2024年04月16日

廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(2)

たわしの読書メモ・・ブログ655[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(2)
第三信「上昇的展開」と四肢構造
(この章の問題設定)「ヘーゲル弁証法の構制を第三者的に突き放して見さだめ、マルクス弁証法との異同を見較べるという手続きもさることながら、われわれなりの体系構成法を画定することを主眼と」69Pするけれど、「学史上の系譜的な位置をあきらかにするためには、若干の祖述」69Pが必要になるので、押さえの作業をするとしています。そして、「ヘーゲルにおける上昇的展開、つまり、「意識の経験の学」の展開を可能にならしめている「意識」の構造について、その特質を第三者的に見定め、後論への予備的作業を兼ねてマルクスの場合をそれと対照しておき、次いでわれわれの採るべき構図を対自化する」70Pとしています。この章からヘーゲル批判が本格化し、マルクス−著者との対話も出てきます。
     一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
第一段落――ヘーゲルの「意識」概念の概略 70-5P
「ヘーゲルの「意識」概念について主題的な討究を試みるつもりはありませんが、特質の一端を指摘し、それとの関連でマルクスにも論及しておき、拙著『資本論の哲学』(現代評論社刊)での論件との呼応を図ります。」70Pとし、
「「意識」という概念は・・・・・・大雑把な議論としては、三つのタイプに分けて整理できる」70Pとし、
「第一には、意識を以って一種の「機能」と見做すもの、第二には「状態」と観ずるもの、第三には「関係」と規定するもの」70Pとしています。そして断り書きとして
「伝統的には、霊魂という実体が想定されて」70Pいたので、
「その場面では、「機能」「状態」「関係」と申しても、実体的霊魂の発揮する“作用的機能”、実体的霊魂に内属する“属性的機能”、霊魂と外物との“相作的関係”といった相で表象されていました。しかし、近代以降になりますと、実体的霊魂が括弧に入れられたり、場合によっては積極的に否認されたりしますので、「意識」というものについての了解も変貌します。」70-1Pとしています。
そして、ヘーゲルは「「道具」説や「媒体」説の排却と相即的に、いわゆる「意識内容」というかたちでの中間項の存在を否認します。近代における意識論では普通、<対象自体−意識内容−意識作用>という三項図式を構図上の前提としますが、ヘーゲルは基本的にいって、「意識内容」という中項の存立性を否認する構図を立てて」71Pいるとし、そこでの動揺の指摘をした上で、
「が、しかし、基幹的にいえば、彼は、対象的所知と作用的能知のとの二項的関係で発想しております。ですから、彼の場合は、純然たる作用的意識を以って意識なりとする作用的機能説も、また「意識内容−意識作用」の部面を截り出して意識を定位する表象的状態説も採るわけ」71Pにはいかないとして、「意識論としては、ヘーゲルはさしあたり、一種の「関係」説の構図を採っております。」71Pとしています。
ここでヘーゲルからの引用として「意識は或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。」72Pの文を出し、「そして、このような構造的関係態である意識の吟味の途行きとしての「上昇」的展開、「意識の経験」を追跡的に観望するという建前をとっております。彼の「意識」概念の構図、これが彼の弁証法の展開の在り方を直截に規制することは更めて申し添えるまでもありません。」72Pとして、
「もう少し彼の「関係」説の構図を検討」72Pすると展開していきます。「ヘーゲルは、慥かに、一応は「関係」説を立ててはおりますが、しかし、それがどこまで関係主義に徹したものであるかは直ちに疑われ得ます。「意識は或るものを自分から区別する」という命題は一種の実体主義的な了解を背後に持ってはいないでしょうか? 根源的な存在者、おそらくは精神的な存在者が、自己を二分化(entzweien)しつつ、その区別された対項と関係する。この唯心論的な理説においては、対項はいかに「即自存在」=自体的存在と称されようとも、実質的には意識内容にすぎないのではないか。このような疑問が早速に生じ得ます。このかぎりでは、たとえ、「関係」説の構図とはいっても、状態説と大同小異であり、また、作用関係説といっても所詮は精神的な“自己”内関係にすぎないことになります。ヘーゲルが結局は観念論者であり、また、主体=実体というかたちで実体主義を残しているかぎりでは、右の疑義が窮局的には提出されざるを得ません。とは申せ、彼は自我が非我的対象を産出的に構制するような持論を避け、さしあたっては所知的対象の即自性を認め、これとの関係としての意識という提題を打ち出しつつ、この関係構造に即して自然的意識から絶対的意識への上昇的自己陶冶を説いているのですから、最終的な論判で済まして了うのではなく、少なくとも一旦は積極面を配視しておくのが順当というものでしょう。彼は、まさに関係説の構図に拠ることによって、往時の有力な理説、すなわち、一方における対象産出的な作用説、および、他方における潜勢発動的な状態説、これら両途に対して新しい第三の途を進むことができた所以でもあります。」72-3P
この「最終的な論判で済まして了うのではなく」ということが、そもそもここまでのヘーゲル弁証法との対話の著者の姿勢を現しています。ヘーゲルの途行きのとらえ返しです。
ここで、「ところで、二項的「関係」性の構図を採るとき、意識の志向性(Intentionalität)という問題や、いわゆる「知的直観」の問題と、どう絡んで来るでしょうか?」73Pと問いを立てます。
そして、「まず、謂うところの関係が外的な関係ではないこと、関係態としての意識の両契機に対して規定的な関係であること、この点を銘記しておかねばなりません。両項が自己完結的に自存していて、外的に関係づけられるのであれば、一項が他項を“在りのまま”に観取するといった“如実の直観知”が或いは可能かもしれません。がしかし、ヘーゲルの場合、当の関係が規定的ですから、一項がいかに即自的存在であるといっても、それは「意識にとっての即自存在」であり、対象は<この即自存在の意識−に対する− 存在>でしかありえない以上、「知的直観」を唱える論者の流儀には参りません。最終的な真理に到達するためには、媒介知の過程的行程が不可欠になる所以です。」73Pとして、また「意識の志向性という問題については、ヘーゲルの精神現象学と、フッサール学派の現象学との関係という問題にも通じ、それがまたマルクス主義の場合とも関係して参りますので、ここで多少とも言葉を費やしておきましょう。」73Pとして「志向性」という概念は、元々スコラ哲学から発し、ブレンターノやフッサールが論じていったことを押さえ、
「われわれ東洋の文化圏に育った者は、意識というとき、何は措いてもまず、「或るものについての意識」という相で考えますが、従って、ヨーロッパの学者たちが意識というときはまず作用的な自己意識を考えるらしいことを奇異に感じますが、ヨーロッパにおいても、近代以前にはやはり、われわれの日常的な意識観と同趣だった様子です。つまり、意識とは第一次的には、「或るものについての意識」(対象意識)であり、第二次的に「意識していることについての意識」(自己意識)であると了解され、前者の契機が「第一志向」(intentio prima)、後者の契機が「第二志向」(intentio secunda)と呼ばれた由です。」73-4Pとして、「フッサール流のデカルト解釈は棚上げにして申しますかぎり、デカルトこのかたの近代哲学では、意識を主として「第二志向」に即して考えるようになったこと、すなわち、スコラ流の第一と第二の重点を謂わば逆転させるかたちになったこと」74Pを示し、論点をヘーゲルに戻します。
「ヘーゲルの場合、彼が意識内容という中項を卻けて、即自的な対象との直接的な関わりに定位する点で、彼の第一志向は直截だと申せましょう。しかし、彼の場合、先験的な統覚(transzendentale Apperzeption)というかたちで第二志向を重視したカントなどとは異なって、第二志向=自己意識は余り強調されません。・・・・・・勿論、ヘーゲルは第二志向という契機を無視しているわけでなく、・・・・・・即自的意識と区別される対自的意識がそのまま第二志向と重なるということもありません。彼の場合、誤解を惧れずに敢ていえば、第一志向こそが基幹であって、第二志向は謂うなれば様態的な規定になっていると申すこともできましょう。この点ではフェノメノロジカル(現象学的)というより、フェノメナリスティック(現象的)です。」74-5P
そして、「このようなフェノメナリスティックな場において、意識というものを対象的所知との直接的な志向的関係、かの二項的関係性において把えていること、・・・・・・この点においてヘーゲルの意識概念は「志向説」の構図に近いと思います。」75Pとまとめます。このあたり、先走れば、フッサールの間主観性−共同主観性の概念とカントの先験性論を共同主観性概念で読みかえるところから、ヘーゲルの不備を唯物史観的に転換させていく中での、マルクス−廣松的なところへ到り着くことを予期させているのですが。
第二段落――マルクス・エンゲルスの意識概念 75-8P
「マルクス・エンゲルスの意識概念は、ヘーゲルにおける「関係」説の構図を徹底し、しかも、間主観性の契機をより直截に組み込んだかたちになっていると申せます。」75Pとして、ヘーゲルを承けたキュルケゴールやフォイエルバッハなどを押さえつつ、「マルクス・エンゲルスは、主題的な意識論こそ書き遺しておりませんが、『ドイツ・イデオロギー』のなかで、基本的な構案は提示しております。」76Pとして、その文を引用します。「環境に関わる私の関係(mein Verhältnis)が私の意識である。或る関係が実存するところ、それは対私的(für mich)に実存する。動物は、<対自的には>何ものとも“関係”しない。動物にとっては他のものと関わる彼の関係は関係としては実存しない。」76Pそして著者自身のコメントをつなげます。「マルクス・エンゲルスは、「意識」というものを、まずは「関係」として押さえます。但し、関係というとき、第三志向的な見地から関係づけるだけのケースがありますけれど、彼等は「動物は何ものとも“関係”しない」という言い方で、単なる即自的な関係は謂う所の「関係」から除外しており、この意味で、対自的(für sich)な関係に限定します。「意識は、当初的には、外部の人物や事物との聯関の意識である」。――彼等は、このような「関係」説の構図で意識を規定し、意識を以って、当の関係の対自態と了解するところから、かの有名な「意識das Bewußtseinとは意識された存在das bewußte Seinにほかならない。そして、人間存在とは彼らの現実的な生活過程の謂いである」という命題を立てます。・・・・・・尤もdas Bewußtsein・das bewußte Seinという提題そのものはフォイエルバッハのものとも言えます。眼目はあくまでも意識というものを、普通の唯物論者の場合とは違って、「脳髄的機能」とか「心理的状態」とかとてではなく、「関係」として規定している事です。」76-7Pさらに「マルクス・エンゲルスも、勿論、或る文脈では、脳髄的機能とか心理的状態とかいう規定態を容認します。がしかし、意識存在論の原理的・根底的な場面では、まずは、環境的与件との「関係」性に即して規定する次第なのです。しかも、そのさい、意識の本源的な間(「かん」のルビ)主観性を押さえています。『ドイツ・イデオロギー』では「意識の現実態は言語である」という有名な命題が打ち出されていることを御記憶かと思いますが、今問題にしている論脈では、先に引用した環境との関係云々の直前の個所で」77Pのマルクス・エンゲルスの文「言語の成立した時点、それがとりもなおさず意識の成立した時点であって、言語は、実践的な、他の人間にとって(für andere Menschen対他的に)実存するが故にまた私自身にとって(für mich selbst 対自的に)もはじめて実存する現実的な意識である」77Pという文を引用し、著者自らが、更なる引用文を含んで、コメントしていきます。「このことから、また、「意識は、かくして、本源的に、一つの社会的な生産物であり、いやしくも人間が実存するかぎり、そうでありつづける」という意識の本源的な社会性という命題が導かれます。」77Pここから、これからのことにつなげるまとめ的な文に入り「マルクス・エンゲルスの意識規定については、彼等の弁証法的な展開の論理とも絡めて検討を要する論件がありますし、『資本論』や『自然弁証法』における「意識」への関説などをも射程に収め、更にはイデオロギー論との関連性をも念頭において第一志向・第二志向の去就を追跡するといった課題が控えております。/此処では、しかし、とりあえず、以上、ヘーゲルにおける「関係」説の構図が、マルクス・エンゲルスにおいては徹底化されていること、しかも、意識の本源的な間主観性が原基的関係性の構図に組み込まれていること・・・・・・まずはこの規定的な構図を確認した」77-8Pとして、ヘーゲルに戻って次節へ話をつなげます。
     二 『精神現象学』本論の構制上の実態
序説的段落――「感性的確知」の機制 79-80P
(この節の問題設定)「ヘーゲルが「意識の経験の学」というかたちで、下降的な体系に先立てた「上昇的展開」の機制が、彼の意識概念によって如何に支えられているか、また、それが彼の意識概念によって如何に制約され、総じて彼の弁証法体系構成法を何所(「どこ」のルビ)で失敗に終わらせているか、これを見定める一助として、ひとまず『精神現象学』における本論の最初の部分、つまり、あの有名な「感性的確知」論の機制を一瞥してみたい」78P、「もっぱら論理的機制に直目」78Pして、とこの節の問題設定をしています。
「ヘーゲルは「経験」する「自然的意識」の最もプリミティヴな形態から上昇的に展開する次第ですが、「上昇の途における端初」に位する直接的な意識の在り方、それが「感性的確知」(die sinnliche Gewißheit)であり、これはあれこれの個別的な感性的対象の受納的な感知こそが最も具体的で最も真実な認識であると確信しているような意識態にほかなりません。/この意識態においては、個別的な「このもの」(das Diese)、つまり、「いま・ここに在るもの」、ないし、それの確知こそが真実であると確信されておりますが、ヘーゲルとしては、当事意識の私念とは逆に、そこでは「普遍的なもの」こそがじつは真実態とされていることを指摘してみせるわけでして、この逆転劇を三つの側面ないし階梯に分けて彼は論決します。」79Pそこで、この「三つの」のことを段落をわけて、各項として論じていきます。実はここで一つ目の階梯に入るところでは改行していないのですが、改行したこととして項的に立てていきます。
第一段落――「対象の側に定位しての検討」 79-80P
「この階梯では、対象は知られると知られざるとにかかわりなく、自体的に存在するものと私念されており、このかぎりでは、対象のほうが本質的、知の方が非本質的と了解されております。そこでは、直接的な当事意識が「単純な無媒介的に存在する」対象として確信している「このもの」とは何であるか? これを確定すべく、ヘーゲルは「いま」と「ここ」に即して分析します。」79Pとして、具体的に「いま」のヘーゲルの分析に入り、「この持続するいまは無媒介的ないまではなく、媒介されたいまである」79Pと規定し、「このような単純なもの、つまり、このものでもかのものでもないという否定によって存在するところのもの、このものに非ざるもの、それでいて、一様に、このものでもかのものでもあるところの単純なもの、われわれはこれを普遍的なものと呼ぶ。という次第で、普遍的なものこそが実際には感性的確知の真理なのである」79-80Pというヘーゲルの引用から、「尤も、この逆転劇は、さしあたりわれわれ第三者の見地から言えることなのであって、当事意識が自覚することではありません。当事意識としては、まだ、その都度の“個別的”な対象的感知を次々に確言するだけです。」80Pとしています。そこから「しかるに、言語は私念よりもより真実なもののわけで、人々は言語的に言表することにおいて、自ら、直接的に自分たちの私念を論駁する」80Pとヘーゲルを引用し、「総じて対象の側に即するとき、感性的確知の私念は逆倒している、と言わざるをえませんけれど、当事意識が自分の確信を維持するとすれば、当初における了解を部分的に修正するかたちで、対象の個別的自存性という私念から転じて、「対象は自我[私]が知るから存在するのだ」と考えることになりましょう。」80Pと、この項を結び、次項につなげます。
第二段落――「主観の側に即した分析」 80-1P
「爰でも、論理の構制は対象の場合と同じです。」80-1Pとし、「樹」「家」という具体例で吟味しつつ、これらは「無媒介的な直接態ではありません。成る程、各自が「個別的なこの私」を思念しているかもしれませんけど、言語で言表するかぎり、やはり、「すべての私」になり了ります。それは、つまり「この個別的な私」という普遍者、特定の誰彼ではなく、しかも、どこの誰ででもありうる普遍者を意味します。――感性的確知は、自我の側が個別者であり、この個別者の個別的な知なるが故に個別的な感知が真実である旨を主張するわけにはいかない所以です。」81Pと結んでいます。そこで、「対象の側」と「主観の側」とで、「個別」と「普遍」という四肢構造的な様相が現れています。そこで、次節の冒頭に繋がります。
第三段落――「対象の側でも主観の側でもなく、主客関係の「一全体」を以って「感性的確知」の本質とみなし、この個別性の「直接態」に固執しようとするありうべき第三の構えの検討」
「「この純粋な直接態は」、此のものが他のものへ移行する「他在」にも、自分と並び立つ「他の自我」にも最早かかずり合わない。「この直接態の真理は、自同的な関係として持続するのであって、当該の関係は自我と対象とのあいだに本質性と非本質性の区別を設けないし、従ってまた、そこには何らの区別も侵入することができない。……自我[私]は純粋な直視であり、……一つの直接的な関係に固執している」」81Pとヘーゲルを引用し、更に、「この相での確知は、みずから言語的に言表するということもしません。そういう個別的な一つの関係態である「この確知は、夜であるところのいま、や、夜が彼に対してあるところの私に注意を向けさせようとしても、自分の殻から出て来ようとはしませんので、『我々』観望者のほうでそれ[確知]に歩み寄って、それの主張するいまを指示(zeigen)するように仕向けてみましょう」。ということは、実質的には「われわれ」が「当事意識」に成り変わって対象的いまを指示することに帰一します。」82Pまたヘーゲルを引用して「指摘そのことが運動なのであり、いまとはそのじつ成果であり、今の集合された一つの数多性であること、そのことを言表します。指摘とは、いまが普遍的なものであるという経験にほかなりません」82Pとして「いま」「ここ」が同趣的に「「指摘される固執されるここと(いまと)は、多数の此処(今)の単純な複合」「此処(今)の単純な数多性」であることが論決されます。」82Pとして「一般論として「このもの」の指示が明らかにする実態は、「多くのこれの合在、つまり普遍的なもの」であって、「私はそれをそれが真実態においてあるがままの受け取る」ようになります。つまり「直接的なものを知る代りに、知覚する(Wahr-nehmen=真を受け取る=真理を把捉する)ことになります。」――という次第で、ヘーゲルは次のステップである「知覚」論に進みます。」82-3Pしかし、「私どもとしては」「ヘーゲル弁証法の上昇的展開の論理構制の孕む限界と難点を指摘しておくことが当座の作業課題です。」83Pとして次の節へ移行します。
     三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
 この節は段落で項的なことを書いているのと同時に、その中でヘーゲルの四肢構造論的展開の押さえを通し番号で7つ錯分子的に織り込んでいます。その7つは、「第一に」「第二に」「第三に」・・・となっているのですが、項的な番号と紛らわしいので@AB・・・としておきます。
(この節の問題設定)序説――ヘーゲルの四肢構造論への廣松四肢構造論からの批判・対話
「ヘーゲルの「意識の経験の学」は、或る意味では、“四肢的構造”に定位して展開されていると言うことが一応は可能です。ところで迂生もかねがね「意識の四肢構造的存立構造」を云々しておりますので、学兄ならずとも、迂生がヘーゲルの“四肢性”をどう評価しているか、ひいてはまた、継承の関係について問い質されるかもしれません。/世上には、迂生の云為する四肢構造論は、ヘーゲルのヴァリアントにすぎないとか、マルクスの「価値形態論」の構図を一般化したものにすぎないとか、そのような受け取りかたをするむきがあることは先刻承知しております。」83Pとし、ここではマルクスとの関係までは展開しないとして、ヘーゲルの上昇的展開の論理構制を見据えるという設定に沿った論攷を進めるとしています。
第一段落――ヘーゲルにおける上昇的展開の論理構制 84-5P
@ 対象的所知の側の二肢的二重性について
「ヘーゲルは「感性的確知」論という原初的な場面において、対象的所知を「このもの」という個別性の相で呈示しつつ、それが実際は「普遍的なもの」であることを指摘してみせます。このかぎりでは、対象的所知が二重の相で把えられていると言えます。だが、果たして、当事意識は個別的なこのものと単なるそれ以上の普遍的なものとして、このものを謂うなれば個別性と普遍性との矛盾的な統一体として、二肢的二重性の相で対自的に意識しているのでしょうか? 当事意識は対象をば個別的なものとして感知し、「我々」観望者はそれが実は「普遍的なもの」であると認定する――“同じ”対象が、一者にとっては個別的なものと私念され、他者にとっては普遍者と認識される――という具合に、両規定の各々が当事意識と我々とに振り分けられてはいないでしょうか? この点はじつに微妙です。・・・・・・少なくとも第一階梯の内部では、当初の私念における個別的なものが単なる個別ではなく同時にじつは普遍的なものであるという対自化、そのような意識的進展はみられません。第一階梯の内部では、当事意識にとって(für es)とわれわれ哲学的観望者にとって(für uns)とが分裂したままであり、どちらの意識にとっても対自的には二肢的二重性は存立しておりません。拙速を憚らずに言えば、前便でみた「緒論」では、ヘーゲルは「意識にとっての即自存在」と「この即自存在の意識に−対する−存在」との二肢的二重性を押さえており、この両契機の不一致を転機とする進展の構制を予示しておりましたが、第一階梯ではこの自己吟味の構制は生かされていないように見受けられます。」84-5Pと展開しています。以前書いたわたしの取り違えの元になりますが、ヘーゲル的観望は、二重の導き手的存在を措くことになるから、哲学的観望にはなりえない。「観望」の違いに留目すること。
A 能知的主観の側の二肢性について
「感性的確知論においては、能知的主観が、個別的な私という相で登場し、それがわれわれの見地からみれば普遍的な私、謂うなれば諸々の私が代入されうる一種の函数ƒ(χ)的な普遍者であることの指摘はおこなわれます。が、少なくとも第二階梯の内部では、私念されている個別者としての私が単なる個別者以上のものであること、私は同時に普遍者でもあるごとき個別者として“二肢的な自己矛盾的な二重性の統一者”であること、このことは対自化されません。要言すれば、フェア・エスなる個別者とフェア・ウンスな普遍者との分立相、この意味での二重規定はみられますが、そして、この二重性がやがては統一される筈なのですが、しかし、感性的確知の次元では当事意識の二肢的二重性は対自化されることなく、次のステップへと進行してしまいます。総じて、能知的主観に関する第二階梯でのヘーゲルの立論は、対象的所知に関する第一階梯での立場とパラレルですから、対象の側に即して上述したところがmutatis mutandis(必要な変更を加えて)妥当する筈です。」85P
第二段落――ヘーゲルは四肢構造が押さえられていないこと、弁証法の配備の不備 85-9P
「ヘーゲルの場合、所知の側についても能知の側についても、一応は二重的規定性がみられ、そこに俟って、甫めて彼の展望が可能になっていることは確かなのですが、しかし、対自的な二肢的二重性、両契機合わせて都合「四肢的な構造」ということは彼の「意識」の原基的な構造としては押さえられておりません。二肢それぞれの存在性格の討究といった次元に立ち入れば、卑見との相違が愈々大きくなりますが、さしあたり構造上の形式面だけから申しても、ヘーゲルは四肢的構造を真には把えていないと評さざるをえない所以です。」と押さえて、「爰で、第三の階梯に即した議論に進む前に、敢て銘記しておきたい」85-6Pとして3つの提起をします。なお、これは、この節の冒頭に書いたように、ヘーゲルの不備の指摘として通し番号にしています。
B 前記の二項に併せて、意識の基礎的な構造の把え方に関わる論点として、当事意識の本源的な間主観性が逸せられていること
「この件については、「相互承認」ということが問題になる「自己意識論」以降の問題だと言われかねませんが、自己意識論においても「自我」(他人)が対象として登場するだけであって、真の間主観性にはなっておりません。或る意味ではヘーゲルが間主観性を説こうと腐心しておりながら、ついに成功しなかった理由の根本は、意識の本源的な構造の場面で間主観性を逸したことにあると言うこともできます。勿論ヘーゲルが自己意識以降の個所で間主観性の問題を扱っている事実に鑑みれば、ここで云々するのは拙速というものですけど、当座の文脈では、此の私は「これは樹である」と言い、他の私は「これは家である」という「臆言」合戦の相以上では自他の関係が勘案されていないこと、しかも両者の間には「対話」が成立していないこと、この点を看過できません。感性的確知の私念が両つの「私」の対話を通じて変化していくわけではありません。成程、ヘーゲルは、両者の臆言合戦によって「一方の真理は他方の真理のうちで消失する」旨を述べてはおります。が、しかし、直ちに「このさい消失しないのは、普遍的なものとしての私であり」云々という議論で承けていることからも判りますように、私念の内容が対話を通じて止揚されるという機制になっておりません。」86-7P
C そのうえ、当事主体われわれのあいだにも対話が成立するわけではないこと
「対話的構造は、当事主体とわれわれのあいだにすら存立しません。このことは「緒論」で、当事意識の自己吟味が云々され、「われわれ」哲学的観望者は静観するだけだと、言明されていた機制からいって、当然といえば当然のことですけれども、対話なき弁証法というこの“特徴的事実”は銘記に値する筈です。実際問題としては、勿論、ヘーゲルは建前に反するかたちで、一種の対話的進行をおこなわせてはおります。しかしながら、感性的確知論の範囲でいうかぎり、当事意識は二肢的二重性を対自化しませんので内なる対話をおこなうわけでもなく、また他の自我とのあいだに対話をおこなうわけでもなく、「われわれ」とのあいだの対話をおこなうわけでもない。こういう意想外な機制になっていることを否めません。」87Pこの後に、「観望者」という概念がでてきます。この「観望者」はエンドクサを展開する「観望者」で、さらにwirという概念をヘーゲルは曖昧に使い、術語的にも使っている旨を書いています。また「ヘーゲル本人にとっては、esとwirとの呼応的機制ということが喧伝されているほどに重視されていなかった」88Pということを書いています。そもそもヘーゲルには哲学的観望者としての「われわれ」というものが、根源的に存立し得るかということがあります。絶対精神とエンドクサをもつ「われわれ」としか、存立し得ないのではないかと思ったりしています。このあたりは、ヘーゲルの読み直しが必要になります。
D 間主観性とも本質的に関係する否定ということの取扱いついて(の)問題(性)
「「否定」ということは、弁証法においては特に重要な概念」88Pと押さえたところで、「ヘーゲルにおいては、対象的規定における「相違」ということと「否定」ということとがしはしば重なってしまいます。彼はスピノザを踏んでomnis determination est(すべての規定は否定なり)と言うのですから、彼にとってはそれは当然かもしれませんけれども、これは戴けません。弁証法的否定は、対象変容的な否定であり、故にこそ「否定の否定」が元の木阿弥の単純な肯定に還らないわけでして、ここでは否定における作用ということが問題になる筈です。しかるにヘーゲルの場合、この点での構制がはっきりしておりません。同趣の問題が「肯定」の場合についても当然生じます。それでは一体「肯定」と「否定」はどのように定位されるのか? ここでは、「異・同」や「有・無」との関係に主題的には立ち入りませんが、卑見を結論的に申せば、肯定・否定ということは間主観的な場面で、謂わば“対話的”な構制の場において成立するものの筈です。(ところが、普通には、それが物象化されて、しばしば対象そのものの自存的な内的契機であるかのように見立てられており、このことから悲喜劇的な混乱が各方面でおこっている次第です)。二肢的二重性において指定される“対象”(これは二肢的二重性の構造において、謂わば“原始的判断”の構造成態)の自分への帰属性、対自己的帰属性と対他者的帰属性、この場面における同感と違和から肯・否が岐れるのではないでしょうか。そして、不協和を介しての対象的措定の変容、それがいわゆる弁証法的否定の対象変容的能作なのであって、否定作用といっても、何かしら物理作用に類するかたちで対象を変化させるわけではない道理です。・・・・・・真実には、一者が命題Aを主張し、他者が命題Bを主張するという対立、この相違・対立を両者が自覚するところから、相互に相手の主張の「否定」ということが生じるのではないでしょうか。そして、この相互的な否定の対自化および自己の主張の相対化という“対話”的構制において、「これ」なるものは、樹でも家でもなく且つ樹でもあるのだということ、この意味で謂わば函数的な普遍であるあることが“対話”的構制を通じて当事主体本人に対自化され、上昇的止揚が生じるというのが実態ではないでしょうか。しかるに、ヘーゲルは否定ということを初めから対象化してしまっており、このような対話的な対自的上昇の構制をとっていないことは上述の通りです。」88-9P
第三段落――言語による言表と直接的指示取扱いを巡る問題(第三階梯) 89-92P
(この項の問題設定)「ヘーゲルにおいては、「関係」態としての意識の対自的・対他的な間主観的帰属性の構制が原基的な構図として押さえられておらず、そのために上昇的展開が建前上は“対話的”な進展にはなりえない形に陥っていること」89-90Pこのことを念頭において次の検討に入るとしています。
E 言語による言表と直接的指示の取扱いを巡る問題
「ヘーゲルにあっては、「言語」というものが――これを以って「意識の現実態」とするマルクス・エンゲルスとはおよそ異なって――間主観的な対話的交流の脈絡を捨象されて、殆んどもっぱら主体−客体の関係の場で定位されます。勿論言語の間主観性を全く捨象してしまうことは不可能であり、ヘーゲルといえどもそのことを忘れているわけではありません。がしかし、いわゆる『イエナ実在哲学T』で言語の問題を扱った当初から、彼の場合、主・客を媒介する道具としての定位が強く、本源的な間主観的存立性が明示的でない憾みが遺ります。・・・・・・ヘーゲルとしては、「指示」機能と「言表」の機能を区別し、前者はむしろ言語以前的な機能と考えた様子ですから、外在的な批判をしても始まりません。それにしても、しかし、ヘーゲルは、今は夜である、今は昼である……といった一連の提題から、「今」の普遍性を立論するさいに、“今”という語で指示される対象とこの語の表わす意味とを混淆してはいないでしょうか。感性的確知が対象の個別性を私念しているのは、指示される対象的与件の在り方のはずです。ところが、ヘーゲルは、「今」という言葉の意味に話を摩り替えて、意味の普遍性を指摘することによって済ませております。・・・・・・第三階梯の「指示」ですけれど、この階梯では、対象の側でも、主観の側でもなく、主客関係の一全体の個別性という確知が検討される建前になっております。しかも、「われわれ」のほうが歩み寄って、当事意識と謂わば合一することにおいて、当の「直接態」を指示してみせるという触れ込みです。ところが、実際の認識内容は「いま」と「ここ」の指示にしかなっておりません。尤も、ヘーゲルとしては対象のいまやここでなく、主客関係態のいまやここを指示したつもりだとも考えられます。この点で、第一階梯とは違うつもりなのでしょう。その点は認めたとしても、しかし、彼が論定しているのは「いま」および「ここ」が「今の単純な数多性」「此処の単純な数多性」であること、このことであって、件の全一的直接態の検討は全然おこなわれておりません。主題が摩り替えられてしまっております。そのうえ、「今」は指摘したとたんに過去(今ならざるもの)に変じてしまうと言い、「この指摘においてわれわれが見るのは一つの運動である」と言うとき、この運動は弁証法的な措定を通じて生起するのではなく、謂わば外的な、つまり、時間というものが絶対的に流れることに負うかたちになっております。つまり、運動が外在的・既在的です。この自動的な遷移の在り方でも、第一階梯の議論の埓を出るものとは認められません。・・・此処についても同様に論じられるとして・・・「いま」というのが「一日」というような幅のある今であること、「われわれ」の見地からはそうであること、このことがともかくにも立論されており、「いま」の普遍性といっても、抽象的な普遍ではなく、「一即多」なる「一」として論決されていることは一応認めてよいでしょう。がしかし、これが果たして個別性と普遍性という矛盾の統一でしょうか? 知覚論への移行の文脈その他でヘーゲル自身が認める通り、それはさしあたり「多の合在Zusammen」にすぎず、二肢的二重性の統一とは呼べそうにありません。こうして、「指示」される個別性といっても、「瞬間」や「点」ではなく一定の拡がりがある「このもの」であること、そして「拡がり」があってもやはり「一つのこのもの」であると認められること、他方では、この「このもの」に関する「言表」は謂うなれば函数的普遍性の性格をもつこと、確保された論点は如上に帰趨します。そして、これら二つの契機は二肢的二重性の相で統一されることなく、「一即多」としての「一」のモメントに定位して「知覚」の次元へと進む次第です。」90-2P
第四段落――暫定的小括 92-5P
F 暫定的小括
「ヘーゲルの論述では、「われわれ」が謂わば当事意識に成り変わって「指示」を試みたかぎりで、「われわれ」にとっては「一即多」が明らかになったわけですが、このことを当事意識が対自的に「経験」する経緯は何ら示されておりません。・・・・・・一体、感性的確知の内部では、どのようにして上向的展開が進行したのか当事意識の「自己吟味」がどう進展したのか、悠々疑問が深まるばかりです。既に指摘しました通り、ヘーゲルは、対象の二肢的二重性を把えませんので、「結論」にいう「即自存在」と「これの意識に対する存在」との一致・不一致を対自的には吟味しません。ですから、この自己吟味による進展は「感性的確知論」の内部では存立しえない仕儀になり了ります。・・・・・・次にまた、能知的主観の二肢的二重性を対自的に把えませんので、「内なる対話」を通じての進展の途も保証されません。更にはまた、他者と自己とへの対象的措定の帰属性、対他的帰属と対自的帰属、遡っては、他者の存在ということ、これを原基的な構図に組み込んでありませんため、「対話」的構制での進展も、少なくとも感性的確知の場面では、成立しません。そのうえ、「当事意識」と「われわれ」とのあいだにも対話は成立せず、一者の「経験」と他者の「観望」があるのみです。このように省みてみますと、「感性的確知論」の内部では、およそ上昇的進行が生ずべくもないはずなのです。」92-3P
「こうして理屈の上では、上昇的展開が進行すべくもない筈のところ、何とか“進展”するのは一体なぜどうしてなのか? その“秘密”を考えてみましょう。迂生自身としては、四肢的構造に定位しつつ、まさに対自と対他との対話的構制(このさい「われわれ」が対話の一方の当事者になる場合も含めます)を軸にして、弁証法的自己吟味の論理的展開を定式化したいのですが、――また、この視角からマルクスの弁証法を問題にする次第なのですが――、ヘーゲルの論理構制は、嚮に見ました通り、そうなってはおりません。とは申せ、擬似的な四肢性に定位することによって、あたかも対話的進展であるかのように読者をして思わしめる仕掛けになっており、そのゆえに、かにかくにもヘーゲル一流の“弁証法的展開”が進行する所以となります。この間の事情について稍々敷衍しておきましょう。」94Pとして「ヘーゲルの立論を「読む」者は、或る時には当事主体の立場に身を置き、或る時には著者たるヘーゲルの立場(我々ということで読者も著者たるヘーゲルに捲き添えにされる)に身を置きます。ヘーゲル自身は、建前上は観望するだけで、当事主体と対話しませんし、「我々」哲学的観望者も、当事主体と別の見方をすることはあっても、それを積極的に押しつけることはしません。だがしかし、「読者」は当事主体の立場と著者(ないし「われわれ」)の立場と両々扮技することにおいて、自分の内で“対話”します。というより、自分の内で、当事意識と「我々」とを対話させます。・・・・・・読者は、この内なる弁証法的対話を通じて、自から“向上”します。・・・・・・“内なる対話”が読者の“内”で進行する・・・・・・「読者」の“内なる対話”においては、対象的二契機と能知的二契機とが、読者の内的営為において四肢的な構造連関におかれるわけです。こうして、読者は、自分の内部で四肢的構造の論理構制を“自演”させられ、この自演的向上を「当事意識」の向上的展開と見做してしまう次第です。」94-5P
「爰では、ヘーゲルの「狡智」を難じようというのではありません。「読者」の内的過程としては、慥かに四肢的構造に定礎した弁証法的進行が実現するということ、こういう仕組みになっているかぎりで、ヘーゲルの上昇的展開法は――彼が論述するかぎりでの論理構造に即すれば必ずしも弁証法的進展が保証されない形になっているにもかかわらず、――弁証法的上昇の論理として実効性をもつことを追認できます。ヘーゲルにおける「上昇的展開」の論理構制のこの“秘密”を察知したからには、われわれとしてはあらためて「著者」と「読者」という契機を自覚的に組み込んで体系構成法を構築してしかるべき筈です。」95P
第五段落――まとめ 96P
「さしあたり、「感性的確知」論の内実という論材にしぼってでありますが、ヘーゲルの上昇的展開の実際が必ずしも「緒論」での定式の形通りにはなっていないこと、四肢的構造も擬似的であること、突き放した言い方をすれば、ヘーゲルの表層的論理では弁証法的進行は生ずべくもないということ、この種の指摘を延々とおこなったのは、何もヘーゲルを貶しめんがためではありません。彼の体系構成法の“秘密”を対自的に把え返し、それを自覚的な構制として組み込みつつ、真に弁証法的な論理構制を方法論化しようというのが趣意だった心算です。」96Pそこで次箋(章)の予告として「遺された案件に先立てて、「下降の途」についてその論理構制を問題にし、マルクスの弁証法における「下向・上向法」にもあらかじめ言及するのが順路かとも思います。」96Pとこの章を括っています。

第四信「下降」の途と上向的論述
(前便のまとめ)「前便では、ヘーゲル哲学における「意識」概念の特質を追認したうえで、『精神現象学』の第一章に即して「上昇」的展開の仕組みを、一瞥しておきました。――ヘーゲルのいう「意識の経験の学」は、一見したところでは四肢的な構造に定位しているかのようにみえますが、しかし、当事意識そのものの構造としては別段四肢的になっているわけではないこと、従って亦、当事意識は内的な対話をおこなうわけではないこと、「われわれ」(つまり、für unsといわれるさいのwir)とのあいだにすら対話的な構制が存立しないこと、それにもかかわらず、あたかも対話的構造での進展に想えるのは、「当事意識」(経験する意識es)の思念と「われわれ」(哲学的観望者wir)の認定という二重の措定を「読者」がその都度“裡”で扮技させられるため、謂うなれば「読者」の内において“対話”が進行する所為(「せい」のルビ)であること、・・・・・・/ヘーゲルが『精神現象学』の緒論で説く上昇的展開の方法論的機制からすれば、意識対象の二肢的な二重性、そこにおける二契機の“別異”性の対自化が進展を動議づける建前になっておりますけれども、「意識の経験の学」の上昇的展開の機構は、実際には、必ずしもそうはなっておりません。二肢的二重性の対自化は「われわれ」においてさえ、十全にはおこなわれないのが実態です。という次第で、二肢的二重性の対自化、ひいては四肢的連関性の対自化、これと相即する対話的構制ということが実際問題としてはもっぱら「読者」の営為に委ねられているのだとすれば、ヘーゲルの行論にとって「当事意識」という主体も「われわれ」という主体も必須ではないことになります。肝要なのは、「当事意識」が私念的に主張する提題と、「われわれ」が評定的に主張する提題、これら両つの主張内容であって、それを主張する主体は明示の要がありません。両つの主張内容が「読者」の裡(「うら」のルビ)で対話的に交錯し得れば足ります。露骨に言い換えれば、著者たるヘーゲルが「読者」の裡に両つのしかるべき提題を順次に泛かばせ、「読者」の内なる“対話”を通じて両提題を止揚させることができればそれで十分だということになります。/『精神現象学』以後の著作では、少なくとも表面的にみるかぎり、「当事意識」対「われわれ」という概念装置が消失します。勿論、或る種の文脈ではfür unsという道具立てが現われることもあり、歴史哲学その他でfür esということがあらためて重要な場面になる場面があります。また、即自とか対自とかいう概念の含みのうちにfür es, für unsという道具立てが“止揚”されているむきもあります。がしかし、基幹的な道具立てとしては表層から退きます。」97-9P
(この便・章の問題設定)「本箋では、以上のところを念頭に収めて、「下降」的展開の論理構制を一瞥し、さらには、マルクスにおける下向・上向の方法論的含意をも顧慮しつつ、われわれの採るべき体系機制法の対自化を行っていきたいと念います。」99P
     一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
第一段落――下降と円環運動 99-101P
「抑々ヘーゲルの弁証法が「上昇」と「下降」の二途から成るという立論そのものからして学界の定見とは言い切れません。「学の体系第一部」として上梓とれた『精神現象学』――というよりも、当初予定されていた予備門ともいうべき『意識の経験の学』――が一種の「上昇」的展開を事とするものであることは割合いと広く認められると思います。がしかし、『精神現象学』の「序文」には、あの有名な「円環」云々の立論が見られます。それは、『大論理学』はもとより『エンチクロペティー』ゃ『歴史哲学』などでも復唱される持論であって、「自分の終局を自分の目的としてあらかじめ立てておいて、その終局を[循行の]端初となし、[循行運動の]遂行によってのみ、そして自分の[復帰した]終局によってのみ現実であるような円環」という議論です。『大論理学』の端初論のなかでは、「学にとって重要なことは、純然たる直接的なものが端初である、ということではなく、学の全体が、そこにおいて最初のものが最後のものでもあり、最後のものが最初のものでもあるような、円環運動をなすことである」と表現されております。円環運動である以上は、上昇・下降というような往復運動、ないし、折線上の運動はそもそも存立しないと言うべきではないでしょうか?」99-100P
「円環運動ということが余り無理をせずに言えるのは、第一に「論理学」、第二に「実在哲学」、第三に「論理学と実在哲学とを合わせた全体」(つまり、当初の予定では、「学の体系第二部」、後年の変更では『エンチクロペティー』に体現された「学の体系の全体」)、これら三様の体系に限られます。」101P
第二段落――円循環ということの破綻 101-6P
「ヘーゲル自身が言う「円環運動」とは、さしあたり、絶対者から出発して絶対者へと到達(還帰)する循行ですから、出発に即すれば下降、到達に即すれば上昇ということになり、・・・・・・/円環運動という言い方をヘーゲルが採ったのは・・・・・・主体=実体たる絶対者の自己疎外と自己恢復という神学的表象に照応させたものであること、・・・・・・『精神現象学』の序文で円環が云々されているのは、このようなヘーゲル哲学=神学の意想に即してであり、現に本文の終局たる絶対知論ではこの意味での円環の閉じ(完現)が立論されております。論理学から自然哲学を経て精神哲学に及ぶ体系も慥かにこの意味での円環になっております。(但し、論理学は「天地創造に先立っての神の思惟」にすぎず、論理学の終局たる絶対的理念から自然哲学への移行こそが「創造」に照応するかぎりでは、「実在哲学」の部分が実在的な円環運動になります)。存在論的ないし神学的な視角からみれば、神から出発して神へと帰向する運動、それが謂う所の円環運動にほかりません。」102-3P
「ヘーゲルとしては、しかし、このような存在論的了解と認識論的了解ないし論理学的意想とを“巧みに”重ね合わせます。ヘーゲルがこの着想を固めた機縁としては、二つのことが忖度されます。第一には、論理学(および「実在哲学」を含めての体系)の「端初」を権利づける脈絡、第二には、ラインホルトの方法論による触発です。これら二つの契機は勿論緊密に絡まっております。・・・・・・」103Pここで、ラインホルトへのヘーゲルの解説に入ります。「哲学は仮設的・蓋然的な真理をしか端初とすることができず、従って、哲学的営為は当初は探究でしかありえない、という考えであって、ラインホルトが彼の晩年に彼が繰りかえし力説したところである。・・・・・・(ラインホルトの見解においては)哲学においては前進はむしろ背進・定礎[Begründen=根拠づけ]であり、背進・定礎によってはじめて、端初とされたのが恣意的な想定ではなく、実際に、真理であったこと、しかも最初の真理であったことが両々明らかになる。・・・・・・最初のものが同様にまた根拠でもあり、最後のものは導出されたものである。最初のものから出発して正しい推論によって根拠として最後のものに到達するのであるから、この根拠こそ成果である」103-4Pここで、廣松さんの論攷になります。「前進とはとりもなおさず背進であるとい提題は、普通の場合、いわば直接的に、次々に根拠を遡っていくことを意味します。これでは、しかし、無限背進に陥りかねません。ヘーゲルは、これに対して、あの円環運動という表象を持込むことで、解決を図るわけです。ヘーゲルの場合時計になぞらえていえば、針が前進(出発点である十二時のところから遠ざかる)運動をすることが、逆向きに見れば、出発点に近づいて行くことを意味し、やがて、前進運動の果てに出発点に復帰する所以になります。こうして、出発点は、一面から見れば、そこから他が導出される根拠・原理であり、かつ同時に、他面から見れば、円環運動の連鎖によって根拠づけられる成果である、という次第です。」104P
「ヘーゲルの円環的論証行程という議論は、狭義の「論理」の次元でみるかぎり、たとえ真無限を云々してみたところで、所詮は循環論法という嘲笑を免れ得ないと思います。」104-5P
「翻って、ヘーゲルの行論の実際に即するとき、論理的には決して循環論法にはなってはおりません。・・・・・・ヘーゲルは無規定的な直接態から出発するわけでして、これは普通の意味での論理的根拠にもなりえなければ、論理的成果にもなりえません。端初がfür unsには既に絶対者だと言っても、認識のうえ、論理的行程のうえでは、無規定的な直接態は論理的循環の“環”を形成すべくもない筈です。存在論上の思い込みとしては前進=背進のつもりであるにせよ、論理的体系としては到底円環運動になっていない次第です。ですから、一面からいえば、ヘーゲルの体系は循環論証という非難を免れますし、他面からいえば、円環運動による端初の根拠づけという自称が論理的には成り立たないことになります。/「このもの」(das Diese)を対象とする感性的確知から絶対知へと高まっていく“精神現象学”の場合であれ、「純粋有」に始まり絶対精神に終る後年の場合であれ、同断です。」105P
「認識論上の論理展開としては、「学の体系第一部」では、直接的意識にとって具象的な次元から絶対知へと辿り着く途が歩まれ、「学の体系第二部」では直接的な意識にとっての抽象的次元から具象的・被媒介的な規定態への途が歩まれるわけで、このかぎりでは方向が逆になっており、これらはとうてい円環運動の前半・後半というような布置にはなりません。前者が「われわれにとっての先なるものから」の途、後者が「事柄にとっての先なるものから」の途にそれぞれ照応するとも申せるでしょう。」105-6P
「ヘーゲルの論理的展開の実態に即するかぎり、こうして、『精神現象学』においては原理(「アルケー」のルビ)へと上昇する途が歩まれるのに対して、「論理学」以下の体系では原理から下降する途が歩まれるということ――ヘーゲル本人の円環云々とう発言にもかかわらず――このことが認められます。けだし、われわれとしては、ヘーゲル弁証法における「下降」の途とそこにおける論理の機制について論件となしうる所以です。」106P
     二 下降の三様式――移行・照映・発展
第一段落――ヘーゲル弁証法の没論理性 106-13P
 前節との繋ぎを「この問題はマルクスが上昇(所謂「下向」)の途は学問的叙述以前のたかだか探求の手続にすぎないものと位置づけ、下降(彼の用語法では「上向」)の途だけを学にふさわしいものと見做した事情とも関係します。」106Pとして示し、ここからこの節に入っていきます。「アルケーからの「下降」的展開というとき、存在論上の構図としては、幾つかのパターンが考えられます。」106Pとして三つのパターンを示します。@「プラトン学派式の「流出」(emanatio)、つまりアルケーから具体的な諸定在が成層的に順次流出して形成されるという構図。」A「ミレトス学派式にアルケーが具体的な諸定在に現成するという構図。」B「フィヒテ流に、アルケーが自己を外化して具体的な諸定在へと転成するという構図。――・・・・・・「化体の構図」・・・・・・――」106-7P
「ヘーゲル哲学の場合・・・・・・総じては、主体=実体たる絶対精神の自己外化(Selbstentäußerung)と自己恢復という構図の点で、第三(B)のパターンに属することは申すまでもありません。しかし、これは存在論上の構図の話であって、・・・・・・彼は決して謂わば外部的に当の外化運動を描写するのではなく、学理の体系的展開としてはアルケーからの下降的展開を固有の内在的論理に則って方法的に遂行する姿勢をとります。ここに謂う方法的な展開の論理、それが下降の途における弁証法にほかなりません。」107P
「ヘーゲルにおける下降の論理が最も直截に顕われているはずの『論理学』に即して、・・・・・・「否定の否定」といった図式を措くかぎり、一貫した論理らしい論理の構制は、これといって存在しません。・・・・・・『精神現象学』の場合には、実情はともあれ、建前のうえでは、あの「緒論」で表明されているような、一貫した上昇の論理構制が存立します。それにひきかえ、『論理学』の場合には、ヘーゲルなりに一貫した“構制”があるにはちがいないのですが、マルクスも指摘する通り、実に奇妙です。」107P
「ヘーゲルの論理学は、ご承知のように、有論・本質論・概念論という三つの会下位部門から成っており、前二者が合して客観的論理学、概念論が主観的論理学と呼ばれます。そして、論理的進展のありかたが、各部門で相違します。ヘーゲルが『エンチクロペディー』の一六一節でみずから総括的に述べておりますように、進展のありかたは、有論では他者への「移行」(Übergehen)、本質論では固有の他者への「照映」(Scheinen)、概念論では「発展」(Entwickeln)です。・・・・・・・一通りこれらの各々を調べてみる必要がありますが、ここでは幾つかの典型的な部位を一瞥することで次善と」107-8Pする、ということで、この段落の続きでは有論――「移行」について展開しています。@有論――「移行」A本質論――「照映」B概念論――「発展」と番号を振って、メモをとります。
(@ 有論)「まず、有論冒頭の余りにも有名な「有・無・成」のトリアーデですが・・・・」
108Pで、ヘーゲルの引用をしています。今回は情報吸収よりも廣松理論の学習ノート取りをしているので、省きます。廣松さんの押さえから「ここでの進展、つまり移行の論理構制を見定めるためには、有といい無といい成といっても、これらは主語というよりもむしろ述語である」109Pとして「述語づけを抜きにしては、ないしは述語づけに先立っては、概念上はまだ、謂わば空虚なXたるにすぎない。そういう主語を殊更に茲で持出して命題(定義)のかたちにすることは無用であるばかりか、概念ならざる表象的規定が混淆的に泛ぶので有害ですらある。」109Pとして、「ヘーゲルとしては「絶対者は有である」「絶対者は成である」というような命題の形での措定を避けます。がしかし、内容的には、「論理的諸規定はすべて絶対者の諸定義」にほかならないということを銘記してかかる必要があります。」109Pとして
「このことを念頭において有・無・成という進展を分析してみましょう。」109Pと細かい展開に入ります。「第一段で、絶対者(といってもまだX)は「有である」ことが措定されます。が、この「有」という規定は、端初のここでは、「無規定的で単純な直接的なもの」にすぎませんから、「純粋な抽象」「絶対的に否定的なもの」であり、従ってこれを「直接的に受けとれば」、無と言うも同断です。こうしてXは無であるという第二段が措定されます。ところで、「有」と述語づけされるXと、「無」と述語づけされるXとは、実は同じもの(絶対者)ですから“当のXは有であり且つ無である”という矛盾命題が定立された所以となります。しかし、単にそのかぎりでは、つまり「有」かつ「無」という措定のかぎりでは、矛盾であっても、「成」とは言えない筈です。有から無への移行(消滅)、無から有への移行(生成)があってはじめて「成」と言えるようになります。だが、この「移行」(厳密には「移行してしまっているということ」)はどこから生ずるのでしょう。」109-10Pと著者は問います。そして「移行が生ずるとすれば、それは「読者」が同じ主語的対象について「有(無)である」という認定から「無(有)である」という認定へと推移することを俟ってです。「読者」が一箇同一の主語=対象に関して“先程は有(無)であったが今では無(有)である”と“統一的に”認定すること、「移行」はひとえに、この「読者」の認定に懸っております。」110Pと答えます。そして「著者たるヘーゲルは「読者」の裡なる認定を推移させ、しかもそのさい主語=対象の自己同一性把持させるかぎりで、「読者」の裡で認定の移行が生じ、「正・反」両命題の“内なる対話”を通じて“否定の否定”たる「合」が現成する。これが実態です。しかるにヘーゲルは、あたかも、「正」がそれ自身で「反」に移行し、正反が相互に移行し合い、「合」がひとりでに現成するかのように論じます。」110Pとして、「併せて指摘」110Pするとして
「ヘーゲルの建前では、有論の範囲における進展は移行というかたちをとることになっておりますけれども、実地には必ずしもそうはなっておりません。また常に正反合というかたちの進展になっているわけでもありません。先にも引用しました通り、「成はそれ自身の内なる矛盾によって崩壊し、有無がそこで止揚されているごとき統一となる。その成果が定有である」という仕方で、「成」から「定有」への進展が説かれます。」110-1Pそこから「或る意味からいえば、「成」と「定有」とはまったく同じものであって、合の相でみるか、一つの正の相でみるかの見方の相違にすぎない」111Pとして、「実態においては、「読者」が「成る」という相での把握から「成ったもの(=定有)」という相での把握に推移すること、これにつきると言うべきでしょう。ここには、いずれにせよ、反立的な否定による進展も、自動的移行も存在しません。」111Pとします。
 さらに補足として「「移行」の典型たる「定有」の場面での進展の構成」111Pをみるとして「「定有するもの」たる「或るもの」(Etwas)は「その質によって第一に有限であり、第二に可変的であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。或るものは他のものになる。だが、この他のものはそれ自身一つの或るものである。ゆえに、これも同じく一つの他のものになる。かくして、[悪無限的に]限りなく続いていく。」111Pと展開しています。さらに「しかし、定有が「可変的(Für-anderrs-sein) 」であるという論点は、『小論理学』の場合、全く唐突に、何らの説明ぬきに断定されるだけです。そしてこの断定にもとづいて、「他のもの」への移行ということが論断されます。ここには論理の飛躍があるどころの話ではありません。」112Pとして「「読者」は、有限な存在者と聞けば直ちに可変的ということを納得してしまうものと当てにされている風情です。そして、そのかぎりで、定有は有限なり、エルゴ、定有は可変的なり、エルゴ、定有は別の定有に「移行」する、というように、有論の範囲における進展のありかた、つまり「移行」ということが没論理的に強弁されている始末です。」112Pとこの項をまとめています。
第二段落――「照映」と「発展」 113-7P
 第一段落で有論――「移行」について展開していて、ここでは、後の二つ、本質論――「照映」と概念論――「発展」についての展開になっています。
(A本質論)「本質論の場面におけるヘーゲルは、対策に内属する固有の性質と称されるものが、実はことごとく関係規定の反照である」113Pと押さえ、「関係の一次性の洞察ともいうべきこの観方は、既に定有論の個所にもみられますが、本質論においては、それが「固有の他者」との照影的反照の関係として論定されます。これは瞠目すべき議論です。がしかし、本質的存在を関係規定の相で把え返すということは、そのまま直ちに論理的進展を意味する筈はありません。」113Pとして、『大論理学』『小論理学』からの引用に入っています。
それを受けて著者の展開「本質の次元における諸規定は、一見したところ、それぞれ自己完結的にみえ、それ自身で当の規定であるかのように思えますけれども、実際には、固有の他者との反照規定という相での対他的関係規定にほかなりません。同一性といい、積極的なものといい、それ自体で同一とかそれ自体で積極とかであるわけではなく、固有の他者たる区別とか、消極とかの反照関係においてのみ同一性であり積極的なものであるわけです。これは、決して単なる外面的な反省、単なる概念規定上のことではありません。磁石の北極と南極など、一般に「両極性」(Poalität)と呼ばれるものを考えてみれば、それが実在的な反照的関係規定であることが判ります。ここまでは正当な指摘です。ところがヘーゲルは、こういう両極的な対立項の各々は即自的にも対自的にも、当の他者と「同じもの」(dasselbe)であると強弁します。つまり、同一事態(一箇同一の関係態)の両契機だという域をこえて、両契機の各々が他者を自分自身のうちに含むという言い方をします。そして、この矛盾、つまり、「同じもの」が対立的両極の、一者であり且つ他者でもあるという矛盾から「没落」が生ずると強弁するに及ぶ次第なのです。/ヘーゲルが説く「照映」というありかたでの進展、本質論の場面における進展の論理、これが無理を孕んでいることは詳しく指摘するまでもありますまい。反照ないし照映はそれ自身としては存在上の進展をもたらす筈もありません。進展が生ずるとすれば、それは「読者」が“項”ないし“極”を自己完結的なものとして悟性的な抽象態において固定していた思念から、反照的な関係規定態に即した概念的把握へ進むこと、この把え返しに際して、悟性的に固定化された抽象的規定を述語にするかぎりでは矛盾的対立の両極的被措定項が止揚(正・反・合)されること、著者たるヘーゲルに仕向けられた「読者」のこの営為に俟ってのことです。」114-5P
(B「概念論」)「「概念論」の次元での進展の論理、すなわち「発展」について」115P
「ヘーゲルの「概念論」は、御承知の通り、狭義の概念論ではなく、判断論や推理論をも内容とするものであって伝統的な意味での論理学の全体をカヴァーするものと言うこともできます。有論・本質論の部分が・・・・・・伝統的な形而上学ないし存在論に照応し、概念論の部分がいわゆる論理学に照応するところから、ヘーゲル自身、前者の部分を「客観的論理学」、後論の部分を「主観的論理学」と呼んでおります。」115-6Pこのことは「一つには、概念論といっても、内容的にはイデー論であり、機械的関係・化学的関係・目的的関係についての考察や生命論や意志論などまで含まれていること、もう一つには「判断」といってもヘーゲルの場合、いわゆる“判断”とは把え方が違うこと、このため、普通の意味での「主観的論理学」とは似て非なるものになっております。」116Pとして、
「進展の論理たる発展」116Pについて、ヘーゲルの引用に入ります。「概念も判断も単にわれわれの頭のなかにあるのではなく、単にわれわれによって形成されるものでもない、ということを銘記するのにも役立てることができる。概念は事物それ自身に内在しているものであり、事物が現にそれであるところのものであるのは、概念が内在していることによってである。それゆえ、対象を概念的に把握するということは対象の概念を意識することにほかならない。対象の評価に進むとき、対象にあれこれの述語を帰属せしめるのは、われわれの主観的な営為ではない。われわれは対象を、それの概念によって定立されている規定態において考察するのである」116-7P
ここからは著者のヘーゲルの部分引用によるヘーゲルの押さえです。「ヘーゲルによれば、判断とは外なる対象にわれわれの側が勝手に主観的な概念を述語として結合するものではなく、固有の概念的規定態によって即自的に現前する対象を謂わば追認的に、対自的な意識にもたらすことなのです。彼は「すべての事物は判断である」「すべての事物は推論である」と主張します」117P
で、「ヘーゲルのいう「発展」は、普通の意味での論理的展開とはおよそ様子が異なることになります。それは、即自的な概念的規定態からから対自的な概念規定態への推移にすぎず、判断者と彼における認識の進展は、あくまで観望者的です。極言すれば、対象の既存的な在り方を謂わば受動的に観望・追認・記述するという建前になりますから、ここは筋道の立った狭義の論理的進展は何ら保証されません。唯、「あらゆる規定は否定である」かぎりで、しかも、「否定」はあくまで「限定された否定」であるかぎりで、正・反・合という進展が観望されるであろうこと、このことは予期され」117Pる、というヘーゲルの押さえから
「これはもちろん、建前であって、ヘーゲルは実際には、決して単に植物の成長を見守る流儀で事を運んでいるわけではありません。」117Pと著者廣松さんはまとめ、次の節に移ります。
     三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
(この節の問題設定)「ヘーゲルにおける「下降」の論理を見るためには、『論理学』だけでは不十分ですが、『論理学』に限っても詳しく祖述していたのでは涯(はて)しがありません。茲では、幾つかのトピカルな個所と建前を一瞥した範囲で拙速にも憚らず、マルクスの対ヘーゲル批判も顧慮しつつ、われわれの探るべき方法論上の構案を漸次対自化していく段取りです。」118P
第一段落――ヘーゲルの下降−マルクスの上向 118-9P
 冒頭に著者はマルクスの『神聖家族』からの個別(<リンゴ・スモモ・イチゴ>)から普遍(<果物>)の弁証法を展開しています。そこで、マルクスのヘーゲルの普遍の化体としての個別という弁証法と批判を押さえ、マルクスの結論的文を引用しています。「思弁哲学者が、順次連綿と創造行為を達成するのは、……彼が、リンゴの表象からナシの表象に移行していく彼自身の活動を、絶対的主体の、すなわち<果物>の自己活動だと公言することによってである。この操作のことを、実態を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解すると呼ぶ。そしてこれがヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」119P
そこから、著者は「実態=主体たる絶対的精神の自己外化の過程として説述されるヘーゲルの「下降」的展開の“秘密”を鋭く剔抉してみせている」119Pで、「爰でヘーゲルの自然哲学や精神哲学もさることながら、論理学のわけても概念論の「発展」の論理を連想されることでしょう。」119Pとして
「マルクスのこの批判は、ヘーゲル哲学の存在論的な次元にまで一気に射程を及ぼしており、「下降」の論理に関する立ち入った批判というごとき準位は甫から彼の眼中にありません。119P」としつつ、著者は「われわれとしては、そういう次元にもこだわらざるを得ません。」119Pとして次項の展開に入ります。
第二段落――マルクスのヘーゲルに対する批判的継承=継承的批判として打ち出したマルクス自身の弁証法の図柄 120-4P
「マルクスは「弁証法」に関する主題的な論攷を遺しておりませんので、『資本論』その他から読み取るほかない次第ですが、ここでは彼が経済学の方法論に即して述べている所謂「上向法」の想起を求めます。――彼は学問的アプローチにおける二途を区別します。第一には、「実在的で具体的なもの」から出発して「分析的に」順次より単純な概念に遡る方途、つまり「表象された具体的なものから一段一段稀薄な抽象的一般者に進み、最も単純な諸規定に到達する」途行き。これが“下向”の途であり、抽象的普遍態から具体的諸定在にと進む第二の方途が「上向」の途です。これら両途は、同格的に並存するのではなく、マルクスによれば、第一の途(下向の途)はたかだか研究の手順でありえても学問的叙述の方法ではありえません。第二の途(上向の途)こそが「学問的に正しい方法」と認められます。」120P
そしてここから、マルクスからの引用で、「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直観や表象の出発点であるにもかかわらず、思考においては総括の過程として、成果として現われ出発点としては現われないのである。第一の途では、充実した表象が蒸発させられて抽象的な規定にされ、第二の途では、抽象的な諸規定が、思考の道を通って、具体的なものの再生産に到る。ヘーゲルは、このため、実在的なものを……思考の成果とみなす幻想に陥ったのであるが、しかし、抽象的なものから具体的なものとして(als ein geistig Konkretes)再生産する思考にとっての様式たるにすぎないのであって、決して具体的なもの自体の成立過程ではない。・・・・・・・。」120-1P
そして著者の論攷として「茲でとりあえず注目したいのは、具体的なものから抽象的なものへの下向、および、抽象的普遍的なものから具体的実在的なものへの上向、これら両途の方法論的区別そのことです。――マルクスはさしあたり経済学という学問分野での端初の措定や展開の仕方について論じているにすぎませんが、先の引用文からも窺える通り、彼の方法論上の構えは“哲学”的な次元にまで推及できます――。これを哲学的な次元での体系構制に推及して考えるとき、プラトン流の「上昇の途」はたかだか探究の途であって、学問の体系的叙述は「下降の途」でなければならない、という了解になりましょう。」121Pと展開し、
さらに「上昇の途の端初は、所詮ドクサ(臆見)乃至エンドクサ(一般に承認されている意見)でしかありません。そこから出発してエピステーメーへの到達が企図されますけれど、善のイデアとか絶対知とかいう“アニュポテトン(無前提なもの)”に到りつくという保証はありません。認識論上の権利からいえば、どこまで行ってもせいぜいエンドクサであり、原理上の終点には達しません。となりますと、「下降」を開始しようにも、その起点をつかめない仕儀に陥ります。ブラトンにせよ、ヘーゲルにせよ、また、アリストテレスやスコラ哲学者たちにせよ、下降の絶対的起点を設定できると信じていたかぎりで、彼等流の方法論を唱えることができました。しかるに、マルクスのように、理論の歴史的・社会的な相対性を自覚する者にとっては、絶対的な起点(下降のための絶対的な端初)などありえません。・・・・・・成程、そういうエンドクサたる“原理”から“下降”することは可能であり、マルクスとしてはまさにそういう“下降”(つまり彼の謂う「上向」)を試みます。がしかし、この上向は所詮エンドクサからの出発であるかぎり、認識論上の権利においては上昇の途と峻別されるものではありえません。言い換えれば、プラトンやヘーゲルの意味での上昇や下降との峻別は成り立たない」121-2Pとして、
そこから「所詮はエンドクサから出発せざるを得ない以上――そこには成程、より抽象的・一般的な“原理”へと遡上する方向と、より具象的・特殊的な“実在”へと降下する方向との区別はありえますけれども――“絶対的原理”の定立と称する方法論的過程(上昇=下向)は学の体系にとって必須的・内在的な契機ではなく、謂わば予備的な手続になります。勿論、この過程が不用とか価値が低いとかいうのではなく、学の体系(叙述体系)にとっては“埒外”という意味です。マルクスは、このゆえに、下向の途(“上昇”の途)を学の方法から“括りだし”てしまいます。彼にあっては、さしあたり、「上向」法こそが「学問的に正しい方法」とされる所以です。」122Pとし、
さらに論攷を進め「ヘーゲルが「円環運動」を云々したさい、上昇・下降という往復運動では方法論的・認識論的にみて問題が残るということを彼は意識していたのではないでしょうか。彼としては、端初と終局とを円環的に閉じさせることで、上昇・下降が悪無限に陥る危険性を防遏したかったのだと想えます。」122Pとして、さらに著者のヘーゲルのとらえ返しを通したマルクスのとらえ返しを続けます。「存在論上ないしは神学上の意義賦与(思い入れ)は別として、論理の行程という次元では、実際、円環的に閉じることは不可能です。もし、論理の行程上“円環”を閉じるとしたら、それこそ循環論法になってしまいます。マルクスが円環的構造を云々せず、下向と上向とを両半周として位置づけることをしなかったのは、ヘーゲルの挫折せる故知に鑑みるとき背綮(「はいけい」のルビ)にあたります。」122-3Pと押さえ、
最後にこの項のまとめに入ります。「マルクスの謂う下向・上向、これは皮相に読めばさして重大なことにはみえませんけれど、上昇・下降や円環運動といった先行者の方法論的配備との関係を省みるとき、非常に深い議論である事が認められる筈です。マルクスは、しかし、残念ながら、上向法の論理構制について主題的に詳説してはおりません。われわれとしては、『資本論』その他に即して、マルクスの弁証法的論理構制を対自的に顕揚しつつ、その意想と構案を継承的に展開する姿勢で事に当たるべき所以となります。」123-4P
第三段落――ヘーゲル弁証法のネガティヴな面とポジティヴな面 124-5P
「ヘーゲルにおける“下降”の弁証法は、論理的進展の機制に関しておよそ構案が調っておらず、「読者」の“内なる対話”を“狡智的に”進行せしめる配備となっているかぎりで辛うじて議論が進捗しうるにすぎません。あまつさえ、弁証法は抑々単なる“論理”ではなく、存在論・認識論と三位一体的に統一されており、ヘーゲルの場合、それは絶対的観念論と不可分の在り方をしております。そしてこのことが由因となって、実体=主体たる絶対者の自己運動(因みに『論理学』は「天地創造に先立っての神の思惟」とされております)として思念される“下降”の途にあっては、für esとfür unsという構制をはじめ“上昇”の途で勘案されていた有意義な契機が没却される事態を招いております。迂生に言わせれば、「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」との交錯した対話的構造を抜きにしては、上昇的であれ下降的であれ、そもそも弁証法が存立しえないのが道理です。“対話なき弁証法”、この没概念のもとでは、せいぜい読者の内なる擬似的対話を操ることしかできず、実質的には“託宣”の連続たらざるをえません。そこでは、有即無、同一即区別、肯定即否定、等々の弁証法的統一性が臆言に堕し、いわゆる「否定の否定」による正反合の進展もたかだか“観望的記述”に陥ってしまいます。」124-5Pとして、ネガティヴな面をここでは書いて来たとして、
「ヘーゲル弁証法のポジティヴなモメント」125Pの指摘として「分析と綜合、帰納と演繹、ひいては、発生的方法と批判的方法、これらをしかるべき仕方でヘーゲルがアウフヘーベンしていること、更にはまた、オブジェクト・レベルとメタ・レベルとの階型性をヘーゲルが巧みに踏んでいること」125Pと押さえています。
 最後に次箋(章)の予告として、「これまでの確保した論点を緯(「よこいと」のルビ)に配しつつ、迂生なりの構案を経(「たていと」のルビ)として綴り、――因みに、下向の途というのはロッツェの謂うErsetzen(補完)の手続を通じて謂うなれば“原始函数”をfür unsに確定していく途行きであり、上向の途というのはラプラスやハイゼンベルグの“宇宙方程式”にも譬えるべき当の“原始函数”をシステマティックに充当・具象化していく途行きに準(「なぞ」のルビ)らえるのも一策かもしれません――その上で、あらためてヘーゲルやマルクスの弁証法についても立帰って卑見を述べる」125Pと書いています。


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2024年04月01日

三上智恵監督「戦雲(いくさふむ)」

たわしの映像鑑賞メモ076
・三上智恵監督「戦雲(いくさふむ)」2024
三上監督の作品は、この映像鑑賞メモの最初で取り上げて以降、ずっと見ています。YouTubeで流されるテレビ局のアナウンサー兼ディレクター時代の映像とか三上さんのテレビに出たトークの映像とか、映画のアフタートークの映像とか、マガジン9とかの映像も追いかけています。最近、コロナ禍になって、そしてわたし自身がトイレが近くなって、劇場には映画を観に行かなくなって、専ら、少し遅れてのビデオ配信で映画を観るようになっていました。久しぶりの映画館での映画鑑賞です。アフタートーク付きの予約で見ようかと予約状況を調べたら、まだ少し席が空いていたのですが、途中でトイレに出られる席ではなかったので、少し日にちを遅らせて平日にしたのですが、予約制になっていて、しかも満席に近い状態、予約を取って喫茶店に行き時間になって戻ってきたときには、満席になっていました。最初の石垣島の山里節子さんの歌から涙が出てきて、三上さんがこの映画の宣伝であちこちのインターネットの情報番組に出ていて、「明るい映画にしました」と言っていたのに話が違うと思って観ていました(笑)。
そもそも、最初は沖縄のひとたちを守るためにと言っていたのに、そして基地の建設も監視のためとか言っていたのに、今の政治の嘘とごまかしの典型的なこと、象徴するようなことを推し進め、ミサイルの配備という、いざ戦争になったら最も攻撃を受けやすい武器の配置までなしてきています。
今回の映画がこれまでの三上さんの映画と少し違っているのは、人々の生活を描いていることです。戦争になったら避難計画で待避させるとかの計画を作っているのですが、そもそもの避難計画がどうなっていくのかは原発事故の避難で起きたことや、その計画の破綻、そして対馬丸事件などの歴史をとらえれば、これも嘘とごまかしの上塗りなのはあきらかなのです。ひとびとの日々の営みや祭りの様子などが、そして、この映画に出て来る牛や馬ややぎとかがどうなっていくのか、ぞっとするのは、フクシマ原発事故の牛の骨だけになった映像を観ていて、それと重なって、「ぞっと」がストレートに怒りにつながっていくのです。末端の自衛隊員や防衛省のひとたちが、「守りますよ」とか「避難の話」などしているのですが、わたしには原発誘致で動いていた電力会社の社員の話と重なりました。日々の生活や営みが、事故や戦争になったら、全部消え去るのです。なんとかして戦争になることを抑えなければならないのに、今、沖縄で起きているのは、全く真逆ことです。そして、それは沖縄だけでなく、「本土」でも、同様のことがどんどん進んでいるのです。
沖縄の反対運動をしているひとたちは、今回メインになっている山里節子さん(その即興の歌は心に突き刺さります)はじめ、今回は余り出てきませんが山城博治さんとかも、何人ものひとの「反対運動の名言集」として記録しておきたい発言がいくつも出ていて、ここに書き起こして置きたいのですが、またビデオとか出てきたときや買い求めた新書版の同名の本の読書メモで試みます。
そもそもどうして過去の戦争の歴史からひとは学ばないのか、どうして戦争がなくならないのか、わざわざ戦争への途を作り出すようなことをしていくのか、絶望的な思いの中で、それでも発言せざるをえないというところで反対運動があり、そして揺らいでいく容認派のひとや、そして反対運動のひとの言葉に衝き動かせられるであろう、自衛隊のひとたちも、この映画で描こうしています。自衛隊の隊員や家族が島の祭りとかにも参加するようになっていて、カヌーの競技で応援していた子どもに三上さんがインタビューしていると、鳥取からきたという話になって、お父さんが自衛隊員だと分かるというシーンが出てきます。その子どもが将来基地反対で沖縄に帰ってくるという想起が三上さんには起きたようです。わたしは電力会社の社員で賠償の担当をしていて、病んで労災を申請するようになり、東電と裁判をしているひとの話を、原発の反対運動の集会で聞いたことがあるのですが、その自衛隊のことどもがどんな思いで生きていくのだろうと想起してしまいました。
このメモは急遽挟みました。まだ劇場で上映中です。是非、劇場に観に行ってください。


posted by たわし at 02:53| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

TBS「報道特集」――特集「安楽死@A」

たわしの映像鑑賞メモ075
・TBS「報道特集」――特集「安楽死@A」2024.3.16 17:30〜18:50
この「報道特集」は、今、マスコミで一番リベラルな番組で毎週録画もして、家に居るときはライブで観続けている番組です。この文を打ち込んでいるのは、すでにこの文を載せる「反障害通信」146号の「インターネットへの投稿から」に載せているフェイスブックへの投稿文の後です。その中でも書いたのですが、観ていて一体「報道特集」はどうしたのだろうと感じていました。@Aと分けているのですが、@は以前NHKが作った番組と同じようになっていると思いました。Aの最後までちゃんと観てほしいと分けることではなかったと思っています。マスコミはどうしても報道の中立性という幻想にとらわれてしまうようで、両論併記の「客観的」報道にしてしまい、問題を堀りさげようとしません。それでも、「報道特集」はいろんな課題で、かなり掘り下げてきたのですが。
 さて、スイスでは「安楽死」を認める法律はないようで、日本も含めてスイスに死に場所を求めていく事態になっているのは、自分で薬を飲むとか点滴のストッパーを自分で開けるという方法で、自殺幇助的なことを法的に罰しない――許容しているところでの起きている事態のようです。ですが、そもそも「安楽死」の議論は末期癌のひとの苦痛を取り除けないというところで起きてきた議論で、現実にできる医者に出会えるかどうかがあるようですが、癌の苦痛はほとんど取り除けると言われています。そこで、精神的苦痛という案件もいれたようです。実際、この番組で最初に取り上げられた「フランス人男性」は医者から苦痛を取り除く処置をしますよ、と言われているのを断ってスイス行きを決めたようです。その他のスイスに来ているこの番組に出ているひとを見るとほとんど「肉体的苦痛」の案件になっていないようです。そもそも、現在的には、「安楽死」を精神的苦痛に適応するのなら、働けなくなったひとは死を選択できますよという映画「PLAN75」(註1)の世界になってしまいます。
 三人目の思いとどまった「日本人女性」は、車いすを押して付添で来ていたお父さんとの間で、「わたしが死にたいというのは、わたしのエゴで、それを止めようとするのはお父さんのエゴだ」という話をしていました。自分がこのまま「安楽死」したら、お父さんが生きれなくなってしまうと思い止まったのだけど、「エゴ」という言葉で一対一の関係しか見れなくなっているのですが、そもそも、二人目の「日本人女性」、「パーキンソン病」ということですが、そのひとに記者兼ティレクターのひとが、「同じような境遇のひとに与える影響を考えないのか」という主旨の問いかけをしています(これはNHKの番組との徹底した違いですが)。わたしはヒットラーがT4計画で殺した人たちの中に「パーキンソン病」のひとがいたことを想起しました。
 この「安楽死」と言われていることは、ここで取り上げられている範囲では、実は「中途障害者」や「進行性の」「障害者」のひとの話なのです。
 わたしは他殺――自殺という対比の中で、「自殺」と言われることは、社会の差別的関係の中で殺されるという側面があるとして、「他殺ではない」とは言えないという意味で「自死」という言葉を使おうと提起してきたのですが、実は、自分の中で、他者性として現れてくる「障害」(「障害の医学モデル」へのとらわれ)なることを受け入れられないで、自らを消滅させるという意味で、「障害者」殺しではないかと押さえ直しています。自らの命は自分のものである、いうところで行う行為ですが、それは共同的な関係で生きているところで、「自らの命は自らのものである」ということは成り立たないのです。だからこそ、三人目の女性は思い止まりました。最初の「フランス人男性」には、妹が付き添っていました。そのショックはきっと癒えないと思います。
 さて、そもそも政治家が「老害」とか語り、「90過ぎて延命なんていつまで生きるつもりなんだよ」と公の場で発言した麻生太郎元副総裁、数々の差別発言を繰り返してきた政治家が政府の中枢にとどまり続けていました。なぜ、即刻議員辞職まで追いこまれ、2度と政治家に返り咲けないという情況が作り出せないのでしょうか?
 そもそも、新自由主義的政策や考え方が広まり「自己決定権の尊重」とかいう名目で、医療や福祉の場面で、「延命処置を望むか望まないか」という選択を迫られる、これは医療や福祉の切り捨て・抑制という名の政権への忖度で、本末転倒の「死へ誘う医療・福祉」という情況さえ生まれてきています。
 そんな社会状況の中で、障害差別的意識・世界観・人間観に取り込まれていくのです。そういう中で、「自ら選択する死」に追いこまれるのです。
 さて、わたしも心理的マージナリティに陥り易い「障害者」として、思春期を自死願望とその戯れの中で生きていました。ですが、「障害者」宣言を成したところで、「障害者運動主体」として定立したところで、自死するということは、文字通り「障害者」殺しになってしまうのだと思い始めました。自死にはならない、「障害者殺し」としての「自殺」なのです。
 勿論、「障害者運動主体」として定立することに失敗することによって、自死を選択していく構造があるのですが、それらのことを、人間観・世界観から掘り起こして提起して行く必要があります。この番組でALSの岡部さんが語り、あちこちで講演しているように、「死にたい」という思いをもつひとと対話していく必要があるのです。
 以前、オーストラリアのバリバリの官僚(註2)で、「認知症」になったひとが当事者運動を起こしていった記録があります。その中で、以前は同時にいつくものことがやれたし、やれないひとを批判していた、「認知症」なった後に、自分の世界観が変わり得たことをむしろ喜んでいる、という主旨の話をし、書いています。
 そもそも「障害者」と規定される存在になるということで、むしろ、それを否定的にとらえるのではなく、反転させて、自分の存在を反転的に突き出していく、そんな世界観や人間観もあるのです(註3)。
 そもそも社会が「障害」を「障害者」がもっている医学モデル的な規定のなかで、否定的に規定しているので、苦難の途なのですが。
(註)
1 たわしの映像鑑賞メモ073/・早川千絵監督「PLAN75」2022
2 たわしの読書メモ・・ブログ202/・クリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界』クリエイツかもがわ2003
たわしの読書メモ・・ブログ203/・クリスティーン・ブライデン『私は私になっていく―痴呆とダンスを』クリエイツかもがわ2004
 パートナーの名にしたので名前が変わっていますが、同じ著者です。
3 わたしが出した本、三村洋明『反障害原論』世界書院2010「第4章 「障害者が障害をもっている」とは」「2節 「「中途障害者」の苦しみ、病気や公害における「障害」の否定性」への批判」を参照してください。


posted by たわし at 02:51| 映像鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』(1)

たわしの読書メモ・・ブログ654[廣松ノート(5)]
・廣松渉『弁証法の論理 弁証法における体系構成法』青土社1980(1)
この本の初出は、「『現代思想』に十二回にわたって連載した書簡体の論攷「弁証法における体系構成法」」@Pです。この本は、わたしの読書計画では、実は『物象化論の構図』の後に、そして基幹学習の最後の主著の『存在と意味』のひとつ前に再読する予定でしたが、前から書いているように、für es(当事者意識)とfür uns(第三者・学的意識)の弁証法で、「とんでもない」取り違えをしているのに気付いて、その検証を早急にしておきたいと、先に読むことにしました(宿題@)。丁度執筆順にもなっているようです。実は、もうひとつの懸念がでています。この本には目次には載っていない、「啓上」で始まる、「はじめに」か「序(文)」に当たるような文があるのですが、それをさっと流し読みしていて、「弁証法は単なる論理学ではなく、存在論および認識論と三位一体的な統一態をなすものである以上・・・・・・」CPとあり、わたしはこの三位一体性はヘーゲル弁証法で、廣松さんは存在論を入れると絶対精神の自己展開となる故に、存在論は切り離すことだとしていると押さえていました。これも、この本の中で検証していくことになります(宿題A)。以上2点の宿題に関しては、後述あるいは「追記」で書こうと思っています。
 さて、この本は廣松さんにしては珍しく対話的な書簡方式の文になっています。で、註などもついていません。で、分かりやすい、読みやすい文になっているのかと言えば、そんなことはないのです。そもそも廣松さん自身が、「自家了解」BPという詞を使っています。この本は、『著作集』二巻に所収されていて、その解説を書いている高橋洋児さんが、ドゥールズ/ガタリの概念でしょうか、「リゾーム状」という詞を用いて、現しています。要するに他の著と根っこ的にひろがり絡み合っているような展開になっていて、実際にこの著の中で、他の著を参照というようなことを連発しています。それを書き出して、構成していくと、きっと何冊かの本になるかと思います。勿論、それはきっと主著の『存在と意味』への途になっているのでしょう。尤も、『存在と意味』で弁証法ということばを余り使っていないという話です(高橋さんの解説)。頭のなかに入って展開しているところを、読み出していくというところで、『存在と意味』自体がまた膨大な書き込みになっていきます。だから、「読みやすい」というのは、余りにも難しいから、それを軽減するために書簡体にしたという話にすぎません。
さて、その「はじめに」にあたる文の中で、この本の位置づけに当たる文が出て来ます。
「・・・・・・本書は著者自身にとっては枢要と自認される論攷の一つです。著者がもしこれまで世に問うた十余冊の自著のうち三冊の自撰を求められるとすれば、躊躇なくその一冊として本書を数えます。本書は、別著『存在と意味』を江湖に送り出すための直截の予備作業であり、且つ同時に、固有の存在意義を有するものと念う所以です。」@Pとあります。この著は、ヘーゲルの弁証法との対話の中で、自らの体系を構成していく廣松弁証法の構築ということを目指して書かれた著で、『存在と意味』につながる重要な著です。
そういうことで、またほとんど対話に踏み込むメモもとれないままの全文切り抜きのような膨大な切り抜きになりそうなのですが、多分、廣松さんの過去の文を読んでいないひとにはほとんど理解出来ないだろうし、わたし自身の備忘録としても、余り用を為さなくなります。で、今回は思い切って、メモを導入的に使ってそこに切り抜きを入れるという方法にします。
また、節にあたる「一」「二」「三」の中に、それぞれ段落があり、それが項的になっているので、それに、「お笑いぐさ」になりそうなのですが、学習的に「恥ずることが学び」というところで表題をつけていきます。
まずは、目次を挙げます。太字にはなっていないのですが、わたしの文との区別をつけるために太字にします。目次は、そもそも「体系構制」というときき、同様に展開していくのか、というときに、それ自身が対話−分析の対象になるのでしょうし、ヘーゲルやカント、アリストテレスなどの体系構制と対比させながら、押さえていく作業が必要になるのだと想いますが、そもそも基礎学習をなしていないわたしにはとてもできません。とりあえず複書するに止めます。
     目 次
第一信「端初」の設定をめぐって
     一 プラトン・アリストテレスの弁証法
     二 帰納法的手続の先取(註)性と論理的悖理
     三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第二信「意識の経験の学」のの構制
     一 『精神現象学』緒論における見取図
     二 「現象知」を叙述する方法論的構案
     三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第三信「上昇的展開」と四肢構造
     一 ヘーゲル・マルクスの「意識」概念
     二 『精神現象学』本論の構制上の実態
     三 ヘーゲルにおける上昇的進展の配備
第四信「下降」の途と上向的論述
     一 体系の「円環」的構造と上昇・下降
     二 下降の三様式――移行・照映・発展
     三 マルクスのヘーゲル批判と“上向”法
第五信「方法論的展開相」の構図
     一 ヘーゲル弁証法の「三階梯」的進展
     二 弁証法的否定の論理構制上の“仕組”
     三 成素複合型と有機醸成型の体系構制
第六信「原始函数」の整型と充当
     一 所謂「分類」および「抽象」の実相
     二 系列的整序の諸相と函数概念的補完
     三 「原始函数」整型の洞見性と相対性
第七信「判断」の機制と関係規定
     一 主語的対象に関する実体主義の排却
     二 「主語−述語」構造と函数的連関態
     三 所謂「個体的特性」と関係態の結節
第八信「主辞−賓辞」と函数成態
     一 主語的与件と述語的規定との関係相
     二 主語・述語規定の「対他的」反照関係
     三 判断成態と「函数−変項」の内的構制
第九信「変化」の記述と当体措定
     一 実体的個体の物理的「没自己同一性」
     二 遷移の当体と「可能態」・「現実態」
     三 変化の諸相と「函数態的当体」の措定
第十信「肯定・否定」と存在様相
     一 「存在様相」をめぐる問題論的構制
     二 「肯定」・「否定」と間主観的妥当性
     三 「判断措定」の命題成態への内自化
第十一信「対論」の論理と推理連鎖
     一 論理的「根本定律」の事実性と規範性
     二 所謂「因果的必然性」と当為的必然性
     三 推理連鎖の論理的機能と真偽の価値
第十二信「叙述体系」と著者・読者
     一 体系にとっての「端初」とエンドクサ
     二 著者と読者との「協働」的概念把握
     三 叙述体系の真理必然性と論理必然性
(註)目次では「あなかんむり」が付いているのですが、その漢字がどうしても探し出せません。本文中で、ここに当たるところは、全部「先取」となっているので、「取」としておきます。

 さて、目次にはないのですが、冒頭の導入文に書いている、「啓上」で始まる「はじめに」にとか、「序」当たるような文から始めます。導入文に書いているのは重複するので省きます。ここからは斜文字がわたしの文です。「 」内の文章は引用文です。
序(文)に当たる部分
 なぜ「弁証法」を問題にするのかという件がでてきます。「・・・・・・本来的には「弁証法」は決して単なる論理ではなく、また、「哲学大系」は断じて博物誌の謂いではない筈です。・・・・・・故実に鑑みるとき、目下冀求されうるのは、革(「あた」のルビ)らしい視座と指針の生きにとどまるとも思えます。しかし、著者の看るところでは新しいパラダイムの構図は既に先哲の事績を通じて開示されており、暫定的にせよ、それを受け留めて体定型化することが課題をなす局面を夙に迎えているように見受けられます。著者が就中マルクスを念頭に置きつつ「弁証法における体系構成法」の対自化を試みたのは、けだし、この了解に基づくものにほかなりません。」AP
形式論理学と弁証法の論理との関係性についての廣松さんの説明が出てきます。
「著者に言わせれば弁証法的理性論理が形式的悟性論理をアウフヘーベンしているということは、決して弁証法が形式論理の体系を既成の体系としてそのまま下位的な予備部門として包摂している謂いではありませんし、また両者の関係をユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係になぞらえるのも剴切ではありません。形式論理学と弁証法との関係は、平面的にであれ立面的にであれ、既成の体系どうしの関係として単層的に扱うことでは済まないのであって、われわれとしては、弁証法的理性論理がダイナミックな論理展開にさいして、形式的悟性論理の分別知(ディアノイア)をその都度のモメントとしつつ内在的に止揚していく構制を方法論的に式述することをこそ要件とします。」BPここのところ、弁証法が形式論理学を包含するものではなく、そこにパラダイム的転換が在るとの話としてわたしは押さえています。ひとつ、わたしが過去にユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へのパラダイム転換を書いたことは、ここの廣松さんの文を読んでいくと、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学に包含されるようにも読み取れるので、これについては、後に検証します(宿題B)。
 さて、このメモの冒頭でわたしが宿題Aとした存在論および認識論、論理学の三位一体性の問題、肯定・否定両面的な文がでてきます。「認識がもし客観的対象の単純なる模写であるとすれば、“自存的な”客体自体とやらの主宰のもとに、“三位一体”が成立しうるかもしれません。だが、模写論が大前提とする「主観−客観」の二元論的図式そのものが妥当しないことは爰に絮言を要せぬところでして、・・・・・・そこでの大前提たる「主観−客観」図式を止揚する地平において「三位一体」の定礎を要します。精確に言えば、むしろ、弁証法的な三位一体を支える構制に即してこそはじめて「主観−客観」図式の止揚も可能になる、と申さねばなりますまい。けだし弁証法に関する論攷は、単なる方法論的手続の次元を超えて、存在論や認識論の準位への関説を余儀なくさせる所以です。・・・・・・(小さなポイントで)「事実世界が如何にして可能であるか」という哲学的論及において、存在論・認識論・論理学が三位一体化する所以・・・・・・」CPそもそもヘーゲルにおいて、「事実世界が如何にして可能であるか」で、絶対精神の自己展開が出てきたのです。後に、歴史的存在という所で三位一体性を認めるとヘーゲルの絶対精神の自己展開という陥穽に陥ってしまうということがこの本の中でも展開されていたので、そこで改めて指摘しつつ、後の書も含めて「切断する」という件が後に出てこないか、検証します。この宿題は継続です。
「序」の通例にならって「これらの論件は本書ではじめて立入ってみた」こととして、章にあたる「第○信」をあげていませんが、この本の内容展開をしています。なお、これも試論としてだいたいどの章(第○信)で展開されているかを書いてみます。
「伝統的な実体主義的存在観と相即する「実体−属性」の構制に代えて「函数−変項」の構制を関係主義的な存在観に照応するかたちで導入するにあたっての「主語−述語」関係の函数概念的な規定態の検討(第七信)。論理学に所謂「判断の質」つまり「肯定・否定」を間(「かん」のルビ)主観的な場で第一次的に定位し、思考なるものを本源的に“内なる対話”として了解する弁証法的思惟観の構制をこの点からも照射しつつ、「積極的事態」「消極的事態」の物象化が成立する機序を討究する作業(第十信)。「存在様相」の問題を現代物理学の自然観・法則観と見合うかたちで把え返しつつ、「可能態から現実態への転成」という構図を「必然性と偶然性の統一」という弁証法的法則観と併せて「弁証法的転化」論の構制とリンクさせる試論(第九信)。弁証法的対話のフェア・エスとフェア・ウンスという域にとどめることなく「著者」と「読者」との協働的営為の場面をも含めて方法論的に対自化する考案の模索(第十二信)。――論理的必然性と因果的必然性、当為的必然性と事実的必然性の関係という問題については詳説と断案を持ち越すことにしましたけれども(第十一信で少し展開)――、・・・・・・・」DP
 この著で、ヘーゲル弁証法との対峙というところで、カッシラー/ロッツェの函数的連関態という概念がかなり詳しく展開されていて、実体主義からパラダイム転換した関係性の第一次性ということにつながり、三項図式批判、四肢構造論と展開していく流れが立てられてきます。それが『存在と意味』にどう繋がっていくのか、まさに廣松さんにとって重要な著作になっています。この著は、ヘーゲルを軸にした弁証法に関する基礎知識という前半と、後半での廣松さん自身の理論的展開とに分かれています。前半はかなり飛ばし気味にして、後半についてとらえ返しを深めようと思います。
(追記)
(宿題@)に関して、とんでもない勘違いをしていたことを書きましたが、このわたしの勘違いは単に、語学的な錯誤だけでないということもとらえ返しています。それは、ヘーゲルのフェア・ウンスという「観望」は、マルクス的な廣松的なフェア・ウンス、すなわち、哲学的「観望」、学的、第三者的とらえ返しとは違ってエンドクサ的「観望」のままになっていることをこの本を再読する中でとらえ返しています。おまけに、障害問題を論じてきたわたしの立場としては、フェア・エスの訳語として使われている「当事意識」という概念になると、「障害者運動」の理論化の中で言われている「当事者主体」というとらえ方があり、マジョリティのwirわれわれ的な意識よりも差別に関しては根源的なとらえ返しができるという考えがあり、そこでショートを起こしたのだともとらえ返しています。また、そもそもこの社会の価値観に多くのひとがとらわれているという意味での、wirわれわれ的な意識のエンドクサ、これがまさにわたしが誤読したかもしれない、ヘーゲル的な「観望」なのですが、そんなところでのwir批判がありました。そんな思いの中での錯誤でした。実際には、ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、それをさらにアウフヘーベンして、マルクスの・廣松のフェア・ウンスがあるとしてとらえていたところで、いつの間にか、それがたわしの頭のなかでショートしてマルクスの・廣松のフェア・エスとフェア・ウンスがひっくり返っていたというお笑いぐさになっていたのです。「ヘーゲル的な「観望」をアウフヘーベンしたところでマルクスの・廣松のフェア・エスがあり、」というところは、アウフヘーベンではなくて、どちらもエンドクサでしょうが、「障害者運動」的にとらえ返した「当事者主体」という概念では、どうなるのかは検討の余地があるのかもしれません。

第一信「端初」の設定をめぐって
「拝呈」に始まる序
「「弁証法」をめぐる論件のうち、「体系構成法」に関わる方法について卑見を綴る」7Pとこの著のサブタイトルになっていることの説明を兼ねて主題を述べています。そして、その始まりを「議論の順序として、まずやはり「端緒」の設定をめぐる問題点にふれておくべきかと考えます。惟えば、これはヘーゲルの場合のみならず、プラトンやアリストテレスの場合においてもすでに、論理構制としての弁証法が分出的に岐れる「基(「もと」のルビ)」であり、端初論の周辺を照射することによって、弁証法の論理的特質を隈取ることができるものと予期されます。・・・・・・」7-8Pと押さえています。
     一 プラトン・アリストテレスの弁証法
(この節の問題設定)「弁証法の学祖として、ゼノンを挙げるか、ヘラクレイトスに遡るか、これは議論のあるところですが、体系的構成法という見地からするかぎり、とりあえずプラトンから問題にしていけば足るはずです。」8P
第一段落――ブラトンの弁証法 8-10P
 ここからは段落のページ数をわたしの仮表題の後ろに挙げています。
「ディアレクティケー(弁証法διαλεκτική)という言葉にディアロゴス(対話)テクネー(術)という原義が生きて」8Pいて、「プラトンの弁証法が学知の方法的展開と密接不可分」と展開しています。そして、プラトンの「創立した学院(「アカデメイア」のルビ)の門に「幾何学を知らざる者は入るべからず」と掲示した」8Pけれど、「幾何学の方法ですら駄目であるからこそ弁証法というものが要件にな」9Pり、プラトンは「幾何学が依然として感性的直観の援けを借りるから理性知(「ノエーシス」のルビ)に徹せぬこと、たかだか悟性知(「ディアノイア」のルビ)にすぎない廉で卻けるのです。」9Pということをとりあげ、「哲学者は、出発点に据える前提的事ス題と自明の真理とみなすのではなく、それをあくまでも一つの仮設という資格づけのもとに仮定しつつ、そこから一定の帰結を導き、この帰結に徴して最初の仮設的命題を吟味(「エレンケイン」のルビ)し、論駁(「アナイレイン」のルビ)する・・・・・・・そこで、もう一次元高い仮説がおのずと泛かび、これを前提として内的対話が継続され、吟味・論駁があらためて遂行される。そして、更に……という具合に進行します。」9Pと弁証法的途行き(上向)を説明します。そこで、それでは無際限、懐疑論にならないかという質問(自問)に「理性の所知は、『国家(「ポリティア」のルビ)』篇の有名な条りを援用していえば、「ロゴスそのものが対話の力[ヘー・トゥー・ディアレゲスタイ・デュミナス=弁証の能力]によって把握するところのものであって、この場合、ロゴスはさまざまな仮説的前提(「ヒュポテシス」のルビ)を絶対的原理(「アルケー」のルビ)とするのではなく、文字通りヒュポテシス[ὑπόθεσις ヒュポ=下に、テシス=置かれたもの]となし、謂わば踏み台・跳躍台として扱いつつ、万有の原理(「アルケー」のルビ)[端初・始原・原基]へと上昇し、無前提の[アニュポテトン=仮説(ヒュポテシス)ではない]ものにまで到達する。そして、一旦、その原基(「アルケー」のルビ)を把握したうえで、今度は逆に、アルケーに依存しているものを次々に辿りながら終局に到るまで下降していくのであるが、そのさい、およそ感覚的に知られているものを何一つ援用することなく、もっぱら形相(「エイドス」のルビ)そのものだけを用い、形相から形相へと動き、形相に達して終わるのである」・・・・・・・。」10Pさらにプラトンは「彼の場合、上昇(「エクバシス」のルビ)の到達点、つまり下降(「カタバシス」のルビ)の出発点となるのは――マルクスの謂う「上向」「下向」と逆の言い方になっていることに注意して頂きたいのですが――申すまでもなく「善のイデア」です。踏み台となる仮設から出発して吟味・論駁を重ねていけば、弁証の能力によって、ついに無前提のもの、もはや仮定ならざるもの、アニュポテトンたる善のイデアに到達する。ですから、無際限な遍歴にはならない、というのがプラトンの確信です。」10P・・・この「上向」「下向」がマルクスと逆になっているというのは、唯物論と観念論から来ているのではと思ったりしています。ですが、「上向」「下向」の概念がプラトンから来ていることを押さええます。
第二段落――アリストテレスの弁証法とプラトンとの対質 10-4P
ここで、アリストテレスを取り上げます。アリストテレスは「形式論理学の元祖」とされていて、エンゲルスの「最大の弁証法家」という規定を笑う者がいるけれど、そんな簡単なことではないとして、アリストテレスの弁証法の端初論的な押さえをしていきます。
「アリストテレスは広義の「推理」(シュロギスモス=推論)、すなわち「或ることが定立されると、それとは別の或ることが、当の定立されたものによって必然的に帰結するような論語方式(「ロゴス」のルビ)」を四種に区分します。第一が「論証」、第二が「弁証法推理」、第三が「争論的推理」、第四が「誤謬推理」です。/第一のアポデイクシス(論証)というのは「真実なる最初のことどもから出発しておこなわれる推論、ないしは、真実なる最初のことどもから認識の端初がつかまれるような前提を起点とする推論」。/第二のディアレクティコス・シュロギスモスというのは、「一般に承認されている意見(「エンドクサ」のルビ)」から出発しておこなわれる推論。/第三のエリスティコス・シュロギスモスというのは「一般に承認されている意見のようにみえて実はそうではないもの」から出発しておこなわれる推論/第四のパラロギスモスというのは「幾何学やそれと同類の諸学においてよく起こる」ことだが「その学問に固有ではあるが真実ではない想定」から出発する推論と、規定されます。/これらの四者の相違は、ご覧の通り、この意味での端初の設定の仕方、というよりも端初命題の認識論上の権利に応じるものです。」10-2Pとしていて、慥かに「第一の「論証的推論」の方を第二の「弁証的推論」より上位に価値づけてい」12Pて、アリストテレスは「弁証法(「ディアレクティケー」のルビ)を最上位に置いたプラトンとは異なって、弁証術(「ディアレクティケー」のルビ)は論証法(「アポデイクティケー」のルビ)より貶置されます。」12Pが、「「真実なる最初のもの」を定立する手続の場面で、アリストテレス自ら弁証的推論の有効性を認めて」13-4Pいます。それは次のアリストテレスの言に現れています。「「それは、提出された問題の肯否両方の難点を見出し、それぞれについてどこが真でどこが偽であるかを容易に認識できる。また個々の学問の諸原理の第一のものを認識するうえでも役立ちうる。原理というものはすべてのうちで第一[最初・根本]のものであるから、当面の学問に固有の諸原理からそれを論ずることは不可能であって、個々のものに関する一般に承認されている意見(エンドクサ)からそれを究明しなければならない。このことは弁証術に特有な、乃至は少なくとも固有な仕事である。弁証法は吟味検討に適しており、あらゆる方法的学問の諸原理へと近づく道を保持している」・・・・・・。」14Pということからして、「アリストテレスも、実際上は、ブラトンのいう上昇・下降と同様な方途を考えていたことになり、俗説のように、アリストテレスは専ら論証法を顕彰して弁証法を貶価したとは言い切れぬ道理です。」14Pと著者は押さえています。
第三段落――プラトンとアリストテレスの端初論まとめ 14-7P
 さて、端初論のまとめに入ります。「学知の体系的講述を期する場合、絶対的に確実な原理[端初]から出発して、論理必然的な展開とは抑々如何なることかという大問題は暫く預かりとして、ここで早速に問題になるのが、謂う所の端的に確実な端初を如何にして設定するかという点です。」15Pと問題を立てます。そして、「プラトンやアリストテレスの場合、弁証法ということが要件になるのは、展開の論理の場面においてではなく、まさに出発点の設定、第一原理の設定の場面においてなのです。このことからも「端初(「アンファング」のルビ)」の設定が弁証法にとってもつ重要性をあらためて知る所以ともなります。」16Pとして、プラトンとアリストテレスの対質として、「プラトンの場合でいえば、文字通りのヒュポテシスを踏み台としてヒュポテシス吟味・論駁を重ねていく過程には、原理上の終局はないということになりますし、アリストテレスの場合でいえば、一般に承認されている意見からの展開しかありえないことになります。つまり、「無前提」とか「真実なる最初のことども」といっても、それは所詮、一種のエンドクサたるヒュポテシスにすぎない、ということになってしまいます。」16-7Pと押さえます。
さてこの節のまとめ、結論的命題として「プラトンやアリストテレスの志向は諒としつつも、端初命題はたかだかエンドクサたるヒュポテシス(仮設)でしかありえない・・・・・・・」17Pとしています。これは、マルクス・廣松さんの弁証法にまで至ることなのだと理解していますが、このことでわたしが想起したのは、真鍋淑郎さんの二酸化炭素温暖化説(註)を、その当否はわたしには検証できないままでいますが、シミュレーションモデルを使った統計学的、すなわち廣松さんのいう函数的連関態を確率函数的なところにつながることで見出していく試行を想起しています。
(註)
「たわしの読書メモ・・ブログ628/・真鍋淑郎・アンソニー・J・ブロッコリー/増田耕一・安倍彩子監訳・宮本寿代訳『地球温暖化はなぜ起こるのか 気候モデルで探る 過去・現在・未来の地球』講談社(ブルーバックス)2022」(「反障害通信135号」所収)参照 135 (taica.info)
     二 帰納法的手続の先取性と論理的悖理
前節からの引き継いだ端初論の問題論的構制の話をまとめています。「或る意味からいえば、哲学者たちは端初の論理的無根拠性の故にこそ方法論的に苦心してきた次第でして、この事実の対自化から事が始まるとすら申せます。プラトンがいかなる方法論的意識を懐いて上昇(「エクバシス」のルビ)の途を追求したか、デカルトがcogito ergo sumという端初を設定すべく何故あのような方法論的懐疑(「ドウト・メトディンク」のルビ)を展開したのか、ヘーゲルが端初論をいかなる想いで開陳したのか、このような論件に立ち入るまでもなく、端初の論理的無根拠性というとき、その「論理」は「前提から帰結を導出」するという構造になっていること、しかし、この「導出(「デドクチオ」のルビ)」という論理の構造そのものからして問い返す必要があること、この一事を省みただけでも、端初は無根拠なりという命題そのものがプロブレマーティシュ(問題構成的)であることが判ります。」18P
第一段落――第一原理(端初)の設定の再論的整理 18-21P
 端初設定の帰納的方法がアプリオリズムに陥っていく構図を描いています。「一般論として、研究を進めるに当たっては、「われわれにとって先なるもの(「ブロス・ヘーマース」のルビ)」からア・ポステリオリな手続を通じて「事柄にとって先なるもの」へと遡及して行くのが普通です。この際、「われわれにとって先なるもの」には、感性的な経験知(「エムベイリア」のルビ)と常識的な意見(「ドクサ」のルビ)とがありますが、それらは個別的ないし特殊的なものと言えましょう。研究の進捗は、これらの“知識”に分析と綜合を施し、真偽を検討し、特殊的な知見から普遍的な知見を措定します。」18Pで、「普通、第一原理の措定に先行する手続は、就中、帰納的抽象による普遍化であると考えられておりますので、この手続の内実というか、論理的構造を茲で検討しておきましょう。因みに、アリストテレスも弁証術的な推論の一種として帰納法を挙げ、「帰納 επαγωγήとは個々のものともから一般的なものへと上昇する道である」と述べております。」19Pというところで、<犬>という概念でのとらえ返しをして「一群の与件を比較校合の素材として確定する場面で、既にいちはやく、つまり、帰納的抽象に取掛かる以前に、(アプリオリに)抽象さるべき当の概念を知っており、それを基準にしているということになります。勿論、与件群を確立する場面で既に知っている犬の概念は漠然たるものにすぎず、帰納的抽象の作業を介してそれか確然たるものになるのだ、と言うこともできます。だが、たとえ漠然とであれ、犬という概念をあらかじめ知っていたのはどのようにしてでしょう。それは少なくとも帰納的抽象によってではない筈です。帰納的抽象に先立って知っているのですから、そうなると、話はそこでは止まりません。普遍概念の抽象というのは、抽象によって導出されるのではなく、帰納的抽象の手続を介して明確化されるだけだ、つまり、漠然としていたものが明確になるだけだ、ということに話が進んでしまいます。漠然とであるがアプリオリに知っていたのだ? 現にそういう主張が存在します。」19-20Pということの中で、「とどのつまりは、まさに帰納的に抽出さるべき当の概念そのものという仕儀になります。ここでもまた、帰納的抽象に先立って、当の概念そのものを取捨の基準として、あらかじめ知っている、という循環に陥っている次第なのです。」20-1Pと、循環、無限遡及に陥っていく構図を押さえ、「帰納的抽象説が論理場の循環と先取を免れないことは慥かです。帰納的抽象の作業は、人々がそう信じているように、個別から普遍を初めて取出すものではないこと、それはたかだかのところ、既知の漠然たる普遍概念を明確化するものにすぎないということ――帰納的抽象によって普遍概念や普遍命題を導出するという理説は、謂う所の抽出作業に際して、外延的素材群選取する基準として、また、内包的規定性を取捨する基準として、当の普遍概念や普遍命題をあらかじめ知っているという先取と循環に陥るということ――、論理的にはこれが正しい認定です。」21Pと結論付けます。
第二段落――アプリオリズムの止揚の途 21-3P
 前段落で陥ったアプリオリズムの指摘として「論証的推論の出発点(「アルケー」のルビ)となる普遍概念や普遍命題、ひいてはまた論理規則を以って、経験的・帰納的に導出されたものと見做すことには論理的難点(先取と循環)があるということ、この事実が一因となってアプリオリズムが生じる所以ともなります。」21Pそこで、「端初の論理的無根拠性という先にみた論点と絡むかぎりで、もう一つには、ヘーゲルの或る議論と絡むかぎりで、若干の問題点を確認しておきたい」22Pとして「論証的推論の端初たるべき普遍概念・普遍命題は、経験的・帰納的な抽象という手続で導出されるものではないにしても、帰納的過程を通じて明晰化するということが認められるとすれば、ここには或る媒介的過程を機縁として、即自的な普遍が対自的普遍へと現成すると考える余地が残されております。この対自的措定は、或る根拠からの論理的導出ではありませんから、当の対自的措定態は無根拠(論理的脈絡上での無根拠)であり、直接態です。但し、端的な直接態であるのかといえば、即自態から転成したものという意味では被媒介態(間接態)ですし、また、対自化の機縁(論理的な推論による論証的な導出ではないというかぎりでの促成的機縁)となる論考の過程に俟っているという意味においても被媒介態です。とすれば、論証的展開の端初(「アルケー」のルビ)として対自化された普遍者は、単なる直接態ではなく、直接性と媒介性との統一としての直接態と言うことも許されるのではないでしょうか。/ヘーゲルが「端初」を直接性と媒介性の統一として規定していることは御承知の通りです。」22Pとして「即自態における普遍者は必ずしも認識主観に生具的みなされる必要はありませんし、また、対自態における普遍者の現成は必ずしも特殊な認識能力の発動とみなされるにも及びません。――即自的な規定態から対自的な規定態への転成という構図を埋めるためには、さしあたり、ヘーゲル式に、熟知されたもの(「ベカント」のルビ)(つまり常識的知見(「ドクサ」のルビ)の次元でよく知られているもの)から認識されたもの(「エルカント」のルビ)(つまり、学知的認識(「エピステーメー」のルビ)の次元で厳に知られているもの)への転成ということが保証されれば足ります。/こうして、アプリオリズムを採ることなく、また、帰納的抽象による導出という強弁に陥ることもなく、それでいて、論理的展開の「端初」を――藪から棒の直接性・臆断としてではなく――一定の媒介的機縁に俟って対自的に措定されたものとして設定される途が拓かれ得ます。」22-3Pそして、補足説明的なまとめです。「もちろん、ここでは、Das Bekannte(熟知されたもの)がそもそもいかにして存立しうるのか。それがDas Erkannte(エルカント)にいかに転成するのか、――これはまさに、弁証法的展開の途行きに関わる問題にほかなりません――。さらには謂う所の「認識されたもの(「ダス・エルカント」のルビ)」、つまり、エピステーメー(ノエタ)と称されるものが、たかだかエンドクサにすぎないという可能性をどう処理するのか、これら一連の問題群があらためて生じます。そして、ヘーゲルは彼の弁証法的体系構成法において、ほかならぬこれらの問題にも応えております。」23P
第三段落――ヘーゲルの弁証法における端初論の揺らぎ 24-6P
 ここは、次節につながる事実関係を押さえる作業です。端初論に絞った論攷です。で、「寺沢恒信氏訳の『大論理学』初版本」24Pが出たこと、この「初版本を参照することなくしては、『大論理学』冒頭の端初論は到底理解できないと言っても過言ではないほどです。」25Pと指摘しています。というのは、『大論理学』は三分冊本になっていて、一応三分冊まで出した時点で、最初の一分冊の改定版・二版を出し、ヘーゲルはコレラにかかって死んでしまい、二版としての改定作業を成し遂げられなかったという話です。これは何かというと、初版を出した時点では、『精神現象学』を学の体系第一部として『大論理学』を第二部という構想を立てていたところ、『エンチクロベティー』で「論理学」を第一部にする構想に変えたところで、『大論理学』も第一部に変える必要に迫られ、改訂版を書いたという次第です。ところが、改定が一冊分だけになったところで、底本とされる本の中で、端初論のところが第二版になっていて、その他の初版との論理整合性とれなくなっているという次第のようです。この話は、次の第三節で精説・展開されます。

     三 ヘーゲル『大論理学』初版の端初論
第一段落――『大論理学』の端初としての純粋有 27-30P
最初に先廻りして結論として『大論理学』の訳者武市健人さんの文を引用しています。「(ヘーゲルにおける)始元[端初](「アンファング」のルビ)とは宗教的な表現を用いて云うと『神』である。神の絶対性は何ものにも媒介されたものであることは許されない。もしも神が何ものかによって存在するとすれば、それだけ神の絶対性は傷つけられる。この神が論理学においては純粋有とせられ、始元とせられる」27Pと展開しています。廣松さんは「プラトンにおける下降の出発点がアニュポテトンたる「善のイデア」あるのと類比的に、ヘーゲルの場合、論理学(これは同時に「形而上学」=存在学でもあるのですが)の出発点は絶対者=と神にほかなりません。」27Pと押さえます。ここから、吟味に入ります。「端初に設定されうるのは単純な直接態たる「存在(「ある」のルビ)」でしかありません。」27Pしかし、それは媒介されたものであってはならず、所知的存在と能知的存在が分離すると単純性(純粋性)との悖理に陥るのですが、能知と所知とその関係とは区別されざるを得ないけれど、「自己意識」の場合には、それら三者は反省的には区別されるとしても、事柄としては如実の一体性、純粋性が保証されるとしています。しかし、その自己意識も対象意識と区別されたものであれば、相関性が免れ得ないけれど、そこで対象的意識と統一された自己意識になる必要があり、それをヘーゲルは絶対精神と名づけたというはなしです。そこで、「ドクサとしての端初とエピステーメーとしての端初との二様性、二様の端初を設定する途が残されているはずです。現にヘーゲルに二途を採っております。」28Pとして、そのことが『大論理学』のゆらぎ問題に到っていると指摘しています。ここから、純粋知の吟味に踏み込みます。「純粋知こそが現象する精神の最後の真理、絶対的真理であることが結果として明らかになる、ということである。」29Pと、そして、わたしは純粋知は「能知−所知」関係の「所知」というところで、絶対精神の能知に対峙しているのではと想っているのですが、廣松さんは純粋知に関する規定をいくつも引用した上で、最後に、この段落のまとめとして、「絶対学の端初はそれ自身の絶対的端初でなければなければならず、それは何ものをも前提にしてはならない。それは何ものによっても媒介されていてはならず、根拠をもっていてはならない。むしろ端初それ自身が学全体の根拠たるべきである。端初は、それゆえ、端的に或る直接的なものでなければならず、乃至はむしろ、直接的なものそのものでなければならない。それは他者に対してなんらかの規定をもことができないと同様に、自分のうちにも――どのような内容をもふくむことができない。というのは、規定や内容は同様に一つの区別であり、差異のあるものの相互間の関係で在り、ゆえに、一つの媒介であろうからである。従って、端初は純粋な存在(純粋有)である」29-30Pとのヘーゲルの引用でまとめています。
第二段落――神は存在(ザイン) 30-2P
 この項は、「ヘーゲルは、同時に存在論でもあるところの彼の論理学の体系を「神」の存在という端初から説き起こそう」30Pとしているとして、そのことを押さえる作業です。「尤も、ここではまだ「神」といってもその何たるかは規定されておらず、「神というものが存在する」というより「神=存在」、つまり、存在という規定での神が立てられるに止まります。」30Pとして、「ヘーゲルは、端初を「神は有(「ザイン」のルビ)である」という命題ないし判断の主語・述語形式においてではなく、端的に「存在」しかも、「純粋有」という形で措定し、これを以って、彼の論理学=存在論の端初に据え」31Pます。そして、この項のまとめとして「端的な「存在」、しかも、能知と所知との如実の統一態であるごとき「純粋知」にほかならないところのもの、このような存在が現に存立することを究明してみせる必要が生じます。それを遂行したもの、つまり、純粋知を成果として上昇的に開示したもの、これが精神現象学であり、これを前梯にして論理学の端緒が設定されるというわけなのです。尤も、この前提は、論理学の端初に対して論理的な根拠ではありませんし、論理学の端初たる「存在」は純一なる直接態としての学の根拠にほかならないのですが、この下降の起点は、上昇の過程によって媒介され、その媒介性を止揚することにおいて存立する直接態という触れ込みになっているというのが委細です。」31-2P
第三段落――学の体系第二部のゆらぎ 32-5P
 この項は、「『精神現象学』での上昇の到達点との関連でみることにしたいのですが、下降の起点たる「学の体系第二部」の端初は果たしてうまく行っているのでしょうか? これが必ずしもうまく行っていないことが、後年になってヘーゲルが『精神現象学』と『大論理学』との関係、わけても後者における端初との関係について、持説を変更した一因にもなっている」32Pというところから始まり、「絶対者=神を原理(「アルケー」のルビ)(=端初=第一のもの)として、しかも「無前提なもの」(アニュポテトン)として学の体系を展開しようという企図は、賛否はともあれ、一往は諒解することができます。キリスト教文化圏における存在論ということになれば、或る意味では、それはごくナチュラルなことかもしれません。だとすれば、「学は何を端初にすべきか」(因みにこれがヘーゲル端初論のタイトルです)などという面倒な議論は抜きにして、端的に「神」から始めたらよさそうなものだ、という意見もありえましょう。しかし、ヘーゲルとしては、そういう行き方は採ることができませんでした。」32-3Pというのは、「神」という概念が揺らいでいた時代だったからで、だから、「自分流に理解した神の概念から出発した」33Pシェリングや、「人は果たして絶対者=神を認識できるのか?」33Pとして不可知論に陥ったカントに対して、「ヘーゲルとしては、絶対者=神から下降の途に就くに先立って、人間が認識論的にいって絶対者の認識に達しうるということ、および、存在論的にみて絶対者とはいかなる存在であるかということ、これら二つの事項を確説することを要件とします。この予備的な作業を遂行したものが『精神現象学』にほかならないわけです。」33Pとし、「人間が絶対者の認識に到達しうるということだけの確認だけでよいのではないか、という考えも生じ得ますし、実際ヘーゲルが『精神現象学』を起稿した時点、つまり「意識の経験の学」という形での展開を志向した時点では、もっぱらそのことを意図していたのではないか、という解釈もありえます。さらには、絶対者の認識可能性ということは当然事だとみなしたうえで、そのためにとるべき認識論上の「態度」と「方法」だけを予備的に表明しておけばよいのではないか、という考えもありえますし、現に『小論理学』では、ほぼそのような姿勢で「予備概念」が説述されております。しかし、ともあれ、執筆の途上で著述の構想が変更され、肥厚されて、学の体系第一部と銘打って上梓された『精神現象学』をみるかぎり、前記の二事項に応えることになっていることは明らかです。」33-4Pとした上で、「ヘーゲルは、ドクサから始めて「意識の経験」を通じてエピステーメーへと上昇し、絶対知というその極点から下降する考構案を立てましたが、神がエピステーメーだとする純粋知=純粋有が、第三者的には所詮、たかだかエンドクサにすぎないわけです。「太初に(「アンファング」のルビ)ロゴスあり、ロゴスは神と偕(「とも」のルビ)にあり、ロゴスは神なりき」という“エンドクサ”の埓をヘーゲルは脱却しえていない所以です。」34P
第四段落――マルクス−廣松の弁証法への途 35-7P
 この段落は単なる空白の改行でなく、記号をつけて特別仕立てです。この節はほとんどヘーゲルの引用・解説ですが、この部分は著者の後論への自説的展開への導入的覚え書き的文になっています。著者は冒頭、この節の論攷を「さしあたっては、ヘーゲルの絶対的な真理から下降的に展開しようという企図そのものを相対化しておきたかった」35Pと書いています。そして「絶対的原理(「アルケー」のルビ)から学の体系を下降的に展開しようという志向の点では、プラトンもアリストテレスもヘーゲルも共通です。」35Pとし「彼等が「学知」のあるべき方法という根底的な反省に沈潜したこと、そしてこの反省を試みるや絶望的に迷路的な問題場面に横逢着したこと、この問題圏で唯一恃むべきものが「弁証法」であること」35Pとしています。そして、「プラトンもアリストテレスもヘーゲルも、つまり、西洋哲学史上における「三大弁証法家」は斉しく、説対的な原理から下降すべく、それに先立つ上昇の弁証法を配位しました。「上昇」の出発点は、所詮踏み台(ヒュポテシス)となる臆見(ドクサ)、たかだかエンドクサでしかあり得ません。が、彼等は、弁証の道を辿って、ついにはいったんアニュポテトンたるたるエピステーメーに到達できると主張します。だが、この絶対的な真知と目されるものも、実際にはたかだか、歴史的・社会的・文化的に総体的な、一種のエンドクサでしかありえないのではないでしょうか。」36Pとして、「上昇・下降の二途は、彼等の私念とは別様な、新たな認識論的了解のもとに把え返さねばなりますまい。そこでは、上昇・下降の方法論的意義づけも一変します。」36Pとして、マルクスの下向法・上向法を対置します。そして、「マルクスの場合、上・下が表現がプラトン以来のそれと逆転しているのは、決して単なる用語法の問題ではありません。只今申した認識了解の転換、そして方法論的な意義づけの変換、これがマルクスによって遂行されたわけでして、ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒は、これをも含意していると思われます。勿論「転倒」というのは、比喩的表現であり、上昇・下降を逆にして下向・上向とするわけでなく、ヘーゲル弁証法の継承的批判=批判的継承が事の内実をなすことは喋々するまでもありません。」36Pとしています。弁証法的途行きを学びつつ、観念論から唯物論的転換という次第ではないかと、わたしは想起しています。そして、「ところで、下降の起点、マルクス式にいえば上向Aufsteigenの起点が、所詮一種のエンドクサにすぎないのだとすれば、そこには、もはや上昇の道しか残らず、下降の道は無いというべきではないのか? このような疑問も提起されうるかもしれません。が、敢て下向と上向という謂わば逆方向の二途を方法論的に区別しているところに、マルクス的弁証法におけるプラトン以来の伝統との連続面、わけてもヘーゲル弁証法との連続面が認められます。」36-7Pとまとめ、次章(信)以降へと繋ぎます。5信までがヘーゲル弁証法との対話になっています。


第二信「意識の経験の学」のの構制
(この章の問題設定)「本便箋では上昇の途の一典型であるヘーゲルの『精神現象学』の論理構制について一瞥しておきたい」38Pということで、ただし、「我々の執るべき体系構成法の対自化が目的」38Pだとして、「若干の祖述的な紹介も必要かと」38P論を進めます。
     一 『精神現象学』緒論における見取図
第一段落――緒論の成立経緯と問題点 38-40P
「ヘーゲルにおける弁証法的「上昇」の論理構制を見極めるためには、何を措いてもまず『精神現象学』の「緒論」(Einleitung)を読んでおくことが要件になる」39Pとして、「『精神現象学』(一八〇七年刊)という本は、ヘーゲルの当初の予定では『意識の経験の学』という表題になる筈でした。」39Pで、「現行の「緒論」は『精神現象学』に対する緒論ではなく、当初に予定されていた『意識の経験の学』への序論として執筆されたものなのです。しかも、元来は「緒論」というタイトルもつけられていなかったことからみれば、それはむしろ本論の冒頭部分と呼ばれるべきかもしれません。」39Pこれも改定を試み、「「序文」(Vorrede=前書き)の途中まで朱を入れたところで」39Pコレラで一八三一年に他界したので、「「緒論」の部分は手つかずのまま」39-40Pで、「こういう経過からいって、『精神現象学』の「緒論」は、「意識の経験の学」の姿勢・課題・性格・論理構制などを序説風に予示するものとなって」40Pいるとのこと「ヘーゲルのように形而上学的な絶対者関する哲理を展開しようと志向する場合、前以って認識論的省察を試みる必要があるのではないか、それとも、認識論的省察など無用無価値と断じて、直ちに絶対者からアポディクティシュ(論証法的)な「下降」的議論を展開すれば足りるのか、この問題に関する態度決定が一つのポイントになるということだけは銘記しておかねばなりますまい。現に「緒論」は、ほかならぬこの問題から起稿されております。」40Pとこの項(段落)を結んでいます。
第二段落――認識論的とらえ返しの悖理  40-2P
 ヘーゲルの「認識論を先立てることが必要」40Pという考えで「認識論なるものが「それによって絶対者を捕える道具として、または、それを透して絶対者を省察する媒体として」、つまり、能動的な道具または受動的な媒体として考えられている。――ヘーゲルはまず、この旨を指摘します。ここで「道具」および「媒体」というのは、おそらく、認識能力に関する二元主義的な観方を念頭においての発言だと思いますが、以下の議論のもつ射程に即すれば、認識論上のいわゆる「構成説」と「模写説」とを総じて衝くかたちになっております。」40-1Pとして、以下、ヘーゲルの文の引用で、内容展開をしていくのですが、ここのところは三項図式の認識論的悖理についての展開になっています。重要な内容を含むのですが、後で、廣松理論によって、この問題を解くことになりますので、ここの詳しい引用は省きます。そして、ヘーゲルは「道具説であれ、媒介説であれ、つまり、構成説的認識論であれ模写説であれ、そこからは、物自体、すなわち事実在・絶対者は不可知だという結論にならない所以を誌します。」42Pとして、「尤も、道具も媒体も使わぬ直接知、そういう知的直観を唱える理説に対しては、右の範囲でのヘーゲルの立論は無記で」42Pと断りを入れて、後論へと保留しています。
第三段落――誤謬への恐怖−真理への恐怖を三項図式の矛盾として押さえつつ、「絶対的」概念の持ち出し 42-4P
「認識を道具や媒体だとみなす表象を前提し、またわれわれ自身とそういう認識との区別を前提にしている。特に挙げておきたいのは、一方の側に絶対者が立っており、そして他方の側に認識がそれ自身で[独立に]絶対者から分離して立っていて、しかもこの認識はそういう在り方をしているにもかかわらず或る実在的なものであるということ、依って言い換えれば、認識が絶対者の外部に、故に当然また、真理の外部に在りながら、それにもかかわらず真理にかなっているということ、こういう前提が立てられている」43Pとして、「この想定がたるや、誤謬への恐怖と称しているものが、実は真実への恐怖である」43Pことを示しているとしています。そして、「ヘーゲルが“認識論”主義者たちの大前提を剔抉しつつ、それを批判している点に留目したいと念います。<自体的存在>としての絶対者と<表象>としての認識、これらを分断し、更には道具や媒体としてのこの<認識>と<われわれ自身>とを区別する論者たちの前提的発想というのは、当世風に言えば「対象自体−意識内容−意識作用」という三項図式に帰趨します。ヘーゲルは、この“三項図式”が不当前提であるということをいちはやく洞見し、まさにこの“前提”こそが真っ先に問い返さるべき当もの」43-4Pとして、「絶対者のみが真である。換言すれば、成るもののみが絶対的である」44Pというヘーゲルの提言を持ち出し、「ヘーゲルとしては、ひとまず、そういう“二重真理説”では、結局のところ、両“真理”の区別が曖昧たらざるをえないこと、そしてそこでは、絶対者とか認識とかいう概念が意義不明のままであることを指弾して議論を次のステップへと進めます。」44-5Pとしています。
第四段落――「意識の経験の学」の「上昇」の必要性 45-7P
ヘーゲルの「学が登場しさえすればただちにその眼前から消え失せる」45Pという言は「“学の体系的叙述”とやらを“下降”的に展開するわけにはいかないからこそ、『精神現象学』、さしあたっては『意識の経験の学』という“予備的作業”が必要になるのであり、また、そのための方法論的配備も必要になる」45Pとしています。そして、「ヘーゲルが、彼固有の仕方で「上昇」的弁証法を方法論的に整備した所以でもあるのですが、「学」といえども、今まさに登場するここでは、それ自身まだ「知の一現象」、「現象知(das erscheinende Wissen=立ち現われる知)」にすぎず、認識論上の権利からいえばエピステーメーというよりもドクサとしか言えません。が、ともあれ、「現象知」の叙述から始めてみる術のないことが、このようにして対自化され」46-7Pるとして「「現象知」の叙述は、いかに「現象知」に即した叙述であるとはいっても、雑然たる羅列的な記述たるべくもありません。さりとて、原理・原則を公理的な前件とする演繹的な展開ではありませんから、方法論的によほどしっかりしておきませんことには、どういう進行になるか判じかねましょう。そこで、ヘーゲルは、――これが「緒論」の主内容でもあり、また、「意識の経験の学」の論理構制ということで関心の対象になるものにほかならないわけですが――、現象知叙述の方法論的構案を予示的に詳述してみせます。」47Pとして、次の節に入ります。
     二 「現象知」を叙述する方法論的構案
第一段落――弁証法の「上昇」としての『現象学』 47-9P
「先便以来、「学の体系一部」として当初定位されていた『精神現象学』と、論理学以下の「学の体系第二部」とでは、同じく弁証法といっても展開の論理が必ずしも同列ではないことを申し述べてきました。そして、迂生としては「上昇の途」と「下降の途」というかたちでそれらを配位しました。勿論、細かい議論になれば、果たして「自然哲学」や「精神哲学」をも下降の途と言えるのかどうか、上昇・下降は、現象学と論理学の範囲でしか使えないか、こういう問題が生じえます。更にいえば、上昇の途ということがヘーゲル哲学の最終的な体系に属するのかどうか、それには疑義がありえます。」48Pとして、「ヘーゲルは一方では、認識論を評して、「水に入る前に水泳を練習しようとする」たぐいのものだと言われるのを知って、いつぞや怪訝(「けげん」のルビ)な風情でした。が、この“謎”も「意識の経験の学」の実態、わけても、そこにおける「上昇」の方法を知れば、氷塊すると思います。」49Pと、次の項に移ります。
第二段落――ヘーゲル弁証法における「上昇」の方法 49-52P
 ヘーゲルは「現象知の叙述的展開を、さながら、“神へと到る魂の歴程”のように描き、この道程の宿駅を辿る現象的意識にとっては、それは謂うなれば<絶望>の途であると誌します。が、陶冶の道程を歩み抜くことにおいて、自然的意識が学的精神へ浄化されること、一切の真実ならざる表象・思念とスケプティッシュ(懐疑的 Skeptizismus懐疑論48P)に対質しつつ、「意識自身が学へと自己形成を遂げること」を説きます。意識の経験の学的歩みは、この意味で「教養=形成の歴史」にもほかならない」50-1Pと言います。そこで、廣松さんは「現象知はどうして、或る宿駅でストップしてしまわないのでしょうか。」51Pと問います。しかし、「著者たるヘーゲルも、当事主体たる現象的意識も、そういう心配はしません。一者はすでに踏破した経験から、他者は“本然の定めに駆り立てられる”が故に、懸念を懐きません。」51Pと廣松さんは押さえています。
第三段落――読者向けの説明と論理構制の概述 52-4P
 ヘーゲル自身もそれではすまないので、読者向けの説明に入ります。その途行きの廣松さんの押さえです。「「実在的でない意識の諸形態」つまり、現象的意識の諸逓駅たる諸姿態が「完璧につくされるということ」、“欠け目なく揃っていること”は「進行および聯関(Zusammenhang=論脈)そのものの必然性によっておのずと明らかにあるであろう」。」52Pと引用して、ヘーゲルの「現象知の叙述方法、意識の経験の学の方法、というより論理構制の概述に」53P踏み込んでいきます。その内容をヘーゲル自身からの引用として「現象知に対する学の応対として、しかも、認識の実在性の吟味・検査として提示されたこの叙述は、尺度として基礎におかれる何らかの前提なしには成立しえないかのように思われるかもしれない。というのは、検査とは或る容認済みの尺度を当てることであり、吟味されるものと尺度との、そこに明らかになる等・不等によって、正・否が決定されるのだからである。そして、この場合、尺度というものは一般に真の存在[Wesen=本質存在]ないし自体的存在[das Ansich]として容認されている。そこで、今もし、学が尺度たるべきならば、学もまた当然そのような容認ずみものということになろう」53Pと押さえ、さらに「しかしながら、学がはじめて登場するいまここでは、学それ自身も、いかなる存在も、真なる存在ないし自体的な存在として、自己を権利づけていない。が、そういう存在がなければ、検査ということがそもそも成立しないかのように思える。」54Pとヘーゲルの引用を重ね、「吟味・検査ということが、ここではそもそも成立しえないかのように思えます。」54Pと廣松さんは押さえます。

第四段落――ヘーゲルの“窮境”の脱し方 54-7P
そこで、そのヘーゲルの“窮境”の脱し方としてヘーゲルからの引用として「この矛盾とそれの除去とを明確化するためには、まず、知と真との抽象的規定を、それが意識に現われてくる相で、裡(「うち」のルビ)に泛(「うか」のルビ)べてみる(erinnern=想い出してみる)のが好便である」54Pとして「現象知そのものの如実相に定位することによって、謂うなればフェノメナルな意識の実相に即して議論を展開しようとします。」54Pと著者は押さえ、さらにヘーゲルからの引用として「意識は、或るものを自分から区別する、と同時に、そのものと関係する。或るものがそれに対して存在する、と言い換えてもよい。そして、この関係(Beziehen)の、あるいは、或るものの意識に対する存在の、規定された特定の側面が知である。しかし、われわれは、この或る他者に対する存在(Sein für ein Anderes)から、自己における存在(das Ansichsein=自体存在、即自存在)を区別する。知に関係づけられはこのものは、同時にまた、知から区別されて、この関係の外部にも存在しているものとして定立される。この即自(Ansich)の側面が真理と呼ばれる」55Pとの展開を押さえます。そして、廣松さんは「われわれは、こうして、当該の意識の自作自演を見守っていればよい。となれば、実は、われわれは別段検査などしない、ということにならないでしょうか? そうなのです。「概念と対象、尺度と検査さるべきもの、これら両契機が当該の意識それ自身の内に現前しているというこの事態からいって、われわれによる助力が無用であるばかりでなく、むしろ、われわれは両契機の比較=検査をおこなうという労をも免れることになる。……われわれに残されているのは、純然たる観望(Zusehen)のみである」57Pとヘーゲルを引用し、廣松さんは「だが、そうなると逆の心配が起こります。現象知は果たして、自己吟味を遂行できるのだろうか。それが遂行されるとすれば、一体どのような機制でおこなわれるのか?」57Pと問います。それが次の項の課題です。ここのところは、すでに廣松さん自身が書いていますが、ヘーゲルは三項図式を超え得ないけれど、絶対精神の自己展開−下降ということですませないで、「読者向けの説明」として「上昇」の途行きを展開しようとしていることとの廣松さんの対話です。なお、「純然たる観望(Zusehen)」という概念が、ここで出ていることに留目です。
第五段落――現象知の自己吟味の機制 57-9P
ヘーゲルの「[先に所与と所知との二肢的二重性を指摘しておいた通り]、そもそも意識が或る対象について知っているということ、まさにこのことにうちに、既に、意識にとって或るものが即自であり、もう一つのモメントが知、つまり対象の意識に対する存在である、という区別が現存している。検査が存立するのは、この現存する区別づけに基づいてのことである」57Pと押さえて、廣松さんは「こうして、現象知が自分自身で自分の知を吟味・検査するということが可能」57Pになるとして、「それはどのようにして遂行されるのか?」57Pを問います。そして、ヘーゲルが「この比較[=検査]において、両者[つまり、一方の<意識にとっての或るものの即自>と他方の<その或るものの意識に対する存在>という二契機]が照応しない場合には、意識は<知>を変化させて<対象>に適合させねばならないように思えるかもしれない。が、知が変化するときには実は対象それ自身も意識にとって変化する……」58Pと展開していることを引用して、更にヘーゲルの引用が続きます。「この弁証法的運動――意識が自分自身に即して、対象の側に即してのみならず自分の知の側に即しても遂行するこの運動――は、そのことから意識にとって新たな真の対象が発展するかぎり、元来、<経験>と呼ばれるところのものにほからない」58Pと、ここはヘーゲルの「意識の経験の学」ということの中身的展開です。そして、廣松さんは「この際、わけても検査の不合格が確認された場合、尺度=対象が変化するということを特に銘記しておかねばなりますまい。そこでは、変化以前と以後との二重の相で対象が登場してくる所以となります。第一には<意識にとっての即自存在>、第二には<この即自存在の意識−に対する−存在>です。」58Pとして、ヘーゲルから「後者は、一見したところでは、対象の表象ではなくして、第一の対象についての意識の知の表象にすぎないかのようにみえるけれども」58Pと引用し、それに廣松さんはコメントして「あくまで「意識の対象」なのであり、」58Pとして「この新しい対象は、最初の対象の非真実性を含意しており、この新しい対象は第一の対象についてなされた経験である」58-9Pとのヘーゲルのコメントに繋げます。そしてこの項を廣松さんは、「われわれの叙述では」59Pと文を起こし、ヘーゲルからの引用で「第一の対象とそれの知とから、別の対象への移行が生じており、この[新たな]対象に即して<経験>がおこなわれた旨が立言され、第一の対象についての知、ないし、第一の即自存在の<当の−意識−に対する−存在>が、第二の対象それ自身に転成する旨が云々されている」「われわれの見解においては、意識の改変それ自身を通じて、<新たな対象>が<生成>するのである」59Pと以上、ヘーゲルの言説を廣松さんの自らの補足説明を込めて引用し、まとめ、次の項に繋ぎます。
第六段落――<運動><生成>として存在する<意識の経験の学>の本性を把捉し、絶対知の本性を示す
 前の項を受けて「現象知の自己吟味を通じてこのように<新しい対象>が<生成>し、従って、新しい知がそれに関して形成されるという<意識の経験>の進展、これが「上昇」を支える。とはいえ、そのことがそのことが果たして、当の「経験する意識」「現象する意識」そのものに自覚されているのであろうか?」59Pと問うて、それに廣松さんはヘーゲルに答えさせていきます。「当該の意識にとってはその仕組みが知られぬままともかく立ち現われるところの、新たな対象の発生、これのみは、いうなれば当該の意識の背後で、われわれにとって(für uns)進行する事柄である。というわけで、意識の運動のうちには、即自的存在またはわれわれにとっての存在という契機、つまり、経験そのものに没頭している当の意識に対して[対自的に]は現前しない契機が入り込んでいる。とはいえ、われわれにとって発生するところのものの<内容>は当の意識に対して[対自的に]存在するのであって、われわれが把握するのは生成する当のものの<形式面>にほかならない。……当の意識にとってはこの発生したものは単に<対象>として存在するにすぎないが、われわれにとってはそれは同時に<運動><生成>として存在する」「この必然性によって、学へと到るこの道程はそれ自身すでに学であり、その内容から言えば<意識の経験の学>なのである」60P「意識が自己についてなす経験はその概念上それの全体系、換言すれば、精神の真理の全領域を包括(in sich beegreifen)せざるをえない。真理の諸契機が、この特有の規定性において自ら叙示するのであり……全体の諸契機が意識の諸姿態というかたちで登場する。意識が自分の真の実存へと邁進して行くとき、意識はついて自分の仮相を脱ぎ去る点に到達する。・・・・・・その到達点では、現象が本質に等しくなり、従って、そこでは意識の叙述が精神に固有の学と合致する。そして終局的には、[経験する当の]意識自身が自分のこの本質[真の在り方]を把捉することにおいて、自らが絶対知そのものの本性を示すに及ぶであろう」60-1Pこれが「『精神現象学』の「緒論」――剴切には「意識の経験の学」の導入部」61Pの結びの部分としています。ヘーゲルの「上昇」の途行き。そもそも、絶対精神――絶対知自体が錯誤なのに、「上昇」の途行きはありえるのでしょうか? 廣松理論では、共同主観性での客観的妥当性の吟味・検証という弁証法で、「真理」を探究していくがゆえに、「観望」(für uns)が学的意識となるのですが、ヘーゲルでは「観望」はドクサにすぎないものになってしまい、「真理」は結局「絶対精神」にあるということが問題なのではないでしょうか? 
     三 ヘーゲルにおける意識の経験の披界
第一段落――ヘーゲルの途行き−<知>と<対象>との関係 61-3P
 廣松さんの自著でのヘーゲルとの対話です。「『世界の共同主観的存在構造』では序章の末尾に近い箇所で「認識論は……悟性的反省の次元にとどまっては無限退行に陥る。認識論的省察は、われわれにおいても、“即自的かつ対自的な考察……自己みずから自己を吟味し、自己自身に即して自己の限界を規定し、自己自身の欠陥を指示しつつ進行する途ゆき”としてヘーゲルが定義した意味での“弁証法”を措いてはありえない。」61Pとしています。ここのところ、もっと吟味する必要があるのですが、ヘーゲル的途行きを参照し、弁証法的途行きを探るということなのだととらえ返しています。この節は、廣松さんのヘーゲルとの対話の進行になっています。
 そこから「ヘーゲルは現象的意識の実態に定位して、<対象>と<知>とを区別しつつも、分断はしていないこと、このことは想起するまでもありません。知は対象たる即自存在と別々にあるわけではない。<知>は<或るものの意識に対する存在の特定側面>だとされております。」とし、「一方では、あの道具・媒体というかたちでの自立的中間項を否認し、他方では、あの<異質なもの>が意識に対して他者として在るかのようにみえるのは「仮相」だと言っていることからも、彼が意識と対象とを実体的に分立させていないことは判ります。それは、しかも、決して主観的観念論の流儀で一切を意識に内在させることにおいてではなく、実体=主体、主体=実体という絶対的観念論を背景にしてのことです。」62-3Pそして「なるほど関係の第一次性に徹せぬ以上、いくら絶対的観念論といっても、構図的には一種の“先験的内在主義”」63Pに陥っていると指摘しています。この段落のまとめとして
「当座の議論としては、こうしてヘーゲルにあってはともかくにも<対象自体−表象内容−意識作用>という三項図式には拘泥しない相で立論されていること、より適切に言えば、当事的意識は三項図式に半ば囚われているが、われわれにとっては(für uns)既にそうでないこと、――この二重性の故に話が複雑になる次第ですが、――この点を念頭に収めて追認・検討しましょう。」63Pと次項以降につなげます。
第二段落――<知>の変化と<対象>の変化―ヘーゲルの隘路 63-6P
「結論的な認定を表明してしまえば、ヘーゲルはこの難問(「途中で合格を認めれば“意識の経験” はそこでストップしてしま」65Pう)を解決し得ていないと申さざるをえません。が、彼の当座の論理からいえば、“不合格”が必然的な筈です。現象知は<対象>の即自存在そのものを如実に<知>っているものと思念しておりますけれど、その存在は意識に対しての存在にすぎないこと、しかも、<限定された特定の側面>にすぎないことを対自化せざるをえません。ですから、意識の構造そのものからいって、当初の知の否定が必然的です。勿論、この否定は「純然たる消極的否定」ではなく、「限定された否定」であり、故に「そこから直ちに新しい形態が発現し、否定のうちにおいて移行が成就される」わけです。尤もそのことは、当事意識が常に自覚するとはかぎりませんけれども、構造的には必然的な構制とされております。――われわれにとって(für uns)は<新しい形態><新しい対象>がその転成前の“対象”と完く同じものと認知される可能性、従って“生成”や“運動”が停止する可能性がフェア・ウンスにはありえますが、当事主体にとってはそれはあくまで<新しい対象>の現前であり、新しい<経験>であって、停止にはならない道理なのです――。そうである以上は、絶対的な“合格”的一致=絶対知は存立しえないことになるはずです。それにもかかわらず、ヘーゲルは絶対知という“安定点”(当事意識自身にとっての自覚的な安定点)の存在を強弁します。そして、そのことによってはじめて、上昇の途が無際限にはならないこと、上昇の完結を立言しえた形にしております。」65-6P
結局「ヘーゲルとしては神学的な表象に訴えることで辛うじて議論を繕っていますが、というより、絶対知における合一の実現ということが既定の到達目標として彼の先取的構案になっている次第ですが、弁証法的な上昇を支える論理構制は、この“完結”を原理上許容せず、絶対的肯定を弁証法的に披界(entgrenzen)するが故に、彼の神学=哲学の体系的自閉症(ママ)を破綻せざるをえません。」66Pとこの項を結んでいます。
第三段落――ヘーゲル流の建前の「観望」とその違反としての展開 66-8P
「上昇の弁証法は「善のイデア」とか「絶対知」とかへの到達を保証しないからといって、決して方法論的に無効とは申せません。それどころか、迂生としてはむしろ、弁証法的否定の“上昇”運動が、原理上は固定的な終局をもたず、体系的に開いていること、このことは必然的な構制に却って留目する者です。/弁証法的な学の体系が、謂わば“折線”状の往復になるのではなく、ヘーゲル本人が言うとおり、「円環」的になる所以のものも、固定的な終局が存在しないことと相即するはずです。――エンゲルスが指摘するとおり、ヘーゲル流の弁証法的方法と彼流の体系的完結性とは、両立しません。――そして、学知の円環的構造ということは、固定的な「端初」が存在しないこと、原理的にはどこから現象知の叙述を始めても差支えないことをも含意します。もちろん、既定的な端初が存在しないというのは原理上の話であって、実際問題としては、当然、しかるべき出発点が選ばれざるをえません。」66-7P
そして、「現象的意識=現象知の「自己吟味」の進行を観望的に叙述すると称しても、現象知には雑多な内容が含まれておりますし、また、学的叙述は無限の多様性を完璧な目録に仕立てるものではありませんから、そこでおのずと“枠組”や“尺度”を持ち込まざるをえません。学的叙述は、ヘーゲルが建前とするような「観望」(Zusehen)ということでは済みません。そこでは一定の、方法論的な舞台廻しが要件であり、故にまた、謂うところの“枠組”“尺度”“方法”に関するメタ・レベルでの“自己吟味が併せて要求されることになります。このような点でも、ヘーゲルの“建前”にそのまま従うわけには参りません。」67Pとして
「ヘーゲルへの批判は暫く保留して、彼自身が建前に違反しつつ“即自的”に乃至für unsに遂行している実態を見ておくのが順序」67Pとして
「ヘーゲルは、夙に御承知の通り、現象知の叙述を「感性的確知」(sinnliche Gewißheit)から始めます。絶対的無知は、絶対的完知と同様、学の出発点にはなりません。一定のドクサが出発点に選ばれざるをえない所以です。」67Pとして
「次便では、四肢的構造論とも絡めつつ、ヘーゲルが秘めている上昇的展開の“舞台廻しの論理” ――これが、やがて、マルクスによって積極的に活用されるに及びます――と見定め、「意識の経験の学」のメタ・レベルにおける方法論的省察を試みてみたいと存じます。」68Pと予告してこの章を終えます。


posted by たわし at 02:49| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月15日

小出裕章/西尾正道『被ばく列島 放射線医療と原子炉』

たわしの読書メモ・・ブログ653
・小出裕章/西尾正道『被ばく列島 放射線医療と原子炉』KADOKAWA 2014
 649で取り上げた西尾さんの小出さんとの対談本です。原子力物理学の研究者小出さんと放射線医療臨床医西尾さんとのフクシマ原発事故3年後に出された本、放射線に対する基礎知識と細かいところまでの問題点を出してくれています。放射線で原資料になるような本です。反原発関係の集会に参加していて、その中で発言されていることの検証にもなったし、元の資料にあたるというところで、649と共に、これからも参照していく本です。
 この当時、「美味しんぼ」で描かれた鼻血シーン、当時「風評被害」ということばと共に、叩かれていたのですが、わたしも精神的なものではないかなどと押さえてしまっていたのですが、この本の中で、科学的根拠があることとして示されています。当時、話題になっていた原発の輸出ということも、今日破綻が明らかになっていますし、高速増殖炉もんじゅも廃炉になっています。そもそも、どうして日本がいまだに、原発の再稼働を進めえるのか、わけが分からないのですが。
 さて、前の649で、甲状腺癌への著者のコメントにわたしは疑義を抱いた話を書いたのですが、そもそも、著者の話は医療過誤の話になっていますし、同業での批判であいまいにしているようなのですが、その原型の話がここでも出てきます。わたしは何か、ジクゾーパネルの肝心なピースが抜け落ちているようなことを感じています。小出さんは二度にわたって、「では一体どちらが正しいのかということですけれども、私は少なくとも科学は、何よりも事実に基づくべきだと思っています。従来の知識で説明できないような現象が事実として起きているのなら、その事実を踏まえて、新しい科学を作るのが科学のやり方だと思っていて、アプローチの仕方としては、私は(ICRPに比して)ECRR(欧州放射線リスク委員会)が正しいと思います。」110-1Pと「しかし、もともと科学とは、それまでに説明できない事実について合理性を持って説明しようとするものであって、現に存在している事実をないものにすることは、およそ科学的ではない。・・・・・・」197Pと話しています。小出さんがこの問題について直接触れているわけではないのですし、西尾さんに伝わっているかも分からないのですが、そこからすると、医療過誤でもないかぎり、これだけ甲状腺がんが出て医療過誤ということにはならないと思います。また西尾さん自身も「・・・・・・現実に起こっている疫学をまず重視するというところから出発しています。それは、どういう現象が起こっているかをまず見るという科学の出発点です。」111Pと発言しています。どうしても西尾さんの「過剰診断論」が分からないのです。
小出さんの発言には以前から全面共鳴しているのですが、一つだけ、「60禁」の話が分かりませんでした。個人的なこととして秘かに実行することで、公にして他者への呼びかけのようなことをしてしまうと、高齢者への抑圧になりかねません。
 この対談を見ていると、政府の主張していることとの乖離がはっきりしてきます。またICRPが民間機関で、しかも、原子力推進機関という内容なのに、その基準を国際基準として政府が突き出していることのごまかしも明らかになっています。
 今回は、この本に戻るということを前提にして、目次一覧を出し、切り抜きメモを極力抑えます。
        目次
     まえがき 西尾正道
     プロローグ――3・11福島原発事故から3年経って
放射性物質で汚れた国土には住めない
医学の進歩の原動力である放射線診断学
国際原子力ムラと医療邑の構造を明らかにせよ
第1章 そもそも放射線とは? 被ばくの実態に向き合う
      「能動的な毒物」の放射性物質とは何か?
      健康被害と内部被ばく
放射線防護学は擬似科学
例えばセシウムが体内に取り込まれたら
外部被ばくと内部被ばくはどう違うか
第2章 世界一の医療被ばく国、ニッポン
今の医療現場は放射線を使いすぎでは?
「がんの3.2%は診断による被ばくが原因」
がん検診に有効なPETにも、こんな心配事がある
放射線による緩和医療の実情
原発の立地周辺地域でも、がんが多発している――北海道泊村のデータ
第3章 原発事故による被ばくとの格闘 福島で何が起こっているか
実測値を測れ
甲状腺がんの問題については……
低線量地域に住み続けるということ
セシウム・ホットパーティクルに注目せよ
がれきを燃やした結果
ガラスバッチの罠
低線量被ばくに関する「ベトカウ効果」とは?
放射能汚染水処理のデタラメさ
除染についても物申したい
放射線の概念とその単位
放射線のエネルギーの問題を看過するな
海洋汚染は、なぜ深刻か
地球上にばら撒かれてきた放射性物質セシウムとストロンチウム
溢れてくる放射能汚染水の量は予測がつかない
食品汚染にどう対処するか
私が第一次産業を守りたい理由
「60禁」のすすめ――子どもたちを守ろう!
第4章 原発の安全・安心神話を語るのは誰か
ただの民間企業にすぎないICRP
チェルノブイリ事故後にできたECRRの主張とは
ゴフマンの「被ばくの危険度」の評価について
事故後の鼻血の問題について
広島原爆におけるABCCの疫学研究には問題あり
ICRPの基準とECRRの基準はなぜ違うのか?
第5章 原発作業員や放射線医療従事者を被ばくから守れ
原発作業員たちは被ばくからどう守られているのか
放射線の専門家はどう育てられているのか
第6章 放射線廃棄物をどう処理するか
核廃棄物のトイレはどうするか
そもそも核の無害化技術は、実現性なし
医学の立場からすれば、放射性医薬品にはメリットがある
第7章 日本は世界の流れから取り残されていないか
米国の原発が止まる
撤退すすむ先進国の原子力産業
世界に売りつける日本の原子力メーカー
なぜ失敗ばかりの高速増殖炉を続けるのか
どうしてもプルトニウムを懐に入れたい日本
日本の医療のいい面を自覚せよ
TPPは医療がターゲットだ!
終 章 私たちはこれから、放射線とどう向き合うか 後世の子孫への責任
胎児とお母さんの被ばくについて思うこと
細胞の放射線感受性についての「ベルゴニー・トリボンドの法則」を知ろう
今後どうするか――生き方や文明論の見直しのきっかけに
被ばくがもたらしたもの――がんが増えだしたのは明らかに戦後から
若い人たちへのお願い
提言――これからの原発と医療のあり方
     あとがき 小出裕章
巻末資料1 PET施設と原子力発電所
巻末資料2 原子力発電所一覧
巻末資料3 PET・PET/CT・サイクロトロン設置施設一覧
巻末資料4 PET・サイクロトロン県別設置状況

 切り抜きメモです。肝要な所だけにします。対談本なので最初にどちらの発言かを入れます。斜文字はわたしのコメントです。

     まえがき 西尾正道
「小出氏とその数人のグループは以前から原子力発電の問題点を指摘し、孤立無援の闘いをしてきたことは存じ上げていた。しかし、私はがんを放射線で治す「表(光)の世界」に身を置き、忙しい日常臨床の業務に追われて、放射線の「裏(影)の世界」にまで目を配る余裕はなかった。だが原発事故後、影の世界を見てみると、ICRPの放射線防護体系と称するものは、科学的にも論理的にもおかしな点が多いことに改めて驚いた。ICRPは研究所もなく専任の研究員もいない組織で、原子力関係団体から多額の寄付金や運営費を受け取り、原子力政策を推進する立場で放射線の健康被害を論じている感を強くした。」10P
第1章 そもそも放射線とは? 被ばくの実態に向き合う
放射線防護学は擬似科学
(西尾)「しかし、原発事故における内部被ばくをICRPは、全然当たっていない細胞までも含めて臓器換算や全身化換算して内部被ばくの線量を極小化するトリックを使っています。・・・・・・」25P
第2章 世界一の医療被ばく国、ニッポン
「がんの3.2%は診断による被ばくが原因」
(西尾)「日本の年間X線線量は1477回/千人で15カ国平均の1・8倍被ばくしており、がんになった例は年間7587例と推定しています。その発表の後1年間ぐらいは、放射線科の学会でもこの問題を議論されました。結局、結論は「でも、やっぱり放射線の検査は必要だから、仕方ないよ」で終わった。その後も診断学でどんどん使われており、CTスキャナーなどの高額医療機器の保有割合は世界一です。・・・・・・」35-6P・・・「放射線は体にいい」とか意味不明のことを言っていたひとは、こういう現実も押さえていない
(西尾)「また乳がん検診もマンモグラフィーを1次検査としないで、超音波装置で行うことも考えられます。しかし、従来型の検診を業務とする人たちもおり、既得権益もできていますから、なかなか医師不足の問題もあり切り替えできません。/原子力ムラという詞がありますけれども、医療ムラとでもいえる構造もあるのです。・・・・・・」37P
(西尾)「まさに原子力政策が「国民のための科学」ではなく、「お金のための科学」となっているのと同様に、「国民のための医学」ではなく、「お金のための医学」になっているのです。・・・・・・」38P
原発の立地周辺地域でも、がんが多発している――北海道泊村のデータ
(西尾)「また世界的には原発事故がおこらなくても原発立地周辺の子どもの健康被害は報告されています。実際に北海道の泊(「とまり」のルビ)原発なんかの周辺地域では、がんの患者数がダントツに多い。道内平均の1・4倍程度です。岩内(「いわない」のルビ)町と積丹(「しゃこたん」のルビ)町は近隣町ですが、これらの原発周辺地域でも年齢補正をしてもがん死亡率が増えています[図表9]。この集計は北海道庁管轄の北海道健康づくり財団(理事長は北海道医師会会長)によるものです。事故が起こらなくても水の形で存在してβ線を出すトリチウム(三重水素:3H)が関係しているのだと、私は思います。・・・・・・」48P
(西尾)「私の友人である獨協(「どっきょう」のルビ)医科大学放射線医学講座の名取春彦医師は、DNA合成期の細胞のDNAにトリチウムが取り込まれていることを画像で証明しています。」49P
「生命現象に重要な役割を果たしているすべての化合物の中には水素原子がありますから、その放射した水素が影響はないとはいえません。分かっていないだけの話です。ですからまったく無根拠にトリチウムは影響がないという政府の言い訳は説得力がありません。原発を稼働させるだけで、事故が起こらなくても、トリチウムは大量に放出されますので、原発稼働そのものが健康被害の原因となりえるのです。」50P・・・トリチウムの「有機結合」といわれていること
第3章 原発事故による被ばくとの格闘 福島で何が起こっているか
実測値を測れ
(西尾)「私は3・11福島原発事故で、日本人は科学的な思考ができない人種だとつくづく思いました。きわめて感情的で、気持ちの問題にする。だから「絆」だとか、そういうことがいわれる。冗談じゃない。そんなことでては全然解決しない。」52P・・・現在汚染水放出問題での「科学的」という「水戸黄門の印籠」的突き出しによる、他国批判で、それは極めつけ
セシウム・ホットパーティクルに注目せよ
(西尾)「それはセシウムが放射性微粒子として存在しているということ、いわゆるセシウム・ホットパーティクルですね。/事故後に生じた鼻血もこうした大気中に浮遊した塵(「ちり」のルビ)と結合したセシウム・ホットパーティクルを吸い込み、湿潤した鼻腔(「びくう」のルビ)粘膜に附着したため局所的に被ばくしたことによるものだと説明がつきます。・・・・・・」65P・・・「美味しんぼ」で描かれた鼻血の科学的説明
ガラスバッチの罠
 ガラスバッチのごまかしの話69-72P
(西尾)「帰還に力を入れている政府に何をいっても無駄かもしれませんが、百歩譲っても、せめてチェルノブイリと同じ対応にしてほしいものです。年間5ミリシーベルト以上は強制移住させてほしいと思いますし、内部被ばくも考慮すべきです。しかし2012年の『白血症』という国際雑誌に、自然放射線が年間5ミリシーベルトのところにずっと住み続けていると、1ミリシーベルト上がるごとに小児白血病が12%増えるという論文が報告されています。医学データがここまで出ているとすれば、やはり年間5ミリシーベルト以上のところに住み続けることは良くないと思いますね。」72P
低線量被ばくに関する「ベトカウ効果」とは?
(西尾)「・・・・・・「長時間、低線量放射線を照射するほうが、高線量放射線を一瞬照射するよりも細胞膜を破壊する」ことを報告したのが「ベトカウ効果」と呼ばれる学説です。」73P
放射能汚染水処理のデタラメさ
(西尾)「放射能汚染水を処理するアルプスも故障が多く、どうしようもない。・・・・・/札幌市内に室蘭工業大学の教授などがバックアップして作られた浄化装置[図表26]があり、セシウムは99・9%除去できる小さな装置を作っている会社があります。・・・・・/こうした装置を採用して汚染水処理を進めるように環境省に話を持っていっても全然相手にされない。関係行政省庁と結びついて、大手企業が火事場泥棒みたいなことをやって、原発太りとなっています。・・・・・・」77-8P・・・トリチウム水の除去装置も出ているという話もあるのに同じ構図!?
放射線のエネルギーの問題を看過するな
(西尾)「トリチウムの平均エネルギーは、5・7KeVぐらいですから、体内の電気信号の約1000倍です。原発稼働により、トリチウムは事故が起こらなくても大量に海に出されていますから、周辺地域の人たちの健康被害はトリチウムが関与していると私は考えているくらいです(前出の図表9の、原発立地周辺地域でがんが多発している北海道泊村のデータ参照)。」83P
(小出)「放射性物質が出すエネルギーは、いわゆる私たち生命体の持っている分子結合のエネルギーに比べれば、圧倒的に高い。トリチウムでも1000倍です。セシウムは、何十万倍になります。」83P
海洋汚染は、なぜ深刻か
(西尾)「水俣(「みなまた」のルビ)病では熊本大学の研究チームが有機水銀を原因として報告したのですが、政府が認めたのは9年後であり、またチェルノブイリ事故後の甲状腺がんの多発をICRPとIAEAが認めたのは10年後でした。脳の高次機能障害の詳細が分かっていないことを理由に小児の発達障害の要因を否定すべきではないと思いますし、予防原則の立場で対応することも必要です。」87P
地球上にばら撒かれてきた放射性物質セシウムとストロンチウム
(西尾)「海洋汚染の放射線に関しては、ストロンチウムは本当に問題で、測っていないから、何も報じられず、注意喚起もおざなりです。チェルノブイリではセシウムだけでなくストロンチウムも測定され、規制値も決められていますが、日本はセシウムだけの規制値しか出していません。本当は日本もまずやるべきことは、β核種の測定体制を作ることです。」90P
溢れてくる放射能汚染水の量は予測がつかない
(西尾)「ただ、流している放射能汚染水がとてつもない量になる可能性があるわけですね。だから、大気圏内核実験の10倍くらいになるといった情報も流されていますが、今後のことは分からない。・・・・・・」91P
(小出)「・・・・・・放射能を環境に洩らさないために何よりも大切なことは、水と接触させないこと。しかし、今、日本の政府あるいは東京電力が福島でやっていることは、ひたすら水に接触させている。始末に困って閉じ込めようと思っているものに意図的にジンジャン、水をかけているわけです。」92P・・・どうしようもないジレンマ
第4章 原発の安全・安心神話を語るのは誰か
ただの民間企業にすぎないICRP
(西尾)「事故前、原子力発電の安全神話をばら撒(「ま」のルビ)いてきましたが、事故後は、安全神話が崩壊したので、新たな安心神話を作り出しています。その根拠を与えているのがICRPです。/1928年に設立された「国際X線およびラジウム防禦委員会」は放射線の医学利用を考慮して作られましたが、50年に名称を変えてICRPとなり、その目的は人体への健康被害を最低限にするというよりも原子力政策をすすめることにシフトしました。/ICRPは、第一委員会が外部被ばく委員会、第二委員会が内部被ばく委員会でしたが、52年に内部被ばく委員会の審議を打ち切ってしまいました。そこから報告書が出たら原子力政策を進められない事態となり、困るからです。内部被ばくを隠蔽(「いんぺい」のルビ)する歴史は52年から始まっているのです。」104P
(西尾)「また、このICRPは目的に沿って物語を作り、報告書や勧告を出します。「閾値(「しきいち」のルビ)なしの直線仮説」が国際的なコンセンサスになっていても、日本政府は100ミリシーベルト以下では放射線の健康被害は因果関係を証明できるほどの影響は見られないと主張しているのが、その典型です。多くの医学論文で、100ミリシーベルト以下でも健康被害は報告されていますが、ICRPは調査もせず、反論もしません。研究機関でなく、ただの会議を開催して報告書を出す委員会だからです。」105P
チェルノブイリ事故後にできたECRRの主張とは
(西尾)「また国は潜在的な核保有国としてのポジションをキープしたいですし、官僚は天下り先を確保しておきたい、ということも含めて、便益があるから、電力会社に有利な計らいをしています。また御用学者はたくさんの研究費という名目で資金援助を受け、それで飯を食っています。メディアも最大のスポンサーは電力会社だから、きちんと真実を伝えない。こうした構造が出来上がっており、まさに原発利権に群がる国際原子力マフィアとなっているのです[図表33]。」105-6P
(小出)「・・・・・・(イギリスのセラフィールド再処理)工場周辺の人々に白血病が多いことについては、疫学的に確実なデータがあります[図表35]。/それはイギリス政府も認めています。そういうデータを前にして、原子力を推進してきた人たち、例えばウィンズケール(セラフィールドの旧名)の再処理工場もそうですけれど、彼らが何といったかというと、「これは被ばくとは関係ありません」と。今の福島県立医科大学のような言い方ですけれど、ICRPのモデルを使う限りは、そんなに白血病が増えるような被ばくにはなっていませんと、そちらから因果関係を否定する形に出てきた。」109-10P・・・そもそも因果論自体が厳密にはもはや使えない論理であることも押さえる必要
(小出)「では一体どちらが正しいのかということですけれども、私は少なくとも科学は、何よりも事実に基づくべきだと思っています。従来の知識で説明できないような現象が事実として起きているのなら、その事実を踏まえて、新しい科学を作るのが科学のやり方だと思っていて、アプローチの仕方としては、私はECRR(欧州放射線リスク委員会)が正しいと思います。」110-1P・・・冒頭導入文の再掲、因果論事態の検証も同様に
(西尾)「チェルノブイリで、被害を受けたヨーロッパの科学者たちが立ち上がって、97年にECRRができたけれど、基本的な姿勢は2つあって、1つは現実に起こっている疫学をまず重視するというところから出発しています。それは、どういう現象が起こっているかをまず見るという科学の出発点です。/チェルノブイリの子どもたちの健康被害やイラクの劣化ウラン弾による被害、先ほどのイギリスのセラフィールドの問題だったりということで、現実の疫学をまずベースにして、分析を始めたということが1つです。/もう1つは、まったく内部被ばくを隠していたICRPに対して内部被ばくと低線量の慢性被ばくをも問題視にしたことです。その内部被ばく時に、計算の仕方として、全身化換算すること自体がおかしいということをベースにしています。だから、今回の福島の原発事故による健康被害の予測では、計算モデルによって結果が全然違っている。ICRPは、今後50年間の過剰発がんは6156人としているが、ECRRのモデルでは42万人と大きく異なっています。住んでいる人口数を考慮して計算し、原発より100キロメートル圏内で20万人、100〜200キロメートル圏内で22万人と計算しています。」111-2P
事故後の鼻血の問題について
(西尾)「またICRPの健康被害物語では現実に起こっている被ばくによる全身倦怠感や体調不良などのいわゆる「ぶらぶら病」も説明できません。そのため何の研究や調査もせずに、精神的・心理的問題として片づけようとするわけです。・・・・・・/今後生じると思われる多くの非がん性疾患についても精神的なものとか心理的ものとして否定することでしょう。鼻血論争は、未解明なものはすべて非科学的として退け、自分たちの都合のよい内容だけを科学的と称する非科学的なICRP信奉者の発言の始まりでしかないと思います。」121P
(西尾)「50年から2003年まで、50余年、広島・長崎の被ばく者約12万人をフォローした追跡調査によれば、30歳で1シーベルト浴びたら、70歳の時に肺がんや胃がんなどの固形がんで死亡するリスクは、被ばくしていない人に比べて42%増加し、被ばくの年齢が20歳だったらリスクは54%に増えるという報告が2012年にABCC(放影研)から出ています。」127P・・・2012年には放影研(旧ABCC)では?
第6章 放射線廃棄物をどう処理するか
医学の立場からすれば、放射性医薬品にはメリットがある
(西尾)「放射線の難しさは、その健康被害がすぐには出てこないことにあります。確定的影響はすぐ出るけど、そういうことは、事故でもない限りは起こりえない。ふつうは確率的影響になります。それも晩発性です。そこがすごく難しいところです。/農薬や化学物質だったら、動物実験により結果は出しやすい。閾値も決めやすい。10万人に1人のリスクの確率で社会全体として受け入れるなどのコンセンサスを作れば、短期間で結論が出ます。ところが放射線の場合は、影響が10年20年、場合によっては50年という単位で起こってくるので、そういう実験ができない。・・・・・・」145P
「・・・・・・だけど、放射線で1万分の1でも10万分の1でも(DNAが)傷ついたことで、それがどんどん傷ついた者同士が掛け合わされますから、継代的に遺伝子の傷は引き継がれ、より深刻な事態になることを想定しておくべきです。」146P・・・このあたりは、きちんとした引用文になっていません。649の読書メモでも指摘した障害差別的なことに繋がる話になっていて、「文明論の問題になります」という記述があるのですが、障害差別の問題を対象化し、きちんとコメントしておいて欲しかったという、障害問題を論じてきたわたしの思いがあります。
第7章 日本は世界の流れから取り残されていないか
TPPは医療がターゲットだ!
(西尾)「皆さんは、これでよいのでしょうか。日本人は放射性物質と農薬を含んだ食品を食べ、さらに遺伝子組み換え食品も多くなっており、世界一危険な物を食べています。そして継続し深刻化する海洋汚染により魚介類も危険なものとなっているのですが、問題意識が無さ過ぎます。恵まれた美味しいものを食していると思いますが、実は世界一体に悪いものを食べているのかもしれません。」169P
終 章 私たちはこれから、放射線とどう向き合うか 後世の子孫への責任
細胞の放射線感受性についての「ベルゴニー・トリボンドの法則」を知ろう
 この節は、放射線に関する知識になっています。
今後どうするか――生き方や文明論の見直しのきっかけに
(西尾)「今の日本は、@哲学なき日本、A品性なき日本、B見識なき日本、C人倫なき日本、D責任なき日本、E先見なき日本、F知足(「ちそく」のルビ)なき日本、の状態ですね。」177P
被ばくがもたらしたもの――がんが増えだしたのは明らかに戦後から
(西尾)「人間は健康を維持するために、リスク管理に関しては想像力を持って考えるべきです。放射性廃液や主要元素の生物濃縮を表に示しますが、ヨウ素もセシウムも1000〜4000倍に生物濃縮されます[図表48]。セシウムが1ベクレル漏れたらセシウムは1000ベクレルになって、人間の口に入ってくる可能性があります。」184P・・・生物濃縮の問題
     あとがき 小出裕章
「本書の作成中に漫画『美味(「おい」のルビ)しいんぼ』(小学館)についての騒動が起きた。その漫画は福島第一原子力発電所事故(以降、「福島原発事故」と記す)をテーマにし、被害者の中に鼻血が発生している事実を取り上げた。それに対して、鼻血の発生は事実ではない、あるいは被ばくとの因果関係はなく、風評被害を引き起こすとして攻撃を受けたのだった。私もその漫画を読んだが、漫画というメディアを使って、被害者の苦難に寄り添おうとした内容で、私は嬉(「うれ」のルビ)しく思った。」195P・・・そもそも因果論などという論理の非論理性の問題と、著者の197Pの文
「現在、帰還困難地域とされているその場所には、数十年あるいは数百年にわたって人々が戻ることができない。その場を自分の故郷として生活を営んできた人々は二度と故郷に帰れないまま一生を終えるしかない。また、その周辺には約1万4000平方キロメートルにわたって、日本の法令に従えば「放射線管理区域」にしなければならない汚染地域が広がった。しかし、自民党政府は、今は緊急時だとして、その場に人々を棄てた。」196P
・・・著者の苦難の人々に寄り添い自らの責任を問う思いと姿勢
「しかし、もともと科学とは、それまでに説明できない事実について合理性を持って説明しようとするものであって、現に存在している事実をないものにすることは、およそ科学的ではない。そして事実を科学的に説明する責任は、人々を汚染地に棄てた政府にこそある。真の問題は原発の存在そのものであり、苦難のどん底に落とされた人々が今も苦難の底で呻吟していることである。まずは自民党政権の謝罪と被害者の救済こそ為すべきことである。」197P・・・避難者の救済を打ち切り、あろうことか、緊急事態宣言が解除されていない汚染地への帰還政策を進めています。


posted by たわし at 02:30| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『もの・こと・ことば』(6)

たわしの読書メモ・・ブログ652[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(6)
『もの・こと・ことば』の6回目です。「跋文に代えて」というあとがき的な文なのですが、実は、これまでの著と、主著『存在と意味』をつなぐ構想的なことを展開していて、かなり大切な文なっています。これまでの著を再度とらえ返すというところで、もう一度この文に沿って押さえ直す作業をすることなのですが、先を急ぎます。とりあえずのメモを残し、基幹の学習を一応終えた後の課題にしておきます。
もう一つ、この著には文庫版があって、そこには熊野純彦さんの解説があります。廣松さんの「跋文に代えて」とも重なるところがあるのですが、これも簡単なメモを残します。
尚、『廣松渉著作集』のこの著を載せた第一巻の解説は、『世界の共同主観的存在構造』と一緒になっている巻で、この著の分の解説を除いてメモを残したのですが、この著に関してとりたてて書いていなかったので、ここではコメントしません。この回で、[廣松ノート(4)]を終わります。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――[646]
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――[647]
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性                [648]
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――              [650]
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――              [650]
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――              [651]
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――       [652]
人名索引

さて、切り抜きと言い難いのですが、メモに入ります。
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
 この文は「前著『事的世界観への前哨』の序文のなかで、今を去ること四年前に、著者は次のように誌しておいた。」で始まります。で、わたしが出した本の中で、パラダイム転換の展開している箇所として、かなり省略して引用した文があり、それを省略を排して全文掲載したのを、[廣松ノート(3)]に当たる『事的世界観への前哨』の回の最初の切り抜きで載せました。実は、この「跋文に代えて」では、それに加えて、言語論的展開にまで延長されています。その部分を書き加えます。
(小さなポイント)「未熟ながらも著者は謂うところの事的世界観の懐胎を裡に覚識し……体系的に言表しようと努めつつも、如何様に論述すれば大方の理解を得られるか、立言の方途に困憊し、未だに成稿を得ていない。――識者のうちには「物(「もの」のルビ)的世界像から事(「こと」のルビ)的世界像へ」という標語から直ちに“言語的世界”との類推のもとに、「辞項(的定在)」を第一次的とみなす了解から「命題(的相在)」を第一次的とみなす了解への推転の相で“理解”されるむきもあるかもしれない。ボルツァーノからヴィトゲンシュタインに亘る故知が存在するだけに愈々(いよいよ)それが使嗾(しそう)されることかと思う。慥かに、これに仮託して一つの射影を述べることが可能ではある。がしかし、そのさいには辞項的存在が物象化的結節であることを存在論的に説述することが却って困難になるだけでなく、そもそも“命題”的「事態」なるものの存立構造について、通常の「主語―述語」論的了解を卻け、E・ラスク流の「超文法的主辞―賓辞論」を改作的に展開しておくことが先決要求になる。――事的世界観の主題的な叙説を世に問い、大方の叱正を乞い得るまでには、蓋し時日をかけた準備と迂路を要するものと自覚するに至り……云々。」193-4P
「読者は、前著「序文」中の右の条りに謂う幾つかの「先決問題」、ひいては「準備と迂路」を本書所収の諸論稿のうちに見出されたことかと念う。/実際、著者としては、茲に謂う所の先決問題のうち、「事」の現相を支える根底的機制、ならびに、「辞項的定在と命題的相在」という“言語絡み”の象面については、折りを得て、本書所収の諸論文で予備的に応え、爾他の諸論件については『現代思想』誌に連載中の「弁証法における体系的構成法」の論脈内で可及的に応えようと図ってきた次第である。――けだし、連載の完結を待って明春早々にも公刊する予定の別著『弁証法における体系的構成法(仮題)』(この仮題は出版に際して、サブタイトルになって主タイトルは『弁証法の論理』)にとって本書が直接の前廷となる所以でもある。――」194P
「旧著「序文」中に言う、“言語的世界”との類推のもとに「辞項(的定在)」を第一次的とみなす了解から「命題(的相在)」を第一次的とみなす了解への推転……、これに仮託して一つの射影を述べることが可能である。……しかし、そのさいには、辞項的存在が物象化的結節であることを存在論的に説述すること……。そもそも“命題”的「事態」なるものの存立構造について、通常の「主語―述語」論的了解を卻け、E・ラスク流の「超(「メタ」のルビ)文法的主辞―賓辞論」を改作的に展開しておくこと……、云々。この意想と仮題に、本書の第一論文および第四論文の後半が、稍々屈折したかたちで応接している。(“屈折”を生じたのは、前者は雑誌『理想』の「もの・こと」特集号のために草したものであり、後者は講座『言語の内と外』の「言語と認識」篇として成ったものだからである)。第二論文は、これまた旧著の「序文」に言う「日常的意識に即自的な相貌で映現する存在態をその被媒介的存立実態に即して把え返す営為」の一斑として、しかも、嚮の引用個所で課した「同一性を原基的とみる想定に対して差異性を根源的範疇に据えること」の準備を図りつつ、さしあたり、「超文法的主辞―賓辞」関係の構成を言語以前的な「知覚的場面」にまで遡行させておこうと企てたものである。第三論文を本書に収めたのは、「事的世界観」は“言語的平面”に射影するとき「命題的事態」を第一次的とみなすタイプに属するため、某々学派をとかく連想させ易いことに鑑み、著者の場合、「言語存在」観、「言語と世界」との関係性に関する了解からして既に某々学派とは相岐れるという事情を、この一文によって示し、以ってありうべき誤解を防遏する一具たらしめようとの趣意からである。」194-5P
「惟えば、それにしても、しかし、前著を上梓してこのかた四年有余の今日、いまだに、「認識論的射影における<間主観的四肢構造>といっても所謂存在関係がそこに含まれ、また、存在論的射影における<関係の第一次性>といっても所謂認識関係がそこに含まれる――尤も、この言い方はあくまで哲学的伝統に関連づけて論述するための便宜たるにすぎず、――「事」的世界観の本論はかかる両射影の原姿なのであって云々」という提題の復唱に止まる蝸牛の歩みに愧じ入るばかりである。」195-6P
「本書は「事」のこれら両つの射影のうち、主として前者を顕揚すべきものであるにもかかわらず、それすら明示的でない憾(うら)みを遺す。この故にこそ「跋文」に代えてこの一文を草し、その欠を幾分なりとも埋めようと庶幾する次第である。/慧眼(けいがん)な読者の眼には、しかし、以下は所詮、本文中での示唆的論述を再唱するの域を幾何(「いくばく」のルビ)も出ぬものと映ずるに違いない。このことを承知しつつも、敢て、別稿「認識」(井上忠氏編『哲学』、弘文堂、本年二月刊、に執筆)の一部を改作的に転用しつつ、「事」の存在性格ならびに存立機制の一斑について補説し、本書に所を得しめ度いと念う。」196P
「日常的意識の如実相においては、直截的な与件は“事物”ではなくして、却って“事態”である。(本書第一論文、二七〜八頁、三〇頁以下参照。また、第四論文、一五五頁参照)。(コレハ)雪ダ!(コノ雪ハ)白イ! ひいては、雪ハ白イということ、さらには、コレハ二等辺三角形デアルこと、内角ノ和ガ二直角デアルこと、このような事態(勿論、言語表現以前的であり、狭義の判断的措定命題以前の事態)こそが直截な与件である。「事態」の認識は判断的措定に俟つとしても、対象的に現前する事態こそが日常的意識場面における原的な対象的与件である。」196P
「この提題に対しては、早速に異論が予想される。論者たちは、“事物”がまず存在するからこそ、“事態”も存立しうるのだと主張する。事物が第一次的に存在するのでなければ、“事態”は宙に浮いてしまうというわけである。この俗見には十分な謂われがあることを一応は認めてよい。学説史的にみても、“事態”にそれなりの存立性を認める論者たちの雄ともいうべき、後期の西南カント学派にせよ、グラーツ学派や一時期の現象学派にせよ、前期ヴィトゲンシュタインとその先輩・僚友たちにせよ、せいぜいのところ“事物”と“事態”との二元論の域にしか達せず、“事態”に固有の存立性認めるといっても大抵の論者は“事物”によって“事態”を「基礎づけfundieren」させようとする。――われわれとしては、それに対して、“事態”のほうが基底的・第一次的であると主張し、“事物”はむしろ第二次的な措定態にほかならないと主張する。」196-7P
「著者は、本文中でも既成の諸学説に立入った批判を展開しているわけではないが、例えば第一論文(三二〜三八頁)において既成観念を批判的に検討しつつ、「もの」に対する「こと」の第一次性を説いておいた。論者たちが“事物の第一次性”という既成観念を払拭できないのは、抽象的・一般的にいえば、彼らが“実体主義”的存在観の埓を踏み破れないことに基因する。がしかし、もう少し降った次元でいえば、彼らが「事態」なるものを狭く解しているという事情もそこにある。彼らの或る者は“事態”というとき、文法的な「主語+述語」で定式化されるような次元だけを考える。とりわけ、実名詞を主語とするような次元で考えるとき、なるほど名詞で表わされる“事物”のほうが、それへの述語づけがさらにおこなわれることで成立する“事態”よりも基底的だとするのは当然と言えよう。われわれとしても、このような次元ならば、論者たちとそう積極的に諍う必要はない。(論者たちのいう「述語づけ」によって、主語が不変不易のままかどうか、「述語づけ」によって“主語”対象の側も影響されるのではないか[本書、第一論文、三六頁参照]、この点を討究する場面になると、われわれは論者たちとはおそらく別れることになる。が、当面は譲っておいて差支えない)。ところで、論者たちの或る者は、同じく「主語―述語」と言っても、普通の文法的次元ではなく、超(「メタ」のルビ)文法的な「主語―述語」の次元で考える。われわれもしかりである。“事態”を言語的に表現しようとするかぎり、この場合もやはり、一種の文章態(命題)の形で表現せざるを得ないとしても(現に、著者も第一論文の第二節で「コト(「××」のルビ)」をとりあえず「“文章態”で表現されるもの」という暫定的な言い方で「モノ(「○○」のルビ)」と区別したのであった)、しかし、この次元でいえば、普通の文法的“主語”はすでに超文法的には「述語」である。いな、厳密にいえば、普通の文法的“主語”は超文法的に「述語づけ」られた「命題」(事態)なのである。/こう誌すと気の早い向きは、何だ、「事態」というのは、普通の文法的次元では主語に立つ“事物”に対応するのか、それなら、普通に言う“事物”を超文法とやらで「事態」と呼びかえたにすぎない、と思われるかもしれない。勿論、左様に簡単な話ではない。しかし、とりあえず、右の速断に“悪乗り”して言っておけば、超文法的な次元に定位して「事態の根源性」を云々する主張に対して、常識的な次元での“事物”を振りかざして“事物の第一次性”を云々したのでは反論にならないということ、この点は銘記されねばなるまい。」197-8P
「偖、事物と事態とのいずれが第一次的であるのかという議論は、超文法的「主辞―賓辞」論の土俵の上で本格的に問題となる。一方の論者は超文法的主語で指示される「対象」(直ちに“物”とは言えないが、当座の議論では、これを“事物”と呼び換えても支障をきたさない)こそが基底的であって、超文法的述語で表現される規定性や、超文法的「主語―述語」成態たる命題で言表される“事態”は第二次的にすぎないと主張する。これに対して、他方、われわれは「事態」のほうが超文法的主語対象よりも本源的であると主張する。――こうして、さしあたり、普通の文法に定位した次元での対立性が、超文法的次元での「事物」と「事態」との関係という場面にスライドされる所以となる。」198-9P
「ここにおいて、理論上の対立点を明確にし、ひいては、決着をつけるためには、@超文法的主語によって指示されるもの(誤解のおそれのない場合には、簡略化して「超文法的主語」と呼ぶ)とは何か?/A超文法的述語によって表現されるもの(「超文法的述語」)とは何か?/B超文法的命題を成立せしめる所以の「主語―述語関係」つまり「述定」的な「述語づけ」とは如何なる機制であるか?――これら三つの契機について論攷する必要がでてくる。」199P
「ところで、普通の文法的文章、例えば、(イ)牛は動物(だ)、(ロ)牛は寝る、(ハ)牛は大きい、は超文法的に分析すれば、(イ)コレハ牛デアル(牛デアルトコロノ)コレハ動物(だ)、(ロ)コレハ牛デアル、コレハ寝ル、(ハ)コレハ牛デアル、コレハ大キイ、という構造になっており、超文法的主語は「コレ」が指示するところの対象(x)であり、超文法的述語は、普通の文法的主語たる“牛”の表現するもの、および、文法上の述語たる“動物”“寝る”“大きい”といった詞の表現するものにほかならない。/順不同を惧れずに、Aから先に言えば、右に誌した通り、「超文法的述語」の表現するもの、それはまさに「詞の意味」にほかならないわけで、第四論文において、諸説の検討にも立入りつつ、これを詳しく論じておいた。著者の見解では、同じく「詞の意味」といっても、当の詞の使用上の脈絡・使用上の機能に応じて、諸契機を分かつ必要が存するのであるが、ここでとりあえず眼目をなすのは「述定的意味」である。これは、いわゆる「事物」でも「心象」でも、また単なる「機能」(作用・規則)でもない。これは、それだけを単離的に截り出して“確定”しようとすれば、哲学者たちのいわゆる「理念(「イデア」のルビ)的」(超時空的・非実在的)な存在性格を呈する(本書一三六〜一四九頁、詳しくは、別著『世界の共同主観的存在構造』第一部の第一章・第二章を参照)。」199-200P
「遡って、@に謂う「超文法的主語」の指示する対象的与件であるが、これは著者の場合、謂う所の「指示的意味」にほかならず、これについてはやはり第四論文のなかで(本書一四八〜一四九頁)説明しておいた。著者の考えでは、この第一肢的契機たる「指示的意味」(質料的契機)はそれ自身を単離的に確定しようとしても原理上不可能であって、第二肢的契機たる「述定的意味」(形相的契機)との構造的関係においてのみ措定されうるものである。これは、その都度すでに、単なる与件xそのものとしてだけでなく、それ以上の或る所知的所与(a)[ x als(a)]として覚知される。――この間の事情について述べるためにも、超文法的「主語―述語」関係に議論の場を移そう。」200P
「そこで、翻ってBに謂う、「主語―述語関係」であるが、著者の見解は第四論文(一五八〜一五九頁、一六五〜一七五頁)で述べておいた。――ヨーロッパにおける伝統的な思念では「主語―述語」関係というのは存在界における「実体―属性」関係に照応するものと見做される。このさい、「属性」というのは広義のそれであって、“関係”その他をも包摂するものであるが、そこではともかく「実体」あっての「属性」である。謂うなれば“定義上”、「属性」とは「実体」に附帯してのみ存在しうるもの、それに対して「実体」とはens per sui(それ自体で存在するもの)であり、「属性」が附帯していようといまいと原理上は独立自存するものと了解されている。そこで、主語的対象から次々と性質(述語的規定性たりうるもの)を剥離していけば、純粋な実体が残留する建前になる。これが本文中で述べたアリストテレスの「第一質料(「プロテーヒュレー」のルビ)」の問題論的構制にも通じ(一四九頁参照)、実を言えば、カントの「物自体」の不可知性ということも、彼の思想形成過程の経緯からみれば、彼が「綜合判断」の主語として先験的な対象=Xを置いて考えていたという事情と関係している(この件については、『事的世界観への前哨』第一部第一章、特に三一〜三四頁参照)。ところで、超文法的な主語対象は、必ずしも狭義の「実体」に限定される謂われはなく、それが「指示的与件」であれば、“性質”のごときでも差支えない。がしかし、いずれにせよ、その究極的な主語対象は、アリストテレスの「第一質料」やカントの「物自体」と同趣の論理構制で、それ自体としては認識不可能と認めざるをえない仕儀になる。多くの論者たちは、ここまでは承認する。しかし、それは「認識することが不可能」なだけで、存在することまでは不可疑だと主張したがる。そして、その超文法的な主語対象が存在するからこそ、それを俟ってはじめて、それについての「述語づけ」ということも可能となり、命題的成態(事態)というものも成立しうるのだ、と彼らは主張する。彼らは、もはや狭義の「実体」的存在には拘泥しないでも、少なくとも構図のうえでは、「実体―属性」関係と「主語―述語」関係とが対応性をもつという発想の図式は崩そうとしない。そのかぎりで、彼らにとっては「事態」は所詮第二次的な存在にすぎず、超文法的な主語対象たる“擬似実体”こそが第一次的存在でありつづける。」201-2P
「論者たちの謂う「超文法的主語対象」なるものが、原理的に「認識不可能」だとしても、だからといって直ちにそれは「存在しない」と言うわけにはいかない。(因みに、論者たちにおいて、超文法的対象xそのものの認識が不可能なのは、認識するとは裸のxを如実に見ることではなく、必ず一定の性質をそれに賦与する「述語づけ」になってしまうからである。但し、このさいの「述語づけ」というのは主語以前的な認識機制であって差支えないのであるが、ともあれ“形相的”契機の賦与を意味する)。原理的に認識不可能と自認されているものをめぐって、それの存否を諍うのは奇妙な話であるけれども、論者たちは一体、認識不可能な対象の存在をどのように認識したのか? と反問するのは心ない仕業というものであろう。彼らは、ヨーロッパの伝統的な「実体主義」の因習から脱しきれないだけだと言えばそれまでかもしれないが、実体主義が鞏固なことにはしかるべき事由があることであり、無礙にレッテルを貼っただけでは済まない。」202P
「彼らが「実体主義」に確執するのは、今、「神」や「魂」という次元を措いて言うかぎり、基本的に言って、一つには「変革の当体」というプロブレマティック(問題論的構成)、もう一つには、「判断の主語的当体」といプロブレマティックからであると理解できる。が、われわれの考えでは、これらのプロブレマティックからは、決して必然的に「実体」を要請すべき謂われはない。(「変化の当体」が実体主義を必須的に要求しないことについては、別稿「弁証法における体系構成法」第八・第九章を参照されたい。「判断の主語的当体」が実体主義を要件としないことについては、本書を通じて縷説したところであるから、ここでは復唱するには及ぶまいと思う)。当座の議論としては、彼ら実体主義者といえども、「第一質料」とか「物自体」とかいう次元での「実体的事物」の基底性を主張するにせよ、少なくとも認識可能な領界においては、「超文法的」次元での「述語づけ」の局面から対象的与件が現成すると承認するのであるから、事実的認識の地平では、彼らもやはり、「事態」の第一次性を(但し、彼らの場合には、「物自体ならざる現象界に関するかぎり」という附帯条件つきで)認めている所以となる。」202-3P
「事情にしてこうである以上、われわれは今ここでは、この件それ自体には余り拘泥するには及ぶまい。彼らにおける「超文法的主語対象=実体」の要請を揺動せしめるためにも、われわれとしては、むしろ、超文法的次元における「主語―述語」関係を精査するほうが生産的である。この作業の一斑は、本書一六一〜一六三頁などでも遂行しておいたが、著者の立場では、煎じつめれば、それは「として」の構制、しかも、間主観的な対妥当性・向妥当性の機制に帰趨する。(尤も、本書では、肯定判断・否定判断の区別に立入っておらず、その点に不備を残しているが、この件については「弁証法における体系構成法」第十章を参看されたい)。「主語―述語」関係の実態を見定めるためにも、茲で視圏の拡張を必要とする。」203P
「人がもし、論理学的分析などという皮相な次元で自足するのであれば、ないしは、せいぜい論理学的認識論の第一次的“深層”としての所謂“意味論”的な次元で自足するのであれば、たかだか超文法的主語対象を言語的領界外に求めれば済むことであろう。現に、そういう哲学以前的な論理学者も尠しとしない。彼らにあっては、「超文法的述語」は、すでに言語的領界での「詞」で間に合ってしまう。だがしかし、「超文法的主語―述語」構造を多少とも掘下げて検討しようとするとき、換言すれば、論理学的表層の奥にある認識の構制や存在の実態に眼を向けようとするとき、人はもはや「超文法的主語対象」のみならず「超文法的述語規定」に関しても、言語的領界内に視野を局定するわけにはいかなくなる。」203-4P
「「超文法的述定」の機制を言語的領界の深層にまで遡って討究する作業は、そもそも「述語的規定」とは何であるかを闡(あき)らかにし、そのことにおいて「超文法的」であれ「文法的」であれ「主語―述語」関係とは如何なるものであるかを定礎するばかりでなく、そもそも「言語」(意味把握・意味表現)というものがいかにして可能であるかを究明する途に通ずるものと予期されうる。」204P
「著者としては、――既に、旧著『世界の共同主観的存在構造』の第一章においてこの作業に着手し、卑見の構案を概述しておいたとはいえ、そこでは謂わば「言語」的認識における意味構造を知覚的な場面にまで類比的に推及したのかの趣きがあった事情も鑑み――本書の第二論文においてこの作業を正規に開始しようと図った次第である。」204P
「第二論文が示したとおり、知覚的場面においてすでに、「或るもの」が現前するという当事意識(für es)の事態は、学知的省察者の見地(für uns)からすれば、その都度すでに「所与をそれ以上の或る所知として」意識するという構制になっており、この二肢的二重性の構制は当事意識においても反省的に対自化されうる(本書、六九頁)。そして、ここにいう第一肢的契機たる「所与」(質料的契機)と第二肢的契機たる「所知」(形相的契機)は、まさに、「質料―形相」的相関規定としてのみ存立する。前者を単離的に自存化させようとすれば、それはまさに、アリストテレスの「第一質料」の機制を示し、後者を単離的に自存化させようとすれば、それはまさにプラトンの「イデア」(範例(「パラディグマ」のルビ)イデア)の構制を示すのであって、この「イデア的形象」は「超時空的・非実在的」な存在性格を呈する。しかも、この“イデア”的第二契機は、言語以前的に、心理学者が「地」(Grund=背景)と区別していう「図」(Figur=図柄)の次元においてすでに存立するものであり、心理学者たちのいう「ゲシユタルト」はいちはやく“函数的普遍態”の性格を示す(本書、六九〜七五頁)。そして、実は、超文法的な、「主語―述語」関係は、第一肢的所与(質料的契機)と第二肢的所知(形相的契機)との「として」関係(指向的な区別的統一)の一定在形態にほかならないのであり(第一論文、三一頁、三三頁、第四論文、一五五〜一五七頁)、そもそも、「言語」という象徴的表現が成立しうるのも、知覚的な次元においてすでに存立する当の二肢的二重性の機制に従ってである(第二論文、七八〜七九頁、第四論文、一五六〜一五九頁)。」204-5P
「「われわれとしては、こうして、原初的な知覚現相の場面、「或るもの」が現前するという、フェノメナルな基底的場面においてすでに、「質料―形相」的な二肢的二重性の機制を以ってフェノメノンが立現われるという事実に定位するとき、――これは実は顚倒した言い方になるのだが――知覚的現相はすでに謂わば“超文法的主語―述語”構造を呈する措定態になっていると言うことができる。要言すれば、人々が意識にとっての原初的な“対象的与件”とみなすところの「知覚的現相」のうち、最も原初的なものにあってすら、それは“超文法的主語―述語”成態(“超文法的な命題的事態”)なのであり、かくして、われわれにとっては「事態」こそが原基的な“対象的与件”なのである。/フェノメナルな基底的な場面にまで遡向して分析することを通じて、われわれは、とりあえず“意識にとっての”第一次的な“対象的与件”は「事態(「こと」のルビ)」であることを論決したのであった。」205-6P
「以上の立論では、しかし、――先に実体主義者たちの或る者が「超文法的主語対象それ自体(x)は認識不可能」と認めることを諒として、深追いを差控えたことにも応ずるものであるが――、“意識にとっての”「事態」の第一次的所与性の追認という域にとどまっている。このかぎりでは、まだ、一部の論者たちが「認識にとっては“事態”が第一次的であるにせよ、存在上はあくまで、“事物” (超文法的な主語による指示対象たる“実体”)が根底的である」と主張しつづける余地を残す所以になっている。論者たちのこの主張は、ギリギリのところは一種の形而上学的態度表明であり、固有のパラダイムに立脚するものであるから、通常の「実証」的ないし「論証」的な手法で論駁し尽すことは、成程、いずれにしも不可能かもしれない。論者たちの場合、上述の通り、当の主張は「神」という実体、「魂」という実体の想念とも複合しており、また「変化の当体」のプロブレマティックとも結合している。それゆえ、これらの方面にまで立入ることなくしては、論者たちとの対質は完現しない。だが、苟(いやしく)も論者たちが「主語―述語」構造の機制に定位しつつ、これを「実体―属性」関係の図式と対応させて「事物の第一次性」を説くのであるかぎり、そのかぎりにおいてならば、われわれは論者たちの足許を掘り崩すことが現に可能であると考える。/著者としては、第一論文(三四〜三八頁)においてそれを試み、さらには、第四論文(一四五〜一四六頁、一七七頁)において、論者たちの錯認の機制についても指摘しておいた心算である。/ここでは、それゆえ、この論件そのものをそのままの形で蒸し返すことはやめ、われわれが“事物” (「もの」)に対して、第一次的な存立態であると主張する「事態」(「こと」)の存在性格について、積極的に論考しておこう。」206-7P
「「事態」は、さしあたり「(コレハ)牛(ダ)」「(コレハ)動く」「(コレハ)大きい」というような“超文法的基礎命題”に応ずるごとき原基的な位層であれ、「三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアルこと」「地球ハ動イテイルこと」「コノ花ハ赤イこと」といった上位的中位的な諸位層であれ、対象的な相で現前し、単なる認識としての“判断”とは区別して意識される。尤も、対象的与件としての客観的事態と判断的成態としての主観的事態とは必ずしも別々に“離在的”な相で泛かぶわけではない。あまつさえ、客観的事態も主観的判断も、言語的に表現しようとすれば「何々ハ云々デアル」という命題の形でしか言い表わしようがない。それにもかかわらず「何々ハ云々」という命題的成態のうち、或るものは主観的判断にすぎないものと見做され、或るものは客観的事態であるものと“区別して”了解される。それどころか、まさに両者の関係に即して「認識」ということが主題化される。・・・(本書では省くとして肯定・否定の話)・・・」207-8P
「それでは「事態」は、主観的と客観的との両義的であるのか? ないしはまた、純然たる主観的心象としての“事態”と、純然たる客観的事実としての<事態>という二種類のものがあって、たまたま構造的な対応性・類似性があるために同じ「事態」という詞で呼ばれているのか? 結論から先に言えば、われわれは、この設問に対して、どの選択肢をも否認してしまう。というのは、この設問が拠って立つ前提的了解さのものを肯んじないからである。」208P・・・ここの‘事態’についている括弧の付け方が不明
「惟えば、近代哲学においては、存在論以前的な暗黙の了解事項として、世界を精神的存在と物質的存在とに二元化する構図が立てられてきた。なるほど、唯心論は物質的存在を認めず、唯物論は精神的存在の自存性を認めないが、しかし、構図的にはあくまで物心の二元性の図式を踰越(ゆえつ)せず、尠なくとも存在というとき、精神的存在(心理的存在)か物質的存在(物理的存在)かのいずれかであるものと了解してきた。しかしながら、この二分法は存在界の実情に適(「かな」のルビ)っていない。」208P
「われわれは、第四論文において、いわゆる「個体的実体」も「普遍的本質」も、<表象以上の或るもの>であり、イデアールな存在性格を呈することを論定しておいたが(一三九頁、一四七頁、一五〇頁、一六五頁など)、この「イデアールな“存在”」というのは、まさに物質的存在とも精神的存在とも存在性格を異にするわけである。精確に言い直せば、精神的存在であれ物質的存在であれ、これはrealitasであって、時間性(可易性)、特個的個別性ということで、存在性格を特徴づけられているのに対して、われわれの謂う第二肢的所知(形相的契機)は、「超時間性(不易性)」「函数的普遍性」といった特異な存在性格を呈することに因んで「超時空的・非実在的・イデアール」と呼んでレアリタスから区別された次第であった。尤も、特異な存在性格といっても、これを呈するものは実は決して少なくないのであって、例えば、純粋数学上の「数的存在」や純粋幾何学上の「図形」、真・善・美・聖(偽・悪・醜・俗)といった「価値」的存在、それにまた「法則」そのものなど、通常の「物心二元分類」には納まりきれないものはいくらでも挙げることができる。(近代哲学は、それを無理矢理に何とかして、物心のいずれかに帰属させようとしてきた。それというのも「イデアールな“存在”」というまさにプラトン的なイデア、ないしは、中世スコラの実念論(概念実在論)に謂う「普遍」[実在としての「類」とか「種」とか]と“近縁な” “形而上学的存在”を断乎として認めないところに、近代哲学・近代思想の立場性、近代合理主義的立場姓性が存するからである。われわれは、勿論、形而上学的存在の実在性を認めない。それは物象化的錯認の所産であって、決して真に実在するものではない。がしかし、錯認において形而上学的存在とみなされてしまうごとき対象性が現に“ある”ことは無視できない。近代合理主義は、「形而上学的実在」という錯認の生ずる機制を正しく把握しえず、謂うなれば“恐怖にかられて”ひたすら“形而上学的存在”という“影”から目をそむけ、何かといえば「形而上学!」というレッテルないし呪文をなげつけて“保身”したつもりになっていた。だが、古典物理学的な、絶対時間・絶対空間・絶対質量、力、法則、等々、近代思想はみずから多くの「形而上学的実在」を身の支えにしてきたのが実情である。われわれとしては、臆することなく、「物質」か「精神」かという二元的分類の因習を卻けてかかることができる)。」208-10P
「偖、本題に戻って、「事態」が物質的存在でないということ、これは詳説するまでもあるまい。物質的存在は、質量的であると否とを問わず、尠なくとも時間・空間的に定位されうることを判別的な特質とすると謂われる。(後に触れる通り、この通念には一定の留保を要するが、とりあえず此の判別基準に仮託して議論を進めよう)。しかるに「事態」は、それ自身としては時・空間的に定位できない。このさい、事態と事件とを混同しないこと、また、一総体としての事態とそれの契機的質料(事態の存在契機をなしている項の質料を物(「もの」のルビ)化したもの)を混淆しないことが肝要である。<犬ハ動物ダ> <犬ガ走ル> <尾ハ長イ>といった事態において、「犬」「走ル」「長イ」といった契機は時・空的であるし、「犬ガ走ル」という事件は時・空的である。しかし、犬ハ動物デアル事、犬ガ走ル事、尾ガ長イ事、これらの<こと>そのものは時空的ではない。この間の事情は、犬ガ走ルトイウコト、何々ガ云々トイウコトと表記してみれば愈々(いよいよ)明白であろう<犬ガ何時何所(「いつどこ」のルビ)デ(しかじかの時刻にかくかくの場所で)<走ル>と限定しても、それは当の事件(これは既に“云々の出来事、つまり事件=事象トイウモノ”という相で物(「もの」のルビ)化されている!)の時空的限定であって、<犬ガ何時何所デ走ル>という事(「こと」のルビ)はその何時何所(「いつどこ」のルビ)に在るわけではない。犬ハ動物デアリ、走ルかもしれないが<犬ハ動物デアル>は動物ではないし、<犬ガ走ル>は走るわけではない。一般に「事態」の構造的契機になっている“述語”規定(動物デアル、走ル)は事態そのものにとっての述語的規定ではない。この点では「事態」の構造的契機になっている“副詞”的時空規定(何時、何所デ)に関してでも同断である。そして、後述の通り、「<云々トイウコト>ハ何々デアル」と述定するさいの述定詞(何々)の位置には時空的な規定詞は立つことができない。こうして、「事態」それ自身は非時空的であり、この判別的徴表に則して、物質的存在とは存在性格を異にすることが判る。」210-1P
「「事態」は、また、意識内容=心像=表象という相での精神的(「プシヒツシ」のルビ)な存在でもない。事態の構造的諸契機や事件は、“心像”のかたちで泛かべることができるにしても、<云々トイウコト>、この「コト」そのものは表象のかたちで思い泛かべることはできない。そのうえ、「コト」は、われわれが本文中でみた「概念」の場合と同様、それ自身としては普遍的・不易的・函数的であって、<表象以上の或るもの>である。さらにいえば、表象=意識内容の“世界”は物質的な時間・空間とはそのまま合致しないにせよ、やはり一種の“時・空間”的秩序を具えた“意識的世界”を形成しているが、事件ならざる「事態」(コト)はおよそ“時空的秩序”に属しておらず、この点に徴しても心理的(「プシヒツシ」のルビ)形象とは存在性格を異にすることが論決される。/こうして、「事態」は、物理的実在でも心理的形象でもない。とはいえ、「事態」は決して端的に無なのではない。」211P
「「事態」の存在性格を積極的に規定するためには、「事態」そのものが主語に立つとき、如何なる性格の述語規定が与えられうるかを見てみるのが好便であろう。「事態」の構造的契機として含まれている述語的規定は、先にみた通り、そのまま直ちに「事態」そのものの述語となるわけではない。事態そのものに対する述語づけは、よしんば当の事態に内的契機として含まれるものと偶々同一の詞(「ことば」のルビ)で表わされる場合であっても、謂わばメタ・レベルの賓述として更めておこなわれる。が、このメタ・レベルの積極的な賓述語は、種類の上でおのずと限定される。――勿論、<云々トイウコト>ハ<斯々トイウコト>デアル」という形、すなわち、述定詞が<斯々ナルコト>という一つの事態である場合には、この述定詞の内容契機でたる「斯々」は特に限定を受けないが、この「斯々」は<コト>の述語規定ではない。賓述詞あくまで<斯々ナルコト>という述定的事態である。また「<云々トイウコト>ハ何々デナイ」という否定的述定の場合も、「何々」の位置に立つものは何らの限定を受けないが、しかし、その大半はカテゴリー・ミステークの排却であって、実質的な否定的賓述詞は特定種類のものに限られている――。「事態」を主語にして実質的な賓述(肯定的および否定的)がおこなわれる際、述語に立ちうる詞句(「ことば」のルビ)は、第一に、(イ) 価値的評価、ないし、(ロ) 評価的態度を表明するたぐいの形容詞および抽象名詞、第二に、(ハ) 広義の存在・非存在、ないし、(ニ) 存在様相の認定を表わすたぐいの動詞および抽象名詞や抽象形容詞、この二種類に限られる。(このさい、「事態」と「事件(=事象)」とを混淆せぬよう、あらためて留意されたい)。第一類=価値性の述詞の例を挙げれば、<何々ガ斯々トイウコト>は、(イ)「真デアル(デナイ)」「偽デアル」「良イ」「悪イ」「素晴ラシイ」「醜悪デアル」「神聖・崇高デアル」「事実(=真実=真理) デアル」、(ロ)「当然デアル(デナイ)」「正当・不当デアル」「肯定・承認デキル」「否定・拒斥セザルヲエナイ」等々。第二類=存立性の述詞としては、(ハ)「成立ツ」「成立タナイ」「存立・妥当スル」「有ル」「無イ」、(ニ)「アリウル」「アリエナイ」「可能・必然・偶然デアル「必ず実現スル」「決して実現スル筈ガナイ」等々。このさい、しかし、<コト>の「アル」は、物質的存在の「在る」、つまり、時間・空間的に定位できる「在る」とは別種の「アル」であることは既に明らかであろう。この種の「アル」を狭義の存在と区別して、「存立」(Bestand)「妥当」(Gelten)と呼ぶことにしよう。(翻って、“第一類”の「価値」の存在性格もやはり、じつは、「存立」「妥当」にほかならない。けだし、「価値」が「事態」の述詞たりうるのも、そのためなのである)。」212-3P
「われわれは、以上で、<コト>つまり、「事態」は、特定種類の述語に限ってではあるがともかくにも積極的な述定の主語的対象たりうるごとき一種の「有」であることを追認しつつ、<コト>の「アル」の特異な性格、すなわち、「事態」の存在性格に徴して、それを「存立」ないし「妥当」と呼ぶこと、とりあえずこの点まで議論を進めてきた。今や、この「妥当」の存在性格を「事態」の存立構造の討究を通じて積極的に規定していくべき段取りである。」213P
「「事態」は、本文中で縷々論じておいた通り、第一肢的所与xが第二肢的所知(a)として現前するという構造、判断的に明示していえば、xが(a)であるという構造を呈する。――この対象的二肢性そのことについては、もはや詳論を要せぬところであるが、顧みれば、本文中においても、第四論文で簡単にふれた以外は高次の「事態」が成立するためには言語的交通が本質的な媒介的契機となっていることをわれわれはこれまで余り強調していない。それというのも、われわれの謂う「事態」は狭義の言語的命題(普通の文法的次元での「命題」)に局定されるものではなく、知覚的な場面での「対象的分節態」をも包摂するものであることを顕示し、以って某々学派の主張と混淆されることを防遏しようとの含みがあってのことであった。しかし、実際には、知覚的な場面における「図」の分節の具体的な在り方からして既に言語的交通によって媒介されているのであって(本書、五六頁、一五四頁、一五六頁)、第二肢的契機たる所知(形相的契機)は、それ自身としてはよしんば名状的でなく、“無名的”であるにしても、それの分節化の場ですでに言語的媒介性を蒙っており、従って、かかる「所知」を構造的契機(“述語”的契機)として成立している。「事態」は総じて間主観的=共同主観的な被媒介的存立態であるのが実情である。今や、この側面に力点をおいて見ていこう。」213-4P
「「事態」の存立、つまり、xが(a)として現前すること、xが(a)であることは、その都度誰かに帰属する。(この「帰属」「人称的帰属」の機制については、本格的に論考するさいには「身―心」問題に立入るを要するので、ここでは割愛する。別稿「身心関係の問題論的構制――他我認識の問題にもふれて――」[今秋または明春に「産業図書」社から刊行される大森荘蔵・山本信・井上忠・黒田亘諸教授との共著『身―心問題』(仮題)所収]、および、とりあえずのところは拙著『世界の共同主観的存在構造』第二部第一章を参照ねがいたいと念う)。「事態」の帰属する「誰」は、不定人称的な相の“他者”または“自己”でもありうるが、ともかく、構造的には「事態」はその都度すでに常に「誰」かに対して現前する。そして「有(無)」とは、原基的には、この「誰か」への現前性、対妥当性と相即する。誰かにとって現前するということ、これがフェノメナルな次元での原基的な「有」である。」214-5P
「ところで、「事態」は、私にも他者にも同時的に帰属することもある。が、私には帰属するが彼には帰属しないとか、汝には帰属するが私には帰属しないとか、不共属の場合もある。こうして、フェノメナルな現相に即して基礎的な構造を対自化していえば、この「誰」は私とは限らず他者でもありうる。とはいえ、「事態」が他者ら対妥当するのは、私が他者と融即しているかぎりにおいてであり、そのさいには、私は、謂うなれば扮技的に他者として、剴切には、他者としての私という相で存立する。謂う所の「誰」は、さしあたっては特個的であるが、言語的交通の進展と既成化にともなって、やがては不定人称的なdas Manの相、つまり、特定の誰彼ではないがその誰でもありうるごとき、“函数的に”“普遍化された”相へと脱肉化される。そして、この“函数的に普遍的”な相での「誰」が理念化(「イデアリジーレン」のルビ)されたもの、それがいわゆる“認識論的主観”すなわち、個別的な諸主観との区別において思念される“主観一般”にほかならない。」215P
「爰に謂う“認識論的主観=主観一般”は、決して個別的各主観のアプリオリな内核といったものではない。また、超個人的な一つの実在でもない。それは間主観的な交通を介して各自がそれへと自己形成を遂げていくごときetwerであり、苟(いやしく)も成人においては彼が認識をおこなうその都度みずからをそれとして僭称してるetwerであって、それは恰度、人々が言語活動をおこなうさい母国語の“言語主体一般” (チョムスキーの謂うideal-speaker-listener)を僭称するのと同趣の機制で成立する。視角を変えていえば、超文法的賓述の述語((a)) ――これの典型が「概念」であり、そのうち最も基礎的なものが「カテゴリー」と呼ばれるわけだが――、この形相的契機の間主観的形成と“主観一般”の自己形成とは同一過程の楯の両面にほかならない。この場合、形相なるものや主観一般なるものが実体的自存するわけではなく、所与の質料的契機(x)をしかじかの形相的契機((a))として措定するという事態の間主観的同調性、間主観的に同調的な(a)としての措定、現存するのはもっぱらこの機能的連関態のみである。が、行論の便宜上、敢て個別的認識主観が謂わば扮技的に“認識論的主観”として賓述的措定をおこなうような表現方式を採ることにしよう。」216P
「個別的認識主観と称される者に即していえば、彼はなるほど個性的な特質を具えており、決してまるごと“認識論的主観”に帰一するわけではないが、苟くも言語的交通によって存在被拘束的な意味形象、すなわち、形相的契機((a))を与件に向妥当せしめるかぎり、多かれ少なかれ間主観的な同調性を免れない。という域を超えて、一般には、彼は即自的に、“認識論的主観”が措定するであろう相にアンガージュしている。勿論、認識論的主観の僭称は即自的な構造たるにすぎず、自分が認識論的主観=主観一般の普遍妥当的な立場で判断している心算でも、それが単なる私念(「マイヌング」のルビ)にすぎないことを思い知らされるケースが不断に出来(「しゅったい」のルビ)する。そして、そのことを通じて間主観的な自己形成が進捗する次第であるが、ともあれ、その都度すでに“認識論的主観”を僭称するかたちになっている。時としては、無論、個別的認識主観としての対自的な判断と認識論的主観の判断とが乖離していることを自覚する場合もある。だが、その場合でも、当の自覚主体の即自的構造としては、一段奥に、認識論的主観としての僭称を秘めているのであって、自己を単なる自己以上の“認識論的主観”として僭称するという二肢的二重性の構造は須臾(しゅゆ)も免れない。」216-7P
「こうして、「事態」を判断措定的に現前せしめるという在り方は、「所与」と「所知」との二肢的二重性の構造に加えて自己と“認識論的主観”との二肢的二重性の構造を存立せしめており、都合四肢的な構造態なのである。」217P
「茲に、翻って、「事態(「こと」のルビ)」は必ず誰かに帰属するということ、xが(a)であるということが誰かに対して対妥当するという存立構造は、謂う所の「誰」が認識論的主観として存立するかぎり、“認識論的主観”に対する対妥当性として把え返される。この相における「事態」すなわち、“主観一般”に対して対妥当的な事態、これが――単にあれこれの個別的な主観に対妥当=帰属する“主観的事態”、単なる主観的な“判断的事態”と区別して――通常“客観的事態” (=客観的事実)と称されるものはほかならない。「事」とは、所与が単なるそれ以上のイデアールな所知として、単なる個別的主観以上のイデアールな「誰」に対して対妥当的に向妥当するという事態そのことである。」217P
「われわれは、右の了解に立脚して、判断における真理性・虚偽性の問題――すなわち、一般には“客観的事実”と“判断的事態”との一致・不一致といった構図で思念されている問題――の真実態を把え返しつつ、認識論的討究の歩を進めることができるし、また、いうところの“客観的事実”の諸契機が物象化されることにおいて“事物の第一次性”という思念が生ずる次第などを批判的に剔抉することもできる。が、しかし、そのためには「事態(「こと」のルビ)」と「事件」との関係に立入る必要があり、その前件として「時間論」「空間論」の主題的展開が必要とされるので、ここではそこまで筆を伸ばすことは差控えよう。」217-8P
「不得要領ながらも、以上の“余論”によって――「関係の第一次性」と相即する存在論的な射影はひとまず措くかぎりで(この件については別著『無の思想と事の哲学(仮題)』朝日出版社より今秋刊(当該の発刊物が見当たりません、出版社が同じならば、ずっと遅れて出た『仏教と事的世界観』しか想起できないのですが)を参照されたい)、「事」と「関係」との関係についてはまだ論定していないにせよ、――さしあたり、認識論的な平面への射影相に即して、「事」の含意を幾分なりとも見え易くし得たとすれば、以って瞑すべきであろう。」218P

「解説 ことばへの問い、世界への問い」 熊野純彦
(・廣松渉『もの・こと・ことば』筑摩書房(ちくま学芸文庫)2007)巻末文)
廣松さんの単行本の文庫本化で、熊野さんが解説を書いています。廣松さんが、哲学・認識論的なところの軸のところで廣松さんの思想を継承してくれると廣松さん自身が一番期待していたひとではないか、というところでの担当だと推測しています。
 この「解説」は珍しくエッセー的なところで始まっています。
「ことばは、ひとを傷つける。ときに、深く傷つける。ひとは、ほんのひとことのことばで、相手に回復不可能なほどの傷を負わせることができる。他人のなにげないことばに傷ついたとき、ひとはむしろことばの鋭利なはたらきを呪うことだろう。他者を傷つければ、やがてはじぶんもなにほどかは傷を負うものだから、だれかをことばで傷つけてしまったときにも、ことばという道具を扱いかねる思いに、ひとは囚われることになる。」261P
 この後、ことばの無力さについて書き、そして廣松さんのことばと「表情論」について書いた文と共振するような熊野さんの文が続き、次の文が出て来ます。
「・・・・・・ことばにならない思いが「先ず」あって、そののちに言語的な表現に突きあたり、あるいは捜しもとめられるのでは、おそらくはない。ひとはかえって、言語を手にし、言語のなかで生き、言語の内部に封じ込められて、言語そのものに棲みつき、言語を生きていったその果てに、ときに避けがたく、「ことばにはならない」無数のものごとに突きあたるものと思われる。/そうであるとすれば、ひとの経験にあって「ことばにならない」とされるもの、言語以前のことがらは、ことばによってこそはじめて「発見」される。言語が一定の境界を設定したときに、その境界の外部にあるものが同時につくりだされる。言語以前的とされる多くのものごとが、まさにことばに「先だつ」ものとして主題化されるのも、あらかじめ言語が主題化されていることによってである。そのかぎりでは、ことばになるもの、ことばにならないもののいっさいをふくめて、ことばがある意味では「すべて」である。そのかぎりではまた、言語によって明晰になるもの、言語が明確にしたのちになお残りつづけるもののいっさいをはらんで、言語こそが「いっさい」の可能性を、言語以前的とされるもの・ことのすべてをふくめて、いっさいが立ちあらわれる「可能性」を準備する。」264P
 ここで、エッセー的文は終わり、哲学的・認識論的な文に入っていきます。
「言語的転回(linguistic turn)が、現代哲学の成立を告げる曲がり角であった、と語られるようになってから、すでにひさしい。いっさいがある意味ではことばであるかぎりでは、言語的転回は、哲学にとって不可避であった。本書の著者、廣松渉の思考もまた、基本的にはその動向の内部にあるといわなければならない。廣松哲学がすぐれて現代の哲学である理由のひとつも、そこにある。つまり廣松哲学のもまた、言語的転回ののちに登場した思考であることで、すぐれて現代を代表する思考となっている。じっさい廣松は、本書に先行する著書、廣松自身の哲学的構想を積極的に開示した最初の著作の一章をつぎのように書きはじめていた。「近年、哲学者たちの言語観に――剴切にいえば「言語存在」にたいする哲学者たちの構えのとりかたに――抜本的な変化が生じはじめているように見受けられる。はなはだ誤解を招きやすい表現であるが、「中世的世界観が“生物”をモデルにして万物を了解し、近代的世界観が“機械”の存在構造に定位して視界を拓いた」と云われるのに対して(この点については拙著『マルクス主義の地平』第二章第一節参照)、いまや「言語存在」の究明を通路にして新しい世界観的な視座が模索されつつある、と断じても恐らくや大過ないであろう」(『世界の共同主観的存在構造』第二章)。」265P
「廣松の名をこの国の哲学界に、ひいてはまた読書人たちの世界にひろく知らしめた、その基本的立場、いわゆる現象世界の「四肢構造」論もまた、ことばのありかたに思考の支点を置く立場と無縁なものではない。というより、それはある意味では端的に、世界を言語としてとらえようとする発想をふくむものであった、とさえいってよい面をもつ。」265-6P・・・廣松さん自身は言語論よりも役割論を軸に置いていたのでは?
「現象、世界の立ちあらわれは、一般に、そのつど・すでに、たんなる「“感性的”所与」を超えた或るものとして現出する。たとえば、いま聞こえた音は、鶏の一声として「コケコッコー」という分節をともなったものとして、目のまえに置かれているものは「灰皿」としてあらわれる。「意識は、必ず或るものを或るものとして意識するという構造をもっている。すなわち、所与をその“なまのまま” als solchesに[そのものに]受けとるのではなく、所与を単なる所与以外の或るもの etwas Anderes [他の或るもの]として、所与以上の或るもの etwas Mehr[それ以上の或るもの]として意識する」(『存在構造』第一章)。廣松は、続けて書いている。「このことが最も典型的に顕われるのが記号の場合である」。音声記号はたんなる音ではではなく、意味の染みとおった響きであり、文字記号はただのインクの染みではなく、意味のある形象にほかならないからである。/それだけではない。廣松によれば、現象、世界の立ちあらわれ、存在者の現出のいっさいは、「比喩的にいえば」「すべて記号(象徴)的な在り方をしている」のである(同)。」266P
「・・・・・・廣松が「世界の共同主観的存在構造」を主題とするとき、問題の共同主観性は、なによりもまず、ことばの共有に裏うちされた共同主観性なのである。言語をめぐる思考はそれゆえ、世界をめぐる廣松の思考の中心的な部分に、あらかじめ食いこんでいる。」267P
「本書を理解するうえで前提となる、廣松の若々しい思考の一端を、もう少し跡づけておこう。世界が拓かれる、経験のその場に身を置いて、経験それ自体のなりたちを問い、経験のあらたな相貌を私たちのまえに切りひらいてみせる、その手ぎわに注目しておく。/たとえば、単純な経験、「いま、時計の音が私に聞こえている」という経験を考えてみる。ここで「時計の音」とは、なにを意味するのだろうか。音そのものは「手で触れうるような物的な存在」ではない。それはまた、単なる心的な現象にすぎないものでもない。音が聞こえるとは、それではなにか。この経験を可能にするのは、どのような条件なのか。/音は、第一に、「空気の振動」それ自身ではない。振動そのものは聞こえない。音はまた、「生理的プロセスそれ自体」でもありえない。神経伝導の過程そのものが音なのではない。/第二に音は、聴覚器官にばかりではなく、「時計の運動や空気の状況」によっても規定されている。音は主体的な過程と側面をもつと同時に、客体的な諸条件にも依存している。/「第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人は言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や“意識”が介入する!)。この限りでは、音は、強いていえば、私の生体や“動的”環境のみならず、“文化的”環境をも含めた世界の総体に属する、と云ってしかるべきである」(同)。世界は、かくて、共同主観的に与えられており、しかも言語的に共同化されて現に与えられている。ことばを問うことは、かくてまた、世界そのものを問うことなのである。」267-8P
「本書『もの・こと・ことば』は、こうした立場に立つ著者が、自身の言語観を体系的に、また一般読者にとっても分かりやすいかたちで論じた一書である。その意味でこの著書は、ことばをめぐる諸問題に関心を有するすべての読者にとって興味ある作品であるとともに、廣松哲学に対する、廣松そのひとによる恰好の入門書ともなることだろう。」268-9P・・・「分かりやすい」?「入門書」?
「出版にさいして書きおろされた、相当な分量の「跋文に代えて」をべつとして、本書は、性格や長短をそれぞれ異にする四篇の論文からなっている。簡単に解説をくわえておく。/第一論文「物と事との存在論的区別」は、「物的世界観から事的世界観へ!」を合いことばのひとつにとする著者が、そもそも「もの」と「こと」とはどのようにことなっているのかを、日本語の用法を手がかりに解きあかし、あわせていわゆる「もの」、事物的な実体に対して、「こと」、つまり事態、できごと、関係が先行するしだいを説いた一篇である。読者はこの一文をたんねんに読みととくことで、ことばに定位して思考を紡ぐ著者、廣松が、鋭敏な言語感覚の持ち主であることを、あわせて認識することができるはずである。/第二論文「「事」の現相学への序奏」は、廣松哲学体系の成立にとって、おそらくは決定的な意味をもつ論文のひとつである。廣松はこの論稿のなかで、そもそも「或るものが現前する」ということがらそれ自体のなりたちを問いかえす。或るものがそのものとして、他のものから「異」なった、それ自体は「同」じものとして立ちあらわれるメカニズムの分析から開始されるこの論攷の主要部分は、じっさい、ほとんど一字一句そのままのかたちで、後年、廣松の主著『存在と意味』第一巻において反復されることになる。/第三論文は、他の論稿とはすこしばかり色彩を異にして、言語という問題そのものが有する哲学的意味一般について説き、あわせて著者にとってのことばという主題の位置をめぐってしるしたものである。一書全体の理解のためには、よい手がかりともあるだろう。/第四論文「意味の存立と認識成態」は、この著者らしく厳密な構成と、周到な議論とをともなった長大な論文である。廣松の思考そのものにやや馴染みが薄い読者は、まずこの論攷から読みはじめるのがよいように思われる。廣松はそこでまず、言語の意味をめぐるさまざまな所論を整理したうえで、みずからの意味論、言語論を展開し、最後に、認識それ自体、世界の立ちあらわれそのものに対してことばが有する意味をめぐって、独創的な思考を展開している。この一篇だけでも、充分に廣松哲学入門たりうる雄編である。」269-70P
「著者、廣松渉は、この国の戦後を代表する哲学者のひとりである。この一書には、その哲学者が、体系的な表現のかたちを最終的に手にすることになる、その一歩てまえで、ことばという枢要な問題に寄せて思考を織りあげた代表的な論稿のいくつかが収録されている。ひとはこの書を手にとり、開くことで、この国が生んだ最良の哲学的思考のひとつに、そのもっとも重要な局面で触れることになるだろう。」270P


posted by たわし at 02:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月15日

廣松渉『もの・こと・ことば』(5)

たわしの読書メモ・・ブログ651[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(5)
『もの・こと・ことば』の5回目です。最後の章に当たります。これは一つの章を二回に分けて、その後半です。尤も、最後に跋文があるのですが、本論はこれが最後です。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――[646]
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――[647]
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性                [648]
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――              [650]
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――              [650]
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――            今回[651]
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
人名索引

 さて、切り抜きメモに入る前に、この著で使われている記号、すなわち廣松さんの主に括弧類の記号の整理を表にしてみたいと思います。なお、文字通り「蛇足」になるとも思いつつも引用者のわたしがこれまでに使ってきた記号の使い方も並べてみました。これは既刊本(三村洋明『反障害原論』世界書院2010)の8Pに載せています。
 なお、これはあくまで仮の表で、基幹的学習の終わった後で、改めて整理します。

記号       著者の使い方(記号の意味)    引用者(わたし)の使い方
< >       表象・意味成態(体)・現象的標記  そのものals solches     
                         著者の使い方に準じて「 」  
「 」      与件、契機・命題・叙示態     著者の< >と同じ&引用文
“ ”      言葉、文の引用          差別の根拠としての「差異」  
傍点       (疑問符的)強調          下線(  )で強調のみ    
                          疑問的な語には「 」    
‘ ’      使用例未発見            言葉
{ }        使用例未発見            価値ニュートラル・両義的異化
x     与件・所与・そのもの      < >
(a)        述定的意味、所知     著者の使用法に準じて
(a1),(a2),(a3) … 覚知の現実態、所知         著者の使用法に準じて


さて、本題に入ります。この箇所は、この著のまさに核心的なところで、「切り抜き」というより、ほぼ、全面的な打ち込み記載になっていきます。メモの意味がなくなるのですが、廣松さんは註的なことではなく、本文中に註的なことを書いていくこともあるのですが、この章は別立てにしています。だから、省くところがなくなっているのです。しかも、かなり細かい註が付いていて、それだけでも重要な課題となっていくことで、それが論考を掘り下げていく途を示すことにもなっています。全文打ち込みをするのなら、スキャナーで取り込んでワード転換という手法もあるのに、何をアナログな、と笑われそうですが、反復的学習という意味も込めてともかくやりきります。

  U こと・ことば
意味の存立と認識成態
 三 意味と認識――二重の二肢――
(この節の問題設定)「われわれは、前節での行文を通じて、言語的意味と対象的認識との相互媒介的な関連性を主題的に討究すべき局面にまで導かれた。意味と認識との関連を周到に論ずるためには、しかし、認識論上の種々様々な問題に関説することが必須となり、到底ここで期し得るところではない。本節では、それゆえ、論件を二三の機軸的・基底的な象面に絞り、しかも、認識としての認識よりも「意味」の存立機制に焦点を当てて、卑見を述べることにしたいと念う。」153-4P
  1 知覚の象徴懐胎
「認識稼働と言語活動とは、系統発生的にも個体発生的にも、前者が後者に先行することは慥かであろう。がしかし、成人の認識活動は言語活動によって既に複雑な媒介を被っており、事態はもはや“まずは没言語的な認識活動がおこなわれ、その成果が言語によって表現される”といった二段構えの構成にはなっていない。成人の有する知識内容はもとよりのこと、認識活動そのものの在り方が「言語」によって深く影響されているのであって、言語は決して“既成態の認識”を単に“表現する手段”といった外在的なものではない。――このことは、サピア&ウォーフの主張を俟つまでもなく、フンボルトをはじめ識者たちにおいては旧くから認められてきたところである。が、冀(「き」のルビ)求されるのは、認識ひいては文化の言語被拘束性を外部的・結果的な観察によって指摘したり確認したりすることではなく、如何なる機制において当の言語被拘束性が帰結するのか、そのメカニズムを認識論的に究明することにある。」154P
「認識活動、わけても基底的な知覚の次元は、高等動物を顧みるまでもなく、言語以前的にかなりの分節化を遂げることが可能であり、また、知覚的認識が条件反射の機制に支えられていることも慥かだと思われる。ここでは無論、そのような認識の心理・生理学的な次元に立入ることが要件ではなく、知覚的分節の次元での意味成体の存立機制を認識論的な視座から必要な限りで一瞥することが課題である。」154-5P
「偖、知覚においては、対象的所知は「図」Figurの相で「地」Grundから顕出するという仕方で原基的に分節化しており、それはしかも単にその折りの射映的与件という以上の或るもの etwas Mehr, etwas Anderesとして覚知されている。前節で用いた標記法をとれば、言語以前的な知覚の場面においても、与件xは単なるそのものals solchesではなく、それ以上の或る基底相(a)として――カッシラーの謂う「知覚の象徴懐胎」symbolische Prägnanz der Wahrnehmung ! ――、謂うなれば質料・形相の合一体(σύνολον)として現前する。」155P
「この(a)は、さしあたり言語以前的な相で心理学者のいわゆるいえば、「図」Figurの次元に属するにせよ、この「図」はすでにゲシュタルト的な安定性(函数的移調性)をもっている。例えば、常用のノートについたインクのシミが一つの「図」として知覚されるとき、この「図」は光線の具合で色彩・色調が変るし、ノートの傾き加減に応じて形も変わって見える。それにもかかわらず、それは当の同一のシミとして覚知される。つまり、色調や形姿という変項がさまざまな値をとりつつも、同一のもの(謂うなれば、同じ函数)として覚知される次第である。或いはまた、並んでいる三つの黒丸が三つの同じ(同形の)「図」として覚知されるような場合、それらの黒丸は、個体的に別々でありながら同じ図として意識されるかぎり、この<図>はすでに一種の類的普遍に通ずる仕方で“非特個的” “函数的”な“普遍性” をもっている、と言うことができよう。こうして、対象的知覚は、それが「図」として分節的に現前するという前言語的次元においてすでに、この(a)が非特個的・函数的な普遍・不易性の相を呈するのである。」155-6P
「爰で結論先取的に誌しておけば、――そもそも、言語の象徴機能が成立しうるのも、所与のxを、単なるそれ以上・以外の或るもの=所知(a)として覚知するという機制に負うものであるが――知覚的認識の言語的被拘束性が成立しうるのは、所与xが単なるそれ以上の(a) (さしあたり“函数的存在性格”の或る所知)として覚知されるというこの原基的構造のもとで、「図」(a)の分節様態が間主観的な言語活動の在り方によって規制されることに負うてである。が、この間の事情について好便に立論するためにも、あらかじめ既成態に留目する便法をとることにしよう。」156P
「言語記号も亦さしあたっては一つの知覚的現象(「図」)として現前するが、例えば“犬”という文字ないし“イヌ”という音声に接するとき――これらの記号はまさにGestalt的な安定相で示差的なひとつの記号として覚知されるのだが――、われわれは単なるそのような視聴覚像としてそれを受取るのではなく、それ以上の或るもの、まさしく<犬>として覚知する。文字“犬”ないし音声“イヌ”と、それがそれとして覚知される意味<犬>とは別段「似て」いるわけではない。が端的に、それは<犬>として覚知される。一方、実物たる犬、ないしは、写真なり絵画なりの犬、さらには、記憶的・想像的な心像として泛かぶ犬、――ここにいう犬はGestalt的な安定性をもって表象されるのだが――これら与件たる犬を覚知するとき、われわれは単なるそのような物体・画像・心像としてそれを受取るのではなく、それを<犬>として覚知する。ここでも<犬>なるものが与件と別段「似て」いるというのではない。というより、<犬>そのものとは何か、それが如何なるものであるのかを反省的に顕示しようとするとき、前節でその函数的性格を指摘しておいたように、それ自身はrealitas (心的であれ物的であれ)とはおよそ存在性格を異にし、非特個的普遍性、超時空的不易性をもったetwas Ideales としか言いようがない。<犬>そのものを、例えば本質直観といかいうような仕方で、明晰判明に表象することは不可能であり、<犬>とは、如実にはいかなる形、大きさ、色、etc.のものであるのか、いかなる性質のものであるのか、問い詰められれば、誰しも答に窮することであろう。<犬>そのものとはいかなるものであるか、如実の相では“知らない”のが実態であるとみとめられねばならない。それにもかかわらず、われわれは一方においては“犬”という文字や音声に接するとき、他方においては「犬」という現物や画像に接するとき、それはほかならぬ<犬>として覚知するのである。――このことが、先に論じておいた「述定的意味」の「論理的先験性」と相即することは更めて指摘するまでもないであろう。このことはまた、嚮にみておいた「代表観念説」のプロブレマティックとも関係する――。「記号」と“現物”とが偕(「とも」のルビ)にそれとして覚知されるところのetwas Identisch-Ideales[同一のイデアールな或るもの]かかる或るものとして<意味>が存立する。」156-7P
「このように論ずるとき、<意味>はいかにも神秘的な存在であるかのごとき印象をうける。がしかし、そのような<意味>なるetwas Indeales が独立自存するかのように思い做すとすれば、それは物象化的錯認である。実態は如何? われわれは、前段においては、記号“犬”が<犬>として、覚知されることが既成・既定化した場面に即して論じた。しかし、これはアプリオリに確定してる事態ではなく経験的に成立した事態なのであり、それは一定の変容過程を経て成立したものである。経験的な形成過程なくしては「<犬>としての覚知」は存立しえない。――このさい、同じく記号“犬”といっても、発音の仕方や、声の調子、等々、千差万別であるし、与件「犬」といっても、現物的・画像的・心像的な犬の、射映的ないし事例的な定在は、これまた千差万別である。それにもかかわらず、これは千差万別の定在諸形態をとるGestaltとしての謂わば函数的にそれぞれ同一視されるかぎりでの、記号“犬”と与件<犬>とが指称的統一の関係におかれる。これは生理学的にいえば、条件反射の機制にもとづくものであろうが、この事態が当事主体の意識野においては、「犬」が「図」的に明識されているときには、“犬”が「図」的に明識されず、逆にまた“犬”が明識されているときには「犬」が明識されないという機制が働くこともあり、与件「犬」が<犬>として、記号“犬”が<犬>として、という覚知の在り方の既成化をもたらす。」157-8P
「レアールに存立しているのはかかる二項目的な志向意識の態勢であり、かつそれにつきる。だが、人は、所与の記号なり現物なりが<犬>として覚知されるという内省的な事実から<犬>なるもの、つまり、「述定的意味」としての<犬>を何かしら自存的な或るものであるかのように表象し、この物象化に俟って、etwas Indealesとしての「意味」的存在なるものを措定する(そして甚だしきに至っては、それを一種の形而上学的実在として認めようとすら試みる)仕儀となる。実態においては、しかし、繰返し銘記するまでもなく、上述の二重化された指称的統一関係、「として」覚知するという二肢的な統一、この機能的事態が存立するのみである。このかぎりでは<意味>というetwas Indealesは、謂うなれば虚焦点focus imaginarius のごときものであり、プラトンのイデア論との応接を敢て意識していえば、虚像というよりも虚光源のごときものである。とはいえ、この虚焦点の物象化がおこなわれるのも故なしとはしない。そもそも千差万別の相で現前する「犬」を記号“犬”で指称するさい、基底的には如何に条件反射によるものであれ、それらの汎化と分化は、“世人”がそう呼ぶか呼ばぬかの一連の体験――むしろ、miss useを不断に“他者”たちからサンクョナル(sanctional賞罰的)に矯正される体験――を通じて漸次確立するのであり、所与xが所知(a)としてあるのは、単に私という一私人にとってではなく、“世人一般”に対してであるという間主観的な対他的妥当性のbelief(信念)が随伴している。そして、この間主観的=共同主観的妥当性の意識が客観的妥当性の意識と二重写しになるため、<意味><(a)>は、客観的に実在して、間主観的な認識の対象となる或る自存体であるかのように物象化的に錯認される次第なのである。」158-9P
「われわれは<意味>というetwas Indealesか自存するという物象化的錯認を対自的に斥け、この物象化がいかなる機制に負うものであるかを指摘しつつも、――裏返していえば、前記の二肢的二重性の機能的連関、対他−対自的な指称的統一、実態においてはこれしか存立しないことを銘記しつつも――、しかし、<意味>[厳密には、「述定的意味」]なるものを敢て自存的に表象するかぎりは、まさに普遍性・不易性・先験性をもった函数的存在性格の或るものとしてそれが思念されざるをえないという事情を諒とする。今や、この思念に暫く仮託するかたちで判断的認識の次元に議論を進め、そこから反照することにしよう。」159-60P
  2 判断の存立構造
「判断といえば、これこそが認識の“分子的単位”とでもいうべきものであるが、一般的には、“判断とは二つの概念の結合である”と了解されている。この際、しかし、例えば「リンゴは果物である」という判断における、二つの概念、つまり、主語および述語で表わされる両つの概念とは、そもそもいかなる内実のものであるのか? また、両概念の「結合」とはいかなる性格の結合であるのか? さらにはまた、判断とは果たして、主・述両概念の単なる結合であるのか、単なる「結合」という以上の或るものではないのか? われわれは、早速に、これら一連の問題に答えることを要求されるであろう。」160P
「前節での行文中、既に述べておいたように、「リンゴは果物である」というたぐいの文章の意味内実は、意味論的に分析するとき、「与件xはリンゴである。この(リンゴである)xは果物である」というように、二重の指示・述定構造からなるものと見做される。このかぎりで、文法上の主語「リンゴ」は、意味機能上は、「xはリンゴである」という第一段階における「述語」であり、述定詞なのであって、真の主語たるxは文面上には現われない。が、ともあれ、判断の原基的意味構造においては、真の主語で指示される対象(指示的意味)に関して述語で述定される意味(述定的意味)が“結合”される。この「指示−述定」の意味成体をわれわれは「叙示的意味」と呼ぶことにしよう。この「叙示的意味」こそが判断の意味成体をなすものにほかならない。――ところで「叙示」の二契機たる「指示」ならびに「述定」について前節で論考したところによれば、「指示的意味」そのものは、究極的にはアリストテレスの第一質料と同趣の論理構成上、それ自体を積極的に規定することのできない或るものに帰向し、「述定的意味」そのものも自存的な存在体ではない。両者はあくまで機能的相関性のもとにおいてのみ、一方は「指示的意味」(質料的契機)として、他方が「述定的意味」(形相的契機)として措定されるというにとどまる。以下の行文中では、しかし、「指示的意味」そのものを究極的な場面にまで逐一遡行するには及ばぬかぎりで、「リンゴは果物である」という場合の「リンゴ」、つまり「リンゴであるところのx」という規定態を、述語(果物)による述定の与件(指示的対象)として扱うことにしたい。それゆえ、以下の取扱いでは、「指示的対象」というのは既にして先行的な第一次的述定(xはリンゴである)に媒介されたもの(x als(a))であっても差支えなく、それが(文法上の述語によって今から)述定さるべき与件を指示的に現前せしめる機能を演ずるかぎりで「指示的意味」と呼ぶ所以となる。この取扱いのもとでは、指示的意味は、レアールな対象的事物たりうるが、(a)のモメントの故に、レアール・イデアールな存在体と呼ぶことも出来よう。(尚「(a)としてのx」「(a2)としてのx[als(a1)]」という機制において「赤い花」といった句が成立する)。「述定的意味」についても、この函数的存在様式をとる普遍・不易なetwas Indealesが宛かも自存的に存立するかのごとき取扱いを敢ておこない、必要に応じてこの物象化的錯視を対自的に排却するという論述の方式を採ることにする――。」160-1P・・・関係の第一次性の論理がここでも
「偖、主概念と賓概念との「結合」と称されるもの、これは原基的には指示される対象xを述定される意味(a)として措定することの謂いであって、二つの心像的表象の結合ではないなるほど、例えば、「この球は重く、あの球は軽い」というような場合、球の表象と重い・軽いの表象とが別々に泛かび、かつ、両者が結合されるという心理的事実が見出されるかもしれない。われわれの考えでは、しかし、そもそも、ここに泛かぶ表象は「判断」にとって副次的なものにすぎない。それは、例えば“犬”という語を聞いて、自分の飼犬ポチの姿を表象することがあるとしても、その表象が“犬”という言葉の意味<犬>なのではなく、ポチの表象は所詮副次的なものにすぎないのと同趣である。因みに、ここでの眼目は<犬>なのであって、これは記号“犬”がそれとして了解されるetwasであり、隅々泛んだポチの表象も(ポチの現物・知覚像であっても同断だが)、それ自身が直ちに意味<犬>そのものなのではなく、泛んでいる表象は、いうなれば函数<犬>の例示的特定形態(特定の値で変項を充当したもの)にすぎない。判断にさいして表象が泛かぶかどうかは副次的な現象にすぎないということ、換言すれば、心像的表象が泛かぶことなしにも判断が成立しうるということ、このことは抽象的・学理的な判断などのケースを考えてみれば容易に納得される筈である。判断にとって、表象の随伴は必然的な契機ではない。従ってまた、判断の意味成体は、それ自身は決して結合表象ではなく、判断の意識作用は表象を結合するはたらきに存するわけではない。」161-2P
「判断の意味成体、つまり、指示的与件xを所知的意味(a)として述定する「叙示的意味」成体は、しかし、それ自身で「判断」なのではない。当の意味成体は、単なる仮定や疑問の場合にも既に存立するのであり、疑問や仮定と「判断」とが岐れるのはヴィンデルバントの謂うBeurteilung (価値判断)の次元、従って、陳述様相の差異性においてである。そして、この「陳述様相」は、前節でわれわれの規約した意味機能の分節化においては、「表出」機能の一斑をなす。このゆえに、「判断」を判断たらしめる契機を確定するためには、「表出」機能をも射程に収めなければならない。」162-3P
「判断論としての判断論においては、判断の質・量・関係・様相のそれぞれに立入り、またその各々に即して意味構造を具体的に分析する作業が必要とされるが、また、意味機能論においても「表出」の機能はその多様な内実に即して考究することを要件とするが、ここでは、極めてシェーマーティシュに論じるかぎりで、判断意味成体の「妥当性」を論じ、表出機能についても、「妥当性」の陳述に論件を限定することで次善としよう。」163P
「偖、判断では――ユーバーヴェークの有名な定義がそのまま通説というわけでは決してないが――主語と述語とを結合することを枢軸とするものではなく、当の主語・述語結合態でもって表現される「判断的意味成体」の客観妥当性の認定を眼目とすると謂われる。その際、謂う所の「客観妥当性」とは何か?」163P
「論者たちは非常に屢々(しばしば)、主観の側に属する結合表象(主語概念と述語概念との結合態)なるものを一方に立て、そして他方に、それに対応する客観的事態なるものを想定したうえで、次のように主張する。すなわち、判断的結合表象が客観的事態と模写的に一致している場合、当の判断は客観的妥当性(真理)であり、客観的妥当性であれば、それは万人に対する普遍妥当性を有つ、云々。これは極めて多くの論者たちが採っている議論の構図であり、俗耳に入り易いが、しかし、理論的に検討してみれば到底維持されがたい。」163-4P
「われわれとしては、論者たちが「結合表象」として考えているところのもの、および「客観的事態」と思念しているところのもの、さらには、両者の模写的一致と称さるところのもの、それの内実を検討し、それが何をどう錯認したものであるかを究明しなければならない。「この花は赤い」「リンゴは果物である」という判断を例にとろう、論者たちによれば、一方に“この花は赤い”“リンゴは果物である”という“表象結合”があり、他方に<この花は赤い><リンゴは果物である>という<客観的事態>が存在していると謂う。前者、すなわち、判断における成体が決して心像的表象の結合態ではないこと、そのような心象が仮令(「たとえ」のルビ)見出される場合であっても、それが判断の本質的系なのではないこと、この点については上述しておいたのでここでは詳しく論考する必要はあるまい。論者たちの謂う“表象的結合態”に関して、猶必要な批判的コメントを添えるためにも、まずは、謂う所の<客観的事態>に止目しよう。論者たちの思念する客観的事態、<この花は赤い>ということ、<リンゴは果物である>ということ、これらのことは、物理的実在物ではない。この花は赤いにしても、<この花は赤い>は赤くもなければ、一定の空間的場所を占めるわけでもなく、枯れもしなければ鎖もしない。<リンゴは果物である>という事態のほうがより一層見定め易いが、この<客観的事態>はおよそ物理・化学的なrealitasではない。それでは、個々人の主観的心象なのかといえば勿論そうではない。それは、個々人の私念を超えた“客観的事実性”をもった或る事であるには違いない。持って廻った言い方は罷(「や」のルビ)めよう。前節までの行論を想起すれば絮言を須(「もち」のルビ)いるまでもなく、それはまさに「xを(a)として措定する」という機制において定立する意味成体であって、――(a)の契機をそれ自身追求していけば、イデアールなetwasと言わざるをえなくなる次第であって――realitasとは存在性格を端的に異にする。翻って他方、論者たちのいう“結合表象態”もまた“xを(a)として措定する”という機制において存立する意味成体にほかならない筈ではないか。もしそうだとすれば、論者たちの謂う“結合表象”も<客観的事態>も、実は全く同じものということになるのか? 論者たちは、一個同一の「意味成体」を二重視するという錯視に陥っているというのか? 或る意味ではそうだとも答え得るが、両者を単純に同じものだというわけにはいかない。<客観的事態>としては<この花は赤い>にもかかわらず、主観的な“表象結合”においては<この花は白い>といった“誤り”の場合もある。では、“誤り”の場合を別とすれば、つまり“正しい”場合には、両者は一個同一ein und dasselbeだという答になるのか?」164-5P
「この問題に答えるためには、従前敢て閉却してきた「対妥当」「帰属」という契機を主題化しなければならない。「叙示的意味」つまり、言語活動の主体、判断活動の主体への「帰属」関係を無視するかたちで扱われてきたが、実際には、それは必ず一定の言語活動主体に帰属する。尤も、ここにいう言語活動の主体なるものは、有体の諸個人とは限らない。というよりも、精確にいえば、言語活動の主体は、彼が言語活動の主体たるかぎり、単なるレアリタス以上の<或る者>として存立している。この間の事情から確認していこう。」165P
「現実の言語活動においては、聴者は、話者の叙示・表出を、さしあたり、話者に帰属する事柄として了解する。勿論、聴者は話者との自他的な区別を殆んど意識せずに“話に引き込まれる”ような場合もあるが、話者が“誤って”、例えば「クジラは魚の一種だ」、という発言をしたような場合、クジラは魚の一種だという主張は、話者に帰属するものであって、自分(聴者)に帰属するものではないことを覚識する。「クジラは魚の一種だ」、という叙示態は相手(話者)に帰属するものであって、自分(聴者)に帰属するわけではない。とはいえ、聴者が話者の立場を理解しているかぎり、当の叙示的意味成体は、或るイミでは聴者にも帰属していると言わざるをえない。聴者にとってみれば、本来の自分には帰属しないが、話者の立場を観念的に扮技しているかぎりでの自分には、当の叙示的意味成体が帰属しているわけである。このたぐいの事態を簡略に標記するために、「自分としての自己」と「他者としての自己」という言い方をすれば、言語的交通においては、言語活動の諸主体は、不断に「自分としての自己」と「他者としての自己」との“自己分裂的自己統一”とでも呼べる状相で存立している。このさい、「自分としての自己」といっても、その「自分」というのは、さしあたり、分立する「他者」との相関性における自分なのであって、必ずしも生身のこの自分そのものというのではない。また、「他者」といっても、眼前の相手とは限らない。伝聞的な場合など、第三者でありうるし、しかもそれは「世人」といった不特定的な他者でもありうる。「自分」も、この私とはかぎらず、「世人」の相でありうる。言語主体は一斑に「誰かとしての誰」という自己分裂的自己統一、二肢的二重性の相で存立するというまさにそのことにおいて、当該「言語」の主体として自己形成を遂げていくことができ、現に自己形成を遂げる。われわれは母国語たる日本語を語るさい、チョムスキー式にいえば、ideal-speaker-listenerたる「日本語の言語主体一般」とでもいうべきものが語るであろうように語る。勿論、個性的な特性がどこまでもつきまとうにしても、当該国語の言語(「ラング」のルビ)主体一般の一具身とでもいった相に自己形成を遂げることにおいて、当該国語の言語活動主体たりうる次第なのである。これは言うまでもなく、具体的な言語活動の場で、その都度の具体的「他者」を扮技し、脱自的帰入する過程の蓄積をも通じて確立するものであるが、この過程は単なる記号操作の間主観的同調性(「コンフォーミズム」のルビ)を形成するという域にとどまるものでなく、まさにそのことを相即的に、認識活動の間主観的同調性を形成していく過程でもある。認識活動の言語拘束性の故に、われわれはヒトが語るように語り、<ヒト>が認識する様に認識するようになっていく。――前節で「世人」と誌しておいたものがことでいう<ヒト>にほかならない――。当事主体は、謂うなれば、「<ヒト>としての私」という相で言語活動を営み、「<ヒト>としての私」という相で認識活動を営む。主体に留目していえば「<ヒト>としての私」へと各自が自己形成を遂げている。」166-7P
「このさいの<ヒト>とは何か? それには、いくつかの層を認めうるが、最も普遍化された位相では、それは老人でも青年でも、男性でも女性でもなく、それでいて誰ででもありうるような、まさに“函数的”存在性格の或る者であり、まさに非特個的普遍性、超時空間的不易性をもったetwerイデアールな主体である。この者は、言語の次元では「言語活動の主体一般」(理念化された言語主体)として、認識の次元では「認識活動の主体一般」(理念化された認識主体)として、形象化される。こうして、言語的・認識的活動の主体は、彼が「<ヒト>としての私」の相で存立するかぎり、単なる生身の特個的な存在者ではなく、かの「(a)としてのx」ではないが、単なる個体以上のイデアールな或るものとして、二肢的二重性において現存在する。167-8P
「爰で、判断の存立構造を省みるに、われわれは判断をおこなうに際しては、――単なる「私としの私」の私念を表明するのではなく――、謂うなれば<ヒト=判断主観一般>の見地を僭称するかのごとき相で、「<判断主観一般>としての私」の“資格”で述定的陳述をおこなう。勿論、反省によって、当の資格づけに欠けることが対自化される場合も生じうるが、判断をくだす折りの思念に即していうかぎり、<判断主観一般>の見地がfür unsには当事主体によって扮技されている。そして、判断の客観的妥当性・真理性の覚識というのは、実は、判断意味成体の<判断主観一般>への対妥当的帰属性の覚識にほかならない。」168P
「先程来の例、「この花は赤い」「リンゴは果物である」に即して、論者たちの謂う“表象結合態”と<客観的事態>との“模写的合致”云々の議論に立返って言えば、<客観的事態>というのは、<判断主観一般>に対妥当的に帰属するものと思念されている叙示的意味成体であり、“表象結合態”というのは、さしあたり「私」に帰属するものと思念されているかぎりでの叙示的意味成体である。ここにおいて、もし、「xを(a)として措定」した叙示的意味成体を恰かも自存的なもののように見做し、それが<判断主観一般>に帰属したり、「私」に帰属したりするという仕方で表象するのであれば、そのかぎりでは、一個同一の意味成体の二重帰属を云為することも一応可能である。が、いずれにせよ叙示的意味成体なるものが自存するわけではないのであるから、<判断主観一般>に帰属する意味成体と「私」に帰属する意味成体とは一応別々に立て、これら“二つ”の意味成体の一致または不一致を問題にすることも可能である。――これら二途のいずれを採るかによって陳述様相の差異の処理方式が異ってくる。そして、これが、判断の質、つまり肯定・否定の処理に関して響いてくる。が、原理的にはいずれの方途も斥けられない。――論者たちの謂う<客観的事態>と“表象結合態”との模写的一致・不一致という発想の図式は、“二つ”の成体を立てる後者のパターンになっているといえよう。そこで、今かりにこの第二途に仮託していえば、判断の客観的妥当性として論者たちの思念する事態は、「私」に帰属する判断意味成体と<判断主観一般>に帰属する判断意味成体との一致ということになる。われわれとしても、真・偽の区別を論じる文脈で、“二つの” 叙示的意味成体の存立というプロブレマティックを立てる必要に当面するが、――しかし、いずれにせよ、“表象結合態”も<客観的事態>もレアールに自存するわけではなく、従ってまた、両者が原像・摸像的に一致するわけではないのであって――、鍵鑰をなすのは、対私的に帰属する意味成体の<判断主観一般>への対妥当性である。」168-9P
「われわれは、今や、この判断のこの対妥当性溯っては、それ自身を自存化focus imaginarius ! nichts たる「意味」その“成体”の存立根拠を見定めるためにも、言語と認識との相互的媒介性と間主観性を論件としなければならない。」169P
  3 認識の間主体性
「われわれは、行文中、認識の間主観性について間接的には幾つかの論脈で既にふれておいたが、ここでは「意味」の存立性そのものに関わる次元でこの問題に若干立入り、前項では敢て閉却した陳述様相についても多少とも論及しておきたいと念う。」170P
「「意味」は、さしあたり、対象的与件を述定的所知性において措定するという二肢的な機能的連関において存立するものであること、そして、そこにおける二つの契機を自存化的に表象するとき“悖理的な”難題に当面すること、われわれはそのことを対自化しつつも、「意味」の存立性、就中「述定的意味」がそれ自身としては宛然(「えんぜん」のルビ)一種の“形而上学的存在”であるかのように仮現する由因については追尋することなく、当のetwas Indealesに仮託しつつ議論を進めてきたのであった。その一方、われわれは漸く前項において、言語主体が「誰かとしての誰」という二肢的二重性において存立すること、そしてこの「誰」は或る問題局面では、かの「述定的意味」と同様、イデアールな存在性格を呈することを対自化するに到ったが、そこではまだ、判断意味成体の<判断主観一般>への対妥当的帰属を云々したのみで、イデアールな言語主体と「意味」との関係、況んや「言語」との関係には関説するに及んでいない。――これら遺された案件に必要最小限なりとも応え、言語的記号、言語的意味、言語的主体、これら三者の相互媒介的連関性を認識論的な視角から論考することが本稿の課題である。」170P
「偖、認識の間主観的一致性が存立するのは、何を措いてもまず、「述定的意味」((a))の間主観的同一性が媒介になってのことである。視角を変えていえば、このことは認識主観が「述定」を「対他―対自」的に帰属化させ、――超越的な視点からみれば、よしんば他者に関する帰属性はvermeinen[思い込み]にすぎないとしても、当事主体にとっては、言語的交通の進展過程において当のVermeinnungが安定的に維持されるかぎりで、それを学知的な省察の見地からいえば――“共有”している事態の謂いとなろう。認識主観は、「意味」のかかる「対他―対自」的帰属・共有において、自他の“同型化”を進捗せしめ、そのことによって<ヒト>としての我、ひいては<認識主観一般>としての我へと自己形成を遂げていく。が、現実的過程としては、それは「言語記号」を介した反応的「喚起」の一斑なのであり、言語体系、意味体系の“共有化”と、言語主体としての“同型化”とは、同一事態の両側面・楯の両面にほかならない。しかも、言語活動という間主体的な営為は、対象的関心の向け方、従って、「図」の現前化と分節化の在り方をそれが規制するため、対象的与件群の分類方式のみならず、そもそも対象的認識の相在を知覚の次元にわたって規定する所以となり、ここに認識の言語被拘束性が成立することになる。――勿論、認識の言語被拘束性といっても、言語の在り方は生活の具体的在り方と相関的であり、言語体制と生活体制の相互媒介的拘束性を閉却できないが、さしあたり、この言語・文化・社会的拘束性を言語拘束性で象徴させて話しておけば、――まさしく、「言語」的交通を通じて認識主観の“同型化”が進捗する次第となる。そして、認識主観としての同型化とも相即的に、言語活動の主体が当該言語体系・意味体系の“共有者”として自己形成を遂げるかぎりで、一方では、当該の「言語」(記号・意味・文法体系)なるものが恰かも有体の諸個人を離れて自存するかのごとく物象化された相で表象され、これがイデアリジーレンされると倶に、他方では、当該「言語(「ラング」のルビ)」の主体なるものが、これまたイデアリジーレンされる所以となる。この物象化された表象に仮託していえば、「意味」なるものは(ラングの次元での「記号」も同様であるが)、単なる有体的諸個人としての私人にではなく、<ラング的主体>とでもよばれうるイデアールな言語主体に帰属する相で存立する。」171-2P
「茲において、所与の対象的与件xを(a)という述定的所知として知覚する主体、すなわち「(a)としてのx」という叙示的意味の帰属する主体は、単なる私人ではなくして「<ラング主体>としての或る者」と謂うことができよう。範式的にいえば、所与の或るものxを単なるそれ以上の或るもの(a)として、或る者(具身の主体)が単なるそれ以上の或る者(ラング主体)として述定・表出する。かかる、二重の二肢的構造連関、都合、四肢的な構造連関において言語活動が存立する。そして、この構造はそのまま、認識活動の存立構造にもスライドされうるのであって、けだし、認識の間主観性は、「意味」の“共有化”と相即する認識主観の“同型化”と相待する所以である。」172P
「ところで、しかし、所知的「意味」なるものがイデアールな存在体(つまり、非特個的な普遍性・超時空的な不易性・前経験的な先験性といった存在性格を具有する或るもの)として在るわけでも、また、イデアールな「言語主体」なる者が居るわけでもなく、これらはそれ自身としては実在しない(そのかぎりではnichtsである)以上、イデアールな意味(a)がイデアールな言語主体Mに対妥当的に帰属すると主張しても、それは空中楼閣にすぎないのではないか? われわれは、今ここでは、実体主義的世界像の排却とか、関係の第一次性とか、存在論上の問題次元に立入ることは差控えざるをえないのであるが、とりあえず、次の点までは諒解をとりつけることができるものと念う。――実在するのは、もっぱら、レアールな言語活動(その諸契機たる言語記号、言語主体、言語機能)であり、そこにおいて実的(「レアール」のルビ)に見出されるのは、与件xを単なるそれ以上の所知(a)として覚知するということ、この与件の特殊ケースとして言語記号(能記「a」)も含まれるということ、そして、所記xと能記「a」とが倶に単なる与件としてそれ以上の(同じ)所知(a)として覚識されるということ、加之(「しかのみならず」のルビ)、「所知」の示差的分節の在り方は「能記」の示差的分節の在り方と相互媒介的・相互拘束的であるということ、このたぐいの事項にとどまる。とはいえ、与件は同じだと思念される場合であっても、それをいかなる所知性において覚知するかによって(つまり、(a1)として覚知するか、(b1)(c1)……etc.として覚知するかに応じて)意識事態が一変してしまう。(反転図形や隠し絵などの場合にこのことが典型的に顕れるが、これは構造的には決して特殊例外的なケースなのではなく、まさに一般的機制である)。それゆえ、いかなる所知として与件を覚知するかということ、これがフェノメナルな対象界の規定的因子であることは否定できない。このかぎりで、謂うところの意味的所知(a)は、つまり自存化させて考えるときイデアールな存在性格を呈するこの或るものは、それ自体としてはnichtsであるににもせよ、フェノメナルな対象世界の分節状相と相在を学知的に分析・記述するにさいしては必須の契機である。(この点では、諸々の図形を分析・記述するにさいして、純粋幾何学上の「円」とか「三角形」とかいうイデアールな「図形」「形相」の措定が必須であるのと同趣である。精確にいえば、幾何学上のイデアールな「形相」は「意味」の一部分たるにすぎない)剰え、しかも、この意味的「所知」(a)の分節と相在は、言語的交通を通じて変容・修正を蒙っていき、成人においては、間主観的に“共通”な在り方をするようになっていることが認められる。勿論、言語主体は、完全に同型化してしまっているわけではなく、各自の個体性を遺しているが、意味的所知(a)を“共有”しているかぎりで、単なる個性的私人以上の言語主体へと“同型化”を遂げているということ、この事態を学知的に分析・記述するにさいしては、とりわけ、言語体系・意味体系の“共有”者の次元でイデアールな「言語主体」なるものを措定することが必須の要件となる。こうして、イデアールな<意味>ならびに<言語主体>は、さしあたり、学知的記述概念として措定されるものであるとはいえ、現実の言語活動における所知の“共有化”ならびに主体の“同型化”という現与の事態をイデアリジーレンしつつ措定したものであって、決して単なる空中楼閣ではない。それどころか、それは当事主体における“物象化”された意識事態に照応するものであって、学知の恣意的な措定ではない。われわれとしては、このような事情に定位して、イデアールな<意味>と<言語主体>なるものと相関的に――爾他の言語的活動の諸契機(かの質料的契機やパロールの主体、等々)との聯関態における一射影として――、措定する次第なのである。」172-3P
「右には、とりあえず「述定的意味」の契機を念頭において誌したのであるが、われわれの考えでは、「意味」は、言語的記号が間主観的交通において媒介的に演ずる指示・述定・表出・喚起の諸機能と相関的に、多重的な諸契機からなっており、単質的なものではない。」174P
「われわれは、言語活動における“所記”たる「意味」を――話者が共同主観的なラング主体としての自己形成と相即的に、与件をイデアールな所知性において述定的に指示し、この叙示態を陳述的に表出すること、それを聴者がこれまた共同主観的なラング主体としての自己形成と相即的に、対他―対自的に帰属せしめ、そのことを介して話者によるrole-expectation(役割期待)に被喚起的応答をおこなうこと、かかる対与件的・対他者的な機能的連関――機能的構造に即して総合的に規定しようと図る者である。本書では、しかし、表出・述定の契機に主題的に立入る遑(「いとま」のルビ)を欠くため、言語学的意味論の具象的な規定場面へと議論を敷衍(ふえん)することはおろか、判断的認識の質・関係・様相を定礎する前梯にすら達し得ぬことを憾(うら)みとする。とはいえ、せめては、前々節で予備的に論及しておいた意味観の諸類型、すなわち、意味=事物論、意味=心象論、意味=機能論・作用論・規則論のプロブレマティックと絡めて、「意味」の諸契機に側面から光芒を当て、間接的になりとも、われわれ自身の視角を呈示しておきたいと念う。」174-5P
「先ずは、意味=事物論ならびに意味=心象論を睥睨(「へいげい」のルビ)して復唱を憚らず誌せば、「指示」と「述定」とは、所与xを所知(a)として覚知するという構造的・機能的な連関において存立するのであって、所与xなるものも所知(a)なるものも、それ自身として自存的に実在するわけではない。このかぎりでは「指示的意味」と「述定的意味」という意味の二契機は、いずれも自存的に実在するものではない。とかるに、学史的にみるとき、ミルのdenotation(外延的意味)とconnotation(内包的意味)フレーゲのBedeutung(実理的意味)とSinn(知覚・感覚)との二分法などは「指示」と「述定」のプロブレマティックに応ずるものであり、このようなプロブレマティックを必ずしも対自化していない理説にあっても、「指示」の対象は屢々具体的な実在であるものと思念されている。かかる思念が生ずるのは、われわれの見地からいえば、論者たちが所与「x」の次元と、既に被述定的な措定態となっている「x als(a1)」(a1として措定された与件x)の次元と、混淆することに由来する。何故そのような混淆が生ずるのか? その最たる機縁は、おそらく、論者たちが「指示」の典型として、眼前の事物を指差(「ゆびさ」のルビ)す“直示”を表象することであろう。人々は普通、話者が聴者の眼前で、志向的対象を指差すとき、指示されている当の対象が、まさに指差すというその営みにおいて“直示”的に聴者に覚知されるものと思い込んでいる。なるほど日常的な会話の場面では、――例えば、本の表紙を指先で軽く叩きながら「コレ」と謂う場合、聴者の側では話者が表紙を指示しているのではなく、その本そのものを指示しているのだということを了解するし、タバコ屋のショーウィンドーのハイライトを指差して「コレ下さい」と言うとき、指差された当の箱ではなくハイライトという種類のタバコを指示していることを聴者は了解するという次第で――まさに指差すという動作だけで指示が完遂されるかのように思念され易い。しかしながら、――動作としては同じ表紙たたきであっても、「コレ(はデザイン賞をもらったものだ)」「コレ(は名著だ)」等々、表紙そのものを指す場合、本の内容を指す場合、等々が岐れうるのであって――「指示」は指差しという動作それ事態で完結しているのではなく、聴者の側での解釈的限定を俟ってはじめて成立する。(聴者の側での解釈的限定にとって、話者の指差し動作には重要な手掛りの一つには違いないが、それは所詮“手掛りの一つ”たるにすぎず、そこには種々様々な要因が協働するのであって、聴者は「場の脈絡」を勘案しつつ謂うなれば“連立方程式”の“解”として“指示されているもの”を特定する)。現に、話者は“正しく” “解釈的限定”を施して貰うために「コノ表紙は(つまり、表紙(a1)としての与件[x als(a1)])」という言い方をしたり、「コレは名著だ」という述語づけによって、間接的に、コレという志向対象が本(つまり、本(a1)としての与件x)として解釈的に限定されることを促したりする。最早絮言は要せぬであろう。「指示」が指示であるのは、話者自身にとってではなく、聴者に対する間主観的な指示としてなのであり、聴者との“共犯的”行為においてはじめて「指示」が存立する。そこでは、指差すといった“動作”そのことは聴者の側での解釈的限定の一つの手掛りたるにすぎず、話者自身は別段、確定記述の方式をとるわけではないにしても、聴者の側では確定記述と同趣の方式でx als(a1)の相で限定するのである。かくして、言語的交通の現実的場面における「指示」は、意味理論上の内実においては被述定的提示なのであるが、論者たちは、これを端的な「指示」(xの指示)と二重写しに了解する。そして[x als(a1)]は、“心のなかの観念”ではなく、多くは“外部的に知覚される” “事物” (広義の“事物”)であるため、「指示される意味」=事物という思念が生ずる所以となる。――われわれ自身、述語判断(つまり意味構造上は二重の指示・述定態)の“主語”が、第二段の述定に対して対象指定的であるかぎり、x als(a1)を指示的意味として便宜上処理することを厭わないが、但し、われわれは論者たちのようにx als(a1)をxそのものとを二重写しにする弊、従って、x als(a1)が事物という即自的に客観的な存在であるかのように思念する弊は、自覚的に卻ける――。」175-7P
「ところで“指示”される“事物”は単一・同一であっても、述定的所知性の相違に応じて、意識事態、ひいては、表現・理解される内容が相違するところから、一部の論者たちが“事物”として思念している「x als(a1)」の両契機を分離し(精確にいえば、むしろ、x als(a1)と、それについてさらなる述定のおこなわれる(a1)とを分離して)、(a)という契機を“心象”であると思念する理説が登場する。勿論、(a)は自体的に覚知されるわけではなく、必ずx als(a)という構造で覚知されるのであるが、論者たちは、当のx(精確にはx als(a1) )をもはや“事物”ならざる“心像”の次元に求める。ここにおいて、論者たちのいう“心象” (実は“心像”的に表象される[x als(a1)]を(a)として措定したもの)が“意味”であるとみなされ、それが“単なる事物”に対置される所以となる。そして、論者たちは(a)を心理的なrealitasとみなして「一般表象」とか「代表観念」とか称する。われわれの見地からみれば、論者たちは(a)と[x als(a)]とを二重写しにしている次第なのであるが、言語的活動の具体的な場面からのイデアリジールングによって「ラング」なるものが物象化されるのと相即的に、[x als(a)]もイデアリジーレンされ、事実上(a)に帰向するため、意味=心象という論者たちの錯認は日常的意識にとつて受納され易い。学理的に検討すれば、しかし、(a)を“心象”と二重写しにすることは所詮無理であって、爰に、われわれが第一節でみたごとき悖理が生じ、此説は自壊せざるをえない。そこで、意味を心像としてではなく、心的な作用として把え返す理論が現われる。が、この意味=作用論は、われわれの謂う「述定的意味」と「表出的意味」とを一括するのが通則である。それゆえ、われわれとしても「表出的意味」の一斑を射程に入れて論ずることにしよう。」177-8P
「「意味作用」なるものは、それ自身としては、“心理的にレアールな”作用であるが、論者たちが思念している事柄の内実は、与件を或る(a)として述定・陳述する機能的限定であって、単なるレアールな作用ではない。しかも、述定的表出は、上述の指示の場合と同様、話者の営為自体で完結するのではなく、現実的には聴者の“共犯的”行為を俟ってはじめて成立するのであり、聴取的に理解されたかぎりでの述定的表出は、既に被表出的(a)として現前している。このゆえに、「辞」によって分掌される表出機能すら、ラング的次元での“意味”の固定化を生じうるのであり、――それを手掛りにして、確定記述に類する方式とはいわぬまでも、謂わば連立方程式の解を劃定するごとき方式で、パロル的次元での特個的限定もはじめて可能になるのであって――決して、特個的心態の“直示”的伝播が現成するわけではない。「意味作用」の表出といっても、こうして、レアールな心理作用そのことではなく、述定的陳述態の間主観的“共有化”が事の眼目である。――ここでは指示・述定・表出、さらには喚起の全契機が介在しているのであって、イデアールな所知性(a)が必然的要件をなしていることは、更めて強調するまでもあるまい――。この間主観的な“共有化”的帰属、それが言語的記号使用の場で既成態となっている機制に定位して、意味とは記号使用のルールであるという意味観も登場する所以となる。言語活動における記号の相互主体的な媒介機能の在り方、正しくは、言語主体による記号の間主体的使用の在り方の“同調性”“同型性”が既成化しているかぎりで、ラング的次元での合規則的な記号使用が、指示・述定・表出・喚起の総体にわたって“意味”の間主観的“共有”化をもたらすことは慥かであろう。が、しかし、われわれの見地からいえば、事の眼目は、“使用”“規則”そのことではなく、記号によって指示・述定・表出・喚起されるところの或るものが間主観的に対妥当的であるという点に存する。ラング的に物象化された既成態においては、記号の言語主体に対する対妥当性と記号の“意味”に対する向妥当性とが相即するかぎりで、「使用」は間主観的に対妥当的な「意味」を示差的に顕示する一具たりうるが、だからといって、「使用」がそのまま「意味」そのものなのではない。」178-80P
「われわれは、以上、従前における意味論の諸類型が、指示・述定・表出・喚起の間主観的な機能的述定態ないしその諸契機をいかなる射映で把えたものであるか、それの犯している錯認の一斑をも指摘しつつ、われわれの視座から定位した次第であるが、これによって、言語的記号がそれとして向妥当し対妥当する構造的成態の総体を「意味」=所記として扱い、――「意味」なるものの物象化を卻けつつ、――指示・述定・表出・喚起の機能的諸契機を飽くまでこの“函数的連関態”の“項”として処理しようとするわれわれなりの見地を示唆し得たことと念う。最早、紙幅も尽きたので、敷衍には別稿を期せざるをえない。」180P
「尚、本稿では主として「述定的意味」に即して、それの“存在性格”と“間主観性”を顕揚したのは、実のところ「意味」のこの契機が、認識論上、いわゆる「構成形式」と「先験的主観性」のプロブレマティックと直接的に関わるものであるからにほかならない。「言語的意味」と「認識」の関係を認識論的に論考するに際して、この契機こそが鍵鑰をなすことは識者の斉しく認めるところであろう。が、本稿の範囲では、判断の様相や関係はおろか、判断の「量」「質」の討究に立入ることすら割愛のほかなかったため、趣意が通じ難かったことかと惧れる。この欠は、取敢ず別著の参看によって補全していただければ幸甚である。」180P


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2024年02月01日

廣松渉『もの・こと・ことば』(4)

たわしの読書メモ・・ブログ650[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(4)
『もの・こと・ことば』の4回目です。この章が、この著の核心的なところです。かなり長いので、二回か三回に分けます。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――[646]
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――[647]
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性                [648]
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――            今回[650]
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――            今回[650]
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――            次回[651]
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
人名索引

 さて早速、切り抜きメモに入ります。
  U こと・ことば
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――
(この節の問題設定)「言語の「意味」とは何か? 日常的意識にとっては、これは余りにも自明に思われるので、殊更に問究されることは稀であろう。しかし、いざ「意味」とは何かを問い返してみるとき、われわれは甚だ厄介な事態に直面する。――本節においては、まず、「意味」なるものに関する既成概念の若干を批判的に一瞥しつつ、われわれなりの立論への前梯を設(「しつ」のルビ)らえることにしよう。」101P
  1 意味=事物論
(項の冒頭の小ポイント、アウグスティヌスとヘレン・ケラーの引用2文を承けて)「アウグスティヌスの古典的立言やヘレン・ケラーの特異(ママ)な体験を援用するまでもなく、子供が言語を獲得していく過程においては、物の呼名を憶えることが重要な契機をなす。ここでは、人びとがそのコトバで指称するところの対象的事物、それが当の詞(「ことば」のルビ)の意味であるものと了解される。この間の事情が最も直截にあらわれるのが“固有名”の場合であろう。子供が物の呼名を記銘していく過程は事物に“名札”を貼付する作業にもなぞらえられる。尤も、これはコトバ(音声記号ないし文字記号)の習得であって、意味の理解と呼ばれる事態は“コトバが提示された際に、それの指称する事物を表象することにある”と考えられる。/言葉の意味とは当のコトバが指称する事物の謂いであるとみなす此の意味観は、いわゆる辞書的同義の存立によっても正当化されうるようにみえる。たとえば、英和辞典において、dogと「犬」とを等値するとき、dogの指称する事物と「犬」の指称する事物との同一性、このイミでの「意味の同一性」が前提的了解になっている。この点では、国語辞書内部における“同義語における言換え”にあっても同断である。」102-3P
「言葉は事物の呼名であるという言語観は、意味とは当の呼名の指称する事物にほかならないという意味観と相即し、そこでは言語記号と意味対象との関係は指示という機能に帰趨せしめられる。――この立場の理説に対して“俗衆”は直ちに幾つかの疑義(太字はわたし、この章に限って)を呈する。」103-4P
「第一に提出される疑義は(太字はわたし、この章に限って、以下注釈略)、言葉の表わす対象が実在しない場合があるということである。・・・・・・だからといって対象的な指称が成立しないわけではない。此説はこのように反論するであろう。少なくとも、フィクションなるものは実在的な対象の指称とアナロジカルに存立するものと此説は主張する。この立言が一応のところ認められてしかるべきかぎり、上揭の疑義は斥けられる。――ここには、実在的対象の指示と虚構的対象の指示とがアナロジカルに存立すると謂われる際の、当の「指示」の機制そのものが先決的な根本問題として残っているが、今暫く不問のままにしておこう。」104P
「第二に提出される疑義は、言葉(品詞)は果たしてそのすべてが対象を指示するのであるか、視角を変えていえば、言葉の意味とは果たしてそのすべてが指示される対象なのであるか、という疑問である。形容詞や副詞類、さらには接続詞のごときも、それが対象的な或るものを表わすかぎり、そこに、広義の指称的関係を認めることができよう。しかしながら、間投詞や否定詞などは如何? また、冠詞や指示詞などは如何? 否定的事実もまた一種の事物として認めるのか。感情的表出のごときも、感情という或るものの指称とみなすのか。指示的限定も一種の呼称と主張するのか。これら一連の問に肯定的に応ずるのは如何にも強弁というものであろう。論者たちとしては、言語記号のうち若干のものは不完全的記号、ないしは、補助的機能を演ずるものと認定し、言葉とその意味とは基本的にいって呼名−対象の指称的関係にある、と主張するのでなければなるまい。諸品詞、わけも小辞のたぐいを同位同格的に扱うことにはいずれにしても無理がある以上、基幹的なものと副次的ものとを区分し、基幹的な言語形象に関しては指称関係として押通すことにも一理が認められる。このかぎりでは、言葉(品詞)のすべてが呼名ではないという事実を指摘しても、そのことによって直ちに、「意味=事物」論が倒壊するわけではない。――ここには、謂うところの“副次的・補助的”な機能とそこにおける意味の内実について積極的に規定し、それと“指示”との関連を確定する課題が更めて生ずる次第であるが、これも暫く棚上げにしておこう。」104-5P
「第三に提出される疑義は、いわゆる実詞類にかぎっても、果たして、その意味とは指示対象そのものであるのか、という疑問である。議論を簡単にするために、端的に、普通名詞および抽象名詞の場合を考えてみよう、普通名詞、たとえば「犬」とか「果物」とかいった言葉の指示する対象的事物として、二極的な理解が可能である。そのひとつは、<犬というもの>、<果物というもの>、そのような普遍者が何らかのイミで自存するとみなし、そのような普遍者としての対象を指称的事物としてみなす見地であり、他の一つは、指称される事物は個々の犬や個々の果物、つまり、個々物であると了解する見地である。前者を採るとき、抽象名詞の“指示”する意味も含めて、議論が直截になることはたしかであるが、そのさいに謂う普遍者としての対象的事物なるものが一種の形而上学的存在になってしまう。勿論、このような形而上学的な主張も一つの立場ではありえよう。がしかし、これを積極的に採る者は、今日ではおそらくは在るまい。それでは後者を採るときどのような議論になるか。この見地では、形而上学的な普遍者の実在性は主張されず、存在するのは個別な諸対象だけだとされる。とはいえ、「犬」とか「果物」とかいう言葉は、固有名とは異って、数多くの事物、つまり同種の諸事物を指称するのに用いられる。論者たちによれば、この機制は“家族名”の使用と類比的である。・・・・・・ここには、家族名的な指示なる事態がそもそも如何にして可能なのであるという先決問題が残っており、溯ってはまた、普遍者としての対象的事物の存在とか、それの指示とかという形而上学的な思念が如何にして生ずるのか、これの説明が課題として残っている。が、これは後論に持ち越すことにしよう。」106P
「第四に提出される疑義は、言葉によって指称される一箇同一の事物なるもの、つまり、同一のコトバには同一の対象的事物=意味が対応するとされているさいの自己同一的な事物なるものが抑々存在するのか、という疑問である。ここで問われているのは、論者たちに最も幸するかにみえる固有名詞の場合についてであって、無論、指示対象が複数個存在する“家族名”は、さしあたり論外とされている。・・・・・・論者たちが呼名の指称する対象の客観的同一性を主張するかぎり、当の同一者は、物理的実在ではなくして「形相(「エイドス」のルビ)」=一種の形而上学的な実体と評されざるを得まい。因みに、田中角栄氏が死亡し、物質的存在としては消滅したとしても、田中角栄という呼名はその意味を失うわけではあるまい。とすれば、物理的存在としては変化したり消滅したりするにもかかわらず、意味としては不変・不滅な指示対象なるもの、それは物理的存在としての事物ではなくして、一種の形而上学的な対象と呼ばれざるを得ない筈である。論者たちは「意味」を以って主観の側に属する或るものとみなす立場に反立し、意味とはあくまで客観的な指示対象であると主張する。この主張を貫徹するかぎり、普通名詞のたぐいに関しては“家族名的な指示”という概念装置の導入によって形而上学的な普遍実在論を回避しうるにしても、ほかならぬ個別的対象の指示という基底的な場面において、論者たちは一種の形而上学的自己同一者、物理的事物ならざる形而上学的実体を強弁する所以となる。このことは、もとより、論者たちに客観的事物の指示という思念を放棄して、意味とは一種の主観的或るものなりとする反対の立場に移るように直ちに強制しうるものではない。そのかぎりで、論者たちがもし形而上学的主張を敢て選取するとすれば、われわれとしても一応、さしあたって水掛論の域を出ないことを容認して、深追いは差控えよう。」107-8P
「第五に、とりあえず最後の論点として指摘されうるのは、抑々言葉の意味とは指称される対象そのものであるのか、意味=事物論そのものが謬見ではないのか、という根本的かつ全面的疑義である。先に認めた通り、子供が言語を習得していく過程においては、物の呼名を憶えることが一つの重要な契機をなしており、また、いわゆる辞書的同義の扱いは指示対象の同一性を前提にしているように思われる。しかし、呼名の指称する対象的事物そのものが果たして言葉の意味なのであるか? また、たとえば「明けの明星」the morning starと「宵の明星」the evening star 「等辺三角形」と「等角三角形」とが、それぞれ同一の対象的事物(前者についていえば「金星」という同一の事物)を指称するからといって、この同一対象そのものが「意味」なのであろうか? 言葉の「意味」そのものは、指称される対象的事物とは別なのではないか、固有名がもし専ら指示の機能しか有せぬとすれば、固有名には「意味」はないという理説も成立しうるのであって、それは「間投詞」のたぐいには指称される対象的事物=意味は存在しないとする論者たちの主張と双対的に同位であると認められねばなるまい。ここで係争点をなすのは、いわゆる指示機能ないし、指示対象の存否ということではなく、「意味」なるものをどう規定するか、意味=指示対象と規定するのが果たして妥当であるか、いう問題である。言語が指示機能を演ずる(少なくともそのようなケースがある)ということを認めたうえでなおかつ、意味としての意味は別途の或るものと考える余地があり、そのほうが妥当だという説がありうる所以である。」108-9P
「われわれは、以上、五つの項目にわたって「意味=指示される事物」という意味観に対して、ありうべき疑義を一通り検討してきた。当座の議論としては、しかし、一見致命的とも思える疑義といえども、此説そのものを決定的に卻(「しりぞ」のルビ)けうるものではないということ、此説はそれなりの仕方によって固執されうること、却ってこのことを追認する結果になった。と同時に、さしあたっては、此説と同位的な別種の意味観が存立しうると、このことが併せて対自化され、しかも、その対立的理説の在り方が次第に隈取られてきた筈である。今や、このありうべき異説に眼を転じ、その妥当性を考量することにしよう。」109P
  2 意味=心象論
(項の冒頭の小ポイント引用ロック、ソシュール2文を承けて)「言葉と事物とは、ロックやソシュールを援用するまでもなく、直接的に結びつくわけではない、オグデン&リチャーヅの巧みな比喩を藉りれば、言葉が事物を表わすという言い方は庭師が芝を刈るという言い方に類するものであって、庭師が直接に動かすのは芝刈り機であると類比的に、言葉が直接に関わるのは――論者たちによれば――“心象”なのである。尤も、ここに“心象”と総称したものの内実について、論者たちの了解は必ずしも一様ではない。ヴァリアントを念頭におきながら意味=心象論を検討しておこう。」109-10P
「第一に挙げうるのは、謂うところの心象をいわゆる心的イメージのかたちで表象する理説である。言語記号によって聯想的に喚起される心像、つまり言語記号と聯想的に結合している心像=観念を以って、当の記号の表わす意味にほかならないと主張するこの理説では、指示される対象的事物が実在しないフィクションのケースなども容易に“説明”できる。・・・・・・此説はもとより、謂うところの心像と対象的事物とのあいだに一定の関係がありうることを否認するわけではない。がしかし、対象が実在しない場合にあっても、あるいはまた、対象と想念とが乖離している場合であっても、想念が固有の領域を形成し、それが言語記号と一定の関係をもつかぎり、此説によれば、「意味」は心理的領域内で存立するのである。/ところで、しかし、言葉の意味なるものは単なる心像とみなされうるであろうか。心像は、人によって、また、その都度の情況によって、さまざまでありえよう。たとえば「犬」という言葉を聞いて、或る人はシェパードに近い形の心像を、或る人はブルドックに近い形の心像を抱くという具合に相違しうる筈である。とすれば、意味=心像という命題を墨守するかぎり、「犬」という言葉の意味が人によって異なるということになろう。このことは、同一人物においてすら、時と所によって、心像=意味が一定しないという結論にまで推及されかねない。同一の語が同一の意味をもつとするとき、謂うところの「意味」は単なる心像、単なる心的イメージではなくして――ここでは、意味=事物説は論外である以上――「概念」とでも呼ばるべき特別な或る心的形像でなければなるまい。」110-1P
「第二に、そこで、意味=概念という理説が問題になる。「概念」という概念そのものが、実は多義的であるが、言語学者の場合、たとえばサピアは次のように述べている。「言語要素『家』は、或る単一な知覚の象徴なのである。謂うところの『概念』とは、言い換えれば、何千という別々の経験を包含し、さらに何千もの経験を容れうるごとき、思想の好便な容器a convenient capsule of thoughtである」云々。言語記号が単一の知覚や単一対象の観念を表わす象徴なのではない、ということは慥(「たし」のルビ)かだとしても、果たして人びとの心にサピアがいうような「便利な容器」が備わっているのか、聊(「いささ」のルビ)か疑問であろう。ソシュールの謂う「概念」は、心的なイメージとどこまで区別されているか必ずしも明確でないが、「一般表象」「一般観念」に近いものかとも想われる。ロック式にいえば、「言葉は一般観念general ideaの記号とそれることによって、一般的となる。そして観念は、時間や場所の諸状況から切り離し、また、この観念をあれこれの特個的存在に限定できる諸観念から切り離すことによって、一般的となる。このような抽象という仕方で、観念は一つ以上の個物を代表できるようにされ、これらの個物は各々この抽象概念合致するので、その種のものとみなされるのである」。――サピアのように容器に譬えるか、端的に一般観念を立てるか、いずれにしても、言葉の「意味」=概念なるものは、その都度の個別的な知覚や心像ではなく、それらを包括しうるごとき(そして、それ自身としては単一な)心的成体として措定されねばなるまい。このような心的成体としての概念なるものが現実に存在するとすれば、これを以って「意味」とみなすことによって、普通名詞や抽象名詞などの意味をも説明することができる。溯っていえば、此説は同じ機制によって、固有名詞の意味たるべき或る想念をも立言できる。・・・・・・/問題は、しかし、果たしてそのような概念=一般表象なるものが心的に実在するかである。たとえば、三角形という概念を考えてみよう。幾何学的な意味での三角形という概念が果たして「一般観念」というかたちで心的に実在するであろうか? 心的に“実在”する三角形は、特定の形と大きさのものであり、論点を見易くするためにいえば、それは、直角三角形か鋭角三角形か鈍角三角形か、このうちのどれかの筈である。直角でも鋭角でも鈍角でもあるような「一般三角形」なるものは決して心に描くことはできない。しかるに、一般観念=概念としての三角形なるものは、まさしくそのような“一般三角形”でなければなるまい。一般論として、男でも女でも、青少年でも老壮年でもあるごとき、「人間なるもの」といった「一般観念」を心的な実在のかたちでもつことは、そもそも不可能である。概念=意味なるものが、心的に実在するとしても、それは一般観念という形においてではなく、観念そのものとしては特個的な筈である。かくして、意味=概念が一種の観念とみなされるかぎり、それのもつ観念的普遍性なるものは、当の特個的観念の演じうる普遍的な代表機能に存すると考えざるをえない。」111-3P
「第三に、今や、「意味=普遍的な代理機能をもつ観念」という理説が問題である。「一つの観念は、それ自体で考察すれば特殊的であるが、しかし――とバークレーはロックの「抽象観念」を批判する文脈でいう――或る一つの観念が、同じ種類の他のすべての特殊観念を代理representないし代表stand forするようにさせられることによって、一般的になるのである」。「言葉は、或る抽象的一般観念の記号とされることによってではなく、幾つもの特殊観念のどれをも無差別的に心に示唆することによって一般的になる」。それでは、それ自身としては特殊的な一観念が同種のものどもを代理・代表しうるのは如何にしてであるか? ヒュームは言う。「観念がそれの本性においては特殊的であり、同時にその数においては有限であるとすれば、それが代表する点において一般的となり、他の無限な数の観念を包含しうるのは、ひとえに習慣によってのみ可能である」。「特殊観念が一般的となるのは、一般的名辞と結合されるからである。すなわち、習慣的連結によって他の多くの特殊観念と聯合関係をもち、想像においてそれら諸観念と即座に思い出させる名辞と結合されるからである」。――なるほど、これは言語活動の事実に合っているかのようにみえる。もしこのような代表説が妥当しうるとすれば、意味の普遍性をめぐる難題も解消することであろう。/問題になるのは、しかし、当の「代表」「代理」の存在性格と存立機制である。たとえば或る人が、三角形の或る特殊観念ないし三角形という一般名辞と、ピラミッドや文化大革命期のトンガリ帽子を聯想的に結合する習慣を身につけているとしよう。そのとき、ピラミッドややトンガリ帽子も三角形の意味に含まれることになるのか? 聯想的に結合されているだけではでは不可の筈であり、代理が代理であるためには限定条件が必要といれるはずである(前項でふれた“家族名的指示”もこれと同一のプロブレマティックを孕んでいることを爰(「ここ」のルビ)で立返って指摘しておこう)。それはまさに、同種のものの代理という条件、同種性という条件である。同種のものどもを代表するというさいの同種は、単なる類似ではありえない。単なる類似ということであれば、或る人の思い描く虎の観念は、猫の観念と極めて類似しているような場合、虎の観念ないし虎という一般名辞が、猫の観念をも代表することになってしまう。同種性が同種性として存立するのは、一群の特殊的諸観念において、まさに種的に同一な或るものが共有されていることに俟ってであろう。この同一な或るもの、ないし、同種性そのもの、これが一つの観念として心的に実在するのであるか? もし、「三角形性」なり、「三角形という同一の或るもの」なりが心的に実在するとすれば、それはまさに一種の「一般観念」なのであるから、論者たちの代理説は無用に帰する。それゆえ、同種性を支えるこの当のものは、それ自身としては一つの観念というかたちで心的に実在するものではない、と認められてしかるべきであろう。だが、そのとき、代表説を維持しようと図るかぎり、この同一者は心的な実在ならざるsomethingとして、心理学的な領界の外部に求められざるをえなくなる。そして、言葉の意味という或る普遍的な自己同一者は、もはや特殊な諸観念、つまり、言葉と聯想的に結びついている観念(代表機能を演ずる観念)とみなされるべきではなく、ほかならぬ同種同一者そのものとみなさるべきものとみなす理説が登場することになる。」113-5P
「第四に、かくして、意味とは、物理的事物でこそないが、心理的形象(心像・観念)のたぐいとは端的に別種な或るものであるという理説、そして、かの「概念」とは実はこの非心理的な或るものと相即するという理説、これが顧慮さるべき次序である。想えば、物理的な実在も心理的な実在も、生成流転の相にあり、不断に変易する。しかるに、言葉の意味は、物質的対象や観念(心像)が変化したとしても、それにつれて変化するわけではない。一たん発せられた言葉の意味は、現実界の変易とはかかわりなく、いわば自己同一性を保持する。・・・・・・いわゆる「意味という第三領域」つまり、経験的実在でも形而上学的実在でもない第三の存在領域を想定する理論の余地があるし、また、記号使用の規則の場面や、記号活動の機能の場面に定位して謂うところの「意味的同一性」を規定する理論にも存立の余地があるからである。/これらのありうべき理説については、後に主題化することにして、ここではとりあえず「意味」なるものを心理的な実在として了解する立場は、意味の自己同一的不易性や意味の概念的普遍性の処理に関して決定的な隘路に逢着するということ、これらのモメンテを処理するためには、意味=心象論の地平そのものを超脱する必要があるということ、この点までを確認するにとどめよう。」115-6P
「第五に、そしてとりあえず最後に挙げておきたいのは、言語的交通(従って「意味」の伝達や理解)にとっていわゆる心象(観念・心像といった心理学的形象)がそもそも必然的な契機であるのか、という根底的な疑問である。人びとは、通常、言語的活動が成立するためには、言語記号、対象的事態の両契機とならんで、一定の観念(つまり、言語記号と心理的に結合されている意識内容)が必要条件をなしているかのように考えている。たしかに、言語的活動の或る種の場面では、いわゆる観念が現出するし、これが重要な契機をなしているように見受けられる。だが、果たして、観念の介在は必要条件であるのか。それはたかだか副次的な随伴現象にすぎないのではないか? ・・・・・・これはバラではないこと、ここにはリンゴが無いこと、等々、否定的事実と呼ばれる事態は言語的交通において日常的に立現われるが、否定的事実の心象をもつことが果たしてできるであろうか? われわれとしては、肯定的事実のケースにまで議論を拡張することもできる。たとえば、学術的講演を聴いたり。学術書を読んだりするさい、意味と使用する心象=観念が継起的に心に泛かぶであろうか。心像の現出を端的に欠いたまま理解(意味の理解!)が進捗するのではないか。とすれば、言語的交通、意味の理解にとって、心象=観念の介在は、少くとも、必要条件ではないものと結論づけられる。/このさい、なるほど、言語記号の知覚心像の介在していることが必要条件とみとめられるへきかもしれない。そこでもし、代表説が固持されるとすれば、当の記号の知覚心像が「意味」を代表するといわれることになろう。これは一つの理説たりうる。というのも、代表機能を演ずる観念は、「意味」と類似していることにおいてではなく、類似的に同一な或るものどもをstand forすることにおいて代表資格をもつものである以上、「意味されるもの」とは一見異貌であっても差支えないからである。――こうして、「意味するもの」(記号)と「意味されるもの」(非心理的な対象)との二契機のみが存立するものとし、いわゆる心像を必要条件でならざるかどで消去するとき、「意味するもの」が「意味されるもの」をstand forするという構図は、記号が事物を指称するという構図と、構図の上では同趣のものに帰着する。だが、われわれは、先に検討した意味=事物論に還帰するわけではない。・・・・・・」116-7P
  3 意味=機能論
(項の冒頭の小ポイント引用時枝誠記、クワイン2文を承けて)「言語の「意味」を、外的な対象そのものに求めても、また、内的な心象そのものに求めても、いずれも不都合を生ずるところから、意味を“外的対象”でも、“意識内容”でもない“第三の契機”に求めようとする理説が当然に現われる。/この“第三者”は種々のものでありうる。とはいえ、意味論として現実に登場した理説は比較的少数のいくつかの類型に還元することができる。」118-9P
「第一に挙げうるのは「意味作用論」である。近代哲学における基本的な三項図式たる「意識対象−意識内容−意識作用」の三要素のうち、第三のモメントに定位するかたちで此説が立てられる次第であるが、意味の本諦を「作用」に措くとすれば、「意味内容」なるものの存在を否認する立場にまで此説は及びうる。尤も、此説の“先駆”ともいうべきものを、情意的な心態の表出、従って、間投詞的な表出に言語の起源=原基的機能および存立を求めるエピクロスやヴィコなどの言語観に遡及することも可能であり、此説は歴史的に旧いということもできないわけではない。が、しかし、“意味論的”な脈絡においては、ポール・ロワイヤル文法このかた、鈴木朖の「辞」の意味機能論やロックの不変化詞の意味機能論などにみられるように、言語(さしあたり単語)一般のそれではなく、特定種類の単語の意味機能として“作用”に止目する理説が登場したのであった。」119P
(小さなポイントのロックの文を承けて)「ロックの謂う「無変化詞」ないしは鈴木朖の謂う「辞」の場合、それらの指称する事物も、それに対応する心像も存在しないこと、しかも、「有意味」であること、これは確かであって、このような言語形象が現存することは銘記されねばなるまい。問題は、この「意味=作用論」を言語形象の全般に推及しうるか否かである。」119-20P・・・言語を巡る三項図式
(小さなポイントの時枝誠記文を承けて)「ここにみられるように、時枝言語学においては、「辞」に関してのみでなく「詞」に関しても、意味とは「意味作用」にほかならないと主張される。/意味の意味たる所以のものが、対象的事物や心像的観念そのものではなくして、これらのものに対する言語主体の「把握の仕方」「意味作用」に関わることは確かであって、時枝意味論は卓見であることが認められよう。/だが、「意味作用」とは抑々いかなるものであるのか? それは、生じて瞬時に消え去る心理的作用にすぎないのであるか? それは如何にして間主観的たりうるのか? 時枝氏は、「言語は素材[事物や表象]に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによって、聴手に素材を喚起させようとするのである」と言われる。このさい、表現的に志向され、喚起的に志向されるところの或るもの、すなわち、言語主体の「把握の仕方」「意味作用」は、心理的事実としては瞬時に生滅するとしても、それが表現され(そして理解され)た意味たるかぎり、心理的作用と同時に消滅してしまうわけではあるまい。ここにおいて、意味作用そのものの存立性と間主観性が更めて問い返される次第であるが、話手と聴手とのあいだに伝達される意味の間主観的存立性は、両当事者に対して観察的な見地(これは当事者本人の反省的確認であっても可)においてはじめて立言されうる。そして、意味の間主観的存立性を立言しうるメルクマールは、言語的応答をも含む反応を措いては存しない、という次第で、謂うころの「作用」としての意味を「反応」(外的反応とは限らず“内的な反応” “態度” “志向”を含みうる)に即して定位しようとする理説が登場することになる。」121-2P
「第二の類型として挙げうる「意味=機能」論のタイプは、ここに登場する「意味=反応」説である。この説は多くの場合、条件反射理論と結びつき、さなくとも、シグナル的な機能を基底的な問題場面としつつ、まずは外的な反応に留目する。」122P
(小さなポイントのミード文を承けて)「ミードは、文字通りの身振りから始めて、これを「有意味的シンボル」(声振り?)にまで推し及ぼす姿勢で論じているのであるが、この議論がさしあたりシグナルの次元に妥当しうることは認められてよいであろう。例えば、交通信号における「赤」の“意味”はそれの惹き起こす“停止”という反応の謂いであり、「火事!」という声振りの意味は、逃げ出すとか水を持って駆けつけるとか、この種の「第二の生物体の」反応であるという主張も一応は認められうる。実際、一般論として命令や愬訴など、単に“知解”されただけでは「意味」が通じたとはいえず、一定の反応(いわゆる内的反応をも含む)が“意味”の構成的な一契機であることは確かである。/しかしながら、意味=反応という規定を言語一般にに推及できるかどうか、これは疑問であろう。ミードは「有意味的シンボル」全般への推及を具体的に展開しているわけではない。が、ワトソン等の行動主義者たちの志向がここで想い合わされる。現にゴンペルツは「人物PのSへの反応が、それとは別の対象ないし事象Oに対するPの反応と似ているとき、SはOに代る記号として作用しているといえる」旨を述べ、彼としては幾つかの附帯条件を設けつつも、意味=反応論を一般化している。」122-3P
(小さなポイントの池上嘉彦文を承けて)「このような難点が生ずるのも、論者たちが「反応」ということで、その都度の個人的な反応の次元を考えているからではないのか。もしそうだとすれば、反応ということの内容を社会習慣的な傾向性の次元で考え直してみる余地がありそうである。現にモリスなどはdisposition (性質・習性)に定位して展開している。がしかし、意味が社会的な習慣そのことではなく、あくまで傾向的・習慣的な反応にあるとされるかぎり、果たして当の生理・身体的な反応そのものが「意味」なのであるか、疑義なきを得ない。」124P
(小さなポイントの坂本百大文を承けて)「今やこのコンヴェンショナリズム(慣習性)の意味観が問題である。」125P
「第三に、そこで、意味規約説を顧みておかねばならない。これは、言語そのものに関する約束説と一体であり、旧くから存在するものであるが、内容的には、意味=事物論ないしは意味=心象論に帰着するものも尠しとしない。ここで特に論件としたいのは、その埓には必ずしも納まり切れないと目されるものに関してである。」125P
(小さなポイントのシュリックとヴィトゲンシュタイン文を承けて)「このように、後期のヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」の主張と相即的に、「語」の意味に関して「使用」(use,usage)説を打出す。チェスの駒(たとえばボーン)の意味を知るとはその駒の使い方を知ることを措いてないのと同様、言葉の意味を知るとはその言葉の使い方を知ることにほかならないというわけである。」125-6P
(ヴィトゲンシュタインのいくつかの文を承けて)「この問題提起は、言語習得の端緒的な場面にわれわれをつれもどす。人は果たして、アウグスティヌスが述べるような、乃至はまた、ヘレンケラーが回顧するような仕方で言語を習得しはじめるのであるか。嬰児が、「ウマウマ」とか「オブ」とか「シーシー」とかいう言葉を使い始めるとき、それは謂うなれば「開け! ゴマ」式の“呪文的”ともいうべき或るものではないであろうか。発語に先立つ、泣声や表情(広義の身振り)がすでに、“呪文的”であり、アウグスティヌスやヘレン・ケラーも、最初はそのような“言語”使用を即自的におこなっていた筈である。このたぐいの言語使用は、亭主関白が「飯!」「お茶!」と呪える場面にもみられる(ママ)。そして、かかる“呪文的”な言語使用においては、「使い方」を知るというのは、とりもなおさずその“意味”を知ることであるといえよう。――このことは「お早よう」とか「ご機嫌いかが?」とかいった言語使用にも推及されうる――それは一般に、道具の“意味”、例えば、箸やスプーンの“意味”を知ることが、それの使い方を知ることにほかならないのと類比的である。“呪文的”言語使用においては、招来される反応そのものが意味なのではない。所定の発語によって所求の反応を惹き起こすという“言語使用”を体得することが、呪文的言語の意味を知ることと同値である。」126-7P・・・言語習得の役割理論とのリンク、ハイデッガーの「用在」概念ともリンク。ただ「亭主関白」云々という、オールドマルキストの性差別的例示
「ところで、しかし、「使い方」を知るとはどのような事であるのか? また、そのことが「意味」の存立とどう関わるのか? 例えば英語のanyとsomeについて、Have you any ? Yes,I have some. No,I have not any.といった「使い方」を知ること、つまり、統語法・構文法上の使用規則(ルール)を知ること、このことを離れてany:someという単語特有の意味を知ることはありえないように思える。変化語尾という「意義素」の意味や或る種の小辞の意味についても同断である。また「アイウ」という音が疑似語であって無意味であるのや、浦島次郎や梨太郎という“音列”ないし“字列”が無意味であるのは、日本語という“チェス・ゲーム”には、そのような“駒”“使用”がないからのように思える。だが、果たして、言語の意味とはその慣用の謂いであるのか? 純粋に言語“内部”的な規則で律せられるものであるのか? チェスの場合には、駒(単語のアナロゴン)の使い方、つまり、駒どうしの配位法だけで、その“意味”が決まるにしても、言語の場合には、単語の配位法だけでは、“使用”も十全とはいえないであろう。言葉の使い方を十全に習得するためにも、単なる“言葉の内部”にとどまるわけにはいかない。」127-8P
「言葉の意味と総称されているもののうちには、“言語内部的な”“ゲーム規則”によって専らその“意味”が規定される契機が含まれていること、そのことを認めたうえで、しかし、一切を“慣用”Gebrauchに還元しつくすのではなく――ヴィトゲンシュタイン自身がその含みを残しているように――universe of discourseないしは、いわゆるcontext of meaningのうちに、意味の十全な規定を求める理説が爰に顧慮さるべき所以となる。」128P
「議論の進め方としては、しかし、既成の理説に関する予備的な批判という方式をもはや採ることなく、端的にわれわれの見解を論述するなかで、この問題にも関説することにしょう。」128P
 二 与件と意味――意味の雙関――
(この節の問題設定)「前節における予備的な考覈(「こうかく」のルビ)を俟つまでもなく、われわれは“単質的”な意味なる或るものを想定して、それを確定しようと試みても所詮は徒為に終るであろう。けだし、言語の“意味” と総称されているものには、実際には幾つかの契機ないし側面があり、それを単質的な或るものに還元することは抑々不可能だからである。“意味”を構造的な一総体として把握するためにも、言語のもつ機能に留目し、これを手掛りにしてアプローチするのが好便である。」128-9P
  1 機能と意味契機
「言語は、さしあたり話者の視座に立ってその機能を縦観的に把えるとき、一定の事態を叙示し、話者の意識態勢を表出し、そのことによって、所期の反応を喚起する。表出ならびに喚起の機能は、具体的な内容に即すれば多肢にわたるが、とりあえず、両つの類に括ったまま議論を進めよう。ところで、叙示の機能については、或る対象的与件を指示する機能と、それについてしかじかとして述定する機能とを早速に区別しておかねばならない。当座の論脈においては、かくして、言語の機能は、指示・述定・表出・喚起の四契機に分節化される。」129P
「或る一言語(日本語、英語といった次元で分類した一言語)の下位的分節化は、学的分析にとって多階的な統轄を必要とするが、われわれとしては、如上四契機の機能を一全体として全うする単位を以って基本的単位とみなすべきであろう。それは、普通に「文」sentenceと呼ばれているものにほぼ照応する筈である。」129P
「この基本単位たる「文」は、謂うなれば分子的な単位であって、原子的な下位単位に区分されうる。謂うなれば原子的な単位たる当の構成分は、言語学者のいわゆる「句」の次元、「語」の次元、さらに下位の次元のいずれに照応させることも方法論的には許されるであろうが、われわれとしてはヤコブソンの謂うminimal formal unitないしformal minimumとしていわゆる「語彙素」(lexeme)の次元を原子単位となし、さらなる下位区分単位としての謂うなれば素粒子的次元に、もはや意味的な単位をもたぬ「音素」(phoneme)を措くことにしよう。有意味的な最小(原子的)単位たる「語彙素」は、いわゆる「語」よりも小さな単位であるが、本稿においてはlexemeと記すべきところを便宜上「語」と標記することにしたい。」129-30P
「今、一言語を形成する原子的単位としての「語」(正しくはlexeme)、分子的単位としての「文」なる概念を設定したが、これら両概念が極めて曖昧であることは姑(「しばら」のルビ)く不問に附して、とりあえず確言しておきたいのは、原子的単位たる「語」から分子的単位たる「文」が構成されるとはいっても、それは決して代数加算的な機械的結合ではなく、謂うなれば有機化学的結合であるということである。われわれにおいては、しかも、「文」こそが基本的単位である以上、「語」はそれ自身としては十全な存立性をもたず、それが「文」の構成分たるかぎりにおいてのみ基礎的単位なのであるが、以下の行文においては、誤解の虞(「おそ」のルビ)れがないかぎり、「語」があたかもそれ自身で自立的な単位であるかのごとき表現方式を厭わぬ心算である。」130P・・・入れ子型の関係の一次性の論理と類比
「尚、「語」は、そのすべてが、かの四機能、すなわち、指示・述定・表出・喚起の機能を同時に担うわけではない。一般には、語は特定の機能(の一部)を分掌する。とはいえ、亦、これらの諸機能(正しくは、言語機能の諸契機)は代数的・機械的に複合されているのではなく、“相互浸透的”である。――例えば、「あれは火事だぞ!」という「文」は「アレ・ハ」(指示)「火事」(述定)「ダ」(表出)「ゾ!」(喚起)という仕方で機能的分節を便宜的に示しうるにしても、「ダ」だけで表出機能を果たしうるわけでなく、また「ゾ!」だけで喚起機能を果たしうるわけでもない――。強いて言えば、これら四機能は、次々に前者までを「入れ子型」に“包む”と言えようが、この言い方がすでに、一種の機械論的複合モデルへの妥協なのである。語の意味機能はあくまで相互浸透・相互反照の相で了解されねばならない。」130-1P
「偖、言語の機能と言語の意味とは同値ではない。とはいえ、両者が密接に関連していることは見易いところであろう。」131P
「第一の指示機能が、前節で予備的にみておいた「意味=事物」論を機縁づける。「あれは火事だ」「火事は災難だ」といった「文」において、「アレ・ハ」「火事・ハ」という構成分は、就中“指示”機能を演じているが、この指示機能によって指称されている対象的事物が、「アレ」「火事」という言葉の意味(指示的意味)と目される。――このさい「ハ」という語(語彙素)は、構文法的な「慣用」(Gebrauch,usage)に則って、遡っては、「意味場」と相関的な或る「規則」に俟って主題提示機能(これは指示機能の下位分類に属するのだが、ここでは下位区分には立入らない)を演じているのであり、直接に対象的事物を指称するわけではない。が、ともあれ、言語の指示機能と相即的に、言語の意味と称されるものの一契機が存立することは認められよう――。これは、例えば、英語のdogと日本語の「犬」とが「同じ意味」の言葉と称される場合などに了解されている「意味」の意味である。このイミでの「意味」つまり、「指示的意味」(指称される対象)とは、厳密に規定するとき、いかなる存在であるか? これは後に立返って論考することにして、とりあえず議論を先に進めておこう。」131-2P
「第二の述定的機能も、意味と総称されるものの一契機と相即する。「あれは火事だ」「火事は災難だ」というときの「火事」や「災難」は、前節でみた「意味=心象」論と殊に深い関係をもつ。勿論、この説に謂う「心象」は、場合によっては、「指示される意味」とみなされうるし、述定という問題意識を欠くこともある。逆にまた、「意味作用」論こそが述定の機能に直接的に定位するものである、という異見もありえよう。という次第で、述定機能と相関・相即的に措定される意味契機を直ちに「意味=心象」論の謂う「心象」に比定するわけにはいかないし、そもそもわれわれの積極的な見解では「述定的意味」は決して心理学的にレアールな「心象」ではないのであるが、しかしともあれ、述定機能と相即的に意味の一契機が措定されうるまでは認められるであろう。」132P
「第三の表出機能が「意味=作用」論を機縁づけた当のものであって、これはまた意味の一契機を雙関的に措定せしめずにはおかない。尤も「表出」という概念が曖昧であり、ここで若干のコメントを必要とする。――「あれは火事だぞ」「火事は災難だね」といった表現において、さしあたり「だ」が表出機能を担うといっても、上述の通り、四機能の各々が特定の言語要素と一対一的に機械的な対応をもつわけではなく、表出辞「ダ」がそれ自身だけで十全な表出機能を演じるわけではない。人はむしろ「火事だ」「災難だ」という全一体が述定ないし述定的表出の機能を演じると言うかもしれない。今の例では、特に「ダ」という断定辞が絡んでいるために話が厄介であるが、これは「表出」という概念の規定の仕方にも関わる。人は一般に「表出」という話のもとに、喜怒哀楽の感情や決意性や逡巡といった“情意的なもの”を表象し、表出機能を以ってオグデン・リチャーヅの謂う情緒的emotiveな機能と解しがちである。ここにおいて、しかるに「ダ」という断定は、情意的ならざる“知的”機能であり、むしろ述定の表明である以上、「表出」とは位階を異にするという見方がおのずと成立し易い。これはこれで、慥かに一つの見識である。がしかし、「あれは火事だ」「あれは火事かもしれない」「火事にちがいない」「火事だろう」「火事なのか」等々、述定の様相modalityには種々相がある。これらを述定内部の様相として扱い、さらには否定的陳述をも「述定」に内属せしめるか、それとも、「述定」はマイノングのAnnahme (仮定)に類するかたちで処遇し、しかも、肯・否定的措定や様相的区別は「叙示」の後件として処理するか、これは方法論的な手続上の選択に懸る。そこで、――われわれとしては「述定」は前様相的な次元までとし、陳述様相をも「表出」の一部として扱う次第なのである。」132-3P
「第四の喚起機能が「意味=反応」論と緊密に関わることは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。言語的交通の場で喚起される反応には、表出の場合も同様であるが、話者自身としては必ずしも意図的に志向しなかった部面までが含まれうる。また、喚起機能が、特定の言語要素だけで遂行されるわけではないということ、いずれにせよ喚起機能は聴者の側において話者の陳述の全体を理解することに俟って十全に果たされるのだということ、このことが銘記されねばなるまい。われわれとしては、意味論としての意味論にとって「喚起的意味」という契機にどこまでの比重を置くべきか、聊か消極的であるが、しかし、言語のシグナル的機能をも包摂する必要があること、さらには、話者の陳述を単に“知解”しただけでは意味の疎通が完結しない(少なくともそのような場合がある)ことに鑑みて、やはり一応「喚起的意味」という契機を措定する所以である。」133P
「われわれは、以上、言語の四機能に対応させるかたちで、「指示的意味」「述定的意味」「表出的意味」「喚起的意味」という四つの意味的契機を措定する旨を表明してきた。これら意味の諸契機は、並列的・並存的な「四つの意味」なのではなく、機能の諸契機が“入れ子”型を呈するのと相即的に、構造的な成体を形成するものと予料される。成程、用語法上の問題としていえば、われわれの謂う意味の四契機のうち、特定のものだけを特に「意味」と呼び、他は他の呼び方をすることも許されうるであろう。が、われわれとしては意味論の歴史的経緯をも勘案して、敢て四契機の全てを意味の(「レベル」ならざる)契機として扱うことにしたい。」134P
「今や、意味の諸契機を積極的に規定していくべき段取りであるが、認識の問題とリンクされるべき本稿においては、「喚起的意味」については、――これが言語学的意味論にとっては極めて重要であり、また、詳しい下位区分と再構造化が必須であることを承知しつつも――立入ることを割愛し、就中「述定的意味」ならびに「指示的意味」を検覈しておきたいと念う。」134P
  2 所知の存在性格
「われわれの謂う「意味」の第一契機たる「指示的意味」の実態を規定するためにも、一見順序を紊すかのごとくであるが、第二契機たる「述定的意味」から検討しておかねばならない。」124P
「述定は、「リンゴは果物だ」「リンゴは甘い」「リンゴは腐る」というように、名詞、形容詞、動詞を述定詞としておこなわれる。が、述定詞は“普遍詞”だけとは限らない。「あれが太郎だ」、「日本の首相は福田赳夫だ」、というような場合もある。尤も、固有名“述定詞”の位置につくようにみえるこれらの場合に関しては、“それは命名的指定ないし対象的同定でなのであって、述定ではない” という主張もありえよう。爰で、われわれは早速に、指示的意味と述定的意味との離接という問題に直面する。この問題に応えるためにも、固有名の場合は後段に廻すことにして、「これは果物だ」「これは甘い」「これは腐る」といったケースの「述定」にまずは止目することにしよう。」134-5P
「或る種の論者は、意味なるものを総じて、言語記号の指称する対象的事物であると見做す。論者たちによれば、「これは果物だ」というさいの<果物>は、この言葉で“指称”される対象的事物の謂いにほかならない。また、甘いとか腐るとかいうのは、それ自身が一つの事物というわけではないが、レアール(事物的)な性質や状態・変化なのであって、対象的現実の指称という点では、「果物」という陳述と同趣である云々。」135P
「誰しもここで直ちに思い付くのは、論者たちは、「コレ」の指示する対象のことを問題にしているのであって、「果物」「甘い」「腐る」という述定そのことから論点を外しているのではないかという疑念であろう。同じ「これ」を指さしながら「これは果物である」「これはリンゴである」「これはモノである」「これは固い」「これは割れる」等々、多くの述定がおこなわれうる。そして今問題の述定的意味とは「果物」「リンゴ」「モノ」「甘い」「固い」「腐る」「割れる」といった詞の表わす意味なのである、云々。――この“反論”にも実は陥穽が潜んでいるのだが、われわれとしても、当座の議論としては、「果物」「甘い」「腐る」といった詞の意味に即して、爰での述定的意味を探ってみよう。」135-6P
「偖、このかぎりでは、一般化していうとき、われわれは、“普遍詞”、つまり、名詞(さしあたり固有名を除く)、形容詞、動詞のあらわす“意味”を問題にする所以となる。ところで、かかる“普遍詞”のあらわす意味は、そのような“意味”なるものが存在するとしての話であるが、ともあれ特異な存在性格を呈する。先廻りをして言っておけば、それはさながら一種の形而上学的な存在であるかのような特異性を呈する。」136P
「第一に、“普遍詞”が普遍詞と呼ばれる所以でもあるが、例えば「果物」という述定は、指示される対象が“あのリンゴ” “この梨” “この西瓜”というように特個的な個物であっても、これらの個物を通ずる或る普遍的ものを措定する。「果物」という詞によって述定される意味(つまり「述定的意味」)は、多数の特個的外延群denotations――“このリンゴ”“あの梨”“この桃”“この西瓜”etc.etc. ――がよってもって、斉しくそれであるところの内包connotationたるEtwasとして普遍性を有する。こうして「述定的意味」は普遍性を有する或る普遍者(普遍性という存在性格を有する特異な存在者)であり、通常の経験的存在者(これは事物であれ表象であれ、必ず特個的である)とは存在性格を異にする。」136P
「第二に、「述定的意味」そのものは、腐るわけでも割れるわけでもなく、それ自身として自己同一的・不易的である。例えば、果物と述定される対象的事物は、成長し、熟し、やがては消滅してしまうが、「果物」という詞の意味は、対象的事物=果物と共に成長したり熟成したりするわけではない。「述定的意味」は、あくまで自己同一性を保持しつつ一貫して同じそれである。――このことは、詞の意味の歴史的変化とは区別されねばならない。例えば、「色」という詞が、かつて「艶」を表わしていたところ、今では「色彩」を表わすようになったというような「語義の歴史的変化」は、「色」という同一の言語記号が、別種の意味と対応づけられるようになったということであり、<艶>が成長・変化して<色彩>に成ったわけではない。詞の意味はそれが発話された折のままである――こうして、「述定的意味」は、時間的経過を超えて自己同一性を保持する不易的な或るものであり、この点で、通常の経験的存在者が生成流転の相にあるとはおよそ対蹠的な存在者である。」136-7P
「第三に、述定される意味は、その成立の起源からいえば、また、それが意識にもたらされる経緯からいえば、疑いもなく経験的アポステリオリな形成態のはずであるが、しかし、それにもかかわらず、経験的な認識に対して論理的プリオリテートを有し、いわゆる「論理的アプリオリ」ein logisches Aprioriという特異な存在性格を呈する。」137P・・・カントの先験的演繹論、すなわち廣松共同主観性論とリンク
(小さなポイント)「この最後の点、つまり「述定的意味」の論理的アプリオリテートということについては若干の説明を有するかも知れない。/・・・・・・」137-9P
「「述定的意味」は、それ自体を純粋に取出して考察しようとするとき、このように、(イ)非特個的普遍性、(ロ)論理的先験性を有し、経験的実在realitas(それが物理的対象的実在であれ、心理的心象的実在であれ)とは存在性格を異にする。このかぎりで、「述定的意味は」は、哲学者たちが言葉に窮して、「超時空的」とか「非実在的(「イレアール」のルビ)」とか「理念的(「イデアール」のルビ)」とか呼んで、経験的実在から区別する特異な存在性格を呈することを一応――あくまで一応――認めざるをえない。/かくして「意味」は一見“形而上学的存在”であるかのようにみえる。だが、勿論、意味は決して形而上学的実在なのではない。それでは実態は如何?」139-40P
「普遍詞で述定される意味は、非特個的普遍性を有し、超時間的不易性を呈するとはいっても、そのような意味なるものが実体として、経験的実在から超絶してどこかしらに独立自存するというわけではない。述定的意味の非特個的普遍性は、その実態に即してみれば、或る普遍詞、例えば「果物」が、このリンゴ、あのナシ、あのスイカ、等々、等々、諸多の個別者を包摂的に下属Subsumierenせしめるということと相即する。視角を変えて言い換えれば、それは、函数y= ƒ(χ)が変項にさまざまな値を入れうるのと類比的である。ƒ(χ1), ƒ(χ2), …… ƒ(χn)等々が、斉しくƒ(χ)という類に下属する。が、ƒ(χ)なるものがどこかしらに実体的に自存するわけではない。述定的意味そのものの非特個的普遍性というのは、謂うなれば函数的普遍性なのである。また謂うところの超時空的な自己同一性・不易性も、函数がその値を変化せしめつつも、当の函数たるかぎりでの自己同一性・不易性を維持するのと同趣的である。要言すれば、「述定的意味」の特異な存在性格というのは、函数的性格に帰趨する。」140P
「このさい、しかし、意味の普遍性というのは、言語記号(単なる声)の“普遍的な”“可適用性”だと介して能事足れりとするわけにはいかない。ƒ(χ)とg(χ)との区別、そして、所与の対象がƒ(χ)には下属せしめられてもg(χ)には下属せしめられないといった区別、かかる区別性や“適用性”の由って来たるところを考察するとき、われわれは飽くまで、或る述定的意味、たとえば<果物>が、<果物>であって<非果物>ではない所以のものを措定する必要がある。では、その“普遍的・本質的な自己同一者”は何か? 函数的普遍性において表現されるこの或るものを討究するためにも、その前段の作業として、先刻来姑く措いてきた固有名の場合を問題にしておこう。」140-1P
「固有名は、例えば「あれが山田太郎君です」というように、世間で使用されている名前がどの対象を指称するのであるかを対他者的に伝えるために用いられる場面もある。その点では、しかし、実は普遍詞であっても、「これがヒヤシンスです」というように、同様な使われ方をする。このような場合は、狭義の述定ではなく、むしろ言語記号の使い方、つまり、この場面でいえば、当の名辞がいかなる対象を指称するのに使われるのか、――ないしは逆に、所与の対象が当該言語体系においてはいかなる名辞で指称されるのか――、名辞の使い方が伝授されているにすぎない、と言うこともできよう。「これを○○と名づける」というような場合、ここでも「命名」が問題なのであって、述定とは無関係であるように思えるかもしれない。しかしながら、人物aを山田太郎と命名・指称する場合、人物aならざる者は山田太郎とは述べないことが含意される筈であり、眼前の与件が「山田太郎」(と呼ばれる当の人物)であることを前提にしてはじめて、当の言葉使いがなされるのである。それゆえ、単なる命名や指称といえでも、論理的には、当の与件が○○(例えば山田太郎)として“述定的”に認知されること――当の与件が○○以外の者ではないこと――を条件にする。それでは、或る与件が○○をして(○○ならざる者ではないとして)認知されるとはいかなる事態であるのか?」141P
「偖、固有名で指称される与件的対象、例えば山田太郎なる人物は、光線の具合や姿勢などによってその都度相貌が異なるし、幼少時代から青壮老年へと変化していく、それにもかかわらず、同じあの人物として認知されるかぎりで、同じ名前(山田太郎)で呼ばれつづける。山田太郎という名前の意味するのは、この同じ人物の筈である。では、同じ人物(山田太郎氏)とはいかなる存在であるか。物質的存在としての山田氏は、不断に新陳代謝をつづけており、何年か経てば、以前に彼の身体を構成していた原子・分子は、すっかり入れ換わってしまう。それゆえ、物質(物体)を考える場合には、山田氏の同一性は存立しない。山田氏が死亡して、物質的な纏まった存在としては解体しつくしても、依然、故山田太郎氏という言葉の意味は自己同一的に存続することからしても、同一人物山田氏なるものは単なる物質的存在者の謂いではないことが判る。それでは、不断に変易しつつも、自己同一的であるような山田氏、相貌は種々相を呈しつつも、同一の人物と認知される山田氏、この「山田太郎」なるetwasは、いかなる存在であるのか? もはや多言を要せぬであろう通り、この或るものは、普遍詞とは外延の“単一性”という点で異るにしても、その存在性格からいえばやはり一種の函数的存在性をもっており、その都度のさまざまな値をとって定在しうるetwasである。山田太郎と呼ばれる実在は特個的・変易的でありながら、<山田太郎>という所知的意味は、非特個状態的に普遍的であり、超時空的に不易であり、爾後的変化相の経験に先立って当の一定の同一者として措定される点で、一種のアプリオリ性をもっている。普遍詞の表わすのが本質的同一者であるのに対して、固有名の表わすのは実体的同一者であると俗に言われるが、このさいの「本質」も「実体」も存在性格のうえでは同一の「理念的」「非実在的」なetwasとみなされるべき所以となる。」142-3P
「今や、こうして、普遍詞で述定される或るもの、そして、固有名で指称されるさいにも論理的にはやはり述定的に認知される或るもの、この「述定的意味」を積極的に規定しなければならない。そのためには、指示と述定との機能的関連とそこにおける意味構造に眼を向けねばならない。」143P
  3 与件の被述定性
「言語の指示機能と相関的に措定される「指示的意味」なるものは、一般には“名詞で表わされる対象的な或るもの”と私念されている。がしかし、一歩問い返してみると、名詞で表わされる対象的な或るもの”というetwasが実は曲者なのである。このことは前項における立言から既に予期されうるところであるが、敢てこの間の事情を確認するところから始めよう。/@これは福田赳夫だ/A福田赳夫は政治家だ/B政治家は悪人だ/これらの文書において、それぞれが主語たる「これ」「福田赳夫」「政治家」が、各々の文章における指示機能を演じている、と普通に考えられている。が、そこで指示されている“対象”とは、いかなる存在性格の与件であるのか?」143P
「・・・・・・(@ABの説明を受けて)こうして、“主語”が名詞である場合には、それが固有名詞であっても、論理的内容からいえば、当の“主語=名詞”の表わすのは、「述定的意味」なのであって、「指示的意味」を純粋に取出そうと試みるならば、@のタイプに即して然るべきである。/今や、かくして@が検討されねばならない。ここでも、「これ」とか「かれ」とかいう語は、一種の述定的意味を担いうるのであるが、当座の議論として敢て「これ」という語は「与件xは……」というさいの「x」を単に指示するものとして処理することにしよう。そこで、「これは福田赳夫だ」「これは政治家だ」「これは悪人だ」という文章における指示的意味の追求は「これ」という語で指示されている対象=「x」(つまり、「xは福田赳夫だ」「xは政治家だ」「xは悪人だ」という形で指示されて対象=「x」)の確定に懸る所以となる。/偖、「指示的意味」たるこの「x」はいかなる存在者であるのか? 普通には、それはレアールな特個的な個体(ないし特個的性質、または特個的状態)であるものと私念されている。だが、これは抜本的な検討に付されねばならない。」144-5P
「われわれは、例えば、新聞の写真を指さしたり、テレビの画面を指さしたりしながら、「これは福田赳夫だ」「あれは、福田赳夫だ」というような言い方をする。「これ」という語で指示されている「x」は写真そのものではない。それは当の写真が表わしている或る「x」である。さらに言い換えれば、それは「これ」という語と「写真」とが共通に指示している同一の或るもの=「x」にほかならない。――この「x」は、「福田赳夫」という述定的意味がƒ(χ)という函数的普遍者(一般者)であるのに対してƒ(χ1)という特定者なのであろうか? つまり、「このxは福田赳夫だ」というのは、目下の指示対象が、“函数”「福田赳夫」の特定形態であること、ないしは、眼前の個体が「福田赳夫」という“類”に一外延として下属すること、これを言表するという仕方で、ともかく、特個的な定在状態を指しているのであろうか? われわれはƒ(χ)とƒ(χ1)との次元の差異を勿論強調する。だが、ƒ(χ1)がはたして真の特個者であるのか、それともたかだか「種」的な次元のものとみなされざるをえないのか、これが問題である――。さて、問題の「x」は、仮に写真が笑顔であるからといって笑顔の福田とは限らず、写真が特定時刻・特定場所のそれだからといって特定時刻の福田とは限らない。それはなるほど「福田赳夫」一般ではないにしても、文字通りに特個的な状態性における福田というわけでもない。こうして、謂うなれば“類”的な普遍者でこそなけれ、それは“種”的な“普遍者”として、これまた函数的な存在性格を端的に脱するわけではない。」145-6P
「「指示的意味」と「述定的意味」とは、このように考えてくるとき、存在性格のうえでは異質というわけではなくなる。とすれば、両者は、結局のところ同一視さるべきことになるのか? そうではない。指示的意味と述定的意味とは、機能的連関と、構造的契機に即して定位するかぎり、飽くまで劃然と区別される必要がある。以上の行文で指摘してきたのは、「指示的意味」、つまり、言語的に指示される対象はレアールな特個的定在であるという既成観念をそのまま維持するわけにはいかないということ、この件なのである。」146P
「今や積極的に、指示と述定の相関性、さらには「意味」の実態を規定していかねばならない。この作業は、与件を指示・述定するという事態の意味論的分析を要件とする。/与件が現前vorkommenするとき、つまり、与件が当の或るものein Datumとして覚知されるとき、それが覚知的に与えられようと、想像的・記憶的その他、表象的に与えられようと、準反省的に分析してみれば、当の与件は、単なるそのものals solchesとしてではなく、その都度単なるそれ以上の或るものとして意識される。例えば、今聞こえたのはクラクションの音として、今光ったのは稲妻として、というように、単なる所与そのものとしてではなく、それ以上の或るものとして覚知される。なるほど、或る音が聞こえたが何の音だか判らぬとか、このような体験もありうる。だがその場合でも、音が聞こえたのであって、色が見えたり、味がしたりしたのではないこと、何かが見えたたのであって触知されたのではないこと、これが直接的に了解されているかぎりで、与件はまさに或る音として、ないしは、或る形として、覚知されている。この意味において、所与は単なるそのもの以上の或るしかじかのものとして覚知されているということが、汎通的に指摘されうるであろう。」146-7P・・・所与以上の或るもの etwas Mehr
「この間の機制を判り易くするために、所与xが単なるそれ以上の(a)として覚知される、いう標記法をとることにしよう。ここでの(a)は、先に「x」という言い方で論じておいたように、“類”的な普遍ではないまでも、謂うなれば“種”的な普遍であり、――個体と呼ばれているものの諸“射映”をも外延なみに扱ってこのような言い方をしている次第なのだが――一種の函数的な存在性格を呈する。この「函数的な或るもの」というのは、それの普遍性・自己同一的不易性の在り方に即した言い方なのであって、当のEtwasそのものの存在性格を問えば、かの非特個的普遍性・超時間的不易性・論理的先験性をもった特異な存立態である。が、この特異な存立態というのは、決して形而上学的な存在体ではなく、普遍詞の意味が一般にそのようなものとして存立するごときEtwasなのであり、それを典型的に具現しているのが純粋数学の諸形象、「数」とか「図形」とかである。われわれは、これをイデアールな成態ein idealer Gebildeと呼ぶことにしよう。この理念的(「イデアール」のルビ)な形象(「ゲビルデ」のルビ)をより積極的に規定するためにも、もう一つの契機たる所与xの側から反照しなければならない。」147-8P
「ところで、所与たるxなるものは、「対象自体」Gegenstand an sichとされたり、センス・データとされたり、従前まざまな解釈的規定をされてきた代物であるが、われわれの考えでは、このxそれ自身を絶対的・積極的に規定しようとすることがそもそも悖理(「はいり」のルビ)なのであり、それは(a)との反照的な相関性においてしか規定できない。・・・(幽霊の話)・・・このようにして、「xを(a)として覚知する」という構造がどこまでもつきまとうのであって、xを何とかして措定したとたんに、それは(a)としての述定的把握になってしまう。このゆえに、xそのものを端的に確定することは、構造的・原理的に不可能である。それは(a)という述定が、それについておこなわれるところの――そのような述定の与件として指示的に志向されているところの――、所与たる或るものとしか究極的には言えない。そして謂うところのxはそれ自身としては「レアール」な与件とすら言うことはできない。/この間の次第は、実はアリストテレス以来、「第一質料」のプロブレマティックにおいて自覚されていた事例でもある。問題構制に即するかぎり――つまり、そこに含意されている存在論上の諸々の含意を姑く措いて、問題の構造に留目するかぎり――、「xを(a)として覚知する」という事態は、或る質料(x)が特定の形相的規定性((a))をもつという事態に照応するといえよう。」148-9P・・・カント「物自体」
「「私の語る質料とは――とアリストテレスは言う――それ自体では、何か(ti)とも言われず、とれほどの量(poson)とも言われず、他のいかなるものとも言われないものであって、つまりは、存在者を規定するいかなる述語をも欠くものである」。岩田靖夫氏は、この一文を承けて、次のように欠いておられる。「究極の基体(「ト・エスカトン」のルビ)を求めて、存在者から様態(「パテー」のルビ)、作用(「ポイエーマ」のルビ)、能力(「デュナミス」のルビ)などを剥ぎ取り、さらには長さ(「メーコス」のルビ)、幅(「プラトス」のルビ)、深さ(「バトス」のルビ)などの第一性質的なものを剥ぎ取り、そうして述語的規定性(「カテゴリアー」のルビ)をぎ取ってゆくと、あとには何も残らない(「ウーデン・ヒュペメノン」のルビ)ように思われる。そのような基体は、せいぜいこれらの規定性によって規定されていた『あのもの(「エケイノ」のルビ)』としか言われえない。質料とはそのような意味で一種の非存在(ouden,ouk on)なのである」。」149P
「われわれは、こうして、アリストテレスの故知を援用するまでもなく、「指示的意味」そのものを指示的に取出そうとするとき、「第一質料(「プロテー・ヒュレー」のルビ)」としか言えない次第となる。(日常的には或る一定次元、例えばx als(a1)を、宛かも所与そのものであるかのように遇し、このx[als(a1)]を(a2)として述定する、という手続が採られている。このことがアリストテレスにおいても質料・形相の多階的構造として処理される次第なのである)。」149P・・・x[als(a1)]は入れ子型、錯分子構造
「翻って、形相的規定性とも言うべき(a)の存在性格は如何? これは結局のところ、「述定的意味」を問い返す所以となる。そして、それは、それ自身を取出して論じようとするとき、先にみた通り、函数的な普遍性・不易性をもった或るものとして現われるが、これは語の原義的な意味での「述語的規定性(「カテゴリアー」のルビ)」にほかならない。因みに、「カテゴリーとは、公共的世界において語られた存在者の何であるかということであり、この語りによる開示によって存在者が存在者として存立するということなのである」。」150P
「この間の事情については、稍々具体的な場面に定位した敷衍が要求されるかもしれない。――われわれが、例えば「あれは福田赳夫だ」「これは果物だ」と言うとき、前者においては或る自己同一的な存在者=実体(福田赳夫なるもの)を、後者においては或る普遍的な存在者=本質(果物なるもの)を、論理上、措定する所以となるが、与件を同一的な実体的存在者、ないし、普遍的な本質的存在者として認知・述定するというのは、その実態においては如何なる事態であるか? 眼前の人物なり、画像なりを見て、「あれは福田赳夫だ」というとき、それは殆んど直覚的な認知に支えられている。そして「福田赳夫なる者」は現与の風貌のみでなく、青少年時代の彼でも亦退役後の彼でもありうる当の一個人=実体的な一人物の謂いであることが了解されている。が、われわれは果たして、そのような<福田赳夫なる者>――つまり、紅顔の少年でも、白髪の老人でもあり得るが、そのいずれの特定的相貌でもない“自己同一的実体” ――を如実に看取するのであろうか? 「これは果物だ」というとき、<果物なるもの>をフッサールのあの「本質直観」の流儀で看取するのであろうか? 心理学的事実の問題としては、このような特殊格別な“直観”がおこなわれるわけではない。そのような直観像はそもそも成立不可能であろう。それでは、「あれは福田赳夫だ」「これは果物だ」と述定するとき、一体いかなる事が思念されているのか。それは、当の与件が「福田赳夫」「果物」と呼ばれていること(まさに、「公共的世界においてその何として語られていること」!)つまり、当の与件が「福田赳夫」と指称・述定されるあのもの(の射映的一定在)であること、「果物」と指称・述定されるあのもの(の事例的一定在)であることの認知、さしあたっての内実はこれである。勿論、「福田」ないし「果物」という言語音声を与件と連想的に結びつけるということに眼目があるわけではない。仮にそうだとした場合にすら、その連想的結合の当否は、与件が現に「福田」や「果物」であるのかどうかできまるのであって、与件を“言語以前的に”一定の或るものとして認知することが前件になる。実際、時によっては、「あれは? ああ、あの人物だ」という認知がまずおこなわれたのち、「世間で福田とか呼ばれている人物だ」という具合に、二段階の覚知がおこなわれてこともある。(次節に誌す通り、ここにいう“前言語的”分節化がすでに、言語活動の場によって影響され、言語被拘束的なのであるが、これは別次元の事柄である)。心理的には二段階の意識を欠く場合にも、当の与件を一つの与件として、他のものから区別的に意識することが先件である以上、与件の劃定と或るものとしての措定が前言語的におこなわれると言わねばなるまい。だが、「ああ、あの人物だ」「ああ、ああいう味のするものだ」という認知と、「福田だ」「果物だ」という述定とは位階が異なる。体験的に意識される“あの人物”“あのような味のもの”というのは非常に狭い。前者はおそらく赤ん坊時代の福田のごときは体験的に含まないであろうし、後者はいうまでもなく果物の外延の圧倒的大部分を含まない。「福田だ」「果物だ」という述定は、より広袤(「こうぼう」のルビ)が大きい。そして、この述定にさいして鍵鑰(「けんやく」のルビ)をなすのは「福田」「果物」と“世間で”“人々が”呼ぶという信憑である。このさい、「福田」とか「果物」とか呼ばれる所以の対象的特質が明晰判明に表象されるのか? 否であろう。嬰児期の福田、少年期の福田、老年期の福田を通じてまさにそれを同一人物と認定させるだけの共通の特質なるものを、比較校合という手続で取出すことは恐らく不可能な筈である(福田赳夫伝の第二頁に出てくる赤ん坊を「これは福田だ」と認知するのは、老福田と類似の面影を看取するからではない。類似性を根拠にして福田と呼ぶのであれば、――嬰児福田と老人福田との面影上の類似度に比べて、はるかに――類似の度合が強い人物は幾らでも居るのであるから、それらの人物をことごとく福田と呼ぶべきことになってしまおう)。私の直接的な認知に即するかぎり、およそ類似していなくとも、世人が――一定の根拠をもって――赤ん坊の姿で写っている人物と老人の姿で写っている人物とを同一の「福田赳夫」と呼ぶことに追随して、これらおよそ別物としか思えないものを、私も同じ「福田」と呼ぶだけの話である。「果物だ」という認知・述定の例は一層事態が判明であろう。私はメロンを果物と呼び、ウリやトマトを(果物ではない)野菜と呼ぶとき、後者が果物ではないことの積極的な特質を見出せない。私が知っているのは、世人がそう呼ぶか呼ばないかであり、そして、その世人の言語使用(言語ゲームのルール)に私も追随するだけである。世人に随って「果物」という言葉で呼ぶことと<果物>という述定的意味性において述定することは、さしあたり同値である(範式化していえばxを「a」という言語と呼ぶことと、xを(a)[言語「a」の述定的意味]として述定することとの同値性) ――。このように議論を進めてくるかぎり、「a」という言葉の述定的意味(a)とは、所与の与件を世人が「a」という言葉で呼ぶという事、単にそれだけのことになってしまうかのように思える。果たして、単にそれだけのことにすぎないのか?」150-3P
「与件を世人が「b」「c」「d」ならざるまさに「a」という言葉で呼ぶことの覚知、視角を変えて言い換えれば、与件を「a」「b」「c」「d」……のいずれで呼ぶべきか(世人がどう呼んでいるか)の選定、この意識家庭においては、たとえ明示的ではないまでも、与件の或る特質(まさにa b c dのいずれであるかが岐れる所以の特質)が認知されている筈ではないのか? そして、その客観的な特質ないしそれを把握した主観側の或るもの(心象・作用etc.)こそが「意味」の本諦ではないのか? このように問い返すことによって、我々は議論の振出しに戻る。だが、われわれは、同じ途を辿り直すには及ばない。今や端的に問い直さるべきことは、世人が与件を「a」と呼ぶ、とは――そしてそれに私が追随するとは――いかなる事態の謂いであるか、という点である。この点を討究し、「述定的意味」(a)を積極的に規定するためには、今や、認識としての認識の場面を射程に収めつつ、そこにおける言語の媒介的・被媒介的な位置と機能に眼を向けるべき段取りである。」153P・・・論件先取して書けば、共同主観的客観的妥当性の問題として弁証法的に展開されていくこと。


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2024年01月16日

西尾正道『被曝インフォデミック トリチウム、内部被曝−ICRPによるエセ科学の拡散』

たわしの読書メモ・・ブログ649
・西尾正道『被曝インフォデミック トリチウム、内部被曝−ICRPによるエセ科学の拡散』寿郎社2021
 反原発関係で動いていて、参加した集会でまかれていたビラで紹介されていた本です。
岸田政権は、汚染水を「処理水」と言い換えることをマスコミに強要しつつ(マスコミの忖度と合わせて)、放出することに反対するひと・国に「非科学的」というレッテルを貼り、地元との合意なしに行わないとの約束を反故にして汚染水の放出を強行してきています。その岸田政権や御用学者・御用マスコミがいう「科学的」ということは、この本を読んでいくと、まさに真逆的なこととしてとらえられます。
著者は放射線治療の臨床医という放射線を扱って来た立場で、もっと詳しく云えば、内部被曝ということを利用してがんなどの放射線治療をしてきた立場で、放射線被曝の影響力を押さえ、そこから内部被曝の危険性を指摘しています。これに照応して、原爆を落としたアメリカが内部被曝の影響・危険性を隠蔽し、それに追従する日本政府と一緒になって、その危険性の流布を抑え込んできた歴史があります。そういう中で、日本政府や電力会社が、とても「科学的」とは言えない原発推進政策を進め、フクシマ原発震災を起こしました。それで、脱原発に舵を切った国も出ているのに、事故を起こした当事国の日本は、原発の再稼働を進めています。事故後、「原子力緊急事態宣言」を出し、放射線の規制の数値をあげて緩和し、それを解除していないのに、原発の再稼働を進める一方、補償を打ち切り、帰還政策を進めるという被曝・棄民政策を進めるというとんでもないことをしている中で、汚染水放出の開始です。しかも、他に方法があるとの指摘も無視していています。それは実は核燃サイクルという幻想を捨てきれず、六ヶ所村再処理工場でのトリチウム水多量の放出という策動とも結びついているとの指摘も出ています。
反原発の立場で集会に参加している中で、いろんなことが語られていました。原発周辺で、白血病や癌や健康被害(後述)などなど起きてきているとか、政府サイドから出てくる「アルプスという装置でほとんどの核種は取り除けて、トリチウムだけは取り除けないけど、トリチウムは放射線線量が低いから希釈して放出すれば安全だ」という話で、取り除けていない核種があるいうことをきちんと説明していないし、それは基準値以下だから大丈夫だと言っているのです。さらに、かつて生物濃縮は起きないと言われていたことに関しても、生物濃縮ということは起きるという話が出ています。更に、そもそも、放射線治療の臨床医の立場から、低線量被曝・内部被曝の恐ろしさを指摘してくれています。また、トリチウムは体内に入っても低線量で被曝以前に体内から放出されるということに対して、トリチウムは有機結合物として体内に残り、低線量被曝・内部被曝の危険性があり、この低線量被曝・内部被曝ということを、放射線がDNA変異をもたらすということも含めて、推進派は押さえていないという専門家の立場からこの本の中で批判しています。要するに、放射線被曝ということをとらえきれない、隠蔽しようとしている、政府と原子力ムラのひとたちの様々な形での新たな安全神話作りを批判しているのです。
また、外部全身性被曝を測る単位のシーベルトで放射線被害を語り、トリチウムなどの低線量被曝・内部被曝を測るベクレルを使わない事などのごまかしや、放射線量を測る機械を数値が低く出るメーカーのものを使うとか、測る単位を変えるなどして、被害を少なく見せるなどなど様々な策を弄しての、ごまかしの政治の手法をフクシマ原発事故処理の中でも使っていることをこの本の中で書いてくれています。
わたしの被爆二世という立場から更にコメントしておくと、「黒い雨」訴訟で内部被曝の被害が認められる動きの中で、政府や推進派のひとたちが脱け落としている、脱け落とそうとしている、この低線量被曝・内部被曝の被害の問題をきちんととらえ返す必要があるのだということを付け加えておきたいと念います。
科学を語る者は「予防原則」に則るべきであり、危険だという主張がある時には、それにきちんと反論することなしには、そのことをネグレクトしたまま行動してはならない、という原則が立てられることなのですが、まさに真逆のことを推進派はしてきました。
政府や原発推進者たちが科学的だったら、津波で電源消失が起きるという指摘しているひとの意見を受けとめたでしょうー そもそも「科学的」な思考があれば、地震・津波・火山の噴火の起きる国に原発など作らないでしょうー 更に言えば、そもそも大量殺人兵器の原爆開発の中で作られた核技術の危険性を押さえ、スリーマイルやチェルノブイリの事故が起きたときに二度あることは三度あるとして、撤退の方向性に踏み入ったでしょうー フクシマ原発事故を経て、その時点ですべての原発の廃炉へ突き進んだでしょうー フクシマのデブリの取り出しの見通しもつかない情況で、汚染水の海上放出をその危険性を指摘するひとがいるのに、対話もなしに進めようという、しかも、情報の隠蔽や改竄までなしてきた政府や関係者の「科学的」とか「責任をもって」とか、もはや、誰も信じない言葉を弄してやってくることをどうして許せるのでしょうー
フクシマ原発事故の後に、テレビで原発推進側のひとが、「核実験などで放射線物質がばらまかれ、もう十分汚染されている」というとんでもない発言をしていることがありました。他の国もトリチウムを流しているという、「何々君もやっていますー」みたいな、まだ教育をちゃんと受けていない小学生の駄々っ子が言うようことはちゃんと注意することで、そんなことを「大の大人」がやる恥ずかしさを感じないのでしょうか? しかも、今まで、原発事故のデブリに当たった汚染水など流したことはスリーマイルでも、チェルノブイリでもなかったのです。
この汚染水排出は、何も汚染されていないところでの放出ではないのです。「もう、すでになされている」だとか「まだ大丈夫」とか言って、続けることの恐ろしさを感じないのでしょうか? 今日、地球温暖化ということで、SDGsの推進とか言っている政府が、汚染水の排出がどうしてできるのか、そもそも原発の維持・再稼働ができるのか、どうしても理解出来ないのです。
そういうところで、いろいろ語られていたことの更に深めた論考や、資料的裏付けを、この本の中で押さえることができました。膨大な図や表が付けられていて、文献なども示してくれて、分かりやすい資料として今後色んな形で使っていけるのではないかと、何度もこの本に立ち返りたい、とても貴重な資料を提供してくれています。一例を挙げれば、前述した「(後述)」すると書いたことを受けているのですが、「資料62 ドイツの原子力発電所周辺のがんと白血病-KiKK調査」「資料63玄海原発と白血病の関連を検討した結果」116P「資料64 原発の通常運転による住民に健康被害」(これには世界各地の原発周辺と泊原発、六ヶ所再処理施設、敦賀原発、玄海原発周辺のがんと悪性リンパ腫などの発症が多くなっている話が記載されています)118P。
なお、本のタイトルになっている「インフォデミック」というのは「WHOによる造語で「偽情報の拡散」を意味する。」4Pとあります。
細かい切り抜きメモを残すよりもこの本を読んでもらいたいと思いますので、アウトラインを押さえてもらうために、目次をあげておきます。
目次
はじめに
第1章 棄民政策を続ける原子力ムラの事故後の対応
    数値で見る棄民政策
    原子力ムラの犯罪
第2章 放射線治療医として
    はじめに
    放射線の基礎知識
    放射線治療の進歩
    内部被曝を利用した治療の実例
第3章 閾値とICRPの数値の欺瞞性
   はじめに
   ICRPとはどんな組織か
   ICRPのエセ科学のいくつかのポイント
   最新の研究成果を取り入れないICRP
   人体影響の評価についてのICRPの問題点
第4章 原発事故による放射線被曝を考える
   低線量被曝による健康被害
   チェルノブイリ事故との比較で考える
   国際機関の動向(ICRPとECRP)
   原発作業員と福島県民の被曝線量の問題
   小児甲状腺がんの問題
第5章 隠蔽され続ける内部被曝の恐ろしさ
   はじめに
   福島第一原発事故による放射線微粒子の拡散
   内部被曝のエネルギー分布
   食品の汚染の問題
   内部被曝に関する最近の知見
第6章 長寿命放射性元素体内取り込み症候群について
    日本人死因の移り変わり
    「長寿命放射性元素体内取り込み症候群」とは何か
第7章 トリチウムの健康被害について
    はじめに
   トリチウム【tritium】(記号:T=3H) とは何か
   自然界でのトリチウムの移行過程と濃縮
   トリチウムの人体影響
   原発稼働による周辺住民の健康被害の報告
   トリチウムは世界中で垂れ流し
   最後に
あとがき
西尾正道著作一覧

さて、今回はいつもの切り抜きメモを残さず、この本を是非読んで欲しい本として勧めていくのですが、それに当たって、いくつか疑問点を指摘せざるを得ません。
まず、第一は、小児甲状腺がんの問題です。実は、『科学』という雑誌で、この小児甲状腺がんを取り上げていますが、この本が出された後です。で、その雑誌の特集との対話を取り入れて欲しいということです。わたしも、「たわしの読書メモ・・ブログ594/・『科学 第92巻第4号(通1076)特集 原発事故と小児甲状腺がん』岩波書店2022」「反障害通信」121号http://www.taica.info/adsnews-121.pdf掲載)でコメントしています。何のことか分からなくなるので、簡単にコメントしておきます。著者は甲状腺がんは進行が遅く、また生命のさしせまる危険がないから発見されることが少ないのに、検査をしたからがんが発見されたというような主張をしています。なぜか、ここだけは原発推進派の学者の主張と同じになっています。これは、そもそも臨床医が経過観察だけでなく手術までしていることがあり、医療関係者の間では医療過誤の指摘は控えるという風潮があるようなので、あいまいにしているのかなとわたしは推測しているのですが、要するに、必要もない手術をしたというような医療過誤の話になっています。ですが、どこまで必要か必要でないかという話は医療従事者同士で決着をつけてもらうしかないのですが、そもそも著者も甲状腺がんが出てくるということを否定してはいないのです。これに関しては、わたしが前出の読書メモでも書いたのですが、幅広い意味での「観測者の問題」(註1)になっていると感じています。著者は旧いパラダイムの「因果論」という言葉をつかっていて101P、「・・・・・・経口摂取か吸入摂取かによる取り込み経路の違いや、生物学的半減期や年齢などの因子も加味した数値モデルで計算し、いかにも科学的な体裁を凝らしてはいる。しかし計算も複雑となり一般人が検証するために計算しようとしても計算することはできない。現在はコンピューターしか計算できない状態なのである。専門家とか有識者も実際に内部被曝の計算をした人はいないであろう。」51Pとか書いていていることを押さえると、著者だけのことではないのですが、わたしもそもそもアナログ人間なのですが、科学的分析手法が変換(パラダイム転換)していることの中での混乱が起きているのではとも思っています。それは地球温暖化問題でコンピューターを使った数値モデルや、コロナワクチンの副反応で「因果論的に判定不能」と日本の厚生労働省がしていることを、アメリカではコンピューターを使った副反応の変数探しをしていることなどでも出ていて、きちんと転換しきることが必要になってきています。今や、「因果論」という言葉は、保障・補償をしないためのごまかしの手法になってきているのです。そもそも確率的に増えているという事実を否定しないのであれば、それは新たな確率函数の方程式を出していくことなのだと思います。現実に、自分が統計学的手法やコンピューターを使いこなせるかということがあっても、使いこなせるひとを仲間作りとして増やしていくことだと想っています。
もうひとつは、障害問題を軸にして差別を問題にしてきた立場からの提起です
いろんな活動があって、色んな立場のひとがいて、運動の多様性というところが問題になっているのに、そして色んな差別の問題が対象化されてきているのに、なぜか、障害問題が対象化されてきていません。で、わたしも「吃音者」と規定される「障害者」当事者で、障害差別を軸に差別の問題を語り運動を担ってきたのですが、ちゃんと障害問題がみんなに届く運動を進め得ていません。で、著者のようなリベラルなひとからも、障害差別という観点で、「おや?」と思ってしまう言葉がでています。何のことか分からなくなるので、あえて書き置きますが、「放痴国家」3Pということば、この「痴」は「知的障害者」への差別語と指摘できることです。また、かつてから、公害の被害を語る中で、「障害の否定性」で悲惨さを強調すること自体が「障害者」の存在の否定につながるという批判を「障害者」サイドからしてきました。フクシマ原発事故の際にも放射線被害で「障害児が生まれる」という話が出てきていて、そのことで「障害者」が自らの存在が否定されるということを感じ、そのことへの批判・違和を表明していました。そのような話がこの本の中でもいくつか出てきます。
現実に変異やそれが被害として出ていることで、それは指摘しなければいけないのですが、それが「障害者」の存在を否定するようなことに繋がることには遮断して欲しいと思うのです。以前から、いわゆる「公害問題」で、具体的に書けば「水俣病」の「胎児性障害者」の問題で、反公害闘争と「障害者運動」の衝突や軋轢ということが語られていました(註2)。実は、これは「水俣病」の「障害者」から、「障害者運動」を担うひとが出てきて、医学モデル的なところでの「障害」ではなくて、自らの存在を否定されるような言説を批判する「障害の社会モデル」や関係モデル的突き出しもなされてきています。
わたしはかつて、自然の中でも変位が起きていることで、それは種としての自然的な確率的なことで起きることとして、それを「異常」としてとらえるのはおかしいとして、一方で人為的な化学物質や放射線などで起こされる加害は、ひとに対する強制として批判されることだとしていたのですが、今日、そもそも自然という概念自体が崩壊しつつあるのです。
原子力の研究者で、反核運動の市民運動家あった高木仁三郎さんが、核実験などで汚染された中で、自然界に核汚染されていない空間などもはやほとんど存在し得なくなったというようなことを書いていました。
そのような事も含んで、自然と人為の境目があいまいになってきている中で、どちらにしても、ひとが生きていくことを否定的にとらえない、少なくともそのこと自体が差別に繋がらない情況をつくっていかなければならないと思うのです。
そのことは、環境破壊やバイオテクノロジーの開発が進んで行く中で、変異ということが起きていること、変異ということが「異常」ということではなくて、「常態」となっていく可能性も含んで、そもそもヒトという種自体の絶滅の可能性も含んでいるという中で、そのことをどうしていくのかという問題と共に、そのことが差別に繋がらない関係をどうつくっていくのかを考えなければならないと思うのです。
(註)
1 そもそも「観測者の問題」とは量子力学における「不確定性の原理」と結びつく概念なのようなのですが、わたしはこの「観測者の問題」を観測者の立場性の問題で、観測者の行為自体によって、「観測」――分析ということが変わってしまうという、認識論一般に援用し得ることだと考えて使おうとしています。端的な例は、世論調査の質問項目自体が世論操作をしてしまうことにも現れています。
2 このような衝突は、「障害者運動」とフェミニズムの対立としても指摘されていたことです。このことを自然性のように(物象化して)とらえるひともいます。具体的に書いていきます。フェミニズムの「産む・産まないは女(であるわたし)が決める」というスローガンを巡って、親の、特に子育てが家族に一方的に押し付けられたしかも性別役割分業の中で母親の「障害児殺し」が起きる中で、「母よ!殺すな」という突き出しがなされていました。そもそも、「女――わたし」というというとき、「わたしとは何かと」いう問題があり、わたしが社会が近代的個我の論理と競争原理というところで成り立っていて、優生思想にとらわれていく中で起きていることとして押さえるなら、またそれが遺伝子操作や人口受精の技術などバイオテクノロジーが進んで行くなかで、デザイン・ベービーなどの論説が起きてくる中で、それが将来の人間像の中で、自分の遺伝子を残せるひと、子どもを自分の体で産めるひと、子どもを産むことを禁止されるひとという優生思想による「分業」が起きるおそろしい社会になっていくことになります。そういうところで、反優生思想でフェミニズムと「障害者運動」の連帯ということの途が示されてきているのです。



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廣松渉『もの・こと・ことば』(3)

たわしの読書メモ・・ブログ648[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(3)
『もの・こと・ことば』の3回目です。ここから第U部の「こと・ことば」に入ります。言語論から「こと」の論攷に入ります。最初に哲学的な押さえとしてのこの章です。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――[646]
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――[647]
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性              今回[648]
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
人名索引

 さて早速、切り抜きメモに入ります。
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性
(この章の問題設定)「哲学は旧くから「言語」の問題性に留目してきた。古代哲学においてもすでに、今日でも依然高く評価されているプラトンの『クラテュロス』にみられるがごとき省察が存在したほどである。しかし、本稿では、近代哲学における言語の定位をめぐる象面に議論を限定することにしょう。」83P
    一
「近代哲学における言語論は「言葉は直接的には人々の観念の記号であり、人々が自分の想いを伝達し、互いに自分自身の心中の思想・想像を表現する道具である」というジョン・ロックの提題によって象徴的に表明されている。近代的文法論の嚆矢となった『ポール・ロワイヤル文法』は「人間は自分の精神内で生起することがらを表わすために記号を必要としている」と誌し、「語は、明瞭に区別され分節されて、人間が自分の思考を表明するための記号とした音である」と定義する。」83P
「心中の観念の記号という言語観、これは何の変哲もないものに看ぜられるかもしれない。――慥(「たし」のルビ)かに、近代においては、言語を一種霊妙な呪物的存在体とみなす言霊(「ことだま」のルビ)観は適用しえない。――だが、今世紀になってさえ、ソシュールは態々(「わざわざ」のルビ)「言語記号は事物と呼名とを結びつけるのではなく、概念と聴覚映像とを結びつけるのである」と述べ、オグデンとリチャーヅはあの有名な“底辺なき三角形”を挙示している。このようなエピソードを引合いに出すまでもなく、人々はとかく「言語」を以って直接的に「事物の記号」であるかのように見做しがちである。」84P
「「言語」を以って「心中の観念」の記号だと了解する構えは、慥かに、近代になって突如として成立したものではない。中世における「普遍論争」の過程でそれが準備されていた。とはいえ、「言語記号−心的観念−物的対象」という構図、すなわち「言語とは直接的には心中の観念の記号であり、それはたかだか間接的にのみ外界の対象を表現する」という了解の構えが確立したのは、近代哲学の地平においてである。」84P
「精神と物体との二元論的な分離、心的内容と物的対象との分断を敢行した近代哲学の地平において甫めて「言語」と「事物」との直接的な関繋が切断されるに及んだ。/爰においては、言語記号が関繋する心的内容が、もはや外的対象と一義的には照応しないが故に、言語の表現性について認識論上の疑義が生じる所以となる。「言語記号−心的観念−外的対象」の一義的な連鎖が成立するのは、特定種類の心的観念の場合に限られる。その特定種の観念というには、外的対象と模写的な対応性を有するごとき格別な観念である。それ以外の普通の観念と関繋するたぐいの言語記号は対象的事実を表現するわけではない。しかるに、人々は通常、言語は対象的事物を表現するものと思いがちであり、そのため、実際には単なる観念(対象との対応性をもたない観念)しか表現していない場合にも人々はとかくそれを対象的事実の表現であるかのように思い、錯誤に陥る。」84-5P
「そこで問題は、対象的事実を間接的に表現するたぐいの言語、すなわち、嚮に誌した格別な種類の観念と関繋するたぐいの言語を選別し確定することに懸ってくる。では、外的な対象と照応性をもつ格別な観念とは如何なるものであるか? 近代哲学の二流派たる「経験論」と「合理論」とでは別々の答え方をする。/経験論の立場では、そのような特段の観念として煎じ詰めていえば、感覚的経験によって与えられる個別的な単純観念が挙示される。――この立場が観念論や現相論と交錯するため、厳密には、外的対象との照合性を云々することは許されない仕儀となるが、当面のところ右の言い方に止めておこう――。/合理論の立場では、知性に生得的な観念、ないしは、知性的思惟によって産出される観念、わけても、要素的な単純観念が特段のものとして認証される。」85P
「近代の要素主義的な発想に応ずるかたちで、経験論も合理論も、要素的な単純観念を重要視する点では共通である。但し、経験論においては単純な感覚的印象への還元を事とするのに対して、合理論においては単純な知性的観念からの論理必然的な複合化を志向する。しかも、合理論の場合、学理的展開のモデルとして数学が表象され、学理的言語として数学と類比的なタイプのものが構想される。/数学がモデルとされるというさい、単純な観念を要素としつつ、論理的規則に則って複合していくというかぎりでは、ユークリッド幾何学もその範となる。がしかし、学理的理想言語(すなわち、もっぱらかの格別な観念と関繋する記号体系)に関しては、代数的記号と演算の体系を範例としつつ「普遍言語」(デカルト)や「結合術」(ライプニッツ)が構想されたのであった。少数の数字や記号を用いて算術の全体系が構築されるのと類比的に、謂わば観念の“素因数”にあたる単純観念とその関係を表わす記号を用い、それらを普遍妥当的な規則(論理的規則)で結合するという仕方で、人間の学理的思考内容を体系的に表現しようというわけである。」86P
「近代哲学の地平においては、こうして、従前の有機体主義的・全体論的な発想に代って要素主義的・機械論的な発想が主流となったことと相俟ち、また、従前は悟性論理として一段低くみられていた幾何学的論理や“商人算術”として貶められていた代数的記号術が学知の典範と認められるようになったこととも相即的に、しかし、原基的には「言語」が「事物」との直接的な関繋を切断されて「観念」の記号として定位されたことが由因となって、一種の理想言語が考案されるようになった。記号化された論理の体系というよりも、それによって万象が体系的・全面的に表現されるかぎりでは、まさに「普遍学」scientia universalis と呼ばるべき記号体系の考案は、勿論、久しく単なる志向たるに留まらざるを得なかった。だが、軈てはこの考案が意想外な展開を見る運びとなる。」86-7P
    二
(この節の問題設定)「われわれは今茲で歴史的展開を跡づけようと図るわけではない。だが、議論の順路として姑く若干の歴史的事実に意を留めることにしよう。」87P
「近代哲学の言語観においては、記号はさしあたり「裡なる観念」を表現するものと了解されるとはいえ、謂う所の観念は実体や属性という相で表象されるものとは限らない。」87P
「『ポール・ロワイヤル文法』は、いちはやく「思考の形態や様式」を表わすたぐいの語、つまり、動詞・接続詞・間投詞を「思考の対象」を表わすたぐいの語と区別している。哲学者たちは、鈴木朖の用語でいえば「詞」と「辞」との区別に早くから気付いていた。ロックは『人間知性論』のなかで「観念の名前である言葉以外に、心が観念もしくは命題を相互に結合することを表意するために用いられるかなりたくさんのことばがある」ことを認め「無変化詞は心の或るはたらきまたはほのめかしの印である」と書いている。」87P
「記号の表現する所記が、必ずしも“心像”とは限らず、「心のはたらき」の場合もあることが一たん認められると、赴くところ所記は総じて「心のはたらき」であるという理説が登場する。というのは、記号の関繋する「裡なる観念」と称されるところのものは、一般には明瞭判明な“像”的でなく、複合観念の具象的な在り方は「結合するはたらき」に俟つものであり、素材的心像と呼ばれるものも既に「心のはたらき」の介在によって成立したものと考えられるに及ぶからである。純粋な素材は、もし在るとしても、それ自身は心像以前の刺激的な与件とみなされ得る。主観的観念論ともなれば、観念とはもっぱら精神的作用の所産にすぎないとみなす所以となる。合理論的立場においても、「生得的に心に具っている心像」を認めない理説にあっては、知性的観念の先天性というのはもっぱら心のはたらきの先験性に帰趨する。という次第で、言語的記号が直截的に表現する“心的観念”なるものは、精確には、“心的作用”であり、謂う所の“観念”とは当の心的作用の所産にすぎないという把え直しがおこなわれることになる。」87-8P
「音声記号の所記を心的作用と見做す理説は、必ずしもそのまま観念論に帰着するわけではなく、外的対象の実在性を認め、且つ、その実在的対象による刺戟を認める余地を残すが、しかし、ともあれ、此の了解のもとでは、言語的記号が直接的に関繋するのは創造的・自発的な精神作用とされる。フンボルトに到って定式化された表現でいえば「言語はエルゴン(ergon作品)でなくしてエネルゲイア(energeia運動)である」ということになる。」88P
「民族精神が「分有」されるという過程的事態、それは、真実にはむしろ共通の当該言語が各成員に習得されること、そして各成員が当該の言語的枠組の埓内で精神的活動を営むようになること。この事実に応じるものではないのか。そうだとすれば、言語は「精神的活動を外的に表現する単なる道具」ではなく、精神の作らき方を“内的”に規制するものと了解されねばならない。精神活動の在り方は「内部的言語形式」によって枠付けられる。/人間の精神的諸活動に関するこの「言語相対主義」的な了解は、その赴く所、言語なしには精神のアクチュアルな活動は存在しえないという見解、すなわち、言語活動と思考活動とは不可分な一体をなすという見解へと導く。――精神活動、就中、認識が「言語被拘束的sprache-gebunden」であるという洞見は、言語学の了解で後に「ガイガーのコペルニクス的転回」と称され、また「サピア・ウォーフ説」のかたちで人口に膾炙するに及ぶが、哲学の分野では、かなりの以前からそのことが自覚されていた。わけても、ドイツ・ロマン主義を経たヘーゲル学派では、当の洞察が「人間存在論」や「意識論」の場面で積極的に展開されるに到っており、マルクスおよびエンゲルスの如きは彼らの思想形成過程にいちはやく次のように誌していたほどである。/(小さなポイント)「言語の成立した時点、それがとりもなおさず意識の成立した時点でもある。言語は他人にとって[対他者的に]現実に存在し、故にまた私にとって[対自己的]にもはじめて現実的に存在するところの実践的な意識である」。「言語は意識の現実態(Wirklichkeit=エネルゲイア・エンテレケイア)云々。――因みに、彼らが「精神はその起源からしても内容からしても社会的存在態である」こと、「意識は本源的に社会的な所産である」ことを述べ、「感覚、感情、幻想のごときにいたるまで」社会化された形成態である旨を説いて、イデオロギー論や上部構造論を展開しえたのは、如上の“言語・意識の現実態”観に基いてのことであった」89-90P
「閑話は休題として、哲学の世界では、割合に早くから、言語を単なる道具的な記号とみなす短見を卻け、言語を精神活動にとって本質的な構造的契機を成すものとして把握する域に達していたが、しかし、重大な未決問題を残したままであった。/未決問題と茲に謂うのは、「言語というものがそもそも如何にして存在するのか?」という根本問題である。これは言語に関する発生論的起源論ではなく、「如何にして可能であるか?」という謂わば「権利問題quid juris」である。この問題への解答は、言語の「起源論」にも光を投じ、言語の「本質論」とも反照せずにはおくまい。が、さしあたっては、それは「言語による認識の拘束性」が如何にして成立するのか、この間の機制を説明し得るものでなければならない。/哲学は十九世紀の後半においても、この問題を必ずしも戦略的な拠点に据えたわけではない。がしかし、認識の心理的・論理的な内的構造の研究が一方で進捗し、他方では「記号と意味」の関係が漸次把え返されるようになったことが、来たるべき飛躍を準備する所以となった。」90-1P
    三
(この節の問題設定)「今世紀、わけても第一次世界大戦以後の時期を迎えると、多くの哲学者たちが、更めて「言語」の問題性と正面から取組むようになった。そこには、言語学の成果からのインパクトも在ったには違いはないが、従前の認識論的アプローチの限界性が内在的に自覚されたという事実も介在しているように見受けられる。/爰では歴史的回顧を企てる趣意も、況んや諸学派の紹介を試みる心算もないのだが、今日における「哲学にとっての言語の問題性」を追認するよすがとしても、学史上の脈絡の一端をまずは摘録しておきたいと念う。」91P
「前世紀の末葉から今世紀の初頭にかけて、世界各国の哲学界に「物心分離 以前」「主客二分 以前」のフェノメナリスティックな場面から再出発しようという動きが軌を一にして登場した。この流れに棹差した哲学者たちは、謂う所の「直接的与件」は言語では表現できないという廉で、概しては言語の表現機能にペシミスティックであったが、それでも言語と「意味」との関係について“旧くて新しい”問題を提起することになった。なかでも、エルンスト・マッハは、物心分離以前の世界を形成する「要素」(普通には「感覚」と呼ばれているもの)を一義的に表現する記号体系=言語体系を構想し、この“センスデータ・ランゲージ”ともいうべきもので世界を記述することを考えた。彼の謂う「世界要素」は事柄としてはかつて経験論が云々した「単純観念」に近いものであり、事実、彼の哲学的立場は一種の経験論的実証主義の範域に納まるものである。しかし、要素的な単純観念を表わす記号と、それらの結合関係を表わす演算記号とかで、数学に倣ったかたちの理想的言語体系を築こうという理念は、かつて合理論が構築したところに近い。こうして、今や経験論的な地盤のうえに立った一種の“普遍的記号学”の構想が登場するに至ったのである。/この“理想言語的体系”では、対象的「要素」および要素的「関係」を謂わば「写像的」に映すという“受動的”なものと了解されており、そこでの言語観は「認識の言語被拘束性」の自覚以前的と評せざるを得ない。しかし、十九世紀における数学自身の展開、それの自然諸科学への応用の赫々(「かくかく」のルビ)たる成果という事実が一方にあり、数学そのものの基礎論的・論理学的省慮と形式論理学の記号化という動向もあり、往時の普遍的記号学の限定的新装版が抬頭したのも謂われなしとしない。」91-2P
「窮極的な理想言語には程遠いにしても、とりあえず数学に準ずる仕方で整序された記号論的言語体系は、数学と同様に、世界の本質的構造を写像的に映現できるのではないか。この論理代数は、その諸項に、対象と一義的に照応するよう意味の確定された実詞を代入するとき、世界の実相を映現するのではないか。論者たちはそのように考えて、事を進めようとした。項に立つ対象そのものの内実は実証的に研究するのほかない。これは諸科学に委ねられる。では、哲学の仕事として何が残るか? 論者たちが言うには、旧来の理論わけても哲学においては、その使用する言語が多義的であり、あまつさえ論理的に曖昧であるため、似而非の問題と似而非の解答に充ちており、そのため混乱に陥っている。この混乱は、そこで用いられている通常の言語表現を理想言語的な記号理論に即して分析し、記号論理的に定式化し直してみれば除去することができる。という次第で、論者たちは、哲学の仕事は「もっぱら言語分析にある」と主張するに及んだ。」92-3P
「こうして、「哲学」=「言語分析」と自称する学派が成立し、しかもかなりの勢力を張ったのである。だが、いかに単細胞でも、所詮は擬似的でしかない。“理想”言語で以っては、アクチュアルな現実を把え切れないことに気付く。しかし、学派的伝統の惰性には恐るべきものがあって、言語分析という手法はなかなか捨て難い。そこで今度は、「日常言語」の分析に情熱を傾けるという次序になる。論者たちは事象そのものの研究に向かう代りに、まずは当の事象がどのように「言語表現」されているかに目を向け、その言語表現が世間でどのように「使用」されているかを分析し、それで一段落としてしまいがちである。――この言い方では戯画化の譏りを免れないことは自覚している所存であるが、しかしともあれ、哲学の仕事を言語的分析に局限しかねまじき「言語分析学派」が、近年では英米から浸潤して、独仏の哲学界にも瀰漫(びまん)しつつある。」93P
「言語分析派の内部からも、しかし、当然、「言語」という与件そのものへの反省的省察が興り、固有の言語“哲学”らしきものがそれなりに形成されてきたし、言語学の成果への“鋭敏”な反応もみられるようになってきている。」93P
「哲学は、昨今では、このような迂路を介したものも含めて、言語そのものに関する認識論的かつ存在論的な研究をあらためて対自的な課題としている次第である。」93-4P
    四
(この節の問題設定)「「言語が言語たる所以のものは何か?」「言語なるものが如何にして可能であるのか?」「言語は人間の精神、ひいては自然的・社会的世界とのあいだにどのような媒介的・被媒介的な関係に立っているか?」――この種の“哲学的”な問題に具体的・実質的に答えていく作業は、前世紀まではまだ主として心理学的・発生論的な準位にとどまっていた。諸々の言語の比較研究や民俗心理学研究が蓄積されたとはいえ、記号と意味との「能記−所記」関係の特質すら把握されるに至っていなかった。/言語の表現性を支える「能記−所記」関係について、今世紀を迎えてさえ、人々は「連合説」対「統覚説」の対立地平を容易には超えることが出来なかった。そして、「条件反射理論」が出現すると、多くの論者たちが此説に安住してしまった。それというのも、所記=意味が、「心的映像」としてであれ「心的作用」としてであれ「身的反応」としてであれ、所詮はレアールな(心的形象ないし身体的行動の)次元でしか考えられていなかった所為(「せい」のルビ)である。」94P
「哲学的省察は、しかし、まずは“逸早く”「記号」(但し、単なるシグナルではない表示的記号)の所記=意味の存在性格について“新しい知見”に達した。記号によって表現される「意味」は、(これは同じく「意味」といってもBedeutungとSinnとを明別することを前提とするものであるが)、物理的なものとは勿論のこと、心理的なものとも存在性格を異にする「レアール=イデアール」な或るものである。――この知見を踏まえることによって「能記−所記」関係が、連合的とか統覚的とかいった実的(reell)な結合ではなく、一種独特なシュムボレイン(象徴的結合)であることが軈がて主張され得るようになる。それは、「意識の作用」ひいては「精神の機能」についての新しい了解とも相即するものである。」94-5P
「イデアールな存立形象としての意味は、さしあたり志向的意識の直覚的な与件という自存的な相で思念されたのであったが――爰でも亦「普遍的記号学」の構案が蘇生する機序となった! 現に「言語分析派」への屈折したインパクトが認められる――、しかし、追而(「おって」のルビ)「純粋意識」の超越論的構成の所産として把え返されて行く、超越論的意識による構成的所産!」95P
「茲に、現象学派は「言語」ないしは寧ろ「意味」の存立性に関して、嘗つて「民族精神」の「分有」、遡っては「普遍的理性」の「共有」が問題になった際と同趣のプロブレマティックを開示する所以となる。謂う所の「構成」はKonstruktionとは区別さるべきにせよ、構図的には、それはカント学派が窃(「ひそ」のルビ)かに内蔵していた深刻な問題性と吻合する。――@超越論的主観が自存して意味的世界を産出的に構成するのであるか? A超越論的主観性とは間主観性(=共同主観性=協働主観性)であり、意味体系はまさに言語を介して諸個人が間主観的に形成するものではないのか? B言語表出を介した間主観的交通とそのことによる具体的な意味体系の間主観的形成が可能になるためにも、各人の内奥にアプリオリな同型性が基底をなしているのではないか?/第一の藉問に文字通り肯定的に答えたわけではないが、構図的には宛然これに便乗するかの風情で、且つ又、フンボルト主義の学統に棹差しつつ、「精神の本源的活動」として「象徴機能」を定礎し、「言語」を「象徴形式」の一斑に定位するエルンスト・カッシラーの言語哲学が登場した。しかし、この構案それ自体では――模倣説などが顧慮されているとはいえ――まだ象徴体系の歴史的社会的相対性と「分有」(共有化)の機制が闡(「あき」のルビ)らかではない。そこで第二の藉問の場面が問題となる。/第二の藉問に肯定的に答える立場には“現象学派”のメルロォ=ポンティや現今の現象学的・解釈学的な「超越論的言語哲学」ばかりでなく、後期のヴィトゲンシュタインやオースティンなど「日常言語分析学派」の潮流も注ぎ込む。ここでは間主体的な実践的関係、したがって身体的行動の次元が顕揚され、十八世紀にリードやルソーなどが重視した意味での「自然言語」が再評価されるに及ぶ。が、論者たちは、人間存在ひいては人間精神に関する実体主義的な発想の図式を払拭しきれておらず、兎角、第三の藉問に抗(「あがな」のルビ)えない。/第三の藉問に肯定的に答える立場では、言語相対主義を受容しつつも、なおかつ――ポンティの「沈黙のコギト」のごときは措くとしても――チョムスキーの謂う文法的生成を可能ならしめる「深層構造」ないしは同工の先験的な作用態勢のアプリオリな同型性が信仰されている始末である。」95-6P
「言語とその意味に関する、かかる近代哲学流の「人間主義」に淵源する「既成観念」に対向して、言語(「ロゴス」のルビ)に自存性を与え返そうという動きが抬頭する。一方では――「太初にロゴス在り、ロゴスは神と偕に在り、ロゴスは神なりき」という神学的表象の単純な追認ではないまでも、また、「言葉は存在の棲家」というハイデッガーの託宣に聴従するわけではないまでも――「人間が語るのではなく言葉自身が語るのだ」と唱する論者たちが現われており、他方では――「神は自然という書物を書き与え賜うた」というルネッサンス期の「自然即書物」という思念や、言語を呪物的な一種の事物とみなした前近代的な言語観への復帰ではないにせよ、また、ヤスパース流の「暗号解読論」とは位相が異なるにせよ――現前する世界全体を或る超越的な能記の「所記」とみなしたり、逆に、超越論的所記の「能記」とみなしたりする論者たちも現われるに到っている。」96-7P
「構造主義的な「脱人間主義」の波間に現われたこのたぐいの理説は、いかに物象化的錯認の甚だしき代物であるにしても、――けだし、「人間が言語で表現する」以前に、フェノメナルな知覚的場面においてすでに「与件が単なるそれ以上の或るものとして立現われる」という“象徴”的機制が汎通的に厳存しており、狭義の言語表現はこの基底的な機制に定位してはじめて成立するものであることは確かであって、――近代の人間中心主義的言語観への反衡として、一応は記帳されねばなるまい。/惟えば、構造主義的“哲学”が「言語」という存在の構造に定位したのはそのことの一具現だと考えられうるのであるが、現段階の哲学にとって、言語は、もはや単なる「道具的手段」や、また単なる「一つの研究対象」という域を超えて、格別な意義を帯びている。それは現代の哲学が、ヨーロッパ近代哲学の地平を劃してきたあの「物心二元論」ひいては「主客図式」、遡ってはヨーロッパ思想の構制を劃してきた「有機体論 対 機械論」という二極的形態での「実体主義」、この大枠そのものの端的な超克を課せられていることと関連する。」97P
「慮(「おもんみ」のルビ)るに言語は単なる客観的な物質的存在でも、単なる主観的な精神的存在でもない。また、言語の構造は機械論的成素複合主義の埓にも、啻(「ただ」のルビ)なる有機体論的全体機構主義の埓にも納まらない。あまつさえ、「レアールかつイデアール」な“特異な”存在性格を呈する。「言語」のこのような特質に留目し、謂うなればそれを存在論的モデルとすることによって、今や西洋“現代”哲学の桎梏となっている上述の「大枠」そのものを打破することが出来るのではないか。「言語」というまさに「象徴」的な「単なるそれ以上の或るもの」、「このレアール・イデアール」な成態(Gebilde)が、フェノメナルな世界を「対自己的−対他者的」に媒介的・被媒介的に存立せしめる構造的契機として、間主観的=共同主観的に存在する構造的機制を究明すること、そしてそれの具体的在り方が歴史的・社会的である所以の機制を定礎すること、――この意思は実はヘーゲルを承けたマルクスが彼固有の用語と論脈で既にほぼ充当していたことを今日では追認でき、迂路の重畳に今昔の感をあらたにする次第であるが、――この作業を完遂することが、目下の閉塞情況を打開して新しい哲学の地平に立つための恰好の通路となり得るのではないか。」98P
「このような予期と期待のもとに、「言語」は哲学の現在にとってまさしく戦略的な焦点なのである。筆者は嘗つて、“哲学者たちの言語観――剴切(「がいせつ」のルビ)にいえば「言語存在」にたいする哲学者たちの構えの執り方――に抜本的な変化が生じ始めているように見受けられる”ことを誌し、“はなはだ誤解を招き易い表現であるが、「中世的世界観が<生物>をモデルにして万物を了解し、近世的世界観が<機械>の存在構造に定位して視界を拓いた」と云われ得るのにたいして、いまや<言語存在>の究明を通路にして新しい世界観的な視座が模索されつつある、と断じても恐らくや大過ないであろう”旨を云々したのであったが(『思想』一九六九年七月号所載「言語的世界の存在構造」)、昨今では愈々(いよいよ)その感が深い。」98-9P
「「言語」において特に顕著に泛かぶ上述の存在構造を究明し、以って新しい世界観的地平を拓くためにも、「言語は如何にして存在可能であるか」が存在論的・認識論的に問い返さねばならない。この問題に対する筆者なりの回答の構案については拙著(『世界の共同主観的存在構造』勁草書房刊)の笑覧を願いつつ、爰ではとりあえず「哲学にとっての言語の問題性」の一斑を不得要領ながらも追認紹介したところで筆を擱くことにしよう。」99P


posted by たわし at 22:32| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月17日

廣松渉『もの・こと・ことば』(2)

たわしの読書メモ・・ブログ647[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(2)
『もの・こと・ことば』の2回目です。これは、わたしとしては、言語論として再読しようとしていたのですが、『著作集』の第一巻に『世界の共同主観的存在構造』と一緒に所収されていて、それで、『事的世界観の前哨』を再読した後に、いささか脇道にそれるかなと思いつつ、言語論を押さえておこうと戻ってきたのですが、言語論のみならず、というより、言語論の位置がここにあるのですが、異−同とかもの−こと関係とか、認識における様々な概念、廣松さんの哲学体系の中での重要な概念が展開されていて、廣松理論を押さえるのに、大切な論攷になっていて、この順番で再読して正解だったと、とらえ返しています。
さて、実は長年気になっていたことがあったのですが、というより、基礎学習のないところでの思い込みのようなこと、笑い話のような思い違いをしていました。これまで対概念で「für uns(当事者意識)とfür es(第三者意識)」という書き方をしていたのですが、この著の中で、für unsを「学知の立場」として展開しているところがあり46P、これまでのわたしの押さえ方と違っていることに気づきました。というより、前から逆転している廣松さんの展開があると「疑問」に思っていて、このあたりのこと、弁証法における錯分子的展開のようなことが起きているのかなと勝手に思ったりしていました。そもそも「uns」の「われわれ」をこの社会における多くのひとがとらわれている「物象化的錯認した意識」としてとらえて「当事者意識」というように誤認してしまっていました。そして、「es」をなぜかhe的なこととしてとらえ、客観的第三者的立場として錯誤して、二つの概念を取り違えていました。この著の中でも、廣松さんは、「其れ(es)」50Pという表記を用いています。英語で置き換えるとitに近いのでしょうか? 長年はっきりと意識しないままに、もやもやしていたことが解けました。元々、ヘーゲルから来ている概念で、ヘーゲルを原書で当たれないことと、ドイツ語の語学力のなさから来ていた恥ずかしい限りの錯誤です。これは、『著作集』第二巻の「弁証法の論理」の高橋洋児さんの解説534Pで確認しています。ただし、まだどこかで、弁証法的錯分子的構造とか入れ子型構造ということが書かれていた記憶があるし、このあたりのこと、(とりあえずは認識におけるですが、)革命論的に押さえておきたいこともあるので、そのあたりのこと、『弁証法の論理』で廣松さんの文も出てくると思いますし、主著『存在と意味』で当たり論的深化を図ります。
そもそも学的指導を受けたこともなく(半分開き直っているのですが)、対話なき独学者の悲哀のような中での、笑い話のような誤認でした。で、これまで出した分の文を全部あたって校正の作業をしなくてはならないですが、既刊の本では、この語での展開はしていず、HPでの校正は、この文と「通信」での指摘をもってそれに代えます。
さて、だいたい章ごとに、ひとつのメモの番号を当てるようになっています。以前は、目次をその当該の章だけ掲載していたのですが、この著から、目次を全文の分掲載し、目次の章のタイトルの後に、掲載のメモの番号などを書くことにします。長い場合には分けることがあるかも知れませんし、短い場合は二つの章をひとつの番号にすることがあるかも知れません。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――[646]
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――[647]
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
人名索引

 さて早速、切り抜きメモに入ります。
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――
(この章の問題設定)「現相論的な(「フェノメナリスティック」のルビ)場面から出立して哲学的省察を試みようとする者にとって、原基的な(「エレメンタール」のルビ)与件をなすのは、「或るものが現前する」(etwas jm. vorkommt)とでも標記しうべき事態であろう。しからば、一体「或るものが現前する」とは如何なる事態であるのか? 哲学者達は、往々、この事態を「或るもの」(=客観的所知)が「意識」(主観的能知)に「立現われる」という構図で把え、ここから直ちに「対象自体−立現われ−意識作用」という三項図式を立て、そこから出発しつつ認識論上の様々な議論を展開してきた。しかし、われわれの見るところでは、謂うところの三項図式からして、所与の事態に不等なパラダイムを押し当てる所以のものであり、当の事態に関する錯認であって、厳しく卻(「しりぞ」のルビ)けられねばならない。尤も、この間の事情については、嚮に別著において論考したところであり、茲で更めて立ち入る趣意はない、爰で討究しておきたいのは、「或るものが現前する」というフェノメナルな事態の分節状相である。「或るものが現前する」というフェノメナルな事態と指称しても、この指称は既に範式化的一概括であって、実態に即すれば多種多様な相貌を呈する。本稿では、素より当の状相をオブジェクト・レベルにおいて精査・分類しようと図るのではなく、或るものが或るものとして分節的に現前する状相を、フェノメナルな視圏内で分節的に対自化しつつ、当の事態の論理的構制を反省的に把え返し、ヘーゲル式にいえばfür unsな立場から、観望することが論件である。43-4P
 一 「異−同」の位相
(この節の問題設定)「世界現相に関する現相論的な記述分析は従前においても様々に試みられてきたが、論者たちは往々にして、像的(「ビルトハット」のルビ)に纏まった個々のフェノメノンに眼を奪われてしまい、現相(「フェノメノン」のルビ)が現相(「フェノメノン」のルビ)として顕現する構制を閉脚しているように看ぜられる。われわれとしては、しかし、フェノメノンの顕現を支えるフェノメナリスティックな構制に留意しつつ、フェノメナの分節状相を一瞥するとことから始めなければならない。」44P
「・・・・・・だが、「異」ないし「同」という関係は、当の関係のもとに立つ両“項”によって先立たれるのであろうか? 却って、異ないし同のほうが、謂う所の項たるフェノメノンを当のフェノメノンとして顕現せしめる基底的な契機ではないのか?――もしそうだとすれば、異ないし同ということは、所与性の範疇(kategorie der Gegebenheit)と同位的な最も基底的なカテゴリーということになる――。この問題に答えるためには、恐らく、「異」や「同」ということを概念的に単層化してしまうことなく、幾つかの位階に分けて検覈することが必要であろう。そして、そこにおいては、「異」と「同」(相異性と同一性)とを初めから同位・同格に扱うことの可否も検討されることになる筈である。」45P
一・一
(この項の問題設定)「「或るものが現前する」というフェノメナルな事態は、心理学者に言わせればGrund(地、背景)からFigur(図、図柄)が分化・現出している事態の謂いになろう。(「地」および「図」という言葉は、元来視覚的な場面に定位して立てられた表現であるが、聴覚・触覚などをも含む感性的知覚の全般に推及されることは言を俟たない)。われわれとしても姑(「しばら」のルビ)く、心理学者の用語を藉りて記述するのが好便である。が、同じく「地」と「図」の関係といっても、幾つかの準位に応じてフェノメナルな状態を区別しなければならない。」45-6P
「最も原基的――とわれわれがみなす――場面では、対自的には「地」は意識されず、もっばら「図」だけが現前する。・・・・・・/斯かる原基的な事態においては、要言すれば、「図」と「地」との分化ということは学知の立場(für uns)にとって存立するにすぎず、図の現前と称しても、“図”はまだ即自的である。――この事態に関して、学知の立場からは無意識的状態から意識的状態への変移とか、“無”を地にしての“有”の現出とか、図の即自的な知覚とか、称することもできよう。が、われわれとしては、後述の諸階梯との区別上――、この事態を以って端的な「或るもの」(etwas schlechthin)の現前と呼ぶことにしよう。/偖、この端的な或るものの現前において体験されているのは何事であろうか。それはまだ或るもの=図の明識ではない。それは或るものの現出、すなわち、“無地”からの分出と規定しても過大であり、たかだか「異−化」(verschieden)と呼ばれるべきであろう。この「異−化」は、――あらかじめ二つの項があって、それら両者を区別立て(unterscheiden)する意識態ではなく――、それによってはじめて「或るもの」(“図”)が“無=地”から分出して“項”となるごとき原基的な態勢である。それは、しかも、啻(「ただ」のルビ)にfür unsに存立する事柄ではない。爰に謂う「異−化」こそが最も原基的な体験である。」46-7P
(小さなポイント)「現に、体験の当事者が「或るもの」の“自己同一性”を認知する場合もある。しかし、それは、地と図との対自的分化の局面のことであって、今問題の端的な或るものの現前という場面に左様な「同一性」の覚識を持ち込むのは次元の交錯と言わねばなるまい。原初的な「異−化」の場面で“同”の覚識が言われうるとすれば、それは当の「異−化」の事態(ここでは「或るもの」はまだ明確な図柄になっておらず、いずれにしても流動的である)そのことの現前(現出しつづけていること)に関する準反省的な意識においてであろう。フェノメナルな体験に即するかぎり「異−化」における異の覚識が原初的であり、これと同位的な、況んやこれに先行する“同”の覚識は見出せない。“同”の覚識は、たかだか「異−化」に関する準反省的な意識においてはじめて後件として現われる。」47-8P・・・ココは反差別論的に重要
「謂う所の「異−化」の事態は――軈(「や」のルビ)がて消失して“無意識的な状態”へと帰入する時もあるが――一般には、その埓に止まることなく、心理学者の謂う「地」をも現前化する。茲において、図と地の分化的状相が対自的に体験される。」48P
一・二
「或るもの(“図”)が“地”と対照的な相で現前するに至るとはいっても、当初はまだ、地は地として没規定的であり、“地”は端的な或るもの(etwas schlechthin)に庶(「ちか」のルビ)い。・・・・・・」48P
「偖、“地”が或るものとして現前するのは、“無”を背景とする「異−化」においてでてはなく、“図”との「区−別」においてである。“図”の側に即しても、それは何らかの内在的な規定性の対自化の故に図として区劃されるのではなく、「区−別」性という「異」の覚識の対自化と相即的に“地”と“図”とが分節化するのである。」48-9P
(小さなポイント)「・・・・・・勿論、学知的な反省の立場からいえば、図が地から分化的に顕出するのは、図の部分と地の部分とが――無差別的に一様ではなく――一定の差別的規定をもっているからに違いない。がしかし、当の差別的規定があらかじめ明識化されてしかるのちに“図”と“地”が分化するのではなく、まずは端的に「区−別」相が現前するのであって、区別相の持続的自己同一性は、準反省的な局面ではじめて対自化されるというのが実態であろう。」49-50P
「ところで、「地」と「図」とが対自的に区別されている事態にあっても、図と地とは同位的ではない。ルビンの盃などのごとき反転図形を持ち出すまでもなく、図と地は反転しうる。その意味で、両者の区別は絶対的区別ではない。しかし、一方が図として(他方が地として)現出しているかぎり、図のほうが地よりも“明識の度が強い”とでも呼びうる態勢になっている。そして「図」が明瞭に意識されるや“地”は“無化”される傾動にある。・・・・・・しかし、それは反省的に認められることであっても、「図」は大森教授の所謂「同一体制」の相で持続的に図として(地と区−別して)覚知されつづける。この相に或るもの(「図」)は、それが当の或るものとして、すなわち、当体的同一性の覚識において現前するかぎりで、端的な或るもの(etwas schlechthin)一般と区別して、「其れ」(es)と呼ぶことができよう。」50P・・・「「其れ」(es)」
「謂う所の“当体的同一性”は、図そのものの内在的規定の自己同一性の認知にもとづくというよりも、「地」との区別性の反照(Reflexion)であり、「図−地」分節の構造的安定性の投影なのであるが、――体験する当の意識においては、地が“無化”される傾動に伴って、地との区別性、ならびに、「図−地」の区別相の“同一体制”そのことは必ずしも明識されないため――、それは当該「図」の自己同一性という相で体験される。(そして、「其れ」が同一体制=持続相で知覚されつづけたり、継続的に「其れ」(其のもの)として再認されたりするところから、これら再認的「同」の意識態において、其れ=当体が軈ては“実体的自己同一性”の想念を機縁づけることになる。)」50-1P
「翻って、「図と「地」とは、反転相で覚知されうるし、時としては「図」と「地」とが同位的に覚知される位相もある。尤も、図と地とが、同位的に覚知される場合には、「図」と「地」なのではなく、“無=地”を背景にして顕出する両つの「図」と言うべきかもしれない。が、ともあれ、同位的な図と地と呼ぶにせよ、両つの図と呼ぶにせよ、――われわれとしては後者の呼び方を撰びたいのだが、――両つの「其れ」が区別性の意識態において現前する位相、今やこの事態に関して論考すべき段取りである。」51P
一・三
(この項の問題設定)「両つの「図」が現出する場合、両者が相接しているケースは稀であって、――ということは、すなわち、“図”と“地”とが同位的に“無=地”を背景に現出する体験は稀であった――一般には、例えば白地の上に両つの黒丸が見えるというように、“共通の地”を背景にして両つの「図」が離在的に顕出する。・・・・・・」51P
「「図」の錯図化、すなわち、当初は“一つの”図としてしか覚知されていなかった或るもの=図が、構造的な分節態を呈するようになる機制には、例えば、赤丸と白地という「図−地」成態が青空という「地」から顕出するというように、第一次的な「図−地」成態の全体が「其れ」として「図」化されるケース、および、例えば、顔の略画という「図」が眼・鼻・口といった分節を含む構造成態の相で顕出するというように、第一次的な「図」が内部的に分化して錯図化されるケース、この二つを一応区別することができる。尤も、後者のケースにおいても、眼なら眼、口なら口の周辺の部分が“地化”されるのと相即的に「其れ」として覚知されるのであり、「図−地」の区−別の新過程と相即的である。このかぎりでは両ケースの区別は相対的なものにすぎない。しかし、両つの図が両つの図として顕現するのは、前者においては第一次的な「図」と「地」との同位化の機制によってであるのに対して、後者においては第一次的な図の錯図化――これは第一次的な図の一部分の“準地化”を伴う――によってである。」52-3P
「偖、両つの「図」が現前する事態、すなわち、両つの「図」のそれぞれが“地” ――但し、これには“無=地”の場合もあれば“準地”=“準図”的な場合もある――に対して「其れ」として共在する事態、ここにおいては、両つの「図」は「彼−此」という「異」の意識態においてまずは分立する。この位相を「彼(「か」のルビ)−此(「し」のルビ)性の関係」と呼び、上述の「異−化性の関係」(直接的異と反省的同がこの次元に属する)および「区−別性の関係」(区別的異と当体的同がこの次元に属する)から区別することにしよう。「異」と「同」とは、この次元においても、前二者におけると同様、同位・同格ではない。」53P
「現前する或るもの=図は、彼−此の関係の次元にあるとき、嚮にみたetwasやesと区別して、「此のもの」(dieses)「彼のもの」(jenes)と呼ぶことができよう。「此のもの」と「彼のもの」との対向、すなわち「彼−此性の関係」は、両項が「其れ」として当体的自己同一性の相で覚知されているとはいえ、まずは「此−彼」の対向的相異の状相で体験される。そして、当の対向的布置の構造的一定性、および、両項の反照的自己同一性が準反省的に対自化されるのであって、「此れ」ならびに「彼(「あ」のルビ)れ」のそれぞれがあらかじめ内在的な規定性に即して措定されたのちに対比されるのではない。(両項の措定→対比というケースも生じうるが、それは後続の位階のことである) 「彼−此」関係の原初的な位階にあっては、両つの図が、例えば、前−後、左−右といった対向的な布置において覚知され、両項が共軛的に相互反照するかぎりで、“此れ”は「此れ」であり、“彼(「あ」のルビ)れ”は「彼れ」である。」53P
「勿論、此−彼の対向的相違性は、布置上の異だけにとどまらない。例えば、明・暗、大・小、強・弱といった対照的な「異」が覚知されうる。この場合にも、もとより、明が明、暗が暗etc . etc .として認知されたのちに対照が意識されるのではなく、対照的な異の覚識を基底にして此の明と彼の暗etc . etc .が分立化するのである。しかし、ここで対照的というのは、白と黒というような反対概念で整序されるたぐいの狭義のそれだけではなく、さしあたり「両つの図の対向」であるかぎり、白と黄とか、点状のものと線状のものとか、学知的反省の立場において質的ないし量的に相違すると規定されうる凡そ一切の差別を包摂しうる。」53-4P
「ところで、両つの「図」は、時として「同」の意識態において「彼−此」的に分立する。例えば、二羽の雀や二本の煙草は、反省以前的に「同」として、すなわち、直覚的に相等性の相で覚知される。これらは、或る地に対する“一つの”図の相で現前することなく、両つの「図」として、「此」「彼」の区別態で分立しているかぎり、「異」の意識態を基礎にしてはいる。しかし、この「異」を謂うなれば“地化”しつつ、そこでは「同」の覚識が顕化するのであって、両つの「図」すなわち「此れ」と「彼れ」との相等性直覚的である。勿論、両つの図の相等性ということは、この次元ではまだ、各図おのおのに関する積極的な分析的認知にもとづくものではなく、相等性の覚識のほうが項の規定性に関する反省的な認知やそれらの規定性の比較に先立つ。もとより、反省的な比較をおこなえば、当の相等性の意識にはしかるべき機縁や根拠が認められうるであろうが、それはまだ対自的ではない。此−彼の相等性に関する対自的な分析的交合を試みれば、却って両項の相違性が顕化して相等性の覚識が消失することも往々なのであって、今問題の位階では「相等性」(Gleichheit)の覚識はあくまで直覚的である。」54-5P
(小さなポイント)「この相等性=「同」は、いかに直覚的であるといっても、彼−此の「異」に支えられており、遡っては「区−別の異」や「異−化の異」に俟つものであり、そのかぎりでは被媒介的な規定性である。しかしながら、それは「異の異」という二重否定的な意識態ではなく、体験的には直接態である。――論理的には「同」を以って「異の異」として規定することも可能であり、また、例えば、言語的音韻体系を示差(Differenz)の体系として整序するごとき場面においては、「異の異」という反照的な対他的規定に即して、項の存立性が説かれうる。がしかし、彼−此性の位階における「相等的同」はunmittelbar (直接的)な等値(gleichsetzen)であることが銘記されねばならない。」55P
「彼−此の相等性の意識態においては、反照的に対向する両項、「此れ」と「彼れ」とが当の或るもの「其れ」としてそれぞれ準反省的に自己同一的であり、両項の分節態勢の持続的自己同一性も準反省的であるが、それが「彼−此の異」に支えられている以上、この“地化”された異と相等的「同」とは反転的に髑ヨしうる。これら地と図とに擬(「なぞら」のルビ)えうべき“異の意識態”と“同の意識態”とが同位的に「図」化するとき、それらは両つの図となるのではなく、まさに第一次的な“図”と“地”とが融合して一つの図になり、この「図」(異zugleich(同時に)同)が彼−此の両項を謂うなれば“地”としつつ、その“上に”顕出する。この意識態が「類似性」(Ähnlichkeit,resernblance)の覚識であり、ここで“地”と“図”の反転が生じて、「此れ」「彼れ」の両項が「図」として顕出するとき「対−比」の事態と呼ばれる相になる。」55P
「この「対比」関係における類似性(Gleichartigkeit)の認知が「類種」的な「統−轄」の基底になる次第であるが、これを討究するためには、錯図化的分節の相貌や、遡っては“図”の対自的な図化の場面まで、議論を一旦差し戻さねばならない。」56P
 二 「統−轄」の諸相
(この節の問題設定)「フェノメナルな世界現相の分節は、心理学者の所謂「地と図」の分節機制に基づくにせよ、図と地とは端的に反転するとはかぎらず、往々にして準地=準図的とも称すべき様態を呈し、また、図は錯図的とも呼ぶべき構造成態の相で現前する。剰(「あまつさ」のルビ)え、それは意味懐胎的(sinn-prägnant)な分節相を示す。――「図−地」の分節機制は、動物の感覚系においてもみられる感官生理・心理学的な次元に属するものであり、それ自身としては言語以前的である。(因みに、言語的音韻の分節そのことからして図と地との分化の構制に俟つものであり、人間にあってすら、当の機制が言語以前的に作動していることは更めて誌すまでもない)、とはいえ、言語的動物(「ゾーオン・ロゴン・エコン」のルビ)たる人間の場合、世界現相の分節的状相は言語的交通の媒介による間主観的=共同主観的な同調性(「コンフォーミズム」のルビ)に規制されており、生理・心理学的な“自然状態”に委ねられていない。人間においては、フェノメナの分節の具象的な在り方からして言語被拘束的(sprachgebunden)であって、言語以前的な截然たる分節態が事後的に言語的活動の場に繰り込まれるといった機械的な積み上げの関係にはない。しかしながら、発生論的には、世界現相の分節化が言語以前的に一定限進捗(「ちょく」のルビ)していること、そして、言語的活動の拘束的介入も生理心理的な「統−轄」の機制に算入(sich teilnehmen)するという仕方でおこなわれること、これは否定できないであろう。とすれば、世界現相の具象的な態様、すなわち、錯図的な図柄の分節様態は言語的活動の介在によって激変するにせよ、現相「統−轄」の基本的構制そのものについては“言語以前的な準位”に即して予め考覈(「こうかく」のルビ)しておくこと、これが方法論的に許される筈である。」57P
二・一
(この項の問題設定)「或るものの端的な現前には心理学者の所謂「全体野」(Ganzfeld)のケースも含まれるが、これとて決して文字通りの「等質視野」ではなく、謂うところの「迫力性」(Eindringlichkeit)をもった分節化、「統−轄」の傾動を示す。とはいえ、単なる「異−化」の次元にあるとき、“図”たるetwas schlechthinはまだそれ自身としてはいかなる或るものであるか認知的には明識されない。「図」と「地」との「区−別」が意識されるようになった準位ではじめて、「図」が当の或るもの=「其れ」として認知される。」57P
「「図」が「其れ」として「地」から「区−別」される準位にあっても、図たる其れ自身の規定性は原初的には対自化されず、例えば白紙に黒線で描かれた円を見る場合、図たる円が紙面よりも浮き出て見えること、円内の色調が周辺よりも明るいこと、さしあたって覚知されるのはこの対照性である。尤も、反省以前的に、輪郭線は図の側に属しており、このことが図の纏まりと相即している。(このことは、黒地に白抜きの円が描かれている場合を見てみれば瞭然である。数学上の「切断」ではないが、輪郭線は図の側に属し、地には輪郭線がない。地の側に輪郭線が帰属したとたんに反転が生じ、そのさいには白抜きのの部分が“地化”される) ――この準位において図を図たらしめているのは、輪郭的な纏まりと相即的な「区−分」、より明るい色調を伴っての浮き出し、これらの対照性である。しかも、この対照的「区−別」性が基本なのであって、地と図とのそれぞれの固有規定がまず認知されてしかるのちに対比されるのではない。輪郭的な区分にせよ、色調的差異にせよ、浮沈の相反にせよ、自存的な性質ではなく、相関的規定であり、学知の立場からみれば相互否定的な反照規定(Reflexionsbestimmung)である。しかるに、図が図として明瞭にに覚知されるにつけ、地は無−化(ver-nichten)されるのが通例であり、屢々、地は意識野から消失して「図」だけが現前する。爰において、「図」は地との「区−別性の異」における対照性の覚識を失い、それにともなって、反照的規定であるところのものが自存的な規定、図の固有的規定として――ヘーゲルの用語でいえば――内自有(In-sich-sein)化される。第三者的にみれば、当事主体において地が無−化され、図だけが顕出しているといっても、その「図」がいかなる規定性を呈するかは実は地の部分との区別的対照によって左右されるのであるが、当事主体の体験においては図の規定性は自己完結的で固有であるように覚知される。こうして、われわれの謂う「物性化的錯視」が早くも始まるのである。」58P・・・「物性化的錯視」、実体−属性という錯視
「この「物性化」の機制によって、われわれ第三者が、種々様々な形、色、音、香、等々と呼ぶところのものが――勿論、まだ「形」とか「色」とかいうような概念的に一般化された次元においてではなく、その都度の特殊個別的な性状で――当の図たる或るもの=「其れ」の規定性として覚知される。当の主体にとっては、無論、形と色との対自的な分化といったマッハ流の「要素的」分離はおこなわれない。或るもの=「其れ」は、即自的な一全体であって、たかだか錯図的な相で「統轄」されている。/偖、対自的な「図」の斯かる規定性は、学知の立場から「質」と総称することができる。が、この「質」規定は、利用的な規定とも未分化である。剴切(「がいせつ」のルビ)にいえば、後に「量」的規定として対自化されるところの、大・小、長・短、広・狭、軽・重、等々も、まずは対他的対照の反照的規定の内自有化された「物性」として、そのかぎりで一種の「質」として体験される。その次元で「量」的規定の対自化が生起しうるとしても、それは濃・淡、遅・速、温・冷、強・弱などの「度合い」(内包量)に関わるものであって、外延量の対自化はより高次の(彼−此性の関係)場面に俟たねばならない。」58-9P
「ところで当体的自己同一性の相で現前する「其れ」は、右に述べたごとき質・量的な規定性の内自有化の相にあるかぎり「もの」(但し語の広義におけるそれであって、狭義の「物」ではない)と指称されうるであろう。この意味での「もの」は“同一体制”の相で持続的に知覚されうるだけでなく、一旦消失しても再認の覚識を伴って直覚的当の同一のものとして認知されること屢々である。動物が餌食(「えじき」のルビ)を追跡・捕獲したり、仲間を個体的に、認知・識別したり、鳥などが自分の巣を同定したりするのは、恐らくこの次元での当体的同一性を覚知してのことであろう。生活体験が蓄積されるにつれて、世界現相は準地的=準図的に、かかる「もの」の併存の相で錯図化され、われわれの謂う「物的世界像」の分節相を形成する。この「統−轄」相の機制を知るためにも、今や「実体−属性」の統−轄体制、ひいては、「類種−個体」の統轄−体制を対自化しておかねばなるまい。」59P
二・二
(この項の問題設定)「「もの」の相で現前する「其れ」は、屢々、変化相において知覚される。学知の立場からいえば、端的な或るものの次元においてすでに、即自的には「生滅」という相での変化が認められるとはいえ、「変化」が対自的に体験されるのは「其れ」の準位を俟ってであると言えよう。変化には、生滅、移動、変容を分出しうるが、ここでは「生滅」、すなわち“図”化および“無=地”化には立ち入るを要せぬであろう。」60P
「・・・・・・爰において、自己同一的な「当体」そのものと変易的な「質」的規定性との「区−別」が意識されるようになる。――この際、「質」的諸規定とその変様は、われわれの見知からすれば“für uns”、対他的な反照規定なのであるが、当事的体験にとっては、「質」は「もの」の内自有(in-sich-sein)であり、――謂う所の「当体」そのものが「基質」(基体)として、「質」的諸規定が「性質」(属性)として「統−轄」され、茲に「もの」が「区−別的統一」の相で錯図化される。」60-1P・・・当事者意識としての属性の内自有化
「こうして「もの」が錯図化され、変化相(移動・変容)が状態として対自化されると、変化という一種の“質”的規定性が、遅速、緩急、膨縮、等々、「度」合いとして、その意味での「量」的規定性も対自化され始める。が、事態はそこに停まらない。「もの」が基質・性質という統−轄相で錯図化されるに及ぶと、この錯図の分肢たる「質」(性質)が更めて「もの」“=「其れ」”として当体の相で現出しうるようになる。そして、この「其れ」つまり、特定の性質が、変化相を呈しつつも当体的自己同一性の覚識を伴うことにおいて、それが「度合い」für unsの変様として意識される。さらには、錯図的に「統−轄」の相を呈する「もの」は、その“分肢”たる「質」のあれこれが生・滅の変化相を呈しても、当の「もの」としての「当体的自己同一性」を保持するところから、分肢的な質(性質)と当体そのもの(基質)とが“截断”され、「性質」(属性)は「基質」(基体)にとって偶有的とみなされる所以となる。」61P
「基体と属性との截断、ならびに、属性の偶有視は、しかし、“単一”の「もの」の変化相の体験だけでは幾何(「いくばく」のルビ)も進捗しない。それが本格的に進捗するのは、両つの「もの」が「彼−此性の関係」相で現前する場面においてである。(単一の「もの」の変化相が基体と属性との截断を機縁づけるのも、実は変化相の二状態が即自的には“彼−此性の関係”相にある所為であって、一般に「変化」の覚知は即自的継時的“彼−此性の異”にほかならない)」61-2P
「「基質・性質」の「統−轄」相にある両つの「もの」が彼−此性の関係に立つとき、「質」の対他的反照が「地」を媒介として進捗するが、――地は彼−此の対向が対照ないし類似の覚識を顕化させるのと相即的に軈(「や」のルビ)がて“無−化”され――両つの「図」たる両つの「もの」において「質」がいよいよ「物性化」されて即自有になり、図たる「此のもの」(「彼のもの」)の「物象化」がいよいよ進展する。これにともなって、「此のもの」と「彼のもの」との相互的関係規定性は“無−地”化されたり「地」として明識される場合であっても、両つ基体的な「もの」にとって偶有的とみなされたり、いずれにせよもっぱら「基質・性質」の統轄体たる両項(両つの「もの」)が対比される次第となる。そして、これら両項の対比的現前が「対照的異」ないし「交合的同」の意識態において明識される。――この両項的対比は、「此のもの」と「彼のもの」とがそれぞれ「質」の錯図的な「統−轄」相にある以上、諸分肢たる「質」の対照・交合の過程となり、そのことを通じて、「基体」と「属性」との截断が進捗する。そして、「質」の交合性にもかかわらず端的な「相等性の同」の覚識を伴わぬ体験を通じて「質」の量的規定性(ここでは「度」)が対自的に明識化されていく。」62P
「ところで、両つの「もの」が、「彼−此」の対向的「区−別」の相にありつつも「類似性」の覚識を伴い、錯図的総体として「相等性の同」の意識態において認知されるとき、両者を「類同的」と呼ぶことができよう。われわれは類同的な両つのものを「同等なもの」と謂い、同等なものについて此れを此れ、彼(「あ」のルビ)を彼れとして区−別する相異性を「個体的区別性」と呼ぶことにしよう。今や「同等なもの」の統轄が論件である。」62-3P
二・三
(この項の問題設定)「「同等なもの」は、即自的にも対自的にも“一つの”図(錯図)として「地」から区−別される。この次元での区別性を「不等性」と呼ぶことにし、ここでの「地」ないしその一部が新規の「図」となって顕出しつつ既存の「同等なもの」と「彼−此」的に対照的であるとき、それを「同等なもの」に対して、「不等なもの」と呼ぶことができよう。この準位における「彼−此性の異」を特に「類種性の異」と謂い、「同等なもの」と「不等なもの」との彼−此的区別を「類別」と謂う。――このさい、第一次の図たる「同等なもの」に対して「類種性の異」の相で対向する新規の図(第一次の関係における「不等なもの」)が、それ自身の内部で更めて「同等なもの」として統−轄されているとき、これら二つの「同等なもの」の彼−此的区別を特に「分類」と呼ぶことにする――。」63P
「偖、「同等なもの」が「個体的区別」相で彼−此的に対向している事態においては、二個と謂う数的な規定が尠くとも準反省的対自化される。――学知の立場からいえば、成程、数的な規定性は原初的な体験の場面から存在している。或るものが端的に現出するとき、それは一つの或るものであり、図と地とが分化するとき、両者は二つのフェノメナである、等々。しかし、数(個数)的な規定性が当事的体験において対自化されるのは、「同等なもの」の統−轄の局面においてであろう。原基的には、しかも、それは数(個数)的算定の体験相ではなく、一種の「質」的な規定性、ないしは、度合いに準ずる相で覚識される。すなわち、第三者的にいえば類同的なものが二個ある状態と三個ある状態といった区別相がまずは対照的に覚識される。(この準位、つまり、類同的なものが二個ある状態と三個ある状態との区別は、鳥においてさえ、卵や雛の“個数”的状態に関して、数個内の範囲で認知されていると言われる)。やがては、しかし、当の多寡的な事態(謂わば「質」規定的な対照ないし「度合い」的な相異の事態)が「同等なもの」を「個体的区−分」の相で錯分肢的に分節化し、この対比的事態を通じて「個数」的「統−轄」が次第に対自的になる。――こうして、「同等なもの」が「個数」的に区分されるようになると、類同的なものの錯図的な「統−轄」態が「集合」(Menge für uns)を形成し“単一”なるもの「一」(一個という規定性)が反照的に物象化されて宛然「即自有」として表象される。(がしかし、これらの“集合”が数量的に整序されるのは高次の経験を経てのことであり、“言語以前的”にはいずれにせよ数量的規定の対自化はさして進捗しないものと想われる。)」63-4P
「ところで、「同等なもの」といっても、啻に「個体的区別」だけでなく、反省的に何らかの相異性の覚識を伴い、われわれの謂う「類似性」の相に遷移するのが普通であろう。但し、類同性の覚識が現出するのは基質的な相−等性意識が持続している所為である以上、そこでの相−異性はたかだか基質の「量」的規定性――容量や重量etc.の「度合い」といった次元――にしか及ばない。そして、「相似」für unsなものの対比的体験において、量的な規定性が辛うじて即自的な“外延量”の相で表象されるに止まる。(因みに、外延量の対自的把捉は計量・計測的実践の経験を俟たねばなるまい)。」64P
「翻って属性の次元について言えば、偶有的な性質は類同的なもののあいだでも著しく相異しうるのであって、基体と属性との既述の截断とも相俟ち、別類の「もの」と対照・交合される、爰において錯分肢的な諸々の「質」が更めて「同等なもの」と「不等なもの」に類別され、こうして諸々の「質」的規定性が「分−類」される所以となる。――学知の立場からすれば、ここにあってすでに、「類」的“普遍”と個別との対立性、ならびに、類的“集合”を形成する各個体の“本質”的同一性が即自的には措定されている。とはいえ、それはまだ対自的ではない。これの対自化には言語的活動の介在を俟たねばならないであろう。尚、「もの」のあいだの作動的な連関性が対自化されるのは、所謂“外界”と“身体的自我”との統−轄を機縁づける実践的体験を介してであるが、この問題については別途の文脈で嚮に論考したころでもあり、茲では立ち入ることを差し控える。この埓内においても、われわれは当面必要な論点を確保できるものと念う――。」65P
「斯くして、フェノメナルに現前する諸々の「もの」は基質的には同等でも属性の或るものについては不等であったり、逆に、属性の或るものについては同等でも基質的には不等であったりという相貌で錯図的に分節化し、反照的規定の“媒体”が“無=地”化されるのと相即的に、“錯図” (「もの」)が個体的区別性と個体的自己同一性の相で即自有化され(個体化=孤体化的錯視!)、それの“分肢”的諸性質もまた概して内自有化された相で覚知される。現相的世界は、爰に「物的世界像」の構制を現示する。」65P
「茲に謂う「物的世界像」は、歴史的・社会的な存在拘束性のもとに、或るいは「肢体的分節」相を呈し、或いは「物体的分節」相を呈するのであるが、当座の議論としては「物的世界像」の存立する基礎的・一般的な機制に定位して論点の所在を確認しておくことができる。」65P
 三 「としての」の構制
(この節の問題設定)「われわれは、従前における世界観のパラダイムを斉しく規制してきた「物的世界像」そのものをば――「物象化」的錯認の機制による存立実態の剔抉を通じて――卻け、「事的世界観」を以って代置しようと図(「はか」のルビ)る者である。この作業を周到に進めるためには、「物的世界像」をその具体的な内実に即して検討することが要件となり、実践的な生活体制による拘束性、従って亦、言語的交通を介しての共同主観的な構成を射程に収めることが必要とされる。ここでは、しかし、感性的でしかも認知的(「コグニティヴ」のルビ)な基底的な構制に定位しつつ当座の論考を進め、とりあえず、別著ならびに別稿における拙論にとつて先決要求となる論件の一斑に応えておきたいと念う。」66P
「茲で予め一言しておけば、「物的世界像」と対質するにあたっては「関係の第一次性」という論点」が一つの鍵鑰(「けんやく」のルビ)となる。人々は通常、実体こそが第一次的な存在であると考え、「関係」は実体を俟って第二次的に派生する偶有的なものと見做しがちである。成程、関係の存在は、関係に立つ「項」の存在と相即的である。それゆえ、項に対する「関係」の第一次性を云為するのは悖理(「はいり」のルビ)であるかのように思える。われわれとしても、項としての項が存立するのは、関係の存立と同時相即的であることを認めるに吝かではない。問題の焦点は、しかし、項に立つところの或るものが、それが「項」となるに先立って、換言すれば「関係に立つ」に先立って、自存するか否かの判定に懸っている。・・・・・・そこで、最後の対決場面では一切の性質的規定の基底にある実体的存在そのものが「関係」に先立って自存するのか、それとも、そのような“実体”なるものは自存せず、関係に立つと称される或るものは必ずその都度の或る準位における関係と相即的にしか存在しないのか、この点の判定に帰向する。この二者択一は、「である」(So-sein相在。これはいずれにせよ、反照的関係規定の内自有化されたものである!)に先立って「がある」(Da-sein定在)が在るのか、それとも「がある」と「である」とは根源的な場面では帰一するのか、いう形にパフレイズすることもできる。――最早多言を要せぬであろう通り、「項」(「項」としての「項」)に先立つ「関係の第一次性」というのは、如上の選択肢における後者を執る立場であって、これは、物という実体的な自存的定在をunterstellen(下位化)する「物的世界像」の前提的了解に対して対蹠的である。」67-8P
「・・・・・・ヘーゲルの意味での「意識の経験」に即した弁証法的な展開として遂行されねばならない。そのための方法論的視座を定礎する前梯として、本節では「異と同との統一態」の基本的構制を対自化しておく次第である。」68P
三・一
(この項の問題設定)「或るものがフェノメナルに現前化するとき、それが心理学者の所謂「視灰」(Augengraau)の相であっても端的に現出するのであって、原初的(「アンフェングリッヒ」のルビ)な体験においては、それが何か(Was)として(乃至、かくがく・しかじかとして)認知されるわけではない。しかし、学知的・第三者的にみれば、現前する「或るもの」は、異−化的に“無=地”から“有−化”した“図”であり、当事主体に対しても、この意味での「或る」もの(et-was)として現前している。そして、準反省的には、すでに、当の“異−化的な事態”を「或るもの」として覚知していること、この二肢性が認められる。勿論、二肢性とはいっても、この原初的な場面ではまだ、当の「或るもの」(“図”)のほかに別の或るもの(“地”)が「区−別」的に現前するわけではない。しかし、それは“無−地”との異−化的な反照そのことではなく、即自的な“図”として現前するのであり、このかぎりにおいて、二肢的二重性の構制になっている。」68-9P
「われわれは、この事態を「与件」たる“或るもの”が単なる“其れ”以上の「何かしら或るもの」(「質」的規定態)「として」存立しているetwas gilt etwas Mehr, (etwas gilt für etwas Mehr als solches.)と呼ぶこにしよう。――尚、以下の行文においては、ここに謂う「何かしら或るもの」(「質」的規定態)を簡略化のため「所知」(意味的所知)と呼んで、それを「与件」(所与)と区別することにしたい。」70P
「尚、この二肢的二重性、すなわち「与件」と「所知」という両契機の区別的統一(異と同との統一性)の構制は、――因みに「として」という概念は、二肢の区別的統一(「異」と「同」との統一性)を指示するであるが――当事主体にとっては恒に必ず明識されているわけではない。当事主体の直接的意識においては、「其れ」は概して「所知」的所与=「所与」的所知ともいうべき全き統一態であって「与件」を分−肢的に覚知することは寧ろ稀というべきかもしれない。しかし、反省的な意識においては、“其れ”そのものと「其れ」(「質」的規定態)とは当事主体にとっても直ちに分−肢するのであって、二肢的構制というのは決して学知だけに帰属するものではない。・・・・・・「所知」から端的に純化された「与件」そのものは現前しない。与件が「与件」として与えられるとき、その都度つねに何らかの「所知」性において覚知されるのであって、“裸の質料(「マテリー」のルビ)”とか、“センスデータ”とか、原基的な「与件そのもの」なるものは存在しない。成程、そのような原基的与件を論理的に措定することは妨げられないであろうが、われわれはそのような代物は所詮没概念なるが故に厳しく卻ける。」70-1P
「要言すれば、「与件」はそれが「所知」として覚知される二肢的構制の契機たるにかぎりにおいてのみ「与件」なのであり、逆に亦、「所知」は与件がそれとして覚知される契機たるかぎりにおいてのみ「所知」なのである。この二肢的構制は、しかも、飽くまで関係の第一次性の相で理解されねばならない。――謂うところの二肢的構制は「項に先立つ第一次的関係なのであって、「与件」および「所知」という二つの分肢がまずあってそれら自存的な「項」が関係づけられるのではない。・・・・・・或る意味的所知態(「与件」と「所知」との二肢的成態)が次の階型での「所知」に対して「与件」の側に位しうる。基本的な構造は二肢的であるとはいえ、こうして、与件と所知とは多重的・多階的な錯構造を形成するのであって、アリストテレス・ラクス流の比喩でいえば、下の階にとっての天井が上の階の床になるという“積み上げ”が可能である。このため、あたかも「項」が先在するかのごとき想念が生じ易い。(実をいえば、与件に対して所知態が「より以上の或るもの」( etwas Mehr)であるという言い方は、下階の所知的規定に対する上階の所知的規定の“Mehr”-heitなのであって、その都度の位階での「与件そのもの」と意味的所知とはetwas Anderes (それ以外の或るもの)という「相異性」は言えても、より「以上」とか、より「以下」とかいう言い方は厳密には妥当しない。)多階的な建物の比喩では、最下階には純粋な床(純粋質料)、最上階には純粋な天井(純粋形相)が存在するかのように考えられ易いが、ヘーゲルの「円環」にちなんで、この“建物”は巨大な円環状になっていて、上階へ昇りつめていくといつの間にか出発点に戻るような構造、つまり、絶対的床(裸の質料(「マテリー」のルビ))も絶対的天井(純粋意味)も自存しない構造になっている、と話せば誤解を防遏しうるであろう――。」71-2P
「われわれは、今や、謂うところの「所知」の特異な存在性格について、とりあえず「其れ」の準位で論考し、さらには、「所与」と「所知」との「統轄」のシンボリックな象面視線を転ずべき論脈に位置している。」72P
三・二
(この項の問題設定)「フェノメナルに「立現われ」ている対自的な図たる或るもの=「其れ」は、「所与」が「所知」として覚知されるという構制で現前する以上、井上教授の用語法を悪用していえば、先言的に措定されており、“述べ”に先立ついまここの場面に措いて、それは既に“摑み”執られている。しからば、先言的に“摑ま”れている当の「所知」とはいかなる性格のものであるのか?/謂う所の「其れ」が当体的自己同一性の覚識において即自有化された相で「地」から顕出すること、および、この「図」(「其れ」)の「質」的規定性が「地」との反照規定の内自有化に俟つものであること、是は既に上述したところである。ここでの問題は、さしあたり、“其れ”が「其れ」として現前する所以の「所知」の存立実態に関わる。」72P
「偖、「其れ」が当の或るものとして「当体的自己同一」の覚識を伴うとはいっても、当の「図」は大森教授の所謂「同一体制」を保持しているだけであって、不変不易的に自己同一なのではない。・・・・・・この次元での「異と同との統一性」は、心理学者の謂う「ゲシュタルト的安定性」(ゲシュタルトの恒常性)に照応するであろう。しからば、恒常的安定性をもったゲシュタルト的統一性(Einheit単一性)とは如何なる存在性格のものであるのか? 第一に、それがカッシラーの所謂「函数的性格」を呈することは容易に認められよう。数学上の函数がその都度種々の「値」をとりつつも当の函数を「其の」函数たらしめる一定限界の埓内では、当の同じ函数としての自己同一性を保持するのと類比的に、ゲシュタルトは色調や形状などが一定限変化しても当の同じゲシュタルトとしての自己同一性を保持する。第二に、右に謂う函数的自己同一性=不易性を別の視角からみたものにすぎないとはいえ、それが種々の“値”を代入されうるということ、すなわち、一定の限界内においてではあるが様々な“状態”をとりうるということ、このことが銘記されねばならない。第三に、右に謂う種々の“値”の代入された各“状態”を“個別”的諸定在として扱う視座からいえば、当のゲシュタルト的所知は、これら諸定在の孰(「ど」のルビ)れもが皆「それ」であるという「普遍性」をもつ。剰え、敢えて比喩的にいえば、この“普遍”者たる「それ」(当のゲシュタルト)は、これら諸定在のすべてに“遍在”しつつ、しかも特個的な孰(「いず」のルビ)れでもない。第四に、右に謂う“諸定在”の認知の場面に即していえば、当のゲシュタルト的所知は、各定在のゲシュタルト的認知のさいにその都度すでに「それ」として覚知されているのであるから(われわれは無論「本質直観」Wesensschauなどということを認める者ではないが)、ともあれ「それ」は諸定在の比較的認知を通じて帰納的に抽象されたものではない。この意味においてゲシュタルト的所知たる「それ」は経験的抽象に対するブリオリテートを有し、いわゆる「論理的アプリオリ」ein logisches Aprioriの存在性格を呈する。」73-4P
「斯くして、われわれの謂う「其れ」の所知的契機、つまり、心理学者のいうGestalt als solcheは、函数的性格(ゲシュタルト的「移調性」)、不易性、普遍性、経験的認知に対する論理的アプリオリテート、この種の存在性格をもつ或るものと唱されねばならない。しかるに、翻って慮れば、函数的性格、不易性、普遍性といった性格は、通常は「概念」(つまり単なる表象や実在から区別される学知的な次元での「概念」)に帰せられているものにほかならず、哲学者たちが言葉に窮して、「超時空的」とか「妥当的(「ゲルトゥング」のルビ)」とか指称してきたところの、所謂「イデアール」な存在性格にほかなるものではない。」74P
「われわれは、以上の行文において、とりあえず「其れ」という準位での意味的「所知」に即して論議を進めてきた次第であるが、更に高次の準位たる「彼−此」関係の位階で措定される「錯図」的諸規定にあっても、「与件」と「所知」との二肢的二重性の構制が存立すること、そして、かの「類別」にまで及ぶ「質」的諸規定態における「所知」が同様に亦「イデアール」な存在性格を具有すること、この件については殊に更めて詳述するまでもあるまい。錯図的フェノメナが「図」というゲシュタルトの構制に俟つものである以上、存在性格の次元では基本的に同一である。尚、本稿の射程外にある狭義の「概念」に関しても、実は「ゲシュタルト」的所知が「概念」的所知と同一の存在性格をもつというよりは、概念的所知がゲシュタルト的所知の一位階なのであって、「所知」の存在性格(Seins-charakter)に関するかぎり、茲での立言がそのまま妥当する。」74-5P
「ところで、斯様にみてくるとき、われわれは、世界の現相的分節肢たる「立現われ」(フェノメノン)の存在性格について、世人が一般に懐いている既成観念を卻けざるを得ない所以となる。人々は、通常、少なくとも本稿で論材としているごとき所謂“知覚的”経験の次元に関するかぎり、フェノメノンはレアールな存在であるものと了解している。しかし、われわれが論定したごとく、フェノメノンはその都度すでに或る「与件」を単なるそれ以上の或る意味的「所知」態として覚知するという二肢的な二重性の構造的成体として存立しており、そのさい「所知」の契機がイデアールな存在性格の或るものである以上、フェノメノンは決して単なるイデアールな存在ではない。フェノメノンの全体的存在性格が単なるイデアールなそれでなく、“純然たるイデアールな存在”との対照性においてレアールという規定性を具有するとすれば――われわれは原理的な次元では決して、所与=レアール、所知=イデアールといった機械論的な鞍分をおこなう者ではないが――フェノメノンはレアール・イデアールな“矛盾的自己統一”態と称されねばなるまい。しかるに、この第二肢的契機たるイデアールな「所知」は、われわれの見地からいえば、かの“函数的性格”“普遍性”を呈するのであるから、「或るものが現前する」というフェノメナルな事態において、フェノメノンたる或るものは「其れ」という位階にあってすら、単なる特個的な存在ではなく、すでに一種の“普遍”者である。況んや、フェノメノンが「彼−此的区別性」の準位に達し、「此れ」(ないし「彼(「あ」のルビ)れ」)として現前するケースにおいては、当の或るものはより高次の“普遍”者となっている。」75-6P・・・「意味的「所知」」「イデアールな「所知」」については、後に『存在と意味』においては、「所識」概念に置き換えられているとの指摘、『世界の共同主観的存在構造』の文庫版の本人の序文での指摘があり、ここで「所知」と括弧をつけているは、その過渡?
「爰に謂う“言語以前的” (先言的!)な位相における“普遍者”は、未だ固(「もと」のルビ)より、狭義の概念的「普遍」者(一般者)ではなく、勝義の「類」的「普遍」ではない。とはいえ、「其れ」はすでに一種の“普遍”者的相在(「ソーザイン」のルビ)であり、このことは反省的な省察において逸早く対自化されうるところであって、「其れ」と指称される定在(Da-sein)は単なる特個的存在者ではないということ(換言すれぱ、述べに先立つ摑みの場面ですでに「其れ」は単なる特個者ではなく一種の“普遍”者であるということ)この事実ならびにそれの由って来る上述の構制が飽くまで銘記されねばならない。」76P
三・三
(この項の問題設定)「フェノメノンのレアール・イデアールな二肢的二重性、「所与」と「所知」との二肢的「統−轄」の構制は、学知的第三者の見地からすれば、即自的な知覚的次元においてすでに「象徴」(Symbol)的な向−他的指向性(Für-Andern-Intentionalität)を呈する。――フェノメノンは、この意味において、啻に自分自身を示すものでなく、同時に既に、他の或るものを示すもの、というべきであろう。――茲はまだ、フェノメノンの対他者的帰属性、従って亦、共同主観的=相互主体的な媒介性に立ち入るべき準位ではないが、象徴が象徴(「シンボル」のルビ)として成立しうる所以の基礎的構制を“言語以前的な”場面でひとまず対自化し、言語的被拘束性が依って以って可能となる機制の前梯にまで間説しておきたいと念う。」76-7P
「一般には想像や推論といった過程的な意識は見出されず、直接的な体験に即するかぎり犬や机としての認知は直覚的である。この直覚は、素より、端的な直接性ではなく、過去における体験に媒介されて存立するものではあろう。がしかし、想像や推論の場合のように、現与の知覚と“想像表象”とが一たん“離れ離れ”に泛かんだうえで、両者が結びつけられるのではない。直覚の場合には、“知覚像”と“表象像”との離在性がなく、知覚像が端的に補完(ergänzen)されて、犬とか机とかの全体相が意識される。しかも、一般には、犬や机という全体像が明確な形で泛かぶことなく、まさに端的に“あの犬”“あの机”として覚知される。(犬のケースのごときは、時としては“あの犬”という特個相においてではなく、“或る犬”乃至は端的に“犬”として覚知されることすらある)。――この機制は、生理学的には「条件反射」に照応するものであろうが、爰でとりあえず留目したいのは、当の“補完”の呈する意味機能、ならびに、そこにみられる向−他的指向性の構制である。」78P
「・・・・・・与件が単なるそれとは別の或るものとして覚知されるという二肢的二重性の構制において、まさしく足跡や足音が一種の「記号(「サイン」のルビ)」として機能していると言うことも出来よう。/この次元においては、固より、「信号」といい「記号」といっても、十全な意味での類的「普遍」(一般者)を指向するものではなく、また、かのイデアールな「意味」形象を対自的に提示するものでもない。象徴が象徴として成立するのは、言語を介しての間主観的交通の準位を俟ってである。/言語の存立性は、しかし、かの「レアール・イデアールな二肢的二重性の構制」に基礎を置きつつ、爰に謂う「信号」ならびに「記号」の機能を原基的な次元とするのであって、われわれは今や、言語としての言語の成立、延いては、間主観的な言語交通による現相世界の媒介的規定を論究しえんがための直接的な前梯に達している。」79P
「事が「事」として対自化され、従って亦、「物的世界像」に対して「事的世界観」をば対置しうる。次元が拓けるのも、現相世界の間主観的=共同主観的な媒介性の論攷に即してであるが、これはまさに本梯(「事の現相学」の本論)に委ねらるべき主題である。此の“序奏”においては、「異と同との統一態」の原基的位相に定位しつつ、物性化ひいては物象化の基底的な場面を追認し、知覚的な次元における「として」の構制に即して、所謂「知覚の象徴的懐胎」(Symbolische Prägnanz der Wahrnehmung)の準位に論及したところで、一旦筆を擱くことにしたい。」79-80P


posted by たわし at 06:33| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(1)

たわしの読書メモ・・ブログ646[廣松ノート(4)]
・廣松渉『もの・こと・ことば』勁草書房1979(1)
これは、言語論ともの――こと、こと――ことば関係を論じています。言葉は、廣松さんの物象化論で、マルクスの物象化論より踏み込んで、言語的異化というところから物象化をとらえるということで、重要な位置を占めています。「廣松物象化論」として展開されていることです。
この論攷の廣松さん自身の位置づけは「序文」に書かれていますから、最初にその内容に沿った切り抜きメモを記しておきます。
「私事を憚(「はばか」のルビ)らず誌せば、著者は、この十年近く、『存在と意味――事的世界観の定礎――』と題する三巻本の執筆に従事しており、その間(「かん」のルビ)、折りにふれて発表した論稿を嘗ては逐次“書物”の体裁に整えたのであったが、『事的世界観への前哨』(勁草書房、一九七五年刊)を一期(「ご」のルビ)として、爾来四年有予、論文集の公刊を固く辞してきた。『存在と意味』との論点上の重複を慮(「おもんばか」のルビ)ってのことである。然(「しか」のルビ)るに、『存在と意味』の成稿が漸次調(「ととの」のルビ)うにつれて、卑見の背景・前梯の説述は可及的に簡略化する必意が固まり、予備的ないし並行的な作業の所産を別著のかたちで輯めておくことが、後日『存在と意味』を上梓した暁に却って好弁かと思い直すに至った/爰(「ここ」のルビ)に、著者としては、本書を手始めに『弁証法における体系構成法』(青土社、『現代思想』連載稿の合本)(後日、仮題をサブタイトルにして『弁証法の論理』として青土社から1980年出版)、『生態史観と唯物観』(現代評論社、『現代の眼』連載稿の増補・改作) (後日同名でユニテから一九八六年出版)、さらには、「身心問題・他我問題」関係の論文集などを追って公刊することに意を決した次第であって、これら続刊の論著、――わけても『無の思想と事の哲学(仮題)』(仏教哲学者 吉田宏晢氏との共著、朝日出版社より今秋刊行) (後日『仏教と事的世界観』として一九七九年出版) ――にとって本書所収の論稿は種々の脈絡において前梃をなすものである。」1-2P
「第一・第二両論文については、それが著者の全体的構案ならびに作業において占める位置に関して、それぞれの頭初に誌してあり、茲(「ここ」のルビ)に絮言(「じょげん」のルビ)を須(「もち」のルビ)いないであろう。/第三論文は――各方面の専門家が各自の専門学科にとって「言語」研究のもつ意義を叙べた“学際特集”に寄稿したものであって、――いかにもラフスケッチであり、著者“固有の言語哲学”を開陳した態(「てい」のルビ)のものではない。がしかし、「近−現代」哲学の展開途上、“言語哲学”のもった意味を対自化しつつ、筆者の謂う「事的世界観」にとつて「言語存在」が如何に関わるかを示唆するものとはなっている。/第四論文は、哲学講座用の分担執筆原稿であり、冗長の譏(「そし」のルビ)りを免れ難いが、「意味」の何たるか(「意味の意味」)について諸説を検討しつつ詳論しており、著者の謂う「四肢的構造」範式の第二契機(イデアールな所知的意味契機)の性格について旧来しばしば蒙っていた誤解を糺(「ただ」のルビ)す一具たりうることかと念う。この論稿は、また、著者の謂う「言語の四重的機能」と「意味の四重的契機」との関係構造の一斑にもふれる所以となっており、「事」の間(「かん」のルビ)主体的=共同主観的妥当性の「様態」という極めて重要な問題に関して大方の理解を得るための前梯を設(「しつ」のルビ)らえるものとなっている筈(「はず」のルビ)である。・・・・・・/跋文(「ばつぶん」のルビ)に代え、巻末に一文を置いて「事の存在性格と存立機制」について補説しておいた。是によって、本書に散在する諸論点が、一定のパースペクティヴのもとに統合され得れば幸甚である。」2-3P
 なお、廣松さんは漢字を多用していて、通常ルビもふっていないのですが、この本はルビがついています。これについて、序文に断り書きがあります。
「尚、書肆(「しょし」のルビ)編集部煩わせて、若干の字句に読仮名(「よみがな」のルビ)
を振る仕儀となった。これは著者の趣向にも合わず、亦(「また」のルビ)、多くの読者の不興を招くこととも畏(「おそ」のルビ)れながら、“戦無派”による日頃の慫慂(「しょうよう」のルビ)を容(「い」のルビ)れた次第である。」3P・・・廣松さんは「学問に王道なし」というところで、廣松さんの追っかけをすることによって漢字の学習やドイツ語などの学習もしていくというところで、ルビ振りもほとんどしていないのですが、そもそも難解な著にルビをふったくらいで読みやすくはならないのですが、まだまだ足りないし、他にもふるところがあるのですが、この著は編集者からの提起で、編集者にルビをつけてもらっているようです。で、ここで、わたしは「障害者運動」での情報保障を考えてきた立場で、これまできちんとというより、ほとんどやれてきたわけではありませんが、とりあえず、このルビをふった引用をしていきます。なお(「」のルビ)で斜体はわたしの挿入句「」内のひらがながルビで正体にしています。
 さて最初に、目次を記しておきます。なお、この論攷はU部編成になっていますが、単行本(今回わたしが主要に扱っている本)の目次の記載では、そのことを「*」で区別しているだけになっています。『著作集』と文庫版では、目次に「部」の記載があり、そちらを記載します。
     目 次
序文
  T もの・こと
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――
 一 物・者・ものと事・言・こと
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
「事」の現相学への序奏――「知覚的分節」の次元に即して――
 一 「異−同」の位相
 二 「統−轄」の諸相
 三 「としての」の構制
  U こと・ことば
「言語」と哲学の問題性
意味の存立と認識成態
 一 言語と意味――諸説の査閲――
  1 意味=事物論
  2 意味=心象論
  3 意味=機能論
 二 与件と意味――意味の雙関――
  1 機能と意味契機
  2 所知の存在性格
  3 与件の被述定性
 三 意味と認識――二重の二肢――
  1 知覚の象徴懐胎
  2 判断の存立構造
  3 認識の間主体性
跋文に代えて――「事」の存在性格と存立機制――
人名索引

 早速切り抜きメモに入ります。
序文
すでに切り抜きメモを記しています。
物と事との存在的区別――語法を手かがりにしての予備作業――
「文化=思想史的に眺望するとき、われわれは「物(「もの」のルビ)的世界像から事(「こと」のルビ)的世界観へ」の推転局面を径行しつつあるように看ぜられる。此の趨向に棹(「さお」のルビ)さし、当の推転を自覚的に把え返しつつ事的世界観を体系的に定式化する作業が蓋(「けだ」のルビ)し希求される所以(「ゆえん」のルビ)である。」3P
「顧みれば、筆者は世界現相の「四肢的存立構造」を云為した際、そこには、既に事的世界観の構図を籠(「こ」のルビ)めておいたのであったが、謂う所の事的世界観の定式化的叙述に困難を感じ、便宜上それを二途に仮託して論述しようと試みてきた。/第一途は、「判断」の存立実態の討究を介して「物」に対する「事態」の本源性を示唆する方式であり、第二途は、諸々の存在形象、就中(「なかんずく」のルビ)物理学的存在観の変遷を検覈(「けんかく」のルビ)しつつ「実体」の第一次性に対する「関係の第一次性」を顕揚する迂路である。/これら二途は、しかし、「事」の射影的象面を点描する一具ではありえても、所詮は「事的世界観」の本諦を説述するには程遠い。蓋し正規の論攷(「こう」のルビ)が課題たる所以である。/筆者としては、しかし、遺憾ながら此の懸案に正面から能(「よ」のルビ)く応(「こた」のルビ)える態勢になく、今暫く迂回的予備作業を先立てざるを得ない。本稿は斯(「か」のルビ)かる予備作業の一斑であって、茲(「ここ」のルビ)では、差当り日本語における用語法に即しつつ、「もの」と「こと」との存在上(「オンティッシ」のルビ)の離接を明らかにしておこうと図るものである。これによって筆者が従前、二途の夫々に仮託して対比的に論じつつも、区別の徴表を必ずしも分明にする処のなかった「物(「もの」のルビ)」と「事(「こと」のルビ)」との離接を劃定的に表象して頂く途が拓けるものと念う。」4P
 一 物・者・ものと事・言・こと
(この節の問題設定)「物的世界像と言い、また、事的世界観と言う時、謂(「い」のルビ)うところの「物」および「事」は必ずしも日常用語とは相覆わない。人々は、しかし、兎角(「とかく」のルビ)、術語を日常的語義に引戻しがちである。われわれとしては、これを防遏するためにも、いったん日常的・辞書的用語法を顧みるところから始めよう。」5P
[一]
(この項の問題設定)「今日における日本人の日常的意識にあっては、「物」という詞(「ことば」のルビ)はいわゆる自然物を指称する場合に用い、「者」という詞はいわゆる人格的な存在を表わす際に用いるものと私念されているように想われる。しかし、例えば「大人物」とか「大物(「おおもの」のルビ)」とかいう表現があり、また「前者・後者」とか「存在者」(das Seiende)とかいう用法もある。この一事に徴しただけでも、物=自然的存在、者=人格的存在、といった私念は到底そのまま維持され得るものではない。」5P
「漢語「物」は旧くから人間を含めた「天地間に存在する一切のモノ」を表わし、殊に漢訳仏典においては第一次的にはむしろ「生命体」を表わすとの由である。漢字「者」は、智者・仁者などのごとく特定の在り方をしている人を表わすためにも用いられるが、元来は「事ヲ別(「わか」のルビ)ツ詞ナリ」と言われ、何者(「ハ」のルビ)とよみ、何者(「トハ」のルビ)と訓じ、此者(「コレハ」のルビ)・其者(「ソレハ」のルビ)という仕方で、与件を主題的に提示する機能を専らとする詞であった。われわれの日常的意識における「もの」「物」「者」の区別的用法は比較的近時になって形成されたものと思われる。」5-6P
「日本語「もの」が万葉集や古事記などにおいて、母能、慕能、毛乃などと音写されているほか、意味を勘案して「鬼(「もの」のルビ)」「魂(「もの」のルビ)」などの文字を当てられていることは周知の通りである。しかし、このことから直ちに、元来の日本語「もの」は、万有霊魂論(「アニミズム」のルビ)的な世界了解のもとで霊的な存在を表意するのが本義であったと速断することは禁物であろう。現に万葉記紀においても「物」の字が当てられている用例が見られるのであって、仮令(「たとえ」のルビ)アニミスティックな了解がこめられていたにせよ、ともあれ旧くから、天地間の万物・森羅万象が「もの」と呼ばれ得たことが窺われる。」5P
[二]
(この項の問題設定)「「コト」の側についても同じく辞書的な意味を一瞥しておこう。漢字「事」は、元来の字体では、音符「之」と「史」(つまり、歴史的記述係・書役)とを合した形声文字といわれ、転じてはシゴト・コトガラの義となり、更に転じてツカフ・イトナム・ヲサム等の義となるとはいえ、「本義ハ、アラユルコトヲ記述スル職ナリ、故ニかきやく史ヲ書ク」とのことである。漢訳仏典においては「事」は概して「理」の対概念をなすと言われる。「事」は史(「かきやく」のルビ)によって記述される与件ということに徴すれば、事物というよりむしろ、事象・事件・事態に庶(「ちか」のルビ)いとも言えよう。」6P
「日本語「コト」は、大野晋氏によれば、「古代社会では口に出したコト(言)はそのままコト(事実・事柄)を意味したし、またコト(出来事・行為)はそのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意かよく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念のなかで次第に分離される奈良時代以後に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)とは別になった。コト(事)は、人と人、物と物の関わり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件、などをいう」。6-7P
「爰(「ここ」のルビ)で、併せて「モノ」との区別に関する『古語辞典』の記述をみておけば、「コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす」由である。」7P
[三]
(この項の問題設定)「ところで、元来の語義は縦令(「たとえ」のルビ)如何あったにせよ、時代が降るにつれて「モノ」と「コト」とは殆んど同義に用いられる場合が生じているのではないか?」8P・・・反語的用法
「大野晋氏も「後世コトとモノとは形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた」旨を断っておられる。がしかし、氏は、その例を特に挙げておられるわけではない。・・・・・・とはいえ、一般論として、コト=時間的に進行する事象、モノ=推移変動の観念を含まない対象、という“原義的区別”とやらが今日では必ずしも維持されていないという事実は、誰しも否めないであろう。」8P
(小さなポイントで)「例えば、水流、火災、運動のごときは、原義的には「コト」であってモノではないと言われうるにせよ、「物(「モノ」のルビ) 対 心(「ココロ」のルビ)」といった対比的な分類に際しては「モノ」の一種として認められる。/『大日本国語辞典』このかた、「モノ」とは、「吾人ノ感官ニテ感知シ得ベキ有形、又、感知シ得ズトモ其ノ存在ヲ思惟シ得ベキ無形ノ総称」とされており、大野氏等の『古語辞典』でも「形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて」と明記されている。//このかぎりでは、「モノ」は「コト」をも含めた森羅万象を意味しうることになり、「コト」はたかだかモノの一種にすぎないということになる。」8-9P
「それでは、日本人の日常的な言語意識(ないし対象意識)においては、今日ではもはや「モノ」と「コト」とは範疇的に区別されていないのであろうか?/筆者の看ずる所――大野氏の謂われる“原義的”区別の当否からして実は問題なのであるが――、日本人の言語意識においては、意想外なほど、モノとコトとの区別が劃然としているように見受けられる。そして、「モノ」には決して還元・包摂され得ない「コト」が厳然として存立する。」9P
「この間の事情を彰(「あき」のルビ)らかにし、モノとコトとの範疇的区別を見定めるためには個々の「単語」とその「外延的意味」とを直接的に対応づけようとする辞典編纂者流の操作・手続の埓(「らち」のルビ)に止まることなく、アプローチの視座と視角を転換する必要がある。」9P
 二 所謂「もの」と所謂「こと」
(この節の問題設定)「モノとコトとの存在概念上の区別を明確にするためには、辞典流の語義既定に対してメタ・レベルの省察を加える必要がある。/今日的了解においては、事件・行事・変事・事変・事象のごときが、原義上はともあれ、広義の「モノ」に属することは言を俟たない。われわれが本稿において論材にしているのは、あくまで、斯かる今日的語義・語法でのモノとコトであって、歴史的“原義”とやらではない。/爰でわれわれの要件をなすのは、今日の日常的語法においても即自的(「アン・ジッヒ」のルビ)に分別されている「モノとコト」との存在上の区別を対自的(「フュア・ジッヒ」のルビ)に把え返しておく作業である。」10P
[一]
(この項の問題設定)「此の課題に応えるに当っては、モノとは端的に存在性格を異にし、従ってモノには包摂され得ざる「コト」の厳存を指摘する作業が鍵鑰(「けんやく」のルビ)となる。」11P
「国語辞典式にいえば、「モノ」とは「凡ソ形アリテ世ニ成リ立チ、五官ニ触レテ其存在(「アル」のルビ)ヲ知ラルベキモノ、形ナクトモ吾等ノ心ニテ考ヘラルベキモノヲ総称スル」とされる。慥(「たし」のルビ)かに、人魚や地獄の如きも、また、無や虚空というものも、モノのうちに算入されうる。とすれば、一切合財が「モノ」であって、モノに包摂され得ざる固有な「コト」が存立する余地はありえないかのように想える。現に、「コトというモノは……」という言い方さえもあるではないか。しかし、森羅万象の一切をモノに見立てるのは、物的世界観の臆見であり、物象化的錯視であって、現実に、健全なる日本語的常識は“決してモノとは呼ばれ得ざる”「コト」を別途に存立せしめている。例えば、<降る雪>や<雪の白さ>はモノであっても、<雪が降る>ことや<雪が白い>ことは「コト」ではあるがモノではない。」11P
「モノとコトとの区別は、品詞分類の次元で劃定しようとしても所詮は無理である。両者の範疇的な区別を明識するためには、茲にしかるべき手続を介さねばならない。/対象的与件の範疇的分類を整序する手続は、一義的に確定しているわけではなく、幾つかの方途が考えられる。が、誰しも直ちに思い付くのは、牛は家畜である、家畜は動物である、動物は生物である、という方式で何々ハ何々デアルという命題を立て、それが一般的に真であると認められる場合、主語に立つ側を述語に立つ側の下位概念として整序していく手続であろう。この方式がもし汎通的に採られうるとすれば、モノやコトという、上位の概念にまで至りつくことも或いは可能かもしれない。しかし実際には、日本語の「何々ハ何々ナリ」という命題範式にあっては、主語はあらかじめ名詞化されていなければならず、たとえ名詞化されていても、日常的な表現では全称・特称の別が必ずしも分明ではないという難点がある。この難点を免れるためには、例えば、白さというものは……、白いということは……、という形の範式、すなわち/○○というものは……である/××というものは……である/という構文図式に“代入”して弁別・整序するのが最善であろう。この範式では、主語の名詞化ならびに全称性の要求が適えられる。のみならずまた、あらゆる語彙・成句・文章(で表わされるものごと)が、範式中の○○または××に代入されうる。」12-3P
「論趣を見易くするために、あらかじめ仮言的に構案を提示しておけば、日本語の語彙・成句・文章で表わされるありとあらゆるものごとが、いずれも、右の範式の○○または××の一方だけに代入されうるとすれば、その際には、われわれはものごとを○○グループと××グループとに区分することができる筈であるし、さらにはまた、当の外延的区分がしかるべき内包的根拠を伴うとすれば、――「モノというコトは……」「コトというモノは……」という“相互的包摂”を拙速におこなうことなく――○○グループのメンバーを「モノ」、××グループのメンバーを「コト」として劃定しうる筈である。/右の仮言的な構案が実際に成立つことを確説すべく、以下では、先ず第一のラウンドとして、○○または××の一方だけへの専一的代入という論件を詰めておき、次で第二のラウンドとして、そこで○○グループを「もの」、××グループを「こと」と規定する権利根拠を討究することにしよう。」13P
[二]
「本項では、謂う所の第一階梯の作業、すなわち、専一的な代入の可否と併せて、両グループの類的特質を見ておこう。○○というモノは……デアル(又は……ヲ為(「な」のルビ)ス、又は……ヲ有(「も」のルビ)ツ)、××というコトは……デアル、という両(「ふた」のルビ)つの範式において/(イ) 文章の形で表わされる事態・・・・・・すなわち、文章(で表わされる事態)は○○(「モノ」のルビ)グループに属せず、専ら必ず××(「コト」のルビ)グループに属する。/(ロ) 名詞およびそれに属する語句(動詞連用形の名詞的用法、・・・・・・) ――この“名詞類”が○○に代入されうることは絮言(「じょげん」のルビ)するまでもない。ところが、・・・・・・“名詞類”のうち少くとも若干のものは、○○にも××にも共に代入されうるかのようにみえる。すなわち、一見したところ、かの専一的代入性が成立っていないようにみえる。/一見“両性的”にみえるこの種の事例にあっても、しかし、結論から先にいえば、実は○○に立つ場合と××に立つ場合とでは意味内容が相異っており、実質的にはやはり専一性が成立っている。/・・・・・・・要するに、○○に代入される場合には単なる“名詞類”であるのにひきかえ、××というコトは……という際の××は、意味内容上は(例えば、「<人類が死滅する>というコトは……」etc.)文章的述定なのである。/(ハ) 副詞・連体詞・接続詞の場合、・・・・・・現実的な発話の文脈においては、それは明らかに文章的述定の省略形である。/(ニ) 動詞・助動詞・形容詞・形容動詞の場合。・・・・・・事実上名詞化されて○○に立つことがありえても、終止形が○○に立つことはありえない。・・・・・・/用言は終止形のかたちで専ら××に立つというこの事実は何を語っているか? ・・・・・・範式「××(「終止形」のルビ)というコトは……」における××は、文章の省略形(つまり主語を省いて述語だけを残存させた形)であることを知り得る。/(小さなポイントで)・・・・・・<強い>というコトは……と、<強いというコト>は……とは、全くの別事であって、断じて混同されてはならない。後者は<強いというコト>一般を、それ自身が主語的に表わす。このかぎりで<強さというモノ>と殆んど同義的になりうる。――ここにあっては、モノおよびコトという詞が、いわゆる形式名詞を造出する機能を担っており、<強さというモノ>および<強さというコト>という長大な名詞になっている――。これに対して、われわれが今回問題にしている前者の範式「<××(「強い」のルビ)>ということは……」においては、<強い>に対する意味上の特定主語が、たとえば漠然とではあれ別途に存在するというのが現実的な用法の場での実態の筈であって、前記の“疑念”は正鵠を射ていない。それはわれわれが右に戒めた混同から生ずる似而非問題であり、安んじて卻けることができる――。」14-7P
「暫定的に小括すれば、○○に代入されうるのは“名詞類” (で表わされる与件)であるのに対して、××に代入されうるのは――たとえ各種語句のかたちをとっていようとも――実質的にその都度の論脈での文章(で表わされる事態)である。」17P
「ところで、しかし、“単なる名詞類で表わされる与件”とは何の謂いであり、そして、“実質上の文章で表わされる事態”とは何の謂いであるのか。後者がもし常に明示的な文章の形で現われるのであれば、前者との区別も一応明瞭であろうが、しかし、外形的には後者もしばしば“名詞類”と同型であり、両者の区別は必ずしも簡明ではない。事実上の文章態という言い方は差当っては未だ臆言の域を出ていない。」17-8P
[三]
(この項の問題設定)「一切のものごとを○○グループと××グループとのいずれかに一義的に配属させることが可能だとしても、そして、前者を「もの」グループ、後者を「こと」グループと呼んだとしても、このこと自体ではまだ外面的な命名たるにすぎず、果たして夫々が「もの」および「こと」という概念に適合的であるかどうか、これは別途に検討を要する問題である。」18P
「偖(「さて」のルビ)、われわれの拠った○○というモノは……、××というコトは……、という範式は、何々という云々(「△△」のルビ)は……、という構文図式になっており、その点で、例えば、犬という動物(「△△」のルビ)は……、柿という果物(「△△」のルビ)は……、等と同一の構文図式である。われわれとしては、ひとまず、この形式的事実に留目して議論を進めることにしよう。/日本語の用語法では、一般に、何々という云々(「△△」のルビ) ……はというかたちの構文図式を充たす場合、右に挙げた「犬という動物(「△△」のルビ)」や「柿という果物(「△△」のルビ)」の例からも判るように、何々(犬・柿)は云々(「△△」のルビ)(動物・果物)という概念に下属する。すなわち、判断的に定式化していえば、何々(犬)ハ云々(「△△」のルビ) (動物)デアルと認定される。/この通則からすれば、○○というモノは……、××というコトは……、という構文図式を充足する以上、○○はモノ(「△△」のルビ)に下属し、○○ハもの(「△△」のルビ)デアリ、××はコト(「△△」のルビ)に下属し、××ハこと(「△△」のルビ)デアル、と言える筈である。」18-9P
(小さなポイントで)「われわれが自覚的に採った方式は、かくして、国語学者たちが語義(概念)確定に際して恐らく暗黙のうちに援用している筈の方式と吻合するものであり、それゆえ、われわれは――「モノというコト」「コトというモノ」という直接的な代入は暫く措き――臆するところなく、○○グループのメンバーを「もの」、××グループのメンバーを「こと」と見做すことが出来る。」20P
「・・・・・・具体的な文脈におけるその都度ごとに、そのモノとは何か、そのコトとは何か、それを確定してみれば、モノの場合には○○(つまり、名詞や名詞句)で指称できるのに対して、コトの場合には××(つまり、文章的成態)でしか表わせない。」20P
「そもそも、コトという詞は、文章をそっくりそのまま名詞化して、犬が走ること、風が強いこと、波が静かであること、etc.長大な名詞を造出する機能を演じる。前掲の「走ること」「早いこと」、etc.は、右のごとき名詞化された文章の省略形というわけではないが、その都度の特個的な主語を捨象するという仕方で当該の事態を抽象・一般化したものにほかならないであろう。/とすれば、このケースにおいてもやはり、「コト」は元来“文章態”に応ずる詞であるということができ、ここでもまた、かの××グループは、日本語の即自的な言語意識における「こと」とアイデンティファイされる次第である。」21-2P
「「もの」は恐らく原初的には「普通名詞」で指称されるごとき有体的な対象を表わす詞から次第に無体的な対象にまで推及されるに至ったのではないかと考えられるが、「こと」は――よしんば当初は、殊更に事を構えたり事を起こしたりすることごとしい「事」のかたちで意識されたにせよ、――そもそものはじめから即自的には文章態に応ずることがらの謂いであったのではないか。/上代日本語においては、言(「こと」のルビ)と事(「こと」のルビ)とが未分化であったといわれるが、「言」は、今日的にいえば単語ではなくして、仮令一語文であれ、ひとまとまりの思念を表わす文章の筈である。とすれば、この意味での「言」(すなわち、文章態!)に照応する「事」はまさしくかの××に吻合するといえよう。/漢語の「事」すなわち――史(「かきやく」のルビ)が記述するところの所記的な対象態、それは「もの」ではなく、まさしく文章態に応ずる事態にほかなるまい。/大野晋氏は「コトが、時間的に推移し、進行して行く出来事や行為を指すのに対して、モノの指す対象は、時間的経過に伴う変化がない。存在としてそのまま不変である」と書いておられる。・・・・・・とはいえ、眼目は、この時間性そのものではなく、「何々が何々する」という文章態に存するのではないか。・・・・・・」22-3P
 三 被指態(モノ)と叙示態(コト)
(この節の問題設定)「われわれは「もの」と「こと」との存在論的区別を対自化すべく日常的言語意識におけるモノとコトの即自的な使い分けに留目したのであったが、その際「もの」=“名詞類”で表わされる与件、「こと」=“文章態”で表わされる事態、という指摘それ自身はわれわれにとって所詮暫定的な手続たるにすぎない。わけても、前世紀後半から今世紀にかけての認識論的・論理学的・意味論的省察を経てきた今日の哲学においては、「文章」(Satz=命題)というとき、通常の文法的主語・述語論をそのまま追認するがごときは最早論外であって、所謂「超(「メタ」のルビ)文法的主辞・賓辞」論の視座から、日常的文法を定礎し直すことが当然の要件になる。「名詞」なる概念もまた意味論的に再検討を要することは附言するまでもない。/此処では、もとより、超文法の主辞・賓辞論の主題的展開を事とするものではないが、言語形象の機能的構造の一斑にも留目しつつ、「もの」ならびに「こと」という意味成態を認識論的=存在論的に問題にしておく次序である。」25-6P
[一]
(この項の問題設定)「識者のうちには、恐らく、われわれが前節において論じた“名詞類”と“文章態”との区分から、A・マイノングのObjektとObjektivとを連想されたむきも尠(「すくな」のルビ)くないことであろう。慥かに、言語的形式のうえからすれば、マイノングのいうObjektは名詞で表わされる客体であり、Objektivは文章で表される客観的事態の謂いである。このかぎりでは、われわれの暫定的提題はマイノングの「対象論」Gegenstandstheorieと相通ずる契機をもつ。が、しかし、存在論的・認識論的な了解の内実においては、われわれはマイノングないしその同類の既成理論とは決定的に別れざるをえない。/ここは学説史的回顧を企てる場所ではないが、敢てネガティヴに截(「き」のルビ)っておけば、ボルツァーノの命題自体Satz an sich以来ベルクマンの「思念されたもの」das Gedachteブレンターノやマルティの「判断内容」Urteilsinhaltフッサールやシュトゥンプの「事態」Sachverhaltゴンペルツの「客観的な意味における思想」Gedanke in objektivem Sinneラスクの「第一次的客観」Primäres Objekt等々――言語的に表現すればいずれも主語・述語構造をもった文章で表わされる――“高次対象”を論考した一連の理説は、存在論的・認識論的にみて、到底そのまま採ることはできない。」26-7P
「われわれのみるところ、当該一連の理説は、対象的存立の間主観的=共同主観的な被媒介性を閉却し、ために、(高次的対象)を自存的な存在とみなす物象化的錯視に陥っている。あまつさえ、論者たちは、実体的諸対象を以て第一次的存在とみなし、事態的“高次対象”を副次的存在形態とみなす倒錯を犯している。蓋し、われわれとしては先哲の遺業――就中ラスクの「超文法的(「メタグラマーティッレ」のルビ)主辞・賓辞論」やマイノングのAnnahme (仮定)論――に多くを教えられつつも、原理的な次元では厳しく卻けざるを得ぬ所以である。(この間の事情については、拙著『世界の共同主観的存在構造』所収の「判断の認識論的基礎構造」を参照されたい)。」27P
「世界現相はその都度すでに与件を単なるそれ以上の或るもの etwas Mehrとして現前せしめ、意識はその都度の与件単なるそれ以外の或るもの etwas Anderesとして覚知する。Gegebenes (所与) gilt etwas Anderesという世界現相のこの在り方は、言語的活動の存立実態にも、当然、具現している。」27-8P
「言語活動の最も基礎的な場面は――それが外語となって表出されようと、さしあたり内語にとどまろうと――例えば、牛(だ)、火事(!)、動く、逃げる、黒い、大きい、といった、一語文のかたちをとるものであろう。そこで<牛>として覚知されるところの与件、あるいはまた<動く>として、<黒い>として覚知されるところの与件を現示的に意識する場合には、コレは牛(だ)、コレは動く、コレは黒い……というかたちになる次第であるが、畢竟(「ひっきょう」のルビ)するに与件コレが<牛>として、与件コレが<動く>として、与件コレが<黒い>として、述定されるという構造を呈する。/一般化して類型を挙げれば、それは次の三つに分かれる。/(1) コレは何々(だ)[基礎認知] 。例 コレは牛(だ)。/(2)  コレは然々する[能知把握]。例 コレは逃げる。/(3) コレは斯々しい[性状規定]。例 コレは大きい。/右の類型において、(1)の「何々」つまり認知される基質は文法的にいわゆる「名詞」、(2)の「然々する」つまり把握される能知はいわゆる「動詞」、(3)の「斯々しい」つまり、規定される性状はいわゆる「形容詞」に照応する。」28P
「・・・・・・が、第一に銘記さるべきことは、哲学の世界では昔から常識になっている通り、いわゆる動詞や形容詞だけでなく、名詞もまた第一次的には(1)の類型における述定詞だということである。」29P
「人々はしばしば文章の基本形式を「名詞+動詞」のかたちで考え、名詞というものは第一次的には主語に立つものであるかのように見做し、また形容詞というものは第一次的には名詞の修飾語であるかのように見做しがちであるが、いわゆる名詞も形容詞も、動詞と同様に、第一次的にはあくまで、述定詞であることを念頭に収めておかねばならない。――いわゆる「名詞+用言」の文章、例えば、「牛が黒い」は、意味構造のうえからみれば「コレは牛(だ)[ソノ]牛[デアルコレ]が黒い」であって、それは第二次的成体なのである。」29P
「前掲の類型(1) (2) (3)における指示詞コレの位置に、基質述定詞たるいわゆる名詞「何々」はそのままのかたちで代入されうるのに対して、能知述定詞=動詞「然々する」および性状述定詞=形容詞「斯々しい」は代入に際して一定の変形(動詞の場合には語尾を省くとか連用形のかたちにするとか、形容詞の場合には「語幹+さ」のかたちにするとかいう変形)を要する。このような相違があるにせよ、ともあれ、しかし、原基的には述定詞であるところのものが、二重的述定文たる「何々は云々」という形の文章において主語の位置に立ちうるということ、そして、まさしくそのことにおいていわゆる「名詞化」がおこなわれるということ、われわれはこの件に即して当座の議論を進めることが出来る。」29P
「論件の所在を予示していえば、「何々は云々」というかたちの文章ないし、Objektivにおける、いわゆる主語「何々」、つまりMeinongsches Objektは、意味構造上、「被述定的提示詞」とでもいうべき性格のものになっている。この間の経緯を論考しつつ、まずは「もの」に対する「こと」の第一次性を論決しておこう。」30P
[二]
(この項の問題設定)「前項では、牛(だ)、逃げる、大きい、という一語文に照応する事態を対自化するとき、(1)コレは牛(だ)、(2)コレは動く、(3)コレは大きい、といった分節的な構造を呈することについて述べ、(1)基質認知、(2)能相把握、(3)性状規定という類型化を施しておいたが、そこには分析的討究を要する問題が残されている。」30P
「謂う所の(1) (2) (3)において同じく「コレ」という詞でetwasが提示されるとはいえ、それと述定詞との関係には種別的な差異がある。/「牛(だ)」「動く」「大きい」という対象意識が反省以前的に分節化された事態、すなわち、(1) コレは牛(だ)、(2) コレは動く、(3) コレは大きい、という事態において、それぞれの「コレ」は、当初の<牛(だ)ということ><動くということ><大きいということ>に対してetwas Anderesである。/このetwas Anderesたる「コレ」は、(1)においては基質たる「牛」の当体であり、(2)においては能相たる「動き」の主体であり、(3)においては性状たる「大きさ」の基体である、と呼ぶことができよう。このさい、(1)当体−基質、(2)主体−能相、(3)基体−性状、それぞれの分節化は共時的・共軛的に生ずるのであって、全体としての述定態は、(1)コレ(当体)は基質何々(牛)デアル、(2)コレ(主体)は能相然々(動き)ヲ為ス、(3)コレ(基体)は性状斯々(大きさ)ヲ有ツ、という自己区別的統一態eine sich-selbst-Ur-teilende-Einheitとして存立する。/「コレ」、つまり、当体・主体・基体は、それについて述定される、基質・能相・性状とはetwas Anderesとして区別性において意識されていると同時に、述定的統一性に留目していえば、(1)何々というときすでに当体の基質であり、(2)然々というとき主体の能相、(3)斯々というとき基体の性状、である。」30-1P
「視角をかえてみれば、「コレ」は、(1)何々デアル当体(牛デアルところのコレ)、(2)然々ヲ為ス主体(動クところのコレ)、(3) 斯々ヲ有ツ基体(大キイところのコレ)である。この際、例えば、牛デアルところのコレが動クところのコレでもあり、かつまた、動クところのコレでもあることが反省的に認知されうる。そのようなetwas Identisches (或る同じモノ)が「実体」(第一実体)として思念されてきたものにほかならないであろう。――われわれ自身、斯様な「コレ」を実体と呼ぶことにする場合には、<三角形>として述定されるところの当体のごときも、それが、例えば外接円ニ接スル主体であったり、大きさヲ有ツ基体であったりしうるかぎり、謂うところの「実体」のうちに算入することを許される筈である。」31P
「翻って、実体たる「コレ」から区別される基質・能相・性状そのもの(als solches)が、それ自身、あらためて、それについて、述定される当体etc.たりうる。そのことにおいて、基質何々、能相然々、性状斯々が、言語的には名詞で表現されるところの、例えば「牛」、「動き」、「大きさ」というものとして措定される。――そして、それが自明の既成感を伴って表象的に定着してしまっている場合には、これは牛というものだ、これは動きというものだ、等々の表現が可能になり、さらには、既定的陳述様相詞ともいうべき「……トハ……するモノダ」(子供とは動き廻るものだ、牛は大きいものだ)、というような詞「モノ」の“用法”が成立し、さらには「若いんですモノ」といった用法も生ずることになる――。」31-2P
「「もの」というとき、所謂「第一実体」を以て勝義の「もの」と考えるむきもあるが、第一実体それ自身が果たして「もの」と呼ばれうるかどうか、これには異見の余地があろう。しかし、反省的に措定されて被述定的に提示されるところの etwas, 例えばコノ牛、etc.つまり、牛であるところの当体、動くところの主体、大きいところのその基体、これが日常的に「もの」と呼ばれていることに絮言を須いまい。基質何々、能相然々、性状斯々も、それが被述定的に提示されるところのetwasとなるかぎり、牛というもの、動きというもの、大きさというものetc.「牛」「動き」「大きさ」といった“名詞類”で表わされ、日常的・即自的な意識において「もの」として扱われている。」32P
「ところで、牛であること、動くこと、大きいこと、――<コレは牛だということ><コレは動くということ><コレは大きいということ>――それは、牛である当体でもなければ基質「牛」でもなく、動く主体でもなければ能相「動き」でもなく、大きい基体でもなければ性状「大きさ」でもない。それは、畢竟するに「もの」ではなく、あくまで統一的な被述定的措定態als solchesである。」32P
「省れば、前節において、われわれが「“名詞類”で表わされるところの与件」という暫定的な表現で指称しておいた「もの」というのは、爰での表現でいえば、「被述定的に提示されるところのetwas」の謂いにほかならなかったのであり、「“文章態”で表わされるところの事態」と称しておいて「こと」というのは、「被述定的に措定されているところのかのEinheit」つまり、かの「自己区別的統一態」(これはもとより二重的述定の所産たる「何々(「◌◌」のルビ)は云々」という形のものを含みうる)の謂いにほかならなかったのである。」32-3P
「以上の行論を通じて明らかなように、「もの」に対して「こと」の方が第一次的である。一語文的に表わされる「牛(だ)」「動く」「大きい」……etc.の述定態――乃至、コレが牛デアルこと、コレが動クこと、コレが大キイこと……etc.の叙示態――此等「こと」が第一次的であり、反省的な措定において、一方の極における、それが牛デアルところのもの(当体)、それが動クところのもの(主体)、それが大キイところのもの(基体)、および、他の極における、基質・能相・性状、つまり、「牛」「動き」「大きさ」というもの此等「もの」が被媒介的にFür-sich-werden(自成)する。」33P
[三]
「物的世界像が定着している所以でもあるが、人々はとかく「物」にしか実在性を認めない傾向があり、「事」にそれ固有の存在性を認める場合であっても、事はたかだか物の実在性に根差す派生的なものにすぎないかのように見做しがちである。われわれとしては、しかし、まさしくこの臆見を卻けねばならない。」34P
「偖、その場合、当の或るものが、牛だ、家畜だ、生物だ……etc.と述定されるのは/(イ) 主観的な概念規定の「結合」的投与であるのか? それとも、/(ロ) 客観的な事実性の「分析」的追認であるのか?/もし、(イ)だとすれば、当の或るものは、それ自身としてはまだ「牛」とも「家畜」とも「生物」etc.ともいえない単なるxであって、積極的にコノものとすら言えない筈である。けだし、コノ「もの」という述定は、論者たちの発想に基くとき、主観的な規定づけと言わざるを得ないからである。そこで、もし、(ロ)だとすれば、当体はそれ自身ですでに、牛であり、家畜であり、生物etc.である、のであるから、コノ牛というものが在るコトとソレが牛デアルこと(黒い牛が居るコトとソレが牛デアルコト) etc.「もの」の実在性と「こと」の事実性とはとりあえず同値である。この立場では“客観的”にはソレは、牛というものであり、家畜というものでもあり、哺乳動物というものでもあり、……云々云々というものでもある。しかし、それがいま(家畜というものとしてでも、哺乳動物としてでもなく、さしあたり)牛というものとしてあるのは、当面、ソレが(家畜etc.としてではなく)牛(ダ)として認知されていることにおいての筈である。とすれば、この立場でも、牛(デアル)という被措定態(ここでは勿論、主観的と解される意味での“判断”ではなく「牛である」という事態)、つまり、ソレが「牛デアルこと」の方がわれわれにとって第一次的であると言わざるをえないであろう。・・・・・・翻って(イ)の立場においても、謂うところの「牛」というもの、「家畜」というもの、況や「黒い牛」というものetc.がわれわれにとってものDing für unsになるのは、与件xが「牛」として、「家畜」etc.として措定されることによってであることが認められる。それゆえ、われわれにとっての「もの」と「こと」とに関するかぎり、ここでも「こと」のほうが基底的・第一次的である。」35-6P
「真の論件は、しかし、かかる規定づけ(ないし規定性の分析的追認)がそれに関しておこなわれる当体たるかのx(第一実体)こそが第一次的に存在する真のものではないのか――いわゆる「もの」Ding für unsはせいぜい第二次的な存在にすぎないのではないか――という問題である。是に応えることがわれわれにとって真の要件をなす。」36P
「今問題の見地においては、「牛」「家畜」「生物」etc. etc.として述定される当体は実体的に自己同一的なコノモノであると思念されている。・・・・・・しかし、厳密に考えれば、コレは牛デアルとして述定されるところのコレと、コレは家畜、生物……デアルとして述定されるところのコレとは、精確には決して同じではない。その都度の関係規定(視角)における当体、一定の関係性を内に含むその都度の或るもの(「エトヴァス」のルビ)について述定がおこなわれるのであり、牛、家畜、……という別々の述語は、厳密にいえば、別々の主語に対応している。これら相異る主語当体を同一実体として措定するのは、反省的抽象による同一視に俟ってである。ということは、すなわち、かの真に実在するものと称されるところのものが、牛、家畜、生物、――etc.という述定を受ける当体として同一的な実体であるとされる際には、それはすでに同一化的述定に媒介されており、如実のコノモノではないことを意味する。」36-7P
「それでは、この「如実の実体」とはいかなるものであるか? それは、牛(ダ)と述定する際、“先行的に了解”されていて、その規定性のゆえに「牛」(つまり、家畜、生物etc.ならざる牛)として言表される当体の筈である。このようなetwasつまり、ソレが牛であるかぎりでは、家畜であるソレや生物etc.であるソレとは同一視できないごとき当体とは何か? ――通常の思念では、それはかの実体xを或る一定の視角[関係規定]に即してみたものとされる。つまり、「別の視角からみれば家畜、生物etc.とみなされうる或る同一のsomethingを牛という視角からみたもの」、この意味において“実体たるsomethingプラス当該の視角に応ずる関係規定”とみなされる。しかしながら、かかる常識的な思念は原理的には妥当しえない。所謂「関係規定」は当体にとって決して外的・偶有的なものではなく、それはまさしく当体の内実に属し、当体をまさにその当体たらしめる所以の規定性である。――謂うところの“如実の実体”とはかくして、実態においては、或る関係諸規定の結節ともいうべきものになっている次第なのである。」37P
「真の実体(「もの」のルビ)と呼ばれるに値するものが在るとすれば、それは――普通に表象されているような「モノ」とはおよそ存在を異にするetwas――総世界的な関係態そのもの、この意味においての、諸関係の総体にほかならないであろう。」37-8P・・・「フォイエルバッハに関するテーゼ」
「この関の事情を見易くするためにも、「動き」や「大きさ」のケースを視野に収めよう。/普通には、例えば「牛が動く」とか「牛は大きい」とかいう言い方をする。すなわち、動く主体として牛といった“実体”を立て、また、牛というものがそれ自身で「大きい」かのように言表する。しかし、動くということは決して単一の実体の能作ではなく、他者との相関性において存立することであり、動く主体なるものを厳密に措定しようとすれば――牛と地面や周囲の事物との関係といった次元では済まず――それこそ総宇宙的な時間・空間・質量的な関係態を挙げねばなるまい。特定の“実体的”主体、例えば牛なるものが動くというのは、当の関係態を特定の契機に即して物象化的に図Figur化し、他の諸契機を地Grund化する日常的な便法に則ったものではあっても、実態をカヴァーするものではない。「牛が大きい」とか「牛が黒い」とかいう措定も、厳密にいえば、牛なる基体に「大きさ」や「黒さ」といった属性が附着しているのではなく、――「大きさ」は他者との比較関係を実然的に含意し、「黒さ」は光線との関係や視覚機能との関係性において存立するのであって――或る関係態を物象化し謂うなれば凝縮的に帰属化させられたものであるということ、これは見易いところであろう。」38P
「われわれは今此処で「あらゆる物Dingは判断である」というヘーゲルの命題を援用することは差控えるが、いわゆる当体・主体・基体の側も基質・能相・性状の側も、関係態の結節を自存化的に措定したものであり、この措定態たるや、嚮(「さき」のルビ)にみた通り、現相の自己区別的統一態に照応するかの述定態=「こと」に俟つものである。」38-9P
「今や、われわれの謂う「ものに対することの基底性」と「実体に対する関係の第一次性」との相互的関連性に言及すべき次序であるが、茲で銘記しておきたいのは、“実体”に対する「関係」を初めから物象化して「もの」的に表象してはならないという点である。」39P
「第一次的に存在する「関係」態が“つかみ”において現前化するのはまずは「こと」としてである。というよりもむしろ、「こと」というのは第一次的存在性における「関係」の現相的な即自対自態An-und- für-sich-Seinなのであり、この「こと」の契機が被述定的な提示態として対他的に自存化されることにおいていわゆる「もの」が形象化gestaltenされ、“実体”がhypostasieren (実体化)されるのである。」39P


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2023年12月01日

内海健『金閣を焼かなければならぬ――林養賢と三島由紀夫――』

たわしの読書メモ・・ブログ645
・内海健『金閣を焼かなければならぬ――林養賢と三島由紀夫――』河出書房新社2020
 金閣寺放火事件に関しては、「週刊読売」に掲載された「金閣寺放火事件 (昭和25年)――国宝炎上。人間嫌い、屈折した修行僧は……」を」(「週間読売」1987.2.22 号)という文に抗議的な対話文を送りつけたことがあります(註1)。これがわたしの外に向かっての、「吃音者」としての最初の働きかけ文であると同時に、マスメディアに対する最初の働きかけ文でもあったのですが。その後、わたしはこの事件に関して「吃音者」団体で活動している時に、水上勉『五番町夕霧廊』『金閣炎上』を読み、三島由紀夫『金閣寺』を再読・再々読をする中で、いつくかの文を書いています(註2)。
 そういうところで、この本を紹介した文をインターネットで知り購入しました。
 この本は「三島由紀夫論」としては、それなりに評価をうけるのかも知れないと、思います。わたしは差別する側としての、右翼としての心性はファシズム論では問題にするのですが、そこでの共感などありえません。ただ、彼にも、負い目というようなことがあり、それは、祖母が母親から本人を離隔し、ひととひととの関係性のようなことからも離隔したところでの屈折のようなこと、そして肉体の虚弱姓ということ、そのここと相俟って軍国少年的なところから、徴兵制で落とされたということの負い目のようなことが、それら反動的なところでの右派的思想形成にいたった過程、そのようなこと、わたしは本格的に三島由紀夫論はやってないし、やろうともしていないのですが、それでも入ってきた三島由紀夫論で散々語られてきたことです。
 この本の著者は、精神科医です。それで、三島本人、三島作品の登場人物の精神構造の分析をしています。離隔とナルシズムということがキーワードになっています。
 一方の金閣に放火した「吃音者」の修行僧については、今日的には、「統合失調症」と言われていることを、その当時は「分裂病」と差別的に言われていたことをもって、その現実を押さえるとして、「分裂病」という表現を用いています。実は、ここに著者の「しかけ」が隠されています。本人が自覚しているかどうかは分かりません。「しかけ」というのは、「分裂病」という規定の時代には、「精神気質――精神病質――精神病」という変遷と区分があり、著者のこの事件おける当人の精神状態における評価で、この規定から、事件当時当人は「分裂病は発症していなかった」、「収監された後、発症した」という規定をしています。ただし、どうも放火の行動の時は、「分裂病質」から一時的に突き抜けて「分裂病」的になっていたととれるような書き方になっているとわたしは押さえています。そして、水上勉の共苦の姿勢による作品を、「・・・・・・だが、縷々と説明したのは、先に引用した『金閣炎上』において、水上勉は分裂病質を分裂病と混同しているからである。そして養賢のとった行動を分裂病のなせるわざとすることへの強い憤りが随所に綴られている。水上がこの作品を書いた動因の一部は、こうした読み違えに由来している。」59-60Pを著者は批判しているのですが、そもそも、 「分裂病」という規定が差別的として「統合失調症」規定に変わったときに、そもそも「精神気質――精神病質――精神病」という変移規定自身も消されたのではないかと思います。そもそも「気質」とか「病質」概念が、医学モデル的にも、あやふやな規定は使えない、となっているのではないでしょうか? そもそも認識論的に押さえると、まるで生まれたときからの肉体的「気質」とか「病質」のようなことが潜在的にあって、それが何らかの条件で発病するに至るという押さえ方自体が、物象化的錯認ではないかと思います。
 そういう意味で、また、そもそも、著者の「一時的に突出した」というような、規定自体が、水上勉批判の論理を破綻せしめるのではとわたしは思っています。
 因みに三島『金閣寺』自体も、差別する側・社会から見た、被差別者の主人公のとらえ返しで、わたしは「素晴らしい作品」などとはとてもとらえられないし、著者の精神科医的な主人公への分析も、所詮差別する側からの観点でのとらえ返しになってしまっていると思っています。
 もっとも、著者が、主人公と母の墓探しまででかけているところをとらえると、何か、養賢に共鳴しうる著者のスティグマのようなことがあるのかもしれないとも思ってみたりしているのですが、単にこの著書でとりあげた主人公への思い入れなのでしょうか、その思い入れの中身は何なのでしょう?
(註)

https://71f814c6-f38c-4575-8942-64ac00d26e6a.filesusr.com/ugd/6a934e_7db6f2dac51e49708790287be7794a0b.pdf

https://hiro3ads6.wixsite.com/adshr1/blank-2
追記
 実は、この著作は著者の「実存主義」的概念をサブテーマに展開されています。そのこと自体と対話も必要なのですが、そもそも神と両立した「実存」概念になっているし、実存概念は破綻しているとわたしは押さえているので、そのことについては本文で書きませんでした。
わたしはこの著作を差別する側のひとの文だと思ったのは、いろいろあったのですが、パリの五月革命についての著者の論考です。「かつて、ありふれた青年がメタフィジカルな問いを抱き、その中で狂気を招き寄せる、そうした、実存の季節があった。それが最後の光芒を放ったのは、六八年の五月のパリだろう。いわゆる五月革命と呼ばれるものである。だが、哲学者の小林康夫がいうように、そこには「意味」なるものは存在しない。カルチェ・ラタンの剥がされた舗石から表れた剥き出しの字面のこどく、意味などにはすくいとられぬ権力の中断だったのである。同じ暴力と混乱の坩堝であったフランス革命が、崇高な理念を戴冠しし、物語られ、そして共和制として結実したのに、六八年五月にはサルトルですら沈黙した。」」221-2P・・・「意味」はあります。それは矛盾だらけの社会を変革しようとする意志であり、権力へのプロテクト、いやその存在そのものを否定しようという意志だったのです。

posted by たわし at 04:11| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』(5)

たわしの読書メモ・・ブログ644[廣松ノート(3)]
・廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』勁草書房1975(5)
前回で本論は終わっています。ここでは、このタイトルの単行本自体にはない「解説」を取り上げます。
 まず、文庫版(廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』筑摩書房(ちくま学芸文庫)2007)から。
「解説 廣松渉の時代」野家啓一
4つのパーツから成り立っています。「1」が解説につけられた表題の「廣松渉の時代」の展開。「2」はこの本の第一部の解説。「3」はこの本の第二部の解説。「4」がこの本の第三部の解説。第一部、第二部は、メモ書きは後回しにしたので、ここでもパスします。「1」と「4」だけ切り抜きメモを書きます。
「1」
「すでに六十余年を閲した戦後日本の哲学思想状況を顧みるとき、たしかに、「廣松渉の時代」と呼べる一時期が存在したことを、私はそれを取り巻いていた特有の熱気とともに鮮やかに思い起こすことができる。具体的には一九六〇年代末期から一九八〇年代初期にかけて、すなわち処女作『マルクス主義の成立過程』(一九六八)によるデビューから主著『存在と意味』第一巻(一九八二)の上梓にいたるおよそ十五年間のことである。/そのころ、私を含めて哲学思想に志をもつ若者たちは、廣松渉が次に何を論じ、いかなる発言をするのかを、つまりは彼の一挙手一投足をいわば固唾を呑むようにして見守っていた。そして、新たな論文や著作が発表されるたびごとに、私たち先を争ってそれを読み、次の日には大学の研究室でその可否を議論し合い、あるいは酒場での喧々囂々たる論争の話題としたのである。/むろん、この時代は廣松渉一人によって担われていたわけではない。・・・・・・しかし、そうした百家争鳴の状況の中にあっても、後に「廣松哲学」と呼ばれることになる独自の体系は、いわば原理論としての位置を占めており、その詰屈した文体と相まって、ひときわ光彩を放っていた。「廣松渉の時代」と呼ぶゆえんである。/本書『事的世界観への前哨』(一九七五)は、その廣松渉の時代にあって、ほぼ中間地点を占める重要な著作である。前書『世界の共同主観的存在構造』(一九七二)において、近代哲学の地平を乗り越える新たな哲学構想を開陳し、「四肢構造論」や「共同主観性」を基盤に体系への意志を明らかにした廣松は、本書においてその構想の歴史的意義を二十世紀哲学の文脈の中で確認するとともに、「事的世界観」という山頂を攻略すべく、絶壁にハーケンを打ち込み、ザイルを手繰り寄せてカラビナに固定する作業にひたすら従事している。その前人未踏の岩壁を攀じ登る姿は、見る(読む)者の手に汗を握らしめるほどであり、私たちは本書において著者の息遣いが聞こえる近さで「廣松哲学」の形成現場に立ち会うことができる。その意味で、本書は『存在と意味』へと至る著者の長い道のりにおいて、まさに里程標たることを失わない著作である。」439-41P・・・付け加えれば、この著作は廣松パラダイム転換論を論じるときに欠かせない著作
「4」
「最後の第三部「時間・歴史・人間への視角」に触れる余裕はなくなったが、いずれも各論題についての佳品というべき論考である。そこにおいても、近代的な世界了解の構図を批判的に斥けつつ、哲学的カテゴリーの根本的更新が目指されていることは、容易に読み取られることであろう。とりわけ、「人間論へのプロレゴーメナ」は、仏教哲学の無我論と本格的な対話を試みられている点で異彩を放っている。」450P
「かつてサルトルは『方法の問題』の中で「哲学がその表現にほかならぬ歴史的契機が乗り越えられないあいだ」はその哲学は「乗り越え不可能」なのであり、それゆえ「それを生んだ状況がいまだに乗り越えられていないため、マルクス主義は乗り越えられることはできない」と揚言したことがあった。廣松哲学が近代的な世界了解の地平の全面的な超克を目指した哲学であったことは、縷々述べてきた通りである。だとすれば、われわれもまた、近代的世界像という歴史的契機が乗り越えられない間は、廣松哲学をわれわれの時代の乗り越え不可能な哲学と見なさねばならないであろう。その意味で「廣松渉の時代」はいまだ終わってはいないのである。」451P

「解説」はバラバラに掲載された、『廣松著作集』の各巻にもあります。ここでも、第一部、第二部は省いて、第三部だけ。
「一 時間論のためのメモランダ」「三 人間論へのプロレゴーメナ」が第二巻におさめられています。「二 歴史法則論の問題論的構制」は第十一巻です。

廣松渉『廣松渉著作集 第二巻 弁証法の論理』岩波書店1996
解説
U(「時間論のためのメモランダ」ほか)           野家啓一
「本巻の後半部に収められた論文四篇は、それぞれ時間論、人間論、精神病理学、文化人類学に関わる各論的考察であり、いわば廣松哲学の「応用篇」に当たるものである。そのうちの「時間論のためのメモランダ」および「人間論へのプロレゴーメナ」はともに一九七三年に発表されたものであり、前期の主著『世界の共同主観的存在構造』(本著作集第一巻)への補論の役割を果たすと同時に、後期の体系的展開への重要な布石の意味をもっている。・・・・・・」535P
「周知のように、現代の哲学者の中で廣松渉ほど真摯な関心と旺盛な好奇心とをもって哲学以外の隣接諸科学の分野をあまねく踏査し、その最前線の研究成果を摂取しつつ自らの体系構築を目指した哲学者はいない。彼が踏破した足跡は、すでに一書を成している経済学、心理学、社会学、物理学、科学史の分野は言うに及ばず、歴史学、考古学、宗教学、文化人類学、精神病理学、認知科学にまで広がっている。・・・・・・」535-6P
(1)「時間論のためのメモランダ」
「数ある廣松渉の論文の中で、時間を主題にしたものはこの一篇だけである。しかも「メモランダ」と題されている通り、内容的にはいまだトルソーの段階に留まっており、本格的な時間論の展開は後の課題として残されている。だが、この論文からだけでも、われわれは廣松時間論の基本的結構を取り出すことができる。/言うまでもなく、廣松哲学にとって時間論は二つの面で重要な意味をもつ。第一は科学哲学(時間空間論)の場面であり、第二は歴史哲学(唯物史観)の場面である。そのことを念頭に置きつつ、彼はまず時間表象の類型を「狩猟民型」「農耕民型」「遊牧民型」「旅商人型」に分けて論じる。この部分は廣松による類型化の妙を示して興味深いが、もちろん問題は分類の精緻化ではなく、このような時間表象がいかにして存立するのかということである。そこで彼は時間論の核心を「臆言を憚らずに記せば、時間論の真のプロブレマティックをなすところのものは、中枢的には、いわゆる過去(および未来)の世界といわゆる現在の世界との相関性の構造である」(本巻三八二頁)と定式化する。/その上で廣松は「身体的自我=「私」のこのような自己分裂的自己統一、二肢的二重性における存立(中略)これが過去的世界と未来的世界の存在、ひいては過去・現在・未来の存在という観念の形成にとって存在条件をなすであろう」(本巻三九四頁)と論を進める。言うまでもなく、認識の四肢構造論延長線上に時間論を構想しようというのである。/他方で廣松は、時間形象の共同主観的存在構造を問題にし、時間の自体的存在を物象化的錯認として否定する。つまり、「時間なるものがあってはじめてメロディー的変化や運動が存在するのではない。逆である。運動・変化する世界現相のほうが原基的存在である」(本巻四〇六頁)と述べ、時間に対する運動態の原初性を主張するのである。しかし、彼自身が繰り返し懸念しているように、この路線を突き進めば、過去や未来の存在を否認する一種の「現在主義」を帰結せざるをえない。私見によれば、実体の時間的持続を否定する「事的世界観」の立場にとって、この「現在主義」は不可避のアポリアなのである。廣松は論文の末尾でこのアポリアを「共同主観的認証の存立構造」の視点から解くべきことを示唆しているが、残念ながらその具体的展開は実現されないままに終った。」536-7P
(2)「人間論へのプロレゴーメナ」
「この論文は「人間存在論への覚書」の一部として発表されたものであるが、全体の構想は完成されることはなく中断した。もちろん、本論文は独立の論考として十分に吟味耐えうるものである。廣松渉が仏教哲学について端倪すべからざる知識をもっていることは、吉田宏晢との対話集『仏教と事的世界観』(朝日出版社、一九七九年) などによっても窺われるが、その知見の一端は本論文の中でも遺憾なく披瀝されている。/廣松は冒頭で自分が「人間主義」に与するものではないことを断りながら、まずマックス・シェーラーの『宇宙における人間の位置』を引用することから論を始めている。シェーラーによれば、ヨーロッパの人間観においては、ユダヤ・キリスト教の思想圏、ギリシャ・古代的な思想圏、近代自然科学的な思想圏という「三つの理念圏」がせめぎあっている。それに対して廣松は、人間を考える際にもう一つの理念圏、すなわち仏教の「無我説」を無視し得ないことを強調する。そして、『ミリンダ王の問い』を詳細に分析しながら、そこに見られる実体的自我の否認を積極的に評価し、「ヨーロッパ的唯名論と仏教の無我論とはそもそも存在了解の構えが異る」(本巻四二一頁)ことを明らかにする。/その上で廣松はシェーラーについて「彼が伝統的な実体的霊魂観を卻けつつ、しかも、人間の精神的存在性を積極的に説こうとして、恐らくや期せずして、部派仏教の無我論と同趣の発想に近づいている」(本巻四二八頁)ことに一定の評価を与える。しかし、シェーラーの精神概念も部派仏教の無我論も、結局のところ実体主義的な有我論補完物であり、それとの否定的相補性において存立しているにすぎない。そこから廣松は「有我論と無我論との同位的対立の地平そのものを超克しなければならない」(同前)ことを立言する。/そのために廣松がもう一つの理念圏として提出するのが、人間を「間主体的intersubjektiveな共同存在性に即して了解していく理念圏」である。これはアリストテレスによる「社会的動物」としての人間の定義に始まり、ヘーゲルおよびマルクスの「社会的関係の総体」という人間規定に引き継がれている。それゆえ「マルクス的な人間存在の了解の地平においてはじめて、有我論 対 無我論の相補的対立の次元を端的に超出することが可能になる」(本巻四三〇頁)というのが廣松の結論にほかならない。その意味で本論文はマルクス主義の人間観を論じた『マルクス主義の地平』の第二章および第三章と併せ読まれるべきものである。」537-8P

「二 歴史法則論の問題論的構制」は第十一巻です。他の論攷の解説もあるのですが、当該の部分だけのメモにします。ただし、この解説は、論文ごとの解説ではなく、他の論文とつながっているので、厳密に、当該の論文だけの解説にはなっていません。
廣松渉『廣松渉著作集 第十一巻 唯物史観』岩波書店1997
 解説         山本耕一
五 歴史法則論
「「歴史法則」論は、あらためて指摘するまでもなく、唯物史観における最重要のテーマのひとつであり、廣松も、いくつかの論稿をこの主題にあてている。そして、廣松が歴史法則を論じるにあたってとる構えは、一連の論稿を通じて、ほぼ一貫しているとみることができる。われわれは、したがって、歴史法則については、廣松の完成された議論を手にしているといえるだろう。/歴史が一定の「法則性」を有するというのは、唯物史観の“常識”に属することがらであろう。歴史における法則性という発想には、しかしながら、アンチノミーないしジレンマがつきまとうことを廣松は指摘する。すなわち、近代的な世界了解の地平にあっては、歴史に法則性を認めることは、歴史の進行に関して決定論の立場をとることを意味する。一方、個人の主体的自由を重視して、非決定論の側にくみするならば、歴史における法則性の存在は、全面的に否定されることになるのである(本巻六頁以下)。/この「歴史法則性に関する決定論的了解と諸個人の有意的行為に関する非決定論的了解との二律背反」という問題は、エンゲルスによって一応の解決をみているというのが廣松の理解である。周知のようにエンゲルスは『フォイエルバッハ論』のうちで、「多くの方向にはたらく意志、ならびに、これらの意志の外界に対する多肢多様なはたらきかけの合成力がまさしく歴史にほかならない」こと、この際、個人の有意的行為は無制約的ではなく、ある「動因」からの制約をこうむるのであり、その結果として、諸個人の行為の「合成力」が一定の法則性をもつようになることを主張している(MEW,Bd.21,S269if.)。/エンゲルスのこのような議論は、しかし、構図の呈示の域をいくばくも出てはいない。したがって、「唯物史観」の発展的継承をくわだてる場合には、この構図に具体的な内実をあたえることが必須となる。廣松の歴史法則論は、まさに、この課題に応えることをめざすのである。/廣松は、まず、例の決定論と非決定論のアポリアの背後には近代的な「法則」観が存在することを指摘する。近代知の地平にあっては、法則は、「謂わばミサイルを誘導するビームのように、事象が自分に則って進行するよう、事象の進行が逸脱しないよう、何らかの規定的な作用を及ぼすものであるかのように了解されがちである。」(本巻五四一頁)このような了解から、「一義的・必然的な法則性の支配的貫徹」という決定論的な歴史観が帰結するのはみやすいところであろう。例のアポリアは、したがって、このような法則観をしりぞけないかぎり打開できないことになる。/近代的な「法則」理解にかわる歴史法則観を構想するためには、当然のことながら、歴史とは何かを問う必要がある。廣松唯物史観にあっては、歴史は、「人間―環境系」という「連関態」の「総体的遷移」として規定される(『マルクス主義の理路』、本著作集第十巻、四八九頁)。この規定が、すでにみた「<種内-種間-対環境>関係態」の「階梯的展開=遷移」と等値されることは、あらためて指摘するまでもあるまい。/<人間-環境>系、すなわち人間生態系の基幹をなすのは、物質的生産のための協働連関であるが、これをふくむ対自然的・間人間的な関係の総体を、廣松は、役割編成態としてとらえかえす。このような了解からは、とりあえず、次のような論点が導出されることになる。/第一に、個人は、役割編成態という函数的連関態の「項」にすぎない(本巻五五六頁以下)。マルクスとともに個人の実体化をきびしくしりぞける廣松の姿勢は、歴史法則を考察する場面でもかわることはない。第二に、そうである以上、「協働的役柄遂行の構造的成体」は、「個々人の営為に対して既在的に現前」することになる。そして、個々の構成員が人格的に入れかわっても、当の「構造的成体」は「ゲシュタルト的安定性=同型性(isomorphism)」を保つのである。(本巻五六一頁)。ここで注意しなければならないのは、役割編成態は実体化されてはならないということである。それは、あくまでも函数連関態でしかない。個人の実体化と同様に、社会の実体化もしりぞけるというのは、周知のように、マルクスと廣松に共通の発想であるが、役割編成態としての社会という了解の根底にあるのはこのような発想なのである。最後に、この連関態、構造的成体における個人の行動、すなわち役割行動は、演劇の「舞台、背景、道具」になぞらえられるような「既成の条件」のもとで(「つまり、先行する世代ならびに既往における自分たちの成果に立脚して」)、「おおむね習慣的に既成化された」様式にのっとっておこなわれる(本巻五六一頁)。『マルクス主義の理路』のうちで、「最広義の規範」として規定されているのは、このような「様式」にほかならない(本著作集第十巻、四九二頁)。/以上の諸点をふまえるなら、人間生態系のサクセッションについての廣松の見解は次のようになろう。すなわち、「歴史の法則性と人間の主体性」のうちの表現をかりるなら、「諸個人の現在的営為がしかじかの状態を現出する、そしてその状態が制約条件になってその場面での人々の営為が制約条件になってその場面での人々の営為がしかじかに遂行される、そしてそこに現出される状態が……」(本巻一一頁)というのが、人間生態系の遷移の一般的ありかたなのである。/廣松によれば、このような展相に関する将来的予測にもとづいて、「現在から未来にかけての歴史とその法則」が、「予言的に立言される」ことになる(同上)。また、「過去の歴史法則」に関しては、人間生態系の遷移的動態の「過去」についての記述のうちに「法則的推移を見出しうる」なら、「それを『歴史の法則』として述定する」ことが可能になるというのが廣松の立場である(本巻五六一頁)。/このような歴史法則観が、近代特有の因果法則的な法則観とおよそ相容れないことは自明である。それゆえ廣松は、「物象化された歴史的一現象を以て作用原因となしそれに対応する歴史的結果なるものを配位していく」という「いわゆる因果法則的説明主義」をしりぞける。廣松が、これにかわるものとして提唱するのは、役割編成態の「生態系的動態そのもの」の記述をめざす「函数的連関的記述主義の態度」である(本巻五六三頁)。これが、歴史記述における文字通りの革命であることは、あらためて指摘するにはおよばないであろう。」574-7P

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斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』

たわしの読書メモ・・ブログ643
・斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』KADOKAWA2022
 斎藤幸平さんの本四冊目。毎日新聞の文化面で2020年4月から2022年3月にわたって連載された「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を書籍化した」196Pものです。書き切れなかったことを書き加え、最後の二つを書き下ろしして入れてです。
 斎藤さんは、マルクスの文献学的研究から、論を立てていったひとで、学究の学者は現場を知らないという批判が起きることを自らとらえ返し、今話題になっている「現場」を見てみようと、コロナ禍の困難ななかで、あちこちに出かけインタビューし、実体験もしています。
 内容的には、いかに資本主義の矛盾の中にさまざまな「現場」(――共事性)があるのかを展開していて、それを著者が<コモン>としてどう開いていくかも、暗に示しています。まあ、学をやるひとへ向けた、エッセー風の資本主義批判の入門書的な位置付けも、わたしは感じていました。まあ、市井の研究者は大方自分の被差別の当事者性から入るので、斎藤さんの当事者性がとらえられず、こういうところから入る道もあるのだと思っていたのですが。
 著者は真摯なひとで、「研究者の暴力性」213Pやエリート学者がもってしまう「マジョリティの共事性」を自己批判的にとらえかえそうとしています。そういうところで、「学び捨て」とか、共事性(とりわけ非当事者の共事性)とか、<コモン>ということを突き出しています。エッセー風の本なので読みやすい本です。概略的な内容をつかんでもらうために目次を出しておきます。
   目次
 まえがき
第一章 社会の変化や違和感に向き合う
ウーバーイーツで配達してみた 自由と自己責任と
どうなのテレワーク 見直せ、大切な「無駄」
京大タテカン文化考 表現の自由の原体験
メガヒット、あつ森をやってみた 平等で公正な社会の幻
5人で林業 ワーカーズコープに学ぶ 「よい仕事」を自ら提案
五輪の陰 成長へひた走る暴力性
男性メイクを考える 「自分らしさ」の道具にも
何をどう伝える? 子どもの性教育 相手を尊重する心が大切
第二章 気候変動の地球で
電力を考える 1人の力が大きな波に
世界を救う? 昆虫食 価値観の壁を越えれば
未来の「切り札」? 培養肉 食のかたちをどう変えるか
若者が企業 ジビエ業の現場 日本の食を正視する
エコファッションを考える 「捨てない」道の可能性
レッツ! 脱プラ生活 不便と向き合う体験
「気候不正義」に異議 若者のスト おかしなことには声を上げる
第三章 偏見を見直し公正な社会へ
差別にあえぐ外国人労働者たち 自分事として
ミャンマーのためにできること 知ることが第一歩
釜ケ崎で考える野宿者への差別 内なる偏見に目を
今も進行形、水俣病問題 誰もが当事者
水平社創立100年 若い世代は今
石巻で考える持続可能な復興 消費とは別の価値観の上に
福島:いわきで自分を見つめる 「共事者」として

特別回 アイヌの今 感情に言葉を
学び、変わる 未来のために あとがきに代えて
初出年月日一覧

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市川沙央『ハンチバック』

たわしの読書メモ・・ブログ642
・市川沙央『ハンチバック』文藝春秋社2023
 これは小説です。2023年度の芥川賞の受賞作で、SNSの「障害者」関係サイドでも話題になっていました。何かしんどそうな予感がしていて、それでも障害問題を論じてきた立場で読んでおかねばと手にした本です。そして、コメントするメモを残すことを躊躇している自分がいるのですが、やはり敢えてこの読書メモを残します。
これは小説なので、フィクションなのです。そして、どのようにも読み解けるのです。
ただ、主人公を自分と同じ「障害者」として描いています。本の筆者紹介の文があります。「一九七九年生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境学科卒業。筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動車椅子当事者。本作で第一二八回文學界新人賞を受賞しデビュー。」
わたしは差別語も問題にしてきた立場で、差別語を使うことが差別を広めてしまうことを恐れつつ、それでも問題の所在を明らかにするために、敢えて書くのですが、著者は、この本の中で、「ハンチパック」というルビをつけて、開き直り的に「せむし」という差別語と指摘される言葉も使っています。わたしは、「吃音者」と規定される「障害者」ですが、開き直り的に「どもり」という言葉を突き出すことと類比的です。「吃音者」の置かれている、マージナルパーソンという性格からして、類比の対話の困難性があります。この文を書きながら、開き直り的に突き出すとはいえ、差別社会の中では自虐的にとらえられる、そこから抜け出せないのかなということも感じたりしています。
自分の「障害」のことを自分を知って欲しいという思いがあるのでしょうか?  フィクション性のなかで、葛藤をテーマにしてひと――自分を描こうとしている可能性も考えさせられています。
 この小説は、主人公がインターネットで小説を書いていて、それを仕事にしている、ただし、親がマンションを遺産として残し、そこをグループホーム的に管理するマネージャーを置いています。親の遺産で金を稼ぐ必要はなく、小説を書いて稼いだ金は寄付しています。主人公の書く小説は性的な小説です。
このあたり、長く「障害者」には性的なことがタブーになっていることがあり、それは、この小説の中で名前を出でてくる安積遊歩さんが『癒しのセクシー・トリップ―わたしは車イスの私が好き!』太郎次郎社1993 で指摘し、そのことを乗り越えるべく、実践していった取り組みがあります。著者が小説の中での設定は、「障害者の性のタブー化」への挑戦という意味ももっているのかなと、わたしは感じています。
その挑戦は、これは小説でフィクション性の上で、ですが、「妊娠して中絶したい」というところの願望へ至るのです。「障害者」とフェミニズムの「対立」(註1)ということの中で議論されていたことへの挑戦という意味も持っています。妊娠して子どもを産むということは自分の体では耐えられないから、「妊娠して中絶する」ことをやりたいという、突き出しなのです。「うっ」と唸るような突き出しなのですが。
実は、そのような突き出しは、「障害者」同士で、「障害者」と介助者の間でなされていました(註2)。そのことは、風俗へ行くことを介助するなり、自慰の介助として実践されていることや、フェミニズムの中で、「売春制度を伴った一夫一妻の家父長制の中で、主婦とは専業売春にすぎないとして、「売春」を職業の選択として認めよ」という突き出しもなされていました(ただし、これは第三世界の幼児売春に端的に現れるように、貧困などによる性搾取をどうとらえるのかという批判が当然出てきます)。そして、そのような中で、「障害者」に対する出張介助を仕事にするという女性も出ていました。
 この社会のマジョリティの意識(註3)からすると、往々にして「屈折した意識」としてとらえられることなのですが、そもそも差別が屈折させているのだという反批判が突き出されます(註4)。
 架空とは言え、他者の意識をどうこう批評することではないので、自分の「屈折した意識」の話をします。
 わたしは、思春期のまっただ中で、「吃音の否定性」にとらわれて、自死願望を浮遊させて、白日夢の世界にいました。そして、「恋のATSが形成されていた」と自称していました。そして、ちゃんとした恋愛経験ももっていません。そして運動人間になったわたしは運動の中に恋愛感情は持ちこまないというストイックな意識も形成し、幸か不幸か、女性から言い寄られることもなく、「屈折した」ととらえられる人生を歩んでいます。
 ですから、恋愛とか性の話はともかく、性愛のようなことは不得手で、冒頭に書いたように、この文を書きながら、躊躇し続けています。
 最後に運動人間のわたしとして、この本の中ででてくる紙の文書の頁をめくること自体が、自分の命を削るような行為になるという話について、コメントしておきます。
 今、というよりだいぶ前から、とりわけ「障害者運動」関係の本ではテキストファイルとの引き替え券をつけることがあって、「視覚障害者」だけが対象と思い込んでいるひとがいるのですが、肢体のひとも含まれています。わたしが本を出したときに、出版社が「障害者」関係の出版社ではなく、個別対応をすると本の中に書いていたので、「本のページをめくれないので、テキストファイルが欲しい」というメールがきて、テキストファイルを送りました。そもそも「自炊」という、本を裁断してスキャナーにかけることをやっている「視覚障害者」もいます。この本のなかでも「自炊」のはなしが出ていて、制限されているという話も出ているのですが、それこそ運動の課題なのだと思っています。
 さて、話がどんどん外れていくのですが、この本を読んでなくて、読んでいても、多分こんなわたしの文を見て、「介助者に頁をめくらせればいい話じゃないか」という話がでてくると思うのですが、作者は筋肉が使わないと使えなくなるというところで、自分ですることを実践しているところで、介助者をできるだけ使わないようにしているという側面があるし、それこそが心理的マージナリティの心理なのだと思います。
また、わたしのマージナルパーソンとしての「障害者」の立場からして、それは「できる」ことを強いられることの社会の中で、強いられてきた歴史がそうさせるのだ、ということを書いておきたいのです。
 わたしも「性的なタブー」をわずかなりとも壊す試みに参画するために、自分が不得手にしていることをあえて書いてしまいました。
 わたしの拙い文でも関心をもたれたり、疑問に思われることあれば、是非この本を読んでください。
(註)
1 「産む・産まないは女が決める」という標語があり、それを「障害者」は、「障害者を胎児の段階で殺すのか」という批判をしました。実は、そもそも産むか産まないかを生きしている情況から規定されていることがあり、その表面的な「対立」を超えることを「誰もが産める情況づくりを」という標語として突き出されました。
2 これは、障害ということだけでなく、「底辺労働者」の集会で、性差別的なことを指摘された労働者が、「俺たちは女から相手にされないんだ」という開き直りを示しました。これは「障害者」の意識ともつながるような話です。学モデル的な「障害」だけでなく、広い意味での障害――差別という概念にも重なっ障害は、医ていくことです。
3 これは廣松渉さんの認識論を障害問題に援用しようとしている立場からすると、「共同主観的意識」という概念になります。
4 かつて、「週間読売」という雑誌・週刊誌で、「写真で見る戦後事件史F」として「金閣寺放火事件(昭和25年) 国宝炎上。人間嫌い、屈折した修行僧は……」というタイトルの文を載せました。三島由紀夫の『金閣寺』を元に、「吃音者」の修行僧が金閣寺に放火し、消失させた事件をとりあげたのですが、「屈折」とか「醜悪」とかいう言葉で、この問題を取り上げていたのに、わたしは、この事件を取り上げた小説三島由紀夫『金閣寺』、水上勉『金閣炎上』『五番町夕霧楼』を読んでいたところから、「抗議文」的な対話を求める文を送ったことがありました。結果は応答は無く、このシリーズ自体を取りやめるという、不本意な結果になってしまったのですが、「屈折」や「醜悪」と言われること自体が、予断と偏見の類いの可能性があるし、もし、事実があるとしても、それは差別の副作用的なことの中でおきているのではないか、というわたしの見解を送りつけました。この文はまだパソコンはおろか、ワープロもつかっていない時代の手書きの縦書きの文として送ったのですが、今回、パソコンで打ち込んで、HPに横書き文として載せています。また、「金閣寺」関係の小説に関する論攷も載せています。参照ください。
https://hiro3ads6.wixsite.com/adshr1/blank-2
(追記)
 さて、この小説につなげて一言書いておきます。「屈折した意識」ということは、たぶん、マジョリッテイの差別する側の大方の(共同主観的)意識としてあるのですが、運動的な意識としては、「屈折させられた意識」としてのとらえ方も出てくることかと思ったりしています。ただ、小説です。小説として時には、ひとの意識をそのまま描き、読むひとひとに何が起きるのかを見てみたいということも小説家と言われるひとの中にあるのかと思います。確かに、運動的人間としては、差別ということが広がっていくことを防ぎたいというところでの、色々な思いが湧いてくるのですが・・・。それはそれで対話することによって、いろいろ問題が深化しえるのではないかとも思えるのです。

posted by たわし at 03:53| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

安田菜津紀『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』

たわしの読書メモ・・ブログ641
・安田菜津紀『国籍と遺書、兄への手紙 ルーツを巡る旅の先に』ヘウレーカ2023
 安田さんは難民問題などで活躍しているフォトジャーナリスト。で、コメンテーターとして活動している中で、自分の父親が在日であることをテレビで明らかにし、SNSなどでヘイトクライムの中傷を受け、裁判などで闘っていたひとです。
 自分が父や兄を亡くして、高校生のときに自分探しの旅(この時は直接的にはカンボジア)に出るのに、パスポートをとろうとして、父が韓国籍であったということを知ることになります。で、カンボジア行きは難民問題への取り組みの本格化になり、そして自分が韓国人の父と日本人の「ハーフ」という難民的なことに通じる立場を自覚することになり、そして自分が父に抱いた疑念のようなこと、父を傷つけてしまったことの自責の念が膨らみ(父に絵本を読んでもらったときに父がちゃんと読めず(これ自体も貧困からする教育を受けられなかったという差別の問題ですが)、「日本人じゃないみたい」という言葉を投げかけたこと)、父や兄の痕跡を探すことに始まる自分探しの旅は、日本での親族捜し、そして、コロナ禍で遅れるのですが、韓国への親族捜しの旅にも出ます。
 昔、民族問題を勉強しているときに、ゴーギャンの「わたしはだれか、どこへ行こうとしているのか」という問いかけをみたことがあります。これは、民族問題のみならず、アイデンティティを巡る葛藤とか危機(アイデンティティ・クライシス)を表す言葉としてとらえられます。実は、わたしは「アイデンティティ」ということばはほとんど使えなくなっています。「統合失調症」と規定されるひとたちに、「アイデンティティ」という概念自体が抑圧的に働くことがあるということを押さえたゆえです。
 このことは、わたしは、今日的には、マージナルパーソン論として押さえ直しています。「マージナル」ということを日本語に訳すると、「境界線上の」ということになるのでしですが、「境界線上の」ということは、一つの被差別項目で決して差別する側にいるのか、差別される側にいるのかがあいまいということではありません。差別される側にいるのです。ただ、自分がどちら側に位置しようとしているのか、社会学の用語で言えば、自分の「準拠枠」をどちら側に置こうとするのかが曖昧になり、葛藤に陥るのです。その葛藤を「心理的マージナリティ」と規定し、そのような心理に陥る人たちを、「マージナルパーソン」と規定しているのです。
 さて、著者も自分は韓国人でもないという心理的マージナリティに一時的に陥るのですが、ルーツ探しの旅のなかで、そして難民問題への取り組みのなかで、自分の被差別の位置をつかみ、そして反差別という処に踏み込む中で、自分探しの結果のようなこと、ひととひととの繋がりをつかみ、自分の立つ地平をつかんだようです。
「ルーツ」という言葉には、「根」という意味があるということをこの本の中で書いています。現実的に生きていくためには、「根」をはらねばなりません。その根をどこに張るのか、少なくとも日本社会で生きていくためには、自らの被差別の位置を定位しつつ、自らの「根」を日本社会にはらねばならないのです。それは差別に立ち向かうということを意味するのではないでしょうか?(註)
そして、兄やその背後にいる父への手紙という形で、差別やそこから起きる葛藤の中で、何とか生きる場を築こうとしつつ、最後に出てくる話なのですが、過労死から自死へ至った兄と、そして自死した父への、呼びかけ的な手紙として、わたしは自らの被差別に立ち向かい、生きていくよ、ということを示しているのです。
 この本は、単に民族問題のみならず、いろいろな葛藤を抱えているひとたちの道しるべになるとても大切な本です。わたしは、「吃音者」というマージナルパーソンという立場から、とても共鳴し勇気づけられていました。
(註)
そもそも民族という概念自体も共同幻想や物象化として押さえることで、差別があるから、民族という突き出しが必要になることなのですが、言い換えれば、差別的なことがなくなったとしたら自らの協働的連関態(そのなかに「民族」といわれることの文化的な営為が含まれる)のなかでの自己表現的世界を作り得ることなのだと思うのです。

posted by たわし at 03:48| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小山美砂『「黒い雨」訴訟』

たわしの読書メモ・・ブログ640
・小山美砂『「黒い雨」訴訟』集英社(集英社新書)2022
 インターネットのニュース・情報番組に著者が出演し、取り上げられていた本です。著者の小山さんは、毎日新聞の記者です。今日、マスコミの体たらくが嘆かれている中で、この「黒い雨」訴訟になみなみならぬ情念を以て取り組んだジャーナリスト、そのジャーナリズムはまだ生きているということを思わせる本です。
「黒い雨」とは、ヒロシマ、ナガサキで原爆が破裂後、黒い雨が降り、それを受けたひとが外部被爆し、それのみならず内部被曝も含めて被害が出ている、出てくるおそれもあるところで、色んな線引きがなされて被爆手帳が配布されないということで、交渉をしていたけれど、最後の手段として訴訟に至ったことです。
訴訟は新聞で見ていました。概略は押さえていたのですが、この本で詳しく知ることが出来ました。被爆者援護法の中には、「疑わしきは補償する」という精神があるとこの本に書かれています。ですが、現実の保障・補償は切り捨てをなそうとし、それに対して被爆者・被ばく者側が要求を出していきます。そのせめぎ合いの中で、国はむげに要求を切り捨てることもできず、保障・補償を少しずつ広げていきます。実は、被爆者援護法は国の法律で国が保障・補償の基準を作っています。で、県・市に現実の認定業務を委託していて、県・市は現場で被爆者と接しているので、できるだけ対象者を広げようという意志があるのですが、他の保障・補償との関係もあり、国はできるだけせばめようとします。そのせめぎ合いの中での裁判です。
あとで、本に沿ったメモを作りますが、この本からのわたしのとらえ返しの概略をだしてみます。
国が定めた「被爆者」の定義には四つの分類があり、第一号は、直接被爆者、第二号が、入市被爆者、第四号が胎内被爆者で、問題は第三号で、「三、前二号に掲げる者のほか、原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」という文言があり、これは救護に当たったひとの保障・補償を中心に置きつつ、何か落としていることがあれば、(改めて法改正をするまでもなく)保障・補償の対象にするという常套的な条文ですが、この条文の解釈を中心にして、裁判が争われていったようです。主な論点は、@「黒い雨」の被害の地域をどこまで広げるのかということ。A直接被爆だけでなく、内部被曝も含めるかどうかということB現実に症状がでていないひとにも、手帳を配布するかどうかということ。
さて、日本政府は、そもそもできるだけ保障・補償しないという一貫した態度があります。それでも、福祉ということが国家をなりたたせるアメとしてあるところで、それなりの制度化も進めます。
この「黒い雨」の問題は、直接の責任は非人道的兵器を使ったアメリカにあります。ですが、そもそも日本が始めた戦争の責任ということもあり(これはアメリカが戦争を早く終わらせるために原爆という非人道的兵器を使用したことを認めることではありません)、サンフランシスコ条約で保障・補償を求めないということを承認したということで、日本政府が被爆者の保障・補償を行うということになっています。ただ、戦勝国が非人道的兵器を使ったことの罪に問われないということは論理的に考えてありえないことであり、少なくとも、謝罪なしにヒロシマの地にアメリカの大統領が来て献花するなどいうおかしなことはありえないことだとわたしは思っています。それ以前に、そんな批判をする以前に、日本政府が南京虐殺や731部隊の人体実験などのことを認め謝罪すること、そして、与党政治家が、従軍慰安婦や徴用工問題で「いつまで謝罪すればいいんだ」、というようなそもそも謝罪をリセットする発言、さらには「なかった」かのような歴史修正主義的な発言をくりかえしていること、そして、与党政治家(野党でも「立憲野党」ならば同じですが)が戦争遂行態勢の一翼を担った靖国神社の参拝という謝罪をリセットする行為を繰り返していることで、そのような謝罪をリセットする与党議員、「立憲野党」の議員は、それぞれの党の責任において除名することです。
さて、著者は、被爆者援護法の精神は「疑わしきは保障・補償する」ということを書いていますが、わたしはそもそもこのことが裁判の影の焦点になっていたのではと思います。
現実には、それを、どこまで補償するのかとか、他の補償問題にも波及するとかということで、いかに補償を切り詰めるかという策動があり、その間での矛盾としてこの「黒い雨」の保障・補償問題があったのだと思えるのです。
わたしは「人道の罪」ということには時効がないとされるように、「人道の罪」ということから生じたことには、「疑わしきは保障する」という姿勢がとられることだと思うのです。それは、差別ということも「人道の罪」として、アメリカの「障害者差別禁止法」では、差別がどうかは、差別したと告発された側に、争うなら「差別ではない」という立証義務が負わされたのです、差別とか「人道に対する罪」ということには、行った側に立証責任が負わせられるということを、国際法上の原則として打ち立てることなのではと思っています。
日本の三権分立は機能していないと言われますが、余りにもひどい、行政・立法の不作為に対しては、司法が判断を下し、それを元にして「救済処置」(「権利」ということではなくて、「恩恵としての福祉」というところから出てくる概念です)という名で補正処置を図ります。HIV訴訟、C型肝炎訴訟、ハンセン病訴訟、そして無年金訴訟(註1)がありました。また、現実に被害をとらえられる、接している立場にいる地方自治体レベルで「救済処置」(註2)をとる・とろうとすることがあります。「黒い雨」訴訟でも、県・市レベルでは、広く「救済処置」をとろうとすることがありました。
 さて、今回の決着ですが、一審判決でかなり勝訴的なことが強かったのですが、地域の限定がまだ強くあることや、医療的処置が必要になっているという縛りなどもありました。そもそも国の意向で控訴審になったのですが、今回の二審判決はもっと踏み込んでいて、「医療的処置が必要になっている」という規定もとっぱらっていて、地域もさらに広げる、勝訴判決でした。結局、菅政権は「控訴しない」という方針をとったのですが、「英断」というようなとらえ方もあったのですが、その中にひどい策略が浮かび上がってきます。控訴審で出てきた判決の内容をリセットし一審判決に引き戻す内容になっています。発症をしていないひとの「救済」をどうするのか、また地域から外れるひとをどうするのか、「疑わしきは救済する」ということを否定する事になってしまっています。「一件落着」になっていないのです。これでは、まだ、外されるひとたちの苦しい思いは消えず、そこから新しい訴訟が起きてくる可能性があります。また、ナガサキと切り離そうとしています。また、被爆二世の保障を求める訴訟が起きています。
 そもそも、根本的にすべての被害に関して、「疑わしきは救済する」ということを確立しなくてはならないのです。「国策」から起きた被害に関しては、特に強調されることです。
 もうひとつの問題があります。この裁判で被告国側が、さかんに「科学的・合理的に」という言葉を振り回し(註3)、立証義務を原告側に負わせようとしたのですが、そもそも根本は、加害者側、加害者側を戦争責任ということで肩代わりした国側が立証する義務を負うことなのです。そもそも被害の実態を調べることも国策で行われたことに関しては国の責任ですが、これを放棄していて、しかも、審議委員会とか、調査委員会とか設置しても、ちゃんと調べれば保障をしなくてはならないからと、保障・補償を広げないようにと、御用学者を集めて、事務局を官僚が担い、初めから結論ありきの結果誘導をしていて、何が「科学的」なのでしょう? そんなことを繰り返していたのです。
それに「因果論」というごまかしの論理を振り回しています。そもそも「因果論」というのは、21世紀になっては非科学的論理になってきている「論理」なのです。例えば、「小児甲状腺癌の発生率は百万人に一人か二人」という確立函数的なところで数字がでています(註4)。「新型コロナウィルス」のワクチン副反応の被害で、政府は「因果関係判断不能」ということでごまかしを続けていたのですが、アメリカではコンピューターを使って変数探しが始まっていたようです。それを厚生労働省は「将来の課題」として取り組むこれをネグレクトしていました。
そんな政治情勢の中での、この「黒い雨」訴訟があり、そして長い長い被爆者の苦闘と運動もあったのです。日本の「戦後」は終わっていなのです。
(註)
1 例えば、旧植民地のひとたちが、戦争と植民地支配の中で、「日本国民」として統合され、そして戦後一方的に国籍を奪われ、国民年金制度から除外されたことがあります。で、「障害者」の無年金訴訟が相次ぐ中で、そこには学生や主婦が任意加入とするおかしな制度の中で、無年金になっているひともいました。そういう中で、超党派の議員連盟が作られ、在日外国人無年金問題も含まれていました。ところが、最終段階で、在日外国人が外されたのです。戦争と植民地支配の責任と反省ということで言えば、真っ先に保障されることなのに、です。
2 現実には、余りにも理不尽だというところで、地方自治体レベルからの「救済処置」として特別給付金制度がとられることがありました。それにしても、国は動かないのです。そもそも長年自民党は、国家主義的なところで、差別的な政策を党是として「国民統合をはかろうとしてきたのです。
3 わたしが差別の問題を本格的に勉強しはじめた頃に読んだ『科学の名による差別と偏見』という本があります。フクシマ原発震災が起きる前に、安全神話をつくりあげていたのが、「科学的に」ということで、だったのではないでしょうか? 原発推進派のタレントが「「原発が危ない」というひとは非科学的だ」という発言などをしていたのです。しかも、事故が起きてから「想定外」ということばを「原子力ムラ」のひとたちは振り回していました。「想定外」ということが起きることを含んで、科学ということがあるということなのです(そもそも「想定外」ということ自体もウソで、危険性を指摘するひとがいて、東電も知っていたのに、金がかかると握りつぶしていたのです)。だから、分からないものには、最大限安全的処置をとらねばならないのです。そして「疑わしきは保障する」ということも必要になります。今、汚染水の海洋投棄に批判が向けられているときに、岸田首相はまたしても「科学的」などということばを振り回しています。だいたい、虚偽答弁を118回繰り返した自らを最高責任者と称していた安倍元首相を、「国葬」にした岸田首相のいうことを誰が信じられるのでしょう?
4 これに関しては、「観測者の問題」(これは因果論がよって立つ近代知の地平・ニュートン力学からパラダイム転換した、相作論的・函数的連関で出てくる量子学的な概念です)を想起させるような、政府忖度学者の「検査を広げたから、発見が増えたのだ」という発言が出ていますが、これは必要もない手術をしたという批判になっていて、現場の医者から反論が出ていますし、そもそも、新しい函数的連関の方程式を出していくこととして押さえ直すことです。

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2023年11月16日

廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』(4)

たわしの読書メモ・・ブログ639[廣松ノート(3)] 
・廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』勁草書房1975(4)
[廣松ノート]三冊目の『事的世界観への前哨』の4回目、本文最後になる「三 人間論へのプロレゴーメナ」の章です。
人間観を、実体主義批判――関係の一次性論からシェーラーがとりあげた三つの人間論を端緒にしてとらえ返そうという試みです。節にあたる[一]から[四]にはタイトルがついていません。浅学のわたしがとんでもないことをしていると自負しつつ、タイトルを付けてみると、[一]は「シェーラーの哲学的人間学と三つの理念圏」、[二]は「仏教における「無我説」」、[三]は「仏教思想における実体的自我の否認」、[四]は「もうひとつの理念圏」となります。仏教思想も含んだ人間観を、実体主義批判――関係の一次性論からシェラーの三つの人間論を端緒にしてとらえ返そうという試みです。ヨーロッパ的宗教的概念と東洋的思想との対比による人間観のとらえ返しの論攷になっています。廣松さんは、物的世界観から事的世界観への転換というときに、東洋思想、とりわけ仏教思想 の中にある「事」概念との共鳴性を指摘していて、後に『仏教と事的世界観』朝日出版社1979という対談本を出しているのですが、その本とリンクする内容を含んでいます。『仏教と事的世界観』は対談集なので『著作集』には収められていないので、『著作集』の中では、東洋思想というところへのまとまった多分唯一の論攷になっています。

目次を出しおきます。(○囲み数字が『著作集』所収巻数です)
    目 次
第三部 時間・歴史・人間への視角
 一 時間論のためのメモランダA(前々回(2)読書メモ637)
  第一節 時間論の問題論的構制
  第二節 体験的時間の現前様態
  第三節 時間形象の対象的存立
 二 歴史法則論の問題論的構制J(前回(3)読書メモ638)
  第一節 問題論的領域の限定
  第二節 歴史的法則論の相対性
  第三節 歴史法則の存立機制
 三 人間論へのプロレゴーメナA(今回(4) 読書メモ639)

 切り抜きメモです。
第三部 時間・歴史・人間への視角
 三 人間論へのプロレゴーメナ
(この章の問題設定)「著者は「人間主義」にくみする者ではない。況んや「人間学主義」については、これを厳しく卻けるべきであると考える。この間の次第については、年来、折りにふれて論述してきたところである。人間学主義の轍を踏まぬためには、しかし、前車の轍を直視することが要件となるであろう。本稿は、もとより、人間学主義の回顧的決算を企てるものではないが、先学の“遺産”をも顧みつつ、「人間存在」の現実態を把え返していこうと企図している筆者の構案に応ずる緒論(「プロレゴーメナ」のルビ)である。」295P
[一]
(この項の問題設定)「人間と指称される存在者は、多岐多様な視角からのアプローチが可能であり、現にそれが行われている。われわれとしては、しかし、少なくともさしあたっては、いわゆる「自然人類学」や「文化人類学」は措いて、哲学的人間学の範域に視座を据えることにしよう。」295P
「尤も、「哲学的人間学」と言っても、一義的に定った領界が存在するわけではない。卑近な話、哲学的人間学ということでいかなる内容の学が表象されているか、これを知る一具として“此学の創始者は誰であるか?”を問うてみれば、フォイエルバッハに遡る者、近世初頭の一群の思想家たちに遡る者、果ては古代ギリシャ哲学にまで遡る者、等々、異見が忽ちに露われることであろう。われわれとしては、敢て狭隘な限定を施すには及ばない。ここでは、しかし、まずはマックス・シェーラー(一八七四〜一九二八)に留目するのが捷径であろう。」295-6P
「知識社会学者としても著名なシェーラーは、あらためて紹介するまでもなく、出自はともあれ、フッサールとの関係では、ハイデッガーの兄弟子ともいうべき哲学者・倫理学者であるが、彼は絶筆となった小著『宇宙における人間の位置』の序言のなかで、「哲学的人間学の諸問題は、今やまさしくありとあらゆる哲学的問題構制の中枢点」に座を占めるに至っている旨を謳っている。彼が哲学的人間学の事実上の創始者と目されていたかぎり、当の一文を彼が「聊か満足の念を以って」草したことは諒解に難くない。尤も、今日のわれわれは、シェーラーの哲学的人間学が或る意味では一代限りで終ったことも知っている。」296P
(シェーラー『宇宙における人間の位置』からの引用)「教養あるヨーロッパ人に“人間”という言葉で何を考えるか、問かけてみると、まずは例外なく、およそ統一しがたい三つの理念圏が当人の頭のなかで緊張関係に入り始めることであろう。それはまず第一に、ユダヤ・キリスト教的伝統の思想圏、・・・・・・第二には、ギリシャ・古代的な思想圏であって、・・・・・・第三の思想圏は、近代自然科学や発生心理学という、これまた夙に伝統的になっている思想圏である。・・・・・・これらの三つの理念圏は、相互間の統一性を欠いている。で、われわれは、自然科学的人間学、哲学的人間学、神学的人間学という互いに没交渉的なものをばらばらにもってはいるけれども、われわれは人間についての統一的な理念をもっていないという次第なのである。・・・・・・」296-7P
「シェーラーの場合、人間機械論ごときは初めから論外であって、彼はまず人間が動物的生命体であるということに定位する。しかし、「人間の本質、そして人間の“格別な位置”と呼ばれうるところのものは、知性とか選択能力とか呼ばれうるものよりも上位に立つ」。「人間のみを“人間”たらしめる新しい原理は、語の最広義においてわれわれが“生命”と呼びうる一切のものの外に立つ」(Ib.S.38)と彼は主張する。当の新しい原理は、プシュケーとかゼーレとか霊魂的seelischなるものの次元とは端的に区別して「精神」Geistと呼ばれうる。かくして、シェーラーの行論は、このガイストを規定していく作業を軸にすることになる。/われわれが、当面留目したいのは、彼が霊魂的人格の実体化をあくまで卻けていることに関連してである。・・・・・・」298-9P
「読者は、ここで直ちに、実体的に個性的な或る存在者(その一典型が伝統的な霊魂であるわけだが)、これをぬきにして果たして精神作用の(下層の作用諸力に対する)相対的自律性、「自己現実化」を立論できるか、また、人格的人称性を説けるか、この点に疑義を呈せられるであろう。現に、ハルトマンとシェーラーとの係争もこのVollzieher(実行者)の問題に関連している。――シェーラーが破綻しているかどうかの最終的な判定は慎重な検討のうえで下されるべきものてであるが、しかし、ともあれ、実体的な霊魂を想定する伝統的な構図を準拠枠frame of referrenceにすることなくしては、シェーラーの所説が甚だ理解に困難だということ、このことは否めない。だが、シェーラーは、事によると、ヨーロッパの伝統的人間観の「思想圏」を超えているのかもしれない。或いは、半ば超えかけてそこで挫折しているという認定も可能かもしれない。この問題を射程に収めつつ、われわれ自身の視座を設定すべく、ここあたりで一旦あえて視野を拡大しておこう。」299-300P
[二]
(この項の問題設定)「ヨーロッパ人が「人間」について考える場合、果たしてシェーラーのいう「三つの理念圏」だけがせめぎあうのかどうか、少なくとももうひとつの一つの理念圏がそこに加わるのではないか、この忖度は姑く措いて東洋人の場合に止目しよう。東洋といっても仏教文化圏の「教養ある人々」であれば、人間について考える際、仏教の「無我説」を避けて通ることは困難であろう。」300P
「仏教に多大な関心を寄せていたシェーラーでさえもこのような始末だということは、近代ヨーロッパ的人間了解の地平と仏教哲学のそれとがおよそ懸隔していることを象徴的に示して余蘊がないということ、この旨言い切ることまで許されるであろう。」301P
「仏教の「無我説」といっても一義的ではない。釈尊本人の説いたかぎりでは、「非我説」であっても無我説ではないというのが史実かもしれない。(中村元選集第十六巻三一八頁以下参照)。ここでは、しかし、ヨーロッパ的な人間観との対比を鮮明にする意図で、部派仏教時代に成った有名な一書『ミランダ王の問い』に即して、“仏教的”無我説における人間存在の了解を一瞥しておきたい。」301P
「『ミランダ王の問い』と称される文献は、紀元前二世紀の後半(つまり、アレキサンダー大王のインド征服後約一世紀あとの時点)に西北インドを支配したギリシャ系の王メナンドロスと仏教の高僧ナーガセーナとが交わした問答の“記録”を中心とする一書である。」301P
「インド仏教が一斑にそうである範にもれず、仏教も輪廻転生を前提的了解とする。それゆえ、肉体的死後にも輪廻転生する主体として“不滅の霊魂”を実体的に想定するのがナチュナルであるかのように思える。しかるに、少くとも部派仏教の無我説においては、輪廻を認めつつもその主体としての実体的霊魂の存在は認めない。輪廻転生の承認と実体的自我の否認とか一体いかにして両立しうるのであるか? これはギリシャ人ならずとも理解に困難なところであろう。実際、これを理解するためには、ギリシャ・ヨーロッパ的な人間観を超克しなければならない。それどころか、ギリシャ・ヨーロッパ的な伝統的な存在了解の根底的な構えそのものを超克しなければならない。」302P
「ところで、主語Sに対して述語Pを肯定的に賓述するにせよ否定的に賓述するにせよ、それが可能なためには、主語について一定の先行的な了解が既存するのでなければならない。また、一応の述定を認めたうえで、しかし依然としてそれでは不満だという場合、ここでもまた主語Sについての或る先行的了解が既在している筈である。/当面の議論にとっては、この「先行的了解」がいかにして成立するかは暫く措いてよい。しかしともあれ、人間とは何かという哲学的人間学の根本的な問いに対して、肯定命題のかたちをとった賓述が最終的な満足を与えないということ、そして、それは、一切の肯定・否定的な賓述に対して主語に対する一定の了解が先在しており、この先行的了解がその都度すでに肯定的な述語規定の埓を超え出ているという論理の構制に根差しているということ、この事態は対自化してかかる必要があろう。――ここにおいて、自覚的にせよ無自覚的せよ、肯定的賓述の積み上げによって所与のもの(主語Sの指示するもの)に迫っていこうとする態度をとるか、それとも、謂うところの先行的了解が直截に(といっても一定の媒介的機縁づけを介して)対自化しようとする態度をとるか、二途が岐れうる。この際、主語的与件は、いわゆる主体的なものでも客体的なものでもありうるし、それが実体的な存在者であるか非実体的であるかもさしあたり無関係である。問題はあくまで、認識ということそのことの“存在了解”にかかわる。」304-5P
「・・・・・・肯定的・比量的的な賓述で以っては真実在は規定できないこと、先行的に了解されている「それ」を端的に得度すべきことの自覚があったように思われる(中村元氏の『東洋人の思惟方法』第一巻第二編「インド人の思惟方法」によれば、インド的思惟における「否定的表現の愛好」は一般論として立言しうるもののごとくであるがここでは控え目に言っておく)。少くとも、仏教に関するかぎり、原始仏教における「非我説」このかた、「我」(アートマン)は肯定的賓述では把えきれないことが明確に意識されていたと言えよう。ナーガセーナの回答は、このような事情を諒解したうえで理解されねばならない。」305P・・・肯定的表現でなく、否定的表現による応答
「仏教哲学における「自我」の規定は、形式のうえでは消極的・否定的であっても、その実質においては元より積極的なものをもっている(平川彰氏の論稿「無我と主体」中村元編『自我と無我』(平楽寺書店刊)所収参照)。今やその一端をみることによって、ヨーロッパ的人間了解との対比性を明らかにしていこう。」305-6P・・・最後は次説の問題設定
[三]
「ナーガセーナの回答は五蘊無我説の次元での人無我にとどまっていて法無我の次元は説かれていない。彼が法無我の次元をストレートに説いたとしてもギリシャ人ナンドロスはとうてい理解しえなかったかと思われる。」306P
「留意を求めるまでもなく、この議論は、ヨーロッパ哲学における唯名論(「ノミナリズム」のルビ)と実在論(「レアリズム」のルビ)との対立の次元で理解されてはならない。という理由は、しかし、ここでは個体が問題になっていることや、仏教哲学固有の縁起論が介在しているからではない。われわれが留目すべきは、ヨーロッパ的な唯名論と仏教の無我説とはそもそも存在了解の構えが異るということである。」307P
「灯火は一晩中もえつづける。しかし、焔は時々刻々変化するのであって全く同一の基体に依って燃えつづけるのであって、形象の連続的継起(「ダンマ・サンタテイ」のルビ)は、集結・重置(「サンダー」のルビ)するものである。甲が乙になるということ、つまり、同書・同所において形象乙が生起し形象甲が消滅するということが「形象の連続継起」にほかならないわけだが、それは甲乙両形象を一定点に集結・重置して、その結果、ここに「同一の基体」が成立するとともに、もはやその局面では甲乙いずれの形象も時間的先後とは無関係な共時存在の相を帯びるに至るのである。連続継起する形象は、集結・重置作用の以前には相互に同一ではなく、逆に集結・重置以後については別異ではなく、まさにそのようなものとして、われわれの最終的な意識がそれをとらえるところとなる、云々。」・・・実体主義批判
「今日われわれに判り易い表象でいえば、分子生物学でいうコードの遺伝的継承と類似の論理構制を半面で伴いつつ、他の半面では獲得形質(の一部)の遺伝という論理構制と類比的な構図になっている、と言えるかもしれない。」308P
「・・・・・・だが、メナンドロス王や、伝統的なインド・ゲルマンの思想が、実体的霊魂の不滅を前提にしているのに対して、部派仏教の哲学が霊魂的自我の実体性を正面から否定している事実に、われわれは格別な関心を覚える。そして現に『ミランダ王の問い』のなかでも、実体的自我の否認は積極的に打出されている。」309P・・・部派仏教の実体的自我の否認
「・・・・・・個我というものを諸々の認識作用・意識作用の統覚的主宰者とみなす発想を持出したのに対して、ナーガセーナは詳細な認識論的議論を通じて論駁している。早島氏の「初期仏教の無我思想」を援用してそれを要言すれば、六根・六境・六識が、それぞれ対応関係を保って、われわれの接触・感受・表象・意志・統一作用・生命力・注意が生ずると説き、「これらの諸法は縁より生ずる」ということからナーガセーナは実体的霊魂論の存在は認められないことを教えているのである。」309P
「仏教の無我論は、しかし、いずれにせよヴェーダ・バラモン教このかたのインド正統思想たる有我論に対するアンチ・テーゼとして立てられるものであって、インド的有我論との対立を準拠枠にすることなくしては存立しえない。という以前に、原始仏教の非我説はむしろインドの伝統的な我(アートマン)観を直截に踏んだものとすらみることができる由である。」309-10P
「ウパニシャッドの中に説かれているアートマンの考え方は、古代インド人の“人格”観を代表するものであった。・・・・・・真にアートマンと呼ばれるものは夫や妻や子の人格ではなくて、その背後にある普遍的な最高我のみである。そして、このことは“愛する”という実践的行動のなかではじめてとらえられるものである、ということである。すると、“アートマンでないものをアートマンとみなしてはならぬ”という生活体験の場で言われているのであり、そのこともまた、釈尊が実践の場に即してアートマンをとらえようとした立場に共通しているのである。・・・・・・」310P
「ここにおいて、われわれは問題論的構制そのものの立て直しを迫られる。というのは、われわれは、これまで、部派仏教の無我説をもっぱらギリシャ・ヨーロッパ的な有我論との対比を念頭において問題にしてきたのであったが、今やよりグローバルな視野で有我論と無我論との対立する地平を対自化する必要がある所以である。」311P・・・有我論と無我論、実体主義批判で読み解く
[四]
「われわれは先に、マックス・シェーラーの謂う三つの理念圏のほかに、少くとも有力な理念圏がもう一つ存在するのではないかという問いを保留しておいた。この「もう一つの理念圏」を対自的に問題にしていくためにも、まずは以上の議論から或る問題論的構図を顕揚しておくのが便利である。」311P
「もとより、「によって……現成する」(durch……sich verwirklichen)というシェーラーの議論と、「に縁って……生起する」という縁起論の存在了解が全く同じだというのではない。しかし、近代科学主義流の因果決定性に対して、シェーラーやハルトマンが持出した“新しい”規定関係の発想は、存外と縁起説のそれに近い一面をもっていることは容易に認められる筈である。」313-4P
「われわれは、もとより、マックス・シェーラーの哲学的人間学が近代ヨーロッパ的な自己意識の哲学の大枠を超えるものではないということを知っている。しかし、ともあれ、彼が伝統的な実体主義的霊魂観を卻けつつ、しかも、人間の精神的存在性を積極的に説こうとして、恐らく期せずして、部派仏教の無我論と同趣の発想に近づいているということ、この事実は留意するに足ると思われる。・・・・・・」314P
「銘記しておきたいのは、部派仏教の無我説もシェーラーの「精神」概念の措定し直しも、実体主義的な自我=霊魂観との対比関係においてのみ、すなわち、実体主義的な自我=霊魂観との対比関係においてのみ、すなわち、実体主義的な有我論を準拠枠にし、かつそれとの否定的相補性においてのみ存立するということである。」314P
「われわれとしては、有我論と無我論との同位的な対立の地平そのものを超克しなければならない。そのためには、実体的自我、しかも実体的大我として錯視されているところのものが何であるか、また、当の錯視が形成される所以の論理的構制を自ら積極的に解明する必要がある。」314P
「この作業に着手するにあたり、われわれとしては、シェーラーが“看過”(?)しているもう一つの「理念圏」に留目するのが好便である。それは、有我論のもとにおいて成立したものであるとはいえ、人間存在をその個体的存在者の“構成分(「ベシュタントタイレ」のルビ)”や“内在的機能”に即してではなく、間主体的intersubjektiveな共同存在性に即して了解していく理念圏である。」314P・・・「間主体的intersubjektiveな共同存在性」――実体主義批判  シェーラーの部派仏教への接近
「周知の通り、アリストテレスは、これが人間規定の全体を尽くすものではないにせよ、人間をゾーオン・ポリティコン、すなわち、社会的(「ポリス」のルビ)動物ということで規定している。また、トマス・アクィナスも人間をanimal sociale et politicumと規定している。近代的自然法思想のもとでは、人間のGemeinde(共同体)への本源的な所属性という中世カトリック的了解へのアンチ・テーゼとして、人間存在の本源的な社会性という観念が表面的には否定されるが、ドイツ・ロマン派やヘーゲルを持出すまでもなく、また、コント・スペンサー・シュタインなどの社会的有機体的な発想に留意を求めるまでもなく、人間を社会という一総体の有機的な一分肢とみる了解の構えが近代においても厳存する。シェーラーとしては、これは彼の謂う三つの思想圏とは次元を異にすると評することでもあろうが、われわれは敢てこれを勘案しなければならない。」315P・・・社会的共同存在としての人間存在の了解
「・・・・・・しかし、社会的共同存在としての人間存在の了解は一切の霊魂主義的な人間了解から解放されうるのであって、現にマルクス主義や或る種の社会学理論のうちに、そのような人間存在論が見出される。因みに、ここにおいては、生物学主義的な“科学的人間論”ですら「物(「もの」のルビ)」的世界像の一斑としてその構図に捉われているところの、伝統的な霊魂的個体主義を端的に止揚することが可能になっている。」315P
「ヘーゲルが既に『精神哲学』のなかで「個人の具体的な存在には他の人間ならびに世界一般とのあいだに形成している諸関係の総体が属している。この総体性は個人に内在的であり、この総体性が個人の現実性をなす」と説いているが、マルクスはヘーゲル・フォイエルバッハを批判的に継承しつつ「人間の本質はその現実性においては社会的関係の総体である」というテーゼを押出す。/ここではまだマルクス主義の人間存在論を主題的に討究すべき場所ではない。が、先廻りをして記しておけば、われわれはマルクス的な人間存在の了解の地平においてはじめて、有我論対無我論の相補的対立の次元を端的に超出することが可能になると考える。」315-6P・・・「フォイエルバッハに関するテーゼ」
「この課題を権利づけるためには、しかし、有我論的な思念が存立する所以の問題論的構制、ならびに、無我論の反定立される論理的機制を立入って検討する必要があり、謂うところの社会的共同存在性、人間の間主体的な共同現存在そのことの存在論的構造を対自的に分析しておくことが前梯的要求となる。」316P
「われわれは、この作業を進めるに当り、マックス・シェーラーの『宇宙における人間の位置』と同じ年に、ということはつまり、ハイデッガーの『存在と時間』の翌年に、この師の労作を批判する含みで書かれたカール・レーヴィットの『共同人間の役割における個人』Das Individuum in der Rolle des Mitmenschenを議論の糸口としつつ、そこにもられているフォイエルバッハの人間論に関する討究やカントの人間学に関する討究に遡ったうえで、あらためてシェーラーの構図との関連でハイデッガーやサルトルの人間存在論、さらにくだっては、メルロ・ポンティの人間存在論などを射程に収め、ミードやパーソンズにいたる社会学的な人格・役割の理論を勘案していくのが順当であろう。そしてそこでは、われわれはあらためて――実体的自我なるものは存在しないのであるにもかかわらず人間諸個人が行為の主体でありしかも責任ある主体であることを説きうるところの――仏教的無我説の或る論理を勘案することになる筈である。この論件の対自化したところでこの「プロレゴーメナ」をひとまず閉じておこう。」316P・・・主体を顕揚しつつ実体主義批判 有我論と無我論の対立の構図を乗り越えようとするレーヴィット


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廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』(3)

たわしの読書メモ・・ブログ638[廣松ノート(3)]
・廣松渉『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的≈存在論的位相』勁草書房1975(3)
[廣松ノート]三冊目の『事的世界観への前哨』の3回目、「二 歴史法則論の問題論的構制」に入ります。これは十一巻の「唯物史観」という表題の『著作集』に収められています。この巻は「生態史観と唯物史観」も収められていて、唯物史観の法則性というところでのつながりのようです。また、生態系というところでの「関係性の第一次性」のとらえ返している第三節の展開ともリンクしていきます。
で、次の「三 人間論へのプロレゴーメナ」が「一 時間論のためのメモランダ」と共に第二巻の「弁証法の論理」という表題の『著作集』に収められているので、第三章を先に読んでまとめようかと思ったのですが、第二章の「歴史」は「時間論」と繋がっているので、やはり、順番通りに第二章を先にしました。何故、第二章を第二巻に収めなかったのかを考えていたのですが、廣松理論では、弁証法は法則ではないというところでのこだわりなのではないかという推測をしているのですが、そもそも第一章、第三章を「弁証法の論理」という表題の『著作集』に収めたのかが理解出来ません。解説などから探ります。
 前回の時間論で、改めて廣松物象化論が、差異が同一性の概念より先行するということや、時空間概念より運動概念が先行するなど、パラダイム転換ということの中身を考えていました。このあたり、『科学の危機と認識論』や「相対性理論」の学習ともリンクして、第一部のマッハ論や第二部とのリンクにもつながっていきます。『科学の危機と認識論』や「相対性理論」の学習は、第一次学習計画には入っていないのですが、廣松理論の全体像的とらえ返しというところでの先の長さを感じています。いつまで、続けられるのかの危うさがあるのですが、あせっても仕方がないので、少しずつ進めます。
目次を出しおきます。(○囲み数字が『著作集』所収巻数です)
    目 次
第三部 時間・歴史・人間への視角
 一 時間論のためのメモランダA(前回(2)読書メモ637)
  第一節 時間論の問題論的構制
  第二節 体験的時間の現前様態
  第三節 時間形象の対象的存立
 二 歴史法則論の問題論的構制J(今回(3)読書メモ638)
  第一節 問題論的領域の限定
  第二節 歴史的法則論の相対性
  第三節 歴史法則の存立機制
 三 人間論へのプロレゴーメナA(次回)

 切り抜きメモです。
第三部 時間・歴史・人間への視角
 二 歴史法則論の問題論的構制
(この章の問題設定)「「歴史」という概念はきわめて広袤が大きく、「法則」という概念もはなはだ曖昧である。それゆえ、無用の混乱を避けるためには、あらかじめこれらの概念を限定してかかる必要がある。この際、しかし、ストレートに“定義”をくだして済ますというわけにもいかない。という次第で、一見、迂遠のようであるけれども、搦手から議論を進めつつ問題論的構制(「プロブレマティック」のルビ)を次第に確定していくことにしよう。」267P
  第一節 問題論的領域の限定
(この節の問題設定)「「歴史」という言葉は、われわれの日常的意識においては、記述としての歴史(historia rerum gestarum)の意味で用いる場合と、史実そのもの(res gestae)の意味で用いる場合との二義性を帯びている。そして、宇宙進化論的過程や地球の生誕史といったいわゆる「自然の歴史」までを包摂する場合と、人間の営為(human affairs)に関わる範囲に限定する用語法とがある。本稿でのわれわれの用語法は、この日常的な意識に定位していえば、“人事に関わる範囲”での“事象としの歴史”の謂いに近いと謂うことができる。とはいえ、何分にも主題が巨きすぎる事情に鑑み、われわれの当面する論件の更なる劃定から始めなければならない。」267P
[一]
(この項の問題設定)「記述としての歴史と事実としての歴史とは、常識的に私念されているほど截然と別たれるわけではない。“記述としての歴史”というのが、単なる「史書」の謂いではなく、史家の眼に映じた史実の描写、換言すれば“当の記述によって史家が報知するところのこと”の謂いであるかぎり、このものと“事実としての歴史”との区別は必ずしも判明ではない。」268P
「翻って考えるに“正しい記述”の告知するところのことは“事実としての歴史”とも合致するのではないか? 史実、つまり、過去の歴史的事実そのものは、もはやどこにも実在しない。それは、遺跡・遺物などを手掛りにして、或いはまた、伝承・記述などに拠って、推察的に“復元”することしかできない。“事実としての歴史”なるものは、個々の伝承家・記述家の主観的バイヤスを免れているにしても、結局は現在の“われわれ”によって“客観的史実”だと認定されたもの、この意味で、E・H・カーなどの指摘を俟つまでもなく、それは“われわれ”と相関的であり、謂うなれば“われわれ”によって“認識=記述された歴史”ということに帰着せざるをえない。因みに、歴史的事件(Ereignis)はEr-aügnisすなわちAuge(眼)で見られたものを意味し、歴史的探究・記述(ιστορία)は目撃者(「ヒストール」のルビ)の証言に由来する由であるが、われわれは語源論(「エテイモロゲツシ」のルビ)な立言を事とするには及ぶまい。また、右に謂うところの“われわれ”の共同主観的な“志向的(「インテンツィオネール」のルビ)”対象性と“正しい”記述との関係、ひいては、それと“史実の客観的事実性”との認識論的関係などについて論考することは、ここでは割愛を許されるであろう。/ここで銘記しておきたいのは、「歴史の法則性」というテーマのもとに、本稿では所謂“事実としての歴史”の法則性をそれが人事に関わる場面で問題にするということ、但し当の対象的事実なるものは歴史認識の主体たる“われわれ”から端的に独立ではありえないという立場的了解の追認、とりあえずこの点までである。」268-9P
[二]
(この項の問題設定)「「人事の歴史」に主題を限定するとはいっても、素より、自然界と人事界、自然の歴史と人事の歴史とを截然とは区別できるわけではない。或る種の論者たちは、自然界は因果必然的な法則性に服するのに対して、人事界は人間の主体的自由とその能動性のゆえに厳密な意味では法則性に服さないと主張し、自然の歴史と人事の歴史とを二元的に区別するが、われわれとしては、しかし、そのような二元観を採るものではない。われわれは論題を「人事に関わる範囲」に限定するのは、人間なるものを宇宙存在論的にみて特権的存在とみなすゆえではない。この間の事情を記すためにも、「法則」の概念をめぐって、幾つかの論点を確認しておかねばならない。」269P
「「法則」という言葉は、ドイツ語のGesetzのみならず、lex,loi,lowも「置かれた」という過去分詞の形にもとづくものといわれる。それは、超自然的・超人間的な或る主宰者によって措定された「定め」「掟」を含意したものと思われる。人事にかぎらず万象がそれに則って生起・運行する路線というべきものとしてそれを表象することができよう。事象が合法則的(gesetzmäßig)に生起・進展するという思想は、原型に遡れば、超越的な有意的主宰者による支配的統御という観念から変成したものと考えられる。この原型においては、主宰者の意志によることなくしては何ごとも生起せず、また劃定された路線から逸脱した結果は生じえないものと了解されている。そこでは、合法則的運行の駆動力が超越的な意志そのものとされたにせよ、事物に内在する霊魂(「アニマ」のルビ)とされたにせよ、法則それ自身は直接的に規制的ではない。ところが、近代的な世界観の確立にともない、有意的主宰者が消去され、超越的な計画が世界に内在する法則性となり、事物の世界からアニマが抜き去られるに及んで、法則はいまや単なる“定め”以上のものとして了解されるようになった。」268-9P
「・・・・・・古代や中世の発想法では、超越的主宰者はいかに全能であっても、決定されているのは結末であって、進行的過程の径行は必ずしも一義的に決定されているわけではない。これに対して、近代的な了解においては、実現される結末の必然性は、進行過程の因果的連鎖の必然性の結果なのであり、被決定性は結末そのものよりもむしろ進行過程に関わる。結末の必然性という想念とその構図を維持しつつ、超越的主宰者ならびアニマ的な有意的能因を消去するとき、進行過程の因果的連鎖の一義的な被決定性という想定、これしか途が残されていない。ここにおいてはじめて真の意味での「決定論」の論理構制が成立するわけである。運命論的な前定義(Vordeterminismus)は進行過程の具体相に関して非決定論でありうるのに対して、近代的な機械論的因果観のもとにおいては文字通りの決定論が帰結するのである。」270-1P・・・因果論――線形方程式――決定論
「われわれとしては、しかし、歴史の法則性を論考するにあたっては、近代科学主義流の法則の表象を止揚しつつ――この際、自然史は法則定立的であるが人事史は個性記述的でしかありえないといった“振り分け”を事とするのではなく――決定論・非決定論の対立が依って以って生ずる所以の、当の地平そのものを超出しなければならない。」271P
[三]
「一口に歴史といい歴史の法則といっても、そこには諸多の次元が包括されている。人類の歴史、民族の歴史、くだっては、村邑の歴史、といった広袤の差異があり、経済史、政治史、文化史といった“諸側面”が区別されうる。ここでは、しかし、或る一定水準の抽象的な準位に論考を限定せざるをえない。」272P
「・・・・・・社会経済史的現象と精神文化史的現象との区別は、評価する者の視角に応じて現われる二つの射影というのが実態であろう。人間の意識的・無意識的な協働的営為が形成する高分子的・錯分子的総体――日常的意識にはこれらの諸契機が物象化されて映現するのであるが、――現実に散在する歴史的与件はこの有機的・函数的な総体なのであって、社会経済現象も精神文化形象も、これの射映を反省概念(Reflexionsbegriff)の対象として定立したものにすぎない。後論を先取りしたかたちになるが、結論的には、このゆえに、われわれは一部論者たちのように、社会経済史と精神文化史とを存在的(「オンティッシュ」のルビ)に截断して論考することはしない。われわれも、勿論、第二次的には社会経済史と精神文化史とを区別して論ずるが、しかし、第一次的にはあくまで、歴史現象の総体的な存立構造を問題にする次第なのである。/無用な誤解を防遏するために付言しておけば、歴史的構造成体は謂うなれば「生態系(「エコシステム」のルビ)」的な総体を形成しているとはいえ、いわゆる高等な精神文化的営為は所与の社会経済史的要因のほうが精神文化史的契機に対して基底的であるいうことができる。とはいえ、当の経済的条件が生じた原因を遡ってみるとき、新しい技術的知識やエートスその他、精神文化的要因が逆に規定的因子として見出されるのが通例であろう。それゆえ、社会経済的因子と精神文化的因子とを、実体化してしまう悟性的抽象の立場では、社会経済現象と精神文化現象との動態的連関の実相を把えがたい所以であって、歴史的実態を正しく把えるためには、動態の微分的断面に即して函数的連関構造を確定し、それを積分的に立体化するという方法論的視座に立つことが必要である。/われわれが討究しようと図るのは、この視座において開示される歴史法則の問題論的構制とその存立構造にほかならない。」273-4P・・・唯物史観 微分積分
  第二節 歴史的法則論の相対性
(この節の問題設定)「本節では、歴史の法則性に関する“近代歴史学”流の既成観念を歴史的に相対化しておき、前節できわめて抽象的な措定にとどめた問題論的構制を可及的に具象化しつつ、積極的な立言への媒辞を確保しておこう。」274P
[一]
「歴史の法則性というとき、われわれはとかく、一直線的な前進的展開を表象しやすい。しかし、春夏秋冬の循環行が“四季の法則”であるのと同趣的に――螺旋的な前進を認めるにせよ、単なる循環の反復とみるにせよ――循環こそが歴史法則であるという観方もありうる。ここでは、いわゆるインド的な「輪廻」の思想を持出すには及ぶまい。近代史学との態度の親近性ということが廔々強調されるかのツキュディデスさえ「歴史は人間の本然のみちびくところ再度かつてのそれと類似の過程を辿る」ものと考えていたこと、そして、最初の“ローマ史家”とも呼ばれるポリビウスが政体循環史観を採ったこと、この事実に留意を求めれば当面の行論にとってはさしあたり十分かと思われる。われわれは、日常的意識において、歴史という以前に、そもそも時間なるものを直線的に流れる或るものとして表象するが、「円運動こそが時間の最も正確なアナロギア(類似性)を表わす」というアリストテレスの言葉などを援用するまでもなく、古代ギリシア人たちは、殆んどすべての古代文明民族と同様、そもそも循環的な時間表象をいだいていたのであって、そこでは直線的な歴史発展の思想などというものはそもそも成立しうべくもなかった筈である。/直線的な歴史的時間の表象が果たしてヘブライ・キリスト教に特有なものであるか、遡って問題にすれば、ヘブライ・キリスト教の歴史的時間の表象もまた神から神への回帰的な構造になっていないか、ここには討究を要する課題が残されている。・・・・・・・」274-5P
「近代ヨーロッパの歴史観は、ユダヤ・キリスト教的な構図を何かと残留せしめつつも、超越神とその摂理を消去し、日進月歩の生活実態をも投影して、文字通り一直線的な終末なき歴史的進歩の観念を措定するにいたった。われわれは、いまここで、これの具体的内実に立ち入る遑(「いとま」のルビ)を有せぬけれども、直線的な歴史時間軸に沿った歴史的法則性の前進的展開という表象そのものが特殊近代的であるということ、超越神との関係という問題以前に、このことを念頭におかねばならない。」277P
[二]
「一般には、近代以前における歴史観は、宿命論的・決定論的であったかのように思われている。自然の威力の前での人間の無力、支配者の絶対的規制力や強靱な因習的規範力、これらのイデオローギッシュな屈折(「レフレクション」のルビ)として、運命や神意の絶対的拘束という表象が確立していた、云々。――この種の見解は全面的に誤っているというわけではない。ただしかし、前節の[二]でも指摘しておいた通り、古代や中世の発想では、天体観はいざしらず地上の世界に関するかぎり、超越的に決定されているのはさしづめ“結末”だけであって、進行過程の具体相は、可能的にはともあれ、現実的には、必ずしも一義的な被決定性においては了解されていなかったものと思われる。それは弁神論的に案出されたバイパスというよりも、発想の原型的構図そのものに照応するものであったと考えられるべきであろう。」277P
「われわれは、歴史観の歴史に立入るつもりはないが、論点構築の前梯となる限りで、幾つかの契機を問題にしておこう。――近代以前の表象における超越的主宰者と歴史的世界との関わり方は、大づかみに類別して「狩猟民的」「農耕民的」「遊牧民的」という規定は、狩猟民社会、農耕民社会、遊牧民社会にそれぞれ特有という意味ではない。眼目はあくまで、超越的主宰者と人間的営為との関係についての了解の仕方なのであって「野獣-狩人」「作物-農夫」「畜群-牧夫」という関わり方のタイプにある。」278P
「歴史の法則性を超越的主宰者の干与に帰せしめる場合、超越的主宰者と歴史的世界との関係は、要言すれば、人間と用在的(「ツーハンデン」のルビ)世界(他人を含む)との関係からの類推的転位によって表象されるのが一般的構図であると考えられる。とすれば、前近代的な了解では、進行過程の具体相は、超越的主宰者の規制能力の有無という以前に、そもそも直接的な関心から外れていたものと忖度される。たとえ関心に対象になったとしても、往時の観察においては、進行過程の一義的必然性はとうてい看取さるべくもなかった筈である。なるほど、生あるものは必ず死に、各自は必ず応報されるといった“法則的帰結”は看取されたかもしれない。しかし、過程的展相は余りにも多様である。また、天体運行の一義的必然性は早くから観察されていたであろうが、これはまさしくそのゆえに、地上とは秩序を異にする天上界として了解されていたのであった。製作の偽出的プロセスの一義的既定性の洞察も、それが呪術的な規定力によるものと考えられているかぎり、真の一義的被決定性の想念は成立しない。けだし、前近代的な歴史観にあっては、たかだか“結末”に関する決定論しか存立しない所以である。ところが、近代の用在的世界では事情が異ってくる。」279P
「近代的世界観においては、成立史的経緯を省いて端的にいってしまえば、物心の二元的分離、地上的物体界における過程的進行の機械的必然性の“観察”、天体界と地上界との原理的統一、等々にもとづいて、事象の被決定性は今や進行過程の全微分を律するものとして了解されるようになった。商品市場経済の物象化された“自律的”法則性はとの相互媒介は措くとしても、機械論的に了解される近代の用在的世界において、超越的主宰者を依然として想定すれば主宰者は結末の前提(Vorherbestimmung)だけでなく「連続的創造」の責めを負うわけであるが、主宰者にニュートン的な「最初の一撃」しか認めないかぎり、それは時計に対する時計づくりの職人のごとき一回起的な創造者であって且つ爾後は既定のコースを自動的に歩ませる者として表象される。そして、事象の進行過程は、ここでは、謂うなれば時計仕掛的な一義的必然性を以って継行するものとみなされざるをえなくなる。/ここにおいてはじめて、かのラプラスの魔(「デーモン」のルビ)の宇宙方程式に象徴されるごとき直截な決定論の成立する地平が拓けたのであって、進行過程の一義的既定性を含意する勝義の「決定論」的な歴史法則観は、上述しておいた通り、近代を俟ってはじめて登場した特殊近代的な観方なのである。」280P
[三]
(この項の問題設定)「近代的な世界了解においては、超越的主宰者の消去にともなって人事界たるかつての“畜群的聚合体”は外的な統轄者をばもはや失うことになったし、アニマ的形相の消去によって“作物的有機体”は機械的な存在になった。まさしくここにおいて、近代的世界了解では、決定論と非決定論との対立が深刻な問題となって現われる。」280P
「・・・・・・この間の事情について、自然科学におけるコペルニクスなどとの併行性を知るためには、近代的歴史学の開祖の一人たるランケを想起すれば思い半ばにすぎよう。「個別的ものをその固有の法則で研究・観察することから……客観的に存在する事件の連関を認識することへと高まりゆく使命」を歴史学に課し、歴史学は「それが本来いかにあったかということだけを示す」と称したランケにあった、彼のこの“実証主義”“経験主義”的な態度を支えたものは、「あらゆる歴史のうちに神がいまし……あらゆる歴史的行為が神の存在を証し、神の御名を叫ぶ」という了解の構えであった。――しかしともあれ、近代の実証的歴史学においては、ニュートン物理学の場合とも類比的に、学問的認識体系の内部にはもはや超越的主宰者の介入する余地はない。/ここにおいて、前項で指摘した決定論の問題構制が成立する次第であるが、当の機械論的決定論が成立しうる所以の近代的世界観の地平にあっては、まさしく、超越的主宰者を“棚上げ”したことと相即的に、楯の反面では、かつての傀儡(「かいらい」のルビ)=人間にいまや自律性を認めることが可能になっている。近代的世界観は、アニマ的能因の放逐にともなって、動物をも機械的存在として了解する傾動をもつとはいえ――そして、人間をも機械的存在とみなすときに機械論的決定論が完現するわけであるが――、人間に関してはとかく精神的存在としての主体的能動性を認めようとする。ここにおいて、少なくとも人事に関するかぎり超越的な決定性を免れているという了解に照応して、いわゆる“神から自立せる人間”の非決定論が主張されることになる。」280-1
「近代人の日常的思念においては、このような背景から、自然界に関しては決定論、人事界においては非決定論という二義的な態度がとられがちであり、この“常識”に見合うかたちで、自然の歴史と人事の歴史とを原理的に区別しようという既述の姿勢が“学者”たちの一部にもみられる。しかしながら、首尾一貫した立場を執ろうとするかぎり、“近代”思想は、人事的世界を含めての決定論か自然界を含めての非決定論かの二者択一を迫られざるをえない。/こうして決定論か非決定論かという対立が深刻な問題となって現出する。これは単に歴史哲学次元の問題ではない。歴史学にあっても、歴史の法則性を、自然科学における決定論的法則性の構図に倣って究明しようとする傾動が現に存在するかぎり、決定論・非決定論の対立は歴史学の存立生にそのものに関わる重大問題である。」281-2P
「・・・・・・人々が歴史の法則的必然性を云々する場合、そこで考えられているのは、おそらく因果的連鎖の必然性であろう。だが、因果的必然性とは何か? 経験的知識は、たかだかのところ、前件と後件とのあいだの蓋然的連鎖しか教えない。それを因果的な必然性として一義的な被決定性表象にイデアリジーレンしてしまうとき、それはかの超越的主宰者の一義的支配の観念と同根・同趣であろう。――われわれは、科学的法則観の名のもとに“近代人”の既成観念となっている一種の形而上学的思念、かの超越的主宰者の理神論(「デイズム」のルビ)的な俗化に伴って定着した近代ヨーロッパ的な臆見、これを批判的に卻けねばならない。そのとき、この機械論的な必然性や決定論的な法則性の思念と共通の土俵にうえに立って、それに否定的に関わろうする近代哲学流の非決定論の発想をもまたわれわれは同時に卻ける所以となる。」283P
「歴史の法則性というプロブレマティックを正しく設定するためには、こうして、実は近代科学流の、遡っては、近代哲学流の発想法の構えそのものを批判的に超克しつつ、因果性、必然性、偶然性、自由、といった基礎的なカテゴリーを築き直す必要がある。――エンゲルスを援用していえば「偶然的なものは必然的であり、必然的なものは偶然性として自己を規定する。というヘーゲルの命題を自然科学は単に無視してしまった。そして、物事は偶然か必然かのいずれかであって、同時に両方ではないというヴォルフ流の形而上学の無思想に執着するか、これに劣らず没思想的な機械論的決定論に執着している」。一見したところ「偶然性と必然性という思惟規定ほど尖鋭な矛盾は存在しないが、しかし、必然性・偶然性に関する従来の観念ではもはや用をなさない」のであって、いまや旧来の非弁証法的な必然性・偶然性の観念をアウフヘーベンして、新しい意味内容を規定し返し、それにもとづいて法則性の概念を再措定しなければならない。・・・・・・」283P
「唯物史観はこのことを対自的なとらえかえし、決定論と非決定論の対立の生ずる地平そのものを超出しつつ、新しい法則性の概念にもとづいて歴史の法則的展開を論考するのであるが、このことそれ自身についての祖述は前掲の別稿に譲り、以下ではその視座に立って歴史的法則性の存立構造を問題にしていくことで次善としなければならない。」284P
  第三節 歴史法則の存立機制
(この節の問題設定)「歴史哲学的な次元で省察するとき、歴史においてはいわゆる“厳密な”法則性が果たして存立するかどうか、前節で示唆してように実はこのことからして大問題であり、この問題に正規に応えるためには「法則」概念そのものの主題的な討究を必要とする。しかし、歴史において尠くとも“蓋然的な”法則性が存立しているということ、これは“経験的”一事実であるといえよう。ここで、問題にしておきたいのは、この次元での“法則性”の存立機制をめぐってである。」284P
[一]
(この項の問題設定)「歴史の“法則性”が存立するためには、それが循環的であれ直進的であれ、ともかく歴史的変化の基体=主体が“存在”しなければならいない。まずはこの事実に定位しつつ論点の一斑を提示しておこう。」285P
「歴史の“主体”を何とみるかをめぐっては二極的に相対立する見解が存在する。一方の見解では“有体の諸個人”を歴史の主体とみなし、他方の見解ではそれを超個人的な或るものに求める。この対立は、近代においては社会唯名論と社会実体論との対立とも相即する。」285P
「・・・・・・変化を変化として把握するためには、アリストテレスを俟つまでもなく、或る実体的に同一なるものが論理的に前提される。「変化」という概念は、慥かにそれが変化するところの或る主体=実体の自己同一性を前提する。この自己同一的な実体が客観的に実在するか、それとも、論理の上での擬設にすぎないかは一まず措くとして、「歴史」が歴史として成立するためには、そのような主体=実体が論理的に要請されることまでは確かである。しかし、単なる個々人以上の歴史的主体が定立されるのは、論理上の要請というには尽きないように思われる。」285P
「歴史の主体=実体は、日常的意識には、個々人以上の或るものとして「物象化」された相で現われる。」286P
「われわれとしては、このような循環ないしWechselspiel(相互作用)の生ずる地平そのものを超克しなければならない。諸個人は間主体的な協働連関のうちに内存在するのであって、決して実体的に自存するわけではない。この際、謂うところの協働連関は算術的な総和ではなくして、独自成類的な綜合(synthèse sui generis)であり、これがその都度の社会的・文化的形象となって物象化しつつ、いわゆる“時代”の内実をなすわけであるが、この“時代”は本源的には協働的役柄の機能的・函数的な一総体として存在しており、諸個人はこの「函数」的な機能的連関の「項」としてpart-take-inしている。諸個人はこの在り方そのものにおいて存在被拘束的であり、人格(person)とはこのpart-taking,personatingを実体化して表象したものにほかならない。因みに、この実体化によって有体の諸個人を以って歴史の主体とみる一方の見解が生じ、かの機能的協働連関の総体を物象化することによって、超個人的な歴史的主体を措定する他方の見解が生ずるのである。――歴史法則の存立構造を見据えるためには、歴史主体に関する如上二様の実体化を卻けつつ、間主体的協働(intersubjektives Zusammenwirken)の構造そのものに定位しなければならない。」287P・・・間主体的協働そのものとしての「歴史主体」
[二]
(この項の問題設定)「歴史法則の存在様相ならびにそれの存立する構造を討究するにあたっては、アトム的諸個人を実体化してその営為の機械論的な集合として歴史的総体を説明しようとする発想を卻けると同時に、歴史的総体をはじめから実体化してしまう“社会有機体論”式の発想をも併せて克服することが必要である。そのためには、機械論的モデルならびに有機体論的モデルに対置して、まずは生態学(「エコロジー」のルビ)的モデルを表象しながら論考しておくのが便利である。このモデルに仮託することによって、われわれは協働連関の機能的・函数的総体性という立言に具象性を与えることをも期しうる。」287P・・・生態学的モデル
「・・・・・・林を構成している個々の草木の如何にあるか(Wie-sein)という現様相はもとより、つきつめていえば、その生死つまり存在・非存在(Daß-sein)にいたるまで、草木の現存在は、相互的連関作用の一総体たる生態系(「エコシステム」のルビ)の分肢的存在として規定されている。――マルクスは、周知の通り、「社会は個々人から成り立っているのではない。諸個人の関わり合いの総体が社会なのである」と述べ、他方では「社会なるものを個々人から自立化させて再び独立の主体に仕立てあげてはならない。個人が社会的存在なのである。」「人間の本質的存在は社会的諸関係の総体である」と述べているが、マルクスの了解の構えは、まさしく生態系に即して形象化することができよう。」289P
「われわれは、勿論、社会や歴史を植物生態系やその遷移と類比的に論じ尽くすことはできない。このような類比が一定の有効性をもちうるのは、宿痾となっている機械論的モデルや有機体論モデルに対して、「関係の第一次性」を顕揚する一具としてである。人間社会の歴史を論考する場合には、当然、人間の意識的営為ということが問題になる。だが、この際、われわれは、かの精神と物質の二元的区別を歴史的世界の領界に持込んで、歴史現象を精神現象と物質的現象とに存在的に截断する見地を卻ける。というのも、いわゆる精神的現象と物質的現象とを包括する歴史的現象の総体が謂うなれば「生態系」的な在り方をしているのであり、マルクス・エンゲルス流にいえば「本源的に社会的生産物であるところの意識」は、「意識化された存在」(das bewußte Sein)なのであって、歴史的生態系に内在する一契機だからである。」289P・・・マルクス的生態学
「ここでとりあえず「遷移」との類比でいっておけば、各世代は、先行する諸世代が自然的環境条件との相互作用を通じて形成した生存条件を与件としつつ、しかも、同一世代の生態系的構成メンバーの営為との共軛性においてのみ「歴史を作り」うる。この際、継承される与件が先行世代の人々によって目的意識的に創出された成果であるか、期せずして形成された無意図的な所産であるか、この意識性の有無は与件の現存在にとって無記的(「インディファレント」のルビ)である。また、他のメンバーとの協働も、意識的に統御できるのはごく限られた範囲のことであり、総じて、それは規制的な“外在的”一条件をなす。このゆえに、人々がたとえかなりの自由度をもって行動目標を志向しうるとしても、それを実現しうる現実的可能性は極めて限られた埓を出ることはできない。ここに、歴史の法則性が蓋然的に成立しうる基礎的条件が成立する。――マルクス・エンゲルスを援用していえば、「歴史においてはどの段階をとってみても、各世代が先行する諸世代から伝授されるところの、一定量の生産諸力、歴史的に創出された一定の対自然関係ならびに諸個人的相互間の関係が見出される」。一定の生産諸力ならびに環境的諸条件、対自然ならびに対他人のこの関係は、いわゆる精神文化的諸契機や精神的諸制度をも包摂しうるものであるが、「このものは、なるほど、一面では新しい世代によって変様されるとはいえ、他面では当の世代に対してそれ自身の生活諸条件を前提し(「フォルシュライベン」のルビ)、一定の発展、特殊な性格を賦与する。こうして、人間が環境をつくるのと同様、環境が人間をつくるのである」。けだし、生態論的な人間−環境系、この連関態の総体的遷移が現存在するのであって、人間という項を主体的能因として「人間が環境をつくる」というのも、環境全体を主体化して「環境が人間をつくる」というのも、実は同一事態に関する二様の射映たるにほかならない所以である。ところで、対自然的・間(「かん」のルビ)人間的な協働連関の動態を、そのポテンツに即して生産力、その共時的関連に即して生産関係と呼ぶ次第であるが、この「各個人ならびに各世代が次々に所与のものとして見出すところの生産諸力」は、協働が即時的であるかぎり、諸個人に対して物象化された相で現出し、「人々の意思や動向から独立な、それどころか、人々の意思や動向を主宰する、固有の道順を辿る一連の展相を発展段階の継起を閲歴する」ことになる。ここにおいて、観察者的立場(für uns)に対して、歴史の法則性が与件として与えられる所以となる。」289-91P
[三]
(この項の問題設定)「歴史の理論にとっては、こうして、歴史の法則性を定礎するためにも、人々の協働的営為の物象化という問題を対自的に把え返すことが要件になってくる。けだし、歴史というものならびに歴史の法則性なるものが自存的に存立するわけでなく、いわゆる歴史の法則は協働的営為の物象化的映現として存立するのだからである。」291P
「ところで、この生産的協働という対自然的・間(「かん」のルビ)人間的な動態的連関は、それが分業的部署の分掌によって存在することに鑑みれば、役柄分掌の一総体として現存在する。この役柄の協働的遂行は、演劇になぞられえていえば、舞台・背景・道具といった既成の条件のもとに(つまり先行する世代ならびに既往における自分たちの成果に立脚して)、これまた、おおむね習慣的に既成化された筋書・役柄・演技の様式に則っておこなわれる。この役柄扮技の総体を、狭義の物的生産の場面のみならずいわゆる精神文化的営為の場面までを射程に収め、そこにおける意識的諸契機をも含めて、“十全に”記述しうるとすれば、そして、そこに法則的推移を見出しうるとすれば、――これはアトム的な諸個人の営為の伝記的記述の代数和ではないことに留意されたい――それを「歴史の法則」として述定することができよう。それは共時的・通時的な生態的綜合の構造論的記述として展開さるべき筈のものである。」291-2P
「・・・・・・実際問題としては、この独自成類的綜合体の固有の変化相、被制約的な展開相の追認と予料、そこにおいて省察記述的に定立されるところの「合法則性」(Gesetzmäßigkeit)が「歴史法則」として理念化(Idealisierung)を伴いつつ、形象化される次第である。/われわれとしては、しかし、この際、理念化された意味形象としての法則性を実体的に自存化させる“形而上学的”錯視はもとよりのこと、種々のかたちをとってあらわれる物象化的錯視を、ことごとく排却しなければならない。――協働的連関態は、協働が即自性をもつかぎり、前々項で「農業の歴史」「日本語の歴史」といった形象化機制に即して指摘しておいた通り、日常的意識にとってはとかく外的に自存するetwasであるかのように仮現する。・・・・・・しかしながら、それは「需要と供給の関係で物価が決定まる」という類いの論理構制(つまり、諸個人の主体的営為を没却して、宛かも「需要」いうものと「供給」というものとの、要言すれば「もの」と「もの」との関係に見立ててしまう論理構制)になっているわけであって、あくまで、それは物象化された仮現・仮構であることを銘記する必要がある。」292-3P
「われわれは、歴史の因果的法則性なるものが措定されるのは人々の対自然的間主体的な協働的営為が物象化された相で意識に映現するかぎりにおいてであるということを対自的に把握するがゆえに、――未在的に既在する法則なるものの謂うなれば“遠隔操作用”によって未来的歴史の法則性が存立するかのような論理構制を暗黙の前提とするところの、科学主義流の“法則的支配”の了解を卻けるという域にとどまらず――物象化された歴史的一現象を以って作用原因となしそれに対応する歴史的結果なるものを配位していく立論の構えを端的に卻ける。われわれとしては、原理的次元では、あくまでかの協働的連関態の生態学的動態そのものに定位する宗とすべきであり、このかぎりで、いわゆる因果法則的説明主義を卻けて、函数連関的記述主義の態度に徹する。――断るまでもなく、われわれは、人間の対象的活動が技能の習熟と伝習、道具的仲介手段の改良、分業的編成様式の改善、等々によって生産力を可能的に上昇せしめていくこと、新しい生産手段の開発が生産活動の対自然的・間主体的な遂行態勢に変化をもたらすということ、そしてこれが、いわゆる政治的・文化的諸制度をも含む共時的構造に無変化を生ぜしめるということ、この類いのことを一般的傾向性として看取できることを否む者ではない。われわれは、現に、マルクスが挙げた通時的な社会構成体の段階的展開を追認しつつ、それより具体的に述定することもできるであろう。しかしながら、これとて、原理的には、“歴史記述”の準拠枠frame of reference以上のものではありえないということを対自的に把え返す次第なのである。」293P・・・因果論から函数連論へのパラダイム転換 今日のエコロジー的観点――生産力至上主義・科学主義批判からの注釈も必要では?
「歴史の法則性がいかなる内実において具象的に存立するか、右に表明した視座に立って、人事の歴史をその諸象面の過現未に即して論定する作業は、まさしく高分子的錯分子的に編制されている役柄行動的協働連関の共時論的・通時論的な諸次元に即して試みるべきものであるがゆえに、そもそも一私人の能くなしうるところではない。とはいえ、事情が許せば、大綱なりとも式述を試みたいところであるが、ここでは、しかし、歴史法則論の問題論的構制ならびに歴史法則性の物象化的存立機制について基礎的な論点と基本的な視角を述べたところで、ひとまず稿を閉じることにしよう。」293-4P・・・「高分子的錯分子的」という概念

posted by たわし at 02:55| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする