2018年04月27日

熊野純彦『マルクス資本論の哲学』

たわしの読書メモ・・ブログ438
・熊野純彦『マルクス資本論の哲学』岩波書店(岩波新書) 2018
前のブログの同じ著者の新書的展開。普通新書版は、分かりやすくとなっているのですが、簡潔にまとめられているとはいえ、熊野さんは哲学をトータルにとらえ返した希有のひと、哲学を縦糸に経済学(批判)を横糸にして織りなした著書です。新書なので、『資本論』と哲学とマルクスがだいたい頭に入っているひとには、是非読んでおいて欲しいと思うのですが、廣松さんのことまで頭に入っていないと、むずかしいかもしれません。前のブログの著書とリンクしていくと、意義深いと思います。
で、今回は検索的に、キーワード的なメモにしておきます。
二つの革命@P・・・なぜ1948と1968なのか? パリコミューンとロシア革命の位置づけは?
この本の目的 「ちいさな者たちへの視線」B-CP・・・「小さき・・・」は学者的視線、当事者意識をくぐらせて、さらに学的に展開すること
「かのようにあらわれる」「しかし、じっさいは」4P・・・als
「あらわれる」「現象する」−「である」ではない5P
「可能性としての商品」と「商品でなくなったもの」8P
アリストテレス「運動しているもの」9P
「商品は、商品となる運動としてだけあり、商品へと生成してゆく途上にのみ存在する」9P
「使用価値としての商品は商品学の素材であって、経済学の対象ではない」10P
「価値の「現象形態」」15P
同じものの交換は「交換は無意味であるか、不可能」16P
「“蒸留”して残るもの」――「抽象的人間労働」17P
「価値とは「幽霊のような対象性」」19P
「感覚的に超感覚的事物」――「形而上学小理屈や、神学的つぶやきに満ちたもの」20P
「非対称性」24P
「回り道」25P
「取りちがえ」――「関係のなかでこそ、価値が生成する」26P
「移される」――「映される」27P
「単純な価値形態そのものが、拡大された価値形態の一項」29P・・・関係論
「同等のものとして妥当する労働として呈示されている」30P・・・ここにもals
「差異をふくんだ反復」33P
第二形態から第三形態の移行−「偶然性と不確定性、運動と揺らぎ」33P
「逆向きにも読まれなければならない」39P
「貨幣がその謎を隠蔽する」41P
「古典的経済学が想定する労働一般(抽象的人間労働)が一箇の形而上学にほかならない」41-2P
「「有用労働」が「他者たちにとって有用なかたちで支出されている」かどうか、「証明することができるのは交換だけ」です。」42P
「ことがらはむしろ逆」「かれらはそれと知らずに、それをおこなう」「それぞれの労働生産物を一箇の社会的象形文字とする。」42-3P
「「私的労働のさまざま」が、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」。商品がフェティッシュであるというとき、その「謎のような性格」が生まれるのは「あきらかに[商品という]この形態そのものから」です。交換により等値される「人間自身の労働の社会的性格」が、「労働生産物そのものの対象的性格」に置きかえられる、かくて「感覚的超感覚的事物」、つまり価値をもつ商品という倒錯が誕生します。」・・・『資本論』第1章商品論の末尾の節「商品のフェティッシュ的性格とその秘密」43P
「関係が現実に存在する場合、関係は私に対して存在する」わけですけれども、関係そのものは私の意識を超えてひろがっています。」44P
「存在とは、個人については意識の背後にひろがる無意識の水準を披くものですが、資本制にかんしていえば、にわかには見とおしえないその構造を指示します。『資本論』全体の課題を暗示しているのです。」・・・「経済学批判」序言の唯物史観の定式44P
「マルクスがみとめるフェティッシュ的性格は、だから貨幣にかぎられず、むしろ第一には商品そのものにみとめられていました。」46-7P
「貨幣の止揚は、他者の「未来への行為への有意味的な関係」をふくむ、つまり他者もまた貨幣を受け取るであろうという「期待」が貨幣の使用を可能にする、と答えればよい。」→機能主義アプローチにつながる「貨幣とは象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアである。」47P
「神に劣らず貨幣についても「形而上学小理屈」があらわれてきます。」49P
「ライオン、トラ、ウサギ等々のそばを動物そのものが歩いている! この奇妙な光景が、一般的等価形態(第三形態)の、つまりやがて貨幣形態(第四形態)の成立する現場なのです。」50P
「プラトニズム」「アリストテレコ=トニズム」51P
「ミダス王」52P
「貨幣とは「一般的な売春」であり、「諸関係を解体する者」である。」54P
「商品交換は対称的過程であるかにみえる、とはいえほんとうは、そこに存在しているのは非対称的関係です。」55P
「商品流通は「たえず貨幣を発汗している」」59P
商品−流通、貨幣−通流60P
「やがてことがらが顚倒して映じてきます。商品を流通させる手段にすぎないはずの貨幣が目的と化してゆく。「貨幣蓄蔵」のはじまりです。」62P
「貨幣として金に、その黄金色の栄光が変換される。それは奴隷から主人となる。たんなる手伝いから、諸商品の神となる」わけです。」63P
「貨幣蓄蔵者は、さらにその禁欲主義が精力的な勤勉とむすびついているかぎりで、宗教上は本質的にプロテスタントであって、さらにはビューリタンである」(『経済学批判』)「貨幣とはイスラエルの嫉妬深い神であり、そのまえでは他のいかなる神も存続をゆるされない」(「ユダヤ人問題によせて」)64P
「貨幣蓄蔵は過ぎ去った時間の蓄積であるのに対し、信用貨幣は未だ到来しない時間の凍結です。そこでは未来が過去のかわりになって、両者が置きかえられてゆく。そこに資本が登場する条件のひとつが準備されているわけです。」67P・・・資本主義の登場ではない、信用貨幣は資本主義の只中から出てくる
「支払い手段としての貨幣」――「媒介されない矛盾」68P
「商品流通が一般化したところではじめて近代的意味での資本がなりたつ。資本は「現象形態」としてはまず、商品流通から生まれる貨幣としてあらわれる」70P
「価値はかくてまた「それが価値であるがゆえに価値を生む」という、「オカルト的な質」を受け取ることになるのです。資本のフェティシズムのはじまりにほかなりません。」72P
「ここがロドスだ、ここで跳べ!」77P
「ベルグソンはカントのうちに、時間を空間化する典型的な傾向をみとめていました。けれどもカントもまた空間性に対する時間の優位をある意味で承認します。」「私たちの認識はすべて最終的には時間にしたがう」79P
「よりリスクの高い源泉は空間的な差異の存在です。」「この空間的差異の利用は、時間を条件とし、時間のなかで空間的差異を横断しながら、それを消去するものです。」「商品交換そのものが共同体と共同体のあいだで発生したのとおなじように、あいことなるふたつの流通圏の差異、つまり流通圏と流通圏とのあいだからとりわけ商人資本が生成している。」80P
「空間的差異と時間的差異」81P
「産業資本が剰余価値を獲得するのも、実は空間的な差異と時間的差異を利用することによってであり、あるいは積極的にこのふたつの差異を創出することをつうじてです。」82P・・・労働と労働力の差異
「時間的に分離」85P・・・労働力と労働
「協業は一方では時間的な差異を空間的に並列して、他方では空間的な差異を時間的に統合します。」94P
「機械もまた、人間を幸福にするものではありません。フロイトのことばをもじっていえば、資本制による世界創造の計画のうちに、人間の幸福はふくまれていないのです。」100P
フーコー107P
「空間の配置(貨幣資本、生産資本、商品資本の併存)は時間的作用(資本の運動)の成果にほかならない。だからまた「継続の停滞は、どのようなものであれ並列を攪乱することになる。」」118P
「資本もかくて事物ではなく運動であり、たえず更新される生成にほかなりません。」120P
「アリストテレスは、運動するものはいつでも可能性おいて存在しつづけ、可能性のなかに存在することだけが現実的なありかたである。資本はその意味で運動し、不断にあらたに生成することで資本であり、みずから増殖してゆく」121P・・・可能態と現実態、運動としての資本
「時間によって空間を絶滅する」「経済とは最終的に「時間のエコノミー」に帰着する」129P
「運輸機関の発達と同時に、空間的速度は高められて、かくしてと空間的な距離が時間的に短縮される」130P
「こうして資本は「神の手からやってきたかのように、世界のなかを、それがじぶんのために育てあげられた庭園であるかのごとくに闊歩する」」132P
「かつての「科学的社会主義」とも「マルクス経済学」とも距離をとってマルクスの思考とりわけ『資本論』の哲学を問題としてきたつもりです。」135P
「生産過程が科学の応用となるなら、逆に科学は生産過程の一要因、いうなればそのひとつの函数となる。」136P
「資本制生産様式という特殊歴史的な与件と科学=技術との密接なかかわりを読みとろうとする姿勢であって、前者に対するマルクスの立場が批判的なものであることの函数として、後者にかんするその視点も無批判的なものではありえない」137P
「マルクスがみずからに引きうけた課題は経済学をさらに発展させることではない。批判的な経済学を構築することでもない。ひとえに経済学批判を展開することでした。」142P
「科学とはなにか」――「ここでは特定の歴史的−社会的な布置関係を反映した、世界のとらえかたというくらいの意味で使っておきます。」「マルクスにとっては経済科学がイデオロギーなのです。」143P
「資本元本は(資本による)生産と(資本家による)消費の反復によって減額してゆき、やがては消失するはずです。」149P→次項「単純再生産の前提との脆弱性」・・・「永久機関はありえない」の問題とリンク
「現在主流の経済学では資本主義という語も資本制ということばも使用されず「市場経済」という表現が好まれますけれども、これはすでにひとつのイデオロギーです。「いっさいの国々の生産と消費を全世界的なものとする」(『コミュニスト党宣言』)資本制の歴史を、自然過程として肯定するイデオロギーであり、グロバリゼーションという現在を自然状態とみなして、支配を正統化する世界像なのです。」155P・・・まさに物象化されたイデオロギー、マルクス葬送のなかで多くの学者が「市場経済はなくならない」という論理にからめとられている現実
「「分析者の立場」と「当事者の立場」」172P・・・ヘーゲル弁証法から活かされているマルクス−廣松の弁証法の概念
「顚倒された観念、移調された意識」「じぶん自身に対する関係としての資本」「そこでは、「資本と労働」ではなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるはずです。」176-7P
「近代科学の因果性の概念」187P
「『資本論』はそのつど、それぞれの分析カテゴリーが倒錯と神秘化とをふくんでいるしだいを指摘していた」「そこで問題になるものは分析者の立場から当事者の立場への転換なのです。廣松渉以来の物象化論的なマルクス解釈が強調してきたところにほかなりません。」188P
「マルクスにとってはこの経済科学こそがイデオロギーだったのです。」188P
「商業資本は産業資本に寄生しているとは言いますけれども、以上のかぎりにおいてそのありかたはむしろ、生物学でいう相利共生にもあたります。」196P
「高利資本は商人資本とならんで「その双子の兄弟」です。それは「資本の大洪水以前的な形態」でもあります。」204P
「マルクスはホラティウスを引いて、土地所有者を「果実を消費するために生まれてきた者と呼んでいました。」205P
「そこでは(利子生み資本では)貨幣そのものが商品となり、資本それ自体が商品となる。資本制の神秘化過程が、時間のフェティシズムとむすびあって、資本制にとって最後のフェティッシュをうみだすことになるわけです。」207P
「時−間がここでは物神(フェティッシュ・・ルビ)となります。利子生み資本を正当化するものは、時間に対する物神崇拝(フェティシズム・・・ルビ)であることになるでしょう。」「時間という目にみえないもの、あるいは未来という不在の形式にすぎません。」211P
「端的に時間的差異を利用する利子生み資本は、その非合理においてなおもっとも純粋な資本なのです。」212P
「顚倒と物象化」214P
「スコットランド啓蒙」216P
「信用制度を問題にすることは、一方では資本制を進展させてきた基本的な機構を捉えなおすことです。他方でそれは資本制の内部に埋めこまれ、その作動を保証する安全装置を同時に資本制の危機をもたらす起爆装置として問いかえすはこびにつながることでしょう。」217P
「信用制度は他面で「もっとも純粋で、もっとも巨大な賭博システムと詐欺システムまで発展してゆくこと」が可能です。」228P
「資本制とはたしかに、完成された商品――貨幣経済です。資本制経済と呼ぶかわりに「市場経済」と称することは或る意味でただしい。もういちど繰りかえしておくならば、そう呼称することは、けれども一箇のイデオロギーであって、市場システムの無法な支配を正当化する世界像にほかなりません。」238-9P
「わが亡きあとに洪水は来たれ!これがあらゆる資本家、すべての資本制国家の合い言葉なのだ」239P
「資本制と自然のあいだに、マルクスは最終的には両立不可能性を見てとっていた可能性があり、・・・」240P
「『資本論』は、商品という一見したところごくありふれたものが、じつのところ謎に満ちたありかたを伴っているしだいから考察を開始し、資本の生成と運動を見とどけて、その総過程を問題とする地点まで到達してきました。本書では、マルクスのその思考のみちゆきを、価値形態論を形而上学批判として読みなおすところからはじめて、資本の運動を時間と空間の再編過程ととらえるこころみを経て、科学批判としての資本論体系をきわだたせながら、利子生み資本と信用制度のうちに時間のフェティシズムを見さだめる地点まで辿りついたところです。」242P・・・この著の道行き―概略
「連合」にアソシエーションのルビ244P
「権利とはある意味でただのフィクションですけれど、必要もしくは欠落は、だれにとっても不可避な、実在する制約です。たんなる交換(とりわけ商品交換)原理では、この欠落を原理的に補塡することができません。」253P
コミューン主義の第一段階と第二段階(『ゴータ綱領批判』から)253-9P
「権利とはかならず排除をふくむ、力に対抗する力にほかならないからです。あるいは、特定の資格を承認された者たちに賦与される、一定でいど排他的な力こそが権利であるからです。ここでは平均以上の労働能力こそ、それに当たることになるでしょう。」258P・・・労働能力に対する差別は人権の範疇に入らない
「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能になっている」――「純粋な贈与」・・・モースの『贈与論』では、私有財産制の成立下で、純粋な贈与はありえないとなっている、ただし、そもそも原理的には「純粋な贈与」で成り立つべきこと


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熊野純彦『マルクス 資本論の思考』

たわしの読書メモ・・ブログ437
・熊野純彦『マルクス 資本論の思考』せりか書房 2013
マルクスの『経済学批判要綱』学習から派生した学習。この著者は倫理学・哲学史をやっていて、廣松さんがかなりの期待をかけていたひとです。倫理学の方に力を注いでいたので、倫理学をやっていくと、マルクス的な廣松さんの思いとはズレが生じたようで、どうも廣松さんの思いには応えがたかったようなのです。わたしの解釈ですが。
先人への思い、死者への思いというところで、廣松さんへの思いに応えるというところがあったのでしょうか、経済学的なところでの論攷です。
さすがは廣松さんが期待をかけていたひとで、博識の廣松さんのように、厖大な本を読み込んでの蓄積の上で、『資本論』の解説になっています。ただ、『資本論』をそれなりに読込んでいないと、とても読めません。廣松さんにならって、哲学的な基礎知識をもっていないと、辞書をひかないと、なかなか読み進められません。わたしはその辺のはしょりかたをみにつけていて、かなり読み飛ばしているのですが。
この本は、『資本論』を巡る論争を、註でかなりくわしく紹介してくれていて、『資本論』をもっと読み込んでいくひとへの案内書になっています。とても、わたしはそのあたりまで踏み込めそうにありません。いくつかの、わたしの研究に関わる論争の文献には、あたりたいと、積読している本を引っ張り出し、文献を購入して、読書メモをまた残します。
著者は「カントの新訳やハイデッガーの改訳に手を出しながら」733Pこの著をなしたとのこと、超人的なひとですが、凡人のわたしは「関係性の総体」や物象化論というマルクス――廣松的なところへの共鳴のなかでこの本を読み解こうとしていました。
さて、とてもきちんと押さえられていないのですが、いつものように抜き書きです。前回から適用しているように原語表記は基本はぶき、強調点は下線  で。原文ページ数も略。
「哲学的思考は、無前提的な思考であること、じぶん以外のなにものも前提とはしない思考であることを宣言する。」22P
 「無前提であるとは、なにものも前提としないことではない。「無前提的」であるとは思考にとってむしろ、思考それ自身が前提とすることがらへとさかのぼっていくことである。生きている者のみが思考するかぎりでは、生きていること自体が、思考するいとなみにとってもその前提にほかならない。いっさいの思考の前提は、かくしてまた「第一の歴史的行為」と一致する。すなわち「物質的な生そのものの生産」こそがそれである。」23P
身体性の三つの帰結 @人間は道具の製作と使用することによって世界と関係するA人間は身体として存在することで、とうぜんまた空間的存在者として存在しているB人間は、身体として存在していることによって、あわせて時間的にも有限な存在にほかならない26-7P
「あらゆる経済にあって「時間規定」は、その組成にとって決定的意味を有している。」30P 時間の節約と時間のエコノミー
「資本はどのようなかたちで時間のエコノミーを貫徹するのか、時間のエコノミーを固有なしかたで実現することで、資本制は空間をいかに再編し、世界をいかにつくり変えるにいたるのか。」30P マルクスの『資本論』で解きあかそうとする、枢要な問題系のすくなくともひとつ
「マルクスを読むことは人間が「世界のうちで-他者たちとともに-存在すること」を読みとくことであり、かくまた世界の総体について思考することである。・・・・・・(そのとき)ひとは哲学的にもなお、現在にあってはやはり、資本制を問いかえす作業から 目をそらすことができないはずである。」30-1P
「「共有物」(コモンズ)」31P
「私たちが現在なおそのうちで生を織りあげ、他者たちとかかわりあっている世界を、総体としてとらえかえすこころみにほかならない。」32P
「私を支える大地の堅固さ、私の頭上にひろがる空の蒼さ、風のそよぎ、海の波浪、光の煌めきといったものは、なにかの実体にかかっているものではない。それらは、どこでもないところから到来する。どこでもないところから、存在しない「或るもの」から到来し、あらわれるなにものも存在しないのにあらわれ、かくしてまた、私がそのみなもとを所有することができずに、たえず到来する。このことによって、感受性と享受との未来が描かれるのである。」レヴィナス33P
「大庭によれば、マルクスの「思想的営為」のもつべき意味が「時とともに「科学としての資本論」――「科学的社会主義」なる、まさに近代的世界観の地平上での(!)体系化によって次第に曖昧化され<批判>の批判たる所以が次第に水増しされてしまった。」のである。」34P
「そもそも『資本論』全三巻が問題にするところは、「資本制的な生産様式」のありかたそのものであり、あわせてまた「それに呼応する生産関係ならびに交通関係のありかたにほかならない。」」37P・・・資本論の要旨
「とほうもない」とカント37-8P
「一見したところ」「現象」する39P
「商品は「欲求」を満足させること使用価値となる。つまり「事物の有用性が事物を使用価値とする。」」41P
「先慮にもとづく要求」42P
『資本論』の商品論におけるふたつの留保@「「事物の多様な使用方法を発見すること」がそれじたい一箇の「歴史的行為」であること」A「使用価値は」「ただ使用もしくは消費においてのみ現実化する。」42P→「商品はほんとうはものではない。すこしだけ先ばしりしていえば、商品とは運動であり、関係である。」43P
「商品が有する「二要因」とは使用価値と交換価値ではない。むしろ使用価値と価値であるしだいとなるであろう。」44P
「人間の生理的活動が価値の「実体」として問題になっているのであろうか。」47P・・・物象化批判――実体主義批判の核心
「価値の実体とされる人間労働とは、関係の別名なのである。」49P
「いわゆる<蒸留法>には当面は消し去ることができない論理的難点がある。それは具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ枢要な論点を、マルクスがここでいったん消去してしまっているところから生じる難点にほかならない。」49P
「商品とは「過渡的な存在」であると語ってもよい。」50P
「商品が運動のうちにあるという事情が一方で、やがて商品流通をめぐっていくつかの制約条件を商品に課することになるだろう。その同じ性格が、他方でやがて資本そのものへ転移されてゆくことになるはずである。――資本もまたつねに動的な存在であり、どのような場合でも、可能が可能性として現実化されている状態にある。資本はすなわち運動し、生成しつづけているのである。・・・使用価値が捨象されるとともに、「他者に対する使用価値」という側面も度外視されていた。この件は、いわゆる<蒸留法>と、抽象的人間労働の規定をめぐってひとつの論理的空隙をかたちづくっている。・・・その背後にあるものは、交換によってなかだちされた関係の総体にほかならない。」50-1P
「マルクスが、労働にあって人間に可能なことがらは「素材の形態を変化させること」だけであり、したがって労働は使用価値の唯一の源泉でないと説き、また労働そのものにおいても「人間はつねに自然力に支えられている」と主張していることである。」53P
「しばしば指摘されているとおり、マルクスがここで(価値形態論で)「等号=」を導入していることは、ことがらの理解にとってはミスリーディングなものであった。「あたいする」という表現に、当面の問題すべてがむしろかかっているからである。」57P
「リンネルが価値であることは、ただこのような「回り道」を介して表現されるほかはない。上着は、手でつかめる「自然形態」のままに価値をあらわしており、リンネルは上着の自然形態のうちでみずからの価値を表現する。「このようにしてリンネルは、みずからの自然形態とはことなった価値形態を受け取ることになる」のである。」58P
価値鏡59P・・・フィヒテ
「価値の存在の背後には、むしろ関係がある。関係のなかでこそ、価値が生成する。」「その超自然的属性が示すものは「純粋に社会的な或るもの」なのである。単純で個別的な価値形態の表現するものは、それが「或る社会的関係」をはらむことを暗示している。」60P
「交換の具体的ありかたではなく、交換そのものの原理的な非対称性にあることになる。」61P
取りかえquidproquo 64P・・・物象化論とリンク
「感覚的に超感覚的な事物とは「社会的な事物」であり、その背後にあるものは「社会的な関係」にほかならない。その社会的関係を商品関係が覆いかくすことによって、人間的な労働にぞくする「社会的な性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」として映しだされる。すなわち、生産者自身が商品生産社会の内部で「総労働」に対して有する関係、その社会的寄与分が、対象的なかたちを取った労働生産物それ自体の社会的関係であるかのように映現するのである。これは関係に帰属する性格の関係の項への転移であり、関係のなかで生成する性格が、存在のしかたへと移行することにほかならない。それはいずれにせよ一箇の「置きかえ」であり、倒錯である。ここで「さまざまな事物の関係という幻影的な形態」であらわれているものは、「人間自身の特定の社会的関係」であるにすぎないからである。ただし、背後にあるものは、当の社会的関係の総体にほかならない。」65P・・・第二形態から派生する「置きかえ」、社会的総体的関係から関係に帰属する項への転移
「商品にまとわりつくフェティシズムに似たものを探すとすれば、ひとは霧に蓋われた「無限境」に、「宗教的世界」に逃げこむほかはない。それは――若きマルクスが、或る論争の脈絡で、ヘーゲルを踏みながら使用したことばをつかうならば――「顚倒した世界」である。ただし、その総体において顚倒された世界が問題なのである。」65-6P
「マルクスはここでは商品とは「感覚的であるとともに超感覚的である」ものとも、「感覚的であるにもかかわらず超感覚的である」ものとも語っていない。「感覚的に超感覚的」と語っているのだ。」71P・・・廣松の「それ以外のもの、それ以上のもの」との関係
下降−分析と上向法73P
「具体的で私的な労働が、抽象的で社会的な性格を有しているしだいは、交換の過程にあってはじめてあらわれる。つまり「私的な労働のさまざまが、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」のである。」83P・・・交換においてはじめて
「相対的余剰」モデル86-8P
日山紀彦89P・・・宇野と廣松の対話→読書計画に織り込む
「「一般的商品としての貨幣」とは「社会の、物象化されたきずな」であり、「一般的な売春」であって、つまりは「諸関係の解体」「一般的効用関係」だからである。かくして、「すべては売り物」となる。」97-8P
「ある非対称性」98P
「そこに存在しているのは非対称的関係であって、関係のこの非対称性によって「商品を貨幣へと置き換えうること」は「偶然性」にさらされている。しかも、たほうこの偶然性を「貨幣の超越論的力」が覆いかくしているのである。貨幣の超越論的な力が「購買と販売の分離を可能としながら、同時にそれを隠蔽しているのだ。」99P・・・貨幣の超越論的力と非対称性
「リカードへといたる古典経済学は売り=買いとみなし、セーの法則をみとめることで、対称的な関係を見いだした。マルクスはかえって売りと買いとのあいだに非対称性抹消不能な差異をさしあたり発見する。その非対称性は「相対的価値関係と等価形態という非対称的な対極関係」に由来している。その非対称性が貨幣へ感染して、非対称性に汚染された貨幣はしかし、非対称的な対極関係そのものを覆いかくす。かくして、「古典経済学が対称的関係とみなしているところに、マルクスは根源的な非対称性を見出している」といってよい」102P
「「資本としての貨幣の流通は、これに反して自己目的である。価値の増殖はひとりこの不断に更新される運動のうちにのみ存在するからである。資本の運動には、それゆえに限度がない」のである。価値が、かくして「一箇の自動的主体に転化する。価値はつまり「それが価値であるがゆえに価値を生む」という「オカルト的な質」を受けとることになるのである。」127P
「労働はそしあたり、「人間と自然とのあいだの一過程」、自然と人間とのあいだでの「物質代謝」である。」「すなわち人間は自然を加工して、みずからにとって使用価値をもつものとして形成しなければなないのである。このような意味での「有用労働」は、いってみれば「永遠の自然必然性」にほかならない。」146P
「つまりたとえば紡錘が「過去の労働の生産物であるということはどうでもよいこと」なのだ――その件が問われる場合があるとするなら、それはひとえに用具に欠陥があるときである。つまり、「切れないナイフや切れがちな糸などが刃物屋のAとか蠟引工のEをさまざまと想いおこさせる」にすぎない。」162P
「資本そのものにとっては交換と生産とのあいだに区別はない。交換は事物と事物との相互関係あり、生産もまた事物と事物とのあいだの交互作用にすぎないからだ。」164P
「なぜ、このような不法が罷り通るのか。どのような株式投資であっても「いつかは雷が落ちることをだれも知りながら、一般に「わが亡きあとに洪水は来たれ」こそが一切の資本のあいことばであり、資本制そのものの標語にほかならないからである。」201P・・・資本家に倫理はない、悪無限的利潤の追求
「「労働力の平等な搾取こそが、資本の第一の人権となる」日がやってくる。人権という語の意味が変容したのではない。人権とは市民の権利であって、市民とはもちろんブルジョアジーの別名にほかならなかったからである。」202P
「資本制的生産は自然と人間のあいだの「物質代謝」そのものを「攪乱する」。「永遠的な自然条件」すらも攪乱するのである。資本制の進歩は、農業についていえば、「土地から収奪するための」進歩であるほかない。資本制の運動は、自然の「多産制の不断の源泉を破壊すること」へといたりうる。」239P→註(7)240Pの椎名重明と長島誠一、本入手、エコロジーと農について後日学習
「マルクスの批判的視線は近代科学そのものにまで及んでいた。」239P→註(8)240P佐々木力
「マルクスはもとより、すこしも産業主義者ではない。生産力主義者でもありえない。また、科学的社会主義というかつての標語とうらはらに、マルクスは科学主義者でもないのである。」239-240P・・・マルクスのとらえ返しで重要
「一般的に資本制は、たえずさまざまな外部を内部化して、資本制のうちに繰りいれることで存続してゆくが、資本制の存続は同時にまた、その内部に差異のさまざまをあらたに生産しつづけ、その差異をあらためて内部化することで延命してゆく。資本が反復的に産出する差異は、そして当然のことながら差別を組織することで、それじたい定常化することだろう。」265P・・・継続的本源的蓄積論とつながる差別の生産・再生産構造の問題として重要なおさえ
「浮浪に対する血の立法」270-2P
「本源的蓄積の過程こそが資本制の原罪であるとして、しかし「原罪はつねに現罪である」(平田清明のことば281P註(14))のではないか。つまり本源的蓄積の暴力性は資本制それ自体の暴力性なのではないだろうか。それは一方では差異を抹消する暴力であり、他方では差異を産出しつつ回収する暴力なのではないか。」277P
「資本制はむしろ、外部との境界にあってこそ暴力的な蓄積を継続する。」278P
「ドイツ革命に殉じて散った、女性革命家がつとに見てとっていたとおり、資本は「全地球の生産手段と労働力」「全地帯の自然的財宝」を巻きこんで運動をつづけ、つねに外部を内部へと編入するとともにあらたな外部をつくり出して、内部を差異化させて内なる外部をも産出しつづけるものだからである。資本の本源的蓄積とはそのかぎりで、資本の生成とともにくりかえし回帰し、資本制の運動とともに不断に反復する「原罪」にほかならない。」279P
「アリストテレスは「運動」(キネーシス)とは「可能的ななにかであるものが、あくまでその当の可能態(デュナミス)としての資格にあたって完全に現実化されているありかた(エンテレケイア)」であると語った。つまりその可能性において現実態(エネルゲイア)にある、すなわち現実的なありかたをしている、ということである。」285P
「資本、商品資本としての商品もまた一箇の過程であり、その背後に或る関係であって、たえず生成と運動の様相のもとにある。」286P
「登場したばかりの資本にとって、とりあえず「交通すなわち交換に対する場面的制限」は、資本の活動を制約する一箇の自然的限界である。資本制の発展そのものにより、しかしこの限界は突破される。それはまさに「時間によって空間を絶滅」すること、つまり空間的な差異を時間的差異を利用し、後者の差異を「縮減」しながら抹消してゆくことにほかならない。資本制にとって一般的なこの「傾向」は、「地球全体をみずからの市場として獲得」するにいたるまで継続してゆくことだろう。」340P
「資本は、しかしなぜ一般に時間を「最小限」にまで解消しようとするのだろう。それは、資本にとって、循環の連続性がそうであったように、その「回転」の速度こそが生命線であるからである。資本が回転する時間つまり資本の「回転期間」と、その度数すなわち「回転回数が、つぎに問題となるはずである。」341P
「なんらかの実体的な特性が固定資本を固定資本とするわけではない。生産過程でになう「特殊な機能」のみが、労働手段を固定資本とするのである。ここでも実体ではなく機能を、固定された存在ではなく関係を問題としてゆくマルクスの視覚が、さしあたりは目だたないかたちで貫徹されているのをみとめることができる。」350P・・・機能と関係
「この神秘化の、もしくは顚倒と移調の結果はなんだろうか。総資本と利潤との関係が問われ、前者に対する後者の比が問題にされるところでは、「資本はじぶん自身に対する関係としてあらわれる」。自己関係という、ヘーゲル論理学大系を意識して使用されている用語が、ここで問題の所在を告げている。」462P・・・ヘーゲル「自己関係」
「なぜだろうか。この、じぶん自身に対する関係としての資本こそが、自己増殖する価値としての資本がその神秘化を終了する地点を、あらかじめ指ししめしているからだ。これは利潤率でなく一般的利潤率が支配し、価値ではなく生産価格が支配して、一定量の資本が一定量の資本であるがゆえに、その自己運動において利潤を生むとみなされる地点にほかならない。そこでは「資本と労働」でなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるであろう。」462P
「競争とは、個々の資本にとっては一箇の超越的条件である。個別資本は競争においてその外部にさらされ、当の外部を個々の資本は操作することができないからである。競争は、しかし、やがて、資本制を資本制として可能とする超越論的な審級となるはずである。」462P
「さかのぼって確認しておくなら、そもそも費用カテゴリーそのもの、考察としての基礎として導入された基礎範疇それ自体が、・・・・・・・・かくして生起するのは、資本制そのものの構造の期限とその成立要件の忘却であり、隠蔽である。/価値から価格への転化あるいは移行が問題になるときに、その過程でじっさいに変換していたのは、むしろ「認識様式」そのものである。そこで問題になるものは、「分析者に固有の認識様式から当事者流の認識様式への変換(切りかわり)」なのであって、「この「変換」の理解なしには「転化」概念の理解はない」。宇野弘蔵の学統にぞくしながら物象化論へと接近した論者のひとりが、そう強調しているとおりである。」511-2P・・・für esとfür uns の弁証法 註(10)515P
「形態転換」512P→この著のキーワード「取りかえquidproquo」64Pとつながり、物象化論とリンク
「マルクスの資本論体系が経済学でなく、経済学批判であるしだいとかかわっている。」513P
「マルクスの『資本論』の主題はむしろ、古典派経済学のうちに典型的にあらわれている資本制的な日常意識をたどりつつ、それを内的に批判するところにこそあったのだ。」514P・・・そのひとつとしての労働価値説批判
「マルクスの説くとおり、「資本制的生産の真の制限は、資本そのものなのである。」」528P
「生活手段としての自然の豊かさ」――「労働の生産性」が依存する531-2P
「社会契約というミュトスを前提にするなら、ロックがそう語っていたように、大地と生育するものはかつてひとしく万人のものであったし、ルソーがそう指弾したとおり、土地に囲いをして、「これが俺のものだ」と宣言した者こそが、いっさいの不平等の起源に責めを負うものでもあるだろう。具体的な歴史過程を問題とする経済学批判のロゴスからするなら、資本制的な土地所有の起源は、それじたい資本制の原罪とかかわっている。「本源的蓄積」を経た「土地所有の独占が資本制的生産の歴史的前提」なのである。」533P
「土地所有権には、法的にいえば、土地の利用、土地からの収益、土地そのものの譲渡にかんする権利がふくまれている。支配あるいは全面的権力としての所有は一般に、所有対象の利用権、そこからの収益権、また譲渡権をふくんでいるからだ。この「法的観念そのもの」は、しかし、なにほどのことがらも意味していない。土地所有がひとつの権利であるとしても、その「力の行使はひとえに、かれらの意志にはかかわりのない経済的な諸条件にのみかかっている」からである。」536P
「土地が売買されるとき、譲渡され入手される当のもの(「大地の一片」)については、その価値はなにもない。価値がないものに価格がつけられて、売買の対象となる。なぜそのような擬制が可能となるのか。「なんらかのものを売るためには」――と、ヘーゲル『法哲学』「抽象法」の一節を想起させるしかたでマルクスは書いている――「そのものが独占できるものであり、譲渡できるものであることのほかにはなにも必要とされない」。土地はただ境界を設定され、その一面積がそこにふくまれている生産条件とともに独占の対象となり、法的に所有権が移転しうるだけで、売買の対象になるのである。」538P
「なんらかのものを売るためには、そのものには価格がつけられなければならない。価格が附与されるためには、そのもの(ここでは一定の土地)には、また、他のもの(べつの土地)との差異が帰属していなければならない。/差異が、価格を生む。さしあたりはことなる地代を生み、その地代(差額地代)によって、土地そのものの価格が遡及的に決定されるのである。マルクスの地代論の本論が、いわゆる「差額地代」の問題から開始されるゆえんである。」538-9P
「自然のうちにはそれじたい「自然発生的」な生産性が潜在している。自然が――労働を介して―人間に与えるものは、つねに人間の必要を上まわっている。この間の消息こそが、すべての考察の基礎なのだ。農業労働は――それがいっさいの労働のうちでももっとも「本源的」な生産活動であることはべつとして――、その意味では、資本制的な生産様式が支配的である社会にあってなお、とりわけて注目にあたいする生産の現場であることをやめない。なぜだろうか。/「自然の豊饒さがここではひとつの限界、ひとつの出発点。ひとつの基礎をなしている」からであり、「たほうの労働の社会的生産力の発展が、もうひとつの限界、出発点、基礎をなしている」からである。/それゆえ問われなければならないことは、資本制による自然の利用とその限界であることになるはずである。」543P
「ここで問題の落流とは、つまりは「ひとり土地の特殊な部分とその付属物とを自由に処分しうるひとびとだけが利用できる、独占的な自然力にほかならない。この独占可能性ならびに、それとうらはらな移動可能性が、当面している場面を考えるうえで、不可欠の条件となるはずである。」550P
「アジア的な「主権」とは「国家規模で集中された土地所有」にほかならない。このような政治的かつ経済的制度は、「直接に生産そのものから生まれて、それ自身また規定的に生産に対して反作用する」。同時にこの関係のうえに、「生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の姿態の総体」が築かれて、「その独自な政治的姿態」も構築されるのだ。いわゆる唯物史観の公式が、マルクスの、膨大な歴史的-地理的な展望のうえに築かれているしだいを、ここでも確認することができるだろう。」582P
「究極的対立は、しかし、資本と土地所有のあいだに存在するのではない。「生命の自然法則」と資本制のあいだに存在するのである。」589P
「マルクスのロシア研究は、その最晩年にいたるまで継続されて、変容を遂げていった。その最終成果にほど近いすがたを、私たちはたとえば、ヴェーラ・ザスーリチの手紙に対する返信、ならびにそのための四つの草稿に展開されているかたちで確認することができる。ロシアのミール共同体に対する評価の変化が、土地所有をめぐるマルクスの思考をどのくらい変様させるものとなりえたか。この件については、とりあえず想像のかぎりではない。「残念なことには、かれにとってこの計画はついに実現されなかった」からである。」589P・・・註(5)和田春樹→購入
「利子生み資本の源泉は、時間的な隔たりであった。時間が価値を生み、時間のなかで貨幣が価値を増殖させるとは、とはいえ端的に一箇の非合理にほかならない。右のようなしだいによって、とはいえ、時間そのものが価値を生むという神秘が、あたかも神秘ではないかのように神秘化されるのである。」638P
「がんらい利子とは一箇の不合理であり、悖理であった。その意味では「利子の自然な率」などというものは存在しえない。利子そのものが一箇のパラドクスであり、しかも現に作動し、そのつど妥当している逆理なのである。「じっさい、ひとえに、資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分離することのみが、利潤の一部を利子へと転化させて、およそ利子というカテゴリーを創りだす。そしてただ、このふたつの種類の資本家のあいだの競争だけが、利子率を造りだす」。マルクスがそう書きしるしているとおりである。」639P
「機能資本家(産業資本家と商業資本家)」640P
エンゲルスの編集問題665-6P註(2)・・・・・・・・弁証法の法則化と法則の物象化
「マルクスは『資本論』第一巻ですでに「信用制度は当初は、蓄積の控えめな助手としてこっそりと入ってきて」、「やがては競争戦におけるひとつの、あらたな恐ろしい武器となり、そしてついには諸資本の集中のための巨大な社会的機構へと転化する」と書いていた。」689P
「地球規模の収奪」につけられたルビ「グローバリズム」691P
「利子額を利子率で除する演算が、「資本換算」として承認される。この操作の結果として得られるものが「資本価値」とみなされ、利子生み資本はそのほんらいの形態において陥穽されるのである。そこでは「価値増殖過程」の「痕跡」のいっさいが消去され、かわりに登場するものは「価値増殖する自動運動体としての資本の表象」にほかならない。/ここに資本のオートノミーが陥穽されて、資本の派生的形態にすぎない利子生み資本こそが資本のほんらいの形態であるかのような幻想がむしろ現実化してゆく途が拓かれる。資本はフィクショナルな存在として、みずからの痕跡を抹消する。」695P
「株式会社は、こうしてマルクスにとって、或る意味ではたしかに「あらたな生産形態へのたんなる通過点」としてあらわれていた。」697P・・・ただし、「国独資」や的なことがもつ意味をとらえ返す必要
「株式取引市場における貨幣価値は、結局は「名目的な貨幣資本のしゃぼん玉」であるほかない。」699P・・・「名目的」に「ノミナル」のルビ、「しゃぼん玉」に「バブル」のルビ
「マルクスは、利子生み資本の登場によって、資本はそのものとして商品となる、と説いていた。株式制度と証券市場の展開をつうじて、資本のこの商品化が完結する。資本はもはや、資本としてその外部をもたない。信用制度のなかに株式制度を着床しおえた資本システムにとっては、いまや「入力も出力もない」。いっさいは市場の内部で調達され、すべては市場の内部へと送りかえされる。資本制は、そのかぎりでは自己制作的な過程そのものとなる。すなわち、一箇のオートポイエーシス機構となるのである。/資本の、このオートボイエーティック・メカニズムを十全に分析するためには、とはいえ、資本制のその後の展開を問題とするほうがより適切だろう。すなわちレーニン――その『帝国主義論』は、ドイツでは総数の百分の一にも満たない企業がエネルギーの四分の三を独占し、合衆国では、おなじく百分の一の企業に、一国の総生産のほとんど半分が由来している段階を見すえていた――以後の資本制の変容と、その現在とを問うことが必要となるはずである。」703P
「マルクスはさらに、理論が民衆を掴むのは、それがラディカルになるときであるとして、「ラディカルであるとは、ことがらをその根において把握することである。人間にとっての根とはしかし人間それ自身である」と書きとめていた。」708P
「若きマルクスは自問して、自答していた。「現世の神とはなにか? 貨幣である」(「ユダヤ人問題によせて」)地上の批判の核心は貨幣に或る。より一般的にいうなら、エコノミーの批判にあるのである。エコノミーのうちにこそ宗教がある。そのかぎりで、宗教批判はいまだ終了してはいないのだ。」708P
「商品が価値であるのはまさにフェティシズムであり、地上の批判は天上の批判をふくまなければならない。その意味で、宗教の批判がいっさいの批判の前提なのである。」710P
「ひとえに、三位一体範式そのものをマルクスは「日常生活の宗教」と見なしていたことである。『資本論』が、その末尾で、キリスト教信仰の核心(三位一体論)に言及するのは、だんじて偶然ではない/ただし、資本制生産様式が支配して、資本が生を枠どっている世界、この「魔法にかけられ、顚倒と移調され、逆立ちした」世界における、魔法と顚倒は、いわゆる三位一体範式にのみ見てとられるものではない。それは、私たちが本書の最終章で問題としたように、資本制の超越論的審級を制約する信用制度のうちにこそ、いっそう現在的なしかたで見てとるべきものなのだ。」711P
「その信(信用制度もしくは信用システムを裏うちする信)、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除することでたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読みなおさないこと」は「つねに過失」となるはずなのである。」713P

切り抜きをとりつつ、この著のもつ意味はもっと深いものがあると改めて感じていました。再読を期したいと思っています。

posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

熊野純彦『マルクス 資本論の思考』

たわしの読書メモ・・ブログ437
・熊野純彦『マルクス 資本論の思考』せりか書房 2013
マルクスの『経済学批判要綱』学習から派生した学習。この著者は倫理学・哲学史をやっていて、廣松さんがかなりの期待をかけていたひとです。倫理学の方に力を注いでいたので、倫理学をやっていくと、マルクス的な廣松さんの思いとはズレが生じたようで、どうも廣松さんの思いには応えがたかったようなのです。わたしの解釈ですが。
先人への思い、死者への思いというところで、廣松さんへの思いに応えるというところがあったのでしょうか、経済学的なところでの論攷です。
さすがは廣松さんが期待をかけていたひとで、博識の廣松さんのように、厖大な本を読み込んでの蓄積の上で、『資本論』の解説になっています。ただ、『資本論』をそれなりに読込んでいないと、とても読めません。廣松さんにならって、哲学的な基礎知識をもっていないと、辞書をひかないと、なかなか読み進められません。わたしはその辺のはしょりかたをみにつけていて、かなり読み飛ばしているのですが。
この本は、『資本論』を巡る論争を、註でかなりくわしく紹介してくれていて、『資本論』をもっと読み込んでいくひとへの案内書になっています。とても、わたしはそのあたりまで踏み込めそうにありません。いくつかの、わたしの研究に関わる論争の文献には、あたりたいと、積読している本を引っ張り出し、文献を購入して、読書メモをまた残します。
著者は「カントの新訳やハイデッガーの改訳に手を出しながら」733Pこの著をなしたとのこと、超人的なひとですが、凡人のわたしは「関係性の総体」や物象化論というマルクス――廣松的なところへの共鳴のなかでこの本を読み解こうとしていました。
さて、とてもきちんと押さえられていないのですが、いつものように抜き書きです。前回から適用しているように原語表記は基本はぶき、強調点は下線  で。原文ページ数も略。
「哲学的思考は、無前提的な思考であること、じぶん以外のなにものも前提とはしない思考であることを宣言する。」22P
 「無前提であるとは、なにものも前提としないことではない。「無前提的」であるとは思考にとってむしろ、思考それ自身が前提とすることがらへとさかのぼっていくことである。生きている者のみが思考するかぎりでは、生きていること自体が、思考するいとなみにとってもその前提にほかならない。いっさいの思考の前提は、かくしてまた「第一の歴史的行為」と一致する。すなわち「物質的な生そのものの生産」こそがそれである。」23P
身体性の三つの帰結 @人間は道具の製作と使用することによって世界と関係するA人間は身体として存在することで、とうぜんまた空間的存在者として存在しているB人間は、身体として存在していることによって、あわせて時間的にも有限な存在にほかならない26-7P
「あらゆる経済にあって「時間規定」は、その組成にとって決定的意味を有している。」30P 時間の節約と時間のエコノミー
「資本はどのようなかたちで時間のエコノミーを貫徹するのか、時間のエコノミーを固有なしかたで実現することで、資本制は空間をいかに再編し、世界をいかにつくり変えるにいたるのか。」30P マルクスの『資本論』で解きあかそうとする、枢要な問題系のすくなくともひとつ
「マルクスを読むことは人間が「世界のうちで-他者たちとともに-存在すること」を読みとくことであり、かくまた世界の総体について思考することである。・・・・・・(そのとき)ひとは哲学的にもなお、現在にあってはやはり、資本制を問いかえす作業から 目をそらすことができないはずである。」30-1P
「「共有物」(コモンズ)」31P
「私たちが現在なおそのうちで生を織りあげ、他者たちとかかわりあっている世界を、総体としてとらえかえすこころみにほかならない。」32P
「私を支える大地の堅固さ、私の頭上にひろがる空の蒼さ、風のそよぎ、海の波浪、光の煌めきといったものは、なにかの実体にかかっているものではない。それらは、どこでもないところから到来する。どこでもないところから、存在しない「或るもの」から到来し、あらわれるなにものも存在しないのにあらわれ、かくしてまた、私がそのみなもとを所有することができずに、たえず到来する。このことによって、感受性と享受との未来が描かれるのである。」レヴィナス33P
「大庭によれば、マルクスの「思想的営為」のもつべき意味が「時とともに「科学としての資本論」――「科学的社会主義」なる、まさに近代的世界観の地平上での(!)体系化によって次第に曖昧化され<批判>の批判たる所以が次第に水増しされてしまった。」のである。」34P
「そもそも『資本論』全三巻が問題にするところは、「資本制的な生産様式」のありかたそのものであり、あわせてまた「それに呼応する生産関係ならびに交通関係のありかたにほかならない。」」37P・・・資本論の要旨
「とほうもない」とカント37-8P
「一見したところ」「現象」する39P
「商品は「欲求」を満足させること使用価値となる。つまり「事物の有用性が事物を使用価値とする。」」41P
「先慮にもとづく要求」42P
『資本論』の商品論におけるふたつの留保@「「事物の多様な使用方法を発見すること」がそれじたい一箇の「歴史的行為」であること」A「使用価値は」「ただ使用もしくは消費においてのみ現実化する。」42P→「商品はほんとうはものではない。すこしだけ先ばしりしていえば、商品とは運動であり、関係である。」43P
「商品が有する「二要因」とは使用価値と交換価値ではない。むしろ使用価値と価値であるしだいとなるであろう。」44P
「人間の生理的活動が価値の「実体」として問題になっているのであろうか。」47P・・・物象化批判――実体主義批判の核心
「価値の実体とされる人間労働とは、関係の別名なのである。」49P
「いわゆる<蒸留法>には当面は消し去ることができない論理的難点がある。それは具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ枢要な論点を、マルクスがここでいったん消去してしまっているところから生じる難点にほかならない。」49P
「商品とは「過渡的な存在」であると語ってもよい。」50P
「商品が運動のうちにあるという事情が一方で、やがて商品流通をめぐっていくつかの制約条件を商品に課することになるだろう。その同じ性格が、他方でやがて資本そのものへ転移されてゆくことになるはずである。――資本もまたつねに動的な存在であり、どのような場合でも、可能が可能性として現実化されている状態にある。資本はすなわち運動し、生成しつづけているのである。・・・使用価値が捨象されるとともに、「他者に対する使用価値」という側面も度外視されていた。この件は、いわゆる<蒸留法>と、抽象的人間労働の規定をめぐってひとつの論理的空隙をかたちづくっている。・・・その背後にあるものは、交換によってなかだちされた関係の総体にほかならない。」50-1P
「マルクスが、労働にあって人間に可能なことがらは「素材の形態を変化させること」だけであり、したがって労働は使用価値の唯一の源泉でないと説き、また労働そのものにおいても「人間はつねに自然力に支えられている」と主張していることである。」53P
「しばしば指摘されているとおり、マルクスがここで(価値形態論で)「等号=」を導入していることは、ことがらの理解にとってはミスリーディングなものであった。「あたいする」という表現に、当面の問題すべてがむしろかかっているからである。」57P
「リンネルが価値であることは、ただこのような「回り道」を介して表現されるほかはない。上着は、手でつかめる「自然形態」のままに価値をあらわしており、リンネルは上着の自然形態のうちでみずからの価値を表現する。「このようにしてリンネルは、みずからの自然形態とはことなった価値形態を受け取ることになる」のである。」58P
価値鏡59P・・・フィヒテ
「価値の存在の背後には、むしろ関係がある。関係のなかでこそ、価値が生成する。」「その超自然的属性が示すものは「純粋に社会的な或るもの」なのである。単純で個別的な価値形態の表現するものは、それが「或る社会的関係」をはらむことを暗示している。」60P
「交換の具体的ありかたではなく、交換そのものの原理的な非対称性にあることになる。」61P
取りかえquidproquo 64P・・・物象化論とリンク
「感覚的に超感覚的な事物とは「社会的な事物」であり、その背後にあるものは「社会的な関係」にほかならない。その社会的関係を商品関係が覆いかくすことによって、人間的な労働にぞくする「社会的な性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」として映しだされる。すなわち、生産者自身が商品生産社会の内部で「総労働」に対して有する関係、その社会的寄与分が、対象的なかたちを取った労働生産物それ自体の社会的関係であるかのように映現するのである。これは関係に帰属する性格の関係の項への転移であり、関係のなかで生成する性格が、存在のしかたへと移行することにほかならない。それはいずれにせよ一箇の「置きかえ」であり、倒錯である。ここで「さまざまな事物の関係という幻影的な形態」であらわれているものは、「人間自身の特定の社会的関係」であるにすぎないからである。ただし、背後にあるものは、当の社会的関係の総体にほかならない。」65P・・・第二形態から派生する「置きかえ」、社会的総体的関係から関係に帰属する項への転移
「商品にまとわりつくフェティシズムに似たものを探すとすれば、ひとは霧に蓋われた「無限境」に、「宗教的世界」に逃げこむほかはない。それは――若きマルクスが、或る論争の脈絡で、ヘーゲルを踏みながら使用したことばをつかうならば――「顚倒した世界」である。ただし、その総体において顚倒された世界が問題なのである。」65-6P
「マルクスはここでは商品とは「感覚的であるとともに超感覚的である」ものとも、「感覚的であるにもかかわらず超感覚的である」ものとも語っていない。「感覚的に超感覚的」と語っているのだ。」71P・・・廣松の「それ以外のもの、それ以上のもの」との関係
下降−分析と上向法73P
「具体的で私的な労働が、抽象的で社会的な性格を有しているしだいは、交換の過程にあってはじめてあらわれる。つまり「私的な労働のさまざまが、交換によって実現される諸関係によって「はじめてじっさいに社会的総労働の諸環として実証される」のである。」83P・・・交換においてはじめて
「相対的余剰」モデル86-8P
日山紀彦89P・・・宇野と廣松の対話→読書計画に織り込む
「「一般的商品としての貨幣」とは「社会の、物象化されたきずな」であり、「一般的な売春」であって、つまりは「諸関係の解体」「一般的効用関係」だからである。かくして、「すべては売り物」となる。」97-8P
「ある非対称性」98P
「そこに存在しているのは非対称的関係であって、関係のこの非対称性によって「商品を貨幣へと置き換えうること」は「偶然性」にさらされている。しかも、たほうこの偶然性を「貨幣の超越論的力」が覆いかくしているのである。貨幣の超越論的な力が「購買と販売の分離を可能としながら、同時にそれを隠蔽しているのだ。」99P・・・貨幣の超越論的力と非対称性
「リカードへといたる古典経済学は売り=買いとみなし、セーの法則をみとめることで、対称的な関係を見いだした。マルクスはかえって売りと買いとのあいだに非対称性抹消不能な差異をさしあたり発見する。その非対称性は「相対的価値関係と等価形態という非対称的な対極関係」に由来している。その非対称性が貨幣へ感染して、非対称性に汚染された貨幣はしかし、非対称的な対極関係そのものを覆いかくす。かくして、「古典経済学が対称的関係とみなしているところに、マルクスは根源的な非対称性を見出している」といってよい」102P
「「資本としての貨幣の流通は、これに反して自己目的である。価値の増殖はひとりこの不断に更新される運動のうちにのみ存在するからである。資本の運動には、それゆえに限度がない」のである。価値が、かくして「一箇の自動的主体に転化する。価値はつまり「それが価値であるがゆえに価値を生む」という「オカルト的な質」を受けとることになるのである。」127P
「労働はそしあたり、「人間と自然とのあいだの一過程」、自然と人間とのあいだでの「物質代謝」である。」「すなわち人間は自然を加工して、みずからにとって使用価値をもつものとして形成しなければなないのである。このような意味での「有用労働」は、いってみれば「永遠の自然必然性」にほかならない。」146P
「つまりたとえば紡錘が「過去の労働の生産物であるということはどうでもよいこと」なのだ――その件が問われる場合があるとするなら、それはひとえに用具に欠陥があるときである。つまり、「切れないナイフや切れがちな糸などが刃物屋のAとか蠟引工のEをさまざまと想いおこさせる」にすぎない。」162P
「資本そのものにとっては交換と生産とのあいだに区別はない。交換は事物と事物との相互関係あり、生産もまた事物と事物とのあいだの交互作用にすぎないからだ。」164P
「なぜ、このような不法が罷り通るのか。どのような株式投資であっても「いつかは雷が落ちることをだれも知りながら、一般に「わが亡きあとに洪水は来たれ」こそが一切の資本のあいことばであり、資本制そのものの標語にほかならないからである。」201P・・・資本家に倫理はない、悪無限的利潤の追求
「「労働力の平等な搾取こそが、資本の第一の人権となる」日がやってくる。人権という語の意味が変容したのではない。人権とは市民の権利であって、市民とはもちろんブルジョアジーの別名にほかならなかったからである。」202P
「資本制的生産は自然と人間のあいだの「物質代謝」そのものを「攪乱する」。「永遠的な自然条件」すらも攪乱するのである。資本制の進歩は、農業についていえば、「土地から収奪するための」進歩であるほかない。資本制の運動は、自然の「多産制の不断の源泉を破壊すること」へといたりうる。」239P→註(7)240Pの椎名重明と長島誠一、本入手、エコロジーと農について後日学習
「マルクスの批判的視線は近代科学そのものにまで及んでいた。」239P→註(8)240P佐々木力
「マルクスはもとより、すこしも産業主義者ではない。生産力主義者でもありえない。また、科学的社会主義というかつての標語とうらはらに、マルクスは科学主義者でもないのである。」239-240P・・・マルクスのとらえ返しで重要
「一般的に資本制は、たえずさまざまな外部を内部化して、資本制のうちに繰りいれることで存続してゆくが、資本制の存続は同時にまた、その内部に差異のさまざまをあらたに生産しつづけ、その差異をあらためて内部化することで延命してゆく。資本が反復的に産出する差異は、そして当然のことながら差別を組織することで、それじたい定常化することだろう。」265P・・・継続的本源的蓄積論とつながる差別の生産・再生産構造の問題として重要なおさえ
「浮浪に対する血の立法」270-2P
「本源的蓄積の過程こそが資本制の原罪であるとして、しかし「原罪はつねに現罪である」(平田清明のことば281P註(14))のではないか。つまり本源的蓄積の暴力性は資本制それ自体の暴力性なのではないだろうか。それは一方では差異を抹消する暴力であり、他方では差異を産出しつつ回収する暴力なのではないか。」277P
「資本制はむしろ、外部との境界にあってこそ暴力的な蓄積を継続する。」278P
「ドイツ革命に殉じて散った、女性革命家がつとに見てとっていたとおり、資本は「全地球の生産手段と労働力」「全地帯の自然的財宝」を巻きこんで運動をつづけ、つねに外部を内部へと編入するとともにあらたな外部をつくり出して、内部を差異化させて内なる外部をも産出しつづけるものだからである。資本の本源的蓄積とはそのかぎりで、資本の生成とともにくりかえし回帰し、資本制の運動とともに不断に反復する「原罪」にほかならない。」279P
「アリストテレスは「運動」(キネーシス)とは「可能的ななにかであるものが、あくまでその当の可能態(デュナミス)としての資格にあたって完全に現実化されているありかた(エンテレケイア)」であると語った。つまりその可能性において現実態(エネルゲイア)にある、すなわち現実的なありかたをしている、ということである。」285P
「資本、商品資本としての商品もまた一箇の過程であり、その背後に或る関係であって、たえず生成と運動の様相のもとにある。」286P
「登場したばかりの資本にとって、とりあえず「交通すなわち交換に対する場面的制限」は、資本の活動を制約する一箇の自然的限界である。資本制の発展そのものにより、しかしこの限界は突破される。それはまさに「時間によって空間を絶滅」すること、つまり空間的な差異を時間的差異を利用し、後者の差異を「縮減」しながら抹消してゆくことにほかならない。資本制にとって一般的なこの「傾向」は、「地球全体をみずからの市場として獲得」するにいたるまで継続してゆくことだろう。」340P
「資本は、しかしなぜ一般に時間を「最小限」にまで解消しようとするのだろう。それは、資本にとって、循環の連続性がそうであったように、その「回転」の速度こそが生命線であるからである。資本が回転する時間つまり資本の「回転期間」と、その度数すなわち「回転回数が、つぎに問題となるはずである。」341P
「なんらかの実体的な特性が固定資本を固定資本とするわけではない。生産過程でになう「特殊な機能」のみが、労働手段を固定資本とするのである。ここでも実体ではなく機能を、固定された存在ではなく関係を問題としてゆくマルクスの視覚が、さしあたりは目だたないかたちで貫徹されているのをみとめることができる。」350P・・・機能と関係
「この神秘化の、もしくは顚倒と移調の結果はなんだろうか。総資本と利潤との関係が問われ、前者に対する後者の比が問題にされるところでは、「資本はじぶん自身に対する関係としてあらわれる」。自己関係という、ヘーゲル論理学大系を意識して使用されている用語が、ここで問題の所在を告げている。」462P・・・ヘーゲル「自己関係」
「なぜだろうか。この、じぶん自身に対する関係としての資本こそが、自己増殖する価値としての資本がその神秘化を終了する地点を、あらかじめ指ししめしているからだ。これは利潤率でなく一般的利潤率が支配し、価値ではなく生産価格が支配して、一定量の資本が一定量の資本であるがゆえに、その自己運動において利潤を生むとみなされる地点にほかならない。そこでは「資本と労働」でなく「資本と資本」が相対し、現実のいっさいが「競争」のなかに置かれることになるであろう。」462P
「競争とは、個々の資本にとっては一箇の超越的条件である。個別資本は競争においてその外部にさらされ、当の外部を個々の資本は操作することができないからである。競争は、しかし、やがて、資本制を資本制として可能とする超越論的な審級となるはずである。」462P
「さかのぼって確認しておくなら、そもそも費用カテゴリーそのもの、考察としての基礎として導入された基礎範疇それ自体が、・・・・・・・・かくして生起するのは、資本制そのものの構造の期限とその成立要件の忘却であり、隠蔽である。/価値から価格への転化あるいは移行が問題になるときに、その過程でじっさいに変換していたのは、むしろ「認識様式」そのものである。そこで問題になるものは、「分析者に固有の認識様式から当事者流の認識様式への変換(切りかわり)」なのであって、「この「変換」の理解なしには「転化」概念の理解はない」。宇野弘蔵の学統にぞくしながら物象化論へと接近した論者のひとりが、そう強調しているとおりである。」511-2P・・・für esとfür uns の弁証法 註(10)515P
「形態転換」512P→この著のキーワード「取りかえquidproquo」64Pとつながり、物象化論とリンク
「マルクスの資本論体系が経済学でなく、経済学批判であるしだいとかかわっている。」513P
「マルクスの『資本論』の主題はむしろ、古典派経済学のうちに典型的にあらわれている資本制的な日常意識をたどりつつ、それを内的に批判するところにこそあったのだ。」514P・・・そのひとつとしての労働価値説批判
「マルクスの説くとおり、「資本制的生産の真の制限は、資本そのものなのである。」」528P
「生活手段としての自然の豊かさ」――「労働の生産性」が依存する531-2P
「社会契約というミュトスを前提にするなら、ロックがそう語っていたように、大地と生育するものはかつてひとしく万人のものであったし、ルソーがそう指弾したとおり、土地に囲いをして、「これが俺のものだ」と宣言した者こそが、いっさいの不平等の起源に責めを負うものでもあるだろう。具体的な歴史過程を問題とする経済学批判のロゴスからするなら、資本制的な土地所有の起源は、それじたい資本制の原罪とかかわっている。「本源的蓄積」を経た「土地所有の独占が資本制的生産の歴史的前提」なのである。」533P
「土地所有権には、法的にいえば、土地の利用、土地からの収益、土地そのものの譲渡にかんする権利がふくまれている。支配あるいは全面的権力としての所有は一般に、所有対象の利用権、そこからの収益権、また譲渡権をふくんでいるからだ。この「法的観念そのもの」は、しかし、なにほどのことがらも意味していない。土地所有がひとつの権利であるとしても、その「力の行使はひとえに、かれらの意志にはかかわりのない経済的な諸条件にのみかかっている」からである。」536P
「土地が売買されるとき、譲渡され入手される当のもの(「大地の一片」)については、その価値はなにもない。価値がないものに価格がつけられて、売買の対象となる。なぜそのような擬制が可能となるのか。「なんらかのものを売るためには」――と、ヘーゲル『法哲学』「抽象法」の一節を想起させるしかたでマルクスは書いている――「そのものが独占できるものであり、譲渡できるものであることのほかにはなにも必要とされない」。土地はただ境界を設定され、その一面積がそこにふくまれている生産条件とともに独占の対象となり、法的に所有権が移転しうるだけで、売買の対象になるのである。」538P
「なんらかのものを売るためには、そのものには価格がつけられなければならない。価格が附与されるためには、そのもの(ここでは一定の土地)には、また、他のもの(べつの土地)との差異が帰属していなければならない。/差異が、価格を生む。さしあたりはことなる地代を生み、その地代(差額地代)によって、土地そのものの価格が遡及的に決定されるのである。マルクスの地代論の本論が、いわゆる「差額地代」の問題から開始されるゆえんである。」538-9P
「自然のうちにはそれじたい「自然発生的」な生産性が潜在している。自然が――労働を介して―人間に与えるものは、つねに人間の必要を上まわっている。この間の消息こそが、すべての考察の基礎なのだ。農業労働は――それがいっさいの労働のうちでももっとも「本源的」な生産活動であることはべつとして――、その意味では、資本制的な生産様式が支配的である社会にあってなお、とりわけて注目にあたいする生産の現場であることをやめない。なぜだろうか。/「自然の豊饒さがここではひとつの限界、ひとつの出発点。ひとつの基礎をなしている」からであり、「たほうの労働の社会的生産力の発展が、もうひとつの限界、出発点、基礎をなしている」からである。/それゆえ問われなければならないことは、資本制による自然の利用とその限界であることになるはずである。」543P
「ここで問題の落流とは、つまりは「ひとり土地の特殊な部分とその付属物とを自由に処分しうるひとびとだけが利用できる、独占的な自然力にほかならない。この独占可能性ならびに、それとうらはらな移動可能性が、当面している場面を考えるうえで、不可欠の条件となるはずである。」550P
「アジア的な「主権」とは「国家規模で集中された土地所有」にほかならない。このような政治的かつ経済的制度は、「直接に生産そのものから生まれて、それ自身また規定的に生産に対して反作用する」。同時にこの関係のうえに、「生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の姿態の総体」が築かれて、「その独自な政治的姿態」も構築されるのだ。いわゆる唯物史観の公式が、マルクスの、膨大な歴史的-地理的な展望のうえに築かれているしだいを、ここでも確認することができるだろう。」582P
「究極的対立は、しかし、資本と土地所有のあいだに存在するのではない。「生命の自然法則」と資本制のあいだに存在するのである。」589P
「マルクスのロシア研究は、その最晩年にいたるまで継続されて、変容を遂げていった。その最終成果にほど近いすがたを、私たちはたとえば、ヴェーラ・ザスーリチの手紙に対する返信、ならびにそのための四つの草稿に展開されているかたちで確認することができる。ロシアのミール共同体に対する評価の変化が、土地所有をめぐるマルクスの思考をどのくらい変様させるものとなりえたか。この件については、とりあえず想像のかぎりではない。「残念なことには、かれにとってこの計画はついに実現されなかった」からである。」589P・・・註(5)和田春樹→購入
「利子生み資本の源泉は、時間的な隔たりであった。時間が価値を生み、時間のなかで貨幣が価値を増殖させるとは、とはいえ端的に一箇の非合理にほかならない。右のようなしだいによって、とはいえ、時間そのものが価値を生むという神秘が、あたかも神秘ではないかのように神秘化されるのである。」638P
「がんらい利子とは一箇の不合理であり、悖理であった。その意味では「利子の自然な率」などというものは存在しえない。利子そのものが一箇のパラドクスであり、しかも現に作動し、そのつど妥当している逆理なのである。「じっさい、ひとえに、資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分離することのみが、利潤の一部を利子へと転化させて、およそ利子というカテゴリーを創りだす。そしてただ、このふたつの種類の資本家のあいだの競争だけが、利子率を造りだす」。マルクスがそう書きしるしているとおりである。」639P
「機能資本家(産業資本家と商業資本家)」640P
エンゲルスの編集問題665-6P註(2)・・・・・・・・弁証法の法則化と法則の物象化
「マルクスは『資本論』第一巻ですでに「信用制度は当初は、蓄積の控えめな助手としてこっそりと入ってきて」、「やがては競争戦におけるひとつの、あらたな恐ろしい武器となり、そしてついには諸資本の集中のための巨大な社会的機構へと転化する」と書いていた。」689P
「地球規模の収奪」につけられたルビ「グローバリズム」691P
「利子額を利子率で除する演算が、「資本換算」として承認される。この操作の結果として得られるものが「資本価値」とみなされ、利子生み資本はそのほんらいの形態において陥穽されるのである。そこでは「価値増殖過程」の「痕跡」のいっさいが消去され、かわりに登場するものは「価値増殖する自動運動体としての資本の表象」にほかならない。/ここに資本のオートノミーが陥穽されて、資本の派生的形態にすぎない利子生み資本こそが資本のほんらいの形態であるかのような幻想がむしろ現実化してゆく途が拓かれる。資本はフィクショナルな存在として、みずからの痕跡を抹消する。」695P
「株式会社は、こうしてマルクスにとって、或る意味ではたしかに「あらたな生産形態へのたんなる通過点」としてあらわれていた。」697P・・・ただし、「国独資」や的なことがもつ意味をとらえ返す必要
「株式取引市場における貨幣価値は、結局は「名目的な貨幣資本のしゃぼん玉」であるほかない。」699P・・・「名目的」に「ノミナル」のルビ、「しゃぼん玉」に「バブル」のルビ
「マルクスは、利子生み資本の登場によって、資本はそのものとして商品となる、と説いていた。株式制度と証券市場の展開をつうじて、資本のこの商品化が完結する。資本はもはや、資本としてその外部をもたない。信用制度のなかに株式制度を着床しおえた資本システムにとっては、いまや「入力も出力もない」。いっさいは市場の内部で調達され、すべては市場の内部へと送りかえされる。資本制は、そのかぎりでは自己制作的な過程そのものとなる。すなわち、一箇のオートポイエーシス機構となるのである。/資本の、このオートボイエーティック・メカニズムを十全に分析するためには、とはいえ、資本制のその後の展開を問題とするほうがより適切だろう。すなわちレーニン――その『帝国主義論』は、ドイツでは総数の百分の一にも満たない企業がエネルギーの四分の三を独占し、合衆国では、おなじく百分の一の企業に、一国の総生産のほとんど半分が由来している段階を見すえていた――以後の資本制の変容と、その現在とを問うことが必要となるはずである。」703P
「マルクスはさらに、理論が民衆を掴むのは、それがラディカルになるときであるとして、「ラディカルであるとは、ことがらをその根において把握することである。人間にとっての根とはしかし人間それ自身である」と書きとめていた。」708P
「若きマルクスは自問して、自答していた。「現世の神とはなにか? 貨幣である」(「ユダヤ人問題によせて」)地上の批判の核心は貨幣に或る。より一般的にいうなら、エコノミーの批判にあるのである。エコノミーのうちにこそ宗教がある。そのかぎりで、宗教批判はいまだ終了してはいないのだ。」708P
「商品が価値であるのはまさにフェティシズムであり、地上の批判は天上の批判をふくまなければならない。その意味で、宗教の批判がいっさいの批判の前提なのである。」710P
「ひとえに、三位一体範式そのものをマルクスは「日常生活の宗教」と見なしていたことである。『資本論』が、その末尾で、キリスト教信仰の核心(三位一体論)に言及するのは、だんじて偶然ではない/ただし、資本制生産様式が支配して、資本が生を枠どっている世界、この「魔法にかけられ、顚倒と移調され、逆立ちした」世界における、魔法と顚倒は、いわゆる三位一体範式にのみ見てとられるものではない。それは、私たちが本書の最終章で問題としたように、資本制の超越論的審級を制約する信用制度のうちにこそ、いっそう現在的なしかたで見てとるべきものなのだ。」711P
「その信(信用制度もしくは信用システムを裏うちする信)、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除することでたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読みなおさないこと」は「つねに過失」となるはずなのである。」713P

切り抜きをとりつつ、この著のもつ意味はもっと深いものがあると改めて感じていました。再読を期したいと思っています。

posted by たわし at 04:56| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

代島治彦監督「三里塚のイカロス」

たわしの映像鑑賞メモ024
・代島治彦監督「三里塚のイカロス」2017
イカロスとはギリシャ神話の中に出てくる、幽閉されていたところから翼をつけて飛び出したものの、太陽に近づきすぎて死んだという話。
三里塚闘争に支援で入ったひとたちの思いを中心に空港公団で切り崩しを担当した職員の思いも描いた作品です。
援農から農家に結婚して入った女性、その連れ合いの反対同盟のひと、元農民運動家、強制執行に反対する闘争で穴掘りをやっていて落盤にあい「下半身不随」になったひと、管制塔占拠闘争を闘ったひと、中核派の三里塚の責任者で政治局員までいき党派を離脱したひと、それぞれの人生をかけた取り組みで、そのなかで交差する思いということが、伝わってきます。あの時代の熱気と、反対同盟が切り崩されていった、そしてそういうなかで支援の党派の対立的になってしまった他党派へテロなどの運動の行き詰まりをとらえられます。そこにひとつの運動の総括が今、問われていて、問題点が浮かびあがってきます。

新左翼運動の総括から、国際「共産主義運動」総括にまで及ぶ、総括の核心のようなことを、この映画を見ながら考えていました。まずは、武力闘争、これについては以前総括のようなことを書いているので、そちらも参照にして欲しいのですが、安易な暴力の行使に対しては批判しつつも、右翼の襲撃や、ファシストとの暴力的せめぎ合いでどうするかという問題に関して、非暴力主義ではありえないのですが、蜂起ということが必要になるかどうかは別にして、クラウゼビッツ戦争論の蜂起の一回性ということにおいて、プロパガンダとしての武力行使は認められないのではないかということで、わたしの総括の方向性を出そうとしています。
この映画のなかで、反対同盟の分裂や、そもそも当事者をさておいたセクト主義的な支援の動き、三里塚闘争を階級闘争の集中点とした方針の誤りと、政治利用主義への批判、そこにはレーニン主義的な党建設論の批判と総括、まさにパルタイ、セクト主義的な、組織の物象化ということとして総括が必要になっているのではないかと思います。
「共産主義的運動」とは、その運動がその運動が目ざす未来社会の関係性を、その運動が示している活動としてあることで、そのことに照らし、政治主義的活動の検証が必要になると思うのです。

posted by たわし at 04:51| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カール・マルクス/資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集A』

たわしの読書メモ・・ブログ436
・カール・マルクス/資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集A』大月書店 1981
「経済学批判要綱」の第二分冊目、やっと長年抱えていた本を読み終えました。
マルクスが総体的に経済学を論じようとして書き始めた「要綱」(「グルントリッセ」という名でも通っています)。草稿的になっていて、ここから、『資本論』や『経済学批判』や『剰余価値学説史』が出てきているようです。この第二分冊に収められていた「資本主義生産様式に先行する諸形態」も文庫になっていて、マルクスがアジア的生産様式論を展開していた、そこから、マルクスが単線的発達段階論から抜けだしている、抜け出そうとしていたということで貴重な論文です。反差別論をやっている立場から、マルクスを読み解いていく時に、重要な論文になっています。
この本を読んでいて知ったのは、「要綱序説」と「資本主義生産に先行する諸形態」が有名ですが、もうひとつ、「要綱」の注目すべき論文としてこの二分冊目に収められている「果実をもたらすものとしての資本。利子。利潤。」が挙げられているということです。わたしは、ほぼ独学的に本を読み解いているので、貴重な論点を多々読み落としているのです。
わたしはマルクスの経済学の学習は、基本的な論文を押さえた上で、展開していったとかいう錯覚に陥っていたのですが、マルクスは厖大な資料をベースにして、その対話から、綿密に論を組み立てていったということが、この「要綱」を読んでいると改めて分かってきました。この『マルクス 資本論草稿集』は、Hまで続いています。もう本を買うのを控えて、図書館を利用しようとしていたのですが、きっと読み切れないと思いつつも、古本で入手しました。いつか、また手をつけたいとの思いも込めて。
さて、いつものように抜き書きメモです。
「この第三の形態は、それ以前の諸形態にある資本を前提し、また同時に、資本から特殊的諸資本への、実在的諸資本への移行をなすものである。というのは、いまやこの最後の形態では、資本はその概念上すでに、自立的に存在する二つの資本に分かれるのだからである。二者が与えられれば、次には多者一般が与えられる。この展開は、このようにして進んで行くのである。」85-6P(ドイツ語省略、下線は本文では強調点、以下同様)
「リカードウの言うように、まったくみごとに生産の要求に比例して分配される資本は、個々の資本家たちに属するものであるにもかかわらず、資本だというそれの基本的形態において、その一般的形態の資本になっているのである。」86P
「自己自身にたいして、他人のものにたいする様態で連関する、という二重措定は、この場合すこぶる実在的である。それゆえ一般的なものは一方ではたんに思考上の種差にすぎないが、この種差は同時に、特殊的なものの形態および個別的なものの形態と並ぶ一つの特殊的な実在的形態でもあるである。」86-7P・・対自であることによる対他、反照規定
「労働能力の実在諸条件が、またこの物象的諸条件が労働能力の外部に自立的に存在することが――、いまや、労働能力自身の生産物として、労働能力自身によって措定されたものとして――労働能力自身が行なう客体化としても、また、労働能力自身から独立して逆に労働能力自身の行為をとおし労働能力を支配する威力として、労働能力を客体化することとしても――現われるのである。」91P
「ここに、奇妙な成り行きによって所有権の弁証法的転回が生じることが認められるのであって、所有権が、資本の側では、他人の生産物の権利に、あるいは他人の労働にたいする所有権、他人の労働を等価なしに取得する権利に転回し、労働能力の側では、自己自身の労働あるいは自己自身の生産物にたいして、他人の所有にたいする様態で関わるべき義務に転回するのである。」97P
「本源的には所有権は、自己の労働にもとづくものとして現われていた。いまや所有は、他人の労働にたいする権利として、労働が自己自身の生産物を取得することの不可能として、現われる。いまや、所有と労働との、そのうえさらに富と労働との完全な分離が、両者の同一性から出発した法則からの帰結として現われるのである。」97P・・・所有権からの転回、裏表
「資本の再生産と蓄積」のなかの論考・・・資本主義的価値増殖ではない労働は、「使用価値としての労働」→資本主義においても、ひととひととの関係の労働は「使用価値としての労働」的性格を有しうる?
「古典古代の歴史は都市の歴史であるが、しかしそれは、土地所有と農業とを基礎とする諸都市の歴史である。アジアの歴史は、都市と農村との一種の無差別的な一体性である。」129P
「(ゲルマン人の場合には、)共同体は連合体としてではなく一体化として現われ、統一体としてではなく、土地所有者たちが自立的諸主体として現われる。」131P
「これらの形態すべてにおいて(古代、アジア、ゲルマン)、土地所有と農業とが経済的秩序の土台をなしており、それゆえ使用価値の生産が、すなわち自らの共同体に一定の諸関係をもち、それらの関係のなかで共同体の土台をなしている個人の再生産が経済的目的となるが、・・・」133P
「(古代、アジア、ゲルマンにおいては)労働の主要な客体的条件は、それ自体労働の生産物として現われるのではなくて、自然として目前に見いだされるのである。一方には生きた個人、他方には彼の再生産の客体的条件としての大地。」134P
「共同体が旧来の様式のままで存続するためには、その成員が、前提された客体的条件のもとで再生産されることが必要である。生産そのものと人口の増進(これもまた生産のうちにはいる)とは、必然的に、次第にこれらの条件を止揚するのであり、それらを再生産したりするのではなく、破壊するのであって、それとともにまた共同体組織が、その基盤となっていた所有諸関係とともに滅亡していくのである。最もしぶとく、最も長くもちこたえるのは、必然的にアジア的形態である。このことはアジア的形態の前提に、すなわち、個々人が共同体に自立していかないこと、自活的生産圏域、農業と手工業との一体性、等々[が存在すること]という、その前提に根ざしているのである。」135P
「古代人のもとでは、・・・・富は生産の目的としては現われないのである。」137P
「ブルジョア的経済学では――またそれが対応する生産の時代には――、人間の内奥のこうした完全な表出は完全な空疎化として現われ、こうした普遍的対象化は総体的疎外として現われ、そして既定の一面的目的のいっさいを破棄することが、まったく外的な目的のために自己目的を犠牲に供することとして現われている。だからこそ、一方では、幼稚な古代社会がより高いものとして現われるのである。・・・・・他方、近代的なものは、充たされないままになっているか、あるいは、それが自足したものとして現れるときには、低俗である。」138P・・・必ずしも発達史観ではないマルクス
「歴史的過程の結果であるのは、人間定在のこの非有機的諸条件とこの活動する定在との分離」140P
「個人の所産としての言語というのは、ばかげている。だが、一個人の所産としての所有というのも、それと同じ程度にばかげているのである。」141P(「ばか」という語には「ママ」というルビをつける)・・・言語は通時的共時的所有し得ないファンド、そのファンドがなければそもそも私的所有なども起きない。そもそも、知的所有権などが通時的共時的厖大な蓄積の上にうるとしたら、そもそも個人がその上に積み上げ得ることは、無限大にゼロに近づく、インフラなどもしかりー
「交換は、群棲的存在[群棲体]を不必要にし、それを解体する。この解体が生じるのは、人間はもはや自己にたいして、ただ個別化された者として連関するだけだが、しかし、彼が自己を一般的かつ共同的なものにすることが、自己を個別化された者として措定するための手段となっている、というように事態が変わったときである。」150P
「資本とは、このように、明らかに一つの関係であり、しかも一つの生産関係でしかありえないのである。」176P
道路建設は、以前は賦役、資本主義においては税(資本家、労働者)――運輸は資本の必要経費に同じ、ただ鉄道網などは税でも(運輸が、公共事業が資本の論理で動き得るまでの資本主義的生産様式の発達の中で、税などでも201-2P後載)・・・資本の循環の中でとらえる191-6P
「富とは、素材的に考察するならば、欲求の多様性にほかならないのである。」197P
「要求の体系と労働の体系」198P
「資本それ自体が――必要な規模でそれが定在するものとして――はじめて道路を生産するのは、道路の生産が生産者にとっての、特に生産的資本そのものにとっての必要事となり、資本家の利潤獲得のための一条件となったときである。」202P
「公共土木事業が、国家から切り離されて資本そのものによって行われる仕事に移行する・・・・・・・・」203P・・・鉄道会社のプロジェクト・コングロマリッド
「資本家はしばしば、保護関税、独占、国家的強制によって、剰余労働時間への支払いを強奪する。」205P・・・資本の国家、もろもろの利用
「生産の一般的、共同的諸条件はすべて――資本としての資本が自らの条件のもとでそれらをつくりだすことがまだ行われないあいだは――、国の収入――国庫――の一部で賄われ、また労働者は、資本の生産力を増大されるにもかかわらず、生産的労働者としては現われないのである。」205P・・・資本の国家の利用
「競争一般は、ブルジョア経済のこの不可欠の牽引者は、ブルジョア経済の諸法則をうち立てるものではなくて、この諸法則の執行者なのである。それゆえ、無制限の競争は、経済的諸法則という真実にとっての前提ではなくて結果であり、この諸法則の必然性が実現されるさいの現象形態である。」237P
マルサス――リカードウ312-320P
リカードウは労働という剰余価値を生む使用価値があり、賃金は労働力に払われるという搾取の関係を読み落とした?
ここで、彼(マルサス)の頭のなかにあるのは、為し加えられた労働を越える利潤であって、この利潤は固定資本等々から結果として出てくるものだと言うのである。」317P
マルサス人口論331-3P
「資本によってつくりだされた価値(・・・)の総額は、労働時間に正比例し、流通時間に反比例するのである。」369P
「流通時間を与えられたものと前提すれば、回転が必要とする総時間は生産時間に依存する。生産時間を前提すれば、回転の継続時間は流通時間に依存する。」369P
「流通費用は、所有の共同性にもとづくものではなくて、私的所有にもとづく自然生的な分業の費用にすぎない。」378P
「自由競争において自由なものとして措定されているのは諸個人ではないのであって、資本が自由なものとして措定されているのである。」408P
「この種の個人的自由は同時に、いっさいの個人的自由の最も完全な止揚であり、物象的諸力という形態、それどころか圧倒的力をもつ諸物象――たがいに連関しあう諸個人自身から独立した諸物象――という形態をとる社会的条件のもとへの個性の完全な屈服である。」410P
「競争には、価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは、価値が、それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく、それが生産されうる労働時間、すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている、という法則である。」419P・・・対象化された労働時間ではなく、現在に必要な労働時間
「流通時間は、このような生産時間と区別して、資本が資本として行う独自な運動の時間と見なすことができる、資本の時間なのである。」422P
「直接的形態における貨幣の止揚は、資本流通の契機となった貨幣流通の要求として現われる。なぜなら、その直接的前提された形態においては、貨幣は、資本の流通の制限だからである。」440-1P
「経済学者たちの粗野な唯物論は、人間の社会的生産諸関係と、諸物象が受け取る、これらの関係のもとに包摂されたものとしての諸規定を、諸物の自然的諸属性とみなすところにあるが、この唯物論は、同じほど粗野な観念論、いやそれどころか物神崇拝なのであって、それは社会的諸関係を諸物に内在的な諸規定として諸物に帰せしめ、こうしてそれらを神秘化するのである。」466P
「労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本の生産とみなすことができる。そして人間自身がこの固定資本なのである。」499P・・・「固定資本」ということが、二重の意味で使われているのでは? ここでは、蓄積された富。
「労働の果実の先取りは、・・・それはその根源を、固定資本の、特有の価値実現様式、回転様式、再生産様式のうちにもっているのである。」531P
「資本そのものによって資本の歴史的発展がある一定の点にまで達すると、資本の自己増殖を措定するのではなく、それを止揚する、ということである。生産力の発展が、ある一定の点を越えると、資本にとっての制限となり、したがって、資本関係が労働の生産力の発展にとっての制限となるのである。」558P
資本主義の成立期における強制労働591P
「価値という概念がまったく最近代の経済学に属するのは、この概念が、資本そのものと資本に立脚する生産との最も抽象的表現なのだからである。価値概念のなかには資本の秘密が漏らされている。」602P
「労働の客体的諸条件が生きた労働にたいして、まさにその規模そのものによって表わされるような、ますます巨大になっていく自立性をとり、そしてますます大きくなっていく諸部分からなる社会的富が、疎遠かつ圧倒的な力として労働に立ち向かう、というふうに現われるのである。」706P
「すなわち、社会的労働そのものが自己の諸契機の一つとして自己に対置した厖大な対象[化]された力が、労働者にではなくて人格化された生産諸条件すなわち資本に属している、ということである。」706P
「しかし明らかにこの転倒過程は、歴史的な必然性にすぎず、ある一定の歴史的出発点あるいは土台から生じる生産諸力の発展にとっての必然性にすぎないのであって、生産の絶対的必然性ではけっしてなく、むしろ瞬過的な必然性である。また、この過程の結果であり目的(内的)であるのは、過程のこの土台そのものをも過程のこの形態を止揚することである。」706-7P
「労働者の無所有、および、対象化された労働による生きた労働の所有、すなわち資本による他人の労働の取得――両者は同一の関係を対立する両極に立って表現しているにすぎない――は、ブルジョア的生産様式の基本条件であって、ブルジョア的生産様式にとってどうでもよい偶然事ではけっしてない。」707-8P
物々交換・商品・貨幣の歴史709-729P
教会が貨幣の布教者727P
商業資本とそこからの資本主義への展開760-771P
「交換価値は、使用価値が価値の経済的状態ではまったくなく、人間一般のための生産物がある、等々、ということにすぎないのにたいして、価値の社会的形態を表現しているのである。」793P
「交換は、一つの共同体組織の内部の諸個人のあいだで始まるのではなく、共同体組織が果てるところで、共同体組織の境界で、さまざまの共同体組織が接触する地点で始まる。共同体所有は、最近、特殊スラブ的な珍品として再発見された。しかし、実際にはインドが、そのような経済的共同体組織の、多かれ少なかれ解体しているもののまだ完全に見分けられる、きわめて多様な諸形態の見本帳をわれわれに提供しているのである。そしてかなり徹底的な歴史研究によって、そのような経済的共同体組織があらゆる文化民族の出発点あったことが再発見されている。私的交換にもとづく生産システムは、なによりもまず、この自然生的な共産主義の歴史的解体である。しかしながら他方ではまた、交換価値生産をその全体的な深みと広がりにおいて支配している近代世界と、すでに解体した共同所有が基礎となっているもろもろの社会構成体とのあいだには、幾多の経済的システムが横たわっているのである。」811P・・・「資本主義に先行する諸形態」とのリンクと、分業の始まり、マルクスの古代社会研究

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カール・マルクス『経済学批判』「序言」

たわしの読書メモ・・ブログ435
・カール・マルクス『経済学批判』「序言」岩波書店(岩波文庫)1956
『経済学批判』は、マルクス学習の初期の頃に読んでいます。『資本論』の学習会を岩波版第一冊目を使ってやったのですが、それ以前に読んでいました。今回、ひとつ前の読書メモの「『経済学批判要綱』への序説」を読んでいて、確か、岩波版の『経済学批判』の中に納められていたと確認のために引っ張り出していて、もうひとつ別の「序言」を思い出しました。唯物史観の定式のようなことで、必読の文として記憶しています。再読しつつ、定式のところの抜き書きを残します。
ベーシックな定式
 人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。 13P
拡張、生産様式(関係)論
 社会の物質的生産諸力は、その発展がある一定の段階にたっすると、いままでそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することができないのであって、むしろ、この意識を、物質的生産の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在条件が古い社会の体内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩していく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。 13-15P
 この定式の押さえ直し
 これらの定式はマルクス批判、「マルクス葬送」の中で、様々に批判されてきました。その有効性に疑いの念をもたれています。とりわけ、物象化ということをとらえ返す中で、物象化なしにその社会は存在し得ないということも押さえておく必要があります。そういう意味で意識論からのとらえ返しも進んでいます。そのことのないところではタダモノ論に陥るとも言い得ます。しかし、この定式の有効性は基本的に生き続け、今こそマルクスの提起した遺産としてしっかりとつかんでおきたいと思います。
わたしは、この定式を「ひとは総体的相対的に、倫理で動くのではない、利害を巡って動く」というように押さえ直しています。

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カール・マルクス/資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集@』

たわしの読書メモ・・ブログ434
・カール・マルクス/資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集@』大月書店 1981
もう何年も前から、マルクスでわたしが読み落としていて気になっていた論攷、「経済学批判要綱」がありました。別の版の「経済学批判要綱」を入手していたのですが、ネグリ/ハートの『マルクスを超えるマルクス』で、新しい編集版が出ているのを知って、入手していました。その新しい編集版は、世界的な規模で、マルクス・エンゲルス全集を編集し直そうという動きの中ででて来ました。読書メモのブログでもとりあげた佐々木隆治さんもそのプロジェクトに入っているようです。そもそも、大月から以前出ていた、『マルクス・エンゲルス全集』は、旧MEGAと言われるようになり、新しく進む編集版を新MEGAと呼ぶようなっていたのですが、そもそも旧MEGAは全集ではなく、著作集ということでMEWと言われるようになり、新MEGAをMEGAと呼んで作業が進んでいます。で、新しい編集の中で、「資本論草稿集」が編集され、翻訳にこぎついています。最近、廣松シェーレとも交流のある、南京大学の張一兵さんが、立て続けに、『マルクスに帰れ』と『レーニンに帰れ』を出しました。で、『マルクスに帰れ』の中でも、この「経済学批判要綱」がとりあげられているよう、それで二重三重につながって、いよいよと「経済学批判要綱」にとりかかりました。
マルクスその「資本論草稿集」は書かれた年代順に並べられ、第1巻は「1957年-1958年の経済学草稿」となっていて、それには、「バスティアとケアリ」と「「経済学批判要綱」への序説」と「経済学批判要綱 第一分冊」が納められています。第2巻には「経済学批判要綱 第二分冊」となっています。
 2巻を読んだ時点で、「経済学批判要綱」全体のコメントを書くことにしますが、ちょっとだけ感想を書いておきます。マルクスは青年ヘーゲル派として哲学的なところから出発して、経済学の世界に入り込んできたのです。そこで、『資本論』もまさに経済学的に展開しているのですが、この「経済学批判要綱」にはまだ哲学的な匂いが強いようです。このあたり、廣松さんのマルクス解釈とりわけ物象化論をマルクスからの拡大解釈というより、踏み外し的にとらえるひとがいるのですが、この「経済学批判要綱」を読んでいると、結構、マルクスそのものからのつながりをとらえられます。また、マルクスが未完のままにした『資本論』編集をエンゲルスがひきついだのですが、それがマルクスの意向にどれだけ沿っているのかが、この草稿集から読み取っていけるのではとも思います。そのあたりのこともやってみたいのですが、とても、時間がありそうにないので、この課題だけを出しておきました。
さて、第1巻の内容について少し紹介。「バスティアとケアリ」はマルクスが経済学を勉強する過程で読み、別な論攷を読みそれに関するコメントをする中で、出版化する必要はないとした論攷のようです。そんなこともあって、読み流してしまいました。「「経済学批判要綱」への序説」は、岩波文庫版の『経済学批判』の中に納められていて、既読です。よくまとめられた入門的な文です。実は、そのあたりを再度あたろうとしていたときに、『経済学批判』の「序言」も再読したのですが、これは唯物史観の定式として広まっている文があるので、それについては、また別にメモを残します。
さて、とりあえず、いつものように抜き書きメモを書いておきます。
 「関係の総体が、関係を構成している諸契機とは異なる第三者として立てられるのではなく、諸契機のうちの一つが、それ自身一つの契機にすぎないという否定的側面をもちながらも、総体を代表し包括する契機として定立される――この包括的契機の弁証法ともいうべき方法はヘーゲルの『論理学』の「本質論」においてくわしく展開されているが、マルクスは、本草稿の全篇にわたって、この方法を意識的に適用している。なお「一面的」の原語はeinseitigであるが、この用語にも、マルクスは特別の意味合いを含ませているから、注意を要する。というのは「一面」の「面」とはSeiteのことであり、これは一つの関係を構成する項(ラテン語でterminus)を意味するからである。したがって、「一面的な形態」における生産とは、まさしく、「関係の一つの項をなすにすぎぬという形態にある生産」という意味である。」訳注48-49P・・・関係性の分節としての項・廣松
 上向法49P
「交換を共同体のただなかに本源的な構成要素として措定することは、およそまちがいなのである。むしろ交換は、最初は、一個同一の共同体内部の成員にたいしてよりは、異なった共同体相互の関連のなかで現れてくるのである。」交換の始まり54P
 貨幣の存在が常態化することによる変化4つ121-8P・・・弁証法
 「交換と分業とは相互に条件づけあっている」138P
 流通 個人が独立したものとして現れる最初の形態205-6P
「社会的関係が諸個人から独立したあるものとして現れるだけでなく、社会的運動それ自体の全体までもが諸個人から独立したあるものとして現れるところの最初の形態でもある。」206P
 ボアギュベール 貨幣の物神性209P
「われわれにとってのもの(für uns)」 238P
 「貨幣は流通手段としては、僕の姿をもって現れたものだが、この僕の姿から、突然に、貨幣は、諸商品の世界の支配者および神になる」242P・・・貨幣の物神的性格
 「貨幣の占有が、富(社会的富)に対する関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。」243P・・・貨幣-富 賢者の石-科学 物象-物神化
「貨幣が生産の発達した関係として存在しうる、賃労働が存在しているところだけであるということ。」245P・・・貨幣の発達した形態には賃労働の存在
   余剰の交換−生産の内部的編成―国家による統括―国際的関係−世界市場252-3P
     ↑      ↑        ↑     ↑     ↑
(物々交換)1篇 (商品生産)2篇   3篇     4篇   5篇
 「私は貨幣を他者にとっての単なる有として引き渡すことによってだけ、私は貨幣の私にとっての有を現実的に措定することができる」264P
 マルクスの貨幣に関する後の課題6つ269P
 「自己の労働の生産物の私的所有は、労働と所有の分離と同一であること、その結果、労働は他人の所有をつくりだすことに等しく、所有は他人の労働を支配することに等しくなることが、わかるであろう。」271P・・・労働と所有の分離(私的所有)
 「一つの社会的関係、つまり諸個人相互間の一つの規定された関係が、ここではある金属として、ある石として、すなわち彼らの外部にある純粋に物体的な物象として現れ、しかも、この物象は自然のうちにそのままの姿で見いだされ、またその自然的存在からくべつされるような形態規定はもはやなに一つそこに残されていない、ということである。」273P・・・貨幣の物象化
「貨幣であるという規定が、ただ社会的過程の結果に過ぎないということは全然見えていない」274P
資本-(高度な)貨幣――人間-猿290P
「資本は物象としてとらえられ、関係としてとらえられていない」300P
 「資本とは、利潤を生産する目的をもっている交換価値のことだとか、少なくとも利潤を生産する意図をもって用いられる交換価値のことだといわれるばあいには、資本は、資本を説明するために前提されている。」301P
 貨幣と貨幣の交換・・差異なき区別304P
 「関係の項として措定されて、使用価値そのものに対立する交換価値は・・・」319P
 「有機的体制は、歴史的に総体性になるのである。この総体性になるということが、有機的体制の過程の、それの発展の一契機をなすのである。」332P
 労働者を生活のために働かせるシステム338-349P
資本と労働の対立347P
労働者の没価値性と価値喪失が資本の前提347P
「この資本に対しては純然たる使用価値として相対しなければならず、・・・」347P
労働者にとって交換の目的は生活手段であって富ではない349P
 生産的労働−反対物 資本を生産する限りにおいて生産性368P
(資本主義社会においては)
             ↕                 ↕
           有害な場合もある・・・・・・・・真の生産性とは?
 「ここでは(総体化されていない・・・斜体はたわし、以下同じ)労働者は労働者として、したがって前提された多年生的主体として資本に対立しているのであって、・・・。」395P
富が媒介者として、つまり交換価値と使用価値という両極それ自体の媒介として(中間項として)、交換価値と使用価値という両極それ自体の媒介として、措定される交換価値においてである、ということを述べておくことは重要である。この中間項は、それが対立物を総括するものであるがゆえに、つねに、完成された経済関係として現われ、また最終的にはつねに、両極それ自体にくらべて、一方的により高次の潜勢力として現われる。なぜなら、運動ないし関係は、最初は、両極のあいだを媒介するものとして現われるのだが、やがて対立物が弁証法的に必然的に進展して、その結果、この関係が自分自身の媒介として、すなわち両極をもっぱら自分の契機とするような主体として現われるようになり、しかも主体は両極の自立的な前提を止揚し、このようにおのれの諸契機を止揚することによって、自分自身を唯一の自立的なものとして措定するようになるからである。」408P
    中間項(Mittelglied)409P
 「労働としての労働が労働である」455P

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2018年02月13日

レーニン『ロシアにおける資本主義の発展 (上)(中)(下)』

たわしの読書メモ・・ブログ433
・レーニン『ロシアにおける資本主義の発展 (上)(中)(下)』岩波書店(岩波文庫) 1978-81
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は13論文目です。レーニンが20歳代の無名の頃に厖大な資料収集をしながら書いた大著。時代を追っていたので、順番からいうと最初に読むことだったのですが、初期作品ということで、レーニン選集でも補巻に回されています。レーニンはナロードニキの農民を主体にした革命を主張する流れに対する批判とメンシェビキを日和見主義とする対話―批判の中で、ロシア革命の主導権をボルシェビキという形でとっていきました。この本の主眼はレーニンのナロードニキのミール的な農業回帰への批判です。そして、メンシェビキに対しては農業の分析が欠落していると批判していました。レーニンはここから、プロレタリアが主導する農民大衆―貧農との共闘的独裁を突き出しました。ロシアにおける農業の分解過程を押さえ、資本主義の後進性を押さえつつ、なおかつ、資本主義がそれなりに発展していることを押さえ、ブルジョア民主主義革命を経ての社会主義革命を目指していました。
レーニンは徹底的に現実をとらえ、現実に合わせて機を逃さず運動を進めるまさに革命家でした。そこで、1917年の2月革命の中で一挙に4月テーゼで「社会主義革命」を突き出します。そこにはこの著の中での、資本主義のそれなりの発展という押さえがあったのだともとらえられます。レーニンはこの著を書くために、農民層の分解を押さえ、資本主義の発展情況の分析をなしていきました。その蓄積があったからこそ、自信をもった論争をなしえたのだとも押さえ得ます。
さて、いくつもの論点があります。後期マルクスがロシアの農業共同体ミールの研究をしていたことかあり、その影響もあって、たぶんナロードニキは、農業革命というテーゼを出したのだと思いますが、レーニンはむしろ土地に縛られた農民の雇役などから、ミール自体が機能していないと批判しています。そして、土地に縛られることの中で資本主義の発展の阻害になっているというような押さえ方もしています。
レーニンも二段階革命論的なイメージをもっていたのですが、機を見て強引にすすめるがゆえに、レーニン自体は他の革命と連動すること無しには、プロ独から社会主義革命へ至らないと押さえていたのですが、結局スターリンによって、党派闘争党内闘争と党の独裁という型で粛正を行い、弾圧―監視社会をつくり、共産主義=全体主義というような負のイメージもつくられました。
レーニンもブルジョア民主主義を幻想として、ブルジョア独裁として押さえ、その批判の中から、運動論―組織論を展開し、蜂起=暴力革命も必要とするプロ独を突き出したのです。それはロシアの資本主義としての後進性という特質によると押さえるのか、それともそれも含めて、きちんとした民主主義的なところでの社会変革、共産主義社会をめざすのかということを押さえる必要があります。わたしはそれを現在社会=資本主義社会が暴力でなりたっているということを押さえた、決して民主主義的な社会ではないと押さえたところで、(根底的)反暴力主義というところの反差別論というところから、社会を変える道筋を探って行きたいと思うのです。まずはいくつかの、幻想を徹底的にあばくことから、始めるしかないのですが。
 さて、抜き書き。余り今回はメモをとっていません。そもそもレーニン自身が、資料集めの段階から、ちゃんとした資料がないと書きつつ、概略を押さえる作業として、この著を書いていることもあるからです。だから、概略と、今後のレーニンの読みとして、いくつかの気になっているところのメモを残すことにします。
 (上)
農民層の分解146P
(中)
第4章(九)まとめ ナロードニキの農業への擁護への批判、資本主義化への進歩性・・・発達段階論・進歩史観への批判と農本主義的な流れ、地産地消的なことを押さえてどう押さえ直すか。ダーウィン進化論への批判と位相が似ている
「これらの小営業者にたいして、競争と資本主義とか有益で歴史的な働きをするのであり、・・・。」195P・・・一面性、レーニンも押さえているけれど、ナロードニキ批判が資本主義賛美になっていく恐れ、発達段階論との対話
家内制手工業とマニュファクチュアの連続性282P
「クスターリ工業」は科学的に意味がない296P、不可分性297P・・・資本主義と土地とクスターリ工業、農と工の一体化
クスタールニチエストヴォ(クスターリ主義)298P
「資本主義化」298P・・・「資本主義の進歩性」の論理はスターリン主義批判
(下)
マニュファクチュアから工場への移行の進歩的役割10P
遅れてきたけれど、資本主義として自立80P
婦人労働と少年・少女労働の禁止批判140P・・・少年・少女労働は?
7つの変化211-3P
ナロードニキ批判213-4P

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レーニン「ヴェ・イ・レーニンの最後の手紙と論文」

たわしの読書メモ・・ブログ432
・レーニン「ヴェ・イ・レーニンの最後の手紙と論文」(『レーニン10巻選集第10巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は12論文目です。
 これは、死期を感じていたレーニンが、口述筆記で書き取らせた文です。いろいろな心配をしていたのですが、自分の亡き後にリーダーシップをとるであろうひとの人物評を書いています。特に書記局長として厖大な権力を手中にしつつあったスターリンの「粗暴すぎる」280P性格を心配し、書記局長を降ろすまで提言をしていたことは有名な話です。レーニンの主張はボリシェヴィキの中でほとんど通っていったのですが、これは実現しませんでした。「病」の進行がこれを許さなかったのでしょうか? これが実現していたら、歴史は変わったのでしょうか? これは具体的には、党内闘争の激化を予想して中央委員会の委員の増員などを提起していたことにもあらわれていました。
 論文的には「民族問題または「自治化」の問題によせて」をだしています。
これは、レーニンの民族自決権や自治ということを踏み外すような動きが出ていたことに対することへの批判、「異民族出身者でロシア人化したものこそ、きっすいのロシア人かたぎの点でつねに度をすごすものである。」289P、これはグルジア問題(このグルジア問題が、民族自決権や自治問題での試金石になっていたのではないか?)で対応を誤ったスターリン批判の文でないかと思われます。スターリンは少数民族出身者として、レーニンの民族自決権や自治を進めたと誤解されているようですが、レーニン生前にもう既に逸脱していたという話です。
 後は、「ゴスプランに立法機能をあたえることについて」。ゴスプランという諮問機関のようなことを立法機能をもたせようとか書いています。レーニンは、ブルジョア学者の論攷などにも、とりいれられるものは取り入れると注目していたのですが、テーラー・システムという表題のついた本をとりあげているところを押さえると、社会主義への過渡として国家独占資本主義の国家が労働者を搾取していく構図に陥ることをどうとらえていたのでしょうか? もちろん過渡として、押さえていたのでしょうが、結局社会主義にすすみえなかったところで、プロレタリアートの独裁がソビエトの独裁から党の独裁に変質し、抑圧的機能としての国家になったのだと押さえ得ます。
 「協同組合について」は、協同組合のもつ意味とかも考えていたようで、ブルジョアジーの支配が残るところで、レーニンも書いているように、ブルジョアジーの支配に抗するということがなければ、協同組合の意味はないのですが、今日、地産地消の民衆の側からのコミューンにつながっていく、共同性作りという意味で、このあたりも押さえていく必要を感じています。
 「量よりも質へ」は、性急に進めてはならないという原則は押さえつつ、むだをなくすとか、合理性を求め、まさに生産性向上運動に陥っていく構図がとらえられます。社会主義への転化に失敗したところで、どこかでボタンを掛け違えたということになっていて、そのことの総括が必要なのだと思うのです。
 さて、抜き書き。
「オルジョニキッゼ(カフカーズの「指導者」・・・引用者)には、行動を自制する義務があった。そころが、普通の市民には、まして、「政治」犯の被告には、だれにもそういう自制した行動をとる義務はないのである。」・・・レーニンの指導者としてのモラル的考え、無私性
 「私はすでに、民族問題を論じたいろいろな著作のなかで、民族主義一般の問題を抽象的に提起してもなんの役にも立たない、と書いてきた。抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義とを区別する必要がある。/この後のほうの民族主義にたいして、われわれ大民族に属する者は、歴史の実践のうちで、ほとんどつねに数かぎりない暴行の罪をおかしている、それどころか――自分では気づかずに、数かぎりない暴行や侮辱をくわえているものである。」290P
 「生活のうちに 実際におこなわれている不平等にたいする抑圧民族、大民族側のつぐないとなるような不平等を、彼らがしのぶことでなければならない。このことを理解しなかった者は、民族問題にたいする真にプロレタリア的な態度を理解しなかった者、そのじつ小ブルジョアジ的見地にとどまっている者であって、したがって、たえずブルジョア的見地に転落せざるをえないのである。」291P
 「さらにインタナショナル全体が、近い将来われわれにつづいて歴史の全面に登場しようとしているアジア幾億の諸民族がこうむるであろう損害にくらべれば、はかりしれないほど小さく、無限に小さい。もし、東洋がこのように登場してくる前夜に、また東洋のめざめが始まっているそのときに、われわれが自国内の異民族にたいして少しでも粗暴で不公正にふるまったため、東洋でのわれわれの権威をそこなうようなことがあれば、それは許しがたい日和見主義であろう。」293P
「協同組合がまったくなみなみならぬ重要な意義をもつようになっているが、・・」294P
 「わが国で国家権力が労働者階級の手ににぎられた以上、すべての生産手段がこの国家権力のものになった以上、われわれに残された任務は、まさしく、住民を協同組合に組織することだけである。」294P
 「これらは、われわれが以前に小商人的なものとして鼻であしらって当然な協同組合から、もっぱら協同組合だけから、完全な社会主義社会を建設するのに必要なすべてのものではないだろうか? これはまだ社会主義の建設ではない。しかし、これこそ、この建設のために必要で十分なすべてのものである。」295P
 「ロバート・オーエン以来の古い協同組合的活動家の計画の空想性は、どういう点にあるのか? それは、彼らが階級闘争、労働者階級による政治権力の獲得、搾取階級の支配の打倒という問題というような基本的な問題を考慮しないで、社会主義による現代社会の平和的改造を夢みていた点にある。だからこそ、われわれがこの「協同組合的」社会主義をまったくの空想と考えるのは、住民を協同組合に組織するだけで階級敵を階級協力者に変え、階級戦争を階級平和(いわゆる国内平和)に変えることができるという夢に、ロマンチックなもの、それどころか卑俗なものさえ見いだすのは、正当なのである。」299P
 「文化革命」300P
 「われわれは手はじめには、ほんとうのブルジョア文化で十分であろう。手はじめには、われわれは、前ブルジョア的文化のとくに札つきの型、すなわち官僚文化、農奴制文化、等々なしにやってゆくようにすべきであろう。文化の問題では、性急とがむしゃらは、なによりも有害である。」301P
「量よりも質を、ということを、準則としなければならない。」303P
 「真に偉大な革命は、古いものと古いものを仕上げようとする志向と、新しい――ぜひとも、古い者一片だに残さないほどの新しい――ものを求めるきわめて抽象的な志向とのあいだの矛盾から生まれてくるものだからである。/この革命が急激であればあるほど、幾多のこのような矛盾が維持される基幹は、それだけ長くつづくであろう。」311P・・・「長くつづく」だけでなく、その矛盾から破綻に導くことも
 「むだというむだをわが国の社会関係から跡かたもなく追放するような国家を建設することに、つとめなければならない。」314P・・・まさに合理化――抑圧につながる思想でも
 「われわれは、小農的な国家の水準でもちこたえるのではなく、機械制大工業への前進をめざしてたえず高まってゆく水準で、もちこたえることができるであろう。」314P・・・資本主義の発展過程で起こした革命、「もちこたえる」・・・革命の連動の必要を考えていた?

 ここで、第一次集中学習は、『選集』から離れて、岩波の『ロシアにおける資本主義の発展』に移ります。その前に書いておくこと、各巻には「レーニン10巻選集のしおり」がついていて、その巻の全体像と、各論文の案内が書かれています。これは古本で入手したので、5巻と7巻の「しおり」が落ちていました。その「しおり」役に立ったのですが、『名著』で、レーニン伝のようなことが書かれているのを見ると、「トロッキーなしにはロシア革命はなしえなかった」というようなレーニンの発言の紹介があったのですが、この選集の「しおり」や編者註では、むしろトロッキーの批判一色です。もう少し別のところから、そのあたりは押さえておかねばならないと、思っています。
 まだ主要論文の内、哲学的なところを読み落としています。レーニンの哲学的なところへの批判はいろんな形で出ているので、そことの対話も含めて、後に回します。読み落としているマルクスの『経済学批判要綱』を急ぎ読むこと、棚上げにしている障害学関係の本の読破などなどがあります。レーニンの第二次学習は、ちょっと間が空くかもしれません。
posted by たわし at 17:48| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「共産主義内の「左翼主義」小児病」

たわしの読書メモ・・ブログ431
・レーニン「共産主義内の「左翼主義」小児病」(『レーニン10巻選集第9巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は11論文目です。
 これは、一応プロレタリア独裁が成立して以降、反革命干渉戦争も収束しつつあり、各国共産主義運動への働きかけとして、とりわけ、議会主義批判として議会からの召喚なり、ボイコットを訴える「左の日和見主義者」への批判の文です。レーニンとしては、世界革命へ至らないと、ロシアの社会主義革命も進まないという思いがあった上での、ヨーロッパ共産主義運動への働きかけです。レーニンの現実主義的政治の最も端的な論攷ではないかと押さえています。レーニンの提起はきちんと受け止めた上で、それが実際にどうなっていったのかをきちんと検証していく必要を感じています。
 もうひとつ、タイトルに、「障害者運動に関わってきたわたしの立場から、障害や病気ということへの差別的なことを感じてしまいました。本文中にも、今日だと問題になるような「障害差別語」が頻繁に出てきます。勿論、障害問題とか、「病」ということへの問題意識は、最も歴史的に後で出てきたこと、「歴史的限界性」という一言で、片付けられそうです。ですが、そもそも、有能なインテリゲンチャ職業革命家による、効率的な運動のもつ意味ということを、わたしとしては、21世紀の運動としてはきちんとおさえていく必要を考えざるを得ないのです。それは、ブルジョア的意識への闘いとして、永続的に闘っていくとき、そもそも何と闘うのかの、中身の問題でもあるわけで、当時の理論として、社会主義を進めるには生産力の向上が必要というところで、競争ということを進めるとして、テーラーシステムなども取り入れているのですが、競争原理自体が闘うべきこととしてあるというのが、「障害者運動」が指し示している課題で、そこを問題にしないと、分断がもたらされるし、共産主義の妥当性はなくなってしまいます。レーニン政治というものは、そんなことを許さない世界かもしれません。ただ、民族自決権と自治というところを反差別論に広げると、レーニンの現実に合わせて具体的に方針を立てるという主張から、展開していくと、そのことまでもだしていけるのでしょうか?
抜き書き的メモです。
 「指導者の党」「上から組織」―「大衆の党」273P
「この機構を知っており、この機構が小さな、非合法の地下サークルから二五年のあいだに「どう成長してきたかを見ているロシアのボリシェビキには、「上からか」、それ(○○)とも(○○)下からか、指導者の独裁か、それ(○○)とも(○○)大衆の独裁かなどというこのおしゃべり全体が、左足と右手のどちらがより多く人間の役に立つかという論争に類した、滑稽な、こどもじみたたわごととしか思えない理由は、おそらく読者にはおわかりのことと思う。」281P・・・「後からは何でも言える」類いのことですが、ソビエトの独裁か、党の独裁かは大きな問題だったのでは?
「われわれは、架空な人的材料や、われわれがとくにつくりだした人的材料を使ってではなく、資本主義がわれわれに残した人的材料を使って、社会の建設を始めることができる(またそうしなければならない)。これが非常に「困難」なことは言うまでもないが、およそそれ以外の仕方でこの任務をとりあげるのは、論じるに値しないふまじめな態度である。」282P・・・どこかで、「できあいの組織は使えない」としていたこととの矛盾、たしかに、なければ使うしかないけれど、そもそも、以前から準備しておくことでは?
「われわれの理論は教条ではなく、行動の指針である、とマルクスとエンゲルスは言った。」301P
「「政治活動はネフスキー大通りの歩道」(ペトログラードの目ぬき通りのまっすぐな清潔な、広々とした、平坦な歩道)「ではない」」(チェルヌィシェフスキーの言)301P
「プロレタリア的な自覚、革命精神、闘争能力と勝利をかちとる能力の一般(・・)水準を引き下げずに高める(・・・)ために、この戦術(迂回政策・・・引用者)を適用するすべ(・・)を(・)知る(・・)ことにある。」304P
「共産主義者の正しい戦術は、これらの動揺を無視することではけっしてなく、それを利用(・・)することでなければならない。それを利用するには、プロレタリアートのほうに向きをかえる分子にたいし、彼らがそうするときに、そうするかぎりで、譲歩すると同時に、ブルジョアジーに向きをかえる分子とたたかうことが必要である。」304P
「不利なことのわかっている戦闘を避けるために「迂回、協調、妥協」をおこなうすべを知らないような革命的階級の政治家は、なんの役にも立たない。」306P・・・曲げられない原則はある―社会排外主義には陥らないこと
「搾取され抑圧されている大衆がいままでどおりに生活できないことをさとって、変更を要求するだけでは、革命にとって不十分であって、搾取者がいままでどおりに生活し統治することができないということが、革命にとって不可欠である。「下層(・・)」がいままでのものをもはや欲せず、「上層」がいま(・・)まで(・・)どおり(・・・)やって(・・・)いけなく(・・・・)なる(・・)とき、そのときにはじめて革命は勝利することができる。」314P・・・トロッキーの民衆の保守性ゆえの革命性に通じ、プラスアルファの話
「もしわれわれが革命的なグループでなく、革命的な階級の党であるなら、もしわれわれが大衆を自分についてこさせたいと思うなら(そうしなければ、われわれはたんなるおしゃべり屋に終わる危険がある)、・・・」314P
「いま肝心なことは、各国の共産主義者が、日和見主義と「左翼」的空論主義とにたいする闘争の基本的原則的任務を十分意識的に考慮にいれると同時に、それぞれの国で、その国の経済、政治、文化、その民族構成(アイルランドなど)、その植民地、その宗教区分などの独特な特徴におうじてこの闘争がとっている、またかならずとらざるをえない具体的(・・・)特性(・・)を、十分意識的に考慮にいれることである。」320P
「第二インタナショナルにたいする不満が感じられ、ひろがり、高まっているが、これは第二インタナショナルの日和見主義ためであるとともに、また第二インタナショナルが世界ソビエト共和国をめざす闘争で革命的プロレタリアートの国際的戦術を方向づけることのできる、真に中央集権的な、真に指導的な中央部をつくることを解せず、その能力をもたないためである。」320P・・・「世界ソビエト共和国」はありえるのか、国家は解体していく、むしろ、中央集権的でなく、・・・次の項目参照
「すべての国の共産主義的労働運動の国際的戦術を統一するために必要なことは、多様性を取りのぞくことでもなく、民族的差異をなくすこと(それは、いまのところばかげた(ママ)夢である)でもなく、共産主義の基本的(・・・)諸原則(ソビエト権力とプロレタリアートの独裁)を適用するにあたって、それを細部(・・)に(・)おいて(・・・)正しく(・・・)変更(・・)し(・)、それを民族的および民族国家的な差異に正しく適用させ、適用することである。」320P
「彼らを議会主義に反対してソビエト権力の味方に移らせ。ブルジョア民主主義に反対してプロレタリアートの独裁の味方に移らせるうえで、主要なことは――もちろん、まだけっしてすべてのことではないが、しかし主要なこと―――はすでになされた。」321P
「左翼空論主義」322P
「何百万という軍政を配置し、その社会のすべての階級勢力を最後の決戦のために配備することが問題になるときは、そこではもはや宣伝の技能だけでは、「純粋な」共産主義の真理を繰りかえすだけでは、なんの役にも立たない。ここでは、まだ大衆を始動したことのない小グループのメンバーである宣伝家が実質上やっているように、千の単位で数えるべきではない。そこでは何百万、何千万という単位で数えなければならない。」322P
「革命的階級は」「社会活動の例外なくあらゆる形態あるいは側面に習熟すること」「どんなに一つの形態から他の形態への、どんな急速で、思いがけない交替が起こっても、それに応じられるようでなければならないということ」324P
「1914-1918年の帝国主義戦争のときには、最も自由な民主主義のブルジョアジーが、戦争の強盗的性格について真実を語ることを禁止して、前代未聞のあつかましさと凶暴さで労働者をあざむいたが、そのような条件のもとで非合法的な闘争手段を用いる能力がないか、あるいは用いることを望まない(できないとは言わせない、欲しないと言え)党と指導者は、日和見主義者であり、労働者階級の裏切者である。だが、非合法的な闘争形態をあらゆる(・・・・)合法的な闘争形態と結合することのできない革命家は、まったくやくざな革命家である。」325P
「4本の足全部に蹄鉄が打ってあるように、われわれのすべての準備活動をすすめなければならない」325P
 「塩をきかせすぎた」328P・・・過剰な反応をしすぎて失敗という意味
 「戦術においては最大限の柔軟性を示さなければならないことを、すべての国のすべての共産主義者がいたるところで、徹底的に考えぬいて認識することでもある。」330P
「彼ら(第二インタナショナルの指導者たち・・・たわし)が破産した基本的な原因は、彼
が労働運動と社会主義の成長の一つの特定の形態だけに「見とれて」、それが一面的なものであることを忘れ、客観的条件のために不可避となった急激な変転を見るのを恐れ、単純な、棒暗記した、一見争う余地のない真理――三は二より大きい―――を繰り返しつづけたところにある。しかし、政治は算術よりも代数に似ており、さらに初等数学よりも高等数学にいっそうよく似ている。」330P
「古いものとの宥和をはかるためでなく、新しいものも古いものも、ありとあらゆる形態を、共産主義の完全で最後的な、決定的で確固不動の勝利をもたらす武器とするためである。」331P
「右翼的な空論主義は、古い形態だけを認めることに固執して、新しい内容に気がつかなかったため、徹底的に破産してしまった。左翼的な空論主義は、一定の古い形態を無条件に否定することに固執して、新しい内容がありとあらゆる形態をつうじて自分の道を切りひらいてゆくことを見ず、すべての形態に習熟し、できるかぎり速やかに一つの形態を他の形態で補い、一つの形態を他の形態と交替させ、われわれの階級によって、またはわれわれの努力によって引きおこされたものではない、こうしたいっさいの変転に自分の戦術を適応させるすべを学びとることが共産主義者としてのわれわれの義務であることを見ないのである。」331-2P

posted by たわし at 17:43| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「プロレタリア革命と背教者カウツキー」

たわしの読書メモ・・ブログ430
・レーニン「プロレタリア革命と背教者カウツキー」(『レーニン10巻選集第9巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は10論文目です。
 これは、一応プロレタリア独裁が成立して以降、反革命とのせめぎあの頃に書かれた文です。カウツキーは、元々「マルクス主義者」として理論的に活躍し、レーニンも共感していたのですが、ドイツ社会民主党の「中央派」としてぶれにぶれて、レーニンの批判者になりました。レーニンはカウツキーの批判を通して、自らの方向性を提起していきます。この著は特に、プロ独問題、農業―農民問題で、レーニンの主張を押さえておくべき論攷です。
 プロレタリア独裁は、途中憲法制定議会が作られ、そこで権力の集中の動きもあったのですが、それがメンシェビキやエス・エルの部分たちの「日和見主義」、ブルジョアジーたちの巻き返しによって機能せず、ソビエトの独裁として進んで行ったのですが、過渡としてのソビエト独裁が党の独裁に変質し、社会主義への移行に失敗したとなるのでしょうーそのあたりのことをどう押さえるのか。
 もうひとつ、農民問題で農民の意向に沿った、過渡的な方針とおいたところは、民族自治や自決権のレーニンの方針と同じ内容をもっていて、このことはすべての被差別者の「自己決定権」の問題につながっていくのだろうと思います。ですが、どこかでそれらのことを無視した「社会主義国家」の建設という名目の中で、抑圧・監視社会になっていった、そのあたり、レーニンはパリ・コミューンがつぶされたように、革命が世界革命に波及しない限り(たぶんそこまで行かないと)、どこかでつぶされると予期していたのではないかと思っています。ただ、途中で引き返すことはできない、行くところまで行くしかないのだという、「革命的敗北主義」的なところで突き進んだのでないかと(たぶん、「革命的敗北主義」ということばの一般的使い方と違うのでしょうが)。
 さて、抜き書きに入ります。
 「この全一的権力が専政(ママ)と違う点は、それが恒常的国家制度と考えられずに、一時的な応急策と考えられる点にある」23P・・・それが恒常的な国家制度になってしまった悲劇
 「独裁とは、直接に暴力をよりどころにし、どんな法律にも拘束されない権力である。」25P・・・レーニンは暴力の必要性を隠さない
「独裁が、背教者には不愉快なことだが、一階級の他の階級にたいする革命的(・・・)暴力(・・)の「状態」を前提し、また意味するということ、これは「袋の中の錐は隠しても現われる」のたとえのとおりである。」26P
 「プロレタリア革命は、ブルジョア国家機構を暴力的に破壊して、それをエンゲルスのことばを借りれば「もはや本来の意味ではない」新しい(・・・)国家機構とおきかえることなしには、不可能である。」26P
 「プロレタリアートの革命的独裁はブルジョアジーにたいする暴力である」27P
 「平和的変革と暴力的変革の対立が問題なのだ。」28P
 (カウツキーにごまかし的なことが必要なのは)「まさに、暴力革命を拒否するためであり、自分が暴力革命を放棄したこと、自由主義的労働者政治の側へ移ったことをおおいかくすためなのだ。」28P
 「純粋民主主義」28-29P・・・ごまかしだけれど、理念として、運動の中での関係性の構築としてはむしろ押さえ直す
 レーニンの階級独裁についてカウツキーは「統治するのは「組織」または「党」である」と批判していた30P・・・結局社会主義への移行に敗北し、党の支配になった歴史のとらえ返し
 「要約しよう。カウツキーは、プロレタリアートの独裁の概念をまったく前代未聞のやり方でゆがめ、マルクスをありふれた自由主義者に変えてしまった。すなわち、「純粋民主主義」についての俗悪な文句をしゃべりたてて、ブルジョア(・・・・・)民主主義の階級的内容を美化し、あいまいにし、被抑圧階級による革命的(・・・)暴力(・・)をなによりも忌みきらう、あの自由主義者の水準に、彼自身がころがりおちてしまった。カウツキーが、「プロレタリアートの革命的独裁」の概念を、抑圧者にたいする被抑圧階級の革命的暴力が消えてなくなるような仕方で、「解釈した」とき、マルクスを自由主義的にゆがめる点で世界記録が破られた。背教者ベルシュタインは、背教者カウツキーにくらべれば、駆けだしのぺいぺいであることがわかった。」30P
「いろいろな階級(・・)が存在するあいだは、「純粋民主主義」について語ることはできず、階級的(・・・)民主主義について語りうるだけであるのは、明らかである。(ついでに言えば、「純粋民主主義」とは、階級闘争も国家の本質も理解していないことをさらけだした無知(・・)な文句であるばかりでなく、さらに幾重にも無内容な文句である。というのは、共産主義社会では、民主主義は生まれ変わり、習慣となって、死滅(・・)して(・・)ゆく(・・)が、けっして「純粋」民主主義にはならないからである。」)」31P
「プロレタリア民主主義は、どんなブルジョア民主主義よりも百万倍(○○○)も(○)民主的である。」36P
 「彼は「純粋」(すなわち無階級的な? あるいは超階級的な?)民主主義の立場から論じる。」38P
 三つの問題のすりかえ@「他の国々で一定(・・)の(・)期間内(・・・)に(・)革命が起こるという前提のうえに戦術を打ちたてたとすれば、これは議論の余地の内ばかげた(ママ)ことであったろう。」A「革命的情勢が現に存在する場合に、ヨーロッパ革命に期待をかけることは、マルクス主義者にとっては必須」B「ヨーロッパに革命的情勢が存在するという条件のもとでとるべき革命的戦術の特質はどういうものか? 背教者になったカウツキーは、マルクス主義者にとって必須なこの問題を提起することを恐れた。」74-6P
国際主義的唯一の戦術「すべての国に革命を発展させ、支持し、めざめさせるために一国で実現できる最大限のことを実行した」78P
「それでも、この一国は、ソビエト権力のおかげで多くのことをなしとげたので、かりにドイツ帝国主義とイギリス=フランス帝国主義との協定によって、世界帝国主義があすにもロシアのソビエト権力を押しつぶすとしても、そういう最悪の場合にさえ、ボリシェヴィキの戦術は、社会主義に莫大な利益をもたらし、腐敗の世界革命の成長を助けたことがわかるであろう。」80P・・・レーニンの「革命的敗北主義」
「ブルジョア革命ではブルジョアジーよりも先にすすんではならないという、趣旨の古い結論である! だがこれは、1789-1793年のフランスのブルジョア革命と、1948年のドイツのブルジョア革命とを対比して、マルクスとエンゲルスが述べたことのすべてにまったく反している!」81P
「土地社会化法―この法律の「魂」は土地の均等溶液のスローガンである―を実施したさい、ボリシェヴィキはきわめて正確に、明確に声明した。この思想はわれわれのものではない。われわれはこのスローガンに同意していないが、これが農民の圧倒的多数者の要求である以上、われわれはこのスローガンを実施することを義務と考える。そして勤労者の多数者の思想と要求は、彼ら(・・)自身(・・)で(・)克服(・・)する(・・)ほかはない。そういう要求を「廃止」することも、とびこえる」こともできない。われわれボリシェヴィキは、農民が小ブルジョア的スローガンを克服し、そういうスローガンから社会主義的スローガンへ、できるだけ速やかに、できるだけ容易に移行(・・)する(・・)ように助ける(・・・)であろう、と。」93-4P

posted by たわし at 17:40| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「さしせまる破局、それとどうたたかうか」

たわしの読書メモ・・ブログ429
・レーニン「さしせまる破局、それとどうたたかうか」(『レーニン10巻選集第7巻』大月書店1969所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は9論文目です。
 これは2月革命から10月革命に至るまでに、第一次世界大戦の戦時下で革命政府の「ブルジョア民主主義者」とメンシェビキ、社会革命党の連合が、立ちゆかなくなり、コロニコフらのクーデターなども起きる中で、ブルジョアジーたちのボイコットなども起きて、飢えなども起き、経済的な混乱情況という危機の中で、レーニンが統制経済を訴えた論文です。
 それは、社会主義に移行する過程としての独占資本主義、国家独占資本主義の内容になっています。レーニンはここから社会主義へ移行しようとしたのです。で、読書メモの範囲から離れるのですが、その後のスターリン主義的な考えで、10月革命で「社会主義国家を定立させた」とされるのですが、「帝国主義列強」の反革命干渉戦争やクロンシュタットの反乱などの中で、経済的な行き詰まりを突破するためにと、新経済政策(ネップ)をレーニン生前に導入するのですが、これは結局、国家独占資本主義を脱し得なかったのでないか、社会主義建設さえできていなかったのではないか、という指摘がでています。そもそも「社会主義」という概念自体への疑問もあります。「社会帝国主義」という批判も出ています。このあたりがロシア革命の総括の核心的なことになります。もちろん、これを「後発帝国」ロシアで社会主義革命にレーニンのリーダーシップで強引にやらざるを得なかったことや、「一国社会主義」の建設となっていった、ならざるを得なかった特殊性の問題としてとらえるのか、その中に何かもっと普遍的なことをとらえるのかの問題があります。これに関しての論考は継続的なこと、先に学習を進めます。
 さて抜き書きの中でのコメントに入ります。
(政権に入っているメンシェビキやエス・エルの部分がとらえていないけど、「資本家諸君はりっぱにのみこんでいる。その真理とは、」)「君主制の統治形態が民主共和制の形態に代わっても、資本主義的搾取の経済的本質はすこしも変わらないということ、したがって、逆に、民主共和制のもとでも、専制君主のもとでやってきたのにおとらずうまく資本家の利潤を維持してゆくためには、この利潤の不可侵と神聖を守る闘争の形態(・・)を変えるだけでよいということである。」272P
「最も主要な統制方策」五点列挙・・@銀行の統合と国家統制Aシンジケートの国有化B営業の秘密を廃止C工業家・商人・一般に経営者を強制的にシンジケート化することD住民を強制的に消費組合に結合するか、またはそういう結合を奨励し、統制すること275P
「官金私消」285P・・・ブルジョアジーに引き寄せられたひとたち
銃殺一般を否定しないというレーニンの立場286P・・・被抑圧者には死刑制度は否定するけど、抑圧者の死刑は否定しないというレーニンの分け方・・・死刑は責任をとらせることにはならないのでは?
 「社会主義は、国家資本主義的独占からさらに一歩すすめたものにほかならないからである。いいかえれば、社会主義とは、全人民(・・・)の(・)利益(・・)に(・)奉仕(・・)する(・・)よう(・・)に(・)された(・・・)、そのかぎりで資本主義的独占ではなく(・・)なった(・・・)、国家資本主義的独占にほかならない/そこには中間の道はない。社会主義にむかってすすまずには、独占体(・・・)(戦争はその数と役割と意義を十倍にも高めた)からさきにすすむことはできない(・・・・)というのが、客観的発展行程である。」301P・・・全人民に奉仕するときには、国家は死滅しているのでは? 確かに、さきにすすみえなかった。
「国家独占資本主義が社会主義のきわめて完全な物質的(○○○)準備であり、社会主義の入口(○○)であり、それと社会主義と呼ばれる一段とのあいだにはどんな(・・・)中間(・・)の(・)段(・)も(・)ない(・・)ような歴史の一段であるからである。」302P・・・ここからは共産主義への道は見えてこないのでは???

posted by たわし at 17:37| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について」

たわしの読書メモ・・ブログ428
・レーニン「マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について」 (『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
レーニンの集中学習、8論文目。これは、国民文庫の表題には入っていません。『名著』と選集に入っていたので、『名著』で読みました。
 ぺ・キーエフスキーがレーニンらが祖国防衛に反対しているのに、民族自決を支持するというのは、矛盾しているという論攷に、レーニンが被抑圧民族の自決と抑圧民族の自決をごちゃまぜにしているという批判をしています。このあたり、まえのブログのユニウスの「帝国主義の時代に民族戦争はありえない」という主張に民族戦争は民族解放闘争、そこから出てくる独立戦争としてありえると批判したことに通じています。レーニンの提起していることは正論です。で、レーニンの民族自決論はマルクスの思想の流れの中で支持されています。ですが、このあたり、実は「自己決定権」にも通じる話で、「自己決定はまやかしだ」という話が「障害者運動」関係からも出ています。とりわけ、新自由主義的グロバリーゼーションの時代に、「自己責任」というまやかしのキーワードの言葉が出てきました。「自己責任」というのは、平等な関係の中で初めて意味があるわけで、そもそも差別的関係の中で、自己決定権―自己責任というのはまやかしなわけです。ですが、それでも、「自己決定は尊重なければならない」、というところで、レーニンの論攷は正論なのです。しかし、そもそも抜き書きの中のコメントで書きますが、もし社会主義が成立したときに、そこから離れる分離や独立を勧めるわけではなく、社会主義的なところへ向かう運動においても、別に分離した運動を勧めるわけではなく、一緒にやっていこうという提起をしていくという話を書いているのですが、政治は力というところで、そのことが結局抑圧的になっていくのではないかと思います。その一例が、レーニン生前でもクロンシュタットの反乱への弾圧として出ていたわけで、その後のスターリンが何をやったかの話になると、レーニンが生きていたら、そこまでは行かなかったという話はあるにせよ、既にレーニン自体にその芽があったととらえざるを得ないのです。過渡期の問題と言いつつも、革命までの過渡期と、革命から順調に永続革命に移行していく過渡期の問題もあります。プロ独ということもそのようなこととして出されていたわけで、それが抑圧的に機能しないという保障はありませんし、むしろスターリン支配下で現実的にすすんだことの総括が必要です。わたしはこのあたりは、きちんと反差別としての立場性の確立というところから、もう一度きちんとしたテーゼを打ち出すことだと思っています。
さて抜き書きとその中でコメントに入ります。
ぺ・キーエフスキーの主張「この問題に答えるには、現在の時代のすべてを考慮したうえで、まったく具体的にやるよりほかはない。なぜなら、当時の水準では生産力発展の最良の形態であった民族国家が形成される時期の民族自決権と、これらの形態つまり民族国家の形態がその発展の枷となったときのこの権利とは、別のものであるから、資本主義や民族国家がみずからを確立する時代と、民族国家が没落し資本主義そのものも滅亡の前夜にある時代とのあいだには、天地の隔たりがある。時期や空間を無視して、ただ『一般的に』だけ論ずるのは、マルクス主義者のやることではない」←レーニンの批判「この議論は「帝国主義の時代」という概念を劇画化して用いたばあいの見本だ。この概念が新しく、かつ重要であればこそ、このような劇画とは闘う必要がある!」417-8P・・・ぺ・キーエフスキーの主張はネグリ/ハートの『<帝国>』の国民国家の軽視に通じる話。
「西ヨーロッパ諸国では、民族運動はすでに遠い過去のものである。」419P・・・??アイルランド、スペインと続いているし、極右が逆の方向から突き出している。資本主義社会は資本主義社会である限り、差別の問題は続いていく。差別の問題を深くとらえること、「継続的本源的蓄積論」。
「帝国主義は民主主義の破壊を、目ざしている」424P・・・「<帝国>」と「帝国主義」は区別されている、「<帝国>」は必ずしも民主主義を破壊しない(勿論、ここでは偽装としての「民主主義」)、『ド・イデ』の国家規定、共同幻想的側面を押さえ損なっている。
 「帝国主義は、全面的に政治的民主主義と矛盾する」427P・・・上記と同じ
 「いったい、とうして、資本主義が民主主義と両立しうるのか、資本の絶対的権力を間接的に行使するというやり方によってなのだ! そのための経済的手段は二つある。/(1)直接の買収/(2)取引所と政府との同盟・・・。」428P・・・他にもあります。日常的に貨幣を使うことによる貨幣の物神化、労働賃金の違いによる労働力ということの物象化と能力主義へのとらわれ、経済をなりたたせるイデオロギーも経済に含まれます。マルクスの物象化という概念からとらえ返す必要。
 「民主主義も国家の一形態であり、これは国家が消滅するときには消滅しなければならない」442P・・・エンゲルスの「民主主義とは階級支配の手段である」といテーゼに通じること。しかし、民主主義という概念がごちゃまぜになっているのでは? 共同幻想の問題でも。
 「これら(・・・)の(・)先進国[イギリス、フランス、ドイツ、その他]では、民族問題はとうのむかしに解決されており、民族共同体はとっくに寿命を終わって、「全民族的な課題」などは客観的に存在しない。したがって、いますぐ(・・・・)に(・)でも(・・)民族共同体を「掘り崩し」、階級的共同体をつくりあげることができるのは、これらの国だけである。」443P・・・分離、独立ということも含めた、国と国との関係としての民族ということのとらえ返しになっているのでは、これらの民族排外主義は繰り返し出てくる。差別というところから民族概念自体への批判が必要になっているのでは?
 ぺ・キーエフスキー批判のまとめ(1)〜(5) 445-9P・・・レーニンの自決権問題のよくまとまっている論攷
「このように、分離権の問題を、分離を忠告するかという問題と区別すること」452P
 「われわれは、先進国の自覚した労働者とすべて(・・・)の(・)被抑圧者の労働者、農民、奴隷とが最も緊密に接近し融合することをつねに助けてきたし、いまも助けており、今後も助けるつもりである。われわれはすべての被抑圧国のすべての被抑圧階級に向かって、われわれから分離(・・)しない(・・・)で、できるだけ緊密にわれわれと接近し融合するよう、つねに忠告してきたし、今後もまた、つねに忠告するつもりである。」453P・・・「融合」という訳語を使った訳者の問題。訳者註として、「(原語では、)「団結」「融和」を意味するが、前後の関係から判断して、ここでは「融合」と訳しておいた」453P・・・「融合」や「融和」では、差別の一形態になっていくのでは?
 「分離の自由がなくては、強制的な融合から、つまり併合から、自発的な融合へ移ることは現在(・・)の(・)ところ(・・・)ありえない。」456P
 「独裁ということは、社会の一部の者が社会全体に対しておこなう支配であって、しかも、じかに暴力に依存している支配である。」455P・・・レーニンの独裁と暴力革命論
ぺ・キーエフスキーの主張「自決は資本主義のもとでは不可能であり、社会主義のもとではよけいなものである」462P←レーニンの批判「これは理論的にナンセンスであるし、   みちびいてゆくことはできない。」462P

レーニン自身が言っているように、情況が変われば方針は変わる。レーニンの発言は、ロシアの情況下の折々の中でとらえ返していくこと。しかし、その中における運動の普遍性的押さえも、また必要になると思うのですが。

posted by たわし at 17:34| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レーニン「ユニウスの小冊子について」

たわしの読書メモ・・ブログ427
・レーニン「ユニウスの小冊子について」(『レーニン10巻選集第6巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は7論文目です。
 ユニウスとはローザ・ルクセンブルグの筆名です。ラテン語で「青年」の意味。ドイツでは、祖国防衛というところで、第一次世界大戦にドイツ社会民衆党に反対しないという情況になっていき、第二インターナショナルも崩壊したのですが、ドイツ社会民主党左派のひとたちは戦争反対を突き出していた、そのことでの論攷として非合法的な冊子として出されたローザの文へのレーニンの論評です。
これは、国民文庫のタイトルに入っていない論攷で、第二次学習に入れることだったのですが、レーニンとローザの植民地問題や運動の自然発生性に関する論争が反差別論をやっている中で気になっているわたしの立場から、特別に入れ込みました。わたしにとって、思いの外、すごく収穫の大きい読書になりました。
 レーニンは自ら、「「攻撃的性向」と批判されている」と書いているのですが、「日和見主義者」には徹底的な批判を繰りかえしていくのですが、この論攷はドイツ社会民主党の中の左派のローザへの批判で、もちあげつつ、問題を指摘するというスタイルで文を書いています。レーニンとローザは民族問題で、歴史に残る論争をしています。このあたりは、一般にレーニンの方に「軍配」があがっていて、反差別論をやっているわたしも一応それに同調しています。ローザは、自らが「女性」「ユダヤ人」「植民地ポーランドの生まれ」「障害者」という立場性があるにも関わらず、反差別運動にはとりくんでいません。むしろ、それを突き出すことが統一を妨げるというようなところで、国際主義―「統一主義」的なところで活動していました。レーニンの方が、民衆の個別に抱えている問題にきちんと対処していく方針を出していたようなのです。ただ、反差別論の立場からすると、レーニンの「差別=階級支配の道具論」は批判することですし、ローザの『資本蓄積論』の継続的本源的蓄積論は、反差別論のベースになって、その後の「帝国主義論」の展開で、<帝国>的グロバリーゼーション―新自由主義的グロバリーゼーション批判のキー概念になるのではと思っています。もう一点、ローザの自然発生性への依拠ということと、レーニンの自然発生性への拝跪批判を巡る論争の問題があります。これについて、レーニンも自然発生性への依拠ということは言っていて、このふたつの概念が必ずしも対立概念ではないのですが、このあたりのことを改めてきちんと押さえる作業をしていきたいと思っています。
 さて、レーニンのユニウス批判は、次の三点としてまとめうると思います。
 まずは、第一に、ユニウスが他のところではなしている「日和見主義」派の批判を、この小冊子では展開していないこと。第二に、被差別の側での民族運動−民族戦争の必要性と意義を押さえ損なっていること。これは、民族戦争が帝国主義間戦争に転化することや、逆に帝国主義間戦争が、民族戦争や階級闘争に転化していく歴史をきちんと押さえ損なっているという問題です。第三に、「祖国防衛」というところに、戦争が実際に始まり、攻め込まれたときにはということで、飲み込まれそうになっていることへの批判です。これはドイツ社会民主党の分裂とか民衆意識への迎合という側面があるのではないかと、レーニンが押さえつつ、「帝国主義戦争を内乱に」というテーゼで、第三インターナショナルの建設ということも含めて突き出すべきだと、提起しています。
 もっと、きちんと進化した論考が必要になっているのですが、レーニン学習を先に包めます。
 さて、抜き書き。
 「帝国主義戦争と民族戦争とがたがいに転化しうる(・・)ということを根拠にして、両者の差異を抹殺するようなことをやれるのは、詭弁家だけである。」310P
「1914-1916年のこの帝国主義戦争が民族戦争に転化するということは、はなはだありそうもないことである。というのは、前進的(・・・)な発展を代表する階級はプロレタリアートであって、彼らは客観的には帝国主義戦争をブルジョアジーにたいする内乱に転化させることをめざしているからであり、さらにまた、二つの連合の力にあまり大きな相違がなく、国際金融資本がいたるところに反動ブルジョアジーをつくりだしたからである。」310P
「帝国主義の概念を紋切り型に適用して、この概念から民族戦争の「ありえない」ことを導きだすことがどんなにばか(ママ)げているかがわかる。」311P
「一方では、民族戦争とちがった現在の戦争の帝国主義的性格をみごとにあばきだしながら、他方では、きわめておかしな誤りに陥り、民族戦争ではない(・・)現在の戦争にたいして、民族綱領をこじつけてあてはめようと試みたのである!」314P
 「われわれ全(・)交戦国の労働者は諸君にむかって戦争を、社会主義のための戦争を宣言する。」318P
 「おそらく、このような議論が、意識的にか半意識的にか、ユニウスの戦術を規定したのであろう。それが誤りであることはいうまでもない。ユニウスの小冊子には、革命的なスローガンを十分に考えぬき、これらのスローガンの精神で大衆を系統的に教育することになれた非合法組織の同志たちをもたない、孤独感(・・・)が感じられる。しかし、このような欠陥は――これをわすれるのは大きなまちがいであろうが――ユニウスの個人的な欠陥ではなくて、カウツキー主義の偽善と衒学と日和見主義者への「友情」とのこまかい網の目に四方八方からぐるぐるまきにされているドイツの左派全体(・・)の弱点の結果である。ユニウスの支持者たちは、孤独であるに(・)も(・)かかわらず(・・・・・)、非合法リーフレットの発行とカウツキー主義にたいする戦いとに着手(・・)する(・・)ことができた。彼らは正しい道をさらに前進することができるであろう。」319P      


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レーニン「第二インターナショナルの崩壊」

たわしの読書メモ・・ブログ426
・レーニン「第二インターナショナルの崩壊」(『レーニン10巻選集第6巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、レーニンの著自体は6論文目です。
第二インターナショナルには、バーゼル大会での(帝国主義の)戦争反対という決議があったのですが、第一次世界大戦を前後して、第二インターナショナルのリーダーたちが自国の支配層の利害にからめとられ戦争加担の方向へ動き、排外主義に陥り、第二インターナショナルが崩壊します。
レーニンは自らの革命主義の立場から、「日和見主義」を批判してきました。また民族主義に対する姿勢もはっきりしていて、被抑圧者側のナショナリズムは一定評価しても、抑圧する側のナショナリズムは許さないという立場から、そして日和見主義と排外主義対革命主義と国際主義の立場はほぼ重なっているとして112P、排外主義的な動きを徹底批判しています。批判の主なターゲットはカウッキーです。レーニンのアジテーターとしての批判の鋭さは、きっと当時の論敵を震撼させていたのでしょうー
 さて、今日本も、戦争のできる国づくりに進み、九条改憲の動きが出ています。一挙にナショナリズム的なことが出てきそうです。レーニンの民族問題での押さえは、きちんと活かさなければならいないと思います。
 抜き書きです
クラウゼビッツ『戦争論』のレーニンの援用―「戦争は、別の手段の介入による政治関係の継続にほかならない」87P
「純粋という概念はそのものが、きわめて複雑な対象をくまなく把握することのない人間認識のある種の限界であり、一面性であることを、われわれにしめしている。この世には「純粋」な資本主義というものはなく、またありえないのであって、つねにあるものは、ときには封建制の、ときには小市民生活の、ときにはなおなにかの混合物(・・・)である。」103P・・・レーニンの現実的分析
「この無限の多様性のなかに二つの主要な基本的な流れがあるということも、また疑う余地がない。すなわち戦争の客観的内容は帝国主義の「政治の継続」であり、つまり「大国」の老衰したブルジョアジー(とその政府)が他の民族を略奪するという「政治の継続」であり、「主観的」な支配的イデオロギーは、大衆を愚弄されるために流布される「民族的」なから文句である。」104P
「社会排外主義的潮流の歴史的起源、その諸条件、その意義と力」→「社会排外主義の基本的な思想的=政治的内容が日和見主義の基礎と完全に一致することは、まったく明らかである。」109P
「日和見主義とは、大衆の根本的な利益を労働者のうちのとるにたりない少数者の一時的な利益の犠牲に供することであり、言いかえれば、プロレタリアートの大衆に対抗して労働者の一部とブルジョアジーが同盟することである」110P
「社会排外主義とは、ブルジョア的腫物である日和見主義が、社会主義諸党の内部でいま(・・)まで(・・)どおり(・・・)の存在をつづけられなくなったほどに成熟したものである。」111P
「第一に、労働運動における排外主義と日和見主義との経済的基盤は同一のものである。すなわちそれは、それは「自」国の資本の特権のおこぼれを頂戴しているプロレタリアートと小市民の少数の層が、プロレタリア大衆、一般に勤労者と被抑圧の大衆に対して結ぶ同盟である。第二に、この二つの潮流の思想的=政治的内容は同一のものである。第三に、社会主義者を日和見主義的潮流と革命的潮流に分ける、第二インターナショナルの時代(1889―1914年)に特有な古い区分は、排外主義と国際主義とに分ける新しい区分に、だいたい対応(・・)して(・・)いる(・・)。」111-112P・・・三つの指標
「非合法的な社会主義活動」122P

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レーニン「カール・マルクス(略伝とマルクス主義の解説)」

たわしの読書メモ・・ブログ425
・レーニン「カール・マルクス(略伝とマルクス主義の解説)」(『レーニン10巻選集第6巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、『選集』に戻りました。レーニンの著自体は5論文目です。
 百科辞典のためにレーニンが書いた文です。辞典自体には載らなかった文とかも含めて、掲載していますが、「マルクス主義文献」がこの選集には載っていません。レーニンに関することで、レーニンは『ドイツ・イデオロギー』を読んでいないので、『国家と革命』で、国家の共同幻想的性格を抜け落としているという批判があります。『経済学・哲学草稿』についてもあまりコメントしていません。マルクスが青年ヘーゲルからどういうように離脱していったのかで、大切な文献なのですが。そのあたり、口コミ的にとらえていたこと、文献表から確認できたはずなのですが、一度全集あたりから調べてみようかと思うのですが。
 もうひとつ、弁証法に関することが、後期エンゲルスが弁証法を法則的に突き出していった図式化というようなところをレーニンも陥っています。三つの潮流論批判も現在的にでています。エンゲルスの反映論批判ももうだいぶ前から出ていますが、マルクスの思想の現在的なとらえ返しからすると、エンゲルスのヘーゲルへの先祖返りというようなところで批判されているところにレーニンも陥っていて、いろいろ問題がある論攷になっています。経済的なことはマルクスからの引き写しですが、ロシアの現状から農業問題に力点を入れた論攷になっています。
その他疑問に思っているところは、抜き書きの中で。
 抜き書き。
19世紀の三つの主要な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった。この潮流とは、ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、一般にフランスの革命的学説と結びついたフランスの社会主義である。」15P・・・「フランスの社会主義」というのは否定する意見も出ています。
「思惟する脳髄における、たんなる反映が、すなわちこの哲学なのである。」19P・・・この部分はエンゲルスからの引用ですが、この反映論も批判されています。
「発展・進化の思想」19P・・・進歩史観批判
弁証法のレーニンの押さえ19P・・・三分化批判ということが出ているけど、そもそもエンゲルスの弁証法の法則化的図式化批判
「階級闘争はすべて政治闘争である」23P・・・?
「物の外被におおわれた関係、と。価値とはなにかということは、ある特定の歴史的な社会構成体の社会的生産関係の体制、しかも何十億回となく繰りかえされる大量的な交換現象に現れている諸関係の体制という見地から、これを見るときに、始めて理解できる。」24P・・・マルクスの物象化論のルーティン化された行動の中に物象化が起きるという話に通じること、しかし、レーニンはどうも労働価値説にとらわれているようー
「G―W―G」25P・・・とあるのは誤植?「G―W―G’」
「民族の階級への解消」34P・・・継続的本源的蓄積論において、階級概念のあるところで解消しないのではー
「イギリスの労働者がかかっているように見えるブルジョアかぶれ・・・」37P・・・日本の労働組合の陥っている現状にも通じている


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レーニン「貧農に訴える」

たわしの読書メモ・・ブログ424
・レーニン「貧農に訴える」 (『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
レーニンの集中学習を、国民文庫になっている本から年代順に読んでいます。で、レーニンの書いた順からいうと、「なにをなすべきか」の次に読むことだったのですが、読み落としていました。前のブログに書いたように、『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966を手にして、その中にこの文章があり、急遽挟み、『名著』の方が、きちんと吟味したわけではありませんが、訳がよさそうだったので、こちらで読みました。
レーニンは論争の書を書いているので、必ずしも分かりやすい文を書いているわけではありませんが、この訳のせいもあるのでしょうが、かなりアジテーション的に説くような文になっています。
レーニンが属する社会民主党が労働者の組織化を図り、ナロードニキの流れを汲む、「人民の意志」から社会革命党の流れが農民の組織化を図ってきたという棲み分け的なことがあったようです。社会民主党でもメンシェビキ派は労働者の方に向いていて、農民の方には向き合っていないということがあったようなのですが、レーニン、ボリシェヴィズム派は「プロレタリアートと農民大衆の独裁」というような突き出しをしていて、農民の方にも切り込まんとしていたようです。レーニンには初期の大著『ロシアにおける資本主義の発達』があり、そこでロシア資本主義を押さえたところで、「社会主義革命」における農民運動のもつ位置というところをとらえ返したところで、農民問題も分析しつつ、「プロレタリアートと農民大衆の独裁」ということを突き出しています。そこで、農民ということを階級的視点から分析もしています。この著の中でも、それが出てきます。この著はかなり、アジテーション的になっていて、かなりざっくりした、だからこそ分かりやすい文になっていて、ところどころ厳密性を欠いたところもあり、訳者が註で、訂正などもしているのですが、農民問題に焦点をあてた基調的な著として押さえておきたいと思います。レーニンは農民問題について、その後かなり文を書いているので、他の文にもつなげて押さえる作業も必要になっているのですがとにかく、レーニンの総体的学習として、先に進めます。
さて、反差別論というところから、情況をとらえ返してきた、わたしの立場からすると、サブシステンスというところで農本主義的な指向もあり、また共同体論というところでの地産地消というところでの農業の問題があり、さらにそもそも生きる前提としての環境問題からも農の問題のとらえ返しが必要になってきます。以前反原発の問題を勉強しているときに、環境問題から科学論まで少しかじり、その中で農に関する本も少しかじろうとしたのですが、なかなかまだ手をつけていない領域です。
もうひとつ、「マルクス主義の差別性」の問題をとらえ返そうとしている立場で後期―晩期マルクスが、西欧中心主義的な進歩史観からアジア的生産様式論の発見や、古代社会ノートを取る中に、わたしから見るとマルクスは反差別的なことにつながることがあったのです。その中で、遅れているとされるロシアの農民共同体とでもいうべき「ミール」についてもコメントし、その中で共同体的に活かせる可能性を考えていたことがあったようなのです。この本の中でも、そのミールが取り上げられています。社会革命党はこのミールを活かそうとしていたようなのですし、レーニンも一定の評価をしています。まあ、レーニンはむしろ否定的にとらえて農民委員会ということを突き出して、それで替えるとしていたのですが、このあたりのことを今一度とらえ返してみたいとも思っています。
さて、抜き書き。
ミール74-76P
「ミールが力をもっていた時代は、とうに過ぎ去った。」76P・・・マルクスがミールを分析していた時代からの変遷?
馬の所有頭数から、農の階級分析をしていくというレーニンの視点77P
営業という視点から、労働問題と農業の問題とのリンク85Pの註(2)
社会民主党と社会革命党の二つの方針123P
社会民主党の農民問題での三つの要求129P

追記、貧農の問題は、戦後日本の東北地方を中心とする出稼ぎ問題にも通じ、とりわけ農が保守の基盤とされつつも、保守の政策に振りまわされ、切り捨てられていく時代に、改めて農本主義的なところを突き出した農民の組織化の必要性を感じています。

posted by たわし at 17:20| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

江口朴郎「レーニンと現代の課題」

たわしの読書メモ・・ブログ423
・江口朴郎「レーニンと現代の課題」 (『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966所収)
レーニンの集中学習をしていて、レーニン伝が必要になってきました。で、蔵書を探していたら『世界の名著〈第52〉レーニン )』中央公論社1966を見つけ出し、江口さんの解説のようなことも含んだレーニン伝的な文の学習を急遽はさみました。最初に読むことだったのですが。
 レーニンの現実に合わせて、的確に判断していく、そしてその判断で強力にリーダーシップを発揮し、最初二段階革命的におさえていたところから、一応「社会主義革命」というところまで導いた、そのリーダーシップのすごさを感じています。
 ですが、その強引さの弊害というようなことが、レーニン死後のスターリンの党独裁まで進み、党内闘争がスターリン的な権力の維持というところで、反対者の粛正という事に至り、そういう中で、監視社会を作り出したという負のスパイラルを押さえておかねばなりません。今日、それは左翼アレルギーというような形で運動の阻害となっています。
この文は、1966年に書かれた文で、ソ連邦の崩壊以前で、既に社会主義の先例があるから、ボルシェビキ的なことでなくても革命がやれるとかいう話がでてくるのですが50P、逆に、崩壊や、そのプロ独から党の独裁にいたったところでの負のイメージがむしろ運動の障害になっている現実があります。また原子力のエネルギーとしての利用50Pとかいう話も出てきます。
さて、どうするか、レーニン主義批判のためにレーニンの学習を始めつつ、それなりにレーニンの魅力のようなことも感じてきていることで、まだレーニン学習の途中で、結論的なことを書くことでないのですが、中間的なところで、とりあえずコメントしてみます。わたしはプロ独とかいうところから攻めるのではなくて、反差別というところで、ひとを殺す自由やひとを傷つける自由は認められない、差別する自由は認められないというところから、反差別の思想というところから、新しい世界像なり、世界観をつくりあげていくことではないと、考えています。
さて、抜き書きです。
ボルシェヴィズム「二十世紀において多数の被抑圧者を組織するにはいかにすべきか、そして、組織された大衆運動が効果があげうるような指導力とは何かということを問題にする立場こそ、この「ボリシェヴィズム」の立場であったのである。労働者が自分たちの革命のために農民や民衆を利用するのではなく、大衆の革命的な側面をどう組織するかということが第一に重要であるという認識がボルシェヴィズムの基礎をなしている。」37P・・・革命の防衛ということで、クロンシュタットの反乱を鎮圧したことをどう総括するのか? 防衛ということで、ネップを導入し、原理を踏み外していったこと、スターリン的な粛正を生み出していったレーニン主義の総括が必要になっているのでは?
レーニンのゴーリキイへの発言44P・・・政治に携わるものの不条理
「植民地支配の不合理については、欧米人がいかなる努力をもってしてもこれを徹底的に理解するということは不可能であるということである。」44P・・・当事者性の問題として当然、そもそも、「徹底的に」とは何か、理解が十全になどというのはありえない。しかし、反差別というところからのとらえ返しはなしていくこと。
「わたしたちは、自分がいかなる場所におかれているかということによって認識を制約される弱さをもっていると言えよう」45P・・・廣松さんのいう立場性と認識の制限の問題
「階級闘争ということは、理論的には、このような人間の弱さ、不完全さを前提にしたうえで、いかにして理想を実現するかということである。人間のこのような弱い側面を前提にして進むことが、結局は最も強い進み方であり、またその見地から、暴力の問題を完全に否定しないことが理想に近づく唯一の方法であり、逆説的に言えば、単なる理想を夢みて進むよりも、このような人間の現実から生じうる暴力を前提にしたうえで行動することが、結局は最も平和(・・・)な、最も犠牲の少ない進み方であるということにもなろう。」45P・・・レーニン的な現実主義、それがスターリンの粛正まで至ったことに、どこで歯止めをかけうるのか、もし現実主義的なことがどうしても必要であるとしたら、その弊害の歯止めになるのが、反差別の思想ではないか?
「帝国主義国自身の戦争が必至の時代と、人民の団結によって戦争がくいとめられる時代とである。平和運動が可能であるのは、戦争と平和の意味が人民に明らかにされていることを意味し、ここでは、二十世紀初頭のあらゆる分裂に対して、民主主義的連帯が感ぜられている。」49P・・・著者の思い
「われわれの戦術をそっくりそのまま写しとるのではなく、自分の頭で、戦術がどうしてこういう形をとったのか、その諸条件と結果をじっくり考えぬくこと、1917〜21年の経験を文字どおりに適用するのではなく、その精神、その意義、その教訓を生かすこと」51P・・・レーニンの判断の進め方、洞察

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レーニン「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」

たわしの読書メモ・・ブログ422
・レーニン「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」(『レーニン10巻選集第3巻』大月書店1971所収)
レーニンの集中学習、三論文目です。
社会民主党が第二回大会で分裂的情況になり、ボルシェヴィキ派が第三回党大会を開き、メンシェビキ派が協議会を開いたところで、その二派のツァーリーの専制政治を打倒する民主主義革命を巡る戦術の違いを巡る論争の文です。
メンシェビキ-新イスクラは、民主主義革命において、共和国の臨時政府ができても、その政府の中に入るべきではないとか、蜂起などということを持ち出して専制政治に反対するブルジョアジーを萎縮させてはならないという、日和見主義に陥っているのですが、レーニンはそれらを批判して、来たるべき革命は民主主義革命だけれど、と断り書きを入れた上で、それでは、そもそも共和制の民主主義革命さえもできえない、ブルジョアジーは常に妥協していく、闘い得るのはプロレタリアと農民の勢力で、それが先導する革命しかありえないと書いています。そのためには臨時革命政府へ入るという選択肢を示しています。
これが、いわゆる二段階革命論で、後に1917年の2月革命が起こり、4月テーゼで社会主義革命を突き出して、10月のロシア革命に至るのですが。兎も角、レーニンのその場その場で状況をとらえ、方針を出していく政治の原型のような文です。
もうひとつ、ここで、プロ独ということが問題になっています。独裁政治と結びつくとして、批判されているのですが、それは誤解として、クーデター的にひっくりかえれないために、何と何を押さえるかという意味での、プロレタリアートと農民大衆による民主的独裁という押さえ方です。このあたりは、結局党の独裁に結びつく問題とか、武装蜂起による革命論としてプロ独の問題が出ている事の中で、革命のイメージをどのように作り上げていくかの問題につながっているのだと思います。民衆の直接行動で政権を潰した後に、クーデターも含めさまざまな巻き返しが出てくるときに、それを防ぐためにどうするのかという問題を考えておかねばならないのです。このあたりの整理、一応レーニンの国民文庫分になっている文を先に読み進めます。
抜き書き
「政治的民主主義の道をとおらずに別の道をとおって社会主義にすすもうとするものは、かならず、経済的意味でも、政治的な意味でも、愚劣で反動的な結論に達する」41P・・・まさにロシア革命が陥ったこと。
「政治的自由や階級闘争の大問題を解決するのは、結局力だけである。」42P・・・障害問題で高杉真吾さんが、「軍事を問題にする党派は「障害者」に対して差別であることから抜け出せない」というようなことを書いていたのですが、クラウゼビッツ戦争論からすると、「戦争とは別の手段をもってする政治である」という意味で、政治党派そのものが、力の論理にとらわれ、効率性の論理にとらわれ、障害差別的なところから抜け出せるのかの問題があります。そのあたり、青い芝の横塚さんの「はやく、ゆっくり」というところから、むしろ「障害者運動」からそのあたりを突き崩す「政治」の突き出しもあるのではと思うのです。
「上からの行動」42P・・・「下」からの防御的行動だけでなく、意図的な計画された行動
「プロレタリアートは、力で専制の抵抗を押しつぶし、ブルジョアジーの動揺を克服するために、農民大衆を味方に引きつけて民主主義的変革は最後まで遂行しなければならない」106P
「任務の困難なことが問題なのではなく、任務の解決をどの道に求め、どうやってその解決を達成しようとするかが問題なのだ」107P
「われわれはあえて勝利すべきであろうか?」・・・「日和見主義者」の問いかけ112P
「われわれの場合問題になっているのは社会主義的な変革ではなくて民主主義的な変革だという点である」112P・・・同上
「革命という概念と独裁という概念をこっそりとすりかえた」というレーニン対する批判に126P、むしろはっきりと、独裁ということの必要性を突き出しています。
革命的民主主義的独裁131P
プロレタリアートの独裁への精細なコメント―「あとがき V 独裁の俗流的・ブルジョア的説明とマルクスの独裁観」132-141P

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レーニン「一歩前進二歩後退(わが党内の危機)」

たわしの読書メモ・・ブログ421
・レーニン「一歩前進二歩後退(わが党内の危機)」(『レーニン10巻選集第2巻』大月書店1970所収)
レーニンの集中学習、二論文目です。
この本のタイトルは有名で、これは運動的スローガンかと思っていて、おかしなスローガンだと思っていました。サブタイトルも含めて見ると分かるのですが、ロシア社会民主労働党第二回大会の混乱とその後の分裂的情況を整理している論争の文です。レーニンのいう「革命的翼」、党大会で結果多数派(ボルシェヴィキ派)となる(これ自体にかなり動揺・逡巡があるのですが)グループからする、「日和見主義的翼」への批判の文です。この「日和見主義的翼」自体も、途中で脱退したひとも含んだ最初から経済主義などの日和見主義派としてとらえられていた部分と、社会民主党に残った少数派(メンシェヴィキ派)と、様々な分岐が起きています。その党大会を巡る分岐過程の論争の書です。
それまで、「イスクラ」という機関紙的なところでレーニンはグループを作っていて、党自体がサークル的集まりでしかなかったところから、党的なところに飛躍させんがために、規約一条で中央集権制(今で言う民主集中制とつながることですが)を引かんとし、「イスクラ」を中央機関紙にせんとしたのですが、規約一条では少数派になって敗北し、さらに「イスクラ」を中央機関紙にはしたものの、旧「イスクラ」編集局にいた部分が「日和見主義」的に抜ける事態になり、分裂をさけるためにとレーニンと一定同調的に動いていたプレハーノフが動き(「ミイラとりがミイラになる」というように「日和見主義」になるのですが)、結局レーニンが新「イスクラ」編集局から自主的に抜けるという事態になり、二歩後退となった、ということです。しかし、「日和見主義」批判ということを突き出し、党中央委員会を握り党多数派になり、革命的に党を飛躍させたということで、一歩前進という意味のようです。運動は敗北の積み重ねであり、その中から何を勝ち取るかという意味のスローガンにはなるのですが。
さて、そこで、レーニンはフランス革命の時のジャコバン派的だとか、官僚的専制主義とか、戒厳状態とか、辛辣とか、戦闘的性向とか、散々に批判されているのですが、これをどうとらえるのか、弾圧にさらされるロシア専制的ツァーリズム下において、しかも武装蜂起とかプロレタリア独裁ということで、動いていた中での、強力なリーダーシップで革命に結びつけた、ロシアにおける特殊事象として押さえるのか、それとも、政治がもたざるを得ないところ、力のせめぎ合いの中で、集中制なり、「独裁」というようなことが必要になるかという問題があります。兎も角、プロレタリアートという言葉自体が労働運動の衰退の中で死語になりつつある観があります。ネグリ/ハートが「マルチチュード」という言葉の突き出しをしているように、革命主体ということ自体のとらえ返しの問題も出ています。わたしは、「マルチチュード」という言葉を、労働者(労働力の価値というところで差別されるひとたち)ということも含んだ被差別者というところでとらえ返そうとしています。そういうところで、反差別運動ということが、差別の構造というところから根源的矛盾をとらえ返し、さまざまな対立を越える運動の統一を生み出し得るのではという思いももっています。
そもそもレーニン主義批判のために、マルクス―レーニン主義の総括の問題として、レーニンの集中学習をしているので、大体を読み終えるところまで、結論を先送りにして読み進めます。概観のコメントと抜き書きでメモりつつ。
さて、抜き書き。
「民主主義的諸原則の絶対的価値」批判としての中央集権制207P・・・プロ独から党独裁への道? 民主主義の制限も必要になるという論理
中央集権制における中央機関紙の役割221P・・・「組織作りは新聞から」
組織237-8P
なんのための活動か289P
「戒厳状態」299P
インテリゲンツィア298-300P・・・被差別ということをもっている者としてもとらえる
「官僚主義」という批判への反批判336-341P・・・民主集中制、組織の論理
「辛辣さ」345P
「戦闘的性向」345P
「君をほめるものの名を聞けば、君がどういう誤りをおかしたかがわかる」347P
サークルと党364-5P
下から上へではなく、上から下に376P・・・規約一条との関係につながっている
対立とそのゆくえ380-1P
弁証法381P・・・エンゲルスのヘーゲルへの先祖返りの弁証法
「一歩前進二歩後退」384P・・・敗北の中で何を勝ち取るか
プロレタリアと組織384P

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