2018年08月18日

高田英一『手話の森を歩く―言語としての手話 その秘密をさぐる (手話コミュニケーション双書)』

たわしの読書メモ・・ブログ454
・高田英一『手話の森を歩く―言語としての手話 その秘密をさぐる (手話コミュニケーション双書)』全日本ろうあ連盟出版局 2003 
高田さんの本の続き。出版順からいうと逆に読んでいます。
日本における「聴覚障害者団体」の最大の組織を担われ、特に理論的なことを主導されたひと、差別への怒りと批判、その運動への思い、そして、政府・官僚たちの手話や言語的マイノリッティへの無理解の中で、コツコツと積み上げてきた運動のねばり強さを感じます。この本を読んでいると、高田さんの論形成の原型がここにあり、こちらの方が差別に対する怒りがストレートに出ていると共鳴できるのです。この本の原稿の書かれた時期と現在への変化を感じています。大きな組織を維持していく、そして組織化していくという思いでの、論形成への影響ということも感じてしまいます。「手話はひとつ」ということを突き出している全日ろう連、その中身は、変化してきているのですが、それは組織を1つにまとめようとしているところから出ていることだと、とらえられるのです。
理論家として多くの文を書かれ、その名を冠した論文も多く出されていること、細かい点で違和があっても、基本線はまさにろう運動を牽引していく論文だったと感銘しています。
さて、若干の異論のようなことは切り抜きメモで。
方法論的手話の話 文法的には日本語 26P・・・対応手話のこと このころは日本手話と違いをちゃんと押さえていたようです。
手話の語彙の数をいうのは言語論的におかしい31-34P・・・なぜ新しい手話創りに入ったのでしょうか?
手話の造語能力36P・・・ここで手話の語彙構成論が出て来ています。 さらに、表情とか視線も手話構成論・・・これは手話の文法の話につながるはずなのにどこからずれていったのでしょうか?
トータルコミュニケーション批判として-「ろう者の決め手(コミュニケーションの核)が、手話である」49P
コミュニケーションは情報伝達だけでない「交わり」51P・・・情報保障とコミュニケーション保障の関係
サル学にみるコミュニケーションの「交わり」53-4P
シリコン・バレーにおけるノウ・ハウ(Know How)ならぬノウ・フー(Know Who)の重要性56P
上部構造としての手話の位置 ろう者の現実生活の中から生まれた手話61P 経済的社会的文化的の関係の中における手話
「このような集団論議による目的意識的な手話創作は日本だけの現象といえる」97P・・・言語論的なおかしなことだから日本だけ
「手話に助詞はなく」104P・・・手話の助詞は指差しやNMの中にある、著者がとらえられていないだけ
住んでいる地域の優先の原則109P→『わたしたちの手話』の編纂を通じた全国共通化110Pと矛盾、これが現在的な語彙の共通化のみならず、モードの違いも無視する混乱→その背景にはろう者組織の統一という思い
この辞典(『日本語-手話辞典』)がちょうどよい行司訳を果たしてくれる」115P・・・109Pと矛盾
「手話に対応する日本語の収録が少ない」116P・・・???「手話-日本語辞典」の話、そもそもここの 日本語 は「日本語」
「方言」116P・・・方言というのは標準化がなった後に対比されること、無理矢理標準化して地域のことばを「方言」というのはおかしい
通訳作業−場面通訳と手話通訳活動の区別174P・・・後者に社会運動としてのろう運動への参画という意味を込めているのでは?
コミュニケーション保障(情報保障)というところから場面通訳もとらえる129P
「わが陣営の理論的貧困」の自己批判168P・・・あまり自己批判しているようにはとらえられないのです。

追記
安藤・高田論文がいくつか出され、全日ろう連の運動の基調になっていることがあり、そのひとつの読書メモ
安藤・高田論文
「日本における 手話通訳の歴史と理念―第8回世界ろう者会議提出論文(1979年ブルガリアで開催)―」(『手にことばを(上級用)』社団法人東京都聴覚障害者連盟 2008所収)
 「ろう者の権利を守る手話通訳」67P・・・「守る」は、ことばの選択を間違えているのでは?←守るのはろう者自身、代行主義批判。手話通訳が担うことがあるのは、情報障害を越えるろう者自身の運動を支える活動


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高田英一『手話教育今こそ!―障害者権利条約から読み解く』

たわしの読書メモ・・ブログ453
・高田英一『手話教育今こそ!―障害者権利条約から読み解く』星湖社 2012 
全日ろう連で長く理事長を務めた高田さんの本です。
ろう者に対する、手話に対する差別に対する怒りをもって運動を進められてきたのだと、運動の先達として、先人の運動があればこそ、現在の運動があるというところで、敬意をもって本を読んでいました。
ただ、運動は前に進めなければなりません。論として深化させないといけないので、どうもおかしいと思うことをあえて書かざるをえません。
ひとつは、手話はひとつとしつつも、コミュニケーション手話とフォーマルな手話な手話という分類をして、公的な場ではフォーマルな手話を使えるようになるべきだという論になっているようなのです。最近日聴紙に掲載された全日ろう連小中副理事長の論文(ブログ439参照)に「「1990年代まで、日本語対応手話が正しい手話とされ、日本手話より社会的上位に位置づけられ」たと山内氏が述べている事実はありません。」とあり、それに対して、わたしは木村晴美さんが「公的なところで使う(対応)手話が正しい手話で、デフ・ファミリーで日常的に使っている(日本)手話を恥ずかしい手話だと思っていた」という趣旨のことを書い提起たと指摘していたのですが、そもそも高田さんのフォーマル手話とコミュニケーション手話という分類自体がまさに、そのことの論拠としてあるのではないでしょうか? たとえば、書き言葉でも文語体、口語体があります。講義をするとき、生徒と対話しながら話をする教員と一方的にノートのようなことをしゃべるひともいます。コミュニケーション手話とフォーマルな手話という分類の仕方は、そもそもそのようなことだと思うのですが、実は、そこで展開されている内容は、やはり日本手話と対応手話の違いなのではないでしょうか? 最近木村さんもその共著者になっているブックレットが出されました(ブログ448)、そのブックレットと対話すると、対応手話と日本手話の違いを押さえた上で、対応手話は手指日本語で手話とは言えないという主張にしない限り、「手話はひとつ」ということは言えなくなります。そもそも「日本手話言語法案」で「手話言語は独自の言語」という突き出しをしているのですが、対応手話は「日本語」と別の言語体系をもっていません。そもそも木村さんが出した「ろう文化宣言」以降、日本手話の文法の話が出されてきているのに、全日ろう連の「手話はひとつ」という突き出しの中では、日本手話の文法の話が皆無なのです。全日ろう連は大きな団体で、さまざまな意見がある中で、ひとつの団体として維持していくために、「手話はひとつ」という突き出しもしているのかもしれません。そして、現実的必要性から、日本手話と対応手話をきちんと区別することを、混乱を生むと批判しているのですが、逆に「手話はひとつ」ということ自体が混乱を生んでいるのではないでしょうか? そんなことを言っていると、手話通訳自体が困難になりますし、手話学習も進みません。特に、日本手話の読み取りができない、またろう者と難聴者の会話さえなりたたなくなります。
そもそも、「ろう文化宣言」が出て四半世紀近くになろうとしているのに、その「宣言」との対話、「宣言」を巡る対話がきちんとなされているとはとても思えません。
ちゃんと対話をし、論を深化させないと、手話言語法の制定運動自体が危うくなるのではないでしょうか?
さて、もうひとつは、「社会モデル」ということへの著者の共鳴があるのですが、著者の「社会モデル」の中身がわたしにはちっともとらえられないのです。わたしは「障害とは、社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁と抑圧である」と規定しています。もっとも簡単な表記は、「「障害者」が障害をもっているのではなく、社会が障害をもっている」ということになります。さて、著者は「改正障害者基本法」を「社会モデル」に基づく法という政府見解を書いているのですが、その後の「障害者総合支援法」「障害者差別解消法」も含めて、その条文をみていくと、「社会モデル」の説明をするところ以外の、障害 障害者 ということばは明らかに、「障害者が障害をもっている」という内容になっています。これらの法案は、障がい者制度改革推進会議で議論されていて、骨格提言されていたことを棚上げにして、官僚が押しつけた案で法律が作られています。そして、官僚案の提言の際に、「障害の社会モデル」に基づく提案ということを言っていたのですが、それを言っていた官僚は「社会モデル」のイロハも知らなかったと言わざるを得ません。この話を書き始めると、終わらなくなるので、わたしの書いた本を参照にしてください。このことと相俟って、著者は「国際障害者年」のスローガンの「完全参加と平等」ということばを繰りかえしています。わたしが手話を地域の手話講習会で学んでいたときは、丁度国際障害者10年の間で、このスローガンに直面していたのですが、わたしは手話を学ぶということは、「ろう者社会への聴者の参加」ということだと感じていました。なぜ、「障害者」がこの差別的な社会に参加しなくてはいけないのか、これは、差別されるのはいやだ、差別する側になりたいということではないかと。そもそも「社会モデル」というとき、差別社会への批判があるはずなのです。そもそも、「社会モデル」は「障害者」が健常者に近づくべく変わるのではなく、差別的な社会を変えるのだ、というところで突き出されたのではないでしょうか? 差別に対する怒りをもたれている著者が、なぜ、「完全参加と平等」とかいうところや、政府の「社会モデル」のウソ八百に乗られるのか、どうしても分からなかったのです。

手話の語彙が少ないという話に著者は繰り返し批判されています。実は、この著者の前のブログとりあげた本とこの本は出版された年が逆になっています。だから、この本が出された後の著書で、手話は語彙が少ないと言うことで、新しい手話創りに入られたという話が出て来ます。
わたしが聞いた話では、手話通訳の制度化要求の交渉をしているときに、官僚から「手話は語彙が少ないから日本語の正確な通訳はできない」と言われて、新しい手話作りを始めたという話がありました。高田さんの前の本では「官僚の意見を参考にして」というような内容になっています。高田さん自身がこの本の中で、「語彙が少ない」というような話へのするどい批判をされています。きっと、現実の交渉の中で、官僚ののらりくらりとした答弁の中で、現実的にどうするのかということで、語彙を増やすための新しい手話作りに入られたのでしょうが、そもそも官僚たちの答弁自体を卓袱台返しをする勢いで徹底的に批判されることではなかったかと思うのです。実は、わたしも「障害者運動」の端っこでの役所とかの交渉に参加の中で、役所ののらりくらりとした、時間が過ぎたら打ち切るということを経験していましたので、怒りを抑えて実を取るということで選択された路なのではと、むしろそこにおける悔しさを想起もしているのですが。
さて抜き書きです。
「シムコムを「日本語対応手話」という言語に翻訳するのは誤訳です。」23P・・・訳していない、声を出しながら手話をすると対応手話になると言う指摘をしているだけでは?
「宣言の執筆者後に「日本語対応手話」を「手指日本語」と言い換えていますがこれにも無理があります。」24P・・・逆、そもそも「手指日本語」という言い方が主で手話ではないないとまで言っていたのを、対応手話という言い方も容認するようにしたのです。
コミ手話―フォーマル手話(かつてはステージ手話と言っていた)という対比24P
表1 「不規則 文単純 語彙小」24P・・・「言語をこのようなところで比較することはおかしい」と言っている(た)こととの矛盾
手話を分断、ろう者を分断、手話通訳者を分断・・・文科省が引きずられていることも批判24P・・・ちゃんと、論理的に押さえる必要、対話できていない、とりわけ文法というところからの押さえ直し、文科省が引きずられているのは少しは論理的思考をしている結果では?
「表情をつける」26P・・・対応手話的表現、日本手話では表情は文法という意味もあるのでは?
「それを佐藤先生はテレビの視聴者に向かって「日本語対応手話」、私のいうフォーマル手話で説明するのです。」26P・・・ろう者である佐藤先生は、相手に合わせて切り替えをして対応手話で話すときもあるというだけでは? それにしても、やはり対応手話=フォーマル手話という構図が明らか フォーマル手話 コミュニケーション手話の対比は、書き言葉における文語体と口語体の違いのレベルではないか?
「まず話し言葉の獲得、そして初歩的な書き言葉の獲得、次いで文字を学ぶことで、本格的な書き言葉の獲得に取りかかります。」28P・・・論拠が分かりません。文字を学んでから書き言葉の獲得になるのではないでしょうか、著者のフォーマル手話への思い入れから、こんな話が出てくるのでは? どうも文語体のことばがフォーマルということに繋がるようなので、このような順番が入れ違う事が起きているのでは?
「最初は周りの身振り、やがて手話を見るとはなしに見ながら・・・具体的には父母などのやさしい語りかけで、・・手話の行き交いのうちに習慣的に身につけていくべきなのです。」30P・・・これは日本手話の、著者のいうコミュニケーション手話の習得方法です。ですが、デフ・ファミリーでないと、このようなことは、少し遅れてのろう学校での学習にしても、日本手話の学校にしないとつまづきます。
「彼らはコミュニケーション手話はすでに使えるようになってはいても、フォーマルな手話を話すにはいささか困難を伴っているでしょう。」20P・・・デフ・ファミリーでもない限りそんなことはない。そもそも著者は、コミュニケーション手話→フォーマルな手話というところへの展開を発達としてとらえているのではないでしょうか?
「いつまでも子どもたちに合わせているだけでは発達、発展は期待できません。」31P・・・子どもたちは言語の自然性において日本手話を習得するのであって、その自然性に反して聴者の音声言語に合わせる対応手話を押しつけるのはファシズム的なことではないでしょうか? きつい言い方を敢えてしますが、「手話はひとつ」というのは、むりやり1つに統一しようという、まさにファシズム的な発想なのです。
「コミュニケーション手話からフォーマル手話へ、さらにフォーマル手話から文字へ、さらに書き言葉の獲得という発展の過程たどることができるはずなのです。」31P・・・これは、聴覚口話法が書記言語の獲得に有利という論理と同じで、そもそも文字、書き言葉の習得を日本手話の習得からバイリンガル的に獲得していくという実践がその反論になっているのではと思います。もう一つ書いておくと、28Pに書いていることと矛盾しています。
佐藤先生には、「日本手話」と「日本語対応手話」は違う、「日本手話」こそ正しい手話という信念があります。」31P・・・著者にも「フォーマルな手話」こそが正しいという信念があるようです。
佐藤先生の批判が続きます32P・・・ろう者は現実に合わせて妥協を強いられます。それを揶揄するのはどうかと思います。また、筆談ができるろう者は、正確にコミュニケーションをとるために現実の技術では通訳を介さないということはよくあることです。反差別の運動を進めるものは、運動がそこまで至っていないという反省なしに、そのような妥協を批判することではないと思います。
「少なくとも幼児段階では、言葉は教えて身に付けるのではなく、自然の習慣のうちに獲得するものです。」33P・・・幼児期だけにとどまらない、ろう者の自然言語としての日本手話の獲得の問題
「「障害者権利条約」は「医学モデル」と「社会モデル」の重層的構造を前提にしています。」34P・・・「障害者権利条約」は、「医学モデル」から「社会モデル」への転換への失敗作。
「聴覚口話教育」35P・・・「日本語」(音声言語―書記言語)を直接習得させようとして失敗した教育方法
「「社会モデル」は「医療モデル」を排除するものではありません。障害とは一面インペアメント(身体的損傷)です。だから「社会モデル」は「医療モデル」とお互いに補い合う関係にあります。」44P・・・そもそも「社会モデル」がどこから出て来たのか、「社会モデル」はイギリス障害学から来ているのですが、第一世代はインペアメントをカッコでくくった(現象学的アポケー)という言い方もされています。これは対になっていることばで、そもそも「医学モデル」(「医療モデル」という言い方は医療を否定するのかという混乱したはなしになるので、わたしは使っていません。)を否定するところから「社会モデル」がいずれも対的に出て来たはずなのです。この話は、後の抜き書きメモで少し展開しますが、以前本を書いたので、そちらで。
   54P「社会モデル」ということばの意味を、「社会」という観点から、問題をとらえるというようなところで使っている。
「語彙に過不足なし」48P・・・言語論の基本、なぜ新しい手話創りに入ったのでしょうか?
     同じ言語論的な主張、語彙の多少に対する主張への差別という観点からの反批判は92P98P
「手話が使えても健聴者は「ろうコミュニティ」参加することはありません。」58P・・・コーダは一定参加しえるのでは?
「障害者制度改革推進本部」「会議」82P・・・これは正式な名称ではありません。「害」は「がい」となっています。このことは当初から「社会モデル」の考えがなかったことを示しています。(NHKは「障害者」ということばを「障がい者」に変えて欲しいという視聴者の提起に、「社会モデル」という考え方で変えませんと答えています。「害」という漢字をひらがなに変えるということは、「害」という漢字はイメージが悪いからということでひらがな表記を始めたひとがいたのですが、それは「障害者が障害をもっている」という医学モデルから来ているのですが、「社会モデル」からする障害のとらえ方は、「点字ブロックの上に自転車をおくと白状のひとが歩くのに障害になります」ということで、障害は悪いことで、むしろ悪いということを突き出す必要があります。それが「社会モデル」的な「社会が障害をもっている」とする障害の考え方です。)。
(政府の推進会議での「社会モデル」の考え方を新聞発表からとして)「わが国の障害者制度、施策は従来は身心機能を重視する「医学モデル」であった。これからは「障害者権利条約」の理念に沿って障害概念の拡大を図ると共に、社会参加を重視する「社会モデル」への政策の転換を図る。」82P・・・このような話は、制度改革会議の議論が進む中で、骨格提言としてなされたことを反故にして官僚から新しい改正障害者基本法案が持ち込まれたときに、その官僚がうそぶいていたことですが、まさにその案は従来の障害の医学モデルでしかなかったものです。その後、出されて施行された法案も、医学モデルに基づく障害概念でしかなかったのです。実際に、法案の中に出てくる障害や障害者ということばをひとつひとつ、とらえ返していくと、「障害の社会モデル」という言葉を使っているところ以外は、「障害者が障害をもっている」というところでの「障害」でしかありません。「社会参加」を図るためには、「社会モデル」的な意味での障害を取り除く必要があるというのが、「障害の社会モデル」の考えです。それは単なる法制度の整備という問題だけではありません。「障害者が障害をもっている」とか、福祉制度が恩恵としての福祉に落とし込められているとか、そのことを支える「能力を個人がもっている」とかいう世界観の転換まで、必要になるのです。
「このように、「社会モデル」と「医学モデル」は対立する概念ですが、しかし、それは二者択一となる概念ではなく、ICFはこれらの対立モデルの統合で、障害を説明し、「完全参加と平等」を目指そうとしています。」86P・・・ICFは統合といっていますが、そもそも「社会モデル」は「医学モデル」からのパラダイム転換という内容があったのです、それを押さえきれなかったICFは失敗作なのです。それは「地動説」から「天動説」の世界観の転換が起きたのに、それを「地動説」と「天動説」の統合を試みるというような論攷なのです。
「通訳は100%完全に可能です。」99P・・・翻訳自体のむずかしさ、「外国語と日本語の音声語の正確性は、練達の通訳者の同時通訳で90%程度とされている」100P
「聴覚口話・障害者」102P・・・マージナル・パーソンになる
「イメージ」110P・・・三項図式に陥っていて、言語と意識対象の関係がつかめない。カントの物自体論
「完全参加と平等」113P・・・「社会モデル」的な障害の除去との取り違え、独自のコミュニティの形成という観点が抜けている・・・ここでいう「社会モデル」的障害とは、「言語的マイノリティの言語―手話を日本語のひとつとして認めず、情報・コミュニケーション保障が為されない中で起きている障害」。ちなみに関係論的にいうと「ろう者は音声が聞く事ができない中で発話ができないという面があり手話を第一言語にしていて、手話ができない聴者との間に障害が生じている」となります。
「コミュニケーション手話からフォーマル手話への発達」113P・・・そもそも、その2つの押さえ方がおかしい、言葉通りにいうと、ざっくばらんな話し方と格式張った話し方ということで、実際のそこにある、文法の違いを押さえた別の言語体系というとらえ方がないのです。結局、発達ということは著者が批判している言語の優劣に陥っているのです。
「この技術の完成は一にろう学校の先生の努力に掛かっています。」114P・・・ろう教育のあり方は、むしろ、ろう者の手話研究も含めた教育のあり方の議論が主導することではないでしょうか?
「そして手話は「コミュニケーション手話」だけでしか話せない人も多いのです。」126P・・・
むしろ日本手話の話し手の方が文字の獲得ができるのですが、モノリンガルの聴者は多い
のにどうしてろう者がバイリンガルを強要されるのかということをパティ・ラッド/森壮也監訳『ろう文化の歴史と展望―ろうコミュニティの脱植民地化』 明石書店 2007(ブログ51)で書いていました。
「分かり合える」127P・・・同じ風土で通じ合えると言う問題はあるにせよ、通訳はいらないという意味? 口語体、文語体の違いを言語体系の違い、文法から違うというこことの取り違え
「音声と音声語は区別して考えれば、音声語から文字が生まれたのではなく、音声から文字が生まれ、その文字によって音声語が生まれたことが分かります。その逆ではありません。」140P・・・意味が分からない。文字のない言語はどうするのか?
「手話文字すなわち「イラスト」」140P・・・記録媒体としては、ビデオ映像がイラストに変わりうる
「一次的言語(コミュニケーション手話)をしっかり習得してから、二次言語(フォーマル手話)を習得させ、それと平行して文字を教え、単語、文を教えるということになります。」145P・・・「二次言語」は対応手話という意味では経る必要はないのでは? 文字は一次的言語とは別の言語体系。
「ろう者観」を強制176P・・・著者も自身の「ろう者観」を強制?
「上から目線でサンクチュアリ(聖域)を設け、議論を拒否する権威主義的姿勢が垣間見えます。」178P・・・著者のDプロに対する姿勢にも?
最後の文 内部議論で解決という踏み出し200P・・・ちっとも踏み出していないのでは?


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松岡和美『日本手話で学ぶ 手話言語学の基礎』

たわしの読書メモ・・ブログ452
・松岡和美『日本手話で学ぶ 手話言語学の基礎』くろしお出版 2015 
この本は、日本手話の言語学のまさに基礎を築いた書として、これから多くのひとが手にしていくかと思います。
音声言語との比較言語論的な、しかも他のネイティブ手話との比較、他の音声言語との比較も含めた、かなり言語学的専門性をもった書です。しかも、文法だけでなく、「ろう児の手話の発達」の章があり、最後の章に「手話研究を行うために」という研究者への姿勢とか、手引きとかも書いています。まさに共同研究を呼びかけ、聴者・ろう者の研究者を育てるいう観点までもった感銘的な書です。
また、この書は日本手話の研究者のサポートやろう者の協力を得て作られています。しかも、DVDがついていて、各章を担当するひとが日本手話で説明してくれていて、CLとかNMとかが見れます。日本手話を見れるということでもすごく学習になります。
この本で注目すべきことはもうひとつ、音声言語との比較言語論から、日本手話の言語学を論じているので、音韻ということばが使われ続けているのですが、本の中に構成素ということばがでてきます。言語学としては、しばらく音韻論ということばが使われるかと思いますが、「日本手話を音声言語とは独立の言語というならば」、日本手話の文法学習書で、「日本手話語彙構成素」という言い方になっていくのではと、素人の臆断と笑われることと思いながら、考えていました。


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岡典栄/赤堀仁美『文法が基礎からわかる 日本手話のしくみ』

たわしの読書メモ・・ブログ451
・岡典栄/赤堀仁美『文法が基礎からわかる 日本手話のしくみ』大修館書店 2011 
日本手話の学習法とされるナチュラル・アプローチで、手話の文法学習というのは邪道ではないかという思いが、手話の文法の学習を遅らせていました。第二言語として学ぶときには、やはり文法学習は必要とされるのですが。でも、そもそも日本手話の文法の本はなかなか出て来ませんでした。市田さんの雑誌『言語』での連載に文法の話があり、買い求めて読んでいました。でも、本の写真での学習はなかなか写真そのものがよく見えません。まして、NMとなると、ほとんど見れません。それに文法の本に出てくる音韻論とか、いうことにそもそも音のない世界に、音なのかということで抵抗感があり、それも学習を遅らせていました。音声言語の音韻論を援用した、手話は言語という説明には必要なのでしょうが、手話は言語ということが確立すれば、別の表現に転換していくことでないかとの思いがありました。この書は、ずっと前に買っていたのですが、そんなことで、読み出すまでに遅れていたのですが、この間の手話関係の学習で、やっと気を入れて手にした次第です。
よくまとまった文法の書、バイリンガル・バイカルチュアルろう教育センターのHPから動画も見れるようになっていて、これが理解を助けました。入門書としてすごくわかりやすい本です。


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木村晴美『ろう者が見る夢―続々・日本手話とろう文化』

たわしの読書メモ・・ブログ450
・木村晴美『ろう者が見る夢―続々・日本手話とろう文化』生活書院 2012 
これは「日本手話とろう文化」シリーズ第三弾です。わたしは、「障害者」の立場でろう者や手話の問題、ろう者と聴者-通訳者の関係を大枠押さえていた気になっていたのですが、やはり当事者性そのものと、ずれたところで幅広いところの関係でつかんでいくことにはズレがあること、まだまだ不勉強なことを再度痛感していました。
ですが、ちょっと違うなということもあります。たとえば、「手話は心」の話です。これは、わたしのろう者の手話の先生も繰り返し話していた話です。聴者サイドで、自分の手話の未熟さを棚に上げて、こういう話をするひとは、そもそも何のために手話通訳をするのかということを押さえられていないのです。そういうひとは自分のために(労働として、プライドとして、自己表現活動として)手話通訳活動しているのです。ところで、プロとしての技術がそれなりにあるひとも、何のための手話通訳かということを欠落しているひとがいます。そういうひとたちに向けられたことばが、ろう者サイドから出る「手話は心」ということばなのです。ひとつ前の木村さんの本の読書メモのブログにも書きましたが、プロとしての言語通訳に徹するということでは、そこに差別の問題があるとき、きちんと対応できないとわたしは思います。そういうことも含めて「手話は心」ではないでしょうか?


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木村晴美『日本手話と日本語対応手話(手指日本語)―間にある「深い谷」』

たわしの読書メモ・・ブログ449
・木村晴美『日本手話と日本語対応手話(手指日本語)―間にある「深い谷」』生活書院 2011 
これは「ろう文化宣言」の木村晴美さんの対応手話との対比での日本手話の話です。日本手話の文法のようなこと、なんとなく分かっているような気になっていて、この本を読む直前に「手話文法試論」など書いていたのですが、冷や汗ものです。間違って考えていたことの修正も含めて、学習できました。「手話文法学習試論」に書き改めようと思っています。ただ、NMMについては、写真では見にくいし、それを書き言葉で表現するというのは余計難しいのだと思います。ナチュラル・アプローチで日本手話が自然に分かる中で自然に身についてくることもあるのだと思うのですが、かなりの歳になって勉強した立場では絶望的な思いにもとらわれます。
高田さんが日本手話と対応手話という分類に反対して、コミュニケーション手話と公的な手話とか分類しているのはおかしいのですが、公的な手話ということをステージ手話という言い方をしていることは、NMMをステージでやって、大写しの設備がないとどこまで、見れるのかなという思いもふとわいてきます。目が高いろう者は見れるのかなということも考えているのですが、NMMを空間的表現で表現していくことも許されないのかな思ったりもしています。日本手話の分からない者の戯言かも知れません。


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森壮也/佐々木倫子編『手話を言語と言うのなら』

たわしの読書メモ・・ブログ448
・森壮也/佐々木倫子編『手話を言語と言うのなら』ひつじ書房 2016 
これは全日ろう連の手話言語法、地方自治体レベルの条例制定運動に対するコミットメントとして作られたブックレットです。別にそのようなことは書いていないので、わたしの想起ですが。
1章は、「はじめに」として編集者の森壮也さんの概括、各章の紹介。
2章は、赤堀仁美・岡典栄「手話が言語だということは何を意味するか―手話言語学の立場から」
手話言語論の概説、手話の文法の話がでてきます。これについては、別に「手話文法試論」を書いているので、その文を書き上げるときに対話・織り込みます。
3章は、杉本篤史「手話言語条例と手話言語法―法学・人権保障の立場から―」
言語的マイノリティの立場での言語保障の問題での論攷です。「ろう文化宣言」での民族問題に比した言語保障ということがあり、そこからの論攷なのですが、全日ろう連も言語保障という観点はあるのですが、「手話はひとつ」という突き出しをしているので、そもそも「手話は言語である」という規定があいまいになっていっていて、このブックレットの表題がでてきているのです。ここでは、手話言語条例の内容の比較や進行状態について、くわしく押さえる作業をしています。また、手話だけでなく、マイノリティの言語保障の問題と繋げて運動していく提起をしています。このあたりでわたしの押さえる作業は、後述します。
4章は、戸田康之「日本手話言語条例を実現させて」
この著者はろう学校の教員で、朝霞のろう協会の会長で、朝霞市では、まだ日本では唯一の「日本手話言語条例」という、「日本手話」という名前を付けた条例を制定しています。この二つの立場から、「日本手話」という突き出しをする必要性を説いています。
5章は、森田彰・佐々木倫子「ろう教育における手話のあるべき姿」
二人は、ろう学校の教員で、各地方自治体の条例で、ろう教育における手話の位置づけを押さえながら、これから手話による教育をどう進めていくのかという話を書いています。
6章は、秋山なみ「手話言語条例が制定された県の取り組み」
著者は、ろう学校のろう者の教員で、教員採用試験・研修・現場における通訳保障がまだまだなされていない情況について書いています。このブックレットの中で、唯一日本手話ということに言及していない論文です。著者にも日本手話についての思いはあるかもしれませんが、実際のコミュニケーションをどうとっていくのかというところでの論攷になっています。
7章は、高橋喜美重・玉田さとみ「手話の言語法の意義―ろう児の親の立場から―」
2003年に日弁連にろう児・ろう生徒・その親たちから人権救済の申し立てが出されました。そのときに、その申し立ての内容が日本手話による教育の保障をという提起だったのです。それに対して、全日ろう連は「手話はひとつ」という立場から批判の文を機関紙に掲載しました。それが、今どうなっているのかという問題があります。全日ろう連のホームページから、その文にアクセスできません。これについては、後述押さえる作業をします。
8章は、木村晴美「手話を言語として学ぶ・通訳する」
木村さんは「ろう文化宣言」を出したひとで、その流れの中で、日本手話復権というひとつの潮流を生み出されていて、このブックレットも一応その流れの中で作られています。三つの神話という形で現状の手話学習の進め方の批判をし、対応手話が未だに主流を占めるあり方の批判をしています。三つの神話とは、「普遍性の神話」「語源の神話」「日本語対応手話の先行に関する神話」です。これについて、また最後に書かれている手話通訳のあり方についての安藤−高田論文批判についても後述します。
さて、後述すると書いていたことをひとつひとつ書き置きます。
まず第3章。
そもそも「手話言語法」を何を根拠にして進めていくのかという問題があります。
手話通訳は長年「障害者福祉」というところで、取り扱われてきた歴史があります。「ろう文化宣言」は、民族問題からとらえ返した言語権の問題を突き出しました。おそらく、この本の3章の杉本さんの文はまさに、「障害者福祉」という概念から言語保障としての手話通訳への切り替えという提起をしているのだと思います。それは、そもそも「障害者福祉」ということが医学モデルに基づく「かわいそうな障害者をたすけてあげる」という恩恵としての福祉としてあり続けている歴史があります。もちろん、それに対抗する「権利としての福祉」というとらえ方があるのですが、この国の福祉関係の裁判では、最高裁まで行くと、「権利としての福祉か、恩恵としての福祉か」というところで人権派の弁護士さんたちは争おうとするのですが、ことごとく「裁量権の問題」で、はねのけられて来た歴史があります。それは、行政府や立法府の問題として「判断を避け、立法府・行政府に振った」というとらえ方もありますが、むしろ「裁量権」という言い方自体、「恩恵としての福祉」という判断になってしまうのです。したがって、「障害者福祉」の枠組みから脱するということで、「障害者の問題と言うよりはむしろ民族問題」という突き出しがでてきます。ただ、こちらの方で展望が開けるかというと、そもそも国の政治を司る国会においては、国家−国民の論理で進み、日本には長年、単一民族単一言語の国だという主張がありました。だから、多言語国家であることを認めさせるということのむずかしがあります。そして、今、戦後政治の総決算というところで登場してきている首相の元で、民族問題でのヘイトさえ起きてきている現状もあります(さらに在日外国人無年金の問題が捨て置かれる現状も)。
さて、もうひとつ、言語権を要求していくときに、追い風となる動きがあります。それは「障害者運動」サイドから出て来た「障害の社会モデル」という考え方です。「障害の社会モデル」をわたし的な補足も含めて簡単なことばで表すと「障害とは社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁と抑圧である」ということになります。前に書いた「障害者福祉」の医学モデルでは、「かわいそうなひとを助けてあげる」という恩恵の福祉の枠組みで動いてしまうということになりますが、「障害の社会モデル」では、むしろ障壁や抑圧の除去は社会の責任であるとなります。ただ、問題なのは、この「社会モデル」の考えは理論的に未整理なことも残っていて、またそもそも今のこの社会のシステム−世界観と根底的に相容れないことがあり、「社会モデル」の考え方を導入していると称する法律や条約など作られてしますが、内実は医学モデルのままなのです。それは今の社会―資本主義社会の始まりの中で相即的に作られた世界観―近代的個我の論理に基づく「能力は個人がもっているもの」という考えから来ています。「恩恵としての福祉」に対する「権利としての福祉」の人権論自体が、「能力による差別は区別で差別ではない」としています。だから人権論の枠組みでは、結局、闘えなくなるのです。だから資本主義社会の止揚として動く中でしか、「障害の社会モデル」は汎通的なこととして受け入れられないのです。そういうこととして、世界観をも巡るせめぎ合いとして始めるしかないことです(これについては話が長くなるので、わたしの『反障害原論―障害問題のパラダイム転換のために―』を読んでください)。
第7章。
人権救済申し立ては、「ろう文化宣言」的なことに賛同するひとたちから出されました。それに対して、「手話はひとつ」という立場から、全日ろう連が批判の意見を、機関紙やホームページに載せました。そもそも、申し立ては、日本手話で教えるシステムを要求してだけで、他の教育の否定をしているだけではありません。そもそも「手話はひとつ」という考えでは、ろう者の手話の切り替えが起きている現実をどう説明するのか分からないのです。また、そもそも手話通訳自体が成立しなくなると思うのですが。
全日ろう連が進めている今回の手話言語法・手話言語条例制定運動の中で、「手話言語法案を「日本手話言語法案」という名称にしたり、「「手話言語」とは・・・独自の言語体系を有する言語」という定義をしています。対応手話は、音声言語と「独自の言語体系を有する言語」とは言えません。「独自の言語体系を有する言語」という文言を外すか、「手話はひとつ」という路線を捨てるしかないと思います。大きな団体で色んな意見があり、要求を通すためにはひとつの団体として維持したいという志向があるのだと思うのですが、コミュニケーション方法の多様性というところで、情報・コミュニケーション法の方を先行させることではないかと思います。
さて、第8章。
「普遍性の神話」で、手話の文法の話が出て来ます。ネイティヴでないところで手話を学んだひとたちが一番つかめないのが、NMなのですが、ブログ440の高田英一さんの本の中で、公的な手話とコミュニケーション手話という言い方も出ています。公的な手話ということでステージ手話とかいう言い方もあるようです。わたしはステージ手話も対応手話と日本手話に分かれると思うので、そういう分け方は手話のモード的にはありえないと思います。ただ、ステージの手話通訳も映像をとって大写しすることによって、表情は読み取れるのですが、その手段を使えないときには、NMを他の文法的手段に変えるということは日本手話の文法的にありえないのでしょうか? その他手話通訳が介在することによって、日本手話の文法の枠内での転換ということが起きているのではと思ったりしています。日本手話を知らない者の戯言と批判されるのかも知れませんが。
「語源の神話」の話。これも、第2言語として手話学習した立場で、後発の手話学習者の立場で、なんとか日本手話的なことにアプローチしようとする立場でいえば、語源を、「いろいろな説があり確定されたことではない、覚えやすく、「間違っ」て覚えないために」ということで、語源の話はかなり広まっています。それは対応手話的な発想なのでしょうか? 例えば、手話を学ぶときに手形や手の向きや位置や動きの説明をすること自体も同じことだと思うのですが、どうなのでしょうか? 「京都市」の<市>は指文字の<シ>から来ているという話もだめなのでしょうか? 位相が違うことかも知れませんが、指文字を覚えるときも、母音と各行の冒頭もアメリカの指文字から来ているとかの説明もだめなのでしょうか? デメリットの話として、実際に使われるろう者的な変化−「音韻変化」−手話の繋辞的変化に対応できないという話ですが、それは手話の文法的な話として学習することではないかと思うのです。わたしは地域の講習会で対応手話を学んでしまったので、日本手話の学習法と言われるナチュラル・アプローチを体験していません。ナチュラル・アプローチというと聴者が音声言語のあふれている環境で自然に音声言語を習得するように、日本手話も日本手話の言語環境の中で自然に習得するということだと思うのですが、第一言語が既に別に身についているひとはどうするのかというイメージが今ひとつつかめません。たぶん、ナチュラル・アプローチで文法を学ぶということはないということになると思うのですが、第一言語をすでに身につけているひとには、第二言語を学ぶときには、文法も学ぶこと必要となるのではと思います。実際に日本手話の話の時には繰り返し、文法の話が出て来ます。
さて、「手話の語源」の話に戻りますが、確かにうんちくのようなこととして語源をひけらかすようなひとが出てくるのは問題ですが、「いろいろな説があり確定されたことではない、覚えやすく、「間違って」覚えないために」ということで、「音韻変化」−手話の繋辞的変化は「間違い」ではないということもきちんと伝えて「手話の語源」の話も使っていくというのはだめなのでしょうか?
「日本語対応手話の先行に関する神話」
対応手話を先に学んで、日本手話を後で学ぶと、先に入っている対応手話が、日本手話を学ぶ上で、害になることがある話、その話は大学で教養の物理の授業で、物理の教員が、「高校までに習った物理は忘れてください」と言って授業を始めたのを印象深く覚えています。そのような話に通じることとして、日本手話を最初にということを考えていました。国リハの授業の見学をしたことがあるのですが、一度是非、教え方のビデオでも作って欲しいと思うのです。
さて、最後に伊東論文の「ろう者の権利を守る通訳者」論や安藤−高田論文「すぐれた活動者としての手話通訳者」論を批判して、プロとしての通訳論を展開しているのですが、ヨーロッパでの介助論として、感情労働的なことを排して労働としてとらえるというようなことに通じているのですが、わたしは、このあたりは繰り返し出てくる「手話通訳の中立性論」にも通じていると思います。そこに差別の問題がないときには、単なる言語通訳、プロ的な通訳論でも構わないのですが、それは民族問題での言語通訳にも通じることです。例えば、日本の企業が海外進出して、そこでの通訳は労務管理の一翼を担う通訳というような問題も出て来ます。外交での通訳は、通訳はひとりでいいとはなりません。そこに利害関係があるとき、差別の問題があるときには、中立な通訳ということはありえなくなります。実は中立性論が出てくるのは、代行主義の否定という脈絡があるのです。一定の情報をもっているひとに、通訳者の判断を含めた通訳は、当事者主体の原則を踏み外すのです。この代行主義の否定ということと、中立的な通訳論の取り違えがこのあたりの混乱を生み出しているのです。断って置きますが、勿論通訳者は、利害が対立する差別者側の立場で出てくる場合もあるのですが、通訳者がどのような立場で通訳するのかが問われることがあるのです。このあたりは木村さんの政治嫌いや運動的な観点が希薄なところから来ているのだと思うのです。断って置きますが、政治への関わりや運動は好き嫌いの問題ではないと思います。木村さんが、ろう者が情報・コミュニケーション障害を被っている現実にどうコミットメントしていくのかの問題です。言語的少数者だから仕方がないという諦観にとらわれているのでしょうか?
さて、わたしは「ろう文化宣言」を出したひとたちと、全日ろう連との対話がちゃんと成立していないように感じています。このブックレットが対話のきっかけになって、論の深化からろう運動の前進がなしとげられれば、情報コミュニケーション保障が進んでいけばと願っています。この文も、そのことへの横レス的参画という意味がもてればとメモを残します。


posted by たわし at 01:33| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

張一兵『マルクスへ帰れ―経済学的コンテキストにおける哲学的言説』

たわしの読書メモ・・ブログ447
・張一兵『マルクスへ帰れ―経済学的コンテキストにおける哲学的言説』情況出版2013 
この著者は南京大学の副学長です。廣松渉さんの著作の中国語翻訳が進んでいて、この著者も廣松さんをかなり評価しています。世界的には、アルチュセールと廣松さんから、前期マルクスが「フェイルバッハに関するテーゼ」と「ド・イデ」での転換、疎外論から物象化論への転換という押さえ方が出ています。張さんも一応その流れの中にあります。もっとも張さんは何段もの転換を押さえています。最初の青年ヘーゲル派からの第一弾の転換、経済学・哲学手稿での転換、「フェイルバッハに関するテーゼ」と「ド・イデ」での転換、『哲学の貧困』前後した転換、そしてグルントリッセでの転換、この本はまさにマルクスの思想形成と変遷史とも言い得る内容になっています。そして、哲学的転換における経済学学習の影響、逆に経済学での転換に哲学や社会主義的言説が及ぼした影響など、かなり独自な綿密な、文献を検証し、また語彙の使用回数から、思想的転換を検証する試みなど、膨大な精細な研究になっています。
さて、張さんの南京大学を中心とする中国のひとたちは、廣松シェーレのひとと交流していて、この本の翻訳の協力にもシェーレのひとたちが関わっています。ただ、張さん自身は廣松シェーレという範疇には入らないと思います。張さんは独自の立場をすでに確立していると思うのですが、廣松さんとの対話において、いくつか廣松さんの押さえ方への批判をしています。まずは、物象化と一般に使われている語を事物化ということばに変えています。Sacheを事物と訳するのはありかもしれないのですが、そもそも少なくとも廣松物象化論的には、物的世界観から事的世界観へという転換の中での物象化論なので、それを事物化ということばにするととても、廣松理論を知っているひとのことばの選択とは思えません。もうひとつ、エンゲルスのド・イデでの先行性という筆跡からする廣松さんの指摘を、張さんは清書しただけという押さえ方をしています。このあたりは、廣松さんの『エンゲルス論』などの読み返しをしないとわたしにはなんとも言えません。更にもうひとつ、廣松物象化論の核心は実体主義批判ということがあるのですが、張さんも実体主義批判はしているのですが、もう少し廣松さんが押さえている哲学史的なところからの実体主義批判との対話が必要になるのではとも考えています。
この著書はすごく文献を押さえて書かれているので、改めてマルクス、廣松再学習の中で押さえ直したいと思っています。
わたしにとって、もうひとつ、張さんのとらえ返しが必要になっていることがあります。それは張さんが『レーニンに帰れ』という本を書いていて、わたしは共産主義的運動の総括の核心が、マルクス・レーニン主義の総括ということになるのではという思いがあります。それで、革命史を押さえる作業の中から、レーニン第二次学習をしたところで、『レーニンに帰れ』を読みたいと思っています。張さんの思想には、中国共産党の一国社会主義建設論の影のようなことも感じているので、その観点をもったとらえ返しもしてみようと思っています。廣松さんには科学主義と人間主義の相克ということがあるのですが、張さんは科学的社会主義ということばを多用しています。これはまさに「官許マルクス主義」、主流のマルクス主義が多用していたことば、生産力至上主義のスターリン主義さらに、レーニン主義の影のようなことを感じています。
もうひとつ、この本を読んでいて感じていたこと。労働価値説を著者がどうとらえているのか、今ひとつつかめていません。最初、マルクス―エンゲルスはリカードらの労働価値説を批判していて、著者の押さえ方としてリカードらの「社会唯物論」をマルクスは評価するようになったという話ですが、わたしそれは労働価値説の二重性ということで、資本主義社会の分析的に労働価値説をとらえたということで、それ自体を物象化として押さえることだと思います。張さんがそのあたりをきちんと押さえているのか、ちょっとあいまいになっているようなのです。
更にもうひとつ、「歴史現象学」ということばも出てくるのですが、廣松さんを現象学者という指摘をするひともいるのですが、これは廣松さんの現象学との対話をみていると、そのようなことは廣松さんの論を押さえ損なっていると思ったりしています。これは、そもそも現象学とは何かいうことがあります。構築主義や物象化論は、それらは批判というところで展開していると押さえると、現象論的なところでとらわれということから批判するという意味では、そういう言い方もできないことはないと納得できるのですが、現象学との対話という面では誤解を生むとは思います。
さて、切り抜きですが、改めて読み直すので、簡単なキーワード的なメモ程度的になります。
テキスト語句頻度統計xiP・・・文献学的なところで使われている手法
廣松さんの物象化概念を事物化と置き換えることの提案xvii-xixP・・・廣松さんの物的世界観から事的世界観へ転換ということが押さえられていない Sacheを事物と訳せても、Versachlichungを事物化と訳すと、構築主義とか現象学とかいう議論が批判的なところを含んで議論されていることも含んで、物象化論として展開されていることが無になるのではないでしょうか
途中の議論。院生に師を越えよという提起xxviP
5つの解読モデル2P
科学的社会主義7P・・・廣松さんの人間主義と科学主義の相克
廣松さんも人間主義に入れている?10P
領域を固定化してはいけないー本書は、哲学的なところからとらえる16P
レーニンのヘーゲル理解→経済学の理解なければ哲学が分からない17P
歴史構造環境論18P
二つの断絶説への反対21-22P
社会関係論←労働価値説47P
スミスはマニュファクチュアという時代での理論形成47P
スミスの「見えざる手」47P・・・ヘーゲルの理性の狡智
創造、実現、決定−労働価値説の3つの層53P・・・さらに物象化された労働価値説というとらえ返しへ
理智(理性の狡智)−スミスの「見えざる手」61P
シスモンディ 倫理主義−小ブル 主体性の哲学 客観的な科学的抽象批判という内容ももつ80-87P
シスモンディ−「富学派」という批判→旧ソ連の「政治経済学教科書」82P
 人間主義的経済哲学84P→フランクフルト学派につながる系譜86P
プルードン 正義・善89P
プルードンの社会的唯物論→史的唯物論ではない90P
「所有とは盗みである」 プルードン→マルクス シスモンディもプルードンから90P
「法の下への平等」−人権論批判 プルードン91P
自由権 平等権 所有権 安全圏→ブルジョア社会では所有権が核心的権利91P
ヘス93-121P
倫理価値的批判−人間主義的批判にとどまっていた102P
フェイルバッハに関するテーゼの前のメモはヘス批判
 ド・イデの共産主義の規定はヘス批判
エンゲルス121-130P
「クロイツハナ・ノート」の過大評価152P
「ミル・ノート(「ミル評注」)」の重要性191-211P
 経済学から哲学 「経・哲」 哲学から経済学200P
 疎外という概念も経済学の未消化の中で201P
利己主義201P・・・?主体性という問題
 障害者 ということばが出てくる205P
「経・哲」の評価226P
歴史的進歩250P・・・進歩史観−科学主義
人間主義と唯物史観への端緒との矛盾263P
人間主義的社会現象学285P
労働というところからの人間主義の脱却311P
レーニンのマルクスの関係性の端緒の把握312P
「リスト評注」ミッシング・リンク319P
唯物論の二重の文脈332P・・・そもそも価値形態論の二重性の問題とつながる
パラダイム転換危機期−過渡期338P
フェィルバッハに関するテーゼのメモはヘスとマルクスの自らを超えるために←重要な「リスト評注」346-7P
行間を読む 構造主義の文脈的分析の法則347P
経済学的文脈→マルクスの思想転換353P
関係性の総体361P
「特定の」「歴史的」「期間限定的」362P→「一定の」502P
レーニン「史的唯物論」
 シュティルナー」の3つの自由批判 ブルジョア自由主義 社会主義の自由主義(国家社会主義の総括) 人道主義的自由主義
廣松の「ド・イデ」のエンゲルス主導説批判429P
「一定の」の定在 「歴史的、現実的、具体的、社会的存在」455P
分業の転換点 分業から出発する465P
思考経路1 2 467P
プルードンの誤り  ヘーゲル弁証法の無理解 経済学範疇への永久化 500P
社会―人間相互関係の産物501P
「一定の」502P
一定の時代の性質自体503P
3つの「特定の」によって 歴史条件 生産力 社会形態504P
ヘーゲル弁証法 一切の社会的存在はすべて歴史的相対性と暫時性を持つ507P
ゾレンとザイン−神学と現世508P
現実の批判力−(史的唯物論に基づく)経済学−分業509P
メークリヒカイト510P
ヘーゲル―フェイルバッハ―ヘス510P
飛翔への前段525P
現象学批判549P・・・現象学とは現象として現れていることから「本質」をとらえ返すこと 「本質」批判 物象化論や構築主義批判と同じ構図
グルントリッセ 経済学と哲学の双方向的働きかけ553p
実体的なものではなく機能的なもの ポランニーの実体554P
自然物の上に立つ社会関係的存在555P・・・?スターリン主義 自然弁証法の上に立つ史的唯物論と同じ論理
多から一なるもの561P
廣松565-7P 廣松への現象学というとらえ方・・・物象化された(構築された)現象  
進歩史観567P
転倒607P
巨大な歴史の進歩613P・・・進歩史観
脱−構築616P・・・ここでの脱−構築概念の使い方がおかしい
経済決定論−先富論を生み出す背景617P
「・・・よりも好ましいとされることはまちがいない」(先有−現有−後有)619P・・・発達史観←後期マルクスの共同体研究
「人間悲劇になっている」622P
絶対的運動623P
史的唯物論は「関係実体論」626P・・・?
社会的先験性627P・・・カント
事物化−物神化627・・・物象化→物神化という展開 事物化→物神化にはならない、従って著者の事物化という概念は使えない
自由と平等は資本主義的交換関係を基礎に置いている633-4P→共同幻想
歴史的進歩634P・・・?進歩史観
交換で隠された資本主義的生産様式−特に生産と言うこと637P
「ゾレン」 ヘーゲル的意味ではない疎外649P
疎外概念の再度の持ち出し 学ではなく運動主体としての定立653-4P
2つの異なる疎外観654P
3つの物神崇拝批判656P
中国は国家独占資本主義664P
「中国も含む」665P・・・社会主義ではないという自覚?
物的世界観から事的世界観へ679P

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2018年06月21日

渡辺恭彦『廣松渉の思想』

たわしの読書メモ・・ブログ446
・渡辺恭彦『廣松渉の思想』みすず書房2018 
この著者は30代の若手の研究者です。廣松さんと同時代的に影響し合ったひとを廣松シェーレの第一世代とすれば、廣松さんが論形成していく過程に、直接指導を受けたひと、自らが論形成していく最中で廣松理論を学習しながら自らの論を形成していったひとたちを第二世代とし、もう、廣松さんが亡くなった後に、廣松理論学習していくひとを第三世代ということができると思います。
第二世代の小林昌人さんは岩波文庫の新版『ドイツ・イデオロギー』の廣松さんとの共同編集者で、廣松さんを追いかけていて、著作集に廣松さんの著作・掲載論文などを書いています。廣松理論の文献的紹介者なのですが、この著者も、この本の中で、廣松理論形成の流れを、ジャンルごとに、かなりくわしく書いています。今後廣松理論を研究していくひとのための手引き書になっていくと思います。この「手引き書」の特徴は、第三世代という立場から、廣松理論に対する批判や対話の文献も紹介してくれています。
わたしは、どちらかという第二世代ですが、そもそも基礎学習もちゃんとしないままに、しかもシェーレのひとたちは本の中でしか接触はなく、ポツンとひとり外れて学習をしてきて、しかも、最近になって読書メモなど書き始めているのですが、廣松学習のまっただ中では、メモは本の欄外などに書き込みしていた程度です。第二世代と名乗ること自体が大風呂敷と批判されることかも知れませんが、末端で廣松理論を学習しつつ、援用しつつそれなりにオリジナリティをもった論形成をしているつもりなのです。まだ、誰とも、そのようなところで対話さえもできていないのですが。やはり、大風呂敷です。
他の課題を抱えていて、もう一度廣松学習に帰れるかどうか、しかも、本を読める情況、文が書ける状態で老い得るかどうか、何か絶望的な思いに駆られるのですが、この著も利用させてもらいながら、廣松理論、そして廣松理論の対話者と対話し、廣松理論を広めていくこと、そしてこれも大風呂敷のたぐいですが、深化していくことの一翼を担いたいなどと思っています。
さて、この著との細かいところの対話は、いつものように抜き書きメモを残しますが、わたしの廣松理論との対話で、ほぼ、全面的に共鳴的吸収、そして共鳴しているのですが、いくつか、ひっかかるところを項目的に簡単に書き置きます。後日、「反差別原論への序説」あたりで展開します。
まず、1994年3月16日朝日新聞夕刊に掲載された「東北アジアを歴史の主役に」という論文。これについては、わたしが本を出版した際、それに連動して『情況』に掲載させてもらった論文ですでに触れていたのですが、反差別という観点の希薄さから書かれているのではないかという批判。
もうひとつは、プロ独なり、マルクス―レーニン主義、そして前衛党論などをこの著者は、晩年まで継承していたとしているのですが、そのことを検証しつつ、わたしの左翼活動の総括的なこととして改めて考え直したいと思っています。
最後にもうひとつ、廣松さんの論の行き着く先を、著者は人倫のその最高位としての「正義論」としているのですが、この著者もそれは廣松理論にとって、外的なところから来ているというような指摘もしているのですが、そのあたりのこの著者の押さえ方の検証と、もし、廣松さんに人倫というところからの展開があるとしたら、わたしの反差別論で展開した倫理主義批判という視角から対話してみようと思っています。そもそも唯物史観的なところから、倫理主義のようなことは出てこないのではと思います。わたしは「ひとは倫理で動かない利害を巡って動くのだ」と唯物史観の簡略的な押さえをしています。その利害をどこに見ていくのかということこそが問題になるのです。前の項で書いた前衛党論も、正義ということを掲げたインテリゲンチャの党という論理につながっていくのですが、わたしは運動への投企の動因は正義論でなくて反差別論ではないかと押さえています。被差別民衆(これはサバルタンという概念ともつながり、ネグリ/ハート的な概念で言えば、マルチチュードにつながるのですが)こそが前衛であり、党というものが必要とすれば、それは後衛党になるのではと。このあたりのこと、反差別原論の中の別稿になりますが、改めて展開します。
さて、抜き書き、後で読み返さねばと思いながら読んでいたので、あまりきちんとしたメモになっていません。廣松批判と対話を中心にメモを残します。
名大紛争31P→カッコをつけること
ド・イデ編集問題本文44P ・・註310P(15)平子批判
本来の姿45P→これもカッコをつけること
廣松理論の綻び51P・・・?疎外論の問題「経・哲では疎外から分業、私有財産を説明、ド・イデでは分業から、疎外、私有財産を説明」←経・哲と同時期の「ミル評註」で、すでに「分業から、疎外、私有財産を説明」・・註311P(34)佐々木隆治指摘グルントリッセでも疎外論がある→チェックしなおします。
田畑批判註312P「廣松の「物象化」論の特徴は、マルクス「物象化」概念に流れ込んでいる「疎外論」的モチーフ、たとえば「人格の物件化」といった主題を事実上カットしてしまう点にある」・・・?
<外>63P・・・?
「戦後日本において物象化論を広く定着させたのは、廣松渉」64P・・・近年の物象化論の動向註313P(1)
廣松の自己否定の論理→全共闘の自己否定の論理や連合赤軍の「総括」問題につながる64P→さらに中国の唯物史観なき文化革命も
廣松の物象化論のモチーフはデュルケームから64P・・・石塚の指摘註314P(3)
浅見の役割行為66P註314P(4)
廣松物象化論との対話66-7P・・・註314P(4)〜(9)
『資本論』を物象化論から読み解く課題68P
疎外論と物象化論の混同は、物象化概念を「主体―客体」図式の枠内でとらえてしまうから72P
ルカーチも主体と客体を分けて分析している、廣松の物象化論はルカーチ経由ではない72P・・・註316P(13)デュルケーム
『資本論』を巡る物神性をめぐる議論76P・・・廣松の宇野批判の水谷の評価註316P(17)
この自己運動する実体=主体79P・・?
宇野―久留間論争89-91P・・・廣松の弁証法的押さえ90P・・・アリストテレス91P
廣松四肢構造論からの押さえ91-92P
今村第三項排除論93P・・・非対称性と動的・・・著者の廣松には非対称性がなく静観的との批判93-4P・・・註318P(48)廣松には「命懸けの飛躍」や「一瞬の亀裂」への視線が希薄との批判、内田の「第二形態と第三形態」が共軛的との廣松の指摘への批判・・・これらのことへの著者の「当事主体のモーメントは後景にしりぞいている」ことからする反批判95P
「廣松が言語の考察を『資本論』になぞらえている。」120P
丸山、見分け、言分け120P
「俗流“構造主義”を超える鍵としては、役割論的な協働の編制に立脚した動態的な物象化論」134P
知覚相、情緒相、融合相―三項図式に対応144P
役割理論の二つの立場を理論的に統合168P
「役割」を「地位―役柄」に先行させる168P
キヴィタスとスタトゥス172P
言語ゲームモデルではなく、役割理論モデル184P
威力―権力―権威188P・・・註331P(45)柴田の廣松国家論への批判
国家のとらえ方190P・・・註332P(54)柄谷の国家論
竹内と廣松の近代の超克論を巡る比較203P・・・日本と中国の関係を押さえた竹内と哲学内容を押さえてテキスト・クリティークした廣松
三木のマルクス解釈への異論を抜きにした批判211P・・・著者の三木擁護におけるマルクス解釈の疑問
三木の全体主義批判の欠落214P
著者の分業批判の弱さ215P・・・グロバリーゼーションへのネグリ/ハートのとらえ方と同じ論理
「廣松は、社会制度的体制の変革を志向する実践を基礎づけるために、人倫的諸価値のうち「正義」を最高位に据えている」221P←著者の疑問・・・生存の闘いとして利害的普遍としての対等を求める関係性の変革
「廣松によれば、近代資本主義社会において人々の意識は物象化に染め上げられているという。そして、商品社会に生きる主体が物象化された意識を払拭するには、組み込まれている生産場面において役割行為を遂行することが不可欠であると主張した。」222P・・・むしろルーティン化された行動の中で、ますます組み込まれていくのではないか←貨幣の使用と同じように、「自立」をどうかちとるかの問題
三木の分業論から協同論へ至ることへの批判222P
「廣松が目指した社会とは、全体性へと個が取り込まれていくものではなく、人々が共同体の総体的な志向を自覚しつつも、それぞれはミクロ次元での役割行動を行っている社会」223P
<人倫―正義>倫理主義225P←反差別
「廣松は人間の営みによって展開するものとして歴史を捉えている」234P
不破JCP⇔廣松のプロ独を巡る論争268-272P
「廣松哲学を貫くモチーフとして「内在的超越」」279P・・・吉本の「自立」
「「四肢構造論」を「事」と名づけ」284P・・・?四肢構造論自体が実体主義に妥協した過渡的な論理
「相侍的依他起生性」―関係性の第一次性293P
非対称性が構造変動を生み出す293P
原因―結果という因果論や決定論を超える函数的連関・・・偶然と必然の統一293P
「真理や価値判断を支えているのが四肢構造論であり、この構造自体は単一のものである」295P・・・四肢構造論自体が実体主義から抜け出せない仮説
「パラダイムを越えた次元に「正義」といった抽象的原理を据えたのは、これまでの廣松の思考展開にそぐわない。それは、パラダイム外部の論理を持ち込んでいるからである。」297P
「「通用的価値」を超出する価値として「妥当的価値」を位置づけた。廣松自身が、「妥当的価値」を主張する立場を「少数異端的」としているから、それは、旧来のことばでいえば前衛といってよいだろう」298P・・・正義論からする前衛
「正義ということばを、字義通りの意味で捉えてはならないだろう。そうではなく、ここではない<外>がありうるということを示し、われわれがいかに為すべきかを問いかけるもの。そうしたものとして、廣松は正義ということばを残したのである。」299P・・・<外>なのか「内在的超越」ではなかったのか、正義―<外>からの前衛党論になっている。

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林望『習近平の中国――百年の夢と現実 (岩波新書)』

たわしの読書メモ・・ブログ445
・林望『習近平の中国――百年の夢と現実 (岩波新書)』岩波書店2017 
これは、書店の店頭で見つけた本。中国の政治情況がつかめていないので、押さえておきたいと買い求めていて、ちょっと積ん読していて、読書計画の中で少し間ができたので挟み込み読んだ本です。
あまり、深く分析はしていませんが、政治情況をつかむのに役に立つ本です。
切り抜きの中のメモで、少し中国の「社会主義革命」に対するわたしの思いも書いてみます。
中国共産党の組織図11P
習の総書記就任の際の重要講話24-25P
トキュディディスの罠「既存の大国が勃興してくる国に抱く過剰な脅威と疑念が、双方の衝突を避けがたいものにするという摂理」49P
1章2節 海への野心 一国社会主義の陥った覇権主義と中華思想のリンク
南シナ海の島々と九段線63P
「中国国恥地図」67P
1章3節 日本との摩擦 官僚も含んだ靖国参拝、「侵略の定義は学者に任せる」、首相も先頭にした過去の侵略と植民地支配の反省のない発言・・・政権与党でそのような発言をするものは除名にすべき
「国家全体が一つの目標に突き進んできた危うさ」104P
「今の中国では、立ち止まった瞬間に淘汰される」107P・・・まさに資本主義的競争原理と同じ内容
ケ小平「先富論」113P・・・経済が資本主義、イデオロギーが社会主義という矛盾で唯物史観的なとらえ返しとして、イデオロギー的に維持できるのか? 腐敗の根源はここにあり、民主主義をさておき、規律や管理支配強化では解決できない。
第2章2節土地の経営権の移転
「カラー革命」から民衆の運動への警戒131-2P
黙して従え155P
歴代総書記159P
習人脈194P

posted by たわし at 16:26| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『別冊経済セミナー マルクス死後100年』

たわしの読書メモ・・ブログ444
・『別冊経済セミナー マルクス死後100年』日本評論社1983 
これは、熊野さんの本で紹介されていた雑誌で、その本の中で紹介されていたのは、椎名論文、佐々木論文です。冒頭対談はひとつ前のブログにメモを残しています。いくつか興味深い論文を廣松シェーレのひとたちの論文を中心に読んでいきます。たぶん、とりあげていない論攷にこそ、わたしの知らない知識が書かれていて、雑誌の特集を全部読むことによって、そういう意味で新しい知識を得ることが多かったのですが、今や、問題点を絞って学習していく態勢になっているので、絞り込んだところの学習とメモ書きです。
高橋順一「大衆はファシズムを選んだ―1930年代ドイツ」
第一次世界大戦後のファシズムの台頭を押さえ、それが戦後処理の中での困窮と大衆の変革の意志が大きくなる中で起きたこととして押さえています。その全体的押さえの中から、ドイツのナチスの台頭にしぼった論攷を展開しています。社民党のファシズムへの迎合、共産党の社会ファシズム論などの批判を展開しながら、ヨーロッパ・マルクス主義の流れを押さえています。これについては、革命史の学習の後日押さえ直します。
新島淳良「農民は革命的だった―193040年代中国と1960年代ベトナム・キューバ」
農民-プチブル規定の一面性批判
毛沢東の農民の細かい階級区分 米ビツ論
ベトナム・キューバも半プロレタリア
小谷汪之「歴史観からみたマルクス」
1840・50年代のマルクスは、資本主義の普遍化作用というところにとらわれていた
アイルランド問題から転換
ロシアのミールのとらえ返し・・ザスーリッチへの手紙の準備稿
土地所有の共有制とアジア的専制を結び付けて考えていた、それは一貫して変わらない
椎名重明「自然観からみたマルクス」
この論文が、もともとメインで買った論文です。
科学に対するマルクスの二面性
労働においても、労働過程と価値増殖という二面性、しかしそもそも労働とは何かという今村論攷につながる
マルクスとエンゲルスの自然概念を巡る乖離
佐々木力「科学館からみたマルクス」
ルカーチ バナール
マルクス「私は断じてマルクス主義者ではない」
科学はマルクスの時代には特にドイツ圏では、哲学=批判・学問と重なる
デカルト マニュファクチュア時代の唯物論
生活世界と重なる自然科学
科学の搾取
今村仁司「労働観からみたマルクス」
「「失われた労働」を求めて、ついには「見出された労働」へとたどりつきたいとねがう。」
「対象化的労働」・具体的有用労働―「非対象化的労働」・抽象的人間労働という中で著者の「非対象化的労働」のとらえ返し 新しい労働の合体
非対象化的労働が抽象的人間労働の社会的必要時間ということで流された
「「自由時間」と「必要時間」(物的生産の時間)とが分裂せず相互に入れ子型にからむ形で労働生活がモンタージュされる。」
フーリエの楽しい労働 マルクスの経哲の享受 ホモ・ルーデンス
マルクス-フーリエ対エンゲルス-サンシモンという対比の中で、エンゲルス-サンシモンの対象化主義・生産力主義へとマルクス主義はなだれをうち、マルクス-フーリエの流れは忘れ去られた。
湯浅赳男「共同体観からみたマルクス」
マルクス主義から離脱した共同体論。共同体論が所有史観からしかとらえられないという批判。・・・そもそも今の社会が私有財産制という矛盾が根幹にあるというところから、共同体論をとらえ返そうとしたのでは? もう一度読み直したいー
山本啓「国家観からみたマルクス」
エンゲルスは最後まで西欧中心主義―先進国革命論から抜け出せなかった マルクスは抜け出そうとしていた
国家の幻想性への労働者の国民としてのとりこまれ
「マルクスとエンゲルスの理論のオウムがえしではもはや十分ではない
吉田憲夫「マルクスの社会主義像」
前衛―大衆関係の否定
「無数の偶然事」の「相互作用」
経済主義的決定論批判へ
理念を描いて実践することではない
菊地昌典「レーニンとスターリン―マルクス主義の継承と後進国社会主義の教訓―」
レーニンの性急な階級文化論のいましめ―経済革命と文化革命にはほとんど手をつけないままに終わった。二段階革命論的になってしまった。「レーニンは、社会変革の主体としての労働者をとらえ、スターリンは、物質的刺激により働かせる客体としての労働者をとらえた。」レーニンは世界革命の中のロシア革命ということを追い求めた。
スターリンの生産力主義、国有化で社会主義の完成を宣言。社会変革の核心としての民主主義をとらえなかつた。破壊への恐怖と人民へ不信。
著者のまとめ「重要なことは、マルクスの社会主義理論を発展途上国社会主義の現実のなかで発展させ、あらたな社会主義理論の構築をおこたってきたわれわれこそ、その責任はあると自覚することである。」
高橋馨「トロッキーとロシアの革命家―永続革命論と二段階革命論―」
マルクスの変遷。『党宣言』ブルジョア革命を経る二段階革命論から「呼びかけ」で小ブルに可能性を見出そうとし(シャッパー―のマルクス批判)、さらにそれを修正、1958年のエンゲルスへの書簡とザスーリッチへの手紙の下書き「すべてはそれがおかれている歴史的環境に依存する」でいろいろな可能性を考えた。トロッキーの永続革命論における直接政権奪取の可能性、トロッキーの一時的なブレ「政治的書簡」。パルヴスのトロツキーへの影響「(パルヴスのマルクス/エンゲルスの政治活動の指導理念のとらえ返し)各歴史的辞典において、社会革命へ向けての可能な最大限の政治変革を達成することである。」レーニンの労農独裁は結局二段階的。「マルクスはさまざまな顔をもって彼ら(ロシアの革命家)の前に現れた」「彼らはロシア社会の運動コースに適する顔をマルクスの中に見出しえず、それを修正して、ロシアの土壌に適した像を創り出したが、それは表面的には修正だったが、本質においてマルクスの核心への到達だったのだ。」
二段階革命論のコミンテルンということを通した、続く革命への押しつけになった。
ロシアの革命家たちのその後を追う作業の必要性を著者は提起して、論攷を終えています。
伊藤成彦「ローザ・ルクセンブルクとベルンシュタイン―現代に生きる「社会改良か革命か?」―」
当時1970年代後半、ドイツの社会民主党においてベルシュタインのとらえ返しが、進んでいるとして、ベルシュタインをこの著者も、ローザの批判も含めてとらえ返そうとしています。ローザのパンフレット「社会改良か革命か?」は、「ベルシュタインの主張に向けて突きつけた言葉であつた。ベルンシュタインは結局、この両者を二者択一の関係において、「革命」の放棄を主張している、とローザ・ルクセンブルクは考えたからである。」
ローザのベルシュタイン批判を6点挙げています。・・・極めて的確で、著者がベルンシュタインをどうとらえているのか、その批判の立ち位置がいま一歩不明確です。
山崎カヲル「ファノンとゲバラ―<第三世界主義>の理論化として、実践家として―」
西洋中心主義批判は逆にマルクス主義を豊かにする―後期マルクス
ヌーヴォー・フィロゾフ
スルタン・ガリエフの<第三世界主義>
三人(中国の李大サ、ペルーのホセ・カルロス・マリアーテギ、インドネシアのタン・マラッカ)の「彼らのマルクス主義」の「私たちのマルクス主義」への突きつけ
ファノンの「植民地状況」―「資本主義と社会主義の共存・共犯関係」
ゲバラは労働は物質的刺激ではなく、集団的・精神的刺激が中心であるべきと主張
「彼らの提示した諸問題を私たちに向けられたものとして考え、常に彼らの発言に立ち帰って、私たちの思想のあり方が、意図せずにせよ、自民族中心主義になりかねないことをチェックすべきであろう」

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『別冊経済セミナー マルクス死後100年』

たわしの読書メモ・・ブログ444
・『別冊経済セミナー マルクス死後100年』日本評論社1983 
これは、熊野さんの本で紹介されていた雑誌で、その本の中で紹介されていたのは、椎名論文、佐々木論文です。冒頭対談はひとつ前のブログにメモを残しています。いくつか興味深い論文を廣松シェーレのひとたちの論文を中心に読んでいきます。たぶん、とりあげていない論攷にこそ、わたしの知らない知識が書かれていて、雑誌の特集を全部読むことによって、そういう意味で新しい知識を得ることが多かったのですが、今や、問題点を絞って学習していく態勢になっているので、絞り込んだところの学習とメモ書きです。
高橋順一「大衆はファシズムを選んだ―1930年代ドイツ」
第一次世界大戦後のファシズムの台頭を押さえ、それが戦後処理の中での困窮と大衆の変革の意志が大きくなる中で起きたこととして押さえています。その全体的押さえの中から、ドイツのナチスの台頭にしぼった論攷を展開しています。社民党のファシズムへの迎合、共産党の社会ファシズム論などの批判を展開しながら、ヨーロッパ・マルクス主義の流れを押さえています。これについては、革命史の学習の後日押さえ直します。
新島淳良「農民は革命的だった―193040年代中国と1960年代ベトナム・キューバ」
農民-プチブル規定の一面性批判
毛沢東の農民の細かい階級区分 米ビツ論
ベトナム・キューバも半プロレタリア
小谷汪之「歴史観からみたマルクス」
1840・50年代のマルクスは、資本主義の普遍化作用というところにとらわれていた
アイルランド問題から転換
ロシアのミールのとらえ返し・・ザスーリッチへの手紙の準備稿
土地所有の共有制とアジア的専制を結び付けて考えていた、それは一貫して変わらない
椎名重明「自然観からみたマルクス」
この論文が、もともとメインで買った論文です。
科学に対するマルクスの二面性
労働においても、労働過程と価値増殖という二面性、しかしそもそも労働とは何かという今村論攷につながる
マルクスとエンゲルスの自然概念を巡る乖離
佐々木力「科学館からみたマルクス」
ルカーチ バナール
マルクス「私は断じてマルクス主義者ではない」
科学はマルクスの時代には特にドイツ圏では、哲学=批判・学問と重なる
デカルト マニュファクチュア時代の唯物論
生活世界と重なる自然科学
科学の搾取
今村仁司「労働観からみたマルクス」
「「失われた労働」を求めて、ついには「見出された労働」へとたどりつきたいとねがう。」
「対象化的労働」・具体的有用労働―「非対象化的労働」・抽象的人間労働という中で著者の「非対象化的労働」のとらえ返し 新しい労働の合体
非対象化的労働が抽象的人間労働の社会的必要時間ということで流された
「「自由時間」と「必要時間」(物的生産の時間)とが分裂せず相互に入れ子型にからむ形で労働生活がモンタージュされる。」
フーリエの楽しい労働 マルクスの経哲の享受 ホモ・ルーデンス
マルクス-フーリエ対エンゲルス-サンシモンという対比の中で、エンゲルス-サンシモンの対象化主義・生産力主義へとマルクス主義はなだれをうち、マルクス-フーリエの流れは忘れ去られた。
湯浅赳男「共同体観からみたマルクス」
マルクス主義から離脱した共同体論。共同体論が所有史観からしかとらえられないという批判。・・・そもそも今の社会が私有財産制という矛盾が根幹にあるというところから、共同体論をとらえ返そうとしたのでは? もう一度読み直したいー
山本啓「国家観からみたマルクス」
エンゲルスは最後まで西欧中心主義―先進国革命論から抜け出せなかった マルクスは抜け出そうとしていた
国家の幻想性への労働者の国民としてのとりこまれ
「マルクスとエンゲルスの理論のオウムがえしではもはや十分ではない
吉田憲夫「マルクスの社会主義像」
前衛―大衆関係の否定
「無数の偶然事」の「相互作用」
経済主義的決定論批判へ
理念を描いて実践することではない
菊地昌典「レーニンとスターリン―マルクス主義の継承と後進国社会主義の教訓―」
レーニンの性急な階級文化論のいましめ―経済革命と文化革命にはほとんど手をつけないままに終わった。二段階革命論的になってしまった。「レーニンは、社会変革の主体としての労働者をとらえ、スターリンは、物質的刺激により働かせる客体としての労働者をとらえた。」レーニンは世界革命の中のロシア革命ということを追い求めた。
スターリンの生産力主義、国有化で社会主義の完成を宣言。社会変革の核心としての民主主義をとらえなかつた。破壊への恐怖と人民へ不信。
著者のまとめ「重要なことは、マルクスの社会主義理論を発展途上国社会主義の現実のなかで発展させ、あらたな社会主義理論の構築をおこたってきたわれわれこそ、その責任はあると自覚することである。」
高橋馨「トロッキーとロシアの革命家―永続革命論と二段階革命論―」
マルクスの変遷。『党宣言』ブルジョア革命を経る二段階革命論から「呼びかけ」で小ブルに可能性を見出そうとし(シャッパー―のマルクス批判)、さらにそれを修正、1958年のエンゲルスへの書簡とザスーリッチへの手紙の下書き「すべてはそれがおかれている歴史的環境に依存する」でいろいろな可能性を考えた。トロッキーの永続革命論における直接政権奪取の可能性、トロッキーの一時的なブレ「政治的書簡」。パルヴスのトロツキーへの影響「(パルヴスのマルクス/エンゲルスの政治活動の指導理念のとらえ返し)各歴史的辞典において、社会革命へ向けての可能な最大限の政治変革を達成することである。」レーニンの労農独裁は結局二段階的。「マルクスはさまざまな顔をもって彼ら(ロシアの革命家)の前に現れた」「彼らはロシア社会の運動コースに適する顔をマルクスの中に見出しえず、それを修正して、ロシアの土壌に適した像を創り出したが、それは表面的には修正だったが、本質においてマルクスの核心への到達だったのだ。」
二段階革命論のコミンテルンということを通した、続く革命への押しつけになった。
ロシアの革命家たちのその後を追う作業の必要性を著者は提起して、論攷を終えています。
伊藤成彦「ローザ・ルクセンブルクとベルンシュタイン―現代に生きる「社会改良か革命か?」―」
当時1970年代後半、ドイツの社会民主党においてベルシュタインのとらえ返しが、進んでいるとして、ベルシュタインをこの著者も、ローザの批判も含めてとらえ返そうとしています。ローザのパンフレット「社会改良か革命か?」は、「ベルシュタインの主張に向けて突きつけた言葉であつた。ベルンシュタインは結局、この両者を二者択一の関係において、「革命」の放棄を主張している、とローザ・ルクセンブルクは考えたからである。」
ローザのベルシュタイン批判を6点挙げています。・・・極めて的確で、著者がベルンシュタインをどうとらえているのか、その批判の立ち位置がいま一歩不明確です。
山崎カヲル「ファノンとゲバラ―<第三世界主義>の理論化として、実践家として―」
西洋中心主義批判は逆にマルクス主義を豊かにする―後期マルクス
ヌーヴォー・フィロゾフ
スルタン・ガリエフの<第三世界主義>
三人(中国の李大サ、ペルーのホセ・カルロス・マリアーテギ、インドネシアのタン・マラッカ)の「彼らのマルクス主義」の「私たちのマルクス主義」への突きつけ
ファノンの「植民地状況」―「資本主義と社会主義の共存・共犯関係」
ゲバラは労働は物質的刺激ではなく、集団的・精神的刺激が中心であるべきと主張
「彼らの提示した諸問題を私たちに向けられたものとして考え、常に彼らの発言に立ち帰って、私たちの思想のあり方が、意図せずにせよ、自民族中心主義になりかねないことをチェックすべきであろう」

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平田清明/山之内靖/廣松渉「[討論]マルクスは何を提起したのか」

たわしの読書メモ・・ブログ443
・平田清明/山之内靖/廣松渉「[討論]マルクスは何を提起したのか」(『別冊経済セミナー マルクス死後100年』日本評論社1983 所収)
熊野さんの本で紹介されていた雑誌を買ったのですが、この鼎談は、その巻頭の対談です。廣松さんの本や雑誌の対談をかなり追っかけているのですが、押さえていなかった対談、「瓢箪から駒のような」思いがけない収穫です。
当時、留目されていた3人の学者の対談、『資本論』の未完性に関する対話、市民社会論に関する対話、マルクス――フェィルバッハ関係を巡る対話、山之内靖さんの倫理の問題を廣松さんが主体の問題として階級形成論につなげ押さえ直し、同じく山之内さんの経哲評価への廣松さんの切り込みなど、司会役をやりつつ、廣松さんが内容的にリードして終わるというパターンの対談です。
この内容は多肢に渡り、注目の他の2人の学者のひとの本を読まないと消化不良になるのですが、山之内靖さんの経哲評価に関しては、マルクスは『資本論』では、疎外ということばを、形容詞的に使っていても、名詞や動詞としては禁欲的にしか使っていないという指摘などでています。17P
『ゴーター綱領批判』を巡る個体的所有規範の対話など、ひとつひとつの対話がどうつながっていくのかという、まだ対話の始まりでしかないのですが、それでも、平田さんは張さんも評価している日本のマルクス研究者の3人のひとのひとり(もう2人は廣松さんと望月さん)、ちょっと当たってみたいという思いがわいてきているのですが、・・・。

posted by たわし at 16:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大川正彦『マルクス―いま、コミュニズムを生きるとは?』

たわしの読書メモ・・ブログ442
・大川正彦『マルクス―いま、コミュニズムを生きるとは? (シリーズ・哲学のエッセンス)』日本放送出版協会 2004
これも熊野純彦さん、日山さんの本で紹介されていた本です。
若手のマルクス研究者で注目されているひとのようです。
マルクスの『経済学・哲学草稿』の評価し直しというところで、それはフェイルバッハの受苦的存在論あたりとリンクした論攷にもつながっているようです。熊野さんの倫理学あたりからのマルクスのとらえ返しともつながっているのかもしれません。このあたりは、廣松さんの経哲草稿やフェイルバッハ批判というところで、この本の著者と廣松さんの距離感をわたしは感じています。もっとも、それだからこそ、別の視角からの切り込みとして一応押さえておくべき、新しい論攷なのだとも思いますが。
もうひとつ、押さえておきたいのは、労働というところでの「障害者」への抑圧問題をとらえ返そうとしていることです。ただ、あまりきちんとした展開になっていません。立岩さんあたりとつながりそうですが、倫理というところに収束していて、そのことを超えてどう論を立てるかというわたしサイドの論攷から対話できたらと思ったりしていました。
さて、今回はメモをキーワード的に残しておきます。
冒頭指摘所有の正当化批判16P
私的所有―ロック批判17P
集合的身体23P
「自然主義=人間主義」26P
「占有」「保有」感覚32P
「世界を享受する感覚」33P
「受動的苦悩・受苦」33P
<食卓協働態>44P
「この本源的蓄積が経済学で演じる役割は、原罪が神学で演じる役割とほぼ同じである。」65P
「現在もなお繰り返し反復される「原罪」としての「前史」」66P・・・継続的本源的蓄積論――差別のキーワード
「共通感覚」81P
「<働く身体と苦しみ痛む身体の二重性>」109P
「身体―機械としての身体/生命という観点にたって、「各人はその能力に応じ、各人はその必要に応じて」の原則は、大幅に読み換えられ、読み破られてゆくことになろう。なぜなら、身体がうまく働かなければ、他人の能力を借りればよいのである。」110P・・・論がゆるい、そもそも働く―労働ということを問いかえすこと。「ただ生きているだけの存在」でも、その存在が周りに存在だけでも働きかける、それが今村仁司のいう「仕事」という意味で働くこと。
「五人の都市」111P

posted by たわし at 16:19| 差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日山紀彦『「抽象的人間労働論」の哲学―二一世紀・マルクス可能性の地平』

たわしの読書メモ・・ブログ441
・日山紀彦『「抽象的人間労働論」の哲学―二一世紀・マルクス可能性の地平』お茶の水書房 2006
つい最近読んだ熊野純彦さんの本で紹介していた本で、ずっと前に買って積ん読していた本を引っ張り出しました。
ブログ410でこの著者の本を取り上げています。廣松シェーレで注目すべきひとりです。この本は『資本論』を物象化という視点で読み解いていて、とりわけ「抽象的人間労働」というところに焦点を絞った論攷、価値形態論の第三形態の転倒を再転倒させながら、物象化の核心たる、実体主義批判−関係の一次性というところから、廻り途といわれることを読み解いています。廣松理論をこの「抽象的人間労働」というところで、継承・あらたな展開をしようという試みです。本人も書いているのですが、かなり重複する論攷が多く、繰り返しになるので、そこが強調になるので、理解を助けるのですが、読みづらくなっている面もあります。全体を押さえて再読すると、もう少し頭にきちんと入っていくことで、再読を期したいのですが、読書計画的に考えるととても無理なので、もやもやしたものを抱えてしまいました。それでも、すごい本で、『資本論』学習に、物象化論研究に読んでおいて欲しい本です。
とりあえず、いつものように切り抜きメモを残そう思いますが、かなり長文の切り抜きになってしまいますので、とりあえず、事後学習のために、そして他の本を読んだときの、参考として再読するために、キーワード的なメモだけにします。パソコンのツール利用です。残された時間があれば、廣松さんの本を再読し、三角の対話をしていきたいとの思いが膨らんでいます。
メモに入ります。
マルクスの思想に対する3つの立場4-5P
科学主義――人間主義の相克6P
「価値論」の復権8P
「<価値>およびその実体としての<抽象的人間労働>とは、自然的ないしは物的実在態ではない。廣松用語を借用していえば、それらは社会的形象態としての価値的意義態もしくは意義的価値態としての社会的物象態である。」9P
「マルクスの『経済学批判』とは、なによりも経済学という枠組みそれ自体の批判=解体」吉田憲夫25P
「経済科学的な想定のよって立つ視座の地平と論理への批判が含意しされているのである。」25P
ヴォルフシュテッター33P
「<価値>カテゴリー不要論」34P・・・マルクスの学が経済学批判であることを押さえていないところから出てくる 物象化ということ 科学主義批判
関係を明らかにする 物と物との関係――物象化35P
関係として押さえられていない35P
この書は核心的提起36P
「概念的に把握する」37P
「彼らの暗黙の理論的枠組み=パラダイム」37P
マルクス的<批判>37-8P
ゲマインヴェーゼンGemeiwesen48P
ゲマインヴェーゼン形態構図式48P
ゲマインヴェーゼンに定位した<依存関係三段階構図>49P
田畑アソシエーション論52P
田畑4領域52P
「形相主義に対する質料主義という意味での「唯物論」」60P
<因果性概念>の弁証法的転換69P
近代唯物論の止揚67-70P
利潤と剰余価値82P
価値イデオロギーと価格イデオロギーの関係92P
弁証法的手続き118P
「『資本論』の弁証法的な上向法的叙述において統合・統一されていく概念として、戦略的に配置された二義的規定」121P
基礎づけ――掘り下げ(―下降)と上向法
「抽象的人間労働」概念規定を巡る係争史121-136P
廣松――宇野141-152P
労働価値説というのはそれなりに整合性をもった当事者意識としてあらわれてくる154P
ベイリー対ルビン・廣松  
宇野のリカード孵り―物象化や上向法を押さえていない
他人のための使用価値生産――廻り途して価値が実現される220P・・・ここに廻り途の根幹、われわれのための仕事ではない労働
人類史の依存関係と三段階構図233P
自由人のアソシエーション論241-6P―時間による分配(次節と註(2)534P)―強制的なところから抜け出せない
労働―活動247P・・・今村仁司のいう仕事概念からのとらえ返し
「必要としての労働から自由な活動への転化、必然の領域から自由な領域への移行247P
“自然的時間”ではなく“社会的時間”258P
<対象化><外在化>―<物象化><形象化>267P・・・初期マルクス経哲のときとは違う概念267P
フランクリンの「労働なるもの」―「普遍労働」は「思弁的抽象」の産物、単なる名辞(唯名論的カテゴリー)268P
支配労働価値説270P
物象化の一局面としての外在化287P
ド・イデ以降は外在化Entäußerungは諸労働の総社会的諸連関における相互作用的物象化・社会的抽象化の意味で使われている287-8P
「因果関係は、時間的前後関係を前提とする「物的実体の第一次性」をその存在条件としている」290P
「「関係の動態的な総体性の第一次性」ないしは「全一的運動の第一次性」という独自の世界観上の視座」291P
「商品世界においては、私的労働は直接に社会的労働としては機能しないがゆえの矛盾・分裂なのである。」301P・・・交換・貨幣を媒介にして
「廻り途」二重の意味で307P
価値と価格538P←価格による価値の媒介的・象徴的表現309P
小川弘『時間と運動』538P
時間とは運動の一種―「ものさし」の物象化539P
「運動状態の全体性」に根拠づけられた関係規定540P
宇野へ時間論を軸に批判324P
第三形態の意味358P
<物象化>とは360P・・・著者の物象化論の解説 第四章[序]全体がマルクス―廣松の物象化論の展開
物質的生産の場という人間生態学的な編成関係363P
廣松のマルクス物象化論の押さえ363P
今村仁司の第三項排除論―「社会的第三項」の排除―「第三形態」364P
「逆倒」―高次化された物象化
「第二形態」は「またはorder」であって、「そしてund」ではない368P
「各人が「抽象的人間としての諸個人」という二肢的二重性において存立する374P
三項的関係の中に二項関係376P
廣松『資本論』研究の画期点405P
交換価値から価値へ 対自から対他へ408P
連鎖式ではなく立体式412P
範式E 412P
共同性・同等性・統一性412P
等々 etc x量の商品A 414P
廣松の範式414-5P
『資本論』フランス語訳の問題415P
社会性の総体性の表現としての転倒417P
形態Vで価値実体・価値量・価値形態が問題になってくる419P
「対自―対他」―「対他―対自」の弁証法420P
範式G 422P
廣松は対他的に表したとしているが、それだけでは不十分 著者の指摘する物象化の高次化431P
価値形態論の核心 Fを媒介にしたG 432P
価値形態論のまとめ5つ432P
王と臣下の弁証法(ヘーゲル)435P
第三項排除論438P
廣松を超えようとする論攷―三項関係は、交換過程論でなく価値形態論ででてくる443P
第四形態は第三形態の物神化―絶対化 貨幣の物神的性格443P
商品の物神性445P
第三形態はシーシズム的神(超越神)の役割と役割457P
価値→交換価値466P
疎外された物象化466P
価値表467-8P
物象化的錯視 取り違え470P
関係概念と実体概念470P
労働の二肢的二重性―四肢構造論474-5P
抽象的人間労働と抽象的な人間労働476P
位相 弁証法による高次化548P→物象化の物象化491P
疎外された物象化―高次化された物象化↑
分業からのとらえ返し490P
動態的関係概念490P
廣松の果たした成果493-5P
廣松理論の精細495-8P
廣松に対する批判―物象化という「隠れ観念論」502P
カントの不可知論とのリンク503P
廣松物象化論はマルクス物象化論からの拡張503-508P

posted by たわし at 16:16| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高田英一『手話からみた言語の起源 』

たわしの読書メモ・・ブログ440
・高田英一『手話からみた言語の起源 (手話の秘密シリーズ 1)』文理閣 2013
この本は、何ヶ月か前に本屋の店頭でみつけ、購入していた本です。読みかけの本があり、しばらく読めないでいたのですが、前ブログでメモを残した全日ろう連の機関紙に載った論文を読んで、全日ろう連の方針はどうなっているのかと、以前理事長を務められ、論客としてしられる高田さんの手話に対する考えを知りたいと、急遽、読書計画の中に挟み込み読みました。
本のタイトルは、「手話からみた言語の起源」です。ですが、それは後半で、しかも言語の起源はそもそもはっきりしない、言語の起源については、国際言語学会のフランス・パリ1866年「言語起源論文の提出禁止」の決議があるくらい、そもそもどこまで起源そのものを突き詰めうるのか、というところで、議論が成立しにくいことです。ただ、わたしにとって、廣松さんの言語の認識論的とらえ返しの中で、異化と命名判断とのとらえ返しのようなところで、禁欲的にでも語っていくことはあるかなと思っています。
動物などのシグナル的な音の発声から発生していくひとの音声言語と、身振り的なところから発生するジェスチャー的なところで、「これは○○だ」という命名判断における、指さしが果たす役割のようなところでの手話の発生と、書記言語の発生がヒエログリフのような絵画的なところからの文字の発生と、どれが先かということはほんとに分からないのです。以前、わたしも感覚的に、音声言語より、身振り言語が先行したのではないかというようなことを書いたりしていたのですが、ますます分からなくなっています。ただ、そのような言語の発生問題から、どちらの言語が優れているのかという議論は間違えているわけで、そのことは押さえておく必要があるのでは、ということでまとめることではないかと思うのです。
第2部に入っている言語の起源ということは、抜き書きのところでメモを残し、最初の第1部の手話についての論攷についての、わたしが思い浮かぶことを巡って対話したいと思います。
まず一点目は、「手話はひとつ」という主張です。
これは、著者には全日ろう連の理事長を担っていた立場があったので、ひとつの団体として維持していくために、「手話がひとつ」という主張も必要だったのではないかという憶測があります。なぜ、そんな主張が可能か分からないのです。もし手話がひとつなら、ろう者がろう者仲間と話すときの手話と「中途失聴者・難聴者」へ、そして聴者へ話すときの手話が違う、手話の切り替えをするという事態が説明でません。切り替えるのは、違いがあるからです。
二点目は、シムコムの習達というような話が出ています。それで、二つのシムコムという話が出ています。一般的にシムコムというと、「中途失聴者・難聴者」や聴者が声を出しながら手話をしているということですが、この場合には大抵手話が、音声言語にひきずられて不完全になっています。昔、手話ニュースの聴者通訳者が、声は日本音声言語で、その音声言語に引きずられないで手話は日本手話(に近い)という表現をしているのを見ました。でも、それは原稿があって、短い表現でなしえること、日常的にはほとんど不可能なことではないかと思います。もうひとつは、ろう者が日本手話的なところに音声をつけているのですが、それは声だけを聞いているとちゃんとした音声言語になっていない、手話に音声言語の単語をつけているという、日本手話話者も補助的に口話をつけているのと同じようなことだと感じていました。どちらにしても不完全、通じにくい、疲れるコミュニケーション方法になっているのだと思います。シムコムをするとどちらかが先行する、口話の限界と同じようにシムコムの限界ということがあるのではないでしょうか?
そして、「ひとつの手話」というとき、シムコムを手話としてとらえるひとは、独自の言語ではなく、手話は音声言語の従属言語としてとらえるか、音声言語と比べて不完全な言語としてとらえるのではないでしょうか? それは日本手話言語法の案の中で書かれている、「独自の言語体系」という突き出しを自ら否定することになります。
三つ目、「ろう文化宣言」が、なぜ出されたのかということを押さえ得ず、対話がきちんと為されていないことから来ている問題があります。そもそも、出した当のひとたちが、きちんと問題を整理しえていないということもあるのですが、民族問題で多民族国家における言語保障の問題に照らして、言語保障を求める運動につなげていくことで、今日の手話言語法の先取り的な動きだったのだと思います。その動きときちんと対話し、その時点で動き出す事ではなかったかと思います(「ろう文化宣言」についての現在的とらえ返しは、別の論攷でくわしく書きます)。これは「手話はひとつ」という主張ともつながっています。「ろう文化宣言」は日本語対応手話を手指日本語として手話ではないとしました。別の位相から出ているのですが、全日ろう連の「手話はひとつ」というところの主張には、それに通じることがあります。ですが、そもそも問題がきちんと整理されていません。「ろう文化宣言」の現在的とらえ返しと深化から、きちんと整理していかないと、そもそも手話概念自体があいまいなままでは、手話言語法の要求運動など進み得ません。
四つ目、著者は新しい手話創りをしている日本手話研究所の所長を務めているひとです。その著者の説明だと、そもそも語彙が少ないから増やすというところで、新しい手話創りが始まっています。よく分からないのです。わたしが以前聞いた話では、官公庁で手話通訳の保障の要求の話をしていると、とりわけ選挙関係の通訳の保障の話でしょうが、語彙が少ないから正確な通訳ができないということで、要求が通らないということがあり、語彙を増やすために新しい手話創りを始めたということがあったという話を手話学習の過程で聞いたことがあります。語彙があまりにも少ないと言語として成立しないのですが、言語として成立したところでは、そもそも言語論的に言語の優劣は語れないという定説があります。語彙が少ないというところで、言語として劣っているとか、対等な言語として認めないとかいう発想が役人たちにあったのではないでしょうか? そもそも語彙が少ないということがあったとしても、そもそも言語保障がなされないところで、生活が広がって行かないということで、では言語保障を先にやりましょうということのはずです。本末転倒なのです。そのことを徹底的に批判することだったのではないかと思うのです。たぶん、したのだと思いますが、役人たちはのらりくらりと話を回すので、現実にどうするのかというところで、どう考えてもおかしなことを始めたのでしょうか? 著者も書いているようにそんなことをやっているところは外にないのです。国際手話創りも、著者自身が自然に任せるとして進んでいると書いています。
この数の論理は、「ろう文化宣言」が「手話という少数使用言語」とかわざわざ書いていることにもあらわれています。これは差別のマイノリティ理論に陥っています。差別される理由として数の問題が出されますが、それは現在社会の法体系の基本的人権ということに照らしてもおかしいのです。少なくとも、ろうコミュニティが成立している国においては、2言語以上国家なわけで、そこでは、ひとりの聴者とひとりのろう者が対等な情報・コミュニケーション保障がなされねばなりません。それが「基本的人権」ということです。人数が少ないから保障をしないということは、「基本的人権」の考えに反するのです。
このあたりが手話言語法の基本的理念になるはずです。
新しい手話創りということ自体が、要求を出す基本的理念に矛盾する動きになっているのではないでしょうか? 新しい手話が創られていくとしたら、それは情報・コミュニケーション保障が為される中で生活が広がって行く中で、その現場で創られていくことではないでしょうか?
五つ目、「手話を国際共通言語に!」ということを著者は書いています。どうもその手話は、聴者はシムコムがいい(?)というところで、シムコムのようなのですが、その国際言語の音声言語はなんなのでしょうか? よく分からないのです。わたしも、国際言語というときには、英語とかフランス語とかスペイン語などが侵略者の言語であったという歴史からして、手話を国際言語にと言う思いをもったことがあります。しかし、すぐに、「盲のひと」や「手が動かないひと」へ抑圧的になるという思いをもって、そのような国際言語ということ自体の抑圧性の問題を考えていました。コミュニケーションの方法の多様性ということをむしろ突き出していくことではないかと思うのです。
先に書いたのですが、今日の混乱は、「ろう文化宣言」が出された意味と意義を押さえ、その不備を押さえたところで、対話を進め深化を勝ち取っていくことではなかったかと思うのです。今、手話言語法とか情報コミュニケーション法が課題にあがっているとき、その成立のためにも、議論とその深化が必要になっていると思います。当事者性を踏み外しているという思いももちつつ、対話をもとめ、このメモを残し、別稿にて、「ろう文化宣言」の現在的とらえ返しをなしたいと思います。
さて、切り抜き的メモに入ります。
「手話が言語といえるためにはそれ相当の語彙が必要だからです。」21P・・・「それ相当」とは、どれくらいでピジンからクレオールになるのか? 実は、上からの「新しい手話創り」というところで手話の語彙を増やすというのは、実は、手話は不完全な言語という主張に、迎合することになるのではないか?
「「イラスト」は意味を表す身振りの模写です。それによって「イラスト」は、ちょうど音声語における表音文字に相当する役割を果たすことができたのです。/音声を表すのが表音文字、意味を表すのが表意文字とすれば、身振りを表す「イラスト」は手話を表す意味です表手文字といえるでしょう。」22P・・・絵は文字とは一応区別されるのでは? それを繋ぐ表意文字の「ヒエログリフ」があるとしても。記録という意味では、ビデオとかの問題に絡めて考えることでは?
「類人猿には意思表示の身振りはありますが、物体模写の身振りはないのです。案外見過ごされていますが、これは人間と他の動物を分かつ「身振りの」の分水嶺であり、重大な差異なのです。」26P
モデル3図非言語コミュニケーションとしての「表情」の位置づけ?
3個体以上の合意形成としての身振りと言語27P
「身振りで物体模写ができることは、最初の文字、表意文字である絵文字「ヒエログリフ」ができる前提になりました。もし、身振りで物体模写ができなければ「ヒエログリフ」はできなかったでしょう。/また音声で物体模写ができると仮定すれば、最初の文字はなぜ、表音文字といわなくても、音を表す文字にならなかったのでしょうか?/表意文字が表音文字に先行していたことを表しているのではないでしょうか?」28P・・・物体模写の身振りと「ヒエログリフ」の関係と、音声と書記言語の関係をパラレルに置けるということがよくわからないのですが、興味深い話です。そもそも書記言語のない音声言語があるので、音声言語と書記言語の関係自体の探求が必要になるのだと思います。 わたしも以前、身振りの音声言語への先行性を考えたのですが、どちらが先かという議論にあまり意味がないのではと思います。そもそも、言語の優越性の議論事態が批判されることではないかと思うのです。
「現在の世界の音声言語文字はすべて表音文字に分類できます。」29-30P・・・表音文字に収束する傾向をもつというだけでは? 漢字は表音文字に完全に移行していない、韓国語の文字はハングルに統一されたけれど、日本書記言語は漢字とひらがなが混じっている。もし表音文字に収束したなら、ひらがなだけになるのでは?
「モデル5 文字のもつ機能」33P・・・この図はよく分からないのです。イメージとそれを表出する音声と身振りということで一段分けて、音声の表音文字化と身振りから発生する表意文字化というところの分類になるのだろうけど、身振りはイラストなどの絵画化やヒエログリフとしてなっていくのでは? 現在的には手話のビデオなどの映像化や文字としてはコンピューター言語化や書記言語化も可能となるのではと思います。書記言語化は、映像として残せるのでそれ自体としては現在的にあまり意味はないのですが、コンピューター化するのに、使えるのではと思います。それは音声そのものの書記化の問題とつながっています。
「当時(ろう教育の初期)は、身振りの発展としての手話を、ろう者に便利なコミュニケーション手段とみても、言語とみなすまでにはならなかったのです。そこに時代の限界があったのです。教育側は手話を言語として認識できず、音声語の補助手段にとどめておくことしかできなかったのです。それは残念ながら健聴者による教育の限界でした。」37P
「身振りを手話に発展させていきます。」37P・・・「発展させる」という言い方なのでしょうか? 自然に発展していく、というろう者の自然言語という位置づけ 新しい手話創りという意識的発展との関係
「手話教育には理念、理論、技術が必要です。それは平成の現在でもまだ未完成で、日本では実践された経験は、実はないのです。」38P・・・教育に完成などないのですが、こういう書き方をすると、言語として成立していないかのような誤解をうむのでは? ここでは手話が禁止され抑圧されてきた歴史を強調すること、やっと始まった手話教育といっても、聴者教員のシムコムによる教育の範囲にとどまっていて、私立明晴学園の日本手話による教育も始まったばかり、そこに保障を求めること 口話教育による支配は植民地支配による日本語の強要と平行して進んだ 国民国家の言語的統一
口話教育と手話教育の対比38-9P
「ろう者のコミュニケーション論として口話と手話を対比するなら問題なく手話に軍配が上がります。/リテラシー論、すなわち学習論とするなら聴覚言語(音声語)か、視覚言語(手話)かを対比すべきであり、そうすればこの両者が対立関係にないこと、むしろ相互補完できることも明確担って出口も明らかになったはずでした。」39P・・・何の話か分からないのです。聞こえないひとにとって聴覚は使えない。音声言語と書記言語を区別すべきところです。ここは、音声語とセットになった書記言語の話だろうと思うのです。だから、書記言語と日本手話でバイリンガルの話がでています。
「手話には明治時代に「イラスト」という文字ができたので、・・・」50P・・・イラストは文字ではない、「表出方法」と書くべきところ
「単なる音声、単なる身振りを蓄積し。それらを言語に昇華させ、人類を動物から人間に飛躍させたのは文字の大きな功績です。」51P・・・この「文字」のところは「言語」に置き換えること、そうでないと文字をもたない民族は人間ではないとなる
漢字―表意文字53P・・・29-30Pと違っている
書記言語―バイリンガルの勧め54P・・・聴者も英語をほとんど習得できない、なぜ、ろう者はバイリンガルを非対称的に強要されるのか? イギリスの『ろう文化の歴史と展望』のろう者の著者の書記言語のビデオ映像への翻訳の勧め
標準手話56P・・・創るものではなく、また強要することではなく、自然に収束することでは?
「「標準手話」というのは、単語についてだけ規定するもので、文法を規定するものではありません。」56P・・・意味がつかめない、日本手話と対応手話では文法が違っているけれど、単語レベルでは標準化しえるという意味? しかし、「保存手話」というところで現実に違っている。
「保存手話」(「日本語」(日本音声言語―日本書記言語の省略形として「日本語」と表します。日本の国語ということでいう日本語は、「日本語」と日本手話があるからです。以下同じ、ただし勿論、他のひとの書いた文の表記まで、それで統一しません。)にない、日本手話的な単語)への否定的論攷62-3P←「ろう者にとって社会参加こそが基本的な課題ですから、日本語と異なった手話は創られないことが自然であり望ましい方向ともいえます。」63P・・・この論理でいくと、アイヌのひとたちがアイヌ語を復興させようとすることや在日韓国・朝鮮人が朝鮮語を学ぶことも否定的にとらえられる。なぜ、民族問題を援用した「ろう文化宣言」が出されたのかという意味が全く押さえられていない。手話を学ぶということは、聴者のろう者社会への参加という意味をもっていたはず、なぜ、ろう者が一方的に聴者社会への参加を強要されなければならないのか? そもそも差別社会への参加とは、多かれ少なかれ差別に加担するということになってしまう。
「「新しい手話」の創作といい、手話工房という言い方は、言語を「先天的な自然の産物」と認識する言語学とはたいへん趣を異にしています。しかし、それこそ言語を神学とみなさず、言語を科学と認識する言い方だといっては僭越でしょうか?」63P・・・神学と科学の二分法? 「科学の名による差別と偏見」、科学批判が今必要になっている
文を読みながら手話をすることのむずかしさ65P・・・そもそもシムコムになり、日本手話的に表現するには瞬時に翻訳する必要があり、その困難さ
フォーマルな手話66P・・・結局対応手話的になっているのでは?
「できないわけではありません。」69P・・・結局どっちつかずで、どっちにしてもわかりにくい表現になっている。
「シムコムsimultaneouse communication サイマルテニアス・コミュニケーション」69P・・・「違った言語を同時に話す」
「その一つに、コミュニケーション手話を正しい手話として「日本手話」、日本語の「書き言葉」のような語順で話すフォーマルな手話を間違った「日本語対応手話」と命名、分類するろう者は手話関係者が一部にいます。」70P・・・そもそも「正しい」とか「間違っている」とかいうことではない。むしろ、「手話ではない」という言い方までしていたわけです。今の時点で、別の文法をもった言語系列という言い方になるでしょうか? Dプロが何を言っているのかをそもそも理解できていない。
日本手話という言い方70Pは確かに、アメリカの手話という事での日本の手話という対比よりも、むしろシムコム的な表現と区別するために突き出されている言葉です。対応手話は、いわゆるトータル・コミュニケーションということで、難聴者や中途失聴者にとって一定程度使えるコミュニケーション手段ですが、ろう者にとっても、手話をしらない聴者にとってもわかりにくい・疲れるコミュニケーション手段です。
「「日本手話」と「日本語対応手話」を対比、比較することはできず、どちらかというと選択できないのに敢えて対比するのです。」71P・・・そもそも、切り替えが起きているし、比較や選択ができないとしたら、通訳できないのでは?
田上隆司さんら・『新・手話辞典』への批判71-72P・・・この辞典創りに参加しているNHK初代ニュースキャスターで、東京都聴覚文化センターに勤めていた山城さんの講演を聞いたことがあります。漢字対応手話の話をしていました。この辞典を見たとき、日本語対応手話の究極の形ともいえるこの漢字対応手話の趣旨が織り込まれていると感じました。単語を勝手に創っているという批判は、当事者主体というところからの批判はあるにせよ、日本手話研究所にも言えることで、むしろ漢字対応手話の方が趣旨がはっきりしているのでと思います。もちろん、これは日本手話の語彙からする破壊のようなことですが、ろう者の世界が情報・コミュニケーション保障がないところで狭くされている中で、「日本語」に対応する手話の単語がまだないとき、その場での造語として使うことはあるのではと思います。
「ろう文化宣言」の掲載72P・・・ここでは、1996年の『現代思想』臨時増刊の「ろう文化」という特集号を挙げていますが、その1年前に同じ『現代思想』の月刊誌の1995年3月のサイード特集の中で取り上げられています。
「フォーマルな手話」73P・・・?実質的に著者の主張では「対応手話」ということになっています。ろう者社会内部ではフォーマルな手話は、日本手話では? 対応手話なりシムコムは「日本語」から独自な別の言語体系ではない手話
「シムコム」72-4P・・・二つのシムコムをあげています。どちらにしてもシムコムはわかりにくい・疲れる手話になっています。対応手話なり音声言語主導のシムコムは独自な別の言語体系ではない手話になっているのです。(ろう者の手話主導で、それに音声語を付けているのは、音声語自体が手話が分からないひとには理解できないのです。ろう者も「フォーマルな場面?」でシムコムをするときは、対応手話を使っているのではないでしょうか?)そのことを、「ろう文化宣言」で指摘しているのですが、その意味と意義を押さえ損なっているとしか思えません。
「もちろん日本語に関係なくフォーマル手話だけで話す場合もあるので、この場合はシムコムとはいえません。」73P・・・声を出さないとシムコムとは言わないので、対応手話ということです。対応手話というのは「日本語」主導のシムコムで、声を出さないで表現することもあるということなのでは? そもそも日本手話―対応手話という区分を否定しようとするので、論攷があいまいになっていっているのでは?
「手話通訳では、講演、講義、挨拶場面では同時通訳がシムコムになりますが、手話通訳者が未熟な場合は、ろう者とは逆に日本語が先に出て手話が後からついていくような形になることもあります。これは、言語の違いはあっても、習練によって克服できる問題です。現に完璧なシムコムで話すろう者も手話通訳者も少ないけれど、いない訳ではありません。筆者といえば、対象がろう者か、健聴者かによって手話と日本語がどっちかが先に出てしまうので習練が足りないといえるでしょう。」73P・・・同時通訳でシムコムを使うとしたら、読み取り通訳の場合ですが、そもそも読み取り通訳で声を出す場合は、通常手話はつけません。だからシムコムにはなりません。習練の問題にしているのですが、口話の限界の話の再現です。少ないというのは、そもそも難しい、限界があるということだと思うのです。対象者がろう者の場合声を出す必要はないので、シムコムではなく対応手話の話なのですが、シムコムとシムコムも含む対応手話の話がごちゃまぜになっているのではないでしょうか? たぶん、聴者文化に合わせて、謙遜で言っているのかも知れませんが、著者は自分も習練できていないことを他者に勧めるのはおかしいのではないでしょうか?
「身振りと音声の両方を同時に、あるいは相互補完的に、統一的に用いるシムコムでのコミュニケーションが普通だったと確信できました。」74P・・・身振りは言語ではないので、身振りと音声を同時にしても、シムコムとは言えないのでは? 欧米人は話すときに身振りとか付けるけど、その身振りは手話ではないし、シムコムをやっているとは言わない。
「場面に応じてコミュニケーション手話、フォーマル手話のどちらでも通訳スイッチを切り替えられ、シムコムのできる手話通訳者が育ちつつあるといえるでしょう。」75P・・・音声言語でもコミュニケーション―フォーマルという対比はあるとおもうのですが、どうも、フォーマルな手話とは対応手話をさしているようです。木村さんがかつては自分も自分が家族と話す日本手話をフォーマルではないと思っていた(若干表現は違っているのですが)、ということに通じることなのですが。「シムコムができる手話通訳者」ということは、原則通訳をするときにはシムコムは使わないので、ここは「シムコムができる聴者」という意味だと思うのですが。ここでは、著者は日本手話をしながら、音声語もちゃんと話すということを言っているのでしようか? あまりにも厳しい要求で、そんなことができるひとをわたしは見たことがありません。対応手話のシムコムは、今の手話講習会を卒業しているひとは大抵できるのですが。もちろん、もれもれの対応手話ですが。フォーマルな手話とか日本語対応手話ということをごちゃごちゃにして使い分けているので意味がつかめない文になっています。
「手話の文法とは今のところ「コミュニケーション手話」中心の文法です。「フォーマル手話」は生まれたばかりなので文法を云々できる段階ではありません。/それは、日本語の「書き言葉」の文法論はあるが、「話し言葉」の文法論はこれからということと、ちょうど反対の事情です。」76P・・・「フォーマル手話」、実は対応手話は「日本語」の従属言語で、「日本語」の文法に沿っているのでは? だから、独自の文法など生まれようがないのです。「日本語」の「話し言葉」と「書き言葉」の文法が違うという話はあるのでしょうか? 単に変形的に使われるというだけの話で、文法は同じではないでしょうか?
「このようなもろもろの事情を無視して(「手話はひとつ」ということを主張せんがために、違いを無視したのはむしろ著者、@手話をフォーマルとコミュニケーションということで、「日本語」のフランクさの違いに喩えてすり替え76PA文法が違っても言語が違うとはならないという臆断77-8PB文法よりも語彙の問題という臆断C「日本語対応手話辞典」というべき辞書が実際に創られ語彙の違いも出て来ているのに、実用性がないと切り捨てる―わたしは対応手話を広めるなら漢字対応手話は実用性があるし、手話がない単語の仮造語には使えると思っています)「日本手話」VS「日本語対応手話」という図式を作るのは、「伝統的手話」VS「同時法手話」の単なる裏返しです。違いは前者が「日本語対応手話」を批判するのと、後者が「伝統的手話」を批判することの正反対の違いだけです。」77P・・・前者と後者という言い方がされていますが、正反対になっていません。「伝統的手話」から「同時法手話」の批判もなされているからです。
「「伝統的手話」といおうが、「日本手話」といおうが日本の手話は一つです。日本国内では単に「手話」というだけで十分です。」78P・・・問題がすり替わっています。「伝統的手話」と「日本手話」は同じ事を指しています。対比されているのは、日本手話と日本語対応手話です。日本語対応手話は手話ではないとしないと、「手話はひとつ」という主張はできないのです。それが「ろう文化宣言」のポイントだったのです。改めて「ろう文化宣言」のとらえ返しが必要になっているのです。
「見出し語を手話単語として、それに対応する手話を紹介した「手話・日本語辞典」は、今のところ試作段階の『わたしたちの手話 学習辞典』(全日本ろうあ連盟)以外にありません。」78P・・・「見出しを手形として」の意味だと思いますが、・竹村茂『手話・日本語大辞典』廣済堂出版1999という辞典があります。
「言語とは決して自然ではなく、まさに創られていくものでした。」80P・・・言語論的な基本的理念の踏み外し
「新しい手話」に限らず、「言語」あるいは「ことば」の創作と普及は社会の合意形成が基本になるということがだんだん分かってきました。」82P・・・。そもそも、「合意形成」という問題ではない。言語は生きている場で作られること、上から下ろすということ自体が間違えていたと総括すること。
「ここでは、国連公用語という音声語が日本語という音声語を差別している事実に注目してください。日本で音声語の世界が手話を差別していますが、それはまさに差別する者か差別することで、差別されていることを意識できない事実を示しています。差別する者は差別されるのです。」91P・・・「国連公用語」における日本語の関係から、「日本語」――日本手話の関係を押さえています。差別に関する定式として共鳴しています。この問題は、とりあえず方向はまだ総体的相対的に逆向きなのですが、日本手話と「日本語対応手話」にも言えることです
現在のWFDの方針は各国手話を平等に尊重しながらグローバルな交流によって、自然な国際手話の成長を待つことにしています。」92P・・・ろう者の自然言語としての手話としての基本的考え方。ならば、なぜ手話研究所で新しい手話創りをしているのか?
各国国名の自称主義92P
「手話に対する偏見がなくなれば、それはいつかろう者だけなく、健聴者にも使いやすい国際言語として普及するに違いありません。しかし、そのコミュニケーションは音声語か手話かという二者択一の問題でなく、音声語と身振りを同時に、相互補完的に、統一的に使うシムコムとなるでしょう」95P・・・身振りは言語ではない。身振りと手話は違う。そもそも、その音声語はどこの音声語、エスペラントの破産。
「手話と共に、言語とは何か、をこれから考えていきましょう。」98P・・・まずは、「ろう文化宣言」との対話から。
ここから、「第2部 言語の起源」に入ります。最初に書いたように、言語の起源の議論も必要ですが、どこまで定説ということで押さえ得るかということで、困難性があります。著者の文で、かなり切り込んでいるのですが、どこまで定説か、どこからが著者の独自の意見かということもはっきりしないこともあり、わたしは認識論的にそれなりに押さえようとしています。それは廣松渉さんの『もの・こと・ことば』勁草書房1979を出発点にしていますが、ここもわたしの不勉強なところで、たぶん、わたしの残された時間でこれ以上、深めていけないところなのです。それでも、後の学習のために、切り抜きというより、キーワード的メモを中心にして残しておきたいと思います。
漢字の「表意―表語―表音」という位置づけ114P・・・あいまいなまま?
文字が言語としての必須条件119P・・・文字のない言語への差別、ヒエログリフの過大評価、音声言語とつななる書記言語の過大評価からシムコムへの、口話主義と類比されるシムコム主義の過大評価
音声と音声語の区別122P
自然淘汰126P・・・ダーウィン批判をくぐる必要
「「狩猟民が狩猟の現場で寡黙」ということは、伊谷が言語を音声とだけ理解していたことが分かったからです。単独行動、集団行動を問わず狩猟では音を立てないことは重要ですが、集団行動では合図や指示がなければ協働による効果的な狩りはできません。」136P・・・指さしやジェスチャーや手話の優位(スキューバダイビングにも通じる)、またNMMにも通じること
猿の音声の三つの分類とその中での著者の「ささやき」への留目137P
「非言語コミュニケーションの延長線上に無条件に言語コミュニケーションあるいは言語を据えることはできないのです。」138P・・・わたしの中では命名判断的異化の問題とリンク
「環境命名起源説」と「コミュニケーション起源説」138P
「指差し」147P・・・言語の発生における命名判断における指さしの重要性
指差し157-8P
オノマトペ理論158P・・・ただし、言語・文化圏でオノマトペは違う
「音声と身振りを同時に使うシムコム」181P・・・繰り返しですが、シムコムは二つの言語の同時使用で、身振りは言語ではないから、そこにシムコムはない。著者は言語の発生の前の音声と身振りの話をしているのでしょうが、そこにシムコムという概念を持ち出すのはおかしい。
「交換も最初は共同体内部で普及し、それが共同体間の交換に発展します。」185P・・・交換は共同体間から始まるという説があります。
ヒエログリフの造語と手話の造語の対比206P・・・その違いについて書いているのですが、著者の中にはヒエログリフは意図的に創ったというところから、手話の意図的造語もという考えがあるようですが、言語を生み出すためのヒエログリフと言語として成立している中での手話の造語の位相はちがうのではないでしょうか?
「ヒエログリフという文字の助けによって初めてイメージを表すヒエログリフ、それに音声、身振りをセットにしたヒエログリフ言語が人々の間に普及していったのです。」206P・・・???意味不明
「可能性が強いのはコミュニケーション場面の「話し言葉」では身振りの表現で区別したということです。音韻が同じでも身振りを加えれば明確に区別できます。」208P・・・手話に口話をつけるイメージ、しかし音韻で区別すればいいだけでは???
「これまでの言語観は逆立ちしていたのです。」212P・・・文字の音声言語への先行性の主張 文字のない言語の存在をどうとらえるのか? なぜ、手話と書記言語でバイリンガルになりえるのか?
「21世紀現在の本格的な言語工学の現場は、私の知る限りでは世界でただ1カ所、「新しい手話」を創作する日本の全国手話研修センター・日本手話研究所だけではないかと思います。」213P・・・言語論的におかしなことをする団体は他にはないというだけなのでは?
手話を意図的に創り、広がり定着するかを自然選択に任せるという主張216P・・・日本手話はろう者の自然言語、生活が拡がる中で現場で手話は創られていく、意図的に創ったものを「上」から下ろして自然に任せるという論理は成り立たない、そもそも現場に混乱を起こしているだけではないか?
「だから、表意文字としてのヒエログリフは表音文字へのほんの一歩でした。ヒエログリフは表音文字の起源でした。」218P・・・表音文字と表意文字は創られ方の系譜が違うのでは? 表意文字はヒエログリフからエクリチュールとして 表音文字は音声語のパロールから。
シャンポリオンも音声と音声語を混同していた222P
「音声語が周囲にない段階では、人は生まれてまもなく自然に音声語を獲得することは決してありません。」223P
「音声と身振りのシムコム」224P・・・ここにも
「そこで、容易に発音でき、かつ識別できる音声は何かという議論、研究になったに違いありません。」229P・・・発音しやすいように、弁別できるように自然に変化していくことで、議論、研究して創られる者ではない。我田引水。
「手話「イラスト」の「ライオン」は、身振りを表していますが、イメージと音声は隠されています。」232P・・・身振りではなく言語として成立している手話の語彙の手の動き イメージは「イラスト」として表されている。
「例えば文字を持たない民族がそうですが、彼らの祖先は必ず文字をもっていたのです。」244P・・・臆断?
第3部座談会 出席 本名信行 大杉豊 高田英一
本名「「部分で全体を表す」、あるいは「全体を部分で表す」こと、すなわち代用するということ」296P
本名「「指差し」を言語の起源とは結び付けられません。」296P
本名「身振りと音声はほぼ同時に発生」297P
高田「語彙がだんだん増えていく」本名「1つ1つことばが作られていったということではない。・・・同時的」298-9P
本名「ろう学校が手話の始まりではない」300P

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2018年04月27日

熊野純彦『マルクス資本論の哲学』

たわしの読書メモ・・ブログ438
・熊野純彦『マルクス資本論の哲学』岩波書店(岩波新書) 2018
前のブログの同じ著者の新書的展開。普通新書版は、分かりやすくとなっているのですが、簡潔にまとめられているとはいえ、熊野さんは哲学をトータルにとらえ返した希有のひと、哲学を縦糸に経済学(批判)を横糸にして織りなした著書です。新書なので、『資本論』と哲学とマルクスがだいたい頭に入っているひとには、是非読んでおいて欲しいと思うのですが、廣松さんのことまで頭に入っていないと、むずかしいかもしれません。前のブログの著書とリンクしていくと、意義深いと思います。
で、今回は検索的に、キーワード的なメモにしておきます。
二つの革命@P・・・なぜ1948と1968なのか? パリコミューンとロシア革命の位置づけは?
この本の目的 「ちいさな者たちへの視線」B-CP・・・「小さき・・・」は学者的視線、当事者意識をくぐらせて、さらに学的に展開すること
「かのようにあらわれる」「しかし、じっさいは」4P・・・als
「あらわれる」「現象する」−「である」ではない5P
「可能性としての商品」と「商品でなくなったもの」8P
アリストテレス「運動しているもの」9P
「商品は、商品となる運動としてだけあり、商品へと生成してゆく途上にのみ存在する」9P
「使用価値としての商品は商品学の素材であって、経済学の対象ではない」10P
「価値の「現象形態」」15P
同じものの交換は「交換は無意味であるか、不可能」16P
「“蒸留”して残るもの」――「抽象的人間労働」17P
「価値とは「幽霊のような対象性」」19P
「感覚的に超感覚的事物」――「形而上学小理屈や、神学的つぶやきに満ちたもの」20P
「非対称性」24P
「回り道」25P
「取りちがえ」――「関係のなかでこそ、価値が生成する」26P
「移される」――「映される」27P
「単純な価値形態そのものが、拡大された価値形態の一項」29P・・・関係論
「同等のものとして妥当する労働として呈示されている」30P・・・ここにもals
「差異をふくんだ反復」33P
第二形態から第三形態の移行−「偶然性と不確定性、運動と揺らぎ」33P
「逆向きにも読まれなければならない」39P
「貨幣がその謎を隠蔽する」41P
「古典的経済学が想定する労働一般(抽象的人間労働)が一箇の形而上学にほかならない」41-2P
「「有用労働」が「他者たちにとって有用なかたちで支出されている」かどうか、「証明することができるのは交換だけ」です。」42P
「ことがらはむしろ逆」「かれらはそれと知らずに、それをおこなう」「それぞれの労働生産物を一箇の社会的象形文字とする。」42-3P
「「私的労働のさまざま」が、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」。商品がフェティッシュであるというとき、その「謎のような性格」が生まれるのは「あきらかに[商品という]この形態そのものから」です。交換により等値される「人間自身の労働の社会的性格」が、「労働生産物そのものの対象的性格」に置きかえられる、かくて「感覚的超感覚的事物」、つまり価値をもつ商品という倒錯が誕生します。」・・・『資本論』第1章商品論の末尾の節「商品のフェティッシュ的性格とその秘密」43P
「関係が現実に存在する場合、関係は私に対して存在する」わけですけれども、関係そのものは私の意識を超えてひろがっています。」44P
「存在とは、個人については意識の背後にひろがる無意識の水準を披くものですが、資本制にかんしていえば、にわかには見とおしえないその構造を指示します。『資本論』全体の課題を暗示しているのです。」・・・「経済学批判」序言の唯物史観の定式44P
「マルクスがみとめるフェティッシュ的性格は、だから貨幣にかぎられず、むしろ第一には商品そのものにみとめられていました。」46-7P
「貨幣の止揚は、他者の「未来への行為への有意味的な関係」をふくむ、つまり他者もまた貨幣を受け取るであろうという「期待」が貨幣の使用を可能にする、と答えればよい。」→機能主義アプローチにつながる「貨幣とは象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアである。」47P
「神に劣らず貨幣についても「形而上学小理屈」があらわれてきます。」49P
「ライオン、トラ、ウサギ等々のそばを動物そのものが歩いている! この奇妙な光景が、一般的等価形態(第三形態)の、つまりやがて貨幣形態(第四形態)の成立する現場なのです。」50P
「プラトニズム」「アリストテレコ=トニズム」51P
「ミダス王」52P
「貨幣とは「一般的な売春」であり、「諸関係を解体する者」である。」54P
「商品交換は対称的過程であるかにみえる、とはいえほんとうは、そこに存在しているのは非対称的関係です。」55P
「商品流通は「たえず貨幣を発汗している」」59P
商品−流通、貨幣−通流60P
「やがてことがらが顚倒して映じてきます。商品を流通させる手段にすぎないはずの貨幣が目的と化してゆく。「貨幣蓄蔵」のはじまりです。」62P
「貨幣として金に、その黄金色の栄光が変換される。それは奴隷から主人となる。たんなる手伝いから、諸商品の神となる」わけです。」63P
「貨幣蓄蔵者は、さらにその禁欲主義が精力的な勤勉とむすびついているかぎりで、宗教上は本質的にプロテスタントであって、さらにはビューリタンである」(『経済学批判』)「貨幣とはイスラエルの嫉妬深い神であり、そのまえでは他のいかなる神も存続をゆるされない」(「ユダヤ人問題によせて」)64P
「貨幣蓄蔵は過ぎ去った時間の蓄積であるのに対し、信用貨幣は未だ到来しない時間の凍結です。そこでは未来が過去のかわりになって、両者が置きかえられてゆく。そこに資本が登場する条件のひとつが準備されているわけです。」67P・・・資本主義の登場ではない、信用貨幣は資本主義の只中から出てくる
「支払い手段としての貨幣」――「媒介されない矛盾」68P
「商品流通が一般化したところではじめて近代的意味での資本がなりたつ。資本は「現象形態」としてはまず、商品流通から生まれる貨幣としてあらわれる」70P
「価値はかくてまた「それが価値であるがゆえに価値を生む」という、「オカルト的な質」を受け取ることになるのです。資本のフェティシズムのはじまりにほかなりません。」72P
「ここがロドスだ、ここで跳べ!」77P
「ベルグソンはカントのうちに、時間を空間化する典型的な傾向をみとめていました。けれどもカントもまた空間性に対する時間の優位をある意味で承認します。」「私たちの認識はすべて最終的には時間にしたがう」79P
「よりリスクの高い源泉は空間的な差異の存在です。」「この空間的差異の利用は、時間を条件とし、時間のなかで空間的差異を横断しながら、それを消去するものです。」「商品交換そのものが共同体と共同体のあいだで発生したのとおなじように、あいことなるふたつの流通圏の差異、つまり流通圏と流通圏とのあいだからとりわけ商人資本が生成している。」80P
「空間的差異と時間的差異」81P
「産業資本が剰余価値を獲得するのも、実は空間的な差異と時間的差異を利用することによってであり、あるいは積極的にこのふたつの差異を創出することをつうじてです。」82P・・・労働と労働力の差異
「時間的に分離」85P・・・労働力と労働
「協業は一方では時間的な差異を空間的に並列して、他方では空間的な差異を時間的に統合します。」94P
「機械もまた、人間を幸福にするものではありません。フロイトのことばをもじっていえば、資本制による世界創造の計画のうちに、人間の幸福はふくまれていないのです。」100P
フーコー107P
「空間の配置(貨幣資本、生産資本、商品資本の併存)は時間的作用(資本の運動)の成果にほかならない。だからまた「継続の停滞は、どのようなものであれ並列を攪乱することになる。」」118P
「資本もかくて事物ではなく運動であり、たえず更新される生成にほかなりません。」120P
「アリストテレスは、運動するものはいつでも可能性おいて存在しつづけ、可能性のなかに存在することだけが現実的なありかたである。資本はその意味で運動し、不断にあらたに生成することで資本であり、みずから増殖してゆく」121P・・・可能態と現実態、運動としての資本
「時間によって空間を絶滅する」「経済とは最終的に「時間のエコノミー」に帰着する」129P
「運輸機関の発達と同時に、空間的速度は高められて、かくしてと空間的な距離が時間的に短縮される」130P
「こうして資本は「神の手からやってきたかのように、世界のなかを、それがじぶんのために育てあげられた庭園であるかのごとくに闊歩する」」132P
「かつての「科学的社会主義」とも「マルクス経済学」とも距離をとってマルクスの思考とりわけ『資本論』の哲学を問題としてきたつもりです。」135P
「生産過程が科学の応用となるなら、逆に科学は生産過程の一要因、いうなればそのひとつの函数となる。」136P
「資本制生産様式という特殊歴史的な与件と科学=技術との密接なかかわりを読みとろうとする姿勢であって、前者に対するマルクスの立場が批判的なものであることの函数として、後者にかんするその視点も無批判的なものではありえない」137P
「マルクスがみずからに引きうけた課題は経済学をさらに発展させることではない。批判的な経済学を構築することでもない。ひとえに経済学批判を展開することでした。」142P
「科学とはなにか」――「ここでは特定の歴史的−社会的な布置関係を反映した、世界のとらえかたというくらいの意味で使っておきます。」「マルクスにとっては経済科学がイデオロギーなのです。」143P
「資本元本は(資本による)生産と(資本家による)消費の反復によって減額してゆき、やがては消失するはずです。」149P→次項「単純再生産の前提との脆弱性」・・・「永久機関はありえない」の問題とリンク
「現在主流の経済学では資本主義という語も資本制ということばも使用されず「市場経済」という表現が好まれますけれども、これはすでにひとつのイデオロギーです。「いっさいの国々の生産と消費を全世界的なものとする」(『コミュニスト党宣言』)資本制の歴史を、自然過程として肯定するイデオロギーであり、グロバリゼーションという現在を自然状態とみなして、支配を正統化する世界像なのです。」155P・・・まさに物象化されたイデオロギー、マルクス葬送のなかで多くの学者が「市場経済はなくならない」という論理にからめとられている現実
「「分析者の立場」と「当事者の立場」」172P・・・ヘーゲル弁証法から活かされているマルクス−廣松の弁証法の概念
「顚倒された観念、移調された意識」「じぶん自身に対する関係としての資本」「そこでは、「資本と労働」ではなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるはずです。」176-7P
「近代科学の因果性の概念」187P
「『資本論』はそのつど、それぞれの分析カテゴリーが倒錯と神秘化とをふくんでいるしだいを指摘していた」「そこで問題になるものは分析者の立場から当事者の立場への転換なのです。廣松渉以来の物象化論的なマルクス解釈が強調してきたところにほかなりません。」188P
「マルクスにとってはこの経済科学こそがイデオロギーだったのです。」188P
「商業資本は産業資本に寄生しているとは言いますけれども、以上のかぎりにおいてそのありかたはむしろ、生物学でいう相利共生にもあたります。」196P
「高利資本は商人資本とならんで「その双子の兄弟」です。それは「資本の大洪水以前的な形態」でもあります。」204P
「マルクスはホラティウスを引いて、土地所有者を「果実を消費するために生まれてきた者と呼んでいました。」205P
「そこでは(利子生み資本では)貨幣そのものが商品となり、資本それ自体が商品となる。資本制の神秘化過程が、時間のフェティシズムとむすびあって、資本制にとって最後のフェティッシュをうみだすことになるわけです。」207P
「時−間がここでは物神(フェティッシュ・・ルビ)となります。利子生み資本を正当化するものは、時間に対する物神崇拝(フェティシズム・・・ルビ)であることになるでしょう。」「時間という目にみえないもの、あるいは未来という不在の形式にすぎません。」211P
「端的に時間的差異を利用する利子生み資本は、その非合理においてなおもっとも純粋な資本なのです。」212P
「顚倒と物象化」214P
「スコットランド啓蒙」216P
「信用制度を問題にすることは、一方では資本制を進展させてきた基本的な機構を捉えなおすことです。他方でそれは資本制の内部に埋めこまれ、その作動を保証する安全装置を同時に資本制の危機をもたらす起爆装置として問いかえすはこびにつながることでしょう。」217P
「信用制度は他面で「もっとも純粋で、もっとも巨大な賭博システムと詐欺システムまで発展してゆくこと」が可能です。」228P
「資本制とはたしかに、完成された商品――貨幣経済です。資本制経済と呼ぶかわりに「市場経済」と称することは或る意味でただしい。もういちど繰りかえしておくならば、そう呼称することは、けれども一箇のイデオロギーであって、市場システムの無法な支配を正当化する世界像にほかなりません。」238-9P
「わが亡きあとに洪水は来たれ!これがあらゆる資本家、すべての資本制国家の合い言葉なのだ」239P
「資本制と自然のあいだに、マルクスは最終的には両立不可能性を見てとっていた可能性があり、・・・」240P
「『資本論』は、商品という一見したところごくありふれたものが、じつのところ謎に満ちたありかたを伴っているしだいから考察を開始し、資本の生成と運動を見とどけて、その総過程を問題とする地点まで到達してきました。本書では、マルクスのその思考のみちゆきを、価値形態論を形而上学批判として読みなおすところからはじめて、資本の運動を時間と空間の再編過程ととらえるこころみを経て、科学批判としての資本論体系をきわだたせながら、利子生み資本と信用制度のうちに時間のフェティシズムを見さだめる地点まで辿りついたところです。」242P・・・この著の道行き―概略
「連合」にアソシエーションのルビ244P
「権利とはある意味でただのフィクションですけれど、必要もしくは欠落は、だれにとっても不可避な、実在する制約です。たんなる交換(とりわけ商品交換)原理では、この欠落を原理的に補塡することができません。」253P
コミューン主義の第一段階と第二段階(『ゴータ綱領批判』から)253-9P
「権利とはかならず排除をふくむ、力に対抗する力にほかならないからです。あるいは、特定の資格を承認された者たちに賦与される、一定でいど排他的な力こそが権利であるからです。ここでは平均以上の労働能力こそ、それに当たることになるでしょう。」258P・・・労働能力に対する差別は人権の範疇に入らない
「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能になっている」――「純粋な贈与」・・・モースの『贈与論』では、私有財産制の成立下で、純粋な贈与はありえないとなっている、ただし、そもそも原理的には「純粋な贈与」で成り立つべきこと


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熊野純彦『マルクス 資本論の思考』

たわしの読書メモ・・ブログ437
・熊野純彦『マルクス 資本論の思考』せりか書房 2013
マルクスの『経済学批判要綱』学習から派生した学習。この著者は倫理学・哲学史をやっていて、廣松さんがかなりの期待をかけていたひとです。倫理学の方に力を注いでいたので、倫理学をやっていくと、マルクス的な廣松さんの思いとはズレが生じたようで、どうも廣松さんの思いには応えがたかったようなのです。わたしの解釈ですが。
先人への思い、死者への思いというところで、廣松さんへの思いに応えるというところがあったのでしょうか、経済学的なところでの論攷です。
さすがは廣松さんが期待をかけていたひとで、博識の廣松さんのように、厖大な本を読み込んでの蓄積の上で、『資本論』の解説になっています。ただ、『資本論』をそれなりに読込んでいないと、とても読めません。廣松さんにならって、哲学的な基礎知識をもっていないと、辞書をひかないと、なかなか読み進められません。わたしはその辺のはしょりかたをみにつけていて、かなり読み飛ばしているのですが。
この本は、『資本論』を巡る論争を、註でかなりくわしく紹介してくれていて、『資本論』をもっと読み込んでいくひとへの案内書になっています。とても、わたしはそのあたりまで踏み込めそうにありません。いくつかの、わたしの研究に関わる論争の文献には、あたりたいと、積読している本を引っ張り出し、文献を購入して、読書メモをまた残します。
著者は「カントの新訳やハイデッガーの改訳に手を出しながら」733Pこの著をなしたとのこと、超人的なひとですが、凡人のわたしは「関係性の総体」や物象化論というマルクス――廣松的なところへの共鳴のなかでこの本を読み解こうとしていました。
さて、とてもきちんと押さえられていないのですが、いつものように抜き書きです。前回から適用しているように原語表記は基本はぶき、強調点は下線  で。原文ページ数も略。
「哲学的思考は、無前提的な思考であること、じぶん以外のなにものも前提とはしない思考であることを宣言する。」22P
 「無前提であるとは、なにものも前提としないことではない。「無前提的」であるとは思考にとってむしろ、思考それ自身が前提とすることがらへとさかのぼっていくことである。生きている者のみが思考するかぎりでは、生きていること自体が、思考するいとなみにとってもその前提にほかならない。いっさいの思考の前提は、かくしてまた「第一の歴史的行為」と一致する。すなわち「物質的な生そのものの生産」こそがそれである。」23P
身体性の三つの帰結 @人間は道具の製作と使用することによって世界と関係するA人間は身体として存在することで、とうぜんまた空間的存在者として存在しているB人間は、身体として存在していることによって、あわせて時間的にも有限な存在にほかならない26-7P
「あらゆる経済にあって「時間規定」は、その組成にとって決定的意味を有している。」30P 時間の節約と時間のエコノミー
「資本はどのようなかたちで時間のエコノミーを貫徹するのか、時間のエコノミーを固有なしかたで実現することで、資本制は空間をいかに再編し、世界をいかにつくり変えるにいたるのか。」30P マルクスの『資本論』で解きあかそうとする、枢要な問題系のすくなくともひとつ
「マルクスを読むことは人間が「世界のうちで-他者たちとともに-存在すること」を読みとくことであり、かくまた世界の総体について思考することである。・・・・・・(そのとき)ひとは哲学的にもなお、現在にあってはやはり、資本制を問いかえす作業から 目をそらすことができないはずである。」30-1P
「「共有物」(コモンズ)」31P
「私たちが現在なおそのうちで生を織りあげ、他者たちとかかわりあっている世界を、総体としてとらえかえすこころみにほかならない。」32P
「私を支える大地の堅固さ、私の頭上にひろがる空の蒼さ、風のそよぎ、海の波浪、光の煌めきといったものは、なにかの実体にかかっているものではない。それらは、どこでもないところから到来する。どこでもないところから、存在しない「或るもの」から到来し、あらわれるなにものも存在しないのにあらわれ、かくしてまた、私がそのみなもとを所有することができずに、たえず到来する。このことによって、感受性と享受との未来が描かれるのである。」レヴィナス33P
「大庭によれば、マルクスの「思想的営為」のもつべき意味が「時とともに「科学としての資本論」――「科学的社会主義」なる、まさに近代的世界観の地平上での(!)体系化によって次第に曖昧化され<批判>の批判たる所以が次第に水増しされてしまった。」のである。」34P
「そもそも『資本論』全三巻が問題にするところは、「資本制的な生産様式」のありかたそのものであり、あわせてまた「それに呼応する生産関係ならびに交通関係のありかたにほかならない。」」37P・・・資本論の要旨
「とほうもない」とカント37-8P
「一見したところ」「現象」する39P
「商品は「欲求」を満足させること使用価値となる。つまり「事物の有用性が事物を使用価値とする。」」41P
「先慮にもとづく要求」42P
『資本論』の商品論におけるふたつの留保@「「事物の多様な使用方法を発見すること」がそれじたい一箇の「歴史的行為」であること」A「使用価値は」「ただ使用もしくは消費においてのみ現実化する。」42P→「商品はほんとうはものではない。すこしだけ先ばしりしていえば、商品とは運動であり、関係である。」43P
「商品が有する「二要因」とは使用価値と交換価値ではない。むしろ使用価値と価値であるしだいとなるであろう。」44P
「人間の生理的活動が価値の「実体」として問題になっているのであろうか。」47P・・・物象化批判――実体主義批判の核心
「価値の実体とされる人間労働とは、関係の別名なのである。」49P
「いわゆる<蒸留法>には当面は消し去ることができない論理的難点がある。それは具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ枢要な論点を、マルクスがここでいったん消去してしまっているところから生じる難点にほかならない。」49P
「商品とは「過渡的な存在」であると語ってもよい。」50P
「商品が運動のうちにあるという事情が一方で、やがて商品流通をめぐっていくつかの制約条件を商品に課することになるだろう。その同じ性格が、他方でやがて資本そのものへ転移されてゆくことになるはずである。――資本もまたつねに動的な存在であり、どのような場合でも、可能が可能性として現実化されている状態にある。資本はすなわち運動し、生成しつづけているのである。・・・使用価値が捨象されるとともに、「他者に対する使用価値」という側面も度外視されていた。この件は、いわゆる<蒸留法>と、抽象的人間労働の規定をめぐってひとつの論理的空隙をかたちづくっている。・・・その背後にあるものは、交換によってなかだちされた関係の総体にほかならない。」50-1P
「マルクスが、労働にあって人間に可能なことがらは「素材の形態を変化させること」だけであり、したがって労働は使用価値の唯一の源泉でないと説き、また労働そのものにおいても「人間はつねに自然力に支えられている」と主張していることである。」53P
「しばしば指摘されているとおり、マルクスがここで(価値形態論で)「等号=」を導入していることは、ことがらの理解にとってはミスリーディングなものであった。「あたいする」という表現に、当面の問題すべてがむしろかかっているからである。」57P
「リンネルが価値であることは、ただこのような「回り道」を介して表現されるほかはない。上着は、手でつかめる「自然形態」のままに価値をあらわしており、リンネルは上着の自然形態のうちでみずからの価値を表現する。「このようにしてリンネルは、みずからの自然形態とはことなった価値形態を受け取ることになる」のである。」58P
価値鏡59P・・・フィヒテ
「価値の存在の背後には、むしろ関係がある。関係のなかでこそ、価値が生成する。」「その超自然的属性が示すものは「純粋に社会的な或るもの」なのである。単純で個別的な価値形態の表現するものは、それが「或る社会的関係」をはらむことを暗示している。」60P
「交換の具体的ありかたではなく、交換そのものの原理的な非対称性にあることになる。」61P
取りかえquidproquo 64P・・・物象化論とリンク
「感覚的に超感覚的な事物とは「社会的な事物」であり、その背後にあるものは「社会的な関係」にほかならない。その社会的関係を商品関係が覆いかくすことによって、人間的な労働にぞくする「社会的な性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」として映しだされる。すなわち、生産者自身が商品生産社会の内部で「総労働」に対して有する関係、その社会的寄与分が、対象的なかたちを取った労働生産物それ自体の社会的関係であるかのように映現するのである。これは関係に帰属する性格の関係の項への転移であり、関係のなかで生成する性格が、存在のしかたへと移行することにほかならない。それはいずれにせよ一箇の「置きかえ」であり、倒錯である。ここで「さまざまな事物の関係という幻影的な形態」であらわれているものは、「人間自身の特定の社会的関係」であるにすぎないからである。ただし、背後にあるものは、当の社会的関係の総体にほかならない。」65P・・・第二形態から派生する「置きかえ」、社会的総体的関係から関係に帰属する項への転移
「商品にまとわりつくフェティシズムに似たものを探すとすれば、ひとは霧に蓋われた「無限境」に、「宗教的世界」に逃げこむほかはない。それは――若きマルクスが、或る論争の脈絡で、ヘーゲルを踏みながら使用したことばをつかうならば――「顚倒した世界」である。ただし、その総体において顚倒された世界が問題なのである。」65-6P
「マルクスはここでは商品とは「感覚的であるとともに超感覚的である」ものとも、「感覚的であるにもかかわらず超感覚的である」ものとも語っていない。「感覚的に超感覚的」と語っているのだ。」71P・・・廣松の「それ以外のもの、それ以上のもの」との関係
下降−分析と上向法73P
「具体的で私的な労働が、抽象的で社会的な性格を有しているしだいは、交換の過程にあってはじめてあらわれる。つまり「私的な労働のさまざまが、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」のである。」83P・・・交換においてはじめて
「相対的余剰」モデル86-8P
日山紀彦89P・・・宇野と廣松の対話→読書計画に織り込む
「「一般的商品としての貨幣」とは「社会の、物象化されたきずな」であり、「一般的な売春」であって、つまりは「諸関係の解体」「一般的効用関係」だからである。かくして、「すべては売り物」となる。」97-8P
「ある非対称性」98P
「そこに存在しているのは非対称的関係であって、関係のこの非対称性によって「商品を貨幣へと置き換えうること」は「偶然性」にさらされている。しかも、たほうこの偶然性を「貨幣の超越論的力」が覆いかくしているのである。貨幣の超越論的な力が「購買と販売の分離を可能としながら、同時にそれを隠蔽しているのだ。」99P・・・貨幣の超越論的力と非対称性
「リカードへといたる古典経済学は売り=買いとみなし、セーの法則をみとめることで、対称的な関係を見いだした。マルクスはかえって売りと買いとのあいだに非対称性抹消不能な差異をさしあたり発見する。その非対称性は「相対的価値関係と等価形態という非対称的な対極関係」に由来している。その非対称性が貨幣へ感染して、非対称性に汚染された貨幣はしかし、非対称的な対極関係そのものを覆いかくす。かくして、「古典経済学が対称的関係とみなしているところに、マルクスは根源的な非対称性を見出している」といってよい」102P
「「資本としての貨幣の流通は、これに反して自己目的である。価値の増殖はひとりこの不断に更新される運動のうちにのみ存在するからである。資本の運動には、それゆえに限度がない」のである。価値が、かくして「一箇の自動的主体に転化する。価値はつまり「それが価値であるがゆえに価値を生む」という「オカルト的な質」を受けとることになるのである。」127P
「労働はそしあたり、「人間と自然とのあいだの一過程」、自然と人間とのあいだでの「物質代謝」である。」「すなわち人間は自然を加工して、みずからにとって使用価値をもつものとして形成しなければなないのである。このような意味での「有用労働」は、いってみれば「永遠の自然必然性」にほかならない。」146P
「つまりたとえば紡錘が「過去の労働の生産物であるということはどうでもよいこと」なのだ――その件が問われる場合があるとするなら、それはひとえに用具に欠陥があるときである。つまり、「切れないナイフや切れがちな糸などが刃物屋のAとか蠟引工のEをさまざまと想いおこさせる」にすぎない。」162P
「資本そのものにとっては交換と生産とのあいだに区別はない。交換は事物と事物との相互関係あり、生産もまた事物と事物とのあいだの交互作用にすぎないからだ。」164P
「なぜ、このような不法が罷り通るのか。どのような株式投資であっても「いつかは雷が落ちることをだれも知りながら、一般に「わが亡きあとに洪水は来たれ」こそが一切の資本のあいことばであり、資本制そのものの標語にほかならないからである。」201P・・・資本家に倫理はない、悪無限的利潤の追求
「「労働力の平等な搾取こそが、資本の第一の人権となる」日がやってくる。人権という語の意味が変容したのではない。人権とは市民の権利であって、市民とはもちろんブルジョアジーの別名にほかならなかったからである。」202P
「資本制的生産は自然と人間のあいだの「物質代謝」そのものを「攪乱する」。「永遠的な自然条件」すらも攪乱するのである。資本制の進歩は、農業についていえば、「土地から収奪するための」進歩であるほかない。資本制の運動は、自然の「多産制の不断の源泉を破壊すること」へといたりうる。」239P→註(7)240Pの椎名重明と長島誠一、本入手、エコロジーと農について後日学習
「マルクスの批判的視線は近代科学そのものにまで及んでいた。」239P→註(8)240P佐々木力
「マルクスはもとより、すこしも産業主義者ではない。生産力主義者でもありえない。また、科学的社会主義というかつての標語とうらはらに、マルクスは科学主義者でもないのである。」239-240P・・・マルクスのとらえ返しで重要
「一般的に資本制は、たえずさまざまな外部を内部化して、資本制のうちに繰りいれることで存続してゆくが、資本制の存続は同時にまた、その内部に差異のさまざまをあらたに生産しつづけ、その差異をあらためて内部化することで延命してゆく。資本が反復的に産出する差異は、そして当然のことながら差別を組織することで、それじたい定常化することだろう。」265P・・・継続的本源的蓄積論とつながる差別の生産・再生産構造の問題として重要なおさえ
「浮浪に対する血の立法」270-2P
「本源的蓄積の過程こそが資本制の原罪であるとして、しかし「原罪はつねに現罪である」(平田清明のことば281P註(14))のではないか。つまり本源的蓄積の暴力性は資本制それ自体の暴力性なのではないだろうか。それは一方では差異を抹消する暴力であり、他方では差異を産出しつつ回収する暴力なのではないか。」277P
「資本制はむしろ、外部との境界にあってこそ暴力的な蓄積を継続する。」278P
「ドイツ革命に殉じて散った、女性革命家がつとに見てとっていたとおり、資本は「全地球の生産手段と労働力」「全地帯の自然的財宝」を巻きこんで運動をつづけ、つねに外部を内部へと編入するとともにあらたな外部をつくり出して、内部を差異化させて内なる外部をも産出しつづけるものだからである。資本の本源的蓄積とはそのかぎりで、資本の生成とともにくりかえし回帰し、資本制の運動とともに不断に反復する「原罪」にほかならない。」279P
「アリストテレスは「運動」(キネーシス)とは「可能的ななにかであるものが、あくまでその当の可能態(デュナミス)としての資格にあたって完全に現実化されているありかた(エンテレケイア)」であると語った。つまりその可能性において現実態(エネルゲイア)にある、すなわち現実的なありかたをしている、ということである。」285P
「資本、商品資本としての商品もまた一箇の過程であり、その背後に或る関係であって、たえず生成と運動の様相のもとにある。」286P
「登場したばかりの資本にとって、とりあえず「交通すなわち交換に対する場面的制限」は、資本の活動を制約する一箇の自然的限界である。資本制の発展そのものにより、しかしこの限界は突破される。それはまさに「時間によって空間を絶滅」すること、つまり空間的な差異を時間的差異を利用し、後者の差異を「縮減」しながら抹消してゆくことにほかならない。資本制にとって一般的なこの「傾向」は、「地球全体をみずからの市場として獲得」するにいたるまで継続してゆくことだろう。」340P
「資本は、しかしなぜ一般に時間を「最小限」にまで解消しようとするのだろう。それは、資本にとって、循環の連続性がそうであったように、その「回転」の速度こそが生命線であるからである。資本が回転する時間つまり資本の「回転期間」と、その度数すなわち「回転回数が、つぎに問題となるはずである。」341P
「なんらかの実体的な特性が固定資本を固定資本とするわけではない。生産過程でになう「特殊な機能」のみが、労働手段を固定資本とするのである。ここでも実体ではなく機能を、固定された存在ではなく関係を問題としてゆくマルクスの視覚が、さしあたりは目だたないかたちで貫徹されているのをみとめることができる。」350P・・・機能と関係
「この神秘化の、もしくは顚倒と移調の結果はなんだろうか。総資本と利潤との関係が問われ、前者に対する後者の比が問題にされるところでは、「資本はじぶん自身に対する関係としてあらわれる」。自己関係という、ヘーゲル論理学大系を意識して使用されている用語が、ここで問題の所在を告げている。」462P・・・ヘーゲル「自己関係」
「なぜだろうか。この、じぶん自身に対する関係としての資本こそが、自己増殖する価値としての資本がその神秘化を終了する地点を、あらかじめ指ししめしているからだ。これは利潤率でなく一般的利潤率が支配し、価値ではなく生産価格が支配して、一定量の資本が一定量の資本であるがゆえに、その自己運動において利潤を生むとみなされる地点にほかならない。そこでは「資本と労働」でなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるであろう。」462P
「競争とは、個々の資本にとっては一箇の超越的条件である。個別資本は競争においてその外部にさらされ、当の外部を個々の資本は操作することができないからである。競争は、しかし、やがて、資本制を資本制として可能とする超越論的な審級となるはずである。」462P
「さかのぼって確認しておくなら、そもそも費用カテゴリーそのもの、考察としての基礎として導入された基礎範疇それ自体が、・・・・・・・・かくして生起するのは、資本制そのものの構造の期限とその成立要件の忘却であり、隠蔽である。/価値から価格への転化あるいは移行が問題になるときに、その過程でじっさいに変換していたのは、むしろ「認識様式」そのものである。そこで問題になるものは、「分析者に固有の認識様式から当事者流の認識様式への変換(切りかわり)」なのであって、「この「変換」の理解なしには「転化」概念の理解はない」。宇野弘蔵の学統にぞくしながら物象化論へと接近した論者のひとりが、そう強調しているとおりである。」511-2P・・・für esとfür uns の弁証法 註(10)515P
「形態転換」512P→この著のキーワード「取りかえquidproquo」64Pとつながり、物象化論とリンク
「マルクスの資本論体系が経済学でなく、経済学批判であるしだいとかかわっている。」513P
「マルクスの『資本論』の主題はむしろ、古典派経済学のうちに典型的にあらわれている資本制的な日常意識をたどりつつ、それを内的に批判するところにこそあったのだ。」514P・・・そのひとつとしての労働価値説批判
「マルクスの説くとおり、「資本制的生産の真の制限は、資本そのものなのである。」」528P
「生活手段としての自然の豊かさ」――「労働の生産性」が依存する531-2P
「社会契約というミュトスを前提にするなら、ロックがそう語っていたように、大地と生育するものはかつてひとしく万人のものであったし、ルソーがそう指弾したとおり、土地に囲いをして、「これが俺のものだ」と宣言した者こそが、いっさいの不平等の起源に責めを負うものでもあるだろう。具体的な歴史過程を問題とする経済学批判のロゴスからするなら、資本制的な土地所有の起源は、それじたい資本制の原罪とかかわっている。「本源的蓄積」を経た「土地所有の独占が資本制的生産の歴史的前提」なのである。」533P
「土地所有権には、法的にいえば、土地の利用、土地からの収益、土地そのものの譲渡にかんする権利がふくまれている。支配あるいは全面的権力としての所有は一般に、所有対象の利用権、そこからの収益権、また譲渡権をふくんでいるからだ。この「法的観念そのもの」は、しかし、なにほどのことがらも意味していない。土地所有がひとつの権利であるとしても、その「力の行使はひとえに、かれらの意志にはかかわりのない経済的な諸条件にのみかかっている」からである。」536P
「土地が売買されるとき、譲渡され入手される当のもの(「大地の一片」)については、その価値はなにもない。価値がないものに価格がつけられて、売買の対象となる。なぜそのような擬制が可能となるのか。「なんらかのものを売るためには」――と、ヘーゲル『法哲学』「抽象法」の一節を想起させるしかたでマルクスは書いている――「そのものが独占できるものであり、譲渡できるものであることのほかにはなにも必要とされない」。土地はただ境界を設定され、その一面積がそこにふくまれている生産条件とともに独占の対象となり、法的に所有権が移転しうるだけで、売買の対象になるのである。」538P
「なんらかのものを売るためには、そのものには価格がつけられなければならない。価格が附与されるためには、そのもの(ここでは一定の土地)には、また、他のもの(べつの土地)との差異が帰属していなければならない。/差異が、価格を生む。さしあたりはことなる地代を生み、その地代(差額地代)によって、土地そのものの価格が遡及的に決定されるのである。マルクスの地代論の本論が、いわゆる「差額地代」の問題から開始されるゆえんである。」538-9P
「自然のうちにはそれじたい「自然発生的」な生産性が潜在している。自然が――労働を介して―人間に与えるものは、つねに人間の必要を上まわっている。この間の消息こそが、すべての考察の基礎なのだ。農業労働は――それがいっさいの労働のうちでももっとも「本源的」な生産活動であることはべつとして――、その意味では、資本制的な生産様式が支配的である社会にあってなお、とりわけて注目にあたいする生産の現場であることをやめない。なぜだろうか。/「自然の豊饒さがここではひとつの限界、ひとつの出発点。ひとつの基礎をなしている」からであり、「たほうの労働の社会的生産力の発展が、もうひとつの限界、出発点、基礎をなしている」からである。/それゆえ問われなければならないことは、資本制による自然の利用とその限界であることになるはずである。」543P
「ここで問題の落流とは、つまりは「ひとり土地の特殊な部分とその付属物とを自由に処分しうるひとびとだけが利用できる、独占的な自然力にほかならない。この独占可能性ならびに、それとうらはらな移動可能性が、当面している場面を考えるうえで、不可欠の条件となるはずである。」550P
「アジア的な「主権」とは「国家規模で集中された土地所有」にほかならない。このような政治的かつ経済的制度は、「直接に生産そのものから生まれて、それ自身また規定的に生産に対して反作用する」。同時にこの関係のうえに、「生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の姿態の総体」が築かれて、「その独自な政治的姿態」も構築されるのだ。いわゆる唯物史観の公式が、マルクスの、膨大な歴史的-地理的な展望のうえに築かれているしだいを、ここでも確認することができるだろう。」582P
「究極的対立は、しかし、資本と土地所有のあいだに存在するのではない。「生命の自然法則」と資本制のあいだに存在するのである。」589P
「マルクスのロシア研究は、その最晩年にいたるまで継続されて、変容を遂げていった。その最終成果にほど近いすがたを、私たちはたとえば、ヴェーラ・ザスーリチの手紙に対する返信、ならびにそのための四つの草稿に展開されているかたちで確認することができる。ロシアのミール共同体に対する評価の変化が、土地所有をめぐるマルクスの思考をどのくらい変様させるものとなりえたか。この件については、とりあえず想像のかぎりではない。「残念なことには、かれにとってこの計画はついに実現されなかった」からである。」589P・・・註(5)和田春樹→購入
「利子生み資本の源泉は、時間的な隔たりであった。時間が価値を生み、時間のなかで貨幣が価値を増殖させるとは、とはいえ端的に一箇の非合理にほかならない。右のようなしだいによって、とはいえ、時間そのものが価値を生むという神秘が、あたかも神秘ではないかのように神秘化されるのである。」638P
「がんらい利子とは一箇の不合理であり、悖理であった。その意味では「利子の自然な率」などというものは存在しえない。利子そのものが一箇のパラドクスであり、しかも現に作動し、そのつど妥当している逆理なのである。「じっさい、ひとえに、資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分離することのみが、利潤の一部を利子へと転化させて、およそ利子というカテゴリーを創りだす。そしてただ、このふたつの種類の資本家のあいだの競争だけが、利子率を造りだす」。マルクスがそう書きしるしているとおりである。」639P
「機能資本家(産業資本家と商業資本家)」640P
エンゲルスの編集問題665-6P註(2)・・・・・・・・弁証法の法則化と法則の物象化
「マルクスは『資本論』第一巻ですでに「信用制度は当初は、蓄積の控えめな助手としてこっそりと入ってきて」、「やがては競争戦におけるひとつの、あらたな恐ろしい武器となり、そしてついには諸資本の集中のための巨大な社会的機構へと転化する」と書いていた。」689P
「地球規模の収奪」につけられたルビ「グローバリズム」691P
「利子額を利子率で除する演算が、「資本換算」として承認される。この操作の結果として得られるものが「資本価値」とみなされ、利子生み資本はそのほんらいの形態において陥穽されるのである。そこでは「価値増殖過程」の「痕跡」のいっさいが消去され、かわりに登場するものは「価値増殖する自動運動体としての資本の表象」にほかならない。/ここに資本のオートノミーが陥穽されて、資本の派生的形態にすぎない利子生み資本こそが資本のほんらいの形態であるかのような幻想がむしろ現実化してゆく途が拓かれる。資本はフィクショナルな存在として、みずからの痕跡を抹消する。」695P
「株式会社は、こうしてマルクスにとって、或る意味ではたしかに「あらたな生産形態へのたんなる通過点」としてあらわれていた。」697P・・・ただし、「国独資」や的なことがもつ意味をとらえ返す必要
「株式取引市場における貨幣価値は、結局は「名目的な貨幣資本のしゃぼん玉」であるほかない。」699P・・・「名目的」に「ノミナル」のルビ、「しゃぼん玉」に「バブル」のルビ
「マルクスは、利子生み資本の登場によって、資本はそのものとして商品となる、と説いていた。株式制度と証券市場の展開をつうじて、資本のこの商品化が完結する。資本はもはや、資本としてその外部をもたない。信用制度のなかに株式制度を着床しおえた資本システムにとっては、いまや「入力も出力もない」。いっさいは市場の内部で調達され、すべては市場の内部へと送りかえされる。資本制は、そのかぎりでは自己制作的な過程そのものとなる。すなわち、一箇のオートポイエーシス機構となるのである。/資本の、このオートボイエーティック・メカニズムを十全に分析するためには、とはいえ、資本制のその後の展開を問題とするほうがより適切だろう。すなわちレーニン――その『帝国主義論』は、ドイツでは総数の百分の一にも満たない企業がエネルギーの四分の三を独占し、合衆国では、おなじく百分の一の企業に、一国の総生産のほとんど半分が由来している段階を見すえていた――以後の資本制の変容と、その現在とを問うことが必要となるはずである。」703P
「マルクスはさらに、理論が民衆を掴むのは、それがラディカルになるときであるとして、「ラディカルであるとは、ことがらをその根において把握することである。人間にとっての根とはしかし人間それ自身である」と書きとめていた。」708P
「若きマルクスは自問して、自答していた。「現世の神とはなにか? 貨幣である」(「ユダヤ人問題によせて」)地上の批判の核心は貨幣に或る。より一般的にいうなら、エコノミーの批判にあるのである。エコノミーのうちにこそ宗教がある。そのかぎりで、宗教批判はいまだ終了してはいないのだ。」708P
「商品が価値であるのはまさにフェティシズムであり、地上の批判は天上の批判をふくまなければならない。その意味で、宗教の批判がいっさいの批判の前提なのである。」710P
「ひとえに、三位一体範式そのものをマルクスは「日常生活の宗教」と見なしていたことである。『資本論』が、その末尾で、キリスト教信仰の核心(三位一体論)に言及するのは、だんじて偶然ではない/ただし、資本制生産様式が支配して、資本が生を枠どっている世界、この「魔法にかけられ、顚倒と移調され、逆立ちした」世界における、魔法と顚倒は、いわゆる三位一体範式にのみ見てとられるものではない。それは、私たちが本書の最終章で問題としたように、資本制の超越論的審級を制約する信用制度のうちにこそ、いっそう現在的なしかたで見てとるべきものなのだ。」711P
「その信(信用制度もしくは信用システムを裏うちする信)、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除することでたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読みなおさないこと」は「つねに過失」となるはずなのである。」713P

切り抜きをとりつつ、この著のもつ意味はもっと深いものがあると改めて感じていました。再読を期したいと思っています。

posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

熊野純彦『マルクス 資本論の思考』

たわしの読書メモ・・ブログ437
・熊野純彦『マルクス 資本論の思考』せりか書房 2013
マルクスの『経済学批判要綱』学習から派生した学習。この著者は倫理学・哲学史をやっていて、廣松さんがかなりの期待をかけていたひとです。倫理学の方に力を注いでいたので、倫理学をやっていくと、マルクス的な廣松さんの思いとはズレが生じたようで、どうも廣松さんの思いには応えがたかったようなのです。わたしの解釈ですが。
先人への思い、死者への思いというところで、廣松さんへの思いに応えるというところがあったのでしょうか、経済学的なところでの論攷です。
さすがは廣松さんが期待をかけていたひとで、博識の廣松さんのように、厖大な本を読み込んでの蓄積の上で、『資本論』の解説になっています。ただ、『資本論』をそれなりに読込んでいないと、とても読めません。廣松さんにならって、哲学的な基礎知識をもっていないと、辞書をひかないと、なかなか読み進められません。わたしはその辺のはしょりかたをみにつけていて、かなり読み飛ばしているのですが。
この本は、『資本論』を巡る論争を、註でかなりくわしく紹介してくれていて、『資本論』をもっと読み込んでいくひとへの案内書になっています。とても、わたしはそのあたりまで踏み込めそうにありません。いくつかの、わたしの研究に関わる論争の文献には、あたりたいと、積読している本を引っ張り出し、文献を購入して、読書メモをまた残します。
著者は「カントの新訳やハイデッガーの改訳に手を出しながら」733Pこの著をなしたとのこと、超人的なひとですが、凡人のわたしは「関係性の総体」や物象化論というマルクス――廣松的なところへの共鳴のなかでこの本を読み解こうとしていました。
さて、とてもきちんと押さえられていないのですが、いつものように抜き書きです。前回から適用しているように原語表記は基本はぶき、強調点は下線  で。原文ページ数も略。
「哲学的思考は、無前提的な思考であること、じぶん以外のなにものも前提とはしない思考であることを宣言する。」22P
 「無前提であるとは、なにものも前提としないことではない。「無前提的」であるとは思考にとってむしろ、思考それ自身が前提とすることがらへとさかのぼっていくことである。生きている者のみが思考するかぎりでは、生きていること自体が、思考するいとなみにとってもその前提にほかならない。いっさいの思考の前提は、かくしてまた「第一の歴史的行為」と一致する。すなわち「物質的な生そのものの生産」こそがそれである。」23P
身体性の三つの帰結 @人間は道具の製作と使用することによって世界と関係するA人間は身体として存在することで、とうぜんまた空間的存在者として存在しているB人間は、身体として存在していることによって、あわせて時間的にも有限な存在にほかならない26-7P
「あらゆる経済にあって「時間規定」は、その組成にとって決定的意味を有している。」30P 時間の節約と時間のエコノミー
「資本はどのようなかたちで時間のエコノミーを貫徹するのか、時間のエコノミーを固有なしかたで実現することで、資本制は空間をいかに再編し、世界をいかにつくり変えるにいたるのか。」30P マルクスの『資本論』で解きあかそうとする、枢要な問題系のすくなくともひとつ
「マルクスを読むことは人間が「世界のうちで-他者たちとともに-存在すること」を読みとくことであり、かくまた世界の総体について思考することである。・・・・・・(そのとき)ひとは哲学的にもなお、現在にあってはやはり、資本制を問いかえす作業から 目をそらすことができないはずである。」30-1P
「「共有物」(コモンズ)」31P
「私たちが現在なおそのうちで生を織りあげ、他者たちとかかわりあっている世界を、総体としてとらえかえすこころみにほかならない。」32P
「私を支える大地の堅固さ、私の頭上にひろがる空の蒼さ、風のそよぎ、海の波浪、光の煌めきといったものは、なにかの実体にかかっているものではない。それらは、どこでもないところから到来する。どこでもないところから、存在しない「或るもの」から到来し、あらわれるなにものも存在しないのにあらわれ、かくしてまた、私がそのみなもとを所有することができずに、たえず到来する。このことによって、感受性と享受との未来が描かれるのである。」レヴィナス33P
「大庭によれば、マルクスの「思想的営為」のもつべき意味が「時とともに「科学としての資本論」――「科学的社会主義」なる、まさに近代的世界観の地平上での(!)体系化によって次第に曖昧化され<批判>の批判たる所以が次第に水増しされてしまった。」のである。」34P
「そもそも『資本論』全三巻が問題にするところは、「資本制的な生産様式」のありかたそのものであり、あわせてまた「それに呼応する生産関係ならびに交通関係のありかたにほかならない。」」37P・・・資本論の要旨
「とほうもない」とカント37-8P
「一見したところ」「現象」する39P
「商品は「欲求」を満足させること使用価値となる。つまり「事物の有用性が事物を使用価値とする。」」41P
「先慮にもとづく要求」42P
『資本論』の商品論におけるふたつの留保@「「事物の多様な使用方法を発見すること」がそれじたい一箇の「歴史的行為」であること」A「使用価値は」「ただ使用もしくは消費においてのみ現実化する。」42P→「商品はほんとうはものではない。すこしだけ先ばしりしていえば、商品とは運動であり、関係である。」43P
「商品が有する「二要因」とは使用価値と交換価値ではない。むしろ使用価値と価値であるしだいとなるであろう。」44P
「人間の生理的活動が価値の「実体」として問題になっているのであろうか。」47P・・・物象化批判――実体主義批判の核心
「価値の実体とされる人間労働とは、関係の別名なのである。」49P
「いわゆる<蒸留法>には当面は消し去ることができない論理的難点がある。それは具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ枢要な論点を、マルクスがここでいったん消去してしまっているところから生じる難点にほかならない。」49P
「商品とは「過渡的な存在」であると語ってもよい。」50P
「商品が運動のうちにあるという事情が一方で、やがて商品流通をめぐっていくつかの制約条件を商品に課することになるだろう。その同じ性格が、他方でやがて資本そのものへ転移されてゆくことになるはずである。――資本もまたつねに動的な存在であり、どのような場合でも、可能が可能性として現実化されている状態にある。資本はすなわち運動し、生成しつづけているのである。・・・使用価値が捨象されるとともに、「他者に対する使用価値」という側面も度外視されていた。この件は、いわゆる<蒸留法>と、抽象的人間労働の規定をめぐってひとつの論理的空隙をかたちづくっている。・・・その背後にあるものは、交換によってなかだちされた関係の総体にほかならない。」50-1P
「マルクスが、労働にあって人間に可能なことがらは「素材の形態を変化させること」だけであり、したがって労働は使用価値の唯一の源泉でないと説き、また労働そのものにおいても「人間はつねに自然力に支えられている」と主張していることである。」53P
「しばしば指摘されているとおり、マルクスがここで(価値形態論で)「等号=」を導入していることは、ことがらの理解にとってはミスリーディングなものであった。「あたいする」という表現に、当面の問題すべてがむしろかかっているからである。」57P
「リンネルが価値であることは、ただこのような「回り道」を介して表現されるほかはない。上着は、手でつかめる「自然形態」のままに価値をあらわしており、リンネルは上着の自然形態のうちでみずからの価値を表現する。「このようにしてリンネルは、みずからの自然形態とはことなった価値形態を受け取ることになる」のである。」58P
価値鏡59P・・・フィヒテ
「価値の存在の背後には、むしろ関係がある。関係のなかでこそ、価値が生成する。」「その超自然的属性が示すものは「純粋に社会的な或るもの」なのである。単純で個別的な価値形態の表現するものは、それが「或る社会的関係」をはらむことを暗示している。」60P
「交換の具体的ありかたではなく、交換そのものの原理的な非対称性にあることになる。」61P
取りかえquidproquo 64P・・・物象化論とリンク
「感覚的に超感覚的な事物とは「社会的な事物」であり、その背後にあるものは「社会的な関係」にほかならない。その社会的関係を商品関係が覆いかくすことによって、人間的な労働にぞくする「社会的な性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」として映しだされる。すなわち、生産者自身が商品生産社会の内部で「総労働」に対して有する関係、その社会的寄与分が、対象的なかたちを取った労働生産物それ自体の社会的関係であるかのように映現するのである。これは関係に帰属する性格の関係の項への転移であり、関係のなかで生成する性格が、存在のしかたへと移行することにほかならない。それはいずれにせよ一箇の「置きかえ」であり、倒錯である。ここで「さまざまな事物の関係という幻影的な形態」であらわれているものは、「人間自身の特定の社会的関係」であるにすぎないからである。ただし、背後にあるものは、当の社会的関係の総体にほかならない。」65P・・・第二形態から派生する「置きかえ」、社会的総体的関係から関係に帰属する項への転移
「商品にまとわりつくフェティシズムに似たものを探すとすれば、ひとは霧に蓋われた「無限境」に、「宗教的世界」に逃げこむほかはない。それは――若きマルクスが、或る論争の脈絡で、ヘーゲルを踏みながら使用したことばをつかうならば――「顚倒した世界」である。ただし、その総体において顚倒された世界が問題なのである。」65-6P
「マルクスはここでは商品とは「感覚的であるとともに超感覚的である」ものとも、「感覚的であるにもかかわらず超感覚的である」ものとも語っていない。「感覚的に超感覚的」と語っているのだ。」71P・・・廣松の「それ以外のもの、それ以上のもの」との関係
下降−分析と上向法73P
「具体的で私的な労働が、抽象的で社会的な性格を有しているしだいは、交換の過程にあってはじめてあらわれる。つまり「私的な労働のさまざまが、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」のである。」83P・・・交換においてはじめて
「相対的余剰」モデル86-8P
日山紀彦89P・・・宇野と廣松の対話→読書計画に織り込む
「「一般的商品としての貨幣」とは「社会の、物象化されたきずな」であり、「一般的な売春」であって、つまりは「諸関係の解体」「一般的効用関係」だからである。かくして、「すべては売り物」となる。」97-8P
「ある非対称性」98P
「そこに存在しているのは非対称的関係であって、関係のこの非対称性によって「商品を貨幣へと置き換えうること」は「偶然性」にさらされている。しかも、たほうこの偶然性を「貨幣の超越論的力」が覆いかくしているのである。貨幣の超越論的な力が「購買と販売の分離を可能としながら、同時にそれを隠蔽しているのだ。」99P・・・貨幣の超越論的力と非対称性
「リカードへといたる古典経済学は売り=買いとみなし、セーの法則をみとめることで、対称的な関係を見いだした。マルクスはかえって売りと買いとのあいだに非対称性抹消不能な差異をさしあたり発見する。その非対称性は「相対的価値関係と等価形態という非対称的な対極関係」に由来している。その非対称性が貨幣へ感染して、非対称性に汚染された貨幣はしかし、非対称的な対極関係そのものを覆いかくす。かくして、「古典経済学が対称的関係とみなしているところに、マルクスは根源的な非対称性を見出している」といってよい」102P
「「資本としての貨幣の流通は、これに反して自己目的である。価値の増殖はひとりこの不断に更新される運動のうちにのみ存在するからである。資本の運動には、それゆえに限度がない」のである。価値が、かくして「一箇の自動的主体に転化する。価値はつまり「それが価値であるがゆえに価値を生む」という「オカルト的な質」を受けとることになるのである。」127P
「労働はそしあたり、「人間と自然とのあいだの一過程」、自然と人間とのあいだでの「物質代謝」である。」「すなわち人間は自然を加工して、みずからにとって使用価値をもつものとして形成しなければなないのである。このような意味での「有用労働」は、いってみれば「永遠の自然必然性」にほかならない。」146P
「つまりたとえば紡錘が「過去の労働の生産物であるということはどうでもよいこと」なのだ――その件が問われる場合があるとするなら、それはひとえに用具に欠陥があるときである。つまり、「切れないナイフや切れがちな糸などが刃物屋のAとか蠟引工のEをさまざまと想いおこさせる」にすぎない。」162P
「資本そのものにとっては交換と生産とのあいだに区別はない。交換は事物と事物との相互関係あり、生産もまた事物と事物とのあいだの交互作用にすぎないからだ。」164P
「なぜ、このような不法が罷り通るのか。どのような株式投資であっても「いつかは雷が落ちることをだれも知りながら、一般に「わが亡きあとに洪水は来たれ」こそが一切の資本のあいことばであり、資本制そのものの標語にほかならないからである。」201P・・・資本家に倫理はない、悪無限的利潤の追求
「「労働力の平等な搾取こそが、資本の第一の人権となる」日がやってくる。人権という語の意味が変容したのではない。人権とは市民の権利であって、市民とはもちろんブルジョアジーの別名にほかならなかったからである。」202P
「資本制的生産は自然と人間のあいだの「物質代謝」そのものを「攪乱する」。「永遠的な自然条件」すらも攪乱するのである。資本制の進歩は、農業についていえば、「土地から収奪するための」進歩であるほかない。資本制の運動は、自然の「多産制の不断の源泉を破壊すること」へといたりうる。」239P→註(7)240Pの椎名重明と長島誠一、本入手、エコロジーと農について後日学習
「マルクスの批判的視線は近代科学そのものにまで及んでいた。」239P→註(8)240P佐々木力
「マルクスはもとより、すこしも産業主義者ではない。生産力主義者でもありえない。また、科学的社会主義というかつての標語とうらはらに、マルクスは科学主義者でもないのである。」239-240P・・・マルクスのとらえ返しで重要
「一般的に資本制は、たえずさまざまな外部を内部化して、資本制のうちに繰りいれることで存続してゆくが、資本制の存続は同時にまた、その内部に差異のさまざまをあらたに生産しつづけ、その差異をあらためて内部化することで延命してゆく。資本が反復的に産出する差異は、そして当然のことながら差別を組織することで、それじたい定常化することだろう。」265P・・・継続的本源的蓄積論とつながる差別の生産・再生産構造の問題として重要なおさえ
「浮浪に対する血の立法」270-2P
「本源的蓄積の過程こそが資本制の原罪であるとして、しかし「原罪はつねに現罪である」(平田清明のことば281P註(14))のではないか。つまり本源的蓄積の暴力性は資本制それ自体の暴力性なのではないだろうか。それは一方では差異を抹消する暴力であり、他方では差異を産出しつつ回収する暴力なのではないか。」277P
「資本制はむしろ、外部との境界にあってこそ暴力的な蓄積を継続する。」278P
「ドイツ革命に殉じて散った、女性革命家がつとに見てとっていたとおり、資本は「全地球の生産手段と労働力」「全地帯の自然的財宝」を巻きこんで運動をつづけ、つねに外部を内部へと編入するとともにあらたな外部をつくり出して、内部を差異化させて内なる外部をも産出しつづけるものだからである。資本の本源的蓄積とはそのかぎりで、資本の生成とともにくりかえし回帰し、資本制の運動とともに不断に反復する「原罪」にほかならない。」279P
「アリストテレスは「運動」(キネーシス)とは「可能的ななにかであるものが、あくまでその当の可能態(デュナミス)としての資格にあたって完全に現実化されているありかた(エンテレケイア)」であると語った。つまりその可能性において現実態(エネルゲイア)にある、すなわち現実的なありかたをしている、ということである。」285P
「資本、商品資本としての商品もまた一箇の過程であり、その背後に或る関係であって、たえず生成と運動の様相のもとにある。」286P
「登場したばかりの資本にとって、とりあえず「交通すなわち交換に対する場面的制限」は、資本の活動を制約する一箇の自然的限界である。資本制の発展そのものにより、しかしこの限界は突破される。それはまさに「時間によって空間を絶滅」すること、つまり空間的な差異を時間的差異を利用し、後者の差異を「縮減」しながら抹消してゆくことにほかならない。資本制にとって一般的なこの「傾向」は、「地球全体をみずからの市場として獲得」するにいたるまで継続してゆくことだろう。」340P
「資本は、しかしなぜ一般に時間を「最小限」にまで解消しようとするのだろう。それは、資本にとって、循環の連続性がそうであったように、その「回転」の速度こそが生命線であるからである。資本が回転する時間つまり資本の「回転期間」と、その度数すなわち「回転回数が、つぎに問題となるはずである。」341P
「なんらかの実体的な特性が固定資本を固定資本とするわけではない。生産過程でになう「特殊な機能」のみが、労働手段を固定資本とするのである。ここでも実体ではなく機能を、固定された存在ではなく関係を問題としてゆくマルクスの視覚が、さしあたりは目だたないかたちで貫徹されているのをみとめることができる。」350P・・・機能と関係
「この神秘化の、もしくは顚倒と移調の結果はなんだろうか。総資本と利潤との関係が問われ、前者に対する後者の比が問題にされるところでは、「資本はじぶん自身に対する関係としてあらわれる」。自己関係という、ヘーゲル論理学大系を意識して使用されている用語が、ここで問題の所在を告げている。」462P・・・ヘーゲル「自己関係」
「なぜだろうか。この、じぶん自身に対する関係としての資本こそが、自己増殖する価値としての資本がその神秘化を終了する地点を、あらかじめ指ししめしているからだ。これは利潤率でなく一般的利潤率が支配し、価値ではなく生産価格が支配して、一定量の資本が一定量の資本であるがゆえに、その自己運動において利潤を生むとみなされる地点にほかならない。そこでは「資本と労働」でなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるであろう。」462P
「競争とは、個々の資本にとっては一箇の超越的条件である。個別資本は競争においてその外部にさらされ、当の外部を個々の資本は操作することができないからである。競争は、しかし、やがて、資本制を資本制として可能とする超越論的な審級となるはずである。」462P
「さかのぼって確認しておくなら、そもそも費用カテゴリーそのもの、考察としての基礎として導入された基礎範疇それ自体が、・・・・・・・・かくして生起するのは、資本制そのものの構造の期限とその成立要件の忘却であり、隠蔽である。/価値から価格への転化あるいは移行が問題になるときに、その過程でじっさいに変換していたのは、むしろ「認識様式」そのものである。そこで問題になるものは、「分析者に固有の認識様式から当事者流の認識様式への変換(切りかわり)」なのであって、「この「変換」の理解なしには「転化」概念の理解はない」。宇野弘蔵の学統にぞくしながら物象化論へと接近した論者のひとりが、そう強調しているとおりである。」511-2P・・・für esとfür uns の弁証法 註(10)515P
「形態転換」512P→この著のキーワード「取りかえquidproquo」64Pとつながり、物象化論とリンク
「マルクスの資本論体系が経済学でなく、経済学批判であるしだいとかかわっている。」513P
「マルクスの『資本論』の主題はむしろ、古典派経済学のうちに典型的にあらわれている資本制的な日常意識をたどりつつ、それを内的に批判するところにこそあったのだ。」514P・・・そのひとつとしての労働価値説批判
「マルクスの説くとおり、「資本制的生産の真の制限は、資本そのものなのである。」」528P
「生活手段としての自然の豊かさ」――「労働の生産性」が依存する531-2P
「社会契約というミュトスを前提にするなら、ロックがそう語っていたように、大地と生育するものはかつてひとしく万人のものであったし、ルソーがそう指弾したとおり、土地に囲いをして、「これが俺のものだ」と宣言した者こそが、いっさいの不平等の起源に責めを負うものでもあるだろう。具体的な歴史過程を問題とする経済学批判のロゴスからするなら、資本制的な土地所有の起源は、それじたい資本制の原罪とかかわっている。「本源的蓄積」を経た「土地所有の独占が資本制的生産の歴史的前提」なのである。」533P
「土地所有権には、法的にいえば、土地の利用、土地からの収益、土地そのものの譲渡にかんする権利がふくまれている。支配あるいは全面的権力としての所有は一般に、所有対象の利用権、そこからの収益権、また譲渡権をふくんでいるからだ。この「法的観念そのもの」は、しかし、なにほどのことがらも意味していない。土地所有がひとつの権利であるとしても、その「力の行使はひとえに、かれらの意志にはかかわりのない経済的な諸条件にのみかかっている」からである。」536P
「土地が売買されるとき、譲渡され入手される当のもの(「大地の一片」)については、その価値はなにもない。価値がないものに価格がつけられて、売買の対象となる。なぜそのような擬制が可能となるのか。「なんらかのものを売るためには」――と、ヘーゲル『法哲学』「抽象法」の一節を想起させるしかたでマルクスは書いている――「そのものが独占できるものであり、譲渡できるものであることのほかにはなにも必要とされない」。土地はただ境界を設定され、その一面積がそこにふくまれている生産条件とともに独占の対象となり、法的に所有権が移転しうるだけで、売買の対象になるのである。」538P
「なんらかのものを売るためには、そのものには価格がつけられなければならない。価格が附与されるためには、そのもの(ここでは一定の土地)には、また、他のもの(べつの土地)との差異が帰属していなければならない。/差異が、価格を生む。さしあたりはことなる地代を生み、その地代(差額地代)によって、土地そのものの価格が遡及的に決定されるのである。マルクスの地代論の本論が、いわゆる「差額地代」の問題から開始されるゆえんである。」538-9P
「自然のうちにはそれじたい「自然発生的」な生産性が潜在している。自然が――労働を介して―人間に与えるものは、つねに人間の必要を上まわっている。この間の消息こそが、すべての考察の基礎なのだ。農業労働は――それがいっさいの労働のうちでももっとも「本源的」な生産活動であることはべつとして――、その意味では、資本制的な生産様式が支配的である社会にあってなお、とりわけて注目にあたいする生産の現場であることをやめない。なぜだろうか。/「自然の豊饒さがここではひとつの限界、ひとつの出発点。ひとつの基礎をなしている」からであり、「たほうの労働の社会的生産力の発展が、もうひとつの限界、出発点、基礎をなしている」からである。/それゆえ問われなければならないことは、資本制による自然の利用とその限界であることになるはずである。」543P
「ここで問題の落流とは、つまりは「ひとり土地の特殊な部分とその付属物とを自由に処分しうるひとびとだけが利用できる、独占的な自然力にほかならない。この独占可能性ならびに、それとうらはらな移動可能性が、当面している場面を考えるうえで、不可欠の条件となるはずである。」550P
「アジア的な「主権」とは「国家規模で集中された土地所有」にほかならない。このような政治的かつ経済的制度は、「直接に生産そのものから生まれて、それ自身また規定的に生産に対して反作用する」。同時にこの関係のうえに、「生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の姿態の総体」が築かれて、「その独自な政治的姿態」も構築されるのだ。いわゆる唯物史観の公式が、マルクスの、膨大な歴史的-地理的な展望のうえに築かれているしだいを、ここでも確認することができるだろう。」582P
「究極的対立は、しかし、資本と土地所有のあいだに存在するのではない。「生命の自然法則」と資本制のあいだに存在するのである。」589P
「マルクスのロシア研究は、その最晩年にいたるまで継続されて、変容を遂げていった。その最終成果にほど近いすがたを、私たちはたとえば、ヴェーラ・ザスーリチの手紙に対する返信、ならびにそのための四つの草稿に展開されているかたちで確認することができる。ロシアのミール共同体に対する評価の変化が、土地所有をめぐるマルクスの思考をどのくらい変様させるものとなりえたか。この件については、とりあえず想像のかぎりではない。「残念なことには、かれにとってこの計画はついに実現されなかった」からである。」589P・・・註(5)和田春樹→購入
「利子生み資本の源泉は、時間的な隔たりであった。時間が価値を生み、時間のなかで貨幣が価値を増殖させるとは、とはいえ端的に一箇の非合理にほかならない。右のようなしだいによって、とはいえ、時間そのものが価値を生むという神秘が、あたかも神秘ではないかのように神秘化されるのである。」638P
「がんらい利子とは一箇の不合理であり、悖理であった。その意味では「利子の自然な率」などというものは存在しえない。利子そのものが一箇のパラドクスであり、しかも現に作動し、そのつど妥当している逆理なのである。「じっさい、ひとえに、資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分離することのみが、利潤の一部を利子へと転化させて、およそ利子というカテゴリーを創りだす。そしてただ、このふたつの種類の資本家のあいだの競争だけが、利子率を造りだす」。マルクスがそう書きしるしているとおりである。」639P
「機能資本家(産業資本家と商業資本家)」640P
エンゲルスの編集問題665-6P註(2)・・・・・・・・弁証法の法則化と法則の物象化
「マルクスは『資本論』第一巻ですでに「信用制度は当初は、蓄積の控えめな助手としてこっそりと入ってきて」、「やがては競争戦におけるひとつの、あらたな恐ろしい武器となり、そしてついには諸資本の集中のための巨大な社会的機構へと転化する」と書いていた。」689P
「地球規模の収奪」につけられたルビ「グローバリズム」691P
「利子額を利子率で除する演算が、「資本換算」として承認される。この操作の結果として得られるものが「資本価値」とみなされ、利子生み資本はそのほんらいの形態において陥穽されるのである。そこでは「価値増殖過程」の「痕跡」のいっさいが消去され、かわりに登場するものは「価値増殖する自動運動体としての資本の表象」にほかならない。/ここに資本のオートノミーが陥穽されて、資本の派生的形態にすぎない利子生み資本こそが資本のほんらいの形態であるかのような幻想がむしろ現実化してゆく途が拓かれる。資本はフィクショナルな存在として、みずからの痕跡を抹消する。」695P
「株式会社は、こうしてマルクスにとって、或る意味ではたしかに「あらたな生産形態へのたんなる通過点」としてあらわれていた。」697P・・・ただし、「国独資」や的なことがもつ意味をとらえ返す必要
「株式取引市場における貨幣価値は、結局は「名目的な貨幣資本のしゃぼん玉」であるほかない。」699P・・・「名目的」に「ノミナル」のルビ、「しゃぼん玉」に「バブル」のルビ
「マルクスは、利子生み資本の登場によって、資本はそのものとして商品となる、と説いていた。株式制度と証券市場の展開をつうじて、資本のこの商品化が完結する。資本はもはや、資本としてその外部をもたない。信用制度のなかに株式制度を着床しおえた資本システムにとっては、いまや「入力も出力もない」。いっさいは市場の内部で調達され、すべては市場の内部へと送りかえされる。資本制は、そのかぎりでは自己制作的な過程そのものとなる。すなわち、一箇のオートポイエーシス機構となるのである。/資本の、このオートボイエーティック・メカニズムを十全に分析するためには、とはいえ、資本制のその後の展開を問題とするほうがより適切だろう。すなわちレーニン――その『帝国主義論』は、ドイツでは総数の百分の一にも満たない企業がエネルギーの四分の三を独占し、合衆国では、おなじく百分の一の企業に、一国の総生産のほとんど半分が由来している段階を見すえていた――以後の資本制の変容と、その現在とを問うことが必要となるはずである。」703P
「マルクスはさらに、理論が民衆を掴むのは、それがラディカルになるときであるとして、「ラディカルであるとは、ことがらをその根において把握することである。人間にとっての根とはしかし人間それ自身である」と書きとめていた。」708P
「若きマルクスは自問して、自答していた。「現世の神とはなにか? 貨幣である」(「ユダヤ人問題によせて」)地上の批判の核心は貨幣に或る。より一般的にいうなら、エコノミーの批判にあるのである。エコノミーのうちにこそ宗教がある。そのかぎりで、宗教批判はいまだ終了してはいないのだ。」708P
「商品が価値であるのはまさにフェティシズムであり、地上の批判は天上の批判をふくまなければならない。その意味で、宗教の批判がいっさいの批判の前提なのである。」710P
「ひとえに、三位一体範式そのものをマルクスは「日常生活の宗教」と見なしていたことである。『資本論』が、その末尾で、キリスト教信仰の核心(三位一体論)に言及するのは、だんじて偶然ではない/ただし、資本制生産様式が支配して、資本が生を枠どっている世界、この「魔法にかけられ、顚倒と移調され、逆立ちした」世界における、魔法と顚倒は、いわゆる三位一体範式にのみ見てとられるものではない。それは、私たちが本書の最終章で問題としたように、資本制の超越論的審級を制約する信用制度のうちにこそ、いっそう現在的なしかたで見てとるべきものなのだ。」711P
「その信(信用制度もしくは信用システムを裏うちする信)、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除することでたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読みなおさないこと」は「つねに過失」となるはずなのである。」713P

切り抜きをとりつつ、この著のもつ意味はもっと深いものがあると改めて感じていました。再読を期したいと思っています。

posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

代島治彦監督「三里塚のイカロス」

たわしの映像鑑賞メモ024
・代島治彦監督「三里塚のイカロス」2017
イカロスとはギリシャ神話の中に出てくる、幽閉されていたところから翼をつけて飛び出したものの、太陽に近づきすぎて死んだという話。
三里塚闘争に支援で入ったひとたちの思いを中心に空港公団で切り崩しを担当した職員の思いも描いた作品です。
援農から農家に結婚して入った女性、その連れ合いの反対同盟のひと、元農民運動家、強制執行に反対する闘争で穴掘りをやっていて落盤にあい「下半身不随」になったひと、管制塔占拠闘争を闘ったひと、中核派の三里塚の責任者で政治局員までいき党派を離脱したひと、それぞれの人生をかけた取り組みで、そのなかで交差する思いということが、伝わってきます。あの時代の熱気と、反対同盟が切り崩されていった、そしてそういうなかで支援の党派の対立的になってしまった他党派へテロなどの運動の行き詰まりをとらえられます。そこにひとつの運動の総括が今、問われていて、問題点が浮かびあがってきます。

新左翼運動の総括から、国際「共産主義運動」総括にまで及ぶ、総括の核心のようなことを、この映画を見ながら考えていました。まずは、武力闘争、これについては以前総括のようなことを書いているので、そちらも参照にして欲しいのですが、安易な暴力の行使に対しては批判しつつも、右翼の襲撃や、ファシストとの暴力的せめぎ合いでどうするかという問題に関して、非暴力主義ではありえないのですが、蜂起ということが必要になるかどうかは別にして、クラウゼビッツ戦争論の蜂起の一回性ということにおいて、プロパガンダとしての武力行使は認められないのではないかということで、わたしの総括の方向性を出そうとしています。
この映画のなかで、反対同盟の分裂や、そもそも当事者をさておいたセクト主義的な支援の動き、三里塚闘争を階級闘争の集中点とした方針の誤りと、政治利用主義への批判、そこにはレーニン主義的な党建設論の批判と総括、まさにパルタイ、セクト主義的な、組織の物象化ということとして総括が必要になっているのではないかと思います。
「共産主義的運動」とは、その運動がその運動が目ざす未来社会の関係性を、その運動が示している活動としてあることで、そのことに照らし、政治主義的活動の検証が必要になると思うのです。

posted by たわし at 04:51| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする