2019年09月18日

トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』

たわしの読書メモ・・ブログ508
・トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』岩波書店(岩波文庫) 2000 2001
この本は、トロツキー関係学習の6冊目です(分冊されているのを1冊として)。で、トロツキー学習だけでも、一生をかけても終わらないということがはっきりしてきました。そもそも、レーニンも第一次学習の際にかじっただけで、深く踏み入りませんでした。必要に迫られて第二次学習で何冊かやっと読みました。トロツキーは『ロシア革命史』だけで捨ておけるとしていたのです。ですが、奥が深いのです。運動史の核心的なことがここにも含まれているということを感じ始めています。でも、ひとがやることには限りがあります。とても、奥深くふみいれません。というところで、表面的になぞっただけで、論及的な文を残すこと自体とんでもないことなのですが、それでも、わたしには反差別共産主義論を生み出そうという立場があり、そこから、ドンキホーテと批判されようと書き記しておきたいという押さえがたい衝動が起きてきています。
 これはトロツキーの自伝ですが、そこにリンクして、この本だけでなく、これまでの本の内容から、トロツキーを過渡的にですが押さえておきたいと思います。
歴史学習の終わり頃に、また論考を少しでも深めた文を書き、その中でかなりの修正的文を書くことになるかもしれません。
そのようなところで、あくまで過渡的なところの文としてメモを残します。
 1903年の社会民主労働党大会で、トロツキーはレーニンの組織論―中央集権主義を批判して袂を分かったのですが、その後レーニンが正しかったと自己批判して、レーニンに合流します。レーニンは、トロツキーへの批判として、この組織論と「協調主義者」という批判を繰り返ししています。そもそもトロツキーの性格的には、組織論を批判したところと「協調主義」と言われていることの裏返しとして仲間への強い思いということがあります。そして、彼には文学志向があり、政治的なことへの嫌悪ということ、いわゆる権力闘争ということへの忌避があったのだと思います。一方で彼は、まさに革命運動に身を投じ、まさにそこに生きていました。そこでのジレンマがあったのだと言い得ます。結局彼が、初期の組織論を捨てたのは、まさにレーニンの中にロシア革命の可能性をとらえ、そこへ賭けるということで、武装蜂起的革命論者になり、レーニンはすべて正しい、正しかったというレーニン主義者になったのだとも言い得ます。スターリンはレーニンを神格化することによって、そこでレーニン主義の正当な継承者として、自らもカリスマ化しようとしました。それは右からのレーニン主義だったのですが、トロツキーもまさに「レーニンはいつも正しかった」としてカリスマ化することによってレーニンにかけて強力に革命を推進することによって、そこに永続革命の可能性をとらえたのではなかったのかととらえています。そこで現実的にレーニンとトロツキーの違いということは当然あり、むしろそこで自らをきちんと突き出さなかったところで、スターリン派のトロツキーとレーニンの違いということでの批判を許し、また、レーニンの中央集権主義によって、分派の禁止とか、問題があってもそこで一致団結していくということで、批判を躊躇していく構造が出てきてしまったのです。まさに、「左翼反対派」への弾圧の中で自死したヨッフェがトロツキーに宛てた遺書の中で、「トロツキーが正しかった。なぜ、レーニンのように一貫性をもって自らを突き出さなかったのか」という提言があったのです。他の旧ボリシェヴィキのメンバーは実務的なところではやりきれたとしても、大きな方針のようなところではきちんと方針を出せないで、レーニンの指導下で対立するか、従うようなところ、イエスマンにしかならなかったことに反して、トロツキーはきちんと一貫した方針が出せたのです。そして共鳴しながら時には不協和音になり、調整しつつ、基本的にはもっとも共鳴することとして意見を交わしながら動き得たのです。トロツキーはそもそも軍事的なところが好きで引き受けたわけでなく、レーニンから「他に誰がいるのだ」と言われて引き受けざるを得なかったのですが、トロツキーの軍事の責任者としての体験から、組合への軍事的献身の要求などを出し、中央集権化をまさに自らのものとしていくのです。軍事的な関係性を労働組合的なところに持ち込もうとして批判を受けたりしていたのです。それでも、トロツキーはひととひととの関係性を押さえる、初期の思想は消失はしていないのではないかと思えます。ですから、軍事的なところで、軍隊内の敵対行為に対する処刑やボリシェヴィキへのテロ殺害をやったエス・エルの処刑などにも、一刀両断的なところでやっていません。
 さて、レーニンの四月テーゼの内容が、トロツキーの1905年を前後して出された永続革命論とシンクロしていたことがありました。そこで、トロツキーはレーニン主義者になっていくのですが、レーニンはトロツキーの永続革命論の本は読んでいなかったようで、独自に到達したようです。トロツキーの永続革命論は二つの内容を持っています。ひとつは、プロレタリアートは農民の支持を得て(「依拠して」)権力を握りうる、そして、それが継続し得るには、もうひとつ、世界革命と連動していくことが必要であり、それは握った権力で、内からも連続した革命の推進をしていく、という内容の提起です。
 以後、基本的には共鳴しつつ、トロツキーとレーニンは互いに意見交換しつつ、共にどちらがいなくてもロシア革命はありえなかったと言える指導力を発揮します。トロツキーとレーニンの最大の衝突はブレスト・リトフスク条約を巡る対立です。これは永続革命論の他の国の革命運動との連結、ここではドイツ革命とのリンクの問題でした。互いに、世界革命とのリンクは捨てはしていないのですが、レーニンは現況をどうとらえ、それに合わせてどう方針を出していくのかということで、レーニンの全権大使トロツキーへの提起として、「ドイツには今革命的情況はないから、とりあえずは、ロシアの革命を守るというところでドイツ政府の要求を全面的に飲む」という内容の条約の締結をします。永続革命論の内の推進と外との連携ということでのレーニンとトロツキーのお互いのジグザグが、いくつかのことで出ていました。ポーランド革命戦争ではトロツキーとレーニンの立場は逆になります(これはここには書かれていないのですが、そもそも「民族自決権」の問題ともつながります)。白軍との攻防でペテログラードからの撤去ということでは、レーニンは他の者からも含んで説得されて「条件付き」死守に転じます。その他意見交換の中でいろいろ取り込んでいったこと、暗黙に了解していったこと多々、農民の評価問題、土地の分配、新経済政策、旧官僚の取り入れ、特に軍における旧将校のとりいれなど。
さて、きちんと書かれていないことで、大切なことがいくつかあります。ちょっととらえ返してみます。
まずは、クロンシュタットの反乱のことです。そもそも、クロンシュタットの反乱でどういう要求が出されていたのかその中身を押さえる必要があるのですが、これはボリシェヴィキも含んだ反乱だったようで、それを、この本の中では出てこないのですが、インターネットで検索するとトロツキーが「鉄の箒で一掃した」とか発言したよう、よく分かりません。トロツキーはロシア革命の過程でクロンシュタットに何度も出向き、そこで演説をしてクロンシュタットの革命拠点化を進めた立場がありました。そこからすると、トロツキーが出向き、反乱兵士を説得することではなかったかと、後世の立場から見るととらえられます。これは、ジノヴィエフが担当していたようですが、トロツキーはいろいろ抱えていて動き得なかったということもあったとは思いますが、この本の中では、どうもトロツキーは、左翼冒険主義という批判の下で現在的に経済的基盤がないということで、その基盤を作るためのネップの推進ということで、問題をトロツキー自身もすりかえたのではないかと推測しています。
 さて、もうひとつ「トロツキーは農民問題が欠落している」という批判が繰り返し出てきます。トロツキーも「農民から支持されたプロレタリアートの独裁」とか「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」というスローガンを出しています(「支持」と「依拠」は全然意味が違うのですがこれは翻訳の問題かどうか分かりません)。そもそも社会民主党は農民層に食い込んでいず、社会革命党が農民層に入り込んでいました。なぜ、社会民主党は当時8割を占める農民層の取り込みをないがしろにしたのかということでいえば、貧農や雇用農は別にしてとしつつ、「層としてはプチブル」規定をしていたことがあったのだと思います(そもそもレーニンの外部注入論自体がプチブルの思想という批判も出てきます)。このあたり、わたしはそもそもマルクスのロシアのナロードニキへの「ザスーリッチへの手紙」で書いた、ミールということをどうとらえていたのかの問題もあります。もうミール的なことは崩壊していたのでしょうか? 二月から十月にかけて農民の一揆的動きの中で、「土地はみんなのものだ」というスローガンが出ていました。これはミールの伝統の中で出てきたスローガンで、そこでミールということを活かす農地改革の余地がなかったのか、と考え込んでいたのですが。この問題に踏み込むには膨大な資料の読み込みが必要になり、とてもやれそうにありません。
さて、そもそも労農独裁ということでのソヴィエトの独裁ということが出ていました。ですが、そもそも1905年1917年二度にわたってペトログラード・ソヴィエトの議長だったトロツキーのロシア革命の総括で、そのソヴィエトのとらえ返しがでてきません。少なくとも、1905年はまだレーニンの中央集権的組織論を批判していたときで、その意味でソヴィエトという形態が大きな意味をもっていたはずです。そもそも、レーニンが推進した中央集権制でいくと、ボリシェヴィキへの純化ということになってしまいます。ボリシェヴィキは、二月革命以降は繰り返し民主主義批判を繰り返していきますから、他の党派を切り崩していく場としてのソヴィエトということしか見ていなかったのでしょうか? とにかく、農民層の支持をえていたエス・エルの左翼エス・エルが反乱を起こし排除され一党独裁になってしまったところで、ロシア革命は決定的な変節の道を進んでいきます。
 もうひとつの大きな問題は民族問題です。そもそも社会民主党建設初期から民族問題は大きな問題としてありました。各民族ごとで発言していくというスタイルも出ていたようです。そもそもレーニンの民族問題に関するテーゼ「民族自決権」の思想自体がフィクションだったという批判があります。わたしは民族問題が結局レーニンにとって、やっかいな対処しなければならない問題という域を超え得ず、そこにおける反差別の運動のエネルギーを見ようとしなかった、そもそも差別=階級支配の道具論は、そもそも階級自体を差別としてとらえられないということからきているとわたしは批判しています。そもそも中央集権制からすると、民族自決は中央集権に従属させられます。自決権の思想は、「自治共和国」作りとして進んだのですが、そもそも「自治国家」ということでおいても、連邦に従属させられる「自治国家」にしかなりません。永続革命的に国家が死滅しない限りですが。そもそも民族ということ自体が差別ということがあるから、民族があるというひとつの物象化なのです。ただし、差別がある限り、そのことは反差別として定立させる必要があります。そのあたりが、民族問題でのレーニンと論争を交わしたローザへの批判とはなります。そこで残る問題は、自分の選択した言語で教育を受ける、コミュニケーション言語として使用する「言語権」の問題と文化の独自性の尊重の問題です。長くなるので、これについては別稿で。
 民族問題は、スターリンがグルジアという少数民族の出ということがありました。しかもスターリンがレーニンの死の直前に自分の民族の自決権的なところで動く自治政府に対して、弾圧的なことをしたというところで、レーニンがスターリン書記長辞任を求める爆弾を仕掛けようとしていました。そして、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがユダヤ人だったということで、その差別を利用したスターリン、スターリン派の攻撃もありました。差別問題では、「自らの被差別の問題で戦い得ない者は、階級闘争を闘い得ない」というテーゼがあります。そして、逆に、自らのその「出自」の仲間に対しても差別的になっていく構図も出てきます。レーニンもその内容に通じることを話しています。スターリンの根の深い猜疑心の形成に、この民族問題をきちんととらえられなかったことがあります。トロツキーも、わたしはトロツキーの革命へのエネルギーはユダヤ人差別に対する潜在的怒りのようなことを感じているのですが、トロツキー自身は、正義感のようなことを突き出しています。それでいて、レーニンからの代表的なことに就任の提起に対して、方便的なニュアンスも出しているのですが、「自分はユダヤ人だから」として辞退しようとしていることが一度ならずあったとこの自伝で書いています。そのあたりの非対象化が、トロツキーが、革命の主導権をとりそこなかったことにあったのではないかとも、わたしはこの本を読みながら感じていました。
さて、トロツキーが革命の主導権を取り損ねたことでは、スターリンを甘く観ていた、スターリン主義ということで現れてくることをきちんととらえなかったこともありました。とにかく、スターリンの一国社会主義でも継続・批判の中で修正を生み出していけば永続革命につながるのではという客観主義的なところにとらわれていたのではとも思えるのです。疲れ果てていたとか、永続革命が外につながるところで見通しがつかなくなっていた、とかもあったのですが、権力闘争ということを外的にしか観ていない甘さがありました。誰がリーダーシップを握るかというところで、スターリンやジノヴィエフは前に出たのです。それがまさに権力闘争になった(むしろなぜそのようなことが起きるのかが問題ですが)、内なる権力闘争のようなことに意識性がなかったということもあります。
トロツキーは現場・現場できちんと方針を出し、そして皆を鼓舞しています。トロツキーは軍事を嫌いだったようですが、軍事会議議長専用列車を前戦近くまで出し、内戦での白軍との決定的場面では、敗走する軍の向きを敵に向けさせるために、馬に乗って「連隊長のような」ことまでしていました。通常軍の司令官は表に立ちません。かれがあえて、そのように表に立ちえたのは、レーニンとの一体感があったからだと言い得ます。10月の蜂起の準備のときも、レーニンは暗殺と逮捕を逃れるために地下に潜っていて、トロツキーが現場指揮の最高責任者でした。それなのに、スターリン派はトロツキーと反対左派に反レーニン主義の汚名をかぶせて排除していったのです。そして、スターリン派は自らが総体的方針を出せない中で、左派のみならず、後に同じく粛正していった反対派の方針をこっそりと取り入れていったのです。トロツキーも、未来への投棄として、反対派としてもスターリン・ロシアに方針を取り入れさせようとしたのですが、誰がこのスターリンの大粛正を予想し得たのでしょうか? 岩波文庫のトロツキー関係の本に、人物索引が付いているのですが、自死に追い込まれたひと、粛正で殺されたひとの記載が次から次に出てきます。ちゃんと生き延びたボリシェヴィキの方が極めて少数なのです。そこで、もうひとつの大きな疑念が出てきます。トロツキーは、この本自体が反対派の粛清に使われる可能性をどこまで考えたのでしょうか?
スターリンの一国社会主義の建設と粛正の歴史からするロシア革命自体は負の遺産しかないのです。そのことをどう総括するのか抜きにして、もうこれからの社会変革運動自体がなり立たなくなっています。その総括の中から、これからの運動に活かし得るさまざまな貴重な教訓も出てくるとは言い得ます。この本がスターリン派の粛正に使われた可能性の話を書きましたが、それでもこのトロツキーの本は、これからの運動のための総括のために貴重な資料になっています。勿論、ロシア専制時代のナロードニキのテロに始まるロシアの特殊性とレーニンとトロツキー理論自体の検証もなしつつです。
トロツキーのひとをとらえる鋭い感性、そして、そこにひとりひとりの生があった、というひとの息吹をこの本は描き出しています。それは、ある面協調主義として批判された中身でもないかと思えるのです。そのことをとらえ返しながら、多くの死した、殺されたひとたちの思いにはせながら、時には涙しながら、この本を読んでいました。
トロツキーの永続革命論はローザの継続的本源的蓄積論と相俟って、従属革命論や世界システム論、そしてネグリ/ハートの『<帝国>』につながる新自由主義的グロバリーゼーション批判論というところまで射程が伸びています。そこの底にある、反差別ということから論を形成していく歩みを続けて行きたいと思っています。

切り抜きメモ
(上)
「裕福な農場主の息子であった私は、被抑圧階級というよりはむしろ、特権階級に属していた。家族や家の者が話す言葉はロシア語とウクライナ語のちゃんぽんだった。ユダヤ人が学校に入るときには確かに一〇%枠があったし、そのために私は一年を棒に振ったのだが、その後、私はずっと首席を通したので、一〇%枠の弊害を直接には感じなかった。」188P・・・トロツキーはそもそもプチブルの出、しかし、民族問題でのエネルギーが潜在的にあったけど、それはエリート性で自覚的には出ていないー
「ポーランド人学生に対する歴史教師の偽装されたいやがらせ、ドイツ人学生に対するフランス語教師のビュナンドの卑劣な言いがかり、「ユダヤっ子か」と言って頭を振ったロシア正教の司祭の態度、これらはいずれも私の心を深く傷つけた。こうした民族的不公正はおそらく、私が現体制に不満を抱くことになる隠れた動因の一つであったろう。だが、この要因は、私の場合、社会的不公正の他の諸現象の中に溶け込んでしまっていて、主たる役割どころか、そもそも独立した役割さえ演じていなかった。/特殊よりも一般を、事実よりも法則を、個人的経験よりも理論を重視する感覚は、私の中に早くから芽生え、年とともにしだいに強固になっていった。」189P・・・無自覚的意識の形成、民族差別と性格の形成(客観化された意識の形成、潜在的な意識は強くなるけれど当事者としての主体性のなさにつながっていくー)
「一度ならずあまりにも性急で誤った一般化に陥った。」190P・・・レーニンとの対比もできる?
「私はかなりの長いあいだ史的唯物論に抵抗し、歴史的諸要因の多様性という理論に固執していた。周知のように、この理論は、今なお社会科学の諸理論に最も広く蔓延している。人間の社会活動のさまざまな側面を諸要因と呼び、この概念に超社会的な性格を付与し、その上で、自分たち自身の社会的活動をこれらの独立した諸力の相互作用の産物として迷信的に説明するのである。だが、これらの諸要因はどこから来たのか? すなわち、それらの諸要因は、人類の初期の社会からいかなる諸条件に影響されて発展してきたのか? こうした問題について公認の折衷主義者たちはほとんど論じていない。」246P・・・逆に、わたしは問題を感じてしまいます。マルクスのアジア的生産様式論での論攷は入っていたのだろうか、と。これは農民問題とリンクことです。
「私は、かつて革命に抵抗し、その次にマルクス主義に抵抗したように、そして後に何年にもわたってレーニンとその方法に抵抗したように、芸術に対しても抵抗したのであった。」296P
「私は自分を中央集権主義者だと思っていた。だが当時の私は、幾百万の大衆を旧社会との戦闘に引き入れるために、革命政党にとってどれほど厳格で有無を言わせぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかった。」323P・・・レーニン主義への転向としての自己批判
トロツキーがレーニンとの距離を置いている時代の、他者(クラーシン)を介しての共鳴341P
トロツキーの文学志向368-9P
「こうしたつきあい(オーストリアにおけるつきあいなど)を通じて私は、いかに異質な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして体系の一部を受動的に認識することと、その体系を総体として心理的に感得しその体系の精神で自己を再教育することとのあいだに、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。」406P
「他方、メンシェヴィキのその後の運命と党の組織的課題の評価に関しては、ウィーン『プラウダ』はレーニンの明晰さからはほど遠かった。私はなお、新しい革命が、一九〇五年と同様、メンシェヴィキを革命の道へと押しやるだろうと期待していた。私は、準備的なイデオロギー的淘汰作業と政治的訓練の意義を十分評価していなかった。党の内部発展の問題に関しては、私は一種の社会革命的運命論に陥っていた。これは誤った立場であった。それは現在のコミンテルンの陣営で私を批判している大多数の連中の特徴となっている無定見な官僚主義的運命論に比べればはるかにましである。」435P・・・協調主義への自己批判、それでもエピゴーネンたちからの擁護、協調主義と中央集権主義の再度のとらえ返し
(解説)
戦争と革命の「人格の絶対的価値」588P→(下)337P
「トロツキーは、本書二九章「権力の座」において「人類の革命的経験をできるだけ明確にしておくことは必要であった。いずれは他の人々がやってきて、われわれが計画し開始した事業に依拠して、新たに前進するであろう」、と書き遺していた。」594P・・・未来へ向けての現在の投企→(下)見つからず
(下)
「マルクス主義はみずからを無意識的な歴史過程の意識的表現であるとみなしている。しかし、心理的な意味ではなく、歴史哲学的な意味での「無意識的」過程がその意識的表現と一致するのは、それが絶頂に達したとき、すなわち大衆が自然発生的な圧力によって社会的因習の扉をたたきこわし、歴史発展の最も深い要請に対して勝利の表現を与えるときてだけである。こうした瞬間には、時代の最高の理論的意識は、理論から最も縁遠い最底辺の被抑圧大衆の直接行動と融合する。意識と無意識的なものとのこうした創造的結合こそ、普通霊感と呼ばれているところのものである。革命とは歴史のきわめて激しい霊感なのである。」98P・・・ローザの民衆の自然発生的革命性への依拠に通じる内容。ここで、霊感にはインスピレーションというルビがあり、これは、直感や第六感という漢字を当てることでは?
「まったく唐突にウラジーミル・イリイチが尋ねたことがあった。「もし、白衛軍が君と僕を殺したら、スヴェルドロフとブハーリンでやっていけるだろうか。」」104P・・・レーニンが後継者として考えていたこと→トロイカの怒り105P
トロツキーのユダヤ人での自分を表に出すことの躊躇108P
トロツキーがユダヤ人であるところで「マルクス主義を学んだことがこうした気分を掘り下げ、積極的な国際主義に変えた。」109P
(レーニンのトロツキーへの講和での説得の提言)「もし、われわれがドイツの革命の勝利のために破滅しなければならないとしたら、われわれはそうすべきであろう。ドイツ革命は、わが国の革命よりはるかに重要だからである。しかし、それがいつ起こるのかは、誰にも分からない。今のところはわが国の革命よりも重要なものは何もない。何が何でも、わが国の革命を危険から守らなければならない。」181P・・・世界革命への連携の思いと現実主義的提起
「成功のための最も重要な条件は、次のことであった。すなわち、何事も隠さないこと、特に自分の弱点を隠さないこと、大衆をだまさないこと、すべてのものを公然とその本来の名で呼ぶことである。」207-8P・・・運動の原則としての誠実さ
「ウラル地方における農民の生活を自分の目で観察した際の印象に動かされて、私が新経済政策への移行を執拗に求めたという事実である。」273P・・・トロツキーはネップの受動的容認者ではなかったということと、農民問題を軽視していなかったということの言明。
「無秩序なゲリラ主義は、革命の農民的な底流の現われであった。したがつて、ゲリラ主義に対する闘争は、プロレタリア国家体制を擁護するための闘争であり、その基礎を掘り崩しつつあった無政府主義的小ブルジョア的自然発生性との闘争であった。」274-5P・・・トロツキーがゲリラ部隊ではなく正規軍形成をやっていったことの理由? 「プロレタリア国家体制」?
(ポーランド革命戦争を巡るトロツキーのレーニンへの提言)戦争の情勢と運動の情勢とのズレと違いの押さえ310P
「この問題は戦時共産主義体制をとる限り不可避的に出てくるものであり、その意味で、私は労働組合の国家化を擁護したのである。」321P・・・戦時共産主義を脱して新経済政策をとった理由? しかし、国家の労働者への搾取ということを永続革命論的にどうとらえるのかの問題が出てくるのでは? 戦時共産主義の下で労働組合を軍隊化的に組織しようとして批判されたことのとらえ返しも必要。
「いわゆる「人格の絶対的価値」という見地からすれば、革命は、戦争と同じく「有罪」を宣告されてしかるべきである(もっとも人類の歴史全体もそうであるが)。しかし、個人の人格という概念そのものが革命の結果としてしか形成されなかったのであり、しかもこの過程も完結したと言うにはほど遠い。人格という概念が現実のものとなり、「大衆」という半ば軽蔑的な概念が「人格」という哲学的に特権を有する概念のアンチテーゼであることをやめるためには、大衆自身が、革命、より正確に言えば一連の革命というクレーンによって新しい歴史段階に引き上げられる必要があるのだ。この道が規範哲学の見地から見てよいものか悪いものか、私にはわからない。それに正直なところ、そんなことには興味がない。その代わり、この道がこれまでのところ人類が知っている唯一の道であるということなら、私は充分に心得ている。」338P・・・トロツキーの政治嫌い
「私にとって問題なのは、哲学的に正当化することではなく、政治的に説明することである。」338P・・・トロツキーの革命=政治と現実主義 ロシア革命の内実そのものの総括
「われれは、主観主義に陥るべきではない。また歴史が自らの事業を複雑で錯綜した形で進めても、すねたり腹を立てたりすべきではない。何が起きているかを理解することは、すでに勝利を半ば確保することを意味する。」420P・・・敗北的局面でどうするのかということでは客観主義に陥っているのでは?
(合同反対派形成の中でのジノヴィエフとカーメネフへのトロツキーの提言)「われわれは遠方に照準を定めなければならない。真剣で長期にわたる闘争の準備をしなければならない。」427-8P・・・?敗北主義、スターリンの粛正を予期できなかった
(ヨッフェとの永続革命論に関してのレーニンとの対話の中でのレーニンの言葉)「そうだ、トロツキーは正しかった。」450P
(左翼反対派への弾圧の中で自死したヨッフェのトロツキーへの遺書)「しかし、レーニン的な不屈さ、非妥協性、つまりいずれは多数派となり、この道の正しさがあらゆる人から認められることを予見して、たとえ一人でも、正しいと信じる道に踏みとどまる彼の覚悟が、あなたに不足していると私はいつも思っていました。」「しかし、あなたによって過大評価されている合意や妥協のために、あなたは自分の正しい見解をしばしば放棄しました。それは誤りです。繰り返して言います。あなたは政治的には常に正しかった。そして、今、これまでのどんなときよりも正しいのです。」454P(下線は原文濁点)
「もちろん、十月革命によって提起されたこの課題は、まだ解決されていない。しかし、この課題は、その本質上、数十年かかると見込まれている。しかも、十月革命は人類全体の最も新しい歴史の出発点とみなされるべきである。」537P・・・永続革命論を突き出したトロツキーの思想、けれどトロツキーも書いているように、誰が担うのかによって、全く違ってくる、スターリンが権力を握ることによって全く違った道に踏み込んでいってしまったのです。まさにヨッフェの批判で、トロツキーは自分が敗北することの意味を押さえ損なっていたことの総括の問題がそこにあるのです。
ローザとプルードンの引用540-2P


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トロツキー/森田成也訳『永続革命論』

たわしの読書メモ・・ブログ507
・トロツキー/森田成也訳『永続革命論』光文社(光文社古典新訳文庫) 2008
この本は、前の読書本が永続革命論の初期形成時に書かれたのに対して、永続革命論をまとめた論攷。「左翼反対派」といっても、元々ブレブレのラディックが、スターリン派になっていく中で「永続革命論」批判をなし、それに対してトロツキーが反批判という形を軸にして論攷をまとめた本になっています。
 永続革命論はトロツキーがパルブスの影響を受けつつ形成した理論ですが(パルブスの理論はプロレタリア革命ではなく民主主義への永続革命なのですが)、これとレーニンの四月テーゼがシンクロしていたのです。レーニン四月テーゼが出されたとき、トロツキズムだとの批判もでたようです。当時、マルクスの唯物史観で、発展段階論ということがあって、飛び超えは不可能という図式が定着していたのです。その中で飛び越えるのではなく、プロ独の中で民主主義革命も同時になすというところで、プロレタリア革命―プロ独、プロリタリアートの権力奪取は可能だ、そしてその革命は世界革命に綱がつて行く革命でそれがなければ革命は崩壊するだろうというのが永続革命論です。そこで、農民の位置づけが問題になります。トロツキーもロシアは8割農民だということで、「農民の支持を得た」とか「依拠した」ということは書いているのですが(「支持」と「依拠」は日本語では違うのですが、ロシア語的にどういう意味になっているのか、とらえ返しが必要です)、農民は独自の革命党は作り得ないとおいていたようです。レーニンは最初はブルジョア革命→プロレタリアートの革命とおいていたようで、当初は労働者と農民の民主的独裁論を突き出していました。革命的農民党の可能性についてもいろいろ考えていたようです。トロツキーはその可能性を否定しています。そもそも、マルクスのロシアのナロードニキ、ザスーリッチへの手紙の中で、ロシアのミールに言及していて、マルクスは単線的生産様式論から、ミールを含むアジア的生産様式論を押さえたところで、今日反差別論的なところから批判―とらえ返しがはじまっている進歩史観的なところからの転換のようなことも問題になっていきます。このミールあたりに関することはトロツキーにもレーニンにもほとんど出てきません。この本では解説の中で少し出てきます。そこで、資本主義の「発達」は第一次産業(農・牧畜・漁・林)→→第二次産業(工業)→第三次産業(金融)と展開していくのですが、それは資本主義的発展としてあるわけで、「社会主義」的にどうなるのか、そこにおいても同じ図式が必要なのか、別なのかという問題があります。確かに、農の発展でもここでトロツキーが書いているように鉄道網や電信などの発達が必要になり、また農業機械の生産という意味での工業の必要性も出てきます。でも、逆に農がなければ生きることさえできないという規定性もあります(そのあたりの農の支持がない、依拠がないというところで、「調達」とかやってしまったのですし、十月革命後に農地の分配とかいう政策までとってしまったのです)。それらは、結局統一した、しかも世界的な分業の中での世界革命という意味での永続革命の必要性というところにもリンクしていくことです。トロツキーは繰り返し、「農のとらえ返しがない」と古くからのボリシェヴィキから批判されているのですが、それは誤解という面もあったにせよ、確かに農の革命性を否定したという意味での、もう一段のとらえ返しが必要になっています。ミールは、もはや過去のものとなって、その革命性に依拠できなかったのか、単にボリシェヴィキ主導での農民の組織化の失敗の問題なのかということとのとらえ返しが必要になっています。二月から十月に至る過程で、農民一揆的なことがおき、しかも「土地はみんなのものだ」というスローガンが出ていたわけで、それは単に一揆的なことにしかならないことなのか、そもそも組織化する革命勢力がでてこなかった故なのか、革命組織がきちんと農民をとりこめなかっただけ(そこにおける方針の問題)なのかとかいう問題があるはずです。
 さて、トロツキーはこの本の中でも、自分とレーニンとの関係において、レーニンが常に正しかったと書いています。このあたりレーニンのロシア革命におけるカリスマ性ということがあり(これ自体が大問題で、きちんととらえる必要があります)、またトロツキーは、テルミドール派よりも自分が方がレーニンに近いというところでのレーニンの正統性から相手を批判するということもあったようなのですが、そもそも1903年にトロツキーはレーニンの中央集権組織論を批判してボリシェヴィキと袂を分かったのですが、そのことを撤回しています。で、今日的にとらえ返すと、まさにスターリンの官僚的支配がそこから来ているわけで、むしろ初期トロツキーが危惧していた情況がつくられたのです。そのことをどうとらえるのかという問題があります。レーニンのトロツキーへの批判ということのもうひとつは、「調停主義者」という批判です。これは、自分が主体的に動いていかないという意味での批判としてはトロツキーの自己批判も正当ですが、ただ、わたしはここにもレーニンの外部注入論的に核を作るという形の運動で、繰り返しボリシェヴィキ的純化を図ろうとしていたところでの、トロツキーへの批判があったので、むしろソヴィエトというところで、ペトログラードで1905年、1917年二度にわたってソヴィエト議長を担った、トロツキーの民衆運動的手腕という面が、そこにおける、そもそもソヴィエトの位置づけ自体がほとんど出てこないという問題をどうとらえればいいのかということがあります。このあたりは、結局ボリシェヴィキというところで「客分」的なトロツキーに頼るしかなかったという意味では、レーニンは失敗したということがあったわけで、そういう運動―組織論自体の問題もあって、ロシア革命の歪曲が生じたのではないでしょうか? 
 トロツキーの永続革命論は後期マルクスの単線的生産様式の展開の自己批判的とらえ返しが、永続革命論の中身としての不均等発展論や複合的発展論と結びついていくのですが、そのあたりの研究はどうなっているのか、突き止める必要を感じています。
 さて、この本を読んでいてひとつの大きな問題が浮かび上がってきます。それはスターリンが一国社会主義論を突き出しつつ(スターリンの一国社会主義論も結局自国だけには不均等発展論を認めているので、そもそも論理的整合性がないのですが)、他の国の一国社会主義革命論を認めず、二段階革命論として革命闘争の圧殺をコミンテルンを通してやっていく、ロシア一国の利害に他の運動を従属させるという、永続革命論とは真逆のことを積み重ねたわけで、このあたりの批判をもう少し詰めたいと思います。もう一冊『レーニン死後の第三インターナショナル』を追加読書します。もう一冊中国のトロツキー派の中国革命のとらえ返しの本も一冊。
 永続革命論は強引な革命論なわけで、その強引さの中での反作用としての官僚的強権支配ということが起きたのか、それは後で解消できることなのか、それは暴力革命論や「現実的な運動の中における関係性は、未来社会を映し出している」というテーゼをどうとらえるのかの問題にもつながっていきます。このあたりは一連の歴史学習の中で、まとめる作業をします。

民族社会主義 後進国革命論 不均等発展論と永続革命論17P
ロシアをすべての上に置く 不均等発展論での物神化23P・・・コミンテルン批判
ブハーリンの「亀の歩み」論33P・・・ブハーリンの初期は左派、後はスターリン派のイデオローグ、更に「右派」として粛正されています。
農民は革命党を建設し得ない51P・・ プロレタリアートの党は結局プチブルの党になったのでは、プロレタリアートは革命党を建設し得ないという論理になってしまったのでは? 依拠するとそのものの党との違い
永続革命論55-60P
レーニンは正しかった100P・・・トロツキーはレーニン主義者になってしまっていた
調停主義104P
農地革命の問題を解決し得る勢力がなかった140P
民主主義労農独裁 レーニン140P
パルブス プロレタリアートの権力の奪取は社会主義への道ではなく民主主義への道152P
鉄道と電信が国をつなぐ  工業が主導166P・・・?農業がなければ飢える
農村 農業がなぜヘゲモニーがとれないか216P・・・?中国は?
民主主義的独裁の否定294P
レーニンは現実的課題 トロツキーは歴史的理想を追う374P
複合的発展の法則 不均等発展論391P
「永続革命論の弱い面は、革命の発展段階の規定に関して、とりわけブルジョア革命から社会主義革命への移行に際しての階級的勢力の再編に関して、明確さと具体性が不十分であったことである。」422P
解説
ザスーリッチへの手紙にコメント431P・・・ミール的なものはもう消えたのか?
二段階「連続」革命論436P←意味不明 永続化革命論からの批判 プロ革命には民主主義革命を含む
レーニンの革命的農民政党の形成への期待438P・・・不可能だったのか?
レーニンとの対立442P
機械的段階論と一国社会主義論(特殊的)448P
建設の訳 ロシア語では「建設している」と「建設した」ということが語として分けられているのを訳し分け456P・・・一国社会主義を建設している過程と済みを訳し分けることにつながる
後進性と後発性の訳し分け458P→後発性の特権461P
複合発展の法則462P


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トロツキー/対馬忠行・榊原彰治訳『1905年革命・結果と展望』

たわしの読書メモ・・ブログ506
・トロツキー/対馬忠行・榊原彰治訳『1905年革命・結果と展望』現代思潮社 1975
この本は、トロツキーの永続革命論の原型を示した本です。1906年に最初に出されそれはすぐに押収されて広まっていず、1919年に改めて、1915年の一論文「権力のための闘争」という文と1919年版の序文をつけて出された著書。レーニンは1919年版を初めて見たという話で、レーニンはこれを観て、これまでのトロツキーへの批判がずれていたということを知ったという話です。トロツキーの永続革命論と4月テーゼ以降の革命論はかなりシンクロしています。トロツキーサイドからもレーニンの四月テーゼを読んで、古くからのボリシェヴィキのメンバーが動揺している中でいち早く支持を表明しています。
この本の中であらためてとらえ返していること。トロツキーとレーニンの違いは、農民のとらえ方の違い、トロツキーは「農民の支持によるプロレタリアート独裁」のようです。レーニンは当初は「労農の民主的独裁論」です。わたしは、この本で出てきていない、ソヴィエトのとらえ方の違いから逆のように思っていたのですが、確かにトロツキーにはメニシェヴィキと同じように農の位置づけが低いということはあったようです(トロツキー自身はその批判に繰り返し反論しています)。後は、そもそも最初レーニンとの間を分かったレーニンの中央集権制という組織論ですが、トロツキーの1915年の論文とかも通じてトロツキーのボリシェヴィキ化ということがすすんでいたのでは、ととらえられるのですが、トロツキーの変遷をたどるには他の論攷をもう少し読み込むことが必要です。 
永続革命論は不均等発達論による革命の可能性がロシアにもあり、そこから他の国への革命との連携(連続)の中で、革命が永続的に発展していくということなのですが、このあたりレーニンが四月テーゼで突然ロシアは民主的労農独裁が可能だとしたこととリンクし、また、わたしは後期マルクスの、アジア的生産様式論というところから、それまでの単一的発展方式といわれる唯物史観の見直しをしていたこととも通じるのではないかとも言い得ます。ロシアは他の先進国の革命と連続なしには、プロ独まではいきえても「社会主義」へは移行し得ないとしていました。このあたり実際のロシア革命の道行きとまさに、「予言的な」内容をもつていたとも今日とらえられるようです。
さて、1930年にトロツキーは『永続革命論』という本を出していますので、それが次の学習。それとトロツキーの『わが生涯』を読んでからトロツキーを簡単にまとめます。

とりあえず、切り抜きメモです。
 カウツキーと共鳴する不均等発達のとらえかた65-7P
二月から十月までの道行きの、トロツキーの「予言的」とらえ方71-2P
「主導権は労働者階級に属すべき」73P
ロジコフの押さえ@生産力の問題A協同組合的生産B階級形成91-101P・・・トロツキーの批判とともに検討の必要、特にA

「永続革命論解説」(対馬忠行)
永続革命論骨子12 170-5P
レーニンとトロツキーの農民のとらえかたの違い192P


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トロツキー/藤井一行・左近毅訳『われわれの政治的課題―戦術上及び組織上の諸問題』

たわしの読書メモ・・ブログ505
・トロツキー/藤井一行・左近毅訳『われわれの政治的課題―戦術上及び組織上の諸問題』大村書店 1990
この本は、ロシア社会民主労働党の第二回大会で、レーニンが組織論として中央集権制ということを突き出し、トロツキーはメニシェヴィキとしてその批判をします。それで、レーニン派はボリシェヴィキ(多数派)を形成し、トロツキーはメニシェヴィキ(少数派)として、袂を分かちます。トロツキーはまもなく、メニシェヴィキは離れますが、1917年の二月革命の後、トロツキーはメジライオンティというグループを形成して、レーニンのボリシェヴィキと一緒に動き始め、七月に合流します。で、10月革命のときに、ふたりがいなかったら革命はできなかったとお互いに認める大きな役割を担うのですが。わたしはトロツキーにはそもそもレーニン批判があったのに、その内容をきちんと突き出しえなかったところで、スターリンのレーニン主義に負けたのだと言い得るのではないかと考えています。
ここまで読む予定はなかったのですが、この本はトロツキーの第二回大会を前後してのレーニン批判の内容で、これがロシア革命史の総括の核心的なことではないかと、ここまで広げました。トロツキーの批判はかなり的確で、まるで「予言」のように、その批判、ジャコバン主義として批判していた内容が現実化していきます。トロツキーの提言の一部は方針や政策として、特に経済政策などについてスターリン派にもとりいれられるのですが、その批判はまさに今日スターリズムとして批判される内容で負の歴史を形成してしまいました。
この本の論点は、中央集権制 代行主義 民主主義 現在の社会変革運動に関わる論点として継続している課題です。わたしのまとめの論攷は歴史学習の最後あたりで。
さて、わたしの関心は、なぜ、レーニン主義批判をしていたトロツキーがレーニン主義者になったのか、ということです。もう少しトロツキーを読み進めます。トロツキーの理論の核心、永続革命論で二冊、レーニン主義への転換とトロツキーのロシア革命の総括を探るために『わが生涯』を最後に。
 論攷を先送りしているので、久しぶりの切り抜きメモです。
 「「職業革命家」集団は自覚的なプロレタリアートの先頭を進んでいたのではない、行動していたかぎりにおいてはプロレタリアートにかわって行動していたのである。/この政治的代行の実践が・・・」87P・・・前衛論、代行主義批判 プロレタリア革命とプロレタリアートに依拠するインテリゲンツィアの革命 労働者を教育するという奢り
 「それはしばしば一種の密輸品のようなものであった。」95P・・・マルクス主義などの資本主義の発達した国で作られた理論の「密輸品」 レーニン外部注入論もここから
 「組織フェティシズム」95P・・・総括の核心
 「「代行」というものはわれわれ革命家にとっては革命的な社会民主主義者にとってよりもずっとふさわしくないことをことわっておかねばならない。」117P
レーニンの理論に対するトロツキーの反語的説明「基本原則なら、話はべつです(話せないことはないという意味) ……例えば分業……非合法活動……規律……それに、そもそも中央集権主義……中央委員会がコントロールできるようにというわけで……もちろん、「職業的革命家の組織」と呼ばれているもの……そして民主主義反対……以上が原則です。」123P
「手段が目的に刃向かい、形式が内容に刃向かう……」・・・代行の手口142P
「運動の原則の純潔性や「正統性」をあたかも保持すると称して、「代行」の病理を運動全体に押しつけるのは、墓穴を掘ることを意味する。」142P
「規律が意味を持つのは、みずからが正しいと思うことのためにたたかい、そのためにこそみずからに規律を許す、そういう可能性が保証されている間だけだからだ。ところが、「権利の剥奪」、すなわち思想的影響をおよぼすためにたたかう可能性が奪われる見通しに一定の方向づけがなされると、その存立の問題は、権利の問題(Rechtfrage)から権力の問題 (Machtfrage)へと変わる。」150P・・・この後に、もっと詳しい論攷
「インテリゲンツィアの性質というものは、ことほどさように矯めやすく軟弱で、一度かぎり作図されたダイアグラムのます目なんぞには収まらないのだ!その同じ「性情」が、――革命期にはインゲンツィアをジャコバン主義に――つまりダイナマイトまたは民衆蜂起の「構想」で武装した中央集権的な陰謀組織へと向かわせ、革命後にあっては、インテリゲンツィアを改良主義へ、階級闘争のするどいきれ味を鈍らされる方向へと向かわせる。これぞ社会発展の弁証法である。」162P
「組織の物神崇拝」179P
「ジャコバン主義とは、超社会的な「革命の」カテゴリーではなく、それは歴史の産物である。ジャコバン主義とは、ブルジョア社会が自己解放で緊張が高くなった時代における、革命のエネルギーの最高度の緊張モメントである。それは、ブルジョア社会が与えることができたラディカリズムの極致であり、――それも内的矛盾の発展によるものではなく矛盾の廃棄と抑圧によって生まれたものであって、理論では抽象的な市民にうったえることをてこにし、実践面ではギロチンをてことするものであった。」187P・・・この後にもジャコバン主義の詳述187-190P
「ギロチンは単に政治的自殺の機械による手段にすぎず、また自殺そのものはかれらの希望のない歴史的状況――私有財産制にもとづいた平等を唱え、階級搾取のわく内での普遍的モラルを説いた者の、運命的にたどり着いた果てであった。」193P
「プロレタリアートの独裁がプロレタリアートにたいする独裁」209P
「「社会民主主義者・ジャコバン主義者」にとっては、組織代行システムの恐いもの知らずの代弁者たちにとっては、巨大な政治・社会的課題というのは――階級を国家の支配への準備させることであり――それを組織・技術の課題に――権力機構の構築にすり代えることである。」209P
「プロレタリアート独裁をプロレタリアートにたいする独裁に、階級の政治支配を階級にたいする支配へとすり代える・・・」210P
解題・・・左近毅
「中央集権主義一般から演繹して、レーニン流のそれをトロツキーが「官僚的中央集権主義」と限定している点である(同上報告書、三四ページ)。少なくともこの段階でトロツキーは、後年のグラムシらのように、党組織の中央集権主義を官僚主義的なそれと民主主義的なそれに分類していたことがわかる。」242P・・・民主主義的な中央集権主義はありえるか?
「革命党の組織原理は単に闘争のための戦術的組織形態であるにとどまらず、革命後の社会における支配と統合の原理のモデルとして二重の意味合いをもっている。」252P・・・このことからの中央集権主義と強圧的運動のとらえかえしの必要性
「1923年にトロツキーの提案した「労働者民主主義」の党への導入案を圧殺していったプロセス・・・」257P
党の方針の党員のいろいろな立場からのとらえ返しの必要性258P


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2019年08月18日

NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」

たわしの映像鑑賞メモ032
・NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」2019.8.6 1:35-2:24
マンザナーとは第二次世界大戦中に米・日系人の強制収容所があったところです。今、アメリカはトランプ政権下で移民排斥、人種差別を煽る発言を繰り返しています。そういう中で、それに合わせたような銃乱射殺人事件が起きています。アメリカはレーガン政権下、1988年に強制収容に対する謝罪と補償をしました。それなのに、またトランプ政権はという批判の意味をこめた番組です。
謝罪を生み出すために動いた日系人のジョージ・タケイさんの存在を紹介しながら、収容所生活の過酷さの話、忠誠再登録という国家主義的抑圧とかの批判を織り込んでいます。「マンザナー」を語り継ぐ活動をしている日系三世の紹介もしています。「日本人」という範疇でいくと被害の問題なのですが、戦争と差別の悲劇を語る中から、日本もあらためて、加害の問題としてきちんと謝罪と反省を継続していく、語りついでいく必要があるのだと改めて思いました。


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NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」

たわしの映像鑑賞メモ031
・NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」2019.8.6 0:45-1:35
 ユージン・スミスは「水俣」で有名になったひとですが、若き日に第二次世界大戦の太平洋戦争に戦場カメラマンとして活躍し、戦場の悲惨さを訴えた写真を撮っていたのです。最初は、死んでいった兵士や民間人の犠牲者の写真を撮っていたのですが、米軍の検閲で写真がとりあげられないこともあって、戦争下の捕虜になった民間人の写真をとっていたのですが、米軍の検閲で、過酷な情況の写真が没になっていく、軍の検閲の批判のようなこともこのドキュメンタリーで取り上げています。で、沖縄であるひとりの兵士をクローズアップした同行写真を撮っている中で負傷し、本国に送還されます。
これは実は、再放送だと思います。SNSで沖縄の反基地の映像を撮り続けている三上智恵監督がこの映画の中でインタビュアーとして声だけ出演していることで、この映像の紹介をしていたので、以前観ていたのです。戦争の悲惨さや検閲の問題などの批判とともに、映像作家の人生がどのように変遷していくのか、というところでも興味深いドキュメンタリーです。

posted by たわし at 02:25| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

藤井道人監督「新聞記者」

たわしの映像鑑賞メモ030
・藤井道人監督「新聞記者」2019
 これは現実に進んでいる情報隠蔽・操作をテーマにして、新聞記者が闇を暴く作業をしていく内に知り合った官僚とりわけ内閣調査室の職員とのやりとりのフィクションです。フィクションなのですが、現実にあったレイプ事件を官邸サイドに近いところからの圧力でもみ消した事件とかも映像の中にとりこんでいますし、ふたりの主人公のひとりの新聞記者がスクープしようとする内容が、首相のお友達の大学の優先認可事件とか、それを巡る官僚の自死とかの重なりを想起させる事が多々。そして、対談シーンとしてバックグランド式に流されているのが、菅官房長官に記者会見でくいさがる質問を続けて有名になっている東京新聞記者の望月さんと元文部科学省事務次官で官邸の意向に従わず辞めさせられた前川喜平さん他の対談も出ています。で、アベ政治の「もり・かけ」とか、現実とリンクしていきます。しかし、どこまで事実関係にリンクしているのか分かりません。特に闇中の闇の内調に関することは。しかし、確実に今の官僚の官邸に忖度していく情況・構造とリンクした映画になっています。
 さて、この国の闇としてどのようなことが進んでいるのかと言うことで、忖度や情報隠蔽・歪曲、文書改ざんがなぜなされていくのか、この映画の中で、主人公のひとりである外務省から出向している内調の官僚が先輩に「昔、わたしたちは国民に奉仕するものだと教わった」と話しているのに、その先輩が自嘲的に、返答をさけて、その後その先輩が自死するということがあります。また、その内調の職員が、上司から「民主主義はかたちだけでいいんだ」と言われるシーンもあります。
 これは、SNSのFBで「良かった」いう感想が載っていたので、観に行ったのですが、一定のスクープはなされたけれど、むしろ闇に押しつぶされていくようなところで、内部告発する、しようとする官僚が権力からいかにおさえこまれていくのか、ということで終わっています。スクープで内閣が倒れたというところにはいかないのです。むしろ、そのあたりで終わったからこそ、現実味のある映画になっただろうし、社会運動をしているひとたちには活動していくエネルギーを得るのでしょう。たぶん、そういうストーリーにしないと、権力側から圧力がかかったかもしれません。

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R.ダニエルズ/国際社会主義運動研究会訳『ロシア共産党党内闘争史』

たわしの読書メモ・・ブログ504
・R.ダニエルズ/国際社会主義運動研究会訳『ロシア共産党党内闘争史』現代思潮社 1975
ロシア革命関係の基本的文献として押さえていて以前買っていたのですが、一回紛失しています。改めて買い求めて、ロシア革命史を学習するときに最後的に読もうと思っていました。やっとたどりつけました。今回の読書メモはこの著書の本の中から、そしてすでに読んだ本とリンクさせて、本を読みながら考えたことも含めたメモにします。かなり、わたしの考えも組み入れます。ただ、どこまでがこの本のことか、他の本の事か、どこからがわたしの意見かをちゃんと書こうとするつもりです。
原題は「革命の良心――ソヴィエト・ロシアにおける共産主義的反対派」です。こちらの方が著者の思い入れを表しているのですが、邦訳の題の方がテーマが伝わり広く読まれることになったと言い得るでしょうー訳の責任者がトロツキー派と一般的に評価されている対馬さんなので、著者もその流れの中にあるのでしょうが、トロツキー批判もきちんとしています。反対派、スターリン派のせめぎ合い(スターリンはつぎつぎに粛正していったので、今日のスターリン派は明日は反革命、反レーニン主義、反ボリシェヴィキとして排除されているので、スターリン派という概念自体があいまいになっていきます)、その中に描かれている人物像が浮かび上がっていきます。
 この本を読んでいくと、レーニンとトロツキーとスターリンの関係がはっきりしてきます。まず、トロツキーは1903年の第二回ロシア社会民主労働者党の大会の分裂で、レーニンたちのボリシェヴィキの中央集権的組織論に反対してメニシェヴィキに与したということがあります。で、このあたり、ソヴィエトというところのイメージの違いがついて回ります。トロツキーの方がソヴィエトを尊重するということがありました。レーニンは、むしろというか結局、プロレタリアート独裁にもっていくまでにソヴィエトを使うという意識性しかなかったようです。トロツキーの永続革命論はレーニンの四月テーゼとシンクロしているようです。一方トロツキーはメジライオンツィというグループを形成しながら、四月以降ボリシェヴィキと歩調を合わせて動き始めます。七月末に合流し、十月革命の時は、地下に潜ったレーニンに代わって、まさに司令塔的な役割を果たします。トロツキーは四月以降、まさにレーニンに引き寄せられ、「弟子」ということばも発しながら、共鳴し、特に軍事的な司令塔になることによって、ますますレーニンの中央集権的なところにからめとられていきます。それは労働運動の組織化というところでも軍隊的中央集権化というところにも表れています。レーニンは情況を的確につかみとろうとし、そこから新しい方針を提起していきます。その変換に旧ボリシェヴィキ・メンバーが付いて来にくい中で、トロツキーはだいたい共鳴していきます。ときにはソヴィエトの評価から蜂起の時期の設定の違い、ブレスト・リトフスク条約の締結を巡る衝突といろいろ衝突もありました。それは実はレーニンとトロツキーの明らかな違いとしてあったわけで、トロツキーがそれをきちんと自覚し、そこで批判も含めた動きをしていくことだったのですが、自分の出発点の中央集権批判をすててしまったからこそ、分派的なうごきさえできなくなっていたのです。スターリンはトロツキーのそのようなところを押さえ、突き崩しました。スターリンの陰謀的組織者としての突出やトロツキーのレーニンが批判した「権威主義」(わたしはそれを「自己顕示的運動」になっていることと押さえます)が、外敵との闘いにおいては情況をおさえ的確に方針だしていくことに秀でていたのに、「党内闘争」的には逡巡の繰り返しになっていたのです。レーニンはまさにリアリスト革命家として生き、道半ばにして病に倒れたのですが、トロツキーは文学者でもあり、革命家に徹しきれないで、そして党内闘争における権力闘争の情況判断を繰り返し間違えていきます。むしろ「権力闘争」という意識性自体が希薄だった、なかったのかもしれません。トロツキーはレーニン主義者になっていたからこそ、中央集権主義にとらわれ、分派の禁止の論理とかにとらわれ、スターリンの事務処理能力や陰謀的官僚的組織化というところでの書記局・組織局支配の中で、真綿で首を絞めるようにじわじわと排除の網の目を作り出していったのです。中央集権といっても、少なくともレーニンはいつも新しい見解を示し、少数派として周りのひとたちを説得していくしかなかったからこそ、集団指導的な議論を尊重していました。それはボリシェヴィキの伝統のようなこととして良い面も維持していたのをスターリンは中央集権的独裁体制で議論さえもさせない体制を築き上げていったのです。スターリンは、まさにレーニン主義を標榜したのですが、はっきりした違いがありました。それはレーニンは少なくとも死ぬまで、先発の資本主義における革命と連動する形でソヴィエトの革命の未来がありえるとしていたのですが、そして時には自国の利害で被害を被っても世界的に革命を進めるのだという革命的敗北主義の主張をもつていました。スターリンは一国でも可能だとして社会主義の「亀のあゆみ」をなしていこう言いつつ(これは今日スターリンがなしたことを見ていると、かれがやったのは権力闘争で、結局、革命の意志があったのかどうかまで問題になります)、ついには「社会主義国」をなしえたとまで主張するに至ります。もうひとつの違いは、レーニンは革命に殉じるところで、官僚的なことをいかに排するかということがあったようなのですが、スターリンには自己顕示的なところの権力欲で動いていったということです。そして、レーニンには間違ったところには反省するところはあり、レーニンには自分とその信じる処に自信をもって突き進んだのですが、スターリンは紆余曲折し、結局自分がつぶした相手の主張をこっそりと自分の政策のように取り入れていったということもあり、自分の間違いを隠蔽や自分が潰す―潰したひとの評価を落とし込め、自分の無謬性を主張するために歴史の改ざんさえなしていったということがあります。ただ、レーニン主義者を標榜し、レーニン主義からの逸脱ということをもって他者を落とし込めるという手法を使っていました。確かに、レーニンの中央集権主義的なところや、目的のために突き進むというレーニン以上に目的のために手段を選ばないというところは継承していったようです。
 レーニンは病に倒れたのですが、すでにレーニンの生前に直接世界革命へのリンクしていかないという情況がとらえられてきました。で、干渉戦争や内戦下の中で新経済政策―ネップという資本主義的なことをとりいれます。そして、もうひとつこの本には詳しく書かれていませんが、クロンシュタットの反乱の弾圧という問題があります。このとき、トロツキーは赤軍の議長でした。どうも直接に弾圧の指揮をしたのはジノヴィエフのようですが、トロツキーもレーニンも反対はしていないようです。インターネットで検索するとトロツキーの「鉄の箒で一掃した」とかいう発言の記録が残っているようです。これらの、永続革命論的なところから遊離することへの総括―評価はこの本の中ではでてきません。
さて、スターリンにはネップに対して国家資本主義という押さえはあるようです。そこから、党内闘争の中で出ていた富農の解体や重工業への転換というところへの5カ年計画という形で進めいくのですが、党支配の官僚主義的なところでの管理支配の強化の中でも生産性向上運動ということは労働者の搾取の強化ということになるのではと思います。それを著者はむしろ反対派の政策のとりいれによる「社会主義的な政策」へ進んだというように押さえているようなのですが、そもそもネップ自体も資本主義にかじをとったということで、ここからマルクスの唯物史観の考えでは、経済的なことが意識を規定するという意味で、経済は資本主義で政治文化で社会主義への道を進むということは破綻していきます。レーニンはまだ世界革命へのリンクということで、レーニン的なリアリズムでの一時的処置としてあったのでしょうが、それをスターリンはまさに国家資本主義ということにすぎないことを「社会主義」いいつのり、その一国社会主義の体制の伸張と冷戦構造の中で、各国「共産党」とコミンテルンを形成するのですが、第三インターナショナル――コミンテルをロシアの利害に従属させる「国際共産主義的運動」の歪曲ということをなしたと言わざるをえないような情況がとらえられます。
さて、話を「党内闘争史」に戻します。トロイカ(スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)による左翼反対派の排除、そのトロイカの一翼ジノヴィエフらの排除、合同反対派の排除、右翼反対派の排除、そして大量粛清―処刑に至ります。一体どうしてそういうところまで行ったのかという問題があります。社会民主党の討論の歴史を見ると、むしろロシアの社会変革派の伝統として、討論の機会をきちんと確保し、説得するという伝統があったようなのです。そして、意見の相違で意見が通らないと判断したときは退席するという手段をとるということがありました。レーニンには、純化志向がありましたが、除名とかまではしないという伝統があったようです。陰謀的なところに陥っていく前のスターリンも「処分すると次から次に処分していかなくてはならなくなる」という自ら陥った疑心暗鬼的な処分と相手の殲滅のような構造におちいらないという歯止めがありました。まさに他者を排除する者は、みずからが排除されるとの恐怖に陥り、疑心暗鬼の塊のようになっていったということのようです。そもそもスターリンは、最初レーニンのイエスマンだったのです。これは意見が一致していたという意味ではなく、彼の権力志向で強い者に従属し、それが自分が権力を握るようになるとまさに自分に刃向かう、また何か力があると思うと、あらかじめ排除していく、排除というより抹殺として進めました。それはまさにロシアの恐怖政治をひいたイワン雷帝にもなぞらえられるのです。ひとを的確にとらえたレーニンは、ボリシェヴィキ内では、他者を説得して変えていける自信をもつていたのですが、最後にスターリンを書記長から下ろせという遺言を残しています。それをとらえられなかつた当時の政治局の情況の読めなさこそが、スターリンの独裁を許したとも言い得ます。後に反対派として動いていくひとたちは、まさにスターリンとの同盟から、順次反対派にされていく、時をつかめず。まさにスターリン独裁と大量の粛清を生み出しました。さて、歴史の話をするときに、どのような可能性があったのかという話、「たら・れば」の話をしても仕方がないのですが、レーニンが病気で死ななければとか、またトロツキーがレーニンの提起を受けて議長代理を引き受けて、スターリンの個人独裁の道を塞ぐ手法に進んでいればという問題があります。ですが、そもそもトロツキーはオールドボリシェヴィキではなかったのです。むしろトロツキーは、中央集権主義批判としてソヴィエトにおいてボリシェヴィキと他の潮流の与することができるひとたちとで、ボリシェヴィキの独裁いう道を押さえ込み、もし独裁が必要ならば、ということですが、ソヴィエトでの独裁という道を進むことではなかったかとも思います。
もうひとつの問題、そもそもマルクス思想の決定論と主意主義の問題があります。 
後発の資本主義としてのロシア、しかもヨーロッパも覆う専制ロシアという情況下における革命として、マルクスの唯物史観からすると革命は先進国から起きることで、ロシアにおけるプロレタリア革命は不可能という定式がありました(最新のマルクス研究では、後期マルクスの新しい展開ということも出ています)。レーニンは『ロシアにおける資本主義の発達』という本でロシアでも資本主義はそれなりに発達している、特に先進資本主義がギルド的徒弟的労働や家内制手工業からマニファクチャ、機械制生産様式と発達していったのに対して、それらを通り越して機械制大工場の生産としてそれなりに労働者層が形成されているとして押さえつつ、それでもブルジョア民主主義革命を経てから先進国革命に連動してプロレタリア革命という図式を描いていたのですが、四月テーゼで、ロシアにおいても労農ソヴィエト独裁という形で、革命は可能という突き出しをしました。このあたり、トロツキーの永続革命論とのシンクロもあったようなのです(永続革命論はこの本の中でも少し出てきますが、この本の後の連続学習で取り組む予定です)。で、唯物史観的なことに対してむしろ主意主義的に、意識的な働きかけの可能性ということを見たとも言い得ることです。しかし、結局、内戦や干渉戦争もあったところで、農というところでのつまづき、農業と工業との関係を押さえるところの失敗の問題もあったにせよ、結局は、ソヴィエト独裁から党の独裁、スターリンの個人的独裁、テクノラートの支配という形に収束し、チェーカーからゲーペーウーを使ったまさに鉄(スターリンは筆名で、「鋼鉄の人」という意味があるようです)の管理支配体制というとろで、体制を維持しえたに過ぎず、結局、この本が出されたときには、それがまだ続いていたのですが、結局プロレタリアート独裁から社会主義への移行をなしえず、ソ連邦は崩壊したのです。これをどうとらえるのか、結局、マルクスの唯物史観の定式に収まったとも言い得ることです。このあたりは、総括の核心なところで、スターリン主義の総括のみならず、レーニン主義ということの総括も必要になっていると、わたし自身のわずかなりともその作業に参入しようと、この読書もその一環です。読書作業をまとめる形で文を書いていきたいと思っています。
さて、わたしの反差別論の立場での関心事として、レーニンの民族問題とそことリンクするスターリンの民族問題があります。レーニンは、スターリン批判にリンクすることとして「ロシア化したロシア人が真のロシア人よりもロシア人的方向に事態を誇張することは衆知のことである」144P(これは他のひとに向けた批判ですが、グルジア人であったスターリンにも当てはまります)ということを語り文も残しています。このあたり、わたしのマージナルパーソン研究ともリンクすることで、もう少し作業を進めてこれも文にします。わたしはそもそもレーニンが民族問題に関して、「差別とは階級支配の道具である」という定式自体が誤っているのではないかと思います。そもそも階級の問題も差別の問題だということを押さえ損なっている規定ですが、これだと、民族問題は階級闘争を進めるために解決しなければならないやっかいな問題だという認識の域を超え得なくなります。わたしは、むしろ差別に対する怒りから、その怒りが他の差別問題と結びつかないとナショナリズム的な間違った方向にいってしまうことはあるにせよ、きちんと反差別の関係的に結びついたところで積極的にいかせることなのだと思います。一般に左翼総体においてレーニン主義にとらわれる中で、レーニンとローザ・ルクセンブルクの間で交わされた民族問題に関する論争で、レーニンは民族自決権ということでローザを論破したとなっているのですが、わたしは民族自決権ということを国家主義的に自治共和国の形成というかたちでの自決権では、問題は解決されないとも言い得るのではないかと考えています。この本の中でもスターリンの民族対応(ジョルジアを三つの小共和国へ統合する問題での対応141P)で、レーニンとの亀裂が起きたという大きな問題としてあったのですが(レーニンが最初倒れ復帰したときにこの問題からスターリンを書記長から降ろす、最後の取り組みをしていました141P-150P)、中央集権制という事の中で、自決権がどうなるのか、この本の中でも「民族自決権とはフィクションである」ということが書かれています。実際、むしろスターリンが合同反対派のトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがユダヤ人であるということでスターリン自身も「われわれが、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを闘うのは、彼らがユダヤ人だからではなく、彼らが日和見主義だからである。」245Pとどう見ても民族差別に反対するというところでなく、暗に煽るということをしていますし、そして民衆、ボリシェヴィキの代議員、そして中央委員会、政治局も民族差別にとらえられていたことが粛正を許すことにつながったのだとも言い得ます(スターリンの差別性は民族問題に限りません。その当時に障害差別が対象化できなかったという時代制約性はあったにせよ、相手をおとしめるのに「障害者」に対する差別性を持ち出すその話250Pは、時代制約性ということを超えた、スターリンの差別主義的人格をも示しています)。そもそも、ソヴィエトでは各民族が民族を代表して意見を述べていくということがあったようなのですが、ソヴィエトから党の独裁へ転化する過程で民族差別がとらえられなかったことが、まさに革命的発展の桎梏となっていったともとらえられます。
誤解のないように書き置きますが、レーニンとローザの論争でローザが正しかったと言っているわけではありません。ローザはユダヤ人で、植民地支配にさらされたポーランドの生まれで、女性で、そして「障害者」でした。まさにいろんな被差別の課題を抱えていたのに、むしろ国際主義的な連帯の中で、自らの個別被差別の問題での突き出しをほとんどなしていません。ですが、その著書『資本蓄積論』の継続的本源的蓄積論が、まさに資本主義の中で差別がどのようなこととしてあるのかをとらえ返しているととらえられます。ですから、その理論は従属論や世界システム論や反自由主義的グローバリゼーションの理論の中でいかされ、そこから反差別論の形成に大きな意味を持ちえています。わたし自身もそこから、反差別共産主義論を形成しようとしています。これについても、いくつか書き始めつつ、論攷を進め深めていきます。
さて、もうひとつは、ロシアの農民のとらえ方です。レーニンはそしてトロツキーも、農民を土地所有というところでプチブル規定をしています。このあたり、著者も全く書いていないのですが、マルクスのロシアのナロードニキのザスーリッチにあてたロシアのミールに対する評価ということが全く押さえられていないことは、どうなっているのかという思いをわたしは抱きました。ロシアの農民は二月革命以降、一揆的なのですが、打ちこわしや土地の分配などを進めていました。「土地はみんなのものだ」というスローガンも出ていました。その運動は単にプチブルの領域だと、納めることはできないとも言い得ます。これは、ミール―ロシアの農村共同体の歴史があったからゆえだと思うのですが、後期マルクスが一義的発展法則から抜け出してアジア的生産様式などをとらえ返していくこととしてロシアのミールについても論及していたことが抜け落ちているのです。これは前述した民族問題から差別の問題の総体的とらえかえしの問題ともリンクしていきます。このあたり、今日からとらえ返すと、農本主義的なところのおさえともリンクしていきます。このあたり、農業に留目していたブハーリンのとらえ返しの問題にもつながっています。ブハーリンは、レーニンの『帝国主義論』とか『国家と革命』にも影響を与えたというようなことを、この本ではないのですがインターネットでの検索で読んでいました。ブハーリンの本にも手を出したいのですが、とてもそこまではやりきれないとも思っています。

今後の課題的なことを含めて、この本で論点となっている、なってくることを、いくつかメモ的に残しておきます
この本では『国家と革命』をアナーキズムとしてとらえているのですが、わたしはむしろ、レーニンはマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を読んでいないで、「国家は共同幻想である」という規定が、『国家と革命』にはない、むしろアナーキズムというより、暴力主義的権力論という批判になります。わたしはマルクスの流れの本を最初に読んだのは、この『国家と革命』でした。『帝国主義論』を読んだところで、スターリン批判から出てきた三浦つとむさんの『レーニンから疑え』という本を読んだところで、レーニン主義の核心的な運動論―組織論的な本はインテリゲンチャ的な外部注入論批判を抱いて捨て置きました。それでも民族問題に関する本は反差別論に必要なので読んだのですが。これまでの社会運動の解体的情況の核としてのレーニン主義の総括の必要性から、第二次レーニン学習に踏み込んでいました。歴史学習とそこから波及するマルクス派の古典学習としてトロツキー、ローザを押さえて、改めてレーニンの哲学的論攷と『国家と革命』『帝国主義論』の読み直しを第三次学習としてしたいと思っています。
さて、この本を読んでいてそもそもソヴィエト独裁ということは何だったのかという問題が出てきます。そもそも独裁というイメージは民主主義の否定というようなニュアンスがあるのですが、このプロレタリアート独裁の概念はマルクス発なのですが、時の支配階級がどのような階級なのかというところで、時代的にはその階級の独裁という形にならざるをえないというイメージです。資本主義の社会はブルジョアジーの独裁であるというところで押さえていることです。そして、そもそもプロレタリアートの独裁において、ブルジョアジーがいなくなるのですから、いなくなったらプロレタリアート自体もいなくなり、その独裁も消えることです、という論理なのですが、そもそもわたしはロシア革命において、プロ独から社会主義への移行にはならなかったと書いていたのですが、そもそもプロレタリアート独裁ということも、実は、「革命的インテリゲンチャ」の「革命」に収束しています。まさにテクノラート官僚支配で終わり、もちろん国家資本主義でしかなかったという意味では「ブルジョアジー」も消えたわけでもないのです。
さて、官僚主義批判に対して「民主主義者」という批判がスターリン派から加えられます。そもそも中央集権ということ自体が民主主義とアンチノミーなのですが、そもそもエンゲルスの「民主主義とは支配の形態である」というテーゼがありました。議会制民主主義が民意をごまかしていく事に使われていくことにも現代日本の政治の中に表れていることがあります。民主主義一般に関しても、脳死臓器移植や延命処置の拒否とか安楽死とかで、その中にある優生思想的なところをとらえて、「自己決定はまやかしである」という論攷も出てきています。そこには哲学的な近代的個我の論理の批判、近代知の論理の批判があります。それでも、他者に自己の意志を強制するということや、上下関係が生じるという差別関係を否定するという意味での対等な関係をめざすことは必要です。まさにそのようなこととして、スターリンのロシアの党の官僚的支配体制を批判することも出てきます。それをなんというか、とりあえず、個々の意志を尊重するという意味での「民主主義」や「自己決定の尊重」は必要なのだと思います。先のまやかしという批判をきちん押さえつつです。

ソヴィエト連邦の崩壊は一国社会主義路線の敗北として総括することですが、スターリン主義は批判されていますが、各国共産党・社会主義を名乗る政党においてはその総括をきちんとなしえていないで、内容的に精算されていないようです。それは国家主義者のナショナリズムの扇動にまきこまれ、きちんと批判し得ないという構図や、組織論的に中央集権制、それは民主集中制とかいうごまかしのことばとともに生き残り、また分派の禁止とか、「細胞」も地域と職場にしか認めない、反差別の個別戦線を作り得ない、差別のちゃんとした対象化さえなしえていないという問題があります。このあたりは、スターリン主義の総括にとどまらないレーニンにまで遡った総括が必要になっているのだと思います。
切り抜きメモ的なことを書きかけていたのですが、これもここには載せず異文として保管することにします。


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トロツキー/藤井一行訳『裏切られた革命』

たわしの読書メモ・・ブログ503
・トロツキー/藤井一行訳『裏切られた革命』岩波書店(岩波文庫) 1992
前の読書メモで、ロシア革命史の学習でこの著者の本『ロシア革命史』を読み、そこから波及して、トロツキーのこの本もその続きとしての内容があるので、読むことにしました。前の本は、「ロシア革命」を学習するために読んでいた本、この本はそこから波及して一冊くらいトロツキーを読んでおかなくてはと、しかもロシア革命をどうとらえるのかというところで読んでおかなくてはと、そのうち読もうくらいで買い求めていた本を続きとして読んでおこうと引き出したのです。
なぜ、今更ロシア革命史なのか、トロツキーなのかという話ですが、それは、社会変革の運動を担ったひとたちの総括の原点がロシア革命とその総括にあるという思いから、レーニンの第一次学習をしてボリシェヴィキズムのとらえ返しをしようとしたのですが、なぜ、レーニンをスターリンが継いでしまったのかというところで、トロツキー派の党内闘争の敗北を押さえなければならないということと、トロツキーが社会民主党の最初の分裂のときに、レーニンの組織論―中央集権制を批判し、ボリシェヴィキではなく、メニシェヴィキの方に行ったということを押さえる必要を感じているからです。トロツキーはすぐにメニシェヴィキは離脱します。それはメニシェヴィキが祖国防衛というところに取り込まれていくということと、ブルジョア民主主義革命に収束させようとする民主主義派になっていくということでの批判です。
さて、そこでトロツキーの本を何冊か読んでおこうと思っています。現時点で押さえていることとして、1917年の二月革命の後、帰国したレーニンは四月テーゼを出します。古くからのボリシェヴィキだったひとたちには青天の霹靂のようなことでした。トロツキーは遅れて五月に帰国し、四月テーゼに賛同の意を表します。で、レーニンと歩調を合わせて動き始めます。トロツキーがメジライオンティを引き連れて、ボリシェヴィキに正式に合流したのは七月です。ロシア十月革命は、レーニンとトロツキーどちらがいなくてもなしえなかったという動きでした。二人の違いは、トロツキーがソヴェトをレーニンよりも重視したことにあります。レーニンはどちらかというと、プロレタリア独裁志向で、当時八割の農民とそれを背景にした軍の存在をとらえたところで、労農兵ソヴェトの独裁をとりあえず行うということでしかなかったと押さえていたとわたしは思います。さて、ここからプロレタリアートの独裁が党の独裁、そしてスターリンの独裁という事態にまで進み、トロツキーとレーニンはあくまで世界革命ということの必要性を押さえていたのですが、スターリンの一国社会主義路線に敗北していくことになります。そもそも、レーニンそして多分トロツキーも、新経済政策という形で、資本主義経済の取り入れを主導したか、賛成しています。そして1921年のクロンシュタットの反乱の鎮圧、当時トロツキーは赤軍の議長でした。すくなくとも容認か、引きずられています。そのあたりの総括をトロツキーはどうしているのかという問題があります。このあたりの矛盾がスターリン支配の根本にあるのではないかと思います。
 さて、長すぎた前置きから、この本の内容に入ります。
この本原題は、「ソ連とはなにか、ソ連はどこへ行きつつあるか?」、それをフランス語訳で「裏切られた革命」という表題がつき、トロツキーもそれを受け入れ、その後自分でもこの本の紹介のときにこの「裏切られた革命」という名をつかっていたとのことです。ですが、そもそも自分も主導した革命の敗北を「裏切られた」と受動的に語ってしまう問題があります。この本はロシア革命がどのような否定的情況になっていったのか、いるのかということを刻銘に書き、それなりに分析していますが、それの元になっていることが何なのかの分析まで進んでいません。問題は、そもそもボリシェヴィキズムの核心の中央集権制自体をトロツキーが当初批判していたこと、そこからトロツキーがどう変節していったのかということ、この中央集権制自体が、ソヴェト独裁→プロレタリア独裁→共産党独裁→スターリン独裁まですすんでいったのではないかということ。また、そもそも、後れた資本主義において、プロレタリア革命はなしえないということを、レーニンが四月テーゼで転換したのですが、そもそもそこで生産性の問題が繰り返し出てきて、ネップの導入に至るのですが、そのことがますますロシアの社会に矛盾を来します。トロツキーはスターリンだけに帰せる責任と、自分たちも関わったネップから帰せる問題の区別をきちんとなしえていません。最も負として指摘されていること、ゲーペーウーによる摘発・支配でも、そもそもレーニンがチェカーとしてやっていたことで、この本の中でもトロツキーが、この本の中で「当時もしだれか、たとえば無意味で欺瞞的なケロッグ条約に加わるとか、コミンテルンの政策をおだやかなものにするとかによって、「民主主義的」な帝国主義の歓心を買うことをあえて提案する者がいたとすれば、レーニンは疑いなく、革新的な提案者を精神病院に入れるように提案したであろうし、それにたいしてよもや政治局の中で反対はでなかったであろう。」240Pと書いています。まさにその後のスターリンがなしたことを想起させる内容です。そういう意味で、レーニンから帰せられる問題や自分自身の総括をネグレクトしているとしか思えません。
レーニンやトロツキーと切断して、スターリン自身に帰せられるはっきりした誤りは、一国において社会主義建設は可能だとしたこと、そして「亀の歩み」論から、社会主義建設をなしえたとして、その後は冷戦構造の中で、ロシアの国益優先主義に陥り、「国際共産主義運動」においてコミンテルンを通じて数々の誤りを各国共産党に押しつけていったという歴史があります。
1980年代の後半から1990年代の始めにかけて、ソヴェト連邦は崩壊しました。それは結局一国社会主義建設路線の敗北として、ロシア革命自身が、強引に(強引すぎて)なした革命は破産するということを、党の独裁やゲーペーウー支配の中で言論の自由も奪い抑圧して70年も維持し、数々の矛盾を来たしたことの破産としてとらえられるのでしょうか? 
これからの社会変革運動は、ロシア革命まで遡った総括とそれから各国・各地域での社会変革運動の敗北の総括をなしえないことには、繰り返し出てくる内容のない変革志向の継続性のない活動に陥っていきます。きちんとした総括がいまこそ必要になっています。
本の中に書き込みをしていたのですが、これもひとつ前の読書メモの文末に書いた内容で、これは切り抜きメモを作ること自体を止めました。


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トロツキー/藤井一行訳『ロシア革命史<1>〜<5>』

たわしの読書メモ・・ブログ502
・トロツキー/藤井一行訳『ロシア革命史<1>〜<5>』岩波書店(岩波文庫) 2000・2001
この本は以前角川文庫山西訳で途中まで(最終章かその一歩前まで)読んでいて紛失して、読了し損ねていた著です。山西さんの訳の問題点を押さえて、ロシア語から訳し岩波文庫から出た本です。
ロシアの革命はねじ曲げられて、スターリンの一国社会主義路線で、管理抑圧支配体制と大量粛清を生み出しました。で、管理抑圧支配体制の中で70年も続いたのですが、未だに旧い観念にとらわれている以外のひとのロシア革命の評価は、「社会主義」に踏み込む以前の、プロ独段階から「国家(独占)資本主義」に転化し、「社会帝国主義」とでも言うべき覇権国家になったということに収束しているようです。
1990年代を前後してロシアのそして東欧の「社会主義国家の崩壊」ということで、それがマルクス以来の共産主義革命論の破綻からマルクス葬送という流れを生み出ししています。そして、リベラルな学者さえも「資本主義はなくならない」「市場経済はなくならない」という主張をなしています。で、そこでは、マルクスが押さえた資本主義社会の分析をつかえなくなります。そもそも学的な深化がなしえなくなり、近代的合理主義者という立場での「民主主義的反差別論」か、こっそりマルクスをとりいれるというごまかしになっていきます。前者はそもそも差別がどこから出てきているのかという分析なき反差別論で、有効性をもちえません。
2015年の国会前の戦争法(安全保障関連法案)反対の運動は若者の新しい形の運動を作り出し、大きな直接民主主義の運動のうねりを生み出しました。ただ、かれらは結局「生活保守」とか言いだし、死に瀕している間接民主主義へ投げ出すことで、運動を収束させてしまいました。その主催者のひとたちに責任があったのではありません。長く間接民主主義の流れは、「社会は変わらない」という大きな風潮を生み出していたのです。そこで、「社会は変わりうるのだ」というところでの大きなうねりをうみだすところまで進みえなかったのです。それは、そもそも、社会変革運動の主流であったマルクスの流れの運動の混乱の総括がなされていなかったからです。その総括は、少なくともロシア革命のとらえ返しの作業までさかのぼらねばなりません。
その始まりとしての、わたしの歴史研究で、ロシア革命の総括のとらえ返しです。
すでに、レーニンの著作を読み始めていました。その中で、レーニンの著作や解説は、ロシアのスターリン支配の中での隠蔽や歪曲がおこっているのではないかという思いもあったのですが、それでもその中からレーニンはあくまで、ロシアの革命はロシア一国ではなしえないというテーゼを持ち続けていたということを読み取っていました。トロツキーのこの著や訳者の解説でこのことをはっきりととらえ返せました。レーニンは4月になって、初めてブルジョア民主主義革命を経ないでもプロレタリア独裁は可能だと突き出しました。そのことはトロツキーの永続革命論とリンクしたのです。それ以後の、レーニンとトロツキーはシンクロしていたのです。ただ、ふたりの違いはソヴィエトの位置づけの違いと、蜂起を巡る時期のズレです。後者は、レーニンが地下潜行したことによる民衆の意識をつかめにくくなっていたことで、レーニン自体が誤りを認めているようです。実は、この後者も、前者のソヴィエトの位置づけの違いがあるようなのです。トロツキーは、ソヴィエトに依拠する、というところが強く、レーニンにはむしろボリシェヴィキ単独のプロレタリア独裁的な傾向が強く、80%を占める農民の支持なしには革命をなしえない、持続できないというところで、ソヴィエトを利用するというところでソヴィエトを通してということをやっていたに過ぎません。トロツキーはむしろ武力衝突をできるだけ回避するという意味も込めて、ソヴィエトに依拠するというところで、後者のソヴィエトの大会に合わせて、蜂起を進めるということでリーダーシップをとりました。レーニンは無血革命でトロツキーの方針の正しさを、地下に潜っていたところで情況をつかみにくくなっていたということも含めて自己批判し、事後承認しています。
さて、ソヴィエトの位置づけは、農民のとらえ方の問題からも来ています。
ロシアの農民は層として土地所有にとらわれる小ブルジョアジーである、というところでそして遅れた資本主義を発展させるために工業化するという方針の下で、農民の革命運動の中での位置づけを低くとらえています。
資本主義の発達は確かに、農林水産→工業→金融・サービスという方向で「発展」していったのですが、それは資本主義の論理そのもので、「社会主義」の途は必ずしもそういう方向へ進む必要はなかったとも言い得ます。資本主義的な発展の途をたどろうとしたが故に、中央地方という格差や抑圧の構造を生み出し、農民への収奪ということを生み出し、そこに農や牧畜で生計を立てるひとたちが大ロシア民族ではなく、「少数民族」であったというところでの民族問題もでてきます。民族問題に関しては後述します。10月革命時に、ロシアの農民は、土地の地主から取り上げ、農具などを取り上げ、また報復的な暴力的行為にも及びました。労働者と同等の、むしろ労働者よりもラジカルな行動をとったという面もあったのです。それは、農奴制やそこから離脱する過程の農村共同体―ミールの歴史があったから、プチブルというよりも、ミール的共同性に根ざしたラジカル性があったのではないかとわたしは思うのですが、そのあたりのとらえ方が出てきません。それは、むしろマルクスが「資本論草稿」の中で書き、ロシアの革命家、ザースリチへの手紙で書いていたことで、今日のマルクスの反差別論からする再評価として出てきていることです。このあたりをボリシェヴィキのひとたちが押さえていたら、ロシアの農民のとらえ方がもう少し違っていて、そのラジカル性を引き出しつつ、農民層の支持も獲得でき、社会革命党からヘゲモニーの移行もできえていたのかも知れません。 
さて、民族問題の続きです。レーニンは民族問題では民族自決権や民族自治権で、ローザ・ルクセンブルグとの論争で正しい方針示したとされるのですが、自治国家論的なところや議席数を確保するということでは、自決権にはなりません。そもそも、差別を階級支配の道具論と置くこと自体が、反差別の運動の社会変革の(潜在的なこともある)可能性をとらえない政治利用主義に陥ります。少数民族は多数の民族では票決的には従属させられます。まして全体主義的な体制が作られたときには、反差別は機能しません。わたしは民族問題に関わる拒否権的なところを持ち出すしかないと思います。ちょっと脱線しますが、民族問題そのものではないのでしょうが、沖縄の基地問題での沖縄の民意が活かされない問題でも、地域にいろいろなことを押しつけていく政治にもこの「拒否権」の思想を取り入れるべきです。
さて、もうひとつの問題、武装蜂起とその評価の問題です。レーニンはソヴィエト大会よりずっと以前に武装蜂起的に権力奪取しておくべきだとして、トロツキーの批判もしていました。結局ソヴィエト大会直前に労働者の民兵軍―赤衛軍を使って拠点の武力占拠を行いました。スターリンはその情報をトロツキーがもらして危険に陥らせたと批判しているのですが、むしろソヴィエトの中の取り込める分を取り込むというところでは、そして時期的に適切であったところで、無血革命をもたらしました。また、民衆の頭越しの運動をしないという意味での民主主義的なところで、まさにフィットした情況分析と正しい方針でした。
この革命は、資本主義の遅れてきたロシアで、しかも専制的ツアーリズムの弾圧とナロードニキから始まるテロの歴史の中で、そして数々の反革命的弾圧やクーデターの動きの中で、軍事的行動に出るということはむしろ必然的なこととしてあったと思います。むしろそのことによって「無血革命」をなしえたとも言い得ます。余談的になりますが、当然出てくる問題として、今日的にどうなるのかという問題。右翼やファシストが暴力を躊躇はしないというところで、その攻撃からの防御をつねに考えねばならないということで、また軍隊のクーデターの問題で、軍事の問題は考えておかねばならないということです。そのことの論考はまた別稿で論じます。
スターリン主義の総括がなされぬまま、国家主義にとりこまれる「左翼」は、スターリン主義批判の流れから出てきた左翼をトロッキスト規定するのですが、確かに世界革命を唱えるという集団をトロッキストとするのなら、その規定は当てはまるのかもしれません。ただし、レーニンも世界革命ということを捨てたわけではないので、むしろ「レーニン主義者」として批判することです。ですが、そもそもスターリンはレーニンの正当な継承者と自認しているのですから、そんな批判はできません。そもそもスターリンとレーニンの間に大きな断絶があり、スターリンは大きくレーニンの思想をねじ曲げたのです。
もっとも、ネップとクロンシュタットの反乱への弾圧はレーニンの生きている時代に起きたこと、そしてクロンシュタットの反乱の弾圧はトロツキーが赤軍議長のときになされたこと、そしてクロンシュタットの反乱の鎮圧を「鉄の蜂起で掃き捨てた」とトロツキーが言っているらしいこと、10月革命へ向かう過程で、クロンシュタットに何度も出向きその革命性を引き出したトロツキーが、その革命性故に、政権への反乱を起こしたその反乱を弾圧する立場に立ったことを、世界革命―永続革命を唱えるトロツキーの思想性が問われるはずなのです。
この著を読んで、感じていることをかなり書き綴ってみました。ここで、この著に戻って、情況や民衆の意識をするどくとらえるトロツキーやレーニンの発言は、まさに革命家のアジテーションになっています。切り抜きメモを残そうとしていたのですが、かなりな分量になり、またトロツキー評価を総体的にしたところでの細かい注釈も必要になります。先を急ぎます。いくつか書きかけたのですが、カットします。


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2019年07月20日

打波文子『知的障害のある人たちと「ことば」――「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮』

たわしの読書メモ・・ブログ501
・打波文子『知的障害のある人たちと「ことば」――「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮』生活書院2018
図書新聞で書評が掲載された本です。わたし自身情報発信者として、わかりやすさを求めている立場で、また、手話に関わって、情報保障とコミュニケーション保障にわずかなりとも関わったり、考えている立場で、関心をもって読みました。
「知的障害者」への情報保障やコミュニケーション保障ということが取り残されているという著者の指摘がこの本の核心です。
ユニバーサルデザインの思想ということがあり、みんなにわかりやすい情報なり、伝達をという考えがあるのですが、「できるだけみんなに」ということは必要ですが、「みんなに」ということはあり得ないから、この本にも出てきますが、個々にきちんと対応していこうということになっていっています。
この本が主にしているのは著者のいう「軽度」「中度」の「知的障害者」です。これも著者のいう、もっと「重い」というところで、1章のことばというところで、絵カードという話が出ていましたが、絵カードの言語的使用ということも考えられるのではと思ったりしていました。
後半の実践的なところでの分かりやすさの追求というところがすごく参照になりました。
わたしも今後、自分なりに再度煮詰めつつ、つかわせてもらおうと思っています。
さて、この本でも「障害の社会モデル」ということばが出てくるのですが、「障害の社会モデル」を巡る混乱が、ここでも如実に表れています。「社会モデル」にはオリバーに現れるイギリス障害学とアメリカ障害学があります。端的な言い方をすると、障害者が障害を持っている」という個人モデル−医学モデルを反転させたイギリス障害学の「社会モデル」は「社会が作った障壁が障害である」というとらえかたです。これはそれまでの障害観を反転させた、パラダイム転換した内容をもっていたのです(きちんとした転換をなしきれなかったので、その後の混乱がおきてきたのですが)。そこでは、そもそも「障害のある人」という言い方はでてきません。権利条約もそのもとになった、ICFもアメリカの「障害の社会モデル」でしかありません。そもそもイギリスの「社会モデル」にたてば、第1章の、まさに医学モデルでしかない、「知的障害の分類」などでてきようがないのです。もし、現在社会の医学モデルで「知的障害者」いかに分断されているのかを参照するためになら、註とか、資料として書くことはあるのでしょうが。
さて、後は切り抜きメモをとりあえず残しておきます。
補助・代書コミュニケーションという医学モデル20P
手話の補助手段的とらえ方21P・・・?
「社会モデル」のとらえかた24-7P・・・アメリカ障害学の「社会モデル」
第一言語第二言語、音声言語を第一にしている?28P
クレーン現象・・・要求の指示36P
言語的能力37P・・・そもそも言語とは何か?
条件反射的語の表出、絵カード的言語、象形文字
著者の「社会モデル」のとらえかた37P・・・?
情報保障48P・・・情報公開、広報義務、「「基本的人権」に基づく対等な人権の保障
 ――民主主義の基底、基本的理念の獲得   
支援以前の問題52P・・・抑圧と力を奪う
ファクシリイテッド・コミュニケーションFC支援53-4P・・・筆談支援
プリント・ディスアビリィティ59P
スウェーデン政府の「民主主義や正義を実現する上で重要な課題」61P
医学モデル的なテスト形式69P
ひらがなのわかりにくさ 分節で行を変えない69P
ローマ字、カタカナ、漢数字はわかりにくい70P・・・漢字仮名交じり文の二面評価?
ユニバーサルデザイン100-3P・・・ひとつのユニバーサルデザインということではない、個々のニーズ
意思形成支援(情報保障、情報の解析、・・・)―意志決定(意思疎通、意思表現、意思実現)109P・・・論理的に分かる―感性的に分かる
支援者の抑圧120P
ひと―言語を用いる者という規定118P・・・?「言葉を使えない者はひとではない」という論理
「わかりやすい」ということ―資料、障害理解122P
スローコミュニケーション122P
「障害者が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会である」―「わかりやすい」ということでの援用123P・・・ただし、ユニバーサルデザインの画一性はあり得ないという問題も、学者の論文とか・・・


posted by たわし at 03:29| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

熊野純彦「解説―揺れ動く時代のなかで−廣松哲学の背景をめぐって」

たわしの読書メモ・・ブログ500
・熊野純彦「解説―揺れ動く時代のなかで−廣松哲学の背景をめぐって」 (熊野純彦編『廣松哲学論集』平凡社2009)
著者が編んだ廣松の哲学の「入門書」525Pとしての論集につけた解説。この論集は「入門書」というより、廣松哲学の基底論集という方が適切かもしれません。これを読んでも廣松さんの本を読んでいないひとには理解不可能です。廣松さんの本を一応だいたい当たって、改めて廣松哲学を押さえていく作業としての入門書にはなるかもしれません。本文を読んでから、もしくは解説を読んで、本文を読んで、解説に戻ってくることなのですが、この論集に収められている論考はわたしは一応全部読んでいます。わたしの最後の学習として廣松さんの著作の読書メモを残していく作業をするので、その学習をするときに、最初に「入門書」的にこの論集を読むことにします。ここでは、ブログ500の記念に、解説だけ読んでおきます。
 熊野さんは、哲学の総体的学習をし、これほど総体的に哲学を押さえているひとはいないだろうという希有のひとです。廣松さんが自分の哲学の継承者として期待をかけていたひとです。ですが、熊野さんは倫理学に走っていて、廣松さんの生前はズレを生じていました。ここのところ、『資本論』関係の本も出し、何か廣松さんの継承的な動きも見られます。
 この解説は、廣松さんの人生をそのときどきの運動の歴史と重ね合わせながら、廣松さんの論考の展開を追うという形での解説です。廣松さんの伝記的な本やインタビューなどはかなり出ていて、ほとんど読んでいるので、今回のこの解説で初めて知ったこと、ひょっとしたら他にも書かれていたけれど、記憶をなくしているだけかもしれませんが、書き置きます。
まず、わたしは、廣松さんは60年安保以前に、アカデミックな世界に集中していったと思っていたのですが、それなりに運動にも関わっていたと知りました。安保の時「大衆運動が起こっているときにそっぽを向くなんてことは絶対しない」549Pとしてデモにも参加し、その中で「死ぬ気のないないやつは来るな」550Pとか発言していたようです
大学院博士課程のときに、「大管法(大学管理法)闘争を目前にして、東京大学全院生協議会の議長になった。」555Pとあり、また、『ドイツ・イデオロギー』の編集問題で、「現行版『ドイツ・イデオロギー』は偽書に等しい。」として新しい編集提起をしたのですが、その過程で疎外論から物象化論への転換を主張していて、「廣松の苦闘は、政治闘争の様相をも帯びてくる。」560P、これは、他の論考でも書かれていたのですが、端的には革共同の疎外論批判という内容をもっていたようです。また、いろいろと革命運動について語り、文を引用する形で「曰く、蜂起は断じて弄んではならぬ。だが、一たん蜂起の途に就いた暁には須らく最大の決意をもって敢行し、攻撃の態勢を堅持せよ。守勢は武装蜂起の死であると知れ。」569Pというような文を書いています。ロシア革命時のレーニンやトロッキーの言動を想起させる文です。ボルシェビキズムの検証こそが必要なのですが、オールド・ボルシェビキズム的な革命への思いを持ち続けていたのでしょうーまた、これは初耳だったのですが、どこから襲撃を受けたか分からないままに「おなじ年(70年)の五月に、廣松はテロに遭い、・・・」569Pとあります。
哲学的なところでは、「「レーニン流の模写説」を批判し」548Pとか、「廣松はまず、自己疎外概念が「特別な主体概念」(ヘーゲルにおける「精神」シュトラウスの「人類」、バウアーの「自己意識」、フォイエルバッハの「類的存在」)と「不可分」であるしだいと確認する。」ということを書いています。
この解説で、本文ひとつひとつが廣松さんの論攷のなかでどう位置づけられるのかを時代を追って書いています。それについては、本文の読破−再読が必要になります。最初に書いたようにそれは、わたしのライフワークのひとつの最後の作業として読み込む中で、読書メモを残すことにします。

posted by たわし at 03:24| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジョン・リード/原光雄『世界をゆるがした十日間〈上〉〈下〉 (岩波文庫)』

たわしの読書メモ・・ブログ499
・ジョン・リード/原光雄『世界をゆるがした十日間〈上〉〈下〉 (岩波文庫)』岩波書店 1957
アメリカの社会主義者でジャーナリストの著者が、ロシア11月革命(グレゴリー暦、一般にロシア暦で「10月革命」といわれています)の時にロシアで取材して書いた、古典的に有名なドキュメンタリー的記録です。絶妙な筆致で、その情況が、まるで映像を見ているかのように浮かび上がってくる記録です。
 この著は有名で、いろいろ動き始めたときから読まなければと思っていて、ずーっと前に買っていたのですが、一回紛失し、また買い求めたりしていた本、それでも積ん読してしまっていたのですが、やっと読めました。大体の内容はロシア革命史関係に触れる雑誌の論文の中でつかんでいたこともあったのですが、改めて読み進める中で、ロシア革命とはなんだったのかが分かっていきます。そして抑圧されてきた民衆の怒りとまさに生きることを求める闘いが革命へとつながった流れをつかむことができました。実は、トロッキーの『ロシア革命史』を読んでいたときがありました。文庫で最後の巻を読んでいる途中で喪失し、読破していなくて、改めてこの本の後に読んでいこうと思っています。その『ロシア革命史』の中でつかんでいた文そのものでなく、内容的につかんでいた有名なフレーズがあります。「民衆が革命を起こすのは革新的だからではない、保守的だから革命を起こすのだ」ということです。ロシアはツアリーの圧政の中で、まさにパンと平和と自由と土地を求める闘いとして始まったのです。
レーニン、トロッキーの情況をつかんだ柔軟な戦術と、しかし、機をのがさない、敵を打ちのめす戦略とによって、かなり強引になされた革命で、おそらく他の指導的に動いていたボリシェヴィキーの知識人たちが革命の敗北を予感しつつ、動いていた中で、民衆のエネルギーに乗り、引き出し、信頼を獲得することによってなされた革命と言い得ます。その機を見る、機を逃すなということは、次の文の中に現れています。
「もしも社会主義なるものが、全民衆の知識的発展がそれを許容する場合にだけ実現できるものならば、われわれは少なくともここ五百年間は、社会主義を見ることはないであろう。」下137P
「ボリシェヴィキーの成功の唯一の理由は、ボリシェヴィキーが人民の最低層の広大にして単純な要求を成就させ、かれらに呼びかけて旧いものを引き裂き破壊する仕事をおこなわせ、次いで崩れ落ちる廃墟の煙のなかで、かれらと協力して新しいものの骨組みをうちたてた点にあった。……」下124P
ロシアは当時は識字率が低く、この本の著者は「人民委員会」の通行書を取って活動していたのですが、兵の中にはそれを読めないひとも多く、スパイと疑われて危うく銃殺されそうになったということも書かれています。労働者、兵は感情的な流されることはあっても、レーニンやトロッキーの民衆の心に届く演説を吸収し、支持し信頼していく、あやうくどちらに転ぶか分からない中での、要所要所での的確な情況分析と、引きつけるわかりやすい演説で鼓舞し革命へと進んだのだと言い得ます。もちろん二人だけではない、オールド・ボリシェヴィキーや名もなき民衆的に動いたボリシェヴィキーの存在もあったのだと思います。
ロシア革命は、労農兵のソビエト革命と言われているのですが、2月革命はボリシェヴィキーの主導性は弱く、労と兵の民衆のエネルギーが先行しつつも、農も地域で文字通り命をかけた一揆的な打ち壊しや土地収奪を進める動きもあったのですが、農は社会革命党の影響下にあり、そして統一的な動きにはなっていません。10月になって一気にボリシェヴィキーの労が平和を求める兵と連携し、レーニンたちの武装蜂起の計画より先行し、ほとんど無血で動きはじめ、反革命の動きの中で、一部抑圧された者の感情的なエネルギーの突出としての暴力性はあったものの、躊躇するなという革命の鼓舞があった中でも、極めてでこぼこの動きの中での混乱の中でも、冷静な情況分析と行動として革命が進んでいき、最後は農民を主導していた社会革命党左派のソビエトへの取り込みの中で、10月革命は勝利します。さて、その後は、レーニンの第三革命と言われることで、白軍との戦争、そして世界革命としての敗北の中で、ボリシェヴィキーのプロ独という事態に進みレーニンの死の中でスターリンの一国「社会主義」建設と粛正に進んでいくのですが、そのあたりの総括が最も肝要なことです。
この革命は20世紀初頭のツアリーの圧制下での革命です。そのことを押さえた上で、レーニン主義と言われていることの総括の中から、21世紀の社会変革の方針はとらえられるのだと思います。
いくつかの留意すべき点
ボルシェビキはプロレタリアの党ということ。農民の組織化をなしていないなかで、レーニンの第三革命で党の独裁的に進んでしまったこと。
レーニンの演説として「ロシアの現政府がボリシェヴィキー党によって形成されていることは、何びとも否認しないであろう。―」「われわれボリシェヴィキーは、プロリタリアートの党である」下131P
 民族問題がつねに意識されていたこと、大ロシア人は半数以下ということもありました。声明文の中では繰り返しユダヤ人への虐殺の懸念が出てきますし、被抑圧民族者の立場での発言がいくつも出てきます。しかし、結局革命の中で、農とともにきちんと位置づけられない中で、その反差別のエネルギーを組織化できなかった、ということもあったようです。

 今回は簡単な内容を押さえた切り抜きメモを残します。

ブルジョアジーは時には工場を破壊しても、将校は兵士を殺しても反革命を進行する42P
代表選出はいつも民意の反映は遅れる114P
パンと平和と土地と自由のスローガン
革命の波及の期待189P・・・レーニンやトロッキーは世界革命の必要性をとらえていた
インテリの革命ではなく、民衆は党を超えて行動する193P
農民ソビエトの離脱207P
「都市、地方、全前線、全ロシアのあらゆる兵営でくりかえされつつある、かかる闘争を想像せよ。連隊を見守り、あちこちに急行し、議論し、脅迫し、懇願する不眠のクルイレンコたちを想像せよ。・・・ ロシア革命とはかかるものだったのだ。……」228P 
民衆が主導的に動いた革命 上からの指示ではない235P

入り乱れた混乱
何回も出てくる「汚らしいひと」という表記・・・翻訳の問題?「汚れた(まま)」と書く、訳するところ
共同葬儀という右派の認識のずれ78P
僧侶のいない葬儀87-8P
ドゥホニン ボリシェヴィキーの勝因124P
前衛党論137P
訓示268P

暴力性の否定の否定・・・防衛的暴力と機会を逃すことがすぐ起きてくる、そして長く続く大きな被害につながるときの暴力
いろいろ書いたのですが、歴史研究の本の読後直後のメモは過程的なメモです。後で深化してまとめますー

posted by たわし at 03:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

森川聖詩『核なき未来へ: 被爆二世からのメッセージ』

たわしの読書メモ・・ブログ498
・森川聖詩『核なき未来へ: 被爆二世からのメッセージ』現代書館 2018
映像鑑賞メモで書いたコミュタンの放射線に関する情報の歪曲のひどさに怒っていて、自分自身の被爆爆二世という立場でちゃんと活動をしていかなくてはと、被爆二世に関するインターネット検索をしていて、ヒットした本です。
 著者はお父さんが広島の被爆者、原水禁運動をやっていたひとです。子どもの時からさまざまな体調不調で苦しんで、そして不安の中で生きてきたひと。それで、いろんなことを断念していったり、また、逆にそれでいろんな体験をしていったひとです。アメリカに留学しその中での出会いの中で観点を広げ、そしてそこでの繋がりから、部落差別、狭山事件に関心をもち、帰国後部落解放研究会に参加し、また、関東被爆二世連絡協議会を立ち上げ、全国準備会も作りながら、政府のごまかしの「原爆被爆者二世の健康に関する調査研究」に反対して、ハンストまでやったひとです。
体調不調の人生を自伝的なことで書きつつ、父親との確執と和解やいろんな出会いの中で、幅広い観点をもつようになっているひとです。単に原爆の問題だけでなく、核被害の共通性というところから反原発の運動や再生エネルギー関係の運動にも関わり、核廃絶、原発ゼロ、被害者支援・ほしょう(補償・保障というところで、ひらがなで書いています)。ということをセットにした活動を訴えています。また、「唯一の被爆国」という欺瞞を書いています。まさに国ということに留意して、この間の、政治の動きもきちんと押さえて批判をしています。まさにそれはわたし的に書き足せば「国家主義的政治の批判」なのです。それは、ウランの採掘や、被曝労働、そして事故による被害、避難者の切り捨て、核は差別なしにはありえないということをきちんと提起しくれています。
もうひとつ、差別の問題を押さえてきたわたしの立場からして、「準拠枠」322Pという概念を突き出していることに留意しました。これは、わたしのマージナルパーソン研究ともリンクしていくのですが、なぜ、ごまかしの政治が続いていくのかをとらえ返したとき、自分が置かれている立場がどこにあるのかということを、きちんととらえられない中で、別の集団、枠組みから、自分が差別することによって、自分の被差別の立場をスポイルして優越感に浸っていく、そのようなことを孕んだ概念です。
そのような幅広い観点から、自分の被爆二世の問題もとらえ返し、そして最後に自分が現在関わっているいろんな運動を紹介しつつ、この本を読んだひとたちへ、それぞれの立場から運動に関わる、起こしていくことを提起してくれています。遅読のわたしがかなりのスピード読み切りました。わたしの、そしてわたしのきょうだいの二世としての体験と重なることもあり、今後、わたしも改めて自分自身の二世問題をとらえ返し、新しい動きをしていこうという思いを抱きました。

posted by たわし at 03:18| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

和田春樹『ロシア革命――ペトログラード 1917年2月』

たわしの読書メモ・・ブログ497
・和田春樹『ロシア革命――ペトログラード 1917年2月』作品社 2018
やっと歴史学習に戻ってきました。
 ロシア革命というと10月革命ということに焦点があてられるのですが、著者は2月革命こそが大切だという主張です。2月はまさに自由を求めたブルジョア民主主義的革命ということだと思うのです。
専制ロシアの弾圧と、ロシアの王制のラスプーチンに関わる腐敗と、第一次世界大戦という戦争の混乱の中で、民衆の心がツアーから離れ、憎しみの対象になっていったところでの革命です。
 それにしても婦人デーに合わせたパンを求めての行進から 兵士のまさに死を賭けた革命・反乱の闘いとして進み、ソロコフの兵士ソビエトという提起もあり、臨時革命政府と労兵ソビエトの結成というところから、二重権力的なことを生み出していく情況の中でのロシア革命の特異性があるのだと言い得ます。もうひとつ、この著者が押さえているのは、2月革命の時点ではボリシェビキはソビィエトに余り積極的に関わっていない、もちろん民衆の次元のボリシェビキの労働者は、党を超えて関わり、そして総体としても、民衆の革命性が、ロシアのさまざまな政治グループの方針よりも、ラジカルな動きを見せていたということがあります。もちろん、この著の中でも繰り返し出てくる多くの保安部のエージェントが、かなり政党幹部まで入り込み、挑発的なことでその運動が陥る危うさのようなこともあったのでしょうが、インテリゲンチャ的な前衛を、民衆は労働者は超えて進むということが、ロシア革命にはあったのだとも押さええます。それは一部暴力化したのですが、ロシア専制ツアリーズムへ対抗して起きた、闘いか死かというところでの運動の中でおきていたことです。
2月革命の死者への追悼のデモで、長年投獄されていて2月革命で解放されたナロードニキの印象的な演説でこの著書は終わっています。まさに革命は、名もなき多くの屍の上になりたっていく、その革命をどう継承していくのかということが問題なのだと思います。
和田春樹さんは、ロシア革命に関する著で国内外で有名なひと、反戦・平和というところでも運動をしていたひとですが、「従軍慰安婦」の民間基金あたりで、批判をうけていたひと、左翼的な関心からロシア革命史の研究をしているということではなく、反戦・反軍・平和、民主主義という観点からロシア革命をとらえているのです。
それにしても膨大に資料に当たり、そことに登場してくるひとたちの性格とか主張とかを押さえ、分析を進めています。そもそも歴史資料というのは、資料を残したひとの主観とか、そのひとの立場による自己合理化の中で歴史的事実をねじ曲げて書き残す、インタビューに答えたのを起こした文とかもあり、そのことをこの著者はかなり大胆に分析し、「歴史の真実」を探ろうとしています。
ロシア革命に関する資料は膨大にあり、わたしはわたしの関心に照らして、押さえておくだけにしかならないので、先を急ぎます。
 この著は冒頭に書いたように、2月革命の方が大切だというところで書かれています。ですが、それだと、フランス革命や1848年革命や、もろもろの革命から、ロシア革命の特性をどう区別して押さえるのかは出てきません。わたしの関心は、10月のソビエト革命とそこから、著者のいう「レーニンの第三革命」へ至ったのか、そして理想社会の実現を目指した革命が、党の独裁からスターリンの大粛正にまですすんだのかという分析が必要だと思っています。
 この著の中でも出てきますが、2月革命のときから、民族問題での要求が出ています。多民族国家としてのロシアが抱えていた民族問題のみならず、他の差別の問題もとらえかえすというわたしの観点から、ロシア革命の読み解きは進みます。
 ケレンスキーの死刑制度反対とか、女性の普通選挙権要求とそのときに出てきた女性からの批判発言など、レーニンの「差別とは階級支配の道具である」という論自体への批判など、さまざまな問題をすでに指摘できます。

posted by たわし at 03:14| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月18日

NHKスペシャル「彼女は安楽死した…日本女性が海外で死を選ぶまでの1ヶ月密着・迷い決断・家族の葛藤」

たわしの映像鑑賞メモ028
・NHKスペシャル「彼女は安楽死した…日本女性が海外で死を選ぶまでの1ヶ月密着・迷い決断・家族の葛藤」2019.6.2 21:00〜21:50
 フェイスブックとメーリングリストで情報が流れてきて録画してみました。
最近「延命処置をしない」という消極的安楽死が広がってきているのですが、このドキュメンタリは、難病になった女性が、日本では認められていない、医療の薬物による積極的安楽死制度があるスイスまで、実姉ふたりと行って、安楽死をしたというドキュメンタリです。巻頭言に書いている集会で、なぜ欧米で安楽死が行われているのかという質問が会場からでたという話を紹介しましたが、まさに、それを映像にした番組で、しかもこれまでそういうことをとりあげた番組は何回か見たのですが、こんなにリアルに死にゆく場面まで収めた番組は初めて見ました。
なぜ、安楽死を選択していくのかという道行きがはっきり見えるのです。欧米で安楽死が法制度として作られていくというのは、ひとつには近代的個我の論理で自己決定権の尊重ということがあり、さらにパーソン論という差別的な障害観へのとらわれがあるからです。「ひとは意思表明できて初めてひとである」という「知的障害者」や「遷延性意識障害者」に対する差別意識があるのです。そもそもコミュニケーションはことばだけでとるものではありません。手を握り肌の暖かさを感じるその中にもコミュニケーションはあります。死の寸前の人はことばを発しなくても声が聞こえるとかいうはなしもあります。そんなことがとらえられないところで、安楽死など出てくるのです。
今回の映像を見ていてはっきりと分かったのは、その当事者がバリバリに仕事ができるひとだったことで、当人が差別的な障害観や人間観をもっていたところで、そこから転換していく可能性もある前に死を選択したということです。自己決定ということでいえば、この映像の中でも出ていた、子どもも連れ合いもいない中で、姉妹に迷惑をかけたくないというところで、死を選択するということです。「姉妹に迷惑をかける」という発想になる医療や介護の制度の問題がそこにはっきりあります。「自己決定というのはごまかしである」という指摘がいろんなひとから語られてきました。「迷惑」ということに、周りのひとが、どう「そうではない」というメッセージを出せるのか、わたし自身母の介護をしていて、まだ結構元気なうちに、障害差別的なことや「ぱっくり死にたい」と言うので、「そんな考えおかしいし、そんなこと言っていたら、動けなくなったときに自分が苦しくなるよ」とけんかしていました。そんな世界観のようなことを言っていないで、「わたしがちゃんと最後まで世話するから、そんな話止めて」ということをいえば良かったのですが、本格的介護に入る前にはちゃんとやれるという自信もなかったので、特に最初は衝突してばかりでした。そんな母との関係を振り返りながら、ちゃんと「生きようよ」と言うメッセージが出せる関係性、制度を作って行くことだと思っていました。


posted by たわし at 23:41| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『季刊 福祉労働162号 特集:早期発見・早期療育の現在―発達障害の広がりの中で』

たわしの読書メモ・・ブログ496
・『季刊 福祉労働162号 特集:早期発見・早期療育の現在―発達障害の広がりの中で』現代書館 2019
季刊雑誌の毎回購読しているもの、ここのところメモを残しています。3月に出た最新号、少し遅れての読みです。
 早期・早期発見の大きな課題になる「発達障害」の問題は、そもそもなぜ、「発達障害」として異化するのかという否定的な側面と、逆に異化させて、支援の態勢を作るというジレンマの中にあり、わたしが考え続けているマージナル・パーソン問題と、そこから、運動的にどう開いていくかということで、いろいろ考えながら、読んでいきました。
 今回は、そもそもなぜ異化するのかという問題意識があるので、余り著書との対話が成立しません。そこでの、湧き上がる思いでの余り対話にならない「対話」です。
巻頭クラビア:第24回ピープルファースト大会in奈良
当事者運動が難しいといわれるところで、(支援を得ながら)着実に進んでいるようです。優生手術の問題がこの大会でも、取り上げられたようです。
特集:早期発見・早期療育の現在――発達障害への広がりの中で
加藤正仁「育ちが気になる子どもの発達支援の現状と課題」
 この著者は政策委員をやっていて、制度設計的なことは、少しずつ進んでいることは分かるのです。いろいろな図を使って制度設計をしているさまを描こうとしているのですが、そもそも障害問題の根本的なところが押さえられない中で、そもそも根本的なことが抜け落ちているとしか思えないのです。そもそも、教育をどのようなことを目的に進めるのか、ということから議論していく必要があると、この論攷を読んで思っていました。
亀口公一「早期の発達相談・療育相談の現場から──インクルーシブ保育・教育の実現に向けて」
 現実の子どもとの関係は、それなりにつかんでいるようなのですが、そもそも障害のとらえ方がアメリカの「社会モデル」的なところにとらわれているので、根本的なところへの関係の変革に進む論になっていかないようです。
 相談することによって、分けられていく構図のようなことが、見え隠れするのですが、どのような形で、「共に」と支援が動かせるのか、そもそも教育のあり方、社会のあり方そのものの問題を抜きにして可能なのでしょうか?
原 哲也「ことばの相談、巡回相談、児童発達支援事業所の現場から――医療機関受診前の療育の現状と課題」
 この著者はSTのようです。「発達障害者」を医療につなげるのではなく、理解につなげるというような話になっているようです。「遊びでもって子どもを育てる」、子どもにこうあるべきだというところで接しない、子どもが自分で学んでいくのを助ける、「子どもが願いを叶えることを手伝いたいだけだ」というところで、「自分のことのように考える」というようなそもそも、教育一般の基本的姿勢というところを再確認しています。
田口純子「障害児施策の児童一般施策へのインクルージョン──東松山市の取り組みと現在」
 この論攷は理念的にも注目すべき内容です。東松山市のとりくみなのですが、「共生社会の実現」というところで、通所施設をなくし、施設の職員が個々の「障害児」と家族のところに出向き支援するシステムを作っていっているのです。そして、国の施策として各市町村に「児童発達支援センター」を作るとなっているのですが、それを「障害」ということばを使わない、とかいう話、サラマンカ宣言で、「特別のニーズをもった子どもたち」という概念がでてきたときに、個々のニーズということをとらえるのであって、それを「特別」というような押さえ方はおかしいと批判が出て、わたしも批判していたのですが、「「発達障害をもつ子どもたち」ではなく「支援が必要な子どもたち」を支援するという整理をし、「発達障害の子どもたちの支援」という課題項目は、話し合いの結果なくすこととなった。」40Pとあります。そのようなところで共鳴していました。さらに、「国際障害者年の行動計画」の中で出ていた、「障害者が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会」という障害問題の普遍的なテーマを彷彿させる話「障害のある人たちの生活のしやすさを支え、整えることで、市民全体が生活しやすくなることを目指している。」39Pとあります。このあたりは、運動主体の形成という運動側の問題がひとつあり、ジレンマも生じることなのですが、異化すること自体から(「スティグマ」をはられること自体から)問題にしていくというラジカルな指向にも共鳴していました。
意識のありかたのまばらさを「巡回相談支援」チームということで、解決していく取り組みにも留意していくことだと思えます。
これらのこと、そもそも国の制度設計の矛盾に抵抗するようなとりくみがどこまで浸透していけるのか、一抹の不安をもちつつ、地域の運動としてこういうことが出てきていることと、それがどう開いていけるのかに関心をもってこの論攷を読んでいました。
野島千恵子「障がい児共同保育の現場から──保育集団の中に療育・発達支援が入ることによる変化と課題」
 取り出して支援をすることの正・負両面が出ているように思われるのです。お金が出ることによって、取り出すことが進み、更にそこにお金を入れていく、循環が生まれているようなのです。そこで、子ども同士の働きかけ合う、共育、そこから共生ということの回路が切られてしまう側面も出ているのではと。子どもが互いに支え合う関係を作っていくという意味で、当事者の子どもが何を求めていくのかをつかんでいくことは必要なのだとは思うのですが、そもそも今の教育自体が、競争原理の中で、支える関係を作れるのかどうかという問題自体を考えることでないかとも思えるのです。
榊原洋一「発達障害児をめぐる医療──地域から隔離される子どもたち」
特別支援学校に入る生徒が増えているという現実と、文科省の出しているインクルーシ
ヴ教育の問題点を出しています。ただ、文科省が外務省に問い合わせて、「特別支援学校」
が、権利条約のインクルーシヴ教育に合っているか否かを問うたという話が出てくるのは、
むしろ文科省が分離教育を推進してきたというところで、まさに茶番劇だとわたしは押さ
えています。もうひとつ、医療の立場から、過剰診断の問題を出しています。異化させる
こと自体の問題を押さえていく必要を感じています。
一瀬早百合「療育にたどり着くまでの親の経験──「障害児の親」と「消費者」という二重の存在のはざまで」
 「発達障害」と規定される子どもたちの親に対するこころのケアの問題を取り上げています。支援ということが、サービス商品化している側面も取り上げています。親の葛藤の問題も浮かび上がっています。「早期発見・早期療育の現状を確認すると、残念ながらそれらは美しい「絵に描いた餅」に見えてしまう。」67Pとあり、支援ということの根本的なところからのとらえ返しが必要になっているのだとも思えます。そもそも障害とは何かということからとらえ返す事が必要だと改めて感じていました。もうひとつ、そもそも子育て支援ということの一環というところから、子育てのあり方からとらえ返していく問題もあります。
Knorth「正常と障害のはざまで──自閉スペクトラム症児をもつ母の定形外育児を通して思うこと」
 子どもは子どもの中で育つということで、「障害」を告知しないで幼稚園に通って、うまく「育った」ということで、個々のケースということがあると思うのですが、異化される、異化すること自体の問題性ということも考えさせられます。取り出されるということは、分離されたところで育ち、その後のコースも指定されてしまう、そんな可能性が大きくなるという意味をもっています。あらためて、「発達障害」とは何か、「発達障害」が取りだされた、異化されてきたことを考えざるを得ないのです。
インターチェンジ 交差点
街に生きて なんで介助を受けてるの? なんで介護をやってるの?  実方裕二
 著者は繰り返し自らの中の優生思想を問い続けています。そして、介助者のことも思うという姿勢をとる地平に到達しているひとです。
保育所の庭 障がい児と運動会  芝木捷子
 運動会で、一緒にする、一緒にしたいという気持ちを大切にするというところでの取り組み。子どもは子どもの中で育つという基本的なことのひとつとしての運動会での取り組みを書いてくれています。
施設から ホームN通信・四回目の誕生日Aアフターケア  佐藤陽一
 「ホームを出てからが、本当の自立援助」ということで、パートナーとの関係がうまくいかないなかで、赤ちゃんを産んだ子どもの支援の話、パートナーが国籍がはっきりしない中での、国籍問題のおかしさもでてきます。
教室の中で 校外学習から見えたこと──反省するのは教員だった  押部香織
 親の付き添いなしの「病弱学級」の「交流教育」の実践、子どもは子どもの中で育つという実践です。
行政の窓口 地方の小規模自治体の地域共生社会への取り組みと展望  千野慎一郎
 地域包括ケアという名の地方自治体の取り組みが、縦割り行政の中で包括になっていないという現実、「選別しているのは専門家」という指摘があり、「他人事感」に支配される現実から、「地域共生社会」という考えに転換していくことに相当な時間がかかったという話です。「一人ひとりの問題から、その社会、地域的な背景や課題を捉え、必要なサービスを提供していく、必要なサービスがなければつくっていくというあらゆる行政の政策を考える上で基本的な考えに転換する」という理念を突き出したところでの転換です。
障害学の世界から 第八十一回  長瀬 修
障害者権利条約日本初回審査(二〇二〇年)──パラレルレポートとブリーフィング(事前質問事項作成)
 「日本の障害者権利条約の初回審査」が二〇二〇年に想定されているというところで、それに向けての「障害者組織」を含む市民社会からの情報提供とブリーフィング(事前質問事項作成)というところで、パラレルレポートの作成の大切さ書いています。
障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十三回  中西由起子
権利条約の政府報告G 第十九条自立した生活及び地域社会への包容
 アジア各国の政府報告の連載、まだまだ、「自立生活」という概念じたいが曖昧な情況とか、まちまちの情況がとらえられます。逆に言うと、そこで運動的なところから支援連携していくと、「先進国」の固定観念から離脱したとりくみも考えられますが、宗教的な差別的観念からの離脱の問題が大きいかもしれません。
季節風 
「視覚障害者の大学教員から授業を奪うことができるのか──山口雪子先生の教壇復帰裁判から」水谷賢
 「視覚障害」ということで、授業を奪われ、研究室を奪われた大学教員が、裁判に訴えた事件、最高裁までいって勝利したのに、いろいろ理由をつけてまだ教壇復帰ができていないという話、「合理的配慮」を求めて今も闘っている話です。奪われたのは「障害者差別解消法」ができる直前の「駆け込み差別」、「解消法」ができてからもまだこんなことをしている大学があるという事態、社会的な非難にさらしていく必要があるのだと思います。
「就学時健康診断マニュアル改訂を受けて」小笠卓人 
遠山真学塾のとりくみ、早期発見・早期療育という態勢が分離につながるという指摘を
しています。
「映画『道草』の眺め──映したり、映せなかったり」宍戸大裕
岡部耕典さんの「自閉症で重度知的障害のある」息子さんを撮ったドキュメンタリー、「言
葉「巧みな者は語るに落ちる、巧言令色鮮なし仁」というところで、初々しさが大切」と
いうところで映画を撮り、非道いシーンは撮らないという姿勢を出しています。
「書評 『発達障害に生まれて──自閉症児と母の十七年』」神戸金史 
書評ですが、「障害児」の親の立場で、自分がパートナーから二年遅れていると指摘され
つつ、「自分の習慣や価値観一度凍結して、相手の側から考える」とか、本から「子どもを
変えようとしてはならない。親が変わるべきだ。」というところを引用しつつ、自らが変わ
っていっていることを書き記しています。
社会を変える対話──優生思想を遊歩する 第十一回  熊谷晋一郎×安積遊歩
障害者運動の軌跡から医療をみつめ、「生産性」を問い直す
 対談シリーズ。昔、安積遊歩さんの時代は外科手術、熊谷晋一郎さんの時代はリハビリということで、熊谷さんは「70年代後半から80年くらいに脳性まひのリハビリの世界では、医学が敗北宣言をしています。」と書いていて、「医学がリハビリに限らずに、自己否定が始まります。本当の研究って、自分は無力と証明する研究がかっこいいと思うんです。」とそして、「ああ、障害って、自分の身体の、皮膚の内側にあるんじゃなく、皮膚の外側にあったんだということ。障害は脚や脳みその中にあるというのは古い考え。そうではなくて、建物に障害がある。つまり、段差を解消しない、スロープを作っていない、というのが障害の在処で、まるで違うところにあるのだと教えてくれたのが、安積さんたちだった。」103Pまさに「障害の社会モデル」の考えです。そして、自分の医者としての体験も含めて、「必要性が価値の源で、それによってものやサービスに二次的価値が発生する。さらに三次的に生産性に価値が発生する。順序を間違えてはいけない。一時的な価値は、必要性。」というあくまで、ニーズに依拠した関係作りを提言しているようです。熊谷さんは、当事者研究で「障害者運動」の途を切り開いているひとです。
現場からのレポート
尾上浩二・崔栄繁「JDFのパラレルレポート作成に関する取り組み──その経過と内容」
 長瀬さんのコラムと丁度連動しています。編集者が意識的に連動させたのでしょう。世界的な動きの中で、日本の「障害者運動」が制度要求していく、逆に言うと、「外圧」というところでしか日本の「障害者」が制度要求できない情況になっているのですが、それでも、JDFといういろんな団体が入っているところで、意見をまとめていけるようになっているという正の面もでていると言い得ます。まだ、選択議定書を批准していないとか、いろいろな課題も山積です。政策委員会に「障害者」団体も入れるというところは、国連の人権委員会への対応というところで、民間の団体の意見も取り入れるという面もあるというところで、運動的に使えることもあるのですが、そもそも、権利条約自体の問題点を批判できていない日本の「障害者運動」の現実もあって、その枠内での提起がそれなりに届いていくという面があるのですが、そもそも勧告を無視続けていることをなんとかしていかなくてはいけないのですが。
笠柳大輔「第七回DPI障害者政策討論集会──障害者文化芸術プロジェクトと障害者雇用水増し問題について」
 政策討論集会の報告が定期的に掲載されています。今回は「障害者文化芸術プロジェクト」と「障害者雇用水増し問題について」と二つに絞った報告です。前者は、こういうところから、障害問題を広げていけるということで、いろんな取り組みの大切さを感じています。後者は、ここのところ行政・官僚のいろいろな情報操作、隠蔽や歪曲の中ででてきていること、そもそも政治を変えていく中で、行政機構の刷新が必要になっているのだと思います。それにしても、新たに四千人の募集をするという中で、権利条約の批准やそれに関わる差別解消法の制定という中でも、未だに、「自力通勤・自力勤務ができること」という文言が、出てくる役所のひとたちの感覚がどうしても分からないのです。尤も、文言だけを消して、実質的には採用しないということではどうしようもないのですが。ともかく、労働ということ自体をとらえ返す作業が必要なのだと思います。
山本勝美「優生保護法下の強制不妊手術問題に挑んで――最前線からの報告(三)」
この雑誌が出されたのが3月で2ヶ月読むのが遅れている中で、議員立法が成立し、国
家賠償を求める裁判の最初の仙台判決で、憲法違反という内容はあったものの、(この文の中でも危惧としてありつつ、弁護団の反論する内容が出てくる)時効の問題で敗訴判決になっています。超党派で作られた、補償の法律は、超党派ということで与党がだしてくる国の責任をあいまいにするということが出てしまったのです。このことは超党派の議員立法ということで繰り返しでてきた、でてくる問題点で、わたしもちゃんと総括できていなくて、期待をもってしまっていたのです。「国は」とか「我々は」とか曖昧な文言で、国の責任を曖昧にしていて、それが裁判の中でも国の時効の論理が出てくるのです。そもそも、国の政策で行っていたことに時効などということ自体がおかしいのです。法体系自体を問題にしつつ、運動の力で国の責任ということをはっきりさせていくことが必要なのです。これは「障害者」の存在を否定する優生思想にかかわる、障害問題の根幹にかかわることです。そもそも障害問題の根源的理論的に整理の中から、反優生思想ということでわたしもり切り込んでいきたいと思っています。
論文
アドルフ・D・ラツカ=著/鈴木 良=訳「パーソナルアシスタンスにおけるパーソナルとは何か――パーソナルアシスタンスと他の地域生活支援サービスとの差異」
 ラッカは、ドイツで生まれ、自立生活運動の発祥の地アメリカの大学で学んで、スウェーデンで生活の拠点を置き、ヨーロッパで自立生活運動のうねりを作っているひとです。
 パーソナルアシスタンスというのは秘書というイメージから来ているとのこと。これは新田さん型の介助、おもんばかって動けるひとを作るというイメージになるのだと思います。「自己決定」で自立生活運動を進めるひとには、これが理想の運動−生活だと言える事だと思います。ですが、そういう態勢を自ら作ることの困難性というところで、そもそも、派遣事業所から派遣するという制度を作って行ったということがあります。もちろん実際の生活と介助の実践の中で、パーソナルアシスタントをそこで作って行くこともあるのですが。この論攷で書かれているパーソナルアシスタンスの「ボス」−秘書関係のイメージですが、このあたりは、アメリカ自立生活運動なり、ADA法なりの「資格ある障害者を差別してはならない」というところでの「ボス」なわけで、「知的障害者」のパーソナルアシスタンス制度まで広げ得るのかという問題も出てきます。勿論代行主義の否定から出てきている概念としても、「ポス」という概念は反差別論的には違和感があります。そのあたりは「自己決定論」への批判ということも含めて、煮詰めていくことだとも言い得ます。
 この翻訳は、パーソナルアシスタンスに関する入門的な文として、使われていく文になるでしょう? 項目をあげての押さえがあり、抜き書きしておこうかと思ったのですが、かなりの長さになるので、、パーソナルアシスタンスとダイレクトペイントの問題を論考するときに、この雑誌のこの箇所に戻ってくることとして書き置きます。
櫻井里穂「インクルーシブ教育の理念を再考─サラマンカ宣言の精神に関連して──ブータンと日本の小・中学校調査から」
 幸せ満足度世界一という統計のあるブータンと日本のインクルーシブ教育に関する比較調査の論攷です。これを読んでいて、著者は日本のインクルーシブ教育の欺瞞性をとらえ返していないのですが、日本のアンケート調査の結果はまさに日本の政府の原則分離教育の実態に合わせた結果になっているということです。もうひとつ、留意することは、サラマンカ宣言も知らない教員が多いということ、むしろブータンの方が理解している教員が多いということ、これはブータンで「障害児教育」が始まるときに、ちゃんと理念的なことを学習したということがあるようなのですが。もうひとつ、「障害児」を普通学級で生徒が受け入れることが日本の方が低いということ、これは教育や社会に競争原理が行き渡っているからだとわたしは思うのですが、このあたりの分析は著者はしていません。仏教国であるブータンにはカルマという思想があるという記述があるのですが、このあたりのことがアンケート調査には何も出てきていません。むしろおおらかな文化というところでの、共生ということがあるのだと思います。そういう障害観とかに結びつく世界観の比較のようなことに関する分析もほとんど出てきません。もう少し、突っ込んだ調査や文化比較をして欲しかったと思ったりしていました。
編集後記
長年、編集者を務められた小林さんの最後の編集後期です。学生時代に青い芝の横田さ
んに出会われて、そこからこの雑誌の編集に関わられたとか、いろいろな思いを書かれて
います。ほんとにご苦労さまでした。


posted by たわし at 23:39| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『障害学研究14』

たわしの読書メモ・・ブログ495
・『障害学研究14』明石書店 2018
障害学会の機関誌、年に1回の学会の報告をかねて毎年出されています。しばらく積ん読していた冊子、まとめ読み5冊目。やっと最新号に追いつきました。
もくじに沿ったコメントを残します。先を急いでいます。内容の紹介を省いたコメントにします。
特集T シンポジウム 障害者イメージの流通と消費――2020年パラリンピック東京大会を見据えて、今考える
・開催趣旨[星加良司]
・パラリンピックの歴史と現状と課題[河合純一]
・インクルージョンは実現したか――パラリンピックを斜めから見る[玉木幸則]
・ディスカッション[星加良司・河合純一・玉木幸則]
 障害学会にパラリンピックアスリートを呼んで、シンポジウムを開いたのですが、最初からバトルをするということの決意をもって設定したのなら別ですが、節度をもった応答というルールになっている学会でバトルにならないのではと思っていたら、この記録を読む限り、やはり、シンポジストのふたりの間での対話がなく、司会が質問するだけで終わっています。
 パラリンピックはまさにリハビリの極として、能力主義的なところにとらわれていくのです。別に「できるようになること」を否定することではないし、リハビリテーション自体を否定することではないのですが、それが政治的な言説としてどう取り込まれていくかとなると、「障害者」に努力を強いる抑圧的なことになるし、障害問題の理解を広めると言っても、努力する「障害者」への賛美と、パターナリズム的な抑圧的なことを広めることにしかならないことになっていきます。星加さんが書いているように、ロンドンパラリンピックの際のアンケートで、まさに、非「障害者」と「障害者」の評価が逆になっていることにそのことははっきりと表れています。そのことが、はっきりしたことがこのシンポジウムの成果なのかもしれません。
特集U 特集論文 自立生活の多様性
・特集趣旨[星加良司]
・「自立生活の多様性」試論――重症心身障害者の事例を通して[田中恵美子]
 重複「知的障害者」が地域で生きるということを実践している親と関係者へのインタビューを通じた二例を元にした論攷です。世代間のズレがあるのですが、幼児期の支援のなさの大変さがあるようです。いろいろな工夫(医者から「症例として報告させてほしい」といわれるような取り組み)やいろいろな関わりの中で、子どもの身をもっての意思表示を親が読み取り、地域で生きる模索、きょうだいとの関係、きょうだいと同じことをさせるということや、同じ立場の親よりも、「共にある・いる」価値の共有者との関係が大切という話や「自立の種は人とマニュアル」という実践の中でつかんだ関係の作り方など、ほんとに体験の中からひとは学び取り、鍛えられていくということを実感させる論攷です。介助の態勢として二つの方法ということを著者は示しています。ひとつは、「「婿」に「嫁」に出すように」(かつこをつけているように性差別的には違和があるのですが)、態勢を委譲すること。もうひとつは、「依存」先を分散させることです。「依存」ということばは、「自立」と対概念になっていて、そもそも「自立」概念のダブルスタンダードや、「自立とは自己決定」という「障害者運動」的な追求にしても、そもそも「自己決定のごまかし」ということで、あいまいな概念になっていきます。それでも、熊谷さんの「自立とは依存先を増やすこと」という突き出しの中で、それまでの「依存」という否定的概念を反転させてみせる試みで、「障害者運動」サイドで使い方が広まっています。それは、障害差別語とされることも、「障害者」が開き直り的に使うことにも通じていることで、固定観念を脱構築していくことにも通じていることです。この文は、とにかく、実践的なことをとらえ返した注目すべき論攷です。
・生活に焦点化する――知的障害のある人の自立生活とその介助から[寺本晃久]
 「知的障害者」の「自立生活」を支える介助のありかた、具体的な形で体験してもらい、見てもらうというやり方。支援があれはよいというものではないということや、ルーティン化された介助でよいわけではなく、プラスマイナスアルファの介助という突き出しや、とりあえず決めていくという介助の手法など、介助問題に奥深さを提起しています。
・支援付き意思決定――その法理・実践研究・当事者性について[熊谷晋一郎]
 「支援付き意思決定」の問題での、法律関係の情報の整理、カナダ、オーストラリア、アメリカの情報を出しています。熊谷さんは、当事者研究ということを説きつつ、「自立とは依存先を増やすこと」という有名な提言をしたひとで、この提言が広がっています。この文でも、すべてのひとが依存しているということを書いています。わたしも言っていることにはストンと落ちることがあるのですが。自立と依存が対概念とあるということ、そして、そもそも自立―「自己決定」という概念自体にも問題を感じるところで、依存という概念自体を持ち出すことがおかしいのではないかと思ったりしています。勿論、反転させるということで、過程的なこととしては意味ある提起だとは思っているのですが。
 この文の中で、「認知障害を根拠にして法的能力や法的人格を否定することをやめることは、平等に到達するための必要条件であるが十分条件ではない。平等は、認知障害を持つ人々をそれ以外の人々と同じ意思決定者として認めることに加え、認知障害者にとって意味ある具体的な支援を実現することの両方を含む。」70Pという文が端的にこの論攷の内容を示していると思えます。
・周縁化からの解放としての脱施設化[麦倉泰子]
 イギリスの脱施設化を追った、現地の施設側にいて、脱施設化に関わったひとと、親へのインタビューを通した論攷。アイリス・マリオン・ヤングは『正義と差異の政治』で、「抑圧を受ける人々が受ける不正義を、搾取exploitation、周縁化marginalization、無力化powerlessness、文化帝国主義cultural imperialism、そして暴力violenceの5つの次元に分類した。」85Pこれは後で押さえ直すために、まだ翻訳本が出ていないよう、原語の本を注文しました。また、英語がー。
 イギリスでも隔離と断種、「障害者」への「絶滅」策と一体化して施設の中に閉じ込める体制があり、その批判の中から脱施設化のプログラムはモデル・ディストリクト・サービスとして進み、いろいろな反対がある中でも、地域で生きるという態勢が作られていったとのこと。もうひとつとりあげられているのは親の運動、専門家の「何ができないのか」という「できないこと探し」に対して、親がアメリカから取り入れられたパーソンズ・センタード・プランニングというところで、パーソナル・アシスタントをつけ、行政とのパートナーシップを作り上げる中で、「支援の輪」を作り上げていったという実践的な活動への論攷です。当事者の怒りの表出で、本人の意向を確認しつつ、また親だけが決めるのではない、「支援の輪」の中にいるひとたちと対話しながら、決定していくという取り組みを紹介してくれています。
・障害学は知的障害とどのように向き合えるのか――他者化への抗いのために[田中耕一郎]
 田中さんは、イギリスの「障害者運動」や障害学の紹介者ですが、「知的障害者」の問題もライフワークにしているようです。『障害学研究』にも3号9号で、その関係の論文を載せています。このひとは障害学でわたしがもっとも注目しているひとのひとりです。
 障害学における「知的障害者」を巡る価値認識と事実認識のズレを問題にしています。「障害者」を他者化しない、ということを突き出していて、他者化に抗することの基底に「知的障害者」の問題をおくということもあること。「知的障害者」に十分光があてられなかった、という話も出ています(ただし、わたしは、日本では「障害児教育」に関してはむしろ、「知的障害者」の問題を軸に論争してきた歴史があるのではとも思ったりしていました)。学的な領域における二重の他者化ということをとりあげ、ロックなどは「獣類」とか「非人間」というようなとらえ方をしていて、まさに、ここからヨーロッパのパーソン論の脈略が出てきていると言い得ること。また、取り上げられるときは、マージナル(周縁的)な存在とされていたこと。哲学者の中には「知的障害者」を「悪夢」としてとらえた者が、倫理学者の中には「知的障害者」とノーマルなひとたちの間に相互関係はない、正義の問題ではなく、慈善という形で他者化していたという歴史。
 現在的な新自由主義の跋扈の中で、自己決定論や「自律の過度の価値化」の進行の中で、他者化がますます進行していて、死や回復学においてさえ、他者化が進行しているとのこと。
 そこで、著者は「あらゆる障害者の他者化に抗する障害学」を立てようとしています。著者はドリスの「障害者運動」の研究者なのですが、そこで、「社会モデル」を生み出したUPIASが正会員を身体障害者だけにしぼっていたこと(これにはいろんな異論も出ていたのですが)、「知的障害者」は混乱要因としてとらえていたこと、これはロールズに通じることとして押さえています。
 さて、著者の論攷はいろいろ展開していき、「知的障害者」の独自性という話、このあたりは第一世代への第二世代の批判「現実の生きがたさをとらえていない」ということにつながっていくことではないかとも思っていました。また、「端的に言えば、社会モデルも正義論も共に、人間の多様性に対する繊細さに欠けている」112Pと書いています。このあたり、「社会モデル」といっても、いろんな論攷があるのですが、UPIASの「知的障害者」を排除するような能力主義的にとらわれた側面から直接的に規定された「社会モデル」というとらえ方になっているのではとも思えます。「社会モデル」の社会とはそもそも「資本主義社会」なわけで、能力主義にとらわれていくのは当然なのですが、その中身として突き出していたことをとらえ返してきちんと展開していけば(それをわたしは関係モデルとして突き出しているのですが)、いかせる内容はあると思ってもいます。
 著者は「できるようになる」ではなく、「共にある」というところで、こぼれ落ちるものがいるというところで、ケア資源の分配の主張をしています。日本の場合は、「知的障害者たちの他者化をめぐる問題は、社会化・政治化される以前にずっと放置されたままである」114Pと書いています。そして「他者化の抗いのために」と課題を三つ出しています。@他者化の実相の検証、A他者化の抗いの実践や語りの集積と分析、B他者化の抗いへの根拠づけるフレームの構築と錬成、です。この提起のBにのって、わたしから応答すると、そもそも「ケア資源の分配」とあるところ、分配・再分配論の枠組みでは、他者化はさけられないこと、近代的個我の論理、近代知の実体主義的世界観を止揚して、「能力を個人がもつとは考えない」というところまでとらえかえすことが必要になっているのだと考えています。
 著者はこの論攷を「私は相模原事件によって、知的障害(者)を他者化する側にいた(いる)ことに初めてきづき、恥じたのはない。そうでなく、「気づかぬふり」をしてきたが故に恥じたのである。そして私はこの恥の感覚を誰かと共有しようとも、共有すべきだとも思っていない。/「障害学は」と大上段に振りかざすずっと手前で、私は私のこの恥の感覚とともに、「私は」と問わなければならない。」という真摯に向かい合う言葉で締めています。
論文
・ヒルコとは如何なる存在であったか――その肉体的特徴と社会的意味付け[牧田俊樹]
 日本に残されている最初の障害差別の記録とされるヒルコ伝説に関する論攷です。「本研究は、L.Febreの「問題史histoire-probléme」という視点の一部を借り受け、ヒルコの肉体的特徴を精査した上で、それを主軸としてヒルコが古代、社会からどのように感受されていたかを示す。」122Pで、古事記や日本書紀を読み、また縄文文化が東南アジア発というところで、外国の文献にも当たっています。「三廃」という概念や、「廃」という概念と「不便」という概念の区分けということも試みています。で、「身体障害者の意味と歴史を構築することへの足かがりとなることが期待される。」124Pとありますが、具体的内容に関しては踏み入っていません。ただ、注2)に「利光は三疾の中身は例示で、それぞれの疾の境界は明確でなく、実際は労働能力ないし生活能力を標準として分類していたのではないかと推測している。」140Pという、労働という概念からとらえ返す文が引用されています。
 これからどういう論攷として進めていくのかを期待するしかありません。
・府中療育センター闘争が残したもう一つの障害者運動――入居者自治会による施設改革運動[須田真介]
 府中療育センター闘争はセンターを「重度心身障害者」の施設にして、そこにいる「身体障害者」を他の施設に移そうとしたところで起きた闘いで、都庁前にテントをはって座り込みの闘争をしました。42項目の要求を掲げて、医療管理施設から生活の場へという要求でした。その移転先が多摩更生園、そこでの自治会運動が、センター闘争と平行して進みます。また、センター闘争で要求していた施設の内容を取り入れて、日野療護園が作られました。多摩更生園は、先取り的闘いの内容をもっていたのです。府中療育センター闘争の中心的に担ったひとは地域で自立生活運動に入っていきました。足文字の新田さんとその妹の三井さんです。入所者自治会運動は、日課の自分たちでの決定とか、個室の要求とか外出の自由とかをだしていって、センター闘争の要求項目をだいたい実現しました。実現できなかったのは、定員を20名という要求で、50名くらいまでしか減らせませんでした。で、それなりの快適な空間になり、「温室化」と言われる状態になり、それではいけないということで、日野療護園では、入所者が「おちかわ屋」というという仕事の場、「自立生活への拠点・足場」という空間を作り出しています。多摩更生園は、個人的自己実現の方に進む、海外旅行をするひとなど出てきているとのことです。
 「障害者運動」は、家を出て、施設を出て「自立生活運動」をという方向が、主張的には主流になり、施設自治会の運動の方には余りスポットがあてられませんでした。それでも闘いはあったというところで、貴重な論攷です。
・1909年『少数派報告』における「就業不能者」[高森明]
 19世紀から20世紀にかけての、イギリスの労働とそこからの排除を巡る分析、「少数派報告」という「就労不能者―雇用不能者」という概念から当時の情況をディスアビリティ概念から分析した論攷です。また「働けない者」、「働く意思のない者」と分ける、「就労不能者―雇用不能者」を下位分類していく、そしてその担当、行き先を決めていく、はっきりととらえにくい問題も含めて、線引きと引き直しの、その作業を通して、ますます、「健全な」労働を求め、「不健全な」労働を排除していくことが進められていく、当時の情況をとらえ返しています。「欠陥」の異化の恒常化の中で価値観も変化していった情況がとらえられます。
 さて、マルクスの労働力の定義として、「人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するそのつど連動させるところの、身体的および精神的諸能力の総体」とマルクスのことばを引用しているのですが、著者も、「マルクス自身は資本主義経済における労働力の商品化に対して批判的であった。」と書いていますが、マルクスは、そもそも労働力という概念自体が表れてくる関係を分析し、明らかにしたのです。これはあくまでも、資本主義社会では、そのように物象化されて表れるということです。それは実体主義批判という内容で、「障害の社会モデル」―関係モデルにもつながります。
 この論攷は、わたしが押さえようとしているマージナル・パーソン論ともリンクしていきます。
・ダイレクト・ペイメントにおけるリスクへの対応について――カナダ・オーストラリア・日本の取り組みから[木口恵美子]
 ダイレクト・ペイメントはリスクが大きいとされるのですが、著者は、むしろ「リスクの尊厳」ということばを使いながら、リスクを冒す経験の必要性を説いています。それでカナダ・オーストリア・日本のダイレクト・ペイメントの導入情況を押さえ、リスクを危機につなげないために、事前のリスクについての確認作業をする、リスク経験をする、リスクに対する考え方を学習する、そして、利用者、介助者、行政のリスクに対する共有作業の必要性を書いています。日本の場合は、ダイレクト・ペイメントは、札幌市だけで、しかも、介助者が確保されない中で作られた制度という書き方をしています。このあたり、チケット制度とか、プール金制度とかあったので、そのあたりがダイレクト・ペイメントにつながる性格はあるのだとも言い得ます。もう少し検証が必要だと思います。
・途上国における障害者運動史の分析視角――タイ障害者運動を事例として[千葉寿夫]
 「価値形成に着目した田中の日英障害者運動の分析視角」と「Bamartt&Scotchの社会運動論による米国の障害者運動の分析視角」から「タイ障害者運動への応用と課題」というところで書かれた論攷。田中耕一郎さんの「障害」、「当事者性」、「異化と統合」という三つの概念に着目していて、Bamartt&Scotchは「共通の社会空間、個人・組織間のネットワーク、政治的資源の獲得」という概念での分析、で、タイはまだ、個別の運動はあるが、まだ「障害者運動」的に進んでいない中で、法制度から「全障害者要求」という形で作ろうとしていることです。ここには少ししか書かれていないのですが、タイは仏教国で、仏教的なところでの根強い障害観があり、それが二つの視角からとらえることの困難性が書かれています。このあたりは、日本でも書かれていた仏教的な世界観と差別意識の関係の論攷が、宿業論批判なども含めて出ているところです。「途上国」の運動を押さえるときには、その国・地域の文化・宗教を押さえることなしには話は進まないと思います。だから、このあたりがなぜもう少し詳しく出てこないか、ということがよく分かりませんでした。
・「合理的配慮」は人々にいかに理解されているか――意識調査における自由記述回答の分析を通じて[後藤悠里・佐藤剛介]
 この著者も、「合理的配慮」という言葉(訳語)自体に疑問を出しています。量子力学には「観測者問題」や「不確定性の原理」と言われることがあります。それは、観測する行為自体が観測結果に影響を及ぼす(から正確な測定結果は得られない)ということです。それは社会科学においても同じようなことが起きるという問題としても指摘され、援用されています。
 この論攷も、そもそも「合理的配慮」ということに関する、webbによる自由回答方式による意識調査をしているのですが、そもそもそこで「合理的」「配慮」という言葉自体が、調査結果に影響を及ぼしています。この分析は自由回答方式の中で出てきた言葉を抜き出していますが、「配慮」ということばは上から目線の「助ける」という言葉につながっていきます。逆に「(ひとは)助け合う(ものだ)」という言葉はでていません。そしてもうひとつキーワードが、「してあげる」という差別的な言葉で、それが頻繁に出てきているようなのですが、それをキーワードとして抜き出したら、問題ははっきりしたと思えます。
そもそも著者もイギリス障害学の「社会モデル」ではなく、アメリカ障害学の「社会モデル」を使っています。それはそもそも、reasonable accommodationという言葉が、アメリカ障害者差別禁止法からでてきて、「障害者の権利条約」でも、そのアメリカの「障害の社会モデル」が反映されているからです。アメリカの公民権法をベースにしたアメリカの「障害の社会モデル」は、競争原理に基づく機会均等法で、そもそも障害差別が資本主義的社会の競争原理の中から出てきているところで、アメリカの「社会モデル」は「資格ある障害者を差別してはならない」というところで進んでいって、誰も排除しないという精神の反差別というところで使えなくなります。もっとも、逆に言えば、資本主義社会の法体系では、イギリス障害学の「社会モデル」は、革命情況にならない限り、取り入れられないとも言い得るかと思っています。
このあたりのこと、わたしの『福祉労働121』の巻末投稿に遠慮がちに書いた論攷で、部分的にすでに書いたことです。
もうひとつ、「過度な手助けをしてはならない」ということで、「合理的配慮」の根拠にする話が出てくるのですが、それは混同があります。それは「障害者運動」当事者主体の自治(「自立」)という問題と、役所の申請主義的福祉の切り詰め、そこからくる「過度」の概念の利用ということがごっちゃになることです。そもそも「過度」とか「過重」ということがどこから出てくるのでしょうか? 「障害者自立支援法」の議論のとき、「持続可能な福祉政策」という議員立法提案者の与党議員のことばがありました。で、今、アベノミクスという経済政策がとても持続可能でないということで使われています。また軍事予算がどんどん膨らみ、イージス・アショアに何千億、戦闘機に100億と使われているときに、「何が「持続可能」だ」という話です。民衆の福祉で生活保護の抑制、切り下げなど、「国民の安全保障」にお金を使わないで、国家の安全保障にお金を使う、それで「過重な」ということばに、どうして怒らないのでしょうか? 政権担当者は民衆の生活をちゃんととらえようとしてない、そして「弱者」と言われているひとたちが、政治を総体的にとらえられない、とらえないという中で分断されていく、そのようなところをきちんととらえ、問題を総体的に根源的にとらえていくことが今、必要になっているのだと思います。
エッセイ
・選評[冠野文、倉本智明、渡部沙織(大野更紗)、木村航]
・先天性の難聴者が口話をコミュニケーション手段として聴者社会で生きるということ――ひたすら文字にして話す友人との会話をきっかけとして[押元麻美]
 この葛藤は、まさにマージナル・パーソン研究でとりあげられてきたことで、きちんとそのことを押さえ、自らの抱えさせられている問題の所在を押さえ、「障害者」運動主体として定立していくしかないと改めて感じていました。
出版した本三村洋明『反障害原論―障害問題のパラデイム転換のために―』世界書院2010「第8章差別形態論 補節マージナリティと差別形態論」を書いています参照してください。
わたしの「吃音者」の立場でのマージナル・パーソン論はhttp://taica.info/akbmmk.pdf
当時「マージナル・マン」と表記していたもうだいぶ前の文です。もう一度きちんととらえ返して、文を残して置きたいとも考えています。
・障害女性の妊娠・出産・育児[奈良里紗]
 この著者はひとつ前の『障害学研究13』で、「視覚障害者」の当事者の立場から、親への支援の取り組みを書いていたひとです。今度は、支援を受ける立場でのエッセーです。
「弱視」と「難聴」が重なる立場で、子育ての経験を書いています。そもそも子育ての困難性が何かということ自体をほとんど想定していない中で、子どもが生まれた病院の中で、できないことが出てき、発見していき、退院後少しずつ解決していったという話です。周りのひとにいろんなアドバイスを受けながら少しずつ子育てがスムーズに進み出し、そしてヘルパーさんが自分の目の代わりだけでなく、自分の子育て経験から育児のアドバイスなどもしてくれたことが役に立ったという話も書かれています。また、子どもが成長していく過程で、目の代わりをしてくれることも書いています。まあ、このあたりは、逆に子ども成長するにつれて、子ども側からのいろんな語りも出てくるのでしょうが。
書評
・書評/榊原賢二郎著『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』[立岩真也]
・リプライ 『社会的包摂と身体』の論理――立岩真也氏の書評への応答[榊原賢二郎]
 立岩さんの本と榊原さんの本を読んだときに、一緒にこの応答を読みました。ブログ448に読書メモを残しています。
・書評/矢吹康夫著『私がアルビノについて調べ考えて書いた本――当事者から始める社会学』[渡辺克典]
・リプライ それじゃあ、どうすれば社会を変えられるのか(渡辺氏の書評に応えて)[矢吹康夫]
 これはよく読み込めませんでした。何か斜に構えているという本の感じがしたのですが、わたしの書評とリプライを読み違えているのでしょうか? そもそも政治は好きでやることではなく、強いられるから情況を変えるためにやることで、政治をなくすための政治だと思っています。中途半端な感想を書いているよりも、本を読むことですが、そこまでやれそうにありません。
 障害学会会則
 『障害学研究』編集規程
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『障害学研究13』

たわしの読書メモ・・ブログ494
・『障害学研究13』明石書店 2018
障害学会の機関誌、年に1回の学会の報告をかねて毎年出されています。しばらく積ん読していた冊子、まとめ読み4冊目。
もくじに沿ったコメントを残します。先を急いでいます。内容の紹介を省いたコメントにします。
特集T シンポジウム「介護保険とどう向き合っていくか――障害学からの提言」
・開催趣旨[深田耕一郎]
・介護保険への「統合」はなぜ問題なのか[中西正司]
・介護保険と障害福祉サービス――その現在と将来[堤修三]
・ディスカッション[岡部耕典・中西正司・堤修三]
 介護保険への「障害者」福祉の統合問題が繰り返し出てきます。今、一番に問題になっているのは65歳を超えて、それまで「障害者」福祉を受けていた「障害者」が介護保険の対象に切り替えられることです。これを、以前厚生労働省にいて、介護保険の制度設計した堤さんが(以前厚生労働省にいて制度設計をしたということであちら側のひとだと観られるのは心外だという話はしています)、切り替えられる根拠はない、調整ということで二重支給されない場合があるだけだという趣旨の話をしています。このあたり、「障害者」の間でも、個別に交渉して、切り替えをさせなかったという事例が出されています。このあたりをきちんと制度として確定させていくことだという話にもなっていました。
 わたしはそもそも、なぜ、介護保険の問題が出たときに、そもそも「高齢者福祉―介助の問題も税でやることで、保険でやることではない」と、「障害者」側から高齢者福祉制度で提言していくことなのに、最初から障害問題は位相が違うと、切り離して既得権を守ろうとしたのか、情勢的に負けるとして生きられなくなると切り離そうとしたのですが、そこから折あるたびに統合という問題と、福祉のパイの制約という言説と、福祉の切り捨てにさらされてきたのです。そして、「財源がない」という論理に負けていくのです。「障害者自立支援法」の議論の時に、議員立法なので、与党の議員が趣旨説明をするときに、「持続可能な福祉制度」とか言っておかしな制度を作ったのです。そのときに湾岸戦争に自衛隊を派遣するということをやっていたのですが、そのときに「お金がない」とかいう議論はしないのです。そもそも今日アベノミクスなどという持続可能でない経済政策をやっていて、危機の先送りをしていて、福祉に金がないという論理が成り立つのかという話です。そもそも国際競争力とか経済成長とかいう幻想を振りまき、累進課税を軽減し、法人税も安くし、企業の内部留保を増やすことに尽力しておきながら、金がないという話などあり得ないのです。中西さんは、財源は政府が考えることだと書いています。そもそも、法律論議をしてしまいますが、福祉ということは、基本的人権に関することで、基本的人権ということは、基本的にまもらねばならいなことで、金がないからしないという論理などあり得ないのです。政府が考えることではなく、民衆が、「障害者」も財源を作ることを考えることです。今日、「障害者」は障害問題だけちゃんと意見を言うが、総体的政治に発言しないという情況になり、そして「障害者」(団体)同士も、福祉のパイの分捕りで、政権・行政責任者にすりより、自分たちのパイをなんとか維持しようというようなことをやっている情況も生まれ、そして、その端的な最大の例が、高齢者の介護制度の切り離しだったのではないでしょうか? 福祉というのは、他にも教育とか、保育とか、医療とか、いろいろあるわけで、それをトータルにとらえ返して、パイ総体を広げるにはどうするのかという議論を、「障害者」こそが「障害者」運動の関係者こそがしていくことだと思います。もし、国ということが必要ならば、それは戦争しないための、軍事費など縮小していくこととしての平和外交をしていくことだし、福祉こそが、国という共同幻想をなりたたせるために必要なのです(そもそも、共同幻想などそもそもなくしていくことですが)。
特集U 特集論文
・特集趣旨[星加良司]
・社会的包摂とアイデンティティ[秋風千惠]
 「軽度障害者」というところで、本を書いたひとですが、「軽度」という概念はimpairment
―医学モデルではないと言っても、それは差別を排除概念からしかとらえかえさない中で起きていることで、抑圧型の差別をきちんととらえ返し、そしてマージナル・パーソンの先行研究を押さえないと、やはり、医学モデルに収束されていきます。「軽度障害者」は心理的マージナリティに陥りやすいことがあります。障害者」として自己定立ができにくい、「隠す」という心理が働きます。そこで揺れ動く葛藤の問題は決して、「重度の障害者」より「障害が軽い」ということは言えないのです。包摂という概念は、サラマンカ宣言のインクルージョン概念の導入として、もう始まっていることで、そこからとらえ直していく必要があるとも思っています。
・「統合」「異化」の再検討――容貌障害の経験をもとに[西倉実季]
さて、石川さんの四象限図が使われています。これに関しては、わたしが障害学研究会
の連続講座で石川さんが担当した研究会に参加したときの文があります。まとまっていない文ですが、情況的な分析と運動的なことをごっちゃにした図式になっていると提起した文です。http://www.taica.info/rkss.pdf  情況的なところと運動的なところを別軸にすると、その関係性自体がとらえられません。著者も「さらに根源的問題として、「社会の側の選択」としての統合―排除と「個人の側の選択」としての同化―異化ははたして独立に把握できるのか、という指摘ができる。」68Pにもつながる話です。
さて、倉本さんの論攷を援用した文があり、相手からしかけられる異化と、こちらからしかける<異化>を区別する試みをしています。いわゆる反転させるということも含んだ試みです。差異化の<異化>も出していますが、これはいわゆる脱構築論ではないかともわたしは押さえています。
この特集の二つの論攷はいずれも、マージナル・パーソン研究との対話の中でとらえ返すことだと思いますし、えてして、このあたりのとらえ返しは、「たいした問題ではないから、気持ちの持ち方を変える」というところに、ねじ曲げられることがあります。むしろ、自らの準拠枠を「障害者」側におけないことにより「ないにはこしたことがない」というところに強くからめとられていく構造があり、それが深刻な問題になっていくのです。
特集V 特集論文
・特集趣旨[西倉実季]
 合理的配慮ということは「能力主義的な機会均等」というところに取り込まれているのではないかという批判を西倉さんはしています。わたしはそれ以前に、誤訳の問題も含め、そもそもパターナリズム的語(‘配慮’)になっているし、障害差別の根拠になっている「生産性の論理」に絡め取られている(‘合理的’)という話もしています。
・障害学の視点から見た障害学生支援――その歴史と課題[杉野昭博]
 大学にいる層が、そもそも女子学生の入学→「障害者」学生の入学→「障害者」教員が出てくる、と少しずつ進んできているという話があり、バリアフリーが進んだと言っても、数名の車椅子の参加しか想定していなくて、障害学会などで多くの「障害者」が参加できるような情況にはまだまだなこと。
ロールモデルがあって、新しい「障害者」学生が入っていける情況がつくられてきたこと85P、それは外の(反差別の先人の)ロールモデル、部落解放運動があって、そのインパクトの中で、「障害者」運動が起きてきたという話も出ています。大学はいろんなひとと出会う場であり、「障害者」に講義保障ができるだけでなく、周りのひとも変わる場であるという話も書いています。
「障害学生」と「健常学生」との出会いの機会の提供、「価値観」の転換へふれあう機会の転換、障害学の設定の必要と、すべての学の中に、障害学的観点を入れ込んでいく必要を書いています。89P
まだ医学モデル的な認定の上に立った保障としてしか、大枠進んでいない情況の指摘もされています。
・合理的配慮――起源、展開、射程[長瀬修]
 公民権法の歴史から合理的配慮の歴史につなげる論攷です。公民権法は1964年、人種・肌の色・宗教・性・出身国による差別の禁止。合理的配慮は宗教差別の禁止から始まる1972年。雇用機会均等委員会EEOCの宗教差別の禁止の事例98-9Pこれが現在的には、拡大されている106P
リハビリテーション法504条(法律の条文自体ではなく、施行規則の中での合理的配慮規定)からADA法、権利条約、各国の差別禁止法の流れが形成されている。善意から公民権法へという流れ。オルムステット判決で地域で生きる流れ101P
権利条約のアクセビリティ(バリアフリー)は集団、合理的配慮は個人(アクセビリティの範囲外と「今から果たす」ということ)。合理的配慮をアクセビリティに返していく必要。
「ルールを破って町に出て行く必要」という内容の山田太一の脚本のドラマの台詞から、著者が学に入るきっかけ105P
「合理的配慮という概念は、ルール自体の不断の見直しと、差異への対応としてのルールの例外的対応である変更と調整のバランスの上に成立しているのかもしれない。」106P
・・・そもそも合理的配慮のバランスではなく、どのような差別も許さないという問題だと思うのです。なぜ、反差別が制限されればならないのか、合理的配慮という概念自体を批判していく必要を改めて感じています。
・合理的配慮をとらえなおす――能力主義批判の視点から[堀正嗣]
 「合理的配慮」の起源はADA法とありますが、長瀬論文ではもっと遡っています。直接的な起源はADA法ということだと。
機会の平等と存在平等。機会の平等は能力主義。
属性による差別の禁止から能力による差別に変わっただけ。
養護学校が存在すること自体が差別で、選択制の問題ではない。特別支援教育のごまかし。
合理的配慮ということは、能力主義的機会均等ということで、両刃の剣になる。
存在の平等は、労働力の価値を巡る差別が存在するところでは、人権論が労働能力による差別を差別として規定しないように、資本主義社会ではなしえない。そもそも資本家と労働者の関係は存在の平等ではない。
・合理的配慮と医学モデルの影[星加良司]
「障害の社会モデル」は、ICIDHの因果論的世界観への批判、その世界観を乗り超える
こととして出てきたとわたしは押さえていました。著者の「社会モデル」に関する論攷は、「社会モデル」を押さえ損なっているとしかわたしには思えません。それは著者だけでなく、そもそも他のひとたちも同じで、そこから医学モデル的なところに引き寄せられ、専門家支配にさらされているのだと思えます。
 この著者の医学モデルと「社会モデル」の対比として126Pに出していることは、まさに因果論的世界で、「社会モデル」になっていないのです。「社会モデル」的考えは、イギリスからきたと言われているのですが、日本にも同じ内容の主張はあったのです。それは「わたしたちが変わるのではなく、社会を変えるのだ」という主張としてありました。そもそも、イギリス障害学の「社会モデル」も、「社会を変えよう」という内容を懐胎していたのです。そのあたりがあいまいになってしまっているので、社会をそのままにして、倫理や正義や道徳によって、差別を抑え込もうということになってしまっているのです。
 合理的配慮というのは、社会の枠組みをそのままにして、いかに矛盾を隠蔽しようかという論理でしかないのです。そもそも問題はニーズであり、それも医学モデルからする特別なニーズではなく、普遍的な利害の中で、個々のニーズを大切にする、それに応えるというところで、医学モデルから脱することができるのです。いろいろ法規の条文を出しているのですが、それは医学モデルでしかないのです。今一度、「社会モデル」をきちんと押さえ直す必要性を感じています。
論文
・イギリス「障害者」政策史(1)――ナショナル・ミニマム構想における「雇用不能者」[高森明]
 イギリス障害学では19世紀末、世紀転換期に「障害者」が労働現場から排除されていたという認識があったようなのですが、実際はWebb夫妻の本などの引用を読むと、「障害者」はかなり労働現場に入っていて、そこから国民的健康と活力を守るということで、社会進化論的なところでの「障害者」の労働現場から強制的排除の論攷が出ていたようです。
 Stoneの「障害者」という言葉は、そもそも「働くべき者」「働けない者」というところで給付を行うための便宜的な規定という話。142P
ナショナル・ミニアムということにはいろんな分野にもあるのですが、ここは労働現場に特化した論攷です。145Pここから、労働運動からする生産性向上運動的な話につながっていきます。1840年に最初に「障害者」ということで押さえられているのは、「日常的な世話を必要すると判断した人々」。148Pということであったようです。
労働から排除しようという三つのカテゴリー、児童・妊婦・高齢者、 「不具」(「障害者」)、「先天的無能者」(「軽度知的障害者」)147-8P
このあたりは、労働をめぐる生産性向上的な意識から優生思想的なことが出てくる構造がとらえられます。またナショナル・ミニマムということを反転させたところで、基本生活保障の問題もでてくるところで、そのあたりの問題の立て方を押さえる必要があります。また労働環境の整備ということや標準賃金率というところで労働者を守るというような意識につながるところで、低賃金でも働く者を排除していくというようなところで、「労働弱者」を排除していく構図もとらえられます。このあたり社会進化論が、初期社会主義者からも出ていたことにつながっているのかもしれません。労働能力というところでの日常的差異化からする差別意識が、優生思想にリンクしていくおそろしさを感じていました。著者は学的に、そのあたりの基本的押さえをしているだけですが。
『障害学研究』の読書メモでは切り抜きメモをしていなかったのですが、今後のリンクのために少ししておきます。語は著者も書いていますが、当時の差別的状況の把握のために、そのまま引用しています。
労働市場の汚染150P
Webb夫妻の論旨の著者の6項目でのまとめ151P
「労働弱者」を採用する「寄生的産業」(ブラック的企業)と「苦汗制」(3K労働)154P
「労働弱者」の採用は、補充要因、家庭での請負労働154P
社会進化論157p
 スベンサー「「最適者の生存」も遺伝ではなく「機能的適応」に基づいて説明された」157P・・・今西進化論
 「自由放任主義経済に対する信頼の失墜」159P・・・「労働弱者」排除の背景
「安い労働力のために労働環境が悪化される」「標準賃金率の切り下げ」という主張162P
 「退化」の防止@すでにいる労働者の「退化」の防止A「障害者の排除」による労働環境の「退化」の防止163P
・介助者を手足とみなすとはいかなることか――70年代青い芝の会における「手足」の意味の変転[石島健太郎]。
 物議を醸し出していた「手足論」なのですが、この言葉の意味の変遷を押さえ返す論攷です。りぼん社の小林さんは立ち位置の確認172Pと書いています。これは元々関西の青い芝の介助者から出されていた言葉で、主体性は「障害者」当事者にあるという内容174P、更に介助者サイドから自らの差別性をとらえ返したところで、「手足に徹しきる」という話も出ていたこと。また、神奈川の青い芝の横塚さんの「健全者は差別者として自覚せよ」という突きつけとシンクロナイズしていたこと。そこから、運動に意見をはさまない181P、「共闘ではない、共同行動も成立しない」182Pということを定立していったことがあったということ。そして、健全者組織の否定という提起も出ていた182P(実際、横塚さんはゴリラの解散を提起しています)、このあたりは横田さんが集団と組織の区別をおこわともちの違いに例えて、集団は必要としていたことです。健全者の運動への介入の否定ということがあり、白石さんは、運動と生活は分けていた183Pけれど、運動と生活は分けられないという意見が出てくる中で184P、日常生活への口出し禁止ということも出ていた185P、ただ、揺り戻し186Pがあって、介助について一緒に考えるという話も出ていた、このあたりは横塚さんの「心の共同体」というフレーズもありました。小林さんは手足論は緊急避難的に出されていたという押さえ方、杉野さんは「当事者主権」という意味という押さえ、また「文脈依存的」という話も出ていて、そこからアメリカ発の自立生活運動からのとらえ返しで、「障害者」が指示を出すという内容として押さえられていたということです。で、この論文では最後に「いまだ緒に就いたばかりである。」188Pと書いているのですが、わたしはむしろ「手足論」の論考はまとまっているのではと思います。なぜ、手足論がでてきたかというと、ます、「障害者」自身が当事者主体として確立できているかどうかの問題があります。そして、そのことと相即的に介助の態勢が作れているのかの問題があります。それができているなら、たとえば新田さんのように、「いちいち指示は出さない、おもんばかって動け」というような主張も出てきます。主体性を確立したところでは、むしろ介助者と対等に対話し、きちんと提起ができます。介助者に別に手足に徹しろというような提起をする必要もないわけです。それが横塚さんの「心の共同体」という話にもつながっています。このあたりは、まだ層としてそういう情況にいたっていないところでの緊急避難的なことという小林さんの指摘や、「文脈的な」ということで言われている、個別の情況がどうなっているのかということで、対応していく問題にもなっています。
そもそも、「手足論」というのは「頭を使うな」ということですが、そもそも当事者主体ということを押さえなければいけないし、差別的関係が存在するということを押さえなくてはいけないし、頭を使わなかったら、介助はできません、そもそも手足を動かすのに、頭なしには動かせないのです。むしろ、きちんとした思考なしには、長く介助活動はつづけられないのではないでしょうか?
ということで、後は、差別社会の中で生きてきて、しかも差別的体制の中で生きていて、対等な関係をつくることのむずかしさの問題があります。それらのことは、その場その場できちんと抑圧的なことを超える対話の中で解決していくことですないかと思います。
・「共生共育」の思想――子供問題研究会の1970年代[堀智久]
 新しい流れの「障害者運動」と寄り添う形で論を展開していった「共生共育」論です。
日本の当事者運動、青い芝とか全国「精神病」者集団のラジカルな提起のインパクトを受けて、わたしも「障害者」の立場を定立していったのですが、もうひとつ、当事者ではないところから「共生共育」論のインパクトもありました。それが、「がっこの会」と、ここで取り上げている「子供問題研究会」でした。当時はまだ、「人様に迷惑をかけないように」という「障害児」への役割期待に対して、「依存しあう関係」ということで突き出していった地平が情況を切り開く力がありました。専門職のひとたちの指導ということでなく、しろうとのとりくみや、子ども同士のぶつかりあいの中から、互いに変わっていくことを大切にするということで、専門職批判、日本臨床心理学会の改革ということも含みながら提起していたことが、日本の「障害者運動」、そして「障害者」個人に与えた影響は大きかったと改めて感じていました。
メモを後でチェックできるようにキーワード的に書き記しておきます。
専門職批判―反専門職主義196P・・・心理学は管理の学として始まった歴史からするその批判
子ども同士の関係198P
しろうと同士の当たり前の関係201P
子供問題研究会は東京教育大学の自主講座の名―助手だった篠原さんの自己批判の場、学生にとっては専門職を問い直す場20 2P・・・当時の学生の「自己否定の論理」を突き出していた運動の中で起きていたという背景
異化する―異化されること自体を問題にしている204-5P
「『障害』はない」とまで断言する―仮定法を持ち込む自体を批判206P
支援ではない手助け207P
きょうだいの関係から子ども関係を捉え返すという作業208P
みんな同じでみんな違う208P
子ども同士のぶつかり合いを回避しない210P
教育は未熟な子どものケアと依存の空間―介入の必要性215P・・・未熟な?介入?
欧米の能力主義215P
合理的配慮は能力主義という批判216P
「共生共育」は反能力主義216P
・障害者の自立生活保障に向けた大阪青い芝の会の運動展開過程――1970年代後半から1980年代末を中心に[山下幸子]
この論攷は二つ前の論攷とリンクしています。大阪青い芝の介護(この論攷では介助ではなく介護という言葉を使っています)に関する運動と認識の変容に関する論考です。「介護保障は行政の責任」と介護保障を求めていくのですが、最初は専従とボランティアということで、専従は個人につくのではなく、プール金でお金を払うとしていたようです。そこから、介護の有償化を巡る議論があります。介護を労働としてとらえることの反発―有償化批判があったようです。介護保障の作り方にはいろいろあり、新田さんの「在宅障害者の保障を考える会」は専従介助者をやとうという型で進める方式、これは個人的なふれあいのようなことも追求する形、自立生活センター型の事業所方式で介助労働として定立させるやり方、それからこの大阪方式、これは、生活基盤をトータルにとらえた介護だけではない事業化をしていったということ。日中の活動拠点を作り、住宅などトータルな共同性を追求し、介護料をプール金から払うという方式で、そこから新しいひとの参入も図っていくという方式です。この論攷は1980年代末で終わっているので、度重なる制度変更の中でどのようになっていったのかが問題ですが、共同性の追求というところで、画期的なとりくみではないかと思っていました。
・「存在意義」の獲得――線維筋痛症患者のエピファニー経験から[稲毛和子]
 難病指定されていない、「線維筋痛症患者」の、まずは痛みと生きがたさの元を知る「病名確定」、そして無理解と自己の役割を果たせないとの葛藤から、エビファニー経験(自己定立―「存在意義」の獲得)に至る経験をインタビューを通して明らかにした論攷です。
 転換しえた契機を、リューマチで悩んでいた母との関係、そして、自立支援協議会の委員に選出され、自らの問題だけでない他者支援もなすようになるというところで「存在意義」を回復していったということがあります。
 著者の母との関係は、母が支援がない中で役割を果たせないと悩んでいたことや、子どもとしてさみしい思いをしたということで、今度は自分が母としての役割を果たせないという両刃の剣的なことで作用していたのですが、いったん「何にもしないけど一緒にいる選択(大切さ)」というところ(世界観の変換)をつかんだところで、その経験が転換の契機になったという話です。それらのことをモデルストーリーとか、エピファニーという概念を使って論攷しています。
 「生きづらさ」の承認と支援ということが大きな契機になることが、書かれていて、現在の指定を受けることが、とりわけ医療を必要とする難病、また周りの承認と支援が画段階的に変化する難病の指定の@稀少性A原因不明B効果的な治療法の未確立C生活面の長期にわたる支障、という条件の問題性や、そもそも福祉のあり方総体を問うているのだと思います。自分が受け手でいたところでつかんでいなかった、「こっち側」では承認を受けられるという思いが、大きな変化としてあったのだとも言い得ます。このあたりは、わたしのマージナル・パーソン論研究ともリンクして参考になりました。わたしのマージナル・パーソン論攷は、まだ、マージナル・マンと表していた時代の論攷で言葉の使い方も現在と違いますが、とりあえずwww.taica.info/akbmmk.pdf
・荒木義昭・オーラルヒストリー――無免許運転68,000キロが意味するもの[深田耕一郎]
 無免許運転で被告となった荒木裁判闘争の被告、そしていろんな「障害者運動」の主体的担い手になった荒木さんへのインタビューと、資料を読み込む中で書かれた論攷です。これは欠格条項を巡る運動が何十年も後に起き、そして一定の成果を獲得していって、未だにまだ解決されていない中で、運動は継続されているのですが、その走りとも言える闘いだったと言い得ます。
 荒木さんは当時は「軽度障害者」しか受け入れなかった「光明養護学校」に、親が交渉して「家政婦」をつけるということで、入学を果たしたものの、「家政婦」の存在もあって、生徒同士の交流もない中で学校生活を送っていた中で、改造三輪自転車を親からもらって、一挙に学校生活が変化していきます。そこから、ラジオ、テレビ、バイクとテクノロジー的なところを使う中で、テレビの修理の仕事をするのに、車が必要と言うことで、免許をとろうとするのですが、バイクの免許は取れたのに、それよりも安全な車の免許がなどとれないのか、無免許運転を地元の警察署では黙認状態で、運転続けること68,000キロ、日本13周分、自分は事故を起こしていないのです。実際技術はあると認めるのに、まさに予断と偏見でとれなかったのです。著者は「生きられた法」と大文字の法ということで、理不尽さを告発しています。
さて、気になったこと、「自立生活運動としての荒木裁判闘争」という表現を用いています。「自立」ということばの使い方が、行政が使う言葉(経済的自立と身辺自立)と、「自立生活運動」を進めているひと(自己決定)では違うのですが、この論攷の著者の「自立」という概念はどちらなのでしょうか? むしろこの荒木さんの場合は、重ね合うこととして、このことばを使っているのでしょうか? このことばを巡って混乱が起きて、「自立生活運動」のイメージがつかめなくなっています。そもそも、「自己決定というのはごまかしである」という提言もあります。もうひとつ、わたしが想起するのは、反差別の立場からわたしはむしろこのひとには批判的なのですが、それでも評価する面がある吉本隆明さんの、この社会の支配的意識から超絶するという意味での、‘自立’という概念もあります。
このあたりのこと、荒木さんが裁判闘争を終えて、車の運転を止めて、その後に、「障害者運動」的な意味における「自立生活運動」を展開していったようなのですが、「自立」ということをどう考えていたのかと知りたいと思ったのです。何十年か後に起きた、欠格条項をなくすということで進められた運動が、えてして「アメリカ障害者差別禁止法」(ADA法)の、「資格ある障害者を排除してはならない」という、機会均等法のようなところに収束されていくことにわたし危機感を覚えていました。労働から閉めだれている「障害者」の排除の問題をどうとらえていくのか、ということがとらえられない、一部のエリート「障害者」に特化する運動に陥っていくことを危惧していました。今日、‘合理的配慮’という言葉が出てきて、それも能力主義にとらわれているのではないかと思ったりしています。誤解のないようにひとこと書き添えて起きます。わたしはできるようになること自体を、そしてできるようになりたいとして動くことを否定している、批判しているわけではありません。ですが、えてして、そのことが「できるべきだ」とか、「できるにこしたことがない」という論理にすり替わっていくことをきちんと批判していかなくてはならないと思っています。
エッセイ
・選評[渡部沙織(大野更紗)、冠野文、木村航、倉本智明]
・成人した視覚障がい当事者の語りを活用した視覚障がい児の保護者支援の取組[奈良里紗]
 当事者の立場で、「視覚障害者」の親(名古屋の「パパママ会」)のサポートしているひとのエッセイです。多様な当事者がいて、その親への多様な情報提供の必要性を書いています。「パパママ」に対する当事者の語りの大切さ、しかも自分だけでなく、多様な当事者の語り、時には専門性をもったひとへふることの大切さも書いています。また、子どもへの特別な対応が必要という思い込みで対応するのではなく、きょうだいとの関係できづかされることも多いとか、待つことの必要性なども書いています。「目が悪い」という言い方をして、子どもが傷つくというようなことも書いていて、次のエッセイにリンクしています。
・呼び名「聴覚障がい者」を「手話者」へ[伊藤泰子]
「聴覚障害者」の娘との関わりの中から、基準を他者にするのではなく、子ども自身に置くことでマイナスの思考をしないとかいう話を書いています。「できない」という発想でなく、するひと、別の方法でできるひとという発想に変えていくという話も書いています。また娘を親に合わせようとするのではなく、親が合わせるとして手話を学ぶという話もしています。そこで、ろう者の自然言語としての日本手話の話になり、「聴覚障害者」という呼び名ではなく、‘手話者’という表現に変えようという提起をしています。
わたしも手話者という表現を考えたことがありました。ろう学校も手話学校にして、わたしたち「言語障害者」にも門戸開いてほしいということも考えました。ですが、そもそもろう者ということばには、英語のdeafをDeafに変えるように、手話を第一言語にするひとたちという意味で使うという提起があり、‘手話者’にすると聴者も‘手話者’に含まれることが出てきます。歴史的に、ろう者のネイティブな言語という意味で、被差別の歴史から反転させたということを示すためにも、‘ろう者’ということばがあるのかなと考えています。
障害学会会則
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2019年05月17日

鎌仲ひとみ監督「コミュタン訪問」

映像鑑賞メモ 
たわしの映像鑑賞メモ027
・鎌仲ひとみ監督「コミュタン訪問」2019
鎌仲ひとみ公式 動画メルマガ カマレポ No.70 2019.04.08 コミュタン訪問 前編
鎌仲ひとみ公式 動画メルマガ カマレポ No.71 2019.05.08 コミュタン訪問 後編
 原発関係のドキュメント映像をとり続けている鎌仲ひとみさんから月一ペースで送られてくるメルマガ「カマレポ」の動画を見ました。
メルマガに「☆「コミュタン」とは 福島県三春町に建設された複合施設、福島環境創造センターの中にある原発事故と放射線を学ぶ教育施設が「コミュタン」です。建設費は60億円・福島県内の小学生、およそ半数がすでにここを訪問したそうです。」「この施設は「科学的に、客観的に」放射線について理解すること、させることが目的だというのです。」と書かれています。
で、施設の設計段階から携わったひとが案内をしているのですが、その話やアミューズメント的な施設の内容がひどいのです。
「アルファ線は紙で防ぐことができます」と画像の中でテレビゲーム風に、紙に見立てた画像でブロックさせているのです。そもそも放射線は360度放射するので、「紙で防ぐ」というのはイロハの知識もないことなのです。それに放射線の癌被害について、「癌になるのはくよくよするから癌になる側面もあるのだ」とか言う話をしているのです。事故直後「ニコニコ笑っていれば放射線は怖くない」という話をして回っていた、放射線医学の専門家で、後で福島医大の副学長を務めたひとがいたのですが、何が「科学的に、客観的に」なのか、これが「専門家」の正体なのでしょうか。昔、原爆病院を訪れた中曽根首相(まさに議員時代に原発を日本に誘致した張本人です)が、「病は気からとか言いますから、気をしっかりもって」と声かけをして、被爆者が放射線被害としてからだがだるいということで、動けないことを「ぶらぶら病」と差別されていた歴史がある中で、なんともむごい発言をするのかとマスコミからも叩かれていたのですが、そんなこととリンクしていきます。原爆の放射線被害は、アメリカ軍に原爆の武器としての効果の情報を提供する目的もあって、かなり集められているはずなのですが、多くは隠蔽されたままです。癌の発生に関しては、個人差があり、また、直接的因果関係を立証するのは難しいとされていますが、そもそも因果論自体が世界観的におかしな論理なのですが、もし因果論で説明しないといけないとしたら、説明責任は被害を与えた方にあり、「放射線被害ではない」という説明をしなければならないのです。このことでわたしが想起したことがあります。安倍首相がいろいろな疑惑をもたれたときの、有名な国会答弁「「ない」という証明は、悪魔の証明といって不可能だ(だから、ないという証明ができないだけだ)。」という詭弁の話です。それは、「だから政治家は「李下に冠を整さず」という姿勢が必要であり、疑いをもたれるようなことをしたら政治家をやめなければならない」と批判されたのですが、これも、放射線被害は十分に解明されていない、原発の安全性など神話だった、だから原発などもうやめるべきだ、という話になるはずなのに、事故の原因も放射線被害の実態も解明されないままに、情報を隠蔽し、さらには歪曲して帰還事業を進め、さらに信じられないことに原発の再稼働さえ進めてきているのです。
この施設は、帰還事業とつながって(原発の再稼働ともつながって)作られた施設としかわたしには思えないのです。
今、住み続けているひとたちや帰還したひとたちの中から、「放射線被害の話は風評被害につながるから止めてほしい」という話も出ています。風評被害は情報隠蔽や歪曲の中で起きてくることです。そもそも、永田町政治が情報の隠蔽歪曲の極に達しているから、何を信じていいのか分からない状態で、風評被害も出てくるのです。まずは、きちんと情報保障をし、情報の歪曲は正し、そしてどのような選択をしてもきちんと十分な補償を多角的に進めていく、そのことを求めていく必要があるのだと思います。
前から書いているのですが、わたしは被爆二世です。公式見解は、「二世には放射線被害は出ない」となっていますが、地方自治体では、被爆者の子に対する健康診断をしている自治体があります。これは、アメリカへの原爆効果資料収集と提供にもリンクしているという思いもあって、手続きをしていなかったのですが、わたしが住んでいる東京都も健康診断をしているので、そのあたりの登録と情報収集をしてみようと、この映像をみながら思っていました。


posted by たわし at 01:32| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする