? われわれは嚮に前篇の論脈中で、知覚と表象との弁別は原基的な直覚であること(勿論、錯誤に陥っていたとして事後的に是正される場合もあるが、その都度の意識態においては直証的に区別されていること)、知覚と表象との区別性は、質料的与件そのものの相違にあるわけでも志向的な意識作用とやらの相違にあるわけでもないこと、このことを論定しておいた。知覚と表象とは、指向的所識対象が一箇同一である場合でも、夫々の秩序態の総体として相違するのであり、そのことに俟って直覚的に弁別・覚識されるのである。(秩序態から切り離して個々の知覚と表象とを比較しようとしても判別がつかないが、――ここでの速断的な言い方は後論において是正する予定である――それは秩序態に即しての区別という弁別の機制からして当然であると言えよう。)知覚と表象という両つの秩序態の相違性が奈辺に存するかについては、しかし、空間的・時間的秩序に関して主題的に論考する次篇での論脈に譲ることにして、ここでは暫定的な断言に止めることを当面許されたいと念う。――われわれの見地では、いわゆる「表象的心像」なるものは「心」とやらの「内部」に在る特別な「像」ではなく、フェノメナルな射映的現相の一斑にすぎない。だが、と人は反問して言うかもしれない。いわゆる外部的知覚におけるフェノメナルな射映的現相は(“説明”的には「内的」与件とされることがあるにせよ)直接的な現相的覚識においては確かに「身体」の外部に現識される。これを「内的な与件」と言い做すのはなるほど屈折せる“説明”的技巧であると認めうる。しかしながら、いわゆる表象の場合は、それが「内に泛かぶ」のが現相的事実であり、表象的与件の内在性ということは説明的技巧ではなくして直覚的な認証である云々。ここには検討に値しうべき論件が現にある。記憶的であれ、想像的であれ、表象が「瞼の裏に泛かぶ」場合が慥かにあるように思われる。だが、表象は果たして常に「身体の内」に泛かぶであろうか? 歯の痛み、胸の痛み、腹の痛みを回想したり想像したりする場合には、痛みの表象は歯・胸・腹という体内の部位に定位されているかもしれない。が、眼前の蛇口から水の出る状景を想像したり回想したりする場合、或いはまた、眼前の鐘が鳴っている状景を想像したり回想したり為る場合、視覚的表象や聴覚的表象は蛇口や鐘という体外の場所に定位されている。表象の位置が明確に定位されているさいには、その場所は体内のこともあれば体外のこともある。決して身体の「内」に定位されているとは限らないのである。ところで、一般には、表象は知覚空間内の特定個所に明確な形では定位されていない。庭先に友人の俤(おもかげ)が泛かぶとか、昨日体験した状景が漠然と眼前のあたりに泛かぶとか、知覚的空間を背景としつつも、謂わば背面から浮き出たかの様子で、表象が漠然と「瞼に泛かぶ」場合も、瞼の裏という場所に明確に定位されているわけではなく、瞼のあたりの宙に漠然と泛かぶというのが実態である。こうして、表象は、知覚空間内の特定個所に個々の契機が定位される場合もありうるとはいえ、概しては、知覚空間の特定の場所に定位されることなく、固有の表象的空間秩序態を形成しつつ、謂わば宙に浮いた相で現前するのが普通であって、断じて、一部論者たちが思念するように「内に定位された在り方で覚識されるのが現相的事実」というわけではない。従って、内に泛かぶ(こともある)ということを論拠にして表象的世界を「内なる世界」として定位することは論理構制上も妥当しない。表象的世界は、なるほど知覚的世界とは様態を異にはするが、あくまでフェノメナルな世界の一位層である。」220-3P
(対話D−第四に)「第四に、これは直接的覚識というよりもむしろ推論に関わるむきが強いものであるが、知覚にさいして眼や耳から入来して受容された或るものが「内的与件」をなすように思念される事態がある。――この思念の場合、なるほど眼や耳や鼻や舌や肌から何ものかが入来するかのように感じられることまでは確かでも、「内なる与件」の存在が直接的に感受されるわけではない。「内なる与件」の現存在という立論は、知覚的射映の身体依属性をはじめ、一連の知覚的事実を“説明”するための可能的一配備たるにすぎない。論者たちが、「外部から入来して受容されたもの」を以って一種の物的存在(エイドロンとかエネルギーとか)と考えるとすれば、それは皮膚的界面の内部に存在するとはいえ、身体外部の存在と本質的に異なるものではなく、殊更に「内なる(外物とは別種の心的な)与件」と呼ばれるには値しないであろう。それは皮膚的界面の内部に在る物的な一対象ないし身体的一状態という埓に止まる。――ところが、或る種の論者たちは、かかる“身体内部的な物的存在”という域を超えて、「知覚心像」「感覚映像」という格別な心理的・精神的な存在を想定し、それが「内なる直接的与件」をなすと主張する。これは根強い既成観念というより知覚を“説明”する一つの理論である。だが、「知覚心像」等と称されるものは、論者たち自身にあってさえ所詮は“説明仮説”以上のものではない。(ここでは立入らぬが、知覚という現象を説明するためには、この仮説は決して必須ではない。)われわれに言わせれば、それはフェノメナルな射映的現相を改釈して“内在化”したものにほかならず、そのような知覚「心像」とかいう格別な与件が「内部」(身心の内部)に実在するわけではないこと、この件については既に詳説したところであるから、茲で復唱するには及ばないであろう。」223-4P
第四段落――この節のまとめ 224-5P
(対話@)「以上みてきたように、「内なる与件」ひいては「内界」なるものの存在を思念せしめる機縁が幾筋かあることは確かであり、これにも使嗾されて、間主体的=間身体的な場面に見られる或る事態を“説明”“了解”すべく「内界」なるものを各自に内属せしめようとする傾動がはたらく。――間主体的な場面で逢着する或る事態というのは、再唱するまでもなく、他人に現前しているはずの射映的現相が自分の知覚野には現出しないこと、亦逆に、自分に現前している射映的現相が他人にとっては現前していないことが覚識される、という事態の謂いである。――この間の事情は諒とすることができるし、われわれ自身、そのことを積極的に銘記する。」224P
(対話A)「しかしながら、真実態においては、「物的世界」と「心的世界」とが二元的に存在するわけではない。「外界」「内界」という二元化、ひいては両界の截断は、フェノメナルな世界の構造的二契機たる「意味的所識」と「現相的与件」とを“もの”化して自存視する錯認(精確に言えば、両つの位階における所与的所識態を“もの”化する錯認)に淵源するものであり、降っては、知覚的世界を「外的世界」と二重写しにしつつ、それとは様態を異にする表象的世界や情意的世界(というフェノメナルな世界の位層)を「内的世界」として改釈・対置することにも由る。」224P
(対話B)「「外界」と「内界」との二元化的截断、「物」と「心」との二元的截断、これはフェノメナルな原事態に関する錯認的改釈にもとづくものであるとはいえ、慥かに根強い既成観念をなしており、これに定位した「認識的世界」観が旧来における認識理論の枠組を決している。認識世界に関する旧来了解と内在的に対質しつつ、真実態を顕揚するためには、われわれ自身、今暫く、既成観念的枠組みの内在的検討を進めておかねばならない。」224-5P
第二節 <三項図式>の形成
(この節の問題設定−長い標題) 「「物的外界」と「心的内界」との二元化的截断は、その域に止まることなく、軈(やが)ては謂う所の「心的内界」を「内容」と「作用」との二因子から成るものとして把握せしめるに至る。ここにおいて、「意識対象−意識内容−意識作用」という三項図式が形成される。――「意識対象」とはさしあたり所謂「物的外界」の「内的与件」たる意識内容を所知・所動とする能知・能動の謂いである。――この三項図式は、「外界」と「内界」との二元化的截断という錯認に加えて、フェノメナルな世界という能知的所知=所知的能知の渾然一体的統一態における所知的契機と能知的契機とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断する謬見に基づくものにほかならないが、これは所謂「主観−客観」図式とも相即するものであり、既成の「認識的世界」観の構図を劃しているものである。」225P・・・やっと三項図式に。重要。
第一段落――「意識対象」と「意識内容」との分離的相関の部面に止目し、そこにおける問題論的構制の剔抉 225--30P
(この項の問題設定)「われわれは、まず、「意識対象」(さしあたり「物的実在」)と「意識内容」(いわゆる「内的与件」「心像」)との分離的相関の部面に止目し、そこにおける問題論的構制を剔抉しておこう。――尚、前節において「物的外界」と「心的内界」との截断を主題としつつも、物的世界そのものには敢えて立入らなかった所以でもあるが、われわれは次篇において事物的世界を主題的に討究する予定である。本節においても、それゆえ、いわゆる「物的外界」については「意識対象」という存在規定の埓内で配視するにとどめる。」225P
(対話@)「偖、前節の行文では知覚に関する省察と表象に関する省察とを分ける形をとったため、「外界」と「内界」との截断が知覚的世界風景の内部における“実相”と“見掛”との区別から起始するかのような扱いを事としたのであったが、「事物的外界」と「心象的内界」とが区別される端緒はむしろ「知覚現相」と「表象現相」との対比的区別に存するかと思う。――人々はいわゆる知覚といわゆる表象とを直覚的に弁別し、フェノメナルに現前しているのが知覚的状景であるか、それとも、記憶的ないし想像的な状景であるか、その都度弁別的に覚識する。尤も、反省的意識においては、前に知覚と思っていたものが実は記憶像ないし想像像にすぎなかったものと把え返される場合も生じうる。が、その都度の意識態においては、知覚であるか表象であるか、端的に判別した相で意識される。知覚は、実相と見掛との区別的覚識を孕みうるにせよ、知覚的に現認される身体の外部にまで拡がっている安定的な分節相で現前し、“臨場的現実感”を伴っている。それにひきかえ、記憶的回想や想像的思料などの表象は、知覚的情景ほど明晰・判明・安定的でないのが普通であり、“対象的現実感”にも乏しく、あまつさえ、謂う所の“内に泛かぶ”相で現出する。――「外に展らけて現存する知覚」と「内に泛かんで仮現する表象」という対比的区別の思念がここにおいてまずは即自的に成立する。」226P
(対話A)「「外に展らける知覚」と「内に泛かぶ表象」とが、こうして、とりあえず区別的に対比されるとしても、両者は決して全く無縁というわけではない。両者は秩序態の総体としてみればおよそ異貌であるにせよ、個々の知覚形象と表象形象とを比較してみれば、多少の変形(「デフォルメ」のルビ)こそ蒙っておれ、表象は知覚を模像的に再現したものになっていることが“判る”。知覚と表象とは原像(「オリジナル」のルビ)と模像(「コピー」のルビ)との関係に“ある”ことが覚識される。ここにおいて、さしあたり、「外なる知覚形象」と「内なる表象形象」とが「原像−模像」の関係にあるものと“了解”される次第である。――「原像」たる知覚形象は“実相”と“見掛”との両契機を孕んでいるが、「模像」たる表象形象は、とりあえずのところ、当の“実相”と“見掛”との両契機を孕んだ相での模像的再現であり、そのかぎりで、知覚的に現前する“実相”界の模像と見做されうる。より正確に言えば、フェノメナルな知覚現相は「射映的現相与件」と「実相的意味所識」との二肢的二重性において前者が単なるそれ以上の後者として覚識されており、ここに構造的相同性が存立しているのであるが、この構造的相同性において、知覚と表象との「射映的現相与件」(“見掛”)という契機どうし、および、「実相的意味所識」(対象的な“実相”)という契機どうしが、それぞれ「原像−模像」関係で対応しているものとひとまず思念されるのである。」226-7P
(対話B) 「ところで、しかし、われわれが前節において追認したごとき経緯に負うて、知覚における「射映的現相」(“見掛”)の契機は「身体」に依属するばかりか“身体”に内在するものとされ、果ては「心」に内に在る「心的存在」(知覚心像)とされるに及ぶ。そして、「射映的現相」たるかぎり、表象現相もまた、今では「内に泛かぶ」という覚識次元とは別の特有な意味において“内在化”され、「心」の内に在る「心的存在」(表象心像)とされるに至る。ここにおいて、知覚的射映現相(知覚心像)と表象的射映現相(表象心像)とが共に「内なるもの」「心的存在」として今や類同視されることになる。「知覚心像」と「表象心像」という“内なるもの”(“心的存在”)どうしが依然として「原像−模像」関係にあるとされることは妨げないが、しかし、今や知覚と表象との間には「外なる原像−内なる模像」という嘗つての関係は認められない。今では「外なるもの−内なるもの」の関係は、知覚と表象の間ではなく、「実相的所知対象」という“外的存在”と「射映的現相与件」という“内的存在”との間に移行する。だが、謂う所の「実相」(実相的所識)と「見掛」(射映的現相)とは、構図的に相似ではない。そこには、普通の意味での「原像−模像」関係は認められない。そこに認められるのは、たかだか、一定の(数学的「写像理論」に謂う意味での)写像的対応性にすぎない。人々は、しかし、とりあえずこの“写像的対応性”に留目して、「実相的対象」と「射映的心像」とのあいだに「原物−写像」の関係があるものと見做す。――翻って考えるに、知覚と表象とが「原像−模像」的に対応していると思念されていた折には、知覚と表象の「射映的現相」どうし、および、「実相的所知」どうしが、それぞれ模写関係にあるものと思念されていたが、果たして知覚的実相所知と表象的実相所知とは別々の対象なのであろうか? それは、実際には、一箇同一の実相的対象ではないのか。茲で、知覚における実相的所知と表象における実相的所知とは、別々の存在ではなく、一箇同一のものであると了解するとき、単一の「原物」が知覚心像と表象心像という二種のもので「写像」されることになる。――「知覚心像」と「表象心像」とは別種であるにせよ、「像」としては相似的・合同的であり、「原物」に対する写像的対応の様式は同一(写像的心像形成の具体的な方式は別途でも、写像的対応関係の様式としては同一)である、と了解される。そのうえ、知覚心像と表象心像は共に「内なる存在」「心的存在」「心像」という点で同類である。このかぎりで、「原物−写像」関係を一般的に論考する場面では、「知覚心像」と「表象心像」とを一括して扱うことができる。こうして、今や(知覚と表象とを「外なる原像−内なる模像」関係にあるとみなしていた素朴な思念に代えて)、知覚心像と表象心像とが「写像的心像」として一括され、それが「外なる原物」と対向的関係に置かれる段となる。ここに謂う「外なる原物」と「内なる心像」との関係が、「意識対象」と「意識内容」との関係にほかならない。」227-8P
(対話C)「「外なる物的存在たる実相的対象」と「内なる心的存在たる射映的心像」とが「原物−写像」関係にあると謂うが、「意識対象」と「意識内容」とのこの“写像”関係の内実はいかなるものであるか? われわれの見地から言えば、「原物」=「意識対象」として人々が思念しているところのものは、フェノメナルな現相世界において“見掛”と区別して“実相”と覚識されている対象的「所識」を“もの”化して自存視したものであり、「写像」=「意識内容」として人々が思念しているところのものは、フェノメナルな現相世界において“実相”と区別して“見掛”として覚識されている射映的「所与」を“もの”化して自存視したものであり、「写像」関係として人々が思念しているところのものは、両契機の「等値化的統一」を自存的な“もの”と“もの”との一関係として錯認したものにほかならない。真実態においては「射映的現相」が単なるそれ以上・以外の「意味的所識」として覚識されるのであるが、人々はこれを錯認し、あまつさえ“顚倒”した配位で看じ“外的実相”が“内的心像”のかたちで与えられる(映現する)ものと思念する。そして、意識対象たる“外的実相”と意識内容たる“内的心像”とを比較してみるとき、両者のあいだに「原物−写像」の関係があるものと人々は思念するのである。謂う所の“写像”関係は、われわれの見地からすれば、かかる錯認的思念を内実とする。」228-9P
(対話D)「茲では、しかし、敢て伝統的な思念の線に沿って一歩だけ議論を進めておこう。「意識対象」と「意識内容」とは「原物−写像」の関係にあるとみなされたとしても、“写像”的対応の在り方は一様とは限らない。「意識内容」のうち、或る種のものは「意識対象」の側と相同的に対応するが、或る種のものは相同的には対応しない、とい考え方が登場しうる。事実、或る論者たちはこの考え方を採り、「第一性質」(primary qualities)なるものと「第二性質」(secondary qualities)なるものとを区別する。」229P
(小さなポイントの但し書き)「空間的な大きさや形、それに不可入性、数などは対象的実在と相同的な対応性をもつものとされ、「第一性質」と呼ばれるが、色・音・味・温・冷・圧・通などは、「物的存在」「意識対象」の側に機縁的な“写像”的対象を一応もつにせよ、物的実在との相同的な対応性をもたず、そのままの相ではもっぱら「心的存在」「意識内容」としてのみ存在するものとされ「第二性質」と呼ばれる。」229P
(対話E)「第一性質と第二性質とのこの区別は「意識対象」なるものの既定的限定と相即する。日常的な常識では、色や音などについても“実相”と“仮相”とを区別しつつ、実相としての色や音が存在するものと素朴に信憑している。例えば、現状ではくすんだ色にしか見えていないが実際にはしかじかの鮮やかな色であるとか、かすかにしか聞こえていないが実際にはしかじかの大きな音であるとか……。ところが、第二性質たる色や音は単なる「意識内容」であって、「意識対象」の実相には色や音は属していないものと論者たちは認定する。論者たちにあっては、「意識対象」たる物的存在には色・音・味……は属しておらず、物的存在それ自身はもっぱら第一性質しか有たないものとして規定し返されているのである。(これをわれわれの見地から言えば、「射映的所与」がそれ以上・以外の或るものとして覚知される当の「或るもの」(対象的所識)のうち一部だけが物的に実在的とされることを意味する。) ――では、諸多の規定性のうちどれとどれとが「意識対象」と「意識内容」とのあいだで相同的に対応しており、どれとどれとが相同的には対応していないということの判別は、いかなる手続によって遂行されうるのか? 原理的・究極的には、一方の「原物」と他方の「写像」とを、すなわち、物的存在たる「意識対象」と心的存在たる「意識内容」とを、比較校合してみることによってのはすである。だが、果たして、そのような比較が直接的に可能であるか? 直接的には不可能だとすれば、いかなる間接的比較が権利づけられうるか? これは認識上の大問題であり、これの検覈は後論に譲らざるをえない。――ここでは、とりあえず、「意識対象」と「意識内容」とが、相同的に対応しないとされる場合をも含みうるが、ともあれ、「原物−写像」関係で思念されていること、このことを銘して次のステップへと移る段取りである。」229-30P
第二段落――「意識内容」と「意識作用」との相関におけるプロブレマティック 230-6P
(この項の問題設定)「われわれは、茲で、「三項図式」における第二項と第三項、すなわち「意識内容」と「意識作用」との相関の部面に視界を転じ、そこにおけるプロブレマティックを一瞥しておこう。」230P
(対話@)「「意識内容」「心像」が存在することは、意識の存在にとって必要条件ではあっても、十分条件ではないものと思念される。「三項図式」を相即的に支える思念にあっては、意識的な「内容」が成立するためには、「意識内容」のほかに、この「内なる与件」を直接的な対境とする能知的能識的作用が必要であるとされ、この「内なる作用」が「意識作用」ないし「心的作用」と呼ばれる。心的作用たる「意識作用」は、時によっては、単なる能知=能識的な作用という域を超えて、「意識内容」「心像」に対して一定の加工的能作を及ぼしたり、「意識内容」を自ら創出したりする能動=能作的な作用としても主張される。」230-1P
(対話A)「人々は、俗に「見れども見えず、聞けども聞こえず」と称される事態を体験する。ここにあっては、「意識内容」たる「心像」という「内的な与件」は現存すると考えられるにもかかわらず、当の「意識内容」が覚識されないのであるから、意識の成立にとって心像的与件の現存だけでは不十分であると判断される。現存する「内的与件」を覚知したりしなかったりする或る「能知的」契機が存在するものと思念される所以である。逆に、意識が存在する場合には、知覚的であれ表象的であれ情意的であれ、その都度つねに一定の“心象的心像”が“現前する”のであるから、意識にとって「意識内容」の現存が必要条件であると“認定”される。――人々は、また、俗に「観念を紡いで想像的世界を織り成す」とか「忘却の淵から記憶を引摺り出す」とか呼ばれる事態を体験する。ここにあっては、既存する「内なる与件」に対して或る能作=能動的な作用が及ぼされるように覚識される。既存する「内なる観念」を分解したり結合したり、変容したり再構成したり、この種の内的作用が発動されるように覚識されることも屢々である。さらには、いわゆる「創造的な思考」やいわゆる「生産的な想像」の場合など、内面的な作(「はた」のルビ)らきが、「意識内容」「心像」を産出するように覚識される場合もある。このたぐいの体験的覚識を追認するかたちで、「内的与件」に対して能動的な能作を及ぼすばかりか、「内的与件」を創出することすら可能な「内なる作用」が在るものと思念・主張される次第である。」231P
(対話B)「「意識作用」という心的な作用は「意識内容」に対して、単に能知=能識的に関わるばかりでなく、「意識内容」に加工的変容の能作を及ぼしたり、場合によっては「意識内容」を産出することさえ可能であると思念されるが、しかし、「意識作用」は「意識内容」に対して一方的に能動的であると考えられるわけではない。なるほど、能知性・能識性というかぎりでならば、「意識内容」の所知性・所識性に対して、「意識作用」は恒に“能動的”であると謂うこともできる。しかし、当の能知=能識的な関わりが「意識内容」によって謂わば“迫られた”ものである場合もありうるというかぎりで、「意識作用」は「意識内容」に対して“受動的”たりうるのである。――「意識作用」が「意識内容」に対して、多少の変様を加えたり、覚知を“拒む”という仕方で応じたりすることはできても、当該の「意識内容」そのものを産出することはできず、苟も覚知するかぎりは、所与の意識内容を基本的に“受容”せざるをえないケースがあり、この場合「意識(作用)」は「受容的」であると呼ばれる。これに対比して、「意識作用」が「意識内容」に加工的変容・改作の能作を及ぼしたり「意識内容」を自ら産出したりすることのできるケースについては、「意識(作用)」が「自発的」であると呼ばれる。伝統的な発想においては認識に関わる方面での「心」の「作用的能力」を「感性」と「知性」とに二大別するのが常識であるが、ここにあっては、「感性」は受容的であり、「知性」は自発的であるものと了解されている。」232P
(対話C)「「意識内容」と「意識作用」との関係は、こうして、「感性」の場合と「知性」の場合とで在り方を異にする。――まず、「感性」の場合について言えば、「心」「意識」の能知的作用は「意識内容」を受容的に「内なる与件」として与えられる。では、当の「意識内容」つまり感性的心像としての「内なる与件」はどのようにして存在するのか、感性的与件といえども「内界」に所属する「意識内容」である以上はあくまで「心」に内在するわけであるが、感性的与件については、それが「心」にアプリオリに備わって既在するとは誰しも主張すまい。感性的心像は、意識作用によって産出されるのではなく、意識作用の発現に先立って既に形成されていなければならないのであるから、それの形成者は「心」「意識」以外のものであるのほかない。感性的意識内容の形成者は、この論脈において、さしあたり、身体的過程であるとされる。尤も、身体が自己充足的に単独で感性的意識内容を創出するとは必ずしも主張されない。一般には、外なる物的存在、外なる意識対象からの刺戟を受納し、それを機縁にして、身体的過程が「内なる与件」を造出する旨が主張される。だが、身体という物的存在が「意識内容」「心像」という心的存在を造出することが一体可能なのであろうか。身体が形成しうるのは一定の神経生理学的状態、一定の大脳的状態までではないのか。身体的過程が、およそ端的に別種の非延長的・非質量的な「意識内容」という心的存在を因果的に造出すると主張するのはいかにも強弁である。そこで、このミステリーを回避すべく、身体が刺戟を機縁にして形成するのはあくまで一定の身体的・物質的状態までであって、この与件的状態を「意識(作用)」が覚知するのだと考え直してみる。こうすれば、ミステリーが一見回避されたかに思える。だが、果たしてそうであろうか。「意識(作用)」というものは、意識内容という心的与件ならざる身体的・物質的状態なる対象を直接に感知することが可能なのか。これが可能ならば、意識作用は意識内容という中項を介することなく直截に意識対象を感知することも可能ではないのか。従って三項図式は不用ではないのか、この旨をここで問い返すのは差控えよう。仮令、意識作用が直接に身体の感性的状態を覚知することが可能だとしても、先にみておいて通り、三項図式を相即的に支える思念にあっては、「意識内容」の存在が意識の現存にとって必要条件である。意識が存在するかぎりその都度つねに「意識内容」が必ず見出される。感性的意識にあっては感性的意識内容が現識される。それでは、この現識される感性的意識内容はどのようにして形成されるのか。身体的状態の直接的感知を云々する場合には、今や却ってこのことの説明が要求される。ところが、当座の仮定的前件によれば、身体的過程そのものは意識内容を形成しないということになっている。身体的過程が形成するのは一定の身体的状態までであるとすることによって辛うじて“ミステリー”が防遏されている。茲において、以下、感性的意識内容という心像の形成を説く途は、意識作用による自発的・能動的な創出という筋しか残されていない。しかるに、そうとなれば、「感性」の存在規定に関わる「受容性」ということが否認されて、「感性」もまた能産的に「自発性」ということになり、「知性」との区別が撤廃されざるを得ぬ破目に陥ってしまう。こうして、物的な身体過程が心的な意識内容を造出するというミステリーを強弁するか、さもなくば、「感性」と「知性」との区別を撤廃して感性も知性と同様に意識内容を自発的に創出する旨を説くか、ジレンマに逢着する所以となる。――「知性」の場合における「意識内容」と「意識作用」との関係はどうか。「知性」の場合、意識作用は既存する所与の意識内容に対して加工的変容の能作を及ぼしたり、時によっては、自ら意識内容を新規に創出したりもする。というのが既定的了解である。では、加工的変容の素材的与件が既成的に与えられるさい、当の与件的心像はいかにして形成されたものであるのか。人が、もし、ここで身体的過程による意識内容の造出を云々するとすれば、先に感性に即して確認したあのミステリーを免れ難い。それゆえ、知性的意識作用の加工的能作に対して素材的に“与え”られる意識内容=心像=観念も、実は、外的・即自的に与えられるものではなく、意識作用が自ら産出したものである、としなければなるまい。尤も、知性的意識作用は加工的変容・改作のその都度に素材を新規に産出する必要はないのであって、事前に産出しておいた素材に対して時に応じて適宜に加工的能作を加えるものとすることもできる。しかし、その場合、既製の素材的意識内容がどのように保存されているのかという問題が生じる。意識内容=心像=観念は「心」の内に収蔵されているはずであるが、一体、意識内容の収蔵的保存ということがいかなる機構によっておこなわれるのか。「心」とは謂うなれば“箱”の如き存在であるのか。既存するはずの意識内容が絶えず現識されているわけでなく、時に応じて覚識されたり覚識されなかったりするという事態も“箱”の比喩で一応の“説明”がつく。とはいえ、心的な「内界」が非延長的・非空間的であるとすれば、空間内的収納のアナロジーが果たして許されるであろうか。ここに聊か問題が残る。がしかし、この点は、とりあえず、問題ないものとしておこう。仮令そう譲ったとしても、溯って、そもそも意識作用なるものが自発的・能動的に意識内容・心像という心的存在を産出するということ自身が神秘的である。意識作用は、人々が現にしはしばそう覚識するように、一定の身体的状態に触発されて発動するのであろうか。もしそうだとすれば、いわゆる「身−心」因果関係を主張すべきことになり、物質的存在と精神的存在とのあいだに因果的作用関係を主張するというカテゴリー・ミステイクに陥る。(この「身−心」問題、および、そこにおける因果概念の適用がカテゴリー・ミステイクであることについては本書の第三篇と併せて、別著『<心−身>問題の構制』を参看されたい)。このカテゴリー・ミステイクを回避しようとして、意識作用の発動は全くの自発的発露であるとし、意識作用が自足的に心的内界を産出・形成する旨を主張するとすれば、その時には、「意識対象」「物的存在」が意識にとって無縁の存在となってしまう。このさい、「意識対象」(「外物」)との断絶はまだよいとしても、しかし、意識内容のその都度の状態には一定の脳髄的状態が一義的に対応しているという大脳生理学・心理学の“常識”とどう調和させるのか。目下の前提的了解によれば、脳髄における身体的過程が心像を造出するのではなく、意識作用が自発的に心像的意識内容を産出・形成するのであり、従って、意識内容に対応する脳髄の生理・物理的状態は意識の側が触発して成立させたものとせざるをえない。(ここでは「心−身」の予定調和的並行説は論外として差支えあるまい)。という次第で、意識状態と脳髄状態との対応性を閉却しえぬかぎり、「心−身」因果説という元の木阿弥のカテゴリー・ミステイクに還帰する所以となる。しかも、今では、意識の側が身体を触発して一定の物質的脳状態を形成するというオカルト的な作用の主張になり了る。となれば、いずれにせよ、能知能識的な意識作用が自ら心像を想像的に産出し、且つは、素材的与件たる心像を分解したり統合したり変形したりするということ、要言すれば。能知能識的な意識が一種の作用的効果を及ぼすということ、このことそれ自身が所詮はミステリーたることを免れない。――こうして、「意識内容」に対する「意識作用」の関係は「受容的」としても「自発的」としても、いずれにしてもミステリーに陥る。」232-6P
(対話D)「「意識作用」と「意識内容」との関係は「能知能識−所知所識」関係という埓を超えて、「能動−所動」性ないし「所動−能動」性の能作的な関係としての意義をもたせようとするとき、カテゴリー・ミステイクたることを所詮は免れ得ないのである。それでは、「意識作用」なるものを単なる能知能識的存在とし、「意識内容」なるものを単なる所知所識的存在とし、只管(ひたすら)その域に止まるならば、それで自足できるのか? 否である。この間の事情を見定めるためにも、今や三項関係の全体を視野に置きつつ、抜本的な検討を図らねばならない。」236P
第三段落――「意識対象」と「意識作用」という両極を配視しつつ、三項の実態を綜合的に検覈する 236-42P
(この項の問題設定)「われわれは、以上において、「意識対象」なるものと「意識内容」なるもの、また「意識内容なるものと「意識作用」なるもの、これらが相関的に措定される経緯を追認し、併せて、そこにおける問題性の一端を各個にみてきた。茲では、「意識対象」と「意識作用」という両極を配視しつつ、三項の実態を綜合的に検覈することにしよう。」236P
(対話@)「三項図式における第一項(意識対象)と第二項(意識内容)とは、相同的に対応するか否かは別として、ともあれ元来は「原物−写像」の関係にあるものと思念されており、第二項(意識内容)と第三項(意識作用)とは、能作的に影響し合うか否かは別として、少なくとも「能知−所知」の関係にあるものと思念されている。これら二項どうしの組の内部では、直接的な関係があるものと了解されている。ところが第一項たる「意識対象」と第三項たる「意識作用」とのあいだには直接的な関係はない。「意識作用」は直接的な関係はない。「意識作用」は直接的な所知的与件たる第二項=「意識内容」を介してたかだか間接的に「意識対象」と関わるにすぎない、とされる。「意識対象」と「意識作用」との直接的な関係が遮断されているところに「三項図式」の一つの特質がある。」236P
(対話A)「「意識作用」は「意識対象」とのあいだに直接的な「所知−所識」関係をもつことはできず、能知たる意識作用に所知として直接的に与えられるのは意識内容に限られるという了解、これが「内在の命題」(Satz der Immanenz)ないし「意識の命題」(Satz des Bewußtseins)と呼ばれるものにほかならない。三項図式の含意する「内在の命題」からして「能知−所知」関係は直接的には意識的「内界」の内部に局定される。しかうるに、「意識的内界」(「心」)なるものは、各自の“身体”に“内在”するというのが「外界」と「内界」との截断にさいしての了解事項であり、また、それが「意識内容」なるものが措定されるさいの了解事項でもあった。それゆえ、「内在の命題」は「意識的内界」が各人に内属することを含意し、「意識内容」が各私的(jemeinig)であること、況んや「意識作用」もまた各私的であることを当然の含意とする。(ここに措定される「意識はその都度各々の“私”に固有である」という命題を、以下では「意識の各私性(Jemeinigkeit)の命題」と呼ぶことにしよう)。こうして、三項図式のもとでは、意識は外的対象との直接的な関係を截断され、「能知−所知」の意識関係はもっぱら各人の内部における出来事と了解される。三項図式と相即する思念のもとにあっては、「認識」は、外的対象と間接的には関わりうるにせよ、直接的には各私的内在性の埓を超出できないことになる。(ここから認識論上の諸々のアポリアが出来(「しゅったい」のルビ)する次第については次節において主題的にみる予定である。) ――尤も、省みるまでもなく、「外部的対象」と「内部的意識」(「意識内容−意識作用」)との截断は「外界」と「内界」との截断に由来するものであり、三項図式形成の前史的経緯からして既定的とみなされる一事項という以上のものではない。」237P
(対話B)「ここで更めて銘記さるべきことは、三項図式においては「意識対象」と「意識内容」とが「外界」と「内界」とに分属させられるという仕方で截断されているばかりでなく、“内界”に共属する「内容」と「作用」もまた或る意味では“截断”されているという事実である。「意識内容」と「意識作用」とは、統一的・単一的事態の二契機といったものではなく、一方に意識内容というものがあり、他方に意識作用というものがあるという相で、両項はそれぞれ“自存的”な或るものとして了解されている。――「意識内容」と「意識作用」とは、合して「内界」を形成するのであるから、無論緊密な関係にあるには違いない。時としては、両者は統一的・単一的な事態の双つの契機たるにすぎないかのようにすら覚識される。とはいえ、内的与件たる意識内容は既在的に現存すると考えられるにもかかわらず、能識作用が発動してそれを覚知するに至らないために、それが現識されないという場合がある。また「意識作用」は、セルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)に自己(意識作用)を意識しても、与件的心像たるあれこれの意識内容を覚識せずに済んでしまう所謂「自己意識=自覚」(Selbstbewußtsein)の場合もある。さしづめこのようなケースが存在しうるという“事実”に徴して、「意識内容」と「意識作用」とは一応別々の存在であり、必ずしも共軛的に相補的な不可分的契機であるわけではないこと、内容だけ現存して作用が未在の場合や作用が発動していても内容は関与しない場合がある以上、両者は一応“自存的”な項たりうること、このことが“判る”。――「三項図式」における「意識内容」と「意識作用」とは、“触知モデル”に即した能知的所知=所知的能知の統一的渾一態の相ではなく、前篇第二章に謂う「視覚モデル」に即した「所知−能知」の“空間的分離”の相で、あまつさえ「見られるもの−見るもの」の関係相で想定されていると言うこともできよう。」237-8P
(対話C)「われわれの見地から批判的に言えば、「外界」と「内界」とは、従って「意識対象」と「意識内容」とは“空間的に”截断さるべきものではなく、また、所知的意識内容と能知的意識作用も「視覚モデル」の流儀で“空間的に”分離さるべきものではない。「三項図式」における「意識対象」「意識内容」「意識作用」という三つの項は、真実態においては、決して自存する“もの”ではない。謂う所の三つの「項」は、能知的所知=所知的能知の如実の統一態における契機を“もの”として自存視し、自存的な三つの存在者として銘記したものにほかならない。」238P
(対話D−第一に)「われわれは、まず第一に、“身体”(ないし「心」)に内在する「意識内容」というものは存在しないと考える。われわれの見地にとっては、意識内容の各私的内在性の命題は妥当しない。われわれとしても、人々が誤って「内なる与件」「心像」「観念」「意識内容」として改釈的に思念している或るものが存在するということまではひとまず認める。行文中嚮に指摘しておいた通り、「意識内容」として思念しているところのものは、フェノメナルな現相における“射映的与件”の契機が誤って“内在化”されたものなのである。正確に言えば、それは内在化された純然たる“射映的与件”というより、むしろ「射映的与件−或る種の意味的所識」の二肢的二重態が“内在化”されたものになっている。このかぎりでは、時によっては、内在化された射映的与件というよりも、フェノメナルな現相の一全体が内在化されたものになっている。但し、二肢的二重態たるフェノメナルな現相の一全体の内在化といっても、そのさいには、意味的所識性の契機が謂うなれば二重化され、そのうちの一者が外的な「意識対象」として括り出され、他者が内的な「意識内容」と二重写しにされているのである。こうして、「意識内容」「観念」と称されるものは、単なるレアールな射映的与件以上のイデアールな契機をも孕む。これが実情であって、“身体”ひいては「心」の内なる直接的な与件なるものは実際には存在しない。」239P
(対話E)「だが、と人は反問して言うかもしれない。俗に「見れども見えず、聞けども聞こえず」と謂われる事態などにあっては、意識内容が内在しているにもかかわらず覚識されない場合があること、覚識こそされないが意識内容が裡に現存していること、このことが証拠立てられるのではないか? われわれの答は、否である。見えてはいず、聞こえてはいないこと、フェノメナルな現事実はここまでである。人々は類似の情況との統一的“説明”の一方式として、意識内容なるものの内在的現与性という共通の事態を想定し、それが覚知される場合と覚知されない場合との別が岐れる旨を説こうとするが、内在的与件なるものが共通に現存するということは何ら実証された事実ではない。それは一つの“説明仮説”たるにすぎないのである。(感官生理学的にみてよしんば類似の状態が形成されているとしても中枢的な脳の状態が相違するといった別の“説明方式”が、これをわれわれが採るか否かは措くとして、現にいくらでも存在しうる。今問題の“説明仮説”は、常識的にポピュラーではあるにせよ、およそ唯一合理的な仮説といった代物ではない。溯って、意識内容なるものは、原理上、観察的実際にほかならないものであり、“内省的に覚識される”という思念によって辛うじて支えられているものである。このことを惟うとき、「覚識されざる意識内容」の存在などということは、とうてい“検証”不可能な仮説でしかありえない。それは“説明仮説”としても臆弱にすぎる)。では、「記憶を心の奥から引摺り出す」という覚識は如何? これは内的心像の存在を証拠立てるのではないか? 否である。人は、貯蔵されている記憶心像の内在性ということは、説明仮説というよりも“意識箱論”と相即する比喩に類するものにすぎまい。われわれは後顧の憂いなく、「意識内容」「心像」「観念」なるものが真実には「内在」するわけではない旨を反立しうる。」239-40P
(対話F−第二に)「ここで、次に(第二に)、「意識対象」なるものに止目しよう。人々が「意識対象」「外的実在」として思念しているところのものは、嚮にも指摘した通り、われわれの見地から言えば、フェノメナルな現相界における“意味的所識”の契機が誤って“外在化”され、“射映的所与”の契機から存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断されたものである。尤も、正確に言えば、それは“意味的所識”一般が自存化され外在化されたものではなく、意味的所識のうちまさに“実相的”“実在的”と思念された領分が“もの”的に自存視され外在化されたものと言わねばならない。それは、フェノメナルな知覚的現相界における“実相”と“見掛”という区別相での“意味的所識”と“射映的与件”との「外界−内界」的截断において外在視される前者の契機に淵源するところから、身体外在的な諸対象ばかりか身体をも包摂する所以となる。この意味で、フェノメナルな知覚的空間世界の内部で特定領域だけが外在的対象界とみなされるわけではなく、フェノメナルな知覚的現相界に現前的に展らけうるおよそあらゆる領域が実相的実在的な「意識対象」界とされうる。あまつさえ、「外界」としての「意識対象」界が措定される元来の手続と論理構制からすれば、記憶的・想像的・思考的「表象的世界」はおろか、「情意的世界」をも含めて、およそフェノメナルな現相世界一般における“意味的所識”の契機がことごとく「意識対象」界とされることを妨げられない。が、しかし、事実の問題として、伝統的思念においては、「意識内容」とのあいだに相同的に対応する写像関係にある“原物”相のみが実在的対象たる「意識対象」と目されるのが普通である。また、伝統的思念においては、「意味的所識」のイデアール・イルレアールな存在性格を把握することなく、意味的所識対象を“もの”化するのにともない、「意識対象」こそ優れて実在的(「レアール」のルビ)であると思念されている。われわれの見地からすれば、しかし、「意識対象」それ自身なるものはイデアールな意味的形象(「ゲビルデ」のルビ)たるにすぎず、「意識内容」なるものが自存しないのと雙関的に、自存的な「意識対象」なるものも真実には自存しない。また、「意識内容」とのあいだに相同的な写像関係のある“原物”相なる限定は、この思念にしかるべき機縁と事由が存することは認めうるとしても原理的に言えば、一種の恣意的限定たるにすぎない。総じて、われわれの原理的見地にとっては、いわゆる「意識内容」(正しくは“射映的現相”)から独立自存する「意識対象」なるものは存在しないのである。(ここでの誤解を招き易い立言は次篇において物理的実在の何たるかを論ずるさいに矯正することにして暫く臆断にとどめる)。」240-1P
(対話G−第三に)「最後に(第三に)、「意識作用」として思念されているものについて言えば、それは能知的所知=所知的能知の渾一的統一態から能知的契機を自存化せしめ、あまつさえ、意識内容なるものの自存化にともなって能作的力能として思念したものにすぎず、自存的な「意識作用」なるものは存在しない。尚、「三項図式」においては「意識作用」が「意識対象」との直接的な関係を遮断される構制になっている旨を嚮に指弾したが、われわれは能知的所知=所知的能知の渾然一体相を顕揚するからといって、所謂「意識作用」と所謂「意識対象」とが直接的に「能知−所知」関係に立つと主張する物ではない。われわれは“自存的”な項として“もの”化された「意識作用」と「意識対象」とを直接的に関係づけようとするのではなく、「三項図式」の構図的前提そのものを止揚しつつ、フェノメナルな能知的所知=所知的能知に定位しようと図る。」241-2P
(対話H)「以上みてきたように、「三項図式」が形成されるのにはしかるべき前史・経緯・事由があり、これが旧来における「認識世界」観ひいては認識論の構図を劃しているのも決して謂われなしとしないのであるが、われわれとしてはこの“図式”に与(「く」のルビ)みするわけにはいかない。「三項図式」は、フェノメナルな現相における「意味的所識」と「射映的所与」の両契機を“もの”化して自存視しつつ「外界」と「内界」とに截断し、さらには、「射映的所与」と「意味的所識」との二肢的二重性を孕む「能知=所知」の統一態を「所知的内容」と「能知的作用」とに截断するという二重の錯認・改釈の所産であり、われわれとしてはこの錯認的改釈を卻けて、フェノメナルな世界現相の原姿に立帰り、それの存立構造を正しく把え返す途に就かねばならない。――尤も、「三項図式」における「意識作用」と「意識対象」との両極的対置の構図、これが「主観−客観」図式にほかならず、(学史的事実の問題としては、「意識作用」対「意識内容・意識対象」の対立関係とされることもあるのだが)、「三項図式」を背景とするこの「主観−客観」図式が旧来における認識論の構制を決する所以のものとなっている。それゆえ、われわれが旧来の認識論の構制そのものを内在的に止揚しようと図るかぎり、今暫くのあいだ、「三項図式」とその帰結とに対して対質しておくことを要件とする。」242P
第三節 認識論の基幹的構図
(この節の問題設定−長い標題) 「「意識対象−意識内容−意識作用」という<三項図式>において三項相互間の関係を具体的にどう把握するか、これをめぐって旧来における認識論上の立場的諸理説が分立する。そのさい、「真なる認識とは意識対象の実相と合致するごとき意識内容である」という真理観が、まずは共通の前提的了解事項をなしている。――意識内容は意識作用に対してしかるべき仕方で模写的に再現された意識対象の相在であるという存在的(「オンティッシ」のルビ)了解の構制に立つ認識論が「模写説」であり、意識対象の相在とは意識作用に依って一種独特の仕方で構成的に産出された意識内容にほかならないという存在的了解の構制に立つ認識論が「構成説」である。これら模写説と構成説とがひとまず相補的に対立するが、この対立性を<三項図式>の埓内にあって超出しようと企てる「把捉説」とも呼ばるべき立場も登場する。――われわれは旧来におけるこれら諸立場のいずれをも卻けつつ、「三項図式」ひいては「主観−客観」図式そのものの止揚に基づく新しい構制の認識論を構築しなければならない。」243P
第一段落――旧来における認識論の構制をイデアルティピッシに素描し、そこにおける問題性を必要最小限追認する 243-9P
(この項の問題設定)「われわれは今爰で、旧来における認識論上の諸立場を学説史風に縦覧する心算も、類型的に整理する心算もない。茲ではわれわれなりの認識論上の構案を提示し得れば足る。――とはいえ、課題状況を対自化しつつ、われわれ自身の構案を呈示するためにも、旧来における認識論の構制をイデアルティピッシに素描し、そこにおける問題性を必要最小限追認するところから始めたいと念う。」243P・・・まずは「模写説」から「把捉説」・「構成説」
(対話@)「偖、素朴な日常的意識においては、認識とは対象的実在の模写であるものと淳朴に信憑されている。このさい、対象的実在とその模写認識というのは、われわれが前節の行論中で一瞥しておいた「知覚」と「表象」(但し、前者が“外的存在”と二重写しに思念され、後者が“内に泛かぶ”相で覚識されているかぎりでの)とを「原像−模像」関係相で現識したものという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ないものと目される。ところが、一定限省察が深まると、前節において稍々詳しく辿っておいた通り、「知覚」と「表象」とが一括して「内なる心像」「意識内容」とされ、これに対向する項として「外的実在」たる「意識対象」なるものが立てられるようになる。この「意識対象」と「意識内容」とは、「原物−模像」の関係にあるものと了解されているにせよ、必ずしも相同的に対応するとは限らないとされる。従って、ここでは「意識内容」のすべてが「意識対象」と相同的に対応する模像的な再現であるとは思念されない。翻って、しかし、語の広義における認識形象にはすべての「意識内容」が算入されうるとはいえ、狭義における「認識」形象は意識対象たる「外的実在」と相同的に対応している意識内容に限定されるのが普通である。このような事情があるため、「認識」(真の認識)とは、意識対象と相同的に対応する一種の模像であるものとトートロジカルに称されうる所以となる。という次第で、省察的な意識にあってさえ、「認識」を以って「外的実在」たる意識対象の模写であるとする主張が成立する。われわれが茲でまず問題にしておきたいのは、この省察的な準位での「模写説」、すなわち、真なる認識形象たる意識内容は意識対象と相同的に対応する「意識対象の模像」であるとする立場である。」243-4P
(対話A)「「模写説」の立場と一口に言っても、この立場に属する理説は、感性主義的経験論と知性主義的合理論との二大種別に岐れ、この各々が更なる下位区分に岐れるという具合に、多岐多様である。此説は、これら多岐なそれぞれの仕方において「認識」が如何にして成立するかを説く。われわれとしては、しかし、此説の細目には一切立入ることなくしても、模写説という立場そのものが認識論的に妥当し得ない事実を直截に指摘することができる。そのためには、「認識」と「誤謬」(認識という詞を広義に用いれば“真正なる認識”と“錯誤せる認識”)の判別基準に止目し、模写説の立場においては「認識」と「誤謬」との弁別が原理的に不可能であり、「認識」なるものが権利づけられないことを端的に証示すれば足る。」244P
(対話B)「「模写説」の立場にあっては、「認識」と「誤謬」とを判別する基準は、あらためて誌すまでもなく、当該の認識形象たる認識内容が意識対象と相同的・模像的に合致しているか否かである。この合致・不合致を判定するためには、意識対象と意識内容とを能知的意識作用が比較してみなければならない。しかるに、<三項図式>と相即する「内在の命題」「意識の命題」によれば、意志作用は意識対象と直接的に関係することは不可能であり、能知たる意識作用にとっての直接的な所知的与件は意識内容に限られている。従って、意識作用は意識対象と意識内容との両者を比較しようとしても、一方の「意識対象」を直接に知ることはできない。(そもそも、もしも意識対象を直接に知ることができるとすれば、何も意識内容を介して模写的に間接的な認識をおこなう必要はない道理である。意識対象を直接的に知ることができないからこそ意識内容による模写ということが要件をなしたわけである)。意識作用が比較できるのは、たかだか或る意識内容と別の意識内容、つまり、意識内容どうしである。こうして、「三項図式」ひいては「内在の命題」を前提にする模写説の立場にあっては、「認識」と「誤謬」との判別にとって必須の要件たる「意識対象と意識内容との比較」をさしあたり直接的な仕方で遂行することは不可能である。換言すれば、模写説の立場では「認識」と「誤謬」との直接的な弁別がまずは原理的に不可能である。」244-5P
(対話C)「尤も、ここには一考を要すべき思念がある。直接的な弁別こそ不可能であれ、何らかの間接的な方式によって、「認識」と「誤謬」との弁別が可能ではないのか? 何らかの方式によって「意識対象」と「意識内容」とを比較することができるのでないか? 三項図式のもとでは或る意識内容を別の意識内容と比較することしか不可能であるとはいえ、もし、意識対象と相同的に対応する模像であることが保証されているような格別な意識内容が存在するとすれば、その“格別な模像的意識内容”に徴することによって間接的な比較が可能になるはずである。では、そのような“格別な意識内容”として認証されうるたぐいの意識内容が現実に存在するであろうか。感性主義的経験論では或る種の感性的意識内容を挙げ、知性主義的合理論では或る種の知性的意識内容を挙げる。前者によれば感性的意識内容は本源的には意識対象による刺戟を「受容的に」再生したものであるが故に対象照応性をもち、後者によれば知性的意識内容は本源的には感性的混濁を蒙ることなく「自発的に」創生したものであるが故に対象照応性もつとされる。ここにおいて、もし、感性主義的経験論が感性的意識内容はすべて意識対象と相同的に対応する格別な意識内容であると主張するのであれば、また、知性主義的合理論が知性的意識内容はすべて意識対象と相同的に対応する格別な意識内容であると主張するのであれば、いずれもそれぞれの立場的主張として一応の筋が通っていよう。しかしながら、実際問題としては、前者が知性的表象を貶価(「へんか」のルビ)し後者が感性的表象を貶価してそれぞれ対象照応性の保証なしと認定する所以でもあるが、感性主義的経験論の見地にとってさえすべての感性的意識内容が対象の実相と模写的に照応していると主張するわけにはいかず、また、知性主義的合理論の見地にとってさえすべての知性的意識内容が対象の実相と模写的に照応していると主張するわけにはいかない。そこで、前者は或る種の感性的意識内容だけを対象模写的であるとし、後者は或る種の知性的意識内容だけを対象模写的であるとする。ところで、同じく感性的・受容的な意識内容でありながらそのうちの特定のものだけが、また、同じく知性的・自発的な意識内容でありながら、そのうちの特定のものだけが、それぞれの見地において、意識対象の実相と相同的・模写的に照応するものとして特権的に選別されるさいの根拠は何であるのか。意識対象そのものと直接的に比較校合する途は遮断されている以上、意識内容の一部がよしんば著しい徴標を具えているとしても、その特徴をそれ自身は何ら対象合致性の証拠たり得ない。学史的事実上の問題として、徴標が挙示されることはあっても、特権的選別の根拠が明確な権利づけをもって提示されたためしはない。惟えば、それも当然である。けだし、間接的比較ということは、それがオリジナルとの間接的比較であるかぎり、論理構制上、少なくとも一度は或る局面で直接的比較が遂行されることを要求する。しかるに、間接的比較にオリジナルとの間接的合致を保証すべき所以の、当の直接的比較が原理上遮断されている。茲にあって、特権的選別の根拠は提示さるべくもない所以である。こうして、模写説の立場にあっては「認識」と「誤謬」とを間接的に弁別することも不可能なのである。――」245-7P
(対話D)「われわれの見地から批判的にみれば、右に指摘した通り、「模写説」の立場にあっては、それの前提する<三項図式>と「意識の命題」からして、意識対象の直接的認知、意識対象と意識内容の直接的比較が原理的に遮断されているため、帰するところ、「認識」と「誤謬」とを判別する(対象との合致・不合致を判定する)ことが原理的に不可能であり、「認識」(意識対象と相同的・模写的に合致する意識内容)を権利づけることが本質的に不可能である。それにもかかわらず、模写説論者たち自身は、或る種の認識形象は対象的実在の実相と合致しており或る種の認識形象は合致していないことを弁別的に認証できているものと信じ、「認識」と「誤謬」とを正当に判別しているものと思念している。われわれとしては、ここで、論者たちのこの思念の実態を分析し、「模写説」が建前に反して、実質的には一種の「構成説」になりおわっている事情を剔抉しておこう。――論者たちは或る種の認識形象(例えば第一性質の観念)は意識対象たる客観的実在の実相と模写的に合致していること、或る種の認識形象(例えば第二性質の観念)は客観的実在の実相と模写的に合致していないこと、このことを思念上“知って”いる。ということは、論者たちが客観的実在の実相を既に“知って”いることを意味する。だが、意識対象たる客観的実在を直接的に“知った”わけではないはずである。(もし、直接的に知ったとすれば、「内在の命題」に牴触することは措くとしても、直接的「把捉説」になって「模写説」ではなくなってしまう)。では、論者たちは対象的実在の実相を如何にして“知った”のか? 対象的実在界についての“実相”観なるものは、実際問題としては、一種の先行的既成観念であるとしても、われわれはそれの論理構制を検討してみなければならない。論者たちに直接的に与えられているのは、三項図式や内在命題の前提からして、さしあたり意識内容=心像=観念だけである。論者たちは、この“直接的な内的与件”の或る種のものに“客観的実在”の“実相”と相同的に合致する「模像」という意義づけを与えているわけである。が、このさい、“客観的実在”“外的実在”なるものも、それが意識されているかぎり、「内在の命題」からいって、それ自身、さしあたっては意識内容=心像=観念というかたちで意識に内在する心的形象でなければならない。つまり、論者たちの“知って”いる“客観的実在”とその“実相”は、外的存在という意義づけこそ賦(「あた」のルビ)えられているにしても、それ自身としてはさしあたり意識内容であり、「心」「意識」に内在する“心的な一存在”なのである。そして、この“心的な一存在”たる対象像が、他の普通の心像・観念とは特権的に区別されて“客観的実在”と見做されているという次第なのである。こうして、“客観的実在”論者たちが或る種の“心像”を「模像」とみなすさいの「原像」たる“客観的実在”なるものは、特別な仕方で、ないしは、特別な意義づけを賦与して「構成」された意識内容たるにほかならず、それ自身としては「心」「意識」に内在する心的形象たるにすぎない。論者たちはこの“格別な”心像を以って“客観的実像”と遇しつつ、他の心像群をこれと比較して、合致・不合致を判別しているのである。論者たちの建前では、意識対象(外的存在)と意識内容(内的存在)とのあいだの相同的・模写的な合致が主張されているのであるが、実態においては、意識内容(心像・観念)どうしの相同的合致が認知されているだけであり、論者たちが客観的実在=外的意識対象として思念しているところのものは“格別な心像”にほかならない。この“格別な心像”は“客観的実在”という格別な意義づけを賦与して構成された“内なる現象”であって、模写説論者たちは、「外的な実在的対象の模写」という建前に反し、「内的な“実在的対象”の構成」を遂行しているのが実態である。――」247-8P
(小さなポイントの但し書き)「(ここでの言い方は原理的な論断であり、論者たちが客観的・物理的対象の実在性とそれの模写的認識ということを主張するのには諒解しうべき事情がある。われわれは次篇第三章第一節において、客観的実在相とは認識論的にみて何であるか、また、模写と思念されていることの実態は何であるか、これを積極的に示すであろう)。」248P
(対話E)「「模写説」にあっては、あまつさえ、意識対象たる客観的実在そのものは原理上「不可能な」「物自体」(Dinge an sich,things themselves)とさるべき構制になっている。模写説は<三項図式>を前提とするかぎりで、意識対象たる外的実在の存在を当然の了解事項とする。が、ほかならぬ<三項図式>が含意するところの「内在の命題」の故に、意識作用が直接的に知りうるのは「内的与件」たる意識内容までである。現に、論者たちがそれの“実相”的規定性を“知って”いるつもりの“客観的実在”も、先にみた通り、実は、格別な仕方で構成された「内なる対象像」という意識内容たるにすぎない。論者たちは思念上の“客観的実在”とその“性質”を対象的に“認識”してはいるが、それは所詮“意識的内界”“心”の中での出来事たるにとどまり、外的実在自体、客観的実在それ自体は圏外に置かれている。外的実在そのものは、論者たちの論理構制から言って、(“原像”の直接的認識が不可能な以上、“模像”と称される認識形象が果たして対象自体と相同的に対応しているかどうか判定しようがないのであり)、事の原理上、認識不可能である。それはまさしく「不可知」な「物自体」にほかならない。――こうして、「模写説」は、われわれの見地から分析的に検覈してみるとき、外的実在を「不可知」な「物自体」として立てつつ、いわゆる“客観的実在”相は特別な仕方で「構成」された意識内容にすぎない旨を“立論”する構制になっているのであるから、実態においては、建前を裏切って、一種の“構成説”になっている次第である。」249P
第二段落――「構成説」の把え返し 249-54P
(この項の問題設定)「われわれは、茲で、認識論上「模写説」と対立する「構成説」に眼を転ずることにしよう。「構成説」と呼ばれうる立場にも様々なヴァリアントがあり、理説そのものの内部に立入れば、認識能力の問題、認識形式と質料の問題、物自体の問題、先験的主観性の問題、等々、各個に検討さるべき多くの条項を含んでいる。がしかし、ここでは構成説が構成説である所以の基幹的構制に目を向け、構成説がその基幹的構制そのものにおいて既に妥当し得ないことを確認しうれば足ると思う。」249-50P
(対話@)「偖、認識論上の「構成説」は、日常的意識においてはおろか諸科学において客観的な実在と思念されている経験的対象界はことごとく特有の仕方で認識論的に構成された意識内容にほかならないと主張し、認識の本領は対象の模写ではなく対象の構成にあると説く、但し、意識内容のすべてが対象的実在相へと構成されるわけではなく、従って、単なる心像=表象たるにとどまる意識内容と対象的実在として構成される客観的事実として意識内容との双方がさしあたり存在する。ところで、客観的実在として思念されている経験的対象界には、身体的存在たる他者たちも含まれ、身体的存在たる自分も含まれる。単なる身体=肉体だけでなく、そこに“宿って”いる“精神”“心”もまた経験的実在と思念されているのが普通である。ここにおいて、他人および自分の身体はもとより、そこに“宿って”いる精神もまた、それらが実在たるかぎり、「特有の仕方で意識作用によって構成された意識内容」にほかならないものと見做される。では、このさい、構成する意識作用の主体、意識内容を内含する主体は誰であるのか。この構成し内含する主体は、経験的実在界に登場する他人たちでも自分でもありえない。けだし、経験的実在界に登場する他人や自分は構成され内含されている意識内容であって、構成し内含する能作的主体ではありえないからである。構成され内含される経験的主体と構成し内含する先験的主観とは厳に区別されねばならない。構成する作用の主体、意識内容を内含する主観は、経験的個人とは一応別の先験的主観なのである。」250P
(対話A)「爰で、しかし、先験的主観と経験的主観との関係について考え方が二途に岐れうる。そして、いずれの途をとるかに応じて認識的世界像がおよそ別様になる第一途は、先験的主観なるものを経験的諸主観に対して謂わば外在的に超越的な単一の“大きな主観”(但し「神」のごとき存在とは限らず、「学的理性」とか、「論理的主観」とか称されるものをも含む)として想定するものであり、第二途は、先験的主観という“同型者”を経験的諸主観の各自に謂わば内在する相で経験的諸個人と同数だけ立て両主観の能作(経験的主観の能作と先験的主観の能作)を内奥では同一視するものである。両途を順に検討していこう。」250-1P
(対話B−第一途)「まず、第一途であるが、これにあっては、経験的実在界は先験的主観にとってこそ構成され内含されている意識内容(心像=表象=観念)であるにせよ、経験的諸主観にとってはそれは内なる意識内容ではなくして外在的・超越的な実在的意識対象である。さしづめ、このように了解される。では、経験的主観にとって、この「外なる意識対象」と自己の「内なる意識内容」とは如何なる関係にあるか。さしあたり、経験的主観にとって、「外なる対象」が自らの能作的意識作用が特有な仕方で構成した自己の内なる意識内容であるわけではないということ、経験的主観にとっては対象的実在が自体的に存在する外的なものであること、ここまでは確かである。ここでは「意識対象−意識内容−意識作用」が、経験的主観にとってはまさに<三項図式>そのままのかたちで存立する。だが、「意識対象」と「意識内容」とがそれ以上にいかなる具体的関係にあるのかについては、(先験的主観にとってこそ後者が特有の仕方で構成されたものが前者つまり対象であること、従って「意識対象」は先験的主観にとっては外在的・超越的な存在ではなく特殊な意識内容にすぎないこと、このことが構成説的に“説明”されているのだが)、経験的主観に関しては何ら立入って規定されていない。学史上の実態としては、構成説のこの分肢にあっては、経験的主観にとっての「意識対象」と「意識内容」との関係は模写説流の模写関係ということに暗黙のうちに委ねられている風情である。とあれば、此説は経験的対象がかくかくしかじか規定性を具えた相で現前する理由を先験的主観による構成の在り方に即して説明しはするが、経験的実在の当の在り方は先験的主観にとってこそ内在的であれ、経験的主観(これは各自の意識内容しか現識し得ないというのが「内在の命題」からする宿命である)にとっては外在的・超越的である以上、経験的主観に関しては「原像」的「実在」の実相とやらを如実に知るべくもない状態に放置している所以となる。経験的主観に関して「意識対象」と「意識内容」とが模写説流の関係に委ねられているとすれば、此説は、われわれが先にみておいた「模写説」の孕む悖理性(「認識」と「誤謬」との区別不能、「認識」の権利づけ不能、等)を経験的主観に関してはそのまま再現するものと言わざるをえない。――翻って、嚮に見ておいた通り、模写説の構成は各々の意識主体自身による“構成”を含意するものにほかならなかった。とすれば、われわれは、構成説の第一途そのものの実質的な構図からしても、「構成し内含する主観」を各自のうちに内在せしめる第二途に移行すべく要請される。」251-2P
(対話C−第二途)「そこで、第二途であるが、これにあっては、経験的主観と先験的主観とは内奥においては実は同一であり別々の存在者であるわけではないとされる。とはいえ、経験的主観にとっては外在的な客観的実在として現象するところのものは、物自体としての超越的対象そのものではなくして、先験的主観によって構成され内含されているところの、先験的主観にとっての意識内容にほかならないとされる点では、第一途とも共通な先験的構成主義である。では、経験的主観にとって「先験的観念」=「経験的実在」と自己の「内なる意識内容」とは一体如何なる関係にあるのか。先験的主観と経験的主観とが“意識野”を共有するかぎり、経験的主観にとって「先験的観念=経験的実在」と自己の「内なる意識内容」とは一箇同一の“意識野”に共属し、両者を比較することも可能である。「内なる意識内容=単なる心像的表象」のうち或るものは「経験的実在=先験的観念」と相同的に合致し、或るものは相同的には合致しなかったり、およそ経験的に異貌であったりする。このことの弁別に即して「認識」と「誤謬」を区別し、単なる主観的妄念を排却することができる、と自称される。こうして、構成説の第二途的分肢は認識論的に有効であるようにみえる。だが、果たしてそうであろうか。経験的主観と先験的主観とが内奥において一箇同一であり、意識野を共有しているとすれば、次の難題が生ずる。」252P・・・「(対話D)」に繋がる
(小さなポイントの但し書き)「(尚、ここでの仮定的条件について確認しておけば、もし経験的主観と先験的主観とが内奥においてすら合致しないとすれば、認識論上の構制では第一途と同趣の悖理に陥る。また、もし意識野が共有されていないとし、従って先験的主観にとって内在的なものが経験的主観にとっては“外在的・超越的”だとするとき、経験的主観にとって自己の内なる認識形象と“超越的”な先験的観念=経験的実在なる外的対象とを比較校合することが不可能になり、先に“認め”た認識論的“有効性”が失われてしまう。それゆえ、経験的主観と先験的主観とが内奥においては一箇同一であって、意識野を共有するという目下の仮定的条件は必当然的である。)」252-3P
(対話D)「難題というのは、先験的主観が意識野に属する意識内容に構成的能作を及ぼして対象像(すなわち経験的主観にとっての“客観的実在”)を構成するにあたり、すべての意識内容が“客観的実在”に化されてしまい、単なる主観的な意識内容(単なる表象的心像=単なる認識形象)なるものが残留しなくなってしまわないか、つまり、認識形象と実在対象との区別がなくなってしまい後者(対象的実在)を前者(認識形象)のかたちで認識するということが成立しえない事態に陥りはいないか、この件である。もしも、経験的主観の内奥的意識作用と先験的主観の構成的意識作用とが別々であり、また、両者の意識野(意識内容界)が別々であるとするならば、その場合には、先験的主観が自己の意識内容をことごとく客観的対象相へと構成しても経験的主観にとっての意識内容はそのまま意識内容として残留しうる。がしかし、当面の必然的な仮定的条件のもとでは、両主観の内奥的意識作用も意識野も一箇同一なのであるから、先験的主観の対象化的構成作用が全意識野に及ぶかぎり、単なる意識内容(単なる認識形象)として残留する部分はなくなり、意識内容のすべてが“客観的実在”化されてしまう。そうなれば、経験的主観にとって、対象的実在と認識的内容との対比ということがそもそも成立せず、「認識」と「誤謬」との区別ということも存立しないことになる。そこで、このナンセンスを回避するためには、先験的主観による対象化的構成は意識内容の一部分だけ(例えば第一性質の心像的観念だけ)に限定されるものとし、単なる意識内容として残留する部分を遺さざるを得ない。だが、この選択・選別は何を基準にしておこなわれるのか。また、特定意識内容だけに向けられたはずの構成的能作が意識内容全般に及んでしまわないような配慮が果たして保証されるか。論者たちの構制においては、或る種の対象を構成する能作が普遍・必然的であることを説こうとすれば、その能作が意識内容全般に対して普遍・必然的に構成的である旨を説かざるをえないのではないか。学史上の事実の問題として言うかぎり、客観的実在相、対象的実在として選別される基準は先行的に構成観念をなしている実在観・実相観であって、外在的な基準が“恣意的に”持込まれたものにすぎない。(尤も“恣意的”というのは原理的にみてのことである。既成の実在像にはしかるべき事由があり、いわゆる「第一性質」といわゆる「第二性質」との区別のごときも全くの恣意ではない。このことは、もとより、われわれも承認する)。そして、また先験的構成ということの普遍・必然性を説こうとする論理は意識内容全般を捲添えにしてしまうのが実情である。惟うに、構成説の第二途の論理構制からすれば、選別的な対象化構成は恣意的にしか説けず、論理整合的には一切の意識内容が先験的構成の結果“客観的実在”と化し、認識対象と認識形象との区別がなくなってしまうこと必定なのである。(カントの場合でいえば「知覚判断」の余地がなくなり、一切が「経験判断」になってしまう)。従って、ここでは“客観的対象”との区別における認識としての認識がそもそも成立しない仕儀に陥る。かくして構成説の第二途も詮ずるところ認識論的に無効である。」253-4P
第三段落――「三項図式」ひいては「主観−客観」図式に代わるわれわれの構制の対自化
254-62P
(前項までのまとめ)「われわれは、以上、<三項図式>のもとで相補的・対立的に形成される認識論上の二大立場、すなわち「模写説」と「構成説」に関して、具象的な理説内容にこそ立入らなかったが、両者の基幹的構制そのものを検覈し、いずれの立場もさしあたり認識の「客観的妥当性」をめぐっては悖理に導くことを見定めておいた。」254P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、われわれは、模写説および構成説が具体的な場面で提出している配備の若干については批判的に継承しようと図るものであり、決して両説を顚から閉脚して済ませる心算はない。この間の事情については、別稿「認識」[井上忠編『哲学』所収]、「カントと先験的認識論の遺構」[拙著『事的世界観への前哨』所収]、「判断の認識論的基礎構造」[拙著『世界の共同主観的存在構造』所収]などを参看ねがえれば幸甚である。これらの別稿は、学説史上の具体的展開から遊離して強引に“基幹的構制”だけを剔出・批判した本節における行論の欠を幾分なりと埋めるものにもなっていると念う)。」254-5P
(この項の問題設定) 「――旧来における認識論の両半球ともいうべき模写説と構成説とを偕(とも)に悖理に導く淵源は両者が共通の前提とする「三項図式」「内在の論理」に存する。このことは行文を通じて既に明らかな通りである。認識論の新生を図るに当っては、それゆえ、何は措いてもまず「三項図式」ひいては「主観−客観」図式の超克が必須であり、そのためには「内在の命題」ひいては「各私性の命題」の克服が鍵鑰をなす。われわれは、実は、前篇を通じて、「三項図式」「主観−客観」図式、「内在の命題」「意識の各私性の命題」、これらを克服してそれに代わるべき構制を提出しているのであるが、茲でわれわれの構制を認識論上構案に即するかたちで対自化しておく次序である。」255P
(対話@−「把捉説」へのコメント)「議論の順序として一言しておけば、「内在の命題」「意識の命題」が認識論にとって隘路をなすことは即自的にではあれ可成り早くから気付かれており、「意識作用」が謂うなれば「内界」を超出して「意識対象」と直接的な「能知−所知」の関係に立ち得るとする理説が折々に登場してきた。この理説は「知的直観」説の形をとることが多い。すなわち、認識主観には特別な能力が具っていて、この知的能力が感性(これは感覚器官を介して「受容的」に形成された「内なる与件」を所知とする)とは異なり、「外なる対象的与件」そのものを直観的(「じか」のルビ)に把捉する旨を大抵が説く。とはいえ、「知的直観説」には限らないのであって、意識作用が対象(の表層?)を摑み取り、それを裡にもたらして意識内容たらしめると主張する荒唐無稽なものまで存在する。われわれとしては「意識作用」と「意識対象」との直接的な「能知−所知」関係を主張する理説を一括して「把捉説」と呼ぶことにしたいのであるが、管見にふれるかぎり、論者たちは意識作用と意識対象とが直接的に関係する部面こそ認めても「意識作用−意識内容−意識対象」という三項性の構図そのものは崩さないのが普通である。但し、例外的には、意識作用と意識対象との直接的な関係をもっぱら主張し、意識内容なる項の存在そのものを否定するに及ぶものもある。が、その場合でも、能知的意識作用と所知的意識対象とを存在的に分断し、能知的所知=所知的能知の渾然的一体性を説くわけではない。(よしんばそれを説くとすれば、論者たちの場合、今度は誤謬の余地がなくなってしまう)。われわれはこの“例外”的な「把捉説」にすら与みし難い。――われわれとしては、三項を存在的に截断する三項図式はもとより、二項を散在的に截断する「把捉説」流の二項図式をも卻け、前篇にみたごとき「能知的所知=所知的能知」のフェノメナルな渾然的統一態に定位する。」255-6P
(対話A)「われわれはフェノメナルな世界現相における「能知的所知=所知的能知」の如実の統一態に定位するが故に、また、所知における「現相的所与」と「意味的所識」との二契機を“もの”化して自存視する錯認を根源的な場で防遏しつつ両契機の二肢的統一態に定位するが故に、能知と所知との存在的截断の上に立つ「主観−客観」図式、“もの”化せる所識と所与との截断に淵源する<三項図式>ひいては「内在の命題」、これら宿痾となっている旧来の「認識的世界」観の基幹的図式とはおよそ別異な地平に立つ。――われわれとしては、しかも、旧来の「認識的世界」観の基幹的図式から単に距離を設けるのではなく、前二節を通じて試みたごとく、当該の図式が何を如何に錯認することにおいて成立するかを由来に溯って剔抉しつつ真実態を顕揚する。――われわれは、認識論上、「三項図式」「主観−客観」図式に立脚せる「模写説」「構成説」を卻け、新しい構案を提出する。」256P
(対話B)「認識論上の新しい構案を対自化するためにも、認識論の課題と問題構制なついて、ここで若干なりとも把え返しておかねばならない。」256P
(対話C)「認識論の課題は、一言でいえば、認識(剴切には「認識的世界」)存在構造を究明することにある。が、そのさい、「認識」(真なる認識)とは何であるか、真なる認識が果たして可能であるか、それが可能であるとすれば如何にして可能であるか、認識は果たして間主観的に妥当するか、認識が間主観的に妥当するとすればそれは如何にしてであるか、この種の問題が重要契機として含まれる。(尚、われわれの場合、認識の歴史的・文化的・言語的な被制約性・相対性の問題、ひいては意識の権利根拠や限界決定の問題は、認識の間主観的成立構造論によっておのずと答えられる)。」257P
(対話D)「ところで、旧来の認識論においては、整合説やプラグマティズムの真理観を措いて言えば、三項図式を背後的前提としつつ、「真理」(真なる認識)とは「意識対象」たる対象的実在の実相と「意識内容」たる認識形象との「十全的合致」に存するものと定義的に了解されてきた。しかしながら、<三項図式>〜卻けるわれわれにあっては、原理的な次元においては、この伝統的な真理概念はもはや妥当しえない。われわれは、真理観・真理概念そのものの更新を必要とする。」257P
(対話E)「省みれば、旧来の認識論においても、認識の客観的妥当性(objective Gültigkeit=客観との合致的妥当性)と並んで、即自的には、認識の間主観的妥当性(intersubjective Gültigkeit=人々の間での一致的妥当性、この意味での「普遍的妥当性」)が大前提であった。認識の間主観的妥当性という問題が必ずしも常には顕在化しなかったのは、認識が客観的妥当的(旧来の“定義”からすれば、とりもなおさず、これは「真理」であることを意味する)であれば、その認識は当然にまた間主観的にも妥当的であると信憑されていた所以(「せい」のルビ)であろう。この信憑の基底には、認識諸主観の本質的同型性(isomorphism)という暗黙の了解がある。認識主観の本質的同型性という了解のあるところでは、認識の客観的対象が同一であるかぎり、当の対象に関する各主観の認識も同型=同一なるものとナチュラルに想定される。この点では、「模写説」であれ、「構成説」であれ、「把捉説」であれ、同断であって、旧来の認識論は斉しく認識主観の本質的同型性を暗黙の了解事項にしていたと言うことができよう。――われわれとしては、しかし、果たして認識諸主観の同型性ということをアプリオリに前提しうるであろうか。われわれは認識の客観的妥当性を旧来の仕方(意識対象と意識内容との合致)で考えることができず、あまつさえ、認識主観のアプリオリな同型性を安直に想定することができないとすれば、われわれにとって、認識の間主観的妥当性(「果たして」、および「如何にして」)ということが深刻な大前提となって全面に登場する。われわれはこの課題に積極的に応えるべく要請されている。」257-8P
(対話F)「われわれの立場から言えば、認識の間主観的な妥当性こそが認識の真理性の問題にとって要訣をなすものであり、認識の客観的妥当性を前件として認識の間主観的な妥当性を立論する旧来の方式は謂うなれば逆転させることを要する。けだし、認識が客観的に妥当するが故に間主観的に妥当するのではなく、逆に、間主観点的に妥当する認識が物象化されて客観的に妥当する認識と見做されるというのが実態であって、「真理」とは原理的・第一次的にいえば、客観的に向妥当する認識ではなくして、間主観的に対妥当する認識(但し、この間主観性は対象的所知契機から截断されるものでないことは前篇第三章で論じたところである)にほかならない所以である。――われわれは嚮に、「模写説」であれ、「構成説」であれ、旧来の認識論が意識対象たる“客観的実在”と意識内容たる認識形象との相同性・模像的な合致を以って「認識」(真正なる認識)としつつも、そのさい“原像”たるべき“客観的実在”との“実相”なるものを理論内在的に規定することができず、既成観念をなしている“実在”観、“実相”観に恃(「たの」のルビ)んでいること、この事実を指摘しておいた。旧来の認識論においては“客観的実在”とその“実相”なるものが、直接的に確認されたものではなく(因みに、知的直観流の直接的「把捉」を強弁するのでないかぎり、「三項図式」や「内在の命題」という前提からして、客観的実相の直接的な確認は事の原理上不可能である)、詮ずる所、既成観念上の“実在相”を追認的に援用したものになりおわっている。では、当の既成観念になっている“客観的実在相”なるものはいかにして形成されたものであるか、知的直観といった特別な「把捉」能力に恵まれた者はいざしらず、人々は意識を超越せる「客観的実在」そのものを如実に覚知した経験はないはずである。それにもかかわらず、人々は“客観的実在相”について一定の既成観念を斉しく懐いている。この既成的な“実在像”はどこから得られたものであるのか。それは日常的ならびに個別科学的認識において間主観的に形成されている対象的実在像を受納したものにほかなるまい。さしあたり、事実の問題としていえば、一定の対象的実在像が間主観的な場で成立しており、人々はこの間主観的に承認されている対象的実在像との合致・不合致に即して認識の「真・偽」(客観的妥当性・不妥当性)を思念的に云々しているのである。客観妥当的認識として思念されているところのものは、間主観的に形成されている“客観的実在”像に向妥当する認識なのであり、帰するところ、間主観的に妥当する認識にほかならないのである。(この間の事情について後論において主題的に論考する)。――われわれは、ここにおいて、“客観的実在像”に限らず、一般に、認識なるものの間主観的形成、それがいかにして成立するかという一種の事実問題(quid facti)をも射程に収めて論究すべき所以となる。」258-9P
(対話G)「われわれは、しかし、認識の間主観的存立という事実を単に追認して自足しうる者ではない。われわれは認識の間主観的形成というこの事実が「如何にして可能であるか」、その存在構造と権利問題を問い返すこと、降っては、間主観的に形成されている既成観念そのものを認識批判的に討究すること、これをも課題の一斑とする。――茲でとりあえず、先の行文との脈絡上、次の一事だけは銘記しておかねばならない。それは、旧来間主観的に“公認”されている既成観念上の“客観的実在像”は狭隘にすぎ、それとの合致・不合致を以って認識の真偽を判別することは実際問題としても不可能だということである。旧来の「意識対象像」「客観的実在像」は、「外界」と「内界」との截断をめぐる経緯からして、知覚的に現前する事物的対象相を偶々“原姿”として名残りを留めている。(このさい、知覚的現前というのは視覚への現前に限られるわけでは勿論なく、他の感覚諸様相の協応にも俟っているのだが、事実上、視覚優位的になっていて、それで手に触知したさいの対象感が割合と強く協応している。この間の仔細は、“客観的実在”の実相的性質とされている所謂「第一性質」を惟れば容易に納得されよう)。旧来における「意識対象」像、「客観的実在」像は、端的に言い切ってしまえば、「知覚対象モデル」になっていることを指摘できよう。ところで、われわれは先には“客観的実在”への向妥当性と間主観的な対妥当性とを単純に逆転させるかのごとき流儀で筆を運んだのであったが、しかし、認識の間主観的対妥当性の承認と“客観的実在”への向妥当性の承認とは外延を等しくするわけではない。間主観的に承認されている「こと」であっても、それは必ずしも「もの」の相(これですら「知覚対象モデル」での事物的対象相よりは広いのだが)へ物象化されているとは限らない。間主観的に対妥当するのは、元来は、判断事態的な「こと」であって事物対象的な「もの」ではない。なるほど、「こと」は不断に「もの」化される傾動にあるとはいえ、本来的には、間主観的に対妥当するのはあくまで「こと」なのである。「もの」の間主観的妥当というのは、「こと」の物象化に俟つものにほかならない。認識の真偽性もまずは「こと」(いわゆる対象的実相性はこれに契機として含まれる)に即して判定されるのであって、認識の真理性の問題を間主観的対妥当性の場面で定礎しようとするわれわれの場合、「判断事態モデル」とでも呼ばるべきものを導入し、「知覚対象モデル」に立脚する旧来の事物的対象をも判断的事態の構造的契機として位置づけ直す必要に迫られる。」259-60P
(対話H)「顧みるに、旧来の認識論において「意識対象」たる“客観的実在”とされてきたものは、われわれの見地から言えば、フェノメナルな現相世界の構造的一契機たる「意味的所識」を“もの”化しつつ「外界」へと括り出すことに俟って成立したものであるとはいえ、「意味的所識」のすべてが“もの”化されるわけではなく、“もの”化された意味的所識でさえそのすべてが従前“対象的実在”“実相”とみなされているわけではない。既成観念における“客観的実在”は“もの”化された「意味的所識」のうちの特定部分(「知覚モデル」に適う部分)にすぎないのである。われわれとしては、既成観念が客観的対象の“実相”とみなすものが所詮は思念(「ドクサ」のルビ)にすぎず、また、第一性質と第二性質といった“実相”と“仮相”との区別が相対的なものにすぎないことにも鑑み、「意味的所識」のうちの特定部分だけを特権化してしまうことはしない。われわれは「意味的所識」が間主観性をもつかぎり、そのすべてをまずは射程に入れる。そのことによって、また、われわれは判断事態的「こと」の契機たりうる全外延を勘案しうる所以となる。――ここで、敢て「三項図式」や伝来の真理観に仮託した言い方をするとすれば、われわれは“実在的対象”だけでなく、“もの”化された相でのイデアールな「意味的所識」全般、さらには、判断事態的「こと」の全般(これにはいわゆる「否定的事実」negative factのごときも含まれうる)を“意識対象”としつつ「対象」概念を拡充する。」260-1P
(対話I)「われわれは、以上、当座の行論の展開にとって最小限必要と思われるかぎりで、認識論の中枢的課題を再確認し、旧来の認識論との構図的差異に即してわれわれなりの認識論的構案の一端を綴ってみたのであるが、実を言えば、われわれが積極的に立てる認識論の基本的構図は前篇における現相的世界の四肢的存在構造論のうちに骨格を提示してある。(尚、哲学の学理史的・時代史的な問題情況との関連における認識論の課題・案件については本書では立入ることを割愛する。この論件に関しては、別著『世界の共同主観的存在構造』の序章「哲学の逼塞情況と認識論の課題」、特にその第二・第三節を参看されたい。) ――認識とは、決して単に能知的「主観」と所知的「客観」との各私的関係事象ではなく、また、所与契機と所識契機との単なる「等値化的統一」でもなく、現相的所知の第二契機たる「意味的所識」を媒介環とする本源的に間主観的な一存在である。そして、この間主観性が成立するのは、“認識主観”が人称的な「能知的誰某」とイデアールな「能識的或者」との二肢的二重態であり、「所与的質料」に向妥当する「形相的」認識契機たる「意味的所識」と対他・対自的に対妥当せしめつつ間主観的に整型化することを通じて、人称的能知が間主観的に同型的な認識論的主観たる「能識的或者」相へと自己形成を遂げる動態的な四肢的連関に俟ってである。――われわれは今茲でこれらの提題を復唱してして前篇において提示しておいた構図そのものを再掲するには及ばないであろう。」261-2P
(対話J)「われわれは、今や前篇において俯瞰した現相的世界の一般的存立構造が、認識としての認識の次元において如何なる相で具現しているか、「もの」的世界像に応ずる「知覚対象モデル」に代わるべき「こと」的世界観に相応しい「判断事態モデル」を提出しつつ、順路を追って積極的に見定めていかねばならない。」262P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(5)
第二篇 省察的世界の問題構制
第一章 外界と内界の截断と認識理論の図式
第一節 外界と内界との截断
(この節の問題設定−長い標題) 「日常的省察の場面においては、対象的外物に対して自己の身体は特異な地歩を占めており、この身体の内には「心」が宿っているものと思念されている。「心」は固有の「内的世界」を形成し、これに対しては。皮膚的に劃された身体の外部に在る対象物のみならず、身体自身もまた「外的存在」とされ、茲において「外界」と「内界」とが二つの領界として区分される。「外界−内界」という構図での思念は「主観−客観」図式の淵源をなすものであるが、抑々(「そもそも」のルビ)「外界」ならびに「内界」なるものは、現相的世界に関する錯認的“解釈”にもとづいた存在規定にほかならない。――われわれとしては、「主観−客観」図式を内在的に克服し、この「図式」を前提として成立している旧来の認識論と論判するためにも、「外界」と「内界」との截断そのものの構制を爰で検討しておかねばならない。」203P
第一段落――フェノメナルな現相界が総じて“内界”として解釈され、これの外部に“物理的”“実在界”が措定される思念の構制を押さえる 203-11P
(この項の問題設定)「われわれは既に前篇第二章の論脈において、「身体的自我」の如実相を対自化しつつ、併せて「身体」が個体的な一存在として対象化され、その内部に「所知−能知」の構制が推及される経緯などについても一斑を見定めておいた。爰では既説の当該論点の復唱は省き、議論の焦点を、フェノメナルな現相界が総じて“内界”として解釈され、これの外部に“物理的”“実在界”が措定される思念の構制に向けることにしたいと念う。」203P
(対話@)「惟うに、対象的一個体の相で看ぜられる「身体」の内部に「心」という特異な存在を“内在”せしめる領界の構えが形成されるのは、基本的にみて、次の四つの脈絡においてであろう。/第一に――生体と死体との区別といった観察的場面に即した省察や、意志行為の場面での内発的起動者の覚識を機縁にしつつ――身体の内部に能知的能動的な或るエージェントが宿っているように思念されること。/第二に――いわゆる(イ)体内感覚、(ロ)感情・情動・意思、(ハ)記憶・想像・思考など、――身体の内部に、外的対象や単なる身体現象とはおよそ別種の、格別な所知的与件が内在されているように覚知されること。/第三に――これは間主体的=間身体的な交渉の場面で対他・対自化されることであるが――身体的存在たる各人の内部に、各自固有の「内面的世界」が秘匿されているように覚識されること。/第四に――これは直接的に感知されることではなく、知覚をはじめとする認識事実を説明するために案出された想定なのだが――各人の内部に「心像」という内在的与件が存在するものと推論されること。」204P
(対話A)「いわゆる「心的存在」が措定されるのは、その機縁に徴するとき、強ち謂われなしとしない。右のうち、しかし、第一の論脈で思念される実体的霊魂ないし有意的エージェントとしての“内なるもの”は“外部的存在”に対して特異な一存在(身体内に宿る一存在)とされるにせよ、それ自身としては固有の“内なる世界”を形成するものとは必ずしも見做されない。それゆえ、この第一の論脈に立入ることは爰では割愛して(尚、われわれは次巻のしかるべき個所においてこの論件に主題的に関わることになろう)、第二以下の論脈を念頭におきながら批判的に討究することにしたい。」204P・・・霊魂なる宗教的観念
(対話B)「われわれの結論から言えば、知覚的であれ情意的であれ表象的であれ、人々が“直接的な内的与件”“内面的世界”“内なる心像”として思念しているところのものは、原基的には、フェノメナルな射映的現相(但し、これは“裸の質料”ではなくして形相的意味を既に“懐胎”している)にほかならない。では、フェノメナルな射映的現相が一体いかにして“内在的な直接的与件”“内在的な心像的与件”として改釈されるのであるか? 一言で答えれば、現相世界の二肢的二重性の構制を誤った仕方で解釈することによって当の改釈が生ずるのである。尤も、この誤てる解釈は日常的覚識にも深く根差しており、それの成立する機制も多分に複雑である。」204-5P
(対話C)「議論の順序として、知覚、それも所謂外部的知覚の場合にまずは眼を向け、“知覚心像”なるものが裡に想定される機序からみていこう。けだし、これこそが「外界」と「内界」との截断の鍵鑰をなすものであり、また、これに即した討究が後論にとって管制高地をなすものと予期されるからである。」205P
(対話D)「偖、知覚的現相は、前篇第二章の論脈でも指摘しておいたように、各種感覚様相(「センツリー・モダリティーズ」のルビ)の協応に俟っており、単なる視覚的現相以上のものであることは言うまでもないが、さしあたり視知覚的な空間的秩序構造を呈し、いわゆるパースペクティヴ(遠近法的配景)の構図で展ける。遠景は段々と先細りに小さく見えているが、しかし“見掛”と“実際”とはそのまま合致しはしないのであって、“実際には”しかじかの大きさであることが端的に覚識されている。遠方に“見掛上”蟻のように見えているのは“実際には”等身大の人物であること、“見掛”は先細りであるが“実際”は先細りではないこと、等々。(ここに謂う“見掛”相と“実際”相とは、われわれの見地から正しく規定すれば、フェノメナルな視覚的現相世界のパースペクティヴな覚識態における「射映的現相与件」と「意味的対象所識」の両契機にほかならないのであるが、人々の思念においては早くも“仮現相”と“実際相”という意味付け的な解釈が施される)。」205P
(対話E)「視覚的現相風景界においては、また、直接的な射映相で平面的にしか見えないものが立体視されており、射映的な“見掛”はかくかくでも“実際には”しかじかの形の対象であることが直截に覚識されている。向こうに“見掛上”六角形の形状を呈しているのは“実際には”直方体の箱であること、“見掛”は平面的であっても“実際”は立体的であること、等々このたぐいのことが、一般には反省以前的に、覚知されている。」205-6P
(対話F)「ところで、“見掛”は「身体」との布置的関係に応じて合規則的に変易することが軈(「やが」のルビ)て対自化される。パースペクティヴな構図のもとに立体視が既成化している現相的知覚世界にあっては、「この身体」がパースペクティヴな膨縮的編制の輻湊点になっており、「この身体」の移動に伴って現相的知覚世界の射映的相貌が変様する。「この身体」が接近して行くと、対象の視覚的射映のみならず聴覚的・嗅覚的射映も段々と大きくなっていき、布置的射映相も合規則的に変貌する。そのさい、しかし、変様するのは“見掛”だけであって、対象の“所識的実相”そのものは「この身体」との距離や布置の関係にかかわりなく、恒同的に一定のままであると覚識される。(尤も、“実相的”所知対象自身が変易相にあることが覚知される場合もあるが、その場合にあっても、“実相的”対象の変易と“仮現的”射映の変易とは別々のオーダーをなしていることが覚識される)。」206P
(対話G)「ここにおいて、“実際相”での対象は“独立自存”するのにひきかえ、“見掛相”たる射映的知覚は「この身体」との布置的関係に応じて連動的に変化することが対自化される次第である。さらに言えば、身体の向きを変えると今まで見えていた視覚風景が消失して新規の風景が現出するし、眼を閉じたり耳を覆ったりすると視覚的現相・聴覚的現相がそれぞれ消失するという具合に、「身体」における変位が知覚現相の生滅的な変化(有化・無化)をすら惹き起こすということが日常的に経験される。但し、知覚現相が消失したからといって所知対象自体も同時に消失したのだとは必ずしも思われない。身体的変位によって、生滅的な決定的変化を惹起されるのは射映的知覚現相だけであって、“実相的”所知対象そのものは、普遍・不動の相でそれ固有の空間的布置世界の中に存続している“独立自存”のものと覚識される。――」206P
(対話H)「このような体験が媒介になって、恒同的な固定的「空間」中に配位されている“実相的所知対象”とパースペクティヴな膨縮的構図に納まっている“射映的知覚現相”、これら二つの編制態がまずは区別・截断され、(前者すなわち“対象的実在”は視座的身体とは独立自存のものであるのにひきかえ)、後者すなわち<射映的知覚>は「身体」に依属的であると思念されるようになってくる。」206-7P
(対話I)「射映的現相のこの「身体依属性」の覚識は――“内なる心像的与件”ひいては“心的世界”の内在性という想念の成立にとって必須の媒介環をなすものであるが、しかし――それ自身では直ちに射映的知覚現相の“身体内在性”を思念せしめるものではない。現に、射映的知覚現相(“実相的対象”と区別された“見掛”)は、いかに身体依属的であることが覚識されるに至っているにせよ、依然として「身体」の外部に顕出している。では、知覚的射映現相が、単なる「身体依属性」という域をこえて、各自の身体に“内在的”であると思念されるに及び、いわゆる「内界」の想念が形成されるに至るのは如何にしてであるか? われわれの結論を予示して言えば、知覚的射映現相が“内なる与件”として改釈されるに及ぶのは、知覚現相の「対自−対他」的な間主体的「帰属性」の場における省察を介してである。」207P
(対話J)「われわれは前篇第二章の論脈内で、対象的知覚や感情などが知覚風景の内部において対他者的に「帰属」される事態とその構制を論じておいたが、人々は他人の表情や振舞や言表から他人が一定の知覚なり感情なりを感じていることまでは察知できても自分の側ではそれをたかだか表象的にしか泛かべることのできない場合を体験する。この場合には、身体的存在として他人そのものは知覚的風景(“実相”的世界と二重写しに了解されている知覚的対象世界)に登場しておりながら、彼に現前しているはずの一定の現相がこの知覚的風景界には現出しないわけである。一般論として、パースペクティヴな知覚現相の身体布置依属性の故に、他者にとってのパースペクティヴな射映的知覚現相は「この身体」視座からの知覚的風景には現出しない。」207P
(小さなポイントの但し書き)「他者にとっての射映的知覚現相は「あの視座的身体」を“置き移して”みる第二種の帰属がおこなわれるかぎりで、かつそのかぎりでのみ直截に覚知される。この機制によって、他者にとってしかじかの射映的現相が現前することが覚知される。がしかし、それは“身を置き移”した「あの身体視座」に即したものであって、それが「この身体視座」からの知覚的風景界にそのまま現出するわけではない。」208P
(対話K)「この事態の説明が日常的意識にも即自的に課せられる。「他人そのものは知覚的風景に登場しておりながら、彼に現前している射映的現相がこの知覚的世界には現出しない」という事態を“説明”するナチュナルな一方法として、「それは『他人に現前している現相』が当の他人の『内部』に収蔵されている所為(「せい」のルビ)だ」という“説明方式”がおのずと思い泛かぶ。知覚的風景世界に現出しているのは皮膚的界面までであり、問題の射映的現相は「身体」の内部に収蔵されているため(謂うなれば閉じた“箱”の内部に納まっているため)外部的な観察では現認できないという道理である。他人自身の記憶的・想像的な“表象”についても同断だとされる。こうして、他人にとっての知覚的現相ならびに表象的現相が、知覚的に現前する「あの身体」の内部に存在するものと了解されるに及ぶ。――この場面では、しかし、「あの身体」なる他者と「この身体」なる私とは同位・同権であるから、私にとっての知覚的現相や表象的現相もこれまた「私の身体」内部に存在するものとしなければ平仄(「ひょうそく」のルビ)が合わない。こうして、知覚的現相ならびに表象的現相は、すべて、それの現前する各人の内部に収蔵とれているものと見做される次第となる。(そして、この見地からあの「身体依属性」という事実も把え返されるようになる。)」208P
(対話L)「ところで、右の行文中においては「あの身体」および「この身体」なるものを恰かも自体的な実在であるかのように扱ったのであったが、考えてみれば、「あの身体」も「この身体」も私の知覚的現相風景の内部に“見掛”として現出しているのであるから、私にとっての知覚的現相たるにすぎず、従って、それら両「身体」は「私の身体」内部に収蔵されているはずである。嚮には、知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」が現相の収蔵庫であるかのように誌したが、真の収蔵庫たる“身体”は知覚的現相としてのそれではなく、“実相的空間世界”に自存する“実在的”な身体でなければならない。今や、こうして、知覚的・表象的な現相が“実在的身体”の内部に収蔵されているという思念が形成されるに至る。」208-9P
(対話M)「このようにして、知覚的現相ならびに表象的現相が(知覚的世界に登場する“見掛”的「身体」ではなくして) “実在的身体”の内部に収納されているという思念が形成されるに至ったとしても、しかし、“身体”への“内在化”それ自身では、まだ、当の“内在的存在”たる射映的現相が「心的な存在」と見做されるには及ばない。それは、さしあたり、外部的な観察では如実に覚知されないだけで、身体に内蔵されている一種の“物”的な存在とみなす余地を残している。とはいえ、もう一段省察が深まると、それは単なる身体内在的な“物”的存在とは端的に異質な別種の存在として了解されるようになる。――謂う所の“内在的”な知覚像表象像は、一口に“身体”の内部に在るといっても、その体内の場所はどこであるか? それは、また、とのような在り方をしているのか? 人は身体の内部に関しても、腹痛・胸痛・頭痛など、対象的に知覚する。そこで、もし、これら体内の感性的知覚にあっても、(知覚風景内で身体の外部に現前する対象に関する感性的知覚の場合と同趣的に)現相的知覚像が対象的所知から離在しつつしかも身体の内部に存在するのであれば、(この想定においては前篇第二章に謂う「視覚モデル」の構図が推及されているわけだが)、その場合には、体内感覚の知覚像の収蔵されている場所は、“内奥の一点”、すなわち、対象的に感受される身体内部のあらゆる諸点がそこに対しては“外”的であるような“内奥点”でなければならないことになる。そして、その内奥的が“内的与件”一般の収蔵個所だとするとき、知覚像や表象像は“点”という拡がり(延長性)のない局所に収蔵されているとせねばならず、座り具合はよくないが、しかし、ともかく、“内的与件”それ自身は「非延長的」な存在だとみなされ、延長性をもつ物体的・身体的な存在とは端的に別種の存在だと考えられる所以となる。――尤も、右の立論には「視覚モデル」の不当適用があり、さなきだに飛躍があるので、視角を変えて検討することを要する。人は自身の体内をも感知するとはいえ、全部位を感得することはできず、謂わば感知不能の空隙的ゾーンを内に秘めている可能性もある。もしそうだとすれば、そのゾーン内に“内的与件”が収蔵されていれはよいことになり、“内的与件”が一定の「延長性」をそなえていることも許されうる。が、その場合にも、内的与件が特異な存在であることには変わりがない。というのは、こうである。人は、身体内部をたとえ剖見してみたところで、知覚像や表象像という内的与件がどこかしらに収納されているのを観察的に実見できるわけではないことを承知している。つまり、“内的与件”は本人自身には現存し現識されるにしても、他人たちにとっては、よしんば体内を剖見してみてさえ観察的には現認できないことが了解されている。このさい、「観察的には現認できない」というのは、視たり聴いたり嗅いだり味わったり触ったり、要するに外部感覚的に知覚できないことの謂いである。“内的与件”は、他人によって観察できないだけでなく、たとい本人であれ、他者的視座を扮技する流儀での“外部的観察”によっては現認できない。この点で、“内的与件”は物体的・身体的存在(これは“外部観察的”な仕方で自他偕(「とも」のルビ)に現認できる)とはおよそ別異な存在で在ると認定される。」209-10P
(対話N)「こうして、“身体”に「内在」するとみなされた知覚像や表象像という“内的与件”は、直截に非延長的・非空間的存在とされるにせよ、“他者”によっては身体空間内で「観察的に現認できない」だけとされるにせよ、物体的・身体的な存在とは端的に別種の存在だとみなされ、しかも、それは当人自身にしか直接的には現存しない特異な存在として、――但し、当人自身にとっては一定のパースペクティヴな情景をなしつつ、所知的対象へと指向的・超出的に関わる“一世界”をなすものとして――「心的現象」「心的世界」と呼ばれるに及ぶ。そして、この心的世界が「内界」として、観察的に現認されるところの物的世界=「外界」と二元的に截断・対置される次第となる。」210-1P
第二段落――早速に確説しておくべき論件 211-7P
(この項の問題設定)「われわれは、以上において「外界」と「内界」との截断の論理構制のうち、いわゆる外部的知覚現相の“内在化”の機制に拘わる部面を主として縦観してきた。しかし、「内界」の措定には、いわゆる内部感覚や感情・意思、記憶・想像など、直接「内に」覚識される現象に定位する論脈もあり、また、感官生理・心理学における推論に定位する論脈もありで、これらに関しては別途の討究を要する。だが、行論の順序としては、そのための前梯も兼ねて、ここで早速に確説しておくべき論件がある。」211P
(対話@)「「外界」と「内界」との存在規定上の判別的特質を、前者は「延長的」で後者は「非延長的」であるとするにせよ、前者は「外部的観察可能」で後者は「外部的観察不可能」であるとするにせよ、果たして両者を「外部的−内部的」「外界−内界」という空間的布置関係で規定することが正当に許されるのか、端的に言えば、いわゆる“物的外界”といわゆる“心的内界”とは果たして真に「外界」と「内界」であるのか、後者は果たして前者の「内」部に存在するのか? われわれはこの件を問い返さざるを得ない。――ここでは、まず、仲介項となる「身体」の在り方に留目しつつ再検討の歩を進めることにしよう。」211P
(対話A)「“身体”が「外界」のうちに算入されるとしても、それは延長性とか外部的観察可能性とかからの単純な認定というにはとどまらない。そこには稍々複雑な構成が介在している。――身体は外界の一部をなすものとして「内界」を収容していると了解されるにせよ。謂うところの「内界」すなわち「心的現象界」は、少なくとも知覚的風景界の場合「この身体」の外部まで拡がっており、それはまた「あの身体」の外部まで展らけている。視角を変えて言い換えれば、謂う所の「心的世界」「内界」の内部に却って「あの身体」「この身体」が登場するのである。では、「あの身体」他者も「この身体」自分も、“私”の内なる単なる心的現象にすぎないのであるか? 事態を溯って把え返してみよう。――われわれの出発点はフェノメナルな知覚風景であった。知覚風景は、その都度、単なる射映的現相群以上の或るものとして覚識されており、そこにあっては“見掛”と“実相”とが区別して意識される。そして、さしあたり“見掛”すなわち“射映的現相”が「身体」依属的であることが対自化されたのであった。このさいの「身体」というのは、さしづめ、知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」にほかならなかった。そして“見掛”はいかに身体依属的であれ、あくまで「身体」の外部に現出するものだったのである。ところが、「あの身体」や「この身体」は、それらが知覚的射映現相であるかぎり、それらもまた“見掛”とされ、“見掛”である以上は“身体”の内部に収蔵されているものにすぎないということから、“収蔵庫”たる“身体”とは全く別々の存在であるかといえば、元来の含意では決してそうではないはずである。――知覚風景に登場する「あの身体」「この身体」は、さしあたり射映的現相=“見掛”であるにせよ、それは単なる“見掛”“射映現相”より以上の或るもの=“実相”的“身体”と緊合していたはずなのである。とはいえ、「あの身体」「この身体」は、それらが“見掛”“射映的現相”であるかぎり、私の“この身体”に内在している。尤も、それはあくまで“見掛”たるかぎりでの「身体」のことであって、“実相”的“所知対象”としての“身体”は“私”に内蔵されているわけではないと考えられる。“あの身体”については、それが“実相”的に自存する“実在”たるかぎり“私の”“この身体”に内在することなく、外部に存在するとして話が一応済む。だが、“この身体”については厄介である。もし、これまた“実相”的“実在”として収蔵庫たる“私の”“この身体”の外部に在るとすれば、収蔵庫たる私の“この身体”のほかに、もう一つの“実在”としての“この身体”がそれの外部に在ることになってしまう。そこで、「この身体」が実相的実在としてはそれであるところの“この身体”と、収蔵庫たる私の“この身体”とは、一箇同一のものと考えられる。そして、自他の共軛的同権性からして、「あの身体」もそれが単なる射映相以上のものであるかぎり、彼にとっての射映的知覚現相の収蔵庫として認証される。――こうして、「あの身体」「この身体」は、「心的世界」内に射映的に現出しつつも、それ以上の実在的身体でもあるとして“実在的身体”と二重写しに把え返される。が、射映的現相としてはあくまでも内なるもの、所知的対象としては外なる実在的空間内に在るものとして、“射映的現相身体”と“自存的実在身体”とが「内」と「外」とにとりあえず空間的に分離される。」211-3P
(対話B)「ところで、しかし、自存的実在としての“あの身体”“この身体”の在り場所は何処であるのか? 物の在り場所、すなわち、空間的位置というものは、詳しくは次篇第一章第二節で論定するように、知覚的風景世界における事物の空間的な在り方はパースペクティヴな構図によって劃されており、“見掛”上の延長性(“見掛”上の大きさや距離)は“実際相”とそのままは合致しない。が、しかし、事物の在り場所(位置)は“見えて”いるその場所にほかならないものと即自的に思念される。対象的事物であれ、「あの身体」「この身体」であれ、“実際相”“実在的対象”としての在り場所は“見えて”いる場所と異なるわけではない、というのが即自的な思念である。(このさい謂うところの“見える”は“触知される”に推及され、痛みなどの場合には“感知される”に推及されるのであって、それは場所的規定性を伴って感性的に覚知されることの謂いである。)」213P
(対話C)「所謂実相的身体としての“あの身体”“この身体”の在り場所は、知覚風景に即すれば、まさしく「あの身体」「この身体」の在り場所にほかならないのである。裏返して言えば、「対象的事物」「あの身体」「この身体」の射映像は“この身体”に内在しているにせよ、実在的対象としての “この身体”は知覚風景上の「この身体」が“実際相”でそこに在るとされる当の場所に厳存するのであって、“あの身体”や“あの事物”も知覚風景上の“あの”場所、つまり“この身体”の外部に実在するものと思念される。」213-4P
(対話D)「ここにおいて、“この身体”内在的であるとされる「心的世界」を起点にして言えば、“実相的実在”たる“この身体”“あの身体”“あの事物”はことごとく外部にあることになり、茲に“事物”のみならず“身体”をも含む“実相的実在界”が、単に延長的な一存在とか外部的観察可能な一存在とかいう理由からではなく、それの“位置”規定に即して、「外界」に属するものと追認される。」214P
(対話E)「遡って惟うに、しかし、「心的世界」は“この身体”に「内在」するかぎり、“内奥の一点”に局在するという在り方をしているか、乃至は、“空隙的ゾーン”内に散在しつつも外部観察的にはその場所を認定できないという在り方をしているか、そのいずれかでなければならなかった。「心的世界」「内界」なるものの在り方を外部から空間的に規定しようとするかぎり、先に確認しておいた通り、われわれはこのようにしか言いようがない。ところで、「内界」なるものが一点に収斂しているとすれば、それはおよそ“世界”(つまり、「心的世界」とか「内的世界」とか)とは言えない道理であろう。しかも、当の局所的一点なるものが“身体”内部の何処に在るのか指定できない始末なのである。また、「内界」なるものが何処に在るか、観察的に現認することが原理上不可能であるとされるとき、それの位置を云々することは許されない道理ではないか。(このさい「内界」「心的世界」の位置ということと、例えば、痛みが対象的に感じられる位置、胸・頭・腹・歯・手足、等とを混淆してはならない。後論参照。)」214P
(対話F)「そもそもの話、「外界−内界」ということが有意味に言われうるかぎり、両界が共通=単一の空間内に所属するのでなければならない。しかるに、「延長的存在」と「非延長的存在」とが、乃至はまた、「観察可能的存在」と「観察不可能的存在」とが、共通=単一の空間に所属するとは事の原理上言えないはずである。「心的世界」は物理的“身体”内部の、ひいては“実在的空間”内部のどこに在るとも言えない。「内界」は「外界」の属する空間内のどこに存在するとも規定できない。とすれば、「物的世界」と「心的世界」とを「外部−内部」「外界−内界」という空間的関係で規定することが果たして許されるのか? それはナンセンスな規定ではないのか? 慥かに、「外界−内界」という構制にはナンセンスに通ずる空間概念の不当な適用が犯されている。」214-5P
(対話G)「更めて省みるに、人々が外部的知覚の射映的現相を身体に内在化させ、心的世界なるものを措定するのは(後述する「内感」「情意」「表象」の場合とは異なり)、「外在−内在」の布置関係を直接に認知することの基づくものではない。それは、他者にとっての射映的現相が「この身体」視座からする知覚的風景世界に直接的には現出しないという事実を“説明”すべく導入された配備であった。さしあたり確定的なのは射映的現相が他者および自分の“身体”に内在するかどうかではなく、他者たちにとっての射映的現相が自分の視座からは知覚的に現認できないという厳事実までである。この事実を説明するために、“内在化”をおこなうべき必然的な謂われはない。しかるに、身体という“ブラック・ボックス”への“内在”という“説明方式”を敢て採ろうとするところから、先に指摘したごとき空間概念の不当適用に陥るのである。」215P
(対話H)「翻って、「内的世界」「心的世界」なるものは“心象風景”ともいうべき固有の空間的秩序をそなえている。しかも、この「内的世界の空間的秩序」の枠組は、先述の通り「外的世界」の空間的秩序に内属するものではない。それでは、いわゆる「内的世界」「心的世界」に固有の空間的秩序は何に由来するのであるか? それはフェノメナルな射映的現相の呈するパースペクティヴな構図に由来する。それも当然である。というのは、そもそも「内的世界」なるものは各人の視座にとって展らけるフェノメナルな現相的情景を改釈して“内なるもの”と見做したものにほかならないからである。固有の空間的秩序をそなえた「心的世界」なるものは、嚮に指摘したところから闡(あき)らかな通り、“見掛”と“実相”との二肢的二重相にあるフェノメナルな風景に即して、謂うなれば“実相”をさしおいて“見掛”だけを“剥離”したものにほかならないのである。――“見掛”上の空間的秩序と“実相”上の空間秩序とは構図的には重ならない。このかぎりで、“見掛”上の空間秩序に由来する“内的世界”の空間的秩序は“固有”性をもつ。とはいえ、“見掛”上の空間と“実相”上の空間とは、先述の通り、位置的・場所的には二重写しにされるのが即自的な思念である。このかぎりで、「内的世界」と「外的世界」(いわゆる“実相的空間世界”)とは、位置的・場所的には、空間的に離在するわけではない。」215-6P
(対話I)「われわれの見地からすれば、こうして、いわゆる「外界」といわゆる「内界」とは、フェノメナルな世界がその空間的構制に関して“実相”と“見掛”との二肢的二重性において覚識される事態(射映的現相与件がそれ以上の或る“実際相”で所識されるという事態――尤も、日常的思念では、実相的実在が射映的見掛相で与えられるという顚倒した構図で覚識される――)、ここにおける両契機を特有の仕方で改釈したものにほかならないのであって、真実には、「外部−内部」という空間的布置関係にあるわけではないのである。いわゆる「外界」と「内界」とは、真実態おいては、およそ空間的に離在する自閉的・自己完結的な世界を形成するものではない。」216P
(小さなポイントの但し書き)「――前篇において縷説したところからして、更めて留意を求めるまでもないとは考えるが、われわれは“実相的空間世界”と“射映的空間世界”との二元主義的な“二世界”論を採るべくもない。既成の日常的思念において「内界」および「外界」として改釈的に見做されているものの原像たる“直接的”な「射映的現相与件」ならびに“実相的”な「意味的対象所識」は、あくまでフェノメナルな世界の構造的契機であって、独立自存するものではない。両契機はいずれも他から“剥離”して“自存化”せしめられては無(「ニヒツ」のルビ)である。しかるに、人々はとかく両者をそれぞれ“もの”化して自存視する。そのため、一者を“身体”に秘匿・収蔵して“内在”相で表象し、他者を独立自存の“外在”相で思念する仕儀に陥る。われわれとしては、この間の事態を自覚的に把え返し、原理的な場面においては、「外界」と「内界」との二元的截断を厳しく卻けつつ、恒にフェノメナルな世界の二肢的如実相に定位しなければならない。」216-7P
第三段落――われわれが既に確説したテーゼが妥当することの追認 217-24P
(この項の問題設定)「われわれの立論は、以上の範囲では、(イ)内感、(ロ)情意、(ハ)表象などに定位して“直接的に”覚識される「内界」の思念を勘案していない。今やこの欠を埋めつつ、これを勘案してもなおかつ、われわれが既に確説したテーゼが妥当することを追認することにしよう。」217P
(対話@)「人々をして身体の“内なる与件”という格別なものが現に存在するかのように覚識せしめる現象が慥かに認められる。われわれはこの現象的事実そのものを否認する者ではない。だが、人々が「内に覚識する」“与件”を以って“心的存在”ひいては“内なる世界”という格別な存在だと改釈的に措定することにわれわれは与(「く」のルビ)みしないのである。――尤も、“内なる直接的与件”なるものが存在するかのように“覚識”せしめる現象は幾つかのケースに岐れるので、それぞれに即しての検討を要する。」217P
(対話A−第一に)「第一に、いわゆる内部的感覚の場合である。人々は、頭部・胸部・腹部・足部など体内の特定部位に痛覚や存在感を感受する。このさいには、身体の内部に感性的与件が対象的に存在するように覚識される。――この場合、感知される“対象”が皮膚的界面の内部に定位されていることは確かであるが、しかし、それは、外部感覚たる視覚や聴覚の対象が皮膚的界面の外部に見出される発光体や音源態に定位されているのと同様な「“対象”の空間的・位置的な定位」であり、その位置が対象的空間内において皮膚より内側の個所を占めているということにすぎない。(いわゆる感覚が単なる質料的所与ではなく「所与−所識」成態であることは前篇で論究したところである。感覚が位置規定・位置値をもつのも「所与−所識」を俟ってである。)このさい、人がもし、いわゆる内部的・体性的感覚が皮膚的界面の内部に定位されているというフェノメナルな事実それ自体に即して“内なる与件”を云為するのであれば、それは認められてもよい。だが、単にそのかぎりでは、対象的与件をそれの見出される場所に応じて、体周半径何々メートルの外部と内部とに分類したり、腹の内部、口の内部という具合に分類整序したりするのと同趣的であり、「内なる心的与件」という格別な存在種や「内界」を措定せしめる所以とはなるまい。――ところが、視・聴・嗅覚といった外部的感覚の対象的与件は自分にとっても他人にとっても直截的に感知できる間主体的な与えられ方をしているように思えるのに対して、内部感覚は当人自身によって“内部から”しか感受できないという点で特異なな存在であるように覚識される。或る種の論者たちは、この覚識に立脚して、格別な「内なる与件」の存在を立論する。論者たちは、体性感覚が身体の内部という場所に感受されるという事実そのことに拠るのではなく、外部感覚の対象的与件が謂わば“外側から”間主体的に開かれた相で感受されるのにひきかえ、内部感覚は当人自身によってさえ“外側から”は感知できず、もつぱら“内側から”しか感知されないということを論拠にして「内なる与件」を云々するのである。いわゆる内部感覚がいわゆる外部感覚と様態を異にすることは確かである。だが、いわゆる内部感覚が“外側”から、つまり、視・聴・嗅・味・触覚の流儀で感受できないことは確かだとしても、それは果たして、語の正確な意味で“内側から”感受されるのであろうか? “内側から”という言い方は、さしあたっては、視・聴・嗅・味・触覚の場合との様態の相違を指称するものにすぎず、文字通りの意味で“内側”からではないはずである。――しかるに、論者たちは、われわれが前篇第二章第一節で排却した「視覚モデル」の「所知−能知」図式を秘かに持込むかぎりで、そのかぎりでのみ、“内的与件”を“内側から”“見る”という構図を立てている次第なのである。この誤てる構図の不当なる適用を卻けるとき、“内側から”という論者たちの主張は基盤が崩れる。――いわゆる内部感覚は、いわゆる外部感覚(視・聴・嗅・味・触覚)とは別の様態で感受されるということ、確かなのはここまでである。それはなるほど当人の体内という場所に感知されるが、この場所たるや対象的空間内での皮膚的界面の内部というだけであって、上述の通り、格別な意味での「内部」ではない。内部感覚は、また、当人の“視座”に定位された“射映”相で与えられており、他人の視座からは如実の射映相を知覚できないことも事実であるが(このさい“他人の視座”を扮技しての自己観察、つまり、自己の感覚を“外から”“眺める”という仕方によっては、如実の“射映相”を自分でも知覚できないことを含める)、これは何も内部感覚に限ったことではなく、本質的な構造においてはいわゆる外部知覚の場合も同断である。(射映的現相の身体布置依属性について上述したところを想起されたい。) ――こうして、いわゆる内部感覚・体性感覚は、いわゆる外部感覚の場合と感覚様態を異にする面があることは確かだとしても、格別な「内なる(心的)与件」の存在を論拠づけうるものではないのである。」217-9P
(対話B−第二に)「第二に、いわゆる感情や情緒、さらには情動や意志など、これらの「内に感じられる」現象が「内なる与件」ひいては「内面的世界」の存在という思念を使嗾する。――情意的ものが「内に感じられる」という場所的な規定性に関するかぎり、「内部感覚」について既述したところと同趣である。また、情意的なものが当人の“視座”に定位した“射映”相で現前し、他人の視座からはその如実の相を知覚できないという点についても、これは外部知覚や内部知覚とも同断であって、特筆すべき事柄ではない。ところで、情意的なものは、一方では「内に感じられ」つつ、他方では「外的」な対象と指向的関係づけられるという構制を明確に現示する場合があり、内部感覚のように身体の“内部で閉じ”てはいないという点に特質が認められる。しかも、情意が指向的関係づけられる「外なる対象」というのは、必ずしも外部知覚野に現前するものとは限らず、「内なる情意的所与−内なる指向的対象」が固有の“情意的世界”を形成するように覚識される。そこで、或る種の論者たちは、この“情意的世界”(それは身体の皮膚的界面の内部では閉じておらず、“外部”にまで拡がってはいるのだが、その“外部”が知覚的に現認される事物的な“実在的”外界とは別であるという特異な“世界”を形成している)を以って、格別な「内面的世界」と呼ぶ。だが、“情意的世界”が特別に「内的」な一世界と見做さるべき必然的な謂われが果たしてあるであろうか? なるほど、情意的なものが「内に」(すなわち、皮膚的界面の内部に)感得されるという事情が一方にあり、また、それが超出的・指向的に関わる領界が知覚的に現前する事物的な“実在的”外界とは別であるという事物が他方にあるかぎりで、“情意的世界”が“内面的世界”と呼ばれることには全く謂われがないわけではない。がしかし、それはさしあたり、“情意的世界”が「内部的感覚」とも「外部的感覚」とも別の状相で現前することを示すものであって、文字通りの意味で「内に在る」一世界の存在を主張せしめるものではないはずである。“情意的世界”は、いわゆる「外界」に対する「内界」を成すものではなく、フェノメナルな世界の一位層、知覚世界とは別の一位層たるにすぎない。」219-20P
(対話C−第三に)「第三に、いわゆる記憶や想像、さらには夢想や思考など、“内省的”に泛かんだり“創発的”に泛かんだりして、外部的知覚世界とは独立な“一世界”を形成するように覚識される現象があり、これが「内なる世界」という想念を機縁づける。――感性的知覚や感性的情意と区別して「表象」とか「観念」とか呼ばれるものが「内に泛かぶ」ように覚識されることは確かである。いわゆる「表象」「観念」は、外部的知覚を“閉ざし”、また、内なる感覚や感情や意志を“無化し”ている場合にも、現識され、しかも、それは「外部的世界」と指向的に関わっていることが覚識される。謂う所の「外部的世界」は、知覚的に現前化されうる“実在的”外界の場合もあれば、知覚的には現前しうべくもないことの了解を伴う固有の“仮想的”外界の場合もある。まず、表象が“仮想的”な“外界”と指向的に関係づけられて特有の“一世界”を形成している場合について謂えば、これは“情意的世界”について上述したところがmutatis mutandis (必要な変更を加えて)妥当するであろう。それゆえ、この場合、“表象的世界”が格別に「内なる」世界を形成するわけではないということの詳しい論定は割愛しても差支えあるまい。ところで、表象が知覚的に現前化されうる“実在的”外界と指向的に関わる場合については、茲で多少とも論及を要する。この場合には、表象とはいっても指向的な所識対象は知覚と共通であり、相違はもっぱら現相的与件が「表象」であるか「知覚」であるかに懸るように思われる。この相違の成立する基盤として、「表象的与件」と「知覚的与件」という二種のものが存在するのではないか? 人は、ここにおいて、「表象的心像」と「知覚的心像」なる二種の「内的与件」を想定し、それぞれが「外的対象」と指向的に関係づけられるという構制で表象と知覚との区別性を説こうとする。われわれの見地では、しかし、上述した通り、謂う所の「外部知覚」における「知覚心像」なるものはフェノメナルな射映的知覚現相を改釈して、“内在化”したものにほかならず、そのような知覚「心像」とかいう格別な与件が「内部」(身心の内部)に実在するわけではない。では、「表象的心像」なる「内的与件」については如何? これについても「知覚的心像」とパラレルに、フェノメナルな射映的表象現相を改釈して“内在化”したものにすぎないと主張するのであるか? もしそうであれば、フェノメナルな知覚現相とフェノメナルな表象現相との区別性が奈辺に存するのか? われわれは嚮に前篇の論脈中で、知覚と表象との弁別は原基的な直覚であること(勿論、錯誤に陥っていたとして事後的に是正される場合もあるが、その都度の意識態においては直証的に区別されていること)、知覚と表象との区別性は、質料的与件そのものの相違にあるわけでも志向的な意識作用とやらの相違にあるわけでもないこと、このことを論定しておいた。知覚と表象とは、指向的所識対象が一箇同一である場合でも、夫々の秩序態の総体として相違するのであり、そのことに俟って直覚的に弁別・覚識されるのである。(秩序態から切り離して個々の知覚と表象とを比較しようとしても判別がつかないが、――ここでの速断的な言い方は後論において是正する予定である――それは秩序態に即しての区別という弁別の機制からして当然であると言えよう。)知覚と表象という両つの秩序態の相違性が奈辺に存するかについては、しかし、空間的・時間的秩序に関して主題的に論考する次篇での論脈に譲ることにして、ここでは暫定的な断言に止めることを当面許されたいと念う。――われわれの見地では、いわゆる「表象的心像」なるものは「心」とやらの「内部」に在る特別な「像」ではなく、フェノメナルな射映的現相の一斑にすぎない。だが、と人は反問して言うかもしれない。いわゆる外部的知覚におけるフェノメナルな射映的現相は(“説明”的には「内的」与件とされることがあるにせよ)直接的な現相的覚識においては確かに「身体」の外部に現識される。これを「内的な与件」と言い做すのはなるほど屈折せる“説明”的技巧であると認めうる。しかしながら、いわゆる表象の場合は、それが「内に泛かぶ」のが現相的事実であり、表象的与件の内在性ということは説明的技巧ではなくして直覚的な認証である云々。ここには検討に値しうべき論件が現にある。記憶的であれ、想像的であれ、表象が「瞼の裏に泛かぶ」場合が慥かにあるように思われる。だが、表象は果たして常に「身体の内」に泛かぶであろうか? 歯の痛み、胸の痛み、腹の痛みを回想したり想像したりする場合には、痛みの表象は歯・胸・腹という体内の部位に定位されているかもしれない。が、眼前の蛇口から水の出る状景を想像したり回想したりする場合、或いはまた、眼前の鐘が鳴っている状景を想像したり回想したり為る場合、視覚的表象や聴覚的表象は蛇口や鐘という体外の場所に定位されている。表象の位置が明確に定位されているさいには、その場所は体内のこともあれば体外のこともある。決して身体の「内」に定位されているとは限らないのである。ところで、一般には、表象は知覚空間内の特定個所に明確な形では定位されていない。庭先に友人の俤(おもかげ)が泛かぶとか、昨日体験した状景が漠然と眼前のあたりに泛かぶとか、知覚的空間を背景としつつも、謂わば背面から浮き出たかの様子で、表象が漠然と「瞼に泛かぶ」場合も、瞼の裏という場所に明確に定位されているわけではなく、瞼のあたりの宙に漠然と泛かぶというのが実態である。こうして、表象は、知覚空間内の特定個所に個々の契機が定位される場合もありうるとはいえ、概しては、知覚空間の特定の場所に定位されることなく、固有の表象的空間秩序態を形成しつつ、謂わば宙に浮いた相で現前するのが普通であって、断じて、一部論者たちが思念するように「内に定位された在り方で覚識されるのが現相的事実」というわけではない。従って、内に泛かぶ(こともある)ということを論拠にして表象的世界を「内なる世界」として定位することは論理構制上も妥当しない。表象的世界は、なるほど知覚的世界とは様態を異にはするが、あくまでフェノメナルな世界の一位層である。」220-3P
(対話D−第四に)「第四に、これは直接的覚識というよりもむしろ推論に関わるむきが強いものであるが、知覚にさいして眼や耳から入来して受容された或るものが「内的与件」をなすように思念される事態がある。――この思念の場合、なるほど眼や耳や鼻や舌や肌から何ものかが入来するかのように感じられることまでは確かでも、「内なる与件」の存在が直接的に感受されるわけではない。「内なる与件」の現存在という立論は、知覚的射映の身体依属性をはじめ、一連の知覚的事実を“説明”するための可能的一配備たるにすぎない。論者たちが、「外部から入来して受容されたもの」を以って一種の物的存在(エイドロンとかエネルギーとか)と考えるとすれば、それは皮膚的界面の内部に存在するとはいえ、身体外部の存在と本質的に異なるものではなく、殊更に「内なる(外物とは別種の心的な)与件」と呼ばれるには値しないであろう。それは皮膚的界面の内部に在る物的な一対象ないし身体的一状態という埓に止まる。――ところが、或る種の論者たちは、かかる“身体内部的な物的存在”という域を超えて、「知覚心像」「感覚映像」という格別な心理的・精神的な存在を想定し、それが「内なる直接的与件」をなすと主張する。これは根強い既成観念というより知覚を“説明”する一つの理論である。だが、「知覚心像」等と称されるものは、論者たち自身にあってさえ所詮は“説明仮説”以上のものではない。(ここでは立入らぬが、知覚という現象を説明するためには、この仮説は決して必須ではない。)われわれに言わせれば、それはフェノメナルな射映的現相を改釈して“内在化”したものにほかならず、そのような知覚「心像」とかいう格別な与件が「内部」(身心の内部)に実在するわけではないこと、この件については既に詳説したところであるから、茲で復唱するには及ばないであろう。」223-4P
第四段落――この節のまとめ 224-5P
(対話@)「以上みてきたように、「内なる与件」ひいては「内界」なるものの存在を思念せしめる機縁が幾筋かあることは確かであり、これにも使嗾されて、間主体的=間身体的な場面に見られる或る事態を“説明”“了解”すべく「内界」なるものを各自に内属せしめようとする傾動がはたらく。――間主体的な場面で逢着する或る事態というのは、再唱するまでもなく、他人に現前しているはずの射映的現相が自分の知覚野には現出しないこと、亦逆に、自分に現前している射映的現相が他人にとっては現前していないことが覚識される、という事態の謂いである。――この間の事情は諒とすることができるし、われわれ自身、そのことを積極的に銘記する。」224P
(対話A)「しかしながら、真実態においては、「物的世界」と「心的世界」とが二元的に存在するわけではない。「外界」「内界」という二元化、ひいては両界の截断は、フェノメナルな世界の構造的二契機たる「意味的所識」と「現相的与件」とを“もの”化して自存視する錯認(精確に言えば、両つの位階における所与的所識態を“もの”化する錯認)に淵源するものであり、降っては、知覚的世界を「外的世界」と二重写しにしつつ、それとは様態を異にする表象的世界や情意的世界(というフェノメナルな世界の位層)を「内的世界」として改釈・対置することにも由る。」224P
(対話B)「「外界」と「内界」との二元化的截断、「物」と「心」との二元的截断、これはフェノメナルな原事態に関する錯認的改釈にもとづくものであるとはいえ、慥かに根強い既成観念をなしており、これに定位した「認識的世界」観が旧来における認識理論の枠組を決している。認識世界に関する旧来了解と内在的に対質しつつ、真実態を顕揚するためには、われわれ自身、今暫く、既成観念的枠組みの内在的検討を進めておかねばならない。」224-5P
第二節 <三項図式>の形成
(この節の問題設定−長い標題) 「「物的外界」と「心的内界」との二元化的截断は、その域に止まることなく、軈(やが)ては謂う所の「心的内界」を「内容」と「作用」との二因子から成るものとして把握せしめるに至る。ここにおいて、「意識対象−意識内容−意識作用」という三項図式が形成される。――「意識対象」とはさしあたり所謂「物的外界」の「内的与件」たる意識内容を所知・所動とする能知・能動の謂いである。――この三項図式は、「外界」と「内界」との二元化的截断という錯認に加えて、フェノメナルな世界という能知的所知=所知的能知の渾然一体的統一態における所知的契機と能知的契機とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断する謬見に基づくものにほかならないが、これは所謂「主観−客観」図式とも相即するものであり、既成の「認識的世界」観の構図を劃しているものである。」225P・・・やっと三項図式に。重要。
第一段落――「意識対象」と「意識内容」との分離的相関の部面に止目し、そこにおける問題論的構制の剔抉 225--30P
(この項の問題設定)「われわれは、まず、「意識対象」(さしあたり「物的実在」)と「意識内容」(いわゆる「内的与件」「心像」)との分離的相関の部面に止目し、そこにおける問題論的構制を剔抉しておこう。――尚、前節において「物的外界」と「心的内界」との截断を主題としつつも、物的世界そのものには敢えて立入らなかった所以でもあるが、われわれは次篇において事物的世界を主題的に討究する予定である。本節においても、それゆえ、いわゆる「物的外界」については「意識対象」という存在規定の埓内で配視するにとどめる。」225P
(対話@)「偖、前節の行文では知覚に関する省察と表象に関する省察とを分ける形をとったため、「外界」と「内界」との截断が知覚的世界風景の内部における“実相”と“見掛”との区別から起始するかのような扱いを事としたのであったが、「事物的外界」と「心象的内界」とが区別される端緒はむしろ「知覚現相」と「表象現相」との対比的区別に存するかと思う。――人々はいわゆる知覚といわゆる表象とを直覚的に弁別し、フェノメナルに現前しているのが知覚的状景であるか、それとも、記憶的ないし想像的な状景であるか、その都度弁別的に覚識する。尤も、反省的意識においては、前に知覚と思っていたものが実は記憶像ないし想像像にすぎなかったものと把え返される場合も生じうる。が、その都度の意識態においては、知覚であるか表象であるか、端的に判別した相で意識される。知覚は、実相と見掛との区別的覚識を孕みうるにせよ、知覚的に現認される身体の外部にまで拡がっている安定的な分節相で現前し、“臨場的現実感”を伴っている。それにひきかえ、記憶的回想や想像的思料などの表象は、知覚的情景ほど明晰・判明・安定的でないのが普通であり、“対象的現実感”にも乏しく、あまつさえ、謂う所の“内に泛かぶ”相で現出する。――「外に展らけて現存する知覚」と「内に泛かんで仮現する表象」という対比的区別の思念がここにおいてまずは即自的に成立する。」226P
(対話A)「「外に展らける知覚」と「内に泛かぶ表象」とが、こうして、とりあえず区別的に対比されるとしても、両者は決して全く無縁というわけではない。両者は秩序態の総体としてみればおよそ異貌であるにせよ、個々の知覚形象と表象形象とを比較してみれば、多少の変形(「デフォルメ」のルビ)こそ蒙っておれ、表象は知覚を模像的に再現したものになっていることが“判る”。知覚と表象とは原像(「オリジナル」のルビ)と模像(「コピー」のルビ)との関係に“ある”ことが覚識される。ここにおいて、さしあたり、「外なる知覚形象」と「内なる表象形象」とが「原像−模像」の関係にあるものと“了解”される次第である。――「原像」たる知覚形象は“実相”と“見掛”との両契機を孕んでいるが、「模像」たる表象形象は、とりあえずのところ、当の“実相”と“見掛”との両契機を孕んだ相での模像的再現であり、そのかぎりで、知覚的に現前する“実相”界の模像と見做されうる。より正確に言えば、フェノメナルな知覚現相は「射映的現相与件」と「実相的意味所識」との二肢的二重性において前者が単なるそれ以上の後者として覚識されており、ここに構造的相同性が存立しているのであるが、この構造的相同性において、知覚と表象との「射映的現相与件」(“見掛”)という契機どうし、および、「実相的意味所識」(対象的な“実相”)という契機どうしが、それぞれ「原像−模像」関係で対応しているものとひとまず思念されるのである。」226-7P
(対話B) 「ところで、しかし、われわれが前節において追認したごとき経緯に負うて、知覚における「射映的現相」(“見掛”)の契機は「身体」に依属するばかりか“身体”に内在するものとされ、果ては「心」に内に在る「心的存在」(知覚心像)とされるに及ぶ。そして、「射映的現相」たるかぎり、表象現相もまた、今では「内に泛かぶ」という覚識次元とは別の特有な意味において“内在化”され、「心」の内に在る「心的存在」(表象心像)とされるに至る。ここにおいて、知覚的射映現相(知覚心像)と表象的射映現相(表象心像)とが共に「内なるもの」「心的存在」として今や類同視されることになる。「知覚心像」と「表象心像」という“内なるもの”(“心的存在”)どうしが依然として「原像−模像」関係にあるとされることは妨げないが、しかし、今や知覚と表象との間には「外なる原像−内なる模像」という嘗つての関係は認められない。今では「外なるもの−内なるもの」の関係は、知覚と表象の間ではなく、「実相的所知対象」という“外的存在”と「射映的現相与件」という“内的存在”との間に移行する。だが、謂う所の「実相」(実相的所識)と「見掛」(射映的現相)とは、構図的に相似ではない。そこには、普通の意味での「原像−模像」関係は認められない。そこに認められるのは、たかだか、一定の(数学的「写像理論」に謂う意味での)写像的対応性にすぎない。人々は、しかし、とりあえずこの“写像的対応性”に留目して、「実相的対象」と「射映的心像」とのあいだに「原物−写像」の関係があるものと見做す。――翻って考えるに、知覚と表象とが「原像−模像」的に対応していると思念されていた折には、知覚と表象の「射映的現相」どうし、および、「実相的所知」どうしが、それぞれ模写関係にあるものと思念されていたが、果たして知覚的実相所知と表象的実相所知とは別々の対象なのであろうか? それは、実際には、一箇同一の実相的対象ではないのか。茲で、知覚における実相的所知と表象における実相的所知とは、別々の存在ではなく、一箇同一のものであると了解するとき、単一の「原物」が知覚心像と表象心像という二種のもので「写像」されることになる。――「知覚心像」と「表象心像」とは別種であるにせよ、「像」としては相似的・合同的であり、「原物」に対する写像的対応の様式は同一(写像的心像形成の具体的な方式は別途でも、写像的対応関係の様式としては同一)である、と了解される。そのうえ、知覚心像と表象心像は共に「内なる存在」「心的存在」「心像」という点で同類である。このかぎりで、「原物−写像」関係を一般的に論考する場面では、「知覚心像」と「表象心像」とを一括して扱うことができる。こうして、今や(知覚と表象とを「外なる原像−内なる模像」関係にあるとみなしていた素朴な思念に代えて)、知覚心像と表象心像とが「写像的心像」として一括され、それが「外なる原物」と対向的関係に置かれる段となる。ここに謂う「外なる原物」と「内なる心像」との関係が、「意識対象」と「意識内容」との関係にほかならない。」227-8P
(対話C)「「外なる物的存在たる実相的対象」と「内なる心的存在たる射映的心像」とが「原物−写像」関係にあると謂うが、「意識対象」と「意識内容」とのこの“写像”関係の内実はいかなるものであるか? われわれの見地から言えば、「原物」=「意識対象」として人々が思念しているところのものは、フェノメナルな現相世界において“見掛”と区別して“実相”と覚識されている対象的「所識」を“もの”化して自存視したものであり、「写像」=「意識内容」として人々が思念しているところのものは、フェノメナルな現相世界において“実相”と区別して“見掛”として覚識されている射映的「所与」を“もの”化して自存視したものであり、「写像」関係として人々が思念しているところのものは、両契機の「等値化的統一」を自存的な“もの”と“もの”との一関係として錯認したものにほかならない。真実態においては「射映的現相」が単なるそれ以上・以外の「意味的所識」として覚識されるのであるが、人々はこれを錯認し、あまつさえ“顚倒”した配位で看じ“外的実相”が“内的心像”のかたちで与えられる(映現する)ものと思念する。そして、意識対象たる“外的実相”と意識内容たる“内的心像”とを比較してみるとき、両者のあいだに「原物−写像」の関係があるものと人々は思念するのである。謂う所の“写像”関係は、われわれの見地からすれば、かかる錯認的思念を内実とする。」228-9P
(対話D)「茲では、しかし、敢て伝統的な思念の線に沿って一歩だけ議論を進めておこう。「意識対象」と「意識内容」とは「原物−写像」の関係にあるとみなされたとしても、“写像”的対応の在り方は一様とは限らない。「意識内容」のうち、或る種のものは「意識対象」の側と相同的に対応するが、或る種のものは相同的には対応しない、とい考え方が登場しうる。事実、或る論者たちはこの考え方を採り、「第一性質」(primary qualities)なるものと「第二性質」(secondary qualities)なるものとを区別する。」229P
(小さなポイントの但し書き)「空間的な大きさや形、それに不可入性、数などは対象的実在と相同的な対応性をもつものとされ、「第一性質」と呼ばれるが、色・音・味・温・冷・圧・通などは、「物的存在」「意識対象」の側に機縁的な“写像”的対象を一応もつにせよ、物的実在との相同的な対応性をもたず、そのままの相ではもっぱら「心的存在」「意識内容」としてのみ存在するものとされ「第二性質」と呼ばれる。」229P
(対話E)「第一性質と第二性質とのこの区別は「意識対象」なるものの既定的限定と相即する。日常的な常識では、色や音などについても“実相”と“仮相”とを区別しつつ、実相としての色や音が存在するものと素朴に信憑している。例えば、現状ではくすんだ色にしか見えていないが実際にはしかじかの鮮やかな色であるとか、かすかにしか聞こえていないが実際にはしかじかの大きな音であるとか……。ところが、第二性質たる色や音は単なる「意識内容」であって、「意識対象」の実相には色や音は属していないものと論者たちは認定する。論者たちにあっては、「意識対象」たる物的存在には色・音・味……は属しておらず、物的存在それ自身はもっぱら第一性質しか有たないものとして規定し返されているのである。(これをわれわれの見地から言えば、「射映的所与」がそれ以上・以外の或るものとして覚知される当の「或るもの」(対象的所識)のうち一部だけが物的に実在的とされることを意味する。) ――では、諸多の規定性のうちどれとどれとが「意識対象」と「意識内容」とのあいだで相同的に対応しており、どれとどれとが相同的には対応していないということの判別は、いかなる手続によって遂行されうるのか? 原理的・究極的には、一方の「原物」と他方の「写像」とを、すなわち、物的存在たる「意識対象」と心的存在たる「意識内容」とを、比較校合してみることによってのはすである。だが、果たして、そのような比較が直接的に可能であるか? 直接的には不可能だとすれば、いかなる間接的比較が権利づけられうるか? これは認識上の大問題であり、これの検覈は後論に譲らざるをえない。――ここでは、とりあえず、「意識対象」と「意識内容」とが、相同的に対応しないとされる場合をも含みうるが、ともあれ、「原物−写像」関係で思念されていること、このことを銘して次のステップへと移る段取りである。」229-30P
第二段落――「意識内容」と「意識作用」との相関におけるプロブレマティック 230-6P
(この項の問題設定)「われわれは、茲で、「三項図式」における第二項と第三項、すなわち「意識内容」と「意識作用」との相関の部面に視界を転じ、そこにおけるプロブレマティックを一瞥しておこう。」230P
(対話@)「「意識内容」「心像」が存在することは、意識の存在にとって必要条件ではあっても、十分条件ではないものと思念される。「三項図式」を相即的に支える思念にあっては、意識的な「内容」が成立するためには、「意識内容」のほかに、この「内なる与件」を直接的な対境とする能知的能識的作用が必要であるとされ、この「内なる作用」が「意識作用」ないし「心的作用」と呼ばれる。心的作用たる「意識作用」は、時によっては、単なる能知=能識的な作用という域を超えて、「意識内容」「心像」に対して一定の加工的能作を及ぼしたり、「意識内容」を自ら創出したりする能動=能作的な作用としても主張される。」230-1P
(対話A)「人々は、俗に「見れども見えず、聞けども聞こえず」と称される事態を体験する。ここにあっては、「意識内容」たる「心像」という「内的な与件」は現存すると考えられるにもかかわらず、当の「意識内容」が覚識されないのであるから、意識の成立にとって心像的与件の現存だけでは不十分であると判断される。現存する「内的与件」を覚知したりしなかったりする或る「能知的」契機が存在するものと思念される所以である。逆に、意識が存在する場合には、知覚的であれ表象的であれ情意的であれ、その都度つねに一定の“心象的心像”が“現前する”のであるから、意識にとって「意識内容」の現存が必要条件であると“認定”される。――人々は、また、俗に「観念を紡いで想像的世界を織り成す」とか「忘却の淵から記憶を引摺り出す」とか呼ばれる事態を体験する。ここにあっては、既存する「内なる与件」に対して或る能作=能動的な作用が及ぼされるように覚識される。既存する「内なる観念」を分解したり結合したり、変容したり再構成したり、この種の内的作用が発動されるように覚識されることも屢々である。さらには、いわゆる「創造的な思考」やいわゆる「生産的な想像」の場合など、内面的な作(「はた」のルビ)らきが、「意識内容」「心像」を産出するように覚識される場合もある。このたぐいの体験的覚識を追認するかたちで、「内的与件」に対して能動的な能作を及ぼすばかりか、「内的与件」を創出することすら可能な「内なる作用」が在るものと思念・主張される次第である。」231P
(対話B)「「意識作用」という心的な作用は「意識内容」に対して、単に能知=能識的に関わるばかりでなく、「意識内容」に加工的変容の能作を及ぼしたり、場合によっては「意識内容」を産出することさえ可能であると思念されるが、しかし、「意識作用」は「意識内容」に対して一方的に能動的であると考えられるわけではない。なるほど、能知性・能識性というかぎりでならば、「意識内容」の所知性・所識性に対して、「意識作用」は恒に“能動的”であると謂うこともできる。しかし、当の能知=能識的な関わりが「意識内容」によって謂わば“迫られた”ものである場合もありうるというかぎりで、「意識作用」は「意識内容」に対して“受動的”たりうるのである。――「意識作用」が「意識内容」に対して、多少の変様を加えたり、覚知を“拒む”という仕方で応じたりすることはできても、当該の「意識内容」そのものを産出することはできず、苟も覚知するかぎりは、所与の意識内容を基本的に“受容”せざるをえないケースがあり、この場合「意識(作用)」は「受容的」であると呼ばれる。これに対比して、「意識作用」が「意識内容」に加工的変容・改作の能作を及ぼしたり「意識内容」を自ら産出したりすることのできるケースについては、「意識(作用)」が「自発的」であると呼ばれる。伝統的な発想においては認識に関わる方面での「心」の「作用的能力」を「感性」と「知性」とに二大別するのが常識であるが、ここにあっては、「感性」は受容的であり、「知性」は自発的であるものと了解されている。」232P
(対話C)「「意識内容」と「意識作用」との関係は、こうして、「感性」の場合と「知性」の場合とで在り方を異にする。――まず、「感性」の場合について言えば、「心」「意識」の能知的作用は「意識内容」を受容的に「内なる与件」として与えられる。では、当の「意識内容」つまり感性的心像としての「内なる与件」はどのようにして存在するのか、感性的与件といえども「内界」に所属する「意識内容」である以上はあくまで「心」に内在するわけであるが、感性的与件については、それが「心」にアプリオリに備わって既在するとは誰しも主張すまい。感性的心像は、意識作用によって産出されるのではなく、意識作用の発現に先立って既に形成されていなければならないのであるから、それの形成者は「心」「意識」以外のものであるのほかない。感性的意識内容の形成者は、この論脈において、さしあたり、身体的過程であるとされる。尤も、身体が自己充足的に単独で感性的意識内容を創出するとは必ずしも主張されない。一般には、外なる物的存在、外なる意識対象からの刺戟を受納し、それを機縁にして、身体的過程が「内なる与件」を造出する旨が主張される。だが、身体という物的存在が「意識内容」「心像」という心的存在を造出することが一体可能なのであろうか。身体が形成しうるのは一定の神経生理学的状態、一定の大脳的状態までではないのか。身体的過程が、およそ端的に別種の非延長的・非質量的な「意識内容」という心的存在を因果的に造出すると主張するのはいかにも強弁である。そこで、このミステリーを回避すべく、身体が刺戟を機縁にして形成するのはあくまで一定の身体的・物質的状態までであって、この与件的状態を「意識(作用)」が覚知するのだと考え直してみる。こうすれば、ミステリーが一見回避されたかに思える。だが、果たしてそうであろうか。「意識(作用)」というものは、意識内容という心的与件ならざる身体的・物質的状態なる対象を直接に感知することが可能なのか。これが可能ならば、意識作用は意識内容という中項を介することなく直截に意識対象を感知することも可能ではないのか。従って三項図式は不用ではないのか、この旨をここで問い返すのは差控えよう。仮令、意識作用が直接に身体の感性的状態を覚知することが可能だとしても、先にみておいて通り、三項図式を相即的に支える思念にあっては、「意識内容」の存在が意識の現存にとって必要条件である。意識が存在するかぎりその都度つねに「意識内容」が必ず見出される。感性的意識にあっては感性的意識内容が現識される。それでは、この現識される感性的意識内容はどのようにして形成されるのか。身体的状態の直接的感知を云々する場合には、今や却ってこのことの説明が要求される。ところが、当座の仮定的前件によれば、身体的過程そのものは意識内容を形成しないということになっている。身体的過程が形成するのは一定の身体的状態までであるとすることによって辛うじて“ミステリー”が防遏されている。茲において、以下、感性的意識内容という心像の形成を説く途は、意識作用による自発的・能動的な創出という筋しか残されていない。しかるに、そうとなれば、「感性」の存在規定に関わる「受容性」ということが否認されて、「感性」もまた能産的に「自発性」ということになり、「知性」との区別が撤廃されざるを得ぬ破目に陥ってしまう。こうして、物的な身体過程が心的な意識内容を造出するというミステリーを強弁するか、さもなくば、「感性」と「知性」との区別を撤廃して感性も知性と同様に意識内容を自発的に創出する旨を説くか、ジレンマに逢着する所以となる。――「知性」の場合における「意識内容」と「意識作用」との関係はどうか。「知性」の場合、意識作用は既存する所与の意識内容に対して加工的変容の能作を及ぼしたり、時によっては、自ら意識内容を新規に創出したりもする。というのが既定的了解である。では、加工的変容の素材的与件が既成的に与えられるさい、当の与件的心像はいかにして形成されたものであるのか。人が、もし、ここで身体的過程による意識内容の造出を云々するとすれば、先に感性に即して確認したあのミステリーを免れ難い。それゆえ、知性的意識作用の加工的能作に対して素材的に“与え”られる意識内容=心像=観念も、実は、外的・即自的に与えられるものではなく、意識作用が自ら産出したものである、としなければなるまい。尤も、知性的意識作用は加工的変容・改作のその都度に素材を新規に産出する必要はないのであって、事前に産出しておいた素材に対して時に応じて適宜に加工的能作を加えるものとすることもできる。しかし、その場合、既製の素材的意識内容がどのように保存されているのかという問題が生じる。意識内容=心像=観念は「心」の内に収蔵されているはずであるが、一体、意識内容の収蔵的保存ということがいかなる機構によっておこなわれるのか。「心」とは謂うなれば“箱”の如き存在であるのか。既存するはずの意識内容が絶えず現識されているわけでなく、時に応じて覚識されたり覚識されなかったりするという事態も“箱”の比喩で一応の“説明”がつく。とはいえ、心的な「内界」が非延長的・非空間的であるとすれば、空間内的収納のアナロジーが果たして許されるであろうか。ここに聊か問題が残る。がしかし、この点は、とりあえず、問題ないものとしておこう。仮令そう譲ったとしても、溯って、そもそも意識作用なるものが自発的・能動的に意識内容・心像という心的存在を産出するということ自身が神秘的である。意識作用は、人々が現にしはしばそう覚識するように、一定の身体的状態に触発されて発動するのであろうか。もしそうだとすれば、いわゆる「身−心」因果関係を主張すべきことになり、物質的存在と精神的存在とのあいだに因果的作用関係を主張するというカテゴリー・ミステイクに陥る。(この「身−心」問題、および、そこにおける因果概念の適用がカテゴリー・ミステイクであることについては本書の第三篇と併せて、別著『<心−身>問題の構制』を参看されたい)。このカテゴリー・ミステイクを回避しようとして、意識作用の発動は全くの自発的発露であるとし、意識作用が自足的に心的内界を産出・形成する旨を主張するとすれば、その時には、「意識対象」「物的存在」が意識にとって無縁の存在となってしまう。このさい、「意識対象」(「外物」)との断絶はまだよいとしても、しかし、意識内容のその都度の状態には一定の脳髄的状態が一義的に対応しているという大脳生理学・心理学の“常識”とどう調和させるのか。目下の前提的了解によれば、脳髄における身体的過程が心像を造出するのではなく、意識作用が自発的に心像的意識内容を産出・形成するのであり、従って、意識内容に対応する脳髄の生理・物理的状態は意識の側が触発して成立させたものとせざるをえない。(ここでは「心−身」の予定調和的並行説は論外として差支えあるまい)。という次第で、意識状態と脳髄状態との対応性を閉却しえぬかぎり、「心−身」因果説という元の木阿弥のカテゴリー・ミステイクに還帰する所以となる。しかも、今では、意識の側が身体を触発して一定の物質的脳状態を形成するというオカルト的な作用の主張になり了る。となれば、いずれにせよ、能知能識的な意識作用が自ら心像を想像的に産出し、且つは、素材的与件たる心像を分解したり統合したり変形したりするということ、要言すれば。能知能識的な意識が一種の作用的効果を及ぼすということ、このことそれ自身が所詮はミステリーたることを免れない。――こうして、「意識内容」に対する「意識作用」の関係は「受容的」としても「自発的」としても、いずれにしてもミステリーに陥る。」232-6P
(対話D)「「意識作用」と「意識内容」との関係は「能知能識−所知所識」関係という埓を超えて、「能動−所動」性ないし「所動−能動」性の能作的な関係としての意義をもたせようとするとき、カテゴリー・ミステイクたることを所詮は免れ得ないのである。それでは、「意識作用」なるものを単なる能知能識的存在とし、「意識内容」なるものを単なる所知所識的存在とし、只管(ひたすら)その域に止まるならば、それで自足できるのか? 否である。この間の事情を見定めるためにも、今や三項関係の全体を視野に置きつつ、抜本的な検討を図らねばならない。」236P
第三段落――「意識対象」と「意識作用」という両極を配視しつつ、三項の実態を綜合的に検覈する 236-42P
(この項の問題設定)「われわれは、以上において、「意識対象」なるものと「意識内容」なるもの、また「意識内容なるものと「意識作用」なるもの、これらが相関的に措定される経緯を追認し、併せて、そこにおける問題性の一端を各個にみてきた。茲では、「意識対象」と「意識作用」という両極を配視しつつ、三項の実態を綜合的に検覈することにしよう。」236P
(対話@)「三項図式における第一項(意識対象)と第二項(意識内容)とは、相同的に対応するか否かは別として、ともあれ元来は「原物−写像」の関係にあるものと思念されており、第二項(意識内容)と第三項(意識作用)とは、能作的に影響し合うか否かは別として、少なくとも「能知−所知」の関係にあるものと思念されている。これら二項どうしの組の内部では、直接的な関係があるものと了解されている。ところが第一項たる「意識対象」と第三項たる「意識作用」とのあいだには直接的な関係はない。「意識作用」は直接的な関係はない。「意識作用」は直接的な所知的与件たる第二項=「意識内容」を介してたかだか間接的に「意識対象」と関わるにすぎない、とされる。「意識対象」と「意識作用」との直接的な関係が遮断されているところに「三項図式」の一つの特質がある。」236P
(対話A)「「意識作用」は「意識対象」とのあいだに直接的な「所知−所識」関係をもつことはできず、能知たる意識作用に所知として直接的に与えられるのは意識内容に限られるという了解、これが「内在の命題」(Satz der Immanenz)ないし「意識の命題」(Satz des Bewußtseins)と呼ばれるものにほかならない。三項図式の含意する「内在の命題」からして「能知−所知」関係は直接的には意識的「内界」の内部に局定される。しかうるに、「意識的内界」(「心」)なるものは、各自の“身体”に“内在”するというのが「外界」と「内界」との截断にさいしての了解事項であり、また、それが「意識内容」なるものが措定されるさいの了解事項でもあった。それゆえ、「内在の命題」は「意識的内界」が各人に内属することを含意し、「意識内容」が各私的(jemeinig)であること、況んや「意識作用」もまた各私的であることを当然の含意とする。(ここに措定される「意識はその都度各々の“私”に固有である」という命題を、以下では「意識の各私性(Jemeinigkeit)の命題」と呼ぶことにしよう)。こうして、三項図式のもとでは、意識は外的対象との直接的な関係を截断され、「能知−所知」の意識関係はもっぱら各人の内部における出来事と了解される。三項図式と相即する思念のもとにあっては、「認識」は、外的対象と間接的には関わりうるにせよ、直接的には各私的内在性の埓を超出できないことになる。(ここから認識論上の諸々のアポリアが出来(「しゅったい」のルビ)する次第については次節において主題的にみる予定である。) ――尤も、省みるまでもなく、「外部的対象」と「内部的意識」(「意識内容−意識作用」)との截断は「外界」と「内界」との截断に由来するものであり、三項図式形成の前史的経緯からして既定的とみなされる一事項という以上のものではない。」237P
(対話B)「ここで更めて銘記さるべきことは、三項図式においては「意識対象」と「意識内容」とが「外界」と「内界」とに分属させられるという仕方で截断されているばかりでなく、“内界”に共属する「内容」と「作用」もまた或る意味では“截断”されているという事実である。「意識内容」と「意識作用」とは、統一的・単一的事態の二契機といったものではなく、一方に意識内容というものがあり、他方に意識作用というものがあるという相で、両項はそれぞれ“自存的”な或るものとして了解されている。――「意識内容」と「意識作用」とは、合して「内界」を形成するのであるから、無論緊密な関係にあるには違いない。時としては、両者は統一的・単一的な事態の双つの契機たるにすぎないかのようにすら覚識される。とはいえ、内的与件たる意識内容は既在的に現存すると考えられるにもかかわらず、能識作用が発動してそれを覚知するに至らないために、それが現識されないという場合がある。また「意識作用」は、セルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)に自己(意識作用)を意識しても、与件的心像たるあれこれの意識内容を覚識せずに済んでしまう所謂「自己意識=自覚」(Selbstbewußtsein)の場合もある。さしづめこのようなケースが存在しうるという“事実”に徴して、「意識内容」と「意識作用」とは一応別々の存在であり、必ずしも共軛的に相補的な不可分的契機であるわけではないこと、内容だけ現存して作用が未在の場合や作用が発動していても内容は関与しない場合がある以上、両者は一応“自存的”な項たりうること、このことが“判る”。――「三項図式」における「意識内容」と「意識作用」とは、“触知モデル”に即した能知的所知=所知的能知の統一的渾一態の相ではなく、前篇第二章に謂う「視覚モデル」に即した「所知−能知」の“空間的分離”の相で、あまつさえ「見られるもの−見るもの」の関係相で想定されていると言うこともできよう。」237-8P
(対話C)「われわれの見地から批判的に言えば、「外界」と「内界」とは、従って「意識対象」と「意識内容」とは“空間的に”截断さるべきものではなく、また、所知的意識内容と能知的意識作用も「視覚モデル」の流儀で“空間的に”分離さるべきものではない。「三項図式」における「意識対象」「意識内容」「意識作用」という三つの項は、真実態においては、決して自存する“もの”ではない。謂う所の三つの「項」は、能知的所知=所知的能知の如実の統一態における契機を“もの”として自存視し、自存的な三つの存在者として銘記したものにほかならない。」238P
(対話D−第一に)「われわれは、まず第一に、“身体”(ないし「心」)に内在する「意識内容」というものは存在しないと考える。われわれの見地にとっては、意識内容の各私的内在性の命題は妥当しない。われわれとしても、人々が誤って「内なる与件」「心像」「観念」「意識内容」として改釈的に思念している或るものが存在するということまではひとまず認める。行文中嚮に指摘しておいた通り、「意識内容」として思念しているところのものは、フェノメナルな現相における“射映的与件”の契機が誤って“内在化”されたものなのである。正確に言えば、それは内在化された純然たる“射映的与件”というより、むしろ「射映的与件−或る種の意味的所識」の二肢的二重態が“内在化”されたものになっている。このかぎりでは、時によっては、内在化された射映的与件というよりも、フェノメナルな現相の一全体が内在化されたものになっている。但し、二肢的二重態たるフェノメナルな現相の一全体の内在化といっても、そのさいには、意味的所識性の契機が謂うなれば二重化され、そのうちの一者が外的な「意識対象」として括り出され、他者が内的な「意識内容」と二重写しにされているのである。こうして、「意識内容」「観念」と称されるものは、単なるレアールな射映的与件以上のイデアールな契機をも孕む。これが実情であって、“身体”ひいては「心」の内なる直接的な与件なるものは実際には存在しない。」239P
(対話E)「だが、と人は反問して言うかもしれない。俗に「見れども見えず、聞けども聞こえず」と謂われる事態などにあっては、意識内容が内在しているにもかかわらず覚識されない場合があること、覚識こそされないが意識内容が裡に現存していること、このことが証拠立てられるのではないか? われわれの答は、否である。見えてはいず、聞こえてはいないこと、フェノメナルな現事実はここまでである。人々は類似の情況との統一的“説明”の一方式として、意識内容なるものの内在的現与性という共通の事態を想定し、それが覚知される場合と覚知されない場合との別が岐れる旨を説こうとするが、内在的与件なるものが共通に現存するということは何ら実証された事実ではない。それは一つの“説明仮説”たるにすぎないのである。(感官生理学的にみてよしんば類似の状態が形成されているとしても中枢的な脳の状態が相違するといった別の“説明方式”が、これをわれわれが採るか否かは措くとして、現にいくらでも存在しうる。今問題の“説明仮説”は、常識的にポピュラーではあるにせよ、およそ唯一合理的な仮説といった代物ではない。溯って、意識内容なるものは、原理上、観察的実際にほかならないものであり、“内省的に覚識される”という思念によって辛うじて支えられているものである。このことを惟うとき、「覚識されざる意識内容」の存在などということは、とうてい“検証”不可能な仮説でしかありえない。それは“説明仮説”としても臆弱にすぎる)。では、「記憶を心の奥から引摺り出す」という覚識は如何? これは内的心像の存在を証拠立てるのではないか? 否である。人は、貯蔵されている記憶心像の内在性ということは、説明仮説というよりも“意識箱論”と相即する比喩に類するものにすぎまい。われわれは後顧の憂いなく、「意識内容」「心像」「観念」なるものが真実には「内在」するわけではない旨を反立しうる。」239-40P
(対話F−第二に)「ここで、次に(第二に)、「意識対象」なるものに止目しよう。人々が「意識対象」「外的実在」として思念しているところのものは、嚮にも指摘した通り、われわれの見地から言えば、フェノメナルな現相界における“意味的所識”の契機が誤って“外在化”され、“射映的所与”の契機から存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断されたものである。尤も、正確に言えば、それは“意味的所識”一般が自存化され外在化されたものではなく、意味的所識のうちまさに“実相的”“実在的”と思念された領分が“もの”的に自存視され外在化されたものと言わねばならない。それは、フェノメナルな知覚的現相界における“実相”と“見掛”という区別相での“意味的所識”と“射映的与件”との「外界−内界」的截断において外在視される前者の契機に淵源するところから、身体外在的な諸対象ばかりか身体をも包摂する所以となる。この意味で、フェノメナルな知覚的空間世界の内部で特定領域だけが外在的対象界とみなされるわけではなく、フェノメナルな知覚的現相界に現前的に展らけうるおよそあらゆる領域が実相的実在的な「意識対象」界とされうる。あまつさえ、「外界」としての「意識対象」界が措定される元来の手続と論理構制からすれば、記憶的・想像的・思考的「表象的世界」はおろか、「情意的世界」をも含めて、およそフェノメナルな現相世界一般における“意味的所識”の契機がことごとく「意識対象」界とされることを妨げられない。が、しかし、事実の問題として、伝統的思念においては、「意識内容」とのあいだに相同的に対応する写像関係にある“原物”相のみが実在的対象たる「意識対象」と目されるのが普通である。また、伝統的思念においては、「意味的所識」のイデアール・イルレアールな存在性格を把握することなく、意味的所識対象を“もの”化するのにともない、「意識対象」こそ優れて実在的(「レアール」のルビ)であると思念されている。われわれの見地からすれば、しかし、「意識対象」それ自身なるものはイデアールな意味的形象(「ゲビルデ」のルビ)たるにすぎず、「意識内容」なるものが自存しないのと雙関的に、自存的な「意識対象」なるものも真実には自存しない。また、「意識内容」とのあいだに相同的な写像関係のある“原物”相なる限定は、この思念にしかるべき機縁と事由が存することは認めうるとしても原理的に言えば、一種の恣意的限定たるにすぎない。総じて、われわれの原理的見地にとっては、いわゆる「意識内容」(正しくは“射映的現相”)から独立自存する「意識対象」なるものは存在しないのである。(ここでの誤解を招き易い立言は次篇において物理的実在の何たるかを論ずるさいに矯正することにして暫く臆断にとどめる)。」240-1P
(対話G−第三に)「最後に(第三に)、「意識作用」として思念されているものについて言えば、それは能知的所知=所知的能知の渾一的統一態から能知的契機を自存化せしめ、あまつさえ、意識内容なるものの自存化にともなって能作的力能として思念したものにすぎず、自存的な「意識作用」なるものは存在しない。尚、「三項図式」においては「意識作用」が「意識対象」との直接的な関係を遮断される構制になっている旨を嚮に指弾したが、われわれは能知的所知=所知的能知の渾然一体相を顕揚するからといって、所謂「意識作用」と所謂「意識対象」とが直接的に「能知−所知」関係に立つと主張する物ではない。われわれは“自存的”な項として“もの”化された「意識作用」と「意識対象」とを直接的に関係づけようとするのではなく、「三項図式」の構図的前提そのものを止揚しつつ、フェノメナルな能知的所知=所知的能知に定位しようと図る。」241-2P
(対話H)「以上みてきたように、「三項図式」が形成されるのにはしかるべき前史・経緯・事由があり、これが旧来における「認識世界」観ひいては認識論の構図を劃しているのも決して謂われなしとしないのであるが、われわれとしてはこの“図式”に与(「く」のルビ)みするわけにはいかない。「三項図式」は、フェノメナルな現相における「意味的所識」と「射映的所与」の両契機を“もの”化して自存視しつつ「外界」と「内界」とに截断し、さらには、「射映的所与」と「意味的所識」との二肢的二重性を孕む「能知=所知」の統一態を「所知的内容」と「能知的作用」とに截断するという二重の錯認・改釈の所産であり、われわれとしてはこの錯認的改釈を卻けて、フェノメナルな世界現相の原姿に立帰り、それの存立構造を正しく把え返す途に就かねばならない。――尤も、「三項図式」における「意識作用」と「意識対象」との両極的対置の構図、これが「主観−客観」図式にほかならず、(学史的事実の問題としては、「意識作用」対「意識内容・意識対象」の対立関係とされることもあるのだが)、「三項図式」を背景とするこの「主観−客観」図式が旧来における認識論の構制を決する所以のものとなっている。それゆえ、われわれが旧来の認識論の構制そのものを内在的に止揚しようと図るかぎり、今暫くのあいだ、「三項図式」とその帰結とに対して対質しておくことを要件とする。」242P
第三節 認識論の基幹的構図
(この節の問題設定−長い標題) 「「意識対象−意識内容−意識作用」という<三項図式>において三項相互間の関係を具体的にどう把握するか、これをめぐって旧来における認識論上の立場的諸理説が分立する。そのさい、「真なる認識とは意識対象の実相と合致するごとき意識内容である」という真理観が、まずは共通の前提的了解事項をなしている。――意識内容は意識作用に対してしかるべき仕方で模写的に再現された意識対象の相在であるという存在的(「オンティッシ」のルビ)了解の構制に立つ認識論が「模写説」であり、意識対象の相在とは意識作用に依って一種独特の仕方で構成的に産出された意識内容にほかならないという存在的了解の構制に立つ認識論が「構成説」である。これら模写説と構成説とがひとまず相補的に対立するが、この対立性を<三項図式>の埓内にあって超出しようと企てる「把捉説」とも呼ばるべき立場も登場する。――われわれは旧来におけるこれら諸立場のいずれをも卻けつつ、「三項図式」ひいては「主観−客観」図式そのものの止揚に基づく新しい構制の認識論を構築しなければならない。」243P
第一段落――旧来における認識論の構制をイデアルティピッシに素描し、そこにおける問題性を必要最小限追認する 243-9P
(この項の問題設定)「われわれは今爰で、旧来における認識論上の諸立場を学説史風に縦覧する心算も、類型的に整理する心算もない。茲ではわれわれなりの認識論上の構案を提示し得れば足る。――とはいえ、課題状況を対自化しつつ、われわれ自身の構案を呈示するためにも、旧来における認識論の構制をイデアルティピッシに素描し、そこにおける問題性を必要最小限追認するところから始めたいと念う。」243P・・・まずは「模写説」から「把捉説」・「構成説」
(対話@)「偖、素朴な日常的意識においては、認識とは対象的実在の模写であるものと淳朴に信憑されている。このさい、対象的実在とその模写認識というのは、われわれが前節の行論中で一瞥しておいた「知覚」と「表象」(但し、前者が“外的存在”と二重写しに思念され、後者が“内に泛かぶ”相で覚識されているかぎりでの)とを「原像−模像」関係相で現識したものという域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ないものと目される。ところが、一定限省察が深まると、前節において稍々詳しく辿っておいた通り、「知覚」と「表象」とが一括して「内なる心像」「意識内容」とされ、これに対向する項として「外的実在」たる「意識対象」なるものが立てられるようになる。この「意識対象」と「意識内容」とは、「原物−模像」の関係にあるものと了解されているにせよ、必ずしも相同的に対応するとは限らないとされる。従って、ここでは「意識内容」のすべてが「意識対象」と相同的に対応する模像的な再現であるとは思念されない。翻って、しかし、語の広義における認識形象にはすべての「意識内容」が算入されうるとはいえ、狭義における「認識」形象は意識対象たる「外的実在」と相同的に対応している意識内容に限定されるのが普通である。このような事情があるため、「認識」(真の認識)とは、意識対象と相同的に対応する一種の模像であるものとトートロジカルに称されうる所以となる。という次第で、省察的な意識にあってさえ、「認識」を以って「外的実在」たる意識対象の模写であるとする主張が成立する。われわれが茲でまず問題にしておきたいのは、この省察的な準位での「模写説」、すなわち、真なる認識形象たる意識内容は意識対象と相同的に対応する「意識対象の模像」であるとする立場である。」243-4P
(対話A)「「模写説」の立場と一口に言っても、この立場に属する理説は、感性主義的経験論と知性主義的合理論との二大種別に岐れ、この各々が更なる下位区分に岐れるという具合に、多岐多様である。此説は、これら多岐なそれぞれの仕方において「認識」が如何にして成立するかを説く。われわれとしては、しかし、此説の細目には一切立入ることなくしても、模写説という立場そのものが認識論的に妥当し得ない事実を直截に指摘することができる。そのためには、「認識」と「誤謬」(認識という詞を広義に用いれば“真正なる認識”と“錯誤せる認識”)の判別基準に止目し、模写説の立場においては「認識」と「誤謬」との弁別が原理的に不可能であり、「認識」なるものが権利づけられないことを端的に証示すれば足る。」244P
(対話B)「「模写説」の立場にあっては、「認識」と「誤謬」とを判別する基準は、あらためて誌すまでもなく、当該の認識形象たる認識内容が意識対象と相同的・模像的に合致しているか否かである。この合致・不合致を判定するためには、意識対象と意識内容とを能知的意識作用が比較してみなければならない。しかるに、<三項図式>と相即する「内在の命題」「意識の命題」によれば、意志作用は意識対象と直接的に関係することは不可能であり、能知たる意識作用にとっての直接的な所知的与件は意識内容に限られている。従って、意識作用は意識対象と意識内容との両者を比較しようとしても、一方の「意識対象」を直接に知ることはできない。(そもそも、もしも意識対象を直接に知ることができるとすれば、何も意識内容を介して模写的に間接的な認識をおこなう必要はない道理である。意識対象を直接的に知ることができないからこそ意識内容による模写ということが要件をなしたわけである)。意識作用が比較できるのは、たかだか或る意識内容と別の意識内容、つまり、意識内容どうしである。こうして、「三項図式」ひいては「内在の命題」を前提にする模写説の立場にあっては、「認識」と「誤謬」との判別にとって必須の要件たる「意識対象と意識内容との比較」をさしあたり直接的な仕方で遂行することは不可能である。換言すれば、模写説の立場では「認識」と「誤謬」との直接的な弁別がまずは原理的に不可能である。」244-5P
(対話C)「尤も、ここには一考を要すべき思念がある。直接的な弁別こそ不可能であれ、何らかの間接的な方式によって、「認識」と「誤謬」との弁別が可能ではないのか? 何らかの方式によって「意識対象」と「意識内容」とを比較することができるのでないか? 三項図式のもとでは或る意識内容を別の意識内容と比較することしか不可能であるとはいえ、もし、意識対象と相同的に対応する模像であることが保証されているような格別な意識内容が存在するとすれば、その“格別な模像的意識内容”に徴することによって間接的な比較が可能になるはずである。では、そのような“格別な意識内容”として認証されうるたぐいの意識内容が現実に存在するであろうか。感性主義的経験論では或る種の感性的意識内容を挙げ、知性主義的合理論では或る種の知性的意識内容を挙げる。前者によれば感性的意識内容は本源的には意識対象による刺戟を「受容的に」再生したものであるが故に対象照応性をもち、後者によれば知性的意識内容は本源的には感性的混濁を蒙ることなく「自発的に」創生したものであるが故に対象照応性もつとされる。ここにおいて、もし、感性主義的経験論が感性的意識内容はすべて意識対象と相同的に対応する格別な意識内容であると主張するのであれば、また、知性主義的合理論が知性的意識内容はすべて意識対象と相同的に対応する格別な意識内容であると主張するのであれば、いずれもそれぞれの立場的主張として一応の筋が通っていよう。しかしながら、実際問題としては、前者が知性的表象を貶価(「へんか」のルビ)し後者が感性的表象を貶価してそれぞれ対象照応性の保証なしと認定する所以でもあるが、感性主義的経験論の見地にとってさえすべての感性的意識内容が対象の実相と模写的に照応していると主張するわけにはいかず、また、知性主義的合理論の見地にとってさえすべての知性的意識内容が対象の実相と模写的に照応していると主張するわけにはいかない。そこで、前者は或る種の感性的意識内容だけを対象模写的であるとし、後者は或る種の知性的意識内容だけを対象模写的であるとする。ところで、同じく感性的・受容的な意識内容でありながらそのうちの特定のものだけが、また、同じく知性的・自発的な意識内容でありながら、そのうちの特定のものだけが、それぞれの見地において、意識対象の実相と相同的・模写的に照応するものとして特権的に選別されるさいの根拠は何であるのか。意識対象そのものと直接的に比較校合する途は遮断されている以上、意識内容の一部がよしんば著しい徴標を具えているとしても、その特徴をそれ自身は何ら対象合致性の証拠たり得ない。学史的事実上の問題として、徴標が挙示されることはあっても、特権的選別の根拠が明確な権利づけをもって提示されたためしはない。惟えば、それも当然である。けだし、間接的比較ということは、それがオリジナルとの間接的比較であるかぎり、論理構制上、少なくとも一度は或る局面で直接的比較が遂行されることを要求する。しかるに、間接的比較にオリジナルとの間接的合致を保証すべき所以の、当の直接的比較が原理上遮断されている。茲にあって、特権的選別の根拠は提示さるべくもない所以である。こうして、模写説の立場にあっては「認識」と「誤謬」とを間接的に弁別することも不可能なのである。――」245-7P
(対話D)「われわれの見地から批判的にみれば、右に指摘した通り、「模写説」の立場にあっては、それの前提する<三項図式>と「意識の命題」からして、意識対象の直接的認知、意識対象と意識内容の直接的比較が原理的に遮断されているため、帰するところ、「認識」と「誤謬」とを判別する(対象との合致・不合致を判定する)ことが原理的に不可能であり、「認識」(意識対象と相同的・模写的に合致する意識内容)を権利づけることが本質的に不可能である。それにもかかわらず、模写説論者たち自身は、或る種の認識形象は対象的実在の実相と合致しており或る種の認識形象は合致していないことを弁別的に認証できているものと信じ、「認識」と「誤謬」とを正当に判別しているものと思念している。われわれとしては、ここで、論者たちのこの思念の実態を分析し、「模写説」が建前に反して、実質的には一種の「構成説」になりおわっている事情を剔抉しておこう。――論者たちは或る種の認識形象(例えば第一性質の観念)は意識対象たる客観的実在の実相と模写的に合致していること、或る種の認識形象(例えば第二性質の観念)は客観的実在の実相と模写的に合致していないこと、このことを思念上“知って”いる。ということは、論者たちが客観的実在の実相を既に“知って”いることを意味する。だが、意識対象たる客観的実在を直接的に“知った”わけではないはずである。(もし、直接的に知ったとすれば、「内在の命題」に牴触することは措くとしても、直接的「把捉説」になって「模写説」ではなくなってしまう)。では、論者たちは対象的実在の実相を如何にして“知った”のか? 対象的実在界についての“実相”観なるものは、実際問題としては、一種の先行的既成観念であるとしても、われわれはそれの論理構制を検討してみなければならない。論者たちに直接的に与えられているのは、三項図式や内在命題の前提からして、さしあたり意識内容=心像=観念だけである。論者たちは、この“直接的な内的与件”の或る種のものに“客観的実在”の“実相”と相同的に合致する「模像」という意義づけを与えているわけである。が、このさい、“客観的実在”“外的実在”なるものも、それが意識されているかぎり、「内在の命題」からいって、それ自身、さしあたっては意識内容=心像=観念というかたちで意識に内在する心的形象でなければならない。つまり、論者たちの“知って”いる“客観的実在”とその“実相”は、外的存在という意義づけこそ賦(「あた」のルビ)えられているにしても、それ自身としてはさしあたり意識内容であり、「心」「意識」に内在する“心的な一存在”なのである。そして、この“心的な一存在”たる対象像が、他の普通の心像・観念とは特権的に区別されて“客観的実在”と見做されているという次第なのである。こうして、“客観的実在”論者たちが或る種の“心像”を「模像」とみなすさいの「原像」たる“客観的実在”なるものは、特別な仕方で、ないしは、特別な意義づけを賦与して「構成」された意識内容たるにほかならず、それ自身としては「心」「意識」に内在する心的形象たるにすぎない。論者たちはこの“格別な”心像を以って“客観的実像”と遇しつつ、他の心像群をこれと比較して、合致・不合致を判別しているのである。論者たちの建前では、意識対象(外的存在)と意識内容(内的存在)とのあいだの相同的・模写的な合致が主張されているのであるが、実態においては、意識内容(心像・観念)どうしの相同的合致が認知されているだけであり、論者たちが客観的実在=外的意識対象として思念しているところのものは“格別な心像”にほかならない。この“格別な心像”は“客観的実在”という格別な意義づけを賦与して構成された“内なる現象”であって、模写説論者たちは、「外的な実在的対象の模写」という建前に反し、「内的な“実在的対象”の構成」を遂行しているのが実態である。――」247-8P
(小さなポイントの但し書き)「(ここでの言い方は原理的な論断であり、論者たちが客観的・物理的対象の実在性とそれの模写的認識ということを主張するのには諒解しうべき事情がある。われわれは次篇第三章第一節において、客観的実在相とは認識論的にみて何であるか、また、模写と思念されていることの実態は何であるか、これを積極的に示すであろう)。」248P
(対話E)「「模写説」にあっては、あまつさえ、意識対象たる客観的実在そのものは原理上「不可能な」「物自体」(Dinge an sich,things themselves)とさるべき構制になっている。模写説は<三項図式>を前提とするかぎりで、意識対象たる外的実在の存在を当然の了解事項とする。が、ほかならぬ<三項図式>が含意するところの「内在の命題」の故に、意識作用が直接的に知りうるのは「内的与件」たる意識内容までである。現に、論者たちがそれの“実相”的規定性を“知って”いるつもりの“客観的実在”も、先にみた通り、実は、格別な仕方で構成された「内なる対象像」という意識内容たるにすぎない。論者たちは思念上の“客観的実在”とその“性質”を対象的に“認識”してはいるが、それは所詮“意識的内界”“心”の中での出来事たるにとどまり、外的実在自体、客観的実在それ自体は圏外に置かれている。外的実在そのものは、論者たちの論理構制から言って、(“原像”の直接的認識が不可能な以上、“模像”と称される認識形象が果たして対象自体と相同的に対応しているかどうか判定しようがないのであり)、事の原理上、認識不可能である。それはまさしく「不可知」な「物自体」にほかならない。――こうして、「模写説」は、われわれの見地から分析的に検覈してみるとき、外的実在を「不可知」な「物自体」として立てつつ、いわゆる“客観的実在”相は特別な仕方で「構成」された意識内容にすぎない旨を“立論”する構制になっているのであるから、実態においては、建前を裏切って、一種の“構成説”になっている次第である。」249P
第二段落――「構成説」の把え返し 249-54P
(この項の問題設定)「われわれは、茲で、認識論上「模写説」と対立する「構成説」に眼を転ずることにしよう。「構成説」と呼ばれうる立場にも様々なヴァリアントがあり、理説そのものの内部に立入れば、認識能力の問題、認識形式と質料の問題、物自体の問題、先験的主観性の問題、等々、各個に検討さるべき多くの条項を含んでいる。がしかし、ここでは構成説が構成説である所以の基幹的構制に目を向け、構成説がその基幹的構制そのものにおいて既に妥当し得ないことを確認しうれば足ると思う。」249-50P
(対話@)「偖、認識論上の「構成説」は、日常的意識においてはおろか諸科学において客観的な実在と思念されている経験的対象界はことごとく特有の仕方で認識論的に構成された意識内容にほかならないと主張し、認識の本領は対象の模写ではなく対象の構成にあると説く、但し、意識内容のすべてが対象的実在相へと構成されるわけではなく、従って、単なる心像=表象たるにとどまる意識内容と対象的実在として構成される客観的事実として意識内容との双方がさしあたり存在する。ところで、客観的実在として思念されている経験的対象界には、身体的存在たる他者たちも含まれ、身体的存在たる自分も含まれる。単なる身体=肉体だけでなく、そこに“宿って”いる“精神”“心”もまた経験的実在と思念されているのが普通である。ここにおいて、他人および自分の身体はもとより、そこに“宿って”いる精神もまた、それらが実在たるかぎり、「特有の仕方で意識作用によって構成された意識内容」にほかならないものと見做される。では、このさい、構成する意識作用の主体、意識内容を内含する主体は誰であるのか。この構成し内含する主体は、経験的実在界に登場する他人たちでも自分でもありえない。けだし、経験的実在界に登場する他人や自分は構成され内含されている意識内容であって、構成し内含する能作的主体ではありえないからである。構成され内含される経験的主体と構成し内含する先験的主観とは厳に区別されねばならない。構成する作用の主体、意識内容を内含する主観は、経験的個人とは一応別の先験的主観なのである。」250P
(対話A)「爰で、しかし、先験的主観と経験的主観との関係について考え方が二途に岐れうる。そして、いずれの途をとるかに応じて認識的世界像がおよそ別様になる第一途は、先験的主観なるものを経験的諸主観に対して謂わば外在的に超越的な単一の“大きな主観”(但し「神」のごとき存在とは限らず、「学的理性」とか、「論理的主観」とか称されるものをも含む)として想定するものであり、第二途は、先験的主観という“同型者”を経験的諸主観の各自に謂わば内在する相で経験的諸個人と同数だけ立て両主観の能作(経験的主観の能作と先験的主観の能作)を内奥では同一視するものである。両途を順に検討していこう。」250-1P
(対話B−第一途)「まず、第一途であるが、これにあっては、経験的実在界は先験的主観にとってこそ構成され内含されている意識内容(心像=表象=観念)であるにせよ、経験的諸主観にとってはそれは内なる意識内容ではなくして外在的・超越的な実在的意識対象である。さしづめ、このように了解される。では、経験的主観にとって、この「外なる意識対象」と自己の「内なる意識内容」とは如何なる関係にあるか。さしあたり、経験的主観にとって、「外なる対象」が自らの能作的意識作用が特有な仕方で構成した自己の内なる意識内容であるわけではないということ、経験的主観にとっては対象的実在が自体的に存在する外的なものであること、ここまでは確かである。ここでは「意識対象−意識内容−意識作用」が、経験的主観にとってはまさに<三項図式>そのままのかたちで存立する。だが、「意識対象」と「意識内容」とがそれ以上にいかなる具体的関係にあるのかについては、(先験的主観にとってこそ後者が特有の仕方で構成されたものが前者つまり対象であること、従って「意識対象」は先験的主観にとっては外在的・超越的な存在ではなく特殊な意識内容にすぎないこと、このことが構成説的に“説明”されているのだが)、経験的主観に関しては何ら立入って規定されていない。学史上の実態としては、構成説のこの分肢にあっては、経験的主観にとっての「意識対象」と「意識内容」との関係は模写説流の模写関係ということに暗黙のうちに委ねられている風情である。とあれば、此説は経験的対象がかくかくしかじか規定性を具えた相で現前する理由を先験的主観による構成の在り方に即して説明しはするが、経験的実在の当の在り方は先験的主観にとってこそ内在的であれ、経験的主観(これは各自の意識内容しか現識し得ないというのが「内在の命題」からする宿命である)にとっては外在的・超越的である以上、経験的主観に関しては「原像」的「実在」の実相とやらを如実に知るべくもない状態に放置している所以となる。経験的主観に関して「意識対象」と「意識内容」とが模写説流の関係に委ねられているとすれば、此説は、われわれが先にみておいた「模写説」の孕む悖理性(「認識」と「誤謬」との区別不能、「認識」の権利づけ不能、等)を経験的主観に関してはそのまま再現するものと言わざるをえない。――翻って、嚮に見ておいた通り、模写説の構成は各々の意識主体自身による“構成”を含意するものにほかならなかった。とすれば、われわれは、構成説の第一途そのものの実質的な構図からしても、「構成し内含する主観」を各自のうちに内在せしめる第二途に移行すべく要請される。」251-2P
(対話C−第二途)「そこで、第二途であるが、これにあっては、経験的主観と先験的主観とは内奥においては実は同一であり別々の存在者であるわけではないとされる。とはいえ、経験的主観にとっては外在的な客観的実在として現象するところのものは、物自体としての超越的対象そのものではなくして、先験的主観によって構成され内含されているところの、先験的主観にとっての意識内容にほかならないとされる点では、第一途とも共通な先験的構成主義である。では、経験的主観にとって「先験的観念」=「経験的実在」と自己の「内なる意識内容」とは一体如何なる関係にあるのか。先験的主観と経験的主観とが“意識野”を共有するかぎり、経験的主観にとって「先験的観念=経験的実在」と自己の「内なる意識内容」とは一箇同一の“意識野”に共属し、両者を比較することも可能である。「内なる意識内容=単なる心像的表象」のうち或るものは「経験的実在=先験的観念」と相同的に合致し、或るものは相同的には合致しなかったり、およそ経験的に異貌であったりする。このことの弁別に即して「認識」と「誤謬」を区別し、単なる主観的妄念を排却することができる、と自称される。こうして、構成説の第二途的分肢は認識論的に有効であるようにみえる。だが、果たしてそうであろうか。経験的主観と先験的主観とが内奥において一箇同一であり、意識野を共有しているとすれば、次の難題が生ずる。」252P・・・「(対話D)」に繋がる
(小さなポイントの但し書き)「(尚、ここでの仮定的条件について確認しておけば、もし経験的主観と先験的主観とが内奥においてすら合致しないとすれば、認識論上の構制では第一途と同趣の悖理に陥る。また、もし意識野が共有されていないとし、従って先験的主観にとって内在的なものが経験的主観にとっては“外在的・超越的”だとするとき、経験的主観にとって自己の内なる認識形象と“超越的”な先験的観念=経験的実在なる外的対象とを比較校合することが不可能になり、先に“認め”た認識論的“有効性”が失われてしまう。それゆえ、経験的主観と先験的主観とが内奥においては一箇同一であって、意識野を共有するという目下の仮定的条件は必当然的である。)」252-3P
(対話D)「難題というのは、先験的主観が意識野に属する意識内容に構成的能作を及ぼして対象像(すなわち経験的主観にとっての“客観的実在”)を構成するにあたり、すべての意識内容が“客観的実在”に化されてしまい、単なる主観的な意識内容(単なる表象的心像=単なる認識形象)なるものが残留しなくなってしまわないか、つまり、認識形象と実在対象との区別がなくなってしまい後者(対象的実在)を前者(認識形象)のかたちで認識するということが成立しえない事態に陥りはいないか、この件である。もしも、経験的主観の内奥的意識作用と先験的主観の構成的意識作用とが別々であり、また、両者の意識野(意識内容界)が別々であるとするならば、その場合には、先験的主観が自己の意識内容をことごとく客観的対象相へと構成しても経験的主観にとっての意識内容はそのまま意識内容として残留しうる。がしかし、当面の必然的な仮定的条件のもとでは、両主観の内奥的意識作用も意識野も一箇同一なのであるから、先験的主観の対象化的構成作用が全意識野に及ぶかぎり、単なる意識内容(単なる認識形象)として残留する部分はなくなり、意識内容のすべてが“客観的実在”化されてしまう。そうなれば、経験的主観にとって、対象的実在と認識的内容との対比ということがそもそも成立せず、「認識」と「誤謬」との区別ということも存立しないことになる。そこで、このナンセンスを回避するためには、先験的主観による対象化的構成は意識内容の一部分だけ(例えば第一性質の心像的観念だけ)に限定されるものとし、単なる意識内容として残留する部分を遺さざるを得ない。だが、この選択・選別は何を基準にしておこなわれるのか。また、特定意識内容だけに向けられたはずの構成的能作が意識内容全般に及んでしまわないような配慮が果たして保証されるか。論者たちの構制においては、或る種の対象を構成する能作が普遍・必然的であることを説こうとすれば、その能作が意識内容全般に対して普遍・必然的に構成的である旨を説かざるをえないのではないか。学史上の事実の問題として言うかぎり、客観的実在相、対象的実在として選別される基準は先行的に構成観念をなしている実在観・実相観であって、外在的な基準が“恣意的に”持込まれたものにすぎない。(尤も“恣意的”というのは原理的にみてのことである。既成の実在像にはしかるべき事由があり、いわゆる「第一性質」といわゆる「第二性質」との区別のごときも全くの恣意ではない。このことは、もとより、われわれも承認する)。そして、また先験的構成ということの普遍・必然性を説こうとする論理は意識内容全般を捲添えにしてしまうのが実情である。惟うに、構成説の第二途の論理構制からすれば、選別的な対象化構成は恣意的にしか説けず、論理整合的には一切の意識内容が先験的構成の結果“客観的実在”と化し、認識対象と認識形象との区別がなくなってしまうこと必定なのである。(カントの場合でいえば「知覚判断」の余地がなくなり、一切が「経験判断」になってしまう)。従って、ここでは“客観的対象”との区別における認識としての認識がそもそも成立しない仕儀に陥る。かくして構成説の第二途も詮ずるところ認識論的に無効である。」253-4P
第三段落――「三項図式」ひいては「主観−客観」図式に代わるわれわれの構制の対自化
254-62P
(前項までのまとめ)「われわれは、以上、<三項図式>のもとで相補的・対立的に形成される認識論上の二大立場、すなわち「模写説」と「構成説」に関して、具象的な理説内容にこそ立入らなかったが、両者の基幹的構制そのものを検覈し、いずれの立場もさしあたり認識の「客観的妥当性」をめぐっては悖理に導くことを見定めておいた。」254P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、われわれは、模写説および構成説が具体的な場面で提出している配備の若干については批判的に継承しようと図るものであり、決して両説を顚から閉脚して済ませる心算はない。この間の事情については、別稿「認識」[井上忠編『哲学』所収]、「カントと先験的認識論の遺構」[拙著『事的世界観への前哨』所収]、「判断の認識論的基礎構造」[拙著『世界の共同主観的存在構造』所収]などを参看ねがえれば幸甚である。これらの別稿は、学説史上の具体的展開から遊離して強引に“基幹的構制”だけを剔出・批判した本節における行論の欠を幾分なりと埋めるものにもなっていると念う)。」254-5P
(この項の問題設定) 「――旧来における認識論の両半球ともいうべき模写説と構成説とを偕(とも)に悖理に導く淵源は両者が共通の前提とする「三項図式」「内在の論理」に存する。このことは行文を通じて既に明らかな通りである。認識論の新生を図るに当っては、それゆえ、何は措いてもまず「三項図式」ひいては「主観−客観」図式の超克が必須であり、そのためには「内在の命題」ひいては「各私性の命題」の克服が鍵鑰をなす。われわれは、実は、前篇を通じて、「三項図式」「主観−客観」図式、「内在の命題」「意識の各私性の命題」、これらを克服してそれに代わるべき構制を提出しているのであるが、茲でわれわれの構制を認識論上構案に即するかたちで対自化しておく次序である。」255P
(対話@−「把捉説」へのコメント)「議論の順序として一言しておけば、「内在の命題」「意識の命題」が認識論にとって隘路をなすことは即自的にではあれ可成り早くから気付かれており、「意識作用」が謂うなれば「内界」を超出して「意識対象」と直接的な「能知−所知」の関係に立ち得るとする理説が折々に登場してきた。この理説は「知的直観」説の形をとることが多い。すなわち、認識主観には特別な能力が具っていて、この知的能力が感性(これは感覚器官を介して「受容的」に形成された「内なる与件」を所知とする)とは異なり、「外なる対象的与件」そのものを直観的(「じか」のルビ)に把捉する旨を大抵が説く。とはいえ、「知的直観説」には限らないのであって、意識作用が対象(の表層?)を摑み取り、それを裡にもたらして意識内容たらしめると主張する荒唐無稽なものまで存在する。われわれとしては「意識作用」と「意識対象」との直接的な「能知−所知」関係を主張する理説を一括して「把捉説」と呼ぶことにしたいのであるが、管見にふれるかぎり、論者たちは意識作用と意識対象とが直接的に関係する部面こそ認めても「意識作用−意識内容−意識対象」という三項性の構図そのものは崩さないのが普通である。但し、例外的には、意識作用と意識対象との直接的な関係をもっぱら主張し、意識内容なる項の存在そのものを否定するに及ぶものもある。が、その場合でも、能知的意識作用と所知的意識対象とを存在的に分断し、能知的所知=所知的能知の渾然的一体性を説くわけではない。(よしんばそれを説くとすれば、論者たちの場合、今度は誤謬の余地がなくなってしまう)。われわれはこの“例外”的な「把捉説」にすら与みし難い。――われわれとしては、三項を存在的に截断する三項図式はもとより、二項を散在的に截断する「把捉説」流の二項図式をも卻け、前篇にみたごとき「能知的所知=所知的能知」のフェノメナルな渾然的統一態に定位する。」255-6P
(対話A)「われわれはフェノメナルな世界現相における「能知的所知=所知的能知」の如実の統一態に定位するが故に、また、所知における「現相的所与」と「意味的所識」との二契機を“もの”化して自存視する錯認を根源的な場で防遏しつつ両契機の二肢的統一態に定位するが故に、能知と所知との存在的截断の上に立つ「主観−客観」図式、“もの”化せる所識と所与との截断に淵源する<三項図式>ひいては「内在の命題」、これら宿痾となっている旧来の「認識的世界」観の基幹的図式とはおよそ別異な地平に立つ。――われわれとしては、しかも、旧来の「認識的世界」観の基幹的図式から単に距離を設けるのではなく、前二節を通じて試みたごとく、当該の図式が何を如何に錯認することにおいて成立するかを由来に溯って剔抉しつつ真実態を顕揚する。――われわれは、認識論上、「三項図式」「主観−客観」図式に立脚せる「模写説」「構成説」を卻け、新しい構案を提出する。」256P
(対話B)「認識論上の新しい構案を対自化するためにも、認識論の課題と問題構制なついて、ここで若干なりとも把え返しておかねばならない。」256P
(対話C)「認識論の課題は、一言でいえば、認識(剴切には「認識的世界」)存在構造を究明することにある。が、そのさい、「認識」(真なる認識)とは何であるか、真なる認識が果たして可能であるか、それが可能であるとすれば如何にして可能であるか、認識は果たして間主観的に妥当するか、認識が間主観的に妥当するとすればそれは如何にしてであるか、この種の問題が重要契機として含まれる。(尚、われわれの場合、認識の歴史的・文化的・言語的な被制約性・相対性の問題、ひいては意識の権利根拠や限界決定の問題は、認識の間主観的成立構造論によっておのずと答えられる)。」257P
(対話D)「ところで、旧来の認識論においては、整合説やプラグマティズムの真理観を措いて言えば、三項図式を背後的前提としつつ、「真理」(真なる認識)とは「意識対象」たる対象的実在の実相と「意識内容」たる認識形象との「十全的合致」に存するものと定義的に了解されてきた。しかしながら、<三項図式>〜卻けるわれわれにあっては、原理的な次元においては、この伝統的な真理概念はもはや妥当しえない。われわれは、真理観・真理概念そのものの更新を必要とする。」257P
(対話E)「省みれば、旧来の認識論においても、認識の客観的妥当性(objective Gültigkeit=客観との合致的妥当性)と並んで、即自的には、認識の間主観的妥当性(intersubjective Gültigkeit=人々の間での一致的妥当性、この意味での「普遍的妥当性」)が大前提であった。認識の間主観的妥当性という問題が必ずしも常には顕在化しなかったのは、認識が客観的妥当的(旧来の“定義”からすれば、とりもなおさず、これは「真理」であることを意味する)であれば、その認識は当然にまた間主観的にも妥当的であると信憑されていた所以(「せい」のルビ)であろう。この信憑の基底には、認識諸主観の本質的同型性(isomorphism)という暗黙の了解がある。認識主観の本質的同型性という了解のあるところでは、認識の客観的対象が同一であるかぎり、当の対象に関する各主観の認識も同型=同一なるものとナチュラルに想定される。この点では、「模写説」であれ、「構成説」であれ、「把捉説」であれ、同断であって、旧来の認識論は斉しく認識主観の本質的同型性を暗黙の了解事項にしていたと言うことができよう。――われわれとしては、しかし、果たして認識諸主観の同型性ということをアプリオリに前提しうるであろうか。われわれは認識の客観的妥当性を旧来の仕方(意識対象と意識内容との合致)で考えることができず、あまつさえ、認識主観のアプリオリな同型性を安直に想定することができないとすれば、われわれにとって、認識の間主観的妥当性(「果たして」、および「如何にして」)ということが深刻な大前提となって全面に登場する。われわれはこの課題に積極的に応えるべく要請されている。」257-8P
(対話F)「われわれの立場から言えば、認識の間主観的な妥当性こそが認識の真理性の問題にとって要訣をなすものであり、認識の客観的妥当性を前件として認識の間主観的な妥当性を立論する旧来の方式は謂うなれば逆転させることを要する。けだし、認識が客観的に妥当するが故に間主観的に妥当するのではなく、逆に、間主観点的に妥当する認識が物象化されて客観的に妥当する認識と見做されるというのが実態であって、「真理」とは原理的・第一次的にいえば、客観的に向妥当する認識ではなくして、間主観的に対妥当する認識(但し、この間主観性は対象的所知契機から截断されるものでないことは前篇第三章で論じたところである)にほかならない所以である。――われわれは嚮に、「模写説」であれ、「構成説」であれ、旧来の認識論が意識対象たる“客観的実在”と意識内容たる認識形象との相同性・模像的な合致を以って「認識」(真正なる認識)としつつも、そのさい“原像”たるべき“客観的実在”との“実相”なるものを理論内在的に規定することができず、既成観念をなしている“実在”観、“実相”観に恃(「たの」のルビ)んでいること、この事実を指摘しておいた。旧来の認識論においては“客観的実在”とその“実相”なるものが、直接的に確認されたものではなく(因みに、知的直観流の直接的「把捉」を強弁するのでないかぎり、「三項図式」や「内在の命題」という前提からして、客観的実相の直接的な確認は事の原理上不可能である)、詮ずる所、既成観念上の“実在相”を追認的に援用したものになりおわっている。では、当の既成観念になっている“客観的実在相”なるものはいかにして形成されたものであるか、知的直観といった特別な「把捉」能力に恵まれた者はいざしらず、人々は意識を超越せる「客観的実在」そのものを如実に覚知した経験はないはずである。それにもかかわらず、人々は“客観的実在相”について一定の既成観念を斉しく懐いている。この既成的な“実在像”はどこから得られたものであるのか。それは日常的ならびに個別科学的認識において間主観的に形成されている対象的実在像を受納したものにほかなるまい。さしあたり、事実の問題としていえば、一定の対象的実在像が間主観的な場で成立しており、人々はこの間主観的に承認されている対象的実在像との合致・不合致に即して認識の「真・偽」(客観的妥当性・不妥当性)を思念的に云々しているのである。客観妥当的認識として思念されているところのものは、間主観的に形成されている“客観的実在”像に向妥当する認識なのであり、帰するところ、間主観的に妥当する認識にほかならないのである。(この間の事情について後論において主題的に論考する)。――われわれは、ここにおいて、“客観的実在像”に限らず、一般に、認識なるものの間主観的形成、それがいかにして成立するかという一種の事実問題(quid facti)をも射程に収めて論究すべき所以となる。」258-9P
(対話G)「われわれは、しかし、認識の間主観的存立という事実を単に追認して自足しうる者ではない。われわれは認識の間主観的形成というこの事実が「如何にして可能であるか」、その存在構造と権利問題を問い返すこと、降っては、間主観的に形成されている既成観念そのものを認識批判的に討究すること、これをも課題の一斑とする。――茲でとりあえず、先の行文との脈絡上、次の一事だけは銘記しておかねばならない。それは、旧来間主観的に“公認”されている既成観念上の“客観的実在像”は狭隘にすぎ、それとの合致・不合致を以って認識の真偽を判別することは実際問題としても不可能だということである。旧来の「意識対象像」「客観的実在像」は、「外界」と「内界」との截断をめぐる経緯からして、知覚的に現前する事物的対象相を偶々“原姿”として名残りを留めている。(このさい、知覚的現前というのは視覚への現前に限られるわけでは勿論なく、他の感覚諸様相の協応にも俟っているのだが、事実上、視覚優位的になっていて、それで手に触知したさいの対象感が割合と強く協応している。この間の仔細は、“客観的実在”の実相的性質とされている所謂「第一性質」を惟れば容易に納得されよう)。旧来における「意識対象」像、「客観的実在」像は、端的に言い切ってしまえば、「知覚対象モデル」になっていることを指摘できよう。ところで、われわれは先には“客観的実在”への向妥当性と間主観的な対妥当性とを単純に逆転させるかのごとき流儀で筆を運んだのであったが、しかし、認識の間主観的対妥当性の承認と“客観的実在”への向妥当性の承認とは外延を等しくするわけではない。間主観的に承認されている「こと」であっても、それは必ずしも「もの」の相(これですら「知覚対象モデル」での事物的対象相よりは広いのだが)へ物象化されているとは限らない。間主観的に対妥当するのは、元来は、判断事態的な「こと」であって事物対象的な「もの」ではない。なるほど、「こと」は不断に「もの」化される傾動にあるとはいえ、本来的には、間主観的に対妥当するのはあくまで「こと」なのである。「もの」の間主観的妥当というのは、「こと」の物象化に俟つものにほかならない。認識の真偽性もまずは「こと」(いわゆる対象的実相性はこれに契機として含まれる)に即して判定されるのであって、認識の真理性の問題を間主観的対妥当性の場面で定礎しようとするわれわれの場合、「判断事態モデル」とでも呼ばるべきものを導入し、「知覚対象モデル」に立脚する旧来の事物的対象をも判断的事態の構造的契機として位置づけ直す必要に迫られる。」259-60P
(対話H)「顧みるに、旧来の認識論において「意識対象」たる“客観的実在”とされてきたものは、われわれの見地から言えば、フェノメナルな現相世界の構造的一契機たる「意味的所識」を“もの”化しつつ「外界」へと括り出すことに俟って成立したものであるとはいえ、「意味的所識」のすべてが“もの”化されるわけではなく、“もの”化された意味的所識でさえそのすべてが従前“対象的実在”“実相”とみなされているわけではない。既成観念における“客観的実在”は“もの”化された「意味的所識」のうちの特定部分(「知覚モデル」に適う部分)にすぎないのである。われわれとしては、既成観念が客観的対象の“実相”とみなすものが所詮は思念(「ドクサ」のルビ)にすぎず、また、第一性質と第二性質といった“実相”と“仮相”との区別が相対的なものにすぎないことにも鑑み、「意味的所識」のうちの特定部分だけを特権化してしまうことはしない。われわれは「意味的所識」が間主観性をもつかぎり、そのすべてをまずは射程に入れる。そのことによって、また、われわれは判断事態的「こと」の契機たりうる全外延を勘案しうる所以となる。――ここで、敢て「三項図式」や伝来の真理観に仮託した言い方をするとすれば、われわれは“実在的対象”だけでなく、“もの”化された相でのイデアールな「意味的所識」全般、さらには、判断事態的「こと」の全般(これにはいわゆる「否定的事実」negative factのごときも含まれうる)を“意識対象”としつつ「対象」概念を拡充する。」260-1P
(対話I)「われわれは、以上、当座の行論の展開にとって最小限必要と思われるかぎりで、認識論の中枢的課題を再確認し、旧来の認識論との構図的差異に即してわれわれなりの認識論的構案の一端を綴ってみたのであるが、実を言えば、われわれが積極的に立てる認識論の基本的構図は前篇における現相的世界の四肢的存在構造論のうちに骨格を提示してある。(尚、哲学の学理史的・時代史的な問題情況との関連における認識論の課題・案件については本書では立入ることを割愛する。この論件に関しては、別著『世界の共同主観的存在構造』の序章「哲学の逼塞情況と認識論の課題」、特にその第二・第三節を参看されたい。) ――認識とは、決して単に能知的「主観」と所知的「客観」との各私的関係事象ではなく、また、所与契機と所識契機との単なる「等値化的統一」でもなく、現相的所知の第二契機たる「意味的所識」を媒介環とする本源的に間主観的な一存在である。そして、この間主観性が成立するのは、“認識主観”が人称的な「能知的誰某」とイデアールな「能識的或者」との二肢的二重態であり、「所与的質料」に向妥当する「形相的」認識契機たる「意味的所識」と対他・対自的に対妥当せしめつつ間主観的に整型化することを通じて、人称的能知が間主観的に同型的な認識論的主観たる「能識的或者」相へと自己形成を遂げる動態的な四肢的連関に俟ってである。――われわれは今茲でこれらの提題を復唱してして前篇において提示しておいた構図そのものを再掲するには及ばないであろう。」261-2P
(対話J)「われわれは、今や前篇において俯瞰した現相的世界の一般的存立構造が、認識としての認識の次元において如何なる相で具現しているか、「もの」的世界像に応ずる「知覚対象モデル」に代わるべき「こと」的世界観に相応しい「判断事態モデル」を提出しつつ、順路を追って積極的に見定めていかねばならない。」262P
白井聡『永続敗戦論−戦後日本の核心』
たわしの読書メモ・・ブログ683
・白井聡『永続敗戦論−戦後日本の核心』講談社(講談社+α文庫)2016
白井聡さんの本3冊目。この本の中で、白井さんの論攷はかなり核心に迫っていて、かなり共鳴しつつ読んでいるのですが、白井さんは繰り返し「わたしはナショナリズムで論を展開しているわけではない」という主旨の話をしています。ですが、レーニン的な民族自決権の論理で、まずは自己決定を為し得る、独立という主旨の展開があり、ナショナリズムに陥る危険性を有しています。レーニンの民族自決権は現実に機能していません。
さて、既に、「たわしの読書メモ・・ブログ666/・白井聡『未完のレーニン <力>の思想を読む』講談社(講談社学術文庫)2021」を書きました。白井さんは、国家=幻想共同体論を押さえています。そこで、なおかつ「国体」論を展開しています。右左以前の議論として、自己決定を奪われている情況を押さえるという論理になっています。そもそも、自己決定論から押さえ直す作業が必要なのですが(註1)、自己決定が奪われている被差別者と支配されている国家を重ね合わせて、その情況をまずどうにかしないといけないという論理になっています。ですが、そもそも、自らの差別する側であったという歴史をスポイルしている歴史修正主義者からする国体論を徹底的に総括することが先で、そのことなしに国体論を出していくと国家主義に陥っていくことになります。何が先かという議論自体も問題で、総体的に論じてくことが必要ですが、先後を論じざるを得ないとしたら、国家主義の批判・止揚が先なのです。この本の進藤榮一さんの解説で、廣松さんの朝日新聞への寄稿「東亜の新体制」が取り上げられていますが、廣松さんが中国の擡頭を予期するような先見の明というようなことを感じつつも、それが批判されたのは、大東亜共栄圏を突き出した日本ナショナリズムの過去をその核心たる「国家主義・超国家主義」批判の観点を押さえていないという批判があり、それにわたしも同調しています(註2)。国家主義批判こそが、ファシズムの総括、戦争の反省ということで肝要なのだとも思っています。だから、国体論批判こそがキーになっています。国体論には、国家主義における加害者性が稀薄になっているか、欠落しているのではと思えるのです。白井さんの著書に白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社(集英社新書)2018があります。そこでもう一度対話を試みます。
目次をあげておきます。
目 次
文庫版 はしがき
韓国語版への序文
『マンガでわかる永続敗戦論』はじめに
第一章 「戦後」の終わり
第一節 「私らは侮辱のなかに生きている」――ポスト三・一一の経験
第二節 「戦後」の終わり
第三節 永続敗戦
第二章 「戦後の終わり」を告げるもの――対外関係の諸問題
第一節 領土問題の本質
第二節 北朝鮮問題に見る永続敗戦
第三章 戦後の「国体」としての永続敗戦論
第一節 アメリカの影
第二節 何が勝利してきたのか
エピローグ――三つの光景
あとがき
文庫版あとがき
注
解説 進藤榮一
備忘録的に切り抜きメモを書いておきます。
「旧態依然たる<無責任の体系>(丸山真男)」32P
(原発事故のときSPEEDIの情報を隠蔽した気象庁の役人の発言への批判)「ゆえにこれは、正確には御用学者の言葉ですらない。その主体性において屍と化した者の発言である。」36P
(原発政策に反対しておとしめられた佐藤栄佐久元福島県知事の著作からの引用)「しかし、責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本社会の中で、お互いの顔を見合わせながら、レミングのように破局に向かって全力で走りきる決意でも固めたように思える。つい六〇年ほど前、大義も勝ち目もない戦争に突き進んでいったように、私が「日本病」と呼ぶゆえんだ。」42P
「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦は否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けているかぎり、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。」74P
「このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行ってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。問題は、自国の行動や主張に限っては無条件的な正義と一致しうると考える幼稚な心性を精算すること(それは日本に限られた課題ではないが)であるが、「敗戦の否認」が続けられている限り、この課題が達せられる見込みは決して立たないであろう。」120P
(北朝鮮拉致問題に関して)「問題は、そうした揺らぎを契機として。国民の個人的意思を超越した「国家の意思」が実際に出現してしまったことにある。」147P
「首相の「拉致問題解決への意欲」と評されてきた姿勢の本質は、被害者の救済を目指すものではなく、この問題の政治利用にこそある。」154P
「「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」と考える人々が倒錯者でないとすれば、こうした自己盲目(ママ)化には当事者にとってより実際的な利点があることを指摘おかねばならない。それは、永続敗戦の構造を維持できるということであり、この構造で成り立っている政官財学メディアの各界に張りめぐらされた利権の構造を維持でき、それに与ることができる、ということである。」176P……左翼的なひとの差別の問題の非対象化の継続、これも「永続」なのでしょうか? 日本の永続敗戦を維持させてきたのは、批判勢力が差別の問題をきちんととらえ、切り込んでいく姿勢をもたなかったことにもあるのでは?
「かくして、絶対的平和主義を憲法上規定しながら、アジアでの戦争(朝鮮戦争およびベトナム戦争)を経済発展の好機として利用し、「非核三原則」を国是としながら、米国による核の傘の存在を自明的な前提としてきたというシニシズムは、いまその精算を迫られている。そのとき、結局は建前にすぎなかった「平和主義」や「不戦の誓い」と、本音での「好機としての戦争」や「核武装」とのどちらが優勢なものとなるのか、答えは自ずと明らかであるように思われる。/これまで左派やリベラルは、この欺瞞が解消を迫られるときに一体何が起こるのかという問いを避けてきた。なぜなら、それはあまりに危険な問いであるからだ、つまり、戦後日本社会の権力の中心を占めてきた勢力の本音がどこにあるのか明らかである以上、「平和」を至上価値とする価値観は日本社会に深く根づいたものとみなし、「パンドラの箱」を開いてしまわぬよう、その内示は不問に付されてきた。・・・・・・」195-6P
「かくして、「平和主義は戦後日本社会の中心的価値観として確固たるものになった」というフィクションは放置され、批判者の勢力は思考停止に陥ったのである。その間にも永続敗戦の構造は永久化され、いままさにその本質を裸のまま露呈させつつあるという事態に逢着している。」197-8P
「それでは、「貧しい国」が帰って来るときに、一体何が露わなかたちで姿を現すのか。それは、あの敗戦を経ても、それを否認することによって生き残ってきたもの、すなわち「国体」であるほかないだろう。われわれは、ポツダム宣言受諾に際して戦中の指導者層が譲らなかった条件が、「国体の護持」であったことをいま一度思い起こさねばならない。」204-5P・・・「国体」とは「国家」の二重の物象化
「「国体」は、第二次世界大戦における敗戦を乗り越えた、言い換えれば、敗戦に勝利した。永続敗戦という代償を払って、だが、「敗戦に勝利する」とは、より具体的には何を意味かるのであろうか。」210P・・・わたし的には「国家主義にとらわれつづけること」で、著者も結局はまっているのではないでしょうか?
(片山杜秀著からの引用)「里見は、水戸学や「国体の本義」が声高らかには決して謳わず、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心とでも言うべきものを赤裸々に抽出してみせた。端的に言えば機制を誣いるシステムとしての国体である。」213-4P
「そして(少年海軍兵にして戦艦武蔵の生き残りであった)渡辺の憤りは、天皇のみならず、戦時中皇国イデオロギーを絶叫し、敗戦を境に突然言うことを変えた(つまり変節した)、メディア機関、教育者、インテリ層、そしてアッケラカンと敗戦を受け止めている身辺の普通の村人たちにも向けられる。彼が見出したのは、そこには「感激に満たされるに値する世界」などそもそも全く存在していなかった、という事実であった。」215-6P
「「戦争責任」という概念には、いつくつかの層がある。かつてカール・ヤスパースは、それを「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」という四つの相に分類した(『戦争の罪を問う』)。前者から後者になるにつれて、抽象度が高くなり、要求される倫理性の質が高度なものになる。この整理にあてはめてみれば、戦後日本で実行されたのは、「刑法上の罪」と「政治上の罪」をごく部分的に追及することであったにすぎない。」243-4P
「・・・・・ゆえに、本書の議論の構えが国民国家の枠組みの限界を乗り越えるどころか強化しかねないという批判が出るとすれば、それ無効である。戦争責任のイロハを飛び越して、一挙に高度な次元における責任追及へと進む議論が、いまこの国と社会が抱えている問題の適切な解決に資することができるとは、私には思われない。」244-5P・・・段階論の陥穽、総体的にとらえないとそこから抜け出せない。現実的に国家主義に飲み込まれる。問題の核心は国家主義、これは「形而上的な罪」ととらえがちであるけれど、愛国心教育やマスコミの操作とからめて総体的にとらえ返し、批判していくことが肝要
(第三章注20)「その後、安倍政権の歴史修正主義への欲望は、二度にわたって抑圧を受けた。一度目は、二〇一五年八月に発表された「戦後七〇年談話」であるが、ここで安倍は村山談話の路線の継承を誓わざるを得なかった。二度目は、同年末の、従軍慰安婦問題に関する韓国政府との新たな合意である。・・・・・・」277-8P・・・意味不明の安倍談話(「謝罪」を口にししつベロを出してそれを無化するような内容)の意味不明性が米国からの圧力とそれへの抵抗としての結果であること
(註)
1 生命倫理の議論の中で、小松――市野川論争が起きています。小松美彦さんは「自己決定権という幻想」「自己決定権の罠」というところで論を展開しているのですが、小松さんの論には近代的個我の実体主義的「主体性」を批判した廣松共同主観性論があり、そのことを押さえていないところでの市野川容孝さんの提起は、旧態依然の人権論的「自己決定論」になっていて、議論が余りかみ合っていません。ただ、今日的には、運動的にミニュシパリズムというところで出てきた、バルセロナ・コモンズなどのせめぎ合いとしての自立・自治論も押さえた論争の深化が問われているのだとわたしは考えています。
2 わたしは「廣松主義者」と揶揄されたことがあるのですが、廣松○○論ということを押さえる作業をしていて、廣松さんの理論をわたしの反差別論の中に取り組む作業をしています。その中で、この白井さんとの対話に引きつけると、廣松さんは哲学的には、とりわけマッハ論などでレーニン哲学を批判しています。ですが、政治的にはレーニン主義的なのです。反差別というころでレーニン主義の批判が必要なのではないかと思っています。
・白井聡『永続敗戦論−戦後日本の核心』講談社(講談社+α文庫)2016
白井聡さんの本3冊目。この本の中で、白井さんの論攷はかなり核心に迫っていて、かなり共鳴しつつ読んでいるのですが、白井さんは繰り返し「わたしはナショナリズムで論を展開しているわけではない」という主旨の話をしています。ですが、レーニン的な民族自決権の論理で、まずは自己決定を為し得る、独立という主旨の展開があり、ナショナリズムに陥る危険性を有しています。レーニンの民族自決権は現実に機能していません。
さて、既に、「たわしの読書メモ・・ブログ666/・白井聡『未完のレーニン <力>の思想を読む』講談社(講談社学術文庫)2021」を書きました。白井さんは、国家=幻想共同体論を押さえています。そこで、なおかつ「国体」論を展開しています。右左以前の議論として、自己決定を奪われている情況を押さえるという論理になっています。そもそも、自己決定論から押さえ直す作業が必要なのですが(註1)、自己決定が奪われている被差別者と支配されている国家を重ね合わせて、その情況をまずどうにかしないといけないという論理になっています。ですが、そもそも、自らの差別する側であったという歴史をスポイルしている歴史修正主義者からする国体論を徹底的に総括することが先で、そのことなしに国体論を出していくと国家主義に陥っていくことになります。何が先かという議論自体も問題で、総体的に論じてくことが必要ですが、先後を論じざるを得ないとしたら、国家主義の批判・止揚が先なのです。この本の進藤榮一さんの解説で、廣松さんの朝日新聞への寄稿「東亜の新体制」が取り上げられていますが、廣松さんが中国の擡頭を予期するような先見の明というようなことを感じつつも、それが批判されたのは、大東亜共栄圏を突き出した日本ナショナリズムの過去をその核心たる「国家主義・超国家主義」批判の観点を押さえていないという批判があり、それにわたしも同調しています(註2)。国家主義批判こそが、ファシズムの総括、戦争の反省ということで肝要なのだとも思っています。だから、国体論批判こそがキーになっています。国体論には、国家主義における加害者性が稀薄になっているか、欠落しているのではと思えるのです。白井さんの著書に白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社(集英社新書)2018があります。そこでもう一度対話を試みます。
目次をあげておきます。
目 次
文庫版 はしがき
韓国語版への序文
『マンガでわかる永続敗戦論』はじめに
第一章 「戦後」の終わり
第一節 「私らは侮辱のなかに生きている」――ポスト三・一一の経験
第二節 「戦後」の終わり
第三節 永続敗戦
第二章 「戦後の終わり」を告げるもの――対外関係の諸問題
第一節 領土問題の本質
第二節 北朝鮮問題に見る永続敗戦
第三章 戦後の「国体」としての永続敗戦論
第一節 アメリカの影
第二節 何が勝利してきたのか
エピローグ――三つの光景
あとがき
文庫版あとがき
注
解説 進藤榮一
備忘録的に切り抜きメモを書いておきます。
「旧態依然たる<無責任の体系>(丸山真男)」32P
(原発事故のときSPEEDIの情報を隠蔽した気象庁の役人の発言への批判)「ゆえにこれは、正確には御用学者の言葉ですらない。その主体性において屍と化した者の発言である。」36P
(原発政策に反対しておとしめられた佐藤栄佐久元福島県知事の著作からの引用)「しかし、責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本社会の中で、お互いの顔を見合わせながら、レミングのように破局に向かって全力で走りきる決意でも固めたように思える。つい六〇年ほど前、大義も勝ち目もない戦争に突き進んでいったように、私が「日本病」と呼ぶゆえんだ。」42P
「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦は否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けているかぎり、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。」74P
「このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行ってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。問題は、自国の行動や主張に限っては無条件的な正義と一致しうると考える幼稚な心性を精算すること(それは日本に限られた課題ではないが)であるが、「敗戦の否認」が続けられている限り、この課題が達せられる見込みは決して立たないであろう。」120P
(北朝鮮拉致問題に関して)「問題は、そうした揺らぎを契機として。国民の個人的意思を超越した「国家の意思」が実際に出現してしまったことにある。」147P
「首相の「拉致問題解決への意欲」と評されてきた姿勢の本質は、被害者の救済を目指すものではなく、この問題の政治利用にこそある。」154P
「「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」と考える人々が倒錯者でないとすれば、こうした自己盲目(ママ)化には当事者にとってより実際的な利点があることを指摘おかねばならない。それは、永続敗戦の構造を維持できるということであり、この構造で成り立っている政官財学メディアの各界に張りめぐらされた利権の構造を維持でき、それに与ることができる、ということである。」176P……左翼的なひとの差別の問題の非対象化の継続、これも「永続」なのでしょうか? 日本の永続敗戦を維持させてきたのは、批判勢力が差別の問題をきちんととらえ、切り込んでいく姿勢をもたなかったことにもあるのでは?
「かくして、絶対的平和主義を憲法上規定しながら、アジアでの戦争(朝鮮戦争およびベトナム戦争)を経済発展の好機として利用し、「非核三原則」を国是としながら、米国による核の傘の存在を自明的な前提としてきたというシニシズムは、いまその精算を迫られている。そのとき、結局は建前にすぎなかった「平和主義」や「不戦の誓い」と、本音での「好機としての戦争」や「核武装」とのどちらが優勢なものとなるのか、答えは自ずと明らかであるように思われる。/これまで左派やリベラルは、この欺瞞が解消を迫られるときに一体何が起こるのかという問いを避けてきた。なぜなら、それはあまりに危険な問いであるからだ、つまり、戦後日本社会の権力の中心を占めてきた勢力の本音がどこにあるのか明らかである以上、「平和」を至上価値とする価値観は日本社会に深く根づいたものとみなし、「パンドラの箱」を開いてしまわぬよう、その内示は不問に付されてきた。・・・・・・」195-6P
「かくして、「平和主義は戦後日本社会の中心的価値観として確固たるものになった」というフィクションは放置され、批判者の勢力は思考停止に陥ったのである。その間にも永続敗戦の構造は永久化され、いままさにその本質を裸のまま露呈させつつあるという事態に逢着している。」197-8P
「それでは、「貧しい国」が帰って来るときに、一体何が露わなかたちで姿を現すのか。それは、あの敗戦を経ても、それを否認することによって生き残ってきたもの、すなわち「国体」であるほかないだろう。われわれは、ポツダム宣言受諾に際して戦中の指導者層が譲らなかった条件が、「国体の護持」であったことをいま一度思い起こさねばならない。」204-5P・・・「国体」とは「国家」の二重の物象化
「「国体」は、第二次世界大戦における敗戦を乗り越えた、言い換えれば、敗戦に勝利した。永続敗戦という代償を払って、だが、「敗戦に勝利する」とは、より具体的には何を意味かるのであろうか。」210P・・・わたし的には「国家主義にとらわれつづけること」で、著者も結局はまっているのではないでしょうか?
(片山杜秀著からの引用)「里見は、水戸学や「国体の本義」が声高らかには決して謳わず、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心とでも言うべきものを赤裸々に抽出してみせた。端的に言えば機制を誣いるシステムとしての国体である。」213-4P
「そして(少年海軍兵にして戦艦武蔵の生き残りであった)渡辺の憤りは、天皇のみならず、戦時中皇国イデオロギーを絶叫し、敗戦を境に突然言うことを変えた(つまり変節した)、メディア機関、教育者、インテリ層、そしてアッケラカンと敗戦を受け止めている身辺の普通の村人たちにも向けられる。彼が見出したのは、そこには「感激に満たされるに値する世界」などそもそも全く存在していなかった、という事実であった。」215-6P
「「戦争責任」という概念には、いつくつかの層がある。かつてカール・ヤスパースは、それを「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」という四つの相に分類した(『戦争の罪を問う』)。前者から後者になるにつれて、抽象度が高くなり、要求される倫理性の質が高度なものになる。この整理にあてはめてみれば、戦後日本で実行されたのは、「刑法上の罪」と「政治上の罪」をごく部分的に追及することであったにすぎない。」243-4P
「・・・・・ゆえに、本書の議論の構えが国民国家の枠組みの限界を乗り越えるどころか強化しかねないという批判が出るとすれば、それ無効である。戦争責任のイロハを飛び越して、一挙に高度な次元における責任追及へと進む議論が、いまこの国と社会が抱えている問題の適切な解決に資することができるとは、私には思われない。」244-5P・・・段階論の陥穽、総体的にとらえないとそこから抜け出せない。現実的に国家主義に飲み込まれる。問題の核心は国家主義、これは「形而上的な罪」ととらえがちであるけれど、愛国心教育やマスコミの操作とからめて総体的にとらえ返し、批判していくことが肝要
(第三章注20)「その後、安倍政権の歴史修正主義への欲望は、二度にわたって抑圧を受けた。一度目は、二〇一五年八月に発表された「戦後七〇年談話」であるが、ここで安倍は村山談話の路線の継承を誓わざるを得なかった。二度目は、同年末の、従軍慰安婦問題に関する韓国政府との新たな合意である。・・・・・・」277-8P・・・意味不明の安倍談話(「謝罪」を口にししつベロを出してそれを無化するような内容)の意味不明性が米国からの圧力とそれへの抵抗としての結果であること
(註)
1 生命倫理の議論の中で、小松――市野川論争が起きています。小松美彦さんは「自己決定権という幻想」「自己決定権の罠」というところで論を展開しているのですが、小松さんの論には近代的個我の実体主義的「主体性」を批判した廣松共同主観性論があり、そのことを押さえていないところでの市野川容孝さんの提起は、旧態依然の人権論的「自己決定論」になっていて、議論が余りかみ合っていません。ただ、今日的には、運動的にミニュシパリズムというところで出てきた、バルセロナ・コモンズなどのせめぎ合いとしての自立・自治論も押さえた論争の深化が問われているのだとわたしは考えています。
2 わたしは「廣松主義者」と揶揄されたことがあるのですが、廣松○○論ということを押さえる作業をしていて、廣松さんの理論をわたしの反差別論の中に取り組む作業をしています。その中で、この白井さんとの対話に引きつけると、廣松さんは哲学的には、とりわけマッハ論などでレーニン哲学を批判しています。ですが、政治的にはレーニン主義的なのです。反差別というころでレーニン主義の批判が必要なのではないかと思っています。
2025年01月16日
キム・ソンス監督「ソウルの春」
たわしの映像鑑賞メモ079
・キム・ソンス監督「ソウルの春」2023
昨年末尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が非常事態宣言という形でクーデターを起こし、民衆とそれに支えられた議員がそれを国会で取り消し宣言し、大統領の弾劾まで進んでいます。その民衆の決起に、その前年に劇場公開されたこの映画の影響があったと言われています。
わたしは、最近劇場で映画を観なくなっていたのですが、これは観なくてはとインターネットのビデオで観ました。「春」という題名がついているのですが、そもそも全斗煥(チョン・ドファン)のクーデターで、クーデター軍とそれを鎮圧しようという軍同士のせめぎ合いを描いた映画で、独裁をひいていた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の暗殺から、一瞬「春」のきざしが出てくるのかというときの、全斗煥のクーデターでの軍事独裁の継続という映画です。その映画を観ることによって、韓国の民衆はクーデターがどのようにして起こり、せめぎ合いがどうなるのかを学んでいたので、尹錫悦が軍隊を動かして国会に突入・占拠、議員や運動家などの逮捕・暗殺を図っていたのを、民衆が国会に押し寄せ、軍隊に対峙し、軍も光州事件などの民衆への発砲などという歴史を押さえていたので、民衆に発砲することなく、抑え込まれ・撤収したということになったのです。
この映画は春遠くという内容で、暗い気持ちになったので、もうひとつ続けてチャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」1917を観ました。これは、全斗煥独裁政権下で学生の拷問死事件が起き、民衆が立ち上がり、大統領の公選制へと進むきっかけになる動きを民衆の決起とともに描いた映画です。どちらにしても、韓国の弾圧の熾烈さと民衆のそれへの反対の運動の歴史ということがあり、一方で日本はと思うと、運動がいかにも簡単に抑え込まれ、デマに簡単に流される情況、きっちりと腰を据えた運動をと、念いを強くしたのでした。
・キム・ソンス監督「ソウルの春」2023
昨年末尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が非常事態宣言という形でクーデターを起こし、民衆とそれに支えられた議員がそれを国会で取り消し宣言し、大統領の弾劾まで進んでいます。その民衆の決起に、その前年に劇場公開されたこの映画の影響があったと言われています。
わたしは、最近劇場で映画を観なくなっていたのですが、これは観なくてはとインターネットのビデオで観ました。「春」という題名がついているのですが、そもそも全斗煥(チョン・ドファン)のクーデターで、クーデター軍とそれを鎮圧しようという軍同士のせめぎ合いを描いた映画で、独裁をひいていた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の暗殺から、一瞬「春」のきざしが出てくるのかというときの、全斗煥のクーデターでの軍事独裁の継続という映画です。その映画を観ることによって、韓国の民衆はクーデターがどのようにして起こり、せめぎ合いがどうなるのかを学んでいたので、尹錫悦が軍隊を動かして国会に突入・占拠、議員や運動家などの逮捕・暗殺を図っていたのを、民衆が国会に押し寄せ、軍隊に対峙し、軍も光州事件などの民衆への発砲などという歴史を押さえていたので、民衆に発砲することなく、抑え込まれ・撤収したということになったのです。
この映画は春遠くという内容で、暗い気持ちになったので、もうひとつ続けてチャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」1917を観ました。これは、全斗煥独裁政権下で学生の拷問死事件が起き、民衆が立ち上がり、大統領の公選制へと進むきっかけになる動きを民衆の決起とともに描いた映画です。どちらにしても、韓国の弾圧の熾烈さと民衆のそれへの反対の運動の歴史ということがあり、一方で日本はと思うと、運動がいかにも簡単に抑え込まれ、デマに簡単に流される情況、きっちりと腰を据えた運動をと、念いを強くしたのでした。
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(4)
たわしの読書メモ・・ブログ682[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(4)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第三章 現相的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 所知的二肢制の構制
(この節の問題設定−長い標題) 「現相的所知の二肢的契機たる「現相的所与」と「意味的所識」とは、それぞれが自存するものではなく、関係態の“項”的契機なのであるが、前者が後者「として」能知的主体に対妥当する当の関係性をわれわれは「等値化的統一」と呼ぶ。――この等値化的統一たる「として」は、「異(相違性)」と「同(同一性)」との原基的な統一態であり、“繋辞的存在制(デアル)”よりも一層根源的な規定である。――現相的所与が意味的所識として能知的主体に対妥当(「ゲーゲンケルテン」のルビ)する「等値化的統一」は根源的象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)であって、この象徴的結合の両項という視角で把えるときには「現相的所与」を「能記」、「意味的所識」を「所記」と呼ぶことにする。」149P
第一段落――フェノメナの分節状相の把え返し 149-59P
(この項の問題設定)「われわれは第一章第一節このかた、叙述の便宜上、現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)が既成的に現前する場面に止目するかたちで議論を進め、謂うなればそれが像的(「ビルトハット」のルビ)に纏まったフェノメナには眼を向けても、現相(「フェノメノン」のルビ)が現相(「フェノメノン」のルビ)として顕現する構制は姑く措いてきた。われわれとしてはフェノメノンの顕現(sich zeigen=自己現示)を支えるフェノメナリスティックな構制にも留目しつつ、フェノメナの分節状相(さしあたり、所与が所識として分節的に現前化する状相)を把え返しておかねばならない。」149P
(対話@)「ここであらかじめ論件の一端を予示する含みで問題を提出しておけば、「異」とか「同」とかは、直接的に現前する現相的分節態の一斑なのであろうか。それとも、反省的に定立される概念なのであろうか? 勿論、「相違性そのこと」「同一性そのこと」といった次元になれば、それらはいわゆる感性的直覚によって把えられるものではなく、反省的に把握される概念の次元に属するであろう。しかし、例えば、街頭で出会った人物をあの旧友として直覚的に再認する場合の“再認的同一感”や二羽の雀を見て直覚的相等視する場合の“較認的同一感”のごときは、感性的な次元での直覚ではないであろうか? 或いはまた、替玉を見破る際の“弁別的相違感”や、別物を認知する際の“区別的相違感”のごときは感性的直覚ではないであろうか? これらのケースにおいて、反省的措定や当の認知の理由づけに先立って“同一性”や“相違性”が直証的に覚識されていることは誰しも認めるであろう。このさい、同一性・相違性といっても、固よりそれは概念的規定ではなく、“感性的認知”の域にとどまる。とはいえ、それは一廉(「ひとかど」のルビ)に「異」「同」のフェノメナルな顕現と言えるのではないか。――人はここで、かつてエーレンフェルスなどが「相等性」Ähnlichkeitや「相異性」Verschiedenheitを形態質Gesaltqualitätと認めた故知を想起することであろう。――或る種の論者たちは、そのことを容認したうえで、しかし、「異」「同」のごとき直覚は「高次的直観」であると言い、異ないし同という関係のもとに立つ両項それぞれの認知がより基底的であると主張する。だが、果たして「異」や「同」という関係は、当の関係のもとに立つ両“項”によって先立たれるのであろうか? 却って、異ないし同のほうが、謂う所の“項”に立つフェノメノンを当のフェノメノンとして顕現せしめる基底的契機ではないのか? ――もしそうだとすれば、「異」ないし「同」ということは、最も基底的なカテゴリーということになる。――この問題に答えるためには、恐らく、「異(相異性)」や「同(同一性)」ということを概念的に括って初めから単層化してしまうことなく、幾つかの位階に分けて検覈(「けんかく」のルビ)して行くことが必要であろう。そして、そこにおいては、「異」と「同」とを初めから同位・同格に扱うことの可否もおのずと検討されることになる筈である。」150-1P
(対話A)「偖、フェノメノンが現前するという事態は、心理学流に言えば、「地」Grundを背景にして「図」Figurが顕出している事態に照応するであろう。反省的ないし第三者的に構図を言えば慥かにその通りである。がしかし、最も原基的な場面では、当事者的能知にとっては地は覚知されず、もっぱら図だけが現前する。例えば、簿明の中で何かしら或る色(「もの」のルビ)が見え始めるとか、静寂(「しじま」のルビ)を破って或る音が聞こえてくるとか、皮膚上に何かが感じられるとか、このたぐいの体験にあっては、原初的には地=背景たる薄明・静寂・皮膚は知覚されず、現前するのは“図”だけである。尤も、このさいの“図”たるや、明確に規定された「図」として覚知されるのではなく、原初的には“何かしら或るもの”としか名状のしようがない。――斯かる原基的な事態においては、要言すれば、「地」と「図」との分化ということは反省的学知にとって存立するにすぎず、図の現前と称しても“図”はまだ即自的である。この事態に関して、学知の立場からは、無意識的状態から意識的状態への変移とか“無”を地にしての“有”の現出とか、図の即自的な知覚とか、称することもできよう。が、われわれとしては、後述の諸階梯との区別上、この事態を以って「端的な或るもの」(etwas schlechthin)の現前と呼ぶことにしよう。――この「端的な或るもの」の現前において体験されているのは何事であろうか。それはまだ或るもの=図の明識ではない。それは、或るものの分凝的現出、すなわち“無地”からの分出と規定しても過大であり、たかだか「異−化」(ver-schieden)と呼ばるべきであろう。この「異−化」は、あらかじめ二つの項があってそれら両者を区別立て(unterschieden)する意識態ではなく、それによってはじめて端的に「或るもの」(etwas)が“無=地”から分離して“図”となるごとき原基的態勢である。それは、しかも、啻(「ただ」のルビ)に学知にとってのみ存立する事柄ではない。爰に謂う「異−化」こそが最も原基的な体験である。」151P・・・『反差別原論』の端初を、「差異」&「異化」として展開しました。
(小さなポイントの但し書き)「――われわれはいまここで「異−化」ということの感官生理学的な説明を試みようという心算はないが、次の事は留意に値するであろう。一定の刺戟が識閾値以上の強度で現実に到来していても、生化学的な平衡状態を現出するといわゆる「慣れ」(habituation)を生じて覚知されなくなる。畜搦的走査といった能知的主体の側の無意識的能動に因るにもせよ、ともかく刺戟の与えられかたに変異が存する場合に限って感性的知覚が生ずる。感覚機構の機能的状態における生化学的な平衡という“同一性”を破る“差異性”の存在が感性的知覚の現成にとって必要条件をなしているわけである。――ところで、この「異−化」という最も原初的な「異」の覚識に対して、或る種の論者たちは一種の「同一性」が先行すると考え、その同一性の覚識を俟って甫めて「異−化」も成立すると主張する。論者たちによれば、いかに没規定的ではあれ、「或るもの」が等の或る同じものとして現前するかぎりにおいてのみ謂うところの「異−化」も体験されるのだ云々。だが、実態は果たしてそうであろうか? 反省的な見地において、今問題の「或るもの」に統一性という概念を適用することは勿論可能である。体験の当事主体が「或るもの」の“自己同一性”を認知する場合もありうる。がしかし、それは図と地との対自的分化の局面のことであり、今問題の「端的な或るものの現前」という場面に左様な「同一性」の覚識を持ち込むのは次元の交錯と言わねばなるまい。原初的な「異−化」の場面で“同”の覚識が言われるとすれば、それは当の「異−化」の事態(ここでは「或るもの」はまだ明確な図柄になっておらず、いずれにしても流動的である)そのことの現前(現出しつづけていること)に関する準反省的な意識においてであろう。フェノメナルな体験に即するかぎり「異−化」における異の覚識が原初的であり、これと同位な、況んや、これに先行する“同”の覚識は、たかだか、「異−化」に関する準反省的な意識においてはじめて後件として現れる。」151-2P
(対話B)「謂う所の「異−化」の事態は、やがて消失して“無意識的な状態”へと帰入する時もあるが、一般には、その埓に止まることなく、心理学者の謂う「地」をも現前化する。茲において図と地との分化的状相が対自的に体験される。」152P
(対話C)「「図」が「地」との対照的な相で現前するに至るとはいっても、当初はまだ、地は没概念的であり、“地”は先の「端的な或るもの」に庶(「ちか」のルビ)い。先の例でいえば、それは薄明や静寂が現前化した(意識にのぼった)事態ではあるが、このさい、「薄明」とか「静寂」とかいう規定は第三者的な記述であって、そのようなものとして認知的に体験されているわけではない。図と地とのこの即自的な分化においても、例えば、“白地”の上ないし中に“赤丸”が見えるというように、日章旗(「ひのまるのはた」のルビ)の一全体が“無−地”から顕出するという構図になっている。そのかぎりでは、日章旗という一全体が嚮の「或るもの」の位置を占め、この或るもの(“図”)が白地と赤丸とに分節化しているという錯図的な二重構造を呈すると言うこともできる。現に、日章旗全体を以って“無−地”から「異−化」的に現出している「端的な或るもの」と見做さねばならないようなケースもある。がしかし、爰での主題は、赤丸と白地といった「図」と「地」の分化である。――地が「地」として現前するのは“無”を背景とする「異−化」においてではなく、「図」との「区−別」においてである。図の側に即しても、それは何らかの内在的な規定性の対自化の故に図として区劃されるというよりも、「区−別」という「異」の意識と相即的に「地」と「図」とが分節化するのである。」152-3P
(小さなポイントの但し書き)「――或る種の論者たちは、関係に対して項を先立てようとし、また、相違性に対して同一性を先立てようとする既成観念囚われて、この事態に関して次のように主張する。すなわち、図と地とが区別されるのは、当の区別項のそれぞれが、例えば、赤と白、円形と四角形というように各々認知され、かつ、それぞれの自己同一性が認定されていることを俟ってである云々。成程、赤と白とか、円形とか四角形とかいう“概念態”が十全に形成されるだけの経験を既に積んでいる人々においては、図と地との対照的な区分を明識するよりも、むしろ、与件を赤い或るもの(円形の或るものetc.)として直覚的に認知することであろう。そして、図と地との区別性は、しかじかの相違性という明識を伴うかたちで、却って反省的にあとから意識される。しかしながら、そのような形成済みの体験を今問題の場面に持ち込むのは位階の交錯というものである。原初的な体験の場面においては、赤が赤として意識されるわけでも、円形が円形として意識されるわけでもなく、まずは「区−分」という「異」の意識態勢において“地”と“図”とか分化するのであって、両項の各々が初めからポジティヴにしかじかの或るものとして基底的に意識されるのではない。勿論、学知的な反省の見地からいえば、図が地から分化的に顕出するのは、図の部分と地の部分とが、無差別的に一様ではなく、一定の差別的規定をもっているからには違いない。がしかし、当の差別的規定があらかじめ明識化されてのちに“図”と“地”とが分化するのではなく、まずは端的に「区−別」相が現前するのであって、区別相の持続的自己同一性や、区別項それぞれの自己同一性は、準反省的ないし反省的な局面ではじめて対自化されるというのが実態であろう。――」153-4P・・・異化の先行性
(対話D)「ところで、「地」と「図」とが対自的に「区−別」されている事態にあっても、図と地とは同位的ではない。図と地とは反転する場合さえあるのであってみれば、両者の区別は絶対的な区別ではない。しか、一方が図として(他方が地として)現出しているかぎり、図のほうが地よりも“明識度が強い”とでも呼びうる態勢になっている。そして「図」が明瞭に意識されるや“地”は“無化”される傾動にある。第三者的にみれば、図と地とのいずれがより流動的であるか、一概には言えない。例えば、青空を背景に翩翻(へんぽん)と飜(ひるが)える日章旗のごときは、図のほうが地よりも却って流動的と認めうる。しかし、それは反省的に認められることであっても、「図」は同一体制の相で持続的「図」として(「地」と「区−別」して)覚知されつづける。この相にある「或るもの」=「図」は、それが当の或るものとして、すなわち、当体的同一性の覚識において現前するかぎりで、「端的な或るもの」(etwas schlechthin)一般と区別して「其れ」(es)と呼ぶことができよう。」154P
(対話E)「「図」の“当体的同一性”は、第一章第二・第三節でも述べた通り、図そのものの内在的規定の自己同一性の認知にもとづくというよりも、さしあたり「地」との区別性の反照(「レフレクシオン」のルビ)であり、「図−地」分節の構造的安定性の投影なのであるが、――体験する当事意識においては、地が“無化”される傾動に伴って、地との区別性、ならびに、「図−地」の区別性の“同一体制”そのことは必ずしも明識化されないため――、それは当該「図」自身の自己同一性という相で体験されるのが常態である。(そして、「其れ」が同一体制=持続相で知覚されつづけたり、継時的に「其のもの」として再認されたりするところから、これら再認的「同」の意識態において、「其れ」(当体)がやがては“実体的自己同一者”の想念を機縁づけることにもなる。)」154-5P
(対話F)「議論を今一歩進めておこう。「図」と「地」は反転相で覚知されうるし、時としては、「図」と「地」とが同位的に覚知される位相もある。尤も、図と地とが同位的に覚知される場合には、「図」と「地」なのではなく、“無=地”を背景にして顕出する両つの「図」と言うべきかもしれません。が、ともあれ、同位的な図と地と呼ぶにせよ、両つのと呼ぶにせよ(われわれとしては後者の呼び方を撰ぶ)、両つの「其れ」が区別性の意識態において現前する位相、今やこの事態が論件である。――両(「ふた」のルビ)つの「図」が現前する場合、両者が相接しているケースは稀であって(ということは、すなわち、“図”と“地”とが同位的に“無=地”を背景に顕出する体験は稀であって)、一般には、例えば白地の上に両つの黒丸が見えるというように、“共通の地”を背景にして、両つの図が離在的に顕出する。このさい、しかし、そもそものはじめから二つの黒丸という二つの図が現出していたのだと見做すのは体験的実態に合わない。もとより、第三者的な反省の見地からすれば、二つの図が当初から存在したと言われるであろうし、当事者自身が現に最初から二つの黒丸という別々の図を覚知するというケースもありえよう。通常は、しかし、白地に二つ(三つ以上でも可)の黒丸の諸部分が図(ein Figur)として分節する。黒丸どうしが一定の距離をもっているとか、黒丸が幾つもあるとか、このようなことは、どのみち、白地の部分=地、黒丸の部分=図との原基的な区分にとっては関わりがない。離在的であるとか、しかじかの個数あるとかいうたぐいのことは、図の「錯図化」を俟ったうえでの反省に属することであって、原基的には、地の部分と図の部分とへの二元的な「区−別」が直接的な体験である。このことは“図”が「端的な或るもの」の域にある次元や、“図”と地との分節化が一たん対自化されたのち、地が“無化”されている位相に徴すれば、(当の「図」が事後的・反省的に「錯図」化され、そこに二つの図が分出されえようと)絮言を須いないであろう。」155-6P
(小さなポイントの但し書き)「――図の「錯図」化、すなわち、当初は“一つの”図としてしか覚知されていなかった或るもの=図が構造的な分節相を呈するようになる機制には、例えば、赤丸と白地という「図−地」成態が青空という「地」から顕出するというように、第一次的な「図−地」成態の全体が「其れ」とし「図」化されるケース、および、例えば、顔の略画という「図」が眼・鼻・口といった分節を含む構造成態の相で顕出するというように、第一次的な「図」が内部的に分化して錯図化されるケース、この二つを一応区別することができる。尤も、後者のケースにおいても、眼なる眼、口なら口の周辺が“地化”されるのと相即的に眼や口が「其れ」として覚知されるのであり、「図−地」の「区−別」の新過程と相即的である。このかぎりでは、両ケースの区別は相対的なものにすぎない。しかし、両つの図が両つの図として顕現するのは、前者においては第一次的な「図」と「地」との同位化の機制によってであるのに対して、後者においては第一次的な図の「錯図」化(これは第一次的な図の一部分の“準地化”を伴う)によってである。」156P
(対話G)「偖、両つの「図」が現前する事態、すなわち、両つの「図」のそれぞれが“地” (但し、これには“無=地”の場合もあれば“準地=準図”的な場合もある)に対して「其れ」として共在する事態、ここにおいては、両つの「図」は「彼−此」という「異」の意識態においてまずは分立する。この位相を「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)性の関係」と呼び、上述の「異−化性の関係」(直接的異と反省的同がこの次元に属する)および「区−別性の関係」(区別的異と当体的同がこの次元に属する)から区別することにしよう。「異」と「同」とは、この次元においても、前二者におけると同様、同位・同格的ではない。――現前する或るもの=「図」は、「彼−此」の関係の次元にあるとき、嚮にみたetwas schlechthin (端的な或るもの)やes (其れ)と区別して、「此のもの」(dieses)「彼(「か」のルビ)のもの」(jenes)と呼ぶことができよう。「此のもの」と「彼のもの」との対向、すなわち「彼−此性の関係」は、両項が「其れ」として当体的自己同一性の相で覚知されているとはいえ、まずは「彼−此」の対向的相異の状相で体験される。そして、当の対向的な布置の構造的一定性、および両項の反照的自己同一性が準反省的に対自化されるのであって、「此れ」ならびに「彼(「あ」のルビ)れ」のそれぞれがあらかじめ内在的な規定性に即して措定されたのちに対比されるのではない。ここでも対向的相異性の覚識が先行する。(両項の措定→対比というケースも生じうるが、それは後続の位階のことである。)」156-7P
(対話H)「「彼−此」関係の原初的な位階にあっては、両つの図が、例えば、前−後、左−右といった対向的な布置において覚知され、両項が共軛的に相互反照するかぎりで、“此れ”は「此れ」であり、“彼(「あ」のルビ)れ”は「彼れ」である。勿論、「彼−此」の対向的相違性は、布置の異だけにはとどまらない。例えば、明−暗、大−小、強−弱といった対照的な「異」が覚知されうる。この場合にも、素より、明が明、暗が暗etc.etc.として認知されたのちに対照が意識されるのではなく、対照的な異の覚識を基底にして此の明と彼の暗etc.etc.が分立化するのである。しかし、ここで対照的というのは、白と黒というような反対概念で整序されるだくいの狭義のそれだけではなく、さしあたり「両つの図の対向」であるかぎり、白と黄とか、点状のものと線状のものとか、学知的反省の立場において質的ないし量的に相違すると規定されうるおよそ一切の差別を包摂しうる。」157P
(対話I)「ところで、両つの「図」は、時として「同」の意識態において「彼−此」的に分立する。例えば、二羽の雀や二本の煙草は、反省以前的に「同」として、すなわち、直覚的に相等性の相で覚知される。これらは、或る知に対する識態を基礎にしてはいる。しかし、この「異」を謂うなれば“地化”しつつ、そこでは「同」の覚識が顕化するのであって、両つの「図」すなわち「此れ」と「彼れ」との相等性は直覚的である。勿論、両つの図の相等性ということは、この次元ではまだ、各図おのおのに関する積極的な分析的認知にもとづくものではなく、相等性の覚識のほうが項の規定性に関する反省的な認知やそれらの規定性の比較に先立つ。もとより、反省的な比較をおこなえば、当の相等性の意識にはしかるべき機縁や根拠が認められるであろうが、それはまだ対自的ではない。此−彼の相等性に関する対自的な分析的校合をおこなえば、却って両項の相等性の覚識が消失することも往々なのであって、今問題の位階では「相等性」(Gleichheit)の覚識はあくまで直覚的である。」157-8P
(小さなポイントの但し書き)「この相等性=「同」の覚知は、いかに直覚的であるとはいっても、「彼−此の異」に支えられており、溯っては「区−別の異」や「異−化の異」に俟つものであり、そのかぎりでは被媒介的規定性である。しかしながら、それは「異の異」という二重否定的な意識態ではなく、体験的には直接態である。成程、論理的には「同」を以って「異の異」として規定することも可能であり、また、例えば言語的音韻体系を示差(Differenz)の体系として整序するごとき場面においては、「異の異」という反照的な対他的規定に即して項の存立性が説かれうる。がしかし、「彼−此」性の位階における「相等的同」は直截な等値(geleichsetzen)であることが銘記されねばならない。」158P
(対話J)「「彼−此」の相等性の意識態においては、反照的に対向する両項、「此れ」と「彼れ」とが当の或るもの「其れ」としてそれぞれ準反省的に自己同一的であり、両項の分節態勢の持続的自己同一性も準反省的であるが、それが「彼−此の異」に支えられている以上、この“地化”された異と相等的「同」とは反転的に隆替(「りゅうたい」のルビ)しうる。これら地と図とに擬(「なぞ」のルビ)らえうべき“異の意識態”と“同の意識態”とが同位的に「図」化するとき、それらは両つの図となるのではなく、まさに第一次的な“図”と“地”とが融合して一つの図となり、この「図」(異zugleich(同様に)同)が彼−此の両項を謂うなれば“地”としつつ、その“上に”顕出する。この意識態が「類似性」(Ähnlichkeit,resemblance)の覚識であり、ここで“地”と“図”との反転が生じて「此れ」「彼れ」の両項が「図」として顕出するとき「対−比」の事態と呼ばれうる相になる。」158P
(小さなポイントの但し書き)「――この「対−比」関係における類同性(Gleichartigkeit)の認知が「類推」的な「統−轄」の基底となる次第であるが、この分類的整序の問題にはここではまだ立ち入るべき次序ではない。「対−比」的統轄において顕揚される「質規定」「量規定」と併せて、この件には後論の途次で立帰る予定である。――」158-9P
(対話K)「ところで、「対−比」は「類似性」(Ähnlichkeit,resemblance)を“地”とするが、この“地”(類似性)が“無化”されるとき、「対−比」の両項関係は単なる「一者−他者」関係になる。」159P
(対話L)「われわれは、以上、「異」「同」という関係態たる“形態質” (Gestalt-qualität)を幾つかの位階ないし位相に分けて縦観してきたが、それは「異」「同」という基礎的カテゴリーの範疇論的な討究を当座の課題とするものではなく、「として」という一種独特の「異と同との統一態」を節述するための前梯としてであった。――われわれとしては、しかし、所期の本題に立進む前に、当の「として」という「等値化的統一」を「能記−所記」の象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)と相即的に規定する配備を事前に設えておくべく、右に到達した「一者−他者」関係を接穂としつつ、「所与−所識」の「能記−所記」的関係を次に配視しておきたいと念う。」159P
第二段落――能記と所記との関係構造に留目したところでの言語的表現の意味構造の一端の対自化 159-63P
(この項の問題設定)「爰では、記号論ないし言語論的な「能記−所記」関係の主題的討究はまだわれわれの課題ではないが、能記と所記との関係構造に留目して議論を進めなければならない。そのかぎりで、言語的表現の意味構造の一端をもここで対自化しておかねばなるまい。」159P
(対話@)「扨、「一者」と「他者」とは、われわれが第一章第一節で関説した「標徴的連合」の相で“結合”される場合がありうる。尤も、標徴的連合は所詮“連合”であって、結合がいかに鞏固であり一定化していようとも、そのこと自身では「として」結合(等値化的統一)ではない。ここでは、「一者」と「他者」との関係が標徴的連合という域を超えて、「一者」が言語的能記、「他者」が指示的対象という在り方での意味的所記という相で等値化的に統一される場合に止目しつつ、そこでの「能記−所記」関係を見ておこう。これは普通に、言語の「指示」機能と呼ばれる構制に見合う。」159-60P
(小さなポイントの但し書き)「――言語的「能記−所記」関係は発生論的には決して「標徴的連合」を直接唯一の母胎とするものではなく、「補完的拡充」や「融合的同化」の次元をも基礎にして形成される。このことは、第一章第一節や第二章第二節の行文中で示唆的に伸べていたところである。が、ここでは言語的に「能記−所記」関係の発生そのことが主題ではないので、この種の問題には立入らない。尚、われわれは言語の機能を@「指示」A「述定」B「陳述」C「喚起」という四大機能に分ける。そのうち、ここでは@「指示」が論件である。メタ文法的次元でみれば「指示」は「示」と「指」の両次元からなり、実はメタ文法的次元での述定に俟って指示が指示として成立するという事情もある。それゆえ、「指示」の成立条件として前述定的述定ともいうべきものが原理的には先になる。がしかし、当座の議論としては普通の言語論的レベルで立論を進めておきたい。――」160P
(対話A)「標徴的に連合されている「一者−他者」の対向的分節においては、「一者」が音声であってしかも誰かへの音源的に帰属化されつつ別の或る現相的所知たる「他者」と融合的に同化する場合が生ずる。われわれは嚮に「音源活動発生(習得)の初期的な局面においては、発せられた言語音声は、一方では“音源的に帰属”されつつも、他方では眼前の特定的現相と“融合的に同化”されること(これは幼児が或る特定現相を志向対象的に“図”化している場面で当該音声形象が聴取される体験を通じて協応が生じることに因るものと思われるのだが)、ともかく、こうして、一定の言語音声と一定の現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)との融合的同化が成立する。」旨を誌しておいた(前章第二節)。この融合的同化が成立しているとろでは、表層的体験相に即すれば、「音声的与件」が直截に「それ以上の或るもの」を“告知”すると言われうる。がしかし、それは「一者」と「他者」という二つのものの間の直示的関係ではない。指示的関係というのは多分に複雑な被媒介的関係なのである。」160P
(対話B)「具体的な現場を念頭において検覈していこう。「指示」ということは本源的に間主体的な関係行為である。自分自身にとっては或る対象への志向的凝向ということはあっても、殊更に指示ということは問題にならない。指示は対他的な営為である。指示は視線(「めくばせ」のルビ)や指線(「ゆびさし」のルビ)でおこなわれる場合をも含めて、或る対象が当事者にとって志向的に覚知されていることの告知であり、それが指示的告知となるのは、受手が送手に当該の対象を帰属化させることにおいてである。指示的告知活動を機縁にして志向的対象の間主観的同一性(単一性)が現に存立するに至ることと指示の現成とが相即する。しかるに、対象なるものは自他のあいだで射映的には異貌であり、同一性(単一性)が存立するとすれば、それは現相的所与対象がそれとして覚知される意味的所識に即してでなければならない。指示は、さしあたりレアールな(射映的与件相における)対象を「示す」かたちでおこなわれようとも、実は、イデアールな同一者たる意味的所識を「指す」ものにほかならない。それでは、指示とは、標号によってまずはレアールな対象を「示し」、その被示対象が受手によって単なる所与対象以上の所識として覚識されるという二段構えの機制において成立するのであるか? 発生論上の原初的局面に留目するとこのような二段階的機制が考えられ易い。実際、標号が機縁づけになって(そのかぎりでは事の原理的次元では“偶然的”に)特定対象の送・受信が成立する場合がありはする。視線や指線による“指示”は、当の標号が一定の“コード化”されたシグナル機能を演じるようになっているとしても、慥かに上述の二段構えになっているであろう。また、単純な指示詞による指示も(指示詞そのものが概念化された意味を帯びるとしてもそれは別次元のことであり、指示機能だけに直目するかぎり)やはり二段構制になっていると言えよう。これらの場合には、第一段の「示し」は機縁づけたるにすぎず、標号的能記と志向的に覚知される被示的与件とのあいだには一義確定的な関係はない。それゆえ、第二段で帰結する所識たる被指的意味も標号的能記とのあいだに一義確定化された関係を有たない。翻って言えば、指示ということにあってはそもそもの話、レアールな標号的能記とレアールな被示的所記とが「一者−他者」のかたちで現前するとは限らない。例えば「アノ樹ガ……」「或ル樹ガ……」「樹ハ……」といった音声を聴取した場合、なるほど、知覚風景内の特定の樹木への凝向が機縁づけられて樹木の知覚現相を現認するとか、補完的拡充や標号的連合の機制によって樹木の表象が泛かぶとか、レアールな所知が現前化するケースもありうるが、しかし、およそ言語的音韻以外には特定の知覚や表象がレアールには現出することなく、それでいて直截に指示機能が現識されたとしても、そのレアールな対象的現相は副現象にすぎず、論理構制上は直截な(レアールな対象的現相の現識を抜きにした)指示と同趣的なのである。“実詞”が一定の意味的所識を「指す」のは、第一段として一定の知覚ないし表象を「示し」、第二段としてその被示的現相がそれ以上の或る意味的所識として覚知されるという二段構制によってではない。機縁づけを媒介的第一段階とするこのような二段構えが発生論的な初期局面では仮令現存するにしても、能記的音声と被示的現相とのあいだの直接的関係はたかだか「一者−他者」の関係相における標徴的連合ないし補完的拡充たるにすぎず、「指示」にとって論理構制上の要諦(「ようてい」のルビ)をなすのは能記的音声と被示的現相とが共に一箇同一の意味的所識(ここではさしあたり「被指的意味」)と等値化的に統一されることである。このかぎりで、能記的音声と被示的現相(レアールな射映的対象)とは謂わば等価なのであり、意味的所識(被指的意味)の側からいえば、レアールな対象もレアールな音声言語も謂うなれば斉しく自己(「おのれ」のルビ)の“受肉”の場ともいうべき射映的現相態にすぎない。このゆえに、能記的音声は直截にイデアールな意味的所識(被指的意味)を「指す」ことができるのである。“実詞”における「指示」とは、こうして、発語された“実詞”=能記的音声が単なるそれ以上・以外の或る一定のイデアールな意味的所識として直截に覚知される構制にほかならない。」160-2P
(対話C)「われわれは、右の行文で示したように、同じく“指示”と言っても、視線ないし指線や純然たる“指示詞”による志向的対象の“告知”と“実詞”による指示とを一応は区別して考える。とはいえ、“実詞”的能記音声が直截に意味的所識を「指す」ことができるのも、当のレアールな言語音声が意味的所識の“射映的”一現相態であることに負うてであり、現相的与件がそれ以上の意味的所識として覚識されるという基本的構制においては同趣である。当面の相違は、標号と意味的所識との関係が直截的であるか、それとも、標号によって機縁づけられて(“偶然的”に)現出するレアールな被示現相を介して間接的であるか、この点に存するにすぎない。(尤も、この相違は、言語としての言語次元では極めて重大な相違である。「指示」ということの本質的な意味構造のうえでは、しかし、それは決定的な相違ではないというのである。)「指示」においては、いずれにせよ、現相的所与が単なる所与(「それ」のルビ)以上の意味的所識として、対他・対自的に、能知的主体に妥当する。――われわれは嚮の行文中では便宜上「能記」「所記」という詞を「指示」という概念に先立てるかたちで用いたのであったが、事柄に即すれば、「指示」という対他・対自的な「現相的与件−意味的所識」の等値化的統一という事態において、甫めて、「現相的与件」が「指示的能記」、「意味的所識」が「被指的所記」としてそれぞれ現成するのであり、かかる「指示的能記」の特別な一斑として「言語的能記」が現存するのである。――「指示」において能知的主体に対妥当する「能記と所記との対他・対自的な等値化的統一」をわれわれは狭義の「象徴的結合」と呼ぶ。(「狭義の」と限定するのは、われわれは「指示」以外の言語機能、すなわち「述定」「陳述」「喚起」に関しても“象徴的結合”を云為する場合があるからである)。」162-3P
第三段落――「象徴的結合」、溯っては「等値化的統一」=「として」結合の主題化 163-7P
(この項の問題設定)「今や、われわれは「象徴的結合」、溯っては「等値化的統一」すなわち「として」結合そのことを主題化しておくべき局面を迎えている。等値化的統一は最も原基的な事態であり、位階的にはなるほど(感覚的次元から判断的次元まで、言語以前的なそれから言語以後的なそれまで、更にはまた、感情価や行動価に関わる実践的なそれに至るまで、等々)多肢多様な具象態で存立するのであるが、しかし、何分にも「デアル」よりも一層根源的なことであるため、これを定義方式で規定することは論理的に不可能事である。とはいえ、等値化的統一たる「として」結合そのことを或る程度“解明”しておくことが必須の要件である。――われわれとしては、この課題に応えるべく、以上、本節においてこれまで「異」「同」の幾つかの位階を縦観したうえで「指示」における「能記−所記」の象徴的結合の存立構造などを配視してきた。が、実の処、まだ予備的作業が完了するには到っていない。本来ならば、次節で論攷する本格的な論述を庶幾するの余り、議論を錯綜させすぎることは厳に慎しまねばならない。そこで、次善の策をとり、既設の予備作業から許される範囲内で可及的に「として」結合の規定を試みておく次第である。」163-4P
(対話@)「現相的所与と意味的所識との「として」結合、降っては、標号的能記と被指的所記との「象徴的結合」は、レアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)どうしのレアールな結合ではなく、既にみてきた通り、レアールな契機とイデアールな契機との“結合”であり、敢て言えばイルレアールな結合である。それは、レアールには結合ならざる“結合”である。レアールな所与とは別にイデアールな所識が在るわけではないが、さりとてレアールな現相的所与が自己同一性の埓に自閉することなく、単なる自己(「それ」のルビ)以上・以外の或るもの=イデアールな意味的所識性において能知に現前=対妥当するのであるから、そこには二項分裂的(zwiespaltig)な相「異」性の覚識が存する。と同時に、当の「相異的」分裂は現実的分裂ならざるかぎりで「同」一性を保持したままである。それは相異ならざる相異、同一ならざる同一であり、相異的でありつつ同一的、同一的でありつつ相異的である。それは、「異−化」的でありつつ非「異−化」的であり、「区−別」的でありつつ非「区−別」的であり、「彼−此」的でありつつ非「彼−此」的である。このような“矛盾”めいた表現をとらざるを得ないのも、「として」がレアールな契機とイデアールな契機というおよそ存在性格・存在次元を異にするものの“統一”だからであるが、それが一種独特の仕方での「異と同との統一」態であることは内省的にも認められよう。」164-5P
(対話A)「われわれは「として」結合という「等値化的統一」を生理学的に基礎づけようというがごとき存念は毛頭ない。がしかし、これを所謂“生理学的機制”と対応づけて一定限イラストレイトすることはできる。言語的「能記−所記」関係という以前に信号(「シグナル」のルビ)的「能記−所記」関係を省みると好便であるが、現相的所与が単なるそのもの(als solches)以上の或る意味的所識性において即自的に機能したり、対自的に覚識されたりする機制は、いわゆる「条件反射」の機制に照応するであろう。とすれば、“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化という事態に「として」ひいては「象徴的結合」を照応させることが可能である。――だが、ここで人は遮って言うことであろう。信号(「シグナル」のルビ)的「能記−所記」関係は一般に「無条件反射」の次元であり、従って、もし「として」と対応づけるのであれば、「無条件的刺激」と「惹起される反応」との統合態に対してでなければなるまい云々。なるほど、条件反射論の通常の用語法では「無条件反射」と「条件反射」を大きく区別する。しかし、条件反射論の通常的議論の準位(これが此学にとっては“正常的”“通念的”なものであることを認めるに吝かではない)をメタレベルで検討するとき、果たして厳密な無条件反射なるものの存在をどこまで立言できるであろうか。生体の自然的生活態勢のもとでの生得的な反応といった規準では、学習による分化や汎化の問題ひとつ整合的に説き難くなってしまおう。生体の初発的体験の場面に絶対的な無条件反射を想定することはなるほど可能であろう。しかし、それは極限的な限界概念であって、現実の反射が厳密絶対的な無条件反射であるか、それとも、過去における刺激・反応の“実績”によって既に条件づけられていないか、これを厳正に判定することは到底不可能であろう。条件反射と無条件反射の区別は、瞼反射・腱反射、等々の処理にみられるごとく、生体の自然的生活態勢のもとで生得的に生じ、格別な学習的条件づけを要せぬ……といったメルクマールを持込んでものであって、厳密に原理的な区別ではない。われわれは、いわゆる反応の「分化」や「汎化」をも原理的な次元では「条件づけ」に負うものとして扱う。それゆえ、現実的には同定できぬ極限的な限界概念としての“無条件”反射なる在って無きに等しい“例外”的な場面を除いて、われわれは論者たちの流儀で「条件反射」と「無条件反射」とを区別しない次第なのである。――われわれとしては、殊に、「として」すなわち「等値化的統一」の分化や汎化という事実を重視し、この点に条件反応(ピアジェ式に修訂して言えば感覚運動的シェマの協応)との照応性をみる。」165-6P
(小さなポイントの但し書き)「ここでコトバの場合を意識してV.D.Volkovaのある実験を紹介しておけば、五種類ほどのトリの名の連続複合に対する唾液反射を形成している子供は「トリ」という抽象的名辞に対しても同じ唾液反射を示す(汎化)が、当該五種類以外の鳥の名には別段反応を示さない(分化)由である。(高田登氏「条件反射理論による言語研究(1)「心理学評論」四巻一号所載による)。これは概念形成の機制を考えつつ、「として」把握が累層的に“上位概念”によって順次円滑に進捗する事実を理解するうえで銘記に値しよう。尚、「汎化」や「分化」ということがブリミティヴな条件反射の場面にまで及んでいることは絮言するまでもない。例えば、或る周波数の音に対して条件反射が形成されるとそれに近い周波数の音で刺戟してもやはり条件反応が現出する(汎化)。しかし、特定周波数の音にしか“報酬”を与えないようにすると、その特定周波数だけへの弁別的な反応が生じるようになる(分化)。尤も、積極的な汎化と消極的な未分化との区別は困難である。しかし、一度火を摑んだ子供は二度と火を摑もうとしないといった高次な場面にかぎらず、呈示の場面においても“生体の知恵”は、事例的差異の消極的な弁別の不能ではなく、一定の差異性を“承知”しつつ、類似の事件にも既得の反射で応えるという積極的な汎化の機制を具えているものと想われる。すなわち、射映的相違性を“承知”のうえでの汎化的同一相での“として”反応である。――」166P
(対話B)「われわれはここで行文中に盛った“不整合”にみえかねない点を“補正”しつつ、より積極的な規定を試みておかねばなるまい。われわれは、嚮に「として」ないし「象徴的結合」を以って、「“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化」という事態に照応させておきながら、「無条件反射」なるものは原理的な次元においては極限概念にすぎない旨を附言するという仕儀になっている。これは、或る種の論者によるありうべき思念、すなわち、「として」は「“無条件刺戟”と“惹起される反応”との統合態」に照応するという思念に対置する論脈で生じたものであった。われわれは「無条件反射」ということを棚上げにしつつ、「“条件づける受容刺激”と“それの惹起する反応”との統合態」(謂うなれば「条件づけ」conditioningの現成する態勢そのこと)に「として」が照応すると言い直すこともできないわけではない。がしかし、こう言っただけでは単なる“連合”との区別がつかなくなる。われわれが敢て「“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化」という事態を云々したのは(その場面では“無条件反応”なる言葉を多分に此学の“常識的”な用語法に妥協して用いたという事情もさることながら)、直接的な刺激は“射映的に”相異しても惹起される反応は同一的という構制を強調したかったからにほかならない。今や、条件づける刺激の射映的相異の許容性を銘記しつつ、「として」は「一定の分化的埓内で“射映的”相違の幅をもつ“条件づける刺激”と“それの惹起する汎化的同一反応”との統合態」に照応する、と言うこともできよう。――われわれとしては、いずれにしても、しかし、先に断った通り、「等値化的統一」「として」を生理学的機制によって基礎づける心算はない。右の立言はあくまで挿絵的呈示(「イラストレイション」のルビ)たるにとどまる。」166-7P
(対話C)「「等値化的統一」「として」は――敢て「図−地」の構制を比喩的に援用して言えば――、「意味的所識」の「現相的所与」からの「異−化」的顕出、「区−別」的「彼−此」的な分立でありつつ、この「異」のうえに立つ両項を却って「同立」し、両項の異=同的関係性を、所与の“無地−化”にともなって、当体的同一性の相で“図−化”するごとは「異と同との統一態」、このような状相で能知主体に対妥当する「イレアール=イデアールな統一性」である。」167P
第二節 能知的二重性の形成
(この節の問題設定−長い標題)「能知的主体の「能知的誰某」の「能識的或者」という二重相の具体的な在り方は固定的なものではなく間主体的交通(「ツェアーケール」のルビ)を通じて成立するものであって、「能識的或者」としての能知の相在(「ソーザイン」のルビ)はイデアールな「意味的所識」の間主観的形成と並行的である。――現相的与件が意味的所識として能知的主体に対妥当(「ゲーゲンゲルテン」のルビ)する「等値化的統一」は、能知的主体の側から把え返せば、所与に向けて所識を向妥当(「ヒンゲルテン」のルビ)せしめることにほかならず、この「向妥当」の両項という脈絡で規定するとき、われわれは「現相的所与」を「質料的契機」、「意味的所識」を「形相的契機」と呼ぶことにする。――能知的主体の「能知的誰某−能識的或者」二重相の具体的な在り方は、“認識論的構成形式”とも謂うべき「形相的契機」の共同主観的成立と相即的に形成される。」168P
第一段落――対象的所知の現前化−能知的主体が所与を所識として覚知すること&能知的主体は所与に向けて所識を向妥当せしめること 168-73P
(この項の問題設定)「われわれはこれまで「現相的与件」が「意味的所識」として「能知的主体」に対妥当する「等値化的統一」を所知の現前という視角で観望し、「所与−所識」成態の対他己的・対自己的な帰属を云々するに止めてきた。視角を変えて言えば、しかし、対象的所知の現前化は、能知的主体が所与を所識として覚知することにほかならず、そのさい能知的主体は所与に向けて所識を向妥当せしめるのである。」168P
(小さなポイントの但し書き)「――われわれは、今、敢て“主観−客観”図式に妥協する表現方式を採り、“客観が主観に対して現出する”“主観が客観に向かって(裡なる?)何ものかを搬出する”といった対比的な表現を用いた。とはいえ、われわれ自身としては、近代哲学流の「主観 対 客観」の図式そのものの止揚を図る者であって、この因習的な図式を積極的に執ろうというのでは断じてない。このことの委細と構案は行論を通じて次第に闡(あき)らかにしていく筈であるが、とりあえずこの旨を銘記したうえで、宿痾たる「主観−客観」図式の内在的止揚を試みるためにも、当該図式と接点をもつ表現方式を時に応じては辞せぬ心意であることをこの場を藉(か)りて表明しておく。」168-9P
(対話@)「議論の手掛かりとして言語が介在している場面にまずは留目しよう。前節ではもっぱら「指示」に着目したのであったが、ここでは第二の大機能たる「述定」機能に眼を向けたいと念う。(前節の行文中で示唆しておいたように、「指示」のうち「指す」機能はメタレベルでみれば実は「述定」機能を先件としている。それゆえ、事柄の真実態に即すれば、述定機能を俟ってはじめて「指示」としての指示機能が完現するのである。)」169P
(対話A)「偖、「辞」はひとまず措いて「詞」の場合、コトバで対象を「表わす」とき、表現・理解者は、所与の指示対象を当の詞の表わす意味的所識として「述定的に」覚識する。例えば、「(コレハ)樹」と言うとき、コレ、つまり、視線や指線などで「示され」る対象的所与が<樹>(つまり「キ」という詞の「被表的意味」)として述定的に覚知される。ここにおける所与と所識との等値化的統一は、視角を変えて言えば、特個的な彼示的対象において<樹>という“函数的”成態の“特定値的定在”と“見做”した所以となっている。それは所与対象を<樹>として措定するものにほかならない。コレの<樹>としての措定は、即自的には<岩石><動物>……等々との区別化的覚知であり、所与対象を「樹」という部類・種族の(一事例的な)ものとして把握している謂いとなる。更に言い換えれば、それは現与の素材的与件=質料を<樹>という部類分別的な認知形式で把握していることである。対象化された相で言えば、それは当該「質料」を<樹>という「形相」のもとに把住していることを意味する。このさい、しかも、“同じ”コレについて、<杉>とか<植物>とかという認知形式で把握することもできる。現与の質料をどの形相のもとに把住すべきかは、現相的与件の側によって一義的に決定されているわけではない。現与の現相的所与をいかなる意味的所識の相で“把握”するか、現与の与件的質料にどの認知的形式を“適用”するか、これは能知的主体の側に(無条件にではないが)ひとまず“委ね”られている。そして、どの“形式”を“適用”するかに応じて、よしんば現与の“質料”は一箇同一であろうとも、「所与−所識」成態たる現相的所知事態は決定的に相違するのである。覚識的事態の相違をもたらすのは、さしあたり、質料的契機ではなくして、形相的契機である。(勿論、“形式”の“適用”が無条件的に自由というわけだはないという事情に負うて、質料的契機の側もまた現相的所知事態・覚識的事態を規定するのであるが、この側面については次節で立帰って論考することにして、ここでは姑く置く。)」169-70P
(対話B)「われわれは、このように、所与の指示対象を或る詞の被表的意味の相で述定的に覚識することが能知的主体の側に“委ねられて”いること、しかも、どの詞の被表的意味=認知的形式で把住するかが現相的所知事態を規定すること、この事実に定位して、行文中に謂う所の“形式”の“適用”を「向妥当化(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)」という概念で定式化する。「現相的所与」が詞の「被表的意味所識」として能知的主体に対妥当するさいの等値化的統一は、能知的主体が「質料」たる現相的所与に「形相」たる被表的意味を向妥当せしめる(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)ことと相即する。以上の行文によって、嚮に断定的に掲げておいた提題をイラストレイトできたものと念う。」170P
(対話C)「ところで、右の論述では、被示的対象が知覚的に現前する「(コレハ)樹」という場面に定位したが「或ル樹」とか「樹トハ……」というように、「被示的対象が知覚的に現前しない場合もある。このような場合は如何? 「或ル樹」と言えば「或ル」が、「樹トハ」と言えば「トハ」が、固有の被表的意味を有つため議論が複雑になるので、ここでは端的に「樹(ニ・ヲ・ハ)」と言った場合に即して考えることにしよう。「樹」というさい、一定の表象が泛かぶ場合もあるが――そして、その折りには論理構成上さきにみた被示的与件の対象的現前の同趣になるわけだが――一般には直截に被表的意味<樹>が覚識されるだけである。(但し、このさいには「キ」という音韻がレアールな所与の位置に立ち、この現相的与件がそれ以上の<樹>として覚識されるのであって、所与なしに所識だけが登場するわけではない。)とはいえ、言語的交通の現場においては、「樹」なら「樹」という詞の発話は、発話者が「或るもの」を志向的に覚識していること、そして、その主題的・提示的な所与=「或るもの」を発話者が<樹>として把握していること、このことまでは慥かに了解されている。」170-1P
(対話D)「ここでは、「或るもの=X」は表象のかたちですら泛かばないにせよ、しもかく「樹」が、何かしら或る志向的な対象的与件についての発話であるということが構造的に理解されている。(なるほど“無意味”な発語の場合もあるが、それがまさに“無意味”な発語として聴者に理解されるのは、それが「或るもの=X」を志向的対象としていないこと、この「与件」の端的な不在性が聴者に察知されることにおいてである。裏返して言えば、通常の場合は「天馬(「ペガサス」のルビ)」とか「二角形」とかの場合ですら、志向的対象的与件=「或るもの」が話者と聴者とによって偕に覚識されていることになる。)」171P
(対話E)「そこでは、<樹>としての把握ということと、<樹>として或るものが志向されているということとが、同時相即的に察知される。この場合、レアールには、表象のかたちですら、明晰・判明に「図」化された相での対象的は何も「示され」ないのであって、「<樹>としての或るもの」が述定と相即的に「指される」のである。(われわれが嚮に「指す」は却って詞の「表わす」被表的意味の「述定」に俟つ旨を誌しておいたのはこの間の事情を念頭に置いてのことであった。「或るもの=X」が<樹>として述定的に覚識されることによって、「<樹>という或るもの」という被指的意味が現成する。この「被指的意味」は、「被表的意味」とも同様「意味的所識」の具体的一形態であって、それ自身の存在性格はイルレアール=イデアールである。そして、「被指的意味」を独立自存するものであると誤想するところから、「指し」「表わ」される当の“イデアールな存在体”が実体化され、いわゆる「第二実体」の想念を生むことになる。)」171P
(対話F)「詞による「表わし」にあっては、「或るもの」への「被表的意味」の向妥当化がおこなわれ、そのことによって「被指的意味」が現成する。尚、詞の能記的音韻が指示される或るものの所識と等値化的に統一されるさい、つまり、詞が詞として成立するさい、被指的意味という契機の現成にあたって被表的意味の“向妥当”の機制が即自的に作動しているわけであり、「言語的能記−言語的所記」の「象徴的結合」の成立にとって“向妥当”の機制が介在している所以なのである。」172P
(対話G)「言語以前的な局面ではどうか。そこでもやはり能知的主体による向妥当ということ、質料に対する形式の“適用”ということがおこなわれるのであるか? しかりである。そのことはルビンの杯のごとき反転図形を想い、かくかくしかじかの「図」としての把握を省みれば容易に諒解されよう。われわれは言語以前的な意味については「被指的意味」とか「被表的意味」とかいう術語的区別はおこなわない。がしかし、論理構制上は、詞による「指し」「表わし」も図による「指し」「表わし」も同趣的である。――明確な「図」以前的な、いわゆる“原基的な”感覚といった次元に関しても同断である。このことは、第一章第三節で「純青」に即して論述したところを想起されれば諒解を得られよう。「図」以前的な“図”にあってさえ、所知は「所与−所識」の二肢的成態であり、謂うなれば或る“函数”態の“特定値”として把握される構制になっているのである。」172P
(対話H)「畢竟するに、現相的所与が意味的所識として能知的主体に対妥当する等値化的統一は、汎通的・一般的に、能知的主体が意味的所識を認知的“形式”とし、現相的所与を与件的“質料”としつつ、前者(形相的契機)を後者(質料的契機)に向妥当せしめるという構制を成している。(われわれは行文中顚倒した表現をも採ってきたが、前者には、能知的主体が「所識」を「所与」に向妥当せしめるという構制において、前者を「形相的契機」、後者を「資料的契機」と呼ぶのである。)」172P
(対話I)「この視角から言えば、現相的世界は能知的主体がいかなる“形式”を向妥当せしめるかにその現相在を負うている次第となる。」172-3P
(対話J)「ところで、こうして、現相的世界の“構成的”形式を“保有”しつつ、質料に向ってそれを向妥当せしめる者としての能知的主体は決してアプリオリに既成的ではなく、いかなる“形式”を“確立”し“向妥当”せしめるかと相即的に自己形成を遂げて行く者である。今やこの間の事情を遡って追認し、「能知的誰某−能識的或者」という能知的主体の二重相の形成を追究しておかねばならない。」173P
第二段落――「能知的誰某−能識的或者」という能知的主体の二重相の形成を追究し、能知的主体の自己形成なるものの実態を闡らかにする 173-6P
(この項の問題設定)「能知的主体が“構成的形式”を素材的与件=質料に向妥当せしめることによって世界の現相在が現成する旨を云々し、且つは能知的主体の二重性を云為するとき、人は認識論上の「構成説」を連想することであろう。われわれは慥かに構成説に仮託する流儀で向妥当議論を運んだし、向後とも必要に応じてこの仮託を敢て厭わぬ所存である。だが、それはあくまで比喩的な仮託であって、われわれはいわゆる構制主義の立場を採る者ではない。ここではありうべき誤解をまずは防遏しつつ、それを通じて漸次われわれ自身の謂う能知的主体の自己形成なるものの実態を闡(あき)らかにして行きたいと念う。」173P
(対話@)「われわれは、現相的所知事態が与件によって一義的に規定されるものではないこと、現相的所与がいかなる意味的所識性において“観取”されるかは与件そのものによって一義的に確定するものではないこと、却って、覚知的事態は能知的主体が所与をいかなる所識性において“把握” するかに応じて規定されること、これを主張するかぎりで、模写タイプの見地を卻けつつ、構成説タイプの見地に与(「く」のルビ)みしたのであった。しかし、われわれは、「構成」というレアールな過程が進捗するとは考えず、従って、構成する格別な主観なるものがレアールに存在するとも考えない。われわれが“構成”に仮託したのは、只管(ひたすら)、所与がそれ以上の或るものとして把握される意味的所識性の如何に応じて世界の現相在が規定されるという事実、これを指摘せんがためだけである。――人がもし「構成」ということをレアールな過程として考えるとすれば、そこでは素材が現に供与され、その素材に構成的加工作業が現に加えられるのでなければなるまい。能知的主体によるこの“素材加工作業”は身体外部的か身体内部的かのいずれかであろう。だが、身体外部的加工作業ということは、この言い方はすでに“皮膚的に劃定された身体”を前提にしている以上、(そしていま問題にしているのは、文字通りの製作的対象加工という身体的実践とは別次元の加工であるので)、身体から離在する遠方の対象にまで及ぶ筈の当該加工が現実におこなわれるとすれば、それは身体超出的な加工作業ということになろう。その場合には、身体の中から或る作用が発出して、その作用が素材に加工的変様=構成的能作を及ぼすのでなければならなくなるが、われわれとしてはそのような能作を主張すべくもない。人は「精神的作用は身体を超出する」と言いたがるが、仮にそのような“超出的精神作用”を認めたとしても、物質的作用ならざる精神的作用が文字通りにレアールな加工作業を営むとはよもや強弁すまい。けだし、身体外部的に、現相世界(身体も、少なくとも表面的部分は、これに含まれることになろう)を構成するレアールな加工作業過程を想定しがたい所以である。では、身体内部的には如何? これは多くの論者たちが真摯にレアールな構成作業現存を主張してきた領野である。論者たちによれば、感性的に受容=内在化された素材に対して、知性的な能作が統合的・分解的な加工的構成作用を及ぼすとされる。論者たちの議論は、単に身体内部的でなく、身体内部における「心」内部での過程とされるのが普通である。このたぐいの論議は、製作的な身体的実践の構図を“心”とやらの内部にスライドさせたものという看が強く、実証的に確認できる態のものではないが、“心”なるものの存在を認めるとなると、論破することは存外と困難である。だが、前章第一節において「内なる心」という想定の悖理性を指摘しておいたわれわれとしては、これを安んじて卻けることができよう。尤も、身体内部的構成説は“心”内構成説が普通であるとはいえ、「感官−大脳」生理学的な次元で構成を説く理説もないわけではない。これに対してはどう応対するか? 此説がパターン認識を云々し、かつ、パターン形成の文化的存在拘束性を主張するかぎり、われわれの主張の生理学(主義)的対応物とみることもできる。ここにあっては、いずれにせよ、認知形式=パターンなるものの“適用”による加工的構成という言い方は所詮比喩的な仮託である。このことも認めうる。われわれとしては、此説が所詮は比喩たるかぎり批判を保留することができる。が、この保留は、此説が所詮比喩たるかぎり、レアールな構成過程の存在を容認する所以とはならない。――ここにおいて、われわれは却って次の問題に答える責を負う。それは、現実的にはおよそ現相世界の「構成」、すなわち、主観の側に属する“形式”を用いて所与の“素材”を加工する「構成」なる過程が実在するわけではないにもかかわらず――、一体いかなる着眼によって“構成”に仮託するのであるか? 消極的理由はこのパラグラフの頭初に誌しておいた。積極的な理由というほどではないが、われわれはカントの立言との接点を保持しつつ、これを換骨奪胎する流儀でわれわれなりの見解を好便に表明して行きたいという趣意から敢て構成説に仮託する次第なのである。」173-5P
(対話A)「われわれは、能知的主観が「構成形式」なるものをアプリオリに具えているとは考えないし、従って、「構成形式」が質的・量的に一定不変であるとも考えない。亦、「構成作用」なるものを発動する格別な主観、「構成形式」なるものを具有する格別な主観、すなわち「先験的=超越論的」な主観とやらが存在するとも考えない。溯っては、受容性の認識能力と自発性の認識能力という能力二元主義も採らない。われわれとしては“構成形式”はアポステリオリに、就中言語的交通を通じて間主体的=共同主観的に形成されていくものと考えるし、“先験的主観性”とは間主観性=共同主観性の屈折せる一投影であると見做す。そして、裡なるレアールな“先験的構成”なるものは、「身体的自我」次元での能知的主体に対妥当する現相世界の現相在の被媒介的存立構造を一種独得の仕方で錯認するところから要求される事態説明の可能的一方式(仮想的でしかも過てる一方式、前件的錯認の排却に伴って贅事となる) 一後件にすぎないものと見做す。このような論脈においては、われわれはおよそ構成説とは別様な立場を執る。」175-6P
(小さなポイントの但し書き)「――われわれは、カントが空間・次巻ならびに三綱四目の基幹的概念=都合十二の範疇を心性にアプリオリに具っているものと考えた経緯、そして更には、一七七〇年代このかたの「予科」(Antizipation)の着想を展開するかたちで晩年にはアプリオリな“形式”を時・空と範疇に限ることなく数多く認める傾動を示している事情、これを諒とすることができる。それは「意味的所識」の存在性格がイルレアール=イデアールであることとも関係し、また「意味的普遍」が一般に「論理的アプリオリ」の構成を示すこととも関係する。だが、われわれに言わせれば、「普遍」者たる“形式”は慥かに論理的アプリオリ(das logische Apriori)ではあるが、レアールな事実的アプリオリ(das fakttische Apriori)ではない。われわれの謂う“質料”に向妥当する“形式”はたかだか論理的アプリオリにすぎず、実的な「構成」に資し得るごときアプリオリな形式ではおよそないのである。(尚、論理的アプリオリということについては「概念」の形成に関する帰納的抽象説の論件先取(註)を指摘する次篇第二章第一節を参照されたい。) 」176P
(対話B)「われわれが“形式”の間主体的=共同主観的な“形成”というとき、「形式」なるものが在ってそれがレアールな形成過程に在る謂いではない。レアールに過程するのは、現相世界−内−的な動態的相互連関(マルクス流に言えば“対自然的かつ間人間的”な相互作用連関)、就中言語的交通を通じた間主体的相互影響のもとにおける言語=言語使用の協同的・同調的な形成である。では、言語活動の間主体的発達、言語使用の同調化的進展、このレアールな過程が一体なぜ亦いかにして“構成形式”の共同主観的“形成”、能知的主体の共同主観的能知への相互形成としての意義を有ちうるのか? 今や、この問題に応えることを通じて、われわれの謂う「能知的主体」の「能識的或者」としての自己形成、能知的主体の「能知的誰某=能識的或者」二重相の形成の在り方を究明する段取りである。」176P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
第三段落――能知的主体の「能知的誰某=能識的或者」二重相の形成&“形式”の間主観的形成、人称的諸主体の共同主観的能知としての相互的自己形成 177-80P
(この項の問題設定)「読者が先刻気付いておられるであろう通り、われわれは嚮に「詞」の「表わす」「被表的意味」なるものが既在するかのように遇しつつ、“例えば、「(コレハ)樹」と言うとき、コレ、つまり、視線や指線などで「示され」る対象的所与が<樹>すなわち「キ」という詞の「被表的意味」として述定的に覚知される”と述べ、ここから直ちに、“それは所与対象を<樹>として措定するものにほかならない”と論断し、更には、“コレの<樹>としての措定は、即自的には<岩石><動物>……等々との区別化的覚知であり、所与対象を「樹」という部類・種属の(一事例的な)ものとして把握している謂いとなる。言い換えれば、それは現与の素材的与件=質料を<樹>という部類弁別的な認知形式で把握していることである”という具合に議論を運んだのであった。そこでは、「詞」の<被表的意味>が既在し、これが認知形式、“構成形式”として機能するかのごとき論調になっていた。日常的既成観念にあっては、慥かに、「詞」はそれぞれ既に各々の「被表的意味」を“保有”“具備”しているように思念される。しかしながら、「被表的意味」なるものはそれ自身も形成された所産であって「詞」(音声的能記)と同時相即的に初めから既在するわけではない。省みれば、われわれの行文は<被表的意味>の既成性という日常的思念に藉口(しゃこう)する運びになっていた次第なのである。――われわれは、今や、この先取=難点の矯正を好便な通路としつつ、当面の課題である“形式”の間主観的形成、人称的諸主体の共同主観的能知としての相互的自己形成という論件の決着を期しうる。」177P
(対話@)「詞が所記的意味を“有つ”のは、原初的にはまず「被示的対象」と象徴的に結合されるという発生論的過程を介してである。(なるほど詞のうちにはレアールな被示的対象を有せぬものもある。が、そのような詞が成立しうるのもレアールな被示的対象の存在する場合を前梯にしてのことである。)いわゆる固有名をも「詞(「ことば」のルビ)」に算入するか否かは定義如何によるが、第一章第三章で述べた通り、再認的に同一視される個体と較認的に類同視される個体群との区別は相対的であるから、われわれは“固有名詞”と“普通名詞”(狭義の名詞に限らず、いわゆる“普通詞”一般)とを原理的な次元においては峻別するには及ばない。いずれも、イデアールに同一な被指的意味を「指し」うる。そして、このイデアールな被指的意味なるものは、被表的意味規定が内自的な対象の相へと物象化されたものであって、被表的意味規定を前件とする。われわれとしては、いわゆる固有名の場合をも視野に入れながら議論を進めて行こう。」177-8P・・・所与−被示される、詞−被表される
(対話A)「或る対象(いわゆる性質や状態を含めて)が一定の詞で呼ばれるのは、日常的思念に即すれば、一般には、当の対象がその詞で「表わさ」れるしかるべき規定性を具えているからである。が、そこで思念されている内自的規定性なるものは、嚮にみておいた「純青」といった次元からしてすでに、実は、対他的な(対“地”を含む)関係的規定性の反照的結節であって、独立自存する規定性ではない。ともかく、しかし、日常的体験相においては、個々の対象性は固有的規定態の相で分節して現前する。そして、このような相での分節態が言語的音声と融合的に同化されたり標徴的に連合されたりする。これが言語的な象徴的結合の初発的形態である。そこには<被表的意味>なるものが初めから覚識されているわけではない。しかしながら、同名異義語たることが自覚されている場合を別にすれば、或る言語的音声形象が一定の対象(個体ないし個体群、または、状態ないし状態群)と象徴的に結合され、別の対象とは象徴的に結合されない態勢が既成化されてしまう。それは、反省的ないし純反省的には、人々が当の詞(音声形象)と所与の対象とを象徴的に結合するか、それとも結合しないか、さしあたり命名の対「ヒト」的妥当性の如何に関する弁別的覚識にもとづいた同調化の所産である。この弁別的な結合・非結合の同調化、平たく言えば、他人たちが所与を何と呼び何と呼ばれぬかの体験に縁る同調化を通じて、現相の分節的覚識状相が変様して行く。命名的指示における結合のありかたに関する間主体的な同調化が現相的世界の覚識状相を「汎化的・分化的に」変容せしめて行く。(そして命名的結合のありかたが、後述するように、「被表的意味」を変容的に形成して行くのである)。が、反省以前的には、対象の呼び方(命名の結合の仕方)は自分にとって既定的・既成的になっており、判別的な命名(対象を何と呼び何と呼ばぬか)の理由づけ覚識において、上述しておいた(対象の) “内自的規定性”が対他的区別性の覚識と相即的に現識される。ここに現識されるところの、所与対象がそれであって他ではないか所以のもの(対象がそう呼ばれて別様に呼ばれない所以の規定性)が対象態を介して「詞」と“結合”される。当の判別的規定性が詞の「被表的意味」にほかならず、これは「意味的所識」の一斑であって、それ自身の存在性格を追究してみればイデアールである。――「被表的意味」は、こういう媒介的過程を通じて形成された“所産”なのである。(詳しくは概念の形成に即して後論)。」178-9P
(対話B)「被表的意味は、こうして、日常的意識においてこそ既成的であるにせよ、所与対象を他人たちが何と呼び何とは呼ばぬか――裏返して言えば、或る詞で他人たちが何を呼び表わし何を呼び表わさないか――、この間主体的な事態の体験を通じて形成されるものである。被表的意味の既成化は、他人たちとの言語的交通の場において結果として生ずるものであって、細かくみれば不断に変容・形成のプロセスにある。そして、人々は、そのような意味的所識を“認知形式”として与件に“向妥当”せしめるのである。このことに鑑みれば、人々は“認知形式”を向妥当せしめる能知者としての在り方を、言語的交通の場において、間主体的に自己形成していくわけである。――言語的な意味的所識性は、言語以前的な知覚的「図」の分節化の場面にまで“浸透”し、いわゆる「認識の言語相対性」(知覚の次元にまで亘る「認識の言語被制約性」) をもたらすので、言語的意味形成と相即する能知的主観の自己形成、相互主体的な形成は、知覚的次元での能知にまで射程が及ぶ。――」179P
(対話C)「能知的主体は、あれこれの身体的自我、人称的個体を離れては存在しないが、それでいて能知的主体の現実的・具体的在り方は、彼が与件に向妥当せしめる“構成形式”を如何様に形成しているかに応じて変容を遂げる。そして、普通(ママ)の成人の場合、まさに「言語主体一般」とでも呼びうる「ヒト」の相で言語活動をおこなうまでに自己形成を遂げており、従って亦、「ヒト」の相で被表的意味という意味的所識すなわち謂う所の“認知形式”“構成形式”を向妥当せしめるようになっている。簡略化して言ってしまえば、人称的諸主体は人称的諸主体としての個体性を一面では維持しつつ、同時に他面では、イデアールな意味形式を“構成的に”向妥当せしめるかぎりでの能知的主体としては「ヒト」の相へと変貌している。しかるに、「ヒト」は、前章第三節で上述しておいた通り、イデアールな存在性格を呈する能知であるから、能知的主体はレアールな人称的個体でありつつ且つイデアールな「ヒト」であるという二重相に在る。――われわれは、この二重相を以って、能知主体の「能知的誰某−能識的或者」の二肢的二重性、「レアール−イデアール」な二重相と呼び、これが間主体的な言語交通を介しての被媒介的な形成態である旨を指摘する次第なのである。」179-80P・・・「普通の成人の場合」の「普通」という表現にひっかかります。これは「言語的交通が可能な場合」の意味なのでしょうが、そうでない場合のコミュニケーションの方法ということを設定することです。
(対話D)「われわれがもし周到な論究を要求されるとすれば、言語的交通の進捗に伴う意味形成の具体相、および、それと相即的な「言語主体一般」への人々の自己形成の具体相を説述し、言語主体一般と呼ばれうる相を単に「ヒト」と同定するのではなく(因みに「ヒト」は単なる言語主体一般ではないし認識論的主観一般でもなく、実践論的主体としても格別な存在論的意義を帯びる)、進んで、「ヒト」が認識論的主観としての「能識的或者」たりうる所以のものを詳述すべきところである。がしかし、当面必要な論趣は一通り通じたことかと想われるので、認識論的な存立構造と権利問題に関わる部面については次節以下での主題的な討究に織り込むことにして、ここでは発生論上の論議に立入ることは割愛したいと念う。」180P
第三節 四肢の相互的媒介性
(この節の問題設定−長い標題)「現相的所知の二肢的二重性(「現相的所与−意味的所識」)と能知的主体の二重性(「能知的誰某−能識的或者」)とは、両々独立ではなく、一種独得の仕方で連関し合っており、都合四肢的構造連環を形成している。――イルレアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」が存立性を得るのはこの四肢的相互媒介性の構造においてである。イデアールな「意味的所識」が“認識論的構成形式”として認証され、人称的主体たる誰某が“認識論的構成主観”たる能識として認証され得るのも、対妥当的・向妥当的、対自己的・対他己的なこの構造連関においてのことであり、亦、射映的現相の人称的分立性や能知的主体の人称的分極性が現成するのも、そこにおける「意味的所識」「能識的或者」を媒介項とする対他・対自の媒介性に俟ってである。――現相的世界は、その基幹的構制を範式化するとき、終局的には「現相的所与」「能知的誰某」「意味的所識」「能識的或者」という四契機から成る四肢的構造連関態をなす。」181P
第一段落――イデアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」の存立性を積極的に立言しうる所以の“権利根拠”の明示&間主観的交通を支える「他我認識」問題の一端の提示 181-5P
(この項の問題設定)「われわれは、これまでの行文において「現相的所与−意味的所識」、「能知的誰某−能識的或者」という両つの二肢的二重性に関説してきたが、ここに存立する四つの契機の総体的な相互連関性についてはまだ主題的に討究していない。この遺された課題に応えつつ、それ自身としては“無”なる諸契機、なかんずく、イデアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」の存立性を積極的に立言しうる所以の“権利根拠”を明示しておくことが本節の論件である。爰では、間主観的交通を支える「他我認識」問題の一端にも必要最小限は触れることになろう。」181P
(対話@)「偖、前節の行論中にあっては、現相的世界の具象的現前的分節相は、能知的主体が如何なる「形式」を向妥当せしめるかに懸っており、“質料”たる与件によって一義的に決定されるわけではないこと、この側面をもっぱら強調しておいた。が、しかし、能知的主体による“形式”の“適用”は無条件的に自由ではなく、“質料”的契機、すなわち、現相的所与の如何によって制約されているのであり、現相的世界の在り方は当然“質料”によっても規制されている。尤も、人がもし茲で“質料なるもの”が独立自存し、それの内自的規定によって世界現相が規定されるかのように考えるとすれば、それは謬見として厳しく卻けられねばならない。――幾つかの次元に分けて論述することにしよう。」181-2P
(対話A)「「質料」すなわち「形相」的契機たる意味的所識がそれに向って向妥当せしめられる現相的所与は、それ自身すでに「所与−所識」成態たりうること、「質料」と「形相」とはあくまで相関概念であって、或る次元での「質料−形相」成態なるものが高次の形相に対して質料の位置に立ちうること、これは嚮に第一章において縷説しておいたところである。われわれの見解では、窮竟的な“裸の質料”なるものはそれ自体としては現相的所知のかたちでは現前せず、現前する現相はその都度すでに「所与−所識」成態(「質料−形相」成態)である。窮竟的な“裸の質料”を想定するとしても、それはたかだか“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)”としか言えず、それは現実的な所与現相ではない。従って“第一質料”がそれの具有する規定性に負うて形式的契機の向妥当の在り方(如何なる意味形式が“適用”され如何なる意味形式が“適用”されないか)を規制するともし言うとすれば、それはナンセンスである。第一質料が原初的形相の向妥当を規定するとも、逆に、第一質料に対する形相の向妥当が能知的主体の“自由”に“委ねせれて”いるとも、孰れとも言えない。第一質料の次元に関しては、このたぐいの立言はいずれにしてもナンセンスに陥ってしまう。質料に応じて形式の向妥当が規制されるというのは、原理的にも実際的にも、既にして単層的ならざる現実的な現相的与件に関してでなければならない。」182P
(対話B)「われわれとしては、そこで、“質料”による制約性を現実的体験の場面における最も“基底的”な現相的所知と目されうる“感覚的”な次元からみて行こう。第一章第二節で述べた通り、われわれは決して“単純な”“要素感覚”といった代物を立てるわけではないが、第一章第三節で論及した「純青」を省みると便利である。所与の刺激的与件が、或る時には汎化された相で、或る時には分化した相で覚知される。(尤も、ここで刺激的与件の“同一性”を云々しうるのは、反転図形の双つの見え方に対して一箇同一の与件的図形を反省的に措定するのと同趣の構制においてであり、刺激的与件なるものが如実に、現識相と別に覚知されているわけではない。このさい、刺激的与件というのは、投射光線の質といったことだけでなく、それが白地の上に投射されているか、黄地の上に投射されているかといった関係態によって既に規定された相での与件が問題である。すなわち、常識的には能知の側の撰択的能動性には委ねられていない“客観的”な与件とみなされているものが茲に謂う刺激的与件である。)人々は、この場合について、刺戟によってこそ一義的に規定されていないが、しかし、“物理−生理”的な状態系によって一義的に決定されていると言いたがることであろう。われわれも、便宜的な言い方の場面でならば、右の主張を認めるに吝かではない。われわれは所知と能知とを截断する者ではなく、また、生理・物理的主体と精神的主体とやらを別々な存在としてしまう者でもない。慥かに、或る視座から言うとき、感覚現相の如実の在り方は“物理−生理”的な状態系(“刺戟−反応”の機能的状態系)によって決定されていると見ることができる。この場面で、如実の感覚的所知とは別に刺激的与件なるものを立てるのは悟性的措定たるにすぎない。このことを承知のうえで、しかし、われわれが敢て質料的な与件と「質料−形相」成態たる現認相という両つのものを云為するのは、現認相が“質料的与件”と呼ばれる契機によって一義的に決定されてはおらず、能知的主体の側の応接の在り方によっても規定されていること、だがこの応接の在り方がすでに“質料的与件”によって一定限逆規制されていること、この間の事情を指摘したいからにはほかならない。感覚的現相は、能知的主体の側の応接の在り方によっても規定されるのであり、刺激的与件によって一義的に決定されているわけではないが、しかし、形相的契機の向妥当の在り方が質料的契機によって規制・制約されているのである。」182-3P
(対話C)「“図”的与件をいかなる「図」の相で覚知するか、更には、「図」的与件をいかなる「詞」の被表的意味の相で把握するか、このような次元においては質料的契機による(一義的決定ならざる)制約性が見え易いであろう。それゆえ、これについては爰で詳しく論ずるには及ぶまい。」183-4P
(対話D)「能知的主体による形相的契機(意味的所識性)の向妥当が質料的契機(現相的所与性)によって制約されてあるという右の言い方、遡っては、形相的契機の向妥当が一定限の埓内ではあれ能知的主体の“自由”に“委ね”られているという嚮の言い方は、「能知的所知=所知的能知」の渾一態という本源的な在り方を“截断”し、所知的与件と能知的主体とを再度“関係づける”流儀での立論であり、“主観−客観”図式に妥協・便乗した議論である。われわれは後に(本巻第三篇)ここでの妥協・便乗を是正して正規に論攷し直す予定であるが、ここでは姑く便法を採り続けよう。――能知と所知との截断を原理的には許容することなく、両者の“截断”は所詮“便宜的・相対的”なものにすぎないと諒解するわれわれの見地からすれば、所知的対象と能知的主体とを“截断”する界面は“便宜的かつ相対的”であり、必要に応じて移動せしめうる。いわゆる「外部感覚」の場合には、伸長・膨脹せる身体的自我に即して能知的主体の界面を設けうるし、いわゆる「内部感覚」の場合には皮膚的界面を超えて収縮せる身体的自我を能知的主体とすることができる。また、身体をことごとく所知的対象とみなす場合には嚮に断った条件つきで“精神的能知”を立てることもできる。尤も、能知的主体自身が「能知的誰某−能識的或者」の二重相を呈することが対自化される場面では、「能識的或者」は“精神的能知”とされるにしても、所詮は非空間的・非特定場所的であるから、この「或者」の契機に即しては界面を云々することはできない。(便宜的には“精神的能知”は“身体内在的”な相で恰かも空間的・場所的に定在するかのように扱われうるとしても、精確には“精神的能知”は身体に内在するわけではない。)とはいえ、「能知的誰某」が人称的な具身の能知的主体であることに徴して、「能知的誰某−能識的或者」としての認識主体は人称的な身体的自己・他者であるかぎりでの界面を有つことにして処理できるであろう。――われわれが具身の能知的主体に定位するかぎり、この能知的主体に現前する現相的所与(“質料的契機”)はその都度の射映相で与えられる。」184-5P
(対話E)「具身の能知的主体、すなわち「人称的能知誰某−超人称的能識或者」の二肢的二重相に在る主体にとって、現与の質料的与件は“射映”的であり、この射映的質料が、向妥当せしめられる当の形相的意味の在り方(いかなる形相的意味が向妥当せしめられるか)を規制する。――畢竟するに、現相的所与は能知的主体に対してその都度“射映”的に与えられ、この射映的質料に向かって能知的主体が意味的形相を向妥当せしめる。この構制において、「現相的所与」という所知的対象の第一契機と、「能知的誰某」という能知的主体の第一契機とが、構造的・必然的に連関する。」185P
第二段落――間主体的な交通の存立機制から他我認識問題の一端を定礎する 185-95P
(この項の問題設定)「われわれは、今や、これまでの相互的関連性を明示的に論ずることのなかったイデアールな第二契機どうしの相関にふれ、そのことを通じて「意味的所識」および「能識的或者」というイルレアールな存立者が単なる“無”ではない所以のものを論定すべき次序であるが、そのためにも、まずは間主体的な交通(これを通じて能知的主体が「能識的或者」とし対他・対自的に相互的自己形成を遂げる)の存立機制について必要最低限の事項を論じ、いわゆる他我認識問題の一端を定礎しておかねばならない。」185P
(対話@)「前章このかた「身体的自我」「身体的他我」を云々し、能知的主体としての「自分」「他人」の人称的分極を云々しつつも、われわれはまだ「自我」「他我」という言い方の権利を規定しておらず、また、間主観性の存立構造を主題的に論定していない。ここでは、この未決問題に関説することを通じて、四肢的連関性の間主体的な被媒介的・媒介的な存立機制を配視しておきたいと念う。――われわれは、身体的他者といっても、動物が“本能的・生得的”に自分と同種の他個体を格別に覚知するという事実に藉口(しゃこう)して、事実上、「他人」に局定してきた。原則的には茲でもこの大枠を崩すには及ばない。がしかし、「人」以外は一切能知的な他者として認めないというのでは余りにも狭量に過ぎよう。われわれとしては、主として「人」を念頭におきつつも、必ずしも「人」だけには限らぬ用意で議論を進めることにしよう。」185-6P
(対話A)「偖、前章での立論と接点を設けて言えば、“われわれは”、例えば、右掌で左手首を摑むとき、反転が生じて左手の甲で汗ばんだ右掌を感知するのと類比的に、握手するさい、相手の掌で自分の掌を感知しているように感じる場合がある。それは杖の握りの部位で掌を感知するのと同趣の機制だとも言える。だが、握手の場合には、相手が握り返しているという覚識(単に握られているという受動感ではなく、相手の掌に能動性を感知する覚識)があり、杖の握りとは必ずしも同断ではない。能動感と受動感との弁別的覚識は基底的な感受の一つであり、反省以前的な感知だと思えるのだが、相手(一般に他者)に能動・能作性を帰属させるのは、決して「自分にとっての受動」=「相手にとっての能動」という表裏関係の意識に支えられてのことではない。勿論、表裏関係の意識にもとづいて反省的に相手を能動者と見做す場合もあるが、自分の側で受動感が別段感じられない場合でも、端的に相手自身に能動的能作性を帰属させることがある。(ここで言っているのは、自分という能動的主体からの類推ではない。類推以前、しかも、能動主体という自己像成立以前の直截な体験相である。) ――われわれは、嚮に、他者の眼を見て直截に“視線”が読める機制にふれておいたが、視線を読むさいには、あの眼が「見ている」という能動的能作性があの眼に帰せられていると言えよう。(これが自分の見る能作からの類推ではないことは指摘するまでもあるまい。自分の眼での「見る」を見た体験はなく、原初的には類推的投入の手掛りさえ存在しないからである。)同様に、相手・他者が、「聴いている」「声を発している」「嗅いでいる」といった能作性も直截に感知される。(これは、耳・口・鼻に注視して察知するのではなく、全体的な姿勢や表情に即した感知あるように看ぜられる。)」186P
(対話B)「こうして、視覚的風景内に登場する他者たちに関して、彼らが時に応じて「見る」「聴く」「言う」「嗅ぐ」といった能動的能作をおこなっていることが直截に視認される。他者たちはこのような特異な能作相で認知される。視覚的に現前する他者たちのこの能作相は、“この身体”において感知される能動的能作とは様相がおよそ異っているので、当初のうちはアイデンティファイさるべくもない。「見・聴・言・嗅」する自分という像に先立って、まずは、見たり聴いたり言ったり嗅いだりする姿(見え姿)での他者たちが現出するのである。」186-7P
(対話C)「このような相での“あの身体”他者たちに対して、嚮に述べておいた幾つかのタイプでの「帰属」化の機制によって、知覚風景的に現出する現相の或るものが帰属化される。帰属化によってそれまで単なる対象的身体であった他者が能知的主体だと見做されるようになるのではない。他者たちのうちの或る種の者どもは、早くから表情的表出者として、「見たり・聴いたり・言ったり・嗅いだり」する能動的な能作者の相で(その意味での能知的主体として)視認されており、そのような他者たちに具体的な現相的所知=所知的現相が帰属化されるのである。」187P
(対話D)「翻って、模倣行動その他、前章で論述しておいたイミでの“他者鏡”との協応的動作を通じて、他者たちのうちの或る種の者ども(すなわち「他人」たち)と“この(皮膚的に劃定された)身体”=自分とが同型的・類同的な存在とみなされるようになり、他者鏡に照らしながら自己像が形成される。(人は自己像をもとにして他己像を描くのではなく、逆に他己像に鑑みて自己像を描くのである。)」187P
(対話E)「そこで、ようやく“この身体”“あの身体”が同型的・共軛的に対向させられうるようになり、上述しておいた“射映相の身体依存性”の覚識を介して、“この視座的身体”と“あの視座的身体”とが対照されるようになる。言語を介して「所与−所識」成態が自他へと人称的に帰属化され、そのことによって逆にまた「自分」と「他人」とが人称的に分極化するようになるのも、この局面を前梯としてであると言えよう。――われわれは、しかし、いまここで、「自己」「他己」の共軛的分立化そのことの成立過程を詳しく辿り返すには及ぶまい。茲では、現相的所知=所知的現相の対他・対自的な帰属、「所与−所識」成態の人称的−分属という事態に定位して、そこでの間主観性の存立構造をみておけば当座の要件には応えうる。」187-8P
(対話F)「自分と他人とが知覚的に現前する現相的世界に共属しておりながら、直接的な射映的与件は共有していないこと、射映的現相は自分と他人とでは相違すること、このことが覚識されるということ自体、一方の視座から謂うなれば“超出”して他方の視座に“扮技的”に立ち得ることを示している。論者たちのうちには、人は絶対に自分の知覚的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の視座から超脱できない旨を主張するむきもある。慥かに、人は反省的には自分の置かれているパースペクティヴの視座から完全に脱出することはできず、知覚はその都度に射映的に規制されている。しかし、それはさしあたり、対象的所知の第一契機たる「現相的所与」に関してのことであって、第二契機たるイデアールな「意味的所識」そのものはパースペクティヴな射映的現相を“超越”しており、この意味的所識性に関しては人は自分の配景敵視座を“超出”して対象を覚識することができる。しかるに、論者たちはせいぜい次のことしか認めようとしない。それは、他人の視座から見た場合の知覚風景を想像することは辛うじて可能だということである。なるほど、高く風景の射映的現相の身体的布置依存性が自覚されうるし、「射映相−身体」布置関係の洞察にもとづいて、他人のあの視座から見た射映相を想像することは現に可能である。しかしながら、人はそのような想像という複雑な意識過程なしに、直覚的にも他者の視座からの所知相を覚知することができる。人は他人の視座からの状景を想像することもできるが、より直截に、他人の視座に立って“扮技的に”覚知することができるのである。(このことは“視線の読み”と繋合するかたちで、咄嗟に人眼から物を隠す動作や或る種の模倣動作の遂行の可能性の条件に即して上述しておいた。) ――尤も、他人の視座からの状景を明確な配景相で泛かべうるためには想像に俟たねばならない。しかし、認識において第一義的に重要なのは射映的所与相ではなく意味的所識なのであり、これは直覚的に覚識されうる。(現に、自分の視座からの射映的所与相の如実の相貌ですら反省的にようやく追認できるというのが実情であって、立体視という一事をとっただけでも察せられる通り、直接的な覚知相は射映相そのままではないのである。)想像的に相手にとっての射映現相を泛かべるかどうかは、相手にとっての対象的所知の洞見にとって所詮は副次的な事柄にすぎない。――現相的風景世界に他人が共属的に現前するとき、一般には射映相こそ確然とは泛かばないが、あの視座からの布置的配景相とこの視座からの布置的配景相の区別性を覚識しつつ、自他が一箇同一の対象的所知を志向的に共有していることが意識される。ここに謂う自他共有の一箇同一の対象的所知=所知的対象の一総体が、現前する“実相的”な自他共通の“世界”とされるものにほかならない。」188-9P
(対話G)「自分にとっての射映的現相と他人にとっての射映的現相が相違するという覚識は、こうして、一方、能知の側に即して言えば、自己の視座から“超出”して他者の視座に“扮技的に”立ちうることを事実的な存在条件とし、且つ同時に、他方、所知の側に即して言えば、自分と他人とが相異なる射映的現相を所与としつつも一箇同一の対象的所知(単一の意味的所識)を志向的に把持していることを論理的な前提条件としている。ここでは。後者の側面に留目して議論を進めよう。――対自的現相と対他的現相との相違というのは、自他が全く別々の対象を意識していることの謂いである以上、論理構制のうえで、ここには、「志向的所知対象の間主観的同一性」「射映的所与現相の間主観的相違性」という二重の構造的契機が存在している。この構制は或る種の論者たちが「他我認識」の不可能性を立言する場面でさえ付き纏う。茲に謂う「他我認識」とは、他人の自我という“人格的実体”を直接的な対象とするものではなく、他人(「ひと」のルビ)の有っている意識について“それの内実”を別人が認識することの謂いなのであるが、或る種の論者たちはこの意味での「他我認識」(他人の有っている意識についての認識)でさえ不可能であると主張する。論者たちは、他人が意識を有った存在であることは既知の前提としたうえで、唯、他人の意識している内実は認識できないと主張するのである。議論の構造を見易くするために具体例を擬設しよう。いま、美術展で人々が一幅の絵画「モナ・リザ」の前に停って一斉に当の絵に視線を向けているものとする。他人たちが何ものかを見てとり何ごとかを意識していることまでは間違いないが、さて、その意識内実となると判らない、と論者は言う。だが、さしあたり、人々が「モナ・リザ」と俗称される特定の絵画=対象を志向的に意識していることは“確か”ではないか? このことまでを否認したのでは、他人が意識を有った存在であるという前提的容認が実際問題として自己否定されたに等しいであろう。(なるほど、一般論・公式論としてならば、他人とはそもそも意識を具えた存在なり、という強弁だけで済ますこともできるかもしれない。しかし、相手が現にいま意識しているという認定に際しては、実際問題として、具体相は不明でも、相手が何事かを現にいま意識しているという察知が存在条件をなす筈である。そして、われわれの擬設例で、ここにいう「意識されている何事か」の核をなすのが絵画「モナ・リザ」という志向的所知にほかならない。)ところで、絵画「モナ・リザ」という対象は、それについて様々な想念を更に泛かべうる“与件”ではあるが、原的な所与ではない。原的な所与は一定の射映相での感性的知覚現相であり、この所与がそれ以上の成る所識相で覚知されることにおいて“対象”たる絵画「モナ・リザ」が成立しているのである。爰において、観衆たちが一斉に絵画「モナ・リザ」を対象的に意識しているということが容認されるかぎり、各自にとっての射映的与件相は間主観的に相違するにせよ、所知的対象は間主観的に同一(単一)であることが容認されている所以となる。ここでの間主観的に同一な契機は、各人各人の多様な意識態勢全体からみれば微々たるものかもしれない。しかし、それは厳に存立するのである。(人々が、展覧会場の外で「モナ・リザ」について言語的に語り合っている場合もやはり同断である。)茲には「志向的所知対象の間主観的同一性」「射映的所与現相の間主観的相違性」という二重の構造的契機が存立していると言う所以であって、論者たちが認識不可能と称しているのは射映的な所与契機についてであり、論者たちが他人に意識性を容認しているときそれは志向的所識契機の共有性に定位してのことなのである。(人々が「モナ・リザ」について語り、その被表的意味が“理解”される場合には、当の被表的意味の間主観的同一性が論理構制上存立する。言語的交信によって、間主観的同一性が意味的所識契機に即して増大しうる。尤も、右の言い方では、相互“理解”ということが先取された形になっている。だが、意味的所識に即しての間主観的同一性の信憑が厳存する態勢、それが心理的にみての“理解”にほかならない。)」189-91P
(対話H)「論者たちは、ここで、次のように言うかもしれない。自分と他人とで射映相が違うということは、なるほど、それら射映相で映現する一箇同一の“本体”が間主観的に共有されていることを論理上意味する。また、他人が自分とは別様の射映意識をもつという覚知は他者の視座を“扮技”しうることを事実上含意する。ここまでは確かであるが、前者は単なる論理的仮構かもしれず、後者は単なる想像的臆測という“扮技”かもしれないでないか云々。論者たちはこの指摘によって「他我認識」とは“私”の一人角力(「ずもう」のルビ)にすぎない旨を言い立てようとする。――論者たちが。もし、他人が意識を有った存在であるいう提題を単なる“私”の想像的臆測にすぎないと言うのであれば、これは別途に検討しなければならない。(論者たちが苟も他人が意識をもった存在であるということまでは既知の事実としつつ、そのうえで、他人の意識は認知不可能と主張する場合には、われわれとしては上述の通り、論者たちが既知とする“他人の意識”と、論者たちが不可知とする“他人の意識”とは同名異議的であることを指摘する。ここには「既知」かつ「不可知」という一見矛盾めきパラドックスめいた立言がみられるが、それは“他人の意識”なるタームが二義性を帯びているので真の矛盾ではない。論者たちは「意味的所識」としての“意識”と「現相的所与」としての“意識”とを二義的に混用しつつ、志向的所知対象という相での前者関しては「既知的」、射映的所与現相という相での後者に関しては「不可知」と唱しているにすぎない。)偖、いまや、論者たちが一切を“私”の臆測だと言うさいには、「他我」の存在が臆測ということになっている。そこでは「他我」なるものが積極的には存在しない。「他我」が積極的に存在しないところでは、「自我」(=“私”)も没概念であろう。これでは「独我論」すら成立しえない。(確実に唯一の意識的存在が在るとは仮りに言えても、その“唯一確実な意識的存在”とやらを“私”(自我)と呼ぶ理由がなくなってしまう。それを「自我」と呼んだとしても、それは「他我」との示差的区別性を表わすものではなく、単なる固有名にすぎなくなってしまう所以である。)こうして、苟くも「他我−認識不可能」論であるかぎり、「他我」の存在を既知的前提とせざるをえず、そのかぎり、われわれが嚮に指摘したところが妥当する次第なのである。――ところで、論者たちのうちには“一人角力”をとる“私”なるものを先験的な次元で立てようと試みる者もある。この種の論者たちは、経験的自我と経験的他我とを同位・同格的に認め、これら経験的諸我のあいだでの“間主観的”な相互交通・相互影響・相互理解を認めたうえで、しかし、それは謂うなれば先験的自我の意識内に生ずる“夢”の中での出来事に類すると言う。論者たちは、人々が夢の中に登場する自分と夢みる自分とを同じ(一箇同一人物たる) “私”としてアイデンティファイするように、経験的自我と先験的自我をも「同じ」“私”であるとアイデンティファイしたがる。(このアイデンティフィケイションは、経験的自我なるものの“相貌”がいずれにせよ不明であるから、臆断にすぎない。そこで、先験的他我なるものを一切認めない場合には、嚮に卻けた独我論の場合と同様、先験的な「自我」が没概念となり、従って、先験的な“独我論”にすらなりえない。)論者たちのうちの多くは、経験的自我の背後に先験的自我を立てるだけでなく、経験的他我の背後にも先験的他我を立てる。そして、先験的自我については可知的であるが先験的他我については(存在しはするものの)不可知であるとし、先験的モナドロジーの構図を立てる。われわれのみるところ、論者たちが先験的他我を立てるのは、自我と他我とを同位的扱おうとする配慮からであり、従って、先験的自我の想定が卻けられれば先験的他我の想定も無用となり、先験的単子論(「モナドロジー」のルビ)の構図そのものも崩れる。われわれは論者たちの流儀による先験的自我の想定を卻けることによって先験的モナドロジーを排却する者であるが、この作業は「心−身」問題を論ずる後論を俟たねばならない。が、ここではとりあえず、第二章第三節で指摘した反省的“自己意識”の終局、その都度“私”が意識しているとされるさいの“私”に関する構制を想起して頂ければ、先験的自我なるものの想定が錯認であることを更めて剔抉するまでもないと念う。先験的自我に藉口した自家中毒説は、それゆえ、ここでは打ち棄ててておこう。」191-3P
(対話I)「「自我」「他我」という概念は“経験的諸我”の次元での具身の人称的主体に定位しつつ、同位・同格的に定立されていかるべきであるが、この場面にあっても、各自にとっての射映的現相こそ相異なれ、所識的対象性の志向的同一性・共有性が「自我」「他我」の共軛的・相補的な分立を権利づけるのである。――ところで、しかし、所知的対象性の間主観的共有性ということに関しては、他我認識不可能論の見地から依然として疑義の呈される余地が残っている。論者たちが、他我の存在を既定的としながらも他我認識(さしあたり他人の有っている意識内実の認識)が不可能であると主張するのは、論者たちの思念する「認識」なるものの構図に負うところが大きい。論者たちは「所与」と「所識」との二肢的二重性に盲目(ママ)であり、またわれわれが嚮に卻けた「視覚モデル型」の認識観に固執している。その結果として、論者たちは、他我認識不可能論に陥ってしまうのである。この間の事情を多少とも立入って見極めておこう。ここで論判しておきたい他我認識不可能論は、固より不可能性を顚から臆言するのではなく、われわれのターミノロギーで言えば、他人の意識の“射映相”を如実に知ることができないという論点をまずは押し出す。射映相が身体的視座に依属的である以上、他人にとっての厳密な射映相を如実に知覚できないということは確かである。(この点まではわれわれも認める。岐れるのはここからである。)ところで、論者たちの認識観からすれば、射映相を如実に覚知できない以上は結局のところ他人にとっての意識は全然認識できないことになる。論者たちといえども、“他我認識とは相手と全く合一してしまう相での認識なり”と定義しているわけではない。それにもかかわらず、彼らのパラダイムからすれば“自我の全き合一相での認識”ということが不可能ならば「射映差はもちつつも自他同一的と一応認めうるたぐいの認識」ですら抑々成立し得ない仕組みになっている。彼らとて、できようことなら、せめて後者のたぐいの自他共通の認識は認めたい筈なのであるが、彼らのパラダイムがそれを許さない。では、彼らのパラダイムはどうなっているのか? 極端に図式化して構図だけを截り出していえば、彼らは「知る」「認識する」とは“裡なる内的与件(射映相での与件)”を“内なる小人とも謂うべき認知的主観”が“内部から眺める”という構制での出来事だと思念している。彼らの“定義”での「知る」を充当するには、内側に入り込んで“小人”の座を占めることが要件であるから、実際問題として、他人には無理である。彼らは、狭義の「知る」にかぎらず、意識することは“内的与件”を裡から“眺める”ことだという構図を崩さない。(勿論これは構図上の話であって、脳生理学的その他、複雑な道具立てを彼らが持出すことを承知のうえでの論断である。)となれば、他人にとっての如実の射映相を“裡側に入り込んで”“合一的に”“眺める”ことが別人にとっては不可能である以上、他我認識は原理的に不可能という“結論”に彼らの場合落付かざるを得ぬ道理なのである。――これに対して、われわれの場合、射映相が認識の構造的一契機であることは認めても、その射映相を如実に“眺める”ことが「認識」「知る」の構制ではないこと、枢要なのは、第一肢的与件たる射映的所与を単なるそれ以上の或るものetwas Mehr, etwas Anderesとして覚知する第二肢的所識の契機、この“指向的相関項”であること、この“指向的所識”は間主観的に同一でありうること(しかも、この間主観的同一性が自他にとっての射映相の相違ということの存在条件、亦、自他の人称的成立の、溯っては能知的存在=他我の覚知ということの可能性の条件になっていること)、このことに立脚する。そして射映的如実相は覚知できなくとも、所識的契機を知ることにおいて“他我認識”が成立しうる旨を主張する次第である。(われわれは“内なる与件”が各自の裡に収蔵されていて、それを内側から眺めるという論者たちの認識観の構図、あの“視覚型モデル”に由来する構図そのものを卻ける。他者にとっての厳密な射映相を如実に知覚することはできないという前件をなすトートロジカルな事実は、われわれの認識観からすれば、決して“他我認識”の全面的な不可能性を帰結するものではない。)このさい、指向的意味所識の間主観的な自他的同一性・共通性・単一性という構制がわれわれの他我認識論(さしあたり他人の意識についての認識可能論)にとって鍵鑰(「けんやく」のルビ)をなすことは、行論を通じて既に彰(あき)らかな通りである。」193-5P ・・・ここのところは共生論を批判する論攷への反論的内容になっています。
(対話J)「自己と他己とのあいだの間主観性は、射映的所与相の対自・対他的な相違性を構造的一契機としつつ、志向的所識の対自・対他的同一性(自他的共通性・単一性)という存立構制において成立する。そして、この構制が厳存するとき、自己と他己とのあいだに意味的所識の相互理解が成立していると言う。(尚、上述の通り、われわれは、この間主観的交渉全体を“内属”せしめている“先験的自我”なるものは存在しないと考える。この最後の論点については第三篇をも参看されたい。)」195P
第三段落――イデアールな「能識的或者」と「意味的所識」との相関性 195P
(この項の問題設定)「われわれは、今や、以上の迂路を経たことによって、イデアールな「能識的或者」と「意味的所識」との相関性について好便に論究することができる。――嚮の行論では、志向的所識の間主観的同一性・単一性をもっぱら強調し、恰かもこの同一者・単一者が個体的な対象的定在であるかのごとき言い方を辞さなかったが、間主観的に同一な志向的所識は個体的対象相のものとは限らない。間主観的に同一な意味的所識は「被指的意味」の相で覚識されがちであるとはいえ、原理的にはむしろ“被表的意味”であり、向妥当せしめられる“形相的契機”ともほかなるものではない。そして、この意味的所識の間主観的単一性・同一性ということは、素より超越的視点からみたさいに厳存することではなく、当事意識におけるその都度の信憑である。当の信憑は反省的に不断の是正にさらされうる。(とはいえ、この反省的是正においては間主観的に同一・単一の意味的所識性がその都度定立されるのであり、意味的所識の間主観的同一性・単一性という構制・構図は崩れずに“付き纏う”のである。)あまつさえ、自分と他人とのあいだで意味的所識の間主観的同一性が信憑されているさいの“自分”および“他人”は“自分としての自分”“他人としての他人”とは限らないのであって、“他人としての自分”“自分としての他人”という自己分裂的自己統一の相でもありうる。そのことによって、例えば、蜻蛉(「とんぼ」のルビ)を他人が誤って<トリ>と覚知していることを察知するといった次元ばかりでなく、他人にとっての現相的所与相(射映的所与相)をも推察することが現に可能となる。この機制に負うて、単なる“自分としての自分”だけの直接的な体験だけではおよそ持ち得ないであろうような豊富・複雑な“知識内容”を人々は現実に持つようになる。(謂う所の“知識内容”なるものは、発生論的な当初的局面においては勿論「言語」以前的に成立するにしても、成人における「知識内容」の具体的な相在は言語的交通を通じて間主観的に形成されたものと言えよう。表情や身振の次元をも含めた間主体的な交通がなければ自己・他己の意識、従って「自我」なるものが対自的に成立することがそもそも不可能であるばかりでなく、各自に“固有”の“意識(内容)”と称されるものも間主体的交通によって形成されたものにほかならないのである。他者の意識事態についての“理解”“認識”が自己の“意識事態”なるものの定在・相在にとって“存在条件”をなす次第なのである。)」195-6P
(対話@)「他人の意識事態に関する“理解”“認識”は無論一回起的に完結するものではなく、不断の矯正過程にあり、この矯正は(その都度、あの“所識的な志向的相関項”の間主観的同一性という論理構制の埓内で、しかも、この構制を現実的な機制としつつ)主として言語的交通を介しておこなわれる。そして、自他にとっての射映相の相違ということが“確認”されるのも、この言語的交通によってである。経験的・日常的には、他人に関する自分の思念が“他人”本人によって追認されるとき、緩くは、他人によってそれが是正されることなく協働が円滑に進捗するとき“他我認識”が現実におこなわれているものと信憑される。これは、なるほど常識的次元での議論であって、哲学的・原理的な問題次元ではこれを単独に追認しただけでは済まないかもしれない。慥かに、個々の“他我認識”は誤謬と認定される可能性を孕んでおり、単なる私念にすぎなかったことが自覚化されうることを免れない。がしかし、この“誤謬の可能性”“私念にすぎないかもしれない”ということ、このこと自身の“存在論的構造”を省察してみるとき、まさに上述しておいた“所識的相関項”の間主観的志向性・同一性という機制が前梯的基礎になっていることが判る。」196-7P
(対話A)「ここで留目したいのは、志向的意味所識の間主観的同一性が不断に矯正的に措定されて行くことにおいて、意味的所識が間主観的同一相で形成されることと相即的に、能知的意識の側も間主観的に相同化して行くという事態である。この形成過程そのことについては必要最低限の事項を前節で述べておいたが、ここでは、能知的意識の間主観的同調化を相即的に支えるイデアールな「意味的所識」の存立性が「能識的或者」の存立を根拠づけるという事情が銘記されねばならない。「意味的所識」は、それ自身としてレアールには“無”であるとはいえ、例えばルビンの杯といった反転図形において典型的に知られるように、現相的所与は同一でも所識たるそれの相違に応じて現相的所知事態が一変するという事実に拠ってまずは一定の存立性を現に有つ。そして、さらに、「意味的所識」は単に自分にとってだけでなく他者たちにも存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性に拠っても存立性を有つ。かかる「意味的所識」を向妥当せしめる“形式”が共同主観的に同型化しているかぎりで“共同主観的な或者”である。この“共同主観的な能識的或者”はそれ自身としてレアールには“無”であるにせよ、共同主観的な意味的所識を“質料”に向妥当せしめる“構成形式”として“保有”する相に形成されている者として現相世界の現相在を依って在らしめる積極的な一契機であり、そのことにおいて積極的な存立性を有つ。――こうして、間主観的同一相に形成されて存立する「意味的所識」と「能識的或者」とは、それ自身としてはイルレアール=イデアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)にすぎないにもかかわらず、単なる“無”ではなくして、現相世界の現相在を媒介的に成立せしめている契機として、相即的・相関的に、積極的な存立性を有するのである。」197-8P
(対話B)「われわれは、本節の初めに「現相的所与」と「能知的誰某」との必然的連関を述べ、右でいま「意味的所識」と「能識的或者」との相関性を追認した。――「現相的所与」と「意味的所識」との関連、これについては先に(前々節ならびに前節、溯っては前々章ならびに前章このかた)主題的に論考しておいたので、ここに再唱するには及ばないであろう。――現相世界の存在構造を媒介的に支える四つの契機は、所知の側のレアール・イデアールな二肢的二重性、能知の側のレアール・イデアールな二肢的二重相というかたちで両つの二肢的成態を形成するばかりでなく、レアールな契機どうし、イデアールな契機どうしもリンケージを形成し、以って、四肢的連環を成しているのである。」198P
(対話C)「附言しておけば、われわれは行論の途次、現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)が現前するという事態について、それを支える諸契機の連関を対自化すべく、現相的所与が意味的所識として能知的意識に“対妥当”するとか、能知的主体が意味的所識を“保有”するとか、能知的主体が意味的所識を“形式”的契機として“質料”的契機たる現相的所与に“向妥当”せしめるとか、能知的誰某が現相的所与によって“制約”されるとか、この種の立言を事としてきたが、二肢的連関ないし三肢的連関は四肢的全体連関の射影的部面であって、真実態においては、その都度すでに、現相的世界の現前(「フォルコメン」のルビ)は四肢的連関態の一総体によって媒介的に支えられているのであり、現相的世界の現前という事態は四肢的構造成態なのである。現相的世界が能知的主体に現前するという事態を、われわれは、「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当すると言い、現前の対他者性・対自己性を明示するさいには「意味的所識」が「現相的所与」に即して「能識的或者」としての「能知的誰某」に帰属すると言う。また、現相の能知による被媒介性を明示するためには、「能識的或者」としての「能知的誰某」が質料的契機たる「現相的所与」に形相的契機たる「意味的所識」を向妥当せしめると言う。われわれは、これを簡略化して、「与件」が「或るもの」として「或る者」としての「誰か」に現前するGegebens als etwas vorkommt jemandem als etwemと標記する場合もある。――われわれは、意識は常に何ものかについての意識である(Bewußtsein von etwas)という命題を勿論追認する。が、しかし、単に「についての」(von)という規定では十全でないと考える。けだし、これで以っては、所知その都度所与以上の或るものであること、レアール・イデアールの二肢的な構造成態であること、これが明示されておらず、また、能知がその都度人称的誰某以上の共同主観的或者であること、レアール・イデアールの二重的構造成態であること、これが明示されていないからである。われわれは「意識」の、剴切には「現相」現前の、原基的構造範式として、前掲の通り、「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという両つのレアール・イデアールな二肢的成態の連関、都合四肢的な構造的連環態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ。」198-9P
(対話D次の篇の課題)「われわれは、謂う所の四肢的構造成態を審らかに見据えるためにも、本篇では敢て括弧に収めてきたいわゆる高次的認識の次元にまで視界を拡充し、対他・対自の間主観性の存立実態をも深層的に把え返しつつ、認識的世界の実相をより精微に究明していかねばならない。」199P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(4)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第三章 現相的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 所知的二肢制の構制
(この節の問題設定−長い標題) 「現相的所知の二肢的契機たる「現相的所与」と「意味的所識」とは、それぞれが自存するものではなく、関係態の“項”的契機なのであるが、前者が後者「として」能知的主体に対妥当する当の関係性をわれわれは「等値化的統一」と呼ぶ。――この等値化的統一たる「として」は、「異(相違性)」と「同(同一性)」との原基的な統一態であり、“繋辞的存在制(デアル)”よりも一層根源的な規定である。――現相的所与が意味的所識として能知的主体に対妥当(「ゲーゲンケルテン」のルビ)する「等値化的統一」は根源的象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)であって、この象徴的結合の両項という視角で把えるときには「現相的所与」を「能記」、「意味的所識」を「所記」と呼ぶことにする。」149P
第一段落――フェノメナの分節状相の把え返し 149-59P
(この項の問題設定)「われわれは第一章第一節このかた、叙述の便宜上、現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)が既成的に現前する場面に止目するかたちで議論を進め、謂うなればそれが像的(「ビルトハット」のルビ)に纏まったフェノメナには眼を向けても、現相(「フェノメノン」のルビ)が現相(「フェノメノン」のルビ)として顕現する構制は姑く措いてきた。われわれとしてはフェノメノンの顕現(sich zeigen=自己現示)を支えるフェノメナリスティックな構制にも留目しつつ、フェノメナの分節状相(さしあたり、所与が所識として分節的に現前化する状相)を把え返しておかねばならない。」149P
(対話@)「ここであらかじめ論件の一端を予示する含みで問題を提出しておけば、「異」とか「同」とかは、直接的に現前する現相的分節態の一斑なのであろうか。それとも、反省的に定立される概念なのであろうか? 勿論、「相違性そのこと」「同一性そのこと」といった次元になれば、それらはいわゆる感性的直覚によって把えられるものではなく、反省的に把握される概念の次元に属するであろう。しかし、例えば、街頭で出会った人物をあの旧友として直覚的に再認する場合の“再認的同一感”や二羽の雀を見て直覚的相等視する場合の“較認的同一感”のごときは、感性的な次元での直覚ではないであろうか? 或いはまた、替玉を見破る際の“弁別的相違感”や、別物を認知する際の“区別的相違感”のごときは感性的直覚ではないであろうか? これらのケースにおいて、反省的措定や当の認知の理由づけに先立って“同一性”や“相違性”が直証的に覚識されていることは誰しも認めるであろう。このさい、同一性・相違性といっても、固よりそれは概念的規定ではなく、“感性的認知”の域にとどまる。とはいえ、それは一廉(「ひとかど」のルビ)に「異」「同」のフェノメナルな顕現と言えるのではないか。――人はここで、かつてエーレンフェルスなどが「相等性」Ähnlichkeitや「相異性」Verschiedenheitを形態質Gesaltqualitätと認めた故知を想起することであろう。――或る種の論者たちは、そのことを容認したうえで、しかし、「異」「同」のごとき直覚は「高次的直観」であると言い、異ないし同という関係のもとに立つ両項それぞれの認知がより基底的であると主張する。だが、果たして「異」や「同」という関係は、当の関係のもとに立つ両“項”によって先立たれるのであろうか? 却って、異ないし同のほうが、謂う所の“項”に立つフェノメノンを当のフェノメノンとして顕現せしめる基底的契機ではないのか? ――もしそうだとすれば、「異」ないし「同」ということは、最も基底的なカテゴリーということになる。――この問題に答えるためには、恐らく、「異(相異性)」や「同(同一性)」ということを概念的に括って初めから単層化してしまうことなく、幾つかの位階に分けて検覈(「けんかく」のルビ)して行くことが必要であろう。そして、そこにおいては、「異」と「同」とを初めから同位・同格に扱うことの可否もおのずと検討されることになる筈である。」150-1P
(対話A)「偖、フェノメノンが現前するという事態は、心理学流に言えば、「地」Grundを背景にして「図」Figurが顕出している事態に照応するであろう。反省的ないし第三者的に構図を言えば慥かにその通りである。がしかし、最も原基的な場面では、当事者的能知にとっては地は覚知されず、もっぱら図だけが現前する。例えば、簿明の中で何かしら或る色(「もの」のルビ)が見え始めるとか、静寂(「しじま」のルビ)を破って或る音が聞こえてくるとか、皮膚上に何かが感じられるとか、このたぐいの体験にあっては、原初的には地=背景たる薄明・静寂・皮膚は知覚されず、現前するのは“図”だけである。尤も、このさいの“図”たるや、明確に規定された「図」として覚知されるのではなく、原初的には“何かしら或るもの”としか名状のしようがない。――斯かる原基的な事態においては、要言すれば、「地」と「図」との分化ということは反省的学知にとって存立するにすぎず、図の現前と称しても“図”はまだ即自的である。この事態に関して、学知の立場からは、無意識的状態から意識的状態への変移とか“無”を地にしての“有”の現出とか、図の即自的な知覚とか、称することもできよう。が、われわれとしては、後述の諸階梯との区別上、この事態を以って「端的な或るもの」(etwas schlechthin)の現前と呼ぶことにしよう。――この「端的な或るもの」の現前において体験されているのは何事であろうか。それはまだ或るもの=図の明識ではない。それは、或るものの分凝的現出、すなわち“無地”からの分出と規定しても過大であり、たかだか「異−化」(ver-schieden)と呼ばるべきであろう。この「異−化」は、あらかじめ二つの項があってそれら両者を区別立て(unterschieden)する意識態ではなく、それによってはじめて端的に「或るもの」(etwas)が“無=地”から分離して“図”となるごとき原基的態勢である。それは、しかも、啻(「ただ」のルビ)に学知にとってのみ存立する事柄ではない。爰に謂う「異−化」こそが最も原基的な体験である。」151P・・・『反差別原論』の端初を、「差異」&「異化」として展開しました。
(小さなポイントの但し書き)「――われわれはいまここで「異−化」ということの感官生理学的な説明を試みようという心算はないが、次の事は留意に値するであろう。一定の刺戟が識閾値以上の強度で現実に到来していても、生化学的な平衡状態を現出するといわゆる「慣れ」(habituation)を生じて覚知されなくなる。畜搦的走査といった能知的主体の側の無意識的能動に因るにもせよ、ともかく刺戟の与えられかたに変異が存する場合に限って感性的知覚が生ずる。感覚機構の機能的状態における生化学的な平衡という“同一性”を破る“差異性”の存在が感性的知覚の現成にとって必要条件をなしているわけである。――ところで、この「異−化」という最も原初的な「異」の覚識に対して、或る種の論者たちは一種の「同一性」が先行すると考え、その同一性の覚識を俟って甫めて「異−化」も成立すると主張する。論者たちによれば、いかに没規定的ではあれ、「或るもの」が等の或る同じものとして現前するかぎりにおいてのみ謂うところの「異−化」も体験されるのだ云々。だが、実態は果たしてそうであろうか? 反省的な見地において、今問題の「或るもの」に統一性という概念を適用することは勿論可能である。体験の当事主体が「或るもの」の“自己同一性”を認知する場合もありうる。がしかし、それは図と地との対自的分化の局面のことであり、今問題の「端的な或るものの現前」という場面に左様な「同一性」の覚識を持ち込むのは次元の交錯と言わねばなるまい。原初的な「異−化」の場面で“同”の覚識が言われるとすれば、それは当の「異−化」の事態(ここでは「或るもの」はまだ明確な図柄になっておらず、いずれにしても流動的である)そのことの現前(現出しつづけていること)に関する準反省的な意識においてであろう。フェノメナルな体験に即するかぎり「異−化」における異の覚識が原初的であり、これと同位な、況んや、これに先行する“同”の覚識は、たかだか、「異−化」に関する準反省的な意識においてはじめて後件として現れる。」151-2P
(対話B)「謂う所の「異−化」の事態は、やがて消失して“無意識的な状態”へと帰入する時もあるが、一般には、その埓に止まることなく、心理学者の謂う「地」をも現前化する。茲において図と地との分化的状相が対自的に体験される。」152P
(対話C)「「図」が「地」との対照的な相で現前するに至るとはいっても、当初はまだ、地は没概念的であり、“地”は先の「端的な或るもの」に庶(「ちか」のルビ)い。先の例でいえば、それは薄明や静寂が現前化した(意識にのぼった)事態ではあるが、このさい、「薄明」とか「静寂」とかいう規定は第三者的な記述であって、そのようなものとして認知的に体験されているわけではない。図と地とのこの即自的な分化においても、例えば、“白地”の上ないし中に“赤丸”が見えるというように、日章旗(「ひのまるのはた」のルビ)の一全体が“無−地”から顕出するという構図になっている。そのかぎりでは、日章旗という一全体が嚮の「或るもの」の位置を占め、この或るもの(“図”)が白地と赤丸とに分節化しているという錯図的な二重構造を呈すると言うこともできる。現に、日章旗全体を以って“無−地”から「異−化」的に現出している「端的な或るもの」と見做さねばならないようなケースもある。がしかし、爰での主題は、赤丸と白地といった「図」と「地」の分化である。――地が「地」として現前するのは“無”を背景とする「異−化」においてではなく、「図」との「区−別」においてである。図の側に即しても、それは何らかの内在的な規定性の対自化の故に図として区劃されるというよりも、「区−別」という「異」の意識と相即的に「地」と「図」とが分節化するのである。」152-3P
(小さなポイントの但し書き)「――或る種の論者たちは、関係に対して項を先立てようとし、また、相違性に対して同一性を先立てようとする既成観念囚われて、この事態に関して次のように主張する。すなわち、図と地とが区別されるのは、当の区別項のそれぞれが、例えば、赤と白、円形と四角形というように各々認知され、かつ、それぞれの自己同一性が認定されていることを俟ってである云々。成程、赤と白とか、円形とか四角形とかいう“概念態”が十全に形成されるだけの経験を既に積んでいる人々においては、図と地との対照的な区分を明識するよりも、むしろ、与件を赤い或るもの(円形の或るものetc.)として直覚的に認知することであろう。そして、図と地との区別性は、しかじかの相違性という明識を伴うかたちで、却って反省的にあとから意識される。しかしながら、そのような形成済みの体験を今問題の場面に持ち込むのは位階の交錯というものである。原初的な体験の場面においては、赤が赤として意識されるわけでも、円形が円形として意識されるわけでもなく、まずは「区−分」という「異」の意識態勢において“地”と“図”とか分化するのであって、両項の各々が初めからポジティヴにしかじかの或るものとして基底的に意識されるのではない。勿論、学知的な反省の見地からいえば、図が地から分化的に顕出するのは、図の部分と地の部分とが、無差別的に一様ではなく、一定の差別的規定をもっているからには違いない。がしかし、当の差別的規定があらかじめ明識化されてのちに“図”と“地”とが分化するのではなく、まずは端的に「区−別」相が現前するのであって、区別相の持続的自己同一性や、区別項それぞれの自己同一性は、準反省的ないし反省的な局面ではじめて対自化されるというのが実態であろう。――」153-4P・・・異化の先行性
(対話D)「ところで、「地」と「図」とが対自的に「区−別」されている事態にあっても、図と地とは同位的ではない。図と地とは反転する場合さえあるのであってみれば、両者の区別は絶対的な区別ではない。しか、一方が図として(他方が地として)現出しているかぎり、図のほうが地よりも“明識度が強い”とでも呼びうる態勢になっている。そして「図」が明瞭に意識されるや“地”は“無化”される傾動にある。第三者的にみれば、図と地とのいずれがより流動的であるか、一概には言えない。例えば、青空を背景に翩翻(へんぽん)と飜(ひるが)える日章旗のごときは、図のほうが地よりも却って流動的と認めうる。しかし、それは反省的に認められることであっても、「図」は同一体制の相で持続的「図」として(「地」と「区−別」して)覚知されつづける。この相にある「或るもの」=「図」は、それが当の或るものとして、すなわち、当体的同一性の覚識において現前するかぎりで、「端的な或るもの」(etwas schlechthin)一般と区別して「其れ」(es)と呼ぶことができよう。」154P
(対話E)「「図」の“当体的同一性”は、第一章第二・第三節でも述べた通り、図そのものの内在的規定の自己同一性の認知にもとづくというよりも、さしあたり「地」との区別性の反照(「レフレクシオン」のルビ)であり、「図−地」分節の構造的安定性の投影なのであるが、――体験する当事意識においては、地が“無化”される傾動に伴って、地との区別性、ならびに、「図−地」の区別性の“同一体制”そのことは必ずしも明識化されないため――、それは当該「図」自身の自己同一性という相で体験されるのが常態である。(そして、「其れ」が同一体制=持続相で知覚されつづけたり、継時的に「其のもの」として再認されたりするところから、これら再認的「同」の意識態において、「其れ」(当体)がやがては“実体的自己同一者”の想念を機縁づけることにもなる。)」154-5P
(対話F)「議論を今一歩進めておこう。「図」と「地」は反転相で覚知されうるし、時としては、「図」と「地」とが同位的に覚知される位相もある。尤も、図と地とが同位的に覚知される場合には、「図」と「地」なのではなく、“無=地”を背景にして顕出する両つの「図」と言うべきかもしれません。が、ともあれ、同位的な図と地と呼ぶにせよ、両つのと呼ぶにせよ(われわれとしては後者の呼び方を撰ぶ)、両つの「其れ」が区別性の意識態において現前する位相、今やこの事態が論件である。――両(「ふた」のルビ)つの「図」が現前する場合、両者が相接しているケースは稀であって(ということは、すなわち、“図”と“地”とが同位的に“無=地”を背景に顕出する体験は稀であって)、一般には、例えば白地の上に両つの黒丸が見えるというように、“共通の地”を背景にして、両つの図が離在的に顕出する。このさい、しかし、そもそものはじめから二つの黒丸という二つの図が現出していたのだと見做すのは体験的実態に合わない。もとより、第三者的な反省の見地からすれば、二つの図が当初から存在したと言われるであろうし、当事者自身が現に最初から二つの黒丸という別々の図を覚知するというケースもありえよう。通常は、しかし、白地に二つ(三つ以上でも可)の黒丸の諸部分が図(ein Figur)として分節する。黒丸どうしが一定の距離をもっているとか、黒丸が幾つもあるとか、このようなことは、どのみち、白地の部分=地、黒丸の部分=図との原基的な区分にとっては関わりがない。離在的であるとか、しかじかの個数あるとかいうたぐいのことは、図の「錯図化」を俟ったうえでの反省に属することであって、原基的には、地の部分と図の部分とへの二元的な「区−別」が直接的な体験である。このことは“図”が「端的な或るもの」の域にある次元や、“図”と地との分節化が一たん対自化されたのち、地が“無化”されている位相に徴すれば、(当の「図」が事後的・反省的に「錯図」化され、そこに二つの図が分出されえようと)絮言を須いないであろう。」155-6P
(小さなポイントの但し書き)「――図の「錯図」化、すなわち、当初は“一つの”図としてしか覚知されていなかった或るもの=図が構造的な分節相を呈するようになる機制には、例えば、赤丸と白地という「図−地」成態が青空という「地」から顕出するというように、第一次的な「図−地」成態の全体が「其れ」とし「図」化されるケース、および、例えば、顔の略画という「図」が眼・鼻・口といった分節を含む構造成態の相で顕出するというように、第一次的な「図」が内部的に分化して錯図化されるケース、この二つを一応区別することができる。尤も、後者のケースにおいても、眼なる眼、口なら口の周辺が“地化”されるのと相即的に眼や口が「其れ」として覚知されるのであり、「図−地」の「区−別」の新過程と相即的である。このかぎりでは、両ケースの区別は相対的なものにすぎない。しかし、両つの図が両つの図として顕現するのは、前者においては第一次的な「図」と「地」との同位化の機制によってであるのに対して、後者においては第一次的な図の「錯図」化(これは第一次的な図の一部分の“準地化”を伴う)によってである。」156P
(対話G)「偖、両つの「図」が現前する事態、すなわち、両つの「図」のそれぞれが“地” (但し、これには“無=地”の場合もあれば“準地=準図”的な場合もある)に対して「其れ」として共在する事態、ここにおいては、両つの「図」は「彼−此」という「異」の意識態においてまずは分立する。この位相を「彼(「ひ」のルビ)−此(「し」のルビ)性の関係」と呼び、上述の「異−化性の関係」(直接的異と反省的同がこの次元に属する)および「区−別性の関係」(区別的異と当体的同がこの次元に属する)から区別することにしよう。「異」と「同」とは、この次元においても、前二者におけると同様、同位・同格的ではない。――現前する或るもの=「図」は、「彼−此」の関係の次元にあるとき、嚮にみたetwas schlechthin (端的な或るもの)やes (其れ)と区別して、「此のもの」(dieses)「彼(「か」のルビ)のもの」(jenes)と呼ぶことができよう。「此のもの」と「彼のもの」との対向、すなわち「彼−此性の関係」は、両項が「其れ」として当体的自己同一性の相で覚知されているとはいえ、まずは「彼−此」の対向的相異の状相で体験される。そして、当の対向的な布置の構造的一定性、および両項の反照的自己同一性が準反省的に対自化されるのであって、「此れ」ならびに「彼(「あ」のルビ)れ」のそれぞれがあらかじめ内在的な規定性に即して措定されたのちに対比されるのではない。ここでも対向的相異性の覚識が先行する。(両項の措定→対比というケースも生じうるが、それは後続の位階のことである。)」156-7P
(対話H)「「彼−此」関係の原初的な位階にあっては、両つの図が、例えば、前−後、左−右といった対向的な布置において覚知され、両項が共軛的に相互反照するかぎりで、“此れ”は「此れ」であり、“彼(「あ」のルビ)れ”は「彼れ」である。勿論、「彼−此」の対向的相違性は、布置の異だけにはとどまらない。例えば、明−暗、大−小、強−弱といった対照的な「異」が覚知されうる。この場合にも、素より、明が明、暗が暗etc.etc.として認知されたのちに対照が意識されるのではなく、対照的な異の覚識を基底にして此の明と彼の暗etc.etc.が分立化するのである。しかし、ここで対照的というのは、白と黒というような反対概念で整序されるだくいの狭義のそれだけではなく、さしあたり「両つの図の対向」であるかぎり、白と黄とか、点状のものと線状のものとか、学知的反省の立場において質的ないし量的に相違すると規定されうるおよそ一切の差別を包摂しうる。」157P
(対話I)「ところで、両つの「図」は、時として「同」の意識態において「彼−此」的に分立する。例えば、二羽の雀や二本の煙草は、反省以前的に「同」として、すなわち、直覚的に相等性の相で覚知される。これらは、或る知に対する識態を基礎にしてはいる。しかし、この「異」を謂うなれば“地化”しつつ、そこでは「同」の覚識が顕化するのであって、両つの「図」すなわち「此れ」と「彼れ」との相等性は直覚的である。勿論、両つの図の相等性ということは、この次元ではまだ、各図おのおのに関する積極的な分析的認知にもとづくものではなく、相等性の覚識のほうが項の規定性に関する反省的な認知やそれらの規定性の比較に先立つ。もとより、反省的な比較をおこなえば、当の相等性の意識にはしかるべき機縁や根拠が認められるであろうが、それはまだ対自的ではない。此−彼の相等性に関する対自的な分析的校合をおこなえば、却って両項の相等性の覚識が消失することも往々なのであって、今問題の位階では「相等性」(Gleichheit)の覚識はあくまで直覚的である。」157-8P
(小さなポイントの但し書き)「この相等性=「同」の覚知は、いかに直覚的であるとはいっても、「彼−此の異」に支えられており、溯っては「区−別の異」や「異−化の異」に俟つものであり、そのかぎりでは被媒介的規定性である。しかしながら、それは「異の異」という二重否定的な意識態ではなく、体験的には直接態である。成程、論理的には「同」を以って「異の異」として規定することも可能であり、また、例えば言語的音韻体系を示差(Differenz)の体系として整序するごとき場面においては、「異の異」という反照的な対他的規定に即して項の存立性が説かれうる。がしかし、「彼−此」性の位階における「相等的同」は直截な等値(geleichsetzen)であることが銘記されねばならない。」158P
(対話J)「「彼−此」の相等性の意識態においては、反照的に対向する両項、「此れ」と「彼れ」とが当の或るもの「其れ」としてそれぞれ準反省的に自己同一的であり、両項の分節態勢の持続的自己同一性も準反省的であるが、それが「彼−此の異」に支えられている以上、この“地化”された異と相等的「同」とは反転的に隆替(「りゅうたい」のルビ)しうる。これら地と図とに擬(「なぞ」のルビ)らえうべき“異の意識態”と“同の意識態”とが同位的に「図」化するとき、それらは両つの図となるのではなく、まさに第一次的な“図”と“地”とが融合して一つの図となり、この「図」(異zugleich(同様に)同)が彼−此の両項を謂うなれば“地”としつつ、その“上に”顕出する。この意識態が「類似性」(Ähnlichkeit,resemblance)の覚識であり、ここで“地”と“図”との反転が生じて「此れ」「彼れ」の両項が「図」として顕出するとき「対−比」の事態と呼ばれうる相になる。」158P
(小さなポイントの但し書き)「――この「対−比」関係における類同性(Gleichartigkeit)の認知が「類推」的な「統−轄」の基底となる次第であるが、この分類的整序の問題にはここではまだ立ち入るべき次序ではない。「対−比」的統轄において顕揚される「質規定」「量規定」と併せて、この件には後論の途次で立帰る予定である。――」158-9P
(対話K)「ところで、「対−比」は「類似性」(Ähnlichkeit,resemblance)を“地”とするが、この“地”(類似性)が“無化”されるとき、「対−比」の両項関係は単なる「一者−他者」関係になる。」159P
(対話L)「われわれは、以上、「異」「同」という関係態たる“形態質” (Gestalt-qualität)を幾つかの位階ないし位相に分けて縦観してきたが、それは「異」「同」という基礎的カテゴリーの範疇論的な討究を当座の課題とするものではなく、「として」という一種独特の「異と同との統一態」を節述するための前梯としてであった。――われわれとしては、しかし、所期の本題に立進む前に、当の「として」という「等値化的統一」を「能記−所記」の象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)と相即的に規定する配備を事前に設えておくべく、右に到達した「一者−他者」関係を接穂としつつ、「所与−所識」の「能記−所記」的関係を次に配視しておきたいと念う。」159P
第二段落――能記と所記との関係構造に留目したところでの言語的表現の意味構造の一端の対自化 159-63P
(この項の問題設定)「爰では、記号論ないし言語論的な「能記−所記」関係の主題的討究はまだわれわれの課題ではないが、能記と所記との関係構造に留目して議論を進めなければならない。そのかぎりで、言語的表現の意味構造の一端をもここで対自化しておかねばなるまい。」159P
(対話@)「扨、「一者」と「他者」とは、われわれが第一章第一節で関説した「標徴的連合」の相で“結合”される場合がありうる。尤も、標徴的連合は所詮“連合”であって、結合がいかに鞏固であり一定化していようとも、そのこと自身では「として」結合(等値化的統一)ではない。ここでは、「一者」と「他者」との関係が標徴的連合という域を超えて、「一者」が言語的能記、「他者」が指示的対象という在り方での意味的所記という相で等値化的に統一される場合に止目しつつ、そこでの「能記−所記」関係を見ておこう。これは普通に、言語の「指示」機能と呼ばれる構制に見合う。」159-60P
(小さなポイントの但し書き)「――言語的「能記−所記」関係は発生論的には決して「標徴的連合」を直接唯一の母胎とするものではなく、「補完的拡充」や「融合的同化」の次元をも基礎にして形成される。このことは、第一章第一節や第二章第二節の行文中で示唆的に伸べていたところである。が、ここでは言語的に「能記−所記」関係の発生そのことが主題ではないので、この種の問題には立入らない。尚、われわれは言語の機能を@「指示」A「述定」B「陳述」C「喚起」という四大機能に分ける。そのうち、ここでは@「指示」が論件である。メタ文法的次元でみれば「指示」は「示」と「指」の両次元からなり、実はメタ文法的次元での述定に俟って指示が指示として成立するという事情もある。それゆえ、「指示」の成立条件として前述定的述定ともいうべきものが原理的には先になる。がしかし、当座の議論としては普通の言語論的レベルで立論を進めておきたい。――」160P
(対話A)「標徴的に連合されている「一者−他者」の対向的分節においては、「一者」が音声であってしかも誰かへの音源的に帰属化されつつ別の或る現相的所知たる「他者」と融合的に同化する場合が生ずる。われわれは嚮に「音源活動発生(習得)の初期的な局面においては、発せられた言語音声は、一方では“音源的に帰属”されつつも、他方では眼前の特定的現相と“融合的に同化”されること(これは幼児が或る特定現相を志向対象的に“図”化している場面で当該音声形象が聴取される体験を通じて協応が生じることに因るものと思われるのだが)、ともかく、こうして、一定の言語音声と一定の現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)との融合的同化が成立する。」旨を誌しておいた(前章第二節)。この融合的同化が成立しているとろでは、表層的体験相に即すれば、「音声的与件」が直截に「それ以上の或るもの」を“告知”すると言われうる。がしかし、それは「一者」と「他者」という二つのものの間の直示的関係ではない。指示的関係というのは多分に複雑な被媒介的関係なのである。」160P
(対話B)「具体的な現場を念頭において検覈していこう。「指示」ということは本源的に間主体的な関係行為である。自分自身にとっては或る対象への志向的凝向ということはあっても、殊更に指示ということは問題にならない。指示は対他的な営為である。指示は視線(「めくばせ」のルビ)や指線(「ゆびさし」のルビ)でおこなわれる場合をも含めて、或る対象が当事者にとって志向的に覚知されていることの告知であり、それが指示的告知となるのは、受手が送手に当該の対象を帰属化させることにおいてである。指示的告知活動を機縁にして志向的対象の間主観的同一性(単一性)が現に存立するに至ることと指示の現成とが相即する。しかるに、対象なるものは自他のあいだで射映的には異貌であり、同一性(単一性)が存立するとすれば、それは現相的所与対象がそれとして覚知される意味的所識に即してでなければならない。指示は、さしあたりレアールな(射映的与件相における)対象を「示す」かたちでおこなわれようとも、実は、イデアールな同一者たる意味的所識を「指す」ものにほかならない。それでは、指示とは、標号によってまずはレアールな対象を「示し」、その被示対象が受手によって単なる所与対象以上の所識として覚識されるという二段構えの機制において成立するのであるか? 発生論上の原初的局面に留目するとこのような二段階的機制が考えられ易い。実際、標号が機縁づけになって(そのかぎりでは事の原理的次元では“偶然的”に)特定対象の送・受信が成立する場合がありはする。視線や指線による“指示”は、当の標号が一定の“コード化”されたシグナル機能を演じるようになっているとしても、慥かに上述の二段構えになっているであろう。また、単純な指示詞による指示も(指示詞そのものが概念化された意味を帯びるとしてもそれは別次元のことであり、指示機能だけに直目するかぎり)やはり二段構制になっていると言えよう。これらの場合には、第一段の「示し」は機縁づけたるにすぎず、標号的能記と志向的に覚知される被示的与件とのあいだには一義確定的な関係はない。それゆえ、第二段で帰結する所識たる被指的意味も標号的能記とのあいだに一義確定化された関係を有たない。翻って言えば、指示ということにあってはそもそもの話、レアールな標号的能記とレアールな被示的所記とが「一者−他者」のかたちで現前するとは限らない。例えば「アノ樹ガ……」「或ル樹ガ……」「樹ハ……」といった音声を聴取した場合、なるほど、知覚風景内の特定の樹木への凝向が機縁づけられて樹木の知覚現相を現認するとか、補完的拡充や標号的連合の機制によって樹木の表象が泛かぶとか、レアールな所知が現前化するケースもありうるが、しかし、およそ言語的音韻以外には特定の知覚や表象がレアールには現出することなく、それでいて直截に指示機能が現識されたとしても、そのレアールな対象的現相は副現象にすぎず、論理構制上は直截な(レアールな対象的現相の現識を抜きにした)指示と同趣的なのである。“実詞”が一定の意味的所識を「指す」のは、第一段として一定の知覚ないし表象を「示し」、第二段としてその被示的現相がそれ以上の或る意味的所識として覚知されるという二段構制によってではない。機縁づけを媒介的第一段階とするこのような二段構えが発生論的な初期局面では仮令現存するにしても、能記的音声と被示的現相とのあいだの直接的関係はたかだか「一者−他者」の関係相における標徴的連合ないし補完的拡充たるにすぎず、「指示」にとって論理構制上の要諦(「ようてい」のルビ)をなすのは能記的音声と被示的現相とが共に一箇同一の意味的所識(ここではさしあたり「被指的意味」)と等値化的に統一されることである。このかぎりで、能記的音声と被示的現相(レアールな射映的対象)とは謂わば等価なのであり、意味的所識(被指的意味)の側からいえば、レアールな対象もレアールな音声言語も謂うなれば斉しく自己(「おのれ」のルビ)の“受肉”の場ともいうべき射映的現相態にすぎない。このゆえに、能記的音声は直截にイデアールな意味的所識(被指的意味)を「指す」ことができるのである。“実詞”における「指示」とは、こうして、発語された“実詞”=能記的音声が単なるそれ以上・以外の或る一定のイデアールな意味的所識として直截に覚知される構制にほかならない。」160-2P
(対話C)「われわれは、右の行文で示したように、同じく“指示”と言っても、視線ないし指線や純然たる“指示詞”による志向的対象の“告知”と“実詞”による指示とを一応は区別して考える。とはいえ、“実詞”的能記音声が直截に意味的所識を「指す」ことができるのも、当のレアールな言語音声が意味的所識の“射映的”一現相態であることに負うてであり、現相的与件がそれ以上の意味的所識として覚識されるという基本的構制においては同趣である。当面の相違は、標号と意味的所識との関係が直截的であるか、それとも、標号によって機縁づけられて(“偶然的”に)現出するレアールな被示現相を介して間接的であるか、この点に存するにすぎない。(尤も、この相違は、言語としての言語次元では極めて重大な相違である。「指示」ということの本質的な意味構造のうえでは、しかし、それは決定的な相違ではないというのである。)「指示」においては、いずれにせよ、現相的所与が単なる所与(「それ」のルビ)以上の意味的所識として、対他・対自的に、能知的主体に妥当する。――われわれは嚮の行文中では便宜上「能記」「所記」という詞を「指示」という概念に先立てるかたちで用いたのであったが、事柄に即すれば、「指示」という対他・対自的な「現相的与件−意味的所識」の等値化的統一という事態において、甫めて、「現相的与件」が「指示的能記」、「意味的所識」が「被指的所記」としてそれぞれ現成するのであり、かかる「指示的能記」の特別な一斑として「言語的能記」が現存するのである。――「指示」において能知的主体に対妥当する「能記と所記との対他・対自的な等値化的統一」をわれわれは狭義の「象徴的結合」と呼ぶ。(「狭義の」と限定するのは、われわれは「指示」以外の言語機能、すなわち「述定」「陳述」「喚起」に関しても“象徴的結合”を云為する場合があるからである)。」162-3P
第三段落――「象徴的結合」、溯っては「等値化的統一」=「として」結合の主題化 163-7P
(この項の問題設定)「今や、われわれは「象徴的結合」、溯っては「等値化的統一」すなわち「として」結合そのことを主題化しておくべき局面を迎えている。等値化的統一は最も原基的な事態であり、位階的にはなるほど(感覚的次元から判断的次元まで、言語以前的なそれから言語以後的なそれまで、更にはまた、感情価や行動価に関わる実践的なそれに至るまで、等々)多肢多様な具象態で存立するのであるが、しかし、何分にも「デアル」よりも一層根源的なことであるため、これを定義方式で規定することは論理的に不可能事である。とはいえ、等値化的統一たる「として」結合そのことを或る程度“解明”しておくことが必須の要件である。――われわれとしては、この課題に応えるべく、以上、本節においてこれまで「異」「同」の幾つかの位階を縦観したうえで「指示」における「能記−所記」の象徴的結合の存立構造などを配視してきた。が、実の処、まだ予備的作業が完了するには到っていない。本来ならば、次節で論攷する本格的な論述を庶幾するの余り、議論を錯綜させすぎることは厳に慎しまねばならない。そこで、次善の策をとり、既設の予備作業から許される範囲内で可及的に「として」結合の規定を試みておく次第である。」163-4P
(対話@)「現相的所与と意味的所識との「として」結合、降っては、標号的能記と被指的所記との「象徴的結合」は、レアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)どうしのレアールな結合ではなく、既にみてきた通り、レアールな契機とイデアールな契機との“結合”であり、敢て言えばイルレアールな結合である。それは、レアールには結合ならざる“結合”である。レアールな所与とは別にイデアールな所識が在るわけではないが、さりとてレアールな現相的所与が自己同一性の埓に自閉することなく、単なる自己(「それ」のルビ)以上・以外の或るもの=イデアールな意味的所識性において能知に現前=対妥当するのであるから、そこには二項分裂的(zwiespaltig)な相「異」性の覚識が存する。と同時に、当の「相異的」分裂は現実的分裂ならざるかぎりで「同」一性を保持したままである。それは相異ならざる相異、同一ならざる同一であり、相異的でありつつ同一的、同一的でありつつ相異的である。それは、「異−化」的でありつつ非「異−化」的であり、「区−別」的でありつつ非「区−別」的であり、「彼−此」的でありつつ非「彼−此」的である。このような“矛盾”めいた表現をとらざるを得ないのも、「として」がレアールな契機とイデアールな契機というおよそ存在性格・存在次元を異にするものの“統一”だからであるが、それが一種独特の仕方での「異と同との統一」態であることは内省的にも認められよう。」164-5P
(対話A)「われわれは「として」結合という「等値化的統一」を生理学的に基礎づけようというがごとき存念は毛頭ない。がしかし、これを所謂“生理学的機制”と対応づけて一定限イラストレイトすることはできる。言語的「能記−所記」関係という以前に信号(「シグナル」のルビ)的「能記−所記」関係を省みると好便であるが、現相的所与が単なるそのもの(als solches)以上の或る意味的所識性において即自的に機能したり、対自的に覚識されたりする機制は、いわゆる「条件反射」の機制に照応するであろう。とすれば、“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化という事態に「として」ひいては「象徴的結合」を照応させることが可能である。――だが、ここで人は遮って言うことであろう。信号(「シグナル」のルビ)的「能記−所記」関係は一般に「無条件反射」の次元であり、従って、もし「として」と対応づけるのであれば、「無条件的刺激」と「惹起される反応」との統合態に対してでなければなるまい云々。なるほど、条件反射論の通常の用語法では「無条件反射」と「条件反射」を大きく区別する。しかし、条件反射論の通常的議論の準位(これが此学にとっては“正常的”“通念的”なものであることを認めるに吝かではない)をメタレベルで検討するとき、果たして厳密な無条件反射なるものの存在をどこまで立言できるであろうか。生体の自然的生活態勢のもとでの生得的な反応といった規準では、学習による分化や汎化の問題ひとつ整合的に説き難くなってしまおう。生体の初発的体験の場面に絶対的な無条件反射を想定することはなるほど可能であろう。しかし、それは極限的な限界概念であって、現実の反射が厳密絶対的な無条件反射であるか、それとも、過去における刺激・反応の“実績”によって既に条件づけられていないか、これを厳正に判定することは到底不可能であろう。条件反射と無条件反射の区別は、瞼反射・腱反射、等々の処理にみられるごとく、生体の自然的生活態勢のもとで生得的に生じ、格別な学習的条件づけを要せぬ……といったメルクマールを持込んでものであって、厳密に原理的な区別ではない。われわれは、いわゆる反応の「分化」や「汎化」をも原理的な次元では「条件づけ」に負うものとして扱う。それゆえ、現実的には同定できぬ極限的な限界概念としての“無条件”反射なる在って無きに等しい“例外”的な場面を除いて、われわれは論者たちの流儀で「条件反射」と「無条件反射」とを区別しない次第なのである。――われわれとしては、殊に、「として」すなわち「等値化的統一」の分化や汎化という事実を重視し、この点に条件反応(ピアジェ式に修訂して言えば感覚運動的シェマの協応)との照応性をみる。」165-6P
(小さなポイントの但し書き)「ここでコトバの場合を意識してV.D.Volkovaのある実験を紹介しておけば、五種類ほどのトリの名の連続複合に対する唾液反射を形成している子供は「トリ」という抽象的名辞に対しても同じ唾液反射を示す(汎化)が、当該五種類以外の鳥の名には別段反応を示さない(分化)由である。(高田登氏「条件反射理論による言語研究(1)「心理学評論」四巻一号所載による)。これは概念形成の機制を考えつつ、「として」把握が累層的に“上位概念”によって順次円滑に進捗する事実を理解するうえで銘記に値しよう。尚、「汎化」や「分化」ということがブリミティヴな条件反射の場面にまで及んでいることは絮言するまでもない。例えば、或る周波数の音に対して条件反射が形成されるとそれに近い周波数の音で刺戟してもやはり条件反応が現出する(汎化)。しかし、特定周波数の音にしか“報酬”を与えないようにすると、その特定周波数だけへの弁別的な反応が生じるようになる(分化)。尤も、積極的な汎化と消極的な未分化との区別は困難である。しかし、一度火を摑んだ子供は二度と火を摑もうとしないといった高次な場面にかぎらず、呈示の場面においても“生体の知恵”は、事例的差異の消極的な弁別の不能ではなく、一定の差異性を“承知”しつつ、類似の事件にも既得の反射で応えるという積極的な汎化の機制を具えているものと想われる。すなわち、射映的相違性を“承知”のうえでの汎化的同一相での“として”反応である。――」166P
(対話B)「われわれはここで行文中に盛った“不整合”にみえかねない点を“補正”しつつ、より積極的な規定を試みておかねばなるまい。われわれは、嚮に「として」ないし「象徴的結合」を以って、「“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化」という事態に照応させておきながら、「無条件反射」なるものは原理的な次元においては極限概念にすぎない旨を附言するという仕儀になっている。これは、或る種の論者によるありうべき思念、すなわち、「として」は「“無条件刺戟”と“惹起される反応”との統合態」に照応するという思念に対置する論脈で生じたものであった。われわれは「無条件反射」ということを棚上げにしつつ、「“条件づける受容刺激”と“それの惹起する反応”との統合態」(謂うなれば「条件づけ」conditioningの現成する態勢そのこと)に「として」が照応すると言い直すこともできないわけではない。がしかし、こう言っただけでは単なる“連合”との区別がつかなくなる。われわれが敢て「“無条件刺戟−反応”と“条件刺戟−反応”との等値化」という事態を云々したのは(その場面では“無条件反応”なる言葉を多分に此学の“常識的”な用語法に妥協して用いたという事情もさることながら)、直接的な刺激は“射映的に”相異しても惹起される反応は同一的という構制を強調したかったからにほかならない。今や、条件づける刺激の射映的相異の許容性を銘記しつつ、「として」は「一定の分化的埓内で“射映的”相違の幅をもつ“条件づける刺激”と“それの惹起する汎化的同一反応”との統合態」に照応する、と言うこともできよう。――われわれとしては、いずれにしても、しかし、先に断った通り、「等値化的統一」「として」を生理学的機制によって基礎づける心算はない。右の立言はあくまで挿絵的呈示(「イラストレイション」のルビ)たるにとどまる。」166-7P
(対話C)「「等値化的統一」「として」は――敢て「図−地」の構制を比喩的に援用して言えば――、「意味的所識」の「現相的所与」からの「異−化」的顕出、「区−別」的「彼−此」的な分立でありつつ、この「異」のうえに立つ両項を却って「同立」し、両項の異=同的関係性を、所与の“無地−化”にともなって、当体的同一性の相で“図−化”するごとは「異と同との統一態」、このような状相で能知主体に対妥当する「イレアール=イデアールな統一性」である。」167P
第二節 能知的二重性の形成
(この節の問題設定−長い標題)「能知的主体の「能知的誰某」の「能識的或者」という二重相の具体的な在り方は固定的なものではなく間主体的交通(「ツェアーケール」のルビ)を通じて成立するものであって、「能識的或者」としての能知の相在(「ソーザイン」のルビ)はイデアールな「意味的所識」の間主観的形成と並行的である。――現相的与件が意味的所識として能知的主体に対妥当(「ゲーゲンゲルテン」のルビ)する「等値化的統一」は、能知的主体の側から把え返せば、所与に向けて所識を向妥当(「ヒンゲルテン」のルビ)せしめることにほかならず、この「向妥当」の両項という脈絡で規定するとき、われわれは「現相的所与」を「質料的契機」、「意味的所識」を「形相的契機」と呼ぶことにする。――能知的主体の「能知的誰某−能識的或者」二重相の具体的な在り方は、“認識論的構成形式”とも謂うべき「形相的契機」の共同主観的成立と相即的に形成される。」168P
第一段落――対象的所知の現前化−能知的主体が所与を所識として覚知すること&能知的主体は所与に向けて所識を向妥当せしめること 168-73P
(この項の問題設定)「われわれはこれまで「現相的与件」が「意味的所識」として「能知的主体」に対妥当する「等値化的統一」を所知の現前という視角で観望し、「所与−所識」成態の対他己的・対自己的な帰属を云々するに止めてきた。視角を変えて言えば、しかし、対象的所知の現前化は、能知的主体が所与を所識として覚知することにほかならず、そのさい能知的主体は所与に向けて所識を向妥当せしめるのである。」168P
(小さなポイントの但し書き)「――われわれは、今、敢て“主観−客観”図式に妥協する表現方式を採り、“客観が主観に対して現出する”“主観が客観に向かって(裡なる?)何ものかを搬出する”といった対比的な表現を用いた。とはいえ、われわれ自身としては、近代哲学流の「主観 対 客観」の図式そのものの止揚を図る者であって、この因習的な図式を積極的に執ろうというのでは断じてない。このことの委細と構案は行論を通じて次第に闡(あき)らかにしていく筈であるが、とりあえずこの旨を銘記したうえで、宿痾たる「主観−客観」図式の内在的止揚を試みるためにも、当該図式と接点をもつ表現方式を時に応じては辞せぬ心意であることをこの場を藉(か)りて表明しておく。」168-9P
(対話@)「議論の手掛かりとして言語が介在している場面にまずは留目しよう。前節ではもっぱら「指示」に着目したのであったが、ここでは第二の大機能たる「述定」機能に眼を向けたいと念う。(前節の行文中で示唆しておいたように、「指示」のうち「指す」機能はメタレベルでみれば実は「述定」機能を先件としている。それゆえ、事柄の真実態に即すれば、述定機能を俟ってはじめて「指示」としての指示機能が完現するのである。)」169P
(対話A)「偖、「辞」はひとまず措いて「詞」の場合、コトバで対象を「表わす」とき、表現・理解者は、所与の指示対象を当の詞の表わす意味的所識として「述定的に」覚識する。例えば、「(コレハ)樹」と言うとき、コレ、つまり、視線や指線などで「示され」る対象的所与が<樹>(つまり「キ」という詞の「被表的意味」)として述定的に覚知される。ここにおける所与と所識との等値化的統一は、視角を変えて言えば、特個的な彼示的対象において<樹>という“函数的”成態の“特定値的定在”と“見做”した所以となっている。それは所与対象を<樹>として措定するものにほかならない。コレの<樹>としての措定は、即自的には<岩石><動物>……等々との区別化的覚知であり、所与対象を「樹」という部類・種族の(一事例的な)ものとして把握している謂いとなる。更に言い換えれば、それは現与の素材的与件=質料を<樹>という部類分別的な認知形式で把握していることである。対象化された相で言えば、それは当該「質料」を<樹>という「形相」のもとに把住していることを意味する。このさい、しかも、“同じ”コレについて、<杉>とか<植物>とかという認知形式で把握することもできる。現与の質料をどの形相のもとに把住すべきかは、現相的与件の側によって一義的に決定されているわけではない。現与の現相的所与をいかなる意味的所識の相で“把握”するか、現与の与件的質料にどの認知的形式を“適用”するか、これは能知的主体の側に(無条件にではないが)ひとまず“委ね”られている。そして、どの“形式”を“適用”するかに応じて、よしんば現与の“質料”は一箇同一であろうとも、「所与−所識」成態たる現相的所知事態は決定的に相違するのである。覚識的事態の相違をもたらすのは、さしあたり、質料的契機ではなくして、形相的契機である。(勿論、“形式”の“適用”が無条件的に自由というわけだはないという事情に負うて、質料的契機の側もまた現相的所知事態・覚識的事態を規定するのであるが、この側面については次節で立帰って論考することにして、ここでは姑く置く。)」169-70P
(対話B)「われわれは、このように、所与の指示対象を或る詞の被表的意味の相で述定的に覚識することが能知的主体の側に“委ねられて”いること、しかも、どの詞の被表的意味=認知的形式で把住するかが現相的所知事態を規定すること、この事実に定位して、行文中に謂う所の“形式”の“適用”を「向妥当化(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)」という概念で定式化する。「現相的所与」が詞の「被表的意味所識」として能知的主体に対妥当するさいの等値化的統一は、能知的主体が「質料」たる現相的所与に「形相」たる被表的意味を向妥当せしめる(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)ことと相即する。以上の行文によって、嚮に断定的に掲げておいた提題をイラストレイトできたものと念う。」170P
(対話C)「ところで、右の論述では、被示的対象が知覚的に現前する「(コレハ)樹」という場面に定位したが「或ル樹」とか「樹トハ……」というように、「被示的対象が知覚的に現前しない場合もある。このような場合は如何? 「或ル樹」と言えば「或ル」が、「樹トハ」と言えば「トハ」が、固有の被表的意味を有つため議論が複雑になるので、ここでは端的に「樹(ニ・ヲ・ハ)」と言った場合に即して考えることにしよう。「樹」というさい、一定の表象が泛かぶ場合もあるが――そして、その折りには論理構成上さきにみた被示的与件の対象的現前の同趣になるわけだが――一般には直截に被表的意味<樹>が覚識されるだけである。(但し、このさいには「キ」という音韻がレアールな所与の位置に立ち、この現相的与件がそれ以上の<樹>として覚識されるのであって、所与なしに所識だけが登場するわけではない。)とはいえ、言語的交通の現場においては、「樹」なら「樹」という詞の発話は、発話者が「或るもの」を志向的に覚識していること、そして、その主題的・提示的な所与=「或るもの」を発話者が<樹>として把握していること、このことまでは慥かに了解されている。」170-1P
(対話D)「ここでは、「或るもの=X」は表象のかたちですら泛かばないにせよ、しもかく「樹」が、何かしら或る志向的な対象的与件についての発話であるということが構造的に理解されている。(なるほど“無意味”な発語の場合もあるが、それがまさに“無意味”な発語として聴者に理解されるのは、それが「或るもの=X」を志向的対象としていないこと、この「与件」の端的な不在性が聴者に察知されることにおいてである。裏返して言えば、通常の場合は「天馬(「ペガサス」のルビ)」とか「二角形」とかの場合ですら、志向的対象的与件=「或るもの」が話者と聴者とによって偕に覚識されていることになる。)」171P
(対話E)「そこでは、<樹>としての把握ということと、<樹>として或るものが志向されているということとが、同時相即的に察知される。この場合、レアールには、表象のかたちですら、明晰・判明に「図」化された相での対象的は何も「示され」ないのであって、「<樹>としての或るもの」が述定と相即的に「指される」のである。(われわれが嚮に「指す」は却って詞の「表わす」被表的意味の「述定」に俟つ旨を誌しておいたのはこの間の事情を念頭に置いてのことであった。「或るもの=X」が<樹>として述定的に覚識されることによって、「<樹>という或るもの」という被指的意味が現成する。この「被指的意味」は、「被表的意味」とも同様「意味的所識」の具体的一形態であって、それ自身の存在性格はイルレアール=イデアールである。そして、「被指的意味」を独立自存するものであると誤想するところから、「指し」「表わ」される当の“イデアールな存在体”が実体化され、いわゆる「第二実体」の想念を生むことになる。)」171P
(対話F)「詞による「表わし」にあっては、「或るもの」への「被表的意味」の向妥当化がおこなわれ、そのことによって「被指的意味」が現成する。尚、詞の能記的音韻が指示される或るものの所識と等値化的に統一されるさい、つまり、詞が詞として成立するさい、被指的意味という契機の現成にあたって被表的意味の“向妥当”の機制が即自的に作動しているわけであり、「言語的能記−言語的所記」の「象徴的結合」の成立にとって“向妥当”の機制が介在している所以なのである。」172P
(対話G)「言語以前的な局面ではどうか。そこでもやはり能知的主体による向妥当ということ、質料に対する形式の“適用”ということがおこなわれるのであるか? しかりである。そのことはルビンの杯のごとき反転図形を想い、かくかくしかじかの「図」としての把握を省みれば容易に諒解されよう。われわれは言語以前的な意味については「被指的意味」とか「被表的意味」とかいう術語的区別はおこなわない。がしかし、論理構制上は、詞による「指し」「表わし」も図による「指し」「表わし」も同趣的である。――明確な「図」以前的な、いわゆる“原基的な”感覚といった次元に関しても同断である。このことは、第一章第三節で「純青」に即して論述したところを想起されれば諒解を得られよう。「図」以前的な“図”にあってさえ、所知は「所与−所識」の二肢的成態であり、謂うなれば或る“函数”態の“特定値”として把握される構制になっているのである。」172P
(対話H)「畢竟するに、現相的所与が意味的所識として能知的主体に対妥当する等値化的統一は、汎通的・一般的に、能知的主体が意味的所識を認知的“形式”とし、現相的所与を与件的“質料”としつつ、前者(形相的契機)を後者(質料的契機)に向妥当せしめるという構制を成している。(われわれは行文中顚倒した表現をも採ってきたが、前者には、能知的主体が「所識」を「所与」に向妥当せしめるという構制において、前者を「形相的契機」、後者を「資料的契機」と呼ぶのである。)」172P
(対話I)「この視角から言えば、現相的世界は能知的主体がいかなる“形式”を向妥当せしめるかにその現相在を負うている次第となる。」172-3P
(対話J)「ところで、こうして、現相的世界の“構成的”形式を“保有”しつつ、質料に向ってそれを向妥当せしめる者としての能知的主体は決してアプリオリに既成的ではなく、いかなる“形式”を“確立”し“向妥当”せしめるかと相即的に自己形成を遂げて行く者である。今やこの間の事情を遡って追認し、「能知的誰某−能識的或者」という能知的主体の二重相の形成を追究しておかねばならない。」173P
第二段落――「能知的誰某−能識的或者」という能知的主体の二重相の形成を追究し、能知的主体の自己形成なるものの実態を闡らかにする 173-6P
(この項の問題設定)「能知的主体が“構成的形式”を素材的与件=質料に向妥当せしめることによって世界の現相在が現成する旨を云々し、且つは能知的主体の二重性を云為するとき、人は認識論上の「構成説」を連想することであろう。われわれは慥かに構成説に仮託する流儀で向妥当議論を運んだし、向後とも必要に応じてこの仮託を敢て厭わぬ所存である。だが、それはあくまで比喩的な仮託であって、われわれはいわゆる構制主義の立場を採る者ではない。ここではありうべき誤解をまずは防遏しつつ、それを通じて漸次われわれ自身の謂う能知的主体の自己形成なるものの実態を闡(あき)らかにして行きたいと念う。」173P
(対話@)「われわれは、現相的所知事態が与件によって一義的に規定されるものではないこと、現相的所与がいかなる意味的所識性において“観取”されるかは与件そのものによって一義的に確定するものではないこと、却って、覚知的事態は能知的主体が所与をいかなる所識性において“把握” するかに応じて規定されること、これを主張するかぎりで、模写タイプの見地を卻けつつ、構成説タイプの見地に与(「く」のルビ)みしたのであった。しかし、われわれは、「構成」というレアールな過程が進捗するとは考えず、従って、構成する格別な主観なるものがレアールに存在するとも考えない。われわれが“構成”に仮託したのは、只管(ひたすら)、所与がそれ以上の或るものとして把握される意味的所識性の如何に応じて世界の現相在が規定されるという事実、これを指摘せんがためだけである。――人がもし「構成」ということをレアールな過程として考えるとすれば、そこでは素材が現に供与され、その素材に構成的加工作業が現に加えられるのでなければなるまい。能知的主体によるこの“素材加工作業”は身体外部的か身体内部的かのいずれかであろう。だが、身体外部的加工作業ということは、この言い方はすでに“皮膚的に劃定された身体”を前提にしている以上、(そしていま問題にしているのは、文字通りの製作的対象加工という身体的実践とは別次元の加工であるので)、身体から離在する遠方の対象にまで及ぶ筈の当該加工が現実におこなわれるとすれば、それは身体超出的な加工作業ということになろう。その場合には、身体の中から或る作用が発出して、その作用が素材に加工的変様=構成的能作を及ぼすのでなければならなくなるが、われわれとしてはそのような能作を主張すべくもない。人は「精神的作用は身体を超出する」と言いたがるが、仮にそのような“超出的精神作用”を認めたとしても、物質的作用ならざる精神的作用が文字通りにレアールな加工作業を営むとはよもや強弁すまい。けだし、身体外部的に、現相世界(身体も、少なくとも表面的部分は、これに含まれることになろう)を構成するレアールな加工作業過程を想定しがたい所以である。では、身体内部的には如何? これは多くの論者たちが真摯にレアールな構成作業現存を主張してきた領野である。論者たちによれば、感性的に受容=内在化された素材に対して、知性的な能作が統合的・分解的な加工的構成作用を及ぼすとされる。論者たちの議論は、単に身体内部的でなく、身体内部における「心」内部での過程とされるのが普通である。このたぐいの論議は、製作的な身体的実践の構図を“心”とやらの内部にスライドさせたものという看が強く、実証的に確認できる態のものではないが、“心”なるものの存在を認めるとなると、論破することは存外と困難である。だが、前章第一節において「内なる心」という想定の悖理性を指摘しておいたわれわれとしては、これを安んじて卻けることができよう。尤も、身体内部的構成説は“心”内構成説が普通であるとはいえ、「感官−大脳」生理学的な次元で構成を説く理説もないわけではない。これに対してはどう応対するか? 此説がパターン認識を云々し、かつ、パターン形成の文化的存在拘束性を主張するかぎり、われわれの主張の生理学(主義)的対応物とみることもできる。ここにあっては、いずれにせよ、認知形式=パターンなるものの“適用”による加工的構成という言い方は所詮比喩的な仮託である。このことも認めうる。われわれとしては、此説が所詮は比喩たるかぎり批判を保留することができる。が、この保留は、此説が所詮比喩たるかぎり、レアールな構成過程の存在を容認する所以とはならない。――ここにおいて、われわれは却って次の問題に答える責を負う。それは、現実的にはおよそ現相世界の「構成」、すなわち、主観の側に属する“形式”を用いて所与の“素材”を加工する「構成」なる過程が実在するわけではないにもかかわらず――、一体いかなる着眼によって“構成”に仮託するのであるか? 消極的理由はこのパラグラフの頭初に誌しておいた。積極的な理由というほどではないが、われわれはカントの立言との接点を保持しつつ、これを換骨奪胎する流儀でわれわれなりの見解を好便に表明して行きたいという趣意から敢て構成説に仮託する次第なのである。」173-5P
(対話A)「われわれは、能知的主観が「構成形式」なるものをアプリオリに具えているとは考えないし、従って、「構成形式」が質的・量的に一定不変であるとも考えない。亦、「構成作用」なるものを発動する格別な主観、「構成形式」なるものを具有する格別な主観、すなわち「先験的=超越論的」な主観とやらが存在するとも考えない。溯っては、受容性の認識能力と自発性の認識能力という能力二元主義も採らない。われわれとしては“構成形式”はアポステリオリに、就中言語的交通を通じて間主体的=共同主観的に形成されていくものと考えるし、“先験的主観性”とは間主観性=共同主観性の屈折せる一投影であると見做す。そして、裡なるレアールな“先験的構成”なるものは、「身体的自我」次元での能知的主体に対妥当する現相世界の現相在の被媒介的存立構造を一種独得の仕方で錯認するところから要求される事態説明の可能的一方式(仮想的でしかも過てる一方式、前件的錯認の排却に伴って贅事となる) 一後件にすぎないものと見做す。このような論脈においては、われわれはおよそ構成説とは別様な立場を執る。」175-6P
(小さなポイントの但し書き)「――われわれは、カントが空間・次巻ならびに三綱四目の基幹的概念=都合十二の範疇を心性にアプリオリに具っているものと考えた経緯、そして更には、一七七〇年代このかたの「予科」(Antizipation)の着想を展開するかたちで晩年にはアプリオリな“形式”を時・空と範疇に限ることなく数多く認める傾動を示している事情、これを諒とすることができる。それは「意味的所識」の存在性格がイルレアール=イデアールであることとも関係し、また「意味的普遍」が一般に「論理的アプリオリ」の構成を示すこととも関係する。だが、われわれに言わせれば、「普遍」者たる“形式”は慥かに論理的アプリオリ(das logische Apriori)ではあるが、レアールな事実的アプリオリ(das fakttische Apriori)ではない。われわれの謂う“質料”に向妥当する“形式”はたかだか論理的アプリオリにすぎず、実的な「構成」に資し得るごときアプリオリな形式ではおよそないのである。(尚、論理的アプリオリということについては「概念」の形成に関する帰納的抽象説の論件先取(註)を指摘する次篇第二章第一節を参照されたい。) 」176P
(対話B)「われわれが“形式”の間主体的=共同主観的な“形成”というとき、「形式」なるものが在ってそれがレアールな形成過程に在る謂いではない。レアールに過程するのは、現相世界−内−的な動態的相互連関(マルクス流に言えば“対自然的かつ間人間的”な相互作用連関)、就中言語的交通を通じた間主体的相互影響のもとにおける言語=言語使用の協同的・同調的な形成である。では、言語活動の間主体的発達、言語使用の同調化的進展、このレアールな過程が一体なぜ亦いかにして“構成形式”の共同主観的“形成”、能知的主体の共同主観的能知への相互形成としての意義を有ちうるのか? 今や、この問題に応えることを通じて、われわれの謂う「能知的主体」の「能識的或者」としての自己形成、能知的主体の「能知的誰某=能識的或者」二重相の形成の在り方を究明する段取りである。」176P
(註)この字は「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。「先取」となっているところもあるので、「取」としておきます。
第三段落――能知的主体の「能知的誰某=能識的或者」二重相の形成&“形式”の間主観的形成、人称的諸主体の共同主観的能知としての相互的自己形成 177-80P
(この項の問題設定)「読者が先刻気付いておられるであろう通り、われわれは嚮に「詞」の「表わす」「被表的意味」なるものが既在するかのように遇しつつ、“例えば、「(コレハ)樹」と言うとき、コレ、つまり、視線や指線などで「示され」る対象的所与が<樹>すなわち「キ」という詞の「被表的意味」として述定的に覚知される”と述べ、ここから直ちに、“それは所与対象を<樹>として措定するものにほかならない”と論断し、更には、“コレの<樹>としての措定は、即自的には<岩石><動物>……等々との区別化的覚知であり、所与対象を「樹」という部類・種属の(一事例的な)ものとして把握している謂いとなる。言い換えれば、それは現与の素材的与件=質料を<樹>という部類弁別的な認知形式で把握していることである”という具合に議論を運んだのであった。そこでは、「詞」の<被表的意味>が既在し、これが認知形式、“構成形式”として機能するかのごとき論調になっていた。日常的既成観念にあっては、慥かに、「詞」はそれぞれ既に各々の「被表的意味」を“保有”“具備”しているように思念される。しかしながら、「被表的意味」なるものはそれ自身も形成された所産であって「詞」(音声的能記)と同時相即的に初めから既在するわけではない。省みれば、われわれの行文は<被表的意味>の既成性という日常的思念に藉口(しゃこう)する運びになっていた次第なのである。――われわれは、今や、この先取=難点の矯正を好便な通路としつつ、当面の課題である“形式”の間主観的形成、人称的諸主体の共同主観的能知としての相互的自己形成という論件の決着を期しうる。」177P
(対話@)「詞が所記的意味を“有つ”のは、原初的にはまず「被示的対象」と象徴的に結合されるという発生論的過程を介してである。(なるほど詞のうちにはレアールな被示的対象を有せぬものもある。が、そのような詞が成立しうるのもレアールな被示的対象の存在する場合を前梯にしてのことである。)いわゆる固有名をも「詞(「ことば」のルビ)」に算入するか否かは定義如何によるが、第一章第三章で述べた通り、再認的に同一視される個体と較認的に類同視される個体群との区別は相対的であるから、われわれは“固有名詞”と“普通名詞”(狭義の名詞に限らず、いわゆる“普通詞”一般)とを原理的な次元においては峻別するには及ばない。いずれも、イデアールに同一な被指的意味を「指し」うる。そして、このイデアールな被指的意味なるものは、被表的意味規定が内自的な対象の相へと物象化されたものであって、被表的意味規定を前件とする。われわれとしては、いわゆる固有名の場合をも視野に入れながら議論を進めて行こう。」177-8P・・・所与−被示される、詞−被表される
(対話A)「或る対象(いわゆる性質や状態を含めて)が一定の詞で呼ばれるのは、日常的思念に即すれば、一般には、当の対象がその詞で「表わさ」れるしかるべき規定性を具えているからである。が、そこで思念されている内自的規定性なるものは、嚮にみておいた「純青」といった次元からしてすでに、実は、対他的な(対“地”を含む)関係的規定性の反照的結節であって、独立自存する規定性ではない。ともかく、しかし、日常的体験相においては、個々の対象性は固有的規定態の相で分節して現前する。そして、このような相での分節態が言語的音声と融合的に同化されたり標徴的に連合されたりする。これが言語的な象徴的結合の初発的形態である。そこには<被表的意味>なるものが初めから覚識されているわけではない。しかしながら、同名異義語たることが自覚されている場合を別にすれば、或る言語的音声形象が一定の対象(個体ないし個体群、または、状態ないし状態群)と象徴的に結合され、別の対象とは象徴的に結合されない態勢が既成化されてしまう。それは、反省的ないし純反省的には、人々が当の詞(音声形象)と所与の対象とを象徴的に結合するか、それとも結合しないか、さしあたり命名の対「ヒト」的妥当性の如何に関する弁別的覚識にもとづいた同調化の所産である。この弁別的な結合・非結合の同調化、平たく言えば、他人たちが所与を何と呼び何と呼ばれぬかの体験に縁る同調化を通じて、現相の分節的覚識状相が変様して行く。命名的指示における結合のありかたに関する間主体的な同調化が現相的世界の覚識状相を「汎化的・分化的に」変容せしめて行く。(そして命名的結合のありかたが、後述するように、「被表的意味」を変容的に形成して行くのである)。が、反省以前的には、対象の呼び方(命名の結合の仕方)は自分にとって既定的・既成的になっており、判別的な命名(対象を何と呼び何と呼ばぬか)の理由づけ覚識において、上述しておいた(対象の) “内自的規定性”が対他的区別性の覚識と相即的に現識される。ここに現識されるところの、所与対象がそれであって他ではないか所以のもの(対象がそう呼ばれて別様に呼ばれない所以の規定性)が対象態を介して「詞」と“結合”される。当の判別的規定性が詞の「被表的意味」にほかならず、これは「意味的所識」の一斑であって、それ自身の存在性格を追究してみればイデアールである。――「被表的意味」は、こういう媒介的過程を通じて形成された“所産”なのである。(詳しくは概念の形成に即して後論)。」178-9P
(対話B)「被表的意味は、こうして、日常的意識においてこそ既成的であるにせよ、所与対象を他人たちが何と呼び何とは呼ばぬか――裏返して言えば、或る詞で他人たちが何を呼び表わし何を呼び表わさないか――、この間主体的な事態の体験を通じて形成されるものである。被表的意味の既成化は、他人たちとの言語的交通の場において結果として生ずるものであって、細かくみれば不断に変容・形成のプロセスにある。そして、人々は、そのような意味的所識を“認知形式”として与件に“向妥当”せしめるのである。このことに鑑みれば、人々は“認知形式”を向妥当せしめる能知者としての在り方を、言語的交通の場において、間主体的に自己形成していくわけである。――言語的な意味的所識性は、言語以前的な知覚的「図」の分節化の場面にまで“浸透”し、いわゆる「認識の言語相対性」(知覚の次元にまで亘る「認識の言語被制約性」) をもたらすので、言語的意味形成と相即する能知的主観の自己形成、相互主体的な形成は、知覚的次元での能知にまで射程が及ぶ。――」179P
(対話C)「能知的主体は、あれこれの身体的自我、人称的個体を離れては存在しないが、それでいて能知的主体の現実的・具体的在り方は、彼が与件に向妥当せしめる“構成形式”を如何様に形成しているかに応じて変容を遂げる。そして、普通(ママ)の成人の場合、まさに「言語主体一般」とでも呼びうる「ヒト」の相で言語活動をおこなうまでに自己形成を遂げており、従って亦、「ヒト」の相で被表的意味という意味的所識すなわち謂う所の“認知形式”“構成形式”を向妥当せしめるようになっている。簡略化して言ってしまえば、人称的諸主体は人称的諸主体としての個体性を一面では維持しつつ、同時に他面では、イデアールな意味形式を“構成的に”向妥当せしめるかぎりでの能知的主体としては「ヒト」の相へと変貌している。しかるに、「ヒト」は、前章第三節で上述しておいた通り、イデアールな存在性格を呈する能知であるから、能知的主体はレアールな人称的個体でありつつ且つイデアールな「ヒト」であるという二重相に在る。――われわれは、この二重相を以って、能知主体の「能知的誰某−能識的或者」の二肢的二重性、「レアール−イデアール」な二重相と呼び、これが間主体的な言語交通を介しての被媒介的な形成態である旨を指摘する次第なのである。」179-80P・・・「普通の成人の場合」の「普通」という表現にひっかかります。これは「言語的交通が可能な場合」の意味なのでしょうが、そうでない場合のコミュニケーションの方法ということを設定することです。
(対話D)「われわれがもし周到な論究を要求されるとすれば、言語的交通の進捗に伴う意味形成の具体相、および、それと相即的な「言語主体一般」への人々の自己形成の具体相を説述し、言語主体一般と呼ばれうる相を単に「ヒト」と同定するのではなく(因みに「ヒト」は単なる言語主体一般ではないし認識論的主観一般でもなく、実践論的主体としても格別な存在論的意義を帯びる)、進んで、「ヒト」が認識論的主観としての「能識的或者」たりうる所以のものを詳述すべきところである。がしかし、当面必要な論趣は一通り通じたことかと想われるので、認識論的な存立構造と権利問題に関わる部面については次節以下での主題的な討究に織り込むことにして、ここでは発生論上の論議に立入ることは割愛したいと念う。」180P
第三節 四肢の相互的媒介性
(この節の問題設定−長い標題)「現相的所知の二肢的二重性(「現相的所与−意味的所識」)と能知的主体の二重性(「能知的誰某−能識的或者」)とは、両々独立ではなく、一種独得の仕方で連関し合っており、都合四肢的構造連環を形成している。――イルレアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」が存立性を得るのはこの四肢的相互媒介性の構造においてである。イデアールな「意味的所識」が“認識論的構成形式”として認証され、人称的主体たる誰某が“認識論的構成主観”たる能識として認証され得るのも、対妥当的・向妥当的、対自己的・対他己的なこの構造連関においてのことであり、亦、射映的現相の人称的分立性や能知的主体の人称的分極性が現成するのも、そこにおける「意味的所識」「能識的或者」を媒介項とする対他・対自の媒介性に俟ってである。――現相的世界は、その基幹的構制を範式化するとき、終局的には「現相的所与」「能知的誰某」「意味的所識」「能識的或者」という四契機から成る四肢的構造連関態をなす。」181P
第一段落――イデアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」の存立性を積極的に立言しうる所以の“権利根拠”の明示&間主観的交通を支える「他我認識」問題の一端の提示 181-5P
(この項の問題設定)「われわれは、これまでの行文において「現相的所与−意味的所識」、「能知的誰某−能識的或者」という両つの二肢的二重性に関説してきたが、ここに存立する四つの契機の総体的な相互連関性についてはまだ主題的に討究していない。この遺された課題に応えつつ、それ自身としては“無”なる諸契機、なかんずく、イデアールな「意味的所識」ならびに「能識的或者」の存立性を積極的に立言しうる所以の“権利根拠”を明示しておくことが本節の論件である。爰では、間主観的交通を支える「他我認識」問題の一端にも必要最小限は触れることになろう。」181P
(対話@)「偖、前節の行論中にあっては、現相的世界の具象的現前的分節相は、能知的主体が如何なる「形式」を向妥当せしめるかに懸っており、“質料”たる与件によって一義的に決定されるわけではないこと、この側面をもっぱら強調しておいた。が、しかし、能知的主体による“形式”の“適用”は無条件的に自由ではなく、“質料”的契機、すなわち、現相的所与の如何によって制約されているのであり、現相的世界の在り方は当然“質料”によっても規制されている。尤も、人がもし茲で“質料なるもの”が独立自存し、それの内自的規定によって世界現相が規定されるかのように考えるとすれば、それは謬見として厳しく卻けられねばならない。――幾つかの次元に分けて論述することにしよう。」181-2P
(対話A)「「質料」すなわち「形相」的契機たる意味的所識がそれに向って向妥当せしめられる現相的所与は、それ自身すでに「所与−所識」成態たりうること、「質料」と「形相」とはあくまで相関概念であって、或る次元での「質料−形相」成態なるものが高次の形相に対して質料の位置に立ちうること、これは嚮に第一章において縷説しておいたところである。われわれの見解では、窮竟的な“裸の質料”なるものはそれ自体としては現相的所知のかたちでは現前せず、現前する現相はその都度すでに「所与−所識」成態(「質料−形相」成態)である。窮竟的な“裸の質料”を想定するとしても、それはたかだか“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)”としか言えず、それは現実的な所与現相ではない。従って“第一質料”がそれの具有する規定性に負うて形式的契機の向妥当の在り方(如何なる意味形式が“適用”され如何なる意味形式が“適用”されないか)を規制するともし言うとすれば、それはナンセンスである。第一質料が原初的形相の向妥当を規定するとも、逆に、第一質料に対する形相の向妥当が能知的主体の“自由”に“委ねせれて”いるとも、孰れとも言えない。第一質料の次元に関しては、このたぐいの立言はいずれにしてもナンセンスに陥ってしまう。質料に応じて形式の向妥当が規制されるというのは、原理的にも実際的にも、既にして単層的ならざる現実的な現相的与件に関してでなければならない。」182P
(対話B)「われわれとしては、そこで、“質料”による制約性を現実的体験の場面における最も“基底的”な現相的所知と目されうる“感覚的”な次元からみて行こう。第一章第二節で述べた通り、われわれは決して“単純な”“要素感覚”といった代物を立てるわけではないが、第一章第三節で論及した「純青」を省みると便利である。所与の刺激的与件が、或る時には汎化された相で、或る時には分化した相で覚知される。(尤も、ここで刺激的与件の“同一性”を云々しうるのは、反転図形の双つの見え方に対して一箇同一の与件的図形を反省的に措定するのと同趣の構制においてであり、刺激的与件なるものが如実に、現識相と別に覚知されているわけではない。このさい、刺激的与件というのは、投射光線の質といったことだけでなく、それが白地の上に投射されているか、黄地の上に投射されているかといった関係態によって既に規定された相での与件が問題である。すなわち、常識的には能知の側の撰択的能動性には委ねられていない“客観的”な与件とみなされているものが茲に謂う刺激的与件である。)人々は、この場合について、刺戟によってこそ一義的に規定されていないが、しかし、“物理−生理”的な状態系によって一義的に決定されていると言いたがることであろう。われわれも、便宜的な言い方の場面でならば、右の主張を認めるに吝かではない。われわれは所知と能知とを截断する者ではなく、また、生理・物理的主体と精神的主体とやらを別々な存在としてしまう者でもない。慥かに、或る視座から言うとき、感覚現相の如実の在り方は“物理−生理”的な状態系(“刺戟−反応”の機能的状態系)によって決定されていると見ることができる。この場面で、如実の感覚的所知とは別に刺激的与件なるものを立てるのは悟性的措定たるにすぎない。このことを承知のうえで、しかし、われわれが敢て質料的な与件と「質料−形相」成態たる現認相という両つのものを云為するのは、現認相が“質料的与件”と呼ばれる契機によって一義的に決定されてはおらず、能知的主体の側の応接の在り方によっても規定されていること、だがこの応接の在り方がすでに“質料的与件”によって一定限逆規制されていること、この間の事情を指摘したいからにはほかならない。感覚的現相は、能知的主体の側の応接の在り方によっても規定されるのであり、刺激的与件によって一義的に決定されているわけではないが、しかし、形相的契機の向妥当の在り方が質料的契機によって規制・制約されているのである。」182-3P
(対話C)「“図”的与件をいかなる「図」の相で覚知するか、更には、「図」的与件をいかなる「詞」の被表的意味の相で把握するか、このような次元においては質料的契機による(一義的決定ならざる)制約性が見え易いであろう。それゆえ、これについては爰で詳しく論ずるには及ぶまい。」183-4P
(対話D)「能知的主体による形相的契機(意味的所識性)の向妥当が質料的契機(現相的所与性)によって制約されてあるという右の言い方、遡っては、形相的契機の向妥当が一定限の埓内ではあれ能知的主体の“自由”に“委ね”られているという嚮の言い方は、「能知的所知=所知的能知」の渾一態という本源的な在り方を“截断”し、所知的与件と能知的主体とを再度“関係づける”流儀での立論であり、“主観−客観”図式に妥協・便乗した議論である。われわれは後に(本巻第三篇)ここでの妥協・便乗を是正して正規に論攷し直す予定であるが、ここでは姑く便法を採り続けよう。――能知と所知との截断を原理的には許容することなく、両者の“截断”は所詮“便宜的・相対的”なものにすぎないと諒解するわれわれの見地からすれば、所知的対象と能知的主体とを“截断”する界面は“便宜的かつ相対的”であり、必要に応じて移動せしめうる。いわゆる「外部感覚」の場合には、伸長・膨脹せる身体的自我に即して能知的主体の界面を設けうるし、いわゆる「内部感覚」の場合には皮膚的界面を超えて収縮せる身体的自我を能知的主体とすることができる。また、身体をことごとく所知的対象とみなす場合には嚮に断った条件つきで“精神的能知”を立てることもできる。尤も、能知的主体自身が「能知的誰某−能識的或者」の二重相を呈することが対自化される場面では、「能識的或者」は“精神的能知”とされるにしても、所詮は非空間的・非特定場所的であるから、この「或者」の契機に即しては界面を云々することはできない。(便宜的には“精神的能知”は“身体内在的”な相で恰かも空間的・場所的に定在するかのように扱われうるとしても、精確には“精神的能知”は身体に内在するわけではない。)とはいえ、「能知的誰某」が人称的な具身の能知的主体であることに徴して、「能知的誰某−能識的或者」としての認識主体は人称的な身体的自己・他者であるかぎりでの界面を有つことにして処理できるであろう。――われわれが具身の能知的主体に定位するかぎり、この能知的主体に現前する現相的所与(“質料的契機”)はその都度の射映相で与えられる。」184-5P
(対話E)「具身の能知的主体、すなわち「人称的能知誰某−超人称的能識或者」の二肢的二重相に在る主体にとって、現与の質料的与件は“射映”的であり、この射映的質料が、向妥当せしめられる当の形相的意味の在り方(いかなる形相的意味が向妥当せしめられるか)を規制する。――畢竟するに、現相的所与は能知的主体に対してその都度“射映”的に与えられ、この射映的質料に向かって能知的主体が意味的形相を向妥当せしめる。この構制において、「現相的所与」という所知的対象の第一契機と、「能知的誰某」という能知的主体の第一契機とが、構造的・必然的に連関する。」185P
第二段落――間主体的な交通の存立機制から他我認識問題の一端を定礎する 185-95P
(この項の問題設定)「われわれは、今や、これまでの相互的関連性を明示的に論ずることのなかったイデアールな第二契機どうしの相関にふれ、そのことを通じて「意味的所識」および「能識的或者」というイルレアールな存立者が単なる“無”ではない所以のものを論定すべき次序であるが、そのためにも、まずは間主体的な交通(これを通じて能知的主体が「能識的或者」とし対他・対自的に相互的自己形成を遂げる)の存立機制について必要最低限の事項を論じ、いわゆる他我認識問題の一端を定礎しておかねばならない。」185P
(対話@)「前章このかた「身体的自我」「身体的他我」を云々し、能知的主体としての「自分」「他人」の人称的分極を云々しつつも、われわれはまだ「自我」「他我」という言い方の権利を規定しておらず、また、間主観性の存立構造を主題的に論定していない。ここでは、この未決問題に関説することを通じて、四肢的連関性の間主体的な被媒介的・媒介的な存立機制を配視しておきたいと念う。――われわれは、身体的他者といっても、動物が“本能的・生得的”に自分と同種の他個体を格別に覚知するという事実に藉口(しゃこう)して、事実上、「他人」に局定してきた。原則的には茲でもこの大枠を崩すには及ばない。がしかし、「人」以外は一切能知的な他者として認めないというのでは余りにも狭量に過ぎよう。われわれとしては、主として「人」を念頭におきつつも、必ずしも「人」だけには限らぬ用意で議論を進めることにしよう。」185-6P
(対話A)「偖、前章での立論と接点を設けて言えば、“われわれは”、例えば、右掌で左手首を摑むとき、反転が生じて左手の甲で汗ばんだ右掌を感知するのと類比的に、握手するさい、相手の掌で自分の掌を感知しているように感じる場合がある。それは杖の握りの部位で掌を感知するのと同趣の機制だとも言える。だが、握手の場合には、相手が握り返しているという覚識(単に握られているという受動感ではなく、相手の掌に能動性を感知する覚識)があり、杖の握りとは必ずしも同断ではない。能動感と受動感との弁別的覚識は基底的な感受の一つであり、反省以前的な感知だと思えるのだが、相手(一般に他者)に能動・能作性を帰属させるのは、決して「自分にとっての受動」=「相手にとっての能動」という表裏関係の意識に支えられてのことではない。勿論、表裏関係の意識にもとづいて反省的に相手を能動者と見做す場合もあるが、自分の側で受動感が別段感じられない場合でも、端的に相手自身に能動的能作性を帰属させることがある。(ここで言っているのは、自分という能動的主体からの類推ではない。類推以前、しかも、能動主体という自己像成立以前の直截な体験相である。) ――われわれは、嚮に、他者の眼を見て直截に“視線”が読める機制にふれておいたが、視線を読むさいには、あの眼が「見ている」という能動的能作性があの眼に帰せられていると言えよう。(これが自分の見る能作からの類推ではないことは指摘するまでもあるまい。自分の眼での「見る」を見た体験はなく、原初的には類推的投入の手掛りさえ存在しないからである。)同様に、相手・他者が、「聴いている」「声を発している」「嗅いでいる」といった能作性も直截に感知される。(これは、耳・口・鼻に注視して察知するのではなく、全体的な姿勢や表情に即した感知あるように看ぜられる。)」186P
(対話B)「こうして、視覚的風景内に登場する他者たちに関して、彼らが時に応じて「見る」「聴く」「言う」「嗅ぐ」といった能動的能作をおこなっていることが直截に視認される。他者たちはこのような特異な能作相で認知される。視覚的に現前する他者たちのこの能作相は、“この身体”において感知される能動的能作とは様相がおよそ異っているので、当初のうちはアイデンティファイさるべくもない。「見・聴・言・嗅」する自分という像に先立って、まずは、見たり聴いたり言ったり嗅いだりする姿(見え姿)での他者たちが現出するのである。」186-7P
(対話C)「このような相での“あの身体”他者たちに対して、嚮に述べておいた幾つかのタイプでの「帰属」化の機制によって、知覚風景的に現出する現相の或るものが帰属化される。帰属化によってそれまで単なる対象的身体であった他者が能知的主体だと見做されるようになるのではない。他者たちのうちの或る種の者どもは、早くから表情的表出者として、「見たり・聴いたり・言ったり・嗅いだり」する能動的な能作者の相で(その意味での能知的主体として)視認されており、そのような他者たちに具体的な現相的所知=所知的現相が帰属化されるのである。」187P
(対話D)「翻って、模倣行動その他、前章で論述しておいたイミでの“他者鏡”との協応的動作を通じて、他者たちのうちの或る種の者ども(すなわち「他人」たち)と“この(皮膚的に劃定された)身体”=自分とが同型的・類同的な存在とみなされるようになり、他者鏡に照らしながら自己像が形成される。(人は自己像をもとにして他己像を描くのではなく、逆に他己像に鑑みて自己像を描くのである。)」187P
(対話E)「そこで、ようやく“この身体”“あの身体”が同型的・共軛的に対向させられうるようになり、上述しておいた“射映相の身体依存性”の覚識を介して、“この視座的身体”と“あの視座的身体”とが対照されるようになる。言語を介して「所与−所識」成態が自他へと人称的に帰属化され、そのことによって逆にまた「自分」と「他人」とが人称的に分極化するようになるのも、この局面を前梯としてであると言えよう。――われわれは、しかし、いまここで、「自己」「他己」の共軛的分立化そのことの成立過程を詳しく辿り返すには及ぶまい。茲では、現相的所知=所知的現相の対他・対自的な帰属、「所与−所識」成態の人称的−分属という事態に定位して、そこでの間主観性の存立構造をみておけば当座の要件には応えうる。」187-8P
(対話F)「自分と他人とが知覚的に現前する現相的世界に共属しておりながら、直接的な射映的与件は共有していないこと、射映的現相は自分と他人とでは相違すること、このことが覚識されるということ自体、一方の視座から謂うなれば“超出”して他方の視座に“扮技的”に立ち得ることを示している。論者たちのうちには、人は絶対に自分の知覚的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の視座から超脱できない旨を主張するむきもある。慥かに、人は反省的には自分の置かれているパースペクティヴの視座から完全に脱出することはできず、知覚はその都度に射映的に規制されている。しかし、それはさしあたり、対象的所知の第一契機たる「現相的所与」に関してのことであって、第二契機たるイデアールな「意味的所識」そのものはパースペクティヴな射映的現相を“超越”しており、この意味的所識性に関しては人は自分の配景敵視座を“超出”して対象を覚識することができる。しかるに、論者たちはせいぜい次のことしか認めようとしない。それは、他人の視座から見た場合の知覚風景を想像することは辛うじて可能だということである。なるほど、高く風景の射映的現相の身体的布置依存性が自覚されうるし、「射映相−身体」布置関係の洞察にもとづいて、他人のあの視座から見た射映相を想像することは現に可能である。しかしながら、人はそのような想像という複雑な意識過程なしに、直覚的にも他者の視座からの所知相を覚知することができる。人は他人の視座からの状景を想像することもできるが、より直截に、他人の視座に立って“扮技的に”覚知することができるのである。(このことは“視線の読み”と繋合するかたちで、咄嗟に人眼から物を隠す動作や或る種の模倣動作の遂行の可能性の条件に即して上述しておいた。) ――尤も、他人の視座からの状景を明確な配景相で泛かべうるためには想像に俟たねばならない。しかし、認識において第一義的に重要なのは射映的所与相ではなく意味的所識なのであり、これは直覚的に覚識されうる。(現に、自分の視座からの射映的所与相の如実の相貌ですら反省的にようやく追認できるというのが実情であって、立体視という一事をとっただけでも察せられる通り、直接的な覚知相は射映相そのままではないのである。)想像的に相手にとっての射映現相を泛かべるかどうかは、相手にとっての対象的所知の洞見にとって所詮は副次的な事柄にすぎない。――現相的風景世界に他人が共属的に現前するとき、一般には射映相こそ確然とは泛かばないが、あの視座からの布置的配景相とこの視座からの布置的配景相の区別性を覚識しつつ、自他が一箇同一の対象的所知を志向的に共有していることが意識される。ここに謂う自他共有の一箇同一の対象的所知=所知的対象の一総体が、現前する“実相的”な自他共通の“世界”とされるものにほかならない。」188-9P
(対話G)「自分にとっての射映的現相と他人にとっての射映的現相が相違するという覚識は、こうして、一方、能知の側に即して言えば、自己の視座から“超出”して他者の視座に“扮技的に”立ちうることを事実的な存在条件とし、且つ同時に、他方、所知の側に即して言えば、自分と他人とが相異なる射映的現相を所与としつつも一箇同一の対象的所知(単一の意味的所識)を志向的に把持していることを論理的な前提条件としている。ここでは。後者の側面に留目して議論を進めよう。――対自的現相と対他的現相との相違というのは、自他が全く別々の対象を意識していることの謂いである以上、論理構制のうえで、ここには、「志向的所知対象の間主観的同一性」「射映的所与現相の間主観的相違性」という二重の構造的契機が存在している。この構制は或る種の論者たちが「他我認識」の不可能性を立言する場面でさえ付き纏う。茲に謂う「他我認識」とは、他人の自我という“人格的実体”を直接的な対象とするものではなく、他人(「ひと」のルビ)の有っている意識について“それの内実”を別人が認識することの謂いなのであるが、或る種の論者たちはこの意味での「他我認識」(他人の有っている意識についての認識)でさえ不可能であると主張する。論者たちは、他人が意識を有った存在であることは既知の前提としたうえで、唯、他人の意識している内実は認識できないと主張するのである。議論の構造を見易くするために具体例を擬設しよう。いま、美術展で人々が一幅の絵画「モナ・リザ」の前に停って一斉に当の絵に視線を向けているものとする。他人たちが何ものかを見てとり何ごとかを意識していることまでは間違いないが、さて、その意識内実となると判らない、と論者は言う。だが、さしあたり、人々が「モナ・リザ」と俗称される特定の絵画=対象を志向的に意識していることは“確か”ではないか? このことまでを否認したのでは、他人が意識を有った存在であるという前提的容認が実際問題として自己否定されたに等しいであろう。(なるほど、一般論・公式論としてならば、他人とはそもそも意識を具えた存在なり、という強弁だけで済ますこともできるかもしれない。しかし、相手が現にいま意識しているという認定に際しては、実際問題として、具体相は不明でも、相手が何事かを現にいま意識しているという察知が存在条件をなす筈である。そして、われわれの擬設例で、ここにいう「意識されている何事か」の核をなすのが絵画「モナ・リザ」という志向的所知にほかならない。)ところで、絵画「モナ・リザ」という対象は、それについて様々な想念を更に泛かべうる“与件”ではあるが、原的な所与ではない。原的な所与は一定の射映相での感性的知覚現相であり、この所与がそれ以上の成る所識相で覚知されることにおいて“対象”たる絵画「モナ・リザ」が成立しているのである。爰において、観衆たちが一斉に絵画「モナ・リザ」を対象的に意識しているということが容認されるかぎり、各自にとっての射映的与件相は間主観的に相違するにせよ、所知的対象は間主観的に同一(単一)であることが容認されている所以となる。ここでの間主観的に同一な契機は、各人各人の多様な意識態勢全体からみれば微々たるものかもしれない。しかし、それは厳に存立するのである。(人々が、展覧会場の外で「モナ・リザ」について言語的に語り合っている場合もやはり同断である。)茲には「志向的所知対象の間主観的同一性」「射映的所与現相の間主観的相違性」という二重の構造的契機が存立していると言う所以であって、論者たちが認識不可能と称しているのは射映的な所与契機についてであり、論者たちが他人に意識性を容認しているときそれは志向的所識契機の共有性に定位してのことなのである。(人々が「モナ・リザ」について語り、その被表的意味が“理解”される場合には、当の被表的意味の間主観的同一性が論理構制上存立する。言語的交信によって、間主観的同一性が意味的所識契機に即して増大しうる。尤も、右の言い方では、相互“理解”ということが先取された形になっている。だが、意味的所識に即しての間主観的同一性の信憑が厳存する態勢、それが心理的にみての“理解”にほかならない。)」189-91P
(対話H)「論者たちは、ここで、次のように言うかもしれない。自分と他人とで射映相が違うということは、なるほど、それら射映相で映現する一箇同一の“本体”が間主観的に共有されていることを論理上意味する。また、他人が自分とは別様の射映意識をもつという覚知は他者の視座を“扮技”しうることを事実上含意する。ここまでは確かであるが、前者は単なる論理的仮構かもしれず、後者は単なる想像的臆測という“扮技”かもしれないでないか云々。論者たちはこの指摘によって「他我認識」とは“私”の一人角力(「ずもう」のルビ)にすぎない旨を言い立てようとする。――論者たちが。もし、他人が意識を有った存在であるいう提題を単なる“私”の想像的臆測にすぎないと言うのであれば、これは別途に検討しなければならない。(論者たちが苟も他人が意識をもった存在であるということまでは既知の事実としつつ、そのうえで、他人の意識は認知不可能と主張する場合には、われわれとしては上述の通り、論者たちが既知とする“他人の意識”と、論者たちが不可知とする“他人の意識”とは同名異議的であることを指摘する。ここには「既知」かつ「不可知」という一見矛盾めきパラドックスめいた立言がみられるが、それは“他人の意識”なるタームが二義性を帯びているので真の矛盾ではない。論者たちは「意味的所識」としての“意識”と「現相的所与」としての“意識”とを二義的に混用しつつ、志向的所知対象という相での前者関しては「既知的」、射映的所与現相という相での後者に関しては「不可知」と唱しているにすぎない。)偖、いまや、論者たちが一切を“私”の臆測だと言うさいには、「他我」の存在が臆測ということになっている。そこでは「他我」なるものが積極的には存在しない。「他我」が積極的に存在しないところでは、「自我」(=“私”)も没概念であろう。これでは「独我論」すら成立しえない。(確実に唯一の意識的存在が在るとは仮りに言えても、その“唯一確実な意識的存在”とやらを“私”(自我)と呼ぶ理由がなくなってしまう。それを「自我」と呼んだとしても、それは「他我」との示差的区別性を表わすものではなく、単なる固有名にすぎなくなってしまう所以である。)こうして、苟くも「他我−認識不可能」論であるかぎり、「他我」の存在を既知的前提とせざるをえず、そのかぎり、われわれが嚮に指摘したところが妥当する次第なのである。――ところで、論者たちのうちには“一人角力”をとる“私”なるものを先験的な次元で立てようと試みる者もある。この種の論者たちは、経験的自我と経験的他我とを同位・同格的に認め、これら経験的諸我のあいだでの“間主観的”な相互交通・相互影響・相互理解を認めたうえで、しかし、それは謂うなれば先験的自我の意識内に生ずる“夢”の中での出来事に類すると言う。論者たちは、人々が夢の中に登場する自分と夢みる自分とを同じ(一箇同一人物たる) “私”としてアイデンティファイするように、経験的自我と先験的自我をも「同じ」“私”であるとアイデンティファイしたがる。(このアイデンティフィケイションは、経験的自我なるものの“相貌”がいずれにせよ不明であるから、臆断にすぎない。そこで、先験的他我なるものを一切認めない場合には、嚮に卻けた独我論の場合と同様、先験的な「自我」が没概念となり、従って、先験的な“独我論”にすらなりえない。)論者たちのうちの多くは、経験的自我の背後に先験的自我を立てるだけでなく、経験的他我の背後にも先験的他我を立てる。そして、先験的自我については可知的であるが先験的他我については(存在しはするものの)不可知であるとし、先験的モナドロジーの構図を立てる。われわれのみるところ、論者たちが先験的他我を立てるのは、自我と他我とを同位的扱おうとする配慮からであり、従って、先験的自我の想定が卻けられれば先験的他我の想定も無用となり、先験的単子論(「モナドロジー」のルビ)の構図そのものも崩れる。われわれは論者たちの流儀による先験的自我の想定を卻けることによって先験的モナドロジーを排却する者であるが、この作業は「心−身」問題を論ずる後論を俟たねばならない。が、ここではとりあえず、第二章第三節で指摘した反省的“自己意識”の終局、その都度“私”が意識しているとされるさいの“私”に関する構制を想起して頂ければ、先験的自我なるものの想定が錯認であることを更めて剔抉するまでもないと念う。先験的自我に藉口した自家中毒説は、それゆえ、ここでは打ち棄ててておこう。」191-3P
(対話I)「「自我」「他我」という概念は“経験的諸我”の次元での具身の人称的主体に定位しつつ、同位・同格的に定立されていかるべきであるが、この場面にあっても、各自にとっての射映的現相こそ相異なれ、所識的対象性の志向的同一性・共有性が「自我」「他我」の共軛的・相補的な分立を権利づけるのである。――ところで、しかし、所知的対象性の間主観的共有性ということに関しては、他我認識不可能論の見地から依然として疑義の呈される余地が残っている。論者たちが、他我の存在を既定的としながらも他我認識(さしあたり他人の有っている意識内実の認識)が不可能であると主張するのは、論者たちの思念する「認識」なるものの構図に負うところが大きい。論者たちは「所与」と「所識」との二肢的二重性に盲目(ママ)であり、またわれわれが嚮に卻けた「視覚モデル型」の認識観に固執している。その結果として、論者たちは、他我認識不可能論に陥ってしまうのである。この間の事情を多少とも立入って見極めておこう。ここで論判しておきたい他我認識不可能論は、固より不可能性を顚から臆言するのではなく、われわれのターミノロギーで言えば、他人の意識の“射映相”を如実に知ることができないという論点をまずは押し出す。射映相が身体的視座に依属的である以上、他人にとっての厳密な射映相を如実に知覚できないということは確かである。(この点まではわれわれも認める。岐れるのはここからである。)ところで、論者たちの認識観からすれば、射映相を如実に覚知できない以上は結局のところ他人にとっての意識は全然認識できないことになる。論者たちといえども、“他我認識とは相手と全く合一してしまう相での認識なり”と定義しているわけではない。それにもかかわらず、彼らのパラダイムからすれば“自我の全き合一相での認識”ということが不可能ならば「射映差はもちつつも自他同一的と一応認めうるたぐいの認識」ですら抑々成立し得ない仕組みになっている。彼らとて、できようことなら、せめて後者のたぐいの自他共通の認識は認めたい筈なのであるが、彼らのパラダイムがそれを許さない。では、彼らのパラダイムはどうなっているのか? 極端に図式化して構図だけを截り出していえば、彼らは「知る」「認識する」とは“裡なる内的与件(射映相での与件)”を“内なる小人とも謂うべき認知的主観”が“内部から眺める”という構制での出来事だと思念している。彼らの“定義”での「知る」を充当するには、内側に入り込んで“小人”の座を占めることが要件であるから、実際問題として、他人には無理である。彼らは、狭義の「知る」にかぎらず、意識することは“内的与件”を裡から“眺める”ことだという構図を崩さない。(勿論これは構図上の話であって、脳生理学的その他、複雑な道具立てを彼らが持出すことを承知のうえでの論断である。)となれば、他人にとっての如実の射映相を“裡側に入り込んで”“合一的に”“眺める”ことが別人にとっては不可能である以上、他我認識は原理的に不可能という“結論”に彼らの場合落付かざるを得ぬ道理なのである。――これに対して、われわれの場合、射映相が認識の構造的一契機であることは認めても、その射映相を如実に“眺める”ことが「認識」「知る」の構制ではないこと、枢要なのは、第一肢的与件たる射映的所与を単なるそれ以上の或るものetwas Mehr, etwas Anderesとして覚知する第二肢的所識の契機、この“指向的相関項”であること、この“指向的所識”は間主観的に同一でありうること(しかも、この間主観的同一性が自他にとっての射映相の相違ということの存在条件、亦、自他の人称的成立の、溯っては能知的存在=他我の覚知ということの可能性の条件になっていること)、このことに立脚する。そして射映的如実相は覚知できなくとも、所識的契機を知ることにおいて“他我認識”が成立しうる旨を主張する次第である。(われわれは“内なる与件”が各自の裡に収蔵されていて、それを内側から眺めるという論者たちの認識観の構図、あの“視覚型モデル”に由来する構図そのものを卻ける。他者にとっての厳密な射映相を如実に知覚することはできないという前件をなすトートロジカルな事実は、われわれの認識観からすれば、決して“他我認識”の全面的な不可能性を帰結するものではない。)このさい、指向的意味所識の間主観的な自他的同一性・共通性・単一性という構制がわれわれの他我認識論(さしあたり他人の意識についての認識可能論)にとって鍵鑰(「けんやく」のルビ)をなすことは、行論を通じて既に彰(あき)らかな通りである。」193-5P ・・・ここのところは共生論を批判する論攷への反論的内容になっています。
(対話J)「自己と他己とのあいだの間主観性は、射映的所与相の対自・対他的な相違性を構造的一契機としつつ、志向的所識の対自・対他的同一性(自他的共通性・単一性)という存立構制において成立する。そして、この構制が厳存するとき、自己と他己とのあいだに意味的所識の相互理解が成立していると言う。(尚、上述の通り、われわれは、この間主観的交渉全体を“内属”せしめている“先験的自我”なるものは存在しないと考える。この最後の論点については第三篇をも参看されたい。)」195P
第三段落――イデアールな「能識的或者」と「意味的所識」との相関性 195P
(この項の問題設定)「われわれは、今や、以上の迂路を経たことによって、イデアールな「能識的或者」と「意味的所識」との相関性について好便に論究することができる。――嚮の行論では、志向的所識の間主観的同一性・単一性をもっぱら強調し、恰かもこの同一者・単一者が個体的な対象的定在であるかのごとき言い方を辞さなかったが、間主観的に同一な志向的所識は個体的対象相のものとは限らない。間主観的に同一な意味的所識は「被指的意味」の相で覚識されがちであるとはいえ、原理的にはむしろ“被表的意味”であり、向妥当せしめられる“形相的契機”ともほかなるものではない。そして、この意味的所識の間主観的単一性・同一性ということは、素より超越的視点からみたさいに厳存することではなく、当事意識におけるその都度の信憑である。当の信憑は反省的に不断の是正にさらされうる。(とはいえ、この反省的是正においては間主観的に同一・単一の意味的所識性がその都度定立されるのであり、意味的所識の間主観的同一性・単一性という構制・構図は崩れずに“付き纏う”のである。)あまつさえ、自分と他人とのあいだで意味的所識の間主観的同一性が信憑されているさいの“自分”および“他人”は“自分としての自分”“他人としての他人”とは限らないのであって、“他人としての自分”“自分としての他人”という自己分裂的自己統一の相でもありうる。そのことによって、例えば、蜻蛉(「とんぼ」のルビ)を他人が誤って<トリ>と覚知していることを察知するといった次元ばかりでなく、他人にとっての現相的所与相(射映的所与相)をも推察することが現に可能となる。この機制に負うて、単なる“自分としての自分”だけの直接的な体験だけではおよそ持ち得ないであろうような豊富・複雑な“知識内容”を人々は現実に持つようになる。(謂う所の“知識内容”なるものは、発生論的な当初的局面においては勿論「言語」以前的に成立するにしても、成人における「知識内容」の具体的な相在は言語的交通を通じて間主観的に形成されたものと言えよう。表情や身振の次元をも含めた間主体的な交通がなければ自己・他己の意識、従って「自我」なるものが対自的に成立することがそもそも不可能であるばかりでなく、各自に“固有”の“意識(内容)”と称されるものも間主体的交通によって形成されたものにほかならないのである。他者の意識事態についての“理解”“認識”が自己の“意識事態”なるものの定在・相在にとって“存在条件”をなす次第なのである。)」195-6P
(対話@)「他人の意識事態に関する“理解”“認識”は無論一回起的に完結するものではなく、不断の矯正過程にあり、この矯正は(その都度、あの“所識的な志向的相関項”の間主観的同一性という論理構制の埓内で、しかも、この構制を現実的な機制としつつ)主として言語的交通を介しておこなわれる。そして、自他にとっての射映相の相違ということが“確認”されるのも、この言語的交通によってである。経験的・日常的には、他人に関する自分の思念が“他人”本人によって追認されるとき、緩くは、他人によってそれが是正されることなく協働が円滑に進捗するとき“他我認識”が現実におこなわれているものと信憑される。これは、なるほど常識的次元での議論であって、哲学的・原理的な問題次元ではこれを単独に追認しただけでは済まないかもしれない。慥かに、個々の“他我認識”は誤謬と認定される可能性を孕んでおり、単なる私念にすぎなかったことが自覚化されうることを免れない。がしかし、この“誤謬の可能性”“私念にすぎないかもしれない”ということ、このこと自身の“存在論的構造”を省察してみるとき、まさに上述しておいた“所識的相関項”の間主観的志向性・同一性という機制が前梯的基礎になっていることが判る。」196-7P
(対話A)「ここで留目したいのは、志向的意味所識の間主観的同一性が不断に矯正的に措定されて行くことにおいて、意味的所識が間主観的同一相で形成されることと相即的に、能知的意識の側も間主観的に相同化して行くという事態である。この形成過程そのことについては必要最低限の事項を前節で述べておいたが、ここでは、能知的意識の間主観的同調化を相即的に支えるイデアールな「意味的所識」の存立性が「能識的或者」の存立を根拠づけるという事情が銘記されねばならない。「意味的所識」は、それ自身としてレアールには“無”であるとはいえ、例えばルビンの杯といった反転図形において典型的に知られるように、現相的所与は同一でも所識たるそれの相違に応じて現相的所知事態が一変するという事実に拠ってまずは一定の存立性を現に有つ。そして、さらに、「意味的所識」は単に自分にとってだけでなく他者たちにも存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性に拠っても存立性を有つ。かかる「意味的所識」を向妥当せしめる“形式”が共同主観的に同型化しているかぎりで“共同主観的な或者”である。この“共同主観的な能識的或者”はそれ自身としてレアールには“無”であるにせよ、共同主観的な意味的所識を“質料”に向妥当せしめる“構成形式”として“保有”する相に形成されている者として現相世界の現相在を依って在らしめる積極的な一契機であり、そのことにおいて積極的な存立性を有つ。――こうして、間主観的同一相に形成されて存立する「意味的所識」と「能識的或者」とは、それ自身としてはイルレアール=イデアールな形象(「ゲビルデ」のルビ)にすぎないにもかかわらず、単なる“無”ではなくして、現相世界の現相在を媒介的に成立せしめている契機として、相即的・相関的に、積極的な存立性を有するのである。」197-8P
(対話B)「われわれは、本節の初めに「現相的所与」と「能知的誰某」との必然的連関を述べ、右でいま「意味的所識」と「能識的或者」との相関性を追認した。――「現相的所与」と「意味的所識」との関連、これについては先に(前々節ならびに前節、溯っては前々章ならびに前章このかた)主題的に論考しておいたので、ここに再唱するには及ばないであろう。――現相世界の存在構造を媒介的に支える四つの契機は、所知の側のレアール・イデアールな二肢的二重性、能知の側のレアール・イデアールな二肢的二重相というかたちで両つの二肢的成態を形成するばかりでなく、レアールな契機どうし、イデアールな契機どうしもリンケージを形成し、以って、四肢的連環を成しているのである。」198P
(対話C)「附言しておけば、われわれは行論の途次、現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)が現前するという事態について、それを支える諸契機の連関を対自化すべく、現相的所与が意味的所識として能知的意識に“対妥当”するとか、能知的主体が意味的所識を“保有”するとか、能知的主体が意味的所識を“形式”的契機として“質料”的契機たる現相的所与に“向妥当”せしめるとか、能知的誰某が現相的所与によって“制約”されるとか、この種の立言を事としてきたが、二肢的連関ないし三肢的連関は四肢的全体連関の射影的部面であって、真実態においては、その都度すでに、現相的世界の現前(「フォルコメン」のルビ)は四肢的連関態の一総体によって媒介的に支えられているのであり、現相的世界の現前という事態は四肢的構造成態なのである。現相的世界が能知的主体に現前するという事態を、われわれは、「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当すると言い、現前の対他者性・対自己性を明示するさいには「意味的所識」が「現相的所与」に即して「能識的或者」としての「能知的誰某」に帰属すると言う。また、現相の能知による被媒介性を明示するためには、「能識的或者」としての「能知的誰某」が質料的契機たる「現相的所与」に形相的契機たる「意味的所識」を向妥当せしめると言う。われわれは、これを簡略化して、「与件」が「或るもの」として「或る者」としての「誰か」に現前するGegebens als etwas vorkommt jemandem als etwemと標記する場合もある。――われわれは、意識は常に何ものかについての意識である(Bewußtsein von etwas)という命題を勿論追認する。が、しかし、単に「についての」(von)という規定では十全でないと考える。けだし、これで以っては、所知その都度所与以上の或るものであること、レアール・イデアールの二肢的な構造成態であること、これが明示されておらず、また、能知がその都度人称的誰某以上の共同主観的或者であること、レアール・イデアールの二重的構造成態であること、これが明示されていないからである。われわれは「意識」の、剴切には「現相」現前の、原基的構造範式として、前掲の通り、「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという両つのレアール・イデアールな二肢的成態の連関、都合四肢的な構造的連環態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ。」198-9P
(対話D次の篇の課題)「われわれは、謂う所の四肢的構造成態を審らかに見据えるためにも、本篇では敢て括弧に収めてきたいわゆる高次的認識の次元にまで視界を拡充し、対他・対自の間主観性の存立実態をも深層的に把え返しつつ、認識的世界の実相をより精微に究明していかねばならない。」199P
内田聖子『デジタル・デモクラシー ビックテックを包囲するグローバル市民社会』
たわしの読書メモ・・ブログ681
・内田聖子『デジタル・デモクラシー ビックテックを包囲するグローバル市民社会』地平社 2024
内田さんは、新しい地方自治の試みで岸本杉並新区長を生み出した仕掛け人のひとりです。で、YouTubeの情報発信チャンネルのデモクラシー・タイムスに出て、自己紹介していた本です。出版社は、数冊の面白そうな本を出して新しく立ち上げた会社です。
最近、中学生できちんと問題をとらえて、YouTubeでいろいろ発言するひとが出てきているのですが、そのひとが、いつまで間接民主主義をやっているのか、直接民主主義でやっていくことだ、という趣旨の話していました。わたしもそんなことを考えていて、予断と偏見に囚われていないと当然そういう話とリンクしていくのだろうと考えて、文も書いていました。そのことで、インターネット――デジタル世界の可能性の話につながっていくのです。ところが、この本の導入部は、むしろ話は情報管理・操作の話から入っていて、また金儲け主義の資本が欲望の生産・再生産のためにビック・テックが暗躍しているという話も出て来ます。むしろ、インターネット世界の危うさの話から、入っています。「デジタル・ファシズム」とも言いえる情況です。
かつて、公共事業が大手ゼネコンに金儲けさせるための事業になっているという批判が出ていましたが、それが今日的には大手IT事業の金儲けのために、政治が動かされている事態になっています。この本の中には出てこないのですが、マイナンバー健康保健証で紙の保険証を廃止するということで起きていた混乱がそのことを如実に表しています。河野太郎デジタル担当大臣が、きちんと何が問題になっているのかを押さえず、対話もしようとせず一方的に押し付けるファシスト的手法で、大混乱を引き起こしています。まさに、デジタル・ファシズムなのです。
ですから、デジタルという技術をいかに利用し得るかというときに、そもそもデモクラシーの確立をし、そして何のためにそのことをするのかということをきちんと議論しえる基盤を作らないと、まさにデジタル・ファシズムになっていくのです。後半は、そういうせめぎ合いのなかで、デジタル・デモクラシーと言いえるような情況がでてきていることを示してくれています。絶望に陥らせないという著者の指向がそのことに示されているとわたしはとらえ返していて、希望を見出せる本になっています。
この本の内容を逐一おさえる作業をしたいところですが、目次を編集しつつ挙げることによってそのことに換えます。
目次
まえがき
第1章 <わたしの顔>を取り戻せ!
全米初の顔認証の使用禁止条例――サンフランシスコ市
監視国家化してきた米国
トランプ政権でさらに深刻化した監視体制
次々と広がる顔認証禁止条例――コミュニティの力
全米各都市で規制条例が誕生
企業も対応を転換、闘いの舞台は連邦議会へ
逆風――企業・警察による“巻き返し”作戦と、分断される世論
日本では顔認証技術が次々と導入
第2章 監視広告を駆逐せよ
データ・マイニング(採掘)とターゲット広告
採取の構造――苦しむ中小企業
曖昧な効果
相次ぐ変更、不親切なサポート体制
進む垂直統合と寡占化――広告代理店も支配下に
欧州と米国で進むターゲティング広告の規制
揺らぐ[広告神話]
第3章 キッズ・テック 狙われる子どもたち
子どもの世界で拡大するターゲティング広告
ビッグ・テックとビッグ・フードの結託
デジタル環境が増殖させる肥満
その他のターゲティング広告
自主規制の限界――規制当局とビッグ・テックの攻防
日本には子どもを守る規制がない
第4章 暗躍するデータブローカー
データブローカーとは
監視資本主義を推進するデータブローカー
位置情報も頻繁に売買されている
監視されてのではなく私たちが企業を監視する
データブローカーに特化した規制を
第5章 アルゴリズム・ジャスティス
解雇されたAI倫理研究者の挑戦
AIによる差別の拡大・固定化
「数学破壊兵器」としてのアルゴリズム
規制の動き
よりラディカルで、根本的な改革を
第6章 小農民の権利を奪うデジタル農業
インド新農業法に反対する農民
フェイスブックとインド企業の協働
ビッグ・テックの農業
大規模農家に有利なデジタル農業
ギグワークの拡大と地域の小規模商店の破壊
デジタル技術が促進する土地の金融化
農と食に関するナラティブ(物語)を変える
第7章「ゴースト・ワーク」を可視化する
――グローバル・ジャスティスとデジタル植民地主義
デジタル経済を変える「見えない労働」
AIが必要とし、生み出す人間の労働
法規制のない非対称な労働市場――取引のコストはすべて働く側が持つ
業界の是正を求める取り組み――連帯しはじめるゴースト・ワーカーたち
労働者としての権利を求め相次ぐ訴訟
デジタル植民地主義か、公正な仕事の配分か
第8章 ロビイストから民主主義を取り戻す
ワシントンからブリュッセルへ――舞台の移動
政府・議会との闇の回転ドア
自社メディア・広告を使用した反規制キャンペーン
強固なロビー・ネットワークとしての研究者・機関
新たなロビー戦略――「物語をリセット」する
欧州のAI規制法案成立の裏側――ロビイストの動き
公共の利益、民主主義に基づくテクノロジーを
第9章 アマゾン帝国を包囲する
ジャイアント・キリング――たった一人の闘い
組合の結成に奔走
大混乱のアラバマ州の組合結成――妨害を押し返す
変わる潮流――ビッグ・テックへの包囲網
国境を越えて広がる包囲網
そして、アマゾンジャパンでも
第10章 スマートシティを民主化する
――恐れぬ自治体(「フィアレスシティ」のルビ)の挑戦
「グーグルによるスマートシティ」への挑戦
賢明な都市への転換
恐れぬ自治体・バルセロナ
市民が市政へ参加するためのプラットフォーム
プライバシー保護とデータ・コモンズ
スマートシティを人々の手で民主化する
グローバルに広がる自治体ネットワーク
第11章 民主主義という希望
私たちが生きる世界の現実
闘いの相手は誰か
反撃はいつでも人々が生きる場から
集団行動の力
もう一つの希望のありか
あとがき
注
本書で紹介した世界の市民社会組織、運動、独立系の研究機関・メディア
最後に特に印象に残ったところを切り抜きメモとして残します。
「「アルゴリズムとは、客観的で正しく科学的なものではなく、プログラムに埋め込まれた『意見』なのです。誤ることもあれば、善意に基づいても破壊的な影響を及ぼすこともある。アルゴリズムを信用させたり恐れたりするのも、マーケティング上のトリックです。みんな数字を恐れつつ信用していますから」/QRCAA(オニール・リスクコンサルティング&アルゴリズム監査<会社名>)は、クライアント企業のアルゴリズムの設計や利用方法、データの獲得方法やコードの試験方法、システムのメンテナンスなどの情報を精査する。その際の指標は、@データの安全性(データにバイアスが含まれていないか)、A成功の基準(開発者が「成功」と定めた基準が間違っていないか)、B正確性(アルゴリズムが誤りを起こす頻度や対象の分析、失敗した時の損失規模など)、Cアルゴリズムの長期的影響(社会や人々に及ぼす負の連鎖がないか)、だ。監査を通じて経営者はもちろん社内のプログラマーたちが倫理の課題に気づき議論を始めることが重要だと彼女(「データ・サイエンティスト、キャシー・オニール氏」)はとらえている。監査中は何度も、「アルゴリズムが成功した場合、誰に影響がありますか?」「失敗した時、被害を受けるのはどんな人たちですか?」と問いつづける。/「私たちはアルゴリズムの時代に何の準備もなく到達してしまいました。アルゴリズムは完璧でも公平でもなく、過去の行動パターンを成文化し、自動的に現状を維持するだけです。しかも民間企業が自ら使用したり政府機関に販売したりする『私的な権力』です。『民間なら競争が働くから市場の力で解決するのでは?』と思っても、そうはいきません。不公平は多大な利益を生み出しますから、だからチェックし、公平性を高める必要があるのです。」102-3P
「「データ・サイエンティストに伝えたいことは、私たちが真実を決めるべきではない、ということです。私たちは、社会に生じる倫理的な議論を解釈する存在であるべきです。そして、それ以外のみなさんに伝えたいのは、この状況は『数学のテスト』ではなく『政治闘争』であるということです。専制君主のようなアルゴリズムに対して、私たちは説明を求める必要があります。ビッグデータを妄信する時代は終わらせるべきです。」(オニール氏)」106-7P
「しかし、小規模農家たちが提起しているのは、新たに登場する技術によって得られたデータは誰のもので、誰が管理するべきものか、それは地域の発展につながるものなのか、技術は誰の、何のためにあるのか、という問いなのだ。」126P
「「デシディム」(カタール語で「私たちが決める」の意味)」209P→「ボトムアップ」211P
「「個人データは企業や政府のものではなく、それを持つ人自身のものである」」213P――「「共有材=データ・コモンズ」」213P
「ブリストル市の事例はとても小さくてシンプルな取り組みだか、データや技術によるパワーシフト(権力性の変革)の根源的要素が含まれ、技術は誰のためにあるのかを明快に私たちに伝える。このような市民参加型センシングの取り組みは、後に「ブリストル・アプローチ」と名づけられ、他の自治体でも実践されている。」218P
「自治体におけるデジタル化の本来の目的は、行政の透明性の向上と住民参加の推進による、自治と民主主義の深化であるべきだ。」223P
「しかしそれでも、私たちは立ち止まり、もう一度問うてみなければならない。「私たちはどのような世界に生きたいのか。そしてどのような未来にしたいのか」と。」230P
「欧州では二〇一〇年代以降、デジタル分野での包括的なルール形成が大きく進んだ。第2章などで言及したEU一般データ保護規制(GDPR)やAI規制案、そして二〇二二年一一月に施行されたデジタル・サービス法(DSA)、二〇二三年五月に施行されたデジタル市場法(DMA)だ。」236P
(本文の最後の文)「二〇二二年五月、ユネスコ世界報道の自由デー世界会議の閉会スピーチにて、ズボフ教授は「デジタルは民主主義の家に住まねばなりません。これからの数年は厳しいものとなり、不屈の精神と決意が必要にされます」と、監視資本主義との闘いを厳しく展望した。/その演題は、「Democracy Can Still End Big Tech’s Dominance Over Lives」。/私たちも、同じ決意をもってこの言葉を繰り返そう――ビッグ・テックによる私たちの生命の支配を終わらすことができるのは、やはり民主主義なのだ。」244-5P
(「あとがき」から)「デジタル社会の終点は、ディストピアでもなくユートピアでもなく、人々が社会経済的に尊厳ある暮らしをし、未来に希望を抱ける当たり前社会であるべきだ。私たちの世代で実現できなければ、次の世代、そしてまた次の世代へと、変革のための力をつないでいこう。」249P
・内田聖子『デジタル・デモクラシー ビックテックを包囲するグローバル市民社会』地平社 2024
内田さんは、新しい地方自治の試みで岸本杉並新区長を生み出した仕掛け人のひとりです。で、YouTubeの情報発信チャンネルのデモクラシー・タイムスに出て、自己紹介していた本です。出版社は、数冊の面白そうな本を出して新しく立ち上げた会社です。
最近、中学生できちんと問題をとらえて、YouTubeでいろいろ発言するひとが出てきているのですが、そのひとが、いつまで間接民主主義をやっているのか、直接民主主義でやっていくことだ、という趣旨の話していました。わたしもそんなことを考えていて、予断と偏見に囚われていないと当然そういう話とリンクしていくのだろうと考えて、文も書いていました。そのことで、インターネット――デジタル世界の可能性の話につながっていくのです。ところが、この本の導入部は、むしろ話は情報管理・操作の話から入っていて、また金儲け主義の資本が欲望の生産・再生産のためにビック・テックが暗躍しているという話も出て来ます。むしろ、インターネット世界の危うさの話から、入っています。「デジタル・ファシズム」とも言いえる情況です。
かつて、公共事業が大手ゼネコンに金儲けさせるための事業になっているという批判が出ていましたが、それが今日的には大手IT事業の金儲けのために、政治が動かされている事態になっています。この本の中には出てこないのですが、マイナンバー健康保健証で紙の保険証を廃止するということで起きていた混乱がそのことを如実に表しています。河野太郎デジタル担当大臣が、きちんと何が問題になっているのかを押さえず、対話もしようとせず一方的に押し付けるファシスト的手法で、大混乱を引き起こしています。まさに、デジタル・ファシズムなのです。
ですから、デジタルという技術をいかに利用し得るかというときに、そもそもデモクラシーの確立をし、そして何のためにそのことをするのかということをきちんと議論しえる基盤を作らないと、まさにデジタル・ファシズムになっていくのです。後半は、そういうせめぎ合いのなかで、デジタル・デモクラシーと言いえるような情況がでてきていることを示してくれています。絶望に陥らせないという著者の指向がそのことに示されているとわたしはとらえ返していて、希望を見出せる本になっています。
この本の内容を逐一おさえる作業をしたいところですが、目次を編集しつつ挙げることによってそのことに換えます。
目次
まえがき
第1章 <わたしの顔>を取り戻せ!
全米初の顔認証の使用禁止条例――サンフランシスコ市
監視国家化してきた米国
トランプ政権でさらに深刻化した監視体制
次々と広がる顔認証禁止条例――コミュニティの力
全米各都市で規制条例が誕生
企業も対応を転換、闘いの舞台は連邦議会へ
逆風――企業・警察による“巻き返し”作戦と、分断される世論
日本では顔認証技術が次々と導入
第2章 監視広告を駆逐せよ
データ・マイニング(採掘)とターゲット広告
採取の構造――苦しむ中小企業
曖昧な効果
相次ぐ変更、不親切なサポート体制
進む垂直統合と寡占化――広告代理店も支配下に
欧州と米国で進むターゲティング広告の規制
揺らぐ[広告神話]
第3章 キッズ・テック 狙われる子どもたち
子どもの世界で拡大するターゲティング広告
ビッグ・テックとビッグ・フードの結託
デジタル環境が増殖させる肥満
その他のターゲティング広告
自主規制の限界――規制当局とビッグ・テックの攻防
日本には子どもを守る規制がない
第4章 暗躍するデータブローカー
データブローカーとは
監視資本主義を推進するデータブローカー
位置情報も頻繁に売買されている
監視されてのではなく私たちが企業を監視する
データブローカーに特化した規制を
第5章 アルゴリズム・ジャスティス
解雇されたAI倫理研究者の挑戦
AIによる差別の拡大・固定化
「数学破壊兵器」としてのアルゴリズム
規制の動き
よりラディカルで、根本的な改革を
第6章 小農民の権利を奪うデジタル農業
インド新農業法に反対する農民
フェイスブックとインド企業の協働
ビッグ・テックの農業
大規模農家に有利なデジタル農業
ギグワークの拡大と地域の小規模商店の破壊
デジタル技術が促進する土地の金融化
農と食に関するナラティブ(物語)を変える
第7章「ゴースト・ワーク」を可視化する
――グローバル・ジャスティスとデジタル植民地主義
デジタル経済を変える「見えない労働」
AIが必要とし、生み出す人間の労働
法規制のない非対称な労働市場――取引のコストはすべて働く側が持つ
業界の是正を求める取り組み――連帯しはじめるゴースト・ワーカーたち
労働者としての権利を求め相次ぐ訴訟
デジタル植民地主義か、公正な仕事の配分か
第8章 ロビイストから民主主義を取り戻す
ワシントンからブリュッセルへ――舞台の移動
政府・議会との闇の回転ドア
自社メディア・広告を使用した反規制キャンペーン
強固なロビー・ネットワークとしての研究者・機関
新たなロビー戦略――「物語をリセット」する
欧州のAI規制法案成立の裏側――ロビイストの動き
公共の利益、民主主義に基づくテクノロジーを
第9章 アマゾン帝国を包囲する
ジャイアント・キリング――たった一人の闘い
組合の結成に奔走
大混乱のアラバマ州の組合結成――妨害を押し返す
変わる潮流――ビッグ・テックへの包囲網
国境を越えて広がる包囲網
そして、アマゾンジャパンでも
第10章 スマートシティを民主化する
――恐れぬ自治体(「フィアレスシティ」のルビ)の挑戦
「グーグルによるスマートシティ」への挑戦
賢明な都市への転換
恐れぬ自治体・バルセロナ
市民が市政へ参加するためのプラットフォーム
プライバシー保護とデータ・コモンズ
スマートシティを人々の手で民主化する
グローバルに広がる自治体ネットワーク
第11章 民主主義という希望
私たちが生きる世界の現実
闘いの相手は誰か
反撃はいつでも人々が生きる場から
集団行動の力
もう一つの希望のありか
あとがき
注
本書で紹介した世界の市民社会組織、運動、独立系の研究機関・メディア
最後に特に印象に残ったところを切り抜きメモとして残します。
「「アルゴリズムとは、客観的で正しく科学的なものではなく、プログラムに埋め込まれた『意見』なのです。誤ることもあれば、善意に基づいても破壊的な影響を及ぼすこともある。アルゴリズムを信用させたり恐れたりするのも、マーケティング上のトリックです。みんな数字を恐れつつ信用していますから」/QRCAA(オニール・リスクコンサルティング&アルゴリズム監査<会社名>)は、クライアント企業のアルゴリズムの設計や利用方法、データの獲得方法やコードの試験方法、システムのメンテナンスなどの情報を精査する。その際の指標は、@データの安全性(データにバイアスが含まれていないか)、A成功の基準(開発者が「成功」と定めた基準が間違っていないか)、B正確性(アルゴリズムが誤りを起こす頻度や対象の分析、失敗した時の損失規模など)、Cアルゴリズムの長期的影響(社会や人々に及ぼす負の連鎖がないか)、だ。監査を通じて経営者はもちろん社内のプログラマーたちが倫理の課題に気づき議論を始めることが重要だと彼女(「データ・サイエンティスト、キャシー・オニール氏」)はとらえている。監査中は何度も、「アルゴリズムが成功した場合、誰に影響がありますか?」「失敗した時、被害を受けるのはどんな人たちですか?」と問いつづける。/「私たちはアルゴリズムの時代に何の準備もなく到達してしまいました。アルゴリズムは完璧でも公平でもなく、過去の行動パターンを成文化し、自動的に現状を維持するだけです。しかも民間企業が自ら使用したり政府機関に販売したりする『私的な権力』です。『民間なら競争が働くから市場の力で解決するのでは?』と思っても、そうはいきません。不公平は多大な利益を生み出しますから、だからチェックし、公平性を高める必要があるのです。」102-3P
「「データ・サイエンティストに伝えたいことは、私たちが真実を決めるべきではない、ということです。私たちは、社会に生じる倫理的な議論を解釈する存在であるべきです。そして、それ以外のみなさんに伝えたいのは、この状況は『数学のテスト』ではなく『政治闘争』であるということです。専制君主のようなアルゴリズムに対して、私たちは説明を求める必要があります。ビッグデータを妄信する時代は終わらせるべきです。」(オニール氏)」106-7P
「しかし、小規模農家たちが提起しているのは、新たに登場する技術によって得られたデータは誰のもので、誰が管理するべきものか、それは地域の発展につながるものなのか、技術は誰の、何のためにあるのか、という問いなのだ。」126P
「「デシディム」(カタール語で「私たちが決める」の意味)」209P→「ボトムアップ」211P
「「個人データは企業や政府のものではなく、それを持つ人自身のものである」」213P――「「共有材=データ・コモンズ」」213P
「ブリストル市の事例はとても小さくてシンプルな取り組みだか、データや技術によるパワーシフト(権力性の変革)の根源的要素が含まれ、技術は誰のためにあるのかを明快に私たちに伝える。このような市民参加型センシングの取り組みは、後に「ブリストル・アプローチ」と名づけられ、他の自治体でも実践されている。」218P
「自治体におけるデジタル化の本来の目的は、行政の透明性の向上と住民参加の推進による、自治と民主主義の深化であるべきだ。」223P
「しかしそれでも、私たちは立ち止まり、もう一度問うてみなければならない。「私たちはどのような世界に生きたいのか。そしてどのような未来にしたいのか」と。」230P
「欧州では二〇一〇年代以降、デジタル分野での包括的なルール形成が大きく進んだ。第2章などで言及したEU一般データ保護規制(GDPR)やAI規制案、そして二〇二二年一一月に施行されたデジタル・サービス法(DSA)、二〇二三年五月に施行されたデジタル市場法(DMA)だ。」236P
(本文の最後の文)「二〇二二年五月、ユネスコ世界報道の自由デー世界会議の閉会スピーチにて、ズボフ教授は「デジタルは民主主義の家に住まねばなりません。これからの数年は厳しいものとなり、不屈の精神と決意が必要にされます」と、監視資本主義との闘いを厳しく展望した。/その演題は、「Democracy Can Still End Big Tech’s Dominance Over Lives」。/私たちも、同じ決意をもってこの言葉を繰り返そう――ビッグ・テックによる私たちの生命の支配を終わらすことができるのは、やはり民主主義なのだ。」244-5P
(「あとがき」から)「デジタル社会の終点は、ディストピアでもなくユートピアでもなく、人々が社会経済的に尊厳ある暮らしをし、未来に希望を抱ける当たり前社会であるべきだ。私たちの世代で実現できなければ、次の世代、そしてまた次の世代へと、変革のための力をつないでいこう。」249P
2024年12月16日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(3)
たわしの読書メモ・・ブログ680[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(3)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界にはわれわれが“身体的自我”と呼ぶ分節肢も特異な様態で現前する。身体的自我は、個体的対象の相ではもとより「所与−所識」成態の一つであるが、現相的世界の爾余(「じよ」のルビ)の諸肢節とのあいだに、一種独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは対象的一所知の或るもの(=能知的主体)である。能知的主体はそれ自身また二肢的二重性を呈し、単なる個体的な身体的自我以上の或者として存立する。」87P
第一段落――前梯的な「身体的自我」の現相的な現前様態の特異性の概観 87-92P
(この項の問題設定)「身体的自我が現相的世界の爾余の諸肢節とのあいだに有つ「独特の関係性」は後論において「所知的現相の能知的姿態への帰属性」と呼ぶものであり、また、「能知的主体の二肢的二重性」の後論において「能知的誰某(「たれか」のルビ)−能識的或者」と呼ぶものであって、それでの議論を俟って甫(「はじ」のルビ)めて「身体的自我主体」の現実態が規定されうるのであるが、議論の順序としてここでは前梯的に「身体的自我」の現相的な現実様態の特異性をひとわたり見ておこう。」87P
(対話@)「人々は日常生活において四囲の対象的諸個体と“自分の身体”とを反省以前的に区別している。多少とも反省してみれば、“自分の身体”は直接的には頭や顔、それに背中が見えず、手や足の見え方も甚だ特異である。また、運動感覚的・蝕感覚的・体感的にも特異である。しかし、人々の反省以前的な意識においては、頭や顔が見えないとか、手足の射映相が異貌的であるとか、“自分の身体”のこういう特異性は殆んど覚識されない。人々は単純素朴に“自分の身体”も仲間の人体も同型的な相にあるものと信憑している風情である。そして、この同型性の覚識と相即的に“身体”は“皮膚的に”劃定された個体的一対象の相で泛かぶ。“身体”は謂うなれば皮膚を界面として内部的に閉じた相で知覚・表象されがちである。――ここで早速に指摘しておけば、われわれは今茲ではまだ“自己像”が如何様にして形成されるか、発生論的な議論に立入る心算はないのだが、頭や背中をも具え、皮膚界面で閉じた対象的一個体という“自分の身体”像は、決して“この身体”だけを主題とした鏡映的な自己体験を通じて形成されるものではなく、既にして他人たちの“あの身体”(あれらの“身体”)との反照的な相互媒介に俟って形成されたものであるということが識られている。今茲の次元での鏡映体験が云々されうるとすれば、それは“水鏡”を含めての鏡像体験という以前に原基的に“他者鏡”でなければならない。」87-8P
(小さなポイントの但し書き)「(因みにチンパンジーを用いてのG.C.Gallup等の研究によれば、現実の他個体との社会的接触の経験をもたない(分離飼育された)個体は鏡に映っている像をついに自分の鏡映像としては認知できない由である。手足腹などを視覚的に現認され、運動感覚・触覚・体感などと協応的に結合されている“この身体”を、鏡に映し出されている“あの身体”と同定できるためには、現実の他個体との社会的接触の体験が必要な前提をなしている。)」88P
(対話A)「“この(自分の)身体”像の形成にとって“あの(他人の)身体”との現実的な接触・協応が必要条件をなすのであり、他人の身体は自分の身体からの類推的な投入といったものではなく、そもそも“あの身体”と“この身体”とは、相補的・共軛的に成立するのである。この間の次第については、しかし、次節で主題的に論攷することにして、ここでは“自分の身体”なる分節態が一応既成化している場面を手掛りにしながら、前段的な作業をひとまず進めておきたいと念う。」88P
(対話B)「偖、虚心に省みるとき、如実の体験相における“この(自分の)身体”は、決して単純に皮膚的界面で劃定されて閉じているなどというものではない。皮膚的界面で閉じた身体なるものは観察的に対象化された個体の所知であって、如実の体験相における“この身体”は“皮膚的界面”を双方向的に超えて膨張・収縮する。眼鏡や補聴器は、それを常用している人にとっては、対象的存在というよりも身体的自我の一部というべきであろう。医者が聴診器で患部の微妙な様子を感じ取るとき、或いはまた、ドライヴァーが両側に塀の迫った路地を巧みに擦り抜けるとき、聴診器やマイカーは、医者や運転手にとって、対象的存在ではなく、身体的自我の一部をなしていると言えよう。逆に、その反面、麻痺した腕や脚は、身体的自我の一部というよりも、むしろ対象的存在として覚知される。――なるほど、或る種の反省的見地からは、聴診器や自動車は勿論のこと、眼鏡や補聴器はあくまで外部的対象であり、麻痺したりといえども腕や脚はあくまで身体の一部である。だが、当の反省的立場とやらでは、身体的自我とは皮膚的に劃定された肉体的存在であるということが先取的な前提になってはいないか。しかるに、われわれは今まさに当の前提的既成観念を問い返しつつ、体験の如実相に定位しようとしているのであるから、この種の“反省”は姑く煩らわされずに済む。」89P
(対話C)「如実の体験相における身体的自我は、皮膚的境界面を超出して膨張・収縮だけではない。身体的自我は膨・縮せるその都度の相で、ないしは膨・縮せる相と相即的に、能知的と所知的の両義態を呈したり、能知的所知=所知的能知の渾然一体相で体験されたりする。メルロ=ポンティも指摘する通り、例えば、右手で左手の手首をつかむとき、右手は能知として、左手は所知として覚識されるが、暫く経つと反転を生じ、右の掌が対象的所知として左の手首によって触知されるようになる。このように、身体(の一部)は能知として現存在することも所知として現存在することもあるという両義性を呈しうる。だが、このさい特に銘記したいのは、能知としてあるか所知としてあるかは必ずしも排他的・非両立的ではない、という厳事実である。市川浩氏も説かれるように、一例を挙げれば、両掌を合わせて眼を閉じる合掌の場合など、左右の掌はどちらが能知ともどちらが所知とも言えぬ文字通り渾然一体の相で体験される。これは能知と所知との区別性・対立性が曖昧化した消極的事態なのではなく、身体的自我の本源的で積極的な在り方であるとわれわれは考える。そして、この在り方での身体的自我を「能知的所知=所知的能知」相と呼ぶことにしたい。」89-90P
(対話D)「能知的と賜与値的との両義態や渾一態は、何も自分の身体の部位どうしの関係だけに存立するのではない。それは、他人と握手する場合や相手と見凝め合っている場合などにも往々にして現出する。(われわれは能蝕と所蝕とが本来的に排他的・非両立的ではないと考えるだけでなく、眼差regardもまた「能知的所知=所知的能知」の渾一相で体験されうる事実を主張する。)その折りには 身体的自我がいわゆる“他人の身体”部位にまで膨張・伸長していると言うこともできよう。両義態や渾一態は他人や動物の身体(的部位)との関係の場だけにも限られない。それは掌や指先で例えば机の表面に触れているような場合にも生じうる。掌や指先で対象を知覚しているのか、対象に触れている掌や指先を知覚しているのか、いずれとも言いがたい「能知的所知=所知的能知」の相で掌や指先が知覚されるような場合がある。――さらに言えば、能知的と所知的との両義態を呈するのは、また「能知的所知=所知的能知」の渾一態を現出するのは、肉体の一部だけではない。盲人にとっての杖は、彼がそれを持ち運んでいるかぎりでは一つの対象的所知であるが、彼が杖で触知する際にはそれは彼の身体的自我の一部をなす。盲人は、われわれが指の先で物を触知するように、杖の先で触知する。それだけではない。われわれが右手で左の手首を握りしめるとき、しばしば反転が生じて、汗ばんだ右の掌を左の手首で触知することがあるのと同様に、杖をつく者においては、杖の握りの部分で汗ばんだ掌を感受するという反転した事態が往々にして体験される。身体的自我の拡大(皮膚的界面を超えての伸長・膨脹)は盲人の杖や医者の聴診器、音楽家にとっての楽器や運転者にとっての自動車といった域に止まるものではない。一般に、ボーアやノイマンが言う意味での“観測装置”は、盲人の杖先や医者の聴診器などと同様、能知的身体の一部をなすと言うことができよう。われわれは、物に触れている杖先や指先を感受するように、観測装置という拡大せる身体的自我において「能知的所知=所知的能知」の一状態を感知することさえあるのである。」90-1P
(対話E)「膨脹・収縮せる身体的自我の如実の体験相に関してわれわれが特に留目したいのは、知覚が単なる客体の認知でもまた単なる主体の体感でもなく、それがあくまで能知=所知の一状態の感受だという点である。この点については多少とも説明を要するかもしれない。」91P
(対話F)「まずは指先の刺痛に例をとろう。指先の刺痛という一箇同一の与件を、反省的には「トゲの刺さっている指先の感覚」とみなすことも、「指先に刺さっているトゲの感覚」とみなすこともできる。両者は反省的な「意味的所識」性においては異なる。しかし、トゲという認知には視覚や、記憶に基づく判断などが協働しているのであって、触知覚的与件としては同一であろう。そこに存在するのは能知的所知=所知的能知たる指先の一状態だけである。」91P
(小さなポイントの但し書き)「――指先には普段はトゲが刺さってはいないし、指先が痛むのはトゲが刺さっている場合だけはない。人々が「指先」と「外物たるトゲ」とを区別するのは尤もな“生活の知恵”である。そして、指先ということで準概念的に抽象化された“指”なるものの先端を表象するかぎり、そのような抽象的・標準的・常態的な“指”と偶々トゲの刺さっている状態とが区別されるのも当然である。だが、抽象的・標準的な“指”(従って、トゲその他、外物との截断)はどこから得られたのか? 特殊具体的なその都度の体験相から具体的な現実を“捨象”する理念化Idealisierungによってである! 抽象的“指”は実在しない。実在するのは、トゲの刺さった、針の刺さった、机に触れている、等々、その都度の状態性における指でしかありえない。従って、いまの問題場面に「刺戟」と「指先」(抽象的“指”!)との存在的截断を大前提として持込むとすれば、それは機制の観念には叶っていようとも、論理的・手続的には顚倒である。」91P
(対話G)「因みに、真暗闇で全く未知の対象に触れた場合など、指先の感覚と対象的刺戟とを区別することは不可能であろう。そこには渾然一体となった「能知的所知=所知的能知」しか覚知されない筈である。同趣の構制が盲人の杖先といった場合に限らず、“観測装置”という拡大せる身体的自我における感性的知覚一般に見出されることは、爰でもやはり絮言(「じょげん」のルビ)するまでもあるまい。」92P
(対話H)「われわれとしては、視覚の場合についても、身体的自我の伸長、ひいては「能知的所知=所知的能知」の渾然一態の覚知という構制が存立していることを主張するのであるが、しかし、そのためには「能知」と「所知」とを截断してしまう既成観念の存立機制と存立実態について必要最低限の剔抉(「てっけつ」のルビ)を挿んでおくのか好便かと思う。」92P
第二段落――「能知−所知」関係の実態に定位することにおいて誤てる既成観念を排却する
(この項の問題設定)「人々の既成観念では、「身体的自我」はそれが能知的主体であるかぎり、対象的所知とは截断された相で表象される。そして、普通には「能知」と「所知」とは謂うなれば空間的には離在する二つのものの相で了解されている。このような既成観念が鞏固(「きょうこ」のルビ)に成立しているのは決して謂われなしとしない。しかしながら、この既成観念と相即する外界と身体との截断、ひいては客観と主観との截断から認識論上の諸々のアポリアが出来する。勿論、それが如何にアポリアの根基であろうとも、それだけの理由で排却しようと試みるのであれば、暴挙と評されざるを得まい。われわれがそれを排却するのはアポリアの根基というだけの理由からではない。われわれの観るところでは、能知と所知とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断してしまう既成観念は、或る錯認(これは諒解しうべき事情があるのだが)に基因するものであって、事柄の実態に反する。われわれとしては「能知−所知」関係の実態に定位することによって誤てる既成観念を排却する。」92P
(対話@)「「能知」と「所知」とを存在的に截断してしまう既成観念は、発生論的にも論理的にも極めて複雑な事情と事由に支えられており、これの批判的排却は本書の行文中折々の次元と準位に即して遂行する予定である。が、ここではとりあえず、身体的自我という“能知的主体”の次元に即しつつ、「能知」と「所知」との截断の構制の一斑を見据えることから始めよう。」92-3P
(対話A)「扨(「さて」のルビ)、嚮に触覚に定位して述べたところを想起されれば容易に納得を得られることと念うのだが、人々がもし“触知モデル”とも謂うべきものを「能知−所知」関係の基軸に置く場合には「能知」と「所知」を空間的に截断してしまう既成観念は恐らく成立しがたいことであろう。ところがサル族の一員たるわれわれヒトにあっては、鳥類とも同様、視覚こそが対象認識の基幹をなしている。(現に多くの言語において「知る」という詞は「見る」という詞から派生したものの由であり、この一事にも、ヒトにとって視覚的認知が対象認識一般の根幹をなすことが露われていると言えよう。)このために、認識における「能知−所知」関係の基幹的モデルが、ヒトの場合、“視覚的対象認識”の構図に定位して立てられるのも自然な成行きというものであろう。しかるに、視覚的対象認識においては「見られる物」と「見る者」とがまさに空間的に分離・離在した構図で現識される。そこでは見える対象が先方(「あちら」のルビ)に、そして“この身体”が此方(「こちら」のルビ)に、分離・対立した構図で現出する。(両者を距ててる中間部の“空間”は一般に「地」となっており、それは「図」としての対象や身体とは異なって明識されず、謂うなれば“無”化されている。)そして“身体の窓”とも謂うべき眼の開閉に応じて対象(これ自身は厳存しつづけているものと思念される)が見えたり見えなかったりする。眩(「まぶ」のルビ)しい光が眼に入射して来たり、強烈な音が耳朶(「じだ」のルビ)を打ったりといった体験に鑑みても、対象から何かしらが“宙空”を貫通・走行してきて“窓”に達するという想念がナチュラルに泛かぶ。こうして、所知的対象と能知的身体とが“宙空”という“分離圏”を挿んで対峙的な作用関係相に置かれる。――事は、しかし、この域では停止しない。能知と所知との関係が身体の内部にスライドされ、しかも、そのさい、所知と能知との空間的分離の構図が維持される。このスライディングは大旨としては以下のごとき事情に俟つものであろうかと思われる。対象的刺戟が“身体の窓”に到着することは、対象的知覚にとって必要条件であっても充分条件ではない。いわゆる“放心状態”の場合など、対象的刺戟は確かに入来していると考えられるにもかかわらず対象的知覚が現認されない場合があるからである。ここにおいて、入来している筈のものを選択的に覚知する機制が問題になる。そして、この場合で、あの視覚モデルの構制が推及される。すなわち、対象は厳存しつづけているにもかかわらず、眼を見開らくか、眼を閉ざすか、選択的な能動的反応作用に応じて対象が知覚されたりされなかったりするのと同様、“身体の内なる能知”の選択的応接の如何で“入来している或るもの”が覚知されたりされなかったりする、という構制である。このさい、“内なる所知”と“内なる能知”との関係に“視覚モデル”を類推的に適用することは、可能的一方式たるにすぎず、何も必然性があるわけではない。(われわれとしては後に他の可能的方式をも指摘する予定である。)が、人々の既成観念においては“内なる所知−能知関係”にまで暗黙のうちに“視覚モデル”の構図が推及されているという事情に鑑み、以下姑く、この路線からの帰結を見定めておこう。人々の思念するところでは“内なる所知”と“内なる能知”とは、視覚風の構図相で“離在的”“対峙的”である。能知と所知とは互いに“外部”的な関係にある。しかるに、“内なる所知”は頭痛・胸痛・腹痛など身体中のいたるところに“在る”わけで、“内なる能知”が所知の“外部”に“離在”すべきかぎり、“内なる能知”は体内のあらゆる部位・あらゆる位置に対して“外部”に在らねばならない。そこで“内なる能知”は実は身体そのものの外部に在ると考える途もあり得るが(われわれは後論の途次でこの考え方に立戻って批判することになろう)、しかし、ここではさしあたり“内なる能知”という言い方の元来の含意に策して、それはあくまで“身体の内部”に位置するものと想定しよう。その場合には“内なる能知”は“体内のあらゆる部位・あらゆる位置に対して<外部>に在りつつ”しかも身体の<内部>に在るという“矛盾”に陥ってしまう! この“矛盾”を避けるためには“内なる能知”は<点>的な存在であるか、端的に<非空間的・非延長的・非場所的>な存在であるか、そのどちらかと考えるほかはない。しかるに、<点>的な存在だと考える場合、そのような能知が選択的応接のエージェントであるという論点が神秘的であることは問わぬとしても、近傍的所知との離在性という論点を維持しがたくなり、視覚的モデルの自殺になってしまおう。そこで、残された選択肢を採って<非空間的>な存在だとするとき、<非空間的>存在が“身体に内在”する(位置という空間的規定性を帯びて在る)という没概念に陥り、これまた自殺論法である! こうして“内なる能知−所知”関係を離在的な視覚モデルの類推的適用によって説こうとする方式はおよそ妥当しえないのである。」93-5P
(小さなポイントの但し書き)「尚、右には“内なる所知”なるものを恰(「あた」のルビ)かも身体的一状態であるかのように扱ったのであったが、論者たちは“記憶的内在像”“想像的内在像”“知覚的内在像”なる(非身体的=心理的)存在を想定して、かかる“所知”と“内なる能知”との関係を視覚モデルで説こうとするかもしれない。が、その場合でさえ、論者たちは困難を覚れるわけではない。この件については、後論において主題的に討究する予定であるが、ここで一言だけしておけば、論者たちは“内在像”とかいう所知を映し出しているスクリーンとそれを“眺め”る能知という構図を持った<心>を身体に内在させている次第であるけれども(この構図はなるほど「見える物」と「見る者」との対峙の構図を“心”なるものの内部にスライドさせたものになっている!)、しかし、果たしてそのような<心>とやらが実在するのか、それが本当に身体に内在するのか? それは所詮、視覚的モデルに固執しつつ、仮想された“説明図式”にすぎまい。正規には後論(第二篇第一章第一節)を参照。」95P
(対話B)「人は、しかし,「内なる能知−内なる所知」ということが内省的に覚識されること、これは体験的な一事実である旨を指摘したがるかもしれない。われわれとしても、それが“体験的な一事実である”であることまでは認めよう。だが、そのさい、果たして「内なる能知」と「内なる所知」とが離在的に覚知されるであろうか? 離在的と想定するのは、視覚モデルに固執した“説明方式”たるにすぎず、体験的如実相にあっては「“内なる”能知的所知=“内なる”なる所知的能知」の渾然一態相が覚識される筈である。それゆえ、体験的覚識を論拠にして“内なる視覚構図”を云々するのは錯認であると言わねばならない。」95-6P
(対話C)「だが、人は猶も反論するかもしれない。表象を泛かべるとき、表象という所知は先方(「あちら」のルビ)に、それを覚識する能知は此方(「こちら」のルビ)に、対峙的な構図で覚識される云々。このような場合があることをわれわれも強(「あなが」のルビ)ちに否認するわけではない。それは、知覚的現相がまさに「現前」的に覚知されるのと同趣の構制である。指先や杖先の「能知的所知=所知的能知」渾一態が感知される場面ですら、先方(「あちら」のルビ)での能所的渾一態と此方(「こちら」のルビ)でのもう一つの或る覚識が感受という事実は決して直ちに所知と能知との離在性を論拠づけるものではない。(示唆的に一言しておけば、先方と此方とに二つの「能知=所知」渾然態が“錯図的”に現出しているというのが実態かもしれない所以である。)」96P
(対話D)「われわれは、以上、対象的所知と能知的主体とを空間的に離在・対峙させる“視覚モデル”が、そこに止まることなく、“内なる所知−能知”関係にまで類推的にスライドされてことを指摘し、この類推的なスライディングによる“内在化”が悖理(「はいり」のルビ)であることを指弾しつつ、更には、この“内在化”を一見支えるかのように見える“内省的”“体験的”事実は、必ずしも截断モデルの論拠たりうるものではなく、却って別見を使嗾するものであることを述べてきた。今や、「客観−主観」截断図式の淵源たる「所知的対象−能知的身体」の空間的離在という“視覚的構図”そのものに遡って、そこにみられる錯認ないしは速断を指摘・排却しなければならない。――われわれは、この作業過程で、視覚的モデルの“類推的内在化”は決して必然的な論脈ではなく別の理路が採られ得ること、これの挙示という案件にも併せて応えることになろう。」96P
第三段落――“視覚的モデル”とその截断図式とを予行的に排却することの詰め 97-104P
(前の項のまとめとそのことの詰め)「嚮にわれわれは、触覚的体験に即しながら身体的自我は能知的と所知的との両義態を呈したり「能知的所知=所知的能知」の渾然態を現示したりすることを確認したうえで、実は視覚的体験においても身体的自我の伸長という事態が生じ「能知的所知=所知的能知」の渾然態が現出する旨を予示的に一言しておいた。そして、われわれのこの見解にとって罪障的な既成観念をなすかぎりで、“視覚的モデル”とその截断図式とを予行的に排却した次第であった。」97P
(対話@)「偖、人々の日常的既成観念では、視覚や聴覚のごときいわゆる“遠感覚”の場合は、まさにそれが“遠感覚”と呼ばれる所以ですが、触覚的“近感覚”とは異なって、所知的対象と能知的主体(感覚)とが空間的に離在的であることを特徴とする、と了解されている。対象と主体とのあいだの“宙空”は「地」として“無化”されてしまい、従って対象的所知と主体的能知とが断絶的に距てられているものと思念される。だが、日常的な思念においては、“無化”されてしまっているにせよ、“宙空”的“空間”は決して端的な“深淵”ではなく、光刺戟(電磁波)や音刺戟(音波)の連続的な伝導体である。刺戟−伝導−受容の構制において、触覚の場合と視覚の場合とが果たして本質的に相違するであろうか? 例えば、バラを見る場合、バラから発する反射光刺戟(触覚的には例えばトゲの刺戟に照応)と眼底細胞の光化学的生理状態(指先の状態に照応)とを反省的に区別できても、両者を実体的に区別することはできない。指先の刺痛の場合、厳密にいえばトゲの刺さった指先だけの状態ではなく、神経回路から中枢までを含む触知覚体系の機能的一状態が(痛いトゲという対象的所知の相貌で)覚知されるわけであるが、それと類比的にいまの例でいえば、バラの四囲からの光束−眼球−視神経−中枢までを含む視知覚体系の機能的一状態が(バラの形や色という対象的所知の相貌で)覚知される。このさい、神経回路におけるインパルスの伝達とバラから眼底までの光の伝達とを絶対的に区別するには及ばない。杖や聴診器という弾性的伝達体が身体的自我の一部分として認められるのと同様、バラという先端からの“伝導体”たる大気や光線をも拡大された身体的自我の一部分とみなすことができる。このようにみなすことは、“肉体”と“外物”を絶対的に截断・区別する常識的思念につては奇矯に思えるにしても、認識論上・存在論上の権利においては、眼鏡や杖の場合に比べて、一向遜色があるわけではない。――以上、触覚と視覚に即して述べたことがあらゆる知覚に推及できること、これは容易に理解されるであろう。但し、視・聴・臭覚の場合、眼・耳・鼻は、指先のアナロゴンではなく、伝達回路のしかるべき中間的器官のアナロゴンとなり、対象の表面が指先に照応することになる。」97-8P
(対話A)「右の事態に定位して言えば、伸長された身体的自我は、さながらアメーバの偽足のように、対象の表面に接触すると言うことができよう。例えば、赤い色や特有の香りによってバラを覚知する場合、この色や香りは盲人が杖の先に感じる触覚とアナロガスであり、この意味において、それは拡大せる身体的自我の先端的表面に属すると言うことが可能なわけである。こうして、身体的自我は“観測装置”どころか知覚的世界の全域にまで、拡大・伸長されうるのであって(また、いわゆる“内部的”“体内”感覚の場合にはそれの感受される位層まで身体的自我の先端的表面が収縮・退縮しうるのであって)、その際には、杖先や指先における触知と同様、すべての知覚形象が「能知的所知=所知的能知」の渾然態となりうる。」98P
(対話B)「膨脹・収縮する身体的自我の如実的体験相に定位するとき、こうして、知覚形象はいずれも「身体的自我」という能知的所知の機能的一状態の覚知であることになる。そこでは、客観なるものと主観なるものとが別々にあって前者が後者を認知するというごとき、即自的な所知と能知との二元的対立性の構造は見出せない。」98P
(対話C)「この際、附言するまでもなく、われわれは世界(物理的世界)なるものと身体的自我なるものとをそっくりそのまま重ね合わせて同一視してしまおうというのではない。身体的自我の膨脹・収縮ということはあくまでその都度の機能的聯関性において存立するのであって、即成的・固定的な物理的対象世界とやらとこれまた即成的・固定的な身体的自我とやらとが一箇同一体だと言おうとするものでは断じてない。如実の体験相における知覚は「能知的所知=所知的能知」の渾然態であるにしても、そこには能知的と所知的との両義的反転をも生じするし、能知と所知との反省的区別・区分も顕出しうる。」98-9P
(小さなポイントの但し書き)「――翻って、そもそも、われわれは“身体的自我の膨縮”を云々し、対象的知覚は“身体的自我の先端的表面”でおこなわれるような言い方をしてきたが、これは触知覚が“皮膚的身体”の表面で生ずるという既成観念(身体を皮膚界面で劃定する既成観念)に妥協・仮託した言い方なのであって、知覚的現相がそれの現前する当の“個所”で能知的所知=所知的能知の渾然態であるという論点さえ確認できれば、身体的自我の膨脹・収縮という一種の“比喩”的な構制はわれわれ自身の積極的に主張したい論件では必ずしもないのである。」99P
(対話D)「われわれは、とりあえず以上において、対象的所知と主体的能知とを空間的に截断する“視覚”観が絶対的ではないこと、事柄の構制上、対象と主体(感覚)とが“近接的に連続・緊合”する触覚の場合と実際には視覚の場合も同趣であること、このことの指摘を介して謂うなれば“視覚の構図”を“触覚の構図”に還元・同化したのであった。そのことによって、われわれは、所知と能知とを截断する所謂“視覚モデル”(錯認された“視覚”モデル)が「能知−所知」関係の実態に合わないことを指摘し、あらゆる知覚形象が本源的には「能知的所知=所知的能知」渾然態であることを指摘するに及んだ。」99P
(対話E)「人は、しかし、ここで、本源的には「能知的所知=所知的能知」渾然態たる知覚体験(この主客未分の相)から如何にして「所知」と「能知」との反省的区分が成立するのか、この件について問い返すことであろう。この論件に最終的に答えるためにはいわゆる“精神的”“反省的”な能知やいわゆる“反省的自己意識”ひいては“反省的統覚意識”の何たるかの論定を俟たねばならず、後論(本章第三節)を期せざるを得ない。とはいえ、その前段として、先刻持ち越した在る問題と絡めてここで若干の立言を試みておきたいと念う。」99-100P
(対話F)「「能知的所知=所知的能知」の渾然態に分節化的“解離”が生じて、能知的と所知的との両義的反転が現出したり、能知的契機と所知的契機との“固定的”区別が現出したりする過程は、狭義の反省に先立って、謂うなれば“自動的”“自然発生的”に起始する。この次元での区別と狭義の反省的区別とは一応別個に討究する必要がある。ここではひとまず前者の次元を把え返しておくことが課題である。」100P
(対話G)「この課題に応えるためには、これまでの行文で稍々安直に用いてきた「能知的」「所知的」という概念の分析的再規定が先決要求になる。われわれは「触知している」「触知されている」という両義態的反転に藉口(「しゃこう」のルビ)しつつ「能知的」「所知的」という概念を導き入れ、「能知的↔所知的」両義態との対比的区別に即して「能知的所知=所知的能知」渾然態を云々したのであった。しかし、「能知的所知=所知的能知」渾然態というのは、事態的には能知と所知との区別未然的な未分相なのであって、第三者的な反省的概念としてはともかく、体験相そのものに即すれば“能知的”とか“所知的”とかいう規定性はまだ過大である。謂うところの区別未然的渾然態は、事柄としては、端的なる「現相の覚知」「現相の現認」に照応するものにすぎない。この境位から「能知的↔所知的」の両義的区別が“解離”するというが、精確に言えば、それは必ずしも「能知」と「所知」との分凝とは言い切れない。「能知的↔所知的」両義態という言い方に既にして拙速な点が存したのである。このことは、また、視覚的構図に関して、所知的対象と主体的身体との離在化的対峙を以って直ちに「所知−能知」関係と言い做した場面についても言える。けだし先方(「あちら」のルビ)に対象、此方(「こちら」のルビ)に身体が分立していることを直ちに「所知−能知」関係と見做すのは拙速と言わるべき所以である。――という次第で、われわれはひとまず、右掌が左手首を「触知している」、右掌が左手首に「触知されている」という導入の場面、「能知的」「所知的」というターミノロギーの導入場面に立返って、事の真諦(「しんたい」のルビ) を把え返さねばならない。」100-1P
(対話H)「「触れる」「触れられる」というのは単に物理的接触の謂いではなく、覚知性に徴して慥かに「触知する」「触知される」を含意している。が、そこには「触知する」「触知される」という能動・受動の覚識が介在している。なるほど、それは、抽象的一般的な能動・受動ではなく、「触知」という質的(感覚様相的)内容が籠(「こも」のルビ)ってはいるが、このさい特に留意したいのは、実は「能動−所動」の覚識である。われわれが嚮に「能知的」と「所知的」との両義性とか反転とか称した事態においては、実は、抽象化された「知」の能・所性ではなく、「触れる」「触れられる」「見る」「見られる」といった具体的様相での「能動性−受動性」の覚識が介在している。」101P
(対話I)「われわれはこのことを具体的に勘案することによって甫(「はじ」のルビ)めて先の課題、すなわち、かの渾然態から両義態的な“解離”が如何にして現成するか、その構制の解明をおこなうことができる。――「能動−受動」ということは第二巻「実践的世界の存在構造」における主題的討究の一論件であるが、ここでは差当り「能動感」「受動感」(例えば「圧(「お」のルビ)している」のか「圧されている」のか、「摑んでいる」のか「摑まれている」のか、等々)の弁別的な覚識は最も原基的な体験現相に属するということ、この点の論断までは許されるであろう。そして「圧覚」(「摑み」の感覚などもこれが重要な契機として含まれている)にあっては、筋肉的運動の能動感といった別途の要因が併存する場合は別として、純然たる“作用−反作用”的均衡状態の場面で、あの「反転図形」(ルビンの杯など)と同趣な「反転」現象(能動と受動の反転)が生じうること、このことも認められるであろう。とりあえず、以上の二点は既定的ということにして議論を進めよう。――触覚性の近くの場合、そこには、「圧覚」が重要な契機をなしているかぎり、「触れている」「触れられている」という「能動感」「受動感」の分化的反転が自然発生的に生じうる。が、実際問題としては、筋感覚における能動的伸長感・受動的圧縮感という別途の能動感・受動感が協応することによって能動的触知感・受動的被触知感が覚識されるのが普通であろう。そして、それが触覚性知覚における「能知(「しる」のルビ)的覚識」「所知(「しられる」のルビ)的覚識」の区別と呼ばれるものにほかなるまい。聴覚性・嗅覚性・味覚性の知覚においても筋肉性運動感覚の協応がやはりみられ、それが準反省的意識態において能動的感知の覚識を支えるのが普通である。が、圧覚の場合と類比的に音・香・味が圧(「お」のルビ)し迫って来る(音・香・味が圧し迫られる)という“受身”の感受も体験されうる。熱(「あつ」のルビ)さ・冷さ・痛さなどについても同様である。これらの場合、嚮に述べた「杖の“握り”の個所において汗ばんだ掌を感受する」のと同様に、音・香・味……熱さ・冷さ……がそのまま能知的な個体的一主体とみなされることはない。この点、視覚性の体験においても概しては同趣である。視覚的形象(形プラス色)において「見ている」ことが“受身”的に感受される場合もたしかにあるが、一般には、この“反転以前的反転”が現出したからといって、この受動性の体験を対他的能動態に反転させる流儀で“視覚的形象”を一個の能知(能視)的主体として覚知するということはない。尤も、現前する視覚形象が「眼」である場合、「眼差されている」という覚識は現前する「眼」(相手の眼差し)を能視的な一主体として直覚的に覚知させるという基礎的な体験構制があり、これの汎化によるものか、視覚的形象は能視的(能知能動的)な一主体の相で反転的に覚識され易い。しかし、いずれにしても、能動感・受動感、能蝕・所蝕、能視・所視……感と、現識されている知覚形象を能知的一主体とみなすことは同値でない。」101-2P
(小さなポイントの但し書き)「(後者は、能視……能蝕的主体という想念の成立を俟っての反省的措定である。なるほど、「眼差し」の受動的体験は反省以前的・直覚的に、当の「眼」(相手の眼差し)を能視的主体として覚知するとも言えるが、これとて後論する「視線の読み」という機制、そこにおける「対他的帰属」という構制に俟つものであって、決して「眼差されている」という受動的・被視的体験がそのまま反転的に相手を能視的一主体として覚知せしめるわけではない。)」102-3P
(対話J)「惟うに、“原基的な感覚”の次元であれ、ゲシュタルト的「図」の次元であれ、はたまた「個体的対象」の次元であれ、「現相の現前」という能知=所知の異化未然態(能所分立未然的な渾然態)が能動感・受動感の覚識的感受という基礎的な体験相を機縁にして、謂うなれば“自然発生的”な“異化的分化”や“反転”と相即的に、能蝕・所蝕……能視・所視……といった具体的な様相における「能知性」「所知性」の覚識が形成されて行く。が、このさい、能動感や受動感そのこともまた一つの「能知的所知=所知的能知」渾然態であるということが銘記されねばならない。そして、また、能知的主体という想念が未形成なここでは、「杖の“握り”の部位において(掌で)握っていることを覚識する」のと同趣的に、つまり、「杖の“握り”の部位で汗ばんだ掌を感じる」のと類比的な構制で、例えば、「バラにおいて、色を(眼で)見ていること、香を(鼻で)嗅いでいること、を覚識」したとしても、そのことはまだ、「バラ」を能知的主体と覚知することでも「眼や鼻」を能知的主体として覚知することでもない。そこでは錯図的な分節態たる二つの現相(二つの「能知的所知=所知的能知」)がたかだか反転的な能動感・受動感の両義態の覚識を伴いつつ現前しているにすぎない。だが、これが「能知−所知」分立化の端緒的な事態であることは認められよう。――以上で「知覚形象」に即して述べたことは「表象形象」にもmutatis mutandis (必要な変更を加えて)妥当する。」103P
(小さなポイントの但し書き)「が、爰で若干の付言を加えておこう。或る種の論者たちは、先方(「あちら」のルビ)に現前する表象像と此方(「こちら」のルビ)に感受される“内なる覚識”とを「能知−所知」関係とみなしたがるが、しかし、それらは錯図的な二つの分節態であり、いずれも本源的には「能知的所知=所知的能知」なのであって、当初から一方が所知で他方が能知というわけではない。論者たちの謂う“内なる能知”は、一種の緊張的内部感覚をその能動感と二重写しにしつつ、しかも、あの“視覚型モデル”を内在化した枠組のもとで、“内なる所知”との対峙的相関項として改釈したものにすぎまい。表象形象は、それ固有の(つまり知覚的空間秩序とは一応別の)空間的秩序性をもちつつ、それの現識される当の“場所”において、「能知的所知=所知的能知」渾然態の相で現前する。“内なる能知”と論者たちが呼ぶものは、決して知覚空間世界内の「身体」の「内部」に既存するのではなく、本源的には、それが“身体”の内部であれ外部であれ、ともかくにも「現相」が現認されるその“場所”において「能知的所知=所知的能知」渾然態のモメントをなしているのである。」103-4P
(対話K)「われわれは、以上、自我以前的な“身体的自我”に即しつつ、身体なるものを初めから皮膚界面で劃定された個体的一対象の相で自閉的に把える思念と対質し、また、いわゆる“視覚モデル”の「能知−所知」図式の排却を図ったうえで、「能知的所知=所知的能知」渾然態の本源性を顕揚しつつも「能知」と「所知」の異化的分立が生ずる機制の端初的な場面まで辿り返すという前段的な作業に従事してきた。今や、「能知」的主体が「能知的主体」として現成し「身体」的自我が「身体的自我」として現成する場面を正面から見据えるべき段取りである。そのためには、本節においては、先取的に既成化しておいた「この(自分の)身体」なるものがそもそも、対他的な反照のもとに対自的に分節化する所以の基礎場面にまで一旦溯ることが要件をなす。」104P
第二節 主体的帰属と人称化
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界にはわれわれが“身体的他我”と呼ぶ個体的分節態が“身体的自我”と共軛的に現前する。身体的他我は、身体的自我とも同様、個体的対象の相では「所与−所識」成態の一つであるが、現相的世界の爾余の諸肢節とのあいだに一書独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは対象的一所知以上の或るもの(=能知的主体)である。爰に謂う「独特の関係性」をわれわれとしては「所知的現相の能知的主体への帰属性」と呼ぶ次第であって、この「帰属」の固有化と相即的に「身体的諸我」が人称的に分立化する。」104-5P
第一段落――“身体”の分立化と所知的現相の“身体”への帰属化と人称的「身体的自我−他我」の共軛的成立の機制 105-9P
(この項の問題設定)「われわれは前節において“自分の身体”ないし“身体的自我”が恰かも“身体的他我”ないし“他人の身体”との相互的反照に先立って一つの対象的個体として対自的に分節化するかのように議論を運んだのであったが、単なる対象的所知としてならばともかく、苟(「いやしく」のルビ)も“自分の身体”いな“この身体”という覚知は“あの身体”との反照においてのみ甫めて成立する。ここでは“あの身体”“この身体”の分立化という場面から始め、所知的現相の“あの身体”“この身体”への帰属化と相即的に人称的な「身体的自我」「身体的他我」が共軛的に成立する次第を一瞥しておこう。」105P
(対話@)「人々は“身体”なるものを皮膚的に劃定された対象的個体の相で表象しがちであるため、いわゆる“物体”一般とまではいかぬまでも、動物のそれを含めた“身体”をとかく一括して考えてしまいたがる。しかし、body(Körper,corps,溯ってはcorpus, σώμαいずれも身体=物体を一括して表わす)という概括は極めて高度の抽象的一般化の所産であって、原初的な体験の場面でそのような一般化的覚知がおこなわれるべくもないことは殊更に誌すまでもない。ここでは“あの身体”が“身体”として覚識される経緯の発生論的追跡を試みることが趣意ではないが“あの身体”“この身体”の反照的分立の基礎的な場面に溯って考えておかねばなるまい。」105P
(対話A)「ヒトの“他者体験”“自己体験”は、乳幼児の対母親の関係などを想うとき、皮膚的に輪郭づけられた“あの身体”とか“この身体”とかいう覚知相よりも遙かに先立って、表情的・情動的・実践的な相でまずはおこなわれるものと思われる。このような場面は、しかし、次巻での実践的世界論の論脈で討究することにして、ここでは“あの身体”“この身体”という分節態が分立する場面から始めたいと念う。――唐突で且つ場違いの感を与えることをも憚らず、議論にオリエンテーションをつける縁として、サルを用いての或る実験の結果を極簡単に記しておく。」105-6P
(小さなポイントの但し書き)「N.K.Humphreyは生まれ落ちてすぐから隔離して育てられたアカゲザルの幼体に生後二週間から九ヶ月にわたって種々の実験を施した由であるが、そこには次のごとき実験・観察も含まれている。カラー写真のスライドを使って、イヌ・ネコ・ウマ・ヒツジ・ブタ、それにアカゲザルの映像をスクリーンに映し出してみせる。被験ザルは、生後すぐから隔離して飼育されているので、イヌやネコなどについてはいわゆる“慣れ”habituation現象を生じて関心が持続しないのにひきかえ、アカゲザルに対しては関心の様子が違う。或るイヌの個体を見せ、次に別の個体を見せるという具合に、同一種類のものを次々に見せても、まるで同一の個体が一貫して見せられているかの風情で、個体ごとに新規の関心を示すということがない。それに対して、アカゲザルの写真に関しては、別の個体ごとに新しい反応を示す。他種の動物に関してはあたかも“種族”としてしか認知しないのに対して、同種のサルに関しては“個体”的に認知しているかのような風情である。詳しい実験をしてみると、他種の動物に関しても個体を弁別していないわけでは決してない。が、反応のありようでは“種族”に汎化されている。それにひきかえ、自分と同種の動物に対しては個体ごとに、また、同一個体でもそのポーズごとに、分化した反応を示す。(室伏靖子氏「霊長類の行動」理工学社刊『神経科学講座』第六巻、一九七九年刊、所収、参照)。」106P・・・生得的表情感得の論拠?
(対話B)「自分自身と同種の動物に関しては個体的認知にもとづいて対個体的に反応するという機制はサルよりもはるかに下等な動物においてもすでにみられるのではないかと思う。しかも、そのさい、他種の個体を恐らく形状・色調・臭気などのコクグロマリット的なゲシュタルトの相で類同的に弁別・認知しているらしいこと、自分と同種の個体については、あまつさえ、布置的状況に応じて相貌・姿勢が激変しても一箇同一の個体として弁別・認知しうるらしいこと、このことに留意させられる。この弁別・認知の機制はもとより後天的な学習によって分化・強化を遂げるにしても、いわゆる“結婚ダンス”の現象などを省みるまでもなく、同種属と他種属との弁別的機制は或る程度以上高等な動物にあっては生得的・反射的ではないかと想われる。刷込現象や狼少年について別途の討究を要するにせよ、以下では、暫く、ヒトの場合、同種属の他個体を早くから“個体的”に認知しうることを前梯にすることが許されるであろう。」106-7P
(対話C)「個体的に他人を認知するにあたり、発生論的には、全身的形状ではなく、特に顔面とその表情」や音声的特徴が核になっているといわれる。嗅覚ではなく視覚が優位であり、顔面表情が殊に枢要であるという点は、視覚と表情を他の動物にみられないほど高度・複雑に発達させいているヒトだけに特徴的なことと思われる。がしかし、表情に敏感に反応するということはイヌやウマなどにもみられるところであって、あながちヒトだけに特有なことではない。表情反応のもつ「感情価」や「行動価」は次巻での論脈に譲り、ここでは、それが認知的な場面で有つ意義に格別な留意を払っておきたい。――感情と直接に協応する顔の表情や、これと一体となった身体的な“表情”ともいうべき態度や身振もさることながら、ヒトは他者の“視線”に鋭敏に反応する。」107P
(小さなポイントの但し書き)「隔離飼育したアカゲザルは、生後二ヶ月までは他個体(スライド映像)の威嚇表情に対して別段反応しないが、生後二ヶ月半くらいになると突然、威嚇表情に対して恐怖反応を示す由である。被験ザルは、他個体と現実的な社会的接触の経験をもたず、威嚇表情に継起する他個体の攻撃を経験していないのであるから、この恐怖反応となって現われる“威嚇表情の‘意味’察知”は生得的な一機制、それも一定の日齢になって初めて突如として発動するようになる本能的な一機制と目されうる。同趣の“本能的”“生得的”“反射的”な機制が“表情”(身体的表情ともいうべき他個体の姿勢や身振を含めて)に対する反応として幾つか存在しそうである。われわれが「視線の読み」と呼ぶ機制もおそらくやそのうちの一つである。」107P・・・「生得的表情感得」が物象化ではないのかという宿題? 否は106p、然りは121Pチンパンジーの自己認識
(対話D)「ヒトは、他人にかぎらず、動物や鳥に関してさえ、その個体の眼の様子を見て、相手がどの方向に視線を向けているのか(それも遠方なのか近くなのか、距離についても或る程度まで)直覚的に察知する。それも、相手の眼と対象物(こちらが対象物と推測する物)とを見較べて判定するのではない。相手の眼を見ただけで直截に判る。対象物と見較べて判定するわけではないということは、人物なり動物なりの顔写真(対象物は写っていない)を見ただけで視線の方向が判るという事実からも肯けよう。勿論、見較べてみるような場合もあるし、「視線を読み取る」技能が経験を通じて上達するという事情はある。しかし、視線の読み取りという機制そのものはコミュニケーションに先立つ“生得的”“本能的”な一技能であると言って大過あるまい。」107-8P
(対話E)「われわれの看るところ、この「視線の読み」という機制が「能知的主体」としての他者という覚識の形成にとって極めて重要な一契機なのであるが、ここでもう一つ挙げておきたいのは、他者の姿態を協応的に「模倣」する“生得的”な反射的能力である。ヒトは謂うところの「サル真似」の流儀で、例えば、大人が自分の右手で頭越しに左耳をつかんでみせると、幼児もそれを真似てやはり右手を挙げ頭の後ろ側を廻して左耳をつかむ、といった模倣動作をやってのけることができる。」108P
(小さなポイントの但し書き)「――ここで「模倣」というのは単なる「追随」行動の謂いではない。鳥はおろか魚などにおいてすら、一匹が逃げ出すと他の個体も追随して逃げるといった同調がみられるが、こういう追随行動における体位の協応的同型性は第三者的・観察者的にのみ認知されることであって、当事主体には協応的同型化の覚識は欠けているであろう。外観的には類似していても、単なる追随動作と模倣行動とは同列ではない。われわれはもとより「追随」と「模倣」とを峻別してしまう者ではなく、両者が連続性をもつことを認める。だが、「模倣」動作はよしんば当初的には反射的追随であってもやがては同型化的対応行動、しかも“意図性”を有った協応的同型化の覚識に支えられた行動として現成する点で、単なる追随とは区別される。――」108P
(対話F)「模倣行動は、極く小さな乳幼児にあってすでに日常茶飯にみられるとはいえ、相手の動作に関しては視覚的に現認した動作を自分の身体に関しては眼に見えぬまま運動感覚的に対応づけるのが通例であり、事柄としては大層複雑な協応的動作である。――幼児は、また、他人の発した音声を早くから真似て自らも発声し、それが言語活動の基底となるわけであるが、考えてみればこれまた大層複雑な協応的対応づけである。聴覚的に現認した相手の“行動”を咽喉の筋肉運動というおよそ別様相の感覚運動で“再現”するこの模倣は或る意味では実に驚嘆すべきことと言わねばなるまい。――幼稚園児の「お遊戯」から「ママ事」にいたるまで、子供の行動は半自覚的・自覚的な「模倣」行動が主斑をなしていると言えるほどである。そして、この模倣行動と相即的に“この身体”と“あの身体”との対向的な分化と同化が進捗して行く。」108-9P
(対話G)「われわれとしては、ともあれ、「模倣」動作ということが謂うなれば生得的・本能的な機制によって現におこなわれるという事実、この事実に定位しつつ、上述しておいて“表情”のシグナル的な行動解発機制や「視線の読み」における“あの身体”“この身体”の視座的な覚知といった機制を綜合的に把え返すことによって、「他己」と「自己」の相補的・共軛的・対向的な形成(さしあたり“あの身体”的他我と“この身体”的自我の対自的・対他的な分立化)を追究して行くことができる。」109P
第二段落――現相的世界の認知的な相での分極化的帰属という論件の配視 109P
(この項の問題設定)「“身体的自我”は、即自的にはまず、(自分と同種属の) “動作”的な対象的一個体の相で分節・現前化し、“表情”(身振・姿勢・“声振”を含む)によってシグナル性の行動解発機能を“この身体”に及ぼす。そして、「模倣」動作において現識される“身体的他我”(さしあたりは“この身体”)との協応的対応を通じて“あの他者”と“この自分”とが対自化されるようになって行く。――ここでは、とりあえず「視線」と直接に関係する部面に即するかたちで(ということは「表情」や「模倣」と連接する「役割行動」の対自・対他的な共軛性やそこで対自化される「他我」「自我」の人称的分極化という部面は姑く措くかたちで、そして実は、これを論考する前梯として)現相的世界の認知(「コグニティヴ」のルビ)的な相での分極化的帰属という論件をひとわたり配視しておきたいと念う。」109P
(対話@)「現相的知覚風景の内には、他人と呼ばれる身体的存在も共属的に登場する場合があり、人々は、通常、あの「視線の読み」を俟つまでもなく、知覚風景に共属・登場する他者が何を視、何を聴いているか、また、何を嗅ぎ、何を触知しているか、直截に“判って”いる(つもりでいる)。しかし、知覚風景内に同様に現前している対象でも、彼は視ておらず聴いていないことがこれまた直截に覚識される場合もある。それゆえ、“あの身体=他者”と“この身体=自分”とが同じ視覚風景の内に居るというだけでは直ちに自他が近く風景をそっくりそのまま共有しているとは言えない。」110P
(対話A)「ところで、人は、知覚的風景に共属する敵から瞬時に身を隠すとか、咄嗟に物を人眼から隠すとか、このような動作を反省以前的にやってのけることができる。(物隠(「ものかげ」のルビ)に踞(「うず」のルビ)くまるといった行動であれば一種の本能的なものと言うこともできようが、相手の「視線」を勘案して隠す行動の場合、これはそのまま本能的とは言えず、さりとてまた、過去の経験を通じて習熟したものと言えそうにない。) そこには、場のゲシュタルト的布置に即応した“直覚的な”構図的洞観とでも呼びたくなるような、反省以前的な察知の機制があるように思える。それは、対象物と自分の身体との布置的な関係に応じた射映的現相の在り方を他人の場合について類比的に推理するとか投入するとかいった屈折した高次の“精神的”活動に負うものではあるまい。当の機制はより直截である。(この場面で「類推」とか「投入」とかを云々するのは“説明”のための一理屈としか思えない。)」110P
(対話B)「これに類することが「模倣」についても言える。猿はまさに“サル真似”の流儀で人間(「ヒト」のルビ)の仕草を真似るし、極く小さな子供でも日常茶飯に他人(「ヒト」のルビ)真似をする。「真似」といえば、子供は大人の表情を真似る。ここでは、大人の表情は視覚的にしか知られず、自分の表情は非視覚的(運動感覚的)にしか知られないのであるから、そこには類推的比例関係は成立し得べくもない。(それゆえ、類推的投入説は妥当しない。)が、事実の問題として“サル真似”が現におこなわれる。そして、子供本人が他人真似の意識、他人と同型的に協応した身体行動をおこなっているという覚識を現にもっている。さもなければ、グループ・ダンスや或る種の遊戯など、幼稚園式の集団行動はおよそ成り立たないことであろう。(われわれは社会学上の「模倣説」にそのまま与(「く」のルビ)みする者ではないが、しかし、模倣という“準意識的行動”が類比的推理とか自己投入とか呼ばれる“知的手続”を介することなく直截に進捗するという事実そのことは認めるべきだと考える。) 」110-1P
(対話C)「翻って、現相世界は、通常、視知覚的な空間的秩序を呈し、いわゆる遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図で展らける。遠景は段々と先細りに見えているが、しかし、“見掛”と“実際”とはそのまま合致するわけでないこと、“実際には”しかじかの大きさであることが端的に覚識されている。また、視覚的対象は立体視されており、“見掛”はこうでも“実際”はしかじかの形の対象であることが直截に覚識されている。――遠近法的な構図のもとに立体視が既成化している現相的視覚風景にあっては、“この身体”の移動に伴う布置関係に応じて現相的世界の射映的相貌が合規則的に変貌すること、しかも、“この身体”がそのつど視覚的風景の膨縮的編制の輻湊(「ふくそう」のルビ)点になっていること、このことに人々は気がつく。“この身体”が近づいたり遠ざかったりするのに応じて、射映相も規則的に変貌する。とはいえ、そのさい、変動するのは“見掛”だけであって、“実際”相は恒同的に一定のままであると覚識される。さらには、身体の向きを変えるとか、眼を閉じたり耳を覆ったりするとか、「身体」における変位が知覚現相だけであって、“実相的”所知対象はそれ固有の空間的布置世界の中に不変・不動の相で存続しているものと覚識される。――このような体験が媒介になって、“実相的所知対象”と“射映的知覚相”、これら二つの編制態が区別され、“射映的な直接的知覚相”は身体に依属的(「アプヘンギッヒ」のルビ)であると思念されるようになる。」111P
(対話D)「このようにして射映的知覚現相の身体依属性が対自化されるに至っている“反省的”次元に定位するとき、知覚風景内の「対象」が共属する「他人」にとってどう見えているかを直截に“知っている”と信憑していた原初的な構制はもはやそのままなかたちでは維持され難くなる。けだし、パースペクティヴな知覚現相が身体的布置に依属する以上、他人の視座からの知覚的射映を自分が知覚のかたちで現有することは理屈上不可能な道理たる所以である。――人はここにおいて、視覚的風景世界に共属する他人と自分とが“実際上”の“同一対象物”に視線を共通に向けつつも、各々に現前する「射映的現相」は異貌であること、これを現識する次序となる。現前する世界が“実際には”“この身体”的自分と“あの身体”的他者とに共有されておりながら、「射映的所与現相」は“この身体的視座”と“あの身体的視座”とで異相であること、換言すれば、“あの身体的視座”に帰属する「射映的所与現相」と“この身体的視座”に帰属する「射映的所与現相」とが、分立・相違すること、このことが覚識されるようになる。――爰に、“あの(視座的)身体”と“この(視座的)身体”とが、能知的主体たる“他己”“自己”として分極化する端初的な次元が存すると言えよう。」111-2P
第三段落――「帰属」という機制そのことの分析的討究 112-7P
(この項の問題設定)「われわれは、ここで、自他の人称的分極・分立を追認するためにも、それを支える「現相の対他・対自的な帰属性」、さしあたっては「帰属」という機制そのことを分析的に討究しておかねばなるまい。」112P
(対話@)「「帰属」ということは、人称分化以前的=没人称的=前人称的な現相の“身体的”自他への分属化にほかならず、その原初的な次元は“身体的自我” (これは或る埓を超えた膨脹相では“他我”をも捲き添えにしつつ“世界大”にまで膨脹するので、人称的な「自我」ではないことに注意されたい)の膨縮の機制や補完的な連合・分化の機制に根差している。われわれにとって、発生論上の周到な議論はここでの課題ではないので、低位の次元については極く簡略な言及にとどめたいのであるが、言語的な「能記−所記」成態の帰属を論攷する前梯として、必要最小限の論点にふれるところから始めよう。」112-3P
(対話A−第一に)「第一に極く簡単にふれておきたいのは「帰属」以前的な“帰属”、むしろ「所属」と呼ばるべき次元である。例えば、目の前で自分の子供が転んで膝をしたたかに打ったのを目撃するとか、他人が目の前で金槌の手許を狂(ママ)わせて左手をしたたかに打ち据えたのを目撃するとか、このような場合には“あの膝”の個所、“あの手”の個所に瞬間的に“痛みが走る”。それは推測とか類推とかの過程的意識を伴うものではなく、直截的な感覚的体験である。この場合、“対他者的な帰属”とは反省的次元でのみ言えることであって、或る種の論者たちのように「他我に関わる直接的知覚」と言ったのでは明らかに言い過ぎになる。体験記述的には“あの身体”の部位(“あの部位”)における感受としか言いようがない。――これは前節で述べた“身体的自我の伸長・膨脹”という機制による「皮膚的界面」を超えたあの部位での「能知的所知=所知的能知」と言うことができよう。ここでは、しかし、「この身体」なるものは明識されていないのが普通であり、現前するのはもっぱら対象的に目撃される事件だけである。――」113P
(対話B)「如実の体験相に定位して言うかぎり、“あの左手の部位での痛み”が準反省的に“あの(左)手”ないし“あの身体”に帰属すると言われるさいの“帰属”は、知覚風景上、見えている色や形が“あの対象的個体”に“帰属”し、匂いや音が“あの物体”(発芳体・音源体)に“帰属”すると言うのと謂わば同次元であって、むしろ「所属」とか「附属」とか呼んだほうがよいかと思われる事態である。この“附帯的所属”は、しかし、やがて“この身体”“あの身体”の「此−彼」的区別性が他の脈絡とも絡んで“人称的”な区別となることを俟って、そこで人称的な「帰属」として対他・対自化されるようになる。このさいの「対他−対自」的な帰属性の分化は、次の機制と相即する「射映相」の自他的区別の対自化に俟つものと言えよう。」113P
(対話C−第二に)「第二の位階として挙げたい「帰属」は、“あの身体”の視座に“この身”を“置き移した”場合の射映相の覚知(ないしは、“あの身体”の視座を“この身”に“置き移した”場合の射映相の覚知)ともいうべき機制に負うものである。これは、金槌の打ち据えた手が“この身体的視座”からは右前方に位置し、“あの身体的視座”からは左前方にすることの覚知を相即的に支える。模倣的協応動作(相手が右手を挙げたのに応じて自分でも右手を挙げるといった)の成立にとってもこの機制と覚知が介在しているはずである。(或る種の論者たちはこの機制を「自己投入」的な「類比」ということで説明したがる。がしかし、少なくとも当初的な局面では「自己」を「他己」に投入・類比するという言い方は適切ではない。けだし、いまの問題局面では、“あの身体”の視座を“この身”に“置き移す”という言い方も同権的に成立しうるわけで、「此」「彼」のいずれも特権的ではないからである。)」113-4P
(対話D)「この局面で“この身体”と“あの身体”との視座的区別を支えるのは、射映的現相が「身体」依属的であることの覚識(これについて詳しくは次篇第一章第一節参照)と相即的なのであって、ここではまだ「対象−身体」布置関係と現相的射映とが(人称的区別規定以前的に)対応づけられているにとどまる。対象との布置関係に応じて「身体」なる(個体的一対象に準ずる相での)ものが射映的現相と対応づけられているというこのかぎりでは、人がもし投入的帰属を云為するとしても、それは前人称的なニュートラルな関係態の“投入”としか言えない。が、この機制によって(この身から視れば右前方の)あの手の部位の痛みが“あの身体”に帰属化される。」114P
(小さなポイントの但し書き)「――これを先に挙げた第一の「所属」と比べるとき次の点に相違がみられる。先の場合、あの痛みの部位は、知覚風景内の一定の位置、つまり、金槌の下、土台の上、といった布置規定と同じ位階で“この身体”の右前方、“あの身体”より手前の個所にある。そのさい、“この身体”は何ら特権的ではないとはいえ、準反省的には、知覚風景のパースペクティヴが“この身”を輻湊点にして配位されているというかぎりで、“この身体”が特異な基点になっていた。ところが、今や、“あの身体”も一種のパースペクティヴの基点になっており、そのパースペクティヴな視座的布置での左前方の個所に痛みが定位されている次第である。さしあたりここに相違が認められる。」114-5P
(対話E)「手の場合に即して右に述べたことは、歯であれ、腹であれ、“あの身体”の内部的な位置に“痛み”が位する場合にもそのまま推及することができる。が、やがて、位置的射映相の相違だけでなく、あの身にとっては激烈な痛みが感覚的に現前しているのにひきかえ、この身の視座からは想像という“射映相”でしかそれが現前しないという自他的な相違が自覚される事態を生じうる。そうなると、あの身の視座からの具体的な“射映相”についてはこの身に即した体験から推察する所以となる。但し、例えば、この身の左手の部位に嘗つて感じたことのある痛みの記憶的表象やそれをもとにした想像的表象があの身の左手に“投入”的に“帰属”化されるといっても、そこで同一性が思念されるのは「所識」に関してであって、所与的射映相は所詮そのまま合致しないことの覚識を伴う。ここまで自覚化されると、この身の左手に定位される記憶的・想像的表象は、それが明晰に泛かんだとしても所詮は副表象であって、――当の表象が“移動的に投入”されるのではなく、帰属されるのは所与は別の(この副表象に即してそれとして覚識される)「所識」なのであり――事の眼目は目撃状況を機縁にして自他“同一の”所識を覚知するという点に存することが了解されるようになる。これは、実質的には、すでに第三の位階に算入されてしかるべきものとも言える。」115P
(対話F−第三に)「第三には、表情・挙動・身振などを機縁にして、一定の意識的態勢が当の身体表現的他者に帰属化されるタイプの位階である。――表情や身振は、まさに或る他者=“あの身体”に「附帯的に所属」した相で原初的に覚知されるし、表情の目撃が先の金槌の打撲状況の目撃と同じ役割を果たす場合があるとでもいうか、表情を見たとたんに一定の感覚なり感情が直截に感受される場合もある。さらにはまた、表情を機縁にして“あの身体”的視座に“この身”を“置き移してみる”機制が作動する場合もある。が、ここでは、このようにして第一・第二の位階で済んでしまうことなく、もう少し間接的・媒介的に覚識されるケースが主題となる。」115-6P
(対話G)「この位階にあっては、他者=“あの身体”に「附帯的に所属」する表情・挙動・身振という現相的な所与が単なるそれ以上の或るもの=「所識」として覚知されることにおいて、当の覚知される所識内容が(「所与−−所識」成態の相で)“あの身体”的他者に「帰属」されるという構制になる。」116P
(小さなポイントの但し書き)「――或る種の論者たちは、この機制を「自分自身における“身−心”関係」をもとにした「類比的推理」だと説明したがる。だが、人は果たして自分自身における表情と心態との関係を直接的・先行的に知っていると言えるか。自分の表情はさしあたり顔面の筋肉感覚の相でしか感受されず、逆に、他人の表情は(筋肉感覚とは別種の)視覚的射映相でしか知覚されない。“自分の表情”(筋肉的現相)と“他人の表情”(視覚的現相)という“射映”的にはおよそ相異なる両者をアイデンティファイするためには、これら両者が偕(「とも」のルビ)にそれぞれ単なる所与以上の或る“一箇同一の”意味的所識相で覚知されていることが先件になる。しかるに、この先件の場においては自分(“この表情”)と他人(“あの表情”)とが同権的であり、ここですでに所識的な相関項が判っている筈なのであるから、いまさら「自分の場合からの類比的推理」など不用な道理である。けだし、類比的他我推理説が論理的にも事実的にも悖理として卻けられるべき所以である。――われわれとしては、しかし、自他の劃定が或る準位に達した局面では「類推」が現におこなわれるという事実を認めるに吝かではない。但し、このことは「類推」を以って他我認識の基底的な構制だと認める類推説にくみすることを決して意味しない。類推は所詮、副次的・派生的・補助的な機制たるにすぎない。しかも、われわれの謂う類推は、第一次的には人称未然的=前人称的なニュートラルな関係態の“投入”的分属化と相即するものであって、必ずしも「自分の場合からの類推」ではない。」116P
(対話H)「人称未然的な場面でのこの帰属化の機制が「自−他」の人称的区別化を成立せしめる重要な機制の一斑をなすものと考えられるのであるが、この件には後に立返って論ずることにしよう。」116P
(対話I)「われわれは以上、言語的交通以前的な「帰属」を三つの位階に分けて誌(「しる」のルビ)してきたが、本質的な構制では、言語的帰属をも第三の位階に含めることも出来る。(このことは「身振言語」が第三の位階に根差すこと、そして本質的な構制では「身振言語」も「音声言語」も同趣的であること、これを省みれば肯けよう。)とはいえ、音声言語は特段(?)に重要であるから、これについては一応別途に扱いつつ、人称的分極化という論件と繋げて行くことにしよう。」116-7P・・・?「手話の文法」からのとらえ返しをしていくと、この「特段」ということのとらえ返しが必要。120Pも参照。
第四段落――「言語」(主として音声言語)という次元での「帰属」問題の構制への基礎的な論攷 117-20P
(この項の問題設定)「爰でわれわれは「言語」(主として音声言語)という次元での「帰属」を一往問題にしておく段取りである。ここでは「帰属」ということを自他の「人称的」な分極化を支える構制としてみておくことが主眼であり、言語論そのものが主題ではないが、言語的表現性(さしあたり叙事性、つまり指示的述定性)に関わる基礎的な構制にある程度までは論及しておかねばなるまい。」117P
(対話@)「言語の表現性が「現相的所与」が単なるそれ以上の或るもの(ないし、単なるそれ以外の或るもの)=「意味的所識」として覚識されるという現相(「フェノメノン」のルビ)現前の原基的・汎通的な機制に負うこと、この件それ自身はここで詳論するには及ばないであろう。ここで当面する問題は、所与的能記が所識的所記として覚識される態勢が、他者と自分(それぞれ表現者・理解者として共軛的に成立する)とに「帰属」する構制である。」117P
(対話A)「われわれは、前梯的な議論として、ひとまず「音源的帰属」という問題次元について簡単にふれるところから始めよう。嚮に「附帯的所属」の一斑として、香気や音声が発芳体や音源体に“帰属”される事実を指摘し、溯っては、前章第一節の論脈中で「融合的同化」の一斑として視覚的な対象的現相と音声とが“融合”されたり“補完”的に結合されたりする事態を指摘しておいた。事柄としてはこれは日常茶飯に見られるありふれた事実である。がしかし、理屈を言えば、視覚と聴覚とは元来まったく別々の感覚であるから、視覚的な世界空間に“音”が定位されているということは、それ自身、聊か謎めいて思える。(これは、視覚と聴覚との生理的機構場面での協応ということで説明されるのであろうが、そのような生理学的説明を受けたところで、やはり、そういう協応にもとづいて一体どうして音源の位置的同定が可能になるのか依然として“謎”である。)聴覚にはなるほど音の方向を判定する能力なら備わっている。(ヒトは両耳への音波の位相が合うように頭を自動的に回転させて正中方向から音が到来しているものと“判定”する。)聴覚にはまた音の高低・強弱を聞き分ける能力なら備わっている。しかし、音の方向や大小や強弱は判っても、強大な音であるかといって近傍起源とはかぎらず、また弱小な音がかならずしも遠方起源に非ずであるから、聴覚自身では音の到来する距離を判定することは不可能な筈である。溯って謂えば、そもそも視覚空間と聴覚音声とは元来無縁である。それにもかかわらず、ヒトや動物は、音源がどの“物体”であるかを判断以前的に直覚的に覚知することができる。われわれはこの事実を銘記し、この事態を「音源的帰属化」と呼ぶことにしたい。この機制がなければ高等動物の生活は殆んど成立たないであろうほどそれは重要な自然的構制であるが、それはまた言語的交通の可能性、音声言語の成立可能性にとって基礎的な一条件をなす。」117-8P
(対話B)「発せられた言語音声は、言語活動発生(習得)の初期的な局面においては、一方では「音源的に帰属」されつつも、他方では眼前の特定的現相と「融合的に同化」される。これは幼児が或る特定現相を志向対象的に「図化」としている場面で当該音声形象が(身近な大人によって発せられていることに俟って)聴取される体験を通じて協応が生じることに因るものと思われるのだが、ともかく、こうして、一定の言語音声と一定の現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)との融合的同化が成立する。ところで、この融合的同化態は“錯図”的な分節構造を呈しうるのであって、錯図的下位分肢の一方だけが知覚的に現前するだけで、前章第一節に謂う「補完的拡充」がおこなわれるようになる。(人はこの間の機制を「条件反射理論」のタームを用いて、一定音声刺戟による一定現相の条件づけ、および一定現相という刺戟による一定音声の条件づけ、を云為することもできよう。)」118P
(対話C)「そして、更には、一定の音声知覚が表象的秩序空間内に一定の記憶的・想像的な対象的表象を泛かばせたり、逆に、一定の現相態の知覚ないし表象が言語的音韻表象を泛かばせたりするようになる。こうして、知覚的であれ表象的であれ、言語的「音声形象」と「被示対象」との“結合”態が成立する。(ここに謂う“結合”態の何たるかについて精確には後論で規定することにして、取り敢えずこの便宜的な言い方で姑く議論を進めることを許され度い。)」119P
(対話D)「われわれの考えでは、言語的音声形象と“結合”されている対象的現相がそのまま「意味的所識」なのではない。対象的現相は「現相的所与−意味的所識」の二肢的二重態であって、言語的能記に呼応する「所記」は後者の契機(すなわちイデアールな「所識」)のみである。(ここでの言い方には稍々不精確なところがある。がしかし、「彼示的意味」と「被指的意味」の区別をはじめ、意味に関する主題的論考に入る折りまで、暫く、この言い方で押しておく。)」119P
(対話E)「ここにあっては、言語音声と“結合”されて現前する対象的現相は、それが知覚であれ表象であれ、事柄の本質的構造に即していえば、レアールな所与としては“副現象”たるにすぎない。「意味的所識」が覚知されさえすれば、“副現象”たるレアールな現相的所与は現存しなくても差支えない。その場合には、――この件を是非銘記したいのであるが――言語的音声というレアールな所与が「現相的所与」の位置に立ちつつ、この所与(能記)がそれ以上の或るもの=「所識」(所記)として覚識されるのである。こうして、レアールな“副現象”を伴うと否とに拘りなく「言語的能記−意味的所記」成態が存立する。そして、この「言語的能記−意味的所記」成態は、人々の日常的思念においては、とかく“自存化”されがちであり、その都度の音源的発話者から謂わば抽離されて、脱帰属化・没帰属化された相で表象される。」119P
(対話F)「ところで、「言語的能記−意味的所記」成態は既成態化されるかぎりでは脱帰属化されているとしても、現実的な発話に当面するとき、その都度の発話者に能記的音声が「音源的に帰属」されることに伴い「能記−所記」全態が発話者に「帰属」される事態になる。こうして、「音源的帰属」の機制が媒介環になって、一たん既成化している「音声的能記−意味的所記」成態が、音源たる“あの身体”“この身体”帰属化される次第なのである。」119-20P
(対話G)「音声言語に即して以上に述べたことが身振言語についても基本的に妥当すること、このことについては、このことについては容易に理解されよう。――尤も身振言語にあっては「融合的同化」が根強く(?)、また「補完的拡充」次元から抽離されにくく、従ってまた、脱帰属化が進行しにくいこと、脱帰属化の代わりに発信者の個体的特性を閉却しつつ身振をパターン化し類同化する機制が進捗するにすぎないこと、このような点で差異があることは否めない。が、しかし、発信者の個体的特性を閉却化しつつパターン化や類同化による“同一化視”が進捗するのは音声言語の場合でも実は同断なのであって、本質的な相違ではない。――」120P・・・?身振言語が手話を指すとしたら、むしろ手話の方が指さしによる人称的区別・分化を強化している。117P参照。
(対話H)「また、象形文字言語表現についても、ここでは「融合的同化」の機制が基軸になるとはいえ、やはり、音声言語に即して上述したことが妥当すること、これは見易いところであろう。いわゆる表音文字言語については、音声的能記と表音的能記“図形”との融合的同化ないし条件反射的結合が一たんおこなわれるという媒介項を入れて、これまた音声言語に即して述べたところが基本的に妥当すること、この件について絮言するまでもあるまい。」120P
(対話I)「われわれは、嚮の「附帯的所属」このかた、「帰属」について位階的に順次議論を運び、今や、言語的帰属の機制に留目して「言語的能記−意味的所記」成態の自他への帰属化と相即的に「人称的分属化」「人称的分極化」を討究しうる域にまでようやく近づいた。――次なる議論の進め方としては、しかし、ここで直ちにいわゆる言語的交信だけに定位するのではなく、上来前梯的に敷設しておいた「模倣」とか「視座」的依属とかの論点とも併せて、且つ亦、言語活動をも「役割行動」の一斑に定位するかたちで「主体的帰属と人称的分極化」の問題に一応の論決を図ることにしたいと念う。」120P
第五段落――“この身体”なるものの明示的な措定から始め直す 121-32P
(この項の問題設定)「われわれは本節の行文において、これまで“あの身体”“この身体”という相での分節化、個体的対象としての“自他”の現前化を云々しながら、“この身体”なるものがどの程度の相貌で対自化されているかは敢て曖昧なままにしてきた。これは前節において先取的に誌した皮膚的界面で劃定された“身体的自我”という論件とも絡む問題である。それゆえ、「自己」と「他己」とへの分極化を論ずるにさいしては、まず“この身体”なるものの明示的な措定から始め直す必要がある。」121P
(対話@)「ヒトは嬰児期以来、第三者的にいうかぎり“自分の身体”についてもかなり早くから種々の体験を積んでいると言うことが慥かに出来よう。受動感・能動感の区別的覚識も早くから生じていると想われる。しかしながら、自分の身体に関係するこれらの覚知は、それ自体としてはまだ「自己」覚識とは別である。では、そこから、如何にして他己との対照における「自己」の覚識が成立するのか? 人は、ここで、他(人)の人体と自分の身体との同型性の認知が必要条件であると言い、そこで直ちに「鏡像体験」を必要な媒介項として云為するかもしれない。なるほど人口鏡が発明される以前にも「水鏡」というものがあり、ヒトは大昔から鏡映体験を持ったとも思われる。だがしかし、われわれは水鏡をも含めた“物体鏡”への鏡映体験は「自己」覚識の成立にとって何ら必要時条件でないと考える。」121P
(小さなポイントの但し書き)「――前節での行文中、われわれはGallupの実験観察に言及し、生後すぐに隔離して飼育されたチンパンジーはついに鏡映像を自分の映像としては認知できない由を記しておいた。他個体との現実的な社会的接触・社会的交渉をもった経験のあるサルは極めて容易に鏡映像を自分としてアイデンティファイできる。それにひきかえ、他個体との社会的接触を経験しなかったサルはついにそのアイデンティケイションができない。この実験事実は、鏡映像の自己認知のためには、却って“他者鏡”、すなわち、他個体との現実的な社会的交渉の体験が必要条件であることを物語っている。」121P・・・107P参照
(対話A)「人々が鏡像体験という契機を重視するのは、ラカンや一部社会学者の理説による影響もさることながら、諒解できぬ話ではない。それは「自己像」「自我像」というとき、人々はとかく、「顔」を具えた自画像を描き易いという事情に由る。視覚優位型の動物たるヒトは、他人たちを個体的に認知・区別するさい、何は措いても顔貌を中心にして個体性を見定める。そこで、自分についても顔貌を中心に表象するとなれば、どうしても鏡映像(ないし写真像)が必要条件に思えてくる。この間の事情は諒解するに難くないが、しかし、もしも鏡像体験が必須だということになれば、盲人はついに自己意識をもてぬことになってしまう。それは明らかに時事に反しよう。――それよりも、むしろ、そもそも問題なのは、鏡映像という“他者的”存在を“この自己自身”として認知するアイデンティケイションが一体どのようにして可能なのか、まさにこのことなのである。事実問題としては、幼児はおろかサルやイヌでさえ、鏡映像を“自分の像”として容易に認知している。だが、直接視では肝心の顔・頭は見えないのであり、手足など直接にも見える部分は直接視像と鏡映像とではおよそ異貌であって“同一物”とは見えにくい。鏡映像はむしろ見慣れた他人と類同的である。それにもかかわらず、幼児やイヌ・サルでさえ、鏡映像が他人(の映像)ではなく、自分であることを一体どのように認知するのか? 直接的視像(運動性感覚や触覚性感覚を伴っている)と鏡映的対向像というおよそ別相貌の両つの射映的現相を一体どのようにして同一体と認知することが可能なのか? これを可能ならしめる論理構制それ自身はさして特異ではない。運動感覚や触覚性感覚とも「融合的に同化」している一方の側の直接的視像と他方の側の鏡映像という二つの射映的所与を一箇同一の所識的対象同定する機制そのものは、再認的同定の場合などとも同趣的である。だが、問題なのは、この機制だけでは、鏡映像の自己認知はおこなわれ難く、現に他個体との社会的接触をもたぬサルはそれをおこなえないこと上述の如くである。サルにせよヒトにせよ、直接には見えない頭や顔についても運動感覚性・触覚感覚性の対象像を有ちつつ、それを“他者鏡”に徴して一定の視覚像と融合的に同化させている。この基礎的事実があって、しかも、現実の他個体との触覚性接触の体験を通じて他個体に関する視象とその視象的対象を触知したさいの体験的記憶が把持されている。ところが、鏡像に触れてみるとき、他個体との接触とは触知様相が異なり、視空間的距離と蝕空間的距離とが背離しており……といった特異性が一方にあり、他方で偶々手を先方に伸べずに運動感覚的・蝕感覚的な契機とも融合しつつ一定の現象化をも蒙っている“この身体”の頭なり顔なり腹なりに手を触れてみると、鏡映的視像に対応現象が現出する……といった体験も生ずる。おそらく、事実過程としてはこのような経緯があって鏡像の自己認知がおこなわれるのであろう。が、当座の論点として銘記したいのは、“この身体”については頭・顔・背などが直接には見えないにもかかわらず、少なくともヒトにあっては幼児ですら、仮に鏡映体験がなくとも、“他者鏡”に徴して、頭・顔・背を具えた自己像、つまり“この身体”像が成立するであろうことである。“自己”に関する視象混りのこの「融合的同化」に俟つ“身体図式”があってこそ或る水準以上の「模倣」校合も可能なのであり、また逆に「模倣」という“他者鏡”との協応的動作を通じて“この身体”が“あの身体”と類同的・同型的な相で安定的な自画像になっていく。」121-3P
(対話B)「自己と他己とが共軛的に分極化するためには、“この身体”と“あの身体”とが同型的・類同的な対象個体として分立的に覚識されることが必要条件をなす。このことまでは確かであって、われわれは、そのためには“物体鏡”による鏡像体験こそ必要条件でないと主張するが、その代りに“他者鏡”は必須であると考える。ところで、われわれは「身体以上的な身体」として人々が間身体的に呼応し合う構制を「役割扮技」(role-playing)という概念で把握する。しかるに、“他者鏡”への“鏡映”という協応的動作は既にしてわれわれの定義「役割扮技」という概念に下属する。そのかぎりにおいて、“この身体”的自己と“あの身体”的他己との共軛的分立、ひいては「人称的分極化」ということは、われわれの理論構成から言えば、役割扮技行動という実践的場面で規定さるべき所以となる。とはいえ、しかし、この実践的場面は第二巻での主題であり、ここで深く立入るべき次序ではない。それゆえ、自己と他己、ひいては、能知・能動的な諸主体の分立化やいわゆる人格性の問題は、本格的には次巻に委ねなければならない。とはいっても、われわれは認識論的場面・次元において、或る程度までは人称的分立化を必須の論件とする。このかぎりで、ここに極く簡略に図式的な臆言を試みておこう。」123-4P
(対話C)「発生論的・原初的には、役割扮技行動は他者(さしあたり“あの身体”)の“表情”や“視線”に応じた反射的な行動という位相から開始される。単なる“反射的”な協応行動は、素より、第三者的に認定すれば役割行動の端初であるにしても、狭義の役割行動ではない。とはいえ、そこでも“表情” (身振や姿勢、“声振”などを含む)が一定のシグナル的行動価、一定パターンの反応行動を触発する記号的機能を既に有っているという事実を看過してはならないであろう。即自的なシグナル的表情や視線によって触発される反射的な“役割行動”は“意識的”“有意的”役割行動、すなわち、他個体の表情・身振・姿勢・発声等のシグナル的意味を謂うなれば了解したうえでの呼応運動、このイミでの対自化された役割行為、と連続している。――サルにおけるマウンティングや毛づくろいなど、すでに意識的・有意的役割行動であると言えよう。チンパンジーに到っては仲間の「おねだり」に応えて食物を分与するとまで言われる。ここには「役割期待」(role-expectation)の対他・対自的な了解とそれにもとづいた役割遂行が現存すると認められ得る。――われわれは啄きの順序(「ペッキングオーダー」のルビ)の確立している鶏の集団においてすでに自覚的な役割行動があるとまでは言わない。がしかし、そこではすでに「個体」認知がおこなわれているだけでなく、自分の行動が相手のどういう反応を喚起するかが即自的に了解されているとはいえよう。ヒエラルヒーの確立しているニホンザルの社会などにあっては、他個体に対して所与のシチュエイションにおいていかなる役割行動を予期しうるかが了解されており、その所期的役割行動の在り方が個体ごと、個体別に覚識されているという意味で他者たちの“個性”が現識されていると言えるのではないか。――ここに謂う“個性”は実体に附着せる固定的な属性といったものではない。それは所与のシチュエイションのもとでの個体的関係なに応じてかなりの安定性をもつて発現する或る機能的なものである。――それは当方の行動に即応して先方に予期される行動様態の特性であってみれば、まさに間(「かん」のルビ)主体的な自他関係と認められ得よう。」124-5P・・・鶏の「啄きの順序」は差別の本能的なこととしても例示されているのですが、これは飼育された動物におきている物象化のようなこととしての指摘もでていて、わたしはそうとらえています。ニホンザルにおけるヒエラルヒーも餌付けされたサルにおける特徴的なことという指摘もおきています。廣松さんがここで指摘しているように、「固定的な属性」としてとらえることの批判にも通じます。
(対話D)「この次元での役割行動(役割期待と役割行動)ともなれば、自分に対する他者の役割期待を了解しつつ、その役割期待に応じる仕方で自分の行為を協応させる事態になっており、対自的対他=対他的対自の相で“あの身体”と“この身体”との協応関係が成立していると言える筈である。そして、これは、人間においては、幼児にもすでに見出されるところであり、「自己」なるものは(これにはさまざまな位階・位層があるのだが)、まずはかかる対他的対自という「他己との共軛性」において現識されるものとわれわれは考える。」125P
(対話E)「役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける“あの身体”的他者による役割期待の対自化、それと即応した“この身体”の協応的応接の進展とそこにおける“あの身体”的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける“あの身体”と“この身体”とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共軛的な期待の「対他的−対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。」125P
(対話F)「翻って、われわれが嚮に言及しておいた言語活動が“役割行動”の重要な一斑をなすことは更めて追記するまでもない。そして、役割存在としての「他己」「自己」が(因みに、役割行動の主体は能動的主体であり、即自的にはすでに能知的能動態であるにしても、まだ明識的に能知的主体とはいえないのだが、それが)「能知的主体」の相で覚識されるようになるのは何といっても言語的活動の場面に即してである。成程、現相的射映の身体依属性ハ言語以前的に覚知されうるし、「視線の読み」の機制などとも相俟ちつつ、“あの(視座的)身体”と“この(視座的)身体”との分立性も言語的交通以前的に覚識されうるであろう。そしてそこに一応の“能知的主体性”を認めることも許されるかと思う。――現に、上述の第一位階の「帰属」、すなわち「附帯的所属」化においてすでに“あの身体”に「痛み」や「怒り」など、いわゆる感覚や感情の帰属化がおこなわれ、第二位階のそれでは先方の視座に即したパースベクティヴな現相的構図の帰属化が“あの(視座的)身体”におこなわれ、第三位階のそれでは「現相的所与−意味的所識」成態の“あの身体”への帰属化がおこなわれているのであり、“あの身体”は単なる対象的一個体以上の或るものとして現前する。言語的帰属化にともなう他者の「能知的主体」化は言語以前的な帰属化と相即するそれと連続的であることは慥かである。――だがしかし、「言語的能記−意味的所識」の対他者的帰属化は、前言語的なそれに比べて所識内容の量的な厖大化・複雑化をもたらし、“あの身体”的他者に帰属化される所識内容をまずは決定的に拡充する。そして、所識内容の自他的帰属の固有的相違性を覚識させ易くし、ひいては、能知的主体としての自他の分立性、人称的分極性をそれは確然と現識せしめるに到る。」125-6P
(小さなポイントの但し書き)「――この間の事情については若干のコメントが必要かもしれない。例えば、眼前の人物が痛みを感じていることや怒っていることを現認する場合、痛みや怒りを“あの身体”に附帯的に帰属するのであって“この身体”に類比的に帰属させるわけではない。俗な言い方をすれば、慥かに「相手の痛みや怒りを知るということは自分でも痛んだり怒ったりすることではない」。しかし、或る種の論者たちが「子供たちの感情移入」とか「動物や幼児における感情の“伝染”」とかを根強く主張する由縁もそこにあるのだが、発生論的に定位の局面における「附帯的所属化」にあっては、場所的にこそ“あの身体”部位に定位されておれ、「痛み」や「怒り」が端的に感受されている。謂うなれば、痛みや怒りが現相的“意識野”を“充たし”ている。(そこで、この“意識野”を“この私”の意識野にほかならぬと見做す論者たちは“あの身体的”他者の痛みや怒りといっても“この私”の痛みや怒りの“投入”だと称する所以となる。)そこでは、“あの身体”他者の痛みや怒りが端的に感受されるのであって、“この身体”にはそれが帰属していないという意識、つまり他者と自分とでの相違性の覚識、自他分立・対比の意識は存立しない。勿論、反省によって当の対比的意識が生じ得ないわけではないが、直接的な体験相では自他の分極性が覚知されはしないのである。“この身体”は謂うなれば“地化”されてしまっており、もっぱら“あの身体”に所属する痛みや怒りだけが“図化”されてしまう。第二・第三位階の帰属にあっても事態は同趣的である。そこでは、成程、“あの身体”他者への帰属化(ないしはまた“この身体”自分への帰属化)はおこなわれる。そして、そのかぎりで、“あの身体”他者(ないしはまた“この身体”自分)を「能知的主体」たらしめてはいる。とはいえ、普通には、つまり、反省がおこなわれる特別な場合を除いては、他者と自分とにおける所識的内容の相違性は現識されない。この間の次第については、敢て例解的に説明するまでもあるまい。――ところで、実は、言語的交通の場面であってすら、普通の場面では、人称的分極性が必ずしも強く覚識されるわけではない。言語的帰属といえども、あの第一・第二・第三位階の帰属化とあくまで連続的である。なるほど、われわれは人称的分極化を発生論的に支える基盤として「帰属」だけでなく、「役割扮技」という実践的場面を勘考すべきであり、役割行動の主体として「他己」と「自己」との共軛的な分立性がいちはやく覚識されていることを看過してはならない。だが、役割行動主体の「対他−対自」的な共軛的な分立性の覚識それ自身はまだ、対自的な能知的主体としての人称的分立性の現識ではない。では、如何にして、人称的分立性の覚識が現成するのか?」126-7P
(対話G)「われわれは、右において当面の論件として焦点化した問題、すなわち、言語的交通という役割行動の場面における「能知的主体」の人称的分極化が如何にして現成するかという問題、これに応えて行く段取りである。――無用の誤解と混乱を招かぬようあらかじめ一言注意を促しておけば、われわれのいう「人称的分極性」は文法にいわゆる“人称”とは次元を異にするところがある。行文そのものを通してこのことも明らかならしめる予定であるが、文法流の既成概念に惑わされぬよう留意して頂き度いと念う。――」127P
(対話H)「偖、発生論的な初次的局面に限らず、通常的体験の場面では概して、現相的世界は人称帰属未然的=前人称的である。「言語的能記−意味的所識」成態ですらやはり、謂うなれば脱人称帰属化されて、対象的一事態の相で覚識されるのが普通である。準反省的には、知覚的風景世界に共属する人々に斉しく帰属する相で現相的所知が共帰属化されているといった態勢が見出されるが、しかし、何分にも“あの身体”“この身体”が人称的主体として分立化されず斉同的な並存の相にとどまっているかぎり、誰彼への帰属性の意識は薄い。ところが、“あの身体”と“この身体”との「他己−自己」的な分立の覚識が、或る種の局面で現認される。その条件の上に、言語的交通にあっては「言語的能記−意味的所記」成態の或るものが他者には帰属しても自分には帰属しないこと(ないしは逆に、それが自分には帰属しても他者には帰属しないこと)が明瞭に覚知される場合が屢々生ずる。(この自他的な不共属の覚識は、先に述べた「帰属」の第二・第三の位階や時によっては第一の位階にあってさえ反省的に覚知される場合があり、言語的交通に排他的に特有というわけではない。がしかし、自他にとっての不共属性が強く明識させられるのは何といっても言語的交通における或る種の場合が最たるものである。)」127-8P
(対話I)「それは如何なる場合であるか? 最も典型的なのはいわゆる“見解の不一致”が自覚される場合、すなわち、或る命題の対他−対自的な帰属・不帰属が覚知される場合である。が、これは高次の次元であって、より低次の次元においても同趣の事態が出来(「しゅったい」のルビ)する。それは、例えば、眼前の一対象を自分は「ワンワン」と呼ぶのに他者は「モーモー」と呼ぶ(ないしは逆)というように、さしあたり、命名(名辞使用)の自他的相違といった次元からしていちはやく生じうる。次元的な差異を逐一銘記することなく一般化して構図だけを言えば、或る「言語的能記−意味的所識」成態が、一者(発話者)には帰属するが、他者(聴取者)には帰属しないという事態、これが言語的交通の場においては屢々強く覚識される。(勿論、自他的共帰属の場合が普通であり、そのさいには自他は斉同的な並存の相で覚識され、そこでは帰属の自他的対立性は覚識されない。このことは附言するまでもあるまい。)」128P
(対話J)「この自他的不共属の事態の覚識、すなわち“あの身体”他者への帰属と“この身体”自分への不帰属、ないしは逆に、“あの身体”他者への不帰属と“この身体”自分への帰属、この事態の覚識において、“あの身体”他者と“この身体”自分とが能知的主体(さしあたり或る事を知る主体というより或ることを知っている主体)として分立的・分極的に対向させられるようになる。自他のこの分極化的対向がわれわれの謂う「人称的」分極の原基形態である。」128-9P
(対話K)「爰に謂う「人称」性が文法に謂う一人称・二人称・三人称と位相や次元を稍々異にすることまで容易に察せられようが、人はここで文法上の人称関係とわれわれの謂うそれとの区別と関連を明示するように要求することでもあろう。「我−汝」「我−彼」「我−我」といった関係は、存在論的に重大かつ複雑な関係であり、皮相な文法的・形式的な処理を許さない。われわれとしては、これら間主体的な人称的=人格的関係の内容について、次巻の実践的世界論の論脈内で論考する予定である。ここでは、とりあえず、しかし、文法的既成観念を前提的ドグマとするところから生じる惧れのある誤解を防遏する含みで、謂わばメタ文法的次元から、必要な論点というよりもむしろ視角だけを表明しておきたいと念う。」129P
(対話L)「人称は更めて言うまでもなく関係規定であって、内自的に完結せる規定性ではない。われわれは、メタ文法的に「称」をまず基本的に三類型に分ける。第一に「対象的指示称」、第二に「自他的共軛称」、第三に「我々的協同称」である。――第一の「対象的指示称」というのは、日常的言語活動でよしんば我・汝・彼(ないし我等・汝等・彼等)と指称されようとも、“この身体”自分ないし“あの身体”他者が個体的対象の相で指示されているにすぎない場合に照応する。或る種の論者たちは、この場合を「ワレ−ソレ」という関係規定で把えたがるかもしれない。成る程、反省的に対自化してみれば「ソレ」に対する「ワレ」という帰属者が覚識される場合もある。しかし、われわれに言わせれば、反省的に対自化されるのは「我」とは限らない。(或る種の論者たちは、「意識はその都度つねに私の意識である」という「意識の各私性」の命題を絶対的なドグマとするところから、反省的に対自化されるのはその都度“我”であると強弁するが、われわれは当のドグマを卻ける。)反省的には「我(等)」「汝(等)」「彼(等)」が帰属的相関項として覚識される場合もあるが、「対象的指示称」の特性は、対象指示的であって人称帰属以前的であるという点に存する。尤も、反省的には各種の人称に帰属化され得るかぎりで、「非特定人称帰属的な個体的対象指示」という言い方も出来よう。この「対象的指示称」は人称の第一類型というよりもむしろ前梯と呼んでしかるべきむきもあるが、われわれが敢えてこれを第一類型として定位するのは、人称的帰属性が反省的に明識化された場合に狭義の第三人称(「誰カニトッテ−ソレ」)を現出せしめる構制を具えているからである。――第二の「自他的共軛称」というのは、嚮に「人称的」分極の原基形態と呼んだものにほかならず、或る事態の自他的不共属の態勢、すなわち、対他的帰属かつ対自的不帰属、または対自的帰属かつ対他的不帰属という「対他−対自」関係が覚識されている場合に照応する。ここで留意さるべきことは、“この身体”自我と対向する“あの身体”他我は、日常的言語で「汝」と呼ばれる者だけでなく、「彼」と呼ばれるものをも未分化に包括する、という点である。自他共軛関係性における「他者」は原基的には対話的役割行動における「呼掛者−応答者」という規定以前的であって、文法上の「対話的相手=汝」と「話題的人物=彼」とは派生的な分化のもたらす規定である。われわれにとって第一義的なのは、いわゆる二人称的汝といわゆる三人称的彼との区別ではなく、「対他対自−対自対他」の共軛性・互換性なのである。――第三の「我々的協同称」というのは、自他の共軛性において能知能動的な役割主体としての相互承認を遂げつつしかも自他の協同的一致が対自化されている場合に、照応する。が、これについては、本来、次巻における実践的世界論の論脈においてしか明示的に規定することができないので、ここでは掲げるにとどめておく。尤も、次の一事だけは誌して、ありうべき誤解を防止しておかねばなるまい。それは、自他の共軛的分極性の覚識に先立って根源的統一態としての「我々」が存立するのではないかとの思念に係わる。慥かに、反省的に対自化されうる根源的統一態としての“我々”と呼ばるべき次元が存在しないわけではない。それは身体的自我の膨脹的伸長が“他者”の域にまで及び謂うなればシャム双生児的ひいてはポリプ的な協存体を形成している場合である。われわれの分類的規定では、しかし、自他の共軛的分極性の覚識に先立つ端的な“我々”は、それが対象的に現前するかぎり「対象的指示称」に属するのであって、「ソレ」が“我々”として、そして反省的に明識される「誰カ」もまた「我々」として存立し、「(我々ニトッテ) −我々」という構制になっていようとも、それはあくまで「対象的指示称」の一斑であり、それ自身としては「我々的協同称」ではない。――今ここでは、人称性そのことの主題的説明が課題なのではなく、われわれのいう「人称的分極化」を文法的な既成観念に引き寄せて誤解される危険を防遏しうれば足るのであるから、「他者」の汝と彼とへの分化や、汝等・彼等という所謂“複数”人称の問題には当面立入るには及ばないであろう。」129-31P
(対話M)「われわれは、とりあえず、人称性ということをめぐる以上の挿入的コメントを介することによって、嚮に述定した「人称的分極化」が「自他的共軛」の次元に属すること、従って、そこではまだいわゆる「汝」といわゆる「彼」とは未分化のまま「能知的主体」としての“あの身体”他者と“この身体”自分とが謂うなれば帰属的視座性において対向的に分立しているにすぎないこと、このことを把え返し得ると思う。――ところで、少なくともこの程度の「人称的」な共軛的分化はチンパンジーにおいてさえ既に成立しているものの如くである。近年、聾唖者用の「手話」(身振言語(?))を用いてチンパンジーとの対話が著しい成功を見ており、チンパンジーは一人称代名詞(I)、二人称代名詞(You)、それに一人称複数の代名詞(We=I and You)まで使いこなす由であって、そこでは相手にとってのYouが自分にとってのIであること、自分にとってYouのが相手にとってのIであること、自分と相手にとって自分と相手との一括相がWeであること、この種のことがチンパンジーに理解されているものと思われる。――われわれの謂う自他の共軛的人称分立の態勢にあっては、或る事態が“あの身体”他我にとっての他者たるこの自分にあの能知的他我によって帰属化されていること、“この身体”自我が自分にとっての他者たる“あの身体”他我にその相手自身の所識を帰属化させて覚識していること、相手にとっての他者が自分にとっての自分であり、自分にとっての相手が相手にとっての自分であること、この種の「対他的対自・対自的対他」の一連の諸関係が共軛的に覚識されている。――現相的世界に共属的に登場する身体的自我と身体的他我とは、とりあえず、このような共軛相で人称的に分極化する。」131-2P・・・?「「手話」(身振言語)」という表記にちょっと違和を感じています。言語の発生論的な区分があり、アバウトにとらえても、音声言語に表音的に書記言語を形成していった言語や書記言語を作らなかった言語、また象形文字的な書記言語から、もしくは相即的に音声言語を形成していった言語等々が考えられるのですが、手話は慥かに身振的なところからも発したとは言え、言語的な展開の中で、身振りという域を超えた文法を形成していっていて、それを「「手話」(身振言語)」という表記にしてしまうことは、博学で厳密性をとことん追求している廣松さんらしかぬことになっていると感じるのです。
(対話N)「われわれは、いまや、人称的分化なる事態を立入って規定し得んがためにも、人称的な能知的主体そのものの二重相を配視しつつ、人称的主体なるものの存立実態を分析し、対自性そのことの存立構制を見定めて行かねばならない。」132P
第三節 能知的主体の二重性
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界に内存在しつつ現相的事態を帰属せしめている“身体的自我”ならびに“身体的他我”は、単なる身体的存在以上の或る者(いわゆる精神的能知)であることにおいて能知的主体なのであるが、それらは伝統的に思念されてきた相での“身心二重体”なのではなく、一種独特の二肢的二重態として存立する。能知的主体は、身体的分節態の相では人称的個体であるが、相互間に一種特有な関係を形成しており、この特有の関係性においてそれは個体的能知(能知的誰某)以上の或る者(能識的或者)である。人称的個体は能知的主体たるかぎり「能知的誰某以上の能識的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態の相で現存在する。」132P
第一段落――「所知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の構制と呼応する「能知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の顕揚 132-6P
(この項の問題設定)「人称主体の二重性というとき、人はとかく「身体的存在と精神的存在」の二重性ないしは「経験的自我と先験的自我」の二重性といった規定を連想しがちであろうかと想う。われわれは、しかし、伝統的な思念の路線におけるこれら二重規定はむしろ卻ける。われわれがこれら伝統的な二重規定に言及するのは、それが何をどう錯認したものであるかを剔抉しつつ、真実態を挙示するための通路としてに過ぎない。尤も、われわれとしてはこの作業をすら今茲で直ちに遂行しようと企てる者ではない。――爰では、旧来の臆見に対する批判の拠点を構築するためにも、まずはわれわれ自身の積極的な知見を呈示しておくことが先決である。本節におけるわれわれの基本的な意想を予示しておけば、前章において説述した「所知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の構制と呼応する「能知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性(これはあくまで「能知としての能知」のそれであって、能知もまた反省的には対象的な一所知たりうるかぎりでの対象的な「所与−所識」二重性ではない)を顕揚することに懸かっている。」132-3P
(対話@)「議論の順序として、われわれはひとまず、前節で論断した自分と他者との共軛的な「対他−対自」性の場面を把え返すところから始めよう。――前節の行文中においては、或る「言語的能記−意味的所記」成態が他者には帰属しても自分には帰属しないという不共帰属性の覚識を論点にしたのであったが、当の覚識の現存は、視角を変えて言えば、当該の「能記−所記」成態が自分にも或る意味では帰属していることを存在条件としている。いま、例えば、子供が眼の前で蜻蛉(「とんぼ」のルビ)を指して「トリ」と呼んだとしよう。自分として自分にとっては蜻蛉は「トンボ」であって「トリ」ではない。そのかぎりで、「トリ」(コレはトリだ)という「能記−所記」成態は、子供には帰属しても自分には帰属しないと言える。だが、子供が“誤って”蜻蛉を鳥として覚知しているということを理解しているかぎりでは、当該の現相的覚知事態ひいては言語的成態が或る意味では自分にも帰属している。さもなければ、子供が蜻蛉を誤ってトリと呼んでいることを理解できないであろう。ここにあっては、相手たる子供=他者の見地を扮技しているかぎりでの自分に当該の事態が“帰属”しているという言い方が許される。ここには「自分としての自分」と「他者(の見地を扮技している者)としての自分」とが分裂しつつ、しかも統一されている。ここには、自他の区別性と自他の同一性という両契機が構造的に存立する。われわれとしては、他者の見地の扮技(対他者的事態の覚知)におけるこの自己分裂的自己統一性に鑑み、「自分としての自分」特別して「他人としての自分」という言い方を導入することにしたい。――右における自分と他者とは不共帰属という準位では互換的であるから、「自分としての他人」という言い方も許される。この場合、さらに対自化すれば「<自分としての他人>としての自分」という入れ子になり、それがさらに対他化されれば「“<自分としての他人>としての自分”としての他人」という相になっていくが、その都度の反省的次元に即するかぎり、能知的主体としての「自他共軛称」にあっては、「他人としての自分」ないし「自分としての他人」という構制が恒に成立っている。これを更に一般化して「誰かとしての誰か」と標記することも許されよう。」133-4P
(対話A)「ところで、「他人としての自分」「自分としての他人」というさいの「誰か」は、原初的にはもとより具体的な個人であるが、しかし、言語的交通の場にかぎらず表情・身振などの場面においても、表出された能記的契機は具体的な個人に種属するにせよ「意味的所記」は脱人称化されて行く。能記的契機すらパターン化・類同化されることに伴って脱人称化されうる。この脱人称化と相即的に、原初的には具体的他人であった他者が“不定人称化”されて「ヒトがしかじかと言う」「ヒトがかくかく為(「す」のルビ)る」という相に謂わば“脱肉化(「デカルチオ」のルビ)”されてしまう。ここにおいて「誰かとしての誰か」は「ヒトとしての自分」「自分としてのヒト」という相に到りうる次第である。」134P
(対話B)「「ヒトとしての自分」というさいの“ヒト”は、日常的言語活動の場面では実質上具体的な人(々)を指す場合もあるが、ヒト並みの行動(社会習慣化された行動)、ヒト並みの発話(規範的に標準化された言語活動)をするようになっている場面での「ヒトとしての自分」ないし「「自分としてのヒト」における「ヒト」は、所与の文化圏、所与の言語圏という埓内であるが、具体的個人から脱肉化されてしまっている。実際、人々は、言語活動をおこなう場合、当該言語の「言語主体一般」が当のシチュエイションでおこなうであろう相で言語活動をおこなうのであり、謂うなれば「言語主体一般」(チョムスキー式にいえばideal-speaker-listener)の立場を扮技している。――「ヒト」が「ヒト」として完現するのは後に論ずる「判断主観一般」の次元に到ってからであるが、先取的に言ってしまえば、「言語主体一般」どころか、「ヒトが視るように視」「ヒトが聴くように聴き」「ヒトが感じるように感じ」「ヒトが為(「す」のルビ)るように為る」といった次元においてすでに「ヒト」はもはやレアールな存在ではなく、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する。――前章第三節において「意味的所識」のイルレアリテート=イデアリテートを論考した条(「くだ」のルビ)りを茲で想起して頂けると好便なのであるが、具体的な人称的個人が特個的であるのに対して「ヒト」は“普遍的”である。「ヒト」は特定の特個的な誰彼ではなく、誰でも斉しくありうる普遍者である。また、「ヒト」は、具体的な個々人が誕生・成長・死亡という不断の変化相にあるのにひきかえ、個々人の変化・生死には拘(「かか」のルビ)わりなく“同じく”ヒトであり続ける。この意味において、「ヒト」は、人称的個々人が変易的であるのに対して“不易的”である。さらにはまた、「ヒト」は、具身の人称的個々人がその都度一定の場所に定在するのにひきかえ、特定の場所に居るわけでなく“非場所的”である。尤も「ヒト」は具体的諸個人から端的に独立自存するのではなく、その都度に具身の諸個人に担われつつ、謂うなれば人称的諸個人に“臨在”するのであって、このかぎりではむしろ“汎場所的”であるが、非特定場所的という意味で非場所的である。こうして、実在的(「レアール」のルビ)な人称的個々人が「特個的・変易的・場所的」な定在者であるのに対して、「ヒト」は「非特個的=普遍的」で且つ「非変易的=不易的」で且つまた「「超場所的」な或る者である。この徴標に鑑みて、われわれは「ヒト」は非実在的(「イルレアール」のルビ)であると言い、しかも、この非実在性(「イルレアリテート」のルビ)が消極的な虚無でないことに徴しつつ、プラトンのイデアに因んで「理念的(「イデアール」のルビ)」であるとも言う。」134-5P・・・記号の使い方に留意
(小さなポイントの但し書き)「但し、われわれとしては「ヒト」なる「理念的」存在が、超時間的・超空間的な“形而上学的世界”とやらに現存すると主張する者ではない、イデアールな「ヒト」は具体的な人称的個々人を離れては“無”であり、独立自存する“形而上学的存在体”ではない。この間の事情はイデアール=イルレアールな「意味的所識」の場合と同趣的である。」135-6P
(対話C)「このさい、しかし、注意書を添えるまでもなく、「ヒト」のイデアリテートは<人間>という概念の意味的所識という所知の側のイデアリテートに還元されてはならない。「ヒト」はいかに不定人称化されているとしても(所識態の帰属者であり、後述するように、「向妥当化せしめる者」であって)、能知能動的な主体なのであり、対象的・所知的な意味的所識ではないのである。「ヒト」は、人称的主体がそれとして妥当するかぎりにおいてのみ「ヒト」なのである。」136P
(対話D)「われわれは、爰において、具体的な人称的主体たる「能知的誰某」がそれとして妥当する「能識的或者」の何たるかを規定するための前梯をすでに設(「しつ」のルビ)らえた所以になっている。とはいえ、人称的諸個体が「能知的誰某以上の能識的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態の相でその都度すでに現存在することの汎通的な構制がまだ呈示されていない。(右の立場は「他人としての自分」が偶々「ヒトとしての自分」という相で現存在しうることに定位した謂わば特殊ケースにとどまる。)しかも、われわれの謂う「能知的な誰某」は単なる「自分」とか「他人」とかではないし、また、われわれの謂う「能識的或者」は単なる「不定人称者=ヒト」ではない。われわれとしては、「能知的誰某」「能識的或者」という両契機そのものを積極的に規定して掛る必要がある。という次第で、われわれは、――右の前梯的・導入的な議論の範囲内ですら、「ヒト」の非実在性(「イルレアリテート」のルビ)が端的な“無(「ニヒツ」のルビ)”ならざる所以のもの、逆に亦、「ヒト」の理念性(「イデアリテート」のルビ)の承認がわれわれの場合“形而上学的主張”に陥らざる所以のもの、これを説明しつつ「ヒト」の存立性を権利づける作業をまだ残しているのであるが、この作業に従事し得んがためにも――茲で議論の視座を立て直しておかねばならない。」136P
第二段落――人々の思念にも多少追随しつつ、反省する側の自己なるものについて検討してみる 137-42P
(この項の問題設定)「爰で視座を据え直しつつ、しかも行文に連続性を可及的にもたせるべく、嚮の「誰かとしての誰か」「他人としての自分」という構制にあらためて止目しよう。――「誰かとしての誰か」というが、その「誰」は、反省してみれば結局のところ「この私」ではないであろうか? 人々はおそらくこう問うことでもあろう。では、そのさいの「この私」とは何であるか? 反省的能知としての「私」は単なる“この身体”ではない。反省的に現識される“この身体”は反省的所知ではあっても能知としての私そのものではない、と人々は考える。われわれ自身の見地からすれば、反省される自己と反省する自己とを存在的に截断してしまってはならないのであるが、しかし、両者を一応のところ反省的に区別すべきことも確かである。それゆえ、暫く、人々の思念にも多少追随しつつ、反省する側の自己なるものについて検討してみることにしよう。」137P
(対話@)「能知としての「反省する自己」「この私」なるものを、人々はとかく、“この身体”に内在する「内なる或るもの」の相で考えたがる。そして、人々は、能知能動的なその「内なる或るもの」を身体的存在と区別して「精神的能知」と屢々名付ける。――能知とは固(「もと」のルビ)より所知との相関規定であるが、人々はとかく「能知的所知=所知的能知」の渾然的関係態から「能知なるもの」を自存化させつつ内自的な存在体を想定しがちである。その純粋な能知なるものが、所知的一存在たるかぎりでの身体とは区別されて、精神的(非身体的)存在と呼ばれる次第なのである。そして、この精神が肉体に内在する相で考えられるかぎり、能知的主体としての身体的自我は、「肉体プラス精神」という二重体として表象される所以となる。――われわれは、身体的自我を「肉体プラス精神」ないし「精神を宿している肉体」という相で表象する思念を後論において排却するが、さしあたり本章第一節での所論を想起して頂ければ、「内なる精神(「こころ」のルビ)」という想念は維持され難いということ、さしあたりこの点までは闡(「あき」のルビ) らかな筈である。がしかし、反省する自己と反省される自己との一応の区別性という事実は残留するのであるから、人々をして「裡なる精神的能知」という錯認に陥らせしめる所以の「反省する能知的自己」の実態を見極めておかねばならない。」137-8P
(対話A)「反省的能知なるものの実態を見るために、単なる対象意識、すなわち反省以前的な意識と、反省態における意識との相違性に眼を向けよう。反省以前の意識態と反省的に対自化された意識態とは慥かに著しい相違を示す。では、当の相違性は奈辺に存するのか? 例えば、一幅の美人画に見とれていて、ハッと我に返ったものとする。「我に返ったからといって、美人画の知覚的相貌には微塵の変化も生じない。唯、“自己意識”が累加されるだけだ」と人々は指摘する。或る種の論者たちは、美人画についての意識(対象意識)は非定立的(「ノンテーティック」のルビ)に自己(についての)意識なのであり、反省においてこの自己意識が顕化するだけだ、と説く、問題の焦点は、さしあたり、謂う所の“自己意識”である。これが「自己」なるものについての対象意識、ないし、自己意識の謂いではないことまでは誰しも認めよう。では“自己意識”とは何か? 論者たちは伝統的に次のように答えてきた。曰く。「それは“私が意識している意識”である。」「それは、当の対象意識が“私に属しているということの意識”である」と。この“回答”の路線では、能知はその都度“私”であり、この能知たる“私”が反省において顕識されるのだ、ということになる。ここでは、意識とは「私という能知が対象を意識する」という構造を本質的に具えている所以となる。だが、われわれとしては、ここに謂う“私”とは何であるかを問い返さざるを得ないし、溯っては、そもそも反省とは果たして“私”の顕化であるのかを問い返さざるを得ない。論者たちは「意識」なるものはそもそも“私”なる能知を構造的要件とする筈だと先取的に思い込んでいる。われわれに言わせれば、しかし、この先入的な思い込みが妥当しないのである。順次に議論を詰めて行こう。――まず、反省とは、必ずしもハッと“我に返る”対自化(対自的帰属化)だけとは限らない。例えば演説に聴き惚れていてハッと気付くような場合、奇妙な表現になるが、ハッと“他者に返る”(つまり、演説の主張内容が帰属する相手たる演説者に“返る”)対他化(対他的帰属化)というかたちの反省意識もある。ここでは、対象的意識事態が「他人(「ひと」のルビ) (としての自分)」ないし「(自分としての他人)」に帰属化されるのであって「自分としての自分(=“私”)」に帰属化されるわけではない。このような場合の反省は、敢て論者たちに対置して言えば、「私が意識している意識」ではなく「他者が意識している意識」の顕化であり、当の事態が「私に属していることの意識」ではなく、「他者に属しているという意識」の顕化である、と言うこともできよう。こうして反省的意識とは、論者たちが思念するような「私が意識しているという意識」「私に属しているという意識」とは限らないのである。われわれとしては、反省的対自化(対自己的帰属化)と同等の位階にあるものとして反省的対他化(対他己的帰属化)の現存することを指摘する。――論者たちは、しかし、反省的対他化は、さしあたっては対「他者」帰属化であるにしても、視角を変えてみれば、即自的に「他人としての自分」ないし「自分としての他人」への帰属化という構造になっていること、そして、現にそのことが更なる反省によって覚識されること、このことを持出してあくまで「自分」という契機に固執するかもしれない。われわれとしても、対他者的帰属が「他人としての自分」「自分としての他人」への帰属化という構造になっていることまでは認める。但し、それはあくまで、「他人としての自分」への帰属化であって「自分としての自分」ではないこと、このことが銘記されねばならない。だが、論者たちは、おそらく、「他人としての自分」いえども、更なる反省において、結局は「自分としてのこの自分」「この“私”」に到り着くと主張することであろう。それは、論者たちのドグマ、すなわち、意識とは必ず「私が意識している」という本質的構造を具えているとみる既成観念から発するものであるが、われわれとしても当のドグマに溯って応接しておかねばなるまい。」138-9P
(対話B)「この課題に応えるためには、われわれはあらためて、反省以前的な対象意識と反省的意識態との相違が奈辺にあるかを把え返さねばならない。人々は、とかく、反省的意識態においては「私が意識しているという意識」、意識内容が「私に属していることの意識」が累加的に顕出するものと思い込んでいる。このさいにポイントをなすのは、反省以前も以後も「意識内容」微塵も変わらず、従って、対象的意識内容は何ら“増加”せず、唯“自己意識”という非対象的(それゆえ“主観的”)で非内容的な(それゆえ、意識内容と区別して意識作用的と呼ばれる)或るものが顕出するだけだという思念である。先の美人画の例のごときでは、慥かに、そのような思念が使嗾され易い。それゆえ、別の例を仮設して事態を見定めることにしよう。」139-40P
(対話C)「映画に熱中していてハッと我に返った場面を想定されたい。スクリーンの範囲だけで比較すれば、対象的意識内容には別段変化がないようにも思える。しかし、今では、それまで見えてなかったスクリーンの両袖、観客席、前方に坐っている人々の頭、それに“この身体”も意識野内に登場している。対象的意識野に明らかな変化が見られるのである。この事実自体は論者たちといえども否認しはいないであろう。論者たちは、スクリーンの画像部分にもっぱら注目し、右に指摘したごとき対象意識面に現出する変化は副次的な併存現象にすぎないと見做すだけのことかと想われる。だかしかし、われわれに言わせれば、対象的意識野に現出するこの変化が重要なのである。とりわけ、“この身体”をパースペクティヴの輻湊点という相で覚識されるに到っていること、反省以前とのこの相違が決定的に重要である。結論を先に誌せば、反省において累加する“自己意識”なるものの実態は、このパースペクティヴな布置の覚識(“この(視座的)身体”[これは前節でみたように物理的身体の謂いではない]への帰属意識)にほかならない。」140P
(対話D)「因みに、論者たちは、“自己意識”なるものが、特定の対象=客観ではないところから、非客観的=主観的な或るものとみなし、それが特定の対象的意識内容ではないところから、非内容的=純粋作用的な或るものとみなす。そして、さらには、“自己意識”が意識野の全体を覆っているところから、当の“自己(意識)”が経験的な対象的意識野(“経験的意識”界、“経験的自我”とその“意識内容”)を内在化させ、包越している先験的(“超越論的”)な意識であるとみなし、先験的自我なるものを経験的意識野から括り出してしまったりもするに至る。(尤も、先験的主観とやらの想定は、認識論上の“権利問題”とも絡んでのことであって、内省的な“自己意識”の相貌だけからおこなわれるわけではないが……。)」140-1P
(対話E)「われわれとしても、論者たちが“自己意識”と称するもの、つまり反省意識において対象意識に“累加”される“プラス・アルファ”と目するものの相貌については、一応のところ追認することができる。卻けらるべきは、それに定位しておこなわれる論者たちの“見做し”である。“自己意識”は慥かに特定の対象的内容ではない。それというのも、われわれに言わせれば、論者たちの謂う“自己意識”はパースペクティヴな布置の覚識にほかならないからである。“自己意識”は確かに意識野の全面を“覆い”、対象的意識界に“瀰漫(「びまん」のルビ)”している。それというのも、われわれに言わせれば、論者たちの謂う“自己意識”は“自己”“私” (について)の意識ではなく、パースペクティヴな布置の覚識にほかならないからである。」141P
(対話F)「われわれは、こうして、反省において顕化する“自己意識”なるものに定位しつつ、それを錯認することによって“純粋作用的自我”“先験的自己”なるものを経験的意識立てようとする論者たちの短見を卻ける。論者たちの謂う“自己意識”は、実態においては決して、対象的意識野に対向している純粋作用的な“私”ないしは超越論的な“私”(について)の意識なのではない。意識というものにあっては、「裡なる精神的能知なるもの」ないしはまた「先験的な“私”なるもの」がその都度つねに意識しているという本質的な構造になっているわけではない。われわれとしては、能知的自己を論者たちの流儀で二重化する臆見を厳しく卻ける所以である。」141P
(対話G)「われわれは伝統的な臆見を卻けつつ、反省において顕化する“自己意識”とは、その実、対象的意識野(正しくは現相的世界)のパースペクティヴな布置の覚識、“この身体”を視座的輻湊点とするパースペクティヴの覚識、“この(視座的)身体”への対象的意思の帰属の覚識、これにほかならない旨を主張した次第であるが、それが“自己意識”呼ばれ得る所以のものは、当の対自化にあっては、“この身体”的自己への帰属性が覚識されていることに係わる。“裡なる精神的能知としての私”とか“純粋統覚としての私”とか、このたぐいの“私”(について)の意識なるが故に“自己意識”なのではない。“自己意識”を“自己意識”たらしめる“自己”とは、さしあたり“この(視座的)身体”自分なのであり、それは“この身体”的自我と別の(内奥者とか超越者とかいった)ものではない。(尚、自己意識には役割行動において対他者的に反照される「自己」意識など諸多の次元がある。ここで論じているのはさしあたり「反省的に対自化される自己意識」の次元に限ってである)。」141-2P
(対話H)「反省的対自化においては顕化するこの“自己”は、反省的対他化において顕化する“他己”(“あの(視座的)身体”他者)と共軛的に同位・同格的である。“自己”はおよそ“他己”に対して特権的ではない。(“自己”と“他己”とのパースペクティヴな射映相の相違という事実はあっても、これが“自己”を特権化するものでないことは縷々上述しておいた。)しかもまた、当の“自己”は「他人(「ひと」のルビ)としての自己」たり得るし、「ヒトとしての自己」でさえあり得るのである。――この構制を念頭におきつつ、われわれは今や「能知的誰某−能識的或者」という「レアール−イデアール」な二肢的二重性の論決に進む段取りである。」142P
第三段落――「能知的誰某−能識的或者」という二肢的二重性についての構造性の論述 142-8P
(この項の問題設定)「われわれは、能知的主体を「肉体プラス精神」の二重体とか、「経験的自我かつ先験的自我」の二重態とか、このような二重存在とみなすことを卻けるとはいえ、或る種の論脈では、身体的自己と区別して「精神的能知」を云為したり、「先験的主観性」を云々したりもする。この論脈とそれ自身の主題的講義は後論に譲らねばならないが、当座の議論に必要なかぎりで此の件にも多少はふれつつ、ここではわれわれの積極的な主張である「能知的誰某−能識的或者」という二肢的二重性について論述しておこう。但し、当の二重相の形成については次章第二節に委ね、ここでは構造性を当面の論件とする。」142-3P
(対話@)「時に、読者は、嚮の行論には肝心の問題が未決のままに残されていることに先刻気付いておられることであろう。われわれは、慥かに、反省において顕化する“自己意識”なるものの実態を見直し、それが一部論者の謂うがごとき「“私”が意識しているという“私”の意識」ではないことを論定しはした。反省的自己意識の自己性(ないし、反省的な自己帰属意識の“自己”性)は、パースペクティヴな布置的現相の帰属者たる“この(視座的)身体”に係わること、それは反省的対他化における“あの(視座的)身体”他己をさしあたり同位的であること、これを確言した。しかしながら、一体、そのさいの反省する能知は誰(何)なのか? それが単なる“この身体”でないことは上述しておいた。が、反省する能知を積極的に規定しないあいだは、或る論者の謂う“内奥的私”とか“先験的私”とかと論判を終えたことにはならない。それゆえ、この論件にもまずは応えつつ、それを介して能知の二重性という論題へと進むことを図りたいと念う。」143P
(対話A)「偖、われわれの基本的な了解では能知と所知とは本源的に渾一態をなす。が、反省という事態は既にして所知と能知との反照的区別の態勢であり、そこでは本源的な「能知的所知=所知的能知」に分化が生じている。反省的覚知にあっては、能知的所知・所知的能知がセルフレファレントでありつつも、所知と能知とが二項的関係相で覚識される。この二項化的区分にあくまで反省的区分であって、決して二つの自存体への存在的(「オンティッシ」のルビ)な截断ではない。が、人々の日常的な思念においては、とかく、両項が存在的区分の相で表象され易い。そこでは、能知的所知=所知的能知の渾然態に照応する“膨脹・伸長”せる身体的自我がまずは退縮して“皮膚的界面”で能知能動的な主体が劃定され、これが所知所動的な客体との対向相で覚知される。この位相では、皮膚的界面で劃された身体的自我が対象的所知所動に対する能知能動的主体であり、且つ、能知能動的主体性をセルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)に反照=反省せる主体でもあるとみなされる。ところが、能知能動的な主体の退縮はここに止まらない。手・足のごときは早速に所知所動の側に繰り込まれ、いわゆる内部感覚の対象的覚知相に徴して“身体の内部”もまた所知所動の側に括り出される。この局面で脳(「あたま」のルビ)ないし中枢神経系が一たん能知能動的な主体として表象されるが、これまたそれが肉体的組織たるかぎり所知の側に括り出される。という次第で、“真の”能知能動的主体は非身体的=精神的な或るもの=“心”であるとされるに及ぶ。この“心”でさえ更に所知的側面と能知的側面とに分けられて、――という具合に、殆んど無限退行的に能知的主観なるものが“退縮”されて行く。――本章第一節で論じておいたように“視覚型モデル”に定位したこの想念、従ってまた、“内なる能知的心”なる思念をわれわれは原理的次元では卻ける。厳しく卻けらるべきは。所知と能知との二項化はたかだか反省的区別にすぎないところ、両者を存在的に截断してしまう錯認である。――尤も、論者たちといえども無限後退には自足しようとしない。そこで、“脳”なり“心”なり“純粋統覚作用”なり、論者によって“地点”は異なるが、どこかに終局的な能知的主観なるものを立て、その“地点”で無限後退を遮断しようとする。この終局点にあっては、反省する能知的自己と反省される所知的自己とは一にして不二なるものとされ、「反省的能知=所知」セルフレファレントであるとされる。が、論者たちの論理構制から言って、セルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)とされるのは終局的な能知の“内部”でのことであり、それは対象的所知界(論者たちにとってはこれは能知なるものの“外部”に在る)にまでは射程が及ばない。――われわれとしてはどう対処するのか? われわれとて、所知と能知との反省的区別を認めるかぎり、所知項と能知項とを一応は立てる。そして、身体がことごとく所知項の側に立てられる局面では、精神的能知なる特別なものが存在するとみなすわけではないが、能知項として“精神的能知”を一応は云為する。更には、また、認識の権利問題を説述する論脈で必要とされる場合には、経験的自我と区別して“先験的な主観”をすら云々することをあながちに辞せない。しかし、それはあくまで「所知−能知」二項関係性という構制において、当の「知る」(覚知する)という関係規定性(「能知的所知=所知的能知」という渾然態の反省的分化という覚識性)を第一義としてのことであって、自存的な二つのものを事後的に関係づける流儀においてではない。“項”は、物質的所知と呼ばれようと、精神的能知と呼ばれようと、それ自身を自存化せしめては“無”である。――われわれはこのことを銘記しつつ“精神的能知”を一応は云為する次第であるが、それでは、「反省的能知」とは帰するところ“精神的能知”の謂いであるのか? われわれの答は、むしろ「否」である。能知項は常に必ずしも“精神的能知”とは限らない。身体的自我の膨縮位相(その都度の膨縮位相における身体的自我)が能知項に立ちうるのであって、“精神的能知”が能知項を成すのは特別なケースだけである。この理由からして先の設問に対しては一般にはむしろ否と答える所以となる。われわれとしては、あまつさえ、「反省する能知」の「セルフレファレンス」ということも通念とは別様に考える。人々は、とかく、反省的能知はセルフレファレントであるとしつつ、このセルフレファレンスということは精神的能知だけ(せいぜい“脳”まで)に特権的であるかのように考える。そこから反省的能知といえば直ちに精神的能知の謂いであるとする。(通念においては、“終局的”な能知に限って反省的セルフレファレンスを認め、その反照的自己回帰性は当の“終局的能知”の“内部”だけに限られるものとしている。こう言い直しても宣(「よ」のルビ)かろう。)われわれの考えでは、しかし、原理的な次元で謂えば、能知的所知=所知的能知の渾一態がセルフレファレントなのである。反省的意識においては、この渾一態が被反省的所知の相で覚識され、それとの相関項として反省的能知(これの位相は種々でありうる)が泛かぶのが普通であるが、セルフレファレンスということは原理的にはそこでの“所知項”をも包括した全一態に即して言われねばならない。成程、反省的意識態にあっては「所知−能知」関係が分節的に構造化されて泛かび、そこにおける能知項への帰属性が覚識されるかぎりで、能知項が特に顕揚されることは慥かである。だが、それはあくまで「所知−能知」帰属性という脈絡においてのことであって、能知項だけが自己対象化されるといった相での内自的再帰性なのではない。この意味においても「反省する能知」はその都度“精神的能知”であるわけではないのである。――われわれの原理的見地では、膨縮せるその都度の相における“身体的自我”を措いて、他にセルフレファレントな能知が存在するわけではない。「能知」はその都度の相における“身体的自我” (ここでは“身体的他我”を含めての総称)にほかならず、そのことが反省において対自化・対他化される。(尚、人々が反省する精神的能知なるものを立てる一つの機縁として“裡なる作(「はた」のルビ)らき”が内部的に感知されるという事情もある。がこれについては後に立帰って論ずることにして、ここでは姑く措く) 。」143-6P
(対話B)「今や議論を一歩進めて、本節本来の課題に一応の締め括りをつけよう。反省的意識態において対自化(対自己的帰属化)と並んで対他化(対他己的帰属化)がおこなわれるとわれわれが言うとき、断るまでもなく、それは常に必ず“身体的自我”と“身体的他我”とが共軛的に現前し、並存的に覚識されるという謂いではない。反省的対他化においては“身体的他我”は「図」化されても“身体的自我”は「地化」されるのが普通であり、従って一般には自他の身体が並存的に泛かぶわけではない。(われわれはその都度の位相で反省的意識態を考えなければならない。反省においてはその都度に“身体的自己”が泛かぶとみるのは実情に合わない。)自他が共軛的に泛かぶのは対他的対自=対自的対他の反省次元においてである。尤も、通常の対他化といえども、視角と次元を変えて見れば「他己としての自己」「自己としての他己」への帰属化であることは上述の通りである。が、さしあたり、対自的であれ対他的であれ、反省的意識態においては所知項の帰属者たる能知項が覚識されているということが要件であって、ここで問題にしておきたいのは、この「能知項」の存立構制についてである。――「自分」および「他者」は、それぞれ“射映的”“視座照応的”な所知の帰属者として人称主体である。人称的主体たるかぎり、自分と他者とはいかに共軛的であれ、それぞれれ固有の“射映的”所知の帰属者として、自分はあくまで自分であり、他者はあくまで他者である。自他が反省において並存的に覚識される場合、両者は決して重ね合わせて同一人物に仕立ててしまうことのできぬ個性的別存在である。だが、反面では、両者に帰属する射映的所与は相違していようとも、それら射映的所与が単なる与件以上の或るものとして覚識される「意味的所識」は一箇同一でありうる。その場合には、両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一箇同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一相の能知的主体である、と言うことができる。――能知的主体は、間(「かん」のルビ)主体的に非共通の射影的所与の帰属者でありつつ、且つ同時に、間主体的に共通の意味的所識の帰属者たりうる。能知的主体が「他己として自己」ないし「自己としての他己」という在り方、一般化して「誰かとしての誰か」という在り方をしているというさい、「として」の両項は、射映的所知の帰属に関わる人称的誰某としては相違しつつ、しかも、意味的所識の帰属に関わる能識的或者として同一的であるという相での区別化的統一の場合が現にあり得る。(重複を憚らずに誌せば、そもそも自己が人称的自己であるのは、上述の通り、自他共軛相においてである。しかるに、「不共属的共帰属」の構制における「自己分裂的自己統一性」において、自他の区別性と同時に「同一性」の契機が構造的に存立する。この「同一者」は単なる所知的同一者ではなく、所識態の帰属者たる能知的主体としての同一性と相即するものであること、これまた上述の通りである。)われわれがここで留目したいのは、能知的諸主体が人称的個別性(すなわち、間主体的な対他的区別性)を有ちつつ、且つ同時に、同一相での或者(すなわち、間主体的な対他的・相互的同一者)で有るということの事実である。詳しくは次章第二節で論及する通り、人々は苟くも言語活動の主体であるかぎり、言語被拘束的な対象的所知(これは「射映的所与」と併せて「意味的所識」を必然的な契機としている)の帰属主体=能知的主体として、汎通的に、人称個別的な「誰某」であると同時に間主体的に同一相での「或者」であるという構制を有つ。」146-7P
(対話C)「翻って、われわれは嚮に、「誰かとしての誰か」という構制が不定人称的な「ヒト」の次元にまで及びうることを論じ、「ヒト」がイルレアール=イデアールな存在性格を呈することを論決しておいた。しかるに「ヒト」は、まさしく間主観的に同一相での「或者」であり、「ヒトとしての誰か」は「或者としての誰某」にほかならない。そこで、「ヒトとしての誰か」が対象的所知の帰属者たりうるかぎり、当の帰属者=能知的主体を「ヒト」という「或者」としての「誰某」という云うことができる。――われわれは、能知的主体が“射映的”“視座照応的”な現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が間主体的に同一的な意味的所識の帰属者たるかぎりで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのであるが、畢竟するに、能識的主体は「能知的誰某」であり且つ同時に「能識的或者」たりうる。ところで、能知的誰某は必ずしも“あの身体”“この身体”という次元での存在者とは限らず、対象的意識ないし反省的意識におけるその都度の能知的主体の膨縮に応じて膨縮しうるのであって、“精神的能知”という次元でもありうる。そして、「能識的或者」について言えば、これは独立自存する定在者ではなくして、能知的誰某が間主観的に同一の意味的所識を共有するかぎりで、且つ当該の間主観的共有性の域内でのみ、当該の人称的誰某達が単なる人称的能知以上のそれとして妥当するイデアールな或者にすぎない。このこと自体については更めて絮言するまでもないであろう。」147-8P
(対話D)「爰で結論的に誌しておけば、能知的主体は――発生論上の原初的な局面における即自的な“能知的主体”を除くかぎり――汎通的に「能知的誰某−能識的或者」という「レアール−イデアール」な二肢的二重性において存立する。――この間の事情ならびに二重相形成の次第について詳説し、さらには「能知的誰某−能識的或者」二重態が現相的所知サイドの「所与−所識」成態の呈する「能記−所記」的な二重構造といかに連環するかを論定するためにも、次には一たん議論の舞台を廻しておくのが次序である。」148P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(3)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界にはわれわれが“身体的自我”と呼ぶ分節肢も特異な様態で現前する。身体的自我は、個体的対象の相ではもとより「所与−所識」成態の一つであるが、現相的世界の爾余(「じよ」のルビ)の諸肢節とのあいだに、一種独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは対象的一所知の或るもの(=能知的主体)である。能知的主体はそれ自身また二肢的二重性を呈し、単なる個体的な身体的自我以上の或者として存立する。」87P
第一段落――前梯的な「身体的自我」の現相的な現前様態の特異性の概観 87-92P
(この項の問題設定)「身体的自我が現相的世界の爾余の諸肢節とのあいだに有つ「独特の関係性」は後論において「所知的現相の能知的姿態への帰属性」と呼ぶものであり、また、「能知的主体の二肢的二重性」の後論において「能知的誰某(「たれか」のルビ)−能識的或者」と呼ぶものであって、それでの議論を俟って甫(「はじ」のルビ)めて「身体的自我主体」の現実態が規定されうるのであるが、議論の順序としてここでは前梯的に「身体的自我」の現相的な現実様態の特異性をひとわたり見ておこう。」87P
(対話@)「人々は日常生活において四囲の対象的諸個体と“自分の身体”とを反省以前的に区別している。多少とも反省してみれば、“自分の身体”は直接的には頭や顔、それに背中が見えず、手や足の見え方も甚だ特異である。また、運動感覚的・蝕感覚的・体感的にも特異である。しかし、人々の反省以前的な意識においては、頭や顔が見えないとか、手足の射映相が異貌的であるとか、“自分の身体”のこういう特異性は殆んど覚識されない。人々は単純素朴に“自分の身体”も仲間の人体も同型的な相にあるものと信憑している風情である。そして、この同型性の覚識と相即的に“身体”は“皮膚的に”劃定された個体的一対象の相で泛かぶ。“身体”は謂うなれば皮膚を界面として内部的に閉じた相で知覚・表象されがちである。――ここで早速に指摘しておけば、われわれは今茲ではまだ“自己像”が如何様にして形成されるか、発生論的な議論に立入る心算はないのだが、頭や背中をも具え、皮膚界面で閉じた対象的一個体という“自分の身体”像は、決して“この身体”だけを主題とした鏡映的な自己体験を通じて形成されるものではなく、既にして他人たちの“あの身体”(あれらの“身体”)との反照的な相互媒介に俟って形成されたものであるということが識られている。今茲の次元での鏡映体験が云々されうるとすれば、それは“水鏡”を含めての鏡像体験という以前に原基的に“他者鏡”でなければならない。」87-8P
(小さなポイントの但し書き)「(因みにチンパンジーを用いてのG.C.Gallup等の研究によれば、現実の他個体との社会的接触の経験をもたない(分離飼育された)個体は鏡に映っている像をついに自分の鏡映像としては認知できない由である。手足腹などを視覚的に現認され、運動感覚・触覚・体感などと協応的に結合されている“この身体”を、鏡に映し出されている“あの身体”と同定できるためには、現実の他個体との社会的接触の体験が必要な前提をなしている。)」88P
(対話A)「“この(自分の)身体”像の形成にとって“あの(他人の)身体”との現実的な接触・協応が必要条件をなすのであり、他人の身体は自分の身体からの類推的な投入といったものではなく、そもそも“あの身体”と“この身体”とは、相補的・共軛的に成立するのである。この間の次第については、しかし、次節で主題的に論攷することにして、ここでは“自分の身体”なる分節態が一応既成化している場面を手掛りにしながら、前段的な作業をひとまず進めておきたいと念う。」88P
(対話B)「偖、虚心に省みるとき、如実の体験相における“この(自分の)身体”は、決して単純に皮膚的界面で劃定されて閉じているなどというものではない。皮膚的界面で閉じた身体なるものは観察的に対象化された個体の所知であって、如実の体験相における“この身体”は“皮膚的界面”を双方向的に超えて膨張・収縮する。眼鏡や補聴器は、それを常用している人にとっては、対象的存在というよりも身体的自我の一部というべきであろう。医者が聴診器で患部の微妙な様子を感じ取るとき、或いはまた、ドライヴァーが両側に塀の迫った路地を巧みに擦り抜けるとき、聴診器やマイカーは、医者や運転手にとって、対象的存在ではなく、身体的自我の一部をなしていると言えよう。逆に、その反面、麻痺した腕や脚は、身体的自我の一部というよりも、むしろ対象的存在として覚知される。――なるほど、或る種の反省的見地からは、聴診器や自動車は勿論のこと、眼鏡や補聴器はあくまで外部的対象であり、麻痺したりといえども腕や脚はあくまで身体の一部である。だが、当の反省的立場とやらでは、身体的自我とは皮膚的に劃定された肉体的存在であるということが先取的な前提になってはいないか。しかるに、われわれは今まさに当の前提的既成観念を問い返しつつ、体験の如実相に定位しようとしているのであるから、この種の“反省”は姑く煩らわされずに済む。」89P
(対話C)「如実の体験相における身体的自我は、皮膚的境界面を超出して膨張・収縮だけではない。身体的自我は膨・縮せるその都度の相で、ないしは膨・縮せる相と相即的に、能知的と所知的の両義態を呈したり、能知的所知=所知的能知の渾然一体相で体験されたりする。メルロ=ポンティも指摘する通り、例えば、右手で左手の手首をつかむとき、右手は能知として、左手は所知として覚識されるが、暫く経つと反転を生じ、右の掌が対象的所知として左の手首によって触知されるようになる。このように、身体(の一部)は能知として現存在することも所知として現存在することもあるという両義性を呈しうる。だが、このさい特に銘記したいのは、能知としてあるか所知としてあるかは必ずしも排他的・非両立的ではない、という厳事実である。市川浩氏も説かれるように、一例を挙げれば、両掌を合わせて眼を閉じる合掌の場合など、左右の掌はどちらが能知ともどちらが所知とも言えぬ文字通り渾然一体の相で体験される。これは能知と所知との区別性・対立性が曖昧化した消極的事態なのではなく、身体的自我の本源的で積極的な在り方であるとわれわれは考える。そして、この在り方での身体的自我を「能知的所知=所知的能知」相と呼ぶことにしたい。」89-90P
(対話D)「能知的と賜与値的との両義態や渾一態は、何も自分の身体の部位どうしの関係だけに存立するのではない。それは、他人と握手する場合や相手と見凝め合っている場合などにも往々にして現出する。(われわれは能蝕と所蝕とが本来的に排他的・非両立的ではないと考えるだけでなく、眼差regardもまた「能知的所知=所知的能知」の渾一相で体験されうる事実を主張する。)その折りには 身体的自我がいわゆる“他人の身体”部位にまで膨張・伸長していると言うこともできよう。両義態や渾一態は他人や動物の身体(的部位)との関係の場だけにも限られない。それは掌や指先で例えば机の表面に触れているような場合にも生じうる。掌や指先で対象を知覚しているのか、対象に触れている掌や指先を知覚しているのか、いずれとも言いがたい「能知的所知=所知的能知」の相で掌や指先が知覚されるような場合がある。――さらに言えば、能知的と所知的との両義態を呈するのは、また「能知的所知=所知的能知」の渾一態を現出するのは、肉体の一部だけではない。盲人にとっての杖は、彼がそれを持ち運んでいるかぎりでは一つの対象的所知であるが、彼が杖で触知する際にはそれは彼の身体的自我の一部をなす。盲人は、われわれが指の先で物を触知するように、杖の先で触知する。それだけではない。われわれが右手で左の手首を握りしめるとき、しばしば反転が生じて、汗ばんだ右の掌を左の手首で触知することがあるのと同様に、杖をつく者においては、杖の握りの部分で汗ばんだ掌を感受するという反転した事態が往々にして体験される。身体的自我の拡大(皮膚的界面を超えての伸長・膨脹)は盲人の杖や医者の聴診器、音楽家にとっての楽器や運転者にとっての自動車といった域に止まるものではない。一般に、ボーアやノイマンが言う意味での“観測装置”は、盲人の杖先や医者の聴診器などと同様、能知的身体の一部をなすと言うことができよう。われわれは、物に触れている杖先や指先を感受するように、観測装置という拡大せる身体的自我において「能知的所知=所知的能知」の一状態を感知することさえあるのである。」90-1P
(対話E)「膨脹・収縮せる身体的自我の如実の体験相に関してわれわれが特に留目したいのは、知覚が単なる客体の認知でもまた単なる主体の体感でもなく、それがあくまで能知=所知の一状態の感受だという点である。この点については多少とも説明を要するかもしれない。」91P
(対話F)「まずは指先の刺痛に例をとろう。指先の刺痛という一箇同一の与件を、反省的には「トゲの刺さっている指先の感覚」とみなすことも、「指先に刺さっているトゲの感覚」とみなすこともできる。両者は反省的な「意味的所識」性においては異なる。しかし、トゲという認知には視覚や、記憶に基づく判断などが協働しているのであって、触知覚的与件としては同一であろう。そこに存在するのは能知的所知=所知的能知たる指先の一状態だけである。」91P
(小さなポイントの但し書き)「――指先には普段はトゲが刺さってはいないし、指先が痛むのはトゲが刺さっている場合だけはない。人々が「指先」と「外物たるトゲ」とを区別するのは尤もな“生活の知恵”である。そして、指先ということで準概念的に抽象化された“指”なるものの先端を表象するかぎり、そのような抽象的・標準的・常態的な“指”と偶々トゲの刺さっている状態とが区別されるのも当然である。だが、抽象的・標準的な“指”(従って、トゲその他、外物との截断)はどこから得られたのか? 特殊具体的なその都度の体験相から具体的な現実を“捨象”する理念化Idealisierungによってである! 抽象的“指”は実在しない。実在するのは、トゲの刺さった、針の刺さった、机に触れている、等々、その都度の状態性における指でしかありえない。従って、いまの問題場面に「刺戟」と「指先」(抽象的“指”!)との存在的截断を大前提として持込むとすれば、それは機制の観念には叶っていようとも、論理的・手続的には顚倒である。」91P
(対話G)「因みに、真暗闇で全く未知の対象に触れた場合など、指先の感覚と対象的刺戟とを区別することは不可能であろう。そこには渾然一体となった「能知的所知=所知的能知」しか覚知されない筈である。同趣の構制が盲人の杖先といった場合に限らず、“観測装置”という拡大せる身体的自我における感性的知覚一般に見出されることは、爰でもやはり絮言(「じょげん」のルビ)するまでもあるまい。」92P
(対話H)「われわれとしては、視覚の場合についても、身体的自我の伸長、ひいては「能知的所知=所知的能知」の渾然一態の覚知という構制が存立していることを主張するのであるが、しかし、そのためには「能知」と「所知」とを截断してしまう既成観念の存立機制と存立実態について必要最低限の剔抉(「てっけつ」のルビ)を挿んでおくのか好便かと思う。」92P
第二段落――「能知−所知」関係の実態に定位することにおいて誤てる既成観念を排却する
(この項の問題設定)「人々の既成観念では、「身体的自我」はそれが能知的主体であるかぎり、対象的所知とは截断された相で表象される。そして、普通には「能知」と「所知」とは謂うなれば空間的には離在する二つのものの相で了解されている。このような既成観念が鞏固(「きょうこ」のルビ)に成立しているのは決して謂われなしとしない。しかしながら、この既成観念と相即する外界と身体との截断、ひいては客観と主観との截断から認識論上の諸々のアポリアが出来する。勿論、それが如何にアポリアの根基であろうとも、それだけの理由で排却しようと試みるのであれば、暴挙と評されざるを得まい。われわれがそれを排却するのはアポリアの根基というだけの理由からではない。われわれの観るところでは、能知と所知とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断してしまう既成観念は、或る錯認(これは諒解しうべき事情があるのだが)に基因するものであって、事柄の実態に反する。われわれとしては「能知−所知」関係の実態に定位することによって誤てる既成観念を排却する。」92P
(対話@)「「能知」と「所知」とを存在的に截断してしまう既成観念は、発生論的にも論理的にも極めて複雑な事情と事由に支えられており、これの批判的排却は本書の行文中折々の次元と準位に即して遂行する予定である。が、ここではとりあえず、身体的自我という“能知的主体”の次元に即しつつ、「能知」と「所知」との截断の構制の一斑を見据えることから始めよう。」92-3P
(対話A)「扨(「さて」のルビ)、嚮に触覚に定位して述べたところを想起されれば容易に納得を得られることと念うのだが、人々がもし“触知モデル”とも謂うべきものを「能知−所知」関係の基軸に置く場合には「能知」と「所知」を空間的に截断してしまう既成観念は恐らく成立しがたいことであろう。ところがサル族の一員たるわれわれヒトにあっては、鳥類とも同様、視覚こそが対象認識の基幹をなしている。(現に多くの言語において「知る」という詞は「見る」という詞から派生したものの由であり、この一事にも、ヒトにとって視覚的認知が対象認識一般の根幹をなすことが露われていると言えよう。)このために、認識における「能知−所知」関係の基幹的モデルが、ヒトの場合、“視覚的対象認識”の構図に定位して立てられるのも自然な成行きというものであろう。しかるに、視覚的対象認識においては「見られる物」と「見る者」とがまさに空間的に分離・離在した構図で現識される。そこでは見える対象が先方(「あちら」のルビ)に、そして“この身体”が此方(「こちら」のルビ)に、分離・対立した構図で現出する。(両者を距ててる中間部の“空間”は一般に「地」となっており、それは「図」としての対象や身体とは異なって明識されず、謂うなれば“無”化されている。)そして“身体の窓”とも謂うべき眼の開閉に応じて対象(これ自身は厳存しつづけているものと思念される)が見えたり見えなかったりする。眩(「まぶ」のルビ)しい光が眼に入射して来たり、強烈な音が耳朶(「じだ」のルビ)を打ったりといった体験に鑑みても、対象から何かしらが“宙空”を貫通・走行してきて“窓”に達するという想念がナチュラルに泛かぶ。こうして、所知的対象と能知的身体とが“宙空”という“分離圏”を挿んで対峙的な作用関係相に置かれる。――事は、しかし、この域では停止しない。能知と所知との関係が身体の内部にスライドされ、しかも、そのさい、所知と能知との空間的分離の構図が維持される。このスライディングは大旨としては以下のごとき事情に俟つものであろうかと思われる。対象的刺戟が“身体の窓”に到着することは、対象的知覚にとって必要条件であっても充分条件ではない。いわゆる“放心状態”の場合など、対象的刺戟は確かに入来していると考えられるにもかかわらず対象的知覚が現認されない場合があるからである。ここにおいて、入来している筈のものを選択的に覚知する機制が問題になる。そして、この場合で、あの視覚モデルの構制が推及される。すなわち、対象は厳存しつづけているにもかかわらず、眼を見開らくか、眼を閉ざすか、選択的な能動的反応作用に応じて対象が知覚されたりされなかったりするのと同様、“身体の内なる能知”の選択的応接の如何で“入来している或るもの”が覚知されたりされなかったりする、という構制である。このさい、“内なる所知”と“内なる能知”との関係に“視覚モデル”を類推的に適用することは、可能的一方式たるにすぎず、何も必然性があるわけではない。(われわれとしては後に他の可能的方式をも指摘する予定である。)が、人々の既成観念においては“内なる所知−能知関係”にまで暗黙のうちに“視覚モデル”の構図が推及されているという事情に鑑み、以下姑く、この路線からの帰結を見定めておこう。人々の思念するところでは“内なる所知”と“内なる能知”とは、視覚風の構図相で“離在的”“対峙的”である。能知と所知とは互いに“外部”的な関係にある。しかるに、“内なる所知”は頭痛・胸痛・腹痛など身体中のいたるところに“在る”わけで、“内なる能知”が所知の“外部”に“離在”すべきかぎり、“内なる能知”は体内のあらゆる部位・あらゆる位置に対して“外部”に在らねばならない。そこで“内なる能知”は実は身体そのものの外部に在ると考える途もあり得るが(われわれは後論の途次でこの考え方に立戻って批判することになろう)、しかし、ここではさしあたり“内なる能知”という言い方の元来の含意に策して、それはあくまで“身体の内部”に位置するものと想定しよう。その場合には“内なる能知”は“体内のあらゆる部位・あらゆる位置に対して<外部>に在りつつ”しかも身体の<内部>に在るという“矛盾”に陥ってしまう! この“矛盾”を避けるためには“内なる能知”は<点>的な存在であるか、端的に<非空間的・非延長的・非場所的>な存在であるか、そのどちらかと考えるほかはない。しかるに、<点>的な存在だと考える場合、そのような能知が選択的応接のエージェントであるという論点が神秘的であることは問わぬとしても、近傍的所知との離在性という論点を維持しがたくなり、視覚的モデルの自殺になってしまおう。そこで、残された選択肢を採って<非空間的>な存在だとするとき、<非空間的>存在が“身体に内在”する(位置という空間的規定性を帯びて在る)という没概念に陥り、これまた自殺論法である! こうして“内なる能知−所知”関係を離在的な視覚モデルの類推的適用によって説こうとする方式はおよそ妥当しえないのである。」93-5P
(小さなポイントの但し書き)「尚、右には“内なる所知”なるものを恰(「あた」のルビ)かも身体的一状態であるかのように扱ったのであったが、論者たちは“記憶的内在像”“想像的内在像”“知覚的内在像”なる(非身体的=心理的)存在を想定して、かかる“所知”と“内なる能知”との関係を視覚モデルで説こうとするかもしれない。が、その場合でさえ、論者たちは困難を覚れるわけではない。この件については、後論において主題的に討究する予定であるが、ここで一言だけしておけば、論者たちは“内在像”とかいう所知を映し出しているスクリーンとそれを“眺め”る能知という構図を持った<心>を身体に内在させている次第であるけれども(この構図はなるほど「見える物」と「見る者」との対峙の構図を“心”なるものの内部にスライドさせたものになっている!)、しかし、果たしてそのような<心>とやらが実在するのか、それが本当に身体に内在するのか? それは所詮、視覚的モデルに固執しつつ、仮想された“説明図式”にすぎまい。正規には後論(第二篇第一章第一節)を参照。」95P
(対話B)「人は、しかし,「内なる能知−内なる所知」ということが内省的に覚識されること、これは体験的な一事実である旨を指摘したがるかもしれない。われわれとしても、それが“体験的な一事実である”であることまでは認めよう。だが、そのさい、果たして「内なる能知」と「内なる所知」とが離在的に覚知されるであろうか? 離在的と想定するのは、視覚モデルに固執した“説明方式”たるにすぎず、体験的如実相にあっては「“内なる”能知的所知=“内なる”なる所知的能知」の渾然一態相が覚識される筈である。それゆえ、体験的覚識を論拠にして“内なる視覚構図”を云々するのは錯認であると言わねばならない。」95-6P
(対話C)「だが、人は猶も反論するかもしれない。表象を泛かべるとき、表象という所知は先方(「あちら」のルビ)に、それを覚識する能知は此方(「こちら」のルビ)に、対峙的な構図で覚識される云々。このような場合があることをわれわれも強(「あなが」のルビ)ちに否認するわけではない。それは、知覚的現相がまさに「現前」的に覚知されるのと同趣の構制である。指先や杖先の「能知的所知=所知的能知」渾一態が感知される場面ですら、先方(「あちら」のルビ)での能所的渾一態と此方(「こちら」のルビ)でのもう一つの或る覚識が感受という事実は決して直ちに所知と能知との離在性を論拠づけるものではない。(示唆的に一言しておけば、先方と此方とに二つの「能知=所知」渾然態が“錯図的”に現出しているというのが実態かもしれない所以である。)」96P
(対話D)「われわれは、以上、対象的所知と能知的主体とを空間的に離在・対峙させる“視覚モデル”が、そこに止まることなく、“内なる所知−能知”関係にまで類推的にスライドされてことを指摘し、この類推的なスライディングによる“内在化”が悖理(「はいり」のルビ)であることを指弾しつつ、更には、この“内在化”を一見支えるかのように見える“内省的”“体験的”事実は、必ずしも截断モデルの論拠たりうるものではなく、却って別見を使嗾するものであることを述べてきた。今や、「客観−主観」截断図式の淵源たる「所知的対象−能知的身体」の空間的離在という“視覚的構図”そのものに遡って、そこにみられる錯認ないしは速断を指摘・排却しなければならない。――われわれは、この作業過程で、視覚的モデルの“類推的内在化”は決して必然的な論脈ではなく別の理路が採られ得ること、これの挙示という案件にも併せて応えることになろう。」96P
第三段落――“視覚的モデル”とその截断図式とを予行的に排却することの詰め 97-104P
(前の項のまとめとそのことの詰め)「嚮にわれわれは、触覚的体験に即しながら身体的自我は能知的と所知的との両義態を呈したり「能知的所知=所知的能知」の渾然態を現示したりすることを確認したうえで、実は視覚的体験においても身体的自我の伸長という事態が生じ「能知的所知=所知的能知」の渾然態が現出する旨を予示的に一言しておいた。そして、われわれのこの見解にとって罪障的な既成観念をなすかぎりで、“視覚的モデル”とその截断図式とを予行的に排却した次第であった。」97P
(対話@)「偖、人々の日常的既成観念では、視覚や聴覚のごときいわゆる“遠感覚”の場合は、まさにそれが“遠感覚”と呼ばれる所以ですが、触覚的“近感覚”とは異なって、所知的対象と能知的主体(感覚)とが空間的に離在的であることを特徴とする、と了解されている。対象と主体とのあいだの“宙空”は「地」として“無化”されてしまい、従って対象的所知と主体的能知とが断絶的に距てられているものと思念される。だが、日常的な思念においては、“無化”されてしまっているにせよ、“宙空”的“空間”は決して端的な“深淵”ではなく、光刺戟(電磁波)や音刺戟(音波)の連続的な伝導体である。刺戟−伝導−受容の構制において、触覚の場合と視覚の場合とが果たして本質的に相違するであろうか? 例えば、バラを見る場合、バラから発する反射光刺戟(触覚的には例えばトゲの刺戟に照応)と眼底細胞の光化学的生理状態(指先の状態に照応)とを反省的に区別できても、両者を実体的に区別することはできない。指先の刺痛の場合、厳密にいえばトゲの刺さった指先だけの状態ではなく、神経回路から中枢までを含む触知覚体系の機能的一状態が(痛いトゲという対象的所知の相貌で)覚知されるわけであるが、それと類比的にいまの例でいえば、バラの四囲からの光束−眼球−視神経−中枢までを含む視知覚体系の機能的一状態が(バラの形や色という対象的所知の相貌で)覚知される。このさい、神経回路におけるインパルスの伝達とバラから眼底までの光の伝達とを絶対的に区別するには及ばない。杖や聴診器という弾性的伝達体が身体的自我の一部分として認められるのと同様、バラという先端からの“伝導体”たる大気や光線をも拡大された身体的自我の一部分とみなすことができる。このようにみなすことは、“肉体”と“外物”を絶対的に截断・区別する常識的思念につては奇矯に思えるにしても、認識論上・存在論上の権利においては、眼鏡や杖の場合に比べて、一向遜色があるわけではない。――以上、触覚と視覚に即して述べたことがあらゆる知覚に推及できること、これは容易に理解されるであろう。但し、視・聴・臭覚の場合、眼・耳・鼻は、指先のアナロゴンではなく、伝達回路のしかるべき中間的器官のアナロゴンとなり、対象の表面が指先に照応することになる。」97-8P
(対話A)「右の事態に定位して言えば、伸長された身体的自我は、さながらアメーバの偽足のように、対象の表面に接触すると言うことができよう。例えば、赤い色や特有の香りによってバラを覚知する場合、この色や香りは盲人が杖の先に感じる触覚とアナロガスであり、この意味において、それは拡大せる身体的自我の先端的表面に属すると言うことが可能なわけである。こうして、身体的自我は“観測装置”どころか知覚的世界の全域にまで、拡大・伸長されうるのであって(また、いわゆる“内部的”“体内”感覚の場合にはそれの感受される位層まで身体的自我の先端的表面が収縮・退縮しうるのであって)、その際には、杖先や指先における触知と同様、すべての知覚形象が「能知的所知=所知的能知」の渾然態となりうる。」98P
(対話B)「膨脹・収縮する身体的自我の如実的体験相に定位するとき、こうして、知覚形象はいずれも「身体的自我」という能知的所知の機能的一状態の覚知であることになる。そこでは、客観なるものと主観なるものとが別々にあって前者が後者を認知するというごとき、即自的な所知と能知との二元的対立性の構造は見出せない。」98P
(対話C)「この際、附言するまでもなく、われわれは世界(物理的世界)なるものと身体的自我なるものとをそっくりそのまま重ね合わせて同一視してしまおうというのではない。身体的自我の膨脹・収縮ということはあくまでその都度の機能的聯関性において存立するのであって、即成的・固定的な物理的対象世界とやらとこれまた即成的・固定的な身体的自我とやらとが一箇同一体だと言おうとするものでは断じてない。如実の体験相における知覚は「能知的所知=所知的能知」の渾然態であるにしても、そこには能知的と所知的との両義的反転をも生じするし、能知と所知との反省的区別・区分も顕出しうる。」98-9P
(小さなポイントの但し書き)「――翻って、そもそも、われわれは“身体的自我の膨縮”を云々し、対象的知覚は“身体的自我の先端的表面”でおこなわれるような言い方をしてきたが、これは触知覚が“皮膚的身体”の表面で生ずるという既成観念(身体を皮膚界面で劃定する既成観念)に妥協・仮託した言い方なのであって、知覚的現相がそれの現前する当の“個所”で能知的所知=所知的能知の渾然態であるという論点さえ確認できれば、身体的自我の膨脹・収縮という一種の“比喩”的な構制はわれわれ自身の積極的に主張したい論件では必ずしもないのである。」99P
(対話D)「われわれは、とりあえず以上において、対象的所知と主体的能知とを空間的に截断する“視覚”観が絶対的ではないこと、事柄の構制上、対象と主体(感覚)とが“近接的に連続・緊合”する触覚の場合と実際には視覚の場合も同趣であること、このことの指摘を介して謂うなれば“視覚の構図”を“触覚の構図”に還元・同化したのであった。そのことによって、われわれは、所知と能知とを截断する所謂“視覚モデル”(錯認された“視覚”モデル)が「能知−所知」関係の実態に合わないことを指摘し、あらゆる知覚形象が本源的には「能知的所知=所知的能知」渾然態であることを指摘するに及んだ。」99P
(対話E)「人は、しかし、ここで、本源的には「能知的所知=所知的能知」渾然態たる知覚体験(この主客未分の相)から如何にして「所知」と「能知」との反省的区分が成立するのか、この件について問い返すことであろう。この論件に最終的に答えるためにはいわゆる“精神的”“反省的”な能知やいわゆる“反省的自己意識”ひいては“反省的統覚意識”の何たるかの論定を俟たねばならず、後論(本章第三節)を期せざるを得ない。とはいえ、その前段として、先刻持ち越した在る問題と絡めてここで若干の立言を試みておきたいと念う。」99-100P
(対話F)「「能知的所知=所知的能知」の渾然態に分節化的“解離”が生じて、能知的と所知的との両義的反転が現出したり、能知的契機と所知的契機との“固定的”区別が現出したりする過程は、狭義の反省に先立って、謂うなれば“自動的”“自然発生的”に起始する。この次元での区別と狭義の反省的区別とは一応別個に討究する必要がある。ここではひとまず前者の次元を把え返しておくことが課題である。」100P
(対話G)「この課題に応えるためには、これまでの行文で稍々安直に用いてきた「能知的」「所知的」という概念の分析的再規定が先決要求になる。われわれは「触知している」「触知されている」という両義態的反転に藉口(「しゃこう」のルビ)しつつ「能知的」「所知的」という概念を導き入れ、「能知的↔所知的」両義態との対比的区別に即して「能知的所知=所知的能知」渾然態を云々したのであった。しかし、「能知的所知=所知的能知」渾然態というのは、事態的には能知と所知との区別未然的な未分相なのであって、第三者的な反省的概念としてはともかく、体験相そのものに即すれば“能知的”とか“所知的”とかいう規定性はまだ過大である。謂うところの区別未然的渾然態は、事柄としては、端的なる「現相の覚知」「現相の現認」に照応するものにすぎない。この境位から「能知的↔所知的」の両義的区別が“解離”するというが、精確に言えば、それは必ずしも「能知」と「所知」との分凝とは言い切れない。「能知的↔所知的」両義態という言い方に既にして拙速な点が存したのである。このことは、また、視覚的構図に関して、所知的対象と主体的身体との離在化的対峙を以って直ちに「所知−能知」関係と言い做した場面についても言える。けだし先方(「あちら」のルビ)に対象、此方(「こちら」のルビ)に身体が分立していることを直ちに「所知−能知」関係と見做すのは拙速と言わるべき所以である。――という次第で、われわれはひとまず、右掌が左手首を「触知している」、右掌が左手首に「触知されている」という導入の場面、「能知的」「所知的」というターミノロギーの導入場面に立返って、事の真諦(「しんたい」のルビ) を把え返さねばならない。」100-1P
(対話H)「「触れる」「触れられる」というのは単に物理的接触の謂いではなく、覚知性に徴して慥かに「触知する」「触知される」を含意している。が、そこには「触知する」「触知される」という能動・受動の覚識が介在している。なるほど、それは、抽象的一般的な能動・受動ではなく、「触知」という質的(感覚様相的)内容が籠(「こも」のルビ)ってはいるが、このさい特に留意したいのは、実は「能動−所動」の覚識である。われわれが嚮に「能知的」と「所知的」との両義性とか反転とか称した事態においては、実は、抽象化された「知」の能・所性ではなく、「触れる」「触れられる」「見る」「見られる」といった具体的様相での「能動性−受動性」の覚識が介在している。」101P
(対話I)「われわれはこのことを具体的に勘案することによって甫(「はじ」のルビ)めて先の課題、すなわち、かの渾然態から両義態的な“解離”が如何にして現成するか、その構制の解明をおこなうことができる。――「能動−受動」ということは第二巻「実践的世界の存在構造」における主題的討究の一論件であるが、ここでは差当り「能動感」「受動感」(例えば「圧(「お」のルビ)している」のか「圧されている」のか、「摑んでいる」のか「摑まれている」のか、等々)の弁別的な覚識は最も原基的な体験現相に属するということ、この点の論断までは許されるであろう。そして「圧覚」(「摑み」の感覚などもこれが重要な契機として含まれている)にあっては、筋肉的運動の能動感といった別途の要因が併存する場合は別として、純然たる“作用−反作用”的均衡状態の場面で、あの「反転図形」(ルビンの杯など)と同趣な「反転」現象(能動と受動の反転)が生じうること、このことも認められるであろう。とりあえず、以上の二点は既定的ということにして議論を進めよう。――触覚性の近くの場合、そこには、「圧覚」が重要な契機をなしているかぎり、「触れている」「触れられている」という「能動感」「受動感」の分化的反転が自然発生的に生じうる。が、実際問題としては、筋感覚における能動的伸長感・受動的圧縮感という別途の能動感・受動感が協応することによって能動的触知感・受動的被触知感が覚識されるのが普通であろう。そして、それが触覚性知覚における「能知(「しる」のルビ)的覚識」「所知(「しられる」のルビ)的覚識」の区別と呼ばれるものにほかなるまい。聴覚性・嗅覚性・味覚性の知覚においても筋肉性運動感覚の協応がやはりみられ、それが準反省的意識態において能動的感知の覚識を支えるのが普通である。が、圧覚の場合と類比的に音・香・味が圧(「お」のルビ)し迫って来る(音・香・味が圧し迫られる)という“受身”の感受も体験されうる。熱(「あつ」のルビ)さ・冷さ・痛さなどについても同様である。これらの場合、嚮に述べた「杖の“握り”の個所において汗ばんだ掌を感受する」のと同様に、音・香・味……熱さ・冷さ……がそのまま能知的な個体的一主体とみなされることはない。この点、視覚性の体験においても概しては同趣である。視覚的形象(形プラス色)において「見ている」ことが“受身”的に感受される場合もたしかにあるが、一般には、この“反転以前的反転”が現出したからといって、この受動性の体験を対他的能動態に反転させる流儀で“視覚的形象”を一個の能知(能視)的主体として覚知するということはない。尤も、現前する視覚形象が「眼」である場合、「眼差されている」という覚識は現前する「眼」(相手の眼差し)を能視的な一主体として直覚的に覚知させるという基礎的な体験構制があり、これの汎化によるものか、視覚的形象は能視的(能知能動的)な一主体の相で反転的に覚識され易い。しかし、いずれにしても、能動感・受動感、能蝕・所蝕、能視・所視……感と、現識されている知覚形象を能知的一主体とみなすことは同値でない。」101-2P
(小さなポイントの但し書き)「(後者は、能視……能蝕的主体という想念の成立を俟っての反省的措定である。なるほど、「眼差し」の受動的体験は反省以前的・直覚的に、当の「眼」(相手の眼差し)を能視的主体として覚知するとも言えるが、これとて後論する「視線の読み」という機制、そこにおける「対他的帰属」という構制に俟つものであって、決して「眼差されている」という受動的・被視的体験がそのまま反転的に相手を能視的一主体として覚知せしめるわけではない。)」102-3P
(対話J)「惟うに、“原基的な感覚”の次元であれ、ゲシュタルト的「図」の次元であれ、はたまた「個体的対象」の次元であれ、「現相の現前」という能知=所知の異化未然態(能所分立未然的な渾然態)が能動感・受動感の覚識的感受という基礎的な体験相を機縁にして、謂うなれば“自然発生的”な“異化的分化”や“反転”と相即的に、能蝕・所蝕……能視・所視……といった具体的な様相における「能知性」「所知性」の覚識が形成されて行く。が、このさい、能動感や受動感そのこともまた一つの「能知的所知=所知的能知」渾然態であるということが銘記されねばならない。そして、また、能知的主体という想念が未形成なここでは、「杖の“握り”の部位において(掌で)握っていることを覚識する」のと同趣的に、つまり、「杖の“握り”の部位で汗ばんだ掌を感じる」のと類比的な構制で、例えば、「バラにおいて、色を(眼で)見ていること、香を(鼻で)嗅いでいること、を覚識」したとしても、そのことはまだ、「バラ」を能知的主体と覚知することでも「眼や鼻」を能知的主体として覚知することでもない。そこでは錯図的な分節態たる二つの現相(二つの「能知的所知=所知的能知」)がたかだか反転的な能動感・受動感の両義態の覚識を伴いつつ現前しているにすぎない。だが、これが「能知−所知」分立化の端緒的な事態であることは認められよう。――以上で「知覚形象」に即して述べたことは「表象形象」にもmutatis mutandis (必要な変更を加えて)妥当する。」103P
(小さなポイントの但し書き)「が、爰で若干の付言を加えておこう。或る種の論者たちは、先方(「あちら」のルビ)に現前する表象像と此方(「こちら」のルビ)に感受される“内なる覚識”とを「能知−所知」関係とみなしたがるが、しかし、それらは錯図的な二つの分節態であり、いずれも本源的には「能知的所知=所知的能知」なのであって、当初から一方が所知で他方が能知というわけではない。論者たちの謂う“内なる能知”は、一種の緊張的内部感覚をその能動感と二重写しにしつつ、しかも、あの“視覚型モデル”を内在化した枠組のもとで、“内なる所知”との対峙的相関項として改釈したものにすぎまい。表象形象は、それ固有の(つまり知覚的空間秩序とは一応別の)空間的秩序性をもちつつ、それの現識される当の“場所”において、「能知的所知=所知的能知」渾然態の相で現前する。“内なる能知”と論者たちが呼ぶものは、決して知覚空間世界内の「身体」の「内部」に既存するのではなく、本源的には、それが“身体”の内部であれ外部であれ、ともかくにも「現相」が現認されるその“場所”において「能知的所知=所知的能知」渾然態のモメントをなしているのである。」103-4P
(対話K)「われわれは、以上、自我以前的な“身体的自我”に即しつつ、身体なるものを初めから皮膚界面で劃定された個体的一対象の相で自閉的に把える思念と対質し、また、いわゆる“視覚モデル”の「能知−所知」図式の排却を図ったうえで、「能知的所知=所知的能知」渾然態の本源性を顕揚しつつも「能知」と「所知」の異化的分立が生ずる機制の端初的な場面まで辿り返すという前段的な作業に従事してきた。今や、「能知」的主体が「能知的主体」として現成し「身体」的自我が「身体的自我」として現成する場面を正面から見据えるべき段取りである。そのためには、本節においては、先取的に既成化しておいた「この(自分の)身体」なるものがそもそも、対他的な反照のもとに対自的に分節化する所以の基礎場面にまで一旦溯ることが要件をなす。」104P
第二節 主体的帰属と人称化
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界にはわれわれが“身体的他我”と呼ぶ個体的分節態が“身体的自我”と共軛的に現前する。身体的他我は、身体的自我とも同様、個体的対象の相では「所与−所識」成態の一つであるが、現相的世界の爾余の諸肢節とのあいだに一書独特の関係を有っており、この独特の関係性においてそれは対象的一所知以上の或るもの(=能知的主体)である。爰に謂う「独特の関係性」をわれわれとしては「所知的現相の能知的主体への帰属性」と呼ぶ次第であって、この「帰属」の固有化と相即的に「身体的諸我」が人称的に分立化する。」104-5P
第一段落――“身体”の分立化と所知的現相の“身体”への帰属化と人称的「身体的自我−他我」の共軛的成立の機制 105-9P
(この項の問題設定)「われわれは前節において“自分の身体”ないし“身体的自我”が恰かも“身体的他我”ないし“他人の身体”との相互的反照に先立って一つの対象的個体として対自的に分節化するかのように議論を運んだのであったが、単なる対象的所知としてならばともかく、苟(「いやしく」のルビ)も“自分の身体”いな“この身体”という覚知は“あの身体”との反照においてのみ甫めて成立する。ここでは“あの身体”“この身体”の分立化という場面から始め、所知的現相の“あの身体”“この身体”への帰属化と相即的に人称的な「身体的自我」「身体的他我」が共軛的に成立する次第を一瞥しておこう。」105P
(対話@)「人々は“身体”なるものを皮膚的に劃定された対象的個体の相で表象しがちであるため、いわゆる“物体”一般とまではいかぬまでも、動物のそれを含めた“身体”をとかく一括して考えてしまいたがる。しかし、body(Körper,corps,溯ってはcorpus, σώμαいずれも身体=物体を一括して表わす)という概括は極めて高度の抽象的一般化の所産であって、原初的な体験の場面でそのような一般化的覚知がおこなわれるべくもないことは殊更に誌すまでもない。ここでは“あの身体”が“身体”として覚識される経緯の発生論的追跡を試みることが趣意ではないが“あの身体”“この身体”の反照的分立の基礎的な場面に溯って考えておかねばなるまい。」105P
(対話A)「ヒトの“他者体験”“自己体験”は、乳幼児の対母親の関係などを想うとき、皮膚的に輪郭づけられた“あの身体”とか“この身体”とかいう覚知相よりも遙かに先立って、表情的・情動的・実践的な相でまずはおこなわれるものと思われる。このような場面は、しかし、次巻での実践的世界論の論脈で討究することにして、ここでは“あの身体”“この身体”という分節態が分立する場面から始めたいと念う。――唐突で且つ場違いの感を与えることをも憚らず、議論にオリエンテーションをつける縁として、サルを用いての或る実験の結果を極簡単に記しておく。」105-6P
(小さなポイントの但し書き)「N.K.Humphreyは生まれ落ちてすぐから隔離して育てられたアカゲザルの幼体に生後二週間から九ヶ月にわたって種々の実験を施した由であるが、そこには次のごとき実験・観察も含まれている。カラー写真のスライドを使って、イヌ・ネコ・ウマ・ヒツジ・ブタ、それにアカゲザルの映像をスクリーンに映し出してみせる。被験ザルは、生後すぐから隔離して飼育されているので、イヌやネコなどについてはいわゆる“慣れ”habituation現象を生じて関心が持続しないのにひきかえ、アカゲザルに対しては関心の様子が違う。或るイヌの個体を見せ、次に別の個体を見せるという具合に、同一種類のものを次々に見せても、まるで同一の個体が一貫して見せられているかの風情で、個体ごとに新規の関心を示すということがない。それに対して、アカゲザルの写真に関しては、別の個体ごとに新しい反応を示す。他種の動物に関してはあたかも“種族”としてしか認知しないのに対して、同種のサルに関しては“個体”的に認知しているかのような風情である。詳しい実験をしてみると、他種の動物に関しても個体を弁別していないわけでは決してない。が、反応のありようでは“種族”に汎化されている。それにひきかえ、自分と同種の動物に対しては個体ごとに、また、同一個体でもそのポーズごとに、分化した反応を示す。(室伏靖子氏「霊長類の行動」理工学社刊『神経科学講座』第六巻、一九七九年刊、所収、参照)。」106P・・・生得的表情感得の論拠?
(対話B)「自分自身と同種の動物に関しては個体的認知にもとづいて対個体的に反応するという機制はサルよりもはるかに下等な動物においてもすでにみられるのではないかと思う。しかも、そのさい、他種の個体を恐らく形状・色調・臭気などのコクグロマリット的なゲシュタルトの相で類同的に弁別・認知しているらしいこと、自分と同種の個体については、あまつさえ、布置的状況に応じて相貌・姿勢が激変しても一箇同一の個体として弁別・認知しうるらしいこと、このことに留意させられる。この弁別・認知の機制はもとより後天的な学習によって分化・強化を遂げるにしても、いわゆる“結婚ダンス”の現象などを省みるまでもなく、同種属と他種属との弁別的機制は或る程度以上高等な動物にあっては生得的・反射的ではないかと想われる。刷込現象や狼少年について別途の討究を要するにせよ、以下では、暫く、ヒトの場合、同種属の他個体を早くから“個体的”に認知しうることを前梯にすることが許されるであろう。」106-7P
(対話C)「個体的に他人を認知するにあたり、発生論的には、全身的形状ではなく、特に顔面とその表情」や音声的特徴が核になっているといわれる。嗅覚ではなく視覚が優位であり、顔面表情が殊に枢要であるという点は、視覚と表情を他の動物にみられないほど高度・複雑に発達させいているヒトだけに特徴的なことと思われる。がしかし、表情に敏感に反応するということはイヌやウマなどにもみられるところであって、あながちヒトだけに特有なことではない。表情反応のもつ「感情価」や「行動価」は次巻での論脈に譲り、ここでは、それが認知的な場面で有つ意義に格別な留意を払っておきたい。――感情と直接に協応する顔の表情や、これと一体となった身体的な“表情”ともいうべき態度や身振もさることながら、ヒトは他者の“視線”に鋭敏に反応する。」107P
(小さなポイントの但し書き)「隔離飼育したアカゲザルは、生後二ヶ月までは他個体(スライド映像)の威嚇表情に対して別段反応しないが、生後二ヶ月半くらいになると突然、威嚇表情に対して恐怖反応を示す由である。被験ザルは、他個体と現実的な社会的接触の経験をもたず、威嚇表情に継起する他個体の攻撃を経験していないのであるから、この恐怖反応となって現われる“威嚇表情の‘意味’察知”は生得的な一機制、それも一定の日齢になって初めて突如として発動するようになる本能的な一機制と目されうる。同趣の“本能的”“生得的”“反射的”な機制が“表情”(身体的表情ともいうべき他個体の姿勢や身振を含めて)に対する反応として幾つか存在しそうである。われわれが「視線の読み」と呼ぶ機制もおそらくやそのうちの一つである。」107P・・・「生得的表情感得」が物象化ではないのかという宿題? 否は106p、然りは121Pチンパンジーの自己認識
(対話D)「ヒトは、他人にかぎらず、動物や鳥に関してさえ、その個体の眼の様子を見て、相手がどの方向に視線を向けているのか(それも遠方なのか近くなのか、距離についても或る程度まで)直覚的に察知する。それも、相手の眼と対象物(こちらが対象物と推測する物)とを見較べて判定するのではない。相手の眼を見ただけで直截に判る。対象物と見較べて判定するわけではないということは、人物なり動物なりの顔写真(対象物は写っていない)を見ただけで視線の方向が判るという事実からも肯けよう。勿論、見較べてみるような場合もあるし、「視線を読み取る」技能が経験を通じて上達するという事情はある。しかし、視線の読み取りという機制そのものはコミュニケーションに先立つ“生得的”“本能的”な一技能であると言って大過あるまい。」107-8P
(対話E)「われわれの看るところ、この「視線の読み」という機制が「能知的主体」としての他者という覚識の形成にとって極めて重要な一契機なのであるが、ここでもう一つ挙げておきたいのは、他者の姿態を協応的に「模倣」する“生得的”な反射的能力である。ヒトは謂うところの「サル真似」の流儀で、例えば、大人が自分の右手で頭越しに左耳をつかんでみせると、幼児もそれを真似てやはり右手を挙げ頭の後ろ側を廻して左耳をつかむ、といった模倣動作をやってのけることができる。」108P
(小さなポイントの但し書き)「――ここで「模倣」というのは単なる「追随」行動の謂いではない。鳥はおろか魚などにおいてすら、一匹が逃げ出すと他の個体も追随して逃げるといった同調がみられるが、こういう追随行動における体位の協応的同型性は第三者的・観察者的にのみ認知されることであって、当事主体には協応的同型化の覚識は欠けているであろう。外観的には類似していても、単なる追随動作と模倣行動とは同列ではない。われわれはもとより「追随」と「模倣」とを峻別してしまう者ではなく、両者が連続性をもつことを認める。だが、「模倣」動作はよしんば当初的には反射的追随であってもやがては同型化的対応行動、しかも“意図性”を有った協応的同型化の覚識に支えられた行動として現成する点で、単なる追随とは区別される。――」108P
(対話F)「模倣行動は、極く小さな乳幼児にあってすでに日常茶飯にみられるとはいえ、相手の動作に関しては視覚的に現認した動作を自分の身体に関しては眼に見えぬまま運動感覚的に対応づけるのが通例であり、事柄としては大層複雑な協応的動作である。――幼児は、また、他人の発した音声を早くから真似て自らも発声し、それが言語活動の基底となるわけであるが、考えてみればこれまた大層複雑な協応的対応づけである。聴覚的に現認した相手の“行動”を咽喉の筋肉運動というおよそ別様相の感覚運動で“再現”するこの模倣は或る意味では実に驚嘆すべきことと言わねばなるまい。――幼稚園児の「お遊戯」から「ママ事」にいたるまで、子供の行動は半自覚的・自覚的な「模倣」行動が主斑をなしていると言えるほどである。そして、この模倣行動と相即的に“この身体”と“あの身体”との対向的な分化と同化が進捗して行く。」108-9P
(対話G)「われわれとしては、ともあれ、「模倣」動作ということが謂うなれば生得的・本能的な機制によって現におこなわれるという事実、この事実に定位しつつ、上述しておいて“表情”のシグナル的な行動解発機制や「視線の読み」における“あの身体”“この身体”の視座的な覚知といった機制を綜合的に把え返すことによって、「他己」と「自己」の相補的・共軛的・対向的な形成(さしあたり“あの身体”的他我と“この身体”的自我の対自的・対他的な分立化)を追究して行くことができる。」109P
第二段落――現相的世界の認知的な相での分極化的帰属という論件の配視 109P
(この項の問題設定)「“身体的自我”は、即自的にはまず、(自分と同種属の) “動作”的な対象的一個体の相で分節・現前化し、“表情”(身振・姿勢・“声振”を含む)によってシグナル性の行動解発機能を“この身体”に及ぼす。そして、「模倣」動作において現識される“身体的他我”(さしあたりは“この身体”)との協応的対応を通じて“あの他者”と“この自分”とが対自化されるようになって行く。――ここでは、とりあえず「視線」と直接に関係する部面に即するかたちで(ということは「表情」や「模倣」と連接する「役割行動」の対自・対他的な共軛性やそこで対自化される「他我」「自我」の人称的分極化という部面は姑く措くかたちで、そして実は、これを論考する前梯として)現相的世界の認知(「コグニティヴ」のルビ)的な相での分極化的帰属という論件をひとわたり配視しておきたいと念う。」109P
(対話@)「現相的知覚風景の内には、他人と呼ばれる身体的存在も共属的に登場する場合があり、人々は、通常、あの「視線の読み」を俟つまでもなく、知覚風景に共属・登場する他者が何を視、何を聴いているか、また、何を嗅ぎ、何を触知しているか、直截に“判って”いる(つもりでいる)。しかし、知覚風景内に同様に現前している対象でも、彼は視ておらず聴いていないことがこれまた直截に覚識される場合もある。それゆえ、“あの身体=他者”と“この身体=自分”とが同じ視覚風景の内に居るというだけでは直ちに自他が近く風景をそっくりそのまま共有しているとは言えない。」110P
(対話A)「ところで、人は、知覚的風景に共属する敵から瞬時に身を隠すとか、咄嗟に物を人眼から隠すとか、このような動作を反省以前的にやってのけることができる。(物隠(「ものかげ」のルビ)に踞(「うず」のルビ)くまるといった行動であれば一種の本能的なものと言うこともできようが、相手の「視線」を勘案して隠す行動の場合、これはそのまま本能的とは言えず、さりとてまた、過去の経験を通じて習熟したものと言えそうにない。) そこには、場のゲシュタルト的布置に即応した“直覚的な”構図的洞観とでも呼びたくなるような、反省以前的な察知の機制があるように思える。それは、対象物と自分の身体との布置的な関係に応じた射映的現相の在り方を他人の場合について類比的に推理するとか投入するとかいった屈折した高次の“精神的”活動に負うものではあるまい。当の機制はより直截である。(この場面で「類推」とか「投入」とかを云々するのは“説明”のための一理屈としか思えない。)」110P
(対話B)「これに類することが「模倣」についても言える。猿はまさに“サル真似”の流儀で人間(「ヒト」のルビ)の仕草を真似るし、極く小さな子供でも日常茶飯に他人(「ヒト」のルビ)真似をする。「真似」といえば、子供は大人の表情を真似る。ここでは、大人の表情は視覚的にしか知られず、自分の表情は非視覚的(運動感覚的)にしか知られないのであるから、そこには類推的比例関係は成立し得べくもない。(それゆえ、類推的投入説は妥当しない。)が、事実の問題として“サル真似”が現におこなわれる。そして、子供本人が他人真似の意識、他人と同型的に協応した身体行動をおこなっているという覚識を現にもっている。さもなければ、グループ・ダンスや或る種の遊戯など、幼稚園式の集団行動はおよそ成り立たないことであろう。(われわれは社会学上の「模倣説」にそのまま与(「く」のルビ)みする者ではないが、しかし、模倣という“準意識的行動”が類比的推理とか自己投入とか呼ばれる“知的手続”を介することなく直截に進捗するという事実そのことは認めるべきだと考える。) 」110-1P
(対話C)「翻って、現相世界は、通常、視知覚的な空間的秩序を呈し、いわゆる遠近法的配景(「パースペクティヴ」のルビ)の構図で展らける。遠景は段々と先細りに見えているが、しかし、“見掛”と“実際”とはそのまま合致するわけでないこと、“実際には”しかじかの大きさであることが端的に覚識されている。また、視覚的対象は立体視されており、“見掛”はこうでも“実際”はしかじかの形の対象であることが直截に覚識されている。――遠近法的な構図のもとに立体視が既成化している現相的視覚風景にあっては、“この身体”の移動に伴う布置関係に応じて現相的世界の射映的相貌が合規則的に変貌すること、しかも、“この身体”がそのつど視覚的風景の膨縮的編制の輻湊(「ふくそう」のルビ)点になっていること、このことに人々は気がつく。“この身体”が近づいたり遠ざかったりするのに応じて、射映相も規則的に変貌する。とはいえ、そのさい、変動するのは“見掛”だけであって、“実際”相は恒同的に一定のままであると覚識される。さらには、身体の向きを変えるとか、眼を閉じたり耳を覆ったりするとか、「身体」における変位が知覚現相だけであって、“実相的”所知対象はそれ固有の空間的布置世界の中に不変・不動の相で存続しているものと覚識される。――このような体験が媒介になって、“実相的所知対象”と“射映的知覚相”、これら二つの編制態が区別され、“射映的な直接的知覚相”は身体に依属的(「アプヘンギッヒ」のルビ)であると思念されるようになる。」111P
(対話D)「このようにして射映的知覚現相の身体依属性が対自化されるに至っている“反省的”次元に定位するとき、知覚風景内の「対象」が共属する「他人」にとってどう見えているかを直截に“知っている”と信憑していた原初的な構制はもはやそのままなかたちでは維持され難くなる。けだし、パースペクティヴな知覚現相が身体的布置に依属する以上、他人の視座からの知覚的射映を自分が知覚のかたちで現有することは理屈上不可能な道理たる所以である。――人はここにおいて、視覚的風景世界に共属する他人と自分とが“実際上”の“同一対象物”に視線を共通に向けつつも、各々に現前する「射映的現相」は異貌であること、これを現識する次序となる。現前する世界が“実際には”“この身体”的自分と“あの身体”的他者とに共有されておりながら、「射映的所与現相」は“この身体的視座”と“あの身体的視座”とで異相であること、換言すれば、“あの身体的視座”に帰属する「射映的所与現相」と“この身体的視座”に帰属する「射映的所与現相」とが、分立・相違すること、このことが覚識されるようになる。――爰に、“あの(視座的)身体”と“この(視座的)身体”とが、能知的主体たる“他己”“自己”として分極化する端初的な次元が存すると言えよう。」111-2P
第三段落――「帰属」という機制そのことの分析的討究 112-7P
(この項の問題設定)「われわれは、ここで、自他の人称的分極・分立を追認するためにも、それを支える「現相の対他・対自的な帰属性」、さしあたっては「帰属」という機制そのことを分析的に討究しておかねばなるまい。」112P
(対話@)「「帰属」ということは、人称分化以前的=没人称的=前人称的な現相の“身体的”自他への分属化にほかならず、その原初的な次元は“身体的自我” (これは或る埓を超えた膨脹相では“他我”をも捲き添えにしつつ“世界大”にまで膨脹するので、人称的な「自我」ではないことに注意されたい)の膨縮の機制や補完的な連合・分化の機制に根差している。われわれにとって、発生論上の周到な議論はここでの課題ではないので、低位の次元については極く簡略な言及にとどめたいのであるが、言語的な「能記−所記」成態の帰属を論攷する前梯として、必要最小限の論点にふれるところから始めよう。」112-3P
(対話A−第一に)「第一に極く簡単にふれておきたいのは「帰属」以前的な“帰属”、むしろ「所属」と呼ばるべき次元である。例えば、目の前で自分の子供が転んで膝をしたたかに打ったのを目撃するとか、他人が目の前で金槌の手許を狂(ママ)わせて左手をしたたかに打ち据えたのを目撃するとか、このような場合には“あの膝”の個所、“あの手”の個所に瞬間的に“痛みが走る”。それは推測とか類推とかの過程的意識を伴うものではなく、直截的な感覚的体験である。この場合、“対他者的な帰属”とは反省的次元でのみ言えることであって、或る種の論者たちのように「他我に関わる直接的知覚」と言ったのでは明らかに言い過ぎになる。体験記述的には“あの身体”の部位(“あの部位”)における感受としか言いようがない。――これは前節で述べた“身体的自我の伸長・膨脹”という機制による「皮膚的界面」を超えたあの部位での「能知的所知=所知的能知」と言うことができよう。ここでは、しかし、「この身体」なるものは明識されていないのが普通であり、現前するのはもっぱら対象的に目撃される事件だけである。――」113P
(対話B)「如実の体験相に定位して言うかぎり、“あの左手の部位での痛み”が準反省的に“あの(左)手”ないし“あの身体”に帰属すると言われるさいの“帰属”は、知覚風景上、見えている色や形が“あの対象的個体”に“帰属”し、匂いや音が“あの物体”(発芳体・音源体)に“帰属”すると言うのと謂わば同次元であって、むしろ「所属」とか「附属」とか呼んだほうがよいかと思われる事態である。この“附帯的所属”は、しかし、やがて“この身体”“あの身体”の「此−彼」的区別性が他の脈絡とも絡んで“人称的”な区別となることを俟って、そこで人称的な「帰属」として対他・対自化されるようになる。このさいの「対他−対自」的な帰属性の分化は、次の機制と相即する「射映相」の自他的区別の対自化に俟つものと言えよう。」113P
(対話C−第二に)「第二の位階として挙げたい「帰属」は、“あの身体”の視座に“この身”を“置き移した”場合の射映相の覚知(ないしは、“あの身体”の視座を“この身”に“置き移した”場合の射映相の覚知)ともいうべき機制に負うものである。これは、金槌の打ち据えた手が“この身体的視座”からは右前方に位置し、“あの身体的視座”からは左前方にすることの覚知を相即的に支える。模倣的協応動作(相手が右手を挙げたのに応じて自分でも右手を挙げるといった)の成立にとってもこの機制と覚知が介在しているはずである。(或る種の論者たちはこの機制を「自己投入」的な「類比」ということで説明したがる。がしかし、少なくとも当初的な局面では「自己」を「他己」に投入・類比するという言い方は適切ではない。けだし、いまの問題局面では、“あの身体”の視座を“この身”に“置き移す”という言い方も同権的に成立しうるわけで、「此」「彼」のいずれも特権的ではないからである。)」113-4P
(対話D)「この局面で“この身体”と“あの身体”との視座的区別を支えるのは、射映的現相が「身体」依属的であることの覚識(これについて詳しくは次篇第一章第一節参照)と相即的なのであって、ここではまだ「対象−身体」布置関係と現相的射映とが(人称的区別規定以前的に)対応づけられているにとどまる。対象との布置関係に応じて「身体」なる(個体的一対象に準ずる相での)ものが射映的現相と対応づけられているというこのかぎりでは、人がもし投入的帰属を云為するとしても、それは前人称的なニュートラルな関係態の“投入”としか言えない。が、この機制によって(この身から視れば右前方の)あの手の部位の痛みが“あの身体”に帰属化される。」114P
(小さなポイントの但し書き)「――これを先に挙げた第一の「所属」と比べるとき次の点に相違がみられる。先の場合、あの痛みの部位は、知覚風景内の一定の位置、つまり、金槌の下、土台の上、といった布置規定と同じ位階で“この身体”の右前方、“あの身体”より手前の個所にある。そのさい、“この身体”は何ら特権的ではないとはいえ、準反省的には、知覚風景のパースペクティヴが“この身”を輻湊点にして配位されているというかぎりで、“この身体”が特異な基点になっていた。ところが、今や、“あの身体”も一種のパースペクティヴの基点になっており、そのパースペクティヴな視座的布置での左前方の個所に痛みが定位されている次第である。さしあたりここに相違が認められる。」114-5P
(対話E)「手の場合に即して右に述べたことは、歯であれ、腹であれ、“あの身体”の内部的な位置に“痛み”が位する場合にもそのまま推及することができる。が、やがて、位置的射映相の相違だけでなく、あの身にとっては激烈な痛みが感覚的に現前しているのにひきかえ、この身の視座からは想像という“射映相”でしかそれが現前しないという自他的な相違が自覚される事態を生じうる。そうなると、あの身の視座からの具体的な“射映相”についてはこの身に即した体験から推察する所以となる。但し、例えば、この身の左手の部位に嘗つて感じたことのある痛みの記憶的表象やそれをもとにした想像的表象があの身の左手に“投入”的に“帰属”化されるといっても、そこで同一性が思念されるのは「所識」に関してであって、所与的射映相は所詮そのまま合致しないことの覚識を伴う。ここまで自覚化されると、この身の左手に定位される記憶的・想像的表象は、それが明晰に泛かんだとしても所詮は副表象であって、――当の表象が“移動的に投入”されるのではなく、帰属されるのは所与は別の(この副表象に即してそれとして覚識される)「所識」なのであり――事の眼目は目撃状況を機縁にして自他“同一の”所識を覚知するという点に存することが了解されるようになる。これは、実質的には、すでに第三の位階に算入されてしかるべきものとも言える。」115P
(対話F−第三に)「第三には、表情・挙動・身振などを機縁にして、一定の意識的態勢が当の身体表現的他者に帰属化されるタイプの位階である。――表情や身振は、まさに或る他者=“あの身体”に「附帯的に所属」した相で原初的に覚知されるし、表情の目撃が先の金槌の打撲状況の目撃と同じ役割を果たす場合があるとでもいうか、表情を見たとたんに一定の感覚なり感情が直截に感受される場合もある。さらにはまた、表情を機縁にして“あの身体”的視座に“この身”を“置き移してみる”機制が作動する場合もある。が、ここでは、このようにして第一・第二の位階で済んでしまうことなく、もう少し間接的・媒介的に覚識されるケースが主題となる。」115-6P
(対話G)「この位階にあっては、他者=“あの身体”に「附帯的に所属」する表情・挙動・身振という現相的な所与が単なるそれ以上の或るもの=「所識」として覚知されることにおいて、当の覚知される所識内容が(「所与−−所識」成態の相で)“あの身体”的他者に「帰属」されるという構制になる。」116P
(小さなポイントの但し書き)「――或る種の論者たちは、この機制を「自分自身における“身−心”関係」をもとにした「類比的推理」だと説明したがる。だが、人は果たして自分自身における表情と心態との関係を直接的・先行的に知っていると言えるか。自分の表情はさしあたり顔面の筋肉感覚の相でしか感受されず、逆に、他人の表情は(筋肉感覚とは別種の)視覚的射映相でしか知覚されない。“自分の表情”(筋肉的現相)と“他人の表情”(視覚的現相)という“射映”的にはおよそ相異なる両者をアイデンティファイするためには、これら両者が偕(「とも」のルビ)にそれぞれ単なる所与以上の或る“一箇同一の”意味的所識相で覚知されていることが先件になる。しかるに、この先件の場においては自分(“この表情”)と他人(“あの表情”)とが同権的であり、ここですでに所識的な相関項が判っている筈なのであるから、いまさら「自分の場合からの類比的推理」など不用な道理である。けだし、類比的他我推理説が論理的にも事実的にも悖理として卻けられるべき所以である。――われわれとしては、しかし、自他の劃定が或る準位に達した局面では「類推」が現におこなわれるという事実を認めるに吝かではない。但し、このことは「類推」を以って他我認識の基底的な構制だと認める類推説にくみすることを決して意味しない。類推は所詮、副次的・派生的・補助的な機制たるにすぎない。しかも、われわれの謂う類推は、第一次的には人称未然的=前人称的なニュートラルな関係態の“投入”的分属化と相即するものであって、必ずしも「自分の場合からの類推」ではない。」116P
(対話H)「人称未然的な場面でのこの帰属化の機制が「自−他」の人称的区別化を成立せしめる重要な機制の一斑をなすものと考えられるのであるが、この件には後に立返って論ずることにしよう。」116P
(対話I)「われわれは以上、言語的交通以前的な「帰属」を三つの位階に分けて誌(「しる」のルビ)してきたが、本質的な構制では、言語的帰属をも第三の位階に含めることも出来る。(このことは「身振言語」が第三の位階に根差すこと、そして本質的な構制では「身振言語」も「音声言語」も同趣的であること、これを省みれば肯けよう。)とはいえ、音声言語は特段(?)に重要であるから、これについては一応別途に扱いつつ、人称的分極化という論件と繋げて行くことにしよう。」116-7P・・・?「手話の文法」からのとらえ返しをしていくと、この「特段」ということのとらえ返しが必要。120Pも参照。
第四段落――「言語」(主として音声言語)という次元での「帰属」問題の構制への基礎的な論攷 117-20P
(この項の問題設定)「爰でわれわれは「言語」(主として音声言語)という次元での「帰属」を一往問題にしておく段取りである。ここでは「帰属」ということを自他の「人称的」な分極化を支える構制としてみておくことが主眼であり、言語論そのものが主題ではないが、言語的表現性(さしあたり叙事性、つまり指示的述定性)に関わる基礎的な構制にある程度までは論及しておかねばなるまい。」117P
(対話@)「言語の表現性が「現相的所与」が単なるそれ以上の或るもの(ないし、単なるそれ以外の或るもの)=「意味的所識」として覚識されるという現相(「フェノメノン」のルビ)現前の原基的・汎通的な機制に負うこと、この件それ自身はここで詳論するには及ばないであろう。ここで当面する問題は、所与的能記が所識的所記として覚識される態勢が、他者と自分(それぞれ表現者・理解者として共軛的に成立する)とに「帰属」する構制である。」117P
(対話A)「われわれは、前梯的な議論として、ひとまず「音源的帰属」という問題次元について簡単にふれるところから始めよう。嚮に「附帯的所属」の一斑として、香気や音声が発芳体や音源体に“帰属”される事実を指摘し、溯っては、前章第一節の論脈中で「融合的同化」の一斑として視覚的な対象的現相と音声とが“融合”されたり“補完”的に結合されたりする事態を指摘しておいた。事柄としてはこれは日常茶飯に見られるありふれた事実である。がしかし、理屈を言えば、視覚と聴覚とは元来まったく別々の感覚であるから、視覚的な世界空間に“音”が定位されているということは、それ自身、聊か謎めいて思える。(これは、視覚と聴覚との生理的機構場面での協応ということで説明されるのであろうが、そのような生理学的説明を受けたところで、やはり、そういう協応にもとづいて一体どうして音源の位置的同定が可能になるのか依然として“謎”である。)聴覚にはなるほど音の方向を判定する能力なら備わっている。(ヒトは両耳への音波の位相が合うように頭を自動的に回転させて正中方向から音が到来しているものと“判定”する。)聴覚にはまた音の高低・強弱を聞き分ける能力なら備わっている。しかし、音の方向や大小や強弱は判っても、強大な音であるかといって近傍起源とはかぎらず、また弱小な音がかならずしも遠方起源に非ずであるから、聴覚自身では音の到来する距離を判定することは不可能な筈である。溯って謂えば、そもそも視覚空間と聴覚音声とは元来無縁である。それにもかかわらず、ヒトや動物は、音源がどの“物体”であるかを判断以前的に直覚的に覚知することができる。われわれはこの事実を銘記し、この事態を「音源的帰属化」と呼ぶことにしたい。この機制がなければ高等動物の生活は殆んど成立たないであろうほどそれは重要な自然的構制であるが、それはまた言語的交通の可能性、音声言語の成立可能性にとって基礎的な一条件をなす。」117-8P
(対話B)「発せられた言語音声は、言語活動発生(習得)の初期的な局面においては、一方では「音源的に帰属」されつつも、他方では眼前の特定的現相と「融合的に同化」される。これは幼児が或る特定現相を志向対象的に「図化」としている場面で当該音声形象が(身近な大人によって発せられていることに俟って)聴取される体験を通じて協応が生じることに因るものと思われるのだが、ともかく、こうして、一定の言語音声と一定の現相的分節態(「フェノメノン」のルビ)との融合的同化が成立する。ところで、この融合的同化態は“錯図”的な分節構造を呈しうるのであって、錯図的下位分肢の一方だけが知覚的に現前するだけで、前章第一節に謂う「補完的拡充」がおこなわれるようになる。(人はこの間の機制を「条件反射理論」のタームを用いて、一定音声刺戟による一定現相の条件づけ、および一定現相という刺戟による一定音声の条件づけ、を云為することもできよう。)」118P
(対話C)「そして、更には、一定の音声知覚が表象的秩序空間内に一定の記憶的・想像的な対象的表象を泛かばせたり、逆に、一定の現相態の知覚ないし表象が言語的音韻表象を泛かばせたりするようになる。こうして、知覚的であれ表象的であれ、言語的「音声形象」と「被示対象」との“結合”態が成立する。(ここに謂う“結合”態の何たるかについて精確には後論で規定することにして、取り敢えずこの便宜的な言い方で姑く議論を進めることを許され度い。)」119P
(対話D)「われわれの考えでは、言語的音声形象と“結合”されている対象的現相がそのまま「意味的所識」なのではない。対象的現相は「現相的所与−意味的所識」の二肢的二重態であって、言語的能記に呼応する「所記」は後者の契機(すなわちイデアールな「所識」)のみである。(ここでの言い方には稍々不精確なところがある。がしかし、「彼示的意味」と「被指的意味」の区別をはじめ、意味に関する主題的論考に入る折りまで、暫く、この言い方で押しておく。)」119P
(対話E)「ここにあっては、言語音声と“結合”されて現前する対象的現相は、それが知覚であれ表象であれ、事柄の本質的構造に即していえば、レアールな所与としては“副現象”たるにすぎない。「意味的所識」が覚知されさえすれば、“副現象”たるレアールな現相的所与は現存しなくても差支えない。その場合には、――この件を是非銘記したいのであるが――言語的音声というレアールな所与が「現相的所与」の位置に立ちつつ、この所与(能記)がそれ以上の或るもの=「所識」(所記)として覚識されるのである。こうして、レアールな“副現象”を伴うと否とに拘りなく「言語的能記−意味的所記」成態が存立する。そして、この「言語的能記−意味的所記」成態は、人々の日常的思念においては、とかく“自存化”されがちであり、その都度の音源的発話者から謂わば抽離されて、脱帰属化・没帰属化された相で表象される。」119P
(対話F)「ところで、「言語的能記−意味的所記」成態は既成態化されるかぎりでは脱帰属化されているとしても、現実的な発話に当面するとき、その都度の発話者に能記的音声が「音源的に帰属」されることに伴い「能記−所記」全態が発話者に「帰属」される事態になる。こうして、「音源的帰属」の機制が媒介環になって、一たん既成化している「音声的能記−意味的所記」成態が、音源たる“あの身体”“この身体”帰属化される次第なのである。」119-20P
(対話G)「音声言語に即して以上に述べたことが身振言語についても基本的に妥当すること、このことについては、このことについては容易に理解されよう。――尤も身振言語にあっては「融合的同化」が根強く(?)、また「補完的拡充」次元から抽離されにくく、従ってまた、脱帰属化が進行しにくいこと、脱帰属化の代わりに発信者の個体的特性を閉却しつつ身振をパターン化し類同化する機制が進捗するにすぎないこと、このような点で差異があることは否めない。が、しかし、発信者の個体的特性を閉却化しつつパターン化や類同化による“同一化視”が進捗するのは音声言語の場合でも実は同断なのであって、本質的な相違ではない。――」120P・・・?身振言語が手話を指すとしたら、むしろ手話の方が指さしによる人称的区別・分化を強化している。117P参照。
(対話H)「また、象形文字言語表現についても、ここでは「融合的同化」の機制が基軸になるとはいえ、やはり、音声言語に即して上述したことが妥当すること、これは見易いところであろう。いわゆる表音文字言語については、音声的能記と表音的能記“図形”との融合的同化ないし条件反射的結合が一たんおこなわれるという媒介項を入れて、これまた音声言語に即して述べたところが基本的に妥当すること、この件について絮言するまでもあるまい。」120P
(対話I)「われわれは、嚮の「附帯的所属」このかた、「帰属」について位階的に順次議論を運び、今や、言語的帰属の機制に留目して「言語的能記−意味的所記」成態の自他への帰属化と相即的に「人称的分属化」「人称的分極化」を討究しうる域にまでようやく近づいた。――次なる議論の進め方としては、しかし、ここで直ちにいわゆる言語的交信だけに定位するのではなく、上来前梯的に敷設しておいた「模倣」とか「視座」的依属とかの論点とも併せて、且つ亦、言語活動をも「役割行動」の一斑に定位するかたちで「主体的帰属と人称的分極化」の問題に一応の論決を図ることにしたいと念う。」120P
第五段落――“この身体”なるものの明示的な措定から始め直す 121-32P
(この項の問題設定)「われわれは本節の行文において、これまで“あの身体”“この身体”という相での分節化、個体的対象としての“自他”の現前化を云々しながら、“この身体”なるものがどの程度の相貌で対自化されているかは敢て曖昧なままにしてきた。これは前節において先取的に誌した皮膚的界面で劃定された“身体的自我”という論件とも絡む問題である。それゆえ、「自己」と「他己」とへの分極化を論ずるにさいしては、まず“この身体”なるものの明示的な措定から始め直す必要がある。」121P
(対話@)「ヒトは嬰児期以来、第三者的にいうかぎり“自分の身体”についてもかなり早くから種々の体験を積んでいると言うことが慥かに出来よう。受動感・能動感の区別的覚識も早くから生じていると想われる。しかしながら、自分の身体に関係するこれらの覚知は、それ自体としてはまだ「自己」覚識とは別である。では、そこから、如何にして他己との対照における「自己」の覚識が成立するのか? 人は、ここで、他(人)の人体と自分の身体との同型性の認知が必要条件であると言い、そこで直ちに「鏡像体験」を必要な媒介項として云為するかもしれない。なるほど人口鏡が発明される以前にも「水鏡」というものがあり、ヒトは大昔から鏡映体験を持ったとも思われる。だがしかし、われわれは水鏡をも含めた“物体鏡”への鏡映体験は「自己」覚識の成立にとって何ら必要時条件でないと考える。」121P
(小さなポイントの但し書き)「――前節での行文中、われわれはGallupの実験観察に言及し、生後すぐに隔離して飼育されたチンパンジーはついに鏡映像を自分の映像としては認知できない由を記しておいた。他個体との現実的な社会的接触・社会的交渉をもった経験のあるサルは極めて容易に鏡映像を自分としてアイデンティファイできる。それにひきかえ、他個体との社会的接触を経験しなかったサルはついにそのアイデンティケイションができない。この実験事実は、鏡映像の自己認知のためには、却って“他者鏡”、すなわち、他個体との現実的な社会的交渉の体験が必要条件であることを物語っている。」121P・・・107P参照
(対話A)「人々が鏡像体験という契機を重視するのは、ラカンや一部社会学者の理説による影響もさることながら、諒解できぬ話ではない。それは「自己像」「自我像」というとき、人々はとかく、「顔」を具えた自画像を描き易いという事情に由る。視覚優位型の動物たるヒトは、他人たちを個体的に認知・区別するさい、何は措いても顔貌を中心にして個体性を見定める。そこで、自分についても顔貌を中心に表象するとなれば、どうしても鏡映像(ないし写真像)が必要条件に思えてくる。この間の事情は諒解するに難くないが、しかし、もしも鏡像体験が必須だということになれば、盲人はついに自己意識をもてぬことになってしまう。それは明らかに時事に反しよう。――それよりも、むしろ、そもそも問題なのは、鏡映像という“他者的”存在を“この自己自身”として認知するアイデンティケイションが一体どのようにして可能なのか、まさにこのことなのである。事実問題としては、幼児はおろかサルやイヌでさえ、鏡映像を“自分の像”として容易に認知している。だが、直接視では肝心の顔・頭は見えないのであり、手足など直接にも見える部分は直接視像と鏡映像とではおよそ異貌であって“同一物”とは見えにくい。鏡映像はむしろ見慣れた他人と類同的である。それにもかかわらず、幼児やイヌ・サルでさえ、鏡映像が他人(の映像)ではなく、自分であることを一体どのように認知するのか? 直接的視像(運動性感覚や触覚性感覚を伴っている)と鏡映的対向像というおよそ別相貌の両つの射映的現相を一体どのようにして同一体と認知することが可能なのか? これを可能ならしめる論理構制それ自身はさして特異ではない。運動感覚や触覚性感覚とも「融合的に同化」している一方の側の直接的視像と他方の側の鏡映像という二つの射映的所与を一箇同一の所識的対象同定する機制そのものは、再認的同定の場合などとも同趣的である。だが、問題なのは、この機制だけでは、鏡映像の自己認知はおこなわれ難く、現に他個体との社会的接触をもたぬサルはそれをおこなえないこと上述の如くである。サルにせよヒトにせよ、直接には見えない頭や顔についても運動感覚性・触覚感覚性の対象像を有ちつつ、それを“他者鏡”に徴して一定の視覚像と融合的に同化させている。この基礎的事実があって、しかも、現実の他個体との触覚性接触の体験を通じて他個体に関する視象とその視象的対象を触知したさいの体験的記憶が把持されている。ところが、鏡像に触れてみるとき、他個体との接触とは触知様相が異なり、視空間的距離と蝕空間的距離とが背離しており……といった特異性が一方にあり、他方で偶々手を先方に伸べずに運動感覚的・蝕感覚的な契機とも融合しつつ一定の現象化をも蒙っている“この身体”の頭なり顔なり腹なりに手を触れてみると、鏡映的視像に対応現象が現出する……といった体験も生ずる。おそらく、事実過程としてはこのような経緯があって鏡像の自己認知がおこなわれるのであろう。が、当座の論点として銘記したいのは、“この身体”については頭・顔・背などが直接には見えないにもかかわらず、少なくともヒトにあっては幼児ですら、仮に鏡映体験がなくとも、“他者鏡”に徴して、頭・顔・背を具えた自己像、つまり“この身体”像が成立するであろうことである。“自己”に関する視象混りのこの「融合的同化」に俟つ“身体図式”があってこそ或る水準以上の「模倣」校合も可能なのであり、また逆に「模倣」という“他者鏡”との協応的動作を通じて“この身体”が“あの身体”と類同的・同型的な相で安定的な自画像になっていく。」121-3P
(対話B)「自己と他己とが共軛的に分極化するためには、“この身体”と“あの身体”とが同型的・類同的な対象個体として分立的に覚識されることが必要条件をなす。このことまでは確かであって、われわれは、そのためには“物体鏡”による鏡像体験こそ必要条件でないと主張するが、その代りに“他者鏡”は必須であると考える。ところで、われわれは「身体以上的な身体」として人々が間身体的に呼応し合う構制を「役割扮技」(role-playing)という概念で把握する。しかるに、“他者鏡”への“鏡映”という協応的動作は既にしてわれわれの定義「役割扮技」という概念に下属する。そのかぎりにおいて、“この身体”的自己と“あの身体”的他己との共軛的分立、ひいては「人称的分極化」ということは、われわれの理論構成から言えば、役割扮技行動という実践的場面で規定さるべき所以となる。とはいえ、しかし、この実践的場面は第二巻での主題であり、ここで深く立入るべき次序ではない。それゆえ、自己と他己、ひいては、能知・能動的な諸主体の分立化やいわゆる人格性の問題は、本格的には次巻に委ねなければならない。とはいっても、われわれは認識論的場面・次元において、或る程度までは人称的分立化を必須の論件とする。このかぎりで、ここに極く簡略に図式的な臆言を試みておこう。」123-4P
(対話C)「発生論的・原初的には、役割扮技行動は他者(さしあたり“あの身体”)の“表情”や“視線”に応じた反射的な行動という位相から開始される。単なる“反射的”な協応行動は、素より、第三者的に認定すれば役割行動の端初であるにしても、狭義の役割行動ではない。とはいえ、そこでも“表情” (身振や姿勢、“声振”などを含む)が一定のシグナル的行動価、一定パターンの反応行動を触発する記号的機能を既に有っているという事実を看過してはならないであろう。即自的なシグナル的表情や視線によって触発される反射的な“役割行動”は“意識的”“有意的”役割行動、すなわち、他個体の表情・身振・姿勢・発声等のシグナル的意味を謂うなれば了解したうえでの呼応運動、このイミでの対自化された役割行為、と連続している。――サルにおけるマウンティングや毛づくろいなど、すでに意識的・有意的役割行動であると言えよう。チンパンジーに到っては仲間の「おねだり」に応えて食物を分与するとまで言われる。ここには「役割期待」(role-expectation)の対他・対自的な了解とそれにもとづいた役割遂行が現存すると認められ得る。――われわれは啄きの順序(「ペッキングオーダー」のルビ)の確立している鶏の集団においてすでに自覚的な役割行動があるとまでは言わない。がしかし、そこではすでに「個体」認知がおこなわれているだけでなく、自分の行動が相手のどういう反応を喚起するかが即自的に了解されているとはいえよう。ヒエラルヒーの確立しているニホンザルの社会などにあっては、他個体に対して所与のシチュエイションにおいていかなる役割行動を予期しうるかが了解されており、その所期的役割行動の在り方が個体ごと、個体別に覚識されているという意味で他者たちの“個性”が現識されていると言えるのではないか。――ここに謂う“個性”は実体に附着せる固定的な属性といったものではない。それは所与のシチュエイションのもとでの個体的関係なに応じてかなりの安定性をもつて発現する或る機能的なものである。――それは当方の行動に即応して先方に予期される行動様態の特性であってみれば、まさに間(「かん」のルビ)主体的な自他関係と認められ得よう。」124-5P・・・鶏の「啄きの順序」は差別の本能的なこととしても例示されているのですが、これは飼育された動物におきている物象化のようなこととしての指摘もでていて、わたしはそうとらえています。ニホンザルにおけるヒエラルヒーも餌付けされたサルにおける特徴的なことという指摘もおきています。廣松さんがここで指摘しているように、「固定的な属性」としてとらえることの批判にも通じます。
(対話D)「この次元での役割行動(役割期待と役割行動)ともなれば、自分に対する他者の役割期待を了解しつつ、その役割期待に応じる仕方で自分の行為を協応させる事態になっており、対自的対他=対他的対自の相で“あの身体”と“この身体”との協応関係が成立していると言える筈である。そして、これは、人間においては、幼児にもすでに見出されるところであり、「自己」なるものは(これにはさまざまな位階・位層があるのだが)、まずはかかる対他的対自という「他己との共軛性」において現識されるものとわれわれは考える。」125P
(対話E)「役割行動という所与のシチュエイションのもとにおける“あの身体”的他者による役割期待の対自化、それと即応した“この身体”の協応的応接の進展とそこにおける“あの身体”的他者に対するディスポジショナルな反応様態の対他的予期、一般化していえば、所与のシチュエイションのもとにおける“あの身体”と“この身体”とのあいだでの協応のディスポジショナルな相補的・共軛的な期待の「対他的−対自的」な現成、このような力動的場において「他己」と「自己」とが「対自的・対他的」に現識される。」125P
(対話F)「翻って、われわれが嚮に言及しておいた言語活動が“役割行動”の重要な一斑をなすことは更めて追記するまでもない。そして、役割存在としての「他己」「自己」が(因みに、役割行動の主体は能動的主体であり、即自的にはすでに能知的能動態であるにしても、まだ明識的に能知的主体とはいえないのだが、それが)「能知的主体」の相で覚識されるようになるのは何といっても言語的活動の場面に即してである。成程、現相的射映の身体依属性ハ言語以前的に覚知されうるし、「視線の読み」の機制などとも相俟ちつつ、“あの(視座的)身体”と“この(視座的)身体”との分立性も言語的交通以前的に覚識されうるであろう。そしてそこに一応の“能知的主体性”を認めることも許されるかと思う。――現に、上述の第一位階の「帰属」、すなわち「附帯的所属」化においてすでに“あの身体”に「痛み」や「怒り」など、いわゆる感覚や感情の帰属化がおこなわれ、第二位階のそれでは先方の視座に即したパースベクティヴな現相的構図の帰属化が“あの(視座的)身体”におこなわれ、第三位階のそれでは「現相的所与−意味的所識」成態の“あの身体”への帰属化がおこなわれているのであり、“あの身体”は単なる対象的一個体以上の或るものとして現前する。言語的帰属化にともなう他者の「能知的主体」化は言語以前的な帰属化と相即するそれと連続的であることは慥かである。――だがしかし、「言語的能記−意味的所識」の対他者的帰属化は、前言語的なそれに比べて所識内容の量的な厖大化・複雑化をもたらし、“あの身体”的他者に帰属化される所識内容をまずは決定的に拡充する。そして、所識内容の自他的帰属の固有的相違性を覚識させ易くし、ひいては、能知的主体としての自他の分立性、人称的分極性をそれは確然と現識せしめるに到る。」125-6P
(小さなポイントの但し書き)「――この間の事情については若干のコメントが必要かもしれない。例えば、眼前の人物が痛みを感じていることや怒っていることを現認する場合、痛みや怒りを“あの身体”に附帯的に帰属するのであって“この身体”に類比的に帰属させるわけではない。俗な言い方をすれば、慥かに「相手の痛みや怒りを知るということは自分でも痛んだり怒ったりすることではない」。しかし、或る種の論者たちが「子供たちの感情移入」とか「動物や幼児における感情の“伝染”」とかを根強く主張する由縁もそこにあるのだが、発生論的に定位の局面における「附帯的所属化」にあっては、場所的にこそ“あの身体”部位に定位されておれ、「痛み」や「怒り」が端的に感受されている。謂うなれば、痛みや怒りが現相的“意識野”を“充たし”ている。(そこで、この“意識野”を“この私”の意識野にほかならぬと見做す論者たちは“あの身体的”他者の痛みや怒りといっても“この私”の痛みや怒りの“投入”だと称する所以となる。)そこでは、“あの身体”他者の痛みや怒りが端的に感受されるのであって、“この身体”にはそれが帰属していないという意識、つまり他者と自分とでの相違性の覚識、自他分立・対比の意識は存立しない。勿論、反省によって当の対比的意識が生じ得ないわけではないが、直接的な体験相では自他の分極性が覚知されはしないのである。“この身体”は謂うなれば“地化”されてしまっており、もっぱら“あの身体”に所属する痛みや怒りだけが“図化”されてしまう。第二・第三位階の帰属にあっても事態は同趣的である。そこでは、成程、“あの身体”他者への帰属化(ないしはまた“この身体”自分への帰属化)はおこなわれる。そして、そのかぎりで、“あの身体”他者(ないしはまた“この身体”自分)を「能知的主体」たらしめてはいる。とはいえ、普通には、つまり、反省がおこなわれる特別な場合を除いては、他者と自分とにおける所識的内容の相違性は現識されない。この間の次第については、敢て例解的に説明するまでもあるまい。――ところで、実は、言語的交通の場面であってすら、普通の場面では、人称的分極性が必ずしも強く覚識されるわけではない。言語的帰属といえども、あの第一・第二・第三位階の帰属化とあくまで連続的である。なるほど、われわれは人称的分極化を発生論的に支える基盤として「帰属」だけでなく、「役割扮技」という実践的場面を勘考すべきであり、役割行動の主体として「他己」と「自己」との共軛的な分立性がいちはやく覚識されていることを看過してはならない。だが、役割行動主体の「対他−対自」的な共軛的な分立性の覚識それ自身はまだ、対自的な能知的主体としての人称的分立性の現識ではない。では、如何にして、人称的分立性の覚識が現成するのか?」126-7P
(対話G)「われわれは、右において当面の論件として焦点化した問題、すなわち、言語的交通という役割行動の場面における「能知的主体」の人称的分極化が如何にして現成するかという問題、これに応えて行く段取りである。――無用の誤解と混乱を招かぬようあらかじめ一言注意を促しておけば、われわれのいう「人称的分極性」は文法にいわゆる“人称”とは次元を異にするところがある。行文そのものを通してこのことも明らかならしめる予定であるが、文法流の既成概念に惑わされぬよう留意して頂き度いと念う。――」127P
(対話H)「偖、発生論的な初次的局面に限らず、通常的体験の場面では概して、現相的世界は人称帰属未然的=前人称的である。「言語的能記−意味的所識」成態ですらやはり、謂うなれば脱人称帰属化されて、対象的一事態の相で覚識されるのが普通である。準反省的には、知覚的風景世界に共属する人々に斉しく帰属する相で現相的所知が共帰属化されているといった態勢が見出されるが、しかし、何分にも“あの身体”“この身体”が人称的主体として分立化されず斉同的な並存の相にとどまっているかぎり、誰彼への帰属性の意識は薄い。ところが、“あの身体”と“この身体”との「他己−自己」的な分立の覚識が、或る種の局面で現認される。その条件の上に、言語的交通にあっては「言語的能記−意味的所記」成態の或るものが他者には帰属しても自分には帰属しないこと(ないしは逆に、それが自分には帰属しても他者には帰属しないこと)が明瞭に覚知される場合が屢々生ずる。(この自他的な不共属の覚識は、先に述べた「帰属」の第二・第三の位階や時によっては第一の位階にあってさえ反省的に覚知される場合があり、言語的交通に排他的に特有というわけではない。がしかし、自他にとっての不共属性が強く明識させられるのは何といっても言語的交通における或る種の場合が最たるものである。)」127-8P
(対話I)「それは如何なる場合であるか? 最も典型的なのはいわゆる“見解の不一致”が自覚される場合、すなわち、或る命題の対他−対自的な帰属・不帰属が覚知される場合である。が、これは高次の次元であって、より低次の次元においても同趣の事態が出来(「しゅったい」のルビ)する。それは、例えば、眼前の一対象を自分は「ワンワン」と呼ぶのに他者は「モーモー」と呼ぶ(ないしは逆)というように、さしあたり、命名(名辞使用)の自他的相違といった次元からしていちはやく生じうる。次元的な差異を逐一銘記することなく一般化して構図だけを言えば、或る「言語的能記−意味的所識」成態が、一者(発話者)には帰属するが、他者(聴取者)には帰属しないという事態、これが言語的交通の場においては屢々強く覚識される。(勿論、自他的共帰属の場合が普通であり、そのさいには自他は斉同的な並存の相で覚識され、そこでは帰属の自他的対立性は覚識されない。このことは附言するまでもあるまい。)」128P
(対話J)「この自他的不共属の事態の覚識、すなわち“あの身体”他者への帰属と“この身体”自分への不帰属、ないしは逆に、“あの身体”他者への不帰属と“この身体”自分への帰属、この事態の覚識において、“あの身体”他者と“この身体”自分とが能知的主体(さしあたり或る事を知る主体というより或ることを知っている主体)として分立的・分極的に対向させられるようになる。自他のこの分極化的対向がわれわれの謂う「人称的」分極の原基形態である。」128-9P
(対話K)「爰に謂う「人称」性が文法に謂う一人称・二人称・三人称と位相や次元を稍々異にすることまで容易に察せられようが、人はここで文法上の人称関係とわれわれの謂うそれとの区別と関連を明示するように要求することでもあろう。「我−汝」「我−彼」「我−我」といった関係は、存在論的に重大かつ複雑な関係であり、皮相な文法的・形式的な処理を許さない。われわれとしては、これら間主体的な人称的=人格的関係の内容について、次巻の実践的世界論の論脈内で論考する予定である。ここでは、とりあえず、しかし、文法的既成観念を前提的ドグマとするところから生じる惧れのある誤解を防遏する含みで、謂わばメタ文法的次元から、必要な論点というよりもむしろ視角だけを表明しておきたいと念う。」129P
(対話L)「人称は更めて言うまでもなく関係規定であって、内自的に完結せる規定性ではない。われわれは、メタ文法的に「称」をまず基本的に三類型に分ける。第一に「対象的指示称」、第二に「自他的共軛称」、第三に「我々的協同称」である。――第一の「対象的指示称」というのは、日常的言語活動でよしんば我・汝・彼(ないし我等・汝等・彼等)と指称されようとも、“この身体”自分ないし“あの身体”他者が個体的対象の相で指示されているにすぎない場合に照応する。或る種の論者たちは、この場合を「ワレ−ソレ」という関係規定で把えたがるかもしれない。成る程、反省的に対自化してみれば「ソレ」に対する「ワレ」という帰属者が覚識される場合もある。しかし、われわれに言わせれば、反省的に対自化されるのは「我」とは限らない。(或る種の論者たちは、「意識はその都度つねに私の意識である」という「意識の各私性」の命題を絶対的なドグマとするところから、反省的に対自化されるのはその都度“我”であると強弁するが、われわれは当のドグマを卻ける。)反省的には「我(等)」「汝(等)」「彼(等)」が帰属的相関項として覚識される場合もあるが、「対象的指示称」の特性は、対象指示的であって人称帰属以前的であるという点に存する。尤も、反省的には各種の人称に帰属化され得るかぎりで、「非特定人称帰属的な個体的対象指示」という言い方も出来よう。この「対象的指示称」は人称の第一類型というよりもむしろ前梯と呼んでしかるべきむきもあるが、われわれが敢えてこれを第一類型として定位するのは、人称的帰属性が反省的に明識化された場合に狭義の第三人称(「誰カニトッテ−ソレ」)を現出せしめる構制を具えているからである。――第二の「自他的共軛称」というのは、嚮に「人称的」分極の原基形態と呼んだものにほかならず、或る事態の自他的不共属の態勢、すなわち、対他的帰属かつ対自的不帰属、または対自的帰属かつ対他的不帰属という「対他−対自」関係が覚識されている場合に照応する。ここで留意さるべきことは、“この身体”自我と対向する“あの身体”他我は、日常的言語で「汝」と呼ばれる者だけでなく、「彼」と呼ばれるものをも未分化に包括する、という点である。自他共軛関係性における「他者」は原基的には対話的役割行動における「呼掛者−応答者」という規定以前的であって、文法上の「対話的相手=汝」と「話題的人物=彼」とは派生的な分化のもたらす規定である。われわれにとって第一義的なのは、いわゆる二人称的汝といわゆる三人称的彼との区別ではなく、「対他対自−対自対他」の共軛性・互換性なのである。――第三の「我々的協同称」というのは、自他の共軛性において能知能動的な役割主体としての相互承認を遂げつつしかも自他の協同的一致が対自化されている場合に、照応する。が、これについては、本来、次巻における実践的世界論の論脈においてしか明示的に規定することができないので、ここでは掲げるにとどめておく。尤も、次の一事だけは誌して、ありうべき誤解を防止しておかねばなるまい。それは、自他の共軛的分極性の覚識に先立って根源的統一態としての「我々」が存立するのではないかとの思念に係わる。慥かに、反省的に対自化されうる根源的統一態としての“我々”と呼ばるべき次元が存在しないわけではない。それは身体的自我の膨脹的伸長が“他者”の域にまで及び謂うなればシャム双生児的ひいてはポリプ的な協存体を形成している場合である。われわれの分類的規定では、しかし、自他の共軛的分極性の覚識に先立つ端的な“我々”は、それが対象的に現前するかぎり「対象的指示称」に属するのであって、「ソレ」が“我々”として、そして反省的に明識される「誰カ」もまた「我々」として存立し、「(我々ニトッテ) −我々」という構制になっていようとも、それはあくまで「対象的指示称」の一斑であり、それ自身としては「我々的協同称」ではない。――今ここでは、人称性そのことの主題的説明が課題なのではなく、われわれのいう「人称的分極化」を文法的な既成観念に引き寄せて誤解される危険を防遏しうれば足るのであるから、「他者」の汝と彼とへの分化や、汝等・彼等という所謂“複数”人称の問題には当面立入るには及ばないであろう。」129-31P
(対話M)「われわれは、とりあえず、人称性ということをめぐる以上の挿入的コメントを介することによって、嚮に述定した「人称的分極化」が「自他的共軛」の次元に属すること、従って、そこではまだいわゆる「汝」といわゆる「彼」とは未分化のまま「能知的主体」としての“あの身体”他者と“この身体”自分とが謂うなれば帰属的視座性において対向的に分立しているにすぎないこと、このことを把え返し得ると思う。――ところで、少なくともこの程度の「人称的」な共軛的分化はチンパンジーにおいてさえ既に成立しているものの如くである。近年、聾唖者用の「手話」(身振言語(?))を用いてチンパンジーとの対話が著しい成功を見ており、チンパンジーは一人称代名詞(I)、二人称代名詞(You)、それに一人称複数の代名詞(We=I and You)まで使いこなす由であって、そこでは相手にとってのYouが自分にとってのIであること、自分にとってYouのが相手にとってのIであること、自分と相手にとって自分と相手との一括相がWeであること、この種のことがチンパンジーに理解されているものと思われる。――われわれの謂う自他の共軛的人称分立の態勢にあっては、或る事態が“あの身体”他我にとっての他者たるこの自分にあの能知的他我によって帰属化されていること、“この身体”自我が自分にとっての他者たる“あの身体”他我にその相手自身の所識を帰属化させて覚識していること、相手にとっての他者が自分にとっての自分であり、自分にとっての相手が相手にとっての自分であること、この種の「対他的対自・対自的対他」の一連の諸関係が共軛的に覚識されている。――現相的世界に共属的に登場する身体的自我と身体的他我とは、とりあえず、このような共軛相で人称的に分極化する。」131-2P・・・?「「手話」(身振言語)」という表記にちょっと違和を感じています。言語の発生論的な区分があり、アバウトにとらえても、音声言語に表音的に書記言語を形成していった言語や書記言語を作らなかった言語、また象形文字的な書記言語から、もしくは相即的に音声言語を形成していった言語等々が考えられるのですが、手話は慥かに身振的なところからも発したとは言え、言語的な展開の中で、身振りという域を超えた文法を形成していっていて、それを「「手話」(身振言語)」という表記にしてしまうことは、博学で厳密性をとことん追求している廣松さんらしかぬことになっていると感じるのです。
(対話N)「われわれは、いまや、人称的分化なる事態を立入って規定し得んがためにも、人称的な能知的主体そのものの二重相を配視しつつ、人称的主体なるものの存立実態を分析し、対自性そのことの存立構制を見定めて行かねばならない。」132P
第三節 能知的主体の二重性
(この節の問題設定−長い標題)「現相的世界に内存在しつつ現相的事態を帰属せしめている“身体的自我”ならびに“身体的他我”は、単なる身体的存在以上の或る者(いわゆる精神的能知)であることにおいて能知的主体なのであるが、それらは伝統的に思念されてきた相での“身心二重体”なのではなく、一種独特の二肢的二重態として存立する。能知的主体は、身体的分節態の相では人称的個体であるが、相互間に一種特有な関係を形成しており、この特有の関係性においてそれは個体的能知(能知的誰某)以上の或る者(能識的或者)である。人称的個体は能知的主体たるかぎり「能知的誰某以上の能識的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態の相で現存在する。」132P
第一段落――「所知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の構制と呼応する「能知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の顕揚 132-6P
(この項の問題設定)「人称主体の二重性というとき、人はとかく「身体的存在と精神的存在」の二重性ないしは「経験的自我と先験的自我」の二重性といった規定を連想しがちであろうかと想う。われわれは、しかし、伝統的な思念の路線におけるこれら二重規定はむしろ卻ける。われわれがこれら伝統的な二重規定に言及するのは、それが何をどう錯認したものであるかを剔抉しつつ、真実態を挙示するための通路としてに過ぎない。尤も、われわれとしてはこの作業をすら今茲で直ちに遂行しようと企てる者ではない。――爰では、旧来の臆見に対する批判の拠点を構築するためにも、まずはわれわれ自身の積極的な知見を呈示しておくことが先決である。本節におけるわれわれの基本的な意想を予示しておけば、前章において説述した「所知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性の構制と呼応する「能知」の「レアール・イデアール」な二肢的二重性(これはあくまで「能知としての能知」のそれであって、能知もまた反省的には対象的な一所知たりうるかぎりでの対象的な「所与−所識」二重性ではない)を顕揚することに懸かっている。」132-3P
(対話@)「議論の順序として、われわれはひとまず、前節で論断した自分と他者との共軛的な「対他−対自」性の場面を把え返すところから始めよう。――前節の行文中においては、或る「言語的能記−意味的所記」成態が他者には帰属しても自分には帰属しないという不共帰属性の覚識を論点にしたのであったが、当の覚識の現存は、視角を変えて言えば、当該の「能記−所記」成態が自分にも或る意味では帰属していることを存在条件としている。いま、例えば、子供が眼の前で蜻蛉(「とんぼ」のルビ)を指して「トリ」と呼んだとしよう。自分として自分にとっては蜻蛉は「トンボ」であって「トリ」ではない。そのかぎりで、「トリ」(コレはトリだ)という「能記−所記」成態は、子供には帰属しても自分には帰属しないと言える。だが、子供が“誤って”蜻蛉を鳥として覚知しているということを理解しているかぎりでは、当該の現相的覚知事態ひいては言語的成態が或る意味では自分にも帰属している。さもなければ、子供が蜻蛉を誤ってトリと呼んでいることを理解できないであろう。ここにあっては、相手たる子供=他者の見地を扮技しているかぎりでの自分に当該の事態が“帰属”しているという言い方が許される。ここには「自分としての自分」と「他者(の見地を扮技している者)としての自分」とが分裂しつつ、しかも統一されている。ここには、自他の区別性と自他の同一性という両契機が構造的に存立する。われわれとしては、他者の見地の扮技(対他者的事態の覚知)におけるこの自己分裂的自己統一性に鑑み、「自分としての自分」特別して「他人としての自分」という言い方を導入することにしたい。――右における自分と他者とは不共帰属という準位では互換的であるから、「自分としての他人」という言い方も許される。この場合、さらに対自化すれば「<自分としての他人>としての自分」という入れ子になり、それがさらに対他化されれば「“<自分としての他人>としての自分”としての他人」という相になっていくが、その都度の反省的次元に即するかぎり、能知的主体としての「自他共軛称」にあっては、「他人としての自分」ないし「自分としての他人」という構制が恒に成立っている。これを更に一般化して「誰かとしての誰か」と標記することも許されよう。」133-4P
(対話A)「ところで、「他人としての自分」「自分としての他人」というさいの「誰か」は、原初的にはもとより具体的な個人であるが、しかし、言語的交通の場にかぎらず表情・身振などの場面においても、表出された能記的契機は具体的な個人に種属するにせよ「意味的所記」は脱人称化されて行く。能記的契機すらパターン化・類同化されることに伴って脱人称化されうる。この脱人称化と相即的に、原初的には具体的他人であった他者が“不定人称化”されて「ヒトがしかじかと言う」「ヒトがかくかく為(「す」のルビ)る」という相に謂わば“脱肉化(「デカルチオ」のルビ)”されてしまう。ここにおいて「誰かとしての誰か」は「ヒトとしての自分」「自分としてのヒト」という相に到りうる次第である。」134P
(対話B)「「ヒトとしての自分」というさいの“ヒト”は、日常的言語活動の場面では実質上具体的な人(々)を指す場合もあるが、ヒト並みの行動(社会習慣化された行動)、ヒト並みの発話(規範的に標準化された言語活動)をするようになっている場面での「ヒトとしての自分」ないし「「自分としてのヒト」における「ヒト」は、所与の文化圏、所与の言語圏という埓内であるが、具体的個人から脱肉化されてしまっている。実際、人々は、言語活動をおこなう場合、当該言語の「言語主体一般」が当のシチュエイションでおこなうであろう相で言語活動をおこなうのであり、謂うなれば「言語主体一般」(チョムスキー式にいえばideal-speaker-listener)の立場を扮技している。――「ヒト」が「ヒト」として完現するのは後に論ずる「判断主観一般」の次元に到ってからであるが、先取的に言ってしまえば、「言語主体一般」どころか、「ヒトが視るように視」「ヒトが聴くように聴き」「ヒトが感じるように感じ」「ヒトが為(「す」のルビ)るように為る」といった次元においてすでに「ヒト」はもはやレアールな存在ではなく、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する。――前章第三節において「意味的所識」のイルレアリテート=イデアリテートを論考した条(「くだ」のルビ)りを茲で想起して頂けると好便なのであるが、具体的な人称的個人が特個的であるのに対して「ヒト」は“普遍的”である。「ヒト」は特定の特個的な誰彼ではなく、誰でも斉しくありうる普遍者である。また、「ヒト」は、具体的な個々人が誕生・成長・死亡という不断の変化相にあるのにひきかえ、個々人の変化・生死には拘(「かか」のルビ)わりなく“同じく”ヒトであり続ける。この意味において、「ヒト」は、人称的個々人が変易的であるのに対して“不易的”である。さらにはまた、「ヒト」は、具身の人称的個々人がその都度一定の場所に定在するのにひきかえ、特定の場所に居るわけでなく“非場所的”である。尤も「ヒト」は具体的諸個人から端的に独立自存するのではなく、その都度に具身の諸個人に担われつつ、謂うなれば人称的諸個人に“臨在”するのであって、このかぎりではむしろ“汎場所的”であるが、非特定場所的という意味で非場所的である。こうして、実在的(「レアール」のルビ)な人称的個々人が「特個的・変易的・場所的」な定在者であるのに対して、「ヒト」は「非特個的=普遍的」で且つ「非変易的=不易的」で且つまた「「超場所的」な或る者である。この徴標に鑑みて、われわれは「ヒト」は非実在的(「イルレアール」のルビ)であると言い、しかも、この非実在性(「イルレアリテート」のルビ)が消極的な虚無でないことに徴しつつ、プラトンのイデアに因んで「理念的(「イデアール」のルビ)」であるとも言う。」134-5P・・・記号の使い方に留意
(小さなポイントの但し書き)「但し、われわれとしては「ヒト」なる「理念的」存在が、超時間的・超空間的な“形而上学的世界”とやらに現存すると主張する者ではない、イデアールな「ヒト」は具体的な人称的個々人を離れては“無”であり、独立自存する“形而上学的存在体”ではない。この間の事情はイデアール=イルレアールな「意味的所識」の場合と同趣的である。」135-6P
(対話C)「このさい、しかし、注意書を添えるまでもなく、「ヒト」のイデアリテートは<人間>という概念の意味的所識という所知の側のイデアリテートに還元されてはならない。「ヒト」はいかに不定人称化されているとしても(所識態の帰属者であり、後述するように、「向妥当化せしめる者」であって)、能知能動的な主体なのであり、対象的・所知的な意味的所識ではないのである。「ヒト」は、人称的主体がそれとして妥当するかぎりにおいてのみ「ヒト」なのである。」136P
(対話D)「われわれは、爰において、具体的な人称的主体たる「能知的誰某」がそれとして妥当する「能識的或者」の何たるかを規定するための前梯をすでに設(「しつ」のルビ)らえた所以になっている。とはいえ、人称的諸個体が「能知的誰某以上の能識的或者」として「レアール・イデアール」な二肢的二重態の相でその都度すでに現存在することの汎通的な構制がまだ呈示されていない。(右の立場は「他人としての自分」が偶々「ヒトとしての自分」という相で現存在しうることに定位した謂わば特殊ケースにとどまる。)しかも、われわれの謂う「能知的な誰某」は単なる「自分」とか「他人」とかではないし、また、われわれの謂う「能識的或者」は単なる「不定人称者=ヒト」ではない。われわれとしては、「能知的誰某」「能識的或者」という両契機そのものを積極的に規定して掛る必要がある。という次第で、われわれは、――右の前梯的・導入的な議論の範囲内ですら、「ヒト」の非実在性(「イルレアリテート」のルビ)が端的な“無(「ニヒツ」のルビ)”ならざる所以のもの、逆に亦、「ヒト」の理念性(「イデアリテート」のルビ)の承認がわれわれの場合“形而上学的主張”に陥らざる所以のもの、これを説明しつつ「ヒト」の存立性を権利づける作業をまだ残しているのであるが、この作業に従事し得んがためにも――茲で議論の視座を立て直しておかねばならない。」136P
第二段落――人々の思念にも多少追随しつつ、反省する側の自己なるものについて検討してみる 137-42P
(この項の問題設定)「爰で視座を据え直しつつ、しかも行文に連続性を可及的にもたせるべく、嚮の「誰かとしての誰か」「他人としての自分」という構制にあらためて止目しよう。――「誰かとしての誰か」というが、その「誰」は、反省してみれば結局のところ「この私」ではないであろうか? 人々はおそらくこう問うことでもあろう。では、そのさいの「この私」とは何であるか? 反省的能知としての「私」は単なる“この身体”ではない。反省的に現識される“この身体”は反省的所知ではあっても能知としての私そのものではない、と人々は考える。われわれ自身の見地からすれば、反省される自己と反省する自己とを存在的に截断してしまってはならないのであるが、しかし、両者を一応のところ反省的に区別すべきことも確かである。それゆえ、暫く、人々の思念にも多少追随しつつ、反省する側の自己なるものについて検討してみることにしよう。」137P
(対話@)「能知としての「反省する自己」「この私」なるものを、人々はとかく、“この身体”に内在する「内なる或るもの」の相で考えたがる。そして、人々は、能知能動的なその「内なる或るもの」を身体的存在と区別して「精神的能知」と屢々名付ける。――能知とは固(「もと」のルビ)より所知との相関規定であるが、人々はとかく「能知的所知=所知的能知」の渾然的関係態から「能知なるもの」を自存化させつつ内自的な存在体を想定しがちである。その純粋な能知なるものが、所知的一存在たるかぎりでの身体とは区別されて、精神的(非身体的)存在と呼ばれる次第なのである。そして、この精神が肉体に内在する相で考えられるかぎり、能知的主体としての身体的自我は、「肉体プラス精神」という二重体として表象される所以となる。――われわれは、身体的自我を「肉体プラス精神」ないし「精神を宿している肉体」という相で表象する思念を後論において排却するが、さしあたり本章第一節での所論を想起して頂ければ、「内なる精神(「こころ」のルビ)」という想念は維持され難いということ、さしあたりこの点までは闡(「あき」のルビ) らかな筈である。がしかし、反省する自己と反省される自己との一応の区別性という事実は残留するのであるから、人々をして「裡なる精神的能知」という錯認に陥らせしめる所以の「反省する能知的自己」の実態を見極めておかねばならない。」137-8P
(対話A)「反省的能知なるものの実態を見るために、単なる対象意識、すなわち反省以前的な意識と、反省態における意識との相違性に眼を向けよう。反省以前の意識態と反省的に対自化された意識態とは慥かに著しい相違を示す。では、当の相違性は奈辺に存するのか? 例えば、一幅の美人画に見とれていて、ハッと我に返ったものとする。「我に返ったからといって、美人画の知覚的相貌には微塵の変化も生じない。唯、“自己意識”が累加されるだけだ」と人々は指摘する。或る種の論者たちは、美人画についての意識(対象意識)は非定立的(「ノンテーティック」のルビ)に自己(についての)意識なのであり、反省においてこの自己意識が顕化するだけだ、と説く、問題の焦点は、さしあたり、謂う所の“自己意識”である。これが「自己」なるものについての対象意識、ないし、自己意識の謂いではないことまでは誰しも認めよう。では“自己意識”とは何か? 論者たちは伝統的に次のように答えてきた。曰く。「それは“私が意識している意識”である。」「それは、当の対象意識が“私に属しているということの意識”である」と。この“回答”の路線では、能知はその都度“私”であり、この能知たる“私”が反省において顕識されるのだ、ということになる。ここでは、意識とは「私という能知が対象を意識する」という構造を本質的に具えている所以となる。だが、われわれとしては、ここに謂う“私”とは何であるかを問い返さざるを得ないし、溯っては、そもそも反省とは果たして“私”の顕化であるのかを問い返さざるを得ない。論者たちは「意識」なるものはそもそも“私”なる能知を構造的要件とする筈だと先取的に思い込んでいる。われわれに言わせれば、しかし、この先入的な思い込みが妥当しないのである。順次に議論を詰めて行こう。――まず、反省とは、必ずしもハッと“我に返る”対自化(対自的帰属化)だけとは限らない。例えば演説に聴き惚れていてハッと気付くような場合、奇妙な表現になるが、ハッと“他者に返る”(つまり、演説の主張内容が帰属する相手たる演説者に“返る”)対他化(対他的帰属化)というかたちの反省意識もある。ここでは、対象的意識事態が「他人(「ひと」のルビ) (としての自分)」ないし「(自分としての他人)」に帰属化されるのであって「自分としての自分(=“私”)」に帰属化されるわけではない。このような場合の反省は、敢て論者たちに対置して言えば、「私が意識している意識」ではなく「他者が意識している意識」の顕化であり、当の事態が「私に属していることの意識」ではなく、「他者に属しているという意識」の顕化である、と言うこともできよう。こうして反省的意識とは、論者たちが思念するような「私が意識しているという意識」「私に属しているという意識」とは限らないのである。われわれとしては、反省的対自化(対自己的帰属化)と同等の位階にあるものとして反省的対他化(対他己的帰属化)の現存することを指摘する。――論者たちは、しかし、反省的対他化は、さしあたっては対「他者」帰属化であるにしても、視角を変えてみれば、即自的に「他人としての自分」ないし「自分としての他人」への帰属化という構造になっていること、そして、現にそのことが更なる反省によって覚識されること、このことを持出してあくまで「自分」という契機に固執するかもしれない。われわれとしても、対他者的帰属が「他人としての自分」「自分としての他人」への帰属化という構造になっていることまでは認める。但し、それはあくまで、「他人としての自分」への帰属化であって「自分としての自分」ではないこと、このことが銘記されねばならない。だが、論者たちは、おそらく、「他人としての自分」いえども、更なる反省において、結局は「自分としてのこの自分」「この“私”」に到り着くと主張することであろう。それは、論者たちのドグマ、すなわち、意識とは必ず「私が意識している」という本質的構造を具えているとみる既成観念から発するものであるが、われわれとしても当のドグマに溯って応接しておかねばなるまい。」138-9P
(対話B)「この課題に応えるためには、われわれはあらためて、反省以前的な対象意識と反省的意識態との相違が奈辺にあるかを把え返さねばならない。人々は、とかく、反省的意識態においては「私が意識しているという意識」、意識内容が「私に属していることの意識」が累加的に顕出するものと思い込んでいる。このさいにポイントをなすのは、反省以前も以後も「意識内容」微塵も変わらず、従って、対象的意識内容は何ら“増加”せず、唯“自己意識”という非対象的(それゆえ“主観的”)で非内容的な(それゆえ、意識内容と区別して意識作用的と呼ばれる)或るものが顕出するだけだという思念である。先の美人画の例のごときでは、慥かに、そのような思念が使嗾され易い。それゆえ、別の例を仮設して事態を見定めることにしよう。」139-40P
(対話C)「映画に熱中していてハッと我に返った場面を想定されたい。スクリーンの範囲だけで比較すれば、対象的意識内容には別段変化がないようにも思える。しかし、今では、それまで見えてなかったスクリーンの両袖、観客席、前方に坐っている人々の頭、それに“この身体”も意識野内に登場している。対象的意識野に明らかな変化が見られるのである。この事実自体は論者たちといえども否認しはいないであろう。論者たちは、スクリーンの画像部分にもっぱら注目し、右に指摘したごとき対象意識面に現出する変化は副次的な併存現象にすぎないと見做すだけのことかと想われる。だかしかし、われわれに言わせれば、対象的意識野に現出するこの変化が重要なのである。とりわけ、“この身体”をパースペクティヴの輻湊点という相で覚識されるに到っていること、反省以前とのこの相違が決定的に重要である。結論を先に誌せば、反省において累加する“自己意識”なるものの実態は、このパースペクティヴな布置の覚識(“この(視座的)身体”[これは前節でみたように物理的身体の謂いではない]への帰属意識)にほかならない。」140P
(対話D)「因みに、論者たちは、“自己意識”なるものが、特定の対象=客観ではないところから、非客観的=主観的な或るものとみなし、それが特定の対象的意識内容ではないところから、非内容的=純粋作用的な或るものとみなす。そして、さらには、“自己意識”が意識野の全体を覆っているところから、当の“自己(意識)”が経験的な対象的意識野(“経験的意識”界、“経験的自我”とその“意識内容”)を内在化させ、包越している先験的(“超越論的”)な意識であるとみなし、先験的自我なるものを経験的意識野から括り出してしまったりもするに至る。(尤も、先験的主観とやらの想定は、認識論上の“権利問題”とも絡んでのことであって、内省的な“自己意識”の相貌だけからおこなわれるわけではないが……。)」140-1P
(対話E)「われわれとしても、論者たちが“自己意識”と称するもの、つまり反省意識において対象意識に“累加”される“プラス・アルファ”と目するものの相貌については、一応のところ追認することができる。卻けらるべきは、それに定位しておこなわれる論者たちの“見做し”である。“自己意識”は慥かに特定の対象的内容ではない。それというのも、われわれに言わせれば、論者たちの謂う“自己意識”はパースペクティヴな布置の覚識にほかならないからである。“自己意識”は確かに意識野の全面を“覆い”、対象的意識界に“瀰漫(「びまん」のルビ)”している。それというのも、われわれに言わせれば、論者たちの謂う“自己意識”は“自己”“私” (について)の意識ではなく、パースペクティヴな布置の覚識にほかならないからである。」141P
(対話F)「われわれは、こうして、反省において顕化する“自己意識”なるものに定位しつつ、それを錯認することによって“純粋作用的自我”“先験的自己”なるものを経験的意識立てようとする論者たちの短見を卻ける。論者たちの謂う“自己意識”は、実態においては決して、対象的意識野に対向している純粋作用的な“私”ないしは超越論的な“私”(について)の意識なのではない。意識というものにあっては、「裡なる精神的能知なるもの」ないしはまた「先験的な“私”なるもの」がその都度つねに意識しているという本質的な構造になっているわけではない。われわれとしては、能知的自己を論者たちの流儀で二重化する臆見を厳しく卻ける所以である。」141P
(対話G)「われわれは伝統的な臆見を卻けつつ、反省において顕化する“自己意識”とは、その実、対象的意識野(正しくは現相的世界)のパースペクティヴな布置の覚識、“この身体”を視座的輻湊点とするパースペクティヴの覚識、“この(視座的)身体”への対象的意思の帰属の覚識、これにほかならない旨を主張した次第であるが、それが“自己意識”呼ばれ得る所以のものは、当の対自化にあっては、“この身体”的自己への帰属性が覚識されていることに係わる。“裡なる精神的能知としての私”とか“純粋統覚としての私”とか、このたぐいの“私”(について)の意識なるが故に“自己意識”なのではない。“自己意識”を“自己意識”たらしめる“自己”とは、さしあたり“この(視座的)身体”自分なのであり、それは“この身体”的自我と別の(内奥者とか超越者とかいった)ものではない。(尚、自己意識には役割行動において対他者的に反照される「自己」意識など諸多の次元がある。ここで論じているのはさしあたり「反省的に対自化される自己意識」の次元に限ってである)。」141-2P
(対話H)「反省的対自化においては顕化するこの“自己”は、反省的対他化において顕化する“他己”(“あの(視座的)身体”他者)と共軛的に同位・同格的である。“自己”はおよそ“他己”に対して特権的ではない。(“自己”と“他己”とのパースペクティヴな射映相の相違という事実はあっても、これが“自己”を特権化するものでないことは縷々上述しておいた。)しかもまた、当の“自己”は「他人(「ひと」のルビ)としての自己」たり得るし、「ヒトとしての自己」でさえあり得るのである。――この構制を念頭におきつつ、われわれは今や「能知的誰某−能識的或者」という「レアール−イデアール」な二肢的二重性の論決に進む段取りである。」142P
第三段落――「能知的誰某−能識的或者」という二肢的二重性についての構造性の論述 142-8P
(この項の問題設定)「われわれは、能知的主体を「肉体プラス精神」の二重体とか、「経験的自我かつ先験的自我」の二重態とか、このような二重存在とみなすことを卻けるとはいえ、或る種の論脈では、身体的自己と区別して「精神的能知」を云為したり、「先験的主観性」を云々したりもする。この論脈とそれ自身の主題的講義は後論に譲らねばならないが、当座の議論に必要なかぎりで此の件にも多少はふれつつ、ここではわれわれの積極的な主張である「能知的誰某−能識的或者」という二肢的二重性について論述しておこう。但し、当の二重相の形成については次章第二節に委ね、ここでは構造性を当面の論件とする。」142-3P
(対話@)「時に、読者は、嚮の行論には肝心の問題が未決のままに残されていることに先刻気付いておられることであろう。われわれは、慥かに、反省において顕化する“自己意識”なるものの実態を見直し、それが一部論者の謂うがごとき「“私”が意識しているという“私”の意識」ではないことを論定しはした。反省的自己意識の自己性(ないし、反省的な自己帰属意識の“自己”性)は、パースペクティヴな布置的現相の帰属者たる“この(視座的)身体”に係わること、それは反省的対他化における“あの(視座的)身体”他己をさしあたり同位的であること、これを確言した。しかしながら、一体、そのさいの反省する能知は誰(何)なのか? それが単なる“この身体”でないことは上述しておいた。が、反省する能知を積極的に規定しないあいだは、或る論者の謂う“内奥的私”とか“先験的私”とかと論判を終えたことにはならない。それゆえ、この論件にもまずは応えつつ、それを介して能知の二重性という論題へと進むことを図りたいと念う。」143P
(対話A)「偖、われわれの基本的な了解では能知と所知とは本源的に渾一態をなす。が、反省という事態は既にして所知と能知との反照的区別の態勢であり、そこでは本源的な「能知的所知=所知的能知」に分化が生じている。反省的覚知にあっては、能知的所知・所知的能知がセルフレファレントでありつつも、所知と能知とが二項的関係相で覚識される。この二項化的区分にあくまで反省的区分であって、決して二つの自存体への存在的(「オンティッシ」のルビ)な截断ではない。が、人々の日常的な思念においては、とかく、両項が存在的区分の相で表象され易い。そこでは、能知的所知=所知的能知の渾然態に照応する“膨脹・伸長”せる身体的自我がまずは退縮して“皮膚的界面”で能知能動的な主体が劃定され、これが所知所動的な客体との対向相で覚知される。この位相では、皮膚的界面で劃された身体的自我が対象的所知所動に対する能知能動的主体であり、且つ、能知能動的主体性をセルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)に反照=反省せる主体でもあるとみなされる。ところが、能知能動的な主体の退縮はここに止まらない。手・足のごときは早速に所知所動の側に繰り込まれ、いわゆる内部感覚の対象的覚知相に徴して“身体の内部”もまた所知所動の側に括り出される。この局面で脳(「あたま」のルビ)ないし中枢神経系が一たん能知能動的な主体として表象されるが、これまたそれが肉体的組織たるかぎり所知の側に括り出される。という次第で、“真の”能知能動的主体は非身体的=精神的な或るもの=“心”であるとされるに及ぶ。この“心”でさえ更に所知的側面と能知的側面とに分けられて、――という具合に、殆んど無限退行的に能知的主観なるものが“退縮”されて行く。――本章第一節で論じておいたように“視覚型モデル”に定位したこの想念、従ってまた、“内なる能知的心”なる思念をわれわれは原理的次元では卻ける。厳しく卻けらるべきは。所知と能知との二項化はたかだか反省的区別にすぎないところ、両者を存在的に截断してしまう錯認である。――尤も、論者たちといえども無限後退には自足しようとしない。そこで、“脳”なり“心”なり“純粋統覚作用”なり、論者によって“地点”は異なるが、どこかに終局的な能知的主観なるものを立て、その“地点”で無限後退を遮断しようとする。この終局点にあっては、反省する能知的自己と反省される所知的自己とは一にして不二なるものとされ、「反省的能知=所知」セルフレファレントであるとされる。が、論者たちの論理構制から言って、セルフレファレント(自己回帰的=自己再帰的)とされるのは終局的な能知の“内部”でのことであり、それは対象的所知界(論者たちにとってはこれは能知なるものの“外部”に在る)にまでは射程が及ばない。――われわれとしてはどう対処するのか? われわれとて、所知と能知との反省的区別を認めるかぎり、所知項と能知項とを一応は立てる。そして、身体がことごとく所知項の側に立てられる局面では、精神的能知なる特別なものが存在するとみなすわけではないが、能知項として“精神的能知”を一応は云為する。更には、また、認識の権利問題を説述する論脈で必要とされる場合には、経験的自我と区別して“先験的な主観”をすら云々することをあながちに辞せない。しかし、それはあくまで「所知−能知」二項関係性という構制において、当の「知る」(覚知する)という関係規定性(「能知的所知=所知的能知」という渾然態の反省的分化という覚識性)を第一義としてのことであって、自存的な二つのものを事後的に関係づける流儀においてではない。“項”は、物質的所知と呼ばれようと、精神的能知と呼ばれようと、それ自身を自存化せしめては“無”である。――われわれはこのことを銘記しつつ“精神的能知”を一応は云為する次第であるが、それでは、「反省的能知」とは帰するところ“精神的能知”の謂いであるのか? われわれの答は、むしろ「否」である。能知項は常に必ずしも“精神的能知”とは限らない。身体的自我の膨縮位相(その都度の膨縮位相における身体的自我)が能知項に立ちうるのであって、“精神的能知”が能知項を成すのは特別なケースだけである。この理由からして先の設問に対しては一般にはむしろ否と答える所以となる。われわれとしては、あまつさえ、「反省する能知」の「セルフレファレンス」ということも通念とは別様に考える。人々は、とかく、反省的能知はセルフレファレントであるとしつつ、このセルフレファレンスということは精神的能知だけ(せいぜい“脳”まで)に特権的であるかのように考える。そこから反省的能知といえば直ちに精神的能知の謂いであるとする。(通念においては、“終局的”な能知に限って反省的セルフレファレンスを認め、その反照的自己回帰性は当の“終局的能知”の“内部”だけに限られるものとしている。こう言い直しても宣(「よ」のルビ)かろう。)われわれの考えでは、しかし、原理的な次元で謂えば、能知的所知=所知的能知の渾一態がセルフレファレントなのである。反省的意識においては、この渾一態が被反省的所知の相で覚識され、それとの相関項として反省的能知(これの位相は種々でありうる)が泛かぶのが普通であるが、セルフレファレンスということは原理的にはそこでの“所知項”をも包括した全一態に即して言われねばならない。成程、反省的意識態にあっては「所知−能知」関係が分節的に構造化されて泛かび、そこにおける能知項への帰属性が覚識されるかぎりで、能知項が特に顕揚されることは慥かである。だが、それはあくまで「所知−能知」帰属性という脈絡においてのことであって、能知項だけが自己対象化されるといった相での内自的再帰性なのではない。この意味においても「反省する能知」はその都度“精神的能知”であるわけではないのである。――われわれの原理的見地では、膨縮せるその都度の相における“身体的自我”を措いて、他にセルフレファレントな能知が存在するわけではない。「能知」はその都度の相における“身体的自我” (ここでは“身体的他我”を含めての総称)にほかならず、そのことが反省において対自化・対他化される。(尚、人々が反省する精神的能知なるものを立てる一つの機縁として“裡なる作(「はた」のルビ)らき”が内部的に感知されるという事情もある。がこれについては後に立帰って論ずることにして、ここでは姑く措く) 。」143-6P
(対話B)「今や議論を一歩進めて、本節本来の課題に一応の締め括りをつけよう。反省的意識態において対自化(対自己的帰属化)と並んで対他化(対他己的帰属化)がおこなわれるとわれわれが言うとき、断るまでもなく、それは常に必ず“身体的自我”と“身体的他我”とが共軛的に現前し、並存的に覚識されるという謂いではない。反省的対他化においては“身体的他我”は「図」化されても“身体的自我”は「地化」されるのが普通であり、従って一般には自他の身体が並存的に泛かぶわけではない。(われわれはその都度の位相で反省的意識態を考えなければならない。反省においてはその都度に“身体的自己”が泛かぶとみるのは実情に合わない。)自他が共軛的に泛かぶのは対他的対自=対自的対他の反省次元においてである。尤も、通常の対他化といえども、視角と次元を変えて見れば「他己としての自己」「自己としての他己」への帰属化であることは上述の通りである。が、さしあたり、対自的であれ対他的であれ、反省的意識態においては所知項の帰属者たる能知項が覚識されているということが要件であって、ここで問題にしておきたいのは、この「能知項」の存立構制についてである。――「自分」および「他者」は、それぞれ“射映的”“視座照応的”な所知の帰属者として人称主体である。人称的主体たるかぎり、自分と他者とはいかに共軛的であれ、それぞれれ固有の“射映的”所知の帰属者として、自分はあくまで自分であり、他者はあくまで他者である。自他が反省において並存的に覚識される場合、両者は決して重ね合わせて同一人物に仕立ててしまうことのできぬ個性的別存在である。だが、反面では、両者に帰属する射映的所与は相違していようとも、それら射映的所与が単なる与件以上の或るものとして覚識される「意味的所識」は一箇同一でありうる。その場合には、両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一箇同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一相の能知的主体である、と言うことができる。――能知的主体は、間(「かん」のルビ)主体的に非共通の射影的所与の帰属者でありつつ、且つ同時に、間主体的に共通の意味的所識の帰属者たりうる。能知的主体が「他己として自己」ないし「自己としての他己」という在り方、一般化して「誰かとしての誰か」という在り方をしているというさい、「として」の両項は、射映的所知の帰属に関わる人称的誰某としては相違しつつ、しかも、意味的所識の帰属に関わる能識的或者として同一的であるという相での区別化的統一の場合が現にあり得る。(重複を憚らずに誌せば、そもそも自己が人称的自己であるのは、上述の通り、自他共軛相においてである。しかるに、「不共属的共帰属」の構制における「自己分裂的自己統一性」において、自他の区別性と同時に「同一性」の契機が構造的に存立する。この「同一者」は単なる所知的同一者ではなく、所識態の帰属者たる能知的主体としての同一性と相即するものであること、これまた上述の通りである。)われわれがここで留目したいのは、能知的諸主体が人称的個別性(すなわち、間主体的な対他的区別性)を有ちつつ、且つ同時に、同一相での或者(すなわち、間主体的な対他的・相互的同一者)で有るということの事実である。詳しくは次章第二節で論及する通り、人々は苟くも言語活動の主体であるかぎり、言語被拘束的な対象的所知(これは「射映的所与」と併せて「意味的所識」を必然的な契機としている)の帰属主体=能知的主体として、汎通的に、人称個別的な「誰某」であると同時に間主体的に同一相での「或者」であるという構制を有つ。」146-7P
(対話C)「翻って、われわれは嚮に、「誰かとしての誰か」という構制が不定人称的な「ヒト」の次元にまで及びうることを論じ、「ヒト」がイルレアール=イデアールな存在性格を呈することを論決しておいた。しかるに「ヒト」は、まさしく間主観的に同一相での「或者」であり、「ヒトとしての誰か」は「或者としての誰某」にほかならない。そこで、「ヒトとしての誰か」が対象的所知の帰属者たりうるかぎり、当の帰属者=能知的主体を「ヒト」という「或者」としての「誰某」という云うことができる。――われわれは、能知的主体が“射映的”“視座照応的”な現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が間主体的に同一的な意味的所識の帰属者たるかぎりで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのであるが、畢竟するに、能識的主体は「能知的誰某」であり且つ同時に「能識的或者」たりうる。ところで、能知的誰某は必ずしも“あの身体”“この身体”という次元での存在者とは限らず、対象的意識ないし反省的意識におけるその都度の能知的主体の膨縮に応じて膨縮しうるのであって、“精神的能知”という次元でもありうる。そして、「能識的或者」について言えば、これは独立自存する定在者ではなくして、能知的誰某が間主観的に同一の意味的所識を共有するかぎりで、且つ当該の間主観的共有性の域内でのみ、当該の人称的誰某達が単なる人称的能知以上のそれとして妥当するイデアールな或者にすぎない。このこと自体については更めて絮言するまでもないであろう。」147-8P
(対話D)「爰で結論的に誌しておけば、能知的主体は――発生論上の原初的な局面における即自的な“能知的主体”を除くかぎり――汎通的に「能知的誰某−能識的或者」という「レアール−イデアール」な二肢的二重性において存立する。――この間の事情ならびに二重相形成の次第について詳説し、さらには「能知的誰某−能識的或者」二重態が現相的所知サイドの「所与−所識」成態の呈する「能記−所記」的な二重構造といかに連環するかを論定するためにも、次には一たん議論の舞台を廻しておくのが次序である。」148P
2024年12月02日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(2)
たわしの読書メモ・・ブログ679[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(2)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第一章 現相的分節態の現前と所知の二要因
第一節 現相的所知の二肢性
(この節の問題設定−長い標題)「現相世界の分節態(=フェノメノン)は、単層的(「アインファッハ」のルビ)な与件ではなく、その都度すでに射映的与件“より以上の或るもの” etwas Mehrとして二肢的二重相で覚識されてる。われわれはフェノメノンにおけるこれらの対象的=所知的な二つの契機を、「現相的所与」および「意味的所識」と呼ぶことにしたいのであるが、現相的分節態はその都度すでに「現相的所与」以上の「意味的所識」として二肢的二重性の構制において現前する。」39P
第一段落――現相的所与ならびに意味的所識とはそれぞれ如何なるものであるのか、また所与と所識との二肢的二重性とはいかなる関係態であるのか、その呈示する作業の困難性
39-42P
(この項の問題設定)「右の提題はわれわれの議論にとって基礎的な重要性を有つものであるが、現相的所与ならびに意味的所識とはそれぞれ如何なるものであるのか、また所与と所識との二肢的二重性とはいかなる関係態であるのか、これを呈示する作業は到底容易ではない。その困難は、人々の既成的日常観念がすでに或る種の物象化的錯視に陥っていて事柄の真相の直視を妨げるという事情もさることながら、現相の二契機性を説く諸々の既成理論が罪障となってわれわれの指摘しようとする契機と構制が誤てる既成理論と類同化して受け取られてしまいがちな事情に因る。われわれとしては、しかし、ここで常識的既成観念に対する予備的批判や既成的諸理説に対する主題的な批判の詳細な展開から始める手法は迂遠に過ぎることかと虞(「おそ」のルビ)れる。ここでは、それゆえ、便法を採り、既成観念と一定の接点を設けつつ、速断的誤解を排却するという仕方でまずは消極的にわれわれの見地を隈取っておき、旁々後論のための論材をその過程で登録するように努め、しかるべき局面で正面からの積極的な論定に転ずることにしたいと念う。」39-40P
(対話@)「惟えば、しかし、二肢的二重性の説明に先立ち一蹴しておくべき短慮の見があるかもしれない。それか所謂フェノメナリズム(phenomenalism 現象主義=現相主義)である。――フェノメナリズムの立場においては現相(「フェノメナ」のルビ)に幾つかの種類を認めるにしても、個々の現相は謂うなれば単層的な、単なる射映的知覚ないし射映的表象であるかのように思念している。われわれに言わせれば、尤も、フェノメナリスト達といえども事柄に迫られて現相を単なる射映的与件以上の或るものとして覚識しているはずであるが、彼らの立場的思念においてはそれぞれのフェノメノンは原基的には単層的射映的与件とみなされ、謂う所のフェノメノンがすでに二肢的な構造性を呈することが看過されている。われわれの見地からは、現相は、フェノメナリスト達の思念する“フェノメノン”以上の或るものである、と言うこともできよう。」40P
(小さなポイントの但し書き)「――尚、行論の便宜上、右では、知覚ないし表象上の“射映相”(Abschattung直接的な“見え姿”)がそのまま“現相的所与”であるかのような書き方をしたが、正しくは、分節化せる形象としてのAbschattungはすでに「所与−所識」成態なのであって、現相的“射映”と現相的「所与」とは同値ではない。この間の事情については、ここでの便宜的な言い方が或る種の脈絡では許されることの追認と併せて、後論が次第に闡(あき)らかにしていく予定である。」40P
(対話A)「偖(「さて」のルビ)、「現相」が二肢的契機から成ることは少なからぬ哲学者、心理学者たちが夙に指摘しているところであるが、嚮(「さき」のルビ)に漏らした通り、二肢とその関係の把握に関してわれわれは既成の諸説と見解を異にする。ここでは、しかし、直ちに論判に立入るのではなく、先決問題として現相の二肢的構制が汎通的であることの指摘にまずは努めねばならなるまい。」40P
(対話B)「現相世界の分節が“安定的に”既成化している日常的場面にあっては、現相が射映的与件以上の或るものとして現前していることは多少とも反省みれば容易に認められよう。人々は、例えば、遠方に蟻のように小さく見えるものを人物として視、書棚に並んでいる“面”を背表紙として、いや、奥行きのある本として視る。いましがた聞こえた音を鶯の囀(「さえず」のルビ)りとして聴き、障子をよぎった影を燕として視る。知覚の射映的与件を単なる射映相で覚知するためには却って反省的努力を要するのであって、日常的な直接的意識においては、フェノメノンはその都度に単なる射映相“以上の或るもの” etwas Mehr、射映相“以外の或るもの” etwas Anderesとして覚識される。」41P
(対話C)「ここにみられる二肢的関係性は、人々が記号に接したとき、それを単なるインクの斑痕(はんこん)とか単なる音とかとしてではなく、一定の意味的所識性において覚識するのと同趣の機制である。(因(「ちなみ」のルビ)みに言えば、これは単なる類比ではない。記号的与件がそれとは別の意味的所識において覚知されるのは、現相的与件が“それ以上の或るもの”“それ以外の或るもの”として意味的所知性において覚識されるという一般的構制の一特殊ケースなのであって、記号が記号として成立しうるのはフェノメノンの呈するこの一般的構制に俟つものにほかならない。尚、「として」という“能記−所記”的関係については姑(「しばら」のルビ)く後論を待って頂き度と念う。) ――フェノメノンは、その都度つねに「現相的与件」と「意味的所識」との、謂うなれば“能記−所記” (significant-signifié 意味するもの−意味されるもの)的な二肢的二重成態なのである。」41P
(対話D)「取り敢えず、知覚的世界の分節化が安定的に確立しているところでは、知覚的現相風景のパースペクティヴな構図や“物体”の立体視という事実に即して、現相が単なる射映的与件以上の或る相で覚知される「能記−所記」的構制を、異論の惧れなく指摘することができる。けだし、パースペクティヴ(遠近法的配景)は、単なる先細りの見えではなく、射映的には先細りの構図に見える与件が実際には(先細りではなく)しかじかであるとして射映相とは別の所識相で覚知されていることと相即し、また立体視は、射映的には面にしか見えない所与現相をそれ以上の立体相で覚識することにほかならない所以である。」41-2P
(対話E)「人々は、この故に、配景視や立体視が既成化している場面については、二肢的二重性の構制を汎く認めるであろう。」42P・・・46Pで「補訂」
(小さなポイントの但し書き)「――因みに配景視や立体視は、禽(「とり」のルビ)や獣(「けもの」のルビ)の知覚においてもすでに或る程度までは確立しているものと想われる。さもなければ肉食性の禽獣が遠方に獲物を見付けて追跡し、それを巧みに捕食することは到底不可能であろう。この点では草食性の禽獣にあっても大同小異の筈である。ゲッツ(W.Götz)の有名な実験がこのことを示唆する。彼はヒヨコが与えられた穀粒のうち大きい方選んで啄(「ついばむ」のルビ)むように学習させておいて、大きい方の穀粒を遠方(七五センチ)、小さい方を近く(一五センチ)において、どちらを先に啄むか実験してみたところ、ヒヨコはやはり遠方の大きい穀粒の方を啄んだ。視覚的射映では遠方の大粒は小さく見える筈であるが、配景的(「パースペクティヴ」のルビ)縮小にもかかわらず、ヒヨコはそれを実は大きい粒として認知した次第なのである。」42P
(対話F)「だが、配景視や立体視の既成的に確立している場面というのは、所詮は特殊的な象面にすぎないのではないか? 現相世界の原初的な体験相にあっては、射映相と所識相との二肢的二重性は存立しないのではないか? これは大いにありうべき疑義であろう。そして現に、或る種の論者たちは、配景視や立体視はおろか、そもそも知覚的分節態の成立に先立って、発生的にも構造的にも、“要素的な感覚”がまずは単層的には直截に覚知される旨を主張する。われわれとしては、それゆえ、「現相的与件」が「意味的所識」として覚知されるという二肢的二重性の汎通性を論定するためには、最もブリミティヴと念われる場面にまで溯って討究する必要がある。」42P
第二段落――議論の焦点を絞る−三つの論点の提起 42-57P
(この項の問題設定)「討究の順序として、まずは幾つか(三つ)の側鎖を配視しつつ視界を拡充したうえで、議論の焦点を絞って行くことにしよう。」42P
(第一)「第一に、これは極簡単に片付けたいのだが、いわゆる感性的知覚は一定の“感情価”を伴っており、この意味において、単なる感覚以上の或る意識態である。このことは嬰児期の原初的な感性的知覚にも妥当すると想われる。現与の明るさ(暗さ)の感覚、暖かさ(寒さ。冷たさ)の感覚、圧覚、音の感覚、色の感覚は、快感・不快感、恐怖感・安堵感などの一定の質と度合いの感情価を伴って覚識される。大きな音の感覚は恐怖感を伴い、明るすぎる光の感覚や暑さの感覚は不快感を伴う。随伴する感情が殊更に意識されない場合もあるが、それは感情価が全くの零の謂いではあるまい。感覚は必ず一体の感情価値を伴うと謂って大過なさそうである。」43P
(対話@)「誤解のないように願いたいのだが、われわれとしては、しかし、感覚に随伴する感情を以って直ちに当該感覚の意味的所識だと強弁するつもりはない。如実に存在するのは、一般に、いわゆる感覚といわゆる感情とが渾然一体となった意識態なのであって、人がこの全一体から敢て“感覚”なるものを抽離するかぎりで、慥(「たし」のルビ)かに現実の意識態は“感覚以上の或るもの”に違いないにしても、それはもっぱら抽離された“感覚”の過小性の表白たるにすぎない。それゆえ、“感覚”とそれの“随伴する感情”とを“能記−所記”とみなすがごときは論外である。」43P
(対話A)「こうして、われわれは決して“感覚”ないし“表象”とそれに“随伴する感情”とやらを持ち出して現相の二肢的二重性を主張しようと試みる者ではない。――この際、但し、次のことは銘記しておかねばならない。それは、謂う所の“感覚” (剴切(「がいせつ」のルビ)には“感情”との渾一的意識態)とは“別”の“感情的志向的対象性”が覚識される場合があること、そしてこの場合には、当の“感情的志向的対象性”はわれわれの謂う広義の「意味的所識」に属する、ということである。このケースにおける“感覚”を能記的与件とする所記たる“感情的志向的対象性”は、良・不良、美・醜、善・悪等々、われわれが後に「価値的有意義性」と呼ぶものの一斑をなすものであって、極めて重要な意味的所識である。とはいえ、当面「認識的世界の存在構造」に主題を絞っている茲(「ここ」のルビ) (本巻)では姑く括弧に納めておきたい。」43P
(第二)「第二に、これまた一応の論及に止めたいのだが、いわゆる感性的知覚は一定の“行動価”を伴っており、この意味において、単なる感覚以上の或るものと言える。このことは嬰児期の原初的な感性的知覚にも妥当する。初生児が唇に感じる乳首の感触感は吸啜(きゅうてつ)反射運動を解発(「アウスレーゼン」のルビ)し、視感覚は眼球調整運動を解発するといった反射運動の次元に始まり、一般に、感覚は「感覚運動シェマ」を解発すると言われる。なるほど特段の外部的運動を認めがたいケースもあるにせよ、感覚とはそもそも「感覚運動態勢」の内化された一契機であるとも見做しうる。感覚運動体系たる生体の機能に鑑みるとき、感覚は必ず一定の“行動価”を有っていると言えよう。」44P
(対話@)「われわれとしては、しかし、先の“感情価”の場合と同様、“感覚”の有つ“行動価”と同様、“感覚”の“行動価”を以って直ちに「意味的所識」と主張する者ではない。視角を変えて言い換えれば、われわれは“行動価”なるものを持出すことで感覚的(ひいてはまた表象的)現相の汎通的な二肢性を云々しようと企てる者ではない。――このことを銘記したうえで、しかし、われわれはこのさい感性的知覚現相における「実践的有意義性」や感性的知覚が即自的に有ち得る「信号(「シグナル」のルビ)」的機制の問題に多少ともふれておきたいと念う。」44P
(対話A)「感性的知覚と相即的に一定のパターン化された行動が“反射的”に生ずることがしばしば体験される。行動そのものは無意思的unwillkürlich無意図的unabsichtlichであっても、当の“行動様式”や“行動目的”は自覚的に覚識されている場合も尠(「すくな」のルビ)くない。このような場合、当事主体の意識に即しても、所与の感性的知覚現相が「信号」なって、所定の様式での目的行動を“指令”する、という構制になっていると言うことが許されよう。そして、常識的な議論としては、“指令されている行動”を信号能記に対応する“所記的意味”とみなし、それを「意味的所識」の一斑に数えることができる。現相が信号的機能を明瞭に発揮するのは所詮特定の場合であり、これを汎通的な構制と唱する心算はないが、「信号」というタイプの「能記−所記」的二肢構造が現に在ることは看過できない。」44P
(小さなポイントの但し書き)「――尚、対象の具有する性格の相貌で覚識される用在性(ハイデッガーの謂うZuhandenheit)は、信号的機能と緊合する「実践的有意義性」が物性化されたものにほかならず、翻って言えば、信号に“指令された所記的行動”とその志向的対象は実践的有意義性という「意味的所識性」を有つ。この件については本書の第二巻に譲り、ここでは右の断定に止めておく。――」45P
(対話B)「ところで、嚮に、常識的な議論としてはと但し書きのもとに、所与の感性的知覚を能記的信号、それの“指令”する行動を所記的意味と誌したのであるが、厳密に言えば、レアールな行動がそのまま所記的意味なのではない。行動を“指令”する知覚的与件という相で覚識される一方の対象的知覚と他方の行動とは、実際には統一的な「感覚−運動」シェマの両つの契機が対自的に現成したものであって、存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断さるべきものではない。上述の「感覚−感情」渾一態において、“感覚”を抽離するかぎりで、全態は当然“感覚以上のもの”とされるのと同様、ここでも、対象的知覚契機を抽離するかぎりで、全態は当然“信号的感覚より以上の或るもの”なのであるが、「信号」と「行動」とがわれわれの言おうとする二肢的二重性の構制にあるわけではない。われわれとしては、「感覚−感情」渾一体という現相的所与に対する「価値的有意義性」という意味的所識を立てるのと同様、原理的な次元においては、「知覚−行動」全一態というレアールな現相的与件に対する「実践的有意義性」というイデアールな意味的所識を立てる次第なのである。がしかし、「認識論的世界の存在構造」を主題とする茲では、この件に立入ることは姑く差控えねばならない。」45P
(第三)「これは稍々立入った論及を要する事態なのであるが、知覚や表象の現相は“補完”“融合”“連合”等と呼ばれる機制によって直接的な“与件感覚”ないし“与件的表象”以上の意識態を呈する。――われわれは、この“以上”“以外”としての“認識的覚識”について幾つか(4つ)の類型に分けて検討しておこう。」45P
((1))「(1)「直接的補完」とでも呼ばれるケースが存在する。例えば、円周の一部が書けているC字型を一瞬だけスクリーンに映すと、人はそれを閉じた円形に見てしまう。或いはまた、適当に離れた二光点ABがあって、まずAを点灯し、それを消灯すると同時にBを点灯すると、人はAからBに光点が直接運動をしたかのように“仮現運動”を見る。このような場合、人々は“直接的な感覚的与件”以上の或るものを見たという言い方をする。ここには一応“感覚的所与”を“それ以上の或るもの”として覚識するという構制が存立しているとも言える。この機制は、日常的な知覚の場面でも、例えば、網膜には「盲斑」があるにもかかわらず知覚的視野では補完されている(盲斑に対応する個所に別段空隙が見られない)こととか、天井の隅など射映的には直角でないにもかかわらず、ほぼ直角に知覚されてしまうこととか、普段に働いている。しかしながら、われわれはこの「直接的補完」の事態について、原理的な次元では、それを以って直ちに「所与」がそれ以上の「所識」として二肢的二重性の構制で覚識されている旨を主張するつもりはない。いわゆる錯覚が一斑にそうである通り、それが当の相で知覚されているかぎり、射映相と現識相との二肢的区別は現存しない。敢て、“現与の射映的感覚”なるものを現識相と別に想定するのは、刺戟と一対一的に対応する感覚が存在する筈だと思念する悪しき「恒常仮説」に基づくものであって、心理学的事実に合わない臆説として卻(「しりぞけ」のルビ)けられる。」45-6P
(対話@)「では、反省的に、射映相と現識相とが二肢的に区別されるような場合はどうか? われわれは、便宜的な立論の場面では“射映相”と“現識相”とが区別されて意識されている場合には、「所与−所識」の二肢的構制を云々し、恰かも射映相が所与で現識相が所識であるかのような言い方をする。がしかし、原理的な立論の場面では、われわれはこの言い方を卻ける。(先に、導入的な議論の便法として、配景視や立体視に即して「現相的所与」と「意味的所識」との「能記−所記」的二肢的構制を云々しておいて立論は、原理的には補訂を要する。)」46P・・・先に「補訂」が要するのは42Pの文
(対話A――前センテンスの( )内の文を承けて)「何故か? 射映相と現識相とが対比的に知覚されているという場合、すなわち、射映相と現識相とが同一の知覚野において対比的に区別して覚識されているという場合、そこにおける態勢は、喩(「たと」のルビ)えて言えば、ルビンの杯と呼ばれる「単なる白黒図形の知覚相」と「向き合った横顔の知覚相」とが、対照的に覚識されている態勢と同趣であろう。ところで、「単なる白黒図形そのものとしての知覚相」というが、この知覚相は「高杯形としての知覚相」や「向き合った横顔としての知覚相」と並ぶもうひとつの所知的現識相にほかならない。なるほど、「……と並ぶもうひとつの現識相」と言ってもそれは後二者と全く同位同格的というわけではない。がしかし、それは決して“裸の所与”ではなくして、ともあれ一つの所知的現識相にほかならないのである。視覚を変えて謂わば裏返しに次のように言うこともできる。現に見えている「横顔相」ないし「高杯相」もそれがレアールな一知覚であるかぎり一つの射映相で見えているのであって、それとは対比的に知覚される「白黒図形相」もこれまた一つの射映相であることに徴すれば、対比的に覚識されているのは射映相どうしである。こうして、人々が“射映相”と“現識相”との対比的知覚と思念している態勢は、分析してみれば、決して「射映相」と「現識相」との対比的知覚ではなくして、一つの現識相と別の現識相との対比的区別たるにすぎない。それゆえ、ここにあっては、なるほど“二重性の覚識”は存立するにしても、しかし、それは所与的「射映相」と所識的「現識相」との二肢的二重性の構制とは言えないのである。」46-7P
(対話B)「附言しておけば、われわれの謂う「現相的所与」と「意味的所識」との二肢的二重性の構制は、原理的な次元においては、人々の思念する“射映相”(右の例で言えば“単なる白黒図形そのものとしての知覚相”)それ自身の内在的構造として存立するのである。そしてまた、人々の思念する「現識相」(例えば“向き合った横顔としての知覚相”)と“射映相”との区別が相対的なものにすぎず、レアールな“現識相”はそれ自身一つの“射映相”にほかならないかぎり、謂う所の「現識相」それ自体が「所与−所識」成態なのである。」47P
(小さなポイントの但し書き)「――この間の事情もならびに、便宜的な立論の場面においてはそれにもかかわらず謂う所の“射映相”と“現識相”とを「所与」と「所識」に擬することが許される事情については、われわれの謂う「所与」および「所識」の何たるかを後論が明示して行くことを通じて軈(「やが」のルビ)て闡明されるであろう。」48P
((2))「(2)「融合的同化」とでも呼ばれ得る事態。人々は、例えば、暗闇で摑んだ物の形状を単なる触覚性の性状においてではなく、謂うなれば視覚的形態性において直覚的に覚知したり、向こうの岩をザラザラ・ゴツゴツという触覚性の感じを混えた相で見たりする。(ここでは連想的ないし推理的な意識的過程が自覚されるような場合ではなく、直覚的に融合象が知覚される場合、つまり、心理学に所謂「異種の感覚様相(sensory modality)」のcross-modal matchingが生じている場合が論材である。)」48P
(対話@) 「稍々拡張して言えば、目のまえの花において(自分の鼻の場所においてではなく)香りを嗅ぎ、枕元の目覚時計(自分の耳の場所においてではなく、あの時計の場所において)音を聴く。直覚的にはこのような相で“融合的”知覚がおこなわれる。視感覚と蝕感覚・嗅感覚・聴感覚とはおよそ異質であり、そこには何ら共通・同一の成分は存在しないにもかかわらず、人々は視覚対象と蝕覚・嗅覚・聴覚の対象とを一個同一の対象として覚知する。聴覚には方向の弁別性はあっても距離判定力(従って場所判定力)はなく、嗅覚には主体が静止しているかぎり距離・場所はおろか方向の判定力はない。対象と主体が離れているかぎり、触覚には対象感受力はないはずである。それにもかかわらず、聴覚・嗅覚はその対象を視空間における特定場所に感知し、触覚は離在的な視空間の対象を“感受”する。これは否みがたい“体験的事実”である。人々はこの“体験的事実”に定位して、“視知覚的対象現相”は単なる視感覚より以上の或るものであると言い、また、聴覚的・嗅覚的な対象(同定的)知覚は単なる聴感覚・嗅感覚より以上の或るものであると言う。われわれとしてもここで指摘されている“事実”は追認しうるし、異種の感覚による一個同一の対象措定という一見不可能とも思える事態を説明するさいにここで謂う“より以上”という構制を勘案する必要もある。とはいえ、われわれはここに謂う“所与感覚以上の或るもの”という構制に定位してかの二肢的二重性を立論するものではない。けだし、現前する対象的現相が融合的全一態をなしているかぎり、嚮に「感覚−感情」渾一態に関して論定したところと同趣の構制になっているからである。」48-9P
(対話A)「では、融合態が謂うなれば“錯図”的に分節化して、視覚的現相と聴・嗅・触覚的現相とが分立的に覚識されつつ、しかも一個同一の対象と志向的に関係づけられている意識態にあってはどうか? 当初は融合的の相で直覚的に現出したにせよ、反省以前的にいちはやく、触覚的形状性と視覚的形態性とが分立的に覚識されるようになったり、時計の視覚的現相と音源的現相、花の視覚的形相と香源的現相が分立的に覚識されつつ、しかも一個同一の対象と志向的に関係づけられているような意識態勢が成立したりする場合が慥かにある。しかしながら、ここにあっては、視覚的現相が“射映相”で聴・嗅覚相が“現認相”というわけではない。双方ともそれぞれ「射映−現認」相でありつつ、それらが一個同一の対象的な或るものと志向的に関係づけられているのである。ここには、なるほど、分立的な二単位が認められるとしても、これら二単位の一方が所与で他方が所識というわけではなく、両単位それぞれがわれわれの謂う「所与−所識」成態をなすのである。――このことを積極的に説明しえんがためにも、別の類型を事前に配視しておくのが順路であろう。」49P
((3))「(3)「補完的拡充」とでも呼ばれるケース。例えば、犬小屋から突き出ている尻尾を見たり、垣根ごしに覗いている人頭を見たりするとき、われわれはそれを単なる頭として覚知することなく、あくまで犬の尻尾や人の頭として覚知する。また、割れた茶碗や首の折れた人形を見るとき、茶碗の片割や人形の本体(「からだ」のルビ)として覚知する。融知する場合にもやはり同様であろう。われわれは、また熟知している歌の第一小節を聴いただけで、それをあの歌の出だしとして聴き取る。ここには、現に与えられている知覚的与件を或る全体の部分として覚知する構制が存立しており、部分的な与件相を全体的な補完相で覚識するという構制が指摘されうる。このかぎりにおいて、われわれはここで、図式的には“与件以上の所知相での覚知”を云々することもできよう。結論を予示して言えば、しかし、これはわれわれの言おうとする「所与−所識」の二肢的二重性とは次元を異にする。」49-50P
(対話@)「ここに謂う「補完的拡充」は、先の「直接的補完」や「融合的同化」と連続的・同趣的であるとも言えるが、ここには或る新規な契機が登場している。直接的な補完にあっては、補完的全体相が知覚(或る趣の論者たちに言わせれば“錯覚”)され、融合的同化にあっても融合的全体相がまずは知覚される。“現与相”と“現認相”とが区別して意識される場合が生ずるにせよ、直接的補完や融合的同化とわれわれの呼ぶものの埓内では、それはあくまで対比的知覚や分立的知覚であって、そこには知覚と表象との対自的な区別はまだみられない。それに対して、補完的拡充にあっては、これがいかに直接的補完や融合と連続的であり、ここでもまた全体相が直覚的に覚識されるにせよ、知覚的に現認されるのは所与の“部分”相であり、全体相の補完部はさしあたり表象である。なるほど、この表象部は知覚部と緊合して一つの全体像を形成してはいるが、知覚部とは区別して覚識される。――全体像が知覚部と表象部とへ錯分化する事態は、融合的同化を前梯としつつ、例えば、香りを嗅いだだけで花の視覚表象が泛(「う」のルビ)かび、音を聴いただけで視覚表象が泛かぶとか、時計を見ただけで音の聴覚表象が泛かび。壁を見ただけで肌触りの触覚表象が泛かぶとか、このたぐいの補完的拡充の相でも体験される。」50P
(対話A)「或る種の論者たちは、補完的拡充の事態にみられる現与の知覚と補完的全体像とのあいだに「能記−所記」の関係をみようとする。また、直接的補完が感官生理学的に“生得的”な機制であり、補完的同化が感官生理学的な“協応”の所産であるのに対して、補完的拡充は“全体相”の知覚的体験を前件とする記憶に俟つものであることに鑑み、彼らはここに固有の精神的能作をみようとする。――われわれとしても、補完的拡充の機制が“全体相の知覚的体験”を前階梯とする記憶に俟つものであることまでは認める。また、補完的拡充における現与の知覚と補完的全体像(ないし“補完部”)との関係を常識的な立論の場面でならば一種の「能記−所記」関係とみなすことをも許容する。現に「記号」なるものが成立する発生論的な過程においては補完的拡充の機序が媒介的な役割を果たすものと考えられる。――しかしながら、補完的拡充が記憶的ないし想像的に泛かぶ表象像の現識という仕方で現成するとすれば、そのさい想起の意識や想像の意識を伴うことなく直覚的に補完像が現出するとしても、知覚的与件像と表象的補完像との二因子的統一態はわれわれが原理的に立論しようとする「所与−所識」の二肢的統一態ではない。謂う所の“知覚的与件像”ならびに“表象的補完像”のそれぞれが、原理的にはすでに、われわれの指摘しようとする「所与−所識」成態なのである。このうち、“知覚的与件像”については、上来の行文からして群言を要せぬであろう通り、それは単なる射映相ではなくすでに“射映相以上の或る所識相”として現前する。“表象的補完像”についても、これまた、それが一つの表象的対象像であるかぎり、一定の射映相で現前しつつ、しかも単なる“その射映相”以上の“或るもの”として覚識されており、すでに「所与−所識」の二肢的成態をなす。」50-1P
(対話B)「では、次の如きは如何? それは、例えば、現に犬小屋から突き出て見える尻尾を単なる知覚的与件部分以上の<犬>の尻尾として覚識したり、聴こえ始めたメロディーを<黒田節>の一小節として覚識したりしてはいるのだが、別段、犬の全体像がありありと表象的に泛かびはせず、黒田節の全曲が音韻(音声表象)的に泛かびはしない場合である。ここでは表象像による充実的な補全は現出していない。が、それにもかかわらず、知覚的与件は“単なる尻尾”とか“単なる小節”とかの相で覚識されるのではなく、厳に“それ以上の”或る全体相の部分として覚識されているのであって、そのかぎり、何らかの仕方で、全体たる<犬>や<黒田節>が覚知されている筈である。――その証拠に、犬小屋からノソリと這い出た全体が狸であるのを目撃したとすると、“違った!”(つまり“犬でなかった!”)という覚識が生じ、先のメロディーに全然別の音曲が続いたり調子外れすぎた音声が続いたりすると、“違う!”(“黒田節でない!”)という覚識が生じる。この“相違感”は自然に<犬>や<黒田節>が(単なる尻尾や小節だけでなく)何らかの仕方で覚識されていた証左だと言えよう。尤も、或る種の論者たちは、この場合「表象的全体像が明晰なかたちで泛かばないだけで、実際には全体像の表象が泛かんでいる筈だ」と主張する。彼らによれば、当の「全体像の表象」が泛かんでいるからこそ相違・錯誤に気付くことができるのであり、また「予測通りだったとき、充当感が懐かれ得るのである」とされる。われわれとしても、不明瞭な表象的全体像を伴う場合が絶無だとは言わない。がしかし、“全体的表象像”なるものがおよそ泛かぶことなく、それでいて<犬の尻尾><黒田節の一節>として端的に覚識される場合が現実にあることをわれわれは積極的に容認する。彼ら一部論者たちが「全体像の表象が泛かんでいるからこそ……」と主張するのは、「意識するとは即ち心像を現前的に泛かべることだ」という彼らのドグマにもとづく要請的一仮定たるにすぎず、現前的事実ではない。われわれは、没表象的に(=表象というかたちで思い泛かべられることなく)全体相たる、<犬>や<黒田節>が覚識されるという現前的事実を追認する。」51-2P
(対話C)「このような没表象的な全体相覚識の場合をも「補完的拡充」の一斑とみなすか、それとも全体像が表象的に泛かぶ場合に限って、「補完的拡充」と呼ぶか、これは定義・分類に委ねられているが、われわれとしては表象的補完と没表象的補完とを補完的拡充の両つの亜種として扱うことにしよう。茲で翻って惟うに、所与の知覚的現相が補完的に拡充されるさい、没表象的補完のほうが却って普通であることに気がつく。ところで、以上の立論範囲では、補完ということが謂うなれば、“空間的”“容量的”な“部分−全体”関係に即して云々されているが、謂わば“時間的”“変容的”な相だのディスポジショナルな補完をも算入することができる。例えば、這っている虫、羽化しつつある蛹、溶解しつつある氷片などは、単なる現与の知覚相において覚知されるに止まることなく、移動・変様・生滅の変化相で覚知される。(ここでは、反省的意識における推測とか想像とかは暫く論外とし、変化的推移の予期相、この“時間的ゲシュタルト”の“全体相”が直覚的に覚識される場合が論件である。) ――このたぐいのディスポジショナルな補完には、将来的“全体像”が表象的に泛かぶ表象的補完のケースもあるが、一般には、予期相が表象的に泛かぶわけでなく、主として没表象的な補完的拡充が属する。」52-3P
(対話D)「偖、爰(「ここ」のルビ)にみるごとき没表象的な補完的拡充においては、所与の知覚現相が、それ以上の或る補全的全体相や伸長的予期相で覚識されつつも、全貌が表象というかたちで泛かぶわけではないのであるから、ここにあっては、「知覚的所与現相−それ以上の或る補完的拡充相」という二肢的二重性における「所識」は固(「もと」のルビ)より射映的な一現相ではない。ここにおける「補完的拡充相」という「所識」的契機は「知覚的所与現相」という“能記”に対して“所記”の関係に立ちつつ、それ自身として表象像ではなく、況んや知覚像でもない。それでは端的に無(「ニヒツ」のルビ)なのかと言えば、決してそうではない筈である。けだし、その証拠に、“予期外れ”の場合には錯誤感・相違感が生じ、“予期通り”の場合には適中感・相等感が生じるのであって、そのさい「所識」たる「補完的拡充相」が判別的覚識の規矩をなしている所以である。――没表象的補完における「知覚的所与現相−補完的拡充相」という二肢的二重性はわれわれの主張する「所与−所識」二肢性の一斑にほかならない。このことは茲に銘記しておきたい。だが、これはわれわれの言おうとする「所与−所識」二肢成態の原基的形態ではない。そのことは、謂う所の「知覚的所与現相」という(ここでの脈絡において“所与”の位置に立つ)契機が、上述の通り、それ自身すでに「所与−所識」成態(=単なる射映的与件以上の或るもの)であることに鑑みれば、容易に諒解されよう。」53P
(対話E)「ところで、われわれがいま「所与−所識」の二肢関係として認めた没表象的補完における「所識」の契機、すなわち「補完的拡充相」なるものが――それ自身としては知覚でも表象でもないこの契機が――一体いかにして、“端的な無”ならざる「積極的な或るもの」たりうるのか。ありうべきこの疑義に答えて行く前に、もう一つの案件((4)「標徴の連合」)に予かじめ触れておくのが好便である。」53-4P
((4))「(4)「標徴の連合」とでも呼ばるべきケースをここでみておきたい。例えば、雪の上の軌跡を見て自転車を覚識したり、遠吠えを聴いて犬を覚識したり、元与の知覚的与件を機縁にして一定の対象的所知を連合的に覚識覚識する場合がそれである。これには、表象が泛かぶ場合と没表象的な場合がある。」54P
(対話@)「連合的に表象が泛かぶ場合から問題にしていこう。標徴的連合は、表象が泛かぶ場合、知覚的与件が表象によって“補充”されるという点では、表象的な補完的拡充とも相通ずるが、両者は様態を異にする。先にみた「補完的拡充」にあっては“全体相”が謂うなれば所与的知覚を空間・時間的に“内含”する様態で、すなわち“補完部”が知覚的部分に“接合”する様態で覚識されるのに対して、今問題の「標徴的連合」にあっては“連想”される対象が現与の知覚形象から謂うなれば空間的に離在的(非接合的)な相で覚識される。少なくともこの点において両者は相異なる。――さて、標徴的知覚与件を機縁にして連想される所知的対象が明瞭な表象像のかたちで泛かぶ場合、例えば、雪上の軌跡を機縁にして隣家所有のあの自転車が常日頃軒下に乗り捨てられている相といった特定の図像で泛かぶような場合が慥かにある。このような場合における特定の図像での表象像そのものが“標徴的知覚現相を能記的所与とする所記としての意味的所識”なのかといえば、勿論そうでない。が、ここでは、特定の図柄での表象像が単にそのものとして泛かんでいるのではなく、<あの自転車>という個体的対象が覚識されているということが留目に値する。連想的に現に泛かんでいる表象像は特定の図柄であるとしても、それは<あの自転車>という個体的対象が覚識されているということが留目に値する。連想的に現に泛かんでいる表象像は特定の図柄であるとしても、それは<あの自転車>の一つの射映的な姿なのであり、この図像は<あの自転車>という個体的対象の射映的形象の“一範例”とでもいうべきものにすぎない。連想的に泛かんでいる射映的な図像はたかだか一つの範例的な現われ方にすぎないことが覚識されている。ここにおいては、範例的な射映的表象像という所与と<あの自転車>という単なる射映的表象与件以上の個体的対象とのあいだに、われわれの謂う「現相的与件−意味的所識」の二肢的二重性が存立していることが認められる。」54-5P
(小さなポイントの但し書き)「(但し、急いで附言しておけば、われわれの謂う「意味的所識」とは決して直ちに“対象的実在”とやらの謂いではない。因みに、ここではまだ<あの自転車> という“個体的対象”なるものの存在性格をわれわれは何ら規定していない。それが普通には“物理的実在”とみなされがちなことは慥かであるにせよ、“物理的実在”なるものはすでにして或る種の意味形象の物象化に俟つものかもしれず、従ってわれわれは「意味的所識」を安直に“対象的実在”とみなしてしまう知見に与するわけにはいかない次第なのである 。)」55P
(対話A)「ところで、知覚的与件を機縁にして、例えば自転車という表象像が連想的に泛かぶ場合、それがあの自転車という特定の個体相でいつも固定されているとは限らない。連想的に泛かんでいる表象が特定の個体的対象の覚識を伴わない場合もある。そこでは、現に泛かんでいる自転車の表象は(特定の個体的対象の範例的一射映相ではなく) <自転車>という“種族”の範例とでも呼ぶべきものにすぎない。このさい、勿論、“種族”なるものそのものが覚知されるのではなく、当該“種族”の“或る(不定的)個体”が覚識されるのではあるが、特個的な個体的同定がおこなわれないという意味において、ここでの連想的所識は“種的”であると言えよう。ここにおいては、範例的な表象像という所与と<自転車>という現与の表象以上の種族的存在とのあいだに、われわれの謂う「現相的与件−意味的所識」の二肢的二重性が存立していることを認めうる。」55P
(小さなポイントの但し書き)「(但し、われわれの謂う「意味的所識」とは決して直ちに“種族的存在”とやらの謂いではない。因みに、しかし、種属的存在などという“普遍者”は端的に存在しえないという唯名論的な立場をわれわれが執るか、それとも、種族的=本質的な普遍者が存在するという実念論を或る限定つきで容認するか、この点の立場表明は姑く無記のままである)。」55-6P
(対話B)「しかしながら、遡っていえば、連合が所詮は連合たるにすぎないかぎり、例えば、月を見てスッポンを連想するといった場合をも含みうるのであって、標表的知覚与件と連想的所知との関係は、そのこと自体としては「能記−所記」関係ではないし、従ってまた、それが直ちに「現相的所与−意味的所識」の二肢的二重関係であるわけでもない。「標徴的連合」は、決してそのままで、われわれの謂う二肢的二重性の構制を成すものではない次第である。」56P
(対話C)「「標徴的連合」の機制は、しかし、言語という「能記−所記」成態の成立、「記号的所与−意味的所識」の二肢的二重態の形成にとって重要な機能を演じることは確かであるし、とりわけ、没表象的に現成する部類の標徴的連合には特筆すべきものがある。――没表象的な連合=連想という言い方は没概念に響くかとも惧れるが、事柄に即するかぎり、標徴的知覚与件を機縁にして或る対象的所知が確かに覚識されておりながら当該所知の表象像がおよそ泛かばない場合が体験される。これは、あの範例的な表象像の泛かんでいた体験的事態が反復再現しているうちに、所詮は範例的服表象にすぎない表象像がもはや殊更に意識の表層に上らなくなったものであろうか。これの存立機制が仮令(「たとい」のルビ)そうであるにせよ、ともかく、没表象的な標徴的連合にあっては、事の原理上、実際問題として、範例的な表象的所与が意味的所識として覚識されるわけではない。ここでもし、「能記−所記」的な「所与−所識」関係が厳存するとすれば、それは標徴的に知覚的与件現相と“個体的対象”ないし“種族的対境”(先の例で言えば<あの自転車>という個体的対象ないし<自転車>という種族的対境、少なくとも<或る不定的な自転車>という非特個的な種族成員)とのあいだに成立していると言わねばなるまい。われわれは、実際、この種のケースが現に体験されるように思う。そのかぎりで、没表象的に現成する標徴的連合のうちには、後述する「として」という二肢関係が見出されるものの場合という限定つきで(つまり、単なる連想としての連想のごとき場合は除外して)、われわれは標徴的知覚所与と“連合”的に覚識される或る所知とのあいだに「能記−所記」の関係、「所与−所識」の二肢的二重性の関係を認知する所以となる。尤も、範例的な図像的表象こそ泛かばないにしても、このたぐいのケースにあっては、「ジテンシャ」といった言語的音韻表象が内語的に泛かぶ場合が少なくないであろう。その場合には、現与の知覚的与件と内語的音韻形象とが表象的に標徴的連合(時によっては補完的拡充)を現成し、当の内語的音韻表象とその意味的所識とか「能記−所記」的な「所与−所識」二重性を呈すると言わねばなるまい。が、このさいには、謂う所の標徴的知覚与件なるものが、上述した「ルビンの杯」と同趣的な次元において、すでに「現相的所与−意味的所識」成態を成しているのであって、われわれの謂う二肢的二重性の構制は原基的にはいわゆる“知覚的分節”そのことの場面に遡って論決しなければならない道理なのである。」56-7P
第三段落――次節へのつなぎ−「現相的所与」とは如何なるものか
(この項の問題設定)「われわれは、以上、「現相的所与」と「意味的所識」との謂うなれば「能記−所記」的な二肢的二重性が汎通的な構制であることの確説を課題としつつも、正面からこれを積極的に論定する流儀においてではなく、ありうべき“速断的理解”の幾つかを防遏(「ぼうあつ」のルビ)しつつ旁々後論のための論材を登録する手法で、前梯的な議論を重ねてきた。以上の行論では、しかも、実を言えば、最も危惧される“速断的理解”を主題的に排却するには至っていないのである。この欠を埋めつつ、われわれの謂う二肢的二重相の汎通性を積極的に指摘するためにも、今や視角を稍々転じて、そもそも「現相的所与」とはいかなるものの謂いであるのか(ありうべき速断的誤解の排却を意識して言えば、それが何でないか)、これの説述に移るべき段取りである。」57P
(対話@)「「所与−所識」二肢的二重性の汎通性を確言するわれわれの構図をここで表明しておけば、以上の行論から既に察知されるであろう通り、われわれとしては現相の「分節化的現相」(心理学者流に言えば「図」の「地」からの顕出)そのことがすでにして二肢的二重性の構制になっている旨を主張する。現相(「フェノメノン」のルビ)が現相(「フェノメノン」のルビ)として現前するのは、いわゆる“意識野”の分節化、“地”(「地」以前的な“地”)を“背景”にしての“図”の顕出を必然的・汎通的な条件としてのことである以上、現相の分節化的現前そのことが「所与−所識」の二肢的二重性の構制になっていることを論定しうれば、われわれの提題はおのずと確説される筈である。――勿論、現相の分節化的現前そのこと(「図」の顕出そのこと)の場面における二肢的二重性は、原基的であり、且つ汎通的ではあるが、われわれの謂う「所与−所識」二重性はこの次元だけに限られるものではない。行文からすでに明らかな通り、われわれはこの次元での原基的な二肢的二重態の“上”に、当の基底的な二肢成態を「所与」の位置に置く高次の「所与−所識」二重成態が累層的・多階的に成立することを指摘する。」57-8P
第二節 所知の第一肢的与件
(この節の問題設定−長い標題)「現相の第一肢たる「所与」と言っても、それは自己完結的に独立自存する自足的なものではなくして、あくまで、「所与−所識」関係の「項」なのであり、それが「単なるそれ以上の意味的所識として覚識される」という関係規定性においてのみ「所与」なのである。この第一肢的所与を自存する存在体の如くに扱うとき、窮極的には、それはただ或る規定可能なもの(etwas Besttimmbares)としか言えず、それ自体としては第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)的な“無”(𝑜ύ𝛿έ𝜈,nichts)と言わざるを得ない。但し、「所与」は「所識」との相関的規定項であるというまさにその存在規定からして、それ自身すでに、より基底的な次元に即しての「所与−所識」成体であることを妨げられない。換言すれば、或る次元での「所与−所識」成体が高次の所識に対して「所与」の位置に立つことがあり得る。」58P・・・錯分子構造、函数内函数
第一段落――“単純感覚”とか“単純感情”とかいう“窮極的な要素的与件”なるものは存在しない 59-63P
(この項の問題設定)「現相における直接的な与件と言えば、論者たちはとかく“単純感覚”とか“感覚与件(「センス・データ」のルビ)”とかいった“窮極的な要素的与件”(これが「心理的存在」とみなされるにせよ、それ自身としては「主観的でも客観的でもない」「中性的な与件」とみなされるにせよ)を想定したがる。がしかし、今日における心理学の知見を援用するまでもなく、“単純感覚”とか“単純感情”とかいう“窮極的な要素的与件”なるものは存在しない。」59P
(小さなポイントの但し書き)「念のため、メッツガーの剴切な立論を引いておこう。「物を知覚する際の我々の感官の本来の使命は、今日まで数百年にわたり哲学者や心理学者によって説かれたような、多数の小さな“個々の感覚”を結合して包括的な全体をつくるということにあるのではなく、感覚場の本来の統一を破って、そこに境界を引き、そこから形を持った部分形象を分凝させることにある。前者の説く“個々の感覚”のようなものは、この世のいかなるところにも存在したことがなく、ことに知覚の未発達な段階においてはその片影さえも認められない。それは純粋に思考の産物にすぎず、人々が物を見る際、知覚の場に生じる自然的部分を、形態法則への顧慮なしに窮局まで押し進めて考えた結果到達したものである。……一般に知覚は“連合”すなわち“結合”や“連結”……最も簡単な部分の“寄せ集め”によって生ずるのではない。しかしながら、科学を長いあいだ心的要素(すなわち感覚)の探索という不毛な仕事に迷い込ませていたこの由々しい誤謬は、自然科学的手続を非自然科学的な領域へと不当な形で持ち込んだために生じたものではなく、逆に、その発生の地は哲学者の机上にあったのである。のちに、自然科学的な手続を用いて決定実験がおこなわれ、はじめてその根拠のないことが明らかになったが、このような誤りをひき起こすもとになった模型は、つねに、針金と結び紐、釘とネジ回し、漆喰(「しっくい」のルビ)と膠(「にかわ」のルビ)と糊とで組み立てられる人間の構築物であった。したがって少し以前まで、こうした誤謬が心理学におけるとまったく同様、精神科学の領域にはびこっていたとしても、少しも不思議ではない。こうして人は、イリアスやニーベルンゲンの歌は、あらかじめそれぞれ独立していた歌詞を蒐集あるいは編輯する人がいて、我々が知っているような形に結びつけたものだと考え、歌全体が一つのまとまった萌芽思想から発展して生じたものであるという考えには、アンドレアス・ホイスラー以外はついに到達しなかったのである。」(Wolfgang Metzger:Gasetze des Sehens,1953.盛永四郎氏訳、岩波書店刊、九六頁)。」59-60P
(対話@)「ここで人は以前として次のように言い募るかもしれない。なるほど“個々の感覚”という単位的要素は存在しないにしても、単位的な「形態(「ゲシュタルト」のルビ)」ないし、メッツガーのいう「知覚の場に生じる自然的部分」という“窮局的単位”があるのではないか。そして、その“窮局的単位”がそれ自身は単層的(「アインファッハ」のルビ)な与件のはずである、云々。われわれとしてもゲシュタルト的な「図」(それが錯図を形成する“部分”である場合を含めて)が一つの「図」的分節態をなすかぎり、それが“単位”であることは認めうる。しかし、この“単位”的分節態はすでにして単層的な与件ではなくて二肢的二重態であることをわれわれは主張する。」60P
(対話A)「人はここで、『知覚の現象学』におけるメルロ=ポンティの所説を或いは連想することであろう。「ゲシュタルト理論は――と彼は書く――<一つの地の上の一つの図>、これこそがわれわれの持ちうる最も単純な感性的所与であることを教えてくれたが……これは知覚的現象の定義そのものをなしているのであって、その条件なしには或る現象を知覚と言えなくなる底のものである。」しかるに、図の「各部分はそれ自身が実際に含んでいる以上のものを告知しており、従って、こういう初歩的な知覚ですら、もうすでに一つの意味(sens)を担っているわけである。」(M.Merleau-Ponty:La Phénoménolgie de la Perception,1945,p.10.竹内芳郎・小木貞孝氏共訳、みすず書房刊、三〇頁)。」60P
(対話B)「メルロ=ポンティがsensと呼ぶものがわれわれの謂う「意味的所識」をどこまで相覆うか、それがわれわれの謂う「行動価」の次元とどう関わり、またむしろ、示差的な対他的区別(周辺的他者との対照的区別)の次元にどう緊縛されているか、これは姑く不問に付し、彼が臆断的に確言している「初歩的な知覚ですら、もうすでに一つの意味を担っている」という命題を議論の接ぎ穂にしよう。彼は(地のうえの図)が「最も単純な感性的与件」であることを認め、この「所与」が「一つの意味を担う」という構図で議論を運んでいるが、われわれに言わせれば「図」はすでに単なる感性的所与ではなく、意味を「担う」以前に意味に“負う”ものである。「図」がもし(必然的に意味を担うとしても)それ自身としては「単純な感性的所与」であるのであれば、われわれは当の“準自足的”な“所与”を以って窮境的な現相的与件とみなすこともできよう。メルロ=ポンティに言わせれば、なるほど「各部分はそれ自身が実際に含んでいる以上のものを告知」する由であるが、彼の構図がもし妥当ならば、とりあえず「各部分が実際に含んでいるもの」、この所与を以って現相の第一肢的契機とすることが出来ようというものである。――われわれは、勿論、語法が半ば比喩的であることは承知しており、彼がわれわれと近い線で発想していることは諒解しているつもりである。だが、微妙な、しかも決定的ともいえる彼我の相違を対自化せざるをえない。――」60-1P
(対話C)「われわれに言わせれば、遺憾ながら、実情はメルロ=ポンティが見るようにはなっていない。われわれとしては、彼が“意味”と区別して立てる“所与”を窮局的な次元では、「最も単純な感性的所与」と認め難いのである。それでは、彼が言うのよりもより一層根底的な感性的与件があるとでもいうのか? よもや要素的感覚論でもあるまいから、われわれは窮局的な与件として何か単純な感性的所与を反立するわけではない。われわれとしては、メルロ=ポンティの議論と接点を設けて言えば、彼の謂う「図」とその「各部分」、いな「地のうえの一つの図」という「最も単純な感性的所与」なるものが、すでにして「所与−意味的所識」二肢的二重態であることを主張し、彼がこれの「担う意味」というのはこの原基的な「所与−所識」成態の“上に”立つ“高次の意味”である旨を指摘したいのである。」61P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれは、メルロ=ポンティの実情は、われわれの言う原基的次元での「所与−所識」成態の契機としての「所識」と、この成態の上に立つ――“高次の意味”との離接が不充分なため、両者が混淆されているのだと諒解する。がしかし、この混淆は議論の全体を決定的に分岐させずにはおかないほどの重要な錯誤に通じる。)」61-2P
(対話D)「こうして、われわれは、ゲシュタルト心理学者やその知見を踏んだメルロ=ポンティなどが“窮局的”な“最も単純な感性的所与”とみなすものを“原基的所与”とは認めない次第であるから、大層厄介な難題を自ずから抱え込む所以となる。われわれにとっての難題が奈辺に存するかを自覚的に表明しておけば、われわれとしても現相の“平面”内でいうかぎり、それの分節態(メルロ=ポンティの言う「図」ないしそれの「各部分」、剴切には“錯図”の“部分”をも含めての“図”、すなわち「地」以前的な“地”からの顕出態)を以って“最終的な”“単位”であることを認める。それにもかかわらず、当の単位的分節態は単層的な与件ではなくして「所与−所識」の二肢的構造成態であると主張する。それゆえ、われわれとしては、最も基底的な場面では「窮局的所与」なる第一肢的与件を、それ自身としてはもはや「現相」の“平面”に納らぬ次元に求めざるを得ない。現相世界の“大地”に足をつけつつ、すなわち、現相世界から遊離してしまうことなく、いかにしてこの“超”現相世界平面的次元での「所与」を定立するか、これがわれわれの直面する課題にほかならない。」62P
(対話E)「ここにおける論理構制は、次の如き類比に即して受け取られるかもしれない。すなわち、物理的原子という“平面”での分類では諸原子を“最終的”な“単位”と認めたうえで、しかし、当の“平面”を超える(ないし、より基底的な)次元では、原子を“単層的”な終局的与件とは認めることなく、物理的原子は陽子・電子といったより基底的な諸契機から成る“構造成態”であると主張する論理構制との類比である。このアナロジーは慥かに半面では妥当する。がしかし、われわれの言おうとする「所与−所識」構造成態は、素粒子(陽子・電子・中性子、等々)の複合的結合体という比喩を許さないし、更に振って、素粒子をクオークの複合的結合体とみなすことの類比をも許さない。われわれは、成素が実体的に既存してそれが複合体に合成されるという実体主義的な発想を端的に斥ける。われわれとしては、関係態の第一次性という存在論的了解に立って、「所与」をあくまで関係態(比喩的には例えば“函数”)の“項”として扱う次第なのである。ここにおいて、われわれは、「所与」なる契機をいかなる関係態の“項”的契機として措定するのか、これの明示を併せて課せられている所以となる。」62-3P
第二段落――“難題”そのものがそもそも成立しないのではないかという疑義 63-8P
(この項の問題設定)「偖、われわれの当面するこの“難題”に答えて行く段取りであるが、人は遮って先決問題を突き付けることかとも思う。そのありうべき“先決要求”に応接することを介して、漸次われわれの積極的な主張を開陳して行くことにしよう。」63P
(対話@)「茲でありうべき先決問題というのは、われわれの課題設定、すなわち、謂うところの“難題”そのものがそもそも成立しないのではないかという疑義に通ずるものである。それゆえ、当の疑惑をあらかじめ卻けておくのが慥かに先決要求をなす。――われわれは、いわゆる“感性的所与”なるものが(要素的であれゲシュタルト的であれ)直接的な純粋与件でない旨を主張し、真の現相的所与は、原基的には、それ自身として自足的な特質(すなわち、依って以ってそれが他から現相的に識別されうる特質)を具えた一現相ではないことを立言する。だが、もしこの立論が妥当するとすれば、感性的知覚と単なる表象との原基的な区別が成り立たない筈ではないのか? 事実の問題として人々は「知覚」と「表象」とを端的に区別して覚知する。それは感性的知覚与件と表象的与件とが、あれこれの“意味づけ”に先立って、謂うなれば“裸の素材”としてそれぞれ自足的に弁別的特質を具えていることに負うものではないのか? この疑義が正当に成り立つとすれば、成程、われわれの課題設定が足許から崩れる。しかしながら、この疑義は或る重大な錯認に基づくものであってわれわれを真に脅かしうるものではない。この間の事情を明らかにし、以って先決問題を解消するためには、われわれ自身の見地から「知覚」と「表象」との区別をここで多少とも説明しておかねばなるまい。」63-4P
(対話A)「知覚と表象とが判別的に覚識されるということは慥かにフェノメナルな一事実であると言えよう。現前する現相が感性的知覚であるのか、それとも、単なる表象として泛かんでいるにすぎないのか、これは直覚的に弁別されているのが普通である。成程、あとになって“錯誤”に気付くこともあるが、その都度の覚識にあっては“直証的”である。記憶的回想や想像的予期の意識を伴って表象が泛かぶ場合があるにせよ、表象は常に必ず回想性ないし想像性の意識を伴うわけではない。端的に表象が泛かぶ場合が確かにある。そしてその場合にも、それは表象であって知覚ではないことが弁別的に覚識されている。とすれば、知覚と表象とでは、素材的所与が現相的に相違するのではないのか? この故にこそ「知覚」と「表象」とが“直証的に”判別して意識されるのではないのか? 或る種の論者たちは「知覚的印象」は生気や活性を帯びており「表象的心像」とは明瞭性・活潑性の度を異にする旨を主張する。論者たちによれば、知覚と見紛うばかりに生々明瞭な場合があり、逆に、霞のかかった薄明で月の状景を視覚する折りなど、知覚が表象よりも却って不活性・不明瞭な場合もある。それでいて、知覚なのか表象なのか“直証的”である。従って、素材的所与そのものが知覚と表象で本源的に相違するとは到底言い切れない。(現にこのことに定位して知覚と表象とを等しく“心像”という“単なる主観的なもの”とみなしてしまう理説が登場する所以でもある。但し、われわれ自身はこのような観念論的傾斜に与する心算ではない)。」64P
(対話B)「それでは「知覚」と「表象」との“直証的”直感的な区別は如何にしておこなわれるのであるか? これを詳説することは今爰での論件ではないが、二、三の論点は示しておかねばならない。――われわれは、もとより、現与の“素材的与件”が、或るときには<知覚>として意味づけられ、或るときには<表象>として意味づけられるという具合に、概念的に弁別整序されると言おうとする者ではない。勿論、知覚とか表象とかいう概念が確立した暁に、反省的にこのたぐいの概念的な弁別整序がおこなわれうることは否定しない。がしかし、基礎的な体験の場面における知覚と表象との直覚的な弁別は概念的な「として」把握以前的である。それでは、“志向的意識作用”の相違に因るものであるのか? 人がもし「知覚的志向作用」と「表象的志向作用」とやらが、それぞれ自足的な特質(依って以って、それであって他ではないことを判別せしめる特質)を具えて現相的に覚識されると主張するのであれば、仮令“素材的所与”は中性的(すなわち、知覚と表象とで共通)とみなされるとしても、われわれの批判的見地に対しては、自足的な現相的所与を云為(「うんい」のルビ)するのと同趣の機制になる。けだし、“志向作用”は、なるほど能知であって所知ではないとされるにせよ、われわれの見地からは、それは少なくとも反省的意識の場にあっては現相的所知の一斑をなす所以である。われわれの観るところでは、しかし、“志向的”“作用性格”に種別を設けるのはアド・ホック(その場限り)な仮説という看が強い。われわれとしては、“志向的”とやらが自己完結的に“作用性格の別”を具有するとは認めがたい。いわゆる作用性格とは「志向的意識事態」からの反照規定たるにすぎないとわれわれは考える。」64-5P
(対話C)「後論をここまで止むなく多少先取りするかたちになるが、現相的世界は一定の空間・時間多岐な秩序をもった構造的分節態であり、知覚的な時空間世界と表象的な時空間世界(ここでは狭義の思考的世界は措いて、差し当たり、記憶的表象世界や予期的表象世界などを念頭におく)とは構造的な秩序態のそれぞれ全一態として分節的に覚識される。夢の場合(および白日夢に没入している場合)を除けば、それぞれが空間的な秩序構造を有った「知覚現相」と「表象現相」とが心理学者の謂う「地」と「図」との関係に“類する”ともいうべき相で対照的に覚識される。夢をみている最中や幻聴を聞いている最中には「知覚的秩序現相」と「表象的秩序現相」との対照的覚識が欠けているが、まさにそのゆえに、それが“表象”(夢や幻覚)であることが自覚されないのであって、自覚を生じる場面では醒めた意識での「知覚現相」と先行体験の“表象”(夢や幻覚)とが対照的に意識される次第なのである。知覚と表象との“直証的”な区別的覚識は、素材的所与や作用性格の相違に因るものではなく、知覚的秩序現相と表象的秩序現相との準「地−図」的な対照に俟つものである。」65-6P
(対話D)「ところで、しかし、当の知覚的秩序現相と表象的秩序現相との対照的覚識は、前者が実在的対象との現実的対応性の覚識と相即し、後者が現実的対応性の欠無の覚識と相即することに俟つものではないのか? この想念から、感性的知覚現相の直接的所与は“実在的対象”とやらであるとの思念も生ずる。われわれとしても、感性的知覚が「実在的対象との現実的対応性の覚識」と呼ばれるものを伴う場合があることは認めるに吝(「やぶさ」のルビ)かでない。がしかし、「実在的対象」との「現実的対応」性というのは“高度”な「意味的覚識」の一斑であって、そのさい「実在的対象」なるものが直接的な現相的与件であるわけではない。現相的に現前するのは、さしあたり、謂うところの感性的知覚現相である。――このことを認めたうえで次のごとき理説が登場しうる。すなわち、謂う所の「感性的知覚現相」はすでにして「所与−所識」成態であるわけで、このさいの「所与」が「実在的対象」にほかならない云々。この理説においては、“原基的な所与”たる「実在的対象」それ自体は知覚的現相ではないこと、知覚現相に限らずおよそ現前する現相ではないこと、このことが前梯的了解になっている。そこで、もし、謂う所の「実在的対象」なるものが喧噪を手掛りにして思考的に覚識されたものであるとすれば、それは「所識」であっても「所与」ではない。それがあくまで端的な「所与」だとされる場合には、カントの「物自体」Ding an sichと同様、それ自体がいかなるものであるか不可知ということになろう。現相が汎通的に「所与−所識」の構制を必然的に有つことから、「不可知」な「物自体」を窮極的な“所与”として立てる理説も成程ありうるには違いない。しかしながら、われわれとしては「物」自体という表現の暗黙的含意を卻けざるを得ないし、究竟的な「所与」が自足的に自存するという発想に与することはできない。となると、謂う所の「所与」は「実在的対象」という含意を剥奪されて、それ自体としては不可知というよりも、自足化して規定しようとすれば“無”としか言いようがない、単なる「所識との相関項」ということに落ち着く。」66-7P
(対話E)「翻って、しかし、現相の直接的与件はそれ自身でやはり自足的な特質(それであって他ではない)を具えているというべきではないのか? 現相がそれ自身としては現相ならざる「所与」と「所識」との二肢的二重相を呈するというのは作為的な構造化であって、基底的な現相は単層的で且つ自足的な特質を具えているのではないか。「これを否認するところから、物自体でさえないような“無(「ニヒツ」のルビ)”たる“所与”(これは没概念に聞こえる!)要請する羽目にも陥る。先には、知覚と表象との区別という“直証的”な体験を論拠にして直接的な素材的与件の自足性を指摘しようといて論駁に逢着してが、これは偶々論拠に選んだ事例が脆弱だった所以で、与件の自足的な特質具有性という提題プロパーが論破されたわけではない。」云々。或る種の論者は斯様に言って、爰で次のように訴えるかもしれない。それは、いわゆる感覚質(正しくは感覚様相sensory modality)の“直証的”な弁別的覚知という事実である。色と音、痛みと香り、といった感覚様相を人々は慥かに直覚的に弁別して覚知する。さらには、同一の感覚様相であっても、赤と緑、温と冷、等々が直覚的に弁別されるし、同じく赤と言っても、紅と緋等々が“直証的”直覚的に弁別して覚知される。――この事実を説明するためには、基底的な感覚現相は単層的であってしかも自足的な特質を具えていると認めざるを得ないのではないか? そして、この“基底的感覚現相”を究竟的な「所与」と認めて出発するとき、現相的“平面”を超出する所与=“無”などという代物(「しろもの」のルビ)を要請する必要もなくなる道理ではないか。」67P
(対話F)「われわれとしても、右に謂う意味での“基底的な感覚現相” ――それはわれわれが拡大して謂う“図”の一斑なのだが――、これが“自足的な”弁別的特質を具えていることは承認する。だが、われわれに言わせれば、当の“基底的な感覚現相”が既にして自足的な「所与」ならざる「所与−所識」成態であって、この二肢的構制に俟ってのみ謂う所の「弁別的特質」の実態も厳存するのである。われわれが、二肢的二重性の構制を飽くまで指摘するのは、決して恣意的な論理的仮構ではなく、謂うところの“基底的感覚現相における自足的な弁別的特質”なるものの実態と存立構制をも説明しえんがためなのである。」67-8P
(対話G)「この間の事情を説述するためには、今やわれわれの謂う「現相の第二肢」たる「意味的所識」の側に即して討究の歩をすすめなければならない。この作業を通じて、われわれは前節から持ち越した案件、すなわち、現相の汎通的な二肢的二重性の構制を確説するという課題の遂行をも期し得る。」68P
第三節 所知の第二肢性的所識
(この節の問題設定−長い標題)「現相の第二肢たる「所識」は、あくまで、「所与−所識」関係の「項」なのであり、それは「所与」が「単なるそれ以上の或るものとして覚識される」という関係規定性においてのみ「意味的所識」なのである。この第二肢的所識は、それ自身としては実在的(「レアール」のルビ)には、“無”といも言うべき非実在的(「イルレアール」のルビ)な存立態(Bestand,subsistence)にすぎないとはいえ、端的な無ではなくして、所与を一定の規定態たらしめる所以の謂うなれば積極的な“虚焦点”なのであって、且つ亦、“能記”的な所与に対する“所記”的な或るものである。「意味的所識」は“それ自身”の存在性格を追尋(「ついじん」のルビ)すれば――けだしこれを自存する存在体の如くに扱うとき“超時間的・超空間的”な形而上学的存在態として錯認される所以でもあるが――寔(「まこと」のルビ)に実在的な現相(これは「特個的・定位的・変易的」)とは対比的に「普遍的・非場所的・不易的な」存在性格を呈する理念的(「イデアール」のルビ)な妥当(Geltung)である。」68-9P
第一段落――言語以前的な基礎的な知覚場面に即して論考 68 -75P
(この項の問題設定)「意味的所識が十全な広袤(「こうぼう」のルビ)をもって問題になるのは言語が主題科される間主観的な場面においてであるが、爰では姑く、言語以前的な基礎的な知覚場面に即して論考を試みておきたい。」68 P
(対話@)「最初に、前節に謂う“基底的な感覚現相”が既にして意味的所識を“懐胎”(prägnieren)していることを指摘しつつ、軈(やが)ては「所識」の存在性格(Seinscharakter)を見て行くことにしよう。――感覚のうちでも最も単純な部類と想われている色を例に採ろう。実験心理学の教えるところによれば、いわゆる“正常な視覚”を持ったヒトの場合、例えば四八〇nm(ナノメーター)の波長の光が刺戟として与えられた場合の色彩感覚と、五一〇nmの光が与えられた場合の色彩感覚とを、弁別的に覚知する。前者が「青」、後者が「緑」普通に呼ばれる次第であるが、色彩感覚はこのように即自的に分節化している。五七〇nmの光は「黄」に見え、六三〇nmの光は「赤」に見える、等々。このさい、命名的分類はもとより言語的文化活動による媒介的所産であるが、言語習得以前の乳幼児や、各種のサル、鳥やミツバチなどを用いての反応実験の結果から考えるに、色彩感覚の分節化的区別は感官生理学的な機制によって即自的に遂行されているものの如くである。この事実を皮相にみれば、光感覚はそれぞれ自足的な特質を具えていて、当の特質に即して弁別的に覚知されるのであるかのように思える。なるほど光の波長のスペクトルは連続的に分布しているにせよ、波長に応じた物理的刺戟の質が感受されてそれが色彩感覚質の素材的畜質をなすのではないかとの思念さえ使嗾(「しそう」のルビ)される。だがしかし、四八〇nmの光だけでなく、それと波長の近い、例えば四五〇nmの光であってもやはり「青」に見える。」68 P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、波長の或る幅が単純に一括して同じ色に見えるわけではない。現に四八〇nmから同じく三〇nm距った五一〇nmの光は「緑」に見える。青・緑・黄・赤にそれぞれ対応する光の波長の幅は一定ではないのである。しかも、波長の或る長さの個所に識閾(「しきいき」のルビ)があって、そこを超えると別の色に見える。但し、この不連続的飛躍性は、光の物理的特性の“質的飛躍”に因るものではなく、感覚器官の側の整理・化学的機構の選別的反応機制に基因することが知られている)。」68-9P
(対話A)「青と緑、緑と黄といった感覚質が識閾によって別種の質として異立(区別化)されるだけでなく、青なら青という色彩質が同立(類同化)されるわけである。勿論、類同化といっても概念化的把握による類同視ではない。四八〇nmの光に続けて四五〇nmの光を与えると再認(同じく“青”として再認的同一視)されるとか、いわゆる「慣れ」(habituation)のため新規の現相とは覚知されない(この意味での消極的な同一視)とか、四八〇nmの光で条件づけた反射行動が四〇〇nm −五〇〇nmの光に対して斉(「ひと」のルビ)しく現出する(汎化)とか、こういう次元での同一視・類同視がさしあたり存立するである。(この間の事情は日本人がrの音とlの音とを同一視するのと類比的なところがある)。四〇〇nm −五〇〇nmの光が全く同一の「青」として同一視されてしまうわけではなく、現に「青」の内部で分化的覚知がおこなわれるようになる。しかし、あくまで一定の幅が付き纏(「まと」のルビ)うのであって、点的に精確な感覚質とやらが単離的に確定されるわけではない。そこで、いま、一定の最小限的な“幅”(すなわち、濃度・明度などの差異)をもちつつも同立されるギリギリの色彩感覚、例えば「純青」なるものに即して討究してみよう。この「純青」は前節に謂う“最も基底的な感覚現相”の代表的な一事例の筈であるが、これが純粋な素材的与件ではなく既にして「或るもの」として存立することは以下に見るごとくである。「純青」が断続的に再認するとき、純青という色彩感覚質が「再認」される。「再認」にあっては、先行せる現相と現前する現相とが同一視(再認的に同定)されるわけであるが、ここでの同一のもの(das Identische)とは何か? あの“最も基底的な感覚現相”たる“素材的与件”が当の同一者であると答えたがるむきもあろう。しかしながら、「再認」にあっては、素材的与件は別々であること(それゆえにこそ再認である!)、このことが覚識されているのではないか。ここでの論理構制は、それが「再認」であるかぎり、久し振りに会った友人を再認する婆などとも同趣である。そこでは、“素材的与件”たる直接的現相は旧時と現在とでは相違するにもかかわらず、同一の友人某として同定的に再認されるわけである。先行せる現前と現前する現前とが与件的には異貌であることがそこでは含意されている。同じ純青の再現といっても、一定の“幅”内での相違が許容される以上、論理構制上は友人の再認などと同趣の筈である。そこでの「同一者」は、現在相そのものでも過去相でもなく、これら二つの現相それ自身とは別の或る「同一なもの」、両現相(二つの素材的与件)が斉しくそれとして認知される或る同一なもの(etwas Identisches)でなればならない。こうして、「再認」における「意味的所識」たる「同一なもの」は素材的な現相的与件とは別の或るものである。――「再認」すなわち「再認的同一視」に即して右に誌した事態は、「慣れ」や「汎化」における「慣熟的同一視」や「汎化的同一視」についてもmutatis mutandis (必要な変項を加えて)妥当するであろう。」70-1P
(対話B)「人は、しかし、右の行論には飛躍があると指摘するかもしれない。再認の場合、先行現相と現前現相という二つの与件が必要条件であることは確かであり、そのかぎりで別々の与件が存在すると言えるにしても、それら二つの与件が全く同一のものと覚知されるとしたら如何? 第三者的にみれば、なるほど、二つの与件は全くの同一態ではなく、一定の許容的差異という“幅”をもつているかもしれないが、当事主体本人には全く同一態の相で現前しているのではないか? もしそうだとしたら、与件的現相の相違性が覚知されている“友人の再認”といった事例の構制とは同日の談ではない。嚮には、与件的現相の直接的な相違性を容認したかぎりで二つの現相的与件とは別な或る同一者が所識とされたのであったが、二つの与件そのものが当事者の覚知において全く同一とされている場合には、先のように与件とは別の同一者を立てる必要はなくなる、云々。このように指摘するむきが慥かにあり得よう。この思念においては“全く同一の現相的与件”なるものがそれの具えている自足的な特質の同一性ゆえに再認的に同定されるという立論へと到る。そして、慣熟的同一視や汎化的同一視の場合についても、同趣の議論が立てられる所以となろう。これは一顧に値する議論である。現相的与件の相貌上の相違性が覚識されている“友人の再認”といった事例と、与件的現相の相違性の覚識を“伴わぬ”再認以前的な再認の場合とは一応分けて論ずるに値する。」71-2P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれとしては、しかし、事実の問題として言うかぎり、色彩感覚といった次元における再認の覚識においても、多くの場合、素材的所与現相は前後で“全くの同一態”とは覚知されず、一定の“幅”内的相違の意識を伴うのが普通であろうと思う。それゆえ、嚮の立論は必ずしも速断的飛躍ではないつもりであるし、für unsな議論という以前に、当事主体が直接的な再認の意識態においては先行現相と現前現相との相違性に気付かず両者を“全くの同一態”とみなしていたとしても、両現相の与件的相違態を反省的に対自化しうる以上は、論理構制上嚮の(“友人の再認”を引き合いに出した)議論は十分妥当すると考える。とはいえ、論者の指摘するごとは場合が絶無とは言い切れないかぎりで、ここに勘案しておく次第なのである)。」72P
(対話C)「論点の焦点を見え易くするには、論者の指摘する“特殊ケース”の再認を殊更に再認という論脈で扱うことは止めて、端的に色彩感覚が現前しているという唯それだけの場面に定位するのが捷径(「しょうけい」のルビ)であろう。というのも、所与現相がそれ自身の自足的特質によって当のそのものとし覚知されると称する論者の議論にあっては「再認」という機制は立論の焦点からもはや外れているからである。ここでの焦点は、現与の感覚現相が当のそのものとして覚知されていること、すなわち、現与の感覚現相がそれの自足的な特質の自己同一性に即して覚知されているという論点、この一事に懸る。――論者によれば、例えば「純青」がこの純青として覚知されるという単層的な事態が厳存するだけである。われわれとしては、しかし、次のことを指摘せざるを得ない。「純青」があくまで当の色(純青)であるのは、赤や緑からはもとより紺(「こん」のルビ)その他類似の色からも示差的対他的に反照区別されていることにおいてである。勿論、この対他的区別性は、われわれ第三者の視座からは汎通的であっても、当事主体本人にとっては一般には即自的な区別に止まり、それとしては現識されないのが普通である。とはいえ、当の所与感覚が一定の“幅”(許容的差異)をもちつつも同一(むしろ“同類”)の「純青」とみなされていることにおいて、それは既に他種の色と示差的に反照区別して措定された或るものであるということ、この構制を免れない。原基的感覚現相といえども、単なるその所与としてではなく、対他的な反照的区別態覚知されているのである。所与現相の自足的特質の自己同一性なるものは、反面として、対他的な示差的区別性を伴っている。精確に言えば、併存的な反面として伴うのではなく、この示差的な対他的区別性との反照が謂うところの“自足的”“内自的”な特質なるものを規定しているのである。論者の謂う与件的色彩感覚「純青」(勿論「純青」という概念ではなく、いまこの詞で指称している“与件”感覚)は一見したところ自己完結的な与件であるかにみえても、それが分節態(区別化的分出態)であるというまさにそのことにおいて、対他的な反照関係の一結節なのである。この反照的規定性は、赤とか緑とか、はたまた紺その他類似の色という“同位的”な示差的他者とのあいだだけでなく、いやしくも感覚現相が一つの“図”であるかぎり“地”とのあいだにも存立するということが銘記されねばならない。“地”との反照的区別ということが“図”たる感覚現相にとって少なくとも存在条件をなす。――以上のことまでは、すなわち、現相的与件なるものの特質が自閉的に規定されるのではなく対他的な反照性において規定されてあるということ、このことまでは認められるとしても、謂う所の“対他的反照性”における“周辺的他者”がそのままわれわれの謂う与件“以上の或るもの”であるわけではない。では、上述の対“他種”的な示差的区別や対“地”的区別ということが、“与件以上の或るもの”=「意味的所識」の“懐胎”という論点とどう絡むのか? われわれは対他的に反照区別されてある“与件の特質”なるものそのものに留目する。人々は、普通、与件そのものに固有な特質が具わっていて、その固有性に徴して対他的な区別もおこなわれる、という具合に発想する。そして、当の固有的特質には厳密には天上天下に唯一的に特有なもの(the unique)であるとすら考える。もしそのような“ユニークな与件”が現相的に現前するとすれば、当の所与現相はなるほど単層的であろう。だがしかし、論者たちの謂う“ユニーク”な与件、例えば“純青”を黄色を背景にして投光・観察してみるがよい。それは緑には見えても最早“純青”ではなくなる筈である。論者たちは、ユニークな与件なるものはその都度の感覚の場で言わるべきであって、この場合には現前する緑が“ユニークな”つまり排他的に専一な与件となる旨を主張するかもしれない。この主張そのものは半ば認めてもよい。がしかし、われわれの論点は“純青”なら“純青”という自足的に固有なものがあるわけではないこと、論者たちが「自足的な固有性」と「外部的な他者」という相で考えている両契機は浸透し合っていること。対他的反照規定ということは、“与件の固有性”にとって外在的な事柄ではなく“固有的特質”と称されるものの謂わば“内的な”“懐胎的”規定要因であること、この点である。端的に言ってしまえば、論者たちの謂う“専一的な内自的固有性”なるものは、実際には、対“他”的反照の“函数”であり、決して自己完結的に自存するものではない、ということである。」72-4P
(対話D)「論者たちは、ここで右におけるわれわれの指摘を承服したうえでも猶、次のように反問するかもしれない。すなわち、原基的な感覚現相の“内自的に固有な特質”なるものがすでに対“他”的な反照の“函数”的規定態であるということ、この“函数”的な非媒介的構造成態であるということが「二肢的構造性」の謂いであるのか? ここでの「意味的所識」なる第二肢は一体何であるのか? 論者たちは、現相がよしんば“函数”的規定態であれ、その“値”が一義的に確定しているかぎり、その“函数値”はユニーク(専一的固有)だと言いたがることであろう。われわれも、それが一義的に確定した“函数値”であることは認める。だがそれはあくまで“函数”の値なのであって、自存的な“数値”ではない。値としては同じであっても、それは単なる“数値”以上の“函数値”なのである。これは形式的な概念遊戯に類するものと誤解されかねないが、われわれは“函数”とそれの“特定値”という二肢的な区別を積極的に導入することによって、再認的同定や較認的同定ということの可能性の条件を明らかならしめ、且つ亦、再認や較認という事実の存立機制を能く説明する。論者たちといえども、所与が“全くの同一態”である場合、すなわち“値”が全く同一な場合については、再認的同定や較認的同定を(“所与そのものの同一性”ということによって)説明することができる。しかし、現実問題としては、所与が“全くの同一態”であることは“例外中の例外”であることは措くとして、所与が偶々“全くの同一態”であれ、許容的差異を伴った与件であれ、斉しく「同定」されうる所以の同一者がわれわれの謂う「意味的所識」である。(翻って、論者たちのユニーク主義の立場では“全くの同一態”が複数個存在することは原理的には不可能な筈である。ここでは、しかし、“全くの同一態”として覚知され、現相的与件の差異性が覚識されない場合ということにして、論者たちに逃道を開けておこう)。」74-5P
(対話E)「偖、それでは、所与現相は相違するにもかかわらず、「同じもの」として再認されたり較認されたりするのは、何故また如何にしてであるか? われわれの考えでは、両現相が“値”は異なっても一箇同一の“函数”のそれぞれ特定値として認知されるという構制、同じ“函数”として同一性が措定される構制、これに俟ってである。「同じもの」としての「意味的所識」、これが上来の“比喩”的立論において“函数”と誌してきたものにほかならない。これを以って、われわれは前掲の設問にも暫定的に答えた所以になると考える。」75P
第二段落――「図」の次元について“函数”的性格や「同定」の機制を説く 75-80P
(この項の問題設定)「われわれは、普通にはユニークな感覚質と思念されているものからしてすでに一種の“函数的成態”であること、再認的同一視・慣熟的同一視・汎化的同一視はもとより、いわゆる較認的同一視も論理構制上はそのことに負うて存立すること、このことを論定した。となれば、心理学的に所謂「図」の次元について“函数”的性格や「同定」の機制を説くことは今や容易である。」75P
(対話@)「ここでは、現相的分節態が「図」として呈するゲシュタルト性に主たる留意を払いつつ謂う所の“函数的成態”の性格を一歩立入って規定し、以って「意味的所識」の存在性格を追尋するための縁(「よすが」のルビ)としよう。――ゲシュタルト的に分節化せる「図(「フィグール」のルビ)」は、それの部分が変化しても「移調的」に“自己維持性”を示す。例えば、メロディーは、高音で奏しても低音で奏しても“同じメロディー”として聴き取られるし、ピアノで弾こうと笛で吹こうと、つまり、音質は違っても“同じメロディー”として聴こえる。一定の縞紋様は白黒であろうと赤緑であろうと“同じ縞紋様”に視て取れる。ここには諸“部分”的与件という“項”の値は変化・相違しても“全体”としての“函数”は同一のままという構制がみられる。」76P
(小さなポイントの但し書き)「――このさい便宜上“部分”と呼んだ契機は、それを終局的に押し詰めて行くと、嚮に“原基的な感覚”と呼んだものに帰一する。われわれは、要素的感覚主義に与することなく、「純青」といった“原基的な感覚”ですら一種の「図」であると主張する者であり、この“図”がすでに一種の“函数”的成態であることを上述しておいた。そして、今、狭義のゲシュタルトは感覚質という“項”から“成る”函数であるという表現方式を採った。しかるに函数の変項とは視角を変えて定式化すればそれ自身“函数”にほかならないことに鑑みれば、狭義のゲシュタルト的「図」は“函数の函数”であると言うこともできよう。狭義の「図」は“感覚質”という“図”を下位の分節項とする一種の“錯図”(錯構造をもった高分子的・錯分子的な図)として扱うことも許される道理である。翻って、謂う所の“感覚質”が、上述の通り、すでに「所与−所識」成態であるから、今問題のゲシュタルト的「図」の次元は、基底的な「所与−所識」成態の上に立つ「高次(第二次以上)の所識」に位すると言うことも出来る。――」76P
(対話A)「議論の視界をもう少し拡げよう。現相的世界の分節態は、亦、いわゆるゲシュタルト的な「恒常性」の傾動を示す。例えば、コップを口許から放して向こうに置くとき(反省してみれば、視覚上の大きさ・形状・色調が激変するのだが)、直接的な現相的所識態では、大きさも形状も色調もほぼ恒常であり、同じそれとして覚知されつづける。視覚以外の感覚様相にあっても、また、運動相などの知覚にあっても、現相的所識態がいわゆる「恒常性」の傾動を示すことは、実験心理学が豊富な事例を挙げて説く通りである。そして、このゲシュタルト的「恒常性」という全体性・統合性・恒一性の保持が剛体的に硬直的な自己同一性ではなく、前記の「移調性」と同一の構制になっていることは、更(「あらた」のルビ)めて喋々するまでもあるまい。」76-77P
(対話B)「偖、「移調的恒常性」という現相的分節態=「図」が汎通的に呈するこの事態は、その存立構制を分析してみれば、まさしく「所与−所識」の二肢的二重性の構制になっている。直接的な射映的与件たる現相的所与(これはすでに“図”としてのかの“函数”的成態なのであり、“原基的な感覚質”ですら既に「所与−所識」成態なのであるが、人々は通常このことに気付かず、射映的現相が端的な単層的与件であるかのように思念している)、これの変化・差異を覚知しつつも、人々は当の“所与”を 同じ一つの或るものとして現識する。現相的所与の差異性の意識を伴いつつ意味的所識としての恒一性が現識されること、所与と所識との二肢的二重性に俟つこの事態が、いわゆるゲシュタルト的「移調性」「恒常性」にほかならないのである。」77P
(対話C)「われわれがここで問題にしておきたいのは、現相的分節態=フェノメノンの「移調的・恒常的」なゲシュタルト的恒常性の構制を支えるゲシュタルト的「所識」の特異な性格である。――その都度の現相的所知を一定値とった項から成る“函数値”、恒一的なゲシュタルト的所識を“函数”に比定すると論点が見え易いのであるが、その都度の現相的所知が「特異的」であるのに対して、恒一的なゲシュタルトとしての「所識」は「普遍的」である。けだし、現相的所知が射映的に特個的なその都度の値の相で諸々に定在するのに対して、ゲシュタルト的所識はそれら様々な相での“諸定在”を通じて斉しくそれ(同一者)なのであるから、特個的な諸相在(“諸定在”)を通ずる「普遍者」の位置に立つ所以である。」77P
(小さなポイントの但し書き)「(普遍者と言っても、ここでの次元は、いわゆる概念的な普遍者とは径庭がある。とはいえ、例えば、複数個の円という図形群が、同じ(円)というゲシュタルト的所識たりうるわけで、ここでのゲシュタルト的普遍は諸個体群を包摂する概念的普遍と論理構制上は既に同趣である。いな、精確に言えば、いわゆる概念的「普遍」なるものは、実は、ここでのゲシュタルト的普遍の構制に俟って成立するものにほかならない。ここでは、しかし、いわゆる概念的普遍性の問題は姑く措くことにしたい)。」78P
(対話D)「ゲシュタルト的所識は「普遍」的であるだけでない。射映的な現相的所知が「変易」するにもかかわらず。ゲシュタルト的所識は一貫して同じ当のゲシュタルトなのであるから、自己同一性を保持する「不易的」な或るものでもある。更に言えば、射映的な現相的所知は、よしんば想像的空間秩序中であれ、そして、確定的な場所指摘は仮令不可能であれ、ともかく一定の処に定位されているのに対して、ゲシュタルト的所識は謂うなれば「超場所的」である。「超場所的」というのは、但し、場所的規定性と全く無関係の謂いではない。或る意味では、ゲシュタルトは射映的現相のその都度の場所に在るとも言える。が、まさにそのことにおいて、ゲシュタルト的所識としては一箇同一=単一であるものが、例えば、複数の円という図形群の一つ一つ(複数個所)に“臨在”するのであるから、(しかも、分割されて散在するのではなく自己同一性=単一性を保っているのであるから)、射映的現相与件のその都度の場所に専一的に在るわけではない。単一性を保持しつつ臨在的に遍在するというこの意味において(換言すれば、場所的規定性端的に無縁という意味においてではなく)ゲシュタルト的所識は「超場所的」である。――こうして、射映的な現相的所知が「特個的・変易的・場所的」であるのに対して、ゲシュタルト的「意味的所識」は「非特個的=普遍的・非変易的=不易的・非定位的=超場所的」である。われわれは、「特個的」「変易的」「定位的」ということが実在的(「レアール」のルビ)な存在性格の徴標とされていることに鑑み、ゲシュタルト的「意味的所識」は「非特個的」「非変易的」「非定位的」であるからして非実在的(「イルレアール」のルビ)な存在性格を有つと言う。尚、事柄としては非実在性の徴標の言い換えに過ぎないとはいえ、「普遍的」「不易的」「超場所的」という徴標に即するとき、それを理念的(「イデアール」のルビ) (これはプラトン流の「イデア的」に因んだものであって、“観念的=主観的心像的”の謂いではないことに注意されたい)と呼び換える。ゲシュタルト的「所識」は、この意味において、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する。」78-9P
(対話E)「右では、とりあえず、ゲシュタルト的「所識」の「恒一性」に即して「普遍的」「不易的」「超場所性」を立論したのであったが、省みれば、“函数”的存在態は一般論としてそれの諸“値”との関係で「普遍的」「不易的」「超場所的」なのであるから、ゲシュタルト次元での意味的所識に限らず、先にみておいて“原基的感覚”の次元における“函数”態的な所識も含めて、われわれの謂う「意味的所識」はイデアールな存在性格を有つ次第である。――但し、われわれは、イデアールな所識なるものが、プラトンのイデアの如くに形而上学的世界とやらに独立自存すると主張するものではない。「意味的所識」はあくまで「現相的所与」との相関規定なのであり、自存する存在体ではなく、実在的には“無”(非実在的)である。かかる非実在的=“無”にすぎぬ「意味的所識」が、端的な無ではなくして積極的にその存立性を主張されうる所以については「間主観的」な存立構造の討究に俟たねばならないのであるが、ここでとりあえず次の弁証までは認められるであろう。それは、「所与」の異・同と「所識」の異・同とは明らかに別の現相的覚知事態であり、この事態の成立根拠として「所識」が現相的世界の積極的な規定要因と言われうることである。この言い方では抽象的に過ぎるかと憚られるので、稍々敷衍しよう。例えば「ルビンの杯」のごとき反転図形にあっては、“所与”は“同一”と覚知されるにもかかわらず、「横顔」として覚識するか「高杯」として覚識するかという「所識」の相違に応じて意識事態、現相事態は決定的に相異なったものとなる。“所与”は“同一”と覚知されているのであるから、この現相的事態の相違はまさに「所識」の相違に負う筈であり、ここでは「所識」が明らかに現相的事態の積極的な規定要因を成している。これは所与=同一、所識=相違というケースであるが、逆にまた、例えば二枚の写真(一方は子供、他方は大人)を見て、単に相異なる別人と思い込んでいる意識事態と、ハッと気がついて“同一人物だ!”と認知した意識事態とはおよそ相異なる。ここでは、“所与”はもともと相違しているのであり、「所識」も相異したままか「所識」が同一化したかということが決定的な相違を成立せしめる次第であって、「所識」が積極的規定要因になっていることが肯けよう。こうして、意味的所識は、独立自存するわけではなく、それ自身としては非実在的ではあるが、端的な虚無ではないどころか、現相的世界を現にかく在らしめる積極的規定要因なのである。(人は、ここで、意味的所識は、形而上学的存在ではないことは勿論として、物理的実在ではないが、一種の心理的存在ではないか、と考えるかもしれない。それに伴って、「所与」は物理的存在と思念される。このありうべき見解に対する批判的な決裁、いわゆる“物理的存在”および“心理的存在”なるものの何たるかを検討する次篇での論脈まで持越さざるを得ない)。」79-80P
第三段落――“錯図”的な対象的個体性という次元を視野に入れた討究 80-6P
(この項の問題設定)「われわれは以上、いわゆる“原基的な感覚”とされている次元、ならびに、ゲシュタルト的「図」の次元に即しながら現相的分節態=フェノメノンにおける「意味的所識」のの契機を論考し、「所識」の存在性格にまで論及したのであるが、今や“錯図”的な対象的個体性という次元を視野に入れて討究の歩を進めることにしょう。」80P
(対話@)「現相的分節態は心理学に所謂「図」という以上の相で覚識されているのが普通であり、対象的個体性ないし個体的対象性とも呼ぶべき相貌を呈する。このさい、但し、対象性というのは必ずしも事物的な対象性の謂いではなく、個体性というのも必ずしも事物的な個体性の謂いではない。(事物的個体性や個体的事物性については第三篇に到って主題的に論及する予定である)。」80P
(対話A)「ここで個体的対象相というのは、現相的分節態=フェノメノンが「地」から浮かび出た一つの分凝(segregation)態であるという域を超えて、即自的な持続相での一纏(「ひとまと」のルビ)まりを呈することを指す。持続といってもそれはもとより明確な時間性の覚識以前であり、一纏まりといっても明確な単一性(数的「一」性)の覚識以前的である。一纏まりの覚識は却って“部分”の“数多性”、下位的に分凝せる複雑性(“複雑性”)の覚知に支えられているとい言うこともできる。また、持続の覚識は剛直的な自己同一性の維持という意味での自同性ではなく、遷移的なないしディスポジショナルな変化位相の継起性の覚識に裏打ちされており、即自的には射映的別様相の可能性を含蓄していると言うことができる。例えば、柱時計が三時を打つのを聴くとき、一拍、一拍を個体的対象相で覚知する場合もあるが、普通には、三拍の下位的分凝から成る一纏まりの持続態の相で聴き取られる。時計の文字板も下位的な分節を含む一つの錯図的な纏まりの相で視て取られる。視覚的対象の場合は変化が目立たない折りには持続性の意識が薄いが、それでもしかし、すぐに消失してしまうことなくそのまま覚知されつづけるであろうというディスポジショナルな予期相で即自的に覚識されているのであって、ここでもやはり、単なる空間的な個体的纏まりに止まることなく、持続性の覚識を即自的に含蓄している。視覚的に展らける現相的分節態にあっては、持続的な個体性(変易を通じての自己同一性)覚識は反省的な省察を俟ってはじめて現識されるかのように思われかねない。が、それは“実験的”に凝視する場合のことであって、日常生活の現場においては不断に身体的運動相にある以上、視覚的対象の射映的現相は絶えず変易しているのが実情である。それにもかかわらず、人々はその都度の射映的「図」を一つ一つ一つの個体的対象として覚知してしまうことなく、射映的変易を貫通して一箇同一の対象が持続的に現前しているものと(普通には)覚識する。人々はこういう対象的個体性=個体的対象性の覚識と相即的にそのものの「変化」を覚知したり、そのものを「再認」したりするのだと言えよう。ここで問題にしておきたいのは、射映的な変貌・異貌にもかかわらず、それらの諸相が別々の対象的個体とされてしまうことなく、一箇同一の対象として覚識それるということの論理的構制である。――ここでの問題は、変貌的・異貌的な射映的与件がそれ以上の(乃至は、単なる射映以外の)或るもの=一箇同一の対象的所識として覚知されるという二肢的二重性そのことではない。また、謂う所の「一箇同一の(その同じ)対象」という「所識」がそれ自身としてはどの射映的与件でもイルレアール=イデアールな存立態であることの追認でもない。これらの事項は爰で更めて立入るまでもなく嚮の論攷から容易に理解されよう。ここで問題にしておきたいのは、その都度の射映的与件とは別の一箇同一の“対象像”なるものが如何にして形成されるのかという点をめぐってである。焦点を見易くするために次の如き例に則して考えてみよう。個体的対象たる斑点なり、一匹の飼犬なり、黒田節なり一箇同一のそのものとして認知し、依って以って。同一の対象的個体として再認することを可能ならしめる一箇同一の対象像が如何にして成立するのか?」80-2P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、黒田節といった音韻形象については、日常的には「以前に聞いたことのあるアノ音だ」という言い方、つまり個体的に同一対象の再現・再認であるかのような言い方をするが、“実際には”同類の“別個体”にすぎないという考え方もあり得よう。このことは認めるに吝かでない。がしかし、同類の別個体であるか、相貌的に類似な、裏返していえば、相貌的には多少相違するが一箇同一の個体であるか、これの区別は微妙である。例えば、われわれなら祖父とよく似た孫を祖父と別個体とみなすところ、或る種の未開文化では「死んだ祖父の生まれかわり」すなわち同一個体の再現とみなす。利根川は実体的に持続している一個体であるのか、瞬間ごとに別個体であって単に類似しているだけなのか。新陳代謝を続けていて(身体を形成している)物質原子が入れ変わってしまう動物は同一個体なのか、類似はしているが別個体なのか。質料主義的な観点からは、同一個体か別個体かということは相対的な区別にすぎない。というよりも、突き詰めて言えば、質料主義的な見地からは、万物流転するこの世では厳密な同一個体性ということがそもそも成り立たないのである。質料的な与件に定位するとき、変化相にある存在体については、個体的同一性ということが厳密には成立し得ない。さりて、今日では、「形相」という個体的実体を云為するむきもまずはあるまい。個体的同一性、同一個体性というこが甚だ問題的な概念であると言わねばならない。しかしながら、この件の主題的な討究と裁可は後論に譲ることにして、ここでは暫く“常識”的な準位に定位して議論を運んでおきたいと念う)。」82-3P
(対話B)「人々は、次のように“説明”したがるかもしれない。すなわち、現与の現相的相貌とは別の所識としての“対象像”が形成されるのは、過去に於ける経験の記憶心像や想像心像が併せて喚起され、それら一群の知覚的・表象的な射映現相が比較・校合、分析・綜合を施されることを通じてである云々。」83P
(対話C)「この議論は、しかし、論理構制を検討してみれば、論件先取(「せんしゅ」のルビ)・循環論法に陥っていることが判る。このことを簡略に指摘しておこう。喚起・利用される記憶や想像は、また、動員される知覚的射映は、何であっても宜しいというわけではない。全く別物(別の個体的対象)に関する記憶・想像・知覚であってはならず、それらはまさに当該の対象的個体に関するもの(当の個体的対象についての表象や知覚)でなければならない。では、当の対象に関するもの(と別個の対象に関するもの)の選別的蒐集(しゅうしゅう)は何を基準にしておこなわれるのか? 現前するのはたかだか諸々の知覚現相や表象群だけである。ここでしかるべき選別的蒐集に成功しなければ、比較・校合も分析・綜合とやらも始まらず、従って、固有の「対象像」が形成さるべくもない。選別の基準としてさしあたり考えられるのは類似性であろう。だが、単なる類似性では猫も虎も一緒になりかねないし、極端に類似している別個体も存在するのであるから、類似性ということでは個体的同一性は保証されない。一体、一群の知覚や表象を、一箇同一の対象に関するもの、同一対象的個体のそれとして、選別蒐集する基準は何か? (論者たちがもし個体的対象自体の直覚的な認識可能性を説くのであれば話は別である。が、そういう対象自体の直截的な認知は不可能と認めたればこそ論者たちは比較・校合、分析・綜合を通じての対象像の形成を云々した筈である)。」83P
(対話D)「ここではまだ、対象像は未形成であり、対象像を先取してこれを選別的蒐集の基準とすることは許されない。それにもかかわらず、謂う所の選別基準は、結局のところ、“対象像”ないし現認されている“対象自体”を措いては在り得ない。当の対象的同一個体を基準にしてはじめて、当の個体の一相貌であるのか、よしんば類似的であれ、別個体の一現相にすぎないのかが、弁別されると云う論理構制になっている。射映的には変貌・異貌を呈するにせよともかく一箇同一の対象であることの認知が論理的にも事実的にも先件になっているのである。斯くして、論者の立場を認めるとすると、彼らの意向に反して、対象像を既に保有し、依って以って一箇同一の対象的個体として認知していることなしには、対象像形成のための前段的手続たる選別的蒐集すら成立し得ない! こうして、経験論的な“対象像の比量的形成”論の立場的主張では、経験的過程を通じて“対象像”が形成されるに先立って、あらかじめ当の(結果として形成される筈の)対象像が(当の対象像を形成するための素材群を選別的に蒐集する基準として)すでに保有されているという論件先取・循環論法に陥る次第なのである。論者たちはこのような悖理に陥る。――それでは、一体対象像形成の実態はどうなっているのか?」83-4P・・・先取りすれば、カントの先験的演繹論を共同主観性の形成論としてよみとっていった廣松共同主観性論に繋がる論攷
(対話E)「われわれの見解では、経験論的思念において主張されるごとき“対象像”なるものはそもそも形成されはしないのである。なるほど、例えば、自分の愛用している個体としてのペンなり、自分の飼犬なりについて、余り特殊な姿態ではないという意味で“標準的イメージ”ですら、一つの射映的表象であって、その都度の特個的な相貌と原理的には同格である。射映的な対象イメージは在っても、それとは別途の“対象像”などというものが独自の“心像”のかたちで存在するわけではない、現に与えられているのは特個的な射映的知覚ないし射映的表象(上記の“標準的イメージ”を含む)だけであり、それが端的に「あの個体的対象」(の一つの相貌)として覚識されるのである。対象的個体としての覚知がもしなければ、所与の知覚的射映や表象的射映(“標準的イメージ”を含む)があの対象的個体の一相貌として覚識されることもあり得ない。」84P
(小さなポイントの但し書き)「――慥かに、射映的相貌が泛かんでも、それが特定個体の一相貌として直ちには現認されない場合、反省的思考過程を経てはじめて特定個体として現認される場合、このような場合もある。だが、そのような場合でさえ、対象的一個体としての現認は直覚的に成就する。」84-5P
(対話F)「さりとて、一つの対象的個体=個体的対象としての現認は、新鋭的な現相とは別の“像”が泛かぶことではない。別の“像”、例えば、“標準的イメージ”なり、回想的ないし予期的なイメージが泛かぶことがあっても、それは“副表象”たるにすぎず、その“像”とやらが個体的対象なのではない。射映的現相、回想的現相、予期的現相、これらは斉しく、それがあの対象的個体として現認される所与なのであって、一箇同一の個体的対象そのものという所識ではないのである。われわれとしては現与の相貌的現相が端的に一つの対象的個体(の一相貌)として現認されるという基礎的な事実に定位すれば足りる。だが、格別な対象像など形成されることなく、それでいて、特定の対象的一個体(他の個体とは区別される一個体、しかも個性的特徴をもった一個体)が直覚的に現認されるのは如何にしてか? その場合の「所識」たる「対象的一個体」とは如何なるものか? 当の対象的一個体を概念的にあれこれと規定することは勿論可能である。が、それもそれが一個体として措定されて初めて可能になることであって、ここで問題なのは、概念的な事後規定ではなく、まさに与件が一つの個体的対象として現認される場面での所識である。この問題次元で言えば、現相的射映与件が単なるそれ以上の対象的一個体として現認されるのは、まさにあの「能記」的所与と「所記」的所識とのあいだの「所与−所識」関係の一位相としか言い様がなく、またそれで足りる。そして、ここでの「所識」たる対象的個体については、概念的な事後規定に先立つ今茲の場面では、変貌的・異貌的な諸相が一つのあのものとして斉しく覚知される「或るもの」としか言い様がなく、またそれで足りる。しかも、この「或るもの」=対象的個体は、原基的場面では、比較・校合とか分析・綜合とかいった比量的な手続で形成的に認知されるのではなく、それに先立って端的に覚識されるのであるから、対象的個体というイデアールな「所識」の認知はアポステリオリではなくして謂わば“アプリオリ”である。」85-6P
(対話G)「われわれは、「意味的所識」なるものを実在的には“無”たる非実在的(「イルレアール」のルビ)な存立態にすぎないと規定するのであるから、対象的個体という所識が実在的(「レアール」のルビ)にアプリオリな形象であるなどとは無論主張しない。しかしながら、対象的個体というイデアール=イルレアールな所識が“対象像”ならざる当体的対象の概念的規定態の形成にとって先行的に認知されているという論理構制上の事実(この先行性を認めないとあの経験論的立場に即してみた循環論法に陥るという事情)に鑑みて、対象的個体性という所識の論理的アプリオリ性をわれわれは認める。ところで、「所識」のこの論理的アプリオリ性は、“原基的な感覚質”の特質的個性やゲシュタルト的「図」の特個的一者性という問題場面においてもmutatis mutandis (必要な変項を加えて)妥当することは、行論の論理構制を省みれば更めて詳説するには及ばないであろう。――こうして、「意味的所識」は「普遍的」(といっても、特個的なその都度の現相的射映を通じて斉しくそれであるという意味での普遍性に爰では止まるのだが)、「不易的」(現相的には変易しても所識としては自己同一性を維持する)「超場所的」(所与的現相は場所的であるが、所識としての「対象的個体」は“場所的”変化を呈する現相的“諸相在”に“臨在”するという意味で「対象的個体の所識的契機」それ自身は、具体的な個体的対象の場所的定位性とは異なり、超場所である)という理念的(「イデアール」のルビ)=非実在的(「イルレアール」のルビ)な存在性格を呈するだけでなく、認識論的には経験的・比量的な認識に先立つ「論理的アプリオリ性」を示す次第である。」86P
(対話H)「現相的世界の対象的分節態の所識には、以上で幾つか截り出した象面以外にまだ多くの次元がある。がしかし、それの追認と整序は後論の課題として残し、ここではとりあえず現相の第二肢たる「意味的所識」のイデアリテートならびに論理的アプリオリテートを確認したところで、一旦、議論の視軸を他に転じておきたいと念う。けだし、そのことが現相的分節態の二肢的両契機を立入って規定するためにも要件をなすからである。」86P
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(2)
第一篇 現相的世界の四肢構造
第一章 現相的分節態の現前と所知の二要因
第一節 現相的所知の二肢性
(この節の問題設定−長い標題)「現相世界の分節態(=フェノメノン)は、単層的(「アインファッハ」のルビ)な与件ではなく、その都度すでに射映的与件“より以上の或るもの” etwas Mehrとして二肢的二重相で覚識されてる。われわれはフェノメノンにおけるこれらの対象的=所知的な二つの契機を、「現相的所与」および「意味的所識」と呼ぶことにしたいのであるが、現相的分節態はその都度すでに「現相的所与」以上の「意味的所識」として二肢的二重性の構制において現前する。」39P
第一段落――現相的所与ならびに意味的所識とはそれぞれ如何なるものであるのか、また所与と所識との二肢的二重性とはいかなる関係態であるのか、その呈示する作業の困難性
39-42P
(この項の問題設定)「右の提題はわれわれの議論にとって基礎的な重要性を有つものであるが、現相的所与ならびに意味的所識とはそれぞれ如何なるものであるのか、また所与と所識との二肢的二重性とはいかなる関係態であるのか、これを呈示する作業は到底容易ではない。その困難は、人々の既成的日常観念がすでに或る種の物象化的錯視に陥っていて事柄の真相の直視を妨げるという事情もさることながら、現相の二契機性を説く諸々の既成理論が罪障となってわれわれの指摘しようとする契機と構制が誤てる既成理論と類同化して受け取られてしまいがちな事情に因る。われわれとしては、しかし、ここで常識的既成観念に対する予備的批判や既成的諸理説に対する主題的な批判の詳細な展開から始める手法は迂遠に過ぎることかと虞(「おそ」のルビ)れる。ここでは、それゆえ、便法を採り、既成観念と一定の接点を設けつつ、速断的誤解を排却するという仕方でまずは消極的にわれわれの見地を隈取っておき、旁々後論のための論材をその過程で登録するように努め、しかるべき局面で正面からの積極的な論定に転ずることにしたいと念う。」39-40P
(対話@)「惟えば、しかし、二肢的二重性の説明に先立ち一蹴しておくべき短慮の見があるかもしれない。それか所謂フェノメナリズム(phenomenalism 現象主義=現相主義)である。――フェノメナリズムの立場においては現相(「フェノメナ」のルビ)に幾つかの種類を認めるにしても、個々の現相は謂うなれば単層的な、単なる射映的知覚ないし射映的表象であるかのように思念している。われわれに言わせれば、尤も、フェノメナリスト達といえども事柄に迫られて現相を単なる射映的与件以上の或るものとして覚識しているはずであるが、彼らの立場的思念においてはそれぞれのフェノメノンは原基的には単層的射映的与件とみなされ、謂う所のフェノメノンがすでに二肢的な構造性を呈することが看過されている。われわれの見地からは、現相は、フェノメナリスト達の思念する“フェノメノン”以上の或るものである、と言うこともできよう。」40P
(小さなポイントの但し書き)「――尚、行論の便宜上、右では、知覚ないし表象上の“射映相”(Abschattung直接的な“見え姿”)がそのまま“現相的所与”であるかのような書き方をしたが、正しくは、分節化せる形象としてのAbschattungはすでに「所与−所識」成態なのであって、現相的“射映”と現相的「所与」とは同値ではない。この間の事情については、ここでの便宜的な言い方が或る種の脈絡では許されることの追認と併せて、後論が次第に闡(あき)らかにしていく予定である。」40P
(対話A)「偖(「さて」のルビ)、「現相」が二肢的契機から成ることは少なからぬ哲学者、心理学者たちが夙に指摘しているところであるが、嚮(「さき」のルビ)に漏らした通り、二肢とその関係の把握に関してわれわれは既成の諸説と見解を異にする。ここでは、しかし、直ちに論判に立入るのではなく、先決問題として現相の二肢的構制が汎通的であることの指摘にまずは努めねばならなるまい。」40P
(対話B)「現相世界の分節が“安定的に”既成化している日常的場面にあっては、現相が射映的与件以上の或るものとして現前していることは多少とも反省みれば容易に認められよう。人々は、例えば、遠方に蟻のように小さく見えるものを人物として視、書棚に並んでいる“面”を背表紙として、いや、奥行きのある本として視る。いましがた聞こえた音を鶯の囀(「さえず」のルビ)りとして聴き、障子をよぎった影を燕として視る。知覚の射映的与件を単なる射映相で覚知するためには却って反省的努力を要するのであって、日常的な直接的意識においては、フェノメノンはその都度に単なる射映相“以上の或るもの” etwas Mehr、射映相“以外の或るもの” etwas Anderesとして覚識される。」41P
(対話C)「ここにみられる二肢的関係性は、人々が記号に接したとき、それを単なるインクの斑痕(はんこん)とか単なる音とかとしてではなく、一定の意味的所識性において覚識するのと同趣の機制である。(因(「ちなみ」のルビ)みに言えば、これは単なる類比ではない。記号的与件がそれとは別の意味的所識において覚知されるのは、現相的与件が“それ以上の或るもの”“それ以外の或るもの”として意味的所知性において覚識されるという一般的構制の一特殊ケースなのであって、記号が記号として成立しうるのはフェノメノンの呈するこの一般的構制に俟つものにほかならない。尚、「として」という“能記−所記”的関係については姑(「しばら」のルビ)く後論を待って頂き度と念う。) ――フェノメノンは、その都度つねに「現相的与件」と「意味的所識」との、謂うなれば“能記−所記” (significant-signifié 意味するもの−意味されるもの)的な二肢的二重成態なのである。」41P
(対話D)「取り敢えず、知覚的世界の分節化が安定的に確立しているところでは、知覚的現相風景のパースペクティヴな構図や“物体”の立体視という事実に即して、現相が単なる射映的与件以上の或る相で覚知される「能記−所記」的構制を、異論の惧れなく指摘することができる。けだし、パースペクティヴ(遠近法的配景)は、単なる先細りの見えではなく、射映的には先細りの構図に見える与件が実際には(先細りではなく)しかじかであるとして射映相とは別の所識相で覚知されていることと相即し、また立体視は、射映的には面にしか見えない所与現相をそれ以上の立体相で覚識することにほかならない所以である。」41-2P
(対話E)「人々は、この故に、配景視や立体視が既成化している場面については、二肢的二重性の構制を汎く認めるであろう。」42P・・・46Pで「補訂」
(小さなポイントの但し書き)「――因みに配景視や立体視は、禽(「とり」のルビ)や獣(「けもの」のルビ)の知覚においてもすでに或る程度までは確立しているものと想われる。さもなければ肉食性の禽獣が遠方に獲物を見付けて追跡し、それを巧みに捕食することは到底不可能であろう。この点では草食性の禽獣にあっても大同小異の筈である。ゲッツ(W.Götz)の有名な実験がこのことを示唆する。彼はヒヨコが与えられた穀粒のうち大きい方選んで啄(「ついばむ」のルビ)むように学習させておいて、大きい方の穀粒を遠方(七五センチ)、小さい方を近く(一五センチ)において、どちらを先に啄むか実験してみたところ、ヒヨコはやはり遠方の大きい穀粒の方を啄んだ。視覚的射映では遠方の大粒は小さく見える筈であるが、配景的(「パースペクティヴ」のルビ)縮小にもかかわらず、ヒヨコはそれを実は大きい粒として認知した次第なのである。」42P
(対話F)「だが、配景視や立体視の既成的に確立している場面というのは、所詮は特殊的な象面にすぎないのではないか? 現相世界の原初的な体験相にあっては、射映相と所識相との二肢的二重性は存立しないのではないか? これは大いにありうべき疑義であろう。そして現に、或る種の論者たちは、配景視や立体視はおろか、そもそも知覚的分節態の成立に先立って、発生的にも構造的にも、“要素的な感覚”がまずは単層的には直截に覚知される旨を主張する。われわれとしては、それゆえ、「現相的与件」が「意味的所識」として覚知されるという二肢的二重性の汎通性を論定するためには、最もブリミティヴと念われる場面にまで溯って討究する必要がある。」42P
第二段落――議論の焦点を絞る−三つの論点の提起 42-57P
(この項の問題設定)「討究の順序として、まずは幾つか(三つ)の側鎖を配視しつつ視界を拡充したうえで、議論の焦点を絞って行くことにしよう。」42P
(第一)「第一に、これは極簡単に片付けたいのだが、いわゆる感性的知覚は一定の“感情価”を伴っており、この意味において、単なる感覚以上の或る意識態である。このことは嬰児期の原初的な感性的知覚にも妥当すると想われる。現与の明るさ(暗さ)の感覚、暖かさ(寒さ。冷たさ)の感覚、圧覚、音の感覚、色の感覚は、快感・不快感、恐怖感・安堵感などの一定の質と度合いの感情価を伴って覚識される。大きな音の感覚は恐怖感を伴い、明るすぎる光の感覚や暑さの感覚は不快感を伴う。随伴する感情が殊更に意識されない場合もあるが、それは感情価が全くの零の謂いではあるまい。感覚は必ず一体の感情価値を伴うと謂って大過なさそうである。」43P
(対話@)「誤解のないように願いたいのだが、われわれとしては、しかし、感覚に随伴する感情を以って直ちに当該感覚の意味的所識だと強弁するつもりはない。如実に存在するのは、一般に、いわゆる感覚といわゆる感情とが渾然一体となった意識態なのであって、人がこの全一体から敢て“感覚”なるものを抽離するかぎりで、慥(「たし」のルビ)かに現実の意識態は“感覚以上の或るもの”に違いないにしても、それはもっぱら抽離された“感覚”の過小性の表白たるにすぎない。それゆえ、“感覚”とそれの“随伴する感情”とを“能記−所記”とみなすがごときは論外である。」43P
(対話A)「こうして、われわれは決して“感覚”ないし“表象”とそれに“随伴する感情”とやらを持ち出して現相の二肢的二重性を主張しようと試みる者ではない。――この際、但し、次のことは銘記しておかねばならない。それは、謂う所の“感覚” (剴切(「がいせつ」のルビ)には“感情”との渾一的意識態)とは“別”の“感情的志向的対象性”が覚識される場合があること、そしてこの場合には、当の“感情的志向的対象性”はわれわれの謂う広義の「意味的所識」に属する、ということである。このケースにおける“感覚”を能記的与件とする所記たる“感情的志向的対象性”は、良・不良、美・醜、善・悪等々、われわれが後に「価値的有意義性」と呼ぶものの一斑をなすものであって、極めて重要な意味的所識である。とはいえ、当面「認識的世界の存在構造」に主題を絞っている茲(「ここ」のルビ) (本巻)では姑く括弧に納めておきたい。」43P
(第二)「第二に、これまた一応の論及に止めたいのだが、いわゆる感性的知覚は一定の“行動価”を伴っており、この意味において、単なる感覚以上の或るものと言える。このことは嬰児期の原初的な感性的知覚にも妥当する。初生児が唇に感じる乳首の感触感は吸啜(きゅうてつ)反射運動を解発(「アウスレーゼン」のルビ)し、視感覚は眼球調整運動を解発するといった反射運動の次元に始まり、一般に、感覚は「感覚運動シェマ」を解発すると言われる。なるほど特段の外部的運動を認めがたいケースもあるにせよ、感覚とはそもそも「感覚運動態勢」の内化された一契機であるとも見做しうる。感覚運動体系たる生体の機能に鑑みるとき、感覚は必ず一定の“行動価”を有っていると言えよう。」44P
(対話@)「われわれとしては、しかし、先の“感情価”の場合と同様、“感覚”の有つ“行動価”と同様、“感覚”の“行動価”を以って直ちに「意味的所識」と主張する者ではない。視角を変えて言い換えれば、われわれは“行動価”なるものを持出すことで感覚的(ひいてはまた表象的)現相の汎通的な二肢性を云々しようと企てる者ではない。――このことを銘記したうえで、しかし、われわれはこのさい感性的知覚現相における「実践的有意義性」や感性的知覚が即自的に有ち得る「信号(「シグナル」のルビ)」的機制の問題に多少ともふれておきたいと念う。」44P
(対話A)「感性的知覚と相即的に一定のパターン化された行動が“反射的”に生ずることがしばしば体験される。行動そのものは無意思的unwillkürlich無意図的unabsichtlichであっても、当の“行動様式”や“行動目的”は自覚的に覚識されている場合も尠(「すくな」のルビ)くない。このような場合、当事主体の意識に即しても、所与の感性的知覚現相が「信号」なって、所定の様式での目的行動を“指令”する、という構制になっていると言うことが許されよう。そして、常識的な議論としては、“指令されている行動”を信号能記に対応する“所記的意味”とみなし、それを「意味的所識」の一斑に数えることができる。現相が信号的機能を明瞭に発揮するのは所詮特定の場合であり、これを汎通的な構制と唱する心算はないが、「信号」というタイプの「能記−所記」的二肢構造が現に在ることは看過できない。」44P
(小さなポイントの但し書き)「――尚、対象の具有する性格の相貌で覚識される用在性(ハイデッガーの謂うZuhandenheit)は、信号的機能と緊合する「実践的有意義性」が物性化されたものにほかならず、翻って言えば、信号に“指令された所記的行動”とその志向的対象は実践的有意義性という「意味的所識性」を有つ。この件については本書の第二巻に譲り、ここでは右の断定に止めておく。――」45P
(対話B)「ところで、嚮に、常識的な議論としてはと但し書きのもとに、所与の感性的知覚を能記的信号、それの“指令”する行動を所記的意味と誌したのであるが、厳密に言えば、レアールな行動がそのまま所記的意味なのではない。行動を“指令”する知覚的与件という相で覚識される一方の対象的知覚と他方の行動とは、実際には統一的な「感覚−運動」シェマの両つの契機が対自的に現成したものであって、存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断さるべきものではない。上述の「感覚−感情」渾一態において、“感覚”を抽離するかぎりで、全態は当然“感覚以上のもの”とされるのと同様、ここでも、対象的知覚契機を抽離するかぎりで、全態は当然“信号的感覚より以上の或るもの”なのであるが、「信号」と「行動」とがわれわれの言おうとする二肢的二重性の構制にあるわけではない。われわれとしては、「感覚−感情」渾一体という現相的所与に対する「価値的有意義性」という意味的所識を立てるのと同様、原理的な次元においては、「知覚−行動」全一態というレアールな現相的与件に対する「実践的有意義性」というイデアールな意味的所識を立てる次第なのである。がしかし、「認識論的世界の存在構造」を主題とする茲では、この件に立入ることは姑く差控えねばならない。」45P
(第三)「これは稍々立入った論及を要する事態なのであるが、知覚や表象の現相は“補完”“融合”“連合”等と呼ばれる機制によって直接的な“与件感覚”ないし“与件的表象”以上の意識態を呈する。――われわれは、この“以上”“以外”としての“認識的覚識”について幾つか(4つ)の類型に分けて検討しておこう。」45P
((1))「(1)「直接的補完」とでも呼ばれるケースが存在する。例えば、円周の一部が書けているC字型を一瞬だけスクリーンに映すと、人はそれを閉じた円形に見てしまう。或いはまた、適当に離れた二光点ABがあって、まずAを点灯し、それを消灯すると同時にBを点灯すると、人はAからBに光点が直接運動をしたかのように“仮現運動”を見る。このような場合、人々は“直接的な感覚的与件”以上の或るものを見たという言い方をする。ここには一応“感覚的所与”を“それ以上の或るもの”として覚識するという構制が存立しているとも言える。この機制は、日常的な知覚の場面でも、例えば、網膜には「盲斑」があるにもかかわらず知覚的視野では補完されている(盲斑に対応する個所に別段空隙が見られない)こととか、天井の隅など射映的には直角でないにもかかわらず、ほぼ直角に知覚されてしまうこととか、普段に働いている。しかしながら、われわれはこの「直接的補完」の事態について、原理的な次元では、それを以って直ちに「所与」がそれ以上の「所識」として二肢的二重性の構制で覚識されている旨を主張するつもりはない。いわゆる錯覚が一斑にそうである通り、それが当の相で知覚されているかぎり、射映相と現識相との二肢的区別は現存しない。敢て、“現与の射映的感覚”なるものを現識相と別に想定するのは、刺戟と一対一的に対応する感覚が存在する筈だと思念する悪しき「恒常仮説」に基づくものであって、心理学的事実に合わない臆説として卻(「しりぞけ」のルビ)けられる。」45-6P
(対話@)「では、反省的に、射映相と現識相とが二肢的に区別されるような場合はどうか? われわれは、便宜的な立論の場面では“射映相”と“現識相”とが区別されて意識されている場合には、「所与−所識」の二肢的構制を云々し、恰かも射映相が所与で現識相が所識であるかのような言い方をする。がしかし、原理的な立論の場面では、われわれはこの言い方を卻ける。(先に、導入的な議論の便法として、配景視や立体視に即して「現相的所与」と「意味的所識」との「能記−所記」的二肢的構制を云々しておいて立論は、原理的には補訂を要する。)」46P・・・先に「補訂」が要するのは42Pの文
(対話A――前センテンスの( )内の文を承けて)「何故か? 射映相と現識相とが対比的に知覚されているという場合、すなわち、射映相と現識相とが同一の知覚野において対比的に区別して覚識されているという場合、そこにおける態勢は、喩(「たと」のルビ)えて言えば、ルビンの杯と呼ばれる「単なる白黒図形の知覚相」と「向き合った横顔の知覚相」とが、対照的に覚識されている態勢と同趣であろう。ところで、「単なる白黒図形そのものとしての知覚相」というが、この知覚相は「高杯形としての知覚相」や「向き合った横顔としての知覚相」と並ぶもうひとつの所知的現識相にほかならない。なるほど、「……と並ぶもうひとつの現識相」と言ってもそれは後二者と全く同位同格的というわけではない。がしかし、それは決して“裸の所与”ではなくして、ともあれ一つの所知的現識相にほかならないのである。視覚を変えて謂わば裏返しに次のように言うこともできる。現に見えている「横顔相」ないし「高杯相」もそれがレアールな一知覚であるかぎり一つの射映相で見えているのであって、それとは対比的に知覚される「白黒図形相」もこれまた一つの射映相であることに徴すれば、対比的に覚識されているのは射映相どうしである。こうして、人々が“射映相”と“現識相”との対比的知覚と思念している態勢は、分析してみれば、決して「射映相」と「現識相」との対比的知覚ではなくして、一つの現識相と別の現識相との対比的区別たるにすぎない。それゆえ、ここにあっては、なるほど“二重性の覚識”は存立するにしても、しかし、それは所与的「射映相」と所識的「現識相」との二肢的二重性の構制とは言えないのである。」46-7P
(対話B)「附言しておけば、われわれの謂う「現相的所与」と「意味的所識」との二肢的二重性の構制は、原理的な次元においては、人々の思念する“射映相”(右の例で言えば“単なる白黒図形そのものとしての知覚相”)それ自身の内在的構造として存立するのである。そしてまた、人々の思念する「現識相」(例えば“向き合った横顔としての知覚相”)と“射映相”との区別が相対的なものにすぎず、レアールな“現識相”はそれ自身一つの“射映相”にほかならないかぎり、謂う所の「現識相」それ自体が「所与−所識」成態なのである。」47P
(小さなポイントの但し書き)「――この間の事情もならびに、便宜的な立論の場面においてはそれにもかかわらず謂う所の“射映相”と“現識相”とを「所与」と「所識」に擬することが許される事情については、われわれの謂う「所与」および「所識」の何たるかを後論が明示して行くことを通じて軈(「やが」のルビ)て闡明されるであろう。」48P
((2))「(2)「融合的同化」とでも呼ばれ得る事態。人々は、例えば、暗闇で摑んだ物の形状を単なる触覚性の性状においてではなく、謂うなれば視覚的形態性において直覚的に覚知したり、向こうの岩をザラザラ・ゴツゴツという触覚性の感じを混えた相で見たりする。(ここでは連想的ないし推理的な意識的過程が自覚されるような場合ではなく、直覚的に融合象が知覚される場合、つまり、心理学に所謂「異種の感覚様相(sensory modality)」のcross-modal matchingが生じている場合が論材である。)」48P
(対話@) 「稍々拡張して言えば、目のまえの花において(自分の鼻の場所においてではなく)香りを嗅ぎ、枕元の目覚時計(自分の耳の場所においてではなく、あの時計の場所において)音を聴く。直覚的にはこのような相で“融合的”知覚がおこなわれる。視感覚と蝕感覚・嗅感覚・聴感覚とはおよそ異質であり、そこには何ら共通・同一の成分は存在しないにもかかわらず、人々は視覚対象と蝕覚・嗅覚・聴覚の対象とを一個同一の対象として覚知する。聴覚には方向の弁別性はあっても距離判定力(従って場所判定力)はなく、嗅覚には主体が静止しているかぎり距離・場所はおろか方向の判定力はない。対象と主体が離れているかぎり、触覚には対象感受力はないはずである。それにもかかわらず、聴覚・嗅覚はその対象を視空間における特定場所に感知し、触覚は離在的な視空間の対象を“感受”する。これは否みがたい“体験的事実”である。人々はこの“体験的事実”に定位して、“視知覚的対象現相”は単なる視感覚より以上の或るものであると言い、また、聴覚的・嗅覚的な対象(同定的)知覚は単なる聴感覚・嗅感覚より以上の或るものであると言う。われわれとしてもここで指摘されている“事実”は追認しうるし、異種の感覚による一個同一の対象措定という一見不可能とも思える事態を説明するさいにここで謂う“より以上”という構制を勘案する必要もある。とはいえ、われわれはここに謂う“所与感覚以上の或るもの”という構制に定位してかの二肢的二重性を立論するものではない。けだし、現前する対象的現相が融合的全一態をなしているかぎり、嚮に「感覚−感情」渾一態に関して論定したところと同趣の構制になっているからである。」48-9P
(対話A)「では、融合態が謂うなれば“錯図”的に分節化して、視覚的現相と聴・嗅・触覚的現相とが分立的に覚識されつつ、しかも一個同一の対象と志向的に関係づけられている意識態にあってはどうか? 当初は融合的の相で直覚的に現出したにせよ、反省以前的にいちはやく、触覚的形状性と視覚的形態性とが分立的に覚識されるようになったり、時計の視覚的現相と音源的現相、花の視覚的形相と香源的現相が分立的に覚識されつつ、しかも一個同一の対象と志向的に関係づけられているような意識態勢が成立したりする場合が慥かにある。しかしながら、ここにあっては、視覚的現相が“射映相”で聴・嗅覚相が“現認相”というわけではない。双方ともそれぞれ「射映−現認」相でありつつ、それらが一個同一の対象的な或るものと志向的に関係づけられているのである。ここには、なるほど、分立的な二単位が認められるとしても、これら二単位の一方が所与で他方が所識というわけではなく、両単位それぞれがわれわれの謂う「所与−所識」成態をなすのである。――このことを積極的に説明しえんがためにも、別の類型を事前に配視しておくのが順路であろう。」49P
((3))「(3)「補完的拡充」とでも呼ばれるケース。例えば、犬小屋から突き出ている尻尾を見たり、垣根ごしに覗いている人頭を見たりするとき、われわれはそれを単なる頭として覚知することなく、あくまで犬の尻尾や人の頭として覚知する。また、割れた茶碗や首の折れた人形を見るとき、茶碗の片割や人形の本体(「からだ」のルビ)として覚知する。融知する場合にもやはり同様であろう。われわれは、また熟知している歌の第一小節を聴いただけで、それをあの歌の出だしとして聴き取る。ここには、現に与えられている知覚的与件を或る全体の部分として覚知する構制が存立しており、部分的な与件相を全体的な補完相で覚識するという構制が指摘されうる。このかぎりにおいて、われわれはここで、図式的には“与件以上の所知相での覚知”を云々することもできよう。結論を予示して言えば、しかし、これはわれわれの言おうとする「所与−所識」の二肢的二重性とは次元を異にする。」49-50P
(対話@)「ここに謂う「補完的拡充」は、先の「直接的補完」や「融合的同化」と連続的・同趣的であるとも言えるが、ここには或る新規な契機が登場している。直接的な補完にあっては、補完的全体相が知覚(或る趣の論者たちに言わせれば“錯覚”)され、融合的同化にあっても融合的全体相がまずは知覚される。“現与相”と“現認相”とが区別して意識される場合が生ずるにせよ、直接的補完や融合的同化とわれわれの呼ぶものの埓内では、それはあくまで対比的知覚や分立的知覚であって、そこには知覚と表象との対自的な区別はまだみられない。それに対して、補完的拡充にあっては、これがいかに直接的補完や融合と連続的であり、ここでもまた全体相が直覚的に覚識されるにせよ、知覚的に現認されるのは所与の“部分”相であり、全体相の補完部はさしあたり表象である。なるほど、この表象部は知覚部と緊合して一つの全体像を形成してはいるが、知覚部とは区別して覚識される。――全体像が知覚部と表象部とへ錯分化する事態は、融合的同化を前梯としつつ、例えば、香りを嗅いだだけで花の視覚表象が泛(「う」のルビ)かび、音を聴いただけで視覚表象が泛かぶとか、時計を見ただけで音の聴覚表象が泛かび。壁を見ただけで肌触りの触覚表象が泛かぶとか、このたぐいの補完的拡充の相でも体験される。」50P
(対話A)「或る種の論者たちは、補完的拡充の事態にみられる現与の知覚と補完的全体像とのあいだに「能記−所記」の関係をみようとする。また、直接的補完が感官生理学的に“生得的”な機制であり、補完的同化が感官生理学的な“協応”の所産であるのに対して、補完的拡充は“全体相”の知覚的体験を前件とする記憶に俟つものであることに鑑み、彼らはここに固有の精神的能作をみようとする。――われわれとしても、補完的拡充の機制が“全体相の知覚的体験”を前階梯とする記憶に俟つものであることまでは認める。また、補完的拡充における現与の知覚と補完的全体像(ないし“補完部”)との関係を常識的な立論の場面でならば一種の「能記−所記」関係とみなすことをも許容する。現に「記号」なるものが成立する発生論的な過程においては補完的拡充の機序が媒介的な役割を果たすものと考えられる。――しかしながら、補完的拡充が記憶的ないし想像的に泛かぶ表象像の現識という仕方で現成するとすれば、そのさい想起の意識や想像の意識を伴うことなく直覚的に補完像が現出するとしても、知覚的与件像と表象的補完像との二因子的統一態はわれわれが原理的に立論しようとする「所与−所識」の二肢的統一態ではない。謂う所の“知覚的与件像”ならびに“表象的補完像”のそれぞれが、原理的にはすでに、われわれの指摘しようとする「所与−所識」成態なのである。このうち、“知覚的与件像”については、上来の行文からして群言を要せぬであろう通り、それは単なる射映相ではなくすでに“射映相以上の或る所識相”として現前する。“表象的補完像”についても、これまた、それが一つの表象的対象像であるかぎり、一定の射映相で現前しつつ、しかも単なる“その射映相”以上の“或るもの”として覚識されており、すでに「所与−所識」の二肢的成態をなす。」50-1P
(対話B)「では、次の如きは如何? それは、例えば、現に犬小屋から突き出て見える尻尾を単なる知覚的与件部分以上の<犬>の尻尾として覚識したり、聴こえ始めたメロディーを<黒田節>の一小節として覚識したりしてはいるのだが、別段、犬の全体像がありありと表象的に泛かびはせず、黒田節の全曲が音韻(音声表象)的に泛かびはしない場合である。ここでは表象像による充実的な補全は現出していない。が、それにもかかわらず、知覚的与件は“単なる尻尾”とか“単なる小節”とかの相で覚識されるのではなく、厳に“それ以上の”或る全体相の部分として覚識されているのであって、そのかぎり、何らかの仕方で、全体たる<犬>や<黒田節>が覚知されている筈である。――その証拠に、犬小屋からノソリと這い出た全体が狸であるのを目撃したとすると、“違った!”(つまり“犬でなかった!”)という覚識が生じ、先のメロディーに全然別の音曲が続いたり調子外れすぎた音声が続いたりすると、“違う!”(“黒田節でない!”)という覚識が生じる。この“相違感”は自然に<犬>や<黒田節>が(単なる尻尾や小節だけでなく)何らかの仕方で覚識されていた証左だと言えよう。尤も、或る種の論者たちは、この場合「表象的全体像が明晰なかたちで泛かばないだけで、実際には全体像の表象が泛かんでいる筈だ」と主張する。彼らによれば、当の「全体像の表象」が泛かんでいるからこそ相違・錯誤に気付くことができるのであり、また「予測通りだったとき、充当感が懐かれ得るのである」とされる。われわれとしても、不明瞭な表象的全体像を伴う場合が絶無だとは言わない。がしかし、“全体的表象像”なるものがおよそ泛かぶことなく、それでいて<犬の尻尾><黒田節の一節>として端的に覚識される場合が現実にあることをわれわれは積極的に容認する。彼ら一部論者たちが「全体像の表象が泛かんでいるからこそ……」と主張するのは、「意識するとは即ち心像を現前的に泛かべることだ」という彼らのドグマにもとづく要請的一仮定たるにすぎず、現前的事実ではない。われわれは、没表象的に(=表象というかたちで思い泛かべられることなく)全体相たる、<犬>や<黒田節>が覚識されるという現前的事実を追認する。」51-2P
(対話C)「このような没表象的な全体相覚識の場合をも「補完的拡充」の一斑とみなすか、それとも全体像が表象的に泛かぶ場合に限って、「補完的拡充」と呼ぶか、これは定義・分類に委ねられているが、われわれとしては表象的補完と没表象的補完とを補完的拡充の両つの亜種として扱うことにしよう。茲で翻って惟うに、所与の知覚的現相が補完的に拡充されるさい、没表象的補完のほうが却って普通であることに気がつく。ところで、以上の立論範囲では、補完ということが謂うなれば、“空間的”“容量的”な“部分−全体”関係に即して云々されているが、謂わば“時間的”“変容的”な相だのディスポジショナルな補完をも算入することができる。例えば、這っている虫、羽化しつつある蛹、溶解しつつある氷片などは、単なる現与の知覚相において覚知されるに止まることなく、移動・変様・生滅の変化相で覚知される。(ここでは、反省的意識における推測とか想像とかは暫く論外とし、変化的推移の予期相、この“時間的ゲシュタルト”の“全体相”が直覚的に覚識される場合が論件である。) ――このたぐいのディスポジショナルな補完には、将来的“全体像”が表象的に泛かぶ表象的補完のケースもあるが、一般には、予期相が表象的に泛かぶわけでなく、主として没表象的な補完的拡充が属する。」52-3P
(対話D)「偖、爰(「ここ」のルビ)にみるごとき没表象的な補完的拡充においては、所与の知覚現相が、それ以上の或る補全的全体相や伸長的予期相で覚識されつつも、全貌が表象というかたちで泛かぶわけではないのであるから、ここにあっては、「知覚的所与現相−それ以上の或る補完的拡充相」という二肢的二重性における「所識」は固(「もと」のルビ)より射映的な一現相ではない。ここにおける「補完的拡充相」という「所識」的契機は「知覚的所与現相」という“能記”に対して“所記”の関係に立ちつつ、それ自身として表象像ではなく、況んや知覚像でもない。それでは端的に無(「ニヒツ」のルビ)なのかと言えば、決してそうではない筈である。けだし、その証拠に、“予期外れ”の場合には錯誤感・相違感が生じ、“予期通り”の場合には適中感・相等感が生じるのであって、そのさい「所識」たる「補完的拡充相」が判別的覚識の規矩をなしている所以である。――没表象的補完における「知覚的所与現相−補完的拡充相」という二肢的二重性はわれわれの主張する「所与−所識」二肢性の一斑にほかならない。このことは茲に銘記しておきたい。だが、これはわれわれの言おうとする「所与−所識」二肢成態の原基的形態ではない。そのことは、謂う所の「知覚的所与現相」という(ここでの脈絡において“所与”の位置に立つ)契機が、上述の通り、それ自身すでに「所与−所識」成態(=単なる射映的与件以上の或るもの)であることに鑑みれば、容易に諒解されよう。」53P
(対話E)「ところで、われわれがいま「所与−所識」の二肢関係として認めた没表象的補完における「所識」の契機、すなわち「補完的拡充相」なるものが――それ自身としては知覚でも表象でもないこの契機が――一体いかにして、“端的な無”ならざる「積極的な或るもの」たりうるのか。ありうべきこの疑義に答えて行く前に、もう一つの案件((4)「標徴の連合」)に予かじめ触れておくのが好便である。」53-4P
((4))「(4)「標徴の連合」とでも呼ばるべきケースをここでみておきたい。例えば、雪の上の軌跡を見て自転車を覚識したり、遠吠えを聴いて犬を覚識したり、元与の知覚的与件を機縁にして一定の対象的所知を連合的に覚識覚識する場合がそれである。これには、表象が泛かぶ場合と没表象的な場合がある。」54P
(対話@)「連合的に表象が泛かぶ場合から問題にしていこう。標徴的連合は、表象が泛かぶ場合、知覚的与件が表象によって“補充”されるという点では、表象的な補完的拡充とも相通ずるが、両者は様態を異にする。先にみた「補完的拡充」にあっては“全体相”が謂うなれば所与的知覚を空間・時間的に“内含”する様態で、すなわち“補完部”が知覚的部分に“接合”する様態で覚識されるのに対して、今問題の「標徴的連合」にあっては“連想”される対象が現与の知覚形象から謂うなれば空間的に離在的(非接合的)な相で覚識される。少なくともこの点において両者は相異なる。――さて、標徴的知覚与件を機縁にして連想される所知的対象が明瞭な表象像のかたちで泛かぶ場合、例えば、雪上の軌跡を機縁にして隣家所有のあの自転車が常日頃軒下に乗り捨てられている相といった特定の図像で泛かぶような場合が慥かにある。このような場合における特定の図像での表象像そのものが“標徴的知覚現相を能記的所与とする所記としての意味的所識”なのかといえば、勿論そうでない。が、ここでは、特定の図柄での表象像が単にそのものとして泛かんでいるのではなく、<あの自転車>という個体的対象が覚識されているということが留目に値する。連想的に現に泛かんでいる表象像は特定の図柄であるとしても、それは<あの自転車>という個体的対象が覚識されているということが留目に値する。連想的に現に泛かんでいる表象像は特定の図柄であるとしても、それは<あの自転車>の一つの射映的な姿なのであり、この図像は<あの自転車>という個体的対象の射映的形象の“一範例”とでもいうべきものにすぎない。連想的に泛かんでいる射映的な図像はたかだか一つの範例的な現われ方にすぎないことが覚識されている。ここにおいては、範例的な射映的表象像という所与と<あの自転車>という単なる射映的表象与件以上の個体的対象とのあいだに、われわれの謂う「現相的与件−意味的所識」の二肢的二重性が存立していることが認められる。」54-5P
(小さなポイントの但し書き)「(但し、急いで附言しておけば、われわれの謂う「意味的所識」とは決して直ちに“対象的実在”とやらの謂いではない。因みに、ここではまだ<あの自転車> という“個体的対象”なるものの存在性格をわれわれは何ら規定していない。それが普通には“物理的実在”とみなされがちなことは慥かであるにせよ、“物理的実在”なるものはすでにして或る種の意味形象の物象化に俟つものかもしれず、従ってわれわれは「意味的所識」を安直に“対象的実在”とみなしてしまう知見に与するわけにはいかない次第なのである 。)」55P
(対話A)「ところで、知覚的与件を機縁にして、例えば自転車という表象像が連想的に泛かぶ場合、それがあの自転車という特定の個体相でいつも固定されているとは限らない。連想的に泛かんでいる表象が特定の個体的対象の覚識を伴わない場合もある。そこでは、現に泛かんでいる自転車の表象は(特定の個体的対象の範例的一射映相ではなく) <自転車>という“種族”の範例とでも呼ぶべきものにすぎない。このさい、勿論、“種族”なるものそのものが覚知されるのではなく、当該“種族”の“或る(不定的)個体”が覚識されるのではあるが、特個的な個体的同定がおこなわれないという意味において、ここでの連想的所識は“種的”であると言えよう。ここにおいては、範例的な表象像という所与と<自転車>という現与の表象以上の種族的存在とのあいだに、われわれの謂う「現相的与件−意味的所識」の二肢的二重性が存立していることを認めうる。」55P
(小さなポイントの但し書き)「(但し、われわれの謂う「意味的所識」とは決して直ちに“種族的存在”とやらの謂いではない。因みに、しかし、種属的存在などという“普遍者”は端的に存在しえないという唯名論的な立場をわれわれが執るか、それとも、種族的=本質的な普遍者が存在するという実念論を或る限定つきで容認するか、この点の立場表明は姑く無記のままである)。」55-6P
(対話B)「しかしながら、遡っていえば、連合が所詮は連合たるにすぎないかぎり、例えば、月を見てスッポンを連想するといった場合をも含みうるのであって、標表的知覚与件と連想的所知との関係は、そのこと自体としては「能記−所記」関係ではないし、従ってまた、それが直ちに「現相的所与−意味的所識」の二肢的二重関係であるわけでもない。「標徴的連合」は、決してそのままで、われわれの謂う二肢的二重性の構制を成すものではない次第である。」56P
(対話C)「「標徴的連合」の機制は、しかし、言語という「能記−所記」成態の成立、「記号的所与−意味的所識」の二肢的二重態の形成にとって重要な機能を演じることは確かであるし、とりわけ、没表象的に現成する部類の標徴的連合には特筆すべきものがある。――没表象的な連合=連想という言い方は没概念に響くかとも惧れるが、事柄に即するかぎり、標徴的知覚与件を機縁にして或る対象的所知が確かに覚識されておりながら当該所知の表象像がおよそ泛かばない場合が体験される。これは、あの範例的な表象像の泛かんでいた体験的事態が反復再現しているうちに、所詮は範例的服表象にすぎない表象像がもはや殊更に意識の表層に上らなくなったものであろうか。これの存立機制が仮令(「たとい」のルビ)そうであるにせよ、ともかく、没表象的な標徴的連合にあっては、事の原理上、実際問題として、範例的な表象的所与が意味的所識として覚識されるわけではない。ここでもし、「能記−所記」的な「所与−所識」関係が厳存するとすれば、それは標徴的に知覚的与件現相と“個体的対象”ないし“種族的対境”(先の例で言えば<あの自転車>という個体的対象ないし<自転車>という種族的対境、少なくとも<或る不定的な自転車>という非特個的な種族成員)とのあいだに成立していると言わねばなるまい。われわれは、実際、この種のケースが現に体験されるように思う。そのかぎりで、没表象的に現成する標徴的連合のうちには、後述する「として」という二肢関係が見出されるものの場合という限定つきで(つまり、単なる連想としての連想のごとき場合は除外して)、われわれは標徴的知覚所与と“連合”的に覚識される或る所知とのあいだに「能記−所記」の関係、「所与−所識」の二肢的二重性の関係を認知する所以となる。尤も、範例的な図像的表象こそ泛かばないにしても、このたぐいのケースにあっては、「ジテンシャ」といった言語的音韻表象が内語的に泛かぶ場合が少なくないであろう。その場合には、現与の知覚的与件と内語的音韻形象とが表象的に標徴的連合(時によっては補完的拡充)を現成し、当の内語的音韻表象とその意味的所識とか「能記−所記」的な「所与−所識」二重性を呈すると言わねばなるまい。が、このさいには、謂う所の標徴的知覚与件なるものが、上述した「ルビンの杯」と同趣的な次元において、すでに「現相的所与−意味的所識」成態を成しているのであって、われわれの謂う二肢的二重性の構制は原基的にはいわゆる“知覚的分節”そのことの場面に遡って論決しなければならない道理なのである。」56-7P
第三段落――次節へのつなぎ−「現相的所与」とは如何なるものか
(この項の問題設定)「われわれは、以上、「現相的所与」と「意味的所識」との謂うなれば「能記−所記」的な二肢的二重性が汎通的な構制であることの確説を課題としつつも、正面からこれを積極的に論定する流儀においてではなく、ありうべき“速断的理解”の幾つかを防遏(「ぼうあつ」のルビ)しつつ旁々後論のための論材を登録する手法で、前梯的な議論を重ねてきた。以上の行論では、しかも、実を言えば、最も危惧される“速断的理解”を主題的に排却するには至っていないのである。この欠を埋めつつ、われわれの謂う二肢的二重相の汎通性を積極的に指摘するためにも、今や視角を稍々転じて、そもそも「現相的所与」とはいかなるものの謂いであるのか(ありうべき速断的誤解の排却を意識して言えば、それが何でないか)、これの説述に移るべき段取りである。」57P
(対話@)「「所与−所識」二肢的二重性の汎通性を確言するわれわれの構図をここで表明しておけば、以上の行論から既に察知されるであろう通り、われわれとしては現相の「分節化的現相」(心理学者流に言えば「図」の「地」からの顕出)そのことがすでにして二肢的二重性の構制になっている旨を主張する。現相(「フェノメノン」のルビ)が現相(「フェノメノン」のルビ)として現前するのは、いわゆる“意識野”の分節化、“地”(「地」以前的な“地”)を“背景”にしての“図”の顕出を必然的・汎通的な条件としてのことである以上、現相の分節化的現前そのことが「所与−所識」の二肢的二重性の構制になっていることを論定しうれば、われわれの提題はおのずと確説される筈である。――勿論、現相の分節化的現前そのこと(「図」の顕出そのこと)の場面における二肢的二重性は、原基的であり、且つ汎通的ではあるが、われわれの謂う「所与−所識」二重性はこの次元だけに限られるものではない。行文からすでに明らかな通り、われわれはこの次元での原基的な二肢的二重態の“上”に、当の基底的な二肢成態を「所与」の位置に置く高次の「所与−所識」二重成態が累層的・多階的に成立することを指摘する。」57-8P
第二節 所知の第一肢的与件
(この節の問題設定−長い標題)「現相の第一肢たる「所与」と言っても、それは自己完結的に独立自存する自足的なものではなくして、あくまで、「所与−所識」関係の「項」なのであり、それが「単なるそれ以上の意味的所識として覚識される」という関係規定性においてのみ「所与」なのである。この第一肢的所与を自存する存在体の如くに扱うとき、窮極的には、それはただ或る規定可能なもの(etwas Besttimmbares)としか言えず、それ自体としては第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)的な“無”(𝑜ύ𝛿έ𝜈,nichts)と言わざるを得ない。但し、「所与」は「所識」との相関的規定項であるというまさにその存在規定からして、それ自身すでに、より基底的な次元に即しての「所与−所識」成体であることを妨げられない。換言すれば、或る次元での「所与−所識」成体が高次の所識に対して「所与」の位置に立つことがあり得る。」58P・・・錯分子構造、函数内函数
第一段落――“単純感覚”とか“単純感情”とかいう“窮極的な要素的与件”なるものは存在しない 59-63P
(この項の問題設定)「現相における直接的な与件と言えば、論者たちはとかく“単純感覚”とか“感覚与件(「センス・データ」のルビ)”とかいった“窮極的な要素的与件”(これが「心理的存在」とみなされるにせよ、それ自身としては「主観的でも客観的でもない」「中性的な与件」とみなされるにせよ)を想定したがる。がしかし、今日における心理学の知見を援用するまでもなく、“単純感覚”とか“単純感情”とかいう“窮極的な要素的与件”なるものは存在しない。」59P
(小さなポイントの但し書き)「念のため、メッツガーの剴切な立論を引いておこう。「物を知覚する際の我々の感官の本来の使命は、今日まで数百年にわたり哲学者や心理学者によって説かれたような、多数の小さな“個々の感覚”を結合して包括的な全体をつくるということにあるのではなく、感覚場の本来の統一を破って、そこに境界を引き、そこから形を持った部分形象を分凝させることにある。前者の説く“個々の感覚”のようなものは、この世のいかなるところにも存在したことがなく、ことに知覚の未発達な段階においてはその片影さえも認められない。それは純粋に思考の産物にすぎず、人々が物を見る際、知覚の場に生じる自然的部分を、形態法則への顧慮なしに窮局まで押し進めて考えた結果到達したものである。……一般に知覚は“連合”すなわち“結合”や“連結”……最も簡単な部分の“寄せ集め”によって生ずるのではない。しかしながら、科学を長いあいだ心的要素(すなわち感覚)の探索という不毛な仕事に迷い込ませていたこの由々しい誤謬は、自然科学的手続を非自然科学的な領域へと不当な形で持ち込んだために生じたものではなく、逆に、その発生の地は哲学者の机上にあったのである。のちに、自然科学的な手続を用いて決定実験がおこなわれ、はじめてその根拠のないことが明らかになったが、このような誤りをひき起こすもとになった模型は、つねに、針金と結び紐、釘とネジ回し、漆喰(「しっくい」のルビ)と膠(「にかわ」のルビ)と糊とで組み立てられる人間の構築物であった。したがって少し以前まで、こうした誤謬が心理学におけるとまったく同様、精神科学の領域にはびこっていたとしても、少しも不思議ではない。こうして人は、イリアスやニーベルンゲンの歌は、あらかじめそれぞれ独立していた歌詞を蒐集あるいは編輯する人がいて、我々が知っているような形に結びつけたものだと考え、歌全体が一つのまとまった萌芽思想から発展して生じたものであるという考えには、アンドレアス・ホイスラー以外はついに到達しなかったのである。」(Wolfgang Metzger:Gasetze des Sehens,1953.盛永四郎氏訳、岩波書店刊、九六頁)。」59-60P
(対話@)「ここで人は以前として次のように言い募るかもしれない。なるほど“個々の感覚”という単位的要素は存在しないにしても、単位的な「形態(「ゲシュタルト」のルビ)」ないし、メッツガーのいう「知覚の場に生じる自然的部分」という“窮局的単位”があるのではないか。そして、その“窮局的単位”がそれ自身は単層的(「アインファッハ」のルビ)な与件のはずである、云々。われわれとしてもゲシュタルト的な「図」(それが錯図を形成する“部分”である場合を含めて)が一つの「図」的分節態をなすかぎり、それが“単位”であることは認めうる。しかし、この“単位”的分節態はすでにして単層的な与件ではなくて二肢的二重態であることをわれわれは主張する。」60P
(対話A)「人はここで、『知覚の現象学』におけるメルロ=ポンティの所説を或いは連想することであろう。「ゲシュタルト理論は――と彼は書く――<一つの地の上の一つの図>、これこそがわれわれの持ちうる最も単純な感性的所与であることを教えてくれたが……これは知覚的現象の定義そのものをなしているのであって、その条件なしには或る現象を知覚と言えなくなる底のものである。」しかるに、図の「各部分はそれ自身が実際に含んでいる以上のものを告知しており、従って、こういう初歩的な知覚ですら、もうすでに一つの意味(sens)を担っているわけである。」(M.Merleau-Ponty:La Phénoménolgie de la Perception,1945,p.10.竹内芳郎・小木貞孝氏共訳、みすず書房刊、三〇頁)。」60P
(対話B)「メルロ=ポンティがsensと呼ぶものがわれわれの謂う「意味的所識」をどこまで相覆うか、それがわれわれの謂う「行動価」の次元とどう関わり、またむしろ、示差的な対他的区別(周辺的他者との対照的区別)の次元にどう緊縛されているか、これは姑く不問に付し、彼が臆断的に確言している「初歩的な知覚ですら、もうすでに一つの意味を担っている」という命題を議論の接ぎ穂にしよう。彼は(地のうえの図)が「最も単純な感性的与件」であることを認め、この「所与」が「一つの意味を担う」という構図で議論を運んでいるが、われわれに言わせれば「図」はすでに単なる感性的所与ではなく、意味を「担う」以前に意味に“負う”ものである。「図」がもし(必然的に意味を担うとしても)それ自身としては「単純な感性的所与」であるのであれば、われわれは当の“準自足的”な“所与”を以って窮境的な現相的与件とみなすこともできよう。メルロ=ポンティに言わせれば、なるほど「各部分はそれ自身が実際に含んでいる以上のものを告知」する由であるが、彼の構図がもし妥当ならば、とりあえず「各部分が実際に含んでいるもの」、この所与を以って現相の第一肢的契機とすることが出来ようというものである。――われわれは、勿論、語法が半ば比喩的であることは承知しており、彼がわれわれと近い線で発想していることは諒解しているつもりである。だが、微妙な、しかも決定的ともいえる彼我の相違を対自化せざるをえない。――」60-1P
(対話C)「われわれに言わせれば、遺憾ながら、実情はメルロ=ポンティが見るようにはなっていない。われわれとしては、彼が“意味”と区別して立てる“所与”を窮局的な次元では、「最も単純な感性的所与」と認め難いのである。それでは、彼が言うのよりもより一層根底的な感性的与件があるとでもいうのか? よもや要素的感覚論でもあるまいから、われわれは窮局的な与件として何か単純な感性的所与を反立するわけではない。われわれとしては、メルロ=ポンティの議論と接点を設けて言えば、彼の謂う「図」とその「各部分」、いな「地のうえの一つの図」という「最も単純な感性的所与」なるものが、すでにして「所与−意味的所識」二肢的二重態であることを主張し、彼がこれの「担う意味」というのはこの原基的な「所与−所識」成態の“上に”立つ“高次の意味”である旨を指摘したいのである。」61P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれは、メルロ=ポンティの実情は、われわれの言う原基的次元での「所与−所識」成態の契機としての「所識」と、この成態の上に立つ――“高次の意味”との離接が不充分なため、両者が混淆されているのだと諒解する。がしかし、この混淆は議論の全体を決定的に分岐させずにはおかないほどの重要な錯誤に通じる。)」61-2P
(対話D)「こうして、われわれは、ゲシュタルト心理学者やその知見を踏んだメルロ=ポンティなどが“窮局的”な“最も単純な感性的所与”とみなすものを“原基的所与”とは認めない次第であるから、大層厄介な難題を自ずから抱え込む所以となる。われわれにとっての難題が奈辺に存するかを自覚的に表明しておけば、われわれとしても現相の“平面”内でいうかぎり、それの分節態(メルロ=ポンティの言う「図」ないしそれの「各部分」、剴切には“錯図”の“部分”をも含めての“図”、すなわち「地」以前的な“地”からの顕出態)を以って“最終的な”“単位”であることを認める。それにもかかわらず、当の単位的分節態は単層的な与件ではなくして「所与−所識」の二肢的構造成態であると主張する。それゆえ、われわれとしては、最も基底的な場面では「窮局的所与」なる第一肢的与件を、それ自身としてはもはや「現相」の“平面”に納らぬ次元に求めざるを得ない。現相世界の“大地”に足をつけつつ、すなわち、現相世界から遊離してしまうことなく、いかにしてこの“超”現相世界平面的次元での「所与」を定立するか、これがわれわれの直面する課題にほかならない。」62P
(対話E)「ここにおける論理構制は、次の如き類比に即して受け取られるかもしれない。すなわち、物理的原子という“平面”での分類では諸原子を“最終的”な“単位”と認めたうえで、しかし、当の“平面”を超える(ないし、より基底的な)次元では、原子を“単層的”な終局的与件とは認めることなく、物理的原子は陽子・電子といったより基底的な諸契機から成る“構造成態”であると主張する論理構制との類比である。このアナロジーは慥かに半面では妥当する。がしかし、われわれの言おうとする「所与−所識」構造成態は、素粒子(陽子・電子・中性子、等々)の複合的結合体という比喩を許さないし、更に振って、素粒子をクオークの複合的結合体とみなすことの類比をも許さない。われわれは、成素が実体的に既存してそれが複合体に合成されるという実体主義的な発想を端的に斥ける。われわれとしては、関係態の第一次性という存在論的了解に立って、「所与」をあくまで関係態(比喩的には例えば“函数”)の“項”として扱う次第なのである。ここにおいて、われわれは、「所与」なる契機をいかなる関係態の“項”的契機として措定するのか、これの明示を併せて課せられている所以となる。」62-3P
第二段落――“難題”そのものがそもそも成立しないのではないかという疑義 63-8P
(この項の問題設定)「偖、われわれの当面するこの“難題”に答えて行く段取りであるが、人は遮って先決問題を突き付けることかとも思う。そのありうべき“先決要求”に応接することを介して、漸次われわれの積極的な主張を開陳して行くことにしよう。」63P
(対話@)「茲でありうべき先決問題というのは、われわれの課題設定、すなわち、謂うところの“難題”そのものがそもそも成立しないのではないかという疑義に通ずるものである。それゆえ、当の疑惑をあらかじめ卻けておくのが慥かに先決要求をなす。――われわれは、いわゆる“感性的所与”なるものが(要素的であれゲシュタルト的であれ)直接的な純粋与件でない旨を主張し、真の現相的所与は、原基的には、それ自身として自足的な特質(すなわち、依って以ってそれが他から現相的に識別されうる特質)を具えた一現相ではないことを立言する。だが、もしこの立論が妥当するとすれば、感性的知覚と単なる表象との原基的な区別が成り立たない筈ではないのか? 事実の問題として人々は「知覚」と「表象」とを端的に区別して覚知する。それは感性的知覚与件と表象的与件とが、あれこれの“意味づけ”に先立って、謂うなれば“裸の素材”としてそれぞれ自足的に弁別的特質を具えていることに負うものではないのか? この疑義が正当に成り立つとすれば、成程、われわれの課題設定が足許から崩れる。しかしながら、この疑義は或る重大な錯認に基づくものであってわれわれを真に脅かしうるものではない。この間の事情を明らかにし、以って先決問題を解消するためには、われわれ自身の見地から「知覚」と「表象」との区別をここで多少とも説明しておかねばなるまい。」63-4P
(対話A)「知覚と表象とが判別的に覚識されるということは慥かにフェノメナルな一事実であると言えよう。現前する現相が感性的知覚であるのか、それとも、単なる表象として泛かんでいるにすぎないのか、これは直覚的に弁別されているのが普通である。成程、あとになって“錯誤”に気付くこともあるが、その都度の覚識にあっては“直証的”である。記憶的回想や想像的予期の意識を伴って表象が泛かぶ場合があるにせよ、表象は常に必ず回想性ないし想像性の意識を伴うわけではない。端的に表象が泛かぶ場合が確かにある。そしてその場合にも、それは表象であって知覚ではないことが弁別的に覚識されている。とすれば、知覚と表象とでは、素材的所与が現相的に相違するのではないのか? この故にこそ「知覚」と「表象」とが“直証的に”判別して意識されるのではないのか? 或る種の論者たちは「知覚的印象」は生気や活性を帯びており「表象的心像」とは明瞭性・活潑性の度を異にする旨を主張する。論者たちによれば、知覚と見紛うばかりに生々明瞭な場合があり、逆に、霞のかかった薄明で月の状景を視覚する折りなど、知覚が表象よりも却って不活性・不明瞭な場合もある。それでいて、知覚なのか表象なのか“直証的”である。従って、素材的所与そのものが知覚と表象で本源的に相違するとは到底言い切れない。(現にこのことに定位して知覚と表象とを等しく“心像”という“単なる主観的なもの”とみなしてしまう理説が登場する所以でもある。但し、われわれ自身はこのような観念論的傾斜に与する心算ではない)。」64P
(対話B)「それでは「知覚」と「表象」との“直証的”直感的な区別は如何にしておこなわれるのであるか? これを詳説することは今爰での論件ではないが、二、三の論点は示しておかねばならない。――われわれは、もとより、現与の“素材的与件”が、或るときには<知覚>として意味づけられ、或るときには<表象>として意味づけられるという具合に、概念的に弁別整序されると言おうとする者ではない。勿論、知覚とか表象とかいう概念が確立した暁に、反省的にこのたぐいの概念的な弁別整序がおこなわれうることは否定しない。がしかし、基礎的な体験の場面における知覚と表象との直覚的な弁別は概念的な「として」把握以前的である。それでは、“志向的意識作用”の相違に因るものであるのか? 人がもし「知覚的志向作用」と「表象的志向作用」とやらが、それぞれ自足的な特質(依って以って、それであって他ではないことを判別せしめる特質)を具えて現相的に覚識されると主張するのであれば、仮令“素材的所与”は中性的(すなわち、知覚と表象とで共通)とみなされるとしても、われわれの批判的見地に対しては、自足的な現相的所与を云為(「うんい」のルビ)するのと同趣の機制になる。けだし、“志向作用”は、なるほど能知であって所知ではないとされるにせよ、われわれの見地からは、それは少なくとも反省的意識の場にあっては現相的所知の一斑をなす所以である。われわれの観るところでは、しかし、“志向的”“作用性格”に種別を設けるのはアド・ホック(その場限り)な仮説という看が強い。われわれとしては、“志向的”とやらが自己完結的に“作用性格の別”を具有するとは認めがたい。いわゆる作用性格とは「志向的意識事態」からの反照規定たるにすぎないとわれわれは考える。」64-5P
(対話C)「後論をここまで止むなく多少先取りするかたちになるが、現相的世界は一定の空間・時間多岐な秩序をもった構造的分節態であり、知覚的な時空間世界と表象的な時空間世界(ここでは狭義の思考的世界は措いて、差し当たり、記憶的表象世界や予期的表象世界などを念頭におく)とは構造的な秩序態のそれぞれ全一態として分節的に覚識される。夢の場合(および白日夢に没入している場合)を除けば、それぞれが空間的な秩序構造を有った「知覚現相」と「表象現相」とが心理学者の謂う「地」と「図」との関係に“類する”ともいうべき相で対照的に覚識される。夢をみている最中や幻聴を聞いている最中には「知覚的秩序現相」と「表象的秩序現相」との対照的覚識が欠けているが、まさにそのゆえに、それが“表象”(夢や幻覚)であることが自覚されないのであって、自覚を生じる場面では醒めた意識での「知覚現相」と先行体験の“表象”(夢や幻覚)とが対照的に意識される次第なのである。知覚と表象との“直証的”な区別的覚識は、素材的所与や作用性格の相違に因るものではなく、知覚的秩序現相と表象的秩序現相との準「地−図」的な対照に俟つものである。」65-6P
(対話D)「ところで、しかし、当の知覚的秩序現相と表象的秩序現相との対照的覚識は、前者が実在的対象との現実的対応性の覚識と相即し、後者が現実的対応性の欠無の覚識と相即することに俟つものではないのか? この想念から、感性的知覚現相の直接的所与は“実在的対象”とやらであるとの思念も生ずる。われわれとしても、感性的知覚が「実在的対象との現実的対応性の覚識」と呼ばれるものを伴う場合があることは認めるに吝(「やぶさ」のルビ)かでない。がしかし、「実在的対象」との「現実的対応」性というのは“高度”な「意味的覚識」の一斑であって、そのさい「実在的対象」なるものが直接的な現相的与件であるわけではない。現相的に現前するのは、さしあたり、謂うところの感性的知覚現相である。――このことを認めたうえで次のごとき理説が登場しうる。すなわち、謂う所の「感性的知覚現相」はすでにして「所与−所識」成態であるわけで、このさいの「所与」が「実在的対象」にほかならない云々。この理説においては、“原基的な所与”たる「実在的対象」それ自体は知覚的現相ではないこと、知覚現相に限らずおよそ現前する現相ではないこと、このことが前梯的了解になっている。そこで、もし、謂う所の「実在的対象」なるものが喧噪を手掛りにして思考的に覚識されたものであるとすれば、それは「所識」であっても「所与」ではない。それがあくまで端的な「所与」だとされる場合には、カントの「物自体」Ding an sichと同様、それ自体がいかなるものであるか不可知ということになろう。現相が汎通的に「所与−所識」の構制を必然的に有つことから、「不可知」な「物自体」を窮極的な“所与”として立てる理説も成程ありうるには違いない。しかしながら、われわれとしては「物」自体という表現の暗黙的含意を卻けざるを得ないし、究竟的な「所与」が自足的に自存するという発想に与することはできない。となると、謂う所の「所与」は「実在的対象」という含意を剥奪されて、それ自体としては不可知というよりも、自足化して規定しようとすれば“無”としか言いようがない、単なる「所識との相関項」ということに落ち着く。」66-7P
(対話E)「翻って、しかし、現相の直接的与件はそれ自身でやはり自足的な特質(それであって他ではない)を具えているというべきではないのか? 現相がそれ自身としては現相ならざる「所与」と「所識」との二肢的二重相を呈するというのは作為的な構造化であって、基底的な現相は単層的で且つ自足的な特質を具えているのではないか。「これを否認するところから、物自体でさえないような“無(「ニヒツ」のルビ)”たる“所与”(これは没概念に聞こえる!)要請する羽目にも陥る。先には、知覚と表象との区別という“直証的”な体験を論拠にして直接的な素材的与件の自足性を指摘しようといて論駁に逢着してが、これは偶々論拠に選んだ事例が脆弱だった所以で、与件の自足的な特質具有性という提題プロパーが論破されたわけではない。」云々。或る種の論者は斯様に言って、爰で次のように訴えるかもしれない。それは、いわゆる感覚質(正しくは感覚様相sensory modality)の“直証的”な弁別的覚知という事実である。色と音、痛みと香り、といった感覚様相を人々は慥かに直覚的に弁別して覚知する。さらには、同一の感覚様相であっても、赤と緑、温と冷、等々が直覚的に弁別されるし、同じく赤と言っても、紅と緋等々が“直証的”直覚的に弁別して覚知される。――この事実を説明するためには、基底的な感覚現相は単層的であってしかも自足的な特質を具えていると認めざるを得ないのではないか? そして、この“基底的感覚現相”を究竟的な「所与」と認めて出発するとき、現相的“平面”を超出する所与=“無”などという代物(「しろもの」のルビ)を要請する必要もなくなる道理ではないか。」67P
(対話F)「われわれとしても、右に謂う意味での“基底的な感覚現相” ――それはわれわれが拡大して謂う“図”の一斑なのだが――、これが“自足的な”弁別的特質を具えていることは承認する。だが、われわれに言わせれば、当の“基底的な感覚現相”が既にして自足的な「所与」ならざる「所与−所識」成態であって、この二肢的構制に俟ってのみ謂う所の「弁別的特質」の実態も厳存するのである。われわれが、二肢的二重性の構制を飽くまで指摘するのは、決して恣意的な論理的仮構ではなく、謂うところの“基底的感覚現相における自足的な弁別的特質”なるものの実態と存立構制をも説明しえんがためなのである。」67-8P
(対話G)「この間の事情を説述するためには、今やわれわれの謂う「現相の第二肢」たる「意味的所識」の側に即して討究の歩をすすめなければならない。この作業を通じて、われわれは前節から持ち越した案件、すなわち、現相の汎通的な二肢的二重性の構制を確説するという課題の遂行をも期し得る。」68P
第三節 所知の第二肢性的所識
(この節の問題設定−長い標題)「現相の第二肢たる「所識」は、あくまで、「所与−所識」関係の「項」なのであり、それは「所与」が「単なるそれ以上の或るものとして覚識される」という関係規定性においてのみ「意味的所識」なのである。この第二肢的所識は、それ自身としては実在的(「レアール」のルビ)には、“無”といも言うべき非実在的(「イルレアール」のルビ)な存立態(Bestand,subsistence)にすぎないとはいえ、端的な無ではなくして、所与を一定の規定態たらしめる所以の謂うなれば積極的な“虚焦点”なのであって、且つ亦、“能記”的な所与に対する“所記”的な或るものである。「意味的所識」は“それ自身”の存在性格を追尋(「ついじん」のルビ)すれば――けだしこれを自存する存在体の如くに扱うとき“超時間的・超空間的”な形而上学的存在態として錯認される所以でもあるが――寔(「まこと」のルビ)に実在的な現相(これは「特個的・定位的・変易的」)とは対比的に「普遍的・非場所的・不易的な」存在性格を呈する理念的(「イデアール」のルビ)な妥当(Geltung)である。」68-9P
第一段落――言語以前的な基礎的な知覚場面に即して論考 68 -75P
(この項の問題設定)「意味的所識が十全な広袤(「こうぼう」のルビ)をもって問題になるのは言語が主題科される間主観的な場面においてであるが、爰では姑く、言語以前的な基礎的な知覚場面に即して論考を試みておきたい。」68 P
(対話@)「最初に、前節に謂う“基底的な感覚現相”が既にして意味的所識を“懐胎”(prägnieren)していることを指摘しつつ、軈(やが)ては「所識」の存在性格(Seinscharakter)を見て行くことにしよう。――感覚のうちでも最も単純な部類と想われている色を例に採ろう。実験心理学の教えるところによれば、いわゆる“正常な視覚”を持ったヒトの場合、例えば四八〇nm(ナノメーター)の波長の光が刺戟として与えられた場合の色彩感覚と、五一〇nmの光が与えられた場合の色彩感覚とを、弁別的に覚知する。前者が「青」、後者が「緑」普通に呼ばれる次第であるが、色彩感覚はこのように即自的に分節化している。五七〇nmの光は「黄」に見え、六三〇nmの光は「赤」に見える、等々。このさい、命名的分類はもとより言語的文化活動による媒介的所産であるが、言語習得以前の乳幼児や、各種のサル、鳥やミツバチなどを用いての反応実験の結果から考えるに、色彩感覚の分節化的区別は感官生理学的な機制によって即自的に遂行されているものの如くである。この事実を皮相にみれば、光感覚はそれぞれ自足的な特質を具えていて、当の特質に即して弁別的に覚知されるのであるかのように思える。なるほど光の波長のスペクトルは連続的に分布しているにせよ、波長に応じた物理的刺戟の質が感受されてそれが色彩感覚質の素材的畜質をなすのではないかとの思念さえ使嗾(「しそう」のルビ)される。だがしかし、四八〇nmの光だけでなく、それと波長の近い、例えば四五〇nmの光であってもやはり「青」に見える。」68 P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、波長の或る幅が単純に一括して同じ色に見えるわけではない。現に四八〇nmから同じく三〇nm距った五一〇nmの光は「緑」に見える。青・緑・黄・赤にそれぞれ対応する光の波長の幅は一定ではないのである。しかも、波長の或る長さの個所に識閾(「しきいき」のルビ)があって、そこを超えると別の色に見える。但し、この不連続的飛躍性は、光の物理的特性の“質的飛躍”に因るものではなく、感覚器官の側の整理・化学的機構の選別的反応機制に基因することが知られている)。」68-9P
(対話A)「青と緑、緑と黄といった感覚質が識閾によって別種の質として異立(区別化)されるだけでなく、青なら青という色彩質が同立(類同化)されるわけである。勿論、類同化といっても概念化的把握による類同視ではない。四八〇nmの光に続けて四五〇nmの光を与えると再認(同じく“青”として再認的同一視)されるとか、いわゆる「慣れ」(habituation)のため新規の現相とは覚知されない(この意味での消極的な同一視)とか、四八〇nmの光で条件づけた反射行動が四〇〇nm −五〇〇nmの光に対して斉(「ひと」のルビ)しく現出する(汎化)とか、こういう次元での同一視・類同視がさしあたり存立するである。(この間の事情は日本人がrの音とlの音とを同一視するのと類比的なところがある)。四〇〇nm −五〇〇nmの光が全く同一の「青」として同一視されてしまうわけではなく、現に「青」の内部で分化的覚知がおこなわれるようになる。しかし、あくまで一定の幅が付き纏(「まと」のルビ)うのであって、点的に精確な感覚質とやらが単離的に確定されるわけではない。そこで、いま、一定の最小限的な“幅”(すなわち、濃度・明度などの差異)をもちつつも同立されるギリギリの色彩感覚、例えば「純青」なるものに即して討究してみよう。この「純青」は前節に謂う“最も基底的な感覚現相”の代表的な一事例の筈であるが、これが純粋な素材的与件ではなく既にして「或るもの」として存立することは以下に見るごとくである。「純青」が断続的に再認するとき、純青という色彩感覚質が「再認」される。「再認」にあっては、先行せる現相と現前する現相とが同一視(再認的に同定)されるわけであるが、ここでの同一のもの(das Identische)とは何か? あの“最も基底的な感覚現相”たる“素材的与件”が当の同一者であると答えたがるむきもあろう。しかしながら、「再認」にあっては、素材的与件は別々であること(それゆえにこそ再認である!)、このことが覚識されているのではないか。ここでの論理構制は、それが「再認」であるかぎり、久し振りに会った友人を再認する婆などとも同趣である。そこでは、“素材的与件”たる直接的現相は旧時と現在とでは相違するにもかかわらず、同一の友人某として同定的に再認されるわけである。先行せる現前と現前する現前とが与件的には異貌であることがそこでは含意されている。同じ純青の再現といっても、一定の“幅”内での相違が許容される以上、論理構制上は友人の再認などと同趣の筈である。そこでの「同一者」は、現在相そのものでも過去相でもなく、これら二つの現相それ自身とは別の或る「同一なもの」、両現相(二つの素材的与件)が斉しくそれとして認知される或る同一なもの(etwas Identisches)でなればならない。こうして、「再認」における「意味的所識」たる「同一なもの」は素材的な現相的与件とは別の或るものである。――「再認」すなわち「再認的同一視」に即して右に誌した事態は、「慣れ」や「汎化」における「慣熟的同一視」や「汎化的同一視」についてもmutatis mutandis (必要な変項を加えて)妥当するであろう。」70-1P
(対話B)「人は、しかし、右の行論には飛躍があると指摘するかもしれない。再認の場合、先行現相と現前現相という二つの与件が必要条件であることは確かであり、そのかぎりで別々の与件が存在すると言えるにしても、それら二つの与件が全く同一のものと覚知されるとしたら如何? 第三者的にみれば、なるほど、二つの与件は全くの同一態ではなく、一定の許容的差異という“幅”をもつているかもしれないが、当事主体本人には全く同一態の相で現前しているのではないか? もしそうだとしたら、与件的現相の相違性が覚知されている“友人の再認”といった事例の構制とは同日の談ではない。嚮には、与件的現相の直接的な相違性を容認したかぎりで二つの現相的与件とは別な或る同一者が所識とされたのであったが、二つの与件そのものが当事者の覚知において全く同一とされている場合には、先のように与件とは別の同一者を立てる必要はなくなる、云々。このように指摘するむきが慥かにあり得よう。この思念においては“全く同一の現相的与件”なるものがそれの具えている自足的な特質の同一性ゆえに再認的に同定されるという立論へと到る。そして、慣熟的同一視や汎化的同一視の場合についても、同趣の議論が立てられる所以となろう。これは一顧に値する議論である。現相的与件の相貌上の相違性が覚識されている“友人の再認”といった事例と、与件的現相の相違性の覚識を“伴わぬ”再認以前的な再認の場合とは一応分けて論ずるに値する。」71-2P
(小さなポイントの但し書き)「(われわれとしては、しかし、事実の問題として言うかぎり、色彩感覚といった次元における再認の覚識においても、多くの場合、素材的所与現相は前後で“全くの同一態”とは覚知されず、一定の“幅”内的相違の意識を伴うのが普通であろうと思う。それゆえ、嚮の立論は必ずしも速断的飛躍ではないつもりであるし、für unsな議論という以前に、当事主体が直接的な再認の意識態においては先行現相と現前現相との相違性に気付かず両者を“全くの同一態”とみなしていたとしても、両現相の与件的相違態を反省的に対自化しうる以上は、論理構制上嚮の(“友人の再認”を引き合いに出した)議論は十分妥当すると考える。とはいえ、論者の指摘するごとは場合が絶無とは言い切れないかぎりで、ここに勘案しておく次第なのである)。」72P
(対話C)「論点の焦点を見え易くするには、論者の指摘する“特殊ケース”の再認を殊更に再認という論脈で扱うことは止めて、端的に色彩感覚が現前しているという唯それだけの場面に定位するのが捷径(「しょうけい」のルビ)であろう。というのも、所与現相がそれ自身の自足的特質によって当のそのものとし覚知されると称する論者の議論にあっては「再認」という機制は立論の焦点からもはや外れているからである。ここでの焦点は、現与の感覚現相が当のそのものとして覚知されていること、すなわち、現与の感覚現相がそれの自足的な特質の自己同一性に即して覚知されているという論点、この一事に懸る。――論者によれば、例えば「純青」がこの純青として覚知されるという単層的な事態が厳存するだけである。われわれとしては、しかし、次のことを指摘せざるを得ない。「純青」があくまで当の色(純青)であるのは、赤や緑からはもとより紺(「こん」のルビ)その他類似の色からも示差的対他的に反照区別されていることにおいてである。勿論、この対他的区別性は、われわれ第三者の視座からは汎通的であっても、当事主体本人にとっては一般には即自的な区別に止まり、それとしては現識されないのが普通である。とはいえ、当の所与感覚が一定の“幅”(許容的差異)をもちつつも同一(むしろ“同類”)の「純青」とみなされていることにおいて、それは既に他種の色と示差的に反照区別して措定された或るものであるということ、この構制を免れない。原基的感覚現相といえども、単なるその所与としてではなく、対他的な反照的区別態覚知されているのである。所与現相の自足的特質の自己同一性なるものは、反面として、対他的な示差的区別性を伴っている。精確に言えば、併存的な反面として伴うのではなく、この示差的な対他的区別性との反照が謂うところの“自足的”“内自的”な特質なるものを規定しているのである。論者の謂う与件的色彩感覚「純青」(勿論「純青」という概念ではなく、いまこの詞で指称している“与件”感覚)は一見したところ自己完結的な与件であるかにみえても、それが分節態(区別化的分出態)であるというまさにそのことにおいて、対他的な反照関係の一結節なのである。この反照的規定性は、赤とか緑とか、はたまた紺その他類似の色という“同位的”な示差的他者とのあいだだけでなく、いやしくも感覚現相が一つの“図”であるかぎり“地”とのあいだにも存立するということが銘記されねばならない。“地”との反照的区別ということが“図”たる感覚現相にとって少なくとも存在条件をなす。――以上のことまでは、すなわち、現相的与件なるものの特質が自閉的に規定されるのではなく対他的な反照性において規定されてあるということ、このことまでは認められるとしても、謂う所の“対他的反照性”における“周辺的他者”がそのままわれわれの謂う与件“以上の或るもの”であるわけではない。では、上述の対“他種”的な示差的区別や対“地”的区別ということが、“与件以上の或るもの”=「意味的所識」の“懐胎”という論点とどう絡むのか? われわれは対他的に反照区別されてある“与件の特質”なるものそのものに留目する。人々は、普通、与件そのものに固有な特質が具わっていて、その固有性に徴して対他的な区別もおこなわれる、という具合に発想する。そして、当の固有的特質には厳密には天上天下に唯一的に特有なもの(the unique)であるとすら考える。もしそのような“ユニークな与件”が現相的に現前するとすれば、当の所与現相はなるほど単層的であろう。だがしかし、論者たちの謂う“ユニーク”な与件、例えば“純青”を黄色を背景にして投光・観察してみるがよい。それは緑には見えても最早“純青”ではなくなる筈である。論者たちは、ユニークな与件なるものはその都度の感覚の場で言わるべきであって、この場合には現前する緑が“ユニークな”つまり排他的に専一な与件となる旨を主張するかもしれない。この主張そのものは半ば認めてもよい。がしかし、われわれの論点は“純青”なら“純青”という自足的に固有なものがあるわけではないこと、論者たちが「自足的な固有性」と「外部的な他者」という相で考えている両契機は浸透し合っていること。対他的反照規定ということは、“与件の固有性”にとって外在的な事柄ではなく“固有的特質”と称されるものの謂わば“内的な”“懐胎的”規定要因であること、この点である。端的に言ってしまえば、論者たちの謂う“専一的な内自的固有性”なるものは、実際には、対“他”的反照の“函数”であり、決して自己完結的に自存するものではない、ということである。」72-4P
(対話D)「論者たちは、ここで右におけるわれわれの指摘を承服したうえでも猶、次のように反問するかもしれない。すなわち、原基的な感覚現相の“内自的に固有な特質”なるものがすでに対“他”的な反照の“函数”的規定態であるということ、この“函数”的な非媒介的構造成態であるということが「二肢的構造性」の謂いであるのか? ここでの「意味的所識」なる第二肢は一体何であるのか? 論者たちは、現相がよしんば“函数”的規定態であれ、その“値”が一義的に確定しているかぎり、その“函数値”はユニーク(専一的固有)だと言いたがることであろう。われわれも、それが一義的に確定した“函数値”であることは認める。だがそれはあくまで“函数”の値なのであって、自存的な“数値”ではない。値としては同じであっても、それは単なる“数値”以上の“函数値”なのである。これは形式的な概念遊戯に類するものと誤解されかねないが、われわれは“函数”とそれの“特定値”という二肢的な区別を積極的に導入することによって、再認的同定や較認的同定ということの可能性の条件を明らかならしめ、且つ亦、再認や較認という事実の存立機制を能く説明する。論者たちといえども、所与が“全くの同一態”である場合、すなわち“値”が全く同一な場合については、再認的同定や較認的同定を(“所与そのものの同一性”ということによって)説明することができる。しかし、現実問題としては、所与が“全くの同一態”であることは“例外中の例外”であることは措くとして、所与が偶々“全くの同一態”であれ、許容的差異を伴った与件であれ、斉しく「同定」されうる所以の同一者がわれわれの謂う「意味的所識」である。(翻って、論者たちのユニーク主義の立場では“全くの同一態”が複数個存在することは原理的には不可能な筈である。ここでは、しかし、“全くの同一態”として覚知され、現相的与件の差異性が覚識されない場合ということにして、論者たちに逃道を開けておこう)。」74-5P
(対話E)「偖、それでは、所与現相は相違するにもかかわらず、「同じもの」として再認されたり較認されたりするのは、何故また如何にしてであるか? われわれの考えでは、両現相が“値”は異なっても一箇同一の“函数”のそれぞれ特定値として認知されるという構制、同じ“函数”として同一性が措定される構制、これに俟ってである。「同じもの」としての「意味的所識」、これが上来の“比喩”的立論において“函数”と誌してきたものにほかならない。これを以って、われわれは前掲の設問にも暫定的に答えた所以になると考える。」75P
第二段落――「図」の次元について“函数”的性格や「同定」の機制を説く 75-80P
(この項の問題設定)「われわれは、普通にはユニークな感覚質と思念されているものからしてすでに一種の“函数的成態”であること、再認的同一視・慣熟的同一視・汎化的同一視はもとより、いわゆる較認的同一視も論理構制上はそのことに負うて存立すること、このことを論定した。となれば、心理学的に所謂「図」の次元について“函数”的性格や「同定」の機制を説くことは今や容易である。」75P
(対話@)「ここでは、現相的分節態が「図」として呈するゲシュタルト性に主たる留意を払いつつ謂う所の“函数的成態”の性格を一歩立入って規定し、以って「意味的所識」の存在性格を追尋するための縁(「よすが」のルビ)としよう。――ゲシュタルト的に分節化せる「図(「フィグール」のルビ)」は、それの部分が変化しても「移調的」に“自己維持性”を示す。例えば、メロディーは、高音で奏しても低音で奏しても“同じメロディー”として聴き取られるし、ピアノで弾こうと笛で吹こうと、つまり、音質は違っても“同じメロディー”として聴こえる。一定の縞紋様は白黒であろうと赤緑であろうと“同じ縞紋様”に視て取れる。ここには諸“部分”的与件という“項”の値は変化・相違しても“全体”としての“函数”は同一のままという構制がみられる。」76P
(小さなポイントの但し書き)「――このさい便宜上“部分”と呼んだ契機は、それを終局的に押し詰めて行くと、嚮に“原基的な感覚”と呼んだものに帰一する。われわれは、要素的感覚主義に与することなく、「純青」といった“原基的な感覚”ですら一種の「図」であると主張する者であり、この“図”がすでに一種の“函数”的成態であることを上述しておいた。そして、今、狭義のゲシュタルトは感覚質という“項”から“成る”函数であるという表現方式を採った。しかるに函数の変項とは視角を変えて定式化すればそれ自身“函数”にほかならないことに鑑みれば、狭義のゲシュタルト的「図」は“函数の函数”であると言うこともできよう。狭義の「図」は“感覚質”という“図”を下位の分節項とする一種の“錯図”(錯構造をもった高分子的・錯分子的な図)として扱うことも許される道理である。翻って、謂う所の“感覚質”が、上述の通り、すでに「所与−所識」成態であるから、今問題のゲシュタルト的「図」の次元は、基底的な「所与−所識」成態の上に立つ「高次(第二次以上)の所識」に位すると言うことも出来る。――」76P
(対話A)「議論の視界をもう少し拡げよう。現相的世界の分節態は、亦、いわゆるゲシュタルト的な「恒常性」の傾動を示す。例えば、コップを口許から放して向こうに置くとき(反省してみれば、視覚上の大きさ・形状・色調が激変するのだが)、直接的な現相的所識態では、大きさも形状も色調もほぼ恒常であり、同じそれとして覚知されつづける。視覚以外の感覚様相にあっても、また、運動相などの知覚にあっても、現相的所識態がいわゆる「恒常性」の傾動を示すことは、実験心理学が豊富な事例を挙げて説く通りである。そして、このゲシュタルト的「恒常性」という全体性・統合性・恒一性の保持が剛体的に硬直的な自己同一性ではなく、前記の「移調性」と同一の構制になっていることは、更(「あらた」のルビ)めて喋々するまでもあるまい。」76-77P
(対話B)「偖、「移調的恒常性」という現相的分節態=「図」が汎通的に呈するこの事態は、その存立構制を分析してみれば、まさしく「所与−所識」の二肢的二重性の構制になっている。直接的な射映的与件たる現相的所与(これはすでに“図”としてのかの“函数”的成態なのであり、“原基的な感覚質”ですら既に「所与−所識」成態なのであるが、人々は通常このことに気付かず、射映的現相が端的な単層的与件であるかのように思念している)、これの変化・差異を覚知しつつも、人々は当の“所与”を 同じ一つの或るものとして現識する。現相的所与の差異性の意識を伴いつつ意味的所識としての恒一性が現識されること、所与と所識との二肢的二重性に俟つこの事態が、いわゆるゲシュタルト的「移調性」「恒常性」にほかならないのである。」77P
(対話C)「われわれがここで問題にしておきたいのは、現相的分節態=フェノメノンの「移調的・恒常的」なゲシュタルト的恒常性の構制を支えるゲシュタルト的「所識」の特異な性格である。――その都度の現相的所知を一定値とった項から成る“函数値”、恒一的なゲシュタルト的所識を“函数”に比定すると論点が見え易いのであるが、その都度の現相的所知が「特異的」であるのに対して、恒一的なゲシュタルトとしての「所識」は「普遍的」である。けだし、現相的所知が射映的に特個的なその都度の値の相で諸々に定在するのに対して、ゲシュタルト的所識はそれら様々な相での“諸定在”を通じて斉しくそれ(同一者)なのであるから、特個的な諸相在(“諸定在”)を通ずる「普遍者」の位置に立つ所以である。」77P
(小さなポイントの但し書き)「(普遍者と言っても、ここでの次元は、いわゆる概念的な普遍者とは径庭がある。とはいえ、例えば、複数個の円という図形群が、同じ(円)というゲシュタルト的所識たりうるわけで、ここでのゲシュタルト的普遍は諸個体群を包摂する概念的普遍と論理構制上は既に同趣である。いな、精確に言えば、いわゆる概念的「普遍」なるものは、実は、ここでのゲシュタルト的普遍の構制に俟って成立するものにほかならない。ここでは、しかし、いわゆる概念的普遍性の問題は姑く措くことにしたい)。」78P
(対話D)「ゲシュタルト的所識は「普遍」的であるだけでない。射映的な現相的所知が「変易」するにもかかわらず。ゲシュタルト的所識は一貫して同じ当のゲシュタルトなのであるから、自己同一性を保持する「不易的」な或るものでもある。更に言えば、射映的な現相的所知は、よしんば想像的空間秩序中であれ、そして、確定的な場所指摘は仮令不可能であれ、ともかく一定の処に定位されているのに対して、ゲシュタルト的所識は謂うなれば「超場所的」である。「超場所的」というのは、但し、場所的規定性と全く無関係の謂いではない。或る意味では、ゲシュタルトは射映的現相のその都度の場所に在るとも言える。が、まさにそのことにおいて、ゲシュタルト的所識としては一箇同一=単一であるものが、例えば、複数の円という図形群の一つ一つ(複数個所)に“臨在”するのであるから、(しかも、分割されて散在するのではなく自己同一性=単一性を保っているのであるから)、射映的現相与件のその都度の場所に専一的に在るわけではない。単一性を保持しつつ臨在的に遍在するというこの意味において(換言すれば、場所的規定性端的に無縁という意味においてではなく)ゲシュタルト的所識は「超場所的」である。――こうして、射映的な現相的所知が「特個的・変易的・場所的」であるのに対して、ゲシュタルト的「意味的所識」は「非特個的=普遍的・非変易的=不易的・非定位的=超場所的」である。われわれは、「特個的」「変易的」「定位的」ということが実在的(「レアール」のルビ)な存在性格の徴標とされていることに鑑み、ゲシュタルト的「意味的所識」は「非特個的」「非変易的」「非定位的」であるからして非実在的(「イルレアール」のルビ)な存在性格を有つと言う。尚、事柄としては非実在性の徴標の言い換えに過ぎないとはいえ、「普遍的」「不易的」「超場所的」という徴標に即するとき、それを理念的(「イデアール」のルビ) (これはプラトン流の「イデア的」に因んだものであって、“観念的=主観的心像的”の謂いではないことに注意されたい)と呼び換える。ゲシュタルト的「所識」は、この意味において、イルレアール=イデアールな存在性格を呈する。」78-9P
(対話E)「右では、とりあえず、ゲシュタルト的「所識」の「恒一性」に即して「普遍的」「不易的」「超場所性」を立論したのであったが、省みれば、“函数”的存在態は一般論としてそれの諸“値”との関係で「普遍的」「不易的」「超場所的」なのであるから、ゲシュタルト次元での意味的所識に限らず、先にみておいて“原基的感覚”の次元における“函数”態的な所識も含めて、われわれの謂う「意味的所識」はイデアールな存在性格を有つ次第である。――但し、われわれは、イデアールな所識なるものが、プラトンのイデアの如くに形而上学的世界とやらに独立自存すると主張するものではない。「意味的所識」はあくまで「現相的所与」との相関規定なのであり、自存する存在体ではなく、実在的には“無”(非実在的)である。かかる非実在的=“無”にすぎぬ「意味的所識」が、端的な無ではなくして積極的にその存立性を主張されうる所以については「間主観的」な存立構造の討究に俟たねばならないのであるが、ここでとりあえず次の弁証までは認められるであろう。それは、「所与」の異・同と「所識」の異・同とは明らかに別の現相的覚知事態であり、この事態の成立根拠として「所識」が現相的世界の積極的な規定要因と言われうることである。この言い方では抽象的に過ぎるかと憚られるので、稍々敷衍しよう。例えば「ルビンの杯」のごとき反転図形にあっては、“所与”は“同一”と覚知されるにもかかわらず、「横顔」として覚識するか「高杯」として覚識するかという「所識」の相違に応じて意識事態、現相事態は決定的に相異なったものとなる。“所与”は“同一”と覚知されているのであるから、この現相的事態の相違はまさに「所識」の相違に負う筈であり、ここでは「所識」が明らかに現相的事態の積極的な規定要因を成している。これは所与=同一、所識=相違というケースであるが、逆にまた、例えば二枚の写真(一方は子供、他方は大人)を見て、単に相異なる別人と思い込んでいる意識事態と、ハッと気がついて“同一人物だ!”と認知した意識事態とはおよそ相異なる。ここでは、“所与”はもともと相違しているのであり、「所識」も相異したままか「所識」が同一化したかということが決定的な相違を成立せしめる次第であって、「所識」が積極的規定要因になっていることが肯けよう。こうして、意味的所識は、独立自存するわけではなく、それ自身としては非実在的ではあるが、端的な虚無ではないどころか、現相的世界を現にかく在らしめる積極的規定要因なのである。(人は、ここで、意味的所識は、形而上学的存在ではないことは勿論として、物理的実在ではないが、一種の心理的存在ではないか、と考えるかもしれない。それに伴って、「所与」は物理的存在と思念される。このありうべき見解に対する批判的な決裁、いわゆる“物理的存在”および“心理的存在”なるものの何たるかを検討する次篇での論脈まで持越さざるを得ない)。」79-80P
第三段落――“錯図”的な対象的個体性という次元を視野に入れた討究 80-6P
(この項の問題設定)「われわれは以上、いわゆる“原基的な感覚”とされている次元、ならびに、ゲシュタルト的「図」の次元に即しながら現相的分節態=フェノメノンにおける「意味的所識」のの契機を論考し、「所識」の存在性格にまで論及したのであるが、今や“錯図”的な対象的個体性という次元を視野に入れて討究の歩を進めることにしょう。」80P
(対話@)「現相的分節態は心理学に所謂「図」という以上の相で覚識されているのが普通であり、対象的個体性ないし個体的対象性とも呼ぶべき相貌を呈する。このさい、但し、対象性というのは必ずしも事物的な対象性の謂いではなく、個体性というのも必ずしも事物的な個体性の謂いではない。(事物的個体性や個体的事物性については第三篇に到って主題的に論及する予定である)。」80P
(対話A)「ここで個体的対象相というのは、現相的分節態=フェノメノンが「地」から浮かび出た一つの分凝(segregation)態であるという域を超えて、即自的な持続相での一纏(「ひとまと」のルビ)まりを呈することを指す。持続といってもそれはもとより明確な時間性の覚識以前であり、一纏まりといっても明確な単一性(数的「一」性)の覚識以前的である。一纏まりの覚識は却って“部分”の“数多性”、下位的に分凝せる複雑性(“複雑性”)の覚知に支えられているとい言うこともできる。また、持続の覚識は剛直的な自己同一性の維持という意味での自同性ではなく、遷移的なないしディスポジショナルな変化位相の継起性の覚識に裏打ちされており、即自的には射映的別様相の可能性を含蓄していると言うことができる。例えば、柱時計が三時を打つのを聴くとき、一拍、一拍を個体的対象相で覚知する場合もあるが、普通には、三拍の下位的分凝から成る一纏まりの持続態の相で聴き取られる。時計の文字板も下位的な分節を含む一つの錯図的な纏まりの相で視て取られる。視覚的対象の場合は変化が目立たない折りには持続性の意識が薄いが、それでもしかし、すぐに消失してしまうことなくそのまま覚知されつづけるであろうというディスポジショナルな予期相で即自的に覚識されているのであって、ここでもやはり、単なる空間的な個体的纏まりに止まることなく、持続性の覚識を即自的に含蓄している。視覚的に展らける現相的分節態にあっては、持続的な個体性(変易を通じての自己同一性)覚識は反省的な省察を俟ってはじめて現識されるかのように思われかねない。が、それは“実験的”に凝視する場合のことであって、日常生活の現場においては不断に身体的運動相にある以上、視覚的対象の射映的現相は絶えず変易しているのが実情である。それにもかかわらず、人々はその都度の射映的「図」を一つ一つ一つの個体的対象として覚知してしまうことなく、射映的変易を貫通して一箇同一の対象が持続的に現前しているものと(普通には)覚識する。人々はこういう対象的個体性=個体的対象性の覚識と相即的にそのものの「変化」を覚知したり、そのものを「再認」したりするのだと言えよう。ここで問題にしておきたいのは、射映的な変貌・異貌にもかかわらず、それらの諸相が別々の対象的個体とされてしまうことなく、一箇同一の対象として覚識それるということの論理的構制である。――ここでの問題は、変貌的・異貌的な射映的与件がそれ以上の(乃至は、単なる射映以外の)或るもの=一箇同一の対象的所識として覚知されるという二肢的二重性そのことではない。また、謂う所の「一箇同一の(その同じ)対象」という「所識」がそれ自身としてはどの射映的与件でもイルレアール=イデアールな存立態であることの追認でもない。これらの事項は爰で更めて立入るまでもなく嚮の論攷から容易に理解されよう。ここで問題にしておきたいのは、その都度の射映的与件とは別の一箇同一の“対象像”なるものが如何にして形成されるのかという点をめぐってである。焦点を見易くするために次の如き例に則して考えてみよう。個体的対象たる斑点なり、一匹の飼犬なり、黒田節なり一箇同一のそのものとして認知し、依って以って。同一の対象的個体として再認することを可能ならしめる一箇同一の対象像が如何にして成立するのか?」80-2P
(小さなポイントの但し書き)「(尤も、黒田節といった音韻形象については、日常的には「以前に聞いたことのあるアノ音だ」という言い方、つまり個体的に同一対象の再現・再認であるかのような言い方をするが、“実際には”同類の“別個体”にすぎないという考え方もあり得よう。このことは認めるに吝かでない。がしかし、同類の別個体であるか、相貌的に類似な、裏返していえば、相貌的には多少相違するが一箇同一の個体であるか、これの区別は微妙である。例えば、われわれなら祖父とよく似た孫を祖父と別個体とみなすところ、或る種の未開文化では「死んだ祖父の生まれかわり」すなわち同一個体の再現とみなす。利根川は実体的に持続している一個体であるのか、瞬間ごとに別個体であって単に類似しているだけなのか。新陳代謝を続けていて(身体を形成している)物質原子が入れ変わってしまう動物は同一個体なのか、類似はしているが別個体なのか。質料主義的な観点からは、同一個体か別個体かということは相対的な区別にすぎない。というよりも、突き詰めて言えば、質料主義的な見地からは、万物流転するこの世では厳密な同一個体性ということがそもそも成り立たないのである。質料的な与件に定位するとき、変化相にある存在体については、個体的同一性ということが厳密には成立し得ない。さりて、今日では、「形相」という個体的実体を云為するむきもまずはあるまい。個体的同一性、同一個体性というこが甚だ問題的な概念であると言わねばならない。しかしながら、この件の主題的な討究と裁可は後論に譲ることにして、ここでは暫く“常識”的な準位に定位して議論を運んでおきたいと念う)。」82-3P
(対話B)「人々は、次のように“説明”したがるかもしれない。すなわち、現与の現相的相貌とは別の所識としての“対象像”が形成されるのは、過去に於ける経験の記憶心像や想像心像が併せて喚起され、それら一群の知覚的・表象的な射映現相が比較・校合、分析・綜合を施されることを通じてである云々。」83P
(対話C)「この議論は、しかし、論理構制を検討してみれば、論件先取(「せんしゅ」のルビ)・循環論法に陥っていることが判る。このことを簡略に指摘しておこう。喚起・利用される記憶や想像は、また、動員される知覚的射映は、何であっても宜しいというわけではない。全く別物(別の個体的対象)に関する記憶・想像・知覚であってはならず、それらはまさに当該の対象的個体に関するもの(当の個体的対象についての表象や知覚)でなければならない。では、当の対象に関するもの(と別個の対象に関するもの)の選別的蒐集(しゅうしゅう)は何を基準にしておこなわれるのか? 現前するのはたかだか諸々の知覚現相や表象群だけである。ここでしかるべき選別的蒐集に成功しなければ、比較・校合も分析・綜合とやらも始まらず、従って、固有の「対象像」が形成さるべくもない。選別の基準としてさしあたり考えられるのは類似性であろう。だが、単なる類似性では猫も虎も一緒になりかねないし、極端に類似している別個体も存在するのであるから、類似性ということでは個体的同一性は保証されない。一体、一群の知覚や表象を、一箇同一の対象に関するもの、同一対象的個体のそれとして、選別蒐集する基準は何か? (論者たちがもし個体的対象自体の直覚的な認識可能性を説くのであれば話は別である。が、そういう対象自体の直截的な認知は不可能と認めたればこそ論者たちは比較・校合、分析・綜合を通じての対象像の形成を云々した筈である)。」83P
(対話D)「ここではまだ、対象像は未形成であり、対象像を先取してこれを選別的蒐集の基準とすることは許されない。それにもかかわらず、謂う所の選別基準は、結局のところ、“対象像”ないし現認されている“対象自体”を措いては在り得ない。当の対象的同一個体を基準にしてはじめて、当の個体の一相貌であるのか、よしんば類似的であれ、別個体の一現相にすぎないのかが、弁別されると云う論理構制になっている。射映的には変貌・異貌を呈するにせよともかく一箇同一の対象であることの認知が論理的にも事実的にも先件になっているのである。斯くして、論者の立場を認めるとすると、彼らの意向に反して、対象像を既に保有し、依って以って一箇同一の対象的個体として認知していることなしには、対象像形成のための前段的手続たる選別的蒐集すら成立し得ない! こうして、経験論的な“対象像の比量的形成”論の立場的主張では、経験的過程を通じて“対象像”が形成されるに先立って、あらかじめ当の(結果として形成される筈の)対象像が(当の対象像を形成するための素材群を選別的に蒐集する基準として)すでに保有されているという論件先取・循環論法に陥る次第なのである。論者たちはこのような悖理に陥る。――それでは、一体対象像形成の実態はどうなっているのか?」83-4P・・・先取りすれば、カントの先験的演繹論を共同主観性の形成論としてよみとっていった廣松共同主観性論に繋がる論攷
(対話E)「われわれの見解では、経験論的思念において主張されるごとき“対象像”なるものはそもそも形成されはしないのである。なるほど、例えば、自分の愛用している個体としてのペンなり、自分の飼犬なりについて、余り特殊な姿態ではないという意味で“標準的イメージ”ですら、一つの射映的表象であって、その都度の特個的な相貌と原理的には同格である。射映的な対象イメージは在っても、それとは別途の“対象像”などというものが独自の“心像”のかたちで存在するわけではない、現に与えられているのは特個的な射映的知覚ないし射映的表象(上記の“標準的イメージ”を含む)だけであり、それが端的に「あの個体的対象」(の一つの相貌)として覚識されるのである。対象的個体としての覚知がもしなければ、所与の知覚的射映や表象的射映(“標準的イメージ”を含む)があの対象的個体の一相貌として覚識されることもあり得ない。」84P
(小さなポイントの但し書き)「――慥かに、射映的相貌が泛かんでも、それが特定個体の一相貌として直ちには現認されない場合、反省的思考過程を経てはじめて特定個体として現認される場合、このような場合もある。だが、そのような場合でさえ、対象的一個体としての現認は直覚的に成就する。」84-5P
(対話F)「さりとて、一つの対象的個体=個体的対象としての現認は、新鋭的な現相とは別の“像”が泛かぶことではない。別の“像”、例えば、“標準的イメージ”なり、回想的ないし予期的なイメージが泛かぶことがあっても、それは“副表象”たるにすぎず、その“像”とやらが個体的対象なのではない。射映的現相、回想的現相、予期的現相、これらは斉しく、それがあの対象的個体として現認される所与なのであって、一箇同一の個体的対象そのものという所識ではないのである。われわれとしては現与の相貌的現相が端的に一つの対象的個体(の一相貌)として現認されるという基礎的な事実に定位すれば足りる。だが、格別な対象像など形成されることなく、それでいて、特定の対象的一個体(他の個体とは区別される一個体、しかも個性的特徴をもった一個体)が直覚的に現認されるのは如何にしてか? その場合の「所識」たる「対象的一個体」とは如何なるものか? 当の対象的一個体を概念的にあれこれと規定することは勿論可能である。が、それもそれが一個体として措定されて初めて可能になることであって、ここで問題なのは、概念的な事後規定ではなく、まさに与件が一つの個体的対象として現認される場面での所識である。この問題次元で言えば、現相的射映与件が単なるそれ以上の対象的一個体として現認されるのは、まさにあの「能記」的所与と「所記」的所識とのあいだの「所与−所識」関係の一位相としか言い様がなく、またそれで足りる。そして、ここでの「所識」たる対象的個体については、概念的な事後規定に先立つ今茲の場面では、変貌的・異貌的な諸相が一つのあのものとして斉しく覚知される「或るもの」としか言い様がなく、またそれで足りる。しかも、この「或るもの」=対象的個体は、原基的場面では、比較・校合とか分析・綜合とかいった比量的な手続で形成的に認知されるのではなく、それに先立って端的に覚識されるのであるから、対象的個体というイデアールな「所識」の認知はアポステリオリではなくして謂わば“アプリオリ”である。」85-6P
(対話G)「われわれは、「意味的所識」なるものを実在的には“無”たる非実在的(「イルレアール」のルビ)な存立態にすぎないと規定するのであるから、対象的個体という所識が実在的(「レアール」のルビ)にアプリオリな形象であるなどとは無論主張しない。しかしながら、対象的個体というイデアール=イルレアールな所識が“対象像”ならざる当体的対象の概念的規定態の形成にとって先行的に認知されているという論理構制上の事実(この先行性を認めないとあの経験論的立場に即してみた循環論法に陥るという事情)に鑑みて、対象的個体性という所識の論理的アプリオリ性をわれわれは認める。ところで、「所識」のこの論理的アプリオリ性は、“原基的な感覚質”の特質的個性やゲシュタルト的「図」の特個的一者性という問題場面においてもmutatis mutandis (必要な変項を加えて)妥当することは、行論の論理構制を省みれば更めて詳説するには及ばないであろう。――こうして、「意味的所識」は「普遍的」(といっても、特個的なその都度の現相的射映を通じて斉しくそれであるという意味での普遍性に爰では止まるのだが)、「不易的」(現相的には変易しても所識としては自己同一性を維持する)「超場所的」(所与的現相は場所的であるが、所識としての「対象的個体」は“場所的”変化を呈する現相的“諸相在”に“臨在”するという意味で「対象的個体の所識的契機」それ自身は、具体的な個体的対象の場所的定位性とは異なり、超場所である)という理念的(「イデアール」のルビ)=非実在的(「イルレアール」のルビ)な存在性格を呈するだけでなく、認識論的には経験的・比量的な認識に先立つ「論理的アプリオリ性」を示す次第である。」86P
(対話H)「現相的世界の対象的分節態の所識には、以上で幾つか截り出した象面以外にまだ多くの次元がある。がしかし、それの追認と整序は後論の課題として残し、ここではとりあえず現相の第二肢たる「意味的所識」のイデアリテートならびに論理的アプリオリテートを確認したところで、一旦、議論の視軸を他に転じておきたいと念う。けだし、そのことが現相的分節態の二肢的両契機を立入って規定するためにも要件をなすからである。」86P
2024年11月17日
廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』(1)
たわしの読書メモ・・ブログ678[廣松ノート(7)]
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(1)
自他ともに認める廣松さんの主著で、色んなところで展開してきたことの掘り下げ、修正もこの著でまとめあげるとしています。やっと第一次学習の最後としてこの著にたどり着きました。ただ、二巻の二篇で終わっています。二巻の三篇と三巻が未完のまま、その生涯を終えています。
この読書メモは抜き書きが多かったのですが、今回は構制をどうしているのかに焦点を当てたいと考えています。その事を押さえつつ、二巻もありますので、大変長い作業になります。ひととおりの再読を終えて、もう一度読み込みながらメモ取りに入りつつ、問題の深さにおののいているところです。なお、この著の読書メモ、わたし自身かなり歳を取り、読み込む力も落ちていて、最後までやれるか、不安な状態で踏み入るところです。
なお、この著も「項」に小見出しがついていません。著者が{尚、本書の各節は、明示的には「項」に区分されておらず、従って「「項の標題」は欠いている・・・・・・」ID-EP としています。しかもわたしの基礎的積み上げのない読解力では誤読しそうで、余計なことをするべきではない、まさに蛇足の類いですが、かなり練った論攷で展開されていると感じていて、小見出しが有効になると思い、学習ノートいう性格からして、あえて斜体で項目の見出し付けをやります。この著は弁証法的対話にて論攷を進めています。改行ごとに論旨がはっきりしている場合も、波線で論旨の表記的なこと(詞をつなげればその行文の標題的なことになる)を試みます。強調と波線が重なったときは、二重線になります(これは2回目以降のことです)。
また、この著は著者の他の著作参照や既に書いたところ、それからこれから書くところ参照という記述が多くあります。それらのことを で標記していきます。
最初に目次をあげます。
目 次
序 文
緒 論
第一篇 現相的世界の四肢構造
第一章 現相的分節態の現前と所知の二要因
第一節 現相的所知の二肢性
第二節 所知の第一肢的与件
第三節 所知の第二肢性的所識
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
第二節 主体的帰属と人称化
第三節 能知的主体の二重性
第三章 現相的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 所知的二肢制の構制
第二節 能知的二重性の形成
第三節 四肢の相互的媒介性
第二篇 省察的世界の問題構制
第一章 外界と内界の截断と認識理論の図式
第一節 外界と内界との截断
第二節 <三項図式> の形成
第三節 認識論の基幹的構図
第二章 判断的形象の意味構造と命題的事態
第一節 概念形成の論理構制
第二節 判断成態の意味構造
第三節 命題的事態の存立性
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
第一節 判断的措定の帰属性
第二節 叙示成態と陳述様相
第三節 間主観的妥当と真理
第三篇 事象的世界の存立機制
第一章 事物的世界の分節態勢と空間・時間
第一節 事物的世界の分節相
第二節 場所的空間と定位置
第三節 時間的規定の形象化
第二章 事の物象化と実体主義的錯認の位相
第一節 事の事象化と実体視
第二節 当体の個性と関係態
第三節 因果法則と存在様相
第三章 事象の間主観的存立と客観的存在性
第一節 対象的実在の存在性
第二節 存在と間主観的妥当
第三節 能知と所知の不二性
事項索引
「解説 坂部恵」(『廣松渉著作集15 「存在と意味(1巻)」』岩波書店1997)
序 文
第一段落――この著の出版計画 DP
「本書は、著者が十余年来準備してきた三部構成の著作――第一巻「認識論的世界の存在構造」、第二巻「実践的世界の存在構造」、第三巻「文化的世界の存在構造」――の第一巻に相当するものである。/著者としては全巻の原稿を完成した時点で一挙に上梓する計画であったが、この『存在と意味』全三巻は、単なる存在論・認識論の書ではなく、実践哲学・価値哲学・社会哲学・歴史哲学・文化哲学にも関わり、人間論・制度論・権力論・規範論から学問論・芸術論・宗教論にまで論域が亘ることもあって、成稿に遅滞を生じていたところ、不慮病患に蝕まれる身となったため、早期の完稿は断念するなきに至った。爰に、一応の脱稿をみた部分から順次刊行することに予定を変更し、とりあえず、第一巻用の暫定稿を推敲して世に問うことにした次第である。若し倖いにして健康が許せば、次巻は向う二年以内に印刷用原稿を整えることができるかと念(「おも」のルビ)う。」DP
第二段落――『存在と意味』概略展開 D-IP
(この項の問題設定)「『存在と意味』は、総じて、旧来の日常的意識ならびに学理的反省において支配的であった「物(「もの」のルビ)的世界観」を卻(「しりぞ」のルビ)け、「事(「こと」のルビ)的世界観」を唱導するものである。著者としては、しかし、旧見に対して唯単に新知見を対置するのではなく、物的世界像は何を何故如何に錯認したものであるか、その由来に遡って認識論的・物象化論的・イデオロギー論的に剔抉(「てっけつ」のルビ)しつつ、真実態を対自化しようと図る。そのさい、併せて亦、従来「物的世界像」のパラダイムによってそれなりに“説明”されていた事象や事態を「事的世界観」に応ずる新しいパラダイムにもとづいて如何に正しく説明し返しうるかを(基幹的な論域に限ってではあるが)呈示しようと企てる。」D-EP
(物的世界像)「旧来の物的世界像というのは、世界すなわち全存在界を諸々の「物」から成っているものと観ずる世界像の謂いであって――但し、「物」とは狭義の物質的物体とは限らず、「事」との対比をおける広義の「もの」の謂いである――、それは詮ずるところ、実体主義的世界観と相即する。この世界観にあっては、まずは独立自存する存在体(実体)が在って、それら実体が諸々の性質を具備し、相互に関係し合うものと了解されている。ここでは、性質を具えた実体が第一次的に存在し、それらの実体が第二次的に関係を結ぶ、という描像になる。――実体観には、史上、質料(「ヒュレー」のルビ)=実体論、形相(「ケイドス」のルビ)=実体論、原子(「アトム」のルビ)=実体論など、諸多の種類があり、また、一元論もあれば、多元論もあるが、実体主義的な世界像ということになれば、「有機体論的全体主義」と「機械論的要素主義」との二類型に帰趨すると言えよう。古代や中世においては有機体論的全体主義が支配的であったこと、そして近代においては機械論的要素主義が主潮であること、このことはあらためて誌すまでもあるまい。これらの世界像は、自然観の場面にかぎられるものではなく、社会観の場面においても、社会有機体論的な全体=実体主義と社会集合体論的な個人=実体主義との対立等となって分立する。また、実体主義の地平において、第二実体の存否をめぐる実在論と唯名論との対立(啻(「ただ」のルビ)に中世における「普遍論争」流のそればかりでなく、数理・価値・規範・制度、等々をめぐる実念論と唯名論との対立)も出来(「しゅったい」のルビ)する所以となる。」EP
(事的世界観)「事的世界観の何たるかを茲(「ここ」のルビ)で簡略に定式化することはおよそ不可能であるが――因みに「事」というのは、事件や事象の謂いではなく、それらの物象化を俟ってはじめて時空間的なevent(出来事)が現成し、また、それの構造的契機の物象化によって「物」(広義の「もの」)が現成するごとき或る基底的な存在構制であるのだが――、さしあたり物的世界像の実体主義との相違という視角で言えば、一種の関係主義的存在観であると言うことができる。関係主義は、いわゆる物の“性質”はおろか“実体”と目されるものも、実は関係規定の“結節”にほかならないと観ずる。この存在観にあっては、実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係規定態こそが第一次的存在であると了解される。」E-FP
(関係の第一次性)「「関係の第一次性」などという存在観は日常的思念にとってはおよそ悖理(「はいり」のルビ)に思えるかもしれない。関係の第一次性という提題は、人が「関係」そのことを「もの」化して表象し、「関係というもの」が先か、「実体というもの」が先かという仕方で、「実体の第一次性」に対する同位的対立として受取るとすれば、なるほどナンセンスである。関係項に先立って「関係」なる「もの」が自存するわけではない。関係の第一次性というのは、しかし、著者の場合、「事」としての関係性が汎通的・根源的な存在規定であることを表明するものである。」FP
(伝統的既成観念とパラダイム転換)「翻って、伝統的既成観念においては「関係が成立するためには関係を取結ぶ実体的な項(「もの」のルビ)があらかじめ存在することが要件である」と思念されてきた。物的世界像を支えるこの実体主義的既成観念には鞏固(「きょうこ」のルビ)なものがあり、人が関係主義的存在観の正しさを知解した場合ですら、直接的な意識においては依然「実体的な自存項が在ってはじめて事後的に関係が成立する」ように見え続けるのと類比的である。・・・・・・日常的には天動説で間に合う部面があるにしても、天動説と地動説とを原理的に併存させるのではなく、学理的には天動説を端的に卻けて、パラダイムを総体的に変換することが“歴史の要請”であった。・・・・・・万象をより剴切(「がいせつ」のルビ)に統一的に把え返しうる関係主義への総体的なパラダイム・チェンジが要請されている次第なのである。――いわゆる実体は関係的規定性の反照的“結節”であって存在論的(「オントロギッシュ」のルビ)には独立自存体ではないこと、自存的実体なるものは物象化的錯認に基因するものであって関係規定こそが第一次的存在であること、この関係主義的存在了解を(実体主義的既成観念を内在的に批判しつつ)説得的に展開する作業は本文に委ねるのほかないが、また事的世界観が単なる関係主義ではなく実は「実体主義vs関係主義」の旧来的対立的地平を超えるものである所以の説述も本文の展開に俟たねばならないが、今茲で次の事実に留意を求めることは許されるであろう。それは近代知における実体主義の“最大の拠点”であった物理学において、実体主義から関係主義へのドラスティックな推転が夙(「つと」のルビ)に生起しているという事実である。顧みるに、近代の物心二元論的実体主義のうち、実体主義的霊魂観は早くから自家崩壊の兆しをみせていたが、自然諸科学わけても物理学に支えられて、実体主義的物質観が久しく堅固であった。しかるに、その物理学において、今世紀を迎えると相対性理論や量子力学にみられるように、実体主義的存在観が自己否定され、関係主義的存在観が基調となるに至っているのである。(尤も、現代物理学においても実体主義が完全に払拭されているわけではない。実体主義的パラダイムと関係主義的パラダイムとがまだ混在的に併存しており、茲にいわゆる“現代物理学の危機”的紊乱(「ぶんらん」のルビ)が生じているのが実情である。とはいえ、認識論的・存在論的に分析してみるとき、関係主義的存在観が主潮的趨勢になっていることまでは瞭然としている。この件については、別著『科学の危機と認識論』一九七三年 紀伊國屋書店刊、『相対性理論の哲学』一九八一年 日本ブリタニカ刊、『事的世界観への前哨』一九七五年 勁草書房刊、における主題的論攷を参看されたい)。この際、数学に始まり、言語学や文化人類学などの人文・社会系諸科学に亘る「構造主義」の擡頭にも留目を求めることもできよう。構造主義はまさしく一種の関係主義的な存在観に立つものにほかならない。実体の第一次性という伝統的既成観念に対して関係の第一次性という存在了解を対置することは、常識的思念にとってはいかにも奇態に映ずるにせよ、諸学は今や揆(「き」のルビ)を一にして、実体主義から関係主義への推転を径行しつつある。関係主義的な存在観は、何ら特異なものでなく、むしろ、時潮の波濤であると認められてしかるべきであろう。」G-HP
(西洋哲学と東洋哲学の対質)「時に、実体主義に関係主義を対置するとあれば、読者のなかには、いわゆる西洋的「有の哲学」といわゆる東洋的「無の哲学」との対比を連想されるむきも成程あることかと想う。無の哲学はたしかに反実体主義的である。そして、無の哲学の或るもの、すなわち、大乗仏教哲学のごときは明らかに一種の関係主義的存在観に立脚している。・・・・・・仏教哲学に聊(「いささ」のルビ)かの関心を寄せるようになったのは関係主義的世界観を裡に固めて以後のことである。(仏教哲学に関わる卑見については、学僧吉田宏哲師との共著『仏教と事的世界観』一九七九年 朝日出版社刊 を参看されたい)。惟えば、早期に科学主義的唯物論の洗礼を受けた著者が、俗流実体主義の非を悟り、関係主義的存在観に覚醒したのは、一つには現代物理学の趨向による触発であり、もう一つにはヘーゲル・マルクスの哲学、就中マルクス哲学による嚮導(「きょうどう」のルビ)である。」HP
(世界観的次元でのパラダイム転換としての「事的世界観」)「管見によれば、人類文明はかなりの以前から世界観的次元でのパラダイムの推転局面――十七世紀におけるいわゆる近代的世界観への転換期に次ぐ新たな現代的世界観への転換期――を即自的に径行しつつある。茲に胚胎している新しい世界観的パラダイムを対自化し、可及的に定式化すること、これが哲学の今日的一大課題であり、この課題に対して著者なりに応える拙(「つたな」のルビ)い構案が謂うところの「事的世界観」である。」H-IP
第三段落――本書の展開の仕方(「事的世界観」の説述に体系的講述――弁証法的展開がアンターグランドで当為となること) I-I@ P
(体系的講述が当為となること)「「事的世界観」の説述は、宿痾となっている物的世界像の内在的批判と相即的にステップを追って展開するのほかなく、また関係者諸氏の叱正的協働を仰ぎたいと冀求(「ききゅう」のルビ)する心意から個別専門諸分野との接点を可及的に設けようと企てるため、卑見要綱風に式述する捷径(「しょうけい」のルビ)は期しがたい。爰に、体系的な講述が当為(「ゾレン」のルビ)となる。」IP
(狭義の意味での弁証法的展開手法を断念すること)「尤も、本書の場合、一貫した構想のもとに各巻・篇・章・節の論述を有機的に配位しているという意味では“体系的”であるにせよ、著者が別著『弁証法の論理』(一九八〇年 青土社刊)で謂う「弁証法的体型構成法」を必ずしも執っていない。弁証法的な体系的叙述周到に図ることは本書を余りにも厖大化するものと憚られることもあり、また読者の違和感を可能なかぎり防遏(「あつ」のルビ)する論述法を採ることが当面の上策かと想われることもあって、語の狭義における証法的展開手法によることは断念した次第である。」IP
(大枠の構図として弁証法的に展開すること)「但し、本書の大枠的構図は弁証法的になっている心算であり、或る階梯での断案が後続の階梯で“止揚”されていくことに留意願いたい。また、或る知見が「学知の反省にとっての(für uns)もの」であるか、本書では逐一明記する煩は避けているが、文脈からそれと判るよう設(「しつら」のルビ)えてある。この点にも留意いただきたいと念う。――尤も、本書では厳密な弁証法的展開になっていないかぎりでは、或る個所における当面の論脈上は不要とも念える立論が後続の個所にとって伏線や前提をなしているとか、或る個所における論述内容が後続の個所において補全されているとか、この域に留まっているのが実情と言うべきかもしれない。このため、同一主題に関わる論述が幾個所にも分散しているとの印象を与え、これでは、或る主題に関わる著者の見解を特定個所だけからは読み取れぬという不興を招くことかと惧れる。・・・・・・しかし、一見“分散”“重複”“補正”とみえる立論法も、単なる不手際ではなく、非才の著者としては熟慮のうえで採ったものである。事の当否はともあれ、意のあるところを汲んで頂ければ幸いである。」I-I@ P
第四段落――本巻の構成 I@-CP
(この項の問題設定)「本巻「認識論的世界の存在構造」についての趣意の一端を誌しておけば、本巻は、総じて認知的に展(「ひ」のルビ) らける世界現相の存在構造を主題とする。著者は、次巻で主題とする実践的世界と本巻の認知的(「コグニティヴ」のルビ)に展らける世界とを存在上(「オンシティッシに」のルビ)分断する所存ではなく、事柄の真実態に即すれば、認識論的世界は実践的世界の構造的一契機ないし射影的一断面にすぎないものと了解している。それにもかかわらず、敢て認知的世界現相をあらかじめ討究しておくのは、実践的世界を検覈(「けんかく」のルビ)して行くためにも、まずは認知的関わりにおける世界の存立性とそこにいちはやく胚胎している物象化の機制を認識論的・存在論的に分析しておくことが、叙説上の方法論的前梯を成すと考えてのことである。(読者のうちには、かかる迂遠な作業は無用でみなされるむきもあると惧れるが、著者の観るところ、次巻における役割行動論・規範論・制度論、ひいては亦、用在性(「ツーハンデンハイト」のルビ)論をはじめとする各種の有意義性(「ベトイトザームカイト」のルビ)論=価値論、等の展開にとって、本巻での作業が不可欠の前梯をなす。著者としては、社会的・歴史的・文化的形成態(「ゲビルデ」のルビ)に関する物象化論の本格的展開は、この作業を欠いては到底期しがたいと思料する所以である。)」I@ P
(本巻の直截的な課題)「本巻の直截(「せつ」のルビ)的な課題は、しかし、要言すれば、従来“認識論の構図的大前提”をなしてきた「主観−客観」図式(これは実体主義的世界像に由来するものであって、この前提的図式こそがこれまで認識論を理路閉塞(「アポリア」のルビ)に陥しいれてきた“元凶”である)を芟除(「せんじょ」のルビ)すべく、認識的世界の如実の四肢的存在構造を究明し、それに基いた新しいパラダイムのもとに「認識論のアポリア」を打開しつつ、認識のいわゆる間主観的=共同主観的妥当性(「ギュルティッヒカイト」のルビ)を権利づけ(「ベレティヒゲン」のルビ)、「事的世界観」の基底的構図(「ヒュポダイム」のルビ)をひとまず認識論的に定礎することにある。」I@-A P
(本巻の三篇構成)「本巻は――今此処で「目次」を一覧いただけると以下のコメントに好便であるが――三篇構成になっている。」IA P
(第一篇)「第一篇においては、便宜上「所知」の契機と「能知」の契機とを順次別々に配視したうえで、両契機の如実の連関的統一態たる世界現相の存在構造を究明する。ここでは、著者の所謂「四肢構造」論の骨格が呈示されるが、――意味の存在性格、能記と所記との象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)、視覚型認識モデルと触知的認識モデル、身体的自我の膨縮、視座的身体の脱自的共軛、認識の対他・対自的帰属、自己と他己との人称的分立、共同主観性=間主観性の存立機制など、後論に対して前梯をなすとともにおいて後論において敷衍(「ふえん」のルビ)的に充当さるべき論点を提出しつつ――認識の機制に関する既成観念的構図を排却し、認識論の新しい構案が予示される。(間主観性ということがいかにして存立し、人々が“一つの世界”をいかにして共有しうるか。その一つの世界はいかなるもので有り、いかにして成るか、認識論の今日的情況からして、著者にとって、当然、この問題に答えることが重要なモチーフの一つとなる。――間主観性=相互主観性存立構造は、現相世界の斯く現前することの可能性の条件Bedingung der Möglichkeitとして究明さるべきものであり、実践論的な討究を俟ってはじめて十全に闡明されるのであるが――本篇では、秘められたモチーフに即して言えば、前掲の問題に応える認識論的・存在論的な基礎的構制の暫定的呈示が図られている。このモチーフが第二・第三篇においても通底していることは附言するまでもない)。」IA P
(第二篇)「第二篇においては、まずは、旧来の認識論における「主観−客観」図式の排却を図り、いわゆる物心分離とそれに基づく「三項図式」が何を如何様に錯認することにおいて成立するか、その由来に遡って検覈し、翻って、旧来の認識論が閉塞路(「アポリア」のルビ)に陥いらざるを得なかった所以の構制を追認しつつ、新しい認識論の要件を確認する。(誤解なきように一言しておけば、認識について論考しようとするかぎり、能知的契機と所知的契機との反省的区別は必須であり、この区別は固(「もと」のルビ)より著者の卻けるところではない。「主観−客観」図式というのは、実体主義に淵源(「えんげん」のルビ)する構図のもとに、能知と所知とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断し、「認識対象−心的内容−認識作用」の三項図式を執るものの謂いである。「主−客」図式と単なる「能−所」構造との混淆なきよう留意を願っておく。) ――この篇では、さらに、概念論・判断論・真理論が、命題的事態の物象化の構制を配視しつつ展開される。従来、概念の意味にせよ、命題の主語述語構造にせよ、判断の全称特称の区別にせよ、実体主義的世界像を前提にして定式化されてきたし、判断の質的規定や様相規定はもとより判断の真理性も「主観−客観」図式を前提にして説明されてきた。これに対して、著者は、旧来の“定式”や“説明”の非を指摘しつつ、関係主義的存在観に即応する四肢的構造論の見地から、概念の実態、判断の意味構造、判断の質・量・様相、判断の真理性、等について、独自の説明を試みる。(このさい、いわゆる実体概念を函数態的に把え返すこと、従来「実体−属性」関係ないし「実体−実体」関係に応ずるものとされてきた命題の「主語−述語」関係を函数態的に再定式化すること、判断における肯定・否定を間主観的な場に即して対他・対自的に規定し返すこと、存在様相・認識様相・論理様相の再編的統合を試みること、認識の真理性を共同主観的な向妥当性・対妥当性とリンクさせること、等々が論件をなす。)・・・・・・本書当面の目論見からすれば、デッサンで自足するほかはない。反面では、それにもかかわらず、本篇の論述は煩瑣(はんさ)な議論にわたっている憾(「うら」のルビ)みなしとしない。著者としては旧来の認識論的パラダイムに対する批判に読者の理解を贏(「かち」のルビ)え、新しいパラダイムの認識論的有効性を顕揚したい心意から、時に応じては執拗な論述を事とした次第である。・・・・・・」IA-B P
(第三篇)「第三篇においては、事物の分節相や空間・時間の形象化から始め、事象的関係性の物象化ひいては実体化の機制を検討し、従来実体主義的に措定されてきた事物を関係態に即して規定し直したさいにも“事物の個体性”や“事象の自己同一性”が全く失われてしまうのではなく、新たな視角から再措定される所以の構制を闡らかにしたうえで、事的世界像におけるいわゆる客観的法則性の存在様相、いわゆる客観的実在の存在論的身分、存在の意味、さらには、いわゆる身心関係が概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)される。――これは物象化の基底的な次元と機制の対自化であり、事物論・事象論・空間論・時間論・法則論としては粗略以前的であるが(現に著者自身、続巻において精緻化することを予定している)、それでも猶反面では煩瑣の印象を与えることであろう。著者としては、しかし、物的世界像の構制に事的世界観の構制を対置しつつ、万象を関係主義的に再措定してみせる課題を一般論として負うているばかりでなく、次巻における実践主体(これは単なる“役割関係の束”ではない)のいわゆる個体性や当体的自己同一性を定礎し、いわゆる歴史の法則性を決定論・非決定論の対立地平を超えて弁証法的に措定する課題なども負うており、「実践的世界の存在構造」論への伏線としても稍々“煩雑”な議論にわたらざるをえなかった次第である。パラダイムの変換を期するにあたっては、非ユークリッド幾何学や相対性理論の故知を引合いに出すまでもなく、従前“熟知自明”と信憑されてきた基礎的諸概念の抜本的再検討が不可欠であることに鑑み、“煩瑣な立論”に敢て読者の諒解を乞いたいと念う。」ICP
第五段落――学説史的回顧や個別的論判に及ばないこと IC-D P
(この項の問題設定)「尚、本書の論述においては、既成の諸理説を極端に類型化して分類・定位することはあっても、学史的回顧や個別的論判に及ぶことは一切割愛してある。先哲からの断簡を援用することはあっても、それは叙述の便法的一具としてにすぎない。生来懶惰(「らんだ」のルビ)な著者といえども、“哲学々”の悪習的伝統に泥(「なず」のルビ)む者として、渉猟に心掛けた経験がないわけではない。また、新しいパラダイムに基いた体系化を志向するからといって、先学の鴻(「こう」のルビ)業を顚から無視する者ではありません。個別的論点に関しては先学の知見に改釈的変更を施して摂取ものも決して尠なしとしない。本巻の場合特に第二篇の第二章においてそれが著じるしい。――判断論・命題論について言えば、「肯定・否定」論こそ著者に固有であれ(そして、この論点は、著者にとって、判断論における最大の鍵鑰(「けんやく」のルビ)をなし、また「思考=内なる対話」の間主観的構造を闡明(せんめい)する拠点をなすものとして、「有・無」論、「異・同」論と並ぶ枢要なものの一つであるが)、爾他は、個別的論点に分解してしまえば、先行諸学派の遺産中からの改作的に襲用したものが大半であると見做されうる。――とはいえ、元来のパラダイム的脈絡から分断して改釈を施した提題を先学に帰するのは却って誣(「し」のルビ)いる仕儀か憚り、本書の行文では逐一先学の名は挙げることは差控えた。(判断論において著者がどの先学からどの論点を継承しているかについて、先行諸学派との論判に即して説述した別著、例えば「判断の認識論的基礎構造」(『世界の共同主観的存在構造』一九七二年勁草書房刊所収)などを参看ねがいたい)。このため、巻末の索引は「事項牽引」のみとし、人名牽引は作成しなかった。」IC-D P
(著者が批判・改釈的に継承した先学名)「読者は、本書のうちに、著者が指名することなく批判の対象としている古今の先学名と併せて。著者が改釈的に継承している幾多の先学名を随所に読み取られることであろう。読者は本巻中、箇所に応じて、ヘーゲルやマルクスだけでなく、ヴィンデルバント・リッケルト、コーヘン・カッシーラー・ハルトマン、フレーゲ・マイノング・ラッセル・ヴィトゲンシュタイン、フッサール・ハイデッガー・サルトル・メルロ=ポンティ、の影を、時によっては、プラトンや龍樹の影をすら感知されることであろう。がしかし、著者としては、読者が本書を先学の座標系に射影して“理解”されることなく、著者自身の座標軸に即して統握されることを切望して止まない。」ID P
第六段落――各節・各項の展開 ID-EP
「本書は、各節の頭初に、梗概風の文章を配している。この梗概的提題は、本文との反照を俟たずしては妄言の感を免れぬことかと惧れつつも、謂うなれば“長大な標題”に準ずるものとして、各節の論件ないし論題を概観的に把握していただく便に資し得ると念う。/尚、本書の各節は、明示的には「項」に区分されておらず、従って「「項の標題」は欠いているが、原則として全て“三項”編成になっており、“項”の区劃を一行空きの印刷によって示してある。」ID-EP
第七段落――本著『存在と意味』と著者の他の著作との関係 IE-FP
(この項の問題設定)「茲で予(「あらかじめ」のルビ)め読者の諒解を得ておきたいのであるが、本巻中の若干の文章は、著者がこれまで独立論文の形で発表した文章と不文的に重複ところがある。それは、もとはと言えば、本巻用の未定稿の一部を利用して個別的論文を草したという経緯に由るものであって、著者としては本書の構制と性格からして、既発表の論材との重複も敢て回避しなかった。但し、歳月を閲(「けみ」のルビ)するうちに、著者の見解に微妙な変化を生じている節(「ふし」のルビ)々もあり、大趣は旧見のままであっても、本書において論点が改修されている例も尠なくない筈である。――これまで「意味的所知」という詞を用いてきたところを本書で「意味的所識」という詞に改めたのは「所知」という詞が従前「能知」との対(「つい」のルビ)概念と「所与」との対概念との二義性を帯びていた難点を除去しようとする技術的な配慮であって、これは別段、思想的内容に関わるものではないが、「向妥当」「事態」など、幾つかの術語的用語法の限定的使用は(本書においても止むなく「事態」「事実」といった言葉を日用語としても使用してはいるのだが)従前の術語的含意の欠陥を自覚的に是正したものである。――旧著と本書とのあいだに内容上の不協和が生じている諸論点は、言うまでもなく、本書に則って矯正されねばならない。」IEP
(本著の他の著作との関係と斬新さ)「読者のうちには、本巻は所詮、既発表の諸論文に盛られていた論点を“集成したもの”に過ぎないと看ぜられるむきもあろうかと想う。成程、卑見の大綱は二十年以上も前からほぼ固まっていたことでもあり、旧著『世界の共同主観的存在構造』『事的世界観への前哨』『もの・こと・ことば』所収の諸論文に拠って、慧(「けい」のルビ)眼な読者は、本巻における展開内容をいちはやく察知しておられたかもしれない。しかしながら、著者自身の自覚するところでは、本書においてようやく成案を得た論点も数多く、また、本書においてはじめて提出した論件も数少なくないのであって、本巻といえども決して旧見の単なる集大成ではない心算(「つもり」のルビ)である。蝸牛の歩みを愧じつつも、本巻のうちに鈍重なる著者の聊かの“新展開”を読み取って頂きたいものと願うや切であり、慧眼の余り、本巻を以って既発表の論点の単なる修正と目される読者におかれても、本巻が著者の“体系的”著述の劈(「へき」のルビ)頭部であることに免じていただきたいものと冀(「ねが」のルビ)う。」IE-FP
第八段落――謝辞 IFP
省略
緒 論
第一段落――長大な標題と問題設定 4P
「世界現相は、森羅万象、悉(「ことごと」のルビ)く「意味」を“帯び”た相で現前する。各々の現相は、その都度すでに、単なる「所与」以上の「或るもの」として覚知される。――これが本巻において著者の提出する第一の提題というより、理論的省察の出発点において、著者が読者と共有化したい最初の問題場面である。この問題場面の把握において若(「も」のルビ)し齟齬(「そご」のルビ)をきたせば、以下の論議は宙に浮いてしまう。それゆえ、ここであらかじめ、初発的問題構制の共有化を図っておきたいと念う。」4P・・・「表情論」との共振
(提題の精細の弁証法的吟味)「偖(「さて」のルビ)、前掲の提題に関して、早速、(a)現相は果たしてそのすべてが意味附帯的であるか? (b)現相における「所与」とはいかなるものであるか? (c)現相の「附帯する意味 」とはいかなる語義(「いみ」のルビ)であるか? (d) 所与と「意味」との(前者が後者「として」覚知される)関係はいかなる規定的関係であるか? (e) 遡っては、そもそも「現相」とはいかなる謂いであるのか? これら一連の問題が生じる。問題(a) (b) (c) (d) (e)は相互浸透的に複合しており、分断して答えることはできない。が、さりとて、一挙に解答することも期しがたい。(現に、本文においても、第一篇の第一章第一・第二・第三節、第三章第一節などの行文を通じて、これらの問題への回答が企てられている)。――ここでは、本論首章における煩雑な行文に対して事前に見通しを与えるべく、幾つかのステップに分けて、回答の輪郭を隈取っておくことにしよう。」4P
第二段落――「図」の分凝化(異化)と所与−所識成態 4-9P
(この項の問題設定)「読者のうちには、現相が意味を帯びているという提題に接するとき、ハイデッガー流の用在性(「ツーバンデンハイト」のルビ)を連想されるむきもあるかもしれない。著者としても、世界が生の関心に応ずる用在性の相で展らけることを認めないわけではない。現に、第二巻においては用在的な有意義性を帯びて現前する世界現相から議論を再開する予定である。が、しかし、本巻においてはひとまず認知的(「コグニティヴ」のルビ)な視界に展らける世界現相に止目し、いわゆる知覚的分節(心理学者流にいえば「地(「グルント」のルビ)」を背景にしての「図(「フィグール」のルビ)」の分凝(「セグメンティション」のルビ))の存在構造から問題にして行きたいのである。(念のために書き添えれば、著者としては、まずは知覚的分節がおこなわれ、そのうえで用在的意味賦与がおこなわれるというような二段構えの機制で考えているわけではない。知覚的分節はすでにして用在的意味性を懐胎しているのが実態であると考える。が、ここでは敢て、実践的有意義性や価値的有意義性の契機は暫く捨象して、もっぱら方法的に、認知的現相に止目しようと努める)。」4-5P
(図を使っての「所与−所識」の論述)「議論を簡略に運ぶべく、左上に掲げた第1図および第2図を見て頂きたい。第1図を見るとき、単なる白黒図形としてではなく、それを<向き合った横顔> または<丈(「たけ」のルビ)の高い杯(「グラス」のルビ) >として覚知されるであろう。第2図を見るとき、単なる曲線図系としてではなく、それを<犬>として覚知される筈である。ここにあっては、さしあたり、「現相的与件」たる“白黒図形”や“曲線図形”が単なるそれ以上の<横顔> <高杯> <犬>といった「意味的所識」として覚知される、という構制を指摘できる。人は、眼前の“或る白黒図形”や“或る曲線図形”という直接的所与の契機と<横顔><犬>という意味的所識の契機とを、別々の契機として区別的に覚識しつつ且つ同時に両契機を一種独特の統一相で覚知するのであって、現前する現相は「所与」と「所識」との二肢的構造成態であるという言い方も一応は許されるであろう。」5-6P
(「煩雑」な行文になることの断り書き)「この例を暫定的な手掛りとして議論を進めたいのであるが、読者は、ここでいちはやく、余りにも些末かつ自明と想われる議論に辟易(「へきえき」のルビ)して、これ以上本文を読み進める熱意を失われるであろうか。著者としては、しかし、右に暫定的に指摘した「所与−所識」二肢構制は決して自明でないばかりか甚だ危険な陥穽(「おとしあな」のルビ)を秘めており、事態を正しく把えるためには、批判的に再定式化する必要があると考える。しかも、現相の二肢的構制を正しく把握することが、間主観性の存立機制にせよ、概念や判断の実態にせよ、記号の存立性にせよ、はたまた、客観的実在像・空間像・時間像などの存立実態にせよ、後論の全般にとって要訣をなす。著者に言わせれば、現相の二肢的構制の在り様を錯認するところから「主観−客観」図式や「三項図式」をはじめ、これまで認識論を袋小路に追い込んだ諸々の謬見が生ずるのである。それゆえ、今暫く御辛抱のほどを乞いたい。」6P
(「所与−所識」成態−意味的所識態)「嚮(「さき」のルビ)の暫定的な立言においては、現相的所与とは“白黒図形”とか“曲線図形”とかのごときのものとされ、このたぐいのものが直接的・単層的(「アインファッハ」のルビ)な所与であるかのように遇されている。だが、“白黒図形”“曲線図形”と指称されている対象的与件は、それが現相として現前するかぎり、(つまり、<横顔>とか<犬>とかいう意味性と区別して“斯々の図形”という分節相で一応覚知されるかぎり)、それ自身すでに「所与−所識」成態であって、厳密に単純な所与ではない、まずはこのことが指摘されねばならない。なるほど、常識的には、第1図においては、同じ(一箇同一の)白黒図形という所与が、或る時には<横顔>に見え、或る時には<高杯>に見えるのだ、という言い方をする。すなわち、横顔現相と高杯現相とは意味的所識性においては相違するが、所与は一箇同一である、という扱い方をする。が、しかし、一歩省察してみると、現相的所与が単純に同一であるなどとは言えない。心理学の実験によれば、視線の動き(例えば第3図(ルビンの図の乱れた線図)のごとき)に応じて、横顔に見えるか高杯に見えるかが岐れる。物理的図形としては一箇同一とみなされうるにしても、また、そこから発する反射光の物理的布置状態は一定とみなされうるとしても、だからといって、それの“見え姿”も一義的に一定とみなすわけにはいかない。横顔または高杯としての認知に先立つ“白黒図形”の所与的な“見え姿”が実は相違しているのである。われわれは、それにもかかわらず、これらの所与的な見え姿を一箇同一の「白黒図形」(いわゆる「ルビンの杯」なる一図形)として認知する。という次第で、「白黒図形」なる一箇同一の「白黒図形」(いわゆる「ルビンの杯」なる一図形)として認知する。という次第で、「白黒図形」なる一箇同一の所与が或る時には横顔相で或る時には高杯相で覚知される云々と言っているさいの「同一所与=白黒図形」なるものは、――第2図と第4図の“見え姿”は相違するにもかかわらず、それらの所与を同じ<犬>として認知しているのと同断であって――、実際には<同一の白黒図形>なる「意味的所識態」にほかならないのである。個々の見え姿という所与に即していうさいには、嚮に所与と称された「白黒図形」は<横顔>や<高杯>と並ぶもう一つの意味的所識態であって、単純な所与ではない。剴切には、それは或る所与的な“見え姿”が<白黒図形>として覚知された「所与−所識」成態だったのである。」6-7P
(射映相における「所与−所識」成態)「それでは、現相における第一肢契機たる「所与」とは、右に謂うその都度の如実の“見え姿”、すなわち、述語的に射映相(「アプシャットウング」のルビ)と呼ばれるものの謂いであるのか? 原理的次元で答えれば、再び「否(「ノン」のルビ)」である。著者は、何かしら固定的な所与というものが自存していて、それが意味的所識と偶々関係する、といった実体主義的発想を採るものではない。それゆえ、“射映なるものがとりも直さず所与である”というたぐいの固定的・硬直的な規定は採らるべくもない。「所与」はあくまで「所識」との反照的な相関規定に即して措定される。或る位層での「所与−所識」成態(つまり、裸の所与ならざる、既に意味的所識を懐胎している成態)が高位の意味的所識に対して「所与」の位置に立ちうる。このかぎりで、先の「ルビンの杯」のごとき「白黒図形」と称される「所与−所識」成態が<横顔>や<高杯>という高位の意味的所識に対して第一肢的「所与」の位置に立つとみなされうる場合があることを著者は承認する。・・・・・・原理的には単層的な“所与自体”ではありえない。」7-8P
(「所与−意味的所識」の二肢的構造成態と窮局的な「所与」を現相“以前的”な次元に求めること)「こうして、・・・・・・「所与−意味的所識」の二肢的構造成態であることを指摘しつつ、窮局的な「所与」を現相“以前的”な次元に求める。」8-9P
第三段落――「所与」それ自身の措定 9-17P
(この項の問題設定)「爰(「ここ」のルビ)に、今や、“原基的な射映現相”がそれの現識態であることの「所与」それ自身なるものを措定しようとすれば、それは、現相的に現前する与件の“平面”を超出した準位に求められるべき所以となる」9P
(連想される二種類の既成理論)「読者は、ここで直ちに、二種類の既成理論を連想されることであろう。第一種は「所与」自体をいわゆる客観的な物理的実在と考えるものであり、第二種は「所与」自体をいわゆる生体の生理的な一状態であると考えるものである。これらの既成理論にあっては、いずれにせよ、現相的に展らけている現識世界は(いかに身体外部的に現前していようとも)所詮は主観的な心象風景にすぎないものとみなされてしまうのが普通である。――われわれ自身の採るべき見地を対自化するための方便として、これら両種の既成理論に聊(「いささ」のルビ)かコミットする作業を挿んでおこう。」9P
(第一の種類「物理的実在」説の検討)「第一の「物理的実在」説は、元来、われわれの問題関心と異なり(つまり、「所与−意味的所識」の二肢的構制を遡行的に説こうとするものではなく)、一箇同一の対象的与件が様々な射映相で映現するという日常的覚識を追認的に伸長した理説である。慥(「たし」のルビ)かに、日常的意識においては、事物にせよ人物にせよ、一箇同一の対象が様々な“見え姿” <射映相>で映現するように覚識される。裏返して言えば、その都度に知覚される“見え姿”は、一箇同一の同じ対象が呈し得る様々な射映相の一つの在り方であるように覚識される。更に言い換えれば、或る与件的対象が、今、たまたま現に見える射映相で近くされている(「所与対象」が今「現に見る“見え姿”のもの」として知覚されている)という仕方で覚識される。この日常的意識は決して謂われなしとしない。だが、この日常的意識の場面で、射映相こそ相違するが対象的与件としては一箇同一のもの(種々な見え姿を呈する一箇同一の対象)とされているのは、存在論的・認識論的にみて、一体いかなる“身分”のものであろうか? それは「ルビンの杯」において、“見え姿”は横顔・高杯と相違しうるが対象的には一箇同一の与件とされる「白黒図形」などと同趣のものではないであろうか? 「ルビンの杯」は、見る角度や光線の具合となどに応じて様々な射映相を呈しはするが、なるほど、一箇同一の<白黒図形>として認知される。だが、この<白黒図形>というのは、諸々の射映相での知覚的与件が斉しくそれとして覚知される「所識」なのであって、現相世界を超出する“所与自体”ではない。それは<横顔>や<高杯>という所識に対して所与の位階に立つものと(或る種の論脈において)見做されうるにしても、<白黒図形>という所識態は一概に下位的とはいえず、省察の仕方によっては、横顔や高杯という射映的現相与件の上位に立つ高次の意味的所識であると見做されることもできる。「白黒図形」といった次元での所識態がその都度の諸々の射映現相の下位に立つ所与であると見做す日常的覚識は、省察してみれば顚倒(「さかだち」のルビ)しているのである。――以上の指摘は、しかし、さしあたり日常的覚識の準位に即したものであって、学理上の「所与=物理的実在」説に対する批判は如上では尽きない。尤も、心理学などにおいて「外的所与」が「物理的実在(物理的刺戟本体)」として論じられる場合など、それの存在論的・認識論的な“身分”を検討してみると、先の(一箇同一の反転図形「ルビンの杯」と呼ばれる)物理的存在としての「白黒図形」と同趣のことが多い。因みに、物理的存在としての太陽や月と言っても、それはさしあたり様々な見え姿が一箇同一のそれの諸射映として統握される或るもの、正確には、一群の射映相が一箇同一のそれとして覚知とれる「所与−所識」成態であって、「白黒図形」と同趣であれ、現相的世界を超出する“所与自体”ではない。また物理的実験を通じて確定される諸定在とか諸性質のごときも、結局は、実験的観察の場で現前する射映相を統一的・整合的な仕方で説明しうべく統握的に措定される与件的対象であって、原理的には「白黒図形」と同趣の構制に俟つものである。(なるほど、物理的実在それ自身は白とか黒とかのごとき現相的に現前する規定性を有せぬ或るもの、感性的知覚の原因となりうることはあってもそれ自身は感性的現相に属せぬ或るもの、そのような与件と措定される。それは“現相的平面を超える客観的実在たる所与そのもの”として措定される、と言うこともできる。がしかし、そのような所与として措定され、覚知されているかぎり、それは単なる“所与”ではなくして、一定の意味を帯びた「所与−所識」成態になってしまっている。人が、一切の意味的所識を削ぎ落とした裸の与件を云々したとしても、そのような或るものとして覚知・措定されているかぎり、「所与−所識」成態という構制がつきまとう。)このように誌すとき、読者のなかには、著者が悪しき観念論の立場を採って、物理的実在の存在を端的に否認しとしまおうとしているのではないかという嫌疑をかけられるむきも生ずるかもしれない。だが、それは誤解というものである。物理的実在と称されるものの存在論的・認識論的な再検討こそ必要であるが、著者は本文中において、それの“身分”を確認しつつ、物理的実在なるものにしかるべく所を得せしめる。今ここでさしあたり指摘しているのは、物理的実在をしかじかの所与として云々するかぎり、そのさいにはすでに“物理的実在=所与”がしかじかの所識態になってしまっていること、従って、謂う所の“物理的実在”が現相的世界を端的に超出する“所与自体”ではありえないということ、このことまでである。(無用の誤解を防ぐべく、後論を先取りして一言しておけば、著者の謂う「現相世界」は決して主観的・心理的な心象界の謂いではないし、「意味的所識」は断じて主観的・心理的な心象のごときものではない。「所与=物理的実在」論者たちは現相世界を“主観的・心理的な心象的内容”と見做しがちであるが、“客観的外界”と“主観的内容”とを論者たちの流儀で截断すること自体、著者の見地からは、排却さるべき錯誤なのである。それでは、“客観的物象界”と“主観的心象界”とを単純に接合した総計が「現相世界」なのかといえば、これもまた否(「ノン」のルビ)である。このたぐいの既成的発想の構図そのものの非を見定めるためにも、われわれは「所与−所識」構制の真実態を把握しなければならない。) ――翻って、“哲学的”に省察する「所与=客観的実在」説にあっては、“客観的所与”を以って“しかじかの規定性を具えた実在”と言うときには、それは既に所識態(“所与−所識”態)になってしまうことを自覚しつつ、“所与”それ自体は実在するとは言えても、それがいかなる(規定性を具えた)ものであるかは不可知・不可言であると唱する。ここにあっては「所与」それ自体は不可知な或るものだと主張されるわけである。このタイプの議論が登場するのは、アリストテレスの場合、カントの場合、ラスクの場合、ハルトマンの場合……を顧みるまでもなく、しかるべき理由があり、顚からこれをナンセンスだと決めつけるわけにはいかない。われわれとしても、「所与」なるものが自存するかのように言うとすれば、それは不可知の第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)としか言いようがない。がしかし、それは「所与」なるものが自存するかのように思念するかぎりのことであって、独立自存の所与項が実在するわけではない。われわれの見地から言えば、論者たちが不可知な「所与自体」を措定するのは、現相はそのつど或る自存的対象の一つの射映相であるとみなす思念的構図の埓内で“論理整合的に”推論する所以である。が、実は、論者たちが出発点として追認する日常的覚識が、嚮に指摘した通り、射映的原基相の上に立つ「高位の所識態」を射映的現相以下的な「低位の所与」の位置に据える倒錯なのである。――このようにみてくるとき、われわれは「所与=客観的実在」説が登場する事情に一定の理解を示しつつも、論者たちの謂う「超越的な客観的実在」を以って窮局的な「所与自体」とみなすわけにはいかない。われわれは、悪しき観念論者ではない以上、われわれなりに規定し返した「客観的実在」が一定の論脈において「所与」の位置に立ちうることは認める。が、物理的な客観的実在自体が窮局的所与にほかならないという理説(そして、この物理的所与が射映的現相となって映現すると唱する理説)は、それがいかに常識的思念の線を伸長したものであれ、(所謂“物理的実在”とやらの存在論的・認識論的“身分”に鑑み、また論者たちが物理的実在自体なるものを現相界の外部に括り出すのに伴って「現相界」を“主観的・心理的な心象的内界”と改釈してしまう非を見咎めるが故に)、これを厳しく卻ける。」9-12P
(第二の種類「所与=生理的実在」説の検討)「第二の種類「所与=生理的実在」説の検討に茲で移ることにしよう。此の説は、元来は、「所与」の何たるかを追尋するものではなく、現相の在り方が身体的な過程によって媒介的に規定されている事情を説明しようと図るものである。謂う所の“身体”はさしあたっては現相世界の一分節体として登場し、その場面でいちはやく現相世界の射影的様態が“身体”の在り方によって媒介・規制されていることが現相世界内的に対自化されるのであるが、軈(「やが」のルビ)ては、物理的実在としての身体なるものが現相世界から括り出されるようになる。そして、一方における物理的実在としてのこの身体の内部的過程と、他方における、今や単に心理的なものと改釈される射映的現相、これら両者のあいだの関係が問題にされることになる。「所与=生理的状態」説が理説として成立するのは、物理的存在と心理的存在とを二元化して設定する地平においてである。われわれは、物理的存在界と心理的存在界とを論者たちの流儀で截断すること自体に批判的であるとはいえ、現相界が“身体的過程”によって媒介的に規制されていることは認めうるし、論者たちの議論にも大いに参酌すべきものがあるので(詳しくは第三篇の論脈で論ずるが)、「所与」とは何であるのか(ないしは、むしろ、われわれの謂う「所与」とは何でないのか)を予示する当面の立論に必要なかぎりで、此説に論及しておく次第なのである。――議論の手順として稍々迂路を介したいのであるが、一昔いな二昔前の心理学においては、身体を宛かも自動的な変換器のように遇しつつ、一定の物理的刺戟が外部から与えられると、身体的過程を介して、それが一定の感覚となって現成するかのように了解していた。そこでは、“所与的刺戟”が“現識的感覚”として感知されるという構図、しかも、一定刺戟には一定感覚が対応するという構図が立てられていた。この「恒常仮説」は、しかし、万人周知の通り、ゲシュタルト心理学によって夙(「つと」のルビ)に卻けられるに至った。だが、人々は果たして恒常仮説に類するモデルを完全に払拭し得ているであろうか? 人々は、かつての「恒常仮説」は極端に過ぎたと言って卻ける。だが、例えば、赤色の感覚にはしかじかの波長の光刺戟が対応し、緑色の感覚にはしかじかの波長の光刺戟が対応する、という具合に、人々は、依然、“一定の所与的刺戟”が“一定の現識的感覚”として覚知される、という構図で考えがちではないか? (因みに、このような既成観があるため、われわれの謂う「所与−所識」関係、「所与が単なるそれ以外の或るものとして覚知される」という構制についても、原基的・最下層の射映的現相の場合、“刺戟所与−感覚射映”という二項関係を想定しているのではないかと誤解されかねない。原理的には、われわれは勿論このような想定を断乎として卻ける)。ここで前掲五頁の第1・第3図を想起されたい。物理的な光刺戟は一定であるとみなされうるとしても、感覚主体が現実に受容する刺戟(現実的刺戟)は一定ではないのである。それでは、多少の修正を施して、“外部からの物理的刺激”そのままではなく、「感覚主体が現実に受容した刺激」を以って所与的刺激とみなし、この「現実的所与刺激」と感覚現相とが一義的に対応していると考え直しては如何? それでも不可である。前掲の第5図を見て頂きたい。読者はおそらく白い扇状の奇妙な図形を看取されるであろう。第5図をしかるべき色で描けば、扇も着色して見える。だが、この扇と直接に対応する刺激は存在しない。知覚の“部分的要素”とを一対一的に対応づける流儀で「現実的受容刺激」と現認される「感覚」とを対応づけようとしても無理なのである。“要素的知覚”は“要素的刺激”のストレートな刺激ではなく、強いて言えば、“刺激的布置状態の函数”なのであって、一定の刺激的関係態が宛かも自存的な“要素的知覚”相で感知される。それゆえ、“受容された一定の要素的刺激”と“現識される一定の要素的知覚”とを恒常的に対応づけることすら断念しなければならない。所与刺激と現識感覚とを要素主義的に一対一的に対応づけようとする試みがそもそも成り立たない所以である。不可なのは要素主義的な対応づけだけではない。「受容された求心性の刺激」、この「受動的与件」と「感覚」との対応づけそのことが不可なのである。例えば、重さの感覚は、受容された刺激に応ずる関節や筋の緊張に照応するかのように思われ易いが、(McCloskeyが一九七八年に発表したかの有名な実験の所見によれば)重さの感覚は物を持ったり手を動かしたりするために脳中枢から発せられる遠心性の指令に応ずるものである。視覚上の方位置その他の感覚についても、Machが旧くから実験的観察に基いて「神経興発(「インネルヴァチオン」のルビ)」説を唱えていたことは想起するまでもあるまい。こうして、刺戟と感覚とを直接的に対応させることが土台無理という省察のもとに、といっても学史上の事実としてはかかる省察の深化とは一応独立の論脈から生じたものではあるが、生体なかんずく脳の一定の状態(これの形成にとって外的刺激の受容が機縁的一動因になるとしても、これは受容刺激によって、一義的に決定されるわけではない)と意識状態をとを対応づける理説が登場する。これが「所与=生理的状態」説にほかならない。――以上、われわれは「所与−刺激」説とも呼ぶべきものの検討という長大な迂路を介したことによって、今や「所与=生理的状態」説の論判は簡略に済ませることができる。此説は、生体わけても脳の生理学的状態という与件がいわゆる意識現象となって映現すると主張する。がしかし、此説に謂う“所与的状態”なるものは、謂う所の“意識現象”をアド・ホック(暫定的)に、つまり、現相をそのつど適合的に“説明”しうべく措定されたものにほかならない。われわれは、この措定が全く無根拠であると言うには及ばないし、この措定がナンセンスであるとも言わない。われわれ自身、或る種の論脈ではそのような措定を要請されもしよう。だがしかし、此説に謂う“所与的状態”は、その存在論的・認識論的“身分”を検討してみるとき、一群の射映的現相(但し、論者たちにあってはこれは単なる意識現象と改釈されている)をそれの所識態として統一的・整合的に認定するという構制において措定されたものであって、嚮の物理的実在と結局は同趣である。それゆえ、われわれとしては、「生理的状態」なるものを以って、現相的世界を超越するがごとき「所与自体」とするわけにはいかない。」12-15P
(二種のまとめ)「こうして、われわれは、原基的・最下層の現相的所識態の基底にある“窮局的な所与”なるものを「物在的実在」に求めることも「生理的状態」に求めることも不可能なことである。われわれとしては、基底的な「所与」を以って「物理的実在」とするものでもなければ「生理的状態」とするものでもない。」15P
(「所与」とは積極的には何であるのか?)「それでは「現相的世界における原基的な位層である射映的所識態」に対応する「所与」とは積極的には何であるのか? 読者は、この件を問い進める前に、却って、射映的現相の位階で停止すべきだと考えられるであろうか。現相的世界は「所与−所識」の多層的な成層をなしているにしても、射映的現相というその最下層はもはや純粋の所与であって単層的である云々。この立場を執るとき、原基的現相の基底に「物理的実在」や「生理的状態」を据える構図の排却と相俟ち、「所識」の性格規定いかんによっては、一種のフェノメナリズム(現象主義=現象一元論)に帰趨する。ところで、フェノメナリズムが現相世界を以ってレアールな単層的存在と見做すのに対して、著者が現相世界を「レアール・イデアール」な二肢成態として規定するかぎりでは、著者は成程フェノメナリストではない。が、しかし、現相世界の外部に超越的実在を想定しない点では、著者の立場も、一種の「亜フェノメナリズム」と目される。著者は「射映的現相」といえども「所与−所識」成態である旨を主張するとはいえ、「所与自体」を現相的世界の超越的外部に求めるわけではないのであって、この意味では「射映的現相の位階で停止」する者と自称しうる。――先の行文中、著者は慥かに「窮局的な所与は現相“以前的”な次元」に求めざるをえない旨を云々し、そこから「物理的実在説」や「生理的状態説」の検討に移ったのであったが、著者が「現相“以前的”な次元」と言うのは必ずしも「現相界を“超越する”次元」の謂いではない。現相的世界の原基層たる射映的現相が既に「所与−所識」成態であるとすれば、そして現相にとって「所与−所識」二肢性が構造的要件であるかぎり、原基的成態の構造的契機たる“最下位の所与”はもはやそれ自身で如実の現相であることは論理的に不可能事である。この論理的構制に鑑みて「現相“以前的”な次元」と上述した次第なのである。だとすれば、基底的な所与は“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)的な無(「ウーデン」のルビ)”としか言いようがないのではないか? 或る意味では然りである。高位の「所与−所識」成態の場合とは異なり、原基的・最下位の「所与−所識」成態においては「所与」を如実の現相のかたちで現認することは不可能であり、たかだか「所識」との相関項としか言えない。それにもかかわらず、射映的現相における「所与−所識」の二肢性を掲言するのは、事実の問題として、原基的射映現相にいちはやくみられる構造的な特質に定位してのことなのである。――この間の事情を説明するためにも、今や「意味的所識」の側に一たん視線を向け変えるべき次序である。」15-7P
第四段落――「意味的所識」の措定 17-23P
(この項の問題設定)「現相における第二肢的契機たる「意味的所識」とは、さしあたり、「所与」がそれ以上・それ以外の或るものとして覚知される「或るもの」であって、――ここでの「現相的所与−意味的所識」の二肢的構制に拠っていわゆる記号としての「記号」も存在可能になるのであり――、所与的能記に対する所識的所記(「シニフィエ」のルビ)の契機を成すものと言うことができる。が、このさい、「意味的所識」は、それを独自自存の項(「もの」のルビ)として扱おうとするかぎり、レアールな「所与」とはおよそ別異な存在性格(すなわち、哲学者たちがプラトンの「イデア」に因(「ちな」のルビ)んで「イデアール」と呼ぶ特異な存在性格)を呈することに先(「ま」のルビ)ずは留目されねばならない。尤も、イデアールな存在などという宛かも形而上学的な存在であるかのごとき相貌を呈するのは、「意味」なる項(「もの」のルビ)を自存化させる物象化的錯認と相即するものであって、われわれは、やがて、この物象化の機制を自覚的に剔抉することにより、「イデアールな意味的所識なるもの」が自存するかのごとき錯認を止揚する。ここでは、しかし、当の錯認を卻けるためにも、ひとまず“もの化”された相での意味的所識を瞥見しておかねばならない。」17P
(既成的「意味論」の滅却)「偖、「意味的所識」を「所与=記号的能記」に対応する“所記的意味”と称するとき、読者は直ちに、幾つかの既成的な「意味論」を思い泛かべられることであろう。がしかし、著者の謂う「意味」は、おそらく、読者の連想される既成理論においては、意味とは、@記号で指示される対象的事物、A記号的所与を機縁にして連合的に泛かぶ心像的観念、B記号的所与を刺戟として解発される行動、C記号を止揚する規則、等と説明される。が、著者に言わせれば、「意味=事物説」「意味=観念説」「意味=行動説」「意味=規則説」、これらはいずれも「意味」の本質規定としては失当である。(尤も、これらの意味論が登場し、一定の支持を受けるのは謂われなしとはしない。著者としても、記号論としての記号論の場面では、これらの意味観にしかるべく所を得せしめるが、それも、意味の本質を著者流に規定することを前梯にしてのことである。意味の見地からは、論者たちの謂う「事物」「観念」「行動」「規則」そのものを存在論的・認識論的・意味論的に規定し返す必要がある)。――前掲の既成諸理論においては、一方における記号的与件なるものと他方における意味なるものとが“離れ離れ”に、謂うなれば“別々の場所”に在るかのごとき了解の構図になっている。しかし、「意味的所識」は「現相的所与」と“別の場所”に在るわけではない。(但し、著者としても、所与と意味とを宛かも離在相扱いうる場合があることを認めるというより、著者本来の立場からは“離在的か・合在的か”という空間化された問題設定そのものが卻けられる。が、ひとまずは、行論の便宜として、敢て合在的に措定しておく次第である)。記号的な「能記−所記」関係ということに纏(「まつ」のルビ)わる既成観念を減却して、単に現相の如実態に止目していただきたい。」17-8P
(もう一つの知覚的所与と意味的所識)「爰で、前掲の第2・第4図(五頁)を見て頂くと便利であるが、人はこれらを端的に<犬>として覚知するのであって、知覚的所与と別に(離在的に)意味的所識が泛かぶわけではない。――なるほど、この絵とは別の“犬の心像”が“離在”的に泛かぶ場合もあろう。が、当の表象的心像がそのまま眼前の所与的画像の意味なのではない。絵像とその“実物”が見較べられるような場合もやはり同断であって、“実物”がそのまま意味なのではない。画像がそれとして端的に(合在的に)覚知される当の<或るもの>と“実物” (正確には或る知覚的与件)がそれとして端的に覚知される<或るもの>、この<或るもの=意味的所識>が同一なのであり、この同一性を介して、画像と“実物”という別々の二つの与件が「写像−原物」として関係づけられるのである。離在的に在るのは、画像という所与と並ぶもう一つの所与(正確には、「画像的所与−意味的所識」成態と並ぶもう一つの「“実物”的所与−意味的所識」成態)なのであって、意味的所識そのものが画像から離在するわけではない。(ここにおける本質的構制とそれによる媒介を看過しつつ、画像と“実物”とを短絡的に結びつけるところから「意味=事物」説が生じる)。眼前の画像とは別に表象的心像が泛かぶ場合についても、やはり、「画像−意味的所識」と並ぶもう一つの「心像−意味的所識」成態が覚識されるのであり、表象的な心像とやらがそのまま画像の意味的所識なのではないのである。(この間の機制を把握しえないところから、「意味=心像的観念」説が生じる)。――こうして、たとえ、“実物”的知覚射映や“心像”的表象射映が眼前の図的所与と並んで現出する場合があろうとも、それらはさしあたり副現象(もう一つの「所与−所識」覚知の与件)たるにすぎず、「意味的所識」は眼前の図かそれとして端的に(合在的に)覚知される<或るもの>それ自身に即して規定されねばならない。(この<或るもの>は、更(「あらた」のルビ)めて誌すまでもなく、副現象として現出しうる“もう一つの所与”においてそれが端的にそれとして覚識される<或るもの>にもほかならない)。」18-9P
「人は第2図を見るとき、何ら副表象を伴うことなしに、それを端的に<犬>として視る。この<犬>は明らかに単なる図像的所与以上の或るものである。では、この<以上の或るもの><犬>とは一体いかなるものであるのか? それは、意味的所識それ自身としては、心像的観念でも実物的事物でもない。が、果たしてそのような<或るもの>が存在しうるであろうか? 人々は、とかく、万象を物的存在か心的存在かのいずれに排中的に分類しようとする。言い換えれば、物的存在でも心的存在でもないような第三の部類の存在などというものは顚から認めまいとする。このような狭隘(「あい」のルビ)な存在を墨守するかぎり、今問題の<或るもの>は、慥かに、存在する余地がないように思える。だが、この<或るもの>、すなわち、現相における所知の第二契機たる「意味的所識」は、さしあたり、物理的存在でも心理的存在でもない第三の存在領域に一応求められ得る。われわれは、後に、「意味=第三の存在領域に属する一種独特の存在」という物象化的錯認を卻ける者であるが、当面の論脈で言えば、意味的所識は物的存在でも心的存在でもない独特の或るものである。」18-9P
(「意味的所識」が如何なるものであるかの具体的な追求という問題設定)「読者はここで、拙速な行論を遮(「さえぎ」のルビ)って反問されるかもしれない。「意味」は現相的所与そのものに内在している或る構造的“成分”ではないのか? 故にこそ“合在的”なのではないか? このありうべき懸念に応えつつ、「意味的所識」がいかなるものであるかを具体的に追求して行くことにしよう。」20P
(具体的な追求の展開、所与の相違性にもかかわらず同じそれとして覚知される<或るもの>についての論攷)「第2図と第4図とを見較べるとき、人は斉(「ひと」のルビ)しく<犬>という意味的所識性においてそれを覚知する。このさい、第2図と第4図とが、同一個体に関する二枚の絵と見做されるか、それとも別々の個体に関する絵と見做されるか、この相違は、同じく<犬>といっても、実体的同一者であるか本質的同一者であるかという重要な問題に通ずるのであるが、ここではさしあたり、犬以外のものとの区別性において、斉しく<犬>として覚識されていることに留目すれば足る。第2図と第4図とでは、別々の二つの図であるという所与の区別性だけでなく、形や色の若干の差異性も覚識されるのであって、「現相的所与」は同一ではない。それにもかかわらず、これら異貌の現相的与件が、同じく<犬>として、同一の「意味的所識」性において知覚される。われわれとしては、ここで、所与の相違性にもかかわらず同じそれとして覚知される<或るもの>、この同一者を拠点として議論を運んでみよう。(断るまでもなく、直接的意識においては、恒に必ず「所与=相違的、かつ、所識=同一的」というわけではない。例えば「ルビンの杯」などにおいては、所与のほうが一箇同一の「白黒図形」であるのに対して、意味的所識のほうが<横顔>であったり<高杯>であったり相違しうる。但し、この場合にも、嚮に指摘した通り、諸々の横顔的射映相や諸々の高杯的射映相という相違性をもった一群の射映的所与を同じ<白黒図形>として覚知するというのが実態であって、単純に「所与=同一的」とは言えない。――われわれとしては、さしあたり自己同一的と思念される「意味的所識」が、<横顔>と<高杯>、<犬>と<猫>というように、他の意味的所識との関係では相互区別的な規定態であること、この件については後に立帰って論ずることにして、ひとまず意味的所識の“自己同一性”に定位して議論を進めておくことを許されるであろう)。」20P
(具体的な追求の展開、意味的所識の“自己同一性”に定位しての議論の展開) 「偖、今問題の<或るもの>、「意味的所識」は、第2図と第4図とで同一であるだけでなく、第2図をいろいろな角度から見た場合にも(所与的射映相は激変し多様であるにもかかわらず)やはり同一者たる<犬>である。この自己同一者が現相的与件とはおよそ別異な存在性格を呈していることは、多少とも省察してみれば直ちに確認できる。@射映的所与は光線の具合とか見る角度とかに応じて変化して止まないのに対して、意味的所識は自己同一性を保っており、一定不変である。すなわち、所与は変易的であるのに対して、所識的意味は不易的である。A所与は第2図と第4図というように特定の場所に局在するのに対して、意味的所識は第2図の所にも第4図の所にも第n図……の所にもありながら、しかも分散的に存在しているのではなく、自己同一性=単一性を保っており、謂うなれば、単一性を保ちつつ且つ随所に臨在している。所与は定場所的であるのに対して、所識的意味は超場所的である。B所与がそのつど特定の個別的存在であるのに対して、意味的所識は一群の現相のどれでもないが、しかし、どれでもありうるような、自己同一的普遍者である。特定のどれでもなく、それでいて、斉しくどれででもありうる斉同的一般者である。すなわち、所与が特個的な存在であるのに対して、所識的な意味は普遍的である。――これは洵(「まこと」のルビ)に特存在性格であると言わねばならない。物理的な存在であれ心理的存在であれ、よしんば同類項が多々存在するとしても、それらの項(「もの」のルビ)の各々は個別的存在であり定場所的であるし、万物流転の相にある時間的存在であって変易的である。「個別的・定場所的・変易的」であるということがレアールな存在の徴標であるとすれば、物的存在であれ心的存在であれ、いわゆる経験的存在はいずれもレアールである。しかるに、所識的意味は「個別的でなく・定場所的でなく・変易的でない」特異な存在、つまり、「普遍的・超場所的・不易的」な存在であり、非(「イル」のルビ)レアール=イデアールな存在と言わざるを得ない。けだし、或る学派の哲学者たちが、時間的・空間的な限定的規定性をもったレアールな存在との対比において、「意味」を「超時間的・超空間的」なイデアールな存在と称する所以である。われわれとしても、「意味」という「同一者」が現実に有るとするかぎり、所識的意味はイデアールな或るものであると承認せざるをえない。」21-2P
(「意味的所識」の函数的自己同一性)「「意味的所識」は、それがイデアールな存在性格、「普遍的・超場所的・不易的」な存在性格を呈するごとき或るものであることまでは判ったとして、具体的にはいかなるものであろうか。それは一群の所与が斉しくそれとして覚知される意味的同一者であるとはいえ、この同一者は所与群が共通に含有しているレアールな“成分”ではありえない。このことは、当の同一者=意味の存在性格からして既に明らかである。が、敢て具体例に則して駄目押しをおこない、それを手掛かりにして意味的同一者を積極的に規定する一具としよう。――人は、実物であれ、金製の像であれ、銀・銅・鉛製の像であれ、木製や陶製の像であれ、単なる紙上の画像であれ、それらの所与群を、斉しく<犬>として覚知することができる。そこには実質的な“共通成分”はおよそ存在しない。強いて言えば、犬らしい形が共通しているということになろうが、ここに謂う<共通な形>はまさにイデアールな範型(「パラディグマ」のルビ)=形相(「エイドス」のルビ)であって、決して文字通りの共通“成分”ではない。この形相は、どの像とも部分的にすらビッタリと重ねることはできまい。つまり、“成分”的にはおよそ“共通”ではないのである。人はここで形態(「ゲシュタルト」のルビ)心理学に謂うゲシュタルトを連想するであろう。謂う所の共通者=同一者たる範型(「パターン」のルビ)とは、さしあたり、一種のゲシュタルトにほかならない。形態(「ゲシュタルト」のルビ)は、メロディーの場合に典型的にみられるように、音質が全く違っても、また音の高さや強さが全く違っても、同じ<或るもの>として覚知される。レアールな成分は全く相違しても形態(「ゲシュタルト」のルビ)は“一箇同一”でありうる。ゲシュタルトそれ自身なるものが自存するかのように想定するとき、それがイデアールな存在性格を呈することは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。が、形態(「ゲシュタルト」のルビ)自体なるものが独立自存するわけではない。現実に存在するのは、そのつどの具体的な諸“成分”によって“充当”されたゲシュタルトである。ところで諸“成分”はいずれも可変的であり、謂うなれば「変項」がそのつど特定値で充当されている“変項値”に擬(「なぞ」のルビ)らえることができる。そして、ゲシュタルト全体はƒ (x,y,z……)という函数態的な在り方をしていると言うことができる。――爰で翻って惟うに所与現相群がそのつど相違しつつも斉しく同じそれとして覚知される「意味的所識」、かの「意味的同一者」は、まさしく各所与の具体的・レアールな諸“成分”によって“充当”されることの可能な「函数」的自己同一者にほかならない。(因みに「函数」それ自身は、更めて言うまでもなく、変項の諸々の“値”に対して「普遍的・超場所的・不易的」であって、イデアールな或るものである)。われわれは、こうして、「意味的所識」を「函数」的な或るものとして揚言することができる。」22-3P
第五段落――別群の現相との意味的相違者である所以のものの規定 23-28P
(この項の問題設定)「われわれは、以上で、「意味的所識」つまり、現相的所与が単なるそれ以上のそれとして覚知される当の<或るもの>、現相におけるこの所知的第二契機をイデアールな存在性格を有った範型(「パラディグマ」のルビ)的・形相(「エイドス」のルビ) 的・形態(「ゲシュタルト」のルビ)的な「函数」的な或るものと立言した。が、以上の行論では、意味的所識は、一群の現相における自己同一的共通者としては規定されていても、それが別群の現相との意味的相違者である所以のものがまだ規定されていない。今やこの側面を討究すべき段取りである。」23P
(対他的反照としての意味的所識)「偖、嚮には、<犬>という意味的所識は、宛かもそれ単独で、自己充足的に、自己同一的な或るものであるかのように論じた。がしかし、意味的所識は自己充足的に自己同一者であるわけではない。なるほど、人々は、<犬>は自足的に<犬>であり、<狼>は自足的に<狼>であり、……、各々の自己同一性を前提にして甫(「はじ」のルビ)めて<犬>と<狼>……との区別性も成立すると考えがちである。だが、この既成観念は抜本的な再検討に付す必要がある。――人々は一群の現相を所与的射映はかなり相違しても斉しく<A>として覚知し、また、或る現相群を所与的射映相は多分に相違しても斉しく<B>として覚知する。問題はここからである。人々がとかく思念するところでは、A群の各現相は、相互にかなりの相違点をもっているが、圧倒的に多くの共通成分を具えており、共通ではない成分的規定性はむしろ微々たるものにすぎない。そして、A群の現相とB群の現相のあいだには、多少の共通成分はありうるにしても、両者の成分のうち圧倒的大多数は著しく相違している。この故に、A群とB群とは、それぞれの内部に若干の相違点をはらみつつも、共通成分に徴して<A>と<B>に括られるのであり、大多数の相違成分に照らして<A>と<B>とが区別されるのである、云々。この考え方を洗練したものがAとBとは自足的に自己同一性を具えており、各々の自足的規定性に即して、まずはAがAとして、BがBとして規定され、そこでAとBとが区別される。という既成観念にほかならない。――論点を鮮明にする方便として、文字を引合いにだしてみよう。「犬」という文字と「大」という文字とは、共通成分もあれば相違成分もある。また、「犬」という文字と「犬」という文字とも、共通成分・相違成分をそれぞれ具えている。これら二組を比較してみるとき、「犬」と「犬」のほうが「犬」と「大」ょりも、却って相違成分が多く共通成分が少ないのではないか。「犬」をさまざまな手書き文字で置き換えてみればいよいよ事情が明白になろう。それにもかかわらず、われわれは「犬」と「犬」を同じく「犬」として一括し、「犬」と「大」とを相異なる「犬」と「大」として、区別する。同様なことが、(イ)生身の犬と生身の猫、 (ロ)生身の犬と木彫の犬、との二組についても言える。(イ)のほうは共通成分がはるかに多いのに両者を異立し、 (ロ)のほうは“共通成分”は僅少なのに両者を同じく「犬」として同立する。ここから判るように、<A>として一括するか、<A>と<B>として区別するか、これは共通成分の多寡とは直接の関係はないのである。要は、さしあたり、「示差的区別」の徴標的特性に懸っている。が、このさい、或る特性がそれ自身の固有的規定性のゆえに自動的・自足的に異立をもたらすのではない。同じ特性、例えば右肩の点が、「犬」と「大」とは異立せしめるが、「丈」と「𠀋」とは異立せしめない。学の有無が学者と無学者とは異立せしめても、学者と教師とは異立せしめない。或る特性(の有無)が示差的な“質的”区別規定として効(「はたら」のルビ)くか、非示差的な“量的”規定性たるに止まるか、これはその特性自体で自足的に決まることでなく、種別的な分類秩序体系という対他的反照関係に応じて甫めて決まることなのである。――この間の事情を把握するためにも、或る特性が示差的な区別規定性として効(「き」のルビ)くさい、その特性単独で<A>と<B>とか反照的に類別されるわけではないということに留意を要する。<A>と<B>とはそれぞれ諸々の規定性を具えた函数的一全体として規定されるのである。今、ƒ (x,y,z……) [但しz≠0]で表わされる第一の現相群とƒ (x,y,……)で表わされる第二の現相群とがあるとしよう。ここで、z=0を許容する場合には、第一群と第二群とは同類になる場合があり、そのようなものに関してはƒ (x,y,z……)で一括されうることになる。zが0の場合とそうでない場合とで示差的に類別するかどうかは、分類的関心に応じて決まることであり、自動的・必然的に帰結することではない。具体的例を挙げよう。人々は、同じく犬といっても、長い尾のものも居れば短い尾のものも居ること、この相違性を知ってはいるが、普通には、この相違は非示差的なものとして遇し、「犬」として一括する。ところが、<長尾犬>と<短尾犬>とを類別する関心のもとでは、先刻までの非示差的として閉脚していた尾の長短的差異を示差的区別とするようになる。このさい、長尾・短尾といっても極端なものと程々(「ほどほど」のルビ)のものとがあることを人々は知っているが、それは非示差的とされる。ところが、更に進んで、<特に長い尾の犬>と<程々に長い尾の犬>とを類別する場合には、それが示差的な差異とみなされることになる。所与の規定性が自動的・自足的に<A>なら<A>という分類的一括をもたらすわけではない。<A>なる「意味的所識」は類別的な対他的反照に応じて劃定されるのである。」23-5P
(前文の要言)「要言すれば、われわれは一群の現相を<A>として一括し、別群の現相を<B>として一括的に覚識するが、A群・B群それぞれの内部にさまざまな相違性があること、そして、A群とB群とのあいだに多くの共通性=同一性があること、このことを承知している。それでは、この群内差異性・群間共通性の存在にもかかわらず、各群の内部における共通性が圧倒的であり、かつ、他群との相違性が圧倒的であるが故に両群を括るのかといえば、そうではない。群内部での相違のほうが、視角いかんでは、他群との相違性よりも却って大きいことすら承知のうえで、敢て両群を類別するのである。――ここにおける論理構制を対自化すれば、A群は自足的な共通性・同一性の故に<A>として一括されるのではなく、ある徴表的な規定性に即して他群と類別されるかぎりで一括されるのである。裏返して言えば一群の所与現相を一括的に統握する「意味的所識」<A>の自己同一性なるものは、それが函数的な統一態であることからも察せられるように、硬直的な自同性ではなく、内的に諸々の差異性を孕みつつもそれが示差的な対他的区別性とされないかぎりでの、対他反照的な同一性である。意味的所識<A>は、自足的な自己同一性の故に<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に同一的な<A>とされるのである。」25-6P
(本論の四肢構造論への試走的提言――「所与−所識」の二肢的構造性と「能知的誰某−能識的或者」の二肢的構造性における間主体的共軛性)「ところで、意味的所識の対他的反照区別、類別的分化の在り方は、関心的態度の執り方に応じて規制される。そして、この主体的態度は生(「レーベン」のルビ)の関心によって規制されるが、その生的関心の在り方そのものが文化によって拘束され、間主観的に規制されている。従って、意味的分節の具体的な在り方は、文化的に規制され、間主観的=共同主観的に規制される。――これは、しかし、楯の半面であって、同時に事の半面、能知の間主観性(「インターズブエクティヴィテート」のルビ)ということが成立しうるのは、そもそも、対象的所知が「現相的所与−意味的所識」の二肢的構造を有つことに俟ってである。(「所与−所識」の二肢的構造性が能知的間主観性存立の可能性の条件をなしている)。能知とはさしあたり「所与−所識」成態たる現相的所知がそれに対して(「フェア」のルビ)現前する(帰属する)ところの者にほかならず、この「能知」は、人称的誰某として「対他−対自」存在であるかぎり、共軛的な自・他の区別的同一者であって、所識態を共有的に帰属せしめる者として、単なる人称的誰某以上の能識的或者(「能知的誰某−能識的或者」二重成態)として現存在する。遡って、能知が自己として人称的に対自化されるのは、現相的所識態の“この身体的自分”と“この身体的他者”とへの共帰属という共軛的関係態の対他・対自的分極化においてであり、茲に、自他的区別性にもかかわらず単一の意味的所識を共属せしめる能知として、自己は「自己としての他者=他者としての自己」という、他己との同一性を現前せしめる。能知が「人称的誰某以上の能識的或者」として現存在するのは、この機制に負うてである。こうして、能知の人称的対他・対自化にとって間主体的共軛性が存在条件をなし、当の間主体的共軛性の覚知にとって「意味的所識」の対他・対自的帰属が存立条件をなしている所以となる。――この件に関しては、しかし、本論における詳細な展開に委ねるのほかなくもこの「緒論」ではまだ立入るべき段ではない。」26-7P
(「意味の秘密」――真実には能知的契機と所知的契機との機能的連関態・関係的統一態がもっぱら存在すること)「われわれは、間主観性の問題を姑(「しばら」のルビ)く措いているかぎり、「意味的所識」の物象化の機制を爰で完全に剔抉することは期しがたい。とはいえ、次の点の指摘まではひとまず許されるであろう。それは、意味的所識なる客体が自存して、主体がその自存的な意味なるものを観取するのではない、ということである。レアールに存在するのは、能知が一群の射映的所与を同じ(或るもの)として覚識する態勢、他の部類との区別的反照における同一性の覚識(この同一性は部類内的な非示差的相違性の覚識を伴いうる)、この関係態にすぎない。しかるに、人が「主観−客観」二元図式を既定的前提としつつ、当の同一性の覚識には客体的同一者が相関的に対立しているはずだと思念するところから、(この客観性の意識は意味の間主観的同一性の覚識に支えられているのだが)「客体的に同一なものとしての意味」が要請されることになる。(客観的同一者が現認されるから同一性の覚識が成立するのではない。所与群内部的な相違性を現に覚知しつつも、それが示差的な区別ではないとして、非区別的に統握することを妨げられない覚識、このような“同一性”の覚識、厳格な同一性ではなく謂わば許容的差異の幅をもった“同一性”の覚識、間主観性に支えられたこのような覚識現相態が現存するだけである。しかるに、人は、この“同一性”を厳格な同一性に擦り換え、しかも、その厳格な同一性の意識が厳格な客観的同一者の現認に起因するものと思念する。) ――このようにして、“もの”化された相で「意味」という厳格な客観的同一者が一たん要請されると、それは厳格な自己同一性=単一性の故に、レアールな変易的所与とは端的に異なって不易的とされざるをえず、また、単一的=自己同一性を保ったままの所与に“臨在”するが故に、超場所的とされざるをえず、さらには、多様な特個的所与を汎(「あまね」のルビ)く通ずるが故に普遍的とされざるをえなくなり、ここに、当の“客観的同一者”たる「意味」は、レアールな所与とは存在性格を異にするイデアールな存在、超時空的存在という一種の形而上学的存在とされる仕儀になる。これが「意味の秘密」であって、イデアールな意味なるものが客観的に自存するわけではない。――このことを自覚したうえで、しかし、われわれ自身も一定の論脈では敢て日常的思念の構図に妥協して、イデアールな意味なる所知の第二契機を云々し、「所与−意味」の二肢的構造成体を云々し、現相の意味“懐胎”を云々しさえもする。が、それはあくまで叙述の便法であって、真実には能知的契機と所知的契機との機能的連関態・関係的統一態がもっぱら存在するのである。」27-8P
第六段落――残されている三つの案件他 28-34P
(この項の問題設定)「以上の行文には本論において着実に論及さるべき論件を拙速に論決した節々があり、読者の理解を直ちには得難い論点もあったかと憚かるが、如上の行論を携えて、先刻来構案として残している問題に一応の回答を試みる段取りである。」28P
(第一案件――現相的所与−意味的所識」の多階的成層における最下位の所与をめぐる問題)「残されている第一の案件として、「現相的所与−意味的所識」の多階的成層における最下位の所与をめぐる問題にまずは答えなければならない。――著者は、前述の通り、現相世界の順位内で現認されうる最下層・基底層は“射映的現相”であるとしつつも、この射映的現相といえども単層的な与件ではなく、既にして「所与−所識」成態であると見做す。この位階における「所与」は、論理上、それ自身としてはもはや現相でありえず、強いて言えば最下位の形相的意味の相関者たる第一質料としか規定できない。そこで生ずるのが、第一質料の措定をおこなうことなく、射映的現相(これにいわゆる“単純感覚”のごときをも含める)を以って、単層的な窮局的所与とは何故しないのか、という問題である。先に答えておいた通り、著者としては、射映的現相に関しては、それを単独に現識するかぎり、「所与」の契機を「所識」契機から区別して覚知することは不可能であることを認めたうえで、なおかつ、射映的現相といえども既に単層的ではなく「所与−所識」成態であるであると考えざるをえない事実に迫られて、敢て基底的な所与契機を想定する。それは如何なる事実であるか? 射映的現相といえども、いやしくも「図」(場合によっては「図」以前的な“図”)として分離しているかぎり、一種のゲシュタルトをなしている、という事実である。ゲシュタルトは、先に指摘した通り、イデアールな意味的所識を“懐胎”しており、もはや単層的な“レアールな純粋所与”ではない。このゆえに、射映的現相というゲシュタルト的分凝態は既に「所与−所識」成態と見做さざるをえない。このかぎりで“第一質料”を論理構制上(しかも事実的構造契機として)措定する次第なのである。――読者は、しかし、ここで反問して言われるかもしれない。「単純感覚」のごときは、射映的な現相であっても、ゲシュタルトとは言えないのではないか? 単純感覚の場合は如何? この疑念に対して懇(「ねんごろ」のルビ)に応答しようとすれば、いきおい、「所与=刺戟説」の流儀に仮託して検討せざるをえなくなるが(実際、本文中ではそれをも辞さないであろう)、しかし、「刺戟」を「所与」の位置に立てるのは、原理的には、前述の通り、ルビンの杯における「白黒図形」と同趣であり、却って上位の「所与−所識」態を倒錯的に下位に擬する所以となる。それゆえ、著者としては、「刺戟」なる所与を原理上の原基的な第一所与とは主張すべくもない。こうして、読者のうちには、途が塞されていると思念されるむきもありえよう。だが、著者としては、いわゆる“単純感覚”といえども、すでにゲシュタルト的存在性格を呈することを指摘する。そのためのイラストレイションとしては、生理学的心理学に謂う「汎化的同一視」や「慣熟的同一視」の現象を引合いに出すのが好便である。がしかし、これは所詮「所与=刺戟説」への仮託であって、原理的に採らるべくもない。そこで、原理的には、“単純感覚”でさえ「再認的同一視」や「較認的同一視」の可能性を即自的に有する事実に著者は訴える。けだし、再認的・較認的同定はゲシュタルト的「移調性」と相即するものであり、「所与=相違、かつ、所識=同一」の構制になっているからである。――だが、となおも反問されるかもしれない。単純感覚が再認されたり較認されたりするのは「所与」が全く同一だからではないのか? この疑念に対しては、再認における所与の時間的相違、較認における所与の場所的相違、これが与件内在的な規定性であるかそれとも、与件外在的な規定性であるかの検討(第三篇第二章参照)という複雑な作業に基いてのみ初めて答えうる。それゆえ、ここでは(そして第一篇第一章でもそれに止めているのだが) 、真のuniqum(唯一のもの)がもし存在するとすれば却って同定され得ないこと、同定の可能性をもつかぎり、それは或る“函数”(変項が単一である場合を含む)の“特定値”的定在であると見做されうること、このことを以って論者たちの謂う「単純感覚」ですら既にゲシュタルト的な「所与−所識」二肢成態である旨を論断するにとどめておく。――「単純感覚」に関しての最終的断案は姑く持越すの余儀ないとしても、以上によって、射映的現相という原基層が事実の問題として「所与−所識」二肢成体であると思料される所以の構制については表象していただけるのではあるまいか。そして、この位層での「所与」は(「所与=物理的実在説」「所与=刺戟説」「所与=生理的状態説」のごときが、上述しておいたように、いずれも存在論的・認識論的な“身分”に徴して、採らるべくもないかぎりで)さしあたり「第一質料」としか言いようがない所以についても、また、著者の場合、第一質料の立言にアクセントがあるのだということについても、とりあえずのところ諒解いただけたことかと念う。」28-30P
(第二案件――「所与」と「所識」との関係の問題)「残されているもう一つの案件として「所与」と「所識」との関係の問題がある。著者は「現相的所与」がそれ以上の「意味的所識」として覚知される此の「として」関係を「等値化的統一」と呼び、また、所与が能知に対して(「フェア」のルビ)所識的意味として妥当する構制を能知的主体の側に定位して把え返すさいには、当の「として」を所識的形相契機の所与的質料契機への向妥当化(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)と呼び換える。「等値化的統一」は、知覚の存立条件をなすばかりか、記号的意味表現を成立せしめる可能性の条件をなすものであり、向妥当化は判断的主語結合を成立せしめる原基的構制であり、「として」関係は論理学に所謂「自同律」を弁証法的に把え返すさいの鍵鑰をなすものでもあり(自同律がフィヒテからシェリングを経てヘーゲルにおいていかに把え返されたかを想起されたい)、こうして、それは、記号論・認識論・論理学にとって鍵鑰的重要性を有つものである。(実は、「等値化的統一」は単なる記号現象だけでなく、一般に、文化財における価値“懐胎”、実践の場における「有意義性」ひいては「役割存在性」の存立構制にも関わるものであり、本書『存在と意味』全三巻にとって基礎的概念装置をなすものである。現相的事実の問題としても「として」構制はいたるところ汎通的である)。そもそも、「として」関係は、著者の謂う「事」の基幹的構制を成すものにほかならない。それにもかかわらず、否、まさしくそれが汎通的であり基底的(「ベイシック」のルビ)であるが故に、それを伝統的手法での「定義」の形で式述することは不可能である。定義するさいには、それはしかじか(デアル)として定義せざるをえず、定義する側に定義さるべき当の概念含意するという循環的先取を犯す所以となる。因みに著者にとって、「として」は「デアル」よりも一層基底的なのであるが、定義不可能という事情の弁明の一具として引合いに出せば、「存在(「アル」のルビ)」という概念が定義不可能とされるのと論理構制上同趣である。「定義不可能」ということは、しかし、勿論、コミュニケイション不能の謂いではない。正確な理解を得べく試みることは可能でもあり、必須でもある。著者は本書の全般を通じてそれを追求するであろう。――この「緒論」においては簡略な式述を期すべくもないかぎりで、ここでは、「として」は一種独得な「異と同との統一」、ヘルダーリン・ヘーゲル式にいえば、「区別性と同一性との同一性」、しかも「レアール・イデアールな区別化的統一」である旨を誌すに止どめたい。」30-1P
(第三案件――著者の謂う「現相的世界」とはいかなる世界の謂いであるかという冒頭来の案件に答える段)「最後に、著者の謂う「現相的世界」とはいかなる世界の謂いであるかという冒頭来の案件に答える段である。著者は「現相(的)世界」ということで、何かしら日常的生活世界とは別の所に在る格別な世界を念頭においているわけではない。それは“われわれ”が日常的に内在しているこの世界にほかならない。「日常的生活世界」という詞を避けたのは、この術語(「テクニカルターム」のルビ)がいくつかの学派的先入見を籠(「こ」のルビ)めて受取られるのを虞(「おそ」のルビ)れたこと、唯それだけの理由である。既成の立場的諸理論の先入見を排却したさいに展(「ひ」のルビ)らける日常的生活世界の現相、これを指称する方便として、幼児の眼に現前するがままの世界という言い方もとりあえず許されるかと思う。――この言い方は、しかし、あくまでも暫定的なコミュニケイションのための象徴的標語であって、文字通りに受取られては全くのナンセンスになってしまう。一口に幼児といっても、三歳児と八歳児とではおよそ世界像が相違する。幼児といえども言語の習得にともなって既成の世界観におのずと汚染されている。仮りに言語的拘束性を免れたとしても、原始狩猟社会の幼児に展らける世界像と近代社会の幼児に展らける世界像とでは、およそ異貌であろう。それでは、いっそのこと、文化的に汚染される以前の新生児の知覚場面から始めては如何と言われるかもしれない。が、それは却って既成発達心理学の“学派的先入見”に身を委ねる仕儀となろう。われわれ自身、幾つかの具体的な問題場面では、嬰児期的体験層に遡って論攷する必要に迫られるとはいえ、全般的に新生児の知覚場面に定位する手法は後述する著者の目論見にそぐわない。要は、幼児の眼に映ずるということではなく、既成観念を排却して如実相を“虚心坦懐”に眺めることにある。――だが、果たして、既成諸学派の立場的先入見を完全に払拭して世界を眺めるなどということが可能であろうか。仮りに可能だとしても、それはたかだか既成的諸立場が暗黙・共通の了解事項としている基礎的な先入観を赤裸々に表白する域を出ないのではないか? 著者としては、既成の立場的先入見の完全な排却などということは、“心構え”としては言えても、実際には実現すべくもないことを承知している。仮りに、それが実現したとしても、そこに現出するのは“われわれ”の時代・社会・文化に相対的な基礎的な先入観の域を出ないであろうこと、このことをも先刻承知している。しかし、逆に、著者の当座の目論見からすれば、そのような基礎的な先入観と相即する世界現相を近似的にもせよ現前化することが好便であり、また必要なのである。」31-2P
(自覚的出発点としての「共通のそれ=与件」)「著者は、既成的諸立場の先入見を排却したさいに展らける日常的生活世界の現前相なるもの、それは抽象的な相ではかなりの普遍性をもつにせよ、たかだか既成的諸立場の共有する暗黙の前提的与件にすぎないと考えるのであって、この“不偏不党”の与件的現相こそが真実態であるなどと考える者では毛頭ない。従って、この“真実態”とやらを基準にして既成諸理論の“偏畸”を批判しようと企てる者でもない。著者は、既成の立場的諸理論が、そもそもの学理的省察の出発点にまで第三者的に遡ってみるとき、それを与件とし、それを問い返し、それを説明しようとして、各々の仕方で理論構築を逃げた「共通のそれ=与件」、これをあらためて自覚的な出発点に据えようとする」32-3P
(「現相的世界」としての単なる出発点ではなく終局点でもあり、不断の繋留点でもある「共通のそれ=与件」)「ここに謂う「共通のそれ=与件」こそ、とりも直さず「現相的世界」にほかならないと著者は考え、そこに出発点を据える。尤も、そこは、それが理論的省察の与件であり、それが問い返され、それが説明さるべき世界であるかぎり、単なる出発点ではなく終局点でもあり、不断の繋留点でもある。――「現相的世界」は、当座の与件的出発点としてそのまま受納されるのではなく、エンドクサとして、認識批判的な分析的討究の対象となる。著者は、これを独自的に分析するだけでなく、それに照らして、既成の諸立場、というより、さしあたっては既成のパラダイムが、当の与件の被媒介的存在構制を何故また如何に錯誤することにおいて成立したものであるかを追認し、この追認にもとづいて謬見を却けようと図る。けだし、著者にとっては、既成的世界観・認識観のパラダイムとの論判的接点を保有しつつ、かつ同時に、卑見を開陳する「現場」として「現相的世界」への遡向的定位が要件となる所以である。」33P
(「現相的世界」の全体像をヴィヴィッドに描出しておくことがかなわぬこと)「読者は、爰で、「現相的世界」の措定が著者にとって有つかかる重要性に鑑み、著者があらかじめ方法論的な手続を踏んで「現相的世界」の全体像をヴィヴィッドに描出しておくことを要求されるであろうか。それがもし遂行されるとすれば、既成的観念によって混濁された相での現実の“日常的生活世界”に諸々の「判断停止(「エポケー」のルビ)」や「括弧づけ(「アインクランメルング」のルビ)」を施すという手法に頼ることになろうが、著者としてはそれをあらかじめ周到に運んでおく趣意はない。」33P
(小さなポイントで、前文の補足説明)「著者は、例えば、知覚的に現前する世界、知覚的風景世界を、「知覚とは実は物理生理的過程の所産であって、眼前に見えていても、知覚的風景世界は頭の中にある“純粋意識的世界”にすぎない」とか、「知覚には物理的実在が対応している」とか「知覚とは主体と客体との共働の産物である」とか、「色や音などは主観的なものにすぎないが大きさや数などは客観的なものである」とか、このたぐいの理論的な解説やこのたぐいの理論的な解説や既成観念を“(まだ)知らない”ことにして“見えるがまま”に直視して頂きたいものと願わないわけではない。がしかし、「現相世界」は、知覚的に展らける相には尽きず、本来、実践的関わりにおいて展らけるものであるし、宗教的な既成観念をその他をも含めて完全な「括弧づけ」を事前に試みるとすれば、日暮れて途遠く、亡羊の嘆を喞(「かこ」のルビ)つのが落ちであろうと惧れる。と、同時に、反面では認知的に展らけるかぎりでの現相的世界を読者と“共有化”“共現前化”すれば足る本巻においては、多言を費して「括弧づけ」をおこなうことなくしても、“童心に映ずるがまま云々”という比喩的言い方によって、所期の目的をほぼ達しうることかと信ずる――」34P
(この項のまとめ)「著者の窃(「ひそ」のルビ)かに信ずるところ、「序文」およぴ「緒論」を辿ってこられた読者とのあいだでは、「幼児の眼に現前するがごとき相での世界」という字義通りには全くナンセンスな標語によって、当面必要なかぎりで、既に「現相的世界」を“共有化”しえているはずである。そして、より立入って必要とされる具象的な描像は、本論の行文に委ねることができると念う。」34P
第七段落――序文と緒論のまとめ 34-6P
(この項の問題設定)「著者は、以上の序説(「イントロダクション」のルビ)によって、本論の首章への導入(「イントロダクション」のルビ)を期した心算である。「現相(「フェノメン」のルビ)」は、“本体の仮現した現象(「エルシャイヌング」のルビ)”ではなく、さりとて単に“自己自身を示すもの(des,was sich selbst zeigt)”ではないこと、それはその都度すでに「所与以上の或るもの」であること、このことの論定は、実質的には、冒頭章の先取にすらなっている。この先取に鑑み、冒頭章では無用の重複は避け、体系的均整を形式的には損(「そこな」のルビ)うことも憚らず、むしろ側鎖の配視に紙幅を割(「さ」のルビ)きつつ、後論への伏線の敷説を図ることにしよう。――この「緒論」は本巻全体への緒論としての体をなさないが、この欠は「序文」の後半部によって代えさせて頂く。」34-5P
(哲学が権利問題に専念できないこと)「尚、これは本巻全体にかかわる事項であるが、読者は、著者が「事実問題」と「権利問題」とを混淆しているのではないかとの嫌疑を懐かれるかもしれない。しかし、著者自身としては事実問題(quid facti)と権利問題(quid juris)を混淆してはいない心算である。いかなる事件がいかにして起こったかの事実審理と、どう判決をくだすかの裁定とは、慥かに別次元の事柄である。例えば、親殺しという同一事実であっても、判決のほうは、法体系が尊属殺人の規定をもっているか、もたないか、却って“姥(「うば」のルビ)捨て”を義務づけているかどうか、等、法体系に応じて相岐れる。事実問題と権利問題とはなるほど区別を要する。――ところで、哲学わけても認識論は、旧来の主流派的見解によれば、権利問題に専念するべきものとされる。事実問題は個別諸科学に委ね、認識論哲学はもっぱら判決の適法性の権利づけをおこなえばよいというわけである。もし、個別科学の立証した“事実”が絶対確実であるとすれば、そして、真理基準の“法体系”が絶対的に完備しているのであれば、それも宜(「よ」のルビ)かろう。諸科学を警察や下級審なみに見下し、哲学は上級審なりと自任するのも、御愛嬌かもしれない。だがしかし、“法体系”が完備しているどころではなく、“事実審理”が予断と偏見にもとづいているとすれば如何? そして、現実には、“法体系”は悪法でしかも矛盾撞着の極みにあり、“事実”は陳腐なパラダイムの禍するところ歪んでいるのが実情ではないか! とすれば、哲学的認識論は、権利問題とやらに安住しているわけにはいくまい。権利問題への専念とは、警察の調書を追認し、かつ、悪法を遵守する体制派“裁判官”のイデオローギッシュな立場表明である。かかる因循な態度は厳しく弾劾さるべきものであると著者は考える。尤も、遺憾ながら、旧来の跛行(ママ)的な“分業”体制のゆえに、諸科学はとかく哲学的な次元での省察を敬遠し、哲学は具象的な事実審理の学殖と技能に欠ける。現状では、エンゲルスが哲学の自己止揚を托した学問の理想的な編制とは程遠い。このため、哲学が事実問題に容喙(「ようかい」のルビ)するのは僭越でもあり、身の危険でもある。だが、哲学は、いずれにせよ“事実審理”のパラダイムを批判的に検討する責務を免れない。哲学は、あまつさえ、今や“事実の再審”と“法体系の更新”とを同時相即的に課せられているのである。著者が、本書において、時として事実問題に従事するのは、かかる了解にもとづくものであって、権利問題と混淆してのことではない。――因みに、著者が発生論的手法に訴える場合でも、それは必ずしも事実問題を意図するものではない。譬えば、円筒形というものを「長方形をその一辺の周りに回転させて出来る立体図形」として説明するのは、一見、発生論的であるにしても、現実の円筒が事実そのようにして成立したことを説くものではなく、円筒の存立構造を分析・確定する一方途であるのと同様、著者の“発生論的”立論は概(「おおむ」のルビ)ね存立構造論の一補助手段である。事実問題に関する不備はもとより著者の浅学菲才のしからしめるところであるが、本趣はあくまで「存立構造論」、ひいては「それが如何にして可能であるか」という「可能性の条件」の論及にあること、この趣意を念頭において読み込んで頂くよう、ここにあらかじめ願う次第である。」35-6P・・・エンゲルスの「哲学の死」宣言批判と事実問題に踏み込む中身としてのパラダイム転換問題
本文中「取」はあなかんむりがついています。これは『弁証法の論理』のもくじから出てきているのですが、その本文には出てきません。本文ではすべて「取」になっています。この『存在と意味』で再出していて、改めて探しているのですが、未だに、この文字を探せていません。
・廣松渉『存在と意味1―事的世界観の定礎』岩波書店1982(1)
自他ともに認める廣松さんの主著で、色んなところで展開してきたことの掘り下げ、修正もこの著でまとめあげるとしています。やっと第一次学習の最後としてこの著にたどり着きました。ただ、二巻の二篇で終わっています。二巻の三篇と三巻が未完のまま、その生涯を終えています。
この読書メモは抜き書きが多かったのですが、今回は構制をどうしているのかに焦点を当てたいと考えています。その事を押さえつつ、二巻もありますので、大変長い作業になります。ひととおりの再読を終えて、もう一度読み込みながらメモ取りに入りつつ、問題の深さにおののいているところです。なお、この著の読書メモ、わたし自身かなり歳を取り、読み込む力も落ちていて、最後までやれるか、不安な状態で踏み入るところです。
なお、この著も「項」に小見出しがついていません。著者が{尚、本書の各節は、明示的には「項」に区分されておらず、従って「「項の標題」は欠いている・・・・・・」ID-EP としています。しかもわたしの基礎的積み上げのない読解力では誤読しそうで、余計なことをするべきではない、まさに蛇足の類いですが、かなり練った論攷で展開されていると感じていて、小見出しが有効になると思い、学習ノートいう性格からして、あえて斜体で項目の見出し付けをやります。この著は弁証法的対話にて論攷を進めています。改行ごとに論旨がはっきりしている場合も、波線で論旨の表記的なこと(詞をつなげればその行文の標題的なことになる)を試みます。強調と波線が重なったときは、二重線になります(これは2回目以降のことです)。
また、この著は著者の他の著作参照や既に書いたところ、それからこれから書くところ参照という記述が多くあります。それらのことを で標記していきます。
最初に目次をあげます。
目 次
序 文
緒 論
第一篇 現相的世界の四肢構造
第一章 現相的分節態の現前と所知の二要因
第一節 現相的所知の二肢性
第二節 所知の第一肢的与件
第三節 所知の第二肢性的所識
第二章 人称的分極性の現相と能知の二重性
第一節 身体的主体の現前相
第二節 主体的帰属と人称化
第三節 能知的主体の二重性
第三章 現相的世界の四肢的相互媒介の構制
第一節 所知的二肢制の構制
第二節 能知的二重性の形成
第三節 四肢の相互的媒介性
第二篇 省察的世界の問題構制
第一章 外界と内界の截断と認識理論の図式
第一節 外界と内界との截断
第二節 <三項図式> の形成
第三節 認識論の基幹的構図
第二章 判断的形象の意味構造と命題的事態
第一節 概念形成の論理構制
第二節 判断成態の意味構造
第三節 命題的事態の存立性
第三章 認識の間主観的妥当性と客観的妥当性
第一節 判断的措定の帰属性
第二節 叙示成態と陳述様相
第三節 間主観的妥当と真理
第三篇 事象的世界の存立機制
第一章 事物的世界の分節態勢と空間・時間
第一節 事物的世界の分節相
第二節 場所的空間と定位置
第三節 時間的規定の形象化
第二章 事の物象化と実体主義的錯認の位相
第一節 事の事象化と実体視
第二節 当体の個性と関係態
第三節 因果法則と存在様相
第三章 事象の間主観的存立と客観的存在性
第一節 対象的実在の存在性
第二節 存在と間主観的妥当
第三節 能知と所知の不二性
事項索引
「解説 坂部恵」(『廣松渉著作集15 「存在と意味(1巻)」』岩波書店1997)
序 文
第一段落――この著の出版計画 DP
「本書は、著者が十余年来準備してきた三部構成の著作――第一巻「認識論的世界の存在構造」、第二巻「実践的世界の存在構造」、第三巻「文化的世界の存在構造」――の第一巻に相当するものである。/著者としては全巻の原稿を完成した時点で一挙に上梓する計画であったが、この『存在と意味』全三巻は、単なる存在論・認識論の書ではなく、実践哲学・価値哲学・社会哲学・歴史哲学・文化哲学にも関わり、人間論・制度論・権力論・規範論から学問論・芸術論・宗教論にまで論域が亘ることもあって、成稿に遅滞を生じていたところ、不慮病患に蝕まれる身となったため、早期の完稿は断念するなきに至った。爰に、一応の脱稿をみた部分から順次刊行することに予定を変更し、とりあえず、第一巻用の暫定稿を推敲して世に問うことにした次第である。若し倖いにして健康が許せば、次巻は向う二年以内に印刷用原稿を整えることができるかと念(「おも」のルビ)う。」DP
第二段落――『存在と意味』概略展開 D-IP
(この項の問題設定)「『存在と意味』は、総じて、旧来の日常的意識ならびに学理的反省において支配的であった「物(「もの」のルビ)的世界観」を卻(「しりぞ」のルビ)け、「事(「こと」のルビ)的世界観」を唱導するものである。著者としては、しかし、旧見に対して唯単に新知見を対置するのではなく、物的世界像は何を何故如何に錯認したものであるか、その由来に遡って認識論的・物象化論的・イデオロギー論的に剔抉(「てっけつ」のルビ)しつつ、真実態を対自化しようと図る。そのさい、併せて亦、従来「物的世界像」のパラダイムによってそれなりに“説明”されていた事象や事態を「事的世界観」に応ずる新しいパラダイムにもとづいて如何に正しく説明し返しうるかを(基幹的な論域に限ってではあるが)呈示しようと企てる。」D-EP
(物的世界像)「旧来の物的世界像というのは、世界すなわち全存在界を諸々の「物」から成っているものと観ずる世界像の謂いであって――但し、「物」とは狭義の物質的物体とは限らず、「事」との対比をおける広義の「もの」の謂いである――、それは詮ずるところ、実体主義的世界観と相即する。この世界観にあっては、まずは独立自存する存在体(実体)が在って、それら実体が諸々の性質を具備し、相互に関係し合うものと了解されている。ここでは、性質を具えた実体が第一次的に存在し、それらの実体が第二次的に関係を結ぶ、という描像になる。――実体観には、史上、質料(「ヒュレー」のルビ)=実体論、形相(「ケイドス」のルビ)=実体論、原子(「アトム」のルビ)=実体論など、諸多の種類があり、また、一元論もあれば、多元論もあるが、実体主義的な世界像ということになれば、「有機体論的全体主義」と「機械論的要素主義」との二類型に帰趨すると言えよう。古代や中世においては有機体論的全体主義が支配的であったこと、そして近代においては機械論的要素主義が主潮であること、このことはあらためて誌すまでもあるまい。これらの世界像は、自然観の場面にかぎられるものではなく、社会観の場面においても、社会有機体論的な全体=実体主義と社会集合体論的な個人=実体主義との対立等となって分立する。また、実体主義の地平において、第二実体の存否をめぐる実在論と唯名論との対立(啻(「ただ」のルビ)に中世における「普遍論争」流のそればかりでなく、数理・価値・規範・制度、等々をめぐる実念論と唯名論との対立)も出来(「しゅったい」のルビ)する所以となる。」EP
(事的世界観)「事的世界観の何たるかを茲(「ここ」のルビ)で簡略に定式化することはおよそ不可能であるが――因みに「事」というのは、事件や事象の謂いではなく、それらの物象化を俟ってはじめて時空間的なevent(出来事)が現成し、また、それの構造的契機の物象化によって「物」(広義の「もの」)が現成するごとき或る基底的な存在構制であるのだが――、さしあたり物的世界像の実体主義との相違という視角で言えば、一種の関係主義的存在観であると言うことができる。関係主義は、いわゆる物の“性質”はおろか“実体”と目されるものも、実は関係規定の“結節”にほかならないと観ずる。この存在観にあっては、実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係規定態こそが第一次的存在であると了解される。」E-FP
(関係の第一次性)「「関係の第一次性」などという存在観は日常的思念にとってはおよそ悖理(「はいり」のルビ)に思えるかもしれない。関係の第一次性という提題は、人が「関係」そのことを「もの」化して表象し、「関係というもの」が先か、「実体というもの」が先かという仕方で、「実体の第一次性」に対する同位的対立として受取るとすれば、なるほどナンセンスである。関係項に先立って「関係」なる「もの」が自存するわけではない。関係の第一次性というのは、しかし、著者の場合、「事」としての関係性が汎通的・根源的な存在規定であることを表明するものである。」FP
(伝統的既成観念とパラダイム転換)「翻って、伝統的既成観念においては「関係が成立するためには関係を取結ぶ実体的な項(「もの」のルビ)があらかじめ存在することが要件である」と思念されてきた。物的世界像を支えるこの実体主義的既成観念には鞏固(「きょうこ」のルビ)なものがあり、人が関係主義的存在観の正しさを知解した場合ですら、直接的な意識においては依然「実体的な自存項が在ってはじめて事後的に関係が成立する」ように見え続けるのと類比的である。・・・・・・日常的には天動説で間に合う部面があるにしても、天動説と地動説とを原理的に併存させるのではなく、学理的には天動説を端的に卻けて、パラダイムを総体的に変換することが“歴史の要請”であった。・・・・・・万象をより剴切(「がいせつ」のルビ)に統一的に把え返しうる関係主義への総体的なパラダイム・チェンジが要請されている次第なのである。――いわゆる実体は関係的規定性の反照的“結節”であって存在論的(「オントロギッシュ」のルビ)には独立自存体ではないこと、自存的実体なるものは物象化的錯認に基因するものであって関係規定こそが第一次的存在であること、この関係主義的存在了解を(実体主義的既成観念を内在的に批判しつつ)説得的に展開する作業は本文に委ねるのほかないが、また事的世界観が単なる関係主義ではなく実は「実体主義vs関係主義」の旧来的対立的地平を超えるものである所以の説述も本文の展開に俟たねばならないが、今茲で次の事実に留意を求めることは許されるであろう。それは近代知における実体主義の“最大の拠点”であった物理学において、実体主義から関係主義へのドラスティックな推転が夙(「つと」のルビ)に生起しているという事実である。顧みるに、近代の物心二元論的実体主義のうち、実体主義的霊魂観は早くから自家崩壊の兆しをみせていたが、自然諸科学わけても物理学に支えられて、実体主義的物質観が久しく堅固であった。しかるに、その物理学において、今世紀を迎えると相対性理論や量子力学にみられるように、実体主義的存在観が自己否定され、関係主義的存在観が基調となるに至っているのである。(尤も、現代物理学においても実体主義が完全に払拭されているわけではない。実体主義的パラダイムと関係主義的パラダイムとがまだ混在的に併存しており、茲にいわゆる“現代物理学の危機”的紊乱(「ぶんらん」のルビ)が生じているのが実情である。とはいえ、認識論的・存在論的に分析してみるとき、関係主義的存在観が主潮的趨勢になっていることまでは瞭然としている。この件については、別著『科学の危機と認識論』一九七三年 紀伊國屋書店刊、『相対性理論の哲学』一九八一年 日本ブリタニカ刊、『事的世界観への前哨』一九七五年 勁草書房刊、における主題的論攷を参看されたい)。この際、数学に始まり、言語学や文化人類学などの人文・社会系諸科学に亘る「構造主義」の擡頭にも留目を求めることもできよう。構造主義はまさしく一種の関係主義的な存在観に立つものにほかならない。実体の第一次性という伝統的既成観念に対して関係の第一次性という存在了解を対置することは、常識的思念にとってはいかにも奇態に映ずるにせよ、諸学は今や揆(「き」のルビ)を一にして、実体主義から関係主義への推転を径行しつつある。関係主義的な存在観は、何ら特異なものでなく、むしろ、時潮の波濤であると認められてしかるべきであろう。」G-HP
(西洋哲学と東洋哲学の対質)「時に、実体主義に関係主義を対置するとあれば、読者のなかには、いわゆる西洋的「有の哲学」といわゆる東洋的「無の哲学」との対比を連想されるむきも成程あることかと想う。無の哲学はたしかに反実体主義的である。そして、無の哲学の或るもの、すなわち、大乗仏教哲学のごときは明らかに一種の関係主義的存在観に立脚している。・・・・・・仏教哲学に聊(「いささ」のルビ)かの関心を寄せるようになったのは関係主義的世界観を裡に固めて以後のことである。(仏教哲学に関わる卑見については、学僧吉田宏哲師との共著『仏教と事的世界観』一九七九年 朝日出版社刊 を参看されたい)。惟えば、早期に科学主義的唯物論の洗礼を受けた著者が、俗流実体主義の非を悟り、関係主義的存在観に覚醒したのは、一つには現代物理学の趨向による触発であり、もう一つにはヘーゲル・マルクスの哲学、就中マルクス哲学による嚮導(「きょうどう」のルビ)である。」HP
(世界観的次元でのパラダイム転換としての「事的世界観」)「管見によれば、人類文明はかなりの以前から世界観的次元でのパラダイムの推転局面――十七世紀におけるいわゆる近代的世界観への転換期に次ぐ新たな現代的世界観への転換期――を即自的に径行しつつある。茲に胚胎している新しい世界観的パラダイムを対自化し、可及的に定式化すること、これが哲学の今日的一大課題であり、この課題に対して著者なりに応える拙(「つたな」のルビ)い構案が謂うところの「事的世界観」である。」H-IP
第三段落――本書の展開の仕方(「事的世界観」の説述に体系的講述――弁証法的展開がアンターグランドで当為となること) I-I@ P
(体系的講述が当為となること)「「事的世界観」の説述は、宿痾となっている物的世界像の内在的批判と相即的にステップを追って展開するのほかなく、また関係者諸氏の叱正的協働を仰ぎたいと冀求(「ききゅう」のルビ)する心意から個別専門諸分野との接点を可及的に設けようと企てるため、卑見要綱風に式述する捷径(「しょうけい」のルビ)は期しがたい。爰に、体系的な講述が当為(「ゾレン」のルビ)となる。」IP
(狭義の意味での弁証法的展開手法を断念すること)「尤も、本書の場合、一貫した構想のもとに各巻・篇・章・節の論述を有機的に配位しているという意味では“体系的”であるにせよ、著者が別著『弁証法の論理』(一九八〇年 青土社刊)で謂う「弁証法的体型構成法」を必ずしも執っていない。弁証法的な体系的叙述周到に図ることは本書を余りにも厖大化するものと憚られることもあり、また読者の違和感を可能なかぎり防遏(「あつ」のルビ)する論述法を採ることが当面の上策かと想われることもあって、語の狭義における証法的展開手法によることは断念した次第である。」IP
(大枠の構図として弁証法的に展開すること)「但し、本書の大枠的構図は弁証法的になっている心算であり、或る階梯での断案が後続の階梯で“止揚”されていくことに留意願いたい。また、或る知見が「学知の反省にとっての(für uns)もの」であるか、本書では逐一明記する煩は避けているが、文脈からそれと判るよう設(「しつら」のルビ)えてある。この点にも留意いただきたいと念う。――尤も、本書では厳密な弁証法的展開になっていないかぎりでは、或る個所における当面の論脈上は不要とも念える立論が後続の個所にとって伏線や前提をなしているとか、或る個所における論述内容が後続の個所において補全されているとか、この域に留まっているのが実情と言うべきかもしれない。このため、同一主題に関わる論述が幾個所にも分散しているとの印象を与え、これでは、或る主題に関わる著者の見解を特定個所だけからは読み取れぬという不興を招くことかと惧れる。・・・・・・しかし、一見“分散”“重複”“補正”とみえる立論法も、単なる不手際ではなく、非才の著者としては熟慮のうえで採ったものである。事の当否はともあれ、意のあるところを汲んで頂ければ幸いである。」I-I@ P
第四段落――本巻の構成 I@-CP
(この項の問題設定)「本巻「認識論的世界の存在構造」についての趣意の一端を誌しておけば、本巻は、総じて認知的に展(「ひ」のルビ) らける世界現相の存在構造を主題とする。著者は、次巻で主題とする実践的世界と本巻の認知的(「コグニティヴ」のルビ)に展らける世界とを存在上(「オンシティッシに」のルビ)分断する所存ではなく、事柄の真実態に即すれば、認識論的世界は実践的世界の構造的一契機ないし射影的一断面にすぎないものと了解している。それにもかかわらず、敢て認知的世界現相をあらかじめ討究しておくのは、実践的世界を検覈(「けんかく」のルビ)して行くためにも、まずは認知的関わりにおける世界の存立性とそこにいちはやく胚胎している物象化の機制を認識論的・存在論的に分析しておくことが、叙説上の方法論的前梯を成すと考えてのことである。(読者のうちには、かかる迂遠な作業は無用でみなされるむきもあると惧れるが、著者の観るところ、次巻における役割行動論・規範論・制度論、ひいては亦、用在性(「ツーハンデンハイト」のルビ)論をはじめとする各種の有意義性(「ベトイトザームカイト」のルビ)論=価値論、等の展開にとって、本巻での作業が不可欠の前梯をなす。著者としては、社会的・歴史的・文化的形成態(「ゲビルデ」のルビ)に関する物象化論の本格的展開は、この作業を欠いては到底期しがたいと思料する所以である。)」I@ P
(本巻の直截的な課題)「本巻の直截(「せつ」のルビ)的な課題は、しかし、要言すれば、従来“認識論の構図的大前提”をなしてきた「主観−客観」図式(これは実体主義的世界像に由来するものであって、この前提的図式こそがこれまで認識論を理路閉塞(「アポリア」のルビ)に陥しいれてきた“元凶”である)を芟除(「せんじょ」のルビ)すべく、認識的世界の如実の四肢的存在構造を究明し、それに基いた新しいパラダイムのもとに「認識論のアポリア」を打開しつつ、認識のいわゆる間主観的=共同主観的妥当性(「ギュルティッヒカイト」のルビ)を権利づけ(「ベレティヒゲン」のルビ)、「事的世界観」の基底的構図(「ヒュポダイム」のルビ)をひとまず認識論的に定礎することにある。」I@-A P
(本巻の三篇構成)「本巻は――今此処で「目次」を一覧いただけると以下のコメントに好便であるが――三篇構成になっている。」IA P
(第一篇)「第一篇においては、便宜上「所知」の契機と「能知」の契機とを順次別々に配視したうえで、両契機の如実の連関的統一態たる世界現相の存在構造を究明する。ここでは、著者の所謂「四肢構造」論の骨格が呈示されるが、――意味の存在性格、能記と所記との象徴的結合(「シュムボレイン」のルビ)、視覚型認識モデルと触知的認識モデル、身体的自我の膨縮、視座的身体の脱自的共軛、認識の対他・対自的帰属、自己と他己との人称的分立、共同主観性=間主観性の存立機制など、後論に対して前梯をなすとともにおいて後論において敷衍(「ふえん」のルビ)的に充当さるべき論点を提出しつつ――認識の機制に関する既成観念的構図を排却し、認識論の新しい構案が予示される。(間主観性ということがいかにして存立し、人々が“一つの世界”をいかにして共有しうるか。その一つの世界はいかなるもので有り、いかにして成るか、認識論の今日的情況からして、著者にとって、当然、この問題に答えることが重要なモチーフの一つとなる。――間主観性=相互主観性存立構造は、現相世界の斯く現前することの可能性の条件Bedingung der Möglichkeitとして究明さるべきものであり、実践論的な討究を俟ってはじめて十全に闡明されるのであるが――本篇では、秘められたモチーフに即して言えば、前掲の問題に応える認識論的・存在論的な基礎的構制の暫定的呈示が図られている。このモチーフが第二・第三篇においても通底していることは附言するまでもない)。」IA P
(第二篇)「第二篇においては、まずは、旧来の認識論における「主観−客観」図式の排却を図り、いわゆる物心分離とそれに基づく「三項図式」が何を如何様に錯認することにおいて成立するか、その由来に遡って検覈し、翻って、旧来の認識論が閉塞路(「アポリア」のルビ)に陥いらざるを得なかった所以の構制を追認しつつ、新しい認識論の要件を確認する。(誤解なきように一言しておけば、認識について論考しようとするかぎり、能知的契機と所知的契機との反省的区別は必須であり、この区別は固(「もと」のルビ)より著者の卻けるところではない。「主観−客観」図式というのは、実体主義に淵源(「えんげん」のルビ)する構図のもとに、能知と所知とを存在的(「オンティッシ」のルビ)に截断し、「認識対象−心的内容−認識作用」の三項図式を執るものの謂いである。「主−客」図式と単なる「能−所」構造との混淆なきよう留意を願っておく。) ――この篇では、さらに、概念論・判断論・真理論が、命題的事態の物象化の構制を配視しつつ展開される。従来、概念の意味にせよ、命題の主語述語構造にせよ、判断の全称特称の区別にせよ、実体主義的世界像を前提にして定式化されてきたし、判断の質的規定や様相規定はもとより判断の真理性も「主観−客観」図式を前提にして説明されてきた。これに対して、著者は、旧来の“定式”や“説明”の非を指摘しつつ、関係主義的存在観に即応する四肢的構造論の見地から、概念の実態、判断の意味構造、判断の質・量・様相、判断の真理性、等について、独自の説明を試みる。(このさい、いわゆる実体概念を函数態的に把え返すこと、従来「実体−属性」関係ないし「実体−実体」関係に応ずるものとされてきた命題の「主語−述語」関係を函数態的に再定式化すること、判断における肯定・否定を間主観的な場に即して対他・対自的に規定し返すこと、存在様相・認識様相・論理様相の再編的統合を試みること、認識の真理性を共同主観的な向妥当性・対妥当性とリンクさせること、等々が論件をなす。)・・・・・・本書当面の目論見からすれば、デッサンで自足するほかはない。反面では、それにもかかわらず、本篇の論述は煩瑣(はんさ)な議論にわたっている憾(「うら」のルビ)みなしとしない。著者としては旧来の認識論的パラダイムに対する批判に読者の理解を贏(「かち」のルビ)え、新しいパラダイムの認識論的有効性を顕揚したい心意から、時に応じては執拗な論述を事とした次第である。・・・・・・」IA-B P
(第三篇)「第三篇においては、事物の分節相や空間・時間の形象化から始め、事象的関係性の物象化ひいては実体化の機制を検討し、従来実体主義的に措定されてきた事物を関係態に即して規定し直したさいにも“事物の個体性”や“事象の自己同一性”が全く失われてしまうのではなく、新たな視角から再措定される所以の構制を闡らかにしたうえで、事的世界像におけるいわゆる客観的法則性の存在様相、いわゆる客観的実在の存在論的身分、存在の意味、さらには、いわゆる身心関係が概念的に把握(「ベグライフェン」のルビ)される。――これは物象化の基底的な次元と機制の対自化であり、事物論・事象論・空間論・時間論・法則論としては粗略以前的であるが(現に著者自身、続巻において精緻化することを予定している)、それでも猶反面では煩瑣の印象を与えることであろう。著者としては、しかし、物的世界像の構制に事的世界観の構制を対置しつつ、万象を関係主義的に再措定してみせる課題を一般論として負うているばかりでなく、次巻における実践主体(これは単なる“役割関係の束”ではない)のいわゆる個体性や当体的自己同一性を定礎し、いわゆる歴史の法則性を決定論・非決定論の対立地平を超えて弁証法的に措定する課題なども負うており、「実践的世界の存在構造」論への伏線としても稍々“煩雑”な議論にわたらざるをえなかった次第である。パラダイムの変換を期するにあたっては、非ユークリッド幾何学や相対性理論の故知を引合いに出すまでもなく、従前“熟知自明”と信憑されてきた基礎的諸概念の抜本的再検討が不可欠であることに鑑み、“煩瑣な立論”に敢て読者の諒解を乞いたいと念う。」ICP
第五段落――学説史的回顧や個別的論判に及ばないこと IC-D P
(この項の問題設定)「尚、本書の論述においては、既成の諸理説を極端に類型化して分類・定位することはあっても、学史的回顧や個別的論判に及ぶことは一切割愛してある。先哲からの断簡を援用することはあっても、それは叙述の便法的一具としてにすぎない。生来懶惰(「らんだ」のルビ)な著者といえども、“哲学々”の悪習的伝統に泥(「なず」のルビ)む者として、渉猟に心掛けた経験がないわけではない。また、新しいパラダイムに基いた体系化を志向するからといって、先学の鴻(「こう」のルビ)業を顚から無視する者ではありません。個別的論点に関しては先学の知見に改釈的変更を施して摂取ものも決して尠なしとしない。本巻の場合特に第二篇の第二章においてそれが著じるしい。――判断論・命題論について言えば、「肯定・否定」論こそ著者に固有であれ(そして、この論点は、著者にとって、判断論における最大の鍵鑰(「けんやく」のルビ)をなし、また「思考=内なる対話」の間主観的構造を闡明(せんめい)する拠点をなすものとして、「有・無」論、「異・同」論と並ぶ枢要なものの一つであるが)、爾他は、個別的論点に分解してしまえば、先行諸学派の遺産中からの改作的に襲用したものが大半であると見做されうる。――とはいえ、元来のパラダイム的脈絡から分断して改釈を施した提題を先学に帰するのは却って誣(「し」のルビ)いる仕儀か憚り、本書の行文では逐一先学の名は挙げることは差控えた。(判断論において著者がどの先学からどの論点を継承しているかについて、先行諸学派との論判に即して説述した別著、例えば「判断の認識論的基礎構造」(『世界の共同主観的存在構造』一九七二年勁草書房刊所収)などを参看ねがいたい)。このため、巻末の索引は「事項牽引」のみとし、人名牽引は作成しなかった。」IC-D P
(著者が批判・改釈的に継承した先学名)「読者は、本書のうちに、著者が指名することなく批判の対象としている古今の先学名と併せて。著者が改釈的に継承している幾多の先学名を随所に読み取られることであろう。読者は本巻中、箇所に応じて、ヘーゲルやマルクスだけでなく、ヴィンデルバント・リッケルト、コーヘン・カッシーラー・ハルトマン、フレーゲ・マイノング・ラッセル・ヴィトゲンシュタイン、フッサール・ハイデッガー・サルトル・メルロ=ポンティ、の影を、時によっては、プラトンや龍樹の影をすら感知されることであろう。がしかし、著者としては、読者が本書を先学の座標系に射影して“理解”されることなく、著者自身の座標軸に即して統握されることを切望して止まない。」ID P
第六段落――各節・各項の展開 ID-EP
「本書は、各節の頭初に、梗概風の文章を配している。この梗概的提題は、本文との反照を俟たずしては妄言の感を免れぬことかと惧れつつも、謂うなれば“長大な標題”に準ずるものとして、各節の論件ないし論題を概観的に把握していただく便に資し得ると念う。/尚、本書の各節は、明示的には「項」に区分されておらず、従って「「項の標題」は欠いているが、原則として全て“三項”編成になっており、“項”の区劃を一行空きの印刷によって示してある。」ID-EP
第七段落――本著『存在と意味』と著者の他の著作との関係 IE-FP
(この項の問題設定)「茲で予(「あらかじめ」のルビ)め読者の諒解を得ておきたいのであるが、本巻中の若干の文章は、著者がこれまで独立論文の形で発表した文章と不文的に重複ところがある。それは、もとはと言えば、本巻用の未定稿の一部を利用して個別的論文を草したという経緯に由るものであって、著者としては本書の構制と性格からして、既発表の論材との重複も敢て回避しなかった。但し、歳月を閲(「けみ」のルビ)するうちに、著者の見解に微妙な変化を生じている節(「ふし」のルビ)々もあり、大趣は旧見のままであっても、本書において論点が改修されている例も尠なくない筈である。――これまで「意味的所知」という詞を用いてきたところを本書で「意味的所識」という詞に改めたのは「所知」という詞が従前「能知」との対(「つい」のルビ)概念と「所与」との対概念との二義性を帯びていた難点を除去しようとする技術的な配慮であって、これは別段、思想的内容に関わるものではないが、「向妥当」「事態」など、幾つかの術語的用語法の限定的使用は(本書においても止むなく「事態」「事実」といった言葉を日用語としても使用してはいるのだが)従前の術語的含意の欠陥を自覚的に是正したものである。――旧著と本書とのあいだに内容上の不協和が生じている諸論点は、言うまでもなく、本書に則って矯正されねばならない。」IEP
(本著の他の著作との関係と斬新さ)「読者のうちには、本巻は所詮、既発表の諸論文に盛られていた論点を“集成したもの”に過ぎないと看ぜられるむきもあろうかと想う。成程、卑見の大綱は二十年以上も前からほぼ固まっていたことでもあり、旧著『世界の共同主観的存在構造』『事的世界観への前哨』『もの・こと・ことば』所収の諸論文に拠って、慧(「けい」のルビ)眼な読者は、本巻における展開内容をいちはやく察知しておられたかもしれない。しかしながら、著者自身の自覚するところでは、本書においてようやく成案を得た論点も数多く、また、本書においてはじめて提出した論件も数少なくないのであって、本巻といえども決して旧見の単なる集大成ではない心算(「つもり」のルビ)である。蝸牛の歩みを愧じつつも、本巻のうちに鈍重なる著者の聊かの“新展開”を読み取って頂きたいものと願うや切であり、慧眼の余り、本巻を以って既発表の論点の単なる修正と目される読者におかれても、本巻が著者の“体系的”著述の劈(「へき」のルビ)頭部であることに免じていただきたいものと冀(「ねが」のルビ)う。」IE-FP
第八段落――謝辞 IFP
省略
緒 論
第一段落――長大な標題と問題設定 4P
「世界現相は、森羅万象、悉(「ことごと」のルビ)く「意味」を“帯び”た相で現前する。各々の現相は、その都度すでに、単なる「所与」以上の「或るもの」として覚知される。――これが本巻において著者の提出する第一の提題というより、理論的省察の出発点において、著者が読者と共有化したい最初の問題場面である。この問題場面の把握において若(「も」のルビ)し齟齬(「そご」のルビ)をきたせば、以下の論議は宙に浮いてしまう。それゆえ、ここであらかじめ、初発的問題構制の共有化を図っておきたいと念う。」4P・・・「表情論」との共振
(提題の精細の弁証法的吟味)「偖(「さて」のルビ)、前掲の提題に関して、早速、(a)現相は果たしてそのすべてが意味附帯的であるか? (b)現相における「所与」とはいかなるものであるか? (c)現相の「附帯する意味 」とはいかなる語義(「いみ」のルビ)であるか? (d) 所与と「意味」との(前者が後者「として」覚知される)関係はいかなる規定的関係であるか? (e) 遡っては、そもそも「現相」とはいかなる謂いであるのか? これら一連の問題が生じる。問題(a) (b) (c) (d) (e)は相互浸透的に複合しており、分断して答えることはできない。が、さりとて、一挙に解答することも期しがたい。(現に、本文においても、第一篇の第一章第一・第二・第三節、第三章第一節などの行文を通じて、これらの問題への回答が企てられている)。――ここでは、本論首章における煩雑な行文に対して事前に見通しを与えるべく、幾つかのステップに分けて、回答の輪郭を隈取っておくことにしよう。」4P
第二段落――「図」の分凝化(異化)と所与−所識成態 4-9P
(この項の問題設定)「読者のうちには、現相が意味を帯びているという提題に接するとき、ハイデッガー流の用在性(「ツーバンデンハイト」のルビ)を連想されるむきもあるかもしれない。著者としても、世界が生の関心に応ずる用在性の相で展らけることを認めないわけではない。現に、第二巻においては用在的な有意義性を帯びて現前する世界現相から議論を再開する予定である。が、しかし、本巻においてはひとまず認知的(「コグニティヴ」のルビ)な視界に展らける世界現相に止目し、いわゆる知覚的分節(心理学者流にいえば「地(「グルント」のルビ)」を背景にしての「図(「フィグール」のルビ)」の分凝(「セグメンティション」のルビ))の存在構造から問題にして行きたいのである。(念のために書き添えれば、著者としては、まずは知覚的分節がおこなわれ、そのうえで用在的意味賦与がおこなわれるというような二段構えの機制で考えているわけではない。知覚的分節はすでにして用在的意味性を懐胎しているのが実態であると考える。が、ここでは敢て、実践的有意義性や価値的有意義性の契機は暫く捨象して、もっぱら方法的に、認知的現相に止目しようと努める)。」4-5P
(図を使っての「所与−所識」の論述)「議論を簡略に運ぶべく、左上に掲げた第1図および第2図を見て頂きたい。第1図を見るとき、単なる白黒図形としてではなく、それを<向き合った横顔> または<丈(「たけ」のルビ)の高い杯(「グラス」のルビ) >として覚知されるであろう。第2図を見るとき、単なる曲線図系としてではなく、それを<犬>として覚知される筈である。ここにあっては、さしあたり、「現相的与件」たる“白黒図形”や“曲線図形”が単なるそれ以上の<横顔> <高杯> <犬>といった「意味的所識」として覚知される、という構制を指摘できる。人は、眼前の“或る白黒図形”や“或る曲線図形”という直接的所与の契機と<横顔><犬>という意味的所識の契機とを、別々の契機として区別的に覚識しつつ且つ同時に両契機を一種独特の統一相で覚知するのであって、現前する現相は「所与」と「所識」との二肢的構造成態であるという言い方も一応は許されるであろう。」5-6P
(「煩雑」な行文になることの断り書き)「この例を暫定的な手掛りとして議論を進めたいのであるが、読者は、ここでいちはやく、余りにも些末かつ自明と想われる議論に辟易(「へきえき」のルビ)して、これ以上本文を読み進める熱意を失われるであろうか。著者としては、しかし、右に暫定的に指摘した「所与−所識」二肢構制は決して自明でないばかりか甚だ危険な陥穽(「おとしあな」のルビ)を秘めており、事態を正しく把えるためには、批判的に再定式化する必要があると考える。しかも、現相の二肢的構制を正しく把握することが、間主観性の存立機制にせよ、概念や判断の実態にせよ、記号の存立性にせよ、はたまた、客観的実在像・空間像・時間像などの存立実態にせよ、後論の全般にとって要訣をなす。著者に言わせれば、現相の二肢的構制の在り様を錯認するところから「主観−客観」図式や「三項図式」をはじめ、これまで認識論を袋小路に追い込んだ諸々の謬見が生ずるのである。それゆえ、今暫く御辛抱のほどを乞いたい。」6P
(「所与−所識」成態−意味的所識態)「嚮(「さき」のルビ)の暫定的な立言においては、現相的所与とは“白黒図形”とか“曲線図形”とかのごときのものとされ、このたぐいのものが直接的・単層的(「アインファッハ」のルビ)な所与であるかのように遇されている。だが、“白黒図形”“曲線図形”と指称されている対象的与件は、それが現相として現前するかぎり、(つまり、<横顔>とか<犬>とかいう意味性と区別して“斯々の図形”という分節相で一応覚知されるかぎり)、それ自身すでに「所与−所識」成態であって、厳密に単純な所与ではない、まずはこのことが指摘されねばならない。なるほど、常識的には、第1図においては、同じ(一箇同一の)白黒図形という所与が、或る時には<横顔>に見え、或る時には<高杯>に見えるのだ、という言い方をする。すなわち、横顔現相と高杯現相とは意味的所識性においては相違するが、所与は一箇同一である、という扱い方をする。が、しかし、一歩省察してみると、現相的所与が単純に同一であるなどとは言えない。心理学の実験によれば、視線の動き(例えば第3図(ルビンの図の乱れた線図)のごとき)に応じて、横顔に見えるか高杯に見えるかが岐れる。物理的図形としては一箇同一とみなされうるにしても、また、そこから発する反射光の物理的布置状態は一定とみなされうるとしても、だからといって、それの“見え姿”も一義的に一定とみなすわけにはいかない。横顔または高杯としての認知に先立つ“白黒図形”の所与的な“見え姿”が実は相違しているのである。われわれは、それにもかかわらず、これらの所与的な見え姿を一箇同一の「白黒図形」(いわゆる「ルビンの杯」なる一図形)として認知する。という次第で、「白黒図形」なる一箇同一の「白黒図形」(いわゆる「ルビンの杯」なる一図形)として認知する。という次第で、「白黒図形」なる一箇同一の所与が或る時には横顔相で或る時には高杯相で覚知される云々と言っているさいの「同一所与=白黒図形」なるものは、――第2図と第4図の“見え姿”は相違するにもかかわらず、それらの所与を同じ<犬>として認知しているのと同断であって――、実際には<同一の白黒図形>なる「意味的所識態」にほかならないのである。個々の見え姿という所与に即していうさいには、嚮に所与と称された「白黒図形」は<横顔>や<高杯>と並ぶもう一つの意味的所識態であって、単純な所与ではない。剴切には、それは或る所与的な“見え姿”が<白黒図形>として覚知された「所与−所識」成態だったのである。」6-7P
(射映相における「所与−所識」成態)「それでは、現相における第一肢契機たる「所与」とは、右に謂うその都度の如実の“見え姿”、すなわち、述語的に射映相(「アプシャットウング」のルビ)と呼ばれるものの謂いであるのか? 原理的次元で答えれば、再び「否(「ノン」のルビ)」である。著者は、何かしら固定的な所与というものが自存していて、それが意味的所識と偶々関係する、といった実体主義的発想を採るものではない。それゆえ、“射映なるものがとりも直さず所与である”というたぐいの固定的・硬直的な規定は採らるべくもない。「所与」はあくまで「所識」との反照的な相関規定に即して措定される。或る位層での「所与−所識」成態(つまり、裸の所与ならざる、既に意味的所識を懐胎している成態)が高位の意味的所識に対して「所与」の位置に立ちうる。このかぎりで、先の「ルビンの杯」のごとき「白黒図形」と称される「所与−所識」成態が<横顔>や<高杯>という高位の意味的所識に対して第一肢的「所与」の位置に立つとみなされうる場合があることを著者は承認する。・・・・・・原理的には単層的な“所与自体”ではありえない。」7-8P
(「所与−意味的所識」の二肢的構造成態と窮局的な「所与」を現相“以前的”な次元に求めること)「こうして、・・・・・・「所与−意味的所識」の二肢的構造成態であることを指摘しつつ、窮局的な「所与」を現相“以前的”な次元に求める。」8-9P
第三段落――「所与」それ自身の措定 9-17P
(この項の問題設定)「爰(「ここ」のルビ)に、今や、“原基的な射映現相”がそれの現識態であることの「所与」それ自身なるものを措定しようとすれば、それは、現相的に現前する与件の“平面”を超出した準位に求められるべき所以となる」9P
(連想される二種類の既成理論)「読者は、ここで直ちに、二種類の既成理論を連想されることであろう。第一種は「所与」自体をいわゆる客観的な物理的実在と考えるものであり、第二種は「所与」自体をいわゆる生体の生理的な一状態であると考えるものである。これらの既成理論にあっては、いずれにせよ、現相的に展らけている現識世界は(いかに身体外部的に現前していようとも)所詮は主観的な心象風景にすぎないものとみなされてしまうのが普通である。――われわれ自身の採るべき見地を対自化するための方便として、これら両種の既成理論に聊(「いささ」のルビ)かコミットする作業を挿んでおこう。」9P
(第一の種類「物理的実在」説の検討)「第一の「物理的実在」説は、元来、われわれの問題関心と異なり(つまり、「所与−意味的所識」の二肢的構制を遡行的に説こうとするものではなく)、一箇同一の対象的与件が様々な射映相で映現するという日常的覚識を追認的に伸長した理説である。慥(「たし」のルビ)かに、日常的意識においては、事物にせよ人物にせよ、一箇同一の対象が様々な“見え姿” <射映相>で映現するように覚識される。裏返して言えば、その都度に知覚される“見え姿”は、一箇同一の同じ対象が呈し得る様々な射映相の一つの在り方であるように覚識される。更に言い換えれば、或る与件的対象が、今、たまたま現に見える射映相で近くされている(「所与対象」が今「現に見る“見え姿”のもの」として知覚されている)という仕方で覚識される。この日常的意識は決して謂われなしとしない。だが、この日常的意識の場面で、射映相こそ相違するが対象的与件としては一箇同一のもの(種々な見え姿を呈する一箇同一の対象)とされているのは、存在論的・認識論的にみて、一体いかなる“身分”のものであろうか? それは「ルビンの杯」において、“見え姿”は横顔・高杯と相違しうるが対象的には一箇同一の与件とされる「白黒図形」などと同趣のものではないであろうか? 「ルビンの杯」は、見る角度や光線の具合となどに応じて様々な射映相を呈しはするが、なるほど、一箇同一の<白黒図形>として認知される。だが、この<白黒図形>というのは、諸々の射映相での知覚的与件が斉しくそれとして覚知される「所識」なのであって、現相世界を超出する“所与自体”ではない。それは<横顔>や<高杯>という所識に対して所与の位階に立つものと(或る種の論脈において)見做されうるにしても、<白黒図形>という所識態は一概に下位的とはいえず、省察の仕方によっては、横顔や高杯という射映的現相与件の上位に立つ高次の意味的所識であると見做されることもできる。「白黒図形」といった次元での所識態がその都度の諸々の射映現相の下位に立つ所与であると見做す日常的覚識は、省察してみれば顚倒(「さかだち」のルビ)しているのである。――以上の指摘は、しかし、さしあたり日常的覚識の準位に即したものであって、学理上の「所与=物理的実在」説に対する批判は如上では尽きない。尤も、心理学などにおいて「外的所与」が「物理的実在(物理的刺戟本体)」として論じられる場合など、それの存在論的・認識論的な“身分”を検討してみると、先の(一箇同一の反転図形「ルビンの杯」と呼ばれる)物理的存在としての「白黒図形」と同趣のことが多い。因みに、物理的存在としての太陽や月と言っても、それはさしあたり様々な見え姿が一箇同一のそれの諸射映として統握される或るもの、正確には、一群の射映相が一箇同一のそれとして覚知とれる「所与−所識」成態であって、「白黒図形」と同趣であれ、現相的世界を超出する“所与自体”ではない。また物理的実験を通じて確定される諸定在とか諸性質のごときも、結局は、実験的観察の場で現前する射映相を統一的・整合的な仕方で説明しうべく統握的に措定される与件的対象であって、原理的には「白黒図形」と同趣の構制に俟つものである。(なるほど、物理的実在それ自身は白とか黒とかのごとき現相的に現前する規定性を有せぬ或るもの、感性的知覚の原因となりうることはあってもそれ自身は感性的現相に属せぬ或るもの、そのような与件と措定される。それは“現相的平面を超える客観的実在たる所与そのもの”として措定される、と言うこともできる。がしかし、そのような所与として措定され、覚知されているかぎり、それは単なる“所与”ではなくして、一定の意味を帯びた「所与−所識」成態になってしまっている。人が、一切の意味的所識を削ぎ落とした裸の与件を云々したとしても、そのような或るものとして覚知・措定されているかぎり、「所与−所識」成態という構制がつきまとう。)このように誌すとき、読者のなかには、著者が悪しき観念論の立場を採って、物理的実在の存在を端的に否認しとしまおうとしているのではないかという嫌疑をかけられるむきも生ずるかもしれない。だが、それは誤解というものである。物理的実在と称されるものの存在論的・認識論的な再検討こそ必要であるが、著者は本文中において、それの“身分”を確認しつつ、物理的実在なるものにしかるべく所を得せしめる。今ここでさしあたり指摘しているのは、物理的実在をしかじかの所与として云々するかぎり、そのさいにはすでに“物理的実在=所与”がしかじかの所識態になってしまっていること、従って、謂う所の“物理的実在”が現相的世界を端的に超出する“所与自体”ではありえないということ、このことまでである。(無用の誤解を防ぐべく、後論を先取りして一言しておけば、著者の謂う「現相世界」は決して主観的・心理的な心象界の謂いではないし、「意味的所識」は断じて主観的・心理的な心象のごときものではない。「所与=物理的実在」論者たちは現相世界を“主観的・心理的な心象的内容”と見做しがちであるが、“客観的外界”と“主観的内容”とを論者たちの流儀で截断すること自体、著者の見地からは、排却さるべき錯誤なのである。それでは、“客観的物象界”と“主観的心象界”とを単純に接合した総計が「現相世界」なのかといえば、これもまた否(「ノン」のルビ)である。このたぐいの既成的発想の構図そのものの非を見定めるためにも、われわれは「所与−所識」構制の真実態を把握しなければならない。) ――翻って、“哲学的”に省察する「所与=客観的実在」説にあっては、“客観的所与”を以って“しかじかの規定性を具えた実在”と言うときには、それは既に所識態(“所与−所識”態)になってしまうことを自覚しつつ、“所与”それ自体は実在するとは言えても、それがいかなる(規定性を具えた)ものであるかは不可知・不可言であると唱する。ここにあっては「所与」それ自体は不可知な或るものだと主張されるわけである。このタイプの議論が登場するのは、アリストテレスの場合、カントの場合、ラスクの場合、ハルトマンの場合……を顧みるまでもなく、しかるべき理由があり、顚からこれをナンセンスだと決めつけるわけにはいかない。われわれとしても、「所与」なるものが自存するかのように言うとすれば、それは不可知の第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)としか言いようがない。がしかし、それは「所与」なるものが自存するかのように思念するかぎりのことであって、独立自存の所与項が実在するわけではない。われわれの見地から言えば、論者たちが不可知な「所与自体」を措定するのは、現相はそのつど或る自存的対象の一つの射映相であるとみなす思念的構図の埓内で“論理整合的に”推論する所以である。が、実は、論者たちが出発点として追認する日常的覚識が、嚮に指摘した通り、射映的原基相の上に立つ「高位の所識態」を射映的現相以下的な「低位の所与」の位置に据える倒錯なのである。――このようにみてくるとき、われわれは「所与=客観的実在」説が登場する事情に一定の理解を示しつつも、論者たちの謂う「超越的な客観的実在」を以って窮局的な「所与自体」とみなすわけにはいかない。われわれは、悪しき観念論者ではない以上、われわれなりに規定し返した「客観的実在」が一定の論脈において「所与」の位置に立ちうることは認める。が、物理的な客観的実在自体が窮局的所与にほかならないという理説(そして、この物理的所与が射映的現相となって映現すると唱する理説)は、それがいかに常識的思念の線を伸長したものであれ、(所謂“物理的実在”とやらの存在論的・認識論的“身分”に鑑み、また論者たちが物理的実在自体なるものを現相界の外部に括り出すのに伴って「現相界」を“主観的・心理的な心象的内界”と改釈してしまう非を見咎めるが故に)、これを厳しく卻ける。」9-12P
(第二の種類「所与=生理的実在」説の検討)「第二の種類「所与=生理的実在」説の検討に茲で移ることにしよう。此の説は、元来は、「所与」の何たるかを追尋するものではなく、現相の在り方が身体的な過程によって媒介的に規定されている事情を説明しようと図るものである。謂う所の“身体”はさしあたっては現相世界の一分節体として登場し、その場面でいちはやく現相世界の射影的様態が“身体”の在り方によって媒介・規制されていることが現相世界内的に対自化されるのであるが、軈(「やが」のルビ)ては、物理的実在としての身体なるものが現相世界から括り出されるようになる。そして、一方における物理的実在としてのこの身体の内部的過程と、他方における、今や単に心理的なものと改釈される射映的現相、これら両者のあいだの関係が問題にされることになる。「所与=生理的状態」説が理説として成立するのは、物理的存在と心理的存在とを二元化して設定する地平においてである。われわれは、物理的存在界と心理的存在界とを論者たちの流儀で截断すること自体に批判的であるとはいえ、現相界が“身体的過程”によって媒介的に規制されていることは認めうるし、論者たちの議論にも大いに参酌すべきものがあるので(詳しくは第三篇の論脈で論ずるが)、「所与」とは何であるのか(ないしは、むしろ、われわれの謂う「所与」とは何でないのか)を予示する当面の立論に必要なかぎりで、此説に論及しておく次第なのである。――議論の手順として稍々迂路を介したいのであるが、一昔いな二昔前の心理学においては、身体を宛かも自動的な変換器のように遇しつつ、一定の物理的刺戟が外部から与えられると、身体的過程を介して、それが一定の感覚となって現成するかのように了解していた。そこでは、“所与的刺戟”が“現識的感覚”として感知されるという構図、しかも、一定刺戟には一定感覚が対応するという構図が立てられていた。この「恒常仮説」は、しかし、万人周知の通り、ゲシュタルト心理学によって夙(「つと」のルビ)に卻けられるに至った。だが、人々は果たして恒常仮説に類するモデルを完全に払拭し得ているであろうか? 人々は、かつての「恒常仮説」は極端に過ぎたと言って卻ける。だが、例えば、赤色の感覚にはしかじかの波長の光刺戟が対応し、緑色の感覚にはしかじかの波長の光刺戟が対応する、という具合に、人々は、依然、“一定の所与的刺戟”が“一定の現識的感覚”として覚知される、という構図で考えがちではないか? (因みに、このような既成観があるため、われわれの謂う「所与−所識」関係、「所与が単なるそれ以外の或るものとして覚知される」という構制についても、原基的・最下層の射映的現相の場合、“刺戟所与−感覚射映”という二項関係を想定しているのではないかと誤解されかねない。原理的には、われわれは勿論このような想定を断乎として卻ける)。ここで前掲五頁の第1・第3図を想起されたい。物理的な光刺戟は一定であるとみなされうるとしても、感覚主体が現実に受容する刺戟(現実的刺戟)は一定ではないのである。それでは、多少の修正を施して、“外部からの物理的刺激”そのままではなく、「感覚主体が現実に受容した刺激」を以って所与的刺激とみなし、この「現実的所与刺激」と感覚現相とが一義的に対応していると考え直しては如何? それでも不可である。前掲の第5図を見て頂きたい。読者はおそらく白い扇状の奇妙な図形を看取されるであろう。第5図をしかるべき色で描けば、扇も着色して見える。だが、この扇と直接に対応する刺激は存在しない。知覚の“部分的要素”とを一対一的に対応づける流儀で「現実的受容刺激」と現認される「感覚」とを対応づけようとしても無理なのである。“要素的知覚”は“要素的刺激”のストレートな刺激ではなく、強いて言えば、“刺激的布置状態の函数”なのであって、一定の刺激的関係態が宛かも自存的な“要素的知覚”相で感知される。それゆえ、“受容された一定の要素的刺激”と“現識される一定の要素的知覚”とを恒常的に対応づけることすら断念しなければならない。所与刺激と現識感覚とを要素主義的に一対一的に対応づけようとする試みがそもそも成り立たない所以である。不可なのは要素主義的な対応づけだけではない。「受容された求心性の刺激」、この「受動的与件」と「感覚」との対応づけそのことが不可なのである。例えば、重さの感覚は、受容された刺激に応ずる関節や筋の緊張に照応するかのように思われ易いが、(McCloskeyが一九七八年に発表したかの有名な実験の所見によれば)重さの感覚は物を持ったり手を動かしたりするために脳中枢から発せられる遠心性の指令に応ずるものである。視覚上の方位置その他の感覚についても、Machが旧くから実験的観察に基いて「神経興発(「インネルヴァチオン」のルビ)」説を唱えていたことは想起するまでもあるまい。こうして、刺戟と感覚とを直接的に対応させることが土台無理という省察のもとに、といっても学史上の事実としてはかかる省察の深化とは一応独立の論脈から生じたものではあるが、生体なかんずく脳の一定の状態(これの形成にとって外的刺激の受容が機縁的一動因になるとしても、これは受容刺激によって、一義的に決定されるわけではない)と意識状態をとを対応づける理説が登場する。これが「所与=生理的状態」説にほかならない。――以上、われわれは「所与−刺激」説とも呼ぶべきものの検討という長大な迂路を介したことによって、今や「所与=生理的状態」説の論判は簡略に済ませることができる。此説は、生体わけても脳の生理学的状態という与件がいわゆる意識現象となって映現すると主張する。がしかし、此説に謂う“所与的状態”なるものは、謂う所の“意識現象”をアド・ホック(暫定的)に、つまり、現相をそのつど適合的に“説明”しうべく措定されたものにほかならない。われわれは、この措定が全く無根拠であると言うには及ばないし、この措定がナンセンスであるとも言わない。われわれ自身、或る種の論脈ではそのような措定を要請されもしよう。だがしかし、此説に謂う“所与的状態”は、その存在論的・認識論的“身分”を検討してみるとき、一群の射映的現相(但し、論者たちにあってはこれは単なる意識現象と改釈されている)をそれの所識態として統一的・整合的に認定するという構制において措定されたものであって、嚮の物理的実在と結局は同趣である。それゆえ、われわれとしては、「生理的状態」なるものを以って、現相的世界を超越するがごとき「所与自体」とするわけにはいかない。」12-15P
(二種のまとめ)「こうして、われわれは、原基的・最下層の現相的所識態の基底にある“窮局的な所与”なるものを「物在的実在」に求めることも「生理的状態」に求めることも不可能なことである。われわれとしては、基底的な「所与」を以って「物理的実在」とするものでもなければ「生理的状態」とするものでもない。」15P
(「所与」とは積極的には何であるのか?)「それでは「現相的世界における原基的な位層である射映的所識態」に対応する「所与」とは積極的には何であるのか? 読者は、この件を問い進める前に、却って、射映的現相の位階で停止すべきだと考えられるであろうか。現相的世界は「所与−所識」の多層的な成層をなしているにしても、射映的現相というその最下層はもはや純粋の所与であって単層的である云々。この立場を執るとき、原基的現相の基底に「物理的実在」や「生理的状態」を据える構図の排却と相俟ち、「所識」の性格規定いかんによっては、一種のフェノメナリズム(現象主義=現象一元論)に帰趨する。ところで、フェノメナリズムが現相世界を以ってレアールな単層的存在と見做すのに対して、著者が現相世界を「レアール・イデアール」な二肢成態として規定するかぎりでは、著者は成程フェノメナリストではない。が、しかし、現相世界の外部に超越的実在を想定しない点では、著者の立場も、一種の「亜フェノメナリズム」と目される。著者は「射映的現相」といえども「所与−所識」成態である旨を主張するとはいえ、「所与自体」を現相的世界の超越的外部に求めるわけではないのであって、この意味では「射映的現相の位階で停止」する者と自称しうる。――先の行文中、著者は慥かに「窮局的な所与は現相“以前的”な次元」に求めざるをえない旨を云々し、そこから「物理的実在説」や「生理的状態説」の検討に移ったのであったが、著者が「現相“以前的”な次元」と言うのは必ずしも「現相界を“超越する”次元」の謂いではない。現相的世界の原基層たる射映的現相が既に「所与−所識」成態であるとすれば、そして現相にとって「所与−所識」二肢性が構造的要件であるかぎり、原基的成態の構造的契機たる“最下位の所与”はもはやそれ自身で如実の現相であることは論理的に不可能事である。この論理的構制に鑑みて「現相“以前的”な次元」と上述した次第なのである。だとすれば、基底的な所与は“第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)的な無(「ウーデン」のルビ)”としか言いようがないのではないか? 或る意味では然りである。高位の「所与−所識」成態の場合とは異なり、原基的・最下位の「所与−所識」成態においては「所与」を如実の現相のかたちで現認することは不可能であり、たかだか「所識」との相関項としか言えない。それにもかかわらず、射映的現相における「所与−所識」の二肢性を掲言するのは、事実の問題として、原基的射映現相にいちはやくみられる構造的な特質に定位してのことなのである。――この間の事情を説明するためにも、今や「意味的所識」の側に一たん視線を向け変えるべき次序である。」15-7P
第四段落――「意味的所識」の措定 17-23P
(この項の問題設定)「現相における第二肢的契機たる「意味的所識」とは、さしあたり、「所与」がそれ以上・それ以外の或るものとして覚知される「或るもの」であって、――ここでの「現相的所与−意味的所識」の二肢的構制に拠っていわゆる記号としての「記号」も存在可能になるのであり――、所与的能記に対する所識的所記(「シニフィエ」のルビ)の契機を成すものと言うことができる。が、このさい、「意味的所識」は、それを独自自存の項(「もの」のルビ)として扱おうとするかぎり、レアールな「所与」とはおよそ別異な存在性格(すなわち、哲学者たちがプラトンの「イデア」に因(「ちな」のルビ)んで「イデアール」と呼ぶ特異な存在性格)を呈することに先(「ま」のルビ)ずは留目されねばならない。尤も、イデアールな存在などという宛かも形而上学的な存在であるかのごとき相貌を呈するのは、「意味」なる項(「もの」のルビ)を自存化させる物象化的錯認と相即するものであって、われわれは、やがて、この物象化の機制を自覚的に剔抉することにより、「イデアールな意味的所識なるもの」が自存するかのごとき錯認を止揚する。ここでは、しかし、当の錯認を卻けるためにも、ひとまず“もの化”された相での意味的所識を瞥見しておかねばならない。」17P
(既成的「意味論」の滅却)「偖、「意味的所識」を「所与=記号的能記」に対応する“所記的意味”と称するとき、読者は直ちに、幾つかの既成的な「意味論」を思い泛かべられることであろう。がしかし、著者の謂う「意味」は、おそらく、読者の連想される既成理論においては、意味とは、@記号で指示される対象的事物、A記号的所与を機縁にして連合的に泛かぶ心像的観念、B記号的所与を刺戟として解発される行動、C記号を止揚する規則、等と説明される。が、著者に言わせれば、「意味=事物説」「意味=観念説」「意味=行動説」「意味=規則説」、これらはいずれも「意味」の本質規定としては失当である。(尤も、これらの意味論が登場し、一定の支持を受けるのは謂われなしとはしない。著者としても、記号論としての記号論の場面では、これらの意味観にしかるべく所を得せしめるが、それも、意味の本質を著者流に規定することを前梯にしてのことである。意味の見地からは、論者たちの謂う「事物」「観念」「行動」「規則」そのものを存在論的・認識論的・意味論的に規定し返す必要がある)。――前掲の既成諸理論においては、一方における記号的与件なるものと他方における意味なるものとが“離れ離れ”に、謂うなれば“別々の場所”に在るかのごとき了解の構図になっている。しかし、「意味的所識」は「現相的所与」と“別の場所”に在るわけではない。(但し、著者としても、所与と意味とを宛かも離在相扱いうる場合があることを認めるというより、著者本来の立場からは“離在的か・合在的か”という空間化された問題設定そのものが卻けられる。が、ひとまずは、行論の便宜として、敢て合在的に措定しておく次第である)。記号的な「能記−所記」関係ということに纏(「まつ」のルビ)わる既成観念を減却して、単に現相の如実態に止目していただきたい。」17-8P
(もう一つの知覚的所与と意味的所識)「爰で、前掲の第2・第4図(五頁)を見て頂くと便利であるが、人はこれらを端的に<犬>として覚知するのであって、知覚的所与と別に(離在的に)意味的所識が泛かぶわけではない。――なるほど、この絵とは別の“犬の心像”が“離在”的に泛かぶ場合もあろう。が、当の表象的心像がそのまま眼前の所与的画像の意味なのではない。絵像とその“実物”が見較べられるような場合もやはり同断であって、“実物”がそのまま意味なのではない。画像がそれとして端的に(合在的に)覚知される当の<或るもの>と“実物” (正確には或る知覚的与件)がそれとして端的に覚知される<或るもの>、この<或るもの=意味的所識>が同一なのであり、この同一性を介して、画像と“実物”という別々の二つの与件が「写像−原物」として関係づけられるのである。離在的に在るのは、画像という所与と並ぶもう一つの所与(正確には、「画像的所与−意味的所識」成態と並ぶもう一つの「“実物”的所与−意味的所識」成態)なのであって、意味的所識そのものが画像から離在するわけではない。(ここにおける本質的構制とそれによる媒介を看過しつつ、画像と“実物”とを短絡的に結びつけるところから「意味=事物」説が生じる)。眼前の画像とは別に表象的心像が泛かぶ場合についても、やはり、「画像−意味的所識」と並ぶもう一つの「心像−意味的所識」成態が覚識されるのであり、表象的な心像とやらがそのまま画像の意味的所識なのではないのである。(この間の機制を把握しえないところから、「意味=心像的観念」説が生じる)。――こうして、たとえ、“実物”的知覚射映や“心像”的表象射映が眼前の図的所与と並んで現出する場合があろうとも、それらはさしあたり副現象(もう一つの「所与−所識」覚知の与件)たるにすぎず、「意味的所識」は眼前の図かそれとして端的に(合在的に)覚知される<或るもの>それ自身に即して規定されねばならない。(この<或るもの>は、更(「あらた」のルビ)めて誌すまでもなく、副現象として現出しうる“もう一つの所与”においてそれが端的にそれとして覚識される<或るもの>にもほかならない)。」18-9P
「人は第2図を見るとき、何ら副表象を伴うことなしに、それを端的に<犬>として視る。この<犬>は明らかに単なる図像的所与以上の或るものである。では、この<以上の或るもの><犬>とは一体いかなるものであるのか? それは、意味的所識それ自身としては、心像的観念でも実物的事物でもない。が、果たしてそのような<或るもの>が存在しうるであろうか? 人々は、とかく、万象を物的存在か心的存在かのいずれに排中的に分類しようとする。言い換えれば、物的存在でも心的存在でもないような第三の部類の存在などというものは顚から認めまいとする。このような狭隘(「あい」のルビ)な存在を墨守するかぎり、今問題の<或るもの>は、慥かに、存在する余地がないように思える。だが、この<或るもの>、すなわち、現相における所知の第二契機たる「意味的所識」は、さしあたり、物理的存在でも心理的存在でもない第三の存在領域に一応求められ得る。われわれは、後に、「意味=第三の存在領域に属する一種独特の存在」という物象化的錯認を卻ける者であるが、当面の論脈で言えば、意味的所識は物的存在でも心的存在でもない独特の或るものである。」18-9P
(「意味的所識」が如何なるものであるかの具体的な追求という問題設定)「読者はここで、拙速な行論を遮(「さえぎ」のルビ)って反問されるかもしれない。「意味」は現相的所与そのものに内在している或る構造的“成分”ではないのか? 故にこそ“合在的”なのではないか? このありうべき懸念に応えつつ、「意味的所識」がいかなるものであるかを具体的に追求して行くことにしよう。」20P
(具体的な追求の展開、所与の相違性にもかかわらず同じそれとして覚知される<或るもの>についての論攷)「第2図と第4図とを見較べるとき、人は斉(「ひと」のルビ)しく<犬>という意味的所識性においてそれを覚知する。このさい、第2図と第4図とが、同一個体に関する二枚の絵と見做されるか、それとも別々の個体に関する絵と見做されるか、この相違は、同じく<犬>といっても、実体的同一者であるか本質的同一者であるかという重要な問題に通ずるのであるが、ここではさしあたり、犬以外のものとの区別性において、斉しく<犬>として覚識されていることに留目すれば足る。第2図と第4図とでは、別々の二つの図であるという所与の区別性だけでなく、形や色の若干の差異性も覚識されるのであって、「現相的所与」は同一ではない。それにもかかわらず、これら異貌の現相的与件が、同じく<犬>として、同一の「意味的所識」性において知覚される。われわれとしては、ここで、所与の相違性にもかかわらず同じそれとして覚知される<或るもの>、この同一者を拠点として議論を運んでみよう。(断るまでもなく、直接的意識においては、恒に必ず「所与=相違的、かつ、所識=同一的」というわけではない。例えば「ルビンの杯」などにおいては、所与のほうが一箇同一の「白黒図形」であるのに対して、意味的所識のほうが<横顔>であったり<高杯>であったり相違しうる。但し、この場合にも、嚮に指摘した通り、諸々の横顔的射映相や諸々の高杯的射映相という相違性をもった一群の射映的所与を同じ<白黒図形>として覚知するというのが実態であって、単純に「所与=同一的」とは言えない。――われわれとしては、さしあたり自己同一的と思念される「意味的所識」が、<横顔>と<高杯>、<犬>と<猫>というように、他の意味的所識との関係では相互区別的な規定態であること、この件については後に立帰って論ずることにして、ひとまず意味的所識の“自己同一性”に定位して議論を進めておくことを許されるであろう)。」20P
(具体的な追求の展開、意味的所識の“自己同一性”に定位しての議論の展開) 「偖、今問題の<或るもの>、「意味的所識」は、第2図と第4図とで同一であるだけでなく、第2図をいろいろな角度から見た場合にも(所与的射映相は激変し多様であるにもかかわらず)やはり同一者たる<犬>である。この自己同一者が現相的与件とはおよそ別異な存在性格を呈していることは、多少とも省察してみれば直ちに確認できる。@射映的所与は光線の具合とか見る角度とかに応じて変化して止まないのに対して、意味的所識は自己同一性を保っており、一定不変である。すなわち、所与は変易的であるのに対して、所識的意味は不易的である。A所与は第2図と第4図というように特定の場所に局在するのに対して、意味的所識は第2図の所にも第4図の所にも第n図……の所にもありながら、しかも分散的に存在しているのではなく、自己同一性=単一性を保っており、謂うなれば、単一性を保ちつつ且つ随所に臨在している。所与は定場所的であるのに対して、所識的意味は超場所的である。B所与がそのつど特定の個別的存在であるのに対して、意味的所識は一群の現相のどれでもないが、しかし、どれでもありうるような、自己同一的普遍者である。特定のどれでもなく、それでいて、斉しくどれででもありうる斉同的一般者である。すなわち、所与が特個的な存在であるのに対して、所識的な意味は普遍的である。――これは洵(「まこと」のルビ)に特存在性格であると言わねばならない。物理的な存在であれ心理的存在であれ、よしんば同類項が多々存在するとしても、それらの項(「もの」のルビ)の各々は個別的存在であり定場所的であるし、万物流転の相にある時間的存在であって変易的である。「個別的・定場所的・変易的」であるということがレアールな存在の徴標であるとすれば、物的存在であれ心的存在であれ、いわゆる経験的存在はいずれもレアールである。しかるに、所識的意味は「個別的でなく・定場所的でなく・変易的でない」特異な存在、つまり、「普遍的・超場所的・不易的」な存在であり、非(「イル」のルビ)レアール=イデアールな存在と言わざるを得ない。けだし、或る学派の哲学者たちが、時間的・空間的な限定的規定性をもったレアールな存在との対比において、「意味」を「超時間的・超空間的」なイデアールな存在と称する所以である。われわれとしても、「意味」という「同一者」が現実に有るとするかぎり、所識的意味はイデアールな或るものであると承認せざるをえない。」21-2P
(「意味的所識」の函数的自己同一性)「「意味的所識」は、それがイデアールな存在性格、「普遍的・超場所的・不易的」な存在性格を呈するごとき或るものであることまでは判ったとして、具体的にはいかなるものであろうか。それは一群の所与が斉しくそれとして覚知される意味的同一者であるとはいえ、この同一者は所与群が共通に含有しているレアールな“成分”ではありえない。このことは、当の同一者=意味の存在性格からして既に明らかである。が、敢て具体例に則して駄目押しをおこない、それを手掛かりにして意味的同一者を積極的に規定する一具としよう。――人は、実物であれ、金製の像であれ、銀・銅・鉛製の像であれ、木製や陶製の像であれ、単なる紙上の画像であれ、それらの所与群を、斉しく<犬>として覚知することができる。そこには実質的な“共通成分”はおよそ存在しない。強いて言えば、犬らしい形が共通しているということになろうが、ここに謂う<共通な形>はまさにイデアールな範型(「パラディグマ」のルビ)=形相(「エイドス」のルビ)であって、決して文字通りの共通“成分”ではない。この形相は、どの像とも部分的にすらビッタリと重ねることはできまい。つまり、“成分”的にはおよそ“共通”ではないのである。人はここで形態(「ゲシュタルト」のルビ)心理学に謂うゲシュタルトを連想するであろう。謂う所の共通者=同一者たる範型(「パターン」のルビ)とは、さしあたり、一種のゲシュタルトにほかならない。形態(「ゲシュタルト」のルビ)は、メロディーの場合に典型的にみられるように、音質が全く違っても、また音の高さや強さが全く違っても、同じ<或るもの>として覚知される。レアールな成分は全く相違しても形態(「ゲシュタルト」のルビ)は“一箇同一”でありうる。ゲシュタルトそれ自身なるものが自存するかのように想定するとき、それがイデアールな存在性格を呈することは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。が、形態(「ゲシュタルト」のルビ)自体なるものが独立自存するわけではない。現実に存在するのは、そのつどの具体的な諸“成分”によって“充当”されたゲシュタルトである。ところで諸“成分”はいずれも可変的であり、謂うなれば「変項」がそのつど特定値で充当されている“変項値”に擬(「なぞ」のルビ)らえることができる。そして、ゲシュタルト全体はƒ (x,y,z……)という函数態的な在り方をしていると言うことができる。――爰で翻って惟うに所与現相群がそのつど相違しつつも斉しく同じそれとして覚知される「意味的所識」、かの「意味的同一者」は、まさしく各所与の具体的・レアールな諸“成分”によって“充当”されることの可能な「函数」的自己同一者にほかならない。(因みに「函数」それ自身は、更めて言うまでもなく、変項の諸々の“値”に対して「普遍的・超場所的・不易的」であって、イデアールな或るものである)。われわれは、こうして、「意味的所識」を「函数」的な或るものとして揚言することができる。」22-3P
第五段落――別群の現相との意味的相違者である所以のものの規定 23-28P
(この項の問題設定)「われわれは、以上で、「意味的所識」つまり、現相的所与が単なるそれ以上のそれとして覚知される当の<或るもの>、現相におけるこの所知的第二契機をイデアールな存在性格を有った範型(「パラディグマ」のルビ)的・形相(「エイドス」のルビ) 的・形態(「ゲシュタルト」のルビ)的な「函数」的な或るものと立言した。が、以上の行論では、意味的所識は、一群の現相における自己同一的共通者としては規定されていても、それが別群の現相との意味的相違者である所以のものがまだ規定されていない。今やこの側面を討究すべき段取りである。」23P
(対他的反照としての意味的所識)「偖、嚮には、<犬>という意味的所識は、宛かもそれ単独で、自己充足的に、自己同一的な或るものであるかのように論じた。がしかし、意味的所識は自己充足的に自己同一者であるわけではない。なるほど、人々は、<犬>は自足的に<犬>であり、<狼>は自足的に<狼>であり、……、各々の自己同一性を前提にして甫(「はじ」のルビ)めて<犬>と<狼>……との区別性も成立すると考えがちである。だが、この既成観念は抜本的な再検討に付す必要がある。――人々は一群の現相を所与的射映はかなり相違しても斉しく<A>として覚知し、また、或る現相群を所与的射映相は多分に相違しても斉しく<B>として覚知する。問題はここからである。人々がとかく思念するところでは、A群の各現相は、相互にかなりの相違点をもっているが、圧倒的に多くの共通成分を具えており、共通ではない成分的規定性はむしろ微々たるものにすぎない。そして、A群の現相とB群の現相のあいだには、多少の共通成分はありうるにしても、両者の成分のうち圧倒的大多数は著しく相違している。この故に、A群とB群とは、それぞれの内部に若干の相違点をはらみつつも、共通成分に徴して<A>と<B>に括られるのであり、大多数の相違成分に照らして<A>と<B>とが区別されるのである、云々。この考え方を洗練したものがAとBとは自足的に自己同一性を具えており、各々の自足的規定性に即して、まずはAがAとして、BがBとして規定され、そこでAとBとが区別される。という既成観念にほかならない。――論点を鮮明にする方便として、文字を引合いにだしてみよう。「犬」という文字と「大」という文字とは、共通成分もあれば相違成分もある。また、「犬」という文字と「犬」という文字とも、共通成分・相違成分をそれぞれ具えている。これら二組を比較してみるとき、「犬」と「犬」のほうが「犬」と「大」ょりも、却って相違成分が多く共通成分が少ないのではないか。「犬」をさまざまな手書き文字で置き換えてみればいよいよ事情が明白になろう。それにもかかわらず、われわれは「犬」と「犬」を同じく「犬」として一括し、「犬」と「大」とを相異なる「犬」と「大」として、区別する。同様なことが、(イ)生身の犬と生身の猫、 (ロ)生身の犬と木彫の犬、との二組についても言える。(イ)のほうは共通成分がはるかに多いのに両者を異立し、 (ロ)のほうは“共通成分”は僅少なのに両者を同じく「犬」として同立する。ここから判るように、<A>として一括するか、<A>と<B>として区別するか、これは共通成分の多寡とは直接の関係はないのである。要は、さしあたり、「示差的区別」の徴標的特性に懸っている。が、このさい、或る特性がそれ自身の固有的規定性のゆえに自動的・自足的に異立をもたらすのではない。同じ特性、例えば右肩の点が、「犬」と「大」とは異立せしめるが、「丈」と「𠀋」とは異立せしめない。学の有無が学者と無学者とは異立せしめても、学者と教師とは異立せしめない。或る特性(の有無)が示差的な“質的”区別規定として効(「はたら」のルビ)くか、非示差的な“量的”規定性たるに止まるか、これはその特性自体で自足的に決まることでなく、種別的な分類秩序体系という対他的反照関係に応じて甫めて決まることなのである。――この間の事情を把握するためにも、或る特性が示差的な区別規定性として効(「き」のルビ)くさい、その特性単独で<A>と<B>とか反照的に類別されるわけではないということに留意を要する。<A>と<B>とはそれぞれ諸々の規定性を具えた函数的一全体として規定されるのである。今、ƒ (x,y,z……) [但しz≠0]で表わされる第一の現相群とƒ (x,y,……)で表わされる第二の現相群とがあるとしよう。ここで、z=0を許容する場合には、第一群と第二群とは同類になる場合があり、そのようなものに関してはƒ (x,y,z……)で一括されうることになる。zが0の場合とそうでない場合とで示差的に類別するかどうかは、分類的関心に応じて決まることであり、自動的・必然的に帰結することではない。具体的例を挙げよう。人々は、同じく犬といっても、長い尾のものも居れば短い尾のものも居ること、この相違性を知ってはいるが、普通には、この相違は非示差的なものとして遇し、「犬」として一括する。ところが、<長尾犬>と<短尾犬>とを類別する関心のもとでは、先刻までの非示差的として閉脚していた尾の長短的差異を示差的区別とするようになる。このさい、長尾・短尾といっても極端なものと程々(「ほどほど」のルビ)のものとがあることを人々は知っているが、それは非示差的とされる。ところが、更に進んで、<特に長い尾の犬>と<程々に長い尾の犬>とを類別する場合には、それが示差的な差異とみなされることになる。所与の規定性が自動的・自足的に<A>なら<A>という分類的一括をもたらすわけではない。<A>なる「意味的所識」は類別的な対他的反照に応じて劃定されるのである。」23-5P
(前文の要言)「要言すれば、われわれは一群の現相を<A>として一括し、別群の現相を<B>として一括的に覚識するが、A群・B群それぞれの内部にさまざまな相違性があること、そして、A群とB群とのあいだに多くの共通性=同一性があること、このことを承知している。それでは、この群内差異性・群間共通性の存在にもかかわらず、各群の内部における共通性が圧倒的であり、かつ、他群との相違性が圧倒的であるが故に両群を括るのかといえば、そうではない。群内部での相違のほうが、視角いかんでは、他群との相違性よりも却って大きいことすら承知のうえで、敢て両群を類別するのである。――ここにおける論理構制を対自化すれば、A群は自足的な共通性・同一性の故に<A>として一括されるのではなく、ある徴表的な規定性に即して他群と類別されるかぎりで一括されるのである。裏返して言えば一群の所与現相を一括的に統握する「意味的所識」<A>の自己同一性なるものは、それが函数的な統一態であることからも察せられるように、硬直的な自同性ではなく、内的に諸々の差異性を孕みつつもそれが示差的な対他的区別性とされないかぎりでの、対他反照的な同一性である。意味的所識<A>は、自足的な自己同一性の故に<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に同一的な<A>とされるのである。」25-6P
(本論の四肢構造論への試走的提言――「所与−所識」の二肢的構造性と「能知的誰某−能識的或者」の二肢的構造性における間主体的共軛性)「ところで、意味的所識の対他的反照区別、類別的分化の在り方は、関心的態度の執り方に応じて規制される。そして、この主体的態度は生(「レーベン」のルビ)の関心によって規制されるが、その生的関心の在り方そのものが文化によって拘束され、間主観的に規制されている。従って、意味的分節の具体的な在り方は、文化的に規制され、間主観的=共同主観的に規制される。――これは、しかし、楯の半面であって、同時に事の半面、能知の間主観性(「インターズブエクティヴィテート」のルビ)ということが成立しうるのは、そもそも、対象的所知が「現相的所与−意味的所識」の二肢的構造を有つことに俟ってである。(「所与−所識」の二肢的構造性が能知的間主観性存立の可能性の条件をなしている)。能知とはさしあたり「所与−所識」成態たる現相的所知がそれに対して(「フェア」のルビ)現前する(帰属する)ところの者にほかならず、この「能知」は、人称的誰某として「対他−対自」存在であるかぎり、共軛的な自・他の区別的同一者であって、所識態を共有的に帰属せしめる者として、単なる人称的誰某以上の能識的或者(「能知的誰某−能識的或者」二重成態)として現存在する。遡って、能知が自己として人称的に対自化されるのは、現相的所識態の“この身体的自分”と“この身体的他者”とへの共帰属という共軛的関係態の対他・対自的分極化においてであり、茲に、自他的区別性にもかかわらず単一の意味的所識を共属せしめる能知として、自己は「自己としての他者=他者としての自己」という、他己との同一性を現前せしめる。能知が「人称的誰某以上の能識的或者」として現存在するのは、この機制に負うてである。こうして、能知の人称的対他・対自化にとって間主体的共軛性が存在条件をなし、当の間主体的共軛性の覚知にとって「意味的所識」の対他・対自的帰属が存立条件をなしている所以となる。――この件に関しては、しかし、本論における詳細な展開に委ねるのほかなくもこの「緒論」ではまだ立入るべき段ではない。」26-7P
(「意味の秘密」――真実には能知的契機と所知的契機との機能的連関態・関係的統一態がもっぱら存在すること)「われわれは、間主観性の問題を姑(「しばら」のルビ)く措いているかぎり、「意味的所識」の物象化の機制を爰で完全に剔抉することは期しがたい。とはいえ、次の点の指摘まではひとまず許されるであろう。それは、意味的所識なる客体が自存して、主体がその自存的な意味なるものを観取するのではない、ということである。レアールに存在するのは、能知が一群の射映的所与を同じ(或るもの)として覚識する態勢、他の部類との区別的反照における同一性の覚識(この同一性は部類内的な非示差的相違性の覚識を伴いうる)、この関係態にすぎない。しかるに、人が「主観−客観」二元図式を既定的前提としつつ、当の同一性の覚識には客体的同一者が相関的に対立しているはずだと思念するところから、(この客観性の意識は意味の間主観的同一性の覚識に支えられているのだが)「客体的に同一なものとしての意味」が要請されることになる。(客観的同一者が現認されるから同一性の覚識が成立するのではない。所与群内部的な相違性を現に覚知しつつも、それが示差的な区別ではないとして、非区別的に統握することを妨げられない覚識、このような“同一性”の覚識、厳格な同一性ではなく謂わば許容的差異の幅をもった“同一性”の覚識、間主観性に支えられたこのような覚識現相態が現存するだけである。しかるに、人は、この“同一性”を厳格な同一性に擦り換え、しかも、その厳格な同一性の意識が厳格な客観的同一者の現認に起因するものと思念する。) ――このようにして、“もの”化された相で「意味」という厳格な客観的同一者が一たん要請されると、それは厳格な自己同一性=単一性の故に、レアールな変易的所与とは端的に異なって不易的とされざるをえず、また、単一的=自己同一性を保ったままの所与に“臨在”するが故に、超場所的とされざるをえず、さらには、多様な特個的所与を汎(「あまね」のルビ)く通ずるが故に普遍的とされざるをえなくなり、ここに、当の“客観的同一者”たる「意味」は、レアールな所与とは存在性格を異にするイデアールな存在、超時空的存在という一種の形而上学的存在とされる仕儀になる。これが「意味の秘密」であって、イデアールな意味なるものが客観的に自存するわけではない。――このことを自覚したうえで、しかし、われわれ自身も一定の論脈では敢て日常的思念の構図に妥協して、イデアールな意味なる所知の第二契機を云々し、「所与−意味」の二肢的構造成体を云々し、現相の意味“懐胎”を云々しさえもする。が、それはあくまで叙述の便法であって、真実には能知的契機と所知的契機との機能的連関態・関係的統一態がもっぱら存在するのである。」27-8P
第六段落――残されている三つの案件他 28-34P
(この項の問題設定)「以上の行文には本論において着実に論及さるべき論件を拙速に論決した節々があり、読者の理解を直ちには得難い論点もあったかと憚かるが、如上の行論を携えて、先刻来構案として残している問題に一応の回答を試みる段取りである。」28P
(第一案件――現相的所与−意味的所識」の多階的成層における最下位の所与をめぐる問題)「残されている第一の案件として、「現相的所与−意味的所識」の多階的成層における最下位の所与をめぐる問題にまずは答えなければならない。――著者は、前述の通り、現相世界の順位内で現認されうる最下層・基底層は“射映的現相”であるとしつつも、この射映的現相といえども単層的な与件ではなく、既にして「所与−所識」成態であると見做す。この位階における「所与」は、論理上、それ自身としてはもはや現相でありえず、強いて言えば最下位の形相的意味の相関者たる第一質料としか規定できない。そこで生ずるのが、第一質料の措定をおこなうことなく、射映的現相(これにいわゆる“単純感覚”のごときをも含める)を以って、単層的な窮局的所与とは何故しないのか、という問題である。先に答えておいた通り、著者としては、射映的現相に関しては、それを単独に現識するかぎり、「所与」の契機を「所識」契機から区別して覚知することは不可能であることを認めたうえで、なおかつ、射映的現相といえども既に単層的ではなく「所与−所識」成態であるであると考えざるをえない事実に迫られて、敢て基底的な所与契機を想定する。それは如何なる事実であるか? 射映的現相といえども、いやしくも「図」(場合によっては「図」以前的な“図”)として分離しているかぎり、一種のゲシュタルトをなしている、という事実である。ゲシュタルトは、先に指摘した通り、イデアールな意味的所識を“懐胎”しており、もはや単層的な“レアールな純粋所与”ではない。このゆえに、射映的現相というゲシュタルト的分凝態は既に「所与−所識」成態と見做さざるをえない。このかぎりで“第一質料”を論理構制上(しかも事実的構造契機として)措定する次第なのである。――読者は、しかし、ここで反問して言われるかもしれない。「単純感覚」のごときは、射映的な現相であっても、ゲシュタルトとは言えないのではないか? 単純感覚の場合は如何? この疑念に対して懇(「ねんごろ」のルビ)に応答しようとすれば、いきおい、「所与=刺戟説」の流儀に仮託して検討せざるをえなくなるが(実際、本文中ではそれをも辞さないであろう)、しかし、「刺戟」を「所与」の位置に立てるのは、原理的には、前述の通り、ルビンの杯における「白黒図形」と同趣であり、却って上位の「所与−所識」態を倒錯的に下位に擬する所以となる。それゆえ、著者としては、「刺戟」なる所与を原理上の原基的な第一所与とは主張すべくもない。こうして、読者のうちには、途が塞されていると思念されるむきもありえよう。だが、著者としては、いわゆる“単純感覚”といえども、すでにゲシュタルト的存在性格を呈することを指摘する。そのためのイラストレイションとしては、生理学的心理学に謂う「汎化的同一視」や「慣熟的同一視」の現象を引合いに出すのが好便である。がしかし、これは所詮「所与=刺戟説」への仮託であって、原理的に採らるべくもない。そこで、原理的には、“単純感覚”でさえ「再認的同一視」や「較認的同一視」の可能性を即自的に有する事実に著者は訴える。けだし、再認的・較認的同定はゲシュタルト的「移調性」と相即するものであり、「所与=相違、かつ、所識=同一」の構制になっているからである。――だが、となおも反問されるかもしれない。単純感覚が再認されたり較認されたりするのは「所与」が全く同一だからではないのか? この疑念に対しては、再認における所与の時間的相違、較認における所与の場所的相違、これが与件内在的な規定性であるかそれとも、与件外在的な規定性であるかの検討(第三篇第二章参照)という複雑な作業に基いてのみ初めて答えうる。それゆえ、ここでは(そして第一篇第一章でもそれに止めているのだが) 、真のuniqum(唯一のもの)がもし存在するとすれば却って同定され得ないこと、同定の可能性をもつかぎり、それは或る“函数”(変項が単一である場合を含む)の“特定値”的定在であると見做されうること、このことを以って論者たちの謂う「単純感覚」ですら既にゲシュタルト的な「所与−所識」二肢成態である旨を論断するにとどめておく。――「単純感覚」に関しての最終的断案は姑く持越すの余儀ないとしても、以上によって、射映的現相という原基層が事実の問題として「所与−所識」二肢成体であると思料される所以の構制については表象していただけるのではあるまいか。そして、この位層での「所与」は(「所与=物理的実在説」「所与=刺戟説」「所与=生理的状態説」のごときが、上述しておいたように、いずれも存在論的・認識論的な“身分”に徴して、採らるべくもないかぎりで)さしあたり「第一質料」としか言いようがない所以についても、また、著者の場合、第一質料の立言にアクセントがあるのだということについても、とりあえずのところ諒解いただけたことかと念う。」28-30P
(第二案件――「所与」と「所識」との関係の問題)「残されているもう一つの案件として「所与」と「所識」との関係の問題がある。著者は「現相的所与」がそれ以上の「意味的所識」として覚知される此の「として」関係を「等値化的統一」と呼び、また、所与が能知に対して(「フェア」のルビ)所識的意味として妥当する構制を能知的主体の側に定位して把え返すさいには、当の「として」を所識的形相契機の所与的質料契機への向妥当化(「ヒンゲルテン・ラッセン」のルビ)と呼び換える。「等値化的統一」は、知覚の存立条件をなすばかりか、記号的意味表現を成立せしめる可能性の条件をなすものであり、向妥当化は判断的主語結合を成立せしめる原基的構制であり、「として」関係は論理学に所謂「自同律」を弁証法的に把え返すさいの鍵鑰をなすものでもあり(自同律がフィヒテからシェリングを経てヘーゲルにおいていかに把え返されたかを想起されたい)、こうして、それは、記号論・認識論・論理学にとって鍵鑰的重要性を有つものである。(実は、「等値化的統一」は単なる記号現象だけでなく、一般に、文化財における価値“懐胎”、実践の場における「有意義性」ひいては「役割存在性」の存立構制にも関わるものであり、本書『存在と意味』全三巻にとって基礎的概念装置をなすものである。現相的事実の問題としても「として」構制はいたるところ汎通的である)。そもそも、「として」関係は、著者の謂う「事」の基幹的構制を成すものにほかならない。それにもかかわらず、否、まさしくそれが汎通的であり基底的(「ベイシック」のルビ)であるが故に、それを伝統的手法での「定義」の形で式述することは不可能である。定義するさいには、それはしかじか(デアル)として定義せざるをえず、定義する側に定義さるべき当の概念含意するという循環的先取を犯す所以となる。因みに著者にとって、「として」は「デアル」よりも一層基底的なのであるが、定義不可能という事情の弁明の一具として引合いに出せば、「存在(「アル」のルビ)」という概念が定義不可能とされるのと論理構制上同趣である。「定義不可能」ということは、しかし、勿論、コミュニケイション不能の謂いではない。正確な理解を得べく試みることは可能でもあり、必須でもある。著者は本書の全般を通じてそれを追求するであろう。――この「緒論」においては簡略な式述を期すべくもないかぎりで、ここでは、「として」は一種独得な「異と同との統一」、ヘルダーリン・ヘーゲル式にいえば、「区別性と同一性との同一性」、しかも「レアール・イデアールな区別化的統一」である旨を誌すに止どめたい。」30-1P
(第三案件――著者の謂う「現相的世界」とはいかなる世界の謂いであるかという冒頭来の案件に答える段)「最後に、著者の謂う「現相的世界」とはいかなる世界の謂いであるかという冒頭来の案件に答える段である。著者は「現相(的)世界」ということで、何かしら日常的生活世界とは別の所に在る格別な世界を念頭においているわけではない。それは“われわれ”が日常的に内在しているこの世界にほかならない。「日常的生活世界」という詞を避けたのは、この術語(「テクニカルターム」のルビ)がいくつかの学派的先入見を籠(「こ」のルビ)めて受取られるのを虞(「おそ」のルビ)れたこと、唯それだけの理由である。既成の立場的諸理論の先入見を排却したさいに展(「ひ」のルビ)らける日常的生活世界の現相、これを指称する方便として、幼児の眼に現前するがままの世界という言い方もとりあえず許されるかと思う。――この言い方は、しかし、あくまでも暫定的なコミュニケイションのための象徴的標語であって、文字通りに受取られては全くのナンセンスになってしまう。一口に幼児といっても、三歳児と八歳児とではおよそ世界像が相違する。幼児といえども言語の習得にともなって既成の世界観におのずと汚染されている。仮りに言語的拘束性を免れたとしても、原始狩猟社会の幼児に展らける世界像と近代社会の幼児に展らける世界像とでは、およそ異貌であろう。それでは、いっそのこと、文化的に汚染される以前の新生児の知覚場面から始めては如何と言われるかもしれない。が、それは却って既成発達心理学の“学派的先入見”に身を委ねる仕儀となろう。われわれ自身、幾つかの具体的な問題場面では、嬰児期的体験層に遡って論攷する必要に迫られるとはいえ、全般的に新生児の知覚場面に定位する手法は後述する著者の目論見にそぐわない。要は、幼児の眼に映ずるということではなく、既成観念を排却して如実相を“虚心坦懐”に眺めることにある。――だが、果たして、既成諸学派の立場的先入見を完全に払拭して世界を眺めるなどということが可能であろうか。仮りに可能だとしても、それはたかだか既成的諸立場が暗黙・共通の了解事項としている基礎的な先入観を赤裸々に表白する域を出ないのではないか? 著者としては、既成の立場的先入見の完全な排却などということは、“心構え”としては言えても、実際には実現すべくもないことを承知している。仮りに、それが実現したとしても、そこに現出するのは“われわれ”の時代・社会・文化に相対的な基礎的な先入観の域を出ないであろうこと、このことをも先刻承知している。しかし、逆に、著者の当座の目論見からすれば、そのような基礎的な先入観と相即する世界現相を近似的にもせよ現前化することが好便であり、また必要なのである。」31-2P
(自覚的出発点としての「共通のそれ=与件」)「著者は、既成的諸立場の先入見を排却したさいに展らける日常的生活世界の現前相なるもの、それは抽象的な相ではかなりの普遍性をもつにせよ、たかだか既成的諸立場の共有する暗黙の前提的与件にすぎないと考えるのであって、この“不偏不党”の与件的現相こそが真実態であるなどと考える者では毛頭ない。従って、この“真実態”とやらを基準にして既成諸理論の“偏畸”を批判しようと企てる者でもない。著者は、既成の立場的諸理論が、そもそもの学理的省察の出発点にまで第三者的に遡ってみるとき、それを与件とし、それを問い返し、それを説明しようとして、各々の仕方で理論構築を逃げた「共通のそれ=与件」、これをあらためて自覚的な出発点に据えようとする」32-3P
(「現相的世界」としての単なる出発点ではなく終局点でもあり、不断の繋留点でもある「共通のそれ=与件」)「ここに謂う「共通のそれ=与件」こそ、とりも直さず「現相的世界」にほかならないと著者は考え、そこに出発点を据える。尤も、そこは、それが理論的省察の与件であり、それが問い返され、それが説明さるべき世界であるかぎり、単なる出発点ではなく終局点でもあり、不断の繋留点でもある。――「現相的世界」は、当座の与件的出発点としてそのまま受納されるのではなく、エンドクサとして、認識批判的な分析的討究の対象となる。著者は、これを独自的に分析するだけでなく、それに照らして、既成の諸立場、というより、さしあたっては既成のパラダイムが、当の与件の被媒介的存在構制を何故また如何に錯誤することにおいて成立したものであるかを追認し、この追認にもとづいて謬見を却けようと図る。けだし、著者にとっては、既成的世界観・認識観のパラダイムとの論判的接点を保有しつつ、かつ同時に、卑見を開陳する「現場」として「現相的世界」への遡向的定位が要件となる所以である。」33P
(「現相的世界」の全体像をヴィヴィッドに描出しておくことがかなわぬこと)「読者は、爰で、「現相的世界」の措定が著者にとって有つかかる重要性に鑑み、著者があらかじめ方法論的な手続を踏んで「現相的世界」の全体像をヴィヴィッドに描出しておくことを要求されるであろうか。それがもし遂行されるとすれば、既成的観念によって混濁された相での現実の“日常的生活世界”に諸々の「判断停止(「エポケー」のルビ)」や「括弧づけ(「アインクランメルング」のルビ)」を施すという手法に頼ることになろうが、著者としてはそれをあらかじめ周到に運んでおく趣意はない。」33P
(小さなポイントで、前文の補足説明)「著者は、例えば、知覚的に現前する世界、知覚的風景世界を、「知覚とは実は物理生理的過程の所産であって、眼前に見えていても、知覚的風景世界は頭の中にある“純粋意識的世界”にすぎない」とか、「知覚には物理的実在が対応している」とか「知覚とは主体と客体との共働の産物である」とか、「色や音などは主観的なものにすぎないが大きさや数などは客観的なものである」とか、このたぐいの理論的な解説やこのたぐいの理論的な解説や既成観念を“(まだ)知らない”ことにして“見えるがまま”に直視して頂きたいものと願わないわけではない。がしかし、「現相世界」は、知覚的に展らける相には尽きず、本来、実践的関わりにおいて展らけるものであるし、宗教的な既成観念をその他をも含めて完全な「括弧づけ」を事前に試みるとすれば、日暮れて途遠く、亡羊の嘆を喞(「かこ」のルビ)つのが落ちであろうと惧れる。と、同時に、反面では認知的に展らけるかぎりでの現相的世界を読者と“共有化”“共現前化”すれば足る本巻においては、多言を費して「括弧づけ」をおこなうことなくしても、“童心に映ずるがまま云々”という比喩的言い方によって、所期の目的をほぼ達しうることかと信ずる――」34P
(この項のまとめ)「著者の窃(「ひそ」のルビ)かに信ずるところ、「序文」およぴ「緒論」を辿ってこられた読者とのあいだでは、「幼児の眼に現前するがごとき相での世界」という字義通りには全くナンセンスな標語によって、当面必要なかぎりで、既に「現相的世界」を“共有化”しえているはずである。そして、より立入って必要とされる具象的な描像は、本論の行文に委ねることができると念う。」34P
第七段落――序文と緒論のまとめ 34-6P
(この項の問題設定)「著者は、以上の序説(「イントロダクション」のルビ)によって、本論の首章への導入(「イントロダクション」のルビ)を期した心算である。「現相(「フェノメン」のルビ)」は、“本体の仮現した現象(「エルシャイヌング」のルビ)”ではなく、さりとて単に“自己自身を示すもの(des,was sich selbst zeigt)”ではないこと、それはその都度すでに「所与以上の或るもの」であること、このことの論定は、実質的には、冒頭章の先取にすらなっている。この先取に鑑み、冒頭章では無用の重複は避け、体系的均整を形式的には損(「そこな」のルビ)うことも憚らず、むしろ側鎖の配視に紙幅を割(「さ」のルビ)きつつ、後論への伏線の敷説を図ることにしよう。――この「緒論」は本巻全体への緒論としての体をなさないが、この欠は「序文」の後半部によって代えさせて頂く。」34-5P
(哲学が権利問題に専念できないこと)「尚、これは本巻全体にかかわる事項であるが、読者は、著者が「事実問題」と「権利問題」とを混淆しているのではないかとの嫌疑を懐かれるかもしれない。しかし、著者自身としては事実問題(quid facti)と権利問題(quid juris)を混淆してはいない心算である。いかなる事件がいかにして起こったかの事実審理と、どう判決をくだすかの裁定とは、慥かに別次元の事柄である。例えば、親殺しという同一事実であっても、判決のほうは、法体系が尊属殺人の規定をもっているか、もたないか、却って“姥(「うば」のルビ)捨て”を義務づけているかどうか、等、法体系に応じて相岐れる。事実問題と権利問題とはなるほど区別を要する。――ところで、哲学わけても認識論は、旧来の主流派的見解によれば、権利問題に専念するべきものとされる。事実問題は個別諸科学に委ね、認識論哲学はもっぱら判決の適法性の権利づけをおこなえばよいというわけである。もし、個別科学の立証した“事実”が絶対確実であるとすれば、そして、真理基準の“法体系”が絶対的に完備しているのであれば、それも宜(「よ」のルビ)かろう。諸科学を警察や下級審なみに見下し、哲学は上級審なりと自任するのも、御愛嬌かもしれない。だがしかし、“法体系”が完備しているどころではなく、“事実審理”が予断と偏見にもとづいているとすれば如何? そして、現実には、“法体系”は悪法でしかも矛盾撞着の極みにあり、“事実”は陳腐なパラダイムの禍するところ歪んでいるのが実情ではないか! とすれば、哲学的認識論は、権利問題とやらに安住しているわけにはいくまい。権利問題への専念とは、警察の調書を追認し、かつ、悪法を遵守する体制派“裁判官”のイデオローギッシュな立場表明である。かかる因循な態度は厳しく弾劾さるべきものであると著者は考える。尤も、遺憾ながら、旧来の跛行(ママ)的な“分業”体制のゆえに、諸科学はとかく哲学的な次元での省察を敬遠し、哲学は具象的な事実審理の学殖と技能に欠ける。現状では、エンゲルスが哲学の自己止揚を托した学問の理想的な編制とは程遠い。このため、哲学が事実問題に容喙(「ようかい」のルビ)するのは僭越でもあり、身の危険でもある。だが、哲学は、いずれにせよ“事実審理”のパラダイムを批判的に検討する責務を免れない。哲学は、あまつさえ、今や“事実の再審”と“法体系の更新”とを同時相即的に課せられているのである。著者が、本書において、時として事実問題に従事するのは、かかる了解にもとづくものであって、権利問題と混淆してのことではない。――因みに、著者が発生論的手法に訴える場合でも、それは必ずしも事実問題を意図するものではない。譬えば、円筒形というものを「長方形をその一辺の周りに回転させて出来る立体図形」として説明するのは、一見、発生論的であるにしても、現実の円筒が事実そのようにして成立したことを説くものではなく、円筒の存立構造を分析・確定する一方途であるのと同様、著者の“発生論的”立論は概(「おおむ」のルビ)ね存立構造論の一補助手段である。事実問題に関する不備はもとより著者の浅学菲才のしからしめるところであるが、本趣はあくまで「存立構造論」、ひいては「それが如何にして可能であるか」という「可能性の条件」の論及にあること、この趣意を念頭において読み込んで頂くよう、ここにあらかじめ願う次第である。」35-6P・・・エンゲルスの「哲学の死」宣言批判と事実問題に踏み込む中身としてのパラダイム転換問題
本文中「取」はあなかんむりがついています。これは『弁証法の論理』のもくじから出てきているのですが、その本文には出てきません。本文ではすべて「取」になっています。この『存在と意味』で再出していて、改めて探しているのですが、未だに、この文字を探せていません。
2024年11月01日
立岩真也『人命の特別を言わず/言う』
たわしの読書メモ・・ブログ677
・立岩真也『人命の特別を言わず/言う』筑摩書房2022
昨年7月末に亡くなった立岩さんの生前の自ら編輯した最後の単行本(のよう)です。
ピーター・シンガーの話から始まり、それへの批判で終わっています。シンガーは人間中心主義を批判し、苦しみを感じる動物を殺して食べるべきではない、という一方で意識のない「障害者」には安楽死を勧めるというとんでもない論攷を出しています。それをずっと批判してきた立岩さんのまとめ的な本。生命倫理や社会倫理学というジャンルになるのでしょうが、わたしは倫理学批判をしています。その倫理として立てられる問題がどういう問題で、そこに抱えさせられている問題をどう解決していくのかを問題にしていくことで、倫理に落とし籠められることを批判してきたのです。
わたしは差別というところから問題をとらえ返してきました。シンガーの論はパーソン論として展開されてきていることで、能力や意識ということを物象化して、共同主観的にとらえられず、「能力」がその「個人」が持っているものとして、すなわち内自化してとらえられてしまっているのです。実際は、ひとは協働する「動物」で、能力ということは社会的に蓄積されて(言語も同様で)、それを皆が使っていく、今流行の言葉でいうと、コモンとしてとらえることが必要なのです。それが個人の能力としてとらえるのは、資本主義社会の活動が労働を軸にして立てられ(ひとの生きる営為が労働を軸に立てられ、私有財産制が定立しているところでは既にその矛盾にとらわれていくのですが)、その労働能力によって賃金が違ってくるというその社会の特質から、ひとをその能力によって価値付けしていくという、資本主義社会の矛盾そのものなのです。シンガーもその資本主義社会の論理にとらわれているのです。
立岩さんは、市場原理はなくならないとして、社会の根底的変革の途を塞いだ論攷にしていっているので、問題がどういう問題でどう解決していくのか、行けるのかが出てきません。社会の根底的変革ということが出てこないので、どういう倫理を立てて差別を抑え込むのかというところに問題を収束させることから抜け出せないのです。
さて、この本の立岩節の対話的論攷は、さまざまなところからのとらえ返しをしていっています。わたしが留目していたのは、吉本隆明論です。わたしは立岩さんとは逆に、吉本さんの「共同幻想」論を物象化論と通底することとして援用していますが、反差別ということではとても共鳴できないでいます。
さて、この本で、わたしの名が文献表にあり、註でわたしとの対話文を載せてくれています。『自由の平等 簡単な別な姿の社会』岩波書店2004の再録です。「しばらく前に終止してしまったかのような諸思想については、それが何だったのか、どんな論理の構造になっていたのか、何を巡って対立したのか、再検討する必要があると思う(序章註15)。(疎外論/物象化論という対立については廣松[1972][1981]等、田上[2000]等、他。なお本節と本書の何箇所かは立岩[1997]を論じた三村[2003]への応答でもある。) ・・・・・・/なお、私は「疎外論」に対置されるものが「物象化論」――それは本章ではあまり肯定的に紹介してこなかった範疇化と支配等々を結びつける議論(註5・7、二四四頁)に似ている――であるとは、ずっと以前、大学生を始めた頃にはそんなことなのだろうかと思っていたこともあったが、その後は、考えていない。」258Pこれは、「能力を個人がもつものとして考えない」という反差別論の核心のところでは、この物象化論は重要な概念です。
最後に、極めて短く、この本のエキスと言えることを切り抜いてメモります。
「たしかに人間に似たものが作られている。機会は、またソフトフェアはどこまでいったら人間になるのか。すると、それは殺してよいのかいけないのか。そうした主題にわたし自身はあまり興味はないが、そんな議論は既にたくさんあるはずだ。それを知っていうわけではないが、そんなに難題なのだろうか。何が作られてはならないかについての答えを言えばよいだけだと思う。」237P・・・ヒトの種の概念をゆるがすものは作ってはならない。
「人間のように残念な存在はできるだけ作らないほうがよい。」238P・・・シニカルなペシミズム
「ずいぶん長いこと、いろいろと言われてきたはずにもかかわらず、障害を(なおす薬がたいへん廉価であったとしても)なおしたくないと関節拘縮症の障害をもつ(ママ)テイラーから言われてシンガーはまた驚いている。そんな人を説得しようという記にもなれない。自分で肉を食べないことにしている分には、それはまったくわるいことではないから、どうぞ、というだけだ。」239P・・・いらだちの中に怒りさえも感じる文。
・立岩真也『人命の特別を言わず/言う』筑摩書房2022
昨年7月末に亡くなった立岩さんの生前の自ら編輯した最後の単行本(のよう)です。
ピーター・シンガーの話から始まり、それへの批判で終わっています。シンガーは人間中心主義を批判し、苦しみを感じる動物を殺して食べるべきではない、という一方で意識のない「障害者」には安楽死を勧めるというとんでもない論攷を出しています。それをずっと批判してきた立岩さんのまとめ的な本。生命倫理や社会倫理学というジャンルになるのでしょうが、わたしは倫理学批判をしています。その倫理として立てられる問題がどういう問題で、そこに抱えさせられている問題をどう解決していくのかを問題にしていくことで、倫理に落とし籠められることを批判してきたのです。
わたしは差別というところから問題をとらえ返してきました。シンガーの論はパーソン論として展開されてきていることで、能力や意識ということを物象化して、共同主観的にとらえられず、「能力」がその「個人」が持っているものとして、すなわち内自化してとらえられてしまっているのです。実際は、ひとは協働する「動物」で、能力ということは社会的に蓄積されて(言語も同様で)、それを皆が使っていく、今流行の言葉でいうと、コモンとしてとらえることが必要なのです。それが個人の能力としてとらえるのは、資本主義社会の活動が労働を軸にして立てられ(ひとの生きる営為が労働を軸に立てられ、私有財産制が定立しているところでは既にその矛盾にとらわれていくのですが)、その労働能力によって賃金が違ってくるというその社会の特質から、ひとをその能力によって価値付けしていくという、資本主義社会の矛盾そのものなのです。シンガーもその資本主義社会の論理にとらわれているのです。
立岩さんは、市場原理はなくならないとして、社会の根底的変革の途を塞いだ論攷にしていっているので、問題がどういう問題でどう解決していくのか、行けるのかが出てきません。社会の根底的変革ということが出てこないので、どういう倫理を立てて差別を抑え込むのかというところに問題を収束させることから抜け出せないのです。
さて、この本の立岩節の対話的論攷は、さまざまなところからのとらえ返しをしていっています。わたしが留目していたのは、吉本隆明論です。わたしは立岩さんとは逆に、吉本さんの「共同幻想」論を物象化論と通底することとして援用していますが、反差別ということではとても共鳴できないでいます。
さて、この本で、わたしの名が文献表にあり、註でわたしとの対話文を載せてくれています。『自由の平等 簡単な別な姿の社会』岩波書店2004の再録です。「しばらく前に終止してしまったかのような諸思想については、それが何だったのか、どんな論理の構造になっていたのか、何を巡って対立したのか、再検討する必要があると思う(序章註15)。(疎外論/物象化論という対立については廣松[1972][1981]等、田上[2000]等、他。なお本節と本書の何箇所かは立岩[1997]を論じた三村[2003]への応答でもある。) ・・・・・・/なお、私は「疎外論」に対置されるものが「物象化論」――それは本章ではあまり肯定的に紹介してこなかった範疇化と支配等々を結びつける議論(註5・7、二四四頁)に似ている――であるとは、ずっと以前、大学生を始めた頃にはそんなことなのだろうかと思っていたこともあったが、その後は、考えていない。」258Pこれは、「能力を個人がもつものとして考えない」という反差別論の核心のところでは、この物象化論は重要な概念です。
最後に、極めて短く、この本のエキスと言えることを切り抜いてメモります。
「たしかに人間に似たものが作られている。機会は、またソフトフェアはどこまでいったら人間になるのか。すると、それは殺してよいのかいけないのか。そうした主題にわたし自身はあまり興味はないが、そんな議論は既にたくさんあるはずだ。それを知っていうわけではないが、そんなに難題なのだろうか。何が作られてはならないかについての答えを言えばよいだけだと思う。」237P・・・ヒトの種の概念をゆるがすものは作ってはならない。
「人間のように残念な存在はできるだけ作らないほうがよい。」238P・・・シニカルなペシミズム
「ずいぶん長いこと、いろいろと言われてきたはずにもかかわらず、障害を(なおす薬がたいへん廉価であったとしても)なおしたくないと関節拘縮症の障害をもつ(ママ)テイラーから言われてシンガーはまた驚いている。そんな人を説得しようという記にもなれない。自分で肉を食べないことにしている分には、それはまったくわるいことではないから、どうぞ、というだけだ。」239P・・・いらだちの中に怒りさえも感じる文。
斎藤幸平『マルクス解体 プロメテウスの夢とその先』
たわしの読書メモ・・ブログ676
・斎藤幸平『マルクス解体 プロメテウスの夢とその先』講談社2023
斎藤幸平さんの追っかけの続き。この本は「たわしの読書メモ・・ブログ634/・斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』KADOKAWA(角川文庫ソフィア)2022」で取り上げた本と同様に英語で書かれた本の翻訳本です。そして、内容的には、「たわしの読書メモ・・ブログ573/・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020」で取り上げた本と「並行して準備していた2冊目の学術書」(「日本語版あとがき」377P)。原題はMarx in the Anthropocene:Towards the Idea of Degrowth Communism「英語版のタイトルは日本語にすれば、『人新世のマルクス 脱成長コミュニズムの理念に向けて』である。」(「日本語版あとがき」377P)。これを『マルクス解体』と訳したのは、「マルクス葬送」を想起させる意図的な誤訳ではないかとわたしはとらえ返していました。
「意図的な誤訳」というのは、同じようなタイトルにすると新しい読者が見つけにくいということで、より多くの対話をしたいということで、「しかけた」というところで、内容的には、「それでも、マルクス主義の再生を望むなら、その際の必須条件は、いわゆる「史的唯物論」という「生産力」と「生産関係」の間の矛盾を進歩の原動力とする悪名高い歴史観に依拠するマルクス像を解体することではないか。」(「はじめに」9P)(註1)という、要するに旧い「マルクス像」の解体「(「日本語版あとがき」379P)で、内容的には「マルクスの再生」なのです。これは、旧いマルクスが生産力主義になっているとか、マルクスは差別の問題をとらえられなかった、というような批判があるところで、それは、晩期マルクスが『資本論』の草稿を書きながら、自然科学の本を読み、古代社会ノートを取りながら、膨大なノートをメモり、本への書き込みなどを読んでいくと、いくつかのキーワードとともに(「物質代謝」など)、一八六八年位をメルクマールとして(註2)晩期マルクスの転換と言われることをおさえられると著者は主張しています。
また、エンゲルスとマルクスの分業と言われていることのとらえ返しも必要になっているようです。マルクスが論的深化を進め、それをエンゲルスが解説をしていったということだけでなく、ここで問題になっているのは、自然科学的なことはエンゲルスの分担として、『反デューリング論』や『自然弁証法』がマルクス主義の自然科学的テーゼであると伝統的なマルクス主義で定式化されているのです。そもそも、『ドイツ・イデオロギー』においても、エンゲルスが先行的に草稿を書きマルクスがそれにコメントしていくというエンゲルスの先行説があり、経済学の必要性をエンゲルスがマルクスに提起したということがあり、自然科学においても、エンゲルスが百科全書的なところから先行して踏み入っていて、マルクスがそれを追従したということがあるという指摘があります。ですが、この自然科学ということにおいても、マルクスはその学習したことを本にしえていないにしても、膨大な草稿や書き込みを遺しているのです。いずれにしても、マルクスが深化したとらえ返しをしていったのです。ここで、問題になっているのは、「物質代謝」という概念です。著者は、エンゲルスは結局物質代謝ということをとらえ切れていないと批判しています。
エンゲルスがマルクス主義なるものを規定し、スターリンがマルクス・レーニン主義なるものを定式化していったのですが、そもそも、エンゲルスがマルクスの謂っていることを押さえ切れていないということは、他にもいくつかあると指摘しています。@マルクスは、西洋中心主義・植民地支配の正的側面(「野蛮の文明化」)の主張から脱したが、エンゲルスは脱しきれていないA物質代謝の概念をエンゲルスはとらえ切れていなかったBマルクスは生産力(至上)主義、単線的発達的概念から脱しようとしていたが、エンゲルスにはそれが見られない、Cエンゲルスは自然科学を百科全書的に学習していたが、マルクスは物質代謝というところで、環境問題とからめて学習していた。エンゲルスは物質代謝という観点ではなく、「自然の復讐」というところで環境破壊ということをとらえ返していて、「科学的社会主義」の実現による、科学的技術の発達による解決というところで、環境問題をとらえかえしていた(註3)、という押さえになっています。「エンゲルスは、「合理主義」、「実証主義」、「進歩的歴史観」、「生産力主義」、「ヨーロッパ中心主義」といったマルクスの理論――とりわけ初期マルクスには濃厚であった(そして晩期マルクスが止揚しようとした) ――近代主義的な側面を過剰に強調することになってしまったのである。」371P「エンゲルスの哲学的プロジェクトは、マルクスの後期の理論的試みと両立可能なものではなかったのである。だからこそ、マルクスとエンゲルスを区別することは、『資本論』を超えるために不可欠な条件なのである。」372Pと突きだしています。
その他、一元論ではなく、自然と社会との関係を押さえるには二元論的なとらえ返しが必要になるとかいうことを著者は展開し(「方法論的二元論」373P)、物化と物象化の概念の違いの押さえとか(註4)、そして、「この気候危機の時代に求められているのは、価値、物象化、階級、社会主義、エコロジーについてのマルクスの理論を否定することではなく、脱成長という立場からマルクス主義の遺産を徹底的に再解釈することではないだろうか。」374Pというまとめ的文を出しています。
更に、ここからは著者の論考とは少し乖離して、わたしの見解ですが、Dエンゲルスは百科全書的にというより、自然科学を弁証法の法則的とらえ返しとして展開して、その弁証法によって革命の必然性を主張しようとしていたのですが、マルクスには弁証法を法則としてとらえる観点は稀薄だったのではないでしょうか、Eエンゲルスは弁証法ということの定式化ということはあったにしても哲学の死を宣言していたけれど、マルクスは哲学的な探究に踏み入ることは止めていたけれど、『資本論』には物象化論という哲学的な軸が貫いているということ、エンゲルスには『資本論』が哲学書でもあるという観点、物象化論で貫かれている(註5)ということがとらえられていなかったのではないか、と思えるのです。マルクスにも色んなブレのようなことはあったにしても、です。このことは、MEGAで出されてきているマルクス自身の手になる『資本論草稿集』とエンゲルス編集の『資本論』との違いということで対照化していけるのではないかと考えたりしていますが、わたしにその余力はありません。誰か若いひとたちにやってほしい課題です。
まだいくつかの指摘ができるでしょうか?
その他「構想と実行」という概念を突き出しています。そこで、それが切り離されることが肉体労働と精神労働の分離・分業という、分業が差別に繋がっていくことを指摘しています。このことは実は、わたしの世代、団塊の世代が経験した民衆的運動、全共闘運動の中で突き出された、決定と執行の一致ということを、きちんととらえ返した概念になっています。
さて、わたしは、斎藤さんの本を読みながら、ほぼ共鳴していて、論的深化を得られていると感謝もしているのですが、いくつか疑問に感じていることがあります。
まず、斎藤理論のキー概念に、「脱成長のコミュニズム」ということがあるのですが、自分自身でも反問的なといを立てられていますが、わたしは何か違和を感じていました。アベノミクスということで、経済成長戦略という突き出しがあります。新自由主義的グローバリゼーションの進行の中でそれが世界を覆った段階で、経済成長を求めていくと、それは「物質代謝の亀裂」とも言われる環境破壊や差別の拡大という事態になります。それへの批判としての「成長の罠」にはまった資本主義批判ということなのだと思います。ですが、そもそも、成長とはそもそも何かという問いが必要になります。そのことに丁度イメージが重なる論争があります。わたしは障害問題を軸に差別の問題を考えてきました。そういう中で、「発達保障論」という突き出しがあり、それへの批判としての「反発達論」という理論も出ていました。「発達保障論」というのは、「発達の弁証法」なる法則の物象化に陥ったひとたち(これはエンゲルスの弁証法の法則化とその物象化に通じるのです)が、「ひとは無限の発達の可能性を秘めている、それを保障し促すのが、周囲のものの役目だ」として、「障害者」に標準的人間像に近づくことを求めるという、まさに、「障害者」に対する抑圧という差別の論理を押し付けたのです。そこで、それは抑圧だ、差別だというところで、「反発達論」ということが出てきたのですが、そもそも、「発達」ということをその中味をきちんと押さえないで強要することを批判していて、「発達保障論」の「発達」概念を批判しているところから逸脱して、そもそも「発達」とは何かというところからのとらえ返しにはなっていなかったのです。だから、「できる」ということへの反発ということまで起きていました。そのことからとらえ返せば、資本社会における「利潤の悪無限的追求」としての発達の批判と、その頸から脱したところで、そもそも何を求めるのかということが純粋に追求されることが、「成長かどうか」「発達かどうか」はどうでもいいことなのです。だから、コミュニズムが実現されたところで、「脱成長」という冠は必要でなくなるのではないでしょうか?
もう一つは、この本には出て来ませんが、わたし自身がマルクスの物象化論を反差別論に援用しようという立場から、マルクスのもうひとつの転換、疎外論から物象化論へということの意味と意義を押さえ損なっているのではないかということです。これは『ドイツ・イデオロギー』の共同執筆の中で、一八四五年頃おきた転換としてマルクス/エンゲルスの初期から中期への転換です。実は斎藤さんは、この疎外論から物象化論への転換を認めていません。これは実は実体主義批判と差異論からのとらえ返しにキーとなることなのです。
実は、この本の中で、斎藤さんがローザ・ルクセンブルクの本源的蓄積論を資本主義がもたらす物質代謝の亀裂が資本主義が資本主義で在る限り逃れられないこととして援用していることと繋がっています。資本主義は恒に継続的本源蓄積を求めざるを得ない、そこで環境破壊が起きているというとらえ返しです。これは環境破壊(未来の世代の生きる環境の破壊という通時的収奪)もその一端ですが、差別というところで総体的に言えることなのです。総体的に言えば、差別なしには資本主義は継続し得ないというところで、この差異論の押さえに、疎外論では展開し得ず物象化論的押さえが必要になっています。だから、この転換の押さえも必要になります。
さて、もう一つわたしの問題意識でビビットしたことを書き添えておきます。わたしは反原発の運動に参画しているのですが、その中で、反原発に特化したところで、気候変動というところを批判した発言や文を出しているひとがいて、気候変動というのは虚偽であるというところで、斎藤さんに質問状を出したけれど、返答がないという批判をしているひとがいました。そもそも論旨が紆余曲折しているし、論理的な論攷にはなっていないので、相手にしないとされたのかもしれませんが、そもそも学者のひとたちは、自分の出す本や論文提出の中で応答していくというスタイルで臨む傾向があり(註6)、まさに、その応答的文をこの本の中で見つけました。ちょっと長くなりますが引用しておきます。「大加速時代における二酸化炭素排出量の激増は、化石燃料に依拠した特定の社会的生産の編制方法と結びついた現象である。その結果温室ガスの排出が進み、地球の気温上昇がティッピング・ポイントを超えると、正のフィードバック効果によって不可逆的で急速な、予想外の変化が引き起こされる可能性がある。気候変動による南極氷床の融解により、氷に含まれるメタンガスが放出されたり、黒土が表出することで太陽光の熱吸収が進み、気候変動がますます加速する。また、海洋酸性化や森林伐採によって、一定の種の生物が減少・絶滅すると、食物連鎖が乱れ、他の種の減少にもつながる。これらの連鎖反応は、人間の活動が直接の原因ではないし、人間が変えることもできない。それゆえに「不可逆的」な自然の限界(バウタダリー)と考えられているのだ。」186P、実は別の文脈で出された文でわかりにくいのですので補足しますが、二酸化炭素の増加ということや気温上昇を過小評価するひとは、「連鎖反応」ということを押さえ損なっていることや、線形方程式的な因果論的なところで問題をとらえていることがあるのです。現実には、函数的連関態のなかで、錯分子構造――函数内函数や多次元的方程式のような中で、影響が極化することをとらえ損なっているのです。
この著は再読してもっと丁寧にメモをとり、対話を広め深めていく大切な著なのですが、先を急いでいます。目次だけでもここで起こし、皆さんに関心をもって貰いたいとも思うのですが、是非読んでほしい書だということを提起して、それもここではなさないままに、終えてしまいます。
(註)
1 「「生産力」と「生産関係」の間の矛盾を進歩の原動力」とありますが、これは「進歩の原動力」でなくて、社会主義革命の必然性として突き出されていたことで、「悪名高い歴史観」とは「唯物史観」のことを指すと思われますが、問題は生産力至上主義であって、環境負荷のない生産力の発達まで否定することではない、資本主義で発達を求めるとほぼ「物質代謝の亀裂」になってしまうという話です。経済的なことがイデオロギー的なことを土台的に規定するというところまで否定できないのではないでしょうか?
2 自然科学的にはフラースの学習261P、マウラーなどの共同体研究やロシアの共同体兼ミールの研究、ロシアの活動家たちとの接触から、この一八六八年をメルクマールとしているようです。
3 科学の発達の中で解決しようという、科学主義的なところを、ギリシャ神話のプロメテウスの何ちなんで、プロメテウス主義という概念を著者は出しています。
4 ただし、区別がついていない面が出てきます。「最終的に人間さえもモノのように扱うようになる、この主体と客体の逆転を、マルクスは「物象化Versachlichung」と批判したのだ。」144P――モノのように扱うのは物化ではないかと思います。マルクスの物象化という概念は、著者も引用していますが、「ひととひとの関係をモノとモノとの関係のようにとらえる」とか「社会的関係を自然的関係のようにとらえる」ということだとわたしは押さえています。主客図式については、そもそも青年ヘーゲル派内部の論争から、マルクスが確立した新しい世界観を押さえ直す必要があり、そのことで、疎外論から物象化論の転換が起きたのだと廣松さんは押さえています。
5 これは廣松渉さんと廣松シェーレのひとたちで作った廣松渉編・著『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店1986 で展開されている内容ですが、マルクスがどこまで自覚的意識をもっていたかは明らかではありませんが、マルクスの中に哲学的なことは生涯生き続けていたのではないかと思っています。
そもそも斎藤さんが物象化論ということをどうとらえているのか、分からないところも出てきます。「実際、資本主義における労働が、今日の技術水準を考慮しても、「その人間的自然に最も値し、適切である条件で」実施されない最大の理由は、物象化にあるのだ。・・・・・・だからこそ、物象化された事物の盲目的(ママ)な力による支配が続く限り、「物質代謝の亀裂」は「修復不可能」であり続ける。」356-7Pここの「物象化」ということは、「抑圧された関係性における生産力」という意味だろうと想うのですが、それは、マルクスが使っている物象化の概念(「人と人の関係がモノとモノの関係として現れるという「物象化」」182P)とは違っているようにとらえられ、なぜ、「物象化」と何故表現しているのか分かりません。一般的な漢字的意味で「物象としてとらえる」というニュアンスになるのではというところで、実体主義的にとらえるという意味にもとらえられます。ならば、まさに廣松物象化論と通じる事になっています。ですが、そもそも斎藤さんは廣松物象化論批判をしているのです。
さて、ちょっと脱線しますが、この後に「ソ連や中国を見ればわかるように、いわゆる「社会主義」の持続可能性を自明視することは到底できない。」という文が出て来ます。括弧をつけていますが、そもそも、ロシアも中国も労農独裁的なところから党独裁に止まって、社会主義の定立に失敗して、国家資本主義になっています。それを社会主義であったかのようにとらえるところから混乱が起きてきているのだと思います。このあたりのとらえ返しがないとマルクス葬送の流れにのみこまれてしまうのではないでしょうか?
6 わたしは障害学批判をやっていて、立命館大学大学院で生存学拠点を築いた立岩真也さんと対話していたのですが、彼は自分の出す本の中で、わたしの論攷を紹介して、それなりに応答してくれていました。それで、わたしは彼が新しい本を出すとそれを買って、わたしに対する応答がないか追っていくということをしていました。それも彼の死で潰えたのですが。合掌。
・斎藤幸平『マルクス解体 プロメテウスの夢とその先』講談社2023
斎藤幸平さんの追っかけの続き。この本は「たわしの読書メモ・・ブログ634/・斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』KADOKAWA(角川文庫ソフィア)2022」で取り上げた本と同様に英語で書かれた本の翻訳本です。そして、内容的には、「たわしの読書メモ・・ブログ573/・斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社(集英社新書)2020」で取り上げた本と「並行して準備していた2冊目の学術書」(「日本語版あとがき」377P)。原題はMarx in the Anthropocene:Towards the Idea of Degrowth Communism「英語版のタイトルは日本語にすれば、『人新世のマルクス 脱成長コミュニズムの理念に向けて』である。」(「日本語版あとがき」377P)。これを『マルクス解体』と訳したのは、「マルクス葬送」を想起させる意図的な誤訳ではないかとわたしはとらえ返していました。
「意図的な誤訳」というのは、同じようなタイトルにすると新しい読者が見つけにくいということで、より多くの対話をしたいということで、「しかけた」というところで、内容的には、「それでも、マルクス主義の再生を望むなら、その際の必須条件は、いわゆる「史的唯物論」という「生産力」と「生産関係」の間の矛盾を進歩の原動力とする悪名高い歴史観に依拠するマルクス像を解体することではないか。」(「はじめに」9P)(註1)という、要するに旧い「マルクス像」の解体「(「日本語版あとがき」379P)で、内容的には「マルクスの再生」なのです。これは、旧いマルクスが生産力主義になっているとか、マルクスは差別の問題をとらえられなかった、というような批判があるところで、それは、晩期マルクスが『資本論』の草稿を書きながら、自然科学の本を読み、古代社会ノートを取りながら、膨大なノートをメモり、本への書き込みなどを読んでいくと、いくつかのキーワードとともに(「物質代謝」など)、一八六八年位をメルクマールとして(註2)晩期マルクスの転換と言われることをおさえられると著者は主張しています。
また、エンゲルスとマルクスの分業と言われていることのとらえ返しも必要になっているようです。マルクスが論的深化を進め、それをエンゲルスが解説をしていったということだけでなく、ここで問題になっているのは、自然科学的なことはエンゲルスの分担として、『反デューリング論』や『自然弁証法』がマルクス主義の自然科学的テーゼであると伝統的なマルクス主義で定式化されているのです。そもそも、『ドイツ・イデオロギー』においても、エンゲルスが先行的に草稿を書きマルクスがそれにコメントしていくというエンゲルスの先行説があり、経済学の必要性をエンゲルスがマルクスに提起したということがあり、自然科学においても、エンゲルスが百科全書的なところから先行して踏み入っていて、マルクスがそれを追従したということがあるという指摘があります。ですが、この自然科学ということにおいても、マルクスはその学習したことを本にしえていないにしても、膨大な草稿や書き込みを遺しているのです。いずれにしても、マルクスが深化したとらえ返しをしていったのです。ここで、問題になっているのは、「物質代謝」という概念です。著者は、エンゲルスは結局物質代謝ということをとらえ切れていないと批判しています。
エンゲルスがマルクス主義なるものを規定し、スターリンがマルクス・レーニン主義なるものを定式化していったのですが、そもそも、エンゲルスがマルクスの謂っていることを押さえ切れていないということは、他にもいくつかあると指摘しています。@マルクスは、西洋中心主義・植民地支配の正的側面(「野蛮の文明化」)の主張から脱したが、エンゲルスは脱しきれていないA物質代謝の概念をエンゲルスはとらえ切れていなかったBマルクスは生産力(至上)主義、単線的発達的概念から脱しようとしていたが、エンゲルスにはそれが見られない、Cエンゲルスは自然科学を百科全書的に学習していたが、マルクスは物質代謝というところで、環境問題とからめて学習していた。エンゲルスは物質代謝という観点ではなく、「自然の復讐」というところで環境破壊ということをとらえ返していて、「科学的社会主義」の実現による、科学的技術の発達による解決というところで、環境問題をとらえかえしていた(註3)、という押さえになっています。「エンゲルスは、「合理主義」、「実証主義」、「進歩的歴史観」、「生産力主義」、「ヨーロッパ中心主義」といったマルクスの理論――とりわけ初期マルクスには濃厚であった(そして晩期マルクスが止揚しようとした) ――近代主義的な側面を過剰に強調することになってしまったのである。」371P「エンゲルスの哲学的プロジェクトは、マルクスの後期の理論的試みと両立可能なものではなかったのである。だからこそ、マルクスとエンゲルスを区別することは、『資本論』を超えるために不可欠な条件なのである。」372Pと突きだしています。
その他、一元論ではなく、自然と社会との関係を押さえるには二元論的なとらえ返しが必要になるとかいうことを著者は展開し(「方法論的二元論」373P)、物化と物象化の概念の違いの押さえとか(註4)、そして、「この気候危機の時代に求められているのは、価値、物象化、階級、社会主義、エコロジーについてのマルクスの理論を否定することではなく、脱成長という立場からマルクス主義の遺産を徹底的に再解釈することではないだろうか。」374Pというまとめ的文を出しています。
更に、ここからは著者の論考とは少し乖離して、わたしの見解ですが、Dエンゲルスは百科全書的にというより、自然科学を弁証法の法則的とらえ返しとして展開して、その弁証法によって革命の必然性を主張しようとしていたのですが、マルクスには弁証法を法則としてとらえる観点は稀薄だったのではないでしょうか、Eエンゲルスは弁証法ということの定式化ということはあったにしても哲学の死を宣言していたけれど、マルクスは哲学的な探究に踏み入ることは止めていたけれど、『資本論』には物象化論という哲学的な軸が貫いているということ、エンゲルスには『資本論』が哲学書でもあるという観点、物象化論で貫かれている(註5)ということがとらえられていなかったのではないか、と思えるのです。マルクスにも色んなブレのようなことはあったにしても、です。このことは、MEGAで出されてきているマルクス自身の手になる『資本論草稿集』とエンゲルス編集の『資本論』との違いということで対照化していけるのではないかと考えたりしていますが、わたしにその余力はありません。誰か若いひとたちにやってほしい課題です。
まだいくつかの指摘ができるでしょうか?
その他「構想と実行」という概念を突き出しています。そこで、それが切り離されることが肉体労働と精神労働の分離・分業という、分業が差別に繋がっていくことを指摘しています。このことは実は、わたしの世代、団塊の世代が経験した民衆的運動、全共闘運動の中で突き出された、決定と執行の一致ということを、きちんととらえ返した概念になっています。
さて、わたしは、斎藤さんの本を読みながら、ほぼ共鳴していて、論的深化を得られていると感謝もしているのですが、いくつか疑問に感じていることがあります。
まず、斎藤理論のキー概念に、「脱成長のコミュニズム」ということがあるのですが、自分自身でも反問的なといを立てられていますが、わたしは何か違和を感じていました。アベノミクスということで、経済成長戦略という突き出しがあります。新自由主義的グローバリゼーションの進行の中でそれが世界を覆った段階で、経済成長を求めていくと、それは「物質代謝の亀裂」とも言われる環境破壊や差別の拡大という事態になります。それへの批判としての「成長の罠」にはまった資本主義批判ということなのだと思います。ですが、そもそも、成長とはそもそも何かという問いが必要になります。そのことに丁度イメージが重なる論争があります。わたしは障害問題を軸に差別の問題を考えてきました。そういう中で、「発達保障論」という突き出しがあり、それへの批判としての「反発達論」という理論も出ていました。「発達保障論」というのは、「発達の弁証法」なる法則の物象化に陥ったひとたち(これはエンゲルスの弁証法の法則化とその物象化に通じるのです)が、「ひとは無限の発達の可能性を秘めている、それを保障し促すのが、周囲のものの役目だ」として、「障害者」に標準的人間像に近づくことを求めるという、まさに、「障害者」に対する抑圧という差別の論理を押し付けたのです。そこで、それは抑圧だ、差別だというところで、「反発達論」ということが出てきたのですが、そもそも、「発達」ということをその中味をきちんと押さえないで強要することを批判していて、「発達保障論」の「発達」概念を批判しているところから逸脱して、そもそも「発達」とは何かというところからのとらえ返しにはなっていなかったのです。だから、「できる」ということへの反発ということまで起きていました。そのことからとらえ返せば、資本社会における「利潤の悪無限的追求」としての発達の批判と、その頸から脱したところで、そもそも何を求めるのかということが純粋に追求されることが、「成長かどうか」「発達かどうか」はどうでもいいことなのです。だから、コミュニズムが実現されたところで、「脱成長」という冠は必要でなくなるのではないでしょうか?
もう一つは、この本には出て来ませんが、わたし自身がマルクスの物象化論を反差別論に援用しようという立場から、マルクスのもうひとつの転換、疎外論から物象化論へということの意味と意義を押さえ損なっているのではないかということです。これは『ドイツ・イデオロギー』の共同執筆の中で、一八四五年頃おきた転換としてマルクス/エンゲルスの初期から中期への転換です。実は斎藤さんは、この疎外論から物象化論への転換を認めていません。これは実は実体主義批判と差異論からのとらえ返しにキーとなることなのです。
実は、この本の中で、斎藤さんがローザ・ルクセンブルクの本源的蓄積論を資本主義がもたらす物質代謝の亀裂が資本主義が資本主義で在る限り逃れられないこととして援用していることと繋がっています。資本主義は恒に継続的本源蓄積を求めざるを得ない、そこで環境破壊が起きているというとらえ返しです。これは環境破壊(未来の世代の生きる環境の破壊という通時的収奪)もその一端ですが、差別というところで総体的に言えることなのです。総体的に言えば、差別なしには資本主義は継続し得ないというところで、この差異論の押さえに、疎外論では展開し得ず物象化論的押さえが必要になっています。だから、この転換の押さえも必要になります。
さて、もう一つわたしの問題意識でビビットしたことを書き添えておきます。わたしは反原発の運動に参画しているのですが、その中で、反原発に特化したところで、気候変動というところを批判した発言や文を出しているひとがいて、気候変動というのは虚偽であるというところで、斎藤さんに質問状を出したけれど、返答がないという批判をしているひとがいました。そもそも論旨が紆余曲折しているし、論理的な論攷にはなっていないので、相手にしないとされたのかもしれませんが、そもそも学者のひとたちは、自分の出す本や論文提出の中で応答していくというスタイルで臨む傾向があり(註6)、まさに、その応答的文をこの本の中で見つけました。ちょっと長くなりますが引用しておきます。「大加速時代における二酸化炭素排出量の激増は、化石燃料に依拠した特定の社会的生産の編制方法と結びついた現象である。その結果温室ガスの排出が進み、地球の気温上昇がティッピング・ポイントを超えると、正のフィードバック効果によって不可逆的で急速な、予想外の変化が引き起こされる可能性がある。気候変動による南極氷床の融解により、氷に含まれるメタンガスが放出されたり、黒土が表出することで太陽光の熱吸収が進み、気候変動がますます加速する。また、海洋酸性化や森林伐採によって、一定の種の生物が減少・絶滅すると、食物連鎖が乱れ、他の種の減少にもつながる。これらの連鎖反応は、人間の活動が直接の原因ではないし、人間が変えることもできない。それゆえに「不可逆的」な自然の限界(バウタダリー)と考えられているのだ。」186P、実は別の文脈で出された文でわかりにくいのですので補足しますが、二酸化炭素の増加ということや気温上昇を過小評価するひとは、「連鎖反応」ということを押さえ損なっていることや、線形方程式的な因果論的なところで問題をとらえていることがあるのです。現実には、函数的連関態のなかで、錯分子構造――函数内函数や多次元的方程式のような中で、影響が極化することをとらえ損なっているのです。
この著は再読してもっと丁寧にメモをとり、対話を広め深めていく大切な著なのですが、先を急いでいます。目次だけでもここで起こし、皆さんに関心をもって貰いたいとも思うのですが、是非読んでほしい書だということを提起して、それもここではなさないままに、終えてしまいます。
(註)
1 「「生産力」と「生産関係」の間の矛盾を進歩の原動力」とありますが、これは「進歩の原動力」でなくて、社会主義革命の必然性として突き出されていたことで、「悪名高い歴史観」とは「唯物史観」のことを指すと思われますが、問題は生産力至上主義であって、環境負荷のない生産力の発達まで否定することではない、資本主義で発達を求めるとほぼ「物質代謝の亀裂」になってしまうという話です。経済的なことがイデオロギー的なことを土台的に規定するというところまで否定できないのではないでしょうか?
2 自然科学的にはフラースの学習261P、マウラーなどの共同体研究やロシアの共同体兼ミールの研究、ロシアの活動家たちとの接触から、この一八六八年をメルクマールとしているようです。
3 科学の発達の中で解決しようという、科学主義的なところを、ギリシャ神話のプロメテウスの何ちなんで、プロメテウス主義という概念を著者は出しています。
4 ただし、区別がついていない面が出てきます。「最終的に人間さえもモノのように扱うようになる、この主体と客体の逆転を、マルクスは「物象化Versachlichung」と批判したのだ。」144P――モノのように扱うのは物化ではないかと思います。マルクスの物象化という概念は、著者も引用していますが、「ひととひとの関係をモノとモノとの関係のようにとらえる」とか「社会的関係を自然的関係のようにとらえる」ということだとわたしは押さえています。主客図式については、そもそも青年ヘーゲル派内部の論争から、マルクスが確立した新しい世界観を押さえ直す必要があり、そのことで、疎外論から物象化論の転換が起きたのだと廣松さんは押さえています。
5 これは廣松渉さんと廣松シェーレのひとたちで作った廣松渉編・著『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店1986 で展開されている内容ですが、マルクスがどこまで自覚的意識をもっていたかは明らかではありませんが、マルクスの中に哲学的なことは生涯生き続けていたのではないかと思っています。
そもそも斎藤さんが物象化論ということをどうとらえているのか、分からないところも出てきます。「実際、資本主義における労働が、今日の技術水準を考慮しても、「その人間的自然に最も値し、適切である条件で」実施されない最大の理由は、物象化にあるのだ。・・・・・・だからこそ、物象化された事物の盲目的(ママ)な力による支配が続く限り、「物質代謝の亀裂」は「修復不可能」であり続ける。」356-7Pここの「物象化」ということは、「抑圧された関係性における生産力」という意味だろうと想うのですが、それは、マルクスが使っている物象化の概念(「人と人の関係がモノとモノの関係として現れるという「物象化」」182P)とは違っているようにとらえられ、なぜ、「物象化」と何故表現しているのか分かりません。一般的な漢字的意味で「物象としてとらえる」というニュアンスになるのではというところで、実体主義的にとらえるという意味にもとらえられます。ならば、まさに廣松物象化論と通じる事になっています。ですが、そもそも斎藤さんは廣松物象化論批判をしているのです。
さて、ちょっと脱線しますが、この後に「ソ連や中国を見ればわかるように、いわゆる「社会主義」の持続可能性を自明視することは到底できない。」という文が出て来ます。括弧をつけていますが、そもそも、ロシアも中国も労農独裁的なところから党独裁に止まって、社会主義の定立に失敗して、国家資本主義になっています。それを社会主義であったかのようにとらえるところから混乱が起きてきているのだと思います。このあたりのとらえ返しがないとマルクス葬送の流れにのみこまれてしまうのではないでしょうか?
6 わたしは障害学批判をやっていて、立命館大学大学院で生存学拠点を築いた立岩真也さんと対話していたのですが、彼は自分の出す本の中で、わたしの論攷を紹介して、それなりに応答してくれていました。それで、わたしは彼が新しい本を出すとそれを買って、わたしに対する応答がないか追っていくということをしていました。それも彼の死で潰えたのですが。合掌。
斎藤幸平・松本卓也編著『コモンの「自治」論』
たわしの読書メモ・・ブログ675
・斎藤幸平・松本卓也編著『コモンの「自治」論』集英社2023
追っかけをしている斎藤幸平さんの編著です。わたしは「社会変革への途」を書き始め中断しているのですが、その問題意識と、斎藤さんのこの編著での展開が、かなり重なるところがあるように感じています(註1)。
さて、かなり詳しい目次が出ていて、それをざっと見ているだけでも、かなり内容がつかめますので、最後に目次を挙げますので、ざっと七章分の概略を押さえます。わたしの当事者性や、個的経験的なこともあるのでかなり濃淡のあるとらえ返しになっています。
第一章の白井さんの「全共闘運動――前衛と大衆の乖離から政治嫌悪へ」の項があるのですが、むしろ、白井さんが全共闘運動自体を体現していたのは、ノンセクト・ラジカルであったという押さえをしているし、そもそも大学ごとに色んな全共闘運動といわれることがあり、いくつものパターンを示し得ます(註2)。また、全共闘運動は、「自己否定」の論理だけでなく、色んなテーゼを突きだしていました。ポツダム自治会批判をしていましたし、戦後民主主義批判も突きだしていて、「誰も代表しない、代表させない」というスローガンさえありました。ところで、白井さんは、自己否定の論理が連合赤軍の「総括」を引き起こしたというようなとらえ方もしているのですが、そもそもマルクス・レーニン主義の党派が、レーニンの外部注入論からして、自己否定の論理など持ち出すわけがないのです。一部マルクス・レーニン主義の党派が、民族問題で「血債の思想」など突きだしたのですが、レーニンの民族自決権のまやかしと同様に、差別問題の政治利用主義的なところの罠から脱してはいません。連赤の「総括」ということの内容は、「自己批判要求」などということで、そもそも自己批判というのは、自ら進んで自己批判する、総括することで、「総括」を要求するとして行われていたこと自体が論理矛盾なのです。あれは、指導者とされていたひとたちが、組織を守るという名目で、自らの組織内権力を守るための、追いつめられた情況下で猜疑心にかられた、粛清といわれることなのです。その展開は全共闘運動と言われていたことの真逆なこととしてあったのです。そもそも全共闘運動自体は「大衆運動」(註3)で、そのことと党派の運動は区別しなければいけないし、そもそも前衛――大衆運動という図式自体がとらえ返さるべきこととしてあると思います。白井さんの押さえは、民青――日本共産党の位置づけも含めて自分のいた大学のパターンを一般化しすぎているとわたしはとらえています。
第二章の松村さんの「贈与論」、ムースの贈与論へのとらえ返しから、「贈与」という概念は「無償の提供」という内容があるけれど、私有財産制が発生・支配しているところにおいては、見返りを求めての行為になっている、ということで押さえられているのではと思います。
「すきま」という概念が、この章のさらには、例外があるにせよ、この本総体を通してのキー概念になっているようです。わたしは、マルクスの「ザスーリッチへの手紙」で展開されていたロシアの共同体評価や沖縄の地域共同体で子育てをするなどの伝統的な、ひとびとの結びつきにも繋がっていきます。しかし、新自由主義的グローバリゼーションということが「すきま」を潰していくこととあるわけで、「店」がシャッター街として潰されていく構図があり、だから、むしろそれをアントレプレナーシップ(「起業家精神」)として逆に反転的に、展開していく道筋探しのようなことも語られているのがこの章だと言いえます。
第三章は、杉並区長になった岸本さんがミニュシパリズム(地方自治から攻め上がる)その後の展開を書いてくれています。フェミニズム的な展開と合わせて、「民主主義を耕す」、貴重な実践です。ただ、政府もそのことを恐れて地方自治を潰す動きに出ています。むしろ、争点がはっきりしてきて、中央に攻め上がる運動につなげていける可能性を秘めているのではと思えます。
第四章は、新自由主義と科学主義批判の、市民科学的な動き、この章でも出てくる高木仁三郎さんのことが想起されます。オーラルヒストリーやナラティヴということの大切さも突き出されています。
第五章は、反精神医学という突き出しがなされたことへの精神医療サイドからのとらえ返しです。わたしは「障害者」の立場からこの問題をとらえかえしてきました。病と障害の関係、障害の医学モデルと「社会モデル」のせめぎ合い、そのことの止揚としての障害の関係モデルというところで、わたしは「「障害の否定性」の否定」というところを展開しているので、反精神医学の中に「「障害の否定性」の否定」という突き出しがあることには共鳴することがあるのですが、精神医療自体を全否定できないところで、反精神医学は反精神医療にはならないという押さえには同調するのです。また「べてるの家」の本はわたしも読み読書メモを残していますし、反転させてみせたというところには一定共鳴もするのですが、そもそも「精神障害者」が置かれている、苛酷な被差別の情況をどうするのかという問題をスポイルしてはならないという提起の内容で、「精神障害者」当事者から反発も出ていますので、このことの押さえが必要です。これは別の章を立てるとか、もう何冊か本を出すという形での、他の障害問題や他の被差別の問題での押さえが必要になります。
第六章は、食と農は、社会を変えていくことの基底に据えることですが、ここでは、権藤成卿というひとに留目しています。アナキズムとファシズムの間での揺れということなのでしょうが、わたしは左派と右派ということの押さえの問題として読んでいました。トランプ的右派ポピュリズム批判はかなり押さえられていますが、左派ポピュリズムという言葉も出ています。ですが、わたしは、左派というのは現在社会の矛盾をきちんととらえ返しそのことの根底的批判から社会を根底的に変えていくのが左派であり、左派ポピュリズムというと、それは日和見主義や修正主義と言われることで、左派から脱落したひとびとで、左派でないから、左派ポピュリズムなど存在しないのです。ただ、「右も左もない」とか「右でも左でもない」とか言って活動している「革新」風の「左派ポピュリズム」的な活動をしているひとが実際にいるのですが、そういうひとやグループは何をしようとしているのか分からないというところで早晩消えるか、ファシズム的なところに飲み込まれるか、むしろファシスト的に登場してくることになります。戦前の「革新官僚」が軍部ファシストとつながった例などにそれはあきらかです。
第七章は、この章がまとめ的な文で対話を深めたいのですが、斎藤幸平さんは追っかけていて、別のところでいろいろ書いているし、書いていくので、ここでは簡単に触れておきます。斎藤さんが各章とリンクさせた、総体的「自治論」の展開、共同主体的存在構造の中で、他律――自律の、二項対立的ではない、弁証法的な運動が展開されていくことです。わたしとしては、これは反差別ということを基底に据えた共同性や「自治」ということで、「誰も代表しない、させない」ということを据えつつ、それでも自然発生的なリーダーシップは起きてくる、そういうところで「リーダーフル」な運動となっていく可能性をもっているのではないかと考えたりしています。わたしは反差別というところから論を展開しているころで、そういった面での展開も押さえてもらえたらと、いつものないものねだりです。
前書き、あとがき、コラム的な文も刺激的だったのですが、長くなるので、ここでは省きます。
最初に予告したように目次をあげておきます。
目 次
はじめに――今、なぜ<コモン>の「自治」なのか? 斎藤幸平
第一章 大学に於ける「自治」の危機 白井聡
新自由主義が損なう「自治」の能力/資本のための大学でいいのか/若者の成熟を阻害する社会/新自由主義が奪う成熟、そして「魂の包摂」/「六八年」以降の反革命/全共闘運動――前衛と大衆の乖離から政治嫌悪へ/日大紛争――温存された腐敗の構造/大学当局が恐れた共産党の伸長/大学紛争のトラウマとカルトを使った「正常化」/空間の新自由主義的再編/孤立させ、管理せよ/「自治」を奪う大人たちの責任/「自治」の実質を取り戻す
第二章 資本主義で「自治」は可能か? 松村圭一郎
――店がともに生きる拠点になる
「自由」や「自治」は歓迎されなくなった?/貨幣経済の滲透で薄くなる人格的なつながり/マルクスの商品交換論/古典的な文化人類学における「贈与」と「商品」/商品交換と贈与は二分できない/商品交換の場である「店」の現実/居場所としての「店」/市場原理と贈与交換のプリコラージュ/ボードリヤールからグレーバーへ/自治の固定観念をひっくり返す/生き延びるための「すきま」/バラバラで小さい店の自由で柔軟な「自治」/独立自営業という希望/あらたな政治/自治への想像力を持つこと
コラム@−「自治」の現場から「京都三条ラジオカフェ」がつなぐ縁 藤原辰史
第三章 <コモン>と<ケア>のミニュシパリズムへ 岸本聡子
「自治」とは暮らしの未来を考える行為/国政ではなく地方自治から始める意味/民営化の正体――国家と資本の癒着/<コモン>の管理から始まる「自治」/国家と資本を恐れないフィアレス・シティ/ミニュシパリズム――広がる市民の挑戦と自治体の連帯/政治のフェミナイゼーションと<ケア>の思想/<コモン>と<ケア>の両輪/地方自治から国政を揺るがす南米チリ/インソーシングで「命の経済」を耕す/インスティテューションを変えるのは市民/杉並区の児童館と住民の声/市民と歩くインスティテューションをつくる/上からでもなく、下からだけでもなく/少人数で「ここから」始める
コラムA−「自治」の現場から市民一人ひとりの神宮外苑再開発反対運動 斎藤幸平
第四章 武器としての市民科学を 木村あや
「自治」の種をまく市民科学/市民科学の先駆/脚光を浴びるシチズン・サイエンス/科学をオープンなものにする/市民科学が自治体を動かす/新自由主義とのジレンマ@――「科学の民営化」でいいのか?/新自由主義とのジレンマA――「自己責任」論が強化されてしまう/科学主義とのジレンマ@――脱政治化の罠/科学主義とのジレンマA――データ化できないものの周縁化/「つくられた無知」/データ・ポリティクス――データは誰のものなのか/争点隠しの手段に使われる可能性/市民か、それとも活動家か――境界線の引き方/データの公共性を大事にする/社会運動としての市民科学を/「リテラシー」と「データ」の意味を広くとらえる/「場」をつくる市民科学
第五章 精神医療とその周辺から「自治」を考える 松本卓也
息苦しい医療現場/日本の精神医療の抑圧的な過去/精神医療における「自治」とは何か/「六八年」の思想と反精神医学/東大闘争(東大紛争)と日本の精神医療改革運動/「反精神医学」のルーツ、イギリスでの実践/「ふつうの精神科医」の誕生――木村敏/「病棟を耕す」という静かな革命――中井久夫/異質な他者を歓待することによって自分自身が変化する/ポスト反精神医学としてのラ・ポルド病院/「<言う>こと」を可能にする「自治」の場/反精神医学ではなく「半精神医学」――当事者研究/「ポスト六八年」の思想の実践としての「べてるの家」/「当事者になる」こと/「主体集団」がつくる「斜め」の関係/世界をましなものに組み換えるための<自治>
コラムB−「自治」の現場から野宿者支援からのアントレプレナーシップ 斎藤幸平
第六章 食と農から始まる「自治」 藤原辰史
――権藤成卿自治論の批判の先に
「自治」の問題としての食と農/農村自治に魅了された柳田國男/斎藤仁の「自治村落論」/農本主義の引力/権藤成卿とは何者か/権藤成卿の理想――「社稷」共同体による農民の「自治」/権藤のアナキズム的な側面/平等を求めて――大化の改新と班田収授法の評価/暴力的な改革礼賛と昭和維新テロへの影響/軍国主義と農本主義/左派と権藤成卿/権藤の時代的批判力/リアリティの欠如がもたらした破綻/自己責任論的態度/有機農業の身体性/「自治」の原点は人間関係/食堂付属大学の試み
第七章 「自治」の力を耕す、<コモン>の現場 斎藤幸平
「自治」をめぐるふたつの困難/「構想」と「実行」の分離/資本による「魂の包摂」/貨幣がもたらした「自由」は自由なのか?/コスパ思考が民主主義の危機を深める/政治主義の罠/なぜ社会の保守化を止められないのか/権力の補完勢力に成り下がる社会運動/「上から」の改革に希望はない/「下から」の変革と「自治」の力/二〇世紀の限界――社会主義国家と福祉国家の共通点/二一世紀の新展開――水平的ネットワーク型の社会変革が始まった!/「生政治的生産」の力を使う/マルチチュードによる<コモン>型社会/ルールとリーダー不在の素朴政治?/リーダーと大衆の逆転/水平ではない「斜め」の関係を/現場の模索がミニュシパリズムを生んだ/リーダーフルな運動を育てる/「他律的な社会」を乗り越える自己立法/「人新世」に必要な自己制限/絶えざる自律と他律の循環/他律的なアソシエーションを避けるために/「自治」におけるアントレプレナーシップ/経済の領域が変わると、政治が変わる/「自治」は<コモン>の再生に関与していく民主的なプロジェクト
おわりに――どろくさく、面倒で、ややこしい「自治」のために 松本卓也
(註)
1 「反障害通信」152号巻頭言「世界は変え得る、途はいくつも!」参照
2 全共闘運動の幾つかの機能的パターンを示し得ます@党派の運動のベクトル合成としての大衆運動A党派支配、もしくは党派連合支配の中での擬似的民衆運動B自然発生的な運動主導の民衆運動
3 「大衆運動」というのは党・党派の活動の展開としての活動で、自然発生的な運動は、民衆運動と表現されることではないかとわたしは押さえています。
・斎藤幸平・松本卓也編著『コモンの「自治」論』集英社2023
追っかけをしている斎藤幸平さんの編著です。わたしは「社会変革への途」を書き始め中断しているのですが、その問題意識と、斎藤さんのこの編著での展開が、かなり重なるところがあるように感じています(註1)。
さて、かなり詳しい目次が出ていて、それをざっと見ているだけでも、かなり内容がつかめますので、最後に目次を挙げますので、ざっと七章分の概略を押さえます。わたしの当事者性や、個的経験的なこともあるのでかなり濃淡のあるとらえ返しになっています。
第一章の白井さんの「全共闘運動――前衛と大衆の乖離から政治嫌悪へ」の項があるのですが、むしろ、白井さんが全共闘運動自体を体現していたのは、ノンセクト・ラジカルであったという押さえをしているし、そもそも大学ごとに色んな全共闘運動といわれることがあり、いくつものパターンを示し得ます(註2)。また、全共闘運動は、「自己否定」の論理だけでなく、色んなテーゼを突きだしていました。ポツダム自治会批判をしていましたし、戦後民主主義批判も突きだしていて、「誰も代表しない、代表させない」というスローガンさえありました。ところで、白井さんは、自己否定の論理が連合赤軍の「総括」を引き起こしたというようなとらえ方もしているのですが、そもそもマルクス・レーニン主義の党派が、レーニンの外部注入論からして、自己否定の論理など持ち出すわけがないのです。一部マルクス・レーニン主義の党派が、民族問題で「血債の思想」など突きだしたのですが、レーニンの民族自決権のまやかしと同様に、差別問題の政治利用主義的なところの罠から脱してはいません。連赤の「総括」ということの内容は、「自己批判要求」などということで、そもそも自己批判というのは、自ら進んで自己批判する、総括することで、「総括」を要求するとして行われていたこと自体が論理矛盾なのです。あれは、指導者とされていたひとたちが、組織を守るという名目で、自らの組織内権力を守るための、追いつめられた情況下で猜疑心にかられた、粛清といわれることなのです。その展開は全共闘運動と言われていたことの真逆なこととしてあったのです。そもそも全共闘運動自体は「大衆運動」(註3)で、そのことと党派の運動は区別しなければいけないし、そもそも前衛――大衆運動という図式自体がとらえ返さるべきこととしてあると思います。白井さんの押さえは、民青――日本共産党の位置づけも含めて自分のいた大学のパターンを一般化しすぎているとわたしはとらえています。
第二章の松村さんの「贈与論」、ムースの贈与論へのとらえ返しから、「贈与」という概念は「無償の提供」という内容があるけれど、私有財産制が発生・支配しているところにおいては、見返りを求めての行為になっている、ということで押さえられているのではと思います。
「すきま」という概念が、この章のさらには、例外があるにせよ、この本総体を通してのキー概念になっているようです。わたしは、マルクスの「ザスーリッチへの手紙」で展開されていたロシアの共同体評価や沖縄の地域共同体で子育てをするなどの伝統的な、ひとびとの結びつきにも繋がっていきます。しかし、新自由主義的グローバリゼーションということが「すきま」を潰していくこととあるわけで、「店」がシャッター街として潰されていく構図があり、だから、むしろそれをアントレプレナーシップ(「起業家精神」)として逆に反転的に、展開していく道筋探しのようなことも語られているのがこの章だと言いえます。
第三章は、杉並区長になった岸本さんがミニュシパリズム(地方自治から攻め上がる)その後の展開を書いてくれています。フェミニズム的な展開と合わせて、「民主主義を耕す」、貴重な実践です。ただ、政府もそのことを恐れて地方自治を潰す動きに出ています。むしろ、争点がはっきりしてきて、中央に攻め上がる運動につなげていける可能性を秘めているのではと思えます。
第四章は、新自由主義と科学主義批判の、市民科学的な動き、この章でも出てくる高木仁三郎さんのことが想起されます。オーラルヒストリーやナラティヴということの大切さも突き出されています。
第五章は、反精神医学という突き出しがなされたことへの精神医療サイドからのとらえ返しです。わたしは「障害者」の立場からこの問題をとらえかえしてきました。病と障害の関係、障害の医学モデルと「社会モデル」のせめぎ合い、そのことの止揚としての障害の関係モデルというところで、わたしは「「障害の否定性」の否定」というところを展開しているので、反精神医学の中に「「障害の否定性」の否定」という突き出しがあることには共鳴することがあるのですが、精神医療自体を全否定できないところで、反精神医学は反精神医療にはならないという押さえには同調するのです。また「べてるの家」の本はわたしも読み読書メモを残していますし、反転させてみせたというところには一定共鳴もするのですが、そもそも「精神障害者」が置かれている、苛酷な被差別の情況をどうするのかという問題をスポイルしてはならないという提起の内容で、「精神障害者」当事者から反発も出ていますので、このことの押さえが必要です。これは別の章を立てるとか、もう何冊か本を出すという形での、他の障害問題や他の被差別の問題での押さえが必要になります。
第六章は、食と農は、社会を変えていくことの基底に据えることですが、ここでは、権藤成卿というひとに留目しています。アナキズムとファシズムの間での揺れということなのでしょうが、わたしは左派と右派ということの押さえの問題として読んでいました。トランプ的右派ポピュリズム批判はかなり押さえられていますが、左派ポピュリズムという言葉も出ています。ですが、わたしは、左派というのは現在社会の矛盾をきちんととらえ返しそのことの根底的批判から社会を根底的に変えていくのが左派であり、左派ポピュリズムというと、それは日和見主義や修正主義と言われることで、左派から脱落したひとびとで、左派でないから、左派ポピュリズムなど存在しないのです。ただ、「右も左もない」とか「右でも左でもない」とか言って活動している「革新」風の「左派ポピュリズム」的な活動をしているひとが実際にいるのですが、そういうひとやグループは何をしようとしているのか分からないというところで早晩消えるか、ファシズム的なところに飲み込まれるか、むしろファシスト的に登場してくることになります。戦前の「革新官僚」が軍部ファシストとつながった例などにそれはあきらかです。
第七章は、この章がまとめ的な文で対話を深めたいのですが、斎藤幸平さんは追っかけていて、別のところでいろいろ書いているし、書いていくので、ここでは簡単に触れておきます。斎藤さんが各章とリンクさせた、総体的「自治論」の展開、共同主体的存在構造の中で、他律――自律の、二項対立的ではない、弁証法的な運動が展開されていくことです。わたしとしては、これは反差別ということを基底に据えた共同性や「自治」ということで、「誰も代表しない、させない」ということを据えつつ、それでも自然発生的なリーダーシップは起きてくる、そういうところで「リーダーフル」な運動となっていく可能性をもっているのではないかと考えたりしています。わたしは反差別というところから論を展開しているころで、そういった面での展開も押さえてもらえたらと、いつものないものねだりです。
前書き、あとがき、コラム的な文も刺激的だったのですが、長くなるので、ここでは省きます。
最初に予告したように目次をあげておきます。
目 次
はじめに――今、なぜ<コモン>の「自治」なのか? 斎藤幸平
第一章 大学に於ける「自治」の危機 白井聡
新自由主義が損なう「自治」の能力/資本のための大学でいいのか/若者の成熟を阻害する社会/新自由主義が奪う成熟、そして「魂の包摂」/「六八年」以降の反革命/全共闘運動――前衛と大衆の乖離から政治嫌悪へ/日大紛争――温存された腐敗の構造/大学当局が恐れた共産党の伸長/大学紛争のトラウマとカルトを使った「正常化」/空間の新自由主義的再編/孤立させ、管理せよ/「自治」を奪う大人たちの責任/「自治」の実質を取り戻す
第二章 資本主義で「自治」は可能か? 松村圭一郎
――店がともに生きる拠点になる
「自由」や「自治」は歓迎されなくなった?/貨幣経済の滲透で薄くなる人格的なつながり/マルクスの商品交換論/古典的な文化人類学における「贈与」と「商品」/商品交換と贈与は二分できない/商品交換の場である「店」の現実/居場所としての「店」/市場原理と贈与交換のプリコラージュ/ボードリヤールからグレーバーへ/自治の固定観念をひっくり返す/生き延びるための「すきま」/バラバラで小さい店の自由で柔軟な「自治」/独立自営業という希望/あらたな政治/自治への想像力を持つこと
コラム@−「自治」の現場から「京都三条ラジオカフェ」がつなぐ縁 藤原辰史
第三章 <コモン>と<ケア>のミニュシパリズムへ 岸本聡子
「自治」とは暮らしの未来を考える行為/国政ではなく地方自治から始める意味/民営化の正体――国家と資本の癒着/<コモン>の管理から始まる「自治」/国家と資本を恐れないフィアレス・シティ/ミニュシパリズム――広がる市民の挑戦と自治体の連帯/政治のフェミナイゼーションと<ケア>の思想/<コモン>と<ケア>の両輪/地方自治から国政を揺るがす南米チリ/インソーシングで「命の経済」を耕す/インスティテューションを変えるのは市民/杉並区の児童館と住民の声/市民と歩くインスティテューションをつくる/上からでもなく、下からだけでもなく/少人数で「ここから」始める
コラムA−「自治」の現場から市民一人ひとりの神宮外苑再開発反対運動 斎藤幸平
第四章 武器としての市民科学を 木村あや
「自治」の種をまく市民科学/市民科学の先駆/脚光を浴びるシチズン・サイエンス/科学をオープンなものにする/市民科学が自治体を動かす/新自由主義とのジレンマ@――「科学の民営化」でいいのか?/新自由主義とのジレンマA――「自己責任」論が強化されてしまう/科学主義とのジレンマ@――脱政治化の罠/科学主義とのジレンマA――データ化できないものの周縁化/「つくられた無知」/データ・ポリティクス――データは誰のものなのか/争点隠しの手段に使われる可能性/市民か、それとも活動家か――境界線の引き方/データの公共性を大事にする/社会運動としての市民科学を/「リテラシー」と「データ」の意味を広くとらえる/「場」をつくる市民科学
第五章 精神医療とその周辺から「自治」を考える 松本卓也
息苦しい医療現場/日本の精神医療の抑圧的な過去/精神医療における「自治」とは何か/「六八年」の思想と反精神医学/東大闘争(東大紛争)と日本の精神医療改革運動/「反精神医学」のルーツ、イギリスでの実践/「ふつうの精神科医」の誕生――木村敏/「病棟を耕す」という静かな革命――中井久夫/異質な他者を歓待することによって自分自身が変化する/ポスト反精神医学としてのラ・ポルド病院/「<言う>こと」を可能にする「自治」の場/反精神医学ではなく「半精神医学」――当事者研究/「ポスト六八年」の思想の実践としての「べてるの家」/「当事者になる」こと/「主体集団」がつくる「斜め」の関係/世界をましなものに組み換えるための<自治>
コラムB−「自治」の現場から野宿者支援からのアントレプレナーシップ 斎藤幸平
第六章 食と農から始まる「自治」 藤原辰史
――権藤成卿自治論の批判の先に
「自治」の問題としての食と農/農村自治に魅了された柳田國男/斎藤仁の「自治村落論」/農本主義の引力/権藤成卿とは何者か/権藤成卿の理想――「社稷」共同体による農民の「自治」/権藤のアナキズム的な側面/平等を求めて――大化の改新と班田収授法の評価/暴力的な改革礼賛と昭和維新テロへの影響/軍国主義と農本主義/左派と権藤成卿/権藤の時代的批判力/リアリティの欠如がもたらした破綻/自己責任論的態度/有機農業の身体性/「自治」の原点は人間関係/食堂付属大学の試み
第七章 「自治」の力を耕す、<コモン>の現場 斎藤幸平
「自治」をめぐるふたつの困難/「構想」と「実行」の分離/資本による「魂の包摂」/貨幣がもたらした「自由」は自由なのか?/コスパ思考が民主主義の危機を深める/政治主義の罠/なぜ社会の保守化を止められないのか/権力の補完勢力に成り下がる社会運動/「上から」の改革に希望はない/「下から」の変革と「自治」の力/二〇世紀の限界――社会主義国家と福祉国家の共通点/二一世紀の新展開――水平的ネットワーク型の社会変革が始まった!/「生政治的生産」の力を使う/マルチチュードによる<コモン>型社会/ルールとリーダー不在の素朴政治?/リーダーと大衆の逆転/水平ではない「斜め」の関係を/現場の模索がミニュシパリズムを生んだ/リーダーフルな運動を育てる/「他律的な社会」を乗り越える自己立法/「人新世」に必要な自己制限/絶えざる自律と他律の循環/他律的なアソシエーションを避けるために/「自治」におけるアントレプレナーシップ/経済の領域が変わると、政治が変わる/「自治」は<コモン>の再生に関与していく民主的なプロジェクト
おわりに――どろくさく、面倒で、ややこしい「自治」のために 松本卓也
(註)
1 「反障害通信」152号巻頭言「世界は変え得る、途はいくつも!」参照
2 全共闘運動の幾つかの機能的パターンを示し得ます@党派の運動のベクトル合成としての大衆運動A党派支配、もしくは党派連合支配の中での擬似的民衆運動B自然発生的な運動主導の民衆運動
3 「大衆運動」というのは党・党派の活動の展開としての活動で、自然発生的な運動は、民衆運動と表現されることではないかとわたしは押さえています。
山本義隆『核燃サイクルという迷宮 核ナショナリズムがもたらしたもの』
たわしの読書メモ・・ブログ674
・山本義隆『核燃サイクルという迷宮 核ナショナリズムがもたらしたもの』みすず書房2024
山本義隆さんはわたしたちの世代では知らないひとはいない有名人ですが、物理学者としても将来を嘱望されていたひとです。この本では、予備校勤務・科学史家として紹介されています。わたしの読書メモでは、原発関係のもう一冊の読書メモがあります(註1)が、もうひとつ[廣松ノート]で、廣松さんがカッシーラーの「函数的連関態」の概念を引用しているところで、それがまだ製本されていない山本さん訳本の原稿を引用させて貰ったというところで繋がっています。(註2)
今まで、原発関係の本やパンフレットの類いもかなり出ていて、わたしもそれなりに読んでいたのですが、この本は核燃サイクルに焦点を当てています。わたしとしては、今までの知識を整理し、肉付けしていくこととして読んでいました。この本は、原発の問題で政治との関係として貴重な本です。特に、ナショナリズム――ファシズムというところから、原発のとりわけ核燃サイクルをとらえ返しています。
さて、今回は切り抜きメモでなくて、山本さんの原稿に肉付けして復習的な文を遺します。
そもそも核発電は核兵器開発の副産物としてできた技術で、沸騰水型原発でいえば、なぜお湯を沸かすのに制御のむずかしい、また大量の核廃棄物が出てくる、しかもその処理方法もままならぬ核発電など作るのか、使い続けるのかという問いが立てられます。結局原点の核兵器の保持・潜在的保持能力を持つということが動因としてあり、それだけでもなく、それを持つことが技術先進国のステイタスを得られるという構図なのです。
日本の場合、アメリカのダブルスタンダードにつけ込み、中曽根首相の時、レーガン大統領との交渉で右派同士の共鳴のなかで、核爆弾の材料となるフルトニウムの精製を核燃サイクルの開発ということで、再処理技術の開発を認めさせ、原発をもつこと自体が、原爆所有に準じる準原爆所有国としての原発の維持・再稼働が成り立っているのです。岸元首相から石破元自民党幹事長まで、原発を動かすことと、人工衛星を打ち上げることで、核弾道ミサイルをいつでもつくれる状態にしておく(註3)、ということをずっと原発を作り維持していく理由の一つになっていて、それが事故を起こしても(註4)、原発を止められない理由の一つになっているのです。更に、核爆弾を作るのに、その材料のプルトニウムを保持しておくためには、核燃サイクルの再処理ということが必要で、技術的困難とコストということで合わないとして核保有国が撤退していく中で、日本は、資源小国の立場という立場もあるのですが、これは自然エネルギーへの転換ということで、そもそも日本がかつて最先端の位置に居たのに、原発にこだわって、その技術開発を抑え込み、未だにその電力を二次的なこととして位置づけています。著者のいうテクノファシズム的なことで、もはや技術後進国になっていくなかでその「威信」(註5)をかけて一発逆転を狙って再処理技術にこだわり続けています。そもそもコストは合わないし、汚染水の排出などの環境負荷、危険性の増大などがあるにも関わらず、再処理に可能性があるとしないと、原爆の材料になるプルトニウムを多くもっているということで批判をうけることを回避するという意図が働いているようです。更に、そもそも廃棄物の処理方法も確定しないで原発を作り、運転使用済み核燃料がどんどん増えていく中で、テクノファシズムともいうべき技術の優位性を示そうというファシズム的な心性に囚われているのです。破綻ははっきりしているのに、無責任の極みとして、ひとの命や生活が脅かされる、実際多くの死者を出しているのにやめようとしない体制はまさに著者のいう「原発ファシズム」なのです。
さて、わたしはファシズム論で論考を進めようとしています。で、ハナ・アーレントのファシズムとして論じられていくことを「全体主義」としてまとめていく手法のなかで、今ひとつしっくり来ないことがありました。アーレントには日本型ファシズムへの論及はありませんし、ナチズム、ムッソリーニーのファシスト党のファシズム、そしてロシアの全体主義―ファシズムの関係をまとめ切れていません。この山本さんの本の中で、日本型ファシズムの動きとして戦前・戦中の電力の国営民有という「中央集権的国家主義」の動向が出てきます。それが戦後になっても、国策によるいろいろな補助金、電気料金への転化をゆるすなど、国策・民営的な電力会社の寡占で原発推進体制を進めてきたのです。
そもそも、ロシアにおいて、どうしてアーレントのいう「全体主義」に陥ったのかというと、そもそもレーニンの運動論組織論の中央集権主義があったといわざるを得ません。今、電力だけでなく、地産地消ということが突き出され、地方自治ということの中に、民主主義の新しい展開構造が練られてきています。
この本の中で、戦前・戦中の革新官僚と軍部の結びつきから日本型ファシズムの隆起が押さえられています。このことがロシア国家資本主義の専制国家でのノーメンクラツーラとしてきされることとつながっていきます。テクノは自然科学技術だけではないのです。
今日、プーチンファシズムとも言い得る、ロシアの専制国家体制でのウクライナ侵攻、ネタニエフのパレスチナへのジェノザイド的攻撃が起きていますが、そもそもファシズム論が整理されていないので、プーチンファシズム規定やネタニエフファシズムという規定ができない、拡がらないでいます。このあたりの早急な論的整理が必要です。
山本さんのこの著は、その論的整理に貴重な資料です。
後、この本の中でフクシマ事故は不運な重なり合いの中で大きな事故になったのだという意見があるのですが、むしろ燃料プールにあるはずのない水が合って、それが燃料プールに流れ込んだから、東日本全滅という事態にいたらなかったのではないかという最近出て来た情報、青木さんの本(註6)にも書かれていたことが書かれています。核抑止論なり、軍備拡張が戦争の抑止力となるというようなことが、そもそも過去の歴史の検証をしないひと、学ばないひとから出てくるのですが、改めて、核廃絶と軍備縮小の方向に進むことが今、必要になっているのだと思います。
汚染水問題とか閾値のこととか、グリンフォッシュとかいう新しい概念がでてきていること、いろいろと対話的に書き置きたいことがあるし、ファシズム論の整理もしたいところですが、とりあえず、この本の大切さを押さえたところで、この読書メモは終わります。 わたしがこの本をきちんと紹介し切れていないので、最後に目次をあげておきます。この本には索引がついているので、資料としていろいろ使えます。
目 次
凡 例
用語について
いくつかの箴言――序文にかえて
序章 本書の概略と問題の提起
〇・一 核発電の根本問題
〇・二 核のゴミとその後処理
〇・三 高速増殖炉について
〇・四 核燃料サイクルの現状
〇・五 核ナショナリズム
第一章 近代日本の科学技術と軍事
一・一 日本ナショナリズムの誕生
一・二 資源小国という強迫観念
一・三 国家総動員とファシズム
一・四 革新官僚と戦時統制経済
一・五 戦時下での電力国家管理
第二章 戦後日本の原子力開発
二・一 核技術とナショナリズム
二・二 日本核開発の体制と目標
二・三 原子力ムラと原発ファシズム
二・四 岸信介の潜在的核武装論
二・五 中国の核実験をめぐって
二・六 核不拡散条約をめぐって
第三章 停滞期そして事故の後
三・一 高度成長後の原発産業
三・二 原発推進サイドの巻き返し
三・三 核発電と国家安全保障
三・四 原発輸出をめぐる問題
三・五 原発輸出がもたらすもの
三・六 世界の趨勢と岸田政権
第四章 核燃サイクルをめぐって
四・一 再処理にまつわる問題
四・二 再処理のもつ政治的意味
四・三 高速増殖炉をめぐる神話
四・四 核燃料サイクルという虚構
終章 核のゴミ、そして日本の核武装
あとがきにかえて
参考文献
人名牽引
事項牽引
(註)
1 たわしの読書メモ・・ブログ595/・山本義隆『福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと』みすず書房2011
2 たわしの読書メモ・・ブログ656[廣松ノート(5)]/・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(3)
3 北朝鮮が「人工衛星打ち上げ予告」をしての発射時に、Jアラートを鳴らすということをするなら、自分たちは人工衛星を打ち上げするのを止めることです。
4 事故は数々起きていて、著者はその一覧表を載せています。そもそも、スリーマイル、チェルノブイリと大事故が起きたのに、その時点で縮小廃止しないことがフクシマにつながったのです。
5 「威信」とか「権威」ということも差別的なことへのとらわれで、ファシズム的
なこととして押さえることができます。
6 「たわしの読書メモ・・ブログ657/・青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』文藝春秋2023 」参照。
・山本義隆『核燃サイクルという迷宮 核ナショナリズムがもたらしたもの』みすず書房2024
山本義隆さんはわたしたちの世代では知らないひとはいない有名人ですが、物理学者としても将来を嘱望されていたひとです。この本では、予備校勤務・科学史家として紹介されています。わたしの読書メモでは、原発関係のもう一冊の読書メモがあります(註1)が、もうひとつ[廣松ノート]で、廣松さんがカッシーラーの「函数的連関態」の概念を引用しているところで、それがまだ製本されていない山本さん訳本の原稿を引用させて貰ったというところで繋がっています。(註2)
今まで、原発関係の本やパンフレットの類いもかなり出ていて、わたしもそれなりに読んでいたのですが、この本は核燃サイクルに焦点を当てています。わたしとしては、今までの知識を整理し、肉付けしていくこととして読んでいました。この本は、原発の問題で政治との関係として貴重な本です。特に、ナショナリズム――ファシズムというところから、原発のとりわけ核燃サイクルをとらえ返しています。
さて、今回は切り抜きメモでなくて、山本さんの原稿に肉付けして復習的な文を遺します。
そもそも核発電は核兵器開発の副産物としてできた技術で、沸騰水型原発でいえば、なぜお湯を沸かすのに制御のむずかしい、また大量の核廃棄物が出てくる、しかもその処理方法もままならぬ核発電など作るのか、使い続けるのかという問いが立てられます。結局原点の核兵器の保持・潜在的保持能力を持つということが動因としてあり、それだけでもなく、それを持つことが技術先進国のステイタスを得られるという構図なのです。
日本の場合、アメリカのダブルスタンダードにつけ込み、中曽根首相の時、レーガン大統領との交渉で右派同士の共鳴のなかで、核爆弾の材料となるフルトニウムの精製を核燃サイクルの開発ということで、再処理技術の開発を認めさせ、原発をもつこと自体が、原爆所有に準じる準原爆所有国としての原発の維持・再稼働が成り立っているのです。岸元首相から石破元自民党幹事長まで、原発を動かすことと、人工衛星を打ち上げることで、核弾道ミサイルをいつでもつくれる状態にしておく(註3)、ということをずっと原発を作り維持していく理由の一つになっていて、それが事故を起こしても(註4)、原発を止められない理由の一つになっているのです。更に、核爆弾を作るのに、その材料のプルトニウムを保持しておくためには、核燃サイクルの再処理ということが必要で、技術的困難とコストということで合わないとして核保有国が撤退していく中で、日本は、資源小国の立場という立場もあるのですが、これは自然エネルギーへの転換ということで、そもそも日本がかつて最先端の位置に居たのに、原発にこだわって、その技術開発を抑え込み、未だにその電力を二次的なこととして位置づけています。著者のいうテクノファシズム的なことで、もはや技術後進国になっていくなかでその「威信」(註5)をかけて一発逆転を狙って再処理技術にこだわり続けています。そもそもコストは合わないし、汚染水の排出などの環境負荷、危険性の増大などがあるにも関わらず、再処理に可能性があるとしないと、原爆の材料になるプルトニウムを多くもっているということで批判をうけることを回避するという意図が働いているようです。更に、そもそも廃棄物の処理方法も確定しないで原発を作り、運転使用済み核燃料がどんどん増えていく中で、テクノファシズムともいうべき技術の優位性を示そうというファシズム的な心性に囚われているのです。破綻ははっきりしているのに、無責任の極みとして、ひとの命や生活が脅かされる、実際多くの死者を出しているのにやめようとしない体制はまさに著者のいう「原発ファシズム」なのです。
さて、わたしはファシズム論で論考を進めようとしています。で、ハナ・アーレントのファシズムとして論じられていくことを「全体主義」としてまとめていく手法のなかで、今ひとつしっくり来ないことがありました。アーレントには日本型ファシズムへの論及はありませんし、ナチズム、ムッソリーニーのファシスト党のファシズム、そしてロシアの全体主義―ファシズムの関係をまとめ切れていません。この山本さんの本の中で、日本型ファシズムの動きとして戦前・戦中の電力の国営民有という「中央集権的国家主義」の動向が出てきます。それが戦後になっても、国策によるいろいろな補助金、電気料金への転化をゆるすなど、国策・民営的な電力会社の寡占で原発推進体制を進めてきたのです。
そもそも、ロシアにおいて、どうしてアーレントのいう「全体主義」に陥ったのかというと、そもそもレーニンの運動論組織論の中央集権主義があったといわざるを得ません。今、電力だけでなく、地産地消ということが突き出され、地方自治ということの中に、民主主義の新しい展開構造が練られてきています。
この本の中で、戦前・戦中の革新官僚と軍部の結びつきから日本型ファシズムの隆起が押さえられています。このことがロシア国家資本主義の専制国家でのノーメンクラツーラとしてきされることとつながっていきます。テクノは自然科学技術だけではないのです。
今日、プーチンファシズムとも言い得る、ロシアの専制国家体制でのウクライナ侵攻、ネタニエフのパレスチナへのジェノザイド的攻撃が起きていますが、そもそもファシズム論が整理されていないので、プーチンファシズム規定やネタニエフファシズムという規定ができない、拡がらないでいます。このあたりの早急な論的整理が必要です。
山本さんのこの著は、その論的整理に貴重な資料です。
後、この本の中でフクシマ事故は不運な重なり合いの中で大きな事故になったのだという意見があるのですが、むしろ燃料プールにあるはずのない水が合って、それが燃料プールに流れ込んだから、東日本全滅という事態にいたらなかったのではないかという最近出て来た情報、青木さんの本(註6)にも書かれていたことが書かれています。核抑止論なり、軍備拡張が戦争の抑止力となるというようなことが、そもそも過去の歴史の検証をしないひと、学ばないひとから出てくるのですが、改めて、核廃絶と軍備縮小の方向に進むことが今、必要になっているのだと思います。
汚染水問題とか閾値のこととか、グリンフォッシュとかいう新しい概念がでてきていること、いろいろと対話的に書き置きたいことがあるし、ファシズム論の整理もしたいところですが、とりあえず、この本の大切さを押さえたところで、この読書メモは終わります。 わたしがこの本をきちんと紹介し切れていないので、最後に目次をあげておきます。この本には索引がついているので、資料としていろいろ使えます。
目 次
凡 例
用語について
いくつかの箴言――序文にかえて
序章 本書の概略と問題の提起
〇・一 核発電の根本問題
〇・二 核のゴミとその後処理
〇・三 高速増殖炉について
〇・四 核燃料サイクルの現状
〇・五 核ナショナリズム
第一章 近代日本の科学技術と軍事
一・一 日本ナショナリズムの誕生
一・二 資源小国という強迫観念
一・三 国家総動員とファシズム
一・四 革新官僚と戦時統制経済
一・五 戦時下での電力国家管理
第二章 戦後日本の原子力開発
二・一 核技術とナショナリズム
二・二 日本核開発の体制と目標
二・三 原子力ムラと原発ファシズム
二・四 岸信介の潜在的核武装論
二・五 中国の核実験をめぐって
二・六 核不拡散条約をめぐって
第三章 停滞期そして事故の後
三・一 高度成長後の原発産業
三・二 原発推進サイドの巻き返し
三・三 核発電と国家安全保障
三・四 原発輸出をめぐる問題
三・五 原発輸出がもたらすもの
三・六 世界の趨勢と岸田政権
第四章 核燃サイクルをめぐって
四・一 再処理にまつわる問題
四・二 再処理のもつ政治的意味
四・三 高速増殖炉をめぐる神話
四・四 核燃料サイクルという虚構
終章 核のゴミ、そして日本の核武装
あとがきにかえて
参考文献
人名牽引
事項牽引
(註)
1 たわしの読書メモ・・ブログ595/・山本義隆『福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと』みすず書房2011
2 たわしの読書メモ・・ブログ656[廣松ノート(5)]/・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(3)
3 北朝鮮が「人工衛星打ち上げ予告」をしての発射時に、Jアラートを鳴らすということをするなら、自分たちは人工衛星を打ち上げするのを止めることです。
4 事故は数々起きていて、著者はその一覧表を載せています。そもそも、スリーマイル、チェルノブイリと大事故が起きたのに、その時点で縮小廃止しないことがフクシマにつながったのです。
5 「威信」とか「権威」ということも差別的なことへのとらわれで、ファシズム的
なこととして押さえることができます。
6 「たわしの読書メモ・・ブログ657/・青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』文藝春秋2023 」参照。
三上智恵『戦雲(いくさふむ) 要塞化する沖縄、島々の記録』
たわしの読書メモ・・ブログ673
・三上智恵『戦雲(いくさふむ) 要塞化する沖縄、島々の記録』集英社(集英社新書)2024
三上智恵さんは映画監督でジャーナリスト。というより、沖縄の反基地運動をしているひとたちと共に闘い、共に涙し、共に喜ぶ、運動参画型ジャーナリストです。劇場映画はこの映画で5作目。元々はインターネットのサイト「マガジン9」に「三上智恵の沖縄撮影日記(辺野古・高江)」として映像と文を載せていて、定期的にそれを映画にして、また同時に文を編輯して本にする形で発信を続けています。今回は、コロナ禍ということもあったのでしょうが、間が空いていました。沖縄の運動が、「本土」政府の司法と一体化した、民意を反映しない基地建設・拡張、南西諸島のミサイル配備の中で、ジャーナリストとして伝え切れていないことと、運動の敗北感にさいなまれ、映画にまとめれなかったこともあったようです。そういう中で、映画を待ち望むひとたちから、マガジン9に載せている映像の上映会をしたいとの申し出があり、スピンオフ集会として無料で上映するというところから始まり、映画製作に入っていったようです。涙を流しながら運動をしているひとたちに共感しながら自らも涙し、時にはカメラのスイッチを切ってしまうとか、敗北していく運動を撮ってどういう意味があるのか、とか、色んな思いの中での撮影と編輯だったことが伝わってきます。「今回は闘争一辺倒でなく明るい映画にしました」とかいう話があったのですが、運動の思いがあるひとには、映像を観ているひとも、本を読む者も涙が止まらないのです。
今、南西諸島の敵基地攻撃能力ということも含んだミサイル配備が全国的に問題になっていますが、三上さんは、政府が当初のレーダー設置とか監視部隊の設置とか誤魔化しながら、基地を作り始めた当初から、沖縄本島のひとは米軍の基地の反対運動に立ち上がっているのに、どうして南西諸島の自衛隊配備に反対しないのかと、現地の反対運動をとりあげ、これは大変な問題だと警鐘を鳴らし続けていたのです。
この本には、三上さんの沖縄に関わる出発点的なことが、「27 70回目の「屈辱の日」@辺戸岬」の章に、三上さんが小学生の時に「家族旅行」で沖縄を訪れ、国頭村北端の岬の「祖国復帰闘争碑」の碑文の「記念碑」や「祝い碑」でなく、なぜ「闘争碑」なのかという思いを抱き、そのことを解いていく過程として、沖縄の大学で民俗学を学び、沖縄のテレビ局のアナウンサー兼プロデューサーになり、運動に参画するような映画監督・ジャーナリストになっていったという経過が書かれています。そして、沖縄に対する強い、強い思いが全編に基底通音的に流れています。これほど、外から来て、深く共鳴し関わる稀有のひとの出発点のはなしです。
今、世界的にも、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザへのジェノサイド的侵攻とどうしてこんなことが起こせるのかというような戦争の渦の中にあります。核の抑止力など虚構に過ぎず、過去の歴史をとらえ返すと、軍備拡張は戦争の抑止などには繋がらないのに、なぜ、軍拡に走るのか、どうしても理解出来ないことが起き、そもそも政治総体で「論外」としかいいようなことが起き続けています。
三上さんの映像と文に共鳴する表紙と裏表紙に山内若菜さんの素敵な絵が載せてあります。三上さんの文は素敵な文で、切り抜きメモをいくつも残したいのですが、本を読んでほしいのでで、禁欲します。最後の文だけ引用しておきます。
「泣いても笑ってもダメなら、歌うしかない。最後は歌なんだ! 祈りなんだ! と知る。戦雲を吹き飛ばすまで、歌と祈りを止めない人たちにもっともっと出会いたいから、相変わらず肝は据わっていないけれど、やっぱり私はこの仕事を続けていきたい。」317P
映画を観ていないひとは、是非劇場で映画を、そして、この本も是非読んで下さい。わたしも沖縄に行けていません。せめて、映画を観て、本を読み、それを拡げていくという形で運動に参画したいと念っています。
尚、この本の各章にはQRコードがついていて、スマホなどで「マガジン9」に載せていた映像が観れます。冒頭の章の、石垣島の山里節子さんのウタ(「反戦トゥバリャーマ「いくさふむ」)が心に響きます。映画と本の題名は、このウタの歌詞から来ています。
「マガジン9」三上智恵 | 検索結果: | マガジン9 (maga9.jp) でも、映像が観れるし、元文が読めます。
・三上智恵『戦雲(いくさふむ) 要塞化する沖縄、島々の記録』集英社(集英社新書)2024
三上智恵さんは映画監督でジャーナリスト。というより、沖縄の反基地運動をしているひとたちと共に闘い、共に涙し、共に喜ぶ、運動参画型ジャーナリストです。劇場映画はこの映画で5作目。元々はインターネットのサイト「マガジン9」に「三上智恵の沖縄撮影日記(辺野古・高江)」として映像と文を載せていて、定期的にそれを映画にして、また同時に文を編輯して本にする形で発信を続けています。今回は、コロナ禍ということもあったのでしょうが、間が空いていました。沖縄の運動が、「本土」政府の司法と一体化した、民意を反映しない基地建設・拡張、南西諸島のミサイル配備の中で、ジャーナリストとして伝え切れていないことと、運動の敗北感にさいなまれ、映画にまとめれなかったこともあったようです。そういう中で、映画を待ち望むひとたちから、マガジン9に載せている映像の上映会をしたいとの申し出があり、スピンオフ集会として無料で上映するというところから始まり、映画製作に入っていったようです。涙を流しながら運動をしているひとたちに共感しながら自らも涙し、時にはカメラのスイッチを切ってしまうとか、敗北していく運動を撮ってどういう意味があるのか、とか、色んな思いの中での撮影と編輯だったことが伝わってきます。「今回は闘争一辺倒でなく明るい映画にしました」とかいう話があったのですが、運動の思いがあるひとには、映像を観ているひとも、本を読む者も涙が止まらないのです。
今、南西諸島の敵基地攻撃能力ということも含んだミサイル配備が全国的に問題になっていますが、三上さんは、政府が当初のレーダー設置とか監視部隊の設置とか誤魔化しながら、基地を作り始めた当初から、沖縄本島のひとは米軍の基地の反対運動に立ち上がっているのに、どうして南西諸島の自衛隊配備に反対しないのかと、現地の反対運動をとりあげ、これは大変な問題だと警鐘を鳴らし続けていたのです。
この本には、三上さんの沖縄に関わる出発点的なことが、「27 70回目の「屈辱の日」@辺戸岬」の章に、三上さんが小学生の時に「家族旅行」で沖縄を訪れ、国頭村北端の岬の「祖国復帰闘争碑」の碑文の「記念碑」や「祝い碑」でなく、なぜ「闘争碑」なのかという思いを抱き、そのことを解いていく過程として、沖縄の大学で民俗学を学び、沖縄のテレビ局のアナウンサー兼プロデューサーになり、運動に参画するような映画監督・ジャーナリストになっていったという経過が書かれています。そして、沖縄に対する強い、強い思いが全編に基底通音的に流れています。これほど、外から来て、深く共鳴し関わる稀有のひとの出発点のはなしです。
今、世界的にも、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザへのジェノサイド的侵攻とどうしてこんなことが起こせるのかというような戦争の渦の中にあります。核の抑止力など虚構に過ぎず、過去の歴史をとらえ返すと、軍備拡張は戦争の抑止などには繋がらないのに、なぜ、軍拡に走るのか、どうしても理解出来ないことが起き、そもそも政治総体で「論外」としかいいようなことが起き続けています。
三上さんの映像と文に共鳴する表紙と裏表紙に山内若菜さんの素敵な絵が載せてあります。三上さんの文は素敵な文で、切り抜きメモをいくつも残したいのですが、本を読んでほしいのでで、禁欲します。最後の文だけ引用しておきます。
「泣いても笑ってもダメなら、歌うしかない。最後は歌なんだ! 祈りなんだ! と知る。戦雲を吹き飛ばすまで、歌と祈りを止めない人たちにもっともっと出会いたいから、相変わらず肝は据わっていないけれど、やっぱり私はこの仕事を続けていきたい。」317P
映画を観ていないひとは、是非劇場で映画を、そして、この本も是非読んで下さい。わたしも沖縄に行けていません。せめて、映画を観て、本を読み、それを拡げていくという形で運動に参画したいと念っています。
尚、この本の各章にはQRコードがついていて、スマホなどで「マガジン9」に載せていた映像が観れます。冒頭の章の、石垣島の山里節子さんのウタ(「反戦トゥバリャーマ「いくさふむ」)が心に響きます。映画と本の題名は、このウタの歌詞から来ています。
「マガジン9」三上智恵 | 検索結果: | マガジン9 (maga9.jp) でも、映像が観れるし、元文が読めます。
『現代思想 2023年9月号 追悼●立岩真也』『現代思想 2024年3月臨時増刊号 総特集 立岩真也』
たわしの読書メモ・・ブログ672
・『現代思想 2023年9月号 追悼●立岩真也』青土社 2023
・『現代思想 2024年3月臨時増刊号 総特集 立岩真也』青土社 2024
前者は、死後直後のこの雑誌――立岩さんが連載原稿を書いていた雑誌の最初の発刊に載せられた、三本の追悼文。
後者は臨時増刊として出された彼と関わりのあった諸々のひとたちの追悼文になっています。
前者の追悼文、後者の総特集を読んでいて、改めて、すごいネットワーク・人脈を築き上げていて、しかも、障害学から生存学と拡げ、しかも、それが根を張るように拡がっている、勿論、総てのことが判るわけではないということは押さえつつ、それでも関心を繋げていっている、そこで、自らが「指導する」ひとたちをその生活の成り立ちということも配意しつつ育て、学だけではなく(「生存学」ということではつながるのかもしれませんが)、移住空間や農・食べもの、その他諸々、触覚が伸びるように関心事が拡がり伸びていっていたのだと、その広がりの広さと深さに驚愕せざるをえないのです。そして何人かのひとが書いているように「生き急いで」逝ってしまったのだと想っています。
わたしとしては、この文を掲載している「反障害通信」の136号に追悼文を書いています。 http://www.taica.info/adsnews-136.pdf
わたしは障害学批判をやっているのですが、そこで、主の接点が、立岩さんだったので、その接点を喪失して、他にも何人かの喪失を経験しつつ、立岩さんとは逆にますます「たこつぼ化」していくことにおそれおののいています。
さて、もう幾つかの立岩さん自身との対話文は書いています。今回、『私的所有論』を引っ張り出して、そこにかなりの書き込みをしているのを見出し、本やHPに載せた、立岩さんへの手紙風の対話文が、要点だけをまとめたものになっていて、改めて逐一の対話文を起こしたいと思いが湧いてきたのですが、届かない文を書いていっても、余り意味がないし、立岩さんとの宿題も含めて、宿題をいくつも抱えているので、そちらでの対話を進めます。
ここでは、多くのひとの追悼文を読んでいて、立岩さんとの対話の核心点だけを改めて確認する作業に止めます。
まず、第一の「文体」の話。多くのひとが立岩さんの独特の文体をとりあげています。小川さやかさんの文に「立岩さんの文章の特徴は、このような弁証法的思考の過程を開示することで、・・・・・・」140Pとあります。まさにその自問自答風の「対話」としての弁証法的手法なのです。このことを理解すると、立岩さんの文の進め方が判るし、さらには、その弁証法というところから、ヘーゲル/マルクス/廣松弁証法(註1)から弁証法をおさえ直す作業の中で、立岩さんの文の弁証法途行きをとらえかえすことが出来ます。たとえば、@立岩さんはこの社会の通念になっていること、多くのひとが囚われている常識のようなこと(註2)、に対して、A「果たしてそうだろうか、別の考え方ができるのではないか」と、別の考え方を示してみます(註3)。Bそして、@とAの対話を進行させ、Aの自分の提起したことの論的深化を導き出します。それが「良い」とか、「可能だ」とか、・・・とまとめます(註4)。たしかに、Bの@に対抗する立岩さんの最終的にまとめた考えがみんなに滲透していけば可能なのです。ですが、そもそも、@の考え方は資本主義体制からこそで、みんながその体制にのっとって生きている中で、身に付けている意識です。Aの意識はその体制に反する意識です。例をあげます。ベーシックインカム論があります。この総特集の中でも山森さんが文を書いています。「基本所得保障」とか訳されています。そもそも、「基本所得保障」をどう定義するかの問題があります。ネグリ/ハートが『<帝国>』の中で、「国境を越えた、ベーシックインカム」という提起をしています。ネグリはイタリアの共産主義志向の運動で伝統的な構造改革革命論として、これを出ししています。一方で、今日本でベーシックインカムを突きだしているひとが居ます。それは竹中平蔵新自由主義者のベーシックインカム論で、これは福祉の切り捨て、軽減のための「自己決定の論理」をベースにしていて、こんなものを導入することは、基本所得保障で生活できない者は死ねということになります。実は、「障害者運動」サイドからすると、求めることは「基本所得保障」ではなくて、介助なり医療なりを含めた生きるための「基本生活保障」なのです。現在、そもそも「生活保護」でもそもそもいくつもの加算がなされます。ただし、どこの国でも、調査とかなしの、またスティグマを貼らない生活保障の支給はなされていません。それがなされたら資本主義は崩壊します。資本主義が資本主義であるかぎりそれか不可能です。ですから、逆に言えば、ネグリ/ハートがなし崩し的革命論として、もしくはせめぎ合いのツールとしてベーシックインカムを突きだしたのです。ですから、@に対抗するABの意識にするために体制の変革が必要だという話になっていくし、そのひとつの方法論としてネグリ/ハートのベーシックインカムもあったのです。この場合の「基本生活保障」がBになります。
第二に、そもそも、立岩さんは『私的所有論』で、「・・・・・・・。結局いろいろやってみてわかったように「市場経済」で行くしかないのだし、行くのがよいのだし、そこにまずいところがあればところがあれば、「福祉国家」か何か、手を打てばよろしい、このように終わる。・・・・・・・」4P「局所に望ましい関係を作っていくことが問題を解決しないのであれば、全域が一気に変わらなければならない。しかし、現在の関係が現在の私達を作っている限り、待っていては変わらない。とすれば事態を見抜いた者達、少数者達が先駆的にいまあるものを全面的に覆してしまい、関係を変えてしまえば、その後、関係が存在(意識)を規定するのだから、事態はうまく運ぶだろう。その他の人々の意識も変わる。だからまず少数者が、多数の承認をえられないとしても、関係を変えるしかない。このような主張が、論理必然的に、導かれる(廣松渉[1975][1981]等)。だがそれにしても革命は容易ではない。」296P(註5)
前の引用文と後の引用文は少しニュアンスが違います。前者は、この著作、そして全著作を貫いて、市場経済を前提にして話を進めるという態度とつながっています。後者は、そもそも、「マルクス・レーニン主義」というマルクス派の主流の考えですが、これこそが批判・止揚の対象となっているのだとわたしは押さえています。実は、立岩さんと対話に踏み込んだのは、わたしが認識論的に影響を受けた廣松さんの著作を文献表にのせていたこともあったからです。ここの文献に挙げているのは『新左翼運動の射程』と『現代革命論の模索』ですが、わたしもこの二冊は読んでいて、廣松さんも「マルクス・レーニン主義」にとらわれていると感じていました。そもそも他のもっと、廣松理論の展開と言われる文が文献として挙がっていないことと、文献や本文中にマルクスの名が挙がっていないことにわたしは疑問を持ちました。サルトルやデリダが、「現代社会で乗り越え不可能な思想」とマルクスを評価したように、マルクスをスポイルすると、現代社会――資本主義差社会の分析さえままならなくなります。わたしは、「廣松ノート」を今書いているので、廣松さんのマルクス・レーニン主義(ボリシェヴィキズム)への陥穽はあるのか、ここまでは押さえる作業をしたいと思っています(註6)。
実は、最初の追悼文を載せた号で、追悼文を書いた小松さんが、自分の指向性の「卓袱台返し」に対して立岩さんの論攷は「改良主義」になっていると批判をしています。確かに、そうですが、そもそも立岩さんは「市場原理」を否定しないところで論をすすめるとしているのですが、現実には、「関係が存在(意識)を規定する」という『私的所有論』の296Pの文、実はマルクスの唯物史観の定式に廣松理論を織り込んだような定式を示していることからして、わたしは立岩さんが自らの論攷を、「それは市場経済の論理を踏み外した議論になってしまっている」という弁証法的な自らの提起を次々に繰り出していること自体のとらえ返しと、次なるステップに入り込んでいくことではないかと想います。いっそのこと前提をとっぱらったところで展開していく論をわたしは期待してしまうのですが。
第三に、立岩さんは社会学者なのですが、社会に倫理を打ち立てるという倫理主義的社会学という道に踏み入っているのではないかとわたしはとらえています。「関係が存在(意識)を規定する」という唯物史観の定式からすると、「倫理主義的社会学」とはありえるのでしょうか? 数々のマルクス主義(註7)を冠した学の体系があるのですが、「マルクス主義倫理学」ということはありえないのではないでしょうか? 立岩さんの文が判りづらいというのは社会学的論を展開しているときに、善悪論的な「よい」とかいう倫理学的用語がでてくることがあることで、もやもやとした思いに陥ることがあるからかもしれません。立岩さんが学生時代に寮自治会とか学生自治会に参画し、その中で裏切られたとかいう思いを抱いたとかいう話が総特集の文の中何人かのひとから出てきます。社会変革的活動の展望がとらえられなくなったという中で、マルクス葬送の流れの中で(註8)、しかも、学者受難の時代に倫理主義的なところの学へ入り込んでいったのではないかと思ったりしています。「改良主義」かどうかは別にして、社会変革的な志向がなくなっているわけではなく、「生き急ぐ」というとらえ方がされるほど、情熱と思いを持ち続けていたひと、どちらにしても、「障害者」、被差別者のおかれている情況を問題にし、「よりよい方向へ変えていく」というところで果たしてきた活動を、その批判も含めての活動を進めていくことが、彼の追悼なのだと思っています。わたしとしては、彼との対話のなかで、提起された宿題をきちんと果たしていきたいと思います。それで対話が当人と果たせないのは残念ですが、その思いを自らなりに引き継ぐ人たちとの対話がなしえればとも願っています。
(註)
1 廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980で、ヘーゲルからマルクスを経た、かなり独自性をもった「廣松弁証法」と言い得るような内容を展開しています。なお、後の『私的所有論』296Pの引用文にも名が出て来て、その本の文献表の中に名が出ています。
2 「廣松弁証法」的なとらえかたをすれば、その社会の一般的常識的な(共同主観的な客観的妥当性)の当事意識。
3 これも、「廣松弁証法」的なとらえかたをすれば、「一般的常識的な意識に反定立する新しい提起」。
4 同様に、「当事意識」と新しい意識との対話の中で、止揚された「学的意識」。なお、ここで、「良い」とかいう立岩さんの突き出しは、後に書く、倫理主義的なとらえ方になっています。
5 レーニンは、ロシア社会民主(労働)党の党建設の当初から、中央集権的運動論・組織論や外部注入論を採っていました。立岩さんがここで書いているのは「ロシア革命」の手法ですが、その「革命」の最中に、アメリカの社会主義的ジャーナリスのジョン・リードからインタビューを受けて、「民主的な方法を執っていたら、革命するのに百年かかる」とか答えています。レーニンの運動論・組織論に対する批判を何人かのひとが批判していました。後に「日和見主義」とか「修正主義」とか批判されるひとを除けば、ローザ・ルクセンブルクとトロツキーが有名です。トロツキーは、「ミイラ取りがミイラになった」し、ローザも死の直前にゆらぎを見せていたようです。そもそも、ロシア革命が「社会主義社会」を定立したといえるのか、わたしは批判的です。労農独裁としてのソヴィエト独裁までは行ったけれど、社会主義の定立に失敗し、一党独裁の「国家資本主義」体制になってしまった。「百年かかる」どころか、共産主義志向の運動の桎梏になってしまった。と、いう押さえ方をわたしはしています。
6 立岩さんがここで書いていることは、廣松さんからの引用としていますが、まさにレーニン主義的革命論です。廣松さんはレーニンの哲学は否定的批判をしていますが、もう一度この二書をちゃんと読もうと思っています。
7 これまでも何回も書いているのですが、反差別論をやっているわたしは、個人崇拝的権威主義や、教条主義批判をしているので、「○○主義」ということばは「教条主義」化された意識への否定的批判のニュアンスでしか使いません。
8 反差別論を押さえようとしている立場からとらえると、マルクスの思想を通低音的に押さえないと、現在社会の分析が「社会変革」的なところで、できなくなるのです。わたしは反差別論をやっているのでフェミニズムの論稿を当然押さえる作業をしているのですが、マルクスの思想がはいっていないひと、マルクスを棄てたひとの論理が破綻していくのをとらえ返しています。そもそも、マルクス派のひとたちが差別の問題をきちんととらえ返せず、第二次フェミニズムが「(新)左翼への絶望から始まった」といわれるようなことがあり、民族差別その他、政治利用主義的に繰り返し陥っていくことがあったわけで、このことの総括からきちんと反差別ということを基底に据えた社会変革運動を展開していく必要があるのだと押さえています。「社会変革への途」を中断しているのをあらたにリニューアルしつつ、再開しようと思っています。
・『現代思想 2023年9月号 追悼●立岩真也』青土社 2023
・『現代思想 2024年3月臨時増刊号 総特集 立岩真也』青土社 2024
前者は、死後直後のこの雑誌――立岩さんが連載原稿を書いていた雑誌の最初の発刊に載せられた、三本の追悼文。
後者は臨時増刊として出された彼と関わりのあった諸々のひとたちの追悼文になっています。
前者の追悼文、後者の総特集を読んでいて、改めて、すごいネットワーク・人脈を築き上げていて、しかも、障害学から生存学と拡げ、しかも、それが根を張るように拡がっている、勿論、総てのことが判るわけではないということは押さえつつ、それでも関心を繋げていっている、そこで、自らが「指導する」ひとたちをその生活の成り立ちということも配意しつつ育て、学だけではなく(「生存学」ということではつながるのかもしれませんが)、移住空間や農・食べもの、その他諸々、触覚が伸びるように関心事が拡がり伸びていっていたのだと、その広がりの広さと深さに驚愕せざるをえないのです。そして何人かのひとが書いているように「生き急いで」逝ってしまったのだと想っています。
わたしとしては、この文を掲載している「反障害通信」の136号に追悼文を書いています。 http://www.taica.info/adsnews-136.pdf
わたしは障害学批判をやっているのですが、そこで、主の接点が、立岩さんだったので、その接点を喪失して、他にも何人かの喪失を経験しつつ、立岩さんとは逆にますます「たこつぼ化」していくことにおそれおののいています。
さて、もう幾つかの立岩さん自身との対話文は書いています。今回、『私的所有論』を引っ張り出して、そこにかなりの書き込みをしているのを見出し、本やHPに載せた、立岩さんへの手紙風の対話文が、要点だけをまとめたものになっていて、改めて逐一の対話文を起こしたいと思いが湧いてきたのですが、届かない文を書いていっても、余り意味がないし、立岩さんとの宿題も含めて、宿題をいくつも抱えているので、そちらでの対話を進めます。
ここでは、多くのひとの追悼文を読んでいて、立岩さんとの対話の核心点だけを改めて確認する作業に止めます。
まず、第一の「文体」の話。多くのひとが立岩さんの独特の文体をとりあげています。小川さやかさんの文に「立岩さんの文章の特徴は、このような弁証法的思考の過程を開示することで、・・・・・・」140Pとあります。まさにその自問自答風の「対話」としての弁証法的手法なのです。このことを理解すると、立岩さんの文の進め方が判るし、さらには、その弁証法というところから、ヘーゲル/マルクス/廣松弁証法(註1)から弁証法をおさえ直す作業の中で、立岩さんの文の弁証法途行きをとらえかえすことが出来ます。たとえば、@立岩さんはこの社会の通念になっていること、多くのひとが囚われている常識のようなこと(註2)、に対して、A「果たしてそうだろうか、別の考え方ができるのではないか」と、別の考え方を示してみます(註3)。Bそして、@とAの対話を進行させ、Aの自分の提起したことの論的深化を導き出します。それが「良い」とか、「可能だ」とか、・・・とまとめます(註4)。たしかに、Bの@に対抗する立岩さんの最終的にまとめた考えがみんなに滲透していけば可能なのです。ですが、そもそも、@の考え方は資本主義体制からこそで、みんながその体制にのっとって生きている中で、身に付けている意識です。Aの意識はその体制に反する意識です。例をあげます。ベーシックインカム論があります。この総特集の中でも山森さんが文を書いています。「基本所得保障」とか訳されています。そもそも、「基本所得保障」をどう定義するかの問題があります。ネグリ/ハートが『<帝国>』の中で、「国境を越えた、ベーシックインカム」という提起をしています。ネグリはイタリアの共産主義志向の運動で伝統的な構造改革革命論として、これを出ししています。一方で、今日本でベーシックインカムを突きだしているひとが居ます。それは竹中平蔵新自由主義者のベーシックインカム論で、これは福祉の切り捨て、軽減のための「自己決定の論理」をベースにしていて、こんなものを導入することは、基本所得保障で生活できない者は死ねということになります。実は、「障害者運動」サイドからすると、求めることは「基本所得保障」ではなくて、介助なり医療なりを含めた生きるための「基本生活保障」なのです。現在、そもそも「生活保護」でもそもそもいくつもの加算がなされます。ただし、どこの国でも、調査とかなしの、またスティグマを貼らない生活保障の支給はなされていません。それがなされたら資本主義は崩壊します。資本主義が資本主義であるかぎりそれか不可能です。ですから、逆に言えば、ネグリ/ハートがなし崩し的革命論として、もしくはせめぎ合いのツールとしてベーシックインカムを突きだしたのです。ですから、@に対抗するABの意識にするために体制の変革が必要だという話になっていくし、そのひとつの方法論としてネグリ/ハートのベーシックインカムもあったのです。この場合の「基本生活保障」がBになります。
第二に、そもそも、立岩さんは『私的所有論』で、「・・・・・・・。結局いろいろやってみてわかったように「市場経済」で行くしかないのだし、行くのがよいのだし、そこにまずいところがあればところがあれば、「福祉国家」か何か、手を打てばよろしい、このように終わる。・・・・・・・」4P「局所に望ましい関係を作っていくことが問題を解決しないのであれば、全域が一気に変わらなければならない。しかし、現在の関係が現在の私達を作っている限り、待っていては変わらない。とすれば事態を見抜いた者達、少数者達が先駆的にいまあるものを全面的に覆してしまい、関係を変えてしまえば、その後、関係が存在(意識)を規定するのだから、事態はうまく運ぶだろう。その他の人々の意識も変わる。だからまず少数者が、多数の承認をえられないとしても、関係を変えるしかない。このような主張が、論理必然的に、導かれる(廣松渉[1975][1981]等)。だがそれにしても革命は容易ではない。」296P(註5)
前の引用文と後の引用文は少しニュアンスが違います。前者は、この著作、そして全著作を貫いて、市場経済を前提にして話を進めるという態度とつながっています。後者は、そもそも、「マルクス・レーニン主義」というマルクス派の主流の考えですが、これこそが批判・止揚の対象となっているのだとわたしは押さえています。実は、立岩さんと対話に踏み込んだのは、わたしが認識論的に影響を受けた廣松さんの著作を文献表にのせていたこともあったからです。ここの文献に挙げているのは『新左翼運動の射程』と『現代革命論の模索』ですが、わたしもこの二冊は読んでいて、廣松さんも「マルクス・レーニン主義」にとらわれていると感じていました。そもそも他のもっと、廣松理論の展開と言われる文が文献として挙がっていないことと、文献や本文中にマルクスの名が挙がっていないことにわたしは疑問を持ちました。サルトルやデリダが、「現代社会で乗り越え不可能な思想」とマルクスを評価したように、マルクスをスポイルすると、現代社会――資本主義差社会の分析さえままならなくなります。わたしは、「廣松ノート」を今書いているので、廣松さんのマルクス・レーニン主義(ボリシェヴィキズム)への陥穽はあるのか、ここまでは押さえる作業をしたいと思っています(註6)。
実は、最初の追悼文を載せた号で、追悼文を書いた小松さんが、自分の指向性の「卓袱台返し」に対して立岩さんの論攷は「改良主義」になっていると批判をしています。確かに、そうですが、そもそも立岩さんは「市場原理」を否定しないところで論をすすめるとしているのですが、現実には、「関係が存在(意識)を規定する」という『私的所有論』の296Pの文、実はマルクスの唯物史観の定式に廣松理論を織り込んだような定式を示していることからして、わたしは立岩さんが自らの論攷を、「それは市場経済の論理を踏み外した議論になってしまっている」という弁証法的な自らの提起を次々に繰り出していること自体のとらえ返しと、次なるステップに入り込んでいくことではないかと想います。いっそのこと前提をとっぱらったところで展開していく論をわたしは期待してしまうのですが。
第三に、立岩さんは社会学者なのですが、社会に倫理を打ち立てるという倫理主義的社会学という道に踏み入っているのではないかとわたしはとらえています。「関係が存在(意識)を規定する」という唯物史観の定式からすると、「倫理主義的社会学」とはありえるのでしょうか? 数々のマルクス主義(註7)を冠した学の体系があるのですが、「マルクス主義倫理学」ということはありえないのではないでしょうか? 立岩さんの文が判りづらいというのは社会学的論を展開しているときに、善悪論的な「よい」とかいう倫理学的用語がでてくることがあることで、もやもやとした思いに陥ることがあるからかもしれません。立岩さんが学生時代に寮自治会とか学生自治会に参画し、その中で裏切られたとかいう思いを抱いたとかいう話が総特集の文の中何人かのひとから出てきます。社会変革的活動の展望がとらえられなくなったという中で、マルクス葬送の流れの中で(註8)、しかも、学者受難の時代に倫理主義的なところの学へ入り込んでいったのではないかと思ったりしています。「改良主義」かどうかは別にして、社会変革的な志向がなくなっているわけではなく、「生き急ぐ」というとらえ方がされるほど、情熱と思いを持ち続けていたひと、どちらにしても、「障害者」、被差別者のおかれている情況を問題にし、「よりよい方向へ変えていく」というところで果たしてきた活動を、その批判も含めての活動を進めていくことが、彼の追悼なのだと思っています。わたしとしては、彼との対話のなかで、提起された宿題をきちんと果たしていきたいと思います。それで対話が当人と果たせないのは残念ですが、その思いを自らなりに引き継ぐ人たちとの対話がなしえればとも願っています。
(註)
1 廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980で、ヘーゲルからマルクスを経た、かなり独自性をもった「廣松弁証法」と言い得るような内容を展開しています。なお、後の『私的所有論』296Pの引用文にも名が出て来て、その本の文献表の中に名が出ています。
2 「廣松弁証法」的なとらえかたをすれば、その社会の一般的常識的な(共同主観的な客観的妥当性)の当事意識。
3 これも、「廣松弁証法」的なとらえかたをすれば、「一般的常識的な意識に反定立する新しい提起」。
4 同様に、「当事意識」と新しい意識との対話の中で、止揚された「学的意識」。なお、ここで、「良い」とかいう立岩さんの突き出しは、後に書く、倫理主義的なとらえ方になっています。
5 レーニンは、ロシア社会民主(労働)党の党建設の当初から、中央集権的運動論・組織論や外部注入論を採っていました。立岩さんがここで書いているのは「ロシア革命」の手法ですが、その「革命」の最中に、アメリカの社会主義的ジャーナリスのジョン・リードからインタビューを受けて、「民主的な方法を執っていたら、革命するのに百年かかる」とか答えています。レーニンの運動論・組織論に対する批判を何人かのひとが批判していました。後に「日和見主義」とか「修正主義」とか批判されるひとを除けば、ローザ・ルクセンブルクとトロツキーが有名です。トロツキーは、「ミイラ取りがミイラになった」し、ローザも死の直前にゆらぎを見せていたようです。そもそも、ロシア革命が「社会主義社会」を定立したといえるのか、わたしは批判的です。労農独裁としてのソヴィエト独裁までは行ったけれど、社会主義の定立に失敗し、一党独裁の「国家資本主義」体制になってしまった。「百年かかる」どころか、共産主義志向の運動の桎梏になってしまった。と、いう押さえ方をわたしはしています。
6 立岩さんがここで書いていることは、廣松さんからの引用としていますが、まさにレーニン主義的革命論です。廣松さんはレーニンの哲学は否定的批判をしていますが、もう一度この二書をちゃんと読もうと思っています。
7 これまでも何回も書いているのですが、反差別論をやっているわたしは、個人崇拝的権威主義や、教条主義批判をしているので、「○○主義」ということばは「教条主義」化された意識への否定的批判のニュアンスでしか使いません。
8 反差別論を押さえようとしている立場からとらえると、マルクスの思想を通低音的に押さえないと、現在社会の分析が「社会変革」的なところで、できなくなるのです。わたしは反差別論をやっているのでフェミニズムの論稿を当然押さえる作業をしているのですが、マルクスの思想がはいっていないひと、マルクスを棄てたひとの論理が破綻していくのをとらえ返しています。そもそも、マルクス派のひとたちが差別の問題をきちんととらえ返せず、第二次フェミニズムが「(新)左翼への絶望から始まった」といわれるようなことがあり、民族差別その他、政治利用主義的に繰り返し陥っていくことがあったわけで、このことの総括からきちんと反差別ということを基底に据えた社会変革運動を展開していく必要があるのだと押さえています。「社会変革への途」を中断しているのをあらたにリニューアルしつつ、再開しようと思っています。