2020年01月18日

A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』

たわしの読書メモ・・ブログ523
・A.R.ホックシールド/布施 由紀子訳『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』岩波書店 2018
この著者は、「フェミニスト社会学の第一人者」で、リベラルな学者なのですが、南部の共和党支持者がどうして、共和党右派を支持するのかということを探りに、つてを頼ってルイジアナ州レイクチャールズ市を中心とする現地にでかけ、芋ずる式につてを頼り、インタビュウや参加観察という手法で、分析をしてなした著書です。丁度、研究をしているときに、トランプの選挙戦が始まっているとき、どうしてトランプ政権が成立し得たのかということの分析にもなり、アメリカの中でもかなりの評価を受けている書なのです。
 ルイジアナ州は石油関連施設が作られ、一方では有数の貧困州、アメリカ中央政府から州の予算の44%の支援が入っているのですが、小さな政府という共和党の支持をしている赤い州(ちなみに民主党の支持の州は青い州と呼ばれています)なのです。そして、石油関連施設を州政府が誘致して、そこで大規模な地盤沈下、環境汚染が起きているのです。ここでは「がん回廊」と呼ばれるほど、がんが多発しているのです。また遊泳禁止や釣り禁止の立て看を立てて規制するところなのですが、この規制を住民が嫌い、「がんにならないような魚の調理法」とかいう本末転倒のことが流布していくなどのことが書かれています。これを著者は(環境破壊という)鍵穴から地域社会見るという概念でとらえ返そうとしていて、一部のひとはそこから訴訟とか起こし、自らの右派の地盤を揺るがしてはいるのですが、それでも資本誘致や優遇政策を州政府が進めていて、共和党支持者はそれに乗り、批判がちゃんと起きないのです。それで、福祉を受給する人たちへの批判が「列を乱す者」として出てくるのです。
 この本の、キー概念は、ディープ・ストーリーです。この地域には、ケイディアンという、カナダのフランス系ひとたちが、イギリスのカナダ支配の中でカナダを追われて、たどり着いたひとたちがかなりいて、差別の中でいきてきて、アメリカン・ドリームを夢見て生きる、そしてそれなりに地位を得たひとたちが、もっと下層のひとたちが福祉を受けることを批判する差別構造の中で、小さな政府の共和党支持をしていくということがあるのです。また、南北戦争の南部連合の北軍・中央政府への批判もその深層にあるという、論理ではない、感情的なことが表面に出てくる、ディープ・ストーリーなのです。さらに、現実の問題に向き合うことの中で、保守ではないリベラルな思考が出てくるのですが、そこは、キリスト教的なすべてを「神の思し召し」ということや、神の国での幸せを願うというところで、現状改革を回避していく思考が出てくるのです。
 著者はこのひとたちのディープ・ストーリーをつかむ中で、そのひとたちの心性をつかみ、リベラルな思想は維持しつつ、その心性をとらえ返しているのです。
さて、この本を読みながら、日本にも同じような事が起きているとの思いを抱きました。たとえば、環境破壊について語らないようにしている共和党支持者は、フクシマにおける放射線被害を語らない中で、保守志向を維持していくこと。福音派のテイーバーティと国家神道の日本会議の対比をしていました。「列を乱す者」という批判は、部落解放運動の中での特別処置法への「ねたみ差別」に呼応するヘイト発言にもつながっています。
反差別論をやっているわたしの立場からすると、被差別者が差別に対峙しえず、差別的心性にとらわれていく情況をさぐる貴重な書です。まさに論理にならない感情的なところで、出口が塞がれてていると感じて、そこからあらゆる差別的な心性にとらわれていく構造があるのです。差別されるひとが、さらに差別するひとを探し差別を転化していく構図があります。それは、結局大きな差別の構造の中で、自分自身の不利益にしかならないのですが、それは論理の問題で、感情的なところで差別するひとを探す、いわゆるスケープ・ゴート的な差別の転化の構図がそこにあるのです。そもそも、この書でもあるのですが、差別ということを、きちんと言葉化して、差別の構造そのものに対峙する、分断を超える運動を作り出していくことがいまこそ必要なのです。
この本はおすすめの本です。読む習慣があるひとは、ぜひ、図書館でも探して・リクエストして読んでみてください。
あとは、キーワード的な切り抜きメモの中で、コメントを残します。
「わたしたちは、川の “向こう側”の人に共感すれば明快な分析ができなくなると思い込んでいるが、それは誤りだ。ほんとうは、橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれるのだ。」xiP
「共感を阻む壁」8P
「今では人種より、“愛党心”と呼ばれるもののほうが、対立につながる偏見を生みやすくなっている。」10P
「大きなパラドックス」9-25P
ルイジアナ州は多くの苦難にさらされている州、連邦政府の支援も大きいのに、連邦政府(当時は民主党)批判、大きな政府批判の立場14-15P
青い州―赤い州16P
「メディケイド[困窮者と身障者を対象とする医療扶助制度]やフードスタンプ[食料購入費の給付制度]を必要とする赤い州の住民たちは、これらの仕組みを歓迎するが、投票には行かない。しかし少し上の階層[マクギリスは一、二段階上としている]にあたる白人保守派はこうした制度を必要とせず、必ず選挙に行く。そして、貧困層のために公的資金を使うことに反対票を投じるのだ。」16P
「政府のサービスに反対票を投じる当の富裕層が、そのサービスを利用している」17P
「あるんだから、使わない手はないだろう?」というティパーティー支持者17P
「マクギリスは、投票者は純粋に自分の利益のためだけに行動するのだと述べている。」17P・・・?自分の利益をどこに見ているのかということによって違ってくるはず、保守派には言える。
「わたしは本書のテーマの核心に通じる“鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)”とも言うべき問題にたどり着いた。それは環境汚染だ。」18P
「近年右派の台頭が著しい地域は、ほとんどすべてがメイソン=ディクソン線[一八世紀に植民地間の領有権紛争を解決するために定められた境界線。のちに米国を南北に分かつ境界線になった]以南に位置している。南北戦争時に南部連合に参加した州を含む地域で、米国の人口の三分の一を占める人々がここに暮らしている。」18P
南部の人口は増え、南部の白人が民主党から共和党支持に移行し、全国的にも白人の共和党支持が増えている。「だから右派を理解したければ、南部の白人を知る必要があると思ったのだ。」18P
「米国議会下院のティパーティー議員連盟に加入しているルイジアナ州選出議員の数は、サウスカロライナ州に次いで二番目に多い。」18-9P
「がん回廊」21P、353P
「どういう経緯そんなこと(企業の利益の論理や富の集中の論理、エリート主義への批判)になるのだろう。頭の回転がよくて、疑問に思うことは必ず確かめ、情報収集を怠らない人でも欺かれるのだろうか。」22P
(ウッダード)「わたしたちが所属する小集団には、しはしば政治と地理を結び付ける特殊な統治文化が反映される。」22P――「もちろんウッダードの言うほど流動性を欠いたものではない。」23P
「右派の倫理観を指摘する見解もある。・・・・社会学者のシーダ・スコチポルとヴァネッサ・ウイルアムソンは、それは複数の状況――下地となる要素と、促進する要素――が独特の形で影響し合って生まれるものだとしている。後者のおもなものは、二〇〇八年の大不況と政府の対策、バラク・オバマ政権、それにFOXニュースだったという。」23P
「どの研究もたいへん参考になったが、わたしにはひとつだけ、どの研究にもないものを見つけた。それは、政治における感情というものの理解だ。」23P・・・わたしは感情を差別的心性というところから読み解こうとしています。
「いまは左派でも右派でも、“感情のルール”が働いている。」24P
「わたしは、その人にとって真実と感じられる物語――これを“ディープストーリー”とよぶことにする――・・・」24P
「ディープストーリーはわたしを、「持つべき」感情と「持つべきではない」感情との向き合い方、さらに、人々の心の核にあって、カリスマ的指導者に動かされる感情に、目を開かせてくれた。これからご紹介するように、誰もがディープストーリーを持っているのである。」25P
「ティーパーティは単に公認された政治集団ではなく、ひとつの文化なのだと気づいた。」30P
「わたしが話を聞いた人はみんな、クリーンな政府を望んでいた。だがルイジアナでは、大きなパラドックスが真正面からわたしをにらみつけてきた――そこでは、深刻な公害に苦しむ人々が、その公害を撒き散らす張本人を規制することに猛反対していたのだ。」32P
「マドンナ(ゴスペル歌手のマドンナ・マッシー)はリベラルが自分や祖先に投げつけてくる侮辱の数々を、リンボー(リベラル批判のコメンテーター)が強固な壁となって跳ね返してくれたように感じたのだ。」36P・・・被差別のディープストーリーが反差別とならず、単なる被害者意識にとどまるところからくる差別へ転化する感情
「ティパーティーの支持者は、三つのルートを通じて、連邦政府きらいになるようだ。ひとつ目は、信仰(彼らは政府が教会を縮小したと感じている)、ふたつ目は、税金への嫌悪感(あまりに高すぎ、累進的すぎると思っている)、そして、三つ目は、これから見ていくように、名誉を失ったショックだ。」51P・・・公務員と生活保護を受けているひとをスケープ・ゴートにする批判へと向かっていく
「じつは、(「列をみだすひと」を批判している勢力にいる)リーとミス・ボビーは社会保障年金で暮らしていて、・・」52P
「右派の人々を強く動かす関心事は、税金、信仰、名誉の三つであるらしい。」67P・・・プライドということの差別に働く心性をとらえ返す
「みんな、このあたりには“釣り遊泳禁ず”という看板すら立ててほしくないんです」69P・・・福島で、フクシマの放射線被害が語られなくなっていることに通じる事
「ノスタルジア[望郷、郷愁]」70P・・・これに非常に強力にとらわれた過去の歴史、それだけ強い思い、ディープストーリー
「町では、いたるところで、環境と自然のどちらを取るかということが話題になっていた。」73P・・・本来、二者択一になることではないことがなるというところで、批判に向かわない情況
「構造的忘却[structural amnesia]」73P・・・ある特定のことを忘れ、別のある特定のことを記憶すること→「社会の成り立ちに関係している」「記憶は、権力による間接的な発言」74P
「階層の上に行くほど、処罰を免れる確率が高くなり、下に行くほど低くなる。環境規制はそのようにできているらしい。」75P
「わたしは、見えないものに気づくことにより、自分が見たい状況に深く切り込もうとしていた。それはネガを調べて、写真を理解しようとするのに似ていた。わたしは、人が覚えていることや感心を示すこと、言葉にしたことではなく、彼らが忘れたことや無視していること、口にしないことに焦点を置いた。わたしは自分が“ディープストーリー”と呼ぶ物語へと手を伸ばし、人の意識の中にしまい込まれたものに光をあてようとしていた。」81P
「健康が損なわれることや人生が台無しにされることなどを問題にしないで「その男性は、働かない者――何ももらう資格のない者――にただで税金をくれてやるのはいやだと感じていたのだった。」87P・・・さらに、健康を破壊する企業に優遇処置をするのはかまわないというとんでもない考え。
「この亀裂(前のこと)が感情の引火点であることに何度も気づかされることになった。」88P
「おもに白人男性の好むもの(酒、銃、オートバイのヘルメットなど)については、規制がかなりゆるい。しかし女性や黒人男性に対する規制はもっと厳しい。」99P
「だがここの人々が規制について腹立たしげに語るときには、中絶クリニックや刑務所のことを思い浮かべているのではないのだ。彼らの頭にあるのは、政府が買えと言っているもの(蛍光電球やLED電球など)のことだ。」100P
(共和党関係の集会で)「わたしは自由という言葉を頻繁に耳にした。車を運転しながら携帯電話で通話をする自由とか、ストロー付きのダイキリをドライブスルーで買う自由とか、装填した銃を携帯して出かける自由といった意味で言及される“自由”だ。しかし、銃暴力や、自動車事故や有毒物質による環境汚染からの“自由”はまったく話題にのぼらなかった。」103P
「わたしは、汚染浄化を訴える“声なき声”を聞き取ろうとしすぎていて、仕事が第一だとはっきり叫んでいる大きな声を聞いていなかった。」104P
 地元の利益という幻想106-112P
「おそらく、ルイジアナ州の石油は、保守派が牽引してきた経済成長戦略――社会学者のキャロライン・ヘインリーとマイケル・T・ダグラスが「邪道」の戦略と呼んだもの――の象徴だったのだろう。」111P
「アメリカでは仕事かきれいな環境か、どちらかひとつしか選べないという考え方――よい仕事に恵まれるかどうか不安に思う右派の無理からぬ気持ちにつけ込むような刷り込み――」111-2P
「規制の厳しい経済圏ほど、多くの就職口があることがわかったのだ。」112P
寄付というごまかし112-3P
「二〇一〇年のデータでは、有毒物質による汚染が深刻な郡に暮らす人ほど、アメリカ人は環境汚染を「心配しすぎている」と考え、国は「十分すぎるほどの」対策をとっていると信じる傾向が顕著だった。」114P
「わたしが全体像をのぞき見るための鍵穴(キーホール・・・原文はルビ)としたテーマ――全国の汚染問題――でも、それが立ち現れた。米国全体のストーリーを見ても、ルイジアナ州は決して変わり種などではなかったのだ。」115P
「「住民にとって望ましくない土地利用」にあまり抵抗を示さない地域を見つけ出す」116P
→パウエルの描き出した「抵抗する可能性が最も低い住民特性」――・南部か中西部の小さな町に古くから暮らしている。/・学歴は高卒まで。/・カトリック。/・社会問題に関心がなく、直接行動に訴える文化を持たない。/・採鉱、農耕、牧畜に従事(報告書では「天然資源を利用する職業」と呼ばれている) 。/・保守的。/・共和党を支持。 /・自由主義を擁護。」116-7P
「彼らを取り囲み、彼らに影響を与えている社会的地勢に、何かほかの方法で身を置いてみる必要があった。そうした地勢を形づくつている要素には、産業、州政府、教会、報道機関が含まれる。」118P
「そもそもわたしたちは、アメリカ化学協会が約束しているような新しいブラスチックをほんとうに必要としているのだろうか。」131P
6章――ハーディー・ウエストレイク市長・・・アメリカンドリームののし上がり、地域ボス
7章――バイユーコーンのシンクホール(陥没穴)
「お金のことしか頭にないのだ。」155P
「産業が州当局に守られてしかるべきだという文化」156P・・・住民への援助が嫌いなのに、企業への援助は可という信じられない文化
州のひとつの部局者の文書――汚染されている可能性のある魚の食の規制ではなく、調理法を書いている157-8P
「お困りのことがあるんですか。慣れてください。」158P
 公務員をスケープゴート的に批判しているひとが、公務員の仕事についてのコメント――「わたしだったら、とてもあんなふうに生きられない。」159P・・・公務員の仕事が大変だという主旨
「市場の自由が完全に保証された世界と、地元のコミュニティとかうまく共存できるものだろうか。」――「ジンダル(州知事)は公共サービスを削減し、環境保護費を減額して、産業びいきの“保護策”をうち姿立てた。州政府は、バイユーコーンの住民を守る機能をまったく果たさなかった。」159P
「さまざまな側面を探索したわたしは、よい政府のあるべき姿がはっきり見えたと思った。しかしわたしの新しい友人、マイクは、汚染された魚の処理方法を助言したところにより小さい政府のあるべき姿をはっきりと見ていた。」160P
「社会学者のソースタイン・ヴェブレン[一八五七―一九二九]も、貧困からの距離は名誉につながると述べている。」162P・・・昔の学者の考え
「社会層には言及せず、黒人のことをできるだけ遠まわしにぼかして話そうという細やかな気遣いはするが、不安をまじえてイスラム教徒の話をするときにはあからさまにずけずけとものを言う。」163P
「右派の目には、連邦政府が一丸となって、誤った――裏切り者の――側に加勢しているように見えるのだろうか。」164P・・・裏切り者――後に出てくる「列を乱す者」やリベラル派
「それでも、マドンナの世界観では、財産は警察が守ってくれて、プライドはラッシュ・リンボーが守ってくれ、そのほかのことは神さまがまとめて面倒を見てくれるらしい。」173P
「でももし、アメリカンドリームとカメのどちらかを選ばなくちゃならないとしたら、むろん、わたしはアメリカンドリームをとるわ。」173P・・・アメリカンドリームはまだ生きている? 二者択一の思考?
「米国福音派教会は、アメリカの有権者の四分の一を占めるキリスト教徒三〇〇〇万人の声を代表する。政治的な主張を持った宗教的右派の主導組織だ[特定の宗派ではなく、保守派のプロテスタントによって構成される]。」174P
「バイスナー(アクトン宗教・自由研究所非常勤研究員、福音派のスポークスマン)は、旧約聖書の創世記第一章第二八節を引用した。「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて他を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」」と。」175P
「携挙」(――携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。<ウィキペディア>)176P・・・これを信じるなら政治的議論はおよそ成立しない
「オートメーションと企業による自社業務の海外移管が進んだことにより、高卒のアメリカ人男性の実質賃金は、一九七〇年に比べて四〇パーセントも減少している。労働者の九〇パーセントに関しては、平均賃金が一九八〇年以降横ばいのままだ。年配の白人男性の多くは希望を失っている。」178P
「FOXニュースを家族のように思っている人もいる。」179P
「そのティパーティーの支持者には、クリスティアン・アーマンプール[CNNの国際特派員を務めるイラン系イギリス人ジャーナリスト]が暗に自分を責めているように感じられたのだ。どんな人を気の毒に思うべきか、リベラルの感情ルールを押し付けようとしている、と。」182P
「しかもわたしたちは誰もが、自分のディープストーリーを持っているのだ。」183P・・・深層心理的感情的思い、対話が難しい
「彼らの経済を支配している産業は、明らかに矛盾した物語を提示しているのだ。・・・・彼らは犠牲者としての言葉を持たない犠牲者なのだ。」186-7P
「でもわたしはそうした問題をでっちあげようとしていたわけではない。そこにあったのだ。環境汚染が。健康問題が。そして教育問題と貧困が。」187P
「すべての根っこは、構造的忘却にあるのかもしれない。」187P・・・「構造的忘却」という、これもキーワード
「ディープストーリーとは、“あたかもそのように感じられる”物語のことだ。」191P・・・感情的物語
「わたしは話を聞いた人々の希望、恐怖、プライド、屈辱、怒り、不安を――暗喩として――あぶり出すために、このディープストーリーを描いてみた。」192P
「列に割り込む人々」194-7P・・・「ねたみ差別」に通じる
「一九五〇年以降に生まれた人は、そうはいかなかった。それどころか、経済学者のフィリップ・ロングマンが言うように、彼らはアメリカ史上はじめて、生涯にわたって下降移動続けた世代となった。」200P
左派、「上位一パーセントの最富裕層と残り九九パーセントとの闘いに焦点を置く」212P
右派、「税金を“払う者”と“奪う者”という文脈で“不当”が語られる。」213P
「左派の怒りの発火点は、社会階層の上部(最富裕層とその他の層のあいだ)にあるが、右派の場合はもっと下の、中間層と貧困層のあいだにあるわけだ。左派の怒りの矛先は民間セクターに向けられるが、右派の場合は公共セクターである。皮肉なことに、双方とも、まじめに働いたぶんの報酬をきちんともらいたいと、訴えている。」213P
「彼らにとっては自由市場は、アメリカンドリームに通じる列に並んでいる善良な市民の揺るぎない同盟国であり、連邦政府は、不当に「割り込んでくる」連中に加勢する敵国だったのである。」213P
「企業が力をつけたことで、労働組合や政府の抵抗も少なくなった。そこで彼らは、誰はばかることなく、最高幹部や大株主に利益を多く還元し、労働者に少なく配分できるようになったのだ。」213-4P
「皮肉なことに、大手独占企業のために苦境に陥る可能性が最も高い経済セクターは、中小企業なのだ。しかもその多くは、ティパーティーを支持する人々によって経営されている。」214P・・・利益共同という共同幻想
「この“耐える自分”の表れ方に三つの明確なパターンがあることを発見しつつあった。わたしはそれぞれのタイプを、“ゲームプレイヤー” “信奉者” “カウボーイ”と名付けようと思う。」220P
「誰もが彼女のように懸命に働くのが、よりよい社会なのだと思っている。」224P・・・右派の考え
「連邦政府がおもに貧困者救済用として、ルイジアナ州の予算の四四パーセントを負担していることについては、むしろ返してしまいたいくらいだと言う。」227P・・・右派の考え
「ルイジアナが人間開発指数では五〇州中の四九位、健康全般では五〇位にランクされることと、右派が連邦政府の支援に抵抗を感じることのあいだには、なんの矛盾もないのだ。働かない者は、それなりのランクに甘んじればいいのだから。」237P・・・右派の考え
「その彼か彼女がね、もし偏見を経験していなければ、もっと楽に成長期を過ごせただろうと言ったときに、わたしは、チャズに自分の生き方を押し付けられたと思ったのよ。」231P
・・・異なる意見の表明を「押しつけられる」と感じる図式
「メーカーはわたしたちが必要とするものを作っている。ソーダのボトルや、ゴム底の靴や、歯磨き粉は必需品よ」231P――@ほんとうに必要なものなのかA代替え品(方法)はないのかB環境汚染を防いで作る方法はなかったのか(たいていは金儲け主義で、対策をケチったことで起きていること) ・・・フクシマのときの電気の話
「人は、アメリカンドリームに向かう次のステップを強く望みすぎてはいけない。」248P・・・現実的願望をあおりたて、宗教心で抑制する構図
「ひとつの願いをあきらめれば、もっと大きな願いがかなうことに、ジャッキーは気づいた。」250P・・・そういう場合もあるという話だけ、宗教によるごまかし
「われわれに必要な真の強さは、企業と全知全能の“ドル”に立ち向かうことだ。」269P
・・・フロンティアスピリッツ的なカウボーイからの転身
 三つのディープストーリーの体験371P
「しかしわたしは、ルイジアナ州南西部に暮らす年配の白人保守層――チームプレイヤー、信奉者、カウボーイ――は紛れもない犠牲者だと思う。」271P
「環境汚染に対しては、カウボーイのように耐えてはならない、と言いたいようだ。カウボーイのように闘え、と。」276P
「企業が一般住宅の前庭に、自由にメタンガスを噴出させている状態で、人々にどれほどの自由があるというのだろう。ティパーティーはこの問いにどう答えるだろう。マイクはこの疑問に直面していた。」277P
環境破壊のすさまじさ――がんの多発289P
「「アメリカの政治文化においては風土的とも言うべき大衆の衝動が高揚し表現される」現象が何度も生まれてきた。ティパーティー運動はそのひとつなのだ。一九世紀、二〇世紀には、政教分離論や現代性、人種統合、専門家文化に抵抗して、さまざまな運動が起こった。しかしティパーティーほど強力に、進歩的改革への反対、連邦政府の排除というふたつの目標を掲げた運動――ディープストーリーを反映した活動――はなかった。」293P
「年配の白人男性の居場所はどこに残っているだろう。理念としての公正さは、彼らには無縁のものと思われたのだ。」303P
「しかし――忘れられてはいるが――連邦政府のお金は途切れることなく北部から南部へと流れているのだ。」306P
「トランプは“感情に訴える候補者”だ。」319P
「“自国に暮らす異邦人”」からの脱出320P・・・トランプに呼応する保守派の心理
(エミール・デュルケーム)「集合的沸騰」320P・・・トランプに呼応する保守派の集合心理
「デュルケームの目で見れば、ドナルド・トランプを取り巻いて興奮する集会のほんとうの機能は、「列の前方に割り込む人々」がとんでもないアメリカを作ろうとしていると恐れる福音派の熱心な信徒をひとつにまとめることなのだ。」320P・・・デュルケームのいう「トーテムの機能」
「わたしは、感情的利益――自国にいながら異邦人であると感じる感覚からの、めくるめく解放感――がきわめて重要であることを発見した。」324P
「わたしのティパーティー支持派の友人たちは、決して自分たちを“犠牲者”と呼びたがらない。「かわいそうなわたし」にはなりたくないのだ。」329P
「しかし、左派の人々とあなたがたとのあいだには、意外なほど共通点があるかもしれません。なぜなら、左派の多くもまた、自分の国に暮らしていながら、異邦人であるかのような感覚を味わっているからです。」334P・・・右派のひとたちに手紙を書くとしたらと想定した手紙の最後の文面、資本主義の矛盾がそもそもの原因だから、次のメモ参照
「左派はと右派は、たがいに異なるディープストーリーを持ち、異なる葛藤に苦しみつつ、それぞれの状況下で自分は不当に扱われていると感じているのだ。左派は民間セクターの最富裕層を形成する一パーセントと、最下層生み出しつつある九九パーセントに目を向ける。リベラルにとっての発火点ここだ。右派は公共セクターを、増加の一途をたどる怠け者の“受給者”のサービス窓口だとみている。ロバート・ライシュは、せめぎあいは別のところにも――小企業が動かしているメインストリート資本主義とグローバル資本主義とのあいだに、自由競争的資本主義と独占資本主義とのあいだに――存在すると述べている。「従来、アメリカの政治にとって重要な断層線は、民主党と共和党のあいだを走っていたが、今後は、エスタブリッシュメント[既得権を持つ上流層]と反エスタブリッシュメントのあいだへと移行するだろう」この線はいずれ「ゲームに不正があるとみる人々と、そう思わない人々とを」分断するだろう。」335P
「付記B 政治と環境汚染――TOXMAPからわかったこと」
「その結果、極めて興味深いことがいくつかわかった。相対的危険度の高い郡の住民ほど、「人類の進歩が環境を損なうことについて、人々は心配しすぎている」という設問に同意する傾向が強かった。つまり、環境汚染への曝露量が高い地域ほど、個々の住民がそのことに不安を感じていなかったのだ――そして、「強力に共和党を支持する」と答える傾向が顕著であった」358P・・・パラドックス
「結局、赤い州のほうが青い州より汚染が深刻だった。投票する、しないにかかわらず、保守派で共和党を支持する人は、環境など問題ではないと一蹴し、その影響に苦しみながら、高レベルの汚染にさらされて暮らす傾向にある。全国で見られるこの政治と環境をめぐるパラドックスが、ルイジアナ州では、極端な形で表れていたのだった。」358-9P
「付記C 右派の共通認識を検証する」・・・右派の予断と偏見――12項目
▼「政府は福祉[生活保護費を指す]にお金をたくさん使っている」
▼「福祉給付金の受給者が増えている。受給者は働いていない」
▼「福祉給付金の受給者は、われわれ納税者の金に全面的に頼って生活している」
▼「貧しい人はみんな給付金をもらっている」
▼「黒人女性は白人女性よりもたくさんの子を産む」
▼「多くの人――四〇パーセントくらい――が連邦政府や州政府で働いている」
▼「公務員は給料をもらいすぎている」
▼「環境規制が厳しいほど、雇用は減少する」
▼「経済的優遇措置を準備し、規制をゆるめないと、石油・ガス産業はどこかよその地域に拠点を移してしまう」
▼「州が産業に助成金を出すことは、雇用拡大に役立つ」
▼「石油がほかの分野の経済を刺激する」
▼「共和党大統領のほうが絶対に経済は良好だ」
 メモ、「ファストフード業界で働く人」「保育士」「介護ヘルパー」で給付金受給を受けるひと、いずれも五〇パーセン前後→「“企業助成金”と呼ぶ人もいる。」361P
「訳者あとがき」
「事実であるかどうかはともかく、本人がこうだと感じている、彼らの人生の物語が浮かび上がってきたのだ。著者はそれを“ディープストーリー”と名付けた。まじめに働きさえすれば、いつかは自分もアメリカンドリームをかなえられると信じ、辛抱強く列に並んで待っていたのに、現実はそうではなかった。産業のグローバル化、自動化が進んで働き口が減り、勤めていても給料は横ばい。そこへ次々と列の前に割り込む者が現れた……。」370P
「ページの端々から、人に出会い、つながる喜び、友人たちの思いを届けたいと願う静かな熱意が伝わってくる。著者自身がしなやかに壁を越えてみせているのだ。/考え方は異なっていても、共感を阻む壁をはさんで言葉を交わすことはできる。手をとりあうことさえできるかもしれない。希望を捨てずに対話を続けてほしいと、この本は語りかけている。」371P・・・そんな簡単なことではないことは著者自身がわかっていると思うのですが。
「原注」
 いろいろ資料的に押さえておくことがあるのですが、ひとつだけ。
「ノルウェーでは、「石油企業は国の天然資源確保に貢献するが、石油は最終的に国のものだ」という前提で、すべてが運営されていると説明する。」45P(注は、後ろからのページ)・・・資源はみんなのものという当たり前の論理が、なぜ企業所有になっていくのか?


posted by たわし at 02:01| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』

たわしの読書メモ・・ブログ522
・『情況 2019年 07 月号 [雑誌]特集 政治とは経済なのである』情況出版 2019
最近、「反緊縮」というところでの経済理論が出て来ていています。異端としてとらえられていたようなのですが、あちこちで目にするようになってきました。で、雑誌で特集を組んでいたので、一応押さえておきたいと、特集をだいたい読みました。今回のメモは、読書メモというよりは、そこからかなり離れたこの理論に対するわたしの対話です。
 資本主義社会の法律概念では、「基本人権」ということがあり、これはお金がないということで「基本的人権」に関わることにお金出さないとか、削減することはあってはならないはずで、だからこそ、「基本的人権」というのだと思います。こういう意味での「反緊縮」ということには大賛成です。
 「緊縮」といえば、小泉構造改革を想起します。ここでは、「聖域なき構造改革」で、福祉削減にまで手を出しました。アベ政治では真逆のアベノミクスなる経済成長戦略を出したのですが、福祉に関する事だけは、切り捨て、削減、頭打ちを続けています。真っ先にやったのが最後のセフティネットと言われる「生活保護の見直し」でした。一方で、「異次元の金融緩和政策」をやり、福祉は切り詰めるという、まさに、お金持ち・大企業優先政策をやっているのです。こういうアンビバレントな政治であるということを押さえねばなりません。もちろん、「反緊縮」ということで想起され反発されるのは、かつての「土建国家」と言われたような公共事業への、まさに企業のための事業を企画し、一度お金が付くと(後でいろいろ問題点がはっきりしてきても)止まらないというようなことをやってきたわけで、それが長く自民党政治を支えてきたという側面がありました。アベノミクスの「金融緩和政策」でも、結局、トリクルダウンとか言いつつ、いろいろ操作したあげく、実質賃金はあがらず、大企業が内部留保を貯めたという事に収束しています。
アベノミクス効果などということを言っていますが、財政出動をすればそれなりに経済が上向くのは当たり前で、逆にいうと、それだけ出動したのに、効果がほとんど上がっていないのです。雇用率が上がったという話をしていますが、それは専業主婦ということが一部お金持ち以外にありえず、子育て支援をしてこなかった結果少子高齢化をもたらし、若年層の労働者が減り、高齢者になっても仕事を続けざるをえなくなっているという総体的相対的貧困情況が生み出されている結果としかわたしには思えません。
 小泉構造改革で財政赤字削減と謳っていたのはアベ政権でどうなったのか、危機の先送り蓄積というようにしかわたしにはとらえられないのです。この特集で軸にしているMMT理論は、危機―デフォルト(債務不履行)は起こらないとしているのですが、その論拠がきちんと出されているとは思えないのです。
 デフレが続いているということ、すなわち経済成長がないということを諸悪の根源のように言うひとがいるのですが、そもそもグロバリーゼーションが行き渡った世界において、それでも資本は飽くなき利潤を追い求める、そして経済成長を求めることなしに資本主義は維持できないという根底的矛盾に陥っているわけで、デフレが続いているというのは、持続可能な資本主義体制という側面から出て来ているのではないでしょうか? 議員立法であの悪法―「障害者支援法」を作るときに掲げられたのは、「持続可能な福祉制度」でした。で、アベノミクスで経済成長戦略が掲げられたのですから、「持続可能な福祉制度」から「必要な支援をなしえる福祉制度」に変わるべきところ、こと福祉に関する事だけは「持続可能な福祉制度」どころか、あらゆる領域で切り捨て・切り詰めが続いていくという状態です。新グロバリーゼーションのキーワードである「自己決定」・「自己責任」の名の元に、「労働能力」がないとされるひとたちへの「死への誘導」さえ始まっています。
 どうも金を刷ってばらまくなり、国債を発行してお金をばらまけば、経済成長するような幻想をもっている「経済学の専門家」といわれるひとがいるようなのですが、商品が売れないないなら企業は商品を作らないし、設備投資もしないのです。だから、企業は内部留保をため込んでいくのです。グロバリーゼーションの時代には、経済成長を求めると、格差の拡大という方向に進むしかないという問題もあるのです。
 こんなことを考えながら、この特集を読んでいました。
 この特集のメイン論文は二つ、ひとつは、薔薇マークキャンペーンをやっている松尾匡さんの「薔薇マークキャンペーンと安倍政権を倒す経済政策」と石塚良次さんの「異端の経済学MMTを読み解く―現代資本主義と貨幣理論―金融緩和論の陥穽」です。松尾さんは消費税増税反対の論拠で使おうというところで、注目されているようです。ただ、政治―選挙分析をすべて経済政策分析でなしえるわけではないということや、講演録ということもあるのですが、およそ、これまでの経済理論との対話がきちんとなしえていず、粗い議論にしかなっていないのではという思いがあります。経済が破綻すると台頭するのは極右だとかいう話を書いていますが、左翼もでてくるのです。このひとは、資本主義が永遠続くこととして理論をたてて、その中で経済政策論理をしています。フランスの極右ルペンが福祉政策を立てているという話を書いていますが、それはヒットラーが国家社会主義労働者党と労働者の立場を出していたことと同じ構図です。そもそも、どんどん財政支出してもいいんだということは、エネルギーの永久機関などないことと同じで、どう考えてもありえません。たぶん、デフレの間はどんどん財政支出してもいいんだという主旨なのでしょうが、デフレからインフレに移行する潮目ということがつかめえるのでしょうか? 資本主義社会は株式ということがあり、その操作で金儲けをしようというファンドがあり、そこで急激に金を動かすのです。そのひとたちにいかに経済を安定させることに貢献するか、という倫理など求めようもないのです。だから、恐慌とか起きるのです。
 石塚さんの論文は、マルクス派貨幣論の深化という内容をもっているようで(「内生的貨幣理論」ということがキーワードになっているようです)、現在の資本主義の貨幣理論、そこから経済学的分析を深化していく必要を感じていました。マルクスの理論は原理論的な理論で、そこからこまかいところへもっと下降していくことも必要なのだと思います。たぶん、ここで問題になっているのは、ケインズ理論との対話です。ただし、イギリスの「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策がグロバリーゼーションにのみこまれていったことや、北欧の福祉国家的なところでのブレとか、スウェーデンで優生手術がおこなわれていたことや、福祉の先進国といわれるところが安楽死・尊厳死が広がっていっていることをとらえると、これは結局近代合理主義の突き詰めの範囲の福祉政策で、わたしはケインズ理論は破綻しているのではと思ったりしています。(反緊縮派を支える理論として、これは松尾理論の紹介のようですが@MMT(近代貨幣理論という訳も出ています)AニューケイジリアンB信用創造廃止・ヘリコプターマネー理論とあげています。(これは「註1」の中に書かれています。) 58P
さて、この特集でひとつだけ読み切れなかった。塚本恭章「いま読んでおきたい経済・経済学の本55冊」があります。膨大な文献があげられています。いろいろなことに手を出しているわたしにはとても、こちらの方に踏み込めません。それで、この分野にはコメントしないとすることなのですが、それでも、一応表面的でも少しはマルクス経済学の流れをかじった立場からあえてコメントを試みました。
そもそも、問題の焦点は、現在的に「反緊縮」といっているひとたちは、財政破綻する可能性にきちんと向き合っていないということです。そもそも、所得税の累進課税の軽減とか法人税減税がどういう論理からでてきていて、それをどう批判していくのかということがまったく出て来ません。国際競争力というところが出させていたのです。そもそも、企業が多国籍化しているときに、資本が海外に出ていくことを止められないのですが、タックス・ヘブンとかも含めて規制の方法を考えることもあるのですが、お金もち・大企業のための政権はそもそもそんなことはやりません。そこで、国際競争力が落ちるとして、しわ寄せを、中間層の下層への没落、下層のひとたちへの福祉を削り、弱い人たちへますます生きずらい社会をつくっていきます。だから、一般民衆にとって、ますます生きづらくなり、資本主義の矛盾はますます拡大していきます。だから、資本主義を止めようよと突き出すことなのに、どうしたら資本主義を救えるかという話をマルクス派だったはずの経済学者まで、そのことに飲み込まれているのです。そして、左翼のはずのひとたちも、そこに飲み込まれている現状があるのです。
 もうひとつ、書き足しておきますが、障害学でもベーシックインカムの話がでてきているのですが、これは、そもそも、基本生活保障の話につづけていくことなのですが、資本主義経済の枠内でどうするのかということでは論理矛盾に陥っています。構造改革的革命論として出していくのなら、可なのだと思います。
 読書メモ的なところで、他の文でも少し書いておくと、「移民問題の最前線 入管という現場から――織田朝日さんインタビュー」が参考になりました。小見出しに「在特会とヘイトの親玉・入管」206Pとありますが、まさに、入管が、排外主義的ナショナリズムの機関として機能している、日本の外交政策の酷さが出て来ているようです。そもそも司法的なこと総体での日本の非民主主義なこともあるのですが。民主党が野党の時代には、入管問題でいろいろ支援をしていたのに、政権をとったら、引いていったという話も出ていました。
その他、いろいろコラム的なことが盛りだくさんで、また特集関係の論攷、特にMMT理論から「反緊縮」をかかげる山本太郎さんの文も出ているのですが、コメントは禁欲しておきます。
 もうひとつ、友常勉「書評論『マルクスと商品語』」、『資本論』の版によって違いがあること、訳語の問題とか出ていて、細かい学習に踏み込んでいく、筋道をひとつ示してくれています。廣松さんの名も出ているのですが、『資本論』を物象化論から読み込んでいくというところとの対話はありません。むしろ、「私的労働」という概念がでてくるところとか、実体主義に陥っているのではと感じていました。改めて、廣松学習をしていくなかで、対話する機会があればと思っていました。
とりあえずここまでです。


posted by たわし at 01:58| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小松美彦『対論 人は死んではならない』

たわしの読書メモ・・ブログ521
・小松美彦『対論 人は死んではならない』春秋社 2002
この本は、小松美彦さんの対談本です。
「内容(「BOOK」データベースより)」があります。わたしのパソコンでちゃんとでていないので、一部編集して貼り付けます。
「死の自己決定権、脳死・臓器移植、安楽死など現代的な死の諸相を第一線の論客と徹底討議。多様なる死の可能性が剥奪された現代にあって、ラディカルな批判を展開し続ける著者の、初の対論集。」
目次
まえがき(小松美彦)
プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
第3部 死の共同性をどう評価するのか
「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)

わたしは小松さんの単行本はだいたい読んでいたのですが、この本は対談本ということもあり、読み落としてしまっていました。改めて感じているのですが、対談本というのは、ちょっと違った思想をもったひとの理論や思想をしるきっかけになり、そして対論をしている著者の理論・思想を他者から照射することによって深めることができるのです。
小松さんの文や発言は、いつもながら感じるのは、エッセー的な「共鳴する文体」になっています。また、死の強制や死への誘いを許さないという強い意志に貫かれた文になっていて、わたしも共鳴していて、追っかけている著者です。
余談的にわたしごとを書いておきますが、わたしは読書計画をもっているのですが、何か講演会があるとき、その講演者の著書を予習的に急遽挟むことをやっています。前回までの、読書メモは、「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」年二回の講演会で、天笠啓祐さんの「活性化する新たな臓器作り、その問題点とは?」というテーマの講演会があり、それに合わせた予習という意味をもっていました。もっとも、バイオテクノロジー関係の学習課題は優生思想とからめて以前から早く読まなくてはと、どこかで入れ込む予定でいました。講演会の告知があって、そこにたどりついたということです。で、その連続学習の中で読んだ、前の読書メモでとりあげた小松さんの本に続いて、長く積ん読しておいた本を引っ張り出したのです。これは、丁度12月15日のシンポジウム「安楽死・尊厳死問題を考える―公立福生病院事件と反延命主義」の予習という意味を持っています。司会が小松さん、そして、この本の中で、対論をしている市野川さんが、「特定発言者」になっています。
この対論は本のタイトルになっているように、「人は死んではならない」という著者の思いをテーマにした対論になっていて、別の言い方では著者の別の本のタイトルになっている「死は共鳴する」という内容も持っています。これは、福島さんとの対論の中で出てくる、「人は死んだら人の心の中にゆくんだ」という言葉にも共鳴しています。
さて、具体的中身を、目次にそって押さえて、キーワード的に抜き出してみます。
◇まえがき(小松美彦)
小松さんの文は、初めて読むと、いろいろ思いも湧き、コメントも出していくことになるのですが、追っかけをしているので、ここではキーワード的切り抜きだけ。
 日本的な「延命息災」というプラス的なイメージがあったところへアメリカ由来のマイナスシメージのprolongationの「延命」―「いたずらな延命」「無駄な延命」「もうけ主義の延命」が入ってきた。@P
 アメリカから輸入の生命倫理学―「生身の人間のこととして血の通った議論になっていることは多くはない。」CP
◇プロローグ 人は死んではならない(小松美彦)
「従来の心臓死の場合、死と死の判定基準はあくまでも別個の存在として把握されていたのである。」7P
「このとき「死」は、死を死者にのみ封じ込め、われわれ周囲の者を置き去りにし、死とわれわれとの間に横たわるさまざまな事柄を切り捨てるものとなるのである。」7P
 一九九二年一月二二日「脳死臨時調査会」―「「人とは一つの有機的統合体であり、その統合体を司るのは大脳である。よって大脳による統合機能が失われた場合、それは人の生とはいえない」7-8P・・・脳も他の臓器から規定されているということを押さえていないという問題があります。
「「共鳴する死」―「自己閉塞する死」」「「死人」は「死」と共に存在を始める」「「死人」を物として見る「脳死体」」8P
 科学としての死と「自己閉塞する死」11P
「「共鳴する死」とは、単に<関係の中での死>ということではない、<人は死んではならない>という願いを大前提にした思想」14P―「共鳴する死」の危うさ→共鳴する生―「人は死んではならない」 
「脳死・臓器移植の実態は、「二つの死よりも一つの生を」いった標語に象徴されるように、実はゴリゴリの功利主義」16P―ヒューマニズムの装いをこらす
 ドナー―レシピエントの関係は、対の関係だけでない社会的影響17P
 自殺者のヒューマニズム―ファシズムの芽18P
「患者の扱い方のマニュアル化ということ自体が問われる」18P
第1部 現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか
◇脳死・臓器移植問題から『あしたのジョー』まで(小松美彦)
 『あしたのジョー』の話は、以前講演会ででていました。その時に、「本にしてください」という話をしたのですが、すでに一部でていたのですね。小松さんの文に関しては、後で、もう一度まとめて対話することにして、ここでは、切り抜きに留めます。
(アラン・シューモン<アメリカ・UCLA>1998からのデーター)「これまでの世界の脳死者およそ一万人のうち一七五人の心臓が少なくとも一週間は動きつづけていたことが判明した。最長のケースは何と一四・五年で論文公表時にもまだ生きつづけている。他に、二・七年と五・一年という場合も示されている。」30P
「脳死」という規定自体の作為性、従来の脳死の概念、@脳の形が崩れた、腐敗が始まった時点で脳死とする立場A機能不全というという意味(「脳不全」)31P
厚生省の脳死判定基準―@深昏睡A瞳孔拡大B脳幹反射の消失C平坦脳派D自発呼吸の停止E@からDの検査がクリアされた後に,六時間して再検査して、再度クリア32P
立花隆「脳死=脳血流の停止」の提起―従来の心臓死の判断と同じ→却下34P
脳死・臓器移植は医療の名を借りた殺人35P
ヒポクラテスの誓い―「医師は患者に対して害悪を与えてはならない。最善をつくさねばならない」→著者「患者を相互に比べてはならない」「絶対に目の前の患者だけを独立させて考えよ」―「脳死・臓器移植法の登場で、二つの命を両天秤にかけるようになった。」37P
脳死・臓器移植の問題―@臓器移植における経済的格差の問題(臓器売買の恐れと実際)Aレシピエントの問題(イ.正負の効果・他の治療の可能性ロ.薬を飲み続ける必要・副作用ハ.感染症の恐れニ.移植された臓器の有効持続期間)B「脳死」とされるひとの治療可能性の問題(脳低温療法など)38-9P
「自己閉塞した死」と「共鳴する死」40P
「このような思い(混沌として湧き上がる思い)と関係の総体がゆっくり変革していく時間的な流れが死なのです。」41P・・・「関係の総体」という理論的・思想的キーワード、「関係性の総体」として深化・展開していく必要性
「死の自己決定権」―「自己閉塞した死」43P・・・近代的個我の論理と新自由主義的グロバリーゼーションの「自己責任の論理」の増幅共鳴
「日本の今後の経済的な流れなどを勘案した場合、「死の自己決定権」は非民主的な脳死一元化に帰着する可能性があるということです。この事態は、民主的な仮面を被ってやってくる新たなファシズムではないかとすら、私には思えます。」46P
相互自己主張と議論、「問題なのは、自己主張するための情報がそもそも少ないし、しばしば操作されているということです。」48P・・・現政権の情報隠蔽と操作
(サミュエル・ベケット)「想像力は死んだ、想像せよ」50P
「(『あしたのジョー』の)ジョーと力石のような関係は、こういう腐敗した社会の中ではなかなか実現できません。けれども、少しでも生み出し、そして拡げていきたいというのが、私の思いです。換言するなら、それが「個人閉塞した死」から「共鳴する死」への転換なのです。これは、つまり、自閉的に生きる<私>から、人との関係性を共存する<私>への転換なのです。」52P・・・著者のエッセー的思い。(ただ、<自閉>もまたあり、とのわたしの思いも―ドナ・ウイリアムズの世界)
◇脳死・臓器移植を根底から考える(対論 永井明)
 医者を辞めて医療問題を論じる永井さんとの対論です。
永井―輸血や胎児というところからの「臓器移植と非自己」の問題のとらえ返しを、「免疫抑制剤の必要」という違いからとらえる57P
 永井―感染症と抗生物質のせめぎ合い→揺り返しとしてのエイズ・院内感染57P
小松―移植推進派の小柳仁(東京女子医大)「日本で移植が可能になれば、毎年ジャンボジェット一杯分の心臓病患者が救われる」発言―移植医の心性59P・・・ひとの物化の極
 小松―移植コーディネーターの中立幻想、これをマスコミがとりあげない64P
 小松―「脳死・臓器移植にかぎらず、既成事実にマスコミが弱い」67P
 永井―「専門家集団としての医者というものが問題提起能力も自浄作用も失っている」69P
 永井―「僕の経験からは医学部教授という人種が言う「患者のために」という言葉は、ほとんど信じられない。そういう人が医局という伏魔殿で生き残っていくということです。」「六〇年代後半に若い医師達が指摘した医学部の問題点は、・・・(中略)・・・しかし実際にはほとんど何も変わっていない。そういう土壌の上で今度の臓器移植も行われたわけです。」71P
 永井―「人類という種は衰亡に向かっている。種としての活力を失ってきているという感じがしてなりません。その端的な現れが、生命体存続の入り口と出口を積極的にいじり始めたということです。」74P
永井―「まあ、僕の場合、考えることは言いますが、決めるのは世間だからしょうがないと思っちゃうんです。ただ、世間の人々が移植を選択するのなら、人類にとって臓器移植というのは素晴らしいということを、本当に納得したうえで、そうしていただきたい。そして、後になって「こんなはずじゃなかった」と思ったときに、素直に「間違った、どこで間違ったのだろうと思っていただきたいんです。」74-5P・・・「世間」まかせのことなかれ主義、それで何が進んできたのか、実際に多くのひとが犠牲になっていくこと、なってきたのかの歴史をとらえかえす必要。
           ↑
 小松―「僕はいま永井さんのおっしゃった「世間」というのが気に入らないのですがね(笑)・・・・・」75P
小松―「死も技術によって操作されていますが、現場では残された者の悲しみだとか安堵感だとか方針状態だとか、そういう気持ちをともなって残された者と死んだ者との関係のもとに成立している死があるということを忘れないようにしなければならない。」75P
小松―「最初から負けるのは分かっているのですけれども、・・・」76P・・・?
◇生命科学と医学倫理(対論 小俣和一郎))
 小俣和一郎さんは医者で、その立場での倫理をとらえようとしているひとです。
小松―「プレッソの夢」(出生前に人間を淘汰する)の現実化81P
小松―過去の優生学と現在の優生学の違い―個人の「自己決定権」に根ざしている82P
 小松―「優生政策や法律には「本人同意」≒「自己決定権」がもりこまれていた・・・」84P
 小松―「自己決定権」の問題点@勝手主義になるA知識の差で「専門家」の誘導になるB優生政策を免れ得るものにはならない86P
小松―ラザロ徴候88P
小俣―「和田移植には、戦後日本における一種の体質というのが関係している」(←七三一部隊の免責など)「七三一体質」@パターナリズムA官僚体質B大学医学部における軍隊組織体質89-90P
小松―「医師が権力者になっても、患者が権力者になっても、どちらもまずい。」92P・・「患者が権力者になっても」・・・?クレイマー&お客様
 小松―コーレマンスさんの安楽死の要求のとりさげ←孫娘の率直な提起97P←小俣―「誤まてる自己決定」への反旗98P
小松―臨床現場におけるコミュニケーションと相互批判の必要性101P
小俣―「インフォームド・コンセントや告知などは一方通行であってはいけない」―うそや隠蔽は疑心暗鬼を生み出す101P
第2部 私たちの死は「自己決定権」で守れるのか
◇人の死はいかにして成立するか(対論 宮崎哲弥)
 この対論は、認識論―哲学的に掘り下げた議論になっていて、興味深く読めました。ただ、宮崎さんの論攷は実存主義的になっているところで、ズレは感じているのですが。この議論は、まるで「空中戦」のようなのですが、実は、哲学の根底的焦点になるはずであろう、実体主義とその批判が焦点になっているのだとわたしは理解しています。これを小松さんは押さえて議論をしているのですが、相手にどこまで伝わっているのか、議論のむずかしさです。
かなり、わたしなりのとらえ返しも入れてメモしているので、できたら本文にあたってください。
 宮崎―「私は死にゆく者の実在論を認めることはできません」、「本来の自分」の設定は「宗教」的理念の正当化、「そういう先験性をどこまでも拒絶し、人生をこの現世のみと捉えたとき、初めて人は家族や社会に、あるいは世界に真摯にコミットでき、言葉に責任をもてると思うのです。」106P・・・第3部との関係や対話、鼎談などをすると、いろいろ、問題をほりさげ面白い議論になるのではと思ってしまいました。
 宮崎―「「個人閉塞した死」は、死の、死を巡る人間関係の物化のプロセスから生まれたということですね。これは近代社会科学―なかんずく近代経済学―が見出した利己的個人という概念に照応すると思われます。」108P
小松―「近代において、一人ひとりの個人は、それぞれ特有な顔、固有の生活、あるいはさまざまな差違があるにもかかわらず、商品交換者と一律に規定されて、初めて独立で自由で平等な存在ということになったのと同様の事態だと思います。」108P
 小松―臓器移植の問題点@階層化A医学的に一元化・平板化B臓器・人体の資源化・モノ化110P
 小松―安楽死の論理におけるねじれ、「尊厳のない苦痛に満ちた生」に対置されるのは「尊厳のある安楽な生」113P
 小松―死の短絡の背景@緩和医療の貧困A「家族関係」から社会関係の問題113P
小松―「自己決定」の問題性@コミュニケーションがなく直接本人の決意に行くA「自己決定の能力のない」とされるひとたちの問題114P
 小松―医療費削減→環境の悪化→慈悲殺という構図115P
 宮崎―「死は自己決定の対象適格に欠ける」116P
         ↓
 小松―「生の向こう側にあるはずの死を否定することになる」「自己決定を権利として祭り上げるというところに問題がある」117P
         ↓
 宮崎―「一般的権利として制度化、法律化されることが問題」117P
小松―「「共鳴する死」というのは、いかに生きていくかという“思想”であって、「死」と言う言葉が使われていますが、実は生の問題なのです。それに対して国家によるそれは死に向かうもの(「共同体閉塞した死」・・引用者挿入)であって、方向性がまったく逆なのです。/近代は個人主義と共同主義という二本の足で支えられている。共同体というのは、たとえば、国家、社会、あるいは村落がそうだろうし、家族もそれに数えられる。」118P
・・・共同幻想としての国家、社会、共同体と共同性を区別していく
 宮崎―「個から国家へ向かうとされる同心円」批判、個が直接国家に包摂されていく、「近代の基本シェーマは「国家と個人」の相互依拠」。しかし、国家は抽象的機能体(共同幻想)、だからマスメディアと学校で包摂する機能を作る119P・・・?近代的個我の論理へのとらわれ
 宮崎―実在の共同体は「家族」119P・・・これにも幻想がつきまとう、近代家族の分析の必要性
 小松―「もともと共同体の存在を前提にして、そこから具体的問題を考えていくのか。それとも私の場合のように、まず個人的相互関係から拡げていくと、それがやがて共同体と呼ばれるものになっていくのか。その方向の差は決定的違いのように思えます。」120P・・・共同体というところでの実体主義への陥穽、共同性というところで押さえうるのでは?
宮崎―「私は「共鳴する生」の宿る場所が、共同体ではないかと思うのです。」120P
 宮崎―「共同体の実在を前提にしているのではないのですが、個が存立する初期条件であると考えています。たとえば、人は家族の中に生まれ落ちるのであり、生まれ落ちてからの環境が家族に「成る」わけでもないように思いますが。また所属する家族や地域をもたない人といえども、やはりなにがしらの家族的、地域的な、共同性の中に住まっているのです。あるいは、かつての共同性の記憶を「自我」の宿る辺としているのです。こうした共同性をも否定する人間観こそが「負荷なき自我」論と呼ばれるものです。」121P・・・「共同体」「個」「家族」の実体化、「共同性」と「共同体」のすりかえ、区別を付けていない。「共同体」を実体主義批判として押さえ直す必要。
小松―「私の場合には、仮に共同体という語を用いるなら、共鳴関係が成り立っているときに、とりあえずそれを「共同体」と呼ぶことになります。私が「共同体」とか「共同体的」という言葉を避けるのは、実体としての近代的共同体とか、中性的な共同体と私のいう共鳴関係(態)が混同されるといけないと思っているからです。」121P・・・実体主義批判の立場性
 宮崎―「そこで小松さんのおっしゃる個人とは、ア・ブリオリな実体なのですか。」122P
       ↓
 小松―「いや、生活過程の中で振り返ってみたら個人が存在する、ということです。」122P
 小松―「今までの近代的世界観・人間観では、最初に共同体から始めるか、あるいはそれとは対極にある個人から始めるか、いずれにせよ結局はそれ自体を裸の独立自存体として想定し、理論づけている。私は死の問題を契機にして、個人と「共同体」が同時に生起するものとして考えつつあります。」122P・・・網と網の目
 宮崎―「“裂開”」、ジャン・リュック「無為の共同体」モーリス・ブランショ「共同体なき共同体」←小松―木前利秋「“悲哀”の過去と現在」123P
宮崎―選択不可能な外部条件が現存する―人生の初発に設定される家族関係と母語123P

 小松―変革可能性は?・・・宮崎さんの答え?
 宮崎―「私は生命至上主義者ではないのですが、・・・そこで個体間接触の場、フェィス・トゥ・フェイスの交わりを温めあう場としての共同体の維持、発展が求められているのだと思います。」124P・・・この「共同体」は結局、幻想共同体になってしまっているのではないでしょうか?
◇「死の自己決定権」を通して医療を見る(対論 市野川容孝)
 市野川さんは、優生思想関係の研究をしていて、雑誌でその関係での特集が組まれたときには必ずといっていいほど文を寄せているひとです。ですから、雑誌でいくつかの文を読み、特に社会学関係の論攷や文献の紹介をしてもらっていて、社会学の基礎学習を踏まえていないわたしの立場で、一度、きちんと読んで置かなくてはと市野川さんの本も買っているのですが、未だに読書を果たせずにいます。知識としては得ることがあるにしても、何か掘り下げられていないという思いがあるのです。実は、障害学会が立ち上がる前に、障害学研究会ということがあり、その中で、学者のひとたちが順に担当して講演会をやっているときに、市野川さんも担当したときがありました。そのとき、丁度、イギリスの「障害の社会モデル」の第一世代への批判が日本にも入ってきているという背景があったというとき(わたしはまだそのあたりの事情は知りませんでした)、「障害の否定性は、百メートル走で少しでも早く走りたいという思いがみんなにあり、そのようなところから来ているのではないか」と市野川さんが話をしたので、わたしは「それは、小学校の時に運動会で徒競走ということがあり、生物学的にいう「刷り込み」のようなことが起きたからではないか」という問いかけをしました。そのあたりのことは、モンゴルの遊牧民なら「馬を早く駆けさせたい」とかなるだろうし、セパタクロウとかガバディとか、知らないスポーツを巧くなりたいとか日本ではほとんどのひとが思わないし、剣玉をみんなが巧くなりたいとかうわけではない・・という論攷とかにもつなげているのですが、ともかく、市野川さんには固定観念へのとらわれのようなことを感じていたし、ここでは、そもそも自己とは何か、自我とか何かという認識論的な論考が感じられないのです。先に書いたように、いろいろな紹介などは吸収させてもらっているし、真面目に読み込まなくてはとの思いはもっているのですが。
 小松―(ジョルジュ・カギレム)「すべての医師は、医学において人は震えながら実験をするということ、つまり震えながら治療をするということを自らに言い聞かせ、かつ他の人々にそう知らせねばならない135P
市野川―「われわれは常に他者を透明で見ているわけではない。われわれの側の先入観をもって他者を見ているわけです。そういう先入観を突き崩して他者を発見していくときに、他者の自己決定を尊重するという配慮は必要だし、その意味でなら宮台さんの主張も頷けます。」138P・・・どうやって突き崩すのか、そこにおける思想性の問題。自己決定を巡る立ち位置は、宮台さんと小松さんの間に市野川さんは位置してしまっているのでは?
市野川―「逆にいえば彼女たちは、生まれたときからこういう状況に置かれている人たちをこれまで認めてこなかっただろうと思うんです。そういう自分の他者に対する態度が、逆に今の自分を否定する形ではたらいてしまう。」140P
小松―「脳死・臓器移植とは、現代の医療現場からの特攻兵士にほかなりません。」143P
◇自己決定権・共同体・死(対論 笠井潔)
 笠井さんについては、野間易道さんとの共著の本の紹介の『図書新聞』での記事を読書メモ351で書き、後で読書メモ358で、その本の読書メモも残しました。笠井さんは昔新左翼の活動家だったのですが、「左翼なき革命論」という論理矛盾の中にあるのではないかとわたしサイドではとらえ返しています。どうして、こういうひとと対論をすることになったのか不思議なのですが、この対論の中で、もっとも対立する意見の応酬になっています。笠井さんは、「自己決定権」と国家の「個人の自己決定権の尊重」というところでなしてくる優生思想的な政策が重なるところで、ファシズムが湧きあがってくるという構図をとらえていないのではと感じています。
 小松―「まず原理的なことについてですが、死と死亡を分けます。」「死亡は、・・・「点的な判断です。」149P・・・「死亡は医学的な点的判断」――死は関係性の中でとらえ返す概念
 笠井―「やはり死というのは持続的な自己統覚意識の喪失というのが大きな基準」150P・・・パーソン論になる
 笠井―「近代的な「私」などには内実はないのですが、その建前を一応相互に尊重するということ以外に歯止めになるものは他にはない」151P・・・結局「近代的個我の論理」による自己決定権の尊重になってしまう。「歯止め」は新しい関係性の構築―脱左翼宣言をした笠井さんにはない
 小松―「僕の主張の一番の問題点だと思っているのは、死と死亡との存在論的関係がつめられていないということです。」153P・・・?すでにでているのでは?
 笠井―「「死は共鳴する」といいすぎるとハイデッガーのはまった罠に落ちる危険性がある。」154P

 小松―「ですから、自己弁明的に僕の本の最後の方に、「共鳴する死の枠組みを拡げていくと、国家にまでいってしまう危険性がある」と書いた。」154P・・・共同体と共同性を区別すること、「共同性において死は共鳴する」とたてること。
 笠井―「その人間の権利要求に対して第三者はどのように答えるべきかという問題をたてれば、「分かりました。そうしましょう」ということが妥当だとどうしても思います。」154P・・・近代的個我の論理による共同性の否定、脳死・臓器移植の容認の論理 
 笠井―「「私は私である」ということはフィクションであり、事実として物があるように「私がある」わけではない。しかし、それを何らかの形で、あたかも在るかのように虚構化しないと成立しない。」156P・・・「成立しない」のは資本主義社会、「資本主義社会」の擁護論
 小松―「あくまでも個人というものをどんどん祭り上げて、大文字の個人なり自己決定権にまで高めて、そこから演繹的に一つの問題に下降してくるというのは、笠井さんが批判されているナチズムとスターリニズムという、二つの全体主義と同じになる可能性があるのではないか。」158P・・・下降? 演繹論は上向法では?
 笠井―(優生手術にかんするところで)「僕はそれは社会的に決定されると思う。」160P
・・・国家が決めるのではなく、社会が決めるという論理、しかし、社会と国家の関係を押さえていない
 小松―「仮に強制という言葉を使わなくても、実際に社会への浸透力をもつてしまう。」165P・・・・社会にある優生思想・競争原理・近代的個我の論理との言説の「共振」拡散
 笠井―「まず一般的にいうと、ナチス的優生政策を唱えること自体を政治権力が禁止することはできないということが一つ。次に僕個人のことについていうと、優生学的発想にはなりません。優生学である以上は、個人の意識だけでなく個人の存在も含んだ恣意性を何らかの形で統制しようという発想が前提にあるが、そのような前提を僕は拒否している。」166P・・・殺人教唆を禁止できないのでしょうか? 優生学や思想は統制や強制だけでなく、ソフトなところから浸透していく、「障害はないにこしたことがない」とか、競争原理とか、労働能力とか、だから市場原理も含めて批判してく必要(わたしの立岩さん批判)。
小松―「制度的な強制へ向かっていく優生思想が個人の自己決定権を前面に掲げるところから始まってきた歴史的事実のことです。」167P・・・優生思想と自己決定権のつながりは、「ぽっくり死にたい」ということのひろがりの中に見いだせるのでは? 「青い芝」の内なる優生思想批判
 小松―「そもそもパターナリズムか個人主義かという二元的な発想を問題視しているのです。」180P
◇自己決定権から共鳴へ―フェミニストからの批判に答えて(小松美彦)
 この話は、読書メモ518の利光恵子さんの本で、一応対立の構図は解けているのではとも思えます。そこには、筆者の「自己決定権は幻想である」という観点からのとらえかえしもあるのだと思います。
「自己決定と自己決定権とは弁別すべきだと思います。」「日常生活の中で他者との関係で不断に自己決定している」「自己決定権という他者排除の理念」183P
「共鳴する死とは人は死んではならないという願いを大原則とする」186P
「現在そうであるように自己決定権を原理とするのではなく、「国家には出産・中絶に介入する権利はない」といったい類いの条文を盛り込み、既存の状態の解除・解体を図るべきです。」190P
第3部 死の共同性をどう評価するのか
◇「死者との連帯」へ(対論 福島泰樹)
 福島さんは仏教の住職、「短歌の絶叫コンサート」とかもやっていて、かなり破天荒なひとで、日本では、西洋文明を希求する面があるのですが、むしろ東洋思想のとらえ返しの面白さを感じさせる対論になっています。わたしとしては、廣松さんの対論『仏教と事的世界観』を想起していました。
小松―「エンバルミング」(遺体切開して防腐剤を挿入して身体の内部から痛まないようにする技術)が広がっている205P
小松―「個人主義的な死と共同体主義的な死はセットで成り立っていて、その意味で死者まで蹂躙され、支配される方向へ向かっています。」←(小松さんは関係主義)「関係主義にはそもそも枠組みがない。「死者との連帯」が波紋のように広がる可能性がそこにはあるんです。」212-3P
 小松―「死は共鳴する」−「ひとは二度死ぬ」の内容216P
 福島―利他行224P
 福島―(中井)人は死んだら人の心の中にゆくんだ」226P
 小松―「完全な死体になる」230P(←胎児の死―ひとの生誕)
 福島―利他行というごまかし232P
◇「死の義務」と「内発的義務」(対論 最首悟)
 最首さんは、実はわたしの本を世界書院から出してもらった時に、その社長が編集長をやっている雑誌『情況』で、「障害者解放運動の今」という特集を組んでもらい、最首さんにわたしの本のコメントをもらっています。その前に読書メモで最首さんの『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』を取り上げていたのですが、余りにもラジカルな批判を書いてしまい。親ということで、「身内意識」が働き、しかもその上に前述のコメントをもらったので、唯一お蔵入りしているメモにしています。最首さんは東大全共闘を担ったひとりで、そこでの運動の行き詰まりの総括で悶々としているときに、「障害者」の娘が生まれ、問題をスライドさせて、総括の作業を放り投げ、論考を掘り下げていくこともなしえていなのではとの思いをもってしまっています。この対論でも、問題の掘り下げをなそうとしないところが、垣間見えるのです。
小松―キヴォーキアン「死刑囚の遺体の活用etc」とハードウィック「死の義務」237-9P
最首―義務ということの歴史的社会的違い240P・・・運命論的になっているのでは
 小松―ヘヤー・インディアンやアボリニジや姥捨て山の話からする「死の義務」のような話、「そうした援用は、現実の当該問題への肉薄を遮り、それを仕方がないものとしてかたづける方向に機能しがちです。」243P・・・社会的歴史的極限の援用は、それも関係性の中で起きてきていることで、そのことの分析なしに一般化する運命論になっています。
小松―予算の話「森を見せることは、木を見せないことなのです。」247P・・・そもそも社会構造を固定的にとらえて、予算がないとしているだけ。
 最首―「もし、社会に余裕がなくなったら、星子を抹殺するのは、たぶん、僕だろうと思う。」248P・・・昔、社会に余裕がないときに「障害者」が殺されたのは差別ではないと書いた「障害者」当事者がいたけれど、その時代の当事者意識(フェア・ウンス)としてそうであっても、第三者意識としては差別そのもの。だいたい青い芝の親の「障害者」殺しを告発してきた運動をどうとらえていたのでしょう? そもそも「障害の否定性」がどこからきているのかというとらえ返しをしていない。
 最首―「しかし現実には社会に、その力はない。結局、「できるだけ多くの人が生きられるように」したいという思いは、感じたか、機械化の中では実現しないという地点に私たちはいる、それは事実だということだけが言いたいことです。」251P・・・客観主義的に語ることを止めたところに運動があつたのではないでしょうか? 余裕がないというのは、二つ、@考える余裕がない―実は考えないようにしているだけAお金がない−大嘘 (総括をなしえぬままに、問題をずらしたところで)社会を変えようというところの意志の欠落
 小松―「人は死んでならない」というのは、本人にというよりもむしろ、「そうした人々を取り巻く人々に対して向けられているんです。」253P
 小松―「ところがそれが逆転してしまって、「人は死んでもいい」ということが、いとも簡単に掲げられてきている。それは結局上のほうからであるにもかかわらず、「死の自己決定権」や「死の義務」などの美辞麗句によって、自発的なものに思い込まされてしまっている。」254P
最首―「重さが足りない」255P・・・小松さんは自分の責任の範囲で話をしているだけ。意味不明。自分の引き写しをしようとしているのでは?
 最首―「極端に弱いものにすがっているかぎり、すがり甲斐がないわけだから、自分が強くなることはない。」264P・・・そもそも「すがる」という発想が分からない。「弱い」とされていること自体を問題にすることなのに、意志をなくして「すがる」生き方をしているひとにはそれがない。「星子」を「護符」(誰かの言)にしているのでは?
 小松―「最首さんが今おっしゃった、権利や義務を個人の中に入れ込まずに場として考えたい・・・」266P・・・場の理論、関係論的観点からの小松さんの読み込み。ただ、権利とか義務という概念のとらえ返しも必要
 小松―「関係性からくるのであって、制度の問題ではない・・」267P・・・関係性⊃制度ということでは?
 最首―「勝負してもあまり甲斐はないんじゃないか。」269P・・・なぜ、議論をするのか、理論に関わるのか?
 小松―「最首さんの、書き手としての主語である「私」がまずないんですよね。」273P
◇キリスト教思想にとっての生と死(対論 土井健司))
 わたしはカトリックの幼児洗礼を受け、キリスト教の教えに子どもの時にさらされていたので、その矛盾のようなこと、この対論でも小松さんが感じていることに同調すること多々ありました。
小松―「生身の関係性を最重視する姿勢・・・」277P・・・隣人愛の話に繋がっていく
 土井―「憐れ」の語源は「はらわたがちぎれるような痛みを覚える」ということにつながる281P
小松―「具体的場面で目の前の人に対して、内臓がちぎれるような思いが自然に湧き上がってくること、それが隣人愛なんですね。」281P
土井―移植コーディネーターが介在することによって「憐れ」が働かない構図281P
土井―「移植に必要なものは愛でなく、臓器であるわけです」282P・・・愛という名のごまかし
 土井―「善意」と「隣人愛」283P←小松―一般・抽象と個別・具体
 土井―「個別的なものが一般的になっていくプロセス」―「すべき」になった愛他精神は隣人愛ではない(小松さんとの対話の中で)284-5P
小松―「生命の尊厳の捉え返しなり、隣人愛の捉え直しということも、結局は資本主義批判、貨幣経済批判、数量還元主義批判であり、ひいては近代合理主義批判になっていますよね。」290-1P
小松―「巧妙に誘導したのが「脳死」という“秀逸”な命名」292P・・・「脳不全」という言い方になるところを言い換えていること
 土井―「「ある」「ない」という形での議論の対象になるになる神は、もはや神でない」302P・・・しかし、そもそも神があるという証明はない 神は自然の物神化
 小松―「第三者がなかなか口出しできないというのは、気持ちとして十二分に分かるのですが、問題は紅茶を飲むか烏龍茶を飲むかといった選択でなく死の選択であって、しかも、その誰かが死んでしまう前にかたらなければならない。」306P・・・他者一般を規定する法律の問題として議論になっていること
 小松―「死の苦渋を代行し緩和するように機能している宗教や神もまた、それらがそのように機能する以上、個人個人の関係性を薄めているのではないのか」308P・・・そもそも架空の話として進むこと、そこに入り込めるのかという問題があり、そして少なくとも「この世」の問題の解決の道にはならない
◇エピローグ 母から教えられた死(小松美彦)
お母さんの他者への「死への共鳴」ということでのエピローグです。小松さんの「共鳴しえる感性」のようなこと、実はお母さんからも来ているのだと感じていました。わたしはむしろキリスト教的欺瞞の世界を反面教師的に理論・思想を練り上げようとしているのですが、深層心理的なところの自らの保守性や差別性におそれおののいています。
「死者との連帯」312Pということも出て来ます。
さて、「人は死んではならない」の提言に対して、わたしは基本的に共鳴しつつ、違和というかズレのようなことも感じていました。「死んではならない」ということばは、「死んで生きる」というところで、死を賭して運動を担うという側面をどうするのか、という問題があります。そこに「死者との連帯」ということがあるはずなのです。
生きた結果、生きようとした結果として死ぬ、死に様(これは実は生き様ですが)さらして死ぬというときに、それは必ずしも「死の否定性」にはならない。それは、「ひとは二度死ぬ」ということばがあります。60年安保のとき警察に殺された樺美智子さんは、同時代を生きたひとたち、そして少なくとも、70年世代のひとたちの中で生き続けています。そして、歴史に名を刻んだひとは生き続けるのではとの思いも持っています。

この対論を読みながら、わたしとしては、「関係性の総体」という概念が浮かび上がっていました。共同体のための死ということは、幻想としての共同体に誘われるのですが、そうでない関係、共同性というところでの生と死ということを考えていました。


posted by たわし at 01:54| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BSTBS「報道1930」

たわしの映像鑑賞メモ038
・BSTBS「報道1930」12月26日19:30〜21:00
 いつものメンバー以外のコメンテーターとして、森永卓郎(獨協大学教授)、藻谷浩介(日本統合研究所主任研究員)、鎌田靖(ジャーナリスト)
い前回のメモ037につながることなのですが、地方での取り組み、「ダムをたんぼや森の復活へ」(森永)とかコンパクトシティ構想(鎌田)とか、いろんな可能性の話が出ていました。要するに、地方から変えていくというところでの取り組みで、たとえば、今地方では車がないと生活できないような公共交通機関の崩壊が進んできているのですが、地域内で幹線に交通機関を通しその近辺に移住を進めるとかの実践もでてきているようです。そのあたりは、もっと自動運転システムとか、ドローンとかいろいろ可能性はでてくるのだとも思いますが、それなりに合理性というようなこと、むしろ、わたしは、晴耕雨読のようなことで地産地消の農の取り組みが起きていることに留目していました。藻谷さんがこれからは農が成長産業だという話も出ていました(資本主義の枠内ではそんなことはないとわたしは思っていますが)。このあたりは、「社会変革への途」でも取り上げていこうと思っています。
 余談になるのですが、読書メモで取り上げている「反緊縮」のこと、「どんどんお金を刷ればいい」という話を最初にわたしが聞いたのは、ここで出てくる森永さんの話でした。今回の話のなかで、むしろ逆の経済危機の話をしていました。ちゃんと落ち着くところに落ち着いたのだととらえ返していました。

posted by たわし at 01:49| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』

たわしの読書メモ・・ブログ345
・高木仁三郎/マイケル・シュナイダーほか『MOX(プルトニウム燃料)総合評価―IMA(国際MOX燃料評価)プロジェクト最終報告』「要約報告書」七つ森書館1998
MOX燃料に関するかなり専門的本です。とりあえず、「要約報告書」の部分だけ読みました。MOX燃料、その材料のプルトニウムの危険性について、そして経済性においても、再処理したものの輸送の大変さ、危険さ、あらゆる面で使えないものなのに、それでも使おうとしていて、一部実際に使っているのです。その背景には、プルトニウムがナガサキの原爆の核兵器の材料として使われたということがあります。自民党の石破元幹事長の「いつでも核兵器を作れるようにしておくために原発は必要」という発言とつながっています。そしてプルトニウムが核兵器の材料となるということで、国際的な監視と規制を受ける中で、燃料として使うのだ、ということを示すために、再処理リサイクル計画を捨てようとしないし、世界的に技術的に困難だとして、そしてたびたびの事故が起きる中で、放棄された、高速増殖炉や再処理計画を捨てようとしないのです。それでどれだけの意味のないお金がつぎ込まれているのか?
まさに核兵器―戦争と原発は密接につながっているのです。核兵器が戦争抑止力になるという、危険性をますます増加させるどうしようもない論理をふりかざすことと、そもそもお湯を沸かすのに核エネルギーを使うというどうしようもない考えを批判しつぶしていかないと、わたしたちは爆弾を抱えて毎日を暮らすという危険な状態から脱することができないのです。そもそもフクシマを経験した国でなぜ原発が再稼働し得るのかどうしても理解できないのです。きちんと、そのことを周りのひとに伝え、反原発・脱原発の世論を作りだしていかねばと改めて思うのです。
posted by たわし at 01:40| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』

たわしの読書メモ・・ブログ40
・最首悟『星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房 1998
 この本はいろんなところでかなり話題になっていた本。掲載されている文をどこかで観たような気もします。で、一度読んでおきたいと思いつつ、何か違和を感じつつ、またもう絶版になっていると思ってそのままにしていたのですが、『図書新聞』で全共闘関係のインタビュー連載をしていて、その中で最首さんへのインタビューの中で娘さんの星子さんにコメントしている発言を読みました。で、やはり障害関係文献に入れなくてはと思い、古本でも探そうとしたのですが見つからず、もしかしてまだ絶版になっていなかもと探して見つかった本です。
 「障害の反転」なりコベルニックス的展開が随所に展開されています。ただ、ぶれがありそのことが整理されていないようですし、個人主義−実体主義的な世界観から抜け出せて居ず、今「障害者運動」の中で問題になっている医学モデルから「社会モデル」へのパラダイム転換ということも全く届いていないようです。
 そして東洋的な思想、老荘の思想的な諦観というか、悟りの世界のような話になってきますし、ガレー船に掲げられていた「自由」という文字の話などは、反差別の立場からは、アフリカンアメリカンの解放闘争で批判されていたアンクルトムの物語に落ち込んでしまう危険性さえあると思わざるをえません。最首さんのエッセー的なところからは、少なくとも反差別の「障害者運動」は起きてこないだろうという思いにとらわれてしまいました。
 もう少し細かく書きますが、「重度の」というところにとらわれたところで医学モデル的なところに陥り、差別ということをぬきにしても抱えざるをえない問題として語ってしまっています。それに現実に家族で抱え込んでいくというところを相対化しえず、それをそもそも抱え込まざるをえないこととして、自然性と社会性の区別がつかず、とりわけ母子関係というジェンダー的なところにも陥りつつ、その話は抱え込めなくなったら結局施設へという、自分の関わっている運動の前提を崩すような話まで出てきてしまっているように感じてしまいます。
 差別がなくなった中でそれでも障害といわれることが何かあるとしたら、彼の東洋思想的な悟りのような世界は意味があるのかもしれませんが、どうも悪しき全共闘世代の代表格、革命の意志が挫折したところでの東洋的な諸行無常の世界に陥っているようです。理論的なことでいえば、物象化ということをとらえられない中で、(そのような純然たる自然などないとエンゲルスが語った「純然たる自然」に陥っているところでの)「自然的な共生」へという中での差別への諦観への陥りのように思えてなりません。
 「障害」の負価値性からの反転を随所にかなり鋭くなしているのですが、結局反転に失敗しているとしか思えません。このあたりは意識性の問題だけで反転を試みようとしている、すなわちマルクスの唯物史観の意味をとらえ返せていないことからきているのかもしれません。
吉本隆明さんの論述と同じように部分的には観ること多々あり、ただ、論理性なり根本的思想として違和を抱いてしまう。そんな本です。
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2020年01月06日

小松美彦『「自己決定権」という罠』

たわしの読書メモ・・ブログ520
・小松美彦『「自己決定権」という罠』言視社 2018
この本は、ブログ126の小松 美彦『自己決定権は幻想である』洋泉社新書2004という絶版になっていた本の増補改訂版です。
で、最初から読み直そうとも思ったのですが、もう積み上げた本に追われているので、既稿は原則そのままということ、補注だけ読んで、「増補1章 「自己決定権」をめぐる二〇一八年の状況」と「増補2章 鏡としての「相模原障害者殺傷事件」を読みました。
 その後の、臓器移植問題、「尊厳死」問題、「終末」医療問題と続き、ナチスの思想の「障害者」殺し、民族のホロコーストの背景になった思想を歴史的に押さえ、そして、「いる」と「ある」の違いというところから、脳死状態で生きた子どもと家族の生とことばの中に、新しいひとの生の哲学を生み直そうという、著者の「生の哲学」とも言い得ることを突き出しています。
 もうひとつの、相模原殺傷事件の問題では、事件を起こしたところの思想的なとろを押さえ直す作業をしていて、そのひとつが増補1章でも書いた「世界人権宣言」の「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は理性と良心を授けられており・・」というところで「尊厳という罠」ともいいえることにリンクさせています。この論攷を読みながら、意思をもたない、示せない者をひとでないとするパーソン論の論理というのは、実はキリスト教文化圏の天地創造の物語と進化論の高等―下等生物という位階制、そして精神労働と肉体労働の分業の中での精神労働の優位性、能力の内自有化というところが絡み合った、資本主義の文化そのものから来ているというような思いを抱きました。
 実は、このあたりの話は著者の大著『生権力の歴史―脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』青土社2012 (ブログ229)の中にも取り上げられていたアリストテレスの「只の生」のはなしにもつながっていきます。  
 わたしもこの事件に書いています。わが内なる優生思想というところから、「わたしもUだ」ということまで書いてしまったので、不評でした。まさに、優生思想にとらわれ、自死への思いをつのらせていた思春期から、そこから一応脱して、それを自己批判的に脱構築なり止揚するなりの論攷を積み重ねているとは言え、深層心理的なところでは、脱しえていないところで、そのような表現になってしまったのですが。
この著者は、優生思想や障害問題での思想的なところで、わたしが最も共鳴できる論者です。だいたい追っているのですが、次の読書メモで、1冊読み落としている対談本を読み、メモを残します。
後は、切り抜きメモで。
改訂臓器移植法で、「自己決定権」が、まさに幻想になってしまった。@脳死がひとの死か否かをドナーが選ぶことが、脳死はひとの死と一律に決めるAドナー本人か意思表示していないときは、親の意思でも移植ができる210P→実は@は、その後の法解釈で、これ自体があいまいにされた(法体系―福祉総体の変更が迫られるとしての)「厚労省見解」で、ひっくりかえっているところが、そのあいまい性―両またぎでその法律が「脳死はひとの死」と規定しているという思い込みがひろまってしまっている。224P
WHOの臓器移植売買と移植ツアーリズムの禁止の後者を「移植渡航の禁止」という誤訳・ねつ造によって、改訂臓器移植法を作り上げた。214P
「WHO指針原案・WHO決議案・ルーク・ノエル氏発言」という虚構で「渡航移植の大幅制限」ということをねつ造した217P
WHO新基準―臓器売買の禁止・移植ツアーリズムの禁止・生体移植の厳格化217P
移植渡航のデポジット(「頭金」「手付金」)による待機患者の順番の繰り上げの可能性221P
 日本救急医学会のアンケート「あなたはこういう患者が救急車で搬送されてきたら治療しますか」@「末期がん患者A「重度の大火傷」B「脳死状態と診断された人」C「身寄りのない認知症のお年寄り」D「不法就労していた外国人」(CDは結局外される)227P・・・まさに差別的誘導
「終末医療」という概念229P・・・そもそも後になって「終末」だったと分かることに過ぎない
「尊厳」―「無益な医療」とのリンク229P
診療報酬改定で胃瘻の位置づけを変える232P・・・人工呼吸器・胃瘻・人工透析がターゲットになっている
「終末期」―「人生の最後」―「医療を行わない」というリンク234P
尊厳死法、一旦成立すれば「自己決定権」が「骨抜き」になる←「臓器移植法」から推定237P
「セルフ・メディケーション」―自己責任論239P
アガンベンのホモ・サケル―「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」の区分け―線引きの理由の解明を置き去り(フーコーも)248P・・・著者の「人間の尊厳」からの切り込み―生資本主義を支える力249P・・・労働力の価値という概念からする資本主義の文化―標準的人間像
ピコの諸物の価値付け―キリスト教神学「人間は基本的に動植物と惑星の間に位置します。」「人間には動物にも植物にもない「理性・精神」(とそれによる自由意志)が備わっている。」−フランシス・ベーコン、デカルト、パスカル、ロック、ディドロ、ルソー、カント、ハイデガーにつながっている250P
国家有機体→ヒットラーの民族有機体252P
「世界人権宣言」の罠―「人間の尊厳」―「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」←「やまゆり」事件植松加害者が引用255P
「人間の尊厳」「無益な延命処置」「コスト」という三点セット257P
「戦後世界は、「人間の尊厳」が蹂躙されたことを省み、「人間の尊厳」を掲げるところから出発しました。しかし、それはまったく倒錯した認識だったのです。ナチスにあっても、現代においても、「人間の尊厳」を重視しようとすればするほど、逆説的にも対極の自体が生じたのであり、そして今もなお生じているのです。」259P
「「生資本主義」の基本発想がそうであるように、表面的な個人主義の背後には全体主義がどっしりと鎮座している。具体的には、経済政策のもとに、医療・福祉・社会保障の削減と安楽死・尊厳死の推進が並行してなされてきたことを、想起すればよいでしょう。つまりは、全体を守るために、個人主義を持ち上げ、「自己決定権」を利用しているにすぎない。」260P
「間に、はじめて尊厳なるものが立ち現れる」264P
 存在の事実265P・・・アリストテレスの「只の生」
ドイツ語Seinにはない、「ある」と「いる」の区別266P・・・過去・現在・未来をつなぐ「いる」
 「間に立ち現れた共鳴関係」268P・・・互いに思い合うこと、そこの間にある尊厳。間の尊厳と内自有化された尊厳
 尊厳死協会と植松の近似性295P
「相模原障害者殺傷事件」は、日本社会の全体動向の巧まざる鏡」302P
「駅の職員に礼を述べていると感じられることはほとんどないのです。」306P・・・バリアフリーが進む中での公的な場における協働的介助の消失―援助があたり前のようになることへの著者の危惧のようなこと・・・?そもそも駅員がいて何かするという自体バリアフリーが実現していないこと、バリアを作ったのは誰?このような話は以前にも話があって、「ありがとう」「ごめんなさい」と言い続けていると卑屈になっていくこと、わたしが「「ごめなさい」「ありがとう」は障害者運動の禁句」として突き出したこと むしろ、「ありがとう」と言えるところまで関係を作って行くこと
 「人権」311P・・・?人権という概念自体が架空の議論、更に、「もっている」というところで、能力の内自有化ともつながり、むしろ、ここから否定すること
究極の線引きとしての死刑制度313P・・・死刑は責任のリセットでもある
植松被告の遺族への謝意―遺族にとって大切な存在ということが分かっていた→尊厳がある存在ということになる 彼の中で論理化できていない318P


posted by たわし at 02:09| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』

たわしの読書メモ・・ブログ519
・利光恵子/松原洋子監修『戦後日本における女性障害者への強制的不妊手術』立命館大学生存学研究センター 2016
優生手術の問題が裁判になり、超党派の議員連盟での補償の法案ができました。国の責任を明記しないとか、補償が低い(責任を重く受けとめていない)ということで、まだ裁判は続いていて、解決はされていません。
そもそも優生思想そのものの優生保護法下で起きていたこと、前の読書メモでとりあげた出生前診断・受精卵以前に公然となされていました。被害者の3人のひとへとその周りにいたひとへのインビューとか過去の発言などをとりあげ文を書いています。そのうち最後のひとりの周辺の危うくなされそうになったひとと、周りのひとへ集団インタビューもしています。これは、いわゆるブックレット―冊子ですが読み応えのある、繰り返しつつ丁寧に論攷していく貴重な資料です。
最初は「知的障害者」ということで(実は貧困問題とのつながっている「障害」の話です。この「障害」の括弧は、いつも使っている医学モデルという意味だけでなく、貧困による「学力不振」なのか、医学モデルの「知的障害」ということでも?という意味です)、だまされて本人の意志を無視して優生手術を受けさせられたひと、このひとは裁判の原告です。次は「脳性麻痺の障害者」が施設に入るためということで、優生手術では違法な子宮へのコバルト照射をされたひと。このひとは後に、「自立生活運動」に入っていきます。もう故人になっています。3番目は、これも施設の介助態勢の不備という中で、「自ら」子宮摘出を申しでて手術を受けたという話です。
みんなその後、手術の影響で、体調不調になって、精神的にもダメージを受けています。臓器移植問題とも絡んでくるのですが、臓器は互いの働きかけあいの中にあり、ひとつの臓器をとれば、いろいろ関係性の中での変調がおきてくるものだと思います。もちろん、新しい形でのホメオスタシス(恒常性)を獲得しようとするのでしょうが、そういう総体的関係性を無視して、人為的に臓器を摘出したり、機能を奪うなどということはなしてはならないことなのだと言い得ます。
3番目に掲載されていること、ずっと前に、女性の「障害者」の集まりに参加した女性が子宮摘出を受けた体験を語り、子宮摘出の勧めをしたというショッキングな話がありました。それがこの本の中にも書かれています。その話がこの話とつながっています。当時の情況、そして現実に自分の周りの介助者が生理の介助でいやな顔をされる、当然のこととしてやってくれないという中で、「自立」的生活のためには、必要だと「自己決定」して、子宮摘出を受けたのですが、そのことの意味を後でとらえ返し、それが他のひとが続くことになり、苦悩に陥っている様子がとらえられます。そもそも、「自立」という概念のあいまいさも起因しているのだと言い得ます。いまだに「自立生活センター」という名での活動があります。与党政党の多くのひとや現政治の枠組みは、「自立」ということを、身辺自立、経済的自立の意味で使い、運動サイドの自立は「自己決定」という意味で使っているのですが、この話は、すでに読んでいる次のブログの「自己決定」ともリンクしてます。そこからきちんと押さえ直す必要があり、わたしは「自立生活センター」という名称自体を「地域共生センター」と変えていく必要を感じています(もっとも、政権与党への働きかけが、このあいまい性に依拠して(「現実主義」的に「同情するなら金をくれ」式になりたっている)ことがあるのかとも思ったりしていますが)。
切り抜きメモに入ります。
優生保護法の最初の提案(審議未了)は社会党8P―社会党衆議院議員加藤シズエ、福田昌子。太田典礼44P・・・世界的に初期の優生思想の推進者の中に社会主義者がいたこととリンク
宮城県が突出して優生手術が多かったことの論理「人口資質向上」―「よい結婚のすすめ」「人口資質の劣悪化を防ぐために精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めて」17P
宮城県突出した地域ぐるみの「知的障害者」に対する優生手術、60年代に優生手術のピーク―全国的には50年代18P
池田内閣1962年厚生省人口問題審議会「人口資質向上決議」―「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である。」18P・・・「資質」という名による、ひとの資源化―モノ化、国策としての優生手術
「優生政策の主たる目標は、『民族復興』から『経済成長』にシフト」18P
貧困、障害差別、女性差別のからみあい41P
優生手術で放射線照射は禁止されていた44P―「レントゲン照射による先天異常への懸念から」45P― 「子宮摘出」「放射線照射」が現実的に行われていた46P・・・?「先天異常」
施設入所、生理処置が自分でできることが条件48P
後遺症49P
「当時(1965年前後)、政府側は経済開発のための人口資質向上と福祉の充実を一体的に捉えており、両者を結びつけていたのが「社会開発」という概念であったと述べている。」80P
「いいことしたんじゃから」85P・・・歪められた主体性の獲得と顕示
集会1979年「車いす全国集会女性障害者問題分科会」87P―堤愛子さんの提言
自分の後に子宮摘出手術を受ける者が続いたという罪悪感―女性ではなくなったという観念へのとらわれ97P―それを越えていく方向としての自らがとらわれたところのとらえ返しとそれを運動につなげていくこと
子宮摘出に到る理由@周りの生理介助での否定的態度A生理のつらさB身辺自立概念へのとらわれ(運動的「自立」概念のあいまいさとその罠)116-7P
瀬山さんの指摘―「自己決定したというところで自己を責める―自分が主体的に動いたというところでの自負心のようなことのせめぎあいのようなこと」119P・・・共同主観的なところへのとらわれた「自己決定」の論理へのとらわれ、次の読書メモの小松さんの論攷につながること
おわりに121-3P・・・簡潔なみごとなまとめ


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利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』

たわしの読書メモ・・ブログ518
・利光恵子『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』生活書院 2012
一連のバイオテクノロジー・優生思想関係第三次(くらい?)集中学習の三冊目です。
かつて、「産む、産まないは女が決める」という女性解放運動のスローガンがあり、そのことに対して親の相次ぐ「障害者」殺しへの批判の運動を展開していた「障害者」団体が、「障害児」が生まれると分かったところでの中絶を、親の「障害者」殺しの構図と同じだと批判したことがあり、そこから、議論が始まり優生保護法の改悪の動きの中で共闘を組み、そこから優生思想的なところから出てくる「受精卵診断と出生前診断」への共同の取り組みとして「優生思想を問うネットワーク」という団体を形成し、この問題が日本産科婦人科学会という団体の自主規制に任されていたところで、この団体間のせめぎあいに入っていったとのことです。そのことが、時代区分をして、いろんな資料を駆使してとらえ返されています。貴重な資料として、これから使われていくであろう大切な本です。
ちょっと本の内容からずれるのですが、わたしはこの本から、かねてから障害問題とフェミニズムの対立というところの問題が、この本の中ですっきりしてきました。そのことを書いておきます。
「障害者」の中には、未だに「産む―産まないは女が決める」というスローガンのまま女性団体が動いていると錯覚して、女性団体と「障害者」の間の解決できないような矛盾としてとらえているひともいるのですが、これは優生思想にとらわれた女性とそのことを批判する「障害者」間の対立なのです。ネットワークでは、すでに「子どもを産むか産まないか、そして何人産むかは「女が決める」」としても、その子どもの質を選ぶことは許されない」と定式化しています。問題は、その優生思想が、さまざまな日常生活の中でそれと知らず取り込まれ、それ(共同主観的に形成された意識)を自己の自由意志や自己決定のように勘違いしていくことが始まります。この「自己決定の論理」は、「受精卵診断と出生前診断」を学会の規制を逸脱して推進しているひとたちの文言でも出てきます。自己決定権とか人権という言葉さえ使っています。ですが、優生思想は、そもそも「障害者」のホロコーストの思想で、そんな思想に基づく、人権や自己決定は、「ひとを殺したい時殺していいのだ」という論理になっていきます。臓器移植や生命倫理関係で論を担っている小松美彦さんが、『自己決定権は幻想である』(洋泉社2004)という本を書いています。そもそも、ひとは共同主観性の中でいき、ことばの獲得というところから始まり、教育、社会化というこの中で、そして日々の活動の中で共同主観的意識に規定されて「自己」を形成しているのです。そのようなとらえ返しを欠落させて、純粋な自己(実体主義的自己)など、まさに幻想なのです。もちろん、「個人の意志」を無視することは出来ないのですが、あくまで、いろんな刷り込みがなされているところで、ひとの対話の中での意志というところで、「自己決定」そのものを繰り返し問い返していくことが必要なのです。
で、結局、女性が子どもの「質」を選ぶということは、女性自身が選別される存在になっていくことになります。すなわち、この技術の行き着く先は、どのような受精卵、ひいては卵子を選ぶのかという問題があります。そして、総体的な関係性の中のひと、ひとの総体的からだということ、ひとの総体的な遺伝子、それらのことをどんどん実体主義的に切り詰め、物のようにきりとり、操作していくことは、ひとの物化以外の何ものでもないのです。この技術は「不妊治療」という言説の中でも進行・侵攻しているのですが、その中で「代理母」とかいうことも出ているのですが、女性の中で「自分の卵子をつかってもいいひと」―「子どもを子宮の中でそだててもいいひと」−「妊娠に関わってはいけないひと」というカーストのようなことさえ生み出す恐れを感じているのはわたしだけでしょうか? では、自分はそのようなところで上位の立場に立ちえるからいいのだというひとがでて来るかもしれません。ひとの物化の中でエリートと呼ばれる支配的な立場にたつひとも、そんな殺伐とした社会に幸せを感じることができるでしょうか?
更に、総体的関係性の中にあるということを捨象していくことは、その中で何が起きてくるのかを予想できなくなります。ヒトという種の絶滅のおそれさえ出てきます。すでに、ウィルスや細菌が、ひとが作った化学薬品に対して耐性をもってくる事態が起きています。ヒトという種を絶滅させるのは「スーバー・ウィルス」ではないかという話も出ています。遺伝子操作ということは更に、何が起きるか分からない世界です。「遺伝子操作は、原子炉溶融より恐ろしい」ということばが、遺伝子工学に関わったひとから出ています。原子力技術はもはや未来がない、危険な技術という認識が広まっています。この技術にも未来があるとは思えません。
さて、もっとこの本から離れていくのですが、もう一つの対立の図式を解いておきたいと思います。
それは公害問題と障害問題の対立の図式です。「水俣病」で、病気になった、「障害者」になったということで、その被害を訴えるとき、その被害を強調するとき、それが「障害者」の存在を否定する論理になっているという話がありました。とりわけ「胎児性水俣病」という「障害者」に焦点が当てられていました。もうひとつは、フクシマ原発事故のとき、高校生が「障害児が生まれる」と発言したことです。そもそも、「障害者」は被害がなくても生まれます。そこで、「障害者」が生まれること自体を否定的にとらえるということへの批判が「障害者」サイドからあります。ですが、問題の論点がずれているのです。被害を訴えているのは不利益を被ったというはなしです。それは、今の社会が「障害者」であることが不利益な社会だから、被害を被ったという話になるのです。たとえば、すべてのひとに必要な生活保障がなされるとしたら、そもそも「損害賠償」なる概念はなくなります。それでも、お金はできるだけ多く得たいのだという反論がでてくると思いますが、そもそも必要な生活保障がなされる社会というのは貨幣がなくなった社会で、そんな発想次第がなくなります。それでも、原理的にも残る問題があります。それは、企業の金儲け主義やそれを擁護する国策で作られた情況の中で、「強いられた」ということへの批判の問題です。  責任を認めようとしない、謝罪しないということで、お金の問題ではなくても、損害賠償や慰謝料という形でしか、責任をとらせる、ちゃんと謝罪させる手段がないということで、裁判を起こすという内容であります。
先に、「胎児性水俣病」の話を書きましたが、ユージン・スミスが撮った「胎児性水俣病」の子どもと母親が入浴している写真を巡って議論が起きていました。その写真を「悲惨さ」訴える写真としてとらえて、そのような写真を載せることへの批判が出ていました。わたしも、以前そのような思いも持ったことがあったのですが、実際に、自分自身が「障害者」宣言をして、運動に関わるようになってちょっと違うのではないかと思い始めました。また、ユージン・スミスの他の写真が出ています。またドキュメンタリーの番組など見ていると、彼は戦争の中にも子どもの生活があり、そこで笑っている写真を撮ったりしています。「そこに生がある」という写真を撮っているひとです。もうひとつ、書き置くことは、その被写体になったひとのことが映像でも出て来ていて、地域で「障害者運動」を始めて、自らが「否定的存在でない」ことを突き出しているようにわたしは観ていました。
で、この本の話に戻るのですが、この問題も含めて、バイオテクノロジーの技術に走るひとは、「不幸な障害者がうまれないように」という思いでやっているのですが、そもそも「障害者」サイドからは、「「障害者」が不幸なのではなく、社会が「障害者」を不幸にしているのだ」ということを突き出して来たのです。今日、外国から「障害の社会モデル」の考え方が出て来て、それを利用しようとしているのですが(実際に政治をやっているひとは、この「社会モデル」をほとんど理解できていません)、そもそも、日本でも、同じ内容のことが運動としてあったのです。
本を読んでいると、そこでの対話の中から、過去のいろんな対話(実際のひととの対話や本での対話)とリンクしていろんな思いが湧いてきます。ひとの意識もそのようなところで形成され、変わっていけるのだと思うのです。
さて、切り抜きメモです。今回は特に、自分の備忘録的メモになってしまいます。
まえがき・・・アウトライン的文です。
議論の対象としての日本産科婦人科学会の存在14P
受精卵診断の三つの交叉する倫理的問題「受精卵診断の倫理的問題は、障害をもつものの出生を回避すると同時に障害をもたないものを蘇生させるという差別にかかわる側面、女性の身体への侵襲に関わる側面、生命の人為的操作につながる側面が交叉するところに位置する。」14P――「中絶のもつ倫理問題にも重なる・・・」
「異常」ということは括弧付き18P・・・変異という表現の方が妥当(少しはまし)
欧米では、一応介入という批判はあるが、女性(カップル)の「自発的選択」というこ
とで流され、優生学批判が機能しにくいる傾向。日本では、むしろ個人的レベルの問題にされて、なし崩し的に導入されていく傾向61P・・・安楽死などの問題とリンク
「日本の人口政策をあらわす「魔のトライアングル」」を見いだした」→「魔のトライアングル」とは、基本的に中絶は禁止、妊娠したら必ず産めといのが堕胎罪、堕胎罪の例外条項として障害がある子は産んではいけないというのが優生保護法、そして次世代を担う健全な労働力を産むための母体保護が母子保険法であり、この三つが互いに補い連携しつつ人口の量と質を管理している構造をあらわした言葉である。そして、「この三つの法律によって、女は『産むべき女』と『産んではいけない女』に分けられ、また女のからだを通して『生まれるべき子』と『生まれてはいけない子』をふるいわけようとしている」・・というのがそれである。彼女らは、これ以降、折にふれてこの三角形を図示しながら、国による生殖の規制における女性と障害者の位置を確認している。」85-6P
子どもを産みたい≠どんな子どもを産むか118P
「重篤だからといって、なぜ、受精卵の段階で生まれないようにしていいのか」125P→「障害児」であると知って中絶する権利−生まれてくる子を親が選別する権利―親自らが選別されることにつながる128P
WHO「遺伝医療に関するガイドライン草案」―「個人・カップルの自発的選択により
実施される限り、出生前診断・選別的中絶も優生学とは無関係であるとの主張がなされ、影響力をもつようになった。」「母親が、できれば次に健康な児を持ちたいという願うことを差し止めるのは、個人のリプロダクティブ・ヘルス/ライツの侵害になるのではないかと思われる」130P・・・人間が選別される「権利」は権利とは言えない
「予防は優生学ではない」「自発的選択や個人・家族の利益の優生」140P・・・障害は病
気と一応区別されている、病気の予防という論理を持ち出せない。予防は感染症対策に限定すること。自己決定の論理のまやかし―近代的個我の論理のおかしさ
 「江原は、「子どもの品質管理」に「女性の自己決定権」という主張が荷担するかのような効果を発揮してしまうのは、その主張が『身体の自己所有』を前提とした主張と読み替えられてしまうからであり、それが『生殖は女性の責任』という家父長制的社会のジェンダー・バイアスを含んだ身体観を強化してしまうからである。」141P
米津「子どもを産むか産まないかを決める権利は女にはある。だけど子どもを選ぶ権利
はない」「障害をもつ胎児の中絶は、障害者の差別であるとともに、女性のリプロダクティブ・ライツを侵害する」132P→「荻野は、選別的中絶について米日を比較した論考の中で、この米津の発言を、「リブから始まった日本での選別中絶を巡る思考が今、どこまで到達しているのかを示すすぐれたマニフェスト」であるとして詳しく紹介している」141P・・・「障害者」の存在の否定を通した、女性自身が選別される、自己の存在のそのものの否定
ふたつの受精卵診断149P
筋ジストロフィー協会の方針158-9P・・・実質的に推進的役割も担っている?
疾患遺伝子による選別は遺伝子中心主義167P
自主規制の限界―危うさ178P
「日本における受精卵診断技術導入の経緯を見ると、アクター間の力学を通してテクノ
ロジーに付与された意味が変化し、その文脈の中で新たな社会的欲望が喚起され強められ正当化される。その結果、さらなるテクノロジーの拡大が促されたということができるだろう。」189P・・・自己決定というまやかし
受精卵診断を受けるひとの苦痛190P→ちゃんとインフォームドコンセントがなされてい
るのか? という問題も。
技術の有効性−金儲けのための医療?
「生まれる可能性をもつ胚は眼中にない」194P・・・廃棄される胚―使われる胚との表
裏の命の侵害
強力な人口政策ツール206P
(「フィレージの会」鈴木)「不妊が少子化の枠組みで論じられることに違和感がある。治
療を受けない選択の自由や、子どものいない人を支援する視点がない」「少子化対策に不妊が位置づけられる、治療してでも子どもを持つべきだという社会の圧力をさらに強める」213P
そもそも技術自体のあいまいさ、困難さ、技術自体への疑問219P
「『障害を持っていても安心して生きられる』そのような環境をつくっていき、親が安心
してこどもを生めるようにしていくのが理想」・・として、社会的障壁とともに文化抑圧の除去目指すことを訴える」223P・・・「障害の社会モデル」の考え
「べき」論228P・・・生まれてくるべきではない存在ということにつながっている
患者の自己決定論243P・・・社会にある「生まれてくるべきではない存在」という考え
をなくさないと自己決定にならない
「染色体変異は、生物の多様なあり様を示しているのであり決して「異常」を意味しな
い。」245P
 フーコーの有名な提言「古い君主の権利「死なせるか生きるままにしておく」→近代「生きさせるか死の中に廃棄する」」247P
 「・・・のより積極的な意味づけを提示しえなかったことが、2004年以降の批判勢力としての弱体化につながったとも考えられる。」253P・・・共同主観性総体からの批判、それの土台からもとらえ返す
 「『変異』を、あるいは『逸脱』を常に生み出し続ける自然の力」256P・・・それを「症」として異化する共同主観的構造


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天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』

たわしの読書メモ・・ブログ517
・天笠啓祐『ゲノム操作食品の争点』緑風出版 2017
一連のバイオテクノロジー学習の第二弾です。この本は、ゲノム操作・遺伝子組み換え食品について解説し、その争点を整理した本です。
研究が、自然の関係性総体を押さええず、一部を切り取って因果論的世界観で試行錯誤的なことで進められている様子が分かります。そこに、どういう社会を作って行くのかという未来図がなく、多国籍企業の金儲け主義による自然環境の破壊と、人間社会、ヒトという種の未来をも奪うような研究や企業活動の跋扈、各国政府への働きかけが見られます。勿論、それに反対する民衆の運動も起きてきているので、そこへの期待もあるのですが、全体的な流れを見ているとわたしは、「資本主義やめますか、ヒト絶滅の道に進みますか」という標語を出さざるを得ないとも思ったりしています。
そこまで行かないまでも、「地域活性化」の話ともつながるのですが、今の政府の農業が、食料自給率をどんどん減らし、お金持ちのための贅沢品を作るような流れも出ています。一方でIターンやUターンの話も出ていて、農というところから、根底的なビジョンをもった取り組みが必要になっていると思います。そこに社会変革の可能性もあるのではないかと思ったりしています。
細かいコメントは、キーワード・切り抜きメモで若干書きます。
三つの神話(ウソ)「ゲノム編集技術は間違いを起し難い」「ゲノム編集技術は精密に制御されている」「DNAの機能は変更が予測可能である」30-1P
ゲノム編集技術の問題点「@生物の大事な機能を殺いでしまうA狙った遺伝子以外を切断(オフターゲット作用)する可能性が高いB複雑な遺伝子の働きをかき乱すCDNAを切断するだけだと跡が残らないため、操作したどうかが分からなくなり、悪用が可能になる。D簡単な操作ででき、操作の簡単さと結果の重大さの間にギャップがあるE軍事技術への転用が容易F遺伝子を操作するため、次世代以降に影響が受け継がれるケースが多い。G特許争いで開発が過熱化しているH簡単にオンラインで注文できるI民主的手続きや市民参加の仕組みがないままに進行している」33P・・・わたしサイドから付け加えるなら、「優生思想や差別を再生産・拡大していく」
市民の遺伝子権利章典42P
「人間の遺伝子の仕組みは大変複雑である。その遺伝子の複雑さ、生命活動の複雑さ、奥行きの深さをもたらしているのは、実はRNAであることが、最近よくわかってきたのである。しかしRNAに関する研究は、あまり行われてこなかったのである」64P・・・因果論的世界観や要素還元主義的な研究、平衡論的研究、そして成果主義では、関係の総体を押さえていく作業としてのRNA研究には進まないのではないか?
「人工生命の誕生のニュースは、世界中を驚かせた。環境や人体に及ぼす影響は予測がつかず、封じ込められた環境中での使用以外認めるべきではない、という意見が相次ぐなど、その反響は大きかった。」70P
(遺伝子ドライブの技術の停止の決議2016年)「(多くの科学者からのメッセージ)この技術は基本的に種の絶滅を目指す技術である。」82P
遺伝子組み換え1980年代前半―規制は1990年から86P
大豆畑トラスト運動―民衆運動90P
「カルタヘナ議定書」というバイオセーフティ議定書2000年 90P
政府から独立した「食の安全監視市民委員会」93P
「食の安全、食品表示などを検討して、基準や規格を決めていく国際組織コーデックス委員会」94P
「遺伝子組み換え作物栽培規制条例」北海道2005年→さまざまな条例の先駆け97P
GMO(遺伝子組み換え生物)フリーゾーン運動98P
バイエル・クロップサイエンス社の「LLライス」裁判→七億五千万の賠償で和解125P
ゴールデンライスでの人体実験130P―「トロイの木馬」131P―他の野菜から摂取できる、本末転倒の開発思想131P
規制を求める運動の小売り業者へ働きかける民衆運動141P
GM鮭の問題@資源・生態系の破壊A不妊B肉食強く他の野生種の絶滅のおそれC他種との交配可D毒性の吸収で摂取したときの蓄積Eガンの発生F種自体に敗血症の恐れ143P
除草剤耐性作物に用いられるラウンドアップの主成分―グリホサートを巡る攻防162-6P
「緑の革命」→遺伝子革命→種苗法・特許(知的所有権)→多国籍企業支配170P
高収量品種―飢餓がなくなる→逆に飢餓が増える、貧富の拡大172P・・・スーザン・ジョージのIMF、世界銀行批判
種子の企業支配→品種が少なくなる→ウィルス・細菌による絶滅の恐れ(→品種の保存運動も)173P
UPOV(植物の新品種保護のための国際条約)174P
日本の種子関係の動き177P
「知的所有権強化では、企業の権利は強化されるが、市民の権利は制限が進む。」190P・・・そもそも特許制度―知的所有権の思想自体のおかしさ→207P
ゲノムコホート研究192P コホート−大規模調査
「・・・生命現象の全体像をとらえようとすると、とてつもない膨大な未知の領域が存在している。/現代のバイオテクノロジーは、DNAやRNAだけ見て、生命全体を見ようとしてこなかった。そこにこそ、現代のバイオテクノロジーの最大の問題がある。しかもその生命操作は、経済の論理で動いている。金もうけのために原発を動かし、放射能汚染を引き起こし、市民を苦しめてきたのと同じ論理で生命操作を進めている。結局、最終的に負の結果を負わされ、被害を受けるのは市民なのだ。」196P
「飢餓をなくす最適な方法は、種子への特許権の設定を廃止し、家族経営による小規模農業を拡大することである。食料主権を確立して、食料輸出を抑制することである。遺伝子組み換えやゲノム編集、RNAiといった最新技術に依存せず、有機農業をベースにした安全で安心できる食料生産を広げることである。二〇〇八年に世界銀行が提案したように「エコロジカルな農業によって、世界の人々への持続可能な食料供給をもたらすことができる。」のである。」207P・・・地産地消の共同体の創出。世銀が「後進国」で単一作物の作付けによる「緑の革命」を推進して、「後進国」の債務を膨らませ、飢餓を生み出した責任の問題も押さえておく必要。


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粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』

たわしの読書メモ・・ブログ516
・粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』青土社 2012
この本は、最初はバイオテクノロジー関係に特化して準備されていたようなのですが、フクシマが起きて、急遽、二つの核、細胞核と原子核というつながりから、そこで何が起きているのかというところで、できた本です。
 構成は「はじめに」「序章 3・11“以前”、科学“以外”」「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」「第7章 市民のバイオ化 原発事故」「おわりに」となっています。
 この著者はいわゆるサイエンス・ライター(最後にコメント)と言われであろう立場で、エビデンス−科学知の突き詰めによる、科学倫理の追究の書というテーマになるのでしよう。
 わたしは運動の立場から文を書いているので、そもそも科学の名によって何が行われてきたのか、という批判の観点をもっています。そしてエビデンスと言われていること自体に疑いを持っています。原子力村の安全神話を作り出したのも科学者です。勿論、肩書きを振り回す似而非科学だったのですが、著者はきちんとそのことを検証していこうとしているのだとは思いますが。
 さて、今回は章ごとにコメントを残しつつ、キーワード的切り抜きもしてみます。この本は目次を見ているだけでも、著者がかなりバイオ化ということでとらえようとしていることが分かります。著者のバイオ化という概念は、わたしにとって、マルクスの物象化という概念と重なってとらえられます。
「はじめに」
ここが全体を眺めるのに大切ですが、後と重複していきますので、ここでは省きます。
[キーワード]二つの核、バイオ化 生-権力 バイオ・キャピタル
「序章 3・11“以前”、科学“以外”」
 冒頭に書いたように、フクシマの事故が起きて、この著書は大きな編集転換をしました。で、この章と7章が挟まれたようです。ここで問題にしているのは、人災と天災の境目と実際の被害の線引きの問題です。著者は、フクシマ後に現地に入り、ちょっと移動する中で被害の差に大きさがあると気づきます。それは他の天災と言われていることの外国の文献からも引用されています。それは「個人の」とされる貧困などの問題、行政の防災対策の貧困などの人災であることなのですが、差別が天災の中で現れされるということで、ここでは書かれていませんが、アメリカのハリケーン被害のときに語られていたことでもありました。
原子核でいえば、原子力船「むつ」や高速増殖炉「もんじゅ」は破綻しました。原子力発電自体も、スリーマイル、チェルノブイリと続き、そしてフクシマが起きました。いくつかの国は、原発からの撤退を宣言しました。当の事故を起こした国の日本は、再稼働を進めています。首相自らが原発輸出の売り込みをやっていました。とても信じられないのです。
[キーワード・切り替え] 切れ目22P 「被災地には線が引かれている」25P 「問題は「自然」でなく「社会」の側にある」30P 
「東日本大震災の発生前にまとめられた「平成22年防災白書」は、近年の自然災害の死者数の六六パーセントが低所得国(発展途上国)、二八パーセントが中所得国で生じており、高所得国ではわずか五パーセントしか生じて居ない・・」30P
「ハザードが起こりうるリスクと脆弱性をかけたものが被害に相当する。」34P
この章の表題の意味ですが「3・11“以前”に、そして科学“以外”に着目せよ。」37P・・“以前”というのは、事故が起きる前の差別的情況が事故によって顕在化するということ、“以外”というのは、問題は科学(自然科学)、自然災害でなく、社会問題だという提起だとわたしは理解しました。
「第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術」
生殖補助医療はいろんな問題を抱えています。「不妊治療」ということを、本文の中五点で示しています。@「女性は子どもを産んで一人前」ということでの抑圧A「不妊治療」というけど、治療の内容がないごまかしB女性に負担を非対称的に負わせていることC優生学的な問題を孕んでいたことD商業的に行われる中で、いろんな差別の問題を引き起こすこと。わたしが感じていることを付け加えると、生殖医療というところで三つの階層化が起きる危惧があるのです。それは遺伝子を残す階層とそれを人工授精して腹に宿す代理母の階層、そして子どもを作ることを禁じられる階層です。まさに優生思想につながることの恐ろしさを感じざるを得ないのです。
「第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断」
 遺伝子編集と出生前診断の話は、まさに優生思想そのもののおそろしさを感じています。
[キーワード・切り抜き]遺伝子よりも環境・生活環境の方が大きい72P 放射線照射というところから遺伝子研究が始まった、放射線によるDNAの損傷という原子核と細胞核の交叉79P ABCCは調査はするが、治療はしなかったこと・・「植民地科学」81P・・・科学の冷徹さ /遺伝子治療 成果に疑問視 副作用による死者 白血病になる例84P 「人の評価」―「属性」と「能力」、「属性本位」(遺伝子研究)と「業績本位」93P・・・どちらにしても能力の内自有化という物象化 /「GATTACA」という「デザインベイビー」をテーマにした映画から波及した、著者のコメント「「GATTACA」の世界は、能力格差と自己責任を是とするネオリベラリズムが席巻する現実社会と、それほどの違いはないだろう。」94-5P・・・どちらかという問題ではなく、属性主義と能力主義を合体させたのがデザインベイビーではないでしょうか? どちらもおかしいです。 /ダウン症の出生前診断「九二パーセントはその妊娠を終わらせる」98P 「英語圏のメディアでは、ダウン症などの先天性障害児を出産する可能性自体が「リスク」として記述されることがしばしばある。」―「リスク」として表現すること自体のおかしさ102P 代理母−出生前診断で、子どもが製品としてとらえられる商品経済的ひと(赤ん坊)のもの化106P
「第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学」
 この章は、このメモと一緒に映像鑑賞メモで取り上げている山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組とリンクさせて、読書メモというには少し逸脱したメモとして残します。もうひとつの核研究として細胞核の研究です。ES細胞研究を「万能細胞」とする研究からはじまったのですが、倫理的に女性の身体に負担をかけるようなことをすべきではない、また、命や命のもとになることを壊してはならないということで、ES細胞研究からの撤退の動きがあったようです。で、iPS細胞にはそのような倫理的問題から逃れるとして、スポットライトを浴びています。しかし、山中伸弥さんのNHKでのインタビューの番組を見ていると、当の山中伸弥さんが危機感を抱いているようです。まさに分水嶺に立っているのです。
またiPS細胞を豚の体内で培養し、ヒトに戻すということは、豚のウィルスの感染症のみならず、豚の脳とその臓器の関係はどうなっているのか、そもそも何が起きるのか、というところで、承認されるのでしょうか? iPS細胞で精子卵子を作ることができるということは、ヒト概念を危うくすることで、そんな科学は否定されることしかわたしには思えないのですが。病気の治療ということで、個々の切実な利害というところを無視するのかということを、全体主義批判というところで出てくる可能性があります。ただ、臓器移植の問題と同じように、ひとの犠牲になり立つ科学は否定されることです。そのことには、ヒトという種の概念を危うくするという、根底的危機も当然含まれるのです。
[キーワード・切り抜き]著者の幹細胞問題での論旨112P ひとりのヒトから卵子・精子が作れる−ひとが作れる122P iPS細胞の英語原語 induced pluripotent stem cell 128P 「できる(できそうだ)けどやらない」という選択肢138P 規制の緩い国−経済格差、政策格差、倫理格差139P 「身体的・精神的負担やリスク」は「社会問題」142P
フーコーの「生-権力」−著者「「切れ目」を入れる」というところからのとらえ返し143P
「「万能細胞」は・・・決して、社会的に万能なものではない」146P
「第4章 信頼のバイオ化 マインド・リーディング」
そもそも臓器は体内の中で単なるもの―機械として存在しているのではなく、生命体のネットワークの中で機能しているのです。そのようなことをきちんと押さえないことから臓器移植の問題も起きています。まして豚の体内で臓器を培養して、ひとに移植するということで、何が起きるかわたしは想像もできません。近代知の因果論的世界観では、部分的に切り取り、そこで総体的な関係性からとらえ返すことをネグレクトしているのです。自然科学のみならず、パラダイム転換ということが起きているのですが、自然科学をやっているひとはそのようなパラダイム転換とは無縁の研究をやっているのでしょうか? そこではリスクが総体的にとらえられなくなっているのではないでしょうか?
 また脳の中に、そのことの人格があるような、脳の中の小さな自分というようなイメージで、脳の特権化の様なことが起きて、そこから脳死臓器移植の論理のようなことも起きてきているのですが、実際は、神経細胞の双方向性ということも含めて、脳が一方的に指令を出しているわけではないのです。このあたりは、今回著者が文献の中で紹介だけに留めている、脳死臓器移植の問題とも関わっています。
[キーワード・切り抜き]嘘発見技術の開発などは「私たちは、私たちが考えていることでなく、私たちが行なうことについて説明責任を持っているという原則に対して、挑戦するかもしれないこと。」156P・・・共謀罪の成立・施行 /「「腰痛は脳の勘違いだった」と主張する(元)患者もいる」158P どんな最先端の科学テクノロジーを使ったとしても、そこで脳内現象として視覚化されているのは、心的できごとと単に相関性をもった脳活動に過ぎない。ある心的できごとAが起きているときには、それにともなって脳内現象Bがいつも生じているという観察結果を積み上げたとしても、それはAがBと同一であることも、BがAを生み出しているということも説明することはできない。」158-9P」・・・因果論的世界観の否定←廣松渉さんの論攷 /信頼と不信159-162P
「第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬」
 自死(著者は「自殺」という表記)ということでうつとの関係がかなりあるということで、抗鬱剤との関係も含めて論じています。
[キーワード・切り抜き]高い自殺率は「集合的な疾患」166P・・・?バイオ化された表現、社会問題 /「社会的殺人」168P・・・殺人ならば自殺ではなく、自死という表現に/「自殺とうつ病との間には根深い関係があると考えられている。」169P 「うつ病を発症する可能性のある遺伝子の研究175P・・・まさにバイオ化 /ブラセボ効果176P アメリカFDA(食品医薬品局)「うつ病は脳の病気ではなく、化学物質はそれを治療しない」178P デンマーク「抗うつ薬は、中年や高齢者の自殺率低下のうち一〇パーセントにしか役立っていないと分かった。」180P 「(治療の効果を)信じる者は救われる、しかし信じないものは救われない、ということだろう。」182P 「生物医療化という現象または社会的変容には、医療化よりも「脱医療化」と呼びたくなる側面がある。」183P 「うつ病の「個人化」」「社会的なるものの個人化は、抗うつ薬と心理療法、どちらにもあてはまる。」187P・・・内自有化、障害の個人モデル
「第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療」
著者自身の当事者問題での腰痛問題で、ひろまっている知識の、医療者も含めた曖昧性−非科学性というところを科学的に明らかにしていくということを著者をやっているのですが、そこでも、統一性をなしえていない、そういうエビデンスって一体何だろうと思っているのです。科学ってそんなものなのかという話です。で、そういうところで、ひとの、人類の未来を左右するようなことを勝手にやろうとしている、先ほど書いた山中さんのインタビューで、たかがひとがつかんでいるのは一割か二割に過ぎない、そういうこととして謙虚さが必要ということを話していたのです。そんなことを感じてしまいました。
[キーワード・切り抜き]痛みという社会問題191P・・・「痛みの社会モデル」 /生物心理社会的疼痛症候群202P 「腰痛概念の「生物物理構造モデル」から「生物心理社会モデル」への転換」203P・・・後者に生物を入れるとバイオ化になる。障害学の知見から「個人モデルから「社会モデル」への転換」 /「レッドフラッグを「生物学的(物理・構造的)危険因子」、イエローフラッグを「社会心理的危険因子」と呼び変えることもできる。」204P
「身体的痛みにおいても、社会的な断絶によって生じる社会的痛みにおいても、脳の同じ領域――二次体性感覚領野と背側後部島皮質――が働くことがわかった。」208P・・・アドレナリン分泌と感情の関係も /「痛みのバイオ化は、バイオ化の限界をも示しているのだ。」209P 「しはしば「心身二元論」の提唱者と呼ばれるデカルトの議論においてもなお、快感は喜びと、苦痛は悲しみと重複するものなのである。デカルトのいう「苦痛」は本章でいう「身体的な痛み」に、「悲しみ」は同じく「社会的痛み」に置き換えられると思われる。」210P・・・「悲しみで胸が締め付けられる」という感覚や痛みが生じるということや、アドレナリン分泌から感情の区別はできないという問題や、著者のそもそもこれまで論じてきた社会問題ということで矛盾する論攷になっているのでは?
「第7章 市民のバイオ化 原発事故」
 この章では、原発事故の問題から、幅広い社会問題を自然的、問題としてとらえるバイオ化の批判をしています。そのことは、わたしは、フェミニズムと「障害者」の対立とか、 公害問題と障害問題の対立とかの問題に広がつていきます。しかし、それは社会を固定的にみているから起きてきていることです。公害はひと総体をあやうくするのです。公害とか、損害賠償について、「障害者」差別がなくなったら、告発することはないということを書いているのですが、少し違うと思います。他者からある生き方を「強いられる」ということを問題にしているのです。現在は「障害者」差別があるから、強いられたこと以上にそこで不利益を被ることを問題にして裁判など、損害賠償という形で責任を問います。差別がない社会では、基本生活保障というようなこともきちんとなしえることなので、損害賠償などする必要もないのですが、「強いる」ということの告発はなさねばなりません。しかも、それはおそらく、自然破壊やひとの営みを危うくするという人類に対する罪のようなことです。
[キーワード・切り抜き]確定的影響→確率的影響という観点で科学を考える231P 生物学的市民性237P(・・・高木さんの市民の科学)→出発は原発事故238P 科学者と対等なパートナーシップ238P・・・規制が必要になる研究には主体性は「市民」 /「もし世界が、いや日本社会が、障害差別がなく、もちろん優生思想的な考えを持つ誰一人としていなくて、社会福祉が完備されている、というありえない社会=ユートピアだとすれば?」242P・・・これは当然実現すべきこと、それを「ありえない社会=ユートピア」とすることがありえないと思うのですが。これは差別のない社会をユートピアとして彼岸においているのではないでしょうか? もし差別の問題を解決できないとして押さえるなら、この論攷自体が何のために書かれているのでしょう? /(チェルノブイリの被害と「される」写真を見ての)「「恐怖の対象」、「あってはならないもの」(と感じる)243P→「内なる優生思想」247P・・・ユージン・スミスの「水俣」の写真についても語られていたこと、そのひとの世界観・思想性によって、感じ方が変わってくるのではないか?
「おわりに」
「患者の利益」ということで科学技術の使用の可能性を書いているのですが、ひとつはES細胞研究も使う可能性、もうひとつは原発も使う可能性です。「治療できる見込みの高いES細胞を拒否して、見込みの低いiPS細胞を選ぶというのは、本末転倒とまではいわないにしろ、患者の利益にはならないであろう。同じように、仮に“より安全な”原子力と、“より危険な”再生可能エネルギーがあるとしたら、前者を拒否して後者を選ぶというのは、賢明な態度とはいえないはずだ。」258P・・・もっと総体的に人類の利益という問題も考えなければなりません。この本の中では、著者は臓器移植の問題を書いていません。誰かを、何かを犠牲にして成り立つようなことをやってはいけない、ということで、単に患者の利益ということでは論じられないということが、この臓器移植でははっきりしているのです。幹細胞の問題では、山中さん自身がこの技術が人類を滅ぼす可能性という危うさを語っています。著者はエビデンスということを追い求めています。確かに科学を批判するのに、エビデンスなき批判は感情論になります。しかし、科学知の論理にとらわれています。科学知は客観主義的にあるものではないと言い得ます。「原発の技術は、安全性を担保して使う」という論理自体が、もはや使い物にならない技術として明らかになっています。そして自然エネルギーにも危険性があるにしろ、それを取り除きつつ追い求めていく、というのがより良い道だというのが、エビデンスになっているのではないでしようか? 著者は「痛点」という観点をもっています。その「痛点」ということをもっと総体的なとらえ返しが必要になっていると思うのです。


posted by たわし at 01:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBS1「あなたの隣の奇跡」

たわしの映像鑑賞メモ037
・NHKBS1「あなたの隣の奇跡」2019.11.1 0:55〜2:34
最近テレビを付けっぱなしにして、パソコンを打ったりしていて、思わず面白い番組に出会うことがあります。これもそのひとつ。
今、地方で「限界集落」とか過疎化の話があるのですが、部分的に逆にひとが集まってきているところがあるという話です。IターンやUターンの話も出ています。ひとつは、政府がTPPとかに見られるように、ひとが生きるためのもっとも必要な農業の切り捨て的な政策を取っています。そういう中でも、地方創生とかベンチャー的な農業とかの推奨をしていることがあります。この番組の中でも一個数万円のいちごとか、4合で60万の値が付くお酒とか、お金持ちのための高級嗜好品の農業ということがひとつあるのです。こういうことは、確かに、技術としては面白くて、みんながそのようなところを楽しめるような社会になればいいのですが、実際は、むしろ食料の自給率をさげ、格差の広がりを生み、サブシステンス的なことと逆な動きになるので、わたしとしては余り共感できませんでした。
それでも、活かせる話は、タブレットを使った、仲介資本を介さないで、産地直送の販売とか、町長が100人委員会とか名目で、町民のアイデアを募り、それを事業化していくこととか、自然に親しむ、民泊して農業体験をして、そこで過ごしたひとが、家族ごと引っ越ししてくる、夫婦で引っ越ししてきて子どもを作り、そんな感じで、地域の子どもの七割がIターンの家族の子どもというような地域も出てきているという話です。外国からの観光客が民泊して観光し、そば作りとか楽しみ、リピーターとなって友人とまた来る、そんな地域の活性化のようなことも起きているようです。
自然を楽しみながら子育てする、また、もっと農業に注目しながら、地域から日本を再生していく力のようなことが生まれてくるかのかもしれません。そんなことを考えていました。


posted by たわし at 01:46| 映画鑑賞メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」

映像鑑賞メモ 
たわしの映像鑑賞メモ036
・NHKBSフレミアム「100年インタビュー 山中伸弥が語るiPS細胞の未来」2019.10.16 21:00〜22:30
今、iPS細胞で脚光を浴びている山中伸弥さんへのインタビュー番組です。iPS細胞の話を知った最初のときから危うさを感じていました。山中さんの話では、彼もその危うさを感じていたとのこと、しかも、優生思想とつながっていることも理解していて、ゲノム編集の危うさと並行して自分の研究の危うさを理解しているのです。皮膚から、精子、卵子を作れる技術なのですが、そこから受精卵にして、ひとが作れるということなのです。「ヒトを作る」ということに踏み込むという技術を手に入れたという話なのです。ひとの概念自体を危うくさせる技術です。
わたしが以前フェミニズム関係の本を読んでいた時、S.ファイアストーンの『性の弁証法』評論社1972という本がありました。その中で、女性が差別されるのは子どもを産む性ということにあるのだから、女性が解放されるには試験管ベービーの技術が開発されることが必要、というようなことを書いていました。まさに「社会的関係を自然的な関係と取り違える錯認(マルクスのいう物象化そのもの)」なのです。当時、そのような話はSF小説の社会の話でした。SFといえば、昔観た映画で、ある建物の中に入っていくと、「人工子宮」の容器の中で、ヒトの「胎児」が栄養補給を受け育っている場面がありました。どこまで映画で観たのか、わたしがその後夢を見たのかもうはっきりしなくなっているのですが、ぞっとした思いがあります。
何でも晩生のわたしがパソコンを始めたのは2000年頃、そのころは本の中に書き込みをするだけで、読書メモも取っていませんでした。ちょうど、そのころ遺伝子操作関係の第一次まとめ読みをしていたので、どこにその記述があったのか探し出せないのですが、「遺伝子操作は原子炉溶融より恐ろしい」という記述がありました。遺伝子操作関係の本の中にメイワン・ホー/小沢 元彦訳『遺伝子を操作する―ばら色の約束が悪夢に変わるとき』三交社 2000という本もあります。
最初に日本でノーベル賞を受けた湯川秀樹さんは、自分の研究が原子爆弾製造に使われたということで、晩年平和運動に尽力しました。原子核―原子力研究をしていて、その恐ろしさを自覚した高木仁三郎さんや元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは反原発運動に転じました。その実験所、「熊取六人衆」と言われる反原発の研究者を生み出しています。山中さんは、自分の研究室と並行する倫理委員会を作ったようです。どうも自分が中心になってその倫理研究をやるのではなく、別のひとがそれを担当するようです。どうも分業になっているようなのです。
ですが、自分の責任を他者に委任するようなこと、そんな分業はありえるのでしょうか? 
山中さんは優生学の歴史とかも押さえ、そして政治が自国ファーストになっている(自分ファースト)になっている現状をも押さえています。山中さんは臨床医として病気を治すというところの自分のビジョンをもっていました。けれど、この研究にはいってくるひとは必ずしも、そうでないひともいます。論文を書く、研究費を得るというところで成果を求めるひとがいることをも押さえています。そして、自ら分水嶺に立っていると、危機感ももっているのです。
山中さんは、iPSの技術を確立したときに、文科省に行って倫理委員会をつくって欲しいと要望したそうです。
[わたしの感想]
人類の歴史で、原子核の研究から原爆の開発に進み、そこから核の平和利用ということが現在どうなっているのか、核保有国が広がり、核禁止条約さえ締結しないような国に政治に任せることなどできはしません。原発は大きな事故が三度も起き、その被害の悲惨さも認識しているのに、フクシマ後、他の国で原発からの離脱を決める国も出てきたのに、事故を起こした当の国が再稼働を進め、原発の安全神話から、放射線の安全神話に切り替え、首相自ら原発の輸出をすすめようという「死の商人」の国になって行ったのです。「我が亡き後に洪水は来たれ」という誰も責任をとらない技術を使い続けようとしています。そんな倫理亡き国に、倫理など問題にできるのでしょうか?
そもそも原子力船「むつ」も高速増殖炉「もんじゅ」も破綻しました。原子力技術は、それを封印する技術としてしか未来はないと思っています。
ES細胞から続く、iPS細胞技術、山中さんは、マラソンで例えると中間点、登山では五合目と話していました。当然、後になるほど、上にいくほどリタイヤの可能性が強くなるとも言っています。そして、科学者には謙虚さが必要なのだとも言っています。ひとが知り得ることは、一割か二割にも満たないであろうという話も出ていました。高木仁三郎さんは、ひとは「自然に適う」生き方しかできないのだと書いています。そして、山中さんは、この技術の延長で人類滅亡につながるかもしれないとも自覚しているのです。
そもそも最初から議論のし直しをすることではないかと思っています。
科学の進歩は止められないとか言っていますが、それならば人類が滅びることを止められないとするのでしょうか? 科学者自身も声をあげることです。

 さて、このNHKの番組だいたい反響が大きい番組は再放送されるのですが、今度は録画しようと気にかけていたのですが、まだ再放送されていないようです。いろいろ議論すべき大切な内容です。それで、オンデマンドで購入して視聴しながらメモをとりました。再視聴できる期間が短かったので、再度見れませんでした。かなり長い番組で、わたしの関心領域に限ってのメモとりで、校正もしないままです。とりあえずのメモにすぎません。
[視聴メモ]
きき手 出山知樹
2012年 ノーベル医学・生理学賞
 Vision and Work hard
叡智として、ひとは本当に賢くなっているのか
今、分水嶺に立っている
京都大学iPS細胞研究所
登山で五合目 マラソンで中間点・・・今動物実験から、臨床実験の入り口 これまで12年で今後20年30年  これからが大変、マラソンでも登山でも 終わり頃リタイヤが多い 失敗するリスクが大きくなる
父が輸血で肝炎 ウィルス 医者になって一年でなくなる 両親は町工場の技術者
神戸大学医学部整形で臨床医 →大阪市立大学医学部大学院で基礎研究に入る
アメリカでトレーニング 動物実験で予想できない事態で関心を抱く・・血圧上げる薬で逆に下がる
グラッドストーン研究所三年半
いろんなボス 基礎研究
長期目標 考え方
ロバート・マーレー所長(今は名誉所長)の「君のビジョンは」VWhard(Vision and Work hard)というといかけに・・・「今は治せない病気を治したい」と答えた 
  研究者には研究費をとるとか論文を書くとかいう答えが多い
 日本人にはビジョンがないWhardだけ
奈良先端科学技術研究所 三人の部下をもって始める 皮膚から万能細胞
六年で6つの遺伝子特定
毎年 サンフランシスコに通って生命科学基礎研究
京大iPS細胞研究所 臨床医としての治したいとのビジョン
研究者が転職10〜20年でなんとか臨床に結びつけたい
アメリカでは「ハート・ワーク」という形で寄付が集まる
未来ビジョン 50年〜100年後
キャス9タンパクで酵素をきる ゲノム編集
  スタンフォード大学中内啓光 マウスからラットへ膵臓移植
パーキンソン 認知症 心臓病 糖尿 ガン
100年後にはiPSは過去の技術になっているかも その方がうれしい
科学には完成形はない→もっといい方法がでてくるのではないか 自分の身体の中で 進化してなくなった自然治癒力で、自然の再生能力を使う技術
外科やiPS は外から  薬で再生力とか病気にならない予防とかの
「さみしくないか」という問いに、「次の、次の次の世代の踏み台」
科学は連続 病気を治す 患者の負担のないように
100年後臓器が作れるかも
今は、動物の体内で臓器を作る段階・・どこまで生命倫理的に許される臓器移植か
待っている人がいいというのか 動物でいいのか
動物で感染症の問題 動物の中のウィルスがヒトに移る
人類をおびやかす 想定外のこと
実用面・倫理面慎重に一歩一歩
どこまで模倣していいのか 
倫理的・宗教的面いろんな議論を
科学者は進めたい(中には慎重なひともいる)
集約するのはむずかしい、一緒に考えていく、正解がない
人類と地球をよくする可能性を追い求める 逆に不幸にする 最悪滅亡
最悪例 原子力 武器 平和利用としても何万にも及ぶ被害・影響を及ぼす 逆効果
真摯な思い、慎重な態度
科学の進歩は止められない・・・?
人間がどう使うかが問題
100年前遺伝子 進化ということが受け入れられた その50年前ダーウィン メンデル
遺伝 進化ということで優生学が興った 自然に起こっている
すぐれた遺伝子残そう 比較的最近まで優生思想の法律があった
そのときも 自国ファースト ポピュリズムが起きている
科学においても倫理が心配
100年後の今も 自国ファースト ポピュリズム
100年前と違って 今は一日でゲノム解読ができ、ゲノム編集で書き直すことができる
ゲノム編集で書き換えれば
背の高さ・・・才能の遺伝子を書き換えられる 100年前の優生学のときと同じ議論が起きている
科学は進んでいるが、叡智としては進んでいるのか心配
全生物を滅ぼすことが一週間で書きかえができる
恐いと感じる
わたしたちが10年後20年後どうなるか、
政治が進み方を決める岐路に立たされている・・・政治に放り投げている
中国の研究者のゲノム編集の問題
iPS細胞研究所内に生命倫理を研究する部門を作った 藤田みさお教授
次世代まで影響が及ぶ、人類が進んでいると信じたい
政治を見ると不安 科学者を見ると不安・・100年前の優生学
透明性 自由に発言できる
最初はながれ弱い   流れ出したら止められなくなるかも
上流で研究を検証  大きな流れになったら止められない

マウス皮膚から精子・卵子も作れる
不妊症の原因を解明研究にも使える・・新しい治療の方法
その技術 新しい生命を作るにも使える 技術的に可能→むずかしい議論 100年前の優生思想  更に遺伝子操作も
知性的に冷静に考える 100年前間違えていた 同じ議論が
iPS細胞どう使うか 人間の欲望がからむ 線引きがむずかしい 
健康になりたい→より健康になりたい、より美しくなりたい
医学はどこまで医学 どこまで使っていいのか?
どこまで病気なのか?
病気というより個性というとらえ方もある
ある人は病気といい、無理矢理治そうとする
かつて子どもを作ってはならないとした
いろんな技術がある
ひきょうかも知れないが自分で決められない
病気―難病は許されると思う 人類にプラスになることは
踏み込んだ技術はどうなのか 自分で自問自答している
ES細胞は倫理的に問題があった、iPS細胞を作ったときこれで倫理的問題は解決できたと思った、次の瞬間 精子卵子を作れる、新しい生命を作れる。もっと大きな生命倫理的課題を作ってしまった
その時に国の文科省にいって倫理上の問題があるから、議論を進めてくださいと言った
そのとき10年20年かかると思ったけど、科学の進み方早くなっている。一刻も早い議論が必要
初期化ということで、高齢者も若返りも可能になる ひとの寿命が延びる 究極手塚治虫の「火の鳥」の様な話になる 永遠の生命というような話まででてくる 人間はそれでいいのか?
健康寿命−寿命の間を縮めるということでの医学と寿命自体を延ばすというのは違う
今はせいぜい120歳まで 150-200歳まで生きて、個人、人類、地球の平和につながるのか、幸せなのか
このことを含めて岐路にたっている
幸福とは何か 謙虚になるということ
人類史上最高の技術、過去と同じ過ちを繰り返さない、歴史から過去から学ぶ謙虚さが必要
科学者には謙虚さが必要、人間・医者は一割二割知っているだけ、その謙虚さが必要、それは医者だけでなく、一般のひとにも
倫理哲学面では変わっていない 技術を乱用しない
わたしたちの家を守れるだけで、人だけを考えて地球を壊そうとしているのかも
明日、一年後、100年後に幸せになるように

100年後のひとたちに
自分たちのやっていることが正しいのか 100年後のみなさんが幸せであることを心から願っています。


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2019年12月17日

『季刊 福祉労働164号 特集:介護する/される関係を問いなおす 暴力・パワハラ・セクハラ』

たわしの読書メモ・・ブログ515
・『季刊 福祉労働164号 特集:介護する/される関係を問いなおす 暴力・パワハラ・セクハラ』現代書館 2019
これはこの読書メモが掲載される時点での最新号です。少し遅れ気味、なんとかまとめ方も整ってきています。もう少し吟味も必要かもしれません。前号の読書メモまえがきのように、メモを残します。今回の介護特集は何か総体的に違和を感じてしまいました。わたしの母の介護の反省記をオープンにしなくてはと考え始めています。

巻頭クラビア:みんな、ぷかぷかさんのところへ行こうよ。
 「NPO法人ぶかぶか、相模原殺傷事件を考える上映会を開催」
 理論的なことよりも一緒に楽しみながら、出会いを大切にしていくという企画の報告です。

特集:介護する/される関係を問いなおす――暴力・パワハラ・セクハラ
● 介護──ふたつの身体がまじわるところ 深田耕一郎(女子栄養大学専任講師)
 ふたつの身体がまじわるところ―人間交差点というところからの介護のとらえ返しです。漫画の連載で「人間交差点」というのがあるのですが、そもそもひととひととの出会うところはみんな「人間交差点」なのですが。身体のふれあうところで、暴力・パワハラ・セクハラが起きやすくなります。ただ、そもそも理念が喪失しているのではとも思われます。
 
● ご利用者・ご家族からのハラスメント:日本介護クラフトユニオン調査──介護現場におけるその実態と防止について  村上久美子(日本介護クラフトユニオン政策部門長)
この文はよく分かりませんでした。そもそも、介助者と被介助者の社会的関係性の問題がまずあります。次に、そのことから来る反作用として、被介助者が開き直り的に強く当たるという問題があります。更に、介助労働が、サービス商品化する中で、被介助者がサービス提供下で、お客様的な錯認を起こし、クレーマー的に対応するひとが出てくるという問題があります。これは差別の構造をとらえ返したところで、どう反差別の共同性を作って行くのかという問題と、資本主義的労働の止揚の問題だとわたしは考えるのです。

● 介護現場に蔓延する相互暴力 ──「支援する側/される側」その境界を越えて  白崎朝子(ヘルパー/作家)
 相互暴力の問題、著者は自分が子どものときに性被害にあった経験から、被害の問題を深くとらえ返しています。そして、介助をするひと−受けるひとが、差別的な考え方をもっていたところで、介助を受ける「弱い」立場、介助労働自体が差別的なところで見られるところから―逆に差別する心性が働き、セクハラ、パワハラに入り込んでいく構造がとらえられます。著者は的確に問題をとらえています。「性暴力はエロスの発露ではない。性暴力とは、種に男性が担ってきた支配と暴力の問題だ。その認識をきちんともたない限り、本質的な解決策は生み出されない。」31P介助労働の現場で「セクハラなんて仕事のうち」32Pという意識が、セクハラを許していく構造を生み出していること。制度的なところからもとらえ返しています。「利用者と職員間の「相互暴力」は、介護保険制度の構造的問題が要因だ。市場原理が貫徹した介護保険が生み出した人手不足で現場は年々荒廃。暴力のない体制を作るには管理者の徹底した教育、介護保険の構造的欠陥を修正するしかない。そして、その世論をつくるのは介護保険ユーザーだ。」そして、否定的な話だけでなく、被介護者との素敵な出会いも書いてくれています。

● 外国人がケアすること・外国人をケアすること 小川玲子(千葉大学社会科学研究院教員)
 移民政策もきちんと作らないで、介護制度の不備もそのままにして、外国人ケア労働者のケアもちゃんとしないまま、外国人ケア制度を導入していった問題点を指摘しています。
借金をして来日し、「人身売買」的な労働になっている局面も押さえています。複層的な外国人ケアラー制度の種別の表が41P
著者は必ずしも、外国人介助労働の導入を否定しているのではなく、「「差異」や「対立」は新しいものを生み出す契機となる。個人を個人としてとらえて対話力を磨き、異文化に対する理解を深め、信頼関係が構築できれば、外国人介護士は大きな力を発揮してくれる。外国人にとって働きやすい施設は、日本人にとっても働きやすい。外国人が満足しているかどうかは、施設を見る際の一つのものさしとなる。」40P

● 甘え甘えられ、そして甘える関係  天畠大輔(日本学術振興会特別研究員) 
 著者は「あかさたな話法」という独特のコミュニケーション方法を産みだしたひと。介助者を交換可能なひとと見るのではなく、彼の場合は「先読み」できる介助者、自薦ヘルパーを自分で育てるとしています。「お友達以上介助者未満」ということをキーワードとして示しています。

● 安楽死問題と障害者介助の経験  高橋慎一郎(日本自立生活センター)
 NHKで放送された難病の女性が渡航し、安楽死するドキュメントが放送されました。「死を支援する制度が各国でつくられてきた。」として各国の情況を60Pに記載しています。
まさに「すべりやすい坂」61Pになっているのです。
「ALSの人や言語障害の重い重度身体障害者の人たちの介護に入っていると、その独特のゆっくりした時間の流れにふと同化することがある。」64Pと、それを「瞑想の時間」とも書き、詩的な文でそれを書き記してくれています。最後に「能力や自律が生存の条件になるのはおかしい。能動的な生だけが全てではない。受動的に見えるようでいて、充足した生がある。自律をゆるやかに喪失していく生も新しく世界と接続し直すことができる。この生の様式も障害者自立生活運動や地域にとどまった難病の人たちが蓄積してきたものかもしれない。未来をひきよせたい。」64P

● なぜ、「介護労働者の権利宣言」運動なのか? ──ケアは社会関係を基礎づけた「共感の労働」/介護労働への誇りを変革の力に 水野博達(ケアワーカーズユニオン)
 介助の現場で働く労働者「の生活や権利について十分な検討がなされてきたとは言い難い」として、討論を積み重ね三度にわたって修正してきた「介助労働者の権利宣言」69-75P掲載されています。けっこうすごい宣言になっています。ただひとつだけ気になったのは、介助労働の被介助者に対する抑圧性の観点が希薄なのではと感じていました。

インターチェンジ 交差点
施設から ホームN通信・四回目の誕生日C――存在のないこどもたち 佐藤陽一
行政の窓口 地域共生社会への取り組み――子ども生活・学習支援の現場から 千野慎一郎
教室の中で ともに過ごす子どもたち  川口久雄
保育所の庭 誰でも受け入れることのできる人に  芝木捷子
障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十五回  中西由起子
権利条約の政府報告I 第二十八条 相当な生活水準及び社会的な保障
 さまざまな国のさまざまな福祉のあり様、というのは、項目ごとの国のありようでは、ひとつの国の現状がつかみにくく、連載が終わった時点で、著者が今度は国ごとに福祉の現状を書いてもらうか、著者との対話の中で編集し直すかしかないのではと、以前書いたことの繰り返しの感想です。
障害学の世界から 第八十三回  長瀬 修
続・殺害された<国際障害者年の父>―マンスール・ラシッド・キニア:遺された家族と帰還
「国際障害者年の父」と言われたマンスール・ラジッド・キニアが亡命している中で、リビアのカダフィ政権から拉致され殺害されていた話で、もうひとりの犠牲者、ジャッバラー・・マタールの話、そして家族の話、とつながっていきます。映画や著作、詩の掲載など、残された家族が「帰還」のための作業をしていることを伝えています。エピソード的に、「キニアのような拉致被害者を生み出さないようにするための人権条約である強制失踪者防止条約が国連総会で採択されたのは、障害者権利条約が採択されてからわずか一週間後だった。」88Pとあります。

季節風 
「地域生活にこだわる意志力――「津久井やまゆり園事件を考え続ける・対話集会U」報告」柏井宏之
「やまゆり」を考え続ける集会の報告です。はびこる優生思想のはなしをしています。わたしは日常的な意識の中における優生思想からとらえ返していく必要があると思っています。「地域に出る」という話が出ていますが、施設がなぜあり続けるのかという問いかけが必要です。この事件は、「障害者」との出会いがないひとが事件を起こしたのではなく、マスコミ志望者のひとの発言にもあるように、なぜ、親が施設を求めるのかというところからのとらえ返しが必要なのです。
「東京と大阪、東西の入所施設への取り組み」松浦武夫
施設という枠組みの中での改良のとりくみ、前の文のところ、施設がなぜあり続けるの
かという問いかけも必要になっているのだと思います。
「映画『生きるのに理由はいるの?』―津久井やまゆり園事件が問いかけたものは―」澤則雄
映画制作者がいろんな「障害者」に会いに行き、古いドキュメンタリー映画を見ながら
「やまゆり」の映画を作ったという話です。ことばがうわすべりしている、自分の立場から、自分の問題としてとらえるということを書いています。
「尊厳死は社会的死である」堀利和
この雑誌の編集長の堀さんの文です。NHKで作られた海外で「安楽死」をしたドキュメント番組を取り上げています。自然死や事件での犠牲と区別された「尊厳死」」から区別し「社会的」死としているのですが、そもそも「犯罪」も「障害の社会モデル」から演繹されえる「犯罪の社会モデル」の「ほとんどの犯罪は差別の反作用である」としてとらえると、自然ってなんだろうというとらえ返しができます。高齢者も、延命処置を巡って優生思想から逃れ得ていないのではないでしょうか? そのことからのとらえ返しが今必要になっています。
車椅子で宇宙(うみ)をわたる(第一回)  安積宇宙
はじまりの話――私にとつての「家」と「障がい」
 前回までの安積遊歩さんの対談シリーズから、娘さんの宇宙(うみ)さんのエッセーに引き継がれたシリーズです。遊歩さんは幅広く差別を問題にし、優生思想を深くとらえ返していたひと、その家庭でシェアハウスのような関係で育った宇宙さんは、まさにその世界観も受け継いでいます。世界に開いている隔絶された空間でないところでの観点から文書を綴っていくようす、期待しています。これは、わたしたち世代の責任ですが、「社会モデル」の議論が整理されていない、届いていないと感じていました。届くように議論の深化と広がりをやっていかなくてはと思っていました。すてきな文でいろいろ引用して伝えたいのですが、エッセーは切り取るようなことではないので、実際に雑誌を読んでくださいー
現場からのレポート
新里宏二「旧優生保護法は違憲、しかし、請求は棄却」
 旧優生保護法で不妊手術をうけたひと損害賠償裁判です。立法不作為の話で、請求が棄却になりました。あわてて、国会で法律を作ったのですが、知り得ていなかったとして、請求が棄却されたのですが、意味が分かりません。知り得ていなかったというのは、すでにいろいろ意見が出されていて、検討するとかいう文言もあったのに、「知り得ていなかった」という話が通るのかという話です。更に、「知らなかった」ですむなら、「なんでもあり」の世界になります。
 日本の裁判は三権分立が機能していなくて、司法が行政・立法の裁量権を尊重するとして独自の判断を下すことを躊躇する判決がでてくるのです。それでも、世論の盛り上がりの中で、それなりの判断を下し法律を変えるということはやってきました。HIV訴訟とか、ハンセン病訴訟とかの判決から、救済のための法律を作るということをやっています。今回は、判決の前に先手を打って救済法を作りました。ただ、賠償額が極めて少額で、それで済ませようという魂胆のようです。仕切り直しの中で適切な判決と、再度の法改正が求められることです。
川見公子「透析患者に死の選択肢は許されるのか!?―公立福生病院事件を考える院内集会の報告」
 公立福生病院事件で、医者が死の誘導をしたという話です。死の誘導をした医者は、明らかに透析に否定的な考えをもっていて、透析患者がつらい思いをしている事態につけ込み、死の誘導をしたとか思えません。そもそもインフォームドコンセントという観点からしても、むちゃくちゃな話です。最近リビングウィルとか、アドバンス・ケア・プランという考え方が出ているというか、押しつけのようなことが起きています。そもそも、ひとは痛みの中や実際問題として自分の身におきたことで、元気な時の意志に反して、生きようという意志が働くという基本的なことを無視した政策なのです。医療費の削減とかいうところで政治自体が死への誘導をしている中で、医者もそれに合わせた動きをしているそんな中で起きたことです。優生思想の問題にもつながって、きちんとひどい医療を変えていく取り組みの中にも位置づけて行かなくてはと思います。わたしも母の介護の中で、医療関係者のひどい対応に怒りをもったことがあります。その問題とからめて、この裁判支援に関わりたいと思っています。
柳原由以「川崎市からの反論に見える「合理的配慮」への無理解――医療的ケア児の就学裁判から」
「障害者の権利条約」とその批准のための国内法整備の中で、インクルーシブ教育ということのとらえ返しのズレが明らかになっていました。それでも、当事者と家族の意志の尊重という流れは作られてきました。その流れを無視するところの川崎市の「特別支援学校」を「適」とする決定です。裁判になっています。そもそも、インクルーシブ教育のとらえ方自体も問題になって行かざるをえないとも言い得ます。きちんと流れを作りながら、そもそも教育総体がおかしなことになっている中で続いていくこと、その底からの変革も求めていかなくてはと思います。
宇野和博「読書バリアフリー法成立の意義と今後の課題――だれもがいつまでも本と親しめるように」
「二〇一九年六月二十一日、国会で「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」(読書バリアフリー法)が成立した。」以前からいろいろ動いている中で、政権が変わる中で頓挫していた中で、「一三年六月、国連の世界知的所有権機関が「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約」を採択したことを機に、一四年に再スタートした。当時は日本盲人会連合・DPI日本会議・弱視者問題研究会の三団体で協議を開始し、一六年から全国盲ろう者協会も加わり、本を「買う自由」と「借りる権利」を目標の柱に掲げ、今日まで運動を進めてきた。」128Pというところでの本稿です。この問題の対象者は「視覚障害者、読み書きに困難のある学習障害者、上肢障害のために本がもてなかったり、ページがめくれない身体障害者、眼球使用困難者である。」128Pとあります。
著作権法とかそういうことを超えて、きちんと情報・コミュニケーション・アクセス保証をしていくシステムを作っていかなくてはなりません。わたしも不勉強で、この法が作られたことを知りませんでした。自分の文書の出し方、ホームページの作り方ということも含めていろいろ勉強していきたいと思っています。
投稿
三家本里美「保育現場における虐待と保育士の離職――保育のあり方や質を求めて」
 この間、待機児童の問題で大きな声があがり、保育の現場からの発言も出ています。「保育士の平均給与月額は二二万二九〇〇円と低く、二〇万円以下で見ると四割にものぼるという。」134Pという中で、待遇の悪さということは、過労や離職者の続出、職場環境の悪化の中で、パワハラとか、子供への虐待にまで至り、「子どもの安全がないがしろにされ、改善を求めても聞き入れられなかった。」134Pという深刻な事態になっているようです。いろいろな事例が書かれていて、政府が問題になると「雀の涙」的なところで対応してやった観だけ出す、いうことではどうしようもない情況が伝わってきます。少子高齢化と言われて久しく、一体「少子」というところを根本的に考えていくことが今こそ必要になっているのだと思うのです。

編集後記
父親の介助で、いろいろ困惑しつつ、周りのひとからのサポートを得ていろいろ学んで
いく様子と、自らの思いを書いています。自分のことになると、今までの障害問題からス
トレートにとらえ返せない、という側面も素直に吐露しつつの編集後記です。


posted by たわし at 22:20| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『季刊 福祉労働163号 特集:障害者権利条約・パラレルレポートの重要論点』

たわしの読書メモ・・ブログ514
・『季刊 福祉労働163号 特集:障害者権利条約・パラレルレポートの重要論点』現代書館 2019
何回か、逐一のコメントを書こうとしていました。でもわたしはわたしの関心事でしか文を書けません。逆にほとんど共鳴するが故に、書く必要もないこともあります。いろいろ課題を抱えていて、先をいそいでいることもあります。とにかく、かなり恣意的な、しかも対話に重点を置いたメモに切り替えます。また、エッセー的な文はそのひとの感性的なことの表出で、コメントするようなことでもないので、特に気になったこと以外は、表題だけあげて置きます。むしろ、これらの文の方が、「障害者」との出会い、そして障害問題で世界観を転換していくにはインパクトがあるのではとも思っています。また、現場から関係性総体を変えていく積み重ねにもなるのではと。実際に雑誌を手に取って読んでください。このメモを掲載するのは十二月、すぐに新しい号がでるので、季刊雑誌の二シーズン遅れです。こんどからできるだけ、出て間近に読むようにします。
巻頭クラビア:写真展「THIS IS ALS」 「難病ALSを生きる人たちの、見えない思いを伝えたい」武本花奈
 表紙に続くクラビアでALSのひとたちの写真をとり続けているひとの写真展が取り上げられています。それは「障害者」に美を感じるように世界観を転換させたひとの写真展なのだと思えます。わたしもカメラをいじっていたので、また写真をやってみたいと思ったりしていました。
特集:障害者権利条約・パラレルレポートの重要論点
●条約の実施体制と日本障害者の置かれている基礎的な社会状況から見た評価
東 俊裕(熊本学園大学教授)
 この論文の中で、災害時の対応で、車椅子用トイレがない、「精神障害者」「発達障害者」の「障害」に対する、総体的な「障害者」に対する無知、無理解、無関心ということを著者は書いています。それを分離教育から来ていることと押さえているのですが、確かに、共生教育の中で、出会いの中で、世界観を変える可能性はありえます。ですが、相模原事件のように、出会っていても、差別的なひとはいるのです。そもそも、この社会をなり立たせている論理自体が差別的なのです。そのことをきちん押さえないと、「障害者運動」はまえに進みえません。結局人権とか、倫理で差別を抑え込むしかなくなります。それを建前として本音が出てきたときに対処しえなくなるのです。もっと根本的なこの社会を成り立たせている差別的な論理から批判していく必要をわたしは感じています。
 
●市民社会と障害者組織の役割:パラレルレポート、ブリーフィング、ロビーイング
長瀬 修(立命館大学教授)
 長瀬さんの文の中で「冷戦下のイデオロギーの東西対立で機能不全の面が強かった人権条約の審査体制は、1989年に西洋諸国が勝利し、冷戦が終わったことによって、・・・」29Pと審査体制が進んでいったという主旨の話です。それを見ながら、長瀬さんがかつて職員を務めた国連は、資本主義的国民国家の同盟、利害の調整機関だと再認識しました。アメリカのフクヤマさんが資本主義の勝利宣言をしたのですね。それに対して、「誰も勝利していない」という批判の文も出ていました。資本主義も混迷を深めていき、新グロバリーゼーションの進行の中で格差は広がり、侵略戦争は幾度も繰り返されたし、テロ戦争という形の泥沼の武力衝突も起きてきました。どういう社会を作って行くのかという議論の前提自体を壊す環境破壊は進んでいます。その規制の話も進みません。核兵器禁止条約さえ、核保有国の反対で、有効性を失っています。一体「西洋諸国の勝利」ってなんだったのでしょう?
 最近観た「新聞記者」という映画の中で、内調の上司が部下に「民主主義って、形だけでいいんだ」という台詞がありました。日本は一体今まで、いくつの政府レポートを出し、そしていくつの勧告を受けたのでしょう?
国連を巡って、「障害者運動」的な攻防を展開しようとするとき、そもそもそのことを押さえておかねばなりません。そもそもこの社会で、障害差別の存在構造とは何かという観点を押さえないと、勧告を勝ち取っても、現実は変わらないという次第になります。

●障害者権利条約パラレルレポートと成年後見制度
池原毅和(弁護士)
 この論攷では、成年後見制度ということを、「意思」や「自己決定」というところからとらえかえそうとしています。そもそも「「意思」は個人のものだ」という見方からとらえ返そうとしています。このあたり、「障害を障害者がもっている」という医学モデル批判になっています。そして「「意思」は対話的で相互的な関係から形成されなければならない」という関係論的な観点を出しています。そしてそのことを障害問題にとどまらない普遍的な関係として突きだそうとしています。読み応えのある共鳴できる論攷でした。

●第九条 アクセリビリティの完全実施に向けた課題
川内美彦(アクセスコンサルタント/一級建築士)
 表1として「わが国のアクセビリティに関する法律などの歩み」が載っています。これからみんなで引用していける表になると思います。その法体系が、特にハートビル法という名前からして「アクセビリティを権利として考えるのではなく、人々の心情に訴えかけよとした法律であった。」49Pとあります。また、「しかし、当時国は障害のある人の公共交通機関の利用することを権利だとするとは認めていなかったし、現在も認めていない。」50Pともあります。また、「しかし立法府である国会が批准したその条約の内容を、国交省が「社会的コンセンサス」が得られていないとして認めていないのである。」51Pと続きます。条約は批准された、「しかし」の政治です。著者はそのことを「理念なき整備」57Pとしていますが、むしろ理念は「民主主義は形だけでいいんだ」ということなのだと思います。まあ、こういうのは理念とは言わないのでしょうが。今、右翼から「人権などという実体はない」という声が出ています。確かに、人権は「差別ということをなくす」という共通認識の上で、それを物象化した言いに過ぎないのですが、その共通認識を巡って議論を闘わし、そこから運動を起こしていくことが必要になってくると思います。

●第六条 障害のある女子に関するパラレルレポートについて
藤原久美子(DPI女性障害者ネットワーク代表)
 複合差別ということがキー概念になっています。
 いくつかの統計的データーが出ています。これから使っていけることなので、メモ的に残して置きます。
「なお、各自治体の自立支援協議会における障害女性の割合が、今年四月に初めて数字で示された。九二三自治体のうちの六八二自治体(七四%)において障害女性がいない実態がわかった。」61P
「二〇一二年度から障害者も集計するようになったDV相談件数は、障害者の相談件数の約九九%が女性であり、障害のない人の八倍のペースで件数が増加している。」61P
「(不妊手術は)男性の方が手術費用も安く入院日も短いにもかかわらず、女性が68%を占めている。男女どちらにしても人権侵害だが、この差は大きい。月経介助軽減のために、法の目的や術式も逸脱した子宮摘出や放射線照射が行われてきた。」63P
「(これまでの条約間での認識の違いを超えて)昨年八月「すべての女性、取り分け障害女性の、性と生殖の健康の権利を保障する」権利条約委員会と女性差別撤廃委員会との共同宣言が出された。」65P
「(障害のあるなしに関わらず日本の女性が置かれている状況として)男女格差指数(Gender Gap Index)は、経済、教育、健康、政治などの分野における男女格差を数値化したものであるが、日本は一四九カ国中一一〇位であり、G7加盟国では最下位、アジア諸国の中でも下位に位置している。」66P
 この国の首相は、「女性の活躍」を謳っているのですが、どうも口先だけのようです。その厚顔ぶりは世界的な恥さらしなのですが、そもそも性差別がどこから来ているのかの認識を問う必要があるのではとも思っています。
最後に「障害のある女性が脆弱なのではなく、脆弱な立場に置かれているだけであって、・・」66Pとあります。「脆弱」ということばを著者がなぜ否定的にとらえているのか分からないのですが、とにかく、関係論的な観点が出ているのではないかととらえ返していました。

●第二十四条 教育に関するパラレルレポートについて
一木玲子(公教育計画学会)
 このパラレルレポートは、公教育計画学会と「障害児を普通学校へ・全国連絡会」二団体で協働作業として作成したとのことです。
「権利委員会は特別学級や特別学級の増加に懸念を示し、普通学級でのインクルーシブ教育に転換するよう各国に勧告をしている。」69P
各学校の在席数のグラフ1―表1で転載されています。70P
「文部科学省は、障害者権利条約批准に際し、障害児は原則として特別支援学校に就学するとした従来の制度をとりやめるとしたが、導入された「インクルーシブ教育システム」は障害者権利条約の趣旨を損ね意図的に誤訳しているものである。文部科学省は、条約に書かれている「一般教育制度」には特別支援教育が含まれていると解釈し、「インクルーシブ教育システム構築のために、通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある多様な学びの場を用意することが必要」と権利委員会とは異なった定義をしている。」72Pとありますが、「意図的に誤訳」ということにとどまりません。政府はそもそも「標準規則」の時から、条文をいかようにも解釈できるように改ざんすることをもとめ、更に、改釈の背景説明として、「そういう議論があった」ということで利用してきたのです。黒を白というような論理性なのです。
 パラレルレポートの概要、「参考」として政府に求める勧告案が掲載されています。
資料「調査対象は全国の公立小・中学校で、結果として、日常的に校舎内において障害のある児童生徒に付き添っている保護者の人数は一八九七人、このうち、保護者等が医療的ケアを行っている割合は二〇%(三八八件)、三八八件のうち八四%(三二六件)は、看護師が学校にいない又は常駐ではないことによる付添い。一八九七人のうち、医療的ケアを行わない付添いは八〇%(一五〇九件)、保護者等が、日常生活上の介助(三四%)、学習支援(二二%)、健康・安全確保(二〇%)等を行っている。」80P

●第十九条 自立した生活に関するパラレルレポートの主な論点
崔 栄繁(DPI日本会議)
 パラレルレポートは、JDF(日本障害者フォーラム)としてやっていて、施設の問題とか分離教育に関する意見の違いをまとめる作業の大変さが伝わってきます。逆に言うと、まとめようとして、差別に対する闘いの運動がなしえなくなっているのではとも思えます。
いくつか論攷として大切なこと。
「個人の選択と自律が失われることを問題にするものとし、百人を超える入居者を抱えた大規模施設も入居者が五〜八のより小規模なグループホームも、施設を特徴付ける要素があれば、自立生活施設と呼ぶことができない、としている。」84Pとあります。確かに規模の問題ではないのですが、規模によって内容が規定されていくこともあります。そもそも、自立生活運動の理念から当事者によって作られたグループホームか、それとも非「障害者」サイドで作られた施設なのか、当事者によって作られても管理が非「障害者」に移行してしまっているのかの問題が大きいのだと思えるのですが。
「パラグラフ四六では、差別禁止と合理的配慮義務は漸進的義務ではない、としている。」84Pとあります。ただ、日本の判例では、各種条約の条文に付いている「斬新的に」の条項で負けていき、最高裁の判例で裁量権の問題でことごとく退けられてきた歴史があります。そこから覆していかないと。
課題として「@地域移行が進んでいないことA地域以降のための効果的な中・長期計画や戦略の不在B地域社会支援サービスの不足及び抱える問題」86-7Pとして@の中味として精神医療の問題として「国際的に観ても最悪の状況にある精神科病院の社会的入院などの問題については、精神病床在院日数が平均二五〇・五日であること、一年以上入院している患者が約六〇%で一〇年以上の入院患者は約二〇%もいること、精神病床が約三五万床(世界の精神病床の約二〇%ともいわれている)もあること、などである。その背景には約七割が私立の精神科病院であり、経営が優先され精神障害者の権利回復に向けた抜本的な見直しが後回しにされてきたことがある。」Bとして「地域での生活を支えるための「重度訪問介護」などでは「通勤や就業中」「通学や学校内」「運転中」の利用が認められていないなどサービス利用の様々な制限の問題」

●精神障害者の入院時の自由が脅かされている状況について
山田悠平・桐原尚之(全国「精神病」者集団)
 権利条約の条文自体を素直に読むと、二つ前のインクルーシブ教育と「精神医療の特異な状況(身体拘束、通信の自由、権利保障の枠組み)」90Pの問題が権利条約を活かせる内容になっているはずで、「障害者運動」が集中して取り組むべき課題にもなっていることなのです。ところが、現実的に、そうなっていない、「精神障害者」の問題でも、誤解釈の話が出ています。二つ前にも書きましたが、単なる誤解釈の問題ではないと思っています。どうして、日本の長期入院、拘禁・拘束が続けられるのかの、根底的とらえ返しからの反撃が必要になっているのだとも考えています。

●JDFパラレルレポート作成までの道のり
赤松英知(きょうされん)
 赤松さんは、政府側にいて(障がい者制度改革推進会議担当等で政策企画調査官)そこから運動的なところに入ってきたひとのようです。この文は、二つ前の崔さんの文とつながっています。役人としての調整能力で各団体のまとめ役をして、文の作成とかになっていたようです。どういうわけか崔さんにあった精神医療の問題も落ちています。こういう形では運動にはむすびついていかないとも思っているのですが。

インターチェンジ 交差点
保育所の庭 全盲の子ども達との統合教育  芝木捷子
施設から ホームN通信・四回目の誕生日B――無国籍・無戸籍の子ども 佐藤陽一
行政の窓口 地域共生社会への取り組み――地域支えあい協議体の現場から 千野慎一郎
街に生きて 虐待を見逃さない  実方裕二
 
障害者の権利条約とアジアの障害者 第三十四回  中西由起子
権利条約の政府報告H 第二十二条 プライバシーの尊重
 アジアの各国の条項に沿った現状を書き記してくれている連載です。
季節風 
「生まれようとしている命を選別しないで――出生前診断とゲノム編集」佐々木和子
 出生前診断の歴史「羊水検査に始まり(一九六八年)、超音波検査(一九八〇年)、母胎血清マーカー検査(一九九六年)、受精卵診断の承認(一九九八年)、NIPT(母体血を用いた出生前遺伝学的検査) (二〇一二年)」112P
ゲノム編集と出生前診断に対する声明文113-4P
「退所、通所施設、そして自立へ――「津久井やまゆり園事件」から三年のあゆみ」平野泰史
 津久井やまゆり園事件後の退所者のその後の三年の歩みの記録をお父さんが書いていま
す。
「2019年四月十日、きようだいの日(シブリングデー)制定にちなんで」藤木和子
‘きょうだい’は当事者の非「障害者」の表記、‘兄弟姉妹’が「障害者」同士の兄弟姉妹、
もしくは、非「障害者」同士の兄弟姉妹として使われているようです。‘きょうだい’は英
語では、‘シブリング’という造語も使われているようです。ここでは兄弟が抱えている問
題、三大問題として、結婚・恋愛、進路・職業選択、「親亡き後」をあげてくれていて、か
なり深刻な状況を書き記しています。また著者は、「聴覚障害者の弟」がいるきょうだいの
立場で、SODAソーダーの会を紹介し、青い芝の「強力な自己主張」と「ろう文化宣言」
とか学習していったことを書き記しています
「書評 『障害者権利条約の実施』」佐藤久夫
新しく出された本の書評です。「本書は、条約の内容と精神をよく理解されている各分野
の二二人の専門家(おそらく紙幅の制限をあまり意識せず)、条約の内容と日本の課題を深く
分析したもので、一度に何冊もの本を読んだ印象を得た。「はしがき」で編者が書いている
ように、「まさに「アカデミックパラレルレポート」といえる。」120P

社会を変える対話──優生思想を遊歩する 第十二回(終)  小田博志×安積遊歩
優生思想に傷つけられた心を癒やしたもの――平和学の視点から
 遊歩さんの「福祉というのは、戦争がない状態が前提でなければあり得ないと、私はずっと考えてきました。しかし、戦乱、戦争がない一見平和な世界にも、不公平、不公正が存在していて、差別が襲いかかっています。その源に、優生思想的な価値観があって、これを平和学の立場から小田さんがどうみていらっしゃるのかお聞きしたいと思いました。」121Pという話から対談が始まります。小田さんはお祖父さんの話をします。なにも自分で決められないひとだったけど、召集令状が来て新兵の訓練に行って、「祖父の身体が軍隊を拒否した」というところで、除隊になったという話です。そのお祖父さんの話を聞いて、今の自分があるという話です。そんな話を読みながら、差別がある状態を平和とか言えないわけで、昔、小学生が銃と大砲の代わりに鉛筆と消しゴムをもって戦争していると、受験戦争から降りるとして自死した小学生の子どもの話を思い出しました。わたしは、遊歩さんも書いているように、「戦争がない」だけでなく、「差別がない」状態ということで定式化することを考えています。
小田さんはNGO関係でコソボに行った経験があり、ナチ・ドイツの時代のT4計画に反対の活動をしたクライシヒの話とかも出ています。そういう中で、遊歩さんは「優生思想とレイシズムはコインの裏表」という話もしています。ナチは民族の優生思想でユダヤ人虐殺をしたのです。優生思想は、日常のちょっとした優劣関係の意識の中にこそ根を張っているのではとも思ったりしていました。
 北海道のアイヌと和人の分断の話も出ていました。遊歩さんは「障害者」の問題だけでなく、差別を幅広くとらえ返しているひとです。
 最後に小田さんから「今の学校はいのちを育む場所ではありません。いのちは多様になっていくのが自然の姿ですね。優生思想を超えていくには、それぞれのいちのをありのままに尊重し、多様に表現できる場を開くことが本当に大きな鍵です。いのちが躍動して、多様なものが多様なままに関わり合う、自然の森のような場を開いていきたいですね。」という話が出て、遊歩さんの「多様性の尊重のためには、歴史を知り、痛みを受けた人の心に耳を傾けるという作業が必要だということですね。」ということで話がまとまっています。
 長く続いた対談連載の最後です。次回から娘さんのエッセー的文の連載になるようです。

現場からのレポート
東奈史「塩田さんに下された不当判決について――吹田市での知的障害者公務員労働裁判」
 吹田市の非常勤職員として働いていた塩田さんが、お父さんが亡くなって、成年後見制度を吹田市と相談して取得したら、欠格条項にひっかかり解雇されたということで裁判を起こしました。で、裁判の中で、欠格条項が問題になっていたのに、判決は、非常勤職員はいつでも解雇できるとして、敗訴になったとのことです。そもそも、「障害者雇用促進法」とか「差別解消法」がある中で、公的機関でなぜ、そんなことが起きるのか分かりません。もうひとつ、広がる非正規雇用の問題もあります。一体、どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

浜島恭子「緊急集会「安楽死・尊厳死の問題点と介助者確保について」報告―延命治療中止・不開始の危機」
 冒頭「二〇一八年十一月二十八日、東京の憲政記念会館で、全国脊髄損傷者連合会、ALS/MNDサポートセンターさくら会、DPI日本会議・尊厳生部会、全国自立生活センター協議会、全国頸髄損傷者連絡会の共催による「安楽死・尊厳死の問題点と介助者確保について」緊急集会が開催された。」135Pとあります。講演者の安藤さんの話として「さらに地域生活の手立てに関する知識が乏しい医療の場で「体よく死なせる方向」に向けACPやリビングウィルという形で患者の「死の自己決定」が促されるという状況は、レストランに例えれば、極端に高価な食品ばかりがメニューに並ぶなか手頃な値段のものが一品しかない場合にはそれを注文せざるを得ないが、この「選択」を「自己決定」とは言えないだろうと説明した。」136Pという話や、医者でALSの患者の武田主子さんが、「皆がいずれ呼吸器を付けるか否かに直面するALS患者のうち付ける者はわずか三割であること、その裏には介護の問題が密接に関係していることを説明した。」136Pの話が印象に残りました。昔は二割りという記述がありました。まだ圧倒的多数の人の命が切り捨てられていく現実があるのですが、それでも、人工呼吸器をつけるひとが増えたのは、運動の効果なのでしょうー

竹迫和子「障害児・者の高校進学2019年、春」
 定員割れの中、不合格になる高校進学の事例を書いてくれています。いつまで、排除が続いていくのでしょうか?

松森俊尚「感じ続けた「違和感」の正体――日教組第68次教育研究全国集会・インクルーシブ教育分科会の報告」
 教員をやめてから七年近くなって、現状を知りたいと教研集会に逡巡しつつ参加した感想記。
「私の中に、単純だけど日増しに深く根を伸ばす疑問があります。それは、障害者基本法を改正し、障害者差別解消法が成立・実施され、障害者権利条約が批准されたというのに、特別支援学校や特別支援学級の在籍数は減少するどころか、権利条約批准以前よりも増えて、今後さらに増加することが予想されているということです。」146Pで、このあたりのこと、著者だけでなく、他の参加者の中にも違和を感じているひとがいて、それは特別支援学校サイドからのレポートが主役になっていて、「コミュニケーションスキル」とか「シーシャルスキル」「トレーニング」「つなぐ」とかいう語が頻繁に出てくるとのこと。で、著者は変わるべきは「障害者」の方ではなく、教室の方でないかということを書いています。友達との関係の中で、生きていく、過ごしていく、そして子ども総体が生きる道筋をつかんでいけるという話なのでしょうー
最後に「「インクルーシブな教室という理想郷」があるわけではありません。「ともにいるインクルーシブな教室」が当たり前の現実なのです。だからこそ、様々な問題が起こります。問題が起こるから、子どもは学習に取り組むのです。問題を解決するバイパスを作ることばかりに目を奪われてはなりません。問題と真摯に向き合う誠実さと勇気を、教員のみなさんに期待せずにおられません。」152Pと書き記しています。

遺稿集
古込和宏「筋ジス病棟を出て暮らす」 立岩真也=解説
 ずっと病院で暮らし、四十を過ぎてから地域で生きたいと動き始め、情報とサポートを得て、わずかでも地域で暮らしたひとの記録です。ずっと昔、千葉で筋ジスのひとが退院して自立生活運動を始めて、何年か充実した人生を過ごせたと亡くなったひとがいました。「難病者」の自立生活運動の走りだったのですが、何十年もして、四十すぎて、京都で自立生活運動に入ったという記録です。この解説は立命の生存学の立岩さんが書いているのですが、まさに立岩さんがしてるのは、そういう記録を残すことによって、もっと情報を早く得ることができるようにという思いがあるのでしょうーただ、この千葉の記録がホームページから探せません。わたしの探し方が悪いだけかもしれませんが。
 病院という閉ざされた空間の中での医療関係者とのやりとり苛立ちの記録を書いています。最後に親との関係を断ち切るように自立生活運動に入り、遅すぎたことも相俟って、残された時が少なかったけれど、遺言のような文を遺しています。「施設や病院での生活に疑問や閉塞感を抱き自分の生き方に疑問を感じるなら行動を起こし、迷いながらも行動し続けてください。施設や病院の職員の方には、「ここで生活していれはお金の苦労をしない」とか「地域で生存するのは難しい」などといった発言で結論付けるのではなく、自立したいという本人の気持ちに寄り添ってほしいものです。」162P

編集後記
いつもは、誰かひとりか二人くらいのひとが後記を書いているのですが、今回は、一挙
に四人、いろんな立場からの関わりが伝わってきました。


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2019年11月16日

山内明編『ドキュメント現代史〈7〉スペイン革命』

たわしの読書メモ・・ブログ513
・山内明編『ドキュメント現代史〈7〉スペイン革命』平凡社 1973
スペイン革命は、フランコ・ファシズムのクーデターからの内戦から起きます。反ファシズムの戦線は、アナーキスト、スターリン・コミンテルン派の共産党、社会党、そして、反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党POUM、などなど、またそれぞれの労働運動組織といろんなグループがあり、そして現実に対立していきます。ここで、押さえておかねばならないのは、労働運動組織自体が、コミューン的性格を持っているということです。
この本の編集者は、POUMとアナーキスト勢力を中心にしてこの本を編集したようです。スペインの特徴はアナーキスト勢力が強かったということがありました。そのあたりはパリ・コミューンにも通じる事です。ですが、アナーキズムは、マルクス派のプロ独批判があったのですが、コミューン的なところでの農や工業でも集産的なところでコミューンを形成します。で、プロ独的なことが現実的に必要になり、それなりにマルクス派へのPOUMとの共闘的なことも進んだようです。丁度、ロシアではスターリンの粛正が進んでいたとき、同じことがスペインでも起きてきます。ここでも、スターリン・コミンテルンの人民戦線戦術という、革命ではなく共和主義の防衛に走るという方針の誤りの中で、革命的勢力のPOUMの排除に始まり、アナーキスト、社会党、と排除を進め、結局、ファシストの圧力の中で、共和主義者から自分たちが排除されるというどうしようもない結果に陥っていきます。
さて、もう一つ、POUMとその中心にいたニンの動きの問題、元々ロシアでも活動しトロツキーの側近だったひと、で、トロツキーと袂を分かったようなのですが、このあたり、トロツキーのニンへの批判の中で、アナーキストを自由主義者としてとらえているのですが、このあたり、スペインのアナーキスト勢力の強さとか、プロ独批判をしつつも、プロ独的なことにも踏み込んでいくという性格を押さえ損なっているのではという疑問も出てきます。それに、初期トロツキーのレーニン批判の視角があれば、アナーキストを自由主義者としてとらえることなどないと思えるのです。もう一つは、共和国の閣僚に入るなどの問題、トロツキー自体のレーニン主義者的なところでの批判の問題とか、もっと踏み込んで資料を押さえ、考え込んでいかないと、よく分かりません。プロ独の問題での、ニンのアナーキスト批判の文あたりが、これからの整理として進めていく課題として浮かび上がって来ました。武装蜂起型革命では、結局プロ独が必要ということになるのかもしれません。これは20世紀型の革命理論なのですが、21世紀以降のことにも続いていくのか、いろいろ学習が必要です。古本で、「ドキュメント現代史」全16冊、買いました。読める時間があるのか、ですが。
 もっといろいろ書くことがあるのですが、整理できていません。切り抜きメモで少し、コメントを残すに留めます。
 訳者の「まえがき」が、この本で問題にしていることを明らかにしてくれています。
「現代史の転換点と言われる一九三〇年代の末期を飾ったスペインの事件には、さまざまな争点が絡みついている。反共十字軍の大義を展開するフランコ型国家主義のナショナリスタ運動。革命状況を簒奪して体制の維持を唱導する人民戦線路線。国際政治の干渉をまねいて世界大戦の前哨戦と化した内戦の顛末。人民戦線の神話化に加担する左翼知識人やファシズムに駆逐された亡命活動家を吸収したコミンテルンの国際義勇軍作戦。コミュニストがコミューン破壊の急先鋒になり、アナキストが国家権力の代行者となるという事実によって裁かれた既成イデオロギーの崩壊。こうした局面のいずれを選択したとしても、社会思想や政治理論の領域を賑わす論題をめぐって、一巻のアンソロジー編むことができるかもしれない。ところで、いまのわたしを強くとらえている関心は、スペインの近代史を彩る革命的昂揚を不断に噴出した民衆運動に、かくも長い休止と深い沈黙を刻印することになった歴史の謎である。」@P
「いまコミューンの運命を綴って思うことは、それが体制の暴力によって挟まれた束の間の人間解放だったという時事である。七月革命のプロローグであったアストゥリアスの虐殺、エピローグになったバルセロナの五月事件、両者の暴力に共通する因子は体制の反民衆的意思であり、そこに掲げられた大義は秩序と能率であった。この暴力に対決した民衆がコミューンに託した希望、それが反権威すなわち自立にあったのも不思議はない。ところがそのコミューンを結実させた民衆運動の内部にも、体制的権威と反体制的自立の両極に収斂する亀裂がたちまち始まっていた。その契機になったのはまたしても秩序と能率である。コミューンの破滅をもたらしたこれらの争点を、ここでは権力、集産化、民兵の三つの局面にまとめてみた。その後の歴史は、少なくとも民衆運動の次元に立つかぎり、これらの主題に未だ解決をあたえていないように思われる。」A-BP
「アナキスト独裁と同義の無政府共産主義か、人民戦線各派との協調を意味する民主主義か」25P・・・・アナーキストから独裁概念は出てこないはず、そこがアナーキズムの理論破綻になっていくこと
「給料は一日十ペセタで、幹部と兵士の差別はなかった。」27P
「こうした民衆の自然発生的創意や組織に最初から敵対したのは、内戦開始後に政治路線を急転させた共産党であった。かつての「労働者農民の独裁」の主張は彼らの声明から姿を消し、人民戦線への忠誠と共和制の擁護がスローガンになった。」29P
JLC(カタロニア無政府主義青年団)「ファシズムか民主主義かがジレンマなのではない。ちがう。真の選択は、第一インターナショナルがそうだったように、国家か革命かなのである。」36P
「社会党員とアナキストの同志は、委員会から共産党員を排除するよう、わたしに主張した。」50P
「革命委員会の段階では、事実上、何らかの意見の不一致はなかったが、正統派の共産党の同志によるセクト主義の兆候がふたたび現れ始めていた。」57P
「アナキストは新しい社会組織のへの過渡的な体制としてのプロレタリアート独裁という考え方を一貫して拒否する。」67P「革命期のなかで、厳格な指導と鉄の規律が必要なときがやってきて、正しい革命的行動が要請されるようになると、かくも長い年月の間無政府共産主義の名においてプロレタリア独裁を攻撃し続けていたアナキストが、革命行動のなかで、プロレタリア独裁の必要性の完全な理解者になったのであった。」67-8P
「帝国主義間戦争で消耗し尽くさなかったスペインが、それにもかかわらず現在ヨーロッパの他の諸国に比べて相対的劣悪な状態にある。」「スペインが今日呈する光景は、まるで破産整理中の会社のようである。」88P
「寄生的な資本主義と警察国家」「「スペインは、衰弱しつつある肉体であり、人民の腐敗である。」「死滅に瀕した資本主義と肥大化した国家」「企業と国家に奉仕する国か、国民に奉仕する経済と国家か。」104P・・・国家はそもそも階級支配のためにあり、そこから脱するときは、死滅し始めるはず。
アナキストのプチブルのとりこみのための秩序の形成137P
兵士の平等144P
メアリ・ロウ―「売春婦」の問題150Pと軍隊の階級化の指摘152P・・・革命の棚上げ
無政府共産主義のジレンマ(破産?)157P・・・アナキズムは政治運動たりえるのか?
「銀行だけがそうした一連の処置から免れ、ヘネラリタート政府の自由になった。」168P
・・・パリ・コミューンの敗北と、その教訓化としてのロシア革命? スペイン革命は先行する蜂起に習っていない
「スターリンに従属した共産主義者は、共和国が西欧民主主義から完全に見離されるのではないかと恐れて、革命的達成を是か非でも後退させなければならいない、という脅迫観
念をもつようになった。」169P
アナキストの政権参加は、自派の労働運動組織CNTとして172P
アンドレス・ニンの権力問題(プロ独)に関するマルクス理解の七項目177P・・・重要権力の掌握のためにはプロ独が必要という主旨←このことが焦点的論理
 ニンの社共批判とアナキストへの期待178-9P←トロツキーの批判(アナキスト=自由主義者と規定していること? 政権参加と政権への懇願批判、他の潮流批判をきちんとして自力で権力を取ろうしないこと)181-2P・・・トロツキーのスペインにおけるアナキスト勢力とそのアナキスト分析は?
 集産化がラバサイレス(農民組合)の抵抗にあったこと185P・・・現代日本における農業協同体の保守性の問題とリンク
「スペインのブルジョアジーは封建遺制を捨てきることができなかった。」186P・・・帝国的国家主義としての先発性から資本主義的転換の後発性
集産制の中の個人経営の認可188P「誰をも搾取しないという条件」193P
 男女賃金格差194P・・・?
「どんなものを買う場合でも、貨幣を用いることはない。」197P
「政府が土地を農民に支給したのではないということはわたしも肯定できますし、だれでも知っていることです。農民は政府の決定を待ったりしませんでした。彼らは大農場や耕作可能な土地を自分で手に入れたのです。」209P
集産化による連帯心と生産性向上217Pによるファシズムとの対抗218P
「集産化のすばらしい成果が、いま反革命に脅かされている。すでにカタロニアの多くの村では、スターリニストが集産体の一部に侵入して、集産体の解体と農地の旧所有者への返還を宣言している。」221P・・・ポンセティの合理化
 「ファブレガス自身、この政令(集産化令)が社会主義という目的のための手段に過ぎぬことを常に強調していた。しかし彼のいう社会主義を正確に理解できた者はだれもいなかった。」228P・・・ヘネタリアート(地方政府)にいたファブレガスの集産化の曖昧化というより解体をもたらしたこと→「集産化令では、「新しいブルジョアジー」の創設が暗に意図されていた」229P・・・アナルコサンジカリスムの行き着く先?
集産化令がもたらしたこと三つ@業種間の格差A負債の不払いB小ブルのサボタージュ230-1P
バクーニンのパリ・コミューンにおける「社会主義を求める本能」231P
 ポンセティの集産化とロシアのネップとの類比234P
「雇用主や経営者や株主の大部分が、ファシストかファシストの同調者であると自称し、フランコの勝利を待望していたのである。」235P「(残った)雇用主は労働者と同列の地位に引き下げられ、同一の賃金を支給された。」236P・・・ブルジョアジーの逃亡による労働者の自主管理とコミューン的情況の創出
 (集産化は)「実際には社会主義を簒奪するものであった。」理由三つ@小企業だけA経済省への組み込まれB私的商業制度を残したまま競争の継続と強化237P・・・資本主義的競争のための集産化なのか?
 集産体の原理と教訓―18項目241-7P・・・コミューン的内容をももつこととして重要・検討
 軍隊の無規律と軍事的見識のなさや各潮流の対立259-263P
「これは(無政府主義者の入閣は)、無政府主義運動の反政府的信条ばかりか、彼らの反軍隊的原則の放棄を意味していた。」270P・・・無政府主義もいろんな流れがあるが、原理的には反政治・反軍隊となるのでは?
「たしかにマドリードのアナルコサンジカリスト民兵は、たんに政治的な考慮やマドリード周辺での戦闘のきびしさに影響を受けたばかりでなく、国際旅団の先例によっても影響を受けていた。国際旅団はその効率的な軍事組織によって、民兵制度よりも優れていることをやがて明らかにしたのである。」274-5P
 アナキストの指導者オリベルの活動の中における「優秀さ」の獲得284P・・ある面アナキストとしての変節
「中部戦線のアナルコサンジカリスト部隊の将校は給与の半分以上をCNNマドリード防衛委員会に引き渡し、この金が農業集産体のために用いられたことは注目に値する。」285P
「マドリードは民主主義共和制を擁護した。バルセロナは勝利したプロレタリア革命を代表した。革命的勢力である労働者階級と民族問題がカタロニアに存在し、その軍隊は彼らの勝利の保証であった。反革命改良主義勢力は共和政府の周囲に集まった。その二つはまったく異なった権力であり、軍隊であり、社会概念であった。スペイン革命のもっとも重要な問題の一つが、いずれこの二重性をめぐって究明されるのは必至であった。」297-8P
サラミ戦術・・・「共産党は最近の同盟者を次々に切り捨てた。」355P


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H.ルフェーヴル『パリ・コミューン〈上〉〈下〉』

たわしの読書メモ・・ブログ512
・H.ルフェーヴル『パリ・コミューン〈上〉〈下〉』岩波書店 1967 1968
この著書は、単なる歴史書ではなくて、著者ルフェーヴルの歴史科学書というべき著書です。ルフェーヴルはマルクスの疎外論・「人間主義的マルクス主義」あたりからスターリン主義批判をなしていく流れにあると押さえています。タダモノ論批判というところから、ひとの意思あたりに留意しつつ、「祭りとしてのパリ・コミューン」というようなとらえ方も出ています。パリ・コミューンは、いろんな流れのグループがあったようです。ひととひととの基本的関係を政治にも反映させようというプルードン派の理念、強力に進めようとする推進力を担ったブランキ派、マルクス派も含むインターナショナル派、ジャコバン派、陰謀的に動くバクーニン派、それらのベクトルの合成として、運動が進んでいく様がとらえられます。パリ・コミューンには、著者はそのような論理も批判(対話)しているのですが、さまざまな判断を間違えなければ、パリ・コミューンは勝利するとまでは言えないとしても、もう少し長く持ちこたえたのではという思いを抱いてしまうのですが、そもそもフランス革命総体が、「資本主義への道を掃き清めた」という性格、逆にいえば、プロレタリア革命に至るまでは資本主義は発達していなかったとも言い得ます。
 さて、ロシア革命との対比をしてしまうのですが、奇しくも、どちらもドイツとの戦争のさなかに起きた革命で、そしてロシア革命がソヴィエトの独裁ということで進んだのに対して、それにあたる国民衛兵中央委員会があります。もっとも、それは選挙によるコミューン形成へ席を譲りつつ、これはその関係での軋轢も生じるのですが、これはロシアでは逆にボリシェヴィキ革命に純化していきます。ロシア革命を見ていると、同じようなことが起きていて、しかも同じような対応、けれど、このパリ・コミューン敗北の総括から、違った対応をしていくことともあります。レーニンやトロツキーはパリ・コミューンの敗北の総括を活かし、パリ・コミューンの組織形成の総括もなしつつ、活かせることは取り入れるという形でロシア革命を引っ張ったのではとも思えます。そもそも、レーニンの党組織論の中央集権主義や党のイニシャティブというようなことはパリ・コミューンの推進的存在のブランキ派への批判としてのメンシェヴィキからの批判、それに対するボリシェヴィキからのプルードン主義批判の中からのメンシェヴィキ批判とか、とにかく前衛党による系統的な統一的な強力な指導ということが出てきたのではとも思えます。パリ・コミューンもロシア・ソヴィエト革命も自然発生性という性格が強く、この「自然発生性に依拠する」ということと、そのレーニン主義による批判との対話が必要になっています。ローザ・ルクセンブルクとの対話も経ながら進めたいと思っています。
 この著者は、必ずしも敗北としてのパリ・コミューンというとらえ方はしていません。エンゲルスの「パリ・コミューンは、プロレタリア独裁とは何かということを示している」という言を引きながら、敗北のなかにこそ、勝利の芽があるというとらえ方をしています。今日、エンゲルスの提言は、「共産主義とはなにか、パリ・コミューンを見よ」という展開にも進んでいます。ただ、敗北した革命を、無前提には評価できないとしても、です。ロシア革命に関しては「共産主義とはなにか、ロシア革命を見よ」とは言い得ません。
この本には人物索引がありません。いろんな登場人物が系統的に押さえられないのです。それに著者は、歴史科学ということにかなり力を注いでいるので、「歴史を歴史として客観的に押さえる」には、別の著者の本も読んでいく必要があります。そもそも、わたしがこのあたりのことを最初に学習したのは、マルクスのフランス革命三部作『フランスの階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』『フランスの内乱』です。このあたりの読み直しも必要になってきます。また、この本の中にも引用が出てくるのですが、マルクスの書簡も読み込んでいく必要があります。また、マルクスとプルードンの間での相互浸透があったようなので、そのようなことの押さえの必要、マルクスのプルードン批判『哲学の貧困』の再度の読み込みもやってみたいと思います。いつものように、1冊の本を読むと、数冊の読むべき本が増えるという状態で、とてもやりきれません。とりあえず、先の学習計画に沿った学習を進めます。  
 パリ・コミューンが敗北したことでの、いくつかの論点・総括点を著者が書いていることにわたしのとらえ返しも含んで押さえてみます。
 判断を間違えたこと、@銀行や郵便局をおさえなかったことA国民衛兵という形で軍を形成し正規軍の掌握をしなかったことBヴェルサイユへの進軍をしなかったことC議会主義−合法主義にとらわれたことDパリに限定したこと、そしてその中でも地区的に分散したこと
 パリ・コミューンの理念としては、プルードンとマルクスの相互浸透というようなこと
があり、分権制と中央集権主義、レーテやソヴィエト論にそれが出ているのではとも思え
ます。
これから整理すべきこと
マルクスの「国家の廃絶」という国家論は、パリ・コミューンを経過して出てきたとい
う著者の主張があるのですけれど、『ド・イデ』の中に、共同幻想としての国家という規定があるところで、そこから国家という共同幻想から自立するということが出てくることで、必ずしも、パリ・コミューンを経由したわけではないと言い得るのでは?
 語弊をうむことですが、きわめて図式的に表すと、パリ・コミューンは、理念はプルードン派、行動はブランキ派(マルクス主義派)として進んだ?
いろんな弁証法 飛躍と連続 中央集権主義と分権主義(これは二者択一やアンチノミーなのか、それとも弁証法的に止揚できることなのか)
この著者の思想自体との対話が必要なのですが、疎外革命論的なところとちょっとわたしとはズレているので、わたしはこの本から歴史を抽出して読んでしまいました。著者は、この本の中で、パリ・コミューンの総括のようなことを出していて、その部分との対話が必要なのですが、これまでの歴史学習の中での論点のようなことがわたしの中で浮かび上がっていて、そこでのもう少し掘り下げたとらえ返しを著者が書いてくれているのではないので、またわたしもきちんとまだ整理できていません。で、著者の書いていることにこれまで以上の内容で、批判や対話がなしえません。で、著者の思想との対話も含めて、後日機会があれば、試みたいと思っています。

切り抜きメモ今回は割愛しようかと思っていたのですが、やはりいつもよりは簡略化したメモを残します。上下に分かれているのですが、通し番号になっているので、そのままページ数をつけます。先に書いたように、総括のようなまとめに関しては、ページ数や章の案内に留めます。
訳者の序 キー概念的にとらえると、祭り、弁証法、プルードンの理論 実践 (評議会運動的な)国民衛兵中央委員会 
フランス革命は資本主義への道を掃き清めた3P
「われわれは枠組みおよび素描とみなされるマルクスのこの仕事を補充することによって、必然と偶然、決定論と偶発性、予見しうるものと予見しえないものの混淆を分することができるであろう。」4P
フランス−祭り ドイツ−哲学 ロシア−党(意志)
「・・・とくにマルクス主義の名において、人間による人間の生=産(人間による、自然および彼自身の自然の占有)を、経済的生産に還元する知的態度に終止符をうつべきである。」29P・・・著者のタダモノ論批判、ただし、主体的唯物論的主意主義、疎外革命論の系譜−唯物史観の否定になっているのでは?
「マルクスの初期の著作以後、萌芽状態にあった国家の死滅についての彼の理論は、コミューンの経験の結果としてうまれたのであって、それに先行したのではないということである。」33P・・・「萌芽」というのはド・イデの国家=共同幻想論?
「中央委員会の創設者たち――なかんずく「もっとも穏和な精神」に出会っておどろかされるが――彼らは、何ら確定的な計画ももたず、いかなる指導集団も組織しなかった。」60P・・・自然発生性への拝跪
「自然発生的運動の命題と組織的運動の命題――左翼によるこうした解釈に、われわれはすぐあとで出会うことになる――のどちらかを、われわれは選ばなければならないのであろうか。」62P・・・中央主権主義と分権主義や自然発生性への依拠は二律背反なのか?
 「権力の二重性」67P・・・レーテや評議会運動が持つ意味
 「ルペルチェにとって、二〇世紀の共和制フランスは、コミューンがなければ存在しなかったであろう。」70P←著者のルペルチェとの対話「一九七一年三月における大衆の純粋で単純な自然発生性の命題を、留保なしにルペルチェにあてはめることはできない。なぜなら、彼は先行物と歴史的連続性、イデオロギーと革命的計画をその命題に付加しているからである。」71P・・・意識とそれを規定する情況、とりわけ土台との関係、唯物史観
 「レーニンにとってと同じくトロツキーにとって、国民衛兵中央委員会は、事実、実践において「ソヴィエト」であり、しかもそれは武装した労働者の代表と同時に小ブルジョアジーの代表を含むものであった。」74P・・・ソヴィエトと軍事委員会の関係と、中央委員会とパリ・コミューンの関係の違いと相似
 1917年十月革命(西暦11月7日)とパリ・コミューンの1971年3月18日・・・トロツキーの比較、革命の指揮権の能動性、民主主義ではやれない76P・・・1971年3月18日はロシア2月革命と同じような、というよりむしろ反革命クーデターに対する対処から起きた革命
「回顧的照明」79P
「条件法で歴史を書き直すこと――過去の名において現実を弁護すること」への批判80P・・二つの表裏性
 上記の一例「マルクス主義を知っていたら」の話80P・・・マルクス派とアナーキストとのせめぎ合い、理論・理念においてはプルードン派、実行力・軍事におけるブランキ派
「コミューンの《マルクス主義者たち》セライやフランケルは一定の役割を果たした。とくに、後者はそうであるが、しかし、彼らは大きな重要性をもつことはなかった。」81P
 マルクスの『ルイ・ボナパルトのブルュメール一八日』における農民は階級を形成しないという否定的評価105P・・・中国革命からの検証の必要
第二章 国家の役割115-125P・・・ちょっと違和、検証しなおす・・・それぞれの立場で国家ということのとらえ方が違うのでは?
ボナパルティズム115P→註(2)124P
 フランスのボナパルティズム122P
「コミューンは、この国家を破壊する上での本質的な重要事件となるだろうし、それは自由主義的ブルジョアジーとジャコバン的共和派と革命的プロレタリアートを国家に抗して立ちあがらせる。」123P・・・アナーキスト諸派についての論及がない?
「コミューンがこの既存の国家を攻撃しつつある国家を建設するためでしかなかったけれども・・・」123P
「生きられた歴史の雰囲気」130P
 「哲学者の用語を用いるなら、われわれは原因よりも理由を捉えようとするものだといえよう。ここでは合理性は、因果性を包含するけれども、・・・」132P・・・原因という因果論から関係論へ
 国家と軍隊とボナパルティズム133P
 国民衛兵133P
 「六〇年代のあいだ共和政が非武装と同意語であった・・・」136P
 イデオロギーの悪循環とその止揚156-9P
「男らしくもあり・・・・」164P・・・マルクス主義者の性差別
 祭りとマニ教的観点165-6P・・・唯物史観との対話
具象化171P・・・物象化との関係
 女性の果たした役割と革命性172P
 パリ・コミューンを担った各派の方向性183-4P「国家の建設」・・・共同体の建設であっても国家の建設であるのか?
 対立するカオス的意識186P
 M・ドマンジェ「コミューンは、事物であると同時に合言葉であり、現実であると同時に表象であり、事実であると同時にイデオロギーであった。」186P
パリ・コミューンはプロレタリアの独裁といわれるけれど、実際は「プロレタリア、職人層、中小商人層、いいかえると、労働者階級と小ブルジョアジーおよび中産階級の一部との間で結成される」187P
国家死滅の理論は、マルクスによって一八七一年の経験から188P
 百科全書派のディドロのパリ・コミューンに関する項目190P
 「共同体および共同所有的な伝統は、いわゆる原始共産主義から受けとった諸要素を持ち運ぶものであり、その残存物と記憶は源流となって、継起的な生産関係や様式を貫いて流れ、資本主義やマルクス理論まで達する。」195P
 「あらゆる危機の時期に、バリの民衆は「コミューン」と叫んだ。」197P・・・コミューンの分権制と中央集権制のカオス、コミューンの独特の意味
 「バクーニン的アナーキストは、国家の即時廃止のためにたたかう。プルードン派は、地域的な特殊な集団の自己管理をめざす。彼らはマルクスが新しい型の国家、すなわち本質的に死滅しつつある国家をうち立てるべき時期として正確に規定したところでのプロレタリア独裁の歴史的時期をとびこえるのである。」207P
 ブランキ派「技術としての蜂起」210P
 ブランキ派の再評価、労働者の組織化215P
 「スチルナーとバクーニンの弟子たるアナーキストは、インターナショナルに加わった。彼らは、リヨンやマルセイユなどの大都会の労働者のエリートや労働組合をインターナショナルに参加させるのに貢献する。」221P
 パリ・コミューンに先行する分権主義的なリヨンとマルセイユの蜂起とその破産223P
 国民衛兵中央委員会は(民主)中央集権主義252P
ブランキ派とインターナショナル派の連帯264P
 反対派の動き265P
 「沸騰状態にある大衆は、ここでは前=構造化の段階とでも呼ぶことのできる段階を越えている。」271P
 「コミューンが実現しようと試みるだろう独自の政治組織の原型を提供する。すなわち、連合主義、直接民主主義の強調を伴う民主集権主義である。」271P
 マルクスの当初のパリ・コミューン蜂起への慎重姿勢340P
 女性たちの説得力と勇敢さ347P
 ピカール広場が1871.3.18の唯一の戦闘370P
 中央委員会のただひとつの命令――バリケードを築くこと372P
 「蜂起はすでに全パリを支配している。それなのに、誰一人としてそれに気づかない。政府でも、中央委員会でも、各地区でも。」374P・・・自然発生性
 「これらの人々(地区のスケールで活躍していたひとたち)が蜂起や三月一八日の事件を準備したのであろうか。明らかに、だが先ず何よりも、それは地区レヴェルのものであり、ゆっくりと忍耐強い努力によって準備され、種々の地区委員会との協力をとおして、大衆(彼らは当時、真に人民大衆である)によって自然発生的に支持されたのである。」406P
「中央委員会は三月一八日を準備はしたが、まだよく組織されていなかったので、ことが起きるのを望まなかったのである。」407P
 「中央委員会は、その場の状況に押されて、政令を出す。だが、その時、委員会は、自分が何を望み、何であるかを、自分自身でまだ判っていない。つまり、衛兵の指揮者、パリの市当局、新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、委員会は選挙を決定する。そして戒厳令を解除する。/しかしながら、《コミューン》という言葉は布告の中には現われない。その上、中央委員会は、革命的現実と、それが依拠し、かつ悩まされている合法性との間の矛盾を解決していなかった。」411P
 「人間疎外の終末を、一挙に実践化する。」420P・・・著者の「人間疎外論」の思想性
 「家賃および手形支払期限の猶予」−「これらの措置だけが資本主義の至聖な基礎、所有権にふれたものであった。これらの措置だけが中央委員会の側の反資本主義的意図を証明するものであった。」452P
 「感銘的に文書を終わらせるきまり文句である単一不可分の共和国というジャコバン的思想と、連合の原則との間に、少なくとも潜在的矛盾はないであろうか。それらの問題は提起されることはなかった。」454P・・・この問題はレーニンの中央集権主義とその批判ということで引き継がれています。
パリに限定する傾向、これはマルクスも批判していた459P・・・これさえも、地区の枠にとらわれる
 「燃えるような美しいレトリック、それはしばしば、それほど美しくない政治的に軽率なレトリックに変わる。」460P
 20区委員会の革命性466P
 中央委員会の革命に対する自己認識の欠如――合法性を求める475P
 「暗に同意している連合主義を別にすれば、委員会はイデオロギーをもたない。」475P
 「中央委員会の合法性は、形式的には常に異論の余地があり、革命的で独裁的な新たな行為によってのみ、確認されるものとなるだろう。」476P
 「パリの新政府の指導者たちが常に擁護してきたのは、革命的連合主義の到来である。」477P
 パリ・コミューンの軍事的失敗499P・・・正規軍を持たない、働きかけをしなかったことの問題も→トロツキーの赤軍の形成
第6部6章 地方の運動
 地域のコミューン マルセイユ1870.11.1 509P・・・地方の敗北は革命主体の形成がないこと、地方分権主義に投げ込まれたこと、地方分権計画の曖昧性516P
 コミューンの派閥529-530P
 祭り532P
第7部2章――著者のまとめ パリ・コミューンの総括
   3章――「可能性と現実」という弁証法598P
パリ・コミューンの敗北がレーニンに教えたこと「蜂起は一つの技術であり、政治は他の手段による戦争の継続であるということ、いいかえると、政治は、――あたえられた条件、的がいまだにきわめて強力であるという条件の下では――狡知、妥協、厳しさと同時に力強さ、戦術、戦略を前提とすることである。」603P
「本質上、政党は権力を欲するが、他方、コミューンの人々は権力の廃止を欲したのである。」605P
 原因と結果の弁証法606P


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野村修編『ドキュメント現代史〈2〉ドイツ革命』

たわしの読書メモ・・ブログ511
・野村修編『ドキュメント現代史〈2〉ドイツ革命』平凡社 1972
レーニンとトロツキーはドイツ革命との連動から、世界革命を期待していました。結局、ドイツ革命は敗北し連動しない中で、レーニンの死の中で、スターリンの「一国社会主義国家の建設」という名のロシア革命の歪曲をもたらします。
 で、なぜドイツ革命は敗北したのか、「たら・れば」の話をしても仕方がないことなのですが、これは担った人たちの判断の間違いから来ているのか、それとも、そもそも情勢的に敗北の道に進むしかなかったのかも押さえ、そして、ロシア革命の歪曲とドイツ革命の理念的検証をしてみたいと思います。
この本は、そのうち歴史研究をするときにと、かなり前に買って積ん読していた本です。やっと読めました。
 これは「ドキュメント現代史」というシリーズ本の一冊です。それぞれ編者を代えて、16巻出ています。全部とはいわないまでも、興味深い巻があり、一挙に読んでみたいという思いもちらっと湧いているのですが、すでに古本で購入していた「スペイン革命」をこの連続学習の中で読むことにして、とりあえず先に進めます。このシリーズは、二冊しか手元にないのですが、編集者が歴史的なことを解説しつつ、論争の当事者たちの論文や資料を引用していくという手法で、議論を煮詰めるということの中で、その歴史をとらえ返す作業をしています。いろんな視角から切り込んでみるというやり方になっています。最後に文献を掲載しているので、そこから更に学習を深めていってくださいとなっています。わたしとしては、いつものように、「はーっ」とため息をついて、とりあえず棚上げしてしまうのですが、百五十まで生きれたら、この学習にも手が出せるかもしれません。
さて、本題に戻ります。結局主題の、ドイツ革命は可能だったのかという問題意識に対する答えは見いだせませんでした。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺されなかったら、との思いはありますが、そもそもレーニンは七月に地下潜行したのですが、二人はそういうことはしていません。それは、レーニンとローザの間での多方面にわたる論争があり、多分レーニン主義者からすると、ローザの「革命的自然発生性に依拠する」という革命論の限界という批判が出てくるという話があり、それを、この編者はローザの「自然発生性に依拠する」という思想のとらえ損ないという指摘もしています。このあたりは、歴史学習の後で、レーニンの第三次学習とローザの第二次学習でちょっと論考をしてみます。
 さて、このシリーズの特徴として、簡単に歴史を押さえて、論点は引用した文に語らせるという手法ですが、そもそも何を引用するかで引用者の考え・論拠が出ているのですが、もうひとつ、文献に対してのコメントの中でかなり編集者の意見を出しています。そのあたりも含めて、とても勉強になる本でした。
 うまくまとめきれません。具体的なコメントは切り抜きメモでやります。
 ひとつ、ドイツ革命とロシア革命の違いは、ドイツ社会民主党が政権を握るようなところにあった上で、それが反革命的に対応してきたというところ、ロシアではメンシェヴィキは権力掌握的なところまで至らず、ボリシェヴィキが主導してソヴィエトで権力掌握したというところだということ、すなわちドイツでは党派闘争での敗北が革命の敗北に直接つながったということではないかと思います。
 もうひとつ、最後のコルシュの文について書き置きます。ロシア革命との対比の中で、出てきているレーテ論に関わることです。コルシュの押さえとしては、ソヴィエト論なり、レーテ論は、パリ・コミューンから出てきていること、パリ・コミューンはバークーニン派の影響が強かったこと、マルクス/エンゲルスは、そもそも中央集権主義的志向が強かったのに、パリ・コミューンを契機に、コミューン的志向に入ったこと、それがその後マルクス/エンゲルスの中でどうなったかですが、ともかくその後のアナーキストの流れとの対抗関係での主導権、というところでのパリ・コミューンという実際の運動からくるモデル的なことを否定できないところで、コミューン論的なことがあったという押さえです。で、ここからコルシュの論考を押さえたところでの、わたしの論考を少しやってみます。レーニンも、マルクスのパリ・コミューン以後の流れの中で、「全権力をソヴィエトへ」と突き出していますが、そもそもそれはソヴィエトが権力を握るまでで、すぐにボリシェヴィキの独裁で動き始めます。レーニンは、そもそも中央主権主義者だったわけで、そこから一党独裁体制に入り込んでいったということがあります。スターリン主義の責任はレーニンの中央集権主義の中にもあるという話です。トロツキーはそもそもレーニンの中央主権主義を批判していました。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長も1905年、1917年二度にわたって担っています。ですが、結局、レーニン主義者になることで革命の展望を見ることによって、ソヴィエトの意義ということをこれもないがしろにして行っています。国の名前に名を残していますが、ソヴィエト論なりというのは、ロシア革命では消えてしまったのです。もうひとつの論点は、プロレタリアートの独裁論の中身、そもそもロシア革命のボリシェヴィキの方針は最初は労農ソヴィエの独裁でした。ソヴィエト論はプロレタリアートの独裁論に変わったのですが、これはレーニンはソヴィエトを過渡的・一時的なこととしておいていた、権力掌握の手段論的にとらえていたのではとの推測が湧いてきます。それは差別の問題でも、レーニンが「階級支配の道具」規定していることにつながっています。実はこのあたりは国家論的な問題にもつながっていきます。スターリンは一国社会主義路線に陥りましたが、そもそもソヴィエトによる国家権力の掌握ということ自体が国家の廃絶に進んでいくこととしてあったのだと思います。そこにソヴィエト論の意義があったのだと思うのです。ソヴィエト論がきえたところで、プロ独がプロレタリアート国家的になっていく構図になっていくのだと思います。そこで、即、国家権力の奪取か国家の廃絶かという二分法にはならないとしても、ソヴィエト的なところ、レーテ的なところで、国家的なところ、官僚主義統治機能に陥っていくことを抑止しつつ、新しい関係性を築いていく、そんな運動論としてソヴィエト論―レーテ論があったはずだと思うのです。このあたりは、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の中の「国家とは共同幻想である」という国家論をレーニンが読んでいなかったと言われる問題があり、だからこそ、レーニンが国家権力の奪取というところに収束していく志向が強いことも、ソヴィエト論―レーテ論が消えてしまった背景のひとつとしてあったのではと思います。このあたり、もう少し勉強を進めます。次の本はこのあたりの趣旨に沿って、繰り上げて『パリ・コミューン』にします。
 ロシア革命の学習の中でソヴィエトの位置づけがよく分からなかったのですが、それがこの本の「Y レーテ運動論」の中で、展開されています。歴史学習の最期にローザとコルシュを読んで、またこのあたりを考えたいと思っています。
 さて、後は切り抜きメモの中でのこの本との対話です。
(ドイミヒの演説)「レーテ体制のなかには独裁がある。という声がある。いったい、もう何十年にわたって、特に戦時中、民衆の血と汗からごっそりと富をかきあつめてきた連中にたいして、いいかげんにしろ、今度は、おまえたちに圧迫され搾取されてきた者たちの番だ! ということが、そんなに困ったことなのか? これは世界的審判の一幕にすぎず、思うに、独裁うんぬんの愚痴などによって引きさがってはいられぬものである。・・」76P
(ローザの発言)「われわれスパルタクス・ブント、ドイツ共産党だけが、ドイツの全政党のうちで、ストライキをもって闘う労働者側に立っている。」「けっきょく、革命の第二段階では、ストライキが、しだいに拡大するだけでなく、革命の中心に、革命を左右する地点に立つことになって、たんに政治的なだけの問題をわきへ押しのけることになるだろう。そこで当然、経済闘争の局面はすごく先鋭の度を加えてくる。」96P・・・ここは、「革命の転換点」について論じているところ、転換点では政治が全面に出るところ、ストライキをいかにデモ−街頭闘争につなげていくかが問題になるのではないでしょうか?
(ローザの発言のレーテ論)「われわれはまず大衆に熟知させねばならない。労働者・兵士レーテこそが国家機構を自在に動かすべきであること、レーテこそがいっさいの力を手中に収めて、それを残らず社会主義革命の水路へ集注しなければならないことを。」98P
(クルト・トゥホルスキー)「まさにそれらをぼくらは拒否し、それが影もかたちもなくなるまでたたかう、国家内の国家としての人間集団の結集、汚点がないと自称する徴章――その裏面のきたなさは誰もが知っている――への自負、協同の能力をもたぬ連中の命令・従属関係、要するに兵営、それがなくなるまで。」134-5P・・・繰り返される軍の蛮行
(レヴィネの言)「圧倒的敵によってレーテ共和国が滅ばされても、それが真のものならば、それは労働者の脳裡に深く根づいて、圧迫が除かれるやいなや、ほとんど自動的に再生してくる。」170P・・・革命的敗北主義?
(レヴィネの言)レーニンの蜂起の諸前提三つとそれに照らしたドイツの三月行動時の情況260-1P・・・ロシアの七月の情況とも対比
三月行動に対するコミンテルン第三回大会時の三月行動へのレーニン、トロツキーからの否定的態度268P
1923年10月蜂起のトロツキー、ブハーリンの賛成287P・・・ロシア革命への連動の最期の願望?
「こういう武装闘争(ハンブルグ蜂起)は、ハンブルグのように住民の多数の共感に迎えられ、大衆運動の支持を受ける場合ですら、孤立したままならば、そしてその地域事態のレーテ運動によって――ハンブルグでは何よりこれが欠けていた――になわれていないならば、挫折せざるをえないことである。」294P
「かれ(リューレ)が自分の目で見たソヴィエト・ロシアは幻滅でしかなかった。そこではレーテ(ソヴィエト)は「党独裁の官僚体制をかくすいちじくの葉」になりさがっていた。」政党人として古い経験をもつかれのこの末路(晩年の孤独な内に亡命生活をおくったこと)は、見方によっては哀れな自己撞着と映るかもしれない。しかし、政党人としてのかれの自己否定は、一一月革命のレーテ思想にあくまで忠実であったことの証左である」「かれの主張する「革命は党の仕事ではない」・・・「レーテなしには社会主義建設も、共産主義もありえない」と。「レーテ共産主義」呼ばれるこの立場によって・・・・リューレに対する関心が今日のヨーロッパの若い世代の中で高まっていると聞く。」317P・・・レーテ運動に対する評価の核心的なこと
ブルジョア社会と同じように陥る腐敗のメンタリティ322P
党の否定はアナルコ・サンディカリスムと批判されることからのリューレとの対話の必要317-324P
ドイミヒ「レーテ組織がもっとも強力に出現するのは、プロレタリア対象が明らかに社会主義的目標を獲得すべくたたかうところにおいてである。それゆえレーテ思想を正当に扱うためには、その革命的起源をけっして忘れてはならない。」327P
党の規律に従うというところにおいて、リコールの原則も通用しなくなっていったし、「労働者レーテが存在しているところでは、ここかしこで一種の官僚的レーテが、いやそれどころかしはしば腐敗的レーテが生まれた。」334P・・・労働運動の党的な歪曲の問題として現在的にもとらえ返すこと
「プロレタリア大衆を基礎にせず、少数のプロレタリアのみに頼って打ち建てられ、その支配を軍事的暴力手段によってのみ維持しているような独裁は、そもそも初めからみずからの中に崩壊の種子を孕んでいるのである。」335P・・・民衆に依拠しない軍事展開の腐敗
「この観点(レーテ運動は社会主義の実現という政治的な内容をもっているということ)から出発して階級意識に目覚めた革命的プロレタリアートの上級の指導層はいまや、まず生産過程の土壌の上に打ち建てられるレーテ体制を建設することを試みている。」336P
「ローゼンベルグやコルシュも指摘している通り、マルクス=レーニン主義の基本原理には本来革命的コミューンやソヴィエト(=レーテ)体制への指向は含まれていなかった。コミューンもレーテも革命期の人民大衆が自然発生的に作り出した闘争機関であった。レーニンはソヴィエトが革命に果たす重要な役割を正しく見抜き、自身の革命戦術に重要な修正を加えて、「全権力をソヴィエトに」というスローガンをかかげ、労働者政権の樹立に成功した。しかしレーニンはその後戦時共産主義の困難な時代に、権力をソヴィエトの形式でなく、その基本思想にのっとって構築すべきところを、逆にボルシェヴィキの一党独裁による中央集権的な国家権力を作りあげ、形骸化したソヴィエト制度をそのいちじくの葉に引き下げてしまつた。」346P・・・レーニンの手段論
「コルシュの、このような深い洞察と問題意識は、いまなおそのアクチュアルな意味を失っておらず、むしろ数十年の歳月の後、かれの理論は、資本主義国ばかりではなく、社会主義諸国、なかんずくユーゴスラヴィアでの労働者の自主管理の実験においても、その有効性を、まざまざと示しつつあるといえよう。」347P
エンゲルスのことば「さて諸君、この独裁がどういうものか、諸君は知りたいのか? パリ・コミューンを見たまえ、あれがプロレタリアートの独裁だったのだ。」354P
「客観的条件がこのように変化しているとき、われわれ、全世界の革命的プロレタリア階級の戦闘者が、ソヴィエト思想の革命的意義についての、また半世紀前にパリのコミューン戦士によって「発見された」プロレタリア独裁の政治形態としてのソヴィエト政権の革命的性格についての、従来の信念を、なんの吟味もなく、なんの変更も加えずに固持することは、もはや主体的にも許されない。」356-7P・・・マルチュチュードやサヴァルタン概念から、更に民衆の反差別運動からのとらえ返し
「ゲーテが「ファウスト」で語ったことば――きのうの善行が今日の悪行になる――を実現してゆく革命的弁証法は、あてはまることを、われわれは認識しなければならない。同じことをカール・マルクスはもっと明晰に、もっと明確に、こう表現している。革命的な行動や意識の発展のあらゆる歴史形態は、その発展上の特定の時点で、それらを発展させる形態から桎梏へと転化する、と。」358P
「ひとつの革命行動の――この革命行動の本質的目標は、もはやなんらかの国家的支配形態を維持したり、ましてある新たな「高次の国家類型」を産出したりするところなどになく、むしろ、国家そのものの死滅のための物質的前提を創出するところにある――政治形態となる。「この最期の条件を欠くならば、コミューン体制は虚妄であり、詐欺であった」と、マルクスは以上の点に関連して、この上なくはっきりと言いきっている。」364P
「フランス大革命の国民議会によって実現された革命的ブルジョア独裁の中央集権体制を、熱烈に賛美していたマルクスとエンゲルスは、どうして、この体制とまったく対極的な位置にあると見える「コミューン」を、ブロレタリアートの革命的独裁の「政治形態」と見なすようになったのか?」365P・・・ここから先は、パリ・コミューンの運動が実はブランキ派の影響が強かったことなど、そこでの自由連合的な性格など、マルクスからレーニンに至る中央集権的な流れを批判しています。このあたり、本文にも書いたように最期にコルシュにあたって、論考を深めます。
「文献案内」から
「1918年のドイツ革命は、多くの点で、1948年のフランス二月革命と、おどろくほどに類似している。」377-8P
「しかし、指導部と大衆の関係を固定的に捉える著者(篠原一『ドイツ革命史序説』)の把握のしかたには、疑念が残る。著者は指導という概念をも、またスターリニズムによって歪められた(ローザ・ルクセンブルクなどの)「自然発生性」概念をも無批判に前提にしているのだ。」379P
「これらのなかでルカーチは、三月行動を一揆主義的であると否定しきる考え方に反対し、問題は大衆の自発的革命的エネルギーを正しく指導しえなかった前衛党の弱さにある、とする。」386P


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若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」

たわしの映像鑑賞メモ025
・若松孝二監督「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程」2008
この映画は、ビデオ・オンデマンドで観ました。
連合赤軍の同志殺しは、当時社会変革運動を担っていたひとたちに大きなショックを与えました。この映画は67年10.8から、当時の新左翼運動のうごきを押さえ、内部粛清−同志殺しを、資料をもとに精細に描いています。
ブント(共産主義者同盟)内の党内闘争、党派闘争の発端とも言える、関西派のさらぎ議長へのテロと、その逆の関西派の塩見議長らの監禁事件をも押さえています。
そもそもは赤軍派の前段階武装論を出した情況認識の間違いがあり、中国派の京浜安保共闘との武力闘争という一点での「連合」というところでの、組織内の元の二つの組織間の勢力争い−対立のようなことも含み、起きています。先に同士殺しをしたのは京浜安保共闘の離脱者の殺人です。これは後に書く、スターリン主義の総括の問題ともからんでいます。
問題は二つ、ひとつは、党内闘争、党派闘争で暴力の行使など許されないという作風をつくるところ、なぜ議論すべきところで暴力が振るわれたのかということ、もうひとつは、組織の物神化というところで、組織を守るということが革命を守る―遂行するとイコールにされ、さらに、それが指導部の自己保身として機能したことです。
そもそも、その粛正を主導した2人の、日和見主義を自己保身的に覆い隠すための、他者攻撃、自己批判の要求としての粛正だったのです。赤軍の森恒男さんは、大衆的武闘闘争からの逃亡。京浜安保の永田洋子さんは自らが受けたレイプを告発できなかったという日和見主義です。
そもそも、大量内部粛清が行われたのは、ロシアにおいてです。ロシア革命の後に、反革命的干渉戦争が起き、それの防衛から、さらにスターリンが一国社会主義建設は可能だとする一国社会主義革命論を出します(このあたりはレーニンまでさかのぼれるというひとがいるのですが、レーニンはあくまで、世界革命の展望を模索していたようです)。そして、新経済政策(これはレーニンも容認して責任があります)という資本主義経済の論理を導入します。そこで、唯物史観からすると経済の土台は資本主義、思想は「共産主義」という矛盾を来たし、イデオロギー的統制が必要になるのです。で、一党独裁をなし、言論の自由の封殺をすることになります。
そもそも、なぜこのような粛清が起きたのかは、革命闘争−組織を守るという名目においてです。共産主義はつねに改革を進めていく思想で、守るものではありません。それを一国社会主義の防衛という国家主義に陥ったところで、「国家」の防衛というところに陥るのです。その「防衛」が何をもたらすのかということを押さえねばなりません。それがスターリン主義の総括の核心なことです。
その総括が、コミンテルンで一緒に動いて、指示さえ受けていた団体にも必要だったのですが、ひとり、スターリンの性格のようなことでことを片付けて、多くのマルクス・レーニン主義を名乗る、なかでも、スターリン主義もとなえていた政党・党派がその総括をなしえていません。だから、一国主義的なところでの対応や、国家主義へのからめとられが起きるのです。過去の歴史の総括を怠り、清算しているのです。
スターリン主義思想をひきずっている党の末端のひとは、未だに新左翼(もう「新」ではありませんが)排除で、新左翼諸党派のひとたちを一括してトロと呼びます。トロの反対語、対語は何でしょうか、スタです。未だにスターリン主義を総括していないのです。
ウーマン・リブの田中美津さんは、連合赤軍が出てきたとき、「わたしは永田洋子だ」と発しました。これは、別に田中さんが、粛正とか暴力をふるったという意味ではないと思います。自らの自己防衛的他者攻撃とか、その発想とかに、永田洋子と通じることを、自己批判的にとらえ返した言葉です。民衆の運動の方が、きちんととらえ返しているのです。このことは、そもそも現実の政治には直接的なところではほとんど関わりのないとされるところでの、ひととひとの関係にも及ぶことです。いじめの問題で、いじめがどのようにして起こるのかというところにもつながっているようなこと、そしてプライドということが、ひととひととの関係をいかにゆがめていくのかの問題もあります。
で、前衛を名乗る党が、むしろ、そのようなきちんとしたとらえ返しもできないままに、自分たちには関係ないところで起きたことだとして、「過激派を泳がせている」と政府に取り締まりを要請していたことは、今日、その趣旨に沿った「共謀罪」が作られて、どのような思いでいるのでしょうか?
また、「尖閣は日本の領土だということは証明できる」と言い、「政府もちゃんとやるべきだ」と、政府の反中国というところで危機を煽るアベ政治と共鳴しています。これこそが、まさに一国主義的なスターリン主義総括の核心で、「共産主義には国境は無い」というマルクスの共産主義の思想に真っ向から反対する主張です。もっとも、「ソ連や中国が、共産党の名でやったことは迷惑で、わたしたちは違う」のだと世界的なレベルでのマルクスの流れの運動の総括をネグレクトしているのです。
 この映画は、粛正のときのそのひとの心理を資料を踏まえて、実に丁寧に描こうとしています。それを、見る人がどこまできちんと観れるのか、この映画を観て、むしろ反共的なことが広がっていくかとの、一抹の不安があるのですが、とにかく今のこの悲惨な政治情況を変えて行くには、過去の総括をきちんとやりきらねばなりません。
兎に角、これまでの運動の総括のための貴重な資料になっています。ひとつだけ疑問が出されたことがあります。あさま山荘で銃撃戦をやっている中で、兄殺しに加担させられた少年が「なぜこんなことをやったのだ」と告発するシーンが出てきます。それを、銃撃戦をやっている最中にそんな発言がでるわけがない、というコメントがインターネット上で出ていました。この映画のテロップの中で、これは資料に基づくドキュメントですが、一部フィクションがあります。と書いています。実は、他の資料を見ると、この発言は兄が死んだ直後に山岳キャンプで発せられた言葉のようです。
この作品は、若松さんが、私財を投じて作った渾身の作品だと言い得るでしょう。




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2019年10月17日

吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』

たわしの読書メモ・・ブログ510
・吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』社会評論社 2019
陳独秀は中国の中国共産党の建党のひとで、トロツキーに共鳴していったひとです。
 この本の情報は、トロツキーを学習している途中で入ってきて、しかも、前の読書メモの本の第三章とリンクしています。
 さて、章に沿って内容を押さえてみます。本の内容からかなり逸脱した、わたしのとらえ返しもしてみます。
第一部は「革命後一〇年間におけるゾビエト政権の変質過程――「スターリン政治体制」への移行」
ちょうどロシア革命史の学習過程でしたので、ロシア革命の総括的なところで、リンクしました。最後の「第四章 小括」で、著者のロシア革命の総括のようなことを5つにまとめています。それをこれまでの学習の過程でつかんだことと共鳴することが多く、わたしなりにその内容を押さえて抜き出してみます。@左翼日和見主義的傾向(?切り抜きメモでコメント)として、プロ独しかもボリシェヴィキに純化した独裁にしたことAレーニンが『国家と革命』で絶賛したパリ・コミューンと隔絶した独裁になったこと―共産党による代行性の問題B組織論、プロ独論と中央集権制の問題Cプロレタリア民衆の国家の死滅の運動に移行しなかったことDレーニンのマルクスの継承と隔絶の検証の問題。実はこれは、最後の「補論「いくつかの理論的問題」について」にリンクしています。「補論1 レーニンのプロレタリアート独裁論」、「補論2 プロレタリア政党の組織路線の再検討について」はまさにBの内容です。
第二部は「ソ連共産党・コミンテルン下での中国革命の指導路線」
いかにソ連共産党―コミンテルンが、中国への「指導」でひどいことをしたのかが分かります。中国共産党はコミンテルンの提起の中で作られています。しかも、ロシアで左翼反対派が排除されていく中で、その情報が入らず、陳独秀はトロツキーが除名された後になって、自分の考えと近いトロツキーの思想を知り接近していくのです。この本を読むと主流派のスターリン派のソ連に留学していた中国の留学生がトロツキーの影響を受け、そして弾圧を受けていく様が分かります。
第三部は「中国共産党のスターリン派と党内反対派への分裂」
反対派・トロツキー派の動きを押さえつつ、世界大戦・内戦期の革命史、権力奪取までを押さえてくれています。「延安整風」という毛沢東主義のひとつの柱、整風運動というところが、文化革命的なところにつながっていくことや、スターリン主義的な分派活動につながっていっているのではとも考えていました。このあたり、日本の連合赤軍の総括という名の粛正が中国派であった京浜安保共闘の方から起きていたことからも、整風運動―文革のとらえ返しが必要になるのではと考えたりしていました。
この本では余り詳しく書かれていないのですが、レーニンは農民のプチプル規定をして、労農ソヴィエトということを出しつつ、実質プロレタリアートの独裁に突き進みました。ですが、中国はまさに農民に依拠する革命だったわけで、農民に依拠する革命はできないとしたレーニンの押さえ方に疑問が出てきます。このあたりの押さえ直しが必要になります。
第四部は「社会主義への過渡期における中国共産党の路線・政策」
ここでは政権を取った後の動き、急速な工業化の中で、農民の生きる食料まで奪い、多くの餓死者が出た、食人まで起きた情況、実際に食料があるのに、備えとして拠出しなかったという、まさに失政というか、ひとをちゃんとみないスターリン主義的政治の情況を押さえています。食糧危機ということはロシアでもあったようです。調達ということへの批判としてトロツキーが新経済政策の導入をレーニンに提起していたということもこの本に書かれています。新経済政策は「戦時共産主義」から資本主義的市場経済への舞い戻りで、あくまで一時的処置として考えていたようなのですが、一時的ということが固定化して、経済は資本主義、政治は「社会主義」を唱えるという唯物史観的にありえないことをやろうとしているわけで、で、そこにあるのは、マルクス・レーニン主義や科学的社会主義という名の宗教的とりこみとイデオロギー的統制です。
この四部では、政権の奪取から文化革命から天安門事件までを押さえています。文化革命は、まさに整風運動の流れの中で起きている、一種の洗脳運動としか言いようがないことです。尤も、文化革命は実は二つの流れがあったようなのです。ひとつは毛沢東と四人組が進めた党内闘争というか権力闘争の手段としての運動、毛沢東語録をかかげたまさに宗派的な運動。もうひとつは、「省無連」のコミューン運動など、既製のスターリン主義的なことへの批判という内容もあったようなのです。ともかく、中国の整風運動的な党内闘争が民衆までに及ぶイデオロギー主義的(主意主義)に展開したという問題です。
第五部は「プロレタリア革命の新しい時代」
さて、ここでは現在中国論の押さえです。
ケ小平の改革開放路線は、「先富論」として端的にとらえられるのですが、わたしは「先富論」がでてきたときに、中国は「社会主義」を捨てたと思っていたのですが、ことは簡単ではないようです。これは右派に転向したブハーリンと同じ位相をもっているのではと思えます。「原始的蓄積」という収奪の構造、民族問題、環境問題、農業からの収奪の中における工業の推進、「軍産共同体と帝国主義的対外膨張政策―「一帯一路」」と、まさにスターリン主義的一国社会主義の推進の道を進んできているのです。宗派的イデオロギーによる恐怖統制的「社会主義」体制の維持をとりわけ、習近平体制以降突き出してきています。
補論「いくつかの理論的問題」について」
ここで、著者は中国革命の著者なりの総括と革命の展望のようなことを展開しています。共鳴することが多々あるのですが、わたしなりにとらえ返しをしてみます。
書かれていないことがあります。レーニンは『ド・イデ』が読めてなくて、そこにかかれている国家の共同幻想論が入っていなくて、権力の奪取からプロ独ということに迷いなく突き進んだという問題。トロツキーがレーニン主義的転向をしたのは、ロシアではレーニン的な革命でなければ、革命は起こし得ないという思いで、しかもレーニンのカリスマ性に依拠しようとしたこと。結局トロツキーは初期のレーニン批判の立場には戻らなかったようなのです。それは、まだスターリン的な革命でも継続的に変化していければ、永続革命の可能性はありえると見たのでしょうか? スターリンの粛正をどこまで予測していたのかがありますが、トロツキーの暗殺はスターリンのあらゆる反対派への粛正が大体終わった後、自らの死の間際に、まだレーニン主義者であり続けていたのかどうか、更に1991年のソビエト社会主義共和国連邦の崩壊まで行ったのをとらえると、どういう総括をするのでしょう? トロツキーはもちろんいません。それはわたしたちに引き継がれ、どう総括するのかという問題があります。有名なフレーズがあって、「「共産主義とは何か」と問われるとき、「パリ・コミューンを見よ」と言い得る」ということがあります。今日、「共産主義とは何か」と問われるとき、「ロシア革命を見よ」と言うひとは誰もいません。むしろ、負の遺産的にしかとらえられません。そこに何か残るとしたら、まさにこの本が主題にしている中国革命のなりゆきですが、中国はトロツキー派の弾圧も含んで、まさにスターリン主義の道を進み、覇権国家―「社会帝国主義」として立ち現れ、そこからトロツキーの永続革命的なことはとらえられません。
勿論、パリ・コミューンは敗北した革命です。そして、レーニンと運動論的・組織論的に論争を続けていた、ドイツのローザ・ルクセンブルクも暗殺されてドイツ革命は敗北に終わっています。さて、この連続学習は、ドイツ革命、スペイン革命、パリ・コミューンの学習に進み、もう一度、レーニンに立ち戻り、ローザ・ルクセンブルクを読んで、従属理論の学習を経て、現代資本主義論―革命論の模索に入っていきます。
 この本はレーニン主義からスターリン主義、トロツキーの永続革命論を押さえる作業、そしてもうひとつ、現代中国論の共同学習に使えるのではないかと思ったりしています。とても大切な本です。

切り抜き
「食料問題を解決するには、農民との関係を改善する必要があった。トロツキーは「戦時共産主義」の弊害をいちはやく見抜き、ゴスプラン(国家計画委員会) に権限を与え「新経済政策の策定を提案していた。しかし、レーニンの同意は得られなかった。/当時レーニンの考えていた国家資本主義策は、小規模で限定的(『穀物税について』参照)なもので、トロツキーのいう社会主義への過渡期全体を包含し貫徹する経済政策とのあいだにはまだ大きな差異があった。レーニンがトロツキーに同意するのは、もっと後のことである。」29P・・・新経済政策はトロツキー発、新経済政策や計画経済は一歩前進半歩後退の永続革命論の戦略で、永続革命論が葬り去られたときには、資本主義の固定化にしかならなかった。
分派禁止が持つ意味30P
「左翼日和見主義」49P・・・?これは強引に(「手段を選ばす」)革命を進めるという意味?日和見というのは、情況を見て行動を躊躇するといことでこれは当たらない。「左翼」は革命という方向性を持っているひとのグループで、「左翼」ということは、結局革命を進めることにならないということで、かっこにくくらざるを得ない、結局「左翼」強力主義ということになるのでは?
「野党の禁止は、次にはボルシェビキ党内のフラクション禁止令へとつながっていった。分派禁止令は、ボルシェヴィキ党の変質への一つの里程標とも言える。」49-50P・・・分派の禁止は運動の活性化を阻害することになるのでは?
民衆による国家の死滅策52P・・・そもそも外部注入論による代行主義から出てこない
複合発展論59P・・・新経済政策もここから出てくる?
「第二次大戦期のスターリン主義者の採った諸々の政策の本質は、すべて自国の利益を第一とし、帝国主義列強への工作では西側諸国の共産党勢力を利用し、自己の立場と利益を優先することにあった。」62P
「一九二八年からモスクワの中国共産主義者が群れをなして反対派に向かった主要要因は、中国とソ連の情勢がいずれも驚くべき速度で反対派の主張を実証したことである。」92P
「ここには、トロツキー自身における従来の党組織路線の総括の不充分性という問題もあった。トロツキーはレーニンの組織路線に対する批判をはやくから展開していたが、ボルシェビキ党への合流後はそれを留保していた。それはやむをえないことでもあった。それにトロツキー自身も「民主集中」制の両義性に幻惑され、その限界からまだ抜けきれていなかった。かれの真情は、新路線論争の青年への訴えに吐露されている。いづれにせよ組織路線は不充分なまま残され、それは後のトロツキズム運動の足かせとして残った。」102-3P
「民主主義の問題を正当な地位に引き上げ、民主主義獲得の闘争を社会主義をめざす闘争とかたく結びつけたことは、陳独秀の重要な功績であった。」110P・・・国家の死滅へと向かわないところでは、民主主義は支配の道具になっていく
「彼らは多数派とはボルシェビキだと思っていますが、実はボルシェビキは決してマルクス・エンゲルス主義ではなく、ロシアの急進的プチ・ブル階級であり、フランスのブランキ主義です。今のドイツのナチズムは、古いプロシャと新しいボルシェビキの混合物です。」112P・・・陳のボルシェビキ批判 ナチズムが「国家社会主義労働者党」として出発したことに留意  「マルクス・エンゲルス主義」?  ブランキ主義は一揆主義とも言われ、計画性がないので、ボルシェビキズムとは違うのでは?
陳「スターリンの罪悪はすべて、プロレタリア独裁のロジックが発展したものです。」116P
「かれ(陳)の一貫した立ち位置はあくまでもプロレタリア民衆の立場であった。かれは当代のもっとも優れた「マルクス・エンゲルス主義」者であったし、かれの見地は今日の時代にも継承されるべきものといえよう。」117P・・・・「マルクス・エンゲルス主義」?マルクスの「わたしはマルクス主義者ではない」という提言。スターリン主義者がレーニン主義の宣揚によって、反対派を排除していった歴史や毛沢東主義者の毛沢東語録を掲げた宗派的運動を踏まえて、教条主義批判やカリスマ性を突き出す運動が何をもたらすかをとらえ返したとき、ひとの名を冠した○○主義という言葉は、教条主義批判の否定的な脈絡としてしかわたしは使わないようにしています。
「スターリンの収容所列島もすさまじかったが、毛沢東の人民を相互に監視させる支配体制はより強度であったともいえよう。」126P
「スターリン主義者でも政権獲得ができる。中国共産党はこのことを実証した。ところで、政権獲得以後の社会主義への道は別の事柄である。社会主義への道は、前人未踏の道であり、プロレタリア民衆に依拠してプロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむかが大きな分水嶺になる。」130P・・・「スターリン主義者でも政権獲得ができる。」というのは、「プロ独ではなく農民に依拠した革命」という意味?「スターリンのような人格」でも政権獲得ができる、という意味? 後半の「プロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむか」は余計意味不明? 二つが分岐するのは、プロレタリア民主主義がブルジョア民主主義に収斂するときでは? 政権獲得と維持は強権的監視態勢でもやれたけど、革命―「社会主義」への道は逆戻りのまま
「整風運動には一つの法則が貫かれていた。誰もがこの整風から逃れることはできなかった。人々は、ある時は被害者になり、またある時は加害者となった。この運動の外に出ることは許されなかった。「批判」と「自己批判」は参加者全体を疑心暗鬼にさせ、互いに傷つけ合い、相互不信をつのらせるのである。「批判」と「自己批判」を発令した者だけが批判運動から免れるのである。」138P・・・連赤の永田洋子と森恒男の「総括」 いじめの構造にも似ています。
(命をかけて抵抗した知識人・謝韜のことば)「われわれはいつも党と人民のために少しでも貢献することばかり考えて、他のことを考えたためしがない」144-5P・・・一般党員は無私的に動く、スターリニスト「指導部」は自分のことしか考えない。
「文学・芸術は「政治に従属」し、その俗悪な政治の道具とされた。胡風事件はそのはしりであった。」145P
「毛沢東の「スターリン批判」への対応は次第に明確になってくる。まず国際的には、スターリン評価(成果七分、欠陥三分)にもとづいてポーランド、ハンガリーの民衆暴動を激しく非難し、二度の論文――「プロレタリア独裁の歴史的教訓」とその続き――によって中国共産党がスターリン主義を堅持することを表明した。」146P・・・「成果七分、欠陥三分」というのはスターリン主義から抜け出せていない共産党の流れから出てきていることではないでしょうか? わたしからするとスターリン主義は負の評価しかありません。
「毛沢東による全国書記局体制の掌握と中国版「ノーメンクラトーラ」(官僚特権階級)の形成と軌を一にしていた。」147P・・・まさにスターリン的手法
「中国は法治の国ではなく、人治の国であり、毛沢東の言うことが法律である。」147P・・・言わんとしていることは分かるのですが、「人治」の「人」が民衆なら、「法治」よりも良いのでは?
「学生たちは五・四運動を忘れておらず、「社会主義時代の五・四運動」として民主の旗を高く掲げた。」149P
「「真の社会主義」が1957年の中国の大学の民主化運動の綱領となっていたのである。」151P
「「大躍進」・「人民公社」運動の発動は、全国書記局体制の確立と連動していた。地方書記を通じて全国を支配するというスターリン主義的全国支配網の確立である。この支配体制下で、地方書記は毛沢東への無限の忠誠を誓うと同時に、地方における絶大な支配権を保証された。・・・全国の党書記たちは「上を向いて歩こう」出世主義者がほとんどであった。かれらは毛沢東が「大躍進」政策を発するや、ただちにこれに呼応して「食料増産計画」なるものを提出した。現実の生産能力を飛び越えた架空の「生産計画」である。毛沢東はこれを根拠にさらに現実離れした増産計画を提起した。/しかし、地方書記が提出した「増産計画」は、一年後にはかれらの肩にふりかかってきた。「増産計画」は実行を迫られた。全国の書記たちは、その責任を農民に転嫁したのであった。農民の食いぶちまで徴発し、数千万人もの農民がゴロゴロと路上で死ぬという惨状はこうして生まれたのであった。古代の奴隷は最低限の食いぶちは保障されていた。奴隷が死ねば、奴隷主は元手を失うからである。しかし、ここでは農民は生きる最低限の保障さえ奪われたのであった。」161P・・・あまりにもひどい政策と「下」からの出世主義的呼応
農民の1958-61年餓死者 二説 「千六百万―二千七百万人」164P、「三六〇〇万人」166P
「それは(大飢饉の理由は)「スターリン政治体制」がもたらした必然の結果であったが、直接的には、高速度・高ノルマを短時間に達成しそうとした毛沢東と共産党側の度はずれた要求にあった。」168P
「餓死者が最も多かった一九六〇年、国家にはなお数百万の食料備蓄があった。中国には古来より、飢饉の時には倉を開いて民衆を救う伝統があった。ところが当時の体制のもと、そうした行為は厳しく罰せられた。農民は、国家が大量に食料を備蓄した状況下で餓死した。」169P
「救わなかった理由は、国家が戦争に備えて食料を必要としたからであった。明確に見てとれるように富国強兵路線は、農民を犠牲にし、農民を餓死させる代価をいとわなかった。」170P
(民衆の決起の「星火」における向承鑑のことば)「中国史において整風と反右派は、重大な意義がある。それは党の変節点、人民を敵とする方向への転換点、ヒューマニズムを敵とする道への転換点だ。」179P・・・そもそもスターリン主義者は右だったはず、何でも反右派にする非論理性
(「星火」から張春元のことば)「真のマルクス主義という看板を掲げたある人物及び少数の政治家たちの思想と方法は、日増しに主観的迷信と反動へと変質し、もはや悲しむべき結果を来した」180P
「右派のある老女は、彼女が共産党に加わったとき、党がやがて非人間的な悪党たちの一団に乗っ取られるとは思いもしなかったと、あからさまな言葉で話してくれた。」193P・・・何が右なのか? かっこをつけて「右派」という表記にすること
紅衛兵の二つの流れ、四人組の一月207P、省無連の八月211P
(「探索」の代表者魏京生のエッセーから)「農民たちが『大躍進』をあたかも『この世の終わり』を語るような言葉で回顧するのを聞いたし、・・・・」201P
「プロ文革はとらえようのない抽象的文言から始まった。「魂に触れる革命」「上部構造における革命」等々。いくらか具体性をもったのは「パリ・コミューンを実行する」であった。」204-5P・・・マルクスの唯物史観をとらえられない主意主義、パリ・コミューンと真逆な運動
「この運動(プロ文革運動)が青少年の紅衛兵運動から始まったことである。青少年層には社会の諸矛盾への不満がうっ積していた。」205P
(「省無連」の文書から)「大衆が事実を暴露し、彼らに対する怒りを爆発させたことにより、《赤い》資本家階級が、完全な腐敗階級になって、歴史の進行を妨げていることが、はじめて知らされた。彼らと広範な人民との関係は、指導者と被指導者との関係から、支配者と被支配者という関係に、搾取者と被搾取者という関係にかわり、革命に平等に参加する関係ではなく、圧迫者と圧迫されるものへの関係へと変化していったのである。《赤い》資本家階級の特権と高い給料は、人民大衆に対する圧迫と搾取を基盤としたものであったのである。《中華人民公社》の実現をめざすためには、この階級は打倒されなければならない」214P
「天安門事件は、「スターリン政治体制」のどん詰りを示した。民主主義は天から降ってこない、それは民衆の汗と力でかちとらなければけっして手に入れることができないことを、はっきりと教えた。」224P
「まず、ブルジョアジーからの生産手段の没収が行われる。続いて、小所有者(農民や都市の小所有者)の社会的改造が行われる。農民など小所有者の改造は、実際上の利益と農民たちの自主性にもとづいて行われるべきというエンゲルスの忠告を考えると、ブルジョアからの生産手段の没収よりも長期の期間を要することがわかる――農民の集団化は、互助組からはじまっていくつかの段階を経て高級合作者に至る。しかし、集団的所有制はまだ全人民的共有制への過渡期段階であり、共有制への移行ではない。スターリン主義者は集団所有制への移行をもって、過渡期完了の指標としたのであった¬――。」256P
「マルクスは共同社会の発展について述べている。レーニンとの相違点についていえば、マルクスが資本主義社会と共産主義的社会との境界線を過渡期完了に二つの指標に置いたのにたいして、レーニンは高度な共産主義社会に置いていることである。プロ独裁国家は高度な共産主義社会に至るまで存在するという見解は、レーニン独自のものであり、マルクスにはまったくないのである。」259P・・・ブルジョアジーがいなくなれば、プロレタリアートという概念はなくなり、プロ独という概念はなくなるのでは?
「発端は、ソ連共産党が「全人民の国家」論をうち出し、その論拠をマルクスの『ゴータ綱領批判』における有名な文言『共産主義社会の将来の国家組織』に求めたからである。」264P・・・共産主義と国家はアンチノミー、国家組織にかっこをつけるか、「執行機関(決定と執行の統一としての運営機関)」とすること。
「ボルシェビキ党の組織路線は、中央集権主義と労働者民主主義を両義とする路線だといわれてきた。民主もあれば、集中もあるといわれてきた。しかし、この路線下では、経験が示すように、中央集権が本質であり、民主は飾り物にすぎない。両者の対立が鋭くなれば、必ず中央集権主義が党内民主主義を排除するのである。」267P・・・初期トロツキーのレーニン批判の中身、武装蜂起―軍事が問題になるとき、中央集権主義は避けられないとして、レーニン主義者になったのではないでしょうか? 弁証法的統一(?)は可能か? それとも軍事を排除した革命を目指すのか?


posted by たわし at 04:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする