2019年10月17日

吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』

たわしの読書メモ・・ブログ510
・吉留 昭弘『陳独秀と中国革命史の再検討』社会評論社 2019
陳独秀は中国の中国共産党の建党のひとで、トロツキーに共鳴していったひとです。
 この本の情報は、トロツキーを学習している途中で入ってきて、しかも、前の読書メモの本の第三章とリンクしています。
 さて、章に沿って内容を押さえてみます。本の内容からかなり逸脱した、わたしのとらえ返しもしてみます。
第一部は「革命後一〇年間におけるゾビエト政権の変質過程――「スターリン政治体制」への移行」
ちょうどロシア革命史の学習過程でしたので、ロシア革命の総括的なところで、リンクしました。最後の「第四章 小括」で、著者のロシア革命の総括のようなことを5つにまとめています。それをこれまでの学習の過程でつかんだことと共鳴することが多く、わたしなりにその内容を押さえて抜き出してみます。@左翼日和見主義的傾向(?切り抜きメモでコメント)として、プロ独しかもボリシェヴィキに純化した独裁にしたことAレーニンが『国家と革命』で絶賛したパリ・コミューンと隔絶した独裁になったこと―共産党による代行性の問題B組織論、プロ独論と中央集権制の問題Cプロレタリア民衆の国家の死滅の運動に移行しなかったことDレーニンのマルクスの継承と隔絶の検証の問題。実はこれは、最後の「補論「いくつかの理論的問題」について」にリンクしています。「補論1 レーニンのプロレタリアート独裁論」、「補論2 プロレタリア政党の組織路線の再検討について」はまさにBの内容です。
第二部は「ソ連共産党・コミンテルン下での中国革命の指導路線」
いかにソ連共産党―コミンテルンが、中国への「指導」でひどいことをしたのかが分かります。中国共産党はコミンテルンの提起の中で作られています。しかも、ロシアで左翼反対派が排除されていく中で、その情報が入らず、陳独秀はトロツキーが除名された後になって、自分の考えと近いトロツキーの思想を知り接近していくのです。この本を読むと主流派のスターリン派のソ連に留学していた中国の留学生がトロツキーの影響を受け、そして弾圧を受けていく様が分かります。
第三部は「中国共産党のスターリン派と党内反対派への分裂」
反対派・トロツキー派の動きを押さえつつ、世界大戦・内戦期の革命史、権力奪取までを押さえてくれています。「延安整風」という毛沢東主義のひとつの柱、整風運動というところが、文化革命的なところにつながっていくことや、スターリン主義的な分派活動につながっていっているのではとも考えていました。このあたり、日本の連合赤軍の総括という名の粛正が中国派であった京浜安保共闘の方から起きていたことからも、整風運動―文革のとらえ返しが必要になるのではと考えたりしていました。
この本では余り詳しく書かれていないのですが、レーニンは農民のプチプル規定をして、労農ソヴィエトということを出しつつ、実質プロレタリアートの独裁に突き進みました。ですが、中国はまさに農民に依拠する革命だったわけで、農民に依拠する革命はできないとしたレーニンの押さえ方に疑問が出てきます。このあたりの押さえ直しが必要になります。
第四部は「社会主義への過渡期における中国共産党の路線・政策」
ここでは政権を取った後の動き、急速な工業化の中で、農民の生きる食料まで奪い、多くの餓死者が出た、食人まで起きた情況、実際に食料があるのに、備えとして拠出しなかったという、まさに失政というか、ひとをちゃんとみないスターリン主義的政治の情況を押さえています。食糧危機ということはロシアでもあったようです。調達ということへの批判としてトロツキーが新経済政策の導入をレーニンに提起していたということもこの本に書かれています。新経済政策は「戦時共産主義」から資本主義的市場経済への舞い戻りで、あくまで一時的処置として考えていたようなのですが、一時的ということが固定化して、経済は資本主義、政治は「社会主義」を唱えるという唯物史観的にありえないことをやろうとしているわけで、で、そこにあるのは、マルクス・レーニン主義や科学的社会主義という名の宗教的とりこみとイデオロギー的統制です。
この四部では、政権の奪取から文化革命から天安門事件までを押さえています。文化革命は、まさに整風運動の流れの中で起きている、一種の洗脳運動としか言いようがないことです。尤も、文化革命は実は二つの流れがあったようなのです。ひとつは毛沢東と四人組が進めた党内闘争というか権力闘争の手段としての運動、毛沢東語録をかかげたまさに宗派的な運動。もうひとつは、「省無連」のコミューン運動など、既製のスターリン主義的なことへの批判という内容もあったようなのです。ともかく、中国の整風運動的な党内闘争が民衆までに及ぶイデオロギー主義的(主意主義)に展開したという問題です。
第五部は「プロレタリア革命の新しい時代」
さて、ここでは現在中国論の押さえです。
ケ小平の改革開放路線は、「先富論」として端的にとらえられるのですが、わたしは「先富論」がでてきたときに、中国は「社会主義」を捨てたと思っていたのですが、ことは簡単ではないようです。これは右派に転向したブハーリンと同じ位相をもっているのではと思えます。「原始的蓄積」という収奪の構造、民族問題、環境問題、農業からの収奪の中における工業の推進、「軍産共同体と帝国主義的対外膨張政策―「一帯一路」」と、まさにスターリン主義的一国社会主義の推進の道を進んできているのです。宗派的イデオロギーによる恐怖統制的「社会主義」体制の維持をとりわけ、習近平体制以降突き出してきています。
補論「いくつかの理論的問題」について」
ここで、著者は中国革命の著者なりの総括と革命の展望のようなことを展開しています。共鳴することが多々あるのですが、わたしなりにとらえ返しをしてみます。
書かれていないことがあります。レーニンは『ド・イデ』が読めてなくて、そこにかかれている国家の共同幻想論が入っていなくて、権力の奪取からプロ独ということに迷いなく突き進んだという問題。トロツキーがレーニン主義的転向をしたのは、ロシアではレーニン的な革命でなければ、革命は起こし得ないという思いで、しかもレーニンのカリスマ性に依拠しようとしたこと。結局トロツキーは初期のレーニン批判の立場には戻らなかったようなのです。それは、まだスターリン的な革命でも継続的に変化していければ、永続革命の可能性はありえると見たのでしょうか? スターリンの粛正をどこまで予測していたのかがありますが、トロツキーの暗殺はスターリンのあらゆる反対派への粛正が大体終わった後、自らの死の間際に、まだレーニン主義者であり続けていたのかどうか、更に1991年のソビエト社会主義共和国連邦の崩壊まで行ったのをとらえると、どういう総括をするのでしょう? トロツキーはもちろんいません。それはわたしたちに引き継がれ、どう総括するのかという問題があります。有名なフレーズがあって、「「共産主義とは何か」と問われるとき、「パリ・コミューンを見よ」と言い得る」ということがあります。今日、「共産主義とは何か」と問われるとき、「ロシア革命を見よ」と言うひとは誰もいません。むしろ、負の遺産的にしかとらえられません。そこに何か残るとしたら、まさにこの本が主題にしている中国革命のなりゆきですが、中国はトロツキー派の弾圧も含んで、まさにスターリン主義の道を進み、覇権国家―「社会帝国主義」として立ち現れ、そこからトロツキーの永続革命的なことはとらえられません。
勿論、パリ・コミューンは敗北した革命です。そして、レーニンと運動論的・組織論的に論争を続けていた、ドイツのローザ・ルクセンブルクも暗殺されてドイツ革命は敗北に終わっています。さて、この連続学習は、ドイツ革命、スペイン革命、パリ・コミューンの学習に進み、もう一度、レーニンに立ち戻り、ローザ・ルクセンブルクを読んで、従属理論の学習を経て、現代資本主義論―革命論の模索に入っていきます。
 この本はレーニン主義からスターリン主義、トロツキーの永続革命論を押さえる作業、そしてもうひとつ、現代中国論の共同学習に使えるのではないかと思ったりしています。とても大切な本です。

切り抜き
「食料問題を解決するには、農民との関係を改善する必要があった。トロツキーは「戦時共産主義」の弊害をいちはやく見抜き、ゴスプラン(国家計画委員会) に権限を与え「新経済政策の策定を提案していた。しかし、レーニンの同意は得られなかった。/当時レーニンの考えていた国家資本主義策は、小規模で限定的(『穀物税について』参照)なもので、トロツキーのいう社会主義への過渡期全体を包含し貫徹する経済政策とのあいだにはまだ大きな差異があった。レーニンがトロツキーに同意するのは、もっと後のことである。」29P・・・新経済政策はトロツキー発、新経済政策や計画経済は一歩前進半歩後退の永続革命論の戦略で、永続革命論が葬り去られたときには、資本主義の固定化にしかならなかった。
分派禁止が持つ意味30P
「左翼日和見主義」49P・・・?これは強引に(「手段を選ばす」)革命を進めるという意味?日和見というのは、情況を見て行動を躊躇するといことでこれは当たらない。「左翼」は革命という方向性を持っているひとのグループで、「左翼」ということは、結局革命を進めることにならないということで、かっこにくくらざるを得ない、結局「左翼」強力主義ということになるのでは?
「野党の禁止は、次にはボルシェビキ党内のフラクション禁止令へとつながっていった。分派禁止令は、ボルシェヴィキ党の変質への一つの里程標とも言える。」49-50P・・・分派の禁止は運動の活性化を阻害することになるのでは?
民衆による国家の死滅策52P・・・そもそも外部注入論による代行主義から出てこない
複合発展論59P・・・新経済政策もここから出てくる?
「第二次大戦期のスターリン主義者の採った諸々の政策の本質は、すべて自国の利益を第一とし、帝国主義列強への工作では西側諸国の共産党勢力を利用し、自己の立場と利益を優先することにあった。」62P
「一九二八年からモスクワの中国共産主義者が群れをなして反対派に向かった主要要因は、中国とソ連の情勢がいずれも驚くべき速度で反対派の主張を実証したことである。」92P
「ここには、トロツキー自身における従来の党組織路線の総括の不充分性という問題もあった。トロツキーはレーニンの組織路線に対する批判をはやくから展開していたが、ボルシェビキ党への合流後はそれを留保していた。それはやむをえないことでもあった。それにトロツキー自身も「民主集中」制の両義性に幻惑され、その限界からまだ抜けきれていなかった。かれの真情は、新路線論争の青年への訴えに吐露されている。いづれにせよ組織路線は不充分なまま残され、それは後のトロツキズム運動の足かせとして残った。」102-3P
「民主主義の問題を正当な地位に引き上げ、民主主義獲得の闘争を社会主義をめざす闘争とかたく結びつけたことは、陳独秀の重要な功績であった。」110P・・・国家の死滅へと向かわないところでは、民主主義は支配の道具になっていく
「彼らは多数派とはボルシェビキだと思っていますが、実はボルシェビキは決してマルクス・エンゲルス主義ではなく、ロシアの急進的プチ・ブル階級であり、フランスのブランキ主義です。今のドイツのナチズムは、古いプロシャと新しいボルシェビキの混合物です。」112P・・・陳のボルシェビキ批判 ナチズムが「国家社会主義労働者党」として出発したことに留意  「マルクス・エンゲルス主義」?  ブランキ主義は一揆主義とも言われ、計画性がないので、ボルシェビキズムとは違うのでは?
陳「スターリンの罪悪はすべて、プロレタリア独裁のロジックが発展したものです。」116P
「かれ(陳)の一貫した立ち位置はあくまでもプロレタリア民衆の立場であった。かれは当代のもっとも優れた「マルクス・エンゲルス主義」者であったし、かれの見地は今日の時代にも継承されるべきものといえよう。」117P・・・・「マルクス・エンゲルス主義」?マルクスの「わたしはマルクス主義者ではない」という提言。スターリン主義者がレーニン主義の宣揚によって、反対派を排除していった歴史や毛沢東主義者の毛沢東語録を掲げた宗派的運動を踏まえて、教条主義批判やカリスマ性を突き出す運動が何をもたらすかをとらえ返したとき、ひとの名を冠した○○主義という言葉は、教条主義批判の否定的な脈絡としてしかわたしは使わないようにしています。
「スターリンの収容所列島もすさまじかったが、毛沢東の人民を相互に監視させる支配体制はより強度であったともいえよう。」126P
「スターリン主義者でも政権獲得ができる。中国共産党はこのことを実証した。ところで、政権獲得以後の社会主義への道は別の事柄である。社会主義への道は、前人未踏の道であり、プロレタリア民衆に依拠してプロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむかが大きな分水嶺になる。」130P・・・「スターリン主義者でも政権獲得ができる。」というのは、「プロ独ではなく農民に依拠した革命」という意味?「スターリンのような人格」でも政権獲得ができる、という意味? 後半の「プロレタリア民主主義の道をすすむか、マルクスの科学的民主主義の道をすすむか」は余計意味不明? 二つが分岐するのは、プロレタリア民主主義がブルジョア民主主義に収斂するときでは? 政権獲得と維持は強権的監視態勢でもやれたけど、革命―「社会主義」への道は逆戻りのまま
「整風運動には一つの法則が貫かれていた。誰もがこの整風から逃れることはできなかった。人々は、ある時は被害者になり、またある時は加害者となった。この運動の外に出ることは許されなかった。「批判」と「自己批判」は参加者全体を疑心暗鬼にさせ、互いに傷つけ合い、相互不信をつのらせるのである。「批判」と「自己批判」を発令した者だけが批判運動から免れるのである。」138P・・・連赤の永田洋子と森恒男の「総括」 いじめの構造にも似ています。
(命をかけて抵抗した知識人・謝韜のことば)「われわれはいつも党と人民のために少しでも貢献することばかり考えて、他のことを考えたためしがない」144-5P・・・一般党員は無私的に動く、スターリニスト「指導部」は自分のことしか考えない。
「文学・芸術は「政治に従属」し、その俗悪な政治の道具とされた。胡風事件はそのはしりであった。」145P
「毛沢東の「スターリン批判」への対応は次第に明確になってくる。まず国際的には、スターリン評価(成果七分、欠陥三分)にもとづいてポーランド、ハンガリーの民衆暴動を激しく非難し、二度の論文――「プロレタリア独裁の歴史的教訓」とその続き――によって中国共産党がスターリン主義を堅持することを表明した。」146P・・・「成果七分、欠陥三分」というのはスターリン主義から抜け出せていない共産党の流れから出てきていることではないでしょうか? わたしからするとスターリン主義は負の評価しかありません。
「毛沢東による全国書記局体制の掌握と中国版「ノーメンクラトーラ」(官僚特権階級)の形成と軌を一にしていた。」147P・・・まさにスターリン的手法
「中国は法治の国ではなく、人治の国であり、毛沢東の言うことが法律である。」147P・・・言わんとしていることは分かるのですが、「人治」の「人」が民衆なら、「法治」よりも良いのでは?
「学生たちは五・四運動を忘れておらず、「社会主義時代の五・四運動」として民主の旗を高く掲げた。」149P
「「真の社会主義」が1957年の中国の大学の民主化運動の綱領となっていたのである。」151P
「「大躍進」・「人民公社」運動の発動は、全国書記局体制の確立と連動していた。地方書記を通じて全国を支配するというスターリン主義的全国支配網の確立である。この支配体制下で、地方書記は毛沢東への無限の忠誠を誓うと同時に、地方における絶大な支配権を保証された。・・・全国の党書記たちは「上を向いて歩こう」出世主義者がほとんどであった。かれらは毛沢東が「大躍進」政策を発するや、ただちにこれに呼応して「食料増産計画」なるものを提出した。現実の生産能力を飛び越えた架空の「生産計画」である。毛沢東はこれを根拠にさらに現実離れした増産計画を提起した。/しかし、地方書記が提出した「増産計画」は、一年後にはかれらの肩にふりかかってきた。「増産計画」は実行を迫られた。全国の書記たちは、その責任を農民に転嫁したのであった。農民の食いぶちまで徴発し、数千万人もの農民がゴロゴロと路上で死ぬという惨状はこうして生まれたのであった。古代の奴隷は最低限の食いぶちは保障されていた。奴隷が死ねば、奴隷主は元手を失うからである。しかし、ここでは農民は生きる最低限の保障さえ奪われたのであった。」161P・・・あまりにもひどい政策と「下」からの出世主義的呼応
農民の1958-61年餓死者 二説 「千六百万―二千七百万人」164P、「三六〇〇万人」166P
「それは(大飢饉の理由は)「スターリン政治体制」がもたらした必然の結果であったが、直接的には、高速度・高ノルマを短時間に達成しそうとした毛沢東と共産党側の度はずれた要求にあった。」168P
「餓死者が最も多かった一九六〇年、国家にはなお数百万の食料備蓄があった。中国には古来より、飢饉の時には倉を開いて民衆を救う伝統があった。ところが当時の体制のもと、そうした行為は厳しく罰せられた。農民は、国家が大量に食料を備蓄した状況下で餓死した。」169P
「救わなかった理由は、国家が戦争に備えて食料を必要としたからであった。明確に見てとれるように富国強兵路線は、農民を犠牲にし、農民を餓死させる代価をいとわなかった。」170P
(民衆の決起の「星火」における向承鑑のことば)「中国史において整風と反右派は、重大な意義がある。それは党の変節点、人民を敵とする方向への転換点、ヒューマニズムを敵とする道への転換点だ。」179P・・・そもそもスターリン主義者は右だったはず、何でも反右派にする非論理性
(「星火」から張春元のことば)「真のマルクス主義という看板を掲げたある人物及び少数の政治家たちの思想と方法は、日増しに主観的迷信と反動へと変質し、もはや悲しむべき結果を来した」180P
「右派のある老女は、彼女が共産党に加わったとき、党がやがて非人間的な悪党たちの一団に乗っ取られるとは思いもしなかったと、あからさまな言葉で話してくれた。」193P・・・何が右なのか? かっこをつけて「右派」という表記にすること
紅衛兵の二つの流れ、四人組の一月207P、省無連の八月211P
(「探索」の代表者魏京生のエッセーから)「農民たちが『大躍進』をあたかも『この世の終わり』を語るような言葉で回顧するのを聞いたし、・・・・」201P
「プロ文革はとらえようのない抽象的文言から始まった。「魂に触れる革命」「上部構造における革命」等々。いくらか具体性をもったのは「パリ・コミューンを実行する」であった。」204-5P・・・マルクスの唯物史観をとらえられない主意主義、パリ・コミューンと真逆な運動
「この運動(プロ文革運動)が青少年の紅衛兵運動から始まったことである。青少年層には社会の諸矛盾への不満がうっ積していた。」205P
(「省無連」の文書から)「大衆が事実を暴露し、彼らに対する怒りを爆発させたことにより、《赤い》資本家階級が、完全な腐敗階級になって、歴史の進行を妨げていることが、はじめて知らされた。彼らと広範な人民との関係は、指導者と被指導者との関係から、支配者と被支配者という関係に、搾取者と被搾取者という関係にかわり、革命に平等に参加する関係ではなく、圧迫者と圧迫されるものへの関係へと変化していったのである。《赤い》資本家階級の特権と高い給料は、人民大衆に対する圧迫と搾取を基盤としたものであったのである。《中華人民公社》の実現をめざすためには、この階級は打倒されなければならない」214P
「天安門事件は、「スターリン政治体制」のどん詰りを示した。民主主義は天から降ってこない、それは民衆の汗と力でかちとらなければけっして手に入れることができないことを、はっきりと教えた。」224P
「まず、ブルジョアジーからの生産手段の没収が行われる。続いて、小所有者(農民や都市の小所有者)の社会的改造が行われる。農民など小所有者の改造は、実際上の利益と農民たちの自主性にもとづいて行われるべきというエンゲルスの忠告を考えると、ブルジョアからの生産手段の没収よりも長期の期間を要することがわかる――農民の集団化は、互助組からはじまっていくつかの段階を経て高級合作者に至る。しかし、集団的所有制はまだ全人民的共有制への過渡期段階であり、共有制への移行ではない。スターリン主義者は集団所有制への移行をもって、過渡期完了の指標としたのであった¬――。」256P
「マルクスは共同社会の発展について述べている。レーニンとの相違点についていえば、マルクスが資本主義社会と共産主義的社会との境界線を過渡期完了に二つの指標に置いたのにたいして、レーニンは高度な共産主義社会に置いていることである。プロ独裁国家は高度な共産主義社会に至るまで存在するという見解は、レーニン独自のものであり、マルクスにはまったくないのである。」259P・・・ブルジョアジーがいなくなれば、プロレタリアートという概念はなくなり、プロ独という概念はなくなるのでは?
「発端は、ソ連共産党が「全人民の国家」論をうち出し、その論拠をマルクスの『ゴータ綱領批判』における有名な文言『共産主義社会の将来の国家組織』に求めたからである。」264P・・・共産主義と国家はアンチノミー、国家組織にかっこをつけるか、「執行機関(決定と執行の統一としての運営機関)」とすること。
「ボルシェビキ党の組織路線は、中央集権主義と労働者民主主義を両義とする路線だといわれてきた。民主もあれば、集中もあるといわれてきた。しかし、この路線下では、経験が示すように、中央集権が本質であり、民主は飾り物にすぎない。両者の対立が鋭くなれば、必ず中央集権主義が党内民主主義を排除するのである。」267P・・・初期トロツキーのレーニン批判の中身、武装蜂起―軍事が問題になるとき、中央集権主義は避けられないとして、レーニン主義者になったのではないでしょうか? 弁証法的統一(?)は可能か? それとも軍事を排除した革命を目指すのか?


posted by たわし at 04:51| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロツキー/対馬忠行訳『トロツキー選集〈第4〉レーニン死後の第三インターナショナル 』

たわしの読書メモ・・ブログ509
・トロツキー/対馬忠行訳『トロツキー選集〈第4〉レーニン死後の第三インターナショナル 』現代思潮社 1961
前の読書メモの本と次の読書メモの本でトロツキー関係の本はおしまいにするつもりだったのですが、一連の読書過程で、第三インターナショナル関係の本を押さえておかなくてはと急遽入れ込みました。
 それにしても、コミンテルン(第三インターナショナルの別称)のジクザクはまさに国際「共産主義」運動をつぶすような意図をもっていたかのような方針を出し続けていたのではと思われるのです。レーニンの死とトロツキーらの左翼反対派の敗北の中で、ちゃんと方針を出せるひとがいなくなっていたのですが、それにしてもスターリンの一国社会主義路線で、ロシアに奉仕するということでの方針(もしくはきちんと情況を押さええず夢想の中で日和見的に出した方針)を、コミンテルンが各国におしつけ、さらに各国の指導者を粛正の対象にさえしてきた歴史は許しがたいことです。
 「たら・ればの」話をしても仕方がないのですが、情勢をきちんと押さえた的確な方針を出し得ていたら、世界の様相はどうなっていたのかと思わざるをえないのです。
訳者も書いているのですが、この本にはついている1936年版の註解が、それ自体を広げていけば一冊の本になるような解説で、きちんと整理したら辞書のように、また引用して繰り返し使えるのではと思っています。
急遽読書計画に入れ込んだところで、世界的な流れを多少とも押さええました。

 切り抜きメモです。
「従って、コミンテルンにおける諸党の任務は補助的な性格を帯びるようになる。すなわち、それらの使命はソ連邦を干渉から護ることで、権力獲得のために闘うことではなくなる。」62P
一国社会主義路線はコミンテルンを崩壊させるという内容72P・・・第二インターナショナルの崩壊の総括
 トロツキーの政治的時代区分85P
ブハーリンの独自の三段論法による「永続革命論」86P・・・論理の飛躍、主体条件の分析の欠落
エンゲルスの提起「エンゲルスは、革命的情勢を逸した党は長い間舞台から消え去るということを教えている。」112P→トロツキーの提起「機関手はカーヴでいかに働くかを説明することなしには、世界革命の成功が二、三日の闘争にかかっているというような情勢があるという真理を党内に教えこむことなしには、放置することはできないのである。」113P
「階段を上がるときには下るときとは違った運動が必要である。最も危険のは、消えた灯をもって、目の前の階段が下を向いているのに、上がろうとして足を上げる人の場合である。この場合は、転落、怪我、脱臼は避けられない。」114P
 スコラ哲学(ブハーリン)に支えられた経験主義(スターリン)124P
レーニン「農民が反動的ないし反プロレタリア的なものとしてたち現われる限りでは、われわれは、農民に不信をもって対し、農民とは別個に自らを組織し、農民と闘う用意をもつこと、これである。」136P・・・?なぜ、農民敵視論が出てくるのか?
「最も厳格な革命的秩序」145P・・・「革命的秩序」という名の官僚支配のヒエラルヒー
分派の必要悪的なとらえ方146P・・・必要悪なのか? むしろフラクション形成は運動の活性化に必要なのではないのか?
「レーニンの指導下の中央委員会によって解釈されるだろうこと。」147P・・・分派の禁止や統制委員会の設置など、反対派排除に使われていった。レーニンは自らの亡き後のことを想定できなかったのでは?
「鋏」論185P
「ソヴィエトの任務は、ただ単に反乱の呼びかけを発したり、それを遂行したりすることだけでなく、必要な段階を通って大衆を反乱へと導いて行くことである。」200P・・・段階論は手段論になっていくのでは? ソヴィエトのとらえ返しの必要!
第三章Y、Z 農民のプチブル性、従う「階級」・・・?プロ独による農民革命の代行主義?
「彼は(レーニンは)、もし政治的前提条件が欠除していたら中央集権主義は官僚主義に堕落するであろうということを恐れて、指導部の側における中央集権主義好みに一度ならず警告した。」238P・・・「指導部の側における」?相互性があること
官僚主義者たちのスローガン「富農をして社会主義へ成長せしめよ」「汝自身を富ませよ」「段階をとび超すな」244P
「もしもブルジョアジーが、新しい大きな歴史的時期を世界プロレタリアートから奪い取ることができるとすれば、ブルジョアジーはその技術、富、陸海軍の巨大な優勢さを土台にしてソヴィエト独裁を顛覆するであろう。彼らがこれを達成するのに経済的手段をもってするか、政治的手段をもってするか、政治的手段をもってするか、軍事的手段をもってするか、あるいは三つを兼ね合わせするかという問題は、第二義的な重要性しかもたない。」254-5P
「現在のジクザク運動が一貫してプロレタリア的なコースの方向に発達していく可能性を否定するのは正しくないのである。」291P・・・トロツキーは少しでも正しい方向へ修正とようと提起続しようとしたけれど、結局コミンテルンの指導は総体的に負の運動にしかならなかったー
「五年の間、プロレタリアートは「考えるな! 一番上にいる人々は諸君より頭がよいのだ」という古いよく知られているスローガンの下で生きてきた。これは最初は憤怒を、それから受動性を、そして最後に人々を政治的殻に引きこもらせる制限された生存を生み出した。あらゆる方向から労働者は教えこまれて、ついには自らに「おい君、今は一九一八年ではないのだ」といい聞かせるまでになった。」294P・・・民衆の意識形成
「機関」と呼ぶ官僚機構303P
「プロレタリア路線は鉄のような中央集権主義なしには考えられない。」304P・・・このこと自身のとらえ返しの必要!
註解のメモ
(8)ネップの主導はレーニン・・・トロツキーの立案
(12)インターナショナル大会の間隔
(14)第一インターナショナル(15)第二インターナショナル(16)第三インターナショナル
(17)無政府主義、革命的サンディカリズム、建設的社会主義、ギルド社会主義
(20)ブハーリンらのクーデター計画
(36)レーニンの遺書
(41)コミンテルンからの除名の世界的動き
(67)マノフ主義
(89)ジョージア(グルジア)の民族問題でのレーニンのスターリン批判

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日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」

たわしの映像鑑賞メモ035
・日本テレビ NNNドキュメント19「不登校生が通う高校密着」2019.9.30 1:05〜1:35
今、進学校はまさに競争原理にとらわれ、ひとをいかに蹴落とすのかという論理の中にあるのでしょうが、不登校生はまさにそこからこぼれ落ちたひとたち、むしろその中にこそ人間性があるのだと思います。福岡の私立学校での密着取材、いろんな子どもがいて、LGBTの子ども、親から虐待を受けた子ども、競争的なところではドロップアウト的になっているのだけれど、その生徒を集めて、「君は君のままでいい」ということを掲げた学校、むしろそこにこそひとの生があり、ひとひととの関係をどう作って行くのかの展望があるのだと思います。
「君は君のままでいい」というのは「障害者」のスローガンでもあり、それこそ、いろんな問題を抱えさせられたこどもたちの可能性があるのだと思います。それが、いろんな問題を抱えさせられた世界を救うのだと思います。現実には、そこに落差があるのですが、そこにこそ、いろんな可能性があるのだと思います。


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日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」

たわしの映像鑑賞メモ034
・日本テレビ NNNドキュメント19「アリの叫び 原発事故避難者たちの選択」2019.9.23 1:05〜1:35
2011年の福島原発事故で強制避難になった指定区域以外にも福島県内から避難したひとたちがいました。自主避難者と言われています。で、借り上げ住宅や他県も含めて公営住宅に無償で入れていたのですが、2017年3月で打ち切りになりました。で、そこを追い出されるか、住み続けるのなら新しい契約を結んで家賃を払えということになりました。で、そんな理不尽な話はありません。で、家賃を払うのを拒否していたら、裁判に訴えられたという話です。そもそも契約したのは福島県で、訴えたのが住宅の持ち主、そのことからおかしいとの主張もしたのですが、負けました。その記者会見で、被告の避難者が「ありをゾウが踏み潰すような行為だ」と話していたのです。その話をしたひとは、自宅に一時敵に帰ったときの映像があるのですが、除染した土をいれた土嚢がまだ庭につんであるのです。
このドキュメントでは、三人の子どもを連れて母子自主避難した家族も出てきます。生活が大変で、子どものためにと思って避難したところで、子どももストレスがたまり、結局父親が居る福島に戻ります。福島では、放射線被害の話ができない、福島に住む限りその話をすると生きていけない、という情況の中で、息苦しい様子が伝わってきます。外での遊びもセーブしていたのに、子どもがサッカーしたいと言いだし、水道水とか避難先でも注意していたのに、結局、公園での水道水も「飲んでもいい」とそれも押し流されていきます。その挫折感の中で生きていく様子が伝わってきます。
さて、福島で生活しているひとに、冒頭の裁判の結果についてインタビューしているのですが、その中で、赤ん坊を抱いた母親が「こういうことばあてはまるかどうかわからないですけど、自己責任だと思います」とかいう発言(正確ではなくてそういう趣旨)が出ていました。一方で子どもが放射線にもっとも敏感だとして避難したのに、子どもを抱えた母親が避難した母親を非難する、その構図はとてもつらいものがあります。
そもそも「自己責任」ということばが、つねに政権サイドから出てきます。これはこの社会を成り立たせている論理で、そこから批判していく必要があるのですが、ここでは、この問題に限ってこの「自己責任」という問題を考えてみます。
そもそも事故を起こしたのは東電です。そして原発の設置を国策として進めてきた国の責任なのです。避難者は被害者で「自己責任」などないのです。
もっとも、これに対してさえ、意味不明の発言をするひとがいました。差別の問題に関して数々の問題発言をしてわたしがまさに差別主義者として押さえている曾野綾子さんという作家が、「福島は原発の誘致をしたのだから自己責任だ」と言っていたのです。そもそも、電力会社も国も安全神話ということを作りだし、ごまかしてきました。また、過疎化の中で生きられないということの中で、雇用を生み出すというところで原発誘致させようとしてきたのです。それでも、反対運動をやって原発誘致を阻止してきた地域もあったのですが、敗北したところで原発が作られてきました。そもそも敗北した責任はあるにせよ、そんなことは過疎地域に原発を押しつけ、その電力を使ってきた首都圏の人間が、責任をいうことではないのです。責任は、ぬくぬくとその電力を使ってきた首都圏の人間にあるはずです。
原発の事故が起きたときに、自らが原子力に関する研究を始めつつ、やがてそれはとても危ない事業だとして反対の立場に転じ、反原発の活動をしてきた研究者の小出さんが、止め得なかった自分の責任ということで涙を流して反省をしていました。なのに、安全神話を作り出していた学者そして、マスコミに顔を出していたコメンテーター、そしてCMで桁違いのギャラを得ていたひとたち、だれひとり自分の責任を口にしません。それどころか、事故が起きた直後も、「放射線はからだにいい」とかテレビで発言していたのです。「からだにいい」と発言したひとは、放射線浴のために、福島の原発事故の処理に健康のためにでかければいいのです。これらのひとに、自己責任などという考えは毛頭ありません。
9月19日福島原発事故刑事責任で幹部三人が強制起訴されていた裁判での判決で無罪判決が出ました。原発震災関連死が二千人を越えているのに、津波の危険性が東電内部で出てきていたのに、それを経営の論理で握りつぶした会社の責任が問われなかったのです。二千人も殺して、誰も責任を問われないということがありえるのでしょうか?
甲状腺ガンの患者が二百人を越えています。それを、検査をしたから発見されたのだという本末転倒な論理を持ち出します。そんな話なら、そもそも甲状腺ガンはほっておいても大丈夫だと言う論理になるのでしょうか?
放射線被害には個人差があります。また因果論的科学の世界では、因果関係は認められないとなるのです。そもそも新しい世界観――科学、函数的確率論では、責任は明らかになります。未だ古い科学観で、因果関係が認められないとして、更に、そこに放射線安全神話による誘導が出てくるのです。原発の安全神話が放射線安全神話にすり替えられたのです(これは前述の小出さんの指摘です)。そもそも、原発の「誘致」なるものも、「仕事がなくて生活できないよりも、危険性はないとは言えないけど、死ぬ危険があるとしても、はっきり死ぬとは分からないから、座して死ぬよりも、仕事をしてみよう」というところで、仕事をしていくようになっていくのです。そういう、ひとの心の動きが浮かびあがって来るのです。先ほどのインタビューで「自己責任」ということばをあげた子どもを抱えた母親、そして避難したひと、そして一時敵避難を解消したひとたちに、それぞれの事情があり、避難したくても避難できないことを、自己合理化していく中で、避難したひとたちに「ねたみ」的なことも含めた批判的心理が働くのではないかと推測できるのです。
 今、ヨーロッパでは子どもたちが、自分たちの生きる環境を大人たちが奪っているという告発のデモが起きています。先日、国連でスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさん(16)が告発の怒りの演説をしました。わたしたち大人は、それを見守るとか支援するというのではなく、まさに「座して死ぬよりも闘って死のう」という決意をもって、まずはそういう情況を作り出した自己責任において、その総括をきちんとすることから、そして具体的な行動に少しでも踏み込んでいくことだと思うのです。


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NHKBS1「ありのままの最期」

たわしの映像鑑賞メモ033
・NHKBS1「ありのままの最期」(再)2019.9.16 2:15-3:05
僧侶で医者の夫妻がホスピスを運営していて、患者さんたちがいかに心おだやかに死を迎えるのかを実践していて、夫ががんになるのです。それで、テレビクルーを入れて、自分の死に逝くさまをあるがままに撮影して欲しいとして、撮影が始まるのです。
実際にホスピスの様子は、患者会なども開き、まさに心穏やかに死を迎えるホスピスなのです。
最初は、医者の仕事もしながら闘病しているところで、まさにホスピスの医者だったのですが、途中から譫妄は始まるし、何を言っているのか分からないような情況もあり、そして、それまで妻の手も握ったことがなかったひとが、妻に抱きつき泣いたりするのです。そして、抱きついたまま歩行誘導しながら、ワルツを踊ったりしているのです。妻は笑いながら、「こんな患者今までいなかった」という情況。で、撮影クルーが、このまま撮影してもいいのか迷ったりもするのですが、それが当人の意志だったからとそのまま撮影が続きます。そして、医者として患者としての自分への医学的処置の指示を出していたのですが、最期の最期に鎮痛剤を投入してそのまま逝かせるということで、鎮痛剤の投与が始まるのですが、僧侶であり医者でもある妻が、「何もまだちゃんと話していない、このまま死なせられない」と、鎮痛剤の投与を途中で止めるのです。そして、亡くなります。死のときにはカメラは入っていなかったのですが、白い布を撮って死に顔を見て、撮影ディレクターが、「ほんとにありがとうございました」と声をかけます。おだやかなホスピスの医者や患者のような死に顔でした。妻の医者が「心臓の処に跡があるでしょう、注射してしまつた、指示をやぶったと怒られるわね」と、話していました。
そして、住職を継ぐために妻はバリカンで髪を落とします。生前に頼んでおいた友人の僧侶たちによる葬儀が始まって、焼き場に車が出るときに、妻の僧侶でもある医者は「わたしは焼き場に行けない」と泣き叫んでいました。撮影クルーは最期まで撮るということで、焼いた後に出てきた骨の映像までとっていました。
当人は悟りを開いた僧侶の死に方を見せようと、撮影を頼んだのかもしれません。でも、錯乱的になりました。それでもいい、いやむしろそれが良かったのだと、わたしは思ってしまいます。夫婦の間で心が通った最期のとき、妻は今後どう生きていくのか、わかりませんが、心通わせた最期のとき、それがひとの生と死なのだと思うのです。ひとは簡単に死んではいけないのです。


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2019年09月18日

トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』

たわしの読書メモ・・ブログ508
・トロツキー/森田成也・志田昇訳『トロツキーわが生涯〈上〉〈下〉』岩波書店(岩波文庫) 2000 2001
この本は、トロツキー関係学習の6冊目です(分冊されているのを1冊として)。で、トロツキー学習だけでも、一生をかけても終わらないということがはっきりしてきました。そもそも、レーニンも第一次学習の際にかじっただけで、深く踏み入りませんでした。必要に迫られて第二次学習で何冊かやっと読みました。トロツキーは『ロシア革命史』だけで捨ておけるとしていたのです。ですが、奥が深いのです。運動史の核心的なことがここにも含まれているということを感じ始めています。でも、ひとがやることには限りがあります。とても、奥深くふみいれません。というところで、表面的になぞっただけで、論及的な文を残すこと自体とんでもないことなのですが、それでも、わたしには反差別共産主義論を生み出そうという立場があり、そこから、ドンキホーテと批判されようと書き記しておきたいという押さえがたい衝動が起きてきています。
 これはトロツキーの自伝ですが、そこにリンクして、この本だけでなく、これまでの本の内容から、トロツキーを過渡的にですが押さえておきたいと思います。
歴史学習の終わり頃に、また論考を少しでも深めた文を書き、その中でかなりの修正的文を書くことになるかもしれません。
そのようなところで、あくまで過渡的なところの文としてメモを残します。
 1903年の社会民主労働党大会で、トロツキーはレーニンの組織論―中央集権主義を批判して袂を分かったのですが、その後レーニンが正しかったと自己批判して、レーニンに合流します。レーニンは、トロツキーへの批判として、この組織論と「協調主義者」という批判を繰り返ししています。そもそもトロツキーの性格的には、組織論を批判したところと「協調主義」と言われていることの裏返しとして仲間への強い思いということがあります。そして、彼には文学志向があり、政治的なことへの嫌悪ということ、いわゆる権力闘争ということへの忌避があったのだと思います。一方で彼は、まさに革命運動に身を投じ、まさにそこに生きていました。そこでのジレンマがあったのだと言い得ます。結局彼が、初期の組織論を捨てたのは、まさにレーニンの中にロシア革命の可能性をとらえ、そこへ賭けるということで、武装蜂起的革命論者になり、レーニンはすべて正しい、正しかったというレーニン主義者になったのだとも言い得ます。スターリンはレーニンを神格化することによって、そこでレーニン主義の正当な継承者として、自らもカリスマ化しようとしました。それは右からのレーニン主義だったのですが、トロツキーもまさに「レーニンはいつも正しかった」としてカリスマ化することによってレーニンにかけて強力に革命を推進することによって、そこに永続革命の可能性をとらえたのではなかったのかととらえています。そこで現実的にレーニンとトロツキーの違いということは当然あり、むしろそこで自らをきちんと突き出さなかったところで、スターリン派のトロツキーとレーニンの違いということでの批判を許し、また、レーニンの中央集権主義によって、分派の禁止とか、問題があってもそこで一致団結していくということで、批判を躊躇していく構造が出てきてしまったのです。まさに、「左翼反対派」への弾圧の中で自死したヨッフェがトロツキーに宛てた遺書の中で、「トロツキーが正しかった。なぜ、レーニンのように一貫性をもって自らを突き出さなかったのか」という提言があったのです。他の旧ボリシェヴィキのメンバーは実務的なところではやりきれたとしても、大きな方針のようなところではきちんと方針を出せないで、レーニンの指導下で対立するか、従うようなところ、イエスマンにしかならなかったことに反して、トロツキーはきちんと一貫した方針が出せたのです。そして共鳴しながら時には不協和音になり、調整しつつ、基本的にはもっとも共鳴することとして意見を交わしながら動き得たのです。トロツキーはそもそも軍事的なところが好きで引き受けたわけでなく、レーニンから「他に誰がいるのだ」と言われて引き受けざるを得なかったのですが、トロツキーの軍事の責任者としての体験から、組合への軍事的献身の要求などを出し、中央集権化をまさに自らのものとしていくのです。軍事的な関係性を労働組合的なところに持ち込もうとして批判を受けたりしていたのです。それでも、トロツキーはひととひととの関係性を押さえる、初期の思想は消失はしていないのではないかと思えます。ですから、軍事的なところで、軍隊内の敵対行為に対する処刑やボリシェヴィキへのテロ殺害をやったエス・エルの処刑などにも、一刀両断的なところでやっていません。
 さて、レーニンの四月テーゼの内容が、トロツキーの1905年を前後して出された永続革命論とシンクロしていたことがありました。そこで、トロツキーはレーニン主義者になっていくのですが、レーニンはトロツキーの永続革命論の本は読んでいなかったようで、独自に到達したようです。トロツキーの永続革命論は二つの内容を持っています。ひとつは、プロレタリアートは農民の支持を得て(「依拠して」)権力を握りうる、そして、それが継続し得るには、もうひとつ、世界革命と連動していくことが必要であり、それは握った権力で、内からも連続した革命の推進をしていく、という内容の提起です。
 以後、基本的には共鳴しつつ、トロツキーとレーニンは互いに意見交換しつつ、共にどちらがいなくてもロシア革命はありえなかったと言える指導力を発揮します。トロツキーとレーニンの最大の衝突はブレスト・リトフスク条約を巡る対立です。これは永続革命論の他の国の革命運動との連結、ここではドイツ革命とのリンクの問題でした。互いに、世界革命とのリンクは捨てはしていないのですが、レーニンは現況をどうとらえ、それに合わせてどう方針を出していくのかということで、レーニンの全権大使トロツキーへの提起として、「ドイツには今革命的情況はないから、とりあえずは、ロシアの革命を守るというところでドイツ政府の要求を全面的に飲む」という内容の条約の締結をします。永続革命論の内の推進と外との連携ということでのレーニンとトロツキーのお互いのジグザグが、いくつかのことで出ていました。ポーランド革命戦争ではトロツキーとレーニンの立場は逆になります(これはここには書かれていないのですが、そもそも「民族自決権」の問題ともつながります)。白軍との攻防でペテログラードからの撤去ということでは、レーニンは他の者からも含んで説得されて「条件付き」死守に転じます。その他意見交換の中でいろいろ取り込んでいったこと、暗黙に了解していったこと多々、農民の評価問題、土地の分配、新経済政策、旧官僚の取り入れ、特に軍における旧将校のとりいれなど。
さて、きちんと書かれていないことで、大切なことがいくつかあります。ちょっととらえ返してみます。
まずは、クロンシュタットの反乱のことです。そもそも、クロンシュタットの反乱でどういう要求が出されていたのかその中身を押さえる必要があるのですが、これはボリシェヴィキも含んだ反乱だったようで、それを、この本の中では出てこないのですが、インターネットで検索するとトロツキーが「鉄の箒で一掃した」とか発言したよう、よく分かりません。トロツキーはロシア革命の過程でクロンシュタットに何度も出向き、そこで演説をしてクロンシュタットの革命拠点化を進めた立場がありました。そこからすると、トロツキーが出向き、反乱兵士を説得することではなかったかと、後世の立場から見るととらえられます。これは、ジノヴィエフが担当していたようですが、トロツキーはいろいろ抱えていて動き得なかったということもあったとは思いますが、この本の中では、どうもトロツキーは、左翼冒険主義という批判の下で現在的に経済的基盤がないということで、その基盤を作るためのネップの推進ということで、問題をトロツキー自身もすりかえたのではないかと推測しています。
 さて、もうひとつ「トロツキーは農民問題が欠落している」という批判が繰り返し出てきます。トロツキーも「農民から支持されたプロレタリアートの独裁」とか「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」というスローガンを出しています(「支持」と「依拠」は全然意味が違うのですがこれは翻訳の問題かどうか分かりません)。そもそも社会民主党は農民層に食い込んでいず、社会革命党が農民層に入り込んでいました。なぜ、社会民主党は当時8割を占める農民層の取り込みをないがしろにしたのかということでいえば、貧農や雇用農は別にしてとしつつ、「層としてはプチブル」規定をしていたことがあったのだと思います(そもそもレーニンの外部注入論自体がプチブルの思想という批判も出てきます)。このあたり、わたしはそもそもマルクスのロシアのナロードニキへの「ザスーリッチへの手紙」で書いた、ミールということをどうとらえていたのかの問題もあります。もうミール的なことは崩壊していたのでしょうか? 二月から十月にかけて農民の一揆的動きの中で、「土地はみんなのものだ」というスローガンが出ていました。これはミールの伝統の中で出てきたスローガンで、そこでミールということを活かす農地改革の余地がなかったのか、と考え込んでいたのですが。この問題に踏み込むには膨大な資料の読み込みが必要になり、とてもやれそうにありません。
さて、そもそも労農独裁ということでのソヴィエトの独裁ということが出ていました。ですが、そもそも1905年1917年二度にわたってペトログラード・ソヴィエトの議長だったトロツキーのロシア革命の総括で、そのソヴィエトのとらえ返しがでてきません。少なくとも、1905年はまだレーニンの中央集権的組織論を批判していたときで、その意味でソヴィエトという形態が大きな意味をもっていたはずです。そもそも、レーニンが推進した中央集権制でいくと、ボリシェヴィキへの純化ということになってしまいます。ボリシェヴィキは、二月革命以降は繰り返し民主主義批判を繰り返していきますから、他の党派を切り崩していく場としてのソヴィエトということしか見ていなかったのでしょうか? とにかく、農民層の支持をえていたエス・エルの左翼エス・エルが反乱を起こし排除され一党独裁になってしまったところで、ロシア革命は決定的な変節の道を進んでいきます。
 もうひとつの大きな問題は民族問題です。そもそも社会民主党建設初期から民族問題は大きな問題としてありました。各民族ごとで発言していくというスタイルも出ていたようです。そもそもレーニンの民族問題に関するテーゼ「民族自決権」の思想自体がフィクションだったという批判があります。わたしは民族問題が結局レーニンにとって、やっかいな対処しなければならない問題という域を超え得ず、そこにおける反差別の運動のエネルギーを見ようとしなかった、そもそも差別=階級支配の道具論は、そもそも階級自体を差別としてとらえられないということからきているとわたしは批判しています。そもそも中央集権制からすると、民族自決は中央集権に従属させられます。自決権の思想は、「自治共和国」作りとして進んだのですが、そもそも「自治国家」ということでおいても、連邦に従属させられる「自治国家」にしかなりません。永続革命的に国家が死滅しない限りですが。そもそも民族ということ自体が差別ということがあるから、民族があるというひとつの物象化なのです。ただし、差別がある限り、そのことは反差別として定立させる必要があります。そのあたりが、民族問題でのレーニンと論争を交わしたローザへの批判とはなります。そこで残る問題は、自分の選択した言語で教育を受ける、コミュニケーション言語として使用する「言語権」の問題と文化の独自性の尊重の問題です。長くなるので、これについては別稿で。
 民族問題は、スターリンがグルジアという少数民族の出ということがありました。しかもスターリンがレーニンの死の直前に自分の民族の自決権的なところで動く自治政府に対して、弾圧的なことをしたというところで、レーニンがスターリン書記長辞任を求める爆弾を仕掛けようとしていました。そして、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがユダヤ人だったということで、その差別を利用したスターリン、スターリン派の攻撃もありました。差別問題では、「自らの被差別の問題で戦い得ない者は、階級闘争を闘い得ない」というテーゼがあります。そして、逆に、自らのその「出自」の仲間に対しても差別的になっていく構図も出てきます。レーニンもその内容に通じることを話しています。スターリンの根の深い猜疑心の形成に、この民族問題をきちんととらえられなかったことがあります。トロツキーも、わたしはトロツキーの革命へのエネルギーはユダヤ人差別に対する潜在的怒りのようなことを感じているのですが、トロツキー自身は、正義感のようなことを突き出しています。それでいて、レーニンからの代表的なことに就任の提起に対して、方便的なニュアンスも出しているのですが、「自分はユダヤ人だから」として辞退しようとしていることが一度ならずあったとこの自伝で書いています。そのあたりの非対象化が、トロツキーが、革命の主導権をとりそこなかったことにあったのではないかとも、わたしはこの本を読みながら感じていました。
さて、トロツキーが革命の主導権を取り損ねたことでは、スターリンを甘く観ていた、スターリン主義ということで現れてくることをきちんととらえなかったこともありました。とにかく、スターリンの一国社会主義でも継続・批判の中で修正を生み出していけば永続革命につながるのではという客観主義的なところにとらわれていたのではとも思えるのです。疲れ果てていたとか、永続革命が外につながるところで見通しがつかなくなっていた、とかもあったのですが、権力闘争ということを外的にしか観ていない甘さがありました。誰がリーダーシップを握るかというところで、スターリンやジノヴィエフは前に出たのです。それがまさに権力闘争になった(むしろなぜそのようなことが起きるのかが問題ですが)、内なる権力闘争のようなことに意識性がなかったということもあります。
トロツキーは現場・現場できちんと方針を出し、そして皆を鼓舞しています。トロツキーは軍事を嫌いだったようですが、軍事会議議長専用列車を前戦近くまで出し、内戦での白軍との決定的場面では、敗走する軍の向きを敵に向けさせるために、馬に乗って「連隊長のような」ことまでしていました。通常軍の司令官は表に立ちません。かれがあえて、そのように表に立ちえたのは、レーニンとの一体感があったからだと言い得ます。10月の蜂起の準備のときも、レーニンは暗殺と逮捕を逃れるために地下に潜っていて、トロツキーが現場指揮の最高責任者でした。それなのに、スターリン派はトロツキーと反対左派に反レーニン主義の汚名をかぶせて排除していったのです。そして、スターリン派は自らが総体的方針を出せない中で、左派のみならず、後に同じく粛正していった反対派の方針をこっそりと取り入れていったのです。トロツキーも、未来への投棄として、反対派としてもスターリン・ロシアに方針を取り入れさせようとしたのですが、誰がこのスターリンの大粛正を予想し得たのでしょうか? 岩波文庫のトロツキー関係の本に、人物索引が付いているのですが、自死に追い込まれたひと、粛正で殺されたひとの記載が次から次に出てきます。ちゃんと生き延びたボリシェヴィキの方が極めて少数なのです。そこで、もうひとつの大きな疑念が出てきます。トロツキーは、この本自体が反対派の粛清に使われる可能性をどこまで考えたのでしょうか?
スターリンの一国社会主義の建設と粛正の歴史からするロシア革命自体は負の遺産しかないのです。そのことをどう総括するのか抜きにして、もうこれからの社会変革運動自体がなり立たなくなっています。その総括の中から、これからの運動に活かし得るさまざまな貴重な教訓も出てくるとは言い得ます。この本がスターリン派の粛正に使われた可能性の話を書きましたが、それでもこのトロツキーの本は、これからの運動のための総括のために貴重な資料になっています。勿論、ロシア専制時代のナロードニキのテロに始まるロシアの特殊性とレーニンとトロツキー理論自体の検証もなしつつです。
トロツキーのひとをとらえる鋭い感性、そして、そこにひとりひとりの生があった、というひとの息吹をこの本は描き出しています。それは、ある面協調主義として批判された中身でもないかと思えるのです。そのことをとらえ返しながら、多くの死した、殺されたひとたちの思いにはせながら、時には涙しながら、この本を読んでいました。
トロツキーの永続革命論はローザの継続的本源的蓄積論と相俟って、従属革命論や世界システム論、そしてネグリ/ハートの『<帝国>』につながる新自由主義的グロバリーゼーション批判論というところまで射程が伸びています。そこの底にある、反差別ということから論を形成していく歩みを続けて行きたいと思っています。

切り抜きメモ
(上)
「裕福な農場主の息子であった私は、被抑圧階級というよりはむしろ、特権階級に属していた。家族や家の者が話す言葉はロシア語とウクライナ語のちゃんぽんだった。ユダヤ人が学校に入るときには確かに一〇%枠があったし、そのために私は一年を棒に振ったのだが、その後、私はずっと首席を通したので、一〇%枠の弊害を直接には感じなかった。」188P・・・トロツキーはそもそもプチブルの出、しかし、民族問題でのエネルギーが潜在的にあったけど、それはエリート性で自覚的には出ていないー
「ポーランド人学生に対する歴史教師の偽装されたいやがらせ、ドイツ人学生に対するフランス語教師のビュナンドの卑劣な言いがかり、「ユダヤっ子か」と言って頭を振ったロシア正教の司祭の態度、これらはいずれも私の心を深く傷つけた。こうした民族的不公正はおそらく、私が現体制に不満を抱くことになる隠れた動因の一つであったろう。だが、この要因は、私の場合、社会的不公正の他の諸現象の中に溶け込んでしまっていて、主たる役割どころか、そもそも独立した役割さえ演じていなかった。/特殊よりも一般を、事実よりも法則を、個人的経験よりも理論を重視する感覚は、私の中に早くから芽生え、年とともにしだいに強固になっていった。」189P・・・無自覚的意識の形成、民族差別と性格の形成(客観化された意識の形成、潜在的な意識は強くなるけれど当事者としての主体性のなさにつながっていくー)
「一度ならずあまりにも性急で誤った一般化に陥った。」190P・・・レーニンとの対比もできる?
「私はかなりの長いあいだ史的唯物論に抵抗し、歴史的諸要因の多様性という理論に固執していた。周知のように、この理論は、今なお社会科学の諸理論に最も広く蔓延している。人間の社会活動のさまざまな側面を諸要因と呼び、この概念に超社会的な性格を付与し、その上で、自分たち自身の社会的活動をこれらの独立した諸力の相互作用の産物として迷信的に説明するのである。だが、これらの諸要因はどこから来たのか? すなわち、それらの諸要因は、人類の初期の社会からいかなる諸条件に影響されて発展してきたのか? こうした問題について公認の折衷主義者たちはほとんど論じていない。」246P・・・逆に、わたしは問題を感じてしまいます。マルクスのアジア的生産様式論での論攷は入っていたのだろうか、と。これは農民問題とリンクことです。
「私は、かつて革命に抵抗し、その次にマルクス主義に抵抗したように、そして後に何年にもわたってレーニンとその方法に抵抗したように、芸術に対しても抵抗したのであった。」296P
「私は自分を中央集権主義者だと思っていた。だが当時の私は、幾百万の大衆を旧社会との戦闘に引き入れるために、革命政党にとってどれほど厳格で有無を言わせぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかった。」323P・・・レーニン主義への転向としての自己批判
トロツキーがレーニンとの距離を置いている時代の、他者(クラーシン)を介しての共鳴341P
トロツキーの文学志向368-9P
「こうしたつきあい(オーストリアにおけるつきあいなど)を通じて私は、いかに異質な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして体系の一部を受動的に認識することと、その体系を総体として心理的に感得しその体系の精神で自己を再教育することとのあいだに、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。」406P
「他方、メンシェヴィキのその後の運命と党の組織的課題の評価に関しては、ウィーン『プラウダ』はレーニンの明晰さからはほど遠かった。私はなお、新しい革命が、一九〇五年と同様、メンシェヴィキを革命の道へと押しやるだろうと期待していた。私は、準備的なイデオロギー的淘汰作業と政治的訓練の意義を十分評価していなかった。党の内部発展の問題に関しては、私は一種の社会革命的運命論に陥っていた。これは誤った立場であった。それは現在のコミンテルンの陣営で私を批判している大多数の連中の特徴となっている無定見な官僚主義的運命論に比べればはるかにましである。」435P・・・協調主義への自己批判、それでもエピゴーネンたちからの擁護、協調主義と中央集権主義の再度のとらえ返し
(解説)
戦争と革命の「人格の絶対的価値」588P→(下)337P
「トロツキーは、本書二九章「権力の座」において「人類の革命的経験をできるだけ明確にしておくことは必要であった。いずれは他の人々がやってきて、われわれが計画し開始した事業に依拠して、新たに前進するであろう」、と書き遺していた。」594P・・・未来へ向けての現在の投企→(下)見つからず
(下)
「マルクス主義はみずからを無意識的な歴史過程の意識的表現であるとみなしている。しかし、心理的な意味ではなく、歴史哲学的な意味での「無意識的」過程がその意識的表現と一致するのは、それが絶頂に達したとき、すなわち大衆が自然発生的な圧力によって社会的因習の扉をたたきこわし、歴史発展の最も深い要請に対して勝利の表現を与えるときてだけである。こうした瞬間には、時代の最高の理論的意識は、理論から最も縁遠い最底辺の被抑圧大衆の直接行動と融合する。意識と無意識的なものとのこうした創造的結合こそ、普通霊感と呼ばれているところのものである。革命とは歴史のきわめて激しい霊感なのである。」98P・・・ローザの民衆の自然発生的革命性への依拠に通じる内容。ここで、霊感にはインスピレーションというルビがあり、これは、直感や第六感という漢字を当てることでは?
「まったく唐突にウラジーミル・イリイチが尋ねたことがあった。「もし、白衛軍が君と僕を殺したら、スヴェルドロフとブハーリンでやっていけるだろうか。」」104P・・・レーニンが後継者として考えていたこと→トロイカの怒り105P
トロツキーのユダヤ人での自分を表に出すことの躊躇108P
トロツキーがユダヤ人であるところで「マルクス主義を学んだことがこうした気分を掘り下げ、積極的な国際主義に変えた。」109P
(レーニンのトロツキーへの講和での説得の提言)「もし、われわれがドイツの革命の勝利のために破滅しなければならないとしたら、われわれはそうすべきであろう。ドイツ革命は、わが国の革命よりはるかに重要だからである。しかし、それがいつ起こるのかは、誰にも分からない。今のところはわが国の革命よりも重要なものは何もない。何が何でも、わが国の革命を危険から守らなければならない。」181P・・・世界革命への連携の思いと現実主義的提起
「成功のための最も重要な条件は、次のことであった。すなわち、何事も隠さないこと、特に自分の弱点を隠さないこと、大衆をだまさないこと、すべてのものを公然とその本来の名で呼ぶことである。」207-8P・・・運動の原則としての誠実さ
「ウラル地方における農民の生活を自分の目で観察した際の印象に動かされて、私が新経済政策への移行を執拗に求めたという事実である。」273P・・・トロツキーはネップの受動的容認者ではなかったということと、農民問題を軽視していなかったということの言明。
「無秩序なゲリラ主義は、革命の農民的な底流の現われであった。したがつて、ゲリラ主義に対する闘争は、プロレタリア国家体制を擁護するための闘争であり、その基礎を掘り崩しつつあった無政府主義的小ブルジョア的自然発生性との闘争であった。」274-5P・・・トロツキーがゲリラ部隊ではなく正規軍形成をやっていったことの理由? 「プロレタリア国家体制」?
(ポーランド革命戦争を巡るトロツキーのレーニンへの提言)戦争の情勢と運動の情勢とのズレと違いの押さえ310P
「この問題は戦時共産主義体制をとる限り不可避的に出てくるものであり、その意味で、私は労働組合の国家化を擁護したのである。」321P・・・戦時共産主義を脱して新経済政策をとった理由? しかし、国家の労働者への搾取ということを永続革命論的にどうとらえるのかの問題が出てくるのでは? 戦時共産主義の下で労働組合を軍隊化的に組織しようとして批判されたことのとらえ返しも必要。
「いわゆる「人格の絶対的価値」という見地からすれば、革命は、戦争と同じく「有罪」を宣告されてしかるべきである(もっとも人類の歴史全体もそうであるが)。しかし、個人の人格という概念そのものが革命の結果としてしか形成されなかったのであり、しかもこの過程も完結したと言うにはほど遠い。人格という概念が現実のものとなり、「大衆」という半ば軽蔑的な概念が「人格」という哲学的に特権を有する概念のアンチテーゼであることをやめるためには、大衆自身が、革命、より正確に言えば一連の革命というクレーンによって新しい歴史段階に引き上げられる必要があるのだ。この道が規範哲学の見地から見てよいものか悪いものか、私にはわからない。それに正直なところ、そんなことには興味がない。その代わり、この道がこれまでのところ人類が知っている唯一の道であるということなら、私は充分に心得ている。」338P・・・トロツキーの政治嫌い
「私にとって問題なのは、哲学的に正当化することではなく、政治的に説明することである。」338P・・・トロツキーの革命=政治と現実主義 ロシア革命の内実そのものの総括
「われれは、主観主義に陥るべきではない。また歴史が自らの事業を複雑で錯綜した形で進めても、すねたり腹を立てたりすべきではない。何が起きているかを理解することは、すでに勝利を半ば確保することを意味する。」420P・・・敗北的局面でどうするのかということでは客観主義に陥っているのでは?
(合同反対派形成の中でのジノヴィエフとカーメネフへのトロツキーの提言)「われわれは遠方に照準を定めなければならない。真剣で長期にわたる闘争の準備をしなければならない。」427-8P・・・?敗北主義、スターリンの粛正を予期できなかった
(ヨッフェとの永続革命論に関してのレーニンとの対話の中でのレーニンの言葉)「そうだ、トロツキーは正しかった。」450P
(左翼反対派への弾圧の中で自死したヨッフェのトロツキーへの遺書)「しかし、レーニン的な不屈さ、非妥協性、つまりいずれは多数派となり、この道の正しさがあらゆる人から認められることを予見して、たとえ一人でも、正しいと信じる道に踏みとどまる彼の覚悟が、あなたに不足していると私はいつも思っていました。」「しかし、あなたによって過大評価されている合意や妥協のために、あなたは自分の正しい見解をしばしば放棄しました。それは誤りです。繰り返して言います。あなたは政治的には常に正しかった。そして、今、これまでのどんなときよりも正しいのです。」454P(下線は原文濁点)
「もちろん、十月革命によって提起されたこの課題は、まだ解決されていない。しかし、この課題は、その本質上、数十年かかると見込まれている。しかも、十月革命は人類全体の最も新しい歴史の出発点とみなされるべきである。」537P・・・永続革命論を突き出したトロツキーの思想、けれどトロツキーも書いているように、誰が担うのかによって、全く違ってくる、スターリンが権力を握ることによって全く違った道に踏み込んでいってしまったのです。まさにヨッフェの批判で、トロツキーは自分が敗北することの意味を押さえ損なっていたことの総括の問題がそこにあるのです。
ローザとプルードンの引用540-2P


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トロツキー/森田成也訳『永続革命論』

たわしの読書メモ・・ブログ507
・トロツキー/森田成也訳『永続革命論』光文社(光文社古典新訳文庫) 2008
この本は、前の読書本が永続革命論の初期形成時に書かれたのに対して、永続革命論をまとめた論攷。「左翼反対派」といっても、元々ブレブレのラディックが、スターリン派になっていく中で「永続革命論」批判をなし、それに対してトロツキーが反批判という形を軸にして論攷をまとめた本になっています。
 永続革命論はトロツキーがパルブスの影響を受けつつ形成した理論ですが(パルブスの理論はプロレタリア革命ではなく民主主義への永続革命なのですが)、これとレーニンの四月テーゼがシンクロしていたのです。レーニン四月テーゼが出されたとき、トロツキズムだとの批判もでたようです。当時、マルクスの唯物史観で、発展段階論ということがあって、飛び超えは不可能という図式が定着していたのです。その中で飛び越えるのではなく、プロ独の中で民主主義革命も同時になすというところで、プロレタリア革命―プロ独、プロリタリアートの権力奪取は可能だ、そしてその革命は世界革命に綱がつて行く革命でそれがなければ革命は崩壊するだろうというのが永続革命論です。そこで、農民の位置づけが問題になります。トロツキーもロシアは8割農民だということで、「農民の支持を得た」とか「依拠した」ということは書いているのですが(「支持」と「依拠」は日本語では違うのですが、ロシア語的にどういう意味になっているのか、とらえ返しが必要です)、農民は独自の革命党は作り得ないとおいていたようです。レーニンは最初はブルジョア革命→プロレタリアートの革命とおいていたようで、当初は労働者と農民の民主的独裁論を突き出していました。革命的農民党の可能性についてもいろいろ考えていたようです。トロツキーはその可能性を否定しています。そもそも、マルクスのロシアのナロードニキ、ザスーリッチへの手紙の中で、ロシアのミールに言及していて、マルクスは単線的生産様式論から、ミールを含むアジア的生産様式論を押さえたところで、今日反差別論的なところから批判―とらえ返しがはじまっている進歩史観的なところからの転換のようなことも問題になっていきます。このミールあたりに関することはトロツキーにもレーニンにもほとんど出てきません。この本では解説の中で少し出てきます。そこで、資本主義の「発達」は第一次産業(農・牧畜・漁・林)→→第二次産業(工業)→第三次産業(金融)と展開していくのですが、それは資本主義的発展としてあるわけで、「社会主義」的にどうなるのか、そこにおいても同じ図式が必要なのか、別なのかという問題があります。確かに、農の発展でもここでトロツキーが書いているように鉄道網や電信などの発達が必要になり、また農業機械の生産という意味での工業の必要性も出てきます。でも、逆に農がなければ生きることさえできないという規定性もあります(そのあたりの農の支持がない、依拠がないというところで、「調達」とかやってしまったのですし、十月革命後に農地の分配とかいう政策までとってしまったのです)。それらは、結局統一した、しかも世界的な分業の中での世界革命という意味での永続革命の必要性というところにもリンクしていくことです。トロツキーは繰り返し、「農のとらえ返しがない」と古くからのボリシェヴィキから批判されているのですが、それは誤解という面もあったにせよ、確かに農の革命性を否定したという意味での、もう一段のとらえ返しが必要になっています。ミールは、もはや過去のものとなって、その革命性に依拠できなかったのか、単にボリシェヴィキ主導での農民の組織化の失敗の問題なのかということとのとらえ返しが必要になっています。二月から十月に至る過程で、農民一揆的なことがおき、しかも「土地はみんなのものだ」というスローガンが出ていたわけで、それは単に一揆的なことにしかならないことなのか、そもそも組織化する革命勢力がでてこなかった故なのか、革命組織がきちんと農民をとりこめなかっただけ(そこにおける方針の問題)なのかとかいう問題があるはずです。
 さて、トロツキーはこの本の中でも、自分とレーニンとの関係において、レーニンが常に正しかったと書いています。このあたりレーニンのロシア革命におけるカリスマ性ということがあり(これ自体が大問題で、きちんととらえる必要があります)、またトロツキーは、テルミドール派よりも自分が方がレーニンに近いというところでのレーニンの正統性から相手を批判するということもあったようなのですが、そもそも1903年にトロツキーはレーニンの中央集権組織論を批判してボリシェヴィキと袂を分かったのですが、そのことを撤回しています。で、今日的にとらえ返すと、まさにスターリンの官僚的支配がそこから来ているわけで、むしろ初期トロツキーが危惧していた情況がつくられたのです。そのことをどうとらえるのかという問題があります。レーニンのトロツキーへの批判ということのもうひとつは、「調停主義者」という批判です。これは、自分が主体的に動いていかないという意味での批判としてはトロツキーの自己批判も正当ですが、ただ、わたしはここにもレーニンの外部注入論的に核を作るという形の運動で、繰り返しボリシェヴィキ的純化を図ろうとしていたところでの、トロツキーへの批判があったので、むしろソヴィエトというところで、ペトログラードで1905年、1917年二度にわたってソヴィエト議長を担った、トロツキーの民衆運動的手腕という面が、そこにおける、そもそもソヴィエトの位置づけ自体がほとんど出てこないという問題をどうとらえればいいのかということがあります。このあたりは、結局ボリシェヴィキというところで「客分」的なトロツキーに頼るしかなかったという意味では、レーニンは失敗したということがあったわけで、そういう運動―組織論自体の問題もあって、ロシア革命の歪曲が生じたのではないでしょうか? 
 トロツキーの永続革命論は後期マルクスの単線的生産様式の展開の自己批判的とらえ返しが、永続革命論の中身としての不均等発展論や複合的発展論と結びついていくのですが、そのあたりの研究はどうなっているのか、突き止める必要を感じています。
 さて、この本を読んでいてひとつの大きな問題が浮かび上がってきます。それはスターリンが一国社会主義論を突き出しつつ(スターリンの一国社会主義論も結局自国だけには不均等発展論を認めているので、そもそも論理的整合性がないのですが)、他の国の一国社会主義革命論を認めず、二段階革命論として革命闘争の圧殺をコミンテルンを通してやっていく、ロシア一国の利害に他の運動を従属させるという、永続革命論とは真逆のことを積み重ねたわけで、このあたりの批判をもう少し詰めたいと思います。もう一冊『レーニン死後の第三インターナショナル』を追加読書します。もう一冊中国のトロツキー派の中国革命のとらえ返しの本も一冊。
 永続革命論は強引な革命論なわけで、その強引さの中での反作用としての官僚的強権支配ということが起きたのか、それは後で解消できることなのか、それは暴力革命論や「現実的な運動の中における関係性は、未来社会を映し出している」というテーゼをどうとらえるのかの問題にもつながっていきます。このあたりは一連の歴史学習の中で、まとめる作業をします。

民族社会主義 後進国革命論 不均等発展論と永続革命論17P
ロシアをすべての上に置く 不均等発展論での物神化23P・・・コミンテルン批判
ブハーリンの「亀の歩み」論33P・・・ブハーリンの初期は左派、後はスターリン派のイデオローグ、更に「右派」として粛正されています。
農民は革命党を建設し得ない51P・・ プロレタリアートの党は結局プチブルの党になったのでは、プロレタリアートは革命党を建設し得ないという論理になってしまったのでは? 依拠するとそのものの党との違い
永続革命論55-60P
レーニンは正しかった100P・・・トロツキーはレーニン主義者になってしまっていた
調停主義104P
農地革命の問題を解決し得る勢力がなかった140P
民主主義労農独裁 レーニン140P
パルブス プロレタリアートの権力の奪取は社会主義への道ではなく民主主義への道152P
鉄道と電信が国をつなぐ  工業が主導166P・・・?農業がなければ飢える
農村 農業がなぜヘゲモニーがとれないか216P・・・?中国は?
民主主義的独裁の否定294P
レーニンは現実的課題 トロツキーは歴史的理想を追う374P
複合的発展の法則 不均等発展論391P
「永続革命論の弱い面は、革命の発展段階の規定に関して、とりわけブルジョア革命から社会主義革命への移行に際しての階級的勢力の再編に関して、明確さと具体性が不十分であったことである。」422P
解説
ザスーリッチへの手紙にコメント431P・・・ミール的なものはもう消えたのか?
二段階「連続」革命論436P←意味不明 永続化革命論からの批判 プロ革命には民主主義革命を含む
レーニンの革命的農民政党の形成への期待438P・・・不可能だったのか?
レーニンとの対立442P
機械的段階論と一国社会主義論(特殊的)448P
建設の訳 ロシア語では「建設している」と「建設した」ということが語として分けられているのを訳し分け456P・・・一国社会主義を建設している過程と済みを訳し分けることにつながる
後進性と後発性の訳し分け458P→後発性の特権461P
複合発展の法則462P


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トロツキー/対馬忠行・榊原彰治訳『1905年革命・結果と展望』

たわしの読書メモ・・ブログ506
・トロツキー/対馬忠行・榊原彰治訳『1905年革命・結果と展望』現代思潮社 1975
この本は、トロツキーの永続革命論の原型を示した本です。1906年に最初に出されそれはすぐに押収されて広まっていず、1919年に改めて、1915年の一論文「権力のための闘争」という文と1919年版の序文をつけて出された著書。レーニンは1919年版を初めて見たという話で、レーニンはこれを観て、これまでのトロツキーへの批判がずれていたということを知ったという話です。トロツキーの永続革命論と4月テーゼ以降の革命論はかなりシンクロしています。トロツキーサイドからもレーニンの四月テーゼを読んで、古くからのボリシェヴィキのメンバーが動揺している中でいち早く支持を表明しています。
この本の中であらためてとらえ返していること。トロツキーとレーニンの違いは、農民のとらえ方の違い、トロツキーは「農民の支持によるプロレタリアート独裁」のようです。レーニンは当初は「労農の民主的独裁論」です。わたしは、この本で出てきていない、ソヴィエトのとらえ方の違いから逆のように思っていたのですが、確かにトロツキーにはメニシェヴィキと同じように農の位置づけが低いということはあったようです(トロツキー自身はその批判に繰り返し反論しています)。後は、そもそも最初レーニンとの間を分かったレーニンの中央集権制という組織論ですが、トロツキーの1915年の論文とかも通じてトロツキーのボリシェヴィキ化ということがすすんでいたのでは、ととらえられるのですが、トロツキーの変遷をたどるには他の論攷をもう少し読み込むことが必要です。 
永続革命論は不均等発達論による革命の可能性がロシアにもあり、そこから他の国への革命との連携(連続)の中で、革命が永続的に発展していくということなのですが、このあたりレーニンが四月テーゼで突然ロシアは民主的労農独裁が可能だとしたこととリンクし、また、わたしは後期マルクスの、アジア的生産様式論というところから、それまでの単一的発展方式といわれる唯物史観の見直しをしていたこととも通じるのではないかとも言い得ます。ロシアは他の先進国の革命と連続なしには、プロ独まではいきえても「社会主義」へは移行し得ないとしていました。このあたり実際のロシア革命の道行きとまさに、「予言的な」内容をもつていたとも今日とらえられるようです。
さて、1930年にトロツキーは『永続革命論』という本を出していますので、それが次の学習。それとトロツキーの『わが生涯』を読んでからトロツキーを簡単にまとめます。

とりあえず、切り抜きメモです。
 カウツキーと共鳴する不均等発達のとらえかた65-7P
二月から十月までの道行きの、トロツキーの「予言的」とらえ方71-2P
「主導権は労働者階級に属すべき」73P
ロジコフの押さえ@生産力の問題A協同組合的生産B階級形成91-101P・・・トロツキーの批判とともに検討の必要、特にA

「永続革命論解説」(対馬忠行)
永続革命論骨子12 170-5P
レーニンとトロツキーの農民のとらえかたの違い192P


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トロツキー/藤井一行・左近毅訳『われわれの政治的課題―戦術上及び組織上の諸問題』

たわしの読書メモ・・ブログ505
・トロツキー/藤井一行・左近毅訳『われわれの政治的課題―戦術上及び組織上の諸問題』大村書店 1990
この本は、ロシア社会民主労働党の第二回大会で、レーニンが組織論として中央集権制ということを突き出し、トロツキーはメニシェヴィキとしてその批判をします。それで、レーニン派はボリシェヴィキ(多数派)を形成し、トロツキーはメニシェヴィキ(少数派)として、袂を分かちます。トロツキーはまもなく、メニシェヴィキは離れますが、1917年の二月革命の後、トロツキーはメジライオンティというグループを形成して、レーニンのボリシェヴィキと一緒に動き始め、七月に合流します。で、10月革命のときに、ふたりがいなかったら革命はできなかったとお互いに認める大きな役割を担うのですが。わたしはトロツキーにはそもそもレーニン批判があったのに、その内容をきちんと突き出しえなかったところで、スターリンのレーニン主義に負けたのだと言い得るのではないかと考えています。
ここまで読む予定はなかったのですが、この本はトロツキーの第二回大会を前後してのレーニン批判の内容で、これがロシア革命史の総括の核心的なことではないかと、ここまで広げました。トロツキーの批判はかなり的確で、まるで「予言」のように、その批判、ジャコバン主義として批判していた内容が現実化していきます。トロツキーの提言の一部は方針や政策として、特に経済政策などについてスターリン派にもとりいれられるのですが、その批判はまさに今日スターリズムとして批判される内容で負の歴史を形成してしまいました。
この本の論点は、中央集権制 代行主義 民主主義 現在の社会変革運動に関わる論点として継続している課題です。わたしのまとめの論攷は歴史学習の最後あたりで。
さて、わたしの関心は、なぜ、レーニン主義批判をしていたトロツキーがレーニン主義者になったのか、ということです。もう少しトロツキーを読み進めます。トロツキーの理論の核心、永続革命論で二冊、レーニン主義への転換とトロツキーのロシア革命の総括を探るために『わが生涯』を最後に。
 論攷を先送りしているので、久しぶりの切り抜きメモです。
 「「職業革命家」集団は自覚的なプロレタリアートの先頭を進んでいたのではない、行動していたかぎりにおいてはプロレタリアートにかわって行動していたのである。/この政治的代行の実践が・・・」87P・・・前衛論、代行主義批判 プロレタリア革命とプロレタリアートに依拠するインテリゲンツィアの革命 労働者を教育するという奢り
 「それはしばしば一種の密輸品のようなものであった。」95P・・・マルクス主義などの資本主義の発達した国で作られた理論の「密輸品」 レーニン外部注入論もここから
 「組織フェティシズム」95P・・・総括の核心
 「「代行」というものはわれわれ革命家にとっては革命的な社会民主主義者にとってよりもずっとふさわしくないことをことわっておかねばならない。」117P
レーニンの理論に対するトロツキーの反語的説明「基本原則なら、話はべつです(話せないことはないという意味) ……例えば分業……非合法活動……規律……それに、そもそも中央集権主義……中央委員会がコントロールできるようにというわけで……もちろん、「職業的革命家の組織」と呼ばれているもの……そして民主主義反対……以上が原則です。」123P
「手段が目的に刃向かい、形式が内容に刃向かう……」・・・代行の手口142P
「運動の原則の純潔性や「正統性」をあたかも保持すると称して、「代行」の病理を運動全体に押しつけるのは、墓穴を掘ることを意味する。」142P
「規律が意味を持つのは、みずからが正しいと思うことのためにたたかい、そのためにこそみずからに規律を許す、そういう可能性が保証されている間だけだからだ。ところが、「権利の剥奪」、すなわち思想的影響をおよぼすためにたたかう可能性が奪われる見通しに一定の方向づけがなされると、その存立の問題は、権利の問題(Rechtfrage)から権力の問題 (Machtfrage)へと変わる。」150P・・・この後に、もっと詳しい論攷
「インテリゲンツィアの性質というものは、ことほどさように矯めやすく軟弱で、一度かぎり作図されたダイアグラムのます目なんぞには収まらないのだ!その同じ「性情」が、――革命期にはインゲンツィアをジャコバン主義に――つまりダイナマイトまたは民衆蜂起の「構想」で武装した中央集権的な陰謀組織へと向かわせ、革命後にあっては、インテリゲンツィアを改良主義へ、階級闘争のするどいきれ味を鈍らされる方向へと向かわせる。これぞ社会発展の弁証法である。」162P
「組織の物神崇拝」179P
「ジャコバン主義とは、超社会的な「革命の」カテゴリーではなく、それは歴史の産物である。ジャコバン主義とは、ブルジョア社会が自己解放で緊張が高くなった時代における、革命のエネルギーの最高度の緊張モメントである。それは、ブルジョア社会が与えることができたラディカリズムの極致であり、――それも内的矛盾の発展によるものではなく矛盾の廃棄と抑圧によって生まれたものであって、理論では抽象的な市民にうったえることをてこにし、実践面ではギロチンをてことするものであった。」187P・・・この後にもジャコバン主義の詳述187-190P
「ギロチンは単に政治的自殺の機械による手段にすぎず、また自殺そのものはかれらの希望のない歴史的状況――私有財産制にもとづいた平等を唱え、階級搾取のわく内での普遍的モラルを説いた者の、運命的にたどり着いた果てであった。」193P
「プロレタリアートの独裁がプロレタリアートにたいする独裁」209P
「「社会民主主義者・ジャコバン主義者」にとっては、組織代行システムの恐いもの知らずの代弁者たちにとっては、巨大な政治・社会的課題というのは――階級を国家の支配への準備させることであり――それを組織・技術の課題に――権力機構の構築にすり代えることである。」209P
「プロレタリアート独裁をプロレタリアートにたいする独裁に、階級の政治支配を階級にたいする支配へとすり代える・・・」210P
解題・・・左近毅
「中央集権主義一般から演繹して、レーニン流のそれをトロツキーが「官僚的中央集権主義」と限定している点である(同上報告書、三四ページ)。少なくともこの段階でトロツキーは、後年のグラムシらのように、党組織の中央集権主義を官僚主義的なそれと民主主義的なそれに分類していたことがわかる。」242P・・・民主主義的な中央集権主義はありえるか?
「革命党の組織原理は単に闘争のための戦術的組織形態であるにとどまらず、革命後の社会における支配と統合の原理のモデルとして二重の意味合いをもっている。」252P・・・このことからの中央集権主義と強圧的運動のとらえかえしの必要性
「1923年にトロツキーの提案した「労働者民主主義」の党への導入案を圧殺していったプロセス・・・」257P
党の方針の党員のいろいろな立場からのとらえ返しの必要性258P


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2019年08月18日

NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」

たわしの映像鑑賞メモ032
・NHKBS1「今また”マンザナー”を繰り返すのか?」2019.8.6 1:35-2:24
マンザナーとは第二次世界大戦中に米・日系人の強制収容所があったところです。今、アメリカはトランプ政権下で移民排斥、人種差別を煽る発言を繰り返しています。そういう中で、それに合わせたような銃乱射殺人事件が起きています。アメリカはレーガン政権下、1988年に強制収容に対する謝罪と補償をしました。それなのに、またトランプ政権はという批判の意味をこめた番組です。
謝罪を生み出すために動いた日系人のジョージ・タケイさんの存在を紹介しながら、収容所生活の過酷さの話、忠誠再登録という国家主義的抑圧とかの批判を織り込んでいます。「マンザナー」を語り継ぐ活動をしている日系三世の紹介もしています。「日本人」という範疇でいくと被害の問題なのですが、戦争と差別の悲劇を語る中から、日本もあらためて、加害の問題としてきちんと謝罪と反省を継続していく、語りついでいく必要があるのだと改めて思いました。


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NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」

たわしの映像鑑賞メモ031
・NHKBS1「ユージン・スミスの戦争」2019.8.6 0:45-1:35
 ユージン・スミスは「水俣」で有名になったひとですが、若き日に第二次世界大戦の太平洋戦争に戦場カメラマンとして活躍し、戦場の悲惨さを訴えた写真を撮っていたのです。最初は、死んでいった兵士や民間人の犠牲者の写真を撮っていたのですが、米軍の検閲で写真がとりあげられないこともあって、戦争下の捕虜になった民間人の写真をとっていたのですが、米軍の検閲で、過酷な情況の写真が没になっていく、軍の検閲の批判のようなこともこのドキュメンタリーで取り上げています。で、沖縄であるひとりの兵士をクローズアップした同行写真を撮っている中で負傷し、本国に送還されます。
これは実は、再放送だと思います。SNSで沖縄の反基地の映像を撮り続けている三上智恵監督がこの映画の中でインタビュアーとして声だけ出演していることで、この映像の紹介をしていたので、以前観ていたのです。戦争の悲惨さや検閲の問題などの批判とともに、映像作家の人生がどのように変遷していくのか、というところでも興味深いドキュメンタリーです。

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藤井道人監督「新聞記者」

たわしの映像鑑賞メモ030
・藤井道人監督「新聞記者」2019
 これは現実に進んでいる情報隠蔽・操作をテーマにして、新聞記者が闇を暴く作業をしていく内に知り合った官僚とりわけ内閣調査室の職員とのやりとりのフィクションです。フィクションなのですが、現実にあったレイプ事件を官邸サイドに近いところからの圧力でもみ消した事件とかも映像の中にとりこんでいますし、ふたりの主人公のひとりの新聞記者がスクープしようとする内容が、首相のお友達の大学の優先認可事件とか、それを巡る官僚の自死とかの重なりを想起させる事が多々。そして、対談シーンとしてバックグランド式に流されているのが、菅官房長官に記者会見でくいさがる質問を続けて有名になっている東京新聞記者の望月さんと元文部科学省事務次官で官邸の意向に従わず辞めさせられた前川喜平さん他の対談も出ています。で、アベ政治の「もり・かけ」とか、現実とリンクしていきます。しかし、どこまで事実関係にリンクしているのか分かりません。特に闇中の闇の内調に関することは。しかし、確実に今の官僚の官邸に忖度していく情況・構造とリンクした映画になっています。
 さて、この国の闇としてどのようなことが進んでいるのかと言うことで、忖度や情報隠蔽・歪曲、文書改ざんがなぜなされていくのか、この映画の中で、主人公のひとりである外務省から出向している内調の官僚が先輩に「昔、わたしたちは国民に奉仕するものだと教わった」と話しているのに、その先輩が自嘲的に、返答をさけて、その後その先輩が自死するということがあります。また、その内調の職員が、上司から「民主主義はかたちだけでいいんだ」と言われるシーンもあります。
 これは、SNSのFBで「良かった」いう感想が載っていたので、観に行ったのですが、一定のスクープはなされたけれど、むしろ闇に押しつぶされていくようなところで、内部告発する、しようとする官僚が権力からいかにおさえこまれていくのか、ということで終わっています。スクープで内閣が倒れたというところにはいかないのです。むしろ、そのあたりで終わったからこそ、現実味のある映画になっただろうし、社会運動をしているひとたちには活動していくエネルギーを得るのでしょう。たぶん、そういうストーリーにしないと、権力側から圧力がかかったかもしれません。

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R.ダニエルズ/国際社会主義運動研究会訳『ロシア共産党党内闘争史』

たわしの読書メモ・・ブログ504
・R.ダニエルズ/国際社会主義運動研究会訳『ロシア共産党党内闘争史』現代思潮社 1975
ロシア革命関係の基本的文献として押さえていて以前買っていたのですが、一回紛失しています。改めて買い求めて、ロシア革命史を学習するときに最後的に読もうと思っていました。やっとたどりつけました。今回の読書メモはこの著書の本の中から、そしてすでに読んだ本とリンクさせて、本を読みながら考えたことも含めたメモにします。かなり、わたしの考えも組み入れます。ただ、どこまでがこの本のことか、他の本の事か、どこからがわたしの意見かをちゃんと書こうとするつもりです。
原題は「革命の良心――ソヴィエト・ロシアにおける共産主義的反対派」です。こちらの方が著者の思い入れを表しているのですが、邦訳の題の方がテーマが伝わり広く読まれることになったと言い得るでしょうー訳の責任者がトロツキー派と一般的に評価されている対馬さんなので、著者もその流れの中にあるのでしょうが、トロツキー批判もきちんとしています。反対派、スターリン派のせめぎ合い(スターリンはつぎつぎに粛正していったので、今日のスターリン派は明日は反革命、反レーニン主義、反ボリシェヴィキとして排除されているので、スターリン派という概念自体があいまいになっていきます)、その中に描かれている人物像が浮かび上がっていきます。
 この本を読んでいくと、レーニンとトロツキーとスターリンの関係がはっきりしてきます。まず、トロツキーは1903年の第二回ロシア社会民主労働者党の大会の分裂で、レーニンたちのボリシェヴィキの中央集権的組織論に反対してメニシェヴィキに与したということがあります。で、このあたり、ソヴィエトというところのイメージの違いがついて回ります。トロツキーの方がソヴィエトを尊重するということがありました。レーニンは、むしろというか結局、プロレタリアート独裁にもっていくまでにソヴィエトを使うという意識性しかなかったようです。トロツキーの永続革命論はレーニンの四月テーゼとシンクロしているようです。一方トロツキーはメジライオンツィというグループを形成しながら、四月以降ボリシェヴィキと歩調を合わせて動き始めます。七月末に合流し、十月革命の時は、地下に潜ったレーニンに代わって、まさに司令塔的な役割を果たします。トロツキーは四月以降、まさにレーニンに引き寄せられ、「弟子」ということばも発しながら、共鳴し、特に軍事的な司令塔になることによって、ますますレーニンの中央集権的なところにからめとられていきます。それは労働運動の組織化というところでも軍隊的中央集権化というところにも表れています。レーニンは情況を的確につかみとろうとし、そこから新しい方針を提起していきます。その変換に旧ボリシェヴィキ・メンバーが付いて来にくい中で、トロツキーはだいたい共鳴していきます。ときにはソヴィエトの評価から蜂起の時期の設定の違い、ブレスト・リトフスク条約の締結を巡る衝突といろいろ衝突もありました。それは実はレーニンとトロツキーの明らかな違いとしてあったわけで、トロツキーがそれをきちんと自覚し、そこで批判も含めた動きをしていくことだったのですが、自分の出発点の中央集権批判をすててしまったからこそ、分派的なうごきさえできなくなっていたのです。スターリンはトロツキーのそのようなところを押さえ、突き崩しました。スターリンの陰謀的組織者としての突出やトロツキーのレーニンが批判した「権威主義」(わたしはそれを「自己顕示的運動」になっていることと押さえます)が、外敵との闘いにおいては情況をおさえ的確に方針だしていくことに秀でていたのに、「党内闘争」的には逡巡の繰り返しになっていたのです。レーニンはまさにリアリスト革命家として生き、道半ばにして病に倒れたのですが、トロツキーは文学者でもあり、革命家に徹しきれないで、そして党内闘争における権力闘争の情況判断を繰り返し間違えていきます。むしろ「権力闘争」という意識性自体が希薄だった、なかったのかもしれません。トロツキーはレーニン主義者になっていたからこそ、中央集権主義にとらわれ、分派の禁止の論理とかにとらわれ、スターリンの事務処理能力や陰謀的官僚的組織化というところでの書記局・組織局支配の中で、真綿で首を絞めるようにじわじわと排除の網の目を作り出していったのです。中央集権といっても、少なくともレーニンはいつも新しい見解を示し、少数派として周りのひとたちを説得していくしかなかったからこそ、集団指導的な議論を尊重していました。それはボリシェヴィキの伝統のようなこととして良い面も維持していたのをスターリンは中央集権的独裁体制で議論さえもさせない体制を築き上げていったのです。スターリンは、まさにレーニン主義を標榜したのですが、はっきりした違いがありました。それはレーニンは少なくとも死ぬまで、先発の資本主義における革命と連動する形でソヴィエトの革命の未来がありえるとしていたのですが、そして時には自国の利害で被害を被っても世界的に革命を進めるのだという革命的敗北主義の主張をもつていました。スターリンは一国でも可能だとして社会主義の「亀のあゆみ」をなしていこう言いつつ(これは今日スターリンがなしたことを見ていると、かれがやったのは権力闘争で、結局、革命の意志があったのかどうかまで問題になります)、ついには「社会主義国」をなしえたとまで主張するに至ります。もうひとつの違いは、レーニンは革命に殉じるところで、官僚的なことをいかに排するかということがあったようなのですが、スターリンには自己顕示的なところの権力欲で動いていったということです。そして、レーニンには間違ったところには反省するところはあり、レーニンには自分とその信じる処に自信をもって突き進んだのですが、スターリンは紆余曲折し、結局自分がつぶした相手の主張をこっそりと自分の政策のように取り入れていったということもあり、自分の間違いを隠蔽や自分が潰す―潰したひとの評価を落とし込め、自分の無謬性を主張するために歴史の改ざんさえなしていったということがあります。ただ、レーニン主義者を標榜し、レーニン主義からの逸脱ということをもって他者を落とし込めるという手法を使っていました。確かに、レーニンの中央集権主義的なところや、目的のために突き進むというレーニン以上に目的のために手段を選ばないというところは継承していったようです。
 レーニンは病に倒れたのですが、すでにレーニンの生前に直接世界革命へのリンクしていかないという情況がとらえられてきました。で、干渉戦争や内戦下の中で新経済政策―ネップという資本主義的なことをとりいれます。そして、もうひとつこの本には詳しく書かれていませんが、クロンシュタットの反乱の弾圧という問題があります。このとき、トロツキーは赤軍の議長でした。どうも直接に弾圧の指揮をしたのはジノヴィエフのようですが、トロツキーもレーニンも反対はしていないようです。インターネットで検索するとトロツキーの「鉄の箒で一掃した」とかいう発言の記録が残っているようです。これらの、永続革命論的なところから遊離することへの総括―評価はこの本の中ではでてきません。
さて、スターリンにはネップに対して国家資本主義という押さえはあるようです。そこから、党内闘争の中で出ていた富農の解体や重工業への転換というところへの5カ年計画という形で進めいくのですが、党支配の官僚主義的なところでの管理支配の強化の中でも生産性向上運動ということは労働者の搾取の強化ということになるのではと思います。それを著者はむしろ反対派の政策のとりいれによる「社会主義的な政策」へ進んだというように押さえているようなのですが、そもそもネップ自体も資本主義にかじをとったということで、ここからマルクスの唯物史観の考えでは、経済的なことが意識を規定するという意味で、経済は資本主義で政治文化で社会主義への道を進むということは破綻していきます。レーニンはまだ世界革命へのリンクということで、レーニン的なリアリズムでの一時的処置としてあったのでしょうが、それをスターリンはまさに国家資本主義ということにすぎないことを「社会主義」いいつのり、その一国社会主義の体制の伸張と冷戦構造の中で、各国「共産党」とコミンテルンを形成するのですが、第三インターナショナル――コミンテルをロシアの利害に従属させる「国際共産主義的運動」の歪曲ということをなしたと言わざるをえないような情況がとらえられます。
さて、話を「党内闘争史」に戻します。トロイカ(スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)による左翼反対派の排除、そのトロイカの一翼ジノヴィエフらの排除、合同反対派の排除、右翼反対派の排除、そして大量粛清―処刑に至ります。一体どうしてそういうところまで行ったのかという問題があります。社会民主党の討論の歴史を見ると、むしろロシアの社会変革派の伝統として、討論の機会をきちんと確保し、説得するという伝統があったようなのです。そして、意見の相違で意見が通らないと判断したときは退席するという手段をとるということがありました。レーニンには、純化志向がありましたが、除名とかまではしないという伝統があったようです。陰謀的なところに陥っていく前のスターリンも「処分すると次から次に処分していかなくてはならなくなる」という自ら陥った疑心暗鬼的な処分と相手の殲滅のような構造におちいらないという歯止めがありました。まさに他者を排除する者は、みずからが排除されるとの恐怖に陥り、疑心暗鬼の塊のようになっていったということのようです。そもそもスターリンは、最初レーニンのイエスマンだったのです。これは意見が一致していたという意味ではなく、彼の権力志向で強い者に従属し、それが自分が権力を握るようになるとまさに自分に刃向かう、また何か力があると思うと、あらかじめ排除していく、排除というより抹殺として進めました。それはまさにロシアの恐怖政治をひいたイワン雷帝にもなぞらえられるのです。ひとを的確にとらえたレーニンは、ボリシェヴィキ内では、他者を説得して変えていける自信をもつていたのですが、最後にスターリンを書記長から下ろせという遺言を残しています。それをとらえられなかつた当時の政治局の情況の読めなさこそが、スターリンの独裁を許したとも言い得ます。後に反対派として動いていくひとたちは、まさにスターリンとの同盟から、順次反対派にされていく、時をつかめず。まさにスターリン独裁と大量の粛清を生み出しました。さて、歴史の話をするときに、どのような可能性があったのかという話、「たら・れば」の話をしても仕方がないのですが、レーニンが病気で死ななければとか、またトロツキーがレーニンの提起を受けて議長代理を引き受けて、スターリンの個人独裁の道を塞ぐ手法に進んでいればという問題があります。ですが、そもそもトロツキーはオールドボリシェヴィキではなかったのです。むしろトロツキーは、中央集権主義批判としてソヴィエトにおいてボリシェヴィキと他の潮流の与することができるひとたちとで、ボリシェヴィキの独裁いう道を押さえ込み、もし独裁が必要ならば、ということですが、ソヴィエトでの独裁という道を進むことではなかったかとも思います。
もうひとつの問題、そもそもマルクス思想の決定論と主意主義の問題があります。 
後発の資本主義としてのロシア、しかもヨーロッパも覆う専制ロシアという情況下における革命として、マルクスの唯物史観からすると革命は先進国から起きることで、ロシアにおけるプロレタリア革命は不可能という定式がありました(最新のマルクス研究では、後期マルクスの新しい展開ということも出ています)。レーニンは『ロシアにおける資本主義の発達』という本でロシアでも資本主義はそれなりに発達している、特に先進資本主義がギルド的徒弟的労働や家内制手工業からマニファクチャ、機械制生産様式と発達していったのに対して、それらを通り越して機械制大工場の生産としてそれなりに労働者層が形成されているとして押さえつつ、それでもブルジョア民主主義革命を経てから先進国革命に連動してプロレタリア革命という図式を描いていたのですが、四月テーゼで、ロシアにおいても労農ソヴィエト独裁という形で、革命は可能という突き出しをしました。このあたり、トロツキーの永続革命論とのシンクロもあったようなのです(永続革命論はこの本の中でも少し出てきますが、この本の後の連続学習で取り組む予定です)。で、唯物史観的なことに対してむしろ主意主義的に、意識的な働きかけの可能性ということを見たとも言い得ることです。しかし、結局、内戦や干渉戦争もあったところで、農というところでのつまづき、農業と工業との関係を押さえるところの失敗の問題もあったにせよ、結局は、ソヴィエト独裁から党の独裁、スターリンの個人的独裁、テクノラートの支配という形に収束し、チェーカーからゲーペーウーを使ったまさに鉄(スターリンは筆名で、「鋼鉄の人」という意味があるようです)の管理支配体制というとろで、体制を維持しえたに過ぎず、結局、この本が出されたときには、それがまだ続いていたのですが、結局プロレタリアート独裁から社会主義への移行をなしえず、ソ連邦は崩壊したのです。これをどうとらえるのか、結局、マルクスの唯物史観の定式に収まったとも言い得ることです。このあたりは、総括の核心なところで、スターリン主義の総括のみならず、レーニン主義ということの総括も必要になっていると、わたし自身のわずかなりともその作業に参入しようと、この読書もその一環です。読書作業をまとめる形で文を書いていきたいと思っています。
さて、わたしの反差別論の立場での関心事として、レーニンの民族問題とそことリンクするスターリンの民族問題があります。レーニンは、スターリン批判にリンクすることとして「ロシア化したロシア人が真のロシア人よりもロシア人的方向に事態を誇張することは衆知のことである」144P(これは他のひとに向けた批判ですが、グルジア人であったスターリンにも当てはまります)ということを語り文も残しています。このあたり、わたしのマージナルパーソン研究ともリンクすることで、もう少し作業を進めてこれも文にします。わたしはそもそもレーニンが民族問題に関して、「差別とは階級支配の道具である」という定式自体が誤っているのではないかと思います。そもそも階級の問題も差別の問題だということを押さえ損なっている規定ですが、これだと、民族問題は階級闘争を進めるために解決しなければならないやっかいな問題だという認識の域を超え得なくなります。わたしは、むしろ差別に対する怒りから、その怒りが他の差別問題と結びつかないとナショナリズム的な間違った方向にいってしまうことはあるにせよ、きちんと反差別の関係的に結びついたところで積極的にいかせることなのだと思います。一般に左翼総体においてレーニン主義にとらわれる中で、レーニンとローザ・ルクセンブルクの間で交わされた民族問題に関する論争で、レーニンは民族自決権ということでローザを論破したとなっているのですが、わたしは民族自決権ということを国家主義的に自治共和国の形成というかたちでの自決権では、問題は解決されないとも言い得るのではないかと考えています。この本の中でもスターリンの民族対応(ジョルジアを三つの小共和国へ統合する問題での対応141P)で、レーニンとの亀裂が起きたという大きな問題としてあったのですが(レーニンが最初倒れ復帰したときにこの問題からスターリンを書記長から降ろす、最後の取り組みをしていました141P-150P)、中央集権制という事の中で、自決権がどうなるのか、この本の中でも「民族自決権とはフィクションである」ということが書かれています。実際、むしろスターリンが合同反対派のトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがユダヤ人であるということでスターリン自身も「われわれが、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを闘うのは、彼らがユダヤ人だからではなく、彼らが日和見主義だからである。」245Pとどう見ても民族差別に反対するというところでなく、暗に煽るということをしていますし、そして民衆、ボリシェヴィキの代議員、そして中央委員会、政治局も民族差別にとらえられていたことが粛正を許すことにつながったのだとも言い得ます(スターリンの差別性は民族問題に限りません。その当時に障害差別が対象化できなかったという時代制約性はあったにせよ、相手をおとしめるのに「障害者」に対する差別性を持ち出すその話250Pは、時代制約性ということを超えた、スターリンの差別主義的人格をも示しています)。そもそも、ソヴィエトでは各民族が民族を代表して意見を述べていくということがあったようなのですが、ソヴィエトから党の独裁へ転化する過程で民族差別がとらえられなかったことが、まさに革命的発展の桎梏となっていったともとらえられます。
誤解のないように書き置きますが、レーニンとローザの論争でローザが正しかったと言っているわけではありません。ローザはユダヤ人で、植民地支配にさらされたポーランドの生まれで、女性で、そして「障害者」でした。まさにいろんな被差別の課題を抱えていたのに、むしろ国際主義的な連帯の中で、自らの個別被差別の問題での突き出しをほとんどなしていません。ですが、その著書『資本蓄積論』の継続的本源的蓄積論が、まさに資本主義の中で差別がどのようなこととしてあるのかをとらえ返しているととらえられます。ですから、その理論は従属論や世界システム論や反自由主義的グローバリゼーションの理論の中でいかされ、そこから反差別論の形成に大きな意味を持ちえています。わたし自身もそこから、反差別共産主義論を形成しようとしています。これについても、いくつか書き始めつつ、論攷を進め深めていきます。
さて、もうひとつは、ロシアの農民のとらえ方です。レーニンはそしてトロツキーも、農民を土地所有というところでプチブル規定をしています。このあたり、著者も全く書いていないのですが、マルクスのロシアのナロードニキのザスーリッチにあてたロシアのミールに対する評価ということが全く押さえられていないことは、どうなっているのかという思いをわたしは抱きました。ロシアの農民は二月革命以降、一揆的なのですが、打ちこわしや土地の分配などを進めていました。「土地はみんなのものだ」というスローガンも出ていました。その運動は単にプチブルの領域だと、納めることはできないとも言い得ます。これは、ミール―ロシアの農村共同体の歴史があったからゆえだと思うのですが、後期マルクスが一義的発展法則から抜け出してアジア的生産様式などをとらえ返していくこととしてロシアのミールについても論及していたことが抜け落ちているのです。これは前述した民族問題から差別の問題の総体的とらえかえしの問題ともリンクしていきます。このあたり、今日からとらえ返すと、農本主義的なところのおさえともリンクしていきます。このあたり、農業に留目していたブハーリンのとらえ返しの問題にもつながっています。ブハーリンは、レーニンの『帝国主義論』とか『国家と革命』にも影響を与えたというようなことを、この本ではないのですがインターネットでの検索で読んでいました。ブハーリンの本にも手を出したいのですが、とてもそこまではやりきれないとも思っています。

今後の課題的なことを含めて、この本で論点となっている、なってくることを、いくつかメモ的に残しておきます
この本では『国家と革命』をアナーキズムとしてとらえているのですが、わたしはむしろ、レーニンはマルクス/エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を読んでいないで、「国家は共同幻想である」という規定が、『国家と革命』にはない、むしろアナーキズムというより、暴力主義的権力論という批判になります。わたしはマルクスの流れの本を最初に読んだのは、この『国家と革命』でした。『帝国主義論』を読んだところで、スターリン批判から出てきた三浦つとむさんの『レーニンから疑え』という本を読んだところで、レーニン主義の核心的な運動論―組織論的な本はインテリゲンチャ的な外部注入論批判を抱いて捨て置きました。それでも民族問題に関する本は反差別論に必要なので読んだのですが。これまでの社会運動の解体的情況の核としてのレーニン主義の総括の必要性から、第二次レーニン学習に踏み込んでいました。歴史学習とそこから波及するマルクス派の古典学習としてトロツキー、ローザを押さえて、改めてレーニンの哲学的論攷と『国家と革命』『帝国主義論』の読み直しを第三次学習としてしたいと思っています。
さて、この本を読んでいてそもそもソヴィエト独裁ということは何だったのかという問題が出てきます。そもそも独裁というイメージは民主主義の否定というようなニュアンスがあるのですが、このプロレタリアート独裁の概念はマルクス発なのですが、時の支配階級がどのような階級なのかというところで、時代的にはその階級の独裁という形にならざるをえないというイメージです。資本主義の社会はブルジョアジーの独裁であるというところで押さえていることです。そして、そもそもプロレタリアートの独裁において、ブルジョアジーがいなくなるのですから、いなくなったらプロレタリアート自体もいなくなり、その独裁も消えることです、という論理なのですが、そもそもわたしはロシア革命において、プロ独から社会主義への移行にはならなかったと書いていたのですが、そもそもプロレタリアート独裁ということも、実は、「革命的インテリゲンチャ」の「革命」に収束しています。まさにテクノラート官僚支配で終わり、もちろん国家資本主義でしかなかったという意味では「ブルジョアジー」も消えたわけでもないのです。
さて、官僚主義批判に対して「民主主義者」という批判がスターリン派から加えられます。そもそも中央集権ということ自体が民主主義とアンチノミーなのですが、そもそもエンゲルスの「民主主義とは支配の形態である」というテーゼがありました。議会制民主主義が民意をごまかしていく事に使われていくことにも現代日本の政治の中に表れていることがあります。民主主義一般に関しても、脳死臓器移植や延命処置の拒否とか安楽死とかで、その中にある優生思想的なところをとらえて、「自己決定はまやかしである」という論攷も出てきています。そこには哲学的な近代的個我の論理の批判、近代知の論理の批判があります。それでも、他者に自己の意志を強制するということや、上下関係が生じるという差別関係を否定するという意味での対等な関係をめざすことは必要です。まさにそのようなこととして、スターリンのロシアの党の官僚的支配体制を批判することも出てきます。それをなんというか、とりあえず、個々の意志を尊重するという意味での「民主主義」や「自己決定の尊重」は必要なのだと思います。先のまやかしという批判をきちん押さえつつです。

ソヴィエト連邦の崩壊は一国社会主義路線の敗北として総括することですが、スターリン主義は批判されていますが、各国共産党・社会主義を名乗る政党においてはその総括をきちんとなしえていないで、内容的に精算されていないようです。それは国家主義者のナショナリズムの扇動にまきこまれ、きちんと批判し得ないという構図や、組織論的に中央集権制、それは民主集中制とかいうごまかしのことばとともに生き残り、また分派の禁止とか、「細胞」も地域と職場にしか認めない、反差別の個別戦線を作り得ない、差別のちゃんとした対象化さえなしえていないという問題があります。このあたりは、スターリン主義の総括にとどまらないレーニンにまで遡った総括が必要になっているのだと思います。
切り抜きメモ的なことを書きかけていたのですが、これもここには載せず異文として保管することにします。


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トロツキー/藤井一行訳『裏切られた革命』

たわしの読書メモ・・ブログ503
・トロツキー/藤井一行訳『裏切られた革命』岩波書店(岩波文庫) 1992
前の読書メモで、ロシア革命史の学習でこの著者の本『ロシア革命史』を読み、そこから波及して、トロツキーのこの本もその続きとしての内容があるので、読むことにしました。前の本は、「ロシア革命」を学習するために読んでいた本、この本はそこから波及して一冊くらいトロツキーを読んでおかなくてはと、しかもロシア革命をどうとらえるのかというところで読んでおかなくてはと、そのうち読もうくらいで買い求めていた本を続きとして読んでおこうと引き出したのです。
なぜ、今更ロシア革命史なのか、トロツキーなのかという話ですが、それは、社会変革の運動を担ったひとたちの総括の原点がロシア革命とその総括にあるという思いから、レーニンの第一次学習をしてボリシェヴィキズムのとらえ返しをしようとしたのですが、なぜ、レーニンをスターリンが継いでしまったのかというところで、トロツキー派の党内闘争の敗北を押さえなければならないということと、トロツキーが社会民主党の最初の分裂のときに、レーニンの組織論―中央集権制を批判し、ボリシェヴィキではなく、メニシェヴィキの方に行ったということを押さえる必要を感じているからです。トロツキーはすぐにメニシェヴィキは離脱します。それはメニシェヴィキが祖国防衛というところに取り込まれていくということと、ブルジョア民主主義革命に収束させようとする民主主義派になっていくということでの批判です。
さて、そこでトロツキーの本を何冊か読んでおこうと思っています。現時点で押さえていることとして、1917年の二月革命の後、帰国したレーニンは四月テーゼを出します。古くからのボリシェヴィキだったひとたちには青天の霹靂のようなことでした。トロツキーは遅れて五月に帰国し、四月テーゼに賛同の意を表します。で、レーニンと歩調を合わせて動き始めます。トロツキーがメジライオンティを引き連れて、ボリシェヴィキに正式に合流したのは七月です。ロシア十月革命は、レーニンとトロツキーどちらがいなくてもなしえなかったという動きでした。二人の違いは、トロツキーがソヴェトをレーニンよりも重視したことにあります。レーニンはどちらかというと、プロレタリア独裁志向で、当時八割の農民とそれを背景にした軍の存在をとらえたところで、労農兵ソヴェトの独裁をとりあえず行うということでしかなかったと押さえていたとわたしは思います。さて、ここからプロレタリアートの独裁が党の独裁、そしてスターリンの独裁という事態にまで進み、トロツキーとレーニンはあくまで世界革命ということの必要性を押さえていたのですが、スターリンの一国社会主義路線に敗北していくことになります。そもそも、レーニンそして多分トロツキーも、新経済政策という形で、資本主義経済の取り入れを主導したか、賛成しています。そして1921年のクロンシュタットの反乱の鎮圧、当時トロツキーは赤軍の議長でした。すくなくとも容認か、引きずられています。そのあたりの総括をトロツキーはどうしているのかという問題があります。このあたりの矛盾がスターリン支配の根本にあるのではないかと思います。
 さて、長すぎた前置きから、この本の内容に入ります。
この本原題は、「ソ連とはなにか、ソ連はどこへ行きつつあるか?」、それをフランス語訳で「裏切られた革命」という表題がつき、トロツキーもそれを受け入れ、その後自分でもこの本の紹介のときにこの「裏切られた革命」という名をつかっていたとのことです。ですが、そもそも自分も主導した革命の敗北を「裏切られた」と受動的に語ってしまう問題があります。この本はロシア革命がどのような否定的情況になっていったのか、いるのかということを刻銘に書き、それなりに分析していますが、それの元になっていることが何なのかの分析まで進んでいません。問題は、そもそもボリシェヴィキズムの核心の中央集権制自体をトロツキーが当初批判していたこと、そこからトロツキーがどう変節していったのかということ、この中央集権制自体が、ソヴェト独裁→プロレタリア独裁→共産党独裁→スターリン独裁まですすんでいったのではないかということ。また、そもそも、後れた資本主義において、プロレタリア革命はなしえないということを、レーニンが四月テーゼで転換したのですが、そもそもそこで生産性の問題が繰り返し出てきて、ネップの導入に至るのですが、そのことがますますロシアの社会に矛盾を来します。トロツキーはスターリンだけに帰せる責任と、自分たちも関わったネップから帰せる問題の区別をきちんとなしえていません。最も負として指摘されていること、ゲーペーウーによる摘発・支配でも、そもそもレーニンがチェカーとしてやっていたことで、この本の中でもトロツキーが、この本の中で「当時もしだれか、たとえば無意味で欺瞞的なケロッグ条約に加わるとか、コミンテルンの政策をおだやかなものにするとかによって、「民主主義的」な帝国主義の歓心を買うことをあえて提案する者がいたとすれば、レーニンは疑いなく、革新的な提案者を精神病院に入れるように提案したであろうし、それにたいしてよもや政治局の中で反対はでなかったであろう。」240Pと書いています。まさにその後のスターリンがなしたことを想起させる内容です。そういう意味で、レーニンから帰せられる問題や自分自身の総括をネグレクトしているとしか思えません。
レーニンやトロツキーと切断して、スターリン自身に帰せられるはっきりした誤りは、一国において社会主義建設は可能だとしたこと、そして「亀の歩み」論から、社会主義建設をなしえたとして、その後は冷戦構造の中で、ロシアの国益優先主義に陥り、「国際共産主義運動」においてコミンテルンを通じて数々の誤りを各国共産党に押しつけていったという歴史があります。
1980年代の後半から1990年代の始めにかけて、ソヴェト連邦は崩壊しました。それは結局一国社会主義建設路線の敗北として、ロシア革命自身が、強引に(強引すぎて)なした革命は破産するということを、党の独裁やゲーペーウー支配の中で言論の自由も奪い抑圧して70年も維持し、数々の矛盾を来たしたことの破産としてとらえられるのでしょうか? 
これからの社会変革運動は、ロシア革命まで遡った総括とそれから各国・各地域での社会変革運動の敗北の総括をなしえないことには、繰り返し出てくる内容のない変革志向の継続性のない活動に陥っていきます。きちんとした総括がいまこそ必要になっています。
本の中に書き込みをしていたのですが、これもひとつ前の読書メモの文末に書いた内容で、これは切り抜きメモを作ること自体を止めました。


posted by たわし at 02:12| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トロツキー/藤井一行訳『ロシア革命史<1>〜<5>』

たわしの読書メモ・・ブログ502
・トロツキー/藤井一行訳『ロシア革命史<1>〜<5>』岩波書店(岩波文庫) 2000・2001
この本は以前角川文庫山西訳で途中まで(最終章かその一歩前まで)読んでいて紛失して、読了し損ねていた著です。山西さんの訳の問題点を押さえて、ロシア語から訳し岩波文庫から出た本です。
ロシアの革命はねじ曲げられて、スターリンの一国社会主義路線で、管理抑圧支配体制と大量粛清を生み出しました。で、管理抑圧支配体制の中で70年も続いたのですが、未だに旧い観念にとらわれている以外のひとのロシア革命の評価は、「社会主義」に踏み込む以前の、プロ独段階から「国家(独占)資本主義」に転化し、「社会帝国主義」とでも言うべき覇権国家になったということに収束しているようです。
1990年代を前後してロシアのそして東欧の「社会主義国家の崩壊」ということで、それがマルクス以来の共産主義革命論の破綻からマルクス葬送という流れを生み出ししています。そして、リベラルな学者さえも「資本主義はなくならない」「市場経済はなくならない」という主張をなしています。で、そこでは、マルクスが押さえた資本主義社会の分析をつかえなくなります。そもそも学的な深化がなしえなくなり、近代的合理主義者という立場での「民主主義的反差別論」か、こっそりマルクスをとりいれるというごまかしになっていきます。前者はそもそも差別がどこから出てきているのかという分析なき反差別論で、有効性をもちえません。
2015年の国会前の戦争法(安全保障関連法案)反対の運動は若者の新しい形の運動を作り出し、大きな直接民主主義の運動のうねりを生み出しました。ただ、かれらは結局「生活保守」とか言いだし、死に瀕している間接民主主義へ投げ出すことで、運動を収束させてしまいました。その主催者のひとたちに責任があったのではありません。長く間接民主主義の流れは、「社会は変わらない」という大きな風潮を生み出していたのです。そこで、「社会は変わりうるのだ」というところでの大きなうねりをうみだすところまで進みえなかったのです。それは、そもそも、社会変革運動の主流であったマルクスの流れの運動の混乱の総括がなされていなかったからです。その総括は、少なくともロシア革命のとらえ返しの作業までさかのぼらねばなりません。
その始まりとしての、わたしの歴史研究で、ロシア革命の総括のとらえ返しです。
すでに、レーニンの著作を読み始めていました。その中で、レーニンの著作や解説は、ロシアのスターリン支配の中での隠蔽や歪曲がおこっているのではないかという思いもあったのですが、それでもその中からレーニンはあくまで、ロシアの革命はロシア一国ではなしえないというテーゼを持ち続けていたということを読み取っていました。トロツキーのこの著や訳者の解説でこのことをはっきりととらえ返せました。レーニンは4月になって、初めてブルジョア民主主義革命を経ないでもプロレタリア独裁は可能だと突き出しました。そのことはトロツキーの永続革命論とリンクしたのです。それ以後の、レーニンとトロツキーはシンクロしていたのです。ただ、ふたりの違いはソヴィエトの位置づけの違いと、蜂起を巡る時期のズレです。後者は、レーニンが地下潜行したことによる民衆の意識をつかめにくくなっていたことで、レーニン自体が誤りを認めているようです。実は、この後者も、前者のソヴィエトの位置づけの違いがあるようなのです。トロツキーは、ソヴィエトに依拠する、というところが強く、レーニンにはむしろボリシェヴィキ単独のプロレタリア独裁的な傾向が強く、80%を占める農民の支持なしには革命をなしえない、持続できないというところで、ソヴィエトを利用するというところでソヴィエトを通してということをやっていたに過ぎません。トロツキーはむしろ武力衝突をできるだけ回避するという意味も込めて、ソヴィエトに依拠するというところで、後者のソヴィエトの大会に合わせて、蜂起を進めるということでリーダーシップをとりました。レーニンは無血革命でトロツキーの方針の正しさを、地下に潜っていたところで情況をつかみにくくなっていたということも含めて自己批判し、事後承認しています。
さて、ソヴィエトの位置づけは、農民のとらえ方の問題からも来ています。
ロシアの農民は層として土地所有にとらわれる小ブルジョアジーである、というところでそして遅れた資本主義を発展させるために工業化するという方針の下で、農民の革命運動の中での位置づけを低くとらえています。
資本主義の発達は確かに、農林水産→工業→金融・サービスという方向で「発展」していったのですが、それは資本主義の論理そのもので、「社会主義」の途は必ずしもそういう方向へ進む必要はなかったとも言い得ます。資本主義的な発展の途をたどろうとしたが故に、中央地方という格差や抑圧の構造を生み出し、農民への収奪ということを生み出し、そこに農や牧畜で生計を立てるひとたちが大ロシア民族ではなく、「少数民族」であったというところでの民族問題もでてきます。民族問題に関しては後述します。10月革命時に、ロシアの農民は、土地の地主から取り上げ、農具などを取り上げ、また報復的な暴力的行為にも及びました。労働者と同等の、むしろ労働者よりもラジカルな行動をとったという面もあったのです。それは、農奴制やそこから離脱する過程の農村共同体―ミールの歴史があったから、プチブルというよりも、ミール的共同性に根ざしたラジカル性があったのではないかとわたしは思うのですが、そのあたりのとらえ方が出てきません。それは、むしろマルクスが「資本論草稿」の中で書き、ロシアの革命家、ザースリチへの手紙で書いていたことで、今日のマルクスの反差別論からする再評価として出てきていることです。このあたりをボリシェヴィキのひとたちが押さえていたら、ロシアの農民のとらえ方がもう少し違っていて、そのラジカル性を引き出しつつ、農民層の支持も獲得でき、社会革命党からヘゲモニーの移行もできえていたのかも知れません。 
さて、民族問題の続きです。レーニンは民族問題では民族自決権や民族自治権で、ローザ・ルクセンブルグとの論争で正しい方針示したとされるのですが、自治国家論的なところや議席数を確保するということでは、自決権にはなりません。そもそも、差別を階級支配の道具論と置くこと自体が、反差別の運動の社会変革の(潜在的なこともある)可能性をとらえない政治利用主義に陥ります。少数民族は多数の民族では票決的には従属させられます。まして全体主義的な体制が作られたときには、反差別は機能しません。わたしは民族問題に関わる拒否権的なところを持ち出すしかないと思います。ちょっと脱線しますが、民族問題そのものではないのでしょうが、沖縄の基地問題での沖縄の民意が活かされない問題でも、地域にいろいろなことを押しつけていく政治にもこの「拒否権」の思想を取り入れるべきです。
さて、もうひとつの問題、武装蜂起とその評価の問題です。レーニンはソヴィエト大会よりずっと以前に武装蜂起的に権力奪取しておくべきだとして、トロツキーの批判もしていました。結局ソヴィエト大会直前に労働者の民兵軍―赤衛軍を使って拠点の武力占拠を行いました。スターリンはその情報をトロツキーがもらして危険に陥らせたと批判しているのですが、むしろソヴィエトの中の取り込める分を取り込むというところでは、そして時期的に適切であったところで、無血革命をもたらしました。また、民衆の頭越しの運動をしないという意味での民主主義的なところで、まさにフィットした情況分析と正しい方針でした。
この革命は、資本主義の遅れてきたロシアで、しかも専制的ツアーリズムの弾圧とナロードニキから始まるテロの歴史の中で、そして数々の反革命的弾圧やクーデターの動きの中で、軍事的行動に出るということはむしろ必然的なこととしてあったと思います。むしろそのことによって「無血革命」をなしえたとも言い得ます。余談的になりますが、当然出てくる問題として、今日的にどうなるのかという問題。右翼やファシストが暴力を躊躇はしないというところで、その攻撃からの防御をつねに考えねばならないということで、また軍隊のクーデターの問題で、軍事の問題は考えておかねばならないということです。そのことの論考はまた別稿で論じます。
スターリン主義の総括がなされぬまま、国家主義にとりこまれる「左翼」は、スターリン主義批判の流れから出てきた左翼をトロッキスト規定するのですが、確かに世界革命を唱えるという集団をトロッキストとするのなら、その規定は当てはまるのかもしれません。ただし、レーニンも世界革命ということを捨てたわけではないので、むしろ「レーニン主義者」として批判することです。ですが、そもそもスターリンはレーニンの正当な継承者と自認しているのですから、そんな批判はできません。そもそもスターリンとレーニンの間に大きな断絶があり、スターリンは大きくレーニンの思想をねじ曲げたのです。
もっとも、ネップとクロンシュタットの反乱への弾圧はレーニンの生きている時代に起きたこと、そしてクロンシュタットの反乱の弾圧はトロツキーが赤軍議長のときになされたこと、そしてクロンシュタットの反乱の鎮圧を「鉄の蜂起で掃き捨てた」とトロツキーが言っているらしいこと、10月革命へ向かう過程で、クロンシュタットに何度も出向きその革命性を引き出したトロツキーが、その革命性故に、政権への反乱を起こしたその反乱を弾圧する立場に立ったことを、世界革命―永続革命を唱えるトロツキーの思想性が問われるはずなのです。
この著を読んで、感じていることをかなり書き綴ってみました。ここで、この著に戻って、情況や民衆の意識をするどくとらえるトロツキーやレーニンの発言は、まさに革命家のアジテーションになっています。切り抜きメモを残そうとしていたのですが、かなりな分量になり、またトロツキー評価を総体的にしたところでの細かい注釈も必要になります。先を急ぎます。いくつか書きかけたのですが、カットします。


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2019年07月20日

打波文子『知的障害のある人たちと「ことば」――「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮』

たわしの読書メモ・・ブログ501
・打波文子『知的障害のある人たちと「ことば」――「わかりやすさ」と情報保障・合理的配慮』生活書院2018
図書新聞で書評が掲載された本です。わたし自身情報発信者として、わかりやすさを求めている立場で、また、手話に関わって、情報保障とコミュニケーション保障にわずかなりとも関わったり、考えている立場で、関心をもって読みました。
「知的障害者」への情報保障やコミュニケーション保障ということが取り残されているという著者の指摘がこの本の核心です。
ユニバーサルデザインの思想ということがあり、みんなにわかりやすい情報なり、伝達をという考えがあるのですが、「できるだけみんなに」ということは必要ですが、「みんなに」ということはあり得ないから、この本にも出てきますが、個々にきちんと対応していこうということになっていっています。
この本が主にしているのは著者のいう「軽度」「中度」の「知的障害者」です。これも著者のいう、もっと「重い」というところで、1章のことばというところで、絵カードという話が出ていましたが、絵カードの言語的使用ということも考えられるのではと思ったりしていました。
後半の実践的なところでの分かりやすさの追求というところがすごく参照になりました。
わたしも今後、自分なりに再度煮詰めつつ、つかわせてもらおうと思っています。
さて、この本でも「障害の社会モデル」ということばが出てくるのですが、「障害の社会モデル」を巡る混乱が、ここでも如実に表れています。「社会モデル」にはオリバーに現れるイギリス障害学とアメリカ障害学があります。端的な言い方をすると、障害者が障害を持っている」という個人モデル−医学モデルを反転させたイギリス障害学の「社会モデル」は「社会が作った障壁が障害である」というとらえかたです。これはそれまでの障害観を反転させた、パラダイム転換した内容をもっていたのです(きちんとした転換をなしきれなかったので、その後の混乱がおきてきたのですが)。そこでは、そもそも「障害のある人」という言い方はでてきません。権利条約もそのもとになった、ICFもアメリカの「障害の社会モデル」でしかありません。そもそもイギリスの「社会モデル」にたてば、第1章の、まさに医学モデルでしかない、「知的障害の分類」などでてきようがないのです。もし、現在社会の医学モデルで「知的障害者」いかに分断されているのかを参照するためになら、註とか、資料として書くことはあるのでしょうが。
さて、後は切り抜きメモをとりあえず残しておきます。
補助・代書コミュニケーションという医学モデル20P
手話の補助手段的とらえ方21P・・・?
「社会モデル」のとらえかた24-7P・・・アメリカ障害学の「社会モデル」
第一言語第二言語、音声言語を第一にしている?28P
クレーン現象・・・要求の指示36P
言語的能力37P・・・そもそも言語とは何か?
条件反射的語の表出、絵カード的言語、象形文字
著者の「社会モデル」のとらえかた37P・・・?
情報保障48P・・・情報公開、広報義務、「「基本的人権」に基づく対等な人権の保障
 ――民主主義の基底、基本的理念の獲得   
支援以前の問題52P・・・抑圧と力を奪う
ファクシリイテッド・コミュニケーションFC支援53-4P・・・筆談支援
プリント・ディスアビリィティ59P
スウェーデン政府の「民主主義や正義を実現する上で重要な課題」61P
医学モデル的なテスト形式69P
ひらがなのわかりにくさ 分節で行を変えない69P
ローマ字、カタカナ、漢数字はわかりにくい70P・・・漢字仮名交じり文の二面評価?
ユニバーサルデザイン100-3P・・・ひとつのユニバーサルデザインということではない、個々のニーズ
意思形成支援(情報保障、情報の解析、・・・)―意志決定(意思疎通、意思表現、意思実現)109P・・・論理的に分かる―感性的に分かる
支援者の抑圧120P
ひと―言語を用いる者という規定118P・・・?「言葉を使えない者はひとではない」という論理
「わかりやすい」ということ―資料、障害理解122P
スローコミュニケーション122P
「障害者が生きやすい社会はみんなが生きやすい社会である」―「わかりやすい」ということでの援用123P・・・ただし、ユニバーサルデザインの画一性はあり得ないという問題も、学者の論文とか・・・


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熊野純彦「解説―揺れ動く時代のなかで−廣松哲学の背景をめぐって」

たわしの読書メモ・・ブログ500
・熊野純彦「解説―揺れ動く時代のなかで−廣松哲学の背景をめぐって」 (熊野純彦編『廣松哲学論集』平凡社2009)
著者が編んだ廣松の哲学の「入門書」525Pとしての論集につけた解説。この論集は「入門書」というより、廣松哲学の基底論集という方が適切かもしれません。これを読んでも廣松さんの本を読んでいないひとには理解不可能です。廣松さんの本を一応だいたい当たって、改めて廣松哲学を押さえていく作業としての入門書にはなるかもしれません。本文を読んでから、もしくは解説を読んで、本文を読んで、解説に戻ってくることなのですが、この論集に収められている論考はわたしは一応全部読んでいます。わたしの最後の学習として廣松さんの著作の読書メモを残していく作業をするので、その学習をするときに、最初に「入門書」的にこの論集を読むことにします。ここでは、ブログ500の記念に、解説だけ読んでおきます。
 熊野さんは、哲学の総体的学習をし、これほど総体的に哲学を押さえているひとはいないだろうという希有のひとです。廣松さんが自分の哲学の継承者として期待をかけていたひとです。ですが、熊野さんは倫理学に走っていて、廣松さんの生前はズレを生じていました。ここのところ、『資本論』関係の本も出し、何か廣松さんの継承的な動きも見られます。
 この解説は、廣松さんの人生をそのときどきの運動の歴史と重ね合わせながら、廣松さんの論考の展開を追うという形での解説です。廣松さんの伝記的な本やインタビューなどはかなり出ていて、ほとんど読んでいるので、今回のこの解説で初めて知ったこと、ひょっとしたら他にも書かれていたけれど、記憶をなくしているだけかもしれませんが、書き置きます。
まず、わたしは、廣松さんは60年安保以前に、アカデミックな世界に集中していったと思っていたのですが、それなりに運動にも関わっていたと知りました。安保の時「大衆運動が起こっているときにそっぽを向くなんてことは絶対しない」549Pとしてデモにも参加し、その中で「死ぬ気のないないやつは来るな」550Pとか発言していたようです
大学院博士課程のときに、「大管法(大学管理法)闘争を目前にして、東京大学全院生協議会の議長になった。」555Pとあり、また、『ドイツ・イデオロギー』の編集問題で、「現行版『ドイツ・イデオロギー』は偽書に等しい。」として新しい編集提起をしたのですが、その過程で疎外論から物象化論への転換を主張していて、「廣松の苦闘は、政治闘争の様相をも帯びてくる。」560P、これは、他の論考でも書かれていたのですが、端的には革共同の疎外論批判という内容をもっていたようです。また、いろいろと革命運動について語り、文を引用する形で「曰く、蜂起は断じて弄んではならぬ。だが、一たん蜂起の途に就いた暁には須らく最大の決意をもって敢行し、攻撃の態勢を堅持せよ。守勢は武装蜂起の死であると知れ。」569Pというような文を書いています。ロシア革命時のレーニンやトロッキーの言動を想起させる文です。ボルシェビキズムの検証こそが必要なのですが、オールド・ボルシェビキズム的な革命への思いを持ち続けていたのでしょうーまた、これは初耳だったのですが、どこから襲撃を受けたか分からないままに「おなじ年(70年)の五月に、廣松はテロに遭い、・・・」569Pとあります。
哲学的なところでは、「「レーニン流の模写説」を批判し」548Pとか、「廣松はまず、自己疎外概念が「特別な主体概念」(ヘーゲルにおける「精神」シュトラウスの「人類」、バウアーの「自己意識」、フォイエルバッハの「類的存在」)と「不可分」であるしだいと確認する。」ということを書いています。
この解説で、本文ひとつひとつが廣松さんの論攷のなかでどう位置づけられるのかを時代を追って書いています。それについては、本文の読破−再読が必要になります。最初に書いたようにそれは、わたしのライフワークのひとつの最後の作業として読み込む中で、読書メモを残すことにします。

posted by たわし at 03:24| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジョン・リード/原光雄『世界をゆるがした十日間〈上〉〈下〉 (岩波文庫)』

たわしの読書メモ・・ブログ499
・ジョン・リード/原光雄『世界をゆるがした十日間〈上〉〈下〉 (岩波文庫)』岩波書店 1957
アメリカの社会主義者でジャーナリストの著者が、ロシア11月革命(グレゴリー暦、一般にロシア暦で「10月革命」といわれています)の時にロシアで取材して書いた、古典的に有名なドキュメンタリー的記録です。絶妙な筆致で、その情況が、まるで映像を見ているかのように浮かび上がってくる記録です。
 この著は有名で、いろいろ動き始めたときから読まなければと思っていて、ずーっと前に買っていたのですが、一回紛失し、また買い求めたりしていた本、それでも積ん読してしまっていたのですが、やっと読めました。大体の内容はロシア革命史関係に触れる雑誌の論文の中でつかんでいたこともあったのですが、改めて読み進める中で、ロシア革命とはなんだったのかが分かっていきます。そして抑圧されてきた民衆の怒りとまさに生きることを求める闘いが革命へとつながった流れをつかむことができました。実は、トロッキーの『ロシア革命史』を読んでいたときがありました。文庫で最後の巻を読んでいる途中で喪失し、読破していなくて、改めてこの本の後に読んでいこうと思っています。その『ロシア革命史』の中でつかんでいた文そのものでなく、内容的につかんでいた有名なフレーズがあります。「民衆が革命を起こすのは革新的だからではない、保守的だから革命を起こすのだ」ということです。ロシアはツアリーの圧政の中で、まさにパンと平和と自由と土地を求める闘いとして始まったのです。
レーニン、トロッキーの情況をつかんだ柔軟な戦術と、しかし、機をのがさない、敵を打ちのめす戦略とによって、かなり強引になされた革命で、おそらく他の指導的に動いていたボリシェヴィキーの知識人たちが革命の敗北を予感しつつ、動いていた中で、民衆のエネルギーに乗り、引き出し、信頼を獲得することによってなされた革命と言い得ます。その機を見る、機を逃すなということは、次の文の中に現れています。
「もしも社会主義なるものが、全民衆の知識的発展がそれを許容する場合にだけ実現できるものならば、われわれは少なくともここ五百年間は、社会主義を見ることはないであろう。」下137P
「ボリシェヴィキーの成功の唯一の理由は、ボリシェヴィキーが人民の最低層の広大にして単純な要求を成就させ、かれらに呼びかけて旧いものを引き裂き破壊する仕事をおこなわせ、次いで崩れ落ちる廃墟の煙のなかで、かれらと協力して新しいものの骨組みをうちたてた点にあった。……」下124P
ロシアは当時は識字率が低く、この本の著者は「人民委員会」の通行書を取って活動していたのですが、兵の中にはそれを読めないひとも多く、スパイと疑われて危うく銃殺されそうになったということも書かれています。労働者、兵は感情的な流されることはあっても、レーニンやトロッキーの民衆の心に届く演説を吸収し、支持し信頼していく、あやうくどちらに転ぶか分からない中での、要所要所での的確な情況分析と、引きつけるわかりやすい演説で鼓舞し革命へと進んだのだと言い得ます。もちろん二人だけではない、オールド・ボリシェヴィキーや名もなき民衆的に動いたボリシェヴィキーの存在もあったのだと思います。
ロシア革命は、労農兵のソビエト革命と言われているのですが、2月革命はボリシェヴィキーの主導性は弱く、労と兵の民衆のエネルギーが先行しつつも、農も地域で文字通り命をかけた一揆的な打ち壊しや土地収奪を進める動きもあったのですが、農は社会革命党の影響下にあり、そして統一的な動きにはなっていません。10月になって一気にボリシェヴィキーの労が平和を求める兵と連携し、レーニンたちの武装蜂起の計画より先行し、ほとんど無血で動きはじめ、反革命の動きの中で、一部抑圧された者の感情的なエネルギーの突出としての暴力性はあったものの、躊躇するなという革命の鼓舞があった中でも、極めてでこぼこの動きの中での混乱の中でも、冷静な情況分析と行動として革命が進んでいき、最後は農民を主導していた社会革命党左派のソビエトへの取り込みの中で、10月革命は勝利します。さて、その後は、レーニンの第三革命と言われることで、白軍との戦争、そして世界革命としての敗北の中で、ボリシェヴィキーのプロ独という事態に進みレーニンの死の中でスターリンの一国「社会主義」建設と粛正に進んでいくのですが、そのあたりの総括が最も肝要なことです。
この革命は20世紀初頭のツアリーの圧制下での革命です。そのことを押さえた上で、レーニン主義と言われていることの総括の中から、21世紀の社会変革の方針はとらえられるのだと思います。
いくつかの留意すべき点
ボルシェビキはプロレタリアの党ということ。農民の組織化をなしていないなかで、レーニンの第三革命で党の独裁的に進んでしまったこと。
レーニンの演説として「ロシアの現政府がボリシェヴィキー党によって形成されていることは、何びとも否認しないであろう。―」「われわれボリシェヴィキーは、プロリタリアートの党である」下131P
 民族問題がつねに意識されていたこと、大ロシア人は半数以下ということもありました。声明文の中では繰り返しユダヤ人への虐殺の懸念が出てきますし、被抑圧民族者の立場での発言がいくつも出てきます。しかし、結局革命の中で、農とともにきちんと位置づけられない中で、その反差別のエネルギーを組織化できなかった、ということもあったようです。

 今回は簡単な内容を押さえた切り抜きメモを残します。

ブルジョアジーは時には工場を破壊しても、将校は兵士を殺しても反革命を進行する42P
代表選出はいつも民意の反映は遅れる114P
パンと平和と土地と自由のスローガン
革命の波及の期待189P・・・レーニンやトロッキーは世界革命の必要性をとらえていた
インテリの革命ではなく、民衆は党を超えて行動する193P
農民ソビエトの離脱207P
「都市、地方、全前線、全ロシアのあらゆる兵営でくりかえされつつある、かかる闘争を想像せよ。連隊を見守り、あちこちに急行し、議論し、脅迫し、懇願する不眠のクルイレンコたちを想像せよ。・・・ ロシア革命とはかかるものだったのだ。……」228P 
民衆が主導的に動いた革命 上からの指示ではない235P

入り乱れた混乱
何回も出てくる「汚らしいひと」という表記・・・翻訳の問題?「汚れた(まま)」と書く、訳するところ
共同葬儀という右派の認識のずれ78P
僧侶のいない葬儀87-8P
ドゥホニン ボリシェヴィキーの勝因124P
前衛党論137P
訓示268P

暴力性の否定の否定・・・防衛的暴力と機会を逃すことがすぐ起きてくる、そして長く続く大きな被害につながるときの暴力
いろいろ書いたのですが、歴史研究の本の読後直後のメモは過程的なメモです。後で深化してまとめますー

posted by たわし at 03:21| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

森川聖詩『核なき未来へ: 被爆二世からのメッセージ』

たわしの読書メモ・・ブログ498
・森川聖詩『核なき未来へ: 被爆二世からのメッセージ』現代書館 2018
映像鑑賞メモで書いたコミュタンの放射線に関する情報の歪曲のひどさに怒っていて、自分自身の被爆爆二世という立場でちゃんと活動をしていかなくてはと、被爆二世に関するインターネット検索をしていて、ヒットした本です。
 著者はお父さんが広島の被爆者、原水禁運動をやっていたひとです。子どもの時からさまざまな体調不調で苦しんで、そして不安の中で生きてきたひと。それで、いろんなことを断念していったり、また、逆にそれでいろんな体験をしていったひとです。アメリカに留学しその中での出会いの中で観点を広げ、そしてそこでの繋がりから、部落差別、狭山事件に関心をもち、帰国後部落解放研究会に参加し、また、関東被爆二世連絡協議会を立ち上げ、全国準備会も作りながら、政府のごまかしの「原爆被爆者二世の健康に関する調査研究」に反対して、ハンストまでやったひとです。
体調不調の人生を自伝的なことで書きつつ、父親との確執と和解やいろんな出会いの中で、幅広い観点をもつようになっているひとです。単に原爆の問題だけでなく、核被害の共通性というところから反原発の運動や再生エネルギー関係の運動にも関わり、核廃絶、原発ゼロ、被害者支援・ほしょう(補償・保障というところで、ひらがなで書いています)。ということをセットにした活動を訴えています。また、「唯一の被爆国」という欺瞞を書いています。まさに国ということに留意して、この間の、政治の動きもきちんと押さえて批判をしています。まさにそれはわたし的に書き足せば「国家主義的政治の批判」なのです。それは、ウランの採掘や、被曝労働、そして事故による被害、避難者の切り捨て、核は差別なしにはありえないということをきちんと提起しくれています。
もうひとつ、差別の問題を押さえてきたわたしの立場からして、「準拠枠」322Pという概念を突き出していることに留意しました。これは、わたしのマージナルパーソン研究ともリンクしていくのですが、なぜ、ごまかしの政治が続いていくのかをとらえ返したとき、自分が置かれている立場がどこにあるのかということを、きちんととらえられない中で、別の集団、枠組みから、自分が差別することによって、自分の被差別の立場をスポイルして優越感に浸っていく、そのようなことを孕んだ概念です。
そのような幅広い観点から、自分の被爆二世の問題もとらえ返し、そして最後に自分が現在関わっているいろんな運動を紹介しつつ、この本を読んだひとたちへ、それぞれの立場から運動に関わる、起こしていくことを提起してくれています。遅読のわたしがかなりのスピード読み切りました。わたしの、そしてわたしのきょうだいの二世としての体験と重なることもあり、今後、わたしも改めて自分自身の二世問題をとらえ返し、新しい動きをしていこうという思いを抱きました。

posted by たわし at 03:18| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

和田春樹『ロシア革命――ペトログラード 1917年2月』

たわしの読書メモ・・ブログ497
・和田春樹『ロシア革命――ペトログラード 1917年2月』作品社 2018
やっと歴史学習に戻ってきました。
 ロシア革命というと10月革命ということに焦点があてられるのですが、著者は2月革命こそが大切だという主張です。2月はまさに自由を求めたブルジョア民主主義的革命ということだと思うのです。
専制ロシアの弾圧と、ロシアの王制のラスプーチンに関わる腐敗と、第一次世界大戦という戦争の混乱の中で、民衆の心がツアーから離れ、憎しみの対象になっていったところでの革命です。
 それにしても婦人デーに合わせたパンを求めての行進から 兵士のまさに死を賭けた革命・反乱の闘いとして進み、ソロコフの兵士ソビエトという提起もあり、臨時革命政府と労兵ソビエトの結成というところから、二重権力的なことを生み出していく情況の中でのロシア革命の特異性があるのだと言い得ます。もうひとつ、この著者が押さえているのは、2月革命の時点ではボリシェビキはソビィエトに余り積極的に関わっていない、もちろん民衆の次元のボリシェビキの労働者は、党を超えて関わり、そして総体としても、民衆の革命性が、ロシアのさまざまな政治グループの方針よりも、ラジカルな動きを見せていたということがあります。もちろん、この著の中でも繰り返し出てくる多くの保安部のエージェントが、かなり政党幹部まで入り込み、挑発的なことでその運動が陥る危うさのようなこともあったのでしょうが、インテリゲンチャ的な前衛を、民衆は労働者は超えて進むということが、ロシア革命にはあったのだとも押さええます。それは一部暴力化したのですが、ロシア専制ツアリーズムへ対抗して起きた、闘いか死かというところでの運動の中でおきていたことです。
2月革命の死者への追悼のデモで、長年投獄されていて2月革命で解放されたナロードニキの印象的な演説でこの著書は終わっています。まさに革命は、名もなき多くの屍の上になりたっていく、その革命をどう継承していくのかということが問題なのだと思います。
和田春樹さんは、ロシア革命に関する著で国内外で有名なひと、反戦・平和というところでも運動をしていたひとですが、「従軍慰安婦」の民間基金あたりで、批判をうけていたひと、左翼的な関心からロシア革命史の研究をしているということではなく、反戦・反軍・平和、民主主義という観点からロシア革命をとらえているのです。
それにしても膨大に資料に当たり、そことに登場してくるひとたちの性格とか主張とかを押さえ、分析を進めています。そもそも歴史資料というのは、資料を残したひとの主観とか、そのひとの立場による自己合理化の中で歴史的事実をねじ曲げて書き残す、インタビューに答えたのを起こした文とかもあり、そのことをこの著者はかなり大胆に分析し、「歴史の真実」を探ろうとしています。
ロシア革命に関する資料は膨大にあり、わたしはわたしの関心に照らして、押さえておくだけにしかならないので、先を急ぎます。
 この著は冒頭に書いたように、2月革命の方が大切だというところで書かれています。ですが、それだと、フランス革命や1848年革命や、もろもろの革命から、ロシア革命の特性をどう区別して押さえるのかは出てきません。わたしの関心は、10月のソビエト革命とそこから、著者のいう「レーニンの第三革命」へ至ったのか、そして理想社会の実現を目指した革命が、党の独裁からスターリンの大粛正にまですすんだのかという分析が必要だと思っています。
 この著の中でも出てきますが、2月革命のときから、民族問題での要求が出ています。多民族国家としてのロシアが抱えていた民族問題のみならず、他の差別の問題もとらえかえすというわたしの観点から、ロシア革命の読み解きは進みます。
 ケレンスキーの死刑制度反対とか、女性の普通選挙権要求とそのときに出てきた女性からの批判発言など、レーニンの「差別とは階級支配の道具である」という論自体への批判など、さまざまな問題をすでに指摘できます。

posted by たわし at 03:14| 読書メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする